[1997.9/9〜9/30]

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

1997年9月30日(火)晴れ

「虫」の字音

久しぶりに好天に恵まれる。私は森に出かけてみた。樹木では夏の風物詩でもある「蝦夷蝉」がジィージィーと鳴く蝉時雨れ(雨冠に蝉と書く創作漢字あり)、中空には散舞するのは「赤とんぼ」の群れ、草叢には「秋の蟲(コオロギ・クツワムシ)」の合唱といった夏と秋の季節とが交錯する世界がここには広がっている。これが北海道の自然風物の有り様なのである。

ところで、「虫」の字音は「キ」で、「まむし」の意。ワープロ漢字変換「き」の漢字を一覧してみるとこの字に出会う。もともと「キ」と「ケ」の音の「兀+虫」の字。また、旧字体の「蟲」の字音は、「キ」と「チュウ」なのだ。和語では、「むし」で同じなのだが、この字音の異なりは、旧は別字であったことを示す。これが同じ意味合いとなるには、「蟲」の略字として、「虫」の字を用いるようになったことに起因する。パソコンの日本語入力ソフトは、ときに小学校国語の漢字習得の授業時間では教えてくれない漢字音をつぶさに提示している。だが、「キ」の字音で表記する漢字熟語といえば、『詩経』の「キキとして其れ陰り」のような雷の鳴り響く音の形容などといった畳語や成語「キダ【〓〔兀+虫〕蛇】ゆめにいる(蛇類の夢を見るというのは女児の誕生する予知兆)」などであり、平生、あまり見かけない表現が常ではないだろうか。

さらに、虫+虫の字(非JIS漢字)は「コン」で「昆」の字に通じる。文字勉強のついでに日が一(地平線)の上にきて「旦(タン)」、一(地平線)の下にきて「〓(コン)」で「昏」の字に通じる。「昆」の分解字「日+比」で「日」は胴体を表象する文字だから同じ「コン」でも字組が違うのである。

1997年9月29日(月)

文字の訓読

書店から新本が届く。新日本古典文学体系31『三宝絵・注好選』(岩波書店)を開いてみる。

文字表記の読みが丹念になされている。この訓読のなかで、いくつか氣になる語を抜粋しておこう。

【飢】「つかる」と「うう」

【獸】「けもの」と「けだもの」

 三四頁Eの補注四に「類聚名義抄「獣 ケモノ」「畜 ケタモノ」とあり、鳥類を含めた時は「けだもの」、鳥類を含めない時には「けもの」といったか。」とあって訓読を使い分けた表現となっている。

【迷】「まよふ」よ「まどふ」

この「迷」の字の訓読は、「まどふ」でありたい。「まよふ」は近代語の読み方で古くは「惑」の字を「まよふ」と訓読していたのだから。

1997年9月28日(日)天候雨

「〜(目的名詞)を+動詞連用形」の表現

○急いで水だけで顔を洗い、髭を剃り、トイレに駆け込んだ。[朝日新聞。連載小説・堺屋太一『平成三十年』一一六より]

「顔を洗う」と「髭を剃る」といった動作を示す文に、何を使って洗うのかの方は「水」で、そして何を使って剃るのかの方は、一切記述しない表現が見える。使う道具は、「カミソリ【剃刀】」に決まっているからだ。よっぽど珍しい剃刀(「安全剃刀」・「電気剃刀」以外のもの)でない限り、いちいち使う道具名を断わらないのが常なのかも知れない。この表現まだまだ見つかると思う。探して整理してみようと思うのである。

○慌てて右手で紙を撰び、(色鉛筆で)絵を描きだした。

1997年9月27日(土)帰道。天候雨

同名異表記「所以」と「由縁」

天野信景『塩尻』[日本随筆大成13・六六頁]に、

○所以を「ユエン」と訓す、由緒の意なり。「由縁」の字仏書に多く出づ。『釋門帰敬儀』曰、「先顕二由縁一後明二性相一云々、其外猶多し」と記述するのを見る。

 このこと実際のところ、和歌集『万葉集』の巻第十六で「由縁〔ゆえん〕ある雜歌」と表記する。逆に、仏教説話集である僧景戒の『日本霊異記』下巻において、

「雖寫大乗而作重罪。所以者何。汝用斤二。出擧之時。用於重斤故。召汝耳。《大乗を寫したりと雖も、重き罪を作れり。所以は何にとならば、汝斤二つを用ゐて、出擧する時は、輕き斤を用ゐ、債ヲ徴る日は、重き斤を用ゐるが故に汝を召しつるのみ》」[大系三七九頁I]

とあって、「ゆゑはいかにとならば」と訓読する。

 さらには、『法華經』や『正法眼蔵』などでも、「所以」の表記を用いている。そして、『仮名書き法華経』ではこの「所以者何」を「ゆへはいかん」と訓読する。

天野信景の云う内容と逆の表記法がここで確認されるのであった。すなわち、仏典漢訳文では「所以」表記であり、和歌や物語では「由縁」の表記なのである。もし、この表記法が天野信景のいうように表記されるものであれば、どこかで逆転したことになり、それがいつの頃からなのかと思うと興味が尽きない。

[追記1]『冥報記』には、両様の表記が併存する。

1,「所以」の用例

TXT(2): 王〓〔王炎〕作冥祥「記、皆所以徴明善惡、歡戒將來、實使聞者深心感寤、

2,「由縁」の用例

TXT(2):仍具陳所受、「及聞見由縁、言不餝文、事專揚確、庶後人見者、能留意焉、

TXT(10):而身已在其「宅門外、入門見、大衆方食、父母驚喜、就問、具説由縁、視其「巾内、餘糜及鞋、乃向奉僧者也、

1997年9月26日(金)福島市にて。天候雨

「午後零時半」の表記

 朝日新聞の家庭欄「くらしのインデックス」に見える記載方法に、注目したい。昼の「12時30分」を「午後零時半」と記述表記する形式がふと氣になった。あとの時刻の表示方法は算用数字を使用しているのだから、この漢数字表記にはなにか特殊な意味合いが込められているのではないかと俄然想像力を逞しくして考えたりするのだ。この日の12時30分として、北京世界女性会議2周年記念シンポジウウム・報告会(28日)と読書会「私の学び遊び体験と『教育改革』」(10月10日)の案内に使用されている。このような表記法が他の情報提供コラムのなかでもあるのかと調べてみたくなるものだ。

1997年9月25日(木)福島市にて。曇り

「四字熟語小説『平成のたちくらみ』」って

福島民友新聞に本の紹介と会の結成を知らせる情報がある。本の題名は、四字熟語物語『平成のたちくらみ』(創作舎刊1300円)。著者は玉木義太さん(新潟県加茂市在住)で実家のスーパー経営を手伝う傍ら、文筆活動を続けてきたとのこと。「日本人が、知恵や経験を短い字句のなかに結晶させてきたのが四字熟語。だが、書籍からは姿を消しており、このままでは古語になってしまう」とこの執筆に……。ストーリーは、結婚願望のある男女が出会い、波瀾万丈の体験を経て、大願成就する筋立てで、一頁あたり、三つの割合で四字熟語が顔を覗かせている。この本のPRも「奇想天外、前代未聞、空前絶後の本です」と意味深長で興味津々な書きぶりである。当の玉木さんは、これを機会に「四字熟語を楽しむ会」を結成し、会報を二ヶ月に一回の間隔で発行し、会員から四字熟語を織り込んだ創作を募集するとのこと。入会金2000円年会費10000円。どうなるかこの先楽しみでもある。入会してみるのもいいかな。とも思うのだが、ファックスでの問い合わせ0256(53)3446で。

1997年9月24日(水)白石にて。曇り一時雨

「左文字」の神通

宮城県仙台駅と福島駅との中間白石駅で下車。駅から車で15分ほど山間に入った白石川の辺の小原温泉ひだりたの宿、旅館「かつらや」317号室に宿泊。この宿の屋号が「ひだりた」(「た」の鏡文字)。そしてこの字には「人を迎える」という意味が込められているとのこと。由来によれば、ある晩、主人湯守太郎兵衛が夢枕に白髪の仙人が現れ、「おぬしの名の頭文字の“た”を左文字にすれば、より商売繁盛、お客様にも大変喜ばれることになる」と申し伝えて湯煙のなかに姿をけしたそうな。それは「馬」の鏡文字→桂「馬」の鏡文字→桂→「桂屋」の鏡文字→「た」の鏡文字を意味し、爾来「かつらや」では鏡文字「た」を屋号として、千客万來、商売繁盛、家内和合の湯として営んでいるとのこと。そして、現在第十六代のご主人が経営しているという。

小原温泉の歴史は、今から八〇〇年の昔、源義経の臣、常陸坊海尊が陸奥に旅をした折、小原山中に足を延ばし、この谷間に湯を発見したのが事の起こりだそうな。実際水の豊富なこの地、白石川の河畔の岩間から流れ落ちるいくつかの滝壺ともうひとつ白い湯煙があたりにあがり、お湯が川にそそいでいる景色を1,220bの遊歩道の途中に三カ所も見るのであった。

「左文字」と「鏡文字」そして「逆文字」ともいうこの文字のもつ神通についてまだどこかに言い伝えられているかを見つける旅もまた旅の楽しみである。また左文字書きする文字遊びそのものが、また言いしれぬ古来の雅人の世界を彷彿させてくれる。

1997年9月23日(火)

「はじめまして」の漢字表記法

 産経新聞社会25に、東京の中学生三好万季さん(14)が夏休みの自由研究で「はじめまして」の漢字表記について「始めまして」か「初めまして」かを調査し、20頁の小冊子(A5版)にまとめたという記事に目が止まった。確かに「初めてお目にかかる」という意味だから「初めまして」が正しいのでは。とワープロ変換「始めまして」に疑問を抱いたのである。万季さんは、図書館や書店で三〇種以上の辞書を繙き、両方併記、ひら仮名書きなどの記述の異なりにも目がいった。さらにパソコンの日本語入力ソフト九種類も同じような結果に氣づく。この深まる疑問に文化庁の「言葉に関する問答集」で、この「はじめまして」の表記法についての説明記載を見いだす。「“初”は“はじめる”という意味の動詞には使わないのが普通。名詞的用法の場合、漢字の熟語や従来の書記慣習によって“初・始”をある程度書き分け、動詞的用法の場合は“始”を用いるか、場合によっては、仮名書きをするのが適当。“はじめて”という副詞的用法の場合、漢字を用いるとすれば“初めて”と書くのが習慣的に多い」というのがそれだ。本当に「一般の人はこの通りに使っているのか?」世論調査を実施。郵便局・病院などで順番待ちの人への個人面談、新聞記者や第二十一期国語審議会委員。アンケートは三百人以上に達した。結果は、“文法派”の「始め」と“意味派”の「初め」に真っ二つ。一般の人は二対一の割合で「初め」が優勢という。万季さん自身の結論としては、@名詞的用法(はじめ)と副詞的用法(はじめ)はそれぞれ動詞の三段活用と四段活用の連用形からきたA連用形が存在するのだから終止形は存在するBよって「“初”を“はじめる”という意味の動詞に使わないのが普通」という文化庁の問答集記述は適当でなく、動詞の「初める」は存在するという。「初めまして」の正当性を証明したものである。万季さんは「これだけが答えではないと思う。多くの人の意見や感想がいただければ」と話しを結んでいる。

[コメント]国語史の立場からのアプローチ、仮名書きを含め、この挨拶表現が使われ出した時代とさらには、文字表記の資料として登場するときの表記法に着目してみるのも大きな手がかりとなろう。

1997年9月20日(土)

「同名異表記」

 同名異名表記について、雑誌「国語国文」第六十六巻第八号・―七五六号―に「正倉院文書」に於ける同名表記」の論文が桑原祐子さんにより発表されている。同一人名における異表記がいかにして生まれ、筆録者の意識に及ぶものである。今回、この論文に触発されて時代は降るが、万延元年いわゆる江戸末期の人名を役人が公的に綴った仇討ち取調べ文書(北茨城中山家と磐田郡湯長谷藩内藤家とで取り交わした文書で現在、高萩歴史資料館に保管)のなかにも同じように同名異表記が見えることを提示しておきたい。この文書において「隆輔」を「隆助」・「隆介」と表記したものが其れである。「すけ」の字は、当時三様であり、同一の人をさす名前である。自署は「隆輔」であるが、調書では同一文書にあって後者の二表記を同書記者が併用している。なぜこのような曖昧な異表記が許されるのか、ここに同名異表記に対する意識の謎が隠されているに違いない。

1997年9月17日(水)

「さんぱい」の語響き

 テレビ朝日・ニュースステーションの「異色特集第一回……平間カメラマンの“日本の風景”物質文明の墓場シリーズ化希望」を見た。「ゴミはすべて人間が生み出した物です」というナレーターのことばが心に衝撃となって響く。ここで「産廃」すなわち、「産業廃棄物」の略語が使われていた。緑豊かな自然に不具合な灰褐色のゴミの山が次々とビデオ画像で紹介されていた。「サンパイ」と言う語はただ耳にした響きからは決して悪い印象を与えない。これがゴミの「産廃」となると顔を背けたくもなる。この「産廃」なるゴミの処理方法こそが大きな課題となる時代が到来している。そして、この語を国語辞書に収載する日もそう遠くない氣がした。

1997年9月16日(火)

「せんとう」の漢字表記

 大槻文彦編『大言海』の「センタウ」の項目に「【銭湯】名詞,市中の浴場〔フロユ〕の、銭を取りて、人に浴〔ユアミ〕セサスルモノ。湯屋。風呂屋。澡堂 大いなる湯槽にて、同浴するを、いりごみと云ふ。今は、無し。混堂(此湯風呂ノ外に蒸風呂、水風呂あり),*そぞろ物語(寛永、三五庵木算)「天正十九年、江戸、銭瓶橋ニ、せんたう風呂を一つ、立つる、風呂銭は、永楽一銭なり」*武邊咄聞書、九「前田慶次(上杉景勝の臣)銭湯の風呂に入り、下帯に、一尺許の脇差を刺して入る、いりごみの輩、すはや曲者よ、云々、皆、脇差を刺して入る」*醒睡笑、二(元和、安樂庵策傳)「ある僧、小者を一人連れて、銭湯に行き、帯解き、ふためきて、頭巾かづきながら、風呂に入りぬ」(3-0087-1)<729a92,施設>店舗>と見える。

現在では「銭湯」の文字は巷で表記されなくなり、換わって「洗湯」とか「泉湯」と表記するようになっている。

 本日の朝の番組「お早うクジラ」でも東京の富士見の湯を「泉湯」と紹介していた。いわゆる同音置換による表記法で同じ「風呂屋」を表している。どこか変わったかと云えば、施設が近代化したぐらいで銭を払うシステムも脱衣場や風呂場もさほど変わっていない。同じ意味を有する表記置換表現のひとつといえよう。意味変化を起こし表記が変わった語として、「不断」から「普段」などが知られている。「洗濯」のように「せんたく」と「せんだく」といった連濁音による変化もまだこの語には見えない。

1997年9月13日(土)

知らなかった江戸の御禁書物『職方外記』

 今回の旅行の目的でもある高萩市歴史資料館の嘱託、神永久米男さんと郷土史研究家江尻光昭さんに土地の役人の聞き書き文書についてお話を聞きに行った。江尻さんと「絵地図」についての話のなかで土地の文化人、長久保赤水(江戸時代の人物)が関西に赴いた折り、『職方外記』なる本を書写して帰ったという。この書は、当時発禁本であり、その内容を知ることですら容易でなかったようだ。中身は、イタリア人某が話した世界観(地名など)を中国の通訳が漢文体で筆記した書物だという。江戸時代のこの手の発禁本を調べて見たくなったりもしている。

[コメント]『国書総目録』に「職方外記標註〔しょくほうがいきひょうちゅう〕[類]外国地誌[著]大田錦城*近世漢学者著述目録大成による」とあるこの書籍のことのようだ。

1997年9月12日(金)

「まゐひめ」の表記

 列車の時間を待つ間、上野東京美術館「冷泉家の至宝展」を見学した。「乞巧奠」の資料のなかで供物九種「茄子。瓜。桃。梨。蘭。きび。ささげ。鯛。鮑」を二対供え祀る。これに琵琶・琴の楽器を置く。五彩色の糸と布。漆塗り角盥に梶の大葉一葉を容れ置く。これを庭に設えた台に載せた展示物と「ひな祭り」の「西王母」の人形を祀る展示物が目を引いた。

他に歌集類数点。これに人麿図の掛け軸数点に及ぶ展示。このうち、

No.116展示資料(作品名を忘れてしまった)のなかに「五節のまゐひめ」の語があり、「舞姫」の第二拍の表記がワ行であることに目がいく。行阿『仮名文字遣』では、この語は未収載だが、「まひ人」なる語が収載されていて第二拍はハ行であるからだ。ハ行のワ行表記かで氣になるのが「もちゐる」である。「用て」と表記されていると、「ゐ」なのか「ひ」なのか迷うのだが、鎌倉時代の道元著『正法眼蔵』には、仮名書きで「もちゐる」が使われている。歴史的仮名遣いでは「持ち率る」の語からということでワ行と定まっているが、ふと「もちひる」の可能性も無きかなと思うのだった。

茨城大津港。五浦観光ホテル別館椿荘五一二号室に宿泊。岡倉天心の六角堂を右に、海の潮騒を聞き、波の砕ける白き筋糸を眺めて終日を過ごす。

1997年9月11日(木)

「酒徒」という人たち

 日々の暮らしの根ざした生活文化を海外の人たちに理解してもらおうという試みを「日本の飲食」文化、とりわけ酒の歴史、生活と酒について語る会が朝日新聞夕刊「窓」のなかで紹介されている。このなかで「酒徒」ということばが「ちなみに、千枝子さんも、夫の成城学園長の本間長世さんもよき酒徒だ。」と使われている。このことば、学研国語大辞典を繙くと、酒の好きな仲間の意味で、読売新聞夕刊・昭和45年11月20日付として「自然酒などと銘を打った全米の昔なつかしい酒が多く現れて、古い酒徒のノスタルジアをそそることと思われる」の用例が見える。

1997年9月10日(水)

「日本」の読み方

 本日の朝日新聞夕刊「素粒子」の欄に「故郷へ帰る。「里帰り」のことから、つい山上憶良の歌を連想した。<いざ子ども 早く日本へ  大伴の御津の浜松 待ち恋ひぬらむ> この「日本」を何と読む? 従来の「ヤマト」でいいのか。 『日本の誕生』(吉田孝著・岩波新書)は「ニッポン」説だ。憶良が加わった遣唐使が、中国に「日本」の国号を認めさせたのだから。 ユダヤ系のオルブライト長官のイスラエル行きも、一種の里帰りだ。」とあった。

ここで「日本」の読み方が話題となっている。万葉集時代に「ヤマト」と読まれ、東の陽出づる「ヒノモト」の国として、聖徳太子は大国中国に国称を「日本」と言わしめた。これを漢字音で「ニッポン」とか「ニホン」と発音させたのだろう。この音読みは、現在も二通りの言い方が用いられている。たとえば、東京の「日本橋」は「にほんばし」、大阪の「日本橋」は「にっぽんばし」と発音しているのがそれだ。スポーツ・アナウンサーもサッカー情報を「ニッポンはあす、オマーンとたいせん」と発音していた。

[コメント] 『日本の誕生』(吉田孝著・岩波新書)は、まだ読んでいない。明日書店で求めて読むことにしょう。

もひとつ、読売新聞朝刊の「編集」欄には、雷に付随することばとして「くわばら」の語が紹介されている。「桑原とは、大宰府に流された菅原道真所領の地名だという。その恨みが雷となって、都の人々を震え上がらせたとき、桑原にだけは落雷がなかったという故事による」と平安時代の左大臣菅原道真の左遷先、太宰府の所領桑原に由来するとのこと。道真の怨念が雷神と化して都に君臨する藤原一族を恐怖のどん底に陥れた。危うきことから身を守る呪文『くわばら、くわばら』がここに誕生して今日に至る。

1997年9月9日(火)

ニックネームの話

「カミカゼ」「カミカゼジャンパー」と呼ばれるのは、日本ジャンプスキー陣に対して欧州の報道関係が取り沙汰したときのことばである。一九七二年の札幌オリンピック優勝の笠谷幸生さん。一九九二年から翌年三年に活躍した葛西紀明さんにつけられた。この「カミカゼ」なる表現には、第二次世界大戦の「神風特攻隊」のイメージがついてまわっている。この「カミカゼ」に対することばのニュアンスが欧州と日本とではかなり異なっていると日刊スポーツ・塙正典さんはスポーツ雑記「「カミカゼ」消えた飛行隊」(朝日新聞一九九七年九月九日付)のなかで記している。それは、「欧州では「特攻」は自らを犠牲にして、相手を撃破する行為であり、脅威とは恐れられていたが、自殺につながる暴挙と判断されていた。当時の日本の戦闘機は飛行士の背面の鋼板を薄くしても、総重量を軽くし、格闘戦の優位性を重視した。これに対し、特に米の戦闘機は弾丸が貫通するのを防ぐほどの重い鋼板に飛行士が守られ、さらに空戦のある海域には潜水艦が待機し救助していた。つまり「カミカゼジャンパー」とは、「スリリングな飛び方」「自らを省みない」ジャンプ選手であって、「一発屋」の要注意選手という意味合いだった。」というところからこのようなニックネームが生まれているというのだ。ことばのニュアンスを考えるうえで、もう一度この「神風」なる言葉を現代の戦争を知らない日本人である私たち自身どうとらえているのか考えて見ようではないか。

[コメント]私自身は、鎌倉時代の「蒙古襲来」の折りに九州に吹き荒れた台風を人々が「神風」と称したことに意識がすすみ、「神懸かり的な仕業」ととらえているようだ。みなさんはどうですか。

 

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