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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 
 
 
 
2009年02月28日(土)曇り。東京(駒沢)
鶯の忘飼(うぐひすのわすれがい)」
 『塵荊鈔』巻第五に、「源氏物語之事」第五・花宴に「鶯の忘飼」なる語について記載した箇所がある。

宴。此卷ハ南殿ノ花盛ニ、帝東宮女御已下、花ニ戯レ月ニウカレ、夜遊管弦、様々ニ在テ、人静マツテ源氏藤壺辺リヲ窺フニ、扇ニ花折添テ差簪シ、朧月夜内侍過給ヲ、源氏掻抱キ三戸口草原ニテ仮ノ契アリ。御手ヲ取テ、ホダシモトニアリト、是ハ離レガタキト云事也。此巻ニ帯扇ノ顕ルヽ、枕袴也鶯ノ忘飼(ワスレガイ)ト云詞アリ。此忘飼トハ、鶯ノ巣ヲ立離時、親子ノ中忘ガタキニハ、母ノ口ニ土ヲ一ヅヽ(クヽ)ミテ飼、是ヲ云也。又女ノ男ニ難離時、口ヨリ物ヲ伝ヘリ。故ニ内侍是ニヨソヘテ源氏ノ御口ニ丁子吹入給。是ヲ云リ。〔古典文庫、上卷302頁〕

とあって、鶯の親子が巣離れする折りに為す態を人が男女の仲離れがたき時、女人が為す業として真似るという。離別の情は今も昔も変わらぬというものだが、今已上に一度別れを交わすと、今度何時逢えるかもしれない世の中にあって「訣別」の念は深かろうと考えてしまう。

 さて、この「鶯の忘飼」だが、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、「わすれがい【忘飼】」なる語は見えているものの、この語については未収載である。
※「三戸口」とは、「藤壷わたりを、わりなう忍びてうかがひありけど、語らふべき戸口も鎖してければ、うち嘆きて、なほあらじに、弘徽殿の細殿に立ち寄りたまへれば、三の口開きたり」〔花の宴〕。
 
[ことばの実際]小学館『日本国語大辞典』第二版
わすれ‐がい[:がひ]【忘飼】〔名〕四月の良い日に鷹を狩場に出して雌に合わせてからじゅうぶんに餌を与えて鳥屋(とや)に入れることをいう。《季・夏》*定家鷹三百首〔一五三九〕夏「春まてばもきつる物をはし鷹の忘れかひには女鳥をぞかふ」*俳諧・道の枝折〔一七七四〕下「春は、めとりをばかわぬ物なれども今とやへ入んとては飼て是を忘れ飼といふなり」

〈参考HP〉http://www.asahi-net.or.jp/~SG4H-HRIZ/dic/uguisu/uguisu.html

 

《回文》鶯の忘飼戀離れす倭の水宮(うぐいすのわすれがいこいがれすわのすいぐう)
 
 
2009年02月27日(金)雪雨。東京(駒沢)
枸神(クジン)」
 幸田文『かたな』に、「枸神(くじん)」なる語について記載した箇所がある。

奥庭は常磐木の庭で、隣家とのしきりは低い四ッ目を結()い、垣には蔓物(つるもの)が纏いついてい、毎春枸杞は勢いよくほき立って、その若芽のひたしものをたべるのが父の習慣であった。私は枸杞の若芽を摘んでい、父はそのそばをぶらぶらしながら、枸神(くじん)というものの話をしてくれた。古い枸杞の根には精が棲()んでいて、月明(げつめい)の夜ふけ、人気(ひとけ)のないときになれば地上に姿をあらわすのだそうである。狗(いぬ)のようなもので、人の形をしている小さいやつだという。そういう変なものの話に惹かれやすい私は、枸杞のひたしものを夕食にたべて気になってたまらず、本来ならば寝るべき時間にぐずぐずしていて父の刀の振る姿にぶつかり、枸神のことと一緒になって怯(おび)えたのをおぼえているからである。〔『みそっかす』岩波文庫134J〜135C〕

 この「枸神」だが、幸田露伴が娘文に話したことである。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には未収載の語である。露伴は、中国名物學系類の書物から学んだのであろうか?その典拠は探り甲斐がありそうだ。こうしたなか、下記に示した源順編『倭名類聚鈔』に、「本草に曰く、枸杞の根の下潤い黄泉、其の精霊の多くは犬の子を為す。或いは小兒を為す」とあって、本草書を繙きその功能を記す。本草とは、深根輔仁撰『本草和名』なる書にて、

枸杞 蒋孝苑注云――根下洞黄泉順抄其精霊多爲犬子或為小兒 一名枸根一名地骨一名苟忌揚玄操音起一名地輔一名羊乳一名却暑一名仙人杖一名西王母杖已上本條一名天精一名盧一名却老已上三名出抱朴子一名家柴字類象柴抱朴子紫一名杖霊一名却景一名天清已上四名出太清経一名挺一名地一名監木一名地忌已上出兼名苑一名都吾華也一名去丹子也已上出神仙服餌方和名奴美久須祢。〔上卷54ウF〕

とあって、順和名が依拠した内容がこの『本草和名』にも見えている。この部分を露伴は噛み砕いて娘文に聞かせたのであるまいか。だが、この精霊の名を「枸神」と呼称することの由来にまでは至らずじまいである。更に廣く読み進めていくことになろう。また国語学の目で見るとき、和名の万葉仮名表記の文字「美久須」から「美久」に置き換えて表記されていることに氣づくのである。
 室町時代の古辞書『下學集』も此の「枸杞(クコ)」の語と連関語である「仙人杖(せンニンデウ)」の語を所載はするが、その語註記は全く未記載となっている。
[関連語補遺]小学館『日本国語大辞典』第二版
く‐こ【枸杞】〔名〕ナス科の落葉小低木。本州、四国、九州の山野、とくに川の土手に多く生え、垣根に植えることもある。枝はよく分枝し黄灰色を帯び、群生して高さ一〜二メートルになる。葉は楕円形で数個ずつ集まってつき、しばしば葉腋(ようえき)に枝の変化した刺がある。夏、葉腋に、先の五裂した直径一センチメートルほどの漏斗状の淡紫色の花を開く。花後、長さ一・五センチメートルの長楕円形の果実を下垂する。果実は熟して赤色となり、乾燥したものを枸杞子(くこし)といい、強精薬として煎(せん)じたり枸杞酒にしたりする。根皮は地骨皮(じこつぴ)といい解熱剤に用いる。若葉は枸杞飯に、また茎葉は枸杞茶をつくって強壮薬にする。学名はLycium chinense 《季・春》 ▼くこの実《季・秋》*新撰字鏡〔八九八〜九〇一頃〕「杞 久己」*十巻本和名抄〔九三四頃〕一〇「枸杞 本草云枸杞根下潤黄泉其精霊多為犬子或為小児〈枸杞二音苟起沼美久利世間音久古〉」*名語記〔一二七五〕五「薬草にくこ、如何。杞とかけり。文字につきて、なづけたる歟」*俳諧・毛吹草〔一六三八〕二「三月〈略〉枸杞(クコ)」*料理物語〔一六四三〕七「くこ 汁、あへ物、に色、さしみ、もち、茶」*書言字考節用集〔一七一七〕六「枸杞 天精。羊乳。仙人杖。西王母杖。並同」*日本植物名彙〔一八八四〕〈松村任三〉「クコ オニグコ 枸杞 枸棘」*春秋左伝‐昭公一二年「我有圃、生之杞乎。〈杜注〉杞世所謂枸杞也」【語源説】クフキ(食木)の義〔日本語原学=林甕臣〕。【発音】〈なまり〉クク〔和歌山県〕〈標ア〉[コ]〈ア史〉平安◎●〈京ア〉[ク]【辞書】字鏡・和名・色葉・名義・下学・和玉・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・言海【表記】【枸杞】字鏡・和名・下学・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・書言・言海【杞】字鏡・色葉・名義【枸】和玉【図版】枸杞[子見出し一項目] *くこ摘()む
 
[ことばの実際]

枸杞 本草云枸杞苟起二音根下潤黄泉其精靈多爲犬子或爲小兒和名沼美久須利俗音久古抱朴子一名?櫨一名却老?櫨二音託盧〔元和三年古活字版二十巻本『倭名類聚鈔』巻二十・草木部第三十二、木類二百四十八24ウB〕

枸杞(クコ) 味苦 寒 去 葉キサメ〔龍門文庫蔵『藥種調味抄』木部上品〕
 
《回文》枸杞の実のゴク!(くこのみのごく)
 
 
2009年02月26日(木)曇り。東京(駒沢)
容刀(ヨウタウ)」
 室町時代の抄物『玉塵抄』に、「容刀」の語について記載した箇所がある。

何_以舟(ヲビシメン)ヲイ名之維_玉及瑶()峭岻(アサハイボウ)容-刀ナリ。舟ハ帯ナリ。ヲブルトヨウタソ。腰ニスル帯ノデハナイソ。佩(ヲブル)心ソ。身ニモツソ。ケ_点ニハヒヲイト(写本ノマヽ)ナイソ。ヲイタルモヲビタルノ心ソ。瑶ト云ハコノテリカヽヤクヲ玉ニ比タソ。峭岻カ上ニヲフルト。下ヱサグルトノカワリソ。下ノハ卑(イカ)ト云。卑ヲツクリニカイタソ。上ノハ奉ヲツクリニカイタソ。公州テダチノナリヲ云タソ。容刀ハ武ノ方ノ心ソ。刀ハ武具ナリ。容ノ字ノ心ハ詩ノ注ニモナイソ。容ノ心アラウソ。ハ_イホ_ウハ刀ノサヤノ上下ノカサリノ名ナリ。容ノ字ハ字書ニモナイソ汚ニコヽノ公州ノ容刀ヲノセタソ容ノ字ノハナイソ。曽不――作(タウ)音ハ刀。玉篇ノ舟ノ所ヲミルニ。アリ。下労ノ切。カウナリ。小舩也ト注シタソ。鴛{ト音モチカウタソ。曽不――ハ。ドノ詩ヤラ不考ソ。(エン)刀。耶(ヤヲ)為鈍ト号―ヲ為(トント)。〔玉塵四十六・第四巻482、35A〜〕

とあって、『字書』(『字鏡集』)、『汚』(『韻會舉要』)、『玉篇』(『大廣益會玉篇』)『鴛{』(『佩文韻府』)と云った資料名が用いられていて講述者の傍らには常日頃からこの種の資料が置かれていたことを物語っている。講述者はこれ等の資料を当然繙き読む。それが「字書ニモナイソ汚ニコヽノ公州ノ容刀ヲノセタソ容ノ字ノハナイソ。」「玉篇ノ舟ノ所ヲミルニ。アリ。下労ノ切。カウナリ。小舩也ト注シタソ。鴛{ト音モチカウタソ。」と云った文末「タソ(肯定)」と「ナイソ(否定)」体のことばで表現されている。
参考補遺
峭岻(ハイホウ)」…ハ_イホ_ウハ刀ノサヤノ上下ノカサリノ名ナリ。
 
《回文》(ヨウタウウタウヨ)
 
 
2009年02月25日(水)雨のち曇り。東京(駒沢)
温罨法(ヲンアンパフウ)」
 もう一つ「奄」の旁を構成する文字「罨」の熟語である「温罨法」なる語について紹介する。
 矢高行路「会話の不思議」〔国立国語研究所長西尾実編『日本語さまざま』筑摩書房刊32頁〕に、

「この目は決して冷やしてはいけません。いっしょうけんめいに温めてください。」といって、手まねまでして温罨法のやり方を教えて帰す。翌日来て、「目を冷すには氷を入れてもよいでしょうか。」と聞く。泣きたくなってしまう。

と用いられている「温罨法」なる医学用語について国語辞書である『新明解国語辞典』第五版に、

おんあんぽう【温罨法】温かい湿布をしたりして患部を暖め、炎症や痛みを止める治療法。温湿布。?冷罨法〔198-3〕

とあって、一文別語表記一語で、漢語の数は四語で構成された意義説明である。これに対し、岩波書店『広辞苑』第六版では、

おん(ヲン)‐あんぽう(パフ)【温罨法】温湯に浸した布片を用いて患部をおおう湿布(しつぷ)療法局所温熱を与えて充血を起こさせ、吸収を促して疼痛咳嗽(がいそう)を軽くし、去痰(きよたん)容易にする。温湿布。⇔冷罨法

とあって、この辞書の意味説明は、二文別語表記一語から成っていて、医学系の漢語が十二語も用いられた文となっていて少し硬い感じがする。現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

おん‐あんぽう[ヲンアンパフ]【温罨法】〔名〕温湯または硼酸水などの温湯に浸した布片で、局所をおおう方法熱刺激をあたえ循環系神経系病気好転自覚症状軽減をはかる。頸部胸部疾患炎症を伴わない腹痛などに有効。温湿布。冷罨法。*現代術語辞典〔一九三一〕「温罨法(オンアンポウ)」【発音】オンアンポー〈標ア〉[ア]〈京ア〉[ア]

とあって、ここで「温罨法」の初出用例が『現代術語辞典』となっている。「患部」の語を「局所」と置換えが見えている。
参考補遺
 
《回文》(ふぽんあんおくおんあんぽふ)
 
 
2009年02月24日(火)曇り。東京(駒沢)
(いれる)」
 乙川優三郎作『麗しき花実』〔「朝日新聞・小説」8、平成二十一(2009)年二月二十三日(月)生活13版〕に、

午後もまだ明るい時刻に兄が帰ってくると、彼女は茶を淹()て、奥山で買った浅草餅とともに供した。

とあって、「茶を淹れる」という「いれる」の表記字に「淹」の字が用いられている。国語辞書『広辞苑』第六版の見出し語「いれ・る」には「G「淹れる」とも書く)湯をさして飲物を作る。「茶を―・れる」」とし、『大辞林』第三版に「I(「淹れる」とも書く)湯を注いで飲み物をつくる。「お茶を―・れる」「コーヒーを―・れる」」とし、『新潮国語辞典』第二版は「八B(「淹れる」とも書く)飲めるようにして差し出す。「誰ぞに花を一つ―れさせて呉(くん)なな〔閑情末摘花一〕」」とし、『新明解国語辞典』第五版では「〈なに―〉湯を注いだり湯で煮立てたりして、飲めるようにする。お茶を出す。「△お茶(コーヒー)を―」[表記]は「〈淹れる」とも書く。」と孰れも「「淹れる」とも書く」という表記説明の文を添えて収載する。
 次に古辞書ではどのように扱われている訓なのかを繙くに、院政時代の観智院本『類聚名義抄』には、

 英廉 ヒサシオホフトヽム(マル)、ツヽマルトヽコホルアラフ[上上○]、又音奄(エム)雲状・、又去―穢之呉音又/アム、ヤフルヒタス[平・平・上]キヨシ〔法上三一B〕

とあり、更に永正本『字鏡抄』〔菅原爲長1158−1246の作傳〕上夲、水部十八にも

(エム アム)上・去、監ヒタスオホフトヽマルヒサシアラフキヨシヤフルツヽマル/マル、トヽム、イタル、ウルフ、スヽキ、ツク、トヽコホル、タツミ〔五段目〕

とあって、『名義抄』の訓を継承するなかで、「あらふ」の真名註記「又音奄(エム)、雲状。又去―穢之、呉音磯、又」と次の行替えした「アム」の訓は入れず、「イタル、ウルフ、スヽキ、ツク、タツミ」の訓を増訓している。そして、肝心な和語の自動詞「い・る」乃至、他動詞「いれ・る」の訓は未記載にある。江戸時代の『書言字考節用集』では、

(イルヽ)。()。()。()。〔巻八7オG〕

の四種の語に「いるる」の訓を示すに過ぎない。近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』には、

☆☆いれ・る(動)【入】入()る(下二段)の口語。

とし、「湯を注いだり湯で煮立てたりして、飲めるようにする。お茶を出す」意を表現した見出し語「い・る」は、

{いる・イル・イレ・イ・イ・イヨ(他動、上一)【沃】〔前條より移れる語か〕注(そそ)ぐ。すすぐ。あぶす。いかくる。*~代紀、上三十七「毎口沃入(イイル)」私記「以伊留」*榮花物語、三十六、根合「御(ニキミ)の事、なほおこたらせたまはねば、云云、水などいさせたまひてやよからむ、云云、御しつらひして、い奉る」*蜻蛉日記、中、中十七「面(おもて)に、水なむいるべき」*盛衰記、二十、石橋合戰記事「暗さは暗し、雨はいにいて降る」〔一-365-3〕

として、「い・る」の語として「湯を注ぐ」意にはほど遠いことが解る。更に、上田萬年・松井簡治共著『修訂大日本國語辭典』〔冨山房刊150E〕も同様の記載である。鎌田正・米山寅太郎著『大漢語林』〔大修館刊831A6015〕にも「淹れる」に相当する記載は見えない。

 已上のことから、「淹れる」の標記語は現代国語辞書群だけが「「淹れる」とも書く」と括弧内に補助記載する生活言語表記を拠り所に認知した語の一つとして見ておくことになった。

 
参考補遺〉「更級蕎麦(さらしなそば)」…「白くて上品なお蕎麦でしたが、気が張ってしまって、神田のほうはいかがでしたか」〔乙川優三郎作『麗しき花実』〔「朝日新聞・小説」8所載〕
○一 寒天の時分、天目茶碗に熱湯を入れば、ひびき(ひび割れ)出来(しゆつたい)する者也。先ず天目へ湯を少し入れ、早く廻して、早く捨て、二番目に湯をたぶたぶと入れて、静かにあたたむべし。〔『分類草人木』天目茶碗(永禄七(1564)年、眞松齋春溪(しんしようさいしゆんけい)筆録)→東洋文庫201『日本の茶書』1・平凡社刊〕
○夫からうちへ帰ってくると、宿の亭主が御茶を入れませうと云つてやつて来る。御茶を入れると云ふから御馳走をするのかと思ふと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飲むのだ。この様子では留守中も勝手にお茶を入れませうを一人で履行しているかも知れない。〔夏目漱石、直筆原稿『坊っちやん』117K〜118C〕
※築島裕編『訓點語彙集成』第一巻あ〜いの「いる」の項目当該表記にも「淹」の字は未収載。
《回文》流麗に湯を湯に淹れる(るれいにゆをゆにいれる)
 
 
2009年02月23日(月)雨。東京(駒沢)
蕪の漬物(かぶらのつけもの)」
 『蕪村忌の冩眞の裏に』〔「ホトトギス」雑誌第五巻第五號、明治三十五年二月十日碧梧桐記「消息」より、子規全集第十二巻随筆第二540頁〕に、

〔其一〕菩薩子喫飯來 オ前方腹ガヘツテ一句モ吐ケヌヂヤナイカ 不堪奪飢人之食盈空腹 コヽニ天王寺蕪ノ漬物ガアルコレデモ食ヒ給ヘ 翻吾頭上 咄 道()ヘ奈良茶三石ハ蕪ノ漬物ニイヅレゾ 道()ヒ得ズンバ三十棒 道ヒ得ズンバ三十棒

〔其二〕オ前ヒトリ連衆ハ無イカ、連衆アトカラ車デ来ル 好箇侶伴待チ合セテ共ニ行ケ。謹ンデ懐中ヲスリ取ラルヽナカレ。芭蕉蕪村是レ掏摸(スリ)ノ親玉

とあって、「蕪村」の「蕪」文字に併せて登場する「蕪(かぶら)の漬物(つけもの)」、近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、

{かぶ-ら(名)【根莖】〔かぶは、頭(かぶ)の義、植物は根を頭とす、らは意なき辭、らの條を見よ〕株(かぶ)の古言。植物の根の脹れたる處の稱。*倭名抄、十七十「蔓根、蔓、毛詩云(詩經、風、北風篇)貊寶菲、無(ナカレ)テスルコト下體、下體、根莖也、加布良」〔一-679-3〕

{かぶ-ら(名)【蕪】かぶらなの略。其條を見よ。〔一-679-3〕

{かぶら-な(名)【蕪菜】〔根莖菜(かぶらな)の義、かぶら(根莖)の條を見よ〕常に略して、かぶら、又、かぶと云ふ。菜の名。葉はあぶらなに似て大きく、根はだいこんに似て太く短し、種類多く、形、扁(ひらた)きあり、圓きあり、長きありて、皆、大小あり、近江蕪、最も大なり。煮、又は、鹽漬にして食ふ。かぶな。かぶだいこん。*康頼本草、下六「蕪、加夫良奈」*倭名抄、十七十「蕪、蔓、加布良」*宇津保物語、國讓、下十八「生薑(ハジカミ)、漬けたるかぶら堅塩(カタイシホ)ばかりして、云云、參りたり」*和玉篇「蕪、カブ、カブナ」〔一-679-4〕

と記載するように、漬物や煮物には打って付けの菜物であるようだ。ここにも「近江蕪」と引用が見えるように、栽培地名を冠にして表現する。例えば京都「聖護院蕪」なども有名である。その地域独特の蕪があって、その一つとして摂津「天王寺蕪」が引き合いとなっているのである。
[ことばの補遺]
畔田翠山著『古名録』巻三十八・菜部に「加布良倭名類聚鈔〔漢名〕本草〔今名〕カブラ。/〔一名〕蔓根〈割注略〉(カブラ)類聚雜要抄曰供御脇御齒固六本立云云蘿蔔(カブラ)宇治平等院御幸御膳生物五杯云云(カブラ)無青日本書紀〈已下略〉」〔764上右〕
新井白石編『東雅』第三冊・穀蔬に「アヲナ〈上略〉カブラといふ義不詳。大己貴~の、其父~の大野の中に射入れ給ひし鳴鏑を採りて奉られしといふ事。舊事紀古事記等に見えて、鳴鏑讀で又カブラといふなり。古語相傳しには。鳴鏑は。もとメカフラをもて作り出しければ、また名づけてカブラといふもいふなり。メカフラとは。海藻の根をいふ也。さらば古語にカブラと云ひしもの。蕪根をのみいふにもあらず。凡物の下體を云ひし也。 今俗は蕪根をのみ。カブラといひぬれど。古にはしかはあらず。蕪の根をもの根をも。又海藻根の如きをも。カブラとは云ひけり。倭名抄に。釋名を引て。箭足を鏑といふと云ふも見えたり。人の脚をコムラといふも。猶カブラといふが如し。カブラといひ、コムラといふは。轉語なり。」〔374F〕
《回文》蕪菜に蕪村、子規が忌辰ぞ、蕪に並ぶか(かぶらなにぶそんしきがきしんそぶにならぶか)
 
 
2009年02月22日(日)薄晴れ。東京(玉川〜駒沢〜東中野)
蕪村寺再建縁起(ブソンジ-サイコン-ヱンギ)」
 漫画、根岸庵子規作・一軸齋不折画『蕪村寺再建縁起』〔「ホトトギス」雑誌第四巻第四號、明治三十四年一月三十一日〕という書物がある。全文は、「あるところに三菓山蕪村寺といふおほでらありけるがとしふるまゝにすむ人もなくなりぬ。ほんだう(本堂)はやけ、しゆろう(鐘樓)はくづれ、くさむらおひしげりて、きつねたぬきのすみかとなりける。「この大たん()こぞうめ、おにひとくちにくふてしまふそ。「おのれ二つ目のばけものめ、此一つ目さまをしらないか。/こゝに俳阿彌といふあんぎや(行脚)のそう()ありて、かねてより蕪村宗しんかう(信仰)のこゝろざしあつかりけるか、あんぎや(行脚)のついでに蕪村寺にまうでばやとかぶら村にたちよりけり。三菓山とがく()をかけたるさんもん(山門)は、なほのこりをれど、おもひのほかにあれはてゝ、七だう()がらん(伽藍)はかげもとゞめざるに俳阿彌はうちなげきて一夜はそこにやどりける。その夜のゆめにおそろしきへんげ(變化)どもあまたあらはれいでゝ、俳阿彌をおどしけり。俳阿彌は蕪村寺さいこん(再建)のだいぐわん(大願)をおこし、もんぜん(門前)にむしろをしきてかねをたゝきつゝ、ゆきゝの人にくわんけ(勧化)をすゝめける。かぶら寺とはひごろよりなかあしかりける月なみ村のもの共これをにくみて、むしろばたおしたて、かぶら村におしよせ、俳阿彌をちやうちやく(打擲)なしける。かぶら村のもの共これをききてすくひにいでければことをさまりけり。「つきなみのてなみ、いましつたか。ポカン/\「いまにみろつきなみをたゝきこはしてやるから。蕪村經「如是我聞。蕪村佛在王城郭外一乘寺村金pク舎。講俳諧了。與諸佛弟子。食鰯頭時。鰯頭忽化爲徑尺大寶珠。光明遍照十方世界。諸佛弟子驚嘆不已。なんとありがたいことではないかチン。「このばう()さんはこんき(根気)のいゝばう()さんだ。いつとほつてもみてもおつとめをしてござる。どれくわんけ(勧化)につきませう。「ばう()さん、/\。このおあしはあめをかへといふてもらうたのぢやがおまへにしん()ぜませう。喜捨の淨財しだい(次第)にあつまりければ、蕪村寺さいこん(再建)にとりかゝりけるに、きつね・たぬき・いたち・かはうそなどきたりて、木をはこび、はしらをけづり、すべてのわざをてつだひけり。「きんだち(公達)にばけてはかよふはるのよのチンチテヽン。「きつ公たいへん(大変)のんき(暢気)にやつてるぜ。ちつといそがないと、ことしぢう()にはまにあうまい。蕪村寺さいこん(再建)じやうじう(成就)して七だう()がらん(伽藍)みごとにできたれば、十二月二十四日をもつて、蕪村忌をおこなふこととはなしける。「こんなおほきなふろふきはみたことがない。「すりこぎがおもたくてみそ(味噌)がすれない。かゝるところもんぜん(門前)にはかにさはがしく、たゞごとならずとみな/\おどろき、みそ(味噌)すりばうず(坊主)はすりこぎをかまへてようい(用意)などするほどに一むれのばけものをさきだて、月なみ村のもの共までこと/〃\くいできたり、をしやう(和尚)俳阿彌のまへにぬかづきて、ぜんぴ(前非)をくいかうさん(降参)のむねまうしける。「ばけものだけに、おひきたてをねがひます。かくて蕪村宗しんかう(信仰)の人、ひにつきにふえければ、蕪村太祇几董三ぞん()のひかり、よにかくれなく、三菓山のほとりさんけい(參詣)のものひきもきらぬこそめでたけれ。 風呂吹の蕪も百十八回忌 鳴雪/風呂吹をくふや蕪村の像の前 子規/蕪村忌を營む根岸草廬かな 四方太/風呂吹をくひ得て寂と坐りけり 碧梧桐/芭蕉はしぐれ蕪村は霰にこそ ?子」〔「子規全集」第十二巻随筆第二、講談社刊499頁〜506頁全文入力。※句読点は便宜上、入力者が付加した。〕※他に『俳人蕪村』〔講談社文庫〕所載。
 
 この正岡子規が題材とした「蕪村寺」だが、小学館『日本国語大辞典』第二版には全文未収載の語である故、ネット情報を以て茲に留めておくことにする。
[ことばの補遺]

蕪村寺(ブソンでら)http://user.shikoku.ne.jp/tendai/shoukai/myohouji/myohouji.htm

         http://www.busondera.com/buson/buson-1.html

《回文》蕪村寺再建縁起に金縁請い沙羅殿添ふ(ぶそんでらさいこんえんぎにきんえんこいさらでんそふ)
 
 
2009年02月21日(土)薄晴れ。東京(八丁堀〜広尾)
(トウニク)」
 室町時代の佛書抄物(漢文テキストの抄)の一つに『六物圖抄』〔永正五年、慧山自悦書〕に漢語名詞一七七四語の一つとして、

(トウニク)ハ?は磴モ同シ。小坂也。唐人ハ京ノヲモシロイ高イ処ヘ行テ木綿氈ナトヲ敷テ坐スル也。ソレヲト云ソ。〔42オH〕

とある語である。この『六物圖抄』に収載漢語の最多語としては「袈裟」の一〇二例が見えている。こうしたなかで、茲に取り上げた「褥」の語は上記の二例に過ぎない。だが、此語にはカタカナ表記による訓み仮名と語の意味を記載するという抄物ならではの二つの特徴が示されているのである。
 であるが、やはり日本語のなかに於ける漢語としては聊か特殊な語であり、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には勿論未収載の語なのである。この抄物研究は、謂わば中世日本語研究の立場から見るのであれば、それなりの成果語として扱われるのであろうが、この語自体は他の文献資料に波及しにくい一語と考えてよかろう。このなかで、「」の漢字は、「磴」でも同じ意を表現するとある。単漢字「磴」は、古字書では、観智院本『類聚名義抄』に、

土登反 石ハシ/イハヤ、マス[上・平]、イハヽシ[上・上・上濁・平] 〔法中11B〕

音嶝(トウ) サカ、キシ/サカユ、チマタ/ノホル、スク、ホトリ/アフク、和平 〔法中40D〕

とあって、「」には「サカ」の訓を所載するが、「磴」には未収載にある。
 また、小学館『日本国語大辞典』第二版に、

にく【褥・蓐】〔名〕@毛の敷物。しとね。*霊異記〔八一〇〜八二四〕中・一九「時に王、見て起ち、床を立て(ニク)を敷きて居ゑ、〈国会図書館本訓釈 蓐 爾口〉」*十巻本和名抄〔九三四頃〕六「 褥附〈略〉唐韻云褥〈而蜀反与辱同 俗音邇久今案毛席名也〉氈褥也」*梁塵秘抄〔一一七九頃〕二・僧歌「にくと思ひし苔にも初霜雪降り積みて、岩間に流れ来し水も、氷しにけり」*御湯殿上日記‐大永七年〔一五二七〕四月二〇日「大しやうしの御にくしきて、そのうへにゑんさ二まいしきて」A羚羊(かもしか)の異称。その皮が、敷物に適しているところからいう。*文明本節用集〔室町中〕「 ニク」*岡本記〔一五四四〕「うつぼにかけぬかはの事、にく、しま、牛、ねこのかは、からかはにはひつじ」【方言】@動物、羚羊。《にく》山梨県南巨摩郡463長野県005012岐阜県恵那郡498静岡県周智郡054磐田郡546奈良県吉野郡686和歌山県日高郡054東牟婁郡690徳島県那賀郡812高知県土佐郡866熊本県下益城郡930《にくしか〔─鹿〕》長野県上伊那郡・飯田市012滋賀県高島郡012《にくめ》石川県能美郡012A羚羊の肉。《にく》山梨県南巨摩郡464【語源説ニク(羚羊)の皮をしとねにするところから〔日本釈名・貞丈雑記・箋注和名抄・言元梯〕。【発音】〈ア史〉平安○○〈京ア〉[ニ]【辞書】和名・色葉・名義・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・書言・言海【表記】【】文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本【褥】和名・色葉・名義・言海【羚羊】易林・書言[小見出し1項目]にくの皮(かわ)

と云った具合に記載が見える。

 

《回文》国人は高々の方々は褥(くにうとはたかたかのかたかたはとうにく)
 
 
2009年02月20日(金)雨。東京(駒沢)
一角(ひとかど)」「人心(ひとごころ)」
 一休禅師の道歌に、

円くとも 一角(ひとかど)あれや 人ごころ あまりまるきは 転び易けれ

〔歌意〕世の中の人から、心持ちが円満な方だと褒められることは良い。だが、それだけであっては他人から馬鹿にされる。どこかきりりっとした面もなければならないという意。

 ※『譬喩盡』(天明六年1687)卷五には、

円(まる)くとも 一角(ひとかど)あれよ 人心(ひとごころ) あまりまろきは 転(ころ)び安(やす)きぞ 〔336下J〕

とある。近代の大槻文彦編『大言海』に、

ひと‐ごころ〔名〕【人心】(一)人の心。人閧フ精~。*後撰集、十八、雜、四「人心、たとへて見れば、白露の、消ゆるまも猶、久しかりけり」*藤原長能集「人心、うしとは思ひ、知りながら、さすがに物の、忘れ難さよ」*新六帖、五「人心、頼まれがたき、狐矢は、ただそのままに、また音ぞせぬ」(二)なさけ。情愛。人情*謡曲、班女「かたみの扇より、猶裏表あるものは、人心なりけるぞや」(三)よみがへること。いきかへること。ひとごこち。「人心がつく」〔四-61-4〕

ひと‐かど〔名〕【一角・一廉・一才】(一)一つのかど。一つのふし。ひときは。*津國女夫池(享保、近松作)二「御臺を殺し、大淀御臺に定まらば、一かど大名に取り立てる契約の印と、大判五十枚戴く、是れが證據」「ひとかどゆゑづけて」ひとかど爲出でて」(二)なみすぐるること。又、そのもの。一人前。一廉の人物」〔四-60-3〕

と記載し、この句の用例は未収載にする。
 現代の国語辞書『大辞林』〔三省堂刊〕に、

丸くとも一角(ひとかど)あれ 人間は円満だけでは十分とはいえず、しっかりした一面も必要である。

と記載する。同じく小学館『日本国語大辞典』第二版には、

ひと‐ごころ【人心】〔名〕@人の心。人間の精神。人間の気持。*後撰集〔九五一〜九五三頃〕雑四・一二六三「人心たとへて見れば白露の消ゆるまも猶久しかりけり〈よみ人しらず〉」*浄瑠璃・嫗山姥〔一七一二頃〕四「こだまに響く山彦も皆山姥が業なりと。思ふも見るも人ごころ」A特に、感情や欲望のある人の心。*謡曲・班女〔一四三五頃〕「形見の扇より、なほ裏表あるものは、人心なりけるぞや」*人情本・貞操婦女八賢誌〔一八三四〜四八頃〕二・一七回「若しも両家の御争ひと、なりましたらば其時は、隙(ひま)を窺ふ他心(ヒトゴコロ)、御家も危く御威光も、自然と薄くなります道理」B「ひとごこち(人心地)」に同じ。*金刀比羅本平治〔一二二〇頃か〕下・頼朝青墓に下著の事「漸(やうやうに)もてなしまゐらせければ、人心になり給ふ」*宇治拾遺物語〔一二二一頃〕一三・九「聖は、人心もなくて、二日三日ばかりありて死にけり」【発音】ヒトコロ〈標ア〉[コ゜]〈京ア〉【辞書】言海【表記】【人心】言海 [子見出し1項目] * ひとごころ付(つ)く

 

ひと‐かど【一角・一廉】[一]〔名〕@一つの事柄。一つの方面。一つの分野。*上杉家文書‐文明四年〔一四七二〕三月八日・雲照寺妙瑚書状(大日本古文書一・一五九)「上意年年無未進御進納之時者、一角も御申候て、御恩にも可被閣候」*西国立志編〔一八七〇〜七一〕〈中村正直訳〉五・三二「自爾詳慎精密にこの一項(〈注〉ヒトカド)を考察し」*歌舞伎・綴合於伝仮名書(高橋お伝)〔一八七九〕七幕「あいつは此の外にどんな悪事があるか知れぬ。ただ一廉(ヒトカド)で御所刑になるのは当時の有難さだ」ひときわすぐれていること。ひときわ目立つこと。*九州問答〔一三七六〕「又一かどある歌を有文と申と云説もあり」*古活字本毛詩抄〔一七C前〕一〇「錫は玄至をたまうと云ときに書たぞ。一かとあってものを下さるるときにかく字ぞ」*評判記・色道大鏡〔一六七八〕一五「江戸の三谷は遠国なれど、天下繁昌の地なれば、いかさまに一廉(カド)ありて大坂よりはまされり」A(多く「ひとかどの」の形で用いる)並以上に量の多いこと。相当であること。*仮名草子・東海道名所記〔一六五九〜六一頃〕一「一かどの勧賞にもあづからん」*浮世草子・日本永代蔵〔一六八八〕六・三「是から遣はせとは一廉(ひとカト)の礼銀五枚とさしづすれば」B(多く「ひとかどの」の形で用いる)並すぐれていること。また、一人前であること。*ゆく雲〔一八九五〕〈樋口一葉〉上「一ト廉(カド)の学問を研かぬほどは」*坊っちやん〔一九〇六〕〈夏目漱石〉六「向ふを一と角の人間と見立てて」[二]〔副〕相当に。相応に。人並みに。いっぱしに。*日葡辞書〔一六〇三〜〇四〕「Fitocado (ヒトカド)。すなわち、イッカド。〈訳〉副詞。おおいに目立って」*俳諧・毛吹草〔一六三八〕五「子日とて一かといはふ小松かな〈道二〉」*浄瑠璃・津国女夫池〔一七二一〕二「一かど大名に取たてるけいやくのしるしと」*苦の世界〔一九一八〜二一〕〈宇野浩二〉一・五「私が彼女とわかれともながってゐるのを、ひとかどたしなめるつもりかのやうにいふ」*暗夜行路〔一九二一〜三七〕〈志賀直哉〉一・一「君は一トかど悪者がって居るが」【語誌】(1)カドは「少しかどあらん人の、耳にも目にもとまること、自然多かるべし」〔源氏物語‐帚木〕に見られるように才能の意。このカドは、中世には衰退傾向にあったらしく、ヒトカドなどの複合語の構成要素に見られるのみになっている。(2)[二]の挙例「日葡辞書」にあるように、類義語にイッカドがあげられる。古く、ヒトカドとイッカドとどちらが優勢だったかは未詳だが、「和訓栞」に「いつかと俗語也逸才の義成へし」とあるところから、イッカドのほうが口語的であったと思われる。しかし、明治後期には挙例の「坊っちやん」をはじめ、ヒトカドの用例が多く見られるようになり、ヒトカドがイッカドにかわって一般語としての地位をえたものと推測される。【発音】〈標ア〉[0] [ト]〈京ア〉[ト] [0]【辞書】文明・饅頭・日葡・書言【表記】【一角】文明【一廉】饅頭【一稜】書言

と記載し、この古歌の用例は未収載とする。ただ、子見出しに、

まるくとも少(すこ)し角(かど)あれ 性格が円満なのはよいけれども、場合によっては少し角が立っている方がよいという意。

と類似する句を収載するに留まり、これは『諺苑』(春風館本・新生社刊)の「圓(マロク)トモ小(スコシ)角(カド)アレ」〔137下J〕に依拠する。この古歌の経緯(いきさつ)についての詳細については知ることができないのが現況である。
[ことばの実際]

照空はうなずく。「偉い人だったらしい、そうだ、こんなざれ歌を残してる……丸くとも一角あれや人ごころ、あまり丸きはころびやすけれ」、と八郎兵衛は呟く。〔時代小説・大栗丹後著『風をつかむ』名商物語/三井八郎兵衛・十二、315〜318頁・所収〕

 

《回文》円くとも少し角あれ人心、小言放れアド貸し越す元車(まるくともすこしかどあれひとごころこごとひれあどかしこすもとくるま)
 
 
2009年02月19日(木)薄晴れ。東京(駒沢)
鍋蓋に猫の髭(ブン・ふみ、実はあや)」
 幸田文『みそっかす』〔岩波文庫〕「最初の教育」の段に名前の漢字についての段がある。

八歳、就学。なんとなしに私は仮名は読めていた。入学前に父は私に、おまえの名は鍋蓋(なべぶた)に猫の髭と教えた。亠は鍋の蓋を目の高さに見たところ、は猫の髭だというのである。おもしろくて気に入った。幸という文字は瓦斯灯の形、田は田圃の通り。母のない私は三ツ違いの姉に連れられて入学式へ出た。〈中略〉名前が順々に呼ばれ、呼ばれたものは附添に手を引かれて整列する。「幸田ふみ」と呼ばれた。どきっとしたが、黙っていた。「幸田ぶん」と呼ばれた。まだ黙っていた。校長は遠い方をあちこち眺めわたしている。すぐそばにいた男の先生が、「そこにいるじゃないか」と私の手拭を指した。そのことばつきと指されたことに私はむっとした。烏のような顔だと思った。「ぶんじゃありません、あやです。」「あや?」「あやです。」「しっかりしてるわね」とうしろから聞えた。〈中略〉ひとは読みづらがるが私は鍋蓋に猫の髭という字も、あやという音のなめらかさも気に入っている。〔64頁F〜69A〕

とあって、「鍋蓋に猫の髭」という扁と旁に解字した字習いの作法は、大人が子供に授ける名前の漢字学習の手法の一例としてここに記述されている。

 このように、一つ一つの漢字の覚え方として文字を分解するという方法が有効なのである。因みに、

「慶」は、まだれ、コ、たてたて、一かぎ、こころ、ノ又。

「染」は、さぶロクジュウハチ。

「竜」は、たつたひんまげ。

といった具合に覚えて書くのである。

 

《回文》鍋蓋に猫の髭は文と書く。角屋泡下卑の捏ねに食ぶべーな(なべぶたにねこのひげはあやとかくかとやあはげひのこねにたぶべな)
 
 
2009年02月18日(水)晴れ。東京(駒沢)
螻蛄の水渡り(おけらのみづわたり)」
 幸田文『みそっかす』〔岩波文庫〕「おばあさん」の段に「おけらの水渡り」という語がある。

家へ帰るとすぐ拓本(たくほん)をくれて、「これを習え」といわれた。智永(ちえい)の『千字文(せんじもん)』だった。天地玄黄宇宙洪荒(てんちげんこううちゆうこうこう)と、いやな字がしょっぱなから並んでいる。私のばかでかい字が父をあやまらせたと思えば痛快だが、因果(いんが)はめぐり来って習字となっては、まことにあまり楽しくない。手本を見て一人で勉強したが、金出麗水(きんしゆつれいすい)あたりでおけらの水渡りになった。なまけてやらないので、父は機嫌をとるつもりで大きな硯(すずり)をくれたが、買収されなかった。硯より木登りの方がおもしろいからである。とうとう父は「『千字文』はしなくてもいいから、せめて永字八法(えいじはつぽう)だけはやれ」と厳命し、今度はそばについているから、なまけるわけに行かなくなった。〔四〇頁B〜H〕

という文章のなかで用いられている。幼い頃の書字学びとして『千字文』がテキストとして使用されていること、だが、幸田家では寺子屋のような所に学びに行かせるのではなく家庭内での学習、父親である露伴が師匠であった。この『千字文』の初めから終わりまで学ぶことは幼い児童にとって容易ならざるものがあった。各家庭ではこの習学を尤も大切な学びとしていたことも見て取れよう。作者幸田文は、一人で「金出麗水(きんしゆつれいすい)」の処まで身につけたというのだ。ここで「おけらの水渡り」になった諧謔的に表現する。この「おけら」なる語、現代の国語辞書『広辞苑』第六版を繙くと、

おけら(職人の隠語)ばか・間抜け・阿房(あほう)などの意。

おけら【朮】 ヲケラキク科の多年草。山野に自生。茎は下部木質。若芽は白軟毛を密にかぶる。高さ約60センチメートル。葉は硬く、縁にとげが並ぶ。秋、白色か淡紅色の頭状花を開き、周囲にとげ状の総苞を具える。根は健胃薬。正月用の屠蘇散とし、また、蚊遣(かやり)に用いる。若芽は山菜として食用。古名、うけら。天武紀(下)「―を煎(に)しむ」→おけら‐の‐もちい【朮の餅】→おけら‐まいり【朮詣り・白朮詣り】→おけら‐まつり【朮祭・白朮祭】

お‐けら螻蛄ケラの俗称。→けら【螻蛄螻】バッタ目ケラ科の昆虫。コオロギに似て、体長約三センチメートル。前肢は大きく、モグラのように土を掘るのに適する。夜行性で、よく灯火に来る。農作物を食害。土中で「じいい」と鳴く。これを俗に「みみずが鳴く」という。おけら。〈新撰字鏡(8)〉夏。俗に、無一文のこと。「―になる」

の三語が収載され、この世話慣用句は一体どの意味から用いられているのかを知るに至らないのが現況である。だが、世俗世話の語源であるとすれば、虫名「ケラ【螻蛄】」の生態観賞に基づく「泳ぐことはできるが長くは続かないことから、物珍しいうちは一生懸命にやるが、すぐに飽きてしまって放り出すようなことのたとえ」とした表現なのである。小学館『日本国語大辞典』第二版子見出しに収載する。その「けら」の語は古辞書には、「【螻蛄】和名・色葉・名義・下学・書言【娥畍】色葉・名義・易林【蛄】字鏡・名義【蛄】名義・和玉【石】名義・書言【螻】色葉【硯・螻螻・磚詭】名義【】和玉【土狗】書言」と収載する。
参考補遺〉桂小金治師匠(1926年10月06日生まれ)80歳に著書『ケラの水渡り』がある。
      金田一春彦の『日本語の特質』に諺として記載。
 
《回文》取り峠積み、野良気、螻蛄の水渡りと(とりたわづみのらけおけらのみづわたりと)
 
 
2009年02月17日(火)晴れ。東京(駒沢)
駆雲(くもをかる)」
 幸田露伴『雲のいろ/\』の段に「雲を駆る」という段がある。

支那の言葉づかひには、また我が邦のと異りたるおもしろみあるにや。灼然として雲を駆って白日を見る如し、といふ語の駆雲の二字の如きは、我が邦の歌の中には見がたきものなるべし。はらふといふにては駆るといふより弱くしておもしろからぬなり。

 中国の漢詩文に登場する「駆雲」の語は、日本語で云うと「(空を)駆け抜ける雲」と云った表現くらいだろうか。現代の『日本国語大辞典』第二版の見出し語には見えない語でもある。
 昨年の北京オリンピックの開会式セレモニーで、「“雲”駆け抜け点火/聖火走者飛ぶように」と題し、「ケーブルに宙づりになって登場した最終聖火ランナーは、1984年のロサンゼルス五輪・体操男子で3つの金メダルを獲得した中国の国民的英雄、李寧さんだった。スタジアム上方を360度取り囲むように設置されたスクリーンに「祥雲(めでたい雲)」が映し出され、その上をぐるりと飛ぶように駆け抜ける。聖火台の下から炎は一気に伝わり、北京の夜空を明々と照らした。」といった表現がこれであろうか。当に中国の「駆雲使者」であった。
 
[ことばの実際]
 ○張耒‐孫彦古画風雨山水詩「黒風走不停、驚電疾雨来如傾」
 ○李賀‐三月「光風転百余里、暖霧天地
類語〉「駆雲使者」「雲取り越」「雲取岳」
《回文》白雲を軽々、顔も黒し(しろくもをかるかるかをもくろし)
 
 
2009年02月16日(月)曇り薄晴れ。東京(駒沢)
蟹行書(かにギヤウシヨ)」
 夏目漱石は造語の名人だったという。どうも、このあたりを知るには彼の叙述した文章をただただ読むだけでは、その造語なるものの出現経緯が見て取れにくいのである。「電力」「校課」等の熟語を漱石は時に用いたのは確かである。であるが、時代用語を知る意味からこのようなことば表現を知るうえで、漱石自筆録『木屑録』所載の語は絶好なる明治時代の国語資料と云えよう。例えば、

而時勢一變、余挾蟹行書上于郷校、校課役々、不復暇講鳥迹之文、詞賦簡牘之類、空束之高閤

とあって、「蟹行書」なる語が用いられている。この意味は「蟹のように横這いに進む」という動作の特徴を西洋語である横文字の英語文章を喩えて「蟹行書」とここでは喩え表現する。

 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、見出し語「蟹行書」乃至「蟹行」は未記載の語である。いわば、洋学を断乎と嫌う漢学者たちが当代学問の道にあって「西洋の文書」とりわけ、「英語文」を学ばんとする学生たちにこのように譬喩表現していた可能性が秘められた氷山の一角として登場したことばである。明治初頭の「新造語」の一語である。これを裏付ける資料としては、漱石の友人であった正岡子規の『室内の什物』(明治32年4月31歳時に成る)のなかに、母方の祖父である藩の漢学者大原観山が子規に伝えた七言絶句中に「終生不読蟹行書」と用いていたという記述が見えている。子規と漱石の文物交流のうちには、こうした新たなる言い回しのことばも交わされていたやも知れない。
〈補遺〉「ジセイイッペン【時勢一變】〔句〕」「シフカントク【詞賦簡牘】〔句〕」
 
《回文》這う山羊に蟹行は(はうやぎにかにぎやうは)
 
 
2009年02月15日(日)曇り。東京(玉川〜経堂)
黄鳥(クワウテウ)」
 江戸時代の慶長古活字版『毛詩』〔京都大学付属図書館蔵清家本〕に「黄鳥」は、

黄鳥于_飛集(井ル)(クワン)-木ムラカリ生ス其鳴-[黄-鳥摶-黍(タンシヨ)ヒハリウクヒス也。灌-木?-木也。?-?。和ケル_聲之ク_聞(キコユル)者也。箋云葛延-蔓之時則摶-黍(タン   )飛_鳴。亦因以興焉。飛集(井ル)?-木興。女有于君-子之道ケル聲之ユル興。有之稱-船-方]〈頭書〉黄鳥也。又云鷦鷯(サウレウ)ミソサヾイ也。一名?云。一名楚雀。南海山中出ル紫寓密(ツグミ)大キナル鳥ナリ。黄緑背腹白眉有黒色。國中テ報春鳥(ウグヒス)。〔卷第一5オ@〜B〕

黄-鳥ヒハリウクヒス(ユキ)_飛集(井ル)灌-木-(カイカイタリ)[黄鳥摶黍也。灌木?木也。??和聲之聞者也。箋云葛延蔓之時則摶黍飛鳴亦因以興焉。飛集?木興女有嫁于君子之道和聲之聞興有才之稱方]〔卷第一5オ@〜B〕

とある。また、清家文庫蔵『毛詩抄』卷六にも、

交々― ウクイスソ。ヒハリト云義モアレトモ。マツウクイスソ。毛カ義ニハコヽニ。小鳥カアルカ。アケ飛。飛シテ。棘木ニ留タヨ。是ハ所ヲ得タソ。鄭義ニハ。交々然タル黄鳥カ。アソコニイタハ。鳥サシモ。タカモ。ヱコ又処ニ。イタイト云心ソ。ソコカ悪ケレハ。他所ヘ行ク。

と記載する。ここでは、「うぐいす」とも「ひばり」とも云う。だが、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

こう‐ちょう[クヮウテウ]【黄鳥】〔名〕@「こうらいうぐいす(高麗鶯)」に同じ。*碧雲稿〔一四一九頃〕寄友人「一声黄鳥百花裡 為春風独愁」*本朝食鑑〔一六九七〕六「〈略〉黄鳥」*篁園全集〔一八四四〕四・初春、過鹿浜吟舎「微風黄鳥樹、淡靄白鴎沙」A鳥「うぐいす(鶯)」の異名。《季・春》*本朝無題詩〔一一六二〜六四頃〕四・暮春偶吟〈藤原茂明〉「紅桃花落和風老。黄鳥声馴暖日長」*再昌草‐永正八年〔一五一一〕正月二九日「出黄鳥先聞否、凍蝶争知有暗香」*浮世草子・近代艷隠者〔一六八六〕三・五「しるよしの纐蛯尋ぬるさへに、烟のみして扉の岐も見へわかぬも有しに、はや黄鳥のなまり声聞程」*俳諧・折つつじ〔一七七二〕烏之賦「肉は鴻鴈の味もなく、声は黄鳥の吟にも似ず」*俳諧・蓼太句集〔一七六九〜九三〕三・春「黄鳥や亭坊去て客眠る」*卜居集〔一七九三〕上・懐荏土故人「白梅二月纔将破、黄鳥三春猶未啼」B金銭のこと。*蔭凉軒日録‐延徳四年〔一四九二〕二月一七日「吉井兵庫助持黄鳥来」【発音】コーチー〈標ア〉[0]

とあって、Aの「うぐいす」の異名として漢詩に用いられてきた語であるとするに留まるようだ。即ち、「ひばり」と解釈する用例を見出していないことになる。さらに、この「黄鳥」を所載する古辞書類が明記されていないことに氣づく。

 今、天理図書館蔵『節用集殘簡』〔写本一冊、岡田眞旧蔵の名彙の一種で、異本『快言抄』として翻刻所載する〕に、

鶯(ウクイス)。 黄鳥()クワウテウ。 黄()クワウリ。 黄鶯()クワウヲウ。〔八、鳥之類15〕

とあって、「うぐいす」の語として「黄鳥」の語を収載する。多くの『節用集』類には未収載の語である。更に『類聚文字集』〔刈谷市立図書館蔵〕には、

鶴(ツル)異名  黄鳥。仙客。昭仙。皐禽。〔28ウC〕

とし、「鶴」の異名に収載する例も見えている。

[ことばの実際]

子規黄鳥。堂賦子規一日姉帰詩疏幽州方言。黄鳥曰黄鴛〔『類説節要』全三册(天・地・人)(京都大学附屬図書館清家文庫藏)写本・三册、人172右E〕

 

〈補遺〉○細末ノ流浪人ノフラメキアルク物ソ

 

《回文》水宮の雲雀鳥ば火の鶯(すいぐうのひばりとりばひのうぐいす)
 
 
2009年02月14日(土)晴れ。東京(駒沢)
宵行(ほたる)」
 江戸時代の『書言字考節用集』に「ほたる」は、

(ホタル)[文苑彙雋]腐艸及爛休化。詳[本草][活法][万葉・順和名]c躍二音 音照 [文選]宵燭[古今註]丹鳥[大戴禮]宵行 俗用|恐クハレリ[毛詩註]――蚕夜_行下有光如螢〔巻第五氣形門46-D、388-5/6〕

とあって、この標記語のなかで最後の「宵行」の語註記に、「俗用|恐クハレリ[毛詩註]――蚕夜_行下有光如螢」とあって、「俗に此の字(宵行)を用ゆ。恐くは謬れり。『毛詩註』に、「宵行」は、蚕夜行ずるに喉の下、光り有らん、螢のごとし」と云う。この蚕が夜中に動き廻るとき喉の下を螢のように光らせるとの記述は實に興味をそそることがらである。
 
《回文》燻る夜ぞ戀か採る田圃に螢と蚕ぞ夜行く(くゆるよぞこひかとるたほにほたるとかひこぞよるゆく)
 
 
2009年02月13日(金)曇り。東京(駒沢)→「ことばの溜め池」(2000.03.10)参照。
緒由(あつかひをするゆへをしらず)」
 室町時代の『運歩色葉集』阿部に、

()(シラ)緒由(アツカイヲスルユヘヲ)慈照院殿此一条禅閤被尋申。禅閤答神祇第二之讀如此。〔元亀二年本263F〕

()(シラ)緒由(アツカイヲスルユヘヲ)慈照院殿此一条禅閤。禅閤答曰神祇第二之讀如此。〔静嘉堂本302D〕

とあって、「慈照院殿が此の字「不識緒由」の読みを一条禅閤にお尋ね申され、禅閤が答へて曰く「~祇第二に此れ在り。読み(「あつかひをするゆへをしらず」)かくのごとし」」と云う語註記を記載している。

 ※「慈照院殿」は、尭空本『節用集』の「當家御代之次第」に「慈照院殿贈大相國一品喜山大禪定門 義政延徳二年庚戌正月七日卒五十六歳御法名道慶多窓拜塔普廣院殿御子」〔239H〕とあって、「足利義政公」のことである。

 ※「一条禅閤」は、一条兼良(文明十三年八十歳卒)。

 この逸話は、当代のどのような資料に記録されていたのであろうか。また、この「不識緒由」を記載する「~祇第二」とは如何なる内容の言句の部分なのだろうか。ということを調べておく必要がある。その手始めとして單漢字「緒」の訓みを考察しておきたい。ここでは「アツカイ」と訓読する。 院政時代の観智院本『類聚名義抄』法中糸部五十九に、

 辞呂反 ヲ シ禾サ ツキ スヱ/アマル モトイ[平平上]〔法中133G〕

とあって、和訓@「ヲ」A「シワザ」B「ツキ」C「スヱ」D「アマル」E「モトイ」の六語を記載する。@は『和漢朗詠集』卷下雜・王昭君に「邊風(ヘンフウ)吹(ふき)断(たつ)秋心(あきのこゝろの)()。隴水(ロウスイ)流(ながれ)添(そふ)夜(よるの)涙(なんだの)行(カウ) 同(おなじ)〔紀〕」〔701〕『大唐西域記』に「吾承餘。垂統繼業。唯恐失墜。」「無妄去就。有虧基。凡有召命。」『文選』甘泉賦并序卷第七に「廣而開ケリ也。李奇曰。統也」〔2ウC〕とある。

 室町時代の『倭玉篇』糸部に、

(シヨ) イトグチ、ヲ、ム子〔442B〕

とあって、和訓F「イトグチ」@「ヲ」G「ム子」の三語を記載する。ここでも「あつかひする」の和訓を見ない。Fは現代の国語辞書である『大辞林』第二版(三省堂刊)に、

いとぐち 【糸口/緒】(1)糸巻き・綛(かせ)などの糸の端。 (2)物事の始まり。手がかり。「事件解決の―」「話の―」

と記載する。  

 足利義政公は、一条禅閤兼良に問うにあたり、逆熟語「由緒」の語を脳裏に描いていたやも知れない。この反対の「緒由」と表記され、「不識緒由」の句をどのような所で知り得たのか、この説話を伝える資料が何なのかまだ今もって霧のなかにある。

 

《回文》威喝、綾錦。尊き師にや扱い(いかつあやにしきとうときしにやあつかい)
 
 
2009年02月12日(木)晴れ。東京(駒沢)
鬣魚(たひ)」
 夏目漱石著『木屑録』(明治二十二年)〔直筆で読む、名著復刻漱石文学館・岩波書店刊〕に、

舟人曰、漁夫舟行十里、始能捕棘鬣魚、今此水距岸僅數丁、而斯魚群生、既竒矣、爭鰛不畏人、更竒矣。若夫濤礁相、風水相闘、則所至而有、安足爲竒哉、既捨舟歩抵于誕生寺觀其所藏書畫數十幅日蓮所最多僧云祖生時其家人得棘鬣二尾釣磯上明日亦得焉如以者七日自是土人以祖故不敢捕以魚又祟稱明~不稱其名有竊捕而食者焉必病瘧死。

〈訓讀文〉舟人曰く、漁夫は舟行すること十里にして、始めて能く棘鬣魚を捕らふ。今此水は岸を距てること僅かに數丁のみ。しかうして斯の魚、群生す。既に竒なり。鰛を爭うて人を畏れず。更に竒なり。夫の濤礁相み、風水相闘ふが若きは、則ち至る所にして有り、安くんぞ竒と爲すに足らんや。と既にして舟を捨て、歩して誕生寺に抵り、其の蔵する所の書畫數十幅を觀る。日蓮書する所のもの最も多し。僧云ふ、祖生まれし時、其家人、棘鬣二尾を得たり。磯上に釣りて、明日亦た得たり。此の如きこと七日、是より土人、祖の故を以て、敢えて此の魚を捕らへず。又祟んで明~と稱して、其の名を稱せず。或いは竊に捕らへて食ふ者あらば、必ず瘧を病みて死す、と。

〈補注〉「此水」…日蓮上人誕生の折、岸辺から清水が湧水し、濱一面に蓮の花が咲き乱れ、何處からともなく数え切れない大きな鯛が寄り集まってその誕生を祝って水面を飛び跳ねたという。また、大成した日蓮上人が拂子で海面に「南無妙法蓮華經」の題目を書写したとき、鯛が群生し、波上の題目をのみ込んでしまったという。因みに「真鯛」の壽命だが、四十年とも云う。老いた真鯛は色鮮やかな薄紅色から黒ずんだ色に変容する。冬になって水温が下がると冬眠し、春になって水温が一〇度前後になると、活?に動き、海老、蟹、小魚、烏賊、水母、海草を食とする。このため西欧では「バッド・ティスト(下品)」な魚として扱われてきた。

と云う。漱石二十三歳、第一高等中学校本科第一部の時の真名文である。ここに千葉房総の漁師が語った祖日蓮の誕生の地(天津(あまつ)小湊(こみなと)町妙(鯛)の浦、一九六六年に特別天然記念物に指定=捕獲・採集・狩猟一切嚴禁)のことと「棘鬣魚」の譚が録されている。この「棘鬣魚」の標記字を「たひ」に用いた資料を見ない。漱石は、この標記漢字をどのように習得していたのだろうか。江戸時代の『書言字考節用集』に「たひ」は、

(タヒ)[万葉、順和名]平魚()ヲヒラ[延喜式]紅魚() 〔巻第五氣形門59-A、401-2〕

と記載する。單漢字「鯛」、熟語漢字「平魚」と「紅魚」の三種の標記字を収載するに留まる。近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、

{たひ(タイ)〔名〕【】〔平魚(タヒラウヲ)の意と云ふ。延喜式に平魚(タヒ)とあり。玉篇に、魚名。崔禹錫、食經「鯛、似而紅鰭」とありて當れり。朝鮮にて道味(トミ)魚〕海産の魚。形、鮒に似て扁く、鱗、鬣、淡紅にして、潮を離るれば赤く變じ、鬣、殊に紅なり。同類に對して、眞()鯛、又、赤鯛、金鯛、金時鯛の名あり。古く、赤女(あかめ)と云へるもこれなり。肉白し。味は、春を最美とすれども、四時皆佳なれば、慶賀の魚の第一となす。大いなるは二尺餘に至る。又、相似て小さきをかすごと云ふ。鯛の類名、種類、甚だ多し。各條に註す。棘鬣*倭名抄、十九龍魚類「鯛、太比」*本草和名、下廿四「鯛、多比」*字鏡七十二「鯛、太比」*古事記上六十八「赤海(タヒ)」*仲哀紀、二年六月「時海魚多聚船傍」*萬葉集、九十八長歌「堅魚釣り、鯛釣りほこり、七日まで」*~樂歌、磯等前「いそがらさき、太比釣るあまの」〔三-263-1〕

とあって、類字表記に「棘鬣」の熟字を所載する。この標記字が漱石の『木屑録』所載の熟字と共通する。であるが、この標記字の典拠は示されていない。

 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

たい[たひ]【鯛】〔名〕@スズキ目タイ科に属する海産魚の総称。全長三〇〜一〇〇センチメートル。体は楕円形で著しく側扁する。頭と口が大きい。日本産タイ類では、体色は赤みを帯びるものと帯びないものがいる。ふつうは、淡紅色で体側に青色の小斑点の散在するマダイをさす。マダイは姿が美しく美味なので、日本料理では魚の王として重用し、「めでたい」に通じることから古くから祝いの料理に供する。マダイの代用にするチダイ、キダイのほか、ヘダイ、クロダイなど種類が多い。また、日本にはアコウダイ、キンメダイ、キントキダイ、スズメダイなど「…ダイ」と呼ばれるものが多いが、タイ科魚類とは類縁関係のないものや、近くないものが多い。*万葉〔八C後〕九・一七四〇「水江(みづのえ)の浦島の児が堅魚(かつを)釣り釣りほこり〈虫麻呂歌集〉」*神楽歌・小前張〔九C後〕磯良崎「磯良が崎に 太比(タヒ)釣る海人の太比(タヒ)釣る海人の」*十巻本和名抄〔九三四頃〕八「 崔禹食経云鯛〈都条反 多比〉味甘冷無毒似而紅鰭者也」*土左日記〔九三五頃〕承平五年一月一四日「楫取きのふつりたりしたひに、銭なければ米をとりかけておちられぬ」*御巫本日本紀私記〔一四二八〕神代下「赤女 鯛、安加目、太比(タヒ)」*雑俳・卯の花かつら〔一七一一〕「大名ものうら喰ふたびごろも」*博物図教授法〔一八七六〜七七〕〈安倍為任〉二「棘鬣魚(タイ)は其味の四時美なるにより調膳中の最上とす、周防の桜鯛と称するもの有名なり、此類甚多し」A大きな利益や、すばらしい財宝などのたとえ。「海老でを釣る」などの形で用いる。*雑俳・柳多留‐三二〔一八〇五〕「釣り上げて見れば魚編取れた」*雑俳・柳多留‐四七〔一八〇九〕「を釣る迄しんぼうの出来ぬ妻」B(膝にを抱えているところから)えびすの異称。*雑俳・柳多留‐一四〔一七七九〕「俵のついでに迄ぬすまれる」*雑俳・柳多留‐四四〔一八〇八〕「目出をとち万両で買ひ納め」C美女。また、美しく着飾った女性。*雑俳・俳諧?‐一五〔一八〇〇〕「かんざしで釣る中の」D酒の肴をいう、盗人仲間の隠語。〔隠語構成様式并其語集{一九三五}〕(「うまいもの」の意から)被害者をさしていう、盗人仲間の隠語。〔隠語構成様式并其語集{一九三五}〕【補注】「万葉‐一六・三八二九」に「醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗き合(か)てて(たひ)願ふわれにな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)〈長奥麻呂〉」とあるように、古くから食膳に供され、刺身で食されていたことが分かる。和歌では、「詞花‐雑上・二七八」に「花ををしむこころをよめる」として「春来ればあぢ潟(かた)の海(み)ひとかたに浮くてふ魚の名こそをしけれ」とあるように、鯛が春の産卵期に浅瀬に群集するのを「浮く」といい、その色彩から「桜鯛」とも呼ぶ。「桜鯛」は俳諧では、春の季語である。【語源説】タヒラウヲ(平魚)の義〔和句解・日本釈名・南嶺子・和語私臆鈔・円珠庵雑記・言元梯・名言通・紫門和語類集・大言海〕。ツラに気味があるところから、ツラヨシの反。または、ツラヘシの反〔名語記〕。えびすが釣る魚であるところから、メデタイの義か〔和句解〕。三韓の方言から〔東雅〕。イタヒラ(痛平)の義〔日本語原学=林甕臣〕。【発音】〈なまり〉テ〔鳥取・鹿児島方言〕テー〔埼玉方言〕〈標ア〉[タ]〈ア史〉平安〈京ア〉[タ]【上代特殊仮名遣い】青色は甲類に属し、赤色は乙類に属する。タ【辞書】字鏡・和名・色葉・名義・下学・和玉・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海

とあって、用例に『博物図教授法〔一八七六〜七七〕〈安倍為任〉二「棘鬣魚(タイ)は其味の四時美なるにより調膳中の最上とす、周防の桜鯛と称するもの有名なり、此類甚多し」と「棘鬣魚」の字例を初めて掲載する。さらに、

きょくりょう‐ぎょ[キョクレフ:]【棘鬣魚】〔名〕中国で、魚「たい(鯛)」の異名。*書南産志‐鱗属「棘鬣魚、似而大、其鬣如棘紅紫色」

という字音語の見出し語を示し、其の用例に明代成立の中国書『書』(七五四卷)『南産志』(上下二冊・寛延四年(一七五一)刊)を引用する。このように、本草學(博物学)系統の資料に「棘鬣魚」の用字を用いる傾向が見えてくる。明治時代の教育の場でも江戸時代と同様に、「マダイ」を表すのに「鯛]または、「棘鬣魚」の標記字が両用されてきたことにも拠るのであろう。そして、明治三十六年(一九〇二)に初めて国定教科書が制定され、その後の教科書では「たひ」の標記字が「鯛」に統一されるようになり今日に至るのである。
 
《回文》初女は眉目好し(しよめみはみめよし)
 
 
2009年02月11日(水)曇り。東京(駒沢〜大島)
・妍・婉・婬妖(みめよし)」
 『書言字考節用集』〔巻九言辭門39オFG〕に、「みめよし」の訓を標記する漢字として、次の「・妍・婉・婬妖」の四種の單漢字及び熟語を所載する。築島裕編『訓點語彙集成』には、此の語訓は全く見えていないのである。近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、

みめよ・し・キ・ケレ・ク・ク〔形、一〕【容貌佳・眉目佳】(一)容貌よし。容姿うるはし。*鷹筑波集(寛永)五「をごり極むる、玉だれの内」「みめよきに、ほれたる國は、傾きて」(二)鼬のまかげさす状なり。(みめ惡しをよしと反語に云ふかと云ふ)*犬子集(永正)十五「簾より、みめよき貌(かほ)を、さし出して、いたちばかりや、住める古宮」*吾吟我集(慶安、石田未得)六、寄鼬戀「情知らぬ、人をたぐへば、溝鼬、只みめよしと、云ふばかりなり」*醒睡笑(元和、安樂庵策傳)八「鼬眉目(みめ)よし、ま一度來い、顔見う、と世話に云ふ」〔四-518-4〕

とある。
 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

みめ‐よし【眉目好・見目好】[一]〔名〕顔かたちの美しいこと。また、その人。*愚管抄〔一二二〇〕四・後三条「なのめならぬみめよしにて、もてなされけるがうせて」*虎寛本狂言・鈍太郎〔室町末〜近世初〕「上京に美目よしの心よしを持っている程に」*俳諧・紅梅千句〔一六五五〕二・蝶「仙のいほりをとへる見めよし〈正章〉 鼬もや久米の山へとのほるらん〈政信〉」[二](眉目吉)狂言。大蔵流八右衛門派番外曲。器量のよい男を婿にとろうとしている有徳人のところに、眉目よしという名の不器量な息子を持った親が訪れ、いつわって顔が見えないように小袖をかぶせたままで息子を婿入りさせる。あとで、有徳人の娘は眉目よしの不器量な顔を見て逃げ出す。【発音】〈なまり〉メメヨシ〔山形小国・島根〕

とあって、鎌倉時代に用いられ初め室町時代頃に盛んに用いられるようになったことばである。人の容姿・容貌を美称することばであることが用例からも見て取れよう。とりわけ、女人乃至幼童に対して用いることばである。
 
《回文》本居宣長翁さん蛹を蛾なり法音も(もとをりのりながをきなさんさなきをかなりのりをとも)
 
 
2009年02月10日(火)晴れ。東京(駒沢〜高田馬場)
(さなき)」
 漢和辞書『廣漢和辞典』の金部を繙くと、「鐸」の字は、「すず」の意しか見えない。とある古書店にあったこの辞書の余白に鉛筆書きで「鐸サナキ=猿投(サナケ)、養蚕を営む古代のなかで蛹(さなぎ)が化して変容するを原意とし、この音の器に命名した」という主旨の書き込みが目に入った。 この「鐸」について、大槻文彦編『大言海』を繙くに、

{さなき〔名〕【】〔サは、鏘鏘(さやさや)のサにて、音()なり、なきは、鳴(なき)にて、音の立つ意、即ち。鏘鳴(さやなき)の約(齋塲(さやには)、さには)ぬりてと云ふも、音なり〕鐵製の、大なる鈴。ぬりて。ぬて。*古語拾遺「「令天目()一筒(ヒトツ)~、作雜刀・斧、及、鐵鐸。」註【古語、佐那伎。】」鎭魂祭式「鈴二十口、佐奈伎」二十口」*倭名抄、十三一佛塔具、寳鐸「鐸、大鈴也」同、十四十服玩具、鈴「鐸、今之鈴、其匡、以銅爲(ツクル)也」*名義抄「鐸、オホステ、ヌリテ、亦サナキ〔二-512-1〕

とある。『言海』では、擬音語「鏘鏘」に動詞「鳴く」の名詞化「鳴き」の語を合成した「さやなき」を語源とする。意味は「鉄製の大鈴」で、「ぬりて」「ぬて」とも呼称するとする。『大言海』の用例のうちには、古辞書として平安時代の源順『倭名類聚鈔』と院政時代の観智院本『類聚名義抄』が引用されている。『名義抄』で金部を繙くに、

鐸 音澤 オホ爪ヽ/ヌリテ ユヒマキ/ 和荼ク。〔僧上137G〜138@〕

と記載する。『大言海』の和訓表記「オホステ」は、「オホスヽ」の誤記であることが判明する。その後の「亦サナキ」なる肝心肝文の「サナキ」の語が未所載なのである。実際には、「ユヒマキ」と和音「タク」の語を所載するので、この「さなき」は『名義抄』からは得られないのである。
 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

さなき【鐸】〔名〕鉄でつくった大きな鈴。古代、祭式用として用いた。ぬりて。ぬて。*古語拾遺(嘉祿本訓)〔八〇七〕「瑞殿(みつのあらか)を造り、兼て御笠、及び矛(ほこ)(たて)を作る。天目一箇(あめのまひとつつの)神を令て、雑(くさくさ)の刀(たち)、斧、及び鉄(サナキ)〈古語佐那伎〉を作ら令む」*延喜式〔九二七〕二・神祇・四時祭「大直神一座、大刀一口、〈略〉佐奈伎廿口。〔傍書〕如戈之物也」【語源説】サナキ(細鳴)の義〔東雅・日本語源=賀茂百樹〕。サナケ(細鳴器)の義〔言元梯〕。サヤナキ(鏘鳴)の約〔大言海〕。サナキ(狭鳴)の義〔神代史の新研究=白鳥庫吉〕。サは接頭語。ナリは鳴の義で、単に鳴り物を意味した語〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。風鈴形をしており、舌が長く垂れ出ているところから、シタナガ(舌長)の義〔松屋筆記〕。【上代特殊仮名遣い】青色は甲類に属し、赤色は乙類に属する。サナ【辞書】言海【表記】【鐸】言海

とあって、古辞書である『倭名抄』すら未収載とし、『言海』を拠り所とするに過ぎない。この改編された『大言海』の用例記述をどう見定めたのかが問われてくる語である。そして、語源研究の立場から見るとき、「さなき」と蚕の「さなぎ」との接点がこれまで何処にも考察されていないこと、さらには、愛知県三河「猿投」という地名にも関与する語であることを考究することが今後の課題となってくる。
 
 
《回文》初歩が顔佳し(しよほかかほよし)
 
 
2009年02月09日(月)曇り。東京(駒沢〜広尾・新宿)
(かほよし)」
 顔が美しいことを表現する「かほよし」だが、現代語の用例としては「彼の娘は顔がよいからなぁ〜」と助詞「を」を挟む表現で用いられることがあってか国語辞典の収載方法として「かおよい」「かおよき」の語を見出し語として所載する辞書はないのが現況であろう。古語「かおよし【顔佳し】」の語として見出し語を収載する国語辞書としては、新潮『国語辞典』古語・現代語・第二版がある。用例には『宇治拾遺物語』を収載する。
 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、

かお よし 顔が美しい。容色がすぐれている。*万葉集〔八C後〕一四・三四一一「多胡(たご)の嶺に寄綱(よせづな)延へて寄すれどもあにくやしづしその可抱与吉(カホヨキ)に〈東歌・上野〉」*土左日記〔九三五頃〕承平五年二月四日「『たまならずもありけんを』と人いはんや。されども、『ししこ、かほよかりき』といふやうもあり」*大唐西域記巻十二平安中期点〔九五〇頃〕朱点「男を産みつ容貌(カホヨク)麗わし」*随筆・胆大小心録〔一八〇八〕一三一「よどの君もかほよきのみならず、色好むさがのありて」【辞書】字鏡・色葉・名義・下学・和玉・文明・黒本・易林・書言【表記】【妍】名義・下学・和玉・文明・黒本・易林・書言【】色葉・名義・文明・易林・書言【美】色葉・名義・和玉・文明【好】色葉・名義・和玉・易林【・麗】色葉・名義【・婉・・娥・娃】色葉【姪・・妖・奸】名義【・奸・・嫻・艷・】和玉【国色】書言 [74項目小見出し]かお置()かん方(かた)なし かおが合()う かおが厚(あつ)い かおが合()わされる かおが売()れる かおが利()く かおが障()す かおが染()まる かおが揃(そろ)う かおが立()つ かおが潰(つぶ)れる かおが通(とお)る かおが直(なお)る かおが花(はな) かおが広(ひろ)い かおが汚(よご)れる かおから火()が出()る かおが悪(わる)い かおで切()る かおで人(ひと)を切()る

とあって、「かほよし」の語で見出し語に漢字表記を所載しないが、古辞書の【表記】欄を語収載の頻度順にして示すと、

A@『色葉字類抄』………【】【美】【好】【・麗】【・婉・・娥・娃】

BA『名義抄』……………【妍】【】【美】【好】【・麗】【姪・・妖・奸

CB『倭玉篇』……………【妍】【美】【好】【・奸・・嫻・艷・

DC文明本『節用集』……【妍】【】【美】

ED易林本『節用集』……【妍】【】【好】

FE『書言字考節用集』…【妍】【】【国色】

GF『下學集』……………【妍】

HG黒本本『節用集』……【妍】

となる。また、單漢字の所載頻度で見るに@「妍」は、B・C・D・E・F・G・Hと七本に収載が見え、Aの『色葉字類抄』だけが未収載となる。所謂、此語に対する單漢字を尤も多く収載するなかで特異な様相を看取する。『日国』第二版用例からは、訓点語資料として、唯一引用の佛典『大唐西域記』巻十二平安中期点〔九五〇頃〕に此を見るに留まる。
 A「」は、A・B・D・E・F。B「好」は、A・B・C・E。C「美」は、A・B・C。D「」は、A・B。E「麗」は、A・B。F「卿」G「」H「」I「婉」J「」K「娥」L「娃」/M「姪」N「」O「妖」P「奸」/Q「」R「奸」S「」?「嫻」?「艷」?「」/?「国色」は、各々一例ずつの所載である。茲に所載の漢字は二十四種であるが、この他にも別表記がまだあろうが、この基本文字種を以て次に文献資料のなかではどのように用いられているのかが氣になる。かな・カナ、万葉仮名の表記をゼロ用例とし、此等の訓みを有する作品を見ていくことになる。とりわけ、古辞書に複数見える單漢字である@「妍」A「」B「好」C「美」D「」E「麗」の六字がまず中心となる。
 昨今、築島裕編『訓點語彙集成』第二巻〔う〜か670頁〜671頁〕に収録された@「妍」の資料に、『大唐西域記』巻十二平安中期点朱点、『成唯識論』〔寛仁四年、石山寺〕、『大?盧遮那經疏』〔寛治七年・嘉保元年、仁和寺〕、『大?盧遮那經疏』〔保安元年、東寺金剛蔵〕を収載する。この資料収載を以て『色葉字類抄』の編者は此資料を目にすることなく編纂を終えたことが推定できることになる。謂わば、三書の利用が無いと云うことであれば、他の訓にもその結果が得られよう。後日確かめたい次第である。室町期成立以降の古辞書群は、『書言字考節用集』〔言辭門巻八加部35ウF〕の註記が示す『古今韻會舉要』からの引用と成る。A「」の資料に『法華經音訓』(版本)〔至徳三年、東洋文庫〕の一書を収載する。これも『倭玉篇』が未収載であることから、編者が此の資料を加えていないことを推定できることになろう。B「好」の資料には、『三教指歸』巻中〔院政初期、高山寺〕26オ3、『大?盧遮那經疏』〔保安元年、東寺金剛蔵〕F99、『三教指歸注集』〔長承三年、大谷大學〕B30ウ1、『醫心方』〔天養二年、東京国立博物館・お茶の水圖書館(成簣堂文庫)〕?3-7、『史記』秦本紀〔天養二年、東洋文庫〕22、『三教指歸』〔久壽二年、天理圖書館〕29ウ2、『史記』殷本紀〔建暦元年、高山寺〕18、『遊仙窟』〔康永三年、醍醐寺〕28ウ、『史記抄』〔東京帝國大學〕の九書に収載する。C「美」の資料には『三教指歸注集』〔長承三年、大谷大學@45オ5〕の一書に収載する。『色葉字類抄』『名義抄』『倭玉篇』の拠り所の書であったかを推定させる。D「」の字は未収載で、『色葉字類抄』『名義抄』の二辞書の拠り所は不明となる。E「麗」の資料には、『日本書紀』巻第十四(雄略紀65-5・79-8)、『日本書紀』巻第二(~代紀下12ウ7・16オ7)の二書に収載し、『色葉字類抄』『名義抄』の二辞書の拠り所となる。これに「カホヨキモノ」の訓を有する『三教指歸注集』〔長承三年、大谷大學@45オ5〕が加味されよう。後、『色葉字類抄』だけが収載するJ「」の資料には、『三教指歸』〔久壽二年、天理圖書館〕が相當する。そして、『倭玉篇』だけが収載する?「艷」の資料には、『日本書紀』巻第十三(允恭紀・安康紀22ウ)が相當する。『書言字考節用集』〔言辭門巻八加部35ウG〕だけが収載する?「国色」の資料には、『日本書紀』巻第二(~代紀下6ウ6)が相當し、註記の『舊事紀』と合致している。
[ことばの実際]
二巻本『世俗字類抄』に「好(カホヨシ) 美」〔加部人事門上57オA〕とあって、「好」と「美」の二字を収載する。
琥珀(コハク),松-脂()入千-年而所スル色( ロ)如。ケ夫人(トウフジン)。傷(ヤブル)瞼(マナジリ)。以琥-珀屑(スリクツ)滅(ケス)痕(アト)。其ノ_面愈(イヨイヨ)美()(カホヨキ)_也(ナリ)。〔元和三年板本『下學集』器財門103EF〕※『下學集』は標記語「琥珀」の註記語として「妍」の語を収載する。『運歩色葉集』にもこの標記語と語註記を有するが、「〈前略〉ケ夫人傳瞼(ホウニ)。滅(ケス)瘢痕也」とあって、文末部の註記内容を異にし「妍」の語は未収載とする。
 
《回文》()
 
 
2009年02月08日(日)晴れ。東京(駒沢)
へへののもへじ(=へのへのもへじ・へのへのもへの)」
 太宰治『人間失格』(一九四八)〔直筆で読む「人間失格」集英社新書165F〕に、

早くこのひと、帰らねえかなあ、手紙だなんて、見えすいてゐるのに。へへののもへじでも書いているのに違ひないんです。〔「展望」六月号ろ号152〕

とあって、太宰は、「へへののもへじ」と表現しているのである。
 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

へのへのもへじ〔名〕「へへののもへじ」に同じ。*父の詫び状〔一九七八〕〈向田邦子〉鼻筋紳士録「私達にしたところで、へのへのもへじを描いても、日本人の顔になる」【発音】〈標ア〉[モ] 〈京ア〉[ヘ]〈3〉

へへののもへじ〔名〕文字の遊戯の一つ。平がなの「へへののもへじ」の七字で人の顔を描くもの。へへののもへいじ。へのへのもへじ。*彼女とゴミ箱〔一九三一〕〈一瀬直行〉小型映写機「お手本をすっぽりだして、半紙の上にへへののもへじを書いてゐました」【発音】ヘヘノノ=モヘジ〈標ア〉[ノ]〈1〉=[0] [モ]〈京ア〉[0]

とあって、「へのへのもへじ」「へへののもへじ」の二語を収載する。だが、関西地方の人が描く「へのへのもへの」は未収載にする。更にまた、「へめへめくつじ」、「へめへめしこじ」、「へねへねしこし」「しにしにしにん」などがこの種の絵文字として知られている。
 
《参考HP》へのへのもへじの描き方 http://www.d1.dion.ne.jp/~shibuki/pc/heno.html
へのへのもへじ やーい(斉唱:楽譜) http://shop.tokyo-shoseki.co.jp/shopap/10002259.htm
10億人が楽しめる手描き文字絵http://mojieken.cocolog-wbs.com/ld/cat4181187/index.html
http://www.youtube.com/watch?v=deLuSsiuJcw
 
《回文》「へへののもへじ」も繪文字繪物の畫、へ(へへののもへじもえもじへもののへへ)
 
 
2009年02月07日(土)晴れ。東京(駒沢〜立川)
ラヴ・レター(「恋文」「艶書」訳語)」
 太宰治『人間失格』〔直筆で読む「人間失格」集英社新書164I〕に、

自分もまた、知らん振りをして寝てをればいいのに、いかにもその娘が何か自分に言つてもらひたげの様子なので、れいの受け身の奉仕の精神を発揮して、実に一言も口をききたくない気持なのだけれども、くたくたに疲れ切つてゐるからだに、ウムと気合ひをかけて腹這ひになり、煙草を吸ひ、「女から来たラヴ・レターで、風呂をわかしてはひつた男があるさうですよ」「あら、いやだ。あなたでせう?」「ミルクをわかして飲んだ事はあるんです」「光榮だわ、飲んでよ。」〔「展望」六月号ろ号151〜152〕

とあって、洋語「ラヴ・レター」の語を収載する。この話しのやりとりについては、恋文を燃やして風呂のたきつけとするのと、ミルクを沸かすたきつけの差が妙で乙なのである。
 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

ラブ‐レター〔名〕({英}love letter)恋文。艷書。*舶来語便覧〔一九一二〕〈棚橋一郎・鈴木誠一〉増補「ラブ レター 艷書Loveletter(英)」*波〔一九二八〕〈山本有三〉父・二・一〇「それは駿から女学校の生徒に出したラヴレターだった」*陰獣〔一九二八〕〈江戸川乱歩〉一一「日出子(ひでこ)の家(うち)へは毎日の様に愛読者の青年からのラブ、レターが舞込むさうだ」*卍〔一九二八〜三〇〕〈谷崎潤一郎〉二「何しろMさんの坊々は光子さんの器量にあこがれてラブレター寄越したくらゐやのんですから」【発音】〈標ア〉[レ]〈京ア〉[レ]

とあって、標記語を「ラブ-レター」とするものの、其の用例には、山本有三『波』のように「ラヴレター」と表記した例をも同じく記載する。太宰治は「ラヴ・レター」であって、このカタカナ表記については、更に見ていくと面白い結果が期待できると考えている。因みに、ネットGoo検索で,
  @「ラブレター」…A174,000件。
  A「ラブ・レター」…A183,000件
  B「ラヴレター」…A190,000件
  C「ラヴ・レター」…A185,000件
と云った数値データを確認した。現在では「ラヴレター」が一番多く用いられているようだ。
《類語表現》艷書(えんしよ)。けそうぶみ。つやぶみ。恋文。恋の文(ふみ)。
[ことばの実際]
 本邦初の外来語辞典と言われている棚橋一郎・鈴木誠一共編『日用舶来外語便覧』〔大正元(1912)年、光玉館刊〕に、「ラヴする(love)」という「ヴ」標記語を所載する。〔楳垣実著『日本外来語の研究』〔研究社刊〕86頁〜87頁参照〕
佐藤紅香w恋二題』〔1909〕葛西善蔵『暗い部屋にて』〔1920〕賀川豊彦『死線を越えて』〔1922〕大泉黒石『俺の穢多時代』〔新川惣兵衛著角川『外来語辞典』(昭和42(1967)年)1429頁参照〕
《回文》ラブレター艶の文恋の文と壬生の彦壬生の奴ー垂れぶら【ラブレターつやのふみこひのふみとみぶのひこみぶのやつータレブラ】
 
 
2009年02月06日(金)晴れ。東京(駒沢)
モチ(「勿論」の略語)」
 太宰治『人間失格』〔直筆で読む「人間失格」集英社新書317D〕に、

「モチよ。」 モチとは、「勿論」の略語でした。モボだの。モガだの、その頃いろん略語がはやつてゐました。〔「展望」七月号ほ号303〕

とあって、略語「モチ」は「勿論(もちろん)」。そして「モボ」、「モガ」の略語については一切説明していなのである。この「モボ」とは「モダンボーイ」。「モガ」は「モダンガール」の略語であり、大正期から昭和初頭の頃、西洋文化の影響を受けて新しい風俗や流行現象が登場し、この先端的な若い女たちを指して外見的な特徴からこう呼んだのである。この略語の原形である「もちろん【勿論】は、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

もち‐ろん【勿論】[]〔名〕(議論の余地がないの意。多く副詞的に用いる)言うまもなく自明であること。無論。*名語記〔一二七五〕九「この義、勿論なるべし」*慶本平家物語〔一三〇九〜一〇〕一本・山門衆徒内裏へ神輿振奉事「山門の御訴訟、運之条、勿論に候」*ロドリゲス日本大文典〔一六〇四〜〇八〕「Mochiron(モチロン)すなわち、ロンズル コト ナカレ」*ロザリオの経〔一六二三〕「シガイヲ ハウムル デワ ソノ ラッソク タエズ mochiron(モチロン)ヒモ キエザリシナリ」*洒落本・華通情〔一七九四〕「『貴公見たか』『もちろん見升た』」[]〔副〕程度のはなはだしさまを表わす語。大いに。大変。たくさん。*滑稽本・通者茶話太郎〔一七九五〕二「向えらい妙妙妙、勿論古雅でどうもいへぬ」【発音】〈標ア〉[チ]〈史ア〉室町・江戸〈ア〉[0]【辞書】文明・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【論】文明・天正・饅頭・黒本・易林・書言・ヘボン・言海

とあって、室町時代の古辞書広本『節用集』(文明本)を筆頭に、所載を確認する語である。用例とても鎌倉時代の語源書『名語記』に引用が見えるのである。そして、この語を略語とした現代語の現としてこの「モチ」が登場するのだが、『日国』第二版では略語の記述は見えていないのが現況ある。だが、『広辞苑』第六版には、

もち(俗語で)「もちろん」の略。

とあって、略語として更に俗語としてこの「もち」の語を収載する。
 
《回文》予知もモチよ【よちももちよ】
 
 
2009年02月05日(木)曇後晴れ。東京(駒沢)
金の切れめが縁の切れめ(かねのきれめがエンのきれめ)」
 太宰治『人間失格』〔直筆で読む「人間失格」集英社新書184D〕に、

金の切れめが縁の切れめ、つてのはね、あれはね、解釋が逆なんだ。金が無くなると女にふられるつて意味、ぢやあ無いんだ。男に金が無くなると、男は、ただおのづから意気銷沈して、ダメになり、笑ふ声にも力が無く、さうして、妙にひがんだりなんかしてね、つひには破れかぶれになり、男のはうから女を振る、半狂乱になつて振つて振つて振り拔くといふ意味なんだね、[可哀さうに金澤大辞林といふ本に依ればね、可哀さうに。僕にも、その気持わかるがね。」〔「展望」六月号ほ号171〕

とあって、この解釈を国語辞書「金澤『大辞林』」に依拠すると作中の私に語らせている。この「金澤『大辞林』」は、金澤庄三郎博士の『辭林』として三省堂から明治四十(一九〇七)年に上梓、同四十四年に改訂、大正十四(一九二五)年に大改訂され、『廣辭林』と改称、その新訂版が昭和九(一九三四)年に刊行されてきた。であるからして、金澤庄三郎博士編の『大辭林』は存在しない。この小説上の架空の国語辞書となる。そして、三省堂の『大辞林』だが、「(三省堂 )編。中型辞書。『広辞林』の改訂版では岩波書店の『広辞苑』に対抗できないと認識した三省堂が、倒産をはさんだ二十八年間の歳月を費やして編纂したもので、編纂者は松村明で昭和六十三(一九八八)年に初版を刊行したのだから、太宰治が『人間失格』を昭和二十三(一九四八)年に完成した時には存在しない国語辞書の名となる。この文中の「大辞林」を金澤庄三郎編『小辞林』(三省堂 1928年刊)の上位辞書『廣辞林』と勘違いしていたとすることも考えられよう。そこで、手許にある『廣辞林』でこの語を繙くと、

金の切れ目が縁の切れ目]金があるうちはおだてあげもてなすが、金がなくなれば用はない。〔373頁三段目〕

とあって、太宰治が作中で説く意味内容の記述は見あたらないことが見えてくる。太宰自身、国語辞書を編纂すればこう書くのだという意思が表出した場面ではなかろうか。因みに現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版では、

かねの切()れ目()が縁(えん)の切()れ目() 金銭上の利益がそれ以上見込めなくなった時が人間としての付き合いも終わる時だ。金銭がなくなったとたん愛想が悪くなる。*人間失格〔一九四八〕〈太宰治〉第三の手記「お金が、ほしいな〈略〉金の切れ目が、縁の切れ目、って本当の事だよ」

とあって、子見出しに所載し、その意味内容の記述は男女の仲にまでは波及していないが、用例としてはこの作品を収載している。人の運命を変えるのが「縁」であれば「円」(=お金)にも波及するのやも知れない。
[ことばの実際]
 
《回文》女歴暢衣が女歴の値か金の切れ目が縁の切れ目【めれきのんえがめれきのねかかねのきれめがえんのきれめ】
 
 
2009年02月04日(水)曇り後晴れ。東京(駒沢)
脛に傷持つ身(すねにきずもつみ)」
 太宰治『人間失格』〔直筆で読む「人間失格」集英社新書147H〕に、

また、俗に、(すね)に傷持つ身、といふ言葉もあるやうですが、その傷は、自分の赤ん坊の時から、自然に片方の脛にあらはれて、長ずるに及んで治癒するどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨に達し、夜々の痛苦は千変萬化の地獄とは言ひながら、しかし、(これは、たいへん奇妙な言ひ方ですけど)その傷は、次第に自分の血肉よりも親しくなり、その傷の痛みは、すなはち傷の生きてゐる感情の囁きのやうにさへ思はれる、そんな男にとつて、れいの地下運動のグルウプの雰囲気が、へんに安心で、居心地がよく、つまり、その運動の本来の目的よりも、その運動の肌が、自分に合つた感じなのでした。〔「展望」六月号ろ号134〕

とあって、この「(すね)に傷持つ身」のことばの説明叙述を繰り広げている。
 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

すね に 疵(きず)() 隠している悪事がある。自分の身に後ろ暗いことがある。やましいことがある。脛疵。足にきず持つ。*洒落本・青楼昼之世界錦之裏〔一七九一〕「びゃうぶのうちへはいるひゃうし、ふでのかさをぴっしゃりふんでびっくりせしも、すねにきす持人心也」*人情本・花筐〔一八四一〕三・一四回「ハハハハハそりゃアお前、(スネ)に疵(キズ)もちゃだアな」*歌舞伎・富士額男女繁山(女書生)〔一八七七〕二幕「(スネ)に疵(キズ)()こなただから、こいつあ一緒に帰られめえ」

とあって、子見出し「すねに疵(きず)()」として江戸時代の用例を以て収載する。
[ことばの実際]
脛(すね)に創(きず)あれば笹原(ささはら)走(はし)る[諺](創―キヅ)身にうしろぐらい事のあるものは、笹原を吹きすぎる風の音にも驚いて、走ってすぎるという意。[類]心の鬼(おに)が身を責()める。〔満留辰夫編『故事成語諺語辞典』一歩社、昭和二十九年刊125頁上段〕※能「歌占」に「身より出せる科(とが)なれば心の鬼の身を責めて」。
 
《回文》花の蜜も好きにね脛に傷持つ身の名は【はなのみつもすきにねすねにきずもつみのなは】
 
 
2009年02月03日(火)晴れ後曇。東京(駒沢) ―節分―
きりきり舞ひ(きりきりまひ)」
 現役力士大麻所持現行犯逮捕日本相撲協会再び騒然!力士を育成する親方衆は緊急理事会を開くと将に「きりきり舞い」と云う渦中の状況にある昨今の不祥事のニュース。この「きりきり舞い」の語だが、太宰治『人間失格』〔直筆で読む「人間失格」集英社新書217E〕に、

間一髪、「ほんとうかい?」 ものしづかな微笑みでした。冷汗三斗、いいえ、いま思い出しても、きりきり舞ひをしたくなります。〔「展望」六月号ろ号204〕

とあって、自身の僞りの所業を見抜かれた瞬間、主人公が感じた過去を思い出してのこのような所為におかれていると述懐する表現である。辞書では『広辞苑』第六版に、

きりきり‐まい(まひ)【きりきり舞】@非常な勢いで回ること。せわしく立ち働くさまにいう。「忙しくて―をする」A相手のはやい動きについて行けず、うろたえて動くさま。「速球に―する」

とあって、標記語「きりきり舞」を収載する。

 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

きりきり‐まい[:まひ]【─舞】〔名〕片足をあげて体を勢いよくまわすこと。また、そのように、忙しくあわてふためいて立ち働いたり、困難にぶつかってあわてたりすること。てんてこまい。〔東京語辞典{一九一七}〕*僕の帽子のお話〔一九二二〕〈有島武郎〉「帽子のやつ〈略〉酒屋の天水桶に飛び乗って、そこでまたきりきり舞ひをして桶のむかふに落ちたと思ふと」*今年竹〔一九一九〜二七〕〈里見ク〉前・五「盃のなかには、いつか蚊が一匹落ちてゐて、扇風機の風に帆かけ船のやうにキリキリ舞ひをしてゐる」*死と日本人〔一九五九〕〈高橋義孝〉三・三「絶え間のない訪客の応接にきりきり舞いをしている主人」【方言】@連続して激しく回ること。《ぎりぎりまい》兵庫県赤穂郡661A忙しいこと。てんてこまい。《ぎりぎりまい》兵庫県赤穂郡661《きいきいも》鹿児島県鹿児島郡968《きゃあきゃあまえ》島根県仁多郡725Bものにつまって難儀するさま。《ぎりぎりまい》福岡県企救郡875C虫、みずすまし(水澄)。《きりきりまい》広島県高田郡779大分市941《ぎいぎいめ》鹿児島県966《ぎぎいも》鹿児島県054《ぎりぎりまわり〔─回〕》島根県隠岐島741D頭などを打たれて目がくらみ、気が遠くなること。《きりきりまい》宮城県仙台市123【発音】〈なまり〉キツキリマイ〔飛騨〕キイキイメ〔鹿児島方言〕〈標ア〉[リ]〈2〉〈京ア〉(リ)〈2〉

とし、初出用例を一九一七年の『東京語辞典』に置く。
[ことばの実際]
《回文》大麻力力がきりきり舞いだ【たいまりきりきがきりきりまいだ】
 
 
2009年02月02日(月)晴れ後曇。東京(駒沢〜新宿) 映画「禪ZEN」鑑賞
日蔭者(ひかげもの)」
 太宰治『人間失格』〔直筆で読む「人間失格」集英社新書146B〕に、

日蔭者、といふ言葉があります。[みじ]人間の世に於いて、みじめな、[悪徳]敗者[]、悪徳者を指差していふ言葉のやうですが、自分は、自分を生れた時からの日蔭者のやうな気がしてゐて、[]世間から、あれは日蔭者だと指差されてゐる[一□]程のひと[なら誰でも]と逢ふと、自分は、必ず、優しい心になるのです。〔「展望」六月号ろ号133〕

とあって、漢字表記にて「日蔭者」と三度用いている文章である。この「日蔭者」ということば表現について、『広辞苑』第六版に、

ひかげ‐もの【日陰者】@おもて立っては世の中に現れ出られない人。世をかくれ忍ぶ人。A世に知られず立身しない人。

とあって、標記語の漢字表記を「日陰者」を以て収載しているに留まる。『新潮国語辞典』には「日蔭者」「日陰者」両用の表記字を以て収載するといった差異を心得ておきたい。。

 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

ひかげ‐もの【日陰者】〔名〕@世をかくれ忍ぶ身の上の人。公然と世に立ちまじわることのできない人。特に、めかけ、私生児、前科者などをいった。*評判記・名女情比〔一六八一〕五「曾我は日影者なれば、まづしき事たとへんかたなく」*浮世草子・武家義理物語〔一六八八〕六・二「身をおもふ日影者(ヒカケモノ)の何くへも道せまく」*縮図〔一九四一〕〈徳田秋声〉素描・一二「日蔭者の母親が羨ましがったほど幸福ではなく」A世の中から認められない人。世に埋もれて出世しない人。*仮名草子・大仏物語〔一六四二〕下「牢人は日陰者(ヒカゲモノ)こそ幸なれ。天下動乱の時はいんとん山居をもしたらんは何よりおもしろかるべし」*地獄の花〔一九〇二〕〈永井荷風〉二「云はば日蔭者にされて了った其影響は」*俳諧師〔一九〇八〕〈高浜虚子〉四五「自分は学校を途中で退いた日蔭者である」【発音】ヒカモノ〈標ア〉[0]〈京ア〉[0]

とあって、表記字を「日影者」「日陰者」「日蔭者」の三様に表記し、江戸時代の頃から用いだした語であることが判る。
 
《回文》日蔭者の世の中に假名の四も褻が日【ひかげもんよのなかにかなのよんもけかひ】
 
2009年02月01日(日)晴れ。東京(駒沢)
疊鰯(たたみいわし)」
 太宰治『人間失格』〔直筆で読む「人間失格」集英社新書230G〕に、

自分はそれに答へず、卓上の皿から疊鰯(たたみいわし)をつまみ上げ、その小魚たちの銀の眼玉を眺めてゐたら、醉ひがほのぼの発して来て、遊び廻つてゐた頃がなつかしく、堀木でさへなつかしく、つくづく「自由」が欲しくなり、ふつと、かぼそく泣きさうになりました。〔「展望」七月号ほ号216〕

とあって、漢字表記に傍訓して「疊鰯(たたみいわし)」と見えている。『広辞苑』第六版に、

たたみ‐いわし【畳鰯】イワシの稚魚を生のまま抄()いて薄い板状にして天日で干した食品。軽くあぶって食す。東海地方の特産。〔写真:畳鰯〕

とあって、用例は未記載にする。
 現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版に、

たたみ‐いわし【畳鰯】〔名〕カタクチイワシの稚魚を生のまま、海苔をすくようにして葭簀(よしず)の上に並べて天日で乾し、一枚の網状にした食品。*俳諧・毛吹草〔一六三八〕四「伊予〈略〉宇和嶋鰯 畳鰯 黒漬 赤いはし等」*咄本・万の宝〔一七八〇〕煤掃の朝寝坊「景物 八人前に草箒 たたみ鰯」*料理早指南〔一八〇一〜〇四〕三「干物魚類調理の部〈略〉畳鰯(タタミイハシ) 是は白すといふ魚の干たるにて」*滑稽本・東海道中膝栗毛〔一八〇二〜〇九〕三・上「時にこの吸物はなんだ。たたみ鰯(イワシ)のせんば煮か」*重訂本草綱目啓蒙〔一八四七〕四〇・魚「〓魚、いさざ〈略〉うすく板のごとく拵へ乾たるを、しらすぼし 江戸、と云又たたみいはし 同上、と云」【発音】〈標ア〉[イ]〈京ア〉[イ]【辞書】言海【表記】【畳鰯】言海

とあって、江戸時代の俳諧『毛吹草』の頃から用いだした語であることが判る。
 
HP参照資料》『語源由来辞典』図絵は新聞広告「たたみいわし」〔昭和五十四年キッコーマンより〕
 
《回文》下手芝居見ただけ畳鰯食べ【へたしばいみたたけたたみいはし】 
 
 
 
 
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