2006年02月01日から2月28日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
2006年02月28日(火)晴れ。東京→北海道(札幌)
(そむ・く)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、

(ソムク)()()() 。〔元亀二年本156四〕〔静嘉堂本171四〕

× 。〔天正十七年本中17オ〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

似谷鴬忘擔花苑小蝶遊日影頗夲意候畢〔至徳三年本〕

似谷鶯忘擔花苑小蝶遊日影頗本意候畢〔宝徳三年本〕

谷鶯擔花苑(ソノヽ)胡蝶(こテフ)日影頗夲意候〔建部傳内本〕

タリ鶯忘(エン)小蝶日影本意〔山田俊雄藏本〕

鶯忘小蝶ブニ日影本意候畢〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ソムク(ハイ){}畔北易―辰/光也叛員反違冥(宣歟)刺〓{田羊}面奉―明/恩也負〓{亡目久}―土/已上乖也。〔黒川本・辞字門中17ウ八〕

ソムク孤負逆北易―辰/光也刺〓{田牟}面奉―明/恩也已上同。〔巻第四・辞字門540二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「(ソムク)」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(ソムクハイ・せナカ)[去](ソムク/クワイ)[去](同/フウ)[上]。〔態藝門408三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(ソムク)()()()。〔弘治・言語進退門120八〕

(ソムク)。○…。(ソムク)。○…。(ソムク)。〔永祿本・言語門102二・三・四〕

(ソムク)。○。(ソムク)。○…。(ソムク)。〔尭空本・言語門92六七〕

(ソムク)。○。(ソムク)。○…。(ソムク)。〔両足院本・言語門112八113一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。易林本節用集』に、

(ソムク)()()。〔言辞門102一・天理図書館蔵上51ウ一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

009頗本意候畢 頗不正之意也。〔謙堂文庫藏四左F〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(サルヽ)(カリ)-(モヨヲス)コトヲ人人子(アソヒ)之間( ダ)延引(エンイン)(ニタリ)谷鶯(タニノウグヒス)(ワスレ)擔花(ノキノハナ)園小蝶(ソノヽコテフ)(アソブ)日影(ヒカゲ)(スコブル)(ソムキ)本意(ホンイ)トハ會也。或説ニハ。吾(ワガ)朝ニ日ヲ遣(ツカ)フ事子ノ日ヲ始ニ用ガ故ニ。正月一日ヲ祭(マツル)ト云ナリ。諸卿内裏ヘ集テ歡喜會(クハンギクハイ)トト云節會(せチエ)ヲシ給フナリ。子細ハ日本記ニ在之。〔上4ウ八〜5オ三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)園小蝶(そののこちよう)の日影(ひかげ)に遊(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯忘擔花園小蝶日影本意ヌ。。〔1ウ三〜五〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)園小蝶(そののこちょう)の日影(ひかげ)に遊(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯忘擔花園小蝶日影本意。〔1オ五、六〕

(にたり)谷鶯(たにのうぐひす)(わすれ)擔花(のきのはな)園小蝶(そののこちょう)(あそぶ)日影(ひかげ)(すこぶる)(そむく)本意(ほんい)(さぶら)(おハん)。〔1オ五〜1ウ一、二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Somuqi,qu.ソムキ,ク(背) .〔邦訳572r〕

とあって、標記語「」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

そむ〔名〕ク・ケ・カ・キ・ケ(自動、四)【】〔背向(ソム)くの義、面向(おもむ)くの反〕(一)背(うしろ)の方へ向く。後向(うしろむき)になる。竹取物語「歸るさの、行幸(みゆき)物憂く、思えて、そむきてとまる、かぐや姫故」源氏物語、五十、浮舟27「心憂く身には、すずろなることも、いと苦しく、とて、そむき給へり」(二)從はず。戻る。違ふ。竹取物語「國王の仰せ言をそむかバ、はや殺し給ひてよかし」「法度にそむく」約束にそむく」(三)逆(さか)ふ。手向ひする。はむかふ。垂仁紀、五年十月「不謀、而悚恐伏地、曲兄王之(ソムケルサマ)」「君にそむく」政府にそむく(四)離れ別る。源氏物語、二、帚木13「なのめに移ふ方あらん人を恨みて、氣色ばみそむかん、はた痴(をこ)がましかりなん」(五)世を捨つ。出家す。伊勢物語、百二段「そむくとて、雲には乘らぬ、ものなれど、世の憂きことぞ、よそになるてふ」古今集、十八、雜、下「然りとて、そむかれなくに、事しあれば、まづ歎かれぬ、あな憂()世の中」源氏物語、五、若紫13「世をそむきて侍るが」〔3-148-4〕

とあって、標記語「そむ-】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「そむ-】[一]〔自カ五(四)〕(「背(そ)向く」の意)ある方向に背を向ける⇔おもむく。@後ろ向きになる。背中を向ける。反対方向やわきを向く。A人や物から離れる。別れる。去る。B(世をそむくの意で)俗世間を離れる。出家する。隠遁する。C人の思いや意見・命令などに反する。また、期待に反する結果となる。また、道理・常識などに合致しない。さからう。反対する。D味方であった者、主人などに敵対する。手むかいする。謀叛(むほん)する。[二]〔他カ下二〕⇒そむける(背)」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
仍轉讀分八百部、故欲啓白佛陀、如何者覺淵申云、雖不滿一千部、被啓白條、不可冥慮者則供香花於佛前、啓白其旨趣《訓み下し》仍テ転読分八百部、故ニ仏陀ニ啓白セント欲ス、如何、テイレバ覚淵申シテ云ク、一千部ニ満タズト雖モ、啓白セラレンノ条、冥慮ニ(ソム)ベカラズ、テイレバ、則チ香花ヲ仏前ニ供ケ、其ノ旨趣ヲ啓白ス。《『吾妻鑑』治承四年七月五日の条》
 
 
(すこぶる)」は、ことばの溜池(2001.04.03)を参照。
本意(ホンイ)」は、ことばの溜池(2003.12.25)を参照。
 
2006年02月27日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
(あそ・ぶ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「阿」部に、

(アソフ)。〔元亀二年本265一〕〔静嘉堂本300八〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

似谷鴬忘擔花苑小蝶日影頗背夲意候畢〔至徳三年本〕

似谷鶯忘擔花苑小蝶日影頗背本意候畢〔宝徳三年本〕

谷鶯擔花苑(ソノヽ)胡蝶(こテフ)日影頗背夲意候〔建部傳内本〕

タリ鶯忘(エン)小蝶日影本意〔山田俊雄藏本〕

鶯忘小蝶日影本意候畢〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

アソフ/以用反。嬉弄戲好遊字作之非也。五勞反。〔黒川夲・人事門下24ウ五〕

アソフ/亦乍游/古文乍遊放。〔巻第八・人事門296三〕

とあって、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(アソブ/ユウ)[平]。(同/ユウ・ヲヨク)[平]。(同/ヱン・サカモリ)[○]。〔態藝門769八〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(アソブ)()。〔弘治・言語進退門205八〕

(アソブ)(アソブ)。〔永祿本・言語門171九172一〕

(アソブ)(アソブ)。〔尭空本・言語門160九161一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

(アソフ)ガウ()イウ。〔言辞門175三・天理図書館蔵下20ウ三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

008薗小蝶日影 戯花可遊之蝶、依苑寒遊也。日讀。似日景之也。言スル則景字之心。字也。惣シテ小蝶ニハ。爰ニハ也。〔謙堂文庫藏四左D〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(サルヽ)(カリ)-(モヨヲス)コトヲ人人子(アソヒ)之間( ダ)延引(エンイン)(ニタリ)谷鶯(タニノウグヒス)(ワスレ)擔花(ノキノハナ)園小蝶(ソノヽコテフ)(アソブ)日影(ヒカゲ)(スコブル)(ソムキ)本意(ホンイ)トハ會也。或説ニハ。吾(ワガ)朝ニ日ヲ遣(ツカ)フ事子ノ日ヲ始ニ用ガ故ニ。正月一日ヲ祭(マツル)ト云ナリ。諸卿内裏ヘ集テ歡喜會(クハンギクハイ)トト云節會(せチエ)ヲシ給フナリ。子細ハ日本記ニ在之。〔上4ウ八〜5オ三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)園小蝶(そののこちよう)の日影(ひかげ)(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)を背(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯忘擔花園小蝶日影頗背本意ヌ。是ハかぎりもなく祝ひたる詞なり。財宝(さいほう)(ゆた)かなるを冨(とみ)と云。位官(きくわん)(たか)きを貴と云。萬福はよろつのさいわい。幸甚ハさいわいはなハたしと訓す。〔1ウ三〜五〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)園小蝶(そののこちょう)の日影(ひかげ)(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)を背(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯忘擔花園小蝶日影頗背本意▲富貴万福以幸甚々々ハ先方(せんはう)を愛(めで)たく祝(いは)ひたる詞(ことハ)なり。〔1オ五、六〕

(にたり)谷鶯(たにのうぐひす)(わすれ)擔花(のきのはな)園小蝶(そののこちょう)(あそぶ)日影(ひかげ)(すこぶる)(そむく)本意(ほんい)(さぶら)(おハん)▲富貴万福以幸甚々々ハ先方(せんはう)を愛(めで)たく祝(いは)ひたる詞(ことハ)なり。〔1オ五〜1ウ一、二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Asobi,u,o>da.アソビ、ブ,ゥダ(遊び,ぶ,うだ) 気晴らしをする。遊び楽しむ.〔邦訳35r〕

とあって、標記語「」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

あそ・ブ・ベ・バ・ビ・ベ〔自動、四〕【】(一)己が樂しと思ふ事をして、心をやる。心のゆくわざをして樂しむ。なぐさむ。(口語のあすぶを見合すべし)雄略即位前紀「登樓兮、(ミアソビタマフ)萬葉集、五17園梅宴「梅の花、手折りかざして、阿蘇倍ども、飽き足らぬ日は、今日にしありけり」源氏物語、五、若紫41「若き人人などあれば、諸共にあそびて」字類抄「遊、戲、アソブ」(二)そぞろありきす。物見(ものみ)に行く。逍遙漫遊古事記、上34「成麗壯夫而出(アソビアルキキ)雄略即位前紀(アソビテ)於郊野萬葉集、五9長歌「赤駒に、後鞍(シヅクラ)打ちおき、はひのりて、阿蘇比あるきし」「吉野に遊ぶ」多摩川に遊ぶ」(三)水に浮き沈みして、立ちめぐる。泳ぐ。遊泳~代紀、上1「猶(ア ブウヲ)之浮水上也」古事記、下(清寧)42「潮瀬の、波折(なをり)を見れば、阿蘇毘來る、鮪(シビ)が鰭手(ハクテ)に、妻立てり見ゆ」〔1473-4〕

とあって、標記語「あそ】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「あそ】〔自バ五(四)〕[一]興のおもむくままに行動して楽しむ。神事に伴う舞楽を行なうことがもとといわれるが、広く楽しむ行動をいうようになり、現代では、多く子どもが遊戯する、おとなが運動、行楽、遊興などすることをいう。@思うことをして心を慰める。遊戯、酒宴、舩遊びなどをする。A詩歌、管弦、舞などを楽しむ。遊楽をする。B(鳥獣・魚などが)楽しそうに動きまわる。Cいつもいる所を離れて、広い場所で気楽に歩きまわって楽しむ。D学問を修めたり、見聞をひろめたり、さらには、気晴らしなどの目的で他の土地に行く。遊学する。E料亭、遊里などに云って楽しむ。酒食などにふける。遊興する。[二]仕事、勉強、働きなど、期待される生産的効果を果たしていない状態にある。@仕事や勉強をしないで、また、職が得られないでぶらぶらしている。上の学校にはいれないで、浪人することにもいう。A金、道具、場所などが使われないでいる。B工学上、応力を受けるはずの物がそれを受けていなっかたり、付着するはずの物がしていない状態になる。C本気で立ち向わず、わざと気を抜いた態度をとる。野球で、投手に有利な条件の時、打者の打ち気をそらすために、ボールになる球を投げるなどはその一例。[二]〔他バ四〕@(楽器や曲名を目的語にして)舞楽を行なう。奏する。A人をからかう。もてあそぶ。」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
又漁人垂釣壯士射的、毎事前感乗興、愚状白娯及黄昏、還御〈云云〉《訓み下し》又漁人釣リヲ垂レ壮士的ヲ射、事毎ニ感ヲ前メ興ニ乗ジ、愚状白娯ノ遊ビ黄昏ニ及デ(毎事荷感、興ニ乗リテ秋日ノ娯遊ヲ尽ス)、還御ト〈云云〉。《『吾妻鑑』建久四年七月十日の条》
 
 
2006年02月26日(日)雨。東京→世田谷(駒沢)
日影(ひかげ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「飛」部に、「日賃(ヒヂン)。日養(ヤウ)。日限(ゲン)。日別(ベツ)。日来(ゴロ)。日取(ドリ)。日干(ボシ)。日柄(ガラ)。日間()」の九語を収載し、標記語「日影」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

似谷鴬忘擔花苑小蝶遊日影頗背夲意候畢〔至徳三年本〕

似谷鶯忘擔花苑小蝶遊日影頗背本意候畢〔宝徳三年本〕

谷鶯擔花苑(ソノヽ)胡蝶(こテフ)日影頗背夲意候〔建部傳内本〕

タリ鶯忘(エン)小蝶日影本意〔山田俊雄藏本〕

鶯忘小蝶ブニ日影本意候畢〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「日影」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「日影」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「日影」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

日影(ヒカゲ/ジチヱイ)[入・去]。〔態藝門1046五〕

とあって、標記語「日影」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(ヒカゲ)。〔弘治・時節門251二〕

(ヒカゲ) 。〔永祿本・時節門214八〕〔尭空本・時節門200一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。易林本節用集』に、

日影(ヒカゲ) ―闌(タク)() 。〔時候門221六・天理図書館蔵下43ウ六〕

とあって、標記語「日影」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・十巻本伊呂波字類抄』に標記語「日影」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

008薗小蝶遊日影 戯花可遊之蝶、依苑寒遊也。日讀。似日景之也。言スル則景字之心。字也。惣シテ小蝶ニハ。爰ニハ也。〔謙堂文庫藏四左D〕

とあって、標記語「日影」の語を収載し、語注記に「日の影と讀むべからず。景の字に似て、日景と之れを讀むべきなり。言は、点ずる則ち景の字の心。字なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(サルヽ)(カリ)-(モヨヲス)コトヲ人人子(アソヒ)之間( ダ)延引(エンイン)(ニタリ)谷鶯(タニノウグヒス)(ワスレ)擔花(ノキノハナ)園小蝶(ソノヽコテフ)(アソブ)日影(ヒカゲ)(スコブル)(ソムキ)本意(ホンイ)トハ會也。或説ニハ。吾(ワガ)朝ニ日ヲ遣(ツカ)フ事子ノ日ヲ始ニ用ガ故ニ。正月一日ヲ祭(マツル)ト云ナリ。諸卿内裏ヘ集テ歡喜會(クハンギクハイ)トト云節會(せチエ)ヲシ給フナリ。子細ハ日本記ニ在之。〔上4ウ八〜5オ三〕

とあって、標記語「日影」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)園小蝶(そののこちよう)日影(ひかげ)に遊(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)を背(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯忘擔花園小蝶日影頗背本意ヌ。是ハかぎりもなく祝ひたる詞なり。財宝(さいほう)(ゆた)かなるを冨(とみ)と云。位官(きくわん)(たか)きを貴と云。萬福はよろつのさいわい。幸甚ハさいわいはなハたしと訓す。〔1ウ三〜五〕

とあって、この標記語「日影」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)園小蝶(そののこちょう)日影(ひかげ)に遊(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)を背(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯忘擔花園小蝶日影頗背本意▲。〔1オ五、六〕

(にたり)谷鶯(たにのうぐひす)(わすれ)擔花(のきのはな)園小蝶(そののこちょう)(あそぶ)日影(ひかげ)(すこぶる)(そむく)本意(ほんい)(さぶら)(おハん)▲。〔1オ五〜1ウ一、二〕

とあって、標記語「日影」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Ficanue.ヒカゲ(日影・日蔭) 太陽の輝き,または,光線.例,Ficague sasu.(日影さす)ある所に太陽の光線がさし込む,または,光があたる.¶Ficague nodocani nariyuqu.(日影のどかになり行く)Feiq(平家巻四).春の季節などに,次第に日が晴れやかにのどかになっていく.¶また(日蔭),太陽の光線を遮る陰.例,Ficagueuo suru,l,coxirayuru.(日蔭をする,または,拵ゆる)日光を遮り防ぐために陰を作る,または,日よけを作る.※Feiqe,p,229.〔邦訳227r〕

Iityei.ジッエイ(日影) Fino cague.(日の影)太陽の像,または,太陽の光線.例,Iityei mizzuni xizzumeri.(日影水に沈めり)太陽の像が水中にあらわれている.〔邦訳366l〕

とあって、標記語「日影」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-かげ〔名〕【日景】(一){日の影。日の光。ひなた。萬葉集、四14「あさ日影、にほへる山に、照る月の、あかざる君を、山ごしにおきて」榮花物語、三十二、歌合「日影も見えず、曇る今日かな、天照らす、豐のあかりと、思へども」續後撰集、五、秋、上「日影さす、岡邊の松の、秋風に、夕ぐれかけて、鹿ぞなくなる」風雅集、八、冬、「霜寒き、朝けの山は、うすきりて、氷れる雲に、もる日影かな」(二)ひあし(日脚)に同じ。孕常磐(寳永、近松作)三「御壽命は、朝顔の日影待つ閧フ露の身、あら目出度やと、けがの顔して絞殺さん」俳諧古選「破風口に、日影や弱る、夕すずみ」〔4-8-4〕

とあって、標記語「-かげ日景】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-かげ日影】〔名〕@日の光。日光。ひざし。ひなた。A昼間の時間。ひあし」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
復《 『下食時午』》天陰、時々日影、楽人左近将監大神景藤(山井)来、予相共吹龍笛 、《『薩戒記』の応永三十一年八月十九日条、2/17・53》
 
 
2006年02月25日(土)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
小蝶(コテフ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、標記語「小蝶」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

似谷鶯忘擔花園小蝶遊日影頗背本意候畢〔至徳三年本〕

似谷鶯忘擔花園小蝶遊日影頗背本意候畢〔宝徳三年本〕

似谷鶯忘擔花園小蝶遊日影頗背本意候畢〔建部傳内本〕

谷鶯忘擔花小蝶日影頗背本意〔山田俊雄藏本〕

谷鶯忘擔花小蝶日影頗背本意〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「小蝶」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「小蝶」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「小蝶」の語は未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「小蝶」の語は未収載にして、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。
 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

008薗小蝶日影 戯花可遊之蝶、依苑寒遊也。日讀。似日景之也。言スル則景字之心。字也。惣シテ小蝶ニハ。爰ニハ也。〔謙堂文庫藏四左D〕

とあって、標記語「小蝶」の語を収載し、語注記に「朔は、蘇なり。生なり。革なり。推して知るべし。晦は、灰なり。灰は、死なり。一月終に之れ死する義なり。日月は、地~第三天津彦火々(ホヽ)瓊々杵(ニヽキ)ノ尊の御宇始めなり。元とは始なり。旦を云ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(サルヽ)(カリ)-(モヨヲス)コトヲ人人子(アソヒ)之間( ダ)延引(エンイン)(ニタリ)谷鶯(タニノウグヒス)(ワスレ)擔花(ノキノハナ)小蝶(ソノヽコテフ)(アソブ)日影(ヒカゲ)(スコブル)(ソムキ)本意(ホンイ)トハ會也。或説ニハ。吾(ワガ)朝ニ日ヲ遣(ツカ)フ事子ノ日ヲ始ニ用ガ故ニ。正月一日ヲ祭(マツル)ト云ナリ。諸卿内裏ヘ集テ歡喜會(クハンギクハイ)トト云節會(せチエ)ヲシ給フナリ。子細ハ日本記ニ在之。〔上4ウ八〜5オ三〕

とあって、標記語「小蝶」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)小蝶(そののこちよう)の日影(ひかげ)に遊(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)を背(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯忘擔花小蝶日影頗背本意。〔1ウ三〜五〕

とあって、この標記語「小蝶」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)小蝶(そののこちよう)の日影(ひかげ)に遊(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)を背(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯忘擔花小蝶日影頗背本意。〔1オ五、六〕

(にたり)谷鶯(たにのうぐひす)(わすれ)擔花(のきのはな)小蝶(そののこちよう)(あそぶ)日影(ひかげ)(すこぶる)(そむく)本意(ほんい)(さぶら)(おハん)。〔1オ五〜1ウ一、二〕

とあって、標記語「小蝶」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Cocho>.コテフ(小蝶) 小さな蝶.〔邦訳135l〕

とあって、標記語「小蝶」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「-てふ小蝶】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-てふ小蝶】〔名〕小さな蝶。庭訓往來(1394-1428頃)「似谷鶯忘檐花小蝶日影」*日葡辞書(1603-04)「Cocho>(コチョウ)<訳>小さな蝶」*うもれ木(1892)<樋口一葉>一〇「咲くや秋草小蝶(コテフ)飛んで立わたる霧」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
 
 
2006年02月24日(金)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
薗・苑・園(その・エン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、

(ソノ)(){苑}。()。〔元亀二年本156一〕〔天正十七年本中17オ二〕

(ソノ)()。〔静嘉堂本171一・二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

似谷鴬忘擔花小蝶遊日影頗背夲意候畢〔至徳三年本〕

似谷鶯忘擔花小蝶遊日影頗背本意候畢〔宝徳三年本〕

谷鶯擔花(ソノヽ)胡蝶(こテフ)日影頗背夲意候〔建部傳内本〕

タリ鶯忘(エン)小蝶日影本意〔山田俊雄藏本〕

鶯忘小蝶ブニ日影本意候畢〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

(ヱン)ソノ/ソノフ()同。(ヱン)同。(イウ)又イク/同。〔黒川夲・地儀門中15ウ三〕

ホ。同。已上同/宥育二―。〔巻第四・地儀門525二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

(ソノ)三字義同。〔天地門23六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(ソノ/ヱン)[平]。(同/ヱン)[平軽]。(同/)[去]卒那(ソノ)合紀。種菜曰圃。々之言(コト)()(ナリ)。取其分スルニ於地。若種菓實則曰園。々之言蕃也。種於園外( メ)ナリ蕃盛スルカ也。〔天地門383三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(ソノ)()() 。〔弘治・天地門118一〕

(ソノ) 。〔永祿本・天地門100三〕

(ソノ) 。〔尭空本・天地門90八〕

(ソノ) 。〔両足院本・天地門110三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

(ソノ)()() 。〔乾坤門99二・天理図書館蔵上50オ二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』に「苑・園」、下記真字本には「薗」の語をもって収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

008小蝶遊日影 戯花可遊之蝶、依苑寒遊也。日讀。似日景之也。言スル則景字之心。字也。惣シテ小蝶ニハ。爰ニハ也。〔謙堂文庫藏四左D〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(サルヽ)(カリ)-(モヨヲス)コトヲ人人子(アソヒ)之間( ダ)延引(エンイン)(ニタリ)谷鶯(タニノウグヒス)(ワスレ)擔花(ノキノハナ)小蝶(ソノヽコテフ)(アソブ)日影(ヒカゲ)(スコブル)(ソムキ)本意(ホンイ)トハ會也。或説ニハ。吾(ワガ)朝ニ日ヲ遣(ツカ)フ事子ノ日ヲ始ニ用ガ故ニ。正月一日ヲ祭(マツル)ト云ナリ。諸卿内裏ヘ集テ歡喜會(クハンギクハイ)トト云節會(せチエ)ヲシ給フナリ。子細ハ日本記ニ在之。〔上4ウ八〜5オ三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)小蝶(そののこちよう)の日影(ひかげ)に遊(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)を背(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯忘擔花小蝶日影頗背本意。〔1ウ三〜五〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)小蝶(そののこちょう)の日影(ひかげ)に遊(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)を背(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯忘擔花小蝶日影頗背本意。〔1オ五、六〕

(にたり)谷鶯(たにのうぐひす)(わすれ)擔花(のきのはな)小蝶(そののこちょう)(あそぶ)日影(ひかげ)(すこぶる)(そむく)本意(ほんい)(さぶら)(おハん)。〔1オ五〜1ウ一、二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Sono.ソノ(園・苑) 庭園,または,菜園.〔邦訳573r〕

とあって、標記語「」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

その-〔名〕【】〔背野(その)の義にて、後園の意、前栽に對する語と云ふ〕(一){圍ありて、蔬菜、果木など、植うる地}。倭名抄、一6田園類「圃、花囿、曾乃、一云、曾乃布」允恭紀、二年二月「御遊苑(ソノ)中、云云、能作乎、汝者也」萬葉集、五15「梅の花、今咲ける如(ごと)、散り過ぎず、我が家の曾能に、在りこせぬかも」玉葉集、十四、雜、一「百千鳥、鳴く聲すなり、我が宿の、そのの梅が枝、今盛りかも」(二)場(ニハ)。場所。増鏡、下、第十九、くめのさら山「正成は、聖コ太子の御墓の前を、軍のそのにして」(三)齋宮の忌詞に、穴(あな)。〔1158-3〕

とあって、標記語「その】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「その-【】〔名〕@草花・果樹・野菜などを栽培するための一区画の土地。A鳥や獣などを飼うために囲った一区画の土地。Bある物事の行なわれる場所。また、ある特定の世界。C穴をいう、齋宮の忌詞(いみことば)」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
次尊家法印、於園殿、被修延命護摩《訓み下し》次ニ尊家法印、園殿(ソノドノ)ニ於テ、延命ノ護摩ヲ修セラル。《『吾妻鑑』弘長三年十一月八日の条》
 
 
2006年02月23日(木)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
擔花(のきのはな)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「埜」部に、標記語「檐花」そして「」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

似谷鴬忘擔花苑小蝶遊日影頗背夲意候畢〔至徳三年本〕

似谷鶯忘擔花苑小蝶遊日影頗背本意候畢〔宝徳三年本〕

谷鶯擔花(ソノヽ)胡蝶(こテフ)日影頗背夲意候〔建部傳内本〕

タリ鶯忘(エン)小蝶日影本意〔山田俊雄藏本〕

鶯忘小蝶ブニ日影本意候畢〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「擔花」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

(エン)ノキ(ケン)同/余廉反。又乍檐同/窓也(エン)同/屋垂之深也。〔黒川夲・地儀門中58オ八〕

ノキ/正乍/亦乍窓也反―文已上同/屋垂之際。〔巻第五・地儀門246四・五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

(ノキ)(ノキ) 。〔家屋門57四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、標記語「檐花」の語は未収載にし、ただ標記語「」で、

(ノキ/ヱン)[平]。(同/ヱン)[平]。(同/ヱン)[平]三字同異名。南栄。北戸。〔家屋門490六〕

とあって、この語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(ノキ)()ヱン 同。〔弘治・天地門153二〕

(ノキ) 。〔永祿本・天地門125二〕

(ノキ) 。〔尭空本・天地門114二〕

(ノキ) 。〔両足院本・天地門138五〕

とあって、弘治二年本に標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

(ノキ) 同。()。〔乾坤門123二・天理図書館蔵上62オ二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・十巻本伊呂波字類抄』に、標記語「擔花」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

007乍思延-タリ谷鶯忘擔花 言鶯依我宿人家ニシテ而花。谷。花者唐ニハ李也。日本ニハ云。爰ニハ云也。 〔謙堂文庫藏四左C〕

とあって、標記語「擔花」の語を収載し、語注記に「朔は、蘇なり。生なり。革なり。推して知るべし。晦は、灰なり。灰は、死なり。一月終に之れ死する義なり。日月は、地~第三天津彦火々(ホヽ)瓊々杵(ニヽキ)ノ尊の御宇始めなり。元とは始なり。旦を云ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(サルヽ)(カリ)-(モヨヲス)コトヲ人人子(アソヒ)之間( ダ)延引(エンイン)(ニタリ)谷鶯(タニノウグヒス)(ワスレ)擔花(ノキノハナ)園小蝶(ソノヽコテフ)(アソブ)日影(ヒカゲ)(スコブル)(ソムキ)本意(ホンイ)トハ會也。或説ニハ。吾(ワガ)朝ニ日ヲ遣(ツカ)フ事子ノ日ヲ始ニ用ガ故ニ。正月一日ヲ祭(マツル)ト云ナリ。諸卿内裏ヘ集テ歡喜會(クハンギクハイ)トト云節會(せチエ)ヲシ給フナリ。子細ハ日本記ニ在之。〔上4ウ八〜5オ三〕

とあって、標記語「擔花」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)園小蝶(そののこちよう)の日影(ひかげ)に遊(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)を背(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯擔花園小蝶日影頗背本意ヌ。是ハ我(わか)本意(ほんい)にあらぬ事をたとへしなり。擔花ハ軒端(のきは)に咲乱(さきミた)れたるハなをいふ。〔2オ五、六〕

とあって、この標記語「擔花」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)園小蝶(そののこちょう)の日影(ひかげ)に遊(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)を背(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯忘擔花園小蝶日影頗背本意。〔1オ五、六〕

(にたり)谷鶯(たにのうぐひす)(わすれ)擔花(のきのはな)園小蝶(そののこちょう)(あそぶ)日影(ひかげ)(すこぶる)(そむく)本意(ほんい)(さぶら)(おハん)。〔1オ五〜1ウ一、二〕

とあって、標記語「擔花」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Noqi.ノキ(軒・檐) 外側へ突き出ている屋根の端.〔邦訳471l〕

とあって、標記語「」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「のき--はな檐花】」の語は未収載にし、ただ標記語「のき】」の語で、

のき〔名〕【軒】〔延木(のびき)の意か、或は云ふ、屋内を除(のき)の義かと〕屋根の裾の、四方へ垂りて差出でたる所。倭名抄、十27居宅具「檐、、能岐」天治字鏡、十二27「宇、乃木」軒の絲水とは、軒より落つるあまだれ。又、軒の雫、軒の玉水などとも云ふ。玉葉集、一、春、上「春雨は、くる人もなく、あとたえぬ、柳が門の、のきのいどみづ」源氏物語、三十一、眞木柱35「ながめする、軒の雫に、袖ぬれて、うたかた人を、しのばざらめや」新古今集、一、春、上「つくづくと、春のながめの、寂しきは、しのぶに傳ふ、軒の玉水」〔1533-5〕

とあって、標記語「のき】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「のき】」の小見出し語「のき--はな檐花】」は未記載にし、ただ標記語「のき【軒・】〔名〕@屋根のふきおろしの端で、壁や柱から外に張り出した部分。また、ひさし。A「のきした(軒下)」に同じ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
一、差出宅、於路事《訓み下し》一、宅ノ(ノキ)ヲ、路ニ差シ出ス事。《『吾妻鑑』寛元三年四月二十二日の条》
 
 
2006年02月22日(水)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
谷鶯(たにのうぐひす)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部及び「鳥」部に、

(タニ)(タニ) 。〔元亀二年本147三〕〔静嘉堂本158八〕〔天正十七年本中11ウ六〕〔西來寺本〕

(ウグイス) 同名。(クワウリ) 黄鳥(テウ)金衣(キンエ)公子(コウシ)。〔元亀二年本369六〕

(ワウ) 同名。(クワウリ)黄鳥(テウ)金衣(キンエ)公子(コウシ)。〔静嘉堂本448六・七〕

とあって、標記語「」及び「」の両語を収載する。

 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

谷鴬忘擔花苑小蝶遊日影頗背夲意候畢〔至徳三年本〕

谷鶯忘擔花苑小蝶遊日影頗背本意候畢〔宝徳三年本〕

谷鶯擔花苑(ソノヽ)胡蝶(こテフ)日影頗背夲意候〔建部傳内本〕

タリ(エン)小蝶日影本意〔山田俊雄藏本〕

小蝶ブニ日影本意候畢〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「谷鶯」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「谷鶯」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

(タニ)ケイコク 二字義同。〔天地門23六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、標記語「」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

谿(タニ/ケイ)[平]溪同。作旦尓合紀水曰―。(タニコク)[入]無水。曰―。(タニ/カン)[去]初学記云。山(ヤマ)(ハサム)(タニ)。水注(ソヽク)(カワ)谿。水注(ソヽク)谿曰谷。水通谷曰。〔天地門330四〜五〕

(ウグイス/アウ)[平]。(同/)[平]格物論鴬名倉庚梨黄錨杯黄栗留或謂之(タンシヨ)。或謂之黄鳥。三四月間。鳴声音圓滑ナリ異名黄鴬。黄鴦。黄離。―梨毛詩黄公。黄袍(ハウ)。黄口。羽。翰紅。衣。木歌童。谷鳥。宕壷庚。歌女。柳子。青布子。楚雀。蹈花君。金羽。金衣。金衣公子。金衣子。金縷。小金衣。雛也。雛羽。春鋤。錦蛮。黄。鳥中叔夜。女。含。鳥琴舌。機杼。舎利鴬。法華鴬。童子鴬。演史鴬。座元鴬。提壺桑扈遷喬。蹈海棠。楚黄利。麗黄法花。皇鴬。皇離文献通?。〔氣形門473三〜五〕

とあって、標記語「」及び「」の両語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(タニ) 有水―。() 無水―。谿同。〔弘治・天地門97三〕

(タニ) 有水―。(タニ) 谿同。無水―。(タニ)。〔永祿本・天地門90四〕

(タニ)水―。(タニ) 谿()。无水―。(タニ)。〔尭空本・天地門82四〕

(タニ) 有水―。() 谿同。無水―。()。〔両足院本・天地門98六〕

(ウグヒス) ?同。詞林/黄鳥()。春鳥()() 黄―。〔弘治・畜類門149四〕

(ウクイス) ?同/春鳥子。() 黄―/黄鳥。〔永祿本・畜類門121四〕

(ウクイス) ?。春鳥子。異名金衣春光好―曲也。春―轉ストスンテヨム也。/黄鳥。〔尭空本・畜類門110九〕

?春鳥子/異名金衣()春光好曲也。春鶯轉ストスンデヨム也。黄鳥。〔両足院本・畜類門135一〕

とあって、標記語「」及び「」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

(タニ) 有水―。() 谿同。無水―。()。〔両足院本・天地門98六〕

(ウグヒス) ?同。詞林/黄鳥()。春鳥()() 黄―。〔弘治・畜類門149四〕

とあって、標記語「谷鶯」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・十巻本伊呂波字類抄』に標記語「谷鶯」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

007乍思延-タリ谷鶯擔花 言鶯依我宿人家ニシテ而花。谷。花者唐ニハ李也。日本ニハ云。爰ニハ云也。 〔謙堂文庫藏四左C〕

とあって、標記語「谷鶯」の語を収載し、語注記に「言は、鶯我宿の寒きに依りて人家は、暖かにして而も花の咲くをヲ忘るるに似たり。谷は、寒きを謂ふべきに爲さん。花は、唐には、李なり。日本には、櫻を云ふ。爰には梅を云ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(サルヽ)(カリ)-(モヨヲス)コトヲ人人子(アソヒ)之間( ダ)延引(エンイン)(ニタリ)谷鶯(タニノウグヒス)(ワスレ)擔花(ノキノハナ)園小蝶(ソノヽコテフ)(アソブ)日影(ヒカゲ)(スコブル)(ソムキ)本意(ホンイ)トハ會也。或説ニハ。吾(ワガ)朝ニ日ヲ遣(ツカ)フ事子ノ日ヲ始ニ用ガ故ニ。正月一日ヲ祭(マツル)ト云ナリ。諸卿内裏ヘ集テ歡喜會(クハンギクハイ)トト云節會(せチエ)ヲシ給フナリ。子細ハ日本記ニ在之。〔上4ウ八〜5オ三〕

とあって、標記語「谷鶯」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)園小蝶(そののこちよう)の日影(ひかげ)に遊(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)を背(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯擔花園小蝶日影頗背本意ヌ。是ハ我(わか)本意(ほんい)にあらぬ事をたとへしなり。擔花ハ軒端(のきは)に咲乱(さきミた)れたるハなをいふ。〔2オ五、六〕

とあって、この標記語「谷鶯」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

谷鶯(たにのうぐひす)擔花(のきのはな)を忘(わすれ)園小蝶(そののこちょう)の日影(ひかげ)に遊(あそぶ)に似(にたり)(すこぶる)本意(ほんい)を背(そむき)(さぶら)ひ畢(おハん)ぬ/谷鶯擔花園小蝶日影頗背本意。〔1オ五、六〕

(にたり)谷鶯(たにのうぐひす)(わすれ)擔花(のきのはな)園小蝶(そののこちょう)(あそぶ)日影(ひかげ)(すこぶる)(そむく)本意(ほんい)(さぶら)(おハん)。〔1オ五〜1ウ一、二〕

とあって、標記語「谷鶯」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tani.タニ(谷) 谷.〔邦訳610r〕

Vguisu.ウグヒス(鶯) このように呼ばれる,小夜鳴鳥に似た鳥.※原文はroxinol.ヨーロッパに広くすむナイチンゲール.夜鳴き鶯.→Vguysu.〔邦訳690l〕

とあって、標記語「」及び「」の両語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たに〔名〕【】〔水の垂の意と云ふ、朝鮮の古言、たん〕(一){兩山の閧フ窪き地。ヤ。ヤツ。ハサマ。山澗倭名抄、一4山谷類「谿谷、水出山入川曰谿、又、作溪、太爾、水與谿相屬曰谷」字鏡39「溪、太爾」和漢三才圖會、五十六、山類「宋均曰、無水曰谷、有水曰谿(溪に同じ)」新六帖、二、谷「しづかなる、谷の心の、深きをも、いらでは人の、しらむものかは」(二)屋根の谷。屋の端端(つまづま)の行合(ゆきあひ)の、雙方よりさがりて、一條の凹みたる所。即ち屋根の、二流の相會する處。又、瓦(かはら)の面の、反()りたる處。〔1229-1〕

うぐひす〔名〕【谷鶯】〔うくひは、鳴く聲、すは、鳥の接尾語、(ほととぎす、きぎす、からす)古今集、十、物名、うぐひす「心から、花の雫に、そぼちつつ、うぐひすとのみ、鳥の鳴くらむ」承暦二年殿上歌合「いかなれば、春來る毎に、うぐひすの、己れが名をば、人に告ぐらむ」(名言通、上)〕(一){鳥の名。めじろに似て、肥えて、背は緑褐にして、腹は灰色なり、眼細そく、嘴細そく尖り、脚、掌、共に灰Kなり、眉に三毛ありて、灰白なり、吻(くち)に三鬚あり、藪などに棲みて、小蟲を食とし、早春より、聲を引きて囀る、ほうほけきョと聞ゆ、人家に畜ひて、聲を愛す。(かひうぐひす、又、なきあはせを見よ)法吉鳥(ほほきどり)。金衣鳥。金衣公子。春鳥黄鳥。黄萬葉集、五16「春されば、こぬれ隱りて、宇具比須ぞ、鳴きて徃()ぬなる、梅が下枝(しづえ)に」同、六19長歌「圓(山)に、?(うぐひす)鳴きぬ」倭名抄、十八16「?、春鳥也、宇久比須」(二)次次條の語の略。(三)香式の組香の包紙を刺しおく、串の名。銀、又は、赤銅にて作る、長さ四寸餘にして、兩端、尖る。香を聞きて後に、包を開きて、銘を尋ね知るなり。續後拾遺集、一、春、上、順徳院御製「飽かなくに、折れるばかりぞ、梅の花、香を尋ねてぞ、鶯の鳴く」(四)草子を綴づるに用ゐる竹串。うぐひすとぢの條を見よ。(五)帶など縫ひくけるに用ゐる具。竹篦(たけべら)の如きものの端を割りかけおきて、縫ふべき所に挾みおく。古今集、二十、~遊「青柳を、片絲によりて、鶯の、縫ふてふ笠は、梅の花笠」(六)狹匙(セツカヒ)の、女房詞。味噌の異名を、香(カウ)と云ふ、前の(三)の歌を見よ。女重寳記(元禄)「五斗味噌は、ささじん、云云、せつかいハうぐひす」(七)葬式の隱語。東京の大工など、職人の詞。「泣き(鳴)ながら埋め(梅)に行く」の意。(八)金時計の隱語。(盗人仲間の詞)〔226-4〕

とあって、標記語「たに--うぐひす谷鶯】」の語は未収載にし、標記語「たに】」と「うぐひす】」の語を以て収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「たに】」の小見出し語「たに--うぐいす谷鶯】〔名〕」の語は未収載にし、ただ標記語「たに】」と「うぐひす】」の語を以て収載し、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
自永福寺邊、被移殖梅樹一本於御所北面是北野廟庭種也匪濃香之絶妙南枝有栖、依之被賞翫之〈云云〉《訓み下し》永福寺ノ辺ヨリ、梅ノ樹一本ヲ御所ノ北面ニ移シ殖ヱラル。是レ北野ノ廟庭ノ種ナリ。濃香ノ絶妙ノミニ匪ズ。南枝ニ栖(棲)有リ、之ニ依テ之ヲ賞翫セラルト〈云云〉。《『吾妻鑑』承元五年閏正月九日の条》
 
 
2006年02月21日(火)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
延引(エンイン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「衛」部に、

延引(エンイン) 右近馬引折日。〔元亀二年本335七〕

延引(エンイン) 右近之引折日。。〔静嘉堂本400七〕

とあって、標記語「延引」の語を収載し、語注記に「右近の馬引の折の日。定(家)」と記載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

抑歳初朝拜者以朔日元三之次可急申之處被駈催人々子日遊之間乍思延引〔至徳三年本〕

抑歳初朝拜者以朔日元三之次可急申之處被駈催人々子日遊之間乍思延引〔宝徳三年本〕

抑歳初朝拜者以朔日元三之次可(ベキ)急申之處被(カリ)(もよ)人々子日遊之間乍延引〔建部傳内本〕

抑歳初朝拜者()朔日元三之之處被ルヽ-催人々子日ヒニ之間乍延引〔山田俊雄藏本〕

メノ朝拜者()朔日元三之次之處被-人々子ビヲ之間乍-〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「延引」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

延引 古今部/エンイン/遅速。〔黒川夲・畳字門下45オ三〕

延年 〃命。〃任。〃引。〃行。〃怠。〃祚。〃斯。〔巻第八・畳字門215二〕

とあって、標記語「延引」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「延引」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

延引(ヱンイン・ヒク、―/ノブ、ヒク)[平・去]。〔態藝門707五〕

とあって、標記語「延引」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

延引(エンイン) 。〔弘治・言語進退門195四〕〔永祿本・言語門161一〕

延引(エンイン) ―年。―命。〔尭空本・言語門150三〕

とあって、標記語「延引」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

延年(エンネン) ―齡(レイ)。―(イン)。〔言辞門163一天理図書館蔵本下14ウ一〕

とあって、標記語「延年」の熟語群として「延引」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・十巻本伊呂波字類抄』、広本節用集』『運歩色葉集』に標記語「延引」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。『運歩色葉集』の語注記は異なっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

007乍-タリ谷鶯忘擔花 言鶯依我宿人家ニシテ而花。谷。花者唐ニハ李也。日本ニハ云。爰ニハ云也。 〔謙堂文庫藏四左C〕

とあって、標記語「延引」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(サルヽ)(カリ)-(モヨヲス)コトヲ人人子(アソヒ)之間( ダ)延引(エンイン)(ニタリ)谷鶯(タニノウグヒス)(ワスレ)擔花(ノキノハナ)園小蝶(ソノヽコテフ)(アソブ)日影(ヒカゲ)(スコブル)(ソムキ)本意(ホンイ)トハ會也。或説ニハ。吾(ワガ)朝ニ日ヲ遣(ツカ)フ事子ノ日ヲ始ニ用ガ故ニ。正月一日ヲ祭(マツル)ト云ナリ。諸卿内裏ヘ集テ歡喜會(クハンギクハイ)トト云節會(せチエ)ヲシ給フナリ。子細ハ日本記ニ在之。〔上4ウ八〜5オ三〕

とあって、標記語「延引」の語を収載し、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

乍(ながら)思(おもひ)延引(えんいん)-。延引ハ遅滞(おそなハり)たるをいふ。〔2オ四〕

とあって、この標記語「延引」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そも/\)歳初(としのはじめの)朝拜(てうハい)()以(もつて)朔日(さくじつ)元三(くハんさん)の次(つぎ)を急(いそぎ)申(まうす)可(べき)之()處(ところ)被(るゝ)駈(かけら)-催人々子日(ねのひ)の遊(あそび)に之()間(あひだ)乍(ながら)思(おもひ)延引(えんいん)歳初朝拜者朔日元三之處被-催人々子日之間乍思延-。〔1オ五、六〕

(そも/\)歳初(としのはじめの)朝拜(てうハい)()(もつて)朔日(さくじつ)元三(くハんさん)の次(つぎ)を急(いそぎ)(まうす)(べき)()(ところ)(るゝ)(かけら)-催人々子日(ねのひ)の遊(あそび)()(あひだ)(ながら)(おもひ)延引(えんいん)。〔1オ五〜1ウ一、二〕

とあって、標記語「延引」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yenin.エンイン(延引) Noburu.(延ぶる)延期する,または,遅らせる.この語はYennin(エンニン)と書いたと同じように発音される.〔邦訳819l〕

とあって、標記語「延引」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

えん-いん〔名〕【延引】常に、インを連聲(レンジヤウ)に、ニンと云ふ。約したる時日の、延()び後(おく)るること。遲滞通鑑、唐懿宗紀「歳月、賊勢益張」紀略、後篇、四、天コ二年二月十三日「有犬死穢、仍大原野祭延引〔278-3〕

とあって、標記語「えん-いん延引】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「えん-いん延引】〔名〕(連声で古く「えんにん」とも)物事を行なう時刻や日にちが、予定より遅らすこと」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而日惠、相承先師之行業果千日所願、守遺命、欲參向之處、都鄙不靜之間、于今延引之由申之〈云云〉《訓み下し》而ルニ日恵、先師ノ行業ヲ相ヒ承ケ、千日ノ所願ヲ果タシテ、遺命ヲ守リ、参向セント欲スルノ処ニ、都鄙静カナラザルノ間、今ニ延引(エンイン)スルノ由之ヲ申スト(遅引)〈云云〉。《『吾妻鑑』治承五年五月八日の条》
 
 
2006年02月20日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
乍思(おもひながら)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「於」部に、標記語「乍思」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

抑歳初朝拜者以朔日元三之次可急申之處被駈催人々子日遊之間乍思延引〔至徳三年本〕

抑歳初朝拜者以朔日元三之次可急申之處被駈催人々子日遊之間乍思延引〔宝徳三年本〕

抑歳初朝拜者以朔日元三之次可(ベキ)急申之處被(カリ)(もよ)人々子日遊之間延引〔建部傳内本〕

抑歳初朝拜者()朔日元三之之處被ルヽ-催人々子日ヒニ之間延引〔山田俊雄藏本〕

メノ朝拜者()朔日元三之次之處被-人々子ビヲ之間-〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「乍思」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「乍思」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「乍思」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「乍思」の語は未収載にして、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

007-タリ谷鶯忘擔花 言鶯依我宿人家ニシテ而花。谷。花者唐ニハ李也。日本ニハ云。爰ニハ云也。 〔謙堂文庫藏四左C〕

とあって、標記語「乍思」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

歳初朝拜者朔日元三之處被-催人々子日之間-ト云事モ。ツツシミニ政( ツリ)ヲスレバ。如此富貴萬福幸(サイハ)ヒ甚(ハナハダ)アリト也。甚ト云ハ。イクバクト云ハントテナリ。〔上4オ六〜七〕

とあって、標記語「乍思」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ながら)(おもひ)延引(えんいん)す-。延引ハ遅滞(おそなハり)たるをいふ。〔2オ四〕

とあって、この標記語「乍思」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そも/\)歳初(としのはじめの)朝拜(てうハい)()以(もつて)朔日(さくじつ)元三(くハんさん)の次(つぎ)を急(いそぎ)申(まうす)可(べき)之()處(ところ)被(るゝ)駈(かけら)-催人々子日(ねのひ)の遊(あそび)に之()間(あひだ)(ながら)(おもひ)延引(えんいん)す歳初朝拜者朔日元三之處被-催人々子日之間-。〔1オ五、六〕

(そも/\)歳初(としのはじめの)朝拜(てうハい)()(もつて)朔日(さくじつ)元三(くハんさん)(つぎ)(いそぎ)(まうす)(べき)()(ところ)(るゝ)(かけら)-催人々子日(ねのひ)(あそび)()(あひだ)(ながら)(おもひ)延引(えんいん)。〔1オ五〜1ウ一、二〕

とあって、標記語「乍思」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「乍思」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』及び現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「おもひ-ながら乍思】〔名〕」の語は未収載にする。
[ことばの実際]
為須部乃 田付不知 石根乃 興凝敷道乎 石床笶 根延門 朝庭 出居而嘆 夕庭 入居而思 白桍乃 吾衣袖 折反 獨之寐者 野干玉 黒髪布而 人寐 味眠不睡而 大舟乃 徃良行羅二 思乍 吾睡夜等呼 讀文將敢鴨《『萬葉集』3274の歌》
 
 
2006年02月18日(土)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
元三(グワンサン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、

元三日(グワンザンニチ) 年始月始日正月朔也。謂―――也。〔元亀二年本197一〕

元三日(クワンサンニチ)始。月始。日正月朔也。謂―――也。〔静嘉堂本222一〕

元三日 年之始月之始日之始謂之―――也。〔天正十七年本中40オ八〕〔西來節本〕

とあって、標記語「元三」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

抑歳初朝拜者以朔日元三之次可急申之處被駈催人々子日遊之間乍思延引〔至徳三年本〕

抑歳初朝拜者以朔日元三之次可急申之處被駈催人々子日遊之間乍思延引〔宝徳三年本〕

抑歳初朝拜者以朔日元三之次可(ベキ)急申之處被(カリ)(もよ)人々子日遊之間乍思延引〔建部傳内本〕

抑歳初朝拜者()朔日元三之處被ルヽ-催人々子日ヒニ之間乍思延引〔山田俊雄藏本〕

メノ朝拜者()朔日元三之次之處被-人々子ビヲ之間乍-〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「元三」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「元三」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「元三」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

元三(グワンサン・―ミツ/ゲン・ハジメ・モト、―)[平・去]正月一日也。言(イフ心ハ)(トシ)(モト)。月元。日元。合元三也。或云元日。又云元旦。元正。元會。三元。四始。正朝。上日。事林廣記云。正月初一日。為元日玉燭寳典云。正月為端月。其一日元日史記云。夏以正為建寅之月。?建丑。周建子。通典曰。漢高帝十月定秦遂為歳首。成制群臣朝賀化至武帝改用夏正亦在建寅之朔。秦始皇以正月生。因名政。後諄之改正字。従平聲也。〔時節門498三〕

とあって、標記語「元三」の語を収載し、上記の如く注記する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(グワン) 正月一日。年之元(ゲン)月之元。日之元故云元三。〔弘治・時節門156六〕

元三(クハンサン) 正月一日也。年之元月之元。日之元。故云。〔永祿本・時節門127九〕

元三(グワンザン) 正月一日也。年之元月之元。日之元。故云。〔尭空本・時節門116八〕

元三(クハンサン) 正月一日也。年之元月之元。日之元。故云。〔両足院・時節門141六〕

三元(ゲン) 正月一日也。歳之元月之元日之元。〔弘治・時節門209七〕

三元(ゲン) 正月一日也。歳之元月之元日之元也。〔永祿本・時節門174一〕

三元(ゲン) 正月一日也。歳之元月之元日之元也。〔尭空本・時節門163三〕

とあって、標記語「元三」そして「三元」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

元三(クワンザン) 。〔時候門128四・天理図書館蔵上64ウ四〕

とあって、標記語「三元」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・十巻本伊呂波字類抄』に標記語「元三」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

005以朔日之處 朔蘇也。生也。革也。推而可知。晦灰也。灰死也。一月終死之義也。日月地~第三天津彦火々(ホヽ)瓊々杵(ニヽキ)御宇始也。元トハ始也。旦云也。三歳月日始也。用コト三日、上古ニハ正月廿日及也。自中此リニキハ五日。又三ヶ日也。急トハ早也。 〔謙堂文庫蔵四右A〕

とあって、標記語「无三」の語を収載し、語注記に「朔は、蘇なり。生なり。革なり。推して知るべし。晦は、灰なり。灰は、死なり。一月終に之れ死する義なり。日月は、地~第三天津彦火々(ホヽ)瓊々杵(ニヽキ)ノ尊の御宇始めなり。元とは始なり。旦を云ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

歳初朝拜者朔日元三之處被-催人々子日之間乍思延-ト云事モ。ツツシミニ政( ツリ)ヲスレバ。如此富貴萬福幸(サイハ)ヒ甚(ハナハダ)アリト也。甚ト云ハ。イクバクト云ハントテナリ。〔上4オ六〜七〕

とあって、標記語「元三」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(そも/\)歳初(としのはじめの)朝拜(てうハい)()以(もつて)朔日(さくじつ)元三(がんさん)の次(つぎ)を急(いそぎ)申(まうす)可(べき)之()處(ところ)被(るゝ)駈(かけら)-催人々子日(ねのひ)の遊(あそび)に之()間(あひだ)乍(ながら)思(おもひ)延引(えんいん)す歳初朝拜者朔日元三之處被-催人々子日之間乍思延-。朔日ハ元日なり。元三といへるも元日の事なり。元日ハ年の初月乃初日の物なるゆへ三ツのはじめといふこゝろにて元三といふ。元ハはじめとよめり。〔1ウ三〜五〕

とあって、この標記語「元三」の語を収載し、語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そも/\)歳初(としのはじめの)朝拜(てうハい)()以(もつて)朔日(さくじつ)元三(くハんさん)の次(つぎ)を急(いそぎ)申(まうす)可(べき)之()處(ところ)被(るゝ)駈(かけら)-催人々子日(ねのひ)の遊(あそび)に之()間(あひだ)乍(ながら)思(おもひ)延引(えんいん)す歳初朝拜者朔日元三▲朔日元三とハ只(たゝ)元日(くハんしつ)といふ事にて朔日ハ年の元月(はじめ)の元日(はじめ)乃元(はじめ)なれハ元三とハいふなり。〔1オ六、1ウ二〕

(そも/\)歳初(としのはじめの)朝拜(てうハい)()(もつて)朔日(さくじつ)无三(むさん)の次(つぎ)を急(いそぎ)(まうす)(べき)()(ところ)(るゝ)(かけら)-催人々子日(ねのひ)の遊(あそび)()(あひだ)(ながら)(おもひ)延引(えんいん)▲朔日元三とハ只(たゝ)元日(くわんしつ)といふ事にて朔日ハ年(とし)の元月(はしめ)の元日乃元なれハ元三(くわんさん)とハいふなり。〔1ウ二、2オ一〕

とあって、標記語「元三」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Guanzan.グヮンザン(元三) 三つの初め、あるいは,発端.すなわち,日,月,年の初め.〔邦訳314r〕

とあって、標記語「元三」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ぐゎん-さん元三】」の語は未収載にする。そして標記語「三元」として

さん-げん〔名〕【三元】(一)正月元日の異稱。三始(さんし)の條を見よ。(二)上元と、中元と、下元と。じゃうげん(上元)の條を併せ見よ。〔1473-4〕

とあって、標記語「さん-げん三元】」の語で収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「がん-ざん元三】〔名〕@(歳、月、日の三つのはじめ(元)であるところから)正月一日のこと。がんざんにち。A正月一日より三日までの間。がんざんにち」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
駿河守并前司義村以下人々、著布衣、出仕於侍所、儲椀飯一如元三之儀、盃酒及數献、國基、賜御劒、退出〈云云〉《訓み下し》駿河ノ守并ニ前司義村以下ノ人人、布衣ヲ著シ、侍所ニ出仕ス、椀飯ヲ儲ク。一元三ノ儀ノ如シ、杯酒数献ニ及ビテ、国基、御剣ヲ賜ハリ、退出スト〈云云〉。《『吾妻鑑』貞応三年四月二十七日の条》
 
 
2006年02月17日(金)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
朔日(サクジツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、

朔日(ジツ) 。〔元亀二年本273二〕〔静嘉堂本312三〕

とあって、標記語「朔日」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月十五日の状に、

抑歳初朝拜者朔日无三次可急申之處被駈催人々子日遊之間乍思延引〔至徳三年本〕

抑歳初朝拜者朔日无三次可急申之處被駈催人々子日遊之間乍思延引〔宝徳三年本〕

抑歳初朝拜者朔日无三次可急申之處被駈催人々子日遊之間乍思延引〔建部傳内本〕

歳初朝拜者朔日无三之處被-催人々子日之間乍思延-〔山田俊雄藏本〕

歳初朝拜者朔日无三之處被-催人々子日之間乍思延-〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「朔日」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「朔日」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「朔日」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

朔日(サクジツ/ツイタチ、ヒ)[去・去]月之云初一日。〔態藝門774七〕

とあって、標記語「朔日」の語を収載し、語注記に「月の初一日を云ふ」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

朔日(サクジツ) 。〔弘治・時節門209五〕

朔日(サクジツ)ツイタチ。〔永祿本・時節門174一〕

朔日(サクシツ)ツイタチ。〔尭空本・時節門163三〕

とあって、標記語「朔日」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

朔日(サクジツ) 。〔乾坤門175七・天理図書館蔵下20ウ七〕

とあって、標記語「朔日」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・十巻本伊呂波字類抄』に標記語「朔日」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月十五日の状には、

005以朔日无三之處 朔蘇也。生也。革也。推而可知。晦灰也。灰死也。一月終死之義也。日月地~第三天津彦火々(ホヽ)瓊々杵(ニヽキ)御宇始也。元トハ始也。旦云也。三歳月日始也。用コト三日、上古ニハ正月廿日及也。自中此リニキハ十五日。又三ヶ日也。急トハ早也。 〔謙堂文庫蔵四右A〕

とあって、標記語「朔日」の語を収載し、語注記に「朔は、蘇なり。生なり。革なり。推して知るべし。晦は、灰なり。灰は、死なり。一月終に之れ死する義なり。日月は、地~第三天津彦火々(ホヽ)瓊々杵(ニヽキ)ノ尊の御宇始めなり。元とは始なり。旦を云ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(サク)无三(ツイテ)(イソキ)之處(トコロ)朔日ハツイタチ元三ハ三日也。凡(ヲヨソ)正月一日ヨリ七日マデハ。異名アリ。一日ヲ鷄日ト云。二日ヲ狗日ト云。三日ヲ猪(チヨ)日ト云。四日ヲ羊(ヤウ)日ト云。五日ヲ牛(ギウ)日ト云。六日ヲ馬日ト云。七日ヲ人(ジン)日ト云ナリ。各此七日ノ間ニ畜獸(チクジユ)出來也。毎(ツネ)ニ皆恙(ツヽガ)ナク政事在也。取分(トリワケ)七日ヲ人日ト云事ハ。人ノ成始リタル日ナリ。五節句(セツク)ノ第一トスル也。彼(コナカキ)ヲ食スル事萬草生長ノ故ナリ。或説曰ク。昔(ムカシ)天竺(テンヂク)佛性國ニ。一ノ大外道(ゲダウ)アリ。名テ大曇(ドン)王ト云リ。三界ニアラユル所ノ大外道也。佛~三寳王法ヲ穢(ケガ)シ妨(サマタグ)ル者也。其國ニ在(イマ)ス。加璃(カリ)(テイ)王ト申ス。彼王比曇(ヒドン)王ヲ責殺(セメコロシ)テ肉(ニク)ヲ還丹(ゲンタン)ト云藥ニ煉(ネツ)テ國土ノ人民ニ與(アタ)ヘ玉フ。是ヲ食服スルニ人民悉(コト/゛\)ク若(ワカ)キニ帰(カヘ)リ病(ヤマヒ)アル者ハ。即(スナハ)チ治(イヘ)(ソレ)ヨリ國土豊饒(ブネウ)ニシテ長命(メイ)富貴(フツキ)也。其ヨリ請ケ續(ツイ)デ三國ニ是ヲ用ナリ。七日ニ七種(シユ)(コナカキ)スル事彼大曇王ガ肉皮(ニクヒ)ヲ切集(キリアツメ)テ肉(ニク)還丹(ゲンタン)ニセシ姿(スガタ)也。是ヲ五節供ノ始ニシテ。一切ノ人民ノ命ヲ延ルト也。惣シテ五節句ハ曇王ガ政事ナリ。正月七日ヲ人日ト云ヒ。三月三日ヲ仙源(センゲン)ト云。五月五日ヲバ端午(タンゴ)ト云。七月七日ヲ七夕(セキ)ト云。九月九日ヲバ重陽ト云ナリ。皆( ナ)々其日々々ニ子細アリ。〔上1オ八〜ウ八〕

とあって、標記語「朔日」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

朔日(さくじつ)元三(ぐわんさん)の次(つゐて)を以(もつ)て急(いそ)ぎ申す可(へき)の處(ところ)朔日无三之処朔日ハ元日なり。元三といへるも元日の事なり。元日ハ年の初月乃初日の物なるゆへ三ツのはじめといふこゝろにて元三といふ。元ハはじめとよめり。〔2オ一〜三〕

とあって、この標記語「朔日」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そも/\)歳初(としのはじめの)朝拜(てうハい)()朔日(さくしつ)元三(くわんさん)之()次(ついて)を以(もつて)急(いそ)き申(まう)す可()き之()處(ところ)人々(ひとびと)子日(ねのひ)の遊(あそび)に駈(かり)催(もよふ)さ被()る之()間(あひだ)思(おも)ひ乍(ながら)延引(えんいん)す歳初朝拜者朔日无三之處被-催人々子日之間乍思延-▲朔日元三とハ只(たゝ)元日(くハんしつ)といふ事にて朔日ハ年の元月(はじめ)の元日(はじめ)乃元(はじめ)なれハ元三とハいふなり。〔1オ六、1ウ二〕

(そも/\)歳初(としのはじめの)朝拜(てうハい)()(もつて)朔日(さくじつ)无三(むさん)の次(つぎ)を急(いそぎ)(まうす)(べき)()(ところ)(るゝ)(かけら)-催人々子日(ねのひ)の遊(あそび)()(あひだ)(ながら)(おもひ)延引(えんいん)▲朔日元三とハ只(たゝ)元日(くわんしつ)といふ事にて朔日ハ年(とし)の元月(はしめ)の元日乃元なれハ元三(くわんさん)とハいふなり。〔1ウ二、2オ一〕

とあって、標記語「朔日」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Faru.サクジツ(朔日) Tcuitachi(朔)に同じ.月の最初の日.〔邦訳547l〕

とあって、標記語「朔日」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さく-じつ〔名〕【朔日】陰暦にて、月の第一の日。ついたち。詩經、小雅、祈父之什、十月之交篇「十月之交、朔日辛卯、日有之」〔788-1〕

とあって、標記語「さく-じつ朔日】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「さく-じつ朔日】〔名〕その月の第一日。ついたち。朔月(さくげつ)。朔」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
参河守範頼朝臣、去朔日使者、今日參著、献書状去月廿七日入洛《訓み下し》参河ノ守範頼ノ朝臣ノ、去ヌル朔日ノ使者、今日参著シテ、書状ヲ献ズ。去ヌル月ノ二十七日ニ入洛ス。《『吾妻鑑』元暦元年九月十二日の条》
 
 
2006年02月16日(木)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
朝拜(テウハイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「天」部に、

朝拜(ハイ) 。〔元亀二年本244七〕〔静嘉堂本282六〕〔天正十七年本中70オ四〕

とあって、標記語「朝拜」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月十五日の状に、

抑歳初朝拜以朔日无三次可急申之處被駈催人々子日遊之間乍思延引〔至徳三年本〕

抑歳初朝拜以朔日无三次可急申之處被駈催人々子日遊之間乍思延引〔宝徳三年本〕

抑歳初朝拜以朔日无三次可急申之處被駈催人々子日遊之間乍思延引〔建部傳内本〕

歳初朝拜朔日无三之處被-催人々子日之間乍思延-〔山田俊雄藏本〕

歳初朝拜朔日无三之處被-催人々子日之間乍思延-〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「朝拜」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「朝拜」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「朝拜」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

朝拜(テウハイ/アシタ、ヲガム)[平・去]。〔態藝門733六〕

とあって、標記語「朝拜」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、標記語「朝拜」の語は未収載にする。また。易林本節用集』に、

朝恩(テウオン) ―威()―拜(ハイ)。―敵(テキ)。〔言語門166一〕

とあって、標記語「朝恩」の熟語群に「朝拜」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』『運歩色葉集』に標記語「朝拜」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

004抑歳初朝拜 抑決前称-後辞也。朝-拜天子必天明ヲシ四方云々。又臣トシテ出-仕云也。然石見守謂也。廣心得也云々。 〔謙堂文庫蔵三左I〕

とあって、標記語「朝拜」の語を収載し、「朝拜は、天子必ず天明に冠をし四方の星を拜し天を拜す云々。又、臣として君に出仕爲るを云ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

歳初朝拜朔日无三之處被-催人々子日之間乍思延-ト云事モ。ツツシミニ政( ツリ)ヲスレバ。如此富貴萬福幸(サイハ)ヒ甚(ハナハダ)アリト也。甚ト云ハ。イクバクト云ハントテナリ。〔上4オ六〜七〕

とあって、標記語「朝拜」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(そも/\)歳初(としのはじめ)()朝拜(てうハい)()歳初朝拜。抑ハ発語(はつこ)の詞にて扨はなとゝ云意なり。朝拜ハ舊注(ふるきちう)に正月元日辰の時天子大極殿(たいこくてん)にて行なハせ玉ふ事也と云り。しかるへき事なれとも、かくてハ下の文義解(ぶんきけ)すへからす今一躰(いつたい)乃文義を以て考(かんか)ふるに、石見守(いわミのかミ)か許(もと)へ年始(ねんし)のよろこひに行事を云に似たり。されと朝拜とあれは如何(いかゝ)。〔1ウ六〜2オ一〕

とあって、この標記語「朝拜」の語を収載し、語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そも/\)歳初(としのはじめの)朝拜(ちやうはい)()朔日(さくじつ)元三(くハんさん)之()次(ついて)を以(もつて)急(いそ)き申(まう)す可()き之()處(ところ)人々(ひとびと)子()の日()の遊(あそひ)に駈(かり)催(もよふ)さ被()る之()間(あひだ)思(おも)ひ乍(なから)延引(えんいん)す歳初朝拜朔日无三之處被-催人々子日之間乍思延-▲朝拜ハ朝賀(ちやうが)(とも)奏賀(さうが)ともいふ。臣下(しんか)(とし)乃始(はしめ)に君(きミ)を拝(はい)し奉(たてまつ)る事なり。〔1オ六・1ウ一・二〕

(そも/\)歳初(としのはじめの)朝拜(てうハい)()(もつて)朔日(さくじつ)无三(むさん)の次(つぎ)を急(いそぎ)(まうす)(べき)()(ところ)(るゝ)(かけら)-催人々子日(ねのひ)の遊(あそび)()(あひだ)(ながら)(おもひ)延引(えんいん)▲朝拜ハ朝賀(てうか)共奏賀(そう )共いふ。臣下(しんか)(とし)乃始(はしめ)に君(きミ)を拝(はい)し奉る事なり。〔1ウ二・1ウ六〜2オ一〕

とあって、標記語「朝拜」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Cho>fai.テウハイ(朝拜) Axita vogamu.(朝拝む)朝早く行なう礼拝.〔邦訳126r〕

とあって、標記語「朝拜」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

てう-はい〔名〕【朝拜】みかどをがみ。てうが(朝賀)に同じ。朝拜なき年に、清凉殿の東庭にて、殿上人の拝賀するを、小朝拜(コテウハイ)と云ふ。(昔は大極殿にて、後には清凉殿の庭上にて)。李商隱、中元詩「節飄?空國來、中元朝拜上清廻」式部省式、上「凡賀正之日、云云、皆聽朝拜源氏物語、七、紅葉賀9「男君の朝拜にまゐり給ふとて、さしのぞき給へり」」〔1350-4〕

とあって、標記語「てう-はい朝拜】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「てう-はい朝拜】〔名〕元旦に天皇が大極殿で諸臣の年賀を受ける儀式。平安中期に廃絶。また、地方の国衙や寺院でも宮中にならって行なわれた。みかどおがみ。朝賀。→小朝拜」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
藤原兼家)以下於陣座令奏朝拝事、勅答、去年皇居非例、《『小右記』天元五年一月一日の条・1/1 1》
 
 
2006年02月15日(水)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
幸甚(カウジン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

幸甚(カウジン) 。〔元亀二年本95七〕

幸甚(カウヂン) 。〔静嘉堂本119一〕

幸甚(カウシン) 。〔天正十七年本上58ウ三〕×〔西來寺本〕

とあって、標記語「幸甚」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

富貴万wP以幸甚々々〔至徳三年本〕

富貴万wP以幸甚々々〔宝徳三年本〕

富貴万wP以幸甚々々〔建部傳内本〕

富貴万_幸甚々々〔山田俊雄藏本〕

富貴万_幸甚々々〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「幸甚」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「幸甚」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「幸甚」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

幸甚(カウジン/サイワイ、ハナハダシ)[上・上去]。〔態藝門299四〕

とあって、標記語「幸甚」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、標記語「幸甚」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

幸甚(ジン)。〔言語門77七・天理図書館蔵本上39オ七〕

とあって、標記語「幸甚」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』・『運歩色葉集』・易林本節用集』に標記語「幸甚」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

003富貴万_幸甚々々 富財也。位也。米錢充-滿シテ分限貴。又者云高位也。万aB在徳也。幸甚道之外ニシテ善事有ルヲ。自本得善-道也。不シテ善而得是道ニシテ而幸也。言冨貴ルハmK-甚也。〔謙堂文庫蔵三左F〕

とあって、標記語「幸甚」の語を収載し、「幸甚は、道の外にして、善事有るを云ふぞ」と語注記する。

 古版庭訓徃来註』では、

富貴(フツキ)(バンブク)(ナヲ)幸甚(カウジン)々々ト云事モ。ツツシミニ政( ツリ)ヲスレバ。如此富貴萬福幸(サイハ)ヒ甚(ハナハダ)アリト也。甚ト云ハ。イクバクト云ハントテナリ。〔上4オ六〜七〕

とあって、標記語「幸甚」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

富貴(ふうき)(はんぶく)(なを)(もつて)幸甚(かうじん)幸甚(/\)富貴万_幸甚々々。是ハかぎりもなく祝ひたる詞なり。財宝(さいほう)(ゆた)かなるを冨(とみ)と云。位官(きくわん)(たか)きを貴と云。萬福はよろつのさいわい。幸甚ハさいわいはなハたしと訓す。〔1ウ三〜五〕

とあって、この標記語「幸甚」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

富貴(ふうき)(はんぶく)(なを)(もつて)幸甚(かうじん)幸甚(/\)冨貴万猶以幸甚々々▲富貴万福以幸甚々々ハ先方(せんはう)を愛(めで)たく祝(いは)ひたる詞(ことハ)なり。〔1オ五、六〕

富貴(ふうき)(まんふく)(なほ)(もつて)幸甚(かうしん)幸甚(/\)▲富貴万福以幸甚々々ハ先方(せんはう)を愛(めで)たく祝(いは)ひたる詞(ことハ)なり。〔1オ五〜1ウ一、二〕

とあって、標記語「幸甚」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Co<jin.カゥジン(幸甚) Saiuai fanafada.(幸甚)祝辞を述べたり、良い事を祈念したりする際に用いる言葉.文書語.〔邦訳143r〕

とあって、標記語「幸甚」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かう-じん〔名〕【幸甚】幸(さいはひ)なること甚し。しあはせよし。かたじけなし。いとほし。至幸。史記、淮陰侯傳「何(蕭何)曰、幸甚李陵、答蘇武書「榮問休暢、幸甚幸甚明衡徃來、上、正月「改年之後、富貴萬aA幸甚幸甚〔343-3〕

とあって、標記語「かう-じん幸甚】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「こう-じん幸甚】〔名〕(形動タリ)ひじょうにありがたいこと。なによりのしあわせ。多く手紙文に用いられる」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
今有恩問、名稱万歳、況於宣義、万死々々、望窺縦(従)容、被上啓者、幸甚々々、宣義一生之恥者、厭(圧)臥顛倒之屋底、《『小右記』長和四年五月二五日の条4/33・54》
 
 
2006年02月14日(火)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
萬福(バンプク)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、「萬歳(バンゼイ)マンサイ。萬端(タン)。万悦(エツ)。万幸(カウ)。万方(バウ)。万々(バン/\)」の語を収載し、標記語「萬福」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

福貴万福猶以幸甚々々〔至徳三年本〕

富貴万福猶以幸甚々々〔宝徳三年本〕

冨貴萬福猶以幸甚々々〔建部傳内本〕

冨貴萬福_以幸甚々々〔山田俊雄藏本〕

富貴万福_幸甚々々〔経覺筆本〕

富貴万福_以幸甚々々〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「萬福」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「萬福」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「萬福」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

功勞(コウラウ)アルモノハ(クライ)(タトク)忠列(チウレツ)アルモノハ()(ゾン)ジテ(ウルオイ)(ツタワル)子孫(シソン)(せイ)(トク)之興(ヲコル)(ヤマノ)(タカキ如ク)(ヒノ)(ノボル如ク)萬福(バンフク)(コレ)(アタル)/大唐中興頌。〔態藝門678八〕

とあって、標記語「萬福」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

万福(フク) 。〔弘治・言語進退門上26七〕

万里(ハンリ) ―機(ハンキ)。―嶋(タウ)。―端。―乗(せウ)天子部。―雉()城名―福(フク)。―事()。〔永祿本・言語門上21九〕

万里(ハンリ) ―機。―嶋。―端。―乗天子部。―雉城名―福。―事。〔尭空本・言語門上19八〕

とあって、標記語「萬福」の語を収載する。また、易林本節用集』に、標記語「萬福」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』、弘治二年本に標記語「萬福」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

003富貴_以幸甚々々 富財也。位也。米錢充-滿シテ分限貴。又者云高位也。万aB在徳也。幸甚道之外ニシテ善事有ルヲ。自本得善-道也。不シテ善而得是道ニシテ而幸也。言冨貴ルハmK-甚也。〔謙堂文庫蔵三左F〕

とあって、標記語「萬福」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

富貴(フツキ)(バンブク)(ナヲ)幸甚(カウジン)々々ト云事モ。ツツシミニ政( ツリ)ヲスレバ。如此富貴萬福幸(サイハ)ヒ甚(ハナハダ)アリト也。甚ト云ハ。イクバクト云ハントテナリ。〔上4オ六〜七〕

とあって、標記語「萬福」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

富貴(ふうき)(はんぶく)(なを)(もつて)幸甚(かうじん)幸甚(/\)富貴_以幸甚々々。是ハかぎりもなく祝ひたる詞なり。財宝(さいほう)(ゆた)かなるを冨(とみ)と云。位官(きくわん)(たか)きを貴と云。萬福はよろつのさいわい。幸甚ハさいわいはなハたしと訓す。〔1ウ三〜五〕

とあって、この標記語「萬福」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

富貴(ふうき)(はんぶく)(なを)(もつて)幸甚(かうじん)幸甚(/\)冨貴猶以幸甚々々▲富貴万福以幸甚々々ハ先方(せんはう)を愛(めで)たく祝(いは)ひたる詞(ことハ)なり。〔1オ五、六〕

富貴(ふうき)(まんふく)(なほ)(もつて)幸甚(かうしん)幸甚(/\)▲富貴万福以幸甚々々ハ先方(せんはう)を愛(めで)たく祝(いは)ひたる詞(ことハ)なり。〔1オ五〜1ウ一、二〕

とあって、標記語「萬福」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Banbucu.バンブク(万福) 例,Fucqui banbucu.(富貴万福)あらゆる繁栄と幸運と.※本書の一般表記法ではFucqi.〔邦訳48l〕

とあって、標記語「萬福」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ばん-ふく〔名〕【萬福】qスきこと。幸の足らひたること。多幸。詩經、「小雅、白華之什、篇「和鸞湊湊萬福同」韓愈、與孟尚書書「眠食何似、伏惟萬福」」〔1627-5〕

まん-ぷく〔名〕【萬福】ばんぷく(萬)に同じ。萬福長者」〔1903-5〕

とあって、標記語「ばん-ふく萬福】→まん-ぷく萬福】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ばん-ぷく萬福】〔名〕(「ばんぶく」とも)幸福の多いこと。多くのしあわせ。人の健康を祝う時にもいう。まんぷく」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
天晴風和、三春初属、万福弥富、毎事幸甚々々、中納言殿 《『民経記』天福元年一月一日の条6/1・1》
 
 
2006年02月13日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
冨貴(フッキ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「福」部に、

冨貴(フツキ)。〔元龜本224六〕〔静嘉堂本257三〕〔天正十七年本中57ウ五〕

とあって、標記語「冨貴」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

福貴万福猶以幸甚々々〔至徳三年本〕

富貴万wP以幸甚々々〔宝徳三年本〕

冨貴萬福猶以幸甚々々〔建部傳内本〕

冨貴萬福猶_以幸甚々々〔山田俊雄藏本〕

富貴万福猶_幸甚々々〔経覺筆本〕

富貴万_以幸甚々々〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本に「福貴」、宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「冨貴」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「冨貴」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「冨貴」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

冨貴(フウキ/トミ、タトシ)[去・去]。〔態藝門636三〕

とあって、標記語「冨貴」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

冨貴(フツキ) 。〔弘治・言語進退門182八〕

冨貴(フツキ) ―宥(フクユウ)。〔永祿本・言語門149六〕

冨貴(フツキ) ―宥。〔尭空本・言語門139五〕

とあって、標記語「冨貴」の語を収載する。易林本節用集』に、

富貴(フキ) ―有(イウ)。―宥(イク)。〔言辞門636三〕

とあって、標記語「富貴」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・十巻本伊呂波字類抄』に標記語「冨貴」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

003富貴_以幸甚々々 富財也。位也。米錢充-滿シテ分限貴。又者云高位也。万aB在徳也。幸甚道之外ニシテ善事有ルヲ。自本得善-道也。不シテ善而得是道ニシテ而幸也。言冨貴ルハmK-甚也。〔謙堂文庫蔵三左F〕

とあって、標記語「冨貴」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

富貴(フツキ)(バンブク)(ナヲ)幸甚(カウジン)々々ト云事モ。ツツシミニ政( ツリ)ヲスレバ。如此富貴萬福幸(サイハ)ヒ甚(ハナハダ)アリト也。甚ト云ハ。イクバクト云ハントテナリ。〔上4オ六〜七〕

とあって、標記語「冨貴」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

富貴(ふうき)(はんぶく)(なを)(もつて)幸甚(かうじん)幸甚(/\)富貴_以幸甚々々。是ハかぎりもなく祝ひたる詞なり。財宝(さいほう)(ゆた)かなるを冨(とみ)と云。位官(きくわん)(たか)きを貴と云。萬福はよろつのさいわい。幸甚ハさいわいはなハたしと訓す。〔1ウ三〜五〕

とあって、この標記語「富貴」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

富貴(ふうき)(はんぶく)(なを)(もつて)幸甚(かうじん)幸甚(/\)冨貴猶以幸甚々々▲富貴万福以幸甚々々ハ先方(せんはう)を愛(めで)たく祝(いは)ひたる詞(ことハ)なり。〔1オ五、六〕

富貴(ふうき)(まんふく)(なほ)(もつて)幸甚(かうしん)幸甚(/\)▲富貴万福以幸甚々々ハ先方(せんはう)を愛(めで)たく祝(いは)ひたる詞(ことハ)なり。〔1オ五〜1ウ一、二〕

とあって、標記語「冨貴」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

‡Fu<qi.フゥキ(冨貴) →Xixei(死生).〔邦訳279r〕

とあって、標記語「冨貴」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ふう-〔名〕【冨貴】冨(とみ)と、貴(たふと)きと。又、財多くして位高きこと。フッキ。論語、顔淵篇「子夏曰、商聞之矣、死生有命、富貴在天」淮南子、精神訓「君子義死、而不可以死亡恐也、彼則直爲義耳」周茂叔、愛蓮説「牡丹華之冨貴者也」薫風雜話(澁川時英)二「後世、俗儒、軒銖にし、冨貴を塵芥にす太祇の句「低く居て、富貴を保つ、牡丹かな」〔1473-4〕

ふッ-〔名〕【冨貴】ふうき(冨貴)の音便。その條を見よ。平家物語、一、妓王事「毎月に、百石百貫おくられたりければ、家内冨貴して、樂しい事なのめならず」謡曲、猩猩「時去り時來りけるにや、次第次第に富貴の身となりて候」〔1761-5〕

とあって、標記語「ふっ-冨貴】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ふっ-冨貴】〔名〕(形動)「ふうき(富貴)@」に同じ」→ふう-冨貴】〔名〕@(形動)富んで貴いこと。財産が豊かで位の高いこと。ふっき。ふき。A古く、祥瑞(しょうずい)とされた想像上の鳥。鳥の形をして獸の頭を持つ。B「ふうきぐさ(冨貴草)」の略」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
富貴於浮雲。誠天與也。比蕪穢於曩日。難地忍之。《訓読》富貴(ふうき)を浮雲(うきぐも)に喩(たと)ふ、誠(まこと)に天の與(あた)ふるなり。《『本朝文粹』卷第一、賦・樹木の条》
 
 
2006年02月12日(日)晴れ。大阪→東京(駒沢)
(いはひ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、標記語「」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

春始御喜向貴方先申候訖〔至徳三年本〕

春始御喜向貴方先申候訖〔宝徳三年本〕

春始御ス向貴方先申候畢〔建部傳内本〕

御ス向貴方候訖〔山田俊雄藏本〕

御ス貴方候畢〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(コン/ケン・タテマツル)[去]ノ(イハヒ/シユクケン)[去]。〔態藝門692五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に標記語「」で「いはふ」の語訓ではあるが、「いはひ」の語訓は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』に標記語「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

002向貴方ニ|申候畢 貴方トハ上云。又指石見守歟。 〔謙堂文庫蔵三左F〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記に「『~農本草』に云く、春・夏を陽と爲す、秋・冬を陰と爲す。春は、蠢なり。言は、冬悉く陰に窮り、春に至り万物皆蠢くを云ふ義なり。春の始に「新・改」等の字、書かざると雖も春と云ひ、則ち早聞くなり。始とは春は三月、九十日なる間、只春のスびを計り書く。則ち時節を聞ず。故に始と置き正月の明むの義なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

向貴方ニ|(イハヒ)ト云ハ。其年ノ遊年ノ方ト云アリ。其方ハ、目出度方也。彼(カノ)方ヨリ。年コ來ルト也。去レハ正月ノ神ハ女體(タイ)也。盤古(バンコ)大王ノ乙姫(ヲトヒメ)ナリ。本地文殊(ジユ)師利(シリ)菩薩(ボサツ)ナリ。正月ノ神ト成給フ。名ヲバ待達(タイタツ)神ト申奉ル。彼(カノ)神ノ遊(アソビ)玉フ方也。彼(カノ)方ニハ。正月ニハ疾()ク向テ一切ノ祈誠(キセイ)ヲスル也。去程貴方トハ云ナリ。〔上4オ四〜六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

春(はる)の始(はじめ)の御ス(おんよろこび)貴方(きほう)に向(むか)ひて先(まづ)(いわ)申(もうし)候(さふら)ひ畢(おわん)ぬ御ス向貴方申候。貴方とハめてたき方なり。此方より年コ(としとく)來るとそ。今明(あき)の方といえることし。畢(ひつ)ハ詞(ことは)の言終(いひおハ)りたる時置字(おくじ)なり。又その事を既(すで)に成()し終(おは)りたりといふ。意(こゝろ)を含(ふく)めり。訖(きつ)の字を書たるもかはる事なし。〔1ウ二〜四〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

春(はる)の始(はじめ)の御ス(おんよろこび)貴方(きほう)に向(むか)ひて先(まづ)(いわ)申(もうし)候(さふら)ひ畢(おわん)ぬ御ス貴方申候畢冨貴万猶以幸甚々々〔75ウ四〕

御ス向貴方申候富貴万_以幸甚々々〔136ウ五〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iuai.イハヒ(祝) 祝典・祭礼,または,盛儀.〔邦訳347r〕

とあって、標記語「」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いはひ-〔名〕【】祝(いは)ふこと。ことほぎ。賀。壽。源氏物語、二十三、初音「齒固のいはひして」〔0202-1〕

とあって、標記語「いはひ-【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「いはひ-【】〔名〕(動詞「いわう(斎)」の連用形の名詞化)[一](斎)けがれを忌み、心身を清淨にして神をまつること。A神まつる場所。また、その人。いわいの宮。いわいぬし。いわいびと。B大切にかしずき育てること。[二](祝)@祝うこと。祝賀。祝賀の行事。A祝って贈る品物。ひきでもの。祝儀。また、祝って述べることば。B目ぼしい人物が乗車することをいう、すり仲間の隠語。Cリンゴの一品種」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
相議云、去夜有夢想、今思管冠者滅亡預明神之罸歟《訓み下し》相ヒ議シテ云ク、去ヌル夜ノ夢想有リ、今菅ノ冠者ガ滅亡ヲ思フニ明神ノ罰ヲ預カルカ。《『吾妻鑑』治承四年九月十日の条》
 
 
貴方(キハウ)」は、ことばの溜池(2003.06.11)を参照。
 
2006年02月11日(土)晴れ。武庫川(MKCR)→大阪→東京(駒沢)
(よろこ・び)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「与」部に、

(ヨロコブ)()()() 。〔元亀二年本134四〕〔静嘉堂本141一〕

(ヨロコフ)()()() 。〔天正十七年本中2ウ六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

春始御向貴方先祝申候訖〔至徳三年本〕

春始御向貴方先祝申候訖〔宝徳三年本〕

春始御向貴方先祝申候畢〔建部傳内本〕

貴方候訖〔山田俊雄藏本〕

貴方候畢〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ヨロコフ()慶怡()喜欣(キン)(クワン)忻愉賀輿廿膀主似叶折識嬉快澤夷賞憙已上悦。〔黒川本・人事門上93ウ八〕

ヨロコフ欣慶嘉輿意意澤樂廿似叶嬉頼快澤夷賞已上ヨロコフ。〔卷第一・人事門348三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(ヨロコブクワン)()()()()()()()X() 。〔態藝門327五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(ヨロコフ)()()()()X()() 。〔弘治・言語進退門上92五〕

(ヨロコブ)喜欣怡X。〔永祿本・言語門上89二〕

(ヨロコブ)喜欣怡X。〔尭空本・言語門上80九〕

(ヨロコブ)喜欣怡X。〔両足院本・言語門上97六〕

とあって、弘治二年本に標記語「」の語を収載し、他本は標記語「歓」の熟語群として記載する。易林本節用集』に、

(ヨロコフ)()()()() 。〔言語門87一・天理図書館蔵本上44オ一〕

とあって、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本に標記語「御ス」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

001春始御 ~農本草云、春夏陽、秋冬。春蠢也。言冬悉陰窮、至春万-物皆蠢云義也。春始新改等字、雖書春云則早聞也。始トハ三月、九十日ナル間、只春ス計書則時節不聞。故置明正月之義也。〔謙堂文庫蔵三左D〕

とあって、標記語「御ス」の語を収載し、語注記に「『~農本草』に云く、春・夏を陽と爲す、秋・冬を陰と爲す。春は、蠢なり。言は、冬悉く陰に窮り、春に至り万物皆蠢くを云ふ義なり。春の始に「新・改」等の字、書かざると雖も春と云ひ、則ち早聞くなり。始とは春は三月、九十日なる間、只春のスびを計り書く。則ち時節を聞ず。故に始と置き正月の明むの義なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(ハルノ)(ハジメノ)(ヨロコビ)ト云事。正月朔日ノ御節會(せチヱ)也。子ノ日()ノ祭(マツリ)ト云リ。彼(カノ)ノ辰(タツ)ノ時ニ。~歌(カグラ)ヲ詠(ウタ)ヒ。政(マツリ)ヲシ給フ也。根引(ネビキ)の松ナレバネビキト云ントテ子ノ日ト云也。是ヲ春ノ始ノ御悦ト云ヒツヾケタリ。〔上4オ二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

春(はる)の始(はじめ)の御(おんよろこび)貴方(きほう)に向(むか)ひて先(まづ)祝(いわ)ひ申(もうし)候(さふら)ひ畢(おわん)ぬ貴方先祝申候。貴方とハめてたき方なり。此方より年コ(としとく)來るとそ。今明(あき)の方といえることし。畢(ひつ)ハ詞(ことは)の言終(いひおハ)りたる時置字(おくじ)なり。又その事を既(すで)に成()し終(おは)りたりといふ。意(こゝろ)を含(ふく)めり。訖(きつ)の字を書たるもかはる事なし。〔1ウ二〜四〕

とあって、この標記語「御ス」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

春(はる)の始(はじめ)の御(おんよろこび)貴方(きほう)に向(むか)ひて先(まづ)祝(いわ)ひ申(もうし)候(さふら)ひ畢(おわん)ぬ貴方先祝申候畢冨貴万猶以幸甚々々〔75ウ四〕

貴方先祝申候富貴万_以幸甚々々〔136ウ五〕

とあって、標記語「御ス」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yorocobi.ヨロコビ(喜) 喜び.例,Yorokobi mini amaru.(喜び身に余る)喜びを包みきれない.→Amari;Fucumi,u;Naxi,su;Togue,ru.〔邦訳830l〕

とあって、標記語「喜」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

よろこび〔名〕【】(一)よろこぶこと。~代紀、下、29「中心欣處(ココロノヨロコビ)(慶)」、何日忘之」(二)ことほぎ。いはひ。祝ひごと。宇津保物語、國讓、中75「今度(こたみ)よろこびをし侍りぬるこそ、祐澄喜びには思ひ給ふれ」(三)禮を云ふこと。謝禮。源氏物語、四十三、竹川41「このかをる中將は中納言に、云云、中納言の御よろこびに、さきの内侍のかんの君に、參り給へり」「よろこび(まうし)悦の道とは、下向の道の意。源平盛衰記、十一、小松殿熊野詣事「胸打騒思けれども、人にも語らず、左右なく大臣にも不申、御スの道になり給ふ」〔1473-4〕

とあって、標記語「よろこび】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「よろこび】〔名〕(動詞「よろこぶ(喜)の連用形」の名詞化)@快く思うこと。心にうれしさを感じること。Aよろこぶべきこと。慶賀すべきこと。慶事。B特に、叙位、任官、昇任などの慶事。C出産という慶事。D人の慶事に対する祝賀。また、その祝辞。E与えられた慶事や好意などについてのお礼。また、その謝辞。Fなぐるか切りつけるかして、人に危害を加えることをいう、盗人仲間の隠語。〔隠語輯覧(1915)〕」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
重國、乍、憚世上之聽、招于庫倉之内、密密羞膳動《訓み下し》重国、喜ビナガラ、世上ノ聴ヲ憚リ、庫倉ノ内ニ招キテ、密密ニ膳ヲ羞メ動フ。《『吾妻鑑』治承四年八月二十六日の条》
 
 
2006年02月10日(金)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
(はる)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、標記語「」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

始御喜向貴方先祝申候訖〔至徳三年本〕

始御喜向貴方先祝申候訖〔宝徳三年本〕

始御ス向貴方先祝申候畢〔建部傳内本〕

御ス向貴方候訖〔山田俊雄藏本〕

御ス貴方候畢〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ハル 四時之首也 韶景(ケイ) 艶陽(エンヤウ) 孟春正月名 韶(せウ)光/仲春二月名 沽洗三月名 曲水コクスイ 三月三日名。〔黒川本・天象門上16オ七〕

ハル。〔卷第一・天象門138四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

(ハル) 異名 青帝(セイテイ) 東君 青陽 麗景(レイケイ)。〔時節門27二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(ハルシユン)異名。守春。神名東皇。東帝。東君。東王。青皇。青帝。大旻。勾芒。花月。花春。上月。青陽。麗景。三陽。韶光。芳春。玉春。三春。万春。孟春。青律。陽春。和陵。和暖。青天。歳元。陽月。暖律。律。〔時節門51六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(ハル) 。〔弘治・時節門17五〕

異名。青帝。東君/青陽。麗景。〔永祿本・時節門16一〕

(ハル) 異名。青帝。東君/青陽。麗景。〔尭空本・時節門14三〕

異名。青帝。東君/青陽。麗景。〔両足院本・時節門上16四〕

とあって、易林本節用集』に、

ハル。〔乾坤門14二・天理図書館蔵上7ウ二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

001始御ス ~農本草云、春夏陽、秋冬。春蠢也。言冬悉陰窮、至春万-物皆蠢云義也。春始新改等字、雖書春云則早聞也。始トハ三月、九十日ナル間、只春ス計書則時節不聞。故置明正月之義也。〔謙堂文庫蔵三左D〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記に「『~農本草』に云く、春・夏を陽と爲す、秋・冬を陰と爲す。春は、蠢なり。言は、冬悉く陰に窮り、春に至り万物皆蠢くを云ふ義なり。春の始に「新・改」等の字、書かざると雖も春と云ひ、則ち早聞くなり。始とは春は三月、九十日なる間、只春のスびを計り書く。則ち時節を聞ず。故に始と置き正月の明むの義なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(ハルノ)(ハジメノ)(ヨロコビ)ト云事。正月朔日ノ御節會(せチヱ)也。子ノ日()ノ祭(マツリ)ト云リ。彼(カノ)ノ辰(タツ)ノ時ニ。~歌(カグラ)ヲ詠(ウタ)ヒ。政(マツリ)ヲシ給フ也。根引(ネビキ)の松ナレバネビキト云ントテ子ノ日ト云也。是ヲ春ノ始ノ御悦ト云ヒツヾケタリ。〔上4オ二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(はる)の始(はじめ)の御ス(おんよろこび)貴方(きほう)に向(むか)ひて先(まづ)祝(いわ)ひ申(もうし)候(さふら)ひ畢(おわん)ぬ御ス向貴方先祝申候。貴方とハめてたき方なり。此方より年コ(としとく)來るとそ。今明(あき)の方といえることし。畢(ひつ)ハ詞(ことは)の言終(いひおハ)りたる時置字(おくじ)なり。又その事を既(すで)に成()し終(おは)りたりといふ。意(こゝろ)を含(ふく)めり。訖(きつ)の字を書たるもかはる事なし。〔1ウ二〜四〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(はる)の始(はじめ)の御ス(おんよろこび)貴方(きほう)に向(むか)ひて先(まづ)祝(いわ)ひ申(もうし)候(さふら)ひ畢(おわん)ぬ御ス貴方先祝申候畢冨貴万猶以幸甚々々▲春始ハ即(すなハち)歳首(としのはじめ)也。〔75ウ四〕

御ス向貴方先祝申候富貴万_以幸甚々々▲春始ハ即(すなハち)歳首(としのはじめ)也。〔136ウ五〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Faru.ハル(春) 春.※日仏辞書に文書語を示すS.を付しているのは誤り.〔邦訳210l〕

とあって、標記語「」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

はる〔名〕【】〔萬物、發()る候なれば云ふと云ふ〕一年、四時の一。冬の次、夏の前にて、(舊は、一、二、三月、今は三、四、五月にあたる)草木發生の候なり。又、草木の芽張ること。(二十四氣(ニジフシキ)の條を見よ)倭名抄、一9歳時部「、正月、初春、二月、仲春、三月、暮春」~代紀、上27「素盞嗚尊、(ハルハ)則重撫種子(シキマキシ)、云云、秋(アキハ)則放天班駒使田中~代紀、18「二年二月、甲辰朔、乙巳」萬葉集、五17「波流(ハル)さらば、あはむともひし、梅の花、今日の遊に、あひ見つるかも」同、同17「梅の花、今さかりなり、百鳥の、聲のこほしき、波流(ハル)きたるらし」同、十七26長歌「春花の、咲けるさかりに、思ふどち、手折りかざさず、波流(ハル)の野の、繁み飛びぐく、鶯の、聲だに聞かず、少女らが、わか菜つますと、くれなゐの、赤裳の裾の、波流(ハル)さめに、にほひづちて、通ふらむ、時のさかりを」伊勢物語、第四段「月やあらぬ、や昔の、ならぬ、吾が身ひとつは、もとの身にして」古今集、一、春、上「くれば、雁かへるなり、白雲の、道行きぶりに、言やつてまし」同、同「霞立ち、木の芽もはるの、雪降れば、花なき里も花ぞ散りける」〔3-943-2〕

とあって、標記語「はる】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「はる-【】[一]〔名〕@四季の一つ。現在では三、四、五月、旧暦では一、二、三月をいう。天文学的には春分から夏至の前日までをいい、二十四節気では立春から立夏の前日までをいう。《季・春》A(旧暦では立春と新年がほぼ同じであるところから)特に、新年。正月。新春。初春(はつはる)。B人生の中で、勢いの盛んな時。得意の時。最盛期。「春を謳歌する」「わが世の春」C思春期。青年期。青春。また、その頃の性的感情。「春のめざめ」[二]小説。島崎藤村作。明治四一年(一九〇八)発表。主人公岸本捨吉の教え子勝子に対する実りのない恋愛を中心に、理想と現実の矛盾の中で悩む青年たちの姿を描出した自伝的小説。「文学界」同人たちの青春群像を描いたもの」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
武衛爲前右衛門督信頼縁坐、去永暦元年三月十一日、配當國之後、歎而送二十年秋、愁而積四八餘星霜也《訓み下し》武衛ハ前ノ右衛門ノ督信頼ガ縁坐トシテ、去ヌル永暦元年三月十一日ニ、当国ニ配セラルルノ後、歎キテ二十年ノ(ハルアキ)ヲ送リ、愁ヘテ四八余リノ星霜ヲ積ムナリ。《『吾妻鑑』治承四年四月二十七日の条》
 
 
2006年02月09日(木)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
磯部(いそべ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、標記語「磯部」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

十二月三日  越前守礒部〔至徳三年本〕

十二月三日  越前守礒部〔宝徳三年本〕

十二月三日  越前守礒部〔建部傳内本〕

十二月三日  越前守礒部〔山田俊雄藏本〕

十二月三日  越前守礒部〔経覺筆本〕

十二月三日  越前守礒部〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「礒部」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

礒部 イソヘ/已上同。〔黒川本・姓氏門上13ウ二〕

礒部 已上/臣 ヤツコ。〔卷第一・姓氏門119六〕

とあって、標記語「礒部」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「磯部」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・十巻本伊呂波字類抄』に標記語「礒部」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

766十二月三日  越前守磯部(謹上) 〔謙堂文庫蔵六五右H〕

とあって、標記語「磯部」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

十二月三日  越前守(ヱチゼンノカミ)礒部(イソベ)。〔下42ウ五〕

とあって、標記語「磯部」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

十二月三日  越前守(ゑちせんのかミ)磯部(いそべ)十二月三日  越前守磯部。〔103ウ七〕

とあって、この標記語「磯部」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

十二月(じふにぐわつ)三日(ミつか)  越前(ゑちぜん)の守(かミ)磯部(いそべ)十二月三日  越前守磯部▲磯部ハ人皇(にんわう)五十九代宇多(うた)天皇八代の孫(そん)佐々木(さゝき)源三秀義(ひでよし)の三男(なん)三郎盛綱(もりつな)の孫(まこ)太郎信実(のぶざね)の長子(ちやうし)秀忠(ひでたゞ)磯部右兵衛尉と号(ごう)す。是(これ)(その)(はしめ)也。〔75ウ四〕

十二月(しふにぐわつ)三日(ミつか)  越前守(ゑちせんのかミ)磯部(いそべ)▲磯部ハ人皇(にんわう)五十九代宇多(うだ)天皇八代の孫(そん)佐々木(さゝき)源三秀義(ひでよし)の三男(なん)三郎盛綱(もりつな)の孫(そん)太郎信実(のぶざね)の長子(ちやうし)秀忠(ひでたゞ)磯部右兵衛尉と号(ごう)す。是(これ)(その)(はじめ)也。〔136ウ五〕

とあって、標記語「磯部」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「磯部」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「磯邊」のみで標記語「いそ-磯部】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「いそ-磯部磯辺】〔名〕姓氏の一つ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
後日(コウニチ)」は、ことばの溜め池(2001.10.08)を参照。
 
2006年02月08日(水)晴れ後曇り。東京→世田谷(駒沢)
(しかしながら)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

(シカシナカラ) 。〔元亀二年本334四〕〔静嘉堂本398五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

心事雖多難盡紙面期後日〔至徳三年本〕

心事雖多難盡祇()期後日〔宝徳三年本〕

心事雖多難盡帋面期後日〔建部傳内本〕

心事雖紙面後日〔山田俊雄藏本〕

心事雖多難紙面後日〔経覺筆本〕

心事雖紙面(ゴス)()〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

シカシナカラ/必野必姓二反、皆也。〔黒川本・畳字門中37ウ一〕

シカシナカラ/皆也。〔卷第九・辞字門185三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(シカシナガラヘイ)[去] 。〔態藝門1024三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、

(シカシナカラ) 。〔・言語進退門244一〕

(シカシナカラ)。〔・言語門212九〕

(シカシナカラ)。〔・言語門196七〕 

とあって、弘治二年本永祿二年本尭空本に標記語「」の語を収載する。易林本節用集』に、

(シカシナカラ)。〔言辭門219六・天理図書館蔵下42ウ六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・『下學集』・広本節用集』・『運歩色葉集』・弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』の標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。ただし、『下學集』記載の語注記は見えない。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

765一トシテ而无違乱心亊雖紙面後日(候)恐々謹言 〔謙堂文庫蔵六五右F〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

雅意(カイイ)而無違乱(イラン)心事(シンジ)トモ(ヲヽシ)(ツクシ)紙面(シメン)()後日雅意(カイイ)ニ任セト云事ハ。心ノ儘(マヽ)ユル事也。概(カイ)(コトシ)(クタンノ)。〔下42オ四〜42ウ二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

心事(しんじ)(おほし)と雖(いへとも)紙面(しめん)に尽(つくし)(かた)(しかしなから)後日(ごにち)を期()す/心事雖紙面後日字義注解こと/\く前に見へたり。〔103オ七〜103ウ二〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

心事(しんじ)(おほし)(いへとも)紙面(しめん)(つくし)(かた)(しかしなから)後日(ごにち)()心事雖紙面後日〔75ウ四〕

心事(しんじ)(いへとも)(おほし)(かた)(つくし)紙面(しめん)(しかしなから)()後日(ごにち)〔136ウ二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Nanju<.シカシナガラ(併) 結局,すべての場合を通じて,あるいは,言った事のすべてについて,など.例,Xicaxinagara Coyetuo fedatcuruni nitari.(併ら胡越を隔つるに似たり)私が言った事を要約すると,まことに私どもは,互いに遙かに隔たっている胡(Co)と越(Yet)との二国のように,遠ざかり離れている.※併似隔胡越(庭訓往來,二月往状).〔邦訳761l〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味は「結局,すべての場合を通じて,あるいは,言った事のすべてについて,など」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しかし-ながら〔副〕【】〔説文「併、兼也、合也、皆也、列也」然(しか)ながらに、天爾波の強め詞と云ふ、しを加へたる語にて、さしながらなどと、同用法の語か〕しかながら。さながら。それながら。ことごとく。悉皆。一切。日本霊異記、下、第十縁「發火、惣家皆悉燒滅」訓注「惣家、シカシナガラ類聚名義抄、「、ナラブ、シカシナガラ」又「並、シカシナガラ」欽明紀、六年九月「普天之下、一切(シカシナガラ)衆生、皆蒙解脱平家物語、二、烽火事「重盛、始め、敍爵より、今、大臣の大將に至る迄、併しながら、君の御恩ならずと云ふ事なし」古今著聞集、二、釋教「此事は、もと我思寄りたるにあらず、仰せられし旨を聞きて、おのづから發願して、大功をなしたる、しかしながら、御恩なり」同、三、政道忠臣、末條「殿下、故なく流されさせ給ひし事は、しかしながら、平太政入道の強行にて侍りけるに」沙石集、一、下、第八條「その~は、只、古き釜なり、云云、靈、何の所にか有と云て、しかしながら、打くだきてけり」庭訓往來、二月「參會之次伊達政宗感状之文「敵數輩討捕、得勝利、一段感悦候、、忠節無比類事、至子孫可申傳候」平家物語、三、燈籠事「謀叛の企、候ひし事、全く私の計略にあらず、、君、御許容あるに依てなり」字鏡、84「傾城、擧城也、城、志加志奈加良〔0879-4〕

とあって、標記語「しかし-ながら】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しかし-ながら併乍然乍】[一]〔副〕@そのまま全部。全部そっくり。すべて。さながら。ことごとく。さしながら。Aけっきょく。要するに。[二]〔接続〕先行の事柄に対し、後行の事柄が反対、対立の関係にあることを示す(逆接)。しかし。だが。さりながら」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
可依此經八百部讀誦之加被〈云云〉《訓み下し》是レ併シナガラ此ノ経八百部読誦ノ加被ニ依ルベシト〈云云〉。《『吾妻鑑』治承四年七月五日の条》
 
 
2006年02月07日(火)曇り後晴れ。東京→世田谷(駒沢)
巨多(コタ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、標記語「巨多」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

無難濟郷保而土貢之現利巨多〔至徳三年本〕

無難濟郷保而土貢之現利巨多〔宝徳三年本〕

無難済郷保而土貢之現利巨多〔建部傳内本〕

クシテ難済(ナン )郷保而土貢之()現利( リ)巨多〔山田俊雄藏本〕

難済(  セイ)郷保(ガウホウ)ニシテ而土貢(トコウ)之現利巨多〔経覺筆本〕

(ナク)難済(ナンぜイ)郷保(ガウホウ)土貢(カウ)()現利(ゲン )巨多(コ )〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「巨多」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

巨多 同(資用部)/コタ。〔黒川本・畳字門下9ウ五〕

巨多 ―難。〔卷第七・畳字門171三〕

とあって、標記語「巨多」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

巨多(コタ) 。〔畳字門158七〕

とあって、標記語「巨多」の語を収載し、語注記に「」と記載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

巨多 (コキヨ・ヲヽイ也、ヲヽシ)[上・平] 。〔態藝門690八〕

とあって、標記語「巨多」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、

巨多(コタ) 。〔・言語進退門190五〕

巨細(コサイ) ―多()。〔・言語門155八〕

巨細(コサイ) 。〔・言語門145七〕 

とあって、弘治二年本に標記語「巨多」の語を収載し、他本は標記語「巨細」の熟語群に記載する。易林本節用集』に、

巨細(コサイ) ―多()―益(ヤク)。―難(ナン)。〔言辭門158五・天理図書館蔵下12オ五〕

とあって、標記語「巨細」の熟語群として「巨多」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・『下學集』・広本節用集』・『運歩色葉集』・弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』の標記語「巨多」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。ただし、『下學集』記載の語注記は見えない。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

764而土貢(ドコウ)之現利巨多萬亊任雅意(ガイ−)ニ|下学集ニハ我意義正義也。世俗取狼藉ニ|誤也。〔謙堂文庫蔵六五右E〕

とあって、標記語「巨多」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

収納(シユナフ)徴納(テフナフ)濟期(サイキ)現物(ゲンモツ)色代(シキタイ)()(ツクノヒ)來納(ライナフ)過上(クハジヤフ)准據(ジユンキヨ)拠旱_(カンスイ)兩損(リヤウソン)検田(ケンテン)不熟(フジユク)損亡(ソンハフ)之勘-(カンチウ)-(サンヨウ)-(サンシツ)都合(ツカウ)-(カンガウ)(イサヽカ)(ソノ)(ワスラヒ)(シカノミナラズ)諸社(シヨシヤ)神拝(シンハイ)(ミヤ)奉弊(ホウヘイ)_(ジシヤ)入堂(ダウ)(せツ)-法會(ホフヱ)(レン)-佛事(ブツジ)(マボリ)先例(せンレイ)懈怠(ケダイ)(ソウ)ジテ而無實儀(ジツギノ)黎民(レイミン)而納法(ナツホウ)之利潤(リジユン)莫太(バクタイ)シテ-(ナンジウ)郷保(ケイホ)而土貢(トコウ)()現利(ゲンリ)巨多(コタ)也萬事(ハンジ)収納(シユナフ)徴納(テフナフ)ハ。ヲサメキハマル事ナリ。〔下42オ四〜42ウ二〕

とあって、標記語「巨多」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

難渋(なんじう)の郷保(けいほう)無而(なくして)土貢(とこう)()現利(げんり)巨多(こた)難渋(ナンジウ)郷保(ケイホ)而土貢(トコウ)()現利(ゲンリ)巨多(コタ)難ハやすからぬ事渋ハしぶりてさしつかへたる也。治めかたきを云。郷保ハ村里(むらさと)といふかことし。土貢の注ハ前にあり。現利ハ大なる利潤(りしゆん)をいふ。少き利ハさまて目にも立す。大なる利ハはきと目に見ゆるゆへ現利と云。現ハあらハれて目に見ゆる也。巨多ハおほひにおほしと訓す。云こゝろハ治めかたき村里もなく皆よき風俗(ふうぞく)ゆへ貢物(みつぎもの)とも滞る事なく多分におさまるとなり。〔103オ七〜103ウ二〕

とあって、この標記語「巨多」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

難渋(なんじう)()郷保(きようほう)()く而(して)土貢(とこう)()現利(けんり)巨多(こた)(なり)難渋之郷保而土貢之現利巨多〔75ウ四〕

(なく)難渋(なんじう)()郷保(きようはう)(して)土貢(とこう)()現利(げんり)巨多(こた)(なり)〔136ウ二〕

とあって、標記語「巨多」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Cota.コタ(巨多) Vouoimi,vouoxi.(巨いに,多し)多量.※Vouoiniの誤り.〔邦訳151r〕

とあって、標記語「巨多」の語を収載し、意味は「Vouoimi,vouoxi.(巨いに,多し)多量」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「-巨多】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-巨多】〔名〕(形動)(「こ」は「巨」の慣用音)非常に多いこと。きわめて多いさま。きょた。色葉字類抄(1177-81)「巨多 資用部 計数分 コタ」名語記(1275)五「問。こたなりといへる、如何。答。巨多也」易林本節用集(1597)「巨多 コタ」*日葡辞書(1603-04)「Cota(コタ)<訳>たくさん」*下學集*文明本」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
右謹案事情、當國自本狹少之上、庄々巨多之間、敢無隨國衙之地《訓み下し》右謹ミテ事ノ情ヲ案ズルニ、当国本ヨリ狭少ノ上、庄庄巨多(キヨタ)ノ間、敢テ国衙ニ随フノ地無シ。《『吾妻鑑』文治三年四月二十三日の条》
 
 
2006年02月06日(月)曇り。東京→世田谷(駒沢)
現利(ゲンリ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「氣」部に、「現世。現位。現居。現當―世/―來。現物。現脚。現形」の語を収載し、標記語「現利」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

無難濟郷保而土貢之現利巨多也〔至徳三年本〕

無難濟郷保而土貢之現利巨多也〔宝徳三年本〕

無難済郷保而土貢之現利巨多也〔建部傳内本〕

クシテ難済(ナン )郷保而土貢之()現利( リ)巨多也〔山田俊雄藏本〕

難済(  セイ)郷保(ガウホウ)ニシテ而土貢(トコウ)現利巨多也〔経覺筆本〕

(ナク)難済(ナンぜイ)郷保(ガウホウ)土貢(カウ)()現利(ゲン )巨多(コ )〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「現利」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「現利」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「現利」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

現利 (ゲンリアラワス、トシ)[去・去] 。〔態藝門597四〕

とあって、標記語「現利」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「現利」の語は未収載にする。に、

 

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』に標記語「現利」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。ただし、『下學集』記載の語注記は見えない。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

764而土貢(ドコウ)現利巨多萬亊任雅意(ガイ−)ニ|下学集ニハ我意義正義也。世俗取狼藉ニ|誤也。〔謙堂文庫蔵六五右E〕

とあって、標記語「現利」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

収納(シユナフ)徴納(テフナフ)濟期(サイキ)現物(ゲンモツ)色代(シキタイ)()(ツクノヒ)來納(ライナフ)過上(クハジヤフ)准據(ジユンキヨ)拠旱_(カンスイ)兩損(リヤウソン)検田(ケンテン)不熟(フジユク)損亡(ソンハフ)之勘-(カンチウ)-(サンヨウ)-(サンシツ)都合(ツカウ)-(カンガウ)(イサヽカ)(ソノ)(ワスラヒ)(シカノミナラズ)諸社(シヨシヤ)神拝(シンハイ)(ミヤ)奉弊(ホウヘイ)_(ジシヤ)入堂(ダウ)(せツ)-法會(ホフヱ)(レン)-佛事(ブツジ)(マボリ)先例(せンレイ)懈怠(ケダイ)(ソウ)ジテ而無實儀(ジツギノ)黎民(レイミン)而納法(ナツホウ)之利潤(リジユン)莫太(バクタイ)シテ-(ナンジウ)郷保(ケイホ)而土貢(トコウ)()現利(ゲンリ)巨多(コタ)也萬事(ハンジ)収納(シユナフ)徴納(テフナフ)ハ。ヲサメキハマル事ナリ。〔下42オ四〜42ウ二〕

とあって、標記語「現利」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

難渋(なんじう)の郷保(けいほう)無而(なくして)土貢(とこう)()現利(げんり)巨多(こた)難渋(ナンジウ)郷保(ケイホ)而土貢(トコウ)()現利(ゲンリ)巨多(コタ)難ハやすからぬ事渋ハしぶりてさしつかへたる也。治めかたきを云。郷保ハ村里(むらさと)といふかことし。土貢の注ハ前にあり。現利ハ大なる利潤(りしゆん)をいふ。少き利ハさまて目にも立す。大なる利ハはきと目に見ゆるゆへ現利と云。現ハあらハれて目に見ゆる也。巨多ハおほひにおほしと訓す。云こゝろハ治めかたき村里もなく皆よき風俗(ふうぞく)ゆへ貢物(みつぎもの)とも滞る事なく多分におさまるとなり。〔103オ七〜103ウ二〕

とあって、この標記語「現利」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

難渋(なんじう)()郷保(きようほう)()く而(して)土貢(とこう)()現利(けんり)巨多(こた)(なり)難渋之郷保而土貢之現利巨多也〔75ウ四〕

(なく)難渋(なんじう)()郷保(きようはう)(して)土貢(とこう)()現利(げんり)巨多(こた)(なり)〔136ウ二〕

とあって、標記語「現利」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「現利」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「げん-現利】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「げん-現利】〔名〕現在の利益。庭訓往來(1394-1428頃)「惣而無異儀之黎民、而納法之利潤莫大也。無難渋之郷保、而土貢之現利巨多也」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
 
 
2006年02月05日(日)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
郷保(ケイホ・キャウホウ・ガウホ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀・氣・幾」部に、標記語「郷保」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

無難濟郷保而土貢之現利巨多也〔至徳三年本〕

無難濟郷保而土貢之現利巨多也〔宝徳三年本〕

無難済郷保而土貢之現利巨多也〔建部傳内本〕

クシテ難済(ナン )郷保而土貢之()現利( リ)巨多也〔山田俊雄藏本〕

難済(  セイ)郷保(ガウホウ)ニシテ而土貢(トコウ)之現利巨多也〔経覺筆本〕

(ナク)難済(ナンぜイ)郷保(ガウホウ)土貢(カウ)()現利(ゲン )巨多(コ )〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「郷保」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「郷保」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「郷保」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「郷保」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

763旱_兩損検(ケン)-田不熟損亡之勘-註算-用散-失都合勘-合聊無其煩加之諸社神拝宮々奉弊寺_々入堂節-々法會連-々佛-亊守先例シテ怠慢シテ而无シテ莫大黎民而納法之利潤莫太也-スルコト郷保 郷保五邑。或郷内是也。〔謙堂文庫蔵六五右@〕

とあって、標記語「郷保」の語を収載し、語注記に「郷保は、五邑を保と云ふ。或は郷の内是れを保と云ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

収納(シユナフ)徴納(テフナフ)濟期(サイキ)現物(ゲンモツ)色代(シキタイ)()(ツクノヒ)來納(ライナフ)過上(クハジヤフ)准據(ジユンキヨ)拠旱_(カンスイ)兩損(リヤウソン)検田(ケンテン)不熟(フジユク)損亡(ソンハフ)之勘-(カンチウ)-(サンヨウ)-(サンシツ)都合(ツカウ)-(カンガウ)(イサヽカ)(ソノ)(ワスラヒ)(シカノミナラズ)諸社(シヨシヤ)神拝(シンハイ)(ミヤ)奉弊(ホウヘイ)_(ジシヤ)入堂(ダウ)(せツ)-法會(ホフヱ)(レン)-佛事(ブツジ)(マボリ)先例(せンレイ)懈怠(ケダイ)(ソウ)ジテ而無實儀(ジツギノ)黎民(レイミン)而納法(ナツホウ)之利潤(リジユン)莫太(バクタイ)シテ-(ナンジウ)郷保(ケイホ)而土貢(トコウ)()現利(ゲンリ)巨多(コタ)也萬事(ハンジ)収納(シユナフ)徴納(テフナフ)ハ。ヲサメキハマル事ナリ。〔下42オ四〜42ウ二〕

とあって、標記語「郷保」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

難渋(なんじう)の郷保(けいほう)無而(なくして)土貢(とこう)()現利(げんり)巨多(こた)難渋(ナンジウ)郷保(ケイホ)而土貢(トコウ)()現利(ゲンリ)巨多(コタ)難ハやすからぬ事渋ハしぶりてさしつかへたる也。治めかたきを云。郷保ハ村里(むらさと)といふかことし。土貢の注ハ前にあり。現利ハ大なる利潤(りしゆん)をいふ。少き利ハさまて目にも立す。大なる利ハはきと目に見ゆるゆへ現利と云。現ハあらハれて目に見ゆる也。巨多ハおほひにおほしと訓す。云こゝろハ治めかたき村里もなく皆よき風俗(ふうぞく)ゆへ貢物(みつぎもの)とも滞る事なく多分におさまるとなり。〔103オ七〜103ウ二〕

とあって、この標記語「郷保」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

難渋(なんじう)()郷保(きようほう)()く而(して)土貢(とこう)()現利(けんり)巨多(こた)(なり)難渋之郷保而土貢之現利巨多也〔75ウ四〕

(なく)難渋(なんじう)()郷保(きようはう)(して)土貢(とこう)()現利(げんり)巨多(こた)(なり)〔136ウ二〕

とあって、標記語「郷保」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「郷保」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「がう-郷保】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ごう-郷保】〔名〕郷(ごう)と保(ほ)。ともに国衙(こくが)領の末端の行政区画。荘園などの私領に対する公領の地域。ごうほう。平治物語(1220頃か)下・頼朝義兵を挙げらるる事「文治の始め、諸国に守護をすへ、あらゆる所の庄園、郷保に地頭を補して」*神皇正統記(1339-43)下・後醍醐「文治のはじめ国に守護職を補し、庄園、郷保に地頭をおかれしよりこのかたは」庭訓往來(1394-1428頃)「無難渋之郷保、而土貢之現利巨多也」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
諸國庄園、郷保地頭等、寄事於勲功賞搆非例、濫妨所務之由、國司領家訴詔、出來之間、今日有其沙汰《訓み下し》諸国ノ庄園、郷保(ガウホウ)ノ地頭等、事ヲ勲功ノ賞ニ寄セ非例ヲ構ヘ、所務ヲ濫妨スルノ由、国司領家ノ訴詔(訴訟)、出来スルノ間、今日其ノ沙汰有リ。《『吾妻鑑』元久元年十月十八日の条》
 
 
2006年02月04日(土)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
難渋(ナンジフ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「奈」部に、

難渋(ジウ) 。〔元亀二年本165九〕〔静嘉堂本184二〕

難渋(ナンシウ) 。〔天正十七年本中23オ三〕〔西來節本〕

とあって、標記語「難渋」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

難濟郷保而土貢之現利巨多也〔至徳三年本〕

難濟郷保而土貢之現利巨多也〔宝徳三年本〕

難済郷保而土貢之現利巨多也〔建部傳内本〕

クシテ難済(ナン )郷保而土貢之()現利( リ)巨多也〔山田俊雄藏本〕

難済(  セイ)郷保(ガウホウ)ニシテ而土貢(トコウ)之現利巨多也〔経覺筆本〕

(ナク)難済(ナンぜイ)郷保(ガウホウ)土貢(カウ)()現利(ゲン )巨多(コ )〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「難済」と記載し、訓みを山田俊雄藏本「ナン(ゼイ)」、経覺筆本「(ナン)セイ」、文明四年本に「ナンセイ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

難澁 人情部/ナンシフ/不遜分、所澁詞。〔黒川本・畳字門中37ウ一〕

難易(ナンヤク) 〃済セイ〃澁シフ。〃堪カン。〃口。〃韻。〃字。〃所。〃産。〃治。〃書。〃題。〃路。〃得。〃阻ナツム。〔卷五・畳字門65六〕

とあって、標記語「難渋」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

難澀(ナンジフ) ルノ安(ヤスカラ)之皃(カタチ)也(ナリ)。〔畳字門160一〕

とあって、標記語「難渋」の語を収載し、語注記に「言は、安(ヤスカラ)ざるの皃(カタチ)なり」と記載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

難澁 (ナンジフカタシ、シブル)[去・入] 。〔態藝門437八〕

とあって、標記語「難渋」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、

難渋(ナンジウ) 。〔・言語進退門141四〕

難渋(ナンジウ) ―勘(ガン)。―治()。―功(コウ)/―儀()。―得(トク)。〔・言語門111七〕

難渋(ナンジウ) ―勘。―治。―功/―儀。―得。―題。〔・言語門102四〕 

難渋(ナンシユウ) ―勘(カン)。―治()。―功(コウ)/―儀。―得。―題。〔・言語門125一〕

とあって、弘治二年本永祿二年本両足院本に標記語「難渋」の語を収載し、他本は標記語「異相」の熟語群に記載する。易林本節用集』に、

難行(ナンギヤウ) (ジフ)。―破()。―解()。―化()。―題(ダイ)。―所(シヨ)/―得(トク)。―義()。―易()。―産(サン)。无(ナク)(ナン)。〔言辭門110六・天理図書館蔵上55ウ六〕

とあって、標記語「難行」の熟語群として「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・『下學集』・広本節用集』・『運歩色葉集』・弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』の標記語「難渋」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。ただし、『下學集』記載の語注記は見えない。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

763旱_兩損検(ケン)-田不熟損亡之勘-註算-用散-失都合勘-合聊無其煩加之諸社神拝宮々奉弊寺_々入堂節-々法會連-々佛-亊守先例シテ怠慢シテ而无シテ莫大黎民而納法之利潤莫太也-スルコト郷保 郷保五邑。或郷内是也。〔謙堂文庫蔵六五右@〕

とあって、標記語「難渋」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

収納(シユナフ)徴納(テフナフ)濟期(サイキ)現物(ゲンモツ)色代(シキタイ)()(ツクノヒ)來納(ライナフ)過上(クハジヤフ)准據(ジユンキヨ)拠旱_(カンスイ)兩損(リヤウソン)検田(ケンテン)不熟(フジユク)損亡(ソンハフ)之勘-(カンチウ)-(サンヨウ)-(サンシツ)都合(ツカウ)-(カンガウ)(イサヽカ)(ソノ)(ワスラヒ)(シカノミナラズ)諸社(シヨシヤ)神拝(シンハイ)(ミヤ)奉弊(ホウヘイ)_(ジシヤ)入堂(ダウ)(せツ)-法會(ホフヱ)(レン)-佛事(ブツジ)(マボリ)先例(せンレイ)懈怠(ケダイ)(ソウ)ジテ而無實儀(ジツギノ)黎民(レイミン)而納法(ナツホウ)之利潤(リジユン)莫太(バクタイ)シテ-(ナンジウ)郷保(ケイホ)而土貢(トコウ)()現利(ゲンリ)巨多(コタ)也萬事(ハンジ)収納(シユナフ)徴納(テフナフ)ハ。ヲサメキハマル事ナリ。〔下42オ四〜42ウ二〕

とあって、標記語「難澁」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

難渋(なんじう)の郷保(けいほう)無而(なくして)土貢(とこう)()現利(げんり)巨多(こた)難渋(ナンジウ)郷保(ケイホ)而土貢(トコウ)()現利(ゲンリ)巨多(コタ)難ハやすからぬ事渋ハしぶりてさしつかへたる也。治めかたきを云。郷保ハ村里(むらさと)といふかことし。土貢の注ハ前にあり。現利ハ大なる利潤(りしゆん)をいふ。少き利ハさまて目にも立す。大なる利ハはきと目に見ゆるゆへ現利と云。現ハあらハれて目に見ゆる也。巨多ハおほひにおほしと訓す。云こゝろハ治めかたき村里もなく皆よき風俗(ふうぞく)ゆへ貢物(みつぎもの)とも滞る事なく多分におさまるとなり。〔103オ七〜103ウ二〕

とあって、この標記語「難渋」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

難渋(なんじう)()郷保(きようほう)()く而(して)土貢(とこう)()現利(けんり)巨多(こた)(なり)難渋之郷保而土貢之現利巨多也〔75ウ四〕

(なく)難渋(なんじう)()郷保(きようはう)(して)土貢(とこう)()現利(げんり)巨多(こた)(なり)〔136ウ二〕

とあって、標記語「難渋」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Nanju<.ナンジュウ(難渋) 難儀しながら,あるいは,いやいやながら物事をすること.例,Nanju<ni voyobu.(難渋に及ぶ)¶また,与えたり,貸したり,返したりするのを惜しむ,あるいは,渋ること.例,Nanju<suru.(難渋する)¶Ienguio<ni nanju< suru coto nacare.(善行に難渋すること勿れ)善徳をなすのを嫌がるな.〔邦訳449l〕

とあって、標記語「難渋」の語を収載し、意味は「難儀しながら,あるいは,いやいやながら物事をすること」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

なん-じふ〔名〕【難澁】(一)爲るに難くして、澁ぶること。澁滯すること。易林本節用集(慶長)「難渋(ナンジフ)(二)困ること。艱むこと。難儀。艱苦。物の、かはりたる状(さま)。異状。吾妻鏡、三十一、嘉禎二年九月十日「此事不庶幾之由、内内難澁〔1473-4〕

とあって、標記語「なん-じふ難渋】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「なん-じふ難渋】〔名〕@(―する)物事の処理や進行が困難で渋滞すること。すらすらと事が運ばないこと。なやみしぶること。A(―する)(形動)困ること。もてあますこと。迷惑がること。また、そのさま。B(―する)暮らし向きが悪くて苦しむこと。また、貧困であること。C鎌倉・室町時代、裁判所の召喚に応じないなど、訴訟当事者が一方的に手続きを遅怠すること。D(―する)ぐずぐずして義務や職務をすみやかに果たさないこと。また、年貢その他の貢租の納入をとどこおらせること。E(―する)出し惜しみすること。与えたり、貸したり、返したりするのを惜しみ渋ること」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
是併存所役卑下之由寄事於左右、被難澁歟者九郎主、頗恐怖則起座引兩疋《訓み下し》是レ併ラ所役卑下ノ由ヲ存ジ、事ヲ左右ニ寄セテ、難渋(ナンジフ)セラルルカ、テイレバ九郎主、頗ル恐怖シテ則チ座ヲ起ツテ両疋ヲ引ク。《『吾妻鑑』養和元年七月二十日の条》
 
 
2006年02月03日(金)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
莫大(バクダイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、

莫太(バクタイ) 。〔元亀二年本28一〕〔静嘉堂本27一〕

莫太(ハクタイ) 。〔天正十七年本上14ウ三〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「莫太」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

惣而无異儀黎民而納法之利潤莫太也无難渋郷保〔至徳三年本〕

惣而无異儀黎民而納法之利潤莫太也无難渋郷保〔宝徳三年本〕

惣而无異儀黎民而納法之利潤莫太也无難渋郷保〔建部傳内本〕

シテ而无シテ異儀黎民而納法之利潤莫太-スルコト郷保〔山田俊雄藏本〕

シテ而无シテ異儀黎民而納法之利潤莫太-スルコト郷保〔経覺筆本〕

シテ而无シテ異儀黎民而納法之利潤莫太-スルコト郷保〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「莫太」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

莫大 ハクタイ。〔黒川本・畳字門上27オ一〕

とあって、三卷本色葉字類抄』に標記語「莫大」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

莫大(バクタイ) 。〔言辭門149三

とあって、標記語「莫大」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

莫大(バクタイ) (バクタイナカレ・ムラカル、ヲヽイ也)[入・去] 多義。〔態藝門81二〕

とあって、標記語「莫大」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

莫太(バクタイ) 多義。〔・言語進退門24二〕

莫太(バクタイ) 。〔・言語門23四〕

莫太(バクタイ) 。〔・言語門20九〕 

莫太(バクタイ) 。〔・言語門25二〕

とあって、標記語「莫太」の語を収載する。易林本節用集』に、

莫太(バクタイ) 多義。〔言語門20四・天理図書館蔵上10ウ四〕

とあって、標記語「莫太」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「莫大莫太」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

763旱_兩損検(ケン)-田不熟損亡之勘-註算-用散-失都合勘-合聊無其煩加之諸社神拝宮々奉弊寺_々入堂節-々法會連-々佛-亊守先例シテ怠慢シテ而无シテ莫大黎民而納法之利潤莫太也-スルコト郷保 郷保五邑。或郷内是也。〔謙堂文庫蔵六五右@〕

とあって、標記語「莫大」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

収納(シユナフ)徴納(テフナフ)濟期(サイキ)現物(ゲンモツ)色代(シキタイ)()(ツクノヒ)來納(ライナフ)過上(クハジヤフ)准據(ジユンキヨ)拠旱_(カンスイ)兩損(リヤウソン)検田(ケンテン)不熟(フジユク)損亡(ソンハフ)之勘-(カンチウ)-(サンヨウ)-(サンシツ)都合(ツカウ)-(カンガウ)(イサヽカ)(ソノ)(ワスラヒ)(シカノミナラズ)諸社(シヨシヤ)神拝(シンハイ)(ミヤ)奉弊(ホウヘイ)_(ジシヤ)入堂(ダウ)(せツ)-法會(ホフヱ)(レン)-佛事(ブツジ)(マボリ)先例(せンレイ)懈怠(ケダイ)(ソウ)ジテ而無實儀(ジツギノ)黎民(レイミン)而納法(ナツホウ)之利潤(リジユン)莫太(バクタイ)シテ-(ナンジウ)郷保(ケイホ)而土貢(トコウ)()現利(ゲンリ)巨多(コタ)也萬事(ハンジ)収納(シユナフ)徴納(テフナフ)ハ。ヲサメキハマル事ナリ。〔下42オ四〜42ウ二〕

とあって、標記語「莫大」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

異儀(いぎ)の黎民(れいミん)(なく)(して)納法(なつほう)()利潤(りじゆん)莫大(ばくたい)也/異儀黎民而納法之利潤莫大黎民ハ民百姓の事也。又(ぎんしゆ)とも云。莫大ハ是より大なる事なしと云儀也。云こゝろハ上京に逆ふ様なる。民もなく皆質直(すなを)なる者共ゆへ年貢の納り方も甚た多しと也。〔103オ五〜七〕

とあって、この標記語「莫大」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

總而(そうじて)莫大(ゐぎ)()黎民(れいミん)()く而(して)(なつほふ)()利潤(りじゆん)莫大(ばくだい)(なり)シテ而無莫大黎民而納法之利潤莫太也-スルコト郷保〔75ウ三〕

惣而(そうじて)(なく)莫大(いぎ)()黎民(れいミん)(して)納法(なつほふ)()利潤(りじゆん)莫大(ばくたい)(なり)〔136オ二〕

とあって、標記語「莫大」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Bacutai.バクダイ(莫大) Fanafada fanafada.(はなはだはなはだ)大量,または,多数.〔邦訳47l〕

とあって、標記語「莫大」の語を収載し、意味は「Fanafada fanafada.(はなはだはなはだ)大量,または,多数」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ばく-だい〔名〕【莫大】〔莫之の義〕極めて大なること。最も夥しきこと。易經、繋辭、上傳「法象大乎(ヨリ)天地孟子、離婁、上篇「不祥ナル(コレ)ヨリ漢書、賈誼傳「況莫大諸侯、權力且十此者乎」注「莫大、謂其國、言最大也」曾我物語、四、鎌倉殿箱根御參詣事「しんかんのおこるをけんてうにして、結縁も莫大なり、耳目の及ぶ所、毛筆に遑あらず」〔1571-1〕

とあって、標記語「ばく-だい莫大】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ばく-だい莫大莫太】〔名〕(古くは「ばくたい」。「これより大なるは莫(な)し」の意)[一]〔形動〕程度・量がひじょうに大きいさま。この上ないさま。[二]〔副〕程度・量がはなはだしいさまを表わす。ひじょうに。たくさん」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
江判官公朝、進使者申云、可有兩社行幸橋渡行事、所奉之也殊欲餝行粧仍可爲莫太經營、偏仰御成助也〈云云〉《訓み下し》江ノ判官公朝、使者ヲ進ジ申シテ云ク、両社行幸有ルベシ。橋渡シ行事、之ヲ奉ル所ナリ。殊ニ行粧ヲ飾ラント欲ス。仍テ*莫太(バクタイ)(*莫大)ノ経営ヲスベシ、偏ニ御成助ヲ仰グナリト〈云云〉。《『吾妻鑑』文治三年三月十五日の条》
 
 
黎民(レイミン)」は、ことばの溜め池(2000.03.05)を参照。
納法(ナツホフ)」は、ことばの溜め池(2001.04.08)を参照。
納法(ナツホフ)」は、ことばの溜め池(2001.01.04)を参照。
 
2006年02月02日(木)曇り後晴れ。東京→世田谷(駒沢)
異儀(イギ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

異儀() 。〔元亀二年本10四〕〔静嘉堂本1六〕

異儀() 。〔天正十七年本上3オ五〕〔西來節本〕

とあって、標記語「異儀」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

惣而无異儀黎民而納法之利潤莫太也无難渋郷保〔至徳三年本〕

惣而无異儀黎民而納法之利潤莫太也无難渋郷保〔宝徳三年本〕

惣而无異儀黎民而納法之利潤莫太也无難渋郷保〔建部傳内本〕

シテ而无シテ異儀黎民而納法之利潤莫太也-スルコト郷保〔山田俊雄藏本〕

シテ而无シテ異儀黎民而納法之利潤莫太也-スルコト郷保〔経覺筆本〕

シテ而无シテ異儀黎民而納法之利潤莫太也-スルコト郷保〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「異儀」と表記し、訓みは経覺筆本・文明四年本に「(リヤウ)ソン」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「異儀」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、標記語「異儀」の語は未収載にする。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

異儀() 無―。〔・言語進退門11六〕

異儀() 。〔・言語門6八〕

異相 ―域。―樣。―味。―形。―父。―能。―見。―体。―活。―治。―標。―論。―類。―儀。―。〔・言語門6一〕 

異相(イサウ) ―域(イキ)。―樣(ヤウ)。―味。―形(キヤウ)。―父()。―能(ノウ)。―見(ケン)。―体(テイ)。―活(クワツ)。―治()。―標。―論。―類。―儀。―。〔・言語門7三〕

とあって、弘治二年本永祿二年本に標記語「異儀」の語を収載し、他本は標記語「異相」の熟語群に記載する。易林本節用集』に、

異儀(イギ) 。〔言語門7一・天理図書館蔵上4オ一〕

とあって、標記語「異儀」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「異儀」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

763旱_兩損検(ケン)-田不熟損亡之勘-註算-用散-失都合勘-合聊無其煩加之諸社神拝宮々奉弊寺_々入堂節-々法會連-々佛-亊守先例シテ怠慢シテ而无シテ異儀黎民而納法之利潤莫太也-スルコト郷保 郷保五邑。或郷内是也。〔謙堂文庫蔵六五右@〕

とあって、標記語「異儀」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

収納(シユナフ)徴納(テフナフ)濟期(サイキ)現物(ゲンモツ)色代(シキタイ)()(ツクノヒ)來納(ライナフ)過上(クハジヤフ)准據(ジユンキヨ)拠旱_(カンスイ)兩損(リヤウソン)検田(ケンテン)不熟(フジユク)損亡(ソンハフ)之勘-(カンチウ)-(サンヨウ)-(サンシツ)都合(ツカウ)-(カンガウ)(イサヽカ)(ソノ)(ワスラヒ)(シカノミナラズ)諸社(シヨシヤ)神拝(シンハイ)(ミヤ)奉弊(ホウヘイ)_(ジシヤ)入堂(ダウ)(せツ)-法會(ホフヱ)(レン)-佛事(ブツジ)(マボリ)先例(せンレイ)懈怠(ケダイ)(ソウ)ジテ而無實儀(ジツギノ)黎民(レイミン)而納法(ナツホウ)之利潤(リジユン)莫太(バクタイ)シテ-(ナンジウ)郷保(ケイホ)而土貢(トコウ)()現利(ゲンリ)巨多(コタ)也萬事(ハンジ)収納(シユナフ)徴納(テフナフ)ハ。ヲサメキハマル事ナリ。〔下42オ四〜42ウ二〕

とあって、標記語「異儀」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

異儀(いぎ)の黎民(れいミん)(なく)(して)納法(なつほう)()利潤(りじゆん)莫大(ばくたい)也/異儀黎民而納法之利潤莫大也黎民ハ民百姓の事也。又(ぎんしゆ)とも云。莫大ハ是より大なる事なしと云儀也。云こゝろハ上京に逆ふ様なる。民もなく皆質直(すなを)なる者共ゆへ年貢の納り方も甚た多しと也。〔103オ五〜七〕

とあって、この標記語「異儀」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

總而(そうじて)異儀(ゐぎ)()黎民(れいミん)()く而(して)(なつほふ)()利潤(りじゆん)莫大(ばくだい)(なり)シテ而無異儀黎民而納法之利潤莫太也-スルコト郷保〔75ウ三〕

惣而(そうじて)(なく)異儀(いぎ)()黎民(れいミん)(して)納法(なつほふ)()利潤(りじゆん)莫大(ばくたい)(なり)〔136オ二〕

とあって、標記語「異儀」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Igui.イギ(異儀) Cotonaru gui.(異なる儀)的はずれなこと,あるいは,不適当なこと.例,Iguiuo iuasuna,xibare,tataqe.(異儀を言はすな,縛れ,叩け)つべこべと言わせるな,すなわち,的はずれなことを言わせるな,そいつを縛りつけよ,なぐれ.〔邦訳332l〕

とあって、標記語「異儀」の語を収載し、意味は「Cotonaru gui.(異なる儀)的はずれなこと,あるいは,不適当なこと」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【異儀】物の、かはりたる状(さま)。異状。易林本節用集(慶長)「異儀(イギ)〔137-4〕

とあって、標記語「-異儀】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-異儀】〔名〕@先例、儀式と異なること。異例。A→いぎ(異議)@」「-異儀】〔名〕@(―する)他と違った議論や意見。また、相手の期待したのとは反対の意志を表わすこと。異論。異存」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
早可被献領状之奉書常胤之心中、領状更無異儀、令興源家中絶跡給之條感涙遮眼非言語之所覃也《訓み下し》早ク領状ノ奉書ヲ献ゼラルベシト。*常胤ガ心中(常胤云、心中)、領状更ニ異儀無シ。《『吾妻鑑』治承四年九月九日の条》
 
 
2006年02月01日(火)雨のち曇り、夜地震有。東京→世田谷(駒沢)
怠慢(タイマン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

怠慢(タイマン) 。〔元亀二年本137六〕〔静嘉堂本145六〕

怠慢(マン) 。〔天正十七年本中4ウ七〕

とあって、標記語「怠慢」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

加之諸社神拝宮々奉幣寺社入堂節々法会連々佛事守先例無慢怠候也〔至徳三年本〕

加之諸社神拝宮々奉幣寺社入堂節々法會連々佛事守先例無怠慢候也〔宝徳三年本〕

加之諸社神拝宮々奉弊寺社入堂節々法會連々仏事守先例無怠慢候也〔建部傳内本〕

之諸社神拝宮々奉幣寺社之入堂節々法會連々仏事守先例怠慢〔山田俊雄藏本〕

(シカノミナラス)諸社神拝宮々奉幣(ホウヘイ)寺々入堂節々(セツセツ)法會連々佛事守先例怠慢候也〔経覺筆本〕

加之(シカノミナラス)諸社神拝宮々(ミヤ/\)奉弊(ホウヘイ)寺社(ヂシヤ)入堂節々(せツ/\)()法會(ホウエ)-仏事守(マホツテ)先例(レイ)怠慢(タイマン)候也〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本は「慢怠」とし、宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「怠慢」と表記し、訓みは文明四年本に「タイマン」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「怠慢」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「怠慢」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

怠慢(タイマンヲコタル、ミダル・ナイガシロ)[上・去] 。〔態藝門354二〕

とあって、標記語「怠慢」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

怠慢(マン) 。〔・言語進退門108四〕

怠慢(タイマン) ―轉(テン)。〔・言語門95四〕

怠慢(タイマン) 。〔・言語門87一〕 

怠慢(タイマン) 。―状。〔・言語門105六〕

とあって、標記語「怠慢」の語を収載する。易林本節用集』に、

怠状(タイジヤウ) (ハウ)。〔言語門93五・天理図書館蔵上47オ五〕

とあって、標記語「怠慢」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「怠慢」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

763旱_兩損検(ケン)-田不熟損亡之勘-註算-用散-失都合勘-合聊無其煩加之諸社神拝宮々奉弊寺_々入堂節-々法會連-々佛-亊守先例シテ怠慢シテ而无シテ異儀黎民而納法之利潤莫太也-スルコト郷保 郷保五邑。或郷内是也。〔謙堂文庫蔵六五右@〕

とあって、標記語「怠慢」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

収納(シユナフ)徴納(テフナフ)濟期(サイキ)現物(ゲンモツ)色代(シキタイ)()(ツクノヒ)來納(ライナフ)過上(クハジヤフ)准據(ジユンキヨ)拠旱_(カンスイ)兩損(リヤウソン)検田(ケンテン)不熟(フジユク)損亡(ソンハフ)之勘-(カンチウ)-(サンヨウ)-(サンシツ)都合(ツカウ)-(カンガウ)(イサヽカ)(ソノ)(ワスラヒ)(シカノミナラズ)諸社(シヨシヤ)神拝(シンハイ)(ミヤ)奉弊(ホウヘイ)_(ジシヤ)入堂(ダウ)(せツ)-法會(ホフヱ)(レン)-佛事(ブツジ)(マボリ)先例(せンレイ)懈怠(ケダイ)(ソウ)ジテ而無實儀(ジツギノ)黎民(レイミン)而納法(ナツホウ)之利潤(リジユン)莫太(バクタイ)シテ-(ナンジウ)郷保(ケイホ)而土貢(トコウ)()現利(ゲンリ)巨多(コタ)也萬事(ハンジ)収納(シユナフ)徴納(テフナフ)ハ。ヲサメキハマル事ナリ。〔下42オ四〜42ウ二〕

とあって、標記語「懈怠」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

先例(せんれい)を(まもつ)怠慢(たいまん)(なく)候也/先例シテ怠慢候也節々連々は絶間(たへま)なきをいふなり。〔103オ二〜三〕

とあって、この標記語「怠慢」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

加之(しかのみならす)諸社(しよしや)神拝(しんはい)宮々(ミや/\)の奉幣(ほうへい)寺社(じしや)の入堂(にうだう)節々(せつせつ)の法會(ほうゑ)連々(れん/\)の仏事(ぶつじ)先例(せんれい)を(まもつ)怠慢(たいまん)(なく)候也/加之諸社神拝宮々奉弊寺_々入堂節-々法會連-々佛-亊守先例シテ怠慢〔75ウ三〕

加之(しかのみならす)諸社(しよしや)神拝(しんはい)宮々(ミや/\)の奉幣(ほうへい)寺社(じしや)の入堂(にうだう)節々(せつせつ)の法會(ほうゑ)連々(れん/\)の仏事(ぶつじ)先例(せんれい)(まもつ)怠慢(たいまん)(なく)候也〔135ウ二〜136オ二〕

とあって、標記語「怠慢」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Taiman.タイマン(怠慢) Vocotaru.(怠る)何か物事をするのを怠ること.文書語.〔邦訳604r〕

とあって、標記語「怠慢」の語を収載し、意味は「Vocotaru.(怠る)何か物事をするのを怠ること.文書語」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たい-まん〔名〕【怠慢】おこたること。なまけ。おこたり。怠惰。左傳公三十一年「牲成而卜郊、上怠慢也」〔1188-3〕

とあって、標記語「たい-まん怠慢】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「たい-まん怠慢】〔名〕なまけて、仕事やつとめをおろそかにすること。おこたること。なおざりにすること。また、そのさま」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而自今以後、令交戰場給之程、定可有不意御怠慢之由、被歎仰《訓み下し》而ルニ自今以後、戦場ニ交ハラシメ給フノ程、定メテ意ナラザル御怠慢(ゴタイマン)有ルベキノ由、歎キ仰セラル。《『吾妻鑑』治承四年八月十八日の条》
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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