1997〜2005.12.26更新

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『下学集』所載の怪異譚

萩原 義雄

1.狐妖の怪異


いぬおふもの【犬追物】
犬追物 昔シ西域ニ有リ斑足王其ノ夫人悪虐 過タリ人ニ勸 テ王ヲ取 ム二千人ノ之首ヲ 其ノ後チ出生ス支那ノ國ニ周ノ幽王ノ后 其ノ名ヲ曰フ褒〓ト國ヲ惑 人ヲ 死後シテ出生ス于日本ニ近衞院ノ御宇ニ号ス玉藻ノ前ト傷 コト人ヲ無シ極 後ニ化シテ成テ白狐ト害スルコト人ヲ惟多シ 時ニ俗驅ント之ヲ先ツ追走犬ヲ以テ試 其ノ射騎ヲ 白狐知テ之ヲ化シテ而成石ト 飛禽走獸 當 其ノ殺氣ニ者莫シ不スト云コト立トコロニ斃 故ニ謂フ之ヲ殺生石 于ニ今在シ下野ノ那須ノ野原ニ也 犬ヲ追者ノハ始ル于茲ヨリ矣 但シ聽ク之ヲ古老之口号 ニ不スト本説ヲ且ツ載 之ヲ而巳。《態藝門七八-7》

*『運歩色葉集』にも同じ内容の話説が収載されているが、『下学集』の編者のようなこの話説に対する記載動機については、コメントを削除していることがわかる。
犬追物 昔シ西域ニ有リ斑足王之夫人。悪虐 過ル人ニ。勸 テ王ヲ取ル千人ノ之首 ヲ。其ノ後チ出生シテ支那ノ國ニ、作テ周ノ幽王ノ后ト、其ノ名ヲ曰フ褒〓ト。滅 國ヲ惑 人ヲ。死シテ後生テ日本ニ、近衞院御宇玉藻ノ前是也。来ラ禁裏ニ傷 コト人ヲ無シ極リ。後化シテ成ル白狐ト。害人ヲ作ル石ト。飛禽、走獸、當 其ノ殺氣ニ者莫不スト云コト二立斃レ所ニ。謂之ヲ殺生石。今ニ在リ下野ノ那須野ニ。犬ヲ追者于ヨリ茲始ル也。[元亀本一5ウA]

広本(文明本)『節用集』にも同じくこの話説は収載され、『下学集』の編者のコメントに加える形で、「殺生石」についてのコメントを付加増補しているところが特徴である。
犬追物 昔シ西域有斑足王其夫人悪虐過人。勸王取千人首。其後出生于支那國ニ。作周ノ幽王ノ后。其名曰褒〓(女+以)ト。滅シ国ヲ惑人。死シテ後出生ス于日本ニ。近衞院ノ御宇ニ号玉藻ノ前。傷人無極リ。後ニ化シテ成テ白狐。害人惟多。時ノ俗欲之。先追走犬以試其射騎。白狐知之。化成石。飛禽走獸。當其石氣者莫立斃。故謂之殺生石。于今在下野国那須野原也。犬追者始于茲矣。但聽二之。古老之口号。雖本説。載之而巳也。又云。元來石頭喚謂殺生石。霊從何來受業報是乎。去シ去自今以後〓〔人尓〕佛性真如全体。三度摩頂云。會取々々。謂フ頚石振動シテ。三烈破。應永二年猛春十一日也。玄翁ハ峩山門第廿五人ノ之内。心昭侍春云々。[態藝門22B]

書き下し文
犬追物 昔シ西域ニ斑足王有リ。其ノ夫人悪虐 人ニ過タリ。王ヲ勸 テ千人ノ之首ヲ取 ム。其ノ後チ支那ノ國ニ出生ス。周ノ幽王ノ后 爲。其ノ名ヲ褒〓ト曰フ。國ヲ滅 人ヲ惑 。死後シテ于日本ニ出生ス。近衞院ノ御宇ニ玉藻ノ前ト号ス。人ヲ傷 コト極 無シ。後ニ化シテ白狐ト成テ人ヲ害スルコト惟多シ。時ニ俗驅ント之ヲ先ツ走犬ヲ追。以テ其ノ射騎ヲ試 。白狐知テ之ヲ化シテ而石ト成。飛禽走獸、其ノ殺氣ニ當 者立トコロニ斃 不スト云コト莫シ。故ニ之ヲ殺生石ト謂フ。今于ニ下野ノ那須ノ野原ニ在シ也。犬ヲ追者ノハ于茲ヨリ始ル矣。但シ之ヲ古老之口号 ニ聽ク。本説ヲ知不スト雖、且ツ之ヲ載 而巳。

口語訳
犬追物

むかし、西域印度に班足太子という王様がおりました。そのお后という人は大層残虐な方でした。班足太子をそそのかして千人もの人の頚を刎ねさせたのです。その後、このお后は、中国の国に生まれました。中国の周の国王である幽王のお后となりました。その名前を褒〓(女+以)と言いました。この褒〓(女+以)も国を傾け、人々を惑わせたのです。この褒〓(女+以)は死んだ後、今度は我が国、日本に生まれたのです。ちょうど近衛院が帝の時でした。名前を玉藻の前と申しました。この女人もまた(帝の寵愛を得て)、人々を傷つけることいい知れぬものがございました。そして、この玉藻の前は、白狐に変化したのです。人を殺害することは言うまでもありません。世俗の人達はこれを退治しょうと、まず犬を放ってかの狐を追い出し、馬上から射ることを試みたのです。ところが、白狐はこのことに気がつき、矢から身を守るため自ら石に変化したのでした。空をかけめぐる鳥、地をかけはしる獣、みなその殺気に当たったものは、動くこともままならぬようになりその場に倒れ伏してしまうのでした。そんな妖霊力を持つ石でありましたので人々はこれを「殺生石」と呼ぶようになりました。この石は、今では下野の国 (栃木県那須町)の那須野ヶ原にあるそうです。そして犬追物はこのことに起縁して始まったのだそうです。ただ、このお話説は、私が古老の昔語りを聞いて、その話説の出処はわからないのですが、やはり、興味をそそる内容でしたのでここに記載したものです。

語 釈
類話説:『三国悪狐伝』一名『三国妖婦伝』に所載。また、『狂言記・こんくわい』(岩波新日本古典文学体系・五〇頁)にも所載されている。

班足太子:典拠『仁王経』。

*『仏説仁王護国般若波羅蜜経』護国品第五
大王昔有天羅国有一太子、欲登王位、一名班足太子、為外道羅陀師受教、応取千王頭以祭塚神、自登其位、已得九百九十九王少一王、即北行万里、即得一王名曰普明王、其普明王白班足王言、願聴一日飯食沙門頂礼三宝、其班足王許之一日、時普明王、即依過去七佛法、請百法師、敷百高座、一日二時講説般若波羅蜜、八千億偈竟、其第一法師、為、普明王説偈言、云々、爾時法師、説此偈已、時普明王眷属、得法眼空、王自証得虚空等定、聞法悟解、還至天羅国、班足王所衆中、即告九百九十九王言、就命時到、人人皆応誦過去七佛、仁王問、般若波羅蜜中偈句、時班足王、問諸王言、皆誦何法、時普明王、即以上偈答王、王聞是法、得空三昧九百九十九王、亦聞法、已皆証三空門定、時班足王極大歡喜、告諸王言、我為外道邪師所誤、非君等過、汝可還本国、各々請法師、講説般若波羅蜜名味句、時班足王、以国付弟、出家為道、証無生法忍、如十王地中、説五千国王、常誦是経、現世生報、大王、十六大国王、脩護国之法、法応如是。
*『師子素駄王経』
*『賢愚経
 班足太子の妃華陽夫人については、『仁王経』には見えず、『仁王経』では外道の師善施が太子を唆し、千王の首をとろうとしたのが、『下学集』編者の聞書の話説は悪逆非道を好む妃が太子をそそのかし無辜の民千人の首を斬ったということをふまえている。同じ時期の『?嚢鈔』は、巻七27に『仁王経』に依拠した話説を収載している。
*『寳物集』下、
*流布本『曽我物語』巻第七・班足王の事
 仁王經(にんわうぎやう)の文(もん)をば御覽(らん)じ候はずや。昔(むかし)、天羅(てんら)國に、王(わう)一人まします。太子有((あり))、名()をば斑足(はんぞく)王といふ。外道羅陀(げだうらだ)の教訓(けうくん)に付((つき))て、千人の王(わう)の首(くび)をとり、塚(つか)の神(かみ)にまつり、その位(くらゐ)をうばひ、大王(わう)にならんとて、數萬(すまん)の力士(りきじ)・鬼王(きわう)をあつめて、東西(ざい)南北、遠(おん)國近國(きんごく)の王城(わうじやう)に、おしよせからめとり、すでに九百九十九人の王を取((とり))、今(いま)一人たらで、「いかゞせん」といふ。ある外道(げだう)お((を))しへていわ((は))く、「これより北(きた)ゑ((へ))一萬里ゆきて、王あり、名()を普明王(ふみやうわう)といふ。これを取((とり))て、一千人にたすべし」といふ。やがて、力士(りきじ)をさしつかはし、かの王(わう)をとりぬ。今は、千人(せんにん)にみちぬれば、一度()に首(くび)をきらんとす。こゝに、普明王(ふみやうわう)、合掌(がつしやう)していわ((は))く、「ねがはくは、われに一日の暇(いとま)をゑ((え))させよ。故(ふる)里かへり、三寶(ぽう)を頂戴(ちやうだひ)し、沙門(しやもん)を供養(くやう)して、闇路(やみぢ)のたよりにせん」といふ。やすき間の事とて、一日の暇(いとま)をとらす。その時、王宮(くう)にかへり、百人の僧(そう)を請(しやう)じて、過去(くわこ)七佛の法(ほう)より、般若波羅蜜(はんにやはらみつ)を講讀(かうどく)せしかば、その第一の僧(そう)、普明王(ふみやうわう)のために偈()をとく。「劫燒終訖(ごうせうしゆこつ)、乾坤洞然(けんこんとうねん)、須彌巨海(しゆみこかひ)、都爲灰煬(といけやう)」とのべ給ふ。普明(ふみやう)王、此文(もん)をききて、四諦(たひ)十二因縁(ゐんゑん)をゑ((え))たり。ほんけむくうをさとる。さればにや、斑足王(はんぞくわう)、諸法皆空(しよほうみなくう)の道理(だうり)を聽聞(ちやうもん)して、たちまちに惡心(あくしん)をひるがへして、取((とり))こむる千(せん)人の王(わう)にいわ((は))く、「面々(めん/\)の科(とが)にはあらず。我外道(げだう)にすゝめられ、惡心(あくしん)をお()こす。不思議(ふしぎ)のいたりなり。今(いま)は、たすけたてまつるべし。いそぎ本(ほん)國にかへり、般若(はんにや)お((を))修行(しゆぎやう)して、佛道(ぶつだう)をなしたまへ」とて、すなはち、道心(だうしん)を((お))こし、無生法忍(むしやうはうにん)をゑ((え))たりと見えたり。これも、普明王(ふみやうわう)をゆるしてこそ、ともに佛果(ぶつくわ)をゑ((え))たまひしか。〔大系279頁〜280頁〕
と見えている。
 
*『三國傳記』卷二7
*『太平記』巻第七・新田義貞賜二綸旨一事「サレ共紀清兩黨ノ者トテモ、班足王ノ身ヲモカラザレバ天ヲモ翔リ難 シ。」[大系1二二六L]
*『太平記』巻第二三・大森彦七事「誠 哉、天竺ノ班足王ハ、仁王經ノ功徳ニ依テ千王ヲ害スル事ヲ休メ、吾 朝ノ楠正成ハ、大般若講讀ノ結縁ニテ三毒ヲ免ルヽ事ヲ得タリキ。誠 鎮護国家ノ經 王、利益人民ノ要法也。」 [大系2四〇〇B]
*『太平記』巻第三六・仁木京兆參二南方事一「仙與國王ノ五百人ヲ殺シ、班足太子ノ一千ノ王ヲ害セシモ、皆權者 ノ所變トコソ承レ。」[大系3三四四O]

 

褒〓(女+以)

典拠『国語』十六鄭語
史記』巻四・周本紀
周の幽王の寵姫も絶世の美女であったが、どう言うわけか笑うことがなかった。あるとき、外敵の侵略を受けたときにあげる狼煙をあげ、この狼煙を見た諸侯は、これは一大事とばかり、王宮に馳せ参じたが何事もないことを知り唖然とした。この光景を見た褒〓(女+以)は、その時初めて笑い、幽王これを喜んで已後しばしば狼煙をあげたが諸侯は馳せ参じることを止めてしまう。申侯が周を攻めてきた折、幽王は狼煙をあげ、兵を召集したのだが来援する諸侯はなく、幽王は驪山の麓で殺され寵姫褒〓(女+以)も囚われの身となった。「褒〓(女+以)の笑」という故事を世に遺し歴史から消える。

殺生石:能楽の名[謡]として知られる。

陸奥鵆』にこの石について「凡七尺四方、高サ四尺余。色赤黒し。鳥獣虫行懸り、度々死す」と記され、毒気を放つ岩石として『下学集』の編者以前に世に知られ、これが三国妖狐伝説に結びついているのである。広本(文明本)『節用集』には、この石に関してさらに付言して、「元來、石頭ヲ喚ビ殺生石ト謂フ。霊何ク從リ來リ業報ヲ受ク是クノ如シ乎。去シ去リ、今自リ以後〓(人+尓)佛性ノ真如全体。三度頂ヲ摩デテ云フ。會取々々。頚ノ石振動シテ謂フ。三ツニ烈破ス。應永二年猛春十一日也。玄翁ハ峩山門第廿五人ノ之内。心昭侍春云々」の考え方も室町時代に生じていたことを知るのである。
補遺:印度本系統の永祿二年本節用集』に、「又注云〓(人+尓)元來石頭喚テ謂殺生石。霊從何來受業報ヲ|是乎(ヤ)。去々(サシ/\)今以後〓(人+尓)佛性一見全体。三度摩(ナテヽ)云。會取(エシユ)セヨ々々。謂頚石振動。三ツニ烈破。應永二猛春十一日云々玄翁峩山門第廿五人之内。心昭侍春ト云々」〔言語九H〕とあって、広本節用集』と同じ注記が見える。
 
また、松尾芭蕉奥の細道』には、
是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかな と、
野を横に馬牽むけよほとゝぎす
殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒氣いまだほろびず。蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど、かさなり 死す。[日本古典文学全集・三四九頁]

と記され、この時代になっても毒気を失わないこの石を感得する。

玉藻の前:人名。近衛院の寵妃、『鎌倉志』巻四、海蔵寺号二扇谷山一の開山、源翁禅師伝に「康治帝即近衛院」

本朝語園』に、近衛天皇(鳥羽院)の寵妃玉藻前もまた艶媚にして院の寵愛を一心に受ける。院が不豫(病い)になり、日に従って重病となっていく。典藥頭が診断し、邪気によるものだと見立て陰陽師安倍泰成が召された。
泰成、宮に入り玉藻に御幣を持たしめ、祝詞を宣るに玉藻前御幣を捐て去り、化して白狐と成り、走りて下野国 那須野の原に入りて人を害する事惟れ多し、帝、三浦義純、上総介広常、千葉介常胤をつかはし、是れを狩らし め玉ふ。
こうして泰成に看破された玉藻前は白狐の正体を露にし、那須野にまで逃げて石となるのだが、これも玄翁和尚の法力によって三つに烈破され、散滅したというのである。
松尾芭蕉奥の細道』には、
黒羽の館代、浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、其弟桃翠など云が朝夕 勤とぶらひ自の家にも伴ひて親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一 見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳といふ。[日本古典文学全集・三四七頁]

とあって、玉藻前の古い塚があり、ここは現在、玉藻稲荷篠原神社として遺る。

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