2002年6月1日から6月30日迄
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ことばの溜め池
 
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
 
 
 
2002年6月30日(日)晴れ。サロマ湖(佐呂間・常呂町)⇒(湧別町)
サロマ湖100kmウルトラマラソン大会 連続十六回完走
「剥取(はぎとり)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「波」部に、標記語「剥取」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
追捕土民住宅剥取旅人衣裝之間爲誅罸追罸大將軍依被發向方々」〔至徳三年本〕
追捕土民住宅剥取旅人衣裝之間爲誅伐追討大將軍依被發向方々」〔宝徳三年本〕
追捕土民住宅剥取旅人之衣裝之間爲誅罸追討大將軍依被發向方々」〔建部傳内本〕
‖-(ツイフ)シ--(ハキ)‖---之際-(チウ―)-(ツイトウ)ノ--軍依ルヽニ‖- -」〔山田俊雄藏本〕
(ツイ)捕土民住宅(ハギ)旅人之衣裳(イシヤウ)之間誅伐(チウハツ)追討大將軍依‖-(ハツカウ)せ方々」〔経覺筆本〕
‖-(ツイフ)シ土民住宅(チウタク)ヲ(ハキ)‖--衣裳誅伐(チウハツ)追討(ツイタウ)ノ--軍依ルヽニ方々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「剥取」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集』は、標記語「剥取」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、
剥取(ハク・ハギトル/ケヅル,シユ)[平・去]。〔態藝門65八〕
とあって、標記語「剥取」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、また、易林本節用集』には、標記語「剥取」の語を未収載に
 ここで古辞書における「剥取」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、印度本系統の尭空本節用集』、及び『運歩色葉集易林本節用集』が未収載としていて、唯一広本節用集』にこの語を「はぎとる」という和語複合動詞の形で収載している。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令行于所々‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ‖-捕土民住宅‖-旅人之衣裳誅伐追討大將軍依‖-方々當家一族同馳‖-向彼戰場‖-却城郭 三里云城、七里郭也。自帝尺始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「剥取」についての語注記は未記載にする。
 古版『庭訓徃来註』では、
財産(ザイサン)ヲ‖-(ツイホ)シ土民之住宅(ヂウタク)ヲ|‖-(ハキト)旅人(リヨジン)ノ之衣裳(イシヤウ)之間ニ‖。〔下8ウ七〕
とあって、この標記語の「剥取」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
土民(どミん)住宅(ちうたく)追捕(ついほ)し‖-(ツイホ)シ土民之住宅(ヂウタク)ヲ|土民ハ其地頭に住居する百姓をいふなり。〔38ウ四〕
とあって、標記語「剥取」で、その語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
土民(どミん)住宅(ちうたく)追捕(ついほ)し旅人(りよじん)(の)衣裳(いしやう)剥取(はぎと)る(の)(あいだ)‖-土民之住宅ヲ|‖-旅人之衣裳之間。〔三十ウ四〕
‖-(つゐほ)し土民(どミん)(の)住宅(ぢゆうたく)(はぎ)‖-(と)る旅人(りよじん)(の)衣裳(いしやう)を(の)(あひた)。〔五十四オ五〕
とあって、標記語「剥取」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Faguitori,u,otta.ハギトリ,ル,ッタ(剥ぎ取り,る,つた) 着物を剥ぎ取る,あるいは,略奪する.例,Nusubito domoga midareitte,cazucazuno cosode domouo faguitoru.(盗人どもが乱れ入って,数々の小袖どもを剥ぎ取る)盗人どもがどかどかと入って来て,たくさんの立派な着物を掴み取った.※「夜盗共が打入て御小袖をうばひ取」(幸若舞曲,山名常盤)に当たる.〔邦訳197l〕
とあって、標記語「剥取」の語の意味を「着物を剥ぎ取る,あるいは,略奪する」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「剥取」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「はぎ-とり【剥取】[名]はがして取り去ること。衣類や持物などを無理に奪い取ること。また、その人」とし、また「はぎ-と・る【剥取】[他ラ五(四)]@はいで取る。はがして取り去る。A衣類や持物などを無理に奪い取る。はぐようにして相手の物を取る」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
然間、比企彌四郎奉仰、相具之、行向政所橋邊、剥取袈裟焼之見者如堵、皆莫不彈指《読み下し》然ル間、比企ノ弥四郎仰セヲ奉ハリ、之ヲ相ヒ具シ、政所ノ橋ノ辺ニ行キ向ヒ、袈裟ヲ剥ギ取リ之ヲ焼ク(之ヲ焼カル)。見ル者堵ノ如シ、皆弾指セズトイフコト莫シ。《『吾妻鏡』正治二年五月十二日の条》
 
 
 
 
 
2002年6月29日(土)晴れ。北海道(新札幌)⇒サロマ湖(常呂)前夜祭
「住宅(ヂウタク)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「地」部に、
住宅(―タク)。〔元亀本65七〕
住宅(――)。〔静嘉堂本76七〕〔天正十七年本中17ウ八〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「住宅」の語を収載し、その読みを「(ヂウ)タク」とする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
追捕土民住宅剥取旅人衣裝之間爲誅罸追罸大將軍依被發向方々」〔至徳三年本〕
追捕土民住宅剥取旅人衣裝之間爲誅伐追討大將軍依被發向方々」〔宝徳三年本〕
追捕土民住宅剥取旅人之衣裝之間爲誅罸追討大將軍依被發向方々」〔建部傳内本〕
‖-(ツイフ)シ--(ハキ)‖-取旅--之際-(チウ―)-(ツイトウ)ノ--軍依ルヽニ‖- -」〔山田俊雄藏本〕
(ツイ)捕土民住宅(ハギ)旅人之衣裳(イシヤウ)之間誅伐(チウハツ)追討大將軍依‖-(ハツカウ)せ方々」〔経覺筆本〕
‖-(ツイフ)シ土民住宅(チウタク)(ハキ)‖--衣裳誅伐(チウハツ)追討(ツイタウ)ノ--軍依ルヽニ方々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「住宅」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集』は、
住宅(ヂウタク)。〔態藝門90六〕
とあって、標記語「住宅」の語を収載し、語注記は未記載にする。次に広本節用集』には、
住宅(チウタク/スム,イヱ)[去・○]。〔態藝門173六〕
とあって、標記語「住宅」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、
住宅(ヂウタク)。〔・言語進退52五〕
住持(チウジ)―家(ヂウケ)。―侶(リヨ)。―居(キヨ)―宅(タク)。―僧(ソウ)。―所(シヨ)。〔・言語53二〕
住家(チウケ)―侶。―居。―宅。―僧。―所。〔・言語48三〕
とあって、弘治二年本だけが標記語「住宅」とし、他本は冠頭字「住」の熟語群中に「住宅」の語を収載する。また、易林本節用集』には、
住宅(ヂウタク)住屋(―ヲク)住處(―シヨ)。〔乾坤48二〕
とあって、標記語「住宅」の語を収載する。
 ここで古辞書における「住宅」についてまとめておくと、『色葉字類抄』では未収載とし、次に『下學集』、広本節用集』、印度本系統の尭空本節用集』、及び『運歩色葉集易林本節用集』は、いずれもこの語を収載する。読み方が「ヂウタク」とする。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令行于所々‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ‖-捕土民住宅‖-旅人之衣裳誅伐追討大將軍依‖-方々當家一族同馳‖-向彼戰場‖-却城郭 三里云城、七里郭也。自帝尺始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「住宅」についての語注記は未記載にする。
 古版『庭訓徃来註』では、
財産(ザイサン)ヲ‖-(ツイホ)シ土民之住宅(ヂウタク)ヲ|‖-(ハキト)旅人(リヨジン)ノ之衣裳(イシヤウ)之間ニ‖。〔下8ウ七〕
とあって、この標記語の「住宅」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
土民(どミん)住宅(ちうたく)追捕(ついほ)し‖-(ツイホ)シ土民之住宅(ヂウタク)ヲ|土民ハ其地頭に住居する百姓をいふなり。〔38ウ四〕
とあって、標記語「住宅」で、その語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
土民(どミん)住宅(ちうたく)追捕(ついほ)し旅人(りよじん)(の)衣裳(いしやう)剥取(はぎと)る(の)(あいだ)‖-土民之住宅ヲ|ギ‖-旅人之衣裳之間。〔三十ウ四〕
‖-(つゐほ)し土民(どミん)(の)住宅(ぢゆうたく)(はぎ)‖-(と)る旅人(りよじん)(の)衣裳(いしやう)を(の)(あひた)。〔五十四オ五〕
とあって、標記語「住宅」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Giu<tacu.ヂュウタク(住宅) Sumu iye.(住む宅) ある所に居を定めて住むこと.すなわち,暮らすこと.〔邦訳320r〕
とあって、標記語「住宅」の語の意味を「ある所に居を定めて住むこと.すなわち,暮らすこと」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ぢう-たく(名)【住宅】すまひする家。住居の家。すみか。住家。住屋、。又、すまひすること。居住。 新永代藏(正徳、團水)二「近きこそよけれと、知らぬ松本に住宅して、手前の物七分に買ひ、道具三分のがらくた屋」〔1291−1〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「じゅう-たく【住宅】[名]@人が住むための家。すみか。住居。A(―する)すみかとすること。住みつくこと」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
而高信者、爲勢多橋行事、行向、催促所役之時、新神人等爲對捍云、兼語宮仕法師、於住宅、拏獲于高信使者、及喧嘩〈云云〉《読み下し》而ルニ高信ハ(先ヅ)、勢多ノ橋ノ行事トシテ、行キ向ヒ、所役ヲ催促スルノ時、新神人等。対捍ヲ為テ云ク、兼テ宮仕ノ法師ト語ラヒ(ヲ語ラヒ置キ)、住宅ニ於テ、高信ガ使者ヲ拏キグリ獲テ、喧嘩ニ及ブト〈云云〉《『吾妻鏡』文暦二年七月二十七日の条》
 
 
 
 
2002年6月28日(金)小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「土民(ドミン)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「津」部に、
土民(ミン)。〔元亀本54七〕
土民(トミン)。〔静嘉堂本61一〕
土民(――)。〔天正十七年本上31オ八〕〔西來寺本97二〕
とあって、標記語「土民」の語を収載し、その読みを「ドミン」とする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
追捕土民住宅剥取旅人衣裝之間爲誅罸追罸大將軍依被發向方々」〔至徳三年本〕
追捕土民住宅剥取旅人衣裝之間爲誅伐追討大將軍依被發向方々」〔宝徳三年本〕
追捕土民住宅剥取旅人之衣裝之間爲誅罸追討大將軍依被發向方々」〔建部傳内本〕
‖-(ツイフ)シ--(ハキ)‖-取旅--之際-(チウ―)-(ツイトウ)ノ--軍依ルヽニ‖- -」〔山田俊雄藏本〕
(ツイ)土民住宅(ハギ)旅人之衣裳(イシヤウ)之間誅伐(チウハツ)追討大將軍依‖-(ハツカウ)せ方々」〔経覺筆本〕
‖-(ツイフ)シ土民住宅(チウタク)ヲ(ハキ)‖--衣裳誅伐(チウハツ)追討(ツイタウ)ノ--軍依ルヽニ方々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
土民 民俗部/トミン。〔黒川本・疉字上49ウ八〕
土地〃古。〃膏。〃代。〃宜。〃風。〃コ。〃産。〃毛。〃民。〃器。〃壌。〃浪。〃宇。〃木。〔卷第二423五〕
標記語「土民」の語を収載する。
 室町時代の『下學集』は、標記語「土民」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、
土民(ドミン/ツチ,タミ)[上・平]。〔人倫門127六〕
とあって、標記語「土民」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、
土民(ドミン)百姓。〔・人倫42一〕〔・人倫42八〕〔・言語46六〕
土民(トミン)百姓。〔・人倫39五〕
とあって、弘治二年本だけが標記語「土民」とし、その語注記に「百姓」という。また、易林本節用集』には、
土民(トミン)。〔人倫41一〕
とあって、標記語「土民」の語を収載する。
 ここで古辞書における「土民」についてまとめておくと、『下學集』が未収載とし、次に『色葉字類抄』、広本節用集』、印度本系統の尭空本節用集』、及び『運歩色葉集易林本節用集』は、いずれもこの語を収載する。読み方が「ドミン」と「トミン」の両方の記載がある。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令行于所々‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ‖-土民住宅‖-旅人之衣裳誅伐追討大將軍依‖-方々當家一族同馳‖-向彼戰場‖-却城郭 三里云城、七里郭也。自帝尺始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「土民」についての語注記は未記載にする。
 古版『庭訓徃来註』では、
財産(ザイサン)ヲ‖-(ツイホ)シ土民住宅(ヂウタク)ヲ|‖-(ハキト)旅人(リヨジン)ノ之衣裳(イシヤウ)之間ニ‖ 財産(ザイサン)ト云事人ノ賄(ヲクル)ナリ。去バ大唐ニハ。土産(トサン)ト云テ我ガ娘(ムスメ)ヲ人ノ許(モト)ヘツカハスニ。子ヲ生(ウメ)リ。其時行テ田(タ)ヲ其ノ子(コ)ニモヤルナリ。是ヲ土産(サン)ト云リ。財産(サイサン)ト云ハ。宝ヲツカハス也。唐(モロコシ)ノナラヒ也。子ヲ一人ウマサル先キハ親(ヲヤ)ノ方ヨリムコニモ子(コ)ニモ育(ハゴクミ)せヌナリ。〔下8ウ七〕
とあって、この標記語の「土民」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
土民(どミん)住宅(ちうたく)追捕(ついほ)し‖-(ツイホ)シ土民住宅(ヂウタク)ヲ|土民ハ其地頭に住居する百姓をいふなり。〔38ウ四〕
とあって、標記語「土民」で、その語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
土民(どミん)住宅(ちうたく)追捕(ついほ)し旅人(りよじん)(の)衣裳(いしやう)剥取(はぎと)る(の)(あいだ)‖-土民住宅ヲ|ギ‖-旅人之衣裳之間。〔三十ウ四〕
‖-(つゐほ)し土民(どミん)(の)住宅(ぢゆうたく)(はぎ)‖-(と)る旅人(りよじん)(の)衣裳(いしやう)を(の)(あひた)。〔五十四オ五〕
とあって、標記語「土民」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Domin..ドミン(土民) Fiacuxo<.(百姓)農民.〔邦訳188l〕
とあって、標記語「土民」の語の意味を「農民」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ど-みん(名)【土民】其本土(ところ)の民。土着の民。農民。土人。 資治通鑑、唐明宗紀「封州土民百餘人、謀亂」平家女護島(享保、近松作)中「毎年御領内の土民を召され、耕し植ゆる賎の手業」〔1422−1〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「ど-みん【土民】[名]その土地に住む民。土着の住民。百姓。土人(どにん)」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
日者張行非法、令惱亂土民之間、可停止其儀之趣、武衛、令加下知給《読み下し》日者非法ニ張行シテ、土民ヲ悩乱セシムルノ間、其ノ儀ヲ停止スベキノ趣、武衛、下知ヲ加ヘシメ給フ。《『吾妻鏡』治承四年八月十九日の条》
 
 
 
2002年6月27日(木)小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「追捕(ツイブ・ツイホ・ツイフク)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「津」部に、
追捕(―ホ)。〔元亀本157六〕〔静嘉堂本172七〕〔天正十七年本中17ウ八〕
とあって、標記語「追捕」の語を収載し、その読みを「(ツイ)ホ」とする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
追捕土民住宅剥取旅人衣裝之間爲誅大將軍依被發向方々」〔至徳三年本〕
追捕土民住宅剥取旅人衣裝之間爲誅追討大將軍依被發向方々」〔宝徳三年本〕
追捕土民住宅剥取旅人衣裝之間爲誅追討大將軍依被發向方々」〔建部傳内本〕
‖-(ツイフ)シ--(ハキ)‖-取旅--之際-(チウ―)-(ツイトウ)ノ--軍依ルヽニ‖- -」〔山田俊雄藏本〕
(ツイ)土民住宅(ハギ)旅人之衣裳(イシヤウ)之間誅伐(チウハツ)追討大將軍依‖-(ハツカウ)せ方々」〔経覺筆本〕
‖-(ツイフ)シ土民住宅(チウタク)ヲ(ハキ)‖--衣裳誅伐(チウハツ)追討(ツイタウ)ノ--軍依ルヽニ方々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
追捕(ツイブ)。法家部/ツイフク/ツイフ。〔黒川本・疉字中28オ八〕
追従〃討。〃捕。〃却ツイキヤク。〃放。〃儺ツイナ/延喜廿―始行之。追儺事長輪暦日十二月晦夜追儺事 昔高辛氏之女子女子晦夜在堂寺成魍魎常行疫癘之事又奪祖魂之祭物周之以桃弓等射鬼為令安靜国土代所傳也。〃爵。〃求。〃福佛事。〃善。〔卷第四疉字630六〕
標記語「追捕」の語を収載する。
 室町時代の『下學集』は、標記語「追捕」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、
追捕(ツイフ・ホ/ヲイ,トル)[平・去]。〔態藝門416三〕
とあって、標記語「追捕」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、
追捕(―ホ)。〔・言語進退131二〕
追薦(ツイゼン)又作―従(セウ)。―却(キヤク)。―拂(ホツ)。―伐(バツ)進發之義。―修(シユ)。―福(フク)追善之義。善。―放(ハウ)。―加。―討(タウ)―捕(フ)。―考(カウ)。―出(シユツ)。〔・言語105七〕
追薦(ツイゼン)又薦作善、―従。―却。―拂。―伐進發義。―修。―福追善義。―放。―加。―討。―捕。―考。―出。〔・言語96二〕
追薦(ツイゼン)又薦作善、―却。―伐。―福追善義。―放。―加。―討(タウ)―捕。―考。―出。〔・言語117八〕
とあって、弘治二年本だけが標記語「追捕」とし、他本は冠頭字「追」の熟語群中に「追捕」の語を収載する。また、易林本節用集』には、
追討(ツイタウ)―捕(フ)。―放(ハウ)。―従(セウ)。―加(カ)。―却(キヤク)。―罰(バツ)。―善(ぜン)。―出(シユツ)。〔言辞105五〕
とあって、標記語「追討」の冠頭字「追」の熟字語群として「追捕」の語を収載する。
 ここで古辞書における「追捕」についてまとめておくと、『下學集』が未収載とし、次に『色葉字類抄』、広本節用集』、印度本系統の尭空本節用集』、及び『運歩色葉集易林本節用集』は、いずれもこの語を収載する。読み方が「ツイホ」と「ツイフ」の両方の記載があることは、広本節用集』の記載内容から明らかである。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令行于所々‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ‖-土民住宅‖-旅人之衣裳誅伐追討大將軍依‖-方々當家一族同馳‖-向彼戰場‖-却城郭 三里云城、七里郭也。自帝尺始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「追捕」についての語注記は未記載にする。
 古版『庭訓徃来註』では、
財産(ザイサン)‖-(ツイホ)シ土民之住宅(ヂウタク)ヲ|‖-(ハキト)旅人(リヨジン)ノ之衣裳(イシヤウ)之間ニ‖ 財産(ザイサン)ト云事人ノ賄(ヲクル)ナリ。去バ大唐ニハ。土産(トサン)ト云テ我ガ娘(ムスメ)ヲ人ノ許(モト)ヘツカハスニ。子ヲ生(ウメ)リ。其時行テ田(タ)ヲ其ノ子(コ)ニモヤルナリ。是ヲ土産(サン)ト云リ。財産(サイサン)ト云ハ。宝ヲツカハス也。唐(モロコシ)ノナラヒ也。子ヲ一人ウマサル先キハ親(ヲヤ)ノ方ヨリムコニモ子(コ)ニモ育(ハゴクミ)せヌナリ。〔下8ウ七〕
とあって、この標記語の「追捕」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
土民(どミん)住宅(ちうたく)追捕(ついほ)し‖-(ツイホ)シ土民之住宅(ヂウタク)ヲ|土民ハ其地頭に住居する百姓をいふなり。〔38ウ四〕
とあって、標記語「追捕」で、その語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
土民(どミん)住宅(ちうたく)追捕(ついほ)し旅人(りよじん)(の)衣裳(いしやう)剥取(はぎと)る(の)(あいだ)‖-土民之住宅ヲ|ギ‖-旅人之衣裳之間。〔三十ウ四〕
‖-(つゐほ)し土民(どミん)(の)住宅(ぢゆうたく)(はぎ)‖-(と)る旅人(りよじん)(の)衣裳(いしやう)を(の)(あひた)。〔五十四オ五〕
とあって、標記語「追捕」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Tcuifucu.ツイフク(追捕) ある人の財産や富を,正当のものではなくなったものとして没収する刑罰.§Tcuifucuno quaninga maitte xizai zo<guuo vbai totta.(追捕の官人が参つて資財雑具を奪ひ取つた)Feiq(平家)卷一.国庫の役人がやって来て,財産や動産をすべて没収して.§Xizaiuo tcuifucu suru.(資財を追捕する)財産を,正当のものではなくなったものとして没収する.〔邦訳627l〕
とあって、標記語「追捕」の語の意味を「ある人の財産や富を,正当のものではなくなったものとして没収する刑罰」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
つゐ-ぶ(名)【追捕】(一)官より吏を遣して、不良の徒を追ひ捕ふること。つゐぶく。つゐほ。 後漢書、光武紀「更相追捕、賊竝解散」續紀、一、文武天皇四年十一月「天下盗賊往往而在、遣使追捕」(二)うばひとること。かすめること。略奪。劫略。 盛衰記、四十一、被大嘗會事「諸國七道ノ人民百姓、或ハ平家ノ爲ニ被追捕、或ハ源氏ノ爲ニ被劫略ケレバ」園太暦、文和四年二月十日「山の軍勢、社頭(吉田)に亂入し候て、云云、~服~寳を追捕し」同、同年七月廿六日「竊盗亂入禁中女房局、悉追捕」園太暦〔1341−3〕
つゐ-ぶく(名)【追捕】(一)つゐぶ(追捕)の條の(一)に同じ。大鏡、下、道長「大炊御門より西ざまに、人人のささと走れば、云云、さは大きなるつゐぶくかなと、旁(かたがた)に心もなきまで、惑ひまかりしかば」愚管抄、四「院の第一の寵人、家成中納言の家、つゐぶくしたりければ」(二)つゐぶ(追捕)の條の(二)に同じ。平家物語、一、禿童事「かの家に亂入し、資財雜具を追捕(ツヰブ)し」〔1341−4〕
つゐ-ほ(名)【追捕】つゐぶ(追捕)に同じ。〔1341−4〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「つい-ぶ【追捕】[名](「ついふ」とも)@追いかけて捕えること。官から役人をつかわして、罪人などを追い捕えること。ついほ。ついふく。A追及してとりあげること。没収すること。うばいとること。ついほ。ついふく」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
先之得入道三品之告、逃出御廷尉等雖追捕御所中、遂不令見給《読み下し》之ヨリ先ニ入道三品ノ告ヲ得テ、逃ゲ出デ御フ。廷尉等御所中ヲ追捕(ツイフク)スト雖モ、遂ニ見エシメ給ハズ。《『吾妻鏡』治承四年五月十五日の条》
 
 
 
2002年6月26日(水)小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「財産(ザイサン)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「左」部に、標記語「財産」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
横行于所々奪取人之財産」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
横行于所々奪取人財産」〔宝徳三年本〕
行于所々(ウハイ)‖-財産(ザイサン)」〔山田俊雄藏本〕
(ワウ―)せ于所々(ウハイ)‖-(トリ)人之財産(ザイサン)」〔経覺筆本〕
(ワウキヤウ)所々(ウハイ)‖-人之財産(ザイサン)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「財産」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「財産」の語を未収載にする。また、易林本節用集』には、
財寳(ザイホウ)―物(モツ)―産(サン)。〔言辞181四〕
とあって、標記語「財寳」の冠頭字「財」の熟語群に「財産」の語を収載しする。
 ここで古辞書における「財産」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、印度本系統の『節用集』、及び『運歩色葉集』が未収載とするのに対し、易林本節用集』に「財産」の語を収載していることに注目しておきたい。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令行于所々‖-取諸人之財産(ザイサン)‖-捕土民住宅‖-旅人之衣裳誅伐追討大將軍依‖-方々當家一族同馳‖-向彼戰場‖-却城郭 三里云城、七里郭也。自帝尺始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「財産」についての語注記は未記載にする。
 古版『庭訓徃来註』では、
財産(ザイサン)‖-(ツイホ)シ土民之住宅(ヂウタク)ヲ|‖-(ハキト)旅人(リヨジン)ノ之衣裳(イシヤウ)之間ニ‖ 財産(ザイサン)ト云事人ノ賄(ヲクル)ナリ。去バ大唐ニハ。土産(トサン)ト云テ我ガ娘(ムスメ)ヲ人ノ許(モト)ヘツカハスニ。子ヲ生(ウメ)リ。其時行テ田(タ)ヲ其ノ子(コ)ニモヤルナリ。是ヲ土産(サン)ト云リ。財産(サイサン)ト云ハ。宝ヲツカハス也。唐(モロコシ)ノナラヒ也。子ヲ一人ウマサル先キハ親(ヲヤ)ノ方ヨリムコニモ子(コ)ニモ育(ハゴクミ)せヌナリ。〔下8ウ七〕
とあって、この標記語の「財産」の語注記は、「財産と云ふ事人の賄るなり。去らば大唐には、土産と云ひて我が娘を人の許へつかはすに。子を生めり。其の時行きて田を其の子にもやるなり。是れを土産と云へり。財産と云ふは、宝をつかはすなり。唐のならひなり。子を一人うまざる先きは親の方よりむこにも子にも育くみせぬなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
(ひと)財産(ざいさん)(うバ)(とり)‖-取諸人之財産財ハ金銭衣類を云。産ハ生業(すきハひ)物なり。〔38ウ四〕
とあって、標記語「財産」で、その語注記は「財は、金銭衣類を云ふ。産は、生業ひ物なり」未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
所々(しよ/\)(に)横行(わうぎやう)(しめ)(ひと)(の)財産(ざいさん)(うば)(と)り于所々‖-取人之財産|。〔三十ウ四〕
(しめ)∨(わうきやう)(に)所々(しよ/\)(うば)‖-(と)り(ひと)(の)財産(ざいさん)を|。〔五十四オ五〕
とあって、標記語「財産」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Zaisan.ザイサン(財産) Tacara tacara.(財たから)財産.〔邦訳840r〕
とあって、標記語「財産」の語の意味を単に「財産」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ざい-さん〔名〕【財産】人の所有の動産、不動産。みのしろ。身代(シンダイ)。身上(シンジヤウ)。資財。家産。 後漢書、齊武王傳「悉推財産、與諸弟太平記、十七、江州軍事「山門衆徒、財産を盡くして」〔0757-1〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「ざい-さん【財産】[名]@財貨と資産。所有する土地、家屋、家具、金銭、貴金属など。身代(しんだい)。Aある人に属する金銭的価値あるものの総体。動産、不動産のほか、権利、義務のすべてをいう語。一般には資産(積極財産)だけをさすが、負債(消極財産)を含む場合もある。しんだい。B比喩的に、金銭を産みだす源となる技術や能力など。「信用は財産である」。」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
或ハ布施〔ヲ〕送テ導師ヲ望、或ハ祈祷ヲコトヽシテ財産ヲノゾム。《『沙石集』(1283年)卷第七・二》
重經丹後國所領、徳分物、運送疋夫、去比負荷、負財産、逐電訖《読み下し》重経ガ丹後ノ国ノ所領、徳分物、運送ノ疋夫、去ヌル比荷ヲ負ヒ、財産(ザイサン)ヲ負テ、逐電シ訖ンヌ。《『吾妻鏡』寛元四年十二月二十八日の条》
 
 
 
2002年6月25日(火)曇り後小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「奪取(うばひと・る)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「無・宇」部に、標記語「奪取」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
横行于所々奪取諸人之財産」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
行于所々(ウハイ)‖-之財産(ザイサン)ヲ」〔山田俊雄藏本〕
(ワウ―)せ于所々(ウハイ)‖-(トリ)人之財産(ザイサン)ヲ」〔経覺筆本〕
(ワウキヤウ)所々(ウハイ)‖-人之財産(ザイサン)ヲ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
ムハウ躑墓已上同。〔黒川本・辞字中45オ八〕
ムハフ。亦乍奪躑劫墓已上同。〔卷第五124五〕
トル。《已下畧》〔黒川本・辞字上46ウ八〕〔卷第二399五〕
とあって、標記語「奪取」の語を「」と「」との二語にして収載する。
 室町時代の『下學集』は、標記語「奪取」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、
(ウバウ/ダツ)[入]。〔態藝門488八〕
(トル/シユ)[上](同/サイ)[上]把―針―鈴、操 紙、手―弓、執―右―筆、?―鉾、秉―燭、来―薪。〔態藝門150六〕
とあって、標記語「奪取」の語を「」と「」との二語にして収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、
(ウバウ)(同)ウハウ。〔・言語進退22八〕
(ウバウ)。〔・言語123一〕〔・言語112七〕〔・言語137二〕
(トル)(同)―鈴(同)―紙(同)―引(同)―筆?(同)―蜂(同)―薪。〔・言語進退43八〕
(トル)―鈴―紙―弓―筆?―蜂―燭―薪。〔・言語46三〕
(トル)―鈴―紙―弓―筆―燭―薪。〔・言語43三〕
(トル)(トル)。〔・言語51四〕
とあって、標記語「奪取」の語を「」と「」との二語にして収載する。また、易林本節用集』には、
奪取(ウバヒトル)。〔言辞119七〕
とあって、標記語「奪取」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 ここで古辞書における「奪取」についてまとめておくと、『下學集』が未収載とし、次に『色葉字類抄』、広本節用集』、印度本系統の『節用集』、及び『運歩色葉集』は、いずれも「」と「」との二語にして収載するのに対し、易林本節用集』においては標記語「奪取」の語をもって収載していることに注目しておきたい。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令行于所々‖-諸人之財産(ザイサン)ヲ‖-捕土民住宅‖-旅人之衣裳誅伐追討大將軍依‖-方々當家一族同馳‖-向彼戰場‖-却城郭 三里云城、七里郭也。自帝尺始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「奪取」についての語注記は未記載にする。
 古版『庭訓徃来註』では、
(ワウギヤウ)せ于所-(ウバイ)‖_(トリ)人之 横行トハヨコシマニ行クトヨメリ。人ノユイ防(フサ)ギ。フタグ処ヲ物トモせズ。破(ヤブ)リ抜(ヌ)キ摧(クタ)キテ。乱(ミダ)レ入ヲ横行横道ト云也。〔下8ウ六〕
とあって、この標記語の「奪取」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
所々(しよ/\)横行(わうぎやう)(しめ)(ひと)財産(ざいさん)(うバ)(とり)于所々‖-諸人之財産思ひし色もなく徘徊するを横行と云、是ハ盗賊の所/\国/\にはびこりたるを云。財ハ金銭衣類を云。産ハ生業(すきハひ)物なり〔38ウ二・三〕
とあって、標記語「奪取」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
所々(しよ/\)(に)横行(わうぎやう)(しめ)(ひと)(の)財産(ざいさん)(うば)(と)り于所々‖-人之財産▲横行ハ人を蔑(なゝミ)して憚(はゞかり)るなく徃来(ゆきゝ)する也。〔三十ウ四〕
(しめ)∨(わうきやう)(に)所々(しよ/\)(うば)‖-(と)り(ひと)(の)財産(ざいさん)を|▲横行ハ人を蔑(なゝミ)して憚(はゞかり)るなく徃来(ゆきゝ)する也。〔五十四オ五〕
とあって、標記語「奪取」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Vbaitori,ru,otta.ウバイトリ,ル,ッタ(奪ひ取り,る,つた) 上の条〔Vbai,bo<〕に同じ.〔力ずくで取る〕〔邦訳682r〕
とあって、標記語「奪取」の語の意味を「力ずくで取る」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「うばい-とる【奪取】[他ラ五(四)]他人の物を無理やりに、自分の物にする。ひったくる。盗みとる」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
是去正月十九日、號熊野山湛増之從類、濫入伊雜宮、鑚破御殿、犯用神寳之間、爲一禰宜成長神主沙汰、奉遷御體於内宮之處、同廿六日、件輩、亦襲來山田宇治兩郷、焼失人屋、奪取資財訖《読み下し》是レ去ヌル正月十九日ニ、熊野山ノ湛増ガ従類ト号シテ、伊雑ノ宮ニ濫入シ、御殿ヲ鑚リ破リ、神宝ヲ犯シ用ヰルノ間、一ノ祢宜成長神主ノ沙汰トシテ、御体ヲ内宮ニ遷シ奉ルノ処ニ、同キ二十六日ニ、件ノ輩、亦山田宇治ノ両郷ニ襲ヒ来テ、人屋ヲ焼失シ、資財ヲ奪ヒ取リ訖ンヌ。《『吾妻鏡』治承五年三月六日の条》
 
 
 
2002年6月24日(火)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)⇒台東区(入谷)
「横行(ワウギャウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「和」部に、
横死(―シ)下横行(ワウギヤウ)横道(―ダウ)横難(―ナン)。〔元亀本88三〕
横死(ワウジ)横行(――)横道(――)横難(ワウ―)。〔静嘉堂本108七〕
横死(―シ)横行(―キヤウ)横難(―ナン)横道(―タウ)。〔天正十七年本上53ウ五〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「横行」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
横行于所々奪取諸人之財産」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
所々(ウハイ)‖-」〔山田俊雄藏本〕
(ワウ―)せ于所々(ウハイ)‖-(トリ)人之」〔経覺筆本〕
(ワウキヤウ)所々(ウハイ)‖-人之」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「横行」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集』は、標記語「横行」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、
横行(ワウギヤウ・ヲコナウ/ヨコ,カウ・ツラナル・ユク)[平・去]。〔態藝門239三〕
とあって、標記語「横行」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、
横入(ワウニウ)横死(―シ)横難(―ナン)横災(―サイ)横道(―タウ)。〔・言語進退73四〕
横死(ワウシ)―難(ナン)。―災(サイ)。―入(ニウ)。〔・言語72一〕
横死(ワウシ)―難。―災。―入。―行。〔・言語65七〕
横死(ワウシ)―難。―入。―災。〔・言語78一〕
とあって、標記語「横死」とし冠頭字「横」の熟語群中に「横行」の語を収載するのは尭空本のみである。また、易林本節用集』には、
横道(ワウダウ)横難(―ナン)横入(―ニフ)。〔言語67六〕
とあって、標記語「横道・横難・横入」の三語を収載するのみで「横行」の語を未収載にする。
 ここで古辞書における「横行」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』が未収載とし、次に広本節用集』、印度本系統の尭空本節用集』、及び『運歩色葉集』は、いずれも「」と「」との二語にして収載するのに対し、易林本節用集』においては標記語「横行」の語をもって収載していることに注目しておきたい。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令于所々‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ‖-捕土民住宅‖-旅人之衣裳誅伐追討大將軍依‖-方々當家一族同馳‖-向彼戰場‖-却城郭 三里云城、七里郭也。自帝尺始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「横行」についての語注記は未記載にする。
 古版『庭訓徃来註』では、
(ワウギヤウ)せ于所-(ウバイ)‖_(トリ)人之 横行トハヨコシマニ行クトヨメリ。人ノユイ防(フサ)ギ。フタグ処ヲ物トモせズ。破(ヤブ)リ抜(ヌ)キ摧(クタ)キテ。乱(ミダ)レ入ヲ横行横道ト云也。〔下8ウ六〕
とあって、この標記語の「横行」の語注記は、「横行とは、ヨコシマニ行クとよめり。人のゆい防ぎ、ふたぐ処を物ともせず、破り抜き摧きて、乱れ入るを横行横道と云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
所々(しよ/\)横行(わうぎやう)(しめ)(ひと)財産(ざいさん)(うバ)(とり)于所々‖-諸人之財産思ひし色もなく徘徊するを横行と云、是ハ盗賊の所/\国/\にはびこりたるを云。財ハ金銭衣類を云。産ハ生業(すきハひ)物なり〔38ウ二・三〕
とあって、標記語「横行」で、その語注記は「思ひし色もなく徘徊するを横行と云ふ、是は盗賊の所々国々にはびこりたるを云ふ。」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
所々(しよ/\)(に)横行(わうぎやう)(しめ)(ひと)(の)財産(ざいさん)(うば)(と)り于所々‖-人之財産▲横行ハ人を蔑(なゝミ)して憚(はゞかり)なく徃来(ゆきゝ)する也。〔三十ウ四〕
(しめ)∨(わうきやう)(に)所々(しよ/\)(うば)‖-(と)り(ひと)(の)財産(ざいさん)を|▲横行ハ人を蔑(なゝミ)して憚(はゞかり)なく徃来(ゆきゝ)する也。〔五十四オ五〕
とあって、標記語「横行」の語注記は、「横行は、人を蔑みして憚りなく徃来するなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Vo<guio<.ワウギャウ(横行) Yocotauari yuqu.(横り行く) 道をまっすぐに行かないで,斜めに行くこと.§また,比喩.邪悪で,道に外れた所行,または,すべての掟や道理にもとった所行.§Vo<guio<na fito.(横行な人)生活や身持ちの乱れた人,または,道に外れた人.〔邦訳704l〕
とあって、標記語「横行」の語の意味を「道をまっすぐに行かないで,斜めに行くこと.§また,比喩.邪悪で,道に外れた所行,または,すべての掟や道理にもとった所行」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
わう-かう(名)【横行】(一)よこさまに行くこと。 杜牧、咏蟹詩「莫道無心畏雷電、海龍王處也横行」(二)恣に押し歩くこと。我意を押通すこと。わうぎゃう。 莊子、盗跖篇「盗跖從卒九千人天下、侵暴諸侯」〔2157−1〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「おう-ぎょう【横行】[名]@「おうこう(横行)@」に同じ。A「おうこう(横行)A」に同じ。B(形動)勝手なふるまいが盛んであること。ほしいままにはびこること。また、そのさま」、「おう-こう【横行】[名]@(―する)横ざまに行くこと。また、横にはって行くこと。おうぎょう。A(―する)勝手気ままに歩き回ること。自由にのし歩くこと。おうぎょう。B(―する)勝手なふるまいが盛んであること。ほしいままにはびこること。おうぎょう。C唱門師(しょうもんし)Aの異称」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
秀義及郎從等忘防禦之術、周章横行読み下し》秀義及ビ郎従等、防禦ノ術ヲ忘レ、周章テテ横行ス。《『吾妻鏡』治承四年十一月五日の条》
于時暴風起於巽、揚焼野之塵人馬共失眼路、横行分散、多曝骸於地獄谷登々呂木澤《読み下し》時ニ暴風巽ヨリ起コリ、焼野ノ塵ヲ揚ゲ、人馬共ニ眼路ヲ失ヒ、横行分散シテ、多ク骸ヲ地獄谷登登呂木ノ沢ニ曝ス。《『吾妻鏡』治承五年閏二月二十三日の条》
先平氏家人等中、遁出戰場族、令閑散本在所猶知行田園、剰横行都鄙爲事盗犯〈云云〉《読み下し》先ヅ平氏ノ家人等ノ中、戦場ヲ遁レ出ルノ族、本在所猶知行ノ田園ニ閑散セシメ、剰ヘ都鄙ニ横行シ、盗犯ヲ事トスト〈云云〉。《『吾妻鏡』元暦二年五月十九日の条》
 
 
 
2002年6月23日(日)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(玉川→駒沢)
「徒黨(トトウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「登」部に、
徒黨(トタウ)。〔元亀本57一〕〔静嘉堂本64四〕〔天正十七年本上33オ三〕〔西来寺本102五〕
とあって、標記語「徒黨」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々山賊海賊強竊二盗徒黨」〔至徳三年本〕
引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々山賊海賊強竊二盗徒黨」〔宝徳三年本〕「引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々山海兩賊(ゾク)強竊二盗徒黨」〔建部傳内本〕
(ソツ)シテ--(ぜキ)--(ホウキ)國_々ヲ|-賊海-賊強-(コウゼツ)--(トトウ)」〔山田俊雄藏本〕
盗賊狼籍悪黨‖-起于國々-賊海-賊強-(コウゼツ)--(トトウ)」〔経覺筆本〕
盗賊狼籍悪黨‖-起于國々-賊海-賊強-(コウゼツ)--(トトウ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「徒黨」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集』次に広本節用集』には、
徒黨(トタウ/イタヅラ・トモガラ,トモガラ)。〔人倫門127六〕
とあって、標記語「徒黨」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、
徒黨(トタウ)。〔・人倫42一〕〔・人倫42八〕〔・人倫39五〕〔・人倫46六〕
とあって、標記語「徒黨」の語を収載し、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、
徒黨(トタウ)。〔人倫41二〕
とあって、標記語「徒黨」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 ここで古辞書における「徒黨」についてまとめておくと、『色葉字類抄』は、未収載にあり、『下學集』、広本節用集』、印度本系統の『節用集』、及び『運歩色葉集易林本節用集』いずれも標記語「徒黨」の語を収載する。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨行于所々‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ‖-捕土民住宅‖-旅人之衣裳誅伐追討大將軍依‖-方々當家一族同馳‖-向彼戰場‖-城郭 三里云城、七里郭也。自帝尺始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「徒黨」についての語注記は未記載にする。
 古版『庭訓徃来註』では、
強竊(ガウセツ)二盗(タウ)ノ徒黨(トタウ)シメ∨ 強盗(ガウタウ)トハアラキ盗人(ヌス―)ナリ。竊盗(せツタウ)トハホソル盗人(ヌス―)ナリ。名(ナ)ヅケテシノビト云也。〔下8ウ五〕
とあって、この標記語の「徒黨」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
強竊(ごうせつ)二盗(じとう)徒黨(ととう)強竊二盗徒黨同類多く勢(いきほ)ひ盛んなるを強盗と云勢ひ微(び)にして唯(たゞ)物を盗ミとるを竊盗といふ。〔38ウ一〕
とあって、標記語「徒黨」で、その語注記は「同類多く勢ひ盛んなるを強盗と云。勢ひ微にして唯物を盗みとるを竊盗といふ」とする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
強竊(ごうせつ)二盗(じとう)徒黨(ととう)強竊二盗徒黨▲強竊二盗ハ日中あらハに狼藉(らうぜき)して奪ひ捕(と)るを強盗(がうとう)といひ人を忍びて密(ひそか)に盗(ぬす)むを竊盗(せつとう)といふ。〔三十一オ一〕
強竊(ごうせつ)の二盗(じとう)の徒黨(ととう)▲強竊二盗ハ日中(ひるなか)あらハに狼藉(らうぜき)して奪(うば)ひ捕(と)るを強盗(がうとう)といひ人を忍びて密(ひそか)に盗(ぬす)むを竊盗(せつたう)といふ。〔五十四ウ五〕
とあって、標記語「徒黨」の語注記は、「強竊二盗は、日中あらハに狼藉して奪ひ捕るを強盗といひ、人を忍びて密かに盗むを竊盗といふ」という。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Toto<.l,to<rui.トタゥ.または,タゥルイ(徒党.または党類) 悪事や乱暴をしでかすために,危険に身をさらし,心を合わせて大勢のならず者どもの仲間。〔邦訳670r〕
とあって、標記語「徒党」の語の意味を「悪事や乱暴をしでかすために,危険に身をさらし,心を合わせて大勢のならず者どもの仲間」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』に、
とたう(名)【徒黨】黨(なかま)を結ぶこと。相約して、共に事を行はむとする徒(やから)。(多く惡計に云ふ) 書字考節用集、八、言辭門「徒黨、トタウ」孟子題辭(漢、趙岐)「逮亡秦、焚滅經術、坑戮儒生、孟子徒黨盡矣」〔1407−3〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「と-とう【徒黨】[名]仲間・団体・一味などを組むこと。また、その仲間・団体・一味。ある事をなすために集った仲間。同類。連中」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
読み下し》愁憤ヲ含ンデ、春秋ヲ送ル処ニ、前ノ平ノ大相国驍勇ノ党ニ従ハシメテ(徒党ニ令シテ)、去去年ノ秋、頼朝ヲ誅セント擬セシ日、天運有ルニ依テ、黥布ガ鏑ヲ遁レシムル、本ヨリ誤ラザルガ故ニ、神ノ冥助ナリ。《『吾妻鏡』養和二年二月八日の条》
 
 
 
 
2002年6月22日(土)晴れ。神戸(関西学院大学)⇒東京(八王子)
「二盗(ジトウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、標記語「二盗」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々山賊海賊強竊二盗徒黨」〔至徳三年本〕
引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々山賊海賊強竊二盗徒黨」〔宝徳三年本〕「引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々山海兩賊(ゾク)強竊二盗徒黨」〔建部傳内本〕
(ソツ)シテ--(ぜキ)--(ホウキ)國_々ヲ|-賊海-賊強-(コウゼツ)--(トトウ)」〔山田俊雄藏本〕
盗賊狼籍悪黨‖-起于國々-賊海-賊強-(コウゼツ)--(トトウ)」〔経覺筆本〕
盗賊狼籍悪黨‖-起于國々-賊海-賊強-(コウゼツ)--(トトウ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「二盗」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本
 ここで古辞書における「二盗」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、印度本系統の『節用集』、及び『運歩色葉集易林本節用集』いずれも標記語「二盗」の語を未収載にする。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
321強竊二盗 是式目|。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「二盗」についての語注記は、「これも式目(『貞永式目』)にあり」と記載が見える。
 古版『庭訓徃来註』では、
強竊(ガウセツ)二盗(タウ)徒黨(トタウ)シメ∨ 強盗(ガウタウ)トハアラキ盗人(ヌス―)ナリ。竊盗(せツタウ)トハホソル盗人(ヌス―)ナリ。名(ナ)ヅケテシノビト云也。〔下8ウ五〕
とあって、この標記語の「二盗」の語注記は、「強盗」と「窃盗」の二語一まとめにして表現したことばとしてこれをそれぞれに細分化したうえで「強盗とは、あらき盗人なり。竊盗とはほそる盗人なり。名づけてしのびと云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
強竊(ごうせつ)二盗(じとう)乃徒黨(ととう)強竊二盗徒黨同類多く勢(いきほ)ひ盛んなるを強盗と云勢ひ微(び)にして唯(たゞ)物を盗ミとるを竊盗といふ。〔38ウ一〕
とあって、標記語「強竊」で、その語注記は「同類多く勢ひ盛んなるを強盗と云。勢ひ微にして唯物を盗みとるを竊盗といふ」とする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
強竊(ごうせつ)二盗(じとう)乃徒黨(ととう)強竊二盗徒黨▲強竊二盗ハ日中あらハに狼藉(らうぜき)して奪ひ捕(と)るを強盗(がうとう)といひ人を忍びて密(ひそか)に盗(ぬす)むを竊盗(せつとう)といふ。〔三十一オ一〕
強竊(ごうせつ)の二盗(じとう)の徒黨(ととう)▲強竊二盗ハ日中(ひるなか)あらハに狼藉(らうぜき)して奪(うば)ひ捕(と)るを強盗(がうとう)といひ人を忍びて密(ひそか)に盗(ぬす)むを竊盗(せつたう)といふ。〔五十四ウ五〕
とあって、標記語「二盗」の語注記は、「強竊二盗は、日中あらハに狼藉して奪ひ捕るを強盗といひ、人を忍びて密かに盗むを竊盗といふ」という。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「二盗」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』においても、標記語「じたう(名)【二盗】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「じ-とう【二盗】」を未収載にし、『庭訓徃来』からの用例引用を未記載にする。
[ことばの実際]
東國庄園、於隠居強竊二盗并慱奕等不善輩所々者、召放其所地頭職、可宛賜搦進仁之旨、被仰下陸奥出羽以下國々〈云云〉《読み下し》東国ノ庄園、強窃ノ二盗并ニ慱奕等ノ不善ノ輩ヲ所所ニ隠シ居クニ於テハ、其ノ所ノ地頭職ヲ召シ放チ、搦メ進ズル仁ニ宛テ賜ハルベキノ旨、陸奥出羽以下ノ国国ニ仰セ下サルト〈云云〉。《『吾妻鏡』建久六年八月二十八日の条》
 
 
 
 
2002年6月21日(金)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)→神戸(三宮)
「強竊(ガウセツ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、「強敵,強盛,強縁」と「強」の熟語群三語が収載されているが、標記語「強竊」は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々山賊海賊強竊二盗徒黨」〔至徳三年本〕
引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々山賊海賊強竊二盗徒黨」〔宝徳三年本〕「引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々山海兩賊(ゾク)強竊二盗徒黨」〔建部傳内本〕
(ソツ)シテ--(ぜキ)--(ホウキ)國_々ヲ|-賊海--(コウゼツ)--(トトウ)」〔山田俊雄藏本〕
盗賊狼籍悪黨‖-起于國々-賊海--(コウゼツ)--(トトウ)」〔経覺筆本〕
盗賊狼籍悪黨‖-起于國々-賊海--(コウゼツ)--(トトウ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
強竊同。カウセツ。〔黒川本疉字門上89オ三〕
強力〃感。〃縁。〃竊セツ。〃盗。〃牡カウサウ。〃弱。〔卷第三疉字283五〕
とあって、標記語「強竊」の語を収載する。
 室町時代の『下學集広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、標記語「強竊」の語を未収載にする。また、易林本節用集』には、
強竊(―せツ)。〔加部人倫78一〕
とあって、標記語「強竊」を収載し、語注記は未記載にある。
 ここで古辞書における「強竊」についてまとめておくと、『下學集』、広本節用集』、印度本系統の『節用集』、及び『運歩色葉集』には標記語「強竊」の語を未収載にし、『色葉字類抄』、易林本節用集』がこの語を収載しているのである。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
321強竊二盗 是式目|。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「強竊」についての語注記は、「これも式目(『貞永式目』)にあり」と記載が見える。
 古版『庭訓徃来註』では、
強竊(ガウセツ)二盗(タウ)ノ徒黨(トタウ)シメ∨ 強盗(ガウタウ)トハアラキ盗人(ヌス―)ナリ。竊盗(せツタウ)トハホソル盗人(ヌス―)ナリ。名(ナ)ヅケテシノビト云也。〔下8ウ五〕
とあって、この標記語の「強竊」の語注記は、「強盗」と「窃盗」の二語一まとめにして表現したことばとしてこれをそれぞれに細分化したうえで「強盗とは、あらき盗人なり。竊盗とはほそる盗人なり。名づけてしのびと云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
強竊(ごうせつ)二盗(じとう)乃徒黨(ととう)強竊二盗徒黨同類多く勢(いきほ)ひ盛んなるを強盗と云勢ひ微(び)にして唯(たゞ)物を盗ミとるを竊盗といふ。〔38ウ一〕
とあって、標記語「強竊」で、その語注記は「同類多く勢ひ盛んなるを強盗と云。勢ひ微にして唯物を盗みとるを竊盗といふ」とする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
強竊(ごうせつ)二盗(じとう)乃徒黨(ととう)強竊二盗徒黨▲強竊二盗ハ日中あらハに狼藉(らうぜき)して奪ひ捕(と)るを強盗(がうとう)といひ人を忍びて密(ひそか)に盗(ぬす)むを竊盗(せつとう)といふ。〔三十一オ一〕
強竊(ごうせつ)の二盗(じとう)の徒黨(ととう)▲強竊二盗ハ日中(ひるなか)あらハに狼藉(らうぜき)して奪(うば)ひ捕(と)るを強盗(がうとう)といひ人を忍びて密(ひそか)に盗(ぬす)むを竊盗(せつたう)といふ。〔五十四ウ五〕
とあって、標記語「強竊」の語注記は、「強竊二盗は、日中あらハに狼藉して奪ひ捕るを強盗といひ、人を忍びて密かに盗むを竊盗といふ」という。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
†Go<xet.ガゥセッ(強窃) 公然と武器を持って略奪する盗賊. ※“窃”に対する説明を欠く.〔邦訳310r〕
とあって、その読みを「カイゾク」とし、標記語「強竊」の意味を「公然と武器を持って略奪する盗賊」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「がうせつ(名)【強竊】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「ごう-せつ【強窃】[名]@強盗と窃盗。力を用いてする盗みと、こっそりする盗み。A「ごうとう(強盗)」に同じ」とし、『庭訓徃来』からの用例引用をここに記載している。
[ことばの実際]
而試逹行家追討事之處、被報云、所勞更不僞、義經之所思者、縱雖爲如強竊之犯人、直欲糺行之《読み下し》而シテ試ミニ行家追討ノ事ヲ達スルノ処ニ、報ゼラレテ云ク、所労更ニ偽ラズ、義経ガ思フ所ハ、縦ヒ強窃(ガウセツ)ノ如キノ犯人タリト雖モ、直ニ之ヲ糺シ行ハント欲ス。《『吾妻鏡』文治元年十月六日の条》
 
 
 
 
2002年6月20日(木)曇りのち雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「海賊(カイゾク)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、
海賊(―ゾク)。〔元亀本92七〕
海賊(―ソク)。〔静嘉堂本114七〕
とあって、別語の標記語「海賊」として、その読みも「カイゾク」で、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々山賊海賊強竊二盗徒黨」〔至徳三年本〕
引率盗賊狼籍之悪黨蜂起于國々山賊海賊強竊二盗徒黨」〔宝徳三年本〕「引率盗賊狼籍之悪黨蜂起于國々山海兩賊(ゾク)強竊二盗徒黨」〔建部傳内本〕
(ソツ)シテ--(ぜキ)--(ホウキ)國_々ヲ|-賊海--(コウゼツ)--(トトウ)」〔山田俊雄藏本〕
盗賊狼籍悪黨‖-于國々-賊海--(コウゼツ)--(トトウ)」〔経覺筆本〕
盗賊狼籍悪黨‖-起于國々-賊海--(コウゼツ)--(トトウ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
海賊同。カイソク。〔黒川本疉字門上89オ三〕
海陸〃白。〃隅。〃濱。〃岳。〃童。〃若。〃藻。〃賊。〃人。〃邊。〃路。〃晏。〃旬。〃道。〃老。〃月。〃雲。〃魚。〃脣。〃松。〃髪。〔卷第三疉字270六〕
とあって、標記語「海賊」の語を収載する。
 室町時代の『下學集』は、
海賊(カイゾク)。〔人倫門40三〕
とあって、標記語「海賊」の語を収載し、語注記は「舟人原より始る」とし、下記に示す『庭訓徃來註』の記載に共通する注記説明ということであろう。次に広本節用集』は、
海賊(カイゾク/ウミ,ヌスヒト)舟人。自始。〔人倫門260五〕
とあって、標記語「海賊」の語を収載し、語注記は「舟人原より始る」とし、下記に示す『庭訓徃來註』の記載に共通する注記説明ということが指摘できるのである。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、
海賊(カイゾク)。〔・人倫門77二〕〔・人倫門76七〕
海賊(カイソク)。〔・人倫門69五〕〔・人倫門82七〕
とあって、標記語「海賊」の語を収載し、語注記を未記載にする。また、易林本節用集』には、
海賊(カイゾク)。〔加部人倫71二〕
とあって、標記語「海賊」を収載し、語注記は未記載にある。
 ここで古辞書における「海賊」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、印度本系統の『節用集』、易林本節用集』及び『運歩色葉集』には標記語「海賊」の語が収載されているのである。そして、語注記としては、広本節用集』だけが『庭訓往来註』との継承性をもった語注記となっていることについて特に注目しておきたい。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
320山賊海賊 自橈原始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「海賊」についての語注記は、「橈原より始るなり」と記載が見える。
 古版『庭訓徃来註』では、
悪黨‖-起于國人山海(カイ)兩賊(ゾク)悪黨(アクタウ)ハ大ナル徒(ト)者也。蜂起トハ蜂(ハチ)ノ起(ヲコ)ル如クト云リ。蜂起(ホウキ)ト書テ。ハチヲコルトヨメリ。蜂(ハチ)ノ如ク起(ヲコ)ルト云心ナリ。蜂ハ邪見(シヤケン)ノ蟲(ムシ)ナリ。人ノ當(アタ)リヲ以テ己(ヲノ)レガ煩(ハツラ)ヒトス。小蟲(コムシ)トイヘトモ進退(シンタイ)シガタシ。結句(ケツク)アヤマタルヽナリ。其如ク下賎(ゲせン)ノ者ヲ上ヘヨリ。其一人ヲ誅討(チウタウ)アレバ。彼等(カレラ)ガ徒黨(トタウ)(ミダ)リニアリテ。國ヲ亂(ミダ)シ賊徒(ソクト)ヲ引發(ヒキヲコ)スルヲ蜂起(ホウ―)トハ云リ。此義治定(ヂ―)スベシ。〔下8ウ三〕
とあって、この標記語の「山海兩賊」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
山海(さんかい)兩賊(りやうぞく)山海兩賊山中にかくれ居て徃来の旅人(りよじん)をなやまするを山賊と云。海上に乗(のり)出して渡海(とかい)の舟人(ふなひと)をかすめるを海賊と云。ある本にハ山賊海賊と書たり。〔38オ六〕
とあって、標記語「山海兩賊」で、その語注記は「山中にかくれ居て徃来の旅人をなやまするを山賊と云ふ。海上に乗り出して渡海の舟人をかすめるを海賊と云ふ。ある本には、山賊海賊と書きたり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
山海(さんかい)兩賊(りやうぞく)山海兩賊▲山海兩賊ハ山中に隠(かく)れ居(い)て旅人(たびゝと)をなやます者と海上を往返(ゆきかへり)して運送(うんそう)の船(ふね)を妨(さまた)げ荷物(にもつ)を奪(うば)ふ者(もの)とをいふ即(すなハち)山賊(さんぞく)海賊(かい―)と也。〔三十ウ八〕
山海(さんかい)の兩賊(りやうぞく)▲山海兩賊ハ山中に隠(かく)れ居(ゐ)て旅人(たびゝと)をなやます者(もの)と海上を往返(ゆきかへり)して運送(うんさう)の船(ふね)を妨(さまた)げ荷物(にもつ)を奪(うば)ふ者(もの)とをいふ即(すなハち)山賊(さんぞく)海賊(かい―)と也。〔五十四ウ四〕
とあって、標記語「山海兩賊」の語注記は、「山海の兩賊は、山中に隠れ居て旅人をなやます者と海上を往き返りして運送の船を妨たげ荷物を奪ふ者とをいふ即はち山賊海賊となり」という。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Caizocu.カイゾク(海賊) Vmino nusubito.(海の賊)劫掠(こうりやく)用武装船,あるいは,海賊.※原文はCosairo,ou Prata. cosairoはcorsarioに同じ.〔邦訳83r〕
とあって、その読みを「カイゾク」とし、標記語「海賊」の意味を「劫掠用武装船,あるいは,海賊」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
かいぞく(名)【海賊】〔山賊に對す〕(一){海上に舟を泛べて、往來の船を劫(おびや)かして、物を 奪ふ盗人。*後漢書、法雄傳「海賊張伯路等、云云、寇濱海九郡」*土左日記、正月廿一日に「海賊 むくいせむと云ふなる事を思ふ上に、海の、又恐(おそろ)しければ」*宇治拾遺、十五、第四條「門部府生 (かどべのふじやう)、云云、千萬の海賊ありとも、今見よといひて、云云」(二)室町時代に、船手、即ち、 水軍、海軍の稱。南北朝の初に、北畠親房卿、伊勢にありて、志摩、熊野邊の海賊を使用し、兵 船を發して、足利方の海邊の城邑を窘められし事、物に見ゆ、是れ等より、海賊の名の、船手、即 ち、海軍に移りしなるべし。*甲陽軍鑑、二十、品第五十五、天正八年四月「北條家より梶原、海賊を出 し候所に、武田方より小濱、間宮、駿河、先方の海賊衆、船を出し、船軍あり」*北條五代記、九二「戦船を 海賊と云ひならはす事」と云ふ一條あり。*武家名目抄、職名、三「船大將、船頭、水主、云云、これを海賊 大將、海賊衆、船奉行、船手衆なども云 ふ」<1-0559-1>
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「かい-ぞく【海賊】[名]@海上を横行して、航行する船舶や、時に沿岸の集落を襲ったりして、財貨を略奪する盗賊。海賊人(かいぞくにん)。A中世の水軍の呼称。海上で活躍する海の領主が結成した無力集団。海賊衆」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
シカルヲ我身タニオサマラスシテ。天下ノ諸人ニヨキ人トモオモハレサセ給ハネハ。山賊海賊強盗窃盗オホクシテ。ツヰニハ国ノホロヒ候也。《『吾妻鏡』正治二年十二月二十八日の条》
 
 
 
 
2002年6月19日(水)霽。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「山賊(サンゾク)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「左」部に、
山賊(―ゾク)異名。〔元亀本268十〕
山賊(―ゾク)異名/白波。〔静嘉堂本306二〕
とあって、別語の標記語「山賊」として、その読みも「サンゾク」で、語注記は「異名(白波)」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
率盗賊狼籍之悪黨蜂起于國々山賊海賊強竊二盗徒黨」〔至徳三年本〕
引率盗賊狼籍之悪黨蜂起于國々山賊海賊強竊二盗徒黨」〔宝徳三年本〕「引率盗賊狼籍之悪黨蜂起于國々山海兩賊(ゾク)強竊二盗徒黨」〔建部傳内本〕
(ソツ)シテ--(ぜキ)--(ホウキ)國_々ヲ|-賊海--(コウゼツ)--(トトウ)」〔山田俊雄藏本〕
盗賊狼籍悪黨‖-于國々-賊海--(コウゼツ)--(トトウ)」〔経覺筆本〕
盗賊狼籍悪黨‖-于國々-賊海--(コウゼツ)--(トトウ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「山賊」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集』は、
山賊(サンゾク)日本世話山盗人(ヤマヌスヒト)ヲ云也。〔人倫門40二〕
とあって、標記語「山賊」の語を収載し、語注記は「日本の世話に山盗人を云ふなり」という。次に広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』また、易林本節用集』には、標記語「山賊」の語を未収載にする。
 ここで古辞書における「山賊」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、広本節用集』、印度本系統の『節用集』、易林本節用集』は、すべて未収載にあるが、『下學集』及び『運歩色葉集』には標記語「山賊」の語が収載されているのである。そして、各々語注記が別に見られるといった辞書継承性を欠いたものとなっていることが知られるのである。この兩古辞書の語注記が何に基づくものかを明らかにせねばなるまい。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
320山賊海賊 自橈原始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「山賊」についての語注記は、「橈原より始るなり」と記載が見える。
 古版『庭訓徃来註』では、
悪黨‖-起于國人山海(カイ)兩賊(ゾク)悪黨(アクタウ)ハ大ナル徒(ト)者也。蜂起トハ蜂(ハチ)ノ起(ヲコ)ル如クト云リ。蜂起(ホウキ)ト書テ。ハチヲコルトヨメリ。蜂(ハチ)ノ如ク起(ヲコ)ルト云心ナリ。蜂ハ邪見(シヤケン)ノ蟲(ムシ)ナリ。人ノ當(アタ)リヲ以テ己(ヲノ)レガ煩(ハツラ)ヒトス。小蟲(コムシ)トイヘトモ進退(シンタイ)シガタシ。結句(ケツク)アヤマタルヽナリ。其如ク下賎(ゲせン)ノ者ヲ上ヘヨリ。其一人ヲ誅討(チウタウ)アレバ。彼等(カレラ)ガ徒黨(トタウ)(ミダ)リニアリテ。國ヲ亂(ミダ)シ賊徒(ソクト)ヲ引發(ヒキヲコ)スルヲ蜂起(ホウ―)トハ云リ。此義治定(ヂ―)スベシ。〔下8ウ三〕
とあって、この標記語の「山海兩賊」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
山海(さんかい)兩賊(りやうぞく)山海兩賊山中にかくれ居て徃来の旅人(りよじん)をなやまするを山賊と云。海上に乗(のり)出して渡海(とかい)の舟人(ふなひと)をかすめるを海賊と云。ある本にハ山賊海賊と書たり。〔38オ六〕
とあって、標記語「山海兩賊」で、その語注記は「山中にかくれ居て徃来の旅人をなやまするを山賊と云ふ。海上に乗り出して渡海の舟人をかすめるを海賊と云ふ。ある本には、山賊海賊と書きたり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
山海(さんかい)兩賊(りやうぞく)山海兩賊▲山海兩賊ハ山中に隠(かく)れ居(い)て旅人(たびゝと)をなやます者と海上を往返(ゆきかへり)して運送(うんそう)の船(ふね)を妨(さまた)げ荷物(にもつ)を奪(うば)ふ者(もの)とをいふ即(すなハち)山賊(さんぞく)海賊(かい―)と也。〔三十ウ八〕
山海(さんかい)の兩賊(りやうぞく)▲山海兩賊ハ山中に隠(かく)れ居(ゐ)て旅人(たびゝと)をなやます者(もの)と海上を往返(ゆきかへり)して運送(うんさう)の船(ふね)を妨(さまた)げ荷物(にもつ)を奪(うば)ふ者(もの)とをいふ即(すなハち)山賊(さんぞく)海賊(かい―)と也。〔五十四ウ四〕
とあって、標記語「山海兩賊」の語注記は、「山海の兩賊は、山中に隠れ居て旅人をなやます者と海上を往き返りして運送の船を妨たげ荷物を奪ふ者とをいふ即はち山賊海賊となり」という。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Sanzocu.サンゾク(山賊) Yamano nusubito.(山の賊)すなわち,Yamadachi.(山立)山林にいる盗賊,または,街道にいる強盗.〔邦訳557l〕
とあって、その読みを「サンゾク」とし、標記語「山賊」の意味を「山の賊すなわち,山立,山林にいる盗賊,または,街道にいる強盗」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
さん-ぞく[名]【山賊】やまだち。山中などに棲みて、行劫(おひはぎ)などする者。後漢書、侯覇傳「即案誅豪猾、分捕山賊、縣中清靜」御成敗式目、追加「令斷海陸盗賊、山賊、海賊、夜討、強盗類事」下學集(文安)上、人倫門「山賊(サンゾク)、日本世話、山盗人(やまぬすびと)を云ふ也」盛衰記、廿、佐殿大場勢汰事「首ヲ並ベ奉テ、冥途ノ御供、仕レ、山賊、海賊シテ死タラバ、瑕瑾、耻辱ナル可シ」 〔0844−3〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「さん-ぞく【山賊】[名]山の中に根拠地をかまえ、旅人や民家などをおそって財物を奪う盗人。山盗人(やまぬすびと)」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
岡崎四郎義實、依罪科、可勤仕鶴岳南御堂等宿直之由、含命數日惱丹府而義實郎從、於筥根山麓、搦進山賊主〈字王藤次〉之間、今日所蒙免許也。《読み下し》岡崎ノ四郎義実、罪科ニ依テ、鶴岡ノ南ノ御堂等ノ宿直ニ勤仕スベキノ由、命ヲ含ムデ、数日丹府ヲ悩マス。而ルニ義実ガ郎従、箱根山ノ麓ニ於テ、山賊主ヲ搦メ進ズルノ〈字ハ王藤次〉間、今日免許ヲ蒙ル所ナリ。《『吾妻鏡』文治四年九月二十一日の条》
 
 
 
 
2002年6月18日(月)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「國々(くにぐに)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、標記語「国」は見えるが、標記語「國々」としては、未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
謀叛反逆凶徒廻籌策率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔至徳三年本〕
謀叛反逆凶徒廻籌策引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
-(ムホン)--(キョウ―)-(チウサク)ヲ-(―ソツ)シテ--(ーぜキ)ノ-シメ-(ホウキ)國_々ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔経覺筆本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「國々」の語は未収載にする。
 室町時代の『下學集広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』また、易林本節用集』には、標記語「國々」の語を未収載にする。
 ここで古辞書における「國々」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』、易林本節用集』は、すべて「國々」の語を未収載にする。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
319謀叛反逆凶徒(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-國々。 盗賊蜂起何式目念比。〔謙堂文庫藏三四右A〕
とあって、標記語を「國々」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
悪黨‖-起于國人山海(カイ)兩賊(ゾク)悪黨(アクタウ)ハ大ナル徒(ト)者也。蜂起トハ蜂(ハチ)ノ起(ヲコ)ル如クト云リ。蜂起(ホウキ)ト書テ。ハチヲコルトヨメリ。蜂(ハチ)ノ如ク起(ヲコ)ルト云心ナリ。蜂ハ邪見(シヤケン)ノ蟲(ムシ)ナリ。人ノ當(アタ)リヲ以テ己(ヲノ)レガ煩(ハツラ)ヒトス。小蟲(コムシ)トイヘトモ進退(シンタイ)シガタシ。結句(ケツク)アヤマタルヽナリ。其如ク下賎(ゲせン)ノ者ヲ上ヘヨリ。其一人ヲ誅討(チウタウ)アレバ。彼等(カレラ)ガ徒黨(トタウ)(ミダ)リニアリテ。國ヲ亂(ミダ)シ賊徒(ソクト)ヲ引發(ヒキヲコ)スルヲ蜂起(ホウ―)トハ云リ。此義治定(ヂ―)スベシ。〔下8ウ二〕
とあって、この標記語の「國々」ではなくして「國人」とし、その語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
國々(くに/\)蜂起(ほうき)(しめ)‖-國々(はち)の巣(す)にさはればこゝよりもかしこよりも飛出てせん方なき物ゆへ所々より起(おこ)り立てふせきとめられぬ事をたとへて蜂起といふ。蜂のことくおこるといふ義なり。是ハゆく處悪人の所々国々に一揆(いつき)したるをいふ。〔38オ六〕
とあって、標記語「國々」でその語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
國々(くに/\)蜂起(ほうき)(しめ)‖-國々。〔三十ウ二〕
(しめ)‖-(ほうき)セ國々(くに/\)ニ。〔54オ二〕
とあって、標記語「國々」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Cuniguni.クニグニ(國々) 国々.⇒Faiquai.〔邦訳167r〕
とあって、その読みを「クニグニ」とし、標記語「國々」の意味を単に「国々」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、この語の見出しは未収載にある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「くに-ぐに【國々】[名]あの国、この国。ほうぼうの国。諸国。各国」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
然者、被尋聞食國々子細、可被改不忠輩歟之由、雖有其沙汰、未被一決《読み下し》然ラズンバ、国国ノ子細ヲ尋ネ聞シ食サレ、不忠ノ輩ヲ改メラルベキカノ由、其ノ沙汰有リト雖モ、未ダ一決セラレズ。《『吾妻鏡』の承元三年十一月二十日の条》
 
 
 
2002年6月17日(月)曇り一時雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「蜂起(ホウキ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「保」部に、
蜂起(ホウキ)。〔元亀本42十〕
蜂起(―キ)。〔静嘉堂本47三〕
蜂起(ホウキ)鋒起(同)。〔天正十七年本上24ウ三〕
蜂起(――)。〔西来寺本〕
とあって、別語の標記語「蜂起」として、その読みも「ホウキ」で、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
謀叛反逆凶徒廻籌策率盗賊狼籍之悪黨蜂起于國々」〔至徳三年本〕
謀叛反逆凶徒廻籌策引率盗賊狼籍之悪黨蜂起于國々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
-(ムホン)--(キョウ―)-(チウサク)ヲ-(―ソツ)シテ--(ーぜキ)ノ-シメ-(ホウキ)國_々ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-于國々」〔経覺筆本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-于國々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』に、
蜂起闕乱部/ホウキ/虜椋ト。〔黒川本疉字・上38ウ一〕
とあって、標記語「蜂起」の語を収載する。室町時代の十巻本伊呂波字類抄』は、未収載にする。
 室町時代の『下學集』は、
蜂起(ホウキ)。〔態藝門76六〕
とあって、標記語「蜂起」の語を収載し、語注記は「或作」形式で「鋒」の字を用いるとしている。次に広本節用集』には、
蜂起(ホウキ/ハチ,ヲコル・タツ)[平・上]或蜂作鋒。〔態藝門104八〕
とあって、標記語「蜂起」の語を収載し、その読みを「ホウキ」とし、語注記に「或●作○」形式で別表記の「鋒起」を示している。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、
蜂起(ホウキ)史記云梵―。〔・言語進退33七〕
蜂起(ホウキ)或鋒―。〔・言語35五〕
蜂起(ホウキ)。〔・言語40三〕
とあって、標記語「蜂起」とし、その読み方を「ホウキ」とし、語注記は弘治二年本が「史記に云く梵―」とし、永祿二年本は、『下學集広本節用集』を継承した「或鋒―」と示している。また、易林本節用集』には、
蜂起(ホウキ)。〔言語33四〕
とあって、標記語「蜂起」の語を収載し、その読みを「ホウキ」とし、語注記は未記載にする。
 ここで古辞書における「蜂起」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』、易林本節用集』は、すべて「蜂起」とし、その語注記のなかで特異なる記述を加えているのが印度本系統弘治二年本節用集』ということになる。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
319謀叛反逆凶徒(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-于國々。 盗賊蜂起何式目念比。〔謙堂文庫藏三四右A〕
とあって、標記語を「蜂起」についての語注記は、「盗賊・蜂起何れも式目に念比と有り」と記載が見える。
 古版『庭訓徃来註』では、
悪黨‖-于國人山海(カイ)兩賊(ゾク)悪黨(アクタウ)ハ大ナル徒(ト)者也。蜂起トハ蜂(ハチ)ノ起(ヲコ)ル如クト云リ。蜂起(ホウキ)ト書テ。ハチヲコルトヨメリ。蜂(ハチ)ノ如ク起(ヲコ)ルト云心ナリ。蜂ハ邪見(シヤケン)ノ蟲(ムシ)ナリ。人ノ當(アタ)リヲ以テ己(ヲノ)レガ煩(ハツラ)ヒトス。小蟲(コムシ)トイヘトモ進退(シンタイ)シガタシ。結句(ケツク)アヤマタルヽナリ。其如ク下賎(ゲせン)ノ者ヲ上ヘヨリ。其一人ヲ誅討(チウタウ)アレバ。彼等(カレラ)ガ徒黨(トタウ)(ミダ)リニアリテ。國ヲ亂(ミダ)シ賊徒(ソクト)ヲ引發(ヒキヲコ)スルヲ蜂起(ホウ―)トハ云リ。此義治定(ヂ―)スベシ。〔下8ウ二〕
とあって、この標記語の「蜂起」の語注記には、「蜂起とは、蜂の起る如くと云へり。蜂起と書きて、ハチヲコルとよめり。蜂の如く起ると云ふ心なり。蜂は、邪見の蟲なり。人の當りを以って己れが煩ひとす。小蟲といへども進退しがたし。結句あやまたるゝなり。其の如く、下賎の者を上へより。其の一人を誅討あれば。彼等が徒黨、猥りにありて、國を亂し賊徒を引き發するを蜂起とは云へり。此の義、治定すべし」と詳細に意義説明を記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
國々(くに/\)蜂起(ほうき)(しめ)‖-于國々(はち)の巣(す)にさはればこゝよりもかしこよりも飛出てせん方なき物ゆへ所々より起(おこ)り立てふせきとめられぬ事をたとへて蜂起といふ。蜂のことくおこるといふ義なり。是ハゆく處悪人の所々国々に一揆(いつき)したるをいふ。〔38オ六〕
とあって、標記語「蜂起」でその語注記は「蜂の巣にさはればこゝよりもかしこよりも飛出てせん方なき物ゆへ所々より起り立てふせぎとめられぬ事をたとへて蜂起といふ。蜂のごとくおこるといふ義なり。是ハゆく處悪人の所々国々に一揆したるをいふ」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
國々(くに/\)蜂起(ほうき)(しめ)‖-于國々。〔三十ウ二〕
(しめ)‖-(ほうき)于國々(くに/\)。〔54オ二〕
とあって、標記語「蜂起」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Fo>qi.ホゥキ(蜂起) Fachi vocoru.(蜂起る) 多くの軍勢が武器を取って打って出ること,または,集結すること.例,Zanto< fo>qisu.(残党所々に蜂起す)残りの軍勢があちこちで戦いに立ち上がった.〔邦訳262r〕
とあって、その読みを「ホウキ」とし、標記語「蜂起」の意味を「多くの軍勢が武器を取って打って出ること,または,集結すること」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ほう-き[名]【起・蜂起】巣をつつけば、蜂の一時に飛び立つ如く、羣り起ること。史記、項羽紀「今君起江東、楚藥起之將、皆爭附君者、以君世世楚將、爲能復立楚之後也」著聞集、一、神祇「山僧この事をききて蜂起、云云、頼壽、良圓兩僧都、蜂起の張本なりとて、勅勘蒙りにけり」 〔1823−3〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「ほう-き【蜂起】[名]@大勢の者がさかんに言いたてること。鋒起。A多くの者が一斉に暴動をおこすこと。B中世、寺院で行なわれた僧の集会。祓(はら)えや清めにかかわって行なわれ、特に人に罪を科する時、あるいは赦免する時に開かれた」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
読み下し》伊勢国阿曽山并熊野山悪党蜂起之間。今日有臨時評定。《『吾妻鏡』寛元二年(1244)年八月廿四日の条》
 
 
 
 
2002年6月16日(日)晴れ一時曇り。名古屋⇒東京世田谷(駒沢)
「悪黨(アクタウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「阿」部に、
悪黨(アクタウ)。〔元亀本158三〕〔静嘉堂本291七〕
とあって、別語の標記語「悪黨」として、その読みも「アクタウ」で、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
謀叛反逆凶徒廻籌策率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔至徳三年本〕
謀叛反逆凶徒廻籌策引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
-(ムホン)--(キョウ―)-(チウサク)ヲ-(―ソツ)シテ--(ーぜキ)ノ-シメ-(ホウキ)國_々ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔経覺筆本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「悪黨」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集』は、標記語「悪黨」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、
悪黨(アクタウ/アシヽ,トモガラ)[去・去]又作惡盗。〔態藝門754八〕
とあって、標記語「悪黨」の語を収載し、その読みを「アクタウ」とし、語注記に「又作○○」形式で別表記の「惡盗」を示している。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、
悪黨(アクタウ)或作惡盗。〔・言語進退202七〕
悪黨(アクタウ)或―盗。〔・言語168四〕
悪黨(アクタウ)又―盗。〔・言語157三〕
とあって、標記語「悪黨」とし、その読み方を「アクタウ」とし、語注記に「或作○○」形式で別表記「惡盗」を記載する。また、易林本節用集』には、
悪僧(アクソウ)―人(ニン)―黨(タウ)。―王(ワウ)。―靈(リヤウ)。―友(イウ)。―瘡(サウ)。―心(シム)。―魔(マ)。〔人倫168四〕
とあって、標記語「悪僧」の語を収載し、冠頭字「惡」の熟語群に「悪黨」の語を収載する。
 ここで古辞書における「悪黨」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』、易林本節用集』は、すべて「悪黨」とし、その語注記に広本節用集』と印度本系統の『節用集』である弘治二年本とが「或作○○」形式による異表記を示している。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
319謀叛反逆凶徒(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々。 盗賊蜂起何式目念比。〔謙堂文庫藏三四右A〕
とあって、標記語を「悪黨」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
悪黨‖-于國人山海(カイ)兩賊(ゾク)悪黨(アクタウ)ハ大ナル徒(ト)者也。蜂起トハ蜂(ハチ)ノ起(ヲコ)ル如クト云リ。蜂起(ホウキ)ト書テ。ハチヲコルトヨメリ。蜂(ハチ)ノ如ク起(ヲコ)ルト云心ナリ。蜂ハ邪見(シヤケン)ノ蟲(ムシ)ナリ。人ノ當(アタ)リヲ以テ己(ヲノ)レガ煩(ハツラ)ヒトス。小蟲(コムシ)トイヘトモ進退(シンタイ)シガタシ。結句(ケツク)アヤマタルヽナリ。其如ク下賎(ゲせン)ノ者ヲ上ヘヨリ。其一人ヲ誅討(チウタウ)アレバ。彼等(カレラ)ガ徒黨(トタウ)(ミダ)リニアリテ。國ヲ亂(ミダ)シ賊徒(ソクト)ヲ引發(ヒキヲコ)スルヲ蜂起(ホウ―)トハ云リ。此義治定(ヂ―)スベシ。〔下8ウ二〕
とあって、この標記語の「悪黨」の注記は「悪黨は、大なる徒者なり」として記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
盗賊(とうそく)狼藉(らうせき)悪黨(あくとう)引率(ゐんそつ)し/盗賊狼籍悪黨引率ハひきつれる事也。ハ物をぬすむ者。ハ人をそこなふものを云。狼藉ハもと狼(おゝかミ)の事にたとへしなり。狼といえる獣物は性(しやう)あらくして物をそこなふ事をいとわす其の一夜臥(ふ)したる所は其邊(ほと)りの草木なと皆ふミちらされて枯果(かれはつ)る也。ゆへに凡そ物の從横(じうわう)に引ちらしけるを狼藉(ろうせき)と云。又人の性あらく人をあやめ物を打破(やふ)りなとするを狼藉ものといふ。こゝの狼藉ハ狼藉者をいえるなり。籍ハふむともしくとも讀。ふミちらす義なり。悪黨とハ凶徒といえるに□る義なし。〔38オ五〕
とあって、標記語「悪黨」でその語注記は「悪黨とハ凶徒といえるに□る義なし」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
盗賊(とうそく)狼藉(らうせき)悪黨(あくとう)引率(ゐんそつ)し/盗賊狼籍悪黨。〔三十ウ二〕
(ゐんそつ)し盗賊(とうそく)狼籍(らうせき)の悪黨(あくとう)。〔54オ二〕
とあって、標記語「悪黨」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Acuto<.アクタゥ(悪党) Axij tomogara.(悪しい党)盗人や追剥など,悪者の仲間,すなわち,悪者の徒党.〔邦訳12r〕
とあって、その読みを「アクタウ」とし、標記語「悪黨」の意味を「盗人や追剥など,悪者の仲間,すなわち,悪者の徒党」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
あく-たう[名]【悪黨】わるもののなかま。悪徒。 東觀奏記「誅惡黨、無網者」吾妻鏡、十九、承元二年七月十五日「柏江入道増西、率五十餘人悪黨入寺領、及田狼藉」 〔0019−1〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「あく-たう【悪黨】[名]@悪事をはたらく者の集団。また、後には一人の場合にもいう。A鎌倉末から室町時代前期に活発な動きを示した、荘園の反領主的な武士・荘民とその集団。B人をののしって呼ぶ言葉」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
読み下し》今日。萩原九郎資盛。同父遠直等。召放所領。被召置其身。是悪党扶持之由。大胡五郎光秀訴申之間。被糺明之処。其過依難遁也。《『吾妻鏡』寛元四年(1246)年二月廿九日の条》
 
 
 
2002年6月15日(土)晴れ。名古屋(名古屋大学国際開発研究所)
「盗賊(タウゾク)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「多」部に、
盗賊(―ゾク)。〔元亀本140十〕
盗賊(タウゾク)。〔静嘉堂本150六〕
盗賊(タウソク)。〔天正十七年本中7オ四〕
とあって、別語の標記語「盗賊」として、その読みも「タウゾク」で、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
謀叛反逆凶徒廻籌策盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔至徳三年本〕
謀叛反逆凶徒廻籌策引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
-(ムホン)--(キョウ―)-(チウサク)ヲ-(―ソツ)シテ--(ーぜキ)ノ-シメ-(ホウキ)國_々ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔経覺筆本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
盗賊。〔卷第四449二〕
とあって、標記語「盗賊」の語を収載する。語注記は未記載にある。
 室町時代の『下學集』は、標記語「盗賊」の語を未収載にする。語注記としては、
庚申(コウシン)此夜盗賊(トウゾク)(ヲコナフ)ニ利。故諸人不シテ(ネフラ)而守也。或夜夫婦行(イン)ヲ則其所姙(ハラム)ノ之子必ミヲ。故夫婦所愼(ツヽシム)夜也。思之。〔時節門33三〕
とあるにすぎない。次に広本節用集』には、
盗賊(タウゾク/ヌスミ,ヌスム)[去・入]。〔人倫門334八〕
とあって、標記語「盗賊」の語を収載し、その読みを「タウゾク」とし、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、
盗賊(―ソク)。〔・人倫99一〕
盗賊(タウゾク)。〔・人倫91八〕
盗賊(タウソク)。〔・人倫83五〕
盗賊(タウゾク)。〔・人倫100五〕
とあって、標記語「盗賊」とし、その読み方を「タウゾク」と「タウソク」とし、その語注記は未記載にある。また、易林本節用集』には、
盗人(タウジン)。〔人倫90二〕
とあって、標記語「盗人」の語を収載し、その読みを「タウジン」とし、標記語「盗賊」の語は未収載にある。
 ここで古辞書における「盗賊」についてまとめておくと、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』、は、すべて「盗賊」が見え、盗賊その語注記が最も詳細な記述を加えているのが印度本系統の『節用集』である弘治二年本ということになり、これを易林本が記述を試みないのは、禁忌な世界が見え隠れするのである。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
319謀叛反逆凶徒(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々。 盗賊蜂起何式目念比。〔謙堂文庫藏三四右A〕
とあって、標記語「盗賊」その語についての語注記は、「盗賊・蜂起何れも式目に念比と有り」という。この注記説明は、『貞永式目』を媒体にこの語を述べているが、古辞書への注記としては、反映されていないことが知られる。
 古版『庭訓徃来註』では、
‖-(インソツ)シ盗賊(タウゾク)山賊ハ山ダチ。海賊(カイソク)ハ又海盗人(ウミヌス―)ナリ。〔下8オ七〕
とあって、この標記語の「盗賊」との語注記には「山賊は、山だち。海賊は、又海盗人なり」と具体的な意義説明を記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
盗賊(とうそく)狼藉(らうせき)悪黨(あくとう)引率(ゐんそつ)し/盗賊狼籍悪黨引率ハひきつれる事也。ハ物をぬすむ者。ハ人をそこなふものを云。狼藉ハもと狼(おゝかミ)の事にたとへしなり。狼といえる獣物は性(しやう)あらくして物をそこなふ事をいとわす其の一夜臥(ふ)したる所は其邊(ほと)りの草木なと皆ふミちらされて枯果(かれはつ)る也。ゆへに凡そ物の從横(じうわう)に引ちらしけるを狼藉(ろうせき)と云。又人の性あらく人をあやめ物を打破(やふ)りなとするを狼藉ものといふ。こゝの狼藉ハ狼藉者をいえるなり。籍ハふむともしくとも讀。ふミちらす義なり。悪黨とハ凶徒といえるに□る義なし。〔38オ七〕
とあって、標記語「盗賊」でその語注記は「ハ物をぬすむ者。ハ人をそこなふものを云ふ」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
盗賊(とうそく)狼藉(らうせき)悪黨(あくとう)引率(ゐんそつ)し/盗賊狼籍悪黨。〔三十ウ二〕
(ゐんそつ)し盗賊(とうそく)狼籍(らうせき)の悪黨(あくとう)を。〔54オ二〕
とあって、標記語「盗賊」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
To<zocu.タゥザク(盗賊) 盗人.〔邦訳674l〕
とあって、その読みを「タゥザク」とし、標記語「盗賊」の意味を単に「盗人」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
たう-ぞく[名]【盗賊】 ぬすびと。どろばう。盗。禮記、月令篇「季秋之月、云云、行冬令則國多盗賊、邊竟不寧、土地分裂」(竟は境なり)〔1195−1〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「とう-ぞく【盗賊】[名]他人の財物を略奪したり破壊したりすること。また、その者。ぬすびと。どろぼう。賊」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
読み下し》三災九厄の病難をのぞく。三災とは盗賊疾病飢饉也。《『吾妻鏡』の建長五(1253)年五月大四日条》
 
 
 
2002年6月14日(金)曇り一時雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「引率(インソツ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、
引率(インゾツ/イサナウ)日本。〔元亀本11二〕
引卒(―ソツ)。〔静嘉堂本2六〕
引卒(―ソツ)日本。〔天正十七年本上3ウ五〕
引率(――)。〔西来寺本〕
とあって、別語の標記語「引率」として、その読みも「インソツ」と「インゾツ」で、語注記は元亀本と天正十七年本に「日本」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
謀叛反逆凶徒廻籌策盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔至徳三年本〕
謀叛反逆凶徒廻籌策引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
-(ムホン)--(キョウ―)-(チウサク)ヲ-(―ソツ)シテ--(ーぜキ)ノ-シメ-(ホウキ)國_々ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔経覺筆本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
引率田舎ト/インソツ。〔黒川本疉字・上10オ七〕
引導〃接。〃汲。〃裾。〃率。〃唱。〔卷第一65四〕
とあって、標記語「引率」の語を収載する。
 室町時代の『下學集』は、標記語「引率」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、
引率(インソツ/ヒク,ムネ・ヒキイル)[上去・入]。〔態藝門186四〕
とあって、標記語「引率」の語を収載し、その読みを「インソツ」とし、語注記は未記載にするそして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、
引率(インゾツ)。〔・言語進退11七〕
引率(―ゾツ)。〔・言語6九〕
引物(インブツ)―率。―級。―攝。―導。〔・言語6一〕
引物(インブツ)―率(ゾツ)。―級(キユウ)。―攝(セツ)。―導。―入。―声。―唱。〔・言語7四〕
とあって、標記語「引率」とし、その読み方を「インゾツ」とし、その語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、
引率(―ゾツ)。〔言語7七〕
とあって、標記語「引率」の語を収載し、その読みを「インゾツ」とし、語注記は未記載にする。
 ここで古辞書における「引率」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』、易林本節用集』は、すべて「引率」とし、その語注記はどれも未記載にある。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
319謀叛反逆凶徒(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々。 盗賊蜂起何式目念比。〔謙堂文庫藏三四右A〕
とあって、標記語を「引率」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
盗賊狼籍悪黨山賊ハ山ダチ。海賊(カイソク)ハ又海盗人(ウミヌス―)ナリ。〔下8オ七〕
とあって、この標記語の「引卒」とし、その語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
盗賊狼籍悪黨引率ハひきつれる事也。盗ハ物をぬすむ者。賊ハ人をそこなふものを云。狼藉ハもと狼(おゝかミ)の事にたとへしなり。狼といえる獣物は性(しやう)あらくして物をそこなふ事をいとわす其の一夜臥(ふ)したる所は其邊(ほと)りの草木なと皆ふミちらされて枯果(かれはつ)る也。ゆへに凡そ物の從横(じうわう)に引ちらしけるを狼藉(ろうせき)と云。又人の性あらく人をあやめ物を打破(やふ)りなとするを狼藉ものといふ。こゝの狼藉ハ狼藉者をいえるなり。籍ハふむともしくとも讀。ふミちらす義なり。悪黨とハ凶徒といえるに□る義なし。〔38オ七〕
とあって、標記語「引率」でその語注記は「引率ハひきつれる事なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
盗賊(とうぞく)狼藉(らうぜき)(の)惡黨(あくとう)引率(いんぞつ)盗賊狼籍悪黨。〔三十ウ二〕
(いんぞつ)し盗賊(とうぞく)狼籍(らうぜき)の悪黨(あくとう)を。〔54オ二〕
とあって、標記語「引率」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Inzot.インゾツ(引率) 一緒に連れて行くこと.〔邦訳337l〕
とあって、その読みを「インゾツ」とし、標記語「引率」の意味を「一緒に連れて行くこと」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
いん-そつ[名]【引率】 ひきゐること。 狂言記、文藏「三千餘騎を引率し」〔0212−5〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「いん-そつ【引率】[名](古くは「いんぞつ」とも)多くの人を引き連れて行くこと。率いること」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
仍今日木曽冠者義仲、引率北陸道軍士等、於信濃國筑磨河邊、遂合戰、及晩、永用敗走〈云云〉《読み下し》仍テ今日木曽ノ冠者義仲、北陸道ノ軍士等ヲ引率シテ、信濃ノ国筑磨河ノ辺ニ於テ、合戦ヲ遂ゲ、晩ニ及ンデ、長茂敗走スト〈云云〉。《『吾妻鏡』寿永元年十月九日の条》
 
 
 
2002年6月13日(木)曇り一時雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「籌策(チウサク)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「地」部に、
籌策(チウサク)。〔元亀本65四〕〔静嘉堂本76四〕〔天正十七年本上38オ八〕
籌策(――)。〔西来寺本113五〕
とあって、別語の標記語「籌策」として、その読みも「チュウサク」で、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
謀叛反逆凶徒廻籌策率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔至徳三年本〕
謀叛反逆凶徒廻籌策引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
-(ムホン)--(キョウ―)-(チウサク)ヲ-(―ソツ)シテ--(ーぜキ)ノ-シメ-(ホウキ)國_々ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔経覺筆本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
籌策(ハカリコト,チウシヤク)。〔黒川本疉字・上56ウ二〕
籌策〃量。〃數。〔卷第一475六〕
とあって、標記語「籌策」の語を収載する。語注記は未記載にある。
 室町時代の『下學集』は、
籌策(チウサク)。〔態藝門89五〕
とあって、標記語「籌策」の語を収載し、語注記は未記載にする。次に広本節用集』には、
籌策(チウサク/ハカリコト,ムチウツ・ハカリコト)[平・入]。或作中作非也。〔態藝門186四〕
とあって、標記語「籌策」の語を収載し、その読みを「チュウサク」とし、語注記に「或作○○非也」形式で別表記の「中作」を示したうえで「非表記」としている。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、
中作(チウサク)俗用此字大非也。籌策(同)中分用捨義。〔・言語進退51八〕
籌策(―サク)。〔・言語54三〕
籌策(チウサク)―量。又中作非也。〔・言語49三〕
籌量(チウリヤウ)―束。〔・言語57八〕
とあって、標記語「籌策」とし、その読み方を「チウサク」とし、弘治二年本だけに「中分用捨の義」とその語注記が見られる。※天正十八年本節用集』にもこの語注記が見える。また、易林本節用集』には、
籌策(チウサク)中分。〔言語51七〕
とあって、標記語「籌策」の語を収載し、その読みを「チウサク」とし、語注記は「中分」とだけ記載する。
 ここで古辞書における「籌策」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』、易林本節用集』は、すべて「籌策」とし、その語注記が最も詳細な記述を加えているのが印度本系統の『節用集』である弘治二年本ということになり、これと冠頭注記が共通するのが易林本ということになる。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
319謀叛反逆凶徒(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々。 盗賊蜂起何式目念比。〔謙堂文庫藏三四右A〕
とあって、標記語を「籌策」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
(メクラ)シ籌策(チウサク)ヲトハ。馬ニ鞭(フチ)(ウツ)トヨム也。去(サレ)ハ不成事ヲ色々廻(メクラ)ス‖調法(テウハウ)チウサクト云ナリ。〔下8オ六〕
とあって、この標記語の「籌策」ということだけではなく、「籌策を廻らす」とし、その語注記には「馬に鞭打つと読むなり。去れば、成らざる事に色々調法を廻らすチウサクと云ふなり」と具体的な意義説明を記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
籌策(ちうさく)(めく)らし籌策籌も策もはかりことゝ訓(くん)す。〔37ウ七〕
とあって、標記語「籌策」でその語注記は「籌も策もはかりごとゝ訓ず」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
籌策(ちうさく)(めぐ)らし籌策。〔三十ウ二〕
(めぐら)し籌策(ちうさく)を。〔54オ二〕
とあって、標記語「籌策」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Chu'sacu.チュゥサク(籌策) 策略.例,Chusacuuo megurasu.(籌策をめぐらす)籌策をめぐらす,または,ある事を企て策する.〔邦訳131l〕
Chu'sacu.チュゥサク(籌策・中作) 人の仲を取り持つとか,その他の事をするための仲介,あるいは,仲裁.〔邦訳131l〕
とあって、その読みを「チュゥサク」とし、標記語「籌策」の意味を「籌策をめぐらす,または,ある事を企て策する」と「人の仲を取り持つとか,その他の事をするための仲介,あるいは,仲裁」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ちう-さく[名]【籌策】 はかりごと。計略。籌算。 史記、高祖紀、「高祖曰、云云、夫運籌策帷帳之中、決勝於千里之外、吾不子房」 王粲詩「籌策運帷幄、一由我聖君」高杜甫詩「三分割據紆籌策、萬古雲霄一羽毛」 太平記、十二、公家一統政道事「今四海一時ニ定マッテ、萬民誇無事化、依陛下休明徳、由微臣籌策功矣」〔1257−5〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「ちゅう-さく【籌策】[名](「籌」ははかるの意)@はかりごと。計略。策略。籌算。A両者をとりもつために、仲に立つこと。仲裁。仲介」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
入道源三位敗北之後、可被追討國々源氏條康信申状不可被處浮言之間、遮欲廻平氏追罰籌策読み下し》入道源三位敗北スルノ後、国国源氏ヲ追討セラルベキノ条、康信ガ申状、浮言ニ処セラルベカラザルノ間、遮ツテ平氏追罰ノ籌策ヲ廻ラサント欲ス(*追討)。《『吾妻鏡』治承四年四月二十七日の条》
 
 
 
2002年6月12日(水)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「凶徒(キヨウト)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「毛」部に、
凶徒(―ト)。〔元亀本283七〕
凶徒(キヨウト)。〔静嘉堂本324七〕
とあって、別語の標記語「凶徒」として、その読みも「キヨウト」で、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
謀叛反逆凶徒廻籌策率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔至徳三年本〕
謀叛反逆凶徒廻籌策引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
-(ムホン)--(キョウ―)-(チウサク)ヲ-(―ソツ)シテ--(ーぜキ)ノ-シメ-(ホウキ)國_々ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
謀叛反逆凶徒(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔経覺筆本〕
謀叛反逆凶徒(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「凶徒」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集』は、
凶徒(ケウト)。〔態藝門75七〕
とあって、標記語「凶徒」の語を収載し、語注記は未記載にする。次に広本節用集』には、
匈徒(キヨウト/ヱビス,トモガラ)[○・平]。〔態藝門839五〕
兇徒(キヨウト)逆儔(ケキチウ)モ-(カンジユ)天休(テンキウ)ニ大唐守興頌。〔態藝門839六〕
とあって、標記語「匈徒」と「兇徒」の二語を収載し、その読みを「キヨウト」とし、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、
凶徒(ケウト)。〔・人倫173二〕〔・言語進退175五〕
凶徒(ケウド)。〔・人倫142四〕
凶害(ケウガイ)―悪。―賊(ソク)―徒(ド)。〔・言語144七〕
凶徒(ケウド)。〔・人倫132一〕
凶害(ケウガイ)―悪。―賊。―徒。〔・言語134四〕
とあって、標記語「凶徒」とし、その読み方を「ケウト」「ケウド」とし、人倫門及び言語門双方にこの語を収載しているのが特徴となっている。語注記はいずれも未記載にする。また、易林本節用集』には、
凶徒(ケウト)。〔言辞147七〕
とあって、標記語「凶徒」の語を収載し、その読みを「ケウト」とし、語注記は未記載にする。
 ここで古辞書における「凶徒」についてまとめておくと、『色葉字類抄』はこの語を未収載にし、『下學集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』、易林本節用集』は、すべて「凶徒」とし、むしろ、広本節用集』だけが「匈徒」「兇徒」の語をもって収載し、その表記に異なりがあることが伺えるのである。このように表記とさらにはその読みが「キヨウト」「キョウド」「ケウト」と異なった収載をしていることに注目視しておきたい。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
319謀叛反逆凶徒(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々。 盗賊蜂起何式目念比。〔謙堂文庫藏三四右A〕
とあって、標記語を「凶徒」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
反逆(ホンキヤク)ノ凶徒(ケウト)トハ。吉(ヨキ)事ヲソムキ悪(アシ)キコトヲ。タヨルモノナリ。〔下8オ六〕
とあって、この標記語を「凶徒」とし、その語注記は前の「反逆」をも含むかたちで「吉き事ヲソムキ、悪しきことをたよるものなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
謀叛(むほん)反逆(ほんきやく)凶徒(けうと)謀叛反逆之凶徒。謀叛ハそむく事をはかると讀。反逆ハそむきさからふと讀。皆上をなひかしろにして民をしいたけ国を奪(うはゝ)んなとゝ企(くわたつ)をいふ也。凶徒ハあしき奴原(やつはら)といふ事なり。〔37ウ七〕
とあって、標記語「凶徒」でその語注記は「凶徒は、あしき奴原といふ事なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
謀叛(むほん)反逆(ほんきやく)凶徒(けうと)謀叛反逆凶徒凶徒ハあしきともがらと訓(くん)ず。〔三十ウ六〕
謀叛(むほん)反逆(ほんぎやく)(の)凶徒(きようと)凶徒ハあしきともがらと訓(くん)ず。〔53ウ六〕
とあって、標記語「凶徒」の語注記は、「凶徒は、あしきともがらと訓ず」とする。注釈書の読みは「ケウト」と「キョウト」と両者ともに用いられ、古辞書『下學集』、『運歩色葉集』、印度本系統『節用集』や易林本に共通する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Qeo>to.キョウト(凶徒) すなわち,Axij itazzuramono.(凶しい徒者) 悪い者,無礼な者,癖の悪い者,など.§Cunino qeo>tora.(国の凶徒ら)国内に居る邪悪な者どもや浮浪者ら.〔邦訳489l〕
とあって、その読みは「キョウト」し、標記語「凶徒」の意味を「悪い者,無礼な者,癖の悪い者,など」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
きョう-と[名]【凶徒・兇徒】 惡漢(わるもの)。惡黨。謀反人。 吾妻鏡、一、治承四年九月三日「令味彼凶徒之輩」〔0500−2〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「きょう-と【凶徒】[名](「きょうど」とも)人殺し、強盗、むほんなどの悪行を働く者、また、その仲間。悪者。悪党。悪漢」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解《『古事記』(712年)序》
清盛法師、并宗盛等、以威勢起凶徒、亡國家惱亂百官萬民、虜掠五畿七道、幽閇皇院、流罪公臣、斷命流嶋、沈淵込樓、盗財領國奪官授職、無功許賞、非罪配過或召釣於諸寺之高僧、禁獄於修學僧徒、或給下於叡岳絹米、相具謀叛粮米、斷百王之跡、切一人之頭、違逆帝皇、破滅佛法、絶古代者也《読み下し》清盛法師、并ニ宗盛等、威勢ヲ以テ凶徒ヲ起コシ、国家ヲ亡ボシ百官万民ヲ悩乱シ、五畿七道ヲ虜掠シ、皇院ヲ幽閉シ、公臣ヲ流罪シ、命ヲ断チ島ニ流シ(*身ヲ流シ)、淵ニ沈メ楼ニ込メ、財ヲ盗ミ国ヲ領シ官ヲ奪ツテ職ニ授ケ、功無キニ賞ヲ許シ、罪非ザルニ過ニ配シ、或ハ諸寺ノ高僧ヲ召シ約メ、修学ノ僧徒ヲ禁獄シ、或ハ叡岳ノ絹米ヲ給下シ、謀叛ノ糧米ニ相ヒ具ヘ、百王ノ跡ヲ断チ、一人ノ頭ヲ切リ、帝皇ニ違逆シ、仏法ヲ破滅シ、古代ヲ絶セル者ナリ。《『吾妻鏡』治承四年四月二十七日の条》
シテツレ二人「さても義経兇徒に準ぜられ。既に討手向ふと聞えしかば。小船に取り乗り。渡辺神崎より押し渡らんとせしに。海路心に任せず難風吹いて。もとの地に着きし事。天命かと思えば。科なかりしも。《謡曲『二人静』》
 
 
 
2002年6月11日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
反逆(ハンゲキ・ギヤク)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「保」部に、
謀逆(―ギヤク)。〔元亀本43八〕
謀逆(―ゲキ)。〔静嘉堂本48五〕
謀逆(―キヤク)。〔天正十七年本上25オ五〕
とあって、別語の標記語「謀逆」として、その読みも「ホウギャク」「ホウゲキ」で、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
謀叛反逆凶徒廻籌策率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔至徳三年本〕
謀叛反逆凶徒廻籌策引率盗賊狼籍之悪黨令蜂起于國々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
-(ムホン)--(キョウ―)-(チウサク)ヲ-(―ソツ)シテ--(ーぜキ)ノ-シメ-(ホウキ)國_々ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔経覺筆本〕
謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「反逆」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集』そして、標記語「反逆」の語は未収載にする。次に広本節用集』には、
反逆(ハンケキ/ソムク・クツガヘス,サカサマ)[平・入]。〔態藝門66四〕
(ヨ)ノ(ミダルヽ)(トキ)ハ叛逆(ハンケキ)(ナル)王澤(ワウタク)(ツクル)(トキ)ハ盟誓(メイセイ)(アイ)誅伐(チウハツ)ス三畧。〔態藝門321六〕
とあって、標記語「反逆」と「叛逆」の語を収載し、その読みを「ハンケキ」とし、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、
返逆(ホンギヤク)謀判義。〔・言語進退34一〕
返逆(ホンギヤク)。〔・言語36六〕
返逆(ホンキヤク)。〔・言語33三〕〔・言語40一〕
とあって、標記語「返逆」とし、その読み方を「ホンギャク」としていて、語注記は弘治二年本だけに「謀叛{判}の義」とある。また、易林本節用集』には、
叛逆(ホンギヤク)。〔言辞33六〕
とあって、標記語「叛逆」の語を収載し、その読みを「ホンギャク」とし、語注記は未記載にする。
 ここで古辞書における「反逆」についてまとめておくと、広本節用集』のみがこの「反逆」の語を収載し、印度本系統の『節用集』は、すべて「返逆」、易林本節用集』が「叛逆」、『運歩色葉集』に至っては「謀逆」と読みも表記も大いに異なった収載をしていることに注目視しておきたい。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
319謀叛反逆凶徒廻(メ−)シ籌策盗賊狼籍悪黨‖-起于國々。 盗賊蜂起何式目念比。〔謙堂文庫藏三四右A〕
とあって、標記語を「反逆」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
反逆(ホンキヤク)凶徒(ケウト)トハ。吉(ヨキ)事ヲソムキ悪(アシ)キコトヲ。タヨルモノナリ。〔下8オ六〕
とあって、この標記語を「反逆」とし、その語注記は次の「凶徒」をも含むかたちで「吉き事ヲソムキ、悪しきことをたよるものなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
謀叛(むほん)反逆(ほんきやく)凶徒(けうと)謀叛反逆之凶徒。謀叛ハそむく事をはかると讀。反逆ハそむきさからふと讀。皆上をなひかしろにして民をしいたけ国を奪(うはゝ)んなとゝ企(くわたつ)をいふ也。凶徒ハあしき奴原(やつはら)といふ事なり。〔37ウ七〕
とあって、標記語「反逆」でその語注記は「反逆は、そむきさからふと讀む。皆、上をなひがしろにして民をしいたげ、国を奪はんなどゝ企たつをいふなり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
謀叛(むほん)反逆(ほんきやく)凶徒(けうと)謀叛反逆之凶徒反逆ハそむき逆(さか)ふ也。下として上に從(したが)ハざるをいふ。〔三十ウ六〕
謀叛(むほん)反逆(ほんぎやく)(の)凶徒(きようと)反逆ハそむき逆(さか)ふ也。下として上に從(したが)ハさるをいふ。〔53ウ六〕
とあって、標記語「反逆」の語注記は、「反逆はそむき逆ふなり。下として上に從がはざるをいふ」とする。注釈書の読みはすべて「ホンギャク」とし、古辞書印度本系統『節用集』や易林本に共通する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Fonguiacu.l,fongueqi.ホンギャク.または,ホンゲキ(叛逆) Somuqu sacaxima.(叛く逆) 謀反.〔邦訳260l〕
とあって、その読みは「ホンギャク」と「ホンゲキ」とし、標記語「反逆」の意味を単に「謀反」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ほん-ぎゃく[名]【叛逆】はんぎゃく(反逆)に同じ。 林逸節用集「反逆、ホンギヤク」 易林本節用集(慶長)上、言辞門「叛逆、ホンギヤク」〔1854−3〕
はん-ぎゃく[名]【反逆・畔逆・叛逆】 そむきさからふこと。むほんを起すこと。 史記、平津侯傳「今諸侯有畔逆之計、此皆宰相奉職不稱」 通典(唐、杜佑)「北齊文宣帝受禪、列重罪十條、一曰、反逆、云々」〔1621−3〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「ほん-ぎゃく【反逆】[名](「ほん」は「叛」の慣用音)そむきさからうこと。反逆。むほん。はんぎゃく。ほんげき」、「はん-ぎゃく【反逆】[名]国や主人などにそむきさからうこと。また、世間一般の風潮ややり方にさからうこと。むほん。ほんぎゃく」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は「はんぎゃく」のほうで記載している。
[ことばの実際]
平治、信頼卿、反逆之時、依 院宣、追討之間、義朝朝臣、依爲其縁坐、有自然事《読み下し》平治ニ、信頼卿、反逆ノ時、院宣ニ依テ、追討スルノ間、義朝ノ朝臣、其ノ縁坐タルニ依テ、自然ノ事有リ。《『吾妻鏡』の寿永三年二月二十日条》
其詞云、北條四郎、比企掃部允等、爲前武衛於大將軍、欲顯叛逆之志者讀終、忠清云、斯事絶常篇《読み下し》其ノ詞ニ云ク、北条ノ四郎、比企ノ掃部ノ允等ノ武衛ヲ大将軍トシテ、叛逆(ホンギヤク)ノ志ヲ顕サント欲ス、テイレバ、読ミ終ハツテ、忠清ガ云ク、斯ノ事常篇ニ絶ヘタリ。《『吾妻鏡』の治承四年八月九日条》※両表記の用例を有するが、それぞれ使い分けがなされているかを検討しておく必要があろう。
此天皇ハ、壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆之後、外舅内大臣宗盛、源氏ノ武士東國北陸等セメノボリシカバ、城ヲ落テ西國ヘグシマイラセテ後、終ニ元暦二年三月廿四日ニ長門國モジノ關ダムノ浦ニテ、海ニ入テ失サセ給ケリ。《慈円『愚管抄』卷第二》
 
 
 
2002年6月10日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
(くはだ・つ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、
(クハタツ)。〔元亀本198八〕
(クワタツ)。〔静嘉堂本225六〕〔天正十七年本中42オ五〕
とあって、標記語「」の読みは「くはたつ」と「くわたつ」で、その語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
抑既属静謐之間為鵜鷹逍遥欲参入候處」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
抑既(ステ)ニ(ゾク)スル-(せイヒツ)之間為鵜_鷹逍-(セウヤウ)ノント-_」〔山田俊雄藏本〕
抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入」〔経覺筆本〕
抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで、山田俊雄藏本が「令」の字で記載がなされていることが異なりである。
 古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
(キ)クハタツ/去智反。〔黒川本・辞字中78オ四〕
クハタツ/―望也。〔卷第六・辞字425五〕
とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の『下學集』には、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』には、
(クワタツ/)[上](同)[去]。〔態藝門551一〕
とあって、標記語「」と「」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、
(クワタツル)(同)。〔・言語進退160七〕
(クハタツ)加。跂。〔・言語133二〕
(クワタツ)加。跂。〔・言語122三〕
(クハタツル)加。跂。〔・言語148五〕
とあって、弘治二年本では標記語「」と「」の語を収載し、他写本は、標記語を「」として、語注記に「加」「跂」を収載する。読みについても「くはたつ」「くわたつ」「くわたつる」「くはたつる」それぞれ異なりを見せている。また、易林本節用集』には、
(クハタツ)。〔言辞135五〕
とあって、標記語「」は、読みを「くはたつ」とし、語注記を未記載にする。
 ここで古辞書における「」についてまとめておくと、広本節用集』及び印度本系統の『節用集』、そして『運歩色葉集』及び易林本節用集』の古辞書に「」の語を収載しているが、『下學集』がこの語を未収載にしていることが注目しておきたいことになる。そして、読みも第三拍めを清音表記としている。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
318抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入 仁王卅七代孝徳天王時始也。曰、嶋津浮世篝火仁王十七代仁徳天王御悩時以相者相者曰、河内国片野三足。彼雉奉悩 之由申也。就其唐岱山道清頼云者鷹使 天下流布。帝遣シテ保昌相傳。天竺摩訶陀国人也。佛檀婆羅蜜砌、鷹鴿来科(ハカル)義也。其 後清頼鷹有時、巣毎日 見之不審也。子在巣。其子生長シテ之 気之去ルコト 巣一尺之ニシテ而養子也。此養鳥猛悪也。謀之使也。故 呼一尺鷹科保昌傳来使‖∨彼雉也。逍遥自得云也。〔謙堂文庫藏 三三左E〜三四右A〕
とあって、標記語を「」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
(クワタテ)ント参入(サン―)ヲ謀叛(ムホン)トハ。アトモナキ事ヲ巧(タクミ)出スヲ謀叛(ムホン)ト云フナリ。〔下8オ五・六〕
とあって、この標記語を「」とし、その語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
参入(さんにう)を(くわた)てはんと(ほつ)するの(ところ)スル参入ント。こゝに言こゝろハ謹のこしもはや静まりたるゆへ鷹狩川狩なんとのあそひのため其元へまいらハやと思ひ立たりしにとなり。〔37ウ五〕
とあって、標記語「」でその語注記はなく、総体の解釈が記載されている。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
(う)(たか)逍遥(せうよう)の(ため)に参入(さんにふ)を(くはだ)てんと(ほつ)し(さふら)ふの(ところ)鵜鷹逍遥参入逍遥ハ鵜(う)を放(はな)ちて魚(うを)をとり鷹(たか)を放ちて鳥(とり)をとる。共に山川に臨(のぞ)んで心のまゝにかけめくりあそぶをいふ。〔三十ウ一〕
(ため)に(う)(たか)逍遥(せうえう)の(ほつ)し(くはだ)てんと参入(さんにふ)を(さふら)ノ(ところ)逍遥ハ鵜(う)を放(はな)ちて魚(うを)をとり鷹(たか)を放ちて鳥(とり)をとる。共に山川に臨(のぞん)で心(こゝろ)のまゝにかけめぐりあそふをいふ。〔53ウ六〕
とあって、標記語「」の語注記は、未記載にする。ここで現代と同じく「くはだつ」と第三拍めを濁音表記している。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Cuuatate.クワタテ(企) 発端,計画,奸計,などの意.〔邦訳175l〕
とあって、読みは「くわたて」とやはり第三拍めを清音表記とし、標記語を「」の意味を「発端,計画,奸計,などの意」と説明している。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
くは-だつ[他動、下二]【企】〔足趾(くはびら)立つの中略(窺狙(うかがひねら)ふ、うかねらふ。かしこみつく、かしづく)馬の後脚の曲肘(ふし)を、くはゆぎと云ふも、足趾(くはびら)歩(あゆぎ)の約略なるべし〕(一)踵(くびす)を立つ。踵(かかと)を擧(あ)ぐ。つまだつる。せのびする。 禮記、檀弓、上篇「不至焉者、跂(クハダテ)テ而及之」注「跂、擧踵望也」 醫心方、廿七35、「男夫勿(クハダツル)井中、今古大忌」(二)跂てて望む意より轉じて、爲遂(しと)げむと 思ひ立つ。もくろむ。企圖 、四十九、東屋15「かしこく思ひくはだてられけれど、もはら本意(ほい)なし」(是れは、鍬立つにて、土木の鍬初(くははじめ)の意の語なりと云ふ説あれど、いかが)〔0540−3〕
くはだて[名]【企】 くはだつること。思ひ立つこと。もくろみ。企圖 十訓抄、中、第六、十七條「養永が身を賣し志、郭巨が子を埋むくはだて、とりどり也」〔0540−3〕
くはだて[名]【企】 前前條の語の口語。〔0540−3〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「くわ-だ・てる【】[他タ下一](古くは「くわたつ」。足をつまだてる意の「くわたつ」から転じた語)@もくろむ。思い立つ。計画する。A物事を実行する。また、実行しようとする。」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
造意、已似有別儀《読み下し》造意ノ、已ニ別儀有ルニ似リ。《『吾妻鏡』の治承四年九月三日条》
私乎トハナンゾ。私ニクワタツル事ガアリゲナト云ゾ。謀反ヲ起スカナンゾセウトスルゲナト云心ゾ。《『史記抄』(1477年)卷第十一・子胥》
 
 
 
2002年6月9日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川→駒沢)
「参入(サンニウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「佐」部に、
参入(―ニウ)。〔元亀本267十〕〔静嘉堂本304六〕
とあって、標記語「参入」の語注記は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日日の状に、
抑既属静謐之間為鵜鷹逍遥欲企参入候處」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
抑既(ステ)ニ(ゾク)スル-(せイヒツ)之間為鵜_鷹逍-(セウヤウ)ノント-_」〔山田俊雄藏本〕
抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入」〔経覺筆本〕
抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
参入サンニウ。〔黒川本・疉字下43オ四〕
参詣〃啓。〃拝。〃進。〃洛。〃陣。〃内。〃入。〃仕。〃期。〔卷第十・疉字444二〕
とあって、標記語「参入」の語を収載する。
 室町時代の『下學集』には、標記語「参入」の語は未収載にする。次に広本節用集』には、
参入(サンニフ/マイル,ジフ・イル)[平・入]。〔態藝門784六〕
とあって、標記語「参入」の語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、
参入(サンネウ)。〔・言語進退214四〕
参會(サンクハイ)―詣(ケイ)。―禅(ぜン)。―暇(カ)。―斈(ガク)。―篭(ロウ)。―賀(カ)―入(ニウ)。―上(ジヤウ)。―謁(エツ)。―内(ダイ)。―拝(ハイ)。―决(ケツ)/―扣(コウ)。―謝(ジヤ)/―社(シヤ)。〔・言語178三〕
参會(――)―詣。―禅。―暇。―斈。―篭。―賀。―入。―上/―謁。―内。―拝。―决。―扣。―謝。―社。〔・言語167四〕
とあって、標記語「参入」の語を収載するのは弘治二年本で、他写本は、標記語を「参會」にして、冠頭字「参」の熟字群として「参入」の語を収載する。読みについても弘治二年本が「サンネウ」と連声読みで記載している。また、易林本節用集』には、
参會(サンクワイ)―列(レツ)。―候(コウ)。/―社(シヤ)。―洛(ラク)。―仕(シ)。―拝(ハイ)。―謁(エツ)。―賀(カ)。―籠(ロウ)/―詣(ケイ)。―内(ダイ)。―上(ジヤウ)。―向(カン)。―集(シフ)。―著(チヤク)。―宮(グウ)。〔言辞180四〕
とあって、標記語「参會」は、印度本系『節用集』と同じだが、「参」の熟字群として「参入」の語を未収載にする。
 ここで古辞書における「参入」についてまとめておくと、広本節用集』及び印度本系統の『節用集』、そして『運歩色葉集』の古辞書に「参入」の語を収載しているが、『下學集』及び易林本節用集』がこの語を未収載にしていることがここでは注目しておきたいことになる。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
318抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入 仁王卅 七代孝徳天王時始也。曰、嶋津浮世篝火仁王十七代仁 徳天王御悩時以相者相者曰、河内国片野三足。彼雉奉悩 之由申也。就其唐岱山道清頼云者鷹使 天下流布。帝遣シテ保昌相傳。 天竺摩訶陀国人也。佛檀婆羅蜜砌、鷹鴿来科(ハカル)義也。其 後清頼鷹有時、巣毎日 見之不審也。子在巣。其子生長シテ之 気之去ルコト 巣一尺之ニシテ而養子也。此養鳥猛悪也。謀之使也。故 呼一尺鷹科保昌傳来使‖∨彼雉也。逍遥自得云也。〔謙堂文 庫藏 三三左E〜三四右A〕
とあって、標記語を「参入」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
(クワタテ)ント参入(サン―)ヲ謀叛(ムホン)トハ。アトモナキ事ヲ巧(タクミ)出スヲ謀叛(ムホン)ト云フナリ。〔下8オ五・六〕
とあって、この標記語を「参入」とし、その語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
参入(さんにう)を(くわた)てはんと(ほつ)するの(ところ)スル参入ント。こゝに言こゝろハ謹のこしもはや静まりたるゆへ鷹狩川狩なんとのあそひのため其元へまいらハやと思ひ立たりしにとなり。〔37ウ五〕
とあって、標記語「参入」でその語注記はなく、総体の解釈が記載されている。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
(う)(たか)逍遥(せうよう)の(ため)に参入(さんにふ)(くはだ)てんと(ほつ)し(さふら)ふの(ところ)鵜鷹逍遥参入逍遥ハ鵜(う)を放(はな)ちて魚(うを)をとり鷹(たか)を放ちて鳥(とり)をとる。共に山川に臨(のぞ)んで心のまゝにかけめくりあそぶをいふ。〔三十ウ一〕
(ため)に(う)(たか)逍遥(せうえう)の(ほつ)し(くはだ)てんと参入(さんにふ)(さふら)ノ(ところ)逍遥ハ鵜(う)を放(はな)ちて魚(うを)をとり鷹(たか)を放ちて鳥(とり)をとる。共に山川に臨(のぞん)で心(こゝろ)のまゝにかけめぐりあそふをいふ。〔53ウ六〕
とあって、標記語「参入」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語を「参入」の語は未収載にある。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
さん-にふ[名]【參入】參(まゐ)り、入ること。まうのぼること。參上。 江家次第、一、元日節會「具笏紙參入」 盛衰記、三十九、長光寺事「來詣、參入之類、散花、合掌之輩」〔0849−1〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「さん-にゅう【参入】[名]@高貴の人の所へまいること。はいって行くこと。参上。A加わること。参加すること」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
數月恐欝、參入之由申《読み下し》数月ノ恐欝ヲ散ゼンガ為ニ、参入スルノ由之ヲ申ス。《『吾妻鏡』の治承四年六月二十七日条》
 
 
 
2002年6月8日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「逍遥(セウヤウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「勢」部に、
逍遥(せウユウ)。〔元亀本353十〕
逍遥(――)。〔静嘉堂本429六〕
とあって、標記語「逍遥」の語注記は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
抑既属静謐之間為鵜鷹逍遥欲企参入候處」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
抑既(ステ)ニ(ゾク)スル-(せイヒツ)之間為鵜_鷹-(セウヤウ)ント-_」〔山田俊雄藏本〕
抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入」〔経覺筆本〕
抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
逍遥――ト/セウエウ。〔黒川本・疉字下105ウ一〕
逍遥。〔卷第十・疉字466一〕
とあって、標記語「逍遥」の語を収載する。
 室町時代の『下學集』には、標記語「逍遥」の語は未収載にする。次に広本節用集』には、
逍遥(せウヨウ)[平・平]樂也。自得――。〔態藝門1095七〕
とあって、標記語「逍遥」の語注記には「樂なり。自得逍遥」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、
逍遥(セウヨウ)也。〔・言語進退267一〕 逍遥(シヨウヨウ)。〔・言語進退247五〕
逍遥(セウヨウ)樂也。自得――。〔・言語228一〕
逍遥(セウヨウ)樂也。自得――。〔・言語214六〕
とあって、標記語「逍遥」の語を収載し、語注記は「樂なり。自得逍遥」とあって、広本節用集』に共通する。ただ、弘治二年本が簡略化により「樂」を「薬」の字にして誤表記となっている。また、易林本節用集』には、標記語「逍遥」の語は未収載にある。
 ここで古辞書における「逍遥」についてまとめておくと、『下學集』、広本節用集』及び印度本系統の『節用集』、そして『運歩色葉集』の古辞書に「逍遥」の語を収載しているが、易林本節用集』がこの語を未収載にしたことがここでは注目しておきたいことになる。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
318抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入 仁王卅 七代孝徳天王時始也。曰、嶋津浮世篝火仁王十七代仁 徳天王御悩時以相者相者曰、河内国片野三足。彼雉奉悩 之由申也。就其唐岱山道清頼云者鷹使 天下流布。帝遣シテ保昌相傳。 天竺摩訶陀国人也。佛檀婆羅蜜砌、鷹鴿来科(ハカル)義也。其 後清頼鷹有時、巣毎日 見之不審也。子在巣。其子生長シテ之 気之去ルコト 巣一尺之ニシテ而養子也。此養鳥猛悪也。謀之使也。故 呼一尺鷹科保昌傳来使‖∨彼雉也。逍遥自得云也。〔謙堂文 庫藏 三三左E〜三四右A〕
とあって、標記語を「逍遥」についての語注記は「逍遥は自得を云ふなり」として、上記の古辞書である広本節用集』及び印度本系統の『節用集』の注記に影響を及ぼしていることを知る。
 古版『庭訓徃来註』では、
(ソモ/\)世上(スデ)ニ(シヨク)スル静謐(せイヒツ)ニ之間為(ウ)(タカ)逍遥(セウヨウ)。ト云事ハ逍遥トハアツメアツマル事ナリ。凡(ヲヨソ)(タカ)ト申事ハ。先代ニ大唐ヨリモ。濟瀬(せイライ)ト云者渡スナリ。其後濟龍(せイレウ)ト云シ者遣(ツカ)ヒシナリ。彼(カノ)濟龍(せイレウ)ヲモ遣(ツカ)ヒシ也。鷹(タカ)ハ尤(モツト)モ公卿ノ態(ワ)ザナリ。ウタカハ。冬(フユ)ノ詞(コトバ)ナリ。〔下8オ二・三〕
とあって、この標記語を「逍遥」とし、その語注記は「逍遥とは、あつめあつまる事なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
(う)(たか)逍遥(せうよう)の(ため)に鵜鷹逍遥。鵜に高魚をとり鷹にて鳥を取也。逍遥ハ心に任(まか)せて遊ふ事也。〔37ウ四〕
とあって、標記語「逍遥」でその語注記は「逍遥は、心に任せて遊ぶ事なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
(う)(たか)逍遥(せうよう)の(ため)に参入(さんにふ)を(くはだ)てんと(ほつ)し(さふら)ふの(ところ)鵜鷹逍遥参入逍遥ハ鵜(う)を放(はな)ちて魚(うを)をとり鷹(たか)を放ちて鳥(とり)をとる。共に山川に臨(のぞ)んで心のまゝにかけめくりあそぶをいふ。〔三十ウ一〕
(ため)に(う)(たか)逍遥(せうえう)の(ほつ)し(くはだ)てんと参入(さんにふ)を(さふら)ノ(ところ)逍遥ハ鵜(う)を放(はな)ちて魚(うを)をとり鷹(たか)を放ちて鳥(とり)をとる。共に山川に臨(のぞん)で心(こゝろ)のまゝにかけめぐりあそふをいふ。〔53ウ六〕
とあって、標記語「逍遥」の語注記は、「逍遥は、鵜を放ちて魚をとり鷹を放ちて鳥をとる。共に山川に臨んで心のまゝにかけめぐりあそぶをいふ」とある。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
†Xo>yo>.ショゥヨゥ(逍遥) Farucani asobu.(遥かにあそぶ) 遠方へ遊びに出かけて気晴らしをすること.文書語〔邦訳798l〕
とあって、標記語を「逍遥」の語の意味は「遠方へ遊びに出かけて気晴らしをすること」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
せう-えう[名]【逍遥】〔説文「逍遥、猶也」〕(一)彼方此方に遊び歩くこと。ぶらぶらあるき。そぞろあるき。散歩。旻埋。消揺 詩経、鄭風、清人篇「二矛重喬、河上乎逍遥」 莊子「逍遥遊篇」 宇津保物語、吹上、上、一「いとをかしき事かな、いかめしきせうえうなどする、故ある業(わざ)なりかし」 、十四、澪標、25「所所にせうえうを盡し給ふ」「川逍遥」舟逍遥」(二)優遊自適の意に云ふ。 仲長統、樂志論「逍遥一世之上、睥睨天地之間」〔1091−5〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「しょう-よう【逍遥】[名]@(―する)気の向くままにあちこちと遊び歩くこと。そぞろ歩き。散歩。旻埋(しょうよう)。A(―する)世間の俗事を離れて楽しむこと。B香木の名。分類は伽羅(きゃら)。香味は酸苦甘鹹。六十一種名香の一つ。この香は、一箇真心、優游自在にして楽しみ遊ぶ心地が「莊子―逍遥游」の義に通じるという。」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
其後至留黄瀬川宿、逍遥読み下し》其ノ後黄瀬川ノ宿ニ至リ留マリ、逍遥ス。《『吾妻鏡』の治承四年八月十七日条》
 
 
 
2002年6月7日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「既属(すでにショクす)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「須」部に、
(スデニ)()。〔元亀本362七〕
(ステニ)()。〔静嘉堂本442一〕
とあって、標記語「」と「」で「すでに」の語を収載し、標記語「」の語は、
(ツグ)()()()。〔元亀本161三〕
(ツグ)()()()()。〔静嘉堂本177四〕
(ツク)()()()。〔天正十七年本中20オ二〕
(ツクル)―粉(ヲシロイ)ヲ()。〔元亀本162二〕
(ツラ/\)()()。〔静嘉堂本178五〕
(ツクル)―粉(ヲシロイ)ヲ()。〔天正十七年本中20ウ二〕
とあって、「つぐ」と「つくる」(元亀本・天正十七年本)&「つらつら」(静嘉堂本)の読みで収載する。これでわかるように、静嘉堂本の「つらつら」は、上記の「つくる」の読み違えであることに注意されたい。すなわち、「つぐ」と「つくる」の読みが収載されているのである。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
既属静謐之間為鵜鷹逍遥企参入候處」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
(ステ)ニ(ゾク)スル-(せイヒツ)之間為_鷹逍-(セウヤウ)ノント-_」〔山田俊雄藏本〕
抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入」〔経覺筆本〕
抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
ステニ()去也。棄也。 許无反/已上同。〔黒川本・辞字下112オ三〕
ステニ/已也。盡也。去也。 已上同。〔卷第十・辞字523五六〕
シルス/丁注之式二反―記力玉反(ロク)居支反註訂銘験籤著補書傷魚反効疋山舉反疏徴讖目題符策紀居里反/已上注也。〔黒川本・辞字下74ウ二・三〕
シルス(ロク)。已上同。シルス。〔卷第十・辞字168四〜169三〕
とあって、標記語「」の語を「すてに」で収載し、そして、標記語「」の語を和訓「しるす」として収載する。そこで、観智院本類聚名義抄』をみると、
音燭(シヨク)。ツク(平 上)。亦音蜀。トモカラ(上 上 上濁上)。トモ ツラヌク ツトフ ツラナル アタル ウヨフ アフ コノコロ ハシメ タクヒ アツム イマシ 和ソク正。。〔法下90二三〕
とあり、三卷本色葉字類抄』の「しるす」の訓はここには見えないのである。
 室町時代の『下學集』には、標記語「」「」の語は未収載にする。次に広本節用集』には、
(スデニ)(同)[去]。〔態藝門1134二〕
属星(ゾクシヤウシヨク・ツグ,ホシ)。〔態藝門399七〕 
付属(フゾク/ツク,タグイ・ツグ)[去・去]二共(トモ)ニ譲與(アタヱル)義。〔態藝門1134二〕
とあって、標記語「」「」で「すでに」を収載し、標記語「」の語は単独では見えないが熟字の左訓に「つぐ」と「たぐい」の訓見えている。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、
(スデニ)(同)。〔・言語進退270五〕
(スデニ)。〔・言語231九〕
(ステニ)。〔・言語217八〕
(ツグ)(同)。〔・言語進退129七〕
属験(ツケスマイ)――シテ馬俄。〔・言語106八〕
属験(ツケズマイ)馬俄――。〔・言語217八〕
とあって、標記語「」「」で「すでに」を収載し、標記語「」の語は弘治二年本だけが単独の標記語で「つぐ」の語を収載し、他本は「属験」でこの語を収載するにすぎない。また、易林本節用集』には、
(スデニ/キ)(同/イ)。〔言辞242一〕
とあって、標記語「」「」で「すでに」を収載し、標記語「」の語は未収載にする。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
318抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入 仁王卅 七代孝徳天王時始也。曰、嶋津浮世篝火仁王十七代仁 徳天王御悩時以相者相者曰、河内国片野三足。彼雉奉悩 之由申也。就其唐岱山道清頼云者鷹使 天下流布。帝遣シテ保昌相傳。 天竺摩訶陀国人也。佛檀婆羅蜜砌、鷹鴿来科(ハカル)義也。其 後清頼鷹有時、巣毎日 見之不審也。子在巣。其子生長シテ之 気之去ルコト 巣一尺之ニシテ而養子也。此養鳥猛悪也。謀之使也。故 呼一尺鷹科保昌傳来使‖∨彼雉也。逍遥自得云也。〔謙堂文 庫藏 三三左E〜三四右A〕
とあって、標記語を「既属」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
(ソモ/\)世上(スデ)ニ(シヨク)スル静謐(せイヒツ)ニ之間為(ウ)(タカ)逍遥(セウヨウ)ノ。ト云事ハ逍遥トハアツメアツマル事ナリ。凡(ヲヨソ)(タカ)ト申事ハ。先代ニ大唐ヨリモ。濟瀬(せイライ)ト云者渡スナリ。其後濟龍(せイレウ)ト云シ者遣(ツカ)ヒシナリ。彼(カノ)濟龍(せイレウ)ヲモ遣(ツカ)ヒシ也。鷹(タカ)ハ尤(モツト)モ公卿ノ態(ワ)ザナリ。ウタカハ。冬(フユ)ノ詞(コトバ)ナリ。〔下8オ二・三〕
とあって、この標記語を「既属」とし、その語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
(そも/\)世上(せしやう)(すで)に静謐(せいひつ)に至属(そく)するの(あいた)抑世上スル静謐之間にとハはやなとゝいふか如し。静謐の注前に出す。〔37ウ三〕
とあって、標記語「既属」でその語注記は「にとは、はやなどといふか如し」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
(そも/\)世上(せしやう)(すで)に静謐(せいひつ)に至属(そく)するの(あいた)抑世上スル静謐之間〔三十オ六・七〕
(そも/\)世上(せじやう)(すで)に(ぞく)する静謐(せいひつ)に(の)(あひだ)。〔53ウ四〕
とあって、標記語「既属」の語注記は、未記載にある。
 
 
 
2002年6月6日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「不慮(フリヨ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「佐」部に、
(―リヨ)。〔元亀本221七〕
不慮(―リヨ)。〔静嘉堂本253一〕
不慮(―リヨ)。〔天正十七年本中55ウ六〕
とあって、標記語「不慮」の語注記は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
此間者依連々密々互忘密々雜談不慮之至也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
_者依--(ソウ)ニ---之至」〔山田俊雄藏本〕
此間者依連々物両密々雜談不慮之至也」〔経覺筆本〕
此間者依連々物両密々雜談不慮之至也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
不慮フリヨ不虞同。〔黒川本・重點中107オ三〕
不羈―キ。〃覺。〃通。〃用。〃審。〃断。〃日。〃善。〃調。〃了。〃意。〃慮。〃和。〃合。〃次一作翅。〃幸。〃運。〃澤。〃諧。〃肖。〃便。〃熟。〃登。〃祥。〃定。〃朽。〃仕。〃足。〃享キヤウ。〃請。〃義。〃欽ツヽシマス。〃虞。〃易。〃忠。〃敵。〃圖。〃善。〃當。〃具。〃遇。〃孝ケウ。〃請。〃備。〃情せイ。〃快。〃別。〃思議。〃中用。〃足言。〃周風西北風也。〔卷第七・疉字79四〜80四〕
とあって、標記語「不慮」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集』には、
不慮(―リヨ)。〔言辭門151五〕
とあって、標記語「不慮」の語注記は未収載にしている。次に広本節用集』には、
不慮(フ・アラズ,リヨフウ・イナヤ,ヲモハカル)[平・去]。〔態藝門628二〕
とあって、標記語「不慮」で収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、
不慮(フリヨ)。〔・言語進退181六〕
不慮(フリヨ)―日(ジツ)。―直(チヨク)。―熟(シユク)。―浄(ジヤウ)―足(ソク)。―通(ツウ)。―滿(マン)。―律。―弁(ヘン)。―明(ミヤウ)。―陳(チン)。―便(ビン)悼(イタム)意。―定(ヂヤウ)。―敵(テキ)。―具(ク)。―犯(ボン)。―運(ウン)。―審(シン)。―食(シヨク)。―當(タウ)。―実(ジツ)。―見(ケン)。―易(エキ)。―断。―敏(ビン)鈍(ドン)ナル皃。―調(デウ)婬乱義。―辨(ベン)不足之義。―快(クハイ)心中悪皃。―會(クハイ)不合義。―覺(カク)失錯義。―孝(カウ)――其子不順父母ノ|之命也。―祥(シヤウ)無心義。―悉(シツ)書札ノ未ニ用。―備(ビ)同上。―合(ガウ)不和合義。―法懈怠(ホウケタイ)。―和(ワ)ノ(ギ)。―得心(トクシン)。―肖(せウ)卑体也。肖ハ似也。――トハ不似人倫ニ、義卑下(ヒゲ)ノ詞也。―思儀(シギ)。〔・言語149三〕
不慮(フリヨ)―日。―直。―熟。―浄。―足。―通。―滿。―律。―弁。―明。―陳。―便(ビン)悼(イタム)意。―定。―敵。―具。―犯。―運。―審。―食。―當。―實。―見。―易。―断。―敏鈍皃。―調婬乱義。―辨(ベン)不足之義。―快。―會。―覺。―孝其子不父母之命ニ|。―作。―同。―如意。―祥无義。―悉書札未用。―備同上。―合不和義。―法懈怠。―和。―肖―遜拍子物―情義。〔・言語139三〕
とあって、標記語「不慮」の語を収載している。また、易林本節用集』には、
不審(フシン)―儀(ギ)。―信(シン)。―便(ビン)。―法(ホフ)。―浄(ジヤウ)。―祥(シヤウ)。―説(せツ)。―調(デウ)。―勘(カン)。―運(ウン)。―増(ゾウ)。―減(ゲン)。―退(タイ)。―通(ツウ)。―婬(イン)。―忠(チウ)。―安(アン)。―出(シユツ)。―熟(ジユク)。―孝(カウ)。―定(ヂヤウ)。―實(ジツ)―慮(リヨ)。―覺(カク)。―闕(ケツ)。―快(クワイ)。―犯(ボン)。―断(ダン)。―動(ドウ)。―當(タウ)。―日(ジツ)。―具(グ)。―易(エキ)。―辨(ベン)。―敵(テキ)。―參(サン)。―如意(ニヨイ)。―知案内(チアンナイ)。―思議(シギ)。―得心(トクシン)。〔言辞150七〜二〕
とあって、標記語「不審」の語で、他に「不」の字を冠頭字にする熟語群が四十一語の語注記のなかに記載されている。
 ここで古辞書における「不慮」についてまとめておくと、『下學集』、広本節用集』及び印度本系統の『節用集』、そして『運歩色葉集』のすべての古辞書に「不慮」の語を収載している。これ
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
317此間者依連々物両密々雜談不慮之至也〔謙堂文庫藏三三左D〕
とあって、標記語を「不慮」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
(タカイ)ニ密々(ミツ/\)ノ雜談(ザウタン)不慮(フリヨ)之至(イタリ)。〔下8オ二・三〕
とあって、この標記語を「不慮」とし、その語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
(まこと)に不慮(ふりよ)之(の)(いたり)(なり)不慮(フリヨ)之至(イタリ)不慮ハ思ひよらぬ事也。こゝに言こゝろハ此程ハ打ちつゝきて世間(せけん)物さハかしきにつき故たかひに語りあふ事もなく誠におもひもよらぬ事なりとそ。〔37ウ一・三〕
とあって、標記語「不慮」でその語注記は「不慮は思ひよらぬ事なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
(まこと)に不慮(ふりよ)之(の)(いたり)(なり)不慮(フリヨ)之至(イタリ)〔三十オ六・七〕
(まこと)に不慮(ふりよ)(の)(いたり)(なり)。〔53ウ三〕
とあって、標記語「不慮」の語注記は、未記載にある。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Furio.フリョ(不慮) 思いがけない,または,俄かな事.〔邦訳282r〕
とあって、標記語を「不慮」の語の意味は「思いがけない,または,俄かな事」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ふ-りょ[名]【不慮】思ひまうけぬこと。意外。不意。 杜荀鶴、經廢宅詩「人生當貴盛、修コ可之、不慮今日、爭教破時」 盛衰記、十四、南都山門牒状事「去十四日夜、一院第二皇子、不慮之外、所入寺也」「不慮災」〔1789−2〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「ふ-りょ【不慮】[名]@予測がつかず思いがけないこと。不意であること。また、そのさま。意外。心外。A思慮がないこと。不思慮。B「ふりょ(不慮)の怪我」に同じ」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
兼又、義仲朝臣、爲平家和議、謀反之条、不慮之次第也《読み下し》兼テハ又、義仲朝臣、平家ト和議ノ為ニ、謀反ノ条、不慮ノ次第ナリ。《『吾妻鏡』の寿永三年三月一日条》
イラクサ
 
 
2002年6月5日(水)晴れ一時雷雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「雑談(ザウタン)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「佐」部に、
雜談(―タン)。〔元亀本269五〕
雜談(サウタン)。〔静嘉堂本306八〕
とあって、標記語「雜談」の読みは「サウタン」とし、第一拍が濁音なのかはこの資料からは判然としない。その語注記は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
此間者依連々密々互忘密々雜談誠不慮之至也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
_者依--(ソウ)ニ---之至」〔山田俊雄藏本〕
此間者依連々物両密々雜談誠不慮之至也」〔経覺筆本〕
此間者依連々物両密々雜談誠不慮之至也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「雜談」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集』には、標記語「雜談」の語を未収載にしている。次に広本節用集』には、
苦雜談(ニガザフタン,マシユ,カタル)[上去・入・平]。〔態藝門92四〕
高雜談(タカザフタン/―,マシユ,カタル)[平・入・平]。〔態藝門368四〕
雜談(ザフタン/マシユ,カタル)[入・平]。〔態藝門785四〕
とあって、標記語「雜談」で収載する他に「苦雜談」と「高雜談」の語をも収載している。その読みは「ザフタン」としていることから第一拍めが濁音表記であることが知られる。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、
雜談(ザツダン)。〔・言語進退214七〕
雜談(ザツダン)(サウタン)―説(せツ)。―居(ザツコ)。―用(ヨウ)。―言(ゴン)。〔・言語178五〕
雜談(ザウタン)―讒。―言。―兵。―居。―用。―人。〔・言語167五〕
とあって、標記語「雜談」の語を収載している。また、易林本節用集』には、
雜談(ザフタン) ―行(ギヤウ)。―作(サ)。―役(ヤク)。―説(せツ)。―乱(ラン)。―物(モツ)。―事(ジ)。―用(ヨウ)。―意(イ)。―務(ム)。―書(シヨ)。―具(グ)。―言(ゴン)。―心(シム)。―訴(ソ)。―掌(シヤウ)。〔言辞181一〕
とあって、標記語「雜談」の語で、他に「雜」の字を冠頭字にする熟語群が十六語が語注記に記載されている。
 ここで古辞書における「雜談」についてまとめておくと、『下學集』だけが未収載で、広本節用集』及び印度本系統の『節用集』、そして『運歩色葉集』に「雜談」の語を収載している。これが『庭訓徃来』に見える「雜談」と共通しているのである。読みは広本節用集』に「ザフタン」とあって、第一拍めが濁音表記であることが知られる。この検証は、下記の『日葡辞書』でも確認できる。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
317此間者依連々物両密々雜談誠不慮之至也〔謙堂文庫藏三三左D〕
とあって、標記語を「雜談」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
(タカイ)ニ密々(ミツ/\)ノ雜談(ザウタン)ヲ不慮(フリヨ)ノ之至(イタリ)。〔下8オ二・三〕
とあって、この標記語を「雜談」とし、その語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
(たかひ)に密々(ミつ/\)の雜談(ざうたん)を(わす)れ密々雑談密々の雑談とハわりなく物しつかに語りあふをいふ。雑談ハいろ/\のはなし也。〔37オ八〜ウ一〕
とあって、標記語「雜談」でその語注記は「雜談はいろ/\のはなしなり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
(たがひ)に密々(ミつ/\)乃雜談(さふだん)を(わす)る密々雑談。〔三十オ六〕
(たがひ)(わする)密々(ミつ/\)雑談(ざふだん)を。〔53ウ三〕
とあって、標記語「雜談」の語注記は、未記載にある。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Zo<tan.ザゥタン(雜談) すなわち,Monogatari.(物語) いろいろな事についての話.§Zo<tan suru.(雜談する)さまざまな事を語る.⇒次条.〔邦訳844l〕
†Zo<tan.ザゥタン(雜談) §また,本来の正しい意味ではないが,からかひやかす言葉の意.文書語.〔邦訳844l〕
とあって、標記語を「雜談」の語の意味は「混乱すること,忙しいこと」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ざふ-だん[名]【雜談】種種の、要用ならぬ話。むだばなし。雜話。雑談(ざつだん)。(用談に對す)。 太平記、十八、瓜生擧事「宇都宮美濃將監と、天野民部大輔と寄合ひして、四方山の雜談」。「終日、雜談に耽る」〔0824−5〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「ぞう-だん【雜談】[名](古くは「ぞうたん」)@とりとめのない、さまざまの話をすること。また、その話。よもやま話。雜話。ざつだん。A種々の悪口。無礼な言葉。雑言(ぞうごん)」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
今日 二品、渡御中納言法橋旅亭有御對面、頗及御雜談〈云云〉《読み下し》今日 二品、中納言法橋ノ旅亭ニ渡御シタマヒ、御対面有リテ、頗ル御雑談(ザフタン)ニ及ブト〈云云〉。《『吾妻鏡』の文治五年六月八日条》
 
 
 
2002年6月4日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「密々(ミツミツ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「見」部に、
密々(ミツ/\)。〔元亀本300八〕
密々(ミツ/\)。〔静嘉堂本350一〕
とあって、標記語「密々」の語注記は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日に、
此間者依連々密々互忘密々雜談誠不慮之至也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
_者依--(ソウ)ニ---之至」〔山田俊雄藏本〕
此間者依連々物両密々雜談誠不慮之至也」〔経覺筆本〕
此間者依連々物両密々雜談誠不慮之至也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「密々」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集』には、標記語「密々」の語を未収載にしている。次に広本節用集』には、
密々(ミツー/ヒソカ)[入○]。〔態藝門903八〕
とあって、標記語「密々」で収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、標記語「密々」の語を未収載にしている。また、易林本節用集』には、
密談(ミツダン) ―教(ケウ)。―懷(クワイ)。―事(ジ)。―語(ゴ)。〔言辞201一〕
とあって、標記語「密談」の語で、語注記の語として未記載にする。
 ここで古辞書における「密々」についてまとめておくと、『下學集』及び印度本系統の『節用集』は未記載であり、広本節用集』と『運歩色葉集』に「密々」を収載している。これが『庭訓徃来』に見える「密々」と共通していることになるのである。こうした観点から真字注釈の『庭訓徃来註』との接触度合いが必ずしも一筋縄でいかない系統であることが見えてくるのである。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
317此間者依連々物両密々雜談誠不慮之至也〔謙堂文庫藏三三左D〕
とあって、標記語を「密々」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
(タカイ)ニ密々(ミツ/\)ノ雜談(ザウタン)ヲ不慮(フリヨ)ノ之至(イタリ)密々ト云事ヒソカニ隠(カク)スコトナリ。〔下8オ三〕
とあって、この標記語を「密々」とし、その語注記は「密々と云ふ事ひそかに隠すことなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
(たかひ)に密々(ミつ/\)の雜談(ざうたん)を(わす)れ密々之雑談密々の雑談とハわりなく物しつかに語りあふをいふ。雑談ハいろ/\のはなし也。〔37オ八〜ウ一〕
とあって、標記語「密々」でその語注記は「密々の雑談とハわりなく物しつかに語りあふをいふ」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
(たがひ)に密々(ミつ/\)乃雜談(さふだん)を(わす)る密々雑談。〔三十オ六〕
(たがひ)(わする)密々(ミつ/\)の雑談(ざふだん)を。〔53ウ三〕
とあって、標記語「密々」の語注記は、未記載にある。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Mitmit.ミツミツ(密々) 秘密に.例,Mitmitni mo<su.(密々に申す)内密に話す.〔邦訳411l〕
とあって、標記語を「密々」の語の意味は「混乱すること,忙しいこと」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
みつ-みつ[名]【密密】(一)秘密なる状に云ふ語。ひそかに。内密に。 古事記、二、臣節「權帥密密京上」(二)こまやかなる状に云ふ語。 孟郊詩「臨行密密縫」。 庭訓徃來、六月「此間者依連連物両、互忘密々雜談、誠不慮之至也」。(三)草木などの、しげれる状に云ふ語。 陸游、西園詩「高高下下天成景、密々疎疎自在花」〔1939−1〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「みつ-みつ【密々】[名]@きわめて秘密なこと。内々に行動すること。また、そのさま。A間柄が親密なこと。また、そのさま。B配慮などがこまかなこと。綿密であること。また、そのさま。C草木などが、びっしりと繁ていること。また、そのさま。D雪などがしきりに降ること。また、そのさま」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
庚午雨降△高倉宮、去十五日、密々入御三井寺《読み下し》庚午。雨降ル△高倉宮、去ヌル十五日ニ、密密ニ三井寺ニ入御シタマフ。《『吾妻鏡』の治承四年五月十九日条》
 
 
 
2002年6月3日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「物両(ブツソウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「福」部に、
物両(―ゾウ)。〔元亀本223九〕
物両(―ソウ)。〔静嘉堂本256三〕
物両(フツソウ)。〔天正十七年本中57オ七〕
とあって、標記語「物両」の語注記は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
此間者依連々物両互忘密々雜談誠不慮之至也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
_者依--(ソウ)---之至」〔山田俊雄藏本〕
此間者依連々物両密々雜談誠不慮之至也」〔経覺筆本〕
此間者依連々物両密々雜談誠不慮之至也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「物両」の語を未収載にする。
 室町時代の『下學集』には、標記語「物両」の語を未収載にしている。次に広本節用集』には、
(フツソウ/モノ,スミヤカ・イソガワシ)。〔態藝門638四〕
とあって、標記語「」で収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、
物両(―ソウ)。〔・言語進退183二〕
物両(ブツソウ)―詣(ケイ)。―狂(モノグルイ)。〔・言語149七〕
物両(ブツソウ)―詣。―狂。〔・言語139六〕
とあって、標記語「物両」の語を収載している。また、易林本節用集』には、
物詣(ブツケイ) ―狂(キヤウ)物両(ソウ)。〔言辞151五〕
とあって、標記語「物詣」の語で、語注記の語として「物狂」「物両」の二語を記載する。
 ここで古辞書における「物両」についてまとめておくと、『下學集』は未記載であり、広本節用集』も「」と異なる表記をもって収載をしている。これが印度本系統の『節用集』及び『運歩色葉集』では『庭訓徃来』に見える「物両」の表記語で収載がなされているのである。こうした観点から真字注釈の『庭訓徃来註』との接触度合いが必ずしも一つの系統ではないことが見えてくるのである。同じく引用し、その語を継承はするものの、その取扱いの方法や時・場所を異にする可能性も出てきたといえよう。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
034萬亊物両シテ間不一二| 柳文曰、一二落着辞也。爰ニモ次第是可申云之義也。〔謙堂文庫藏七左F〕
317此間者依連々物両密々雜談誠不慮之至也〔謙堂文庫藏三三左D〕
とあって、標記語を「物両」についての語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
萬亊物両(ブツソウ)之間不(ズ)一二(ツマビラカ)ニ| 萬ト云ハ一ツニ二ツカラ十迄(マテ)(イハン)(タメ)ナリ。〔上5オ三〕
此間(アヒダ)(ハ)連々(レン/\)ノ物両(ブツソウ)。トツヾクル事。連々トハ。ツラナル詞(コトハ)ナリ。〔下8オ二〕
とあって、この標記語を「物両」とし、その語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
(この)(あいた)ハ者連々(れん/\)物両(ふつそう)(よつ)て/此間者依連々物両。連々ハ打つゝきたるなり。物両はものさわかしきなり。ある本にハ物騒(さう)と書たり。〔37オ七〕
とあって、標記語「物両」でその語注記は「物両ものさわかしきなり。ある本にハ物騒と書たり」ということで、「ものさわがしき」ことで、これを或る本は「物騒」と表記するという注記を初めてしているのである。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
(この)(あいた)ハ者連々(れん/\)物両(ふつそう)(よつ)て/_間者依--。〔二十九ウ三〕
(この)(あひだ)(よつ)て連々(れん/\)物両(ふつそう)に。〔53ウ三〕
とあって、標記語「物両」の語注記は、これまた未記載にある。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Busso>.ブッソゥ(物両) Mono isogauaxi.(物いそがはし)混乱すること,忙しいこと.〔邦訳67l〕
とあって、標記語を「物両」の語の意味は「混乱すること,忙しいこと」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ぶッ-そう[名]【物騒】物騒(ものさわが)しきこと。又、物怱(ものいそが)しきこと。世上に隠ならぬ事あること。恟恟 保元物語、一、官軍方方手分事「此の程、京中物騒の由承る間、其子細を承らん」(小中村本)。延慶本平家物語45「主上ハ御甥、僅三歳、春宮ハ御叔父、六歳ニ成ラセタマフ、照峽相叶ハズ、物騒ナリ」 此語、又、物両(ブツソウ)とも記す、(冰の俗字)を騒に通はせて用ゐたるものか。饅頭屋本節用集物両、ブッソウ」運歩色葉集物両易林本節用集(慶長)下、言辭門「物両、ブッソウ」朝野羣載、廿二「如物両日夜不絶也」保元物語、一、官軍方方手分事「是程京中物騒の由承る」(流布本)白河文書、親房卿事書(興國二年十二月カ)春日以下數輩被籠候へば、無左右物両之儀候歟」史記抄(文明)六78「此ホド物両ナル時分ニ、遊獵シコトモナイニシタコトヨ」〔-2〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「ぶつ-そう【物両物騒】[名]@ざわついて落ち着かないこと。また、そのさま。Aやり方があわただしく、あわてたさまであること。また、そそっかしいさま。B危険なこと。また、あぶないさま」とし、『庭訓徃来』からの用例引用は未記載にしている。
[ことばの実際]
乙亥、暁更、宮中物両云々、則令復例給了、大略、邪気之所為歟、凡無其憑事也《読み下し》《『玉葉』承安三年八月十五日の条》
 
 
 
2002年6月2日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川→駒沢)
「連々(レンレン)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「連」部に、
連々(レン/\)。〔元亀本149二〕〔静嘉堂本162三〕
連連(レン/\)。〔天正十七年本中13オ三〕
とあって、標記語「連々」の語注記は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
此間者依連々物両互忘密々雜談誠不慮之至也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
_者依--(ソウ)ニ---之至」〔山田俊雄藏本〕
此間者依連々物両密々雜談誠不慮之至也」〔経覺筆本〕
此間者依連々物両密々雜談誠不慮之至也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
連々レン/\。〔黒川本・重點中14オ七〕
連々。〔卷第四・重點513二〕
とあって、標記語「連々」の語を収載する。
 室町時代の『下學集広本節用集』には、標記語「連々」の語を未収載にしている。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、
連々(――)。〔・言語進退116三〕
連々(レン/\)。〔・言語99三〕
連綿(レンメン)―暑。―歌。―判。―續。―夜。――。〔・言語90一〕
とあって、標記語「連々」の語を収載している。また、易林本節用集』には、
連々(レン―)連綿(メン)。―歌(カ)。―判(ハン)。―署(ジヨ)。―座(サ)。―續(ゾク)。〔言辞98三〕
とあって、標記語「連々」の語は未記載にする。古辞書における「重語」の「連々」を『下學集』及び広本『節用集』が収載しない理由がどこかに潜んでいるに違いない。こうした「重語」の取り扱いについての上記二本の編集体裁を別に考察する必要があるのではなかろうか。
 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
317此間者依連々物両密々雜談誠不慮之至也〔謙堂文庫藏三三左D〕
とあって、標記語を「連々」について語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
此間(アヒダ)(ハ)連々(レン/\)ノ物両(ブツソウ)ニ。トツヾクル事。連々トハ。ツラナル詞(コトハ)ナリ。〔下8オ二〕
とあって、この標記語を「連々」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
(この)(あいた)ハ連々(れん/\)物両(ふつそう)(よつ)て/此間者依連々物両。連々ハ打つゝきたるなり。物両はものさわかしきなり。ある本にハ物騒(さう)と書たり。〔37オ七〕
とあって、標記語「連々」でその語注記は「連々ハ打つゝきたるなり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
(この)(あいた)ハ連々(れん/\)物両(ふつそう)(よつ)て/_間者依--。〔二十九ウ三〕
(この)(あひだ)(よつ)て連々(れん/\)物両(ふつそう)に。〔53ウ三〕
とあって、標記語「連々」の語注記は未記載にある。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Renren.レンレン(連々) Tcuranari,u.(連なり,る)しばしば,何回も,または,引き続いて.例,Cono cotouo renren mo<xita.(この事を連々申した)この事を私は何回も言った.§また,少しずつ.〔邦訳529l〕
とあって、標記語を「連々」の語の意味は「しばしば,何回も,または,引き続いて」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
れん-れん[名]【連連】ひきつづきて。詩經、大雅、文王之什、皇矣篇「崇睚言言、執連連經國集、十一「唯有歸飛雁連連北聲」〔2148-2〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「れん-れん【連々聯聯】[形動ナリ・タリ]@引き続いて絶えることのないさま。しきりにするさま。副詞的にも用いられる。Aつらなるさま」としている。
[ことばの実際]
源民部大夫光行、中宮大夫属入道善信〈俗名康信〉等、自京都參著光行者、豐前々司光季属平家之間、爲申宥之也善信者、本自其志、在關東仍連々有恩喚之故也《読み下し》源ノ民部ノ大夫光行、中宮ノ大夫属入道善信〈俗名ハ康信〉等、京都ヨリ参著ス光行ハ、豊前ノ前司光季平家ニ属スルノ間、之ヲ申シ宥メン為ナリ。善信ハ、本ヨリ其ノ志シ、関東ニ在リ。仍テ連連恩喚有ルガ故ナリ。《『吾妻鏡』寿永三年四月十四日の条》
 
 
 
2002年6月1日(土)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「不足(ふそく)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「福」部に、
不足(―ソク)。〔元亀本221七〕〔天正十七年本中55ウ五〕
不足(――)。〔静嘉堂本253一〕
とあって、標記語「不足」の語注記は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』五月{ }日の状に、
猶以不足事候者可給使者也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
(ナヲ)_不足事候者可使-」〔山田俊雄藏本〕
(ナヲ)_不足事候者可ハル使者」〔経覺筆本〕
欠落〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、
不堪下賎部/貧賎卜。不合同。無頼(タノムコトナシ)又タヨリナシ//フライ不屑モノヽカスナラス//フセウ不足同。〔黒川本・疉字中106ウ六〕
不羈―キ。〃覺。〃通。〃用。〃審。〃断。〃日。〃善。〃調。〃了。〃意。〃慮。〃和。〃合。〃次一作翅。〃幸。〃運。〃澤。〃諧。〃肖。〃便。〃熟。〃登。〃祥。〃定。〃朽。〃仕。〃足。〃享キヤウ。〃請。〃義。〃欽ツヽシマス。〃虞。〃易。〃忠。〃敵。〃圖。〃善。〃當。〃具。〃遇。〃孝ケウ。〃請。〃備。〃情せイ。〃快。〃別。〃思議。〃中用。〃足言。〃周風西北風也。〔卷第七・疉字79四〜80四〕
とあって、標記語「不足」の語を収載する。
 室町時代の『下學集』には、標記語「不足」の語を未収載にしている。次に広本節用集』は、
(タミ)ニハ(マヅシキ)(トキ)ハ姦邪(カンジヤ)(ナル)(マツシキ)ハ(ナル)不足(フソク)ヨリ不足(フソク)ハ(ナル)於不農(フノウ)ヨリ漢書。〔態藝門361四〕
有餘不足(ユウヨソク・タル/アル・タモツ,アマル,ス,アシ)[上平去入]。〔態藝門866六〕
不足(フソク・タル/―アシ)[○入]。〔態藝門628五〕
とあって、標記語「不足」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、
不足(―ソク)。〔・言語進退182一〕
不慮(フリヨ)―日(ジツ)。―直(チヨク)。―熟(シユク)。―浄(ジヤウ)―足(ソク)。―通(ツウ)。―滿(マン)。―律。―弁(ヘン)。―明(ミヤウ)。―陳(チン)。―便(ビン)悼(イタム)意。―定(ヂヤウ)。―敵(テキ)。―具(ク)。―犯(ボン)。―運(ウン)。―審(シン)。―食(シヨク)。―當(タウ)。―実(ジツ)。―見(ケン)。―易(エキ)。―断。―敏(ビン)鈍(ドン)ナル皃。―調(デウ)婬乱義。―辨(ベン)不足之義。―快(クハイ)心中悪皃。―會(クハイ)不合義。―覺(カク)失錯義。―孝(カウ)――其子不順父母ノ|之命也。―祥(シヤウ)無心義。―悉(シツ)書札ノ未ニ用。―備(ビ)同上。―合(ガウ)不和合義。―法懈怠(ホウケタイ)。―和(ワ)ノ(ギ)。―得心(トクシン)。―肖(せウ)卑体也。肖ハ似也。――トハ不似人倫ニ、義卑下(ヒゲ)ノ詞也。―思儀(シギ)。〔・言語149三〕
不慮(フリヨ)―日。―直。―熟。―浄。―足。―通。―滿。―律。―弁。―明。―陳。―便(ビン)悼(イタム)意。―定。―敵。―具。―犯。―運。―審。―食。―當。―實。―見。―易。―断。―敏鈍皃。―調婬乱義。―辨(ベン)不足之義。―快。―會。―覺。―孝其子不父母之命ニ|。―作。―同。―如意。―祥无義。―悉書札未用。―備同上。―合不和義。―法懈怠。―和。―肖―遜拍子物―情義。〔・言語139三〕
標記語「不足」の語を収載している。また、易林本節用集』には、
不審(フシン)―儀(ギ)。―信(シン)。―便(ビン)。―法(ホフ)。―浄(ジヤウ)。―祥(シヤウ)。―説(せツ)。―調(デウ)。―勘(カン)。―運(ウン)。―増(ゾウ)。―減(ゲン)。―退(タイ)。―通(ツウ)。―婬(イン)。―忠(チウ)。―安(アン)。―出(シユツ)。―熟(ジユク)。―孝(カウ)。―定(ヂヤウ)。―實(ジツ)。―慮(リヨ)。―覺(カク)。―闕(ケツ)。―快(クワイ)。―犯(ボン)。―断(ダン)。―動(ドウ)。―當(タウ)。―日(ジツ)。―具(グ)。―易(エキ)。―辨(ベン)。―敵(テキ)。―參(サン)。―如意(ニヨイ)。―知案内(チアンナイ)。―思議(シギ)。―得心(トクシン)。〔言辞150七〜二〕
とあって、標記語「不足」の語は未記載にする。
 さて、『庭訓往来註』五月{ }日の状に、
314或買貮{弦}之|、或乞‖-索之進候_不足亊候者可使者恐々謹言〔謙堂文庫藏三三左@〕
とあって、標記語を「不足」について語注記は未記載にある。
 古版『庭訓徃来註』では、
氷魚(ヒウヲ)等或(カイ)(ヲギノリ)(コヒ)(モトメ)(シメ)(シン)せ(ナヲ)_不足事候者可ハル使者。氷魚(ヒウヲ)ハ冬(フユ)(カハ)ニアル魚(ウヲ)ヲモ謂(イフ)宇治河(ウジカハ)ノ名魚也。〔下七ウ四〕
とあって、この標記語を「不足」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
(これ)(しん)(しめ)(なを)(もつ)不足(ふそく)(こと)ハゝ使者(しゝや)(たまハ)(へき)猶以不足之事候者可使者また此上足らぬものあらは使を以て申越(こ)されよとなり。〔37オ二〕
とあって、標記語「不足」でその語注記は総体注記で「また、此上足らぬものあらば使ひを以って申し越されよとなり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
(なを)(もつて)不足(ふそく)(こと)(さふら)(バ)使者(ししや)(たまふ)(べ)(なり)_-_ノ事候ハ_使-。〔二十九ウ三〕
(なを)(もつて)不足(ふそく)(こと)(さふら)(バ)使者(ししや)(たまふ)(べ)(なり)〔53オ二〕[文意]猶以(まだ)に不足(たらぬ)事あらバ使者(つかひ)にていひ越(こ)されよとなり。
とあって、標記語「不足」の語注記は未記載にある。
 当代の『日葡辞書』に、
Fusocu.フソク(不足) Tarazu.(足らず)欠乏.例,Fusocu xenban nari.(不足千万なり)極度に貧乏で,窮迫している.〔邦訳285l〕
とあって、標記語を「不足」の語の意味は「欠乏」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ふ-そく[名]【不足】(一)足らぬこと。缺けたること。不十分。淮南子、本經訓「振困窮、補不足、則名生、興利除害、伐亂禁暴、則功成」世説、コ行、上篇「損有餘不足、天之道也」世間息子氣質(正徳、其磧)四「三五の十八はらりと違ひて、次第増の不足つもれば、大きにあく所ありて」(二)もの足らぬこと。あきたらぬこと。不滿足。平治物語、一、信頼信西不快事「かくのみにて過分なりしかども、なほ不足して、家に絶えて久しき大臣、大將に、のぞみをかけて」(三)かたは。不具。春花五大力(並木五瓶)州崎萬壽屋遊の場「親が滿足に生みつけた五體の指、それを不足さしての其方が禮、承知した」〔1753-3〕
とある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版において、標記語「ふ-そく【不足】[名]@(形動)(―する)たりないこと。欠けていること。また、そのさまやその箇所。不完全。不十分。欠点。A(形動)(―する)満足でないこと。不平に思うこと。また、そのさま。不満足。不満。不平。B知行する所領がわずかしかない、家臣の内でも身分のごく低いもの」としている。
[ことばの実際]
而今日、又有沙汰、供料米六十八石、爲毎年役、被施之若令不足者、引募庄内乃貢、可沙汰渡琳献上人《読み下し》而ルニ今日、又沙汰有リテ、供料米六十八石、毎年ノ役トシテ、之ヲ施サル。若シ不足ナラシメバ、庄内ノ乃貢ヲ引キ募リ、琳猷上人ニ沙汰シ渡スベシ。《『吾妻鏡』文治三年五月八日の条》
 
 
 
 
 
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