[6月1日〜日々更新]

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1999年6月30日(水)雨模様。八王子⇒世田谷駒沢

梅雨寒に くぐもる窓辺 室の外

「やどる【宿・次・舎】」

 室町時代の古辞書である、京都女子大学所蔵『節用集』(零写本)に、

宿(ヤドル) (同) (同)一夜ヲ曰宿。二夜ヲ曰次。三夜曰舎也<也部・言行C>

とある。いずれも「やどる」という言行を表現しているのだが、用字によって意味が異なることを示しているのである。一夜、二夜、三夜は、今で言えば、一泊、二泊、三泊ということであるからして、同じ場所に一泊することを「宿り」と書き、二泊することを「次り」と書き、三泊することを「舎り」と書くというのである。これ以上は、長期滞在するというふうに考えてか用字法は見えていない。

 さて、日記記録類などにこの識字表現がなされているのだろうかとまず氣になるところでもある。他所に泊まることを、和語動詞で、「やどる」と云う。明治時代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、

やど・る・ル・レ・ラ・リ・レ(自動、四) 【宿】〔宿(やど)を活用す、或は云ふ、宿入る、の略と〕(一){宿として居る。とどまる。夜、泊る。旅にて、寢ぬ。*字類抄「次、ヤトル、宿、舎、寓、已上同」*萬葉集、九10「白鳥の、鷺坂山の、松かげに、宿而(やどりて)行かな、夜もふけゆくを」(二)とまる。居る。*古今集、十五、戀「あひにあひて、物思ふ頃の、我袖に、宿る月さへ、ぬるる顔なる」(三)星、其座に移り居る。星次(四)孕(はら)む。みもちになる。孕「兒宿る」胤宿る」<4-0678-2>

とあって、類義語動詞に「居(ゐ)る、留(とど)まる、泊(とま)る、寝(い)ぬ」があり、ここで取り上げた識字表現は(一)の意味に限ってのこととなる。そして、引用例の一つである古辞書『伊呂波字類抄』巻六では、

ヤトル。三宿曰― 宿亦作宿    舎陰            已上同<533@〜E>

と「次」を先頭にして「宿、舎」そして「寓」の字をも「やどる」の意としているのに気づく。語注は見えないが、この字が四日以上の「長期滞在」の用字であることを暗示しているようである。

ここでたとえば、『源氏物語』に見える、

かりにても、宿れる住ひのほどを思ふに、「これこそ、かの人の定め、あなづりし下の品ならめ。その中に、思ひの外にをかしきこともあらば」など、思すなりけり。<夕顔>*影印本は「やとれる」と仮名表記

と「宿」の用字で表記されている例は、“一夜のやどり”を示唆していることになるのである。しかし、他の「やどる」の用字がこの作品中に見えないことからして、かな表記の文学において、この用字法が活用されるかは原本書写者の識字用法をまず見据えねばなるまい。また、辞書編纂者の識字用法意識がどういった資料に基づいているのかを探求することも今後の課題としておきたい。

1999年6月29日(火)曇りのち小雨模様。八王子

止み曇り 何時となく降り来 干し仕舞ひ

「雜地(ざうぢ)」

 室町時代の古辞書である、『下学集』に、

雜地(ザウヂ)<家屋54E>、

と見出し語のみであるのに対し、文明本『節用集』黒本本『節用集』『伊京集』京都女子大学所蔵『節用集』(零写本)には語注があって、

雜地(ザウヂ) 置塩噌処也。或作浄地之字。義尤好<左部天地A>

といった語注が見える。同じく易林本『節用集』には、やはり語注はなくして、ただ、

雜屋(ザフヤ) ―地(ヂ)<左部乾坤176A>

とする。この語注で「雜地」なる語が「塩噌を置く処なり」ということと、或作に「淨地」と表記するのが尤も好いといった二点が示されている。ここでいう「塩噌」だが、易林本には、別項目の見出しに「塩酢(エンソ)」と表記されている。かたや、「塩と味噌」、かたや、「塩と酢」であるのだが、これは調味料としていずれもなくてはならない味付けの品々である。寺院などでこうした調味料を貯蔵して置くところを「雜地」と呼称したのであろう。この語も禪籍用語として、この時代に限ってはよく用いられたのだが、江戸時代以降はすっかり用いられなくなっていったようだ。調味料の貯蔵方法やその状態が様変りしてきたことにその原因が由来するのであろうか?明治時代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』では、この語を未収載としている。

1999年6月28日(月)曇り。八王子⇒世田谷駒沢

青々と 雲隠れ月 一走り

「高感度」

 この三字熟語のことばは、いつどのようにして誕生したのだろうか。ナショナル製の新型ラジオの広告文に、「高感度」ということばが見えるのが最初であったのだというのである。その広告文がどのようなものであったかは定かでない。そして、これは英語の“High sensitivity”の翻訳語であるようだ。たとえば、「High-Sensitivity Searches for Radio Pulsars」といった表現を「高感度受信ラジオ」と翻訳するものであり、この「高感度」なる語がいつごろから日本語として用いられたのかを知る手掛りとなっているのである。現在のパナソニック広告文においても、「山間部や高層ビルの谷間などでも感度良好。高感度ラジオ」とある。

さらに近年では、

キャッチコピーは“高感度でオシャレな女性のためのライフスタイルマガジン”。ページタイトルはShibuya(渋谷)とNY(ニューヨーク)の略で、二都市のファッション、音楽、アートなどの情報が満載。<Sbny>

といったような新種な表現が用いられてきているようだ。

1999年6月27日(日)雨。八王子⇒世田谷駒沢

愛猫や 駒という名に 時を打ち

「くろごま【黒駒】」

 明治時代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、

くろごま(名)【K駒】くろうまに同じ。<2-0087-3>

くろうま(名)【K馬】K毛の馬。くろま。くろごま。*保元物語、一、官軍方方手分事、平基盛「K馬に、K鞍置てぞ乗たりける」*萬葉集、十三23「ぬばたまの、K馬(くろま)に乗りて」*雄略紀、十三年九月「ぬばたまの、甲斐の矩慮古磨(くろこま)、鞍着せば」<2-0086-1>

とある。この「黒駒」だが、第三拍の濁音表記がいつごろから始まっているのかを確認し、さらに「黒駒」に関わる話しを少しく紹介したい。

室町時代の古辞書である、京都女子大学所蔵『節用集』(零写本)に、

烏馬(クロゴマ)聖徳太子之御馬也。甲斐国ヨリ出<久部・畜類オB>

とある。この読みは「くろごま」となっている。そして、注語釈は、当代の説話譚として隆盛をみていた“聖徳太子”説話に依拠している。“黒駒”と“聖徳太子”との接点である。この両者が出合うことによってある種の神秘性を増しているとも云えよう。事実、鎌倉時代の百科辞書ともいう『塵袋』巻第四に、

一 黒駒ト云フハ聖徳太子ノ御馬甲斐ノ黒駒ノ外ハナキ歟。黒キ馬ヲハ黒駒ト云ハムカ、ナキ歟如何。名(ナ)物ニ混乱スレハ、クロキコマナレト、クロコマトハ云ハス。但シカヒノクロコマト云フ事ハ太子ノ御馬ナラネトモ、昔モアリケリ。雄(イウ)略天皇ノ御宇十三年秋九月韋那部(傍注:姓名也。今ハ猪名部)真根ト云フタクミ、石ヲアテニシテ手(テ)ヲノウチヲシケリ。日クラシ、ウチケレトモ、石ニ手(テ)ヲノヽハヲアテス。目出クウチケルヲ天皇御覧シテ、イカナリトモウチハツスマシキト問ハせ給ケルニ、アヤマリアルマシト申シケルヲ天皇サリトモ、アヤマリテムモノヲトヤオホシメシケン。釆女トモヲ、ハタカニナシテ、タウサキ、カヽせテ、スマヒヲトラセラレケルニ、此ノ真根コレヲミテ心ソラニナリニケルホトニ、ウチハツシテケリ。天皇アヤマツマシト申テ、ウチハツシツルハ、タヽシカラス。トカアリト、ノ給テ真根ヲコロサンカタメニ、野ヘツカハシツ。カタヘノタクミ、コレソニタエス手アハレミ哥ソヨミケリ。

アタラシキ 井ナヘノタクミ カケシスミナワ シカナケハ タレカヽケムヨ アタラスナリ

シカナケハトハソレカシカナカラムニハト云フナリ。天皇コレヲキコシメシテ、クヤシクオホシメシケレハ、御使ヲカヒノ黒駒ニノセテ、トヽメニ、ツカハス。ステニ、キラントスル所ニユキテ、トヽムルヨシ、オホセケレハ、ツナトキ、ユルシテカヘリマイレリ。タクミコレヲミテ、哥ヲヨム。

   ヌハタマノ カヒノクロコマ クラキセハ イノチノシナマシ カイヒノクロコマ(異本ニハイシカスアラマシ)

クラキトハ、鞍置(クラヲキ)せハト云フナラム。ハタセニテトリアエスハセケルニコソ、クラヲカハヲソクナリテ、トヽムル御使ノコヌサキニシナマシト云フナリ。

異説ニイシカスアラマシト云フハ、息モツカスソ。アラマシト云フナリ。イケル物ハイキヲ命トスル故ヘナリ。

甲斐國ノマキヨリKキ馬ノホリタラムハ太子ノ御馬ナラストモ甲斐ノ黒駒ト云ハン事カタカルマシケレハニヤ。

といったように、『日本書紀』雄略紀の記事を引用して、ただの「黒駒(くろこま)」ではなく、常に、「甲斐の黒駒」と表現されていること。そして、聖徳太子に献上された駿馬以外に、雄略紀の一説話がここに引用紹介されていることにある。ここでは、“聖徳太子の黒駒”については、何一つ語られずじまいにある。逆にいえば、語らずともよいくらい既に流布している内容であった話しか、または、然程ここに取り上げるほどでもない話しと判断したかである。その話しの内容は、『今昔物語集』巻第十一の聖徳太子於此朝始弘佛法語第一に、

亦、太子、甲斐ノ国ヨリ奉レルKキ小馬ノ四ノ足白キ有リ、其レニ乗テ、空ニ昇テ雲ニ入テ東ヲ指テ去給ヌ。[調]使丸ト云フ者、御馬ノ右ニ副テ同ク昇ヌ。諸ノ人、是ヲ見テ、空ヲ仰テ見〓(口+皇(ノノシ)ル事无限シ。太子、信濃ノ國ニ至給テ、御輿ノ堺を廻テ三日ヲ經テ還給ヘリ。<大系三55F>*この後に『三宝絵詞』中1にも所載の「聖徳太子とその妃は、同日に死去した。その日、太子の黒駒は草水を口にせず、太子の墓まで行って一度いななき、倒れ死んだ。また、太子がかつて衡山より持って来た経も、その日消え失せたという話しもある。

とあって、甲斐国から漆黒の駿馬が太子に献上され、この名を「黒駒」といい、舎人調仕麿(太子傳私記)に命じてこの馬を調教させ、神馬として太子を乗せると空を自在に飛びまわり、信濃まで行ってその御伴ができるのは舎人調仕麿(つきのつかいのまろ)ただ一人だけだったという話しである。京都女子大学藏『節用集』は、この馬のことを引くのであり、表記を「烏馬」とし、これに振り仮名をして「くろごま」と読むことが示されているのである。

 逆に、この『塵袋』が“甲斐の黒駒”といえば、聖徳太子の御馬と一般は言いがちであるが、これ以外にも雄略紀の話しがあることをここで示唆しており、その引用する雄略紀の“黒駒”説話の典拠名は示していないが、『日本書紀』雄略紀十三年九月の記事である。これについても、『塵袋』の編者が再度読み起したものなのか、それとも当代の有識者であれば、よく熟知していたものか、当時の他文献資料からの引用状況を探りながら、どのように流布伝承されてきたものかについて今後新たに考えねばなるまい。他に“黒駒”のことは、平安時代の『源氏物語』中にも、

さるべき都の苞など、由あるさまにてあり。主人の君、かくかたじけなき御送りにとて、黒駒たてまつりたまふ。<須磨>

と広義で見えている。さらに、鎌倉時代以降とりわけ武士が騎乗する時代になると、この“黒駒”はどう表現さているのかであるが、『夫木和歌集』藤原俊成の歌に、

小笠原焼け野のすすきつのぐめばすぐろにまがふ甲斐の黒駒

と、これも広義で見えている。やや降って、『太平記』巻第二十九、小清水合戦の事付けたり瑞夢の事に、

右は天王寺の聖徳太子、甲斐(カヒ)の黒駒(クロコマ)に白鞍置きて召されたり。<大系三132K>

と見えていることからも、“甲斐の黒駒”といえば、“聖徳太子”の上記話しというまでに狭義で見ていてこの話しが顕著であったことがここに知られよう。

[補足資料]

甲斐駒 一条。故尓。駒トハ四歳マテヲ云也。〔『庭訓徃來註』四月十一日の状、謙堂文庫藏29右G〕

1999年6月26日(土)雨止み。八王子⇒品川

雨止みの 庭に紫陽花 小鳥鳴く

「ことだま」

 朝日新聞連載小説本日分に、高樹のぶ子『百年の預言』(第324回冬の炎(4))に、「ことだま」を表現した文章が掲載されている。

 言葉は兌換(だかん)紙幣と同じ、裏付けとなる実体があって初めて価値がある。 そうだろうか。好きでもないのに好きだと言ったあとで、好きになることはないのだろうか。 アンニュイ、という言葉が無いところにアンニュイな情態など存在せず、はんなり、が京都の言葉なら、はんなりは京都にしかない情緒ではないのか。 言葉は独立して、ひとり歩きをする。魔力でもって事態を動かす。  そうだろうか。またまた、そうだろうか、の疑問だ。ならば辞書は神を、宇宙を、支配しなくてはならないはず。昼寝の枕(まくら)にでもしようものなら、夢の中で脳細胞は粉々にされかねない。  やはり言葉は言葉でしかないのだ。  ただ、口から出したとたん思いがけない効果を生み、口から出した本人を、あれよあれよという間に何か決定的な場所に立たせることがあるという事実、そしてそのとき、言葉の力は全開し、当人に途方もない幸福をもたらしたり、災難をふっかけたりもするものだということを、忘れるわけにはいかないだろう。  ことだま、という美しい日本語も、辞書の中のこの項に納まっているかぎり安全で無害だが、こうして小説の中で使われたときは、作者の思慮と意図を越えて何をしでかすか判ったものではない。だから充子が「マキさんのカラダに触りたい」真賀木が「いいよ、ホテルの部屋に来ない?」と言った揚げ句の出来事については、作者の責任を免じて、すべてはあの会話を支配した、ことだまのせいにして頂きたい。  作者はただ、二人の行動を追いかけて報告するだけなのだから。

というものである。

1999年6月25日(金)小雨。八王子⇒世田谷駒沢

昼下がり 雨も楽しき 音ぞ聞く

「屋根瓦」「瓦屋根」

 六月梅雨時の雨模様の日に、花紫陽花と瓦屋根がしっとりとした映えの美しさを見せることで、和みの風情に包まれるのは私だけではないと思う。

 本邦における屋根瓦は、欽明帝の七(538)年、百濟から伝来した仏教寺院の建築に由来する。『日本書紀』崇峻帝の元(588)年によれば、大和の飛鳥寺を建立するため、百濟から僧・寺工・鑢盤博士・画工そして、瓦博士(瓦師)四人が渡来したという。それまでの本邦における屋根はすべて板葺きであって、瓦が使用されたのは寺院に限られていたようである。これ以前にも、近年の遺構調査が進むに連れ、高句麗から瓦が日本にもたらされていたようであるが、あくまでも輸入品であって、海外の技術者を招いて瓦の製造である窯づくり・粘土の成型・瓦焼き・瓦葺きという工程を現地でとりしきることに意義があったのである。その意味からすれば、瓦そのものが当時いかに貴重な品であったかは言うまでもなかろう。国産瓦の製造は、607年に建立された法隆寺の瓦ということになる。その後、国分寺の設置にともない、瓦づくりは全国規模の広がりを始めるのである。

 ところが、平安時代そして鎌倉時代になると、“瓦葺”はなぜか衰退の一歩を辿るのである。『源氏物語』(二例)に、

御殿の瓦さへ残るまじく吹き散らすに、「かくてものしたまへること」と、かつはのたまふ。<野分>

草むらはさらにもいはず、桧皮、、所々の立蔀、透垣などやうのもの乱りがはし。<野分>

と、瓦の語が見えるが、美しき体様としての「瓦」はここには一例も描かれていないのである。さらに、『今昔物語集』巻第七「震旦幽洲僧、知[ヲン]、造石經蔵納法門語」に、

其ノ時ニ、道俗集リ来テ、其ノ巖ノ前ニ、木ヲ以テ佛ノ堂并ニ食堂・廊ヲ造ラムト為ルニ、其ノ所ニ木・ノ難得キ事ヲ思ヒ歎ク。

といった「得がたいものとしての瓦」の表現が見えている。

 再び、本邦で隆盛を見るのは、室町・桃山時代に入ってからとなる。『太平記』に、

大将げにもとて、人夫を集め、城へ続きたる山の尾を、一文字に掘り切つて見れば、案のごとく土の底に二丈余りの下に、樋を臥せて、あたりに石を畳み、上に真木の瓦を覆ひて、水を十町余りの他よりして懸けたりける。

都府楼の瓦の色、観音寺の鐘の声、聞くに従ひ、見るにつけての御悲しみ、この秋は一人我が身の秋と成れり。

遅々たる鐘鼓始めて長き夜、耿々たる星河明けなんとする天、鴛鴦瓦冷霜の花繁し。

とある。

 室町時代の古辞書易林本『節用集』に、「甎(カハラ)〓〔土+專〕同」<乾坤70A>と記されている。技術革新に伴う品質の向上と相俟って、桃山時代の城郭建築にはなくてはならないものとなる。信長の築いた安土城の“黄金瓦”は、今は跡形もなく廃れているが、眩いまでに思えたものであったに違いない。とはいえ、純国産の工夫の瓦は江戸時代である延宝二(1674)年の西村五郎兵衛の丸瓦と平瓦を一式とした「桟瓦」までまたねばならなかった。庶民生活に屋根瓦が普及するのは徳川吉宗の時代、享保五(1720)年に防火対策としてのお触れが出てからである。

明治時代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、

カハラ(名)【瓦】〔梵語、迦波羅(kapala.)朝鮮語にきわあと云ふも、同語原なるか、崇峻紀元年に、百濟國、寺工(てらたくみ)、瓦博士(かはらはかせ)を獻ずとありて、瓦は、寺に用ゐ始めたり、斎宮の忌詞に、寺を瓦葺と云ふ〕泥土にて造り、瓦竃(かはらがま)に入れて、燻(くす)べ焼きたるもの。屋の上を葺きて、雨露を凌ぎ、或は、地にも敷く、形、種種なり。*字鏡34「甎、甓、加波良」*倭名抄十13「瓦、加波良」。雄(を)瓦、雌(め)瓦、圓(まる)瓦、平(ひら)瓦、鐙瓦、唐(から)草瓦、包(つつみ)瓦、巴瓦、鬼瓦、立瓦、筒瓦、敷瓦、海鼠(なまこ)瓦、等、各條に注す。<1-0668-1>

とある。『大言海』に示されているように、種種の瓦を知ることができる。さらに、この説明に補遺記載をすれば、珍しい瓦としては、「瑠璃色瓦・行基瓦・黄金瓦・日本式スペイン瓦・ジェラール瓦」などが知られている。また、生産地の名を冠した“淡路瓦(いぶし瓦)・三州瓦・石州瓦”とあって、さらに、“藤岡瓦・児玉瓦・深谷瓦・菊間瓦・安田瓦・琉球瓦”などがある。瓦の諺には、「手入れ年々、瓦万年」と言うのがある。

1999年6月24日(木)曇り一時雨夕方晴れ間がのぞく。八王子⇒世田谷駒沢

曇り空 低く飛びゆく 烏かな

「京きな魚」

 昨日の朝日新聞夕刊に、「鯨物語」(日本鯨類研究所所長:大隈清治さん)というコラムがあって、この小見出しに「京きな魚」なる表現が目に付いた。この文を転載しておく。

 日本は国土が狭く、陸上で十分な動物性たんぱく質を得るのは難しいが、幸い四面を広い海に囲まれている。その海は暖流と寒流が交差して生産力が大きく、生物も多様で豊富だ。

 日本人は魚はもちろん、ナマコやタコなど欧米人が敬遠するような生物まで食用としてきた。

 鯨は魚偏に京と書く。京は「大きい」を意味し、鯨は文字通り「京(おお)きな魚」とされてきた。仏教によって獣肉食が忌避されても、鯨やイルカは魚と同じように食べられてきた。

 欧米で牛や羊の肉に細かい名前があるように、日本では、「まめわた」(腎臓)など鯨の体を細かく分けて呼んでいる。鯨食が文化として発達している表れである。鯨の体は隅々まで利用され、「捨てるところがない」といわれてきた。

 この歴史の中で、十七世紀に日本独自の網取り式捕鯨法が生み出され、百年前には近代捕鯨法をノルウェーからすんなりと導入した。「和魂洋才」である。

 鯨油だけを生産した欧米の捕鯨国は、規制が国際的に強まるにつれて採算が合わずに脱落していったが、日本では鯨肉の強い需要に支えられて生き残った。

 「日本はどうして捕鯨に執着するのか」と外国からよく聞かれる。私は、日本人は昔から鯨肉を神仏に感謝しながら賞味し、長い間培ってきた鯨食文化を守ることを誇りにしているからだと答えている。

 この「京(おお)きな魚」という表現は、文字でいうところの“離合字”に相当する。すなわち、「鯨(ゲイ・くじら)は、京(おお)きなる魚(うを)なり」という具合にである。ここで確めたいのが、この「」という単漢字についてである。そこで院政時代の観智院本『類聚名義抄』によってみるに、

 居貞反 ミヤコ オホイナリ 禾タル ウレシ<ヽ部・法下40A>

と、第二訓めに「オホイナリ」とこれに相当する訓を見出すのである。これは永正本『字鏡抄』にも、

(ケイ) ウレシ ワタル ミヤコ タカシ オホキナリ 居英切<二部・下末40A>

と「オホキナリ」あって、この訓読を確認できる。実際、『爾雅』釋詁に、「<前略><後略>大也」とし、漢籍『文選』羽獵賦に、「鯨」のことに「京魚」という表記が見えているのである。

 さらには、この文章で、「鯨の部位名称」について一例だが、「まめわた」なる語が紹介記載されているのである。

1999年6月23日(水)曇り一時雨。八王子⇒世田谷駒沢

暑さ退き ひんやりと長閑に 生ビール

「海賊」

 20世紀末に「海賊」が登場するとは、誰もが思ってもいなかったであろう。事実今年になって、日本の輸送貨物船が襲撃されているという。

日本船虐殺の危機 東南ア、海賊標的 30社被害 <大阪新聞・1999・05・11>

 東南アジアの広い海域で日本船を狙った海賊行為が急増していることが11日までの日本財団(曽野綾子会長)のアンケート調査でわかった。調査は国際航路を持つ日本の海運会社161社を対象に実施。その結果、平成6年からの5年間で、回答した87社の約3分の1に当たる30社(被害件数66件)が海賊被害に遭っていた。平成9年は前年比8件増の15件、10年は20件と急増。今年も3月末までにすでに7件発生し、とくにマラッカ・シンガポール海峡で多くなっている。その手口は標的の船に横付けし、船内に乗り込んで金品を奪うなど、昔のバイキングと同じだが、無線や自動小銃、果てはロケット砲で武装するなど装備は近代化しているという。このうちの1件は、昨年、日本の海運会社が運航していたパナマ船籍の貨物船が消息不明になり、今年に入り中国で別の船名で発見された「テンユー号」事件。積み荷は売り払われ、14人の外国人乗組員は殺害されたとみられている。ところが、日本の海運会社の海賊対策ほとんど“丸腰”状態。外国籍船では乗組員の銃器携行が可能だが、「海賊を刺激しないことが重要」(日本郵船)との判断から、銃器による防衛は見合わせているという。同財団の曽野会長は「日本人が殺害されたケースがないので、国内では海賊問題に対する社会的関心度も低い。しかし、いつテンユー号と同じ事件が再発するかわからない。関係者が連携して対応することが重要」と話し、7月に関係者による対策会議を立ち上げる計画だ。

といった記事がそれである。この「海賊」なる語だが、室町時代の古辞書易林本『節用集』に、

海賊(カイゾク)<加部人倫71A>

と収載を見る。この語は、明治時代の大槻文彦編『大言海』に、

かいぞく(名)【海賊】〔山賊に對す〕(一){海上に舟を泛べて、往來の船を劫(おびや)かして、物を奪ふ盗人。*後漢書、法雄傳「海賊張伯路等、云云、寇濱海九郡」*土佐日記、正月廿一日に「海賊むくいせむと云ふなる事を思ふ上に、海の、又恐(おそろ)しければ」*宇治拾遺、十五、第四條「門部府生(かどべのふじやう)、云云、千萬の海賊ありとも、今見よといひて、云云」(二)室町時代に、船手、即ち、水軍、海軍の稱。南北朝の初に、北畠親房卿、伊勢にありて、志摩、熊野邊の海賊を使用し、兵船を發して、足利方の海邊の城邑を窘められし事、物に見ゆ、是れ等より、海賊の名の、船手、即ち、海軍に移りしなるべし。*甲陽軍鑑、二十、品第五十五、天正八年四月「北條家より梶原、海賊を出し候所に、武田方より小濱、間宮、駿河、先方の海賊衆、船を出し、船軍あり」*北條五代記、九二「戦船を海賊と云ひならはす事」と云ふ一條あり。*武家名目抄、職名、三「船大將、船頭、水主、云云、これを海賊大將、海賊衆、船奉行、船手衆なども云ふ」<1-0559-1>

とあって、(二)の意味にとれるものかと推察する。現代の海賊は、(一)の意味に他ならない。何時の世にも金品略奪する賊がいるのだが、人の命まで奪ってしまうこともなきにしもあらずなのである。

1999年6月22日(火)曇り後雨夕方西日さす。夏至。八王子

雨上がり 西日迎へて 夏至と知る

“プライミング効果”による頓珍漢な物言い

 今夕のお茶の間番組“伊東家の食卓”で、こんなことば名称の回答実験が試されていた。

@「みりん【味醂】」と十回唱えさせてからの質問、「鼻の長い動物は?」、回答者「きりん」。正解は「象」と知っていてもなぜか誤認してしまうのである。

A「ひらやま【平山】」と十回唱えさせてからの質問、「世界で一番高い山は?」、回答者「ヒマラヤ」。正解は「エヴェレスト」。

B「はり【針】」と十回唱えさせてからの質問、「イギリスの首都は?」、回答者「パリ」。正解は「ロンドン」。

C「きょうりゅう【恐竜】」と十回唱えさせてからの質問、「オホーツク海に毎年流れて来るものは?」、回答者「ひょうりゅう【漂流】」。正解は「りゅうひょう【流氷】」。

D「ゆうかい【誘拐】」と十回唱えさせてからの質問、「パンダの大好物は?」、回答者「ユーカリ」。正解は「ささ【笹】」。

E「わらび【蕨】」と十回唱えさせてからの質問、「おでんに付けるものは?」、回答者「わさび」。正解は「からし【芥子】」。

F「シャンデリア」と十回唱えさせてからの質問、「毒リンゴを食べたのは?」、回答者「シンデレラ」。正解は「白雪姫」。

G「きんかん【金柑】」と十回唱えさせてからの質問、「アメリカ合衆国の初代大統領の名は?」、回答者「リンカーン」。正解は「ワシントン」。

H「だちょう【駝鳥】」と十回唱えさせてからの質問、「植木等さんのギャグは?」、回答者「ガチョーン」。正解は「スイスイっと」。

と実にこの“プライミング効果”による、脳の知覚言語による刺激情報が残存して、思わぬ誤認を人はしてしまうことを茲で知らしめていた。

 

1999年6月21日(月)晴れ。塩別→札幌→東京

ブタナとや たんぽぽに似て 黄の花

「ブタナ」

 帰化植物にして、初夏の北海道の芝地一面に黄色いすっと伸びた“たんぽぽ”に似た花を見かける。この花の茎を手折っても“たんぽぽ”のように乳白色な液は出てこない。この花を何と云うのかというと、“ブタナ【豚菜】”というのだそうだ。人に聞いただけで、その名で正しいのか否かはまだ確認じまいである。

 当然、国語辞典などには未収載の植物名である。同じく黄色い小花をつける帰化植物に「ブタクサ」というのがあるが、これは、キク科の別種であることが、平凡社CD版『世界大百科事典』で確認している。“たんぽぽ”の別名に「ふぢな【藤菜】」というのがあるが類似する草花に似たような名前があるのは不思議なことで、紛らわしいことはどうなのだろうか?

1999年6月20日(日)小雨。湧別→常呂→塩別温泉

サロマ湖100qウルトラマラソン

オホーツク サロマの詩に 人が揺れ

「あいさつ」は“GOOD DAY FOR YOU”

 道東のエイドボランティアが、変った。ただの水出し、給食出しでない心のアシストが始まったからだ。70qのエイド“アナタノ笑顔が見てみたい!そーれ、行って見よう〜よ……”80q(復路の97km)と若人の合唱は、ランナー一人一人の走る勇気をそのまま持続させる原動力に変えて行く。あいさつも一際、「ヤア〜、ありがとう」と高らかに心の底から湧いて出て応える。日常の会話では、これほど素敵に響きあう世界は、なかなかない気がしてならないのだ。

 この「ありがとう」だが、声援する若人にどう届いて行くのだろうか?ただ、「頑張ってクダサイ」の一点張りの声援はちょっぴり儚なかった。いまサロマは日本から世界に向けて、新たなる日本ウルトラ・ランニング文化の発祥の地として、いずれ、祝日「マラソンの日」に指定されたらいいなぁと思うのは私だけだろうか?

 今年は、お日様には見放されたが、みんな元気に、途切れることを知らない人波がワッカの原生花園を抜けていった。この六月の走りは、マラソンという走るスポーツから脱皮して走る文化に近づきつつあるようだ。この前触れを感じさせる一つに高石ともや“GOOD DAY FOR YOU”サロマ湖100qウルトラマラソンのテーマ曲が会場に小気味好いカントリー・ロックのリズムを基調に、母音ア音の歌詞「サロマ(saroma)を走る(hashiru) la la la la la la la はまなすの花(hamanasunohana) エゾスカ(ka)シユリ ゆらゆらゆらら(yurayurayurara) 幸せ祈れ」に乗せて流れ響いた。あいさつは、“GOOD DAY FOR YOU”である。

1999年6月19日(土)晴れ山越て曇り空。札幌→(車にて移動)湧別・常呂

ホタテ貝 炭火に煽り 初夏に向く

「ホタテ貝」

 食味の北海道を堪能する。オホーツク沿岸で水揚げされた地元特産の“ホタテ”を食す。この湧別の“ホタテ貝”は炭火で炙っていただく。ある大きさまで内海で養殖して、これをサロマ湖の外海に放すのだそうだ。捕れたての“ホタテ貝”は、ほぼ二年ものから三年ものの6pから9pのものである。

 この“ホタテ貝”だが、室町時代の古辞書易林本『節用集』に、「帆立貝(ホタテカイ)」<氣形31@>、江戸時代の『書字考節用集』に、「車〓・帆立貝(ホタテカ井)」<気形五463>と早くから見えている。食味として辞書に登場するのは、明治時代の大槻文彦編『大言海』に、

ほたてがひ(名)【帆立貝】介の名。北海に産ず。殻の表に、竪に廣き溝あり、表は黄白にして、内は白し、殻の一片は窪み、一片は平たくして、蓋の如し。水に浮びて行く時、窪き殻を舟の如くし、平たき殻を帆の如く立てて、風に乗じて走る。肉、食ふべし。殻の大なるは、鍋に代へ、小さきは、杓の頭とす。ほかひ。海扇 *易林節用集(慶長)上、氣形門「帆立貝」*本朝食鑑、十、介「帆立蛤、訓如字、或稱伊多良加比、云云、帆立者、海中之大蛤也、大者長五六寸至一二尺、闊二三寸至尺許、厚二三分至一二寸云云」*東雅、十九、鱗介「海蛤、云云、いたやがひと云ふものは、云云、又俗にほたてかひとも、しゃくしがひともいふなり、云云、すべて其形の摺扇を開きしに似たれば、海扇とはいひしなるべし」<4-0336-2>

とあって、「肉、食ふべし」の説明が茲に見えるのである。

1999年6月18日(金)曇りから晴れへ。東京→札幌

炙り屋の 真ボッケ一尾 北の美味

「スッチー」

 空を交通の手段にして、往き来することで人は大きな視野世界で物事を認識できるようになった。この空を飛行する旅客人と直接触れ合う職業名に、「スチュワーデス〔Stewardess〕」というのがある。これを日本語でいうと、「女性客室乗務員」といい、1930年米国で誕生し、本邦でも其翌年の1931年“エアー・ガール”の名で登場している。新明解『国語辞典』<第二版から第五版>によれば、「旅客機の中で乗客の案内や世話をする係の女性。エア ホステス」とある。国際線・国内線とあって、一日のフライト時間は北から南、南から北へと驚くべきものがある。中途で体調を崩したらそれこそ大弱りな仕事である。彼女たちの最大の欲望はといえば、何よりも増して“睡眠”ということになるのも当然なことである。この「スチュワーデス」をいつとなく、略称語で「スッチー」と呼称する。ある人は、極めて日本式に“空のまかないさん”とも呼ぶ。彼女等の仕事はといえば、運航中におけるお客さんの身の安全確保とささやかな心くばりに優しさあふれる挨拶ことばとにある。

言語地理学の権威者W・A・グロータス神父さんの『それでもやっぱり日本人になりたい』(五月書房刊)に、一九八六年、ハンブルクでの国際言語学会に出席のため成田空港からベルギーのサベナ航空機に搭乗したとき、初対面の“スッチー”さんに、尋ねたことを記している。それは、「“おくに”はどちら?」という動機付け会話表現である。初対面の人には、親しみを増すためにまず、「ふるさとは?」とグロータスさんは聞くことにしているのだそうだ。このときの“スッチー”さんは、「新潟です」と答えたと云うのだ。同じ質問を同じ彼女に前の席に居たアメリカ人夫婦が「あなたはどちらのお生まれですか?」尋ねたとき、彼女は英語で“東京です”と答えたというのだ。生まれと育ちは別所であることがこうした食い違いの表現になったのかもしれないが、私たち日本人にとって、「ふるさとは?」はと人に聞かれたら、県名で答えてしまうのが通常の答えかと思う。重ねて「○○県はどちらですか?」と聞かれて、詳細な地名を言うのであるが、ときに、答えたくない場合は、逆に「○(東・西)日本」ですとやりかねない。まして、国内線は飛行時間も短いこともあってか、こうしたほのぼのとした会話は少ないようだ。

[ことばの実際]

 現在、“スッチー”のことを「スチュワーデス」と呼ばなくなってきています。アメリカでは“Flight attendant(フライト アテンダント)”と呼びます。近頃、日本の各航空会社も「スチュワーデス」という呼び方をせずに、JALは“フライト・アテンダント”、ANAとJASは“キャビン・アテンダント”と言っています。

1999年6月17日(木)雨。八王子→世田谷駒沢

花締り 冷たき雨に 白き蝶

「我佛隣の寶聟舅天下のうはさ人のよしあし」の歌

 江戸時代の安原貞室『かたこと』巻三に、

我佛(あがほとけ) (となり)の寶(たから) 聟舅(むこしうと) 天下のうはさ人のよしあし

此哥(うた)はふるき茶湯(ちやのゆ)の書物に侍き。然(しか)れども茶湯(ちやのゆ)の座敷(ざしき)にもかぎり侍るべからず。かゝることはいふまじきことかと云り。ハ而(そうじて)すきやは無言道場(むごんだうぢやう)とかや <日本古典全集48E>

という歌が用いられている。この歌の典拠を“古き茶湯(ちやのゆ)の書物”にあると云う。そして、この歌のことばをもって、「我をんなを ○めじやものといふこと如何。但(たゞし)めじや人とは云にくき故(ゆへ)歟。○をんなどもとは大かたなること葉歟。扨(さて)わが婦妻妾(ふさいせう)のことば○善悪(ぜんあく)に付て○人中にてはいはぬものなりとかや。若(わか)き人にはいとしも似合(にあは)ず。但いはずして叶(かな)はざるおりふしも侍るべし。左様(さやう)の時(とき)には如何はせん」という前文とを見るのである。「我をんな」を呼称する「めじやもの」「めじや人」「をんなども」「いとし」が取り沙汰されているのである。ここで、「我佛(あがほとけ)」とか「隣の寶(となりのたから)」とか呼称するとしたら、かなりヨイショ!と持ち上げすぎていまいか?実に妙味溢れる言い回しである。

[ことばの実際]

隣の寶(となりのたから)」愛媛県伝統芸能“伊予万歳”豊年踊の歌文句に「隣の宝」は、隣家の宝の意に用いている。

1999年6月17日(木)曇り夜半雨。八王子→世田谷駒沢

梅雨空の 風冷たくそ 夏衣では

「めがねにかなう」

 日本人と「メガネ」は、切っても切れないくらい付き合いが長い。この「メガネ」という道具名称と、「めがねにかなう」という句表現は、果してどういう関りにあるかが今日のテーマである。

 この慣用句「めがねにかなう(期待したとおりになる意)」だが、接頭辞「お」を上接して「おめがねにかなう」ともいう。この反対語が「めがねちがい(期待はずれの意)」である。ここでいう「メガネ【眼鏡】」だが、目の働きである視覚能力を補正するためのものである。この「メガネ」が、ただの視覚補正から、視覚鑑定や視覚鑑識の意へとその価値度合いが高まってきたのである。こうしたところから、「適う」や「違い」といった表現と一つに融合して、「目(め)+矩(かね)」である、物の形態・性質を見るだけでなく、そのよしあしを識別する尺度としての“め【目】”すなわち、“目利き”の意を担う表現となったのであるまいか。如何……。

1999年6月16日(水)曇りのち晴れ間。八王子→世田谷駒沢

散水や 涼気吹き入れ 風を待つ

「無花果」

 この「無花果」という樹木の本邦への渡来時期について考察してみようと思う。牧野富太郎博士『牧野植物図鑑』で、渡来時期を江戸時代(寛永年間1624〜1643)と定めている。『日本国語大辞典』にも、「小アジア原産で江戸初期に渡来し、各地で栽植される。」とあって、別名「とうがき。ほろろいし」ということが記載されている。明治時代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』に、

いちじく(名)【無花果】〔和漢三才圖會(正徳)〕八十八、無花果「俗云一熟、云云、一月而熟、故名一熟」倭訓栞、後編、いちじく「一熟ノ義」重修本草綱目啓蒙(享和)廿二「無花果、イチジク」佐渡志(文化)五「無花果、イチジク」音韻假字用例に、熟(ジユク)、塾(ジユク)、ジクは、中略和音なりとあり、いちじゅく、じゅくせい(塾生)などと發音する者は、一人もなし、大和本草(正徳)十、無花果「花無くして、實あり」此樹の花は、花軸の内面に密生すとあれば、人の目に見えぬなり〕落葉喬木の名。外来種なり、高さ一丈許、葉は互生して、表面は分裂し、掌状をなし、裏面には、細毛密生す、切れば白汁を出す、春、夏の際に、細小の白花、花軸の内面に密生す、夏の半に果實を結ぶ、圓くして、大きさ一寸ばかり、いたびに似たり、初め緑色にして、熟すれば紫色となる、味、甘美なり。*大和本草(正徳)十、無花果(いちぢく)「寛永年中、西南洋の種を得て、長崎に植ふ、今、諸國に有之、云云、實は、龍眼の大にて、殼なし、皆肉なり、味甘し」

とあって、外来種であることのみ記録する。古辞書では、『書字考節用集』に、

無花果(イチヂク) 一名映日菓。時珍云五月内不花而実出枝間者<生殖六1D>

とある。これ以前の古辞書には見えない語である。

 そして、この「無花果」だが、天草版『伊曾保物語』における“エソポの柿を吐却すること”の話に、

しかるところに、エソポ畠より帰り来れば、かのを預かった者ども思ふ様は、「よい幸(さいワい)ぢゃ。いざこのを両人して取り食うて、こちはそらうそ吹いて居て、あれこそその熟柿をば食べたれとはねかけうずるに、何(なん)の子細があらうぞ」と談合(だんかウ)して、取って食した。<大塚光信校注、キリシタン版エソポ物語・角川文庫刊18H>

さて主人風呂から上り、「くだんのを湯上りに持って来い」と云はるれば、右の二人(ににん)の者どもが犯さぬ顔で申すは、「それをばエソポこそ盗んで食べてござれ」。<同上18O>

と、話材になる「無花果の実」がまだ日本にはなく、逆に欧州にない「柿の実」をもってこの話しとしているのである。「無花果」の別名「とうがき【唐柿】」と呼称されることから、「無花果」と「柿」とが“代替物”として用いられたのであろう。これは、同じ『イソップ寓話』では“蟻と螽斯”が“蟻と蝉”であったようにである。

1999年6月15日(火)曇りのち晴れ。八王子→世田谷駒沢

汗拭ひ 電車の冷房 効かぬ夜

「いろは連歌」

 鎌倉時代の橘成季『古今著聞集』巻第五(和歌第六)に、「いろは連歌に小侍從難句を附くる事并びに大進將監貞度が附句の事」という話に、

同(おなじ)御時にや、いろはの連歌ありけるに、たれとかやが句に、

 うれしかるらむ千秋萬歳

としたりけるに、此(この)次(つぎの)句にゐもじにやつくべきにて侍る。ゆゝしき難句にて人/\あんじわづらひたりけるに、小侍從つけゝる、

 ゐはこよひあすは子(ねの)日とかぞへつゝ  *「ゐ」は「亥」。

家隆卿の家にて、この連歌侍(はべり)けるに、

 ぬれにけりしほくむ海士のふぢ衣

大進將監貞度といふ小さぶらひつけ侍りける、

 るきゆく風にほしてけるかな

人/\とよみて、るきゆく風をわらひければ、「さも候はずとよ。ぬもじの次はるもじにて候へば、かくつかうまつりて候。なにの難か候べき」とちんじたりけるに、いよ/\わらひけり。小侍從がもどきの句といひつべし。<大系151N〜152I>

とあって、「うゐ」と続く小侍從の歌が紹介され、次に「ぬる」と続く貞度の歌が紹介されていて、この両歌を比較して見ると、解るように「ゐ」を語頭におく歌ことばである「ゐがき・ゐ中ひたる・ゐせき・ゐ中わたらひ・ゐねがて・ゐをねぬ」の七語(『伊呂波拾遺』の所載語)、「ゐたち【居立】・ゐのこ雲・ゐまちの月・ゐてこす波・ゐて行・ゐでの下帶」の六語(『和歌八重垣』の所載語)は数語あることながら、「る」を語頭に据える歌ことばは、なかなか見当たらないのである。これを誰もが附けずに寡黙していたところ、貞度が「るきゆく風に」と読み、これに下手な言い訳をしたものだから嘲笑されたというのである。こうした“いろは連歌”における、「る」を巻頭語に据えた歌がどのようなものであったかを探ることは、“いろは連歌”の難句を知る手掛りともなろう。実際、『伊呂波拾遺』(松平文庫藏) には「らりるれろ」の項目は一例も見ない。やや降って『和歌八重垣』(寛政三年版)にも「る」の項目をやはり一例も見ない。『極楽願往生歌』の「る」の歌、

ルリノタマ カケテカヽヤク コクラクノ コヒシサニ ユメニミムトテ ヲキモアカラヌ

ように、「瑠璃」などの漢語を読む以外に和語連歌ことばがあったのかと、この“いろは連歌”の会の場面を再現してみたいところでもある。

1999年6月14日(月)晴れ。八王子→世田谷駒沢

チュルルと 囀り流れ 一輪花

「詞は古きを用い、情は新しきを本とす」

 古諺に「詞(ことば)は古(ふる)きを用(もち)い、情(こころ)は新(あらた)しきを本(ホン)とす」という表現がある。これは、ジョアン・ロドリゲス『日本大文典』(602M・土井忠生訳昭和44年・三省堂刊)の第二巻、“修辞構成に就いて”に収載されているものである。この古きとは典雅伝統ある日本語であり、これに新しい意味を与えているというのである。

 この諺の典拠が日本語として存在するのか、また異国の諺なのかということを知りたいのである。

[補遺]中世歌論集、藤原定家近代秀歌』に、「ことばはふるきをしたひ、こゝろはあたらしきをもとめ、をよばぬたかき、すがたをねがひて、寛平以住の歌にならはゞ、をのづから、よろしきことも、などか侍らざらん、ふるきをこひねがふにとりて、むかしのうたのことばをあらためず、よみすへたるを、すなはち、本歌とすと申す也」(岩波文庫162F)とあって、ここからの引用ということになる。

1999年6月13日(日)晴れ。八王子→南大沢

暑さから 紫陽花へたり 夜を待つ

「せせなぎ【剰水】」

 古辞書では、『新撰字鏡』観智院本『類聚名義抄』に、「溷、せヽナキ[平上上上] カハヤ ニゴル シルス 音湿 ミタル ツヽム キヨシ ワツラフ[ハシ] トヽム」<法上14>とあり清音表記であったが、室町時代の文明本易林本『節用集』に「剰水(せゝナギ)不浄水」<世部・乾坤232E>と濁音化している。また同じく、『〓(土+盖)嚢鈔』三にも、「不浄なる水を――と云ふは何の字ぞ」とある。江戸時代の『浪花聞書』せ部に、「せゝなぎ[割注]なかし尻の溝也」<日本古典全集27E>と漢字表記は見えないが、注釈に「ながしじりのみぞなり」とある。この「せせなぎ」なることばだが、「どぶ【溝】」や「ゲスイ【下水】」といったことばに取って代わられていて、現代語にはその用例を見ないことばとなっている。

 なぜ、この和語「せせなぎ」は、室町時代そして、江戸時代まで用いられてきたのにもかかわらず、その後、用いられなくなっていったのであろうか?これに代るように出現する「どぶ【溝】」なる語の出自確認も重要な手掛りとなる。

 また、語頭の二音「せせ」は、「蝿がせせる」「せせり碁」「せせり箸」「せせり普請」「せせら笑ひ」などという場合の動詞「せせ・る」と同根なのだろうか?しばし、時をかけて考察してみたい。

[ことばの実際]○中央溝の夜間工事のため、世田谷方面渋滞<電光標識板情報>

1999年6月12日(土)晴れ。八王子

梅雨休み 陽だまる庭に ビヨウヤナギ

「織部」

 織豊時代の創製ブランド名称「織部(おりべ)」について少しく触れてみたい。この「織部」だが、今日最も知られるものでは、「織部焼(おりべやき)」「織部燈籠(おりべどうろう)」がある。また、「織部盃(おりべさかづき)」も知られている。これら「織部」の名称で今日も愛用されている品々は、千宗易(利休)の弟子古田織部の創製したものである。師匠の利休は時の権力者豊臣秀吉の勘気に触れこの世を去り、弟子の織部も次ぎの権力者である徳川家康の勘気に触れこの世を儚くしている。

 しかし、彼ら茶の湯に生きる人にとっては、庭もそして道具も常に自然と一体であり、極限の世界を見ていた。石燈籠一つにも、その「意志」を感じる。「織部燈籠」は、通常の「春日燈籠」より小振りにて、座敷に座っての視界から程よい高さにある。この石燈籠、亦の名を「キリシタン燈籠」と呼ばれてきた。長崎県の島原本光寺に伝わる実際の「キリシタン燈籠」に類似する大きさである。これも決して人が立って鑑賞するものでないことが解る。まさに座して眺めるものと言ってよい。織部は、何ゆえこの燈籠を考案したのだろうか……。一説には、堺の隠れキリシタンとして、信仰のための十字架を代用するものであったともいう。こうした本来の主目的から遠く離れ、庭の片隅に置かれた「織部燈籠」に触れるとき、歴史の彼方からこの名とともに再び現代人の魂を揺り動かしてくれる。

 

1999年6月11日(金)晴れ。八王子

鬱蒼なる 剪定の庭 明かり増す

「識情」

 昨日の「情識」の熟語を逆にした「識情」なる禪語があることをご存知であろうか。意味は、悟りの妨げとなる心のはたらきや動きをいう。だが、『禅学大辞典』には未収載の語である。鎌倉時代の無住『沙石集』巻第二に、

深信は只少しも疑がはず、仏教をひらに信ず。行門には深信殊に入やすく、大乗の仏法、識情(シキジヤウ)の及ばぬところをば、先深信を以て仰て信じて、深き悟にも入なり。法花には、「舎利弗も信を以て入れり」と説、信なき者をば、一闡提と名けて、仏にならぬ者といへり。<大系91M>

と、「凡夫の迷情による見解」の意を記載する。この語も禪籍抄物『碧巖大空抄』に所載を見る語である。

毫髪モ識情有レバ背クヨ‖雪峰ニ|。驟歩皈方丈這ケ時節、道以情識ヲ|ト度得麼、人多シテ‖情解|道其侭歩テ、ヒツカウダヨ。<駒澤大学文学部国文学研究室編・64F>

とある。ここで、「識情」と「情識」なる両様の熟語が用いられていることに注意されたい。さらに、一休『狂雲集』に、

130 徒學得祖師言句 識情刀山牙劍樹 看々頻々擧他非血噴人其口汚<新撰日本古典文庫5・144A>

    1. 是非元勝負脩羅 傍出正傳人我多 近代邪師誇管見 識情毒氣任偏頗<同上158I>

231 羅漢出塵無識情 婬坊遊戲也多情 那邊非矣那邊是 衲子工夫魔佛情<同上188A>

と同じく用いられている。キリシタン版『落葉集』に、「情識」も収載されているが、「識情(しきじやう)」<98E>も収載を見るのである。このことは、異邦人たる宣教師たちが、禪語に貪欲までにアプローチを試みていた證しでもある。本邦の古辞書には収載を見ないのは、「情識」のように、世俗語として用いることばにはならなかったことがまずもって考えられる。あくまで、この語が禪語としての用語に留まっていることを知るのである。

1999年6月10日(木)晴れ。八王子→世田谷駒沢

栗花や 穂垂れ匂ふ 池の水

「情識」

 室町時代の『日葡辞書』(慶長八年1603刊)に、

Io<xiqi.ジャゥシキ(情識) 強情・頑固.<邦訳『日葡辞書』370l>

とある。『落葉集』に「情識(じやうしき)」<108B>、『天草版金句集』(文録二年1593)の138「君諌めに逆ふ時んば國亡ぶ。人食ほそき時んば體瘠す」という句解に、

「心、君情識(じやうしき(Io<xiqi)にして諌めを聴き入れねば、國が亡ばではかなはぬ。人の食が衰へゆけば命終るが如くぢや」<531>

とある。『こんてむつすむん地』巻第三に、

○御あるじのたまはく、われむかしよりぽろへたすにをしへ、/いまにいたるまでばんみんにかたる事たへずといへども、わがことばをきく/ためにしやうしきにしてみゝしひたる者おほきなり<吉支丹文学集(上)298E>

同じキリシタン資料である『ぎや・ど・ぺかどる』(慶長四年1599刊)に、

或る人は生得物思ひ深きが故に、万事に付て情識に心をなやます人もあり、或人は、小気短才なるが故に小事をも大事と見て、常に心を費やすもあり。<上巻第二編第七(天理図書館善本叢書きいしたん版集)242P>

第二、模様といふは、我慢情識にして、存分を立んと論ずる事なかれ。如此の人は、あにまの無事を乱し、親しき友を離れ、大切堪忍を失ふ事多し。(下巻第二編第一(同上)133E)

五ツには、賢慮の善の上に、四つの継母あり、是を捨よ。一ツにはそ忽なる事、二ツには偏執偏頗ある事、三ツには情識なる事、四ツには実もなき誉を本とする事是也。去ばそ忽なる事は、真の決定なし。偏頗偏執は知恵の眼をくらまし、情識なるはよき異見に耳を塞ぎ、実もなき誉は交はるほどの事を汚さずといふ事なし。(下巻第二編第一(同上)139@B)

とあって、この「じやうしき(Io<xiqi)」と「情識」なる語はすべて同語と見てよい。

これをさらに、本邦古辞書に求めて見ると、『運歩色葉集』に、

情識(ジヤウシキ) 我慢――」<静嘉堂本376G>

情識(シヤウジキ) 我慢――」<元亀二年京大本319H>

とある。この語の本髄をみるに、禅宗の書『五灯会元』『虚堂和尚語録』、『学道用心集』等に「情識」と見え、人間の五感の上に働く思慮分別の意識すなわち、衆生の煩悩にとらわれた偏った見解をこう云うのである。最も身近な例としては、『沙石集』巻第二の、

応身は、情識(ジヤウシキ)の中に妙用の方便を仰ぐ。信深くして、父母をなつかしく思ひ、師君を重く馮が如し。<大系101F>

先応用を以て情識を助け、障除り罪消て、人天浄土に生れ、漸く智性あらはるれば、引て真身を見せしむ。<大系101I>

衆生の心も真心は体也。水の如し。情識は用也。波に似たり。只波をしづめて水をえ、応を信じて真を観ずべし。<大系101N>

があり、この禪語が室町時代の世に浸透流布し、「強情・頑固」の意として公家からさらに衆人の口に上るようになったと考えられる。世阿弥の『花伝書』三の「よき所をみたりとも、我より下手をばにすまじきとおもふしやうしきあらば、その心に繋縛(ケバク)せられて、我わろき所をもいかさましるまじきなり」は、多くの辞書所載の用例として、周知のごときである。

現代語で「ジョウシキ」と発音する語は「常識」だが、この強情で頑固な「情識」は、現代語には見えないようだ。

1999年6月9日(水)晴れ後曇り。八王子→世田谷駒沢

[今日の文化ニュース]

毎日新聞夕刊「愛のうつろいの今様を読む」『源平盛衰記』に類歌、男心の歌か 『梁塵秘抄』断簡発見に寄せて〈白百合女子大教授・中世文学久保田淳さん〉

 紫陽花の 花咢彩に 光盈つ

「切角」

 通常一般的には、「折角」が用いられてきた。この「セッカク」を「切角」と書く表記が明治時代以降に散見する。まずは、森鴎外『澀江抽斎』に、

切角(せつかく)道純(だうじゆん)を識(し)つてゐた人(ひと)に會(あ)つたのに、子孫(しそん)のゐるかゐないかもわからず、墓所(ぼしよ)を問(と)ふたつきをも得(え)ぬのを遺憾(いかん)に思(おも)つて、わたくしは暇乞(いとまごひ)をしようとした。<その五44I、日本近代文学大系・森鴎外集U>

「でもわたくしは切角(せつかく)尋ねに來たものですから、そこへ往つて見ませう。」<その十七71D>

とあり、さらに、鴎外の他作品からも見出せる。『最後の一句』に、

そこへ今朝になつて、宿直の與力が出て、命乞の願に出たものがあると云つたので、佐佐は先づ切角運ばせた事に邪魔がはいつたやうに感じた。

『ヰタ・セクスアリス』に、

僕は、切角手紙を出そうと思っていた処だと云った。

とある。夏目漱石『明暗』にも、

「でもそりゃ悪いわ、貴方。切角親切にああ云って呉れるものを断っちゃ」

「御前は行って可いんだよ。切角誘って呉れたもんだから」

とある。漱石の場合、表記法が途中で変っていることもあるが、この作品中では「切角」が用いられているのである。

次ぎに、樋口一葉『大つごもり』に、

七歳のとしに父親得意場の藏普請に、足場を昇りて中ぬりの泥鏝を持ちながら、下なる奴に物いひつけんと振向く途端、暦に黒ぼしの佛滅とでも言ふ日で有しか、年來馴れたる足場をあやまりて、落たるも落たるも下は敷石に模樣がへの處ありて、掘おこして積みたてたる切角に頭腦したゝか打ちつけたれば甲斐なし、哀れ四十二の前厄と人々後に恐ろしがりぬ、母は安兵衞が同胞なれば此處に引取られて、これも二年の後はやり風俄かに重く成りて亡せたれば、後は安兵衞夫婦を親として、十八の今日まで恩はいふに及ばず、姉さんと呼ばるれば三之助は弟のやうに可愛く、此處へ此處へと呼んで背を撫で顏を覗いて、さぞ父さんが病氣で淋しく愁らかろ、お正月も直きに來れば姉が何ぞ買つて上げますぞえ、母さんに無理をいふて困らせては成りませぬと教ゆれば、困らせる處か、お峰聞いて呉れ、歳は八つなれど身躰も大きし力もある、私が寐てからは稼ぎ人なしの費用は重なる、四苦八苦見かねたやら、表の鹽物やが野郎と一處に、蜆を買ひ出しては足の及ぶだけ擔ぎ廻り、野郎が八錢うれば十錢の商ひは必らずある、一つは天道さまが奴の孝行を見徹してか、兎なり角なり藥代は三が働き、お峰ほめて遣つて呉れとて、父は蒲團をかぶりて涙に聲をしぼりぬ。

とあるが、この「切角」は、和語名詞で「きりこ」と読むものである。芥川龍之介『松江印象記』にも、

自分は、この盂蘭盆会(うらぼんえ)に水辺の家々にともされた切角灯籠(きりこどうろう)の火が樒(しきみ)のにおいにみちたたそがれの川へ静かな影を落すのを見た人々はたやすくこの自分のことばに首肯することができるだろうと思う。

とあるのも同様である。*国語辞書には「きりこ【切子】の見だし語」を所載する。

さらには、『黒田清輝日記』にも「切角」の表記例が見えるのである。

【1891.06.16】 六月十六日 火曜 (獨佛國境旅行日記)

 山の頂上迄登るニは一寸汗が出たぞ 登る際中ニ雨が降而來た 實に大喜びで久米公と早速雨合羽を被た 切角立つ前ニ巴里で買て來た此の雨合羽を此の儘で持て歸つてハ殘念だと思て居たがとうとう今日始めてぬらし安心した 

【1891.06.21】 六月二十一日 日曜 (獨佛國境旅行日記)

 仕方がネー 衣物も大抵上つ面丈ハ干いた樣になつたので部屋ニはいつて寢てやつた 併し只此の儘ですましてハ切角下女ニ呉れた一佛ハなんニもならないと思つたから靴と脚半丈は下女ニ申付てかわかして貰つた 先つ之れで少し取り返へしが付た

【1892.11.14】 十一月十四日 月

 食後和郎と鞠の處ニ酒徳利一本持て行く 外聞が惡いと云て其切角持て行た徳利を又持て歸る事さ 後庭で四時迄勉強す 

【1892.12.11】 十二月十一日 日

 切角すへさした暖爐の煙筒の向ケ方が惡いので其すへ直シ方ヲしようとして家主ト和郎と三人仕事して居る處ニ$ブツフアール$がオレの菊の畫ヲ見ニ來た(晝後の三時頃)

【1893.06.18】 六月十八日 (船中日記)

 オレなんかなら不充分ながらも世の中の事ハ大抵此の位の事とあきらめを付くると云事が有るけれども下等のものどもハそう云わけに行かないから困しみハ却て多いニ違なし 切角知合が出來たのだから之レから色々下等の事ヲ研究してやろうナンダ考て見る 

【1894.05.26】 五月二十六日 (北海道旅行記)

 兼て橋口氏の下女松が此のふりをするがさてハ此の geste ハ全く此の地方にてはやるものなりと始めて知りたり 二時少し前ニ岩見澤ニ到る 又まんぢうともちを買つて食ふ 岩見澤の地方ハ今切角開き方の最中と見へたる處多し 岩見澤の Station ニ何處から來た氣車か知らねど車や材木などを積む荷車ニ男女まじりて三四十人積で來たのが有つた 

【1901.03.15】 三月十五日 金 曇 ライン河 (歐洲出張日記)

 此の中世のいかめしい建築物の殘つて居る崖と又其次の岩との間などにいかにも佳よさそうな村の樣なものがいくらもあつた 又處によつてハしやれた別荘などの並んで居るのも有る 又切角の此のライン河のいゝ景色の邪魔になるものは引船をして居る川蒸氣だ 石炭の黒煙をポツポと吹いていくらも通るのだ いかニも殺風景だ

【1920.09.26】 九月二十六日 日 曇 (鎌倉)

 案山子ヲ主題トセル圖ヲ思ヒ立チタレドモ未ダ適當ナル背景ヲ見出サズ 併シ寫生用トシテ切角畠ニ立タセタルモノヲ此儘ニスルモ惜ク思ヒ居タルニ雲ノ模樣面白ク見エタルヲ利用シテ案山子入ノ一小圖ヲ畫ケリ 蓋シ臨時ノスケツチニ過ギズ

と云う具合にである。

そして、極めつけは、現代における表記にも、「切角」が用いられてきている。

[ことばの実際]

今日仕事場の人に会って潮干狩りの話になった。この間も別の仕事場で潮干狩りの話が出た。そうそうそんな時期なんだよね。まぁ、彼女が言うには、切角行ったけれど貝がいない。という事だった。http://member.nifty.ne.jp/SAHARA/diary_5gatu.htm

自分で確認出来れば良いのですが、初出などを確認するすべがなくて、またそこまでの熱意も時間も金も無くて。また、「切角に教えてあげたのに、反映しないのはけしからん」と想う人と、「教えてはあげたが、名前まで出されると、こちらに責任がかかるようで、気分が悪い」という人と、「教えてはあげたが、自分で確認したわけではないのだから、書かないのが当然だ」という人と、いろいろいらっしゃるので、難しいのです。

http://www.kanazawabidai.ac.jp/personal/hangyo/wwwboard/messages/404.html

その他、cgi もだいたい(?)動くようになりました。カウンタは、切角一年かけて1000カウントまで行ったのに、1からやり直しです。それも、しゃくなので、1000から始めることにしました。http://www.kanazawabidai.ac.jp/~hangyo/hist.htm

と用いられている。

 国語辞書では、唯一新潮『国語辞典』第二版が見だし語漢字に「折角・切角」の両字を収載するに留まる。明治の文化人が挙ってこの表記法を用い始めたには何か理由があるに違いない。彼らは、「折角」の故事を知っていながらもこの表記を用いずして、あえて「切角」の表記を用いたその規範意識の原点を探し求めてみたいのである。

 室町時代の古辞書易林本『節用集』に、「折檻(セツカン)―角(カク)」とあって、その次語に「節(せツ)々。切(せツ)々。折(せツ)々」<236E>とある点からも、「セツ」の音を「切」で表記することは、許容の範疇にあるとみてもよいのかもしれない。

1999年6月8日(火)晴れ後曇り。八王子

姫車駕の 白きわび花 鳥渡る

「紅花緑葉」

 室町時代の古辞書易林本『節用集』の器財門に、「紅花緑葉(コウクワリヨクヨフ)」<158A>という語がある。器財門に所載の語であるからして、どのような器物類の呼称名かということが氣になるところである。というのも、この語は他古写本類の『節用集』には未収載にある。いわば唯一、易林本だけに収載をみるといった特殊語の一つなのである。そして、詳細な語注釈がされていないことからも、当時の文化知識人であれば、その器物が一体何であるかを即座に理会し得る範疇にあったものであるまいか。

 現在の私たちからすれば、この「紅花緑葉」ということばの響きから、こう呼称される器物を想うしかない。手掛りは室町時代の五山詩文集や禅林日記・記録類などを丹念に探索してみることしかない。ここからは私の憶測だが、「紅花」は、桃、緑葉は、柳といったイメージであるが、桃と柳にからむような器物がすっと浮かばないのが苦しい。『類字文字抄』に、紙の異名として、「緑紅」というのがある。易林本のこの語の前には、「胡鬼板(コギイタ)―子(コ)」があり、後には「古銅(コトウ)」の排列であるからして、意義面の連関性からの推定も期待できないところである。

 ところが、現代の国語辞典である新潮『国語辞典』第二版は、これを唯一収載(他の現在刊行の国語辞典類には未収載である)し、

コウカリョクヨウ【紅花緑葉】―エフ@紅い花と緑の葉。A堆朱(ツイシユ)の一種。花鳥を赤漆、木の葉を青漆で塗って彫刻したもの。〔易林本節用集〕

と、易林本を拠り所とし、Aに「堆朱(ツイシユ)の一種=漆工芸品」である旨の意味説明をさらりとしているのである。ただ、この意味付けそのものの拠り所を明かにしていないのが残念である。

1999年6月7日(月)雨のち小止み。八王子→世田谷駒沢

チャプラン 雨も楽しき 蛙(かわず)道

「食」の字と記録文『吾妻鏡』

 「おぼしめす」という表記を鎌倉時代の記録文『吾妻鏡』に求めてみると、「思食」と表記されている。この他、「思食立」「思食煩」「思食定」「恃思食」「知食」「聞食」「食切」といった具合に「めす」の語を「召」の字を用いずに「食」の字によって多用に表現しているのである。本来の意味である「乞食(コツジキ)」そして、和語の「食(くらふ)」といった例も見えているが、「めす」の読みに宛てた表現がこの古記録類である平安時代の日記、藤原道長『御堂関白記』寛仁元年八月六日の条に、「此外若有思食事者。只隨仰。」<日本古典全集下巻202D>とあるのをはじめとして、この『吾妻鏡』<寛永版>に、俄然目に付く表記なのである。

1、おぼしめす【思食】

[廾二日]但シ無ク左-右。可(ヘキ)ノ被ラル任付(ニンフ)せ之由シ思食(ヲホシメス)ト云云。殿-下(テンガ)覧(ミ)玉ヒ彼(カノ)御請文(オムウケブミ)ヲ。不ルノ可ラ有ル異-儀(イギ)|之由シ被ルト申サ云云(244上左J)

[十六日]依テ思シ食メシ儲(マウケ)玉フニ。被仰せ含(フクメ)之ノ處(トコロ)ニ。無左-右。(282下右D)

[廿九日]將-軍-家ケ。依テ有(アル)ニ所(トコロ)思シ食メス。(283下左I)

[十二月大十二日]曽(カツテ)不思シ食メシ忘(ワスレ)。(319上左K)

[建永二年丁卯十二月小三日]良(ヤヽ)久シテ將-軍-家。依テ恠(アヤシヒ)思食(オホシメス)。可(ヘキ)ノ留(イトヽム)件ノ鳥(トリ)ヲ之由シ。(375上右I)

[五月十日]尤モ被(ルヽ)ノ感(カン)シ思シ食メ之由(ヨシ)。以テ相-州ヲ。被(ラル)仰(アフせ)之ヲ。(411上左C)

[建保四年九月小十八日]相州。招-請(せウシヤウ)☆シテ廣元(ヒロモト)ノ朝-臣(アソン)ヲ。被レテ仰せ云ク。將-軍-家。内-々思食立 (ヲホシメシタツ)ト云云。(428上左F)

[三月大一日]又タ歴-覧 (レキラン)シ櫻(サクラ)花ヲ給フ。是レ依テ變-異(ヘンイ)ノ事ニ。有ルガ所ロ思食 (ヲボシメス)之故ヘ也ナリ。(590上左D)

[廾七日]此ノ程(ホド)自リ方々。告(ツゲ)申スノ之ノ趣ムキ。強(アナガチ)無キノ御信用之處ニ。忽チ府合スルノ之間ダ。思シ食シ合せ。俄ニ退(シリゾキ)彼ノ舘(タチ)ヲ。令メ還ラ本-所ニ給フ。(624下右K)

[九月大七日]殊ニ所ロ被ルヽ感(カン)ジ思シ食メサ也ナリ。(699上左G)

[六日]黄-泉 (クワウせン)ニ有ル其ノ苦(クルシミ)歟(カ)ノ之由シ。依テ被(ルヽ)ニ思シ食シ驚(ヲドロカ)爲メニ被レンガ廻(メグラサ)滅罪 (メツザイ)之ノ謀(ハカリ)☆コト。以テ彼ノ懐紙 (クワイシ)ノ裡(ウチ)ヲ。可シト被ル-寫せ經典 (キヤウデン)ヲ云云。(834下左E)

[十九日]仍テ有テ∨渡-御(トギヨ)于最-明-寺(サイ――)ノ北ノ亭(テイ)ニ。心閑(シツカ)ニ可キノ令メ臨-終(リンジユ)せ給フ之由。思シ食メシ立チ。仰せ尾藤太(ビトウ−)ガ。[割注]法-名ハ淨心。  宿屋(シユクヤ)ノ左-衛-門ノ尉ニ。[割注]法-名ハ最信。  可キノ-制(キンせイ)ス群-参ノ人ヲ之由シト云云。(843上右K)

[(204)]歎(ナゲキ)思食 (ヲホシメス)次-第也ナリ。

[(231)]難儀(ナンギ)ノ之由ヲ。思食 (ヲボシメス)ノ之處ニ。無キ尋常(ヨノツ子)ノ即從歟(カ)ノ之故ニ。爲(スル)河田ノ次郎一-人ガ被(ラレ)誅(チウ)せ訖(ヲハン)ヌ。

[廾五日]被∨食 (ヲボシメサ)其ノ例(レイ)ヲ歟カ 。

2、しろしめす【知食】

[八日]次ニ泰衡ガ幼-息 (ヨウソク)。不ス被レ食 (シロシメサ)在所(アリカ)ヲ。可シ尋子進ズ之ヲ。(213下右B)

[建久三年壬正月大廾一日]魚ノ鱗(イロコ)ヲ覆(ヲホフ)眼(マナコ)ノ上(ウヘ)ニ。弥(イヨ/\)食 (シロシメス)ノ有(アル)害ガイ-心者(モノ)ト間(アイダ)。被ラル-問 (スイモン)せ之ヲ。(265上左F)

[十二月大廾七日]兩度ノ事共ニ以テ亭主 (テイシユ)ノ。所ロ被ルヽ知食 (シロシメサ)也(ナリ)。(580上右D)

3、きこしめす【聞食】

[八日]次ニ所-領ノ内ニ立ル市ヲ事。有リ御-感(カン)。凡ソ國-中静-謐 (せイヒツ)ノ之由シ聞シ食メス神-妙也(ナリ)ト云云。(213下右B)

[廿九日]條々(デウ/\)直(ヂキ)ニ食 (キコシメス)之ヲ。(283下左I)

[廾六日]依テ可ニ食 (キコシメス)辛蒜 (シンサン)ヲ也。(574下右A)

[十月小廾二日]召(メシ)入-御-前ニ。被ル食 (キコシメサ)其ノ子-細ヲ。(577上右E)

[十二月大廾七日]前ノ武-州。閑(シヅカ)ニ被レ-食 (キコシメサ)事(コト)ノ始-終 (シジウ)ヲ。及ブ御ン落涙(ルイ)ニ。(580上右D)

[十二月小廾九日]召(メシ)司シ天等(トウ)ヲ。直(ヂキ)ニ被ル尋(タヅ子)聞食 (キコシメサ)。(588上右C)

[十四日]殊(コト)ニ被(ルヽ)ノ■〔悦〕ビ聞シ食サ之旨子。所ロ被(ルヽ)仰せ下サ也(ナリ)。(630下右@)

[卅日]今-日ノ評-議。負物 (ヲヒモノ)ヽ事。輙(タヤスク)不ルノ及ハ沙-汰ニ之趣(ヲモムキ)。雖トモ被ルト定メ置ヲカ。■〔瓦+王〕弱 (キヤウジヤク)ノ之輩(トモガラ)。歎(ナゲキ)申スノ之旨子。依テ被ルヽニ聞シ食シ及バ。如ク先々ノ。可シト有ル其ノ沙-汰云云。(792下左J)

[弘長三年癸亥四月大十四日]者(テイレ)ハ以上執(トツ)テ小侍(サフラ井)ノ註進ヲ。武藤少卿景カゲ頼ヨリ。披露スルノ之處ニ被レ聞食 (キコシメサ)訖(ヲハン)ヌ。(831上右@)

[]於テハ今ニ者。不ス被レ食 (キコシメサ)御膳(ぜン)ヲ

[(231)]清衡 (キヨヒラ)。基モト衡。秀ヒデ衡。三代ノ間。所ロノ建立スル之寺塔(タフ)ノ事。尋(タツ子)聞食 (キコシメシ)之ヲ

[八日]數ス日令メ逗留 (トウリウ)せ給フノ之間ダ。民戸殆(ホトンド)難キノ安堵ドシ之由シ。就テ聞食 (キコシメス)。平泉 (ヒライヅミ)ノ邊(ヘン)。殊(コト)ニ廻(メグラシ)秘-計 (ヒケイ)ノ沙-汰ヲ。可シト被ル救(スクハ)窮-民 (キウミン)ヲ云云。(213下右B)

[廾六日]幕-下 (バクカ)被レ食 (キコシメサ)之ヲ。■(レイ)ハ者不ズ可(ベカラ)論(ロン)ズ老少ヲ

[八月小二日]是レ企(クワタツル)ノ叛-逆 (ホンギヤク)ヲ之由(ヨシ)。依聞食(メシ)及(ヲヨブ)ニ。御ン尋(タツ子)之ノ故ヘ也(ナリ)。

[十六日]又タ煩(ワヅラワス)ノ國領(リヤウ)ヲ之由シ。依テ聞食 (キコシメス)。宜(ヨロシク)令(シメ)ンノ停-止(チヤウジ)せ之旨(ム子)。被ルト仰せ下サ云云

[十二月小十一日]將-軍聞食 (キコシメシ)驚(ヲドロキ)玉フノ之處(トコロ)ニ。於(ヲイテ)ハ侍所ノ別-當義盛(ヨシモリ)ニ者。早(ハヤク)在リ公業 (キンナリ)ガ方(カタ)ニ

[廾七日]是レ義盛 (ヨシモリ)。有(アル)ノ用-意(ヨウイ)ノ事(コト)之由(ヨシ)。依(ヨツ)テ聞食 (キコシメス)。被(ラルヽ)カ∨尋(タヅ子)仰せ其ノ實-否 (ジツフ)ヲ之故(ユヘ)也(ナリ)。

といった例を見ることが出きる。そして、このような表記が南北朝の軍記物である『太平記』(慶長八年古活字版)の表記にも及んでいくことを知るのである。

去程に、搦手の兵、思も寄ず勝手の明神の前より押寄せて、宮の御座有ける蔵王堂へ打て懸りける間、大塔の宮、今は逃れぬ處也と思食切(おぼしめしきつ)て、赤地の錦の鎧直垂に、火威の鎧の、まだ巳の刻なるを透間もなくめされ、龍頭の冑の緒をしめ、白檀磨の臑当に、三尺五寸の小長刀を脇に挟み、劣らぬ兵二十余人、前後左右に立、敵の靉て引へたる中へ走り懸り、東西を掃ひ、南北へ追回し、黒煙を立て切て回らせ給ふに、寄手大勢也と云へ共、纔の小勢に切立てられ、木の葉の風に散るが如く、四方の谷へ颯とひく。<大系一212H>*すっかり覚悟決めての意。

さらに、橘成季『古今著聞集』(建長六1254年十月成立)に、

その御涙經よりつたはりて、院の御顔につめたくかゝりけるに、御信心の程思食(おぼしめし)しられける程に、速時に御色なをらせ給て、其(その)日は發(おこら)せ給はざりけり。<大系85L>

其(その)まへの夜、准后の御夢に、長谷の觀音より寳珠をたまはらせ給ふと御らんぜられけるを、御心の中計(ばかり)に思食(おぼしめし)て、仰出(おほせいだ)さるゝ事なかりけるに、其後朝に此(この)珠をもちてまいりたりける、不思議なる事也。<大系103C>

天治元年十月廿一日、鳥羽院寛治の例を尋て、高野に御幸ありけり。道の程おぼつかなく思食(おぼしめし)て、白河院よりひまなく御使ありけり。<大系286J>

とある。

 この「食」の字を古記録は何故このように用いるようになったのか?さらには、軍記物語・説話集にもこの表記字体が引用されていく過程を今後、考察してみたいと思っている。室町時代の古辞書易林本『節用集』には、「思召(オホシメス)」<言辞126D>と収載し、記録にみえる「思食」は見えない。

1999年6月6日(日)晴れ。八王子

北の夏 思い出絵描き 一走り

「唐豆」から「ソラマメ【空豆・蚕豆】」

 「トウまめ【唐豆】」の語は、室町時代の古辞書である『下学集』『節用集』などに未収載の語だが、同時代の『日葡辞書』に、

To<mame.タゥマメ(唐豆) そら豆.<邦訳『日葡辞書』658r>

と収載されている。この「唐豆」の字をある時「からまめ」と読んでしまい、さらに、これを「空豆」と表記するようにもなり、この表記字「空」の「から」を嫌って「そらまめ」と読んだことから「唐豆」=「そら豆」の異名が生まれたのであろう。そして、「莢(さや)、空(そら)に向ひて著(つ)く故に云ふか」(『大言海』所収、下記の収載参照)ということが重層しているのである。

語原図式:唐豆(タゥまめ)→からまめ⇒[空豆→そらまめ⇒蚕豆]*[]内は現在の使用

 実際、江戸時代の俳諧、芭蕉七部集『炭俵』(元禄七1694年)上巻に、

    1. 空豆の花さきにけり麥の縁(へり) 孤屋<日本古典文学全集521頁、新大系371頁>

*新大系は「空豆」に「そらまめ」と傍訓を付しているが、日本古典文学全集の写真版には傍訓は見えない。

元禄俳諧集『卯辰集』(上)巻第一に、

0153 空大豆(そらまめ)の花に初瀬の道もなし 句空<新大系206頁>

と、この「空豆」「空大豆」の漢字表記を見ることができる。これを「からまめ」と読むか、それとも「そらまめ」と読むかである。当時の人も最初は苦慮したに違いない。ただし、「からまめ」の実用例については未見である。孫引きになるが、全集の頭注に、向井元升『庖厨備用倭名本草』(1684年版)に「蚕豆(サンヅ) ソラマメ、ナツマメ」と見えるそうだが、「空豆」の表記がないことが些か氣になるところである。さらに、『多識編』(寛永七年版)に、「蠶豆 曽良末米」<100J>、近世前期俳諧歳時記である『毛吹草』(寛永十五年版)に、「空菽引くうふるはハ十月」、『をだまき』(元禄四年)に、「そらまめひく植るハ十月」<40D>、『誹諧新式』(元禄十一年刊)に、「そらまめひく」<42H>、『通俗志』(享保元年1716)に、「空豆を引」<18D>と、「そらまめひく」の一連の語を所載する。漢字表記は、「空菽」「空豆」である。これに対し、俳言を『節用集』風に蒐集記載した世話字盡である『常陸帶』(元禄四年刊)に、「蠶豆(ソラマメ)」<225H>、『増補大和言葉』(延宝九年刊)は、「蠶豆(ソラマメ)」<441B>、『俳字節用集』(文政六年1823刊)に、「蠶豆(ソラマメ)」<67ウA>と、「蠶豆」の漢字表記が見える。江戸時代前期には、「空豆」と「蠶豆」といった漢字表記に対し、「そらまめ」の読み方が定着していたようだ。

 『現代日本語方言大辞典』(明治書院刊)によれば、現在でも九州地方である福岡「トーノマメ」「トーマメ」・佐賀「トンマメ」・熊本「トルマメ¬」・大分「ト¬ーマメ」・沖縄「トーマミ」などでは、当初の「唐豆(トウまめ)」系統の呼称をもって言う地域があり、この派生呼称である「そらまめ」の方は、二次的であるが、現在は、北海道から西国四国まで和語名詞として定着をみているのが現状のようである。この「そら豆」については、大槻文彦編『大言海』では、

そら-まめ(名)【空豆】〔莢(さや)、空(そら)に向ひて著(つ)く故に云ふか。或は、蠶豆とは、其實(み)、蠶の時分に生熟する故に云ふか〕豆の一種。秋、種を下して、夏、熟す。苗の高さ、三四尺、莖は方(かく)にして、中、空し、葉は、べんけいさうに似て、厚く、四葉、一蒂なり、肥えたるは、六葉となる、春、葉の間に花を開く、大きくして白く、黒き斑あり、莢(さや)を結び、側立して、空(そら)に向ふ、形、圓筒状にして、指の如し、初め、緑にして、熟すれば、黒く、豆は、扁平にして、豌豆より大きく、なたまめより小さし、未熟なるは、莢と共に煮食ふべし。蠶豆<3-0158-2>

とある。ここで、異語表記「蠶豆」が記されているが、『大言海』は、「蠶の時分に生熟する故に云ふか」と解しているが、この豆自体が「蠶→蚕(かいこ)」に似ていることからというのが現在のとらえ方の様だ。また、用例そのものは未記載の語である。他に林春隆『食味宝典野菜百珍』(中公文庫刊)によれば、蚕豆「春二月葉の間に花を開く。大きくして白く黒い斑があって、その形が蛾に似ているより蚕豆と書く」というのだが、であれば、「蛾豆」とすべきであり、やはり上記の解釈の方が穏当であろう。この文中に特記することとして、「総じて蚕豆は、臓腑を利する功があるから、誤って針を呑んだ時は、この豆と韮とを煮て多食すると速やかに便通に下すといい伝える。またこの豆は雷を忌むので、その実る時節に雷鳴があると不作だということで、お多福と雷さんは暁斎の画にありそうな滑稽味である」と雑学を示し、結んでいる。

 この他の呼称として、「おたふくまめ【お多福豆】」「はじき豆」「なつまめ【夏豆】」がある。

[関連資料] 蚕豆の写真と解説

日替わりエッセイ インターネット・カゲロウ日記<1998年6月7日(日曜日)/(158-207)>

そら豆はまことに青き味したり(細見 綾子)

http://www.takii.co.jp/bn/bn_4y98.html

1999年6月5日(土)晴れ後曇り。八王子→新橋

風絶えて 午後の閑かさ 音のみき

「〜」の表現

 昨日の朝日新聞朝刊、松井雪子(漫画家)“ちまたの言葉”に、「あったか〜い」「つめた〜い」という記事が目についた。

自動販売機にはどうも愛想がない。飲み物を買うときは、自動販売機よりも売店で買うようにしている。人に手渡しされたほうが、おいしく感じる。◆しかし無愛想な自動販売機にも、いじらしいところがあることを最近知った。◆「あったか〜い」◆「つめた〜い」◆清涼飲料水の自動販売機において「HOT」「COLD」を日本語であらわすと、なぜか「あったか〜い」「つめた〜い」と語尾は伸ばす約束になっている。◆気をつけて見ると、ほとんどの販売機に書かれている。うそではないので、自分の目で確かめてほしい。◆清涼飲料水業界の常識なのか、いったい「〜」の正体は何なのだろう。◆「つめたい」よりも「つめた〜い」のほうが、優しく語りかけてくるニュアンスはある。なんだか「ルパン三世」が峰不二子を「ふじこちゃ〜ん」と甘えて呼ぶときのムフフ感と似ている気もする。◆このひそかなサービスに気がついて以来、自動販売機の誘惑に弱い。

 ここでいうところの「〜」だが、通常「記号(キゴウ)」と総称し、つなぎ記号「波ダーシ・波ダーシユ」と名称し、たとえば、「6/5Sat. セントラルステージ「スカイハイ」オープン」のように、ことばの「から」の役割を果たしてきた。昨今この「」だが、ことばの間に挿入され、柔らかな声調表現として用いられることのようだ。また、句表現の前後に用いられ、「籐の詩花と人形」のように、籐を素材にして花や人形を作るという意味合いの副題の前後に配置されたりもする。

 実際、会話表現「おばちゃーん!」「はーい」などと棒伸ばしにするのと、「おばちゃん!」「は〜い」と表示するのでは、ちょっとその会話者相互の表情も変わってくる。“優しさ、甘え、親しさ”など、この記号から読み取る言語感覚は実に面白い。

[ことばの実際]

超人気 鈴木あみを「万里の長城」で見つけた!<FRIDAY6月18日号吊見出し>

1999年6月4日(金)晴れ。八王子→世田谷駒沢

ヤッホーと 静かな夏に 心入れ

「はし」は「はた」に「はな」

「端」の字を「はし」の読むのが普通として、「はた」そして「はな」という読み方はどう異なるのだろうか。たとえば、「片端」は、「かたはし」が訛って、「かたっぱし」である。関東で「はし」を「はじ」ということを既に触れたが、これを関東でも「かたはじ」とは読まない。さらに、これを「かたはた」とか「かたはな」とは用いない。やはり、「かたはし」である。

[ことばの実際]

徳田秋聲『あらくれ』<新選茗著複刻全集 近代文学館 新潮社版>

日頃(ひごろ)口(くち)に鶴(つる)さんを讃(ほ)めてゐる女(をんな)が、片端(かたはし)から戀(こひ)の仇(かたき)か何(なん)ぞであるかのやうに思(おも)へ出(だ)して來(き)た。<100J>

山茶花(さざんか)などの枝葉(えだは)の生茂(おほしげ)つた井戸端(ゐどばた)で、子供(こども)を負(おぶ)ひなが襁褓(むつき)をすゝいでゐる姉(あね)の姿(すがた)が、垣根(かきね)のうちに見られた。<71@>

庭の運動場(うんどうば)の周(まはり)に植(うわ)つた櫻(さくら)の葉(は)が、もう大半(たいはん)黄(きば)み枯(か)れて、秋(あき)らしい雲(くも)が遠(とほ)くの空(そら)に動(うご)いてゐた。お島(しま)は時々(ときどき)爐端(ろばた)で差向(さしむか)ひになることのある、濱屋(はまや)の若(わか)い主人(しゆじん)のことなどを思(おも)つてゐた。<150I>

停車場(ていしやば)を出(で)て橋(はし)を一つ渡(わた)ると、直(す)ぐそこに町端(まちはな)らしい休茶屋(やすみぢやゝ)や、運送屋(うんそうや)の軒(のき)に續(つゞ)いて燻(くすぶ)りきつた旅籠屋(はたごや)が、二三軒(げん)目(め)についた。<140I>

部屋(へや)に落着(おちつ)いたお島(しま)は、縁端(えんばな)へ出(で)て、庭(には)を眺(なが)めながら呟(つぶや)いた。<141J>

1999年6月3日(木)曇り時々晴れ。八王子→世田谷駒沢

[今日の文化ニュース]

読売新聞夕刊・文化欄「梁塵秘抄」断簡 筆者のナゾ<下>「後白河法皇説」は誤り、小松茂美さん

朝日新聞夕刊・文化欄 発見された芥川龍之介の「鼻」 漱石の磁力感じる生原稿 石割透さん(駒澤短大教授)と一気に書き上げ、没に 菊池寛「坂田藤十郎の恋」 由里幸子さん

はよう寝れ ねこねここねこ 昼寝かな

「婦人」から「女性」に改称

読売新聞の記事に、

 東京で、婦人警察官たちが夏向きのキュロットスカートに衣替えした。いや、婦人という呼称も衣替えして、女性警察官と呼ぶことになったそうだ◆労働省の婦人局が女性局になるなど、ここ数年、関係組織の改称も進む。自治体を含め、行政用語から「婦人」はほぼ消滅したのではないか◆この言葉は、既婚や一定年齢層以上を連想しやすいし、「おんな偏に帚(ほうき)」もきらわれる理由らしい。その字解には異説があるし、それなら、人がひざを屈した形の「女」はどうかなどと言う向きもあろうが、大勢には抗しえない◆趣はやや違うが、看護婦に対応して看護士、保健婦に対して保健士という言葉も法制度上、定着した。保母に対して保父とは落ち着かなかったが、これは四月から保育士に統一されている◆「婦人」が健在なのは、いくつかの雑誌名と、そして「日本婦人有権者同盟」ぐらいか。戦前の婦人参政権運動を引き継ぎ、故・市川房枝さんが設立した重い歴史があるし、「呼び方よりも中身が大切ですから」とは、同盟事務局の話だ◆さて、街で女性の警察官をみかけて、親しみを込めて「婦警さん」とは呼びにくくなった。まさか「女警さん」はないから、ここは男女にかかわらず「お巡りさん」と呼ぶことにしよう。<読売新聞編集手帳(6月2日22:21)>

というのが目についた。

 女性の職業名からこの「婦人警察官」を無くして、「女性警察官」となった。これに伴う省略語形である「婦警さん」も使えないのかということのようだ。行政用語の「婦人」の「婦」は、次に民間用語の「主婦」にはじまり、病院の「婦人科」、病名の「婦人病」、看護婦の長である「婦長」などにも今後は波及して、この方向性で展開して行くのだろうか?と思ったりしている。尊称の「女史」は、チカラなしか……である。またひとつ一つと、改称変遷が遂げられてきている。

1999年6月2日(水)晴れ。八王子→世田谷駒沢

[今日の文化ニュース]

読売新聞夕刊・文化欄「梁塵秘抄」断簡 筆者のナゾ<上>「後白河法皇説」は誤り、小松茂美さん

公園に はしゃぐ波ぞ 彩か色

「かたす」

 東京語で「片づける」ことを「かたす」という。学生と会話していて、「ここ、かたしておいてね。」の「かたす」という会話表現に「それなぁに?」と一瞬強ばる瞬間があるというのである。関西では、これを「しまう」と表現する。北海道にいたとき、この「かたす」は、「仲間にいれてもらう」意で、円座のなかにあとから加わるとき「俺もかたしてくれ。」と表現されていた。同じ「かたす」でも所変われば意味が異なることがあるのだ。この意味を関西のことばでは、「よして」と表現する。

1999年6月1日(火)晴れ。八王子

夕近き 暮れる蒼穹にも 蛙かな

「あゆ【鮎】」

 鮎の川を溯上する季節がやってきた。若鮎が清流を行く姿は実に美しい。これを釣る“太公望”たちが釣り糸をいっせいに垂れる姿は初夏の風物詩ともいえる。鮎釣りには、“鮎の友釣り”が一般に用いられる。ことばとしては、明治時代の国語辞書である大槻文彦編『言海』には、

あゆ(名)【】〔字、は和字なり、神功后、此魚を釣りて勝敗を占はせたまひき、故に従ふと云ふ〕魚の名、春の初、河海の間に生じて、河に泝る、長きは八九寸、鱗細かくして腹白し、雌は首小く、身濶(ひろ)くして、色、黄を帯び、雄は身狭くして淡黒し、秋の末、河海の間に帰り、子を生みて死す。アイ。渓〓〔魚-温〕。香魚<38中>

とある。これが、『大言海』になると、

あゆ(名)【】〔日本釈名(元禄)中、〓(魚+條)魚(アユ)「あゆるなり、あゆるは、おつる也、云云」秋は川上より下へおつるものもの也」或は、零(あ)ゆるは、脆(もろ)く死ぬる意なるか、(鰯(イワシ)は、弱(よわ)しなりと云ふ)終止形を名詞とするは、御統(ミスマル)、給(ツギ)、調(ツグ)の船、閏(うるひ)、うるふなどあり、漢字の鮎(デン)は、なまづなるに、本草和名、倭名抄に、漢書を引きて、あゆとしてあれば、此字を充てたるも古し、されど、其誤なることは、箋注倭名抄に、委しく弁じてあり、鮎の字は、占魚の合字なり、神功皇后、此魚を釣りて、征韓の勝敗を占(うらな)ひたまひしことあるに因る、(和訓栞の説)今、あいと云ふは、音転なり、景行紀、五十一年「年魚市(あゆちの)郡、熱田社」倭名抄、五6「尾張國、愛智郡、阿伊知」年魚(ネンギヨ)と云ふは、倭名抄に、一年にして死すれば云ふと云へど、〓(魚+夷ナマヅ)の釈なれば、いかがなり、東雅、十九に、鮎(ネン)、年(ネン)、音通なれば、借用せしかと云へり、鮎(デン)、呉音、ネンなり〕魚の名。今、多くは、あいと云ふ。河中に発生して、一旦海に入り、四五月、再び河に泝る、長大なるは一尺余に達す、鱗細かくして、腹白し、雌は首小さく、身濶くして、色、黄を帯び、雄は身狭くして淡黒し、味、美にして、一種の香気あり、秋の末、産卵すれば、衰弱して海に入る。美濃の長良川、武蔵の多摩川の産、殊に名あり。渓〓〔魚-温〕。香魚 *神功紀、仲哀九年四月、肥前國松浦郡玉島里、小河「皇后、云云、登河中石上、而投鉤祈之曰、朕西欲財國、若有事者、河魚飲鉤(づりくへ)、因以挙竿、乃獲細鱗魚(あゆ)」*古事記、中(仲哀)63「太后(神功皇后)釣其河之年魚(あゆ)」天智紀、十年十二月、童謡「三吉野(みえしぬ)の、吉野の阿喩(あゆ)」*本草和名、下16「〓(魚+夷)魚、一名、鮎魚、阿由」*倭名抄、十九4「鮎、〓(魚+夷)魚、一名、鮎魚、安由、春生、夏長、秋衰、冬死、故名年魚也」(節文)<101三>

と、内容説明が大幅に増補改定されている。関心度合いとしては、現代の国語辞典である『広辞苑』をしのぐ解説なのである。

[関連資料] 鮎用語辞典

 

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