2002.05.28記載

2006.05.24更新

ことば遊び

「落書」

落書」は、古くは七世紀後半に法隆寺五重塔の天井裏板に「難波津(奈尓波都尓佐久夜己)に」のうたが書かれ、また、平安時代の醍醐寺五重塔にもかな書きの落書のうた三首が見えている。この書記者がどのような思いでここに記録したのか知る手がかりは今のところない。

 同じく、法隆寺には、釈迦三尊台座裏墨書、「相見了陵面未識心陵了時者」という文字資料が知られている。こちらは、漢文調の文言で、「相(あ)い見(まみ)えて(了)面(をも)を陵(さら)すも未(いま)だ心(こゝろ)を陵(さら)し了(をへ)へし者(もの)を識(し)らず」と訓読する。

 その書き遺すことの真意を明らかにすることはむつかしいのだが、人の心は「落書」という書記意識のなかで己のこころをコントロールしていたのは、今も昔も変わらない営みと考えたい。読み方は「ラクショ」と音読みし、和語風にいえば「おとしぶみ」である。実際懐に入れておいて読ませたい相手の直前で懐から落とした。そこに書かれている内容を意識的に拾わせて読ませることが本来の目的であった。目を落とせば当然、その落とした紙に書かれた内容に心が行く。やがて、人々にうわさとなり流布することになるからだ。

 実際、平安漢詩文全盛時代にあって、その「落書」として一つの逸話が『江談抄』卷第二に伝わっている。それは嵯峨天皇の御代に「無悪善」と書かれた落書が巷に出まわり、どう読むのか知れない。無論、天皇の目にもとまり、才學のひとり小野篁がこれを読んだ。「さがなくばよかりなまし」と、これを聞いた帝は激怒し、罪科に処せられることとなった時に、篁は「才學があればこそ、この「無悪善」の落書を読み解けたのであり、読める者を怪しみ罰するのであれば才学の道は絶えるだろう、それは嘆かわしいことだ」と抗議した。これを帝は道理とみて罪科を懸けることは沙汰闇となったという。

嵯峨天皇尊像

 今日、東京大学駒場キャンパスのトイレに落書きされたものに「ヘァーリキッド けつにつけ どっきりあへ」という回文式のものがあり、これが当時の毎日新聞に掲載され話題となったことがあるのもその巧妙さ故である。この「落書」だが、室町時代の古辞書広本(文明本)『節用集』に、

無住方(ムヂウハウ/ナシ・スム・カタ) 叢林落書(ラクシヨ/―ガキ)也。或作無頭方(ムチウハウ)也。〔態藝門462二〕

とあって、漢字標記語「落書」の表記で、漢語風に「ラクショ」というのと混種語で「ラクがき」と読む二通りが通用していたことが理会できるのである。これが江戸時代になると、「樂書」と表記されたりするようになる。『色道大鏡』に、

新たに張りたる障子にも樂書(ラクがき)する事多かり

とあって、所謂「悪戯書き」に相当する表現が用いられている。この「樂書き」は、あくまで恣意性の強いもので、意外性・ニュ−ス性といった流布喧伝を目的としたものでないことが知られよう。これに対し、「ラクショ」はあくまで人々に流布される要素をもたせていて、当然多様な波紋を広げていくことを当初から予期したものであるといえよう。そこで「落書」の表記外に「樂書」の表記が生まれてきたということにもなろうが、その意味別意識は、江戸時代にあって用いる人々に定着は見なかったのである。

 また、「落書」のうちで韻文要素を持たせた表現を「落首」と表記し、「和歌・狂歌」形式が用いられている。一首二首と数えることから「ラクシュ」なることばが生み出されたのであろう。時代時代の事件やその時代の世相を端的に表現してくれている。であるからして、その事件の内容や経緯が分明でないと、その興趣は伝わってこないものとなる。それは、夜のうちにこっそり記述され、人の徃来のはげしい橋のたもとに立て札などで貼り出したのである。秀吉が朝鮮出兵したときの落書には、

太閤が一石米を買いかねて今日も御渡海明日も御渡海

と云わしめている。

 嘉永六(1853)年の六月、米艦(黒船)が浦賀沖に来、將軍家慶が没し、世は乱れに乱れんとしていた時の落書には、

朝食(めし)を炊けや炊けやも相手なくやたけになつてはたはけやたはけや

・「やたけ=弥猛、勇み立つさま。やけっぱちの意」《『藤岡屋日記』41》

とある。七夕を前に七月六日江戸名物「七夕竹」も遠慮して立てず事舞であり、「竹屋」の商売上がったりということで、湯屋の焚き物にされたと云うのである。

この内容は、フジテレビ“めざまし用語辞典”のなかで番組収録したものを再編原稿化したものです。《未了