[9月1日〜9月30日迄]

                           BACK(「ことばの溜め池」表紙へ)

 MAIN MENU

ことばの溜め池

 

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

 

 

1999年9月30日(木)晴れ。八王子⇒世田谷駒澤

若き子ら 運動会す 声朗ら

「竹田(タケタ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、

竹田(タケタ)京之名醫也。藥之銘真書之治。六百八病包紙之内服用之樣。書之封之字邊計山王如此書也。山王ノ字書之事有子細也。<元亀本141D>

竹田 京名醫也。藥之銘真書之治。六百八病包紙之内服用之樣。書之封之字邊計山王始此書也。山王之字書之事有子細也。<静嘉堂本151B>

竹田 京之名醫也。藥之銘真書之治。六百八病包紙之内服用之樣。書之封字邊斗山王如此書也。山王之字書事有子細也。<天正十八年本中7ウ@>

とある。この語注記に従ってみるに、「竹田」は、「京の名医なり。薬の銘を真書にこれ治む。六百八病包み紙の内、服用の様、書の“封”字、邊計山王かくのごとく書すなり。山王の字、書のこと子細あるなり。」ということになる。標記語「竹田」の読みは、元亀本の「たけた」の読みだけで、後の二写本は、読みを示していない。「六百八病の藥の銘を包み紙のうち、服用の様を治む。」というのが良いのかもしれない。「六百八病」の実態も知れない。また、「書の“封”字、邊計山王かくのごとく書すなり。」の「封字」である「邊計山王」もはっきりしない。ただ、「藥の銘」などから関連する語としては、中国の「神農」伝説に近似する事柄を持つものではあるまいか。この「竹田」は、まだ解明できていない語注記といえよう。

[補遺1]上記、「竹田」の語注記と全く同一内容の語注記を有する標記語が『運歩色葉集』に収載されていることに気がついた。それは、志部の

(−チイン) 京ノ名醫也。治ス六百八病藥ノ銘草字ニ書之包紙之上ニ|。煎服之樣書之御一家也。正月二日出仕也。<元亀本322H>

上池院(シヤウチイン)名醫也。治六百八病|。銘草字書也。包紙之上ニ|。煎服之樣書之御一家也。<静嘉堂本381@>

とあって、前半部の内容が共通する。後半の「煎服の樣云ふ、これ御一家なり。正月二日の出仕なり。」がここで新たな事柄を伝えている。このことにより、この「上知院」と「竹田」の連関性を知ることとなった。

[補遺2]この語注記に連関する資料に『庭訓徃來註』十一月日の状があり、

典藥曽難逢候 典藥言天下十二人惣一也。十二人典藥々典施薬等之衆也。今断絶之亊也。至于今典藥殿中良井殿計也。于今京都竹田上池院兩衆天下十二人外也。彼兩人公方樣之薬師也竹田六百八病書也。同包紙之内体又禁好物等ニスル也。賞翫也。封字古文書也。字片計〓〔山+王〕如此也。即山王二字也。山王口傳。彼家牛黄圖秘傳也。上池院六百八病。藥銘草服包紙。即蘓香園秘傳也。典藥醫道極官也。他人不之。唐名大醫暑又尚藥局云頭也。四節藥草種。此寮アリ。山谷曰、四休居士大醫孫君肪置此官也。去レハ三平二滿之説、藥ルニ滿平用也。滿平ヨリ休矣。此官和丹兩氏月次日次之藥進上スル者也云々。〔謙堂文庫蔵六三右A〕

とあって、『運歩色葉集』の注記内容は、これに基づくものであることが知られるのである。

1999年9月29日(水)曇り一時小雨模様。八王子⇒世田谷駒澤

庭前に 金木犀や ほの香り

「目結雀(めゆいすずめ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、

  目結雀(メユイスヾメ)馬ノ印昔ハ如此云之。今ハ雀目結ト書也。<元亀本297F>

とある。易林本節用集』には、「目結(メユヒ)」<食服門196D>があって、絞り染めの一種で、くくり染め、鹿子絞り、纐纈(カウケチ)などの呼称として用いられている。ここで、『運歩色葉集』の語注記を見るに、「馬の印、昔はかくのごとくこれを云う。今は雀目結と書くなり」としていて、「目結雀」から「雀目結」へと語を顛倒して用いていることを伝えている。そして、この語注記も現代の国語辞書や古語辞書には記載が全くないのが現状のようである。家畜としての「馬」、そして、兵馬としての「馬」における装飾具がしだいに廃れることにより、この「馬の印」の名称も死語と化しているのかもしれない。当代の古辞書である『下學集』にも未記載の語でもある。『日葡辞書』も「目結」と「滋目結」に留まっている。

1999年9月28日(火)晴れ。⇒八王子

一休み ことばの泉 癒しけり

「武具(ブグ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、

武具(ブク)唐黄帝自討蚩尤始作之。日本神武天皇御宇始作之。<元亀本223A>

武具(フグ)唐ノ黄帝自豈尤(シ−)ヲ始テ作之。日本ニハ神武天皇ノ御宇ニ始テ作之。<静嘉堂本255B>

とあって、この「武具」も唐の黄帝の時代に「蚩尤」を討伐するために、はじめて造作されたものであり、日本でもこれを造作したのは、神武天皇の(朝鮮出兵の)時であったこと、すなわち、“武具の造作起源”を茲に語注記するのである。先行の辞書である『下學集』及び広本節用集』には標記語も未収載にある。また、易林本節用集』には、標記語「武略(ブリヤク)」<言辞門151B>の項目語として、「−邊(ヘン)。−具(グ)。−家(ケ)。−藝(ゲイ)」<言辞門151B>とあって、語注記は見えない。『庭訓徃來註』六月二十九日の状に、

伐所楯籠之賊徒‖-要害云々之近日欲進發候処戰場武具乘馬以下尽(ツクシ)(カス)ヲ失候畢。 ニハ武具皇帝自蚩尤始也。日本ニハ神武天王御宇始也。〔謙堂文庫藏三四右G〕

とあって、『運歩色葉集』の語注記はこの箇所からの引用であるとことが認められる。

作品資料には、『太平記』に、

何の用ともなきに、財宝を倉に積み、貧窮(ビングウ)を扶けず、傍に武具(ブグ)を集めて士卒を逞(たくましう)す。<巻第十二「千種殿并文観僧正奢侈の事」大系一414B>

此二三年の間、天下僅に一統にして、朝恩に誇りし月卿雲客、指たる事もなきに、武具を嗜み弓馬を好みて、朝義道に違ひ、礼法則に背しも、早かゝる不思議出来るべき前表也と、今こそ思ひ知られたれ。<巻第十四「主上都落ちの事勅使河原自害の事」大系二81H>

彼城もすべき様なければ、馬・武具(もののぐ)を捨て、城に連たる上の山へぞ逃上りける。<巻第十六「児島三郎熊山に旗を上ぐる事船坂合戦の事」大系二140I>

時氏は、かゝる事共知ず、出仕の装束にて参られたりけるが、宿所へ帰り、武具を帯し勢を率せば、時剋遷て追つく事を得がたしと思ひけるにや、武蔵守が若黨にきせたりける物具(もののぐ)取て肩に打懸、馬の上にて高紐かけ、門前より懸足を出して、父子主従七騎、播磨路にかゝり、揉にもみてぞ追たりける。<巻第二十一「塩冶判官讒死の事」大系二358K>

塩谷は余りに深く長追して、馬に箭三筋立ち、鑓にて二処突かれければ、馬の足立兼て、嶮岨なるところより真逆様に転びければ、塩谷も五丈計岩崎より下に投げられければ、落付くよりして目くれ東西に迷(まよひ)、起き上らんとしける処を、踏留(とどまる)敵余に多きに依て、武具(もののぐ)の迦(はづ)れ内甲を散々にこみければ、つゞく御方はなし、塩谷終に討たれにけり。<巻第三十四「紀州龍門山軍の事」大系三287@>

今は定めて討手をぞ向けらるらん、一矢射て腹を切らんとて、舎弟左馬助頼利・大夫将監家氏・兵部大輔将氏・猶子仁木中務少輔・いとこの兵部少輔氏春、六人中門にて武具ひし/\と堅め、旗竿取り出し、馬の腹帯(はるび)を堅めさすれば、重恩・新参の郎従共、此彼より馳せ参て七百余騎に成りにけり。<巻第三十六「清氏謀叛の事相模守子息元服の事」大系三361O>

と六例ある。この「武具」の製造も、兵略戦法が変るに連れて、これまた、様変わりしてきている。そして、スポーツ化したところで、精神鍛錬のための「防具(ボウグ)」ということばに置換され現在に至っている。

1999年9月27日(月)晴れ。京都⇒東京(新宿→駒沢)

朝一番 校内会ふは 清掃の人

「食時(ジキジ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、

食〓+〕(−シ)人食時辰巳午。畜生食時未申酉。鬼食〓〔日+之〕戌亥子。天人食時丑寅卯。<元亀本313A>

食時(ジキジ) 人食時辰巳午。畜生食時未申酉。鬼食時戌亥子。天人食時丑寅卯。<静嘉堂本366F>

とある。標記語「食時」の語注記は、「人の食時は辰・巳・午。畜生の食時は未・申・酉。鬼の食時は戌・亥・子。天人の食時は丑・寅・卯」という。『下學集』にあっては、

食時(シヨクシ)辰(タツ)五ツ時。<元和本時節32@>

と、時刻を「辰の五ツ時(現在の朝8時50分頃)」の一回だけを指して云うことばであったのを、人の食事時間を辰(午前8時)・巳(午前10時)・午(午後0時)。禽獣の食事時間を未(午後2時)・申(午後4時)・酉(午後6時)。鬼の食事時間を戌(午後8時)・亥(午後10時)・子(午後0時)。天人の食事時間を丑(御前2時)・寅(午前4時)・卯(午前6時)と『運歩色葉集』は、実にユニークな時間区分による内容へと変貌させている。この由来は、何処から来ているのであろうか?『庭訓徃來註』十月日の状に、

煎餅(ヤキモチ/イリノセンヘイ)焼餅(ヤキー)(シトキ)用米興米(ヲコシコメ)索〓〔麦+并〕(サクヘイ)(ホシイ)(チマキ)等爲客料用意候御時 食項付曰、食時辰巳午。畜生未申酉。鬼戌亥子。天人丑寅卯時也。三昧經曰、佛爲佛慧菩薩四食時一丑時為天食二午時為法食時|。佛断六趣因令同三世佛故日午。為法食正時也。〔謙堂文庫蔵五八右F〕

とあって、『運歩色葉集』の語注記は、この注記からの抜粋引用であることが知られる。

 これを広本節用集』は、

食時(シヨクシ/−、トキ)辰。〔時節門913B〕

とあって、『下學集』の語注記を簡略化して継承する。易林本節用集』にあっては、「食耽(シヨクタン)」の標記項目語として、「−物(モツ)。−後(ゴ)。−時(シ)。−事(ジ)」<言辞門217B>とあって、語注記は見ない。さらに読み方だが『下學集』と同じく「シヨクシ」となっているが、静嘉堂本運歩色葉集』では、これを「ジキジ」と読ませている。この読みは、『日葡辞書』で、

+Iiqiji.ジキジ(食時) Mexino toqi.(飯の時)食事の時刻,あるいは,食事時.<邦訳364r>

と、具体的な時間までの記載は見ないが、同じ「ジキジ」の読みを収載することで確認できるのである。当代の読みは、「シヨクシ」と「ジキジ」と両用あって、この読みの区別については、何か所以があるのかもしれない。

1999年9月26日(日)曇りのち晴れ。村岡町(第二回ダブルフルウルトラランニング大会開催)⇒京都

町くるみ 笑み汗垂れて 稜線まで

「相看(シャウカン)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、

相看(−カン)」<元亀本312G・静嘉堂本366B>

とある。易林本節用集』にも、「相看(−カン)」<言辞門215D>とある。この標記語に注記はない。禅宗の用語では「相見・相看」と表記して、「シャウケン」と読み慣わしている。意味は、賓主の会見をいう。また、『太平記』に、

天子直(ぢき)に異朝の僧に御相看(ゴシヤウカン)の事は、前々更に無りしか共、此君禅の宗旨に傾かせ給て、諸方参得の御志をはせしかば、御法談の為に、この禅師を禁中へぞ召されける。<巻第四「俊明極(シユンミンキ)参内の事」大系一135B>

と見える。類語の「相伴(シヤウバン)」は、民間にもよく浸透し、「ご相伴に預かる」といったことば表現の基であるが、この「相看」の語は、賓客との面会を意味することばとして、民間には流布しなかったようだ。

1999年9月25日(土)晴れ。⇒村岡町(第二回ダブルフルウルトラランニング大会前夜祭)

一つずつ 澄む稲穂道 秋勝る

「蝋燭(ラツソク)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、

蝋燭(ラツソク) 黄帝蚩尤(シユウ)ヲ退治之時造ル之ヲ。<元亀本171D>

蝋燭(ラツソク) 黄帝蚩尤ヲ退治之時造之。<静嘉堂本190D>

蝋燭(ラツソク) 黄帝蚩尤退治之〓〔日+出〕造之。<天正十七年本中25ウB>

とある。これを『下學集』では、「蝋燭(ラウソク)」<元和本器財108B>と標記語のみの記載に留まる。易林本節用集』も「蝋燭(ラツソク)」<器財門113@>で、標記語のみである。『庭訓徃來註』十月日の状に、

 蝋燭(ラツソク) 黄帝蚩尤退治ノ時始作給也。〔謙堂文庫蔵五七左C〕

とあって、注記内容が共通する。広本節用集』には、

 蝋燭(ラフソク/−トモシビ) 異名。銀燭。芳燭。花燭。明修。五枝。七枝。九枝。〔器財門452G〕

とあって、注記内容を異にする。このように、『下學集』に語注記のない場合、広本節用集』は独自の注記体系を見せている。印度本系統の弘治二年本節用集』には、「蝋燭(ラツソク) 〓〔虫+葛〕燭」〔財宝143F〕とあって、やはり一致しない。永禄二年本節用集尭空本節用集』は注記未記載にある。

当代の『日葡辞書』には、「Rassocu.ラッソク(蝋燭) 蝋で作った灯火.」<526r>と見える。この語注記「黄帝、蚩尤(シユウ)を退治するの時これを造る」は、“蝋燭の誕生起源”を記したものである。唐黄帝の時に作造されたものとして他に、「武具(ブグ)」<元亀本223A>がある。

室町時代書写の軍記物語『太平記』のに、

是より後は、中々忍びたる體も無して、「面々の御陣に、御用心候へ。」と高らかに呼ばはて、閑々(しづしづ)と本堂へ上て見れば、是ぞ皇居と覚て、蝋燭(ラツソク)数多所に燃されて、振鈴の声幽か也。<巻第三「笠置軍の事陶山・小見山夜討の事」大系一107N>

夜半に蝋燭(ラツソク)を伝(タテ)て禅師参内せらる。<巻第四「俊明極参内の事」大系一135E>

とある。

昨今。電気による光源を確保した今では、家庭における仏間か、緊急災害時の明かり採りか、伝統のお祭り行事、そして神社仏閣などの参詣する所でなければ用をなさないものとなってきている。

 

1999年9月24日(金)雨(台風18号通過)。⇒村岡町

雨と風 吹きぬけ台風 オヤジとぞ

「椰子盃(ヤシヲ)」

室町時代の古辞書『下學集』に、

椰子(ヤシ)此ノ実〔ミ〕ノ中ニ有リ漿〔コンヅ〕。飮〔ノメ〕ハ之ヲ如ニシテ酒ノ而醉〔ヨフ〕ナリ也。<草木135D>

椰子盃(ヤシハイ)椰ハ木ノ名也。横〔ヨコ〕ニ截〔キツ〕テ椰子〔ヤシ〕ヲ為ス盃〔サカツキ〕ト。若シ以テ毒〔ドク〕ヲ投〔トウ〕ス盃中ニ。酒忽〔タチマチ〕ニ沸涌〔ハツユ〕シテ令シテ/シム人ヲ無ラ害〔カイ〕也。然ルニ今ノ人漆〔ウルシ〕スルハ其ノ盃中ニ其レ失〔ウシナフ〕椰子〔ヤシ〕ノ之用ヲ也。柳子厚〔リウシコウ〕カ句ニ云ク〓〔クン〕テ水ヲ勺〔シヤク〕仍〔ヨル〕椰〔ヤ〕ニ是レ也。<器財105A>

とあって、さらにこれを継承する『運歩色葉集』に、

椰子盃(ヤシハイ)以毒ヲ投盃中ニ則酒忽沸出也。今ノ人塗(ヌ)ル盃中(ハイ−)ヲ甚タ矢椰子之用ヲ。<元亀本203I>

椰子盃(ヤシヲ) 以毒投スル盃中ニ則酒忽沸(ワキ)出也。今ノ人塗(ヌ)ル盃中ヲ甚ノ矢椰子盃ノ用也。<静嘉堂本231@>

椰子盃(ヤシヲ)以毒投盃中則酒忽沸出也。今ノ人塗ル盃中ヲ甚矢(−)ス椰子之用ヲ<天正十七年本中45オE>

と些か簡略にした語注記が見えている。この語注記に「(椰は木の名なり。椰子を横に截って盃となす。もし、)毒をもって盃中に投ずるとき、酒たちまちに(沸涌(ハツユ)して人を害なからしむなり。)沸き出ずるなり。(然るに)今の人、(其の)盃中を(漆で)塗るは、甚だ椰子の用を失(シツ)する(なり。椰子、柳子厚が句に曰く、「水を汲みて勺椰による」是なり)。」ということで、毒を盛ろうとすることを察知できる盃器として、「椰子盃(ヤシヲ)」が用いられていたこと、そして、当代の人はこの「椰子の盃」を漆をもって盃のなかを塗ることでその効用を忘失しているということが記述されている。現代の国語辞書中にあって、『日本国語大辞典』(小学館刊)には、「椰子の柄杓」の項目で、「椰子の実を二つに割り、柄をつけて柄杓のようにしたもの。椰子は毒を消すとして、産湯をくむのに用いる。」とあって、毒から身を護る点で共通する。

 また、この「椰子盃」の読みだが、静嘉堂本と天正十七年本は、「ヤシヲ」とあって、元亀二年本だけが「ヤシハイ」と読んでいる。この漢語「ヤシ」に下接する「ヤシヲ」の「ヲ」がむつかしい。易林本節用集』には語注記を未記載にして、「椰子(ヤシヲ)」<草木門137@>、『温故知新書』に、「椰子(ヤシホ)杓」とあって、「盃」の文字を下接せずに「ヤシヲ」とあり、これを裏付けることに『日葡辞書』に、

Yaxiuo.(ヤシヲ)椰子の実」<814l>

とあって、「ヤシヲ」は「椰子の実」の意で、『下學集』の読み「ヤシハイ」とさらに、当代の読み方としての「ヤシヲ(のハイ)」の「ヤシヲ(ハイ)」が用いられているのである。なぜ、このように呼称するようになったのかは、さらに追い求めねばなるまい。

椰子」を盃に用いることは、既に鎌倉時代の古辞書黒川本色葉字類抄』に、

椰子(ヤシ)椀可キ作ス飲器ト也

と見えている。

 

1999年9月23日(木)晴れ。八王子⇒鳥取経由⇒村岡町

雨上り 秋栗の実は 重きかな

「銚子(テウシ)」と大江山酒点童子鬼説話

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、

銚子(テウシ)用ル兩口ヲ事。近衛院之時、丹波大江山ニ有リ酒点童(トウ)子鬼。彼ノ鬼変シテ、取ル人ヲ。勅シテ頼光保昌綱公時ニ治之ヲ此時――ノ一方ノ口ニ入酒与毒ヲ。進ルニ彼ノ鬼ニ、立トコ所ニテ死ス。今モ可誅者ニハ、自リ右ノ口勧∨酒ヲ也。祝言ニハ裹(ウチ)ノ口也。<元亀本247@>

銚子(テウシ)用兩口ヲ事。近衛院之時丹波大江山ニ有酒点童子鬼。彼鬼変取人ヲ勅頼光保昌綱公時令對治之此時之一方ノ口ニ入∨酒与毒進彼ノ鬼立死ス。今モ可誅者ニハ自右ノ口ヲ勧酒也。祝言ニハ裹∨口ヲ也。<静嘉堂本285E>

銚子(テウシ)用兩口事コト。近衛院(コノエノイン)之〓(日+出)キ丹波(タンハ)ノ大江山(ヲウエヤマ)有酒点童子(シテン−シ)鬼。彼(カノ)鬼変シテ取ル人。勅頼光(ヨリミツ)保昌(ホウシヤウ)綱(ツナ)公時(キントキ)令治之ヲ此ノ〓(日+之)之一方ノ之口ニ入酒与毒(フス)ト進彼鬼。立死。今(イマ)可誅(コロス)者ヲハ自(ミツカラ)左ノ口ニ勧酒ヲ也。祝言ニハ裹口也<天正十七年本中71ウB>

とあって、「両口の銚子」を用いる云われ譚として、「大江山の酒点童子鬼」の説話が引用されている。これに対し、『下學集』は、「銚子(テウシ)」<器財107B>、易林本節用集』も、「銚子(テウシ)」と、標記語のみで語注記を記載しない簡便な収載方法をとっている。また、広本節用集』は、語注記を記載するが、「銚子(テウシ)ー提子」<器財門717A>とあるにすぎない。この説話を記載するのは、この『運歩色葉集』だけということになる。そして、この記載を『運歩色葉集』は、別項目「羅部」に、

頼光保昌綱公時(ライクワウホウシヤウカツナキントキ)平クル酒点(シユテン)童子ヲ<元亀本174@>

頼光保昌綱公時(ライクワウホウシヤウ・ツナキントキ)平酒点童子ヲ也。<静嘉堂本193G>

と、標記語「源頼光、藤原保昌、渡辺綱、坂田公時」により、大江山の「酒呑童子」を平らぐることを語注記する。ここで注意したいのは、御伽草子酒呑童子』にみえる三社の神に御立願したうちの熊野に参籠した「碓井貞光、卜部季武」の名が見えていないことである。さらに、「志部」には、

酒点童子(シユテンヅウ―)<元亀本335B>

酒点童子<静嘉堂本400@>

現在、御伽草子により、「しゅてんどうじ」と呼称し、「酒呑童子」と表記する。この「酒点童子」の表記は何に基くものか未審である。

と、「酒呑童子」についての語注記は一切、未記載にあるが、ここでも記載項目としている。

 こうした語注記内容の項目語を再度標記語として記載する形態は、近代国語辞書への歩みを知る意味からも画期的な方針と言えよう。編者のこの説話を記載する意図について、「銚子」「頼光・保昌・綱・公時」「酒点童子」とイロハ順を基準としたうえで、話題内容の比重としていったのか?今後さらに考えていかねばなるまい。

[補遺]『庭訓徃來註』五月五日の状に、

几帳翆簾恩借者以人夫賜之候此外打銚子(テウシ) 兩口、仁王七十六代近衛院時、丹波大江山酒点童子云鬼。彼児シテ人処頼光保昌公時彼四人行-治此時酒点酒。一方童子。一方口進四人。遂酒点也。其用兩口。今討者ニハ進也。故ニハ裹凶也。〔謙堂文庫蔵三一右F〕

とあって、「綱」を「縄」、「右」を「左」としている箇所に異なりが見えている。

[関連資料] 香取本『大江山絵巻』。

良尚親王筆『大江山絵巻』(現在曼殊院展示)。

東洋大学図書館蔵、絵巻『酒顛童子巻』。

『大江山』金剛流謡曲大江山

御伽草子集『酒呑童子』<小学館日本古典文学全集444頁〜474頁>

井沢長秀『広益俗説弁』巻十。

 

1999年9月22日(水)雨。八王子⇒世田谷駒澤

雨頻り 走りくる道 傘の列

「目出度(めでたい)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「免」部に、

目出(メデタシ)天照大神岩戸引篭給。七日七夜成ル∨暗ト。諸神為神楽太神面白(ヲモシロク)思召開岩戸ヲ|。御目出諸神喜−―ト|到今祝事−―(メテタシ)ト|。〔元亀本296I〕

目出(メデタシ)天照大神岩戸引篭給。七日七夜成暗。諸神為神楽太神面白思召開岩戸ヲ|。御目出諸神喜−―ト|祝事−―ト|。〔静嘉堂本345B〕

とあって、「目出」の標記語「めでたし」についての語源譚を注記する。広本節用集』にも、

目出度(メデタシ)倭語也。目出者、言天照大神與素盞烏命玉フ‖天下ヲ|時天照大神引籠岩戸ニ|之間、天下七日七夜暗(クラヤミ)也。此時諸神相談シテ、於テ‖岩戸ニ|(ナシ)‖神楽ヲ|給時、天照大神面白思食戸(ト)ヲ少開御覧。其時見太神御目ルヲ|、諸神喜目出(ノ玉)フ是始也。其時太刀雄尊(タチヲノミコト)テ‖岩戸ヲ|、擲、自是天下明也。其ノ戸落信州戸隠(トカクシ)ニ|也。故戸隠ト|、太刀雄今常衆州志津明神是也。<免部877B>

とある。『運歩色葉集』と比較して、説明内容が詳しいのが特徴である。また、最後の部分を異にする。これも広本がこの譚の最後までを記載したと見るのが良かろう。

 この「天の岩戸」伝説譚を「めでたし」の語源とするのは他に『感興漫筆』が知られている。鎌倉時代の語源辞書『名語記』では、「目ダツラシ」を語源説として異なる。『伊京集』は、「妙(メデタシ)。玩(同)」<言語進退>。易林本節用集』には、「目出度(メデタク)」<言辞196F>と標記語のみの記載に留まる。この広本節用集』と『運歩色葉集』の語注記引用の原典は一つであったと見たい。

[補遺]庭訓徃來註』に、

改年吉慶被御意之条先以目出度覚候 歌道ニハ改年々々(アラタマ)ト讀也。目出トハ昔天照大神与素盞烏命ト|天-下ヲ|時天照大神岩戸引籠給之間、天下七日七夜也。此時諸神相談シテ、於岩戸ニ|神楽為給時、天照大神面白思食戸開御覧有。其時太神御目見、諸神喜コヒ目出マフ是始也。其時太刀雄尊取岩戸ヲ|、自是天下明也。其戸信州戸隠落也。故戸隠ト|、太刀雄常州志津明神是也。〔謙堂文庫藏六左F〕

とあって、広本節用集』の語注記は、この注記内容とほぼ同内容であることが知られ、『庭訓徃來註』のこの部分からの引用とみる。むしろ、『運歩色葉集』が末尾を簡略化したものとみてとれる。印度本系統の『節用集』類である弘治二年本節用集』は、

目出度(メデタク)。〔言語進退230A〕

として、易林本節用集』同様、標記語のみの記載になっている。他の永録二年本尭空本は未収載にある。

 天の岩戸神楽

 

1999年9月21日(火)曇り後雨。八王子⇒三島

様変り 墓参りして 眠りうと

「弗名(ウシミヤウ&うなし)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、

弗名(ウシミヤウ)誅人時費用之名也。―者人果也。<元亀本181F>

弗名(ウナシ)誅人時費用之名也。―者人果也。<静嘉堂本203E>

とあって、「弗名」の読みが二諸本において異なることが目に付く。また、語注記の内容は、「人を誅する時の費用の名なり。弗名は人果なり」と二諸本共に合致している。この注記自体、どう理会すればよいのだろうか?当代の辞書である『下學集』や『節用集』には未記載の語であり、この注記内容のことばの意図することが、現代の私たちの国語能力をもってしても、些か難解な語の一つといえまいか。「うしミヤウ」も「うなし」の傍訓も、裏付ける術を見出せないでいる。

 

1999年9月20日(月)晴れ一時雨。八王子⇒世田谷駒澤

曼珠沙華 つんと立つ赤 つつましき

「酩酊(メイテイ)」

室町時代の古辞書『下學集』に、

酩酊(メイデイ)沈醉(チンスイ)ノ義也。<疊字159D>

運歩色葉集』に、

酩酊(メイテイ)江南有虫。似熟柿無鼻目名之――。人酔酒則似之也。<元亀本297C>

酩酊(メイテイ)江南有虫。似熟柿ニ鼻目之ヲ――ト。人酔酒ニ則ンハ似之ニ也。<静嘉堂本345G>

と、新たにこの名の由来源を増補し記載する。『節用集』類の広本節用集』には、

酩酊(メイデイ/−、ヨウ)沈醉スル義也。又作茗。〔態藝門879G〕

とあって、その語注記は『下學集』を継承したうえで、別語表記の説明を増補している。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』は、

酩酊(メイテイ)醉義。〔言語進退229E〕

酩酊(メイデイ) 茗。〔言語191C〕

酩酊(メイデイ) 又茗。〔言語180G〕

とあって、弘治二年本は、『下學集』の語注記を簡略化しているし、永禄二年本尭空本は、広本節用集』増補語注記を簡略化して収録するものであることが見て取れよう。

また、易林本節用集』は、

酩酊(メイテイ)醉甚。<女部言辞門196F>

と、この語注記内容を最も簡略化して、記載するといった三種三様の語注記形態となっている。(『温故知新書』は語注記なしの標記語のみの記載。)さらに、この「酩酊」の語を説明する漢語「沈醉」<下学>。「醉酒」<運歩>。「醉甚」<易林>とこれまた、一つとして同じ表現ではないのである。このように、相互に連関性を示す標記語でも、その語注記の内容はそれぞれ独自の記載手続きがなされていて、当代古辞書の編集方針そのものの多元化について、この語を通じ、見ることが出きるのである。

[補遺]『庭訓徃來』十一月日の条に「濁酒酩酊」の語が見え、『下學集』はこれを継承する。次に『庭訓徃來註』に、

濁酒酩酊 江南在有虫。似熟柿ニ|鼻目。人酔則似彼故云ナリ。〔謙堂文庫蔵60右A〕

とあって、『運歩色葉集』の「酩酊」の語注記は、『下學集』『節用集』類といった継承過程とは異なるものであり、この『庭訓徃來註』より継承することを明らかにできるのである。

 

1999年9月19日(日)曇りのち晴れ。八王子⇒多摩川駒澤⇒世田谷駒澤

ランニング 汗も引かぬに また走り

「酸醤子(すずめふゑ)」

室町時代の古辞書『温故知新書』に、

酸醤子(スヽメフヱ)梅之枝付虫。家形如雀。印唐大也。<生殖門C>

とある「すずめぶゑ」なる虫名の語について考えてみよう。なぜ、生植門にこの虫の名が掲載されているのか?標記語は、「酸醤子」とあるが、他の古辞書ではどうなのか?といえば、『下學集』を筆頭に『運歩色葉集』『節用集』にも未記載の語である。広本節用集』に、「〓〔艸+弁〕(スヾメグサ)」<草木門1122G>という語は見えているのだが、「つめくさ【爪草】」の異名とは違うことは、語注記の内容から理会できる。この「酸醤子」という語は、「梅の枝につく虫」で、「家(「巣」のことか?)の形が雀のよう」であり、「印度・唐国では(その虫は)大きいのである」と語注記はいう。当代の古辞書には未記載の語であり、編集採録の典拠とこの注記内容が気になってくる。また、和語「すずめぶゑ」だが、語頭の三拍「すずめ」は、その虫の巣が小鳥の「雀」に似ていることに因むとして、「ふゑ」または「ぶゑ」の語末二拍の語は何を意味しているのであろうか?「笛」「管」という和語が想起されるぐらいで、その名から梅の木枝に付くという虫の実態そのものが見えてこないのである。

 さらに、現代の国語辞典である小学館日本国語大辞典』では、標記語が未記載にある。この標記語の頭二字の「酸醤」が「酸漿」に同じであれば、和名「ほおずき」(植物の名)になる。実際、松村任三編日本植物名彙』に、「酸醤」を「ホホヅキ」と記している。この「ほおずき」だが、口に含み舌で圧し鳴らすことが平安時代『栄花物語』初花の巻の「御色白く麗しう、ほほづきなどを吹きふくらめて据ゑたらんやうにぞ見えさせ給」とあって知られているが、その行為とこの「すずめぶゑ」なる語とが合致するのかはまだ定かではない。注記に「ほおずき」の異名とでもあればいいところだが、明確な実証は得られないでいる。

 ところで、酸漿(ほおずき)の口笛は、どんな音なのだろうか?

[ことばの実際]

1、「酸漿は殺しの口笛」

酸漿を鳴らしながら葛西舟に乗っていた娘が、家を出た母によく似た女を見たといいます。江嶋屋の忠三郎が登場します。

2、「酸漿」

 学名:Physalis alkekengi var. franchetii

ナス科の多年草で,ちょっと見にはトウガラシやピーマンに似た花です。写真には若い実が見えますが,六角の袋の中に赤い実(右下)がなります。浅草のホオズキ市で売られますね。ホオズキといえば,女の子が口に入れて鳴らすものと思っているでしょうが(実際,三省堂の新明解国語辞典(第二版)金田一京助にもそう書いてある),それはこのホオズキではなく,海ホオズキのことです。海ホオズキは貝の卵の袋です。 実際,ホオズキの実の皮は薄くて(ミニトマトを思えばいいかも),それをクチャクチャやってるとすぐに破れると思いますよ。花期:夏

3、田山花袋『生』

「そら、あの酸漿を鳴らして通る、白髪のお袋さんのいる家さ」

4、陽炎座(泉鏡花原作)邦画昭和56年(1981) 139分 シネマ・プラセット[監督]鈴木清順

新派の劇作家松崎春狐は、酸漿を鳴らす美しい女品子と知り合う。品子は松崎のパトロン玉脇の妻であった。

と単に「酸漿を鳴らす」とだけあって、その実際の音は表記されないのがこれまでの知り得た文章表現のようだ。実際に鳴らせる人に鳴らしてもらうしかないようだ。その音が「すずめぶえ」ということばと旨く結びつくかがこのことばの要諦なのであるが、『温故知新書』には、この標記語の前行に、「酸漿草(スイモノクサ)醫」という標記語を掲載しているのでこの推理は些か難しいところでもある。

 

1999年9月18日(土)曇り。八王子

枳殻の 蒼き実をや 掌に収め

「獸産月」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』(1547年)に、

獸産月(―ウムツキ)淮南子云。犬者三ヶ月。豕(イノシシ)者四月。猿者五ヶ月。鹿者六ヶ月。虎者七ヶ月。馬者十二月也。<元亀二年本・獸名372D>

獸産月(―ウマルヽツキ)淮南子云。犬者三ヶ月。豕者四ヶ月。猿者五ヶ月。鹿者六ヶ月。虎者七ヶ月。馬者十二ヶ月云々。<静嘉堂本・獸名452B>

とあって、「獸産月」という各々動物の子産み月を示した語注記を有する標記語が見えている。典拠は、『淮南子』であり、ここに登場している獣類は、家畜類の犬(いぬ)と馬(うま)、野獣類の豕(いのしし)、猿(さる)、鹿(しか)、虎(とら)の六種である。この獣類を最も早い産み月順に示したものである。また、『温故知新書』には、

獸生益(シウシヤウヤク)馬十二月。虎七月。鹿六月。猿五月。豕四月。犬三月生スル也。<時節門>

として、『運歩色葉集』の標記語とは異なり、収載する門も異なるが、排列順を逆にした同様の語注記がここにも見えている。

この両古辞書の記事内容をこれ以前に編纂する『下學集』には標記語としても記載を見ない。それにも関わらず、何故『温故知新書』の“時節”や『運歩色葉集』の編者が新たにこの“獸名”の最後に記載したのかを問うものである。

 現代の私たちの社会では、動物の子が産まれる月を知ることは、動物園に勤めるか、獣医の道にでも進まない限り、これら六種の動物の産まれ月を知らないでも何の支障もない事柄かもしれない。また、ペットとして犬や猫などの生き物のお産に立ち会うことで、それなりの知識を持つこともあろう。そして、一度に何匹誕生するのかを知ることにもなろう。そして、国語辞書の世界では、「けもの(の)うみづき」という小見出し標記語はない。「うみづき【産み月】」なる標記語はあるが、「子を産む予定の月。臨月。〔源氏冷泉節〕」<新潮国>。「「臨月リンゲツ」の意の和語的表現。」<三省堂新明解>。といった記述に留まり、万物の生き物とはいかないまでも、私たち自身を含め、身近な生き物の「産月」を記載するものではないことが理解できよう。そしてこの『運歩色葉集』や『温故知新書』の記載は、まさに辞書史のなかで特筆している内容なのである。

[ことばの実際]

1,女御の方は、また宮中にもどる時間が迫っていた。実家でゆっくりしたいのだが、帝か寂しがっていらっしゃるというお言葉をきけば、そうそうゆるりとはできない。姫宮なども、母君の帰りを待ちわびていると言う。女御の方は、お二人の姫君をお持ちであった。皇子は、妹の五の君がお生みした方だだお一人である。御自身も産み月に入っていて、こんどは皇子をと密かに願を掛けておられた。それだけに六の君のような頼りない妹君をみると、ついうるさく叱ってしまう。<藤中将・その3

2,万両や産み月の娘の薄化粧      高間礼子。<俳諧歳時記より>

3,鮭は回帰性の強い魚で、産み月が近くなると生まれ故郷を思い出し、河口から川のにおいをかぎわけ、ひたすらふるさとの川をめざして上がってきます。傷つき、身をすりへらしながら懸命に上る鮭の行動は、神秘的で深い感動を覚えます。<http://www.w-net.ne.jp/mabeti01/mabeti13.html

番号1と2は、人の産み月の用例。3は、生き物である「鮭」に用いた用例である。

 

1999年9月17日(金)雨。八王子

何の其の 寒蝉ここに ありと鳴く

「獏(バク)」

室町時代の古辞書『温故知新書』(1484年)に、

(ハク)食鐵食悪夢。七種反化、十一面観音化身云々。<ハ部氣形門179D>

とある。元龜二年本『運歩色葉集』(1502年)「獏(ハク)」<371E>、静嘉堂本『運歩色葉集』(1547年)には、標記語「貘(バク)」<451C>のみで語中記は未記載にある。

この語注記の内容と、明治時代の大槻文彦編大言海』の記載内容とをもって見るに、『大言海』には、

ばく(名)【貘・獏】(一)支那にて、想像の獸の名。熊に似て、色、黄白。象鼻、犀目、牛尾、虎脚、能く銅鐵を舐り食ひ、其形を畫けば邪氣を避くと云ひ、又能く悪夢を食ふと云ふ。故に、節分の夜の寶舩の帆に、獏の字を書くと。*説文注「貘、似熊而黄黒色、出蜀中」*爾雅、釋獸篇「貘、白豹」注「似熊小頭、〓〔广+田廾〕脚、黒白駁、能舐食銅鐵及竹骨|、骨節強直中實少髓、皮辟濕」*白居易、貘屏賛序「貘者、云云、生南方山澤中、圖其形邪」*瑯〓〔王+邪〕代醉篇、二、儺「伯寄食夢、凡使≡十二神追悪凶」*後漢書、禮儀志「莫奇食夢」*好色一代男(天和、西鶴)「二日節分、厄拂の聲、夢ちがひ、バクの札(フダ)、寶船賣」(二)奇蹄類の獸。驢より稍小さく、體肥満し、皮膚厚く、鼻、及脣は長くして、屈伸自在なり。全身に茸毛生じ、尾は短し。前趾に四蹄、後趾に三蹄あり。西印度諸島、及、南亞米利加等に産ず。(三)八丈島の風土病。傳染性にて、足甚しく腫る。<3-0826-1>

とあって、「銅鐵を食す」ことと、「悪夢を食す」ことは、合致している。次の「七種変化」し、「十一面観音(1写真図絵写真図絵)の化身」という注記内容が異なっている。この部分についての検証が今後必要である。

[貘の資料室]「貘」の図絵(葛飾北斎絵)「珍獣辞典」bT「貘」「貘枕」図絵鳥獣戯画「貘」図絵

 

1999年9月16日(木)曇り一時雨。八王子⇒世田谷駒澤

休暇明け 登校する日に 何もかも

「啄木鳥」の読み

室町時代の古辞書『下學集』(1444年)に、

啄木(ケラツヽキ/タクボク)鳥ノ名也。尓雅(ジカ)ニ云ク(レツ)也。啄木或ハ琴ノ名也。見器財門ニ也。<元和本・氣形門60A>

とある。この「けらつつき」の語頭音「ケ」だが、『温故知新書』(1484年)に、

(ケラツヽキ)。同。<ケ部氣形門78@>

(テラツヽキ)。同。<テ部氣形門153D>

とあって、「けらつつき」と「てらつつき」の両語形を記載する。実に妙なものとなっている。ここで、語頭の「けら」と「てら」という両語形が同一の鳥名に混在していることを知るのである。この混在を裏付けるに、『撮壌集』(1454年)にも、

啄木(タクボク)。樹啄同。<鳥部76C>

(テラツヽキ)和名−―。(ケラツヽキ) 和名−―。<鳥部77AB>

とあって、標記語の漢字がそれぞれ異なり、同一鳥名とせず、別種鳥名扱いによる記載方針を採っているのである。さらに、広本節用集』(1474年)及び易林本節用集』(1597年)は、

啄木鳥(テラツヽキ/タクボクテウ)。(同/レツ)。<天部氣形門164D>

と、古い「てらつつき」の語形のみを採録していて、この語については、古本『下學集』の語形「けら―」を採用していない。ただし、異本『下學集』ともいえる、春良本(宮内庁書陵部蔵1611年)には、

啄木(テラツヽキ)鳥之名也。尓雅(ジガ)ニ曰ク(テラツツキ)〕也。――或琵琶之名也。見器財門ニ也。(テラツヽキ)。二字同。<春良本・氣形門49C>

と、同じく「けら―」から「てら―」への先行資料に基づく古語形への改編が見られるのである。

まず、古語形である「てらつつき」の語がいつ「けらつつき」の語頭語音に変化したのかを追わねばなるまい。鎌倉時代以前の古辞書である『新撰字鏡』「寺豆支」、『和名類聚抄』「天良豆々木」『類聚名義抄』「テラツヽキ」、『色葉字類抄』「テラツヽキ」、世尊寺本字鏡』「テラツヽキ」、天文本字鏡抄』「テラツヽキ」と、いずれも「てらつつき」の語形にある。

 次に、語形変容の第一として、カタカナ表記「テ」と「ケ」との字形相似による誤認識がある。第二に、この「てら」から「けら」への意味理解の差異が生じていることである。語末の「つつき」は共通する意味理解にあり、現代用いられているこの鳥名「キツツキ」の「木+突付き」に該当する。では、「てら」とは、どういうものかといえば、『新撰字鏡』の「寺豆支」の「てら」に当たる漢字表記からみれば、「寺」を突付く鳥というイメージが膨らみ、『源平盛衰記』巻第十「守屋啄木鳥に成る事」の、

昔、聖徳太子の御時、守屋は仏法をそむき、太子はこれを興し給、互に軍を起しゝかども、守屋終にうたれにけり。太子仏法最初の天王子を建立し給たりけるに、守屋が怨霊、かの伽藍を滅さん為に数千万羽の啄木鳥(ツヽキ)と成て、堂舎を(ツツキ)ほろぼさんとしけるに、太子は鷹と變じて、かれを降伏し給けり。されば、今も怨霊はおそろしき事也。<蓬左文庫蔵・古典研究会二110D〜I>底本は総ルビ表記だが、必要部分のみ表示した。「テラツツキ」の「ラ」を「フ」と表記している。

という説話譚への文字想起「天王子を突付く鳥」だから「寺+突付き」という呼称が生じたという語源説に繋がっていくのであろう。だが、このことは民間語源に留まるべきと考える立場にある。というのは、大槻文彦編大言海』に、

てらつつき(名)【啄木】〔てらは、取(トラ)にて、蟲を取らむの意〕鳥の名。又、テラツキ。轉じて、ケラツツキ。略して、ケラ。きつつき(啄木鳥)に同じ。*箋注『倭名抄』七20鳥名「天良豆々木」。*『本草和名』下54「喙木頭、一名、木鳥天良都都岐」*字鏡64「喙木鳥、寺豆支」<3-0508-3>

とあって、「てら」を「取る」の意に解している。だが、この説も「取ら+突付き」の語の膠着性からして聊か成り難いのではないか。むしろ、「てら」は、その下接の見出し語に見える「てらむし(名)きくひむし(木食蟲)に同じ。*名義抄「蝎、テラムシ」」<3-0508-4>の語頭「てら」と「突付き」が膠着した語、すなわち、「てら(むし)つつき」の「むし」を省略して「てらつつき」の語となったというのがすんなりとした意味理解による語構成と思えるのだが如何なものか。そして、南北朝已後の『下學集』において、この「てらむし」すなわち「きくいむし」をとる鳥の習性であるその虫の名自体を忘れ、「けら」なる語に意識変革した編纂姿勢の可能性が見えてくる。『下學集』編者が先行資料の記載内容を全く度外視していたのかについては、まだ確固たる証明はできないが、変更記載の事実は確認できる。さて、この新種語形「けら」の語だが、現在のキツツキ科に属する「アカゲラ」「アオゲラ」「クマゲラ」「シマゲラ」「コゲラ」「ミユビゲラ」などという語末の「げら」がこれに相当する。この「けら」は、『大言海』に、

けら(名)【】蟲の名、夏、秋、土中、四五寸の下に穴居して、善く鳴く、長さ一寸許、形、いなごに似て、首、圓く長し、全身、黒褐色にして、雄には翅あり、夜、飛びて、燈につく、雌は鳴かず。翅、甚だ短く、飛ぶこと能はず、冬は、深く土中に蟄す。又オケラ。シャウライムシ。螻蛄。<2-0215-3>

というように、本来は土中に生息する蟲だが、「虫けら」という表現に代表されるように、“木の幹に巣食う蟲を突付く鳥”の意として「けらつつき」なる語を想定したのではあるまいか。『下學集』には、「螻蛄(ケラ)」<氣形68A>と標記語のみで語注記がないため、この「螻蛄」と「けらつつき」の「けら」の連関性を知るところに至らないのである。また、『名義抄』に見える「てらむし【蝎】」も『下學集』以降の古辞書類には、その記載を見ない。

[先行研究資料]佐藤稔さんの“「啄木鳥」の方言と語史”国語学研究13(東北大学文学部「国語学研究」刊行会1974)に卓越した詳細なご論が既にあることをここに付記しておく。この説は、概ね私の試論に近いといってよい。ただ、応永本『字鏡集』(尊経閣文庫蔵)に、「ケラツヽキ」の語を記載する旨をお示しであるが、この点は先行資料として掲載した天文本『字鏡抄』からしても、ただちに証明できないのではないか。資料未見のため此れ以上は、言えない。

 

1999年9月15日(水)晴れ風強し。八王子⇒世田谷駒澤

 ごみ捨て場 ご注意書き 猫親子

「嚊(ウ々)」

 室町時代『快庵的伝 大中寺禅室内秘書』一の「69百丈野狐」に、

挙ス。誰レカ知ル潭底ノ月。元ト尾頭ノ有リ∨天ンニ。閑居サマノ云ク、嚊(ウ々)走心得テヨイ。此ノ一月ハ地ニ落チタガ、元ト尾頭ノ天ト見レバ落チヌゾ。

ク近前シテ一掌ヲ与ヱタワ、知音ノ出デ逢タゾ程ニコソ、胡鬚(コシユ)赤ク、更ニ有リ‖赤鬚胡(シヤクシユコ)ノ|ト被仰タワ、錯タガヨイ。{嚊(ウ々)}錯タガ好イト見タ時、五百性野狐身ニ堕シタガ風流ダ時、堕脱(ダダツ)ダ。永平ノ註ニモ堕脱一牧イノ皮肉骨ト在ル程ニ、野狐身ニ堕シタガ風流ダ。羸(カチ)得タコトタゾ。

とある。この「うゝ」だが、以前仮名表記の例を取り上げたたが、今回、漢字表記の例をここに紹介しておく。何故、「嚊(ウ々)」と表記したのかについて考察せねばなるまい。

 

1999年9月14日(火)晴れ。八王子

柿の葉に 虫食み丸く 穴見事

「飛行自在」か「犬一足鶏一羽」

室町時代『江湖風月集抄』の「送川道士」詩句

丹竃功成テ氣似虹  掀-飜シテ丹竃無功ニ

雲ハ遮ル剱閣三千里  水ハ隔ツ瞿塘十二峯

の解説に、

川ハ蜀ノ国ニ有丹―‐トハ此抔丹ノ一粒ヲ味ル処テ気似虹トハ竜心気高寒也。点鉄成∨金タノ轉凡入聖底也。掀‐―トハ轉聖入凡也。悟了同末悟底也。雲‐―峯トハ山ハ元山水元水也。本ノ足下ニ踏完也。丹薬ヲ煉タル鍋ヲ犬鶏カナメ、鶏ハ乗雲到剱閣。犬ハ水ニ浮テ瞿塘走也。道士ノ時ハ自由自在底也。故事見蒙求

又云、蜀州ニ三川アリ。上川中川下川、是ハ中川也。揚子江ノ中嶋ニイル人也。其中ニモ仙術ヲヨク極テ飛行自在ヲ得タルヲ道士ト云。仙人至極也。丹‐―虹、薬ヲル間ガ功也。丹クスマタシ功成タゾ。気‐―トハ、此薬鍋ノ盖ヲ取タ時、五色ノイキガ立也。亦丹薬ヲ服シテ病ヲ尽ク消滅シテサワリナクツイタ氣ヲ云也。クツトヨク煉スマシタ時、丹竃ニ用処ハナイソ。掀飜トハ打捨テ置也。煉サタノナイガ無功也。此鍋ヲ犬ガネブツ剱閣三千里ヲ一足ニ越ル也。剱閣ハ聳タ山ノ名也。水隔‐―亦鶏ガネブツ瞿‐―峯ヲツヽミヲ一羽ニコス也。三四句ハ飛行自在ヲ云也。亦作者ノ本位ニ合テミレハ、一二句ワ修行純熟也。悟了同未悟了々常知也。爰ニクツト落着シテ見レハ雲遮山元山水隔‐―水元水。<巻上14D〜16C>

とあって、前文解説では、「なめる」とし、後文解説では、「ねぶる」という同一説明に類語和語動詞表現が用いられている。前文にこの故事の典拠を『蒙求』として、後文は詩句説明が詳細となっている。この典拠資料については、未だ確認していない。

 

1999年9月13日(月)晴れのち曇り。関東午前八時ごろ小規模な地震あり。八王子⇒世田谷駒澤

朝の揺れ 眠りを覚まし スイッチ入れ

九相詩の詩歌引用

室町時代『江湖風月集抄』の「送人之南國」詩句解説「又云」の二つ目に、

古歌ニ書付シ其名モ早クキヘハテヽ塚ニハ苔ノ色計ナリ。又哥ニ書付シ其名モ早ク消ハテヽ誰トモシラヌ古率都婆カナ 又哥ニ鳥ベ野ニ朽ニシ人ハ跡絶テ塚ニ残レル露ノ魂イ 引而東坡九相詩云成灰相牙九名留無皃松岳ノ下骨化為灰草澤中石上碑文消不見古人塚隆泪先紅也。<巻上73I>

とあって、ここに引用する歌と東坡作九相詩』の詩句についてみるに、『九相詩』第九「成灰相」に示される、

  五蘊自本可皆空  穀平生愛此躬

  守塚幽魂飛夜月  失屍愚魄粛秋風

  名留無皃松岳下  骨化為塵草澤中

  石上碑文消不見  故人塚際涙先紅

(五蘊(ゴウン)本(モト)より皆(ミナ)空なるべし。穀(リヨクテイ)平生この躬(ミ)を愛す。塚(ツカ)を守る幽魂(ユウコン)夜月(ヤゲツ)に飛び。屍(シカバネ)を失す。愚魄(クハク)秋風に粛(ウソブ)く。名は留りて皃なし松岳の下(もと)。骨は化して塵となり草澤(サウタク)の中(ウチ)。石上の碑文は消じて見えず。故人塚の際(アヒダ)涙先づ紅なり。)

鳥邊野に捨にし人は跡たへて塚には残る露のたましい

書つけし其名もはやく消はてゝ誰ともしらぬ古率塔婆かな

とあって、二番目の「鳥辺野に」と一番目の「書付し」の歌を逆順にしての引用であること、そして詩句内容も、「牙九名」の語句については不審だが、「留無皃松岳ノ下。骨化為灰草澤中。石上碑文消不見。古人塚隆泪先紅」は詩句の三句目からの引用であることが知られるのである。

このことからしても、当代の禅僧における東坡作九相詩』の文言や歌は、かなり広く浸透していたことが理解できる。このうち、叡山本と小松本が「松岳」とし、瑞岩寺本や刊本が「松丘」としている点からして、この引用本文は古写本系統に基づくものである。すでに拙論『九相詩』の国語学的研究に詳細にするものであるが、この引用資料を追加することができた。

 江戸時代の国学者本居宣長の著した分類辞書に、

九想クサウ、一ニ新死(シンシ)ノ想・死シテ其マヽノテイヲ云。二ニ肪脹(ハウテウ)ノ(ソウ)トハ一七日ノコロ五躰(タイ)ハレタルヲ云。三ニ血塗(ケツヅ)ノ―トハ處々(トコロ―)ヤブレテ血肉(ケツニク)アラワルヽヲ云。四ニ蓬乱(ハウラン)―トハ五躰(タイ)所々腐(クチ)ハナレタルヲ云。五ニ?食(タンジキ)ノ―トハ鳥(トリ)(ケ―ノ)トリクラフヲ云。六ニ青?(セイヲ)ノ―トハ五躰腐(クチ)アヲミタルヲ云。七ニ白骨連(ハクコツレン)ノ―トハ肉(ニク)(クチ)ツキテ骨(ホネ)アラワルヽヲ云。八ニ骨散(コツサン)ノ―トハ白(ハク)コツ離散(リサン)セシテイヲ云。九ニ古墳(コフン/ツカ)ノ―ハ死骸(シガイ)消損(セウソン)シテ(ツカ)ノミノコリタルテイヲ云。

とその『九相詩』の内容を解説している。

 

1999年9月12日(日)晴れ。八王子

寒蝉は 最後の夏を 奏で居り

「カンシヤウバクヤ【干將莫邪】」

 文明十六年成立の『温故知新書』(近似関係の辞書と指摘されている『塵芥』にも未記載。)に、

干將莫邪(カンシヤウハクヤ)剱二名也。越王勾践后避暑願凉常抱銕柱臥果后有孕銕精産帝使欧子鋳剱是也。艶東坡作也。<上巻カ部器材門56D>

とある。この「干將莫邪」の故事も、『呉越春秋』の「闔閭内傳」で広く知られた話であるが、この語注記とは異なりを見せている。また、室町時代の古辞書『下學集』や『運歩色葉集』、『節用集』には、この故事は未記載にある。

蒙求抄』に、

干將莫邪(カンシヤウハクヤ)ハ。人ノ名ソ。鍛冶(カヂ)ソ。<抄物大系842B>

とある。

 

1999年9月11日(土)晴れ。八王子⇒世田谷駒澤

公園や 思ひ思ひに 汗流す

「ガンタフ【雁塔】」

 「雁塔」の故事について、室町時代の古辞書では、『下學集』や『運歩色葉集』、『節用集』に未収載にある。この収載せずということが、知りつくしているが故に記載を避けたのか?また、関心事でないが故に切り離したのか?全く知らないが故に記載しなかったのか?その心底を探り得ないのも事実だが、この時代におけるこの故事は、寺院を中心とする言語文化社会では、なぜか関心事ではないことが知られる。この故事が引用されるのは、文明十六年成立の『温故知新書』(近似関係の辞書と指摘されている『塵芥』にも未記載)においてである。この古辞書『温故知新書』には、

雁塔(カンタフ)昔僧欲食。飛行―則死落タリ。埋之立塔。名――。<上巻カ部乾坤47@>

と語注記をもって収載している。この語注記による故事の内容だが、「昔、比丘が一群の雁が飛んでいるのを見て、捕らえて食したいと思っていると、一羽の雁が空から落ちてきたというのである。人々はこの一羽の雁が戒を垂れたのだとして、その徳を称えるためにこの雁を埋葬し、塔を立てた」といった譚からなっているのである。しかし、『温故知新書』も出典名は示していないが、この典拠は、『大唐西域記』の

昔此伽藍。習翫小乘。小乘漸教也。故開三淨之食。而此伽藍。遵而不墜。其後三淨。求不時獲。有比丘經行。忽見群雁飛翔。戲言曰。今日衆僧中食不充。摩訶薩〓。宜知是時。言聲未絶。一雁退飛。當其僧前。投身自殞。比丘見已。具白衆僧。聞者悲感。咸相謂曰。如來設法。導誘隨機。我等守愚。遵行漸教。大乘者正理也。宜改先執。務從聖旨。此雁垂誡。誠爲明導。宜旌厚徳。傳記終古。於是建〓堵波。式昭遺烈。以彼死雁。<925b8行>

である。文学資料での引用としては、『太平記』巻第二十一・法勝寺塔炎上事に、

其奇麗崔嵬なることは三國無双の鴈塔也。<大系三341>

とある。この「鴈塔」の話しが仏教説話譚でありながらも、何故、室町時代に上記古辞書群にこの語の記載をみなっかたのか?また、『温故知新書』の編者だけがこれをなぜ収載するに至ったのかを深く考えざるを得ない。引用も直接というより、何かの注釈書における説明に従っていると思われる。しかし、今はこの問題の結論をしばらく伏せておく事とする。

 

1999年9月10日(金)晴れ。八王子⇒世田谷駒澤

日傘さす 女子高生や 白目指し

「フリ【浮利】」

本日の朝日新聞朝刊社説欄に“浮利を追った末に”という記事の冒頭文が目に付いた。

浮利。正業を逸脱して得た利益をいう。 江戸初期、京で薬と書物を商っていた富士屋嘉休は、その追求を戒め、慎重を旨とする書状を残した。 それが、住友家の家法「浮利に走らず」となり、住友銀行の事業精神にも引き継がれた。皮肉なことに、その住銀はバブル時代、他行と競い合って浮利を追った。

という内容である。この「浮利」ということばだが、早速手元にある国語辞書(小学館『日本国語大辞典』・岩波『広辞苑』第五版・新潮『国語辞典』第二版など)を繙いて見ると未記載にあることばであった。上記の社説記事をもってみれば、意味は「正業を逸脱して得た利益」となり、この使用されはじめた時代は、江戸初期ということになろうか。

 つぎに、室町時代から江戸時代の古辞書に、記載があるかないかを確認してみると、易林本節用集』には、「浮」を冠頭にする熟語は、「浮沈(フチン)−雲(ウン)。−生(セイ)」<言辞151B>の三語しか記載を見ない。そして、『日葡辞書』にも未記載の語である。江戸時代の『書字考節用集』、明治時代の『大言海』にも未記載のことばであった。この「浮利」なることばは、日本の国語辞書とは無関係な世界で、これまで生き続けて来たことになるようだ。そこでさらに、漢和辞書を繙いてみると、大修館大漢語林』に、

浮利】フリ はかない利益。あてにできないもうけ。〔後漢書、逸民伝序〕<826-3>

と記載されているのである。本邦における漢語語彙の特有性がこの「浮利」なることばにはどうもあるようだ。この点をさらに考察する必要を感じないではない。ただ一つ言えることは、“家法”としてのことばは広く一般に公開される性質でなく、どちらかといえば“秘法”に近い性質のことばである。ここに紹介された住友家の家法「浮利に走らず」はそういう内容のことばかもしれない。

 

1999年9月9日(木)晴れ。八王子⇒世田谷駒澤

まだ暑き 汗流れゆく 椅子の下

「あさがら【麻骨】」

室町時代の『湯山聯句抄』詩句「壁影焼ク麻骨ヲ」の解説文に、

麻骨ト云ワ、アサカラソ。蝋燭ヤ燈ハナイホトニ、トナリノ家ニハ、アサカラヲタクガ、壁ノ穴ヨリ、光カモルヽソ。<20ウF>

とある。「あさがら」は、「麻幹・麻殻」と書くのが通常だが、ここでは、「麻骨」と表記し、これを「あさがら」と読む。「おがら」ともいい、盂蘭盆の迎え火にこの「あさがら」をもって焚く。『日葡辞書』には、

Asagara.アサガラ(麻殻) 皮を剥ぎ取ったあとの麻の茎やきれはし。<邦訳33r>

と見えている。大槻文彦編大言海』に、

あさがら(名)【麻幹】麻の莖の、絲(ヲ)を取去りたるもの。白くして稜(カド)あり、輕くして折れ易し、聖霊祭に箸とし、畫工に焼筆とし、焼きて火口(ホグチ)の炭とし、合藥(ガフヤク)にも用ゐる。一名、をがら。<1-0044-1>

と記載されている。この『湯山聯句抄』詩句では、『大言海』にいう特別な用途としてではなく、日常における夜の明かり取りとして、蝋燭やともし火の代用品としてこの「あさがら」が使われているのである。

 

1999年9月8日(水)晴れ。八王子⇒世田谷駒澤

涼気あり 走る身にもぞ 溢れたり

「五祖栽松」の二文対比

室町時代の『江湖風月集抄五祖栽松の詩句「鬱々タル枝頭活意多 停テ鋤不ハ種是如何 周家本ジ無閑店 宿客徒労シテ借路過」解説文を「又云」の前後の文で比較してみるに、

  @鬱々−―トハ松ノ繁ル也。A活−―ハ春気ヲ得テ色猶緑也。B停−―トハ五祖ノイカニモヨク鋤ヲ留根ニタニ依テ如此生長ル也。禅僧モ咬カヘシ/\工夫不熟蔭凉トハ難成也。C周家ハ五祖周氏ノ女(ムスメ)ノ胎内ヲ借テ生タホトニ無閑店也。D宿−―トハ胎内ヲ借タハ旅人ノ宿ヲ借テ経過スルカ如也。娑婆往来モ如也。

又云、@鬱々−―トハ繁ル也。A活−―ハ春ノ気ヲ得秋ノ気ヲ得色ヲマシ繁茂スルヲ云。B如是ナハ停−―トハ五祖ノ辛苦シ鋤ヲ留メ根ニツチカウタニ依テ也。C周−―トハ四祖五祖ニ云テ云、季老タルヲ吾弟子ニハ難取ト被仰也。其時五祖濁江ニテ周氏ノ女ノ洗沢スルヲ見テ胎内ヲカセト云女最ト云也。其〓〔日+之〕懐中ニ入テ生レカハリ変シテ四祖ノ法ヲ嗣也程ニ閑店無トハイタツラニ胎内ヲカリタテハナイソ。五祖ト云活衲僧ヲ生シタソ。向云テカリヤウハサテ何ト見ズゾ。D宿−―トハ旅人カ一夜ノ宿ヲ借テ過タ如也。娑婆往来モ如也。<巻下294E〜295I>

となっている。全体は、同じ趣旨内容を解説するが、筆録者の詳細な聞き書きと簡便な聞き書きとが顕著に見て取れる。また、表記法も「培」と「ツチカウ」のように漢字と仮名とになったり、同音異表記の「如此」と「如是」が見えている。時には、「イカニモヨク」と「辛苦シ」のように表現差異も生じている部分もある。とりわけ、五祖が周氏の女の胎内を借りて宿る部分については、後者の説明の方がよりリアルに表現されている。

 

 

1999年9月7日(火)晴れ夜一時雨。八王子

すべきこと 夕暮れ近づき 虫音聞く

「屯」の意義表現「一こぶ」

 室町時代の湯山聯句抄詩句「尺素鳫雲屯」の解説文に、

尺素ノ書ヲ鳫ニコトツケタソ。(タムロス)ト云ハ、一トコブナリ/\ツレテ、飛ヲ云ソ。「屯雲對古城」ト杜モ作ソ。鳫陣トモ作ソ。屯陣トモ云ソ。<80ウF>

と「屯」の字を「たむろす」と読む。そして「一こぶ」を云うとある。「屯(タムロス)」は、観智院本類聚名義抄』に、

徒昆反 タムロ ツラナル(ヌ) アツマル カヽマル ムラカル 陟隣反 ウチハヤシ モトル モヂル クシク<佛下末13E>

と、第一訓に「たむろ」が見えている。注解の「ひとこぶ(を)なりつれて飛ぶ」という表現だが、類語「ひとかたまり」と云うに近い言回しではあるが、生き物である鳫の群れ飛ぶ光景を角張った鉤型より少し丸みを帯びた状態でとらえているのかもしれない。この空を移動する鳫の「ひとこぶ」なる表現を他に求めて止まない。

 

1999年9月6日(月)晴れ。北海道札幌⇒八王子

とうきびの 甘さや暑き 日中行く

「陰火」

室町時代の湯山聯句抄詩句「陰火挙驪燧」の解説文に、

驪山ニ出湯カ有ソ。ソレハ{陰火}ト云テ、地中ニ火カ有テ、地ノ下ニモユルホトニ、水カワイテ湯ニナルソ。燧ト云ハ、火ノ心ソ。周ノ幽王ノ烽燧ヲアゲラレタモ、ソレハ驪山テアルソ。<50オE>

とあって、地中の火を「陰火」と表現している。この陰火で水が沸くと「天然の湯」が生じる。それは、遠くから臨むと白煙となって蒼穹に上がり、近くに寄ってみると、ごぼごぼと天然岩の大釜で熱せられた水が湯となった姿を呈している。中国の驪山は、周の幽王が后褒女のために挙げた烽燧の地として知られているが、出湯の地でもあるようだ。

ところで、この「陰火」なることばだが、大槻文彦編大言海』には、

いんくわ(名)【陰火】おにび。いうれいび。きつねび。*木華、海賦「陽氷不∨治、陰火潜然」<1-0353-1>

とあるにすぎない。ここに云うところの「地中の火」の意味は、未記載にあるようだ。この傾向は、現在最も新しい、角川古語大辞典』や三省堂時代別国語辞典(室町編)においても用例は異なるものの、その意味は同様に未記載にある。このことは、辞書引用例の意味から検討すれば、この「陰火」の用例は、「火があるとは思いもかけないようなところで燃えている火」の一つとして「地中の火」の意味を表現することばとして補入すべき重要な例文となる。

 

 

1999年9月5日(日)晴れ。北海道札幌(前田森林公園於“ワイルドラン'99”悠遊6時間走)

秋近き 遠き望みに 手稲山

「萢眼(やちまなこ)」

北海道ネーチャーマガジン「モーリー」<創刊号>特集 北海道の湿原 を読んでいて、東北北部で湿原の凹窪んだ処を「萢眼」と書いて「やちまなこ」ということばにであった。この「やち【萢】」は、大槻文彦編大言海』に、

ヤチ(名)【谷・萢】〔アイヌ語にては、沼澤地の意にて、葦等を生ずる低濕の地を云ふ、今,北海道、東北地方、及、長野縣南佐久、新潟縣南蒲原、佐渡島の方言に、ヤチと云ひ、鎌倉近傍にて、ヤツ、又は、ヤト、東京附近にて、ヤトと云ふは、皆、同趣、同義の語也〕沼澤の濕地。*俚諺集覽「津輕にて草ありて水ある處を、ヤチといふ、萢字を訓めり」*物類称呼、一、天地「谷、相州鎌倉及上総邊にて、ヤツと呼(扇が谷(ヤツ)、龜が谷、等なり) 江戸近邊にて、ヤと唱ふ(澁谷(シブヤ)、瀬田谷(セタガヤ)等也)」*續猿蓑集(元禄)雜「そのかみは、谷地なりけらし、小夜砧」<4-0672-1>

とあって、東日本にその地名を留める地域が多くある。北海道では、札幌の大谷地(オヤチ)、函館の谷地頭(ヤチガシラ)が有名である。関東の地名では、『大言海』に示された渋谷・瀬田谷以外でいえば、「四ッ谷・市ヶ谷・池ヶ谷」、鎌倉「鎌ヶ谷」などがある。このような場所をドイツ語で、「Moor Augen」(湿原のなかで黒い水を湛えて空を見上げるように真ん丸い形状のプール。)と瞳に譬えて呼ぶという。

また、「ヤチ」の付くことばに、「谷地坊主(ヤチボウズ)」というのがある。これは、菅の根っこなどが泥炭(デイタン)を縛って高く持ちあがり、瘤のように隆起した状態をこう呼んでいる。これは高いものであれば、約一メートルほどに成長する。自然のダイナミックさを実感できる北国の冬の風物詩でもある。

通常、「谷地」と表記していることもあってか、この「萢」の字を書いたり読んだりすることは少ない。この「やちまなこG="JA"」という響きと「萢眼」という漢字表記をもって表現することばには、「草むらのなかに潜む直径一メートル以上の壷穴にスポット吸いこまれるかのように陥ると極めて怖い目にあう、人は何とか這い上がれるが、放牧の牛馬は前足をとられてもがくうちに溺れ死ぬという」、濕地の危険ゾーンでもあるこのことばをここに紹介しておく。

[スポットゾーン]湿原絵本『やちぼうずとヤチマナコ』湿原大好きという二人の女性が、やちぼうずとヤチマナコをほのぼのとした絵で解説した大人も楽しめる絵本。小笠原理江文・鳥居浩子絵918円がお奨め。

 

1999年9月4日(土)晴れ一時曇り。八王子⇒北海道ウトナイ湖⇒札幌

秋に来て 芙蓉の大花 ぱっと見せ

「沈李浮瓜」

室町時代の湯山聯句抄に、

夏スヽミノ亭(チン)ナントテ、ヨリ逢テ會スルニハ、瓜ナントヲ、水ニウケテヒヤイテクワウ為ソ。夏ノ名物ニハ{沈李浮瓜}ト云テ、ウリハウキ、ハシツムモノソ。<32ウJ>

という話しが見える。ここで浮沈の“生り物”がそれぞれ取り上げられていて、瓜は水に浮かび、李(すもも)は水に沈むとあって実に面白い。小学校理科の自由研究課題に発展しそうな観察眼がここにある。

たとえば、水に浮かぶ“生り物”と水に沈む“生り物”とを実際に試してみて、その結果をまとめて見る。なぜ浮き、なぜ沈むのかを考えて見てもよいのではないか。というのも、果実系「もも」類は、種の比重もあって、沈むのであるが、昔話“桃太郎”にでてくる、川に流れてきた大きな桃を想起して欲しい。というのは、「どんぶらこ、どんぶらこ」とこの大きな桃は流れてきて、これを川で洗濯していた婆さんが見つけて岸に寄せて、救い上げるのである。この桃だが沈んでいるのではなく、「どんぶらこどんぶらこ」であるからして、浮き沈みしながら流れてきたわけである。だが、この湯山聯句抄に基づいてこれを検証すれば、実に不自然な「桃」となるまいか。また、浮く「瓜」類であるが、17`近くもある大きな重い西瓜(すいか)ですら水に浮かぶ。球形の生り物に限らず、ぜひ浮沈の有無を自ら確認して欲しい。ところで、皆さん南瓜(かぼちゃ)は、どちらでしょうか?

 また、余談だが「茄子」や「胡瓜」は、お盆の供養にと牛や馬に加工して、これを最後に川に流す夏の風物詩はこのごろ廃れてしまったようだ。トンと見なくなっている。一度お試しあれと云いたい。私の小学生時分、畑でもぎたての真桑瓜やトマトを夏の冷たい川に投げ入れ、これを泳ぎながら取り集めたりして遊び、最後にみんなで食したりした。桃太郎の象徴語にみえる「どんぶら」という語も、水面は鏡のように川底を透かしているが、実はこの青々とした深みは、水の流れが速いところで、ここを「あおどんぶら」と云っていたことを思い出す。よほど、泳ぎに達者でないと呑まれてしまう魅力ある世界でもあった。ここには、なぜかいつも大きな鱒の魚影が群来ていたりする光景でもあった。

 

1999年9月3日(金)曇り。八王子⇒市ヶ谷

西低く 東高きや 空模様

「清盛」と「慈恵大師」

室町時代の湯山聯句抄に、「封ス苔ヲ尊惠(-エ)櫃(ヒツキ) 撥(ハラウ)草ヲ摂津(ツノクニ)ノ郷(サト)」という詩句に対して、

津國ノアリマノ郡、湯山ノソハニアル清長寺ノ慈真房尊惠ト云人ハ、メイ土閻魔王ヨリ呼レテ、法華真讀ノ衆ニナラレタソ。此ノニモ前ニカイタソ。平相國太政入道トノハ、慈惠大師ノ化身ト云テ、閻魔王モ、イツモヲカムト云タソ。ソレハ今死シテヒツキノ棺ニモ苔ヲヘタソ。和哥ニモ、「草ノ名モ所ニヨリテ、カワリヌル。難波ノアシハ、伊勢ノハマヲキ」トモヨムソ。伊勢テハ、「ヲキ」ト云イ、津國テハ「芦」ト云ソ。<33ウC〜Iまで>

とあって、実際の人物名である「清長寺ノ慈真房尊惠」の冥土話しと「平相国太政入道(清盛)トノハ、慈恵大師ノ化身ト云テ」の化身話しとを取り扱っている。これらをここでどう取り扱い、どう登場させたかを考えねばなるまい。とりわけ、「平清盛」と「慈恵大師」(未詳)との関わりについては、如何なるものが典拠となっているのかを考えておく必要があろう。

室町時代の古辞書である『運歩色葉集』に、

平清盛太政入道ト。法名浄海。養和元辛丑閏二月四日逝去。六十四歳。至天文十七戌申三百六十八年也。子息重盛任内大臣ニ。治承三巳亥八月一日逝去。四十三。法名浄蓮。舎弟宗盛任右大将内大臣ニ。元暦元甲辰六月廿三日逝去。卅九。至天十七戌申三百六十五年也。此三世之間廿余年。此已後源氏也。<元亀二年本、記部288F>

と記されるのに留まり、上記の化身譚は未収録にある。

 

1999年9月2日(木)曇り夜一時雨。八王子⇒市ヶ谷

鈴虫や 鳴きごろ深み 庭の石

「あやうしい【危】」

 室町時代の湯山聯句抄に「あやうしい」という和語形容詞が見えている。

△丁字橋ト云ハ字ノナリノ如ク、一本木ヲワタイタ柱ヲ中ニ立ルヲ云ソ。{アヤウシイ}橋ソ。<「危橋丁字小」60オH>

漢武帝ハ、獵スキナレハ、司馬相如カ諌獵賦ト云テ、ムヤウノカリヲメサルヽ、{アヤウシイ}ト云テ、イサムルソ。<「武皇諌獵秋」62ウE>

この「あやうしい」だが、『日葡辞書』にも、「Ayauy.アヤウイ(危い)危険な(もの).」<邦訳43r>とあるように、本来は「あやうい」でク活用として用いられる語である。これを「シイ」とシク活用に用いた表現であり、事の成否が案じられるという気持ちをさらに強調する用法となっている。

 

1999年9月1日(水)晴れ。八王子⇒市ヶ谷

赤とんぼ 暑さも昼まで 夜は虫音

「五色」の中央

古歌に、「桜木を 砕てみれば 色もなし 春こそ花の 種となりけり」と云う。『大中寺禅室内秘書別本丙(江戸中期写本)に、

師曰、目ニミユル物カミヘヌ物カ。弁、目ニミヘヌ物也。師曰、何トシテミヘヌ物ソ。弁ニ、青黄赤白黒此五色ヲハナレタ物チヤ程ニ見ヘヌ物也。<15左B>

また、室町時代の『江湖風月集抄』に、

鵞−―トハ、女始テ嫁夫時衣表ハ青シテ裡ヲハ黄ニスル也。是即中正之義也。毛詩云、緑衣黄裡夫柳ハ始青シテ終ハ黄也。故以喩云也。凡人ノ出世猶如男女之嫁也。[中略]蘇柳−―トハ先ツ白ク中比青ク後黄也。黄色ハ五色ノ中央也。程ニ出世ノ色ニ取也。出世ヲ柳ノ汁ニ衣ヲ染ト云古事モ是也。金線長トハ黄色ヲ云也。鵞−―トハ鵞ハ黄色ナル物也。嫁衣裳トハ児女始テ郎ニ嫁スル時、黄ナル物ヲ着ル也。此モ出世ノ心也。<巻下440F>

とある。五色の中央を「黄」が占める。「衲僧本寺ニ住シテ黄衣ヲ着スルハ先師ニ嫁スル也」とも云う。「青」から「黄」への色彩移行の原理が此處に見られるのである。

 

UP(「ことばの溜め池」最上部へ)

BACK(「言葉の泉」へ)

MAIN MENU(情報言語学研究室へ)

 メールは、<hagi@kk.iij4u.or.jp>で、お願いします。

また、「ことばの溜め池」表紙の壁新聞(「ことばの情報」他)にてでも結構でございます。