[9月1日〜9月30日]
ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
1998年9月30日(水)晴れ
コミニュティ― 若者目立ち 何するぞ
「仏事」と「法事」
新明解『国語辞典』第五版によれば、
ぶつじ【仏事】仏教に関する行事。法事。法会(ホウエ)「ーを営む」
ほうじ【法事】死者の冥福(メイフク)を祈るために、忌日(キニチ)に行う仏教の行事。
とある。「仏事」には、「法事」も内包されているが、逆に「法事」には、「仏事」は内包されないのである。
室町時代の古辞書『下学集』と広本『節用集』における「下火〔アコ〕」の注記記載内容にこの差異が見られる。
「下火 二字共
ニ唐音也。禅家ノ葬礼ノ之法事ナリ也。火ノ字或ハ作‖炬ノ字ニ|」<元和本『下学集』九三@>「下火
カクワ/シタ・ヒ二字共唐音也。葬ノ佛事也。火ノ字或ハ作‖炬ノ字ニ|」<広本『節用集』態藝門七六七B>『下学集』編者は「禅家の葬礼の法事なり」とし、これを広本『節用集』編者は「葬の仏事なり」と注記しているのがそれである。葬儀の仏事のひとつとして法事が営まれるのである。
1998年9月29日(火)晴れ
ゆったりと 走る姿に 婆手振り
「故障」という語
室町時代の古辞書『下学集』に、
拒障 辞退
ノ之義也。或ハ作∨故誤歟。<元和本九三F>と「故障」の語が顔を見せる。実はこの「故障」だが、同じく「コシャウ」と読む「拒障(辞退の義なり)」の文意に用いられるところに誤って表記されるというものである。
この誤りを『下学集』編者は意識し、示唆しているのである。ところが、この『下学集』に多大な影響を受けている古辞書である『運歩色葉集』および広本『節用集』には、
「拒障 辞退之義也」<静嘉堂本『運歩色葉集』二六九B>
「拒障
コバム・サヽウ 辞退義也」<広本『節用集』態藝門六九〇B>と、一切この点を触れずじまいにあるということなのである。両書とも『下学集』の「A或
ハ作∨Bニ誤歟(非義歟)」の形態を意識していない。このため、「故障」の語を注記しないのである。この『運歩色葉集』と広本『節用集』における改編のなかで『下学集』編者とは異なる「故障」の表記に対する何等かの規範意識がここに働いていると見てとりたい。言い換えれば、『下学集』編者は、当代における「故障」という誤字表記表現をここで示唆してくれているのだが、後者の古辞書二書においては、この点を支持できないということなのだろうか。この注記が未記載で省かれている点をどう理会すればよいのであろうか。現在、「コショウ」という発音で表現されるのは、「故障」の語であり、意味は「そのものの内部の機能が不調になったり、外部からの事情に左右されたりして、進行が止まったり、正常な働きを失ったりすること。「機械がーする/ーが入る/ーが相次ぐ/ー〔異議〕を申し立てる/ー車」」<新明解『国語辞典』第五版>と用いられている。
[
補遺]『庭訓徃來註』正月十五日の状に、自他
ノ故障不慮之至也 言ハ无∨故有∨碍リ義也。〔謙堂文庫藏七右E〕とある。
1998年9月28日(月)曇り道内晴れ。大阪〜岩見沢
ねむけ顔 起きてそそくさ 後片付け
「気がつけない」
サンデ―毎日(10月4日号)連載、斉藤綾子さんの“エロスのレシピ”36に、
嘘じゃないって。ズゴバゴ抜き差しばかりしていると、そういう微妙な膣の変化に気がつけないのよ。ひょっとしたら彼女も、イッてる時って気持ちが良過ぎて、自分の体がそうなってるのを知らずにいるかもしれないけどさ。
という表現のなかで、象徴語の「ズゴバゴ」ともう一つ「気がつけない」ということばが目についた。通常、「気がつかない」とは表現するのだが、自身の立場からか「気がつけない」というのだろう。ともかく、あまり目にしない表現だと思うのだが、如何なものであろうか?
1998年9月27日(日)曇り午後晴れ。村岡町<第一回村岡ダブルフル・ランニング大会>
声援の 拍手喝さい 山をゆく
「秋桜」
「秋桜」とは、メキシコ原産の「コスモス」の和名読み「あきざくら」で、古い命名なるものと思っていたら、実は第二次世界大戦中に敵国語使用を避けて創作されたことばのひとつであった。野球用語の和名読みと事を一にする。「コスモス」の渡来はいつのことかと気を揉んでいる。
俳人水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)さんの「秋桜子」は、いつからこの名を名乗ったのかもこの語の起源を知る手がかりにもなろう。
1998年9月26日(土)曇り。美方町・村岡町<第一回村岡ダブルフル・ランニング歓迎祭>
大会に 集う人らに 笑顔あり
「丸型ポスト」
田舎にいくと、今は失われてしばらく見なくなっているものに再会する。そんな一つに“郵便ポスト”の丸型というものがある。私の住む岩見沢でも角型ポストが主流になっているくらいだ。あの丸型ポストは、明治34年(1901年)に起源を求めることができる。この考案は、山口県の指物師という。素材は鋳物で、寿命は30年ぐらいだという。この丸型ポストが大事に大事に残っていることで、古い郷愁が蘇ってくる。ここから100年間変わらず便りを送り託すのは、どんなに心のこもった大切なことかということかもしれない。まもなく100年を迎えるものの一つである。各都道府県にいくつずつあるのかを知りたいところだ。
1998年9月25日(金)曇りのち雨。大阪経由兵庫県美方町移動日
傘マーク 空の裂け目ぞ 列島雨
「欠測」
昨日24日の札幌の最高気温だが、「欠測」ということばが用いられている。気象観測における温度を観測できなかったということを意味することばと思うのだが、国語辞典にはみえないことばである。全国の気温と天気の札幌の欄は、ただ「―」線で示してあるが、北海道12版の“きのうの気温と天気”は、最高「欠測」とする。気温は午後3時までの観測結果を示すのが通常である。そして、社会面に“おことわり”「札幌管区気象台で二十四日、観測機器の点検・移動が行われ、札幌の最高気温が欠測になりました。」とその事由についても「欠測」の語が用いられている。「不測」でなく、「欠測」というようだ。私の向かう兵庫県美方町は台風7号以降、雨が続いていて、関西方面は、雷雨とのことである。
1998年9月24日(木)曇りのち雨。
秋雨や どんより降るに 町外れ
「四猿」
秋の読書は、楽しい。じっくり読む間もない日がら、棚の書籍を拾い読みする。そのなかで、古典文学、無住『沙石集』に、次の文章が目を留めた。『沙石集』巻第五末に、
或人、世ノツネニハ三ノ猿ヲタモツ。道人(だうにん)ハ四猿ヲタモツベシ。其中ニ殊ニタモツベキハ、不ル∨思ハナリト云(いふ)心ヲヨメル。
イワザルトミザルトキカザル世ニハアリ。思ハザルヲバイマダミヌカナ
若シ、思ハザルヲタモチナバ、三ノ猿ハ自(おのづか)ラヤスクタモチヌベシ。
また、これと類似する話説が『雑談集』巻四に、
「先年目ノヤマヒニ、ツヤツヤタヽズ、耳ハ久ク不∨聞ヘ侍候マヽニ、思ツヾケテ(略)イハザルミサルキカサルヨリモナヲ不∨思ハコソタモチカタケレ。不ル∨言ハ不ル∨見不ル∨聞カ。見惑易キコト∨断ジ。如シ∨破ルガ∨石ヲ。思惑難キコト∨断ジ。如シ‖藕糸ノ|云々」
と見える。通常は、「みざる、きかざる、いわざる」の「三猿」であって、この象徴は、日光東照宮の造形彫り物として世に知られている。が、ここにもうひとつ「おもわざる」を付加して考えているところが興趣を誘うのである。道人は、この「四猿」を保つというところにある。
1998年9月23日(水)秋晴れ。<秋分の日>
空高く 森の木々にや 音も清み
「ひがんばな【彼岸花】」
秋のお彼岸の時分に田の畦や土手などに鮮やかな紅いに群れ花咲く「彼岸花(ひがんばな)」を、「まんじゅしゃけ【曼珠沙華】」「テンガイばな【天蓋花】」と呼称する。この花、鱗茎に有毒成分をもつが、その煎汁は薬用ともなる。この毒性を意識してか「どくばな【毒花】」、これを舐めてか「にがばな【苦花】」「したまがり【舌曲り】」ともいう。この汁にまけてかぶれることから「かぶればな【被花】」「ヒゼンばな【皮癬花】」ともいう。野山を遊びの場とする子供たちにとって、この時分、格好の遊び具となる。女の子は、茎の部分から手折って2cmおきぐらいに皮部を残して首飾りにしたり、男の子は、竹棒を振りまわして花の首を切り落としてまわったりした。だが、大人にして見れば、この花、秋のお彼岸の時分に咲き出すこともあってか、「ソウレイばな【葬礼花】」「ジュズばな【数珠花】」「ボンばな【盆花】」「しびとばな【死人花】」「ユウレイばな【幽霊花】」ともいう。この呼称のうちには、「ホトケさんの花」だとか「死んだ人が道標とする花」、「花の色が血を連想させる」、「また墓場などに多く生える」ところからだと言って、花そのものをお年寄が触ることを忌み嫌ってきた経緯があることからも肯けよう。また、京阪では、「カジばな【火事花】」といって、この花を家に持ち帰ると火事になるといって嫌う。どの家でも庭にこの花を植えることもしない。
江戸時代の越谷吾山『物類称呼』に、
石蒜 しびとばな○伊勢にて・せそび 中國及武州にて・しびとはな又ひがんばな又きつねのかみそり。上総或は美作にて・いうれいばな又ひがんばな 越後信濃にて・やくびうばな 京にて・かみそりばな 大和にて・したこじけ 出雲にて・きつねばな 尾州にて・したまがり 駿河にて・かはかんじ 西國にて・すてごばな・肥ノ唐津にて・どくずみた 土佐にて・しれい又しびと花又すゞかけと云又・まんじゆしやけと云有 種類なり <岩波文庫86頁>
と収録し、現在でも呼称され続けている名もいくつか知れる。このなかで、学研『国語大辞典』には、異称「きつねばな」を収載する。
同じく江戸時代の寺島良安『倭漢三才圖會』にも、
石蒜 しびとばな/まんしゆしやけ・シツソワン。鳥蒜。老鴉蒜。水麻。蒜頭草。〓〔浦+女〕々酸。一枝箭。俗云 死人花。又云 彼岸花。 曼珠沙華。東?「本綱石蒜下濕ノ地ニ有リ∨之。春ノ初生∨葉如ク蒜ノ穂及山慈姑ノ葉ノ背有テ‖剣睿〔シノギ〕四散シテ布ク∨地ニ。七月苗枯ル乃干テ‖平地ニ|抽出ス。一莖ヲ如シ‖箭〓〔竹+幹〕ノ|。長サ尺許莖ノ端開∨花ヲ四五朶六出紅色ヲ如ニシテ‖山丹花〔ヒメユリ〕ノ状|而辨長黄芯長鬚其狼ノ状如シ∨蒜ノ皮ノ色紫赤ク肉白シ。此花開テ後ニ乃生ス∨葉。葉花不‖相見|也。同シ‖山慈姑ニ|」<山草類1277頁>
と収載する。この記載内容でも分るように葉と花の時期を異にすることから、「みずはなみず」ともいう。
実際、この花の後草を刈り取って家畜の餌にもし、球根を掘り出して、よく水で曝した上で粉にし、膏薬として用いたりもした。荒歳時には、澱粉を団子にして食用にもしている。
1998年9月22日(火)雨のち曇り、夜半再び大雨。
台風に 追われ終われて 秋暮らし
「だてら」
接尾語「だてら」には、身分相応という境界意識が根強くあって、この分際を超えての行動や言動を非難・軽蔑する意を持っている。置換類語表現に漢語「分際」や同じく接尾語「くせに」がある。
この「だてら」とは、どういった出自のことばなのだろうか?古くは、王朝物語である『狭衣物語』一に、「法師だてらかくあながちなるわざをし給へば、仏の憎みて、かかる目も見せ給ふなり」と見える。この物語を読むと、「かくあながちなるわざ」とは、太秦に篭っていた女人が牛車を借りたのをみて便乗し、その女人を拉致してしまう。世俗を離れ、仏道修行の身にある僧侶にふさわしくない淫らな行動を「法師だてら」すなわち、「法師の分際で」とか、「法師のくせに」と非難・軽蔑する衆人の警告の声となして表現している。
現在では、「女だてらに」とか、「子供だてらに」と「に」を付加して副詞的に表現するくらいだが、ここにも「身分相応」の制約が働いていて、その制約を超えて不相応な行動することを慎しみ抑えてきた。男と女とを考えた場合は、男の領域に女が加入すること。大人と子供とを考えた場合には、大人には許されることへ「子ども」が加入することを慎み戒めてきた語表現でもあった。この「だてら」は、身分・職分・立場を表現する体言名詞に接続して、その分に不相応な振舞や行状に対して非難・軽蔑する意を表わしてきた。この「だて」には、「立て」が原義にあり、他を超えて「目立つ」ことから「伊達(者)」にも縁〔つながり〕があることばなのである。そして「ら」だが、複数を表わす接尾語「等」で、敬いの意はなく、親しみの意であったものから、人を見下げ卑下する意へと変わってきている。この感じがこの「ら」のなかに含まれているのである。『色葉字類抄』に、「等〔ラ〕輩也」とあり、「輩」は、「トモガラ」と訓読して親しみを表現していた。「ら」で綴る『万葉集』337の「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も吾をまつらむそ」が最も古く一般に知られている用例である。
また、「だてら」には上位権勢からの「分にふさわしくないものに対する」見下しが込められていることも留意しておきたい。接尾語「だてら」は、ふだんの悪口表現として用いられても、現在の社会生活における文章表現としては埋没しているのも頷けないではない。「だてら」で表現できる「だてら人」すなわち、裏返せば「伊達ら人=派手な格好をするともがら」はいても、「立て等人=際立ち目立つともがら」が少ないのかもしれない。こうしたなかで、江戸時代に用いられた「男だてら」が現在、自身が謙遜した物言いとして用いられていることをここに記しておく。
[ことばの実際]
女だてらに何という口の利きようをするのか、〔室生犀星・あにいもうと〕
女だてらに剣術のほうは相当なものなのだが、そこは「世間知らず」の、しかも男女のことについてはまったく少女のごとき三冬であるから、そうしたおはるの態度を見ても、彼女が小兵衛とただならぬ仲であることなど、考えてもみないのである。[池波正太郎『剣客商売』235頁]
三冬の場合は、
女だてらに剣術が好きで好きでたまらぬ、ということだけであって、みずから大道場のあるじになろうなどとは、夢にもおもっていない。[池波正太郎『剣客商売』247頁]縦令女の方が年上であろうとも本人同志が得心であらば、何も親だからとて余計な口出しをせなくもよいのに、此母が年甲斐もなく
親だてらにいらぬお世話を焼いて、取返しのつかぬことをして了った。[伊藤左千夫『野菊の墓』89頁]男だてらに刺しゅうなんてと思われそうですが、孫に刺しゅうの入った上着を作ってあげられたらいいなぁと思い、始めました。[がんばれ源さんより]
恥ずかしいことしてるわけではないし、一生懸命やってるんだから、胸を張るべきことなのに。やはり、
男だてらに少女まんがというのが恥ずかしいのかもしれない。(笑)[恥ずかしいキモチ(96/10/21)]1998年9月21日(月)晴れ。
唯己れ 知足つくばい 口に見る
「なじむ」
人は周囲にあふれる万物を「なじむ」と「なじまない」とに区分けして表現する。その場に「なじまない」ものを「なじまない」といって身の回りから排除する防衛姿勢がそこにあるような気がする。ひとつには価値観の多様性がもたらしているともいえる。人の価値観が一であれば問題は少ないし、生じてこない。たとえ、少数の人集まりのなかであっても、価値観の異なりがあるのであれば、その異なりを相互に理解していく上で交流の場が必要となってくるのである。そこで交流会などを絶えず催して触れ合い「なじもう」とする姿勢が重要な方法となってくる。また、「なじむ」ものとは常に不変でなければなるまい。ころころ変わっていたのでは、「なじみ」ようがないからだ。いわゆる、川や人が絶えず動いているなかで、山の森がどっかりと微動だにもしないまるで見た目にはちっとも変わって動いていないように、いついかなるときも訪う人を迎えいれる姿勢そのものなのである。なじんだ安堵感の姿なのである。「なじむ」ことの努力には、やはり多大な時間とエネルギーがないと進展をみない。根気よく取り組むことで「なじみの薄い仕組み」を「なじめる仕組み」に換えていかねばなるまい。
それはさておき、人は「なじむ」という動詞を名詞化表現にして「なじみ」として、人と人との交流における常套語表現としてきた。たとえば、
お累さん私イ小せえうちから馴染〔なじみ〕ではござえませんか[『真景累ケ淵』岩波132N]
といって説得するといった具合にである。
1998年9月20日(日)晴れ。
秋晴れの つがい蜻蛉や 心地よし
漢語サ変動詞
サ変動詞「す」は、あらゆる種類の漢語を動詞化して示すことができるのだろうか?日本語にあって、漢語も実は外来語に帰属する語である。この機能をふまえて漢語サ変動詞は生れてきたにちがいない。その構造成分により分析すれば、サ変動詞「体言(和語・漢語・混種名詞など)+す」から成る複合動詞であり、これは次のような型式に分類できよう。
[漢語]「供養(クヤウ)をする。」 ⇒「供養ず」
[漢語]「気配(ケハイ)がする。」 ⇒「気配す」
[漢語]「関白(クハンパク)である。」⇒「関白す」
[漢語]「日記(ニッキ)を書く」 ⇒「日記す」
[漢語]「茫漠(ボウバク)として」 ⇒「茫漠す」
已上、分類したなかに漢語サ変動詞は、1の「を型」と4の「接尾語型」が主流といってよい。これに5の「代動詞型」が続き、2の「が型」や3の「で型」の用例は少ない。そして、6の「形容型」は、やや耳慣れない不安定感を有している。この奇異な感じを有する語として、古語・現代語にみえる漢語サ変動詞を含む文脈が注目されるのである。この要因たるところには、サ変動詞「す」が5の「代動詞型」にすることで即効性動詞と化すが故で在るまいか。たとえば、和語サ変動詞の「ちごのかいもちする」[『宇治拾遺物語』巻一・一二]は、通常の云いまわしは「ちごのかいもちをつくる」であり、漢語サ変動詞「勝利する」も「勝利をうる」であり、「…をつくる」「…をうる」という表現を「す」で代用できる点にあるからなのである。こうした即効性が大方好まれ、一人歩きを始めた耳慣れない漢語サ変動詞が顔をだしてくるのである。たとえば、「お茶する(お茶を飲む)」から某メーカーの商品銘柄「のほほん茶」をもじって6の「形容型」である「のほほんする(のほほんとした気分でお茶を飲む)」が生じてきたりする。
1998年9月19日(土)晴れ。
庭渡り 蟋蟀鳴きや 夜更かしす
「コオロギ」
庭先で「コオロギ」が鳴き始める。大槻文彦編『大言海』に、
こほろぎ(名)虫の名、古名、きりぎりす。長さ六七分、幅三四分、両鬚、六足ありて、足と身とは、油色なり、雄は、背に黒く薄き翅ありて、長さ、身に同じくして、紋脈あり、飛ぶこと能はず、只、後の長脚にて跳ねる、後に、二尾あり、瓦石の間の土中に棲み、立秋より、夜、鳴く、声、高くして、りうりうと云ふが如し、雌は、翅、短くして、鳴かず、二尾の間に、褐色なる一針あり。京都に、いとど。蟋蟀 又、一種、京に、こほろぎと云ひ、東京に、えんまこほろぎと云ふは、形、大きくして、雄にも三尾あり、全身、深油色にして、原野にありて、昼、鳴く、声、高く、抑揚ありて、聞くに堪ふ。油胡蘆
と詳しい。鳴いているのは雄ばかりで、その鳴き声の聞きなしを「高くして“りうりう”と云ふが如し」と記載する。現在の国語辞典である新明解『国語辞典』第五版では、「“コロコロ”と美しい声で鳴く」として鳴き声の聞きなしがかくも異なる。この際、わが耳でどう聞こえてくるかを聞きなしては如何なものだろうか。
また、地域呼称名として京都で「いとど」というとある。この地域呼称を収録したものとして、江戸時代の越谷吾山『物類称呼』に、
蟋蟀 こほろぎ○南都(なら)にて・きりぎりす 又・ころ/\しと云 江戸にて・こほろぎと云 武蔵中邊及信濃奥州南部にて・きりぎりすと云 越後高田邊にて・つゞりさせと云 美作にて・きりごといふ 白石翁曰 是古(いにしへ)に云きり/\す也 又古こほろぎといひしは 今いふ いとゞ也 又古 いねつきこまろ といひしは 今云 いなご也 また古 いなこまろ といひしは 今云 はた/\ 也 又古 はたをりめ といひしは 今云 きり/\す 也 小兒籠にやしなふもの也<岩波文庫七〇頁>
と「いとゞ」の呼び名は「古の“こほろぎ”」、すなわち「きりぎりす」をいうのか?実にややこしい。
さらに、この「コオロギ」だが、室町時代の古辞書にあっては、
A「〓〔虫+車〕」 (『下学集』)、
B「蚓」 (天正十八年本・饅頭屋本・広本『節用集』)、
C「蜻蚓」 (易林・広本(補注)『節用集』)、
と多様であり、現在の表記「
蟋蟀」や『大言海』の「油胡蘆」は見えない。江戸時代の人見必大『本朝食鑑』巻十二には、前記の「蟋蟀」を見出し語にして、「必大按スルニ中華ノ之
蟋蟀ハ者本邦ノ之伊止止ニシテ而本邦ノ之伊止止ハ者似テ‖竈馬ニ|別一種カ歟。竈馬ノ状テ‖伊止止ニ|而大イニ脚長、好テ穴‖居スル竈旁ニ者ノナリ也。本邦ノ之木里木里須ハ者鳴聲不∨自リセ∨口而自リス‖股羽|。彼ノ振ヒ∨羽ヲ動スノ∨股ヲ之阜螽ナラン也」と注記する。
1998年9月18日(金)曇り後雨。
秋めきて 野山に出たし 黄金草
「昏鐘鳴」
「昏鐘鳴」と書いて「こじみ」と読む。夕方の梵鐘を鳴らすこと。その時刻、時分をこういう。まさに、夕陽が西の空に傾きかけ家路を急ぐころに、お寺の鐘がゴォオーンと鳴り響くという時分を表現することばがこの「こじみ【昏鐘鳴】」なのである。このような音の風景が暮らしのなかから消えてはや久しい。
このことばが活されていた室町時代の古辞書『運歩色葉集』、『伊京集』、『温故知新書』、『塵芥』、新寫永録五年本・経亮本・易林本・饅頭屋本『節用集』などに広く収録されている。これらの辞書には、注文語は見えない。漢字表記とその読み方が示されているに留まる。
注文語を有する古辞書としては、広本『節用集』に、「昏鐘鳴(コシミ/コンショウメイ・クレカネナル) 夕〔ユフヘ〕ニ打‖鐘鼓〔ツツミ〕ヲ|義也」<六九二@>とある。類語表現の「入相のかね也」と注文に示す『和漢通用集』もある。時刻を“戌時(現在の午後八時ごろ)”とする天正本十八年本・早大本・岡田旧蔵本・玉里文庫本・枳園本『節用集』、“酉時(現在の午後六時ごろ)”とする吉沢本『節用集』などがある。
ここで、「戌時」とする注文が気になるところである。現在でも午後八時は、日没時刻からしてむつかしい。モンゴルのウランバートルならいざしらず、室町時代の日本の日没時刻が季節を含めこのような時刻であったかどうかが知りたいところでもある。
同じく、室町時代の抄物『四海入海』七上に、「昏鐘鳴ノ時分マデハ、雨ガホソボソトフリタルガ、サテ夜ニ入テ無風アリテ」とある。
1998年9月17日(木)晴れ。
野分雨 去って寒がり 走る息
「とことん」
「とことん」という口頭表現、新明解『国語辞典』第五版で確認すると、二通りの意味がある。
とことん〔口頭〕@ぎりぎりの所。「現行税制を―まで洗い直す」A(副)「とことんまで」の圧縮表現。徹底的に何かをすることを表わす。「―わが子をかわいがり、成長したらどこまでも信頼する」
この「とことん」だが、「―を
とことん使いこなす」とか「とことんやってみなさい」といった具合に、Aの意味が口を突いてよく出ることばである。「とことん」が国語辞書に収録されるようになったのはいつの頃からであろうか?一世代前の辞書J・C・ヘボン『和英語林集成』第三版や大槻文彦『大言海』には、未収載である。終戦後発刊をみた新村出編『言苑』(博友社・昭和26年刊)には、「とことん」そのものの語は未収載だが、「とことんやれ節(名)明治初年の流行軍歌「とことんやれとんやれな」といふはやし詞を添へる。明治元年、官軍東征の際の新作。」ということばが収載されている。この語を『広辞苑』は、受け継いで「(上略)―詞を添えるからいう。明治元年、品川弥次郎が作詞、大村益次郎が作曲して調練太鼓に合わせて歌ったもの。」と再録してきた。その語の前に「とことん」が収録される。とことん@どんづまり。末の末。最後の最後。「―まで頑張る」A日本舞踊で足拍子の音。転じて踊りの意に用いる。
とし、「とことんやれ節」との接点は記されずじまいにある。が、「とことん‐やれ!」という囃し立ての意からすれば、つながりは見えてくる。Aの意は特殊用語というところか?
「とことん」と囃し立てのことばは、江戸時代の十返舎一九『東海道中膝栗毛』六・上に、
「わしどもやるべい、みんなそれから
トコトントコトンと、はやしてくれさっしゃい」とある。この囃し立てことばが「とことんやれ節」となって、その囃し立て表現から「とことん‐やれ!」の意を強くしていき、「最後の最後まで」といった意で表現することばに成長してきたものといえまいか。
[
補遺] m.midorikawaさん助言<2000.06.01>国語辞典よりも英和辞典の方が早く新語を収録することが多いので昭和三年発行の『斎藤和英大辞典』を調べてみましたがありませんでした。
昭和十一年発行の『大辞典』(平凡社)には次のように出ています。
トコトン とことん 〈舞〉足拍子の一。右左と軽く次に強く踏むこと。?とどのつまり。終局。終末。『とことんまで来た』
楳垣実編『隠語辞典』には「とことん 踊り。(演劇)[明]」と足拍子から派生した意味がのっています。
トコトンヤレ節は祇園の芸妓・中西君尾が節をつけたという説もあります。「宮さん 宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ」という歌の題名がトコトンヤレ節ということを知らない人が多いと思います。
「酒代三百たゞもろた。とことんやれすつとことんト足拍子をしておどりだせば」(仮名垣魯文『同行笠名所杖 滑稽富士詣』 万延元年)
「大正時代にトコトン飴というのがあった。夜店などで、『三代目のトコトン、負けとけ・捨てとけトコトン』と言いながら景気よく紙袋へ飴を抛り込む。『も一つ負けとけトコトン』と、これほど徹底的に勉強しているのに買わないかという示威であって、その威勢のよさに釣られてつい買う気になったもの。」(牧村史陽編『大坂ことば事典』)
村石利夫『日本語源辞典』(日本文芸社 昭和56年)は違う説をとっています。
「トコは底の古語。常滑〈とこなめ〉という地名があるが、そこは川の底、海の底がつるつるすべる土地という意味。ドンは『どんづまり』のドンと同じで強調語。ドンは泥のことで、底の底までの意を持たせている。」
1998年9月16日(水)雨(台風4号の影響)。
蛞蝓り アララギの実に 住み暮らし
「なめくじ【蛞蝓】」
「なめくじり」が庭のアララギの赤い実に取り付いている。木々の一部が枯れたような状態にあって変だと目を凝らして辺りを見ると、「なめくじり【蛞蝓】」が数十匹も取り付いていた。この「蛞蝓」だが、幼少の頃、家の水場であった勝手口や風呂場付近などでよく見かけ、「蛞蝓に塩」の諺どおり、塩をふりかけて退治したりしていたことを思い出す。「蛞蝓」がアララギの赤い実に張り付いている光景をはじめて見た。
平安時代の『本草和名』下巻には、
蛞蝓 仁誤移腴二音。一名陵蠡 楊玄操音礼。一名土蝸。一名附蝸。一名山蝸 出陶景注。一名〓〔虫付〕贏 附〓〔人咼〕二音。一名斑蠡。一名土虹 已上出兼名苑。和名奈女久知。<日本古典全集十八オ>
と、「蛞蝓」に「奈女久知」と表記し、これを受けてか鎌倉時代の医書である『有林福田方』(1362年〜1367年)の虫蛇所傷門にも、
蛞蝓〔ナメクチ〕ニ咬 治方蓼ヲ研テ傳之コレヲヒタセ<日本古典全集・下八九三G>
と正表記がなされているのである。
時代を降って江戸時代の越谷吾山『物類称呼』にも、
蛞蝓 なめくじり○常陸にて・はだかまいぼろ 越後にて・山なまこと云 山中には大サ五六寸許のもの有と也 貝原翁曰 なめくじり夏月屋上にはひのぼりて螻蛄〔けら〕に變ずる有 然ともことごとく不∨然 <岩波文庫六五頁>
と、「蛞蝓」と正表記し「なめくじり」と読み、各地の呼び名に続いて最大サイズ、次に貝原益軒のことばとして、「蛞蝓が螻蛄と化す」といった俗信を収録していて面白い。
ところが、室町時代の古辞書の『下学集』<氣形,68A>や『運歩色葉集』<虫名・静嘉堂文庫453C>、易林本『節用集』<奈部・氣形109E>には、前述した「げじげじ」の文字表記である「蚰蜒」と記して「ナメクジリ」と訓読していることに気づかされる。このことは、「げじげじ」と「なめくじり」とがこの時代にあっては、同一の虫として認識されていたことになり、『日葡辞書』の「げじげじ」の意味注解である「髪の毛を吸って、痛みもなく抜き取る或る虫」とは、今の「なめくじり」のことを述べているということも考えられる。また、『日葡辞書』の「なめくじ」の項を繙くと、「Namecuji.ナメクジ(蚰蜒)この名で呼ばれる虫。Namekujiri.ナメクジリ(蚰蜒)同上。上(Cami)で用いる語」446.lとだけ記すにすぎない。
この「蚰蜒」と「蛞蝓」とが同一の虫と認識するに至った典拠だが、これも平安時代を代表する古辞書、源順『倭名類聚抄』巻第十九そして、十巻本『伊呂波字類抄』に他ならない。この両書を繙くに、
蚰蜒 兼名苑云――由延二音。一名〓〔虫付〕贏上音附。本草云〓〔虫乕〕蝓移臾二音、和名奈女久知。方言北燕謂之〓〔虫刃〕〓〔虫尼〕上女陸反、下音尼<大東急記念文庫藏・天正三年写>
蚰蜒 蛞蝓 衍耳 土蝸 〓〔虫刃〕〓〔虫尼〕 〓〔虫付〕贏 〓〔虫于〕 〓〔虫麗〕 〓〔虫長〕<11ウ>
とあって、「蚰蜒」の見出し項目に、和名「奈女久知」が記されていることに拠る。この影響を受けて室町時代を代表する『下学集』以降の古辞書に見出し語「蚰蜒」に対する傍訓「ナメクジリ」が一時、定着したものと考えられるのである。これを「げじげじ」と呼称するのも室町時代からであった。
1998年9月15日(火)雨後曇り。<敬老の日>
雨音に 目が覚め示す 祭り旗
「未練」
心のこりをいう。「残念」は、諦めてしまっているが、「未練」には諦めきれない気持ちが働いている。この「未練〔ミレン〕」が一層強ければ「執着」となり、果たし得ないものへの憧憬へとなっていく。「未練」を書き下すと、「いまだねれず」であり、すなわち、練習が足りないということが原義にある。練習不足では、お披露目ごとも試合ごとも仏道修行も決して結果はよくない。あのとき、もうちょっと努力しておけばこんな結果ではなかったなどと悔やむ心が「未練」の意へとつながっていくのだろう。
院政時代の仏教説話集『宇治拾遺物語』巻第八・九九 大膳大夫以長(だいぜんのたいふもちなが)先駆(ぜんく)の間の事に、
いかなることにかと見る程に、帰(かへ)らせ給(たまひ)ぬ。さて帰らせ給(たまひ)て、「いかなることぞ。公卿あひて、礼節して車をおさへたれば、御前の髄身みなおりたるに、未練(みれん)の者(物)こそあらめ、以長おりざりつるは」と仰(おほせ)らる。
鎌倉時代の道元禅師の『正法眼蔵』に、
ゆゑいかんとなれば、菩提心をおこし、佛道修行におもむくのちよりは、難行をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども、百行に一當なし。しかあれども、或從知識、或從經巻して、やうやくあたることをうるなり。いまの一當はむかしの百不當のちからなり、百不當の一老なり。聞教・修道・得證、みなかくのごとし。きのふの説心説性は百不當なりといへども、きのふの説心説性の百不當、たちまちに今日の一當なり。行佛道の初心のとき、未練にして通達せざればとて、佛道をすてて餘道をへて佛道をうることなし。佛道修行の始終に達せざるともがら、この通塞の道理なることをあきらめがたし。<説心説性九10ウ@・岩波文庫二423>
とあり、さらに吉田兼好『徒然草』にも、
五条内裏(ゴデウノダイリ)には、妖物(バケモノ)ありけり。藤大納言殿(トウノダイナゴンドノ)語られ侍りしは、殿上人(テンジヤウビト)ども、黒戸(クロド)にて碁を打ちけるに、御簾(ミス)を掲げて見るものあり。「誰(タ)そ」と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さし覗(ノゾ)きたるを、「あれ狐よ 」とどよまれて、惑(マド)ひ逃げにけり。未練(ミレン)の狐、化け損じけるにこそ。<第二百三十段>
というふうに、「まだ通達していないこと」といった「未熟」の意として用いられている。これが室町時代以降、『日葡辞書』収載に見える、
Miren.ミレン(未練) Imada nerezu.(未だ練れず)臆病。¶Mireuo camayuru.(未練を構ゆる)臆病である。この語の本来の意味は、軽々しさ・軽薄さということであって、すぐに飛びかかったり、腹を立てたりするけれども、肝心の時になると、へまをしたり、気力をなくしたり、逃げ出したりするような人について言う語。<邦訳『日葡辞書』409r>
と、「臆病」の意が介在する。このように「臆病」であるが故に「諦めきれない」ことの意に変わっていくのである。
他人がこの容子を評して、「未練がましい」とか、「未練タラタラ」というのである。
1998年9月14日(月)晴れ後曇り雨。
風強き 祭りの準備 遠く聞き
「ボサツカ」
明治時代の三遊亭圓朝作『真景累ケ淵』二十二に、
それから土手傳ひで參ると、左りへ下りるダラ/\下り口があって、此處に用水があり、其用水邊〔べり〕にボサツカと云ふものがあります。是は何う云う譯か、田舎ではボサツカと云つて、樹〔き〕か草か分りません物が生えて何だかボサツカ/\致して居る。<岩波文庫七二@AA>
と見えるのが、この「ボサツカ」という表現なのである。
この「ボサツカ」ということばだが、余り聞きなれないことば表現ではあるまいか。
1998年9月13日(日)晴れ。
からりんと 陽がな一日 揚げそめし
「やたけごころ」
古き武家社会における時代の「こころ」として、「やたけごころ」がある。「やたけ」は、「いよたけ>いやたけ【弥猛】」の変化した語で、ますます勇み立つさま、はやりにはやる心をこういう。紹巴の『匠材集』に、「やたけごゝろ 武士の心なり」とある。同じ室町時代の古辞書である易林本『節用集』には、「八十梟心〔ヤタケゴヽロ〕」[也部・言語一三八C]と表記している。
いまの時代、「やたけごころ」はどのように映るのだろうか?異国アメリカ野球発祥の地では、九月八日に、マーク・マグワイヤー(34歳)の史上最高本塁打数六十二号が生み出された。この動きのなかにゲームとはいえ、ライバルに真っ向勝負する相手チームとそれに立ち向かう投手といったスポーツ文化が強く感ぜられる。これを私たちは、「真剣勝負」と“剣の道のことば”で表現したりもする。この「やたけごころ」には、心をワクワクさせる行為が見えてとれる。その過程よりただ結果だけを追い求める世界には、この「こころ」は決して見えてこないことを学んだ。
1998年9月12日(土)曇り一時雨。
書を読み 蝿寄添ふや 午後の窓
「そうず【添水】」
「そうず【添水】季語(秋)」ということばには、二説あるようだ。
1、案山子〔かかし〕説
『古事記』上巻「於‖今者|山田之曾富騰者也(山田の曾富騰〔ソホド〕といふぞ)」<大系一〇八〜一〇九頁E>。
『古今和歌集』巻十九誹諧歌1027「足曳の山田のソホヅおのれさへ我をほしといふうれはしきこと」<大系三一六頁>。
『発心集』第一・玄敏僧都遁世逐電事に、「山田もる僧都の身こそ哀なれ秋はてぬればとふ人もなし」<新潮日本古典集成四九E>頭注に長明没後の『続古今集』十七に「備中の国湯川といふ寺にて 僧都玄賓」として見える。と記されている。
これらが、山田の案山子説というものである。次に、
2、田を鳥や鹿から守るための器物「ししおどし」説
広本『節用集』に、「僧都〔ソウヅ〕在‖秋田|驚‖鳥獣|者也。或搗∨米水器也。備中国陽川寺玄賓僧都始造∨之故世俗名∨之謂‖僧都〔ソウツ〕|」
『御傘』は、「そふづ。田を守る物也、秋也」「板にて水を田に入るる物也」
『増山の井』に、「そうづは添水と書きて水辺にしかけて水の力を添へて音を出す鹿おとし也。かゝしとそうづは別の物なれども、玄賓の、山田もるそうづと、僧都にそへてよみ給へる故に、鳥おどしの人形と心得て古歌にもよめる事多し。しかれば実は別の物也」
この「ししおどし【鹿脅】」なるものを「そうづ」と呼び、この製造者玄賓僧都の「僧都」という称号をもって「僧都」という表記で呼ばれ、この「僧都」と以前からあった「かがし」の古名「そほづ」とが結合して鎌倉時代頃から、「僧都」と書いて二つの「そうづ」が巷に生じてきたようだ。ここに、室町時代の古辞書『下学集』編者の影響は、その後「ししおどし」の「そうづ(soudu)」へと変えていく。これにより、古名「そほづ(sohodu)」は「かがし【鹿驚・案山子】」という別名の表現が用いられるようになる。江戸時代になると、「僧都」から「添水」へと仕組みも含めて漢字表記が変化してきていることも注目すべきところである。
補遺:越谷吾山『物類称呼』の「案山子」(岩波文庫111頁)の項目に詳しい。
[ことばの実際]
秋風の水を切かと添水かな 蓼太<俳諧・蓼太句集>
1998年9月11日(金)晴れ。最高気温28度の今日も夏日
河川敷 走る道にも 車入り
「げじげじ」
「ムカデ」に似た形の小さい虫。この虫を漢字で書くと「蚰蜒」。この「げじげじ」という「げじ」の畳語の意味は、人から忌み嫌われている者の意に用いられてきた。ことばの起こりは、鎌倉時代の武将梶原景時にあるとされている。この景時が何かにつけて「下知々々」といって威を振るったことから「げぢげぢ」と彼を綽名呼称したことによるという説と「景時」自身を字音読みして「げじ」、これを畳語読みにして「げじげじ」と云うようになったというものからなる。歴史的仮名遣いで「じ」か「ぢ」なのか審らかでない。当の梶原景時にしてみれば、斯くも嫌われたものかというところか。その名を十五対の足を持つ人畜無害な虫の名にしたというのである。この虫の名「げじげじ」だが、室町時代の『日葡辞書』に見えている。いま便宜上、邦訳『日葡辞書』でみると、「Guejigueji.ゲジゲジ(げじげじ)髪の毛を吸って、痛みもなく抜き取る或る虫▼Guejiqi」295.lとある。この時代の俗信として、寝ている間に人の髪を抜き去ってしまう虫だと思われていたのである。だが、本邦の古辞書類にはこの名が収載されないことにより、『日葡辞書』の編集における独自の語収載能力と本邦の古辞書『節用集』などの語の取り扱いについて考える鍵を提示してくれている。この俗信は、そのまま江戸時代の庶民に受け継がれていくことになる。形状からして忌み嫌われつづけてきたようだ。人の顔を見ていて眉の濃さを「げじげじ眉」とも表現する。
[ことばの実際]
かせぎはう〔と〕(す)し、なまけるのは人一倍、ときてゐるから、一処になんぞならうとは、しちりけつぱい、
げぢ鶴亀、まんざい楽に、桑原だけれど、年季が明〔あけ〕て、早速に、行当〔いくあて〕がなかツたので、いゝ処〔とこ〕のできる迄、ホンノ足〔かゞり〕(がかり)にきたわけだから、末のとげねへのは、知れきつてゐまはアな。[仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』岩波文庫上六七F]1998年9月10日(木)晴れ。最高気温27,5度の夏日
昼下がり 暑さ忘れし 虫の音に
「已己巳」
字形相似にある三種の字体を読みと形とで示した「いこみ」の歌がある。
已
ヤムイナカスデニ 巳ミハカミニツクシノコヱヤ 己オノレツチノトキコ下ニツクこの歌「
やむイ中すでに」「みは上に付くシの声や」「おのれつちのとキコ下に付く」で、【已】 音 イ。 訓 やむ。すでに。
【巳】 音 シ。 訓 み。
【己】 音 キ・コ。訓 おのれ。つちのと。
江戸時代の『小野篁歌字盡』(寛文二年版)61に、
已〔い〕 己〔こ〕 巳〔ミ〕 巳〔き〕
已(すでに)かみ。己(をのれ)にはしもに。つきにけり。巳(き)ハ皆(みな)はなれ。巳(つち)ハ皆(みな)つく。
と読み書きを示している。ここで「き」は「コ」の形から「L」がすべて離れている字形としていること。そして、「つち」は「巳」の如くすべて付くとし、上記の「いこみ」の歌とは異なっている。江戸時代における知識人たちの字形読み取りに揺れが感じられ、これを修正する動きが茲に伺えよう。現代の我々にとって「いこみき」の「キ」の字を「己」とし、「克己〔コッキ〕」と読んでいる。
1998年9月9日(水)晴れ。
重陽の 菊に綿して 夜びいく香
「菊」の古名と「黄花」の意味
「菊」は、奈良時代の頃中国から渡来し、『懐風藻』の漢詩に六首詠まれているが、なぜか『万葉集』には一首も詠まれていない。すでにこのことは、『八雲御抄』に、「凡そ菊は万葉に不∨詠歟。寛平菊合已後、殊に名物とはなれり。寛平菊合右歌に、 すべらぎの万代までにまさり草たまひしたねをうゑし菊也 まさりぐさといふ」と指摘されていることだ。「菊」の字音が「キク」で、古和名を源順『倭名類聚抄』に、「かはらよもぎ【加波良与毛木】」、これは野菊をさしているのだろう。昌住『新撰字鏡』には、「からよもぎ【辛与毛木】」として収載する。このことは、「河原艾」の「かはら(kahara)」を「かあら(kaara)」と曲読みし、これを二重母音脱落の法則にしたがい、「から(kara)」と表現し「からよもぎ」としたものと説くところにある。そして、この「からよもぎ」を漢字表記して「唐艾」とする。
陰暦の九月九日は、中国の菊不老長寿の伝説から、「黄」なる高貴な象徴とも重なって、重陽の節句「菊の宴」(酒盃に菊の花びらを浮かべて飲む)がわが国においても催されてきたのである。天武天皇の685年が最初か。そして、いつの頃からか、皇室の紋章にも、この「菊」の花弁が用いられるようになる。皇室は、十六弁の八重菊が使われ、さらに皇族は、十二弁の八重菊が使われてきた。
また、民間においても、画材として「黄菊花」が描かれたり、詩や和歌・発句などに詠まれて、一般化するのは時代が降って江戸時代の頃か?大田南畝『一話一言』巻八(日本随筆大成別巻1)には、
垂加草に云、大源庵菊其白者名‖玉牡丹|花様如‖牡丹|也、其黄者名‖真盛〔さねもり〕|種自‖越前|出也。真盛越前之産 また支考が菊合序に、宝永のはじめより夷洛に此花を玩びてとあれば、久しき事にはあらじ、序中に見へし菊の名は、
初霜。薄雪。金より。銀より。小金めぬき。濡鷺。香炉峰。釜山海。金鸞。銀鳳。御法。村雨。小手巻。李將軍。飛鳥川。きなこ鳥。白臥竜。月下門。宇治。ふしみ。山崎。有明。花麒麟。金翅鳥。紫金竜。朱雀門。婆羅門。阿蘭海。衣通。三人鑑。大和笠。
かばかりの事も時々に違ひて今の花は昔の名にはあらじ。
と記述されている。ここで、「黄の花」を「真盛」と呼称し、越前国の産であると詳しい。この「黄」だが、歌に「北は
黄に東は白く南青西くれなゐにそめいろの山」と方位にも使われている。衣服の色にも「黄丹(おうに)皇太子の袍に用いる。禁色」が知られる。近いところでは、1993年6月9日皇太子徳仁親王がお召しになっている。1998年9月8日(火)曇り一時雨。
一服み 抹茶味から 庭に萩
「鬼」という強調語
若者ことばの強調語:超(チョウ)、鬼(おに)、バリ、メチャが知られる。「超」や「メチャ」は、若者とってすでに死語と化している。「バリ」は東域では聞かれない関西地方の若者ことば表現である。いま、この手の強調語としては、「鬼(おに)」という強調表現が主流となってきているようだ。
若者たちからは死語化した「超」も、いまではテレビ番組欄などに「超特大!激安ショップ」や「天声慎吾 超爆裂史上最大のピンチ!」といったふうに文字化され、一般化してきているにほかならない。いつか、この強調語の「超」のところに「鬼」が書きこまれて文字表現されるのかもしれない。
1998年9月7日(月)晴れ。
物食みて 肥える身体に 秋の月
「濃密手帳」
楽しかった、うれしかった出来事を手帳にすきまなくびっしりと弾んでいるように書きこむ。そこには、楽しいスケジュールだけを書きこんでいく。決して苦しいことや寂しいことは一切書かないのである。それは譬えて言えば、物語や小説が作り出すフイクションの世界への憧憬だと思うといいのかもしれない。架空な話しをさも楽しく綴る。ここに友達いっぱいのイメージづくりとして、プリクラで仲良し風に撮った友達との写真を余すことなく数多く張りこんでいく。少しでも隙間があることを嫌うのだという。
この手帳の名を「濃密手帳(ノウミツ‐テチョウ)」という。そして、この手帳の持ち主は、女子高校生たちに限られている。男子高校生は、プリクラ写真に写って協力はするが決してこのような手帳を用いたり、持ち歩かない。いわば、女子高校生たちの人との交流になくてはならない必需品のひとつとなっているようだ。新しい文章書きによる活動がここに広がっている。
1998年9月6日(日)晴れ。
秋風に なぜ中日 勝てぬのか
「○○時」の読み
大阪で日本語を教えていらしゃる清水泰生さんからこんな質問が寄せられた。
「時」の読み方に「ジ」と「とき」と読むなかで、どういう使い分けがあるのでしょうか?というものである。
幹部は、@人工衛星の打ち上げ時には引力に対抗するための初速が必要だが、自衛隊が収集した情報と米軍情報から判断して、今回の初速は遅すぎるA飛行経路は弾道ミサイルの軌跡を描いており、比較的真っすぐに上昇する人工衛星のものとは思えない―などと指摘している。[朝日新聞1998年(平成10年)9月6日日曜日総合13版「人工衛星の可能性“極めて小さい”」防衛庁幹部]
ここに掲げた「打ち上げ時」の「時」の読み方に注目したい。通常、「時」を漢音読みで、「ジ」。和語読みにして「とき」と発音する。
たとえば、デパートやコンビニなどの生鮮食料品売り場で、「お客さん、この秋刀魚、今がお買い上げどきだよ!」という。このときの「お買い上げ時」は「買い上げ」という和語動詞に接続しているからして「とき」と和語読みする。これとは逆に、「舞台稽古(ケイコ)時にうっかり足を踏み外し全治三ヶ月の重傷を負う」の場合は、「稽古」という漢語名詞に接続しているからして「ジ」と漢語読みする。となれば、「打ち上げ時」の読みは「うちあげどき」と和語がふさわしいことになる。ところが、話し手の物言いをよく聞いていると、「うちあげジ」と混種語(湯桶読み)で読んでいるようだ。
[文例]
男たちは爪が焦げそうになるまでタバコを惜しみ吸ったが、
昼飯時になるとニンニクとコショウのぴりぴりきいたサラミや、キュウリの甘酸漬や、サクランボなどをつぎからつぎへと網袋からとりだして私たちにすすめてくれ、私たちのすすめるぶどう酒を遠慮深く飲んで、あちらこちらの国の道ばたや駅でかき集めたにちがいない単語の端切れをつないで、すばらしい、とか、健康にいい、とか、男の飲みものだなどというのだった。[開高 健『夏の闇』新潮文庫58H]「昼飯時に」⇒ひるめしどきに。 ◎
「昼飯時に」⇒チュウショクジに。 △
「昼飯時に」⇒ひるめしジに。 ×
「昼飯時に」⇒チュウショクどきに。○
上記の読み表現はいかがなものか?この“和語+「時」”の読みにおける「○○ジ」と「○○どき」ついては、語感から受ける意味の語差も含めて鑑みていくべきである。今後さらに、詳細なる分析調査をしていくことばのひとつであることは確かだ。
また、“洋語+「時」”の場合はどうであろうか?たとえば、「コンサートの
クライマックス時に花束を手渡す」などの「クライマックス時」も「クライマックスジ」とこれも“洋語+漢字音”で発音してはいないか。この混種語には「夜間のフライト時には機内の照明を暗くします」がある。この“洋語+「時」”には、「○○時間」の略称があるのかもしれない。1998年9月5日(土)晴れ。
陽気なか とことんとこと ひと走り
「だちゅうーの!」
パイレーツというセクシー・コントの女性タレント芸人が使うことばがいま大流行している。そのことばは、「だちゅうーの!」と「ムギュ!」である。
「そうだちゅうーの!」「最高だちゅうーの!」「好きだちゅうーに!」
「何しているの?」「食事中だちゅうーに!」と表現し、最後に「ムギュ!」とする。
そして、面白いことには老若男女がこのことばを理解し、それぞれの方がたがこの「残業だちゅうーに」や「疲れるちゅうーの」「うるさいちゅうーに」と仲間同士で語るときをも含め、さらには、家庭での子が親に向かって返事するときにもこのことばをもって表現していることだ。
ところで、この「だちゅうーの」という文末表現は、どのような意味合いを表現しているのかと言えば、決めの文句というところか。二の句をつかさないのだが、ただ言うのではきつい表現にも聞こえてくる。そこに身体を縮める一つの動作が加わると何か憎めない表現となるのである。このあたりにことば流行の兆しが見え隠れしているのではなかろうか。
1998年9月4日(金)晴れ。札幌
ゆっくりと 暑さ戻り来て 歩きもす
「々」の字
踊り字という言い方が正しいのか、「畳語」を漢字表記であれば、「家家」「人人」「国国」「時時」「村村」「山山」と表記するところを、後ろの語音を同じように書かずに「々」で略字する。古くは、小さな「二」の字を続け書きしていたが、明治後期以降は、専らこの「々」が用いられてきている。さらに、畳語のかな表記であれば、「なみなみとつぐ」の同じ音を繰り返す後の語音を「く」の字を長くして「なみ/\とつぐ」と用いる。
ところで、この「々」や「/\」の字を本統のところ何と呼称するのであろうか?また、古写本などに見える小さな「二」の字続け書きとの連関はどうあったのだろうかと思うこの頃である。文字表記である漢字が使用されるなかで、漢字表記のものであれば、本場中国に起源が求められる。先行資料である幸田露伴『音幻論(声音を記する符)』にこのことを取り上げていて、露伴は、“「二」の小字の方は周の『石鼓文(せつこぶん)』の中などにみえてゐて、目当(めあて)の字を二回読ませる意図の筆遣い上の便宜から出(で)かされたものである”という。が、かな文字の表記法にあっては、この繰り返しの符合をいつ頃からどう使い出したのかその正確なところは今も知られていない。
次に、この二種類の符合に加え、かな繰り返しの「ゝ」を現在の新聞各誌面においては、あまり使われていないようだ。まったく用いていないのだろうかと、手近な本日の読売新聞夕刊を調べて見ると、漢字繰り返しの「々」の符合だけが「我々の力だけで、事故が防げるとは思えない」、「脈々とキューバ留学熱」などと見える。そして、三面の「山から一b以上はある岩がごろごろ落ちてくるのを見た」や、手書き四コマ漫画『サンワリ君』9530でも、一コマ「このごろ毒物を使った事件が多いなぁ」。二コマ「みんな不況でイライラしてんですよ」「そう!イライラしてる」。三コマ「見ろッあれ」。四コマ 看板文字“イライラ解消薬どうぞご自由に”と、象徴語による畳語にも「/\」の符合は用いていないのである。たとえば、「読者の声」など投稿文書にあっても、この表記法は統一されているようだ。
1998年9月3日(木)曇りしだいに晴れ間。札幌
あったんだよ 忘れ眠るに 古き物
「並立表現」覚書き
自然>地勢>地理〔A030〕
自然>自然>植物>花〔A056〕
人事>人物>サービス的職業〔B57〕
文化>物品>建物>寝床〔C943〕
文化>物品>食品〔C924〕
文化>物品>家具>食器〔C956〕
文化>学芸>文書>書物>読み物〔C848〕
文化>学芸>言語>単語>動詞〔C833a〕
文化>学芸>言語>単語>動詞〔C833a〕
文化>学芸>言語>単語>サ変動詞〔C833a〕
文化>学芸>言語>文・句>句〔C835〕
1998年9月2日(水)晴れ。
汗の水 自転車扱ぎ 学校へ
「
濡れ方三様」−ぐしょ濡れ、びしょ濡れ、ずぶ濡れ−
「濡れる」という言葉は、実に恰好良く、実に艶っぽく響く。「濡れる」のも時節は秋より春がよかろうというものか。
「月さん雨が……」と芸妓が傘をさしだす。これに答えて、
半平太が
「春雨じゃ、濡れてゆこう」
とは、月形半平太の名セリフ。この濡れ方は、
ぐしょぐしょでも、びしょびしょでも、ずぶずぶでもない「濡れ」の表現である。この行為が、長時間に及ぶとなると「濡れしょぼたれ」、やがて、「濡れ鼠」と化す。これを「ぐしょ濡れになる」、「びしょ濡れになる」、「ずぶ濡れになる」と三様にこういう。さらに転じて、男女が情を交わすことへと発展し、「しっぽり濡れる」状態からから激情してこの言葉になるのである。さて、この全身濡れた姿を表現する三様の言葉は、どのように構成され、どのような違いをもっているのであろうか。これを考えてみる。
まず、この三様の表現は、いずれも擬態語の繰り返しの一部と「濡れ」とが複合してできたことばである。そこでこの「ぐしょぐしょ」「びしょびしょ」「ずぶずぶ」といった素のことばの表現を検索してみることにしょう。
「ぐしょぐしょ」ひどく濡れるさま。ぐしゃぐしゃ。
「びしょびしょ」ひどく濡れるさま。二(副)雨が降り続くさま。
「ずぶずぶ」 ひどく濡れるさま。二(副)@水や泥などの中に突き刺さるように沈んでいくさま。
A柔らかいものを突き刺すさま。ずぶりと。
とあって、「ひどく濡れる」様子は共通している。むしろ、その濡れ方が少しずつ異なるというところか。
[ことばの実際]
ぬれしょびれる【濡れしょびれる】
ぬれしょびれた顔を水面からあげて、太郎はあえぎあえぎつぶやいた。[開高健『裸の王様』一四八J]
1998年9月1日(火)曇りしだいに晴れ間。
行って見よ 歌標べ道 峯入りぞ
「提琴」
洋語を漢字表記する。この「提琴」は楽器の女王とも云う「ヴァイオリン」である。太宰治『人間失格』(1948年7月刊)のなかにも、
寒い上に、リュックサックを背負った肩が痛くなり、私はレコードの
と、他の洋語である「リュックサック」「レコード」「ドア」と、片仮名表記されるなかにあって、この「ヴァイオリン」だけは、ルビ仮名による漢字表記で記されていることに気がつく。作品中におけるこのような表記法にある洋語としては、「脚絆(レギンス)」16頁G、「情熱(パトス)」41頁P、「訪問(ヴイジツト)」77頁L、「大洋(オ−シヤン)」93頁C、「悲劇(トラジデイ)」105頁L、「喜劇(コメデイ)」106頁B、「対義語(アントニム)」106頁NO、「同義語(シノニム)」107頁B、「画題(モチイフ)」107頁G、「詩(ポエジイ)」108@といった僅か十一語に過ぎない。と同時に、この作品の醸し出す「人間失格」なる語を逆に否定する高尚な用語のようにも思えるのである。
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