2006年04月01日から4月30日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
2006年04月30日(日)晴。東京→羽村堰→玉川上水(新宿)
山櫻(やまざくら)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「屋」部に、標記語「山櫻」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

抑醍醐雲林院花濃香芬々巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔至徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山櫻開落交條([其])梢繁難黙止者此節也爭徒然而送光陰哉〔宝徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔建部傳内本〕

抑醍醐雲林院花濃香(チヨウキヤウ)芬々トシテ匂巳盛ンナリ也嵯峨芳(ヨシ)山桜開落交(マシフ)黙止者此節(トキ)テカ()トシテ而送ラン光陰〔山田俊雄藏本〕

醍醐雲林院花濃香芬々トシテ也嵯峨吉野山桜開落交(エダ)梢繁黙止者此節也爭デカ徒然トシテ而送ラン光陰〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「山櫻」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「山櫻」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、標記語「山櫻」の語は未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』にも、標記語「山櫻」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「山櫻」の語は未収載にあり、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

042濃香芬々トシテ匂巳盛也嵯峨吉野(原註一)山櫻 嵯峨京西岳也。吉野大和。日本用ルコト。仁王四十五代聖武天王求、大和春日明神三笠山八重櫻。此見給則四言詩光明皇后奉給。詩日、(ヒヽニ/サカンナリ)(ヤマ/イテタリ)美花(ミサレトモ/モトム)玉女(ユウナ/\/ヲヽシニ)戀歌。此詩猿O字也。毎句上一字二度讀也。一字二字四言也。或人詩讀也。ヘテ(コソ)(マサシ)山_櫻伊-茂せバヤ(イ)_社寢(ネラレネ)。天皇皈洛後、后天皇相_給云、如_何ナレハ此之作詩給御送候仰。天皇曰、櫻見_付哀皇后進度思候間、餘詩給御_送候レハ仰。后日、實思食セハ一枝給哉。被レハ仰。帝則彼櫻奈良ナリ。自是普賞翫也。〔謙堂文庫藏8右G〕

とあって、標記語「山櫻」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(ソモ)醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)花濃香(デヤウキヤウ)芬々(フンフン)(ニオヒ)(スデニ)(サカン)嵯峨(サガ)吉野山櫻(ヤマザクラ)開落(カイラク)(マジヘ)(ヱダ)(コズヘ)(シゲシ)(ガタキ)黙止(モタシ)者此(せツ)也爭(イカデカ)徒然(トぜン)而送(ヲクラン)光陰(クワウイン)()醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)ノ花トツヾケタルハ。讃()メテ名所ノ花ヲ知せンガ爲也。彼(カノ)雲林院ニ昔シ忘憂(ハウユウ)花合(クハガウ)歡櫻(クハンノサクラ)ト云名花アリ。匂フ事九重マデ匂ヒ。色濃キ事餘言ン方モナシ。其比ハ君モ君タリ。國ノ政(マツリ)事モ無(ヲコタル)佛法王法ノ盛ナリシ上ハ。花モ香ヲマシ色モ妙也。特ニ雲林院(ウンリンイン)モ繁昌(ハンジヤウ)シ。勤行(ゴンギヤウ)モ稠カリシカバ。最花モ香色倍(マサ)レリ。去レバ此花ヲ見人愁(ウレヒ)ヲ忘(ワス)レ悦(ヨロコヒ)ヲ合スルト也。去程忘憂花合歡櫻ト帝(ミカ)トヨリ號(カウ)シ給ヒケレ。然ニ名所ノ名花ヲ云ハントテ。醍醐(ダイコ)嵯峨(サガ)芳野(ヨシノ)ナンドヲ云タル也。今ハ世モ(ゲウハク)ニ及ビ。佛法王法廢(スタ)レ絶(タヘ)テ政事モ直(タメ)シカラズ。去ハ花モ白ヒ少ク色モアサシ。〔5ウ六〜6オ三〕

とあって、標記語「山櫻」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

嵯峨(さが)吉野(よしの)山櫻(やまさくら)嵯峨吉野是も皆花乃名所なり。〔7オ一・二〕

とあって、この標記語「山櫻」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)の花(ハな)濃香(ちやうかう)芬々(ふんぶん)として匂(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(えだ)を交(まじ)ヘ其(その)(こずゑ)(しげ)し。黙止(もだし)(がた)き者()(この)(せつ)(なり)(いかで)か徒然(とぜん)とし而()光陰(くハういん)を送(おく)らん哉()抑醍醐雲林院濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交其梢繁黙止者此節也徒然而送ラン光陰。〔5ウ一・二〕

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)(はな)濃香(じようかう)芬々(ふんぶん)として(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(まじへ)(えだ)(その)(こずゑ)(しげし)(がた)黙止(もだし)()(この)(せつ)(なり)(いかで)徒然(とぜん)(して)(おく)らん光陰(くわういん)()。〔8ウ六〕

とあって、標記語「山櫻」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yamazacura.ヤマザクラ(山桜) 野生の桜.※原文はCereijeira.〔Sacuraの注〕〔邦訳809r〕

とあって、標記語「山桜」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

やま-ざくら〔名〕【山櫻】(一)山に自生して、單瓣、白色、疎らにして早く開く櫻の類の總稱。字鏡52「木辛夷、山左久良」(二)櫻の一種。本邦の種類中、最も普通なるもの。花、葉、同時に出で、葉は赤色、褐色、又は、黄褐色にして頗る優美に、花は單瓣なれど、又、八重なるもあり、紅、白二種あり。各地の山中に自生すれど、大和國の吉野山、最も名あり。〔2051-4〕

とあって、標記語「やま-ざくら山櫻】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「やま-ざくら山櫻】〔名〕@山にある桜。山に咲く桜の花。山の桜。←→家桜。《季・春》享和本新撰字鏡(898-901頃)「木辛夷 山左久良」*古今和歌集(905-914)春上・五一「山ざくら我が見にくれば春霞峰にもをにも立ち隠しつつ<よみ人しらず>」*平家物語(13C前)七・忠度都落「さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな」(以下用例省略)Aバラ科の落葉高木。本州の宮城県以西、四国、九州の山地に生えるサクラの一種。高さ一〇bに達する。樹皮は暗灰褐色。葉は長楕円形、縁にはするどい二重鋸歯(きょし)がある。若葉は赤褐色。春、葉と同時に淡紅色で徑二〜三センチbの五弁花を開く。果実は小さく暗紫色に熟す。北海道、本州北部を除く各地に野生する代表的なサクラ。学名はPrunus jamasakura《季・春》B紋所の名。Aの花を図案化したもの。C明治三七年(一九〇四)、専売制実施の最初に発売された四種の卷きタバコの一つ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未収載にする。
[ことばの実際]
則相具有御歌、〈詞云、〉山桜尋ヌトキケトサソハレヌオイノコヽロモアクカレニケリ 《『中右記』寛治七年三月八日の条、1/206 813》
 
 
2006年04月29日(土)晴。東京→世田谷(駒沢)
吉野山(よしのやま)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「餘」部に、標記語「吉野山」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

抑醍醐雲林院花濃香芬々巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔至徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山櫻開落交條○([其])梢繁難黙止者此節也爭徒然而送光陰哉〔宝徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔建部傳内本〕

抑醍醐雲林院花濃香(チヨウキヤウ)芬々トシテ匂巳盛ンナリ也嵯峨(ヨシ)山桜開落交(マシフ)黙止者此節(トキ)テカ()トシテ而送ラン光陰〔山田俊雄藏本〕

醍醐雲林院花濃香芬々トシテ也嵯峨吉野山桜開落交(エダ)梢繁黙止者此節也爭デカ徒然トシテ而送ラン光陰〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、山田俊雄藏本は、「芳野」、経覺筆本は、「吉野」、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本に「吉野」と記載し、訓みは山田俊雄藏本に「よし(の)の」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「吉野」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))は、標記語「吉野」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

吉野(ヨシノ/キチヤ)[○・上]大倭(ヤマト)。〔天地門314二〕

とあって、標記語「吉野」の語を収載し、語注記に「大倭」と記載する。印度本系統の弘治二年本尭空本・両足院本節用集』に、

吉野(ヨシノ) 大和。〔弘治・天地90二〕

吉野(ヨシノ) 。〔尭空本・天地門79二〕〔両足院本・天地門94七〕

とあって、標記語「吉野」の語を収載し、弘治二年本の語注記に「大和」と記載する。易林本節用集』に、

吉野(ヨシノ) 。〔乾坤門85三・天理図書館蔵上43オ三〕

とあって、標記語「吉野」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「吉野」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本は、「吉野」として収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

042濃香芬々トシテ匂巳盛也嵯峨吉野(原註一)山櫻 嵯峨京西岳也。吉野大和。日本用ルコト。仁王四十五代聖武天王求、大和春日明神三笠山八重櫻。此見給則四言詩光明皇后奉給。詩日、(ヒヽニ/サカンナリ)(ヤマ/イテタリ)美花(ミサレトモ/モトム)玉女(ユウナ/\/ヲヽシニ)戀歌。此詩猿O字也。毎句上一字二度讀也。一字二字四言也。或人詩讀也。ヘテ(コソ)(マサシ)山_櫻伊-茂せバヤ(イ)_社寢(ネラレネ)。天皇皈洛後、后天皇相_給云、如_何ナレハ此之作詩給御送候仰。天皇曰、櫻見_付哀皇后進度思候間、餘詩給御_送候レハ仰。后日、實思食セハ一枝給哉。被レハ仰。帝則彼櫻奈良ナリ。自是普賞翫也。〔謙堂文庫藏8右G〕

とあって、標記語「吉野」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(ソモ)醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)花濃香(デヤウキヤウ)芬々(フンフン)(ニオヒ)(スデニ)(サカン)嵯峨(サガ)吉野山櫻(ヤマザクラ)開落(カイラク)(マジヘ)(ヱダ)(コズヘ)(シゲシ)(ガタキ)黙止(モタシ)者此(せツ)也爭(イカデカ)徒然(トぜン)而送(ヲクラン)光陰(クワウイン)()醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)ノ花トツヾケタルハ。讃()メテ名所ノ花ヲ知せンガ爲也。彼(カノ)雲林院ニ昔シ忘憂(ハウユウ)花合(クハガウ)歡櫻(クハンノサクラ)ト云名花アリ。匂フ事九重マデ匂ヒ。色濃キ事餘言ン方モナシ。其比ハ君モ君タリ。國ノ政(マツリ)事モ無(ヲコタル)佛法王法ノ盛ナリシ上ハ。花モ香ヲマシ色モ妙也。特ニ雲林院(ウンリンイン)モ繁昌(ハンジヤウ)シ。勤行(ゴンギヤウ)モ稠カリシカバ。最花モ香色倍(マサ)レリ。去レバ此花ヲ見人愁(ウレヒ)ヲ忘(ワス)レ悦(ヨロコヒ)ヲ合スルト也。去程忘憂花合歡櫻ト帝(ミカ)トヨリ號(カウ)シ給ヒケレ。然ニ名所ノ名花ヲ云ハントテ。醍醐(ダイコ)嵯峨(サガ)芳野(ヨシノ)ナンドヲ云タル也。今ハ世モ(ゲウハク)ニ及ビ。佛法王法廢(スタ)レ絶(タヘ)テ政事モ直(タメ)シカラズ。去ハ花モ白ヒ少ク色モアサシ。〔5ウ六〜6オ三〕

とあって、標記語「吉野山」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

嵯峨(さが)吉野(よしの)の山櫻(やまさくら)嵯峨吉野山是も皆花乃名所なり。〔7オ一・二〕

とあって、この標記語「吉野山」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)の花(ハな)濃香(ちやうかう)芬々(ふんぶん)として匂(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)の山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(えだ)を交(まじ)ヘ其(その)(こずゑ)(しげ)し。黙止(もだし)(がた)き者()(この)(せつ)(なり)(いかで)か徒然(とぜん)とし而()光陰(くハういん)を送(おく)らん哉()抑醍醐雲林院濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交其梢繁黙止者此節也徒然而送ラン光陰▲嵯峨ハ山城(やましろ)吉野ハ大和(やまと)是亦共(またとも)に花の名所也。〔5ウ一・二〕

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)(はな)濃香(じようかう)芬々(ふんぶん)として(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(まじへ)(えだ)(その)(こずゑ)(しげし)(がた)黙止(もだし)()(この)(せつ)(なり)(いかで)徒然(とぜん)(して)(おく)らん光陰(くわういん)()▲嵯峨ハ山城(やましろ)吉野ハ大和(やまと)(これ)亦共(またとも)に花の名所也。〔8ウ六〕

とあって、標記語「吉野」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「吉野」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「吉野」「よしの-やま吉野山】」の語は未収載にする。
これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「よしの-やま吉野山】〔名〕[一]奈良県中央部の山。吉野川のほとりから大峰山に向けて高まる標高三〇〇〜七〇〇bの尾根をいう。吉野神宮・金峯山寺蔵王堂・吉野宮跡・吉水神社などの史跡があり、桜の名所として知られる。吉野熊野国立公園の一中心。忠岑集(10C前)「よしのやまよしつれなくしのばれよ耳無山の知らず顔して」*書言字考節用集(1717)一「吉野山 ヨシノヤマ 又作芳野、和州吉野郡」[二]義経千本桜の吉野山をもとに作られた所作事の一般的な通称」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未収載にする。
[ことばの実際]
豫州、籠大和國吉野山之由、風聞之間、執行相催惡僧等、日來雖索山林、無其實之處、今夜亥剋、豫州妾、靜、自當山藤尾坂降、到于藏王堂。《訓み下し》予州、大和ノ国吉野山ニ篭ルノ由、風聞ノ間、執行悪僧等ヲ相ヒ催シテ、日来山林ニ索ムト雖モ、其ノ実無キノ処ニ、今夜亥ノ剋ニ、予州ノ妾、静、当山藤尾坂ヨリ降リ、蔵王堂ニ到ル。《『吾妻鏡』文治元年十一月十七日の条》
 
 
2006年04月28日(金)晴。東京→世田谷(駒沢)
嵯峨(サガ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、

嵯峨野(サカノ)。〔元亀二年本275九〕

×。〔静嘉堂本〕

とあって、標記語「嵯峨野」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

抑醍醐雲林院花濃香芬々巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔至徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山櫻開落交條○([其])梢繁難黙止者此節也爭徒然而送光陰哉〔宝徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔建部傳内本〕

抑醍醐雲林院花濃香(チヨウキヤウ)芬々トシテ匂巳盛ンナリ嵯峨(ヨシ)山桜開落交(マシフ)黙止者此節(トキ)テカ()トシテ而送ラン光陰〔山田俊雄藏本〕

醍醐雲林院花濃香芬々トシテ嵯峨吉野山桜開落交(エダ)梢繁黙止者此節也爭デカ徒然トシテ而送ラン光陰〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「嵯峨」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「嵯峨」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

嵯峨(サカ)[平・平]城州西山也。〔天地門771七〕

とあって、標記語「嵯峨」の語を収載し、語注記に「城州西山に在るなり」と記載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

嵯峨(サガ) 山城。〔弘治・天地208五〕

嵯峨(サガ) 。〔永祿本・天地門173四〕〔尭空本・天地門162六〕

とあって、標記語「嵯峨」の語を収載し、弘治二年本の語注記に「山城」と記載する。易林本節用集』には、

嵯峨(サガ) 。〔乾坤門175七・天理図書館蔵下20ウ七〕

とあって、標記語「嵯峨」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「嵯峨」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

042濃香芬々トシテ匂巳盛也嵯峨吉野(原註一)山櫻 嵯峨京西岳也。吉野大和。日本用ルコト。仁王四十五代聖武天王求、大和春日明神三笠山八重櫻。此見給則四言詩光明皇后奉給。詩日、(ヒヽニ/サカンナリ)(ヤマ/イテタリ)美花(ミサレトモ/モトム)玉女(ユウナ/\/ヲヽシニ)戀歌。此詩猿O字也。毎句上一字二度讀也。一字二字四言也。或人詩讀也。ヘテ(コソ)(マサシ)山_櫻伊-茂せバヤ(イ)_社寢(ネラレネ)。天皇皈洛後、后天皇相_給云、如_何ナレハ此之作詩給御送候仰。天皇曰、櫻見_付哀皇后進度思候間、餘詩給御_送候レハ仰。后日、實思食セハ一枝給哉。被レハ仰。帝則彼櫻奈良ナリ。自是普賞翫也。〔謙堂文庫藏8右G〕

とあって、標記語「嵯峨」の語を収載し、語注記に、「嵯峨は、京の西岳なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(ソモ)醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)花濃香(デヤウキヤウ)芬々(フンフン)(ニオヒ)(スデニ)(サカン)嵯峨(サガ)吉野山櫻(ヤマザクラ)開落(カイラク)(マジヘ)(ヱダ)(コズヘ)(シゲシ)(ガタキ)黙止(モタシ)者此(せツ)也爭(イカデカ)徒然(トぜン)而送(ヲクラン)光陰(クワウイン)()醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)ノ花トツヾケタルハ。讃()メテ名所ノ花ヲ知せンガ爲也。彼(カノ)雲林院ニ昔シ忘憂(ハウユウ)花合(クハガウ)歡櫻(クハンノサクラ)ト云名花アリ。匂フ事九重マデ匂ヒ。色濃キ事餘言ン方モナシ。其比ハ君モ君タリ。國ノ政(マツリ)事モ無(ヲコタル)佛法王法ノ盛ナリシ上ハ。花モ香ヲマシ色モ妙也。特ニ雲林院(ウンリンイン)モ繁昌(ハンジヤウ)シ。勤行(ゴンギヤウ)モ稠カリシカバ。最花モ香色倍(マサ)レリ。去レバ此花ヲ見人愁(ウレヒ)ヲ忘(ワス)レ悦(ヨロコヒ)ヲ合スルト也。去程忘憂花合歡櫻ト帝(ミカ)トヨリ號(カウ)シ給ヒケレ。然ニ名所ノ名花ヲ云ハントテ。醍醐(ダイコ)嵯峨(サガ)芳野(ヨシノ)ナンドヲ云タル也。今ハ世モ(ゲウハク)ニ及ビ。佛法王法廢(スタ)レ絶(タヘ)テ政事モ直(タメ)シカラズ。去ハ花モ白ヒ少ク色モアサシ。〔5ウ六〜6オ三〕

とあって、標記語「嵯峨」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

嵯峨(さが)吉野(よしの)の山櫻(やまさくら)嵯峨吉野山是も皆花乃名所なり。〔7オ一・二〕

とあって、この標記語「嵯峨」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)の花(ハな)濃香(ちやうかう)芬々(ふんぶん)として匂(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)の山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(えだ)を交(まじ)ヘ其(その)(こずゑ)(しげ)し。黙止(もだし)(がた)き者()(この)(せつ)(なり)(いかで)か徒然(とぜん)とし而()光陰(くハういん)を送(おく)らん哉()抑醍醐雲林院濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交其梢繁黙止者此節也徒然而送ラン光陰▲嵯峨ハ山城(やましろ)吉野ハ大和(やまと)是亦共(またとも)に花の名所也。〔5ウ一・二〕

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)(はな)濃香(じようかう)芬々(ふんぶん)として(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(まじへ)(えだ)(その)(こずゑ)(しげし)(がた)黙止(もだし)()(この)(せつ)(なり)(いかで)徒然(とぜん)(して)(おく)らん光陰(くわういん)()▲嵯峨ハ山城(やましろ)吉野ハ大和(やまと)(これ)亦共(またとも)に花の名所也。〔8ウ六〕

とあって、標記語「嵯峨」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「嵯峨」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔副〕【嵯峨】〔説文「嵯峨、山高」字鏡37「嶮也、嵯也、峨也、佐加志(サカシ)」〕山の、聳え立てる状に云ふ語。陸機、從軍行「崇山鬱トシテ嵯峨ナリ衞恒、論書「山岳嵯峨而連岡」〔842-1〕

とあって、京都の地名である「嵯峨」の語については未収載とする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-嵯峨】[]@京都市右京区の地名。京都盆地北西部、保津川岸の地域で、上嵯峨・下嵯峨に分けられる。平安時代から狩猟地に利用され、嵯峨天皇の離宮が営まれてのち、貴族の別荘地となる。名称旧跡に富み、天龍寺、清涼寺、大覚寺などがある。山城国の歌枕。A「さがてんのう(嵯峨天皇)の略」。[]〔名〕「さがぎれ(嵯峨切)」の略」とあって、室町時代から江戸時代における山桜の名所ということは、ここには未記載であり、『庭訓徃來』のこの語用例も未収載にする。
[ことばの実際]「嵯峨」と「山桜」
山ざくら雲のはたての春風にあまつ空なる花の香ぞする《『続千載集』78》
 
 
2006年04月27日(木)晴。東京→世田谷(駒沢)
(さかん)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、

(サカン也)()。〔元亀二年本279五〕

(サカンナリ)()。〔静嘉堂本319三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

抑醍醐雲林院花濃香芬々也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔至徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳也嵯峨吉野山櫻開落交條○([其])梢繁難黙止者此節也爭徒然而送光陰哉〔宝徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔建部傳内本〕

抑醍醐雲林院花濃香(チヨウキヤウ)芬々トシテ匂巳ンナリ也嵯峨芳(ヨシ)山桜開落交(マシフ)黙止者此節(トキ)テカ()トシテ而送ラン光陰〔山田俊雄藏本〕

醍醐雲林院花濃香芬々トシテ也嵯峨吉野山桜開落交(エダ)梢繁黙止者此節也爭デカ徒然トシテ而送ラン光陰〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))は、未収載にする。
次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(サカン也/シヤウ)[平](同/せイ)[平](同/リウ)[平軽](同/ヱイ)[平]。〔態藝門808三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(サカン也)(同)(同)。〔弘治・言語進退213五〕

(サカン也) 。〔永祿本・言語門179七〕

(サカンナリ) 。〔尭空本・言語門168八〕

とあって、標記語「」の語を収載する。易林本節用集』に、

(サカンナリ) () () ()。〔言辞門183二・天理図書館蔵下24ウ二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

042濃香芬々トシテ匂巳也嵯峨吉野(原註一)山櫻 嵯峨京西岳也。吉野大和。日本用ルコト。仁王四十五代聖武天王求、大和春日明神三笠山八重櫻。此見給則四言詩光明皇后奉給。詩日、(ヒヽニ/サカンナリ)(ヤマ/イテタリ)美花(ミサレトモ/モトム)玉女(ユウナ/\/ヲヽシニ)戀歌。此詩猿O字也。毎句上一字二度讀也。一字二字四言也。或人詩讀也。ヘテ(コソ)(マサシ)山_櫻伊-茂せバヤ(イ)_社寢(ネラレネ)。天皇皈洛後、后天皇相_給云、如_何ナレハ此之作詩給御送候仰。天皇曰、櫻見_付哀皇后進度思候間、餘詩給御_送候レハ仰。后日、實思食セハ一枝給哉。被レハ仰。帝則彼櫻奈良ナリ。自是普賞翫也。〔謙堂文庫藏8右G〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(ソモ)醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)花濃香(デヤウキヤウ)芬々(フンフン)(ニオヒ)(スデニ)(サカン)嵯峨(サガ)吉野山櫻(ヤマザクラ)開落(カイラク)(マジヘ)(ヱダ)(コズヘ)(シゲシ)(ガタキ)黙止(モタシ)者此(せツ)也爭(イカデカ)徒然(トぜン)而送(ヲクラン)光陰(クワウイン)()醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)ノ花トツヾケタルハ。讃()メテ名所ノ花ヲ知せンガ爲也。彼(カノ)雲林院ニ昔シ忘憂(ハウユウ)花合(クハガウ)歡櫻(クハンノサクラ)ト云名花アリ。匂フ事九重マデ匂ヒ。色濃キ事餘言ン方モナシ。其比ハ君モ君タリ。國ノ政(マツリ)事モ無(ヲコタル)佛法王法ノ盛ナリシ上ハ。花モ香ヲマシ色モ妙也。特ニ雲林院(ウンリンイン)モ繁昌(ハンジヤウ)シ。勤行(ゴンギヤウ)モ稠カリシカバ。最花モ香色倍(マサ)レリ。去レバ此花ヲ見人愁(ウレヒ)ヲ忘(ワス)レ悦(ヨロコヒ)ヲ合スルト也。去程忘憂花合歡櫻ト帝(ミカ)トヨリ號(カウ)シ給ヒケレ。然ニ名所ノ名花ヲ云ハントテ。醍醐(ダイコ)嵯峨(サガ)芳野(ヨシノ)ナンドヲ云タル也。今ハ世モ(ゲウハク)ニ及ビ。佛法王法廢(スタ)レ絶(タヘ)テ政事モ直(タメ)シカラズ。去ハ花モ白ヒ少ク色モアサシ。〔5ウ六〜6オ三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(にほひ)(すて)(さか)(なり)匂巳満開(まんかい)なるゆへなり。〔7オ一〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)の花(ハな)濃香(ちやうかう)芬々(ふんぶん)として匂(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)の山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(えだ)を交(まじ)ヘ其(その)(こずゑ)(しげ)し。黙止(もだし)(がた)き者()(この)(せつ)(なり)(いかで)か徒然(とぜん)とし而()光陰(くハういん)を送(おく)らん哉()抑醍醐雲林院濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交其梢繁黙止者此節也徒然而送ラン光陰。〔5オ六〜八〕

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)(はな)濃香(じようかう)芬々(ふんぶん)として(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(まじへ)(えだ)(その)(こずゑ)(しげし)(がた)黙止(もだし)()(この)(せつ)(なり)(いかで)徒然(とぜん)(して)(おく)らん光陰(くわういん)()。〔8ウ一〜四〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Sacan.サカン(盛) 例、Sacan naru.(盛んなる)栄える、または、隆盛でその盛りである。文書語.〔邦訳546l〕

とあって、標記語「」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「さか-〔名〕【】」の語は未収載にする。そして、「さかん-〔副〕【】さかりにの條を見よ」としている。

さかり〔名〕【】〔さかる(盛)の名詞形、其條を見よ〕(一){さかること。勢ひの、たけなはなること。まさかり。隆盛。万葉集、五15「梅の花、今佐加利(サカリ)なり、思共(オモフドテ)、挿頭(カザシ)にしてな、今佐加利なり」同、三30「青によし、奈良の都は、咲く花の、匂ふが如く、今(サカリ)なり」(二){わかざかり。をとこざかり。壯年。源氏物語、九、葵26「かかる齡(よはひ)の末に、若く、さかりの子に後れ奉りて」同、四十八、寄生07「まして、ただ人の、さかり過ぎなむも、あいなし」(三)にぎはひ。繁昌。はやり。さかり場」〔781-5〕

とあって、標記語「さかん】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「さかん】〔形動〕(さかり(盛)の変化した語)@たいへん勢いのあるさま。元気のよいさま。たけなわであるさま。充実したさま。A人としても最も元気のときであるさま。年盛りであるさま。B繁盛するさま。にぎわうさま。また、にぎやかに事を行なうさま。C広く行なわれるさま。はやるさま」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未収載にする。
[ことばの実際]
時年廿五勇力太、而懸四方、多亡凶徒也。《訓み下し》勇力太(ハナハ)(サカン)シテ、四方ニ懸ケテ、多ク凶徒ヲ亡ボスナリ。 《『吾妻鏡』治承五年閏二月二十三日の条》
 
 
2006年04月26日(水)晴。東京→世田谷(駒沢)
(すでに)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「須」部に、

(スデニ)()。〔元亀二年本362七〕

(ステニ)()。〔静嘉堂本442一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

抑醍醐雲林院花濃香芬々盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔至徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山櫻開落交條([其])梢繁難黙止者此節也爭徒然而送光陰哉〔宝徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔建部傳内本〕

抑醍醐雲林院花濃香(チヨウキヤウ)芬々トシテンナリ也嵯峨芳(ヨシ)山桜開落交(マシフ)黙止者此節(トキ)テカ()トシテ而送ラン光陰〔山田俊雄藏本〕

醍醐雲林院花濃香芬々トシテ也嵯峨吉野山桜開落交(エダ)梢繁黙止者此節也爭デカ徒然トシテ而送ラン光陰〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、語注記の表現として、

野馬臺ヤマト/ヤバタイ ーーーノ義ハ已ニ注ス于上ニ矣。〔天地門18D

ニワタミツ/クワウラウ 朝ニ滿夕ニ已ニ(ノソコル)以此可知義〔天地門24@〕

鍛冶カチ/タンヤ 已ニ別音(コヘ)モ亦タ別也(ナリ)。〔人倫門39B〕

師子身中シシシン(チウ)ノムシ 師子(シシ)トモ(ステ)スト百獸([ヒヤク]ジウ)(ナヲ)(ヲソレ)(イ)(クラフ)コト〔態藝門94B〕

クワンドウ/フキ 三躰詩([サン]テイシ)僧房([ソウ]バウ)逢著(ブチヤク)〓冬花([クワンドウ]クワ)。出テテ吟行スレハ(ステ)ナリ。十二街中(カイ[チユウ])春雪遍(アマネシ)馬蹄([バ]テイ)。今ラン(タレ)ニカ〔草木門123E〕

烏臼樹ウキウジユ 臼或和靖(ワセイ)巾子(キンシ)峰頭(ホウトウ)烏臼樹微霜(ビサウ)未タス(ヲチ)(クレナイ)ナリト云々〔草木門132D〕

と六例あって、このうち二例にふりがな「すてに」が施されている。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(スデニ)()[去]。〔態藝門1134二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(スデニ)()。〔弘治・言語進退270五〕

(ステニ) 。〔永祿本・言語門231九〕〔尭空本・言語門217八〕

とあって、弘治二年本に標記語「」の語を収載し、他本は注記記載している。易林本節用集』に、

(スデニ/キ)(/イ)。〔言辞門164三・天理図書館蔵下54オ一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

042濃香芬々トシテ盛也嵯峨吉野(原註一)山櫻  嵯峨京西岳也。吉野大和。日本用ルコト。仁王四十五代聖武天王求、大和春日明神三笠山八重櫻。此見給則四言詩光明皇后奉給。詩日、(ヒヽニ/サカンナリ)(ヤマ/イテタリ)美花(ミサレトモ/モトム)玉女(ユウナ/\/ヲヽシニ)戀歌。此詩猿O字也。毎句上一字二度讀也。一字二字四言也。或人詩讀也。ヘテ(コソ)(マサシ)山_櫻伊-茂せバヤ(イ)_社寢(ネラレネ)。天皇皈洛後、后天皇相_給云、如_何ナレハ此之作詩給御送候仰。天皇曰、櫻見_付哀皇后進度思候間、餘詩給御_送候レハ仰。后日、實思食セハ一枝給哉。被レハ仰。帝則彼櫻奈良ナリ。自是普賞翫也。〔謙堂文庫藏8右G〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(ソモ)醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)花濃香(デヤウキヤウ)芬々(フンフン)(ニオヒ)(スデニ)(サカン)嵯峨(サガ)吉野山櫻(ヤマザクラ)開落(カイラク)(マジヘ)(ヱダ)(コズヘ)(シゲシ)(ガタキ)黙止(モタシ)者此(せツ)也爭(イカデカ)徒然(トぜン)而送(ヲクラン)光陰(クワウイン)()醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)ノ花トツヾケタルハ。讃()メテ名所ノ花ヲ知せンガ爲也。彼(カノ)雲林院ニ昔シ忘憂(ハウユウ)花合(クハガウ)歡櫻(クハンノサクラ)ト云名花アリ。匂フ事九重マデ匂ヒ。色濃キ事餘言ン方モナシ。其比ハ君モ君タリ。國ノ政(マツリ)事モ無(ヲコタル)佛法王法ノ盛ナリシ上ハ。花モ香ヲマシ色モ妙也。特ニ雲林院(ウンリンイン)モ繁昌(ハンジヤウ)シ。勤行(ゴンギヤウ)モ稠カリシカバ。最花モ香色倍(マサ)レリ。去レバ此花ヲ見人愁(ウレヒ)ヲ忘(ワス)レ悦(ヨロコヒ)ヲ合スルト也。去程忘憂花合歡櫻ト帝(ミカ)トヨリ號(カウ)シ給ヒケレ。然ニ名所ノ名花ヲ云ハントテ。醍醐(ダイコ)嵯峨(サガ)芳野(ヨシノ)ナンドヲ云タル也。今ハ世モ(ゲウハク)ニ及ビ。佛法王法廢(スタ)レ絶(タヘ)テ政事モ直(タメ)シカラズ。去ハ花モ白ヒ少ク色モアサシ。〔5ウ六〜6オ三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(にほひ)(すて)(さか)ん也(なり)盛也満開(まんかい)なるゆへなり。〔7オ一〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)の花(ハな)濃香(ちやうかう)芬々(ふんぶん)として匂(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)の山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(えだ)を交(まじ)ヘ其(その)(こずゑ)(しげ)し。黙止(もだし)(がた)き者()(この)(せつ)(なり)(いかで)か徒然(とぜん)とし而()光陰(くハういん)を送(おく)らん哉()抑醍醐雲林院濃香芬々盛也嵯峨吉野山桜開落交其梢繁黙止者此節也徒然而送ラン光陰。〔5オ六〜八〕

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)(はな)濃香(じようかう)芬々(ふんぶん)として(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(まじへ)(えだ)(その)(こずゑ)(しげし)(がた)黙止(もだし)()(この)(せつ)(なり)(いかで)徒然(とぜん)(して)(おく)らん光陰(くわういん)()。〔8ウ一〜四〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Sudeni.スデニ(既に、已に) 副詞.すでにもう、または、すんでのところで、もうちょっとのところで、危ないところで、など.例、Sudeni xino<to itaita.(既に死なうと致いた)彼はすんでのことに死ぬところであった.〔邦訳582r〕

とあって、標記語「」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

すでに〔副〕【】〔既、盡也〕(一){盡(ことごと)く。全く。すっかりと。まるきり。ひきくるめて。全體に。一般に。すっと亘りて。古事記、序「已(スデニ)訓述レバ者、詞不心」古事記、下(反正)17「御齒、云云、上下等齊、既(スデニ)珠」~代紀、上19「此二門、潮既(スデニ)太急」~代紀、上27「素盞鳴尊所生之皃、皆已(スデニ)男矣」繼體紀、廿三年三月「朝貢使、云云、濕?、全(スデニ)壞無色」萬葉集、十七13「天の下、須泥爾(スデニ)被ひて、降る雪の」(二){前(さき)に。夙(はや)く。まへかた。未(いま)だの反(うら)萬葉集、十七16「君に因り、吾が名は須泥爾(スデニ)立田山」萬葉集、十二16「梓弓、引きみ弛べみ、思ひみて、既(すでに)心は、寄りにしものを」夫木抄、三十六「月見ても、我が世はすでに、久方の、遍く照らせ、秋の心を」「すでに去れり」「すでに終はりき」(三) 轉じて、はや。もはや。すんでのことに。古今著聞集、十、相撲強力、近江の金「ただ、締めに締めまさりければ、既に、沫を吹き死なむとしけり」玉葉集、九、戀、一「夕暮は、必ず人を、戀ひ馴れて、日も傾けば、すでに戀しき」太平記、三十一、武藏野合戰事「小手差原より石濱まで、坂東道、已に四十六里を、片時が閧ノぞ追ひつきたる」建礼門院右京大夫集「内裏に近き火の事ありて、すでに危(あぶな)かりしかば」 〔2-911-3〕

とあって、標記語「すで-】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「すで-】〔副〕@少しも残るところなくすべてにわたるさま。完全にそうなるさまを表す語。全く。すっかり。A(下に完了、過去を表わす語を伴って)事が終わった状態を表わす。以前に。先に。とっくに。もう。また、過程を経て、ことが現実に至るさまを表わす。とうとう。B(下の文を断定の表現で結んで)動かしがたい事実であるさまを表わす。まぎれもなく、まさに。ちょうど。現に。ほとんど。C(多く下に推量の語を伴って)事が近づいた状態を表わす。もう少しで。すんでの事に。もはや。まもなく」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未収載にする。
[ことばの実際]
○スデニトイヘル、スデ、如何。答、スデハ已也。既也。スデハヲハルトヨメリ。同心也。《『名語記』(1275)六の条》
 
 
2006年04月25日(火)晴。東京→世田谷(駒沢)
(にほひ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「丹」部に、

(ニホウ)()〔元亀二年本41四〕

(ニヲフ)()〔静嘉堂本45四〕

(ニヲイ)()〔天正十七年本上23オ六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

抑醍醐雲林院花濃香芬々巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔至徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々巳盛也嵯峨吉野山櫻開落交條([其])梢繁難黙止者此節也爭徒然而送光陰哉〔宝徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔建部傳内本〕

抑醍醐雲林院花濃香(チヨウキヤウ)芬々トシテ巳盛ンナリ也嵯峨芳(ヨシ)山桜開落交(マシフ)黙止者此節(トキ)テカ()トシテ而送ラン光陰〔山田俊雄藏本〕

醍醐雲林院花濃香芬々トシテ也嵯峨吉野山桜開落交(エダ)梢繁黙止者此節也爭デカ徒然トシテ而送ラン光陰〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・経覺筆本に「+匂」、宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本に「」と表記して記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ニホフ/ニホヒ已上同。〔黒川本上31オ八〕

ニホフ/ニホヒ?已上同。〔卷第二267一〕

とあって、標記語「」の語を収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語を未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(ニホフ/イン)[平軽]又作發越(ニヲウト)。〔態藝門93四〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記に「また、發越(ニヲウ)と作す」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(ニホフ) 薫。芬。馥。芳/。菲。共同。〔弘治・言語進退29一〕

(ニホフ) 鬱。薫。芬。馥/芳。。菲。〔永祿本・言語門29八〕

(ニヲフ) 鬱。薫。芬。馥/芳。。菲。〔尭空本・言語門26八〕

(ニホウ)()()()()/芳()()()。〔両足院本・言語門31五〕

とあって、標記語「」と「」の語を収載する。易林本節用集』に、

(ニホフ)() 。〔言辞門28七・天理図書館蔵上14ウ七〕

とあって、標記語「薫」「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」と「」と両表記されている。これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本は、標記語「」の語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

042濃香芬々トシテ巳盛也嵯峨吉野(原註一)山櫻  嵯峨京西岳也。吉野大和。日本用ルコト。仁王四十五代聖武天王求、大和春日明神三笠山八重櫻。此見給則四言光明皇后奉給。詩日、(ヒヽニ/サカンナリ)(ヤマ/イテタリ)美花(ミサレトモ/モトム)玉女(ユウナ/\/ヲヽシニ)戀歌。此詩猿O字也。毎句上一字二度讀也。一字二字四言也。或人詩讀也。ヘテ(コソ)(マサシ)山_櫻伊-茂せバヤ(イ)_社寢(ネラレネ)。天皇皈洛後、后天皇相_給云、如_何ナレハ此之作詩給御送候仰。天皇曰、櫻見_付哀皇后進度思候間、餘詩給御_送候レハ仰。后日、實思食セハ一枝給哉。被レハ仰。帝則彼櫻奈良ナリ。自是普賞翫也。〔謙堂文庫藏8右G〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(ソモ)醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)花濃香(デヤウキヤウ)芬々(フンフン)(ニオヒ)(スデニ)(サカン)嵯峨(サガ)吉野山櫻(ヤマザクラ)開落(カイラク)(マジヘ)(ヱダ)(コズヘ)(シゲシ)(ガタキ)黙止(モタシ)者此(せツ)也爭(イカデカ)徒然(トぜン)而送(ヲクラン)光陰(クワウイン)()醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)ノ花トツヾケタルハ。讃()メテ名所ノ花ヲ知せンガ爲也。彼(カノ)雲林院ニ昔シ忘憂(ハウユウ)花合(クハガウ)歡櫻(クハンノサクラ)ト云名花アリ。匂フ事九重マデ匂ヒ。色濃キ事餘言ン方モナシ。其比ハ君モ君タリ。國ノ政(マツリ)事モ無(ヲコタル)佛法王法ノ盛ナリシ上ハ。花モ香ヲマシ色モ妙也。特ニ雲林院(ウンリンイン)モ繁昌(ハンジヤウ)シ。勤行(ゴンギヤウ)モ稠カリシカバ。最花モ香色倍(マサ)レリ。去レバ此花ヲ見人愁(ウレヒ)ヲ忘(ワス)レ悦(ヨロコヒ)ヲ合スルト也。去程忘憂花合歡櫻ト帝(ミカ)トヨリ號(カウ)シ給ヒケレ。然ニ名所ノ名花ヲ云ハントテ。醍醐(ダイコ)嵯峨(サガ)芳野(ヨシノ)ナンドヲ云タル也。今ハ世モ(ゲウハク)ニ及ビ。佛法王法廢(スタ)レ絶(タヘ)テ政事モ直(タメ)シカラズ。去ハ花モ白ヒ少ク色モアサシ。〔5ウ六〜6オ三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(にほひ)(すて)に盛(さか)ん也(なり)盛也満開(まんかい)なるゆへなり。〔7オ一〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)の花(ハな)濃香(ちやうかう)芬々(ふんぶん)として(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)の山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(えだ)を交(まじ)ヘ其(その)(こずゑ)(しげ)し。黙止(もだし)(がた)き者()(この)(せつ)(なり)(いかで)か徒然(とぜん)とし而()光陰(くハういん)を送(おく)らん哉()抑醍醐雲林院濃香芬々巳盛也嵯峨吉野山桜開落交其梢繁黙止者此節也徒然而送ラン光陰。〔5オ六〜八〕

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)(はな)濃香(じようかう)芬々(ふんぶん)として(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(まじへ)(えだ)(その)(こずゑ)(しげし)(がた)黙止(もだし)()(この)(せつ)(なり)(いかで)徒然(とぜん)(して)(おく)らん光陰(くわういん)()。〔8ウ一〜四〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Niuoi.ニホヒ(匂) 匂い.→Faxxi,suru(発し,する);Vtcuriqi,uru.〔邦訳467r〕

とあって、標記語「」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

にほ-〔名〕【】〔韵の省文の添畫〕(一){にほふこと。氣色(けはひ)の映()ゆること。少女などの美しく、氣色のほめき立ちて見ゆること。氣韻。源氏物語、一、桐壺17「繪にかける楊貴妃の貌は、云云、筆限りありければ、いと匂ひなし」拾遺集、十六、雜、春「飽くかざりし、君が匂の、戀しさに、梅の花をぞ、今朝は折りつる」(二){色のうつくしく、映ゆること。色の光ること。艶(つや)。うつくしき艶なり。源氏物語、三十八、夕霧46「あざやかに、物清げに、若う盛りに匂ひを散らし給へり」萬葉集、八、16長歌「咲きにける、櫻の花の、丹穗日はもあなに」同、十44「黄葉(もみぢば)の、丹穗日は繁し、然れども、妻梨の木を、手折りかざさむ」(三){香()。かをり。香氣。薫。(四){ひかり。威光。源氏物語、四十五、椎本27「人となり行ひ齡に添へて、官(つかさ)、位(くらゐ)、世の中の匂ひも何とも覺えずなん」(五)鍛ひに因りて、刀の刃の膚に、研ぎあげて生ずる艶(つや)ある文理(あや)。錵(にえ)の映えて立つもの。鎧色談「刀の燒刃にもと云事あり、燒刃の處に虹のごとく見えて、ほのぼのと色うすくなりたる所を匂といふ」(六)襲(かさね)の色目に、紫にほひ、紅にほひ、萌黄にほひと云ふは、濃き色の上重(うはがさね)に、薄き色を取合はするにて、餘韵のひびきたる心なり。(七)鎧の縅毛(をどしげ)に云ふは、上の方は色濃く、下の方次第に薄く、果は白くなるものなり。萌黄匂、爐(はじ)匂など、皆然り。すそご(裾濃)の反對なるもの。参考保元物語、二、義朝白河殿夜討事「當年十七、死生不知の兵也、(伊藤六)萌黄の鎧に、三枚兜に染羽の矢負、三所籐の弓を持(半井本)」(八) 薫物(たきもの)に云ふは、初、香高く、末に至りてほのぼのと、香、薄るる如きものなり。〔3-715-1〕

とあって、標記語「にほ-】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「にほ-】〔名〕(動詞「におう(匂)」の連用形の名詞化)@あざやかに映えて見える色あい。色つや。古くは、もみじや花など、赤を基調とする色あいについていった。そのものから発する色あい、光をうけてはえる色、また染色の色あいなどさまざまな場合にもいい、中世にはあざやかな色あいよりもほのぼのとした明るさを表わすようになった。→「におう(匂)」の語誌。A人の内部から発散してくる生き生きとした美しさ。あふれるような美しさ。優しさ、美的なセンスなど、内面的なもののあらわれにもいう。B花やかに人目をひくありさま。見栄えのするさま。栄華のさま。威光。光彩。C(「臭」とも)ただよい出て嗅覚を刺激する気。かおり、くさみなど。悪いにおいについて「臭」とも書く。D声が、張りがあって豊かで美しいさま。声のつやっぽさ。声のなまめかしさ。中世になると、心にしみるような感じをもいう。Eそのもののうちにどことなくただよう、気配、気分、情趣。ただよい流れる雰囲気。イ文芸・美術などでそのものにあらわれている魅力、美しさ、妙趣など。ロ能で、余韻、情趣。特に、謡から舞へ、あるいは次の謡へ移るとき、その間あいにかもし出される余韻。ハ和歌・俳諧で、余韻、余情。特に、薫風俳諧で、前句にただよっている余情と、それを感じとって付けた付け句の間にかもし出される情趣。→匂付け。F濃い色からだんだん薄くなっていくこと。ぼかし。イ染色または襲(かさね)の色目にいう。ロ「においおどし(匂威)」に同じ。ハ黛(まゆずみ)で眉を描いてぼかした部分。ニ日本刀の刃と地膚の境に煙のようにみえる文様。G尾行をいう、隠語」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未収載にする。
[ことばの実際]「匂攷
 
 
2006年04月24日(月)晴。東京→世田谷(駒沢)
芬々(フンプン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「不」部に、標記語「芬々」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

抑醍醐雲林院花濃香芬々巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔至徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山櫻開落交條([其])梢繁難黙止者此節也爭徒然而送光陰哉〔宝徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔建部傳内本〕

抑醍醐雲林院花濃香(チヨウキヤウ)芬々トシテ匂巳盛ンナリ也嵯峨芳(ヨシ)山桜開落交(マシフ)黙止者此節(トキ)テカ()トシテ而送ラン光陰〔山田俊雄藏本〕

醍醐雲林院花濃香芬々トシテ也嵯峨吉野山桜開落交(エダ)梢繁黙止者此節也爭デカ徒然トシテ而送ラン光陰〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「芬々」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「芬々」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「芬々」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「芬々」の語は未収載にあり、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

042濃香芬々トシテ匂巳盛也嵯峨吉野(原註一)山櫻  嵯峨京西岳也。吉野大和。日本用ルコト。仁王四十五代聖武天王求、大和春日明神三笠山八重櫻。此見給則四言光明皇后奉給。詩日、(ヒヽニ/サカンナリ)(ヤマ/イテタリ)美花(ミサレトモ/モトム)玉女(ユウナ/\/ヲヽシニ)戀歌。此詩猿O字也。毎句上一字二度讀也。一字二字四言也。或人詩讀也。ヘテ(コソ)(マサシ)山_櫻伊-茂せバヤ(イ)_社寢(ネラレネ)。天皇皈洛後、后天皇相_給云、如_何ナレハ此之作詩給御送候仰。天皇曰、櫻見_付哀皇后進度思候間、餘詩給御_送候レハ仰。后日、實思食セハ一枝給哉。被レハ仰。帝則彼櫻奈良ナリ。自是普賞翫也。〔謙堂文庫藏8右G〕

とあって、標記語「芬々」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(ソモ)醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)花濃香(デヤウキヤウ)芬々(フンフン)(ニオヒ)(スデニ)(サカン)嵯峨(サガ)吉野山櫻(ヤマザクラ)開落(カイラク)(マジヘ)(ヱダ)(コズヘ)(シゲシ)(ガタキ)黙止(モタシ)者此(せツ)也爭(イカデカ)徒然(トぜン)而送(ヲクラン)光陰(クワウイン)()醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)ノ花トツヾケタルハ。讃()メテ名所ノ花ヲ知せンガ爲也。彼(カノ)雲林院ニ昔シ忘憂(ハウユウ)花合(クハガウ)歡櫻(クハンノサクラ)ト云名花アリ。匂フ事九重マデ匂ヒ。色濃キ事餘言ン方モナシ。其比ハ君モ君タリ。國ノ政(マツリ)事モ無(ヲコタル)佛法王法ノ盛ナリシ上ハ。花モ香ヲマシ色モ妙也。特ニ雲林院(ウンリンイン)モ繁昌(ハンジヤウ)シ。勤行(ゴンギヤウ)モ稠カリシカバ。最花モ香色倍(マサ)レリ。去レバ此花ヲ見人愁(ウレヒ)ヲ忘(ワス)レ悦(ヨロコヒ)ヲ合スルト也。去程忘憂花合歡櫻ト帝(ミカ)トヨリ號(カウ)シ給ヒケレ。然ニ名所ノ名花ヲ云ハントテ。醍醐(ダイコ)嵯峨(サガ)芳野(ヨシノ)ナンドヲ云タル也。今ハ世モ(ゲウハク)ニ及ビ。佛法王法廢(スタ)レ絶(タヘ)テ政事モ直(タメ)シカラズ。去ハ花モ白ヒ少ク色モアサシ。〔5ウ六〜6オ三〕

とあって、標記語「芬々」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

濃香(じやうかう)芬々(ふんぶん)として濃香芬々濃香ハにほひのふかきなり。芬々とハかほりの高きを形容(〔け〕いよう)したるなり。〔6ウ八〜7オ一〕

とあって、この標記語「芬々」の語を収載し、語注記は、「芬々とは、かほりの高きを形容(けいよう)したるなり」と明確に記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)の花(ハな)濃香(ちやうかう)芬々(ふんぶん)として(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)の山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(えだ)を交(まじ)ヘ其(その)(こずゑ)(しげ)し。黙止(もだし)(がた)き者()(この)(せつ)(なり)(いかで)か徒然(とぜん)とし而()光陰(くハういん)を送(おく)らん哉()抑醍醐雲林院濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交其梢繁黙止者此節也徒然而送ラン光陰。〔5オ六〜八〕

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)(はな)濃香(じようかう)芬々(ふんぶん)として(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(まじへ)(えだ)(その)(こずゑ)(しげし)(がた)黙止(もだし)()(この)(せつ)(なり)(いかで)徒然(とぜん)(して)(おく)らん光陰(くわういん)()。〔8ウ一〜四〕

とあって、標記語「芬々」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Funpun.フンプン(芬々) Co<baxixi,co<baxixi.(芬しし,芬しし)気持ちのよい匂い.または,芳香が発散しひろがること.文書語.→Gio>qio<.〔邦訳278r〕

とあって、標記語「芬々」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ふん-ぷん〔名〕【芬々】香の馨る状に云ふ語。詩經、大雅、生民之什、鳧篇「旨酒欣欣、燔炙芬芬、公尸燕飲、無後艱庭訓往來、二月「醍醐雲林院花、濃香芬芬、而匂已盛也」〔3-237-4・1782-4〕※「」の文字がつぶれていて拡大して確認した。

とあって、標記語「ふん-ぷん芬々】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ふん-ぷん芬々】〔形動タリ〕(「ふんふん」とも)芳気の高くかおるさま。また、広く悪臭の漂うさまをいう」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未収載にする。
[ことばの実際]
古録には次のような話が残っています。平安時代、相応和尚が葛川に千日の修行に行った帰り道のこと、この地で休憩していると 「異香芬々ト其辺ニ満ツレバ 異香立ト言ヒテ地名ニ附シタリ。後 伊香達ト改ム。」 今まで嗅いだことのない香りがこの辺りにぷんぷんとしていたので、この地に異香立と言う名前を付けたそうです。後に「伊香達」と改められました。また、八所神社所蔵伊香立御神記からは、「伊香龍」。京都、妙法院の文書からは、「筏立」と記されていた時代もあったことがわかっています
伊香達の由来より
京都御苑。桃李紅。灼々芬々《『性霊集』(835頃)一・入山興》
 
 
2006年04月23日(日)晴。東京→世田谷(駒沢)
濃香(デウカウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「天」部に、「濃州(デウシウ)美―」の語を収載するが、標記語「濃香」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

抑醍醐雲林院花濃香芬々巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔至徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山櫻開落交條([其])梢繁難黙止者此節也爭徒然而送光陰哉〔宝徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔建部傳内本〕

抑醍醐雲林院濃香(チヨウキヤウ)芬々トシテ匂巳盛ンナリ也嵯峨芳(ヨシ)山桜開落交(マシフ)黙止者此節(トキ)テカ()トシテ而送ラン光陰〔山田俊雄藏本〕

醍醐雲林院濃香芬々トシテ也嵯峨吉野山桜開落交(エダ)梢繁黙止者此節也爭デカ徒然トシテ而送ラン光陰〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「濃香」と表記し、訓みは、山田俊雄藏本に「チヨウキヤウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「濃香」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、標記語「濃香」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

濃華(デウクワ) ―香(キヤウ)。―色(シヨク)。〔言辞門162二・天理図書館蔵下16オ二〕

とあって、標記語「濃華」の語の熟語群に「濃香」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「濃香」の語は未収載にあり、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

042濃香芬々トシテ匂巳盛也嵯峨吉野(原註一)山櫻  嵯峨京西岳也。吉野大和。日本用ルコト。仁王四十五代聖武天王求、大和春日明神三笠山八重櫻。此見給則四言光明皇后奉給。詩日、(ヒヽニ/サカンナリ)(ヤマ/イテタリ)美花(ミサレトモ/モトム)玉女(ユウナ/\/ヲヽシニ)戀歌。此詩猿O字也。毎句上一字二度讀也。一字二字四言也。或人詩讀也。ヘテ(コソ)(マサシ)山_櫻伊-茂せバヤ(イ)_社寢(ネラレネ)。天皇皈洛後、后天皇相_給云、如_何ナレハ此之作詩給御送候仰。天皇曰、櫻見_付哀皇后進度思候間、餘詩給御_送候レハ仰。后日、實思食セハ一枝給哉。被レハ仰。帝則彼櫻奈良ナリ。自是普賞翫也。〔謙堂文庫藏8右G〕

とあって、標記語「濃香」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(ソモ)醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)ノ花濃香(デヤウキヤウ)芬々(フンフン)(ニオヒ)(スデニ)(サカン)嵯峨(サガ)吉野山櫻(ヤマザクラ)開落(カイラク)(マジヘ)(ヱダ)(コズヘ)(シゲシ)(ガタキ)黙止(モタシ)者此(せツ)也爭(イカデカ)徒然(トぜン)而送(ヲクラン)光陰(クワウイン)()醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)ノ花トツヾケタルハ。讃()メテ名所ノ花ヲ知せンガ爲也。彼(カノ)雲林院ニ昔シ忘憂(ハウユウ)花合(クハガウ)歡櫻(クハンノサクラ)ト云名花アリ。匂フ事九重マデ匂ヒ。色濃キ事餘言ン方モナシ。其比ハ君モ君タリ。國ノ政(マツリ)事モ無(ヲコタル)佛法王法ノ盛ナリシ上ハ。花モ香ヲマシ色モ妙也。特ニ雲林院(ウンリンイン)モ繁昌(ハンジヤウ)シ。勤行(ゴンギヤウ)モ稠カリシカバ。最花モ香色倍(マサ)レリ。去レバ此花ヲ見人愁(ウレヒ)ヲ忘(ワス)レ悦(ヨロコヒ)ヲ合スルト也。去程忘憂花合歡櫻ト帝(ミカ)トヨリ號(カウ)シ給ヒケレ。然ニ名所ノ名花ヲ云ハントテ。醍醐(ダイコ)嵯峨(サガ)芳野(ヨシノ)ナンドヲ云タル也。今ハ世モ(ゲウハク)ニ及ビ。佛法王法廢(スタ)レ絶(タヘ)テ政事モ直(タメ)シカラズ。去ハ花モ白ヒ少ク色モアサシ。〔5ウ六〜6オ三〕

とあって、標記語「濃香」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

濃香(じやうかう)芬々(ふんぶん)として/濃香芬々濃香ハにほひのふかきなり。芬々とハかほりの高きを形容( いよう)したるなり。〔6ウ八〜7オ一〕

とあって、この標記語「濃香」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)の花(ハな)濃香(ちやうかう)芬々(ふんぶん)として匂(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)の山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(えだ)を交(まじ)ヘ其(その)(こずゑ)(しげ)し。黙止(もだし)(がた)き者()(この)(せつ)(なり)(いかで)か徒然(とぜん)とし而()光陰(くハういん)を送(おく)らん哉()抑醍醐雲林院濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交其梢繁黙止者此節也徒然而送ラン光陰▲醍醐雲林院共(とも)に山城(やましろ)にありて花(はな)の名所(めいしよ)なり。昔(むかし)雲林院には忘憂(ばういう)花合(くハがふ)歡花(くハんくハ)などいふ名木(めいほく)もありけるよし。〔5オ六〜八、5オ八〜5ウ一〕

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)(はな)濃香(じようかう)芬々(ふんぶん)として(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(まじへ)(えだ)(その)(こずゑ)(しげし)(がた)黙止(もだし)()(この)(せつ)(なり)(いかで)徒然(とぜん)(して)(おく)らん光陰(くわういん)()▲醍醐雲林院共(とも)に山城(やましろ)にありて花(はな)の名所(めいしよ)なり。昔(むかし)雲林院には忘憂(ばういう)花合(くわかう)歡花(くわんくわ)などいふ名木(めいぼく)もありけるよし。〔8ウ一〜四、8ウ四〜六〕〔8ウ一〜四〕

とあって、標記語「濃香」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Gio>qio<.ヂョゥキャゥ(濃香) Comayacani co<baxij.(濃やかに香ばしい).すなわち,Yoi niuoi.(良い匂ひ)芳香.¶Gio>qio< funpunto xite niuoi sudeni sacan nari.(濃香芬々として匂已に盛なり)芳香があたり一面に広がって,強いかおりを放ち,その芳香で満ちている.※濃香芬々匂已盛也(庭訓往來,二月徃状).〔邦訳319l〕

とあって、標記語「濃香」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

のう-かう〔名〕【濃香】こまやかなるにほひ。和漢朗詠集、上「淺紅鮮娟、仙方之雪?色、濃香芬郁、妓鑪之烟讓薫」〔1532-1〕

とあって、標記語「のう-かう濃香】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「のう-かう濃香】〔名〕濃厚なにおい。こまやかなにおい。じょうきょう」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を収載する。また、標記語「じょう-きょう濃香】〔名〕(「じょう」「きょう」はそれぞれ「濃」「香」の漢音)濃厚なにおい。こまやかなかおり。のうこう」、標記語「じょう-こう濃香】〔名〕「じょうきょう(濃香)」に同じ」と収載する。
[ことばの実際]
是北野廟庭種也匪濃香之絶妙《訓み出し》是レ北野ノ廟庭ノ種ナリ。濃香ノ絶妙ノミニ匪ズ。 《『吾妻鏡』承元五年閏正月九日の条》
 
 
2006年04月22日(土)晴。東京→世田谷(駒沢)
雲林院(ウンリン井ン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「宇」部に、標記語「雲林院」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

抑醍醐雲林院花濃香芬々巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔至徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山櫻開落交條([其])梢繁難黙止者此節也爭徒然而送光陰哉〔宝徳三年本〕

抑醍醐雲林院花濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交條其梢繁難黙止者此節也争徒然而送光陰哉〔建部傳内本〕

抑醍醐雲林院花濃香(チヨウキヤウ)芬々トシテ匂巳盛ンナリ也嵯峨芳(ヨシ)山桜開落交(マシフ)黙止者此節(トキ)テカ()トシテ而送ラン光陰〔山田俊雄藏本〕

醍醐雲林院花濃香芬々トシテ也嵯峨吉野山桜開落交(エダ)梢繁黙止者此節也爭デカ徒然トシテ而送ラン光陰〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「雲林院」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「雲林院」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「雲林院」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「雲林院」の語は未収載にあり、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

041猶以千悔々々抑醍醐雲林院(ウ/ウン――)ノ花 醍醐山階。真言宗也。梅道地也。雲林院道地也。雲林。〔謙堂文庫藏八右F〕

とあって、標記語「雲林院」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(ソモ)醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)ノ花濃香(デヤウキヤウ)芬々(フンフン)(ニオヒ)(スデニ)(サカン)嵯峨(サガ)吉野山櫻(ヤマザクラ)開落(カイラク)(マジヘ)(ヱダ)(コズヘ)(シゲシ)(ガタキ)黙止(モタシ)者此(せツ)也爭(イカデカ)徒然(トぜン)而送(ヲクラン)光陰(クワウイン)()醍醐(ダイゴ)雲林院(ウンリンイン)ノ花トツヾケタルハ。讃()メテ名所ノ花ヲ知せンガ爲也。彼(カノ)雲林院ニ昔シ忘憂(ハウユウ)花合(クハガウ)歡櫻(クハンノサクラ)ト云名花アリ。匂フ事九重マデ匂ヒ。色濃キ事餘言ン方モナシ。其比ハ君モ君タリ。國ノ政(マツリ)事モ無(ヲコタル)佛法王法ノ盛ナリシ上ハ。花モ香ヲマシ色モ妙也。特ニ雲林院(ウンリンイン)モ繁昌(ハンジヤウ)シ。勤行(ゴンギヤウ)モ稠カリシカバ。最花モ香色倍(マサ)レリ。去レバ此花ヲ見人愁(ウレヒ)ヲ忘(ワス)レ悦(ヨロコヒ)ヲ合スルト也。去程忘憂花合歡櫻ト帝(ミカ)トヨリ號(カウ)シ給ヒケレ。然ニ名所ノ名花ヲ云ハントテ。醍醐(ダイコ)嵯峨(サガ)芳野(ヨシノ)ナンドヲ云タル也。今ハ世モ(ゲウハク)ニ及ビ。佛法王法廢(スタ)レ絶(タヘ)テ政事モ直(タメ)シカラズ。去ハ花モ白ヒ少ク色モアサシ。〔5ウ六〜6オ三〕

とあって、標記語「雲林院」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんいん)ノ花(ハな)抑醍醐雲林院花の名所(めいしよ)なり。昔(むかし)雲林院に名木あり。忘憂(バうゆう)花合(くわかう)歡花(くわんくわ)といえる銘(めい)を御門(ミかど)より玉ひし也。これハ此花を見れは憂(うき)を忘れ歡を生するとのこゝろを以て名附たまひしといふ。〔6ウ六〜八〕

とあって、この標記語「雲林院」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)の花(ハな)濃香(ちやうかう)芬々(ふんぶん)として匂(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)の山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(えだ)を交(まじ)ヘ其(その)(こずゑ)(しげ)し。黙止(もだし)(がた)き者()(この)(せつ)(なり)(いかで)か徒然(とぜん)とし而()光陰(くハういん)を送(おく)らん哉()抑醍醐雲林院濃香芬々匂巳盛也嵯峨吉野山桜開落交其梢繁黙止者此節也徒然而送ラン光陰▲醍醐雲林院共(とも)に山城(やましろ)にありて花(はな)の名所(めいしよ)なり。昔(むかし)雲林院には忘憂(ばういう)花合(くハがふ)歡花(くハんくハ)などいふ名木(めいほく)もありけるよし。〔5オ六〜八、5オ八〜5ウ一〕

(そもそも)醍醐(だいご)雲林院(うんりんゐん)(はな)濃香(じようかう)芬々(ふんぶん)として(にほひ)(すてに)(さかん)(なり)嵯峨(さが)吉野(よしの)山櫻(やまさくら)開落(かいらく)(まじへ)(えだ)(その)(こずゑ)(しげし)(がた)黙止(もだし)()(この)(せつ)(なり)(いかで)徒然(とぜん)(して)(おく)らん光陰(くわういん)()▲醍醐雲林院共(とも)に山城(やましろ)にありて花(はな)の名所(めいしよ)なり。昔(むかし)雲林院には忘憂(ばういう)花合(くわかう)歡花(くわんくわ)などいふ名木(めいぼく)もありけるよし。〔8ウ一〜四、8ウ四〜六〕〔8ウ一〜四〕

とあって、標記語「雲林院」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「雲林院」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「うんりん-ゐん雲林院】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「うんりん-いん雲林院】〔名〕[一]「うりんいん(雲林院)」に同じ。天草本平家物語(1592)一・四「ヤウヤウトシテVnrinyn(ウンリンイン)トユウトコロエヲチツイテ」[二]謡曲。四番目物。觀世、宝生、金剛、喜多流。作者不詳。在原業平の霊が「伊勢物語」の秘事を語るという筋」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未収載にする。
[ことばの実際]
又可令奉仕御祈者、即奏云、穢気遍満、難被行祭乎、於雲林院以定覚令修五十ケ日御修法如何 《『小右記』天元五年二月四日の条・1/11 34》
 
 
醍醐(ダイゴ)」は、ことばの溜池(2000.10.02)を参照
 
2006年04月21日(金)晴。東京→世田谷(駒沢)
千悔(センクワイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「勢」部に、標記語「千悔」の語は、未収載にする。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

併似隔胡越猶以千悔々々〔至徳三年本〕

併似隔胡越猶以千悔々々〔宝徳三年本〕

併似隔胡越猶以千悔々々〔建部傳内本〕

ナカラタリツルニ胡越千悔々々〔山田俊雄藏本〕

セテタリツルニ胡越千悔々々〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「千悔」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「千悔」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「千悔」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

千悔(せンクワイ/○、クユル)[平・上]。〔態藝門1108八〕

とあって、標記語「千悔」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「千悔」の語は、未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』に標記語「千悔」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

041猶以千悔々々抑醍醐雲林院(ウ/ウン――)ノ花 醍醐山階。真言宗也。梅道地也。雲林院道地也。雲林也。〔謙堂文庫藏八右F〕

とあって、標記語「千悔」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

タリ(ヘダツ)ルニ胡越(ヲツ)ヲ(ナヲ)千悔(クワイ)千悔ト云事。太唐ニ胡越(コエツ)國トテ兩國アリ。其間ハ七百里ナリ。其際(アヒダ)ニ二十三箇國有。其内ニ會稽(クワイケイ)山アリ。麓ニ達遷(タツセン)ガ原アリ。黒川鏡(コクセンケイ)ト云河アリ。渡リテハ河原(カワラ)ニ行キ。川原ヲ行テハ渡ル。惣河ノ面(ヲモテ)四十里ナリ。會稽(クワイケイ)山ヨリ流ルゝ也。國ヲ隔(ヘダテ)タル樣ニ。遠ク覺ル事(コトヲ)(イハ)ントテ。隔胡越タルト云ナリ。大(ガイ)若(ゴトシ)(カク)付タリ。會稽山ノ故事越(エツ)王勾践(コウセン)(ゴ)王夫差(フサ)トノ戰(タヽカ)ヒ又樊蠡(ハンレイ)ガ故事也。〔5ウ二〜五〕

とあって、標記語「千悔」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

千悔(せんくわい)々々(/)千悔々々後悔(こうくわい)千萬(せんばん)といふかことし。〔6ウ六〕

とあって、この標記語「千悔」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

面拝(めんはい)()(のち)中絶(ちうぜつ)良久(やゝひさし)く遺恨(ゐこん)(やま)の如(ごと)く何の時(とき)か意霧(ゐむ)を散(さん)ず可()けん哉()(しかしながら)胡越(こゑつ)を隔(へだ)つるに似()たり猶(なを)(もつて)千悔(せんくわい)々々(/)面拝之後中絶良久遺恨如山何時散意霧哉併似胡越猶以千悔々々▲意霧ハゆかしと思(おも)ふ意(ごゝろ)の結(むすぼ)ふれて濛(まう)(/)としたるを霧(きり)にたとへたる也。〔5オ三〜五〕

面拝(めんはい)()(のち)中絶(ちうぜつ)良久(やゝひさし)く遺恨(ゐこん)(ごとく)(やまの)(いづれの)(ときか)(べけん)(さんず)意霧(いむを)()(しかしながら)(にたり)(へだつるに)胡越(こゑつを)(なを)(もつて)千悔(せんくわい)々々(/)▲意霧ハゆかしと思(おも)ふ意(ごゝろ)の結(むすぼ)ふれて濛(まう)々()としたるを霧(きり)にたとへたる也。〔8オ三〜六〕

とあって、標記語「千悔」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「千悔」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「せん-くゎい千悔】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「せん-くゎい千悔】いくたびもくやむこと。非常に後悔すること。庭訓往來(1394-1428頃)二月往状「面拝之後中絶良久遺恨如山何時散意霧哉併似胡越猶以千悔々々」文明本節用集(室町中)「千悔 センクヮイ」*太閤記(1625)五・秀吉勢州表之仕置被仰付江北着陣之事「あしずりをして千悔し給へども甲斐なし」*歌舞伎・八幡祭小望月賑(縮屋新助)(1860)三幕「ああ千悔(せんくゎい)なすとも返らねど、よしなき一通某が拾ひしばかり若者に、果敢なき最期いたさせしか」*歌舞伎・扇音々大岡政談(天一坊)(1875)大詰「扨は千悔(せんくゎい)なせしゆゑ、不敬を詫びて上様へ、御宥免の儀を願はるるとな」*魏書-崔光伝「万一差跌、千悔何追」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を初出に記載する。
[ことばの実際]
『おっかさんこれこれの次第…』しまッた、しくじッた。千悔、万悔、臍(ほぞ)を噬(か)んでいる胸もとを貫くような午砲(ドン)の響き。それと同時に「御膳でございますよ。」けれど、ほいきたといッて降りられもしない。《明治・二葉亭四迷『浮雲』の条》
 
 
2006年04月20日(木)晴。東京→世田谷(駒沢)
胡越(コエツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、「胡馬(コハ)。胡椒(セウ)。胡麻()」の三語を収載し、標記語「胡越」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

併似隔胡越猶以千悔々々〔至徳三年本〕

併似隔胡越猶以千悔々々〔宝徳三年本〕

併似隔胡越猶以千悔々々〔建部傳内本〕

ナカラタリツルニ胡越千悔々々〔山田俊雄藏本〕

セテタリツルニ胡越千悔々々〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「胡越」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「胡越」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「胡越」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(コヽロニ)(カナフ)(トキハ)胡越(コヱツ)(タリ)昆弟(コンテイ)由余(ユウヨ)()(サウ)是矣(コレナリ)(ザルトキハ)(カナワ)則骨(コツ)(ニクモ)(ナル)敵讐(テキシウ)朱象(シユシヤウ)管蔡(クワンサイ)是矣(コレナリ)漢書(コエツ/キワマル、ヲワル)。〔態藝門670八〕

とあって、標記語「胡越」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「胡越」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』に標記語「胡越」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

040併似胡越 言遠義也。又都鄙心也。又指天竺曰。指也。〔謙堂文庫藏八右E〕

とあって、標記語「胡越」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

タリ(ヘダツ)ルニ胡越(ヲツ)ヲ(ナヲ)千悔(クワイ)千悔ト云事。太唐ニ胡越(コエツ)國トテ兩國アリ。其間ハ七百里ナリ。其際(アヒダ)ニ二十三箇國有。其内ニ會稽(クワイケイ)山アリ。麓ニ達遷(タツセン)ガ原アリ。黒川鏡(コクセンケイ)ト云河アリ。渡リテハ河原(カワラ)ニ行キ。川原ヲ行テハ渡ル。惣河ノ面(ヲモテ)四十里ナリ。會稽(クワイケイ)山ヨリ流ルゝ也。國ヲ隔(ヘダテ)タル樣ニ。遠ク覺ル事(コトヲ)(イハ)ントテ。隔胡越タルト云ナリ。大(ガイ)若(ゴトシ)(カク)付タリ。會稽山ノ故事越(エツ)王勾践(コウセン)(ゴ)王夫差(フサ)トノ戰(タヽカ)ヒ又樊蠡(ハンレイ)ガ故事也。〔5ウ二〜五〕

とあって、標記語「胡越」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(しかしなか)胡越(こゑつ)を隔(へたつ)るに似(に)たり/併似タリルニ胡越さも遠国(ゑんこく)をへたてゝ住(すめ)るかことく遠く處となり胡越は皆唐土(もろこし)の国乃名なり。越ハ南のはて。胡ハ北のはつれにて夥(おひたゝ)しく道のへだゝりしゆへ譬(たとへ)に取(とり)しなり。〔6ウ四・五〕

とあって、この標記語「胡越」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

面拝(めんはい)()(のち)中絶(ちうぜつ)良久(やゝひさし)く遺恨(ゐこん)(やま)の如(ごと)く何の時(とき)か意霧(ゐむ)を散(さん)ず可()けん哉()(しかしながら)胡越(こゑつ)を隔(へだ)つるに似()たり猶(なを)(もつて)千悔(せんくわい)々々(/)面拝之後中絶良久遺恨如山何時散意霧哉併似胡越猶以千悔々々▲意霧ハゆかしと思(おも)ふ意(ごゝろ)の結(むすぼ)ふれて濛(まう)(/)としたるを霧(きり)にたとへたる也。〔5オ三〜五〕

面拝(めんはい)()(のち)中絶(ちうぜつ)良久(やゝひさし)く遺恨(ゐこん)(ごとく)(やまの)(いづれの)(ときか)(べけん)(さんず)意霧(いむを)()(しかしながら)(にたり)(へだつるに)胡越(こゑつを)(なを)(もつて)千悔(せんくわい)々々(/)▲意霧ハゆかしと思(おも)ふ意(ごゝろ)の結(むすぼ)ふれて濛(まう)々()としたるを霧(きり)にたとへたる也。〔8オ三〜六〕

とあって、標記語「胡越」の語を収載し、語注記は上記の如くと記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

‡Coyet.コエツ(胡越) →Xicaxinagara.〔邦訳158l〕

とあって、標記語「胡越」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-えつ〔名〕【胡越】〔胡の條を見よ、胡國ハ、支那の遙かなる北方にあり、越國ハ、南方にあり〕胡國の人と、越國の人と。其地、相、懸隔するに因りて、疎遠なる意にも用ゐらる。傳燈録「今、講者、偏彰漸義、禪者、偏播頓宗、禪、講、相逢、胡越之隔」史記、魯仲連「自疑孤飛鳥、得鸞鳳、永懷共濟心、莫胡越胡越一家と云ふは、遠隔、異郷の人人が、一座に団欒(まとゐ)すること。通鑑綱目、唐紀、大宗「貞觀七年、帝宴未央宮、上皇命頡利可汗起舞、馮智戴詠詩、既而笑曰、胡越一家、古未有也」(頡利は胡國王、馮智戴は、越國人なり)〔751-4〕

とあって、標記語「-えつ胡越】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-えつ胡越】〔名〕中国で、北方の胡の国と南方の越の国。また、胡人と越人。転じて、互いに遠くに離れていること。互いに疎遠であることをたとえていう」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
志合者、胡越、爲昆弟《訓み下し》志合フトキハ、胡越(コエツ)モ、昆弟タリ。《『吾妻鏡』元暦元年十一月二十三日の条》
 
 
2006年04月19日(水)晴。東京→世田谷(駒沢)
(へだ・つ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「邊」部に、

同。同。〔元亀二年本52三〕

(ヘダツ)同。同。〔静嘉堂本58四〕

(ヘタツ)同。同。〔天正十七年本上30オ三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

併似胡越猶以千悔々々〔至徳三年本〕

併似胡越猶以千悔々々〔宝徳三年本〕

併似胡越猶以千悔々々〔建部傳内本〕

ナカラタリツル胡越千悔々々〔山田俊雄藏本〕

セテタリツル胡越千悔々々〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ヘタツ。〔黒川本・辞字門上41ウ四〕

ヘタツ/唐乍 。〔卷第二・辞字門360二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(ヘダツ/カク)[入](同/)[去](同/カン・アイダ)[去]。〔態藝門123六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(ヘタツ) 又阻。〔弘治・言語進退40一〕

(ヘタツ) 。〔永祿本・言語門39九〕

(ヘタツ) 屏阻/中。〔尭空本・言語門36八〕〔両足院本・言語門43八〕

とあって、標記語「」の語を収載する。易林本節用集』に、

(ヘダツ)()。()。〔言辞門39一・天理図書館蔵上20オ一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

040併似胡越 言遠義也。又都鄙心也。又指天竺曰。指也。〔謙堂文庫藏八右E〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

タリ(ヘダツ)ルニ胡越(ヲツ)ヲ(ナヲ)千悔(クワイ)千悔ト云事。太唐ニ胡越(コエツ)國トテ兩國アリ。其間ハ七百里ナリ。其際(アヒダ)ニ二十三箇國有。其内ニ會稽(クワイケイ)山アリ。麓ニ達遷(タツセン)ガ原アリ。黒川鏡(コクセンケイ)ト云河アリ。渡リテハ河原(カワラ)ニ行キ。川原ヲ行テハ渡ル。惣河ノ面(ヲモテ)四十里ナリ。會稽(クワイケイ)山ヨリ流ルゝ也。國ヲ隔(ヘダテ)タル樣ニ。遠ク覺ル事(コトヲ)(イハ)ントテ。隔胡越タルト云ナリ。大(ガイ)若(ゴトシ)(カク)付タリ。會稽山ノ故事越(エツ)王勾践(コウセン)(ゴ)王夫差(フサ)トノ戰(タヽカ)ヒ又樊蠡(ハンレイ)ガ故事也。〔5ウ二〜五〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(しかしなか)ら胡越(こゑつ)(へたつ)るに似(に)たり/併似タリルニ胡越さも遠国(ゑんこく)をへたてゝ住(すめ)るかことく遠く處となり胡越は皆唐土(もろこし)の国乃名なり。越ハ南のはて。胡ハ北のはつれにて夥(おひたゝ)しく道のへだゝりしゆへ譬(たとへ)に取(とり)しなり。〔6ウ四・五〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

面拝(めんはい)()(のち)中絶(ちうぜつ)良久(やゝひさし)く遺恨(ゐこん)(やま)の如(ごと)く何の時(とき)か意霧(ゐむ)を散(さん)ず可()けん哉()(しかしながら)胡越(こゑつ)を隔(へだ)つるに似()たり猶(なを)(もつて)千悔(せんくわい)々々(/)面拝之後中絶良久遺恨如山何時散意霧哉併似胡越猶以千悔々々▲意霧ハゆかしと思(おも)ふ意(ごゝろ)の結(むすぼ)ふれて濛(まう)(/)としたるを霧(きり)にたとへたる也。〔5オ三〜五〕

面拝(めんはい)()(のち)中絶(ちうぜつ)良久(やゝひさし)く遺恨(ゐこん)(ごとく)(やまの)(いづれの)(ときか)(べけん)(さんず)意霧(いむを)()(しかしながら)(にたり)(へだつるに)胡越(こゑつを)(なを)(もつて)千悔(せんくわい)々々(/)▲意霧ハゆかしと思(おも)ふ意(ごゝろ)の結(むすぼ)ふれて濛(まう)々()としたるを霧(きり)にたとへたる也。〔8オ三〜六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如くと記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fedate,tcuru,eta.ヘダテ,ツル,テタ(隔て,つる,てた) 隔て離す,または,遠ざける.¶Fitoni cocorouo fedatcuru.(人に心を隔つる)ある人と交際しないで,背き離れている.¶Yama,cuni,vmi,caua,nadouo,fedatcuru.(山,国,海,河,などを隔つる)中間に山,国,海,河,などをはさんで隔たり離れている.→Feqi(壁);Xicaxinagara.〔邦訳219l〕

とあって、標記語「」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

へだ-・・ツル・ツレ・テ・テ・テヨ〔他動、下二〕【】〔重を立つる意〕(一)閧ノ物事を立てて塞()く。閧塞ぎ絶つ。さへぎる。字鏡38「岨、戸太豆蘇軾詩「斷橋勝踐碧巌録、第一則「隔山見烟、早知是火牆見角、便知是牛萬葉集、十八15「月見れば、同じ國なり、山こそは、君があたりを、敝太弖たりけれ」(二)時日を過ごす。雜纂新續(清、韋光)没用處「年破暦本、燈煤頭」萬葉集、十一17「若草の、にひ手枕を卷きそめて、夜をや將(ヘダテム)、にくくあらなくに」源氏物語、九、葵49「にひ手枕の、心苦しくて、夜をやへだてんと、思しわづらはるれば」(三)うとみ遠ざく。わけへだてをなす。源氏物語、十四、澪標10「かねてより、隔てぬ中と、ならはねど、別れは惜しき、物にぞありける」〔1806-3〕

とあって、標記語「へだ】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「へだてる】〔他タ下二〕@間に距離やさえぎるものを置く。間にあって両者を離す。A二つの行為の間に時間的な距離を置く。年月を過ごす。B気持のうえで、他との間に距離や壁をつくる。うとみ遠ざける。遠ざける。また、わけへだてをする。C連歌俳諧で、前句に用いた語または類似語を、すぐ後の句に用いないで間に句を置く。去る」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
是或海路兮凌風波、或避遠路兮、泥艱難之故也《訓み下し》是レ或ハ海路ヲテ、風波ヲ凌ギ、或ハ遠路ヲ避ケ、艱難ニ泥ムガ故ナリ。《『吾妻鏡』治承四年八月二十日の条》
 
 
(しかしながら)」は、ことばの溜池(2005.07.29)を参照。
 
2006年04月18日(火)晴後曇り。東京→世田谷(駒沢)
(サン・ず)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、標記語「」の語をは未収載にする。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

面拝之後中絶良久遺恨如山何時意霧哉〔至徳三年本〕

面拝之後中絶良久遺恨如山何時可意霧哉〔宝徳三年本〕

面拝之後中絶(セツ)(ヤヤ)久遺恨(イコん)如山何時意霧哉〔建部傳内本〕

面拝之()後中絶良久遺恨如レノせンヤ意霧〔山田俊雄藏本〕

面拝之後中絶良(ヤヤ)遺恨如ズベキ意霧〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

サンス/蘓汗反。〔黒川本・辞字門下40ウ三〕

サンス/亦乍散分離也。〔卷第八・辞字門436一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(ヱテハ)(サイ)(サン)三畧。〔態藝門801八〕

とあって、標記語「」の語を収載する。意味は、物であり心のことではない。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』及び十巻本伊呂波字類抄』に、標記語「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

039面拝之後中絶良久遺恨如山何時意霧 中絶君子道也。詩云子夏過曽子。々々曰、入セヨ。子夏曰、不之費乎。曽子曰、君子三費飲食其中。少シテ而学老忘是一費也。亊功輕負是一費久交中(ナカコロ)。是一費。其中々絶。〔謙堂文庫藏八右C〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

遺恨(イコン)(イヅレ)(サン)意霧(イム)()遺恨ハ。ウラミイキドヲル事也。久ク謂語(イヒカタラ)ハデ心モウト/\タルヤト云ナリ。〔5オ八〜5ウ一〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(いつ)れの時(とき)か意霧(いむ)(さん)(へけ)ん哉()意霧意霧とハこゝろきりなり。心鬱(むすほふ)りてはれやらぬをいえり。云こゝろハいつか相逢(あいあ)ふて鬱散(うつさん)せんやとなり。〔6ウ二〜四〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

面拝(めんはい)()(のち)中絶(ちうぜつ)良久(やゝひさし)く遺恨(ゐこん)(やま)の如(ごと)く何の時(とき)か意霧(ゐむ)(さん)()けん哉()(しかしながら)胡越(こゑつ)を隔(へだ)つるに似()たり猶(なを)(もつて)千悔(せんくわい)々々(/)面拝之後中絶良久遺恨如山何時意霧哉併似胡越猶以千悔々々。〔5オ三〜五〕

面拝(めんはい)()(のち)中絶(ちうぜつ)良久(やゝひさし)く遺恨(ゐこん)(ごとく)(やまの)(いづれの)(ときか)(べけん)(さんず)意霧(いむを)()(しかしながら)(にたり)(へだつるに)胡越(こゑつを)(なを)(もつて)千悔(せんくわい)々々(/)。〔8オ三〜六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†San.サン(散) 去ること,または,逃げること.¶また,花が散ること.文章語.※原文desfolharen-/semはsemのseの誤植であろう.〔邦訳553l〕

とあって、標記語「」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さん・ズル・ズレ・ゼ・ジ・ゼヨ〔自動、左變〕【】散る。ちらばる。散りて、失す。禮記、曲禮、上篇「積而能散、安安而能遷」太平記、八、持明院殿行幸六波羅事「軍、散じて、翌日に、隅田、高橋、京中を馳せ廻りて」「人、散ず」會、散ず」〔842-1〕

さん・ズル・ズレ・ゼ・ジ・ゼヨ〔他動、左變〕【】(一)ちらす。費やす。史記、主父偃傳「遍召昆弟賓客、散五百金之」「財を散ず」(二)晴らす。拂ふ。遣()る。太平記、廿四、依山門嗷訴公卿僉議事「加樣の不審をも、此の次いでに、散じたくこそ候へ」「鬱憤を散ず」〔842-1〕

とあって、標記語「さん】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「さん-ずる】[一]〔自サ変〕@四方に散る。なくなる。うせる。四散する。A逃げ去る。退散する。B怒りや恨み、また疑いなどの感情がなくなる。気が晴れる。また、注意がそれる。気が散る。C終わる。行事や事が終了する。D財産がなくなる。散財する。[二]〔他サ変〕@四方に散らす。A怒りや恨み、また、疑いなどの感情をなくす。気を晴らす。また、注意をそらす。気を散らす。B金を使う。財産をなくする」とあって、[二]@の意味で『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
倩思次第、迷惑恐歎、未蒙霧候也《訓み下し》倩次第ヲ思ヘバ、迷惑恐歎、未ダ蒙霧ヲ(サン)ズ候フナリ(朦夢ヲ)。《『吾妻鏡』寿永三年二月二十日の条》
 
 
2006年04月17日(月)晴。東京→世田谷(駒沢)
意霧(イム)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、「意見太平/定。意趣(シユ)。意緒(シヨ)バヘ。意地()。意表(ヘウ)。意巧(ゲウ)。意外(グワイ)」の七語を収載し、標記語「意霧」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

面拝之後中絶良久遺恨如山何時散意霧〔至徳三年本〕

面拝之後中絶良久遺恨如山何時可散意霧〔宝徳三年本〕

面拝之後中絶(セツ)(ヤヤ)久遺恨(イコん)如山何時散意霧〔建部傳内本〕

面拝之()後中絶良久遺恨如レノせンヤ意霧〔山田俊雄藏本〕

面拝之後中絶良(ヤヤ)遺恨如ズベキ意霧〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「意霧」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「意霧」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「意霧」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(サン)意霧(イム)[去・○・去]。〔態藝門14二〕

とあって、標記語「散意霧」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「意霧」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』に標記語「意霧」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

039面拝之後中絶良久遺恨如山何時散意霧 中絶君子道也。詩云子夏過曽子。々々曰、入セヨ。子夏曰、不之費乎。曽子曰、君子三費飲食其中。少シテ而学老忘是一費也。亊功輕負是一費久交中(ナカコロ)。是一費。其中々絶。〔謙堂文庫藏八右C〕

とあって、標記語「意霧」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

遺恨(イコン)(イヅレ)ノ(サン)せン意霧(イム)ヲ()遺恨ハ。ウラミイキドヲル事也。久ク謂語(イヒカタラ)ハデ心モウト/\タルヤト云ナリ。〔5オ八〜5ウ一〕

とあって、標記語「意霧」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(いつ)れの時(とき)意霧(いむ)を散(さん)す可(へけ)ん哉()意霧意霧とハこゝろきりなり。心鬱(むすほふ)りてはれやらぬをいえり。云こゝろハいつか相逢(あいあ)ふて鬱散(うつさん)せんやとなり。〔6ウ二〜四〕

とあって、この標記語「意霧」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

面拝(めんはい)()(のち)中絶(ちうぜつ)良久(やゝひさし)く遺恨(ゐこん)(やま)の如(ごと)く何の時(とき)か意霧(ゐむ)を散(さん)ず可()けん哉()(しかしながら)胡越(こゑつ)を隔(へだ)つるに似()たり猶(なを)(もつて)千悔(せんくわい)々々(/)面拝之後中絶良久遺恨如山何時散意霧哉併似胡越猶以千悔々々▲意霧ハゆかしと思(おも)ふ意(ごゝろ)の結(むすぼ)ふれて濛(まう)(/)としたるを霧(きり)にたとへたる也。〔5オ三〜五〕

面拝(めんはい)()(のち)中絶(ちうぜつ)良久(やゝひさし)く遺恨(ゐこん)(ごとく)(やまの)(いづれの)(ときか)(べけん)(さんず)意霧(いむを)()(しかしながら)(にたり)(へだつるに)胡越(こゑつを)(なを)(もつて)千悔(せんくわい)々々(/)▲意霧ハゆかしと思(おも)ふ意(ごゝろ)の結(むすぼ)ふれて濛(まう)々()としたるを霧(きり)にたとへたる也。〔8オ三〜六〕

とあって、標記語「意霧」の語を収載し、語注記は上記の如くと記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「意霧」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「-意霧】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-意霧】心中の霧。気持ちの晴れない状態を霧にたとえていう語。「いぶ」とも。多く、「意霧を散ず」の形で、心中の憂いが晴れる意を表わす。*庭訓往來(1394-1428頃)二月「面拝之後中絶良久遺恨如シ山何時散意霧哉」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
 
 
2006年04月16日(日)曇り一時雨後薄晴。東京→世田谷(駒沢)
中原(なかはら)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「奈」部に、標記語「中原」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

正月六日 石見守中原〔至徳三年本〕

正月六日 石見守中原〔宝徳三年本〕

正月六日 石見守中原〔建部傳内本〕

正月六日 石見守中原〔山田俊雄藏本〕

正月六日 石見守中原〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「中原」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「中原」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「中原」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「中原」の語は未収載にあって、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

037石見守中原 此姓有職原抄也。〔謙堂文庫藏〕

とあって、標記語「中原」の語を収載し、語注記によれば、「此の姓、『職原抄』に有るなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

正月六日 石見守(イハミノカミ)中原(ナカハラ)。〔5オ六〕

とあって、標記語「中原」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

正月六日 石見守(いわミのかミ)中原(なかハら)正月六日 石見守中原。〔6オ五〕

とあって、この標記語「中原」の語を収載し、語注記は「同道は、相伴ふ事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

正月(しやうぐハつ)六日(むいか) 石見守(いわミのかミ)中原(なかハら)正月六日 石見中原▲中原ハ外記局(げききよく)の氏本姓(ほんせい)十市宿祢(といちのすくね)天延(てんえん)二年十二月に朝臣(あつそミ)を賜(たま)ふ。盖(けだし)人皇(にんわう)第三代安寧(あんねい)天皇(てんわう)第三の皇子(わうじ)磯城津彦命(いそきつひこのミこと)の後(のち)なりと云々。〔4ウ七、5オ一〕

正月(しやうぐハつ)六日(むいか) 石見守(いわミのかミ)中原(なかハら)中原ハ外記局(げききよく)の氏本姓(ほんせい)十市宿祢(といちのすくね)天延(てんえん)二年十二月に朝臣(あそミ)を賜(たま)ふ。盖(けだし)人皇(にんわう)第三代安寧(あんねい)天皇(てんわう)第三の皇子(わうし)磯城津彦命(いそき     ひこのミこと)の後(のち)なりと云々。〔7ウ五、8オ一〕

とあって、標記語「中原」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「中原」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「なか-はら中原】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「なかはら中原】姓氏の一つ」とだけあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
石見守(いはみのかみ)」は、ことばの溜池(2006.03.16)を参照。
 
2006年04月15日(土)曇り一時雨後薄晴。東京→世田谷(駒沢)
正月六日十五日(シヤウガツムイカ{ジフゴニチ})
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、標記語「正月六{十五日}」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月六日の状に、

正月六日 石見守中原〔至徳三年本〕

正月六日 石見守中原〔宝徳三年本〕

正月六日 石見守中原〔建部傳内本〕

正月六日 石見守中原〔山田俊雄藏本〕

正月六日 石見守中原〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「正月六日」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「正月六{十五日}」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「正月六{十五日}」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「正月六{十五日}」の語は未収載にあって、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月十五日の状には、

036正月十五日 此日有爆竹(サキチチヤウ)神異經、西方山中人。長一尺餘人見之。則病寒熱。名。以竹焼火爆徳徳(ホク)声則驚去。不来。正月用之。自此始也。又西義式(サキツトヤウ)東土。如モ此書也。尺素徃来曰、七設蒸粥上元之世礼也。〔謙堂文庫藏七左H〕

とあって、唯一、標記語を「正月十五日」として収載し、「左義長」の催しを取り込もうとしていることで六日を敢えて十五日に変更した経緯が読み取れる。また、注記には『神異經』そして同じ往来物の『尺素往来』が此所で引用されていることが注目される。

 古版庭訓徃来註』では、

正月六日 石見守(イハミノカミ)中原(ナカハラ)。〔5オ六〕

とあって、標記語「正月六日」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

正月六日 石見守(いわミのかミ)中原(なかハら)正月六日 石見守中原。〔6オ五〕

とあって、この標記語「正月六日」の語を以て収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

正月(しやうぐハつ)六日(むいか) 石見守(いわミのかミ)中原(なかハら)正月六日 石見守中原。〔4ウ七〕

正月(しやうぐハつ)六日(むいか) 石見守(いわミのかミ)中原(なかハら)。〔7ウ五〕

とあって、標記語「正月六日」の語を以て収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「正月十五日」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』及び現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「しゃうがつ-じふごにち正月十五日】」の語は未収載にする。
[ことばの実際]
 
 
御意(ギヨイ)」は、ことばの溜池(2000.10.08)を参照。
萬事(バンジ)」は、ことばの溜池(2002.03.17)を参照。
(モツソウ)」は、ことばの溜池(2002.06.03)を参照。
不能(フノウ)」は、ことばの溜池(2006.03.13)を参照。
一二(つまびらか)」は、ことばの溜池(2000.10.09)を参照。
(しかしながら)」は、ことばの溜池(2005.07.29)を参照。
面謁(メンエツ)」は、ことばの溜池(2002.01.19)を参照。
(ゴす)」は、ことばの溜池(2003.02.08)を参照。
 
2006年04月14日(金)曇り一時雨後薄晴。東京→世田谷(駒沢)
(えらるべし)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「江」部に、標記語「可被得」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

内々可被得御意〔至徳三年本〕

内々可被得御意〔宝徳三年本〕

内々可被得御意〔建部傳内本〕

内々御意〔山田俊雄藏本〕

内々御意〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「可被得」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「可被得」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「可被得」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「可被得」の語は未収載にし、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

033内々御意 可得与得易也。可被云左衛門殿主人ヘシト得也。可得云大臣達御遊トシテアル間就而佐樣之人之方御意也。〔謙堂文庫藏七左D〕

とあって、標記語「可被得」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

引出物(ヒキデモノ)者亭主(テイシユ)奔走(ホンソウ)()内内御意トハ。是又亭(テイ)(ヲフセ)。〔5オ二三〕

とあって、標記語「可被得」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ない)()御意(きよい)()(らる)(へし)内内御意内々御事を承知せられよとなり。〔6オ一・二〕

とあって、この標記語「可被得」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(ない)()御意(きよゐ)()ら被()()内内御意。〔3ウ三〜六〕

内内(べし)()(えら)御意(ぎよい)。〔7オ一〕

とあって、標記語「可被得」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「可被得」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』及び現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「-らるべし可被得】」の語は未収載にする。
[ことばの実際]
共双方、可相止弓箭旨叡慮候、可被得其意儀尤候、自然不被専此旨候 《『上井覚謙日記』天正一四年一月二三日の条、3/89・197》
 
 
引出物(ひきでもの)」は、ことばの溜池(2000.02.29)を参照。
奔走(ホンサウ)」は、ことばの溜池(2002.03.31)を参照。
 
2006年04月13日(木)曇り一時雨後薄晴。東京→世田谷(駒沢)
亭主(テイシュ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「天」部に、

亭主(テイシユ) 。〔元亀二年本245二〕〔静嘉堂本283一〕

とあって、標記語「亭主」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

一種一n者衆中課賭引出物者亭主奔走〔至徳三年本〕

一種一n者衆中課賭引出物者亭主奔走歟〔宝徳三年本〕

一種一n者衆中課賭引出物者亭主之奔走〔建部傳内本〕

一種一n者()衆中(カケモノ)引出物者()亭主奔走〔山田俊雄藏本〕

一種一n者衆中課役賭引出物者亭主奔走歟()〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「亭主」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「亭主」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「亭主」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

亭主(テイシユ/ウテナ、アルシ・ヌシ)[平・上]主人。〔人倫門714三〕

とあって、標記語「亭主」の語を収載し、語注記に「主人」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

亭主(テイシユ) 主人。〔弘治・人倫196八〕〔永祿本・人倫門162七〕〔尭空本・人倫門151九〕

とあって、標記語「亭主」の語を収載し、語注記に「主人」と記載していて、広本節用集』を継承する。易林本節用集』に、

亭主(テイシユ) 。〔言辞門164三・天理図書館蔵下15オ三〕

とあって、標記語「亭主」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「亭主」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

032賭引出物者亭主奔走歟 義也引出物者蒙求曰晋顧栄字彦先在洛陽。与同寮ルニ炙者於常乃輟(ヤメ)テ炙者(クラハ)シム同座悉咲曰。豈終日。取之不味也。曰。有_人一人ルヲ引云也。引出物是始リ/ナリ。〔謙堂文庫藏七左B〕

とあって、標記語「亭主」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

引出物(ヒキデモノ)亭主(テイシユ)奔走(ホンソウ)()内内可御意トハ。是又亭(テイ)(ヲフセ)。〔5オ二三〕

とあって、標記語「亭主」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

亭主(ていしゆ)乃奔走(ほんそう)()亭主奔走亭主ハ其家乃主なり。奔走ハはせはすると讀む事の世話(せわ)する事を云。馳走(ちそう)といふも同しとハ定めぬ詞なり。先方へ差圖(さしづ)かましき故の字を置たる也。〔5ウ七〜八〕

とあって、この標記語「亭主」の語を収載し、語注記は「同道は、相伴ふ事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

一種(いつしゆ)一n(いつべい)()衆中(しゆぢう)の課役(くわやく)(かけもの)引出物(ひきでもの)()亭主(ていしゆ)乃奔走(ほんそう)()一種一n者衆中課役賭引出物者亭主奔走歟▲亭主ハ其家(そのいへ)の主人(あるじ)を指()す。〔3ウ三〜六、4ウ一〕

一種(いつしゆ)一n(いつへい)()衆中(しゆぢう)課役(くわやく)(かけもの)引出物(ひきでもの)()亭主(ていしゆ)奔走(ほんそう)()▲亭主ハ其家(そのいへ)の主人(あるじ)を指()す。〔5ウ三〜6オ一、7オ四〕

とあって、標記語「亭主」の語を収載し、語注記は「亭主は、其家(そのいへ)の主人(あるじ)を指()す」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Teixu.テイシュ(亭主) すなわち,Iyeno nuxi.(家の主)家の主人.→Gotei(御亭).〔邦訳643l〕

とあって、標記語「亭主」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

てい-しゅ〔名〕【亭主】(一)家の主人の稱。店主首楞嚴經「譬如客寄宿旅亭、暫止便去、終不常住、而掌亭人、都無去、各爲亭主諸大名衆御成申入記「式三獻參て、亭主に御盃被下時、白太刀を進上、亭主必持參なり」魚板記(天文)「御折は、云云、その亭主の聞召候時は、人によりて被出阨~候」醒睡笑(元和、安樂庵策傳)五「亭主よりの指圖なれば、客は仰せの儘に受くると」(二)俗に、夫(をつと)。(農、工、商に)〔1344-5〕

とあって、標記語「てい-しゅ亭主】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「てい-しゅ亭主】〔名〕@一家の主人。あるじ。A特に、宿屋、茶屋、揚屋などの亭主。あるじ。B夫(おっと)。主人。良人。C茶席で、茶をたてて客を接待する人。また、広く、一座の主人役をつとめる人」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
太違亭主御本意〈云云〉《訓み下し》太ダ亭主(テイシユ)ノ御本意ニ違フト〈云云〉。《『吾妻鏡』元暦元年六月一日の条》
 
 
2006年04月12日(水)雨のち晴。東京→世田谷(駒沢)
(かけもの)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

(カケモノ) 。〔元亀二年本105五〕〔静嘉堂本132三〕〔天正十七年本上65オ一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

一種一n者衆中課引出物者亭主奔走〔至徳三年本〕

一種一n者衆中課引出物者亭主奔走歟〔宝徳三年本〕

一種一n者衆中課引出物者亭主之奔走〔建部傳内本〕

一種一n者()衆中(カケモノ)引出物者()亭主奔走〔山田俊雄藏本〕

一種一n者衆中課役引出物者亭主奔走歟()〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「」と表記し、訓みは、山田俊雄藏本に「かけもの」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(カケモノ)[上](同/)[去]。〔態藝門312八〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(カケモノ) 勝負之時。〔弘治・言語進退82八〕

(カケモノ) 。〔永祿本・言語門85六〕〔尭空本・言語門77五〕〔両足院本・言語門93六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、弘治二年本の語注記に「勝負の時」と記載する。易林本節用集』に、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

032引出物者亭主奔走歟 義也引出物者蒙求曰晋顧栄字彦先在洛陽。与同寮ルニ炙者於常乃輟(ヤメ)テ炙者(クラハ)シム同座悉咲曰。豈終日。取之不味也。曰。有_人一人ルヲ引云也。引出物是始リ/ナリ。〔謙堂文庫藏七左B〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は「賭は、的に付ける義なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

(カケモノ)トハ積物ナリ。衆中の藝に依てうるところなり。〔5オ一・二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かけもの)引出物(ひきで  )ハ/引出物者(げい)に勝(すぐ)れ人にすくれたる者にあたふる褒美(ほうび)の品(しな)也。扇子畳帋(たとふかミ)あるひハ沈香(ぢんかう)(ふくさ)やう乃ものを出す。〔5ウ六・七〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

一種(いつしゆ)一n(いつべい)()衆中(しゆぢう)の課役(くわやく)(かけもの)引出物(ひきでもの)()亭主(ていしゆ)乃奔走(ほんそう)()一種一n者衆中課役引出物者亭主奔走歟▲賭引出物ハ扇子(あふき)疊紙(たとふかミ)(かうがい)小箱(こばこ)の類(るい)いづれも射勝(いか)ちたる方(かた)へ与(あた)ふる褒美(ほうび)の品(しな)也。〔3ウ三〜六、4ウ一〕

一種(いつしゆ)一n(いつへい)()衆中(しゆぢう)課役(くわやく)(かけもの)引出物(ひきでもの)()亭主(ていしゆ)奔走(ほんそう)▲賭引出物ハ扇子(あふき)疊紙(たとふかミ)(かうがい)小箱(こはこ)の類(るゐ)いづれも射勝(いか)ちたる方(かた)へ与(あた)ふる褒美(ほうび)の品也。〔5ウ三〜6オ一、7オ三・四〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Caqemono.カケモノ(賭) 賭ける物.¶Caqemononi suru.(賭にする)物を賭ける.¶Quaina nagusaminiua qinguin naritomo,vma,mononogu naritomo caqemononi suru cotogia.(くわいな慰みには金銀なりとも,馬,物具なりとも賭にすることぢや)Mon.(物語)豪勢な遊びごとには、金や銀であろうと,馬や武具であろうと,それを賭けるものである.〔邦訳95l〕

とあって、標記語「」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かけ-もの〔名〕【】賭事に賭くる品物。賭祿(かけロク)宇津保物語、菊宴1「事もなき娘、誰れ多く物せらるらむ、かけ物にして、娘比べなどせられよや」〔366-3〕

とあって、標記語「かけ-もの】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「かけ-もの物・懸物】〔名〕@勝負事や遊戯などで、勝者やすぐれた者に与える金品。のりもの。賭祿(かけろく)。賭コ(かけとく)。A鎌倉時代の武家の訴訟方法。B金品などを賭けて勝負を争うこと。かけ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
?飯以後、出小御所、有目勝御勝負以女、被出賭物《訓み下し》椀飯以後ニ、小御所ニ出デ、目勝ノ御勝負有リ。女(女房)ヲ以テ、賭物(カケモノ)ヲ出サル。《『吾妻鏡』嘉禎三年正月六日の条》
 
 
2006年04月11日(火)雨。東京→世田谷(駒沢)
課役(クワヤク)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、

課役(クワヤク) 。〔元亀二年本189十〕〔静嘉堂本213八〕〔天正十七年本中36オ八〕

とあって、標記語「課役」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

一種一n者衆中賭引出物者亭主奔走〔至徳三年本〕

一種一n者衆中賭引出物者亭主奔走歟〔宝徳三年本〕

一種一n者衆中賭引出物者亭主之奔走〔建部傳内本〕

一種一n者()衆中(カケモノ)引出物者()亭主奔走〔山田俊雄藏本〕

一種一n者衆中課役賭引出物者亭主奔走歟()〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「課役」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

クワヤク。〔黒川本・畳字門中81オ五〕

課試(クハシ) 。〃口。〃丁。〃業ケフ。〔卷第六・畳字門456二〕

とあって、三卷本に標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

(クワヤク)。〔態藝門76六〕

とあって、標記語「」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(クワヤク/コヽロム、ツカイ)[去・入]。〔態藝門543一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

課役(クワヤク) 。〔弘治・言語進退161七〕

課役(クワヤク) ―試()。〔永祿本・言語門131八〕

課役(クワヤク) ―試。〔尭空本・言語門121一〕〔両足院本・言語門146六〕

とあって、標記語「課役」の語を収載する。易林本節用集』に、

(クワヤク) 。〔言辞門133四・天理図書館蔵上67オ四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「課役」「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にては「」の語を以て収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

031一種一n者衆中 種肴也。自東山殿始也。nn子等也。役也。言用意之義ナリ。〔謙堂文庫藏七左A〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は「課は、役なり。言は、用意の爲の義なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

一種一n(ヘイ)者衆中(クハヤク)一種ハ樽一ツヅヽ。一瓶(ヘイ)ハ花一枝ナリ。〔5オ一〕

とあって、標記語「課役」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

一種(いつしゆ)一n(へい)ハ衆中(しゆぢう)課役(くわやく)一種一n者衆中課役一種ハ肴(さかな)一色なり。一瓶ハ酒一壺(つほ)なり。酒壺ハ衆客中(しゆきやくちう)より出さんとなり。〔5ウ五〜六〕

とあって、この標記語「課役」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

一種(いつしゆ)一n(いつべい)()衆中(しゆぢう)の課役(くわやく)(かけもの)引出物(ひきでもの)()亭主(ていしゆ)乃奔走(ほんそう)()一種一n者衆中課役賭引出物者亭主奔走歟。〔3ウ三〜六〕

一種(いつしゆ)一n(いつへい)()衆中(しゆぢう)課役(くわやく)(かけもの)引出物(ひきでもの)()亭主(ていしゆ)奔走(ほんそう)。〔5ウ三〜6オ一〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
とあって、標記語「課役」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Quayacu.クヮヤク(課役) 主君が人に負わせる役目.§Quayacuuo caquru.(課役を掛くる)主君がある役目,あるいは,任務を負わせる.〔邦訳521r〕

とあって、標記語「課役」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

くヮ-やく〔名〕【課役】(一)調(テウ)と、役(ヤク)と。(祖()の條を見よ)隨書、高祖紀「詔、以河南八州水、免課役百練抄、六、保延七年八月四日「上皇御處分莊莊、可國郡課役事、宣下」(二)役(ヤク)を課(おほ)すること。夫役(ブヤク)後漢書、樊宏傳「課役童隷、各得其宣」吾妻鏡、五十一、弘長三年六月廿三日「將軍家御上洛事、有其沙汰、被課役於諸國〔591-4〕

とあって、標記語「くヮ-やく課役】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-やく課役】@令制で、課と役。課は調(ちよう)、役は労役で庸と雑徭を意味する。A中世以降、公領、荘園に課せられた請負担。臨時の事業などに際して米銭、労役を徴すること。B課題や仕事を割り当てること。また、割り当てられた課題や仕事。C「かやく(加役)B」に同じ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例Bの意味用例として記載する。
[ことばの実際]
有限所當、官物、恒例課役之外、可令施芳意給候《訓み下し》限リ有ル所当、官物、恒例課役(クワヤク)ノ外、芳意ヲ施サシメ給フベク候フ。《『吾妻鏡』元暦元年四月二十三日の条》
 
 
衆中(シユチユウ)」は、ことばの溜池(2003.08.28)を参照。
 
2006年04月10日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
一瓶(イッぺイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

一瓶(ヘイ) 。〔元亀二年本18一〕〔静嘉堂本12四〕〔天正十七年本上7ウ三〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「一瓶」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

一種一n者衆中課賭引出物者亭主奔走〔至徳三年本〕

一種一n者衆中課賭引出物者亭主奔走歟〔宝徳三年本〕

一種一n者衆中課賭引出物者亭主之奔走〔建部傳内本〕

一種一n()衆中(カケモノ)引出物者()亭主奔走〔山田俊雄藏本〕

一種一n者衆中課役賭引出物者亭主奔走歟()〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「一瓶」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「一瓶」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「一瓶」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

一瓶(イチヘイ/○、ツルベ)。〔数量門11四〕

とあって、標記語「一瓶」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

一瓶(ヘイ) 。〔弘治・言語進退8七〕 

一瓶(ヘイ) 。〔永祿本・言語門5二〕

一位 ―種。―瓶。―同。《下略》。〔尭空本・言語門5五〕

一位 ―種(シユ)―瓶(ヘイ)。―同。《下略》。〔両足院本・言語門6六〕

とあって、標記語「一瓶」の語を収載する。易林本節用集』に、

一瓶(ヘイ) 酒。〔言語門5二・天理図書館蔵上3オ二〕

とあって、標記語「一瓶」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「一瓶」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

031一種一n者衆中課 種肴也。自東山殿始也。nn子等也。課役也。言用意之義ナリ。〔謙堂文庫藏七左A〕

とあって、標記語「一瓶」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

一種一n(ヘイ)者衆中(クハヤク)一種ハ樽一ツヅヽ。一瓶(ヘイ)ハ花一枝ナリ。〔5オ一〕

とあって、標記語「一瓶」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

一種(いつしゆ)一n(へい)ハ衆中(しゆぢう)の課役(くわやく)一種一n者衆中課役一種ハ肴(さかな)一色なり。一瓶ハ酒一壺(つほ)なり。酒壺ハ衆客中(しゆきやくちう)より出さんとなり。〔5ウ五〜六〕

とあって、この標記語「一瓶」の語を収載し、語注記は「同道は、相伴ふ事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

一種(いつしゆ)一n(いつべい)()衆中(しゆぢう)の課役(くわやく)(かけもの)引出物(ひきでもの)()亭主(ていしゆ)乃奔走(ほんそう)()一種一n者衆中課役賭引出物者亭主奔走歟。▲一種ハ肴(さかな)。一瓶ハ酒(さけ)の事。〔3ウ三〜六〕

一種(いつしゆ)一n(いつへい)()衆中(しゆぢう)課役(くわやく)(かけもの)引出物(ひきでもの)()亭主(ていしゆ)奔走(ほんそう)▲一種ハ肴(さかな)。一瓶ハ酒(さけ)の事。〔5ウ三〜6オ一〕

とあって、標記語「一瓶」の語を収載し、語注記は「一瓶は、酒(さけ)の事」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Ippei.イッペイ(一瓶) 酒徳利,あるいは,酒瓶一本.〔邦訳337r〕

とあって、標記語「一瓶」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いち-べい〔名〕【一瓶】瓶子(ヘイシ)、即ち、酒を入れおく細高き陶磁器、一本。庭訓往來(元弘)正月一五日「一種一瓶者、衆中之課役」(いッすものを見よ)易林節用集(慶長)言語「一瓶(イツヘイ)、酒也」〔192-2〕

とあって、標記語「いち-べい一瓶】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「いっ-ぺい一瓶】(「瓶」は、とっくりの意)一本のとっくり。転じて、酒。→一種一瓶」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際] 上記「一種」の用例参照。
 
 
2006年04月09日(日)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
一種(イツシユ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

一種(イツシユ) 。〔元亀二年本18一〕〔天正十七年本上7ウ三〕

一種(シユ) 。〔静嘉堂本12四〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「一種」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

一種一n者衆中課賭引出物者亭主奔走〔至徳三年本〕

一種一n者衆中課賭引出物者亭主奔走歟〔宝徳三年本〕

一種一n者衆中課賭引出物者亭主之奔走〔建部傳内本〕

一種一n者()衆中(カケモノ)引出物者()亭主奔走〔山田俊雄藏本〕

一種一n者衆中課役賭引出物者亭主奔走歟()〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「一種」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「一種」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「一種」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

一種(イチシユ/○、シユウキ・タネ)[○・去]。〔数量門11四〕

とあって、標記語「一種」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

一種(シユ) 。〔弘治・言語進退8七〕 

一種(シユ) 。〔永祿本・言語門5二〕

一位 ―種。―瓶。―同。《下略》。〔尭空本・言語門5五〕

一位 ―種(シユ)。―瓶(ヘイ)。―同。《下略》。〔両足院本・言語門6六〕

とあって、標記語「一種」の語を収する。易林本節用集』に、

一種(シユ) 肴数。〔言語門5一・天理図書館蔵上3オ一〕

とあって、標記語「一種」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「一種」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

031一種一n者衆中課 種肴也。自東山殿始也。nn子等也。課役也。言用意之義ナリ。〔謙堂文庫藏七左A〕

とあって、標記語「一種」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

一種一n(ヘイ)者衆中(クハヤク)一種ハ樽一ツヅヽ。一瓶(ヘイ)ハ花一枝ナリ。〔5オ一〕

とあって、標記語「一種」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

一種(いつしゆ)一n(へい)ハ衆中(しゆぢう)の課役(くわやく)一種一n者衆中課役一種ハ肴(さかな)一色なり。一瓶ハ酒一壺(つほ)なり。酒壺ハ衆客中(しゆきやくちう)より出さんとなり。〔5ウ五〜六〕

とあって、この標記語「一種」の語を収載し、語注記は「同道は、相伴ふ事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

一種(いつしゆ)一n(いつべい)()衆中(しゆぢう)の課役(くわやく)(かけもの)引出物(ひきでもの)()亭主(ていしゆ)乃奔走(ほんそう)()一種一n者衆中課役賭引出物者亭主奔走歟。▲一種ハ肴(さかな)。一瓶ハ酒(さけ)の事。〔3ウ三〜六〕

一種(いつしゆ)一n(いつへい)()衆中(しゆぢう)課役(くわやく)(かけもの)引出物(ひきでもの)()亭主(ていしゆ)奔走(ほんそう)▲一種ハ肴(さかな)。一瓶ハ酒(さけ)の事。〔5ウ三〜6オ一〕

とあって、標記語「一種」の語を収載し、語注記は「一種は、肴(さかな)」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Ixxu.イッシュ(一種・一首) 物の品種を数えたり,また歌を数えたりする言い方.〔邦訳350r〕

とあって、標記語「一種」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いッ-しュ〔名〕【一種】(一)一種物(いつすもの)の條を見よ。(二)同類の中にて、少し異なるもの。異種。「吉野櫻は、山櫻の一種」(三)次條を見よ。〔186-2〕

いッしュ-いッ-ぺい〔名〕【一種一瓶】一種物(いつすもの)より出でて、肴の異名。吾妻鏡、十一、建久二年九月廿一日「各相具一種一瓶於濱之」庭訓往來、正月「一種一瓶者、衆中之課役、賭引出物者、亭主奔走歟」〔186-2〕

とあって、標記語「いっ-しゅ一種】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「いっ-しゅ一種】@一つの種類。ひといろ。A同一の種類。同様のもの。また、同一種の中をさらに細かく分けたものの一つ。B(多く「の」を伴って)どことなく異なっているが、その中に含めてよいと思われる、ある種類。C(副詞的に用いて)どことなく他とちょっと異なっているさま。D(ひといろの肴(さかな)の意から)酒の肴。E通常郵便物の一つで、封緘(ふうかん)した手紙など。第一種郵便物。F自動車の運転免許の一つで、旅客運送に関係しない普通の運転が許されるもの。第一種運転免許」とし、標記語「いっしゅ-いっぺい一種一瓶】(「一種」はひといろの肴(さかな)、「一瓶」は一本のとっくりの酒)一瓶の酒と一種の肴。転じて、酒と肴を一種ずつ持ち寄るような、簡単な酒宴。一種物(いつすもの)」あって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
上手負訖、各相具一種一瓶、於濱献之《訓み下し》上手負訖ツテ、各一種(シユ)一瓶(ヘイ)ヲ相ヒ具ス、浜ニ於テ之ヲ献ズ。《『吾妻鏡』建久二年九月二十一日の条》
 
 
蟇目(ひきめ)」は、ことばの溜池(2000.10.07)を参照
沙汰(さた)」は、ことばの溜池(2002.09.18)を参照
(はばか・る)」は、ことばの溜池(2005.10.07)を参照
 
2006年04月08日(土)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
的矢(まとや)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「萬」部に、標記語「的矢」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

的矢蟇目等無沙汰憚入候〔至徳三年本〕

的矢蟇目等無沙汰憚入候〔宝徳三年本〕

的矢(ヒキ)目等無沙汰憚入候〔建部傳内本〕

(マト)蟇目(ヒキメ)無沙汰憚入候〔山田俊雄藏本〕

的矢蟇目等無沙汰〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「的矢」と表記し、山田俊雄藏本に「まと(や)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「的矢」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、標記語「的矢」の語は未収載にする。易林本節用集』に、

的矢(マトヤ) 。〔器財門141三・天理図書館蔵下3ウ三〕

とあって、標記語「的矢」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』に、標記語「的矢」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

029究竟上手一兩輩可同道的矢 節三所也。羽羽本也。以上三手持亊也。染作(ハキ)一手、白羽一手、重箆(カタノ)一手、以上三手。〔謙堂文庫藏七右F〕

とあって、標記語「的矢」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

百手(モヽテ)達者(タツシヤ)究竟(クツキヤウ)上手(ジヤウズ)一兩輩( ウハイ)(シム)同道也但(タヽシ)的矢(マトヤ)百手(モヽテ)ハ都ニ五尺八寸ニ的ヲコシラヘテ遠(トヲ)サヲ三十三杖( ヘ)ニ延(ノベ)テアヅチヲ沸(ハラフ)事平地也。諸侍裏打(ウラウチ)ニ縛(シバ)リ袴(ハカマ)ヲ著()テ折烏帽子(オリエボシ)ニテ射(イル)之。三十三人立テ三十三度ツヽ射()ルナリ。五尺八寸ノ内二寸法ヲ指シテ一矢ツヽ射ルヲ達者(タツシヤ)ト云ナリ。正月六日ニ御前ニテ有也。的矢(マトヤ)ハ白篦(シロキノ)ニ白羽( キハ)ヲ付ナリ。〔3ウ二〜五〕

とあって、標記語「的矢」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(たゞ)的矢(まとや)蟇目(ひきめ)(とう)ハ/的矢蟇目等的矢に甲矢(はや)乙矢(おとや)あり。是を陰陽の矢と云。二筋(すじ)なり。又つねとも呼篦(よぶの)ハ白篦を本式とす。或ハ黒篦(くろの)濕篦(さハしの)又火色なとにもするなり。羽()ハ鷹の羽を本式とす。其外鳶(とび)白鳥(はくてう)(ふくろ)の三を忌()んて外ハ何鳥にても苦(くる)しからす。筈(はづ)ハ継(つぎ)筈。根に沓卷(くつまき)をして平題(いたつき)を入る。元(もと)奉射(ぶしや)的を射()たるより的矢の名ありと也。蟇目ハ篦と的矢と同し。根ハ桐(きり)。或は山椒(さんしやう)の木なとにて長サ七寸にこしらへ三方に蟇の目をすかす。又大具足の蟇目とて長サ壱尺二寸にしたるもあり。犬射(いぬい)蟇目笠懸蟇目誕生(たんじやう)蟇目宿直(とのゐ)蟇目等あり。羽ハ大形常にハ鷹の羽を用ひ産屋(さんや)の蟇目にハ露(つゆ)乃本白(もとしろ)を用ひるなり。ある書に諸魔は調子を伺ふもの也。蟇の聲ハ調子に應せさる故蟇の声を表(ひやう)して蟇目を作(つく)り諸魔をのぞくといへり。的矢ひきめともに圖説乃弓矢(きうし)の部()に委しけれハこゝに畧す。〔5オ四〜5ウ三〕

とあって、この標記語「的矢」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

百手(もゝて)の達者(たつしや)究竟(くつけう)乃上手(じやうず)一兩輩(いちりやうはい)同道(どうだう)せ令()む可()き也(なり)(たゞ)的矢(まとや)蟇目(ひきめ)(とう)ハ無沙汰(ぶさた)(はゞか)り入()り候(さぶら)ふ/百手達者究竟上手一兩輩可同道也但的矢蟇目等无沙汰憚入▲的矢ハ甲矢(はや)乙矢(をとや)あり。是を陰陽(いんよう)の矢()といふ篦()ハ色(いろ)篦にもすれと白篦(しらの)を本式とす。羽()ハ真羽(まは)(はつ)ハ續(つぎ)筈根ハ沓卷(くつまき)をして平題(ひらつき)を入る也。もと奉射的(ぶしやまと)を射()たりしゆへ的矢の名()ありとぞ。〔3ウ三〜六、4ウ四・五〕

百手(もゝて)達者(たつしや)究竟(くつきやう)の上手(じやうす)一兩輩(いちりやうはい)(べき)(しむ)同道(どうだう)せ(なり)(たゞし)的矢(まとや)蟇目(ひきめ)(とう)(なく)沙汰(さた)(はゞかり)(いり)(さぶらふ)▲的矢ハ甲矢(はや)乙矢(おと )あり。是を陰陽(いんやう)の矢といふ篦ハ色(いろ)篦にもすれと白篦(しらの)を本(ほん)式とす。羽()ハ真羽(ま )(はつ)ハ續(つぎ)筈根ハ沓卷(くつまき)をして平題(いたつき)を入る也。もと奉射的(ふしや  )を射()たりしゆへ的矢の名()ありとぞ。〔5ウ三〜6オ一、6ウ二・四〕

とあって、標記語「的矢」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Matoya.マトヤ(的矢) 標的に向かって射るのに使う矢.〔邦訳389l〕

とあって、標記語「的矢」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

まと-〔名〕【的矢】(一)射場にて、的を射ること。又、その矢。平家物語、四、競事「鷹の羽ではいだりける的矢、一手さし添へたる」庭訓往來、正月「但的矢、蟇目等、無沙汰憚入候」(二)的と、矢と。大石寺本曾我物語、六「吾等兄弟、的矢の如くありつるに」蜷川親元記、文明十三年十一月十九日「庚寅、馬(月毛印三引兩丸)、御返事的矢(十川作被之)」〔1892-1〕

とあって、標記語「まと-的矢】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「まと-的矢】的を射るのに用いる矢。稽古に用いるものと、儀礼の行事に用いるものがある。また、弓場の大的に用いるのは、矢柄はさわし篦()、節数は三節、筈は節筈(ふしはず)、羽は鷹羽を本とし、鏃(やじり)は平題箭(いたつきや)とする」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
都良香、此(コノ)公ハ無何ト、學窓(ガクサウ)ニ聚螢、稽古(ケイコ)ニ無●人ナレバ、弓ノ本末(モトウラ)ヲモ知(シリ)玉ハジ、的ヲ射サセ奉リ咲(ワラハ)バヤト思(オボ)シテ、的矢(マトヤ)ニ弓ヲ取副(トリソヘ)テ閣菅少將(ノ)御前ニ、「春ノ始(ハジメ)ニテ候ニ、一度(ヒトコブシ)(アソ)バシ候ヘ。」トゾ被請ケル。《古活字板『太平記』大内裏(ダイダイリ)造營(ザウエイノ)事付聖廟(セイベウノ)御事》
 
 
2006年04月07日(金)曇り後雨。東京→世田谷(駒沢)
同道(ドウダウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「登」部に、

同道(ダウ) 。〔元亀二年本55五〕〔静嘉堂本62二〕

同道(タウ) 。〔天正十七年本上31ウ八〕

とあって、標記語「同道」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

百手達者究竟之上手一兩輩可令同道〔至徳三年本〕

百手達者究竟上手一兩輩可同道〔宝徳三年本〕

百手之達者究竟之上手一兩輩可令同道〔建部傳内本〕

百手達者究竟上手一兩輩可同道〔山田俊雄藏本〕

百手達者究竟上手一兩輩可同道〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「同道」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

同道分/トウタウ。〔黒川本・畳字門上50ウ一〕

同異 〃心。〃意。〃寮。〃文。〃母。〃法。〃道。〃類。〃車。〃宿。〃品。〃僚。〃門。〃トウレイ。〃朋。〃行。〔卷第二・畳字門424五〜425一〕

とあって、三卷本に標記語「同道」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「同道」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

同道(ドウタウ/ヲナシ、ミチ)[平軽・上]。〔態藝門136一〕

とあって、標記語「同道」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

同道(ドウドウ) 。〔弘治・言語進退45七〕

同氣(ドウキ) ―母(トウモ)。―穴(ケツ)。―門(モン)。―僚。―舩(せン)。―類(ルイ)。―腹(フク)。―(レイ)。―等(トウ)―道(ダウ)。―宿(シユク)。―法。―族(ソク)。―行(キヤウ)。―車。―(ハウ)。―罪(サイ)。―巷(カウ)。―篇(ヘン)。―途()。―伴(ハン)。―事()。永祿本・言語門45四〕

同氣(トウキ) ―母。―穴。―門。―僚。―舩。―類。―腹。―。―等。―道。―宿。―法。―族。―行。―車。―。―士軍。―罪。―巷。―篇。―途。―伴。―事。―斈。―心。―意。〔尭空本・言語門41九〕

同道(タウ) 。〔両足院本・言語門50二〕

とあって、弘治二年本両足院本に標記語「同道」の語を収載し、他諸本は、標記語「同氣」の熟語群にして記載する。易林本節用集』に、

同道(ダウ) 。〔言語門43五・天理図書館蔵上22オ五〕

とあって、標記語「同道」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「同道」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

029究竟上手一兩輩可同道但的矢 節三所也。羽羽本也。以上三手持亊也。染作(ハキ)一手、白羽一手、重箆(カタノ)一手、以上三手。〔謙堂文庫藏七右F〕

とあって、標記語「同道」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

百手(モヽテ)達者(タツシヤ)究竟(クツキヤウ)上手(ジヤウズ)一兩輩( ウハイ)(シム)同道也但(タヽシ)的矢(マトヤ)百手(モヽテ)ハ都ニ五尺八寸ニ的ヲコシラヘテ遠(トヲ)サヲ三十三杖( ヘ)ニ延(ノベ)テアヅチヲ沸(ハラフ)事平地也。諸侍裏打(ウラウチ)ニ縛(シバ)リ袴(ハカマ)ヲ著()テ折烏帽子(オリエボシ)ニテ射(イル)之。三十三人立テ三十三度ツヽ射()ルナリ。五尺八寸ノ内二寸法ヲ指シテ一矢ツヽ射ルヲ達者(タツシヤ)ト云ナリ。正月六日ニ御前ニテ有也。的矢(マトヤ)ハ白篦(シロキノ)ニ白羽( キハ)ヲ付ナリ。〔3ウ二〜五〕

とあって、標記語「同道」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

一両輩(いちりやうはい)(どう)()せ令(しむ)(べき)(なり)一両輩可同道一両輩ハ一二人なり。同道ハ相伴ふ事也。〔5オ三・四〕

とあって、この標記語「同道」の語を収載し、語注記は「同道は、相伴ふ事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

百手(もゝて)の達者(たつしや)究竟(くつけう)乃上手(じやうず)一兩輩(いちりやうはい)同道(どうだう)せ令()む可()き也(なり)(たゞ)し的矢(まとや)蟇目(ひきめ)(とう)ハ無沙汰(ぶさた)(はゞか)り入()り候(さぶら)ふ/百手達者究竟上手一兩輩可同道也但的矢蟇目等无沙汰憚入。〔3ウ三〜六〕

百手(もゝて)達者(たつしや)究竟(くつきやう)上手(じやうす)一兩輩(いちりやうはい)(べき)(しむ)同道(どうだう)(なり)(たゞし)的矢(まとや)蟇目(ひきめ)(とう)(なく)沙汰(さた)(はゞかり)(いり)(さぶらふ)。〔5ウ三〜6オ一〕

とあって、標記語「同道」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Do>do<.ドゥダゥ(同道) Vonaji michi.(同じ道)すなわち,Tcuredatte mairu.(連れ立って参る)連れ立って行くこと.¶Do>do<suru,l,mo>su.(同道する、または,申す)連れ立って行く.〔邦訳186r〕

とあって、標記語「同道」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

どう-だう〔名〕【同道】つれだつこと。一緒に行くこと。同伴。同行。平治物語、三、牛若奥州下事「其上は仔細候はじと約束しけるが、但、定日は同道の人の計らひにて候べし」〔1387-4〕

とあって、標記語「どう-だう同道】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「どう-どう同道】つれだっていっしょに行くこと。同行。同伴。また、その人。みちづれ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
善信者、甚穩便者也同道之仁、頗有無法氣歟之由、内々被仰〈云云〉《訓み下し》善信ハ、甚ダ穏便ノ者ナリ。同道ノ仁、頗ル無法ノ気有ランカノ由、内内仰セラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』寿永三年四月十五日の条》
 
 
(はばか・る)」は、ことばの溜池(2005.10.07)を参照
沙汰(さた)」は、ことばの溜池(2002.09.18)を参照
蟇目(ひきめ)」は、ことばの溜池(2000.10.07)を参照
 
2006年04月06日(水)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
究竟(クキヤウ・クツキヤウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、

究竟(クツキヤウ) 。〔元亀二年本191二〕〔静嘉堂本215七〕

究竟(クキヤウ) 。〔天正十七年本中37オ六〕

とあって、標記語「究竟」の語を収載し、訓みを「クツキヤウ」と「クキヤウ」の両用で記載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

百手達者究竟之上手一兩輩可令同道也〔至徳三年本〕

百手達者究竟上手一兩輩可令同道也〔宝徳三年本〕

百手之達者究竟之上手一兩輩可令同道也〔建部傳内本〕

百手達者究竟上手一兩輩可同道〔山田俊雄藏本〕

百手達者究竟上手一兩輩可同道〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「究竟」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

究竟クキヤウ。〔黒川本・畳字門中80ウ七〕

究竟 。〔卷第六・畳字門456二〕

とあって、標記語「究竟」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「究竟」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

究竟(クキヤウ/キワマル、ヲワル)畢竟義也。〔態藝門549二三〕

とあって、標記語「究竟」の語を収載し、語注記に「畢竟の義なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

究竟(クキヤウ) 。〔弘治・人倫157七〕 究竟(クツキヤウ) 。〔弘治・言語進退163四〕

究竟(クキヤウ) 必竟義。〔永祿本・言語門132三〕

究竟(クツキヤウ) 必竟義也。〔尭空本・言語門121四〕

究竟(クキヤウ) 必竟義也。〔両足院本・言語門147五〕

とあって、標記語「究竟」の語を収載し、弘治二年本を除く諸本は、語注記に「必竟の義なり」と記載していて、広本節用集』を同音異字ながら継承する。易林本節用集』に、

究竟(クキヤウ) 。〔言辞門132七・天理図書館蔵上66ウ七〕

とあって、標記語「究竟」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「究竟」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

029究竟上手一兩輩可同道但的矢 節三所也。羽羽本也。以上三手持亊也。染作(ハキ)一手、白羽一手、重箆(カタノ)一手、以上三手。〔謙堂文庫藏七右F〕

とあって、標記語「究竟」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

百手(モヽテ)達者(タツシヤ)究竟(クツキヤウ)上手(ジヤウズ)一兩輩( ウハイ)(シム)同道也但(タヽシ)的矢(マトヤ)百手(モヽテ)ハ都ニ五尺八寸ニ的ヲコシラヘテ遠(トヲ)サヲ三十三杖( ヘ)ニ延(ノベ)テアヅチヲ沸(ハラフ)事平地也。諸侍裏打(ウラウチ)ニ縛(シバ)リ袴(ハカマ)ヲ著()テ折烏帽子(オリエボシ)ニテ射(イル)之。三十三人立テ三十三度ツヽ射()ルナリ。五尺八寸ノ内二寸法ヲ指シテ一矢ツヽ射ルヲ達者(タツシヤ)ト云ナリ。正月六日ニ御前ニテ有也。的矢(マトヤ)ハ白篦(シロキノ)ニ白羽( キハ)ヲ付ナリ。〔3ウ二〜五〕

とあって、標記語「究竟」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

究竟(くつきやう)の上手(じやうず)究竟上手究竟とハ極上の事也。元佛語(ぶつご)より出たる事なり。〔5オ三〕

とあって、この標記語「究竟」の語を収載し、語注記は「究竟とは、極上の事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

百手(もゝて)の達者(たつしや)究竟(くつけう)乃上手(じやうず)一兩輩(いちりやうはい)同道(どうだう)せ令()む可()き也(なり)(たゞ)し的矢(まとや)蟇目(ひきめ)(とう)ハ無沙汰(ぶさた)(はゞか)り入()り候(さぶら)ふ/百手達者究竟上手一兩輩可同道也但的矢蟇目等无沙汰憚入▲究竟の上手とハ至極(しごく)の手()だれ也。〔3ウ三〜六、4オ三・四〕

百手(もゝて)達者(たつしや)究竟(くつきやう)の上手(じやうす)一兩輩(いちりやうはい)(べき)(しむ)同道(どうだう)せ(なり)(たゞし)的矢(まとや)蟇目(ひきめ)(とう)(なく)沙汰(さた)(はゞかり)(いり)(さぶらふ)▲究竟の上手とハ至極(しごく)の手()たれ也。〔5ウ三〜6オ一、6ウ二〕

とあって、標記語「究竟」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Cuqio<.クキャゥ(究竟) Qiuamari,ru.(究まり,る)熟達すること,あるいは,完全の域に達すること.例,Cuqio<no jo<zu.(究竟の上手)ある事に熟達した人.→Cucqio<;Ite;Nobxe,suru.〔邦訳168r〕

とあって、標記語「究竟」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-きャう〔名〕【究竟】〔究竟(キウキヤウ)の呉音、急呼して、くッきャう〕(一)極(きは)まりたるところ。畢竟。下學集、下、言辭門「究竟(クキヤウ)、必竟之義也」徒然草、二百十七段「究竟は理即にひとし、大欲は、無欲に似たり」(二)極めて、すぐれたること。至極。クッキャウ。長門本平家物語、八、信連事「金武と申しける、くきゃうのはういつのありけるが」源平盛衰記、十三、信連戰事「金武と云ふ放免(ハウメン)あり、究竟の大力、云云」平家物語、七、火燧合戰事「所、素より、究竟の城郭」嵯峨野物語(室町時代)「隨身敦友、くきゃうの鷹飼なりしかば」〔515-3〕

とあって、標記語「-きャう究竟】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-きャう究竟】(「く」は「究」の呉音)@(形動)仏語。物事の究極に達すること、また、達した所。終極。くっきょう。A(形動)力や技術、技量などが非常にすぐれていること。くっきょう。B(形動)非常につごうが良いこと。絶好の機会。くっきょう。C「くきょうそく(究竟即)」の略」、そして標記語「くッ-きャう究竟】〔名〕(「くきょう」の変化した語)@物事のせんじつめたところ。完全な域。究極の境地。つまるところ。A(形動)武勇の力が強いこと。きわめて頑丈なこと。また、きわめてすぐれていること。B(形動)たいへんつごうのよいこと。あつらえ向き」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
可射取之由申請之被仰可然之旨、本自究竟之射手也《訓み下し》射取ルベキノ由之ヲ申シ請クルニ、然ルベキノ旨ラ仰セラル、本ヨリ究竟(クツキヤウ)ノ射手ナリ。《『吾妻鏡』建久四年五月二十七日の条》
 
 
ことばの溜池「的矢」(2006.04.08)を参照
ことばの溜池「同道」(2006.04.07)を参照
ことばの溜池「一両輩」(2002.03.15)を参照
ことばの溜池「上手」(2001.09.25)を参照
ことばの溜池「究竟」(2006.04.06)を参照
ことばの溜池達者」(2005.08.11)を参照。
ことばの溜池百手」(2001.03.09)を参照。
 
2006年04月05日(水)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
(いたり)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

(イタル) ()。〔元亀二年本21二〕〔静嘉堂本17三〕

(イタル)(イタル) 。〔天正十七年本中23オ三〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

即可促拜仕之處自他故障不慮之〔至徳三年本〕

即可促拜仕之處自他故障不慮之〔宝徳三年本〕

即可促拜仕之處自他故障不慮之〔建部傳内本〕

(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)之處自他(ジタ)故障(コシヤウ)不慮之〔山田俊雄藏本〕

(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)之處自他(ジタ)故障(コシヤウ)不慮之〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

(イタル)臻致又イタス到輸又イタス出也/應―不―也《中略》…自逝傳已上至也。〔黒川本・辞字門上8ウ二〕

イタル臻致…。〔卷第一・辞字門上49一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(イタル[去](同/タウ[○](同/シン[○]。〔態藝門42五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(イタル) () 或作(イタス)。〔弘治・言語進退門9六〕

(イタル) () 永祿本・言語門10三〕

(イタル) 到。〔尭空本・言語門8三〕〔両足院本・言語門10四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。易林本節用集』に、

(イタル)?同。()()() 。〔言辞門9六・天理図書館蔵上5オ六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・十巻本伊呂波字類抄』に標記語「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

027自他故障不慮之也 故有義也。〔謙堂文庫藏七右E〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

不慮(フリヨ)()(イタリ)トハヲモハザル外ノ事ナリ。〔3ウ一〜二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(すなハ)ち拜仕(はいじ)を促(うなか)す可(べき)の処(ところ)自他(じた)の故障(こしやう)不慮(ふりよ)(の)(いた)り也(なり)拜仕之処自他故障不慮之至也是ハこゝもとより年礼(ねんれい)延引したるを詫(わび)るなり。即とハ直(じき)にはやくなとゝいふこゝろ也。促とハいそぐ意(こゝろ)なり。故障ハゆへあるひぬいりなり。不慮はおもひもよらぬといふことなり。〔4ウ六〜八〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

御芳札(こはうさつ)披見(ひけん)(の)(ところ)青陽(せいよう)乃遊宴(ゆうゑん)(こと)に珍重(ちんちやう)に候(さふら)ふ堅凍(けんとう)(はや)く脱(と)け薄霞(はくか)(たちまち)(ひら)く即(すなハち)拜仕(はいし)を促(うなが)す可(へ)き之(の)(ところ)自他(じた)の故障(こしよう)不慮(ふりよ)(の)(いた)(なり)御芳札披見之處青陽遊宴珍重堅凍早薄霞忽披拜仕之處自他故障不慮之。〔3ウ三〜六〕

御芳札(ごはうさつ)披見(ひけん)(の)(ところ)青陽(せいやう)遊宴(いうえん)(こと)珍重(ちんちよう)(さふらふ)堅凍(けんとう)(はや)(とけ)薄霞(はくか)(たちまち)(ひらく)(すなハち)(べき)(うながす)拜仕(はいし)(の)(ところ)自他(じた)故障(こしやう)不慮(ふりよ)(の)(いたり)(なり)。〔5ウ三〜6オ一〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Itari,u,atta.イタリ,ル,ッタ(至・到り,る,つた) 到達する,または,入り込む.常に他の語に伴って用いられる.例,Ienno michini itaru.(善の道に到る)善コの道に入る.¶Tenni itaru.(天に到る)天に入る,または,達する.¶Mucaxicara imani itarmade.(昔から今に至るまで)古い時代から今まで.¶Ien, l,gacumonni itatta fito.(善,または,学文に至った人)学問や善コを学びきわめた人.¶Fijen,l,Nagasaqini itaru.(肥前,または,長崎に到る)肥前(Fijen),または,長崎(Na~gasaqui)に到着する.→Bansan;Cami(上);Curai(位);Toqi(時).〔邦訳344r〕

とあって、標記語「」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いた-〔名〕【】〔至(いた)るの名詞形、通人の服など、表を綿布、裏を絹布にしたるを、底(そこ)いたりと云ひ、大阪にて手のこみたるを、染方にて、いたりぞめ、煮方にて、いたり料理など云ふも、此條の語なり〕(一)至ること。きはまり。至極。「喜びのいたり」「無禮のいたり」「若氣のいたり(二){學問の、深きに達(とど)きたること。造詣。枕草子、十百十六段「此中將も若けれども才(ざえ)あり、いたりかしこくて、時の人におぼすなりけり」(三){心の、ゆきわたること。思慮。源氏物語、二、帚木28「心おきてを思ひめぐらさむかたも、いたり深く」同、三十四、下、若紫、下97「いたりすくなく、ただ人の聞えなす方にのみ、寄るべかめる御心には、ただ、おろかに淺きとのみ思(おぼ)し」大鏡、中、伊尹「此義懷の中納言の御出家、惟成の辨の、勸めきこらえられたりけるとぞ、いみじういたりありける人にて、今更に、よそ人にて交(まじら)ひたまはむほど、見苦しかりなむ、と聞えさせければ」〔166-3〕

とあって、標記語「いた-】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「いた-】〔名〕(動詞「いたる(至)」の連用形の名詞化)@心の働きなどが、物事に行きわたる度合。思慮、学問などの深さ。→至り深し・至り賢し。A物事の極点に達すること。きわまるところ。きわみ。極地。Bある事の結果、そうなるところ。C気がきいていること。粋なこと。上品なこと。また、ぜいたくなこと。[二]〔語素〕近世、さまざまな名詞の上に付けて用いられた。@非常に上等である。ぜいたくであるの意を表わす。「いたり茶屋」「いたり料理」など。A気のきいた、しゃれているの意を表わす。「いたり大尽」「いたり染め」など。B下接する名詞の程度のはなはだしいことを表わす。「いたり病(やまい)」「いたり気質」など」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
數日逗留之間、如思山川村里、悉以令圖繪訖、今日歸參武衛、《訓み下し》数日逗留ノ間ニ、思ヒノ如クニ山川村里ニ至リテ、悉ク以テ図シ絵カカシメ訖ハツテ、今日帰参ス。《『吾妻鑑』治承四年八月四日の条》
 
 
不慮(フリョ)」は、ことばの溜池(2002.06.06)を参照。
 
2006年04月04日(火)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
故障(コシヤウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、「故實。故郷。故事。故人」の四語を収載し、標記語「故障」の語は未収載にする。下記の古辞書と同様に同音異義の

拒障(コシヤウ) 辞退之義也。〔元亀二年本234一〕〔静嘉堂本269三〕〔天正十七年本中63ウ二〕

とあって、標記語「拒障」の語を収載している。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

即可促拜仕之處自他故障不慮之至也〔至徳三年本〕

即可促拜仕之處自他故障不慮之至也〔宝徳三年本〕

即可促拜仕之處自他故障不慮之至也〔建部傳内本〕

(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)之處自他(ジタ)故障(コシヤウ)不慮之至也〔山田俊雄藏本〕

(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)之處自他(ジタ)故障(コシヤウ)不慮之至也〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「故障」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本に「コシヤウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

故障遁避分/コシヤウ。〔黒川本・畳字門下9オ七〕

故舊 〃障。〃郷。〃實。〃人。〃事。〔卷第七・畳字門162三〕

とあって、三卷本に標記語「故障」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「故障」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

拒障(コシヤウ・ヘダツ/コバム、サヽウ)[上・平]辞退義也。〔態藝門690三〕

とあって、同音異義の標記語「拒障」の語を以て収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

拒請(コシヤウ) 或作拒障。拒請者辞退義也。拒作故。〔弘治・言語進退門189七〕

拒請(コシヤウ) 拒請辞退之義也。拒作故誤。〔永祿本・言語門155五〕

拒請(コシヤウ) ――辞退義也。拒作故誤乎。又作障。〔尭空本・言語門145五〕

とあって、同音異義の標記語「拒請」の語を収載し、語注記に「或は、拒障に作す。拒請は、辞退の義なり。拒を故と作すは誤りか。(又障と作す)」と同音表記による語句について記載している。易林本節用集』に、

拒障(コシヤウ) 辞退之義。〔言辞門160二・天理図書館蔵下13オ二〕

故實(コジツ) ―郷(キヤウ)―障(シヤウ)。―舊(キウ)。―事()。〔言辞門158五・天理図書館蔵下12オ五〕

とあって、標記語「拒障」の語を収載し、また、標記語「故實」の熟語群に「故障」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・饅頭屋本節用集』〔言辞門113四〕に標記語「故障」の語を収載し、易林本節用集』には熟語群に収載され、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載する。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

027自他故障不慮之至也 故有義也。〔謙堂文庫藏七右E〕

とあって、標記語「故障」の語を収載し、語注記は「言(いふこゝろ)は、故(ゆへ)なく碍(さは)りある義()なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

堅凍(ケントウ)(ハヤク)(トケ)薄霞(ハツカ)(タチマチ)(ヒラク)(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)之處自他(ジタ)故障(コシヤウ)堅凍ハ。カタキ冰(コウリ)ナリ。冬(フユ)ノ冰トヂ寒來レバ。カタシ。又立(リツ)春ヨリ。陽氣ヲ受テ解ルナリ。氷リトケヌレバ頓テ。霞ミ立ト云ヘリ。春ノ心ヲ長閑(ノドケ)ク云ハントテカクハ云イツヽクルナリ。〔上3オ七〜3ウ一〕

とあって、標記語「故障」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(こと)に珎重(ちんちやう)に候堅凍(けんとう)(はや)く解(とけ)薄霞(はくか)(たちまち)に披(ひら)く即(すなハ)ち拜仕(はいじ)を促(うなか)す可(べき)の処(ところ)ニ自他(じた)の故障(こしやう)珎重候堅凍早解薄霞忽披即拜仕之處自他故障此二句ハはつ春乃けしきをのどけくいゑるなり。去年(こぞ)の冬より凝(こほ)りたる堅(かた)き氷(こほり)も春風にとけ四方山乃うすかすみも春の立かへるによりてたちまちたなひきしとなり。〔4ウ三〜五〕

とあって、この標記語「故障」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

御芳札(こはうさつ)披見(ひけん)(の)(ところ)青陽(せいよう)乃遊宴(ゆうゑん)(こと)に珍重(ちんちやう)に候(さふら)ふ堅凍(けんとう)(はや)く脱(と)け薄霞(はくか)(たちまち)(ひら)く即(すなハち)拜仕(はいし)を促(うなが)す可(へ)き之(の)(ところ)自他(じた)故障(こしよう)不慮(ふりよ)(の)(いた)り也(なり)御芳札披見之處青陽遊宴珍重堅凍早薄霞忽披拜仕之處自他故障不慮之至也▲故障ハゆへさハりと訓(よミ)て指合(さしあひ)乃義。〔3ウ三〜六、〕

御芳札(ごはうさつ)披見(ひけん)(の)(ところ)青陽(せいやう)遊宴(いうえん)(こと)珍重(ちんちよう)(さふらふ)堅凍(けんとう)(はや)(とけ)薄霞(はくか)(たちまち)(ひらく)(すなハち)(べき)(うながす)拜仕(はいし)(の)(ところ)自他(じた)故障(こしやう)不慮(ふりよ)(の)(いたり)(なり)▲故障ハゆゑさハると訓(よミ)て指合(さしあひ)の義。〔5ウ三〜6オ一、6オ四・五〕

とあって、標記語「故障」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Coxo<.コシヤウ(故障) Yuye sauari.(故障り) ある所へ行くことなどに対する妨げ,あるいは,さしつかえ.〔邦訳157l〕

とあって、標記語「故障」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-しゃう〔名〕【故障】(一)ささはり。さしつかへ。さまたげ。障礙九條殿御遺誡「若有故障之時、早奉假文可障之由(二)異議。不同意。源平盛衰記、四十二、屋島合戰事「與一を、判官の前に引居て、面面の故障に、日、既に暮なんとす」「故障を云ふ」「故障を申立つ」〔682-2〕

とあって、標記語「-しゃう故障】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-しょう故障】〔名〕@物事が行われるのをさまたげるような事情。さしつかえ。さしさわり。障害。邪魔。A(―する)さしつかえがあると申し立てること。拒否すること。また、その不服だとする考え。異議。B気に入らないこと。いやだと思うこと。C(―する)機械、からだなどの一部に異常が起こって、機能がそこなわれること。働きが止まったり、狂ったりすること。こわれること。破損。事故。D欠席判決を受けた訴訟当事者が、その判決に不服を申し立てること」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
故障之時者、可爲盛時判之由〈云云〉《訓み下し》若シ故障(コシヤウ)ノ時ハ、盛時ガ判タルベキノ由ト〈云云〉。《『吾妻鑑』文治四年五月十七日の条》
 
 
自他(ジタ)」は、ことばの溜池(2006.03.20)を参照。
 
2006年04月03日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
(ところ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「登」部に、標記語「」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

即可促拜仕之自他故障不慮之至也〔至徳三年本〕

即可促拜仕之自他故障不慮之至也〔宝徳三年本〕

即可促拜仕之自他故障不慮之至也〔建部傳内本〕

(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)自他(ジタ)故障(コシヤウ)不慮之至也〔山田俊雄藏本〕

(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)自他(ジタ)故障(コシヤウ)不慮之至也〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

(イウ)トコロ上同乍。 トコロ。〔黒川本・辞字門上48オ五・六〕

トコロ所也昌地據〓〓迫嘗陵暴所廻田〓其―。〔卷第二・辞字門415四〜416三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、標記語「」の語は未収載にする。易林本節用集』に、

(トコロ)()()。〔言辞門47四・天理図書館蔵上24オ四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』に標記語「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

026即可拜仕| 言拜顔|召仕|之義也。〔謙堂文庫藏七右D〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

堅凍(ケントウ)(ハヤク)(トケ)薄霞(ハツカ)(タチマチ)(ヒラク)(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)自他(ジタ)故障(コシヤウ)堅凍ハ。カタキ冰(コウリ)ナリ。冬(フユ)ノ冰トヂ寒來レバ。カタシ。又立(リツ)春ヨリ。陽氣ヲ受テ解ルナリ。氷リトケヌレバ頓テ。霞ミ立ト云ヘリ。春ノ心ヲ長閑(ノドケ)ク云ハントテカクハ云イツヽクルナリ。〔上3オ七〜3ウ一〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(こと)に珎重(ちんちやう)に候堅凍(けんとう)(はや)く解(とけ)薄霞(はくか)(たちまち)に披(ひら)く即(すなハ)ち拜仕(はいじ)を促(うなか)す可(べき)(ところ)ニ自他(じた)の故障(こしやう)珎重候堅凍早解薄霞忽披即拜仕自他故障此二句ハはつ春乃けしきをのどけくいゑるなり。去年(こぞ)の冬より凝(こほ)りたる堅(かた)き氷(こほり)も春風にとけ四方山乃うすかすみも春の立かへるによりてたちまちたなひきしとなり。〔4ウ三〜五〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

御芳札(こはうさつ)披見(ひけん)(の)(ところ)青陽(せいよう)乃遊宴(ゆうゑん)(こと)に珍重(ちんちやう)に候(さふら)ふ堅凍(けんとう)(はや)く脱(と)け薄霞(はくか)(たちまち)(ひら)く即(すなハち)拜仕(はいし)を促(うなが)す可(へ)き之(の)(ところ)自他(じた)の故障(こしよう)不慮(ふりよ)(の)(いた)り也(なり)御芳札披見之處青陽遊宴珍重堅凍早薄霞忽披拜仕自他故障不慮之至也。〔3ウ三〜六〕

御芳札(ごはうさつ)披見(ひけん)(の)(ところ)青陽(せいやう)遊宴(いうえん)(こと)珍重(ちんちよう)(さふらふ)堅凍(けんとう)(はや)(とけ)薄霞(はくか)(たちまち)(ひらく)(すなハち)(べき)(うながす)拜仕(はいし)(の)(ところ)自他(じた)故障(こしやう)不慮(ふりよ)(の)(いたり)(なり)。〔5ウ三〜6オ一〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tocoro.ところ(處) 場所.→Aqi,u.(開き,く);Araqe,uru;Fusagui,u;Sari,ru.〔邦訳653r〕

とあって、標記語「」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

とこ-〔名〕【】〔所(とこ)に、ろの助辭の添へるならむ〕(一)場。場所。居所。地。とこ。(二)其郷土(さと)本地「處の人」(三)官署の稱。特に、蔵人所の略稱。平家物語、四、信連合戰事「先年、所(藏人所)にありし時も、大番衆の者どもの留めかねたりし、強盗六人に、唯一人追懸り、云云、四人切伏せ、二人生捕り、云云」「大歌所」内侍所」繪所」臺盤所」〔1402-2〕

とあって、標記語「とこ-】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「とこ-】〔名〕[三]形式名詞として用いる。C(「…をした時」の意から変化して接続助詞のように用いる)上の句の叙述を受けて、下の述語に続ける。候文などで多く用いられた」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
夫人之世也、言行之善不善、不可不記焉。《訓み下し》夫人之世也、言行之善不善、不可不記焉。《『吾妻鑑』の条》
 
 
2006年04月02日(日)曇り後雨。東京→世田谷(駒沢)→鶯谷〔書の博物館〕
拝仕(ハイジ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、標記語「拝仕」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

即可促拜仕之處自他故障不慮之至也〔至徳三年本〕

即可促拜仕之處自他故障不慮之至也〔宝徳三年本〕

即可促拜仕之處自他故障不慮之至也〔建部傳内本〕

(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)之處自他(ジタ)故障(コシヤウ)不慮之至也〔山田俊雄藏本〕

(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)之處自他(ジタ)故障(コシヤウ)不慮之至也〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「拝仕」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本に「ハイジ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「拝仕」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「拝仕」の語は未収載にする。ただ『塵芥』には、

拜仕(ハイシ) 。〔態藝門上14ウ四〕

とあって、標記語「拜仕」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、『塵芥』に標記語「拝仕」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

026即可拜仕|之処 言拜顔|召仕|之義也。〔謙堂文庫藏七右D〕

とあって、標記語「拝仕」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

堅凍(ケントウ)(ハヤク)(トケ)薄霞(ハツカ)(タチマチ)(ヒラク)(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)之處自他(ジタ)故障(コシヤウ)堅凍ハ。カタキ冰(コウリ)ナリ。冬(フユ)ノ冰トヂ寒來レバ。カタシ。又立(リツ)春ヨリ。陽氣ヲ受テ解ルナリ。氷リトケヌレバ頓テ。霞ミ立ト云ヘリ。春ノ心ヲ長閑(ノドケ)ク云ハントテカクハ云イツヽクルナリ。〔上3オ七〜3ウ一〕

とあって、標記語「拝仕」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(こと)に珎重(ちんちやう)に候堅凍(けんとう)(はや)く解(とけ)薄霞(はくか)(たちまち)に披(ひら)く即(すなハ)拜仕(はいじ)を促(うなか)す可(べき)の処(ところ)ニ自他(じた)の故障(こしやう)珎重候堅凍早解薄霞忽披即拜仕之處自他故障此二句ハはつ春乃けしきをのどけくいゑるなり。去年(こぞ)の冬より凝(こほ)りたる堅(かた)き氷(こほり)も春風にとけ四方山乃うすかすみも春の立かへるによりてたちまちたなひきしとなり。〔4ウ三〜五〕

とあって、この標記語「拝仕」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

御芳札(こはうさつ)披見(ひけん)(の)(ところ)青陽(せいよう)乃遊宴(ゆうゑん)(こと)に珍重(ちんちやう)に候(さふら)ふ堅凍(けんとう)(はや)く脱(と)け薄霞(はくか)(たちまち)(ひら)く即(すなハち)拜仕(はいし)を促(うなが)す可(へ)き之(の)(ところ)自他(じた)の故障(こしよう)不慮(ふりよ)(の)(いた)り也(なり)御芳札披見之處青陽遊宴珍重堅凍早薄霞忽披拜仕之處自他故障不慮之至也▲拝仕ハ年礼(ねんれい)を指()す。〔3ウ三〜六、4オ一〕

御芳札(ごはうさつ)披見(ひけん)(の)(ところ)青陽(せいやう)遊宴(いうえん)(こと)珍重(ちんちよう)(さふらふ)堅凍(けんとう)(はや)(とけ)薄霞(はくか)(たちまち)(ひらく)(すなハち)(べき)(うながす)拜仕(はいし)(の)(ところ)自他(じた)故障(こしやう)不慮(ふりよ)(の)(いたり)(なり)▲拝仕ハ年礼(  れい)を指()す。〔5ウ三〜6オ一、6オ四〕

とあって、標記語「拝仕」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Faiji.ハイジ(拝仕) Vogami tcucayuru.(拝み仕ゆる) 尊敬すべき人にうやうやしく仕えること.〔邦訳198r〕

とあって、標記語「拝仕」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

はい-〔名〕【拜仕】年禮の拜賀。庭訓往來、正月「即可拜仕之處、自他故障、不慮之至也」〔1549-5〕

とあって、標記語「はい-拝仕】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「はい-拝仕】〔名〕(「はいじ」とも)年礼の拝賀」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
可申祐俊宿禰、外記定政来参、召使不拝仕之、以此由所告大外記定俊也、《『後二条師通記』寛治七年五月廿七日の条3/77・146》
 
 
2006年04月01日(土)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
(うながす)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「宇」部に、標記語「」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來正月五日の状に、

即可拜仕之處自他故障不慮之至也〔至徳三年本〕

即可拜仕之處自他故障不慮之至也〔宝徳三年本〕

即可拜仕之處自他故障不慮之至也〔建部傳内本〕

(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)之處自他(ジタ)故障(コシヤウ)不慮之至也〔山田俊雄藏本〕

(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)之處自他(ジタ)故障(コシヤウ)不慮之至也〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本に「うながす」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ウナカス/七玉反。(演+)。已上同。〔黒川本・辞字門中52ウ八〕

ウナカス已上同/―白也。白布也/獨断云―民耕種。〔卷第五・辞字門184三・四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(ウナガスサイ)[平軽](同/ソク)[入](同/ヤク)[入]。〔態藝門488五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

(ウナカス)()。〔弘治・言語進退門150八〕 (ウナカス)()()日本記/人皇紀。〔弘治・言語進退門151五・六〕

(ウナカス)。〔永祿本・言語門123四〕

(ウナカス)。〔尭空本・言語門112九〕〔両足院本・言語門137四〕

とあって、弘治二年本に標記語「」の語を収載する。他本は熟語群として記載する。易林本節用集』に、

(ウナカス) 。〔言辞門120六・天理図書館蔵上60ウ六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本がこの語を収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』正月五日の状には、

026即可拜仕|之処 言拜顔|召仕|之義也。〔謙堂文庫藏七右D〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

堅凍(ケントウ)(ハヤク)(トケ)薄霞(ハツカ)(タチマチ)(ヒラク)(ベキ)(ウナガス)拜仕(ハイジ)之處自他(ジタ)故障(コシヤウ)堅凍ハ。カタキ冰(コウリ)ナリ。冬(フユ)ノ冰トヂ寒來レバ。カタシ。又立(リツ)春ヨリ。陽氣ヲ受テ解ルナリ。氷リトケヌレバ頓テ。霞ミ立ト云ヘリ。春ノ心ヲ長閑(ノドケ)ク云ハントテカクハ云イツヽクルナリ。〔上3オ七〜3ウ一〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(こと)に珎重(ちんちやう)に候堅凍(けんとう)(はや)く解(とけ)薄霞(はくか)(たちまち)に披(ひら)く即(すなハ)ち拜仕(はいじ)(うなか)(べき)の処(ところ)ニ自他(じた)の故障(こしやう)珎重候堅凍早解薄霞忽披即拜仕之處自他故障此二句ハはつ春乃けしきをのどけくいゑるなり。去年(こぞ)の冬より凝(こほ)りたる堅(かた)き氷(こほり)も春風にとけ四方山乃うすかすみも春の立かへるによりてたちまちたなひきしとなり。〔4ウ三〜五〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

御芳札(こはうさつ)披見(ひけん)(の)(ところ)青陽(せいよう)乃遊宴(ゆうゑん)(こと)に珍重(ちんちやう)に候(さふら)ふ堅凍(けんとう)(はや)く脱(と)け薄霞(はくか)(たちまち)(ひら)く即(すなハち)拜仕(はいし)(うなが)(へ)き之(の)(ところ)自他(じた)の故障(こしよう)不慮(ふりよ)(の)(いた)り也(なり)御芳札披見之處青陽遊宴珍重堅凍早薄霞忽披拜仕之處自他故障不慮之至也。〔3ウ三〜六〕

御芳札(ごはうさつ)披見(ひけん)(の)(ところ)青陽(せいやう)遊宴(いうえん)(こと)珍重(ちんちよう)(さふらふ)堅凍(けんとう)(はや)(とけ)薄霞(はくか)(たちまち)(ひらく)(すなハち)(べき)(うながす)拜仕(はいし)(の)(ところ)自他(じた)故障(こしやう)不慮(ふりよ)(の)(いたり)(なり)。〔5ウ三〜6オ一〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vnagaxi,su.l,fure vnagasu.ウナガシ,ス.または,フレウナガス(促し,す.または,触れ促す) 大声で触れ知らせる,または,警告や通告をする.〔邦訳694l〕

とあって、標記語「」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

うなが・ス・セ・サ・シ・セ〔他動、四〕【】〔項(うな)ぐと云ふ動詞ありて、(うなげるの語原を見よ)項突(うなづ)く意ありて、其他動なるべし、うごく、うごかす。いそぐ、いそがす〕課(おほ)せ急(いそ)がす。催したつ。催促す。せつく。仁コ紀、十年十月「百姓之不(ウナガサレ)而、云云、竭力爭作」(前條を見よ)爲忠百首「丹波山、氷室のおもの、うながして、駒の足とく、都へぞ行く」〔247-3〕

とあって、標記語「うなが】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「うなが】〔他サ五(四)〕指示してそうするようにしむける。イ人や物をせきたてる。催促する。急がす」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
廷尉、數十艘兵船、差壇浦解纜〈云云〉《訓み下し》廷尉、数十艘ノ兵船ヲ促シ、壇ノ浦ヲ差シ纜ヲ解クト〈云云〉。《『吾妻鑑』元暦二年三月二十二日の条》
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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