[7月1日〜7月31日迄]                              BACK(「ことばの溜め池」表紙へ) MAIN MENU

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1999年7月31日(土)晴れ。八王子

ミーンみーんと 庭に響くや 暑気払ひ

「はしだて」の難漢字

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』葉部に、「〓〔?(シンニョウ)+日を縱横3×3で、九字に配置する〕」<天正十七年本46B>で、「ハシタテ」と傍訓した文字を収載する。注文には、「丹後之天之―」とあって、「天の橋立」であることが解るのだが、この字、誰がどのような目的で、いつ頃用いたのかを確めたい“難字”かと思うのである。

このなかで、西来寺蔵天正十五年本は、

〓〔シンニョウ+日の字9〕 アマノハシタテ。丹後ノ之―。百人一首ニ。√哥云。ヲウヘ山、イク野ノ道ノトヲケレハ、マダフミモ見ス、アマノハシダテ<65@>

と、『百人一首』の歌(「大江山 生野の道の遠ければ まだ文も見ず 天橋立」 小式部内侍)を引用するなど他本以上に詳細に増補している。

普通に「橋立」と表示すればよさそうなものだが、この複雑な文字をどうして『運歩色葉集』の編者が記したのかも謎である。『大廣益會玉篇』に未収載のことからも中国から伝来した漢字ではなく、本邦で考案された和製漢字ということになろう。

 そして、この難字だが、永正本『字鏡抄』下末64部や法華三大部『難字記』(承應二年版)などには未収載にある。古辞書からの探索は、まさに同時代前後する『下学集』そして『節用集』『倭玉篇』『日葡辞書』などとの比較検索にあるが、この語については、唯一『運歩色葉集』だけが収載するのみであり、他に収載を見ない事実を“古辞書における難字研究―名所地名の収載―”の出発点とせねばなるまい。鎌倉時代には、和歌の辞典ともいう『八雲御抄』巻第五の十八「橋」に、

丹後あまのはしだて(たゞはしだてとも。是は橋にあらず。海中にいでたる嶋さきの松原のはしににたる也。よさの海也)<日本歌学大系別巻第三408頁>

とあるものの、室町時代における「天橋立」という名所地は、どうも歴史のポケット化現象にあったようだ。降って江戸時代の古辞書『書字考節用集』には、通常の

天橋立(アマノハシダテ)又云九世ノ渡。丹後與謝ノ郡。<乾坤二6D>

「九世ノ渡」は、天正十八年本『節用集』の久部天地門「九世戸(クセノト)丹後ノ文殊」<上43ウF>に連関する語か。

が再び収載されている。

 「天橋立」は、現在では “砂州の松並木”6000本以上を有する日本三景の一つに数えられる景勝地と知られ、古くは『丹後風土記逸文』そして、平安時代の小式部内侍の歌に詠まれている。明治時代の大槻文彦編『大言海』に、

あまのはしだて(名)【天の橋立】 〔はしだては、階梯(はしたて)(梯子(はしご))なり、其條、竝に、天浮橋(あまのうきはし)の條を見よ〕丹後國、與謝(よさの)郡、宮津灣(古名、與謝ノ海)の中央を横劃する、細長き沙嘴の名。長さ廿七町四十間、不同の處もあり、沙嘴上、一帶に、蒼松叢生して、奇觀を呈す、日本三景の一とす。(其條を見よ)此沙嘴は、神代に云へる、天浮橋の倒れたるものなりと云ふ傳説あり、然れども、此地の天橋立の稱、平安朝中世の頃より見え、萬葉集、古今集に吟詠なし、三景の稱の起りしは、遥に後なるが如し。*釋紀、五、述義、一、丹後國風土記「與謝郡、郡家ノ東北隅方、有速石(ハヤシ)ノ里、此里之海有長大石前(イソザキ)、長二千二百廿九丈(尺の誤カ)廣、或所、九丈以下、或所、十丈以上、二十丈以下、云云、伊射奈藝(イザナギ)ノ命、天ニ爲通行而梯作立、故云天梯立(アマノハソダテ)、神ノ御寢坐(ミネマセル)間ニ仆伏(タフレフス)、云云、案之、天浮橋者、天橋立、是也」。*續後紀、十九、嘉祥二年三月、長歌「久方ノ、天能梯建(アマノハシダテ)、踐歩美、天降利坐志志(アモリマシシ)、大八洲、天津日嗣能、高御座」(瓊瓊杵尊の、天浮橋より天降りましたるを云へるなり)。*名所補翼抄「村上の御時、菊合日記云、二番の方、云云、天の橋立の形(かた)を造りて、松につけたりける歌、云云」(大日本地名辭書)。*赤染衛門集「思ふこと、なくてや見まし、與射の海の、天のはし立、都なりせば」。*續後撰集、一、春上「神代より、かはらぬ春の、しるしとて、霞みわたれる、天のうき橋」。<1-0142-1>

と見える。だが、これを室町時代古辞書の世界に求めると、なぜかこの地の記載例が乏しいのである。そして、『運歩色葉集』が、何故三文字でない単漢字で示す“難字”「はしだて」を収載するのか、これをさらに考察せねばなるまい。「日」の字九字にシンニョウの文字の意味するところと「橋立」の連関性は何か?

1999年7月30日(金)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

暑き日も 風吹き渡り 汗ひかす

「同画異字」

 漢字の文字構成を見て、偏旁頭脚の位置が替ることで、その音訓の読みが異なる単漢字がある。

たとえば、「木」に「口」を添えた単漢字を想定すると、

「口」を「木」の縱上に置く「呆(ホウ)」

「口」を「木」の縱下に置く「杏(キョウ)」

「口」を「木」の横左に置く「口+木」と横右に置く「木+口」

となり、上下の字は、れっきとした漢字だが、左右の横に置いた字は、こんな字あったかなと、ふと首を傾げてしまう文字でもある。他に、“旁”の字を移動して、

「糸+田」の合字も、縱上型「累(ルイ/かさねる)」と横右型「細(サイ/ほそい)」

「衣+今」の合字は、縱上型「衾(キン/ふすま)」と横右型「衿(キン/えり)」

「口+十」の合字は、縱上型「古(コ/ふるい)」と横右型「叶(キョウ/かなう)」

と、音訓を異にした“同画異字”なのである。

それに対し、位置を移動しても同音訓とする文字もある。

   「ホウ/みね」は、「峰」「峯」で、横左と縱上で共通する音訓文字

 用字の実際 「峰」天正18節。

「タウ/しま」は、「嶋」「嶌」で、横左と縱上で共通する音訓文字

「キ/さき」は、「崎」「嵜」で、横左と縱上で共通する音訓文字

「カイ/かに」は、「蠏」「蟹」で、横左と縱下で共通する音訓文字

 用字の実際 「蟹」天正18節。

これらは、“偏”の文字を移動し、地名やそして苗字などに多く用いられていることは言うまでもない。

1999年7月29日(木)晴れ。八王子⇒世田谷三軒茶屋、駒沢

文化庁“日本語教育研究会”於昭和女子大

生足と 背広スーツの 夏姿

「心は○○の如し」

 自身の心のうちを表象するとき、何かに譬えて人に伝えようとする。「心は、○○の如し(のようだ)。」という具合にである。

 さて、宮内庁書陵部蔵『大乗本生心地観経』院政期点を読むと、この句が羅列されていることに気づく。

1、衆生の心は猶、大地の如し。[乾坤]

2、善男子、心は幻法の如し。「言辞」

3、苦樂を受くるが故に、心は流水の如し。「乾坤」

4、念念生滅して前後世に於いて、暫くも住せざるが故に、心は大風の如し。「乾坤」

5、一刹那の間に方所に歴るが故に、心は燈焔の如し。[乾坤]

6、衆縁和合して生ずることを得るが故に、心は電光の如し。「乾坤」

7、須臾の頃にして久く住せざるが故に、心は虚空の如し。「乾坤」

8、客塵煩悩覆-障する所なるが故に、心は猿-猴の如し。[氣形]

9、五欲の樹に遊びて、暫(シバラ)くも住せざるが故に、心は畫師の如し。[人倫]

10、能く世間の種種の色を畫するが故に、心は僮-僕(−ホク/ヤツコ) の如し。[人倫]

11、諸煩悩の為に策役(シヤクヤク)所(セラル)が故に、心は獨行の如し。[言辞]

12、第二无きが故に、心は國王の如し。[人倫]

13、種種の事を起こすに、自在を得るが故に、心は怨家の如し。[人倫]

14、能く自身をして大苦を受け令むるが故に、心は埃塵(アイ−) の如し。[乾坤]

15、自身を〓〔分+土〕汚(フンワ)して、雜穢を生ずるが故に、心は幻夢の如し。[言辞]

16、无我の法に於て、執して我と為(ス)るが故に、心は夜叉の如し。[人倫]

17、能く種種の功徳法を〓〔口+敢〕(クラ)ふ故に、心は青-蝿(−ヨウ/アヲバヘ) の如し。[氣形]

18、穢悪を好(コノ)むが故に、心は殺者の如し[す(原字)]。[人倫]

19、能く身を害するが故に、心は敵對(チヤクタイ/アタ−) の如し。[人倫]

20、常に過(トガ)を伺(ウカヾ)ふが故に、心は盗-賊(タウソク/ヌスビト) の如し。[人倫]

21、功徳を竊(ヌス)むが故に、心は大鼓の如し。[器財]

22、闘戦を起こすが故に、心は飛-蛾(ヒカ/トブヒヽル) の如し。[氣形]

23、燈(/トモシビ)-色を愛するが故に、心は野鹿(ヤロク) の如し。[氣形]

24、假-聲を逐(シタガ)ふが故に、心は群-猪(−チヨ) の如し。[氣形]

25、雜穢を樂(ネガ)ふが故に、心は衆蜂(/−ハチ) の如し。[氣形]

26、密味を集(アツ)まるが故に、心は酔象の如し。[氣形]

27、牝觸(ヒン−/メ−)に耽(フケ)るが故に、善男子・是の如き所説の、心所の法は内无く外无く亦中間无し。

28、妄業に依止して、世間の受非愛の果有りて恒に相續す。心は流水の如し。[乾坤]

29、暫くも住せ不(ズ)。心は飄風(ヘウ−) の如し。[乾坤]

この3から26は、「が故に、心は○○の如し」といった表現文章で連続する。この上接語としては、「体言<名詞>+を+<和語動詞>」がその主体にある。「○○」には、『節用集』風の意義分類でいえば、「乾坤・氣形・器財・人倫・言辞」などの語が挿入されている。

 明治時代の夏目漱石『草枕』十の、

こんな所へ美しい女の浮いてゐる所をかいたら、どうだらうと思ひながら、元の所へ歸つて、又烟草を呑んで、ぼんやり考へ込む。温泉場の御那美さんが昨日冗談に云つた言葉が、うねりを打つて、記憶のうちに寄せてくる。心は大浪にのる一枚の板子の樣に揺れる。<日本近代文学大系25、夏目漱石集U261S>

と、近代語中にも「心は○○の樣」の修辞句を見い出すが、これほど連続して畳み掛ける用法は見ない。

1999年7月28日(水)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

汗流る タオル拭いて 外の風

「うに【雲丹・海胆・海栗】」

 読売新聞夕刊“気がかりな夏、'99eco”に、「成熟遅いウニのオス」という記事が目に入る。「磯部の生き物」、「棘皮動物」と連想するより、食の素材としての「ウニ」を連想するほうが多かろう。

 この「ウニ」のオスとメスの成熟期のずれが繁殖に大きな影響を与えているというのである。その要因の一つとして、有害化学物質(テトラフェニルスズ・ノニルフェノール)などによる環境影響にあるのではということのようだ。

 こうした記事を、目の前にして寿司ネタである「ウニ」を食する「寿司屋」から、「ウニ」という名が消えてからでは遅い。人が環境にやさしい生活をしていかなければ、ありとあらゆるところから、このようなことが噴出してくる。

 室町時代の『日葡辞書』に、

Vni. うに(雲丹) 雲丹 ⇒Cabutogai.<694r>

とみえ、さらに本邦の古辞書では江戸時代の『書字考節用集』に、

靈螺 (ウニ)[本草]見似橘ニ而圓ク其ノ中紫色ニシテ生スル芒角ヲ者。海膽 (同)出加。<氣形五67B>

と見える。

1999年7月27日(火)晴れ。八王子  野球オールスター第3戦(セリーグ勝利)

山百合の 香しき匂ひ 風に乗る

「郡名【能義】」の表記と読み」

 7月19日の継続である。室町時代の古辞書、易林本『節用集』に所載の郡名の表記とその読みの検証である。山陰道(そとものみち・かけとものみち)八カ国の一つ、出雲〔雲州〕国十郡中の「能義(のぎ)」を易林本は、「能美(のみ)」とする。『倭名抄』能義(ノキ)」、『拾芥抄』熊義(ノキ){能(ノウ)イ}」とともに正しい。キリシタン版『落葉集』は、郡名は収載されていないので検証できないのが残念だが、同時代の『新撰類聚往来』は、「能義(ノキ)」<40A>と正しく、そして、『運歩色葉集』は、「能美」<天正十七年本154@、西来寺本(天正十五年本)は「美」の字を分解して説明すると、「羊」の下にひらがなの「み」のように表記する。一層、「義」の字に類字する。>と読み仮名は付されていないが、易林本と同様に、「」であり、「」との字形相似による誤写にある。易林本は、さらに郡名の読みを「のみ」としている。いわば、編者のミスジャッジということになる。

[ことばの実際]

『後拾遺往生伝』 :良範上人者。出雲国能義南郡人也。<661下S>

『本朝新修往生伝』:勢縁上人者。出雲国能義北郡人也。少登台山。受習真言。<684上S>

1999年7月26日(月)晴れ。八王子  

夕陽落つ 西に赤あか 目も眩む

「〜なさい」

 沖縄の代表民謡“花”の歌詞の、「泣きな〜さい。笑いな〜さい。」を引用した清涼飲料水“SAI、菜”のコマシャールに、「“さい”は、人に命令する」という文句が耳についた。

国語辞書『新潮国語辞典』第二版で“さい”は、

さい(助動)(尊敬の助動詞「さる」の命令形)敬意をもった軽い命令を表す。…なさい。…してください。「見さいな見さいな〔狂・金津地蔵〕」

とある。この助動詞“さい”と“SAI”とを掛けた妙味あふれるキャッチ・フレーズである。この助動詞の初出用例が室町時代の狂言「金津地蔵」であることから、次の“SAI”の宣伝表現が生まれてくる可能性はなきにしもあらずである。

1999年7月25日(日)晴れ。八王子  

盆踊り 太鼓響くや 笑ひ声

「くらがり」と「くらやみ」

 「暗闇」の熟語、または、各々一つひとつの単漢字にして、「くらがり」または「くらやみ」と読むかについてである。

諺に「から牛を牽きだす」というのがある。意味は、「(暗い所に黒い牛がいても、はっきりしないことから)@動作がにぶくはきはきしないたとえ。A物事の区別がはっきりしないたとえ。」に用いる。この「暗闇」の読み方だが、「くらやみ」または、単に「やみ」と読むか、それとも「くらがり」と読むか、その決定が必ずしも明確でないようだ。

A[くらがり]の用例

闇(くらがり)から牛(うし)牽摺(ひきずり)出(い)だす」<『たとへづくし』天明七(1787)年>

「まことに闇がりから牛を引き出すごとくに、樂寝をおこせど目を覚さず」<浮世草子『西鶴置土産』五>

B[くらやみ]の用例

クラヤミカラ牛ヲ引出スヤウ」<太田全斎編『諺苑』寛政九(1797)年>

といった具合にである。江戸時代の「諺集」二本にして異なりが見られ、このことは、近代の国語辞書や『ことわざの辞典』に引き継がれたままにあるようだ。

1999年7月24日(土)晴れ。八王子  土用の丑の日

ワッショイと 陽の強きなか 神輿行く

「土用丑の日、うなぎの日」

 「土用丑の日」という表現と「土用の丑の日」という表現が目に付いた。「の」を挿入する、挿入しないは、「山手線」を「山の手線」という言い方にも通じている。

[雑学講座]

「土用」は、立春・立夏・立秋・立冬の前十八日間をいう。通常立秋の前にあたる「夏の土用」をいい、立秋(八月八日ごろ)から遡って、七月二十日から八月七日ごろの十八日間をいい、この期間中の「丑(うし)の日」に「うなぎ【鰻】」を食すという食習慣が江戸時代に誕生した。一説に、江戸時代の博物学者平賀源内(1729〜1779)の勘案キャッチフレーズ「本日土用丑の日、鰻の日」という看板によるというもの。一説に、文政年間(1818〜1830)に、春木屋という「うなぎ屋」が大量の鰻注文を受け、一日では到底捌ききれない、そこで土用の子の日、丑の日、寅の日の三日に分けて焼いたところ、「丑の日」に焼いたものが最も傷みがなく旨かったところから、「鰻は土用の丑の日に限る」というようになったというもの。夏バテ対策の食品へと押し上がって現代に到る。

 この「の」だが、古くは人名にあって、「柿本人麻呂」は、「かきのもとひとまろ」、「大伴家持」は、「おおともやかもち」と読む。この読み方は、鎌倉時代の「平清盛(たいらきよもり)」「源頼朝(みなもとよりとも)」と続く。これが、室町時代以降になると、「足利尊氏」は、「あしかがたかうじ」、「楠正成」は、「くすのきまさしげ」と「の」を挟まずに読むようになる。この差異は何を意味しているのかといえば、「氏名(うじな)」から「家名(いえな)」への移行であったという。「源平藤橘」という氏名の一つ「藤原」から輩出したところの一条家・京極家は、「京極爲兼(きょうごくためかね)」と読み、氏素性ではないが、これを氏名でいうときは、「藤原爲兼(ふじわらためかね)」と読むというのである。<参照『日本語相談五「徳川と家康の間にのを入れない理由」(丸谷才一)』268頁>

 では、次に「山手線」と「山の手線」はといえば、どう異なるのか、「やまのて」の対義語に「しものて」があって、地域全体を指し示す表現となっている。これが「やまて」と「しもて」と表現すると、ある地点と方向を指すしか云い様がない。ただ「の」を付けずに「やまてせん」では、「の」を付けた「やまのてせん」という「“やまのて”という地域全体を経由する路線」といった本来の意味合いを伝えきれない状況が生じてくる。これと同様に、「土用丑の日」と「土用の丑の日」では、上記“雑学講座”で示した本来の言語内容を意識したことばの伝達が希薄か重視かを問われているのだという氣がしてならない。ただの「の」の字だがやはり大切にしたい。<参照文献:山田俊雄著『ことばの履歴』V語形感覚「の」の字、岩波新書126頁から130頁>

1999年7月23日(金)晴れ。八王子⇒東京

陽射し浴び 走るに汗ぞ ポタリポタ

「大魚(おほいを)」

 巨大化したペットの生き物が放置され、水中に本来棲息しない「巨大な魚」が突如現れたりする。こういう「大魚」だが、室町時代の易林本『節用集』に、「(ギヾ)」「〓〔+〕(キヾフ)」<氣形門186F>とあまり聞き慣れない「ぎぎ」や「きぎふ」といった名称で見えている。そして、同じく枳園本『節用集』(印度本系統「堯空本」「兩足院本」)には、

(ヲヽイヲ)。〓〔+便〕(同)。<遠部畜類上43ウE>

とあって、「」の漢字をまさしく「おほいを」すなわち「大魚」の読みで付訓している。これは、『莊子』逍遥遊に、

北冥有魚、其名為北冥に魚有り、其の名を鯤と為す。其の幾千里なるかを知らざるなり。化して鳥となる。其の名を鵬と為す。鵬の背、其の幾千里なるかを知らざるなり。

に拠っている。これを「ぎぎ」と呼称する拠り所を求めている。も一つ「〓〔+〕」の字は、いま定かでないが、旁りの「雨」と「朋」の字形相似による誤字と解して「〓〔+〕ホウ 匹亘ノ切、大魚」<大廣益會玉篇>の字ということも考えられよう。そして、印度本系統『節用集』所載の「〓〔+便〕」は、『中国神話伝説大事典』<大修館刊所収>の「たいべん【大〓〔+便〕】」の項目に、

大きな魴(ほう)。「前漢代初期の『山海經』海内北経に、「〓〔+便〕(タイベン)が海中にいる」とあり、西晋代の郭璞(かくはく)〔276-324〕が「〓〔+便〕はすなわち魴(とがりひらうお)である」と注を付している。<448頁>

とあることで、中国の湖川に棲息する「とがりひらうお」であることが確認されている。

[補遺:ことわざ] 魴魚〓〔赤+貞〕尾(ほうぎょていび)

《故事》おしきうおの尾が、本来白いのに、疲労で赤くなる。人民の苦労のひどいことのたとえ。〔詩経・周南・汝墳〕

1999年7月22日(木)曇り一時雷轟く。八王子⇒世田谷駒沢

蝉時雨 都会の街に 届かずや

「音呼(インコ)」

 室町時代の古辞書である『節用集』易林本・天正十八年本>に、

音呼(井ンコ)鳥 <易・爲部氣形門121F>

音呼(インコウ) <天・爲部畜類門上2ウE>

と見えている。この舶来の鳥名は、『新撰類聚往来』19鳥類や『初心要抄』16鳥類などの名彙辞書には未収載にある。

『時代別国語大辞典』室町時代編(三省堂刊)によれば、松平忠明『当代記』(史籍雑纂2)巻第九に、

カボチヤより爲音信虎の子二、駿府え来。籠に入、馬に付、通路次。同いんこの鳥も来。

と、仮名書きで見える。「カボチヤ」すなわち、インドシナ半島の「カンボジア」の国から「駿府」の城へ渡来した記録がここに見えている。唐宋音「インコ」は、「鸚哥」とも書く。

1999年7月21日(水)曇り一時雷雨。八王子⇒世田谷駒沢

梅雨明けや 雷轟き 西東

「琉球」

 室町時代の古辞書である『下学集』に、

流求(リウキウ)<天地20D>

と「流求」という漢字表記で見え、枳園本『節用集』も、

流求(リウキウ)外国<天地上37ウE>

と「流求」という漢字表記で見え、これに語注記「外国」が付く。天正十七年本『節用集』文明本『節用集』には、

流求(リウキウ)外国嶋名。琉球(リウキウ)<天正十七年本、天地上27オA>

琉球(リウキウ)外國島名。或作流求<文明本、利部・天地門188A>

と、両様の漢字表記が示され、語注記を有する。そして、易林本『節用集』増刊『下学集』にして、

琉球(リウキウ)外国。<利部・乾坤55B>

琉球(リウキウ)外国島。<利部・乾坤19オC>

と、現在も見られる玉偏の「琉球」の漢字表記になり、語注記「外国」すなわち、「とつくに」ということばを付加した形式となっているのである。この国の呼称「りゅうきゅう」を「流求」から「琉球」への漢字表記へと移行していく様子が読み取れるのである。また、『運歩色葉集』には、利部にこの国の見出し語はみえないが、「りうきうこくのよのぬしへ【琉球國之世之主へ】」という応永二十一(1414)年の書簡を記す。

流球國之世之主へ 御文委ク。見申候。進上之物共慥 請取リ候。應永廿一年十月廿五日自公方様流球へ被遣候。流球國之主へ。御返事如此候。假名也。小島ノ檀紙少功上下縮也,<静嘉堂本>

流球國之世之主へ 御文委ク。見申候。進上之物共慥 請取リ候。應永廿一年十月廿五日自公方様流球へ被遣候。流球國之主へ。御返事如此候。假名也。小島ノ檀紙少功上下縮也,<元亀本>

りうきう國のよのぬしへ 御文くはしく見申候。しん上の物ともたしかにうけとりぬ。公方さまより龍興へ我遣。應永廿一年十月廿五日。御返事如此候。假名。小高。檀帋少切上下縮也,<天正十七年本、上45オE>

流球国之世のあるしへ 御文くわしく見申候。進上之物慥ニ請取リぬ。應永廿一年十月廿五日。自公方様流球へ被遣。御返事如此候。假名にてうし。小高檀紙〔コタカダンシ〕少切上下縮〔ツヽムル〕也,<西来寺本>

とあって、『節用集』の表記とも異なる「流球」が用いられている。この当時の辞書編纂者意識からすれば、現在の沖縄県すなわち「琉球王朝」は、南の海を隔てた異国との交流そのものであった。

1999年7月20日(火)雨のち曇り空。八王子 海の記念日

涼風を 牽き入れる音は 風鈴ぞ

「夷地」の妙獣

 鎌倉時代の『拾芥抄』に、“大日本國圖、行基菩薩所圖也”という図絵を所載する。この最北の地として、「夷地」が記され、その圖中注記に、「百八十城。諸妙禽獣等集住。州人主取此皮也」と記されている。

この注記内容をもってすれば、「もろもろの妙なる禽獣(とりけだもの)など集まり棲み、州(くに)の人はおもにこの皮を取りて生活(くら)している」という事実を読み取ることができる。

 この最北の地を「夷地」、すなわち「えぞのち」というのである。室町時代の古辞書である元和本『下学集』易林本『節用集』に、

蝦夷島(エゾカシマ)<天地24F>

蝦夷島(エゾカシマ) 夷島(同)。<江・乾坤161D>

と見えている。だが、これらの辞書には、この地名における産業や生活文化といった風土記のごとき詳細な語注記は見えていない。この地から産出する諸の品物が都に入って来るのは、僅少であったのであろう。同じく易林本には、北の海に生息する“ラッコ”が良部の氣形門に、「蝋虎(ラツコ)」<112D>と見えている。この妙獣の毛皮が遠い都で、当時どのように扱われていたのかを追って見たいところである。

1999年7月19日(月)曇り。八王子⇒世田谷駒沢

良き夏を 迎へんがため ひとまとめ

「郡名【姶羅】」の表記と読み

 平安時代の源順『和名類聚抄』に、大隈の郡名の一つとして、「あひら【姶羅】」という地名がある。これを室町時代の易林本『節用集』では、「始羅(シラ) 始又作姑」としているのである。“行基大日本国図絵”の地名漢字表記を鎌倉時代以降室町時代に渡って、書写して行く過程において字形相似による誤まった記述をここに読み取ることができるのである。すなわち、「姶」に字を「始」そして「姑」の漢字表記にである。これらは、いずれも字音を「オウ」「シ」「シュウ」と異にする。

 鎌倉時代の『拾芥抄』にあっては、正しく「姶羅(アヒラ)」と『和名抄』の表記及び読みを継承している。ところが、南北朝時代を経た後のとりわけ、室町時代における日本国の郡名に対して、その表記及び読み方を検証して見ると、深い関心がないといえばそれまでだが、辞書の末尾に示されたこれらはの“郡名”は、正確な表記と呼称を何ら省みられることなく、編者の書写状況にすべてが委ねられていたことをここに見ることができよう。実際、『新撰類聚往来』は、扁である「女」の字を省画した「合羅(カフラ)」<64-5>とし、読みも音読にして記載している。『運歩色葉集』は、読みは示していないが、「妬羅」<天正十七年本、上71オC>、とこれまた別字となっているのである。

 ここに示した易林本『節用集』『運歩色葉集』『新撰類聚往来』といった古辞書における区々な表記及び読み方は、江戸時代への文化知識のなかでどう正改編されていくかを含め、この不統一な地名意識が編者の書写状況における字形相似にはじまり、さらにその地名の読み方にまで影響を及ぼしていることを知らねばなるまい。この上記の字形相似及び読み方について、更に調査をしていくと、易林本『節用集』が最も異なりの多いことに気がつくのである。

1999年7月18日(日)曇り。八王子

蜩の 山風ごしに 渡りきや

「あざれ【餒】」

 「餒れ」は、平安時代の紀貫之『土左日記』に、

しほうみのほとりにてあざれあへり。

という表現が知られている。この「あざれ」だが、漢字表記すると、「餒」と書く。室町時代の古辞書である易林本『節用集』に、

(アザレテ) 魚―。<言語175C>

と収載する。意味は、魚肉が腐ることである。『日葡辞書』にも、

Azare,uru,eta.アザレ,ルル,レタ(餒れ,るる,れた)例,Nikuga azaeta.(肉が餒れた)肉がすでに少しいたみ損じて,最初の新鮮さがなくなっている.<44r>

と見えている。夏場魚肉の鮮度は、一刻を争う。粋のいい魚を保存して食す知恵が生んだのが、塩漬けであった。塩をたっぷり利かせた魚肉は、旨いものではないが、魚肉を食すにはこれが最も良い方法でもあった。生魚を食すには、それこそ海浜際か船上でなければならなかったのが、冷凍保存によって、遠い海から水揚げされた魚肉を「くさらす」すなわち、「あざれる」ことなく食卓に上らせている。

 先日、「飛魚」の姿盛りの刺身を食したが、これなぞまさしく鮮度そのものが要求される。

1999年7月17日(土)曇り。八王子

蝉の声 物静かにや 入力す

「ザウ【象】」

 本日の朝日新聞には、象牙が再輸入された記事が一面を飾っている。室町時代の古辞書である『下学集』に、

(ザウ) 雷ノ鳴ル時(トキ)花ノ紋生ル牙(キハ)ニ。句ニ云ク象ハ被サル雷ニ驚(ヲトロカ)花入ル牙ニ。与上ノ之犀ノ句一對也<氣形門61D>

と見える。さらに、『節用集』に所載されている。なかでも、天正十七年本・天正十八年本・枳園本・文明本は詳細な語注記を有する。

(ザウ)  雷鳴(ナツテ)而紋(モン)生ス牙(キハ)ニ。云々六牙ノ白象、句云象被驚雷花入牙也。<天十七年本、畜類433A>

(ザウ)  六牙白―雷鳴尤紋生牙云。<天十八年本、下・畜類20ウH>

(ザウ)  雷鳴而紋生牙。句云被雷驚花入牙。犀句一對也。<枳園本、畜類433A>

(ザウ/キサ、シヤウ)  世謂(イヘラク)舜田于歴山ニ。象為之耕シ。鳥為之耘キル。聖徳之感召也。左思賦曰、舜葬ル蒼梧ニ象為之耕。禹葬ル會稽ニ鳥為之耘。異名。聴跪。丘徒。白時。<文明本、氣形門778D>

とあって、語注記内容は、「犀」のように、形状については触れずに、専ら牙に終始しているのである。いわゆる「象牙」にである。天正十七年本(伊勢本)及び天正十八年本の語注における「六牙の白象」は、釈迦牟尼佛に関係するものであり、この部分は『下学集』枳園本には見えない。逆に枳園本(印度本)は、『下学集』にある詩句内容「犀の句と一對」であることを継承し記載している。このことは書写記述として重要なメッセージであり、たとえば黒本本(印度本)のように、「象」と「犀」の語との間に「猿・榮螺・宿?毛・鮭・鷺・〓〔茲+鳥〕・鯖・山梁・鮫・鰆」の10語が挟まれていて、両語の関連性を希薄にし、語注記自体に連関の説明が見えない排列内容からすれば一層はっきりしているのである。ここで文明本だけが『下学集』の注記から離れ、中国の聖帝である「舜」の逸話を以って独自の注記内容を記載する。さらに「異名」を増補する。

 さて、この『下学集』が引用した語注記“「犀」と「象」とを對にする詩句”については、その典拠をまだ見出せずにいる。

[ことばの実際]

或時は師子(しし)常に来りて馴れ親しみ、或は白象(びやくざう)来りて昼夜宿直(しくぢき)せり。<『大日本国法華経験記』巻上第十六、日本思想大系73Q>*普賢菩薩の乗り物

夢に白象(びやくざう)に乗れる普賢に対ひ立ち、また毘沙門善き言をもて讃歎(さんだん)す。<同上第廿、79E>

常に夢の中に白象(びやくざう)王に乗りて、深く大きなる海を渡り、険難の峰を越えて、平正なる所に到るに、勝(すぐ)れて妙なる伽藍あり、云云とみる。<同上巻中第五十六、123L>

その夜半守夢に見らく、この僧普賢(ふげん)菩薩の形にして、白象(びやくざう)に乗りて、舎(や)の中に籠り住めり。その門の前に、また普賢菩薩ありて、白象に乗りて、光を放ち、奥の普賢に向ひて、捕へ禁められたるの由を問訊(もんじん)すとみたり。<同上第七十一、140EF>

兵部その夜の夢に見らく、金色(こむじき)の普賢あり、白象(びやくざう)王に乗りたまへり。<同上第七十二、141J>

夢に見らく、金色の普賢、白象に乗りて、口を開きて唱へて云はく、善女諦に聴け。<同上巻下第百十七、201P>

1999年7月16日(金)晴れ。八王子

山鳩や ほろほろ鳴くよ 夕暮れに

「サイ【犀】」

 絶滅寸前といわれている“ジャワサイ”の亜種がベトナム南部のカティエン国立公園で撮影され、その勇姿の写真が公開された。この「サイ」を漢字で「犀」と表記する。学研『漢和大辞典』によれば、この「サイ」の音は、呉音である。さらにみると、

 牛部 8画 総画数 12画 第1水準 区点=2652 16進=3A54 シフトJIS=8DD2 Unicode=7280

[意味] {名詞}獣の名。角はかたくて、器にしたり、けずって薬にしたりする。皮は厚くてかたいので、昔よろいに用いた。本字は「尸+辛」で、きばが鋭いこと。

とある。室町時代の古辞書である『下学集』に、

サイ(サイ) 形チ如シ水牛ノ。猪ノ頭ニシテ三蹄(ヒツメ)。行ク海中ヲ時水即チ分開スルコト數尺。額(ヒタイ)ニ有一角。鼻ニ有一角。々ハ有粟ノ文。貴者通ス天花ニ也。仲秋ノ月ノ夜紋生(ナル)角ニ也。句ニ云ク。犀ハ縁テ翫(モテ−フ)ニ月ヲ紋生(ナル)角ト是レ也。<元和本、氣形門61C>

とあり、さらに易林本『節用集』氣形門に、「象(ザウ)」に続いて「犀(サイ)」<177C>が登場している。京都女子大学藏『節用集』には、

犀(サイ) 形如水牛、猪頭ニシテ三蹄一角、入水々分開スルコト数尺也。礼部韻曰、毛如豕、號有三甲頭如馬。有三角鼻上角短額上、頭上角長。音西。又廣韻云、犀牛似豕角鼻上アリ<畜類C>

とあり、詳細な「形状」を中心にした語注があり、『礼部韻』と『廣韻』( 犀牛似豕角鼻上。又姓秦有犀首)とを引く。「象」の語は見えない。同じく、枳園本『節用集』に、

犀(サイ) 形如水牛、猪頭三蹄一角、入水則水分開数尺。額有一角。鼻有一角。々有粟文貴者通天花也。仲秋中夜紋生角也。句云。縁翫月紋生角是也<畜類253D>

とあり、語注後半部分が異なる。注記内容は「犀角」に及ぶ。天正十七年本『節用集』(伊勢本)に、

犀(サイ) 形如水牛ノ。猪頭三蹄一角、入水則水分開スルコト数尺。<畜類433A>

と、語注後半部分の典拠注記を省いている。「象」にも詳細な語注記が示されている。文明本『節用集』は、「犀」の語を先出し、「象」の語を次に置く。

犀(サイせイ) 其形如シ水牛ノ。猪ノ頭ニシテ而有三(ミツ)ノ蹄(ヒツメ)。行于海中ニ、時水即分開スルコト数尺。額(ヒタイ)ニ有一角。鼻(ハナ)ニ有一角。角ニ有粟文。貴(タトキ)者ハ通天化也。仲秋ノ月夜ニ紋生(ナル)角(ツノ)ニ也。句云。犀ハ縁(ヨツテ)月紋生角。是也。異名。三蹄。三角。通天。駭鷄。辟寒。海牛。K暗。<氣形門778B>

とあり、『下学集』の注記に最も近似ている枳園本の注記の上に「異名」を増補している。

ところで、「象」のほうは、当時の日本に実物が南蛮交易により渡来しているが、「犀」に関しては、「犀角」を加工した造形物、この角を粉にして薬劑物、革を加工した武具財が専ら交易渡来し、生きた本物の「犀」の渡来はまだなかったのではないだろうか。この「犀」という本邦に生息しない大形動物を、ないが故に詳細な形状語注として、上記『節用集』類にほどこされたのであるまいか。慶長十五年版『倭玉篇』牛部12・尸部34には、この単漢字は未収載にある。慶長十八年版『倭玉篇』牛部312に、

(せイ/サイ) カタシ 獣似牛也。<巻下19ウC-1>

と見えている。「犀角」については、当時の百科辞書ともいえる『塵添〓〔土+盖〕嚢鈔』巻第八に、

卅五 犀角事

△犀角ノ水ヲ遠ク去ルト云フハ、實事歟。 ナヘテノ角ハ去ル事ハナシ。通天ノ犀角ト云ニ去ル徳ハ有ルニヤ角ノ本トヨリ。サキマテ白シ。ホソ筋ノ通リテ。ネリ糸ヲ引ケルカ如ナルヲ。通天ノ角ト云フ。是ハ水ヲ去ル事三尺ト云ル也。ニハ鳥是ヲ見レハ必ス驚ク。犀ハ角ノ生ヒヤウニ三ノ不同アリ。一ニハ鼻ノ上ニアリ。象ノ鼻ノサキニ。瓜ノ生ヒタル様ナル事也。二ニハ額ノ上ニアリ。三ニハ頭ノ上ニアリ。藥ニハ頂ノ角ヲ用フ。物ニ登リタカル物也。ノケニ倒レヌレハ。起キアカル事ナシ。サレハ朽テヨハキ木ヲ。土ニ立置ケハ。犀是ニ登ル。朽チ木折シハ落テ起モヱアガラズ。足手ヲアカク時。大ナル杖ニテ打〓〔急-攵コロス〕也。ムハラヲ好ミ食フ故ニ常ニ口切テ血タル。山犀トテ二種類アリ。善キ犀角ハ水ヲ去ルノミニ非ス。水底ヲテラス。唐ノ太平州ト云國ニ。牛渚(ケウシヨ)ノトマリト云所アリ。水深シテハカリ難シ。晉ノ温〓〔山+喬〕(ヲンケウ)ト云人アリテ。犀角ヲ其ノ水ニ入タルニ。水ノ底曇ナク見ルハ異類ノ水族(スイソク)ノ力無ク隠レ皆見ケルニ。其ノ夜温〓〔山+喬〕カ夢ニ。此ノ淵ノ底ノ生(イキ)モノドモ。來リテ恨ミケリ。幽明途(ミチ)異ナリ。何(ナニ)ノ故ニカ我等カ栖ヲ顕ストソ云ケル。[晉書]ニ見ヘタリ。[群書治要]ニモノセタリ。人ノ秘事ヲ聞顕シ。見顕ントスルヲハ。禍ヲ招ク中タチ也ト誡メタル次テニ此事ヲハ云ヘリ。エセ/\シキ人ハ爲メニ身ノ知リテ無キ用モ事ヲモ。顕サントスル也。隠ルヘキ物顕ハナル物。各別ナレハ。顕ハナル物モ。必シモ不隠。隠ス物ヲモ押シテ不顕ス。ヲノカ好ニ隨フ。幽明(ユウミヤフ)途(ミチ)異(コト)也ト。云ハ是也。幽(ユウ)セカクレタル物。明(ミヤウ)ハアラハナル物ト云心也。<176下30ウ左A>

と、犀の形態・性状・捕獲方法といった『晉書』及び『群書治要』からの引用による、これまた別内容の記載を見るのである。これは、鎌倉時代の『塵袋』巻第四9<270頁>に拠っている。

1999年7月15日(木)小雨のち晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

アツ暑に プール横目に 走り足

「農(こなす)」

院政時代の古辞書、観智院本『類聚名義抄』に、

 音膿[平] ナリハヒ[平平平平]<僧下107F>

と、和訓は「なりはひ」だけの孤訓単漢字である。古訓「なりはひ」は、和語動詞「なりはふ」の連用形「なりはひ」の名詞化した転成名詞である。この和訓を用いた用例として、『日本書紀』崇神紀六十二年秋七月に、「農(なりはひ)は天下の大なる本なり」<岩波文庫中巻、K板勝美編、訓読『日本書紀』巻第五55A>とあることからして、古代日本における生業が「農耕」であったことをこの語訓が示唆している。さて、この「」だが、室町時代の古辞書である易林本『節用集』に、

「〓〔+〕(コナス)」「(同=コナス)」<古部・言語下160F、13オ・519F>

とある。この和語動詞「こなす」は、@こまかに砕くこと。A食べたものを消化する。B思うがままにあしらう。Cぼろくそにけなすなどといった意味があるのだが、@の意として「〓〔禾+憂〕」の字があり、穀物の粉をこねてねっとりさせる意だとすれば、「」の単漢字は田畑の土をこねてねっとりさせる意に用いるのかと思うのだが如何なものだろうか。「こねる」が動作の開始レベルであれば、「こなす」は動作の継続状態レベルにあたる語というふうにもとれる。『運歩色葉集』では、

〓〔+〕(コナス)、(同)、(同)―人。<>

と、Cの意味の語までを記載するが、「」の「こなす」は見えない。

 次に字書である同時代の慶長十五年版『倭玉篇』雜部217を見ると、「(ノウ)」と音のみで和訓は施されていない。慶長十八年版『倭玉篇』晨部270には、「(ノウ) アツシ。ナリワイ。ツトム 」といった三つの和訓を収載する。ここでも、易林本にいう「こなす」の訓は見えないのである。

1999年7月14日(水)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

公園を 夜走り来て 猫とあひ

「地域猫」と「公園猫」

 特定の飼い主を持たない野良猫を野性化しないように、地域の住民が責任を持って世話をする動きがあり、「地域猫」という名称が用いられはじめた。この動きは、猫嫌いの人と猫好きな人とが歩み寄ったもので、飼い場所によっては、公園であったりするところから一名を「公園猫」とも云う。

 この猫には、@飼い猫同様に愛称名がつけられ、その名は共有される。A不妊・去勢手術を施し、繁殖を抑える。B餌さ場やトイレを掃除する。C首輪を付けて野良猫でないことを明確にするなどの合意がなされてきているのである。

1999年7月13日(火)雨。八王子⇒世田谷駒沢

雨煙り 鳥も音せず 巣籠りす

「国名」語注記その2

[已下継続]

3、河内(かはち)

四方二日餘。堤沼池井多シテ而種生ス五倍ヲ。市〓〔廛+阜〕(イチクラ)許多(ソコハク)也。大中國也。靈龜(レイキ)二年割テ河内大鳥群ヲ神護慶雲四年停河内島圀ヲ<易林本>

田數一万二千五百十三町。四方二日餘。井堤沼池多種。生五倍市〓〔廛+阜〕(シノテン)許多(ソコハク)ナリ也。大中國也。<新撰類聚>

4、和泉(いづみ)

南北。負ヒヲ 抱クヲ。故ニ五穀帶テ冷澁(シフ)之氣ヲ味ヲ。國廣シテ醤醯魚鼈(ベツ)多シ。大下国也。<易林本>

田數一万五百六十九町。南北一日。負(ヲヒ)ヲ 抱(イタキ)ヲ 故ニ五穀帶テ冷ノ渋ノ氣ヲ欠(カク)味ヲ。国廣ク醤醯魚鼈多シ。大下国也。<新撰類聚>

5、摂津(せつつ)

二日半帶テ皇城ヲ而抱ク西海ヲ。南暖ニシテ北寒シ。故ニ五穀(コク)熟(-)シテ魚塩繁(シゲシ)。大上國也。<易林本>

田數三万三千三百十四町。四方二日半帶テ皇城ヲ而抱ク西海ヲ。南暖ニ北寒シ。故ニ五穀熟ス魚塩繁シ。大上国也。

「□□を負ひて、○○を抱く」「□□を帯びて、○○を抱く」という対句表現が用いられる。ここで、4の『新撰類聚』の「海を負ひ、山を抱き」に対し、易林本では、逆にして「山を負ひ、海を抱き」としていて、やはり「山を背負い、海を懐に抱く」といった表現の方が自然である。

実際、

12、駿河(するが)

上管七郡。東西二日半。山野里皆均等(キントウ)也。抱キヲ帶フ山ヲ肥産(ヒサン)多シ。大中國也<易林本>

田數九千七百六十町。東西二日半。山里野皆均等也。抱キヲ帶山ヲ土肥多産ナリ<新撰類聚>

と、他の国の語注記では、「海を抱き、山を帯ぶ」と表現している。他に、30、越前(えちぜん)31、越後(えちご)では、「山南に當り、北に海を帶ぶ」という対句表現が見えている。

 

1999年7月12日(月)曇り一時雨。八王子⇒世田谷駒沢

夜走りや 人は黙々 猫語り

「国名」語注記その1

 室町時代の古辞書である易林本『節用集』には、国名をイロハ引きの本文見出し項目に記載しない。すべて、巻末の「南瞻部州大日本国正統圖」に登載する。ということを7月4日「伊豆」に記した。この易林本と時代を共有する往来系統の名彙辞書ともいう『新撰類聚往来』三六における“国名”記述内容と比較検討してみることは、両書の連関性を少しくは明かにできるものと考えるものである。

というのも、国名語彙や語注排列そして傍訓の読みに若干の異なりが見い出されるものの、この両書の有する国名における連関性が非常に高いと判断したからにほかならない。それは、両書が共通する国名文献資料を基に編纂されてきたことを示唆するものであろう。その前後関係を明らかにしていくことを前程とする調査である。

ここでは、易林本における国名語注の記載内容と『新撰類聚』三六における国名語注の記載内容とを対校してみることから始めて行こう。

1、山城(やましろ) 

行程南北百有餘里。朕(チン)跡多。有樂方-種生ス百倍ヲ。味甘シ。大上〃國也<易林>

   行程南北一日。朕跡多シ。有樂方種生百倍ヲ殊ニ味甘シ。大〃上國也<新撰類聚>

2、大和(やまと)

大上〃國也。南北二百餘里。山繞(メグリ)テ而生ス十倍ヲ。出ス國之差圖(シヤツ)ヲ。故ニ名所舊跡繁シ。<易林>

田數一万七千九十八町。南北二日餘里。山繞(メグツ)テ而十倍國ノ差圖(サシツ)ヲ。故ニ名所舊跡繁ト大〃上國也。<新撰類聚>*『新撰類聚』の「虫」は、「出」の字形相似による誤字。

[已下継続]

1999年7月11日(日)晴れ。八王子⇒大学セミナーハウス

 最高の 智恵を絞りて 無を揃へ

「りょうぶ」

 この季節、雨に煙るなかで白き尾垂れの総状花が咲いている。名前を“リョウブ”と云う。梅雨の晴れ間に、ほのかな香りを漂わせている。その字を漢字表記すると、「令法」と書く。この樹花の異名を“ハタツモリ”と云う。この二つの名を聞いて、何を知るかである。

明治時代の大槻文彦編『大言海』に、

りャうぶ(名)【令法】〔古へ、令して、葉を饑饉に備へしめたれば、名とすと云ふ、或は料蒲(レウブ)など書す〕又、りャうぼふ。ハタツモリ。令法科の樹の名。山茶の屬、山野に自生す。高さ一丈餘、樹皮、灰白にして、葉は、楕圓、又は、倒卵形にして、柔かにして細鋸齒あり、五七葉、枝の端に聚りつく。若葉は飯に雜へて食ふべし、令法飯と云ふ。秋、枝の梢に、四五寸の穂をなし、五瓣の小白花、垂り開く。實、圓く小さく、熟すれば褐色なり。植木師にて、木ぶし。山茶科*大和本草、十二、雜木類「山茶科、リャウボフ、ハタツマリ、救荒本艸にのせたり、和名抄れうぼうと云、藻鹽草に、令法(リヤウボフ)は、ハタツマリと云木の事也、古歌に多しといへり、云云、凶年に飢民葉をとり、蒸て食す」<4-0824-2>

とあって、若葉を湯がいて、これを乾燥させてご飯に雜ぜる「令法飯」、時には穀物の粉に入れて団子にして食すといった救荒食糧として重宝されてきた。保存性も良く蒸した葉を夏の土用の日に天日に干し、常時これを竈のうえに置いて煙を当てておけば数年保存できる代物である。花の盛りを『大言海』は、秋とするが夏が正しい。和語「はたつもり」は、「畠積もり」で、田畑の面積に応じた作物を植えつける量を云い、漢語「令法」も田畑の面積に応じたこの樹木が植栽され、葉を採取し、これを貯蔵しておくことが平安時代に法令施行されていったことからこの名が用いられたのであるまいか。用例中の『大和本草』に、「古歌に多し」というが実際、『夫木集』能因法師の歌に、

今よりは みやまがくれの はたつもり ただ打ちはらふ 床のななれや

とあって、このことを示唆してくれている。室町時代の『新撰類聚往来』26木名に、31「〓〔木+令〕〓〔木+牟〕(リヤウホウ)」と見える。

 

1999年7月10日(土)晴れ夜半雨。八王子⇒大学セミナーハウス

 空のした 追いかけ走る 陽いっぱい

「うるし【漆】」

 室町時代の古辞書である易林本『節用集』で、「うるし【漆】」の語を検索して見ると、草木門に「漆木(ウルシノ―)。〓〔木+寄〕(同)」<116F>と、器財門に「器漆(ウツハモノウルシ)」<118F>を見出すことが出きる。

 この「うるし【漆】」の語原だが、大槻文彦編『大言海』に、

うるし(名)【漆】〔潤液(うるしる)の略か、(蛙手(カヘルテ)、楓(カヘデ)或は、塗液(ぬるしる)の略か(ぬばたま、うばたま。癡〓〔馬+矣〕(ウルケ、鈍(ヌル)し))〕うるしのきの脂。樹の皮に鋸痕(のこぎりめ)を入れて、流れ出づる液(しる)をこそげとりて製す、夏より秋の末まで取る、種種の器に塗る料とす。(うるしのきを見合すべし)*倭名抄、十五7細工具「漆、宇流之」<1-0442-1>

うるしのき(名)【漆樹】高きは六七間に至る。葉の形、ぬるでの葉に似て、鋸齒なし、一柄に、三四對に排生す、夏、枝の梢に、長き穂を出して、黄白の小花を開く、亦、ぬるでの花に似たり、雌樹には實あり、圓く扁く、大きさ一分許、黄褐なり、煮て、上品なる蝋を得。此樹の脂(やに)を、うるしとす。專らうるしを取るものは、培養(うゑつけ)して五十年なるより取りて、後には伐り倒すなり。(うるしの條、見合すべし)やまうるしは、山中自生のものなり、漆を出すこと少し、亦、實より蝋を採るべし、大樹なし。<1-0442-2>

とあって、「うるしる」または、「ぬるしる」の略語かという。「うる」は潤沢を意味する和語動詞「うるほす」や和語形容詞「うるはし」の語幹に連関する。「し」は「しる【液】」の語頭というところか。

江戸時代の信濃服部宜『和訓六帖』(弘化三年刊)に、

(ウルシ)ウルハシ【麗】也。ハニシはハニシメ【埴締】也。蝋を取るを云ふ。ハシは略なり。ハゼは轉なり。或山漆とす漆の一種なり。もと櫨とするは誤る。<巻上15ウD>

とある。この漆器の魅力には、いつみても光沢ある麗しさがある。漆工芸の最古の傑出品として、法隆寺の“玉虫厨子”(飛鳥時代7世紀)が知られる。

1999年7月9日(金)曇り。八王子

んとばかり 冷たき雨に 引き締めむ

「いちはつ【一八】」

 室町時代の古辞書である印度本系枳園本『節用集』に、

一八(イチハツ)杜若類也 <上2ウ‐草木16E>

という語が見える。印度本系統の他諸写本(弘治二年本・永禄二年本・尭空本など)には未収載の語であり、伊勢本系統の天正十七年本<草木上2オD>・早大本<13G>などに同様の収載を見る。この語注に「杜若(かきつばた)の類(たぐひ)なり」とあるところに注目してみよう。「杜若」の異名・別称ではなく、「類(たぐい)」というのである。明治時代の大槻文彦編『大言海』に、

いちはつ(名)【鳶尾草】〔和訓栞、後編、いちはつ「鳶尾草也、最初(イチハツ)の義、此花の種類、最多し、それが中に、早く花咲くもの也」(逸(イチ)の條を見よ)春末に花を開くと云へば、かきつばたの類にしては、早き方なり、狗〓〔犬+咼〕(クワ)集、三、夏「千種あれど、先づ一はつの、花野かな」(古事類苑、鴛尾)いちはつとも云ふは、當字(あてジ)に、一八と記して、それを音讀して、云ふなり、八の字は、漢音、ハツにて、呉音、ハチなり、論語の八〓〔人+八月〕篇をハツイツと讀む、(質(シツ)、シチ)鳶尾草(エンビサウ)の語は、こやすぐさの條を見よ〕又、いちはち宿根草の名。葉は細長くして一尺許、劒の如くにして背なく、數葉扁列す、春夏の際に、葉間より莖を出すこと一尺ばかり、梢に花を開く、かきつばたに似て、大きくして、三瓣なり、色は紫碧にして、紫點あり。*林逸節用集(明應)草木「一八(イチハツ)」*和爾雅(元禄)七、草木「鳶尾(イチハツ)」*御湯殿ノ上ノ日記、永禄六年四月九日「飛鳥井(あすかゐ)より、一八(イチハチ)參る」*箭花翁傳、一「一八(イチハチ)、三月開花」(古事類苑、鴛尾)<1-0290-2>

とあって、この花が「杜若(かきつばた)の類(たぐい)なり」の認識は、継承されていることが知られる。ここで、「いちはつ【一八】の花」を「エンビ【鳶尾】」とも書くことも知る。

こやすぐさ(名)【鳶尾草】鴛尾草(イチハツ)の古名。其葉の形、鳶の尾に似る故に名とす。*本草和名、上41「鳶尾、古也須久佐」(倭名抄、同じ)<2-0385-4>

と、さらに、この古名を「こやすぐさ」ともいうことを知る。この古名の語は、室町時代の古辞書には見えない。「菖蒲」や「杜若」とどこが異なるのかについては、ここでは定かでない。実際、花の表面にとさかの有無を見て判定する。五月にいち早く(最初)に花咲くところから、「いちはつ」という。近代では正岡子規の歌に、

いちはつの花 咲きいでて 我が目には 今年ばかりの 春行かんとす

という歌が知られている。

1999年7月8日(木)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

鯉泳ぐ 川面の橋に 足暫し

「こらゆる【將就】」

 室町時代の古辞書である印度本系永禄二年本『節用集』に、

(コラヘ) (コラユル)詠 <157@>*弘治二年本語注なし。尭空本は、「コタユル」<146C>。

とあり、枳園本『節用集』(純然たる印度本ではなく、伊勢本を混へたものである。「古本節用集の研究」186頁)に、

堪忍(コラユル)     <下108ウ‐228E>

將就(コラユル) 又作 <下108ウ‐228E>*伊勢本系天正十七年本<下12ウH>早大本<179H>同じ。

とあり、京都女子大藏『節用集』にも、

將就(コラユル) 或作也 <古部言行オD>

という和語動詞の語がある。「こらえる」は古語には、「こらふ【堪】」で、ハ行下二段活用{ヘ ヘ フ フル フレ ヘヨ}なのだが、ハ行の表記をヤ行表記にて記載し、終止形表示でなく連体形で表示していることをここに確認できる。意味は、我慢する。忍耐するとなる。

 次に「こらゆる」を「將就」と熟語で宛字表記することと、「」と単漢字表記することである。ところで、この「將就」という熟字は、何によるのであろうか。『古今著聞集』巻第二37行基菩薩昆陽寺を建立の事に、

其(その)體焼爛して、その香はなはだくさくして、すこしもたへこらふべくもなし。<大系75M>

と「たへこらふ【堪忍】」という複合動詞で、仮名表記された語が見えている。『太平記』にあっても16例が検索され、

此(この)勢にも恐(おそれ)ずして、纔(わづか)に千人に足(たら)らぬ小勢(こぜい)にて、誰を憑(たの)み、何(いつ)を待(まつ)共(とも)なきに、城中(ジヤウチユウ)にこらへて防き戦(たたかひ)ける楠が心の程こそ不敵(フテキ)なれ。<巻第七、千剣破の城軍の事・大系一216O>

此(この)水を以つて、縦(たと)ひ五六十日雨不(ず)降(ふら)ともこらへつべし。<巻第七、千剣破の城軍の事・大系一218K>

と、すべて仮名表記にある。また、「堪忍」の語は、

奥勢(オクゼイ)若(もし)黒地(くろぢ)の陣を拂(はらは)ん事難儀ならば、北近江より越前へ打越(こえ)て、義貞朝臣と一つになり、比叡山に攀上(よぢのぼ)り、洛中を脚下(あしのした)に直下(みおろ)して、南方の官軍と牒(てふ)し合(あは)せ、東西より、是(これ)を攻めば、将軍京都には、一日も堪忍(カンニン)し給はじと覚(おぼえ)しを、顕家(あきいへの)卿、我(わが)大功義貞の忠に成(なら)んずる事を猜(そねん)で、北国へも引合(ひきあは)ず、黒地(くろぢ)をも破りえず、俄(にはか)に士卒(ジソツ)を引(ひき)て伊勢より吉野へぞ廻(まは)られける。<巻巻第十九、青野原軍の事付嚢沙背水の事・大系二296D>*「もちこたえなさるまい」の意。

と漢語サ変動詞として一例用いられている。

1999年7月7日(水)朝晴れ曇りそして晴。八王子⇒世田谷駒沢

朝焼けに 降る予測し 傘持つ手

「女護島」

 室町時代の古辞書である元和本『下学集』に、

女護島(ニヨゴノシマ)<天地24E>

という地名を収載する。この地名語は、易林本『節用集』<仁乾坤25A>にも同じく収載を見る。此の島はいったいどこに位置していたのだろうか。伊豆七島の八丈島に伝わる爲朝説話に“女護が島”の話が見えている。

この「女護島」だが、江戸時代の井原西鶴『好色一代男』に主人公世之介が“好色”の有様をすべて淘汰した挙げ句に、ふッと姿を消す。ありとあらゆる性具を船に詰め込んで好色仲間と「女護島」へと旅立つのである。「女護島」とは、女人ばかりが住む国をいうのである。また、琉球の与那国島をさしていうようだ。

1999年7月6日(火)雨のち晴れ。八王子

雨上がり 涼しきうちや 鳥通ふ

【洗】の字訓「すか・す」と「すま・す」

 室町時代の古辞書である元和本『下学集』に、

(スカス) 除(ノゾク)竹木ヲ|義也 <言辭156F>

とあり、『伊京集』に、

(スカス) 除(ノソク)竹木枝ヲ|云也 <須部・言語進退B>

とあり、京都女子大学藏『節用集』に、

(スカス) 除竹木之枝也 <須部・言行B>

とあり、易林本『節用集』に、

(スカス/せン) 竹木 <寸部・言辞242@>

とある。語注は、順に「竹木の枝を除(のぞ)く義なり」「竹木枝を除(のぞ)くを云うなり」「竹木の枝を除くなり」「竹木の枝を(スカス)」と語末表現にそれぞれ異なりはあるが和訓「すかす」はこの時代すべて共通している。さらに、同じ時代の慶長十五年版『倭玉篇』にあっても、

(せン) アラウ マツ スカス カクス ヲサム <311@4>

*慶長十八年版『倭玉篇』、静嘉堂本『類字韻』(慶長写)も「マヅ」と第二拍を濁音表記。二巻本『世俗字類抄』<上巻都部88ウA>に、「ツグ」の訓が見え、『節用文字』には、「同(ツカヌ、ツクロフ)」の訓が見える。この第二訓「マヅ」は、「スヽク」の字形相似による誤記か?そして、「まづ」は和語動詞であるとすれば、異質なものを中に加味する意か。

とある。現代における「」の字は、「あらう」と「すすぐ」という和訓が通常用いられ、この「すかす」という訓は見えない。そして、「すか・す」には「透」の字を用いている。

院政時代の観智院本『類聚名義抄』には、

並正 アラフ スマス[平上上] ヲサム キヨシ ウスシ 和せイ せン<法上3C>

とあって、第二訓に「すます」という語があり、声点を付す。鎌倉時代の寛元本『字鏡抄』(菅原為長)に、

(せン)銑[上] 蘇顯反 キヨシ オサム アラフ スマス ウスシ スヽク <巻一・水155E>

とあり、永正本『字鏡抄』にも、

唐[上] 蘓顕反 キヨシ スヽク アラフ オサム スマス ウスシ <上本・水>

とあって、和訓「すす・ぐ」と「おさ・む」を増補しているが、すべて『名義抄』の訓を鎌倉時代までは継承しているのである。さて、この第二拍めの片仮名表記「マ」と「カ」とは字形相似に基づくところから、書写誤記しやすい片仮名文字であると考えられる。さらに、『要略字類抄』(龍谷大学図書館藏、国会新写本)に、

(アラフ) せン音、せイ音 スカス ―竹也 スヽグ <詞字2247>

とあって、語注「竹をスカスなり」は、上記における室町時代の古辞書群を継承する内容にある。

さて、『名義抄』から『字鏡抄』にみえる古訓「すま・す」だが、洗い清める意の和語動詞で、『十訓抄』 (建長四1252年) 6ノ23に、「日隠の間に、小桶に杓を具て水を入置て、御手をすましけり。」<古典文庫六202F>という用例にあたる。この「すます」と「すかす」とが南北朝時代を経て室町時代には、この「」に対する「すま・す」の訓が「すか・す」の訓に摩り替え、取り違えられることが十分可能な状況がここに生じていたということになる。

[ことばの実際「洗」の用例]

高野之間。自菜ヲツミテ令給之〓〔日+之〕。成蓮房兼意仁和寺人也。奉見逢。驚畏テ行過ケルヲ。召近テ被仰云。后腹親王加樣ニ行モ難有ナ云々<古事談巻第三65L>

高野に籠(こも)らしむるのあひだ、みづから菜をつみて洗(あらは)しめたまふのとき、仁和寺の成蓮房兼意見逢ひたてまつりて、驚き畏れて行き過ぎけるを、召し近づけて仰せられて云ふ。后腹の親王、かやうに行ふも有難な云々。

1999年7月5日(月)曇り一字雨。八王子⇒世田谷駒沢

蛙鳴く 闇夜の田んぼ 歩きつつ

「伊豆の山燃ゆ」

 口語口調体を基盤とする会話表現などに文語調の表現で綴られるものとして、詩や唄などがある。国木田独歩『たき火』(青空文庫所収)に、「伊豆の山燃ゆ」という文語表現のことばが見られる。

この時、一人の童たちたちまち叫びていいけるは、見よや、見よや、伊豆の山の火はや見えそめたり、いかなればわれらが火は燃えざるぞと。童らは斉《ひと》しく立ちあがりて沖の方《かた》をうちまもりぬ。げに相模湾《さがみわん》を隔《へだ》てて一点二点の火、鬼火《おにび》かと怪しまるるばかり、明滅し、動揺せり。これまさしく伊豆の山人《やまびと》、野火を放ちしなり。冬の旅人の日暮れて途《みち》遠きを思う時、遥《はる》かに望みて泣くはげにこの火なり。

伊豆の山燃ゆ伊豆の山燃ゆと、童ら節《ふし》おもしろく唄い、沖の方のみ見やりて手を拍《う》ち、躍《おど》り狂えり。あわれこの罪なき声、かわたれ時の淋びしき浜に響きわたりぬ。私語《ささや》くごとき波音、入江の南の端より白き線立《すじた》て、走りきたり、これに和したり。潮は満ちそめぬ。

 この『たき火』という作品全体が文語文であり、「伊豆の山燃ゆ」は、口語文にすると「伊豆の山が燃える」ということになる。この「燃(も)ゆ」は、文語ヤ行下二段に活用{エ・エ・ユ・ユル・ユレ・エヨ}する終止形である。他にも、和語動詞が見えるが、表記については現代語表記に改められているようだ。たとえば、

「いいける」⇒「いける」

「唄い」⇒「唄

「踊り狂えり」⇒「踊り狂り」

といった具合に、この資料表記では歴史的仮名遣いがなされていないのである。独歩自身、文語表現で綴った作品であるからして、「あわれ」は、「あれ」、「かわたれ時」も「かたれ時」(すなわち、夕方のうすぐらい時刻を云う。たそがれ。語源は、「彼(か)は誰(たれ)」(あれはだれですか?の意)で、薄暗く人影が定かに知られないという表現を口にしたことから生まれたことばである。「たそがれ」も、「た(誰)そ、かれ(彼)」と同様の言い回し表現である)と記述していたのではないかと推定するに留まる。さらに「和したり」と単漢語サ変動詞に完了の助動詞「たり」が接続し、この主語は、「波音」となる。「満ちそめぬ」は、下接助動詞「ぬ」が否定か完了なのか、形からは区別しにくい。この作品全体が文語文すなわち、古語の文体で綴られた文章というのは、こういうところもって云うのである。複合動詞「みちそめ」の「そめ」が未然形か、連用形なのかを形態からは識別できないのである。これを意味に照らして、「そめ」が連用形であり、「ぬ」が完了であることを理解してほしいところなのである。

1999年7月4日(日)晴れのち曇り。八王子

熱き珈琲 入れて飲みき 静かな夜

「伊豆」

 室町時代の古辞書である易林本『節用集』には、国名をイロハ引きの本文見出し項目に記載しない。すべて、巻末の「南瞻部州大日本国正統圖」に登載する。ここで、国名「伊豆」は“東海道 十五个國宇倍都美知又云海道”に、

伊豆 [割注]豆(トウ)州 下管三郡東西一日餘、畠多シテ而田少、山高シテ海莊、塩魚類多シ、辨ス∨中国也。田方(タカタ)、那賀(ナカ)、賀茂(カモ)、此外大島(オホシマ)、蛭島(ヒルガシマ)<263B>

とある。これを『運歩色葉集』にはどう収載するかといえば、伊の項目見出しに「伊豆」と収載し、さらに、賀部の海道である東海道に、

伊豆 三郡 田方、那賀、賀茂 田数一千八百三町<天正十七年本・上68ウA>

と記載する。「郡名」そして「田数」が見える。この「田数」は名古屋市博物館所蔵『和名抄』(永禄九年写)では、「田二千百十町四段十二歩」とその数値が異なる。さらに、賀茂郡に、「賀茂 月間 川津 三嶋大社」とあって、国府が置かれた「三嶋」(現在の三島市)が見える。『運歩色葉集』では、見部に、

三嶋(ミシマ) 聖武天皇天平聖暦六甲戌立、至天文十七戌申八百十五季也<静嘉堂本348A>

とあって、伊豫三嶋の大山祇神社なのか賀茂郡三嶋大社なのか明確でない記述になっている。

さて、この後者の「三嶋」だが、「御嶋」に通い、この尊称「厳しき島」である「いつのしま」を語原とする説がある。伊豆には島が七つあって、易林本に見える「大島」を筆頭に、利島(としま)、新島(にいじま)、神津島(こうづしま)、三宅島(みやけじま)、御蔵島(みくらじま)、八丈島(はちじょうじま)から成っているその島々の総称ともいう。『和名抄』の記述をさらに裏付けることとして、『延喜式』に賀茂郡鎮座とあり、これを国府の近くに古の時代に遷座し、今日に至っているのである。

 明治時代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』には、この古き国名を記載していないのである。ここではただ、「いづいし【伊豆石】」というこの国から産出する石材の名を載せているにすぎない。

1999年7月3日(土)雨。八王子⇒市ヶ谷(アルカディア私学会館)

高窓に 傘開き綴ず めぐり逢ひ

「ショクゲン【食言】」

 明治時代の大槻文彦編『大言海』に、

しょくげん(名)【食言】前言を、食(は)むこと。言ひ契りたる事を、違ふること。*書經、湯誓篇「朕不言」*左傳、〓〔人+喜〕公十五年「我食吾言、背天地也」*太平記、廿六、簾頗藺相如事「夫レ君子ハ、食言セズ、約ノ堅キ事、金石ノ如シ」<2-0838-4>

とあり、本邦では室町時代の軍記物『太平記』巻第二十六、上杉・畠山高家を讒する事に、

藺相如、この玉を取りて楼閣(ロウカク)の柱に押し当て、剣を抜きて申しけるは、「それ君子は食言(シヨクゲン)せず、約の堅き事金石のごとし。そもそも趙王、心飽き足らずと言へども、秦王、強(しひ)て十五城を以つてこの玉に替へ給ひき。しかるに十五城をも出だされず、また玉をも返されず。これ盗跖(タウセキ)が悪(アク)にも過ぎ、文成(ブンセイ)が偽(いつはり)にも越えたり。この玉全(まつた)く瑕(きず)あるにあらず。ただ臣が命を玉と共に砕(くだ)きて、君王の座に血を淋(そそ)かんと思ふ故に参つて候ふなり」と忿(いか)りて、玉と秦王とをはたと睨(にら)み、近付く人あらば、忽ちに玉を切り割りて、返す刀に腹を切らんと、誠に思ひ切つたる眼差(まなざ)し、事柄(こつがら)、敢へて遮(さへぎり)留(と)むべきやうも無かりけり。<大系三41L>

とあって、他に『小右記』にも見える。漢籍では最古の歴史の記録である『書經』そして、『左傳』にも見えるとする。しかし、当時の本邦古辞書には、この語は未収載にある。現代の国語辞書である学研『国語大辞典』にも、

しょくげん(名)【食言】《名詞・自動詞。「する」と結合してサ変動詞としても用いる》〔文語・文章語〕〔一度口から出したことばをまた口に入れる意から〕前に言ったこととちがったことを・言う(する)こと。うそをつくこと。約束を守らないこと。⇔〈書経・湯誓〉⇒ [用例]すでにわれわれは、…首相が熱意をこめて約束した政治資金規正法の改正・強化が、いまや一片の空文に化したにがい食言の記憶をもっている〈四六・五・二七・朝日朝・社説〉

とあって、極稀にであるが現代の新聞社説表現にも受け継がれてきていることばの一つと云える。類義語は、和語の「うそつき(根も葉もないことを云う)」にはじまり、「ほらふき(対象となる事柄をおおげさに云う)」「くはせもの」(*『大言海』未収載。)「嘘言」「妄語」となる。

1999年7月2日(金)霽。八王子⇒南大沢

涼風に 灯火ふっと消え 唄流る

古辞書における「日本国勢数値」

 室町時代における古辞書京都女子大藏『節用集』巻末記載の日本国勢内容についてみると、

日本國 行基菩薩記之 東西長二千八百七十里 南北〓五百三十七里 六十六箇国 島二 五百七十八郡 三十七百十二郷 十分三山 六海 一田 人數 [割注]男十九億一萬八百二千八人、女二十億一萬四千八百二十一人也

とあり、『運歩色葉集』加部にも、

此土如独鈷形之佛法盛也。又如寳形依之。金銀銅鐵等并。五穀豊稔也。自王城。至陸奥東濱三千五百八十里。又自王城長門西濱|。一千九百七十八里也。行基菩薩所圖也。日本國中之郡・郷・村・里・田・畠。(菩薩)佛宇・神宮。[人]家・男女等。員数・国。六十六嶋国二郡六百一郷。九万八千八百五十八里。四十万五千三百[七十]四田。八十万九千八百十五町。三段三歩。畠十一万七千百四十六町廿三歩。佛宇二千九百五十八神宮。二万七千七百十三成神宮。三千七百五十不成[宮]。小神一万九千。男数十九億九万四千八百廿八人。女数廿九億四千八百廿人也。又曰。男子十九億九万四千八人也。女人廿九{五}億九万四千八百三十四人也。就中女六億四千七百八十三人。自男子{女}多也 ○天高廿四万里 ○地厚五万九千八百七十[九]里 ○日[之]勢一千由旬 ○月[之]勢一千由旬 ○星勢[五千由旬] ○大鉄囲山廣高{高廣}廿四万里 ○小鉄囲山銅一百十万里 ○須弥山廣高{高廣}三百六十万里 ○日本東西二千八百七十里 ○同(日本)南北五百卅{三十}七里 ○唐土東西八万一千里 ○同(唐土)南北六万七千里<天正十七年本上75オ〜76オ。元亀二年本117〜119>

とあって、この実際数字の記載をどう読んできたのだろうかと思うのである。国の数は易林本『節用集』に、

南瞻部州大日本國正統圖 用明天皇御宇定畿七道也 文武天皇御宇分六十六箇國也

とあって、「六十六箇国」に分国することが知られる。すなわち、

1、山城(雍州・山州)。2、大和(和州)。3、河内(河州)。4、和泉(泉州)。5、摂津(攝州)。6、伊賀(伊州)。7、伊勢(勢州)。8、志摩(志州)。9、尾張(尾州)。10、參河(參州)。11、遠江(遠州)。12、駿河(駿州)。13、甲斐(甲州)。14、伊豆(豆州)。15、相模(相州)。16、武藏(武州)。17、安房(房州)。18、上総(総州)。19、下総(総州)。20、常陸(常州)。21、近江(江州・近州)。22、美濃(濃州)。23、飛騨(飛州)。24、信濃(信州)。25、上野(上州)。26、下野(野州)。27、陸奥(奥州)。28、出羽(羽州)。29、若狭(若州)。30、越前(越州)。31、加賀(加州)。32、能登(能州)。33、越中(越州)。34、越後(越州)。35、佐渡(佐州)。36、丹波(丹州)。37、丹後(丹州)。38、但馬(但州)。39、因幡(因州)。40、伯耆(伯州)。41、出雲(雲州)。42、石見(石州)。43、隠岐(隠州)。44、播磨(播州)。45、美作(作州)。46、備前(備洲)。47、備中(備洲)。48、備後(備洲)。49、安藝(藝州)。50、周防(周州)。51、長門(長州)。52、紀伊(紀州)。53、淡路(淡州)。54、阿波(阿州)。55、讃岐(讃州)。56、伊豫(預州)。57、土佐(土州)。58、筑前(筑州)。59、筑後(筑州)。60、豐前(豊州)。61、豐後(豊州)。62、肥前(肥州)。63、肥後(肥州)。64、日向(日州)。65、大隈(隅州)。66、薩摩(薩州)。67、壹岐(壹州)。68、對馬(對州)。

という国々が示されている。ここで、六十六国であって、67・68が島二ということのようだ。18・19の総州と30・33・34の越州、36・37の丹州。46・47・48の備州。58・59の筑州、60・61の豊州、62・63の肥州を一括りの国としない。35佐渡と43隠岐、53淡路の三つは島としていない。さらに南の琉球と北の蝦夷は、含まれていない。これは、排列を含め源順撰『和名類聚抄』巻第六・七・八・九・十に依拠するものと見てよい。次に五百七十八郡は、

山城管八郡、大和管十五郡、河内管十五郡、和泉管三郡、攝津管十三郡、伊賀管四郡、伊勢管十五郡、志摩管二郡、尾張管八郡、參河管八郡、遠江管十四郡、駿河管七郡、伊豆管三郡、甲斐管四郡、相模管八郡、武藏管廿一郡、安房管四郡、上総管十一郡、下総管十二郡、常陸管十一郡、近江管十三郡、美濃管十八郡、飛騨管四郡、信濃管十郡、上野管十四郡、下野管九郡、陸奥管五十四郡出羽管十二郡、若狭管三郡、越前管十二郡、加賀管四郡、能登管四郡、越中管四郡、越後管七郡、佐渡管三郡、丹波管六郡、丹後管五郡、但馬管八郡、因幡管七郡、伯耆管六郡、出雲管十郡、石見管六郡、隠岐管四郡、播磨管十四郡、美作管七郡、備前管十一郡、備中管九郡、備後管十四郡、安藝管八郡、周防管六郡、長門管六郡、紀伊管七郡、淡路管二郡、阿波管九郡、讃岐管十一郡、伊豫管十四郡、土佐管七郡、筑前管十五郡、筑後管十郡、豐前管八郡、豐後管八郡、肥前管十一郡、肥後管十四郡、日向管五郡、大隈管八郡、薩摩管十四郡、壹岐管二郡、對馬管二郡

ということで、合計六百三十一郡(実際は633郡)となっている。これを『和名抄』に対校して見ると、

河内管十四、伊勢管十三、遠江管十三、下総管十一、近江管十二、飛騨管三、陸奥管卅五、出羽管十一、越前管六、播磨管十二、備前管八、長門管五、薩摩管十三、

となっていて、合計五百九十郡であり、二郡多いことになる。

そのうち、最大の異なりは、「陸奥」に『和名抄』にあって、易林本にない郡名として「磐城(イハキ)・新田(ニヒタ)・耶麻」を入れて三十五郡だから、実際には十六郡の異なりである。

 京都女子大藏『節用集』『運歩色葉集』における東西南北の距離表示数は合致している。問題は男女の人口数をどのように算出したのものか?上記両古辞書は、微妙にその数値を異にしている。この算出記録の責任者が“行基菩薩”であったことも、奈良の大仏勧進事業にともない“行基日本地図”が作成され、もたらされた数値結果ということなのであろう。これがひょんと室町時代の古辞書に記録されているのであるから面白い。『和名抄』には、「行程上○日下○日」と日数で示し、易林本も「四方○日」とか、「東西○日」「南北○日」とこれも日数で記すところである。また、人口数は未記載である。これら両古辞書における数値の拠り所を今後探し求めて見たい。

1999年7月1日(木)霽日中一時雨、朧月夜。八王子⇒世田谷駒沢

白き雲 夏の開きに 珍ら物

「三だる」

 キャンパスことばに“三だる”という表現がある。大学の講義で三限目は、昼食の後となる。夏の暑さと食後の気分とがちょうど中だるみ状態として訪れるのである。そこで“三だる”は、「さんだる」といって学生が三限目の講義を自主休講にしてしまうことを云うようだ。

 

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