2009年01月01日から日々更新

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 
 
 
 
 新年明けましておめでとうございます。
 地球環境について人々が真剣に取り組む年でもあり、また、人々が他言語の境界を乗りこえてお付き合いを重ねるといった国際的な年を迎えました。
牛牽きて 大戸の道に 徒歩とぼと 和と成りしかば 明けの空見ゆ
 本年も宜しくお願い申しあげます。
2009(平成21)丑年 元旦      
 
2009年01月31日(土)雨。東京(駒沢)
とぼとぼ(=徒歩徒歩)」
 疲れ果て元気を無くした足取りでちょっと俯き加減で寂しそうに小股で歩くさまを形容する「とぼとぼ」。仮名垣魯文編『西洋道中膝栗毛』に、

ト☆口にはいへど、詮方なく、そゞろにかなしくなりて、今ははや、精も張りもぬけはて、とぼ/\としてゐるところへ、巡査二人出で来り、「ホワイ。ア―ル。ユウ。オルキング。セイル。エト。サ―チ。レイト。タイ。」お前達は何ゆえ、夜更てこゝにゐるや、といふ事也。〔十四編下162A〕

とあって、かな表記にて「とぼ/\」と見えている。
 近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、

☆☆とぼ‐とぼ〔副〕老人などの、よろぼひ歩む状、又、歩みのはかどらぬ状に云ふ語。よぼよぼ。よろよろ。よぢよぢ。よたよた。*博多小女郎波枕(享保・近松作)中「姥が出れば惣左衛門、こりゃ姥、何をとぼとぼする、今の銀(かね)は隣の道具賣ッた銀(かね)」〔三-576-2〕

とあって、近世文学資料が用例として収載されている。
 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、

とぼ‐とぼ[一]〔副〕(「と」を伴って用いることもある)@ぼんやりしているさま、元気なく、疲れたさまなどを表わす語。しょぼしょぼ。*続無名抄〔一六八〇〕下「世話字尽〈略〉惘然(トボトボ)」*浄瑠璃・鑓の権三重帷子〔一七一七〕下「ろくに寝ぬ夜の目もとぼとぼとほこりまぶれの髪かたち」*西洋道中膝栗毛〔一八七〇〜七六〕〈総生寛〉一四・下「今ははや精も張りもぬけはてとぼとぼとしてゐるところへ」*春の晩〔一九一五〕〈田村俊子〉五「暗い街の灯が、とぼとぼして少し幾重の心が滅入った」*詩人の生涯〔一九五九〕〈安部公房〉「とぼとぼ燃えてる乞食の石油カンの中に」A(「とぽとぽ」とも)力なく緩慢に行なう動作、特に歩くさまを表わす語。*たけくらべ〔一八九五〜九六〕〈樋口一葉〉一一「大黒傘肩にして少しうつむいて居るらしくとぼとぼと歩む信如の後かげ」*少年行〔一九〇七〕〈中村星湖〉四「『オオ寒む寒む、早く帰らんぢょよ』と云ひながらも、お祖母様の足はトボトボしてゐる」*太政官〔一九一五〕〈上司小剣〉九「夜風の冷たい前庭へトポトポと力なげに出て行った」[二]〔名〕(形動)ぼんやり、うす暗くおぼつかないこと。また、そのさま。*浮世草子・好色産毛〔一六九五頃〕五・四「ある夕暮のとぼとぼより、誰やら我につき添て目にありありとみゆる」*常長〔一九一四〕〈木下杢太郎〉七「さればこれで君の幻からもお別れしませう。と言ふうちに日がとぼとぼになったぞ」【方言】〔副〕ぼんやりしたりまごついたりするさま。《とぼとぼ》茨城県稲敷郡(もうろくしたさま)193新潟県佐渡352長野県佐久493滋賀県彦根609蒲生郡612すっかりぬれるさま。《とぼとぼ》滋賀県蒲生郡062〔名〕日暮れ。《とぼとぼ》千葉県安房郡「とぼとぼに帰る」297三重県062《とほつかあ》群馬県吾妻郡218【発音】〈標ア〉〔一〕は[ト]〈1〉〔二〕 は[0]〈京ア〉[ト]〈1〉【辞書】ヘボン・言海

とあって、初出用例に従うと江戸時代の初め頃から用いだした語であることが見えてくる。
《回文》【】 
 
 
2009年01月30日(金)雨。東京(駒沢)
龜を助く(かめをたすく)」
 松平文庫蔵『撰集抄』巻四第三に、「過にし比、紀伊国ゆらのみさきを過侍りしに、渚近く釣船漕寄て、四そちにかたふき、五そちはかりに見え侍る男の、舟の内になき居たる侍り。何なる態をうれふらんと、哀に覚て、深く水におり立、舟はたに取懸て、いかに何を歎らんと云に、此男、泣/\聞ゆる様、是は釣する者に侍り。只今、この浦にて殊に大なる亀のつられて侍りつるを、殺さんとし侍りつるに、亀左右の眼より紅のなみたをなかして歎けなるかたちの見え侍りつれは、あまりに悲て、ゆるして本の所にはなたんとし侍りつるを、つれの釣はりにて目をつきて侍つれは、くるへきまとゐつるか、余に身にしみてかなしく覚侍りとて、舟よりとひおりて、はまにあかりて、ねかはくは、かしらおろしてえさせよといふを、いかゝとためらい侍りしかとも、けに思ひとりて見え侍りしかは、かみそりて侍りき。扨、我にともなふへしとて、それより具足して、高野粉川まいりありきて、終に都にのほりて、西仙聖人の庵に引付、発心の因縁なと語り奉り侍りしかは、哀なる事かな。堺は南西に替といへとも、かれも釣人我もつりうとなる哀さよ。よし/\是におはせよとて、行すまして侍り。今目出後世者にて、西道となん云めり。物の哀をおしむことのかはゆくもおほえす、いける類をころすはまことの罪ともしらされはこそ、四そちあまりまて、網引釣し侍りけめ、いかなるの、今更よりきて、おとろかぬ心をもよほしけん。血の涙なかすわさなとは、実に、時にとりて身にしむほとの事なれとも、たちまちにうき世をこりはてける心は、たれはかりかはいまそかるへきと、けにたゝ事ともおほえす。仏菩薩のいさゝかのたよりにて、善種を顕はすへき人と見そなはかさせ給て、とけしてつられましますにやとまて覚て、其事となく泪のこほるゝに侍り。地に倒るゝ物は地に依て立と云事あり。実なるかなやと覚て侍り。釣人と成てたうれはてぬと見えし人の、釣に依て倒ともなけれは、又、何のゆへに立へしとも覚す。あはれ、倒るゝ所をしりて立なはやと覚て侍り。抑、いける身の命を惜事、をしなへて皆等しかるへし。只宿報つたなくして、鳥獣と成ぬれは、物をいはぬにはかされて、思ふ心のうちをも不知して、是をころして我身の世を渡らん事、返々をろかに無慙なるへし。しかのみならす、是を食にもちゐる、又放逸なり。まさしくいける物なりしをと覚たり。しかし、鳥獣のたくひを口にふれさらんには。是を食すれはそ殺するつみ食つみみな積集て、此世はやすき侍らん事の悲さよ。たゝ物をおほくくひて、いたつらに過たにもをそろしきにや。されは、舎利弗は、一口二口くへとの給ひ、龍樹菩薩は、粮すくなくて、あせ、多し。いかにもつゝしめと侍り。仏は一粒の米をはかるに、百のこうを用たりと侍。さ様におほくの煩積重ぬる米を、日のうちにいくらはかりか食し侍らん。是をくひ、身をたすけて、いくら斗の聖教をか披き見つると、かへす/\あさましく侍り。」とある。
 
《回文》汽車汽車汽笛ポッポ汽笛シャキシャキ【きしゃきしゃきてきぽッぽきてきしゃきしゃき】 
 
 
2009年01月29日(木)晴れ。東京(駒沢)
しゃきしゃき(=シャキシャキ)」
 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

しゃき‐しゃき〔副〕(「と」を伴って用いることもある)@歯ぎれよく物をかむ音、規則正しく動く機械などの小さな音、また、そのさまを表わす語。*秘密〔一九一一〕〈谷崎潤一郎〉「闇中にシャキシャキ軋みながら眼まぐるしく展開して行く映画の光線」A物を細かく切りきざみなどするときに、切れ味がよくて気持よく切れる音、また、そのさまを表わす語。物事を、すばやく、また、手ぎわよく処理するさまを表わす語。てきぱき。*沢氏の二人娘〔一九三五〕〈岸田国士〉「なかなかシャキシャキしてるっていう話だ」*入江のどんど〔一九七二〕〈大原富枝〉「長椅子の客はしゃきしゃきしていて、もう立上り、ベッドの方へ歩いている」【発音】〈標ア〉[シャ]〈1〉〈京ア〉[シャ]=[シャ]

とあって、ここには山口仲美編『暮らしのことば擬音擬態語辞典』〔講談社刊〕所載の「しゃきしやき」の@「ほどよいかたさの物を続けて噛()んだり、刻んだりする時に出る快い音。または、その時の歯ごたえや手ごたえの感じ。「野菜はお湯にさっとくぐらす程度で、しゃきしゃき食べるのがこの鍋の流儀だ」〔週刊現代2000.12.16号〕」〔221頁〕といった表現は登録されていないことが確認される。ことばの意味がそれだけ変容していることを感じる象徴語表現である。
HP参考資料》グリコの「朝食りんごヨーグルト」CM シャキシャキの唄 篇 
 ただただのシャキシャキ。もじもじのシャキシャキ。…めそめそのシャキシャキ。…。
 
《回文》【】 
 
2009年01月28日(水)曇り。東京(駒沢)
ぽろぽろ(=ぼろぼろ・ほろほろ)」
 上から下に液体状のものである涙が流れ落ちるさま。「ぽろぽろ」だが、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

ぽろ‐ぽろ[一]〔副〕(「と」を伴って用いることもある)@小さい粒状の物がこぼれ落ちるさまを表わす語。*土〔一九一〇〕〈長塚節〉六「凹みを拵へてそこへぽろぽろと種を落して行く」*ながし〔一九一三〕〈森鴎外〉「垢がぽろぽろ縒れて来る」A涙がつづけてこぼれ落ちるさまを表わす語。*真景累ケ淵〔一八六九頃〕〈三遊亭円朝〉八八「新吉は物をも云はず小さくかたまって坐り、只ポロポロ涙を落して居りました」*こゝろ〔一九一四〕〈夏目漱石〉下・五三「たまにぽろぽろと涙を落す事もありました」B粘りけがなくばらばらなさまを表わす語。*土〔一九一〇〕〈長塚節〉五「麦ばかりのぽろぽろした飯」[二]〔形動〕固い物がもろくこなごなにくだけるさま。また、水分を失った物などがくだけるさま。*青春〔一九〇五〜〇六〕〈小栗風葉〉秋・一六「枯れてポロポロになった茶色の花片(はなびら)が」*湖畔手記〔一九二四〕〈葛西善蔵〉「下の歯が一二本ポロポロに欠け崩れて」【発音】〈標ア〉〔一〕は[ポ]〈1〉 〔二〕は[0]〈京ア〉〔一〕は[ポ]〈1〉〔二〕 は(0)

とあって、[一]Aの意味として記載されている語である。そして、用例も近代の明治時代になってからの円朝の『真景累ケ淵』や漱石の『こゝろ』が引用されている。芥川龍之介『点鬼簿』にも「死ぬ前には正気に返ったと見え、僕等の顔を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ涙を落した。」と用いられている。
 
《回文》【】 
 
2009年01月27日(火)晴れ。東京(駒沢)
とくとく(=疾く疾く・得く得く)」
 『吉野山獨案内(ひとりあんない)』編者吉野山人謡春庵周可、寛文十一年(一六七一)刊の六冊から成る俳諧地誌があって、このなかに西行の歌として、

とくとくと落つる岩間の苔清水くみほしほどもなきすまひかな

の和歌が所載されている。編者周可はこの歌を西行作としているが、その拠り所とした和歌集資料が定かでない。『山家集』には未収録、更に又現行で見られる『西行全集』からも見いだせないからだ。慥かに西行と吉野山は深い関係にある。その多くは「櫻花」の歌にて「苔清水」に関わる歌さえも皆無なのである。ここであるのが「とくとく」の語表現で、『山家集』〔40-7021大系27頁〕に見えている。

  伊勢にもりやまと申す所に侍りけるに庵に梅(むめ)のかうばしく匂(にほ)ひけるを

柴(しば)の庵にとくとく梅(むめ)の匂(にほ)ひ来てやさしきかたもあるすみかかな

とあって、水の流れ出す象徴語表現ではない。とは云え、「とくとく」であるが故に畳語副詞による形容表現にて導き出される韻律の響きが漂い、梅の花の香りが漂うさまと一つとなる感がある。
 この吉野山人の編者周可と同じ時代を生きた松尾芭蕉は、周可が記した「とくとくと落つる岩間の苔清水」の歌を西行の歌と信じた。が故に『野ざらし紀行』〔貞享元年〜二年〕で、

西上人の草の庵の跡は、奥の院より右のかた二町ばかり分け入るほど、柴人の通ふ道のみわづかに有りて、嶮(さが)しき谷をへだてたる、いと尊し。かのとくとくの清水は、昔に変わらずとみえて、今もとくとくと雫落ちける。

とくとく試みに浮世すすがばや

と、「とくとく」の畳語表現を用いた発句を詠んでいる。信じて疑わない芭蕉における遊行の歌人西行なる人物によせる思いと志向を感得することができる。

 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

とく‐とく〔副〕(多く「と」を伴って用いる)@水、しずく、涙などがしたたり落ちるさまを表わす語。現在では普通、口の小さな入れものから液体が流れ出るさまをいうことが多い。*源平盛衰記〔一四C前〕二五・時光茂光御方違盗人事「御涙の温々(トクトク)落ちけるが」*中華若木詩抄〔一五二〇頃〕下「軽風が、ざっと吹たれば、宿雨が、とくとくと落て」*俳諧・野ざらし紀行〔一六八五〜八六頃〕「彼とくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落ける」*銀の匙〔一九一三〜一五〕〈中勘助〉前・一七「油壺の嘴からとくとくと飴色の種油をつぐ」*傷ついた葦〔一九七〇〕〈曾野綾子〉「おさけをひとり手酌でとくとくと注ぎながら」Aゆっくりと足を踏みしめて歩くさま。*禅鳳雑談〔一五一三頃〕「さかをあがる時、身をかろくもちて、ひっしめて、そくそくとあがればよし。又くだる時は、力を入(いれ)とくとくとあしをふみさだめてくだり候へばよし」*直方敬斎箴講義〔一七C後〕「あしもとをとくとくとしてあしばやにせぬ、ばたりばたりとすることではない」B小きざみにうつ音を表わす語。*俳諧・誹諧独吟集〔一六六六〕下「見しはさめぬる邯鄲(かんたん)の夢 とくとくと打(うち)つる脉やあがるらん」【発音】〈標ア〉[ト]〈1〉

とし、他の見出し語に「得得」と「疾く疾く」を記載する。更にまた『広辞苑』第六版にも「とくとく」の畳語表現は、

とく‐とく 水・しずくなど、液体のしたたり落ちるさま。野ざらし紀行「今も―と雫落ちける」。「酒を―とつぐ」

とく‐とく【得得】得意なさま。したり顔なさま。「―として語る」

とく‐とく【疾く疾く】はやくはやく。大いそぎで。今すぐに。源氏物語(浮舟)「なほ―参りなむ」

と三つの見出し語として記載され、芭蕉の『野ざらし紀行』が「水・しずくなど、液体のしたたり落ちるさま」として引用されているに過ぎない。この発句が誕生する機縁が上記周可の『吉野山獨案内(ひとりあんない)』の西行作歌にあったとは誰も気づかずじまいであろう。国語辞書の編纂過程に【語誌・語源】なる一文を設置する所以は語の源を知るためにも必要なのである。
 
《回文》【】 
 
 
2009年01月27日(火)晴れ。東京(駒沢)
入~(ニフシン)」
 太宰治の『人間失格』〔1948年雑誌「展望」に全三話連載小説として発表〕のなかに、「ほとんど入神の演技でした。そうして、自分のためには、何も、一つも、とくにならない力演なのです」とあって、「入神」なる語が用いられている。このことばの意味は、人の成す業なのだが、その技術が神わざに近いことをいう。「入~」の語は、近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』には、未収載の語である。
 現代の国語辞書小学館『日本国語大辞典』第二版には、

にゅう‐しん[ニフ:]【入神】〔名〕技術が非常に熟達し、人間わざとは思われない域に達すること。技術が神わざに近いこと。*集義和書〔一六七六頃〕九「いまだ窮理の功いたらずして、精義入神の実地なければなり」*恋慕ながし〔一八九八〕〈小栗風葉〉一「更に他流の間で幾多の修業を積んだ事とて、然ぞかし入神(ニフシン)の音色もとの楽(たのしみ)で」*李陵〔一九四三〕〈中島敦〉三「陵の祖父李広の射に於ける入神の技などを語る時」【発音】ニーシン〈標ア〉[0]〈京ア〉[0]

とあって記載する。『広辞苑』第六版でも、

にゅう(ニフ)‐しん【入神】技術が上達して霊妙の域に達すること。→にゅうしん‐の

‐ぎ【入神の技】霊妙な技術。

とその意味と、「入神の技」という表現を新たに記載する。

 

《回文》いけんのいけんでてんけいのんけい【異見の意見で天恵暢景】 
 
2009年01月26日(月)晴れ。東京(駒沢)
天惠(テンケイ)」
 花言葉「プラタナス・オリエンタリス(学名Platanus orientalis)」、和名「スズカケノキ」の意として「天恵」という意味を持つ。「花言葉」という発想で此の樹木名が登場し、「天恵」の語とした由来が知りたいところだが、現代の国語辞書小学館『日本国語大辞典』第二版には、

てん‐けい【天恵】〔名〕天のめぐみ。天恩。*動物小学〔一八八一〕〈松本駒次郎訳〉上・原文小引「縦令賤しき生類たりとも皆活機を具へて運営し各々其生を遂るの天恵に心を留めしむるの善きに如くものなし」*明暗〔一九一六〕〈夏目漱石〉一三〇「天恵(テンケイ)の如く彼女の前に露出された此時のお秀の背後に何が潜んでゐるのだらう」*自由学校〔一九五〇〕〈獅子文六〉その道に入る「神が、この無能力な男に、ノンキという天恵を、与えているのである」*曹植‐又贈丁儀王粲詩「皇佐揚天恵、四海無兵」【発音】テンケ〈標ア〉[0]〈京ア〉[0]

とあって詳しくはない。むしろ「すずかけ」を繙いた方が良いのかも知れない。

すずかけ‐の‐き【篠懸木・鈴懸木】〔名〕スズカケノキ科の落葉高木。アジア西部原産で、日本には明治末期に渡来し街路樹として栽植される。高さ三〇メートルに達する。樹皮は大きく斑紋状にはげ落ちる。葉は柄をもち、長さ幅とも一〇〜二〇センチメートルで掌状に三〜七中裂、裂片は幅より長さの方が長く、先はとがり、縁に不規則なあらい鋸歯(きよし)がある。花は淡黄緑色、単性で雌雄同株、多数集まって球形の花序となり、四〜五月に咲く。痩果の集まった緑色で球形の果序は径約二・五センチメートルで、長い柄があり、下垂する。学名はPlatanus orientalisアメリカスズカケノキや、これとスズカケノキとの雑種で街路樹に最も普通なカエデバスズカケノキなどを含めたスズカケノキ属(学名はPlatanus)の総称。*桐の花〔一九一三〕〈北原白秋〉雨のあとさき・街の晩秋「午前八時すずかけの木のかげはしる電車の霜もなつかしきかな」*食後の唄〔一九一九〕〈木下杢太郎〉街頭風景・五月の情緒「篠懸木(スズカケノキ)の若葉顫へる」【発音】〈標ア〉[キ]〈京ア〉[ノ]【図版】篠懸の木

とあって、この樹木名からも「花言葉」については触れていないのである。因みにこの「スズカケノキ」はアジア西部が原産で、ヨーロッパでは古くギリシャ時代から親しまれてきた。紀元前三八〇年頃、哲学者プラトンはアテネの北西郊外にアカデミアを創設し、哲学・数学・天文学その他の諸学の研究及び教育の場を設けた。これが近代のアカデミーそして大学の元祖であると云われている。此処にスズカケノキが植栽され、プラトンもスズカケノキの木蔭で弟子たちに講義したり、また瞑想に耽ったとも云われている。この「プラトン」から「プラタナス」に準えてこの樹木が渡来した明治末期頃には「天才」「天恵」の花言葉が生れたのだろうか。もう一つ、標記語「篠懸木」と「鈴懸木」であるが、修験者(しゆげんじや)が着る「篠懸衣」に付いている球状の飾りに似ているところから「篠懸木」と明治時代に命名されたのがはじまりであり、いつの間にか球状の果が「鈴なりにつく」という意味合いから「鈴懸木」と借字表記されるようになったのである。因みに花ごよみに拠れば一月二十六日、東洋の哲学者とも呼称される道元禪師降誕(高祖降誕会)の日に位置する。
《回文》ちもいばつてつばきもち【地も威張って椿餠】 
 
2009年01月25日(日)晴れ。東京(玉川〜駒沢)
椿餅(つばきもち)」
 「椿餅」の語は、近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』には、

{つばい‐もちひ(もちい)〔名〕【椿餠】又、つばいもち。つばきもち。椿の葉二枚にて包みたる餠。*源氏物語、三十四、上、若菜、上百三「つはいもちゐ、梨・柑子やうの物ども、さまざまに、箱の蓋どもに取りまぜつつあるを」*河海抄(四辻善成)「椿の葉を合はせ、餠の粉にあまづらをかけて包みたる物なり」*易林節用集(慶長)食服門「椿餠、ツバキモチ」〔三-417-4〕

と記載し、見出し語「つばい‐もちひ(もちい)」として収載する。この意味説明のなかで「つばいもち」「つばきもち」の語を引く。現代の国語辞書小学館『日本国語大辞典』第二版に、

つばい‐もち【椿餠】〔名〕「つばいもちい(椿餠)」に同じ。*藻塩草〔一五一三頃〕一九・食物「つはいもち 椿の葉を合て中にて飯のこに甘葛を入て、色々のうすゆうをきりてゆひたる物也」*随筆・安斎随筆〔一七八三頃〕一七「つはいもち〈略〉鞠場に用ふるものなり」【発音】〈標ア〉[バ] [イ]

つばい‐もちい[:もちひ]【椿餠】〔名〕餠米の粉に丁子(ちようじ)の粉を加え、甘葛(あまずら)の汁をかけて固め、椿の葉二枚で包んだもち。つばいもち。つばきもち。*宇津保〔九七〇〜九九九頃〕国譲上「大殿の御方より檜破子(ひわりご)、御酒(みき)、つばいもちゐなど奉り給へり」*源氏物語〔一〇〇一〜一四頃〕若菜上「簀の子に円座めして、わざとなく、つはいもちゐ、梨・柑子やうの物ども、さまざまに」【語誌】(1)日本で最初の餠菓子ともいわれ、その作り方は「つばいもち」の挙例「藻塩草‐一九・食物」などからうかがえる。平安時代には上流階級の饗供用にもてはやされていたようである。(2)特に、『源氏物語』若菜上で蹴鞠の後の殿上人が食べていたように、蹴鞠の節会にはつきものであった。時代は下るが「蹴鞠之目録九拾九ケ条‐一〇」(一六三一)には「鞠場へ可出物之事 あまのり、たたみ、つばゐもち、是は椿の葉につくりてのするもち也」とある。

つばき‐もち【椿餠】〔名〕@「つばいもちい(椿餠)」に同じ。*小右記‐寛弘二年〔一〇〇五〕三月二二日「椿餠、粽等送僧正房」*江家次第〔一一一一頃〕一・元日節会「其前立朱台盤五脚、弁備饗饌〈略〉椿餠一坏」A蒸した道明寺粉でこしあんを包み、二枚の椿の葉ではさんだ和菓子。《季・春》*俳諧・毛吹草〔一六三八〕五「葉に残る雪やすなはち椿餠〈守任〉」*狂歌・万載狂歌集〔一七八三〕一四「わきざしのつばきもちまで手をかけて生酔かすてらようかんにする」*随筆・一話一言〔一七七九〜一八二〇頃〕二六「蒸菓子類 〈略〉椿餠 十代弐匁五分」B椿の葉が病のため、化して丸く餠のように腫()れたもの。味が甘いので、小児が取って食べる。*類聚名物考〔一七八〇頃〕飲食部二・餠・造菓子「椿餠 椿の葉に木の病にて葉化して丸く餠の如く腫るる物あり是を椿餠と云ふ小児とりて喰ふ甚味甘し」【補注】(1)@については「つばいもち(椿餠)」の語誌参照。(2)Aのように砂糖や餡が入りほぼ現在の形になったのは江戸中期以降で、「古今名物御前菓子図式」(一七一八)上巻に道明寺粉に砂糖、肉桂を加えて蒸す製法が、下巻に「紅にて染め 内へ餡包み 椿の花形に致し椿の葉にて挟申候」と記されたあたりからであろう。【方言】椿の葉が丸くふくれる変化を起こしたもの。甘いので子供が取って食べる。《つばきもち》東京都御蔵島333《つばきのばけ〔椿化〕》東京都三宅島333【発音】〈標ア〉[キ]【辞書】易林・書言【表記】【椿餠】易林・書言

と見出し語「つばい‐もち」「つばい‐もちい」「つばき‐もち」に区分けし記載する。これを『広辞苑』第六版では、

つばい‐もちい(モチヒ)【椿餅】(ツバキモチイの音便)あまずらをかけ、ツバキの葉で包んだ餅。つばいもち。源氏物語(若菜上)「―・梨・柑子やうの物ども」→つばきもち

つばき‐もち【椿餅】@(しんこ)や道明寺粉(どうみようじこ)製の種で餡を包み、上下にツバキの葉をあしらった餅菓子。春 A「つばいもちい」に同じ。

とあって、古くは「つばきもちひ」と呼称したとし、「つばいもち」の見出し語は未記載にする。
 
《回文》ふくまめまめしくくしめまめまくふ【bワめまめしく串めまめま食ふ】 
 
2009年01月24日(土)曇り小雪舞う。東京(駒沢)
福壽草(フクジユサウ)」
 新年を迎え、その年一年の幸福を願う意味で「福」の字を巻頭にした縁起物尽くしが時記に列記されている。植物として「福寿草」が知られ、この花の異名として「【異名元日草・朔日(ついたち)草・歳旦華(さいたんげ)・報春花・歳菊・側金盞花(そくきんせんか)」が知られている。早稲田大学図書館藏其諺著『滑稽雑談』〔正徳三年(一七一三)刊〕第二册に、
此者、本名不詳。俗にふくつく草と云。此花立春に至て開く故に元日草とも呼り草の高さ数()寸ニ過ず。其葉胡蘿匐に似て其花ハ草山吹に似て黄色なり。山城の地に多し。鄙にハ植てもおほく活せず。寒月に北塞りたる所に糠を覆て置。夏ハ又陰所にうつし、九月に葉生ず。暖なる地に置べし。温を忌糞を嫌ふ。初春盛花の時ハ只盆器に移置て席上の賞とす。洛北矢瀬大原なんどより貴家に献ずよし也。/良安按福壽草洛東山渓陰處有之冬枯春生於宿根肥莖高二三寸葉似開菊花人以為珍植盆称元日草春夏長尺餘生枝條花綻開不堪見五雜俎曰有歳蘭其花同蘭而葉稍異其開必以歳首故名ツク此亦元日草一類二種乎○大和草福寿草花ハ朝に開夕にしほミ又明朝開く。又白花ありみ名補。〔51ウH〕
と記載されていて、本名は判らないが、世俗では「ふくつく草」と呼称している。これ「福が附く」と懸けた言い回しである。
 現代の国語辞書小学館『日本国語大辞典』第二版に、
ふくじゅ‐そう[:サウ]【福寿草】〔名〕キンポウゲ科の多年草。各地の山に生え正月の祝花用として栽培される。高さ五〜三〇センチメートル。葉は三回羽状葉で、裂片は羽状に深裂し、この小裂片はさらに裂け、終裂片は線状披針形。基部の葉は膜質の鞘に変化している。早春、新葉とともに径三〜四センチメールの花を茎頂につける。花弁は光沢のある黄色で二〇〜三〇個ある。漢名、側盞花。がんじつそう。ことぶきぐさ。ついたちそう。学名はAdonis amurensis 《・新年》*俳諧・毛吹草〔一六三八〕序「先春たてば福寿草(ふくじyuそう)の花、黄梅、白梅色香もあらたまりつつ」*花譜〔一六九八〕中・正月「福寿草 又ふくづく草もいふ。〈略〉春の初花をひらく。故に元日草といふ。盆にうへて、新春席上清賞とす」*俳諧・蕪村遺稿〔一八〇一〕「朝日さす弓師が店や福寿草」*日植物名彙〔一八八四〕〈松村任三〉「フクジュサウ 側金盞花」【発音】フクジー〈標ア〉[0]〈京ア〉[0]【辞書】ヘボン・言海
と記載があって、近代国語辞書から所載が見える語である。
 
《回文》 
 
2009年01月23日(金)小雨後晴れ。東京(駒沢)
合格祈願(ゴウカクキガン)」
 受験シーズンに欠かせない神社と云えば「北野神社」、學問の神様菅原道真を祀るこで受験生が頻りなしに訪れる。この頃巷では「合格祈願」に併せ、多様な商品がお目見する。「合格祈願弁当=中身はかつ(カツ)・とおる(蓮根)」「合格祈願櫻花形の滑り止靴下」「五角エンピツ」と神社の繪馬やお守り札以上に珍重されるようだ。
 だが、この「合格祈願」なる語、近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』は無論こと、現代を代表する国語辞書小学館『日本国語大辞典』第二版・『広辞苑』第六版に未収載の標記語なのである。また、関連する語では「受験家族」がこの時季のことば表として頻度が高くなる。
 
《回文》 
 
2009年01月22日(木)小雨。東京(駒沢)
立合(たちあい)」
 近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、

たち‐あはせ(あわせ)〔名〕【立合】相撲に云ふ語。行司の古稱。たたあはせ。ぎゃうじ(行司)の條を見よ。〔三-239-3〕

たち‐あひ(あい)〔名〕【立合】(一)たちあふこと。出合ふこと。國性爺合戰(正徳、近松作)五「立ち合の軍する體にて、筒を捨て迯げ退かば」(二)江戸幕府の、評定所に會合する日の稱。被仰出留、一、毎月寄合日「立合、六日、十四日、廿五日」(三)取引所にて、仲買人の參會して、賣買取引を始むること。〔三-239-3〕

とあって、標記字「立合」のみを記載する。現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版にては、

たち‐あい[:あひ]【立合・立会】〔名〕@たちあうこと。双方から出あうこと。出あって勝負を争うこと。*五輪書〔一六四五頃〕水の巻「面をさすと云は、敵太刀相に成て、敵の太刀の間、我太刀の間に、敵の顔を我太刀先にてつく心に常に思ふ所肝要也」*浄瑠璃・国性爺合戦〔一七一五〕五「立合の軍するていにて、筒をすてて逃げのかば」*読本・昔話稲妻表紙〔一八〇六〕五・一九「立合(タチアヒ)の仇打をおんゆるしあるやうにはからふべし」*内地雑居未来之夢〔一八八六〕〈坪内逍遙〉八「負惜みなる撃剣家が、きたなき立合(タチアヒ)を試むるが如くに」A事実を見とどけるため、その場に同席すること。たちあうこと。また、その人。立会人。*霊雲院文書‐元亀二年〔一五七一〕八月・霊雲院納所式之事「評定算用事、此三人并連判之衆立合に可被遂之事」*御触書宝暦集成‐延享二年〔一七四五〕二月「寺社奉行 御勘定奉行え〈略〉向後於牢屋吟味者有之節、拷問にかぎらす、口問等之節も、立合之者差越、吟味之様子申口、得と承届候様に可被致候」*外科室〔一八九五〕〈泉鏡花〉上「なにがし侯と、なにがし伯と、皆立合(タチアヒ)の親属なり」*こゝろ〔一九一四〕〈夏目漱石〉中・一三「二人の医者は()ち合(アヒ)の上」B江戸幕府評定所の定式寄合の一種。寺社・町・勘定の三奉行のほか、目付(めつけ)が列座し、裁判および評議を行なうもの。六日、一四日、二五日といったように、月三回の会合日が決められていた。式日(しきじつ)に対して、御用日ともいう。*御当家令条‐定・延宝九年〔一六八一〕正月一二日「一、寄合之式日、毎月四日十二日廿二日、諸奉行之立合、六日十四日廿五日」*禁令考‐第一・巻一・享保四年〔一七一九〕「評定所古来之事 〈略〉寛文之頃より式日立合と分れ〈略〉立合六日十四日廿五日、内寄合九日十八日廿七日、三奉行宅にて訴訟承候」*御触書宝暦集成‐宝暦八年〔一七五八〕九月「三奉行え〈略〉一、式日立会、其外臨時寄合之外、御詮議寄合之節も出席候儀も可有之候」C人の立ち交じること。人の多く立つこと。また、そのところやその人。*浄瑠璃・曾我五人兄弟〔一六九九頃〕三「され共爰はけいせい町と申て諸万人の立合(タチアヒ)」*浄瑠璃・傾城反魂香〔一七〇八頃〕中「くるわは諸国の立合〈略〉是程のけんくはは、おちゃこのこの茶の子ぞや」D相撲で、両力士の呼吸があい、または仕切制限時間がいっぱいになって両者が立ち上がった瞬間をいう。*評判記・すまふ評林〔一七五六〕「今の風は第一不礼なり。立合甚だ見ぐるしく、男道の晴業には似合ぬ事なり」*相撲隠雲解〔一七九三〕相撲之批判「延享の頃、八角、谷風、立合の時、初て待と云しことを聞」*随筆・甲子夜話〔一八二一〜四一〕一一「行司団扇を揚ると即立合と云ふ」E能などで、芸の優劣を競うための共演。数人が同じ曲を同時に舞う場合(翁の立合など)と、同じ場で交互に別曲を一番ずつ演ずる形とがあった。*風姿花伝〔一四〇〇〜〇二頃〕三「されば、手がらのせいれひ、たちあひに見ゆべし」*申楽談儀〔一四三〇〕定まれる事「立会は、幾人もあれ、一手成べし」*わらんべ草〔一六六〇〕三「昔はたうのみねの、はつかうの能に、四座共に立合なり」F江戸時代、大坂堂島での米相場取引のこと。*三貨図彙遺考〔一八一五〕一「七月十九日より九月十一日迄、帳合相場立会無之、正米ばかりの売買なり」*堂島旧記‐文政四年〔一八二一〕三月七日「帳合より附、四拾七匁より三分と、立会追々端煎、五拾一匁迄引立候」*草間伊助筆記‐五〔一八一三〕(大阪市史五)「日々年行事より之公儀差上之相庭も、右之段にて立合無之」G取引所で、取引員または会員が一定時間に集まって行なう売買取引。*時事新報‐明治二二年〔一八八九〕一二月一四日「其第二節は十時前に立会を始め」*金〔一九二六〕〈宮嶋資夫〉一「立会(タチアヒ)前の取引所は力の満ちた活気をだんだんに呈して来た」H芸題をたてて浄瑠璃会をやること。同一狂言を筋を通して続けて演ずること。「いりあい(入会)」に同じ。*明治十二年一月至二月大審院民事判決録〔一八七九〕二〇号・立会入会拒障一件「字小山、字若林山の儀は、往古より原被告両村の立会山にして〈略〉原告村に於て、米四斗八升つつ年々被告村方へ差出すべく、然る上は、小山・若林山共立会に紛れ無之旨の和議相整ひ」【方言】交際。つきあい。《たちあい》島根県鹿足郡・益田市725共同作業。組勤め。《たちあい》島根県鹿足郡725【発音】〈標ア〉[0]〈京ア〉(0)【辞書】言海【表記】【立合】言海

とあって、『五輪書』の「太刀相」は将に刀と刀を併せた果たし合いに相応しい標記字を用いている。その他『大言海』の「立合」の他に「立会」の標記字を記載する。この標記字の区別は無いのか、標記字「立会」としてBEFGHに見えている。このうち、BとFに混用が見られるということである。なかでも、Dの相撲の用語「たちあい」は標記字「立合」が正しいことを伝えている。これも今は「立合」を「たちあい」と訓んでいるが、『大言海』の「たちあはせ」乃至「たたあはせ」が正式な訓み方なのであろう。そういえば、ラジオ番組で「うわてなげ【上手投げ】」を「かみてなげ」と読んで慌てて訂正していた某アナウンサーがいた。
 
《回文》こうらくのくにづくりもりくつにくのくらうこ〈後楽の国創りも理屈に九の苦労後〉
 
2009年01月21日(水)曇のち雨。東京(駒沢)
先憂後楽(センユウコウラク)」
 近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、この四字熟語の句は未収載にある。現代の国語辞書である『日本国語大辞典』第二版に、

せんゆう‐こうらく[センイウ:]【先憂後楽】〔連語〕(北宋の忠臣范仲淹の「岳陽楼記」の「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」によることば)憂うることは人に先だって憂い、楽しむことは人に遅れて楽しむ。忠臣の国を思う情。*鉛筆ぐらし〔一九五一〕〈扇谷正造〉デスク商売往来「日常生活これ苦楽を共にするどころか、大体において『先憂後楽』の方針で行かないと、部員は仕事はいっしょにやってくれるものではない」*新西洋事情〔一九七五〕〈深田祐介〉鎮魂・モスクワ郊外六十キロ「ことあるごとに『君、総務課長はセンユーコーラク(先憂後楽)よ』たえずそれを口にし」*宋史‐范仲淹伝論「然先憂後楽之志、海内固已信其有弘毅之器、足上レ斯責」【発音】センユーコーラク〈標ア〉[0]

とあって、新たに記載された語であることも判る。次に『広辞苑』第六版に、

せんゆう(イウ)‐こうらく【先憂後楽】[范仲淹、岳陽楼記「天下の憂えに先だちて憂え、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」]天下の安危について真っ先に憂え、楽しむのは人より後にすること。政治家の心構えを説いた語

とある。『日国』の「忠臣」と『広辞苑』の「政治家」とのギャップをこの「先憂後楽」のことばが担っているとは……。『日国』の用例自体も北宋の忠臣范仲淹『岳陽楼記』の「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」であると云うに、昭和時代の戦後以降のものばかりと云うのも妙なものである。現代人にとって「天下が憂える前にその憂いの問題を解決する。天下の皆が大いに楽しみだしてから後に自らは楽しもう」という精神を為政者たらんとする人物は日々これを実行するべきだという教誡の句でもある。下位語の「後楽」の語は、東京(元水戸侯)と岡山(元池田侯)に位置する「後楽園」の名の由来句にありである。
 
《回文》まだすぐとさしいういうこのこういういしさとくすだま
    「まだ」「すぐ」と指し云う、言う此の子初々しさと藥玉
 
 
2009年01月21日(水)曇のち雨。東京(駒沢)
(たま)」
 近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、

たま〔名〕【】〔妙圓(たへまろ)の略かと云ふ〕(一)玉(ぎよく)、瑪瑙、など、石類の美しきものの總名。多くは圓く彫啄して飾とするに云ふ。*禮記、學記篇「玉不啄不器」(二){眞珠。*萬葉集、一十一「吾が欲()りし、野島(ぬじま)は見せつ、底ふかき、阿胡根の浦の、珠ぞ拾はぬ」(三){轉じて、すべて物事を美()めて云ふ語。*源氏物語、一、桐壺三 「玉のをのこ御子さへ生れたまひぬ」「玉の顔(かんばせ)」「玉の臺(うてな)」玉垣」玉裳」玉床」(四)又、轉じて、すべて圓き體を成せるものの總稱。珠。丸。(五)鉛鐵製の圓きもの。鉄砲の中に込めて放つ。弾丸。銃丸。(六)☆☆たくらみ、又は計畫のたね。*春花五大力(寛政、並木五瓶)「なるほど貴殿の御言葉次第で、如何様ともなる馬鹿殿の千太郎様、玉に遣ふは、あっぱれ御思案」「かへだま」(七)☆☆たまご。(八)蒟蒻(コンニヤク)を云ふ女房詞。*貞丈雜記、六、飲食部、頭書「たまとはこんにゃくの事、云云、享保六年九月二十七日、法皇、林丘寺へ御幸の記に見えたり」(九)眼鏡(めがね)のたま。レンズ。萬載狂歌集、秋「月影を、うつす眼鏡の、たま免、額の波に、かけてこそ見れ」〔三-270-1〕

と記載する。現代の国語辞書である『日本国語大辞典』第二版に、

たま【玉・珠・球】〔名〕(「たま(魂)」と同語源)@球形あるいはそれに近い形の美しくて小さい石などで、装飾品となるものを総称していう。古くは、呪術的な要素を伴うものもあり、鉱物に限らず、動植物製のものをも広く含めていう。*仏足石歌〔七五三頃〕「善き人の 正目(まさめ)に見けむ 御足跡(みあと)すらを 我はえ見ずて 石(いは)に彫()りつく 多麻(タマ)に彫りつく」*万葉〔八C後〕一四・三四〇〇「信濃(しなぬ)なる千曲(ちぐま)の川の小石(さざれし)も君し踏みてば多麻(タマ)と拾はむ〈東歌・信濃〉」*竹取〔九C末〜一〇C初〕「大伴の大納言にはたつのくびに五色にひかるたまあり。それをとりて給へ」*大慈恩寺三蔵法師伝院政期点〔一〇八〇〜一一一〇頃〕一〇「(けう)たること(タマ)の澄海に映せるが若し」*名語記〔一二七五〕四「円形にて光明あるをたまとなづく如何。答、たまは玉也。珠も同じ」*くれの廿八日〔一八九八〕〈内田魯庵〉四「先日の指環だって直ぐ篏玉(タマ)が脱けっちまったワ」A特に真珠をさしていう。まだま。しらたま。*日本書紀〔七二〇〕武烈即位前・歌謡「琴頭(ことがみ)に 来居る影媛(タマ)ならば 吾が欲る(タマ)の 鰒白珠(あはびしらたま)」*万葉集〔八C後〕一・一二「吾が欲りし野嶋は見せつ底深き阿胡根(あごね)の浦の(たま)そ拾(ひり)はぬ〈中皇命〉」*万葉集〔八C後〕一九・四二二〇「海神(わたつみ)の 神の命の 御櫛笥(みくしげ)に 貯(たくは)ひ置きて 斎(いつ)くとふ多麻(タマ)にまさりて 思へりし あが子にはあれど〈大伴坂上郎女〉」Bその形が@に似ているものをいう。イ、水の玉の意で、露、水滴、水泡、または涙などをさしていう。*古今集〔九〇五〜九一四〕物名・四二四「浪のうつせみればたまぞみだれけるひろはば袖にはかなからむや〈在原滋春〉」*山家集〔一二C後〕上「たまかけし花の姿もおとろへて霜を戴(いただ)く女郎花(をみなへし)かな」*浮世草子・本朝二十不孝〔一六八六〕四・一「扨も扨も嬉しやと 袖に(タマ)をながしぬ」*浮世草子・色里三所世帯〔一六八八〕上・三「白川の流れにしの岸根分立て、油ぎり(タマ)に光うつりてしかも匂ひふかし」*雑俳・柳多留‐三七〔一八〇七〕「湯でひった屁の玉あごの下へうき」ロ、(「弾・弾丸」とも書く)(初期のものは丸くなっていたところから)弾丸。*信長記〔一六二二〕三・浅井備前の守心替付いなば一揆退治の事「是は杉谷善住坊といひし鉄炮の上手、佐々木承禎にたのまれて打たる也。二つ(タマ)をもって纔十間ばかりにてうちはづし申事も」*雑兵物語〔一六八三頃〕上「がつかへたらば、爰に太槊杖を杖の中へつつばめて来た程に、是を以ぶち込ば、あんたる黒がねでもつっこむべい」*近世紀聞〔一八七五〜八一〕〈染崎延房〉六・一「松の枝の手頃なりしを伐取りつつ左手に採りてさし翳し降来る砲玉(タマ)を除(よけ)ながら」*東西南北〔一八九六〕〈与謝野鉄幹〉黒門「歴々弾丸(タマ)の痕(あと)見えて、むかしの苦戦しのばるる」?そろばんの五珠と一珠。*咄本・無事志有意〔一七九八〕十露盤「二一天作の五とは、上の玉をおろして、それ此十といふ玉を、上の玉を五玉といふは、十を二ツにわると五ツになるは」*浮雲〔一八八七〜八九〕〈二葉亭四迷〉一・二「算盤を弾いてゐた年配五十前後の老人が、不図手を止(とど)めて(タマ)へ指ざしをしながら」ハ、電球。*桑の実〔一九一三〕〈鈴木三重吉〉一五「おくみは二階の十六燭の電球(タマ)をはづして来て」*大道無門〔一九二六〕〈里見〉白緑紅・三「電燈を吊ってあまった部分で、器用にくるりと電球(タマ)を包むと」ニ、レンズ。特にめがねのレンズ、カメラのレンズをいう。*狂歌・万載狂歌集〔一七八三〕五「月かけをうつすめがねの玉うさぎひたゐの波にかけてこそみれ」*写真鏡図説〔一八六七〜六八〕〈柳河春三訳〉初「人物の影、恰も鏡(タマ)の尖枢にあたる様よし」*今年竹〔一九一九〜二七〕〈里見〉焼土・八「褐色の硝子(タマ)を入れたロイド眼鏡が」ホ、遊戯やスポーツに用いる球形のもの。ボール。または、その動き。*小学読本〔一八七三〕〈田中義廉〉一「私は棒を以て、球を打つを見たり。〈略〉柔かなる球なるゆゑに、人に当るとも、傷けることなし」ヘ、玉突きに用いる球。転じて、玉突きのゲームをもいう。撞球(どうきゆう)。ビリヤード。*野分〔一九〇七〕〈夏目漱石〉二「何で今迄愚図愚図して居たんだらう。下で(タマ)でも突いて居たのか知らん」*玉突屋〔一九〇八〕〈正宗白鳥〉「君ゃそんな事をちょいちょい考へ出すから、酒もも上達しないんだよ」ト、男子の生殖器。「きんたま」の略。*全九集〔一五六六頃〕五「橘核円、四種の癩病を治し、へのこはれやぶれ黄水いづ、もかたくはれ痛み、臍にひびきわづらうを治す」*雑俳・柳多留‐六三〔一八一三〕「本能寺安田はに疵を請」リ、一般に、玉状にまとめたものを一括していう。「うどんの玉」「毛糸の玉」など。*怪談牡丹燈籠〔一八八四〕〈三遊亭円朝〉一五「半紙を十帖ばかりに、煙艸を二(たま)に、草鞋の良(よい)のを取て参れ」ヌ、紋所の名。@の形にかたどったもの。玉、三つ割り玉、火焔の玉、曲玉など。C@のように美しいもの、貴重なものの意。→たまの。ル、美しい女性。また、女性の美貌。*談義本・当世穴噺〔一七七一〕三・開帳場の夜話「素人の娘でも(タマ)さへよければ高賃を出してやとい」*洒落本・客者評判記〔一七八〇〕実悪之部「是はどふでござる二やくおか場所のままになんのこったといふ男立の役、美き婦女(タマ)をぬすみ親分に預け」*人情本・糸柳〔一八四一か〕二・一一回「無疵な美女(タマ)が二人とは、近頃稀な大仕合せ」ヲ、転じて、遊女、芸者などのこと。*浄瑠璃・伽羅先代萩〔一七八五〕一「さる方から高尾を身請、言て来ても肝心のが知れぬで方々へ尋歩此才助」*雑俳・柳多留拾遺〔一八〇一〕巻一四下「ぜげんの子女をとおぼえてゐ」*歌舞伎・四天王楓江戸粧〔一八〇四〕五立「まだしも心中されないが仕合せ。さへ取返しゃア、これから直に戻り橋へ行って、商売がなるといふもの」ワ、すぐれた人、気のきいた者。*滑稽本・浮世風呂〔一八〇九〜一三〕二・上「その外に川魚屋もまだまあ多(やつ)とあれどナ。(タマ)といふたら的等(てきら)じゃ」*当世書生気質〔一八八五〜八六〕〈坪内逍遙〉六「本書中の人物に、(タマ)すくなく瓦多きは」カ、大事な人や物。話題や事件の焦点となっている人物や物。そのもの。そいつ。*梁塵秘抄〔一一七九頃〕二・法文歌「三身仏性たまはあれど、生死(さうじ)の塵にぞ汚れたる」*談義本・根無草〔一七六三〜六九〕後・三「是迄心を尽せども、恋の叶はぬ業腹まぎれ、朕闇雲に亡命(かけおち)して、此所に至し心は、堺町をぶっこはし、(タマ)をこっちへ引っさらはんと、心はやたけにはやれ共」*歌舞伎・与話情浮名横櫛(切られ与三)〔一八五三〕九幕「大金の品ものでござりますよ。それをばを引あげて、それなりけりとはおかしなもの」D(Cから転じて)一般に人や物をそれとさしていう。そういう人物、その程度の人物の意で用いる。軽くあざけっていう場合が多い。*西洋道中膝栗毛〔一八七〇〜七六〕〈仮名垣魯文〉六・上「そうサいびきの音を邪魔がられてときどきぬるい茶を汲んでこられる(タマ)だらう」*今戸心中〔一八九六〕〈広津柳浪〉八「私なんざア流連(ゐつづけ)を為すで非()いんだから」ヨ、策略などの手段に用いるもの。人、物、金銭などについていう。また、単に現物、あるいは資金としての現金などをさしていう。→玉が上がる・玉に掛ける・玉に使う。*歌舞伎・彩入御伽草〔一八〇八〕皿屋敷の場「ぬかすな、女郎め。菊池が娘小坂部姫、三平こそは彌陀次郎。鉄山どのを玉にして、この縁先にてどれあふ様子」E蒟蒻(こんにやく)をいう女房詞。*随筆・貞丈雑記〔一七八四頃〕六(頭書)「たまとはこんにゃくの事、〈略〉享保六年九月二十七日、法皇林丘寺宮へ御幸の記に見えたり」F(「親玉」の略)親玉。第一のもの。第一人者。*雑俳・五色墨〔一八〇九〕「思ひの外・我恋うとい玉仲居」*浪花聞書〔一八一九頃〕「玉(タマ) 都て第一といふことを玉といふ」*新撰大阪詞大全〔一八四一〕「たまとは おかしらのこと」G「たまご(卵)」の略。「掻(か)きたま」H魚をすくい捕る小形の網、網(たも)のこと。すくいだま。たもあみ。*俳諧・本朝文選〔一七〇六〕二・賦類・湖水賦〈李由〉「汐ならぬ海士のいとなみもをかしけれ。大網、巻網、四手(よつで)、跡掛、手丸(タマ)、唐網」*小学読本〔一八七三〕〈田中義廉〉二「それは、の類にて、たまといふものなり。男児は、此を以て、魚を捕へんとす」*自然と人生〔一九〇〇〕〈徳富蘆花〉湘南雑筆・鰺釣り「いや此奴ア大きい。ちょ、ちょ、一寸、其(その)た、(タマ)を」I綱(つな)をいう。*談義本・虚実馬鹿語〔一七七一〕五・泥坊殿「綱(つな)の事を玉といひ」J拳(けん)の名で、「八」のこと。*歌舞伎・色競かしくの紅翅〔一八〇八〕四「『いっかう』『ちゑ』『さんな』『玉で』『おはね』『コリャ叶はぬ、サアサア一盃』」K(「玉門(ぎよくもん)」の略とも、「船玉(ふなだま)」の略ともいう)女性の陰部のこと。*雑俳・柳多留‐九七〔一八二八〕「緋の袴召ぬと玉がすき徹り」L「玉落ち」での、まるめた紙片のこと。江戸時代、蔵宿で地行米を下げ渡す際、受取人の姓名を書いた紙片をまるめて箱に入れ、それを振ってこぼれた紙玉の名前の人から順に渡した。転じて、地行米をいう。*洒落本・傾城買四十八手〔一七九〇〕やすひ手「『おめへいつかぢう着てきた八丈を、わっちが此むくととっけへてくんなんしな。みせぎにしんさアアナ』『とうにまげてあらア』『フウそれでも玉とやらがおちなんしたら、だされなんすだらうね』」*雑俳・柳多留‐二三〔一八〇五〕「玉にきず蔵宿を出て猪牙に乗り」L下女の通称。下女の一般的な名「お玉」から江戸時代、京都地方を中心に用いられた語。*雑俳・軽口頓作〔一七〇九〕「あんのじゃう・旦那の御作玉が腹」M盗人仲間の隠語。金・銀・宝石・時計などをいう。〔隠語輯覧{一九一五}〕Nにぎり飯をいう。〔隠語輯覧{一九一五}〕目ぼしをつけられた人をいう。〔特殊語百科辞典{一九三一}〕〔語素〕@名詞の上に付けて接頭語的に用いる。美しいもの、すぐれているものをほめていう。特に上代、神事や高貴な物事についてのほめことばとして用いる。「玉の」の形で用いることも多い。「玉垣」「玉葛(たまかずら)」「玉串(たまぐし)」「玉襷(たまだすき)」「玉坏(たまつき)」「玉裳(たまも)」など。??のようにきれいなもの、あるいはそれをちりばめたものの意を添える。「玉枝(たまえ)」「玉衣(たまぎぬ)」「玉櫛笥(たまくしげ)」「玉簾(たますだれ)」「玉手(たまて)」「玉箒(たまははき)」「玉鉾(たまぼこ)」など。「玉の」の形で用いることも多い。名詞と熟合して球形のものである意を添える。「玉石」「玉砂利」「玉ねぎ」「十円玉」など。評価を表わすことばと熟合して、そういう人物である意を添える。「悪玉」「上玉」「表六玉」など。【補注】(1)文字は、@の意味では漢字欄にあげたものの他に「珪・瑤・瓊・璧」などが当てられる。以下の用法では「玉」が共通して用いられ、また、「玉」の字音「ぎょく」が並行して用いられるものもある。(2)@?の用法は、主として上代に限られ、広くは字音「ぎょく」が用いられる。【語源説】(1)タヘマロ(妙円)の略か〔大言海・音幻論=幸田露伴〕。(2)タカラマルキの略〔日本釈名〕。(3)価値がタカ(高)く、形が円(まる)いところから〔仙覚抄〕。(4)カタマルの略という〔百草露〕。(5)テラメク(光照)の反タムの転〔名語記〕。(6)タタキマル(琢円)の義〔名言通〕。(7)結びまるめた間の意で、タマ(立間)の義〔紫門和語類集〕。(8)タは発語、マはマル(円)の義〔国語の語根とその分類=大島正健〕。(9)テルマル(光丸)の義〔言元梯〕。(10)アマ(天)の転〔和語私臆鈔〕。(11)イタクマ(痛真)の義で、タマ(霊・魂)と同義〔日本語原学=林甕臣〕。(12)タマ(霊魂)の入るべきものであるところから〔万葉集に現れた古代信仰=折口信夫〕。

とあって、意味分類だけでも詳細極まる記載となっている。次に『広辞苑』第六版に、

たま【玉・珠・球】@美しい宝石類。多くは彫琢(ちようたく)して装飾とするもの。万葉集(3)「夜光る―と言ふとも」。「掌中の―」A真珠。しらたま。今昔物語集(9)「母のかざりの箱の中を見るに、大きなる―あり」B美しいもの、大切なもの、またはほめていう意を表す語。源氏物語(桐壺)「世になく清らなる―のをのこ御子」。「―の声」「―垣」Cまるいもの。球形のもの。「飴―」「―の汗」「うどんの―」まり。ボール。「―ひろい」(「弾」とも書く)銃砲の弾丸。「―に当たる」電球。「―が切れる」卵。露・涙などの一しずく。そろばんの、動かす部分。レンズ。「眼鏡の―」きんたま。D手段に使用するもの。「いい―にされた」E木を丸太のまま幾つかに切ったその一切れのこと。最も根に近いものは元玉、次を二番玉という。F美しい女。転じて、芸妓・娼妓など客商売の女の称。「上―」G人品・器量の見地から人をあざけっていう語。「あいつもいい―だ」一般には「玉」と書き、C には、ふつう「球」を使う。@ACでは「珠」も用いる。→玉散る→玉とあざむく→玉となって砕くとも瓦となって全からじ→玉なす→玉に瑕→玉琢かざれば器を成さず→玉磨かざれば光なし→玉を懐いて罪あり→玉を転がす─しゅ【珠】しんじゅ。たま。

とあって、意味の分類が詳細な語の一つである。ここで気づくことに『広辞苑』のCにアからクという下位分類がなされ、ここに『大言海』の(7)(9)が集約されていること。(8)の「蒟蒻玉」も茲に置くと見るのだろうか。「女房詞(にようぼうことば)」は、現在のことばとしては、化石語・死語として見たのかと妙趣な編纂者は思うところでもある。また、漫画「サザエさん」に登場する飼い猫の名前も「タマ」であった。
 
[ことばの実際]

 

回文うたうたうときよきはるははるはきよきとうたうたう歌唄う時良き春は春は 清きと哥詠う
 
2009年01月20日(火)曇天。東京(駒沢)
甘露梅(カンロバイ)」
 近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、

かんろ-ばい〔名〕【甘露梅】青梅の實を、紫蘇の葉に包みて、砂糖漬にしたるもの。新吉原の引手茶屋にて、夏の中に製し、年始の贈物としたるもの、名ありき。*文化の川柳「甘露梅、女藝者の、加役なり」(手透の女藝者、手傳ひて製せしなり)〔二-720-2〕

とある。現代の国語辞書である『日本国語大辞典』第二版に、

かんろ‐ばい【甘露梅】〔名〕梅の実を紫蘇の葉で包み、砂糖漬にしたもの。江戸新吉原の名物。梅の実を材料とした菓子で同名のものは、山形県、神奈川県などにもある。かんろう。かんろうばい。*随筆・吉原大全〔一七六八〕四「甘露梅は松屋庄兵衛手製しはじむ」*洒落本・郭中名物論〔一七八〇〕「かんろ梅もっとも古風なれども、これは吉原第一の名物。ちそに巻、砂糖につけし思ひ付け、昔の人のおもひ付けならん」*雑俳・柳多留‐二〇〔一七八五〕「やきながら女房のたべるかんろ梅」*料理早指南〔一八〇一〜〇四〕四「雑の名目の部〈略〉甘露梅(カンロバイ) 青小梅塩につけおき、付たる時出して、打わり、たねをとりすて、そのあとへ朝くら山椒或は粒こせうなどを入、馴たる梅を合せて紫蘇の葉にてつつみ、さとうみづに酒をくわへて付るなり」【方言】植物、こけもも(苔桃)。《かんろおばい》とも。長野県北佐久郡485【発音】〈標ア〉[ロ]【辞書】ヘボン・言海【表記】【甘露梅】ヘボン・言海【図版】甘露梅〈守貞漫稿〉

と記載する。ここで明らかのように江戸新吉原の名物として、近代以降の辞書群に収載された食品の名である。因みに、『広辞苑』第六版も収載する。

[ことばの実際]
〈参考HP〉吉原名物の【甘露梅】について
《回文》なのなはきじなおんみすやいけそそけいやすみんおなじはなのな名の名は素地名御観ずや活けそ素馨ヤスミン同じ花の名
 
2009年01月19日(月)晴れ。東京(駒沢)
素馨(ソケイ)」
 近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』にはこの「素馨(ソケイ)」なる語はまだ収載されていない。現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

そ‐けい【素馨】〔名〕モクセイ科の常緑低木。インド原産で、観賞用に栽植される。高さ約一メートル。全体に細毛を生じる。茎は直立またはややつる性。葉は対生し、羽状複葉で五〜九個の小葉から成る。小葉は卵状楕円形で先はとがる。夏、枝先に白色の花を数個ずつ集めてつけ、夜間に開く。花冠の基部は細い筒状で、先は四裂して平開し、径約二センチメートル。花は強い芳香があり香油をとる。漢名、素馨、耶悉茗、野悉蜜。つるまり。ジャスミン。学名はJasminum officinale 《季・夏》*薬品手引草〔一七七八〕「素馨(ソケイ) 茉莉(まつり)也」*日本植物名彙〔一八八四〕〈松村任三〉「ソケイ 素馨」*青年と死と〔一九一四〕〈芥川龍之介〉「お前の髪は、素馨のにほひがするぢゃないか」*竹沢先生と云ふ人〔一九二四〜二五〕〈長与善郎〉竹沢先生の散歩・一「東京から持って来たと云ふ盆栽の素馨が」【発音】ソケ〈標ア〉[ソ]〈京ア〉[0]

とあって、作家としては芥川龍之介がいの一番に引用して記載する。他に「ヤスミン」「ヤスメイン」としても知られる。

ヤスミン〔名〕({オランダ}jasmijn)《ヤスメイン》「ジャスミン」に同じ。*植学啓原〔一八八三〕二「単弁端正花〈略〉素馨(ヤスミン)、常春藤之類、皿花也」*植学啓原〔一八三三〕三「精油 香精〈略〉如耶?若(ヤスメイン)、建蘭花(らん)

とあって、用例の典拠とする『植学啓原』には「素馨」と表記し、振り仮名「ヤスミン」とする。江戸時代末頃日本渡来した植物花と見てよかろう。
[ことばの実際]

 

回文うよしちしてしちしよう紆余死地して七生〉 
 
2009年01月18日(日)晴れ後曇り。東京(駒沢〜新宿)
七生(シチシヤウ)」
 『太平記』巻十六「正成兄弟討死事」に、

から/\とうちわらふて「七生(しやう)までただおなじ人間(にんげん)にうまれて、朝敵を滅(ほろぼ)ぼさばやとこそ存じ候へ」と申しければ、正成、よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれども、我もかやうに思ふなり。いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん」と契りて、兄弟共に刺し違へて、同じ枕に臥しにけり。

とあって、死を直前にした楠正成が最後の願いを弟正季に問うたとき、その応答の冒頭に「七生」なる語が見えている。この「七生」の語だが、意味はこの人間界に人として七度に亘って誕生するということであるが、古辞書類には全く未収載の語である。人の活動寿命を四十年として見たとき、七度の誕生ということは二百八十年にも及ぶことになるのである。現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

しち‐しょう[:シャウ]【七生】〔名〕(「しょう」は「生」の呉音)@仏語。人界および天界に七度生まれ変わること。預流果(よるか)の聖者は七生を限って、以後の生はないとする。転じて、未来永遠。七代。*百座法談聞書抄〔一一一〇〕三月五日「我かさいのあさくして此人の七生の先の事をしらさりける事をはちて」*太平記〔一四C後〕三三・新田左兵衛佐義興自害事「日本一の不道人共に、忻(たばか)られつる事よ。七生まで汝等が為に、恨を可報者を」*曾我物語〔南北朝頃〕七・三井寺大師の事「暇をこひても、何かせん。七しゃうまで不孝ぞ」*風流仏〔一八八九〕〈幸田露伴〉五・中「やさしき御言葉は骨に鏤(きざ)んで七生忘れませぬ」*倶舎論‐二四「名為預流。生極七返。七返言顕七往返生。是人天中各七生義」A「しちしょう(七生)までの勘当」の略。*黄表紙・孔子縞于時藍染〔一七八九〕上「どふぞ御勘当なされてくだされませ。七生がならずは、二升五合でもようござります」*雑俳・柳多留‐六一〔一八一二〕「七生を母は後生と詑言し」【発音】シチシー〈標ア〉[0] [チ]ヒチシー〈京ア〉[チ][小見出し]しちしょうまでの勘当(かんどう)

とあって、仏教語としてその用例と共に収載する。
《回文》こねこのこねこのこねこ〈子猫の仔猫の小猫〉 
 
2009年01月17日(土)晴れ。東京(駒沢)
(ネ)」
 カタカナの文字「子」について、明治時代の矢野龍溪著『日本文体文字新論』第五章の末尾に、

余ハ嘗テ某地ノ小學教科書ヲ見タルニ 片假名ノ「子」ノ字ニハ皆ナ「ネ」ノ字ヲ用ヒタリ 「ネ」ノ字ヲ板本ニノミ用フルハ仔細ナキコトナレドモ 生徒ノ片假名ヲ手書スルニ當リ常ニ之ヲ用ヒシムルハ甚ダ好マシキコトニアラズ 何トナレバ古ヘノ正字ハ「ネ」ノ字ニモセヨ 之ヲ書クニ當テハ「子」ノ字ノ手ニ便ナルニハ及バザレバナリ〔536C〜G〕

と記載する。この「ね」と「ネ」の文字だが、平仮名の「ね」は「禰」の省略文字体「祢」の草体字からなり、片假名の「ネ」は同じく「祢」の偏部分を取り出したものである。実際多くは「子」の草体字が片假名の「ね」を表記するに多く用いられてきたのである。
 江戸時代には新井白石『同文通考』〔寳暦十(1760)年刊〕の「片假名釋文」があって、片假名の「ン」文字が梵字「」から取得したことなどを記載する。
 架蔵する『書道』〔秋山生・大正五年写〕の片假名に関する項目のなかで、「子」とし「子」を、その傍らに「ネ」とし「禰」を記載する。また、「ン」は「?」を正としている。
《回文》ん!グぅ良しゆふ石引きのきびしい冬将軍 
 
2009年01月16日(金)晴れ。東京(駒沢)
冬将軍(ふゆ-シヤウグン)」
 寒い冬の朝が連日続く。漢文調で云えば「凜風(さむきかぜ)膚(はだ)を刺(つらぬ)き、東方(ひんがしのかた)将(まさ)に白()けんとす」と表現する時季をとりわけ「冬将軍」と呼ぶ。この呼び名だが、現代の国語辞書『広辞苑』第六版によれば、

ふゆ‐しょう(シヤウ)ぐん【冬将軍】(モスクワに突入したナポレオンが、厳寒と積雪とに悩まされて敗北した史実に因む)冬の異名。冬のきびしさを擬人化した表現。「―の訪れ」

ということだ。小学館『日本国語大辞典』第二版には、

ふゆ‐しょうぐん[:シャウグン]【冬将軍】〔名〕(モスクワに攻め込んだナポレオンが厳寒に悩まされて敗れた史実によっていう)冬の異称。人間の力ではとうてい対抗できないきびしい冬の威力を擬人化した言い方。《季・冬》【発音】フユシーン〈標ア〉[ショ]〈京ア〉[ショ]

と記載し、フランスのナポレオン皇帝が1812年にロシアに大軍を率いて遠征し、その厳寒と積雪に悩まされて敗北したことを英国人の新聞記者がこのロシアの厳しい寒さを“general frost(冬将軍)”と表現したの NHKの冬将軍
が言の始まりで、本邦でもシベリア大陸から押し寄せる寒気団に対してこう呼称してきたのである。図絵として引用したのは、NHKニュース10の天気予報に登場する「冬将軍」のキャラクターで、2006年くらいに登場しはじめていた。また、国語辞書にもその実際の用例は未収載とする。
 
《回文》たまたまにわかはとりとこやみのへじがいにしへのみやこどりとはかわにまたまた〈偶々に若羽鳥常闇の野辺路が古への都鳥とは川に復々〉
 
2009年01月15日(木)晴れ。東京(中野)
(はなはだ)」
 諸橋轍二編『大漢和辞典』に未収載の漢字である。下記に示した三木愛花の『情天比翼縁』の文章中に用いられており、訓みを「はなはだ」と記載する。「今昔文字鏡」で、識番「056503」で「」の字とあるが、その音訓すら知ることが儘ならないのが現況の文字の知識情報である。彼の三木愛花は、「はなはだ」の文字として、他に「」字をも「那の秀才、(はなは)だ罪有り」〔201K〕、「好生」の熟字「之(これ)を問へば曰く、『京鳥(みやこどり)云々(うんぬん)』」と。京鳥の字、好生(はなはだ)中將が思京の情を惹()き、国詩を詠じ道()ふ」〔206M〕、「老婆怨埋し道()ふ、「先生好生(はなはだ)没主意(ぼつしゆい)イヒガイナクなり」〔212D〕」「「今児(けふ)、朝来(てうらい)、一向に無事なり、好生(はなはだ)消遣(せうけん)に苦しむ」」〔218D〕「?(なん)ぢ好生(ハナハダ)大胆なり」〔251A〕などを使用する。
 この「」文字を院政時代の古辞書である観智院本『類聚名義抄』を以て繙くと、

他得反 過 カサヌ  正  他得反 サラニ/ウタカフ タガフ〔法中88E〕※三番目の字は「ほこづくり【】に心」である。

とあって類似した字が示され、反切に順えば音「トク」とあり、二番目の文字である正字が最も近い。『廣韻』巻五のコ韻にも「他コ切/差也六」と見えている。
 であるが、「はなはだ」の和訓としては「」〔佛下本31〕「」〔法上102〕「惜」〔法中76〕「良」〔法下40〕「殊」〔法下133〕「苦」〔僧上6〕「酷」〔僧下56〕「泰」〔僧下111〕「尤」〔佛下末13〕「痛」〔法下113〕「孔」〔法下138〕などの文字を収載するが此文字には見えていない。同じ漢文小説中で『夜窓鬼談』上卷・画美人に「生、(ハナハ)之れを奇とす」〔283N〕「面(はなは)奇醜、鉄鉢(てつばち)を捧げ来る」〔287J〕「彩工(イロドリ)艶なりと雖ども、尋常の俗画、甚だ賞すべき者に非ざるなり」〔284H〕「亦た甚だ務む」〔295A〕「室甚(はなは)だ陋(せま)し」〔322J〕「味甚だ佳ならず」〔323N〕「甚(はなは)だ難きに非ざるなり」〔326A〕「兵藤氏見て、甚(はなは)だ感ず」〔332F〕「筆勢神無く、彩沢(はなは)拙(つたな)し」〔310I〕「山路(はなは)だ嶮(けは)」〔324G〕などと用いる。
 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

はなはだ【甚】〔副〕普通の程度を越えていることを表わす。ひどく。大変。非常に。肯定表現にも否定表現にも用いる。*天理本金剛般若経集験記平安初期点〔八五〇頃〕「異なる香気有るを聞ぐ。非常(ハナハタ)郁烈(さかり)なり」*土左〔九三五頃〕承平五年二月四日「かぜくものけしきはなはだあし」*東大寺本大般涅槃経平安後期点〔一〇五〇頃〕「汝が智太(ハナハタ)過ぎたり」*観智院本名義抄〔一二四一〕「孔 ハナハダ」*徒然草〔一三三一頃〕九二「ただ今の一念において、直ちにする事の甚難き」*御巫本日本紀私記〔一四二八〕神代上「太急 波奈波太波也之(ハナハタはやし)」*読本・雨月物語〔一七七六〕夢応の鯉魚「其餌はなはだ香(かんば)し」*三四郎〔一九〇八〕〈夏目漱石〉三「其処の下女はみんな京都辯を使ふ。甚(ハナハ)だ纏綿(てんめん)してゐる」*青年〔一九一〇〜一一〕〈森鴎外〉一〇「君こなひだのもまだ返さないで、甚(ハナハ)だ済まないが」【語誌】上代には、「万葉集」に「甚」字をハナハダと訓じたと思われる例はあるが(→子見出し「はなはだも」)、仮名書きの例はない。語形を完全に確認できる例は、挙例の「天理本金剛般若経集験記平安初期点」が最古。上代の「万葉集」の例はいずれも動詞を修飾する例だが、中古以後は形容詞・形容動詞を修飾する例がほとんどである。動詞を修飾する例は中古の仮名文にはなく、平安初期の訓点資料や「今昔物語集」にわずかながら見える。中古仮名文では例は多くない。挙例の「土左日記」の楫取(かじとり)の言葉の一例、「源氏物語」の大学寮の博士の言葉の三例、「宇津保物語」の男性の応答詞としての「はなはだかしこし」一一例とその類型四例などである。地の文や女性の会話には全く見えず、かわりに「いと」「いたく(いたう)」「いみじく(いみじう)」などを用いる。中古仮名文にあまり例が見えないのに対し、訓点資料には多くの用例が見える。ハナハダは中古以後は男性語的・漢文訓読語的性格を持った硬い語であった。現代語でも硬い感じを伴い主に文章語や演説の中で使われるのは、この伝統を受け継いだもの。中古の訓点資料には語形も意味もよく似たハナハナがみえるがハナハダとの関係は未詳。語源説】@華やかの意か、またアナホド(噫程)の転か〔大言海〕。Aハヤ、ナカ、フカ、ツラ、セリ(早中深)の反、また、ハナハナの転か〔名語記〕。Bハナクハシ(花曲)の転か、またハナハダ(花膚)の義か、またハナバナシ(花々)の転か〔菊池俗言考〕。Cハナチハテヤカシ(放果如)の義〔日本語原学=林甕臣〕。Dハナハタ(花発出)の義か〔紫門和語類集〕。Eアナアナ(呼那々々)の義〔言元梯〕。Fハナヤカナルハダ(肌)の義か〔和句解〕。Gハノホド(端程)の転か〔国語の語根とその分類=大島正健〕。Hアナガチ(強)の転か、また、アマハタ(天機)と同じか〔和語私臆鈔〕。Iハタハタの転〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。Jハナレハナレシキ(離々如)の義〔名言通〕。

と記載する。
[ことばの実際]
香玉、這()の時(とき)、右思左想(うしささう)、肚裡(とり)に想ひ起す、梅香の説く所、(はなはだ)理有り、即()し這()の般(はん)の好機会を失了(しつれう)せば、今般(こんぱん)の事、何(いづ)イツカれの天()か成就し了(をは)らん。〔漢文小説集三木愛花『情天比翼縁』第三回200F、新日本古典文学大系明治編・岩波書店刊〕
「婆々(ばば)の説着する所、(はなはだ)妙なり。翠兄、向導(きやうだう)の労(らう)を辞するを要するを休()めよ」と。〔漢文小説集三木愛花『情天比翼縁』第四回205G〕
「郎君、今夜の光景、(ハナハダ)惨悽(さんせい)たり。怎的(いかん)ぞ東天未(いま)だ明けざる」と。〔漢文小説集三木愛花『情天比翼縁』第四回230L〕
《回文》うたうたいふゑふきときふゑふいたうたう〈歌唄い笛吹き説き笛吹いた詠う〉
 
2009年01月14日(水)晴れ。東京(駒沢)
?めば?むほど(かめばかめほど)」
 「咀嚼」という熟語を読み書きする能力が今の若い人たちにどのくらいあるだろうか?「そしゃく」と読む。現代の国語辞書『広辞苑』第六版には、

そ‐しゃく【咀嚼】かみくだくこと。かみくだいて味わうこと。物事や文章などの意味をよく考えて味わうこと。→そしゃく‐き【咀嚼器】→そしゃく‐きん【咀嚼筋】

と記載する。意味の@で示す「かみくだく」ことを疎かにしていると、何が起こるのか。「丸呑み」され消化しづらくなる。であるからして、人は「?む」行為を忘れてはならないのである。ところで、「かむ」という語はどう表記されているのか?古辞書である観智院本『類聚名義抄』和訓索引を繙くに、口偏の文字「咀」〔佛中32〕「?」〔佛中34〕「?」〔佛中36〕「?」〔佛中42〕「?」〔佛中44〕「〓(口+)」〔佛中48〕「嚼」〔佛中55〕「」〔佛中63〕「」〔佛中50〕、齒偏の文字「?」〔法上103〕「?」〔法上103〕「?」〔法上103〕「齧」〔法上104〕「齬」〔法上106〕、酉偏の文字「釀」〔僧下58〕「?」〔僧下60〕と云った「口偏」「齒偏」「酉偏」といった三種の偏に各々あって、標記字「カム」の訓が収載されている。この諸の文字から物を「カム」といった行為とその状況が個々別々に存在することも見えてこよう。
 「?めば?むほど」の後に来る語としては「〜良く味が出る」のであるが、「SOURS GUMMY(サワーズ グミ)」のテレビCMのなかに「噛みごたえグミ」というのがあった。
  ♪ カメカメ カメカメ サワーズ カメカメ ♪
  怪人カメカメの CM でおなじみの噛みごたえグミ。
   http://www.nobel.co.jp/cm.php
[ことばの実際]
 
かみはむかがむがむにむがむがかむはみか《咀み嚼むかガムガムにムガムガ?む食みか》
 
2009年01月13日(火)晴れ。東京(駒沢)
亀・龜鳴く(かめなく)」
 日本経済新聞十一日付け文化欄に歌人小池光さんが「うたの動物記―亀、鳴かないはずが季語になり―」という一文を取り上げたい。この書き出しに、「三島由紀夫が二十歳のとき書いた小説『中世』では亀が鳴く。「公がなすがままにおかれるので亀はお膝下まで来て双六の盤に掴まった。そうしてそれに凭り、すくっと立った。皺畳んだ頚をのばし公のお顔を仰いでキキ、キキともどかしく鳴いた」。公は八代将軍足利義政、大亀は中世そのものの象徴である。/しかし、実際には亀は鳴かない。鳴きたくても音声を発する器官を持っていない。亀を鳴かせたのは三島由紀夫の若き幻想力のなせる荒技。/とはいうものの鳴くはずのない亀が中世の詩歌の世界では実は鳴くことになっていた。/川越(かはごし)のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀の鳴くなり/藤原為家/もっとも鳴きそうもない動物に鳴き声を想定することで霊力を感じたのだろう。後に「亀鳴く」は春の季語ともなる。ありえない現象が季語に採用されるのだから季語の奥は深い。《中略》何の華々しい抵抗もすることもなく黙って沈んでゆく亀にわが心を重ねる。こういう気持ちになることは誰だってあり、すると亀のような存在が身に沁みて思われるのだ。亀は一日どころか一カ月絶食しても平気で生きてゆける。/それでいて実に長生き。一七七三年、キャプテ・クックが捕獲してトンガ国の女王に献上したゾウガメが一九六六年に死んだという記録がある。クック船長の顔を知っている亀が、全共闘運動のころまで世にあったことは!鳴かず飛ばず、なんと悠々と生きること。」と記述する。亀は「銭亀」のような最小なものから「象亀」のように大きなものまでが存在する。当に不思議な生物である。
 さて、この「亀鳴く」だが、江戸時代の随筆『笈埃随筆』三・一に、

予日州にありしころ、夏の暮方暑を解かんとて田圃を遊歩しけるに、溝川に鳴くものあり、至つて遠く聞ゆ、がき/゛\と云ふがごとし、あやしと思ひ人に問ひけれバ、クウッなりと、クウッとハ石龜の方言なりと、その龜ときゝていよ/\不審なり、岡崎五升庵にてその事をかたりけるに、庵主ハはやくも聞きてまことハ龜ハ啼くものなり、たしかに見もし聞きもしたり、今六帖の中に、その聲有る歌ありしと語られぬ、すなはち尋ね見れバ、河越のをち田中の夕やみに何ぞときけバ龜のなくなる、とあり。

とあり、また、『松屋筆記』一・二一八にも、

新撰六帖爲家卿歌に川ごしのをちの田中の夕やみになにぞときけバ龜のなくなる、龜のなくこと人口にいへど、たま/\の事なれバ、聞くことあたはず、スッポンもスポンスポンとなくよりよびし名也。博物異苑魚龜部に、能言鼈、漢元封二年、過國、獻能言龜、一如人言、出洞冥記云々とも見ゆ

とあり、上記コラムに示された為家卿の和歌が所載されている。
 
[ことばの実際]
龜と鶴との譚〔『今昔物語集』卷五・龜、不信鶴教落地破甲語第廾四二十七〕
龜と雁との譚〔『塵袋』卷第十『塵添?嚢鈔』卷第二・十三〕
 
《回文》かめはまんねんでえんぎよしときくぞやぞくきとしよぎんえでんねんまはめか
 
2009年01月12日(月)晴れ。東京(八王子→大島)
水仙(すいせん)」と「水仙花(すいせんくわ)」
 正月の床の間飾りに新春の生け花として欠かせない花の一つに「水仙」の花が知られる。この「水仙」だが、日本での野生の「水仙」自生地としては海岸線一帯に多く分布しているのが特徴である。この「水仙」の花が文献の上で登場してくるのは何時頃のことかと云えば、攝政九條良経(平安末期)の書いた色紙にあり、やがて禪畫の素材花とされ、古辞書では室町時代の『下學集』に、

水仙花(スイセンクワ)馮夷(フイ)華陰(クワイン)ナリ。服()スル八石得()タリ爲(タル)水仙。見ヘタリ韻府(イムフ)??(フハ)山谷含(フクミ)ニシテ素()傾(カタムケ)ント。山礬(ハン)弟(ヲトヽ)梅兄(アニ)。日本俗名雪中花也〔元和本・草木門124F〕※写真は村口四郎蔵本

とあって、その語注記には「馮夷(フイ)は華陰(クワイン)の人(ひと)なり。花(はな)を服(ぶく)すること八石(はつこく)。水仙(すいせん)爲(タル)ことを得()たり。韻府(イムフ)に見()へたり。??(フハ)山谷(さんごく)が詩()に香(かう)を含(フクミ)み素()を躰(てい)にして城(しろ)を傾(カタムケ)んと欲()。山(せん)礬(ハン)は是()れ弟(ヲトヽ)。梅(むめ)は是()れ兄(アニ)。日本(につぽん)の俗(ぞく)名(なづ)けて雪中花(せつちゆうくわ)と曰()ふなり」と記載し、『韻府群玉』を典拠とし、??(フハ)『山谷詩』をも引用する。日本での俗名を「雪中花(せつちゆうくわ)」という。この『下學集』が古辞書のなかで「水仙花」所載の最古となる。次いで、広本『節用集』に、

水仙花(スイセンクワ)ミヅ、ヒジリ、ハナ[上平平]馮夷(フイ)華陰人也。服花八石。得()タリ爲(ナル)水仙。見韻府?翁云香体素欲城。山礬是弟梅是兄。日本名曰雪中花是也。異名翠羽(ハナハダ)。玉肌。〔寸部草木門1124C〕

とあって、『下學集』の語注記を継承しつつ、異名語を付加する。これを筆頭に『伊京集』、明応本・天正一八年本・饅頭屋本・黒本本・易林本といった『節用集』類に引用されていく。『日葡辞書』に、

Suixenqua.スイセンクヮ.(水仙花)この名で呼ばれる花.〔邦訳586r〕

と記載されている。
 近代の国語辞書大槻文彦編『大言海』に、

すゐ‐せん〔名〕【水仙】〔本草「水仙、宜卑濕處、不?水、故、名水仙」〕草の名、根は、らッきョう、又は、蒜(ひる)に似て、長く、赤き皮ありて、包む、冬、葉を生ず、亦、相、似たり、春の初め、莖を出す、葱(ねぎ)に似たり、頭に六辨、單葉(ひとへ)の白花を開く、蘂、黄なり、金盞銀臺と云ふ、又、重辨(やへ)のものも、あり、玉玲瓏と云ふ。近年、舶來する臺湾種は、根、大きく、水のみにして、花を開く、土に下せば、一年間、花なし。雅客。*本草「水仙、釋名、金盞銀臺」〔三-941-2〕

とあって、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

すい‐せん【水仙】〔名〕@ヒガンバナ科の多年草、スイセン属植物の総称。高さ二〇〜三〇センチメートル。地下に球形の鱗茎がある。葉は鱗茎から群がって生え、線形で先は鈍くとがり白緑色を帯びる。一二〜一月、花茎の先端に苞葉に包まれて六枚の花被片をもつ一〜数花が横向きに咲く。花の中央に皿状の副花冠がある。この仲間は地中海沿岸から東アジアにかけて約三〇種ほどあり、日本には暖地にスイセンが生えている。また、観賞用に園芸品種が多く作り出され、ラッパズイセン、クチベニズイセン、キズイセン、エダザキズイセンなどがある。漢名、水仙。せっちゅうか。にわき。学名はNarcissus 《季・冬》*梅花無尽蔵〔一四九二〜一五〇一頃〕二「題梅花水仙図并叙」*元和本下学集〔一六一七〕「水仙花 馮夷華陰人服花八石得水仙韻府??(フハ)山谷詩含香躰素欲城山礬是弟梅是兄日本俗名曰雪中花也」*浮世草子・日本永代蔵〔一六八八〕三・一「雪のうちには壺の口を切(きり)水仙(スイセン)の初咲なげ入花のしほらしき事共」*黄表紙・高漫斉行脚日記〔一七七六〕上「けふはなんでもおちをとる気で、早咲の水せん、よっぼど大痛事(おおいたごと)さ」*俳諧・蕪村句集〔一七八四〕冬「水仙や美人かうべをいたむらし」*本草綱目‐水仙「此物宜卑湿処、不水、故名水仙」Aヒガンバナ科の多年草。観賞用に栽培し、また、本州以西の海岸に生育するものは野生化したものとの説がある。高さ二〇〜四〇センチメートル。葉は根生し、線形で先端はまるみを帯び、長さ二〇〜四〇センチメートル。初冬から伸び始める花茎の先端に五〜六個の径三〜四センチメートルの白色の花を横向きにつける。副花冠は径約一センチメートル。種子はできない。学名はNarcissus tazetta var. chinensis *日本植物名彙〔一八八四〕〈松村任三〉「スヰセン 水仙」紋所の名。水仙の花と葉を種々にかたどったもの。水仙の丸、抱き水仙などがある。【発音】[0][イ]/[ス]【辞書】言海【表記】【水仙】言海【図版】水仙@ 水仙A水仙の丸 水仙B抱き水仙 [小見出し]すいせんの丸(まる)

 

 

 

 

 

すいせん‐か[:クヮ]【水仙花】〔名〕水仙の花。《季・冬》*文明本節用集〔室町中〕「水仙花 スイセンクヮ」*尺素往来〔一四三九〜六四〕「先為庭上之景厳前栽仕候。春花者庭桜。庭柳。〈略〉水仙花」*仮名草子・尤双紙〔一六三二〕下・三八「水仙花(スイセンクワ)はにんにくに似り」*俳諧・笈日記〔一六九五〕下・雲水「其にほひ桃より白し水仙花〈芭蕉〉」*花柳春話〔一八七八〜七九〕〈織田純一郎訳〉附録九「此時カメロン手に水仙花(スヰセンクワ)を携へ微笑して室内に入り来り」【発音】[セ]【辞書】下学・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン【表記】【水仙花】下学・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・書言・ヘボン

とあって、見出し語を「すいせん【水仙】」と「すいせん-か【水仙花】」の二つ立項し、それぞれの用例を各のところに示す。
 
[ことばの実際]

花者。庭柳。庭桜。金熊(イウ)。玉熊。紫藤。金銭(せン)。冬(ヤマフキ)。菫菜(スミレ)。春菊。 躑躅(ツヽシ)。杜若。牡丹。沈丁花()。華鬘(ケマン)花()。水仙花。鵝鼻花(カヒクワ)。白梅。紅桃。碧桃。絲柳。玉柳。一( ト)重櫻。八重―。梨花。花(カラナシ)。李花(スモヽ)。山茶花(サンサクワ)チヤノツハキノコト。海棠花等。〔平井文庫藏『尺素往来』15ウE〕

《回文》わくむせいすいのみづいはいづみのすいせんくわ〔湧くむ清水の水井は泉の水仙花〕
 
2009年01月11日(日)晴れ。東京(世田谷玉川→深沢)
七轉八起(ななころびやおき)」
 近代の国語辞書大槻文彦編『大言海』に、

{ななころび-やおき〔名〕【七轉八起】七たびころびて、八たびおき上ること。數度の失敗にも屈せずして、奮勵すること。〔四-647-4〕

とある。現代の国語辞書『広辞苑』第六版では、

しちてん‐はっき【七転八起・七?八起】いくたび失敗しても屈せず、起ち上がって奮闘すること。ななころびやおき。七転八起

とあって、字音訓みで「シチテンハッキ」で「七転八起」「七?八起」の二通りの標記語を収載し、意味については近代語と現代語の間では変容は見られない。用語としては、『大言海』の「奮勵(ふんれい)」に対し、『広辞苑』は「奮闘(ふんとう)」の語を以て説明する。この「奮励」と「奮闘」はどのように使い分けられることばなのか?さらに、和訓語である「ななころびやおき」の語は見出し語に採録していないのも差異の特徴である。いずれも初出用例を未収載にする点では共通している。ここでさらに、初出用例とその時代を探っておくことにする。
 小学館『日本国語大辞典』第二版に、

しちてん‐はっき【七転八起・七顛八起】〔名〕(七たびころんで八たび起きる意から)倒れても倒れても起き上がること。幾多の失敗にも屈しないで戦い抜くこと。ななころびやおき。*当世書生気質〔一八八五〜八六〕〈坪内逍遙〉一七「七転八起(シチテンハッキ)、一栄一辱、棺に白布を盖ふにいたって」【発音】〈標ア〉[ハ]〈京ア〉[ハ]

ななころび 八起(やお)(七たびころんで八たび起きる意)何度失敗しても屈することなく立ちあがること。一度や二度の失敗ぐらいで気落ちせず、がんばるべきであるということ。転じて、人の世の浮き沈みの激しいことのたとえにも用いる。*評判記・吉原人たばね〔一六八〇頃〕りしゃう「よの中は夢まぼろし、七ころひ八をき」*葉隠〔一七一六頃〕一「『七度牢人せねば真の奉公にてなし。七転八おき』と口づけに申候由」*浄瑠璃・霊験宮戸川〔一七八〇〕七「七転(ナナコロ)び、八起(ヤオキ)といへる世の中の、諺はありながら」*雑俳・柳多留‐一五三〔一八三八〜四〇〕「七転八起達摩の呑だおれ」【発音】〈標ア〉[ナ]〈2〉=[ヤ] [コ]=[ヤ]〈京ア〉[コ]=[ヤ]

として、音読み「しちてんはっき」を見出し語とし、訓読み「ななころびやおき」を小見出しとしている。ここでは上記のような「奮励」や「奮闘」といった漢語を用いた意味説明をしない。
[ことばの実際]

 

回文しらがうとろいななつまぜまつなないろとうがらし白髪人爐圍七つ雑ぜ俟つ七色唐辛子
 
2009年01月10日(土)晴れ。東京(世田谷駒沢)
七色唐辛子(なないろたうがらし)」
 調味料として、一味唐辛子(七味(しちみ)唐辛子に対して、他の香辛料を混ぜていない唐辛子粉。『広辞苑』第六版)と「七味唐辛子」と云う言い方で表現される。これを略して「一味」「七味」と書いて小さな竹筒に並べて天麩羅屋やうどん、そばを商う店の食台に置かれている。近代の国語辞書大槻文彦編『大言海』に、

{なないろ-たうがらし〔名〕【七色唐辛】〔唐辛に、胡麻、山椒(サンセウ)、芥子(ケシのみ)、壼V(なたね) 麻實(あさのみ)、陳皮などを細かく碎きて、粉として雜ぜたるもの。藥味とす。〔四-647-2〕

とあって、標記語「なないろタウガラシ【七色唐辛子】」としても記載を見る。「七味」と「七色」、「あじ」と「いろ」の相違は何を意味するのであろうか?という疑問を抱くことはないだろうか。現代の国語辞書『広辞苑』第六版では、

なないろ‐とうがらし【七色唐辛子】七味(しちみ)唐辛子に同じ。

しちみ‐とうがらし【七味唐辛子】香辛料の一種。唐辛子に胡麻(ごま)・陳皮(ちんぴ)・罌粟(けし)・青のりかシソ・麻の実・山椒(さんしょう)などを砕いて混ぜたもの。なないろとうがらし。しちみ。

とあるにすぎない。これでは「七味」と「七色」の相違が相違でなくなってしまう透過作用が働いているため、この疑問も打ち消されていく。これに対し、小学館『日本国語大辞典』第二版では、

なないろ‐とうがらし[:タウがらし]【七色唐辛子】〔名〕唐辛子・胡麻・陳皮(ちんぴ)・芥子・菜種・麻の実・山椒などを砕いて混ぜ合わせた香味料。しちみとうがらし。なないろ。また、それを売る人。*滑稽本・八笑人〔一八二〇〜四九〕五・上「あつらへの七色唐(ナナイロタウ)からしを売様に、あんまり交っけへされるとひるむぜ」*狂歌・近世商賈尽狂歌合〔一八五二〕「天明年間に『穴色通がらし』と題せし二冊物あり。是は七色唐がらしに擬せし色道の戯作也。〈略〉斯あれば、明和の末、天明に、七色唐がらしは初りしものなるベし」*彼岸過迄〔一九一二〕〈夏目漱石〉停留所・一七「七色唐辛子(ナナイロタウガラシ)の袋を並ベて」【発音】ナナイロトーラシ〈標ア〉[カ゜]〈京ア〉[ト]【図版】

七色唐辛子〈近世商賈尽狂歌合〉

しちみ‐とうがらし[:タウがらし]【七味唐辛子】〔名〕唐辛子・胡麻・陳皮(ちんぴ)・けし・菜種・麻の実・山椒などを砕いて混ぜ合わせたもの。香味料とする。なないろとうがらし。*洒落本・桜河微言〔一七七七〕「七味蕃椒(シチミトウガラシ)より辛き世界に」*滑稽本・八笑人〔一八二〇〜四九〕三・追加下「お振舞申批杷葉湯は陰徳者の婦人耳をいため、七味(シチミ)とふがらしの匕(さぢ)は五齢湯の調合に替り」*蕎麦通〔一九三〇〕〈村瀬忠太郎〉一二「蕎麦の薬味は、通常おろし大根、刻み葱、蕃椒又は七味唐がらしを供し」語誌】(1)寛永二年(一六二五)、江戸両国薬研堀で中島徳右衛門が売り出したのを初めとする。「随筆・守貞漫稿‐五」に「七味蕃椒と号て、陳皮、山椒、肉桂、黒胡麻、麻仁〈略〉を竹筒に納れ、鑿を以て突刻之売る。諸食にかけて食ふ人多し」とみえ、薬味として当時の人々に好まれ、振売りも行なわれていたことが記されている。(2)「しちみ」は、「酸・苦・甘・辛・鹹」の五種の食味を「五味」、また「淡」を加えて「六味」と呼びならわしてきたことに倣ったもので、主に関西で用いられた。関東では「なないろとうがらし」と呼び、関西と対立するが、近代以降の多くの辞書では「なないろとうがらし」を標準語形と認めている。「七色」の「色」は種類の意を表わすが、そうした用法が希薄になりつつあることに加えて、商品名としては専ら「七味」が用いられるところから、現在では「しちみとうがらし」の呼称が一般的である。【発音】シチミトーラシヒチミトンガラシ〔大阪・伊予〕[カ゜][ト]

とあって、見出し語「なないろトウガラシ」ではこれという補足説明がないが、「シチミトウガラシ」の項目にあって「語誌」の(2)でその相違についての説明がはじめて施されているのである。元来は、関東(江戸)と関西(上方)の呼び名の相違に基づくこと、これが時代と共に希薄さを有することばの一つとなっている。
[ことばの実際]

 

 
 
2009年01月09日(金)雨。東京(世田谷駒沢)→目黒
無名指(ななしのおよび)」
 手の指に名前が付けられ表現されてきた。おやゆび【親指】、ひとさしゆび【人差指】、なかゆび【中指】、くすりゆび【薬指】・べにさしゆび【紅差指】、こゆび【小指】と。このなかで、一つの指の名に幾つかの異なる呼び名があるのが第四指であり、近代の国語辞書大槻文彦編『大言海』に、

{ななし-の-および〔名〕【無名指】〔古へ、おほおよび、ひとさしのおよび、なかのおよび、ひとさしのおよび、なかのおよび、こおよびなどの名あり。此指には名なかりしかば云へるか、無名指(ムメイシ)の訓讀〕べにさしゆび(紅差指)に同じ。ななしゆび。今、くすりゆび。*倭名抄、三手足類「無名指、奈奈之乃指(オヨビ)」*下學集、上、支體門「無名指、ナナシノヲヨビ、第四指也」〔4-647-4〕

とある。三巻本『色葉字類抄』(黒川本)にも、

無名指 ナヽシノユヒ/ナヽシノヲユヒ〔那部人體門163頁〕

にも、標記語「無名指」に、訓みとして「ななしのゆび」と「ななしのをゆび」の二訓を記載する。
 平安時代の源順『倭名類聚鈔』に始まり、から室町時代『下學集』にわたる本邦古辞書に、この「ななしのおよび」の語が見えていることが知られよう。なぜ、かくも此指には、多くの名称を有するのであろうか。女人たちが口紅をさす指として「べにさしゆび【紅差指】」と言い、これと同じように藥りを塗る指として「くすりゆび【薬指】」と云う。そして、『大言海』がこの語の由来を説くなかで「此指には名なかりしかば云へるか」と云うのである。実に不思議な指名でありながら、現代の私たちは此名を忘れている。現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版では、

ななし‐ゆび【名無指・無名指】〔名〕薬指(くすりゆび)。ななしの指。*書言字考節用集〔一七一七〕五「無名指 ナナシユビ〔左伝註〕第四指也」【方言】《ななしゆび》奈良県吉野郡687《なあなしいいび》沖縄県国頭郡975《なあなしういび》鹿児島県徳之島・沖永良部島975《ならしいいび》沖縄県首里993《なあなあぬうやび》沖縄県鳩間島996《なあざうやび》沖縄県黒島996《なあねえぬうび》沖縄県小浜島996《なあねえんうび》沖縄県石垣島・新城島996《なあねんうびゃあ》沖縄県竹富島996《ならし》沖縄県首里993《なしらず〔名不知〕》鹿児島県奄美大島975【語源説】日常の任務に携わらない指の義〔信州随筆=柳田国男〕。【発音】〈標ア〉[シ]【辞書】書言【表記】【無名指】書言

ななし の 指(ゆび・および)「ななしゆび(名無指)」に同じ。*十巻本和名抄〔九三四頃〕二「無名指 孟子云無名指〈奈々之乃於与比〉野王案第四指也」*薫集類抄〔一一六五頃か〕下「あまづらの煎ぜぬを、名なしのゆびして塗りて」*色葉字類抄〔一一七七〜八一〕「無名指 ナナシノユヒ ナナシノヲユヒ」【辞書】和名・色葉・名義・言海【表記】【無名指】和名・色葉・名義・言海 〔小見出し〕ななしの権兵衛(ごんべえ)

むみょう‐し[ムミャウ:]【無名指】〔名〕「むめいし(無名指)」に同じ。*江家次第〔一一一一頃〕一・供御薬「主上取之、以右手無名指令塗左掌給」*羅葡日辞書〔一五九五〕「Medicinalis 〈略〉ブメイノユビ、クスシ ユビ、mumioxi (ムミャウシ)」*評判記・色道大鏡〔一六七八〕七「絃を引はらず、ゆたゆたとゆるやかにのべて、無名指(ムミヤウシ)にてひくやうにかけたり」【発音】ムミーシ[ミョ]

むめい‐し【無名指】〔名〕くすりゆび。べにさしゆび。ななしゆび。むみょうし。*刺青〔一九一〇〕〈谷崎潤一郎〉「左手の小指と無名指(ムメイシ)と拇指の間に挿んで」*破片〔一九三四〕〈寺田寅彦〉一二「左の無名指の爪が矢筈形に延びたりするので、どうもをかしいと思ってゐたら」*孟子‐上「今有無名之指屈而不一レ信、非疾痛害一レ事也〈略〉〈注〉無名之指手之第四指也。蓋以其余指皆有名。無名指者非手之用指也」【発音】ムメシ〈標ア〉[メ]【辞書】言海【表記】【無名指】言海

と四つの音訓見出し語を立項し、それぞれに意義説明を施す。
 
[ことばの実際]

 

 
 
2009年01月08日(木)晴れ。東京(世田谷駒沢)
七歩み(ななあゆみ)」
 「七歩之才(しちほのさい)」を日本語式に訓むと、「ななあゆみ」という。近代の国語辞書大槻文彦編『大言海』に、

なな-あゆみ〔名〕【七歩】〔七歩の才を訓讀して略したるもの〕しちほのし(七歩詩)の條を見よ。*拾玉集、一「から國に、七あゆみせし、たぐひとや、三時に足らで、散らす言の葉」〔四-647-1〕

とある。これを現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版では、

なな‐あゆみ【七歩】〔名〕@七歩歩むこと。*浄瑠璃・釈迦如来誕生会〔一七一四〕一「太子は円智あきらけき御かんばせ、七学を表して七あゆみ左右の御手を獅子吼して」A七歩歩む間に詩をつくること。また、その才能。→七歩(しちほ)の才*広本拾玉集〔一三四六〕一「から国にななあゆみせしたぐひとや三時に足らで散らす言の葉」

とする。そして、音読みの「七歩の才」には、

しちほ の=才(さい)[=情(じょう)](魏の曹植(そうしよく)が兄の曹丕(そうひ)の命令で、七歩あゆむ間に一詩を作ったという「世説新語‐文学」の故事から)詩才がすぐれ、詩作の早いことをいう。*懐風藻〔七五一〕秋宴〈紀古麻呂〉「忽逢文雅席、還愧七歩情」*明衡往来〔一一C中か〕上本「下官雖七歩之才、聊学六義之詞」*太平記〔一四C後〕一二・大内裏造営事「詩は盛唐の波瀾を捲きて、七歩才(しちホノさい)に先だち、文は漢魏の芳潤に漱(くちすす)いで万巻の書を諳(そら)んじ給しかば」*ささめごと〔一四六三〜六四頃〕下「七歩の才・八疋の駒に鞭をそへたるけしきにて、まことに道の賢聖ほしくこそ見え侍れ」*俳諧・玉海集〔一六五六〕三・秋「大豆の名の月に七歩の才もがな〈貞室〉」[小見出し]しちほの詩()

と記載する。
[ことばの実際]

 

 
 
2009年01月07日(水)晴れ。東京(世田谷駒沢)
七種の羮(ななくさのあつもの)」
 『四季物語』巻九に、「御厨子所の御粥奉れる、七種の御あつものも、けふ迄とゞめ置く、一つ御粥にてとうじなして奉れ、しるし斗御いきふれさせ給へり。此の事推古の御代よりある事にて。小豆の御粥給はらせ給ふとぞ、冬の陰の餘氣を陽コにて消させ給ふ御心なるべし。山の上のをこらといふ人の奉る歌に、春くれバあかき御ものゝあつものもめぐみにもれぬ御世に逢らし、とよめり。赤き御ものハあづきの御粥なるべし。又松の尾の~人、けふの晝つかた大内に詣でゝ、~司の伯に物して、札奉れバ、わがみやまの葵の根をねごして、其の根こせるを、そくいひの内にいれて、御札を御母屋の柱に、伯して張らせ申せバ、又つき/\の便りあるべき方にもはらせ給ひ、なべて公卿の家々にも此のためしまねぶべし。其のそくいひハ七種のあつ物の殘れるに、又けふの御粥とを一つにすりまぜて、御札おさるゝ也。定れる御ン例ハ、御いきふれさせ給へる、御ましのすへりたるにておす事こそ、是れ專ら、いかづち稲妻のたゝりをやらはせ給はんとの、松の尾の御ちかひおはしますとの御事なるべし」とあって、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版の子見出し語には、

ななくさ の 羹(あつもの)「ななくさ(七種)の粥」に同じ。*四季物語〔一四C中頃か〕正月「つとめては御づし所の御かゆ奉る。七草の御あつもの」*?嚢鈔〔一四四五〜四六〕一「正月七日の七草のあつものと云は」

とあって、「七種粥(ななくさがゆ)」に同じとしてこの『四季物語』と『?嚢鈔』の用例を引いているに過ぎない。この「七種の羮」と「七種粥(ななくさがゆ)」の相異については触れずじまいにあるが、この点を探ってみるとしよう。まず、「ななくさ」の表記だが、現在の国語辞書見る限り、「七種」と「七草」を同一語化して収載する傾向にある。だが、近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』では標記語を「ななくさ【七草】」と「ななくさ【七種】」とに区分けしていて、前者の方は「秋の七草」とし、後者を「春の七種」としていることに注目しておきたい。その上で「七種の羮」を考察するに、やはり、「あつもの【羮】=吸い物」と「粥(かゆ)」とは別仕立ての食べ物であり、まず「羮」は「お米の入らない汁。いわば吸い物や野菜汁のようなもの」、これに対し「粥」は「お米の入った汁もの」となるのであるまいか。この意味から、両語は区別されていたであろう。ただ、一月七日という同月同日に食する点でこの両方の食べ物の名が残ったとも云える。平安時代の清少納言『枕草子』にも、

七日の若菜を、人の六日にもてさわぎとりちらしなどするに、見も知らぬ草を、子供の持てきたるを、「何とか是をばいふ」といへど、頓にもいはず。「いざ」など此彼見合せて、「みみな草となんいふ」といふ者のあれば、「うべなりけり、聞かぬ顏なるは」など笑ふに又をかしげなる菊の生ひたるを持てきたれば、

  つめどなほみみな草こそつれなけれあまたしあればもまじれり

といはまほしけれど、聞き入るべくもあらず。〔百三十一段〕

とあって、若菜摘みの草草とその名前とがあやふやな容子を語り、さらに技巧な対比ことば(「耳無し=聞かない」と「菊=聞く」とを連鎖)を用いた歌に仕立ててもいる。そして、これらの草を調理しどのように食したかまでは判然としない。

 室町時代の『庭訓徃来註』正月五日状に、

或書云、七日人日五節初也。若菜。此日以七種菜(アツモノ)ンバ人无病患七草芹薺勤荊(ゴギヤフ)箱平佛座田苹須々白此七草。又芹薺五行田平子佛座須々子(スヽシロ)七草也

とあって、或書を引いて「此の日、七種の菜を以って羮(アツモノ)を作らして之を食する則んば、人の病患无しなり」と云う。ここでは「羮」を仕立てるのである。この室町時代の御伽(おとぎ)草子のなかに七草行事の由来談を綴った「七草草子」〔図絵は京都大学図書館藏奈良繪本「七くさ」より引用〕が知られ、

七種なゝいろの草を集めて、柳の木の盤にのせて、玉椿の枝にて、正月六日の酉の時〔午後六時〕より始めて、この草をうつべし。酉の時には芹といふ草をうつべし。戌の時〔午後八時〕には薺なづなといふ草をうち、亥の時〔午後十時〕には、五形といふ草〔御形、はゝこぐさの事、鼠麹草〕、子の時〔午前十二時〕には、たびらこ〔鷄膓草、かはらけ菜とも云ひ佛の座とも云ふ〕といふ草、丑の時〔午前二時〕には佛の座〔前のたびらこの事。七草には熬愽が入る可きを誤つたのである〕といふ草、寅の時〔午前四時〕にはすゞな〔たうな〕といふ草、卯の時〔午前六時〕にすゞしろ〔大根〕といふ草をうちて、辰の時〔午前八時〕には七種の草を合はせて、東の方より岩井の水をむすびあげて若水と名づけ、此の水にて白鵞鳥の渡らぬさきに服するならば、一時に十年づゝの齡を經かへり、七時には七十年の年を忽ちに若くなりて、その後八千年までの壽命を汝親子三人へ授くるなり」と、教へ給ふぞ有り難き。

と教導を授かり、此の如くにして百歳の年老いた親に服用させたところ、一時に十歳ずつ若返り、七時(とき)には七十歳若返らせたという孝行物語が語られているのである。この物語が伝える七種の調理法からして、米を用いない羮と見ても良かろう。ただ、同じ注釈書でもある天理図書館藏『庭訓往来私記』〔室町末写〕正月五日状には、

七日ハ成人ノ始ル日ナレハ仁日ト云カ五節供ノ第一トスル。此日?(コナカケ)トテ七草ヲ集メ御草豆ニ仕度シ君モ供御有ト承ル其哥ニ芹ナツナ五刑田平子佛ノ座ハコヘスヽシロ是ソ七草ト讀リ。或説ニ昔シ天竺ニ大玉ト云ル大外道仏法妨(サマタケ)ル間加帝王此外道ヲ刹シ肉遷(ゼン)丹ト云薬リヲ練テ此ヲ服スル。萬民若ニ帰リ病有者ハ即治シ國土大平シ福壽増長成故三國ニ渡テ学テ是ヲ七種ノ?キスレハ今ノ世モ万民延命ナラン故也。返々可祝子細也。

とあって、「こなかき(こなかけ)【?】」即ち羮に米粒を入れて食する方法も記載されていることから両方の調理法が同じく伝承してきたものと考えたい。

 

 
 
2009年01月06日(火)晴れ。東京(世田谷駒沢)
七種粥(ななくさがゆ)」
 室町時代の『嚢鈔』巻一に依れば、

・正月七日ノ七草ノアツモノト云ハ七種ハ何々ソ。○七種ト云ハ異説アル歟不一准ナラ。或歌ニハ。セリナツナ五行タヒラク佛ノ座アシナミヽナシ是ヤ七種。芹五行ナツナ。ハロヘラ佛ノ座スヽナ。ミヽナシ是ヤ七クサ。又或日記ニハ。薺(ナツナ)?(ハコベラ) 簍 五行 スヽシロ 佛ノ座 田ビラコ是等也ト云々。但シ正月七日七草ヲ献スト云事更ニナシ。年中行事ニハ七日白馬節會及ヒ叙位事。兵部省ノ御弓ノ奏事。ト許リ記シテ七草ト云事ナシ。十五日ニコソ献ス七種ノ御粥事ト註シ侍レ。又資隆ノ卿ノ八條院ヘ書進スル。簾中鈔ニモ此定也。豈ニ浮()ケル事アランヤ。又禁中ノ事年中行事ニシカンヤ。既ニ廢マテ註セリ。爭カ當時ノ事漏レン哉。旁不審ノ事也。去諸人皆七日ト思ヘリ。何ナル事ニ歟。人ニ可尋也。次ニ其故ヲ云ハ。大宗家訓ト云文ニ云ク。七種ノ若菜ヲ採テ調テ氏神并ニ所ノ三寳。次ニ父母ニ献シテ後ニ是ヲ食スレハ。春ノ氣病夏ノ疫病。冬ノ黄病モ。不病人ニ三魂七魄ト云神(タマシ)ヒアリ。天ニハ七曜ト現シ地ニハ七草ト成也。是ヲ取テ服スレハ我カ魂魄ノ氣力ヲ増シ命ヲ延ル也。大宗文王ノ時ヨリ始ル事也ト云云。又荊楚歳時記ニ云ソ。俗以七種ノ菜ヲ羹ヲ食之人無万病也ト云云〔13頁〕

《現代語訳》七種というのには異説がある。一つのみではない。或る歌には「せり、なづな、五行、たびらこ、佛の座、あしなみ、みみなし是を七種という」とし、「芹、五行、なづな、はこべら、佛の座、しずなみみなし是が七くさ」 というのもある。又或日記には「薺、?簍(ハコベラ)、五行、すずしろ、佛の座,田びらこ、是等なり」等というのもある。但し、正月七日に七草を献上するという事はない。『年中行事』には七日に白馬の節会及び叙位の事とある。兵部省一の弓をお申し上げの事とだけ書いてあり七草という事はない。十五日にこそ七草のお粥を献上すると説明がある。又 資隆の卿の八條院へ送った『簾中鈔』にもこのようにある。どうしてなのか?その根拠があるのだろうか?。また、宮中での年中行事においては、すでに廃止との説もある。どうしてなのか当時の事はわからない。しかしながら、庶民は皆七日と思っている。どうしてだろうか?人に聞いてみるべきだろう。次にその訳を『大宗家訓』という書が言うには「七草の若菜を採ってきれいにし氏神、並びに土地の三宝(仏・法・僧)に、次に父母に献上して後にこれを食すと、春の病気、夏の疫病、冬の黄病にもかからない。人には三魂七魄と云うたましいがあり、天には七曜があらわれ、地には七草が生える。これを取って食すればすばらしく気力を増し長生きをする。このことは中国の大宗文王の時より始ったという。又『荊楚歳時記』には俗に七種の菜をもって羮を作りこれを食べた人は万病にかからないと書かれている

捨芥抄
 

 
熬愽
 

 

 
御形
 
須須之呂 佛の座
 
歳時記/河海抄
 
熬愽
 

 

 
御形
 
酒々代
 
佛の座
 
一説歌 御形 熬愽 耳菜草 鈴菜 鈴白
河海抄/公事根源
 
なづな

 
はこべら
 
せり

 
あをな

 
ごぎやう
 
すずしろ

 
ほとけのざ

 
荊楚歳時記
 
なづな
 
はじべら
 

 
御形
 
すずしろ
 
佛の座
 
元寛日記 熬愽 御形 佛の座  
日本歳時記
 
せり
 
なづな
 
五行
 
はこべら 佛の座
 
すずな
 
すずしろ
 
近世風俗志

 


 
なづな

 
ごぎやう

 
はこべら
 
ほとけのざ
 
すずな

 
すずしろ

 
萬物故事要決 セリ ナヅナ 五形 タビラコ 佛の座 あしな みみなし
七草双紙
 

 

 
ごぎやう
 
たびらこ 佛の座
 
鈴菜
 
すずしろ
 

 

とあって、「七種粥」についての行事日取りが異なるようだ。江戸時代の『南留別志』巻一・33には、

なゝくさのかゆといふハ、七種の穀を粥にするなり、七品の草といへるも、兼好1283頃〜1352以後)と同じあやまちなり。

と記述する。『倭訓栞』前編・なゝくさに、

七種の粥ハ、延喜主水司式、正月十五日供御七種粥料、米粟黍子?子?子胡麻子小豆とみえたり。拾芥抄にハ、大角豆(サヽゲ)菫子(セリ)薯蕷(ヤマノイモ)ありて、?子?子胡麻子なし。公事根源に、大豆粟柿?豆(サヽゲ)あり。黍??故胡麻なし。十五日粥を食ふことハ十節録に見えたり。

と記載する。『近世風俗志』下卷241に、

正月七日、今朝三都ともに七種の粥を食す、七草の歌に曰く芹なづなごぎやうはこべらほとけのざすゞなすゞしろ是れぞ七種、以上を七草と云ふなり、然れども今世民間にハ十二種を加ふるのみ、三都ともに六日に、困民小農等市中に出でゝ賣之、京坂にてハ賣詞曰、吉慶のなづな祝うて一貫が買うておくれと云ふ、一貫ハ一錢を云ふ戯言也。江戸にてハ、なづな/\と呼び行くのみ、三都ともに六日買之、同夜と七日曉と再度これをはやす、はやすと云ふは、俎になづなを置き、その傍に薪、庖丁、火箸、磨子木、杓子、銅杓子、菜箸等七具を添へ、歳コ~の方に向ひ、先づ庖丁を取つて俎板を拍囃して曰、唐土の鳥が日本の土地へ、渡らぬさきに、なづな七種、はやしてほとゝと云ふ、江戸にて、唐土云々渡らぬさきに七種なづなと云ふ、殘る六具を次第に取之、此の語をくり返し唱へはやす。京坂ハ、此の薺に蕪菜を加へ粥にる、江戸にても、小松と云ふ村より出づる菜を加へる、蓋し薺を僅に加へて、餘る薺を茶碗に納れ、水にひたして男女これに指をひたし、爪をきるを七草爪と云ふ、今日專ら爪の斬初をなす也、京坂にハ、此の行をきかず、或書曰、七草ハ七づゝ七度、合はせて四十九叩くを本とす。

と記載する。明治時代から昭和初期の国語辞書である大槻文彦編『大言海』には、

{ななくさ-がゆ〔名〕【七種粥】前條の(一)((一)春の新芽の若菜を、正月七日の會供(ヱク)とするもの。初は何草と定まりたることなかりしなり。後に芹(せり)、薺(なづな)、御形(ゴギヤウ)、?簍(はこべら)、佛座(ほとけのざ)(田平子(たびらこ))、菘(すゞな)、蘿蔔(すずしろ)の七種の菜の稱。然れども諸書に異同あり、これ定まることなかりし證なり。(秋の七草に對して、春の七種と云ふ)正月七日にこれを羮として食ふ、萬病を除くと云ふ。後世、七日の朝に(六日夜)たうとのとりと云ふ語を唱へ言(ごと)して、此七菜を打ちはやし、粥に炊きて食ひ、七種粥(ななくさがゆ)と云ふ。後には、薺をのみ用ゐ、又、後には、あぶらなの葉を用ゐる。又、古へ、正月十五日に、米、大豆、赤小豆、粟など七種の穀菜を雜へ煮て、七種(しちしゆ)の粥(かゆ)と云へり。是も、今は變じて赤小豆粥(あづきがゆ)となる。又七種を浸したる水に爪を漬して取るを、七種爪と云ふ。)を見よ。主水司式「踐祚大甞會解齋、御七種粥料、米、粟、黍、稗子、?子(ミノ)、胡麻子、小豆」「聖~寺七種粥料、云云、正月十五日供御七種粥料(中宮亦同)前に同じ」公事根源三、正月「七種の粥とは、白穀、大豆、小豆、粟、柿、?豆(サヽゲ)等也」簾中抄(藤原資驕j「十五日七種の御かゆ、云云」〔3-647-3〕

と記載する。現代の国語辞書『大辞林』には、

がゆ 〔七種-粥・七草-粥〕@正月七日に春の七草を入れて炊いた粥。のちには薺またはあぶらな菜だけを用いるようにもなった。菜粥。薺粥(季)新年。A正月十五日に米・小豆・栗・粟など七種類の穀物を入れて炊いた粥。後世には小豆だけを入れた「小豆粥」になった。《七草粥》

と記載する。
 
 
2009年01月05日(月)晴れ。東京(世田谷駒沢)→Runic←東中野
御庄屋殺(おシヤウヤごろし)」
 横溝正史作『悪魔の手鞠唄』のなかで、毒草として登場する植物の名である。この植物を見て土地(鬼首)の巡査が「おしょうやごろし」と云うことを金田一耕助に教えるシーンが新春テレビ映画番組で展開した。この金田一が手にした植物は、一体何か?「澤桔梗(さわぎきよう)」という。
 まずは、小学館『日本国語大辞典』第二版に、

さわ‐ぎきょう[さはギキャウ]【沢桔梗】〔名〕キキョウ科の多年草。各地の山野の湿地に生える。茎は円く太く直立し高さ五〇〜一〇〇センチメートルになり分枝しない。葉はやや密に互生し、長さ四〜七センチメートルの披針形で縁に細かい鋸歯(きよし)がある。秋、茎の上部に密生して総状花序をつくり、紫色の唇形(しんけい)花を開く。花は長さ三センチメートルぐらいで花冠の上唇は二裂、下唇は三裂する。漢名に山梗菜を当てるが誤用で、これはロベリアの名。いそぎきょう。ちょうじな。このてばな。学名は Lobelia sessilifolia 《季・秋》*浮世草子・俗つれづれ〔一六九五〕二・一「仏の花に是よと。其まましほれる沢桔梗(サハキキヤウ)を手ごとに折て」*大和本草〔一七〇九〕七「沢桔梗〈略〉花は桔梗に似て、淡碧色、桔梗より小也。水辺に生ず。秋花を開く。根亦如桔梗。又浮薔(なぎ)の花をも沢桔梗と云。同名異物なり」*日本植物名彙〔一八八四〕〈松村任三〉「サハギキャウ 山梗菜」植物「みずあおい(水葵)」の異名。*俳諧・増山の井〔一六六三〕八月「こなぎ 沢桔梗」*俳諧・卯辰集〔一六九一〕上・秋「村雨や見る見る沈む沢桔梗〈幾葉〉」*大和本草〔一七〇九〕八「浮薔〈略〉和俗に、水葵とも沢桔梗とも云。花色桔梗に相似たり」植物「はるりんどう(春龍胆)」の異名。《季・春》*重訂本草綱目啓蒙〔一八四七〕九・芳草「龍胆〈略〉春りんだうは陽地に生ず〈略〉伊勢にては水沢中に生ず。方言さはぎきゃうと云」【方言】植物。みずあおい(水葵)。《さわぎきょう》佐渡†084畿内†020ぎぼうし(擬宝珠)。《さわぎきょう》木曾†093【発音】サワキー[キ゜]【辞書】言海【表記】【沢桔梗】言海

とあって、「毒草」ということばも用いられていないのである。そして、方言名称の箇所にもこの「おしょうやごろし」の名を見ないのである。これをフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で見ると、

サワギキョウ(沢桔梗、学名: Lobelia sessilifolia )はキキョウ科ミゾカクシ属の多年草。美しい山野草であるが、有毒植物としても知られる。〈中略〉麻酔などの効能を薬草として利用された例もあるが、危険が大きいようである。横溝正史の長編推理小説『悪魔の手毬唄』では「お庄屋殺し」の名で登場し、場面を盛り上げた。

とあって、美しい濃紺の花であるがその毒性を指摘している。
 
 
2009年01月04日(日)晴れ。東京(世田谷)→東中野
禪僧(ゼンソウ)」
 NHK大河ドラマ「天地人」がスタートした。この時代考証を担当している小和田哲男さんが伝える「小和田教授の戦国ガイド」〈その1〉兼続、景勝が学んだ雲洞庵―武将と禅僧―を読んだ。その書き出しは、「戦国時代においては、現在の学校にあたるのが寺であった。宗派は特に問わないが、武将たちはそのころ、禅宗に帰依(きえ)することが多かったので、自分の子弟を禅宗の寺に入れることが多かった。」とし、とりわけ「越後は曹洞宗が盛んだった。上杉謙信が子どものころ、春日山城下の林泉寺に入り、天室光育から教育を受けているが、林泉寺は曹洞宗の寺であり、もちろん、師の天室光育は曹洞宗の僧であった。」という。そして、ドラマ登場する兼続と景勝は「雲洞庵で北高全祝の教えを受けている」何を学んでいたのか?一に『論語』(「人はいかに生きるべきか」という人間形成および精神鍛錬にかかわることがら)、二に兵法(漢文で書かれている『孫子』『六韜』『三略』などの兵法書を読みとく)と類推する。このドラマにも登場するこの「禪僧」なる語について国語辞書での取り扱いについて見ておくことにする。
 古くは、平安時代にこれらの禪を修行し、坐禪をくむ僧侶のことは日本でも知られていた。禪僧の開祖である「達磨大師」のことを知らない人がいないように、当時日本で禪僧と云えば「達磨大師」が想定されていたであろう。菅原道真の漢詩集『菅家文草』(九〇〇年)卷四・仁和四年、自春不雨。府之少北、有一蓮池に「祝史疲馳頒幣社、禅僧倦著読経筵」と見えている。
 やがて、時代は鎌倉時代から室町時代に向かうと日本からも多くの禪を学ぶ僧侶が誕生していく。その一つが臨済宗の榮西であり、もう一つが曹洞宗の道元である。この二人は中国に渡り禪を修行し帰国した。だが、この「禪僧」なる語が辞書に掲載されるのは、室町時代に成った広本『節用集』(文明本とも)「(ユツル)(ガク)シヅカ、アヅマ平・入作家禅客不(サレトモ)呼(ヨハ)來(キタル)。禅和子(ヲス)ヤワラグ、コ發明僧」と「禅宗(ソウ)ム子平・平異名。宗門。玄徒。禅。衲子。衲僧。南能。此秀。禅門(モン)カド平・平軽入道僧」の間に、

禅僧(ソウ)スミソメ・ヨステヒト平・平]。〔世部人倫門1081B〕

とあって、「禅僧」の語を収載するのが最初である。これにより『節用集』類には此語を人倫門に収載するようになる。であるが、同じ室町時代の『運歩色葉集』には、

禅僧(ゾウ)〔静嘉堂本・勢部426D〕

とあって、次に示す『日葡辞書』と同じ「ゼンゾウ」の訓が示されている。その『日葡辞書』にも、

Ienzo>.(ゼンゾゥ)すなわち,Ienxu<no so>.(禅宗の僧)禅宗(Ienxus)の宗派の僧,すなわち坊主(Bonzo).〔邦訳359l〕

と記載する。ただし、訓みは「ゼンゾゥ」と第三拍目を濁音とする。

 現代の小学館『日本国語大辞典』第二版には、

ぜん‐そう【禅僧】〔名〕(古くは「ぜんぞう」か)禅宗の僧。禅学を修め、坐禅を行なう僧。また、広く、三昧(さんまい)を修する僧侶。*菅家文草〔九〇〇頃〕四・仁和四年、自春不雨。府之少北、有一蓮池「祝史疲馳頒幣社、禅僧倦著読経筵」*中外抄〔一一三七〜五四〕仁平四年三月一一日「御堂令始木幡三昧給之日、法螺を禅僧等不能吹ければ、御堂御手づから令取給ひて」*撰集抄〔一二五〇頃〕六・七「めでたきぜん僧などにておはしけるにこそ」*夢窓国師法語〔一三五一頃〕「ほとけ祖師教律勤行をからずしてすぐにさとるを禅僧といふ」*文明本節用集〔室町中〕「禅僧 ゼンソウ」*日葡辞書〔一六〇三〜〇四〕「Ienzô(ゼンゾウ)。すなわち、ゼンシュウノ ソウ」*白居易‐与僧智如夜話詩「門間無謁客、室静有禅僧

とあって、上記で説明した意味内容を具に纏めている。

[ことばの実際]

四日癸亥、天晴、申ノ剋ニ法印権大僧都審範入滅ス。〈年七十三、〉熱田ノ大宮司散位季範ノ曽孫、法橋明季ノ真弟子、顕宗長舜法眼ノ門弟、最勝講講聴、三会已講、密宗道禅僧正受法、公縁僧正灌頂ノ弟子。〔『吾妻鏡』弘長元年九月四日〕

 
 
2009年01月03日(土)晴れ。神奈川(小田原)→箱根〜大手町〔関東学生箱根駅伝復路〕13位
七百歳(シチヒヤクサイ)」
 新春能狂言の演目『白田村』で、人物像坂上田村麻呂と清水寺を題材に「都鄙安全の尊容とせり」「げにや安樂世界」などと語るなかで、

ワキ さては宮奴にてましますかや、然らば當寺の御来歴委しく御物語候へ

シテ いでいで語って聞かせ申さん、(語)そもそも當寺清水寺と申すことは、大同二年の御草創、坂の上の田村麿の御願なり、昔大和の国小島寺に、延鎮と云っし沙門、生身の観世音を拝まんと誓ひしに、或時淀川の水上より、金色の光立ちしを、しるべに行きて見ればこの滝壷に至りぬ、観音の佛像光明赫奕として現れ給ふ、又山上の木の間より、燈火の影ほのかに見えしを、怪しめ登って見れば一人の老翁あり名乗って曰く、我はこれ行叡居士と云へり、我この地に住んで七百歳なり、汝この処に有って一人の檀那を待ち、大伽藍を建立すべしとて、東をさして行き去りぬ、この事世以って隠れなければ、坂の上の田村麿、即ち伽藍建立し、千手の佛像を作り据え、都鄙安全の尊容とせり、然れば行叡居士と言っぱ、観音薩捶の御再誕、又檀那を待てと有りしはこれ、坂の上の田村麿。〔金剛流謡本「田村」檜書店刊〕

シテが語った翁「行叡居士」の齢が何と「七百歳」という。
 能謡の世界では、齢を「七百歳」と呼称するものに、良く知られる『菊慈童』(『枕慈童』)の

シテワキ二人「具一切功徳慈眼視衆生。福寿海無量是故応頂礼。

地「此妙文を菊の葉に。置く滴や露の身の。不老不死の薬となつて七百歳を送りぬる。汲む人も汲まざるも。延ぶるや千年なるらん。おもしろの遊舞やな。

という。このように「七百歳」なる長大なる年月を不老長寿の目標に据えているのである。この数詞は、室町時代の御伽草子『御曹子島渡』にも、

師弟の契約と名のるぞや。七生の契也。一じ千金(センキン)のことわり、師匠の恩は七百歳と説かれたり

とあって、師匠に対する恩として「七百歳」、即ち「七百年」という概念にも用いられているのである。また、『多聞院日記』文祿二年(1593)五月九日「千年可長寿之処、三百才不足は、老て杖をつかす一、高枕せし二、かすはいをはく三。此三長寿の養性に背て三百才たらす、七百歳にて被死と申伝云々」という千年に三百歳を不足する所以が語られたりする。

 この「七百歳」なる語は、実に妙なる世界だが、国語辞書の見出し語には未収載の語でもある。現在の『日本名数辞典』の「七」で表現する語の項目からも見出せない。

 

[ことばの実際]

復云何知。佛告迦葉。我般涅槃。七百歳後。是魔波旬漸起。〔本朝沙門最澄撰『末法燈明記』421頁〕

既云七百歳後。波旬漸起。故知。彼時比丘。漸貪畜八不淨物。作此妄説。即是魔説也。〔本朝沙門最澄撰『末法燈明記』422頁〕

 
 
2009年01月02日(金)晴れ。東京(八王子)→大手町〜箱根〔関東学生箱根駅伝往路〕15位
珍無双(チンムサウ)」
 「珍無双」という三字熟語があるようだ。「珍無類」の語は『日本国語大辞典』第二版にも収載されている語であるが、この「珍無双」なる語は未収載の語である。年の暮れの大晦日に配達されてきた朝日新聞の13「声―声といつまでも」のこの一年・下≠ノ「おいしい料理「珍無双」と母」と題する主婦小林千賀(埼玉県ふじみ野市、66)の欄があって、このなかで「わが家の今年の流行語大賞は文句なく「珍無双」である。 94歳になる私の母と一緒に暮らし始めて1年になる。この母がなかなか食にうるさい。おいしい物をほんの少し食べたいという。 私は大雑把で、早いが取りえの料理ばかり作ってきた。母はスピード料理や脂っこいものは食べてくれない。春ごろ、だしを丁寧にとって、タイ【鯛】の吸い物を作った。母は一口食べて「珍無双」。この声を聞いた私は、ヘナヘナとなってしまった。 母はこの言葉を自分の父から、料理がおいしい時のほめ言葉として聞いてきたという。今年、自分の娘を叱咤激励(しつたげきれい)しようと復活させたのだ。夫も趣味を兼ねて始めたぬかみそを毎日かき回し、母の「珍無双」をうれしそうに聞いている。 今年も食の安全が大きく揺らいだ一年だった。母と暮らして食べることの大切さ、楽しさがよく分かった。」と投稿されたなかにその意味を述べている。この小林さん母の父親が伝えたというのだから江戸末期から明治に生きた人の食通人が口にしたことばであろう。この三字熟語の原点を探る愉しみを今残しておきたい。
 
 
2009年01月01日(木)晴れ。東京(八王子)→江東区(大島)
太平・泰平(タイヘイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

太平(―ヘイ)。泰平(同)。 〔元亀二年本137B〕

とあって、標記語「太平」「泰平」の語を収載する。訓みは「タイヘイ」、この「太平」乃至「泰平」の表記には意識的な相違はないのだろうか。鎌倉時代の古辞書三巻本『色葉字類抄』には、

大平 ――分/タイヘイ。 〔黒川本・他部畳字門E〕

とあって、「大平」の語を以て収載する。ここでは、「泰平」の標記語は未収載とする。二巻本『色葉字類抄』は未収載語。
 次に広本『節用集』には、

泰平(タイヘイ/ユタカ、タイラカ)[去・平] 泰與太同。 〔態藝門343A〕

とあって、標記語を「泰平」とし、語注記に「泰と太同じ」と記載する。
 この語義だが、小学館『日本国語大辞典』第二版に、

たい‐へい【太平・泰平】〔名〕@(形動)世の中がおだやかに治まっているこ と。世の中が静かで平和なこと。また、そのさま。*懐風藻〔七五一〕三月三日〈調老人〉「鼓腹太平日、共詠太平風」*家伝〔七六〇頃〕上(寧楽遺文)「朝廷无事、遊覧是好、人无菜色、家有余蓄、民咸称太平之世」*大鏡〔一二C前〕五・道長上「かばかり安穏泰平なる時にはあひなんやと思ふは」*色葉字類抄〔一一七七〜八一〕「大平 大平分 タイヘイ」*日葡辞書〔一六〇三〜〇四〕「テンカヲ taifeini(タイヘイニ)ヲサムル」*滑稽本・風来六部集〔一七八〇〕放屁論後編「段々太平の化(くは)にあまへ、世上一統金銀にのみ目()が付故」*史記‐秦始皇本紀「黔首脩潔、人楽同則、嘉保太平」A「たいへいらく(太平楽)」の略。*俳諧・類柑子〔一七〇七〕中・松の塵「夕顔の病人ふへて宿せばし〈其角〉 茶苑の太鼓泰平を打〈沾徳〉」*洒落本・寸南破良意〔一七七五〕髪結「そんなに太平(タイヘイ)をいふ事はなへ」*黄表紙・天道浮世出星操〔一七九四〕「むしゃうにたいへいのまきじたをあげ大いざをおこす」*洒落本・色講釈〔一八〇一〕「むかふのやなぎちゃア、せんど参会の時太平(ダイヘイ)がかった女だ」B「たいへいずみ(太平墨)」の略。*内局柱礎抄〔一四九六〜九八〕下「手文調様事、今案儀、手文筥用葛盖也。此中に硯〈小〉、筆〈二管〉、墨〈大平〉、補任歴名、位記、笏等納之也」*日本山海名物図会〔一七九九〕四・目録「松烟 灰墨、握墨、油煙、太平(たいへい)」C越前(福井県)から産出した厚紙。太平紙。【発音】タイヘ[0](0)【辞書】色葉・文明・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【泰平】文明・明応・天正・黒本・易林・書言・言海【太平】文明・饅頭・黒本・書言・言海【大平】色葉・ヘボン[小項目]―たいへい象(しよう)なし ―たいへいの逸民(いつみん) ―たいへいの功(こう)は一人(いちにん・いちじん)の=力(ちから)[=略(はかりごと)]にあらず ―たいへいの百石(ひやつこく)は戦場(せんじよう)の千石(せんごく) ―たいへいを並(なら)べる ―たいへいをぬかす

とあって、古くより用いられてきた言葉でもある。この語に類するのが「安危」「治乱」の語であり、やがて、「身を修め、心正しうして、意を誠にし、知を致し、物に格る。物に格りて知に至る。知に至りて意誠なり。意誠にして後、心正し」と……。即ち、事治まりて「天下太平」「天下泰平」の語を以て呼ぶにふさわしい時代が訪れるのである。
 
[ことばの実際]
江戸時代の徃来物に、堀流水軒の『泰平徃来』〔正暦四年刊〕がある。
 
 
 

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