1998.3.12

わたしのボランティア學

萩原義雄

ボランティアは「志のある愛(思いやり)」

 私自身「志士リリトリア」という団体を学生達と結成しました。「志士」は、志〔こころざし〕で1「思い立つ心」と2「立身出世」からなります。

 

「志」は「光」

 光は闇を照らし、他者を開示する。光の本質はこの開示作用にあります。万物の出産はまさにこの闇から光の世界へ向かうことにあります。「志」も自身の根底に潜む思惟を露わに呼び覚ます働きがあります。「志を立てる」というのは、思いを定めて己の外へでてゆくこと。「家郷」宗教学のいう宇宙の中心である聖地ともいう父祖伝来の霊魂の宿る地を捨て去ることだったのです。これはそれぞれ相当の決心がいたのであります。

 「志」「意志」という字「意」音+心と書きます。この「意志」の「意」に「好」をつけて「好意」といいます。この「好意」ということばが問題なのです。

 

「好意」は高飛車な物言い

 同じ意志の発露でも「これは私たちの好意でしたことだ。」という人がいます。私はこの言い方は、上から下へ見下ろした物言いだと感じてしまうのです。

 「利運(よいめぐりあわせ)を以って理解し、投資し、利便にし安息す」というこの一連のことの流れを頭文字で表現してみたら、本当に心地よい響きとなりました。

 

「恥ずかしがり」とボランティア

 「恥じらいの」気持ちはあっても、恥ずかしがっては何もできないのです。天の大いなる摂理は、人間の情念に補完の原則というものを与えてくれています。人並みでない容皃であるのならば、それを補おうとして、人知れず別の美徳を発揮しているはずであるからです。本人は日ごろからそうあるべく涵養・努力につとめているはずですから……。人の目は常に美しい、賢くありたいという意識でものを図ります。あえかな時期に揺らめくのがこの美の意識かもしれません。知恵が備わり、私は美しいんだ、私は賢いんだという過剰意識を持つとこれは誰が見ても鼻持ちの悪いというか、バカバカしくってお話にならないのです。私の言う「美徳」とは、はにかみの美、含羞の美、すなわち室町時代の能役者世阿弥のいう「秘すれば花」なのです。

 

「吃り」という欠陥

 「吃り」とは、どんなに素晴らしい形容句が頭に浮んでも、声音とならないまま、はかなく消えてしまう思いなのですが、「吃る」ことを気にしてはいけない。吃ることで自然のバリケードが築かれている。人と話しをしないですむ。この間に、自分の意志と方法序説をひたひたとたたきあげ、築き上げることができる。戦国時代の秀吉がやってのけた墨俣一夜城のようにです。孤独でないと遣れない仕事に埋没するのも賢明かもしれません。逆手も然り、これを利用したらどうなるのでしょう。荒波の上に首を出せば泳ぐ手が見つかるものだ。人は欠陥を愛する、他人の不幸を愛する、こういう癖があるようです。そして、この癖をどんなになおそうとしてもダメで、吃りの矯正のほうがはやいぐらいです。そこで、あなたは自分の不幸をさらけだし、ボクハ馬鹿なんです。ダメなんですということをさらけ出してしまう。すると相手はそれに食いついて安心し、満足する。其れから後であなたは、自分の思うところを相手に突っ込んで、肉を取ればいいのです。皮切らして肉を切るという手なのです。この高踏戦術がボランティアの第一義なのです。相手を最初から自分よりダメなものと見下していたのでは、真のボランティアはできないのです。「共生・共感・共鳴」することを相互に学ぶのが大切なのであります。教訓「人間は矛盾の動物です。コクをだすには目指すものの反対なものをどれだけ吸収し、合併、昇華させるかということにあります。―これはすべての表現芸術の真髄でもあります。」

 

「精神の旅」

あなたの頭脳は無限に飛躍させる。どこにいてもできるイマジネーションの旅。満員電車でも。病院の中でもできる。それをもっとリファインし、高めること、そのためには世の中のことをいろいろ知らなければならない。人間と自然とあらゆる事物について知らねばなりません。

 

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