[1997・10.1〜10.31]

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

1997年10月31日(金)雨から霙雪のち快復。

うすらっと 冷たきものの ありにけり

語尾に「さい」のつくことば

活用語尾に「さい」のつくことばは、どうもイメージが劣性であるようだ。「くさい」が代表語である。辞書に未收載の語としては「どんくさい」(広辞苑第四版から收載語。それまでは古語「どんくさし」のみ收載)、「おじんくさい」がある。これは、さらに「おじん」や「おばん」(広辞苑第四版から收載)などのことばを生み出すことになる。ここで逆引き辞書を用いるとその使用状況が備に知ることができるのだ。「青―、垢―、あほー、磯―、田舍―、陰気―、胡散―、白粉―、男―、金―、黴―、きなー、けちー、焦げー、酒―、七面倒―、洒落―、小便―、素人―、辛気―、乳―、血生―、土―、照れー、とろー、泥―、鈍―、生―、人間―、馬鹿―、バター、日向―、古―、分別―、抹香―、水―、面倒―、脂―」。ここで、「古くさい、めんどくさい」などの「くさい」は、嗅覚の「くさい」ではない。劣性の状態を表現する「くさい」である。東北のことばには、みぐさいや「めぐさい」といった見苦しい状態を表現する語もある。動詞の「くさる」は、「腐乱」の意しか国語辞典にはみえないが、たとえば、関西の人が「何をぐだぐだぬかしくさってんじゃ、默りくされ!」と相手を罵倒するときの「くさる」は、この「くさい」に近い氣がする。「氣もちがくさって、くさくさする」ような意氣消沈状態の語でもある。そんな相手に「しおしおめさるるな」と大河ドラマ「毛利元就」側仕えの女人の声ふうに慰めてやりたいものだ。

さらに、「ださい」(未收載)は、「だ埼玉」などの冠したことばの洒落として若い年齢層で定着しているようだ。東京近県に位置しながら、こうも蔑まれる県名は県人にしてみれば悪いイメージをどうかして払拭したい思いだろう。他に「うるさい」も若者は「うっさいナァー」と表現している。

[追記1]○東京の自宅の方へ、時々無心の手紙などを書いてゐた壮太郎が、何の手應もないのに氣を腐らして、女から送って來た金を旅費にして、これもこの町の立って行つたのは、十二月の月ももう半過であつた。[徳田秋声『あらくれ』155頁C(名著複刻全集)] 

1997年10月30日(木)曇り。

黄と紅 踏み行く道に 落ち葉舞ひ

『仮名書き法華経』について

 10月28日付、中外日報に中村 元博士が第七回日中仏教学術会議における基調講演として発表された聞書きを掲載している。以下その内容をかいつまんで整理しておく。詳細は、中外日報によるか、この基調講演を耳にした方々に譲る。

T.『仮名書き法華経』登場。

 本来の目的は、一般的に言って、法華経を平易に日本語文をもって表現し、なるべく広くこれを庶衆に理解させ、諸人をして法華経に入信せしめることであった。だから、訓み下し文は何よりも正確さが不可欠の条件である……(中田祝夫博士文より)

U.鎌倉の祖師、諸人の理解促す。

 日本人は抽象的思索を展開し得るか?―クマーラジーーヴァ訳『法華経』の投げかける一問題

 日本の指導的哲人が、漢文によらないで、経釈のヤマトコトバにもとづいて自分の哲学的思索を述べようと試みたことは、周知の事実である。日本の鎌倉仏教祖師たちは、漢文のみにたよらずに、ヤマトコトバを用いている。そこで仮名法語が現れたのである。

V.鳩摩羅什訳『法華経』を超えようとする思想の動き。

W.哲学的思索、展開しえたか。

 日本語というものは、性格的に哲学的思索に向かないものであるかうかということである。この問題を真っ向からぶっつけたのは、和辻哲郎である。日本語が哲学的思索を展開せしめ得たかどうかという問題についての和辻哲郎の反省は、「日本語と哲学の問題」(『続日本精神史研究』<『和辻哲郎全集』第四巻、岩波書店506〜565頁>)で論じられている。

X.鳩摩羅什の訳語古代から幅広く定着。

 @古代の日本人が純粋の日本語で、どこまで仏教的な観念を表示し得たか、ということである。ときには、古来の純粋の日本語では、仏教的な観念を表現する事ができない場合があった。その場合にクマーラジーーヴァなどの用いた訳語をそのまま用いている。「三昧⇒ざぜん【坐禅】」

 A教養学上の特殊な用語をすべて古来の日本語に翻訳することは非常に困難であった。「ひゃくしぶつ【辟支佛】」「ちゑ【智恵】」

 B修行者のあいだの身分上の相違を、古来の伝統的なヤマトコトバで言い換えることも非常に困難であった。「びく【比丘】>ほうし【法師】」「ししう【四衆】>ほうし、あま、をとこ、をんな」など

Y.仏子はあるが「仏の花嫁」はなかった。

 「ぶつし【佛子】>ほとけのでし【仏の弟子】」と解している。ちなみに、仏教の修行者を「仏の子息」または「息女」とみなし、父子関係を想像することは、仏教史を通じて永く行われた。しかし、「仏の花嫁」と呼ぶことは決して行われなかった。ブッダの観念は、ある点で人間超越的なところがあり、他の若干の世界宗教とは異なるところがある。「あのくたらさんみゃくさんぼだい【阿耨多羅三藐三菩提】>ほとけとなる」といって、要点だけを表現している。

Z.苦労を重ねた当時の学僧。

 当時の学僧たちの苦労をしたあとを見とることができる。「むりょうむしゅこう【無量無數劫】>はかりなくかずもしらぬとし」と解釈されている。「いっさいしゅち【一切種智】」は高度に哲学的な術語である。当時の日本人は、どのように解釈してよいか解らなくて、ネをあげてしまった。そこでこれも、ただ「ほとけのちゑ」とのみ解釈している。

[.「梵」と書き「きよし」漢民俗や日本人にわかりにくい観念。

 brahmanというのは、サンスクリット語、パーリ語など、インドの言語にはよく出て来るありふれた語であるが、漢民族や日本人には、はなはだ解り難い観念でどうもピンと来ないものがあった。そこで中華民族はこれを「梵」と音記し、『法華経』を手にした日本人はこれを「きよし」と翻訳した。「梵音」を「きよきこゑ」と、「梵行」を「きよきをこなひ」と訳出している。他省略。

結語 女人への説法めざす思想家。

(一)カナ書き法華経の意図するところは、ドイツ、オランダなどの民衆に根を下した神秘思想家の目標に一致する。

(二)ヨーロッパの神秘思想家も、日本の仮名法語作者も、特に女人に説法することをめざしていた。

(三)どちらも俗語の精神的雰囲気から出発している。しかし、年代的には、東アジアの著作家のほうが、ヨーロッパの神秘思想家よりも早い。

*広い視野から見ると、いろいろ論議さるべきであろう。

1997年10月29日(水)曇り夜一時雨。

冰雨降る 闇夜の道に 水鏡

「いぬ【犬】」を冠りにすることば

 「いぬ【犬】」は、植物に多く「いぬたで【犬蓼】」「いぬざくら【犬桜】」「いぬわらび【犬蕨】」などと用いるとき、似てはいるが本物ではないという場合に名詞の頭に冠りする接頭語である。書籍にあっては随筆に『犬枕』『犬つれづれ』というのがある。これより先行するものとしては、准勅撰集の連歌集『菟玖波集』に対して、宗鑑の『犬筑波集』が編まれている。これも上記説明に基づく冠りした名称といえよう。

さらに、へりくだって呼称していたこの「いぬ【犬】」が、逆にいやしめ軽んじて「くだらないもの、無駄なもの」の意として、用いた表現が「いぬイシャ【犬医者】=薮医者」「いぬざむらい【犬侍】=腰抜け侍」そして「いぬじに【犬死】=徒死」となる。ところで、何故「似ているが本物ではないもの」にこの「いぬ【犬】」が用いられ、やがて「くだらない」者に対する冠詞として表現されてきたのだろうか?

実際、犬は人とふれあい、つきあい、忠実な仲間として人間社会で(@愛玩犬A狩猟犬B番犬C警察犬D盲導犬などというぐあいに分類できる)活躍してきた生き物である。戦闘性・忠実性・卑賎性の身近なこの「犬」を名詞の頭に冠りし、接頭語化した由縁を少しく考えてみたい。

人と犬とが同居する物語は、『宇津保物語』蔵開きの巻に登場する。仲忠と女一宮との間に生まれた姫の名を「犬」という。この犬をモチーフにしたロマン譚は江戸時代の読本『南総里美八犬伝』に受け継がれていく。この『南総里美八犬伝』の編者滝沢馬琴は、今回の私の疑問を『燕石雑志』巻一(文化七(一八一〇)年刊)ですでに考証している。

○似て非なるものを犬といふ。これ本邦の故実か。水蓼〔いぬたで〕、龍葵〔いぬほうづき〕、狗背〔いぬわらび〕、午年艾〔いぬよもぎ〕、〓〔艸亭〕〓〔艸歴〔いぬなづな〕、麻黄〔いぬとくさ〕、薇〔いぬそらまめ〕、鹿〓〔艸霍いぬやへなり〕等、毛挙〔かぞへあぐる〕に遑〔いとま〕あらず。宗鑑が犬筑波集亦このこゝろにて名づくといへり。

馬琴は、「本邦の故実か」と説明する。「犬」に、似て非なる<もどき>そして<やつし>の意をもつことを説明したものに松田修著『闇のユートピア』がある。

今私は、この「いぬ【犬】」について室町時代に誕生したひとつのことば表現として着目している。人が犬の性にやつしもどき、行動する。下克上時代の先触れであったようにも思えてならない。馬琴のいう「暴虎馮河」「〓〔犬竟〕梟」の世界が見え隠れする。

1997年10月28日(火)晴(苫小牧)、一時雨(岩見沢)。

黄紅葉に 映えて輝き 夕告げ星

「夕飯」は「ゆうめし」か「ゆうはん」か

夕方の食事をあなたはどのように言っていますか?

 この質問に、厳かに「晩餐〔バンサン〕」、「晩飯〔バンめし〕」、「夕食〔ゆうショク〕」そして、平凡に「夕飯」などのことばの表現があがり、多種な言葉遣いがあることが知られる。ここで最後の「夕飯」は、「ゆうめし」そして、「ゆうハン」の二通りの言い方がある。重箱読みや湯桶読みの語があるなか、「ゆうめし」は唯一、和語読みである。そして、反対語「あさめし【朝飯】」。これも「あさハン」ともいう。さらに三食摂取する現代人の私たちには、「ひるめし【昼飯】」、「ひるハン」もある。だが、この「ひるハン」はあまり用いないのではないだろうか。むしろ、「ひるゴハン【昼御飯】」と云うようだ。朝でも夕でも接頭語「ご」は付けられる。夕方の食事と同じく、「朝食〔チョウショク・あさショク〕」「昼食〔チュウショク・ひるショク〕」も使われる。これを以下表で示すと次の如くである。

あさ【朝】

ひる【昼】

ゆう【夕】

T

チョウショク【朝食】

チュウショク【昼食】

ユウショク【夕食】

U

あさめし【朝飯】

ひるめし【昼飯】

ゆうめし【夕飯】

V

あさハン【朝飯】

ひるハン【昼飯】

ゆうハン【夕飯】

W

チョウめし【朝飯】

×

チュウめし【昼飯】

×

バンめし【晩飯】

次に、この使用することばの実際(「夕」「晩」のみ)を確かめておきたい。

○「夕めしを食ったのだったかどうか、想い出そうとしてみた……おなかの感じではまだのような気がした。」[ハヤカワ文庫、アガサ・クリスティ/橋本福夫訳『蒼ざめた馬』11C]

○ホテルへもどってベットにころがり、夕食は何にしようか、もう阿片はやめだと思ってるうちに私はうとうと、ゆりもどしの眠りにおちていったのだが、それがはからずも異郷をかいま見させてくれたのである。[新潮文庫、開高 健『夏の闇』118−O]*あと三例あり、ともに「夕食」と表現。

○昨日から昨日の夜につづいた、不安な、そうして甘い、夢を、追想していた半朱は、苔緑の手袋を本棚の洋燈の脇に置き、達吉と約束した夕食をくいに出る仕度を、始めた。[新潮文庫、森茉利『恋人たちの森』267―M]*あと一例あり、ともに「夕食」と表現。

●不思議に思ったのは、宿へ着いた時の取次も、晩飯〔ばんめし〕の給仕も、湯壺〔ゆつぼ〕への案内も、床を敷く面倒も、悉〔ことごと〕くこの小女一人で弁じている。[新潮文庫、夏目漱石『草枕』二九J]

1997年10月27日(月)霙雨。

寒さまし 吐く息白く 朝から夜

「世話」その2<二つの「世話」その実際>

A.世話[世に流布している俗語・俚諺の意]

狂言『縄綯〔なわない〕』

○歩き出し」イヤまことに、世話〔せわ〕にも申すごとく、「百行〔ひやくこう〕の門〔かど〕には立つとも、手なぐさみの門には立つな」と申す。上268F

浮世草子集『新色五卷書(四之卷)』<元禄十一年(一六九八)>

○揺ぐ杙は一度は拔けると、世話〔せわ〕に外るゝ事なし。481M

近世随想集『ひとりね』下<柳沢淇園・享保年間(一七二四頃)>

○「余なんど心から、そのやうにおもしろふなく世話なるものならば、女もふつつりといやがるべきに、よくもなふて、毎晩/\その夫のいふやうになるわけはどふした事」などいふに、163I

B.世話[手間の掛かることの意]

浮世草子集『好色萬金丹』卷之二<元禄七年(一六九四)>

○「何その紙駒山都留天寺はこちの旦那寺也。又段々の世話こそ出來たれ」88N

浮世草子集『新色五卷書(四之卷)』<元禄十一年(一六九八)>

○其夜廻船に乘り給ふ由。留守なく、十右衛門殿の我身になり替ての世話〔ーわ〕。さこそ氣の毒に有べし。478H

○「留守までお世話になさるゝは。嬉しいやら口惜しゐやら。爰がくら/\燃へます」と、白き胸突き出して見せるは好もし。478L

近世随想集『ひとりね』下<柳沢淇園・享保年間(一七二四頃)>

○秘事はまつげとやらん世話の如く、さりとては珍らしき傳授なり。180E

世話やき[見物人の案内・整理など、興行場の管理にあたる役の人]

浮世草子集『傾城禁短氣』(四之卷)<宝永八年(一七一一)>

○六兵衞大キに肝を潰し、「我もその静閑の五番目の、お花といふ妾腹〔てかけばら〕、則主の手代米屋町の俵八に、我と共に使はれ、跡職取て無くなし、養父〔やうふ〕は死なれて母は都へ立歸り、静閑方の臺所の世話〔せわ〕やきてゐらるゝ由。是は大方ならぬ因縁。先づそなたは幾つにならるゝ」304E

江戸笑話集『鹿の子餅』<明和九年(一七七二)>○角力場

○仕方なければ裏へ廻り、圍〔かこい〕をやぶり、犬のやうに這〔はつ〕て入りかゝつた所、内に居る世話やき見つけ、「コリヤ/\そこから這入る所じやない」とあたまを取ておしもどされ得這入らず。しばらく工夫して、今度は尻から這入かゝつた所、又内の世話やき見付〔みつけ〕、「コリヤそこから出る所じやない」と帯をつかんで引ずりこんだ。375DF

1997年10月26日(日)雪模樣。

空を絶つ 白き流れの 朝昼夜

「世話」その1

 室町時代の通俗古辞書『下学集』態藝門,80-1に「世話〔セワ〕風俗ノ之郷談也」の語が収載されている。『土蓋嚢鈔』には、「世話、世ノ流布ノ詞」、「世和」という表記も見える。この「世話」は、同時代の『日葡辞書』などの意義説明と照会して、「世間に流行していることば、民衆の間に流布していることば」の意味に用いていることがわかる。文字も「世話字」といういわゆる俗世間一般に用いられる文字使い、今の漢字本来の読み方でなく義訓していく宛字を「世話(字)」と云う。また、『世俗諺文』とか『世俗字類抄』などと冠りする諺集や字書もある。「世俗」と「世話」について、また「世話(世間話)」と「世俗語(俗語)」について、さらには、江戸時代には、世間一般に風聞した話は「世話物」と呼称され、庶民の共通する芸能の歌舞伎や浄瑠璃として花開く。ここに「下世話」や「世話に砕けて」などの意味が含まれている。これとは趣を異にする意味表現として、同じく「世話」の語を用いた「世話を焼く」(あれこれと面倒を見る意味)や「世話になる」、そして「世話をかける」その人「世話人」など対人関係にあってなくてはならないことばの一つである忙しき時に手間の掛かる「世話」がある。いま、この二つの「世話」表現がどのように関わっているかを言及しようとしている。

1997年10月25日(土)雨後晴れ。

時知らず眠けのこゝちいつまでも

今どきのことば一、二

 朝日新聞の夕刊、ウイークエンド・第571号の「ピッチ、ハイソ、レアもの…「ジベタリアン」は不況知らず」よりの抜粋。

ピッチ代が月1万かかるようになって、代わりにコンビニで働いている。

「ピッチ」PHSをさす若者表現。

○月一、二万円の電話代のほか、プリクラやカラオケ、コンビニエンストアやファストフードでの飲食費などに「自由に使えるようになって、いまはとっても気分がイイ」。

「プリクラ」ゲームセンターなどに置いてある人物撮影機。友人と2、3人で顔を写す。可愛い背景イラストなどが特徴で、芸能人と一緒に写るタイプが最近の人気。一台のあたり平均一日一万円強の売り上げがあり、市場規模は年間2,500億円程度。

○今月からピッチに加入したので、バイトするかも。友だちにベルを毎日最低十回かけるし、へたすると電話代だけで月五千円を超すかもしれないから。

「ベル」ポケットベルの略。

○昼間は専門学校生や大学生、フリーターらが地べたに座っているが、夕方には女子高生もぺたりと座り始め、ジベタリアン人口が増える。

「ジベタリアン」ジベタ系ともいう。歩道のへり部分や商店街の片隅などにしゃがんだり、座り込んだりしている人たち。なぜ座るかは@体力がなくて疲れるA歩道などがきれいになったB落ち着いて通話したいC通信費などに回すお金を節約するため、など所説がある。

○最近の彼女たちの消費の関心はケータイ、ピッチ、プリクラなどだ。

「ケータイ」携帯電話のこと。最近は通話料の値下げで若者利用が増えている。PHSと携帯電話の通話料総額は急増し、契約料などを含め96年度は2兆6,000億円。前年度の1,

8倍に膨らんだ。このほか電話機の国内生産額は年間1兆円といわれる。

○最近は飽きたから月千円ぐらい。カワイイ使い捨てのカメラがイケテルから、現像や焼き付けにも三千円使ってる。

「イケテル」すごくいい。

○イケテルものは絶対買いたいし、やってみたい。ウザイのは相手にしない。

「ウザイ」うっとうしい、かったるい、ださい。

○友だちとの連絡はピッチ、ケータイで。名刺代わりのプリクラ写真はプリバムで整理。

「プリバム」プリクラ写真を整理して張るアルバムの略称。写真を「2,000枚持っている」という強者もいた。

夏には「ナマ足」もあった。これは週刊雑誌サンデー毎日の「平成の人物像」にナマ足化粧品を開発した小松塚治美さん、「おしゃれにいちばん関心を持つようになるのが15、16歳です。この年代はストッキングを履かずにナマ足です。和解から許される部分もありますが、太ももから下がかなり大きい子もいます」。第一号製品がナマ足メーク化粧品のLegccue(レッキュ)で、発売2ヵ月で60万個を出荷した。もう「ナマ足」でいられない季節へ急接近中です。

1997年10月24日(金)晴れ午後曇り。

赤と黄空に舞う落ち葉鮮やかに

「豆腐」と「納豆」の逆さ意味

単純に「豆腐」を文字解釈すれば「自然と腐らせた豆」の意味となり、「納豆」を文字解釈すれば「四角い容器に納める豆」の意味となって、何か二つのものの其の名前が現実の物との突合わせをすると逆の物を表しているように思えてくる。実に不思議なことばだ。また、中国では「豆腐」のことを「豆〓〔豆支〕」といって、なぜか日本と異なる文字表記である。物はひとつでも文字表記が異なることばは、日本語と中国語との交渉語にまだまだ多く見受けられるのだ。「納豆」については、関西のお方は食卓に上らせないのがのが普通である。

以後、もっと精進して、一歩深めていくこととなる。

 一休納豆。

1997年10月23日(木)晴。

夕焼けが映えて嬉しや鮮やかさ

「豆腐」の擬人化

夫〔それ〕豆腐は、我が形四角四面にして、心正直に生まれ、柔かにして人の交りに嫌はれず。其の身は精進潔斎なれども、和光同塵の心にして、花鰹のちりに交り、又或る時は貴家高僧の列に連なり、経文読誦の声を布目の耳に聴聞し、身を油に斎非時の馳走を催し、月の朧豆腐は歌人の心をいさめ、雉子焼きの妻ごひは珍客の舌鼓にほろゝを打たせ、春の桜豆腐は祇園ばやしの匂ひをとゞめ、稲荷北野の社前に於いては、田楽を奏し、神恵を冷しめ奉り、参詣の飢ゑを休め、瓢箪酒に一座をうかせ、岡部といへる武士も、風味柔かに、唐土の曹植豆がらをたき、豆を煮たる四句の詩を作らせ、兄弟の不和をなほし、歌連俳の席に坐しては、月花に心を寄せ、一興の味ひに豆腐の至らぬ所なし。南禅寺に入りては禅学をなし、くずたまりのを着し、旅人を教化して仏道に入れ引導せしむ。嗚呼哀しいかな、かゝる重宝なる知識を還俗させて、とはさてさて無下なるうき世かな。

 豆腐は、中国前漢の准南王劉安(紀元前一二二年没)が最初に拵えたと言うとこから、「准南〔わいなん〕」という異名がついている。本邦伝来は、奈良時代の僧侶がもたらしたのが最初で、奈良春日若宮の神主中臣祐重の日記(寿永二年(一一八三))に「豆腐」の記載が見える。とはいえ、鎌倉時代ではまだ珍重される食物にすぎない。降って室町時代、『庭訓往来』(撰者未詳)には、斎の汁として豆豆腐雪林菜の名が見える。精進料理として用いられ、茶の湯の大衆化に並行して江戸時代には庶民の食卓にも登場するのである。上記『豆腐記』にみえる「岡部」、公家女房詞でいう「おかべ(豆腐の白さを壁の白さに見立てての表現)」という説が有力だが、一説に豊臣秀吉が朝鮮出兵した折の兵糧奉行に、岡部治部右衛門という侍がいた。彼は現地で豆腐の製法をみにつけ、帰国した後これを製造したと言うのである。「豆腐」のことを「岡部」というのはこの御仁の姓名によるもので、別名「じぶ」ともいうのだそうな。また、「雉子焼き」にする「焼き豆腐」は、永正六年(一五〇九)今の千葉県市川市付近の河原で葦火だきして酒の肴にした話しが知られている。昔の諺に「豆腐と女中は京がよし」というように、京都での豆腐は豆腐製造の専門家による長年の研究が培った格別な味が伝えられているというものだ。そんななかに、江戸の戯作作家滝沢馬琴京都に赴き、「祇園豆腐」は、江戸真崎の田楽に及ばず、京の南禅寺豆腐は、江戸の淡雪豆腐に劣る」と言いもしていて、昔も今もおらが国の名物豆腐が各地に知られるのである。「くずたまりの衣」というのは、江戸吉原の倣いとして「後朝〔きぬぎぬ〕の別れに豆腐」という。吉原揚屋町、山屋市左衛門で造られる豆腐は吉原名物であったようだ。そして「豆腐」の末路は、奴〔やつこ〕となる。この「奴」、「ひややっこ」、「奴豆腐」ともいう。冷えたやつの意で、「やつこ」は「家つ子(家の子)」で江戸時代の武家に使える中間を「やつこ」と呼び、「やっこさん」の衣装の紋は釘抜きの方形、これが角切りにした豆腐の形に似ている所からこの名が用いられたのである。最後に都都逸「世渡りの道はどうかと豆腐に聞けば、まめで、四角で、やわらかく」。

1997年10月22日(水)晴。

「法論味噌」

 室町時代の通俗古辞書『下学集』飲食門にみえることばである。このことばの読み方は、「ほうろんみそ」と読む。これがいくつかの室町時代の古写本さらには、この系列下にある文明本『節用集』をみると、すでに「ん」がとれて「ほうろみそ」となっている。現代の私たちには、この味噌はさらに「う」もとれて「ほろみそ」と読むようになっている。原義は、『下学集』の註文によれば、南都において法論の時に用いるところからこの「法論」を冠詞に据えたとある。実際、奈良の興福寺において維摩会の法論の時に法師が食したのに始まる。そして、現代の人々にあって「ホロ味噌」の「ホロ」を正しく漢字表記することすら忘れられているようだ。

今朝のTV番組で漬物を取上げていた。北海道、山形、九州熊本の漬物が紹介されるなか、山形の「おみ漬け」が紹介されていた。北前船によってこの地を訪う近江商人がこの地の「青菜〔セイサイ〕漬け」の表側の葉を捨てているの見て、勿体ないと思った。この葉を用いて漬けたのがこの「おみ漬け」であり、「近江の商い人が漬けたもの」というところからこの名が付けられている。すなわち、「おうみづけ」の「う」がとれて「おみ漬け」となったのだという。ことばを短くして発音することにより、原型の意味するところが理解しにくくなっているものが、まだこの世には星の数に及ぶとは言わないまでも数多あるようだ。京都の「聖護院大根」も北の地では、「しょうごいん」とか「しょうごえん」などと呼ばれていて、後の「大根」は省かれているし、南の地でも「南蠻唐辛子」は「なんばん」という。「昆布」は関西で「こぶ」。ことばの中抜きや下抜きことばについては、これまた室町時代の通俗古辞書『運歩色葉集』に収載されていて興味を引く。

1997年10月21日(火)曇後晴。苫小牧

「先回」と「前回」

前者を「センカイ」、後者を「ゼンカイ」と発音する。学生に「先生は「センカイお話し申し上げましたとおり……」と言っています」といった伝言メモを頂戴した。確かに私はこの時、「前回」と説明表現していない。「先の回(に触れた講義内容について)」と意識しているからだ。ところが、多くの国語辞典を繙くと、この「センカイ【先回】」は未収載ということに氣がつく。なかには、「ゼンカイ【前回】」をも未収載とする国語辞典までもある。では、このことばは、実際に存在しないのかというと、『新潮現代国語辞典』の「前回」の条をみると、

 ゼンカイ【前回】ークワイ このまえの場合。一つ前の時。前度。先回。前の回。⇔今回・次回〔浮雲〕

とある。そして、「先回」の見出しは未収載。

補遺:ついでに「前度」も未収載で、「センド【先度】(副)さきごろ。この間。前回〔ヘボン〕」の見出しと意義説明が収載されているのもちょっと不具合な編集である。この「先度」は、古語辞典にも収載がみられるもので、用例も中世の『古今著聞集』巻三などに「先度、汝、大般若の御読経つかまつりしに験ありき」などと表現されている。

 話を現在の会話表現に戻して「先回」と「前回」について、さらに自問自答ではないが深めていくと、私自身、「前回」ということばを全く用いないのかというと、実は用いている。「前回の通達事項を読み返してみた。」などと。では私自身、「前回」と「先回」とどう識別し、使い分けているか述べておきたい。どうも、「前日」と「先日」の区別と同じ意識があるようだ。時間の経緯が長いか短いかで使い分けるのと同様、今回の問題語についても使い分けしているのだ。じゃあどのくらいの期間が「前回」かというと四、五日までで、1週間以上たった後でのことには、「先回」を用いている。こんなこと国語辞典には未収載だが、世間一般ではどうなのかさらに照合してみる必要性を感じている。

1997年10月20日(月)朝雷雨後晴れ。

いなびかり 狐の嫁入り 陽光増し

作家が書き換える文「島崎藤村『破戒』の冒頭表現」

文学作品における作家自身による書き換えは、他にも知られている。たとえば、川端康成『伊豆の踊り子』などが有名である。青葉繁る仙台を第二のふるさとと歌った島崎藤村、彼の作品『破戒』の冒頭部分を初版では、

 ・蓮華寺〔れんげじ〕では下宿〔げしゅく〕を兼〔か〕ねた。

と記されていた部分が、昭和14年に発表の新潮社「定本版藤村文庫第十篇」では、

 ・蓮華寺では庫裏の一部を仕切って、下宿するものを置いてゐた。

と置換されたのです。初版からの書き換えにより、何がどうなったのかといいますと、定本版は詳細に場面状況を設定しなおしたということです。初版では「寺」と「下宿」という二つのことばのもつ接点から、読み手がこの二つのことばから各々の場面状況をめぐらして読みとっていくことが許されていたのです。これを詳細に設定し直した藤村の心もわたしたちは理解しないわけではないのですが、この文章の流れを見通しのよい表現へと改定せねばならない作家藤村自身の心持ちは、自然主義文学における文学的簡潔性へのアプローチのなかで逆行せざるをえなかたのでしょうか……。ですが、初版のもつ「余意・余情」の想いをめぐらす表現は、作家の直感性にもとづく吐露表現として、もっと大切に伝えていきたい文章であります。現在の新潮文庫では、初版を採用しています。また、文庫末に北小路健「『破戒』と差別問題」には、差別語を他のことばに置換した用例集が付載されています。

参考資料:日本近代文学大系13・島崎藤村集(角川書店刊)も初版の文を採用。

1997年10月19日(日)晴れ。仙台・山形

「〜で(目的名詞)を+動詞連用形」の表現

#97928]にふれたところの継続、

省略表現「〜で」抜きの文

日本語の文章には、誰もが読んでもわかるといった「わかりきっていることば」を省略して表現する方法があります。

文頭には主語「〜が」を省略する文があります。

森鴎外『高瀬舟』(新潮文庫228G)

・下京〔しもきょう〕の町を離れて、加茂川を横ぎった頃からは、あたりがひっそりして〜。(「舟が」を省略)

ここで、文中における省略表現はどうかといえば、「〜で格」という表現は、まさにこの省略表現の代表格といえましょう。では、ここのところを補足して表現しながらこの問題について少しく考えてみることにします。実際、省略といってもどのような規範意識のもとになされているのか?を考えるのです。一つには共有することばならではの相互理解にもとづくところの簡潔明解な形式による伝達法として省略できる表現方法になりうること、裏返していえば、同一種だけの他種とは明確に識別し、差別する符牒の役を担っているのがこの表現であるともいえます。次にことばの実際についていくつかの資料を提示してみます。

森鴎外『山椒太夫』(新潮文庫162F)

・ようよう取り直して一枝二枝苅るうちに、厨子王は指を傷めた。(「鎌で」の道具省略)

森鴎外『妄想』(新潮文庫47D)

・火を点〔とも〕して着物を脱で、その火を消すと直ぐ、寝台の上に横になる。(「マッチで」道具)

森鴎外『杯』(新潮文庫11@)

 ・かわるがわる泉を汲〔く〕んで飲む。(「杯で」道具)

志賀直哉『清兵衛と瓢箪』(新潮文庫212D)

 ・彼はその口を切る事も種を出す事も独りで上手にやった。(「ナイフで」道具の省略)

横光利一『春は馬車に乗って』(岩波文庫34頁)

 ・「もう二時間も待っていますのやが、出ませんぞな。街まで三時間かかりますやろ。もう何時になっていますかな。街へ着くと正午になりますやろか。」(「馬車で」手段の省略)

星新一『きまぐれロボット(災難)』(角川文庫25F)

・男はいつも、背中をなでてやりながら、こんなことをつぶやく。(「手で」手段)(「ひとりで」)

この場合、動作行為は、「○○」(手段・道具)による動作行為が常套手段であって、話しの内容や意味がこれだけでわかるからです。

このように、日本語で話しをしたり、書いたり出来る人であれば、誰が見ても聞いても分かるといったいわば、「分かりきったことば」を省略して暖かみのある文を構成しょうとする意識は、あってしかりではないでしょうか。これを具象化してしめす場合、書き手は読者が其のものを認識できない立場にあるものに限って記載をするのです。それにあたるのが、次の例でしょう。

芥川龍之介『鼻』

・内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子〔けぬき〕で脂〔あぶら〕をとるのを眺めていた。

 この上記の文章は脂をとる道具「鑷子」が即座に連想できそうもないことを書き手である芥川自身、読者に対する氣配りとして実施したものだといえるのではないでしょうか。

こうした省略しない原型を留める文と省略型に変更してい行く記述の過程をつぶさに分析してみることこそ、日本語文章表現を考えるうえで大切な要因性を含んでいるのではないかと私は考えています。

1997年10月18日(土)晴れ。仙台・山形。山寺に行く

「佛足石の碑文」

東北の霊場「山寺・立石寺」に上る。奥の院如法堂右横にある佛足石の碑を読む「千輻輪相轂網相、具足魚鱗相金剛、杵相足跟亦有梵、王頂相衆蠡相。光明皇后云々」と刻まれている。裏には明治○年、山形宝光院どうこうと書かれていたが記憶のうえのことだから定かではない。

1997年10月17日(金)晴れ。仙台から山形。

紅黄葉に 照る汗ぴかり 健やかさ

「っす」表現

 知らぬ土地をゆく旅の楽しみのひとつに、知らぬ地名や知らぬ人と交わす知らぬことばと接することがある。仙台から山形にむかう仙山線〔せんざんせん〕に乗車。途中、山寺の駅があり、ここでの乗り降りが紅葉の時季とも相俟ってにぎにぎしい。これにともない、仙台と山形を行き来するこの線は、ことばも妙に異なりを覚えるようだ。二十代前後の女性おふたりの会話表現「花粉の舞う季節は旅行は無理なの」、これに応えて「行かないほうがいいっす」と聞こえた。「不快な思いをかかえて旅行するなんてつらいっす」と続けられた。「っす」表現、これ通常語でいう「ですよ」の変じた表現である。漫画なぞに登場したことばを日常さりげないともだちとの会話に用いているのだからふと耳に止まったひとこまであった。

1997年10月16日(木)晴れ。

秋日差し 虫のすが鳴き 響きおり

フラスコ【frasco】の宛字

「フラスコ」(ポルトガル語)とは、西洋風の首の長いガラス製の水差しだが、この言葉の漢字表記法を調べてみると実にまちまちな宛字が使用されていることが知られる。その調査し得た漢字表記と掲載作品資料を次に列挙しておく。

掲載作品資料

「佛狼瓷〔フラスコ〕蠻器」槙島昭武『書言字考節用集』G-52-2。

「○佛來釋古は西蕃の波羅多伽児国の人名にあり、酒器のフラスコも此字なる歟。」天野信景『塩尻』[日本随筆大成14三五三頁]

「玻璃罎〔フラスコ〕」『智慧の庫』明治二年写。

「Furasukoフラスコ 佛狼壺 (Dutch)n.A flask,bottle」[97右]J.C.ヘボン『和英語林集成』明治十九年刊(講談社学術文庫477)。

「○瑠璃〓〔石-罐フラスコ〕、玻璃壜」谷口松軒著『魁本大字類苑』明治21年刊。

「フラソコ【硝子壜】〔蘭語Flaskノ訛〕西洋舶來ノ硝子〔ガラス〕ノ頸長キ徳利」大槻文彦編『言海』明治三十七年版、九〇六中

1997年10月15日(水)晴れ。岩見沢雪虫舞う

黒き衣 雪虫の白 吾が袖に

ふたたび「変節」の人

開校記念日。大学の構内には学生の姿もなく靜寂なたたずまい。ぶらりと十年前の卆業生が現われる。私の研究室兼サロンを見て「あ、何にも変わっていない」と言う。壁に貼られたポスターも、夲箱机いすの配置も十年昔にタイムスリップした感であろうか。ここで私は生きてきたのだ。ことばとつきあいながら……。其の後の同期生の近况を聞く。みんなそれぞれ社会で生きている。本当に会いたいと思う。

私の好きな文章である「素粒子」(朝日新聞夕刊)に「変節」ということばが使われていた。この平和日本にも地雷が保持されている事実。国会の討議の場でも明らかになった。なんのためにと言えば有事の防衞にである。理由はともあれ、この地雷、かりに使われたら多くの敵味方関係なく犧牲者がでるであろう。「地雷撤廃運動」は、まずお膝元の日本からしなければいけないのだ。

戦争を知らない世代である私をはじめとする次世代の若者に対して、戦争を知る年輩の教員が「平和ぼけ」だという。いつこの日本の国家が崩壊してもおかしくないともいう。この危機感を若者には説明しても、ものごとの捉えようが異なる彼らには、「国粋主義者」の一言で括られてしまうのだとも。このことばの響きに言い知れぬ悲しみが伝わってくるのであった。人が人を信じて仲良く暮らせる日は遠い世界なのか、もっと私たちの心とことばで多くの人々の心を通わせひきつけたくもなる。

この記念日のひとときを吉田孝さんの『日本の誕生』(岩波新書510)を読んでみる。「あとがき」に日本と諸外国にふれ、(日本は、)「歴史・文化を比べたとき、総体としていちじるしい特色・個性をもっていた。天皇を核とするヤマト(日本)の古典的国制が、中世・近世の国制と重層しながら、基層として近・現代にまで持続して」きている「要因は国際的交通(ヒト・モノ・情報をふくむ広義の交通)のあり方は、かつては日本列島の地理的環境によるところが大きかったが、現在では急激に―人類史のなかで前例のない異常なスピードで―変化しつつある。そのことに注目することの方が、ヤマト(日本)のなかに展開した歴史・文化の多様性を強調することよりも重要ではないだろうか。」さらに続けて、「問題の核心は、国民国家の枠組みが厳然として存続する国際社会のなかで―「ヤマト(日本)の古典的国制・文化」を相対化しながら、「ヤマトとしての日本」に属さない人びとをふくめて―開かれた新しい「日本国」のアイデンティティをどのように構築できるか、という課題にある」と日本国の進むべき一様の波紋をポチャンと見せてくれている。

ことばでは、「日本」の音読「ニッポン」と「ニホン」だが、「室町時代の謡曲の詞章では、漢土(中国)の人にはニッポン、当土(日本)の人にはニホンと言わせている場合が多いらしい。狂言ではニッポンが多いという。キリシタン関係の諸文献では、ニホンもあるが、ニッポンが多い。近世以降も「両方用いられている(なお、近代では一九三四年(昭和九年)、文部省の臨時国語調査会はニッポンに統一することを申し合わせ、その後、帝国議会でも討議されるが、結論をえなかった。戦後も議論が続いたが、現在も併用している)。」と記す。この拠り所については、まだ結論はでていないことになる。いつか、決着をつける日もくるであろう。一緒に考えようではないか。

1997年10月14日(火)晴れ。苫小牧雪虫舞う

雪虫の 白き点点 たよりなく

「てんぷら」の漢字とその語源

「天麩羅」と「天婦羅」の文字表記、店屋の暖簾・看板には、実際の所どちらが多いのだろうか。こんな疑問が天ぷら屋の暖簾をくぐったときふと思った。どうも「天婦羅」と表記した暖簾や看板が多いのではないかと……。ところが、国語辞典では、逆に「天麩羅」表記のみとくる。このへんの文字表記の言われをしっかりつきとめたくなる。

 この料理、日本特有の料理法のようだが、魚介類に小麦粉を冷水でといたころもを付け、油で揚げる。野菜類の揚げ物については、「精進揚げ」と呼んでこれをとりわけ区分する。この区分すら忘れてしまっていないだろうか。

 ところで、日本では油を使用すると言えば、古くは灯明用の油であり、食用にする習慣はかってはなかった。これが長崎地方を中心に広まり、やがて徳川家康の口にも入る。この時代に渡来したハイカラな食品のようだ。使用するのは胡麻や榧の油である。家康は鯛のすり身揚げ(てんぷら)にあたって命を縮めたという。旨いからといって食べ過ぎはどうも禁物である。

 「てんぷら」の語源は諸説あり、ポルトガル語の「Tempero」、スペイン語「Templo」、イタリア語「Tempora」が有力視される。この音声に見合い、視覚性の強い漢字「油の上天を小麦粉麩がうすぎぬ(羅)のようにゆらゆらと浮遊する」調理状況を見て宛てた語表現であるとすれば、「天婦羅」の看板表記はいかなることになるのであろうか。

また、「点火(で)ゆらり」説もあるおまけつきのものでもある。

補記:京の醫師奥村久正編『食道記』寛文九(一六六九)年五月吉辰<上下合一冊>が初出例と料理書原典研究会同人の平田萬里遠さんが指摘している。さらに、東北大学狩野文庫に『南蠻料理書』といった年代未詳の写本があって、この書にも「ほうろ・こすくらん・けさちひな・はるてひす・おひりやす・かすてほうろ等々菓子の製法を述べた後段に、覚として南蠻火の酒の仕様、南蠻料理、てんふらりの仕様、鳥料理につづいて、うをのれうりとあり、「なにうをなりともせぎり むぎのこつけ あぶらにてあげ そののち ちやうしのこ にんにくすりかけ しるよきやうにして にしめ申なり」とあり、天ぷら古製を思わしめるが、この書の成立の時期が不明である」と記述する。京坂では、「天ぷら」といえば「サツマ揚げ」のこと、「コロモ揚げ」を「天ぷら」というのは関東的通念にすぎず、喜田川守貞は、京坂でも「コロモ揚げ」はあるが、これについては、「ツケアゲ」と呼ぶという。また、岩瀬京山『蜘蛛の糸巻』のなかでも、大阪から来た利介のことばに「大坂にてはつけあげといふ物、江戸にては胡麻揚とて辻うりあれど……」と見えるという。西日本は蒲鉾種の揚げ物、関東はコロモ揚げの二種を「天ぷら」と呼称することは今も残存する。[24.12.1997]

1997年10月13日(月)晴れ後雨(冷え込む)。

白き雨降りみ降らずみこの夜かな

「世」と「代」の意味

「世代」の論『塵添〓〔土+蓋〕嚢鈔』巻二52代與世同異事に「△代ト世トハ同シ意〔ココロ〕歟〔カ〕。常〔ツネ〕ニハ通用レ侍ヘリ、往代往世近代近世ナト云リ、漢ニモ通ヒ仕ヘリ、顔駟〔ガンシ〕カ三代ムナシキ事を云ニ、漢ノ武ハ故事ニ是ヲ以テ、三世不過ト云リ、但シ論語ノ注ニハ三十年ヲ曰ト世ト云リ、玉篇ニモ代ヲ更〔カウ/カヘル〕ナリト云、世ハ父子相継也、三十年ヲ曰フト世ト釋せリ、字即卅〔サイ〕ノ字ノ下ニ侍リ、周礼ノ注ニ父チ死テ子立ヲ曰フト∨世ト見ヘタリ、又日本紀ニハ五世ト書テイツヽギト讀〔ヨメ〕リ、是レハ義讀ニ侍ルヲヤ。所詮實ニハ其ノ心替ルヘキ也、父子相續スルハ世也、或ハ兄弟猶子〔ユウー〕等ノ親類〔シンルイ〕乃至〔ナイシ〕養子ノ他人ナドノ継〔ツカ〕ンハ代ナルヘシ、訓ヲモカワルトヨム也、此ノ義ヲ以テ北畠ノ大納言親房ノ卿正統記ニモ世ヲ以テ正統〔シヤウトウ〕トスル心ニ、第十四代第十四世仲哀天皇ト注サレタリ、故ヘハ神武天皇ヨリ景行天皇マテ十二代ハ代ノ任ニ継躰シ給、然ニ景行ノ太子日本武尊〔ヒノモトタケノミコト〕ノ世ヲ早クシ給ニ依テ第三ノ御子成務是レヲ継給、第十三代ノ御門是レ也、第十四代仲哀天皇ノ日本武尊〔ヒノモトタケノミコト〕ノ第二ノ御子也、正統ナルニ依テ第十四世トハ注サルヽ也、漢土ハ十四代各他姓ナレバ申ニ不及、吾カ朝ハ一種ノ王氏ナレ共モ、猶〔ナヲ〕正統世ト注シ只タ次第ノ方ヲ代ト、記せラレタル也、次々ノ人マテ嫡々〔チヤクチヤク〕ノ之惣領〔サウリヤウ〕ナント云テ執〔シツ〕スル事也、但シ非ス家々ニ、非ス人々ニ、以テ知ヲ為スト人ト云本文アレバ、イカニモ諸藝ヲ嗜〔タシナミ〕習ヘキ也、富貴身ニ餘レ共、才藝ナケレバ、名ヲ遺ス事ナシト云リ、サレバ請郭君田嬰〔セイカククンテンエイ〕ト云者アリ、若キヨリサル者ニテ、隙アル時、知ラヌ由ニテ、父ニ問テ云ク子ノ子ヲバ何トカ云、父ノ云ク孫〔マゴ〕ト云フ、又問ク孫〔マゴ〕ノ孫〔マゴ〕ヲバ何トカ云フ、玄孫〔ケンソン/ヤシハコ〕ト云、又問ク玄孫ノ孫〔マゴ〕ヲハ何トカ云フ、父ノ云ク不知、其ノ時孟嘗君カ云ク、君齊ノ國ノ相トシテ三代マテニ成リ侍ヌ、然レ共〔トモ〕國豊〔ユタカ〕ニ世治〔ヲサ〕マル事ナクシテ只徒〔イー〕ニ私ノ家ノ三ノ樂ミ栄ヘタリ、是レ賢者一人モ无カ故也、我レ聞ク將ノ門ニハ將アリ、相ノ門ニハ相アリト、今見ル君ノ家ヲ女房共ハ絹〔キヌ〕ヲ着重〔キカサ〕ネ美食ニ飽〔ア〕ケドモ、召仕ル男〔ヲト〕ノ原〔ワラ〕ハ、アヤシノ布〔ヌノ〕ヲダニ不〔ズ〕着〔ズ〕、食事ノ踈〔ヲロソ〕カナル事喩〔タトエ〕ン方〔カタ〕ナシ、又様々ノ蓄〔タクハヘ〕ヲ成ニ名ヲダニ知ラヌ、玄孫ノ孫〔マゴ〕マデ傳〔ツタ〕ヘントハ、シ給ヘ共モ、齊ノ國ノ日ニ随テ衰〔ヲトロウ〕ルヲバ知給ヌ事誠ニアヤマチトコソ覺レト云々、父驚〔ヲドロイ〕テ田文ヲ以テ家ヲ宰〔ツカサ〕ドラシムルニ、才人多ク集〔アツマ〕リ、家弥富栄〔トミサカ〕ヘテ、三千ノ客ヲ随ヘタリ、果シテ秦ノ昭王孟嘗君ヲ召テ相トシ給ヘリト云々。」[臨川書店刊、三十一頁〜三十二頁]とある。この他として、『池北偶談』伊藤東涯『秉燭譚』に見える。

 さて、この「世」と「代」とは、そもそも意味が異なるのである。「世」とは、家督の子、家督の孫、その父祖に嗣をいう。「代」とは、兄の跡を弟が継ぎ、あるいは親族の子が継ぎ、また、他姓のもの代わって立つことをいう。この異なりを北畠親房は、『神皇正統紀』において次のごとく斟酌する。「代ト世トハ常ノ義差別〔シャベツ〕ナシ。然〔シカレ〕ド凡〔オヨソ〕ノ承運〔シヨウウン〕トマコトノ繼體トヲ分別〔ブンベツ〕セン為ニ書分〔カキワケ〕タリ。但〔タダシ〕字書ニモソノイハレナキニアラズ。代ハ更〔カウ〕ノ義也。世ハ周禮〔しゆらい〕ノ註ニ、父死〔シシ〕テ子立〔タツ〕ヲ世ト云トアリ」。

 さらに古くは、『江家次第』巻十七「親王宣旨事条下云、勘申御名事、云々、二字不偏諱、及唐偏諱、抄云、世代、民人依太宗諱也」と記すこの内容は、あくまでも唐の国に限ってのことである。太宗の諱〔いみな〕を「世民〔せいみん〕」といった。そこで、「世」の字を用いることを畏れ、「代」の字をもって代替表記したのである。この故事を日本国でも真似て用いることが時にあったのであろうか。しかし、南北朝時代の親房は歴代の天皇系譜を記述するにあたり、「世」と「代」とを明確に書き分けたのである。

1997年10月12日(日)薄晴れ。

「みどりの髪」

『八幡愚童訓』乙本に、「又一人の御子、其身さかり也といへ共、みどりの髪偏に白髪に成り人にわらはれければ、若宮にて七日祈請申しゝに、第七日の夜白き髪如レ元黒くなり、今さらわかやぎたりければ、後鳥羽院聞食し、叡感の〔余に〕御子の職事〔しきじ〕を賜しかば、宣旨の職事といはれて其名今に伝はれり。[二六四頁N]とある。この文脈からすれば、「みどりの髪」は黒く艶のある髪の形容表現でもある。大槻文彦編『大言海』の「みどり【緑・翠】」の項目、「(四)黒くつやつやしきこと。「翠の黒髪」」と収載されるものである。ここまでは、男女の使用による区分けが見えないのだが、近代作品に見える以下の形容表現をみるに、夏目漱石『草枕』の「緑の髪は、波を切る霊亀〔れいき〕の尾の如くに風を起して、莽〔ぼう〕と靡〔なび〕いた。」や二葉亭四迷『浮雲』の「お勢が目前に現われた。と見れば常さえ艶〔つや〕やかな緑の黒髪は、水気〔すいき〕を含んで天鵞絨〔びろうど〕をも欺むくばかり。」[九六頁]、高山樗牛『滝口入道』においては、「柳裏の五衣〔いつぎぬ〕打ち重ね、丈〔たけ〕にも余る緑の黒髪後にゆりかけたる様は、…閑雅〔しとやか〕に臈長〔らふた〕けて見えにける」とあって、この語用例からして、「緑の黒髪」は若い女性の生き生きとした艶のある黒髪を呼称している。また三省堂『大辞林』のいう「みどり-の-くろかみ緑の黒髪女性の髪をほめていう語。つやつやとした美しい黒髪。」という意味記述からして、そうなのである。明治以前のいつの頃からか、この「緑の黒髪」は若い女性の黒髮を表現する形容語となっているようだ。

1997年10月11日(土)雨(昨晩、雷鳴轟く)。

日本の異称「扶桑国」

「扶桑国」は、『山海経』や『淮南子』などに登場する。中国から見て東海の日の出る処にある神木「ふそう【扶桑】」、『粉河寺縁起』覚智僧正、得零告知亡母往生、第十五に、

明範云、「日本の木は桑なり。日本を扶桑国と名付、桑の字は四十八とかけり。四十八願の荘厳の浄土に託生〔たくしやう〕し給なり」。[日本思想大系20寺社縁起・五十三K]

とあって、「桑」の漢字を分解文字にすると四十八と書くというのは、十、十、十、十、八と書いて異体字「縺vの字となることを云う。そして、四十八は阿弥陀仏が法蔵比丘と呼ばれていた時代に誓願した四十八の本願すなわち、「四十八願」へと縁をつないでいくというものである。ここまでの言語情報を解析していくと、中国で日本を「扶桑国」と呼称する慣しと、これを認知した日本国の人々がいた。また、「桑」の文字には、大いなる意味合いが込められている点にあるということだ。そこで室町時代の日本古辞書『下学集』天地門にあってどう表現されているのかといえば、

「日本ノ總名ナリ也 朝暾〔[テウ]トン〕必ス昇〔ノホル〕於若木ーーノ之梢ニ 故ニ呼日本ヲ云フ扶桑國ト也 杜子美カ詩ニ云ク至テ今ニ有遺恨 不窮コトヲーーーヲ」{元名本20-1,42}

訓読してみると、「扶桑国〔ふそうこく〕。日本の総名なり。朝日が必ず若木扶桑〔ジャクボクフソウ〕の梢に昇る。ゆえに日本を扶桑国という。杜子美が詩に曰く今に至って遺恨あり。扶桑国を窮まることをえず」とあって、ここでも朝日が昇ることとこの扶桑が関係していて、これを中国の詩人杜子美は、この名を日本国の総称に用いなければ良かったというのだ。朝日と扶桑との関係については、大槻文彦編『大言海』の引用例が参考になる。上記『下学集』も引用されているが、杜子美が詩以降の項目を欠く収載である。「ふそう【扶桑】」の條に引用されている、

・西遊記(橘南谿)続編1「扶桑の事は、山海経、淮南子、大荒経の諸書に出たり、上古の世、限なき大木有て、日景を覆ひ、朝は此木より西の国は、是が為に影ろひ、夕は此木の東、日輪を見ずと、此木を扶桑と名付て、其生えたる国をも、又扶桑国といふ、則ち日本の事なりといふ事、和漢久しき言伝へなり」(4-0171-2)

とあって、朝日と扶桑との関係は上記の語る内容につきるのである。また、『粉河寺縁起』の阿弥陀仏の四十八願と『下学集』編者とでは「扶桑国」について、まったく別の角度から記述されていて異なる規範・範畴にあることが知られる。この異なりについてさらに調査を深めてみようと思っている。

1997年10月10日(金)曇り。

「失楽園している」

『失楽園』なる小説が映画・テレビ番組に制作され、お茶の間を沸かし、過ぎ去っていった。小学生の子供たちまでが「失楽園する」といった漢語サ変動詞をつかって物を言う。「不倫する」ということばから、「失楽園する」へとことばのもつ意味表現そのものが変貌しつつあるのか。それとも中味は変わらないじゃないのかという人までいる。この話しは、既婚夫婦の心のときめきが別の家庭を脅かしている。親は勝手自由でいいが、一番困るのが蹉跌の歪みのなかで苦しむ子どもを含む家族の心と思わないでもない。人は「恋多きいきもの」とか、「恋をしたい」と、ふと吐露する男女。「恋をしているときのあの胸のときめき」がなんとも忘れられないのだと複雑な秋空のもよいに似て、いつの世も「人の心は秋の空」なのかもしれない。

追記1「喜楽園」や「三景園」なぞの行楽施設を知るお年寄りの一言、「失楽園」ってどんなところ?

1997年10月9日(木)曇り。

「霜枯れ」の季節

ワード:霜枯・不況と普況・成長飢餓感

「霜枯」ってこの時期にぴったりなことばなんて陽気に思っているわけではない。本日付、朝日新聞・社説に「景気を考える」の冒頭文に、出典用例を示した「霜枯」ということばの記載が目に付いたのである。

「大分賑〔にぎやか〕さ。霜枯〔しもがれ〕の景気じやアございません」「こつちは霜枯で冷〔ひえ〕かたまつた」 式亭三馬の滑稽〔こつけい〕本『浮世床』の一節だ。霜枯は年末の商売が悪い時節のこと。江戸の昔も景気は庶民の関心事とみえる。

とある。そこで、大槻文彦『大言海』の「しもがれ」の項を繙いてみると、

()しもがれること。草の、霜に逢ひて、枯れ萎むこと。(蜻蛉日記。後撰集。源順集。続後拾遺集、出典内容は省略す)()冬の、寒き空合の景。荒寒。「霜がれ三月〔みつき〕」

とあって、この年末商売の意味がこの辞書では示されていないことが判るのである。岩波書店の『広辞苑』第四版では、

しも‐がれ【霜枯れ】@霜にあって、草木などの枯れしぼむこと。季・冬。歌経標式「―のしだり柳の」A「霜枯れ時」の略。―‐どき【霜枯れ時】。―‐みつき【霜枯れ三月】。

しもがれ‐どき【霜枯れ時】@草木が霜枯れして、さびしい景色の時節。A年の暮の、商売の景気がわるい時節。

しもがれ‐みつき【霜枯れ三月】年の暮の景気がわるい三ヵ月。

しも‐が・れる【霜枯れる】自下一 しもが・る(下二)草木が霜にあって枯れしぼむ。枕六七「こと花どものみな―・れたるに」

 

三省堂の『大辞林』第二版でも、

しも-がれ [0] 【霜枯れ】(1)霜のために草木が枯れしぼむこと。冬の草木が枯れて寒々としていること。[]冬。《―や壁のうしろは越後山/一茶》(2)「霜枯れ時」の略。

しもがれ-どき [0][4] 【霜枯()時】

(1)草木が霜で枯れて寒々とした景色の時期。冬。(2)商売の景気の悪い時期。

しもがれ-みつき [5] 【霜枯()三月】

年の暮れの景気の悪い三か月。一〇月・一一月・一二月をいう。

しも-が・れる [4] 【霜枯れる】 (動ラ下一)[]ラ下二 しもが・る

草木が霜にあって枯れしおれる。「―・れた冬の野」

と、いずれも「しもがれどき」の略として明示されているに留まる。すなわち、出典用例を欠くのである。出典用例までを知るには小学館『日本国語大辞典』を繙くしかないのがこのことばにおける国語辞典の現状であった。その『日本国語大辞典』のBには、「商売の景気が悪い状態にあること。客が少なく、不景気なこと。霜枯れ時」として、洒落本『風俗砂払伝』滑稽本『浮世床』二下坪内逍遥『当世書生気質』泉鏡花『義血侠血』一六と出典用例が逆にびっしり掲載となるから読む人にはびっくりするくらい豊富な内容である。

 ふとこのギャップに氣づくと『広辞苑』や『大辞林』などの中型クラスの辞書における小気味よさを体験するうえでも、出典用例の一つぐらいきちんと収載すべきでないかと私は思うのである。

そして、題目の「不況を「普況」にしよう(普通の状態と思うこと)」という発想の転換を同名異意表記のことばで呼びかけている。ともすれば、「成長飢餓感」にとらわれすぎているとも社説氏は指摘している。

1997年10月8日(水)雷雨、夜半冷え込み札幌初雪。

「雷名」

 今朝、またしても雷雨。ことばも「雷」から離れない。そこで、電子検索。もちろんキーワードは「雷」。明治時代の仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』(岩波文庫参照)に「雷名」なることばが見い出せた。

○かゝれば魯文先生の雷名交際の各国(くにぐに)に轟きわたり。,下40G

大槻文彦『大言海』らいめい【雷名】()世に鳴り渡る名声。「久仰雷名()他人の名の敬称。とある。また、学研国語大辞典によれば、らいめい【雷名】@世間になりひびいている名声・評判。「―とどろかす鬼将軍」A相手の名前の尊敬語。「かねがね御―はうけたまわっております」と使う表現はさほど変わりない。

1997年10月7日(火)朝晴れ後雷雨。苫小牧

「雷」見聞記

#971005]に続く。日昼の雷も凄まじい。辺り一面夜と見まごう暗雲がたれこめ、まもなく蒼白い閃光が走る。つづいてゴゴゴゴォーンと地鳴り。これだけでも人の心を震撼させてやまない。しだいに近づき閃光と寸暇を厭うかのようにしてゴロゴロゴローンと鳴り響く。ザザザーと雨粒が見えない勢いで地に叩き付ける。しばらくして、暗雲が抜けても遠くでゴロゴローンと聞こえている。ところでこの雷、別称に「いかづち」とある。『古事記』には、「大雷〔おほいかづち〕」「黒雷〔くろいかづち〕」などと見える。万葉仮名で「厳豆知〔いかづち〕」と表記する。この語源について、江戸時代の国学者本居宣長は、『古事記伝』のなかに「名の意は厳〔いか〕なり、豆〔づ〕は例の之に通ふ助辞、知〔ち〕は美称なり」といっているように、「いかのかみ【厳之神】」「いかのたま【厳之霊】」を示すものであった。これが、平安時代に「鳴る神」そして「神鳴〔かみなり〕」と畏怖して神として崇め奉った「雷神」信仰が誕生する。雷神伝説の頂点を極めたのが『大鏡』にみえる菅原道真公である。道真には飛梅伝説など数奇な内容の語りが残っている。やがて、人々はこの雷神の姿を絵に描くようになる。古いものでは、中国敦煌第249窟壁画、さらに日本京都蓮華王院本堂の彫刻、建仁寺の俵屋宗達筆屏風絵の「風神雷神」図絵を見たことのある方は、ご理解できよう。雲にまたがり、虎の皮の褌姿に背中に巴印標示の小太鼓をぐるっと背負い、角を生やし牙を向いている。降って江戸時代の井原西鶴が「神鳴臍〔へそ〕を心懸け」という。明治時代の正岡子規の「神鳴のわづかに鳴れば唐茄子の臍とられじと葉隠れて居り」などと云うように、なぜか雷は子どもの臍を狙うのである。事実は、落雷の際にお臍を押さえて地に伏せる姿勢が尤も安全度が高いといった保身術だったのだ。これが怖さもあってかいつのまにか俗言となっていったのである。また、雷の放電するエネルギーに関心を持つた科学者もいる。農業国日本であった頃は、こんな諺も生まれている。「雷の多い年は豊稔」だと。これも雷が大量の窒素肥料をもたらすという科学的根拠によって今日では裏付けられている。<そして、夜遅く家路に就くこととなる>

[追記1] 蓬左文庫本『六花集註』431に「霹靂〔かみとけ〕トハナルカミヲ申也」とある。

1997年10月6日(月)晴れ。

「漢字表記による区分と感得」

コメ栽培法で6区分の表示。[有機米・転換期間中有機米・無農薬米・無化学肥料米・減農薬米・減化学肥料米]の表示である。@の「有機米」、農薬、化学肥料を使わずに三年以上経過し、たい肥などで土づくりをした田で収穫した米に限定。Aの「転換期間中有機米」は、三年未満六ヶ月以上。Bの「無農薬米」とCの「無化学肥料米」は、栽培期間中だけ農薬や化学肥料を使わないもの。Dの「減農薬米」とEの「減化学肥料米」は、同じ地域で通常使われている量の半分以下にしたものに区分するというものだ。このなかで@とBとの漢字表記による表現を比較したとき、Bの方が良いもののように感じられる。また、Dの減農薬の中味が曖昧なのではないかという指摘もでているようだ。ここでことばの表現による些少区分の基準が問われている。食糧庁が一度決定したことばの基準の差し替えをおめおめとできないのなら、じっくりとこのネーミングの基準をおおくの人々と議論し、その上で最上の区分銘記の語表現を決定していきたいものである。これが漢字使用国ニッポンの誇れることばの基準値にしていきたいからにほかならない。

1997年10月5日(日)曇りのち晴れ。札幌

地下篭り 雷とおく なり明ける

「雷」の音

昨晩の雷鳴りを聞いて……。真夜中の雷のひらめく閃光はすさまじい。そして、まもなく地を轟かすすさまじい音が辺りに鳴り響く。この光りと音を「ピカッー、がらがら、ごろごろ、ヅーン」などと象徴表現する。この「がらがら」を現代の私たちは「ごろごろ」とも表現する。この「ごろごろ」の象徴音、いつごろから表現しているのだろうか。それと先に閃光が走って次に数秒の間をおいてこの音が鳴り響くのであるが、雷を「ごろぴかっ」と先に音、後に光りの象徴語で表現するのはなぜか?

 まず、音の「ごろごろ」は象徴語としては、大きな岩石が谷底に転がる音の形容としても使用される。近くは、すきっぱらの音としての形容もある。荷車を轢く音も同じ。雷は最大の「ごろごろ」の象徴語音なのである。平安時代は「鳴る神」で「ごほごほ」と表記する。

 次に、音と光りの形容の現実との付き合わせだが、室町時代の『続狂言記』巻一・9針立雷で「ひつかりひつかりひつかり、づでいどう」、他に「ぴかりぴかり。ぐわらぐわら」とか、「ヒッカリヒッカリ、グゎラリグゎラリ」とまともに表現されているのが、江戸時代の河竹黙阿弥『日月星昼夜織分』では、「ごろごろごろ、ぴかぴかぴか」と変貌していることに氣付くのだ。この光りから音の順が音から光りへの形容へと置換する語表現の流れを探ってみたくなる。

1997年10月4日(土)曇り。

「顔役」ってどんなヤク

「顔役」ってことば、今も使われているのか。読み方は「かおヤク」で湯桶読み。この「役」のつく複合語には、湯桶読み・重箱読みがあるのだ。このごろ学生に字音と字訓とを結びつける熟語について話をすることが増えたような氣がする。この「役」の字が字音であることをいつのまにか忘れているからに他ならない。芝居の「子役〔こヤク〕」。あなたは私の「仮役〔かりヤク〕」。課長は部長の「下役〔したヤク〕」。村や町の「役場〔ヤクば〕」。親としての「役目〔ヤクめ〕」などと結構列挙される。この「顔役」も「村や町の顔役としてちょっとは知られた者だ」と使う。意味はある地域や仲間うちで名前が知れていて、勢力のある人物のことだ。類語に「有力者」がある。水上勉の小説『大阪の宿』に、「その牛屋の主人というのが顔役で、……男と手を切らせるように話をつけてくれる事になった」といい意味での「顔役」が使われている。大槻文彦『大言海』を繙くと、「勢肌〔きほひはだ〕の者の仲間にて、親分と立てらるる者。」(1-0687-4)と收載されていて、面目の「顏が立つ」「顏がつぶれる」「顔を利かす」の「顏」、すなわち「親分・ボス」なのである。いまは「親分」という物言いも時代劇の場面で「錢形の親分さんで」などと耳にするぐらいで、新聞などでも先に挙げた「有力者」の三文字が多くなっている。まして、これを子どもに「ガンヤク」なんて読まれると何の事やらちんぷんかんぷんに陷るのは私だけではあるまい。子どもは逆に読み方のむつかしい此の手の書物を敬遠して読もうとしない。これと同じく、子ども時代に「蚊屋」を吊って寢た経験もない今の子どもたちにしてみれば、夏の風物詩である「蚊屋〔かや〕」(古くは『播磨風土記』に所見)や「蚊遣火〔かやりび〕」も時代と共に消え去り、古語となってきている。そんな昨今をふと思うと、ことばと現実のつきあわせを未来の子どもたちのために続けていくことの大切さを感じるのである。自分勝手な分析意識は、いらない。むしろ、社会の共通意識を根底で支えている歴史意識が現代社会に生かされているか?この点を日常語のなかで再点検する必要がいま世界言語のひとつである日本語に問いかけられているのではなかろうか。過去から現在そして未来への伝承、授受が正しく行なわれない限り、この手のことばの問題はまだまだ後を絶たないに違いない。

補註:蚊屋と蚊遣火(滝平二郎さんのきりえにこの光景が描かれている)

『大言海』に、かや【蚊屋】「夏の夜、寝たる時、釣りて寝床を被ひて、蚊を防ぐ帳〔とばり〕。今は粗き麻布、又、羅〔ろ〕などにて、方形に、天と四面とを作る。,*播磨風土記、餝磨郡、賀野里「造殿時、夏、仍張蚊帳、故號加野〔カヤ〕」蚊帳〔カチヤウ〕。蚊〓〔巾+廚〕」(1-0724-2)

かやりび【蚊遣火】「蚊火〔かび〕。夏、蚊を逐ひ遣らむが為に、燻〔ふす〕べ立つる烟。略して、かやり。又、かいぶし。かくすべ。,*倭名抄12十五「蚊遣火、加夜利比、一云、蚊火」*夫木抄、十九、雑、和泉式部「かやりびの、烟けぶたき、扇ぐ間に、夜は暑さも、おぼえざりけり」蚊烟」(1-0725-2)

1997年10月3日(金)晴れ。秋風の吹きトンボ来て陽は西に

「えらい」の多様表現と語源

「えらい」の使用は、イントネーションしだいでどうにでも変わる。@「あの人はえらいお人です」と尊厳畏怖。これをA「あの人はえらい、えらい」って矢鱈滅多繰り返し強調されるとからかい気味。B「あの店、えらい人数ですなあ」と数の増大さ。C「えらいことが持ち上がった」というと大変至極。D「えらい、すんませんなあ」とお詫びの返事。E「えらい目にあった」と冷や汗かきかき、反省しきり。F「えらいとこに来てしまった」と困窮の境地。G「えらいもの、手にしてしまった」とこれも戸惑いの境地。H「えらいことしてしまった」と失敗行動を嘆きもする。I「ああ、ほんとうにえらい」と最後に疲労困憊するのである。

この「えらい」ですが、語源はといえば、佐藤貴裕さん(岐阜大学)が「「えらい」の語源珍説」(気になる言葉19970514)で公開していたので次に引用する。(『日本国語大辞典』の項目「えらい」のなかで語源説明()に同樣の記載が見える)

・享保年間に、兵庫の浦で大鯛がとれ、あらの料理を受け持った一人が、鰓(えら)を切るときに指に怪我をした。その口合に、「ああ痛い、これはエラ(鰓)イタイ(痛)、さてもエライ鯛じゃ」と言った。それが広まって以後、大きな物でさえあれば、エライ、 エライ物と言うようになり、日本国中の俗語になった。[世間仲人気質・摂陽奇観](*丸括弧 は佐藤の補足)

こじつけ気味の珍語源説は、江戸時代のことば文化の表象とも云える。奥を尋ねて深く分け入ると、鎌倉時代の語源辞書である『名語記』巻第五(九〇オ)「エラ」にこの記載があるようだ。

・問 下臈ノ詞ニオホカル物ヲエラアルト云ヘリ如何 答エラハヨケラカノ反ニアタレリ

追記1「えらそうなこと」と云うことば。

1997年10月2日(木)晴れ

「雲梯」って

 「雲梯」なる漢字熟語を「うんてい」と読む。これを和訓読みすれば、「くものはしご」とでもいうことになる。実際、子どもの頃、幼稚園そして小学校の運動場にあった運動器具(アーチ型30センチ間隔横の鉄棒が渡してあり、左右の手でぶら下がりながら移動してゆく)の名前である。なぜか不思議なことに中学校から上級の学校ではお目にかかることがないものと化すのも事実であり、面白い。あれを懐かしく思うのだ。また、竹竿をのぼりつめる器具などもあった。あれがうまくできないと鬼ごっ子が様にならないので困ったものだった。と思いながら身近な国語辞典を繙いて見る。なんと未収載ときた。さらに電子ブック版『日本大百科全書』にも未収載である。ことばとしても困った困った、説明の付かないものがこどもの遊び場にあったのだから……。

1997年10月1日(水)晴れ

「峠」とは

 峠を愛した柳田国男がいたら、長野新幹線をどう語ったろうか。<峠越えの無い旅行は、正に餡のない饅頭である>(「峠に関する二三の考察」一九一〇年)と書いた彼だ。峠に立つと<テムペラメントがからりと変る>。違った風が吹き、日の色も光景もまるで違う。<峠の茶屋は両方の平野の文明が、半は争ひ半は調和して居る所>だった。そして<鉄道は乃ち国境の山脈を唯の屏風>にしてしまったと嘆く。[朝日新聞夕刊・素粒子より](補足:『柳田国男全集』第二巻六「峠の趣味」二三〇頁より・筑摩書店刊)

「とうげ」ということばが、日本の地図や文献資料上に現れるのは、近代語の流れのなかであったか。古代、中古、中世の紀行文中には見えないことばでもある。これを裏付けることに『日本一鑑』や『日本風土記』などの地理名称の記載において、山や里の名は記載されていても峠の名は無に等しい。これが江戸時代になり、各々の『名所図会』になるとこの「峠」名称の記載が明確に確認できるのである。木曽義仲や源義経の活躍する『平家物語』などの鎌倉時代の合戦記などの場面ではどうかと思うのであるが「倶梨伽羅が谷」、「嶺」、「鵯越え」というに留まる。これが南北朝時代の合戦記『太平記』になって、「嶺」と「峠」の文字による用例が使われだす。

・既ニ中津河ノ峠〔タウゲ〕ヲ越ントシ給ケル所ニ、向ノ山ノ兩ノ峯ニ玉置ガ勢ト覚テ、五六百人ガ程混冑ニ鎧テ、楯ヲ前ニ進メ射手ヲ左右ヘ分テ、時ノ聲ヲゾ揚タリケル。[巻五・大塔宮熊野落事・大系T一七七頁B]

・糟谷三郎ニ先陣ヲ被打セ、鸞輿迹ニ連テ、番馬ノヲ越ントスル處ニ、數千ノ敵道ヲ中ニ夾ミ、楯ヲ一面ニ雙テ、矢前ヲソロヘテ待懸タリ。[巻九・越後守仲時已下自害事・大系T三〇八頁H]

・両陣牙ニ勇気ヲ勵シテ、終日相戦ケルガ、平家此ヲモ被破テ、箱根ノ水飲ノ峠〔タウゲ〕ヘ引退ク。[巻十三・足利殿東国下向事付時行滅亡事・大系U三九頁@]

これが最初の「峠」表記なのかもしれない。さらに、歌論書である『八雲御抄』三には、

・山のたうげをばこやのふる道と云、一説。未之。[『日本歌学大系別巻三・二九八頁』]

と仮名表記で「たうげ」と明記し、「こやのふる道」と呼称することが記載されている。また、古辞書でも「峠」の用例が顕れるのは、室町時代になってからなのである。

『伊京集』「到下 タウゲ 峯。峠同。手向 同 タムケ」

『書言字考節用集』54E「峠〔タウゲ〕本朝ノ俗。坂路ノ最モ高キ所ヲ曰峠。字モ亦从ミ所見ニ制シ用ユ焉ヲ」「到下〔同〕太平記作當下ニ

そして、山越えはいつの世も他郷に赴く人にとって古えに対する別れと新しき出会いの分岐点そのものであった。人は暫し、いま来た道をふりかえりて想い、先行く道を眺めやるといった情感を抱かざるをえない場でもある。こんな地点が「分水嶺〔ブンスイレイ〕」であったり、「とうげ」なのだと私自身思う。「とうげ」は「たむけ【手向】」説と「たわみ【撓】」説の両説が知られ、中国地方では後者を用いた「峠(たお)」「峠越(たおごし)」「峠之助(とうげのすけ)」なる苗字も生まれている。この峠も現代では、隧道交通の利用によって往来そのものがめっきり少なくなってきているということか。日本国中にある峠を歩くとすればいかほどの数に上るのであろうか。ちょっと調査してみたくもなろうというものである。

峠の名覚え書きメモ

「一二峠〔ほいとうげ〕兵庫」。「碓氷峠〔うすいとうげ〕長野」。

「ソトワ峠、福島相馬市東玉野」。

「有年峠〔うねとうげ〕兵庫」司馬遼太郎『国盗り物語』に散見。

「倶梨伽羅峠〔くりからとうげ〕石川と富山」。その他……

電子ブック三上 昭著『峠の世界』がhttp://www.ebook.co.jp/jihi/touge.htmで発売中でる。

 

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