12月1日〜12月31日]

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1997年12月31日(水)薄晴れ。

もう憂しと 夲にとらへや 大晦日

「東国ことば」と笑話

お笑いの祖とでもいう寛永五(1628)年成立の安樂庵策伝『醒睡笑』に「東国ことば」について触れる笑い話がいくつか紹介されている。大晦日、笑いの門に福来るというから笑話でもという氣持ちにもなろう。この『醒睡笑』巻五、人は育ちに「お茶をもみぢにたて申せ」というのがある。「もみぢ」は「紅葉〔こうよう〕」のことで、京上方では「濃、善」を「こうよう」とウ音便で言う。これを関東では、「こくよく」と言うから洒落にならないというのがこの笑話である。この類話として『きのふはけふの物語』上、第九段にも見える。また、『宗因句集』宇治に「さればこそ大亊の御茶をうす紅葉」とあって、「うすこうよう」がまた洒落ている。上方におけるこの手の洒落ことばに巻二に、「苦労知らずの犬」の話がある。「黒犬」の「黒〔くろ〕う」に「苦労」をかけて、「うらやましい黒犬だ、夏米を虫が食うのも知らないで」とつぶやくも形容詞活用語尾のクをウで話す同樣の言い回しである。対にして「白」も犬の話が巻三、文字知り顔にある。犬の名を「二十四」と名付けた。掛算で「四六〔しろく〕二十四」からとうのがこの言われである。これを「しろう候へば」と言っては、名付けの趣意にはずれてしまうのだ。(御松:当時「だ」は、東国語。「ぢゃ」は上方語。ということだ)。

もう一つ、犬が月闇に吠えかかる話で、飼い主が犬の名を「鳴子の露」とつけた。これも「ほえ」を「穗えかかる」と洒落るところからの名付けで、「京へ筑紫に坂東さ」の古諺で知られる。東国ことばで言えば「ほさかかる」になってしまうから洒落にならないのを笑話にしている。

1997年12月30日(火)晴れ夜半雨。

年の暮れ 物不足して まめまめし

「六母」

「母」に「六母」あって、岩波『広辞苑』第四版に「ろく‐ぼ【六母】嫡母・継母・養母・慈母・庶母・乳母の称。」三省堂『大辞林』第二版には「ろく-ぼ [2] 【六母】六種の母。すなわち嫡母・継母・慈母・養母・庶母・乳母。りくほ。」と見える。さらにこの「六母」について細かにみると、

  1. ちゃく‐ぼ【嫡母】(庶子からの称) 父の正妻。父の嫡妻。
  2. けい‐ぼ【継母】父の妻で、自分の実母や養母でない人。ままはは。
  3. よう‐ぼ【養母】ヤウ‥養子先の母。養家の母。
  4. じ‐ぼ【慈母】いつくしみ深い母。母親を親愛していう称。[礼記曾子問] 母に代って子を育てる婦人。やしないおや。保母。
  5. しょ‐ぼ【庶母】父の妾で、子の有る女。また、父の妾。
  6. うば【乳母】母に代って子に乳をのませ、また養育する女。めのと。著聞一五「あさましく歎きて乳母にともすればうれへ」

と見える。この「六母」は、江戸時代の古辞書『書言字考節用集』巻十に見えるのが辞書収載の最初のようだ。これといった詳細な意味付はしていない。なぜこの「六母」というようになったのか、由来が知れないことばである。察するに、子供から見た母親表現で、「母」を人に話すときにこの六つの言い方がなされたのであろうか?

 

1997年12月29日(月)曇り時折雪。

時の間に ごみに埋もれて 探し物

「乗地」

「乗地になる」という表現、実はこう云う風に用いられている。

「そうとも」「そうだろう」ト乗地〔のりじ〕に成ッて、

「然るに唯一種事務外の事務を勉励しないと云ッて我々共を追出した、面白く無いじゃないか」[二葉亭四迷『浮雲』一一二J・新潮文庫]

この『浮雲』では、「乗地」には傍訓として「のりじ」と和語が付されている。ところで、この「のりじ」を国語辞典にどうあるか繙いてみれば、『日本国語大辞典』Bにいう「調子づくこと。調子に乗ってしゃべること」の意味に相当する。もとは、謡曲、のちに浄瑠璃や歌舞伎の三味線の旋律にのせて、せりふなどを調子よくあわせて語ることに由来することばである。類語慣用句に「乗り気になる」がある。そして、近代語の用例として、『日本国語大辞典』は田山花袋の『妻』、学研『国語大辞典』は長塚節の『土』の用例、新潮『現代国語辞典』は永井荷風の『薄衣』とそれぞれ別々の出典から用例を収載していることに氣がつく。この点が私には興味を惹き立てることばのひとつであり、この『浮雲』の用例は国語辞典未収載の用例であるということでもある。「乗り気になってしゃべりだすこと」を「乗地になる」と表現するのだが、これを今の若者ことば風に表現するとすれば、「ファンキーな喋り」とでもいうのだろうか……。

1997年12月28日(日)雪模樣。

六つの花 地に舞い降りて 隠したる

「〜ぐむ」

『玉葉集』巻六冬、京極為兼作「木の葉なきむなしき枝に年暮れて又めぐむべき春ぞ近づく」という歌を本日の朝日新聞に、大岡信さんが『折々のうた』に紹介している。そこに、注釈して「めぐむ」は「芽ぐむ・萌む」で、グムは何ものかを内に含む・きざしが見えるの意。涙グム。と紹介している。「ぐむ」は「くむ【含】」で、『類聚名義抄』によれば、「含」に「フクム。クヽム。フヽム。シノフ。ツホム。禾我ム」[僧中三D]の訓が見える。この第二訓「くくむ」がこの派生動詞語尾の源である。さらに逆引き国語辞典で、この「〜ぐむ」を引出してみると、「汗ぐむ」「角ぐむ」「芽ぐむ」「差しぐむ」「涙ぐむ」「水ぐむ」「瑞歯ぐむ」とあって、体言に接続して、「〜の兆しが見えはじめる」意を表すことが知れるのである。

「汗ぐむ」は、『古今著聞集』馬芸第十四10、前右大将頼朝後白河院に馬を献じ下野敦近をして乗らしむる事に、「寒げに見えけるが、御馬の数つかうまつりにければ、汗ぐみにけり」とあって、汗びっしょりになるさまをいう。

「角ぐむ」は、「角のように薄〔すすき〕や蘆〔あし〕などが芽ぶきはじめる」をいう。

「差しぐむ」は、涙が出そうな状態になるをいう。

「水ぐむ」は、『古今著聞集』飲食第二十八21、暁行法印并に寂蓮法師瓜を詠む事に、「瓜をとりいでたりけるが、わろくなりて、水ぐみたりければ、よめる  山しろのほぞちと人や思らん水ぐみたるはひさご成けり」とあって、よく熟しきったさまをいう。

「瑞歯ぐむ」は、『大和物語』百二十六に、「むばたまの我が黒髪は白河のみづはぐむまでになりにけるかな」とあって、老齢となるさまをいう。

さらに、「育む」も親鳥が雛鳥を「羽含む」さまから、いつくしみ養うさまをいう。この「ぐむ」ではないが、時ははてしなく流れゆくなかのあと三日の年の暮れにあたり、「心はぐくみ、つのぐむ幸をともにくくみ、恵みの初春に虹の橋のように一際美しき言の葉で端つなぎゆくことを願う」こととしたい。

1997年12月27日(土)晴れ。

南天の 赤き実の数 夢に見て

「風呂敷」

昨今、「ふろしき」に包んで物を持ち運ぶことがめっきり少なくなった。それだけ、紙袋や鞄などといった入れ物、そして紙の包装が普及したのかもしれない。本や書類そして衣類を持ち運ぶに重宝な具である「ふろしき」だが、室町時代の茶の湯文化による「茶炉」すなわち「風炉釜」から、人の入浴する「風呂」そのものが考案され、時代はやや降って江戸時代、脱衣場に敷き、足拭き、腰掛け布、衣類を包む敷物として「風呂敷」が使われたのが事の起こりのようである。

室町時代の古辞書『下学集』で、

風呂,フロ,湯殿〔ユドノ〕也。日本ノ之俗、呂ヲ作〔ナス〕炉〔ロ〕ニ。大誤ナリ。又云ク、炉ハ火器也。風呂温室ノ義同シ也。[家屋55B]

と同音異語として注記したものを継承する『運歩色葉集』諸写本では、

A.静嘉堂本「風呂〔―ロ〕湯殿。風炉 同」[二五四@]

B.元亀二年本「風呂〔―ロ〕湯殿。風爐〔フロ〕」[二二二C]

C.天正十七年本「風爐〔―ロ〕」[二七六@]。「風呂〔フロ〕二七六A」

とこの「ふろ」両語における収載意識に少しくずれがあるようだ。Aは世俗に引かれて再び同語扱いとし、BとCは『下学集』の注記を積極的に継承するのではないが、同音異語(ただし、Cは「風呂」の注記「湯殿」を欠く)としている。また、同じく『下学集』を積極的に継承する文明本『節用集』は『下学集』と同じ記載をとる。易林本『節用集』は、乾坤に「風呂〔フロ〕」、器財に「風爐〔フロ〕」と同音異語を明確にしている。さすれば、『下学集』の指摘した「日本の世俗大いに誤る」といった指摘された世俗社会での「ふろ」と呼ぶ意識には茶の湯の火器「風炉」も湯殿の「風呂」も薪をくべ湯を沸かすという原点に回帰してみれば共有内容であって、呑む湯に、人が浸かるといった機転発想は、日本の慣習からだけでは生まれこない氣がする。そこには、禅僧によって大陸宋国からもたらされた「風呂」なる身体を浄める行為が禅僧から公家、武士階級に流行浸透していった流れを推定する。「風呂敷」もすぐには見えず、江戸時代の『書言字考節用集』に、

「居風呂〔スヒフロ〕」八84D。

「風呂〔フロ〕又云温室○傳テ云呂ハ囘ノ字ノ變セル也。益回ハ者轉スル風ヲ之義。蔭室〔同〕漆匠ノ所用」一91E。

「風爐〔フロ〕有‖茶炉。薬炉|。又今世有稱スル‖七釐〔リン〕ト|。釜櫓〔同〕」八52@。

「風呂敷〔フロシキ〕出已」七32@

といった語群の一つとして検証できる語である。同じく井原西鶴『好色一代女』巻五に、

と腰掛け敷きの布として用いた表現が見える。この携帯万能包具の四角い布は、大いに使用され、やがて江戸時代元禄以降には商人に愛用の場を与え、活躍の場を風呂場を離れた方々に広げていったのである。

誹風『柳多留』に、「風呂敷に手紙を包む」二二38、「風呂敷で引越す乳母は」二30、「風呂敷は雙六売の」二28、「風呂敷を解くと駈出す」六24。

仮名垣魯文『安愚楽鍋』「そして、ふだんのやうすといやア、麻風呂敷〔あさ[ぶ]ろしき〕に茄子〔なす〕で{ぎすぎすすること}、いふことが蜻蛉〔とんぼ〕にサの字{きざといふ義}でサ。[五四C・岩波文庫]

というようにすべて「風呂敷」表記になっている。つまり、ここまでの見解で「ふろしき」は、「風呂敷」と表記するという方程式で統一されてしまう。ところがいま、明治の文豪森鴎外の『青年』に、「風爐敷」なる語が見えるのである。

森鴎外にして「ふろしき」は、「風爐敷」と表記し、茶の湯の「茶炉」すなわち「風爐」の具を包む四角い布を想定していたのだろうか?他に成島柳北『柳橋新誌』に「袱」の字を用いるのがある。

[余談]「風呂敷」縦102p、横99p。「袱紗」縦27p、横27.5p。

1997年12月26日(金)晴れ。

蜜柑剥き みかんのうたを 口ずさむ

「八丁」

夏目漱石『吾輩は猫である』に、

「おや本を読んでるから大丈夫かと思ったら、やはり聞いてるね。油断のできない男だ。耳も八丁、目も八丁とは君のことだ。なるほどいわれてみると僕も飲んだ。僕も飲んだには相違ないが、発覚したのは君の方だよ。―両君まあ聞きたまえ。苦沙弥先生元来酒は飲めないのだよ。ところを人の味醂だと思って一生懸命に飲んだものだから、さあ大変、顔中真っ赤ににはれ上がってね。いやもう二目とは見られない有り様さ……」

とある「耳も八丁、目も八丁」という表現だが、これは「口も八丁、手も八丁」のモジリ表現である。二葉亭四迷の『平凡』に、

「祖母も矢張り其だった。全く眼色〔めつき〕のやうな気象で、勝気で、鋭くて、能く何かに気の附く、口も八丁手も八丁といふ、一口に言へば男勝り……」が通常に云う言い方である。

古くは、式亭三馬の『浮世風呂』二編巻之下に、

「こつちはナ。口〔くち〕も八丁〔はつちやう〕、手〔て〕も八丁〔はつちやう〕だア。山の神の功〔こうら〕を経〔はい〕たのだから、よそのおかみさん達とは勝手〔かつて〕が違〔ちが〕ふだらう」[大系一四三@]

とある。この「八丁」、数名詞であるからにして、距離や高低の単位でいう「約八七三m」のこと。「胸突き八丁」は山頂間近の急傾斜で、登る人にとって最も険しく苦しい辺りである。また、「神田の八丁堀」という地名や「八丁味噌」(岡崎市八丁)などという地銘品もある。この「八丁」ということばだが、八つの道具を巧みに使いこなす意を受けて「ものごとに巧みなこと。達者なこと」という意味で云うが、人を誉めて言うのではなくむしろ、やや卑下した物言いとなっている。直に解釈すれば「物言いも行いも旨い奴め」というぐらいの心持ちで使われている。

1997年12月25日(木)晴れ。

雪靄ふ 響く鐘の音 知らぬ耳

「大風」

「大風」は、T「おおかぜ(激しい風)」U「おおふう(な態度、姿勢)」の二通りの読み方がある。

T「おおかぜ」と読む。

仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』(岩波文庫)に、

○跡〔あと〕は大風〔おほかぜ〕の吹〔ふき〕たる如〔ごと〕く、家内〔かない〕の男女〔なんによ〕は、踏碎〔ふみくだ〕きし杯盤を取方付〔とりかたづけ〕、はこびおろすに、[上69B]

井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』(新潮文庫)に、

○新来の日本人は紀州日高の蜜柑船〔みかんぶね〕天寿丸の船頭寅吉外五人の日本人で、大風に吹き流され漂流しているところをこの異国船に助けられ、本日この異国の港に寄港したということであった。[一八七M]

と見える。

U「おおふう」と読む。

新潮『現代国語辞典』の用例、谷崎潤一郎『鮫人』の、

○見すぼらしいなりで居ながらイヤに大風なのが、

学研『国語大辞典』の用例として三島由紀夫『仮面の告白』の、

○よし、指切りしよう、と私は大風〔おおふう〕に言った。

が検索できる。

さて、岩波『国語辞典』第四版は、「@いばって構え、人を見下ろした様子。横柄。A気持が大きくこせこせしないこと。「横風」とも書く。」と二通りの意味を示している。新明解『国語辞典』では、「おおふう」を「おうへい」の老人語と扱っている。現況での使用度合いは、確かに低いようだ。この谷崎の用例は@の意と即座に理解できるが、三島の『仮面の告白』における「おおふう」を岩波『国語辞典』の@・Aのどちらであるかを読み取るかについては、前後の場面状況文脈を読み取らずしてこの文だけで判断するのはややむつかしい表現である。

古くは大蔵虎明本『狂言集』じしやく「さけにゑいてねたれは、日本一のおふふのあのふるばくちうちがきたつて、わが物と申を、はんだんなしてたび給へ」[表現社刊・下二二K]

がそれで、「肝っ玉の大きい」という「大腑」の字を宛てている。この「大腑(おふふ)」がいつのしか「大風(おほふう)」と宛てて表現されるようになるについては、精査してもよいものがあろう。また、「横風」とも書くことについても実際例を押さえておく必要があろう。

[補遺1]:夏目漱石『吾輩は猫である』

「……それで妻〔さい〕がわざわざあの男〔おとこ〕の所〔ところ〕まで出掛〔でか〕けて行〔い〕って容子〔ようす〕を聞〔き〕いたんだがね……」と金田君〔かねだくん〕は例〔れい〕のごとく横風〔おうふう〕な言葉使〔ことばづか〕いである。横風〔おうふう〕ではあるが豪〔ごう〕も峻険〔しゆんけん〕なところがない。

[補遺2]:式亭三馬『浮世風呂』(文化十年)

「江戸子〔えどこ〕の物買〔ものか〕ふ樣〔やう〕に大風〔おほふう〕に買〔かふ〕た所〔ところ〕がとトちいさな声になり」[大系二八〇M]

1997年12月24日(水)曇り。

やりとげず 残しておくか 氣の含み

「極微」

この「極微」、古い本では中村誠太郎著『極微の世界』原子物理学の話(筑摩書房刊)という題名に使われている。この本の内容要旨は、「めざましく進展する研究の成果を追って、素粒子の世界をやさしく解明し、新しい物質観を提示する。併せて核兵器文明の暴威とその実際を示し、正しい利用への方途を示唆する現代人の常識としての原子物理学案内」とある。さて、問題の「極微」についてだが、岩波『国語辞典』第四版に、@「キョクビ」と読み、「非常に細かいこと、小さいこと、またはかすかなこと。「―の世界」」、A「ゴクビ」と読み、「きわめて小さいこと」とふたつの読み項目で収載している。この二通りの「極微」の意味からして全く別のことばを言っているのではないことが明察できる。いつごろからか、「キョクビ」と「ゴクビ」の両樣の読み方が使われるようになっていて、どちらが先でどちらが後なのかも知れない。また、仏教語としてこの語を読むときは、「ゴクミ」と読むということはなおさら知られていない。国語辞典でも大槻文彦編『大言海』と講談社『国語辞典』にその点をふれてあるに過ぎない。例えば道元『正法眼蔵』に、

  「くだくるときあり、極微にきはまる時あり」(身心学道)

  「是仏なり、たとひ一極微中に発心修証するも即心是仏なり」(即身是仏)

というのがそれである。一般には、「微塵」という語を「ミジン」と読むことで、この呉音による読み方を少しはご理解いただけるかと思うのであるが如何……。ところで、国語辞典における「極微」収載意味記述の傾向は三省堂新明解『国語辞典』第五版でも@「キョクビ」と読み、「目に見えないほど細かい様子」、A「ゴクビ」と読み、「そのものの大きさが肉眼では確認出来ないほど小さいこと。「―粉末」。とあってほぼ同じ体裁であるといってよいだろう。ここで「〜な、〜に」と活用する表示があるのは「キョクビ」の読みの方であるとしている点についてであろうか。『学研国語大辞典』に至っては、@「キョクビ」と読み、非常にこまかいようす。極微〔ごくび〕。A「ゴクビ」と読み、T非常に小さいこと。極微〔きょくび〕。U微妙な道理。その道のきわめて微妙な点。奥義。後者の意味を二区分してもいる。小学館『新撰国語辞典』は、「キョクビ」を優先し、「ゴクビ」は→印で「キョクビ」へと向けることで異読同語としているにすぎない。仏教語の「ごくみ」から「ごくび」、そして「きょくび」という流れを想定してみるのだが、なにせ、ことばの変遷状況を精査してみないことには早決は避けねばなるまい。今のところでは、明治時代の『言海』や『和英語林集成』には「極微」の語は未収載である。これと同じく『書言字考節用集』にて「大極」は「たいきょく」一53D、「大極殿」は「だいごくでん」一56Cと実に紛らわしいものがある。

T「キョク」と読む熟語漢字

 極言、極限、極端、極地、極度、極東、極力、極論…

U「ゴク」と読む熟語漢字

極悪、極意、極寒、極月、極上、極道、極熱、極秘、極貧、極品、至極…。

[補遺]:仮名垣魯文『安愚楽鍋』岩波文庫

極質朴〔ごくまじめ〕57。極熱〔ごくあつ〕93。極西洋〔ごくせいよう〕96。極しらうと102。

1997年12月23日(火)晴れ。天皇誕生日祝日

ホノルルの 感動今一度 胸につく

「餓鬼」

澤庵和尚『玲瓏隨筆』に「墨をば餓鬼に磨らせよ」という諺がある。墨と硯石の磨する程良い加減を云うのだ。「墨に五彩あり」だが、強くギュウギュウとやったのでは墨のもつ濃淡である「清・淡・重・濃・焦」の「五彩」の色合いが良くも旨くも出ない。微小な忽せのうちに黒粉となり、色濃やかになっていくのだ。粗く磨った墨は、筆紙にほんのりとした馴染みの深い色は決して与えてくれない。さて、この諺のなかでいう、「餓鬼〔ガキ〕」とは、仏教で言う六道の餓鬼道におちた亡者を総称していう。常に飲食がかなわず、飢えと渇きにさいなまれ、鞭うたれるという。いまでは「ガキ大將」や「悪ガキ」などと子どもの意に使うが古く「餓鬼」は、つまらない人間の意として狂歌『後撰夷曲集』九に「おめしには餓鬼も人数ときくからに腰おれながら集を望めり」などと使われているのが転用の起りであろうか。やがて、子どもがガギガギ食うさまを擬えて卑称として用いるようになった。大人たちが手を焼き、始末に負えない子ども。悪戯好きで、無邪気なあどけない自分の孫や曾孫についても言うようになっていく。爺が書に墨磨る手伝いをする孫の姿はいつのまにか日々の歳時生活から消えてしまったかのようである。年末、筆を取り、硯石に向かって墨を磨る五彩色の心境である天智萬物を循環流行して不断なる境地を過ぎ去りし私自身、「ワル餓鬼」であった幼少の頃に思いをはせて、深妙に静かにゆっくり墨をすることにしょう。

補遺:「餓鬼」の用例

仮名垣魯文『安愚楽鍋』

「口はゞてへいひぶんだが、うちにやア、七十になるばゝアに、かゝアと孩兒〔がき〕で、以上七人ぐらしで、壹升の米は一日〔いちんち〕ねへし、夜〔よ〕があけて、からすがガアと啼〔な〕きやア、二分〔ぶ〕の札〔さつ〕がなけりやア、びんぼうゆるぎもできねへからだで、年中十の字の尻〔けつ〕を、右へぴん曲〔まが〕るが、半商賣だけれど、南京米〔なんきんめへ〕とかての飯〔めし〕は、喰〔く〕ツたことがねへ男だ。[三九D・岩波文庫]

「氣がきかねへ少女〔がき〕ダ。じれつてへ、へヽヽヽヽヽ。」[九三M]

夏目漱石『草枕』

「勝手にしろ、口の減らねえ餓鬼〔がき〕だ」[七一O・新潮文庫]

1997年12月22日(月)大雪。

鍋うどん 跳ねて飛び出し 指火傷

「スケイプゴート【贖罪羊】」

○「これはわたしのやったことの弁解じゃない。わたしを日和見順慶と呼びたければそう呼んでもいい。汚名を拭い去られるよりは、日本全体の日和見主義の罪障意識の犠牲になっていた方が気が楽だ。わたしさえ贖罪羊〔スケイプゴート〕になっていれば、幾分かは文化の発展の役に立つかもしれない。なあに、わたしにとってはどうでもいいことなのだが、もしそうなら願ってもないこと」彼は立ちあがった。[筒井康隆『筒井順慶』新潮文庫一四五L]

[語源]古くユダヤ民族の古い習俗で贖罪日に人間の罪を負わせてやぎを荒野に放したことから。旧約聖書レビ記にいう身代わりの山羊。

[現代]ひとりで罪をかぶった人や、一般大衆からのきらわれものさす場合が多く、哀れな山羊のイメージというより「悪役」のイメージが濃厚である。

洋語「Scapegort」のカタカナ表記を国語辞典でどう扱っているかを見てみたい。

1、新明解『国語辞典』第五版は、「スケープゴート」いけにえ。〔汚職などをした高官の代りに罪を負わされる下僚の意にも用いられる〕

2、学研『国語大辞典』は、「スケープゴート」他人の罪を負う者。身代わりの犠牲者。3、明治書院『精選国語辞典』は「スケープゴート」身代わり。生け贄。他人の罪を被せられる者。

4、『新潮国語辞典』第二版は、「スケープゴート」他人の罪を負わされる人。身代わり。いけにえ。

5、岩波『国語辞典』第四版は、未記載(しょくざい【贖罪】は収載)。

 数ある国語辞典すべてをここに網羅する氣はない。結論は、国語辞典が「スケープゴート」と第二拍から第三拍を長音符号「ー」を用いている点にある。かつ、筒井さんの作品中では「スケイプゴート」と「イ」表記にある。一作家の文学作品と国語辞典のずれを私たち日本人はどう受け止めているのだろうか。意外と寛容にどちらでもいいよ。といった鹽梅で来てしまっている氣がしてならない。12月20日(土)付、朝日新聞で、語末の「ー」を省略したカタカナ語が目につくようになった。工学・技術分野の慣習が、パソコンやインターネットに運ばれて一気に広がろうとしている。言葉は世に連れ…か。と風に吹き流すような書きぶりがどこか氣になった。ここに取上げた用例は氷山の一角にすぎないが、大きな長音符号「ー」の洋語カタカナことばの塊が息を潜めている。どう選択するかは、私自身が考えていかなければなるまい。

1997年12月21日(日)大雪。

白がはる 靜寂の世界 一夜にして

「チンプンカン」

古くは、正徳五(一七一五)年、増穂残口『艶道通鑑』神祇之恋(岩波思想大系)に、

智者は過たりとは、彼チンプンカンに泥〔なづみ〕て無点〔むてん〕の唐本読む手柄咄〔てがらー〕に、和国の近道なる教へを俗に落ると嫌ひて、足本〔あしもと〕の明るさを知らず。[二一〇A]

とある。また、文化十(一八一三)年『浮世床』初、に、

ちんぷんかんぷんがどう仕〔つかまつ〕つて近うよつて後に御拝あられませうっ[大系]

と更に語末に「ぷん」が付加した「ちんぷんかんぷん」が使われている。この類語表現に「トンチンカン【頓珍漢】」という語もある。別なことを思って行動しているとき、ふとトンチンカンな言動をしてしまってあかっ恥をかいたりもする。逆にトンチンカンな咄しや文章に出会うとチンプンカンな内容に頭を傾げて、終いには笑い出してしまうことだってある。たとえば、学生が使うことばに「テイキ貸して下さい」というのがあった。「え〜!」と思って尋ね直すと「定規〔じょうぎ〕」のことだったのだ。また、私の知らない古いことばに出会ったときにも起こる。先日もホノルルで「波乗り」のことを今は「サファー」といい、そのサーフボードを昔は「○○土人の波乗り板」と呼んでいたなんて聞くと、「え〜!それなぁにー」と思ったりして、何だかわけのわからぬチンプンカンなことば表現に驚愕したりしたものだ。この「ちんぷんかん」の「かん」は、「漢」の字をあてて用いる。この「漢」は、新明解『国語辞典』によれば、ある傾きを持った男の意で、「悪漢」「好漢」「熱血漢」「不徳義漢」などと同じ語である。そして「ちんぷん」は、近世中国人の唐音でいう発音を形容した語で、漢字で「陳奮翰」を宛てるのが二葉亭四迷の『浮雲』、「珍芬漢」が仮名垣魯文の『安愚楽鍋』、「珍糞漢」が井伏鱒二の『漂民宇三郎』、「珍紛漢」が井上ひさしの『腹鼓記』[八〇B]新潮社一九八五年刊(遠藤知子編『井上ひさし用語用法辞典』集英社文庫一九九七年十月刊には未収載)などと宛て字は多様である。古語辞典に宛て字を収載するが、なぜか一部国語辞典には、宛て字漢字表記を収載していないのも妙なものである。

1997年12月20日(土)曇りのち雪ちらつく。札幌

雪なくも イルミネーション 輝やきて

「タメ」の意味

「―おまえさあ、いくつだ」

わずかに腰を屈めて顔をのぞき込むと、べそべそと泣いていた北川は、二十三歳だと答えた。

「俺とタメかよ!」

いよいよ情けなくなって聖大は思わず背後を振り返った。宮永班長は、苦笑混じりの顔を歪めて、腕組みをしている。[毎日新聞夕刊連載本日掲載分、乃南アサ『ボクの町』第二章4の6<73>より]

この文脈の中で、聖大がつぶやくことば「俺とタメかよ!」の「タメ」の意味がウムーと解らない。私と同じようにいったい、なんだろと首をかしげる御仁も多かろう。どうも若者ことばで「同い年」の意を云うようだ。「タメくち」といえば、「同年輩での会話」で、これが一級でも年上の先輩と話す時、この「タメくち」を聞くといけないのだ。また、「タメ年」は「同年」の意だから、「おー!お前の兄ちゃん、俺とタメだ」ともいう。この「タメ」の語源はどうも知れないのだ。ひょっとすると、動詞「溜め」かな?なんて思うのだがよく解らないのが現况である。

[補遺]「ことばの会議室」參照。

1997年12月19日(金)晴れ。

小春日に 雪觧けの水の 音聞けり

「無鉄砲」

明治の文豪夏目漱石『坊ちやん』の冒頭に「親譲りの無鉄砲で」とある「むてっぽう【無鉄砲】」ということば、いつごろどのようにして使われ出したのか探ってみようと思う。江戸時代の上方と関東すなわち江戸とでは、ことばの使われ方も多少の異なりを持っていたのであろうと推察して江戸の柳亭種彦の随筆『柳亭記』(日本随筆大成2第一期・三五八頁)をみると、

○むてつぱう[イち]

むてつぽうとは、関東下世話にて今もいふ者あり。今様踊くどきといふ小歌本に載たる諸国角力の名よせに[中略]「うきゝのおひなげ御用木きかん十五郎むて八はよわいやうでつよいへ」といふ事あり。巻中に元禄、宝永の事見えたり。されば当時無手八といふ角力ありて我より強きものもおそれず、これよりいでし詞なるべく思ひしがさにあらず。元禄よりはるか古き冊子に無天罰者と書たるがあり。むてつぱうは無天罰の訛り天罰知らずといふに同じ。はや元禄の頃はいひ誤りそれを名につきたるなるべし。

とある。江戸の文化・文政の頃には「むてつぱう」「むてっぱち」なる言い回しが庶民の暮らしの中で色好く使われていて、「むてっぱち」は相撲取りの四股名として「無手八」の名が使われ、向こう見ずの相撲取りの名でもあったようだ。これがいわば、「むてっぱち」な行動をとる江戸庶民の生き方だったのであろうか。ところでこの「むてっぽう」、どのような字をa宛てるかといえば、「鉄砲が無い」という「無鉄砲」と宛て字する。だが、現行の国語辞典では、「無手法」の変形と考えているようだ。そして、種彦が言う「無天罰者」の訛という説を考えていないようだ。そして、『大言海』から『日本国語大辞典』に至っても、種彦以前の用例を見出せないでいるのが現行国語辞典の現状である。

という偉そうなことを言う私自身、仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』(明治初期・岩波文庫本参照)しか見出せていない。それは、次の二例である。

3328,む無的法むてつぽう。ムテキホウ,上213K,上

6272,うかれ/\て世渡りは、弥次と喜多とが、逍遥遊〔せうよういう〕、彼〔か〕の南冥〔なんめい〕(溟)にあらずして、西の洋〔うみ〕へと飛出〔とびいだ〕し、人の笑ひや世の譏〔そし〕り、心に留めぬ無轍方〔むてつばう〕、風雅でもなく洒落〔しやれ〕でもなく、身侭気侭〔みまゝきまゝ〕ののほほんは、浮世の中〔なか〕の御厄介〔ごやつかい〕、心餘りて知恵足らず、意気過ぎもの、境界〔きやうがい〕は恥も未練も白眞弓〔しらまゆみ〕、跡へは引かぬ張り強く、失措〔しくじる〕事のあり勝〔がち〕は、東男〔あづまをとこ〕の本色〔もちまへ〕なり。,下152K,下

この二例を見ると、うち一例は仮名表記。後の一例が「無轍方」とこれまた異なる宛て字を使用しているのである。

1997年12月18日(木)晴れ。

山盛りに 手紙書類 ひねもすぞ

「同名異人」

 この世の中、人名をもってみるに、同じ名前の人が数々入る。名付けた人が彼の名前に肖って名付けるということも屡々行われるわけです。つい先頃も、「圭」さんという名のつく人と出会いました。苗字が「松下」で「松下 圭」さんと言います。この名前の由来を尋ねると、松の下には土がこんもりとなければということで土二つを重ねた「圭」という名をつけたというのです。ところが、あとで聞いたところでは、実はお母様が俳優の「山本 圭」さんの大ファンで、この名を息子につけたかったというのが真相だったそうです。昔もたとえば、

「人麿」に四人いて、柿本人麿。玉手人麿。羽栗人麿。加茂人麿。

「小町」に二人いて、小野小町。玉造小町。

「清麿」に二人いて、卜部清麿。和気清麿。

「行平」に三人いて、在原行平。橘 行平。鍛冶工の行平。

「乙丸」に二人いて、藤原乙丸。大伴乙丸。

「仲丸」に三人いて、大伴仲丸。恵美仲丸。阿部仲丸。

と云ったように同じ名をもつ人がこの世に数かずいるわけです。名については、「名詮自性〔ミョウセンジショウ〕」といって、その人の運命を委ねることになると云うぐらいの重みがあった時代が近世日本にありました。時にはウリ二つのそっくりさんより、名前が同じ人だということで途方も無い出来事を巻き起こす世界があったりもするものです。例えば、同じクラスに同じ名前の二人がいたときだとか、同じ会社の同じ部署に上司と部下の関係でいるなんて仮定しただけでもドキドキする世界が見えてきます。これが社長と新入社員であったら、人事関係者はその人物を適性判断して、合格であれば彼・彼女を正しく本当に採用するでしょうか?名前って実に妙なものです。いかが思いますか?これを機会に、隣人の名前の由来をあなたも訊ねてみてはいかがでしょう。

1997年12月17日(水)晴れ。

お歳暮に やさしく贈り 次に続き

「廉恥」

漢語「廉恥」の「廉」は、分限を知り、利欲の念が無い意。心が清らかで、恥じるべきことをしていること。と新明解国語辞典にある。「欲の無い」「心の清い」というつながりを知る。「廉吏」は私欲のない役人。「廉士」は、けじめのある正しい人。「廉直」「廉節」そして「廉価」で、あまり欲張らない値段。この「廉恥」という漢語に実はすこしひっかかると、作家陳舜臣さんが毎日新聞14日の「時代の風」で書いている。「私欲がない恥」とはなんであるか?「心が清い恥」とはいったいどんな恥なのか?と。「恥」という字に「道にそむくことをはずかしく思う心」という意味がすでにあったのだとも。ほんとうの「廉恥」は、恥をしることにほかなららないという。

「孝廉」は、中国の基本的な徳目であった。残りはあとで…。

1997年12月16日(日)晴れ。ホノルルから帰国

勝るとも おおらかな人 のこりおり

「熱帯」

「熱帯・温帯・寒帯」という気候をあらわすことば、これを「暑帯・温帯・寒帯」と言いません。熱帯の「あつい」地方というとき、「暑い」と表記する。中国では、「熱」で気候用語としている。なぜ、「暑帯」でなくて「熱帯」なのか?ふと思った。日本では江戸時代の寺島良安『和漢三才図会』にこのことばが見えている。地理学思考の学術用語として生まれたのではと推測してみる。中国で初めて世界地図が作成され、これを製図したのは、マテオ・リッチであるが、彼の著作には「熱帯」の語は見えない。弟子のアレニの時代、そして『ロプシャイト英華辞典・華英辞典』に収載されている。中国と日本そして西欧諸国からの洋学がどのように流入しているかが、この時代の漢語訳語の妙味であろう。「回帰線・海流・貿易風」ということばが持つ世界がここにあるのであろうか。

1997年12月15日(日)晴れ。第25回ホノルル・マラソン

ゆるやかに mindbody 動き出す

「国外日本語事情」その5

三位一体って「キリスト教」の世界だけではない。今年のホノルルマラソン大会記念Tシャツに「MIND BODY SPIRIT」とあり、これを現地語で、「MANA'O KINO 'UHANE」という。日本語でいう、「心・体・魂」である。気高き「'UHANE」でありたいものだ。ご一緒させていただいた高石ともやさんが私に教えてくれた。「気高い魂が心をどうにでも転がしてくれる。身体が動けば心はあとからでもついてくる」と。素敵な生きたことばだ。

1997年12月14日(土)晴れ。ホノルル

時のなか また一人ひと 増してくる

「国外日本語事情」その4

対人会話。ふくらみのある表現。それは、相手への問いかけなのである。決め付けことばは後がまったく生まれてこない。「このあとどうしましょう?」「そうですなー」「あなたはどうします?」っていくと、とんとんと事は動いていく。ところが黙ってただ唸づいていたのでは、本人が納得し、すべて選択切り捨てしていくだけと取られ、話の内容は本質から離れる一方であり、消えていくばかりになる。つむぎのあることばの会話が大事だというのはここのところなのである。話の大元を聞いているのだが、聞いていない自分がちょっぴり情けない氣もする。わからないだらけの世界が人の数だけあるようだ。いつまでも見えてこないのはこの話し方にある。人との出会いをも一度考え直そう。

1997年12月13日(金)晴れ。ホノルル

走ること 出会ひおほき spiritぞ

「国外日本語事情」その3

ホノルル滞在中、ふと僧侶に出会う。日本人は葬式のとき、日本人の僧侶に法事をお願いするのが常である。いま、異国人の僧侶が導師として読経をあげ、このお経を拝むのを聞いたら、平均的な日本人は、受け入れることができるだろうかとふと思う。異国人の僧侶が仏教を学び、その道を極める姿に応援はするが、葬式まではというのではなかろうか。この夏、アメリカ人から僧侶として、日本で寺院の住職になれないだろうかと尋ねられたことがあった。いま、その思いが蘇ってきた。仏事の国際化は、まだまだむつかしい。そういえば、昨年、京都でお寺の坊さんが、クリスマスケーキを買っている姿をみたことがあった。お寺の庫裏でも「クリスマス」を祝う日本人僧侶がいても笑って見過ごせる。なのに、「西洋人の読経する法事は勘弁してくれ」なのが今の仏事の国際化ではないだろうか。

いつかは、こんな青い眼の住職さんがいるお寺が日本に生まれることが真の国際化になるであろう。この日本人の偏狭さは何なんであろう。

1997年12月12日(木)晴れ。ホノルル

時を動く 話し伝えて 心から

「国外日本語事情」その2

今年、ホノルルは3回目である。自分で何が出来るか。思い出はそこから生まれてくるのである。

話し言葉のむつかしさ、よく「息で語る」という。「パフー。せわしない心に、30秒間の休息」。「ね」付きことばの反省である。「ひたむきに走るしかありませんからね」の「ね」付きことばは、己を防御し、相手に自己の意見をふっと考えさせるなにものでもない。相手を氣遣う人であればつきあいもするが、ことばの抗う緊張の一瞬には、まったく無であり、邪魔なことばとなる。「読む」ことの大切さがここに息づいていた。読むといっても「中身を読む」「人の心を読む」「時代を読む」の読むである。ことばの技術はあくまでも前提条件にすぎない。あなたはこの状況をどこまで読めるかと問われたのだ。旨さや魅力はきっとこの見えない隠れた部分にあるにほかならない。そのためには、パーンと前に出て、きちんと後を抑えることの肝要をまざまざと痛感した。

1997年12月11日(水)晴れ一時曇り。ホノルル

アラモアの 朝夕泳ぎ 心和らぐ

「国外日本語事情」

日本語の表現がここホノルルでいかに使用されているか、見聞するのも面白い。「醤油」はそのまま、「しょうゆ」。「天ぷら」「寿司」など結構、英語に交じるようにして、日本語表現が使用されていることに気付く。なかでも、五七五形式の「HAIKU(俳句)」が読まれていることに気が付いた。日本の俳句のように季語を読むことはないが、この地の風物を読むことは出来る。たとえば、主食の「カロ(タロ芋)」を読み込んだ句を見つけたり、自然を素直に読み込む世界に感動する。なんてすばらしいではないか。

ハワイ語は、アエイオウの母音。と八つの子音からなる。KEIK(子ども)。TAKAISHI(美人)。美しい響きである。

1997年12月10日(火)晴れ。ホノルル

複虹の 美しき景 走り躰

「醜形恐怖」

若者の心に「醜形恐怖」という心の病いが広がっている。この「醜形恐怖」とは、19世紀この病気に付いて初めて発表したイタリア医師の名づけた原語を日本語に訳したもので、近年米国で研究が盛んとなっている。日本では1970年頃から表面化し、増加傾向にある病いなのだそうだ。実際の報告事例をみるに、

女子高生の場合、170センチのスラリとした長身、「長い足が目立ってしまう」コンプレックスが高じて強迫観念となり、登校や外出が出来なくなる。「手術で脚が切れない物か」と思うようになってしまう。

短大生の場合、自分の顔は右から見ればそこそこだが、左から見るとブスと悩む。左半分を人に見られないように左側の壁に沿ってあるく。彼女は恋人ができたことで自身を取り戻した。

男性の場合、体毛の濃さ、性器の大きさ、体臭などに悩む。

大学生の場合、頭髪の後退を意識し、電車に乗るのを怖がった。学校近くに下宿し、うつむいて通学するなど、人との関わりを避ける。

といった症状を呈している。以前、福岡の森崇先生が講演で「存在のアピールは病の始まり」とおしゃっていたが、人に受け入れられたいという願望が強い割に、うまく人間関係が築けない。でも性格に問題があるとなると、自身の内面と向合う必要があり、それが苦痛だから容姿の問題に摩り替えてしまうのが特徴である。

少し長くなったが、この「醜形恐怖症」ということばがこれ以上若者たちに広がらぬことを願いたい。そのためには、もっと人間「心」のことを考えることだ。

1997年12月9日(火)晴れ。ホノルル

夜間飛行 眠る間もあり 闇静か

「若者ことば」

毎日新聞の夕刊に若者と大人とのことばの壁ができていることを具に感得できる調査内容が報道されていた。「もう、師走だね。木枯らしが吹いたかと思うと小春日和が続き、まさに三寒四温だよ。年の瀬も押し迫ると、風呂吹きでキュウッと一杯熱燗でもやりたい気分だ。ホノルルの顔見せも錚錚たるメンバーを揃えたよ。あとは出番を待つばかりさ。」などといった季節のことばを盛り込んで語る大人のことば表現を全く解し得ない若者たちが今増えているという。「ん?」「……」「わかんな〜い」とこの会話を聞いて口ずさむ。さらに、「どうして水が呑みたいの?」と聞かれても「のどかわいた」では国語力を欠く言い方に等しい。当たり前のことしか言えないからだ。自身の現状を把握したうえで、言語化できるようにすることが何よりも急務なのかもしれない。彼らの語彙は、すべての物事に対して、いいと思えるものには「イケてる」、氣に入らぬものには「ムカつく」。これに「超」をつけるにすぎないのでは……。「暑い」や「寒い」も「超暑い」「超寒い」では情緒すら表出しないのだ。「天ぷらでカラリと揚げたような暑さ」とか、「手の指がジンジン痛むような寒さ」って云う表現は本をたくさん読んで、自分の氣持ちを伝える術を学ばねば、大人になって司馬遼太郎さんが云うように、「人の話しも聞けず、何を言っているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い」ことにもなろう。

参考図書:司馬遼太郎『十六の話・なによりも国語』(中央公論社刊)

1997年12月8日(月)晴れ。

記念日の 刻み重ねて 山となる

「米」の字

べいこく【米国】○韓国人は、アメリカを「美国」と書く。そして、「美人」はアメリカ人のこと。ある韓国人が日本語で「日本は敗戦後の食糧難時代に、アメリカからコメを助けてもらったので米国と呼ぶのだ。我が国も朝鮮戦争などアメリカに助けてもらったが、その死を賭けた美しい行為に感謝して、美国と名付けたのだ」という。「こめ」から「米国」は俗説。「亞米利加」の略が正しい。[日曜版03,松尾 孝雄,朝日新聞(日本語を歩く),1997年12.07]とある。実は、「メ−トル」も「米突」と宛て字表記した。「米」の字には、「ベイ」「マイ」の字音があるだけだ。b音とm音は音相通例、「メイ」と発音して宛てた文字のようだ。さらに「米」の字は、アメリカ合衆国を表すだけではなく、「米」の字を分解すると「八十八〔やそはち〕」となる。そこで米寿は八十八歳を云う。「とおはち」は「十八」を合成すると「木」で「木寿」ってなぜか云わない。若すぎるなんて云わずに十八歳も「もくじゅ」といって一緒に祝おうというものだ。如何。ついで「十八番」を「おはこ」というのも『歌舞伎十八番』から起こる。

[閑話休題]

ホノルルにでかけます。16日まで此の欄も更新ができません。あしからず。16日(火)に戻りましたらまとめて收載いたしますので、このつづきを引き続きお楽しみください。

1997年12月7日(日)晴れ。夜半雪。

陽射し向き 雪融けるや否や 明日立つ

「がるがる坊」

 「がるがる坊」のことばが目に留る。出久根達郎さんの「スポーツひろい読み」(朝日新聞・12月6日(土)夕刊)に、北沢楽天の子供漫画の題「がるがる坊」、いったい何者と誰何〔すいか〕に問えば、

「人の物ほしがる 何でも真似〔まね〕したがる がるがる坊」

「人がスキーに往〔ゆ〕けばすぐに自分も往きたがる」

「お父さんにスキーを買って下さいとすがる お父さんは雪崩をあぶながる」

「何でも強がる上手がる がるがる坊初めはチッともすべれず只〔ただ〕杖〔つえ〕にすがるばかり」

「いたがる こわがる 苦しがる 寒がる 暑がる みんな上手にすべるのでいまいましがる」

「そのくせみんなと遊びたがる」

「少し上手になると偉がる 負けてくやしがる 自慢の鼻がまがる」

「人の邪魔して立ちふさがる」

「あんまりわがままなので誰〔だれ〕でもいやがる がる/\坊」(『楽天全集』第6巻・アトリエ社)

「がるがる尽くし」に、人の性を説くものである。派生動詞「がる」についてまとめあげた集合体文脈である。

1997年12月6日(土)晴れ。

ずり雪の ぼたりと落ちて シャーベット

「連れ去り」

 「寒い時代に」「暖めさせて」と若者たちが口ずさむ年の暮れ。近比、幼児の誘拐事件が報道されていた。この報道記事内容をみると、「連れ去り」と表現されるようだ。容疑女性を「未成年者略取の疑い」で聴取と……。この女性、「子供ができないので、連れていった」と話しているという。世話のかかる乳幼児を「〜する」こと、身代金目的の「誘拐」でないこともあって、「連れ去り」といった和らかなこの表現が用いられるのかもしれない。女性が人の子供を奪う話説は、今にはじまったことではないが、親がちょっと目を離した隙をねらって「連れ去る」手口であるから「連れ去り」という。親のいる目前であれば「奪い取る」になるのかもしれない。この事件、日本国じゅうどこでも起こってもおかしくない様相だ。子供を置き去りにしたままで買物に走る。世の母親に改めて警鐘をならす事件でもあり、逆に、「子供が欲しくなった」と供述する略取の女性、さらには、女性の実母までからんだこの事件の結末を知って、古い事件が脳裏に浮かんだ。この連れ去られた子供、数日間に発見されたのだが、年闌て成長した段階となると話説はもっとややこしくなるからだ。あるとき、乳飲み子を失った一人の女性が乳がはってたまらなく、他所の子を連れ去った。その子は無事成人し、自分の戸籍が不自然なことに氣づく。このことから、連れ去られた子であったことが世にも知れることとなって、裁判のうえ、実の両親を知るのだ。だが、この子にとって、産みの親より育ての親ではないが、連れ去った女性を母親として捨て難い情がからむといった厳しい選択のなかで、彼女の罪を許そうとする。この子供の葛藤に思いをはせるのは私だけではないと思う。

この「連れ去り」の語、まだ国語辞典には收載されていない。

1997年12月5日(金)晴れ。

雪止みて テカツルソロの 人の波

「か〜か」苦悩慣用句

「か〜か」の表現がある。本来、「AかBか」といった対等の関係のことばを並立にして表現し、一つを選び出すに用いる。また、本日の新聞紙に見える「出す出さぬ、政治献金一億円(悩む証券業界団体)」という朝日新聞の一面の見出し。これは毎年末、自民党などに政治献金を続けてきた証券会社の業界団体「東京証券取引所正会員協会」(加盟二十四社)が、今年は献金に及び腰になっているというのである。

この「[肯定語]か[否定語]か」の慣用句表現は、岐路に立ち、苦悩することばの表現として用いられてきた。「生きるべきか死ぬべきか」といった深刻な立場に、人は躊躇し、苦悩することに間々遭遇する。このようなときの助言は実に有り難い。昔は、神佛による「御託宣」といって、進むべき道である指標がこれによって定まったりもした。科学技術の進んだ現代の御託宣は、如何になるのやらだが、この苦悩並立表現句を見つめてみることにしたい。

1997年12月4日(木)大雪。

雪雲の 白き程降る 昼間かな

「大」「小」の字訓

「小刀」は、「こがたな」と「ショウトウ」と音訓両読みする。

○昼は紙箱と紙と絵筆と鋏〔はさみ〕と小刀と糊〔のり〕を前に日々新しい堤燈を一心に創〔つく〕り、我が堤燈よ!最も珍しく美しかれ! と夜の虫取りにでかけるのであろう。[川端康成『バッタと鈴虫』新潮文庫「掌の小説」三五頁]

は、前者で「こがたな」と読む。「小鳥」「小犬」「小枝」「小使」「小男」「小僧」「小娘」「小柄」「小脇」「小言」「小遣」「小包」「小銭入」「小切」「小山」「小路」「小屋」「小料理屋」「小菊模様」「小高い窓敷居」「小意気」「小腰かがめる」「小首をかしげる」「小ざっぱりした雪隠」などは「こ○○」と読む。(「広小路」は「ひろこうじ」、「小母さま」は「おばさま」と読む。)

○「おい、足を見な、足を。血が出てるじゃないか。剛気な小女郎〔こめろ〕だな、え、お前さん。」[川端康成『夏の靴』一一四頁]

これなどは、「小女郎」と書いて「こめろ」と読ましている。

また、耳慣れない表現としては「こどびん」がある。

○「あの、すみませんが、お宅にお水残っていましたら、これに少し……。」と、隣りの奥さんが小土瓶〔こどびん〕をさげて来た。[川端康成『水』四四四頁]

さらに、「しょう○○」は「小説」「小宅」「小紳士」「小淑女」がある。

「大」も「大雪」「大手」「大声」「大火傷」「大湯」「大型」「大勢」「大方」「大道具部屋」「大袈裟」「大笑い」が「おお○○」と読む。(「大人」は「おとな」と読む)

○宿屋の内湯で一先ず体を清めてから石段を下りて大湯へ行くのが浴客の習慣である。[川端康成『滑り岩』九二頁]

○「大湯が噴き出したのかしら。」[川端康成『門松を焚く』二一七頁]

逆に「たい○○」と読む語には、「大家」「大火」「大木」「大樹」「大輪」「大切」「大変」「大した人気」「大して気にも止めない」などがある。「だい○○」は、「大分」「大胆」「大学」「大仏」「大尽風を吹かせる」などがある。(「大分」は、地名は「おおいた」で、これは「だいぶ」または「だいぶん」と読むし、「大木」も姓名では「おおき」で木は「たいぼく」と読む。)

○「山火事かね。―暴動かね。―東京が大火ね。熱海へ賊が攻め寄せて来たのかね。」[川端康成『門松を焚く』二一六頁]

がある。

このように「大小」をあらわすことばの読みには、結構使い分けがあって、「小人数」は、「小土瓶」と同じように「こニンズ」と読む(これを現代の人は「こニンズウ」と発音している)。「真っ赤な大嘘〔おおうそ〕」や「大失敗〔おおしくじり〕」などが読み分けに苦慮するところのようだ。古くは、天草版『伊曾保物語』母と子の事に「大盜人」を「だいぬすびと」と読む例がある。

1997年12月3日(水)大雪。

雪かきの 寒き程締まる 重さかな

「てかつるそろ」

 どっと雪が降ってきた。雪による交通停滞による帰宅時間の遅れも重なり、昨晩遅く、吹雪模様のなか、雪を掻き分け、真っ白になって駅から帰宅する。続いて家の前の積もった雪を夜中に取り除く。一仕事終えて湯船につかって床に就く時間はといえば午前2時。朝方、除雪車の通る警笛音で目が覚める。ふたたび見ると、そこは前にも増して大きな雪の山となる。除雪作業は、これからのシーズンにとって欠かせない雪国の行事となる。ここはまさに雪国なのだからと実感する。この雪、降り積もっている間は静かで実に美しい。この雪、すべての匂いや音を吸収してしまう。やがて、晴れて溶け出し、再び凍る。信号機のある交差点の路面は、「てかてか」となり、「つるつる」の状態となっている。車のスタッドレス・タイヤになってから、横断道路の「てかつる」状態がいっそうはっきりとなった。人は「てかつる」の道を歩くとき、「そろそろ」と足を細かに動かして転ばぬように、凍てついた路面を行く。「てかつる」の道を「つるそろ」と足を動かす真冬日の季節が今年もやってきた。雪景色となっては、靴も雪靴にしないと滑って歩けない。下駄箱の靴が雪用に置換された。

1997年12月2日(火)曇り。銀世界>苫小牧、晴れ

遠きゆゑ こゑも近づく 電話かな

「日本一」

 昨日のニュースで今年の流行語大賞に「失楽園」が決定と流れていた。「変節の人」や「普況」は遠く及ばなかった。日本国中ですべての分野で一番なものを「日本一」という。たとえば、「ここは日本一の米どころ」といった具合にだ。この「日本一」ということば、「日本一の剛の者」といった表現などからして中世日本の社会における最大級の誉めことばの表現であった。現代文化でいう「大賞」とは、すべての分野でもっとも優れたものに与えられる賞であるからして、まさに今年の流行語日本一がこの「失楽園」ということばだったということになる。

1997年12月1日(月)曇り。後雪。銀世界<映画の日>

師走となり 日の入り速し 瞬く間

「左」と「右」

 古来、乗馬で馬を止める時には、必ず馬を左向きにして止めた。これは、左を向いた「左馬」の姿が「右に出る者はなし」「左り団扇」に通じる大吉兆の形とされてきたからである。「左馬」は数多くの書画や絵馬に描かれている。書画の左文字については、[1997.9.24] 「左文字」の神通で前に触れたので参照されたい。この「右」と「左」の優位性について少しく考えてみるに、時代劇などでしか知られなくなった「果たし状」これは「普通左前に封じる」と、新明解国語辞典は記述している頼りになる辞書である。決闘そのものが命のやり取りであるからして、吉凶をこのようにして表明したのである。インドでは、左手は不浄の手として食物を口に運ぶことを嫌う。この習慣は、古来日本にもあった。左利きを嫌ったのがそれである。

この「左」には不吉なイメージがつきまとうのはなぜだろうか?神前での結婚式を考えるとき、新郎の親族は右に、新婦の親族は左に位置し、当の新郎新婦もこのならびとなる。神は北に位置し、南向きを正面とする。参拝者は北面、参拝者の左は西側で日の沈む方角であり、暗のイメージに、そして右は東側で日の出る方角となり明のイメージが生まれてきたことに由来しているのである。子孫の栄える側に嫁する意味から、この位置関係が現代の社会生活にも生きているのである。ところでアベックのならびはどうであろうか。男性は右に位置し左腕で、女性は左に位置し歩く右腕で歩く?

「ひだりまえ」や「ひだりむき」は、繁栄状態が悪化する意に用いられている。29日の朝日新聞夕刊のウイークエンド経済「銀行がつぶれた融資は?」で「暗=不吉」と「明=吉兆」の文字排列が「暗」を左に、「明」を右にしている意識もこれにほかならない。さすれば、左側から右側へ向かおうとする意識が私たちにはあり、それは、すべてのものが暗闇から黎明に向かうことを願う動きであったと考えられないだろうか。逆に右から左へ向かうことを実に忌み嫌うのである。律令制官職の「左大臣」と「右大臣」は、「左大臣」が上位になっている。これも神や王の位置から見て、右に位置する。故に官職名は「左大臣」でも地位は上位となるのである。「左遷人事」も地位を下げることに用いる。「左馬」はしだいに吉兆となる右に向かうのであれば、理に適った法則なのであろう。

 

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