[2月1日〜2月28日迄]

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

 

1999年2月28日(日)吹雪き。北海道

傍らに 十五年函 出番待ち

「決定」

 現在の読みは、「ケッテイ」と読むが、古語では「ケツヂヤウ」と読む。西来寺蔵『仮名書き法華経』に、次の8例が用いられている。

決定して大乗をとく。[原漢文]決定説大乗<方便,145C,126,8上>

○この諸々の子共、もし、こゝろ、決定しぬれは、三明、をよび六神通を具足す。[原漢文] 是諸子等 若心決定 具足三明 及六神通<譬喩,291B,263,15上>

○また、諸々の佛子、心を佛道にもはらにして、つねに慈悲を行し、みつから、ほとけにならんこと、決定して、うたがひなしとしり、これを小樹となつく。[原漢文]又諸仏子 専心仏道 常行慈悲 自知作仏 決定無疑 是名小樹<藥草,408E,396,20上>

○明了にして心決定せり。[原漢文]明了心決定<化城,541C,547,27上>

○なほかはけるつちを見は、みづ、なをとおしとしる、功をほどこすことやまずして、うたゝうるをへるつちをみ、ついにやうやく泥にいたりぬれは、その心、決定して、水かならすちかしとしらんがごとく、菩薩もまたまたかくのごとし。[原漢文]猶見乾土知水尚遠。施功不已転見湿土遂漸至泥。其心決定知水必近。菩薩亦復如是。<法師,643A,656,31下>

○やうやくうるをへる土泥をみては、決定して、水にちかつきぬとしるかことしとも、藥王、なんぢまさにしるべし、かくのごときもろもろのひとら、法華経をきかざるときには、佛智をされること、はなはだとをし。[原漢文]漸見湿土泥 決定知近水 薬王汝当知 如是諸人等 不聞法華経 去仏智甚遠<法師,650C,664,32上>

○難問答にたくみにして、その心をおそるゝところなく、忍辱のこゝろ決定し、端正にして威徳あり。[原漢文]巧於難問答 是心無所畏 忍辱心決定 端正有威徳<従地,867E,890,42上>

とあって、すべて漢語サ変動詞にて「けつちやう」「けつぢやう」と傍訓がなされている。妙一記念館蔵本では、「くゑちちやう」「くゑつちやう」と傍訓がなされている。この『法華経』からとりわけ、引用されるのが法師品の「漸見湿土泥 決定知近水」の喩えである。因みに、『十訓抄』中巻第七、可思慮事に、

「漸く見て湿土泥を決定知る近きを水に」とこそ、法華経にも説れたれば、営む方に付て、様々の願望を見つべきことと見えたり。乾燥の土の中より、唯一度に水を得事は難かるべし。<岩波文庫189I>

と漢語副詞で訓読している。意味は、「確実に、必ず」といったところである。

また、鈴鹿本『今昔物語集』にも、

冥官衆、申テ云ク、『衆生ノ善悪ノ業、本ヨリ不可轉ヌ法也、定メテ此ヲ受ク。而ルニ、此ノ男コ、既ニ、今度ハ決定ノ業也』ト。<第十七,賀茂盛孝、依地蔵助得活語第廾二361>

と漢語名詞にして、「疑いもなく決まっている」こととして用いられている。降って鎌倉時代の『正法眼蔵』に、

いま尚書いはくの「蚯蚓斬為兩段」は、未斬時は一段なりと決定するか。佛祖の家常に不恁麼なり。蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて兩段にあらず。一兩の道取、まさに功夫参学すべし。<仏性,一30ウ@,0118下右@>

と以下18例が見える。『太平記』にも3例が見える。室町時代の『運歩色葉集』には、

六十万人决定徃生 六字名号。一返法十界依正一返体万行離念一返證人中上々妙好花取此四句之頭也,,上11ウA

と「决定徃生」の語が収載されている。そして、『日葡辞書』に、

Qetgio<. (けツじょう,決定)<490l>

とここでも「けつじょう」の読みが確認できる。江戸時代の『書字考節用集』は、

決定(けつぢやう)<言辞十一12E>

とあって、「ケッテイ」の読みは近代に譲らねばなるまい。明治時代の仮名垣魯文編『西洋道中膝栗毛』には、

罪科〔けうじやう〕の決定〔さだまり〕しに。<岩波文庫上105F>

と、義訓の「さだまり」が用いられている。

1999年2月27日(土)小雨降る夕方雪吹雪く。北海道

雪融かす 累を沈める 天の雨

「出陳」と「出品」

 猫をキャットショーなる品評展覧会に出すことを云うときは「出品」と言わずに、「出陳」という。この「出陳(シュツチン)」と「出品(シュツピン)」とは、類語関係にある語だが用い様に差異があるようだ。

 人前に対象となるモノを並べて鑑定品評してもらう品々は各種ある。この展示会場・展覧会場そして販売会場に看板がかかって、実際は「出陳展」と「出品展」とそれは見事に使い分けられる。明治時代の大槻文彦編『大言海』、大正時代の上田萬年・松井簡治共著『大日本國語大辭典』、昭和初期の新村出編『言苑』には、「出陳」の語は未収載にある。そして、現代の国語辞書には、この両語は収載されているけれどこの用い様の異なりについては、きしっと意義説明ができているかが眼目となる。

 これを考慮にいれて、@現代のいつどのようなところで用いられるようになったのか?A対象となるモノを並べてどう表現されているのかを見定めてみるのも一つの方法であろう。犬や猫のペット類である生き物については、「出陳」が適応する。これに対して、書画・骨董類の器財物には、両様されるというところか。昨年の奈良国立博物館の正倉院展は、「出陳」とある。兎にも角にも確認が優先される。

 同時に、両語の差異となる部分「陳」と「品」を合せると「陳品(チンピン)」だが、この語は用いられていない。「陳列品(チンレツヒン)」とか「陳列用品(チンレツヨウヒン)」、それを並べる「陳列棚(チンレツだな)の品々」などと示される。

1999年2月26日(金)霽。北海道

 とことんと ゴミだし護美に あてがひき

「魚名の人名」

 『撈海一得』なる書物が江戸時代のいかなるものか未調査であるが、この書物から抄録引用した文書に次のような内容がある。

古ヘハ人名ニ魚ノ名ヲ号ルコト多シ。鮪(しひ)烏賊津(いかつ)淵魚魚名ナトヽ云モアリ。大織冠ノ名ハカマス也。今ノ梭小魚(かます)ノコト也。文字ニハ鎌足トカク也。足ノ字タリノトキハ、スウノ音也。ソクノ音ニテハ、アシトヨムナリ。日本紀ニ一名鎌子ト。コレモカマス也。カマスウノ轉音ナリト井笠澤ノ話ナリ。

 このように、人名に魚の名前を付けていたというのである。現代でも実在する人物名ではないが、長谷川町子さんの『サザエさん』は、すべて海生類に因んだ名前が使われている。磯野家当主「波平(なみへい)」にはじまって、フネ・サザエ・カツオ・ワカメ。フグタマスオ。タラちゃんといった具合にである。魚を採取して生活してきた日本人にとって、魚の名前を人名に用いるぐらい身近な存在であったのかもしれない。実際、四国宇和島では、「カマスの姿寿司」が祝祭に供奉されるという。

 とりわけ、『撈海一得』に引用される「大織冠、藤原鎌足」の呼び名は、通常「かまたり」と読みなしているが、「足」の字音は、『学研漢和大辞典』に、「ソク, ショク(入)沃(燭)シュ, ス(去)遇」とあって、呉音@「ソク」とA「ス」が見える。これをもってすれば、「かます」の読みは、「かま【鎌】+ス【足】」で「和語+漢語」で湯桶読みということになる。となれば、魚の名「梭魚(かます)」の語源へとも連関していくことになる。

1999年2月25日(木)曇り。北海道

足跡を 美酒傾けつ 眺めけん

「散と散て」

 これは、鈴鹿本『今昔物語集』巻第廿七,幼児為護枕上蒔米付血語に、

其ノ児ノ枕上ニ火ヲ近ク燃シテ、傍ニ人二三人許寝タリケルニ、乳母、目ヲ悟シテ、児ニ乳ヲ含メテ、寝タル樣ニテ見ケレバ、夜半許ニ塗籠ノ戸ヲ細目ニ開テ、其ヨリ長五寸許ナル五位共ノ、日ノ装束シタルガ、馬ニ乗テ十人許次キテ枕上ヨリ渡ケルヲ、此ノ乳母怖シト思ヒ乍ラ、打蒔ノ米ヲ多ラカニ掻[ツカミ]テ打投タリケレバ、此ノ渡ル者共散ト散テ失ニケリ。<大系四518I>

という表現が見える。この「散ト散テ」をどう読むか?少しく考えてみたい。和語にて「ちりとちりて」では文意が巧くとれない、前の語を音で読み、後の語を訓で読む「サンとちりて」の方が落着きがいいようだ。ここで、撥音「ン」の表記が無表記にて表示する「サとちりて」から、さらにこれを促音読みして「サッとちりて」、「サッとちッて」と読むことも考えられまいかということである。

そこで、これに類する語表現を思いつくままに挙げて見た。

「轟と轟て」は、「ゴウととどろきて」から「ゴ−ッととどろいて」に。

「抜と抜て」は、「バツとぬきて」から「バッとぬいて」に。

「呑と呑て」は、「ドンとのみて」から「ドッとのんで」に。

というところか。音読みの部分が象徴語音性の働きを有し、それを漢字表記からやがてはカナで表記するまでの流れと相俟って、この語をどこまで口語化にして読めるものかがポイントになる。

 また、象徴語副詞として、「散と+○○」といったように下接語を別語にした表現が同じく巻第二十七に、四例見えている。

其ノ時ニ、翁、音ヲ高クシテ荅ヘヲ為ルニ付テ、四五十人許ノ音ナム散ト荅ヘケル。<四521D,第廿七,於京極殿有詠古歌音語>

安高、「實ニハ我レハ引剥ゾ。シヤ衣剥テム」ト云フマヽニ、紐ヲ解テ引編ギテ、八寸許ノ刀ノ凍ノ樣ナルヲ抜テ、女ニ指充テ、「シヤ吭掻切テム」ト、「其ノ衣奉レ」ト云テ、髪ヲ取テ柱ニ押付テ、刀ヲ頚ニ指充ツル時ニ、女、艶ズ臭キ尿ヲ前ニ散ト馳懸ク。<四531K,第廿七,狐、變女形値幡磨安高語>

然レバ、男、思ヒ繚テ此彼騒グ程ニ、尚、前ニ入来タリツル妻ノ恠ク思エケレバ、其レヲ捕ヘテ居タル程ニ、其ノ妻、奇異ク臭キ尿ヲ散ト馳懸タリケレバ、夫、臭サニ不堪ズシテ打免タリケル際ニ、其ノ妻忽ニ狐ニ成テ、戸ノ開タリケルヨリ大路ニ走リ出テ、コウコウト鳴テ迯去ニケリ。<四532N,第廿七,狐、變人妻形来家語>

然レバ、此ノ一人ノ男、大刀ヲ抜テヒラメカシケレバ、一度ニ散ト咲テ失ニケリ。<四543B,第廿七,通鈴鹿山三人、入宿不知堂語>

 この「散」の字だが、片仮名の「サ」は、この文字の最初の三画からなっていることはいうまでもない。そこで、次に字書での取扱いを確認してみるに、観智院本『類聚名義抄』に、「 俗散字 チル」<僧中六六F>(*実際は、見出し字の旁は「殳」に作る)と音反切の表示もなく、単訓にて「ちる」といった寔にあっさりしたものである。このあたりに、文字使用の原点が潜んでいるのではなかろうか。

1999年2月24日(水)霽。北海道(札幌) 

陽や高み 室屋に氷柱 すんと伸び

「隠題」の歌その2

 これは、地名を隠して詠んだものであるが、『仲文集』(おほよそ俳諧なり)に、

きのくにのこほりともをよめり。

いと【伊都】 なか【那賀】 なくさ【名草】 ありた【在田】 ひたか【日高】 むろ【牟婁】(原本云名ひとつ寫落り。七郡十八字とあり。○私云海部(あま)ナクサノアイタノ間也)

  いとなかき 夜はなくさます あまあり たへすひたかむ むろにすまふや

三十一文字の中に七郡十八字をかくしてよめるハやすからぬ事なり

とある。紀州(現在の和歌山県)の郡名七つ、文字にして十八字というが十七文字なのが氣にかかるところだ。易林本『節用集』南海道・紀伊に、

紀(キ)州 上管七郡南北四日半三方海欠平地五穀不小下國也 伊都(イト) 那賀(ナカ)  名草(ナクサ)府 海部(アマベ) 在田(アリダ) 日高(ヒダカ) 牟樓(ムロ) 婁イ

とあって、一つ落ちている「海部」を「あまべ」と読むことで一八文字になる。そして、歌の三句めを「あまべあり」とせねばならないことになる。如何……。

いとなかき 夜はなくさます あまべあり たへすひたかむ むろにすまふや

1999年2月23日(火)吹雪く。気温−六度。北海道 

汗もでず 雪運びに 追われけり

「隠題」の歌

或ル日、殿上ノ戯レニ源三位ヲ嬲ントテ、宇治川・藤鞭・火桶・頼政ト云ヘル四品ノ題ヲ入テ一首ニ読ヘキヤノ仰ヲ蒙リテ

  宇治川の 瀬々のふち/\ おほけれハ 氷魚(ヒヲ)けさいかに よりまさるらん

ト取アヘス讀リトソ。

 この譚は、鎌倉時代の殿上人の調戯として、宇治左府頼長から与えられた題目四品「宇治川(うぢがは)・藤鞭(ふぢぶち)・火桶(ひをけ)・頼政(よりまさ)」を折り句にして即興歌にして読んで見せるところに妙味がある。この妙味を見事詠んだ人物は、源三位頼政その人である。頼政の武勇については、鵺退治の話が最もよく知られている。これに対し、文才の話はこれだというものであろう。この類話は、『源平盛衰記』巻第十六に、

大方此頼政ハ歌ニ於テハ手広者ニソ被思召ケル。鳥羽院御時ニ宇治河・藤鞭・火桶・頼政ト、四題ヲ下サセ給。一首ニ隠テ進ヨト勅定アリケルニ

  宇治川ノセヽノ淵々落タキリヒヲケサイカニ寄マサルラン

ト申タリケレハ、時ノ人、我々ハ一ノ題ヲタニモ一首ニ隠ハユヽシキ大事ナルニ、アマタノ題ヲ程ナク仕タル事、実ニ難有ト感シ申ケリ。君モイミシク仕タリト叡感有ケリ。

という話を収録する。出題者が誰なのかを知らせずに話が展開している点からみて最も類似譚のようだ。また、僅かながら異なるものに、『今物語』一三 桐火桶に記載を見る。

宇治のひだりのおとゞの御前に、銀をきりびをけにつまらせて、頼政卿の、いまだわかゝりける時、めしありて、「きりびをけとわが名をかくし題にて、歌つかうまつりて、これをたまはれ」とおほせ事ありければ、とりもあへず、

  宇治河の 瀬ゝの白波 おちたぎり ひを(氷魚)けさいかに よりまさるらん

とよみたりけり。めでさせ給ひけるとなむ。

と、出題者を悪左府と称せられる藤原頼長とし、歌の語句に少しだけ異同が見られるのである。異同の語句「桐火桶(きりびをけ)」乃至「火桶」だが、この語自体古辞書に収載を見ないものである。「火桶」は、『日葡辞書』に「+Fivoqe.(ひおけ,火桶)」<252l>が見える。

 他に長門本『平家物語』巻第二・『新拾遺集』雜下一九〇〇・『雑談集』巻第四が知られている。

1999年2月22日(月)曇りのち吹雪く。北海道 

ちらちらと 舞い来る天に 六の花

「飲食禁忌」のことば

 「鶏肉」ニハ、  忌蒜。葱。芥ノ末。糯米。鯉。野鶏。

 「雉肉」     忌 蕎麥。木耳(キクラケ)。胡桃(クルミ)。鮒。鮎(ナマツ)魚

 「?蠏(カニ)」  忌 荊。芥。柿。橘。軟棗(ナツメ)

 「鰕子(ヱビ)」  忌 鶏肉。猪肉

 「緑豆(ヱンドウ)」忌 榧子殺人。又忌鯉魚鮓

 「胡桃」     忌 野鴨。雉。及酒

 「葫蒜(ニンニク)」忌 魚鱠(ナマス)。魚ノ鮓。鮒魚。鶏

 「鼈肉(スツホン)」忌 〓〔艸+見〕菜(ヒユ)。薄荷。芥菜(カラシ)。桃。鶏子

 「鮒魚」     忌 芥ノ末。蒜。〓〔食+唐〕。鶏。雉

 「魚ノ鮓(スシ)」 忌 豆〓〔艸+霍〕(マメノハ)。麥醤(シヤウユ)。蒜。緑豆

 「河豚(フクドウ・フグ)」忌 煤〓〔火+台〕(スヽ)。荊芥。防風。菊花。桔梗。甘草。烏頭。附子(フス)

 「沙糖」     忌 鮒(フナ)魚。笋(タケノコ)

 「蕎麥」     忌 雉肉。猪肉

 「木耳」     忌 雉肉。野鴨(カモ)

 「芥子(カラシノコ)」忌 鮒。鶏。鼈。兎

 「乾笋」     忌 沙糖。〓〔魚+尋〕魚。

 「枇杷」     忌 熱麪

 「桃子」     忌 鼈肉

 「銀杏(ギンナン)」忌 鰻〓〔魚+麗〕(ウナギ)

 「楊梅(ヤマモヽ)」忌 生葱

 「慈姑(クワイ)」 忌 茱萸(グミ)

 按今ノ人、食鶏肉多入葱蒜、爲ニ∨〓〔月+霍〕(モノド)呼名南蛮煮|。又有鮒鱠胡葱(アサツキ)蒜和芥醋上。本草所謂鮒与芥菜同食腫疾。鶏与生葱同食蟲痔ト|。然則強急不有害好之者甚不可シ。相傳蕎麥与西瓜、同食煩悶シテ多至死。又鰻〓〔魚+麗〕(ウナキ)浸セハ∨醋乃鰻〓〔魚+麗〕膨張ス‖於腹中。故使‖∨人煩悶也。蓋西瓜似水而速降キニ西瓜後ニスルトキハ‖蕎麦、則無害乎。今人毎炙鰻〓〔魚+麗〕蓼醋之。亦無害。多食則必損人。至死者之

と記す。江戸後期の写本『地理圖河』乙<祐徳稲荷中川文庫藏>の一項目である。肉魚野菜果実などの「食べ合わせ」を記している。このうち、命取りにつながるというのが、「緑豆(ヱンドウ)」と「榧の実」。それと、相伝に「蕎麦」と「西瓜」がある。これには食する順番があって、「西瓜」の次に「蕎麦」を食するときは害がないという。現在の私たちの食生活は、もっと複雑になってきている。果して科学的にはどう説明されているのだろうか?

1999年2月21日(日)霽。北海道 

雪滑り 汗を流して 束の間に

「橋」

 「はし【橋】」の異名に、「木閤・長虹・龍腰・飛空梯」があるが、これらの語が実際どのように使われているのかは皆目見えてこない。

 日本における最古の橋は、仁徳紀十四(324)年十一月、「爲橋於甘津、即號其處小橋也」と現在の大阪市猪飼野付近にあったと言われている「猪甘津橋(いかいのつばし)」。日本三大橋といえば、「宇治の長橋・瀬田の唐橋・三条大橋」。日本三名橋となると、「山梨県の猿橋・山口県の錦滞橋・日光の神橋」となる。そして、橋の材質も木橋・石橋・煉瓦橋・鉄鋼橋・コンクリート橋・プレストレスト[prestressed concrete]コンクリート橋などと樣変わりしながらも、縦横無尽に流れる国土の川を繋ぐ橋が人々の往来交通をスムーズにしてきた。架け方も川だけでなく、池・溝からはては海にまで橋を架ける時代にまでなってきている。

 私自身、学校までの通勤ランニングちゅう、「橋」を四つも跨いでいる。橋の付近は風も流れている。冬の季節は、この寒風が川をあがってくる。雪も上から降ってくるものと思っていると大違い、橋下から吹きあがってくる。「橋」は、私にとって夏涼しく、冬寒き場所でもある。

 名前の付いていない「橋」はないくらいである。大槻文彦編『大言海』には、橋の材質説明につづき、丸木橋・舟橋・懸橋・釣橋・反橋・八橋などを見出し語にして掲げているが、これらの橋にも名はあるからだ。

1999年2月20日(土)一時吹雪き雪晴れ。北海道 

ふるふると 急勝に除け 雪の山

「交番所」から「駐在所」「巡査所」「派出所」

 今から十年前の新聞<朝日新聞夕刊1989年5月16日(火)>に、

警察官二人殺される 派出所でもみ合う 未明の練馬 若い男に質問中?

といった記事見出しがある。別記に、

未明の派出所を刃物が襲い、乾いた銃声が寝静まった街に響いた。

ふだんからお世話になっており、つい先日の日曜日も近くに住む娘のアパートの前で、放火未遂事件があり、派出所に届けておまわりさんにお世話になったばかりだった。だれがこんなひどいことを……(荒井三重子さん61才・小料理店経営の談)

ともある。ここで、「派出所」ということばが用いられ、明治七年に「交番所制度」が設置され、できた「交番所」、またはその通称の「交番」は用いられていない。『大辞林』第二版で、まず「交番」を繙くと、

こうばん【交番】「交番所」の通称。

こうばんしょ【交番所】町の要所にあって、警察官が交代で詰める所。派出所・駐在所の総称。交番。

とある。さらに、

はしゅつじょ【派出所】@本部から人を出向かせて、職務にあたらせるために設けた事務所など。「巡査―」A警察署の下部機構の一。警察官がそこに派出して警察事務を行う所。<日夜の勤務(交替して勤務する)。巡回連絡(防犯指導)。市民と密接な関わりを有する職務>

ちゅうざいしょ【駐在所】@警察署の下部機構の一。警察官が駐在して、受持ち区域内の警察事務をとる事務所。巡査駐在所。駐在。A係りの者が駐在している所。また、その事務所。<家族と一緒に住んで勤務しているところをいう>

という具合にある。少年ジャンプ連載の秋本治“こちら葛飾区亀有公園前派出所(はしゅつじょ)”も「派出所」と記す。「交番」は、「派出所」「駐在所」の総称であって通常用いていないのがよく解る。

 となれば、「交番」の標示をどこか身近な所にないかと求めて見たくもなる。

1999年2月19日(金)晴れ。北海道 

 ぐぐぐっと 冷え凍りにき 地凸凹

「嬲(なぶる)」

 江戸時代の『俗書正譌』に、

(なぶる) 哥字盡シの作字也。用ふべからず。 戯調(なぶる/キチヤウ)。又調弄(同/−ロウ)なと書へし。漢にて人を調すともいふ。

とある。ここでは、「戯調」や「調弄」を用いるのを良しとする。「なぶる」「ふれる」「さわる」「いじる」「ちょす」といった語と「ひやかす」「からかふ」が類語表現であり、「調す」を「チョす」いうのであろうか。

 さて、「嬲」の字については『小野篁哥字盡』の作字というが、これには根拠がない。というのは、室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、

(ナブル) 左。玉篇云。奴曉戯相擾<静嘉堂文庫藏189C>

とあり、文明本『節用集』にも、

?(ナブル/ニヨウ) (同(ナブル/ニヨウ)) <447C>

と見える。さらに、遡ると観智院本『類聚名義抄』にも、

嬲 音〓〔人+南〕。奴了反。舊木 明秘 古押 女衫 三反 皆未詳。ヒキシロフ、タハフル、ナフル、ナヤマス、マサクル。和子ウ<僧下六七F>

と見えているからである。音は「ニョウ」で、「男+女+男」と書いて二人の男が一人の女にうるさくつきまとう様子を表現している。和語動詞「なぶる」は、「狎れ触る」を約したもので、『日本霊異記』中巻第三十四に、

壯強(シ)ヒテ入り嬲(ナブ)ル[壯強入嬲]。逎ち心に聴許(ゆる)し、壯と交(まじは)る[迺心聴許、与∨壯而交]。<日本古典文学全集236A>

{男は強引に娘の所に行き、娘にたわむれた。そこで娘はやっと承知して男と交わった。}

とあり、『梁塵秘抄』巻二・雜364に、

わが子は十餘(じふよ)になりぬらん 巫(かうなぎ)してこそ歩(あり)くなれ 田子(たご)の浦(うら)に潮(しほ)踏むと いかに海人(あまびと)集(つど)ふらん 正(まさ)しとて 問ひみ問はずみなぶるらん いとほしや<日本古典文学全集295>

{私の娘はもう十余歳になったことでしょう。噂では歩き巫女とかいうものになって諸国をめぐっているようです。田子の浦にさすらっているとか。どんなにか多く漁師たちが集まってくることでしょう。娘の占いを、「当っているよ」とばかり、あれだこれだとさんざん言って、なぶりものにしていることでしょう。かわいそうな子よ。}

とかな表記もある。さらに、中世の『沙石集』巻第八・12に、

小童部の多く来てなぶり候ふが、あまりにさびしく候

などが知られている。

1999年2月18日(木)霙雪舞う。北海道 

ちらちらと 霙淡雪 春近き

驫(おどろく)

  江戸時代の『俗書正譌』(ゾクショセイクハ)、寛政十二(一八〇〇)年正月刊・京都書林、村上勘兵衛・林宗兵衛・林嘉兵衛に、

(おどろく) 非也。此字哥字盡にある有夫を取て書る人あり。尤三馬の字もあれども、ヲドロクとはよまざる也。

とある。「哥字盡」とは、『小野篁哥字盡』なる書をいう。この書物については、国語文字研究の立場から私自身、『小野篁哥字盡』の研究(一)北海道駒澤大学研究紀要第二十二号<昭和六十二年三月>で触れてきたものがある。今回、この「」すなわち「三馬」の文字の和語訓読「おどろく」について、それぞれの立場を踏まえて再度考察してみたい。

 まず、『哥字盡』の編者は、何故「」に「おどろく」の訓を採録したのか?次にこの訓を否認する『俗書正譌』が何故、この語に対する正しい訓を明記しないのか?というのも、『篆隷万象名義』が「馬走皃」をあげ、これを継承して『類聚名義抄』も第一訓を「はしる」とし、『字鏡抄』『字鏡集』『倭玉篇』の第一訓を「はしる」としているからにほかならない。そして、問題の「をどろく」の訓が採録されている字書は、『字鏡抄』『倭玉篇』にすぎない。『字鏡抄』が「をどろく」の訓を採用するきっかけとなった資料の解析が必要となってくる。

 次に他訓「とどろく」や「あひみる」をどうみるのかである。室町時代から江戸時代にかけ、「」の字訓として「おどろく」を選択して訓読することがしだいに普遍化していく。この過程で、『哥字盡』は江戸時代全般を通して大いに文字修得学習に影響を与えているのである。そして、『俗書正譌』『哥字盡』の文字訓読否定論に立ったのだが、この書による主張の浸透性は概して何処吹く風と言うのか、あまり問題視されていないのも現実のようである。いわば論外であったのだろう。

 江戸時代の戯作者式亭三馬は、この「哥字盡」を捩って『小哥〓〔竹+愚〕嘘字盡』という文字書物を表わす。この作者の名がこの状況を強烈に意識したのか、奇しくも「三馬」という名でもある。

1999年2月17日(水)晴れ。北海道 

吹く風に 木々も躍るや 雪の玉

「たわわ【撓】」

  雙葉中学校の入試国語問題に、

店先に並んだ まあるい夏みかん みかんの甘ずっぱい香りが わたしを包む ―おばあちゃん 庭にたわわになっていましたね ―そうだったね おまえは よく手をのばしてもいでいたものね  みかんをのぞくたびに みかんは おばちゃんの いろんな顔にみえて 立ちばなしをする ―おじさん ひとつください ―ほとつだけでいいですか? ―はい  手わたされた おばちゃんのみかんは わたしの手の中で さわやかな香りの夢路を ゆっくり ころがっていく

という詩文が使われている。このなかの、「たわわに」の意味を問うものが一つあった。この「たわわ」だが、擬態表現の象徴語「たわたわ(木の枝などがたわみしなう様子)」が約され、「たわわ」となった語である。ここから和語名詞「たわ【撓】山の鞍部」や和語動詞「たわ・む【撓】」も連関している。意味は、(果実などがたくさん付いて、その重みから)たわみしなうさまをいう。ところで、解答は、「実の重みで枝が折れそうに曲っているほどに(たくさん)」であった。

 『古今和歌集』223に、

おりて見ば 落ちぞしぬべき 秋はぎの 枝もたわわに をける白露

≪折って見るならば、きっと落ちてしまうだろう。秋萩の枝もしなうくらいに置いている白露よ≫

類語「しなう」は、しなやかな曲線を示し、「たわむ」は、加えられた力を跳ね返す力を内に潜めたまま押され曲るさまをいう。

と見える。異本に「たわゝ」のところを、「とをゝ」と表現する。この両語については、京都大学藏『古今集抄』に、

たはゝ、とをゝ同。五言相通也。

とある。「五言相通」とは、「tawawa」と「towowo」という具合に、母音「a」から「o」へ交替した形であることを示すものである。

 また、『徒然草』第十一段に、

かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子(カウジ)の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。

と「柑子」がこの語で表現されている。

1999年2月16日(火)晴れ。北海道 

一番に 暖気訪なひ 気も晴れる

「○○ぶり」

 長い間あっていなかったもの同士、顔を合せたときの挨拶ことばに「お久しぶりでございます。お元気でしたか?」がある。この接尾語「ぶり」だが、このごろ、「どれくらいぶりだろうか?」という応えの表現を耳にする。学研『国語大辞典』に、次のように記載されている。

 @{名詞について}「ようす」「ありかた」「しかた」などの意を表す。《参考》語調を強めて「っぷり」とも言う。「女っぷり」「飲みっぷり」

めざましい回復ぶりを示した…〔武田泰淳・森と湖のまつり〕

乗客が、東京に変らぬ混乱振りで、座席を争った〔獅子文六・てんやわんや〕

お母さんがひとり、娘のつとめ振りを案じてくれている〔壺井栄・二十四の瞳〕

客のあしらいぶりが普通の汗くさい女中には似ず、〔石川淳・普賢〕

彼女の狼狽ぶりは一寸不思議な姿だった〔野間宏・真空地帯〕

 A{時間を表す語について}そのことがあってから再び同じ状態が現れるまでに、それだけの、かなり長いと感じられる時間が経過した意を表す。また、長い時間がたってやっとある物事が行われるときにも言う。

何年振りかでこれを見て、わしは胸を衝(ツ)かれた〔堀田善衛・広場の孤独〕

暫くぶりに聞くような朝の外のざわめき…〔佐多稲子・くれない〕

 B{数量を表す語について}分量がそれだけあることを表す。

おまけに、あいつの腕の五本ぶり、おれの腕はある、〔葉山嘉樹・海に生くる人々〕

 C{名詞、またはこれに準ずる語について}曲節・調子などの意を表す。「ますらおぶり」「万葉ぶり」

とある。いま、この「どれくらいぶり」も「何日ぶり」「何ヶ月ぶり」「何年ぶり」などの時間表現の語と見てAの範疇にいれるものかと思うのであるが、はたして現代語表現として如何なものだろうかと首を傾げたい。

1999年2月15日(月)曇り。北海道 <涅槃會

くやくやに 薬缶蜜柑皮 焼け焦し

「鯨鯢」

 「鯨」は、雄のクジラ。「鯢」は、雌のクジラ。雄雌合せて「ケイゲイ」と読み、猛悪の魚を表現する。転じて、弱い者をいじめる悪人のかしらの譬えとしても使われる。

大槻文彦編『大言海』に、

ケイゲイ【鯨鯢】(一)鯨(をくぢら)と、鯢(めくぢら)と。李白詩「小舟若鳧雁、大舟若鯨鯢」。平家物語、十一、腰越事「不マ4身於海底、懸クルヲ≡骸於鯨鯢(アギト)|」(二)鯨鯢は、小魚を食ふより、不義の者、小國を併呑するに譬へて云ふ。左傳、宣公十二年「明王伐不敬、取鯨鯢而封之、以爲大戮」杜註「鯨鯢、大魚之名也、以、喩不義之人、呑食小國也」

とあるのがそれである。室町時代の『下學集』に、

鯨鯢(ケイゲイ) 二字義同 魚之至ナル者也 鼓シテ∨シ∨〔ハキ〕テ∨〔アハ〕ヲ∨ス‖雨霧ヲ| 其数千里也 或テ∨〔ノム〕∨者也 四足之魚也 鯨〔イウ〕〔ゲイ〕ハ〔シ〕ナリ也<氣形63E>

≪二字の義同じ。魚の至って大なるもの也。浪を鼓にして雷を成し、沫〔アハ〕を噴〔ハキ〕て雨霧を成す。其の長さ数千里也。或は口を開きて舟を呑〔ノム〕もの也。四足の魚也。鯨は雄〔イウ〕、〔ゲイ〕は雌〔シ〕也≫。

と注記する。身長を「数千里」とは、誇張表現だが、すでに雄を「鯨」とし、雌を「鯢」とする注記がなされている。他に「虹霓」<元和本、天地17E>などが想定できるが、雌雄の注記は見えていない。易林本『節用集』は、久部氣形門に「クヂラ」<130A>とあるだけで、「ケイゲイ」の読みもなく、上記の注記も見えない。

『大言海』の引用する『平家物語』巻第十一、腰越は、

「或時は漫々たる大海に、風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めんことを痛まずして、骸を鯨鯢(ケイゲイ)の鰓に懸く」

とある。他に、『平安遺文』に、

「其由何者、編少船以渡官使之間、擬細梶以漕海路之日、或黒風吹枝、或白浪忽起、任身於鯨鯢之脣、曝骸於之鰓者歟」<文書番号0339○宝生院文書、尾張國郡司百姓等解>

とあり、『太平記』巻第十七・山門南都に牒送する事に、

「海には鯨鯢を剪りて、遠近ことごとく逆浪の声を止む」

とある。私は現在でも「鯨鯢」は、「ケイゲイ」と読むものだと思っていたのだが、新潮『国語辞典』第二版に、「ゲイゲイ【鯨鯢】(古くは「ケイゲイ」)。」という見出し語を見て唖然となった。他の国語辞典ではどう記載しているのかと思って、片っ端から繙いてみると、

1、「げいげい」の見出し語読み:『広辞苑』第五版『大辞林』第二版

2、未収載の国語辞典:新明解『国語辞典』第五版岩波『国語辞典』第五版学研『国語大辞典』角川必携『国語辞典』

とある。実際、この「鯨鯢」の「鯨」の字を冠にする熟語については、「鯨飲(ゲイイン)」「鯨音(ゲイオン)」「鯨吸(ゲイキュウ)」「鯨呑(ゲイドン)」「鯨波(ゲイハ)」があり、沓にする熟語に「捕鯨(ホゲイ)」などがあり、これらの読みに引き摺られ、「ゲイ」の読みとなったのだろうか?この清音読みから濁音読みへの音変遷について、いつから清音読みを濁音読みに認証したのかを確認しておくことが急務となった。『大言海』は、清音読みであるからして、明治以降であることは、確かである。そして、どうも上田萬年・松井簡治共著『大日本國語辭典』(大正4年初版、昭和49年新装版)や新村出博士編『言苑』(昭和13年博友社刊)には、「げいげい」と濁音読みで見出し語収載されていることから、早くても明治末年、遅くても大正時代頃がどうも分かれ目のようである。すると、この「古くは」という辞書特有の言いまわしに読者は随分惑わされていることになるまいか。もっと、ことばの実際を探し求めて見なければ、結論は控えるべきだということはいうまでもない。

1999年2月14日(日)朝晴れ、暫し吹雪くのち晴れ間のぞく。北海道

ぽたぽたと 水滴なりき 雪の笠

「他力」

 作家五木寛之さんが語り、書き続けている。闇のなかできらりと光るパワーが「他力」であったと……。どんな深い闇でも夜は必ず開けるという感覚。闇の真っ只中にいるとき、人は不安に駆られてしまう。このとき、じっと待つのは「自力」そのもである。その「自力」だけでは、眠り安息する暇は生まれてこない。自分の自力以外の力があるのだと信じ、休養することでやがて訪れる夜明けを待つのである。「他力本願」であった。これを思って生きていた時代がかっての日本にもあった。応仁の乱というこの世の地獄という暗い時代のなかにあって、法然上人はこの「他力」を信じ、大衆に説いたのである。人は底知れないもので守護維持されてきたとき、感謝の気持ちをことばにし、「お蔭様で」という。これがしだいに薄れ、やがて「他力」は「あなたまかせ」、「無責任」へと変貌してしまった。こうなると、「他力本願」ではいけないという風潮が世を支配する。

 医学・教育・科学が急転進歩しつづけて、一気に「坂の上の雲」を目指して駈けあがるように、なにもかもがうまくいくとみえたとき、人間は自力のパワーに酔いしれていたのかもしれない。楽天的な人間万能主義では、無限の可能性が追い求められてきた。いま、走って走って坂を駆け上がったとき、思い任せられぬことが一杯存在することに出遭った。それは坂を下る難儀さだったかもしれない。加速して降る負担度に気がつく。道の曖昧さだったかもしれない。天候の不順による風雨、はては雪降りであったかもしれない。思いがけない自然のもたらす脅威に慄く。自力でこの難儀さから擦り抜けることばかり考えていたのではないか。闇夜の帳を開けようとしても無理がある。人は、感謝・共生という道を忘れてはいけないともいう。

「他力」というのは、この世のままを素直に受け入れるというものであり、「自力」の対義語では決してない。人事を尽くし天命を待つ。という気持ちを持続していくと大きなるパワーが生じてくるのである。巧くいかないときは、他力の風が吹かなかったときだと覚えばいい。風が吹いたらきっと巧くいくのだという気持ちが大切なときでもある。生きていることは、重い荷物を背負って夜の坂道を歩いているようなものだというのがとどのつまりのところである。「他力は自力の母である」という。きっとできる日がやってくると「他力」を素直に受け入れる姿勢が現代に生きるわたしたちに問われているのである。

 さて、已上の聞書きメモをもとに、「他力」なる語をことばのうえから少しく観察して見よう。室町時代の古辞書を繙くなかからは、このことばは未収載にある。辞書編纂史のうえで「自力」が『運歩色葉集』<359D>、文明本『節用集』<933G>や一般普及性のあった易林本『節用集』<言辞213F>などに収載され、「他力」を記載しない姿勢をまず確認することにもなろう。では、全くないのかというと、室町時代の儒学者清原宣賢の『塵芥』に「他力タリキ」<73オG>。そして、キリシタン版『落葉集』『日葡辞書』というある方向の辞書には収載をみるのである。このことばの背景を見るとき、否定され、蓋をされ、締め出されずに生きていたことをここに知り得る。「他力」を遡るに、阿弥陀佛が衆生を救済しょうとする本願の力を「他力」と呼ぶ。実際、『和語燈録』巻二に、「自力と云っぱ、わが力をはげみて往生を求むるなり。他力と云っぱ、ただ佛の力を頼み奉るなり」と記す。

1999年2月13日(土)曇り。北海道

冷えきって 外にも氷柱 光りけり

「ゆ【湯】」と「ふろ【風呂】」

 あなたは、「湯につかる」「湯船につかる」派かそれとも「風呂につかる」派かと聞かれたら、私は、「湯(ゆ)につかる派」と答える。ことば意識として私の場合、「内湯(うちゆ)」と「外湯(そとゆ)」といった対義語があるからだ。{そこで、あなた、あなたはどちらを使うか……?}

 街に少なくなった「銭湯」の暖簾(のれん)が夕方になると掛かるが、この暖簾には、「ゆ」と大きく平仮名で示されている。そして、近所のおばさんは、ここを「お風呂やさん」という。「湯屋」すなわち「お湯屋さん」と云う表現を耳にしなくなっている。京都ではどうか…?。今では、家庭に「浴室」すなわち「風呂塲」が設けられ、「銭湯」に出かける機会が少なくなった。実際、外湯といえば、「○○温泉」という名のところとなる。ここでは、何と云っても「露天風呂」が主流となってもいる。人工的に設けた浴場の感がある。逆に「天然の湯殿」という看板表示もあり、こちらは、自然の浴場の感がある。

 室町時代の古辞書である文明本『節用集』に、

風呂フロ。フウリヨ、かゼ 湯殿(ユドノ)也。日本俗、呂爐()。大誤也。爐者火()器也。――者温室義同。<家屋門618E>

湯殿ユドノ。タウデン 浴室。又作湯屋(ユヤ)ト|。自相國寺始也。弥陀菩薩湯拂音得道。故風呂掛像。<家屋門858B>

とあって、「浴塲」を「風呂(フロ)」そして、「湯殿(ゆどの)」と両用していることが知られる。「湯殿」の注記内容には、さらに「浴室」「湯屋(ゆや)」の語が示されている。これを土井本『太平記』をもって見るに、

かくのごとく諸方の合図を同時に定めて後、西の京より、番匠あまた召し寄せて、俄かに湯殿をぞ作られける。その上がり場に板を一間踏めば落つるやうに構へて、その下に刀の鉄蓙藜を植ゑられたり。これは主上御遊のために臨幸成りたらんずる時、華清宮の温泉になぞらへて、浴室の宴を勧め申して、君をこの下へ落し入れ奉らんための企てなり。〔『太平記』巻第十三・北山殿謀叛の事。大系U22KM〕

この他の先官の公卿・非参議・七弁八座、五位六位、乃至山門・園城の僧綱、三門跡の貫首、諸,院家の僧綱、ならびに禅律の長老、寺社の別当・神主に至るまで我先にと馳せ参りける間、さしもあさましく賎しげなりし賀名生の山中、花のごとく陰映して、いかなる辻堂・浴室風呂までも、幔幕引かぬところも無かりけり。〔『太平記』巻第三十・吉野殿と相公羽林と御和睦の事。大系V164D〕

今度の乱は、しかしながら畠山入道の所行なりと落書にもし、歌にも詠み、湯屋風呂の女童部までも持て扱ひければ、畠山面目無くや思ひけん、しばらく虚病して居たりけるが、かくのごとくては、天下の禍ひ何様我が身一人に懸かりぬと思ひければ、将軍に暇をも申さで、八月四日の夜、密かに京都を逃げ出でて、関東を指してぞ下だりける。〔『太平記』巻第卅五・畠山関東下向の事。大系V315B〕

と、文明本『節用集』に収載するすべての語が表現されている。

 次に現在の両語の使用について簡単にまとめてみた。

1、「湯」表記の語

“子宝の湯”。 “もらい湯”“浴衣(ゆかた=「ゆかたびら」の略)”。

2、「風呂」表記の語

釜仕立ての“五右衛門風呂” “風呂敷”

3、「湯」と「風呂」両用の語

「湯桶」と「風呂桶」。「湯上り」と「風呂上り」。「湯垢」と「風呂垢」。

と現在も、この「湯」と「風呂」は、方々で両語の使用がなされて区別があるかも解らないでいる。現代における「湯殿」というとことば表現からは、古風な旅館や温泉ホテルなどの宿泊施設が想定される。逆に「風呂」の方は家庭的雰囲気が強く想定されるようだ。だが、この両語の使用状況に、ある境界線があった時代もあったのではなかろうか。それは、“江戸”と“上方”という東西両地域のことば使用という点に顕著な差異となってあったようだが、この使用の変遷相異をさらに探って見たいところでもある。

[ことばの実際]

 明治の仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』には、已下の四例を見出す。この作品には、「風呂敷」の二例以外には「風呂」の語は見えない。

ふつて沸いたる湯屋(ゆや)のさいなん〔岩波文庫上73E〕

髪結床(かみいどこ)が剃髪店、湯屋先湯店(せんとうてん)、着物がつんつるてんで、懐中(ふところ)がすつてんてんが、聞いてあきれらア。〔岩波文庫上91H〕

湯屋ゆうや。ユヤ〔岩波文庫上214E〕

手前(てめい)が浅草に、湯屋(ゆや)の三助を働(はたら)いてる時、虚(から)ツ財布(さいふ)で人力(じんりき)に乗りやアがつて、抜裏(ぬけうら)で車を逃(まか)うとしたのを、巡査(おまはり)さんにつかまつて、屯所(たむろじよ)留(とめ)られて、おいらを呼びによこしや(ア)がつた時は、苦しい銭(ぜに)をむしりやアがつたぜ。〔岩波文庫下175N〕

 学研『国語大辞典』用例

但し(馬小屋ニハ)現在は馬は居ず、農具を入れたり湯殿(ゆどの)に使われている〔三好十郎・獅子〕

 

1999年2月12日(金)曇り。北海道

胸が焼け むからむからに 綴じ納め

「一か一か」

 「一か一か」という表現、やってみれば、あるいはいい結果がでるかもしれないという場合、「一か八か」という。これに対し、やってみても結局どうにもならないということをいうのである。出所は、「一か八か」に擬えてその逆の意味をもって使う付属性のことば表現ということになる。そして、国語辞書には、未収載の表現である。

[ことばの実際]

それは一か八かの手術だった。勿論その儘にして置いては駄目なのだが、幸ひ今、手術に堪へられたとしても、結局十中八九、矢張り駄目らしかった。其所までは醫者も云はなかったが、それが本統だろうと謙作は思った。それは一か八かよりも、結局一か一かのものに違ひなかった。<志賀直哉『暗夜行路』十九・(日本近代文学大系三八六N)>

1999年2月11日(木)霽。北海道。<建国記念日

 持ち帰り 雪に重みの 跡残り

「喫緊」

 ちょっと聞きなれない見なれない漢語ことばが用いられている。そのことばの“使い手”は、昨年“ボキャ貧”と云われた小渕恵三首相ときている。自民、自由両党の連立政権が今月十四日で発足一ヶ月を迎えるその近況を語る。同日の夜のパーティーでは、この“ボキャ貧”を意識して「最近ちょっぴり支持率も上がってきて、『ボキャ貧という言葉を発明できるのだからボキャ貧ではない』などと言われるようになった。穴があったら入りたい」と聴衆を笑わせ、以前より余裕をもって行動する姿勢が窺えるとある。

 首相官邸で10日開かれた“次代を担う青少年について考える有識者会議”のあいさつのことばのなかで、「首相になる前は族議員で好きなことをしていればよかったが、前首相(橋本龍太郎さん)は教育改革を強調しておられた。首相になって当初は経済再生を喫緊の課題として取り組まなければならなかった」と説明したという。<朝日新聞1999.2.11[政治]8より>

 このなかで「喫緊」という漢語、学研『国語大辞典』を繙くと、

きっきん【喫緊・吃緊】《名詞・形容動詞》〔文語・文章語〕さしせまっていて、非常に大事なこと。急を要して、欠くことのできないこと。緊要。「治水は喫緊の事業である」用例(鶴川の死は父の死にもまして、私に喫緊の問題とつながりがあると思われたからだ〔三島由紀夫・金閣寺〕)《文語形》《形容動詞ナリ活用》

とあるように、文章語表現を会話表現として用いることは、聞いている側からすれば意表をつく表現でもある。この「キッキン」すなわち「喫緊」は、政策を語るキメのことばとして定着する可能性もでてきた。

補遺大槻文彦編『大言海』上田萬年・松井簡治共著『大日本國語辭典』角川必携『国語辞典』には未収載の語である。現代の国語辞典、『大辞林』第二版「―の問題」「真を極むるの道に於手,―必須/真善美日本人{雪嶺}」、『広辞苑』第五版新明解『国語辞典』第五版岩波『国語辞典』第五版新潮『国語辞典』第二版精選『国語辞典』(明治書院)「喫緊の要務」には、収載されている。本邦国語辞書史における一漢語表現として見た場合、新世代の国語辞書になって収載されるに至った漢語表現の語ということになる。この語の出典は、諸橋轍次編『大漢和辞典』巻二・「喫」3987によれば、「宋人の語録に多く用ひられる」とし、実際には『中庸』章句に、「此一節、子思喫緊人處、活發發地」とあるのがもとだが、この語が日本語として使用され、収録されるに至った世代用例を今後つきとめてみたい。

1999年2月10日(水)吹雪。北海道。

雪包み ほっかりと跨ぐ 木々の房

「どれにしようかな…」

 “童べ遊び”ことばの一つにに、「どれにしようかな…」という物を選択するときに唱える呪文表現がある。この「どれにしようかな…」のあとに付加される表現については、多種多様な物言いがあるようだ。これをHBCの夕方の番組“夕刊5ジダス”が取り上げていたのを聞書きメモして見た。

神様の言うとおり。

神様の言うとおり。玉手箱開けよかな。

天ノ神様の言うとおり、あのねのね。

なのなの茄子(なすび)の柿の種。

なのなの茄子(なすび)の禿げ頭(あたま)。

なのなの茄子(なすび)の食べたいな。

なぞなぞ茄子(なすび)の禿げ頭(あたま)。

あべべのべ。赤とんぼ。白とんぼ。

というのがそれである。まだまだ、変わった言い回しがあることであろう。

他に「ジャンケン」の前囃しことばとして、

ジャンケン、ほかほか、北海道。

ジャンケン、ほっからけつ。馬のけつ。

ジヤンケン、じやがいも、さつまいも。

書き取れなかったが、ゴム跳び遊びの文句。さらには語呂合文句として、

アーメン、そーめん、冷やそうめん。

アーメン、ソーメン、味噌ラーメン。

というのもある。北海道は、日本全国のことば表現が集結している。こうした童べ遊び唄には、まだまだ広がりがありそうだ。

1999年2月9日(火)霽。北海道。<福の日

雪ばかり 道を隔てて 田畑あり

「くらがる【闇】」

 派生語動詞「がる」の一つとして、「くらがる」という語がある。『大鏡』に、

さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲のかかりて、すこしくらがりきければ、「わが出家(すけ)は成就(じやうじゆ)するなりけり」と仰せられて、歩(あゆ)み出でさせたまふはどに、弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)の御文(ふみ)の、日頃(ひごろ)破(や)り残して御身を放(はな)たず御覧(ごらん)じけるを思し召し出でて、「しばし」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、<[一八]若き帝の清涼殿脱出>

賀茂(かも)の堤(つつみ)のそこそこなる所に、侍従殿、鷹使はせたまひて、いみじう興(きよう)に入らせたまへるほどに、俄(にはか)に霧たち、世間(せけん)もかい暗がり侍りしに、東西(ひんがしにし)もおぼえず、暮(くれ)の往(い)ぬるにやとおぼえて、藪(やぶ)の中(なか)に倒(たふ)れ伏(ふ)して、わななきまどひさぶらふほど、時中(ときなか)や侍りけむ。<[一六五]光孝天皇即位の光景と、賀茂臨時祭の始>

と、かな表記と漢字表記された二例があり、「暗がる」の連用形「くらがり」として用いられている。意味は「暗くなって」と口語訳し、周囲の自然の状況についていうのである。この「くらがり」だが、『竹取物語』にも、

いかゞしけん、疾(はや)き風吹きて、世界暗がり、舟を吹(ふき)もてありく。

と場面状況を示す上接語「世間」が「世界」と表現されているが、物語の対象人からみた周囲の自然状況(四方八方・あたり一面)という点で同義である。時代が降って、連用形「くらがり」が名詞化する。『日葡辞書』(邦訳)に、

Curagari.l,curagarini.くらがり.または,くらがりに(暗がり.または,暗がりに)暗闇で.<169l>

とあるのがそれで、「暗い処。くらやみ」の意味として用いられてきている。『譬喩尽』くの部<『たとへづくし』同朋舎刊>に、

闇(くらがり)から牛索摺(ひきずり)出(い)だす

闇(くらがり)で鼻に喰(く)へば果報がある

闇(くらがり)の皺面(じうめん)

暗(くらがり)で鼻掫(つま)むやうな

と、「暗」と「闇」の字を「くらがり」と読ませている。下接表現として「から」「で」「の」が用いられている。『日葡辞書』の示す下接表現「に」は、井原西鶴『好色一代女』(貞享)巻二に、

遣ひすごして、揚屋(あげや)の門(かど)を、闇(くらがり)に通る男、又は内証(ないしよう)のよき人の手代(てだい)か、武士は中小姓(ちゆうごしやう)の掛かるものなり。<日本古典文学全集・井原西鶴集(2)470A>

*「くらやみ」と口語訳する。

というのがある。大槻文彦編『大言海』の「くらがり【暗】」の意味説明に「くらがること」としているが、この意味表現が実際にあるかがまだ知れないでいる。

1999年2月8日(月)朝曇り日中晴れ間夜吹雪く。北海道

すっぽりと 雪に包まれ シバレ増す

「つばき【椿】」

 『和名類聚抄』に「椿、海石榴、豆波木」とある。葉がつやつやと光って見えるところから「艶葉木(つやはき,tuyahaqi>つやばき,tuyabaqi」」が訛って「つばき(tubaqi)」という説と葉の厚ぼったさから「厚葉木(あつばき,atubaqi)」の語頭「ア」が脱して「つばき(tubaqi)」という説などとこの樹木の名称語源が葉に集中している。

「つらつらつばきつらつらに」の万葉時代から始まって、果てはヨーロッパ歌劇「椿姫」の「つばき」などは、天正遣欧使節団がスペインにもたらしたものともいう。この樹木の生命力に肖ることで、『荘子』逍遥遊篇に、

「上古有大椿者、以八千歳為春、八千歳為秋」

≪上古には大椿なる者有り、八千歳を以て春と為し、八千歳を秋と為す≫

といった故事を受け、「椿壽(チンジュ)」「椿齢(チンレイ)」という祝語が知られる。逆にこの花の散り際が人の首が離れるようにしてポタリと落ちることもあってか、古えの武家は庭にこの花を植えることを嫌ったようだ。そろそろ、「木に春と書きて椿(つばき)」の季節が廻ってくる。

1999年2月7日(日)朝晴れ日中は曇り空。北海道

時を待つ 雪下に育み 春や芽先

「えびす」

 岩波『古語辞典』の「えびす」の項目に、

えびす【夷・戎】《エミシの転。東国の住民をエビスと称して未開民族視したところから、エビスは「野蛮な」「荒荒しい」「不整の」という意味を表わすようになった。しかし、別にエミシから転成したエゾという語が、エビスに代って多く使われるようになり、また一方、摂津の西宮神社のエビス神の操(あやつり)人形などが、豊漁・繁昌の予祝として広まるにつれ、エビスは福の神と受けとられるようになった。「恵比須」は後世の当て字》

と説明している。そして、意味A辺境の人。異民族。中国でいう東夷・南蛮・西戎・北狄をさす。とある。この「えびす」なのだが、室町時代の古辞書である易林本『節用集』に、

〓〔犬+僉〕〓〔犬+允〕エビス/ケンイン」<江・氣形162@>

同(えびす)

東―

氣形

162@

同(えびす)

バン

南―

氣形

162@

同(えびす)

ジウ

西―

氣形

162@

同(えびす)

テキ

北―

氣形

162A

夷〓〔犬+鬼〕エゾ」<江・氣形162A>

と、人倫門でない氣形門に一語ずつ見出し語にして分類収録していることをまず知っていただきたい。「えぞ」の語もこの氣形門に収録されている。文明本『節用集』には云うまでもなく人倫門に「ヱビス 又胡エビス。東夷。南蛮。西戎。北狄」<699F>と収録を見るのである。編者易林の編纂意識姿勢がここに読み取れよう。すなわち、異郷の民を人格視しようとしないいわば、中国人が自国以外のすべてをこう示す意識をただ模倣してのことか。中国人以外の異邦人が日本国にも出現していたこの時代にである。この意識は、易林個人のみに留まるものであったのだろうか。かえって、氣形門に収録し、人倫門に収録していないことが、この名称で表現する対象「東夷人」「南蛮人」「西戎人」「北狄人」に実際出会っていないことを示唆しているのかもしれない。と同時に、中国側から日本自体をどう受けとめていたのか、その裏返しがこの記述意識なのかと考えさせられるところでもあろう。

 さらに、一歩進めて「えびす」を神化した「恵比酒ヱビス/ケイ−ジユウ。メグミ、タグイ、サケ 神名」<699E>なる表記語を文明本『節用集』は、神祇門に収録しているのがそれである。易林本にはこの語を未収載とする。因みに部門分類をしない『運歩色葉集』(静嘉堂文庫本)にも収載されている。この一音表記漢字による意味からも、“福の神”を感得していたことが窺えよう。『日葡辞書』(邦訳)には、

Yebisu.えびす(夷)野蛮人<815l>

Yebisu.えびす(恵比須)漁師の偶像〔神〕.†また,操り人形.†Yebisuuo mauasu.(恵比須を舞はす)操り人形を躍らせる.†Yebisu caqi.l,yebisumauaxi.(恵比須舁き.または,恵比須舞はし)操り人形を踊らせる者.ただし,その操り人形はDoconobo(でこのばう)と呼ばれる。<815l>

とこの同音異語の「えびす」をそれぞれ独立した見だし語扱いにして記述している。

1999年2月6日(土)雪舞う一時晴れ間のぞく。北海道

埋め尽くす 紙の山にも はしたなさ

「そのかみ」

 古語に「そのかみ」というのがある。この語は、今まさに話し手が話題にしていることが起った現時点をさしていう。平安時代の『土左日記』『大和物語』に、

当時。そのころ。 ▽現在から過去のある時点を回想していう。

 「さて今、そのかみを思ひやりて、ある人の詠める歌」《土佐日記・一・二〇》

 《訳》さて今、その当時を想像して、ある人が詠んだ歌。

その時。 ▽過去のある時点をいう。

 「かくてすなはち来にけり。そのかみ塗籠(ヌリゴメ)に入りにけり」《大和物語・一〇三》

 《訳》(平中は)こうしてすぐにやって来た。その時(女は)塗籠に入ってしまっていた。

  *『源氏物語』にも用例あり。

とあるのがそれである。古辞書観智院本『類聚名義抄』に、

 〓〔公+且〕棘反 ホトリ、カタハラ、ソハタツ、ソハム、ホノカニ、カクル、カタブク、ソル、カタマカル、ソノカミ、ツタフ、スミ、ミツ。和 ソク<佛上23A>

當時 ソノカミ<佛中87@>

憶者 ソノカミ<佛中89D>

 音増。カツテ、ムカシ、カサナ[ヌ]ル、スナハチ、コレ。經・ ソノカミ<佛下末27E>

憶在 ソノカミ<法中76F>

といった、五種の漢字表記に「そのかみ」の和訓が添えられている。このうち、「當時」「憶者」「憶在」の三種は、「そのかみ」だけの単独訓として収載されている。これを和漢混交文脈資料である『大鏡』に、

翁「後三条院(ごさんでうゐん)生れさせたまひてなむ、あひて侍りし」といへば、「さてさていかなることか申されけむ。そのかみごろも、耳もおよばずうけたまはり思ふたまへし。<後日物語(二の舞の翁の物語)>

とあり、『宇治拾遺物語』にも、

今は昔、利仁の将軍の若かりける時、その時の一(いち)の人の御許(もと)に恪勤(かくご)して候(さぶら)ひけるに、正月に大饗(だいきやう)せられけるに、そのかみは、大饗果てて、とりばみといふ者を払ひて入れずして、大饗のおろし米(ごめ)とて給仕したる恪勤の者どもの食ひけるなり。<利仁芋粥事[巻一・一八]>

家主のいふやう、「やや、ここの父(てて)のそのかみより、おのれは生ひたちたる者ぞかし」などいへば、「む」といふ。<実子にあらざる子の事[巻第五・八]>

と、二例をみる。いずれもかな表記の範疇にて表されている。これが、中世の作品『太平記』になると、

『これは初當(そのかみ)、我、高天原より落したりし剣なり』と喜び給ふ。<巻第二十五、伊勢より宝剣を参らする事 大系二459@>

これもなほ、万民の飢ゑを助くべきにあらずとて、検非違使の別当に仰せて、當時富祐の輩が利倍のために、蓄へ積める米穀を点検して、二条町に仮屋を建てられ、検使自ら断りて値を定めて売らせらる。<巻第一、関所停止の事 大系一38E>

重光は年頃と言ひ、重恩と言ひ、當時遺言方々逃れ難ければ、やがて腹をも切らんずらんと思ひたれば、さは無くて、主二人の鎧・太刀・刀剥ぎ、家中の財宝、中間・下部に取り持たせて、円覚寺の蔵主寮にぞ隠れ居たりける。<巻第十、塩田父子自害の事 大系一345@>

かつうは當時の災〓〔ゲツ〕孥を避けんがため、かつうは和光の神助を仰がんがために、仙蹕を七社の瑞籬に廻らし、安全を四明の懇府に任す。<巻第十七、山門の牒南都に送る事 大系二192K>

返報先規に違はずは、南北の両門、和睦の先表、當時の太平自他一揆の始終、将来の長久をつつまやかにせんと欲す。<巻第二十四、山門嗷訴に依つて公卿僉議の事 大系二432F>

結句、討つべしなど沙汰に及び候ひし間、武蔵の御陣を逃げ出でて、當時は深山・幽谷に隠れ居たる体にて候ふ。<巻第三十三、新田左兵衛佐義興自害の事 大系三266C>

京都は元よりはかばかしき兵一人も候はぬ上、細川右馬頭頼之・赤松律師則祐は、當時山名伊豆守と陣を取り向うて相戦ふ最中なれば、皆我が国を立ち離れ候ふまじ。<巻第三十七、清氏・正儀京に寄する事 大系三370D>

といった例を見る。「初當(そのかみ)」一例があり、他に漢字表記の「當時」は五例すべて無訓であり、音読「タウジ」か訓読「そのかみ」なのかはここでは明確に区別できないのが現状である。通常、「タウジ」と音読しているのであろう。だが、室町時代の古辞書である易林本『節用集』に、「當初ソノカミ 昔時〔同〕。當時〔同〕」<101D>と三種の表記が収載されている。江戸時代の『書字考節用集』には、「誰昔ソノカミ當時〔同〕」<時候・二62C>の表記が収載されている。これをもってすれば、「當時」を「そのかみ」と訓読することも許容されることにもなるのだろうが、今は、この「當時」の語をはっきりとこうだと決定付けて云うだけの根拠を持ち合わせていない。

現代でも学研『国語大辞典』の用例に、

往昔(ソノカミ)入貢の高麗船(コマブネ)が遠くから渡ってくるときには、〔夏目漱石・草枕〕

昭和も終戦後の今日、彼の芸を、そのかみ彼が伝えられたように承(ウ)け継ぐ人間の生活は、亡くなってきている〔有吉佐和子・地唄〕

という用例が収載されていて、脈々とこの語が文章語として現代まで用いられてきていることを知るのである。

1999年2月5日(金)曇り午後雪舞う。北海道(札幌)

降り頻る まっ白盛り 雪祭り

「乳牛」

 室町時代の古辞書、易林本『節用集』に「乳牛ウナジ」<宇部氣形117E>という語がある。類似語として『日葡辞書』に、「Vuame.(うなめ)Mevji(牝牛)に同じ.牝牛.」<694l>という語がある。『書字考節用集』にも、「〓〔牛+宇〕 ウナメ」<氣形五・45C>とある。

 この「牝牛(うなめ)」の「うな」との連関性として、すなわち、「乳を出す牛」=「乳牛」を「うなうし」、そして「うなうじ」で、さらにこれを縮めて「うなじ」というのかと推定してみるが如何。

 この時代に「乳牛(ニュウギュウ)」を「うなじ」と呼称すること、さらに一歩踏みこんで検証してみたいものである。

[補遺]

易林本『節用集』に「牝牛メウジ。乳牛同。〓〔牛+宇〕」<女部氣形196@>

1999年2月4日(木)快晴。北海道 

豆撒きし 落花生舞ふ 小鳥えさ

「接得」と「説得」

 「セットク」を漢字表記するに、通常「説得」と表記し、“十分に話して相手を納得させる”意に解する。室町時代の古辞書、文明本『節用集』には、「接得せツトク マジワルヽ・ヱル」<1095E>と見え、鈴木正三『驢鞍橋』にも、

臨濟曰、與メニ我過禪版來。牙便過シ禪版與フ濟。濟接得シテ便打。牙云、打ツコトハ即任ス打ニ。要且無祖師意。牙ニ後到翠微問、如何是祖師西來意。微云、與メニ我過蒲團來レ。牙便過蒲團翠微。微接得シテ便打。牙云、打コトハ即任打。<岩波文庫98FG>

問、達磨は、九年にして漸く二祖一人を接得し玉ふ。<岩波文庫109C>

と、「接得」の語が見える。この「セットク」は、“人とあいまみえて納得させる”ということか。静嘉堂文庫藏『運歩色葉集』は、「説得(せツトク)」<425G>と記す。

1999年2月3日(水)快晴。北海道 <節分

冷気増し PC機動かず 温めをり

「メッタ〜」

 「滅多打ち」「滅多切り」「滅多刺し」「滅多突き」と「打つ・切る・刺す・突く」などの和語動詞と接合して物騒なことがらの表現として用いられる「メッタ」だが、「滅多」という表記は宛字で意味は分別のない、節度のない行為をいう。類語に「むやみ」「やたら」「めちゃくちゃ」などがある。この類語とも結合し、「めったやたら」という言い方もする。

 この「メッタ」には、「滅多なことをお言いでないよ。この子は…」や「滅多に用いず」と「な・に」を下接した後に否定語「ない・ず」と呼応して、「余程のことがない限り」といった慎重な姿勢を促す表現ともなる。

 戦国時代頃からこの「めつた」は、「めた」の促音便化した語として、鈴木正三『驢鞍橋』に、

亦權現様抔も、六ケ敷軍立(いくさだて)抔なく、めつたに懸り、懸破(かけやぶ)り玉ふと承る。<岩波文庫76@>

修行者は、心をもつて廻らず、無分別に用ひたが能き也。時に一僧云、めつたなことを申が禪法也や。<岩波文庫92G>

爰を以て思に、今時引導坊主抔を、めたと僉議なしに頼むは、扨ても笑止千萬のこと哉と思わるゝ也。<岩波文庫112H>

師曰、めたと身を捨るを佛法とは云ず。<岩波文庫165C>

師聞曰、尤のこと也。めつたと〓〔言+肴〕訛なしにする筈に非ずと也。<岩波文庫207K>

と用いられているが、いずれもまだ、仮名表記で宛字「滅多」は用いられていない。

1999年2月2日(火)快晴。北海道

穏やかに 事進みきて 大掃除

「たわごと」

 人は病痾のなかで「たわごと(正気を失って口走ることば)」を言う。この「たわごと」だが、現在、「戯言」と表記する。室町時代の古辞書、易林本『節用集』太部・言語門には、「譫言(タハコト)妖言〔同〕」<九五@>と収録されている。また、『運歩色葉集』には、「狂言タワコト錯語同 福」<静嘉堂本149F>とあって、出典を「福」すなわち、有林『福田方』としている。この有林『福田方』(日本古典全集)巻六には、

手足厥冷(ヒヘアカリ)口乾テ欲ヘトモ‖湯水ヲ|而不飮シテ即妄言(タハコト)盞ヲ托(ササケ)斜曲シテ且鄭聲ス<巻六505D>

又云狂走(モノクルイハシリ)諺語(タハコト)シ黄ヲ發シ班ヲ發シ衂血ヲ發スル類ニハ四物湯ニ 黄蓍ヲ加テ與ヨ<巻六505F>

千金云時行熱病狂言(タハコト)スルモノ煩燥(イキホトヲリ)不安者ヲ治ス<巻六514D>

但看始テ病ヲ得テ而日々ニホトヲリテ三四日ニ至テ後チ熱氣已ニ深シテ大便秘(シフリ)小便赤ク或ハ譫言(タハコト)シ昏(マクレ)〓〔心+貴〕シテ心ミタレ別ニ熱證アリ<巻六498G>

〓〔女+爾〕子(ネイシ チノミコ) アツテ忽傷寒シ譫言(タハコト) シ上一節ニ汗アリキ<巻六516H>

或婦人經水適斷(トトマリタヘ)テ熱氣ノ血室(チノミチ)ニ入テ譫言(タハコト)スル者ニハ加地黄<巻六518B>

以來惺(サハヤカ)ナラス錯語(タハコト)シ神少寒熱瘧(ヲコリサメテ)ニ似タリ<巻六528A>

とあって、「譫言」の表記三例を見ることからも、「譫言」が主用表記漢字であったことが知れよう。(文明本『節用集』は、「狂言タワコト キヤウゲン・クルウ イフ 妖言(タワコト)。又譫語(タワコト)」<366B>とする)この他に古辞書収載の「狂言」や「錯語」の使用も確認できる。さらにまだ、「妄言」「諺語」といった語表記がここには用いられているのだがこれを未収載としているのである。易林本・文明本の注記語「妖語」「妖言」はここには含まれていない。この時代「たわごと」は、『日葡辞書』に、「Tauacoto.(たわこと【戯言】)馬鹿なこと、気狂いじみたこと、など。†Tauacotouo yu(戯言を言ふ)的はずれなことを言う。」<邦訳618l>とあり、「たは【戯・婬】+こと【言・語】」と第三拍めは清音であったことも知りうるのである。

[ことばの実際]

 然るに其未分の處に至て見れば、皆たはことと云心か。<鈴木正三『驢鞍橋』90L>

 扨たわこと/\と時時に責入れば、つんつと切るゝ物也。故に劒也。<鈴木正三『驢鞍橋』141B>

 去曉、衆中に向て曰、扨もたわけたこと哉。何の變も無物を樂むこと也。<鈴木正三『驢鞍橋』175K>

1999年2月1日(月)晴れ時折小雪舞う。北海道

 月変はり 日々すべきこと 盛りだくさん

「旋運」

 室町時代の古辞書、易林本『節用集』末部・言語門に、「旋運マヒカスム〕醫道有之」<一四二A>と云う語がある。

「目が舞う」ような状態を「めまひ【眩暈】」、「目が翳む」ような状態「翳み目」を合せて「まひかすむ」という語かと推定できる。類語に、「たちくらみ【立ち眩み】」がある。この「まひかすむ」という複合動詞だが、「醫道にこれあり」という注文に従がえば、「医学用語」として用いられてきたということになる。当時伝来の医書資料を検証する必要性を感じる。

有林『福田方』(日本古典全集)には、

眩冒メマイ」巻四<中362頁>

眩悶メマイワヒシク」<同371B>

人也暈〔ウン」<同374E>。

「頭オモクメクルメキ」<同376E>。

「頭痛ク目眩〔クルメキ耳重〔ヲホシ〕」<同384D>

「頭-目旋-暈クルメキマハリ」<同392A>

「氣虚シテ眩暈〔メノマハル神動アリト云ヘリ」<同396F>

「頭メクリ眩運〔メマイ恍-惚〔キヤウコツ」<同398B>

「頭イタク眩〔メマイイタミテ」<同404A>

「諸風メクラクマハリ」<同410H>

「寒冒〔ヲカサレテ率然トシテ眩〔メクルメキ〕暈〔マハリ」<同429G>

「挟〔カ子タル〕風者脈浮眩暈〔ケンウン/メマワリシテ不-仁スヌ」<同431B>

「平然トシテ暈悶メマイハヒシク手足厥冷ヒヘアカルヲ」<同431D>

「忽然トシテウン-倒メマイタヲルリン-継ケイ」<432G>

「入肝者眩暈〔ケンウン頑痺〔カンヒ セマリシヒル」<同434A>

「寒濕ソコナハシマクシ入暈〔メマハテ」<同440F>

「七情眩運スルアリ」<同474E>

「凡眩暈素問云諸風眩〓〔手+卓〕皆肝 則知肝風上攻眩暈スナリ 其證華〔ハナフリ/ハナヲリ〕屋イヘ轉〔メクリ起〔タテ則チ眩〔メクルメキ倒〔タヲル〕是」<474G>

「頭重頭痛メクルメキマイ倒〔タヲレントシ嘔吐〔シテ不定シツマラサルヲスル方」<同475J>

「頭痛眩〔メマイ屋之轉〔メクル〕如クシテ開〔アクコト得治」<同476C>

「頭ライタク目昏〔クラク〕眩〔メクルメキ嘔〔ハき〕吐〔ツイ〕不快〔コヽロモトコヽロヨカラス」<同555F>

「頭痛メクルメキマクヒシテ痰氣不利」<同556E>

濟生方云一切痰厥シテ旋〔クルメキ〕運〔マハリ」<同574C>

「頭目〔ホク昏〔クラク〕運〔マハリ」<同579A>

「鼻塞頭痛マクヒスル」<同591E>

と見え、このうち『濟生方』を引用する文中に「旋〔クルメキ〕運〔マハリ」の語が見えるのである。ただ、この「旋運」の訓読が「くるめきまはり」と異なっている。

 実は、この語現在の『日本国語大辞典』にも未収録の語である。当時の辞書にも連関を見ない、言わば孤立語的存在にある。易林本がこの種の語を収載する意図も今後考えねばなるまい。

 

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