[10月1日〜10月31日迄]
ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
1998年10月31日(土)晴れ。
茶湯気や 冬の足音 のっそりと
「瓢軽」
「瓢(ヒョウ)」は、軽くよく水に浮かぶところから、「うかれひょう【浮瓢】」といい、これと同じように、世に言う浮かれ者を擬えて「瓢軽」、「瓢軽者」という説があるが如何なものか。
この「ヒョウキン」だが、「剽軽」「瓢金」などとも宛てる。ただし、「剽軽」は「ヒョウケイ」と漢音読みすることが主であり、学研『漢話大辞典』に、
び
(ヒョウケイ)=牡軽。@すばやい。「楚兵
A軽はずみで、争い事を好むこと。「
剽軽不逞之徒(ヒョウケイフテイノト)」〔後漢書・史弼〕ぴ
(ヒョウキン)《日本語での特別な意味》気軽でこっけいな性質。▽キンは唐宋(トウソウ)音。と記載が見える。この「剽軽〔ヒョウケイ〕」を唐宋音で「ヒョウキン」と読み、「瓢軽」を「剽軽」で示すことから今日の見出し表記がなされているのではあるまいか。むしろ、「瓢軽」と記述する文献資料を探求してみたいところでもある。実際、江戸時代の『書字考節用集』には、
剽輕
〔ヘウキン〕又出‖人倫<言辞九34C>慓氣者
〔ヘウキモノ〕『字彙』−ハ疾也。俗又作ハ‖瓢金ニ|非シ<人倫四10D>と「慓氣者」の注文に、世俗で「瓢金」と作ることを指摘し、これを使用公認定していないことが伺えるのである。ここに示した「剽輕」の語は、誹風『柳多留』に、「
剽輕にするなと姉に」<八K>とあり、さらに「瓢軽」の語は、『嬉遊笑覧』巻十二下草木「ひよんの木」の項目中に、瓢ハ輕きものにてよく水に浮ゆゑにうかりひよんハ浮瓢なり。浮かれものを
と記載されているものがそれである。
1998年10月30日(金)晴れのち曇り。
夕闇や くれて捗り 道直し
「数の唱え文句」
「いちじく にんじん さんしょに しいたけ ごぼうに むかご なすびに やまいも きゅうりに とうなす」
(無花果 人参 山椒に 椎茸 牛蒡に 零余子 茄子 山芋 胡瓜に 唐茄子)
と云う。この唱え文句だが所変われば品変わるで、少しく違いがあるようだ。たとえば、「一」のところを「いも【芋】」とやったら、「八」のところは、「はくさい【白菜】」であったりする。このなかで、判り難いのが「むかご(山芋の葉の付け根にできる珠芽)」で、「六」のところを、「むぎ【麦】」「むぎめし【麦飯】」などと言い換えて云う。
また、これを植物野菜名尽くしから動物名尽くしにして
「いぬ にわとり さる しか こうもり むま ひつじ はと くま とら」
(犬 鶏 猿 鹿 蝙蝠 馬 羊 鳩 熊 虎)
というのもある。植物樹木名尽くしでは、
「いちょう にしきぎ さざんかに しいのき ごようまつ むくのき なつめのき やなぎ くりのき とう」
(銀杏 錦木 山茶花 椎の木 五葉松 椋の木 棗の木 柳 栗の木 藤)
と云う。この唱え文句、子供遊びの一から十の数え方として生れてきたようだ。まだまだ、異なりがあるかもしれない。ぜひ、ご存知の方はご一報願いたい。
1998年10月29日(木)晴れ一時雨。北の空に虹映える
一休み 冷めた紅茶に 朝の食
「ケチる」
「○○は
ケチっても××には(お)金をかけている」「○○を
ケチっても××には(お)金をかけている」という表現、「○○」のところには、「食費」「洋服代」「バス賃」などがくる。そして、「××」が各自こだわりどころであるからして、嗜好・こだわりの一品、多様な品々やそれに必要な経費などとなる。若い人に多いのが、食費を
ケチってでも電話代(ピッチ[PHS])には金をかけているというものである。この「ケチる」だが、もとは名詞「けち」に活用語尾「る」が添えられてできた派生動詞である。この「けち」だが、縁起のわるくなることを「けちがつく」と言い、逆に悪くすることを「けちをつける」という。「け」は「物の怪(け)」などの「怪(あやしい)」に「事(シ)」の音轉「ち」からなる「怪事」である。『俚言集覧』に「俗に、小事に拘るをけちな事と云ふ、駿河にて気弱を云ふ」として、「怪事」を恐れ臆病となり、卑怯となって、卑劣なさまとなる。「けち臭い」「けちな根性」とも表現されるのがこれである。転じて「吝嗇」なる「けちんぼ」(「けち」なことをする人をさしていう)が用いられ今日に至る。江戸時代の『浮世風呂』二編上に、「江戸ぢゃあ、そんな
けちな事は流行らねえのさ」とある。そうした「ケチな奴」をみて、周囲のものが「そんなにけちけちするなよ」と窘めたりする。1998年10月28日(水)晴れ。
たんぽぽの 黄の花混ぜ 散り落ち葉
「免震」
地震を予知すること、科学技術が進歩するなかで日本人が切実に期待する「生活関連科学技術課題に関する意識調査」191(科学技術庁実施)のトップを占めている。二位に、「がん予防薬」。どちらも予期せぬときに襲われ、人の命を不条理にも奪ってゆく。発生の仕組みを解明して、こうあれば免れるというものでないが故に畏怖してやまないし、関心度も増すというものであろうか。
先日、北海道駒ケ岳がふたたび活動し、白煙をあげている。これにともなう地震も数度に及ぶ。日本列島すべて地震の巣窟、ここに生活する国民としては、予知できれば建造物の倒壊はあっても命は守れることにつながる。また、建物自体、“人が安心してくらせる建物”をめざすも道理であろう。その構造建築技法に「免震構造」があり、「免震装置」を用いる。人の多く往来する都会はもちろん、景観に富む自然環境地といった多種多様におよぶ地質条件に適合した「免震構法」の建造物の開発がなされていくことで「地震国」を「免震国」へと変身させる人の叡智が注がれていく。
新明解『国語辞典』第五版に、
めんしん【免震】
地震や風による建物などの振動を減らすようにすること。「−構造・−ビル」とある。現在の一般国語辞書に収載されていることばとしては、新語の部類に属する語である。実際、未収載辞書として、岩波『国語辞典』第五版、新潮『国語辞典』第二版、角川必携『国語辞典』などが挙げられるからである。
1998年10月27日(火)曇り後晴れ。
ドンシャンと うかるる月や 小夜の道
「美女」
美しい女人を「ビジョ」というが、古くはこれを「ビンジョ」と読み、意味も特定の意に用いられている。『日光山縁起』上に、
さて、「姫君の御かたなりとも、宮仕はいかゞあるべき」と仰ければ、「はらわがむすめ、彼御かたにさやけきと申て
とある、この「美女」の語だが、読み方は「びんじょ」と発音され、美人の意から転じて美しき女人を侍女(召使の女)として採用したことから侍女そのものをいう。他に「未女」、「便女」とも宛て表記する。『梁塵秘抄』巻第二382に、
ふしの様がるは 木の節萱の節山葵の蓼の節 峰には山臥谷には鹿の子臥し 翁の
と見え、これも「びんじょう(びんでう)」と発音する。江戸時代には、滝沢馬琴『開巻驚奇侠客伝』第二集巻之三に、
恁りし程に国司の権臣、木造内匠親政大人の嫡子なる、木造木工介泰勝主が、件の稲城の女児の事、
と、現在の意と同じ用例が見えている。
1998年10月26日(月)曇り後晴れ。北海道
しゃんとして
仕事する糧 散走路「ラッキー・ナンバー」
人にはそれぞれ「ラッキー・ナンバー」があるようだ。来季セーリグ阪神監督となった野村勝也(六十三歳)さんは、「ラッキー・ナンバー」は「10」で、「背番号」を「82」とするのは、「8と2を足して10となる」のがそれである。私の場合「11」で、住まい番地が「1−10」で、これも足すと「11」となる。これに新しい番地も「3−9−11(サンキュウ、イイ)」と覚えやすいとくる。
背番号をもってするスポーツ「野球」だが、明治37(1904)年の新聞に、日本野球の祖、青井さんの記事が見えている。当時、「野球」の語はなく、「ベース界」や「ベースマン」という表現が用いられている事に気づくのである。本日、帰宅してテレビを観ると、横浜ベイスターズがプロ野球日本シリーズ優勝の瞬間でもあった。権藤博監督の背番号はところで何番?“ごんどうクジラ”が横浜を賑わした。「ナイン」となる数字…。
1998年10月25日(日)晴れ。東京(冨士山遠望)
晴れ渡り 白き富士嶺や 鎌倉道
「駅伝競走」
正月恒例の関東学生箱根駅伝競走の予選会が大井埠頭周回コースで催された。このうち6位までの学校が正月二日(往路)、三日(復路)の駅伝大会に出場できる。東海大学・帝京大学・東洋大学・中央学院大学・日本体育大学・法政大学が決定した。
この「駅伝競走〔エキデンキョウソウ〕」なることば、いつどのように生れたのかといえば、その発端は、大正6年、読売新聞社が「東京奠都五十年奉祝博覧会」の協賛事業として実施した「東海道駅伝徒歩競走」にある。この企画実行に関わった読売新聞社会部長土岐善麿さんであった(平凡社世界大百科事典収載)。この最初の「駅伝」だが、京都の三条大橋をスタートし、東京の不忍池大博覧会会場前を決勝点とする走行距離508km、走者は関東、関西の選手団を一区間に一人ずつ走らせてみるというものであった。このような走行方法による競技名称はまだなく、この大会の趣旨から神宮皇學館長の武田千代三郎さんが「駅伝」と名づけたというものである。実際、二月九日付読売新聞の紙面に予告報知の見出しには、「奠都記念 マラソン・リレーの大要 ▼四月二十八日出発、東海道の徒歩大競走」とあって、「駅伝競走」の語はまだ定まっていなかったことが知られよう。
ところで、「駅伝」なる熟語であるが、『三代実録』に、「駅伝貢進」。『楽部式』に、「諸国駅伝馬」とあるに依拠したものである。大化の改新による中央集権政治の確立によって実施された制度で、都と国府とを結ぶ幹線道に一定の間隔をもって「駅」を設け、各駅に伝馬を置き、官吏の往復する交通手段・宿泊・食事の便宜を供するものであった。東海道の宿場を走るこのリレー・マラソンの名として「駅伝競走」の名はまさに適語名称であった。この名称は、三月一日付読売新聞に、大見出しとして掲載されている。「東海道五十三次団体中継徒歩競走規定未曾有の世界的快挙は斯くして行はる。京都大橋より二十三区を突破して上野の奠都博覧会場へ。参加選手総て六十九人、請ふ府県の代表的走者を推挙して来れ。」というものであり、“名称決定”の項目には、このマラソン・リレーを「奠都記念駅伝徒歩競走」とすると謳われたのである。この六十九名だが、実際は東西各々二十三名ずつの二チーム四十六名でスタートした。コースは旧街道であり、これを見届ける自動車の確保、選手の動向など数々の出来事が、この行事に刻み込まれている。
結果は、紫のユニホームがいつしか紫の襷となって、東軍アンカー金栗四三(東京高等師範学校、二十七歳)さんで41時間54分、赤の西軍アンカー日比野寛(愛知一中教員三十二歳)さんで43時間18分を記録した。
1998年10月24日(土)小雨。東京
寒寒と 季節廻りの 秋雨か
「芝生」
横浜に居留する異国人に対し、特別にご行列の拝観を許可すとして、一定の地域が選択された。横浜保土ヶ谷芝生という地である。此れ以外の地で立って拝観することは許されなかったというこである。この「芝生」の読みだが、普通「しばふ」と読むところだが、この地では「しぼう」と読むのである。当時は、田圃と村落が散在する海浜の松並木の道であったようだ。そして、松の堤の下には旅の行き倒れ人の屍骸が埋められていた。そうした人骨の葬るところでもあった。俗に「やんばら」と呼称する一種の不浄地である。この地の「しぼう」の発音は、この音が先に出て、「芝生」の字があとで宛てられたと言うものであるまいか。異国人にこうした不浄の地を特別に選定した当時のお国事情の経緯を垣間見ることが出きるかもしれない。
1998年10月23日(金)曇り。東京
ゆったりと 機内の席に 身を置きし
「午睡」
スペイン語で「シェスタ(siesta)」という。通常、昼食後の睡眠をこう呼ぶ。日本にはこの習慣はないが、乗り物のなかで5分から10分前後の暫しの「午睡」は、心地よいものがある。その理由のひとつには眠りから覚めると、車窓などから見る周囲の光景が変貌していることがあるのではないかと思っている。この外来語「シェスタ」という語響きにも忘れないものがあるようだ。また、中国では、『荘子』齊物論篇に「胡蝶の夢」という故事がある。
「昔者荘周、夢爲
このように、花を宿にして舞う胡蝶の夢を見ることは、眠りの極致なのだろうが、夢見る「午睡」とは、とんと私には縁が無いもののようである。
1998年10月22日(木)晴れ。
冷たき氣 身に体感す 秋終わり
「金糸瓜」
黄色したこの瓜、輪切りにしてなかの種を匙などで刳り貫き、これを茹でる。茹であがったところで水で冷やしながらほぐしていくと素麺状になることから、別名「ソウメンかぼちゃ」という。小学館『国語大辞典』(CD-ROM版)には、
きんとうが(‥トウグヮ)【金冬瓜】ウリ科のつる性一年草。北アメリカ南部原産。古くから日本でも栽培されている。ポンキン(カザリカボチャ)の一品種で茎、葉、花はともにカボチャに似ている。果柄に五条の稜がある。果実は長楕円形で黄赤色に熟し、なめらかで光沢がある。果実をゆでてから果肉をほぐすと索麺(そうめん)のようになり、食用にし、また飾り物にもする。あこだうり。こなたうり。そうめんかぼちゃ。《季・秋》
と収載する。この「古くから日本でも栽培」とあるが、実際いつの頃か気になるところである。同じく大槻文彦編『言海』に、
きん‐とうぐわ(名)【金冬瓜】かぼちゃの類、實の形、長くして、底廣く、色甚だ丹赤なり、味、たうなすに似て劣る。
と見えているところからして、食用にしていたこともわかる。いずれも、「金冬瓜」であり、「金糸瓜」の見出し語表記はとらない。
1998年10月21日(水)晴れ。
茜色 落ち葉舞ふ 埖帚
「恐悦」
書簡類などに「恐悦至極〔キョウエツシゴク〕」と用いられる「恐悦」とは、一度は恐れ慎しみ、一度は大喜びする意を云うところ……。下位の「至極」は、このうえないことをいう。
この「恐悦」は、「恭悦」とも書く。室町時代の古辞書『運歩色葉集』景部には、
「恐惶〔ケウクワウ〕。
の順に排列収載されている。実は、「恐」の字音は、漢音「キヨウ」、呉音「ク」である。この時代「恐」の字を「ケウ」と読み表記していることに気がつくのである。これを『日葡辞書』にあっては、正しく、
「†Qio>yet.キ
と「キョウ」の表示で収載している。
1998年10月20日(火)晴れ。札幌
晩秋も 寒さ一気に 冬コート
「〓〔酉+祭〕」
酉偏に「祭」と書いた日本酒の銘柄が北海道にある。読みは「まつる」と読む純米吟醸酒で、もろみを搾るときに最初に出るアラバシリと呼ばれる一番搾りをそのまま瓶詰めした蔵出しの原酒なのである。アルコール分が17・9度もあるが、口当たりが良いのが特徴である。これが現地調達の限定酒とくる。現地とは、小樽市“北の誉”の藏のある奥沢1の21の5「酒泉館」、天狗山の塩素無混入の伏流水が地下百メートルから湧出する。とにもかくにもご自身で行って御試飲あれである。
ところで、「祭」を旁とする漢字だが、魚偏に「祭」で「このしろ」ぐらいしかコンパクトな漢和辞書には見えない。もちろん、酉偏に「祭」の「まつる」の字は未収載である。
1998年10月19日(月)晴れ。福岡から北海道。雨
空輸機の 整備不良か やきもきす
「具足」という「道具」
義経記に、からのかがみをとり出し、是は山伏の御道具かといへば、ちごをぐしたるたびなれば、けはひの具足を持まじきいはれがあらばこそ、これにて道具と具足のことばあきらかなり。山伏に道具といひ、俗に具足といひしなり。
という『南畝莠言』22の引用文の検証である。実際、手元にある『義経記』(底本は、田中穣所蔵本)をみるに、両方とも「具足」の語で記されていて、南畝の見た『義経記』本文とは異なるようだ。
探し見れば、櫛と鏡あり。「これは山伏の
とあり、サ変動詞「具足し」と漢語名詞「具足」の語用例が見えるところである。前者は言うまでもなく、@「所有する」、A「伴うこと。引き連れる」意であり、後者は@「道具。所持品」A「武具」B「家来」C「素材(和歌・連歌)」の意に用いる。であるからして、尋問の表現は「これは山伏の道具か」で、弁慶応答の表現は、「稚児を連れている以上は、稚児の道具ではないか」と解釈されるというものである。
他にこの「具足」の表現を取り上げてみると、次のような語文が見える。
かくて暁方に観音より立ちければ、港の浦に船一艘、主もなく船
ところで、南畝の云う「道具」の語は、元はその道の器材をいうところから、仏教語であり、出典用例として、『釋氏要覧』〔巻中〕を引いて、
とある。
1998年10月18日(日)曇りのち晴れ。福岡
金木犀 台風一過に 匂ひ立つ
「顛倒語」二三
「遠恋」・「遠距離」(「遠距離恋愛」をいう)といった省略語を多く用いる若者キャンパスことばの成り立ちにも、「顛倒語」表現による語がある。今回、入手した「首都圏女子大生のキャンパスことば」―横浜・フェリス女学院大学―1998<馬瀬良雄・中東靖恵・小西優香共編>を見るに、
「グラサン(サングラス)」40頁
「ぼんびー(びんぼう【貧乏】)」119頁
の二例があった。顛倒表現の使用は、やはり少ないようだ。省略語での会話表現で、一般の社会とは区別した仲間うちでの話が十分進むというところか。また、そこまでひねってまで使用する立場にないからかもしれない。上記の二語も作り手は別にあるのであろう。これをつきとめてみたいところでもある。国語辞書に記載されている顛倒語表現には、わき道にそれる意の「ぐれる」が有名である。
二枚貝の「はまぐり【蛤】」を「ぐりはま」と云い、この二枚の貝殻を逆にするとどうにもしっくりしない状態となることから、物事が食い違うことを云うときに「ぐれはま」となして、これに動詞「る」語尾がついて「ぐれる」となったというが如何なものか?
1998年10月17日(土)雨。福岡
近づきつ 台風の行方 人少な
「鶸」
「ひわ」は、全国の山地から平地の林に生息するが、近年市街地の公園や街路樹でも繁殖する姿を見かけるようになった。大きさは雀とほぼ同じぐらいで、一見黒っぽいが、全身オリーブ褐色で、特に目立つのは翼に黄色い模様があるので飛ぶとこれが良く目立つ。鳴き声も美しく「キリリ、コロロ」「ビュイイ、ビュイ」と聞こえる。大槻文彦編『言海』には、
ひは
(名)【鶸・金雀】〔弱鳥の合字あれば、ひはひはと弱き意ならむ〕小鳥の名、雀より小く、全身黄にして青みあり、頭、背、頚、翅、黒色を交ふ、尾、脚、黒く、腹、黄白にして、嘴、小く灰白なり、粟稗を食とす、秋来る、能く囀りて、清滑なり、ひゆんちゆんちゆんと聞ゆ、他名に対して、真〔マ〕―といふ。一名、唐〔から〕―。金翅雀。又紅〔べに〕―、蓼―、河原―、等あり、各条に註す。と記載されていて、「聞きなし」が現代人の聴感覚と異なっている。
冬が近づく晩秋には、シベリア方面から群れをなして暖地へ移動する光景が見られる。この「ひわ」だが、漢字表記すると「鶸」と書く。字が表わすように「弱い鳥」ということか。そして、どこが弱いかといえば、網で生け捕りにした「ひわ」を網からはずす折に、脚足が弱弱しく、折れやすい鳥なのだそうだ。「ひよわな脚の鳥」から「ひはひはとり」を略して「ひは(ひわ)」というのである。
1998年10月16日(金)雨。福岡
朝走り ゆるりゆるりと 埠頭まで
誤変換「しゃがみこんだ若者」
「しゃがみ込んだ若者」とワープロ入力した際、「社が見込んだ若者」と誤変換されたというものである。この事例報告は、週刊読売に<福岡市会社員「海ノ中道」44歳>から寄せられたものである。
「かしにいかなかった」も「河岸に行かなかった」も「河岸に烏賊なかった」ともなる。
また、この号の週刊読売には、他に先週の各スポーツ新聞紙が掲載したシャレた次の記事見出しを見ることが出きる。
「煮詰まるか毒カレー」<10・5日刊スポーツ>
「吉本から食い逃げるありすがわゆき壽退社」<10・8サンケイスポーツ>
「井原に胃、腹任せた」<10・6スポーツ日本>
「“始皇帝”歴史つくった」<10・9スポーツ日本>
「美酒濡れ甲子園」<10・9スポーツ報知>
とあって、最後の記事は、プロ野球セリーグ38年ぶりの悲願優勝を達成した横浜ベイスターズが甲子園球場で優勝を決定付け、その夜西宮市甲子園都ホテルでの祝賀会にてのビールかけの模様を報じたものである。
1998年10月15日(木)雨後曇り。福岡へ(曇り)
モット来て 季節の雨は 逆転か
「優悠」
「ユウユウ」とした容子を和語で「おっとり」と表現する。漢語で表記するとき、「優々」「悠々」「優悠」といった熟語が用いられる。これに、四字熟語にして、「――閑々」、「――自適」などともいう。新明解『国語辞典』第五版に、
と意味説明がなされ、それぞれに用例が記載されている。ここで気づくのは、「ゆうゆう」の語表記を「悠悠」のみに留めていることと、和語「おっとり」ということばが連関語として取り上げられていない点にある。
大槻文彦編『言海』には、「
いういう−と(副)【優優】落ち着きて急がずに。氣を長く」と「優優」の熟字で表記され、やはり「おっとり」の連関語の記載はない。この両辞書の表記を混合した「優悠」は、もちろんどの辞書にも見えないのである。
1998年10月14日(水)晴れのち曇り。
散髪や 金魚の昼寝 楽しみて
「おころげる」
ご飯を炊いて蒸らしたあと、すぐにご飯をまぜてほぐすことを「
おころげる」という。余計な湯気をまぜてほぐすことで、米粒どうしが糊状にくっつくことを防いでいる。どんなブレンド米を用いても、このちょっとした工夫が味を良くする。よく、ご飯の焚き方を工夫して、酒・油・炭などを入れたり、水にミネラルウオーターを使ったり、おおきい釜で炊いたりするも良いのだが、この炊き立てのご飯を杓文字で「おころげる」作業がなくてはならないということのようだ。「
おころげる」という表現だが、辞書には未収載の語でもある。1998年10月13日(火)晴れ。札幌
野焼けぶり 白く朦々と 眼を休め
「同名異体」
人の名前に、耳で表現すると「同姓同名」外にも同じ発音で呼ばれる人が結構いるものである。これが時には、時分の日頃のパートナーの名前であったりするとその関りからか、苦笑せざるをえないこともままある。紹介のときに「○○です」と云っただけでは、困ること大であり、文字で示された自分の名刺や書き物を添えて差し出さねばなるまいのもこういうところからであろうか。文字表記することもままならぬ時は、「安泰」の「泰」の字ですと口で説明したりする。これが、ちょっと読めない難しい名前となると厄介でもある。明治維新の歴史の上で七卿落ちの一人として知られ、後に北海道開拓長官として函館に赴任した「東久世通禧〔ひがしくぜみちとみ〕」の「通禧」は、「交通の通に、示へんに喜ぶと書きます」というふうにでも表現することになるのであろうか。また、読み方は同じでも、住む所も背格好・体躯や年齢なども異なる「同名」の人と偶然出会い、ハッとしたり、苦笑したりするのもこんな時であるまいか。
ところで、「
同名異体」の逆になる「同体異名」なる表現が室町物語集『鴉鷺語』に、いはゆる当社は八幡大菩薩と
同躰異名の神明、「人の人より我人」と誓給ふなれば、いかでか使者をば捨給ふべきと、ありがたく下向す。<新大系一二四N>と見える。この一体説は、「住吉」と「八幡」とをいう。
1998年10月12日(月)晴れ。
雪虫の 舞ふ折節や 暖かき
「湖の七度まで桑原となる」
「湖の七度まで桑原となる」とは、途方も無い時間の経過をいう慣用表現である。この慣用句だが、古くは、『太平記』三十八・彗星客星事付湖水乾事に、白髭明神(滋賀県高島郡高島町にある神社)が、日吉本宮の大宮権現に向かって「コノ
湖七度マデ桑原ニ変ゼシヲワレ見タリ」と語ったとある。これを受けてか室町物語集『猿の草子』(永祿年間の末に成立か)に、我人寿六千歳の始より此所の主として、此
湖の七度まで桑原となりしを見たり。<新大系四三八K>とあり、同じく室町物語集『俵藤太物語』(室町時代成立)にも、
むかし久かたの天の道ひらけ、あらかねの土かたまりて、この秋津洲の国さだまりし時より、かの
湖水に居をしめ、七度まで桑原となりしにも、かたちを人に見せず。<新大系九二@>といった表現がある。「蒼海変じて桑原となる」とも云う。
1998年10月11日(日)晴れ。
駒大岩見沢高校野球部秋の全道大会優勝!家探し 燕のつばくら 片言に
「五味」
『涅槃経』において、牛乳を精製する時の経過状況に従がい、「乳味〔ニュウミ〕・酪味〔ラクミ〕・生酥味〔ショウゾミ〕・熟酥味〔ジュクゾミ〕・醍醐味〔ダイゴミ〕」と云う五味〔ゴミ〕を辿るという。室町時代の『湯山聯句鈔』虞韻に、「五味ト云ハ、乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味ゾ。」<新大系三七五>と記載され、この五味は、時がたつにつれ深味を増すこともあって、天台宗では、釈尊の説法の期間を五つに区分し、「1、華厳 2、阿含(鹿苑)3、方等 4、般若 5、法華涅槃」の五部に喩えるとある。
「醍醐味」はこの五味の最終到達点であり、もっとも深まった味覚であるとして他にも転用表現されることばである。この「醍醐味」たどりつく時間とその経緯をなぜか忘れ勝ちにある。も一度「乳味」から「酪味」、「生酥味」、「熟酥味」と味わっていく味の感覚もさることながら、万事このセンスを大事にしたいものである。
1998年10月10日(土)晴れ。
<体育の日>出雲学生駅伝・駒大陸上部二連覇達成!のびやかに 起き覚め聞くは ラジオかな
「杉原」と「椙原」
室町時代の古辞書、『下学集』は、「杉原〔スイバラ〕日本
ノ俗杉ヲ或作ス∨椙ニ。未タ/ス∨詳ナラ也」<器財門119F>とあり、文明本『節用集』は「杉原サンゲン紙名。本朝幡州自‖杉原村|。始出∨之。故云∨尓」<器財門一一二五C>と意義説明は『節用集』が詳しい。これに基づいてみるに、播州杉原村で作られる紙の名で「すぎはら」の音便形で「すいばら」と発音する。『庭訓往来』四月十一日の条に、「播磨杉原」とあり、『太平記』十六・將軍自筑紫御上洛事「杉原〔スイバラ〕ヲ三帖短冊ノ広サニ切セテ、自観世音菩薩ヲ書セ給テ、舟ノ帆柱毎ニゾ推サセラレケル」とある。ところで、この「すぎ」の漢字だが、「杉」を「椙」とも表記するということだが、如何なものかということである。実際、「杉」を「椙」で表記し、木ノ盛んにすくすく育つ意を添えた会意表記にある。「椙原」と書く苗字名も用いられている。他に、
椙 すぎ・ぬき。 椙原 すぎはら。 椙社 すぎのもり・すぎもり。 椙生 すぎう。
椙谷 すいだに。 椙杜 すぎのもり・すぎもり。 椙本 すぎもと・すずもと。
椙木 すずき。 椙林 すずき。
といった苗字が知られるところである。
この両様の字だが、観智院本『類聚名義抄』には、
杉 音衫。一音繊。スギ。椙非‐<佛下本八八F> (「椙」の字「〓〔木‐チ〕」に作る)
椙榑 スギクレ <佛下本一一三G>
とあって、「椙」の国字を「非‐」と注記することや次の「すぎくれ」の語表記からも、早い時期にこの字形を用いてきたことが分る。この国字を認定する意識がこの『下学集』の頃には世俗を中心にして興りつつあったのかもしれない。二巻本『世俗字類抄』に「杉〔すぎ〕」<植物下123@>、「椙〔すぎ〕 同(杉)」<植物下123A>とある。
1998年10月9日(金)晴れ。
朝急ぎ むたごたとして 短日陽
「鼻高」と「鼻荒」
室町時代の古辞書、『下学集』は、「鼻高〔ビカウ〕履〔クツ〕也。高
ノ字或ハ作∨荒ニ」<器財門113@>とある。「ビカウ」の同音異字として、「鼻高」と「鼻荒」とが用いられる。つま先が高く上がった浅沓で、古くは一般に使用されていたのが後には僧家専用のはきものとなっている「鼻高履〔ビカウリ〕」をこういう。他に『倭名抄』に収載。ただ、「鼻高」には、プラスの意を感じるが、もひとつの「鼻荒」にはマイナスの意を感じないではない。いま「鼻荒」の用例を見出せないでいる。
1998年10月8日(木)雨。横浜ベイスターズ優勝。
冷たきも 人の温もり 知るがゆえ
「外居」と「行器」
室町時代の古辞書、『下学集』は「外居〔ホカイ〕或
ハ作ス‖行器〔ホカイ〕ニ|也」<器財門107B>とある。「ほかゐ」の同訓異字として、「外居」と「行器」とが用いられる。丸く高い形をしていて、外に反った足が三本ついた食器をいう。実際、『宇津保物語』吹上・上に、「衣着たる男に、油単おほひたる台据ゑたるほかゐ持たせて」<大系>とある。1998年10月7日(水)晴れ。北海道三笠。西武ライオンズ優勝。
ガツンとや 打って走ってぞ 美酒酔ひ
「夙習」と「宿習」
室町時代の古辞書、春良本『下学集』は「夙習〔シクシウ〕前生之義。或作
ス∨宿ト」<態藝門79F>とあり、文明本『節用集』は「夙習〔シクシウ〕ツト・ナラウ前生ノ習也」<態藝門九七一D>とある。「しゅくしふ」の同音異字として、「夙習」と「宿習」とが用いられる。この語は仏教語で、「前世の習いが現世に及ぼすこと」をいう。実際、『保元物語』下・新院讃州「南海渺茫たる旅泊にただよはせ給ひける
宿習の程こそ浅ましけれ」<大系>とある。1998年10月6日(火)晴れ。
ちょっぴり 寒くなりました 夜露降り
「緞子」
室町時代の古辞書、『下学集』は「段子〔ドンス〕段或
ハ作∨端ニ」と二種の表記がなされ、文明本『節用集』には、「鈍子〔ドンス〕ニブシ・コ或作‖段子端子|」<絹布門一三〇D>と三種の表記字が収載されている。この読みは唐宋音で、「ドンス」と読む。この時代に中国から渡来したシュス【繻子】の絹織物をいう。実際、神田本『太平記』巻第二十三・土岐頼遠に、「ドンス、金襴の小袖」とあり、また、蕗谷虹児さんの童謡『花嫁人形』の歌詞に、「きんらんどんすの帯しめながら、花嫁御寮はなぜ泣くのだろ」<『令女界』大12年>と歌詞にも見える。1998年10月5日(月)晴れ。北海道
白い朝 日は秋へと 真っ盛り
「下火」と「下炬」
室町時代の古辞書『下学集』には、同音異語表記の語が多く注記されている。この一つに、「アコ」がある。この字音は唐宋音にて、古くは『太平記』三十三・將軍御逝去事に、「鎖龕ハ天龍寺ノ龍山和尚、起龕ハ南禪寺ノ平田和尚、奠茶ハ建仁寺ノ無徳和尚、奠湯ハ東福寺ノ鑑翁和尚、
下火ハ等持院ノ東陵和尚ニテゾヲハシケル。」<大系三二五四J>とあり、禅宗で火葬における導師の作法のひとつであるが、型としてのみ行われていた。1998年10月4日(日)晴れ。東京
ぽかぽかと 陽だまりの街に 足運ぶ
「鯔」と「鰡」
「ぼら」を表す字に次の二種がある。古辞書にあって古き『倭名抄』や『新撰字鏡』の字体は「鯔」であり、室町時代の古辞書前田本『下学集』になると「鰡」の字へと変わっている。そして、この二種の字を「なよし【名吉】」とも読む。「いな」は、「ぼら」の幼魚を呼称するのであるが、これを「いな【否】」ということばと共通するが故に古くから忌み嫌ってこれを「なよし」というのである。
1998年10月3日(土)晴れ。東京
花の香は 金木犀や 漂ひて
「在来」とは「ありきたり」
どこにでもあって、見られ、誰からも省みられないような物事をこういう。「在来」であるからにして、粗末に取り扱っていたのでは、いつか気がついたときには、あれよあれよという間に消え去ってしまう恐れが無きにしもあらずである。でも「ありきたり」という世界にめざめ、人は生きていけたらどんなに幸せかもしれない。
意味を「これまでどおり」として、表現される文章用例として、次の用例が学研『国語大辞典』に見える。
赤シャツとおれは依然として
在来の関係を保って、交際をつゞけて居る〔夏目漱石・坊つちゃん〕その商品が…少なくとも
在来のものよりすぐれているという印象…〈四六・一一・三・読売朝・社説〉さて、この漢語「在来」を和語で「ありきたり」という。漢語「在来」に付加される語として、生物などの「在来種」と鉄道の「在来線」という二種ぐらいの熟語しかふっと思いつかない語でもある。
1998年10月2日(金)晴れ。講義終了後、東京へ
動きとは 夜間飛行後 最終列車
「鬼師」と「鬼瓦」
愛知県高浜市は、鬼瓦の生産に携わる「鬼師〔おにシ〕」が住む街である。力強い作風の鬼瓦は、各地の寺社の屋根瓦に鎮座してきた。すべて手作業によるもので、一本の箆で鮮やかな文様を描き出す。その時其のときに応じた作風による作り飾りの表情がまたいい。「鬼師」の修業は、五年の間、ひたすら粘土を型にこめて何枚も焼くところからはじまる。修行中は良い瓦を見て廻って学ぶ。そこには他人の真似で無い独特の作風流儀を大切する心がある。
この「鬼瓦」を奈良国立博物館に以前見にいったことを思い出す。時代を隔てて鎮座する鬼の顔の表情も異なっている。これは、「鬼師」が同一でも表情は微妙に異なっているとのことだ。その鎮座する場所場所によって変貌していく。それゆえにじっとその「鬼瓦」を見つめて居たくなるのである。
大蔵虎寛本能狂言、大名狂言類に「鬼瓦〔おにがわら〕」に、
(大名)「いやあのやねにある物はなんぞ
(太郎冠者)「あれは
おにがわらといふ物でござる(大名)「さてもさても国本にいる女共がかほにそのまゝじや
(太郎冠者)「誠に仰らるれはさやうでござる、ようにさせられてござる
≪「と云てなくに心もちあり なかずにもする≫
(大名)「あのみゝのきつとしたは、其のまゝ女共が耳ににた、又、あの目のくるりとしたもにたよ
(大名)「はなのたかひもいかったもそのまゝじや
(大名)「まかぶらのなりも、口わきのくわつと耳まできれたも、そのまゝようにた
とあり、「鬼瓦」を見ての大名の観察ぶりが面白い。国本の女房に擬えていうのである。
1998年10月1日(木)曇り
粗大ごみ 藏なき家の 移り場か
「富士籠」と「臥籠・伏籠」
新明解『国語辞典』第五版に、
ふせご【伏籠】その上に掛けた衣服を暖め、乾かしたり、香を焚きしめたり、するために使う、伏せたかご。多く竹製で、中に小さな火鉢を入れる。
とある。
室町時代の古辞書、『下学集』に「冨士篭〔フジゴ〕或
ハ作ス‖臥籠〔フセゴ〕ニ| 薫籠也」<器財門九六E>とある。この「伏籠」と表記される「ふせご」だが、いまは、ほとんど用いられる環境にない道具となっている。古い用具も使う人がいて活きてくるものだが、この古い道具が蔵を持たない現代にあっては粗大ゴミと化して消えつつある。
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