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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1999年5月31日(月)晴れ。京都→八王子→世田谷(駒沢)

都の端 42と195 通ひ往く

「せうとく」

 『宇治拾遺物語』三に、

あはれ、しつるせうとくかな。年ごろは、わろく書きけるものかな。

今見れば、かうこそ燃えけれと、心得つるなり。これこそ、せうとくよ。

と見える。この絵師良秀の心話(つぶやき)や会話のなかでいう「せうとく」は、もうけものといったところを意味す語である。漢字表記すれば、「所得」「抄徳」となる。

1999年5月30日(日)晴れ。奈良→京都→大阪(鶴見緑地)→京都

陽射し強 奈良の寺に 徒歩走る

「はし」と「はじ」

 “一休とんち咄”に、「はしをわたるな」の立て札を見て、「橋(はし)」の中央をどうどうと歩いて渡った一休さんの話しがある。この「はしをわたるな」の立て札が平仮名表記であったから、これを「橋(はし)」と「端(はし)」とに掛けて、「端」を渡らずに「橋」の中央を歩き渡ったというのである。

 この「端(はし)」だが、武庫川女子大学教授の西崎亨さんが云うには、関東地方の人にはこの頓智の洒落が通じないのではないかというのである。関東では「橋」は「はし」、「端」は「はじ」と発音するからである。たとえば、江戸時代の山東京伝『客衆肝照子』(天明六年)に、

大三島のまがきのほうのはじに居る、そらいろのいきものを着ているやつが<前田勇編『江戸語大辞典』より抜粋>

や、歌舞伎の口上にみる、

イツト、に控えしは、……。

という用例を見るのである。清濁文字表記の区別されない時代ならいざ知らず、きしっと濁点表記がされる時代にあっては別語になる。ではなぜ、関東では「端」を「はじ」と発音するのだろうか?まずは、これに該当する対立する類音語を有する名詞のことばを列挙してこれらの語が訛って濁音化するかを見ると、

あし【足】⇔あし【蘆】≧「あじ」∴×

かし【菓子】⇔かし【樫】≧「かじ」∴×

くし【櫛】⇔くし【串】≧「くじ」∴×

こし【輿】⇔こし【腰】≧「こじ」∴×

むし【虫】⇔むし【蒸】≧「むじ」∴×

などの語が挙る。これらの語が、この第二拍めの「し」を濁音化するか否かということが焦点となるのである。しかし、「し」から「じ」への訛音は、「端(はじ)」に限られているようだ。たとえば、現代のワープロ機器などで「はじ」と入力して、漢字変換をかけるようなときでも、この「端」の表記は取得できる仕組みになっている。この方法をもって上記の語を試してみるに、何れも漢字変換をかけても旨く表示されないことからも明かである。この江戸語「端(はじ)」だが、「首(はじめ)」の「はじ」に牽かれるといった連関性はないだろうか?語源的には「は【葉】」に助辞「し」が付加した語であるが、そのことばの成りゆきを遠く離れて、この濁音読みが関東周縁で用いられていったのかもしれない。

[ことばの実際]

たつた一人列を離れて舞台のに立つているのがある許りだ。<夏目漱石『坊つちやん』十「鶉籠」167K>*この「端」は、江戸っ子“坊つちやん”であれば、「はじ」と読むところである。

十畳でもたてに三つ床を並べるのだから、かなりギシ/\で、殊に其一方に通れるだけの道を残さうとするとハヂに寝てゐる僕は床を隣との堺へピッタリくつ着けて了はねばならない。向ふのハヂが祖母、妹は祖父と祖母の蒲團の接目に毛布を敷いて其上に寝た。<志賀直哉『襖』「夜の光」21G>*片仮名で「ハヂ」と表記している。

おゆふはまだ水氣(みづけ)の取(と)りきれぬ髪(かみ)の端(はじ)に、紙片(かみきれ)を捲(まき)つけて、それを垂(た)らしたまゝ、あたふた家(うち)を出(で)ていつた。<徳田秋聲『あらくれ』(新選名著複刻全集)128H>

お島(しま)は縁(えん)の端(はじ)へ出(で)て、水分(すゐぶん)の多(おほ)い曇空(くもりぞら)を眺(なが)めながら呟(つぶや)いた。<徳田秋聲『あらくれ』174G>

1999年5月29日(土)晴れ。京都→奈良

 朝ととも 御所の道や 走りくる

「なんやでんな」

 関西風のことばに、「なんやでんな」という疑問をなげかけることばを耳にした。これを逆に読むと、「なんでやんな」となるから、ちと妙な関西風のことばなのである。このような云い方は、実際はしないのではないか。通常は、「なんでやね」「なんでやねん」というのが普通な疑問表示である。

1999年5月28日(金)くもり。京都

吉田山 上り下りしは 京大が庭

「下戸の干吸い酒」

 本日の朝日新聞“声”の欄に、無職 宮村美知子さん(高知県中村市 73歳)の「グミ実るころ、幸せいっぱい」の投稿記事中に、

一粒一粒摘み取って三五度のしょうちゅうに漬け、配給だった大事な白砂糖入れると、日がたつにつれ、美しい赤い色のグイメ(グミ)ワインができる。同様に並ぶ一升瓶の中には、マムシや梅、ラッキョウの酒もある。お酒の苦手な私も、下戸の干吸(ひす)い酒とやらで、今でも口にする。都会では味わえない田舎の味。(前後省略)

といった表現が見える。この「下戸の干吸(ひす)い酒」だが、「げこ【下戸】」は、酒のきらいな人。酒がほとんどのめない人のことを総称して云う。逆が「じょうご【上戸】」である。この「下戸」と「上戸」だが、鎌倉時代の経尊『名語記』に、

次 酒ノマサル人ケコナツク如何 ケコ下戸ナリ 上戸對シタル詞也<巻第五61オ@>

とある。明治時代の尾崎紅葉『金色夜叉』にも、

満枝も貫一も三盃を過し得ぬ下戸なり〔尾崎紅葉・金色夜叉〕

と、猪口に三盃以下が許容量であると描写されている。そして、この「干吸い酒」だが、渇いたのどを潤す程度に酒を飲むことを云うようである。が、どの程度召し上がるのかは定かではない。コップ一杯程度か、その半分かもしれない。程よい量なのであろう。「下戸の干吸(ひす)い酒」のことば表現は、現代の国語辞書には未収載にある。

1999年5月27日(木)雨のち晴、強風。八王子→世田谷駒沢→京都

風まかせ 青いシートが 揺れ動く

「へこへこしゃも」

 母親が娘の態度に腹を立てて「このへこへこしゃも」という。この「へこへこしゃも」だが、「へこへこ」は、「凹み」の語幹「へこ」の畳語表現「へこへこ」。そして、「しゃも」は、江戸時代の言葉でいうところの「痘痕面」を意味する。これを解すると、「このぼこぼこのあばたづらのくせして、いっぱしの口を利くじゃないの……」といった感じを云っていることとなる。いわば、罵り語なのである。

今の若い娘にとって、このことばの“言い放ち”がどれだけ効果があるかはしれないが、発する側にして見れば、スッキリする罵倒表現かもしれない。現代の国語辞書には未収載ながら、生きた会話表現をふと耳にしたとき、驚かされる。如何……。

1999年5月26日(水)霽。八王子→世田谷駒沢

小ぬか雨 しとしと降りき 坂の道

「さば【鯖】」

 さば【鯖】ということばは、源順『和名類聚抄』に、

 崔禹錫食經云、鯖音青。和名阿乎佐波。味鹹無毒口尖背蒼者也<巻十九5D>

とあって、「アヲサバ」と訓読する。この魚を「サバ」ということは、『大和本草』に、

此魚歯小ナリ。故に狭歯ト云。狭ハ小也ト云々。

また、新井白石『東雅』に、

古語ニ物ノ多ク聚ルヲサバト云ハ、其義ニモヤアルラン。イヅレカ是ナル事ヲ不∨知。

とある。文献資料としては、鈴鹿本『今昔物語集』巻第12に、

1其ノ籬ニハ鯖ト云フ魚ヲ入レタリ。<第12,於東大寺行花嚴會語,139,H>

2使、此ノ老翁ヲ引テ天皇ノ御前ニ将参テ、「此レナム最初ニ出来レル人」ト申セバ、天皇、「此ノ翁定メテ樣有ル者ナラム」ト思シ疑テ、忽ニ翁ニ法服ヲ令着メテ、其ノ供養ノ讀師トセムト為ルニ、翁ノ申サ□、「□レハ、更ニ其ノ器ニ非ズ。年来鯖ヲ□テ持行□以テ役トシテ世ヲ過ス者也」ト。<第12,於東大寺行花嚴會語,139,H>

3籬ヲバ鯖ヲ乍入ラ高座ノ上ニ置ツ。<第12,於東大寺行花嚴會語,139,L>

4既ニ供養畢ヌレバ、講師高座ヨリ下給フニ、此ノ讀師ハ高座ノ上ニシテ掻消ツ樣ニ失ヌ。其ノ時ニ、天皇、「然レバコソ、此レハ、夢ノ告有レバ、只者ニハ非ザリケリ」ト信ジ給ヒテ、此ノ籬ヲ見給ヘバ、正シク鯖ノ入タリト見エツレドモ、花嚴經八十巻ニテ御マス。<第12,於東大寺行花嚴會語,139,M>

5其ノ鯖荷タリケル杖、于今御堂ノ東ノ方ノ庭ニ有リ。<第12,於東大寺行花嚴會語,140,E>

と「さば【鯖】」を題材にした話しが見えている。

 これが室町時代の『日葡辞書』には、

Saba.サバ(鯖)鰊(ニシン)のような或る魚。

と表現されるに止まる。この記載から西洋人宣教師にとって「鯖」という魚は、「にしん【鰊】」に類似する魚ぐらいの意でしかないことが見えてくる。私たちに日本人にとっては、上記の記事もさることながら、次の「鯖大師(弘法大師)」の話として語られるのである。

ある魚屋が、因島の長崎で、とれたての鯖を売っていました。そこへ、貧しそうな修行僧(弘法大師)が「鯖を譲って欲しい」と言って来たが、魚屋は「この魚は全部腐っている」と言って僧を追い返した。ところが、他で鯖を売ろうとすると、本当に腐っていた。驚いた魚屋は、急いで僧を追いかけ謝った。僧が桶の中の魚を海に還すと、魚は元気に泳いでいった。

 また、「鯖」の文字の旁も「魚偏に円」か、または「魚偏に月」かと論議に及ぶ。実際、この“魚の名”がつく地名である「鯖江」などを旅して古い看板文字を観るのも好かろう。

[関連URL]

http://www2u.biglobe.ne.jp/~koubou-m/fish.htm

http://member.nifty.ne.jp/kcri/page2.htm

http://www.us1.nagasaki-noc.ne.jp/~nagasaki/suisan/sakana/sk6.html

http://www2.117.ne.jp/~kaiyu/play/ohanashi.htm

 

1999年5月25日(火)薄晴れ夜雨。八王子→世田谷駒沢

光る葉に 囀る小鳥 地には蟻

「へいさらばさら」

 滝沢馬琴は、馬の胎内から出る“珠玉”について、『兎園小説』(文政八(1825)年刊)で、この「へいさらばさら」という名をもってこの珍妙奇談なる語を説明している。

毬ほどもある立派な玉にして、これは鮓答と称し、俗にへいさらばさらと呼ぶ。西域にてはこれにまさる至宝なしとか

和漢名「鮓答(サトウ)」という。そして、当の「へいさらばさら」だが、天竺すなわちインドから伝来したともいうが、どうもこの語源は、ポルトガル語「ペドラ・ベソアル」の訛音で、牛馬の体内から出る結石のことのようだ。また、武田信英編『草廬漫筆』第二に、

鮓答は、鰒、蛤、蜆、蜊、其余貝ヨリモ出ル処ノ珠ナリ。又牛馬糞スル処ノ石、其外鳥獣ニモ鮓答アリ。先予ガ友人多賀氏所蔵セル、鼈ノ腹中ニ得タリト云モノヲ見シニ、色青白色ニシテ、大サ弾丸ノゴトシ。又中村氏ノ所持セル鮑ノ鮓答ヲ見ル。大サ一寸許、斜方ニシテ燦燦タリ。是真珠ニアラズ。鮓答ナリ。<日本随筆大成1(第二期)379N>

ともある。

1999年5月24日(月)曇りのち雨。八王子→世田谷駒沢

小道行く 走り心地は 空の雲

『刪笑府』の人称代名詞

 東都の俗言をもって風来山人が『刪笑府』(清時代)に訳文・語をした国語資料から“人称代名詞”を検索して見ると、

[自称の語]

 せつしゃ【我】我(セツシヤ)屋裡(アノモノヽウチヘヒキコシ)。<7H>

 せつしゃども【我等】我-等(セツシヤトモ)且遷(ヒキコシマス)矣。<7E>

 わが【己】客即テ∨(ハモノ)ヲス下シテ‖己(ワガ)乗馬(ノリテキタウマヲ)ヲ|セント上∨餐(ヲリヤロウト云)ヲ|。<11D>

 わし【我】我(ワシハ)夜-夜(マイバン)抜(ヌイテ)藏在家裡(イエノウチヘイレテヲキマス)ニ|<8F>

 わたくし【我】教シテ‖∨我(ワタクシガ)疑-心到底(サゾヤクデゴザリマシヤウ)ナラ|。<15H>

我(ワタクシハ)是ス∨狗(イヌヲタベタ)的想(オモヘハ)狗(イヌメガ)是ス∨糠(ヌカヲクウタカ)的<26F>

 わたくし【小的】小的(ワタクシハ)一-向(イツカウ)遂出(ヲヒダサレテ)在外(ソトニバカリヲリマスレハ)何由知(ゾンジマシヤウハヅガゴザリマセヌ)。<27H>

 わたし【我】妻ノ曰。我(ワタシハ)原(カネテ)-過半截ヲ|。<27D>

 わっち【我】我(ワツチ)適間(サキホドモ)亦(マタ)撒ス‖一-屁(オナラガデマシタ)ヲ|矣。<19A>

 われら【我】我(ワレラ)今-番-的(コンドノ)酒(サケハ)是熱-喫-的(カンシテタベタ)。<31E>

我(ワレラ)要スレトモ∨和(モライトイヘトモ)ント。他(キヤツ)不肯(ガテン)罷免(イタサナンダ)了。<34F>

 をら【我】我(ヲラハ)暁-得了(スイリヤウシモウシタ)。<9A>

 をれ【我】我(ヲレカ)女(ムスメハ)一-歳。<6D>

ンハ∨我(ヲレモ)且(マア)少(チト)歇(ヤスモウ)。<10F>

我(ヲレハ)與他(アレトコヽニ)對-立シテ在(タチテ井ベイ)ント|∨。<12E>

我(ヲレガ)ンハ∨喫(クハザ)コト〓(人+尓)(テマヘモ)也奔走(アルカレ)如-何(マイ)。<14D>

藥須ク‖我(ヲレガ)親(テヅカラ)〓(手+茶)(ツケネバ)可(ヨクナイ)ナル|。<15G>

リノ酔客(ナマヱヒ)曰。合席(コノウチデハ)惟我(ヲレガ)最(イチバン)近(チカイ)。<20A>

我(ヲレハ)ハ只(タヾ)タ此(コノ)レ巳(マヽジヤ)ニ是了。<20B>

我(ヲレカ)到(カヘツテ)(マタ)有(アル)リ‖計(シカタガ)コト|。<21A>

我(オレガ)道(イフタガ)フ‖君(キサマノ)性急(キガミジカイト)ナリト|果(ハタシテ)シテ然(ソウダ)。<22A>

只タ逼-還我(ヲレハ)レニ這-些便(ミヅバカリトレハヨイ)了。<24F>

僧(ボウズハ)故〔コトサラ〕在リ∨此(コヽニ井ルカ)我(ヲレハ)レハリテ‖那裡(ドコヘイタ)ニ|去了。<25A>

。喫(クウテサ)スルノミ‖我(ヲレガ)藥(クスリヲ)シテ|耳。<34A>

ル∨我(ヲレハ)將(マタ)公(キサマガ)痴-的(バカカト)ト|ノミ。<35A>

 をれ【學生】房下(カヽアガ)與學生(ヲレニ)説(ハナシタ)。<11A>

[他称の語]

 あなた【此友】(アナタハ)是相(オコヽロ)知的(ヤスイ)。<3H>

 あなた【先生】先生(アナタノ)的好話(ヲツシヤルヲ)不聴(キカズハ)。如何(ドウシテ)ソ(ヤマイガヨクナラウ)|。<33F>

 うぬ【汝】當シ‖汝(ウヌ)算-帳(ロンパ)ス。<5D>

 おてまへ【公】客曰公(オテマエノ)于鷄-鴨-中(ニハトリアヒルノウチヲ)ニ|一隻(ヒトツカリテ)ヲ|騎去便了(ノツテカエリマセウ)。<11E>

 おてまへ【〓(人+尓)】近都(ミナ)-得〓(人+尓)的(オテマヘヲシツテ井ルユヱ)。説請(タノンデモ)フトモ∨信(カテンイタサヌ)。<18B>

 おてまへ【汝】汝(オテマヘ)セ∨。<24D>

 おまへがた【〓(人+尓)】如此(コンナ)鍋(ナベ)。就リ‖〓(人+尓)(オマヘガタニハウラヌ)ニ|了。<4C>

 おまへがた【〓(人+尓)〓(人+門)】〓(人+尓)〓(人+門)(オマヘガタノ)所笑(ヲカシガルニ)定然トシテ差(ドウシテチガヒガアラフ)。<18F>

 おまへ【兄】兄(オマヘ)嘗(マヘカラ)荳腐性命(カウブツ)。<22E>

 おまへ【汝】汝(オマヘノハ)〓〔心+呉〕(マチガヒジヤ)レリ矣。<6F>

 おまへ【公】願(ドウゾ)乞(ホシイ)フ‖公(オマヘノ)指(ユビガ)ヲ|<3E>

公(オマヘ)如-何回去(カヘリハドウナサル)ル昵。<11D>

 きさま【汝】 汝(キサマ)欲(ヨイゾ)ス‖如-何ガセント(ドウスレバ)<3E>

 きさま【君】欲スレハ∨ント君(キサマガ)性急(キミジカナリ)ナリ。<21H>

我(オレガ)道(イフタガ)フ‖君(キサマノ)性急(キガミジカイト)ナリト|果(ハタシテ)シテ然(ソウダ)。<22A>

ル∨。君(キサマハ)ン‖痴(バカデハナイカ)ナルコト|。<35A>

 きさま【兄】兄(キサマ)(ドウシテ)知之(シツダゾ)。<11@>

 きさま【尓】問尓(キサマ)晨(アサカラ)飲(ノンタカ)ムヤ耶。<31@>

 きさま【公】騎ル∨。我(ヲレハ)將(マタ)公(キサマガ)痴-的(バカカト)ト|ノミ。<35B>

 きゃつ【他】我(ワレラ)要スレトモ∨和(モライトイヘトモ)ント。他(キヤツ)不肯(ガテン)セ罷免(イタサナンダ)了。<34F>

 てまへ【〓(人+尓)】我リ‖上-截ヲ|〓(人+尓)(テマヘ)レ‖下-截(シタヲトレ)ヲ|。<2E>

〓(人+尓)(テマヘ)最(イチバン)ス‖便宜(ヨイメニアフ)ニ|<14C>

都(ミナ)〓(人+尓)(テマヘニ)去了(クハレル)。<14D>

我(ヲレガ)ンハ∨喫(クハザ)コト〓(人+尓)(テマヘモ)也奔走(アルカレ)如-何(マイ)。<14D>

〓(人+尓)(テマヘ)スル‖幾何(ドレホドノンダ)ヲカ|。<31E>

 てまへ【汝】汝(テマヘ)コト此急酒(ムイキノミシヤ)ナル耶。<7A>

汝(テマヘ)ルコト∨可隹ナル。<8F>

汝(テマヘ)須(ドウゾ)ク‖テ∨脚射ー來(アシヲネラヘ)。<10B>

汝(テマヘ)姑(マア)テ∨リテセヨ‖客飯(シヤウバンセヨ)ニ|。<12D>

汝(テマヘラ)外-面(ソトヲ)自擡(カツゲ)。<21B>

 われ【汝】如∨汝(ワレガヤウニ)高聲ナレハ。人皆聴見ル。<4G>

[三人称]

 あのひと【他】他(アノヒトハ)遷在我(ワレラカ)屋裡(ウチニコシマスル)ニ|<7H>

と、東都におけるさまざまな人の呼称表現が見られる。自称では、「わたくし」→「わたし」→「わっち」→「わし」とあって、俗な「をら」「をれ」が見えている。前代まで見えていた「それがし」は、ここには用いられていないことも注目すべき点である。

他称は、「あなた」「(お)てまへ」という敬意な表現と「われ」「おまへ」「うぬ」「きさま」といった庶民的な呼称表現もある。また、不定称「なにがし」の朧化表現は、ここでも

聞得(チトモノガキヽタイ)某人(ナニガシノ)-家新婦(ヨメ)。〓〔手+朔〕-穿(ツキヤブラレテモ)了肚-皮(ハラノカハヲ)ヲ|ヤ∨事(カハルコトモゴザラヌカ)麼(イナヤ)。<30E>

と一例を見るのである。

1999年5月23日(日)霽。八王子

鳥に聞け 木の道は九九 なぞか知る

「某甲」

 『妙法蓮華経』信解品・五百弟子授記品・見寳品にそれぞれ「某甲(ムコウ)」なる語が見える。これを『仮名書き法華経』では、「某甲」と表記し、「それかしといひき」と和解注記する。この「それがし」は、中世における人称代名詞で自称と他称とに用いられる語である。ここでは、

○わがなは某甲(むかう/それかしといひき)なり。<仮法・西344B.妙325A>[漢訳]我名某甲。<大蔵・信解品17中>

○『我滅度の後には、某甲(むかう/それかし)、當(まさ)に佛になるべし。<仮法・西587C.妙593>[漢訳]我滅度之後 某甲当作仏。<大蔵・五百弟子授記品28下>

○『かの某甲(むかう/それかし)のほとけ、この宝塔をひらかんと與欲(よよく/おもふなりと)したまふ』。<仮法・西678D.妙695B>[漢訳]彼某甲仏与欲開此宝塔。<大蔵・見寶品33中>

とあって、「某甲」の和解を「それがし」とするのである。この『仮名書き法華経』における「それがし」は、他称と自称との意ということになる。さらに、同じく『法華経』信解品には、「某」の字を「それ」「それがし」と訓じた例が他に三例見える。

○それがしの城のなかにして、われをすてゝ逃走して、伶・辛苦すること、五十餘年なり。<仮法・西344@.妙324D>[漢訳]於某城中捨吾逃走。伶俾辛苦五十余年。

○そのもとのなは、それなり。<仮法・西344A.妙325A>[漢訳]其本字某。

○むかし、それの城にしてこの子をうしなひき<仮法・西364@.妙349D>[漢訳]昔於某城 而失是子。

 さて、この「某甲」だが、中算の『妙法蓮華経釈文』には、

某甲 玉篇云、史記某子甲何為不来。野王案、今人云−−。猶言某也。曇捷云、月令孟春之月、其日甲乙既以春日、亦名於人物也。(醍醐寺本巻中25ウF)

と信解品においてこの熟語を注記する。

この「某甲」という二字熟語は、『史記』田叔傳にて「某子甲何為不来乎」であり、其の人の名前を語らずに表現する「だれそれ」(他称)。また、「わたくし」(自称)となる語で字音は、呉音読みして「ムカウ」というのである。本来、この「某甲」と表現するところには、聞くに値する“実名”が嘗ては存在していたのであろう。これを今は知る術を持たないのということである。

1999年5月22日(土)霽。八王子→東京薬科大学植物園

野草の名 知りて効能 活かし見る

「銭の異名」と「額の異名」

室町時代の禅僧は、銭を別名で表現することが多かったようだ。この時代の古辞書『下学集』にも、

(セニ)<器財,104-2>

香銭(カウセン)礼銭之義也 僧中ロ∨フナリ也,器財<104-2>

鵝眼(ガガン)鵝〔カ〕瞳〔ヒトミ〕四方〔ヨハウ〕ニシテシ‖ノ| 故フ∨尓〔シカ〕<器財,104-3>

孔方兄(コウハウヒン)銭異名也 孔穴也 銭穴四方也 兄尊敬〔ソンケイ〕義<器財,104-3>

鳥目(テウモク)<器財,104-4>

青〓〔虫+夫〕(セイフ)銭異名〔イ-〕也 言虫〔ムシ〕能ス‖多子ヲ| 世俗取テ‖ヲ|塗〔ヌル〕銭ニ則〔トキ〕銭多生〔−〕ス∨ 故テ‖シテ|而云フ‖青〓〔虫+夫〕〔[セイ]フ〕ト|也 嗚呼〔アア〕世俗人耽〔フケル〕コト‖銭財〔[セン]サイ〕ニ|何〔ナン〕ソラン‖于茲〔ココ〕ニ| 子母銭亦義也<器財,104-4>

用途(ヨウト)<器財,104-5>

用脚(ヨウキヤク)<器財,104-6>

青銅(セイダウ)<器財,104-6>

青鳬(セイフ)以上皆異名也<器財,104-6>

と10種に及ぶ銭そのものの“異名呼称”が見えている。

 さらに、これを禅僧の日記類である『蔭軒日録』を見るに、この「銭の単位」そのものを“禪語の異名”で表現する例が見えるのである。現在、明らかになっているものをここに整理して掲示すると、

1、「一朶」=「一枝」=「一杖頭」は、百文。

  「一指」=「一箇」は、百文。これを「天竜」とも云う。

2、「黄〓〔麗+鳥〕」(「黄鳥」「黄鶯」)は、二百文。

3、「煙景」「遠景」「木毬」は、五百文。

4、「一連」=「一結」=「一繦」=「一緡」=「円相」=「円通」は、一貫文(千文)。「吾道」とも云う。

  5、特定の単位を示さなさい「仙花」という語もある。

6、「白鷺」は、いくらか?は不明とする。

といった具合にである。

1999年5月21日(金)霽。八王子→南大沢

散髪や 帽子大きく 元戻り

「湯を沸かす」

本来、水を火にかけ、熱し、沸かして「ゆ【湯】」とするわけだから、「湯を沸かす」のでなく、「水を湯に沸かす」というべきところである。その「ゆ【湯】」を沸かすための道具そのものも、「水沸器」でなく「湯沸器(ゆわかしキ)」という。このような錯謬表現は、どこから派生してきたのだろうか?ふと気がつくものなのだろうか?「知らぬが佛」も、「知らないのを佛とすると、じゃあ知者は誰だ」というようなものである。

この「湯沸かし器」の命名も、さることながら、奈良時代の『万葉集』3824に、

さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津の檜橋より来む 狐に浴むさむ[刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 檜橋従来許武 狐尓安牟佐武]

とあることからも、この「湯沸かす」の表現は、長いあいだこの矛盾を含みながらも継承されてきたことばのようである。

1999年5月20日(木)曇り時々晴。八王子→世田谷駒沢

何かある くらくら迷ふ 烏の宿

今様『梁塵秘抄』

 本日の毎日新聞朝刊に、“梁塵秘抄:新断簡 後白河法皇 原本の一部と推定”という記事が一面を飾った。このなかに記述されているように、「新しい今様が見つかるのは戦後初めて。「梁塵秘抄」は全20巻の1割強が現在に伝わっているだけで全体像は謎に包まれており、日本文化史上、極めて重要な発見となる。」と解説する。

この『梁塵秘抄』の巻第一に、

梁塵秘抄と名づくる事、虞公韓娥といひけり、こゑよく妙にして他人のこゑおよばざりけり、きく物めでかんじて、涙おさへぬばかり也、うたひけるこゑのひゞきにうつばりのちりたちて三日ゐざりければ、うつばりのちりの秘抄とはいふなるべしと云々

という識語がある。この書名は、「虞公韓娥」の故事に由来する。『杜氏通典』に、

有韓娥、東之斉、至雍門匱糧、乃鬻歌仮食、既而去、余響繞梁三日不絶、左右謂、其人不去也、又過逆旅人、逆旅人辱之、韓娥因曼声哀哭、一里老幼悲愁垂涕、相対三日不食、遽而追之、韓娥還復為曼声長歌、衆皆喜躍抃舞、不能自禁、非向之悲也、乃厚賂遺之、故雍門之善歌哭即韓娥之遺声也許慎曰、曼声、長声也。衛人王豹処〓〔水+貝〕川善謳、河西之人皆化、斉人綿駒居高唐善歌、斉之綿駒居高唐善歌、斉之右地亦傳其業、漢有虞公善歌、能令梁上塵起

と見えるのがそれである。

 また、毎日新聞夕刊“近事片々”に、

男女の別れの悲しみを歌った『梁塵秘抄』の断簡が見つかった。以下エリツィンさんと議会の腐れ縁を詠む「露人苦笑」―夜昼騒ぎこしわが政治/騒ぎても久しくなりにけり/何とて夜昼いがみたる/他に永らえるすべなきゆえ。大統領も議員も保身第一、と。

と現代の今様を綴る。読売新聞は、夕刊18面にこの種の記事を掲載する。

1999年5月19日(水)雨のち小止み。八王子→世田谷駒沢

雨の田に 小鳥餌啄ばむ 足下かな

「野合」

 男女が媒酌人を介さないで一緒に結婚生活をはじめることを古くは、「野合(ヤガフ)」「野偶(ヤグウ)」と表現した。『史記』孔子世家に、「〓〔糸+乞〕、與顔氏女野合、而生孔子(孔子の父は孔[糸乞]、母は顔氏の女で、二人が野合して生まれました。野合とは、正式の手続きをせずに勝手に結婚することです。)」とみえる。これが、今は「同棲(ドウセイ)」さらには、「婚前交渉」ということばへと移行してきたのである。また、老人が若い妻を娶る意味にも用いたことが随筆『塩尻』92「野合 老夫の幼妻を得るをいふ」などからも知られのである。

 この「野合」を訓で読むと、「のあひ」で、戦いで、両軍が平地で出会うことの意となるからちょっとややっこしい。享禄5年(1533)名護野合戦(今川、織田攻防)を描く「野合の合戦なりとも」<信長記>の用例は「のあい」の読みとなるわけだ。さらに、『武辺咄聞書』に、

三奉行并秀家卿も大軍と野合戦いかゝなれは都に引籠 防可然と有しを、立花眼を怒らかし太刀に手をかけ大音上て「か程の大軍に籠城して不可叶。

と見える。ところで、現在の「野合」は、

自殺はともかく、全員とは思わないけれど、彼の政党遍歴考えると自民党に「お金に群がるやから」がいるのではないかと疑いを持ちたくなる事件だと思う。いくら自民党が野党連合を「野合だ」と言ったとしても自民党の方が「一見それと解らぬ野合」ということでもっと質が悪いような気がしてきました。新井議員も何も命まで断たなくても、という気もするけど・・・ 却っていろいろと勘ぐってしまいませんか?取り返しのつかないこととはいえあまり良い人生の選択とは思えません。今後、同じような状況で同じような選択をする人が出ないことを願うばかりです。私たちに複雑な感情を起こしつつ多くの疑念への答えをどこか遠くへ持って行ってしまうのですから。ある意味では無責任ですね。 (宮原正敏さん 大阪市 31歳 自営業)毎日新聞「AULOS」

自社さ「野合」政権

目:[金YOUNGBAIコラム]金大中・金鍾弼連合?二金野合? 金大中・金鍾弼がついに連合した。しかし合意したという交渉内容を見て、感じられる初印象は権力を握るための二金の野合ということだ。彼らの合意骨子は 1次今年大統領選挙での勝利、2次内閣制改憲だ。

もしわが国でも「公的資金」と言わず「納税者資金」とか「国民納税金」と言えば、今般の商品券構想のような国民から集めた金を一部の国民にプレゼントして人気取りをする自民・公明の野合的発想も浮かばないのではないか。<経済ニュース キーワード 経済Q&A 経済気象台 98年11月18日付朝日新聞夕刊より>

1998.12.8 川柳  連立か 野合か民は 蚊帳の外  千歳市 泉  遙

とあって、「野党連合」を縮めて「野合」と表現する。これは、国語辞書には未収載の意味用例となる。

[ことばの際] http://www.os.rim.or.jp/~charan/seisin13.htm

されば吾は実に、愛なき結婚を以て不可許の事とし若しありとすれば人間本然の意義を没却して肉体的野合を遂げたりと云ふを揮らず、何となればこれたとへ如何の外来の理由ありとするも究竟の見地より見て全く所謂野合に異らざれば也。<『渋民日記』明治35年・1902年11月14日>

非常に悪いことではないが、従弟どうしの結婚などはあまりにありふれたことすぎるし、野合の初めを世間の噂に上されることもつらい。後宮の競争に女御をおさえた源氏が恨めしい上に、また自分はその失敗に代えてあの娘 を東宮へと志していたのではないか、僥倖があるいはそこにあるかもしれぬと、ただ一つの慰 めだったこともこわされたと思うのであった。<全訳源氏物語(与謝野晶子訳)・少女巻現代語訳>

ところで最近は『失楽園』たらいう下手クソな小説(と高橋源一郎が言っている)の影響か、ブスもハゲもオッサンもオバハンも誰でも彼でも不倫をしている。ああいうのは、私の基準では恋とは言わない。恋というのは50メートル泳いだダルマハゼのようにするものです。身近にいる手頃なのとイージーにひっついてやることやって、家庭が心配になった途端にサイナラ?というのは、野合の一種であって恋ではない。

“安室やSPEEDの育ての親がアミューズと野合”などは、古例の意。

地名:岩倉市大地町野合にある史跡公園。竪穴式住居。

1999年5月18日(火)薄晴れ。八王子→世田谷駒沢

薬餌茶 烏に遊び 気も温む

「薬の名」は外来語

 薬草の名前について、思うことはなぜかハナっから和語がないことだ。すべて外来語からなる。「さるとりいばら」を「山帰来(サンキライ)」、「すかんぽ」を「虎杖(コヂヤウ)」、「すひかづら」を「忍冬(ニンドウ)」、「いちやくさう」を「鹿蹄草(ロテイサウ)」、「かき」を「牡蛎(ボレイ)」、「あさがほ」を「牽牛子(ケンゴシ)」という。

“百味箪笥” に和語平仮名表記で「すかんぽ」「あさがほ」「かき」では、薬の効能も、その能書きも信頼するに足りないということかもしれない。ことばの呪縛のごとく“名による価値判断”がなされている。

 質も内容も等価のものでも、名の通った品のがよく利用される。「付加価値」をもたすことで、見向きもされなかったものが急に脚光を浴びるのもこのせいなのである。

江戸時代の売薬名を文学資料でみると、式亭三馬『浮世風呂』に、

「イヱモウ、是でも病身でございますがネ、本町二丁目の延寿丹(えんじゆたん)と申すねり薬(ヤク)を持薬(ヂヤク)にたべます所為(せゑ)か、只今(ただいま)では持病も発りませず至極達者になりました。」

「ハイ、それはお仕合せでございます。あの延寿丹(えんじゆたん)は私の曽祖父の時分から名高い薬でございますのさ。あれは一丁目でございましたっけ。私も暑寒(しよかん)にはたべますのさ。」

「ハイ、只今は二丁目の式亭で売ます。」<第三編巻之上>

とあるのも、「いのちのばしぐすり」では、薬の効目となる有難味が旨く伝わらない。やはり、字音による外来語で「延寿丹」のことばの響きに人はなぜか魅かれるのである。これと同様に、「人馬平安散」「真珠龍虎圓」と妙味ある名が暇なく用いられている。ただ、何でも例外はあるようだ。症状の用途をそのまま薬名にした「しもやけの薬」「たんの薬」「むしば薬」や、具象効能を薬名にした「一生歯ぬけざる薬」「毛生え薬」「夜のまになをる薬」などが知られる。

 また、『諸国道中商人鑑』に見える一見外来語風の「奈良屋ウルユス(近世上田商人鑑〔郷土出版社刊〕の条を参照する)」の「ウルユス」(たん、りゆういん、しやくきの薬)は、腹を「空ス(すっきりと空にする)」の「空ス」の字を分解して「ウルユス」と命名したという説もあるが、実際のところはどうなのであろうか?大槻文彦編『大言海』の序に、この語源の旨を見る。

ウルユスと云ふ売薬あり。片仮名書きの看板の、今も場末の生薬屋などに掲げてあるなり。この薬名、片仮名なれば、阿蘭陀薬ならむと思ひ、遍く和蘭の辞書を探りたれども得ず。然るに、何ぞ図らむ、離迷字ならむとは。この薬は、緩和の之下剤なれば、腸内を「空(むな)しうす」の心にて、「空」の字を三分して作りたる名なるを知りて、捧腹絶倒せり。ウツホを〓(宀ツ木)の字に作れると好対なり。明和、安永、天明の頃、幕府の老中、田沼玄蕃頭、全権の驕奢にて、和蘭の器物を愛玩したるに因りて、一時、蘭器、蘭薬など、大に流行せり。その頃、売れゆきの好からむを図りて、蘭薬めきたる名を付したるものとおぼゆ。

と述べている。「ウルユス」の語源には、空の字を三分して仮名書きとし、オランダ語らしくみせかけたとするこの上記『大言海』の説以外に、オランダ語の痰(フロイムFluim)の誤字とするもの、処方医師ウィリスの名にちなむとする三説がある。オランダの交易時代以来の緩下剤であった。

[ウルユスの参考資料]

  1. ウルユス弘方心得書〔幕末〕
  2. 阿蘭陀國輸入薬ウルユス・ホルトス広告[版元長崎健寿堂鑑製刊]→香川大学神原文庫分類目録<和漢の部・商業>

1999年5月17日(月)曇りのち晴れ。八王子→世田谷駒沢

初夏に来て 巣づくろひする 燕かな

「晴と褻」の「褻服」

「褻(け)にも晴(はれ)にもこれ一枚」と云うご時勢は、いまや縁遠くなり「褻服」ですべてを営む生活はまずなくなった。この「褻服」とは、喪服(もフク)のことをいう。いわば、けがれた服のことである。この逆が“晴れ着”である。元来、この「褻」の字音は、「セツ・セチ」であって、「褻服」は「セツプク」と読むところであるが、これは「切腹」と同通音であることから「けフク」と読むようになったのである。この「褻服」も“忌みことば”の一つなのである。

[忌みことば表欄]

あし【葦】→「よし」

なし【梨】→「ありの実」

さる【猿】→「得手(えて)」

すりばち【擂鉢】→「あたり鉢」(財産をすり減らすの「すり」を忌み嫌う)

するめ【鯣】→「あたりめ」

ひげをする【髯を剃る】→「髯をあたる」

まりのこうぢ【万里の小路】→「までの小路」(「まり」は尿器と同通音、これを忌み嫌う)

こつ【笏】→「シャク」(「コツ」は「骨」と同通音、これを忌み嫌う)

ぢやうかう【定考】→「かうぢやう」(8月10日に官位の定考があったが、「ジョウコウ」は「上皇」に同通音のため、文字はそのままにして発音部分を転倒した。)

だいげんすゐのほふ【大元帥法】→「だいげんのほふ」(小栗栖常暁が中国から伝授してきた鎮護国家の法で、「だいげんすい」を忌み嫌って省略したもの。河内の“秋篠寺”の「大元帥妙王」も同じく「だいげんの妙王」という。)

1999年5月16日(日)曇り。八王子

 蝸牛や にょいと進むや 日曜日

「ハイ!シイドウ」と「ハイ!シイヲフ」

 馬に騎乗する人が、馬に呼びかけることばがある。「シイドウ」と云う。また、牛を牽く人が、牛に呼びかけることばは、「シイヲウ」という。この「シイドウ」と「シイヲウ」をそれぞれ漢字表記すれば、「止動」「止往」で、これを和らげると「とまれ、うごけ」「とまれ、ゆけ」で馬や牛にしてみれば、矛盾する逆の意味のことばを重言したことばからなるものだということになる。これに呼びかけの巻頭表現「ハイ!」をおいて、「ハイ!シイドウ」「ハイ!シイヲウ」と云う。

 上記ことばの馬の表現用例については、日本唱歌集の石原和三郎作詞「キンタロウ」に、

マサカリカツイデ、キンタロウ、クマニマタガリ、オウマノケイコ、ハイ、シィ、ドゥドゥ、ハイ、ドゥドゥ、ハイ、シィ、ドゥドゥ、ハイ、ドゥドゥ

という歌の文句があって、お馴染みであるが、もう片方の牛の表現である「シィヲウ」の用例は未だ知れない。この用例を知りたいところでもある。

1999年5月15日(土)晴れ午後一時雨。富士吉田<冨士ウルトラマラソン>→八王子

散歩道 地図も車に 併せたり

「ふくろたたき」

 あまり、好い詞ではないが、「ふくろたたき」にするという表現がある。大勢で一人をいたぶるときに表現される。この上接語「ふくろ」を「フクロ―」と下尾を延ばしてもって、この意味の外来語「リンチ」に充当させる。すなわち、「フクロ―」は集団いじめの「ふくろたたき」にするときの掛け声である。所謂“合図ことば”というものである。この表現が密告の隠語「チクる」と呼応して、「チクるとフクロ―(ふくろたたき)にされる」と云うのだ。

 明治時代の大槻文彦編『大言海』に、

ふくろ-たたき(名)【袋叩】(一)人を袋に盛りて、上より撲(う)ちたたきて殺すこと。嚢撲。*本朝俚諺、五「嚢撲(フクロタタキ)、史記に云、秦撲二弟、又見説苑、これはふくろにいれて、たたきころすなり、東国にて、俗語にいへり」(二)一人を多人数にて打ちたたくこと。(嚢に入れて打つ如く、相手に抵抗の余裕無からしむる故に云ふ)人に手足を出さしめず、我が十分にいためつくること。

とある。中国では、「撲嚢」という。本邦では関東の俗語表現だという。

1999年5月14日(金)晴れ。八王子→富士吉田

薔薇の花 一本すんと うつし世に

「この世」は「うつし世」

 「夢現(ゆめうつつ)」は、「ゆめかまことか」定まりのつかない境地にあることを表現する。この「現(うつつ)」の世界をなぜか「うつつ世」と表現せずに、「うつし世」という。何故、「うつし世」なのかというのが今の課題である。

読売新聞明治38年3月から連載の新聞小説、小栗風葉『青春』の冒頭部分に、

……うつし世の うつゝの歓楽今さめて、あゝ、暁の夢に見し 常世の浄楽、憧るゝかな。

朗読終つて椅子に着くと、一座三人の目は何れも熱心に自分を見詰めて居るので、余り調子に乗つて読んだのが極りが悪く、関欽哉は手に為た詩稿をボケットに捩込みながら、微笑して俯く。

「好いわねえ!」先づ此家の令嬢園枝が嘆美の声を発つた、(中略)一人先づ詩稿を読終つた。

「究り此の、始めに書いてあるのが題なんだね?『顕世(うつつよ)』と云ふのが。」と欽哉に言つたのを、園枝が横から、「ウツツヨぢや無くつてよ、ウツシヨと読むんだわ。」

「然うか、ウツシヨと読むのか。」と速男は素直に言直して、

とあって、この「うつし世」なる詩表現が「顕世」と漢字表記され、「うつつ世」と読まないことを示唆している。実際、「現世」と表記し、音で読むと「ゲンゼ」と仏教的色彩が濃い表現となり、これを訓で「うつしよ」と読むことで詩的色彩を帯びてくる。漢字表記の「現世・顕世」に振り仮名を付けなければ、見極めがつかない。本題に立ち帰り、この「うつつ」でなく「うつし」なのか、の理由を語ることをしない園枝と、黙って了知する速男のコミュケーションの谷間を覗いて見るのもよかろう。

1999年5月13日(木)晴れ。八王子→世田谷駒澤

しどしけに 語らひはてて 空の苑

「萩(はぎ)」

 平安時代の勅撰和歌集『古今和歌集』に、

秋萩の古枝に咲ける花みれば本の心は忘れざりけり <219・躬恒>

の歌が知られる。この古注釈『顕昭注』に、

萩のなかには、古き枝より葉も芽ぐみ出で、花も咲くなり。それをば大萩といひて、真榛とて万葉に書けるは是也。小萩といふは草部にて、しかるべからずと申すめり。真野の榛はみな小萩にてある由、俊惠など書く如何。

と記されている。「はしばみ【榛】」の木と「萩(はぎ)」は、共に染料として用いることから「はしばみのき」すなわち、「はりのき」を(harinoki→harigi→hagi)」と略して「はぎ」と言い違う可能性もあり、また、「こはぎ」は「木萩」を「小萩」と誤用する可能性もあるということとなる。如何…。

 印度本系統の永祿二年本節用集』に、

(ハキ) 鹿鳴花。蕭芽子。新撰万葉集用之。蓁莪。〔草木16B〕

とある。

1999年5月12日(水)晴れ。八王子→世田谷駒澤

 散歩する 都心の公園 夜昼と

「黄昏」と「雀色時」

 平安時代の紫式部『源氏物語』に、

御畳紙にいたうあらぬさまに書き変へたまひて、「寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔」ありつる御随身して遣はす。<夕顔>

わが御方にて、心づかひいみじう化粧じて、たそかれも過ぎ、心やましきほどに参うでたまへり。主人の君達、中将をはじめて、七、八人うち連れて迎ヘ入れたてまつる。

御文には、「わが宿の藤の色濃きたそかれに尋ねやは来ぬ春の名残を」

と、「黄昏」の語が三例見える。

鎌倉時代の『名語記』に、

タソカレ如何。ユフクレノ名歟。誰ソ彼ノ義也。日クレテ、ミエワカスシテ、誰人ソト、タトルヨシノ、詞歟<>

という記載が見える。これは、『源氏物語』では、

顔はなほ隠したまへれど、女のいとつらしと思へれば、「げに、かばかりにて隔てあらむも、ことのさまに違ひたり」と思して、「夕露に紐とく花は玉鉾のたよりに見えし縁にこそありけれ露の光やいかに」とのたまへば、後目に見おこせて、「光ありと見し夕顔のうは露はたそかれどきのそら目なりけり」とほのかに言ふ。

とあるように、「たそかれどき、―時」を他に11例用いていて、「時」を省略した「たそかれ」は僅かこの三例に留まる。この二種の表現は、どう異なるかの大差をここには見ない。やがて、清音「たそかれ」は、「たそがれ」と濁音化する。「たそがれ」「たそがれ時」は両用され、現代語にもそのまま通用している。ただ、「人生の黄昏」というような比喩的な言い回しは、近代語の特徴かと考える。

 さて、「夕暮れ」「夕暮れ時」を表現する語に、「雀色時」と夕暮れの光景を色彩感覚で表現した語がある。現代、あまり用いられない表現だったが、平野啓一郎『一月物語』に登場する。

雀色時(すずめいろどき)<50G>。

1999年5月11日(火)曇り一時雨。箱根湯元→世田谷駒澤→八王子

 枯れ松に 螺旋になりて 藤の花

「公界」

 この「公界」なる語、鎌倉時代の禅語として用いられ、室町時代には広く世俗のことばとして定着を見た。当代の古辞書である易林本『節用集』に、

公物(クモツ)―用(ヨウ)。―役(ヤク)。―庭(テイ)。―請(シヤウ)。―領(リヤウ)。―務(ム)。―平(ビヤウ)。―界(ガイ)。―事(ジ)<言語132F>

と、「公」を冠語とする熟語併記の十語中にあって、「クガイ」と発音する。道元禅師『正法眼蔵』に、

大悟は公界におけるを、末上の老年に相見するにあらず。<大悟,二32オF,0141上左F>

公界の因あり、公界の果あり。この公界の因果を修し、公界の因果を感ずるなり。<空華,三24オB,0156上左B>

雲堂公界の坐禪のほか、あるいは閣上、あるいは屏処をもとめて、獨子ゆきて、穏便のところに坐禪す。<行持下,四25オH,>

手爐は院門の公界にあり。<看経,六32ウB,>

もし常住公界の看經には、都監寺僧、焼香・礼拝・巡堂・俵銭、みな施主のごとし。<看経,六34オI,>

寺院もとより公界の看經堂あり。<看経,六35ウD,>

雲堂の後架には、公界の拭面あり。<洗面,十46オA,>

つぎに公界の手巾に手をのごふ。(中略) 公界に塗香あり、香木を寳瓶形につくれり。<洗浄,十一26ウ@,>

公界の調度なるがごとし。<三十七品菩提分法,十二37ウF,>

と、十三例を見ることから、道元禅師は、この「公界」の語を用いていたことが知られる。文学書『太平記』にも孤例だが、

述懐は私事(ワタクシゴト)、弓矢の道は公界(クガイ)の義、遁(ノガ)れぬところ也とて、偸(ひそ)かに都を打立(ウチタツ)て、手勢計(バカリ)を引率(インゾツ)し、御方(ミカタ)の大勢にも不牒合(テフシアハセズ)、自身(ジシン)山下(サンゲ)に推(オシ)寄せ、一日一夜攻(せめ)戦ふ。<巻第十九青野原軍の事嚢沙背水の事、大系二・298H>

と対語となる「私事」があって、この「公界」の語が見える。意味は、「おおやけのこと」をいう。そして、この語は、物語・狂言・抄物などといった当代の書物に散見することは云うまでもない。(各々の用例は、省略する。)

 そして、どうも江戸時代の終りごろに廃れてしまったようだ。その要因は、仏教語に「クガイ」と発音する別語「苦界=人間界。娑婆の意」があって、世俗一般が「クガイ」ということばを口にする機会が多くなるにつれ、同音異語の摩擦・衝突が避けられなくなってきたことからかと推察する。この「公界」にとって代って用いられるようになった語としては「公共(コウキョウ)」の語がある。が、J・Cへボン『和英語林集成』には、「公界」そして「公共」の語はなく、「Kugai クガイ 苦界」の語しか収載を見ない。大槻文彦編『大言海』には、いずれの語も収載されていて、「公界」と「公共」の語については、

くがい【公界】おほやけ。おもてむき。公儀。*太平記十九青野原軍事「述懐は私事、弓矢の道は公界の儀、遁れぬ所ナリ」*三内口訣(永正、三光院内府實枝)「御所、是は大臣家以上之家、執(シフ) スル‖其主人ヲ|之故、家僕等稱之候、公界へ不(ザル)出(イダサ)事候」

こうきョう【公共】公衆(もろびと)と、共共なること。*史記、張釋之傳「方者、天子所天下公共也」「公共の利益」公共組合」公共事業」

と記載する。“置換語”というより、“類義語”の範疇にある。

[ことばの研究] 佐藤茂「<公界>といふ語」福井大学学芸学部紀要人文科学第11号に詳しい。

1999年5月10日(月)曇り。八王子→世田谷駒澤→箱根湯元

 早起きし 慌てずゆっくり 何事も

「振舞(ふるまい、−う)」

 室町時代の古辞書である易林本『節用集』に、

振舞(フルマヒ)<言語151D>

とある。江戸中期写の久松抱石所蔵『大中寺禅室内秘書 別本丙』(近思文庫編・小林印刷出版部刊)に、この「振舞(ふるまい)」をどう表記し、意味用法について見てみた。

師拶曰趙州ハ何ト云心ニ草鞋ヲ戴テ出タソ。答云趙州ハ逆ナ振舞ヲナシタソ<19ウI>

今ノ善知識ハ三宝カソナワル故ニ、知識ハ何ト身ヲモチ落ヤウノ振舞アルトモ、ソシルナト云義也<33オC>

句面ハ若時ハ如何ヤウナル棒喝ヲモ色々ニ振舞タレトモ、年ヨリニ成テイカニモヲトナシクナレハ向ノ方ヨリ色々云ヘトモ、不取合大人竟介[境界]ヲ以テコラヘタ処也。<70ウI>

弁、剣使上手也。方丈ニ皈タハ上手振舞也。殺サウ共イカサウ共我カ侭チヤト云タ方也。<117オD>

故ニヤカテ猫児ノ上ヲ□ト心得テ□ハ逆ナ者チヤト振舞テミセタホトニ、趙州ノマツチトトク来タラハ、猫児ヲ斬テ□ヲ露スニヲヨハヌ者ヲト云タ<20オG>

弁、其如ク衲僧ト云者ハ八竟[境]界ヲモ兼備ヘ一大蔵教ノ上萬ノ事ヲ不審モナク明メ得テ我ハ知タトモ思ハスシテ無眼子ニ同シ、高ニハ高ニ同シ、低ニハ低ニ同シ、老ニハ老タニ同シ、ソレ/\ニ同シ振舞タコソ大人竟[境]界ヨ。<102オG>

扇ヲ挙起シタモ、一指ヲ堅起シタモ、何トシタモ、今日ノ上ハ悉ク色相ト用テカウ振舞タ、此ノ用ハ高イ用チヤ。<108オF>

弁、仏トモ問ヘ何トモ問ヘナイ者ヨト指示シタナイ者ハ弁セウスルヤウカ有テコソ倶〓〔月-低〕ハ平生堅一指何トモ振舞ヘナイ者ヨト指示シタ平生ノ用也。<111ウB>

佛ノ看キツタ上カラシテ且(シハラク)其心ヲ生タ、イカヤウニモ自由自在フル舞ヘト云心ソ。<62オI>

弁、散果タ事ヲ岩頂ノ徳山ノ賊ヲ續テイワレタ諸人カ徳山ノフルマイヲ知タカ不知カ試テイワレタ事也。<117ウB>

弁、香厳ハ天下ノ衲僧ヲ惑乱シテミヨウト思テ賊ヲフルマウタ処ヲ虎鬚上坐カ出テ賊ヲ云イ露ワカイタソ程ニ手ヲ失テ笑タ<40オ@>

雪豆ハ老僧即今上樹ト云タ面ムキハチガウタヤウナレトモ底ハ虎鬚上坐ハ初心テ賊ヲ云イアラワカイタ処ヲ雪豆ハ推藏テ香厳ノ賊ニ同シテフルマウテ樹上テハユイヤスイト云テ猶ヲモ香厳ノ賊ノ手タテカ禅宗ノ肝要ナリ。<40オH>

と@漢字A混種Bカナといった三種類の表記体が見えるのである。用法は、名詞と動詞とがあって、意味は、「行状」「行為」をいうものである。ここには、「馳走・饗応」の意は見えない。

1999年5月9日(日)曇り。八王子

 まず眠き 猫かぶりして 牡丹散る

「?芻(ヒツスウ)」

 室町時代の古辞書である易林本『節用集』に、

?〔艸+必〕蒭(ヒツスウ/―ジユ)比丘<人倫222B>

とあり、「ヒツスウ」と「ヒツジユ」との両音の読みが併記されていて、「比丘」すなわち、「僧侶」の意としている。広本『節用集』にも、

?〔艸+必〕蒭(ヒツスウ)梵語西天名。具(―)ス‖五徳ヲ|。故喩出家ニ|同。又?〔艸+必〕芻又曰?〔艸+必〕草ト|聯灯<人倫門1032A>

とあって、西天の草の名であり、五徳を具有するところから出家に譬える語で、「〓〔艸+必〕芻」とも表記し、別名「?〔艸+必〕草」ともいうことが茲から知ることができる。道元『正法眼蔵』摩訶般若波羅蜜に、

釋迦牟尼如来會中有一?〔艸+必〕蒭、竊作是念《釋迦牟尼如来の會中に一の〓(ビツ)蒭あり、竊かに是の念をなさく》

とある。また、沢庵和尚の『玲瓏随筆』巻之四には、

一 出家を?〔艸+必〕蒭ト云フハ、?〔艸+必〕蒭草ト云フ草ガアルゾ。?〔艸+必〕蒭ハヤワラカナル草ニテ、アナタヘモコナタヘモガヤルヤウニ靡ク草ナリ。出家ハモノニカマハヌガ本ナルユヘニ、?〔艸+必〕蒭ニタトヘタゾ。教者(ケウシヤ)ニハ?〔艸+必〕蒭(ヒシユ)トヨムゾ。禪家ニハ?〔艸+必〕蒭(ヒツスウ)トヨムゾ。(日本随筆大成384C)

として、「?〔艸+必〕蒭」を「ヒツスウ」と読み、「出家」を意味するとある。現代の漢和辞書である『大漢語林』にも、

?〔艸+必〕9371@漢ヒツ・呉ビチA漢ヘツ・呉ベチ〔補5560〕[一]@かんばしい。かおる。また、かおり。A?〔艸+必〕蒭ビツシユは、インドに生える草の名。また、僧侶ソウリヨをいう。[二]野菜の名。[古訓]〔名〕カウハシ?〔艸+必〕蒭ビツシユ[仏]梵語ボンゴbhiksuの音訳。僧侶ソウリヨ。比丘ビク。〔尊勝陀羅尼経〕

と収載されていて、梵語の音訳「ビツシユ」を禪語では「ヒツスウ」であるからして、漢音読みということになるようだ。国語辞典では、小学館『日本国語大辞典』に、【〔艸+必〕蒭】の語を見出し項目「びっしゅ」と「びっすう」の語頭濁音による字音読みがそれぞれ収載されている。そして清音の読みも「〜とも」と記すが、用例には濁音表記の例は見えない。

1999年5月8日(土)晴れのち曇り。→八王子

山坂を 自転車乗り 越えて見ゆ

「楊花」

 室町時代の禅僧が記した日記を読むと、何か意味不明なことばに出会う。無論、当時の古辞書などには見えない。その一つ、『鹿苑日録』(慶長二年八月十日条)に、

我竹來臨、共ニ楊花ヲ啜ル、竹翁亦タ腹中ノ煩イアリ、養育ノタメ也

また、『蔭凉軒日録』(長享三年三月十四日条)にも、

夜来御影ノ間ニオイテ茶子ヲ盛リ、楊花飯、竹葉ヲ喫ス

とあって、「楊花」「楊花飯」といった通常のことば表現でない難解不明瞭なことば使用がこれである。これを“異名(ことな)”という観点から考察してみると、同時代の桃源瑞仙『百衲襖』十五(文明七年十月八日)に、

夜禪罷リテ寒気肌ヲ侵ス。厨ニ勅シテ細? 〔坐+リ〕蔓草ヲ投ジ、水多ク米少ナキ粥ヲ衆ト與ニ啜ル。俗諺ニイワユル増水トイフ者ナリ。惠峰ノ郷談ニコレヲ楊花トイフ。蓋シ?〔米+參〕径ノ義ヲ取リテ云フ。又?〔米+參〕羹ノ類カ。嗚乎、豪富家此等ノ物ヲ視レバ、以ツテ唾擲スルニ足ラズトスルノミ、但ダ宿酔ノ晨ヲ解クニ功アリトナス。則チ酒客ノ時、或イハ一笑シテ箸ヲ下ス。亦タ是レ氷壺先生ノ流亜ナリ、我輩コレヲ得レバ、天ノ蘇陀味ノ如シ。ソノ寒酸ノ少ナキヲ見ルベシ。厠ヘ如ク者織リノ如シ。豈ニ水ノ多キタメナランヤ。呵々。(以上の引用は、今泉淑夫さん「異名」204頁『ことばの文化史』中世4参照)

とあって、「粥(かゆ)」すなわち、俗諺でいうところの「増水=雑炊(ゾウスイ)」のことであり、この「増水」の語は古辞書易林本『節用集』にも収録されているのだが、“異名”である「楊花」は、まったく見えない。「増水」を禅僧たちは、「楊花(ヤウクワ)」と呼称することが知られるのである。ただ、「〓〔米+參〕径」、「〓〔米+參〕羹(こながき=米の粉のあつもの)」の類を呼ぶもののようである。「宿酔」すなわち「二日酔い」の翌朝に食すると良効だという。これを「天ノ蘇陀味」のようだという。まさに、“腹中養生”にして薬餌の効能を有する。この意味不明な“禅林用語”の典拠も、大陸中国における膨大な書籍の詩句・文章をもって引用・応用しているに他ならない。話頭は反れるが、これらの仏典・漢籍の書が渡海して日本に齎されていたことを忘れてはなるまい。この知識の寳藏ともいう書籍を得るための術として、莫大な金子(黄金)が蠢いていたことも否定はできない。これを入手する海上ルートは、“倭寇”が支配していたことも……。

[参照] 関連語「雑炊(ゾウスイ)」については、1998.01.16 に収録。

T意味不明な“禅林用語”についての資料

 1、野村常重「鹿苑日録雑話」(「史学雑誌」昭和13年7月)

「山梁」は雉(きじ)。「月団」は茶。「丁々」は米。「東坡」は味噌。「早鷄」は蒟蒻。「天龍」は錢百文。「煙景」は錢五百文など。

 2、川瀬一馬「句双紙考」(『日本書誌学之研究』所収、昭和18年)

 3、斎木一馬「漢籍を出典とする記録語の若干について」(『史学論集対外関係と政治文化』第二所収、昭和49年)

U“異名”収載古辞書

 1、『名語記』1269年成立、稲荷法橋経尊。2、『撮壤集』宮内庁書陵部本。3、『類集文字抄』(文明十八歳八月日書畢、乙夜叉丸)。4、『異名盡并名字盡』(龍谷大學図書館所蔵、識云延徳参年菊月七日書写之劫終了 [花押])。5、『下學集』東麓破衲。〔拙著「「異名」について―『下学集』の異名語彙をもとに―」(駒澤大學北海道教養部研究紀要第31号)〕。6、『〓〔土+盖〕嚢鈔』観勝寺金剛仏子行誉。他。

1999年5月7日(金)晴れ。八王子

人生ム… ただそれだけの 出合い旅

「辜負する」

 室町時代の禪籍抄物である川僧慧濟講述の『人天眼目抄』に、

若シ学人来レバ、相見シテ早(ワセ)田ニハワセヲ種ヘ晩田(ヲクテタ)ニハヲクヲ種ヘ、京音ヲ聞テハ、京ノ人ト識リ、坂東音ヲ聞テハ、坂東ノ人ト識テ、チツトモ、辜負(コフ)せヌゾ。隨波逐浪ヨ。<足利藏本三M>*「仲違い」ヲ云う

とある。江戸中期写の『大中寺禅室内秘書 別本丙』にも、

弁 喚ヘハ答タマテチツトモ辜負シタ事ハナイヲ虚テカウ云タ句中ノ肘骨カクワツト露タ也<近思文庫編・久松抱石所蔵本、小林印刷出版122J>

当代の古辞書である『節用集』には、広本明應本天正本饅頭屋本黒本本それに『伊京集』とずらっと収載を見ることばである。が、何故か易林本には、このことばが未収載なのである。ちょくと時間を費やし、思案してみたいことばである。

 小学館の『日本国語大辞典』に、「そむくこと。違背すること。」とある。用例はこれより新しい。同義語に「孤負」がある(『落葉集』所載)。読み方は、「コフする」と第二拍は清音である。同じく漢語サ変動詞で、この第二拍を濁音で読む「コブ【鼓舞】(人の気持ちを奮い立たせる意)する」という語があるが、清濁の異なりで意味がこうも違うのである。聞書きする立場からすれば、この漢語を理会しづらいのではないかと思って、これを東大史編所藏本で確認して見ると、案の定、

ワセツクラウスル地ニハワセ従テ∨タソ。因テ∨語識ルハ∨則隨波逐浪。京者ノヽ物道(ユウ)聞テハ京ノ者トシリ、坂東ノ者ノヽ物言ヲ聞テハ坂東ノ者トシル。チツトモマキレヌソ。<218I>

とある。すなわち、和語動詞「まぎれ・る【紛】」のところを漢語サ変動詞「辜負する」に置換したことになる。この逆もあるかもしれない。口述ちゅうに、漢語で表現し、これをその場で和らげて表現しなおすこともあろう。果して、何れの口述表現が此の場で執り行なわれたのだろうか?と興趣は尽きない。

1999年5月6日(木)晴れ。八王子→世田谷駒澤

鶯の ケキョケキョの音は 遠からじ

“略体表記”文字

 室町時代の禪籍抄物である川僧慧濟講述の足利藏本『人天眼目抄』中の見開きに、

□□ヨ。縁覚、ササ菩薩。ササヽ〔テン〕菩提。共〔つ八つ八〕煩悩。女女娑婆。玉玉瓔珞。丸丸究竟。人ヽ〔テン〕。□??〔立身扁〕懺悔。七火涅槃。?〔ケモノ扁〕。ム。寸。或作〓〔

と本文と同筆による“略字表記の覚書きメモ”が見える。“聞書き”には、此の種の略体文字表記が学究の傍ら記述の利便さに伴なって形成され、この時代の学僧たちにいつしか“略体表記法”の文字として伝播されていたことが知られる。その一例として、松ヶ岡文庫所蔵『人天眼目抄』に、

圓修シテ廿廿〔一八一八〕(ボンノウ) ノ惑ヲ断シ習氣ヲ對治スルニ理ト行ト一ツヲモ缺テハ叶ウマジイゾ<164N>

という表記が見える。

また、古い聞書き資料では、院政時代初期の『法華一百座聞書抄』『打聞集』などが既にこの“略体表記法”による文字表記法をもって記述が為されていることは周知の如くである。その実例を挙げておく。

コノ女女(娑婆)世界ノ不信ノ男、サラニ一善スルコトナシ。<百座聞書オ41>

法花經、一(部)ヲヘス、タヽ一品一句キキタテマツルニ、モロ/\ノ共〔つ八つ八〕(煩悩)タチトコロニノソカル經マシマス。<百座聞書ウ281>

ソレモ心ヨリホカニツクリテ、スナハチ??〔立身扁〕(懺悔)スルハ罪業ナルコトナシ。<百座聞書ウ317>

父ノ正覺ナタマフヲ聞テ、十六王子、皆出家シテ佛ヲ供人ヽ〔テン〕()シ、法ヲ修行シ給ヒキ。<百座聞書ウ268>

ここに記述が見えない“略体表記法”として、「舎利厶()」「尺()迦牟尼佛」「般若ハラ宀()」「百?〔オオザト扁〕()」「閻广()王」などがある。

舎利厶()目連ナトノ、ヒトタヒニ授記ヲモかフラサリシカハ、イカヽアラムスラム、トオモヒヤスラヒシホトニ、カフレリケム授記イカハカリカ、ウレシクオホエケム。<百座聞書ウ326>

 この“略体表記法”のなかで、「ササ菩薩。ササヽ〔テン〕菩提。共〔つ八つ八〕煩悩。」は、本邦で文字生成のために創り出された文字で、これを“合字(ゴウジ)”という。「峠・颪」、「粂・杢・麿」も“合字”の仲間といえる。

1999年5月5日(水)晴れ。<端午の節句>八王子

木道に 通ずや小鳥 啼き渡る

「天下溪山」

 室町時代の禪籍抄物である川僧慧濟講述の『人天眼目抄』に、

渤潭三參漏頌。天下溪山絶勝幽、誰能見乎共同遊。天下溪山ト云ハ、西ハ五百羅漢、東ハ松嶋・平泉、北ハ出羽・羽黒、南ハ伊勢・熊野・高野・粉河・金峯山、海道ニハ富士・筥根在ヘル名山名処ヲ一人走回テ一見シタソ。絶勝ハスクレタル也。コトコトク一見シマワルガ、途中テ鵑ノ一声「不如皈」ト語ルヲ聞テ、此間誤テ脚力ヲ費タソト咲テ、白雲深処ヲ指テ、皈去テ体シタソ。一見シマワツタハ、ヲカシイ事タソ。咲指白雲皈去体、与广〓〔日+之〕如何。代、始覓従前被眼瞞<足利本57O〜58C>

といった、ふと気を曳かす箇所がある。西は日本国を遥かにした「五百羅漢」とし、続いて東を「松嶋・平泉」、北を「出羽・羽黒」、そして最後に南を「伊勢・熊野・粉河・金峯山」、海道の「富士・筥根」と名山・名所を講述紹介する。それも、自らの足で走ったり歩いたりしたと言う。とそうした折に、「杜鵑(ほととぎす)」の啼き声が「不如皈」と耳成し聞こえたのを聞き誤って無駄足をしてしまったと、笑いながら説明する。一つ一つ自分の足で周ったことが人からすれば可笑しいことかもしれないが……。でも、「一見は百聞に如かず」である。「溪山」を歩くことの尊さが講述する川僧のエネルギシュさの源となって伝わってくるから不思議である。そして、東西南北の地域名称と東海道の名所を以って講述することにより、その講述する場所が自ずと割り出されてくる。ただ、西の「五百羅漢」は、仏門に帰依する者にとっての憧憬の地であろう。このことを嘯くとは云いたくない心境に私はある。

この「溪山」だが、「ケイザン」と読む。現代の多くの国語辞書・漢和辞書中には未収載の語のようだ。小学館『日本国語大辞典』にこの「けい-ざん」の見出し項目があった。

けい-ざん【溪山・谿山】(名)谷と山。*日葡辞書「Qei-zan(ケイザン)。タニ ヤマ」*月瀬記勝-梅谿遊記・二「数百歩達∨巓。下顧。彌望q然。与‖溪山|相輝映」*杜牧-池州送孟遅先輩詩「溪山好画図 洞壑深閨闥」

1999年5月4日(火)曇りのち雨模様。八王子

雨風に 紅き牡丹ぞ 散りにけり

「さく・い」

 室町時代の『日葡辞書』に、「さく・い」という形容語が見える。邦訳『日葡辞書』で、

Sacui. さくい(サクイ).木などが硬くてぽきりと折りやすい(こと)。¶Sacui fito.(さくい人)敏活でてきぱきした人。<547l>

とあり、この時代、どのように表現されていたかも解る。この「さくい人」と云うのは、好感の持てる相手として表現されていたのか?本来の意味は硬い物がポキリと折れやすいさまを云うのであれば、「さくい人」も機敏によくこまごまと自分のために働いてくれる人物、扱いやすい人ということなのか?と思ったりする。実際、狂言『はりだこ』(大蔵虎明本『狂言集の研究』本文篇上・表現社刊)に、

(売手)√あまりきどくなさくひ共云〕かひて(買手)じや程に、みやげをまら(参)せう<八一N>

とあって、「きどく【奇特】《日本語での特別な意味》@行い・心がけが思いもかけずすぐれていること。▽キトクとも読む。A不思議なしるし」<学研『漢和大辞典』より>に共通する意味表現として、この「さくい」の語が見える。

 現代の社会で、このような「さくい人」は、まず少なかろう。働いた以上の高額報酬があれば別だろうが、僅かな報酬や無報酬で相手のことを気遣い、こまごまと機敏にこなす「さくい人」すなわち「サッパリとした気軽に動いてくれる人物」づくりが今の高齢化社会に求められているような気がする。これをまた、「気さくな人」ともいう。岩波『古語辞典』補訂版に、

きさく【気さく】《サクは形容詞サクイの語幹》淡白で快活な性質。「そなたたち程―な買手は無い程に」<虎明本狂言・目近籠骨>

と収載されている。この「気さくな人」ということばそのものが、とんと耳に聞こえてこなくなっているようだ。

1999年5月3日(月)晴れ。新宿(伊豆踊り子号)→八王子

 そよ風に 運び運ばれ 大都会

「恰好」の「恰」字

 室町時代の禪籍抄物である川僧慧濟講述の『人天眼目抄』に、

偸光〓〔日+之〕如何。匡衡ノ事ヲバ什广ガ問ワラウズゾ。借我ガ見処ヲ問タゾ。眼ヲ開テ彼ノ久遠ノ光明ヲ、コナタヘ、偸ダゾ。壁ヲ鑿テ、小ナル穴ニハ小キニ。大ナル穴ニハ大ニ。円キ穴ニハ円ク、方ナル穴ニハ方ニ恰好相應シタゾ。字註ニ用心也。又適當也。辞也。適當ハ恰好相應也。用心ト云ハ字ハ立-心辺ニ合ノ字ヲ畫タ程ニ心ニ合ウ也。<足利學校遺蹟図書館藏本八O〜九C>

鑿壁偸光時如何。匡衡カ事ヲハ什广カ問ヲウスソ。借事シタソ。我見処ヲ問タソ。眼ヲ開テ彼久遠ノ光明ヲ、此ヘ偸タソ。壁ヲ鑿テ、小ナル穴ニハ小。大ナル穴ニハ大ニ。圓キ穴ニハ圓ク、方ナル穴ニハ方ニ、恰好相応シタソ。字ノ註ニ用心也。又適當。シヌル辞世。適當恰好相応也。用心ト云ハ字ハ立心辺ニ合ノ字ヲ畫タ程ニ心ニ合フ也。<松ヶ岡文庫所藏79D>

ム∨時如何。師云、程用心也。立心ヘンニ合ト説文合(カナフ)説文用心也。又適當之辞匡衡鑿壁ヲハ何カ問(トワウス)。借(カツタソ)事此光明大小長短方圓穴廣サセハサニ隨カウタソ。四方ナニハ四方ニ、圓ニハ圓ク、長ニワ長ク問承ル。ルコトレハ即業障本来空ナリ。<東京大學史料編纂所藏本>

とある。以前、「潅」の字について記述した折、この『字注』なるものがどのような字書を指すのか考えて見たことがった。松が岡文庫藏本と足利藏本とは同じく『字注』と表示する。そして東大史料編纂所本は、これを『説文』と明記していることで、ここで云う『字注』は、『説文解字』であることがこれで理会できた。これを『説文解字』で直接検証する作業が残っているが、もしかすれば、既にこの検証報告は、『人天眼目抄』の研究成果として公表され、知られていることかも知れない。だが、その手の研究書を未読にしている怠惰については今はお許し戴きたい。これをお読みになって、ご存知であればお知らせ願えれば幸いである。手許に『説文解字』がないため、『略類字』による孫引きとする。

恰 字乞洽切音〓〔手-滔〕(カフ)。[文]ル∨也。又恰-恰[杜甫詩]自在ナル嬌鶯恰-恰トシテ又適當之辭[杜甫詩]野航恰兩-三-人

とある。きっちりいっていないので、再度確認が必要となる。

 さて、兎にも角にも、足利本『字注』説明は、「用心也。又適當也。辞也。適當ハ恰好相應也。用心ト云ハ字ハ立-心辺ニ合ノ字ヲ畫タ程ニ心ニ合ウ也。」と詳しい。これに対し、東大史本は、「程用心也。立心ヘンニ合ト説文合(カナフ)説文用心也。」として、「適當」の意が解説されずにある。講述聞書きにおける解字に対する関心度合いに差があるようだ。

1999年5月2日(日)晴れ。南伊豆(河津)

菖蒲花 見ごろ間近に 出番待ち

「大様」の読み

 この熟語の読みに着目したい。「おおさま」「おおざま」であれば、和語読み。「おおヨウ」と読めば混種読み、「ダイヨウ」「タイヨウ」と読めば字音読みとなる。さてみなさん、次の学研『国語大辞典』用例文をどう読みますか?

◆ポチは大様だから、余処(ヨソ)の犬が自分の食器へ首を突込(ツツコ)んだとて、怒らない〔二葉亭四迷・平凡〕

◆一本の綱が垂れさがっていて、風に大様に揺れている〔武田麟太郎・日本三文オペラ〕

そこで、時代を遡ってこの「大様」の用例を見ると、鎌倉時代の軍記物語『平家物語』巻第一・清水炎上に、

「重盛(シゲモリノ)卿はゆゝしく大様(オホヤウ)なるものかな」とぞ、父(チヽ)の卿(キヤウ)ものたまひける。<新大系上・36K> 脚注:「大様」は落着いて心が広く、細かな事にこだわらないこと。

と形容動詞〔ナリ活用〕の「ゆったりと落着いている」意の用例が見える。『太平記』にも、

「げにもこの勢にては、たやすくこそ」と、六波羅を見下ろしける山法師の、心の程を思へば、大様(オホヤウ)ながらも理(コトワリ)なり。<巻第八・山徒京都に寄する事、大系一258F>

頭注:おおまかであるが尤もだ。

その日、やがて追ひてばし寄せたらば、義貞、ここにて討たれ給ふべかりしを、今は敵、何程の事かあるべき、新田をば定めて武蔵・上野の者どもが討つて出ださんずらんと、大様(オホヤウ)に頼みて時を移す。<巻第十・新田義貞謀叛の事天狗越後勢を催す事、大系一327C>

頭注:おおまかに頼りにして。

と意味は現代語にいう「おおまかに」の意の用例が見える。また、吉田兼好の随筆烏丸本『徒然草』第五十九段に、

おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期(イチゴ)は過ぐめる。

と仮名書き、副詞として、「おおよそ。だいたい」の意味の例が見える。

さらに、室町時代の古辞書易林本『節用集』に、

大旨(オホム子)―樣(ヤウ)。―勢(ぜイ)。―方(カタ)。―事(コト)<言辞127@>

と「大旨」の注記語にして収載する。この注記のなかには、「大方」のように、これとは別にして、先見出し項目に「大方(―カタ)」<言辞126B>とあるが、他の注記語は重複しない。この上記の読みをもってすれば、「おおヨウ」という混種語読みとなる。「おおざま」「タイヤウ」などの読みは見えない。そして、類意音漢語「鷹揚(オウヤウ)」は、易林本には登載されていない。だが、同時代の広本『節用集』には、

鷹揚(ヲウヤウ/ヨウ―。タカ、アガル) <(ヲ)部227E>

と「ヲウヤウ」と「ヨウヤウ」の両音の読みが見え、逆に「大様」の語を見ない。邦訳『日葡辞書』に、

Vo>yo<na.ヲゥヤゥナ(大様な)物事に力も入れず、いそしみ励みもしない(人)。または、こまごました個々の事には構わないけれども、大きな事やもっと全般的な事には手をつける(人)。<728r>

+Vo>yo<ni.ヲゥヤゥニ(大様に) 副詞.なおざりに、ゆったりと。<728r>

と見え、すでに意味は好悪二通りに分かれ、用いられていることが知られる。降って江戸時代の『書字考節用集』にも、

鷹揚(アウヤウ)[毛詩註]如―之飛揚シテ而將ニ・シント也。<巻九22オB>

と、開音「アウ」で表記された「アウヤウ」の収載が見られ、逆に「大様」の語は未収載にある。因みに「鷹」の字音だが、呉音「オウ」、漢音「ヨウ」である。『詩経』では、漢音で「ヨウヨウ」と読む。

明治時代の大槻文彦編『大言海』は、

おほやう(名)【大樣】心(ココロ)、動止(フルマヒ)ノ、寛(ユルヤカ)ニシテ、物ニ拘ハラズ迫ラザルコト。従容

おほやう(副)【大樣】オホヨソ。オホカタ。大抵

と、「大樣」の語を収載するだけで、も一方の「鷹揚」の語は、敢えて未収載にする。

この「大様」と「鷹揚」両語の連関状況は、まだ混沌としていて近代已後の国語辞書にならねば明らかにならないようである。学研『国語大辞典』の用例文に、

◆岡部はうち解けた鷹揚な態度で、如才なく絶えず喋りつづけていた〔井上靖・闘牛〕

◆紬(ツムギ)の角通しの懐(フトコロ)を鷹揚にふくらませて、〔芥川竜之介・枯野抄〕

とある。そして、両語の意味説明は、

おうよう【鷹揚】《形容動詞》〔ゆうゆうと大空を飛ぶ鷹(タカ)のように〕小さなことにこだわらず、ゆったりしているようす。こせこせせず、おっとりとして上品なようす。大様(オオヨウ)

おおよう【大様】《形容動詞》〔性格・態度・動作などが〕ゆったりとして落ちつきがあるようす。鷹揚(オウヨウ)。《類義語》悠長(ユウチョウ)。《文語形》《形容動詞ナリ活用》《副詞》大体。およそ。「世の中とは大様そんなもんだ」

とあって、現代の知識人は、この両語の「おおよう【大様】」と「おうよう【鷹揚】」との表記と意味を今後どう取り扱うのかを眺めていかねばなるまい。それは、国語辞典の編集指針がよく見えてくることばであることの証でもある。

[ことばの実際]

壬生狂言はパントマイムだから、見物が納得するまで同じ仕草をくり返してみせるが、その仕草がなんともいえず鷹揚で屈託がなく、浮世の時間など超越しているのが面白い。<白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』「壬生狂言」83L新潮社刊、平成元年2月>

1999年5月1日(土)晴れ。南伊豆(河津)

島影は 海原先波 眼に映える

「一月物語」の用字

 平野啓一郎さんの芥川賞受賞後、第一弾作品『一月物語』(新潮社刊)を読んだ。主人公井原真拆(まさき)の名は、父親が能好きであることから、金春禪竹の謡曲「定家」に因み、その“定家葛”の古称である “真拆の葛”から名づけられたと主人公の口から説明されている。古風な名もさることながら、時代背景を明治三十年に設定していること。さらに舞台を奈良県十津川地方(往仙岳)におくことが特徴である。この時代のはじめに、寺院にあっては「廃仏毀釈」という日本国全体を揺り動かす大きな事件が勃発した。この作品にもこの事後の影響下にある僧侶円祐と主人公真拆とが関わる形態でうっすらと綴られている。内容は、泉鏡花の作風を思わせるが如く、一匹の「鴉揚葉(からすあげは)胡蝶」が主人公の眼前に突如どこともなく顕われ、この世の真実の出来事とは思えない怪異譚を漂わせている。それは、後半部での宿の女将が主人公真拆に語り出す部分から話しの脈絡が明白となると同時に急展開する。この文体は作者独特の典雅な風景描写とはまた異なり、ことばの織りなす自由さの妙味を感じさせている。

 作品中、特に着目したいのは、『日蝕』同様、漢字の用字法がある。現代語表現にない古風典雅な漢語と和語によることばの響きがここでも心地よく生きづいているからだ。

漢語:行脚(アンギヤ)46L・47G・136@。雲霞(ウンカ)64E。鶴頸(かくけい)66E。盥漱(カンソウ)50L。眼窩(ガンカ)4L・65@・110D・116C・155I・157D。寒竹(カンチク)51L。疑懼(ギク)21E。穹蓋(キユウガイ)27C・29K。黄金(キン)66M。闃寂(ゲキセキ)96I。顕証(ケソウ)76F。臉際(ケンサイ)8M。妍姿(ケンシ)66K。見毒(ケンドク)132J・135M・140J。眩瞑(ゲンメイ)157H。細鱗(サイリン)25H。紫石(シセキ)82C。耳朶(ジダ)52@・85G・94B。醜穢(シユウワイ)35D。首服(シユフク)162I。漿果(シヨウカ)91L。饒談(ジヨウダン)12C・13@・18J・118BC・153@。燭涙(シヨクルイ)130F。深潭(シンタン)78J。岑中(シンチユウ)74@。雪眉(セツビ)44K。雪膚(せつぷ)66C。〓〔目+炎〕光(センコウ)90K。繊指(センシ)49@。草棘(ソウキヨク)148D。足趾(ソクシ)64C。作家(そけ)107M。虫豸(チユウチ)25C。頭蓋(トウガイ)85M。濤瀾(トウラン)164M。白布(ハクフ)124A。無聊(ブリヨウ)50F・57H・74K。鳴声(メイセイ)63D。囹圄(レイギヨ)83I。

哀咽101E・162J。雲烟71A。恢復49J・58B・63@。急湍78I。狂疾76I。怯怖87F・96B。頸領95I。月彩77L・89D。恍惚107E。昂揚36E・39H。残滓171B。漆K151I。思弁55EF。宿痾36B。唇頭69K。須臾40J。障碍77I。饒舌48G。殉情36M。焦燥161L。熾烈149K。睡郷88K。趨勢45G。刹那111B・130C・149L・150A・160J・162G・166I・172M。沈潜39J。枕頭106F・144G。厨房47G。稠林160F。凋落161H・171H。癲癇109B。莫迦32F。白皙95I・148M。鼻梁110D・116C・156J・157@。憫察108E。複視50F。法悦52L・94K。貌容35H・40@。眩暈29D・89E・149D・152@・161J。幽深107H。螺鈿90D。涼意114A。緑条90E。緑髪66C・97B。憐憫68C・92E・98I。蝋燭48L・87@・146H。話頭44L。

嗚咽し167K。恢復す38B、――し43E・63J。豁然大悟(カツゼンタイゴ)し47E。緩頬(カンキヨウ)し33H・113@。激昂し81H・99C。凝固し36F。解顔する63B。還俗(ゲンゾク)し46J。溷濁する155E。折伏(シヤクブク)する82E。収斂(シユウレン)し157L。深秘さ55D。大悟却迷し59G。治癒し105D。滌蕩(デキトウ)し78I。抱擁し49@。逢著し70I。麻痺し158A。名状し71M。羸痩(ルイソウ)し158G。冷笑し67H

哀婉(アイエン)な67M・99J。奇妙な65D・74F・79D・115B。激甚な149B。怪訝(ケゲン)な61I。酷薄な93K。饒長な38K。清爽な115M。芳烈な(76G)。妖麗な156K。

鬱々と151L。鬱勃(ウツボツ)と5B。綺羅(キラ)々々と30K。綺羅(キラ)と97A。炯炯と74D、――たる156K。闃(ゲキ)と90L。〓〔水+玄〕々(ゲンゲン)と156M。皎々(コウコウ)と64E。恍惚と76L・89F。忽焉と67F・76K。粲然と58A。〓〔馬+聚〕然と69K。〓(心+愁)然と。畳々と71A。切々(せツせツ)と162I。閃々と101G。潺々(センセン)と38M。〓〔水+宗〕々と128C。卒然と151F。恬淡と80G。恬然と59F。漠然と63G。謐々と101E。飄然(ヒヨウゼン)と46L。頻々(ヒンピン)と160K。呆然と151G。慄然と104J。淋漓(リンリ)と29F。玲々と172H。瀲〓〔水+艶〕(レンエン)と168@。琅々と29J。朧々(ロウロウ)と48H。

炯々たる29@。〓〔火+習〕〓〔火-擢〕(シユウヨウ)たる157I。蒼然たる171B。的〓〔白+樂〕(テキレキ)たる171J。恬淡たる41@。

悉皆(シツカイ)69M・150B。畢竟37B・47E・60D・74K・84E・104H・107A。普段72H・119A。

和語:顎(あぎと)49@・95I・172D。蹠(あしうら)25M・96K。朝(あした)87I・102E。肋(あばら)109@。現(うつつ)67F・76G・79M・94@・104J・106F・109A・110L・112C・128C・152K・166@。頤(おとがい)66E。俤(おもかげ)161E。腕(かいな)67D。痂(かさぶた)77F。渠(かれ) 12E・35FM・36B・40@・47AB・52I・53B・56E・59K・60@B・64B・67@・69K・83E・106@。疵53B。煌めき67@。踵(くびす)26D・75L。嚏(くしやみ)172I。踝(くるぶし)25E・29C。頭(こうべ)25@・40K・67B・86M・93A・162F。曩(さき)17M。黙(しじま)29J。液(しる) 28B。渾(すべ)て85@・103B・150E。背(せな)28L・55G・65L・66L・94A・96A。穹(そら)58J・64D・75K・78A・89I・96I・147F・158M・171@。宙(そら)103HH。昂まり67H。彳(たたず)まい22G・92@。掌(たなそこ)14M・22H・27E・28A・40E・64L・85F・116C・152D・156G・168A。唾(つばき)148G。滑(ぬめ)り29E。儚(はかな)さ68@。翅(はね)95L・147M・157L・159K。〓〔桑+頁〕(ひたい)29A・40E・64L・96B・108K・114@・115L・116C・124A・141K・143A・158A。睛(ひとみ)22F・67@・110D・147G・149F・150F・152F・156M・157J・168F・169L。解(ほど)け159B。睫(まつげ)156I。眼(まなこ)156K。翠(みどり)156J。豸(むし)28A・74C。簇(むらがり)69M。予(よろこ)び50H。悦び76J。

赤酸醤(あかかがち) 28G・74D。許多103C。生簀(いけす)69M。細小波(いさらなみ)65@。大風(おおぶり)90I。蝸牛75L。渠(かれ)等9K・47JL・105G。海月(くらげ)168C。怪我77E。顳〓〔需+頁〕(こめかみ)168F。細波(さざれなみ)34M。為打ち93K。為草(しぐさ)48G・61M。死出の田長59A。飛沫(しぶき)90H・166I。為業(しわざ)145J。隙風(すきかぜ)48L。雀色時(すずめいろどき)50G。添水(そうず)143F。食物(たべもん)137M・138I。躊躇(ためらい)9A、―がち66L・93G。〓〔手+黨〕網(たも)69M。土塊(つちくれ)163F。躑躅(つつじ)50@・90E。爪弾(つまはじき)26I。徒然(つれづれ)106@。栃餅117K。蜻蛉(とんぼ)152M。秘めごと121C。夕影鳥(ほととぎす)5F・26@・29J・58KM・74A・85C・124D・168E・172E。睫毛172H。円髷(まるまげ)115D。水恋鳥(みずこいどり)51B・129E・150M・152A・171B。水面(みなも)66J・90H。見目形62H。目眩(めまい)40G。〓〔鼠+晏〕鼠(もぐら)103HI。物憂気64L・144L。夕間暮(ゆうまぐれ)106J。態々(わざわざ)137J。

宛(あてが)っ155I。洒(あら)う34M。滌(あら)っ64C。癒え77A・80L・81AI。応(いら)え17H・43C。魘(うな)さ33E。〓〔赤+色〕(かがや)く74D。暉(かがや)く77L。煌めい28M・158C・172H、―めき155G・156J・166I。誤魔化し130I、―――す138M。瀝(したた)っ29F・147G、―る96I。啜る42G。〓〔水+前〕(そそ)い78I。雪(そそ)がれ76F。瀉(そそ)ぐ78G、―い96A。欹(そばだ)てる93@。濡(そぼ)つる67C。滾(たぎ)ら36F。慥(たし)かめる39L。彳ん172B。嬉(たの)しん90F。愉ん67I。羅(つら)なる162I。達(とど)く66C、―か86E。擬(なぞら)え106K。開(はだ)け110E・148D。弄(まさぐ)り29H。齎(もたら)さ26K、―す79J。須(もち)い36A。歇(や)ま77@。〓〔心-擇〕(よろこ)ぶ77H。説(よろこ)ん16B。蟠(わだかま)っ72G。

周章(あわ)て28B・32E・123M。勾引(かどわ)かさ125L。彷徨(さまよ)っ24E・72@。躊躇(ためら)い20C・40J・41D、――う115L。揺蕩(たゆと)う66J・116@。蹌踉(よろめ)き89E。

為方なく30L。雄々しく75K。甲斐々々しく106@。蒙(くら)い107M。冥(くら)い170EE。皙(しろ)い116J、―かっ119C。〓〔白+豈〕い141K。止処(とめど)なく152B。生々しい93M。儚い107C、―く123C。

偸閑(あからさま)な10A。きらびやかな74I。生利(なまぎき)な44G。

徒(いたずら)に71L・106J・167E。切切(きれぎれ)に65F。けざやかに65D。宛(さなが)らに93B。明(さや)か66A・73@・79@・147G。慥かに108B・150F・151A・153G・169C。径(ただ)ちに162F。備(つぶさ)に72M。私(ひそ)かに147I。頓(ひたぶる)に148C。

態(わざ)と69M・116E。

洋語:愛蘭(アイルランド)27AK・28D。悪魔(サタン)35B。衣服(ドレス)8E。歩廊(フオオム)9EJ。

混種語:一斉(イチどき)94D・103C・157G・171E。薄雪草(うすゆきソウ)171H。逢魔(おうマ)が時5B。為事ぶり38G。癲癇持ち109H。

複合動詞:滌(あら)い流し35D。玲瓏(てりかがや)い66A・155C。溶けさし64D。生々し過ぎる74E。寝過(ねすぐ)し19J。降り濺(そそ)ぐ90C。減(め)り込む85G。

接続語:所謂49L。糅(か)て加えて19G。そこはかと48H。兎に角24H・31D・77C・119D・131C・145I・151J・153F。就中(なかんずく)35M。

副用語:屹度(きつと)21I。渾(すべ)て22B・38F。径(ただ)ちに46G。奈何(いか)なる36L・52J・99A・162B。少(しばら)く136K。若干(そこばく)59G・76H・114A。仍(なお)63G・74@・153H。尚更62@・139@・140@。

畳語:各〃83H・152M。愈〃39M・84H・111L・123B・126B・133G。屡〃39D・106I。抑〃53K・60I・133E・134K・145B。偶〃120C・139M。益〃68C・74F・76F・88I・106EF。109A。148D。

句熟語:荒療治136G。御布施82@。後遺症79J。睡眠薬106C。盲滅法37I。冷血漢62L。

浦島伝説74H。懐中時計72I。月下美人144J。自嘲気味115D。寂滅為楽(ジヤクメツイラク)53F。聖胎長養(シヨウタイチヨウヨウ)46L。神経衰弱39DM。水生動物34L。雪花石膏95J。族長制度53E。人間不信59M。廃仏毀釈45I・46A・117F・136@・137J。眉目秀麗35A。民権運動37H。

   慣用句:正鵠を得た38I。

 次にことば表現で言えば、「わらう」と「えむ」の表記形態が着目されよう。

「わらう」の表記と表現

次々と話頭を転じては、時折自分の云った饒談(じようだん)にからからと珂(わら)ってみせる。<12C>

真拆は、親類の中(うち)に発狂した者があって、幾度か渠を癲狂院に見舞っているので、精神に異常を来した者が?〃無意味な乾いた珂(わら)いを発するのをよく知っている。<12E>

また独り声高に珂うと、「吉野は諦めなァれ。あんたはわしと熊野様に詣でるんじゃ。」と云った。

真拆は一応こう対(こた)えた。そして、自然と、哂(わら)いが込み上げてきた。<20L>

「―俺は女を愛しているのか?」 この時、殆ど無意識に籠めた自嘲の響きが、辛うじて真拆を救った。そして、それに縋って今度は故意に嗤ってみせた。<83M>

女将は不思議そうな顔をして振り返った。そして、「はァ、」と曖昧に笑ってみせた。<129K>

「えみ」の表記と表現

「……あら、桜が散ってしまっても、吉野は綺麗なところですわ。」 こう云って莞爾(にっこり)と打笑(うちえ)んだのは、日傘を傾け傍らの母親らしき者の顔を覗く、三十路手前の女であった。<8A>

その様子を見ていた僧は、優しく打笑んで、「構いませぬ。御好きなように。」と云った。<41E>

真拆が打笑むのは、ただに傷の恢復を喜ぶ為のみではなかった。<58B>

老爺はやはり薄(うつす)らと笑みを湛えて、熟(じつ)と真拆の顔を目守(まも)っている。<13M>

云うと等しく、真拆には蝶を追いかけていた時の自身の姿が思い出されて、溜息ともつかぬ苦い笑みを禁じ得なかった。<33D>

女将はこう云うと、形の崩れた円髷(まるまげ)に手を当てながら、やや自嘲気味に微笑んだ。<115D>

女将はまた少し微笑んでみせた後に、躊躇うような気色で、真拆の〓〔桑+頁〕の手拭を取り、さして温もってもいないそれを冷水の中に浸した。<115L>

女将は、その最後の部分を半ば独り言のように呟くと、深い溜息を漏らした。そして変らず、笑みともつかぬような哀々たる表情を湛えてこう云った。<140C>

と「わらう」の意味による文字使いが見て取れよう。「えむ」表情にも何やらもどかしみが漂っている。

  

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