2000.04.15更新
BACK(「言葉の泉」へ) MAIN MENU(「情報言語学研究室」へ)室町時代古辞書『下学集』収載の奇異譚
その2 天から草木を降らす話説
【原文】
秬
(キビ)本朝ノ崇徳院ノ御宇保延三年ニ天ヨリ雨 ∨秬ヲ 其ノ色ロ黒シ也 方 今文安元年三月二日ニ天ヨリ雨 ‖豆小豆ヲ|。世俗以テ植 ニ∨之ヲ出生ス矣 其ノ葉如シ‖白膠木ノ|也 天ヨリ雨 コト‖草木ヲ|非ス∨无キニ‖其ノ例|。且記スル∨之ヲ耳ノミ。[元和本・草木129-4]秬
(キビ)本朝崇徳院之御宇ニ保延三年ニ自∨天雨 ∨ーヲ。其ノ色黒キ也。方 今ニ文安元年三月二日ニ天ヨリ雨 ‖大豆・小豆ヲ|。植 ニ∨之ヲ。出生ス。其ノ葉如キ‖白膠木ノ|也。自∨天雨 コト‖草木ヲ|非ス∨無ニ‖其ノ例|。且ツ記スル∨之ヲ耳ノミ。[春良本・草木124-2]【訓読】
秬〔きび〕
本朝の崇徳院の御宇。保延三年に天より秬を雨す。其の色、黒き也。方に今文安元年三月二日に天より豆小豆を雨す。世俗以て、之を植るに出生す矣。其の葉、白膠木の如し也。天より草木を雨すこと、其の例无きに非ず。且つ之を記する耳のみ。【口語訳】
きび【秬】
本朝の崇徳院の御代のことです。保延三年に天から秬を降らすことがありました。其の色は黒色でした。これと同じことが確かに今、本当に起こったのです。時は文安元年三月二日、天から豆と小豆を降らしたのです。世俗の人はこの種を拾い用いて、これを畠に植えたのです。そうしたところ芽を出したのです。其の葉は、まるで白膠の木のようでした。天から草木を降らすこと自体、其の例は、全くないことではありません。すぐさまこれをここに記録するばかりです。[元和本・草木129-4]【連関資料】
文明本『節用集』幾部の草木門に、
黍
(キビ/シヨ)秬(同/キヨ)本朝ノ崇徳院ノ御宇保延三年ニ天雨(フラス)∨秬(キヒ)ヲ。其色黒也。方(マサニ)今文安元年三月二日。天雨(フラス)‖豆(マメ)・小豆(アツキ)ヲ|。植(ウウル)ニ∨之出生ス矣。其ノ葉(ハ)ハ如‖白膠木(ヌルテギ)ノ|也。又天雨(フラス)コト‖草木ヲ|非∨無‖其例|。且(カツ)記(シルス)∨之耳。<811>とあり、『下学集』を継承する。さらに、『運歩色葉集』の巻末部「草木」に、
秬
(キビ)本朝崇徳院御宇、保延三三月十九日、自天秬降フル。其色如∨墨ノ也。又后花薗院文安元年三月二日、自天豆小豆種之出生ス。其葉如白膠木。天雨(ウルヲ)ス‖五穀ヲ|。非無例且記也。<元亀本464>秬
(キビ)本朝崇徳院御宇、保延三三月十九日、天降―。其色如墨也。又后花園院文安元三月二日、天雨豆小豆種之出生矣。其ノ葉如‖白膠木ノ|。天雨五穀。非無例且記之。<静嘉堂本381 >とあって、『下学集』の注記内容を継承している。ただし、『下学集』、文明本『節用集』には未記載であった保延三年の月日が「三月十九日」と補記されていることと、文安年間歴代103代帝の名である「後花園院」を補記していることが注目される。
【解釈】
1、しゅとくゐん【崇徳院】元永二(1119)年〜長寛二(1164年)
「すとくいん」と現在の私たちは、発音する。『下学集』では、語頭音「Syu」と発音を記す。崇徳天皇は第七十五代天皇。名は顕仁。新院。讃岐院とも。鳥羽天皇第一皇子。母は待賢門院璋子。白河院政のもと、保安四(1123)年に五歳で即位。白河法皇崩御の後は鳥羽院が院政を施行し、寵妃美福門院得子の子近衛天皇を皇位につけるために父子の対立が激化する。鳥羽上皇崩御の後、弟の後白河天皇と保元の乱で争い敗れて讃岐の国へ配流され、この地で崩御した。のち、この非運の天皇について、崇徳院怨霊説話が民衆に広まった。歌人としても選ぐれ、『詞花和歌集』以下の勅撰和歌集に七十七首がとられている。
2、保延三年の記事[天より秬を雨す]
西暦1137年。『下学集』の作者が引用した史料未見、今後の調査を待つ。
3、文安元年三月二日の記事[天より豆小豆を雨す]
西暦1444年。『下学集』の編纂事業が完成した年でもあることからして、時代性の情報トピックスをここに感得する思いである。
『東室護法講記』写本 大永八(1528)年 三三丁 二八センチ 貴重書[0114ー14]を参照されたし。筆者未見。
4、江戸時代にあっては、安政3年(1856)刊 菅茶山著『筆のすさび』「豆小豆の降たる事」という章に、
「文化乙亥の夏、長崎・筑前・筑後の辺に豆をふらせよし、丹波には竹が実のること多かりしとぞ。備後にもこれありし。思ふに寛政の前二年備後深津(ふかつ)郡に麦(むぎ)・豆(まめ)・蕎麦(そば)などふりしことあり。夫(それ)を拾(ひろ)ひたる人、余(よ)に見せしに」と記し、このとき実物を見たが、本物のようだったと記している。また、このようなものが降ると翌年は大飢饉に見舞われるとも云い、その事例を『日本書紀』に求めている。
天変地異の世界−日本人の災害観・終末観を参照 |
5、
ヌルデの木[http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/hino-s/plants/nurude.htm]を参照。【補遺資料】
雨粟 降秬
周書曰神農之時天雨粟農耕而種之。孫氏瑞應圖曰舜時后稷播植天降秬〓〔禾-胚〕。故詩曰天降嘉種惟〓〔禾-胚〕。〔『初學記』巻一45D〕降〓〔麥+牟〕 下穀
漢書曰來〓〔麥+牟〕大麥也。始自天降以致和復天助也。孔叢子曰魏王問子順曰寡人聞昔者上天神異后稷而爲之下嘉穀周遂以興。〔『初學記』巻一45E〕<2000.04.15補正>
BACK(「言葉の泉」へ) MAIN MENU(「情報言語学研究室」へ)