2002年7月1日〜7月31日迄
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ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
2002年7月31日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「合戰(カツセン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、
合戦(―セン)。〔元亀本92四〕
合戰(―セン)〔静嘉堂本114三〕
合戦(カツセン)。〔天正十七年本上56オ五〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「合戰」の語を収載し、読みを「カツセン」とし、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「門葉人々可被粉骨之合戰之旨令約諾候」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「門葉(やう)ノ之人々可致粉骨之合戦之旨令約諾候」〔建部傳内本〕
「門-葉人_々可∨致‖粉-骨ノ之合-戰ヲ|之旨令メ‖約諾セ|候」〔山田俊雄藏本〕
「門-葉人_々可∨致‖粉-骨ノ之合-戰ヲ|之旨令メ‖約諾セ|候()」〔経覺筆本〕
「門-葉(ヨウ)人_々可∨致‖粉-骨ノ之合-戰|之旨令‖約諾(ヤクタク)|候」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
合戦 闘乱部/カツセン。〔黒川本疉字門上89オ一〕
合離 〃戰。〃藥。〃服。〃文。〃宰。〃稔阿弥陀佛等也。〃宿。〃聟。〃夕。〃力。〔卷第三・疉字門273五〕
とあって、標記語「合戰」の語を収載する。
室町時代の『下學集』には、標記語「合戰」の語を未収載する。次に、広本『節用集』には、
合戦(ガツセン/アワス,タヽカウ)[入・去]。〔態藝門275二〕
手痛(テイタイ/シユウツウ)[上・去]合戦(カツせン/アワせ,タヽカウ)[入・去]。〔態藝門729七〕
とあって、標記語「合戰」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
合戦(カツセン)。〔弘・言語進退85三〕
合戦(カツセン)。―力(カウリヨク)。―點(テン)。―躰(テイ)。―宿(シユク)/―壁(ヘキ)。―期(ゴ)。―木(カウモク)。―食禁(ガツシヨキン)。〔永・言語82四〕
〔永・言語164五〕
合戦(カツセン)。―力。―黙。―体。―宿。―藥/―壁。―期。―食禁。―木。〔堯・言語74八〕合戦(カツせン)。―力。―點。―躰。―宿/―壁。―期。―木。―食禁。〔両・言語89八〕
とあって、標記語「合戰」の語を収載する。ただ、易林本『節用集』には、
合戰(―せン)。〔言語83三〕
とあって、標記語「合戰」の語を収載する。
ここで古辞書における「合戰」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』といった全てに収載されていて、『庭訓徃来』に収載するというより、当代の普遍性の語と見て良かろう。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
326并御乗替等御助成候者可∨然也今度出_立ニ/ハ當家ノ眉目一門ノ先途也門葉人々可∨致‖粉骨合戰|旨 粉ハ摧也。又自‖常不輕菩薩|摧∨骨ヲ之行起也云々。〔謙堂文庫藏三四左B〕
とあって、標記語を「合戰」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
門-葉(ヨフ)人々可キ∨致ス‖粉骨(ブンコツ)之合戰(カツせン)ヲ|旨令(シメ)‖門葉(モンヨウ)ノ人トハ。主ノ紋(モン)ヲ著(キ)ル人ノ事ナリ。此人々ハ粉骨(フンコツ)ノ合戰ヲセヨトナリ。〔下9ウ三・四〕
とあって、この標記語「合戰」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
門葉(もんよう)の人々(ひとびと)紛骨(ふんこつ)の合戰(かつせん)致(いた)す可(へき)の旨(むね)約諾(やくだく)せ令(しめ)候/門葉人々可∨致‖紛骨之合戰ヲ|之旨令‖約諾セ|候。〔40ウ五〕
とあって、標記語「合戰」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
門葉(もんよう)の人々(ひとびと)紛骨(ふんこつ)の合戰(かつせん)致(いた)す可(へき)の旨(むね)約諾(やくだく)せ令(しめ)候(さふら)ふ/門葉人々可∨致‖紛骨之合戰ヲ|之旨令‖約諾セ|候。〔三十一ウ五〜七〕
門葉(もんよう)の人々(ひとびと)紛骨(ふんこつ)の合戰(かつせん)致(いた)す可(へき)の旨(むね)約諾(やくだく)せ令(しめ)候。〔五十六オ四〜ウ一〕
とあって、標記語「合戰」にして、その語注記は、「」という。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Caxxen.カッセン(合戰) Auaxe tataco<.(合はせ戦ふ)戦闘.〔邦訳114l〕
とあって、同音異義の標記語「合戰」を収載し、その意味を「戦闘」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
かつ-せん(名)【合戰】敵と身方と出合ひて、戰ふこと。かせん。たたかひ。戰争。戰闘。史記、晉世家「秦穆公、晉惠公、合‖戰韓原|」 將門記、「討合、棄命各合戰」〔0388-1〕
とあって、標記語「合戰」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「かっ-せん【合戰】[名](こうせん(かふせん)」の変化した語)敵味方が出会って戦うこと。戦い。戦闘。交戦」を収載し、『庭訓徃来』からの用例は未記載にしている。
[ことばの実際]
日來祗候京都、去月中旬之比、欲下向之刻、依宇治懸合戰等事爲官兵被抑留之間、于今遅引、《読み下し》日来京都ニ祗候シ、去ヌル月中旬ノ比、下向セント欲スルノ刻、*宇治ノ合戦等ノ事ニ懸カルニ依テ(*宇懸合戦等事ニ依テ)、官兵ノ為ニ抑留セラルルノ間、今ニ遅引ス。《『吾妻鏡』治承四年六月二十七日の条》
2002年7月30日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「門葉(モンエフ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「毛」部に、
門葉(モンエウ)。〔元亀本348五〕
門葉(―ヨウ)〔静嘉堂本419一〕
とあって、標記語「門葉」の語を収載し、読みを「モウエウ」、「―よう」とし、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「門葉人々可被粉骨之合戰之旨令約諾候」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「門葉(やう)ノ之人々可致粉骨之合戦之旨令約諾候」〔建部傳内本〕
「門-葉人_々可∨致‖粉-骨ノ之合-戰ヲ|之旨令メ‖約諾セ|候」〔山田俊雄藏本〕
「門-葉人_々可∨致‖粉-骨ノ之合-戰ヲ|之旨令メ‖約諾セ|候()」〔経覺筆本〕
「門-葉(ヨウ)人_々可∨致‖粉-骨ノ之合-戰|之旨令‖約諾(ヤクタク)|候」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「門葉」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』、広本『節用集』そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、標記語「門葉」の語を未収載にする。ただ、易林本『節用集』には、
門流(モンリウ)一派(ハ)。一外(グワイ)。一前(ぜン)。一葉(ヨフ)。/閉(トツ)‖一戸(コ)ヲ|。一下生(カセイ)。一内(ナイ)。〔言辞230七〕
とあって、標記語「門流」の語を収載し、冠頭字「門」の熟語群に「門葉」を収載している。
ここで古辞書における「門葉」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本『節用集』と印度本系統の『節用集』類は未収載にし、『運歩色葉集』と易林本『節用集』に、『庭訓徃来』収載するところのこの語を収載しているのである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
326并御乗替等御助成候者可∨然也今度出_立ニ/ハ當家ノ眉目一門ノ先途也門葉人々可∨致‖粉骨合戰|旨 粉ハ摧也。又自‖常不輕菩薩|摧∨骨ヲ之行起也云々。〔謙堂文庫藏三四左B〕
門葉―一門一族ノ心也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃来抄』古寫書き込み〕
とあって、標記語を「門葉」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
門-葉(ヨフ)人々可キ∨致ス‖粉骨(ブンコツ)之合戰(カツせン)ヲ|旨令(シメ)‖門葉(モンヨウ)ノ人トハ。主ノ紋(モン)ヲ著(キ)ル人ノ事ナリ。此人々ハ粉骨(フンコツ)ノ合戰ヲセヨトナリ。〔下9ウ三・四〕
とあって、この標記語「門葉」の語注記は、「門葉の人とは、主の紋を著る人の事なり。此の人々は、粉骨の合戰をせよとなり」ということを記載する。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
門葉(もんよう)の人々(ひとびと)紛骨(ふんこつ)の合戰(かつせん)致(いた)す可(へき)の旨(むね)約諾(やくだく)せ令(しめ)候/門葉人々可∨致‖紛骨之合戰ヲ|之旨令‖約諾セ|候 門葉とハ多くの一門をいふなり。子孫は多くにわかれたれとも元ハ先祖の一人よりして出たるを木の幹(みき)一つにして葉の千万にわかれたるにたとへて門葉と云也。〔40ウ五〕
とあって、標記語「門葉」で、その語注記は「門葉とハ多くの一門をいふなり。子孫は多くにわかれたれども元は先祖の一人よりして出たるを木の幹一つにして葉の千万にわかれたるにたとへて門葉と云ふなり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
門葉(もんよう)の人々(ひとびと)紛骨(ふんこつ)の合戰(かつせん)致(いた)す可(へき)の旨(むね)約諾(やくだく)せ令(しめ)候(さふら)ふ/門葉人々可∨致‖紛骨之合戰ヲ|之旨令‖約諾セ|候▲門葉ハ一門(いちもん)の廣(ひろ)くはびこるを木(き)乃枝葉(えだは)にたとへていふなり。〔三十一ウ五〜七〕
門葉(もんよう)の人々(ひとびと)紛骨(ふんこつ)の合戰(かつせん)致(いた)す可(へき)の旨(むね)約諾(やくだく)せ令(しめ)候▲門葉ハ一門(いちもん)の廣(ひろ)くはびこるを木(き)乃枝葉(えだは)にたとへていふなり。〔五十六オ四〜ウ一〕
とあって、標記語「門葉」にして、その語注記は、「門葉は、一門の廣くはびこるを木の枝葉にたとへていふなり」という。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Monyo>.モンヨウ(門葉) ある血統の親族・血族.§また,同じ宗派に属する人々.例,Moyo>no fitobito.(門葉の人々)文書語.〔邦訳422r〕
とあって、同音異義の標記語「門葉」を収載し、その意味を「ある血統の親族・血族.また,同じ宗派に属する人々」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
もん-えふ(名)【門葉】〔門は家、葉は子孫なり、幹より葉分れ出づる義〕一門のわかれ。一族。平治物語、一、信頼謀叛事「保元に門葉の輩、多く朝敵となりて、親類皆梟せられ」〔2017-1〕
とあって、標記語「門葉」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「もん-よう【門葉】[名]一つの血筋につながる者。一族。同族。みうち。また、一門の分かれ。一門の流派」を収載し、『庭訓徃来』からの用例を記載している。
[ことばの実際]
而義澄以下子息門葉、多以候御共、勵武功《読み下し》而ルニ義澄以下ノ子息門葉(モンヨウ)、多ク以テ御共ニ候ジ、武功ヲ励マス。《『吾妻鏡』治承四年十月四日の条》
2002年7月29日(月)薄晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「先途(センド)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「勢」部に、
先途(―ト)。先度(―ド)。〔元亀本352八〕
先途(―ド)人之。先度(同)。〔静嘉堂本424八〕
とあって、標記語「先途」そして「先度」の二語を収載し、読みを「せんと」、「せんど」とし、静嘉堂本にだけ「人之」という語注記の記載が見えている。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「今度出立當家眉目一門先途也」〔至徳三年本〕
「今度出立者當家眉目一門先途也」〔宝徳三年本〕
「今度出立者當家眉目一門之先途(ど)也」〔建部傳内本〕
「今度ノ出_立ハ者當-家ノ眉-目一-門ノ先-途也」〔山田俊雄藏本〕
「今度ノ出立(イデタチ)者ハ當家ノ眉目(ビモク)一門之先途(ト)也」〔経覺筆本〕
「今-度ノ之出_立者當-家之眉-目(ヒホク)一門之先-途(ト)也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「先途」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』は、
先途(センド/)難義(ナンギ)ノ意(コヽロ)ナリ也。〔言辞154五〕
とあって、標記語「先途」の語を収載し、語注記に「難義の意なり」という。次に、広本『節用集』は、
先途(せンド/マヅ,ミチ)[平・平]難義ノ意也。〔態藝門1087八〕
とあって、標記語「先途」の語を収載し、その語注記は『下學集』を継承する。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
先途(―ド)難義。〔弘・言語進退265三〕
先規(せンキ)―判(ハン)。―例(レイ)。―蹤(ぜウ)。―途(ド)。―条(デウ)。〔永・言語226四〕
先規(せンキ)―判。―例。―蹤。―途。―条。〔尭・言語213二〕
とあって、標記語「先途」の語を収載する。このうち、弘治二年本は、『下學集』、広本『節用集』を簡略化した語注記「難義」で継承している。また、易林本『節用集』も、
先コ(せンドク)一度(ド)。一條(デウ)。一代(ダイ)。一例(レイ)。/一規(キ)。一陣(ヂン)。一約(ヤク)。一蹤(せウ)。一非(ヒ)。〔言辞235七〕
とあって、標記語「先途」の語は未収載であり、『運歩色葉集』が同じと示す「先度」の語を収載している。
ここで古辞書における「先途」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、易林本『節用集』は、未収載にし、『下學集』、広本『節用集』と『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類は、この『庭訓徃来』に収載するこの語を収載しているのである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
326并御乗替等御助成候者可∨然也今度出_立ニ/ハ當家ノ眉目一門ノ先途也門葉人々可∨致‖粉骨合戰|旨 粉ハ摧也。又自‖常不輕菩薩|摧∨骨ヲ之行起也云々。〔謙堂文庫藏三四左B〕
先途―干要也。〔国会図書館藏『左貫注』書き込み〕
とあって、標記語を「先途」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
當家(タウケ)ノ眉目(ビモク)一-門ノ先途ト也トハ。面(ヲモテ)ヲ雙(ナラフ)ル事ナリ。一門(モン)一家(カ)ノ多サヲ云ナリ。主ノ先キニ用立テト云フコヽロカ。〔下9ウ二・三〕
とあって、この標記語の「先途」の語注記は、「主ノ先キニ用立テ」ということを記載する。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
一門(いちもん)の先途(せんど)也/一門之先途也 一門ハ一族也。先途ハ一生乃期といふ事也。一族乃人々必死になるへき時節となり。〔40ウ二・三〕
とあって、標記語「先途」で、その語注記は「先途は、一生の期といふ事なり。一族の人々必死になるべき時節となり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
今度(こんど)の出立(いでたち)者(ハ)當家(たうけ)之(の)眉目(びもく)一門(いちもん)乃先途(せんど)也(なり)/今度ノ出立者當家之眉目。一門ノ先途也。門葉人々可∨致‖粉骨合戰ヲ|旨▲先途爰(こゝ)にハ我(わが)一門(ともがら)にとりて重(おも)き限(かきり)の役目(やくめ)といふ意也。〔三十一ウ四・七〕
今度(こんど)の出立(いでたち)者(ハ)當家(たうけ)の眉目(びもく)一門(いちもん)の先途(せんど)也(なり)。▲先途爰(こゝ)にハ我(わが)一門(ともがら)にとりて重(おも)き限(かきり)の役目(やくめ)といふ意(い)也。〔五十六オ二・六〕
とあって、標記語「先途」にして、その語注記は、「先途爰には、我が一門にとりて重き限りの役目といふ意なり」という。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Xendo.センド(先途) すなわち,Nanguino coto.(難儀のこと)危険で困難なこと.§Fitono xendouo mitodoquru.(人の先途を見届くる)人が国外へ追放される時に,最後までその人と同行する.あるいは,最後までその人と同行する.あるいは,最後まで人と困難を共にする.※先途センド,難義意也(『下學集』広本『節用集』).〔邦訳750r〕
とあって、同音異義の標記語「先途」を収載し、その意味を「(難儀のこと)危険で困難なこと」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
せん-ど(名)【先途】(一)進み行く先(さき)。成り行きの極(きはみ)。至極(つまり)の處。最期。平治物語、二、待賢門軍事「主の先に進まんと、爰を前途と戰ひたり」「君の先途を見とどく」 (二)其家筋に先例ある、至極の官途。極官 平治物語、一、信頼信西不快事「近衞大將、云云、執柄の息、英才が輩も、此の職を先途とす」 (三)大事のをり。せとぎは。わけめ。 宇治拾遺物語、十一、第七條「其衣をば納めて、必ずせんどと思ふ事の折にぞ、取り出て、着ける」〔1129-3〕
とあって、標記語「先途」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「せん-ど【先途】[名]@これからさき。進んで行くさき。なりゆき。ゆきさき。前途。A結局のところ。ゆきつくところ。最期。また、人の死。B勝敗、成否あるいは存亡の決する大事の場合。一旦緩急ある場合。わけめ。せとぎわ。C昇進の過程。D家柄によって定まる、昇進できる最高の官職、または社会的地位。[語誌](1)「先途」は、中国古典には見当たらないが、「前途」はあり、その「前」は漢音では「セン」と読まれたらしい。日本では古くは「色葉字類抄」に「前途 セント」とあり、Bの舉例の「保元物語」にも「せんど」に「前途」の表記が用いられている。しかし、「前」には一般に呉音「ゼン」が用いられて、「前途」は「ゼント」と読まれ、「せんど」には「先途の表記が次第に通用するようになり、二語に分化した。「改正増補和英語林集成」には、「Sendoセンド」」と「Zenntoゼント」とが別項目として記載されている。(2)「先途」は、元来の@の意味からABの意に展開するが、「前途(ぜんと)」は、もっぱら「行く先」「将来」という意味に限られている」を収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
但勇士者、臨戰場以施武威爲先途、《読み下し》但シ勇士ハ、戦場ニ臨ムデ武威ヲ施スヲ以テ先途トス。《『吾妻鏡』文治五年十一月七日の条》
2002年7月28日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「一門(イチモン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、
一門(―モン)。〔元亀本19二〕〔静嘉堂本14七〕〔天正十七年本上8ウ四〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「一門」の語を収載し、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「今度出立當家眉目一門先途也」〔至徳三年本〕
「今度出立者當家眉目一門先途也」〔宝徳三年本〕
「今度出立者當家眉目一門之先途(ど)也」〔建部傳内本〕
「今度ノ出_立ハ者當-家ノ眉-目一-門ノ先-途也」〔山田俊雄藏本〕
「今度ノ出立(イデタチ)者ハ當家ノ眉目(ビモク)一門之先途(ト)也」〔経覺筆本〕
「今-度ノ之出_立者當-家之眉-目(ヒホク)一門之先-途(ト)也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
一門 同(人倫部)/イチモン〔黒川本・疉字門上10ウ三〕
一道 〃旦。《中略》〃門。〃家。《後略》〔卷第一・疉字63五〕
とあって、標記語「一門」の語を収載する。
室町時代の『下學集』は、標記語「一門」の語を未収載にする。次に、広本『節用集』は、
一門(イツモン/ヒトツ,カド)[入・平]。〔態藝門36八〕
とあって、標記語「一門」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
一門(―モン)。〔永・言語進退5三〕
一位 《前略》―門。《後略》〔尭・支体5五〕
一位 《前略》―門(モン)。《後略》〔両・支体6五〕
とあって、標記語「一門」の語を収載する。また、易林本『節用集』も、
一門(イチモン)一族(ソク)/一家(カ)。〔人倫2三〕
とあって、人倫門に標記語「一門」の語を収載する。
ここで古辞書における「一門」についてまとめておくと、『下學集』は、未収載にし、『色葉字類抄』、広本『節用集』と『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』は、この『庭訓徃来』に収載するこの語を収載しているのである。ここで、易林本が態藝門や言語進退門から人倫門へその収載を変更していることに注目したい。いわば、注釈『庭訓徃来注』の意味をここに反映したと考えられるからである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
326并御乗替等御助成候者可∨然也今度出_立ニ/ハ當家ノ眉目一門ノ先途也門葉人々可∨致‖粉骨合戰|旨 粉ハ摧也。又自‖常不輕菩薩|摧∨骨ヲ之行起也云々。〔謙堂文庫藏三四左B〕
とあって、標記語を「一門」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
當家(タウケ)ノ眉目(ビモク)一-門ノ先途ト也トハ。面(ヲモテ)ヲ雙(ナラフ)ル事ナリ。一門(モン)一家(カ)ノ多サヲ云ナリ。主ノ先キニ用立テト云フコヽロカ。〔下9ウ二・三〕
とあって、この標記語の「一門」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
一門(いちもん)の先途(せんど)也/一門之先途也 一門ハ一族也。先途ハ一生乃期といふ事也。一族乃人々必死になるへき時節となり。〔40ウ二・三〕
とあって、標記語「一門」で、その語注記は「一門は、一族なり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
今度(こんど)の出立(いでたち)者(ハ)當家(たうけ)之(の)眉目(びもく)一門(いちもん)乃先途(せんど)也(なり)/今度ノ出立者當家之眉目。一門ノ先途也。門葉人々可∨致‖粉骨合戰ヲ|旨。〔三十一ウ四・七〕
今度(こんど)の出立(いでたち)者(ハ)當家(たうけ)の眉目(びもく)一門(いちもん)の先途(せんど)也(なり)。〔五十六オ二・六〕
とあって、標記語「一門」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Ichimon.イチモン(一門) Fitotcuno cado.(一つの門)一族.§また,同じ宗教団体に属する僧侶などのような,人々の団体.§Ichimon qezocu ai atcumaru.(一門眷属相集まる)一族の者が皆集まる.→Tcuranari,u.〔邦訳327l〕
とあって、同音異義の標記語「一門」を収載し、その意味を「一族.また,同じ宗教団体に属する僧侶などのような,人々の団体」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
いち-もん(名)【一門】〔出典の大鏡に、ひとつかどと云へり、一門は(イチモン)は、それを文字に書きて、音讀したりとも思はる、かどとは、家系(いへすぢ)のことなり、(其條を見よ)正字通「世族盛著者、曰‖門望|」(門閥、門地)仙臺藩にては、門閥を、一門、一家、準一家、一族、と次第したり、(僭越ながら、公・侯・伯・子)一門は、藩祖政宗の設けし稱にて、藩主の次三男、兄弟、叔姪の家なりき〕同一の族(やから)。同族(ドウゾク)。一家(イッケ)。貴族に云ふ。宗族。親族 大鏡、下、道長「入道殿下のひとつかどばかりこそ、太皇太后宮、皇太后宮、中宮、三所おはしたれ」(一門(ひとつかど)) 盛衰記、六、小松殿再諌父之事「國郡、半は、一門の所領となり、田園、悉く、一家の進止たり、是れ希代の朝恩に候はずや」 平家物語、一、禿童事「平大納言時忠の卿、宣ひけるは、この一もんにあらざらむ者は、皆非人たるべし、とぞ宣ひける」 承久軍物語、五「いかに高井殿、御邊は、同じ一門の中にても、殊更、兄弟の睦びをなし申ししに違はず、云云、兼義は十六、高井は十六、刺違(さしちが)へてぞ死(しに)にける」〔0176-5〕
とあって、標記語「一門」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「いち-もん【一門】[名]@一つの門。A親族関係にある人々の総称。一家族。同族。宗族。B宗教、学問、武道、芸能などの流派を同じくする人々。同門。C嫡宗家を中心に同族観念で構成された大名家の家格の一つ。D同一類のこと。E仏語。真言密教で、大日如来の徳性やはたらきの一つ。マンダラの諸尊はそのいちいちを象徴する。G大砲の一つ」を収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
於國敵者、天下勇士、可奉合一揆力、而被誅無誤一門者御身之上讎敵、仰誰人、可被對治哉《読み下し》国敵ニ於テハ、天下ノ勇士、一揆ノ力ヲ合セ奉ルベシ。而ルニ誤リ無キ一門ヲ誅セラルテイレバ、御身ノ上ノ讐敵ハ、誰人ニ仰セテ、対治セラルベキヤ。《『吾妻鏡』治承四年十一月八日の条》
2002年7月27日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「眉目(ミメ・ビモク)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「見」部に、
眉目(ミメ)。〔元亀本299九〕
美面(ミメン)。眉目(同)。〔静嘉堂本348六〕
とあって、標記語「眉目」の語を収載する。読みは「みめ」とし、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「今度出立當家眉目一門先途也」〔至徳三年本〕
「今度出立者當家眉目一門先途也」〔宝徳三年本〕
「今度出立者當家眉目一門之先途(ど)也」〔建部傳内本〕
「今度ノ出_立ハ者當-家ノ眉-目一-門ノ先-途也」〔山田俊雄藏本〕
「今度ノ出立(イデタチ)者ハ當家ノ眉目(ビモク)一門之先途(ト)也」〔経覺筆本〕
「今-度ノ之出_立者當-家之眉-目(ヒホク)一門之先-途(ト)也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「眉目」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』は、標記語「眉目」の語を未収載にする。次に、広本『節用集』は、
眉目(ミメ/ヒホク・マユ,メ)[平・入]。〔支體門890四〕
とあって、標記語「眉目」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
眉目(ミメ)。〔弘・支体232二〕〔永・支体193五〕〔尭・支体183一〕
とあって、読みを「みめ」とし、標記語「眉目」の語を収載する。また、易林本『節用集』も、
眉目(ミメ)。〔人倫198五〕
とあって、読みを「みめ」とし、人倫門に標記語「眉目」の語を収載する。
ここで古辞書における「眉目」についてまとめておくと、古辞書は読みを「みめ」とし、『色葉字類抄』、『下學集』は、未収載にし、広本『節用集』と『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』は、この『庭訓徃来』に収載するこの語を「みめ」の読みで収載しているのである。ここで、易林本が支體門から人倫門へその収載を変更していることに注目したい。いわば、注釈『庭訓徃来注』の意味とする「面目なり」をここに反映したと考えられるからである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
326并御乗替等御助成候者可∨然也今度出_立ニ/ハ當家ノ眉目一門ノ先途也門葉人々可∨致‖粉骨合戰|旨 粉ハ摧也。又自‖常不輕菩薩|摧∨骨ヲ之行起也云々。〔謙堂文庫藏三四左B〕
眉‐目(ミメ)―肝要ノ心也。面目也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩書込み〕
とあって、標記語を「眉目」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
當家(タウケ)ノ眉目(ビモク)一-門ノ先途ト也トハ。面(ヲモテ)ヲ雙(ナラフ)ル事ナリ。一門(モン)一家(カ)ノ多サヲ云ナリ。主ノ先キニ用立テト云フコヽロカ。〔下9ウ二・三〕
とあって、この標記語の「眉目」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
今度(こんど)の出立(しゆつたち)者(ハ)當家(とうけ)の眉目(びもく)一門(いちもん)の先途(せんど)也/今度ノ出立者當家之眉目 眉目ハ面目(めんぼく)といふがことし。ほまれ成事なり。〔39ウ八〜40オ二〕
とあって、標記語「眉目」で、その語注記は「面目といふがことし。ほまれ成る事なり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
今度(こんど)の出立(いでたち)者(ハ)當家(たうけ)之(の)眉目(びもく)一門(いちもん)乃先途(せんど)也(なり)/今度ノ出立者當家之眉目。一門ノ先途也。門葉人々可∨致‖粉骨合戰ヲ|旨▲眉目ハ面目(めんぼく)といふがごとし。〔三十一ウ四・七〕
今度(こんど)の出立(いでたち)者(ハ)當家(たうけ)の眉目(びもく)一門(いちもん)の先途(せんど)也(なり)。▲眉目ハ面目(めんぼく)といふかごとし。〔五十六オ二・六〕
とあって、標記語「眉目」にして、その語注記は、「眉目は、面目といふがごとし」という。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Mime.ミメ(眉目) 面相,あるいは,顔つき.§Mime catachi fitoni sugure,cocorozama mademo yu<ni yasaxicariqi.(眉目貌人に勝れ,心樣までも優にやさしかりき)Taif.(太平記)卷二十九.面相と顔の形は群を抜いてすぐれ,その性格までも高尚で,人に好感を与えるものであった.※太平記,二十九,師直以下被誅事附仁義血気勇者事.〔邦訳405r〕
Bimocu.ビモク(美目) Vtcuxij me.(美しい目)きれいな目.〔邦訳56l〕
とあって、同音異義の標記語「美目」を収載し、その意味を「きれいな目」という。「眉目」の語は未収載とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
び-もく(名)【眉目】(一)まゆと、めと。轉じて、みめ。容姿(かほ)。 後漢書、馬援傳「爲∨人明‖須髪|、眉目如∨畫、閑‖於進對|、尤善述‖前世行事|」三國志、魏志、崔霓傳「霓聲高暢、眉目疏朗、鬚長四尺、甚有威重、朝士瞻望、而太祖亦敬憚焉」(二)ほまれ。面目(めんぼく)。 太平記、七、新田義貞賜綸旨事「綸旨の文章、家の眉目に備へつ可き綸言なれば」 十訓抄、下、第十、第廿一條「かの社(吉備津宮)に參りて、皇帝以下の秘曲を吹く間、白髪たちどころに元の如し、尤も道のびもくといふべし」〔1699-1〕
み-め(名)【容貌・眉目】〔見目の義〕(一){女の顔の美(よ)きもの。又、人の顔貌の、目に見ゆる所。きりゃう。まみ。びもく。容姿(かほ)。 枕草子、九、第九十七段「みめ清げなるにつけても」榮花物語、廿四、若枝「みめのおどろおどろしう」「みめ好し」人はみめより、ただ心」(二)面目。名誉。 書字考節用集、九、言辭門「眉目 ミメ 本朝俗謂下有‖面目|之義上爲‖眉目|」心中天網島(享保、近松作)中「如何にとし若いとて、二人の子の親、結構なばかりみめではない」〔1949-3〕
とあって、標記語「眉目」の語を「ビモク」と「みめ」の見出し語で収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「び-もく【眉目】[名]@眉と目。また、顔かたち。容貌。みめ。びぼく。Aほまれ。面目。名誉。美目。びぼく」と標記語「み-め【眉目】[名]@目に見える有様。見た目。外見。A顔かたち。顔だち。容貌。容姿。Bほまれ。名誉。面目。また、みえ」を収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
又賜‖一疋馬|。尤足‖騎用|。於‖故郷|可∨施‖眉目|之由申侍。《『明衡徃来』中本》
居住西國之間、諸事、兼信可爲上司之旨、賜御一行、當于眉目〈云云〉《読み下し》西国ニ居住スルノ間、諸事、兼信上司タルベキノ旨、御一行ヲ賜ハリ、眉目(ミメ)ニ当テント*(*欲スト)〈云云〉。《『吾妻鏡』寿永三年三月十七日の条》
2002年7月26日(金)晴れ。東京(八王子)⇒神田→市川→有楽町→世田谷(駒沢)
「出立(いでたち)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、
出立(イデタツ)。〔元亀本11三〕
出立(イテタチ)。〔静嘉堂本2七〕〔天正十七年本上3ウ六〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「出立」の語を収載する。読みは「いでたつ」と「いてたち」といった二種類の読みが見え、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「今度出立當家眉目一門先途也」〔至徳三年本〕
「今度出立者當家眉目一門先途也」〔宝徳三年本〕
「今度出立者當家眉目一門之先途(ど)也」〔建部傳内本〕
「今度ノ出_立ハ者當-家ノ眉-目一-門ノ先-途也」〔山田俊雄藏本〕
「今度ノ出立(イデタチ)者ハ當家ノ眉目(ビモク)一門之先途(ト)也」〔経覺筆本〕
「今-度ノ之出_立者當-家之眉-目(ヒホク)一門之先-途(ト)也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「出立」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』は、標記語「出立」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
出立(イデタチ/シユツリフ)[去入・入]。〔態藝門15四〕
とあって、標記語「出立」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』そして、易林本『節用集』には、標記語「出立」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「出立」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』は、この標記語を未収載にし、広本『節用集』と『運歩色葉集』にこの語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
326并御乗替等御助成候者可∨然也今度出_立ニ/ハ當家ノ眉目一門ノ先途也門葉人々可∨致‖粉骨合戰|旨 粉ハ摧也。又自‖常不輕菩薩|摧∨骨ヲ之行起也云々。〔謙堂文庫藏三四左B〕
とあって、標記語を「出立」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
宿直(トノヰ)腹巻(ハラマキ)并ニ御乗_替(ノリガヘ)等ノ御助-成(ゴジヨジヤウ)候者可ク∨然ル也今度ノ出テ_立(タ)チ者(ハ)。〔下9オ六〜9ウ二〕
とあって、この標記語の「出立」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
今度(こんど)の出立(しゆつたち)者(ハ)當家(とうけ)の眉目(びもく)一門(いちもん)の先途(せんど)也/今度ノ出立者當家之眉目 眉目ハ面目(めんぼく)といふがことし。ほまれ成事なり。〔39ウ八〜40オ二〕
とあって、標記語「出立」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
今度(こんど)の出立(いでたち)者(ハ)當家(たうけ)之(の)眉目(びもく)一門(いちもん)乃先途(せんど)也(なり)/今度ノ出立者當家之眉目。一門ノ先途也。門葉人々可∨致‖粉骨合戰ヲ|旨。〔三十一ウ四〕
今度(こんど)の出立(いでたち)者(ハ)當家(たうけ)の眉目(びもく)一門(いちもん)の先途(せんど)也(なり)。〔五十六オ二〕
とあって、標記語「出立」にして、その語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Idetachi.イデタチ,ツ,ッタ(出で立ち,つ,つた) 身なりを飾る,あるいは,きちんと着物を身につける.〔邦訳331l〕
Idetachi.イデタチ(出で立ち) 着飾ること,あるいは,身なりを整えること.§また,よそへ出発する時に食事をすること.例,Idetachiuo suru,l,furumo<.(出で立ちをする,または,振舞ふ)人がよそへ向かって出発する際に食事をする.話し言葉では、Detachi,u(出たち,つ)の方を多く用いる.たとえば,Detachiuo suru(出立ちをする),など.〔邦訳331l〕
とあって、標記語「出立」の語を収載し、その意味を「身なりを飾る,あるいは,きちんと着物を身につける」と「着飾ること,あるいは,身なりを整えること。また、よそへ出発する時に食事をすること」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
いで-たち(名)【出立】(一)外記(ゲキ)の、政治の時の作法の名。 公事根源、上「結成(かたなし)の事果てて、南の處にて勸盃あり、いでたちとて、出でざまに各作法あり」(二){世に、成り出づること。立身。榮達 源氏物語、五、若紫5「大臣の後にて、いでたちもすべかりける人の、世の僻者(ひかもの)にて、まじらひもせず、近衞の中將をすてて」〔0194-1〕
とあって、標記語「出立」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「いで-たち【出立】[名]@家を出たあたり。門前。A旅立ち。門出(かどで)。出発。B使者出発の際の儀式作法。C旅立ちする際の食事。また、送別の祝宴。D立身出世。栄達。E出仕。宮仕え。F(旅立ち、出陣など)晴れの行為の準備。身じたく。G身ごしらえ。服装。扮装(ふんそう)。H(御用始めの意か)平安時代、太政官の少納言局に属し、記録をつかさどった外記(ゲキ)の政治(まつりごとはじめ)の儀式作法」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
官使出立之間、無左右不被下、且又發向一定何比乎成儲《読み下し》官使出デ立ツノ間、左右無ク下サレズ。且ハ又発向スルコト一定何比ゾヤ。《『吾妻鏡』文治五年四月二十二日の条》
2002年7月25日(木)曇り一時雨後晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「乘替(のりかえ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「乃」部に、標記語「乘替」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「着弃鎧宿直腹巻并御乗替等御助成候者可然也」〔至徳三年本〕
「着弃鎧宿直腹巻并御乘替等御助成候者可然也」〔宝徳三年本〕
「着弃之鎧宿直腹巻并御乘替等御助成候者可然也」〔建部傳内本〕
「着_弃(キステ)ノ鎧(ヨロイ)宿_直(トノイ)ノ腹_巻并ニ御乗_替(カヘ)等御助-成候者可∨然也」〔山田俊雄藏本〕
「着_棄(メシステ)ノ鎧イ宿直(トノイ)ノ腹_巻キ并ニ御乗リ替(カヘ)等御助成候者可∨然也」〔経覺筆本〕
「着_弃(キズテ)ノ鎧(ヨロヒ)宿_直(ヒタタレ)ノ腹_巻并ニ御乗_替等御助-成‖候者可然|也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「乘替」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』、広本『節用集』は、標記語「乘替」の語を未収載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
乘替(ノリガヘ)馬。〔弘・畜類153六〕〔永・畜類125七〕
乘替(ノリカヘ)馬――。〔尭・畜類114八〕
乘替(ノリカヘ)馬。〔両・畜類139三〕
とあって、標記語「乘替」の語を収載する。また、易林本『節用集』も、
乘替(ノリガヘ)―打(ウチ)/合(アヒ)。〔言辞124一〕
とあって、標記語「乘替」の語を収載する。
ここで古辞書における「乘替」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』は、この標記語を未収載にし、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』にこの語を収載するものである。他に『伊京集』饅頭屋本『節用集』などに収載されている。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
326并御乗替等御助成候者可∨然也今度出_立ニ/ハ當家ノ眉目一門ノ先途也門葉人々可∨致‖粉骨合戰|旨 粉ハ摧也。又自‖常不輕菩薩|摧∨骨ヲ之行起也云々。〔謙堂文庫藏三四左B〕
とあって、標記語を「乘替」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
宿直(トノヰ)腹巻(ハラマキ)并ニ御乗_替(ノリガヘ)等ノ御助-成(ゴジヨジヤウ)候者可ク∨然ル也今度ノ出テ_立(タ)チ者(ハ)。〔下9オ六〜9ウ二〕
とあって、この標記語の「乘替」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
并に御乘替(おんのりがへ)等/并ニ御乗_替等 乗かへの馬をいふなり。〔39ウ七〕
とあって、標記語「乘替」で、その語注記は「乗りかへの馬をいふなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
宿直(とのい)腹巻(はらまき)并(ならび)に御(おん)乗替(のりがへ)等(とう)御助成(ごじよせい)候(さふら)ハ者(バ)然(しか)る可(べ)き也/宿_直腹_巻并ニ御_乗_替等御-助-成候ノ者可キ∨然ル也〔三十一ウ二〕
宿直(とのゐ)腹巻(はらまき)并(ならび)に御(おん)乗替(のりがへ)等(とう)御助成(ごじよせい)候(さふら)ハ者(バ)可(べき)∨然(しか)る也(なり)。〔五十五ウ五〕
とあって、標記語「乘替」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Norigaye.ノリガヘ(乘替) 控えの馬.§Norigayeuo ficasuru.(乘替を引かする)控えの馬を引き連れる.〔邦訳4731〕
とあって、標記語「乘替」の語を収載し、その意味を「控えの馬」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
のり-かへ(名)【乘替】(一)馬、車、舟など替へて乘ること。(二)替へて乘るに備ふる馬、又、車。副馬 副車 今昔物語集、廿五、第十語「馬の腹帶結び、胡禝などかいつくろひて、云云、乘替への馬などに乘りて、あるきたゆみて有ければ」平家物語、九、宇治川事「その後、畠山、のりかへに乘って、をめいて驅く」 太平記、十六、新田殿湊河合戰事「義貞、求塚の上に下立(おりたち)ちて、乘替の馬を待ち給へども」(三)取引所の語。前限月の建玉を、轉賣、又は、買戻すると共に、後限月に、前と同じ賣建て、又は、買建てをすること。(四)公債の乘替のこと。即ち、新募集の債券を以て、他の債券に換ふるなり。〔1544-1〕
とあって、標記語「乘替」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「のり-かえ【乗換・乗替】[名]@乗りかえること。ある乗物からおりて他の乗物に乗ること。また、その場所。A「のりかえきっぷ(乗換切符)」の略。B(古くは「のりがえ」)乗りかえるためにあらかじめ用意してある乗物。予備の乗物。主として馬にいう。C(古くは「のりがえ」)乗りかえるために用意した馬をあずかって乗る侍。D心を他の者にうつすこと。心変わり。E取引市場で用いる語。[イ]ある銘柄を売って他の銘柄を買うこと。[ロ]商品取引や戦前の株式の清算取引で決済期の接近した建玉(たてぎょく)を手じまいして先物に切りかえること」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
亥尅令著黄瀬河宿御馬乗替等多以儲此所北條殿、被献御駄餉〈云云〉《読み下し》亥ノ剋ニ黄瀬河ノ宿ニ著カシメ、御馬乗替等。多ク以テ此ノ所ニ儲ク。北条殿、御駄餉ヲ献ゼラル〈云云〉。《『吾妻鏡』建久元年十二月二十六日の条》
2002年7月24日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「腹巻(はらまき)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「波」部に、
腹巻(ハラマキ)。〔元亀本25八〕〔天正十七年本上12ウ八〕〔西来寺本〕
腹巻(――)。〔静嘉堂本23五〕
とあって、標記語「腹巻」の語を収載し、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「着弃鎧宿直腹巻并御乗替等御助成候者可然也」〔至徳三年本〕
「着弃鎧宿直腹巻并御乘替等御助成候者可然也」〔宝徳三年本〕
「着弃之鎧宿直腹巻并御乘替等御助成候者可然也」〔建部傳内本〕
「着_弃(キステ)ノ鎧(ヨロイ)宿_直(トノイ)ノ腹_巻并ニ御乗_替(カヘ)等御助-成候者可∨然也」〔山田俊雄藏本〕
「着_棄(メシステ)ノ鎧イ宿直(トノイ)ノ腹_巻キ并ニ御乗リ替(カヘ)等御助成候者可∨然也」〔経覺筆本〕
「着_弃(キズテ)ノ鎧(ヨロヒ)宿_直(ヒタタレ)ノ腹_巻并ニ御乗_替等御助-成‖候者可然|也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
勒肚巾(ロクトキン)ハラマキ/肱イ本。〔黒川本・雜物上21オ五〕
腹卷ハラマキ/兵具也。〔黒川本・雜物上21オ七〕
勒肚巾ハラマキ/ハラマキ/勒肱巾 一曰腹帯。〔卷第一180二〕
とあって、三卷本だけが標記語「勒肚巾」「腹卷」の二語を収載し、十巻本は、標記語「勒肚巾」のみの収載となっている。
室町時代の『下學集』は、
腹巻(ハラマキ)。〔器財門115二〕
とあって、標記語「腹巻」の語を収載する。次に広本『節用集』には、
腹巻(ハラマキ/フク―)[入・○]。〔器財門59五〕
とあって、標記語「腹巻」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
腹巻(ハラマキ)。〔弘・財宝21五〕〔永・財宝19二〕〔尭・財宝17六〕〔両・財宝21六〕
とあって、標記語「腹巻」の語を収載する。また、易林本『節用集』も、
腹巻(ハラマキ)。〔器財19一〕
とあって、標記語「腹巻」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「腹巻」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』にこの語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
325宿直(トノ−)腹巻 仁王十七代後冷泉院ノ御宇承平六年奥州安部貞任宗任爲‖追罸|伊予入道頼義下向ノ時、射-向ノ一方ノ草摺ノ破ルヲ残三間ヲモ兩ニ破テ絃(ツル)走ノ皮ヲ除テ腹巻ト号也。〔謙堂文庫藏三四左A〕
とあって、標記語を「宿直」についての語注記は「仁王十七代、後冷泉院の御宇。承平六年奥州安部貞任宗任追罸を爲し、伊予入道頼義下向の時、射-向の一方の草摺の破るを残り三間をも兩に破りて絃走りの皮を除きて腹巻と号すなり」という。
古版『庭訓徃来註』では、
宿直(トノヰ)腹巻(ハラマキ)并ニ御乗_替(ノリガヘ)等ノ御助-成(ゴジヨジヤウ)候者可ク∨然ル也今度ノ出テ_立(タ)チ者(ハ) 宿直ト云事一説ニハ。太宅(ヲホヤケ)事ニ終日(ヒメモス)ニ仕(ツカ)ヘ奉リ。日暮(クレ)テ歸(カヘ)ラントせシガ猶(ナヲ)主君(シユクン)ヲ思ヒテ。其マヽトマルヲ殿居(トノイ)ト云ナリ。去ルホドニ直(スク)ニトマルトハ書ケレ。只夜(ヨル)計リヤ。晝(ヒル)計リ仕ヘ奉ラバ番(バン)ト云也。宿直(トノヰ)ノ腹巻ト云ハ何事モ。君ノ所々出來ラン時彼ノ人等ニ著(キ)せン爲也。内ヨリ拵ヘザル故ニ角(カク)ハ云ナリ。〔下9オ六〜9ウ二〕
とあって、この標記語の「宿直腹巻」の語注記は、「宿直と云ふ事一説には、太宅事に終日に仕へ奉り、日暮れて歸らんとせしが、猶主君を思ひて、其のままとまるを殿居と云ふなり。去るほどに直にとるとは書きけれ。ただ夜計りや。晝計り仕へ奉らば、番と云ふなり。宿直の腹巻と云ふは、何事も君の所々出來らん時、彼の人等に著せん爲なり。内より拵へざる故に角は云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
宿直(とのゐ)の腹巻(ハらまき)/宿直(トノヰ)ノ腹巻(ハラマキ) 番具足の類なり。宿直とハ君の御所を守る事也。腹巻ハ神功皇后(しんこうこうかう)より始れりといふ。肩(かた)と腰(こし)とに引合せの緒(を)ありて脊(せ)にて合するわり具足なり。但し脊分(せわり)具足とはべつなり。〔39オ五・七〕
とあって、標記語「宿直の腹巻」で、その語注記は「番具足の類なり。宿直とは、君の御所を守る事なり。腹巻は、神功皇后より始れりといふ。肩と腰とに引合せの緒ありて、脊にて合はするわり具足なり。但し、脊分具足とはべつなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
宿直(とのい)腹巻(はらまき)并(ならび)に御(おん)乗替(のりがへ)等(とう)御助成(ごじよせい)候(さふら)ハ者(バ)
然(しか)る可(べ)き也/宿_直腹_巻并ニ御_乗_替等御-助-成候ノ者可キ∨然ル也▲宿直腹巻宿直(とのい)とハ夜(よる)君(きみ)の御所を守(まも)るをいふ。腹巻(はら―)ハ引合(ひきあハせ)後(うしろ)にありて肩(かた)と腰(こし)とにて緒(を)をしむる。但し脊分(せわり)具足(ぐそく)とハ別(べつ)也。〔三十一ウ一・三〕
宿直(とのゐ)腹巻(はらまき)并(ならび)に御(おん)乗替(のりがへ)等(とう)御助成(ごじよせい)候(さふら)ハ者(バ)可(べき)∨然(しか)る也(なり)▲宿直腹巻宿直(とのゐ)とハ夜(よ)君(きミ)の御所を守(まも)るをいふ。腹巻(はらまき)ハ引合(ひきあハせ)後(うしろ)にありて肩(かた)と腰(こし)とにて緒(を)をしむる。但(たゞ)し脊分(せわり)具足(ぐそく)とハ別(べつ)也。〔五十五ウ五〜五十六オ二〕
とあって、標記語「宿直の腹巻」にして、その語注記は「宿直とは、夜君の御所を守るをいふ。腹巻は、引合せ後ろにありて肩と腰とにて緒をしむる。但し、脊分具足とは、別なり」という。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Faramaqi.ハラマキ(腹巻) 鎧.→Faraate;Nugui,u.〔邦訳2081〕
とあって、標記語「腹巻」の語を収載し、その意味を「」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
はら-まき(名)【腹卷】(一){人の腹に卷く帶。ハラオビ。勒肚巾 倭名抄十二21腰帶類「勒肚巾、波良萬岐、一云、腹帶」天治字鏡、十二28「勒肚巾、波良萬支」(二)鎧の一種。前より左右を繞りて、背にて引合はす背板と云ふものを以て、背の透間を塞ぐこと、脇立(わいだて)の如きもの。直垂、狩衣など着込に用ゐ、夜行、野外行などとす。袖、籠手などなし。せわりぐそく。 義経記、二、鬼一法眼事「かねKに眉取りて候が、良き腹卷に、金作の太刀を佩かれて候」 曾我物語、六、五郎大磯へ行きし事「緋縅の腹卷取って引っ懸け」 扶桑略記、大野原行幸「諸衞官人著‖褐衣|,腹卷、行騰」〔1635-3〕
とあって、標記語「腹巻」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「はら-まき【腹巻】[名]@腹に巻く幅の広い布。また、綿布や毛糸で作った筒形のもの。冷えを防ぐためなどに用いる。はらおび。A鎧(よろい)の一種。騎射用の大形の草摺(くさずり)の鎧に対して、草摺を細分した、徒歩用の軽快で小形の様式をいう。近世では、腹に巻いて背で引き合せる様式をいう。ときにその背のすきまをふさぐ防御具を付設して背板(せいた)とも臆病板(おくびょういた)ともいう。腹卷鎧。[語誌](Aについて)(1)近世以降、背中で引き合せる形式の鎧を腹巻、右脇で引き合せるものを胴丸(どうまる)と呼ぶが、鎌倉期以前の文献には「胴丸(どうまる)」の確実な例はなく、「腹巻」のみが用いられる。但し、いわゆる胴丸が「平治物語絵巻」などの古画に見えるのに対して、背面引き合わせの腹巻は、鎌倉以前のものは現存せず、絵巻などにも見えない。(2)鎌倉後期の「土蜘蛛草紙」に、腹巻着用の図として胴丸が描かれていることなどから、鎌倉・室町初期以前には、右脇引き合わせの胴丸は腹巻と称し、ていたらしい。背面引き合わせの腹巻は、「日蓮遺文‐種々御振舞御書」(一二七五)の記事や、鎌倉末の「拾遺古コ伝」などの描写に見える。いわゆる腹巻は胴丸同様、当初は袖・冑を有さず、「杏葉(ぎょうよう)」と呼ばれる鉄板で肩上を覆うばかりあであったが、室町期になると、袖・冑を併用するようになり、杏葉は栴檀(せんだん)・鳩尾(きゅうび)の板の代わりとなった」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
又被副住吉小大夫昌長、〈著腹巻、〉於軍士《読み下し》又住吉ノ小大夫昌長〈腹巻ヲ著ス、〉ヲ、軍士ニ副ヘラル。《『吾妻鏡』治承四年八月十七日の条》
2002年7月23日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「宿直(とのゐ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「登」部に、
宿直(トノイ)。〔元亀本56三〕
宿直(トノイ)。〔静嘉堂本63三〕
宿直(トノイ)。〔天正十七年本上32ウ二〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「宿直」の語を収載し、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「着弃鎧宿直腹巻并御乗替等御助成候者可然也」〔至徳三年本〕
「着弃鎧宿直腹巻并御乘替等御助成候者可然也」〔宝徳三年本〕
「着弃之鎧宿直腹巻并御乘替等御助成候者可然也」〔建部傳内本〕
「着_弃(キステ)ノ鎧(ヨロイ)宿_直(トノイ)ノ腹_巻并ニ御乗_替(カヘ)等御助-成候者可∨然也」〔山田俊雄藏本〕
「着_棄(メシステ)ノ鎧イ宿直(トノイ)ノ腹_巻キ并ニ御乗リ替(カヘ)等御助成候者可∨然也」〔経覺筆本〕
「着_弃(キズテ)ノ鎧(ヨロヒ)宿_直(ヒタタレ)ノ腹_巻并ニ御乗_替等御助-成‖候者可然|也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
直トノヰス/トノヰ。宿(シク)同。〔黒川本・人事上54オ七〕
とあって、三卷本だけが標記語「直」「宿」の二語として収載する。
室町時代の『下學集』は、標記語「宿直」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
宿直(トノヱ/シユクチヨク)[入・入]。〔態藝門146六〕
とあって、標記語「宿直」の語を収載し、読みを「とのゑ」と記載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
宿直(トノイ)。〔弘・言語進退44三〕
宿(トノイ)直。〔永・言語47二〕〔両・言語52一〕
宿(トノイ)―直。〔尭・言語44一〕
とあって、標記語「宿直」の語を収載する。また、易林本『節用集』も、
宿直衣(トノエモノ)。〔食服42五〕
とあって、標記語「宿直」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「宿直」についてまとめておくと、『下學集』が未収載であり、『色葉字類抄』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』にこの語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
325宿直(トノ−)腹巻 仁王十七代後冷泉院ノ御宇承平六年奥州安部貞任宗任爲‖追罸|伊予入道頼義下向ノ時、射-向ノ一方ノ草摺ノ破ルヲ残三間ヲモ兩ニ破テ絃(ツル)走ノ皮ヲ除テ腹巻ト号也。〔謙堂文庫藏三四左A〕
宿直(トノイ)ノ―夜半ノ具足也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩書込み〕
宿直(トノイ)ノ―私云宿直(トノイ)トハ大裏ノ御トノイ番?~モナク箇斗ノ具足ヲキゴメ??テ番ヲスル也。〔国会図書館藏『左貫注庭訓徃來註』書込み〕
とあって、標記語を「宿直」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
宿直(トノヰ)腹巻(ハラマキ)并ニ御乗_替(ノリガヘ)等ノ御助-成(ゴジヨジヤウ)候者可ク∨然ル也今度ノ出テ_立(タ)チ者(ハ) 宿直ト云事一説ニハ。太宅(ヲホヤケ)事ニ終日(ヒメモス)ニ仕(ツカ)ヘ奉リ。日暮(クレ)テ歸(カヘ)ラントせシガ猶(ナヲ)主君(シユクン)ヲ思ヒテ。其マヽトマルヲ殿居(トノイ)ト云ナリ。去ルホドニ直(スク)ニトマルトハ書ケレ。只夜(ヨル)計リヤ。晝(ヒル)計リ仕ヘ奉ラバ番(バン)ト云也。宿直(トノヰ)ノ腹巻ト云ハ何事モ。君ノ所々出來ラン時彼ノ人等ニ著(キ)せン爲也。内ヨリ拵ヘザル故ニ角(カク)ハ云ナリ。〔下9オ六〜9ウ二〕
とあって、この標記語の「宿直腹巻」の語注記は、「宿直と云ふ事一説には、太宅事に終日に仕へ奉り、日暮れて歸らんとせしが、猶主君を思ひて、其のままとまるを殿居と云ふなり。去るほどに直にとるとは書きけれ。ただ夜計りや。晝計り仕へ奉らば、番と云ふなり。宿直の腹巻と云ふは、何事も君の所々出來らん時、彼の人等に著せん爲なり。内より拵へざる故に角は云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
宿直(とのゐ)の腹巻(ハらまき)/宿直(トノヰ)ノ腹巻(ハラマキ) 番具足の類なり。宿直とハ君の御所を守る事也。腹巻ハ神功皇后(しんこうこうかう)より始れりといふ。肩(かた)と腰(こし)とに引合せの緒(を)ありて脊(せ)にて合するわり具足なり。但し脊分(せわり)具足とはべつなり。〔39オ五・七〕
とあって、標記語「宿直の腹巻」で、その語注記は「番具足の類なり。宿直とは、君の御所を守る事なり。腹巻は、神功皇后より始れりといふ。肩と腰とに引合せの緒ありて、脊にて合はするわり具足なり。但し、脊分具足とはべつなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
宿直(とのい)腹巻(はらまき)并(ならび)に御(おん)乗替(のりがへ)等(とう)御助成(ごじよせい)候(さふら)ハ者(バ)然(しか)る可(べ)き也/宿_直(トノヰ)腹_巻(ハラマキ)并ニ御_乗_替(ノリガヘ)等御-助-成(ゴジヨジヤウ)候ノ者可キ∨然ル也▲宿直腹巻宿直(とのい)とハ夜(よる)君(きみ)の御所を守(まも)るをいふ。腹巻(はら―)ハ引合(ひきあハせ)後(うしろ)にありて肩(かた)と腰(こし)とにて緒(を)をしむる。但し脊分(せわり)具足(ぐそく)とハ別(べつ)也。〔三十一ウ一・三〕
宿直(とのゐ)腹巻(はらまき)并(ならび)に御(おん)乗替(のりがへ)等(とう)御助成(ごじよせい)候(さふら)ハ者(バ)可(べき)∨然(しか)る也(なり)▲宿直腹巻宿直(とのゐ)とハ夜(よ)君(きミ)の御所を守(まも)るをいふ。腹巻(はらまき)ハ引合(ひきあハせ)後(うしろ)にありて肩(かた)と腰(こし)とにて緒(を)をしむる。但(たゞ)し脊分(せわり)具足(ぐそく)とハ別(べつ)也。〔五十五ウ五〜五十六オ二〕
とあって、標記語「宿直の腹巻」にして、その語注記は「宿直とは、夜君の御所を守るをいふ。腹巻は、引合せ後ろにありて肩と腰とにて緒をしむる。但し、脊分具足とは、別なり」という。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Tonoi.トノイ(宿直) 警護番.§Tonoibaramaqi.(宿直腹巻)この警護番の着用する鎧.〔邦訳661r〕
‡Tonoibaramaqi.トノイバラマキ(宿直腹巻)→前条.〔邦訳661r〕
とあって、標記語「宿直」の語を収載し、その意味を「警護番」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
と-のゐ(名)【宿直】〔殿居(とのゐ)の義、里居、夜居の如し。晝仕ふるを直と云ひ、夜仕ふるを宿と云ふ。定家仮名遣「とのゐ、宿直、殿居」金剛般若集験記「宿衞(とのゐ)」延慶本平家物語、五「侍從と云へる遊君あり、中將の御殿居に參りたりけるが」などと見ゆ。殿寢(とのゐ)と書くは是ならむか〕(一)禁中、官署に宿りて、勤を守ること。又、禁中に宿して、非常に備ふること。 名義抄「直、トノヰ」雄略紀、十一年十月「信濃國直丁、與‖武藏國直丁|侍宿(とのゐ)せり」皇極紀、三年正月「詣‖彼宮|、而將∨侍∨宿(とのゐ)に」天武紀、下、四年十一月「直者(とのゐせるもの)」萬葉集、二29「外(よそ)に見し、檀(まゆみ)の岡も、君座せば、常(とこ)つ御門と、侍宿(とのゐ)するかも」(二)天子の御寢所に、皇后、女御などの添臥すること。源氏物語、一、桐壺9「御門、せむかたなう悲しうおぼさるに、御方方の、御とのゐなども、絶えてしたまはず」〔1414-3〕
とあって、標記語「宿直」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「と-のい【宿直】[名](殿居の意で、宮中などにいること)@内裏や宮司に事務をとったり、警護するために宿泊すること。令制では内舎人は帯刀して宿衛し、大舎人、中宮舎人、東宮舎人もまた分番して、それぞれ天皇、中宮、東宮の警衛をするために宿直した。平安時代には大臣、納言、蔵人頭、近衛大将などの高官も宿直した。A夜間、貴人の身近にあって守護すること。不寝番。B天皇の寝所で女性が近侍すること。夜とぎすること。[補注]令制における宿直は「夜仕曰宿、昼仕曰直」〔令集解-職員・神祇官〕とあって、宿と直が区別されているが、一般に「とのゐ」(殿居)とも書くという場合は、夜の勤務をのみさしているようである」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
又被副住吉小大夫昌長、〈著腹巻、〉於軍士是依致御祈祷也盛綱、景廉者、承可候宿直之由、留御座右《読み下し》又住吉ノ小大夫昌長〈腹巻ヲ著ス、〉ヲ、軍士ニ副ヘラル。是レ御祈祷ヲ致スニ依テナリ。盛綱、景廉ハ、宿直ニ候ズベキノ由ヲ承ツテ、御座ノ右ニ留マル。《『吾妻鏡』治承四年八月十七日の条》
2002年7月22日(月)晴れ。北海道(札幌)⇒東京(八王子)
「着棄(きすて)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「幾」部に、
着捨(キステ)。〔元亀本283七〕
着捨(キズテ)。〔静嘉堂本324七〕
とあって、標記語「着棄」の語をもって収載し、読みは「きすて」と「きずて」とあって、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「着弃鎧宿直腹巻并御乗替等御助成候者可然也」〔至徳三年本〕
「着弃鎧宿直腹巻并御乘替等御助成候者可然也」〔宝徳三年本〕
「着弃之鎧宿直腹巻并御乘替等御助成候者可然也」〔建部傳内本〕
「着_弃(キステ)ノ鎧(ヨロイ)宿_直(トノイ)ノ腹_巻并ニ御乗_替(カヘ)等御助-成候者可∨然也」〔山田俊雄藏本〕
「着_棄(メシステ)ノ鎧イ宿直(トノイ)ノ腹_巻キ并ニ御乗リ替(カヘ)等御助成候者可∨然也」〔経覺筆本〕
「着_弃(キズテ)ノ鎧(ヨロヒ)宿_直(ヒタタレ)ノ腹_巻并ニ御乗_替等御助-成‖候者可然|也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「着棄」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』、広本『節用集』は、標記語「着棄」の語を未収載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、標記語「着棄」の語を未収載にする。また、易林本『節用集』も、標記語「着棄」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「着棄」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本『節用集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』が未収載であり、『運歩色葉集』にのみ「着捨」の語をもて収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
324着棄(キ−)ノ鎧 日本ニハ正平年中ニ始也。鎧ハ唐ヲ学也。〔謙堂文庫藏三四左@〕
着弃(キステ)ノ鎧―艸摺四枚在。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩書込み〕
とあって、標記語を「着棄」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
着棄(キステ)ノ鎧(ヨロイ)ハ主ノ具足古土也。〔下9オ六〕
とあって、この標記語の「着棄鎧」の語注記は、「主ノ具足古土也」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
着弃(きすて)の鎧(よろい)/着棄ノ鎧 ふるきよろゐなりとも云。又正平(しやうへい)年中よりはしまりたるよろいの名なりともいえり。〔39オ五〕
とあって、標記語「着棄の鎧」で、その語注記は「ふるきよろゐなりとも云ふ。また、正平年中よりはじまりたるよろいの名なりともいえり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
著弃(きすて)の鎧(よろひ)/着棄ノ鎧。▲著弃ノ鎧ハ着古(きふる)したる鎧。〔三十一ウ一・三〕
着棄(きすて)ノ鎧(よろひ)。▲著弃ノ鎧ハ着古(きふる)したる鎧(よろひ)。〔五十五ウ二〕
とあって、標記語「着棄の鎧」にして、その語注記は「着古したる鎧」という。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「着棄」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
き-ずて-の-よろひ(名)【着棄鎧】(一)着舊(きふる)して、不用となりたる、鎧、又、具足。 庭訓徃來六月、「着棄鎧」應仁別記「合戰に利を得し趣、京都へ注進しければ、金吾、感じたまひて、着棄具足に、御賀丸と云ふ太刀相添へて、太田垣新兵衛に賜ひにけり」(二)番(ばん)具足。(夏山雜談、五)〔0466-4〕
とあって、標記語「着棄鎧」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「き-すて【着捨・着棄】[名](「きずて」とも)着られるだけ着た後、捨ててしまうこと。また、その衣服」と収載し、さらに小見出しに、「きすての鎧(よろい)@着古して不用となった鎧、または具足」とし、用例に『庭訓徃来』のこの用例を未記載する。
[ことばの実際]
2002年7月21日(日)曇り。北海道(深川)⇒小樽⇔札幌
「畢・訖・了(をわんぬ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「遠」部に、
畢(ヲワンヌ)。説(同)。終(ヲワル)。丑三(ウシノヲハリ)冨士。〔元亀本85六〕
畢(ヲワル)。訖(同)。終(同)。丑三(ウシノヲハリ)冨士。〔静嘉堂本104八〜105一〕
畢(ヲハンヌ)。訖(同)。終(ヲハル)。丑三(ウシノヲハリ)冨士。〔天正十七年本上51ウ八〕〔西来寺本〕
とあって、「をはんぬ」の読みでは、標記語「畢」「訖」の二語をもって収載し、語注記は未記載にする。ただし、静嘉堂本は「畢」「訖」「終」の三語をもって「をわる」と読んでいるところが異なる。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「因之近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬以下盡員失候訖」〔至徳三年本〕
「近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬已下盡員失候畢」〔宝徳三年本〕
「因之近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬以下盡員失候了」〔建部傳内本〕
「依テ∨之ニ近-日欲シ∨令ント‖進-發(ホツ)|候處ニ、此_間ノ戰-場ニ、武-具乘-馬(―ハ)以-下盡シテ∨員(カス)ヲ失ヒ候訖」〔山田俊雄藏本〕
「因テ∨之ニ近日欲∨令‖進發|候處ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下盡(ツク)シテ∨員(カズ)ヲ失イ候畢」〔経覺筆本〕
「因(ヨツ)テ∨茲(コレ)ニ近-日欲(ホツ)シ∨令ト‖進-發(シンハツ)|候之處ニ、此_間ノ戰塲(せンヂヤウ)、武-具(ブク)乘リ-馬以-下盡(ツク)シ∨員(カス)ヲ失(ウシナイ)候畢」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
畢ヲハヌ/ヲハル。了。関。終。訖。遁。卒―歳。弥。〓〔囗+奈〕。已。鍋。迄。檀。首。十。赦。竟。闕。祟。求已上同。〔卷第三辭字84一〕
とあって、三卷本は「をはんぬ」で標記語「畢」の語は未収載にする。そして、十巻本に「をはぬ」として収載を見るのである。
室町時代の『下學集』は、標記語「畢」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
終(ヲワル/シユウ)[平]。畢(同/ヒツ)[入]。了(同/シウ)[上]。〔態藝門231五〕
給(タマワリ/キフ)訖(ヲワンヌ/コツ)[入・入]。〔態藝門358六〕
仕(ツカマツリ/シ)畢(ヲワンヌ/ヒツ)[上・入]。〔態藝門418八〕
とあって、標記語「畢」の語を収載し、読みを「をわる」と記載し、語注記は未記載にする。さらに、「をわんぬ」の読みとして「訖」と「畢」の字が用いられた句を収載している。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
終(ヲワリ)。訖(同)。畢(同)。了(同)。〔弘・言語進退65二〕
了(ヲハル)終畢訖弥求十。〔永・言語68四〕〔尭・言語62三〕
訖(ヲワンヌ)。〔両・言語74八〕
とあって、標記語「畢」の語をもって「をわんぬ」は未収載にする。また、易林本『節用集』も、
訖(ヲハンヌ)。〔言語64三〕
とあって、標記語「畢」の語をもっては未収載にする。
ここで古辞書における「畢」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』が未収載であり、十巻本『伊呂波字類抄』と広本『節用集』の文章語句にのみこの語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
323追下伐所‖楯籠|之賊徒上、可∨警‖-固ス要害ヲ|云々。因∨之近日欲∨令‖進發|候処ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下尽(ツクシ) ∨員(カス)ヲ失候畢 唐ニハ武具ハ、皇帝自∨打 ‖蚩尤|始也。日本ニハ自‖神武天王御宇|始也。〔謙堂文庫藏三四右G〕
とあって、標記語を「畢」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
因テ∨茲(コレ)ニ近-日欲シ∨令ント‖進發(シンハツ)せ|候之處ニ、此ノ_間戰塲(せンデヤウ)、武具(ブグ)乘(ノリ)_馬以-下盡(ツクシ)テ∨員(カズ)ヲ失(ウシナイ)候ヒ畢ヌ。〔下9オ五〜六〕
とあって、この標記語の「畢」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
茲(これ)に因(より)て近日(きんじつ)進發(しんはつ)せ令(しめ)んと欲(ほつ)し候之処此(この)間(あひた)戰塲(せんじやう)武具(ぶぐ)乗馬(のりむま)以下(いけ)員(かず)を盡(つく)して失(うしな)ひ候畢/盡シテ∨員ヲ失候畢。かずを尽してとハ一品ならさるをいふ。〔39ウ三〕
とあって、標記語「畢」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
之(これ)に因(よつ)て近日(きんじつ)進發(しんはつ)せ令(し)めんと欲(ほつ)し候(さうら)ふ之(の)處(ところ)此(この)間(あひだ)乃戰塲(せんちやう)武具(ぶぐ)乗馬(のりむま)以下(いげ)員(かづ)を盡(つく)して失(うしな)ひ候(さふら)ひ畢(おはん)ぬ/因テ∨之ニ近-日欲シ∨令メント‖進發セ|候フ之處、此_間戰塲ニ、武具乘_馬以下盡シテ∨員ヲ失ヒ候ヒ畢フ。〔三十一オ四・六〕
因(よつ)て∨之(これ)に近-日(きんじつ)欲(ほつ)し∨令(しめ)んと‖進發(しんはつ)せ|候(さふらふ)之(の)處(ところ)、此(こ)の_間(あひだ)戰塲(せんぢやう)に、武具(ぶぐ)乘(のり)_馬(うま)以-下(いげ)尽(つくし)て∨員(かず)を失(うしなひ)候(さふら)ひ畢(をハん)ぬ。〔五十五ウ二〕
とあって、標記語「畢」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Vouannu.ヲワンヌ(畢んぬ) 書き言葉で過去を示す助辞.〔邦訳723l〕
とあって、標記語「畢」の語を収載し、その意味を「書き言葉で過去を示す助辞」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
をはん-ぬ(句)【畢】〔をはりぬ(畢)の音便〕をはりたり。しまへたり。 ~代紀上、34「奉∨覲巳訖(ヲハンヌ)」宇津保物語、俊蔭7「千人の眷属のかなしきによりて、汝が命をゆるしをはんぬ」(流布本)吾妻鏡三十四、仁治二年九月三日「奈古又太郎申‖勲功賞|事、折紙給預候畢、早可‖申入|候」〔2207-1〕
とあって、標記語「畢」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「おわん-ぬ【畢―・了―・訖―】[連語](動詞「おわる(終)に完了の助動詞「ぬ」の付いた「おわりぬ」の〔変化したもの)@終った。A動詞の連用形に付いて、その動作が完了したことを表わす。…してしまった。B中近世の和歌、連歌、俳諧などの文法用語で、完了の「ぬ」。打消の「ず」の連体形「ぬ」を「不(ふ)のぬ」というのに対していう」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
主上、國母、可有還御之由、又以承候畢《読み下し》主上、国母、還御有ルベキノ由、又以テ承リ候ヒ畢ンヌ。《『吾妻鏡』寿永三年二月二十日の条》
2002年7月20日(土)曇り。北海道(札幌)⇒深川
「失(うしなふ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「宇」部に、
失(ウシナウ)。〔元亀本184八〕〔静嘉堂本207八〕〔天正十七年本中33オ四〕
とあって、標記語「失」の語を収載し、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「因之近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬以下盡員失候訖」〔至徳三年本〕
「近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬已下盡員失候畢」〔宝徳三年本〕
「因之近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬以下盡員失候了」〔建部傳内本〕
「依テ∨之ニ近-日欲シ∨令ント‖進-發(ホツ)|候處ニ、此_間ノ戰-場ニ、武-具乘-馬(―ハ)以-下盡シテ∨員(カス)ヲ失ヒ候訖」〔山田俊雄藏本〕
「因テ∨之ニ近日欲∨令‖進發|候處ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下盡(ツク)シテ∨員(カズ)ヲ失イ候畢」〔経覺筆本〕
「因(ヨツ)テ∨茲(コレ)ニ近-日欲(ホツ)シ∨令ト‖進-發(シンハツ)|候之處ニ、此_間ノ戰塲(せンヂヤウ)、武-具(ブク)乘リ-馬以-下盡(ツク)シ∨員(カス)ヲ失(ウシナイ)候畢」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
失ウシナフ/式質反。變。亡。泯。死。喪サウ/―馬。區。紛。遺。刑。闕。漏。愆。銀已上失也。〔黒川本・辭字中52ウ八〜53オ一〕
失ウシナフ/ウス。變。亡。泯。死。喪亦作肄/―馬也。區。紛。遺。刑。闕。漏。愆。銀已上同。ウシナフ。〔卷第五・辭字200二〜五〕
とあって、標記語「失」の語を収載する。
室町時代の『下學集』は、標記語「失」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
失(ウシナウ/シチ)[入]。〔態藝門489一〕
とあって、標記語「失」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
失(ウシナウ)。亡(同)。〔弘・言語進退151一〕
失(ウシナフ)。〔永・言語123一〕〔尭・言語112七〕
失(ウシナウ)。〔両・言語137二〕
とあって、標記語「失」の語を収載する。また、易林本『節用集』も、
失(ウシナフ)。亡(同)。喪(同)。〔言辞120二〕
とあって、標記語「失」の語を収載する。
ここで古辞書における「失」についてまとめておくと、『下學集』、が未収載であり、『色葉字類抄』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』広本『節用集』にこの語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
323追下伐所‖楯籠|之賊徒上、可∨警‖-固ス要害ヲ|云々。因∨之近日欲∨令‖進發|候処ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下尽(ツクシ) ∨員(カス)ヲ失候畢 唐ニハ武具ハ、皇帝自∨打 ‖蚩尤|始也。日本ニハ自‖神武天王御宇|始也。〔謙堂文庫藏三四右G〕
とあって、標記語を「失」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
因テ∨茲(コレ)ニ近-日欲シ∨令ント‖進發(シンハツ)せ|候之處ニ、此ノ_間戰塲(せンデヤウ)、武具(ブグ)乘(ノリ)_馬以-下盡(ツクシ)テ∨員(カズ)ヲ失(ウシナイ)候ヒ畢ヌ。〔下9オ五〜六〕
とあって、この標記語の「失」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
茲(これ)に因(より)て近日(きんじつ)進發(しんはつ)せ令(しめ)んと欲(ほつ)し候之処此(この)間(あひた)戰塲(せんじやう)武具(ぶぐ)乗馬(のりむま)以下(いけ)員(かず)を盡(つく)して失(うしな)ひ候畢/因テ∨茲ニ近日欲シ∨令ント‖進發セ|候之處。〔39オ五〕
とあって、標記語「失」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
之(これ)に因(よつ)て近日(きんじつ)進發(しんはつ)せ令(し)めんと欲(ほつ)し候(さうら)ふ之(の)處(ところ)此(この)間(あひだ)乃戰塲(せんちやう)武具(ぶぐ)乗馬(のりむま)以下(いげ)員(かづ)を盡(つく)して失(うしな)ひ候(さふら)ひ畢(おはん)ぬ/因テ∨之ニ近-日欲シ∨令メント‖進發セ|候フ之處、此__間戰塲ニ、武具乘_馬以下盡シテ∨員ヲ失ヒ候ヒ畢フ。〔三十一オ四・六〕
因(よつ)て∨之(これ)に近-日(きんじつ)欲(ほつ)し∨令(しめ)んと‖進發(しんはつ)せ|候(さふらふ)之(の)處(ところ)、此(こ)の_間(あひだ)戰塲(せんぢやう)に、武具(ぶぐ)乘(のり)_馬(うま)以-下(いげ)尽(つくし)て∨員(かず)を失(うしなひ)候(さふら)ひ畢(をハん)ぬ。〔五十五ウ二〕
とあって、標記語「失」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Vxiuai,o<.ウシナイ,ゥ,ゥタ(失ひ,ふ,うた) なくする.§.〔邦訳738r〕
とあって、標記語「失」の語を収載し、その意味を「なくする」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
うし-な・ふ(他動、四)【失】〔失(うせ)を轉じて、うしなふと活用したる語か、(さしもぐさ、「させもぐさ)まけなふ、(設)まかなふ。(賄)あがひなふ、あがなふ〕(一){物を、見えぬやうになす。無楠.無くなす。 萬葉集十五、34「白妙の、吾が下衣、宇思奈波ず、持てれ我が夫子(せこ)、ただに遭ふまでに」(二){死別(しにわかれ)となす。喪 伊勢物語、百九段「昔、男、友だちの、人をうしなへるが許にやりける」「父を喪ふ」子を喪ふ」(三)常ならぬやうになす。喪 「心を喪ふ」氣を喪ふ」〔0230-1〕
とあって、標記語「失」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「うし-な・う【失】[他ワ五(ハ四)][一]持っていたものをなくす。なくなす。@所有しているものや、自分に関係のある物事、状態などをなくす。あるものに備わっている能力、立場、根拠などをなくす。喪失する。A肉親や親しい友をなくす。死に別れることにいう。B精神がふつうの状態、適当な状態でないようにする。Cある資格をなくす。「失わない・失わず」の形で用いられ、「十分にそういう資格をもっている。そういってもさしつかえない」の意を表わす。[二]積極的になくなるようにする。@(罪を)消滅させる。Aこわしてなくす。ほろぼす。B殺す。C追い払う。[三]手に入れようとして、とり逃がす。また、道や方法などをさがしてもみつからない、わからなくなる。[語誌]「うす(失)」を基に、その行為をする意を添える接尾語「なふ」を付けて他動詞として成立した語。本来は、所有する物や身に備わっているものの消失を意味するが、時代を追って、その対象は罪や命などに拡大していく」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
依之、皆分散、悲涙遮眼、行歩失道〈云云〉《読み下し》之ニ依テ、皆分散シ、悲涙眼ニ遮リ、行歩道ヲ失フト〈云云〉《『吾妻鏡』治承四年八月二十四日の条》
2002年7月19日(金)晴れ。東京(八王子)⇒北海道(札幌)
「員(かず)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、
數(カス)。員(同)。算(同)。〔元亀本105三〕
數(カズ)。員(カズ)。算(同)。〔静嘉堂本132二〕
數(カズ)。員(同)。算(同)。〔天正十七年本上64ウ八〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「數」「員」「算」の三語をもって収載し、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「因之近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬以下盡員失候訖」〔至徳三年本〕
「近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬已下盡員失候畢」〔宝徳三年本〕
「因之近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬以下盡員失候了」〔建部傳内本〕
「依テ∨之ニ近-日欲シ∨令ント‖進-發(ホツ)|候處ニ、此_間ノ戰-場ニ、武-具乘-馬(―ハ)以-下盡シテ∨員(カス)ヲ失ヒ候訖」〔山田俊雄藏本〕
「因テ∨之ニ近日欲∨令‖進發|候處ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下盡(ツク)シテ∨員(カズ)ヲ失イ候畢」〔経覺筆本〕
「因(ヨツ)テ∨茲(コレ)ニ近-日欲(ホツ)シ∨令ト‖進-發(シンハツ)|候之處ニ、此_間ノ戰塲(せンヂヤウ)、武-具(ブク)乘リ-馬以-下盡(ツク)シ∨員(カス)ヲ失(ウシナイ)候畢」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
説カス。數。机。〓〔票+元〕。春。算。籌。稽。量。計。説。融。眩。麗。撰。棯已上同。〔黒川本・員數上82ウ一〕
説カス。雲。數。机。〓〔票+元〕馬ノ同。算。春。籌。稽。量。計。説。融。眩。撰。麗。棯已上同。〔卷第三・員數228五〜229三〕
とあって、標記語「員」の語を収載する。
室町時代の『下學集』は、
算(サン/カズ)小木ニシテ而四方(ヨハウ)ナリ也。上下九(ココ)ノ刀(カタナ)ニ削(ケヅル)之ヲ表(ヘウ)スル九々八十一ノ之極数(ゴクスウ)ヲ者(モノ)也。〔数量147七〕
とあって、標記語「員」の語は未収載にする。次に広本『節用集』には、
數(カズ/シユ)[入]。員(同/ヱン・イン)[入]。箇(同/カ)[入]。〔態藝門271八〕
とあって、標記語「員」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
員(カス/イン)。数(同)。籌(同/チウ)。〔弘・数量81七〕
員(カズ)數籌。〔永・言語85九〕〔尭・言語77八〕〔両・言語93七〕
とあって、標記語「員」の語を収載する。また、易林本『節用集』も、
員(カズ)説同。數(同)。〔言語82五〕
とあって、標記語「員」の語を収載する。
ここで古辞書における「員」についてまとめておくと、『下學集』、が未収載であり、『色葉字類抄』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』にのみこの語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
323追下伐所‖楯籠|之賊徒上、可∨警‖-固ス要害ヲ|云々。因∨之近日欲∨令‖進發|候処ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下尽(ツクシ) ∨員(カス)ヲ失候畢 唐ニハ武具ハ、皇帝自∨打 ‖蚩尤|始也。日本ニハ自‖神武天王御宇|始也。〔謙堂文庫藏三四右G〕
とあって、標記語を「員」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
因テ∨茲(コレ)ニ近-日欲シ∨令ント‖進發(シンハツ)せ|候之處ニ、此ノ_間戰塲(せンデヤウ)、武具(ブグ)乘(ノリ)_馬以-下盡(ツクシ)テ∨員(カズ)ヲ失(ウシナイ)候ヒ畢ヌ。〔下9オ五〜六〕
とあって、この標記語の「員」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
茲(これ)に因(より)て近日(きんじつ)進發(しんはつ)せ令(しめ)んと欲(ほつ)し候之処此(この)間(あひた)戰塲(せんじやう)武具(ぶぐ)乗馬(のりむま)以下(いけ)員(かず)を盡(つく)して失(うしな)ひ候畢/因テ∨茲ニ近日欲シ∨令ント‖進發セ|候之處。〔39オ五〕
とあって、標記語「員」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
之(これ)に因(よつ)て近日(きんじつ)進發(しんはつ)せ令(し)めんと欲(ほつ)し候(さうら)ふ之(の)處(ところ)此(この)間(あひだ)乃戰塲(せんちやう)武具(ぶぐ)乗馬(のりむま)以下(いげ)員(かづ)を盡(つく)して失(うしな)ひ候(さふら)ひ畢(おはん)ぬ/因テ∨之ニ近-日欲シ∨令メント‖進發セ|候フ之處、此__間戰塲ニ、武具乘_馬以下盡シテ∨員ヲ失ヒ候ヒ畢フ。〔三十一オ四・六〕
因(よつ)て∨之(これ)に近-日(きんじつ)欲(ほつ)し∨令(しめ)んと‖進發(しんはつ)せ|候(さふらふ)之(の)處(ところ)、此(こ)の_間(あひだ)戰塲(せんぢやう)に、武具(ぶぐ)乘(のり)_馬(うま)以-下(いげ)尽(つくし)て∨員(かず)を失(うしなひ)候(さふら)ひ畢(をハん)ぬ。〔五十五ウ二〕
とあって、標記語「員」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Cazu.カズ(数) 数.→Taxi,su.〔邦訳116r〕
とあって、標記語「員」の語を収載し、その意味を「数」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
か-ず(名)【數】〔嵩(かさ)と通ずるか〕(一)數ふべきもの。計(はか)りて、多き、少き、あるもの。數(スウ)。 天治字鏡、十18「員、數也、衆也、加須」(二)數の多きこと。くさぐさ。いろいろ。多數 「數の物」數の品」數あり」數を盡くす」數を殘さず」(三)取出して、數へ立てらること。 萬葉集、十五31「塵泥(ちりひぢ)の。可受(かず)にもあらぬ、我れゆゑに、思ひわぶらむ、妹が可愛(かな)しさ」 古今集、十五、戀、5「はなかたみ、目ならぶ人の、あまたあれば、忘られぬらむ、數ならぬ身は」 源氏、十二、須磨44「貴(たか)き人は、我れを何の數にも思(おぼ)さじ」。〔0373-5〕
とあって、標記語「員」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「かず【数】一[名]@一、二、三…など物の順序を示す呼び名。序数。また、数を表わした文字。数字。A物の数量や分量などを示す呼び名。物を一つ一つ数えたもの。数量。すう。B数量や回数、種類が多いこと。かずかず。たくさん。いろいろ。「かずの」形で用いられる場合が多い。C多くの物の中で、特にとりたてて数えあげる価値のあるもの。物のかず。→数ならず。D定まった数。定数。定員。また、ある範囲にはいる人。仲間。E(籌)数とりの道具。点数などを数える勝負事の時、串や枝などを、勝ち負けのしるしとして、数さしに突きさすもの。二[接頭]名詞の上に付けて、数が多い、安っぽい、粗末な、の意を表わす。「かず扇」「かず雪踏」「かず長櫃」など」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
遠茂、暫時雖廻防禦之搆、遂長田入道子息二人梟首、遠茂爲囚人、從軍失壽被疵者、不知其員《読み下し》遠茂、暫時防禦ノ構ヲ廻ラスト雖モ、遂ニ長田ノ入道ガ子息二人ヲ梟首シ、遠茂ハ囚人ナリ、従軍*寿ヲ失ヒ疵ヲ被ル者(*寿ヲ舎テ)、其ノ員ヲ知ラズ。《『吾妻鏡』治承四年十月十四日の条》
2002年7月18日(水)晴れ。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
「以下(イゲ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、標記語「以下」「已下」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「因之近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬以下盡員失候訖」〔至徳三年本〕
「近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬已下盡員失候畢」〔宝徳三年本〕
「因之近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬以下盡員失候了」〔建部傳内本〕
「依テ∨之ニ近-日欲シ∨令ント‖進-發(ホツ)|候處ニ、此_間ノ戰-場ニ、武-具乘-馬(―ハ)以-下盡シテ∨員(カス)ヲ失ヒ候訖」〔山田俊雄藏本〕
「因テ∨之ニ近日欲∨令‖進發|候處ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下盡(ツク)シテ∨員(カズ)ヲ失イ候畢」〔経覺筆本〕
「因(ヨツ)テ∨茲(コレ)ニ近-日欲(ホツ)シ∨令ト‖進-發(シンハツ)|候之處ニ、此_間ノ戰塲(せンヂヤウ)、武-具(ブク)乘リ-馬以-下盡(ツク)シ∨員(カス)ヲ失(ウシナイ)候畢」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「以下」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』は、標記語「以下」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
已下(イゲ・―クダル/ヲノレ・スデニ,カ・シモ)[上・入]。〔態藝門19七〕
△中人(チウジン)以上(イジヤウ)ニハ可(ベ)シ‖以(モツ)テ語(カタル)|∨上(カミ)ヲ中人(チウジン)以下(イカ)ニハ不∨可‖以(モツ)テ語(カタ)ル|∨上(カミ)ヲ雍也篇。〔態藝門166三〕
△―ハ以(モテ)∨人(ヒト)ヲ不(ザル)ヲ∨問(トウ)‖於其(ソ)ノ父母(フウボ)ヲ|為(ス)∨孝(カウ)ト臣(シン)以下(イカ)無(ナキ)ヲ∨非(ソシル)コト‖其(ソ)ノ君上(クンシヤウ)ヲ|為(ス)∨忠(チウ)ト後漢書。〔態藝門688四〕
とあって、標記語「已下」の語を収載し、読みを「イゲ」と「イカ」の両語形を記載し、語注記は未記載にする。また、漢籍である『論語』及び『後漢書』引用の語は「イカ」と読みを表記している。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、標記語「以下」の語を未収載にする。また、易林本『節用集』も、標記語「以下」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「以下」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』が未収載であり、広本『節用集』にのみこの語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
323追下伐所‖楯籠|之賊徒上、可∨警‖-固ス要害ヲ|云々。因∨之近日欲∨令‖進發|候処ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下尽(ツクシ) ∨員(カス)ヲ失候畢 唐ニハ武具ハ、皇帝自∨打 ‖蚩尤|始也。日本ニハ自‖神武天王御宇|始也。〔謙堂文庫藏三四右G〕
とあって、標記語を「以下」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
因テ∨茲(コレ)ニ近-日欲シ∨令ント‖進發(シンハツ)せ|候之處ニ、此ノ_間戰塲(せンデヤウ)、武具(ブグ)乘(ノリ)_馬以-下盡(ツクシ)テ∨員(カズ)ヲ失(ウシナイ)候ヒ畢ヌ。〔下9オ五〜六〕
とあって、この標記語の「以下」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
茲(これ)に因(より)て近日(きんじつ)進發(しんはつ)せ令(しめ)んと欲(ほつ)し候之処此(この)間(あひた)戰塲(せんじやう)武具(ぶぐ)乗馬(のりむま)以下(いけ)員(かず)を盡(つく)して失(うしな)ひ候畢/因テ∨茲ニ近日欲シ∨令ント‖進發セ|候之處。〔39オ五〕
とあって、標記語「以下」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
之(これ)に因(よつ)て近日(きんじつ)進發(しんはつ)せ令(し)めんと欲(ほつ)し候(さうら)ふ之(の)處(ところ)此(この)間(あひだ)乃戰塲(せんちやう)武具(ぶぐ)乗馬(のりむま)以下(いげ)員(かづ)を盡(つく)して失(うしな)ひ候(さふら)ひ畢(おはん)ぬ/因テ∨之ニ近-日欲シ∨令メント‖進發セ|候フ之處、此__間戰塲ニ、武具乘_馬以下盡シテ∨員ヲ失ヒ候ヒ畢フ。〔三十一オ四・六〕
因(よつ)て∨之(これ)に近-日(きんじつ)欲(ほつ)し∨令(しめ)んと‖進發(しんはつ)せ|候(さふらふ)之(の)處(ところ)、此(こ)の_間(あひだ)戰塲(せんぢやう)に、武具(ぶぐ)乘(のり)_馬(うま)以-下(いげ)尽(つくし)て∨員(かず)を失(うしなひ)候(さふら)ひ畢(をハん)ぬ。〔五十五ウ二〕
とあって、標記語「以下」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Igue.イゲ(以下) “…とその他”,あるいは,“…など”.etc.のように他の語の終りに用いられる語.§Igueno mono.(以下の者)下級なり下位なりの人.〔邦訳332l〕
とあって、標記語「以下」の語を収載し、その意味を「“…とその他”,あるいは,“…など”.etc.のように他の語の終りに用いられる語」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
い-か(名)【以下】(一)これより下(しも)。以下(イゲ)。以降(以上に對す) 論語雍也篇、「中人以下、不∨可‖以語|上也」(二)目見(めみえ)の條を見よ。〔0132-3〕
とあって、標記語「以下」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「い-か【以下・已下】[名]@(数量、段階、優劣などを表わす語に付いて)その基準を含んでそれより下であること。また、基準になるものを含めないで、それより劣っていること。古くは「いげ」。⇔以上。A(代表として掲げる語に付いて)それを始めとしてそれ以外のもの。B今まで述べた以外のこと。これからあとに述べること。C(おめみえいか(御目見以下)の略)江戸幕府の制度で、幕府直参の士のうち、將軍に謁見できない身分の者の称。御家人(ごけにん)。⇔以上。[語誌](1)古くは「いげ」と呉音で読み、@の「文明本節用集」には「いげ」「いか」の両形が見える。「いか」が一般化するのは中世末頃か。(2)「和訓栞」に「いじやう 以上は中世下文の終に以下と書しは官長より令する文書なれば也」とあって、以上と以下を対比させ、「いか」と読んでいるように見えるが、平安時代以来の下文(くだしぶみ)の書留文言である「以下」は「もってくだす」と読むのが正しく、また意味の上からも、文書に使われる「以上」と相対するものではない。(3)@については、現在では、数学、法律などの場合、帰順の数量を含むことになっており、含まない場合は「未満」を用いる」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
然而以私計略、太依難遂宿意今日入夜、相具子息伊豆守仲綱等潜參于一院第二宮之三條高倉御所、催前右兵衛佐頼朝以下源氏等誅彼氏族、可令執天下給之由、申行之《読み下し》然レドモ私ノ計略ヲ以テ、太ダ宿意ヲ遂ゲ難キニ依テ、今日夜ニ入テ、子息伊豆ノ守仲綱等ヲ相ヒ具シテ、潜カニ一院第二ノ宮ノ三条高倉ノ御所ニ参ジ、前ノ右兵衛ノ佐頼朝以下ノ源氏等ヲ催シテ、彼ノ氏族ヲ*誅シ(*討)、天下ヲ執ラシメ給フベキノ由、之ヲ申シ行フ。《『吾妻鏡』治承四年四月九日の条》
2002年7月17日(水)晴れ一時雨。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
「乘馬(ジョウバ・のりむま)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」「乃」部に、標記語「乘馬」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「因之近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬以下盡員失候訖」〔至徳三年本〕
「近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬已下盡員失候畢」〔宝徳三年本〕
「因之近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬以下盡員失候了」〔建部傳内本〕
「依テ∨之ニ近-日欲シ∨令ント‖進-發(ホツ)|候處ニ、此_間ノ戰-場ニ、武-具乘-馬(―ハ)以-下盡シテ∨員(カス)ヲ失ヒ候訖」〔山田俊雄藏本〕
「因テ∨之ニ近日欲∨令‖進發|候處ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下盡(ツク)シテ∨員(カズ)ヲ失イ候畢」〔経覺筆本〕
「因(ヨツ)テ∨茲(コレ)ニ近-日欲(ホツ)シ∨令ト‖進-發(シンハツ)|候之處ニ、此_間ノ戰塲(せンヂヤウ)、武-具(ブク)乘リ-馬以-下盡(ツク)シ∨員(カス)ヲ失(ウシナイ)候畢」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「乘馬」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』、広本『節用集』、そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本
ここで古辞書における「乘馬」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』ここに掲げたすべての辞書が未収載である。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
323追下伐所‖楯籠|之賊徒上、可∨警‖-固ス要害ヲ|云々。因∨之近日欲∨令‖進發|候処ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下尽(ツクシ) ∨員(カス)ヲ失候畢 唐ニハ武具ハ、皇帝自∨打 ‖蚩尤|始也。日本ニハ自‖神武天王御宇|始也。〔謙堂文庫藏三四右G〕
とあって、標記語を「乘馬」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
因テ∨茲(コレ)ニ近-日欲シ∨令ント‖進發(シンハツ)せ|候之處ニ、此ノ_間戰塲(せンデヤウ)、武具(ブグ)乘(ノリ)_馬以-下盡(ツクシ)テ∨員(カズ)ヲ失(ウシナイ)候ヒ畢ヌ。〔下9オ五〜六〕
とあって、この標記語の「乘馬」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
茲(これ)に因(より)て近日(きんじつ)進發(しんはつ)せ令(しめ)んと欲(ほつ)し候之処此(この)間(あひた)戰塲(せんじやう)武具(ぶぐ)乗馬(のりむま)以下(いけ)員(かず)を盡(つく)して失(うしな)ひ候畢/此間ノ戰塲ニ、武具乘_馬以下武具ハ武士の道具。よろいかぶと打物なとを云。以下とハ其外の物といふこゝろ也。〔39ウ二・三〕
とあって、標記語「乘馬」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
之(これ)に因(よつ)て近日(きんじつ)進發(しんはつ)せ令(し)めんと欲(ほつ)し候(さうら)ふ之(の)處(ところ)此(この)間(あひだ)乃戰塲(せんちやう)武具(ぶぐ)乗馬(のりむま)以下(いげ)員(かづ)を盡(つく)して失(うしな)ひ候(さふら)ひ畢(おはん)ぬ/因テ∨之ニ近-日欲シ∨令メント‖進發セ|候フ之處、此__間戰塲ニ、武具乘_馬以下盡シテ∨員ヲ失ヒ候ヒ畢フ。〔三十一オ四・六〕
因(よつ)て∨之(これ)に近-日(きんじつ)欲(ほつ)し∨令(しめ)んと‖進發(しんはつ)せ|候(さふらふ)之(の)處(ところ)、此(こ)の_間(あひだ)戰塲(せんぢやう)に、武具(ぶぐ)乘(のり)_馬(うま)以-下(いげ)尽(つくし)て∨員(かず)を失(うしなひ)候(さふら)ひ畢(をハん)ぬ。〔五十五ウ二〕
とあって、標記語「乘馬」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
†Io>ba.ジョウバ(乘馬) すなわち,Vmani noru.(馬に乗る) 馬に乗ること.〔邦訳367l〕
とあって、標記語「乘馬」の語を収載し、その意味を「馬に乗ること」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
じョう-ば(名)【乘馬】(一)馬に、乘ること。騎。易經、繋辭、下傳「服∨牛乘∨馬、引∨重致∨遠、以利‖天下|」(二)乘馬(ジョウメ)。詩經、大雅、蕩之什、韓奕篇「其贈維何、乘馬、輅車」箋「所∨駕之馬、曰‖乘馬|」(三)四頭立ノ馬。駟馬。詩經、小雅、桑扈之什、鴛鴦篇「乘馬、在∨厩」同、大雅、蕩之什、庚嵩篇「王遣‖申伯|、路車乘馬」毛傳「乘馬、四馬也」〔1009-4〕
とあって、標記語「乘馬」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「じょう-ば【乘馬】[名]@馬に乗ること。また、馬に乗った人。騎馬武者。上馬。じょうめ。A乗用の馬。のりうま。⇔役馬(えきば)」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
盛綱、爲追討平家、當時在西海而折節、無乘馬之由、依令言上熊立雜色、被送遣之〈云云〉《読み下し》盛綱、平家ヲ追討センガ為ニ、当時西海ニ在リ。而ルニ折節、乗馬(ノリムマ)無キノ由、言上ゼシムルニ依テ、態ト雑色ヲ立テラレ、之ヲ送リ遣ハサルト〈云云〉。《『吾妻鏡』元暦元年十二月二日の条》
2002年7月16日(火)雨、台風接近午後から晴れ。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
「近日(キンジツ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「幾」部に、
近日(――)。〔静嘉堂本326一〕
※元亀本は、「行道」から「郷里」の間の138語を書写時に脱落する。「近日」もその一語である。
とあって、標記語「近日」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「因之近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬以下盡員失候訖」〔至徳三年本〕
「近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬已下盡員失候畢」〔宝徳三年本〕
「因之近日欲令進發候之處此間戰場武具乘馬以下盡員失候了」〔建部傳内本〕
「依テ∨之ニ近-日欲シ∨令ント‖進-發(ホツ)|候處ニ、此_間ノ戰-場ニ、武-具乘-馬(―ハ)以-下盡シテ∨員(カス)ヲ失ヒ候訖」〔山田俊雄藏本〕
「因テ∨之ニ近日欲∨令‖進發|候處ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下盡(ツク)シテ∨員(カズ)ヲ失イ候畢」〔経覺筆本〕
「因(ヨツ)テ∨茲(コレ)ニ近-日欲(ホツ)シ∨令ト‖進-發(シンハツ)|候之處ニ、此_間ノ戰塲(せンヂヤウ)、武-具(ブク)乘リ-馬以-下盡(ツク)シ∨員(カス)ヲ失(ウシナイ)候畢」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「近日」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』は、標記語「近日」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
近日(キンジツ/チカシ,ヒ)[上・入]。〔態藝門825二〕
とあって、標記語「近日」の語を収載し、読みを「キンジツ」とし、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
近日(キンジツ)。〔弘・言語進退222六〕
近隣(キンリン)―邊(ヘン)。―所。―日。―來(ライ)。―年。〔永・言語185二〕
近隣(キンリン)―辺。―所。―日。―来。―年。――。〔尭・言語174六〕
とあって、標記語「近日」の語を言語門に収載し、語注記は、未記載にする。また、易林本『節用集』は、
近年(キンネン)―日(―ジツ)。〔乾坤185二〕
とあって、標記語「近年」とし、語注記に冠頭字「近」の熟語として「近日」の語を収載する。
ここで古辞書における「近日」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』が未収載であり、広本『節用集』『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に、この語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
323追下伐所‖楯籠|之賊徒上、可∨警‖-固ス要害ヲ|云々。因∨之近日欲∨令‖進發|候処ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下尽(ツクシ) ∨員(カス)ヲ失候畢 唐ニハ武具ハ、皇帝自∨打 ‖蚩尤|始也。日本ニハ自‖神武天王御宇|始也。〔謙堂文庫藏三四右G〕
とあって、標記語を「近日」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
因テ∨茲(コレ)ニ近-日欲シ∨令ント‖進發(シンハツ)せ|候之處ニ、此ノ_間戰塲(せンデヤウ)、武具(ブグ)乘(ノリ)_馬以-下盡(ツクシ)テ∨員(カズ)ヲ失(ウシナイ)候ヒ畢ヌ。〔下9オ五〜六〕
とあって、この標記語の「近日」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
茲(これ)に因(より)て近日(きんじつ)進發(しんはつ)せ令(しめ)んと欲(ほつ)し候之処此(この)間(あひた)戰塲(せんじやう)武具(ぶぐ)乗馬(のりむま)以下(いけ)員(かず)を盡(つく)して失(うしな)ひ候畢/因テ∨茲ニ近日欲シ∨令ント‖進發セ|候之處。〔39オ五〕
とあって、標記語「近日」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
之(これ)に因(よつ)て近日(きんじつ)進發(しんはつ)せ令(し)めんと欲(ほつ)し候(さうら)ふ之(の)處(ところ)此(この)間(あひだ)乃戰塲(せんちやう)武具(ぶぐ)乗馬(のりむま)以下(いげ)員(かづ)を盡(つく)して失(うしな)ひ候(さふら)ひ畢(おはん)ぬ/因テ∨之ニ近-日欲シ∨令メント‖進發セ|候フ之處、此__間戰塲ニ、武具乘_馬以下盡シテ∨員ヲ失ヒ候ヒ畢フ。〔三十一オ四・六〕
因(よつ)て∨之(これ)に近-日(きんじつ)欲(ほつ)し∨令(しめ)んと‖進發(しんはつ)せ|候(さふらふ)之(の)處(ところ)、此(こ)の_間(あひだ)戰塲(せんぢやう)に、武具(ぶぐ)乘(のり)_馬(うま)以-下(いげ)尽(つくし)て∨員(かず)を失(うしなひ)候(さふら)ひ畢(をハん)ぬ。〔五十五ウ二〕
とあって、標記語「近日」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Qinit.キンジツ(近日) Chicaqi fi.(近き日) 今から数日後,または,数日前.〔邦訳498r〕
とあって、標記語「近日」の語を収載し、その意味を「今から数日後,または,数日前」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
きん-じつ(副)【近日】幾日もあらぬ内に。ちかきころに。(未來に云ふ) 運歩色葉集「近日」狂言記、墨塗女「近日、國へ下る程に」〔0485-3〕
とあって、標記語「近日」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「きん-じつ【近日】[名]@ごく近い過去の日。また、ごく近い過去から現在までの日々。最近。近頃。この頃。A今から後、幾日もたたないうち。近いうち。そのうち。ちかぢか。近々(きんきん)。B遊里で、近日中にまた会おうの意で、客のいう別れの挨拶のことば」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
仍近日欲表素意之間、可遣召之處參上《読み下し》仍テ近日素意ヲ表サント欲スルノ間、召シニ遣ハスベキノ処ニ参上ス。《『吾妻鏡』治承四年八月十一日の条》
2002年7月15日(月)晴れ、風吹く。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
「要害(エウガイ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「与」部に、
要害(―ガイ)。〔元亀本132九〕
要害(ヨウガイ/ヒカエル,―)。〔静嘉堂本139五〕
要害(―カイ)。〔天正十七年本中2オ四〕
とあって、標記語「要害」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「追伐所楯籠之賊徒可警固要害云々」〔至徳三年本〕
「追伐所楯籠賊徒可警固要害云々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「追-下罸シテ所ノ‖楯(タテ)_籠ル|之賊-徒ヲ上、可シ∨警‖-固ス要-害(ヨウカイ)ヲ|云々」〔山田俊雄藏本〕
「追下伐所‖楯テ籠|之賊徒上、可∨警‖-固(ケイゴ)要害(―ガイ)ヲ|云々」〔経覺筆本〕
「追-罸(ツイハツ)シテ所ノ‖楯_籠(タテコモ)ル|之賊徒(ソクト)ヲ上、可シト∨警‖-固(ケイコ)要害(ヨウカイ)ヲ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
要害/エウカイ。〔黒川本・疉字下14ウ二〕
要便〃人。〃樞シユ/一乍須。〃容。〃門。〃劇。〃書。〃實。〃害。〃用。〃路。〃須。〔卷第七・疉字214六〕
とあって、標記語「要害」の語を収載する。
室町時代の『下學集』は、標記語「要害」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
要害(ヨウガイ/ナイガシロ,コロス)[上・去]構。〔態藝門318四〕
とあって、標記語「要害」の語を収載し、読みを「ヨウガイ」とし、語注記は「構」とする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
要害(ヨウガイ)構。〔弘・天地90二〕 要害(―ガイ)。〔弘・言語進退94三〕
要害(ヨウガイ)構。〔永・天地87二〕 要用(――)―須(ス)。―顔(ガン)。―害(ガイ)。〔永・言語88九〕
要害(ヨウガイ)。〔尭・天地79二〕 要用(ヨウヨウ)―須。―顔。―害。〔尭・言語80七〕
要害(ヨウガイ)。〔両・天地94七〕 要用(ヨウヨウ)―須(ス)。―顔(ガン)。―害(ガイ)。〔両・言語97四〕
とあって、標記語「要害」の語を天地門に収載し、語注記は、「構」とあって広本『節用集』に同じである。さらに、言語門にも収載している。また、易林本『節用集』は、
要害(ヨウカイ)構(カマヘ)。〔乾坤85三〕
とあって、標記語「要害」とし、語注記は「構」とあって広本『節用集』に同じである。
ここで古辞書における「要害」についてまとめておくと、『下學集』が未収載であり、『色葉字類抄』、広本『節用集』『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に、この語を収載するものである。ここで、『節用集』類が注記する「構」は、下記に示す『庭訓往来註』にも未記載のことがらであり、『節用集』類、独自の語注記であることが知られる。また、『下學集』は何故この語を収載していないかを考えねばなるまい。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
323追下伐所‖楯籠|之賊徒上、可∨警‖-固ス要害ヲ|云々。因∨之近日欲∨令‖進發|候処ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下尽(ツクシ) ∨員(カス)ヲ失候畢 唐ニハ武具ハ、皇帝自∨打 ‖蚩尤|始也。日本ニハ自‖神武天王御宇|始也。〔謙堂文庫藏三四右G〕
「要」―悪人トモ城ヲカタクシテ居也。是ヲ可∨破也。「害」―害ヲナイカシロスルト云也。一点又ハ害ヲヨウスルト云心也。要スルハ肝要也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』古冩・書込み〕
とあって、標記語を「要害」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
戰場(センテウ)ニ|、破‖-却(ハキヤク)シ城郭(ヂヤウクワク)ヲ|追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔下9オ四〜六〕
とあって、この標記語の「要害」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
要害(えうがい)を警固(けいご)す可(べ)し云々(うん/\)/可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。警固ハいましめかたむと讀せる事也。要害とハ城郭の堅固(けんご)なるか又ハ山坂の嶮岨(けんそ)なるか。せりやすく破りかたき地所を云也。味方(ミかた)よりいへハ要(かなめ)とすへき地なるを以て要と云。敵方(てきかた)より云ハさまたけとなる邊土所なるを以て害といふよし漢人(かんひと)の注(ちう)に見へたり云々とハ此外言へき詞(ことば)を畧(りやく)したる也。〔39オ四〕
とあって、標記語「要害」で、その語注記は「要害とは、城郭の堅固なるか、又は、山坂の嶮岨なるか。せりやすく破りがたき地所を云ふなり。味方よりいへハ要とすべき地なるを以って要と云ふ。敵方より云ふは、さまたげとなる邊土所なるを以って害といふよし、漢人の注に見へたり云々とは、此の外、言ふべき詞を畧したるなり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々▲要害ハ土地(とち)の守(まも)りやすく破(やぶ)りがたきをいふ味方(ミかた)のためにハ要(えう)となりて敵(てき)のためにハ害(がい)となるの義。〔三十一オ四・六〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕▲要害ハ土地(とち)の守(まも)りやすく破(やぶ)りがたきをいふ味方(ミかた)のためにハ要(えう)となりて敵(てき)のためにハ害(がい)となるの義。〔五十五オ四・ウ一〕
とあって、標記語「要害」にして、その語注記は「要害は、土地の守りやすく破りがたきをいふ味方のためには、要となりて敵のためには、害となるの義」とする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Yo>gai.エウガイ(要害) 城砦,城郭,など.§Yogaiuo suru,l,camayuru.(要害をする,または,構ゆる)城を作る.※Yo>gaiuoの誤り.〔邦訳825l〕
とあって、標記語「要害」の語を収載し、その意味を「城砦,城郭,など」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
えう-がい(名)【要害】〔我れに要にして、敵に害ある義〕(一)ぬま。地の利を占むること。山河の嶮岨なる處など、すべて、敵を防ぐに便なる地の稱。險隘 賈誼、過秦論「良將勁弩、守‖要害之處|」(二)轉じて、砦(とりで)。 家忠日記、追加、六「大阪、中村、兩城の間に、取出の要害を築かしめたまふ」〔0271-3〕
とあって、標記語「要害」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「よう-がい【要害・用害】[名]@(味方にとっては要で敵には害となるの意)地勢がけわしく、守りやすく攻めにくい所。A@のような地点に築いた城塞。また一般に、堅固な要塞。とりで。また、その防備。Bからだの中で命にかかわる大切なところ。急所。C(―する)防御のための設備をすること。そなえておくこと。用心すること。D必要の場合にそなえて支度すること。用意すること。また、そのもの」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
誰何 史記云良将勁弩守要害處信臣精卒陳利 兵而誰何注如淳曰猶可問也《『世俗諺文』一一九》
而件居所、爲要害之地前途後路、共以可令煩人馬之間、令圖繪彼地形、爲得其意兼日密々被遣邦道《読み下し》而ルニ件ノ居所ハ、要害(ヤウガイ)ノ地タリ。前途後路、共ニ以テ人馬ヲ煩ハシムベキノ間、彼ノ地形ヲ図シ絵カカシメ、其ノ意ヲ得ンガ為ニ兼日ニ密密ニ邦通ヲ遣ハサル。《『吾妻鏡』治承四年八月四日の条》
2002年7月14日(日)晴れ。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
「警固(ケイゴ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「計」部に、
警固(ケイゴ)。〔元亀本217四〕〔天正十七年本中54ウ四〕
警固(ケイコ)。〔静嘉堂本247七〕
とあって、標記語「警固」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「追伐所楯籠之賊徒可警固要害云々」〔至徳三年本〕
「追伐所楯籠賊徒可警固要害云々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「追-下罸シテ所ノ‖楯(タテ)_籠ル|之賊-徒ヲ上、可シ∨警‖-固ス要-害(ヨウカイ)ヲ|云々」〔山田俊雄藏本〕
「追下伐所‖楯テ籠|之賊徒上、可∨警‖-固(ケイゴ)要害(―ガイ)ヲ|云々」〔経覺筆本〕
「追-罸(ツイハツ)シテ所ノ‖楯_籠(タテコモ)ル|之賊徒(ソクト)ヲ上、可シト∨警‖-固(ケイコ)要害(ヨウカイ)ヲ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
警固(イマシム)同(過客ト)/ケイコ。〔黒川本・疉字中99ウ七〕
警蹕(ケイヒツ)。〃衛。〃備。〃固コ。〃巡シユン。〃急。〃虞。〃策シヤク/イマシム。〃屈クツ。〔卷第七・疉字22二〕
とあって、三卷本だけが標記語「警固」の語を収載する。
室町時代の『下學集』は、
警固(ケイゴ)用心ノ義。〔態藝門94七〕
※古写本の亀田本は、この語注記を「用心也」とする。増補系古写本の春良本は、「用心也。警ヲ或ハ作(ナ)ス∨驚ト云-々」〔83一〕と記載している。
とあって、標記語「警固」の語を収載し、語注記「用心の義」という。次に広本『節用集』には、
警固(ケイゴ/イマシメ,カタシ)[上・去]。〔態藝門602八〕
とあって、標記語「警固」の語を収載し、読みを「ケイゴ」とし、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
×〔弘・言語進退〕 警固人(ケイゴ―)。〔弘・人倫173二〕
警固(ケイゴ)―歎(タン)。〔永・言語145四〕 警固人(ケイゴノヒト)。〔永・人倫142三〕
警固(ケイゴ)―歎。〔尭・言語87一〕 警固人(ケイゴノヒト)。〔尭・人倫132一〕
警固(タテコモル)。〔両・言語105七〕
※弘治二年本は、「宰領(サイリヨウ)荷物(ニモツ)/警固(ケイゴ)。」(人倫210三)と、標記語「宰領」の語注記として見えている。
とあって、標記語「警固」の語を収載し、語注記は、「警」の熟語群「警歎」を収載する。人倫門には「警固人」という語をも収載している。また、易林本『節用集』は、
警固(ケイゴ)。〔言語147六〕
とあって、標記語「警固」とし、この語を収載する。
ここで古辞書における「警固」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本『節用集』『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』これらすべてに、この語を収載するものである。ここで、『下學集』が注記する「用心の義」(元和本)、「用心なり」(古写本類)は、下記に示す『庭訓往来註』にも未記載のことがらであり、さらには、継承関係にある広本『節用集』にも引き継がれていない独自の語注記であることが知られる。この語注記はいわば『下學集』編者の読解注記ということになり、この注記を何故添えたのかを今後考察することになろう。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
323追下伐所‖楯籠|之賊徒上、可∨警‖-固ス要害ヲ|云々。因∨之近日欲∨令‖進發|候処ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下尽(ツクシ) ∨員(カス)ヲ失候畢 唐ニハ武具ハ、皇帝自∨打 ‖蚩尤|始也。日本ニハ自‖神武天王御宇|始也。〔謙堂文庫藏三四右G〕
とあって、標記語を「警固」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
戰場(センテウ)ニ|、破‖-却(ハキヤク)シ城郭(ヂヤウクワク)ヲ|追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔下9オ四〜六〕
とあって、この標記語の「警固」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
要害(えうがい)を警固(けいご)す可(べ)し云々(うん/\)/可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。警固ハいましめかたむと讀。守る事也。要害とハ城郭の堅固(けんご)なるか又ハ山坂の嶮岨(けんそ)なるか。守りやすく破りかたき地所を云也。味方(ミかた)よりいへハ要(かなめ)とすへき地なるを以て要と云。敵方(てきかた)より云ハさまたけとなる邊土所なるを以て害といふよし漢人(かんひと)の注(ちう)に見へたり云々とハ此外言へき詞(ことば)を畧(りやく)したる也。〔39オ四〕
とあって、標記語「警固」で、その語注記は「警固は、いましめかたむと讀せる事なり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々▲要害ハ土地(とち)の守(まも)りやすく破(やぶ)りがたきをいふ味方(ミかた)のためにハ要(えう)となりて敵(てき)のためにハ害(がい)となるの義。〔三十一オ四・六〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕
とあって、標記語「警固」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Qeigo.ケイゴ(警固) 警備する人.あるいは番人.§Qeigouo suyuru.(警固を据ゆる)警備人,あるいは,番人を置く.§Qeigono tcuuamono.(警備の兵)警備兵.§Qeigo suru.(警護する)不意打ちなどをされないように警備する.あるいは,監視する.〔邦訳482l〕
とあって、標記語「警固」の語を収載し、その意味を「警備する人.あるいは番人」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
けい-ご(名)【警固】非常を警(いまし)め、固く備へ守ること。かため。警衛。警備。西宮記、五「加茂祭ノ警固、公卿卷纓」太平記、二、俊基朝臣再關東下向事「輿を庭前に舁き止む、轅を叩きて、警固の武士を近づけ、宿の名を問ひ給ふ」〔0596-1〕
とあって、標記語「警固」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「けい-ご【警固】[名]非常の事態に備えて、警戒して、周囲を固めること。また、そのための人や設備。警備。警護」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にし、古辞書『下學集』の語注記の有無についても明記していない。
[ことばの実際]
三浦介義澄、畠山次郎重忠、大庭平太景義等、率郎從、去半更以後、警固辻々《読み下し》三浦ノ介義澄、畠山ノ次郎重忠、大庭ノ平太景義等、郎従ヲ率シ、去ヌル半更ヨリ以後、辻辻ヲ警固(ケイゴ)ス。《『吾妻鏡』治承五年正月一日の条》
2002年7月13日(土)晴れ。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
「賊徒(ゾクト)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「楚」部に、標記語「賊徒(ソクト」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「追伐所楯籠之賊徒可警固要害云々」〔至徳三年本〕
「追伐所楯籠賊徒可警固要害云々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「追-下罸シテ所ノ‖楯(タテ)_籠ル|之賊-徒ヲ上、可シ∨警‖-固ス要-害(ヨウカイ)ヲ|云々」〔山田俊雄藏本〕
「追下伐所‖楯テ籠|之賊徒上、可∨警‖-固(ケイゴ)要害(―ガイ)ヲ|云々」〔経覺筆本〕
「追-罸(ツイハツ)シテ所ノ‖楯_籠(タテコモ)ル|之賊徒(ソクト)ヲ上、可シト∨警‖-固(ケイコ)要害(ヨウカイ)ヲ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177‐81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
賊徒ソクト。エヒスナリ。〔黒川本・疉字中19オ二〕
賊冦ソクコク。〃害。〃毓。〔卷第四・疉字553六〕
とあって、三卷本だけが標記語「賊徒」の語を収載する。
室町時代の『下學集』は、標記語「賊徒」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
賊徒(ゾクト/ヌスビト,トモガラ)[去・平]。〔態藝門405四〕
とあって、標記語「賊徒」の語を収載し、読みを「ゾクト」とし、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』そして、易林本『節用集』は、標記語「賊徒」との語を未収載にする。
ここで古辞書における「賊徒」についてまとめておくと、『下學集』『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類と易林本『節用集』は未収載にし、次に『色葉字類抄』、広本『節用集』に、この語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
323追下伐所‖楯籠|之賊徒上、可∨警‖-固ス要害ヲ|云々。因∨之近日欲∨令‖進發|候処ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下尽(ツクシ) ∨員(カス)ヲ失候畢 唐ニハ武具ハ、皇帝自∨打 ‖蚩尤|始也。日本ニハ自‖神武天王御宇|始也。〔謙堂文庫藏三四右G〕
とあって、標記語を「賊徒」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
戰場(センテウ)ニ|、破‖-却(ハキヤク)シ城郭(ヂヤウクワク)ヲ|追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔下9オ四〜六〕
とあって、この標記語の「賊徒」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
楯籠(たてこも)る所の賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し/追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上。追伐ハおひうつなり。楯籠る所の賊徒とハ城中にこもりたる一味(ミ)の者共をいふなり。〔39オ四〕
とあって、標記語「賊徒」で、その語注記は「楯籠る所の賊徒とは、城中にこもりたる一味の者共をいふなり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔三十一オ四・六〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕
とあって、標記語「賊徒」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Zocuto<.ゾクトゥ(賊党) 盗賊ども.〔邦訳843l〕
とあって、標記語「賊党」の語を収載し、その意味を「盗賊ども」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ぞく-と(名)【賊徒】(一)ぬすびとども。賊黨。(二)朝敵のやから。〔1148-3〕
とあって、標記語「賊徒」の語を用例は未記載にして収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ぞく-と【賊徒】[名]@ぬすびとの仲間。賊党。賊衆。A反逆者の仲間。時の政府、朝廷に敵対する者たち。賊党」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
行幸西國事、全非驚賊徒之入洛《読み下し》西国ニ行幸スル事、全ク賊徒(ゾクト)ノ入洛ヲ驚クニ非ズ。《『吾妻鏡』寿永三年二月二十日の条》
2002年7月12日(金)霽。東京(八王子)⇒東京(駒沢)→浅草
「楯籠(タテコモル)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「多」部に、「楯籤(タテノサン).楯合(―ヤウ).楯∨人(タテツクヒト).楯衝(タテツク)」の四語を収載するのみで、標記語「楯籠(タテコモル)」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「追伐所楯籠之賊徒可警固要害云々」〔至徳三年本〕
「追伐所楯籠賊徒可警固要害云々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「追-下罸シテ所ノ‖楯(タテ)_籠ル|之賊-徒ヲ上、可シ∨警‖-固ス要-害(ヨウカイ)ヲ|云々」〔山田俊雄藏本〕
「追下伐所‖楯テ籠|之賊徒上、可∨警‖-固(ケイゴ)要害(―ガイ)ヲ|云々」〔経覺筆本〕
「追-罸(ツイハツ)シテ所ノ‖楯_籠(タテコモ)ル|之賊徒(ソクト)ヲ上、可シト∨警‖-固(ケイコ)要害(ヨウカイ)ヲ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「楯籠」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』は、標記語「楯籠」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
楯籠(タテゴモル/シユンロウ)[上・上]。〔態藝門368七〕
とあって、標記語「楯籠」の語を収載し、読みを「たてごもる」と第三拍めを濁って発音し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
楯篭(―コモル)。〔弘・言語進退112五〕
楯籠(タテゴモル)。〔永・言語95四〕
楯籠(タテコモル)。〔尭・言語87一〕
楯篭(タテコモル)。〔両・言語105七〕
とあって、標記語「楯籠」と「楯篭」の両表記でこの語を収載する。読みも「たてごもる」と「たてこもる」と第三拍の清濁両用が見られるのである。また、易林本『節用集』には、
楯籠(タテゴモル)。〔言語95一〕
とあって、標記語「楯籠」を収載し、その語注記は未記載にする。
ここで古辞書における「楯籠」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』『運歩色葉集』は未収載にし、次に広本『節用集』、印度本系統の『節用集』類と易林本『節用集』には、この語を収載するものである。この時代「楯籠」の読みは「たてごもる」であったことも指摘できる。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
323追下伐所‖楯籠|之賊徒上、可∨警‖-固ス要害ヲ|云々。因∨之近日欲∨令‖進發|候処ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下尽(ツクシ) ∨員(カス)ヲ失候畢 唐ニハ武具ハ、皇帝自∨打 ‖蚩尤|始也。日本ニハ自‖神武天王御宇|始也。〔謙堂文庫藏三四右G〕
とあって、標記語を「楯籠」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
戰場(センテウ)ニ|、破‖-却(ハキヤク)シ城郭(ヂヤウクワク)ヲ|追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔下9オ四〜六〕
とあって、この標記語の「楯籠」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
楯籠(たてこも)る所の賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し/追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上。追伐ハおひうつなり。楯籠る所の賊徒とハ城中にこもりたる一味(ミ)の者共をいふなり。〔39オ四〕
とあって、標記語「楯籠」で、その語注記は「楯籠る所の賊徒とは、城中にこもりたる一味の者共をいふなり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔三十一オ二・五〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕
とあって、標記語「楯籠」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Tategomori,u.otta.タテゴモリ,ル,ッタ(立て籠・楯籠り,る,つた) ある城とか、防壁や防柵のついて1いる建物とかの中に引きこもって守り固める.〔邦訳617l〕
とあって、標記語「楯籠」の語を収載し、その意味を「ある城とか、防壁や防柵のついている建物とかの中に引きこもって守り固める」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
たて-こも・る(自動、四)【楯籠】城に入りて防ぎ守る。籠城す。守城。據城 保元物語、一、新院召‖爲義|事「近江國甲賀山に立籠り候ひしを、承ッて發向し」〔1225-3〕
とあって、標記語「楯籠」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「たて-こも・る【立籠・楯籠】[自ラ五(四)](「たてごもる」とも)@戸などをしめきって、室内にこもる。部屋にとじこもる。籠居(ろうきょ)する。A城の中にいて敵に対抗する。籠城(ろうじょう)する。」と収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
佐汰毛四郎、常陸國奥郡、花園山、楯篭、自鎌倉令責御時、其日御合戰、直實、勝萬人、前懸一陣、懸壊、一人當千顯高名其勸賞《読み下し》其ノ故何ナレバ、佐汰毛ノ四郎、常陸ノ国奥ノ郡、花園山ニ、楯篭(タテゴモ)リ、鎌倉ヨリ責メシメ御フ時、其ノ日ノ御合戦ニ、直実、万人ニ勝レ、*一陣ニ前懸シ、懸壊リ(*前懸シ、一陣ヲ懸壊リ)、一人当千ノ高名ヲ顕ハス。《『吾妻鏡』寿永元年六月五日の条》
2002年7月11日(木)霽(台風一過)。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
「追伐(ツイバツ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「津」部に、
追罸(ツイバツ)。〔元亀本157六〕〔静嘉堂本172七〕
追罰(―ハツ)。〔天正十七年本中17ウ八〕
とあって、標記語「追罸(ツイバツ)」の語注記を未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「追伐所楯籠之賊徒可警固要害云々」〔至徳三年本〕
「追伐所楯籠賊徒可警固要害云々」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「追-下罸シテ所ノ‖楯(タテ)_籠ル|之賊-徒ヲ上、可シ∨警‖-固ス要-害(ヨウカイ)ヲ|云々」〔山田俊雄藏本〕
「追下伐所‖楯テ籠|之賊徒上、可∨警‖-固(ケイゴ)要害(―ガイ)ヲ|云々」〔経覺筆本〕
「追-罸(ツイハツ)シテ所ノ‖楯_籠(タテコモ)ル|之賊徒(ソクト)ヲ上、可シト∨警‖-固(ケイコ)要害(ヨウカイ)ヲ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「追伐」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』は、標記語「追伐」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
追伐(ツイハツ/ヲイ,キル・ウツ)[平・去]進發義ト同。〔態藝門416三〕
とあって、標記語「追伐」の語を収載し、語注記は「進發の義と同じ」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
追罰(ツイバツ)。〔弘・言語進退131二〕
追薦(ツイゼン)又作―従(セウ)。―却(キヤク)。―拂(ホツ)。―伐(バツ)進發之義。―修(シユ)。―福(フク)追善之義。善。―放(ハウ)。―加。―討(タウ)。―捕(フ)。―考(カウ)。―出(シユツ)。〔永・言語105七〕
追薦(ツイゼン)又薦作善、―従。―却。―拂。―伐進發義。―修。―福追善義。―放。―加。―討。―捕。―考。―出。〔尭・言語96二〕
追薦(ツイゼン)又薦作∨善、―却。―伐。―福追善義。―放。―加。―討(タウ)。―捕。―考。―出。〔両・言語117八〕
とあって、弘治二年本が標記語「追伐」の語を収載し、他本は標記語「追薦」の冠頭字「追」の熟語群として「追伐」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
追討(ツイタウ)―捕(フ)。―放(ハウ)。―従(セウ)。―加(カ)。―却(キヤク)。―罰(バツ)。―善(ぜン)。―出(シユツ)。〔言辞105五〕
とあって、標記語「追罰」として収載する。
ここで古辞書における「追伐」そして「追罸(罰)」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』は未収載にし、次に広本『節用集』『運歩色葉集』印度本系統の『節用集』類と易林本『節用集』には、この語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
323追下伐所‖楯籠|之賊徒上、可∨警‖-固ス要害ヲ|云々。因∨之近日欲∨令‖進發|候処ニ、此ノ間ノ戰場ニ、武具乘馬以下尽(ツクシ) ∨員(カス)ヲ失候畢 唐ニハ武具ハ、皇帝自∨打 ‖蚩尤|始也。日本ニハ自‖神武天王御宇|始也。〔謙堂文庫藏三四右G〕
とあって、標記語を「追伐」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
戰場(センテウ)ニ|、破‖-却(ハキヤク)シ城郭(ヂヤウクワク)ヲ|追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔下9オ四〜六〕
とあって、この標記語の「追伐」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
楯籠(たてこも)る所の賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し/追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上。追伐ハおひうつなり。楯籠る所の賊徒とハ城中にこもりたる一味(ミ)の者共をいふなり。〔39オ四〕
とあって、標記語「追伐」で、その語注記は「追伐ハおひうつなり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔三十一オ二・五〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕
とあって、標記語「追伐」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「追伐」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「つい-ばつ(名)【追伐】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「つい-ばつ【追伐】[名]討手(うって)をさし向けて賊徒を征伐すること。追討。追罰。」と標記語「つい-ばつ【追罰】[名]@あとから罰すること。また、あとからさらに刑罰を加えること。A「ついばつ(追伐)に同じ」とにして収載し、『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。また、『運歩色葉集』の用例を収載するが、「追罰」の@の意味用例として取扱っているが、この調査でもわかるように、『庭訓徃来』そして『庭訓徃来註』を継承することから、ここはAの意味用例とすべきことになろう。
[ことばの実際]
又諸國源氏、平均可被追伐之条、無其實所限、《読み下し》又諸国ノ源氏、平均ニ追伐セラルベキノ条ハ、其ノ実無シ。《『吾妻鏡』治承五年三月七日の条》
※標記語「じょう-かく【城郭】は、2000年12月18日のことばの溜池をご参照願います。
2002年7月10日(水)雨夜半台風六号接近。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
「破却(ハキヤク)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「波」部に、
破却(ハキヤク)。〔元亀本26九〕〔静嘉堂本25三〕
破却(―キヤク)。〔天正十七年本上13ウ六〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「破却(ハキヤク)」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「當家一族同馳向彼戰場破却城槨」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「當家一族同馳向彼戰場破却城睾」〔建部傳内本〕
「當-家之ノ一-族一族同馳‖_向ヒテ彼ノ戰-場ニ|、破‖-却(ハキヤク)シ城-睾ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
「當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭|」〔経覺筆本〕
「當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭|()シ()ヲニ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「破却」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』は、標記語「破却」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
破却(ハキヤク/ヤブル,シリゾク)[去・去]。〔態藝門67七〕
とあって、標記語「破却」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
破却(ハキヤク)。〔弘・言語進退24八〕〔両・言語24八〕
破題(ハダイ)―壊(ハエ)。―烈(レツ)。―却(キヤク)。―損(ソン)。―急(キウ)。―滅(メツ)。〔永・言語23一〕
破題(ハダイ)―壊。―烈。―却。―損。―急。―滅。〔尭・言語20七〕
とあって、弘治二年本と両足院本『節用集』は、標記語「破却」の語を収載し、語注記は未記載にする。他二写本は標記語「破題」の冠頭字「破」の熟語群として「破却」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
破却(ハキヤク)。〔乾坤22三〕
とあって、標記語「破却」の語を収載する。
ここで古辞書における「破却」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』は未収載にし、次に広本『節用集』『運歩色葉集』印度本系統の『節用集』類と易林本『節用集』には、この語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令∨横‖行于所々ニ|、奪‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕土民ノ住宅|、剥‖-取ル旅人之衣裳ヲ|間、爲‖誅伐追討|、大將軍依∨被∨發‖-向|、方々當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭| 三里云∨城、七里ヲ云∨郭也。自‖帝尺|始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「破却」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
戰場(センテウ)ニ|、破‖-却(ハキヤク)シ城郭(ヂヤウクワク)ヲ|追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔下9オ四〜六〕
とあって、この標記語の「破却」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
城郭(ぢやうかうわく)を破却(はきやく)し/破‖-却城郭|。破却ハ打やふるをいふ。却の字ハ助字(じよじ)也。忘却(ほうきやく)遺却(いきやく)なといえる類と同し。城ハしろ。郭ハ城乃外かへなり。謀叛反逆の奴原(やつはら)のこもりたる城をさしていえるなり。〔39オ三〕
とあって、標記語「破却」で、その語注記は「破却は、打やぶるをいふ。却の字は、助字なり。忘却・遺却などいえる類と同じ」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔三十一オ二・五〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕
とあって、標記語「破却」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Faqiacu.ハキヤク(破却) Yaburu.(破る) 破壊すること.〔邦訳206r〕
とあって、標記語「破却」の意味を単に「破壊すること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
は-きやく(名)【破郤・破却】〔破郤の郤は助字〕やぶること。こぼつこと。唐書、羅藝傳「藝悍∨寇數破‖却之|、勇常冠∨軍」庭訓徃來、六月「破‖却城郭|、追下伐所‖楯籠|之賊徒上」〔1568-1〕
とあって、「破却」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「は-きゃく【破却】[名]@こわすこと。すっかりこわして、原形をとどめないようにすること。破壊。A打ち破って追いしりぞけること」として収載し、『大言海』が引用する『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
仍今日、仰牧三郎宗親、破却廣綱之宅、頗及耻辱《読み下し》仍テ今日、牧ノ三郎宗親ニ仰セ、広綱ガ宅ヲ破却(ハキヤク)シ、頗ル恥辱ニ及ブ。《『吾妻鏡』寿永元年十一月十日の条》
万−―トハ禍カ取入ヘキソ。破却スベキ也。胡僧詩云、不知−―城。秦童記云、秦ヲ亡者ハ胡也。始皇帝將謂、胡国ヨリ胡スドモカ入ヘキトテ、城ヲ築也。秦ノ子ニ夫素・胡亥トテ二人之王子アリ。其子カ敵ト成テ兵乱ヲ起也。ウツロヨリ破レタルト云々。《『江湖風月集抄』巻下「寄智長老」375E》
2002年7月9日(火)晴。東京(八王子)⇒静岡→東京(新宿)
「戰場(センヂヤウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「勢」部に、標記語「戰場(センジヤウ)」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「當家一族同馳向彼戰場破却城槨」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「當家一族同馳向彼戰場破却城睾」〔建部傳内本〕
「當-家之ノ一-族一族同馳‖_向ヒテ彼ノ戰-場ニ|、破‖-却(ハキヤク)シ城-睾ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
「當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭|」〔経覺筆本〕
「當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭|()シ()ヲニ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「戰場」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、標記語「戰場」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
戰塲(せンヂヤウ/タヽカウ,ニワ)[去・平]。〔態藝門1115一〕
とあって、標記語「戰場」の語を収載し、語注記は未記載にする。また、易林本『節用集』には、
戰塲(センヂヤウ)。〔乾坤232五〕
とあって、標記語「戰塲」の語を収載する。
ここで古辞書における「戰場」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』『運歩色葉集』印度本系統の『節用集』類は未収載にし、次に広本『節用集』と易林本『節用集』には、この語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令∨横‖行于所々ニ|、奪‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕土民ノ住宅|、剥‖-取ル旅人之衣裳ヲ|間、爲‖誅伐追討|、大將軍依∨被∨發‖-向|、方々當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭| 三里云∨城、七里ヲ云∨郭也。自‖帝尺|始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「戰場」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
戰場(センテウ)ニ|、破‖-却(ハキヤク)シ城郭(ヂヤウクワク)ヲ|追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔下9オ四〜六〕
とあって、この標記語の「戰場」の語注記は、「戰塲は、帥塲なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむかつ)て城郭(ぢやうかうわく)を破却(はきやく)し/戰場|、破‖-却城郭|。〔39オ一〕
とあって、標記語「戰場」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔三十一オ二・五〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕
とあって、標記語「戰場」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Xengio<.センヂャウ(戰場) Tatacaino ba.(戦の場)戦場.〔邦訳751l〕
とあって、標記語「戰場」の意味を単に「戦場」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
せん-ぢやう(名)【戰場】戰のある所。いくさば。いくさのには。戰地。合戰場。戰國策、魏策「魏之地勢、故戰塲也」吾妻鏡、七、文治三年十月二日「義忠、弃‖命於石橋戰塲|」〔1128-4〕
とあって、「戰場」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「せん-じょう【戰場】[名]戦闘のある場所。いくさの行われている土地。いくさば。戦地。合戦場」として収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
平治逆亂時、候左典厩御方、於戰場竭兵略《読み下し》平治逆乱ノ時、左典厩ノ御方ニ候ジテ、戦場ニ於テ兵略ヲ竭ス。《『吾妻鏡』治承四年八月九日の条》
2002年7月8日(月)薄晴曇り。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
「一族(イチゾク)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、
一族(イチゾク)。〔元亀本19一〕
一族(――)。〔静嘉堂本14三〕
一族(―ソク)。〔天正十七年本上8ウ一〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「一族(イチゾク)」の語を収載し、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「當家一族同馳向彼戰場破却城槨」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「當家一族同馳向彼戰場破却城睾」〔建部傳内本〕
「當-家之ノ一-族一族同馳‖_向ヒテ彼ノ戰-場ニ|、破‖-却(ハキヤク)シ城-睾ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
「當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭|」〔経覺筆本〕
「當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭|()シ()ヲニ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
一族 同。イツソク。〔黒川本・疉字門上10ウ三〕
一道 《上畧》〃族ソク/ヤカラ。《下畧》。〔卷第一・疉字門64五〕
とあって、標記語「一族」の語を収載する。
室町時代の『下學集』は、標記語「一族」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
一族(イツゾク/ヒトツ,ヤカラ)[去・去]。〔態藝門36八〕
とあって、標記語「一族」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
一族(イチゾク)。〔弘・人倫4七〕
一族(―ゾク)。〔永・言語2六〕〔堯・言語3三〕〔両・言語3七〕
とあって、弘治二年本だけが標記語「一族」の語を収載し、語注記は未記載にする。また、易林本『節用集』には、
一門(イチモン)―族(ソク)。―家(カ)。〔言語93一〕
とあって、標記語「一門」の冠頭字「一」の熟字訓として「一族」の語を収載する。
ここで古辞書における「一族」についてまとめておくと、『下學集』は未収載にし、次に『色葉字類抄』と広本『節用集』『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類及び易林本『節用集』は、この語を収載するものである。『下學集』の未収載が注目される。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令∨横‖行于所々ニ|、奪‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕土民ノ住宅|、剥‖-取ル旅人之衣裳ヲ|間、爲‖誅伐追討|、大將軍依∨被∨發‖-向|、方々當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭| 三里云∨城、七里ヲ云∨郭也。自‖帝尺|始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「一族」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
∨發‖-向(ハツカウ)せ|、方々ニ當家(タウケ)ノ一族(ソク)同ク馳(ハせ)‖-向(ムカ)ツテ彼(カノ) 發向(ハツカウ)トハヲゴリ向フ事也。〔下9オ三〕
とあって、この標記語の「一族」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
當家(たうけ)の一族(いちそく)/當家ノ一族同姓の親類を一族(そく)と云。〔39オ一〕
とあって、標記語「一族」で、その語注記は「同姓の親類を一族と云ふ」とする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔三十一オ二・五〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕
とあって、標記語「一族」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Ichizocu.イチゾク(一族) 一家族,あるいは,一つの親族.例,Icqe,ichizocu.(一家,一族)同上.〔邦訳329l〕
とあって、標記語「一族」の意味を「一家族,あるいは,一つの親族」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
いち-ぞく(名)【一族】同じ族(やから)。同族。一家。北史、魏、孝文紀「夏、殷、不∨嫌‖一族之婚|」~皇正統記(後醍醐天皇條)「頼朝ハ、兄弟一族、云云、義經、範頼の兩弟をも、終に失ひにき」(大節文)太平記、十、新田義貞謀叛事「便宜の一族たちを、濳に集めて、謀叛の計略をぞめぐらされける」(千早の城の圍みを解きて歸郷してなり)」〔0171-1〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「いち-ぞく【一族】[名]一つの血筋につながりのある者。同族。血族」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
卯尅、宮令赴南都御三井寺無勢之間、依令恃奈良御也三位入道一族、并寺衆徒等候御共《読み下し》卯剋ニ、宮南都ニ赴カシメ御フ。三井寺ハ無勢ノ間、*奈良ヲ恃マシメ御フニ依テナリ(*奈良衆徒)。三位ノ入道ノ一族、并ニ寺ノ衆徒等。御共ニ候ズ。《『吾妻鏡』治承四年五月二十六日の条》
2002年7月7日(日)薄晴曇り。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
七夕に 風廻らして 星光る
「當家(タウケ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「多」部に、
當家(―ケ)。〔元亀本138七〕〔静嘉堂本147四〕
×。〔天正十七年本〕
とあって、標記語「當家(ハウバウ)」の語を収載し、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「當家一族同馳向彼戰場破却城槨」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「當家一族同馳向彼戰場破却城睾」〔建部傳内本〕
「當-家之ノ一-族同馳‖_向ヒテ彼ノ戰-場ニ|、破‖-却(ハキヤク)シ城-睾ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
「當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭|」〔経覺筆本〕
「當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭|()シ()ヲニ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「當家」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』は、標記語「當家」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
當家(タウケ/アタル,カ・イヱ)[去・平]。〔態藝門348三〕
とあって、標記語「當家」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
當家(タウケ)。〔弘・言語進退110五〕
とあって、弘治二年本だけが標記語「當家」の語を収載し、語注記は未記載にする。また、易林本『節用集』には、
當時(タウジ)―代(ダイ)。―道(ダウ)。―流(リウ)。―腹(ブク)。―院(イン)。―世(せイ)。―座(ザ)。―罰(バツ)。―番(バン)。―機(キ)。―學(カク)。―用(ヨウ)。―家(カ)。―山(サン)。―國(コク)。―所(シヨ)。―來(ライ)。―季(キ)。―分(ブン)。〔言語93一〕
とあって、標記語「當時」の冠頭字「當」の熟字訓として「當家」の語を収載する。
ここで古辞書における「當家」についてまとめておくと、『色葉字類抄』と『下學集』印度本系統の『節用集』類(永祿二年本・尭空本・両足院本)は未収載にし、次に広本『節用集』『運歩色葉集』、弘治二年本『節用集』及び易林本『節用集』は、この語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令∨横‖行于所々ニ|、奪‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕土民ノ住宅|、剥‖-取ル旅人之衣裳ヲ|間、爲‖誅伐追討|、大將軍依∨被∨發‖-向|、方々當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭| 三里云∨城、七里ヲ云∨郭也。自‖帝尺|始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「當家」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
∨發‖-向(ハツカウ)せ|、方々ニ當家(タウケ)ノ一族(ソク)同ク馳(ハせ)‖-向(ムカ)ツテ彼(カノ) 發向(ハツカウ)トハヲゴリ向フ事也。〔下9オ三〕
とあって、この標記語の「當家」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
當家(たうけ)の一族(いちそく)/當家ノ一族同姓の親類を一族(そく)と云。〔39オ一〕
とあって、標記語「當家」で、その語注記は「同姓」とする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔三十一オ二・五〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕
とあって、標記語「當家」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
To<qe.タウケ(當家) この家,あるいは,この一族.§To<qeno fito.(当家の人)この家の人,あるいは,この一族の人.〔邦訳662l〕
とあって、標記語「當家」の意味を「この家,あるいは,この一族」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
たう-け(名)【當家】この家(いへ)。我が家。平治物語、一、光頼卿參内事「當家はさせる英雄にはあらざれども、偏に有道の臣に伴って」〔1192-3〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「とう-け【当家】[名]この家。この一族。自分の家」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
此上者、謁槐門之事、亦無疑歟者羽林、答申曰、源平爲天下警衛之處、頃年之間、當家獨爲朝廷之計昇進者、八十許輩《読み下し》此ノ上ハ、槐門ニ謁センノ事モ、亦タ*疑ヒ無キ(*疑フ所無キ)カテイレバ、羽林、答ヘ申シテ曰ク、源平天下ノ警衛タルノ処ニ、頃年ノ間、当家独*朝廷ノ計ヲナス。昇進ノ者、八十許輩(*朝廷ヲ守リ、昇進ヲ許サルル者、八十余輩)。《『吾妻鏡』寿永三年三月二十八日の条》
2002年7月6日(土)薄晴曇り。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
「方々(ハウバウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「波」部に、標記語「方等(ハウドウ)」「方角(ガク)」「方便(―ベン)」「方違(―チカイ)」の四語を収載するにとどまり、標記語「方々(ハウバウ)」の語を未収載にしている。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「追捕土民住宅、剥取旅人衣裝之間、爲誅罸追罸、大將軍依被發向方々」〔至徳三年本〕
「追捕土民住宅、剥取旅人衣裝之間、爲誅伐追討、大將軍依被發向方々」〔宝徳三年本〕
「追捕土民住宅、剥取旅人之衣裝之間、爲誅罸追討、大將軍依被發向方々」〔建部傳内本〕
「追‖-捕(ツイフ)シ土-民ノ住-宅ヲ|、剥(ハキ)‖-取旅-人ノ衣-裝ヲ|之際、爲‖誅-罸(チウ―)追-討(ツイトウ)ノ|、大-將-軍依テ∨被ルヽニ∨發‖-向方-々ニ|」〔山田俊雄藏本〕
「追(ツイ)‖捕土民ノ住宅ヲ|、剥(ハギ)‖取ル旅人之衣裳(イシヤウ)ヲ|之間、爲‖誅伐(チウハツ)追討|、大將軍依テ∨被∨發‖-向(ハツカウ)せ|方々ニ」〔経覺筆本〕
「追‖-捕(ツイフ)シ土民住宅(チウタク)ヲ|、剥(ハキ)‖-取ル旅-人ノ衣裳ヲ|間、爲‖誅伐(チウハツ)追討(ツイタウ)ノ|、大-將-軍依テ∨被ルヽニ∨發‖向せ方々ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「方々」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、標記語「方々」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
方々(ハウ―)[平・○]。〔態藝門83二〕
とあって、標記語「方々」の語を収載し、語注記は未記載にする。また、易林本『節用集』には、
方々(ハウ―)。〔言語21二〕
とあって、標記語「方々」として収載する。
ここで古辞書における「方々」についてまとめておくと、『色葉字類抄』と『下學集』『運歩色葉集』印度本系統の『節用集』は未収載にし、次に広本『節用集』及び易林本『節用集』だけがこの語を収載するものである。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令∨横‖行于所々ニ|、奪‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕土民ノ住宅|、剥‖-取ル旅人之衣裳ヲ|間、爲‖誅伐追討|、大將軍依∨被∨發‖-向|、方々當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭| 三里云∨城、七里ヲ云∨郭也。自‖帝尺|始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「方々」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
∨發‖-向(ハツカウ)せ|、方々ニ當家(タウケ)ノ一族(ソク)同ク馳(ハせ)‖-向(ムカ)ツテ彼(カノ) 發向(ハツカウ)トハヲゴリ向フ事也。〔下9オ三〕
とあって、この標記語の「方々」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
大將軍(たいしやうくん)方々(はうはう)に發向(はつかう)せ被(らるゝ)に依(よつ)て/大將軍依∨被∨發‖-向|、方々爲‖誅伐追討ノ|大將軍ハ軍中(くんちう)の支配(しはい)をする惣頭(そうかしら)なり。凶徒悪黨所々國々に起(おこ)りたつゆへ方々に發向せらるといえるなり。〔38ウ八〕
とあって、標記語「方々」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔三十一オ二・五〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕
とあって、標記語「方々」にして、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Fo<bo<.ハウバウ(方々) あらゆる方向.または,いろいろな地方.§Fo<bo<uo caqete ariqu.(方々をかけて歩く)あちこちいろいろな地方や場所を歩き回る.〔邦訳254r〕
とあって、標記語「方々」の意味を「あらゆる方向.または,いろいろな地方」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
はう-ばう(名)【方々】かたがた。あちらこちら。諸方。諸處。曽我物語、一、奥野狩座事「さても兩三が國の人人は、おのおの奥野に入り、方方より勢子を入れて、野干を狩ける程に」曾根崎心中(元禄、近松作)上「鼻紙袋を落して、印判ともに失ふた、方方に張紙して尋ぬれども知れぬ」〔1561−1〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「ほう-ぼう【方々】[名]あちこち。かたがた。諸方」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。意味も『大言海』の意味に等角であり、「あちらこちら」を「あちこち」と縮めた語を採用している。初出用例は、『今昔物語集』卷二十・15「方々に使を散して」を先頭に置いている。
[ことばの実際]
合戰敗績之今耻重國心中、不來歟者則遣郎從等於方々、令相尋〈云云〉《読み下し》合戦敗績ノ今、重国ガ心中ヲ恥ヂテ、来タラザルカ、テイレバ則チ郎従等ヲ方方(ハウ/\)ニ遣ハシテ、相ヒ尋ネシムト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年八月二十六日の条》
2002年7月5日(金)薄晴曇り。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
「發向(ハツカウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「波」部に、
發向(ハツカウ)。〔元亀本25九〕
發向(ハツカフ)。〔静嘉堂本23八〕
發向(ハツコフ)。〔天正十七年本上13オ二〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「發向」の語を収載し、その読みを「ハツカウ(カフ・コフ)」とし、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「追捕土民住宅、剥取旅人衣裝之間、爲誅罸追罸、大將軍依被發向方々」〔至徳三年本〕
「追捕土民住宅、剥取旅人衣裝之間、爲誅伐追討、大將軍依被發向方々」〔宝徳三年本〕
「追捕土民住宅、剥取旅人之衣裝之間、爲誅罸追討、大將軍依被發向方々」〔建部傳内本〕
「追‖-捕(ツイフ)シ土-民ノ住-宅ヲ|、剥(ハキ)‖-取旅-人ノ衣-裝ヲ|之際、爲‖誅-罸(チウ―)追-討(ツイトウ)ノ|、大-將-軍依テ∨被ルヽニ∨發‖-向方-々ニ|」〔山田俊雄藏本〕
「追(ツイ)‖捕土民ノ住宅ヲ|、剥(ハギ)‖取ル旅人之衣裳(イシヤウ)ヲ|之間、爲‖誅伐(チウハツ)追討|、大將軍依テ∨被∨發‖-向(ハツカウ)せ|方々ニ」〔経覺筆本〕
「追‖-捕(ツイフ)シ土民住宅(チウタク)ヲ|、剥(ハキ)‖-取ル旅-人ノ衣裳ヲ|間、爲‖誅伐(チウハツ)追討(ツイタウ)ノ|、大-將-軍依テ∨被ルヽニ∨發‖向せ方々ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「發向」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』は、標記語「發向」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
發向(ハツカウ/ヲコル,キヤウ・ムカウ)[入・去]對治義也。〔態藝門65六〕
とあって、標記語「發向」の語を収載し、語注記は「對治の義なり」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
發向(―ハツ)。〔弘・言語進退24八〕
發越(―エツ)―遣(ケン)。―向(カウ)。〔永・言語22八〕
發語(ハツギヨ)―越。―遺。―向。〔尭・言語20三〕
發向(ハツカウ)。〔両・言語27四〕
とあって、弘治二年本と両足院本とが標記語「發向」の語を収載し、他本は標記語「發越」「發語」の冠頭字「發」の熟語群として「發向」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
發向(―カウ)。〔言辞22一〕
とあって、標記語「發向」として収載する。
ここで古辞書における「發向」についてまとめておくと、『色葉字類抄』と『下學集』とは未収載とし、次に広本『節用集』、『運歩色葉集』印度本系統の『節用集』、及び易林本『節用集』は、いずれもこの語を収載する。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令∨横‖行于所々ニ|、奪‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕土民ノ住宅|、剥‖-取ル旅人之衣裳ヲ|間、爲‖誅伐追討|、大將軍依∨被∨發‖-向|、方々當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭| 三里云∨城、七里ヲ云∨郭也。自‖帝尺|始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「發向」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
∨發‖-向(ハツカウ)せ|、方々ニ當家(タウケ)ノ一族(ソク)同ク馳(ハせ)‖-向(ムカ)ツテ彼(カノ) 發向(ハツカウ)トハヲゴリ向フ事也。〔下9オ三〕
とあって、この標記語の「發向」の語注記は、「をごり向ふ事なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
大將軍(たいしやうくん)方々(はうはう)に發向(はつかう)せ被(らるゝ)に依(よつ)て/大將軍依∨被∨發‖-向|、方々爲‖誅伐追討ノ|大將軍ハ軍中(くんちう)の支配(しはい)をする惣頭(そうかしら)なり。凶徒悪黨所々國々に起(おこ)りたつゆへ方々に發向せらるといえるなり。〔38ウ八〕
とあって、標記語「發向」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔三十一オ二・五〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕
とあって、標記語「發行」とし、その語注記は未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Facco<.ハッカウ(發向) Vocori,muco<.(発り,向ふ)焼き払って,打ち滅ぼすこと.§また,ある国,または,軍勢を打ち滅ぼすために行き向うこと.〔邦訳193l〕
とあって、標記語「發向」の意味を「焼き払って,打ち滅ぼすこと.また,ある国,または,軍勢を打ち滅ぼすために行き向うこと」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
はつ-かう(名)【發向】たちむかふっこと。舊唐書、高宗紀「麟コ二年正月甲子、以∨發‖向太山|停∨選」盛衰記、八、法皇三位灌頂事「永く三位の御寺を停止せられずば、彼の寺に發向して、佛閣僧坊一宇も殘さず焼き拂ふべきの由、騒動す」北條五代記、一、上杉朝成生捕事「頼朝公、奥州へはっかうの事をかたる所に」〔1592−4〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「はっ-こう【發向】[名]@出発して目的地に向かうこと。出向くこと。また、出向かせること。派遣すること。A特に、軍勢をもって攻め向かうこと。討伐のために軍を進発させること」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
仍又相具上野下野武藏等國々精兵、至駿河國、可相待平氏之發向早以北條殿、爲先達可被來向黄瀬河之旨、可相觸武田太郎信義以下源氏之由〈云云〉《読み下し》仍テ又上野、下野、武蔵等ノ国国ノ精兵ヲ相ヒ具シ、駿河ノ国ニ至ツテ、平氏ノ発向(ハツカウ)ヲ相ヒ待ツベシ。早ク北条殿ヲ以テ、先達トシテ黄瀬河ニ来リ向ハルベキノ旨、武田ノ太郎信義以下ノ源氏ニ相ヒ触ルベキノ由ト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年九月二十日の条》
2002年7月4日(木)晴れのち曇り。東京(八王子)⇒東京(駒沢)
「追討(ツイタウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「津」部に、
追罸(―バツ)。追討(―タウ)。〔元亀本157六〕
追討(―タウ)。追罸(―バツ)。〔静嘉堂本172七〕
追討(―タウ)。追罰(―ハツ)。〔天正十七年本中17ウ八〕
とあって、標記語「追討」の語を収載し、その読みを「(ツイ)タウ」とし、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「追捕土民住宅、剥取旅人衣裝之間、爲誅罸追罸、大將軍依被發向方々」〔至徳三年本〕
「追捕土民住宅、剥取旅人衣裝之間、爲誅伐追討、大將軍依被發向方々」〔宝徳三年本〕
「追捕土民住宅、剥取旅人之衣裝之間、爲誅罸追討、大將軍依被發向方々」〔建部傳内本〕
「追‖-捕(ツイフ)シ土-民ノ住-宅ヲ|、剥(ハキ)‖-取旅-人ノ衣-裝ヲ|之際、爲‖誅-罸(チウ―)追-討(ツイトウ)ノ|、大-將-軍依テ∨被ルヽニ∨發‖-向方-々ニ|」〔山田俊雄藏本〕
「追(ツイ)‖捕土民ノ住宅ヲ|、剥(ハギ)‖取ル旅人之衣裳(イシヤウ)ヲ|之間、爲‖誅伐(チウハツ)追討|、大將軍依テ∨被∨發‖-向(ハツカウ)せ|方々ニ」〔経覺筆本〕
「追‖-捕(ツイフ)シ土民住宅(チウタク)ヲ|、剥(ハキ)‖-取ル旅-人ノ衣裳ヲ|間、爲‖誅伐(チウハツ)追討(ツイタウ)ノ|、大-將-軍依テ∨被ルヽニ∨發‖向せ方々ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで、写本類にあって、至徳三年本だけが「追罸」とし、他写本類はすべて「追討」と記載する。真字註をはじめとする注釈書も、すべて「追討」の語で記載することがここで見て取れる。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
追討同(法家部)/ツイタウ。〔黒川本・疉字中28オ八〕
追従〃討。〃捕。〃却ツイキヤク。〃放。〃儺ツイナ/延喜廿―始行之。追儺事長輪暦日十二月晦夜追儺事 昔高辛氏之女子女子晦夜在堂寺成魍魎常行疫癘之事又奪祖魂之祭物周之以桃弓等射鬼為令安靜国土代所傳也。〃爵。〃求。〃福佛事。〃善。〔卷第四疉字630六〕
とあって、標記語「追討」の語を収載する。
室町時代の『下學集』は、標記語「追討」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
追討(ツイタウ/ヲイ,ウツ)[平・上]。〔態藝門416三〕
とあって、標記語「追討」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
追討(―ハツ)。〔弘・言語進退131一〕追罰(―バツ)。〔弘・言語進退131二〕
追薦(ツイゼン)又作―従(セウ)。―却(キヤク)。―拂(ホツ)。―伐(バツ)進發之義。―修(シユ)。―福(フク)追善之義。善。―放(ハウ)。―加。―討(タウ)。―捕(フ)。―考(カウ)。―出(シユツ)。〔永・言語105七〕
追薦(ツイゼン)又薦作善、―従。―却。―拂。―伐進發義。―修。―福追善義。―放。―加。―討。―捕。―考。―出。〔尭・言語96二〕
追薦(ツイゼン)又薦作∨善、―却。―伐。―福追善義。―放。―加。―討(タウ)。―捕。―考。―出。〔両・言語117八〕
とあって、弘治二年本が標記語「追討」の語を収載し、他本は標記語「追薦」の冠頭字「追」の熟語群として「追討」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
追討(ツイタウ)―捕(フ)。―放(ハウ)。―従(セウ)。―加(カ)。―却(キヤク)。―罰(バツ)。―善(ぜン)。―出(シユツ)。〔言辞105五〕
とあって、標記語「追討」として収載する。
ここで古辞書における「追討」についてまとめておくと、『色葉字類抄』次に『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』印度本系統の『節用集』、及び易林本『節用集』は、いずれもこの語を収載する。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令∨横‖行于所々ニ|、奪‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕土民ノ住宅|、剥‖-取ル旅人之衣裳ヲ|間、爲‖誅伐追討|、大將軍依∨被∨發‖-向|、方々當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭| 三里云∨城、七里ヲ云∨郭也。自‖帝尺|始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「追討」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
追討(ツイタウ)ノ|大將軍依テ∨被(ラルヽ)ニ 追討ハ。せメ殺(コロ)シ放(ハナ)シウチニ殺スナリ。〔下9オ二〕
とあって、この標記語の「追討」の語注記は、「せめ殺し、放しうちに殺すなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
誅伐(ちうバつ)追討(ついたう)の爲(ため)/爲‖誅伐追討ノ|誅伐ハせめうつと讀。追討ハおひうつと讀。皆其悪人原を退治(たいち)するをいふ也。〔38ウ六・七〕
とあって、標記語「追討」で、その語注記では「《上略》追討は、おひうつと讀む。皆其の悪人原を退治するをいふなり」とする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔三十一オ二・五〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕
とあって、標記語「追討」の語注記は、「追つめて討つをいふ」という。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Voivchi.ヲイウチ(追討) 追いかけて行って人を殺すこと.例,Voivchini suru.(追討にする)〔邦訳707l〕
とあって、標記語「追討」の読みは「をいうち」とし、その意味を「追いかけて行って人を殺すこと」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
つゐ-たう(名)【追討】賊徒を追いかけて、討ち取ること。(官軍に云ふ)追罰。後漢書、光武紀「郡縣追討、到則解散」保元物語、一、主上三條殿行幸事「早ク凶徒を追討して、逆鱗を休め奉らば」盛衰記、三十二、法皇自‖天台山|還御事「昨日までは源氏を追討せよと、諸國七道に被∨下‖院宣|、今日よりは可∨追‖討平家|之由」〔1341−2〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「つい-とう【追討】[名]賊などを追いかけてうちとること。討手(うって)をさしむけて征伐すること。追伐」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
天武皇子舊儀、追討王位推取之輩、訪上宮太子古跡、打亡佛法破滅之類矣、唯非憑人力之搆《読み下し》天武皇子ノ旧儀ヲ尋イデ、王位ヲ推取スルノ輩ヲ追討シ、上宮太子ノ古跡ヲ訪ヒ、仏法破滅ノ類ヲ打チ亡ボサンコト、唯人力ノ構ヘヲ憑ムニ非ズ。《『吾妻鏡』治承四年四月二十七日の条》
2002年7月3日(水)曇り。東京(麹町)⇒東京(駒沢)
「誅伐(チウバツ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「知」部に、
誅伐(チウバツ)三畧。〔元亀本63十〕〔天正十七年本上37ウ一〕
誅伐(チウハツ)三畧。〔静嘉堂本74四〕
とあって、標記語「誅伐」の語を収載し、その読みを「チウバツ」とし、語注記には典拠としての『三畧』を記載する。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「追捕土民住宅、剥取旅人衣裝之間、爲誅罸追罸、大將軍依被發向方々」〔至徳三年本〕
「追捕土民住宅、剥取旅人衣裝之間、爲誅伐追討、大將軍依被發向方々」〔宝徳三年本〕
「追捕土民住宅、剥取旅人之衣裝之間、爲誅罸追討、大將軍依被發向方々」〔建部傳内本〕
「追‖-捕(ツイフ)シ土-民ノ住-宅ヲ|、剥(ハキ)‖-取旅-人ノ衣-裝ヲ|之際、爲‖誅-罸(チウ―)追-討(ツイトウ)ノ|、大-將-軍依テ∨被ルヽニ∨發‖-向方-々ニ|」〔山田俊雄藏本〕
「追(ツイ)‖捕土民ノ住宅ヲ|、剥(ハギ)‖取ル旅人之衣裳(イシヤウ)ヲ|之間、爲‖誅伐(チウハツ)追討|、大將軍依テ∨被∨發‖-向(ハツカウ)せ|方々ニ」〔経覺筆本〕
「追‖-捕(ツイフ)シ土民住宅(チウタク)ヲ|、剥(ハキ)‖-取ル旅-人ノ衣裳ヲ|間、爲‖誅伐(チウハツ)追討(ツイタウ)ノ|、大-將-軍依テ∨被ルヽニ∨發‖向せ方々ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで、写本類にあって、「チュウバツ」の語を「誅罸」と「誅伐」とで記載することが見て取れるのである。真字註をはじめとする注釈書は、すべて「誅伐」の語で記載することがここで見て取れるのである。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「誅伐」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』は、
誅伐(チウバツ)。〔態藝門86一〕
とあって、標記語「誅伐」の語を収載し、語注記は未記載にする。次に広本『節用集』には、
誅罸(チウハツ/せムル,ツミ)[平・入]。誅伐(チウハツ/せムル,キル・ウツ)[平・入]。〔態藝門181三〕
王澤(ワウタク)竭(ツク)ル則(トキ)ハ盟誓(メイせイ)シテ相(アイ)誅伐(チウハツ)ス。同(三畧)〔態藝門248六〕
とあって、標記語「誅伐」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
誅伐(―バツ)又伐作罸。〔弘・言語進退54四〕
誅伐(チウハツ)又伐作罸。〔永・言語54五〕
誅戮(チウリク)―伐。又罸。〔尭・言語49三〕
誅戮(チウリク)―伐。又作伐罸。〔両・言語58二〕
とあって、弘治二年本と永祿二年本とが標記語「誅伐」の語を収載し、その語注記には「又○作○」の形式で「誅罸」の別表記を記載する。他二本については、標記語「誅戮」とし、その語注記に「誅伐」の語を記載したうえでその後に「又○作○」の形式を記載する。また、易林本『節用集』には、
誅罸(チウバツ)。誅伐(―バツ)。〔言語52六・七〕
とあって、標記語「誅罸」と「誅伐」とを併記して収載する。いずれも語注記は未記載とする。
ここで古辞書における「誅伐」と「誅罸」についてまとめておくと、『色葉字類抄』が未収載とし、次に『下學集』、広本『節用集』、印度本系統の『節用集』、及び易林本『節用集』は、いずれもこの語を収載する。そして、『運歩色葉集』が「誅罸」を未収載にしていることと。また、「誅伐」の語注記に典拠書名『三畧』を掲載している点が注目に値し、この『三畧』については、広本『節用集』「和」部態藝門にその引用語句が収載されていることからして、この二つの辞書には密接な繋がりを見ることにもなろう。または、当代の編者に共通する知識内容であったともとれよう。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令∨横‖行于所々ニ|、奪‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕土民ノ住宅|、剥‖-取ル旅人之衣裳ヲ|間、爲‖誅伐追討|、大將軍依∨被∨發‖-向|、方々當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭| 三里云∨城、七里ヲ云∨郭也。自‖帝尺|始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
誅伐―忽ニウツヲ云也。ニケテ行ヲ先マテ尋テ殺ス也。〔国会図書館藏『左貫註』書込み〕
とあって、標記語を「誅伐」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
誅伐(チウハツ)ハ縛(シバツ)テキルヲ云ナリ。〔下9オ二〕
とあって、この標記語の「誅伐」の語注記は、「縛ってきるを云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
誅伐(ちうバつ)追討(ついたう)の爲(ため)/爲‖誅伐追討ノ|誅伐ハせめうつと讀。追討ハおひうつと讀。皆其悪人原を退治(たいち)するをいふ也。〔38ウ六・七〕
とあって、標記語「誅伐」で、その語注記では「誅伐ハせめうつと讀む。《中略》皆其の悪人原を退治するをいふなり」とする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)の爲(ため)に大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)に發行(はつかう)せら被(る)るに依(よつ)て當家(たうけ)の一族(いちぞく)同(おなじ)く彼(かの)戰塲(せんぢやう)に馳向(はせむか)ひ城郭(じやうくわく)を)破却(はぎやく)し楯籠(たてこも)る所(ところ)之(の)賊徒(ぞくと)を追伐(ついばつ)し要害(えうがい)を警固(けいご)す之可(べ)しと云云/爲ニ‖誅伐追討ノ|。大將軍依テ∨被ルニ∨發‖-行セラ方々ニ|。當家ノ一族。同ク馳セ‖-向ヒ彼ノ戰場ニ|。破‖-却シ城郭ヲ|。追下伐シ所‖楯籠ル|之賊徒ヲ上、可シト∨警‖-固ス要害ヲ|云々。〔三十一オ二・五〕
爲(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)の|。大將軍(たいしやうぐん)依(よつ)て∨被(るゝ)に∨發‖-行(はつかう)せら方々(はう/゛\)に|。當家(たうけ)の一族(いちぞく)。同(おなじ)く馳(はせ)‖-向(むか)ひ彼(かの)戰場(せんぢやう)に|。破‖-却(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|。追下伐(ついばつ)し所(ところ)‖楯籠(たてこも)る|之(の)賊徒(ぞくと)を上、可(べ)し∨警‖-固(けいご)す要害(えうがい)を|云々(うん/\)〔五十五オ一・五〕
とあって、標記語「誅伐」の語注記は、「罪をせめて伐つをいふ」という。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Chu'bat.チュウバツ(誅罸・誅伐) Vchi,vtcu.(誅ち,伐つ)すなわち,Xeibai.(成敗)死の刑罰.例,Chu'batni vocono<.(誅伐に行ふ)死刑に処する,あるいは,死刑の宣告を下す.〔邦訳129r〕
とあって、標記語「誅罸」と「誅伐」の語を併記し、その意味を単に「すなわち,成敗.死の刑罰」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ちゅう-ばつ(名)【誅伐】罪あるものを誅(せ)め伐(う)つこと。史記、律書「教笞不∨可∨廢‖于家|、刑罰不∨可∨捐‖于國|、誅伐不∨可∨偃‖于天下|」百合若大臣野守鏡(寳永、近松作)四「密かに軍勢を催し、近日、別府御誅伐の御用意あり」〔1292−1〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「ちゅう-ばつ【誅伐】[名]罪のある者を攻め討つこと。罪人を切り殺すこと。成敗」と「ちゅう-ばつ【誅罸】[名]罪を責めて罰すること。処罰」をそれぞれ別の見出し語にして収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
院宣、源義仲、於備中國水嶋、相率千艘之軍兵、奉禦萬乗之還御然而爲官兵、皆令誅伐凶賊等畢《読み下し》院宣ヲ帯スト称ジテ、源ノ義仲、備中ノ国水島ニ於テ、千艘ノ軍兵ヲ相ヒ率シテ、万乗ノ還御ヲ禦ギ奉ル。然レドモ官兵トシテ、皆凶賊等ヲ誅伐(チウバツ)セシメ畢ンヌ。《『吾妻鏡』寿永三年二月二十日の条》
但不知食其意趣者、爲汝無據、早可申之者于時常澄云、去年冬於安房國、主人蒙誅罸之間、從類悉以牢篭、寤寐難休其欝陶之間、爲果宿意、此程佇立御亭邊《読み下し》但シ其ノ意趣ヲ知シ食サズンバ、汝ガ為ニ拠無シ、早ク之ヲ申スベシテイレバ、時ニ常澄ガ云ク、去年ノ冬安房ノ国ニ於テ、主人誅罰ヲ蒙ルノ間、従類悉ク以テ牢篭シ、寤メテモ寐ネテモ其ノ欝陶ヲ休メ難キノ間、宿意ヲ果タサンガ為ニ、此ノ程御亭ノ辺ニ佇立ス。《『吾妻鏡』養和元年七月二十日の条》
※『吾妻鏡』には、「誅罸」と「誅伐」の両語が記述されていて、それぞれ意味を別にしていることがここから見て取れる。
2002年7月2日(火)曇り一時晴れ。苫小牧⇒東京(駒沢)
「衣裳(イシヤウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、
衣裳(イシヤウ)。〔元亀本10十〕
衣裳(―シヤウ)。〔静嘉堂本2三〕〔天正十七年本上3ウ二〕
とあって、標記語「衣裳」の語を収載し、その読みを「イシヤウ」とする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「追捕土民住宅、剥取旅人衣裝之間、爲誅罸追罸、大將軍依被發向方々」〔至徳三年本〕
「追捕土民住宅、剥取旅人衣裝之間、爲誅伐追討、大將軍依被發向方々」〔宝徳三年本〕
「追捕土民住宅、剥取旅人之衣裝之間、爲誅罸追討、大將軍依被發向方々」〔建部傳内本〕
「追‖-捕(ツイフ)シ土-民ノ住-宅ヲ|、剥(ハキ)‖-取旅-人ノ衣-裝ヲ|之際、爲‖誅-罸(チウ―)追-討(ツイトウ)ノ|、大-將-軍依テ∨被ルヽニ∨發‖-向方-々ニ|」〔山田俊雄藏本〕
「追(ツイ)‖捕土民ノ住宅ヲ|、剥(ハギ)‖取ル旅人之衣裳(イシヤウ)ヲ|之間、爲‖誅伐(チウハツ)追討|、大將軍依テ∨被∨發‖-向(ハツカウ)せ|方々ニ」〔経覺筆本〕
「追‖-捕(ツイフ)シ土民住宅(チウタク)ヲ|、剥(ハキ)‖-取ル旅-人ノ衣裳ヲ|間、爲‖誅伐(チウハツ)追討(ツイタウ)ノ|、大-將-軍依テ∨被ルヽニ∨發‖向せ方々ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
衣裳 ――部/イシヤウ。〔黒川本・疉字上11オ五〕
衣冠〃裳。〃帶。〃架。〃食。〃單。〔卷第一疉字65六〕
とあって、標記語「衣裳」の語を収載する。
室町時代の『下學集』は、標記語「衣裳」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
衣裳(イシヤウ・キル/コロモ,モスソ)[平・平]。〔絹布門9八〕
とあって、標記語「衣裳」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
衣裳(―シヤウ)。〔弘・財宝6七〕
衣裳(イシヤウ)。〔永・言語4三〕〔尭・言語4九〕〔両・言語5七〕
とあって、弘治二年本だけが標記語「衣裳」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
衣裳衣類(イシヤウイルイ)衣服(イフク)。衣冠(―クワン)。〔衣食3五〕
とあって、標記語「衣裳衣類」の語を収載する。
ここで古辞書における「衣裳」についてまとめておくと、『下學集』が未収載とし、次に『色葉字類抄』、広本『節用集』、印度本系統の尭空本『節用集』、及び『運歩色葉集』易林本『節用集』は、いずれもこの語を収載する。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令∨横‖行于所々ニ|、奪‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕土民ノ住宅|、剥‖-取ル旅人之衣裳ヲ|間、爲‖誅伐追討|、大將軍依∨被∨發‖-向|、方々當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭| 三里云∨城、七里ヲ云∨郭也。自‖帝尺|始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「衣裳」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕(ツイホ)シ土民之ノ住宅(ヂウタク)ヲ|、剥‖-取(ハキト)ル旅人(リヨジン)ノ之衣裳(イシヤウ)ヲ|之間、爲ニ‖。〔下8ウ七〕
とあって、この標記語の「衣裳」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
旅人(りよじん)の衣裳(いしやう)を剥取(はぎとる)の間(あいた)/剥‖-取旅人ノ之衣裳ヲ|之間徃来の人々の衣服なと奪(うは)ひ取をいふ。今是を追剥(おひはぎ)といふ。〔38ウ五〕
とあって、標記語「衣裳」で、その語注記では「衣服」とする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
土民(どミん)の住宅(ちうたく)を追捕(ついほ)し旅人(りよじん)之(の)衣裳(いしやう)を剥取(はぎと)る之(の)間(あいだ)/追‖-捕シ土民之ノ住宅ヲ|。剥ギ‖-取ル旅人之衣裳ヲ|之間。〔三十ウ四〕
追‖-捕(つゐほ)し土民(どミん)之(の)住宅(ぢゆうたく)を|。剥(はぎ)‖-取(と)る旅人(りよじん)之(の)衣裳(いしやう)を|之(の)間(あひた)。〔五十四オ五〕
とあって、標記語「衣裳」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Ixo<.イシヤウ(衣裳) 着物.〔邦訳349l〕
とあって、標記語「衣裳」の語の意味を単に「着物」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
い-しャう(名)【衣裳】衣(きぬ)と、裳(も)と。ころも。衣服。今は、一般に、着物と云ふ。(仙臺にては、今も、すべて衣裳と云ふ) 易經、繋辭、下傳「黄帝、堯、舜、垂‖衣裳|而天下治」倭名抄、十二18衣服類「野王案、在∨上曰∨衣、在∨下曰∨裳、總調|之服|也」簾中舊記(明徳)女房いしやうの事「正月召物の事、朔日、朝、小袖染物、云云」運歩色葉集(天文)「衣裳(イシヤウ)衣類(イルイ)」〔0154−4〕
い-しャう(名)【衣裳】〔一般の衣服の稱なる衣裳、今は、普通語に用ゐられずして、専ら、演戯の装束に云ふやうになりしは、衣(ころも)の、僧衣の專衣の專稱となりしが如し〕(一)能樂の役者の出立(いでたち)の衣服の稱。普通には、装束(シヤウゾク)と云ふ。扮装。これを着する人を、衣裳着(きせ)、又、衣裳附(つけ)と云ふ。 後漢書雍州府志、八、古蹟門、芝居「能大夫於‖樂屋|刷‖装束|、云云、若有‖不正之事|、則使下著‖其衣裳|者改中正之上、其人稱‖衣裳著|」能之衣裳付、序「夫能之衣裳の著せ樣、云云、まだ初心の衣しゃうきせ、又は、人人の便にならむかしと、令‖板行|者也」(古事類苑)(二)歌舞伎芝居、又、踊にても、能(ノウ)に摸して、装束を、衣裳と云ふ。江戸時代に、昔は、俳優は、衣裳を自調せり、但し、下級の者には、興行主より貸し與へたり、衣裳藏に納めてあるに因りて、これを藏衣裳と云ひ、これを取扱ふ者を衣裳方と云ひき、後には、一切、興行主の負擔となれり。〔0154−4〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「い-しょう【衣装・衣裳】[名]@上半身に着る衣(きぬ)と、下半身につける裳(も)。転じて、広くきもの、衣服をいう。A演劇、舞踏などの、舞台で扮装に用いる衣服。能では多く装束という」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
二品、渡御若君御方奥州、被參、有御酒宴被召歌女等、各施藝太有其興奥州、解衣裳、被纒頭駿河前司、伊賀二郎左衛門尉以下、皆如此〈云云〉《読み下し》二品、若君ノ御方ニ渡御シタマフ。奥州、参ラレ、御酒宴有リ。歌女等ヲ召サレ、各芸ヲ施シ太ダ其ノ興有リ。奥州、衣裳(イシヤウ)ヲ解キ、纒頭セラル。駿河ノ前司、伊賀ノ二郎左衛門ノ尉以下、皆此ノ如シ〈云云〉《『吾妻鏡』貞応二年五月五日の条》
2002年7月1日(月)晴れ。サロマ湖(中湧別)⇒新札幌⇒苫小牧
「旅人(リヨジン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「利」部に、
旅人(―ジン)。〔元亀本72二〕
旅人(―ヂン)。〔静嘉堂本86六〕〔天正十七年本中17ウ八〕
とあって、標記語「旅人」の語を収載し、その読みを「(ツイ)ホ」とする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「追捕土民住宅、剥取旅人衣裝之間、爲誅罸追罸、大將軍依被發向方々」〔至徳三年本〕
「追捕土民住宅、剥取旅人衣裝之間、爲誅伐追討、大將軍依被發向方々」〔宝徳三年本〕
「追捕土民住宅、剥取旅人之衣裝之間、爲誅罸追討、大將軍依被發向方々」〔建部傳内本〕
「追‖-捕(ツイフ)シ土-民ノ住-宅ヲ|、剥(ハキ)‖-取旅-人ノ衣-裝ヲ|之際、爲‖誅-罸(チウ―)追-討(ツイトウ)ノ|、大-將-軍依テ∨被ルヽニ∨發‖-向方-々ニ|」〔山田俊雄藏本〕
「追(ツイ)‖捕土民ノ住宅ヲ|、剥(ハギ)‖取ル旅人之衣裳(イシヤウ)ヲ|之間、爲‖誅伐(チウハツ)追討|、大將軍依テ∨被∨發‖-向(ハツカウ)せ|方々ニ」〔経覺筆本〕
「追‖-捕(ツイフ)シ土民住宅(チウタク)ヲ|、剥(ハキ)‖-取ル旅-人ノ衣裳ヲ|間、爲‖誅伐(チウハツ)追討(ツイタウ)ノ|、大-將-軍依テ∨被ルヽニ∨發‖向せ方々ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、 鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「旅人」の語を未収載にする。
室町時代の『下學集』は、標記語「旅人」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
旅人(リヨシン/タビヒト)[平・平]。〔人倫門189八〕
とあって、標記語「旅人」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』また、易林本『節用集』には、標記語「旅人」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「旅人」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』印度本系統の尭空本『節用集』、易林本『節用集』が未収載としているのに対し、広本『節用集』と『運歩色葉集』は、いずれもこの語を収載していることに注目したい。
さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、
322徒黨令∨横‖行于所々ニ|、奪‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕土民ノ住宅|、剥‖-取ル旅人之衣裳ヲ|間、爲‖誅伐追討|、大將軍依∨被∨發‖-向|、方々當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭| 三里云∨城、七里ヲ云∨郭也。自‖帝尺|始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、標記語を「旅人」についての語注記は未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕(ツイホ)シ土民之ノ住宅(ヂウタク)ヲ|、剥‖-取(ハキト)ル旅人(リヨジン)ノ之衣裳(イシヤウ)ヲ|之間、爲ニ‖。〔下8ウ七〕
とあって、この標記語の「旅人」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
旅人(りよじん)の衣裳(いしやう)を剥取(はぎとる)の間(あいた)/剥‖-取旅人ノ之衣裳ヲ|之間徃来の人々の衣服なと奪(うは)ひ取をいふ。今是を追剥(おひはぎ)といふ。〔38ウ五〕
とあって、標記語「旅人」で、その語注記は「徃来の人々」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
土民(どミん)の住宅(ちうたく)を追捕(ついほ)し旅人(りよじん)之(の)衣裳(いしやう)を剥取(はぎと)る之(の)間(あいだ)/追‖-捕シ土民之ノ住宅ヲ|。剥ギ‖-取ル旅人之衣裳ヲ|之間。〔三十ウ四〕
追‖-捕(つゐほ)し土民(どミん)之(の)住宅(ぢゆうたく)を|。剥(はぎ)‖-取(と)る旅人(りよじん)之(の)衣裳(いしやう)を|之(の)間(あひた)。〔五十四オ五〕
とあって、標記語「旅人」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Tabijin.タビジン(旅人) 他国の人,または,客人.⇒Tabibito;Tabiu<to.〔邦訳595l〕
Tabiu<to.§Tabibito.タビュゥト,または,タビビト(旅人) 他国の人,客人,すなわち,自分の家をあとにして歩き回っている人.〔邦訳595l〕
†Reojin.レョジン(旅人) Tabibito.(旅人)外来の人,または,自分の土地以外の所を歩き回る人.⇒Riojin.〔邦訳530l〕
とあって、標記語「旅人」の語の意味を「外来の人,または,自分の土地以外の所を歩き回る人」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
りよ-じん(名)【旅人】たびびと。旅行する人。客子。遊子。征野。旅客。 易經、下經、旅卦「上九、鳥焚‖其巣|、旅人先笑、後號?」〔2136−2〕
とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においてもやはり、標記語「りよ-じん【旅人】[名]@古代中国の官名。庶人で官にあるもの。A旅行する人。たびびと」を収載し、『庭訓徃来』からの用例引用については未記載にする。
[ことばの実際]
其中間、開關路、爲旅人徃還之道《読み下し》其ノ中間ニ、関路ヲ開キ、旅人(リヨ―)往還ノ道トス。《『吾妻鏡』文治五年九月十七日の条》
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