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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1999年8月31日(火)晴れ。八王子

 椅子がけの 汗滴り落つ 日中かな

 『秦童記』引用の詩解文言の比較

 室町時代の『江湖風月集抄』に、次の二つの引用がみえる。この引用は、ともに共通する典拠からなり、文言に多少の差異がある程度である。このうち、語句の差異のうち最も注意を引くのは、引用漢籍『秦童記』(未詳)の冒頭部分「秦を滅ぼす者{子}{胡}也」という「子」と「胡」である。「秦の国をほろぼすのは、子である」といえば、結論を先出にする表現となる。これに対し、「秦の国をほろぼすのは、胡(ゑびす)である」といえば、四方の敵を想定し、防国に力を注ぐといった極当然の成り行きの文頭表現となる。この二つの差異について、文意からすれば、前者の「子」を採るべきであるが、この相違が何故の記述を意味しているのかといえば、「ko」と発音したとき、「子」は和語名詞「こ」となり、「胡」は漢語名詞「コ」となる。いわば、音と訓との聞き取りによって生じた誤記と見るところである。また、前者「胡僧記」も、引用詩句からして後者の「胡僧詩」がよかろう。

胡僧記云、不知禍〓〔水+粛〕湘内空築防胡万里城。秦童記云、秦ヲ亡ス者也。始皇帝胡国ヨリ胡ス攻来ヘキトテ、城郭ヲ築テ防トシタ也アレハ、夫素・胡亥トテ二人ノ子アリ。ヨリ破也。<『江湖風月集抄』巻下「防意如城」290F>

万−―トハ禍カ取入ヘキソ。破却スベキ也。胡僧詩云、不知−―城。秦童記云、秦ヲ亡者ハ也。始皇帝將謂、胡国ヨリ胡スドモカヘキトテ、城ヲ築也。秦ノ子ニ夫素・胡亥トテ二人之王子アリ。其子カ敵ト成テ兵乱ヲ起也。ウツロヨリ破レタルト云々。<『江湖風月集抄』巻下「寄智長老」375E>

このなかで、始皇帝の文言「胡(ゑび)す攻来べき」と「胡(ゑび)すどもが入べき」という部分、編者の「内より破也」と「ウツロヨリ破レタル」という部分の二つの異同表現である。前者は、夷敵蛮族の包括語である「ゑびす」とこれを複数化した接尾辞「ども」を下接していること、次に複合和語動詞「せめきたる【攻来】」と、単純和語動詞「いる【入】」と表現していること。後者は、和語単純名詞「うち【内】」または漢語単純名詞「ナイ【内】」はたまた、これを「うつろ」と読むという表現と「うつろ【内方】」すなわち、「一門一族」をいうところの古語表現のことばが用いられているところにある。この「うつろ」だが、『日葡辞書』に、

Vtcuro.ウツロ(内方)1) ある家中の家族や一族の者,および,家来.*1)内方ウツロ(易林本『節用集』).<邦訳736l>

とあり、易林本『節用集』でも「内方(ウツロ)」<言辞119C>と確認できる。

この話し自体が詩中の句材として、より当代の話し言葉として用いられてきたということで、この詩解を語る文言の記述として、室町時代におけることばの併用語について比較してみることができるのである。一つの考察手順の方法として、ここに指摘しておきたい。

 

1999年8月30日(月)晴れ。八王子

さっと吹き 陽足も居間に 近づくや

「五山」継続辞書による注記削除

室町時代の古辞書『下学集』に、「五山(ゴサン)」とあって、この語注記を見ると、

1,祇園精舎(ギヲンシヤウジヤ)、竹林精舎(チクリン[シヤウジヤ])、大林精舎(ダイリン[シヤウジヤ])、誓多林(セイタリン)精舎、那蘭陀寺(ナラダ[ジ])、右ノ五ツハ者天竺([テン]ヂク))ノ之五山也。

2,徑山寺(キンザンジ)、育王寺(イワウ[ジ])、天童(テンドウ)、霊隱(リンイン)、淨慈(ジンズ)ナリ也。天海(テンカイ)ハ者爲タリ五山ノ之上云々。右ノ五ツ者ハ震旦(シンダン)ノ之五山ナリ也。

3,霊龜山(レイキサン)天龍寺(テンリウ[ジ])、萬年山(バンネン[サン])相國寺(シヤウコク[ジ])、東山(トウ[サン])建仁寺(ケンニン[ジ])、慧日山(エニチ[サン])東福寺(トフク[ジ])、萬壽寺(マンジユ[ジ])此ノ寺ハ者依(ヨツ)テ爲(タル)ニ九重ノ内(ウチ)無シ山号([サン]ゴウ)。瑞龍山(ズイレウ[サン])南禪寺(ナンゼン[ジ])ハ者因テ∨准(シユン)スルニ天海ノ之例ニ被ルル居(ヲカ)五山ノ之上ニ者ノカ乎。右ノ五ツハ者日本京師([ケイ]シ]ノ之五山ナリ也。

4,巨福(コブク)建長寺(ケンチヤウシ)、瑞鹿(ズイロク)圓覺寺(エンガク[ジ])、龜谷(キコク)壽福寺(ジユフク[ジ])、金峰(キンブ)淨智寺(ジヤウチ[ジ])、稲荷(タウカ)淨妙寺(ジヤウメウ[ジ])也。右ノ五ハ者日本鎌倉(カマクラ)ノ之五山ナリ也。

5,又タ於テハ尼寺(ニ[ジ])ノ五山者景愛寺(ケイアイ[ジ])、護念寺(ゴネム[ジ])、檀林寺(ダンリン[ジ])、惠林寺(ヱリン[ジ])、通玄寺(ツウゲンン[ジ])也。<元和本數量144E>

 春良本『下学集』は、数量門に記載せずして、巻末に「天竺五山」「大唐五山」「日本五山」「関東鎌倉五山」を記載している。

とあって、その説明内容は詳細微に入るという観である。「五山」を1、天竺(インド)。2、震旦(中国)。3、日本京師。4、日本鎌倉。5、(日本)尼寺に分類し、それぞれの「五山」の名を山号と寺名とを網羅記載している。これを後継辞書である『運歩色葉集』(元亀二年本)は、どう記載標記するかというと、古部に、「洛五山(−ゴサン)南禪寺。天龍寺。相国寺。建仁寺。東福寺。萬壽(シユ)寺」と「鎌倉五山(カマクラ−)建長寺。圓覚寺。浄智寺。壽福寺。浄妙寺」を記載するに留まっている。すなわち、『下学集』の示した天竺・震旦の「五山」と本邦尼寺の「五山」は必要とせず除外削除されている。また、語注記にあった山号も削除し、「洛五山」なのに六つをあげ、これにおける南禪寺を筆頭に改め、この補足説明文である「(震旦)天海の例に准(ジュン)ずるに因(ヨリ)て、五山の上に居(ヲカ)るるものか」をも示さないでいる。このことは、『運歩色葉集』編纂者及びその辞書の享受者にとっては、この記述が必用過度な知識説明であったことをここに示唆している。同じく後継辞書である易林本『節用集』では、「五山(−サン)天龍(テンリウ)。相國(シヤウコク)。建仁(ケンニン)。東福(トウフク)。萬壽(マンジユ)」<數量157@>と、もっと簡便化されているのである。

 今の私たちがこの「五山」について、国語辞書を編纂するとき、またはこれを繙くとき、はたして、『下学集』の記載方法を選ぶか、それとも後続の『節用集』『運歩色葉集』の記載方法を選ぶかどちらであろうか?ここにひとつの有様として、新潮『国語辞典』第二版を示してみるに、

ゴザン【五山】(「ゴサン」とも)〔仏〕@インドの五精舎。祇園(ギオン)精舎・竹林精舎・大林精舎・誓多林精舎・那蘭陀(ナランダ)寺。A中国南宋(ソウ)代、寧宗の定めた最高の寺格を有する五大禅宗寺院。径山(キンザン)興聖万寿寺・阿育王山広利寺・太白山天童景徳寺・北山景徳霊隠(リンニン)寺・南山浄慈(ジンズ)報恩光孝寺。中国五山。B-1日本中世の官寺制度における、禅宗寺院の最高の格。また、その寺。京都・鎌倉に制定。→京都五山・鎌倉五山〔太平記26・妙吉侍者事〕「鎌倉―〔運歩色葉〕」〔日ポ〕-2「-1」にならって、京都・鎌倉に制定された尼寺の五大寺。尼寺五山。→京都尼五山・鎌倉尼五山

とある。→印は、さらに、その標記語のところを検索せよということのようだ。実際、

キョウトゴザン【京都五山】京都にある臨済宗の五大寺院。天龍寺・相國寺・建仁寺・東福寺・万寿寺。

かまくらゴザン【鎌倉五山】鎌倉にある臨済宗の五大寺。建長寺・円覚寺・壽福寺・浄智(ジヨウチ)寺・浄妙寺。

キョウトアマゴザン【京都尼五山】京都にある五つの尼寺。景愛時・檀林寺(ダンリンジ)・護念寺・恵林寺・通玄寺。

かまくらアマゴザン【鎌倉尼五山】京都尼五山に対し、鎌倉の太平・東慶・国恩・護法・禅明の五尼寺。かまくらにござん。

とあるのが現状であり、『下学集』以上に詳しいというところか。これを見るあなた自身編者であり読み手であるとき如何なものであろう。

  

1999年8月29日(日)晴れ。八王子

夏走る 疲れ知らずは 睡眠よ

「ありとあらゆる」

和語連語に、ある限りすべてのを意味する「ありとあらゆる」ということばがある。この古語表現は、「ありのことごと」「ありのかぎり」「ありとある」「ありとしある」で、古語辞典に見出し標記されている。後者二例である「あり」を重複して表現するT,「ありとある」(格助詞「と」を同じ用言を重ねる間に入れ、文意を強調)の語形は、平安時代の『竹取物語』に、

大伴のみゆきの大納言は、わが家にありとある人召(メ)し集めて、のたまはく、「龍の頸(クビ)に、五色にひかる玉あなり。それ取りてたてまつりたらん人には、願はんことを叶へん」とのたまふ。をのこども、仰(オホセ)の事を承(ウケタマ)はりて申さく、「仰の事はいともたふとし。たゞし、この玉たはやすくえ取らじを。いはむや、龍の頸の玉はいかゞ取らむ」と申あへり。<六>

『大鏡』にも、

ありとある人、「さ思ひつることよ」と見たまへど、すべきやうもなきに、御舅(をぢ)の中関白殿(なかのくわんぱくどの)のおりて、舞台に上(のぼ)らせたまへば、いひをこづらせたまふべきか、また憎さにえたへず、追ひおろさせたまふべきかと、かたがた見はべりしに、この君を御腰のほどに引きつけさせたまひて、御手づからいみじう舞はせたりしこそ、楽(がく)もまさりておもしろく、かの君の御恥(はぢ)もかくれ、その日の興(きよう)もことのほかにまさりたりけれ。{「満場の人」の意}<道兼、日本古典文学全集295G>

『源氏物語』には、「ありとあり」と下接の「ある」が連用形として用いられている例を見る。

いはむや、多くの調べ、わづらはしき曲多かるを、心に入りし盛りには、世にありとあり、ここに伝はりたる譜といふものの限りをあまねく見合はせて、のちのちは、師とすべき人もなくてなむ、好み習ひしかど、なほ上りての人には、当たるべくもあらじをや。<若菜下>

とあり、この語形は、室町時代(慶長年間)の『日葡辞書』にも継承されている。U,「ありとしある」(助詞「し」を付加して文意を強調する。類似語に「生きとし生ける」がある。)の語形は、鎌倉時代の随筆鴨長明『方丈記』に、

ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。<>

『平家物語』灌頂巻に、

昔は玉の臺をみがき、錦の帳にまとはれて、あかし暮し給ひしに、いまはありとしある人にはみな別はてて、あさましげなるくち坊にいらせ給ひける御心の内、おしはかられて哀なり。魚のくがにあがれるがごとく、鳥の巣をはなれたるがごとし。<423E>

とあり、古語辞典(岩波)は、この用例(小文字の部分は除く)を記載している。

さて、現代用いられている「ありとあらゆる」の語形になっていくのかを少しく考察してみよう。室町時代の『太平記』には、「ありとある」も、

ハて大和・河内・紀伊国にありとある所の山々浦々に、篝を焼(タカ)ぬ所は無(ナカ)りけり。<巻第六、楠天王寺出張の事付隅田高橋并宇都宮事[大系一]192C>

都に有リとある程の兵をば義詮朝臣に付ケて播磨へ下されぬ、遠国の勢はいまだ上ぼらず。<巻第三十二、直冬上洛の事付鬼丸・鬼切の事[大系三]224H>

と二例が見えているが、「ありとあらゆる」の語形も、

京より南、淀・鳥羽・赤井・八幡に至るまでは、宮方の陣となり、東山・西山・山崎・西岡は皆將軍方の陣となる。其中に有リとあらゆる神社仏閣は役所の掻楯の爲に毀たる。山林竹木は薪櫓の料に剪盡さる。<巻第三十三、京軍の事[大系三]240H>

と見えている。同じく室町時代の『江湖風月集抄』(勉誠社刊)132,「斗山」に、

大華山ホトノ大山ハナケレトモ、看――トハ小升ノ内ニアルソ。{アリトアラヘル}景氣ハ斗ノ内ナホトニ、廬山ノ烟雨淅江潮モ面白ケレドモ従他ト云ハ尽ク此斗ノ内ノ景ナホトニ、珎カラヌゾ。大華山ハ三万六千丈ノ山也。<248B>

とその変異語形「ありとあらへる」が見えている。口語にすれば、「ありとあらえる」になる。さらに、識語を欠く資料だが、禪籍密参『快庵的伝大中寺禅室内秘書』別本甲(江戸初期写)に、

只照壁在月―風、示云、前三句ノ修行デ、アリトアラユル青汁ヲクツトヲンヌイテ、湿氣暖気、識情ヲクツト逐ンヌイタトキ、只破壁ノ如クニ打チ成タゾ。人影モ無イゾ。<26「傍観愁」48D>

示云、這―愁ト云ワ、未悟ノ愁ヨリ修行ヲシツメ/\シテ、合面―着ノ愁ト云デ、尽ク宗旨ノ極則ヲキワメタゾ。アリトアラユル文章唱ヱノ間ガクツトツキテ、本トノ大愚ノ肌ヱニスワツタヨ。<30,「未後愁ヲ」53B>

と今の語形と同じ「ありとあらゆる」がここには見えていることからも、「ありとある」も継承して用いられているが、「ありとしある」が姿を消し、この南北朝時代以降に「ありとあらゆる」の語形が用いられはじめていることがわかる。この新語形を古語辞典が収載標記するのを見ない。ただ、新潮『国語辞典』現代語・古語第二版に、三語標記され、「ありとあらゆる」の用例として、漢籍抄物『毛詩抄』14「天下の―田の事ぞ」を収載する。

  

1999年8月28日(土)曇り。八王子

じんわりと 押し寄する風 見ぬ葵

「葵の花」

室町時代の『湯山聯句抄』に、「衛足〓〔艸+霍〕傾陽」という詩句があり、これに

衛足ト云ハ、葵(アヲイ)ノ花ハ、太陽ニ傾ト云テ、日ノヒル時分ハ必ス足モトヲ衛(マホル)ト云テ、モトノ根ノ方ヘ傾ソ。人ノ忠節シテ君ヲワスレスシテ、君ニカタムクヲ云ソ。<50ウB>

と見える。ここで、「衛足」なる詩句語が用いられ、これが「葵の花=“あふひ”で“ひまわり【向日葵】の花”をいう。」を示していることばだという。ここでも、自然観察眼がよく働いている。もの(“自然界の生態学”とでもいおうか)を見る眼である。室町時代の古辞書『下学集』に、

(アヲイ)又云ク一丈紅([イチ]チヤウコウ)。此ノ花畏(ヲソ) レテ日ヲ以テ葉ヲ衞(マホル) 其ノ足(モト)ヲ也。左傳ニ云ク鮑莊(ハウサウ)カ之智不ス如(シカ)葵ニ。葵ハ者猶ヲ能ク衞ル其ノ足(モト)ヲ。此ノ時鮑莊犯(ヲカ)シテ罪ヲ遭ラルル削(キ)足ヲ。故ニ云フ尓(シカ)也。<元和本、草木124D>

とあって、『湯山聯句抄』の記述内容である「太陽ニ傾ト云テ、日ノヒル時分ハ必ス足モトヲ衛(マホル)」と、『下学集』語注記「此の花、日を畏(ヲソ)れて、葉を以って、其の足(モト)を衞(マホル)なり 」という観察眼は共通しているのである。この観察眼は、辞書編者の独自性認識ではなくして、これを引く漢籍内容に基づくとみてよい。本邦では古くは、『文選』(曹植)の「求通親親表」に、

葵〓〔艸+霍〕之傾|∨葉、太陽雖|∨之廻|∨光、然終向之者誠也。

とあって知られ、これを受けて『万葉集』巻五・868返書中に、

宜が、主に恋ふる誠、誠犬馬に逾(こ)え、徳を仰ぐ心、心葵-〓〔艸+霍〕(キカク)に同じ。

と見え、本邦漢詩文『本朝文粋』巻五(身延山久遠寺編刊)に、

聖-日傾フケ心、猶賢-路収メ責(セメ)将逃(ノカレ)〓〔金+肖(ケス)〕骨之?(ソシリ)。 聖-日傾フケ心、猶為(タラン)衛(マホル)足(モト)之〓〔艸+霍(アフヒ)〕。不任(タヘ)悚-懼(シヤウク)屏(ヘイ)-營之情。<上冊163A>

 とあることからも裏付けられる。

 

1999年8月27日(金)晴れのち曇り。八王子

蒸し暑き 汗たっぷりと 垂る額ひ

「蟷螂」の生態と攻撃性譚

 室町時代の『湯山聯句抄』に、「危哉痴黠蟷」という詩句があり、これに

山谷詩ニモ「小黠大痴蟷捕蝉」ト作ソ。蟷螂ノカマキリカ、蝉ヲツカマウトテネロウカ、其蟷ヲハ、又鴉カネロウソ。互ニムカイヲトロウトテ、我ヲハ忘タソ。サルホトニ、小黠アレトモ、ヨソカラミレハ、愚痴實ニ危ソ。<51ウB>

とある。この「蟷螂(かまきり)」が狙うのは「蝉」で、この「蟷螂」を伺うのは「鴉」となっている。この典拠を『山谷詩』としている。ところが、これに類似する話として

1、片仮名本『十訓鈔』に、

楚ノ襄王晋ノ国ヲウタントス。孫叔敖是ヲ諫申云、「園ノ楡ノ上ニ蝉露ヲ飲トス。後シロニ蟷螂ノヲカサントスルヲ不知。蟷螂又蝉ヲノミ守テ、後ニ黄雀ノ犯トスルヲ不知。黄雀又蟷螂ヲノミ守テ、楡ノ本ニ弓ヲ引テ童子ノ犯トスルヲ不知。童子又黄雀ヲノミ守テ、前ニ深谷、後ヘニ堀株ノアル事ヲ不知シテ身ヲアヤマテリ。此皆前利ヲノミ思テ、後害ヲ不顧故也」ト申セリ。王此時サトリヲ開テ、晋ヲ責ト云事留給ヌ。<宮内庁書陵部御蔵、古典文庫167E>

と収載されている。ここでは、「蟷螂」が狙うのは同じく「蝉」であり、この「蟷螂」を伺うのは「黄雀(クワウジヤク・にゅうないすずめ)」としている点が異なる。さらに、「黄雀」は「童子」に、その「童子」は「深谷」「堀株」という危うい地に身をおくという内容が記されている。何故の襲撃姿勢なのかは、ここでは一つとして話題としていないことである。生き物の生態である攻撃性そのものが話題なのである。

2、『太平記』巻十九・奥勢の跡を追ひ道々合戦の事に、

國司の勢六十萬騎、前を急ぎて、將軍を討ち奉らんと上洛すれば、高・上杉・桃井が勢は八萬餘騎、國司を討たんと跡に付きて追て行く。「蟷螂、蝉をうかゞへば、野鳥、蟷螂を窺ふ」と云ふ莊子が人間世(ジンゲンセイ)のたとへ、げにもと思ひ知られたり。<大系二、290M>

[コメント]大系頭注21に、「ここの句に最も近いのは説苑巻九、正諫である。」とある。この『太平記』には、「蟷螂が車を遮り」「蟷螂が隆車を遮る」という話しもともに記載している。

とあって、ここでも「蟷螂」が狙うのは同じく「蝉」であり、この「蟷螂」を伺うのは「野鳥」としている点が異なっている。さらに、典拠を『莊子』山木に、「〓〔塞‐足〕裳〓〔足-獲〕歩、執弾而留之鵲。覩、一蝉方得美蔭而忘其身、蟷螂執翳而搏之、見得而忘其形、異鵲従而利之、見利而忘其眞」という処を云うのである。ここで、「鵲(かささぎ)」を『太平記』は「野鳥」としたが、『湯山聯句抄』は、「鵲」の別名である「鴉(からす)」としていることに注意されたい。話の内容は、「蟷螂」の鎌をもたげている攻撃的姿勢とこの「蟷螂」を伺い狙う「鳥」の攻撃姿勢の構図という点では共通する。いわば、目前の獲物に目を奪われていてわが身の危険を察知できないでいる姿である。

 また、この「蟷螂」を『湯山聯句抄』は、「かまきり」と呼称しているが、室町時代の古辞書『下学集』でも、

蟷螂(トウラウ/カマキリ)韓子(カン[シ])外傳ニ齊(セイ)ノ莊公曰ク出ルトキニ獵(カリ)ニ有テ蟷螂抗(アケ) 臂(タタムキ)ヲ而當(アタル)其ノ車ニ。公カ曰ク小虫ノ之勇志亦不ス侮(アナトル)。回(メクラシ)テ車ヲ而退ク勇士(ユフシ)  皆ナ皈之。謂(ヲモヘラク)見トキハ大敵ヲ欺キ之見テ小敵ヲ畏(ヲソル)之義歟。又莊子ニモ云フ。<元和本、氣形67D>

蟷螂(タウラウ/ハタヲリ)韓子外傳(カンシゲタン)ニ曰ク、齊之莊公、出テテ獵リス。有リ――。抗(アゲ)テ 臂而當ル 其ノ車ニ。莊公ガ曰、小虫之勇(ケナゲ)ナル志シ亦不可カラ侮(アナトル)。回シテ車ヲ而退ク勇士 。皆皈ス之レニ。謂ラク見テ大-敵ヲ欺テ之、見テ小-敵ヲ畏ル之ヲ之義歟。<春良本、氣形55F>

[コメント]『運歩色葉集』<元亀本373@>も「カマキリ」で、語注記「謂(オモヘラク)」已下を省略して同じ。異本系の春良本『下学集』は、左訓を「ハタヲリ=今云うキリギリスのこと」としている。

と「かまきり」の訓を採っている。ここでは、上記内容である「己が身に危険が迫っていることに気づかないでいること」や「目前の利に心を奪われ、大事を忘れること」の譬喩話でなく、大それた様子に譬えて云う「蟷螂が鎌をふりあげて大きな車に立ち向かう」譬喩話を語注記としていることである。この「蟷螂」の譚は、生き物の生態(攻撃性)そのものが話題である点では共通するが、この二つを知る当時の教養人にあって、何故一方のみを選択して採録しているのか、室町時代の古辞書語注記の編纂と同時代の抄物との関係を含め、考察していくことが研究の眼目にある。『下学集』に連繋する文明本『節用集』<339C>には、訓は見えず、語注記増補として異名「巨斧・斧虫・轉輪」を記載する。他に古写本『下学集』(東京教育大学蔵・春林本・文明十一年本・榊原本)には、「いもじり」を採る。また、「いぼむし」は前田本に見え、『日葡辞書』にて裏付けられている。『倭玉篇』には「いぼうじり」が採られている。鎌倉以前の資料には、「いぼうじり」「いぼむしり」を見るのである。

詳細は、下野雅昭さん「かまきり」<講座日本語の語彙9語誌T240〜251頁>が詳しい。また、「蟷螂」の話しについては、古くは、柳田國男「蟷螂考」<『柳田國男全集』第19、筑摩書房昭和44年刊>があり、近くは、植木朝子さん『堤中納言物語』「虫めづる姫君」と今様<國語國文第65巻第9号−745号−平成8年9月>に詳しい。

  

1999年8月26日(木)晴れ。八王子⇒堀の内

夏疲れ 涼しきうちに 出でにけり

「卍」

 室町時代の『湯山聯句抄』に、「聚-散蚊-胸ノ卍」という詩句があり、これに

蚊ノ胸ニハ、卍字ガ有ト云ソ。ソレハ如々居士カ録ニ有ソ。聚散トハ、蚊ハ一処ヘヨツ、又チリツスルモノソ。<49ウI>

とある。「蚊胸の卍」とは、蚊をとらえてじっくりと観察した眼である。禪籍密参『快庵的伝大中寺禅室内秘書』に、

○嶺云、兼中円ニ手ヲ入レテ見サシ、挙ス、在ルトキ独(ヒトリ)トコス。心ワ、独(ドク)ガ円ダ。空ハ卍ノ字ナリトキ、独(ドク)ダ程ニ、末后ノコトデヲリヤル。<77F>

と用いられている。学研『国語大辞典』によれば、

@〔仏教〕仏の胸・手足・頭髪などに表れた瑞相(ズイソウ)。仏心のしるしとして用い、また、寺院や仏教の記号・紋章としても使われる。

A卍をかたどった模様・紋章。

《参考》「万」を意味する記号で、字形はインドのビシュヌ神の胸のつむじ毛に由来する。

と示されている。これをもっと判り易く示せば、現在「卍」は、地図標示に宗派を問わず「仏教寺院」のマークとして見受けられるものである。漢字の文字がマーク化することは実に異例なのである。

  

1999年8月25日(水)薄晴れ。八王子

 夕風や 子らが遊ぶぞ 街の角

 「したたか」

 禪籍密参『快庵的伝大中寺禅室内秘書』に、

在ル時、娘(ヒメ)ヲ庵主ノ処ヱ遣(ヤ)ラシメテ、「『正當恁麼時キ如何ン』ト云テ、抱(イダ)キ付ケ」ト教(ヲシ)ヱテ問ハシメタ処ヲ、庵主ハ枯木寒岩ニ依テ、「三冬ニ無シ‖暖氣|」ト云テ、終イニ落チ合ハヌ処デ、娘メガ皈テ、婆子ニ此ノ由(ヨシ)ヲ云タレバ、婆子〓〔門+鬼(シタタ)〕カニ〓〔口+發〕噴シテ、「青汁(アヲシル)拔ケヌ入道メナ、廿年(ネン)ガ間ダ俗人ヲ供養ジタ」ト云テ、庵ヲ焼却シテ屈トマクシ出シタ程ニ、此ノ婆子モ見地ガ無クンバ向ハ働クマイゾ。<一,13「婆子焼庵」42L>

是非ヲ弁ジタ棒ナラバ、初心ナ亊ヨ。〓〔門+鬼〕カニ勢イヲ以テ打ツタト見タラバ、何ンデモナイ亊ヨ。<一,33「保壽開堂」70P>

文殊ワ走ミル処ヲ〓〔門+鬼〕ニ行ゼラレタ程ニ、一枝草ヲ一寸ツト引ツ切テツン出シタ処ヲ、急度提起(テイ-)シテ、此ノ薬リ能ク亦タ人ヲ殺シ、亦タ能ク人ヲ活スト云ハレタ。<一,38「善才一指草」76B>

爰ヲバツヽト入ツテ挙ントスル処ヲ、竹箆ヲ以テ地ヲ丁度打ツテ、〓〔門+鬼〕カニ行シテ略クセイト落チ合セテ御―ル。<一,38「善才一指草」76D>

爰ニ弁処ハ無イ。〓〔門+鬼〕カニ行シテ、弁処ノ無イガ一薬ダ。<一,38「善才一指草」76K>

扨テ出デ去ツタ処ヲ、声ヱニモ出ダサバ、當則ヲバ汝(ナン)ジニ渡タスト云テ、〓〔門+鬼(シタタ)〕カニ荒レ立ツテ行シテ置ク可シ。心得肝要也。<二、76「〓〔水+為〕山鉄磨」228K>

嶺云、爰ハ師ヲ丁度打テ、噫々此ノ畜生ネガト云テ、〓〔門+鬼(シタタ)〕カニイネツテ挙シ走。心ハ、アノ牛ニ用処ハナイ。只ダ黄檗メガ畜生也。<二,109「黄檗毒打」280C>

浮山ノ遠ハ西家ノ久参デ御座在レドモ、ナニガ曹洞宗ハ旦縁(ダンエン)ヲ嫌ウニ依テ、弟子ニハ取リヲ申シ無ツタ。〓〔門+鬼(シタタ)〕カナ見地鼻孔ダナ。<一,18「曹洞五位」48C>

浮山ノ遠ハ西家ノ久参デ御―レ共、ナニガ曹洞宗ワ旦縁ヲ嫌ウニ依テ、弟子ニハ取リ□□シ無カツタ。〓〔門+鬼〕ナ見地鼻孔ダナ。<二,64「悟本正脉」214N>

嫌云、見ヱヌト云ガ才家デハ〓〔門+鬼〕ナ爪牙ダ。其ノ用ナ爪牙ガ在ラバ、何ニガ天下ノ英霊ガノツケニタヲサ令ズ。<二,107「雪峰住庵」276H>

雲門ニ一棒アブセ掛ケウズハ、〓〔門+鬼〕ナ腕力ダナ。爰ニ近離ノ修行ハアルコトダ。<二,116「洞山三頓棒」288K>

とある。この「したたかに」は、副詞で「ひどく」の意で、「したたかな」は、形容動詞で「きっちとした」の意である。これを単漢字「〓〔門+鬼〕」をもって表記している。その他「したたか」は、カナ表記にて、

サテ闔國人引ク共、動ズマイト見レバ、是レガシタヽカナコトダ。総シテ當門戸デワ、當則ガ最初ノ脇キ古則ダ程ニ、シタ々カナ手ヲ拂ツタ。<一,4「黄檗六十棒」31C>

此ノシタ々カナ切レ目ニ逢ウタニ依テ、元来不會不汚染ノ一物、佛法ノ大意ニ叶ツタ。<一,4「黄檗六十棒」31E>

況ヤキズノ無イト云社、シタ々カナキズヨ。ナセ―バ、夫レハ一度ビ會下僧ノ用処ニ立テタ程ニ、早ヤムサラシイナ。<一,32「外道問佛」67F>

洞上デハ、シタ々カナ事ワ、知不到ニアル當則ヲ、正中来ト見ル筋目モ走ゾ。<一,54「藥山腰間之刀」98O>

―無シト云、此ノ歌一ツデ問ワセテ御―ル。此ノ時キモ、シタ々カニ行ジタ。<一,4「黄檗六十棒」32G>

○爰ヲバ師家ノ旨ヲジツト把?シテ、如何ンガ廻避セン/\ト、二三度キズイテシタヽカニツキ放(ハナ)スナリ。爰ノ挙処ガ肝要ダ。是ガ大事ナリ。<一,23「洞山無寒暑」56N>

向ウシタヽカニ行シテ理ヲ付ケヌガ、文殊ノ一藥デヲリヤル。<一,38「善才一指草」76G>

と見えている。ここで、単漢字「〓〔門+鬼〕」について見ておきたい。この文字だが門構えに鬼と書くのだが、永正本『字鏡抄』門部・鬼部には未記載にある。この標記字の字書へのつながりは薄い。というのも、室町時代の『節用集』類には、「したたか」の語を漢字で示すとき「」の文字を標記字としているということ。そして、院政時代の観智院本『類聚名義抄』には、

〓〔門+鬼〕胡許反 <法下78A>

と反切を注記するに留まり、和訓が見えていないからだ。この単漢字と語訓の拠り所を今後探る必要がある。

 

1999年8月24日(火)晴れ一時雷雨。八王子⇒戸越(国文学資料館於:解釈学会)

地に跳ねる 雷鳴轟き あと涼し

「初生の月」

禪籍密参『快庵的伝大中寺禅室内秘書』に、

○嶺云。熟語ヲ、代云。「擡(モ-)テ頭ヲ拶ツ出ス 初生ノ月キ 却テ倣(ナラウ)張公畫クニ翠眉ヲ。心得ハ、初生ノ月ト云ハ、〓〔月+云〕月(ミカヅキ)ノコトヨ。張公ハ畫子ダ。取リ分ケ眉ズミヲヨク畫ク者デ在ツタ。<二、六九「百丈野狐」221D>

と、「初生の月」という表現が見える。また、別本乙に、

師云、不織上ヲ走。答云、初生孩児マテヽ走。雲何トテ初生ノ孩児テハ有ソ。答云、見レトモ見タル會ハ走ウヌ。<別本乙、第21廓然不識之話24E>

と、「初生の孩児」という表現が見えている。

この「初生」だが、どう読むのがいいのだろうか。というのも、「初」の字を音で「ショ(漢音)・ソ(呉音)」、訓にして「うひ・はつ・はじめ・ぞめそむ」と読む。この「初」を語頭に置く語を検索してみても、「初夏」を「ショカ」「はつなつ」の音訓両読みするものから、「初産(ういザン)」「初孫(ういまご)」「初陣(ういジン)」「初学(ういまな)び」「初見参(ういゲンザン)」と云う具合に、雅語表現に「うい」の読みが用いられてきている。これに対し、相撲の取り組みで初めての取り組みとなる力士の「初顔(はつかお)合わせ」や自然界の季節を彩る最初の草花である「初咲(はつざ)き」などの熟語が主流でもある。

 さて、この「初生」は、このいずれの読みをとるのかといえば、陰暦八月三日の月すなわち「三日月」をさしていうのであるから、「初月(ショゲツ)」でもいいのだが、これに「生」の語を添えているのであるからして、「ショシャウ」、または「ショセイのつき」と音読するのが望ましいのか、それとも、新鮮さを表すところの「うぶのつき」とでも義訓読するかである。「初」と「生」との間に「-」が中央にあれば音読みするという展開になり、これが、左の端であれば訓読みなのだが、その手掛りも見えていない。

 という心持ちでいたところ、国文学資料館にて展示中の“江戸堂上派武家歌人の世界展”資料のなかに、一九に亨弁(カウベン)の歌学書『再治視聴筆削(さいぢしていひつさく)』写本二冊があって、これには熟語の右に訓読、左に音読が施されていて、たとえば、「初春」であれば、右に「はつはる」左に「ソシュン」とあり、「初」の音はすべて「ソ」で施されているのに気付いたのである。となると、江戸時代この「初生」も「ソシャウ」、「ソセイ」と読む可能性も残されていることになる。『習古庵亨弁著作集』に静嘉堂本が翻刻されているということであるから、この語の記載の有無を確認してみたいところである。現代の国語辞書や漢和辞書にあっては、この熟語の多くは未記載にする。諸橋『大漢和辞典』(大修館刊)にて、

初生月】136シヨセイゲツ はじめて出る月。新月。〔西廂記、草橋店夢鶯鶯雜劇〕舗雲鬢玉梳斜、恰便似判吐初生月。<二、228-4>

とあるのがこの熟語読みの指針となる。ただし、この熟語を「はつなり」と読むときは、果実などの実が初めてなったときに用いていることも添えておこう。

1999年8月23日(月)晴れ。西伊豆河津⇒八王子

十五キロ ずしり西瓜や 皆で食ひ

「あかはだか【赤裸】」

 駿河御譲本『江湖風月集抄』巻上「雷峰」に、

洲云。一二ノ句ナクンハ師子象ハアカハダカヨ。<191C>

とあり、禪籍密参『快庵的伝大中寺禅室内秘書』に、

向ウ早ヤ云テ聞スレバ、此ノ古則ハ赤ハダカニシタコトダ。<二83「透網金鱗」240O>

とある。この「あかはだか」は、人が衣服をすべて脱ぎ去った状態を本意とすれば、その状態を他人に見られて恥ずかしく思う気持ちを「詩句」や「古則」に転じて表現する。これを逆手に取れば、「人間本来無一物」であるからにして、紛れもない純な状態を意味することばとなっていることに注目されたい。室町時代の古辞書『運歩色葉集』には、「(アカハダカ)」<元亀本266B>と見えているが、ここからは、このような意味の広がりを知ることはできない。また、現代語の表現では、この「あかはだか」なる語は、接頭辞による「まっぱだか」や「すっぱだか」、そして漢語の「全裸」として用いられ、煩わしきなにものをも持たない純な状態を表現することは再び失われ、本意の身に何も纏わない状態を表現する傾向にあるようだ。そして、近代の作品では、森鴎外『即興詩人』に、

赤条々(アカハダカ)なる力士の血を流せるあり。

を見るといったところである。

1999年8月22日(日)晴れ。八王子⇒西伊豆河津

 暑さ増す 大樹の蔭に 身をまかせ

「胡桃」

 『江湖風月集抄』の最後の詩句265に、東岩日和尚「胡桃」というのがある。

仙苑ノ春風幾奏ス名ヲ 三千季ノ實結テ初成 曽テ將テ一點枝頭ノ血ヲ 換却ス霊雲ノ双眼睛胡桃トハ仙人ノ桃也。秦ノ代ノ者仙境ヘ行テ居ル也。将ニ又晋ノ代ノ漁人川ノ源ニ桃花ノカスカニ見ユルヲシテ流水ヲ経テ山下ニ行桃花ノ苑アリ。秦ノ代ノ者出合テ問令ハ是何ノ代ソ。答テ云、晋ノ代ト。彼漁人皈テ晋ニツグ。イソキ人ヲ使テ見スルニ見ヘズ。秦ト晋トノ間千季ヲ隔。仙――トハ、仙境ニ居テ何ノ代ソト問タルヲ云也。三千――トハ、三千年ニ一度花サキミナル王丹カ桃トシル也。曽将――トハ、霊雲ハ今時四時遷変ソ。花ヲ眼睛ヲ換却シタソ。爰テ空却ノ春ニ乗スル也。程ニコソ一見テハアレ。枝頭ノ血トハ花ノ紅ニ開タヲ云也。<450B〜451E>

と見える。「胡桃」は易林本『節用集』に「胡桃(クルミ)」とあるが、ここでは、「仙人の桃」とし、三千年に一度花開き実を結ぶ「王丹が桃」としている。ここには、「桃源郷」の譚が見えている。

1999年8月21日(金)晴れ、爽風立ちぬ。八王子

涼やかに 蝶鳥も知る 風の道

単漢字「文」と「攵」

 鎌倉時代の古字書である世尊寺本『字鏡』に、記載スペースである押界二桝を使用して表記する語「一」と「行」とをこれまで検討してきたが、その最後の語例である「文」について今回見ることにする。

亡云反     仁攵之受也   ワ ト

  動也 美也 善也  照之文也 義文

文書也 錯書也   之制也 智文与也

餝也 敬文之志也  勇文之師也

忠文之實也    孝文之夲也

信文之孚也    恵文之慈也 譲文之材也 文者徳之物名也 <第二冊45ウ@-3・4>

 

〓〔文+彡〕古攵 聞音 疋通赴卜二反

  ヲコク        フミカクナリ

カサル        マタラナ

マタラ        ウルハシ

モトロク       在雜字計

ヱカク 従ト縦 又飾也 小撃也

上又作 名也 定也 初也 章也        <第二冊45ウA−1>

とあって、「一」や「行」の記載と異なる点は、和訓記載が「文」には見えず、次の「攵」に「上又作」と示し、連関するのである。この単漢字「文」の記載手続き方法を辿ると、まず右から左へ横に読み、桝目を変えて再び右から左へと読み進む書式であることが判明する。この原理で世尊寺本は、和訓の排列記載を読むことが必要となってくることに注意されたい。排列順序も縦に上から下へと読むのではないのである。その証拠に、二桝目の二行目から三行目の「義文/之制也」の記述がある。次に不審なカタカナ「ワ ト」があることについても触れておかねばなるまい。

永正本『字鏡抄』は、

フン 〓〔文+彡〕古  マタラク

文 ヱカク     マタラ

  ヒカリ     ウルハシ

フミ      アヤ

ヲモフ     モトロク

  ヲコ

  カサル  <下末36文部>

とあって、反切字音はカナ字音にして、漢字意義注はすべて未記載にし、和訓語のみとする。さらに「攵」の見出し標記字は立てない編集方針にある。そのため、和訓語は、世尊寺本の「攵」標記字の和訓を採り入れている。ここでも、「ひかり,をもふ,あや」といった和訓が見えている。このうち、「をもふ」の和訓が次の『名義抄』にも未記載である。

観智院本『類聚名義抄』に、

〓〔文+彡〕古 音聞モン ヒカリ カサル モドロクカス フミ アヤ オゴク

  ツクノフ 和キヤウ マタラ ウルハシ <僧中61F>

[コメント] 和訓「ツクノフ」が他字書に記載を見ない。

とあって、観智院本は、「攵」を別字「百三 攴攴攵逸角普卜二反/撃」<僧中54C>として部門の先頭に置いている。和訓はない。

1999年8月20日(金)晴れ一時雷雨。八王子⇒世田谷駒沢

子猫三ツ ころころ飛びて ガラス戸へ

雀は「ジウ」烏は「ガウ」

 禪籍密参快庵的伝大中寺禅室内秘書』に、鳥(雀と烏)の聞きなしをもって形容する表現が、

此ノ鈴声ト云ハ、雀(ススメ)ハジウ、烏ラスハガウ、山頂デハザツト吹イタゾ。此ノ鈴声ガ響イタゾ。此ノ鈴声ト云ワ、天嶺ヨリ、此ノ口裡ヨリ響タガ鈴声タゾ。畢竟心得ガ肝要デ走ゾ程ニ、風穴モ林才會裡ノ一匠ナ程ニ、畢竟無位真人ノ事ヲ弄ジタゾ。<二91風穴祖師心印254@>

今マ時ト二三日ノ比ロヲイナラバ、嵯峨・吉野モ奥州・鎮西モ乱滿トサキ乱レタ。僧ハ經ヲ讀、侍ライハ弓矢ヲ取リ、百姓ハ日々ニ耕シ、冬ハ雪ガ降リ、秋ハ紅葉乱レタ。雀ハヂウ、烏スワス[ガ]ウト云モ、此ノ帝都ノ至ラヌ処ガアツテコソ、向ウ見タトキ、物ノ/\ノ上ニアル帝都デワナイカ。元来ノ有力タゾ。生レナガラノ主ヨ。悪クスレバ、額イニシワガヨル。<別本甲16亦?山466C、写真29K>

[コメント]別本甲の「スウ」だが、「ガ」の右から下へ延びる画線を書き損じたものか。さすれば、「ブウ」とすべきかとも翻字して思わないではない。ここは、実際のカラスの聞きなしのうえからも「ガウ」とした。

と見える。

1999年8月19日(木)晴れ。八王子

烏三ツ 風ものびきて がうと鳴き

感動詞「うゝ」

 和語感動詞に、肯定・納得・承諾の意をあらわす声にして、「うゝ」という語がある。室町時代から江戸時代初期における禪籍密参快庵的伝大中寺禅室内秘書』に、

二七、「点處愁」,代 師ヲウシロテニシテ立テ、ウシロ手ヲ取テ、爰デモナイヨ/\ト挙ス也。先ヅ師家ヲウシロニシテ、師ニナリ代テ立ツガ理頭ノ渕底ナリ。ウシロ手ヲ取タ心ワ、次第ニ事ノ出ヌ用所ナリ。ウヽ爰デモナイヨ/\ト云ワ、終ニ落居ノ出ズ、的位ノ出ヌ用所ナリ。落居的位ノ出ヌガ理頭ニ渕底ナリ。愁也。純熟也。<別本甲,小林印刷出版484M>

一八、「曹洞五位」,△爰ヲバ威儀トウ/\トシテ、南面ニ向テ、ウヽト挙シ走。此ノ主ノ所作ヲ云ワシマイ。<一,小林印刷出版48N> 

と見えている。これも「末向」の語と同じく、曹洞宗野州大中寺の快菴派による禪籍抄物である『江湖風月集抄』(名古屋蓬左文庫藏・駿河御譲本、中田祝夫編、影印「抄物大系」勉誠社刊)に、

又云寒―トハ雪ノ夜ハイカニモ静ニシテ風ハナイゾ。ハツチト折ル処デ、ウヽ、雪ガ降タヨト覚也。サテ雪ノ聞羨[様]テハ走ヌカ。疎――トハソツトシタスキマヲモ降入物也。耳――此聞羨[様]ハ、心テ聞タソ呈[程]ニ、声色外ノ威儀也。ホツチトヲルヽ処デ、ウヽト合点シタハ、心デ聞タゾ。<巻上・聽雪77CE>

と見えている。この「うゝ」だが、口語的な会話表現にしか見えない語として注目しておきたい。

1999年8月18日(水)晴れ。八王子

陽の極み 薔薇も再三 咲きにけり

「ものすご・い【物凄】」

 和語形容詞「ものすご・し【物凄】」は、鎌倉時代の延慶本『平家物語』巻第十一に、

美乃国不破関ニモカヽリヌレハ、細谷川ノ水ノ音モノスコク音信テ、山嵐シ梢ニハケシクテ日影モ見ヘヌ木下道ニ関屋ノ板庇年経ニケリト覚テ、机瀬川ヲモ打渡リ、下津萱津ヲモ打過テ、尾張国熱田宮ニモ被著ニケリ。<六141F>*長門本は、「ほそ谷川の水音すこくおとつれ」<巻十八659上左H>とする。

とあって、その例を見るのである。この「ものすごし」だが、現在と同じく活用語尾「い」で表示される「ものすごい」は、何頃からかといえば、室町時代ということになる。これは、連体形「き」のイ音便化が進み、連体形が終止形へと影響することによる。これとは逆に、連用形のウ音便化は早くから用いられているのであるが、この時代「物すこく」と音便化していない。

天理図書館藏『長恨哥抄』に、

[蜀江水碧(ミトリ)ニシテ蜀山青シ],蜀ハ中ニ江カ流レテ兩山カソヒヘタリ。其ノ水ノ色、青々トシテ物スコイ水色也。<30I>学習院大学藏天正五年本<99A>、京都大学図書館藏天文十二年本<163B>も同記載。

とあって、連体形「物すこき」のイ音便化の例を見る。また、この同じ箇所を『諺解長恨歌』では、水色の青さを「すさまじ」と表現している。

快庵的伝『大中寺禅室内秘書』別本甲に、

孤鳫ト云ワ、一ツ声ヲモ十分ニモタヱズシテ、鳴テ透ルハ、サテ物スゴク懶クワソウヌカト云ウテ、浮世ノ愁情ノコトデナニガアラウナ。衲僧修行ノ順熟ヲ云タコト也<二五、得後愁481G>

修行順熟ノコトヨ。此ノ人ノ影モナク物スゴク住ツ迄タハ、慥シカ物思ノナリタゾト、ソバヨリミソヱタコト也。<二六、傍観愁482O>

代、イカニモ物スゴクフワ/\ト行テ皈ル也。是ヲ愁情當人ト心ヱテヨイゾ。<二六、傍観愁482R>

と連用形「く」の語形である。同じく快庵的伝『大中寺禅室内秘書』一に、

或イワ紫扉(サイヒ)者スゴイゾ。風雨モノウイゾト云ワ、爰デ云タコトダ。人境共ニ絶シタ、爰ガ佛法ノ大意ダ。<四、黄檗六十棒31K>

と終止形「い」の語形をここに見るのである。

1999年8月17日(火)晴れ。八王子

 だくだくの 額の汗は 夏盛り

「マツカウ【末向】」

 室町時代の曹洞宗野州大中寺の快菴派による禪籍抄物である『江湖風月集抄』(名古屋蓬左文庫藏・駿河御譲本、中田祝夫編、影印「抄物大系」勉誠社刊)に、「マツカウ【末向】」ということばが用いられている。次にその用例を挙げてみる。

1、「浮-幢刹-海流-香遠シ」,浮――トハ非々蒼天銀河ヨリ掛入タソ。飛竜直下三千尺{末向}掛タ。水ナラハ似合タ。<114@>

2、「直ニ至マテ而今ニ未樹(タテ)功ヲ」,善知識ヨリ指示ヲ蒙テ、江西ニ添一句湖南添兩句廿季、卅季肝腸ヲモムカ馬腹ノモマセヤウ也。{末向}功作ヲ尽テハ、直――無功ノ処ニ落付ウ為也。引随印轉。<61B>

3、「智門ニ見了テ接天衣ヲ」,智門ニ見ヘ了天衣ヲ接也。{マツカウ}見届ル処テ何用――也。<162B>

4、「杓頭放下シテ看如何」,杓――トハ、カイゲヲホツカトナゲ捨タソ。爰ニ眼ヲ付テ見ヨ。{マツカウ}脱白ニ云ガ家醜タソ。アルカ是ハ對人――人々ニハ見ヌソ。浴主計ニ云也。<173K>

5、「灯前屈指龍門客」,灯前――トハ、竜門ニ晒∨腮名人達モ遷化ナソ。{マツカウ}指ヲ屈ル〓〔日+之〕分猿――処テ猶断腸シタ。<179E>

6、「聽猿」,上他――此猿声ヲ聞テヨリ千種万般ノ愁タソ。{末向}江西湖南ヲアリキマワル行人ノ涙ヨリミレハ巴峡ハカワキ切テ一滴ナイソ。<181E>

7、「正是賊ノ居空屋裡ニ」,正――トハ突クト眠ル當歟六賊不動也程ニ空裡トバ夢也。{マツカウ}ヨク見レハ末行――トハ賊一歩不行早夜カアケタソ。夜コソ盗人ハ入。<182D>

8、「正是賊ノ居空屋裡ニ」,正――トハ、トツクト眠タ當位六賊ハ不動ソ。空屋裡トハ夢中也。{末向}ミレハ、末行――トハ、賊ノ一歩モ不行、ハヤ夜カアケタソ。六賊ノソツトモ不∨動。已ニ天明也。畢竟夢中惺々也。<182I>

9、「煩悩紛々頓ニ入懐 未老腕-頭先ツ乏ス力ヲ」,煩――トハ、慮知妄想カ胸襟ニ関塞タソ。{マツカウ}歎悲スル処テ、未老――トハ、俄ニ老衰枯槁シタソ。縦イ皈郷母ニ逢鞋ヲモ作ヘキ道徳ワナシ。サテ何ト母ヲハ救ウスト夜来憶得也。<185C>

10、「煩悩紛々頓ニ入懐 未老腕-頭先ツ乏ス力ヲ」,煩――トハ、慮知妄想カ胸襟ニセメ塞タソ。{末向}愁ル処テ、未老――トハ、年ハ若ケレ共コツキト技倆カ尽タソ。縦イ皈郷母ニ逢テモアレ、睦州程蒲鞋ヲモ作リ得テコソ、サテ何ト母ヲハ救ウズトトツクト思入ル処カ本来父母相見也。<185I>

11、「胸中自有一樓臺 是誰鼓-動ス黄昏月ヲ」,胸――トハ{末向}應機接物迷情ヲ救カ選佛ノ道場也。<201D>

12、「胸中自有一樓臺 是誰鼓-動ス黄昏月ヲ」,胸――トハ{マツカウ}應機接物スルカ選佛ノ道場也。<201K>

13、「全鋒不戦屈人-兵ヲ 皈来兩眼空寰宇ヲ」,全鋒――トハ、膝ヲホコサス、足ヒツシイテ居テ天下ノ者ノ頸ヲヽトス也。{末向}シテコソ、皈――トハ天下ニ人アリトモ思ワヌソ。<205J>

14、「全鋒不戦屈人-兵ヲ 皈来兩眼空寰宇ヲ」,鋒ヲ出サヌ也。{末向}収メタ將軍ノ威風ヲハ何ト見ズソ。<206D>

とある。特に9と10、11と12のように、同じ内容を重ねて表現するところではカナ表記と漢字表記で交互になされていることから、「マツカウ」を「末向」と漢字表示することが知られる。この「マツコウ」だが、発音するときは、促音化し、「マッコウ」と読む。意味は「真つ斯く」がウ音便化してできたことばで、「まさにこのよう」である。このカナ表記は、他に漢籍抄物である『論語抄』『莊子抄』さらには、『周易抄』(鈴木博編「周易抄の国語学的研究」第四章語法349〜351頁によれば、「マツサウ」「マヅカウ」の語形も見える。)も見えている。ただ、「末向」の表記は、この『江湖風月集抄』にのみのものか、今後も探って行く必要があろう。古辞書には、「マツカウ」「末向」の語は未収載にある。

[補遺]

 『江湖風月集抄』と同じく、曹洞宗野州大中寺の快菴派による禪籍密参資料である天堯快庵的伝大中寺禅室内秘書』一<慶長廿年写、小林印刷出版刊>の九、黄龍三関に、漢字にて「末向」の語が四例見えている。

爰ヲ人班ンハ難イ∨見トモ云タ。是ハ末向ノ商量デヲリヤル処ヲ挙ス。<39B>

老眼花ナヲ雪キトミ、雨ヲ風ト聞テ走処ヲ、是ガ末向ノ商量カ中々。<39C>

何ントモ見ト々ケノ無イ処ヲ、末向向上生縁ノ処ト云タゾ。<39F>

コノ地ヲ人々生縁ノ処トモ、末向向上トモ云タ。<39J>

1999年8月16日(月)晴れ。八王子⇒橋本

盆送り ツクツクボウシや 鳴き初めし

象徴語「つるつると」

 室町時代の象徴語には、現在用いられていない表現が見え、これがこの時代の共通意識に基づく象徴語表現であることに気づく。その一例として、「ツル/\ト」という語を紹介しておこう。

或ハ朝日ナドノツル/\ト出ルヲミルニ、目ガ末ツ暗ラニシテ方角ガ弁ゼラレヌモノダ。雲ヲミテモ走ダ。迷イ用デヲリヤル処ガ本位渕底ダ。<286F『快庵的伝 大中寺禅室内秘書』二(慶長二十年写)小林印刷出版,和語副詞,擬景語,天象>

秋ノ色ヤ声カ悲キホトニ、吟スル人ノ肩ヲソヒヤカセハ、月モ亦東ヨリ出テヽ、ツル/\ト山ノ上ヘノホルソ。<178A『湯山聯句抄』(文禄三年写)臨川書店,和語副詞,擬景語,天象>

という用例を見る。この二用例とも天象である「朝日」や「月」がのぼる情景を表現することから、「擬景語」という位置付けをしてみた。ところで、この「つるつる」だが、同語を重ねた畳語表現の語形となっている。この「つる」は、「つるべ【釣瓶】」の「つる」と同語要素ではと推量している。たとえば、夏至以降の夕陽の傾きを「釣瓶落ち」と表現する。この逆が「釣瓶上り」で日や月が「つるつると」見る見るうちに引き上がるさまを見事表現できているのではないか。用例は、多ければ多いほどよいので、今後も語彙採取を努めたい。

[補遺]「つるべ」は、『江湖風月集抄』巻上に、「瓦瓶ツルベ也」<26@H>

とあり、古辞書『運歩色葉集』(元亀二年本)に、

釣〓〔金+并〕(ツルヘ)<157G>。

(ツルベ)左傳十六、飲(ミツノマシメ)テ馬于重丘破(ハリツツ)其ノツルヘ|。(同=ツルヘ)撃― 史 <162D>

と見えている。が、「つるつる」の語は未収載。

1999年8月15日(日)曇り一時残り雨、陽も時折射す。八王子

音枯れに じわりと立つや 雨後の蝉 

「王」の尾頭字

 門參録すなわち、参禅のための予備知識書(古則公案に対する問答法の解説)ともいえる快庵的伝『大中寺禅室内秘書』二(慶長廿年写、後近代研究所・小林印刷出版刊)の76“世尊拈華”のなかで、

無頭無背無面ト云ワ、王ノ字ニアタマガ出レバノ字ダ。尾ガ在レバノ字ダ。尾頭ノ無イ時キノ字ダ。王ワ心ノ字ニ皈タ。心ニ前背ノサタワ無イ。ドツコモ心トミヨ。<>

という文字点画の加減を例に用いた説明が見えている。

ここでは、「王」の単漢字を中心にすえ、「王」の字頭に「丶」を施せば「主」という文字になり、逆に「王」というよりも、「壬」に右曲りの尾を施すと「毛」という文字になるというように、文字の合成・分解による『〓〔玉+肖〕玉集』『小野篁哥字盡』とは、観点を変じたこの文字学習を見る時、多少の無理はあるものの文字の頭尾に点画の付加する考え方は、これまでの識字学習のなかでは余り知られていないいないという点からも貴重な国語文字研究資料といえよう。

また、口頭ではあるが、「山」という文字の中心の棒が外れると、「凵(カン)=中の空になった穴の姿」となる。この真ん中に短くもなく、均等でもない長い棒すなわち「心棒(シンボウ)」が付いてこそ初めて「山(サン)=やま」となるのだといった文字説法を耳にしたことがある。尾が付くと「屮(サ)=左手」となるというところか。

1999年8月14日(土)大雨、断続的に強く降る。八王子

雨脚の 強き勢ひ すべて消す

「周利盤特(シュリハンドク)」

 周利盤特(チューラパンタカ)という人物は、『日本仏教語大辞典』(平凡社刊)によれば、

佛弟子の一人で、愚鈍な男であって、四ヶ月に一偈も暗誦できないほどであったが、佛の命に依り人々の履物の汚れを取り去っていたとき、汚れをおとすことの困難なことから、煩悩の除きがたいことを知って、阿羅漢果を得たという。<422-3>

とある。この「周利盤特」を室町時代の景徐壽春の聯作『湯山聯句抄』(文禄三年写)は、「修利盤物」と「特」を「物」と誤表記し、口述記載する。その内容は、

修利盤物ト云ハ、仏ノ弟子ソ。ツヨウ鈍ナル人ソ。一夏中ニ掃箒ト云二字ヲヽウホヘカネテ、掃字ヲホユレハ、箒ヲワスレ、箒ヲヲホユレハ、掃字ヲ忘レテ、ツイニ二字ヲヲホヱヌソ。舌ノタヽレツブルホトニ、フクスレトモ、ヲホヱヌソ。<京大谷村文庫本39ウB>

とあり、鎌倉時代の懷奘禅師『正法眼蔵随聞記』第二20に、

中々世智辨聰(セチベンソウ)なるよりも鈍根なるやうにて切(セツ)なる志しを發(ホツ)する人、速に悟りを得るなり。如來(ニヨライ)在世(ザイセ)の周梨槃特(シユリハンドク)のごときは、一偈(イチゲ)を讀誦(ドクジユ)することも難かりしかども根性(コンジヤウ/ココロネ)切(セツ)なるによりて一夏(イチゲ)に證(シヨウ)を取りき。<岩波文庫47K>

とみえ、無住『沙石集』巻第二には、

佛ノ御弟子須利盤特(シユリハントク)ハ、アマリニ鈍根(トンゴン)ニシテ、我名(ワカナ)ヲモ忘(ワスレ)タリ、止觀(シクハン)ノ法門(ホウモン)ノ譬(タト)ヘニ、觀(クハン)ハ箒(ハハキ)、止(シ)ハ掃(チリトリ)の如シト教(ヲシ)ヘケルニ、箒(ハハキ)ノ名ヲ復スレハ掃(チリトリ)ハ忘レ、掃ヲ復スレハ箒(ハハキ)ハ忘(ワス)ルヽホト也ケリ、仏哀(アハレ)ミテ、五百羅漢ヲ師(シ)トシテ、一夏(ゲ)九十日間ニ一偈ヲ教ヘ玉ヘリ、守リ口ヲ攝メテ意ヲ身ニ莫レ犯(ヲカス)コト、如ク是行者ハ得(ウ)度ルコトヲ世ヲ云々、文ノ意ハ、口ヲ守リテ妄語セス、意ヲ攝(セツ)シテ妄念ナク、身ニ咎ヲ犯スコトナカレ、如ク是(カク)行(キヤウ)スルモノ生死ヲ可シ離(ハナル)也、盤特此ヲ信シ行シテ羅漢果(ラカンクハ)ヲ得(エ)タリ、サレハ才智(サイチ)多(ヲヲ)カラストモ信シ行セハ、一偈一句ノ下ニ道(タウ)ヲ得ヘシ。<成簣堂本・十九3ウ、36D>

『湯山聯句抄』より詳細な同様の話しが記載されていることから、中世鎌倉時代から室町時代における寺内伝誦による悟道到達譚の一つと云えよう。室町時代の古辞書である『運歩色葉集』には、

須梨般特(シユリハンドク) <元亀二年本324A>

と標記語のみで、語注記は未記載にある。当代における悟道到達譚のうえで、「シュリハンドク」は、共通認識をもった人物名であった。そして、上記内容の譚の原典拠を未だ明かにできないでいる。

1999年8月13日(金)曇り一時雨降る、夜半雷鳴轟く。八王子

山鳩の 庭梢にや 舞い降りき

単漢字「行」の多訓

 1999年8月8日(日)記載した“単漢字「一」の多訓”の継続である。ここでは、世尊寺本『字鏡』における、桝目枠二つのスペイスをもって記載する単漢字「行」について見ることとする。

 第十二行篇

    カウ音 胡祥反  和キヤウ音  アリ(ル)  ヤル 遐庚反 胡浪反

サル                 タタスム 

ユク ツラナル メクル カタチ ハナツ ユキツヽキ ミチ マサニ テタツ ナムトス

  コナフ ツラ ツタフ コヽロ ヲコノヘリ コレ サケ ミユキ イテマシ

   サイキル ツトム アマル ワサ  ウツクシム ヒク クタル キツ アヤマル

   スルコト コハシ モチ井 カム  マツリコト アリ ナカル シワサ オサム 歴年也

                       ナケク フム

  道也 視也 用也 賜也 言也 陳也 取也 往也 任徳也 緩歩也 用也 タヒ

イネ 去也 麁也 徳也 如也 安也 動也 行陳也 業也 語也 歩也 至也 マタ <第一冊21ウ@48頁>

と、単漢字「行」の右傍に「サル」と「ユク」、左傍に「イネ」の和訓を示し、異例の記述処置である。次に、反切音「胡祥反」と「遐庚反」「胡浪反」の三種の記述だが、最初の「胡祥反」はカナ字音「カウ」と和音カナ「キヤウ」に挟まれ、後者の反切「遐庚反」「胡浪反」は和訓「アリ(ル)ク、ヤル/タヽスム、ユク」の後に位置している。通常、カナ字音そして反切が位置するところであるが、和訓の多いことがこの書写編集の方針を破る結果となっている。和訓47語が中央に位置し、続いて漢字による意義注22語がしめる。これも通常の意義注より多く、「歴年也」は和訓の下にひとつ孤立している。また、「用也」は重複記載にある。

『新撰字鏡』は、

杏庚反平 用也 賜也 徳也 安也 歩也 往也

   〓也 歴年也 借孟反下 視也 至也 道也 業也 <561B>

[コメント] 〓の文字は、「シンニョウ」の異体字にした「區(からくしげ)」か?この字注を世尊寺本は採っていない。

とある。

 これを永正本『字鏡抄』と対比してみるに、世尊寺本が「行篇」と「彳篇」とに分類していた単漢字を「彳部」に統括して、漢字の意義注は未記載にした和訓だけで、

カウ ハナツ  ヤル  ウコク  キツ    モチ井

行 サイキル イタル イネ   サル     クタル

  アリク  トヽム ヲツ   テタツ    サケ  フム

   イテマシ ナケク ヲコナフ マツリコト  タヒ   ワサ

   マタ   ヒク  ツラ  カタチ    ナカル  

   ミル   アユム メクル  ツトム    スルコト ミユキ

  ユク   ミチ  シワサ  ナム/\トス アヤマル

        ツヽム タマ/\        ツタフ      <六十彳部

とある。和訓の排列語順には共通する点は見えずして、42語の和訓を収載している。このうち、「うごく,とどむ,をつ,みる,あゆむ,つつむ,たまたま,つたふ」の7語は世尊寺本に未記載の和訓である。逆に世尊寺本に収載し、永正本に未記載の和訓として、「たたずむ,つらなる,ゆきつづき,まさに,つたふ,こころ,これ,あまる,うつくしむ,こはし,かむ,あり,おさむ」の13語を確認できる。

 院政時代の観智院本『類聚名義抄』では、

遐庚反 ユク ヤル イデマシ アリ(ル)ク サル ニグ イネ サケク ミユキ ミチ フム メグル /ツラヌ  又胡浪反 オコナフ ワザ シワザ オキツ ナム/\トス ツトム ツラヌ タビ アヤマル ハナツ ツタフ マタ ナガル クダル ナケク ヒク √サイキル コレ カタチ モチル [割注√テタテ 争愽声 √ウツクシフ スルコト] マツリコト コヽロ テタツ 和キヤ[鼻音記号∨]ウ <佛上42G>

*和訓の声点は、省略した。高山字本は、改行初訓「ツラヌ」とすることで重複訓。高本「ナンナムトス」。「ツタフ」を「フタツ」とする。「モチル」。「テタテ」は、熟字見出し語「愽―」の訓とする。「ウツクシフ」の訓は未記載。<三寳類字集290E>

と和訓40語を記載するに留まる。和訓数からすれば、ここでも世尊寺本『字鏡』が最多数記載となる。

 さらに、世尊寺本の漢字意義注22語と所載和訓とを比較してみると、

@「道也」は「みち」⇒廣韻「滴也往也去也又道也」。

A「視也」は「みる」⇒禮月令「巡行ス縣鄙」「覧察巡視也」。

B「用也」は「もち井」⇒増堰u用ユル也」。

C「賜也」は「たまふ?」。

D「言也」は「ココロ」⇒爾雅「行ハ言也」。

E「陳也」は「つらね」⇒書洪範「我レ聞ク在昔シ鯀?テ洪水汨(ミタレ)リ陳ヌルコトヲ其ノ五行ヲ」。

F「取也」は「オサム」。

G「往也」は「ゆく・やる」⇒廣韻「滴也往也去也又道也」。

H「任徳也」は「?」。I「緩歩也」は「ゆっくりあるく?」。

J「去也」は「いね」と「さる」⇒廣韻「滴也往也去也又道也」。

K「麁也」は「アラシ?⇒こはし」。

L「徳也」は「アツマル?」⇒周禮地官「敏徳以テ爲ス行本ト」注「徳ハ行ル内外ニ在ルヲ心ニ爲シ徳ト施スヲ之爲行ト」。

M「如也」は「ゆく」⇒論語・子路「行行如タリ也」。

N「安也」は「サダム?」。O「動也」は「うごく」。

P「行陳也」は「つらなる」「ゆきつづき」⇒呉語「呉王陳テ士卒百人ヲ以テ爲ス徹行百行ト」。

Q「業也」は「わざ」「しわざ」。

R「語也」は「カタル?⇒つたふ」⇒晉語「下モ有ルハ直言臣カ之行也又語也」。

S「歩也」は「ありく・あるく」と「あゆむ」⇒説文「人ノ之歩趨也」。

21「至也」は「いたる」。22「歴年也」は「なんなんとす?」。

という組合せになる。漢字注に見出せない和訓は、本邦資料による語訓ということか。たとえば、「みゆき」は「行幸」、「たび」は「行旅」、「まつりごと」は「行政」といった具合にである。そして、この多訓記載の実態調査は今後も継続していくことになる。

1999年8月12日(木)晴れ。八王子

夏盛り 電気整備に 痛き金

「表六(ヘウロク)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』に、「表六」なる語が見える。

表六(−ロク) 利亀ハ蔵(カクス)六ヲ。鈍亀ハ−(アラハス)−(ムツ)ヲ。喩之ヲ人ニ <元亀二年本48E>

この「表六」、現在でも「うすのろ、まぬけ」といった相手を愚弄する意味で用いられているが、そのことばの語源説明を国語辞書は未記載のため容易に知りえない。明治時代の大槻文彦編『大言海』にも、

へうろく(名)表六〔藏六に對す〕愚者の稱。又、へうろくだま。*運歩色葉集「表六(利龜藏六、鈍龜表六、喩之人)」<4-0272-2>

と、『運歩色葉集』を用例として記載しているが、まだ具体的にこの語源を解説していないのである。角川『古語大辞典』なぞは、この『運歩色葉集』の語源説明を「信じがたい」としている。そこを疑わず素直に信じて補遺説明してみよう。

 「人間に身近な生き物である「かめ【龜】」をしっかと観察し、その頭尾と四足を合わせての六つを甲羅のうちに隠し、外敵から身を守る姿勢を“利”とし、これを「藏六」と称し、この防御の姿勢をしないで頭尾、四足を表(おもて)にだしているのを“鈍”とし、これを「表六」と称す。そしてさらに、これを人の動態行動に喩えていう」のだという。後世、「ひょうろく」に「たま」を付加し、「ひょうろくだま【表六玉】」とも云うようにもなった。(「藏六」は、『運歩色葉集』には未記載。『大言海』の補遺説明によって示される。)

[ことばの実際] 小学館『日本国語大辞典』では、『山谷詩抄』から「へうろく」とかな書きの用例を収めている。同じく、岩波『古語辞典』にも、

女房は舌の先で物を云ひて―な者ぞ <山谷詩抄・九>。

此段分別も無く、物をも知らず、且つ手浅に―の仕業にて候 <毛利家文書二、毛利元就書状

と二用例を記載する。

1999年8月11日(水)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

夜に散歩 暑さやはらぎ 猫またぎ

「富士の人穴」譚

 鎌倉時代の『吾妻鏡』には、奇異譚が潜んでいる。建仁三(1203)年六月に、剛力の武士新田四郎忠常が二代將軍源頼家の命により「富士山腹の人穴」を探険する記事として登場する。

六月大。一日丁酉。晴。將軍家、伊豆の奥(ヲク)の狩倉に著御(チヤクギヨ)したまふ。而(シカ)るに伊東崎(イトウガサキ)と號(ナヅクル)之の山中に大洞(オホイナルホラ) 有り。其の源(ミナモト)遠(トホサ) を知らず。將軍之を怪(アヤシミ)。巳(ミ)の刻(コク)に。和田の平太胤長(タネナガ) を遣(ツカハ)され、之を見せらる。胤長(タネナガ)火を擧(アゲ)て彼の穴(アナ)に入(イ)り。酉の刻(コク)に歸參(キサン)す。申して云く。「此の穴(アナ)行程(ユクホド)數十里。暗(クラウ)して日光(ヒノヒカリ)を不見(ミ)ず。一の大蛇(−ジヤ) 有て。胤長(タネナガ)を呑(ノマ)んと擬(ギ)するの間(-ダ)。劒(ケン)を抜いて斬殺(キリコロシ)訖(ヲハン)ぬ」と云云。

と最初は、和田の平太胤長が赴くのである。胤長の供述では大蛇を斬り殺したというがその真偽は定かではない。次に、

三日己亥。晴。將軍家、駿河の國冨士(フジ)の狩倉(カリクラ)に渡御(トギヨ)したまふ。彼の山の麓(フモト)に又大なる谷(タニ) 有り。[之を人穴と號(ナヅク)。] 其の所(トコロ)を究(キハメ)見(ミ)せ令(シメ)ん爲(タメ)に。仁田の四郎忠常主從(-ジウ)六人を入(イ)れらる。忠常、御劒(ギヨケン)を賜(タマハ)り。[重宝(チヨウ-)。]人穴(ヒトアナ)に入る。今日幕下(バツカ)に歸出(キシユツ)せず畢(ヲハン)ぬ。

四日庚子。陰(クモ)る。巳の尅に。仁田の四郎忠常。人穴(ヒトアナ)より出(イデ)て歸參(キサン)す。往還(ワウクハン) 一日一夜(ヤ)を經(ヘル)なり。此の洞(ホラ)狹(セバフ)して。踵(クビス)を廻(メグラ)すこと能はず。意(ココロノママ)に進行(ススミユカ)れず。又暗(クラフ)して心神(-ジン)を痛(イタマ)しむ。主從各(ヲノヲノ)松明(タイマツ)を取る。路次(ロシ)の始中終。水(ミヅ)流(ナガ)れ足を浸(ヒタ)し。蝙蝠(ヘンフク) 顔(カンバセ)を遮飛(サヘギリトブ)こと。幾(イク)千萬(-マン)と云こと知らず。其の先途(センド)は大河(-ガ)なり。逆浪(ゲキロウ)流(ナガレ)を漲(ミナギラ)し。渡(ワタラ)んと欲(ホツスル)に據(ヨンドコロ)を失ふ。只迷惑(メイワク)するの外(ホカ)他(タ)無し。爰(ココ)に火光河(カハ)の向(ムカフ) に當 (アタツ)て。奇特(キドク)を見(ミ)るの間(-ダ)。郎從(ラウジウ)四人。忽(タチマチ)に死亡す。而るに忠常彼の靈(リヤウ)の訓(ヲシヘ)に依て。恩賜(ヲンシ)の御劒(ギヨケン)を件んの河(カハ)に投入(ナゲイレ)。命(−)を全(マツタウ)して歸參(キサン)すと云云。古老(コラウ)の云く。是(コレ)淺間(センゲン)大菩薩(−ボサツ)の御ん在所(ザイシヨ)。往昔(イニシヘ)より以降(コノカタ)。敢て其の所(トコロ)を見ることを得(エ)ずと云云。今(イマ)の次第尤も恐(ヲソル)べきかと云云。<巻十七25ウC〜26オH、寛永版350頁>

[]内は、「割注」による語注記であることを示す。

というのがそれである。「大蛇」とせず「靈(リョウ)の訓(オシヘ)」とするに留まる。この箇所を『北條九代記』は、さらに敷衍して

川向ヒソノ遠サ七八十間モアルベシ。ソノ中ニ松明ノゴトクナル物向ヒニミヘテ光リサナガラ火ノ色ニモアラス。光ノ内ヲミレバ奇異ノ御姿アタリヲハラツテ立給フ。郎從四人ハ。ソノマヽ倒レテ死ス。忠常カノ御靈ヲ礼拝スルニ御聲幽ニ教サセ玉フ御事有テ則チ下シ給ハリシ御劒ヲソノ川ニナゲ入ケレバ御姿ハカクレ給ヒ、忠常ハ命タスカリテ歸リ出候ナリト申ス

としている。さらに、これを受けて室町時代物語集『富士の人穴草子』(テキストデータ)が誕生している。主人公である忠常が大蛇の言に従がって劒(ケン)を与えたのち、『吾妻鏡』『北條九代記』では逃げ帰っているのに対し、『富士の人穴草子』(奈良絵本・龍谷大学藏)では、この劒(ケン)を呑んだ大蛇は、十七八の童子に変身する。そして、この穴の奥世界を案内するという点で大きな異なりを見せている。

1999年8月10日(火)雨のち晴れ間。八王子

昼寝して 旅の疲れも 忘れいざ

字書見出し語重複掲載の実態―「餞」―

 鎌倉時代の古字書である世尊寺本『字鏡』に、「餞」の語が重複掲載されている。この実態をまず示し、いかなる書写姿勢がこの状況を生み出しているのか推察してみることにしょう。

 せン音 疾演反 疾箭反

   マノハナフケ

  上酒食送也 〓(言+旧)也

  馬乃牟介        <40オE3>

 せン音 疾演反 疾箭反

   ムマノハナフケ

  上酒食送也 〓(言+旧)也

  馬乃牟介        <41オE1>

とあって、記載注記内容もほぼ同じである。異なりは、見出し語の漢字の旁を「戔」とするのと、「土+戈」とする差異にあり、『新撰字鏡』では上下に収載をしていた配置構成を世尊寺本は別枠の語見出しとしたのである。(ただ、何故一丁も離しての記載なのか?疑問は残る。)語注記では、二つ目の反切「疾箭」の下に「上」と表示することの有無(寛元本『字鏡集』<662E1>は「上」の字有り)がある。次に、和訓を「マノハナフケ」と「ムマノハナフケ」とする參箇所を明示できる。このうち、対応の和訓を「ムマノハナフケ」と正しく七拍表記するのと、語頭の「ム」を省略した「マノハマフケ」と六拍表記は何を意味しているのであろうか。たとえば、伊呂波引き辞書であれば、語頭の異なりからして「む」と「ま」の部にそれぞれ収録されることとなる。書記言語和訓と世俗言語和訓の異なりなのか、はたまた、単に語頭の字を書き損じたのかと推理するが、後者はまずありえまい。意識しての記載であろうからして、兎にも角にも同時代の両用和訓であることには間違いがなかろう。しかし、「マノハナムケ」は、現代の国語辞書の見出し語には採録を見ないのも事実である。寛元本は、「ムマノハナ、ヲクル、イネ」と、「ぶ」B音から「む」M音への音相通例による表記移動と「をくる」「いね」の二訓が増加している。

[補遺] 天治本『新撰字鏡』に、

餞〓〔食+土戈〕 疾演反酒食逸[送]人也 又疾箭

           反〓〔言+伯〕[諸]也 馬乃鼻(波奈)牟介 <241四17オ30オ>

とあり、上記したように、世尊寺本はこの二つの見出し字を別語見出しとし、語注記をそれぞれに同じように記載したというところか。前者では、反切のあとの「上」という文字が何を意味するものなのかを理会するに及んでない書写状況がここに確認できる。(この「上」は、二つの見出し字を上下として識別し、そのうち上部の「餞」の字音ということを指示する符號ではなく、声の「上声」を示す符号である。)さらに、「送」と「逸」の字形相似、「〓〔言+伯〕」の不明瞭な文字の書写も同様かと思える。そして、語注記「馬乃鼻(波奈)牟介」の「鼻」を脱落して「馬乃牟介」としている点も単なる脱落なのか意識された削除なのかと気になるところである。

1999年8月9日(月)晴れ。札幌⇒白老⇒小樽⇒新千歳空港 

湖畔樹に 風爽やかに 朋走り

「生海家」

 小樽築港跡の大型商業ビル“マイケル”を訪れ、1Fレストランで遅い昼食をとる。店内は、海の中の景色を造形した魚・貝・海藻・珊瑚の白い造形物がいたるところにあり、これに青を基調にした美術照明が施され、まさに海中レストランといった雰囲気である。この見世の名前が「生海屋」と書いて、これをローマ字で表記すると「ubumiya(うぶみや)」と読む。

 この「うぶみや」の読みを国語学的に分析すれば、「ubuumiya(うぶうみや)」の第參拍めと第四拍目の母音「UU」と重なっているのを避ける意識から前の母音を一つ落として發音する。これを“二重母音脱落の法則”による読み方という。この一例なのである。

1999年8月8日(日)晴れ。札幌⇒栗山⇒札幌 ランニング学会(北海道大学)

夏盛り 汗ほど生に 応へけり

単漢字「一」の多訓

 字書を繙くとき、ひとつの単漢字にひとつの和訓、ないし七、八つの和訓ぐらいまでの表示を見る。この和訓記載は、文言使用における意義づかいの多様性としての、日本語の慣用性を示して今日至っている。

 ところが、古字書におけるひとつの単漢字に二十以上に及ぶ和訓が記載された例を目に留めた時、この和訓の意義理解が本統にすべて読み解くことが可能なのかと反問せざるをえない。このような古字書編纂や書写に携わった識字者は、記載した和訓の排列そして意義使いをすべて理会できるものとして掲載を試みているのであれば、教内伝授にあっては、秘伝口授という方法をもってなされていることを想定せねばなるまい。このことは文字学習という時をかなり費やすことにもなる。逆に有能な識字者であるとはいえ、教外者に対しては、不可解で不透明な謎の和訓文字集の資料でしかないものになっている。古字書におけるこの二十以上も記載された単漢字をどう国語学的に位置づけて行くのかをここでは少しく検証する。

 仮説1 文字読解のため、和訓の多訓記載は教内活動における識字の優劣性をうながし、これを育成するテキストとして古字書の編集および書写がなされてきた。伝授はあくまでも、口誦によって文言使用の意義をなしてきた。この識字伝授を施された識字学侶の特権は、偏に経典理会者としての深遠奥義を極めることにつながっている。

 仮説2 この多訓の口誦伝授による識字能力養成講座は、鎌倉時代まで特定寺院でなされていたが、政権が公家から武家(関東鎌倉幕府)に移行していく過程で、寺院の庇護管理機構に経済的大きな影響が生じてきた。これに伴い、多訓漢字の文言使用の識字能力に基づくところの文字学習による優劣性とその学識権威の失墜とが相俟って、単なる意義不明瞭な不可解な文字及び和訓として切り捨てられ、その秘伝伝授もやがて絶えた。

 この上記の仮説1と2を検証する資料として、鎌倉時代の古字書である世尊寺本『字鏡』(東洋文庫=岩崎文庫所蔵)を据えてみる。このなかで、「縦横に押界を施し、縦に六行、横に四段を區切つてゐる。」(築島裕博士、字鏡(世尊寺本)解題一391I)スペイスを二桝使用して記載する単漢字「一」についてみるに、

 音 イチ音 於逸反 古文

 モハラ カクス キハム キミ スナハチ マロナリ サモアラハアレ

 メクル スク カキル カミ スクナシ カタキナシ トモシ サ

 ヒトリ ヒトツ ヲナシ モト コトナシ ツフニ トモ

 ハシメ ツクス サタム マツ ヨコサマ ツフト ヒトタハ

 ハシラ タフ ヒトシ ツラ ホタクヒ マロフ キハメテ

         ヤム  ウヱ チヒサシ 

 古文正也 大極也 首也 同也  ホトリ  初也 少也      <第二冊84オ>

とあって、「一」の和訓記載が四十語となっている。この四十語の和訓を、同じ「字鏡」の名でいうところの永正本『字鏡抄』と対比してみるに、

 於逸切 

 トモ   ヒトリ   カシカマシ

 ヒトタハ モハラ   キハム 

 サヲ   ヒトツ   チヒサシ

 トモシ  ヨコサマ  ツクス

 マロナリ スクレタリ ホタクヒ

 ハシメ  カキル   スクナシ

 ヲナシ  タウトシ    <巻末 一部>

と、まさに二十語にしぼられ、二十四語も和訓を削減記載する。さらに、新しい和訓「カシカマシ、スクレタリ、タウトシ」が追加されての二十語であるからして、実質共通するのは十七語となっている。

この継続された和訓語群は、永正本『字鏡抄』のみに留まるものなのか、それとも室町時代の他古辞書にも継承されているかの確認がさらに必要になってくる。寛元本『字鏡集』は、「メクル、サモアラハアレ、マロナリ、サヲ、タウトシ、ヒトリ、カシマシ、ハシメ、トモシ、トモ、モハラ、キハム、ヲナシ、スクレタリ、ホタクヒ、ヒトツ、チヒサシ、ヒトタハ、カキル、スクナシ、ヨコサマ」<842F>の和訓二十一語収載し、さらに虎関和尚作として、

月五(ヲシカカ)テ中岩ニ閑居一(ヒトリ)一(サヒシ)、露九(シホレ)テ幽躰ニ故身一(マツ)一(タレ)ヲカ

法一(ハシメ)ヨリ不一(ヲヨフ)隨テ一(タタク)ニ一(マス)一(ヒカリヲ)、道一(モトヨリ)不一(ハヒコラ)時節一(マツ)一(トキ)ヲ <842E>

と書写者による書き込みがあって、「一」の和訓読みを詩語で示している。これを『運歩色葉集』にあっては、

(イチ)(ヒトツ)(ハシメ)(ヒトリ)(マツ)(トキ)(タヽク)(ヒカリ)(ヲコル)(ハヒコル)(サヒシキ)(モトヨリ)(モハラ)(カタキナシ) <元亀二年本21H>

と詩語から抽出改変させ、先頭の「イチ」は音読みにし、そのあと、「ひとつ」から「かたきなし」までが和訓記載にする。このうち、「トキ」は「トモ」の字形相似による誤写からそのまま用いられているとみてよい。ここでも新しい和訓が六語見えているが記載語訓数は、十參語と減少傾向にある。このことからも、世尊寺本『字鏡』の「一」の和訓記載数四十語は最大値を示しており、この和訓記載の最高峰ともいえる背景には、識字能力の優劣性によるある種の権威性と庇護管理機構活動が寺院と公家貴族による社会を媒ちに、長い間支え保持されてきた証しでもあるまいか。その意味からも単漢字「一」における「かくす」から「ほとり」までの和訓と文言意義資料との比較検討がこれからの古字書記載の和訓語彙研究の課題ともなりえよう。また、時代における新出和訓の語についても検討せねばなるまい。

1999年8月7日(土)晴れ。八王子⇒羽田⇒札幌

朝も夕 空席待ちに 席埋め

「生虜(いけどり)」

鎌倉時代の『吾妻鏡』文治五(1189)年九月に、

七日甲子。宇佐美の平次實政(サネマサ)、泰衡(ヤスヒラ)が郎從由利の八郎を生虜(イケド)る。相具參上陣岡。而天野右馬允則景生虜之由相論之。二品仰行政。先被注置兩人馬并甲毛等之後。可尋問實否於囚人之旨。被仰于景時。景時(着白直垂折烏帽子。柴革烏帽子懸。)立向由利云。汝者泰衡郎從中有其號者也。真偽強不可構矯飾歟。但任實正可言上也。着何色甲者。生虜汝哉云云。由利忿怒云。汝者兵衛佐殿家人歟。今口状。過分之至。無物取喩。故御館者。爲秀衡將軍嫡流之正統。已上參代。汲鎮守府將軍之號。汝主人猶不可發如此之詞。矧亦汝與吾対揚之處。何有勝劣哉。運盡而爲囚人。勇士之常也。以鎌倉殿家人。見奇怪之条。甚無謂。所問事。更不能返答云云。景時頗赤面。參御前申云。此男悪口之外。無別言語之間。無所欲糾明者。仰云。景時依現無礼。囚人咎之歟。尤道理也。早重忠可召問之者。仍重忠手自取敷皮。持来于由利之前令坐之。正礼而誘云。携弓馬者。爲怨敵被囚者。漢家本朝通規也。不可必称恥辱之。就中。故左典厩。永暦有横死。二品又爲囚人。令向六波羅給。結句配流豆州。然而佳運遂不空。拉天下給。貴客今雖蒙生虜之號。始終不可貽沈淪之恨歟。奥六郡内。貴客備武将誉之由。兼以聞其名之間。勇士等爲立勲功。搦獲客之旨。互及相論歟。仍云甲云馬。被尋畢。彼等浮沈。可究于此事者也。爲着何色之甲者。被生虜給哉。分明可被申之者。由利云。客者畠山殿歟。殊存礼法。不似以前男奇怪。尤可申之。着黒糸威甲。駕鹿毛馬者。先取予引落。其後追来者。嗷嗷而不分其色目云云。重忠令帰參。具披露此趣。件甲馬者。實政之也。已開御不審訖。次仰曰。以此男申状察心中。勇敢者也。有可被尋事。可召進御前者。重忠又相具之參上。被上御幕覧之。仰曰。己主人泰衡者。振威勢於両国之間。加刑之条。難儀之由。思食之處。無尋常郎從歟之故。爲河田次郎一人被誅訖。凡管領両国。乍十七万騎之貫首。百日不相支。廿ヶ日内。一族皆滅亡。不足言事也。由利申云。尋常郎從。少少雖相從。壮士者分遣于所所要害。老軍者依不行歩進退。不意自殺。如予不肖之族者。又爲生虜之間。不相伴最後者也。抑故左馬頭殿者。雖令管領海道十五ヶ国給。平治逆乱之時。不支一日給而零落。雖爲数万騎之主。爲長田庄司。輙被誅給。古與今甲乙如何。泰衡所被管之者。僅両州勇士也。数十ヶ日之間。如悩賢慮。一篇不可令處不覚給歟云云。二品無重仰。被垂幕。由利者。被召預重忠。可施芳情之由。被仰付云云。

という記事がある。この記事中に見える「生虜(いけどり・る)」ということばに「いけどる」側(鎌倉家臣梶原景時とそして重忠)と「いけどられる」側(奥州藤原秀衡の家臣由利八郎)といった両者の究極な心のせめぎあいになぜか興味をそそられる。とりわけ、由利八郎の文言に注目すると、{汝者兵衛佐殿家人歟。今口状。過分之至。無物取喩。故御館者。爲秀衡將軍嫡流之正統。已上參代。汲鎮守府將軍之號。汝主人猶不可發如此之詞。矧亦汝與吾対揚之處。何有勝劣哉。運盡而爲囚人。勇士之常也。以鎌倉殿家人。見奇怪之条。甚無謂。所問事。}とある。

1999年8月6日(金)曇り一時雨。八王子

 断続に 降る雨何せむ 蝉の聲

「義経⇒義行⇒義顕」

 一人の人物の名を、第參者が生存中に改名すること自体ゆゆしきことであるが、鎌倉幕府歴史記録の上に改名の事柄が述べられている。『吾妻鏡』文治二(1186)年に、

閏七月小 十日辛卯。左馬頭飛脚到来。状云。搦前伊豫守小舎人童五郎丸。召問子細之處。至于去六月廿日之比。隠居山上候之旨。所申上候也。如件白状者。叡山悪僧俊章。承意。仲教等。令同心與力者。仍相觸其由於座主并殿法印訖。又所經奏聞也。義經者。與殿參位中将殿[良經(ヨシツネ)。]依爲同名。被改義行之由云云

{また義經(ヨシツネ)は、殿の參位中将殿(ドノ)良経(ヨシツネ)と同名たるによりて、義行(ヨシユキ)と改めらるるの由しと云々}<巻六49ウ、137上左H>

とあって、朝廷反逆者として義經(元伊豫の守九郎判官源義經)追捕の折から、時の朝廷殿上人で摂政職(同年參月十二日就任)にある九条兼實の継嗣良經と同名ということを理由に、朝廷と幕府とで改名措置が進められ、鎌倉にその旨の書状がもたらされたのである。

廿六日丁未。左典厩消息到来。就五郎丸白状。可召進同意于豫州山侶之趣。相触山座主之趣。彼輩逃亡之旨申之。而去十一日猶在山門歟之由。風聞之間。則奏聞子細。仍去十六日於大炊御門仙洞。有公卿僉議。山上并横河末寺庄園悉相觸之。不日捜尋可召進其身之由。被仰座主[全玄。]已下之僧綱了。而稱彼逃脱輩之縁坐。召進參人之間。則被下使廳訖。此事今差遣軍士於台嶺之由雖言上。無左右被遣勇士之條。偏可爲法滅之因。且可被仰子細於座主之由。諸卿一同被定申之趣。具被載之云云。又同十七日。院宣所到來也。 義行逃隠叡山。有同意侶之由。義行童称申云云。仍被仰山門之處。件交名之輩。逃脱之由所申也。無左右遣武士被攻者。一山滅亡之基也。就中。座主以下門徒僧綱等。旁廻秘計。又加祈請。可尋捜之申由請了。以此趣。被尋仰人々之處。尤可然之由。一同被計申。件縁坐。又兩參人搦進之間。給使廳訖。其上。近江國并北陸道等定有所縁歟。殊可求索。得件悪徒之輩。可被抽賞之由。所被下宣旨也。凡依義行一人事。都鄙未安堵。返々所歎思食也。不限今度可尋之由。連々有御沙汰。此上何様令有沙汰之由。可仰遣二位卿之由。院御氣色所候也。仍言上如件。後七月十七日。左少辨定長。進上。帥中納言殿。

{五郎丸が白状について、預州に同意する山侶を召し進ずべきの趣(オモム)き。山の座主(ザス)にあいふるるのところに、彼の輩(トモガラ)逃亡の旨これを申す。しかるに、いぬる十一日になお山門にあるかの由し、風聞の間、すなわち子細を奏聞す。}

{義行、叡山に逃げ隠れ同意の侶(トモガラ)ありの由し。義行の童(ワラワ)称し申すと云々}

{およそ義行一人がことに依りて、都鄙(トヒ)いまだ安堵せず。}<巻六50ウ、137下左H>

と、比叡山に隠れ住む義經(ここでは、既に義行と記録される)一行と彼を匿った僧侶の處罰を伝えている。この事象の記録は、翌月に及び、

八月小。參日丁丑。去月廿日之比。生虜同意豫州惡僧仲教及承意母女之由。台嶺言上之間。被觸左典厩云云。就之猶可被尋義行在所之旨。被仰遣云云。

{予州に同意する悪僧仲教(チウギョウ)および承意(ジョウイ)が母女をいけどるの由し、台嶺(タイレイ)より言上するのあいだ、左典厩に云々。これについて、なお義行が在所を尋ねらるるべきの旨、仰せ遣わさるると云々。}<巻六52オ、138下右A>

と、義經自身は幕府探索の網を掻い潜り、依然逃亡生活を続けていて、その在所をなかなかつきとめられずにいる記事も見えている。この間にも義經随行の家臣たちは、潜伏先を密告され、或者(堀弥太郎景光)は生け捕られ、或者(鎮守府將軍秀衡の近親にあたる忠信)は自戮しはてている。義經は、生捕りにされた景光の白状により南京の聖佛得業が辺に潜伏し、木工頭範季と示合していた情報が記録されている。ここで、義行の名が遠のいたこともあってか、

十月大。十日癸未。去月朝宗等打入南都。雖捜求聖佛得業辺。不獲義行[本名義經。去比改名。]之間。空以帰洛。依之南都頗物怱。衆徒成蜂起含欝訴。可停止維摩大會之由風聞云云。

{聖仏得業(トクゴウ)が辺(ヘン)を捜(サガ)し求むといえども、義行を獲(エ)ざるの間、空しくもって帰洛す。}

と、[割注]にして、「本の名は、義經(ヨシツネ)。さきごろ名を改む」と再度注記している。幕府南都打ち入りのことは、大きな波紋を呼び起こしている。その後、聖佛得業については、翌參年參月八日の記事によれば、二品に召されて対面し、その折、聖仏得業の直心に感得し、勝長壽院の供僧職を與えている。次に、

十一月大。五日戊申。豫州事。猶被付帥中納言。其趣。義行于今不出來。是且公卿侍臣。皆悉惡鎌倉。且京中諸人同意結構之故候。就中範季朝臣同意事。所憤存候也。兼又仁和寺宮。御同意之由。承及候。子細何様事哉云云。是大夫尉友實。爲與州使。出京都。行向攝津國了。而彼友實居所屋。北條殿。被點定訖。是御室御近隣也。則被觸申子細之處。非反逆者家之由。一旦雖被謝仰。此屋。自御室。借給友實之條。露顯之間。頗非無御同心之疑。仍及此儀云云。又大夫屬入道申云。義行者。其訓能行也。能隠之儀也。故于今不獲之歟。如此事。尤可思字訓。可憚同音云云。依之。猶可爲義經由。被申攝政家云云。

{その趣き義行今に出て來らず。これかつうは公卿侍臣みなことごとく鎌倉をにくみ、かつうは京中の諸人同意結構するがゆえに候う。なかにつけて、範季朝臣同意のこと、憤(イキドオ)り存じ候うなり。かねてはまた、仁和寺の宮御同意の由し、承りおよび候う。子細なにようのことぞや云々。}

{また、大夫屬(サカン)入道申していわく、義行はその訓(クン)、能行なり。よく隠(カクルル)の儀(ギ)なり。故に今にこれを獲ざるか。かくのごときのこと、もっとも字訓(ジクン)を思ふべし。同音を憚(ハバカ)るべしと云々。これによって、なお義經たるべき由し、摂政家(セツシヤウケ)に申さると云々。}<巻六61オ、143上右F>

と、摂政家(九条兼實)に、改名の「義行」が「能行」すなわち、「能隠」に通じているため、捕縛できずに今日に到っていることを伝えている。この字訓解釈を考慮して、兼實は再度改名するのである。

廿九日壬申。可捜求義行[改義顕。]事。去十八日於院殿上。有公卿僉議。如先度。猶可被下宣旨於畿内北陸道。於京都者。仰使庁相分保保可尋求之。又如奉幣諸社。仁王會御修法御祈。可被始行之旨。郡議一同之由。右武衛被申送之云云。

{義行(義顯と改む。)を捜し求むべきこと、いぬる十八日に院の殿上において公卿の僉議(センギ)あり。先度の如くなお宣旨を畿内・北陸道に下さるるべし。京都においては、使の庁に仰せ保々(ホウボウ)に相分け、これを尋ね求むべし。}<巻六64オ、144下右F>

とあって、その名は、在所が露顕、顕露することを願って「義顯(よしあきら)」としている。翌文治參(1187)年二月には、

十日壬午。伊豫予守義顕日来隠住所所。度度遁追捕使之害訖。遂經伊勢美濃等國。赴奥州。是依恃陸奥守秀衡入道権勢也。相具妻室男女。皆仮姿於山臥并兒童等云云

{前の伊豫の守義顯(ヨシアキラ)、日來(ヒゴロ)所々に隠れ住す。度々(ドド)追捕使(ツイフシ)の害(ガイ)を遁(ノガ)れおわんぬ、遂に伊勢・美濃等の国をへ、奥州に赴く。これ陸奥の守秀衡入道が権勢(ケンセイ)を恃(タノム)によりてなり。妻室(サイシツ)男女を相具して皆姿を山臥(ヤマブシ)ならびに兒童(チゴワランベ)等にかると云々。}<巻七2ウ、146下左I>

とあって、義經主從が奥州平泉に到着したことを幕府方では既に察知している。だが秀衡の権勢による庇護にあって、幕府は容易に義經の在處を探索して追討できずにいる。十月二十九日、秀衡率去の報せは頼朝に大いなる動きへと向かわしめる。文治四年十月二十五日には、新たに義經追討の宣旨案文が届き、これをもって奥州泰衡に向けられている。泰衡が父の遺言に背きやがて、義經を奥州衣川の舘で自刃させるのは、文治五年閏四月參十日とおよそ二年数ヶ月を擁してのことである。「名は体をあらわす」とまではいかないまでも、人の運命の一端を担っているのが「名」であり、これを「名詮自性」という。まさに、「義經」の改名は、自身の預かり知らぬところでどしどしとなされきたのである。

1999年8月5日(木)晴れ午後にわか雨。八王子

草むしり 薮蚊に刺され あと痒し

「誑着(ワウヂヤク)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』に、

誑着(ワウヂヤク) 法花経。枉着(同)<靜109G・元88I・天54オE・西158@>

メモ1 元亀本は、「ワウジヤク」と付訓。天正十七年本と西来寺本は、「ワウチャク」と清音にて記載する。西来寺本は、語注記を「法華経」と記し、「枉着」の語を欠く。

と、この語の典拠を「法花経」と記載するが實際、『妙法蓮華経』には、この語は見えないのである。読みは「オウジャク」と第參拍めを濁音で發音していたが、やがて清音化し、「オウチャク」となっていく。広本である静嘉堂本や元亀二年本が濁音表記に対し、零本である天正十七年本と西来寺本が清音表記であることだけでなく、室町時代にこの傾向が進んだと考えてよかろう。

同じく、易林本『節用集』には、

〓〔尤+王〕弱(ワウジヤク)。枉惑(ワウワク)无道義<67C>

という、「身体が弱いさま」の同音異表記語(「ヂャク」と「ジャク」の音は本来区別されていたのだが、この時代になって「ヂ」と「ジ」の識別が薄れてきたようだ。これに伴い、この「誑着」の音読の第參拍めが清音化したのではないか)の後に「枉惑」なる語を記載する。

 大蔵虎明本『狂言集』には、

出家√只今せんどうやら立てみたが、又したにゐる、そうじて舟頭と、かれ竹とはしらぬものじやと申が誠じや、あれほどわうちやくな者はなひ、またよばう」<出家座頭類『薩摩のかみ』中312O>

目代√あれはいはふと云程に汝からいゑ 中国の者√かしこまつた すっぱ√やれ/\おのれはだいたんなやつじやな 中国の者√おのれこそおほちやくなやつよ 目代√論はむやくいそでいゑ<集狂言之類『茶つぼ』下22A>

と、漢語仮名表記の形態で見えている。この二例からして、「わう」と「おほ」といった開合表記の揺れがとれる。そして、現在であれば、「横着」の字をもって示す「我侭勝手」の意というところである。

1999年8月4日(水)晴れ。八王子

黄昏に 趣きまして 興に入り

「学問」と「学文」

 室町時代の古辞書である『下学集』に、「ガクモン」の見出し語そのものは見えないが、「稽古(ケイコ)」の語注記に、

稽古(ケイコ) 學文ノ事ナリ也 <態藝75B>

と用いられている。いささかなりとも、『下学集』の影響を受けている『運歩色葉集』が、この「学文」という表記用字法について認めていないからである。「カ部」の見出し語として、

學問(―モン) 月学日ー/ー学文非也 <静115@>

學問(カクモン) 月ニ―(マナヒ)日ニ―(トウ)。斈文ニ非ル也 <元92I>

学門(―モン) 月(ツキ/\)ニ学ヒ日(ヒ‐)ニ―。学文非也 <天118A>

メモ1「モン」の字を「門」とする。「学門」の用例として、無住『沙石集』巻十末に、「是教門ノ学門(ガクモン)、只修行ノ爲ゾカシ」<大系456J>という例がある。

学問 月学日ー。学文ハ非也 <西164B>

とあって、その語注記のなかに、見出し語「学問」の字を訓釋して、「月(つきづき)に学び、日(ひび)に問う」として、「学文非也=学文にあらざるなり」と明示している点に注目したい。というのも、同じく『下学集』の影響下にある『節用集』には、両様の姿勢(広く勉学の意と書物について勉学する意)が見えているからである。

 「学文」にて、見出し語表示

・明應五年本『節用集』に、「学文(ガクモン)」<70C>

・文明本『節用集』に、「學文(ガクモン/マナブ。フン、カザル、フミ)」<態藝277C>

・饅頭屋本『節用集』に、「斈文(ガクモン)」<言―55E>

・天正十八年本『節用集』に、「學文(ガクモン)」<言語進退上26オG>

・『塵芥』に、「學文(ガクモン)」<態藝123B>

 「学文」と「学問」と両様表記を示す語表示A

・黒本本『節用集』に、「学文(ガクモン)又学問」<言語67C>

・永禄二年本『節用集』に、「斈文(ガクモン) 文或作問」<84B>

・堯空本『節用集』に、「学文(ガクモン) 或問」<76B>

・両足院本『節用集』に、「学文(ガクモン) 又問」<92A>

・枳園本『節用集』に、「斈文(カクモン) 或問。―隙」<言語124A>

・耶蘇会版『落葉集』に、「―文(もん/ふみ)。―問(もん/とふ)」<35B>

 「学問」と「学文」と両様表記を示す語表示B

・天正十七年本『節用集』に、「學問(ガクモン)。学文(ガクモン)」<言語308B>

・弘治二年本『節用集』に、「学問(カクモン)。学文(同)」<86D>

 「学問」にて、見出し語表示

・易林本『節用集』に、「学問(ガクモン)」<言語80A、434A>

と四様の編集形態を示している点にある。この良否にあって、「学文」の表記を肯定する立場にたって収載をしている有力な資料としては、『日葡辞書』がある。

Gacumon. がくもん(学文),Bunuo manabu.(文を学ぶ)文字または学問の勉強。<邦日290r>

 この「ガクモン」の表記字「学文」と「学問」とにおける同時代の文字用法について、辞書にその見識を収載するにとどまり、これを広く世に報ずる立場にはなかったということであろうか。『運歩色葉集』語注記における「学文」表記の否定説は、語注記のない形態ではあるが、易林本に示されている点に、辞書編集者の見識と学問交流における接点を感得するのである。

[ことばの實際] 鎌倉時代の資料では、「学問」表記が主であり、「学文」表記は、室町時代に主に好まれ用いられている傾向を茲にみることができる。

惠心の僧都、發心の後、名利の二字をおがまれけるは、名利の心にて学問(ガクモン)するほどに、教門を見明めて、道心を發したる故也。<無住『沙石集』450H>

廿六日壬戌。將軍家、可キノ有ル文武ノ御稽古(ケイコ)之由。相州以テ消息ノ状ヲ|。令メ諌(イサメ)申サ之ヲ給フ。爲(タラ)ハ和漢ノ御(ヲン)學問(ガクモン)。則チ縫殿頭(ヌイノカミ)。參河ノ前司。爲(タラ)ハ弓馬ノ御練習(レンジユ)。亦タ秋田ノ城ノ介。小(ヲ)山ノ出羽ノ前司。遠江ノ次郎左衛門ノ尉。武(タケ)田ノ五郎。參浦ノ介等(トウ)。常ニ令メ候(シコウ)セ御所中ニ。各〃可シト随フ召ニ云云。又タ爲メ和泉ノ前司。武藤左衛門ノ尉奉行ト。人人ノ子息ノ中。撰(エラビ)試(ココロミ)好(コノミ)文ヲ并ニ器量ノ之士(シ)ヲ。可キ候(-)ス同學ニ趣ムキ。内内被ルト仰セ付ケ之ヲ云云。<『吾妻鏡』建長二(1250)年二月二十六日>

先祖よりなにがしの筋にて、歴々の者の子なるが、学文(ガクモン)の望むによりて、鹿苑院殿へあづけしかば、たがひに心ざし浅からざりしかば、後世までも御供申しける手柄の程こそありがたけれ。<『室町殿物語』巻五26、東洋文庫380−260@>

雨後月前ニ月ヲ遊テ学文稽古ヲハ、せスシテ、酒ヲツヨウ飲ヲ云ソ。<『湯山聯句抄』105K>

又云、孔雅陸ハ学文ニ心ヲ入テ、庭ノ草ヲモキラズシテ居ル也<『江湖風月集抄』巻上209K>

1999年8月3日(火)霽。八王子

蝉ぽとり 飛び極めるや 力なし

二つ名読みの「栄西」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、「栄西」の名が記載されている。この記載方法についてふれておきたい。

榮西(ヱイサイ)。栄西(ヤウサイ) 京建仁寺開山之名也。引木時勅弟子ニ音頭(イン‐)令呼具名。今世習之。四月九日<静嘉堂本404A>

栄西(エイサイ)栄西(エイサイ) 京建仁寺開山之名也。引木時勅弟子ニ音頭ニ今呼其ノ名ヲ。今世習之四月九日(頭注に、「永西(ヱイサイ/ヤウサイ)異説也」と記す)<元亀二年本337G>

とある。語注記の部分を書下しておこう。「京都の建仁寺開山の名なり。木を引く時、弟子に勅し、音頭(インヅ)して具[其]の名を呼ばしむ。いまの世、これに習う。四月九日にす。」

ここで気がつくのは、編者が「栄西」なる人物を一人にして、二人想定していることにある。静嘉堂本では、この二人の「栄西」を、文字表記と読み方で識別する。すなわち、「榮」と「栄」の文字であり、読み方は、「ヱイサイ」と「ヤウサイ」にである。後者の「ヨウサイ」に語注記がなされ、京都建仁寺開山禅師の名とする。続いて、元亀二年本では、表記・読みも「栄西(エイサイ)」と同じくして識別を見ない。このことは、元亀二年本の書写者かその一段階以前の書写者において、静嘉堂本の示した表記分けによる読み分けの法則を見失っていたことが考えられるのである。そして、後者の「栄西」に静嘉堂本と同様の語注記がなされている。ただし、元亀二年本の書写者は、この点について頭注に「永西」の文字を示し、右に「ヱイサイ」、左に「ヤウサイ」として異説があることを示していることから、私は一段階以前の書写時に識別のシグナルを見失っていたのではないかと推考する立場にある。元亀二年本の書写者は、このことに触れ、文字分けと読み分けについての再び改たなる情報シグナルを發信してくれたのである。

 そこで、一人にして二人の「栄西」についてどう見るのか述べておきたい。現在でも、「エイサイ」と「ヨウサイ」という二通りの読み分けは保持されてきているが、文字分けは、消失しているといってよかろう。「栄西」という人物の行状を具にとらえるに、一人にして二人以上の行状をなさしめていることを知らねばなるまい。それは、人生二度に亘る宋国への渡航にある。最初は台密穴太流の灌頂を受けた直後である28歳の1168(仁安3)年4月から9月であり、天台の新章疏參十餘部六十巻を携え帰国する。その後密教著作活動が続く。次は、47歳の1187(文治3)年4月、印度仏跡參拝を主目的としての旅立ちであったが、南宋政府の認可を得られずしての帰途、再び天台山万年寺虚庵懐敞について天童山景徳寺に移り、50歳にして、臨済宗黄竜派の印可を受け、1191(建久7)年7月に帰朝したことである。このことは、栄西自身の戒律観を大きく変えるものであったに相違ない。この戒律實践の禅を打ち出している。『吾妻鏡』は「栄西(榮西律師・壽福寺ノ長老・葉上僧正)」の密教祈祷僧としての行状を多く記録しているが、1202(建仁2)年に將軍源頼家の寺地施入により、京都建仁寺を開創、頼家の申請により朝廷は、真言・止観・禅の參宗の宣旨を下している。これにより、禅宗勅許の目標を達成している。このことを無住の『沙石集』は、「国の風儀に背かずして、(教内をひかへて、)戒門・天台・真言なんどかねて、一向の唐様を行ぜられず、時を待つ故にや」<大系453I>と記す。建仁寺の保護育成に努め、1205(元久2)年都に大風が吹き、その要因を禅徒の大袈裟(異様な服装)にあるとして、追放されかかるが、旧態仏教勢力からの嫌がらせにも勝って官寺となる。翌1206(建永1)年には重源の後継者として東大寺大勧進職に任命され辣腕をふるい、1209(承元3)年から1913(建保1)年法勝寺九重塔をみごと再建し、權僧正となっている。1215(建保3)年6月5日、75歳にして示寂といった二方面を有した「栄西」の行状をもって区分するとき、かたや、漢音+呉音の「エイサイ」と呼称し、かたや呉音+呉音の「ヨウサイ」と呼称したことにあったのではなかろうか。

 さらに、「栄西」が開創の「建仁寺」の項を繙くと、

建仁寺 京五山之内。開山千光国師。建保參乙亥遷化七十五歳。至天文十七戌申ニ|參百參十四季也。土御門建仁二季辛酉立。至天文十七季戌申參百七十七季也<靜249C>

建仁寺(ケンニンジ) 京五山之内。開山千光國師。建保參乙亥遷化七十五歳。至天文十七戌申參百參十四年也。土御門建仁二年辛酉。立天文十七戌申參百四十七年也<元218G>

建仁寺 京五山之内。開山千光国師。建參乙亥遷化七十五歳。至天文十七戌申參百卅四季也。土御門建仁季辛酉立。至天文十七參百四十七季也<天・中53オF>

メモ1 天正本の「建仁參乙亥」は、「建保參乙亥」の誤写。

と、開山の名を「栄西○○」と記さず、「千光国師」の名をもって記していることに気がつく。そして、「セ部」に「千光国師」の項目は未記載とする。すなわち、『運歩色葉集』からは、「栄西」と「千光国師」を結びつける記述は、「建仁寺の開山」しかないということになる。ただ、続いての記述である「建保參乙亥遷化七十五歳」は、『吾妻鏡』建保參年乙亥の「六月小。五日癸亥。晴。寿福寺長老葉上僧正栄西入滅。依痢病也。称結縁。鎌倉中諸人群集。遠江守爲將軍家御使。莅終焉之砌云云。」と合致し、史實性の正しさを確認できるのである。これと同時に、この辞書は、京都の寺々などを記述に集中するものの、関東である鎌倉五山を代表する壽福寺や鎌倉鶴ケ岡八幡などの記述は皆無であり、都周縁の記載に基づく辞書であるということも触れておきたい。いうなれば、武家の記録書である『吾妻鏡』などからの引用は皆無に等しいということにあるようだ。

 また、語注記の下位部分についての故事については、未検証にある。

1999年8月2日(月)晴れ。八王子

蝉声も ほどほどになるや 昼下がり

「日蓮」と「日蓮宗」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』四本について、氣になることばがある。この四古写本というのは、広本系統の元亀二年本(京都大学蔵)と静嘉堂本、さらに零本系統である天正十七年本(京都大学蔵。參冊仕立ての上中のみ「イ」〜「テ」までを収録)と西来寺蔵天正十五年本(參冊仕立ての上のみ「イ」〜「カ」までの語を収録、江戸期写)についてである。

 この四本が共通するする部分は、イからカの部分であり、その“ニ部”の「日蓮」そして、「日蓮宗」という語である。實際の書写状況を示すと、

元亀二年本、天正十七年本、静嘉堂本は、「仁王經」と「日所作」「日本國」の間に位置し、「日」の語で集結する最初に排列し、

日蓮宗 后宇多弘安五壬十月十參日。至天文十六丁未二百六十六年也<元39G>

日蓮宗 后宇多弘安五壬十月十參日。至天文十六丁未二百六十六年也<天49E>

日蓮宗 后宇多弘安五壬十月十參日。至天文十六丁未二百六十六季也 <静43B>

とし、西来寺本は、「二上高」と「尼上高」との連関する語の間に挟みこまれるといった異様な排列にあり、

日蓮 御入蔵。后宇多 弘安五季十月十參日也。至天文十六丁未二百六十六季也<72A>

とする。この參本との異なりを見るに、まず静嘉堂本が、宗派に「寂」の字は合わずとして意図的に除去している点に着目したい。さらに四本が共通する弘安五年の和年號だが、上記參本が「壬」とするのに対し、西来寺本は、「壬申」とする点にある。正しいのは、上記參本にある。何故の訂正であったのか、それ以前に「壬申」をただの誤写とみなければなるまい。それは日詠自身の書写では、正しく「壬午」であったにちがいないからだ。尊者“日蓮”を「御入蔵」として、その命日を記載する姿勢からしてはこの誤字はあまりにも迂闊なのである。同じ天正十五年の識語を有していた水戸の彰考館旧蔵本(江戸期写、焼失)をもって対校がなされていれば、この点がもっとはっきり出来たかも知れぬが今は推定の域にしかない。それは、宗派の異なる西来寺本の架蔵者であり、書轉写者(江戸時代の宗淵上人かもしれない)が関わった後世の写し本であることを如實に物語ってもいる。だが、新写であるとはいえ、西来寺本の根源には、その識語に見える書写者「實相坊日詠(花押)」をして、日蓮宗、すなわち日蓮上人に所縁のある人物であり、単なる書写に留まらずして排列改編増補がここに営まれた形跡を見るのである。この結論については、既に遠藤和夫さんが『運歩色葉集』の一異本―西来寺蔵天正15年本―(成城大学短期大学部紀要第八號<昭和52年3月>)に示されておられるので、あくまで今回の取り上げ語は、原編者と再編者とを異にすることの補遺証明にある。西来寺本の日詠は、宗派記入を他の「法相」<西77A>、「律宗」<西135A>の記載とは別にして、「日蓮」の見出し項目の次に「御入蔵」とし、その命日である「弘安五年壬午十月十參日」を大事にして、尊者“日蓮”に訂正するところに重きを置いていたのである。これは、静嘉堂本編者とは、逆の編纂意図による指向性を意味しているのである。

メモ1「日蓮(にちれん)」1222(貞応元壬午)年〜1282(弘安五壬午)、1253年日蓮宗を開く。1282年武藏国池上の池上宗仲の館にて十月十參日、満60歳にして示寂。

メモ2「御入蔵」仏教語辞典を繙く限りでは、「入定」と「入滅」とを用いるが、「入蔵」は未記載にある。

 もう一点は、『運歩色葉集』における各宗派の記載状況についてである。

 @「禅宗」<静嘉堂本426D、元亀二年本未記載>については、詳細な語注記を見出せないこと。

  1. 鎌倉時代の新興宗教である法然・親鸞の「浄土宗」、栄西(ヱイサイ)<静404A>・道元の禅宗「臨済宗」「曹洞宗」、同世代の一遍の「時宗」を未収載とし、「日蓮宗」だけを上記語注記までして、なぜ採録しているのか?課題は続く。

メモ3「八宗」を「法相宗、參論宗、倶舎宗、成實宗、律宗、花厳宗、天台宗、真言宗」<靜31D>として記載。「禅宗」は、含まれていない。

1999年8月1日(日)晴れ。八王子

暑き陽も 西に傾き 風届く

「百」の字と読み

室町時代の古辞書『節用集』を中心に「百」の字を用いた熟語や単漢字類を求めてみる。

一に、畳語表現「百々」が目に付く。

天正十八年本『節用集』に、百々(ドウ/\)就∨馬用之。<登部言語進退上14ウH>

易林本『節用集』に、百々(トウ/\)大鼓声。<登部言語46@>

 語注引用の内容を異にする。馬を誘導する掛け声として「ハイ!シイドウ」「ハイ!シイヲウ」(1999.05.16記述參照)という「ドウドウ」の声と太鼓の「ドウドウ」という音とがその表記法において同じであり、これを「百々」と表現するのである。『運歩色葉集』は表記と読みのみで、語注記が見えない。

二に、「百姓」だが、

『下学集』に、百姓(―シヤウ)日本ノ之四姓分(ワカツ)テ作ス百姓ト。其ノ内二十氏ハ公家(クゲ)ナリ也。八十氏ハ武家(ブケ)ナリ也。所謂(イハユル)物武(モノノフ)八十氏(ヤソウジ)ノ者(モノ)是レナリ也<數量144A>

天正十八年本『節用集』に、百姓(ヲヽンダカラ)<人倫門上19ウA>。百姓(ヒヤクシヤウ)。<人倫門下55ウ@> 枳園本<96E・307E語注有り>。易林本は、未収載。

とあって、公家貴族二十氏と武士の八十氏とを合わせた数で国の民すなわち「百姓」というのだが、實際は、農耕に從事する民を和語で「おおんだから」、漢語で「ヒャクショウ」と読むものである。

參に、「百帰」とあり、「づんがえり」と読む。語注は「馬に就いて之を云う」とする。

天正十八年本『節用集』に、百帰(ツンガエリ)就馬云之<言語進退上35オH>

文明本『節用集』に、百帰(ヅンガヘリ) 就馬所言<態藝421B> 枳園本「ヅンガヘリ」<154C>。易林本は、未収載。

四に、「百敷」とあり、「ももしき」と読む。語注は「百官の座席なり」とする。

『下学集』に、百敷(モヽシギ)百官ノ座席([ザ]シキ)也。故ニ云フーート也<天地21C>

天正十八年本『節用集』に、百敷(モヽシキ)百官座<毛部天地門下57オH>

易林本『節用集』に、百敷(モヽシキ)百官ノ座<毛部乾坤門228F>

五に、「百舌鳥」とあり、「もず」と読む。

『下学集』に、(モス)百舌又云フ伯勞ト也<氣形60B>

天正十八年本『節用集』に、百舌鳥(モズ)又作鵙<毛部畜類門下58オ@>

易林本『節用集』に、伯勞(モズ/ハクラウ)、百舌鳥(同)、(同/ケキ)<毛部氣形門229E>

 『下学集』『節用集』とでは、見出し語の排列が置換変化していることに気づく。

六に、「百千鳥」とあり、「ももちどり」と読む。

易林本『節用集』に、百千鳥(モヽチドリ)<毛部氣形門229E>

『下学集』及び天正十八年本は、未収載。

七に、「百手的」とあり、「ももてのまと」と読む。

易林本『節用集』に、百手的(モヽテノマト)<毛部器財門230E>

 『下学集』及び天正十八年本・枳園本は、未収載。『運歩色葉集』に、

百手 射手十六人也。的之面以墨圓相ヲ參廻而立之一番ニ立人曰弓太郎数百射之也。

と連関する。

最後に、単漢字「百」の語を「ハケム」と読む。

『運歩色葉集』(天正十七年本)に、(ハケム)左傳參―(ミタヒハケミ)踊(-ヒアカリ)參―距躍(ヲトリアカル)<46B>

『下学集』及び易林本は、未収載にある。観智院本『類聚名義抄』佛上76Gに、

百 音伯 モヽ、モヽチ、ハケム、ミヽ、和ヒヤク

とあって、第參訓にあたる。『運歩』の語注によれば、典拠を漢籍『左傳』におき、「みたびはげみひあがり、みたびはげみおどりあがる」の訓ををとる。

 以上、八種の「百」を冠頭に用いた語を見ることができる。四から七までは、「毛部」の語で通常の訓であるが、一二參は、義訓による表記である。これに『運歩色葉集』だけに見える「百面者(イタカモノ)」<天正十七年本上6ウC>、「百手返鳴(ヲチカヘリナク) 定」<上50ウB>を追加することができよう。

 

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