[4月1日〜日々更新]

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1999年4月30日(金)晴れ。東京(八王子→世田谷駒沢:研究室にpcの設定)

 歩き行く バスより先に 停留所

「家」と「屋」

 大阪の清水泰生さんから、電子メールで「家(カ)」と「士(シ)」との違いについてお尋ねが会った。よく職業には貴賎のへだてはないというが、俗世間はそんな甘いものでないようだ。というのも、人々はある種の職業に敬意を表し、ある種の職業に軽蔑や反感を示す自由が通用することを知っているからである。一般に「家(カ)」が付く職業人は、尊敬されるとは言わないまでも一目置かれる立場にあるようだ。「書家」「音楽家」「芸術家」「作家」「評論家」「専門家」などが其の部類に入る。例外もないわけではない。「政治家」はこの頃格落ち気味の嫌いはあるが、これも侮蔑表現で人が口にするとき、「政治屋」などと表現するのである。大概、この「屋(や)」が付く職業人は、碌でも無い族ということのようだ。学研『国語大辞典』には、

《接尾語》@その職業の・人(家)であることを表す。また、それを専門とする人であることを表す。〔後者の場合は自嘲的に、または、けいべつの気持ちを含んで使われる〕「さかな屋」「左官屋」用例:「こちらはこちらで少しも影響を受けまいとする事務屋の冷酷さに徹していました」〔曾野綾子・遠来の客たち〕「政治屋」

とあって、さらに挙げれば、「殺し屋」「パクリ屋」「だふ屋」「総会屋」「利権屋」等などいずれも余り敬意の目で見られていない。「家(カ)」と云われているうちは好いが、たとえば、「芸術家」も「画書屋」、「音楽家」も「音出し屋」、「作家」も「小説屋」というように人様から「屋(や)」呼ばわりされるようになると、肩身の狭い思いをしているようでやりきれないというものだろう。この風潮を反映してか近ごろでは、「屋」の付く立派な職業も「床屋」「魚屋」「八百屋」「蕎麦屋」とは呼ばないで、「理髪業」「鮮魚商」「青果商」「麺類販売業」などと言い換えを余儀なくされている。そして、この呼称自体も、接頭辞「お」や接尾辞「さん」をつけて親しみの呼び名である「さかなやさん」「やおやさん」という云い方もやがて煙たがられ、今では「食べ物屋」は「調理師」、「床屋」は理容専門学校に通い、検定制度による「理髪師」「理容師」という固い職業名を持つようになった。さらに、「屋(や)」もそうであったように、「人(ニン)」の職業人も同じ運命をたどっているようだ。「芸人」「職人」「料理人」も同じ道を歩み始めている。「士」の付く職業名「運転士」「栄養士」「衛生士」「会計士」「建築士」などがそれである。なかでも「力士(リキシ)」は古来から続く職業名のひとつであるが、これも日本大相撲協会によるところの入門審査検定に基づいている職業名である。「者(シャ)」の付く職業人、「芸者」「学者」「医者」はまだ大丈夫かと思ったりもしないではない。これでも駄目で、漢字を使って呼べない職業人には、「…スト」「…シャン」が用いられているが、これでも「テロリスト(殺し屋)」「ポリティシャン(政治屋)」だってある。

 昔の人は、“名は躰を表わす(名詮自性)”として呼称を大事にしたが、要は“為事の中身”なのだと思う。「家(カ)」「屋(や)」「人(ニン)」「者(シャ)」「師(シ)」「士(シ)」「…スト」「…シャン」でも、お粗末な中身をただ改名だけで誤魔化そうとしても果敢ない抵抗である。専門職業人としての自覚と誇りがなければ、「事務員」も「事務屋」と蔑まされてしまうからだ。それにしても、この「屋(や)」がちょっと切ない。これに替る“蔑みのことば表現”が用いられない限り“名の回復”はむつかしいようだ。「屋(や)」は、「始末屋」「仕切屋」など依然として蔑み表意を被りぱなしになっている。回復的兆しとしては、映画などに以前登場した「時代屋」とか「居酒屋」といった愛称性が増すしかないのかもしれない。

1999年4月29日(木)晴れ。緑の記念日。東京(八王子→南大沢)

 縁端に 腰掛けやをら 牡丹三ツ

「はけ」

 皇太子妃殿下雅子さまが立川市と昭島市にまたがる国営昭和記念公園で二十八日、皇太子ご夫妻を迎えての第10回「緑の愛護」のつどいの折、係の方に「はけ」というのは何ですか?とお尋ねになった。そのとき、同行していた新都知事に就任された石原慎太郎さんが、「大岡昇平の小説にも出て参ります」と解説され、文藝作家人として面目躍如のヒトコマが本日の新聞記事になっている。この雅子さまのご質問は、都市緑化功労者の活動を紹介するパネル展示の前で、「はけ」は丘陵の片岸を指す北海道・東北地方・関東から西に方にかけてのことばで、昭島市には「はけ」からわく清流を守る活動があるというもの。石原知事も武蔵野の自然を織り込こんだ名作『武藏野夫人』・一に見えることば表現を思い出しての機転の応えであったのである。

土地の人は何故そこが『はけ』と呼ばれるかを知らない〔大岡昇平『武蔵野夫人』〕

 この聞きなれない「はけ」とは、どういう意味なのかも少し調べて見ると、通常「刷」と表記する「はけ」と同根で「殺(サツ)・(サイ)(削る、そぎとる)」とも同系の語である。「雪(セツ)(さっと地上を清めるゆき)」の意味にも通じることばである。実際、山の斜面の崩れた所や急傾斜の地、崖を指して云う。

1999年4月28日(水)曇り。東京(八王子→世田谷駒沢)

明け烏 カアーと鳴き飛ぶ 里山に

「縦横を踏む」「縦横に働く」

 思うがままに、自由自在に動き回ることを、「縦横を踏む」と表現する。江戸時代の松尾芭蕉『奥の細道』飯坂に、

遥なる行末をかゝえて、斯る病(やまひ)覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん是(これ)天の命(めい)なりと、気力聊(いささか)とり直し、路(みち)縦横(じゅうわう)に踏(ふん)で伊達(だて)の大木戸(おほきど)をこす。<日本古典文学全集355G>

《訳》気力を少し取り直して、道を自由自在に歩いて伊達の関所を越す。

と見えるのがそれである。また類句表現に「縦横に働く」がある。

永年の貧乏暮しのおかげで、江分利兄弟の知恵は縦横に働く山口瞳・江分利満氏の優雅な生活〕

四字熟語にして、「縦横無尽」「縦横無礙」というのも同じような意味になる。

1999年4月27日(火)晴れ。東京(八王子)

牡丹咲き スチョイチョイと 囀るや

「グジュグジュ」

 東京ガスのガス点検員がやってきた。我が家のガス設備をみて外の風呂釜が腐食しているという。このときの点検員が説明に用いたことば表現に、この「グジュグジュ」があった。このようにである。

外の風呂釜がグジュグジュになっていますので、修理するか交換するかしてください。

という用い様である。このとき、「グジュグジュ」という表現が妙に気になったので、手持ちの象徴語(擬音語・擬態語・擬情語)に関係する研究資料で上記の語を調べて見ると、

浅野鶴子編『擬音語・擬態語辞典』(昭和53年・角川書店刊)、未収載。

熊谷忠三郎著『畳語の研究』(昭和48年・創文社刊)、未収載。

となっている。これ以上に国語辞典の見出し項目に収載をみない語でもある。だが現在、巷にはこの「グジュグジュ」という表現がかなり幅の広い意味あいで用いられているのである。

[ことばの実際]

1、http://www.kh.rim.or.jp/~hideyuki/chat.html

 インコのおしゃべり  セキセイが、機嫌良さそうに目を閉じて、グジュグジュ鳴き続けているときがあります。長い間、ただの鳥のさえずりだと思っていたのですが、ある日そうでないことに気がつきました。肩に止まって、いつものようにグジュグジュ言っている中に、人間の言葉が聞き取れたのです。

2、http://www.local.co.jp/wisdom/wisdom-4.html

 熱が出てるかい?それとも鼻水がグジュグジュ?熱が出ている場合はね。 大根スープ を飲んで、布団をかぶって寝てごらん。いっぱい、汗をかくから。直ぐに下着を着替えるんだよ。そうすると、40分くらいで熱がさがるよ。そして熱が下がったら、しいたけスープやりんごもいいよ。

3、http://www.jah.ne.jp/~ikeuchi/taidan/taidan6.html

 ●離婚給付をもらうためには払える相手と結婚しておく!? 池内  最後に裁判を勝ち取るための心構えがあれば聞かせてください。 小池  これはもう決断力ですね。 池内  離婚するんだと決めたら、それを貫けということでしょう。 小池 まず決められるかどうか、だと思うんですよ。人間っていうのはグジュグジュ悩むものでしょう。一般論として離婚したほうが特か損かと言われれば、離婚しないほうが特だと思います。今の日本で女性が独りで生きていくのはまだまだ大変です。ただ厭な相手といつまでも一緒にいることがいいのかどうか、これはその人の人生の選択の問題になりますね。

4、http://www.upu.co.jp/ENGAWA/lady/hongkong/9708.html

 とうこさんのラッキー! 兵藤統子 1997.08 第11話 台風が去っても  台風が来た。 香港の台風シーズンは7、8、9月。だが今年は台風が来るのが遅く、本格的な台風が来たのは8月の頭だった。なんだかはっきりしないグジュグジュした天気が続き、時折ザーッと重い雨が降る、これの繰り返し。湿度98%の超不快な日々が続き、

5、http://www.jiban.co.jp/SOUDAN/SUMAI/199607.htm

 逆に、低地(前記の谷地や海岸平野など)には、実際のデータのどこを探しても火山灰は見当たらず、出てくるのは決まって水分をたっぷり含んだグジュグジュの土質であって、住宅を建てる際にはなんらかの基礎補強や地盤改良などの対策を講じなければ不安が解消しないというようなことも、数多くの調査を消化しているうちには次第に見えてくるのです。

6、http://plaza26.mbn.or.jp/~mkuriki/INB01JK-1.htm

 記憶は脳の内部の物理的関係性の変化を引き起こす。この変化が頻繁に起こっては頭の中が「グジュグジュ」になってしまう。脳自体の自己防御反応と、個としての生命体の自己防御反応のバランスの上に、記憶装置が機能するスイッチングレベルが規定されているのであろう。

1999年4月26日(月)晴れ。東京(八王子→世田谷駒沢)

命ある 糧や繋がり 猫と人

「いたく」という副詞

 鎌倉時代の兼好法師の随筆『徒然草』にみえる六例の副詞「いたく」だが、

    1. をかしき事を言ひてもいたく興ぜと、興なき事を言ひてもよく笑ふにぞ、品のほど計(ハカ)られぬべき。<第五十六段>(ひどくは興じない)
    2. 我がため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがは。<第七十三段>(否みはするが、あくまで否むということはしない)
    3. 古めかしきやうにて、いたくことことしから、つひえもなくて、物がらのよきがよきなり。<第八十一段>(多少は時代物のほうががよい)
    4. 内(ウチ)のさまは、いたくすさまじから。<第一百四段>(それほど荒れているのではない)
    5. 北の屋蔭(ヤカゲ)に消え残りたる雪の、いたう凍(コホ)りたるに、さし寄せ たる車の轅(ナガエ)も、霜いたくきらめきて、有明(アリアケ)の月、さやかな れども、隈なくはあらぬに、人離れなる御堂(ミダウ)の廊(ラウ)に、なみなみ にはあらずと見ゆる男(ヲトコ)、女(ヲンナ)となげしに尻かけて、物語するさ まこそ、何事かあらん、尽(ツ)きすまじけれ。<第一百五段>
    6. よき細工(サイク)は、少し鈍き刀(カタナ)を使ふと言ふ。妙観(メウクワン) が刀はいたく立た。<第二百二十九段>(そんなには切れない)
    7. と、5番「霜いたくきらめきて」の用例を除いて、残り五例は下接に否定表現「ず・ぬ」を伴っている。この五例は、普通の状態基準値を0とし、「いたく+肯定形」を最高値+5としたとき、「いたく+否定形」は決して最悪の状態を表わすマイナス値でなく、+3か+2ぐらいの値を意味しているのである。今風に云えば、普通よりは益しである「まあまあですなあ」という評価値なのである。また、この「いたく」のウ音便「いたう」はとみれば、

    8. 晦日(ツゴモリ)の夜(ヨ)、いたう闇(クラ)きに、松どもともして、夜半(ヨナカ)過ぐるまで、人の、門(カド)叩き、走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空に惑(マド)ふが、 暁(アカツキ)がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。<第十九段>
    9. かかる折に、向ひなる楝(アフチ)の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡(ネブ)りて、落ちぬべき時に目を醒(サ)ます事、度々なり。<第四十一段>
    10. うれしと思ひて、こゝ・かしこ遊び廻りて、ありつる苔(コケ)のむしろに並( ナ)み居て、「いたうこそ困(コウ)じにたれ」<第五十四段>
    11. 5を参照。
    12. いたう痛む人の、強(シ)ひられて少し飲みたるも、いとよし。よき人の、とり分きて、「今ひとつ。上少し」などのたまはせたるも、うれし。<第一百七十五段>

と五例あって、すべて下接は肯定形の動詞となっている。このように、“ウ音便化のときには下接否定形表現を伴わない”かについては再度改めて確認する必要があろう。今はその域でないのでここまでにする。

1999年4月25日(日)曇り時々晴れ間。東京(八王子)

ハナミズキ 咲き居る上に 燕飛び

「望姓(もとで)」

 室町時代の古辞書易林本『節用集』に、「望姓(モトデ)商(アキナヒ)――」という語が見える。この「望姓」なる宛字の表現は、本邦では、江戸時代の井原西鶴『織留』に、

是皆旦那より望姓をもらひしゆへなり。一人はいまだ十ヵ年の如く縫うことが几帳面に造る。

爰に津の國、伊丹諸白を作りはじめて家久しく、毎年の勘定銀五貫目、延もちゞみせず、うまれつきたる小男の仕合と、月日をおくるうちに、子ども成人をして、然も惣領よろづにかしこく、親の古風とは替り、當世仕出しの衣服に身をかざり、是より女良ぐるひにそまり、我里より忍び駕籠をいそがせ、都の嶋原通ひつのれば、すこしの望姓(もとで)殘りすくなく成て、身上あぶなく、二親なげきて異見するにとまらず。<大系319I>

然ども、望姓(もとで)持ぬ商人は、随分才覚に取廻しても、利銀にかきあげ、皆人奉公になりぬ。<大系326L>

と見えている。「商いのもとで」を「望姓」と綴る。現代の私たちからすれば、この漢字表記は意味と結びつかず、すぐに合点が行かないのである。どうして、このように表記するようになったのだろうか?と……。同じく室町時代に成る『義経記』には、

かくて商ひするとも、元手(もとで)儲けたり。<大系81C>

と、通常の漢字表記にて綴られている。とすると、この「望姓」表記はいかなるもであるかが知りたくなるのである。これについて、大系本(野間光辰さん校注)の補注三九一に、

望姓」望姓の典拠は、唐書、九五、高竈列伝第二十賛に、「古者、受姓受氏、以種有功、是時人皆土著、故名宗望姓、挙郡国、自表而譜系興焉、所以推叙昭穆使百代不上∨相乱也」、また「代閥顕者、至昏求財」とあるに拠る。売婚して富を得るためには、「望姓」が必要であったのである。これより出自・本貫の意にて「望姓」をモト(本)と読ませた。慶安版遊仙窟に、「僕アリ問曰、主-人(アルシ)姓-望(モト)何レノ」注して、「望者、門望也。若大原王・朧西。姓是人姓、望是姓出処也」という。望姓をモトと読ますところから、転じて商い元手の意にも用いたのであろうが、他にその用例あることを知らぬ。

として、この漢字表記の典拠を『唐書』と明確に示しているのである。名門ちゅうの「望一族」の家柄は高い名声を得ていたからに他ならない。吾が娘を玉の輿に乗せるためには、其れ相応の家柄を必要としたのである。そこで「もとで」を注込み、名門の家系圖を買う。本邦の室町時代は、正にそういう家系圖を重視する時代背景にあったことがこの宛字熟語から垣間見えて面白い。

1999年4月24日(土)雨。東京(八王子)

本整理 再びはじむ 週末日

「長広舌」と「広長舌」

 読売新聞の4月のホームページで、東京大學の総長蓮實重彦さんが、400字詰め原稿用紙42枚分にも及ぶ1999年度入学式の“式辞”を披露したことが話題となっているが、このようにながながと喋ることを普通「長広舌をふるう」という。明治時代の大槻文彦編『大言海』を繙くと、「広長舌」と「長広舌」という漢語名詞がそれぞれ収載されていて、

くヮうちャうぜつ【広長舌】(一)仏教の語、広長なる舌。長広舌。言語の清浄なるもの、其果報を受くと云ふ。仏菩薩の三十二相の一を云ふ。阿弥陀経「出廣長舌相、遍覆三千大千世界」 (二)大いに、説法すること。大いに、言論すること。蘇軾詩「溪聲便是廣長舌、山色寧非清浄身」「廣長舌ヲフルフ」<2-0103-1>

ちャうくヮうぜつ【長広舌】ながながと、しゃべりたつること。多言。多弁。長舌。(又、広長舌の誤用と云ふ。其条をも見よ)<3-0341-2>

とあって、ながながとしゃべりたつることを「長広舌」とし、「広長舌」の誤用という向きのことをこの「長広舌」の説明のなかで括弧書きにして示している。実際、経典類に見えるのは、「広長舌」の方であって、西来寺藏『仮名書き法華経』には、

廣長舌(くわうちやうせつ)をいだして、かみ、梵世までにいたらしめ、一切の毛孔より、無量無數色のひかりをはなちて、みな、ことことく、あまねく、十方世界をてらしたまふ。[原漢文]出広長舌上至梵世。一切毛孔放於無量無数色光。皆悉〓照十方世界。<神力,西1086A,妙1104,大51下>

諸の寳樹下の師子坐 上の諸佛も、またまたかくのごとく、廣長舌(くわうちやいせつ)をいだし、無量のひかりをはなちたまふ。[原漢文]衆宝樹下師子座上諸仏。亦復如是出広長舌放無量光。<神力,西1086D,妙1105,大51下>

と見えている。では、いつごろからこの「長広舌」の云い回しが世俗に流布しはじめたのであろうか。現代社会においては、逆に「広長舌」の方が用いられていないのが現状のようである。学研『国語大辞典』には、次の用例が見える。

天下の政治を料理するなどと長広舌を振い乍(ナガ)ら、其人の生涯を見れば奈何(ドウ)だろう〔島崎藤村・破戒〕

大衆が社会党にのぞむものはイデオロギーをふりかざす長広舌ではない〈四三・九・一五・朝日朝・天声人語〉

[ことばの実際]

1、東京の有権者は、すっかり冷めているだろう。そこでジョークを一つ。立候補予定者は、一時間以上も長広舌を振るって、いかに自分が本物の無党派であるかをPRした。演説を終えて「何か質問は?」と聞いた。「あります」との声。「ほかに、だれが立候補するんですか」

2、http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHIJI/SHOUSAI/30815000.HTM

 平成10年1月5日 知事新年のあいさつ 皆さん、明けましておめでとうございます。

 私は、高いところから長広舌を振るうというのは余り好きじゃないんですけれども、新年に向けての決意と、皆さん方への協力をお願いしてごあいさつとしたいと思います。

3、http://www.ndirect.co.uk/~mkitaji/Short%20Stories/storm2.htm

「他人の考えも、気持ちも、決してわかる事なんてないのさ。だから僕は、いつも言っているんだ。人間は孤独なんだってね」 いつもお決まりの台詞で、彼の長広舌は終わりを迎える。そして私もいつものように、表現し難い不安に駆られて尋ねるのだ。 「じゃあ、私の気持ちも、貴方にはわからないの?」 「ああ、わからない」

4、http://www.kumagaya.or.jp/~kiyota/turedure-d2.html

もし化粧品セールスの人がここを読むことがあったら覚えとけ! OLは忙しいんだ!とっとと用件に入れ!要点をまとめてさくさく話しなさい!だらだら何が言いたくて遠回りしてるんだか分からないような頭悪い話方されると苛々します。 相手が話に乗って来たら、そこで話をもっと聞かせるんじゃなくて一気に攻めろ! (これじゃアドバイスだが、だってまじに購買意欲も薄れる長広舌だったんだもん・・・)

1999年4月23日(金)曇りのち雨。東京(八王子→世田谷)

雨の前 公園を一走り 汗流す

「魯魚章草の変」

 中国のことばに「魯魚章草の変」ということばがある。書物を筆写していると、「魯」の文字を「魚」と書いてしまったり、「章」の文字を「草」と書いてしまう“字形相似”に基づく誤表記のことを云った四字熟語「魯魚章草」の句表現である。いつの頃か、この“字形相似”による誤表記を防ぐ意味から中世近代語の時代になると、『玉篇』などに基づいてか、室町時代の『下學集』には「點畫少異字」と呼称し、易林本『節用集』には「分毫字様(ブンガウノジヤウ)」(凡二百四十八字)と呼称して辞書の巻末に編集収録され、当時は広く利用されていたことを見るのである。このなかには、現代の文字表記においても“よく誤りやすい文字”として当て嵌まる文字が多数収録されているのである。

 そのいくつかの例をここに挙げて見ると、「荻萩」「天夭」「干于」「未末」「枝技」「北比」「林材」「蒲滿」「違遣」「戴載」「祭癸」「盲膏」「交夾」など実に類似する文字表記があって、その用い方について配慮がなされていたことが知られる。

国語辞書である小学館『日本国語大辞典』には、この「魯魚章草」の見出し項目はなく、「魯魚(ろぎょ)」、「魯魚烏焉馬(ろぎょうえんば)」または、「魯魚亥豕(ろぎょがいい)」の語が収録されている。用例では、『本朝文粋』巻第十・304暮春於右大丞亭子同賦逢花傾一盃 江匡衡に、

予者、江家釣名、魯魚之疑難決、翰林低翅、梁鴻之恨未休。<新大系303下R>

と用いられている。

[ことばの実際]

1、1991年7月第一部は、全共闘時代の読者には馴染みの深い月刊誌『現代の眼』の一九七八年四月号から七回に亘って連載した「生態史観と唯物史観」を収載したものであり、魯魚章草の誤り程度にとどめました。<廣松渉『生態史観と唯物史観』 講談社学術文庫 977>

2、西日本新聞社の常識試験問題より

(06)次の文章の四字熟語の用例で誤りはどれか。

  イ、役職を退き、今は「明鏡止水」の心境だ。

  ロ、よく似た字ばかりで「魯魚章草」の誤りが怖い。

  ハ、対人関係は「不即不離」でいきたい。

  ニ、彼の信望が厚いのは「朝三暮四」の生き方にある。

  ホ、無用の長物ぞろいで、まさに「夏炉冬扇」だね。

「関連研究のホームページ」→中野康明さんの「魯魚章草」の文章

1999年4月22日(木)晴れ。東京(八王子→世田谷)

 少なくも 愉しき講義 始め居り

「灌」の字

 室町時代の禪籍抄物『人天眼目抄』(松ケ岡文庫所藏禪籍抄物集)を読んでいて、

イルト讀メドモ、字註ヲ見ルニイルト云義ハナシ。漑灌ト注ス。然ドモヲヽクハ義非ス。不審也。<45C>

という文言に出合った。この「灌」の字について、白河本『字鏡抄』を見るに、

(クワン)同。モトム、アラフ、ウルフ、コムラ、イル、ホトコス、モトモ、ソヽク、カシ、ヲホカナリ、タヽヨフ、スヽク、アツマル、ヲトロク<三巻111A>

補注:「アカシ」の訓は、『名義抄』では「フカシ」の訓とする。誤記か。

とあって、「イル」の和訓は収載されている。現代では、通常この字を「そそく」と読まれているが、『字鏡抄』での「ソヽク」の訓の位置は、ちょうど中ごろに位置する訓となっている。これを院政時代の図書陵本『類聚名義抄』に、

漑灌 上广〃歌賓メ―潅ヽ謂灌注ヽ。東〃滌湲ヽ、沈―條流皃。玉〃盡ヽ、又亠既。呉亠公〃盖ソヽク。真〃ヌキ。下明憲〃貫亠洗湲、又注ヽ、真〃――。湲澆ヽ、漬ヽ、東〃澆ヽ、澆湲ヽ、飲酒ヽ、洗ヽ、漑ヽ、湲〓(水-樹)ヽ ソヽク コムラ〓(艸+聚)生ヽ 真〃貫亠。<九C>

とあり、観智院本『類聚名義抄』では、

音貫。ソヽク、アラフ、アツマル、モトモ、ヒタス、オホカリ、ウルフ、スヽク、ホトコス、フカシ、イル、コムラ、和又去)。正。。<法二十二>

と、「ソヽク」の訓を第一訓とし、「イル」の訓は最終から二番目に位置するものとなっている。また、昌住『新撰字鏡』には、

□〓〔木+貫〕二同。字古玩反。?〔水-樹〕也。漬也。飲也。竅也。又古段反。去獻聚也。〓〔水-撓〕也。

とあって、この「〓〔水-樹〕(ソヽク)。漬(ヒタス・ウルフ)。飲(ノム)。竅(アナ)。聚(アツマル)」の字注からは、「イル」の義は見えない。和訓排列は、いまは深く考えないでおくとしても、川僧は“字注”(典拠未確認)をもって、この字に「イル」の意義はないとするのであるからして、『字鏡抄』や観智院本『名義抄』などの和訓表示でない『新撰字鏡』図書陵本『類聚名義抄』のような本邦字書引用文献資料の“字注”を参照したのかもしれない。そして、「漑灌」と注するのだというところは、図本『名義抄』が近い。これを反対にした熟語「灌漑」の熟語は、「田畑に水をつぎこんで、行き渡らせる。農作物に水をやること。▽「漑」は、水をはりわたす。」と学研『漢和大辞典』にあり、「田畑に水を入れる」の意で「イル」というのかと思うのだが如何だろうか?

1999年4月21日(水)曇り。東京(八王子→世田谷)

 約束の 多き日となりて 移動増す

「めだか」

 本日の朝日新聞の社説欄そして家庭襴に「めだか」のことが話題として掲載されている。そのなかで、「メダカがすめる環境で作られた米」というキャッチフレーズによる生態系との一体化型の生き物を大切にした農業が求められていることを知った。

 この社説のなかで、「メダカの学名は、イネの学名の一部を引用したものだ」という。そして、『メダカ学全書』の編著者である愛知教育大學の岩松鷹司教授は、「メダカ」は、稲作と深い関わりがある生き物だという。私たちの身の回りに棲息する生き物の名前は、「タニシ」「タガメ」「タシギ」など稲作を営む“田んぼ”とのかかわりから、「た」のつく生き物の名前が多くあることも頷けるのである。

 さて、この「めだか」だが、明治時代の大槻文彦編『大言海』には、

めだか【目高】小魚の名。淡水に産ず。長さ一寸許り、首、平たく大きく、目、大きくして高く出ず。性、好みて水面に群遊す。小兒畜ひて玩とす。(東京)諸國、名を異にす。メメザコ。ウキンヂョ。ウキタ。ウキイヲ。ウキウヲ。ウキンダ。ウキス。丁班魚麥魚。*『物類称呼』二動物、「丁班魚、めだか、云云」<2049-4>

とある。時代は進歩し、「メダカ」の生態が少しずつ解ってきた。そのなかで、 日本テレビ/所さんの目がテン「絶滅?超能力魚・メダカ」3月28日am7:00という番組紹介を引用させていただこう。

 最初に、東京にもメダカはいた。童謡「春の小川」の石碑には「エビやメダカや小ブナの群れに」と歌われるように、代々木の河骨川にもかってはメダカがいたことを紹介する。

 メダカの観察(港区立飯倉小4年生出演)ヒメダカ、クロメダカ、世界のメダカ。

 メダカの研究(広島工業大学付属中学のメダカの海水による研究:内閣総理大臣賞)

 宇宙メダカは宇宙に強い!94年の向井さん宇宙実験の解説(東大アイソトープセンターの井尻助教授)。野生メダカ探し(カダヤシ、オイカワとの違い)。以上さまざまな角度からメダカを探究し、あっという間の楽しく勉強にもなった30分でした。ちなみに宇宙に行ったメダカの名前/オスは“元気”と“コスモ”、メスは“未来”と“夢”だったそうな。知っていたかな?

 この番組を企画した日本テレビに、メダカだけに「目からウロコで賞」をどうぞ!

 *目からウロコ.1/メダカは海水に適応でき、海水の方が成長が早い。

 *目からウロコ.2/オスの尾ビレは交尾の時メスをかかえるため長い。

 *目からウロコ.3/宇宙に強いメダカは目が良く、光りの反応が良い。

というふうに、知らないことが解って面白いのである。

1999年4月20日(火)晴れ。東京(八王子)<デジタル電話配線工事>

鴬や 遠き囀り 耳澄まし

「風俗」は変れども心は一つ

 室町時代の禪籍抄物『人天眼目抄』(抄物大系)を読んでいて、

風俗ト言ウハ処のナライダゾ。遠江ハ遠江ノ習イ、三河ハ三河ノ習イ、或ハ筑紫中国坂東、習イハ皆カワルゾ。遠江ニイトオシイト云ウヲバ、坂東ニハツボイト言フ。色々ニ風俗ハカワレドモ心ハ一ツダゾ

という文章表現に出合う。この講義筆記ノートともいうべき文末語「ダゾ」は当時の東国表現として知られるものであり、またことばについて云えば、遠江(現在の静岡県西部)では、「いとおしい」と云うのを、坂東(関東圏)では、「つぼい」というと当時の地域方言も綴られ語られていて面白い。そして、この講演の締め括りに「色々ニ風俗(処の習い)ハカワレドモ(人の)心ハ一ツ」という表現が、巻頭の「○○ハ」の部分を置換してみると、「○○ハ変れども心は一つ」の精神的教訓性の金言妙句としてとらえてやまない。このごろ個性派が目立つが、この「〜は変れども心は一つ」の気持ちを大事にしていきたい。

1999年4月19日(月)雨夕方止む。東京(八王子→世田谷)

朝晩の ラッシュまみれに 汗流す

「江戸前」

 ちょっとお付き合いですし屋の暖簾をくぐるとき、「江戸前」と書き認められた文字に目が行く。この「江戸前」だが、学研『国語大辞典』を繙くと、

えどまえ【江戸前】えどまへ{「江戸の前」の意}

@〔東京湾、とくに、芝・品川付近の海の意から〕東京湾でとれる魚類の称。

《参考》江戸前産の鮮魚として喜ばれた。

A江戸のやり方。江戸ふう。東京ふう。

[用例]*大方江戸前の料理を食った事がないんだろう〔夏目漱石・坊つちゃん〕

*故意(ワザ)と、江戸前に、二番目がって言うと、〔里見・多情仏心〕

「江戸前ずし」

とある。元は「江戸の前」の意で、江戸湾あらため東京湾近海の総称から、ここで採れる新鮮な魚類をいった。上記の用例、漱石の『坊つちゃん』に見える四国松山での“啖呵”は江戸風という意味になる。すし屋の看板「江戸前ずし」は、さしずめイナセですっきりとした味覚風味の“中トロ”がところかと思うのだが、この「鮪(まぐろ)」自体、現在では近海物は近海物でも遠いアフリカの近海物だと聞くと、なぜか興趣は失せ、箸も遠のくから不思議である。この「江戸前」のことばの響きは、鮮度が売り物となるから、値段はこれまた“ぴか一”となってしまう。なかなか庶民の口にはほど遠いことばの響きに化してしまう今日である。

1999年4月18日(日)小雨。東京(八王子)

濡れ縁や 直しみれば 春の家

「さうき【笊器】」

 中世説話文学『閑居の友』下[七 唐土の人、馬牛の物うれふる聞て発心する事]に、

さて、はるかにゆきて、思ひかけぬ山のふもとに、庵かたのやうに構へて、さうきといふものを、日に三作りて、この娘にて売りにいだしける。<中世の文学・三弥井書店刊参照>

かくて世をわたりけるほどに、ある時、このさうきを買ふ人なし。

また、つぎの日の分、具して、九のさうきをもてゆきたりけれども、この日も買ふものなし。

この女、さうきをこの錢にむすびつけて、さうきの価をかぞへて、錢をとりて、のこりの錢とさうきとをば、もとの所におきてきにけり。

たとひとるにても、一のさうきをおきて、一の価をこそとるべけれ。

いかなるものか、ひとりしてさうきを九、買ふ事あるべき。

はや、みなもてゆきて、もとの錢につらぬき具して、たゞ、さうきをとりてこよ」といふ。

娘、ゆきてみるに、この錢なほありければ、もとのまゝにして、さうきをとりてきてみれば、父も母もともに手をあはせて、頭をたれて死ににけり。

と仮名書きで「さうき」なる語10例が見える。これに先立つ僧慈円の『拾玉集』には、

になひもつ さうきのいれこ 町足駄 世渡る道を 見るぞ悲しき

と詠じられている。この「さうき」は、「笊器」であり、語頭音が清音「さ」で「ざ」の「ざうき」でも語尾音「ぎ」の「さうぎ」ではない(峰岸明・王朝文学研究会編の『閑居友』本文及び総索引・笠間索引叢刊45(昭和49年刊)は、これを「さうぎ→しやうぎ【床几】」と解している)。このことを星野喬さんが「さうき考」(「國學院雑誌」昭和47年7月号)で詳細に論述している。そして、室町時代の『日葡辞書』には、

So<qe.(さうけ【笊笥】)竹籠,または,小籠〔ざる〕.<器財,574r>

と、「さうけ」の語形で収載が見える。そして、慈円の歌にいう「いれこ【入子】」も、「入れ子型」すなわち、上下重ね合わせ型の容器であることから、「さうきのいれこ」とは、竹製の大中小重ね合わせ式の籠(かご)・笊(ざる)の容器物をいうのである。室町時代の古辞書『下學集』易林本『節用集』類などには、

笊籬(イカキ/サウリ)味噌漉〔ミソコシ〕也<器財107@>

笊籬(サウリ)<左・器財180@>

と、「さうり」なる「味噌漉し」用の「ざる・いかき」は収載されているものの、「さうき」「さうけ」なる語はなぜか未収載にある。なぜこの語が収載を見ないのか、この容れ物が鎌倉時代から室町時代へ移行する間に日常全く用いられない物品へとなっていったのだろうか。これを当代の書き物資料をもって検証してみよう。

まず、「さうき【笊器】」の語は、漢籍抄物の『詩学大成抄』二(柳田征司『詩学大成抄』の国語学的研究・影印編上、清文堂刊)に、

塩ハ日ノテルニ濱ノ砂潮ヲクミカケテ、ホイテ、イク日(カ)モ、カウシテソノ砂ヲカキアツメテ、スナヲサウキニ入テ、釜ヲ立テ、釜ノ中ニ、サウキヲ、ヲイテ、又潮ヲ、汲デ、ホイタ、砂ノ上ニ、カケテ、コシテ、ソノ汗ヲ下ヲ、ヒタヾキニ、タイテ、タキホスソ。<郊園門、陰92ウ・312E>

とあり、次に「さうけ【笊笥】」の語は、『宗湛日記』(天正十六年三月廿七日の条)に、

水指ニハ高麗ノスリ鉢、炭斗ニハサウケ、此外取合物也

とあって、両語共に用いられている。このことから語形上「Soqi」と「Soqe」とがあって、「製塩用」、「炭秤用」とそれぞれの用途に使われている語であることを知る。さらに、「さうり【笊籬】」の語も、『江湖風月抄』三に、

靈照ハ笊籬ヲ売タホドニ、河裡ノ錢ヲ柄ノ長イザルニテ救テ取タコトゾ

とある。やがてこれらの漢語の容器物は姿を見せなくなってしまう。江戸時代の古辞書『書字考節用集』には、上記の「さうき【笊器】」「さうけ【笊笥】」「さうり【笊籬】」なるいずれの語もまったく収載をみない。

1999年4月17日(土)晴れ。東京(八王子)

躑躅咲き 南野垣に 昼寝する

「無力」の読み

 現代の国語辞書を繙くとき、「無力」をなんと読ませるだろうか?「ムリョク」か「ブリョク」か、はたまた、「ムリキ」か「ブリキ」かと悩む語である。この語の反対語は、「有力(ユウリョク)」。そして、類義語に「非力(ヒリキ)」があって、下接漢字「力」の読みそのものがそれぞれ異なる読みである。迷ってしまって当然というところか。

 実際、こう思って国語辞典を繙くことをここに再現してみることにする。使用する国語辞典は、人によって異なるのだが、ここでは新潮『国語辞典』第二版とした。別に大意は無い。ただ、古語と現代語とがうまく調整編集されているからにほかならい。やはり、案の定であった。「ムリョク」「ブリョク」、さらに「ムリキ」共に収載されている。ただ、「ブリキ」は未収載の読みである。

ブリョク【無力・不力】一(名・形動)むりょく。@力がないこと。A財力がないこと。貧乏。貧困。「―な〔日ポ〕」二(名)財産を失うこと。貧乏すること。「身代ふりよくしたれば、女房にさへ見捨てられた〔狂・箕かづき〕」

ムリョク【無力】(名・形動)@力がないこと。勢力・体力などがないこと。非力。A資力がないこと。貧乏。「散々の御―にて〔謡・蘆刈〕」

ムリキ【無力】(名・形動)⇒ムリョク「―の気色にて返り来れり」〔今昔三・一三〕

という具合に、「無力」の読み方は、三通りあった。そして、「ブリョク【無力】」と「ムリキ【無力】」の語中には、かな表記「むりょく」とカナ表記「ムリョク」の読みがそれぞれ内包されているが、「ムリョク」の項目語中には、他の読みが見えないことに気づく。この「ムリョク」の読みが現在における主流な読みであることを感得するときでもある。ここで、「ムリョク」に統一されてしまった現代語を知る意味で、新潮『現代国語辞典』を繙く。

ムリョク【無力】(名・形動)力(体力・勢力・権力・資力・能力など)がないこと。⇔有力「―で買はれぬ〔ヘボン〕」

と「ブリョク」「ムリキ」の項目はなく、「ムリョク」の項目に統べられている。近代語の歩みの中で、「ブリョク」と「ムリキ」の読みは古語と化した。ここで、古語として「無力」の熟語漢字を読む場合、用例からしてこの「ムリョク」と「ブリョク」そして「ムリキ」の三語が常に交差するのである。近代語の歩みはじめの室町時代の作品資料が最も重要な鍵となるのである。岩波『古語辞典』に、

ぶりょく【無力・不力】貧乏。貧窮。「当時(今)、我―なるに」<八幡宮巡拝記下>。「―する憂き身の上に恋をして」<兼載独吟>。「無力、ブリョク、貧なる義」<文明本節用集>

むりき【無力】貧乏。「ぶりょく」とも。「薬代なしに、かの―の人に薬を与へらるる処を以て施薬院とは申すなり」<庭訓抄下>

として、逆に現代の「ムリョク」の読み項目を立てていない。といって、「無力」の読みを「ムリョク」と読むとする新潮『国語辞典』第二版の用例、謡曲『蘆刈』を忘れてはならない。ただ、大槻文彦編『大言海』では、同じ用例部分の「無力」の読みを「むりき」としているのである。そして「むりょく」の項目には用例はない。さらに、角川『古語大辞典』第五巻では、「むりき」「むりょく」の項目は立てていない。「ぶりょく」だけの統一された読みとして編纂している。

[ことばの実際]

真拆は、奈何なる言葉も、自然の最も深遠な美に到達した瞬間には、悉く無力となるであろうと信じている。<平野啓一郎『一月物語』新潮社刊52J>

1999年4月16日(金)晴れ。東京(八王子→南大沢)

野道ゆき のぼり帰るは 息弾む

「けんか」の“しでかし語”

 人は「けんか【喧嘩】」をしでかすと、@「なぐる【殴・撲】」A「たたく【叩】」B「つかみあう【掴合】」C「ひっかく【引掻】」D「むしる【毟】」などといった“手を使ったしでかし”や、E「ける【蹴】」などといった“脚を使ったしでかし”。次に、F「かみつく【噛付】」G「ののしる【罵】」H「つばをはきかける【唾吐】」などといった“口を使うしでかし”がなされる。

 このなかで、“口を使ったしでかし”のGは、「口げんか」と特出して表現されたりもする。その折に発せられることばを“罵倒語”と呼称する。この代表的“罵倒語”である「バカ・アホ・タワケ」も、関東・関西・中部地域によって敵手に与えるダメージの度合いが異なることもよく知られている。また、老若男女を問わず、「けんか」はつきないのだが、「口論」がしだいにエスカレートしていき、「口喧嘩」となり、果ては手が出るわ、脚が出るわ、物を投げるわと第三者の仲裁がないと限りなく続くこととなる。パターンも、

 T、男と男のけんか。

「おまえ、やる気があるんか…。このスカタン。バカ。このボケが…」

 U、女と女のけんか。

「あなたは生きている子どもを平気で腹からかき出すような人よ」

 V、男と女のけんか。

若い女「うるせえーんだよ。このバカ男が…」<1999.4.5:帰宅途中の電車で>

と相手を兆発している。その他“罵倒語”の表現が順序良く並べ立てられ、捲し立てられる。聞くがわにして見れば耳を蔽いたくなることばが時には飛び交う。これが“啖呵(タンカ)”ことばになると、実に小気味の好ささえ感じらてくるのだから面白いものだ。夏目漱石『坊つちゃん』のなかに、赤シャツを罵倒して、

「ハイカラ野郎の、ペテン師の、猫被(ねこっかぶ)りの、モヽンガーの、岡っ引の、わん/\鳴けば犬も同然な奴……」

という捲し立てがあるが、赤シャツ一人に対して幾通りもの“罵倒語”を浴びせている。このように溢れる語彙で捲し立てられたら言われる側もたまらない。見事に言い返すことができない“やりこめ”の図式がここにある。

1999年4月15日(木)晴れ。東京(八王子→世田谷)

野道ゆき のぼり帰るは 息弾む

「だめ」の表記

 国語辞書に「だめ」ということばがどのように漢字表記されているかというと、「駄目」とある。これは、碁の用語である「駄目」すなわち、両方の境目にあって、どちらのものにもならない目や「駄目押し」から生まれたことばである。

この「だめ【駄目】」だが、坪内逍遥『当世書生気質』第十九回に、

小「ヘン。もうあの議論は廢止(よし)たまへ。コントの糟粕(そうはく)を荷(かつ)ぎだしたッて畫餠(だめ)だヨ。」<日本近代文学大系3・415I>

と表記する。この「画餅」、絵に描いた餠(もち)は食べられないことから、実際の役立たないことから「だめ」と云う読み方にこの熟語文字を宛てている。

古くは、大槻文彦編『大言海』(昭和七年改定版)に引用される『太閤記』卷第十四、評議事に、

K田如水、淺野彈正、圍碁の事を言ひて、それをもえ知らで、だめをもさしすまし勝負して、

〔1250-5〕

とある。

1999年4月14日(水)晴れ。東京(八王子→世田谷)

人もあり 猫の散歩や 春の闇

「施」の読み

 国語辞書を繙いていて、ときおり読み方が多様な文字に出会うことがる。その一つに「施行○○周年」といった「施行」の読み方がある。この熟語の読み方を「セコウ」と読むのは誤りであると話したら、どこどこの国語辞典に「セコウとも言う」と書いていますよという。

 実際、国民的一般国語辞書と云われる岩波書店の『広辞苑』を繙くと「シコウ」「シギョウ」「セコウ」の三つの読み方が記載されている。この三つの読み方を編者のだれがどう解釈したのかは知らされていないのも事実、信頼に足り得るのかということにもなる。大方は、岩波の『広辞苑』に記載されているのだから間違いないでしょうというのであろう。

 しかし、この「施」の音と「行」の音の組合せを口に出して読み上げるとき、三者三様に言っていたのでは伝達そのものが危うくなるであろう。まず、「施」だが、本来の音は「イ」と「シ」であり、「セ」は慣用音といっているが、「セ」は呉音である。

 近代語のなかで、「実施・施行・施政」などの“行い”の意味には漢音「シ」で読む。「お布施」「施主」「施無畏」など仏教に関する“ほどこす”意味に用いるときは呉音「セ」で読むことで分けられる。「施行」も呉音読みでいうのなら、「セコウ」というのでなく、「セギョウ」と読むのが穏当であろう。  

 次に、法律用語「憲法施行」「施行法」は、明治以降に造語され、すべて漢音読みで用いられてきている。工事用語である「施工」は格外なのであるが、このあたりをどう未来の国語辞書は、説明するかが今後の課題ともなろう。

 大勢の国民が誤って読むことで成り立つのが“慣用音”でもある。この“慣用音”にただ流されのでなく、基本となる編纂指針を一歩でも遺す記述こそが鍵ではあるまいか。熟語ことばの音と訓・意味説明・用法にことばの変遷にともなう本来の正統性と社会の基準性とが活かされることを期待したい。

1999年4月13日(火)晴れ。東京(八王子)

ゴウといひ 夜景のひかり 空を飛ぶ

「笑ひ」と「笑み」

 院政時代の『今昔物語集』巻二十八に集成されている“笑話”ならびに“滑稽譚”説話における「笑ひ」と「笑み」について考察してみよう。「わらひ」と「えみ」を表記する漢字は「咲」の字が主流であり、これを送り仮名のところで「咲ヒ」と「咲ミ」と判別することになる。他に「可笑」と表記して「をかし」と読む。「笑種」は「わらひぐさ」<249M>と読む。

そこで、この「咲ヒ」と「咲ミ」は、どのように表現されているかについてふれておかねばなるまい。

咲ヒ」…@動物(狐・猿・鹿など)。B人間。

咲ミ」…A仏神。        C人間。

[ことばの実際]『今昔物語集』五<新日本古典文学大系を使用>

 Bの人間

「此ノ五節所ヲバ殿上人極ク咲フゾ。此ノ五節所ハ咲ハムトテ、殿上人達ノ謀ル様ハ、有ト有ル殿上人、此ノ五節所ヲ恐サムトテ、皆紐ヲ解テ襴・表衣ヲ脱下テ、五節所ノ前ニ立並テ、歌ヲ作テ歌ハムト為ル也。<197C>

[他に205E、207GIP、226A、234I、260F]

其ノ家ニ、世ノ□者ニテ、物可笑ク云テ人咲ハスル侍有ケリ。字ヲバ内藤トゾ云ヒケル。<282O>

若キ君達ナドニ吉ク被咲ケレバ、若キ君達ノ見ユル所ニハ、重方逃ゲ隠レナムシケル。<189@>

好忠、和歌ハ読ケレドモ、心ノ不覚ニテ、歌読共召ト聞テ、召モ無キニ參テ此ル恥ヲ見、万ノ人ニ被咲レテ、末ノ代マデ物語ニ成ル也、ナム語リ伝ヘタルトヤ。<194K>

[他に200O、260A]

若キ殿上人・蔵人ナド、此レヲ見テ咲ヒ興ジケリ。<196K>

[他に200P、205@F、207AA、211F、212D、223JM、226D、229E、232N、234DJ、237FO、238J、239H、240I、245D、246N、247C、「家ノ従者共」257J、「大路ノ者」LN、「主ヨリ始メテ」259O、「同僚ノ者共」260B、「郎等共」272I、「長立タル御目代」273A、「聞ケム人」E、「聞ク人」275L、「下衆共」276O、「道行ケル者共」277O、「前駆共」279J、「妻」282GI、「人皆ナ」283F「大納言」H]

而ル間、一人ノ大學ノ衆有ケリ。世ノ鳴呼ノ者ニテ、糸痛ウ物咲ヒシテ、物謗リ為ル者ニテゾ有ケル。<278L>

其ノ時ニ、曾タムガ起走テ、身ノ成様モ不知逃テ走ケレバ、殿上人ノ若キ随身共、小舎人童共、曾タムガ走ル後ニ立テ、追次キテ手ヲ叩テ咲フ。<194B>

[他に215F、232N、234DH、235K、239J]

其ノ咲フ交レハ、武員ハ立走テ逃テ去ニケリ。<215D>

其ノ時ニ、摂政殿、此ノ咲フ音ヲ聞給テ、「何事ヲ咲フゾ」ト問ハセ給ケレバ、<212E>

[他に239I、240L、259H]

 Cの人間

既ニ食畢テ、湯ナド飲ツレバ、房主、「今ハシ得ツ」ト思テ、「今ヤ物突迷ヒ、頭ヲ痛ガリ狂フ」ト、心モト無ク見居タルニ、惣テ其ノ気色モ無ケレバ、極ク怪シト思フ程ニ、別当、齒モ無キ口ヲ少シ頬咲(ほほゑみ)テ云ク、「年来、此ノ老法師ハ、未ダ此ク微妙ク被調美タル和太利ヲコソ、不食候ナリヌレ」ハ打云テ居タレバ、房主、「然ハ知タリケル也ケリ」ト思フニ、奇異ト云ヘバ愚也ヤ。<228@> [他に238J、254@]

守見レバ、年六十許ノ男ノ大キニ太リテ、宿徳気也。打咲(うちゑみ)タル気モ無クテ、気〓(心+悪)気ナル顔シタレバ、守此レヲ見ルニ、「先ヅ、心ハ不知ズ、見目ハ吉キ目代形ナメリ。人・物云ヒ、〓(心+悪)気ナル気色シタリ」ト思テ、手ハ何ガ書クトテ、書セテ見レバ、手ノ書様微妙クハ無ケレドモ、筆軽クテ目代手ノ程ニテ有リ。<241H>

というように、この巻第二十八には人間の「咲ヒ」と「咲ミ」が描かれている。さらに、

[ことばの実際]『今昔物語集』一・二<日本古典文学大系を使用>

 @の動物

此ノ諸ノ鼻无キ猿集テ、一ノ鼻有ル猿ヲ咲ヒ蔑ヅル事无限シ、「汝ハ此レ片輪者也、我等ガ中ニ不可交ズ」ト云テ、同所ニモ不令居ズ。<大系一、巻第五・389J>

 Aの佛神

幽ナル窟ノ側ニ苔ノ衣ヲ着タル一人ノ聖人有リ、痩セ羸レテ身ニ肉无シ。骨ト皮ト限リニテ何コニカ魂ハ隠レタラムト見ユ。額ニ角一ッ生ヒタリ、怖シ氣ナル事无限シ。影ノ如クシテ杖ニ懸リテ水瓶ヲ持テ咲ミ枉テ逶ヒ出タリ。<大系一、巻第五・四350E>

其ノ時ニ、(閻魔)王、書ヲ讀給フ事暫ク止テ、我レヲ見テテ宣ハク、『汝ヂ、既ニ大功徳有リ、親キ友ノ家ニ行テ、不意ズ大品般若三行ヲ書寫シ奉レリ。此レ、无限キ功徳也。我等、昔シ、人間ニシテ般若經ヲ修行セシ力ニ依テ、三時ニ苦ヲ受ル事軽ク少シ。汝ガ命既ニ盡ニタリト云ヘドモ、此ノ大品般若三行ヲ不意ズ書寫シ奉レル功徳ニ依テ、命ヲ増ス事ヲ得ツ。然レバ、人中ニ放チ還ス。汝ヂ速ニ人間ニ還テ専ニ般若經ヲ受持シテ、今日我ガ免ス恩ヲ可報シ』ト。<大系二、巻第七・131A>

(閻魔)王、此レヲ聞テテ宣ハク、『汝ヂ、既ニ願有リト云フ。若シ法花經ヲ書寫スル事八部ニ及ナバ、必ズ八ノ地獄ヲ免レナム』ト宣フト思フ程ニ活ヘレリ。<大系二、巻第七・148K>

其ノ時ニ、夢ノ中ニ「観音来給テ、テ金蓮花ヲ授ケ給フ、毘沙門、天盖ヲ捧テ傍ニ立給ヘリ」ト見ケリ。<大系三、巻第十二・179M>

『今昔物語集』他の巻からは、動物は「咲ヒ」、仏神は「咲ミ」という表現が窺われ、人間のみが両方の「」をなしていることが知られる。人間については、老若男女・貴賎善悪の区別もない。人は或る時は仏神の如く「咲ミ」、或る時は動物と同じように「咲ヒ」もする。人間の本来もっている仏神的資質と野性的資質とがこの「」の仕種を通じて、この説話群から垣間見ることができるのである。それは、『今昔物語集』編者の人間観察眼の確実さであり、まさに“笑い”の原点をここに認知するのである。

 また狐は、化身しているときは仏神と同じように「咲ミ」もできるというのが面白い。このあたりで化身が見破られたらいいのにと思うのだが、ちゃんと仏神の「咲ミ」を真似ることになっている。

1999年4月12日(月)曇り小雨のち晴れ間。東京(八王子→世田谷)

ゆらゆらと 散る花びらに あをき笑み

「花のやうに笑ふ」

 川端康成『伊豆の踊子』に、

この美しく光る黒眼がちの大きい眼は踊子の一番美しい持ちものだつた。二重瞼の線が言ひやうもなく綺麗だつた。それから彼女は花のやうに笑ふのだつた。花のやうに笑ふと言ふ言葉が彼女にはほんたうだつた。<日本近代文学大系103A>

といった表現がある。この「花のやうに笑ふ」というのは、“はなやかさ”が添えられた笑いでもある。そしてこの表現は、若き女人の笑う仕種を比喩表現するにもっとも適応していることばでもある。

では、いつごろから若き女人を、「花のやうに笑ふ」というようになったのだろうか?ここが知りたいところでもある。『国定読本』 (三省堂刊)に、逆の表現ともいえる、

いつか、にいさんのお作りになつた小さい温床に、今日も、おだやかな冬の日が、一ぱいにさしこんで居ます。見ると、まん中の鉢に、美しいチューリップの花が一つ、につこり笑つたやうに咲いて居ます。「まあ、きれいね。」と、私は思はず言ひました。<P−105>

いつか、にいさんが作った小さな温床に、今日も、おだやかな冬の日が、いっぱいにさしこんでゐます。見ると、まん中の鉢に、美しいチューリップの花が一つ、にっこり笑ったやうに咲いてゐます。「まあ、きれいね。」と、私は思はずいひました。<P−107>

といった文が見えている。

1999年4月11日(日)雨。東京(鶴見→八王子)

雨走る 授戒會厳かに 営まれ

「物の色合いを誉める」ことばの故実

 江戸時代の安原貞室『かたこと』(慶安三年成立)巻第二に、「物の色あひを誉るに故実侍ると云り」とあって、

青色は 見事(みごと)

黄色は 結構(けつかう)

赤色は 厳シ(いつくし)

白色は 花車(きゃしゃ)

黒色は くすみたり

此外紫は五色(ごしき)の外にて朱(あけ)をうばふといへば。うつくしきと申べきにや。惣じて紫は女服(ぢよふく)にて侍るを官僧(くわんそう)の着侍るは。もろこしにてやらん后の服をたまはりし例(れい)とかや。その外の色/\も此五色を根本にて心得へしと云り<日本古典全集23A>

とあって、五色を基調に“誉め詞”が確立されている。また、『男重宝記』(元禄七年)にも「五色のほめことば」があって、ここでは、「赤き色のものをば美しい」としている。

『続猿蓑』の「有明におくるる花のたてあひて 見事にそろふ籾のはへ口」は、青くなってすくすくと成長しつづける苗代を「見事に」と“五色のほめことば”をもって表現している用例である。

1999年4月10日(土)曇り。東京(八王子→鶴見)

艶香り 山椒の若葉 摘みにけり

「めかりどき【目借り時】」

 春の暖かな陽射しが待ち遠しい。すぐ直前まできているのだろうが、まだかまだかと焦らされもする花冷えの気候がここしばらく続いている。「花に風、出る月を待ちて散る花を追うな」と古人は言う。自然の摂理に逆らわず、ゆったりと活らせということである。そして、目を大地に転じると、まさに「蛙の目借り時」を待つ態勢はすでに整っているではないか。春のスタートラインがそこにはある。

 この「蛙の目借り時」の「めかり」だが、「妻狩り」すなわち、雄の蛙が雌を求める意にもとれるが、春眠をもよおす時期に、冬眠から目覚めた蛙に目を借りられたかのように人間様の上瞼と下瞼とがいつのまにやらドッキングして、ついうとりうとりしてしまう状態を「蛙のめかり時」と譬えてこう表現した。読み方は、「かわずのめかりどき」とか「かえるのめかりどき」という。「めかり」という和語は、他に「布刈」として、海藻の「わかめ【若布】」を狩る「めかり」があって、実に春の風物詩に広がりがあって面白いではないか。朝晩の通勤時間の瞬時にも「蛙の目借り時」はやってくる。

1999年4月9日(金)晴れ風今日も冷たし。東京(八王子)

花盛りや つばきが大輪 水の皿

「きぶい【緊】」

 和語形容詞「きぶい」は、室町時代の禪籍抄物『人天眼目抄』(足利學校遺蹟圖書館藏本・抄物大系)に、

臣文經武緯定中花、臣タル者ハ文武二道ヲ兼デハ叶ウマジイゾ。ヌルイバカリデモ叶ハズ、キブイバカリデモ叶ハヌゾ。キブカルベキ時ハキブク、ユルカルベキ時ハユルク、殺活時隨テ能ク幾内ヲ治メタソ。<37K>

と連用形「きぶく」終止形「きぶい」連体形「きぶかる」とあって、この反対語が「ぬるい【緩】」「ゆるい【緩】」であることも知れる。意味は、「きびしい。ひどい。また、刺激が強い状態」をいう。

また、『中華若木詩抄』(勉誠社文庫)上に、

色々胡人ガ。キブクアタリテ。退屈サせテ。降参サせントスレトモ。ナラヌ也。<57F>

とある。『詩学大成抄』地理門には、

竹ノシケリテアル溪ハ、竹ノ色モ、竹ノ影モ、アイ/\ト、ニツコリトシテ、溪ノナガルヽ水モ、キブウナウテ、ユル/\ト流ソ。<三56ウC448頁>

と、ウ音便形の「きぶう」の語が見えている。ここでは、「きつい【酷】」の意がいいかもしれない。

 室町時代の古辞書では、饅頭屋本『節用集』に「(キブシ)」、黒本本『節用集』に「(キブシ)」と見える。江戸時代以降は、上方語として残って用いられてきた。現代方言としても、三河から西域に多く、この語の使用が見られるのが特徴である。無論例外もある。

1999年4月8日(木)晴れ風冷たし。東京(八王子→世田谷)大学入学式(釈尊降誕会)

桜花 開いて掬んで 縮こまり

「ちゃっと」

 象徴語態動作の副詞「ちゃっと」という語についてみるに、室町時代語として狂言・抄物などに散見する。意味は、「動作をすばやく敏速に。さっと」の意と、「ほんのちょっと」の意に用いられている。

 大蔵虎明本狂言集(表現社刊)『鼻取ずまふ』のト書きに、

ちやつと口をふさぐ」<上189A>。

 大蔵虎明本狂言集『ふずまふ』に、

「はや初手をくわしたは、ちやつとかほをひかふものをな」<上195@>。

 大蔵虎明本狂言集『文荷』に、

やい/\両人の者、よび出すは別の子細でなひ、いつも一人使にやれは道よりして、ゆさんをしおつて、ちやつとかへらぬ、ふたりやつたらは、さやうにゆさんがなるまひ程に、はやうもどらうずる、此文を二人して、さこの三郎所へもつていてはやうもどれ<中109H>

とあり、禪籍抄物『江湖風月抄』巻上(抄物大系)にも、

ドコ程ヤラウニ、漁笛ヲ吹ヲ聞テ、チヤツト夢ヲサマシタソ<20G>

とあり、『詩学大成抄』時令門、魏に、

蝶ヲイテトブヲ戯蝶ト云ソ。花ヲスウテチヤツト飛去テ又クルモノソ。<五13ウH588頁>

とそれぞれ「すばやく」の意が見える。

 『中華若木詩抄』上に、

アマリニ。機巧ガ深キホトニ。チヤツト見ル処ハ、一向機ヲ忘テ。無心無念ニシテ。釣ル者ニ似タルソ。<3L>

と、「ほんちょっと」の意が見える。

さらに、この語を畳語形にして、漢籍抄物や禪籍抄物に「ちゃっちゃっと」という言い回しも見える。

 『人天眼目抄』(東京大学史料編纂所藏本。足利學校遺蹟圖書館藏本・抄物大系)に、

カヽミニ影ノチヤツ/\トウツル如クナソ。<東339G>

水タニモ、清レハ此ヘ理スル物カ、チヤツ/\ト移スソ∨影ヲ。<足140L>

とある。『詩学大成抄』時令門・魏に、

チヤツ/\トフツツハレツスルソ。春ノ天氣ハサウアル物ソ。<五28オH617頁>

月日ノ早ウスグル[コト]ハ、ハタヲヲルニ、核(ヲサ)ヲ左リ右ニチヤツ/\トトヤル如ナソ。<五58オC677頁>

とある。

 現在でも地域方言として、この「ちゃっと」が京阪・中部・北陸地方などで「急いで、早く」の意味として存続使用され続けている。

 さらに、楽音のリズミカルな音調を表現する「ちゃっちゃ、ちゃちゃっ」や、PC用語(パソコン通信で行う相互会話)の「チャット(Chat)」。ビルマ(ミヤンマー)の貨幣単位の「チャット(Kyat)」と和語副詞「ちゃっと」といった同音異語が現代日本語のなかで存在する。

1999年4月7日(水)晴れ一時雨。東京(八王子→南大沢都立大学)

目の先に 柔らな細木 菊桃花

「さめざめ【潜然】」

 畳語形和語の副詞に「さめざめ」がある。漢字にすると「潜然」と近代語資料は表記する。意味は、涙を頻りに流して静かに泣くさまをいう。中国の民話「呉都賦」に「漁師の網に掛かって今にも殺されようとする鮫を救う男の譚」、その夜「鮫」を助けた男のもとに、一人の美女が雨宿りを乞う。この鮫女が美しき衣を織り、さめざめと泣くと、その涙が白い真珠となる。そして、男に「私は南海に住む鮫人です。私の命を救ってくれたお礼にこの珠をさしあげます」と告げる。この「鮫人(コウジン)」が流す涙が真珠と化す。この傳説が、室町時代の観世流謡曲『合甫(かっぽ)』に継承されている。内容は、広東省の合甫という地の里人が、漁夫の釣り上げた魚を助けてやったところ、その夜、童子が訪れ「私は鮫人という魚の精ですが、私の命をお救いいただいた恩返しに自分の涙で拵えた宝玉を贈りたい」という内容の譚である。この譚自体は、『蒙求』『孟嘗傳』にも見える「合甫珠還」の故事と「呉都賦」の譚とが摺り寄せられてこの謡曲となった。これ以前に、『和漢朗詠集』に「鮫人の眼の珠に泣くに似たり」とあって、降っては近松門左衛門の浄瑠璃や松尾芭蕉の『奥の細道』にも引用されている。

 「さめざめ」の語の初見を取り上げると、『更級日記』『今昔物語集』巻二十六・八の「日ニ何度トモ無物ヲ食スレバ、食肥ルニ隨テ、此妻ハサメザメト泣時モ有」<新大系五・36N>、『浜松中納言物語』といった平安末期の作品に仮名表記にて見うけられるのである。作品検索によればこのあたりが上限のようである。中国説話がもたらす「鮫人の涙が真珠と化す」の譚がどの程度、日本の風土に説話譚として、摂取されていたかを知る手掛りとなることを期待したいところでもある。そして、しとしとと小雨のしょぼつくが如く泣く、「鮫人の涙」の様相とが見事に連関し、この畳語「さめざめ」なる和語副詞を誕生させたのではなかろうかと密かに思ったりもしないではない。

 また、古辞書では、室町時代の文明本『節用集』に、「小雨々々涙(サメ/\トナク/ゼウ、ウ、ルイ・ホソシ、アメ、ナミタ)又〓〔水+黄〕々泣(サメ/\ナク)」。『温故知新書』に、「〓〔水+黄〕々泣(サメ/\ナク)」。江戸時代の『書字考節用集』に、「淫々(サメザメ)[指南]涙下皃。雨々(同)[盛衰記]」<第11冊58G>などと多種多様の表記がそれぞれ収載されている。これが時代が降って近代文学作品に継続し、及ばぬことは何を意味しているのか?

 最後に、現代の「さめざめ」の用例を付加してみるに、

    1. 清くはない川で 慰められた言葉がいくつも 流れの中でもがいている さめざめと凍る空から 数えきれない涙が落ち、僕の背中をしとしと濡らしている。とぼとぼと、君住む街を、僕は今歩いている。
    2. 歩いていて口をついた言葉 道 等間隔 木並ぶさめざめ と雨 降る水集まって木 に注ぐ道 等間隔 木並ぶ夜 ホーム
    3. 冷たい部屋の眠り さめざめと泣いていた少女は 女に変身すると すぐに心を整理した。
    4. しばらくはRainy day 作詞 高橋真梨子 作曲 大田黒裕司 編曲 林 有三 歌い出し 眩しい光り にらんで..... さび 好きな男あれこれと私をすてて..... 男はみなさめざめとラブレターおいて ..... キーワード Rainy Day Set me free
    5. 「サヨナラ」「おしまいになるのをおそれながら」とハイパーしました。 無題 小川 みさり ちぎれて ましろくちぎれて みみもとで きみの サヨナラ のこえを さめざめとながれてく あじのしないなみだのおとを ずっと ずっと ずっとずっと ずっと きいていたい きいていたかったから
    6. Rock'n'Roll Neutral     エレキな恋のかけひきは 通り過ぎた一瞬の夢のひとしずく 咲き乱れる花の如く 水辺でたわむる君はミラクル すべての憂鬱を 抱え込むような仕草 窓辺にもたれては詠い 移ろう季節を嘆いてる   さめざめしさの掟は世楽園
    7. http://www.raidway.ne.jp/~ogikubo/game/bbs/catchtalk/mes/mes02649.htm <久しぶりに遊んできました(^^)> テリさん> 極悪設定と気づいていながら有り金はたいてしまったあなたにこの言葉を贈りましょう…。 「そんな困ったちゃんにはしばらくゲーセン情報流しません!」 おかーさんは悲しーですよっ(さめざめ…;_;)
    8. ** Written by   ひろゆき  ***   「紅」 さめざめと 落つる涙は 紅の 信濃の山を縁(えにし)とし 妙なる君の 眼差しが 熱く重なり この胸に 大きく迫り来しものを 迷うことなく、潔く 払いのけぬれば、よかりしものを ひたすらに 乳を求める赤子のように
    9. 温故知新   第41話   苛政は虎よりも猛し 「礼記」  孔子が弟子たちと共に泰山の麓あたりを通りかかったときのことです.一人の女性が墓のそばでさめざめと泣き崩れているではないですか.孔子は,しばらく泣き声に耳を傾けていましたが,やがて子路という弟子をやって訳を尋ねさせました.

10、能の演目紹介−葵上(あおいのうえ)  光源氏の正妻葵上は、物怪につかれ病に臥した。物怪の正体を知るため照日ノ巫女が呼び出され、梓の法を行うと、梓の弓の音に引かれて車に乗った貴婦人が現れ、さめざめと涙を流す。女は六条御息所の怨霊だった。

という用例をみることができ、すべて仮名書きであり、下接語として「涙」を受けるのが8と10、「泣く」を受けるのが3と9これに絵文字7が加味される。また7の「流れて行く」と抽象性の強い下接語用法が拾える。さらには、「凍る」「雨が降る」などといった気象用語にもこの「さめざめ」が用いられている。

1999年4月6日(火)曇り後雨。東京(八王子→世田谷)

春前線 たちどころに 温み増す

「豆腐主義」

 月刊誌『正論』四月号に「茂山千作(狂言師) 豆腐のような狂言を」という以下の記事が掲載されている。厭わずにすべて転載させていただこう。

 狂言界は、大蔵流・茂山千五郎家の茂山千作師を中心に回っている。その大きさ大らかさ、太陽のごとしである。和泉流を代表する野村万蔵、万作両師がその引力に抗しきれず、流儀を越えて共演を申し込むのもうなずける。

 二月二十六日、東京・千駄ケ谷の国立能楽堂。この日、千作師が「縄綯(なわない)」で太郎冠者を演じる。カメラの服部良巳さんと楽屋入り口で千作師の到着を待った。開演四時間前、黒のコートに身を包んだ千作師が二十メートル先に姿を現すと、服部さんは本能的にカメラを構え、シャッターに指をかけた。「先生、この場所のカットがほしいのでお願いします」。服部さんの注文に、芸術院会員にして人間国宝の千作師は素直に従うのであった。

 楽屋で和装に着替えた千作師は「タバコよろしいですか」と言ってマルボロライトに火をつけた。

「茂山家には『豆腐主義』という言葉があるそうですが」

「そうです。昔から『豆腐のような狂言を』という家訓が伝わっております。お豆腐は料理の仕方によっていかようにも形を変え、だれにでも好かれますでしょう。つまり、その場に応じて、人々に望まれる狂言をしろということですね」

 私にとっての狂言の楽しさには、内容を理解して笑える自分がうれしい、という嫌みな部分がある。それを吹き飛ばし、心の底から愉快になれるのが千作師の舞台なのである。

「その日のお客さんの様子を観て、どう演じるか考えるんです。考えた通りの反応があったときは、そりゃうれしいですよ」

 なるほどである。

 かつて千作師は能楽協会から「協会を辞めてくれ」と言われたことがあった。理由は武智歌舞伎への出演である。格式を重んじる能楽界には他の芸能との交流を禁ずる不文律があったのだ。

「戦後、教わったことを守るだけではだめだと思いましてね。世の中はどんどん変わっている。自分の芸をもって変転する世の中に対応していくうちに、新しい世界が見えてくるのでは、と考えたんです。そこに武智(鉄二)先生から誘いがあったわけです」

 協会に対して、千作師の父(先代千作)は「息子たちの出演を許したのは私やから、私も協会を辞めます」と言い放ち、マスコミも千作師らを応援したため、協会は折れ、今後は届けを出してから出演するということで落着した。

「父はかねがね『他の芸能の人と共演するのが何がいかんのや』と言うておりましたし、私もそう思うてました」

 実に泰然としたものである。「豆腐主義」の家風、そして海軍の兵隊としてハワイ海戦(真珠湾攻撃)やミッドウエー海戦に参加した経験がものをいっているように思えるのであった。

 千作師の本名は七五三。「しめ」と読む。大正八年十二月二十八日の生まれである。

「十二月二十八日は、茂山家で七五三縄を飾る日なんです。それで七五三。長男だったので祖父が思わず『しめた!』と叫んだという話もありますが」

 現在の茂山千五郎家は、千作師の長男政義氏が十三世千五郎として当主を務める。千作は千五郎の隠居名である。

 同家の歴史がおもしろい。幕府が江戸に開かれるのに伴い、京都に住まう大蔵流の家元は江戸に移ったが、弟子であった茂山家はこれに従わず京都に残り、御所に出入りするようになったという。千作師の曾祖父が、江戸城で催された能の後見を務めていたときのことだ。舞台に立っていた大蔵流の長老狂言師の具合が悪くなり、曾祖父がその後を演じた。それを観ていた井伊直弼が感心して、同家を井伊家のお抱えとする。忠三郎と名乗っていた曾祖父は、これを機に千吾と改名した。ところが井伊大老は何を勘違いしたのか、千五郎と呼んだため、これ以降、当主は千五郎と名乗るようになった。桜田門外の変の二、三年前のことだ。

 大蔵流の狂言はおよそ百八十曲ある。千作師は五歳のときに「以呂波(いろは)」のシテで初舞台を踏んで以来、百七十曲以上を演じてきたという。

「お好きな曲は何ですか」

「私はこのとおり、騒がしい、うれしがりの人間でございますから、朗らかな人のいい役が好きですね。人からは大名がいいと言われたりしますが、やはり太郎冠者が好きです」

「冠者を演じるときの先生の表情がたまりません。どうしてあんないい表情ができるのでしょう」

「そうですか。狂言では意識的に表情をつくってはいけないんです。役になりきることで、自然とにじんでくるものです」

 さて舞台である。太郎冠者は縄を綯いながら主人の博奕相手である松本氏の悪口を言いたい放題。その矛先は松本氏本人からその妻、子供、そして松本氏へと自在に移る。融通無碍。極め付けの太郎冠者がそこにいた。<文 本誌・桑原 聡>

 この茂山家の家訓とも言う「豆腐主義」には、すべての人的交流組織・集合体にて学ぶことの多い内容が潜んでいる。

1999年4月5日(月)薄晴れ。東京(八王子→世田谷)

 ゴミの累 後が無残や 花下見

「すみれ【菫】」

 日本の山野をひそかに北上する「すみれ」だが、先週の日曜日には、まだ咲き出していなかったが、一昨日あたりから一斉に咲き出していた。この「すみれ」、『万葉集』巻八・1424に、

春の野に須美礼(すみれ)採(つ)みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜(ひとよ)寝にける<山部赤人>

と謳われ、源順の『和名類聚抄』十七にも、

菫菜 本草云菫菜 俗謂之菫葵<菫音謹 和名須美礼

と、古くから春の草花として親しまれてきた。王朝女流作家である清少納言も、この「はかなげな野の花」を愛している。『千載和歌集』108や『後選和歌集』89に、

おなし百首のとき、すみれをよめる 中納言國信

こよひねて/つみて帰らむ/さく/をのゝしはふは/露しけくとも

あれたるところにすみ侍ける女、つれ〈つれ〉におもほえ侍けれは、庭にある菫の花をつみていひつかはしける 読人不知

我やとに/すみれの花の/おほかれは/きやとる人や/あると待かな

とみえる。

 近頃、都心開発のあおりもあってか、この花が見られなくなってきている。私の家から駅までの往来の道近くには、「片栗の花」そして、「すみれ」を目にする自然がまだあった。

 「すみれ」は、米国・ロシア・中国ついで日本は有数の保有国でもある。花の色は紫が主であるが、白に近い渋みのある紫も在れば、赤みのかかったもの、鮮やかな江戸紫、青紫と多様このうえない。形も一重から八重咲きもある。葉の形もハート形、円形、ほこ形、楕円、長楕円、卵形とこれも実に多様種である。海沿いを好む種もあれば、山好き、里山をえらぶものから、孤高にも人里離れた渓流沿いに咲く種もある。日向を好むもの、物の影場を好むものとまるで人間種みたいな花である。ただ、暑さには滅法弱く、短日低温がどうも共通する性質のようだ。そして、人のほうもこの「すみれ」を愛する“日本すみれ研究会”という組織があって、各地の情報交換・意見交流、観察会、そして分類・記録による報告書がまとめられているようだ。地元の“春の花のアンケート集”には、

◎ どんな花が好きですか?

かたくり、山吹、きぶし、芝桜、れんぎょう、福寿草、桜、水仙、すみれチューリップ、春蘭、菊咲いちげ、山芍薬、タッタ草、こぶし

◎ 地元の花では何が好きですか?

桜、たんぽぽ、姫いちげ、山吹、れんぎょう、菜の花、春蘭、桜草、こぶし、水芭蕉、座禅草、一人静、二輪草

◎ 地元の花の咲き出す順番は?

庭花   福寿草、雪割草、ピンカミノール、スノードロップス、タッタ草、クロッカス、水仙、チューリップ、桜草、芝桜

木もの  猫柳、れんぎょう、こぶし、限界つつじ、マンサク、梅、桜

野花   蕗のとう、春蘭、ナニワズ、水芭蕉、一輪草、かたくり、菊咲いちげ、白根葵、舞鶴草、山芍薬、釣鐘草、蛍袋

と野辺に咲く「すみれ」の花がここに入っていないのが気になった。

1999年4月4日(日)薄晴れ。東京(八王子)

野辺に来て 片栗の花 目に優し

「トンネル」は「通る」か、「潜る」か

 東に向かえば、北海道と青森を結ぶ「青函トンネル」。西に向かえば、下関と門司を結ぶ「関門トンネル」(海底部780m)とがある。ここをいまでも人が自らの足で往来できるのは、後者の「関門トンネル」だけで、「青函トンネル」は、許可なくして通行は許されていない。朝日新聞・日曜特集にいま現在進行中の平成の伊能忠敬 ニッポンを歩こう 100万人ウオークが目下継続中でもある。この海峡を結ぶ“海底トンネル”を「通(とお)る」と表現するか、それとも「潜(くぐ)る」と表現するかでことばの違いを考察してみたい。

 まず、「とおる【通】」と「くぐる【潜】」について、国語辞書にどう説明されているかを確認しておきたい。新明解『国語辞典』には、

とおる【通】@〔途中で切れてしまったり妨げられたりしないで〕何かが先へ伸びて・ある所まで達する(次の段階まで進む)。A全体の主張・存在などが、相手方や先方に認められる。Bある・地点(場所・地域)を経由して、先へ進む。

くぐる【潜】@(身をかがめて)物の下や狭い所を通り抜ける。A水の中にもぐる。

と記載する。ここで、「トンネル」を往来するものにとって、なかの明暗・長短などからくる狭められた圧迫感をもっているのか、それともスムーズで楽々な快適感にあるのか、通行する人によって感じ方・捉え方が異なることから、動作を表現する言回しが「通る」であったり、「潜る」であったりするのかもしれない。ましてや、53qに及ぶ長さともなると勝手は自ずと違うのである。また、一人の人間が入り口に立ったときと、出口に立ったときでも心境が異なるのかもしれない。さらには、誰か第三者である別のエネルギーである乗り物で運行往来する場合もまた違うのかもしれない。

1999年4月3日(土)霽。東京(八王子→世田谷)

すいすいの スイミングやら 人の波

「艸」の字

 草冠(くさかんむり)の使い分けが取り沙汰されたのは、昭和56年の頃だった。「艸」の表記字体を三画と四画で表記することを文部省が「高校国語T」(昭和57年度使用教科書として)の検定見本制作のなかで厳密にするということであった。

 今回、わが息子が大学に提出すべく“住民票記載事項証明書”を近くの市役事務所にいったおり、記載表記が四画に訂正された。我が家の苗字「萩原」も、三画でなく四画で表記するのだが、子供にしてみれば小・中・高を通じて草冠を四画で書くことなどは一度も教育的な文字指導されていないのが現状である。植物の名前に由来する「苔」「葦」「莫」「藤」などの四〇〇種におよぶ草冠を苗字や名前にする人にとって受難な一日がスタートする。

 当時、国語学者の金田一春彦さんが毎日新聞四月四日(土)の“草かんむり 使い分け”にコメントしていて、「三画と四画の区別はまったくムダでバカバカしいことだ。これは新字体を制定するときに当用漢字の範囲に限ったために起きたことで新字体を決めるときに「草かんむり」は三画にするというように決めるべきだった。明治時代には四画が正字とされたが、それでも国語の教科書は三画、歴史、修身では四画を使っていた。先生も画数をこだわらず、三画でも四画でもいいと教えるべきだ。」と貴重な指示を呈している。そして平成11年4月の役所事務では、この厳密な表記を施行する。息子の手書きで書いた三画の「萩」の字には二重線で消され、四画の「萩」の字に訂正された“住民票記載事項証明書”は発行されている。私自身、今回の息子と同じように大学に入学したときから楷行書文字の手書きの「萩」は四画で書いている。だが、草書やワープロ活字では、異体外字を用いないかぎり、三画の「萩」で表すといった矛盾をこなしてきているのも事実なのである。

1999年4月2日(金)晴れ風あり、夕方から雨。東京(八王子→世田谷→上野)

そよ風に ゆっくり走る 川堤

「話し」の導き

 頼山陽の俗曲に、「京都三条糸屋の娘、姉は十八妹は十五、諸国諸大名は弓矢で殺す、糸屋の娘は目で殺す」という文言がある。実に、話しの筋立て起承転結(提起⇒展開⇒転換⇒完結)の構成がすっきりしている。話しのまとめ方として、短い話しほど念入りにとよくいう。どこをどう念入りにするかだが、話しの地場をまず第一義としたい。話しのしやすい環境を瞬時に探る。自分の前の方が話した場所や方向が必ずしもいいとは限らないからだ。いわば、お清めの儀式に似ている。続いて、とっかかりはより具体的な描写方法を考えたい。聞き手に強い関心を想起させることでもある。その方法には、(1)はっと気づかせる表現を用いる(2)引用文を用いる(3)自分のエピソードや体験談を紹介(4)珍しい事実や統計数字による事実の集積を紹介(5)聞き手との対話・会話からはじめる(6)質問の形式ではじめるなどといった種々の方法から選択を試みるのである。そしていよいよ話しの根幹部分に移るのだが、聞き手の反応をキャッチしながら、多くの話しぶりを自己調節していく。聞き手は、時間・質量・妨害など、心身の状態が絶えず変化しているからだ。この変化の状況に応じて(1)声の大小強弱を変えてみる(2)予定の用語を思いきって変更する(3)話しのリズムやメロデイーを変えてみる(4)内容そのものを変えるといった常に聞き手を失望させないことが大切なのである。最後に締めくくるのだが、心地よい状態を余情余韻として持ち帰っていただくうえで聞き手を話しのもとの状態に散らせてやるのも話し手の大事な努力目標でもある。次ぎの語り手が入れば、うまく繋ぐのよいであろう。

言い出し(聞き手の心を引き寄せる)⇒ヤマの前⇒ヤマの内容⇒余韻を残す締め括り

 最後に、このことを忘れてはいけない。聞き手はまさに非情なのである。話しの中身がすぐにでもつまらないと思えば、ヨソごとを考え、暇つぶしの手内職をはじめ、やおら席を立つというのが通り一遍の所作行動である。これを肝において、自己の話しをいかに“器に盛りつける”かが日々の努力なのである。

1999年4月1日(木)曇り。東京(八王子→世田谷)

辞令受け 愈愈はじまる 芸に学

「話題」の原泉

 話しを円滑流暢に推し進めていくうえで必要な“話題のみなもと”を「木戸に立ち掛けせし衣食住」とか、「親しき仲に酒と性」という表現で云われる。

[木戸(きど)に立(た)ち掛(か)けせし衣食住]

「き」は、“気候”で、天候・天然現象。

「ど」は、“道楽”で、趣味や嗜好。

「に」は、“ニュース”で、放送・新聞・雑誌。

「た」は、“旅(たび)”で、旅行・名所・名物・風俗・習慣

「ち」は、“知人”で、友人・親類・有名人

「か」は、“家族”で、家庭。

「け」は、“健康”で、病気・薬・療法。

「せ」は、“セックス”。

「し」は、“仕事”で、職業・商売・情報。

といった九つを表現したものである。

 これと同じように、[親しき仲に酒と性]も、「し」は「仕事」。「た」は「旅」。「し」は「出身地」。「き」は「季節」。「な」は「仲間」。「か」は「家族」。「に」は「ニュース」。「さ」は「サスペンス」。「け」は「健康」。「と」は「道楽」。「せ」は「セックス」。「い」は「生きる」と十二の“話題標目”を提示している。毎日、誰かと楽しむ会話を進めていくうえでもこんな話題の原泉について、ちょっとでもその気になって話しの材料集めに取り組んでみたいものである。

今日は、「エープル・フール(うそをついていも良い日)」だが、「話し方を考える日」のほうがよいのではなかろうか。話し方の原則はといえば、

 1に「適切」必要なときに必要な情報をおしまず話す。

2に「正確」正しい情報を伝えるように話す。

3に「誠実」正直で誠実な気持ちで話す。

4に「平易」わかりやすい表現で話す。

5に「簡潔」簡潔で要領を得た話しをする。

6に「効果」聞き手への効果を考えて話す。

というだともいえる。情報社会のなかで毎日の基本となる話し方のルール条件をある業界では、「ほうれんそう」を大切にという。この「ほうれんそう」とは、「報告・連絡・相談」といった三つの頭語の読みを併せてこう表現するのである。

 

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