2002.08.19〜2005.10.04更新

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(7)尻取り

「しりとり」ってどんなもの

 「ルールがわかりやすく、小さな子どもが主役になれる。もちろん、道具など無用。場所も選ばず、特別な辞書や虎の巻もいらない。されど、複雑な内容を創造し、拡張することが可能」と云う具合に書き出すと、「しりとり」の入門しやすく、修了しにくい世界がひろがっていることにお気づきになるだろう。ことばを習得していく過程にあって、多くの子どもたちがことばを覚え、その覚えたことばを余すことなく繰り広げて、果てしなく連鎖していく。それはキャッチボールをいつまでも続けているようで、真剣でかつ大胆な相互の共感意識の気分がここに存在するからにほかならないのである。

 そして、「ルールの基本」である「きりん」「らいおん」などのように「ん」のことばを末尾に使わないときめた約束に従い、この「しりとり」がはじまる。一人でも複数でも可能である。ことばに詰まったら、これも負けとなる。相手を苦しくするには、ことばの少ないヤ行・ラ行のことばへと末尾を誘導することや、同じ音のことばを返したりする策がとられる。だが、これを最初から念頭において「しりとり」をはじめたら嫌気がさしてしまうだろう。それで、年長けた大人は子どもたちと「しりとり」をして遊ぶとき、熱中して覚めやらぬ時分を見計らい、このテクニックをさりげなく披露してきた。この「しりとり」を掌る多くのことばは、実名詞である。この実名詞を「花の名前」「動物の名前」「食べ物の名前」と限定してはじめるのも高度な「しりとり」遊びへのはじまりである。そのことばの世界を多く知り、その実物を頭に描くことができなければこの「しりとり」遊びは成り立たないからである。

 

「しりとり」の歴史

 「しりとり」ということばがいつ頃から用いられてきたのであろうか?素朴な疑問に応えておこう。江戸時代の安永二(1773)年に刊行された『當世風流地口須天寳』(鱗形屋版・序跋に長琴子の署名)の目録に「尻取の卷」とあって、その概要が知られる。

  はじめましょ

  めましょ(目元)を見れば成りそな目もと

  目もと(美濃と)近江の國ざかひ

  ざかひ(互)ちがひのお手まくら

  まくら(櫻)の花はあすかやま

  かやま(萱場)町には藥師さま

  《中略》

  ものだの(信田の)森の狐を浮かそ

  浮かそ中山(歌の中山)清閑寺

  がんじ(汝)元来殺生石か

  せきか(天下)太平國土安穏

  のんと(なんと)これで卷はおさめに致しましょ

とあって、「尻取り地口」が行われている。この「地口(じぐち)」を尻取りにしたものがはじまりのようである。この「地口」だが、現在の「洒落(しゃれ)」であり、冬季オリンピック開催に因んでいえば、「五輪だ⇒五輪じゃ⇒ゴレンジャー」といった「駄洒落」も含まれよう。この種のことば遊戯の呼称だが、いつの時代にも関心が寄せられてきたことを知る。平安時代には、「秀句・興言・利口」などと呼ばれ、それは当意即妙をもって第一義としていた。室町時代になると、「こせごと」と呼称し、江戸時代の初めの頃には「かすり」と共に俳諧用語としても用いられるのである。そして、享保(1716-1736)頃には、「もじり【捩り・文字理】」や「くちあひ【口合】=比言」そして、「地口」などの名目が使われている。天明(1781-1789)頃には、「ごろあはせ【語路合・語呂合】」も発生する。この「しりとり【尻取】」なる呼称も、上記安永の頃に用いられはじめたのである。雜俳『柳多留拾遺』(1801)卷第十二下に、「しり取りで蔵人一首やりこめる」というのがある。

※「ことばじり」すなわち、「ことば」の「しり」を意識し、その「しり」のことばを次に「あたま」に据えてことばを続けていく。「しりとり文字」、「しりとりことば」、「しりとりうた」、「しりとり文」、「しりとり文句」という形態を今に留めている。

 

 「沓冠歌」がその素形を示している。明治三十九(1906)年に発掘された資料では、西念『極樂願往生歌』(康治元(1142)年六月壬戌廿一日壬午日)が知られている。次に冒頭から一部記載しておく。

 敬白

  極樂願徃生歌

  ロイロノ花ヲツミテハ西方ノミタニソナヘテツユノミヲク

  クロクニメクリアフトモノリノミチタエテオコナヘサカノコノコ

  カナシヤコノヨノコトヲイソクトテミノリノミチヲシラヌワカミ

  ハカニモヲコナヒタツトアタナラシタヽコクラノコトヲオモフ

  トモナクヨルヒルミルニアカヌカナネテモサメテモサカミタノカ

  シトサハアタナルツユノヨロツヨヲコノミヲステヽノリヲコソオモ

  シヲヘテミタノ上トネカフミハヒトヨリサキニコセヤカナフ

  キリヲクミタノ上トノ西(ニシ)ヨリハムカヘテミセヨコクラクノミ

  ヲシリテオモフネカヒノタカハスハイチネムアミタタノマルヽナ

  ルコトハタヽコクラクノコヒシサニユメニミムトテヲキモアカラ

  リノタマカケテカヽヤクコクラクノホトケノスカタユメニノミヽ

  トニキヽコヽロヲツクスコクラクノネカヒタカフナツユノワカミ

  タツミノソコノイロクツミナヽカラスクハムコトヲネカフアミタ

  カスカナルトコロトキケトコクラクヲネカフワカミハチカクイタル

 

 中世では、藤原定家『拾遺愚草員外雑謌』に、「文字倍歌廿首」があり、

    春五首

  雪のうちに春をきたたりとしらするはみのしろ衣の梅の花が

  春といへばつのぐむあしの夜のほどをけしきにみするはの春

  あさみどり空に浪よるいとゆふにみだれてがふ窓の青

  うゑおきしこずゑの梅の春風をおもふもしるくゐうぐい

  いろにちる花にうらみをつくさせてつれなくよそにぎぬるやよひ

 

といった「もじぐさり【文字鎖】」ものが知られる。

 その代表的なものとして、紫式部『源氏物語』の卷名を素材にした、

源氏のすぐれてやさしさは、はかなく消えし桐壷よ、よそに見えし帚木は、われから 音になく空蝉や、やすらふ道の夕顔は、若紫の糸ごとに、にほふ末摘花の香に、錦と 見えし紅葉の賀、かぜをいといひし花の宴、むすびかけたる草、賢木の枝におく霜は、 花散る里のほととぎす、須磨のうらみにしづみにし、しのびてかよふ明石がた、たのめ しあとの澪漂、しげき蓬生つゆふかみ、みづに関屋のかげうつし、しらぬ絵合おもしろ や、宿に絶えせぬ松風も、ものうき空に薄雲よ、世は朝顔の花の露、ゆかりもとめし 乙女子が、かけつつたのむ玉鬘、らふたき春の初音の日、ひらくる花にまふ胡蝶、ふか のおもひこそ、そのなつかしき常夏や、遣り水すずし篝火の、野分風にふきまよ ひ、日陰くもらぬ御幸には、花もやつるる藤袴真木の柱はわすれじを、折る梅が枝 のにほふ宿、とげにし藤の裏葉かな、なにとてつみし若菜かも、もりの柏木ならの葉よ、 横笛の音はおもしろや、やどの鈴虫声もうく、くらき夕霧秋ふかみ、御法をさとりし 礒のあま、の世のほどもなく、雲隠にし夜半の月、聞く名も匂宮兵部卿、うつろふ 紅梅色ふかし、忍ぶふしなる竹河や、八十宇治川の橋姫の、のがれはてにし、椎が本 ともにむすびし総角は、春を忘れる早蕨も、もとの色なる宿木や、やどりとめこし の、法の名も浮舟のうち、契りのはては蜻蛉を、おのがすまひの手習は、はかなかり ける夢の浮橋

といった「もののあはれ」を主題に仕立て上げた「文字鎖」ことば表現を見ることができる。

 

 室町時代には『護花關随筆』下巻に一条兼良仮託の「しりとり」詞を多田兵部という人物が伝承した記事が見えている。

 このように、「しりとり」自体が長い継続のうえにある「ことば遊戯」であることを知ることで、この「しりとり」が現代のわたしたちのなかに受け継がれ、それは「親(大人)から子(児童)へ、子(児童)から孫(未来のこどもたち)へと未来永劫の道を歩みつづけることであろう。

 

「しりとり」の実際

 同音連鎖によることば表現「しりとり」遊び

 

現代篇

いろはにこんぺいとう ※「いろはうた」のこと。「【金米糖・金平糖】」と宛字する。

こんぺいとうはあまい ※ポルトガル語で、古くは江戸時代井原西鶴日本永代藏』に所収している語。

あまいはさとう

さとうはしろい

しろいはうさぎ

うさぎははねる

はねるはかえる

かえるはあおい

あおいはきゅうり   ※「きゅうり」でなく「おばけ」とする言い回しもある。

きゅうりはながい       おばけはきえる

ながいはでんしゃ       きえるはでんき

でんしゃははしる       でんきはひかる

はしるはくるま        ひかるは親爺の禿げ頭

くるまはまるい

まるいはでんき

でんきはひかる

ひかるはおやじのハゲアタマ

 

農兵節」(静岡県三島市)

富士の白雪ャァのうェー 富士の白雪ャァのうェー のうェーのサイサイ

白雪ャァ朝日に溶ける

溶け流れリャのうェー 溶けて流れリャのうェー 溶けてサイサイ

流れリャ三島にそそぐ

三島女郎衆はのうェー 三島女郎衆はのうェー 三島サイサイ

女郎衆お化粧が長い

お化粧長けりゃのうェー お化粧長けりゃのうェー お化粧サイサイ

お化粧長けりゃお客困る

お客困ればのうェー お客困ればのうェー お客サイサイ

困れ石の地蔵さん

石の地蔵さんはのうェー 石の地蔵さんはのうェー 石のサイサイ

地蔵さんは丸い

頭丸けりゃのうェー 頭丸けりゃのうェー 頭サイサイ

丸けりゃとまる

 この歌は、江戸時代を代表する民謡『春遊興』(明和四(1767)年)に見え、また『山家鳥虫歌』にも安房国民謡として類似の歌が引用されている。このことから江戸時代一般化した民謡が、静岡県三島に『農兵節』として遺ったものである

 

近代篇

小学国語読本(1993-1938)<文部省>三・五「しりとり」

太郎「ゆき子さん から はじめて ください。」

ゆき子「では、いひます よ。すずめ。」

花子「めだか。」

太郎「かや。」

ゆき子「山。」

花子「ま です ね。」

ゆき子「さう です。山 です から。」

花子「まないた。」

太郎「たぬき。」

ゆき子「きしゃ。」

花子「しゃつ。」

太郎「つくゑ。」

ゆき子「ゑはがき。」

花子「きっぷ。」

太郎「ぷ です か。」

花子「さう です。」

太郎「ぷ は こまる な。」

ゆき子「早く、早く。」

花子「早く、早く。早く つづけない と、太郎さん の まけ です よ。」

 

江戸末期から明治初期に流行した「子ども尻取り」

牡丹に唐獅子、竹に虎。虎を踏まへて和唐内。内藤様はさがり藤。富士見西行後ろ向き。むきみ蛤ばかはしら。柱は二階と椽の下。下谷上野の山桂。桂文治は噺家で。でんでん太皷に笙の笛。ゑんまは盆とお正月。かつよりさんは武田びし。菱餠三月雛祭り。祭り萬燈山車やたい。鯛に鰹に鮹まぐろ。ろんどん異国の大港。登山するのはお富士山。三辺廻って烟草にしよ。正直正大夫伊勢のこと。琴に三味線笛太皷。太閤樣は關白ぢや。白蛇の出るのは柳島。縞の財布に五十両。五郎十郎曾我兄弟。鏡台針箱煙草盆。坊やはいい子だねんねしな。品川女郎衆は十匁。十匁の鐡砲二つ玉。玉屋は花火の大元祖。宗匠の出るのは芭蕉庵。あんかけ豆腐に夜鷹そば。そうばのおかねがドンチャンドンチャン。チャンやおつかあ四文おくれ。お暮が過ぎたらお正月。お正月の寶船。寶船には七福神。神ぐ皇后武ノ内。内田は剣菱七つ梅。梅松桜は菅原で。藁でたばねし投島田。島田金谷は大井川。可愛けりゃこそ神田から通う。通う深草百夜の情。酒と肴で六百出しゃままよ。ままよ三度笠横たに冠り。かぶり縦に振る相模の女。女やもめに花が咲く。咲いた桜になぜ駒つなぐ。つなぐかもじに大象もとまる。《『尻取り子供文句』東京都立中央図書館藏》

大判錦絵「市村家橘・流行しり取子供文句」慶応3年(1867)参照。

 

古典篇

 はじめましょ

 めましょを見ればなりそな目もと、目元近江の国

 ざかいちがいのお手まくら、まくらの花は明日香山

 かやま町には薬師さま、しさまのかち路播磨潟

 まかたの名方ふたたびがん、びがん柑子

 ばなかさんさき幡随院、ずいん佐々木が乗かった

 勝田峠のとびだんご、だんごの節句は柏餅

 わもち無沙汰みに塵ひねる、ひねるの城には長壁殿

 べとのさん大権現、んげんの伊久に助六じゃ

 六じゃの口をのがれたる、たるに道連れ世は情け

 なさけの四郎高綱で、つなでかく縄十文字

 十文字の情けにわしゃほれた、惚れた百までわしゃ九十九まで

 九までなしたる中じゃもの、じゃもの葵の二葉山

 葉山買うより桃買ってくやれ、くやれくやれは風邪引いた

 ひいた子がおしえて浅瀬をわたりゃ、たりゃたりゃひいひい風

 くるま通いの通り者、りもの煮たもわしゃ知らぬ

 知らぬ酔狂すっぱぬき、ぱぬきの皮の腹づつみ

 つづみながらに四つ手あみ、であみがしらの喧嘩づき

 かづき八日は御たんじょう、んじょう峠の孫じゃくし

 しゃくし如来の御縁日、んにち墨は印判屋

 ばんや正月宿おりじゃ、おりじゃ双六おいまわし

 まわしの干し物ちんからり、からりというて暮れの鐘

 のかねが打たる銘のもの、のものおえたはよきのはも立たぬ

 立たぬ四郎は猪ししに、ししに正しき家筋じゃ

 すじじゃ身をくう世のならい、ならひちがいのお手まくら

 まくら千人めあき千人、千人問答ひらがなか

 かなかのややはもう十月、とつきもしらぬ山中に

 なかにだいばは付き物だ、ものだの森の狐をうかそ

 うかそ中山誓願寺、がんじ元来殺生せきか

 せきか太平国土安穏。

當世風流地口須天寳』安永二(1773)年刊

 

 

滝亭鯉丈『花暦・八笑人』第五編(岩波文庫・二九三頁)に、次のような尻取り表現が見えます。

○(前略)頭武「左様さ、どうもソレへど絵図役人付。」眼「役人付しそのミ唐がらし。」呑「唐がらしものハ音にもきけ。」のろ「きけやきけきけ此。」出目「のじやれとハ違ふぞよ。」左治「ヲツトよしよし、もう朝めしハ沢山だ。」

 

最後に、

京都東山の名所・料理屋の読みづくし

布団着て寝たる姿や丸山ほとりの春景色。しきりに左阿彌の三味の音。音に聞こえし端の寮。料理の誂え正あみか。かっちりあたる也阿弥でも。もちっとげん阿弥見えませぬ。ませぬ舞子のそのなかに、なかにとりわけ弁財天。てんごう御言いな此のちゃ惚れん。れん阿弥大抵じゃ値が出来ん。出来たら大谷かなうたり、二人で遊ぶ長楽寺。地の神さんが連れだって、立ってお寄りと二軒茶屋。やたらに詣でる祇園さん。山門ながら知恩院、陰気なお客はくわん阿弥の、乗せる船から長喜庵か、風に破るる芭蕉堂。どうでも門破る気か。可愛や西行致します。まずまず一服一銭の仙あみてなら観世音。女買うなら祇園町。まちっとこちらは安井前。前から雪見る平の家。焼かれて暑いは藤屋なり。力んで管まく酔たん坊、ほうの出たのは是れふく屋。ふくやの神なら大黒屋。くやんで返らぬ栂尾も、面白そうに楊弓を、急を告げるはほんきうじゃ。じゃらじゃら流るる滝本の、元の孔雀は入れ替わり、代わりの女が北佐野か、駆けてきたのは佐野屋の源左衛門か。可愛い可愛いと高台寺。大事の口に風引かす。引かす三味線ご迷惑。曰く因縁もうしまい。稲荷の狐でかいかいと。とかく都は面白や。

とあって、「名所」および「料理屋」の名を読み込んだ非常に長い見事な尻取り表現である。

 

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