2007.04.11〜2008.04.08更新
実務表現「の」と「と」
2007.04.12(木)第3限 教場4−203
 01の講義内容 ※最初に情報センターの使用手続について担当責任者説明
書く技術 原稿用紙縦書きの意味
 
    日本語の文字ひらがな…「の」と「と」
                 石川九楊著『書字ノススメ』〔新潮文庫より〕
 
 タイトルというのは、書き手にとっても、編集者にとっても、頭を悩ます難問だ。
 近年の軽い本はともかく、本の題名で圧倒的に多いのが、『風土』『共同幻想論』というように漢字だけで成立するもの。また仮名交じりとなると、九鬼(くき)周造の名著『「いき」の構造』のように、書棚を見わたすと「の」のつく題名の書物が多い。次いで多いのが「と」。評論家・埴谷雄高(はにやゆたか)の著書には、『鞭(むち)と独楽(こま)』『罠(わな)と拍車』など、たいていに「と」がつく。政治学者・丸山真男(まさお)の『現代政治の思想と行動』のように、「の」と「と」の組み合わせもけっこう多い。朝鮮人の姓は「朴さん」「李さん」「金さん」が多くて、まぎらわしくないのだろうかと思うが、外国人には、日本の書物の「の」と「と」の文字が目について仕方ないのではなかろうか。
 この事実から見る限り、日本語では、助詞「の」もしくは「と」で二つの名詞を関係づけることによって、最小限の宇宙を表現できるようだ。だとすれば、「の」と「と」は、他とは較(くら)べものにならぬほど重要な助詞であり、これらの中に日本語を解く鍵(かぎ)が隠されているはずだ。
 ところで、毛筆で仮名文字を勉強する場合、まず右回転、左回転の運筆を練習する。はじめのうちは、筆をおしつけて、ぎこちない筆あとの円を連ねるだけ。やがて、右回転では、右上から左下へ進む時に力を加え、左回転では、左上から右下へ進む時に力を加えることを覚えると、筆先がきれいに回り、速く、滑らかに書けるようになる。この右回転から生まれるのが、「ののの……」であり、左回転から生まれるのが「ととと……」である。言語学的分析からの「の」と「と」が対をなす関係にあることが導き出せるかどうか知らないが、書学的には、「の」と「と」が対をなす助詞であることに気づかされる。
 いうまでもなく、「の」は漢字の「乃」から、「と」は「止」から生まれた。「乃」と「止」の原形からいえば、もっと違った仮名文字の姿になってもよかった。事実、中国のくずし字(草書)の「止」は、左側の縦画から始まり、「心」の第一画を消し去ったような姿に書く。中国式筆順は日本語の「と」には似合わなかったものと見えて、「止」の日本流は中央縦画から書く。
 現在の言語学者やデザイナーは、文字を言葉の記号図形とでも考えているようだが、文字は決して記号図系ではない。意味を含んだ書字の力や深度や速度、角度(筆蝕(ひっしょく))が統合されて字画となり、その字画が筆順によって組み立てられて、文字と文つまり言葉を形成する。そのため、文字の形と呼ばれているものの中には、印刷文字ではとうていすくいきれない微細な意味が、その書きぶりである筆蝕としてぎっしり詰まっている。
 さて、回転部が書き出しの起筆部を包み込み、右下から左下への進行時に力を加え、内側へ巻き込んでいく右回りの「の」は、包み込むように接続する意味をのせている。書字から見れば『「いき」の構造』とは、「いき」――その「いき」が「構造」に巻き込まれるように接続する関係を意味している。風呂敷(ふろしき)に包まれるように関係するのだ。その包みをどんどん重ねていけば、若山牧水の「かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆうふぐれ」のような風呂敷歌が生まれる。余談だが、風呂敷助詞「の」の好きな日本人はまた無類の包装好きでもある。
 つながりのないような名詞でも、「の」はやすやすとつないでくれる。それどころか「が」の「代用」さえする。女性の手紙の、「のしこ」と見まがうばかりの「かしこ」は、「の」と「か」の深い関係を明らかしているようにも見える。
 また、第一筆起筆部を突き出し、左上から右下への進行時に力を込められる左回りの「と」は、外部へはじき出す意味をこめている。「の」のように率直に連続する筆蝕ではなく、へたをすると、右上方へはねとばされて、途切れがちになりかねない。『鞭と独楽』という書名は「鞭」から「独楽」がはじけ出た状態を意味する。喩(たと)えれば、「鞭」という風呂敷を開けてみたら「独楽」が出て来たというあんばいだ。その結果、「鞭」と「独楽」とは、並立、対立した姿で、われわれの前に立ち現れてくる。
 「の」――それは発展的、開展的ではあるが、また同一化が避けられない同化助詞である。「と」――それは同化できないものの排除の意味合いを含んでいる。へたに使うと、村八分助詞になりかねない。
 本の題名から見る限り、日本語では同化と排除が関係を律する根本的な原理といえそうだ。現在の与党は「の」によって集まったのであり、共産党は「と」によって最初から排除されている。味方か敵か、地元か他所(よそ)か、日本人か外国人かを、まず明らかにしないではおられぬ原理が日本語の根底に横たわっている。
 日本語とは、「の」である。あるいは「の」と「と」である。しかし「の」と「と」の複雑な中間項の不在が大問題なのである。
 
 「タイトルというのは、書き手にとっても、編集者にとっても、頭を悩ます難問だ。」と云う書き出しで始まる「の」と「と」と題する一文を上記に示し読んでみた。書物の題名には、この「の」と「と」が多いという。この著者石川九楊さんの書物の題名も『書文字は面白い』『書字ススメ』と「の」「と」である。実際、『日本の書物』『日本の名筆』『オタミベンベの言語学』にはじまり、マンガの『火の鳥』と「の」で繋いでいる。また、「これから出る本」〔2007.04下期号〕の題名『自我と生命』『地獄と極楽』『生死と仏教』『死と弔い』『憲法と議会制度』『憲法と地方自治』『国民道コとジェンダー』『司法権と憲法訴訟』…と云った具合である。
『美のゆくえ』『菩薩の願い』『起源の日本史』『近代日本の日用品小売市場』『清代中国の地球支配』『歴史の旅』『地図出版の四百年』『近代日本地方自治の歩み』『刑事訴訟の目的』『現代の国際安全保障』『政治防衛論の基礎』『地球時代の憲法』…とある。
混用型の『ヒトの機械のあいだ』『声と顔の中世史』『高野山の歴史と秘宝』『ロシアの連邦制と民族問題』『アジア太平洋諸国の収用と補償』…とある。
 慥かに日本における書物の題名には「の」と「と」が多いことに気づかされていく。
 
 英語のアルファベットは文字数は少ないがその単語構成は実に複雑である。漢字は扁旁冠脚を巧に操ることでそれぞれの意味を伝える働きを有しているため、視覚イメージで意味を捉えていくことが可能な文字でもある。これを横に表示してみても読む上ではさほど問題はなかろう。
 例えば、江戸時代に発刊された『小野篁哥字尽』〔語彙型徃来〕には、
  椿榎楸柊 〔木に春はつばき、木に夏はゑのき、木に秋はひさぎ、木に冬はひゐらぎ〕
とする。また、この原理に従って魚扁を造字すると、
   〔魚に春はさはら、魚に夏はふぐ、魚に秋はさんま、魚に冬はこのしろ〕
となり、このように旁を同じくして扁で意味を変えていくことが可能だからできることである。これはさらに、パロディ化した式亭三馬著『小野字尽』と云う書物の表記字である。
 x采更虐 〔人に春はうはき、人に夏はげんき、人に秋はふさぎ、人に冬はいんき、人に暮はまごつき〕
とあって、これも旁は同じにして扁を替えて別の名称語を提示することが出来るという利点を応用した江戸人の知恵ともいえる表記文字である。横でも読める。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
    原稿用紙をなぜ縦書きにするのか
 
 日本語の文字としてひらがな表記文字として特徴のある文字が「の」と「と」である。この「の」品詞では凖体助詞と呼称され、前後の名詞を連関させる役割を担っている。石川九楊さんは、これを「風呂敷に包み込む」と表現する。逆に並列の格助詞「と」は、対等に並べて比較することで、同化してみて「同化できないものの排除」という表現を含んでいると見る。ここに日本語の二分する両極である「同化」と「排除」が私たち日本人の本質根底に潜んでいることを示唆してくれている。このことから、「縦書き」と「横書き」という両用の表記法を有する東アジアの漢字圏の様相を眺めて見ようではないか。毎日発行されて読む新聞はどうして「横書き」に成らないのであろうか。これに対し、会議などの文書類のその多くが「横書き」でないと具合が悪いのも妙に不思議な気がする。各々の家に示す表札の表記法はどうであろう。貴方の家ではどちらを採用しているか確かめてみてはどうだろうか。この源流は、社寺の扁額にまで及ぶのであろう。また、先祖の御霊を祀る墓地や仏壇に納められた戒名等はどうであろうか。もっと、身近な日々の生活に密着した「縦横の世界」を眺めるのであれば、書物にも縦書きと横書きとが歴然として表出しているのである。ここで用いる原稿用紙が実際、横に書くとどうなのかというと、書くときも読むときも実にスピーディに読むことが出来ると云う。なのに、遅くてどっしりと安定した荘重感あふれる縦書きを好む思考は、実際にの毛筆という筆記具を用いて書記してみないと判らないのかもしれない。硬筆は慥かに鋭く緻密さに優れているやもしれぬが、筆の細く太くと運筆自在にみる温かみは書き手の文字の上手下手ではなく、その時の書き手の心的状況が具に見て取れるから不思議でならない。どれだけ時間を費やしてこの人は努力して書いたのか、その時の精神状態や体調までが見えてくるから不思議な世界である。これが横書きだと実は見えにくくなっているのである。人に感づかれたくないという防衛本能が横書きを助長しているやもしれない。これが私の本日の答えでもある。如何であろうか。ここに率直なる意見を寄せていただきたい。