2002年8月1日から8月31日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 

2002年8月31日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

夜前(ヤゼン)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「屋」部に、「夜叉(ヤシヤ)。夜陰(―イン)。夜深(ヤジン)。夜盗(タウ)。夜遊(ユウ)。夜行(カウ)。夜分(ブン)。夜半(ハン)。夜食(シヨク)。夜番(ハン)。夜學(ガク)」の十一語が収載されているだけであり、標記語「夜前」の語を未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

只今欲進使者候之處遮而預御音信候之条相叶本望者也殊以喜悦々々抑戦場御進發事夜前始所奉也論旨」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_今欲使-ント上∨申候之處_而預-候之條相_本懐者也_-之抑戦-塲御進發--」〔山田俊雄藏本〕

只今欲使者候之處遮而預音信候之条相本懐者也喜悦々々戦場御進發之事夜前(ハジメ)テ(ウケタマワ)ル綸旨(リンシ)」〔経覺筆本〕

只今(たたいま)(ホツ)シ使者(シ―)ヲ候之處遮而預-候之条相_叶本望者也_-抑戰-(せン―)---(ヤせン)始所奉也-(リンシ)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「夜前」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「夜前」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

夜前(ヤぜン/ヨル,マエ)[去・平]。〔態藝門559二〕

とあって、標記語「夜前」の語をもって収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

夜前(―ゼン)。〔・言語進退168一〕

夜陰(ヤイン)―半(ハン)。―行(ギヤウ)―前(ぜン)。〔・言語136七〕

夜陰(ヤイン)―半。―行。―前(ぜン)。―分。〔・言語125七〕

とあって、標記語「夜前」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

夜陰(ヤイン)―前(ぜン)ノ氣(キ)。―中(チウ)。―半(ハン)。―宿(シク)。〔言辞136一〕

とあって、標記語「夜前」の語を収載する。

 ここで古辞書における「夜前」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、『運歩色葉集』には未収載にして、広本節用集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

335只今欲使者候處遮而預音信候条相_叶本懐者也殊以喜悦々々抑戦場御進發之亊夜前始所奉也論旨 今主之言也。禁中帝王之御亊、一天トシテ諱、僧俗共詣侍ルヲ參内ト云。君出御、遠近共行幸申也。大和哥(スヘラキ)惣名也。__位山百敷大宮九重雲居、何禁中亊也。玉体竜顔叡慮叡覧等皆同、君詔書勅定勅言鳳詔綸旨綸言勅命宣下聖断申也。和_(ミコトノリ)二字何書也。物申上ヲハ奏聞、又尋下ニハ勅問、御返事勅答、手跡勅筆宸筆申也。〔謙堂文庫藏三五左D〕

とあって、標記語を「夜前」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

只今(タヽイマ)スルメント使者之處(サヒキツ)テ而預(アツカ)リ御音信候之条相_(カナ)フ本望(―マウ)ニ者也(コト)ニ_喜悦(キエツ)云云抑(ソモ/\)戰塲(せンデヤウ)御進發(ゴシンハツ)ノ夜前(ヤぜン)(ハシメ)テ(ウケタマハ)ル也綸旨(リンシ)トハ。帝王(テイワウ)ノ御位(ヲンクラヒ)ノ時被下シ御詞(コトハ)也。〔下・十ウ四〕

とあって、この標記語「夜前」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(そも/\)戰塲(せんちやう)御進發(ごしんばつ)(の)(こと)夜前(やぜん)候始(はじめ)(うけたまハ)(ところ)(なり)喜悦云云抑戰塲御進發之事夜前今度悪人等退治(たいぢ)の為戦場におもむくよし昨夜はしめて聞しとなり。〔43オ二

とあって、標記語「夜前」の語注記は「昨夜」という語に置き換えて記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(こと)(もつて)喜悦(きゑつ)(そも/\)戰塲(せんちやう)御進發(ごしんばつ)(の)(こと)夜前(やぜん)候始(はじめ)(うけたまハ)(ところ)(なり)喜悦云云抑戰塲御進發之事夜前。〔三十三オ三〜五〕

(こと)に_(もつ)て喜悦(きえつ)(そも/\)戰塲(せんぢやう)御進發(ごしんはつ)(の)(こと)夜前(やぜん)(はじめ)て(ところ)(うけたまは)る(なり)。〔58ウ四〜六〕

とあって、標記語「夜前」の語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yajen.ヤゼン(夜前) Saqino yo.(前の夜). 前の晩.⇒Xenya.〔邦訳807r〕

とあって、標記語の例として「夜前」の語を収載し、意味は「前の晩」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-ぜん(名)【夜前】よべ。ゆふべ。昨日の宵。前日の夜。前夜。前宵 保元物語、二、義朝弟共誅 せらるる事「夜前も來って、見參すべき由申し侍りしを云云」 狂言記、鞍馬參「夜前、多聞天より御福を被 下てござる」〔2038-5〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「や-ぜん【夜前】[名]前日の夜。昨夜。よべ。[語誌]和語の「よべ・よんべ・こよひ」にあたり、漢語の「昨夜(宵・晩・夕・暮)」の意味を表わす和製漢語。公家日記などの記録体の文章に見られていたものが、中世には使用層の広がりを見せ説話や謡曲などに及ぶ。近世に入ると、芭蕉の手紙文に見られる一方、浮世草子、浄瑠璃、洒落本、咄本、滑稽本などにも見られ、口頭語としても広く一般に使われていたらしい。近代に入り、同じ意味の語として「ゆうべ」「昨夜」が使われるようになると、「夜前」は方言の性格をもつようになった」とあって、『庭訓徃来』の用例を未記載にする。

[ことばの実際]

其實檢、去八月、下向、夜前歸著、今日參御所、是被賞右筆并蹴鞠兩藝読み下し其ノ実検トシテ、去ヌル八月ニ、下向シ、夜前帰著シ、今日御所ニ参ル、是レ右筆并ニ蹴鞠ノ両芸ニ賞ゼラル。《『吾妻鏡正治二年十二月三日の条》

 

 

2002年8月30日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

進發(シンパツ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、

進發(―バツ)。〔元亀本306一〕

進發(――)。〔静嘉堂本356四〕

とあって、標記語「進發」の語を未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

只今欲進使者候之處遮而預御音信候之条相叶本望者也殊以喜悦々々抑戦場御進發事夜前始所奉也論旨」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_今欲シ下テ‖使-ヲ|ント上∨申候之處ニ‖_而預-ニ|候之條相ヒ‖_本懐ニ|者也_-之抑戦-塲御進發事夜-前始-」〔山田俊雄藏本〕

只今欲シ∨ト‖使者ヲ|候之處遮而預音信ニ|候之条相本懐ニ|者也喜悦々々戦場御進發之事夜前始(ハジメ)テ(ウケタマワ)ル綸旨(リンシ)」〔経覺筆本〕

只今(たたいま)(ホツ)シト‖使者(シ―)ヲ|候之處遮而預-ニ|候之条相_叶本望者也_-抑戰-(せン―)--事夜-(ヤせン)始所奉也-(リンシ)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

進發シンハツ。〔黒川本・疉字門下80ウ六〕

進止 〃退〃發〃上〃奉〃送〃善。〔卷第九・疉字門192二〕

とあって、標記語「進發」の語を収載する。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「進發」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

進發(シンハツ/スゝム,ヒラク・ヲコル)[去・入]。〔態藝門934六〕

とあって、標記語「進發」の語をもって収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

進發(シンハツ)。〔・言語進退246四〕

進覽(シンラン)―發。―上。―入。―献。―退。〔・言語209九〕〔・言語194一〕

とあって、標記語「進發」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

進退(シンダイ)―物(モツ)。―納(ナフ)―發(ハ)。―善(ぜン)。―止(シ)。―覧(ラン)。――惟(コヽ)ニ(キハマル)。〔言辞216四〕

とあって、標記語「進發」の語を収載する。

 ここで古辞書における「進發」についてまとめておくと、『下學集』には未収載にして、『色葉字類抄』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

335只今欲使者候處遮而預音信候条相_叶本懐者也殊以喜悦々々抑戦場御進發之亊夜前始所奉也論旨 今主之言也。禁中帝王之御亊、一天トシテ諱、僧俗共詣侍ルヲ參内ト云。君出御、遠近共行幸申也。大和哥(スヘラキ)惣名也。__位山百敷大宮九重雲居、何禁中亊也。玉体竜顔叡慮叡覧等皆同、君詔書勅定勅言鳳詔綸旨綸言勅命宣下聖断申也。和_(ミコトノリ)二字何書也。物申上ヲハ奏聞、又尋下ニハ勅問、御返事勅答、手跡勅筆宸筆申也。〔謙堂文庫藏三五左D〕

とあって、標記語を「進發」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

只今(タヽイマ)スル∨メント∨せ‖使者ヲ|之處(サヒキツ)テ而預(アツカ)リ‖御音信ニ|候之条相ヒ‖_(カナ)フ本望(―マウ)ニ者也(コト)ニ_喜悦(キエツ)云云抑(ソモ/\)戰塲(せンデヤウ)御進發(ゴシンハツ)事夜前(ヤぜン)(ハシメ)テロ∨(ウケタマハ)ル也綸旨(リンシ)トハ。帝王(テイワウ)ノ御位(ヲンクラヒ)ノ時被下シ御詞(コトハ)也。〔下・十ウ四〕

とあって、この標記語「進發」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

本望(ほんもう)相叶(あいかな)(もの)(なり)(こと)(もつ)喜悦(きゑつ)候/只今(タヽイマ)スル∨メント∨せ‖使者ヲ|之處(サヒキツ)テ而預(アツカ)リ‖御音信ニ|候之条相ヒ‖_(カナ)フ本望(―マウ)ニ者也(コト)ニ_喜悦(キエツ)云云抑(ソモ/\)戰塲(せンデヤウ)御進發(ゴシンハツ)事夜前(ヤぜン)(ハシメ)テロ∨(ウケタマハ)ル也綸旨(リンシ)トハ。〔42ウ二・三

とあって、標記語「進發」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(こと)(もつて)喜悦(きゑつ)(そも/\)戰塲(せんちやう)御進發(ごしんばつ)(の)(こと)夜前(やぜん)候始(はじめ)(うけたまハ)(ところ)(なり)喜悦云云抑戰塲御進發之事夜前始。〔三十三オ三〜五〕

(こと)に_(もつ)て喜悦(きえつ)(そも/\)戰塲(せんぢやう)進發(ごしんはつ)(の)(こと)夜前(やぜん)(はじめ)て(ところ)(うけたまは)る(なり)。〔58ウ四〜六〕

とあって、標記語「進發」の語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xinpat.シンパッ(進發) Susumi vocosu.(進み発す) すなわち,大将とか總大将とかが敵を討ちに戦場へ出向くこと,または,戦争へ出発すること.〔邦訳772r〕

とあって、標記語の例として「進發」の語を収載し、意味は「大将とか總大将とかが敵を討ちに戦場へ出向くこと,または,戦争へ出発すること」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しん-ばつ(名)【進發】出で立つこと。出發。(多く、出陣に云ふ) 晉書、王國寳傳「不進發」  平記、十六、尊氏自筑紫上洛事「若、御進發延引候て、白旗城、攻落されなば、自餘の城、一日も堪候ま じ」〔0950-4〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「しん-ぱつ【進発】[名](「しんばつ」とも)でかけること。出発。出立。多く、戦場に出かけることにいう。出陣」とあって、『庭訓徃来』の用例を未記載にする。

[ことばの実際]

北條殿、爲使節、進發甲斐國給読み下し北条殿、使節トシテ、甲斐ノ国ニ進発(シムハツ)シ給フ。《『吾妻鏡治承四年九月八日の条》

 

 

2002年8月29日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

喜悦(キエツ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「幾」部に、標記語「喜悦」の語を未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

只今欲進使者候之處遮而預御音信候之条相叶本望者也殊以喜悦々々抑戦場御進發事夜前始所奉也論旨」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_今欲シ下テ‖使-ヲ|ント上∨申候之處ニ‖_而預-ニ|候之條相ヒ‖_本懐ニ|者也_-之抑戦-塲御進發事夜-前始-」〔山田俊雄藏本〕

只今欲シ∨ト‖使者ヲ|候之處遮而預音信ニ|候之条相本懐ニ|者也喜悦々々戦場御進發之事夜前始(ハジメ)テ(ウケタマワ)ル綸旨(リンシ)」〔経覺筆本〕

只今(たたいま)(ホツ)シト‖使者(シ―)ヲ|候之處遮而預-ニ|候之条相_叶本望者也_-抑戰-(せン―)--事夜-(ヤせン)始所奉也-(リンシ)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

喜悦 同(雜部)/キエツ。〔態藝門842三〕

喜悦 〃怒。〃チ。〃樂。〔巻第八・疉字門533六〕

とあって、標記語「喜悦」の語を収載する。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、

嘔喩(クユ)喜悦(キエツ)ノ之皃。〔態藝門160四〕

とあって、標記語「嘔喩」の語注記として「喜悦(キエツ)の皃」と収載する。次に、広本節用集』には、

喜悦(キヱツ/ヨロコブ,ヨロコブ)[上・入]。〔態藝門842三〕

とあって、標記語「喜悦」の語をもって収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

喜悦(キエツ)。〔・言語進退221八〕〔・言語185六〕〔・言語174九〕

とあって、標記語「喜悦」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

喜春樂(キシユンラク)―ス(エツ)。〔言辞189六〕

とあって、標記語「喜悦」の語を収載する。

 ここで古辞書における「喜悦」についてまとめておくと、『下學集』、『運歩色葉集』には未収載にして、『色葉字類抄』、広本節用集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

335只今欲使者候處遮而預音信候条相_叶本懐者也殊以喜悦々々抑戦場御進發之亊夜前始所奉也論旨 今主之言也。禁中帝王之御亊、一天トシテ諱、僧俗共詣侍ルヲ參内ト云。君出御、遠近共行幸申也。大和哥(スヘラキ)惣名也。__位山百敷大宮九重雲居、何禁中亊也。玉体竜顔叡慮叡覧等皆同、君詔書勅定勅言鳳詔綸旨綸言勅命宣下聖断申也。和_(ミコトノリ)二字何書也。物申上ヲハ奏聞、又尋下ニハ勅問、御返事勅答、手跡勅筆宸筆申也。〔謙堂文庫藏三五左D〕

とあって、標記語を「喜悦」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

只今(タヽイマ)スル∨メント∨せ‖使者ヲ|之處(サヒキツ)テ而預(アツカ)リ‖御音信ニ|候之条相ヒ‖_(カナ)フ本望(―マウ)ニ者也(コト)ニ_喜悦(キエツ)云云抑(ソモ/\)戰塲(せンデヤウ)御進發(ゴシンハツ)ノ事夜前(ヤぜン)(ハシメ)テロ∨(ウケタマハ)ル也綸旨(リンシ)トハ。帝王(テイワウ)ノ御位(ヲンクラヒ)ノ時被下シ御詞(コトハ)也。〔下・十ウ四〕

とあって、この標記語「喜悦」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

本望(ほんもう)相叶(あいかな)(もの)(なり)(こと)(もつ)喜悦(きゑつ)候/_叶本望者也ニ_喜悦。殊とハわけて格別(かくへつ)にといふこと也。喜もスもよろこぶと訓す。是まてハ使に頼りたるの挨拶(あいさつ)なり。言こゝろハ只今こゝ元より使を送らんと思ひし所に返て其元より使を玉ハりし事本望に叶ひてよろこひ入るとなり。〔42ウ二・三

とあって、標記語「喜悦」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(こと)(もつて)喜悦(きゑつ)(そも/\)戰塲(せんちやう)御進發(ごしんばつ)(の)(こと)夜前(やぜん)候始(はじめ)(うけたまハ)(ところ)(なり)喜悦云云抑戰塲御進發之事夜前始。〔三十三オ三〜五〕

(こと)に_(もつ)て喜悦(きえつ)(そも/\)戰塲(せんぢやう)御進發(ごしんはつ)(の)(こと)夜前(やぜん)(はじめ)て(ところ)(うけたまは)る(なり)。〔58ウ四〜六〕

とあって、標記語「喜悦」の語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qiyet.キエツ(喜悦) Yorocobi.(喜び)喜び.§Qiyetno mayuuo firaqu.(喜悦の眉を開く)非常に喜ぶ.〔邦訳514l〕

とあって、標記語の例として「喜悦」の語を収載し、意味は「喜び」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-えつ(名)【喜悦】よろこぶこと。よろこび。ス喜。 漢書、張禹傳「皆喜悦」吾妻鏡、一、治承四年十 月十八日「早可彼山狼藉等、令ス御祈祷次第事」 太平記、二十七、師直圍尊氏居 所事「師直、喜スの眉を開き」〔0454-5〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「き-えつ【喜悦】[名]喜ぶこと。喜び」とあって、『庭訓徃来』の用例を未記載にする。

[ことばの実際]

至門外之程、更召返之、世上無爲之時、於蛭嶋者、爲今月布施之由、仰覺淵頻有喜悦之氣、退去〈云云〉読み下し門外ニ至ルノ程ニ、更ニ之ヲ召シ返シ、世上無為ノ時、蛭島ニ於テハ、今日ノ布施タルノ(*タルベキノ)ノ由、覚淵ニ仰セラル。頻ニ喜悦ノ気有テ、退去スト〈云云〉。《『吾妻鏡治承四年七月五日の条》

 

 

2002年8月28日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

本望(ホンマウ)」と「本懷(ホンクワイ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「保」部に、

本懐(―グワイ)。〔元亀本43四〕

夲懐(―クワイ)。〔静嘉堂本47八〕

本懐(―クワイ)。〔天正十七年本上24ウ八〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「本懐」の語を収載し、語注記は未記載にする。標記語「本望」の語は未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

只今欲進使者候之處遮而預御音信候之条相叶本望者也殊以喜悦々々抑戦場御進發事夜前始所奉也綸旨」〔至徳三年本〕

只今欲{}使者候之處遮而預{}音信候之條相叶本望者也殊以喜悦々々抑戰場御進發事夜前始所奉也綸旨」〔宝徳三年本〕

只今欲進使者候之處遮而預御音信候之条相叶本懐者哉殊以喜悦々抑戦場御進發之事夜前始所奉也綸旨」〔建部傳内本〕

_今欲シ下テ‖使-ヲ|ント上∨申候之處ニ‖_而預-ニ|候之條相ヒ‖_本懐ニ|者也_以喜-悦之抑戦-塲御進發事夜-前始-」〔山田俊雄藏本〕

只今欲シ∨ト‖使者ヲ|候之處遮而預音信ニ|候之条相本懐ニ|者也喜悦々々戦場御進發之事夜前始(ハジメ)テ(ウケタマワ)ル綸旨(リンシ)」〔経覺筆本〕

只今(たたいま)(ホツ)シト‖使者(シ―)ヲ|候之處遮而預-ニ|候之条相_本望者也_-悦々抑戰-(せン―)--事夜-(ヤせン)始所奉也-(リンシ)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここのところを、「本懐」と「本望」と二種の表記語で記されていることが理会できるのである。これは古写本の系統性に大いに関る語であり、とりわけ、至コ三年本・宝徳三年本と建部傳内本・山田本・経覚本との相違が明確となっていることである。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「本望」「本懐」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「本望」「本懐」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

本望(ホンマウ・ノゾミ/モト,ノゾムコヱ,ノフ・ヲトツレ)[上・平]。〔態藝門101三〕

本懐(ホンクワイ/モト,イダク・フトコロ・ヲモフ)[上・平]。〔態藝門101三〕

とあって、標記語「本望」「本懐」の語をもって収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

本望(ホンマウ)遂――。〔・言語進退33七〕〔・言語38八〕

本懐(ホンクワイ)。〔・言語進退34四〕〔・言語38七〕

本末(ホンマツ)―意(ホンイ)。―系(/モトツク)。―来(ライ)。―復(フク)―懐(クワイ)。―性(シヤウ)。―跡(せキ)。―所。―領(リヤウ)。―体(タイ)。―様。―望(マウ)。―分(フン)。―訴(ソ)。―券(ケン)。〔・言語進退35一〕

本末(ホンマツ)―意。―系。―来。―復。―懐。―性。―跡。―所。―願。―体。―様。―望。―分。―訴。―地。〔・言語31九〕

とあって、標記語「本望」「本懐」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

本望(ホンマウ)。○。本懷(―クワイ)。〔言語32二〕

とあって、標記語「本望」「本懐」の両語を収載する。

 ここで古辞書における「本望」「本懐」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』には未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。ただし、『運歩色葉集』は、『庭訓往来』古写本の一種である「本望」の語を未収載にし、下記に示す『庭訓往来註』の表記語のみ収載していることが判明する。ここらが、印度本系統の『節用集』とは異なっているのである。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

335只今欲使者候處遮而預音信候条相_本懐者也殊以喜悦々々抑戦場御進發之亊夜前始所奉也論旨 今主之言也。禁中帝王之御亊、一天トシテ諱、僧俗共詣侍ルヲ參内ト云。君出御、遠近共行幸申也。大和哥(スヘラキ)惣名也。__位山百敷大宮九重雲居、何禁中亊也。玉体竜顔叡慮叡覧等皆同、君詔書勅定勅言鳳詔綸旨綸言勅命宣下聖断申也。和_(ミコトノリ)二字何書也。物申上ヲハ奏聞、又尋下ニハ勅問、御返事勅答、手跡勅筆宸筆申也。〔謙堂文庫藏三五左D〕

とあって、標記語を「本懐」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

只今(タヽイマ)スル∨メント∨せ‖使者ヲ|之處(サヒキツ)テ而預(アツカ)リ‖音信ニ|候之条相ヒ‖_(カナ)フ本望(―マウ)者也(コト)ニ_喜悦(キエツ)云云抑(ソモ/\)戰塲(せンデヤウ)御進發(ゴシンハツ)ノ事夜前(ヤぜン)(ハシメ)テロ∨(ウケタマハ)ル也綸旨(リンシ)トハ。帝王(テイワウ)ノ御位(ヲンクラヒ)ノ時被下シ御詞(コトハ)也。〔下・十ウ四〕

とあって、この標記語「本望」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

只今(たゝいま)使者(ししや)(しん)せんと(ほつす)るの(ところ)遮而(さへきつて)音信(いんしん)(あつか)条本望(ほんもう)相叶(あいかな)(もの)(なり)只今(タヽイマ)スル∨メント∨せ‖使者ヲ|之處(サヒキツ)テ而預(アツカ)リ‖御音信ニ|候之条相ヒ‖_(カナ)フ本望(―マウ)者也(コト)ニ_喜悦(キエツ)云云抑(ソモ/\)戰塲(せンデヤウ)御進發(ゴシンハツ)ノ事夜前(ヤぜン)(ハシメ)テロ∨(ウケタマハ)ル也綸旨(リンシ)トハ。〔42ウ二・三

とあって、標記語「本望」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

只今(ただいま)使者(ししや)(しん)ぜしめんと(ほつ)する(の)(ところ)(さひぎつ)御音信(いんしん)(あつか)(さふらふ)(でふ)本望(ほんまう)(あひ)(かな)(もの)(なり)只今欲せ‖使者ヲ|之處而預リ‖御音信ニ|候之条相ヒ‖_本望者也。〔三十三オ三〜五〕

只今(ただいま)(ほつ)する(しめん)と(しん)せ‖使者(ししや)を|(の)(ところ)に(さひぎつ)て而預(あつか)り御音信(ごいんしん)に(さふらふ)(の)(でふ)(あひ)_(かな)ふ本望(ほんまう)(もの)(なり)。〔58ウ四〜六〕

とあって、標記語「本望」の語注記は、未記載にする。ここで、『庭訓往来註』だけが「本懐」であって、後の注釈書はすべて「本望」を採録していることが見えてくる。この辺から真字注の基とした写本系統は、山田俊雄架蔵本・建部傳内本・経覚本ということになり、逆に江戸期に流布した注釈書の多くは至コ三年本、宝徳三年本・文明本の「本望」ということになってくるのである。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fonmo<.ホンマウ(本望) 願望.例,Fonmo<uo toguru,l,tassuru.(本望を遂ぐる,又は,達する)自分の望みを達する.⇒Soquai.〔邦訳260r〕

Fonguai.ホングヮイ(本懐) 満足し,喜ぶこと.文書語.例,Fonguaini zonji soro.(本懐に存じ候)私は非常に嬉しく,満足している.§また,願望,または,意志,Fonguaini cano<.(本懐に叶ふ)望みを遂げる.〔邦訳260l〕

とあって、標記語の例として「本望」「本懐」の両語を収載し、意味は「願望」と「満足し,喜ぶこと.文書語」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ほん-くゎい(名)【本懐】ほんい(本意)に同じ。 陸機、謝平原内史表「叢爾之生、尚不宏、區 本懷、實有悲」易林節用集(慶長)上、言辭門「本懷、ホンクヮイ」平家物語、四、南都牒状事「内には 佛法の破滅を助け、外には悪逆の叛類を退けば、同心の至り、本懐に足んぬべし」〔1854-3〕

ほん-まう(名)【本望】本來の希望。本心の望み。素志。素懷。 宋書、劉粋傳「當法御|∨下、 深思自警、以副本望平家物語、一、鹿谷事「いかにしても平家を亡ぼし、本望を遂げん」〔1859-2〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ほん-かい【本懐】[名](古くは「ほんがい)」かねてからの願い。本意。本望。本願」、標記語「ほん-もう【本望】[名]@本来の望み。かねがね抱いている志。本懐。A望みを達して喜びを感じること。満足であること」とあって、いずれも『庭訓徃来』の用例を未記載にする。

[ことばの実際]

但兵革連續之時遠向尤背御本懐急可歸洛之由、可令相觸給之趣所候也〈云云〉《読み下し》但シ兵革連続ノ時遠向ス。尤モ御本懐(グワイ)ニ背キヌ。急ギ帰洛スベキノ由、相ヒ触レシメ給フベキノ趣候フ所ナリト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年十月十九日の条》※「本望」の語は未収載。

すでに楠と武蔵守と、あはひわづかに半町ばかりを隔てたれば、すはや楠が多年の本望、ここに遂げぬと見たるところに、上山六郎左衛門、師直の前に馳せ塞がり、大音声を上げて申しけるは、「八幡殿よりこの方、源家累代の執権として、武功天下に顕れたる高武蔵守師直、これにあり」と名乗つて、打ち死にしけるその間に、師直遥かに隔たつて、楠、本意を遂げざりけり。《『太平記』卷第二十六・四条縄手合戦の事付上山打ち死にの事

 

 

2002年8月27日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「音信(インシン)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、

音信(インシン/トヅレ)。〔元亀本11一〕

音信(インシン)。〔静嘉堂本2四〕〔天正十七年本上3ウ三〕

音信(インジン)。〔西来寺本15二〕

とあって、標記語「音信」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

只今欲進使者候之處遮而預御音信候之条相叶本望者也殊以喜悦々々抑戦場御進發事夜前始所奉也論旨」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_今欲使-ント上∨申候之處_而預-候之條相‖_本懐者也_以喜-悦之抑戦-塲御進發事夜-前始-」〔山田俊雄藏本〕

只今欲使者候之處遮而預音信候之条相本懐者也喜悦々々戦場御進發之事夜前始(ハジメ)テ(ウケタマワ)ル綸旨(リンシ)」〔経覺筆本〕

只今(たたいま)(ホツ)シ使者(シ―)ヲ候之處遮而預-候之条相‖_叶本望者也_-悦々抑戰-(せン―)--事夜-(ヤせン)始所奉也-(リンシ)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「音信」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「音信」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

音信(インシン/コヱ,ノフ・ヲトツレ)[平・去]。〔態藝門13六〕

とあって、標記語「音信」の語をもって収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

音信(インシン)。〔・言語進退12六〕〔・言語進退7九〕

音信(インシン)―烈。〔・言語6四〕〔・言語7八〕

とあって、標記語「音信」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

音問(井ンモン)―信(シン)。〔言語122三〕

とあって、標記語「音信」の語を爲部に収載する。

 ここで古辞書における「音信」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』には未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

335只今欲使者候處遮而預音信候条相‖_叶本懐者也殊以喜悦々々抑戦場御進發之亊夜前始所奉也論旨 今主之言也。禁中帝王之御亊、一天トシテ諱、僧俗共詣侍ルヲ參内ト云。君出御、遠近共行幸申也。大和哥(スヘラキ)ト惣名也。__位山百敷大宮九重雲居、何禁中亊也。玉体竜顔叡慮叡覧等皆同、君詔書勅定勅言鳳詔綸旨綸言勅命宣下聖断申也。和_(ミコトノリ)ト二字何書也。物申上ヲハ奏聞、又尋下ニハ勅問、御返事勅答、手跡勅筆宸筆申也。〔謙堂文庫藏三五左D〕

とあって、標記語を「音信」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

只今(タヽイマ)スルメント使者之處(サヒキツ)テ而預(アツカ)リ音信候之条相‖_(カナ)フ本望(―マウ)ニ者也(コト)ニ_喜悦(キエツ)云云抑(ソモ/\)戰塲(せンデヤウ)御進發(ゴシンハツ)ノ事夜前(ヤぜン)(ハシメ)テ(ウケタマハ)ル也綸旨(リンシ)トハ。帝王(テイワウ)ノ御位(ヲンクラヒ)ノ時被下シ御詞(コトハ)也。〔下・十ウ四〕

とあって、この標記語「音信」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

只今(たゝいま)使者(ししや)(しん)せんと(ほつす)るの(ところ)遮而(さへきつて)音信(いんしん)(あつか)条本望(ほんもう)相叶(あいかな)(もの)(なり)只今(タヽイマ)スルメント使者之處(サヒキツ)テ而預(アツカ)リ音信候之条。遮るとハ此事すへき故是より先にと云義なり。進〃いはゝ返るといふに同し。音ハおとありてひゞくこゝろなり。信ハ伝る事也。使を以て様子を申送る事を音信といふ。おとつれと讀なり。〔42ウ四・五

とあって、標記語「音信」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

祗今(ただいま)使者(ししや)(しん)ぜんと(ほつ)(さふら)(ところ)遮而(さへぎつて)音信(いんしん)(あづか)(さふら)(てふ)本懷(ほんくわい)(あひ)(かな)(さふら)祗今欲せント使者之處遮而預音信條条相‖_本懷。〔三十三オ七〕

祗今(たゞいま)(ほつ)し(しん)ぜんと使者(ししや)(さふらふ)(ところ)(さへぎつ)て而預(あづか)り音信(いんしん)に(さふらふ)(でう)(あひ)‖_(かな)ひ本懷(ほんくわい)に(さふらふ)。〔59オ四〕

とあって、標記語「音信」の語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Inxin.インシン(音信) Votozzure,uru.(音づれ,るる)訪問,または,贈物.§Inxinuo suru.(音信をする)訪問する,または,贈物をおくる.§Inxinuo tcu<zuuru.(音信を通ずる)文書語.便りを交わしたりなど,友情をこめたやり方で人と交際する.→Mizzudaru;Xexxet.〔邦訳337l〕

とあって、標記語の例として「音信」の語を収載し、意味は「訪問,または,贈物」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いん-しん(名)【音信】おとづれ。たより。おんしん。 李白、大?曲「不見眼中人、天長音信斷」「音 信、不通」〔0212-3〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「いん-しん【音信】[名](「いん」は「音」の漢音)@(―する)便りすること。便り。また、手紙や訪問によってよしみを通じること。おとずれ。おんしん。A(―する)音信物(いんしんもの)。また、それを贈ること」とあって、『庭訓徃来』の用例を未記載にする。

[ことばの実際]

隨而全成、去二月比、下向駿州之後、不通音信、更無所疑之由、被申御返事、不被出進之〈云云〉《読み下し》随ツテ而全成、去ヌル二月ノ比ホヒニ、駿州ニ下向スルノ後、音信ヲ通ゼズ、更ニ疑ハシキ所無キノ由、御返事ヲ申サレ、之ヲ出シ進ゼラレズト〈云云〉。《『吾妻鏡』建仁三年五月二十日の条》

 

 

2002年8月26日(月)晴れ。東京(八王子)

「兵部(ヒョウブ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「飛」部に、

兵部(―ブ)唐名〔元亀本341十〕

兵部(ヲノ)唐名兵部〔静嘉堂本410一〕

とあって、標記語「兵部」の語を収載し、語注記には「唐名(兵部)」と記載する。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

六月七日  小野謹上 後藤兵部丞殿」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

六月七日  勘解由次官小野 謹上 後藤兵部丞殿」〔山田俊雄藏本〕

六月七日  勘解由次官小野 謹上 後藤兵部丞殿」〔経覺筆本〕

六月七日  勘解由次官小野 謹上 後藤兵部丞殿」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「兵部」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「兵部」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

兵部省(ヒヤウブせイヘイホウ―)唐名兵部(ヘイホウ)卿。一人相當正四位下。唐名兵部(ヘイホウ)卿尚書大輔一人。権相當正五位下。唐名兵部侍郎少輔一人。権相當正五位下。唐名同員外郎。丞大少。唐名兵部郎中。録大少。唐名兵部主亊。〔官位門1032六〕

とあって、標記語を「兵部省」の語をもって収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

兵部(ヒヤウブ)――大輔。――少輔。――卿。已上三唐名兵部(ヘイホウ)。〔・官名252六〕

兵部(ヒヤウブ)――大夫。――大輔。――少輔。――卿。已上三唐名兵部(ヘイホウ)。〔・官名216二〕

兵部(ヒヤウブ)――大夫。――大輔。――少輔。――卿。已上唐名兵部。〔・官名201八〕

とあって、標記語「兵部」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

兵部卿(ヒヤウブキヤウ)。兵部(ヘイホウ)。尚書/大輔(タイブ)。少輔(シヨフ)。丞(ぜウ)。〔官位222一〕

とあって、標記語「兵部卿」の語をもって収載する。

 ここで古辞書における「兵部」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』には未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

334謹上後藤兵部尉殿  勘解由次官小野〔謙堂文庫藏三五左C〕

とあって、標記語を「兵部」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

六月七日  勘解由(カゲユ)次官(シクハン)小町(コマチ) 謹上 後藤(ゴトウ)兵部丞殿(ヒヤウブノゼフドノ)〔下・十オ八〜ウ一〕

とあって、この標記語「兵部」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

六月七日勘解由(かけゆの)次官(じくわん)小町(こまち)謹上後藤(ごとう)兵部(ひやうふ)丞殿(ぜうとの)六月七日  勘解由次官小町 謹上 後藤兵部丞殿。〔42ウ二・三〕

とあって、標記語「兵部」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

六月七日(ろくくわつなぬか)勘解由(かけゆ)次官(じくハん)小町(こまち)謹上(きんじやう)後藤(ごとう)兵部(びやうふ)丞殿(じやうどの)六月七日  勘解由次官小町 謹上 後藤兵部丞殿。▲兵部丞ハ大小(だいせう)あり。唐名ハ兵部(へいほう)郎中(ろうちう)といふ。六位の諸大夫(しよたいぶ)是に任(にん)ず。〔三十三オ三〜五〕

六月七日(ろくぐわつなぬか)  勘解由(かげゆ)の次官(じくわん)小町(こまち) 謹上(きんじやう) 後藤(ごとう)兵部(ひやうふ)丞殿(しようどの)。▲兵部丞ハ大小(だいせう)あり。唐名(からな)ハ兵部(ひやうぶ)郎中(らうちう)といふ。六位の諸大夫(しよだいぶ)是に任(にん)ず。〔58ウ四〜六〕

とあって、標記語「兵部」を収載し、語注記を記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語の例として「兵部」を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ひゃうぶ-しゃう(名)【兵部省】(一)つはもののつかさ。王朝時代、八省の第五.諸國の兵士、軍旅、 兵馬、城隍、兵器、等の事を掌る所。卿、輔、丞、録等の職あり。 職員令「兵部省(管司五)兵馬 司、造兵司、鼓吹司、主船司、主鷹司」職原抄、上「兵部省(唐名、兵部)、云云、軍旅、兵馬、及、諸武官之籍、 皆是當官之所掌也、本朝又同之」(二)明治時代、六省の一.海陸軍、郷兵の招募、守衛、軍備、 兵學校等の事を掌る所。卿、輔(大、少)、丞(正、權の大、少あり)、録(大、少)、史生、省掌、使部な どの職あり。明治五年二月廿七日廢して、陸軍、海軍の二省を設置せられたり。〔1701-2〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ひょう-ぶ【兵部】[名]@「ひょうぶしょう(兵部省)」の略。A⇒へいほう(兵部)」とし、小見出しにして「ひょうぶの丞(じょう)@令制で、兵部省の第三等官(判官)。大・少がある。A明治二年(一八六九)に設けられた兵部省の判官。大・少・権の区別がある」とあって、『庭訓徃来』の用例を未記載にする。

[ことばの実際]

京都御使、兵部大輔範忠朝臣歸洛《読み下し》京都ノ御使、兵部ノ大輔範忠朝臣帰洛ス。《『吾妻鏡』文永二年十一月十三日の条》

 

 

2002年8月25日(日)晴れ。静岡県(清水町長沢)告別式

「後藤(ゴトウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「古」部に、標記語「後藤」の語は未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

六月七日  小野謹上 後藤兵部丞殿」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

六月七日  勘解由次官小野 謹上 後藤兵部丞殿」〔山田俊雄藏本〕

六月七日  勘解由次官小野 謹上 後藤兵部丞殿」〔経覺筆本〕

六月七日  勘解由次官小野 謹上 後藤兵部丞殿」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「後藤」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、易林本節用集』には、標記語「後藤」の語を未収載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

後藤(コ―)。〔・人名143二〕

とあって、堯空本だけに標記語「後藤」の語を収載する。

 ここで古辞書における「後藤」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、易林本節用集』には未収載にして、印度本系統の堯空本『節用集』にだけ収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

334謹上後藤兵部尉殿  勘解由次官小野〔謙堂文庫藏三五左C〕

とあって、標記語を「後藤」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

六月七日  勘解由(カゲユ)次官(シクハン)小町(コマチ) 謹上 後藤(ゴトウ)兵部丞殿(ヒヤウブノゼフドノ)〔下・十オ八〜ウ一〕

とあって、この標記語「後藤」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

六月七日勘解由(かけゆの)次官(じくわん)小町(こまち)謹上後藤(ごとう)兵部(ひやうふ)丞殿(ぜうとの)六月七日  勘解由次官小町 謹上 後藤兵部丞殿。〔42ウ二・三〕

とあって、標記語「後藤」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

六月七日(ろくくわつなぬか)勘解由(かけゆ)次官(じくハん)小町(こまち)謹上(きんじやう)後藤(ごとう)兵部(びやうふ)丞殿(じやうどの)六月七日  勘解由次官小町 謹上 後藤兵部丞殿。▲後藤ハ正二位左大臣(さだいじん)魚名公(うをなこう)六代の後胤(こういん)鎭守府(ちんじゆふ)將軍(しやうぐん)武蔵野守(むさしのかみ)利仁(としひと)より六代の孫(まこ)(しう)五位上河内守則経(のりつね)(これ)(その)(そ)ならん。〔三十三オ三〜五〕

六月七日(ろくぐわつなぬか)  勘解由(かげゆ)の次官(じくわん)小町(こまち) 謹上(きんじやう) 後藤(ごとう)兵部(ひやうふ)の丞殿(しようどの)。▲後藤ハ正二位左大臣(さだいじん)魚名公(うをなこう)六代の後胤(こういん)鎭守府(ちんじゆふ)將軍(しやうぐん)武蔵野守(むさしのかみ)利仁(としひと)より六代の孫(まこ)(しう)五位上河内守則経(のりつね)(これ)(その)(そ)ならん。〔58ウ四〜六〕

とあって、標記語「後藤」を収載し、語注記を記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語の例として「後藤」を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「-とう(名)【後藤】」を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ご-とう【後藤五島】姓氏の一つ。」とあって、『庭訓徃来』の用例を未記載にする。

[ことばの実際]

勅宣、可搆參之旨、今日被下御書小山、千葉、三浦、秩父、伊東、宇佐美、後藤、葛西以下家々、十三流奉之〈云云〉《読み下し》勅宣ニ任セ、構参スベキノ旨、今日御書ヲ下サル。小山、千葉、三浦、秩父、伊東、宇佐美、後藤(ゴトウ)、葛西以下ノ家家、十三流之ヲ奉ルト〈云云〉。《『吾妻鏡』承元四年五月十一日の条》

 

 

2002年8月24日(土)晴れ。静岡県(清水町長沢)通夜

「小野(をの)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「遠」部に、二字熟語として「小路(同(ヲボロ))定。小止(ヲヤマ)雨。小篠(ヲサヽ)大峰ニ竹ノ名モ。小弓(―ヨミ)美濃。小倭(―ヤマト)。小串(―クシ)。小児(ヲサナゴ)/小入(同(ヲビク))/小濱(ヲハマ)若州。/小間(ヲハサマ)」の語が収載されているだけで、標記語「小野」の語は未収載にある。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

六月七日  小野謹上 後藤兵部丞殿」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

六月七日  勘解由次官小野 謹上 後藤兵部丞殿」〔山田俊雄藏本〕

六月七日  勘解由次官小野 謹上 後藤兵部丞殿」〔経覺筆本〕

六月七日  勘解由次官小野 謹上 後藤兵部丞殿」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

小野ヲノ。山城内北山又醍醐邊兩処在之。〔黒川本・國郡上六八オ五〕

小野ヲノ。〔卷第三・國郡102一〕

とあって、標記語「小野」の語を収載する。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「小野」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

小野篠原(ヲノヽシノハラ/せウヤせウゲン)[○・上・上・平]同(江州)。〔天地門209一〕

とあって、標記語を「小野篠原」とし、地名語彙として収載する。

 ここで古辞書における「小野」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』には未収載にして、広本節用集』だけに収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

334謹上後藤兵部尉殿  勘解由次官小野〔謙堂文庫藏三五左C〕

とあって、標記語を「小野」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

六月七日  勘解由(カゲユ)次官(シクハン)小町(コマチ) 謹上 後藤(ゴトウ)兵部丞殿(ヒヤウブノゼフドノ)〔下・十オ八〜ウ一〕

とあって、この標記語「小野」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

六月七日勘解由(かけゆの)次官(じくわん)小町(こまち)謹上後藤(ごとう)兵部(ひやうふ)丞殿(ぜうとの)六月七日  勘解由次小町 謹上 後藤兵部丞殿。〔42ウ二・三

とあって、標記語「小野」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

六月七日(ろくくわつなぬか)勘解由(かけゆ)次官(じくハん)小町(こまち)謹上(きんじやう)後藤(ごとう)兵部(びやうふ)丞殿(じやうどの)六月七日  勘解由次官小町 謹上 後藤兵部丞殿。▲小町ハ爰(こゝ)にハ姓(せい)のやうに聞(きゝ)ゆれども然(しか)らず。猶考(かんが)ふべし。〔三十三オ三〜五〕

六月七日(ろくぐわつなぬか)  勘解由(かげゆ)の次官(じくわん)小町(こまち) 謹上(きんじやう) 後藤(ごとう)兵部(ひやうふ)の丞殿(しようどの)。▲小町ハ爰(こゝ)にハ姓(せい)のやうに聞(きこ)ゆれども然(しか)らず。猶考(かんが)ふべし。〔58ウ四〜六〕

とあって、江戸時代以降の注釈書の全てが標記語を「小野」を「小町」にしていることがこれで確認できる。この注記として「小町は、爰には姓のやうに聞こゆれども然らず、猶考ふべし」という。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語の例として「小野」を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-(名)【小野】〔をハ發語〕又、をぬ。の(野)と云ふに同じ。(歌詞に) 古今集、十一、戀一「淺茅 生の、を野の篠原、忍ぶとも、人知るらめや、云ふ人なしに」〔2206-2〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「お-の【小野】[一][名](「お」は接頭語)野。野原。おぬ。[二](一)京都市山科区南端の地名。中世には小野郷。真言宗善通寺派(もと小野門跡)、醍醐天皇妃藤原胤子の小野陵がある。(二)京都市左京区八瀬、大原一帯の古名。小野朝臣当岑が居住し、惟喬(これたか)親王が閉居した所。(三)滋賀県彦根市の地名。中世の鎌倉街道の宿駅で、上代には鳥籠(とこ)駅があった。小野小町の出生地と伝えられる。(四)兵庫県中南部、加古川中流域の地名。小野氏一万石の旧城下町。特産品に鎌、はさみ、そろばんなどがある。昭和二九年(一九五四)市制」とあって、『庭訓徃来』の用例を未記載にする。

[ことばの実際]

古今事書者、文屋康秀、爲參河掾、欲下向、出立于縣見哉之由、誘引小野小町〈云云〉《読み下し》古今ノ事書ハ、文屋ノ康秀、参河ノ掾トナツテ、下向セント欲シテ、県見ニ出デ立ツヤノ由、小野ノ小町ヲ誘引スト〈云云〉。《『吾妻鏡』建暦二年十月十一日の条》

 

 

2002年8月23日(金)小雨後本降り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)⇒静岡県(清水町)父功、15:46永眠。

「勘解由(カゲユ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、

勘解由(カケユ)唐名勾勘(クウカン)。〔元亀本101一〕

勘解由(カゲユ)唐名勾勘〔静嘉堂本127二〕

勘解由(カケユ)唐名勾勘〔天正十七年本上62オ八〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「勘解由」の語を収載し、語注記には「唐名勾勘」と記載する。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

六月七日  小野謹上 後藤兵部丞殿」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

六月七日  勘解由次官小野 謹上 後藤兵部丞殿」〔山田俊雄藏本〕

六月七日  勘解由次官小野 謹上 後藤兵部丞殿」〔経覺筆本〕

六月七日  勘解由次官小野 謹上 後藤兵部丞殿」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「勘解由」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「勘解由」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

勘解由使(カゲユカンカイユウ・カンガウ,サトル,ヨシ,ツカイ)[去・上・平・上去]。云勾勘(コウカン)ト。強(アナガチ)唐名。取義歟。判官{別當也}相當従四位下。次官{助也}相當従五位下。判官{尉也}相當従六位下。主典相當従七位下。〔官位門263二〕

とあって、標記語「勘解由使」の語をもって収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

勘解由(カゲユ)。〔・官名77八〕〔・官名78三〕

勘解由(カケユ)。〔・官名71四〕〔・官名85五〕

とあって、標記語「勘解由」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

勘解由(カゲユ)。〔人倫71六〕

とあって、標記語「勘解由」の語を収載する。

 ここで古辞書における「勘解由」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』には未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

334謹上後藤兵部尉殿  勘解由次官小野〔謙堂文庫藏三五左C〕

とあって、標記語を「勘解由」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

六月七日  勘解由(カゲユ)ノ次官(シクハン)小町(コマチ) 謹上 後藤(ゴトウ)兵部丞殿(ヒヤウブノゼフドノ)〔下・十オ八〜ウ一〕

とあって、この標記語「勘解由」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

六月七日勘解由(かけゆの)次官(じくわん)小町(こまち)謹上後藤(ごとう)兵部(ひやうふ)丞殿(ぜうとの)六月七日  勘解由次官小町 謹上 後藤兵部丞殿。〔42ウ二・三

とあって、標記語「勘解由」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

六月七日(ろくくわつなぬか)勘解由(かけゆ)次官(じくハん)小町(こまち)謹上(きんじやう)後藤(ごとう)兵部(びやうふ)丞殿(じやうどの)六月七日  勘解由次官小町 謹上 後藤兵部丞殿。▲勘解由次官ハ従(じう)五位下に相當(さうたう)す。唐名(からな)ハ勾勘(こうかん)といふ。長官(ちやうくわん)の下司(したつかさ)なり。〔三十三オ三〜五〕

六月七日(ろくぐわつなぬか)  勘解由(かげゆ)の次官(じくわん)小町(こまち) 謹上(きんじやう) 後藤(ごとう)兵部(ひやうふ)の丞殿(しようどの)。▲勘解由次官ハ従(じう)五位下に相當(さうたう)す。唐名(からな)ハ勾勘(こうかん)といふ。長官(ちやうくわん)の下司(したつかさ)なり。〔58ウ四〜六〕

とあって、標記語「勘解由」の語注記は、「勘解由の次官は、従五位の下に相當す。唐名は、勾勘といふ。長官の下司なりという

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語の例として「勘解由」を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-げゆ-(名)【勘解由使】官名。解由状(ゲユジヤウ)の事實を勘(かんが)ふることを掌る。(解由状 の條、見合すべし) 類聚国史、百七、「天長元年九月乙卯、定勘解由使員、長官一員、次官二員、判 官三員、主典三員、史生八員」〔0366-4〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「か-げゆ【勘解由】[名]@「かげゆし(勘解由使)」の略。A江戸幕府の勘定方の異称」とあって、『庭訓徃来』の用例を未記載にする。

[ことばの実際]

少納言頼房、勘觧由次官清長、候水火役《読み下し》少納言頼房、勘解由(カゲユ)次官(ジクワン)清長、水火ノ役ニ候ス。《『吾妻鏡』建久二年十二月二十四日の条》

 

 

2002年8月22日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「許容(キヨヨウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「幾」部に、

許容(キヨユウ)〔静嘉堂本328四〕※元亀本は、此語を脱す。

とあって、標記語「許容」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

依不顧餘命不残心底候仰御許容恐々謹言」〔至徳三年本〕

依不顧餘命不残心底候併仰御許容恐々謹言」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(カヘリ)ミ-(ヨメイ)ヲ(ス)(ノコサ)ス--(キヨヨウ)ヲ|。恐々謹言」〔山田俊雄藏本〕

ルニ餘命心底併仰許容(ヨウ)ヲ|。恐々謹言」〔経覺筆本〕

ルニ(カヘリ)ミ餘命(ヨメイ)ヲ(ノコ)心底(シカシ)ナカラ(アフ)ク許容(キヨヨウ)ヲ|。恐々謹言」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

許容 言語部/キヨヽウ/然誤卜。〔黒川本・疉字門下51オ三〕

許容(キヨヨウ) 〃諾。〔卷第八・疉字門528六〕

とあって、標記語「許容」の語を収載する。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「許容」の語を未収載にする。次に、広本節用集』に、

許容(キヨヨウ/ユルス,カタチ・ユルス)[○・平]。〔態藝門830四〕

とあって、標記語「許容」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

許容(キヨヤウ)。〔・言語進退221二〕

許諾(キヨダク)―容(ヨウ)。―達(タツ)。〔・言語185四〕

許諾(キヨタク)―容。―達。〔・言語174七〕

とあって、標記語「許容」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

許容(キヨヨウ)。〔言辞190六〕

とあって、標記語「許容」の語を収載する。

 ここで古辞書における「許容」についてまとめておくと、『下學集』に未収載にして、『色葉字類抄』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

332於譜代相傳之分領一所懸命之地者不有相違者歟餘命心底併仰御許容|。恐々謹言〔謙堂文庫藏三五右H〕

とあって、標記語を「許容」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

御許容トハ。ユルスコトナリ。人ノ誡(イマシ)メアルヲ物ユレノ諾容ト云也。コハナルニハ許容ト云儀感(カン)立チカタシ。〔下・十オ八〜ウ一〕

とあって、この標記語「許容」の語注記は、「ゆるすことなり。人の誡めあるを物ゆれの諾容と云ふなり。こはなるには許容と云ふ儀感立ちがたし」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

餘命(よめい)(かへり)(ざる)(よつ)心底(しんてい)(かな)(す)候/ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言 しかしなからとハ合せてといふ義なり。前後の併乃字皆同し。許容ハゆるしいるゝと訓す。言こゝろハ前に述たる。武具借用の事とこゝにのへたる事と合せてミな御(おん)給済(きうすミ)あれとなり。〔42オ五・六

とあって、標記語「許容」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言〔三十二ウ二〕 [文意]何分にも御許容(きょゐれ)給ハれかしと也。

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否(ちうひ)に(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)に(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)に(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)を(ず)(のこ)さ心底(しんてい)を(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。〔57ウ四〕 [文意]何分にも御許容(きょいれ)給ハれかしと也。

とあって、標記語「許容」にして、その語注記は、未記載にし、[文意]のところで、「何分にも御許容(きょゐれ)給はれかしとなり」という

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qioyo>.キョヨゥ(挙用・許容) Ague mochijru.(上げ用ゐる) 尊重すること,または,許し,同意すること.※これ以下の説明は,“許容”に対するもののようで,同音の故に混同したかと疑われる.サントスの御作業の和らげには,Qio-yo>をあげ,yuruxi iruru(許シ容ルル)という訓注を付しているから“許容”であるが,説明はEstimar(尊重する,もてはやす)とあって、“挙用”に対するものらしい.サントスの御作業の本文の用例(U,p.117)は,許す・認容する意と解せられる.すなわち,“挙用”と“許容”とを混じた一例にあげられる.→Qeoyo>.〔邦訳503r〕

とあって、標記語の例として「許容」を収載し、その意味を「尊重すること,または,許し,同意すること」という。後半の意にあたる。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

きょ-よう(名)【許容】ゆるすこと。ゆるし。許諾。宥免。 平家物語、三、法院問答事「私の計略には非 ず、併しながら、君、御許容有るに依りて也」〔0505-2〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「きょ‐よう【許容】[名]@本来は許せないことを大目に見て許すこと。許して容認すること。A援護、助勢すること。強く保護すること」とあって、『庭訓徃来』の用例を未記載にする。

[ことばの実際]

而不見定武衛到著之所者、雖欲催具源氏等、彼以不許容歟《読み下し》而シテ武衛到著ノ所ヲ見定メズンバ、源氏等ヲ催シ具セント欲スルト雖モ、彼以テ許容(キヨヨウ)セザランカ。《『吾妻鏡』治承四年八月二十五日の条》

 

 

2002年8月21日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「心底(シンテイ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、

心底(―テイ)〔元亀本305七〕〔静嘉堂本355八〕

とあって、標記語「心底」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

依不顧餘命不残心底仰御許容恐々謹言」〔至徳三年本〕

依不顧餘命不残心底併仰御許容恐々謹言」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(カヘリ)ミ-(ヨメイ)ヲ(ス)(ノコサ)ス-御許-(キヨヨウ)ヲ|。恐々謹言」〔山田俊雄藏本〕

ルニ餘命心底併仰御許容(ヨウ)ヲ|。恐々謹言」〔経覺筆本〕

ルニ(カヘリ)ミ餘命(ヨメイ)ヲ(ノコ)心底(シカシ)ナカラ(アフ)ク御許容(キヨヨウ)ヲ|。恐々謹言」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「心底」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「心底」の語を未収載にする。次に、広本節用集』に、

心底(シンテイ/コヽロ,ソコ)[平・上]。〔態藝門942一〕

とあって、標記語「心底」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

心底(シンテイ)。〔・言語進退247七〕

心底(シンテイ)―性。―労。―中。―肝。―亊。〔・言語212四〕〔・言語196三〕

とあって、標記語「心底」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

心性(シムシヤウ)。―地(ヂ)―緒(チヨ)。―念(ネン)―底(テイ)。―中(ヂウ)。―事(ジ)。―銘(メイ)ズ―肝(カン)ニ。〔言辞166一〕

とあって、標記語「心性」の冠頭字である「心」の熟語群として「心底」の語を収載する。

 ここで古辞書における「心底」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、に未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

332於譜代相傳之分領一所懸命之地者不有相違者歟餘命心底併仰御許容|。恐々謹言〔謙堂文庫藏三五右H〕

とあって、標記語を「心底」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

一所懸命(ケンメイ)之地(ザ)ル有相違者哉(カナ)ルニ(カヘリミ)餘命(ヨメイ)ヲ(ノコサ)心底(テイ)(シカシ)ナガラ‖。〔下・十オ五〜八〕

とあって、この標記語「心底」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

餘命(よめい)(かへり)(ざる)(よつ)心底(しんてい)(かな)(す)ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言 つゝむ事なく申入るゝ也。〔42オ五・六

とあって、標記語「心底」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言〔三十二ウ一〕[文意]餘命(いきのび)んことを顧(おも)ハぬゆゑ心底(こゝろのうち)を殘(つゝ)まず申也。

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否(ちうひ)に(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)に(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)に(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)を(ず)(のこ)さ心底(しんてい)(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)を|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。〔57ウ三〕

とあって、標記語「心底」にして、その語注記は、未記載にし、[文意]のところで、餘命(いきのび)んことを顧(おも)ハぬゆゑ心底(こゝろのうち)を殘(つゝ)まず申也」という

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xintei.シンテイ(心底) Cocorono soco.(心の底) 心の奥底.〔邦訳773r〕

とあって、標記語の例として「心底」を収載し、その意味を「心の奥底」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しん-てい(名)【心底】こころのそこ。心に、深く思ひをこめてある所。心裏。シンそこ。 吾妻鏡、一、 治承四年七月五日「吾有心底、而法華經之讀誦、終一千部之功後、宜其丹之由」太平 、十三、龍馬 進奏事「深く、心底に秘して、世に傳られず」〔0948-3〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「しん‐てい【心底】[名]@こころのそこ。いつわりや飾りのないまったくの本心。胸底。真情。しんそこ。A相手を愛し、真情を尽くすこと。また、その相手。情人」と『庭訓徃来』の用例を未記載にする。

[ことばの実際]

武衛被談仰于件龍象而云、吾有插心底、而法華經之讀誦、終一千部之功後、宜顯其中丹之由、雖有兼日素願縡已火急之間、殆難延及後日《読み下し》武衛件ノ竜象ニ談ジ仰セラレテ云ク、吾心底(―テイ)ニ挿ムコト有テ、法華経ノ読誦、一千部ノ功ヲ終ヘテノ後ニ、其ノ中丹ヲ顕スベキノ由、兼日ニ素願有リト雖モ、縡已ニ火急ノ間、殆ド延ベテ後日ニ及ボシ難シ。《『吾妻鏡』治承四年七月五日の条》

依爲罪業因、其事曽以不殘留心底読み下し》罪業ノ因タルニ依テ、其ノ事曽テ以テ心底ニ残シ留メズ。《『吾妻鏡』文治二年八月十五日の条》

 

 

2002年8月20日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「餘命(ヨメイ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「與」部に、

餘命(―メイ)〔元亀本131五〕〔静嘉堂本137五〕〔天正十七年本中1オ四〕

とあって、標記語「餘命」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

依不顧餘命不殘心底候仰御許容恐々謹言」〔至徳三年本〕

依不顧餘命不殘心底候併仰御許容恐々謹言」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(カヘリ)ミ-(ヨメイ)ヲ(ス)(ノコサ)ス-御許-(キヨヨウ)ヲ|。恐々謹言」〔山田俊雄藏本〕

ルニ餘命心底併仰御許容(ヨウ)ヲ|。恐々謹言」〔経覺筆本〕

ルニ(カヘリ)ミ餘命(ヨメイ)ヲ(ノコ)心底(シカシ)ナカラ(アフ)ク御許容(キヨヨウ)ヲ|。恐々謹言」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「餘命」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「餘命」の語を未収載にする。次に、広本節用集』に、

餘命(ヨメイ/アマル,ノタマウ・イノチ)[平・去]。〔態藝門317四〕

とあって、標記語「餘命」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

餘命(ヨメイ)。〔・言語進退93八〕

とあって、弘治二年本だけが標記語「餘命」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

餘慶(ヨキヤウ)―流(リウ)―殘(ザン)。―殃(アウ)。―義(キ)。―念(ネン)。―乗(ぜウ)。―氣(キ)。―鬱(ウツ)―命(メイ)。―薫(クン)。―分(ブン)。―風(フウ)。―勢(せイ)。―寒(カン)。―黨(タウ)。―裔(エイ)。〔言辞86三〕

とあって、標記語「餘慶」の冠頭字である「餘」の熟語群として「餘命」の語を収載する。

 ここで古辞書における「餘命」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、に未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

332於譜代相傳之分領一所懸命之地者不有相違者歟餘命心底併仰御許容|。恐々謹言〔謙堂文庫藏三五右H〕

とあって、標記語を「餘命」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

一所懸命(ケンメイ)之地(ザ)ル有相違者哉(カナ)ルニ(カヘリミ)餘命(ヨメイ)(ノコサ)心底(テイ)ヲ(シカシ)ナガラ‖。〔下・十オ五〜八〕

とあって、この標記語「餘命」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

餘命(よめい)(かへり)(ざる)(よつ)心底(しんてい)(かな)(す)ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言 つゝむ事なく申入るゝ也。〔42オ二・三

とあって、標記語「餘命」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言。〔三十二ウ一〕

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否(ちうひ)に(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)に(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)に(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)(ず)(のこ)さ心底(しんてい)を(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)を|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。〔57ウ三〕

とあって、標記語「餘命」にして、その語注記は、未記載にし、[文意]のところで、餘命(いきのび)ことを顧(おも)ハぬゆゑ心底(こゝろのうち)を殘(つゝ)まず申也」という

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yomei.ヨメイ(餘命) Amaru inochi.(余る命) 残りの命,すなわち,生涯の残りの期間. §Yomei araba,mata vonmeni cacaro<.(余命あらば,又御目にかからう) もし生きていたら,再びあなたにお会いしょう,という意.〔邦訳827l〕

とあって、標記語の例として「餘命」を収載し、その意味を「残りの命,すなわち,生涯の残りの期間」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-めい(名)【餘命】よせい(餘生)に同じ。 向秀、思舊賦「悼生之永辭兮、顧日影而彈琴、 運遇於領會兮、寄餘命於寸陰〔2098-5〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「よ‐めい【余命】[名]これから先、死ぬまでの生命。残りのいのち。余生」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

今者餘命難期後年、早預厚免、列今度御上洛供奉人數、可備老後眉目之趣載之《読み下し》今ニ於テハ余命(ヨメイ)後年ヲ期シ難シ、早ク厚免ヲ預カリ、今度御上洛ノ供奉ノ人数ニ列シ、老後ノ眉目ニ備フベキノ趣之ヲ載ス。《『吾妻鏡』建久六年二月九日の条》

 

 

2002年8月19日(月)大雨〔颱風十三号〕。東京(八王子)

「相違(サウイ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「左」部に、

相違(―イ)〔元亀本270二〕〔静嘉堂本307八〕

とあって、標記語「相違」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

且依戦功之忠否且隨軍忠之浅深欲浴朝恩於譜代相傳之分領一所懸命之地者不可有相違者哉」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

戦功之忠否(ヒ)ニ軍忠之浅深(シン)ニ(―)せント朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地相違者哉」〔山田俊雄藏本〕

戦功之忠否(チウ―)軍忠之浅深朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地(ザ)ル相違者歟」〔経覺筆本〕

(カツウ)戦功(せンコウ)ノ之忠否(―フ)ニ軍忠之浅-(せンシン)(ヨク)せント--代相-傳之分領一所懸命之地相違者哉」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

相違 非常卜/サウイ。〔黒川本・疉字門下42ウ五〕

相博 〃傳。〃應。〃反。〃似。〃思。〃建。〃好。〃撲。〃扨タカヘシ。〃貌。〃接。〃。〃承。〃折。〃違。〔卷第八・疉字門439六〜440一〕

とあって、標記語「相違」の語を収載する。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「相違」の語を未収載にする。次に、広本節用集』に、

(アン/ヲシマヅキ,カンガウ)[去]相違(サウイ/アイ,ソムク・タガウ)[平・去]。〔態藝門751一〕

相違(サウイ/アウ,ソムク・タカウ)[平去・去]。〔態藝門786四〕

とあって、標記語「相違」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

相違(サウイ)。〔・天地214六〕

相續(サウゾク)―應(ヲウ)―違(イ)。―當(タウ)。―博(ハク/アイカエル)。―傳(デン)。―論(ロン)。―加(カ)。〔・天地178三〕

相續(サウゾク)―應。―違。―當。―博。―傳。―論。―加。―通。〔・天地167四〕

とあって、標記語「相違」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

相論(サウロン)。―好(カウ)―傳(デン)。―對(タイ)。―順(シタガウ)。―生(シヤウ)。―當(タウ)―違(イ)。―續(ゾク)。―尅(コク)。―承(ゼウ)。―應(ヲウ)。〔言辞166一〕

とあって、標記語「相違」の語を収載する。

 ここで古辞書における「相違」についてまとめておくと、『下學集』、に未収載にして、『色葉字類抄』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

332於譜代相傳之分領一所懸命之地者不相違者歟餘命心底併仰御許容|。恐々謹言〔謙堂文庫藏三五右H〕

とあって、標記語を「相違」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

一所懸命(ケンメイ)之地(ザ)ル相違者哉(カナ)ルニ(カヘリミ)餘命(ヨメイ)ヲ(ノコサ)心底(テイ)ヲ(シカシ)ナガラ‖。〔下・十オ五〜八〕

とあって、この標記語「相違」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

相違(そうい)(ある)(べか)(ざる)(もの)(かな)(ザ)ル相違者哉 一本に不子細者哉に作る。智日遣昧なし。いふこゝろは今度乃戰場にて家等付き致したりとも先祖より取來りたる、御地は相違なく子孫へ玉ハる事にやと也。〔42オ二・三

とあって、標記語「相違」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言▲一所懸命之地ハ命(いのち)にかけて拝領(はいれう)したる地をいふ也。〔三十二ウ四〕

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否(ちうひ)に(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)に(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)に(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)を(ず)(のこ)さ心底(しんてい)を(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)を|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。▲一所懸命之地ハ命(いのち)にかけて拝領(はいれう)したる地をいふ也。〔57ウ六〜58オ一〕

とあって、標記語「相違」にして、その語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

So<-i.サウイ(相違) Aitago<.(相違ふ) 差異.§So<-ixita coto.(相違したこと) くい違ったこと,あるいは,差異のあること.〔邦訳571l〕

とあって、標記語の例として「相違」を収載し、その意味を「差異」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さう-(名)【相違】彼れと、此れと、違(たが)ふこと。くひちがふこと。漢書、王嘉傳「前後相違」〔0775- 5〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「そう‐い【相違相異】[名](形動)二つの間に差があり、同じでないこと。また、そのさま。ちがい。差異」と『庭訓徃来』の用例を未記載にする。

[ことばの実際]

武衛御誕生之初、被召于御乳付之青女、〈今日者尼、號摩摩〉住國相摸早河庄、依召于御憐愍故彼屋敷田畠、不可有相違之由、被仰含惣領地頭〈云云〉《読み下し》武衛御誕生ノ初メ、御乳付ニ召サルルノ青女、〈今日ハ尼(今ハ尼)、摩摩ト号ス。〉相模ノ早河ノ庄ニ住国ス、召シニ依テ御憐愍ヲ于ル(御憐愍有ルニ依テ)。故ニ彼ノ屋敷田畠、相違(サウイ)有ルベカラザルノ由、惣領ノ地頭ニ仰セ含メラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承五年閏二月七日の条》

 

 

2002年8月18日(日)曇り後雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「一所懸命(イッショケンメイ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、

一所懸命(―シヨケンメイ)〔元亀本17四〕〔静嘉堂本11四〕

※天正十七年本は此語を未収載にする。

とあって、標記語「一所懸命」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

且依戦功之忠否且隨軍忠之浅深欲浴朝恩於譜代相傳之分領一所懸命之地者不可有相違者哉」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

戦功之忠否(ヒ)ニ軍忠之浅深(シン)ニ(―)せント朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地相違者哉」〔山田俊雄藏本〕

戦功之忠否(チウ―)軍忠之浅深朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地(ザ)ル相違者歟」〔経覺筆本〕

(カツウ)戦功(せンコウ)ノ之忠否(―フ)ニ軍忠之浅-(せンシン)(ヨク)せント--代相-傳之分領一所懸命之地有相違者哉」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「一所懸命」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「一所懸命」の語を未収載にする。次に、広本節用集』に、

一所懸命(イツシヨケンメイ/―,トコロ・カクル・イノチ)[去・上・平・去]。〔態藝門37一〕

とあって、標記語「一所懸命」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

一所懸命地(―シヨケンメイノチ)。〔・天地3八〕

一所懸命地(イツシヨケンメイノチ)。〔・天地1九〕

一所懸命地(―シヨケンメイノ―)。〔・天地1七〕

一所懸命地(―――――)。〔・天地1八〕

とあって、標記語「一所懸命地」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

一所懸命(―シヨケンメイ)。〔言辞6一〕

とあって、標記語「一所懸命」の語を収載する。

 ここで古辞書における「一所懸命」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、に未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

332於譜代相傳之分領一所懸命之地者不有相違者歟餘命心底併仰御許容|。恐々謹言〔謙堂文庫藏三五右H〕

とあって、標記語を「一所懸命」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

一所懸命(ケンメイ)之地(ザ)ル有相違者哉(カナ)ルニ(カヘリミ)餘命(ヨメイ)ヲ(ノコサ)心底(テイ)ヲ(シカシ)ナガラ‖。一所懸命ノ地ト云事ハ其所領(シヨリヤウ)ニ身ヲ賣切(ウリキル)ナリ。其所領ナカリシカバ。合戰ニモ出ベカラズ命(イノチ)ヲモ棄(スツ)ベカラサルニ所領故ニ一命ヲ報ズルヲ一所懸命トハ云也。一所ニ命ヲカクルトヨメリ。凌(シノ)ギ抜(ヌキ)ンデ其恩賞(ヲンシヤウ)ニ所領ヲ取ル是レヲモ一所懸命ト云ナリ。是ホド誠ニ治定(チデフ)シタル事ナルベケレ。〔下・十オ五〜八〕

とあって、この標記語「一所懸命」の語注記は、「一所懸命の地と云ふ事は、其の所領に身を賣り切るなり。其の所領なかりしかば、合戰にも出づべからず。命をも棄つべからざるに所領故に一命を報ずるを一所懸命とは云ふなり。一所に命をかくるとよめり。凌ぎ抜んで其の恩賞に所領を取る。是れをも一所懸命と云ふなり。是れほど誠に治定したる事なるべけれ」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

一所懸命(いつしよけんめい)(ち)(おゐ)(ハ)一所懸命之地者 君より領地(りやうち)を受(うく)るハ大事あらん時(とき)(いのち)を奉るへき爲なるゆへ懸命の地と書しなり。〔42オ二・三

とあって、標記語「一所懸命」の語注記を「君より領地を受るは、大事あらん時、命を奉るべき爲なるゆへ、懸命の地と書しなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言▲一所懸命之地ハ命(いのち)にかけて拝領(はいれう)したる地をいふ也。〔三十二ウ四〕

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否(ちうひ)に(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)に(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)に(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)を(ず)(のこ)さ心底(しんてい)を(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)を|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。▲一所懸命之地ハ命(いのち)にかけて拝領(はいれう)したる地をいふ也。〔57ウ六〜58オ一〕

とあって、標記語「一所懸命」にして、その語注記は、「一所懸命之地は、命にかけて拝領したる地をいふなり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

‡Ixxo,qenmei.イッショケンメイ(一所,懸命) →Qenmei(懸命).〔邦訳350l〕

Qenmei.ケンメイ(懸命) Inochini caquru.(命に懸くる) ある在所,領地,または,土地に生命を賭ける.例,Ixxo,qenmeino chi.(一所,懸命の地) それは私が命にかえて得た所である.〔邦訳486l〕

とあって、標記語の例として「一所懸命の地」を収載し、その意味を「それは私が命にかえて得た所である」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いっしょ-けんめい(句)【一所懸命】〔命(いのち)を懸くるとは、生活の頼みとすとの意、(二)の意は、 一所懸命と云ふ中古語は、解せられず、されど、唯、何がな耳に挟みて居るに、遂にいっしょをし ょうと延べて、一生の字を填めて、全く違へる意義に用ゐ始めたるなるべし(讒訴、ざんぞう。土突 (どづき)、どうづき)などの語もあり〕(一)唯、一箇所の領地の租を得て、生活す。古事談(平安時代末 期)一、王道后宮「六條修理大夫顯季卿、與刑部丞義光、相論所領地、白川法皇、召顯季曰、汝 雖無件庄一所、全不事闕、彼只一所懸命之由、聞食之庭訓徃來(元弘)六月「於譜代相傳 之分領、一所懸命之地者、不相違者哉」宗長日記(享祿)「なまなまの痩侍、一所懸命の地に離 れしかば」(木食上人)(二)右の語、一生懸命(いつしやうけんめい)と訛り唱へられ、命にかけて事をするこ との意に用ゐらる。必死 丹波與作(寳永、近松作)下「一生懸命の時節到來、死損(しにそこな)はせてく れるか」「一生懸命に追ひかけ、おひかけ」」〔0186-4〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「いっしょ‐けんめい【一所懸命】[名]@中世、生活の頼みとして、命をかけて所領を守ろうとすること。また、その所領。→一所懸命の地*古事談(1212−15頃)一・六条顕季義光于所領事。*文明本『節用集』(室町中)*幸若・十番斬(室町末―近世初)*北条五代記(1641)三・軍法昔にかはる事。*読本・椿説弓張月(1807-11)残・六十八回。A(形動)生死をかえるような、さし迫った事態。命がけのこと。また、そのさま。必死。一生懸命。*仮名草子・智恵鑑(1660)一・十五.《以下略》」と収載し、さらに「いっしょ‐けんめいの=地(ち)[=領地(りょうち)]主に中世、武士間で用いられた語。一所の領地で、死活にかかわるほど重視した土地。元来は、自分の名字の由来する土地(本拠地)をさしたが、のちには恩給地をも含め、自分の所領地全部をいうこともあった。懸命の地。*保元物語(1220頃か)下・義朝幼少の弟悉く失はるる事。*太平記(14c後)三三・新田左兵衛佐義興自害事*庭訓徃来(1394-1428頃)」と小見出しにして『庭訓徃来』の用例を記載している。

[ことばの実際]

六條修理大夫顯季卿、与刑部丞義光論所領白川法皇、無何無成敗《中略》又被仰云。倩案此事顯季曰、汝ハ雖件庄一所全不事闕彼ハ只一所懸命之由、聞食之|。《『古事談』第一・王道后宮(白河)国史大系20頁四》

 

 

2002年8月17日(土)曇り一時晴れ間。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「分領(ブンリヤウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「福」部に、「分限(フンゲン)。分際(ザイ)。分捕(フンドリ)。分量(リヤウ)。分明(フンミヤウ)。分別(ベツ)。分衞(エイ)乞食之事也とあって、標記語「分領」の語を未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

且依戦功之忠否且隨軍忠之浅深欲浴朝恩於譜代相傳之分領一所懸命之地者不可有相違者哉」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

戦功之忠否(ヒ)ニ軍忠之浅深(シン)ニ(―)せント朝恩譜代相傳分領一所懸命之地相違者哉」〔山田俊雄藏本〕

戦功之忠否(チウ―)軍忠之浅深朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地(ザ)ル相違者歟」〔経覺筆本〕

(カツウ)戦功(せンコウ)ノ之忠否(―フ)ニ軍忠之浅-(せンシン)(ヨク)せント--代相-傳之分領一所懸命之地有相違者哉」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「分領」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「分領」の語を未収載にする。次に、広本節用集』に、

分領(ブンリヤウ/ワカツ,レイ・クビ)[平去・上]。〔態藝門635七〕

とあって、標記語「分領」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「分領」の語を未収載にする。また、易林本節用集』には、標記語「分領」の語を未収載にする。

 ここで古辞書における「分領」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に未収載にして、広本節用集』にだけの収載となっている。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

332於譜代相傳之分領一所懸命之地者不有相違者歟餘命心底併仰御許容|。恐々謹言〔謙堂文庫藏三五右H〕

とあって、標記語を「分領」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

朝恩(ヲン)譜代(フタイ)相傳分領(フンリヤウ)。〔下・十オ四〕

とあって、この標記語「分領」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

譜代(ふだい)相傳(そうでん)分領(ぶんりやう)譜代(フタイ)相傳分領。譜代ハ先祖より代々也。分領ハ領所の事なり。〔41オ一・二

とあって、標記語「分領」の語注記を「分領は、領所の事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ふんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言。〔三十二オ八〕

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否(ちうひ)に(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)に(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)に(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)を(ず)(のこ)さ心底(しんてい)を(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)を|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。〔57ウ一〕

とあって、標記語「分領」にして、その語注記は未記載とする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「分領」を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「ぶん-りやう(名)【分領】」の語は未収載にする。

 これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ぶん‐りょう【分領】[名]幾つかに分けて領すること。また、その領地。領分。*庭訓徃来。*太閤記(1625)五・織田三七殿与秀吉及鉾楯事。*米欧回覧実記(1877)<久米邦武>二・四〇」と収載し、『庭訓徃来』の用例をここに記載している。

[ことばの実際]

舜如斯シテ生(キ)タリトハ弟ノ象夢ニモ不知、帝●ヨリ舜ニ給ハリシ財共ヲ面々ニ分チ領(リヤウ)ジケルニ、牛羊(ギウヤウ)・倉廩(サウリン)ヲバ父母ニ與ヘ二女ト琴(コト)一張トヲバ象我(ワガ)物ニスベシト相計(アヒハカラ)フ。《『太平記』卷第三十二直冬與吉野殿合體事付天竺震旦物語事

 

 

2002年8月16日(金)晴れ暫時雨。東京(八王子)→静岡(清水町・三島)

「相傳(サウデン)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「左」部に、

相傳(―デン)〔元亀本270二〕〔静嘉堂本307八〕〔天正十七年本〕

とあって、標記語「相傳」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

且依戦功之忠否且隨軍忠之浅深欲浴朝恩於譜代相傳之分領一所懸命之地者不可有相違者哉」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

戦功之忠否(ヒ)ニ軍忠之浅深(シン)ニ(―)せント朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地相違者哉」〔山田俊雄藏本〕

戦功之忠否(チウ―)軍忠之浅深朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地(ザ)ル相違者歟」〔経覺筆本〕

(カツウ)戦功(せンコウ)ノ之忠否(―フ)ニ軍忠之浅-(せンシン)(ヨク)せント---之分領一所懸命之地有相違者哉」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「相傳」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「相傳」の語を未収載にする。次に、広本節用集』に、

相傳(サウデン/アイ,ツタウ)[平去・平去]。〔態藝門729八〕

相傳(サウデン/アウ,ツタウ)[平去・平去]。〔態藝門786三〕

とあって、標記語「相傳」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

相傳(サウデン)。〔・言語進退214六〕

相續(サウゾク)―應(ヲウ)。―違(イ)。―當(タウ)。―博(バク/アイカエル)。―傳(デン)。―論(ロン)。―加(カ)。〔・言語178三〕

相傳(――)―應。―違。―當。―博。―傳。―論。―加。―通。〔・言語167四〕

とあって、標記語「相傳」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

相論(サウロン)。―好(カウ)―傳(デン)。―對(タイ)。―順(シタガウ)。―生(シヤウ)。―當(タウ)。―違(イ)。―續(ゾク)。―尅(コク)。―承(ゼウ)。―應(ヲウ)。〔言辞166一〕

とあって、標記語「相傳」の語を収載する。

 ここで古辞書における「相傳」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、に未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

332於譜代相傳之分領一所懸命之地者不有相違者歟餘命心底併仰御許容|。恐々謹言〔謙堂文庫藏三五右H〕

とあって、標記語を「相傳」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

朝恩(ヲン)譜代(フタイ)相傳之分領(フンリヤウ)。〔下・十オ四〕

とあって、この標記語「相傳」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

譜代(ふだい)相傳(そうでん)分領(ぶんりやう)譜代(フタイ)相傳之分領〔41オ一・二

とあって、標記語「相傳」の語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ふんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言。〔三十二オ八〕

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否(ちうひ)に(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)に(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)に(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)を(ず)(のこ)さ心底(しんてい)を(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)を|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。〔57ウ一〕

とあって、標記語「相傳」にして、その語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

So<den.サウデン(相傳) Ai tcutayuru.(相伝ゆる)ある者から他の者への伝え,あるいは,教え.§Cono voxiyeua daidai cono bun so<den xiqitatta.(この教えは代々この分相伝し来たつた)この教義は,多くの代を経てこのように伝授されて来ている.〔邦訳570l〕

とあって、標記語「相傳」を収載し、その意味を「ある者から他の者への伝え,あるいは,教え」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さう-でん(名)【相傳】あひ、つたふること。代代。承け續ぐこと。 譚子「鏡鏡相照、影影相傳」平家物 、一、殿上闇打事「家貞、云云、相傳の主、備前守殿の、今夜、闇討ちにせられ可給由、承ッて」徒然草 八十八段「御相傳うけること」〔0772-4〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「そう‐でん【相伝】[名]人から人へと語り伝えること。つぎつぎに受け継いでゆくこと。代々受け継ぐこと。また、その受け継いでゆくもの。*続日本紀―和銅六年(713)五月甲子。*江談抄(1111頃)四。*高野本平家物語(13c前)一・殿上闇討。*正法眼蔵随聞記(1235-38)三二〇。*曾我物語(南北朝頃)一・杵臼・程嬰が事。*文明本『節用集』(室町中)。読本・椿説弓張月(1807-11)前・四回*譚子―形影」と収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載としている。

[ことばの実際]

忠綱、義定者、相傳故波多野次郎義通遺跡住于當読み下し忠綱、義定ハ、故波多野ノ次郎義通ガ遺跡ヲ相伝(サウデン)シテ、当国ニ住ス。《『吾妻鏡治承五年正月五日の条》

 

 

2002年8月15日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「譜代(フダイ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「福」部に、

譜代(―ダイ)〔元亀本223一〕

譜代(フタイ)〔静嘉堂本255二〕〔天正十七年本中56ウ六〕

とあって、標記語「譜代」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

且依戦功之忠否且隨軍忠之浅深欲浴朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地者不可有相違者哉」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

戦功之忠否(ヒ)ニ軍忠之浅深(シン)ニ(―)せント朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地相違者哉」〔山田俊雄藏本〕

戦功之忠否(チウ―)軍忠之浅深朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地(ザ)ル相違者歟」〔経覺筆本〕

(カツウ)戦功(せンコウ)ノ之忠否(―フ)ニ軍忠之浅-(せンシン)(ヨク)せント---傳之分領一所懸命之地有相違者哉」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

譜弟フタイ。〔黒川本・疉字門中107ウ二〕〔卷第七・疉字門88五〕

とあって、標記語「譜弟」の語をもって収載する。

 室町時代の『下學集』には、

譜代(フダイ)。〔言辭155三〕

とあって、標記語「譜代」の語を収載する。次に、広本節用集』に、

譜代(フダイ/シルス,ヨ・カワル)[○・去濁]――相傳。譜第(フダイ)[○・去]〔態藝門638四〕

とあって、標記語「譜代」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

譜代(フダイ)相傳。〔・言語進退182七〕

譜代(フダイ)。〔・言語150四〕〔・言語140一〕

とあって、標記語「譜代」の語を収載する。このうち弘治二年本は、広本節用集』と同じく語注記に「相傳」と収載する。また、易林本節用集』には、

譜代(フダイ)。〔言辞151六〕

とあって、標記語「譜代」の語を収載する。

 ここで古辞書における「譜代」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、に未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

332於譜代相傳之分領一所懸命之地者不有相違者歟餘命心底併仰御許容|。恐々謹言〔謙堂文庫藏三五右H〕

譜代―トハ古ヨリ无相違侍也。重代トハ他ヨリツケドモ名字ニアルヲ云也。〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古冩書込み〕

とあって、標記語を「譜代」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

朝恩(ヲン)譜代(フタイ)相傳之分領(フンリヤウ)朝恩ト云ハ。上ヨリノ恩ナリ。上ヘトヲシ出シテ申シ奉ルハ。天子ノ御事也。其外ハ私シナリ。〔下・十オ四〕

とあって、この標記語「譜代」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

譜代(ふだい)相傳(そうでん)分領(ぶんりやう)譜代(フタイ)相傳分領 譜代ハ先祖より代々也。分領ハ領所の事なり。〔41オ一・二

とあって、標記語「譜代」の語注記を「譜代は、先祖より代々なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ふんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言▲譜代ハ先祖(せんぞ)より代々といふ義(ぎ)。譜は即(すなハち)代々の系圖(けいづ)也。〔三十二ウ三〕

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否(ちうひ)に(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)に(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)に(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)を(ず)(のこ)さ心底(しんてい)を(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)を|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。▲譜代ハ先祖(せんぞ)より代々といふ義(ぎ)。譜は即(すなハち)代々の系圖(けいづ)也。〔57ウ六〕

とあって、標記語「譜代」にして、その語注記は、「譜代は、先祖より代々といふ義譜は、即ち代々の系圖なり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fudai.フダイ(譜代) すなわち,Daidai tcutauaru.(代々伝はる) 多くの代を経たもの.§Fudaino xujin.l,fudaino guenin.(譜代の主人.または,譜代の下人)多くの代を経た昔からの主人.または,召使.〔邦訳271r〕

とあって、標記語「譜代」を収載し、その意味を「すなわち,代々伝はる 多くの代を経たもの」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「-だい(名)【譜第】〔説文「譜、籍録也」釋名「譜、布也、布列見其事也」又、正韻「第、次第也」〕(一)家筋の次第がき。系圖。晉書、杜預傳「耽思經籍、爲春秋左氏傳集解|、又參衆家譜第、謂之釋例顯宗即位前紀、注「譜第(かばねついでのふみ)曰、市邊押磐皇子、娶蟻臣女(ハエ)」(二)世世家系を繼ぎ來ることの稱。家筋。後紀、廿一、弘仁二年二月十三日「夫郡領者、難波朝廷、始置其職、有勞之人、世序其官、逮于延暦年中、遍取才良、永廢譜第(三)臣下の、數代、其君家に仕ふるもの。譜代。世臣 守貞漫稿、三、人事「譜代といふ名は、元、是衞府の兵士に起れり、抑、軍團の兵士、京上して諸衞府に恪勤し、老て郷里に歸り、又其子を兵士たらしめ、年次に從ひ京上し、諸衞府に番す、遂に郷里の戸籍にも、衞府の番帳にも、父子、孫、曾孫相續いて兵士衞士の譜に、次第交代するを榮として、譜代の兵士と称せしなり」平治物語、二、忠宗心替事「譜代の家人なる上、鎌田兵衛も壻なれば」吉野拾遺、下「父の敵(あた)と云ひ、譜代の主君のあたと云ひ、一方ならねばと思ひ定め」(四)江戸幕府にて、累世徳川氏に臣屬したる者を云ひ、(譜代)其外なるを外樣(とざま)と云ふ。東照公遺訓「大坂落城以前、隨從の士を譜代とし、以後、歸服の士を外樣とす」柳營秘鑑、二、御譜代之例「一、三河安祥之七御譜代、云云、一、三河岡崎御譜代、云云、一、駿河御領國以後之御譜代、云云、一、秋田、有馬、相馬、水谷、片桐、常憲院樣(綱吉)御代、貞享元年子十二月晦日、御譜代之席被仰付、此内、片桐者外樣」〔1754-2〕と収載する。

 これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ふ‐だい【譜代譜第】[名]@家々の族姓・系統を証する系譜。A一つの家系で、代々ある地位・職業・技芸などを継ぐこと。また、その家柄。世襲。B代々ある家に仕えてきていること。また、その人。世臣。C江戸時代、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い以前から、徳川氏に臣従した者の称。また、元和元年(1615)の大坂城落城以前から、徳川氏に臣従した者の称。D江戸時代、幕府の御目見以下の格式の者(御家人)で、徳川家康から四代の間に留守居、与力、同心などの職にあった者の子孫の称。*權記―長保三年(1001)九月八日。*明衡徃来(11c中か)。*金刀比羅本保元物語(1220頃か)中・白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事。*曽我物語(南北朝頃)五・三浦与一をたのみし事。*旧唐書本。用例は作品のみ省略記載する」と収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載としている。

[ことばの実際]

持重遠申云、平治合戰之後、存譜代好之間、終不随平家之威權兮、送廿餘年訖読み下し重遠申シテ云ク、平治ノ合戦ノ後、譜代(フダイ)ノ好ミヲ存ズルノ間、終ニ平家ノ威権ニ随ハズシテ、二十余年ヲ送リ訖ンヌ。《『吾妻鏡元暦二年四月二十八日の条》

 

 

2002年8月14日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「朝恩(テウヲン)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「天」部に、

朝恩(―ヲン)〔元亀本244八〕〔静嘉堂本282五〕〔天正十七年本中70オ四〕

とあって、標記語「朝恩」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

且依戦功之忠否且隨軍忠之浅深欲浴朝恩於譜代相傳之分領一所懸命之地者不可有相違者哉」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

戦功之忠否(ヒ)ニ軍忠之浅深(シン)ニ(―)せント朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地相違者哉」〔山田俊雄藏本〕

戦功之忠否(チウ―)軍忠之浅深朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地(ザ)ル相違者歟」〔経覺筆本〕

(カツウ)戦功(せンコウ)ノ之忠否(―フ)ニ軍忠之浅-(せンシン)(ヨク)せント--代相-傳之分領一所懸命之地有相違者哉」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「朝恩」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「朝恩」の語を未収載にする。次に、広本節用集』に、

朝恩(テウヲン/アシタ,ネンゴロ・イツクシ)[平・平]。〔態藝門733六〕

とあって、標記語「朝恩」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

朝恩(チヨウヲン)。〔・言語進退52三〕朝恩(テウヲン)。〔・199七言語進退52三〕

朝恩(――)。―敵。―覲。―務。〔・言語154四〕

とあって、標記語「朝恩」の語を収載する。このうち弘治二年本は、「チ」と「テ」の両部に収載が見られる。また、易林本節用集』には、

朝恩(テウヲン)。―威(井)。―拝(ハイ)。―敵(テキ)。〔言辞166一〕

とあって、標記語「朝恩」の語を収載する。

 ここで古辞書における「朝恩」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、に未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

331且隨軍忠之浅深欲浴朝恩 浴恩餘之義也。〔謙堂文庫藏三五右G〕

とあって、標記語を「朝恩」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

朝恩(ヲン)譜代(フタイ)相傳之分領(フンリヤウ)朝恩ト云ハ。上ヨリノ恩ナリ。上ヘトヲシ出シテ申シ奉ルハ。天子ノ御事也。其外ハ私シナリ。〔下・十オ四〕

とあって、この標記語「朝恩」の語注記は、「朝恩と云ふは、上よりの恩なり。上へとをし出して申し奉るは、天子の御事なり。其の外は、私しなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かつ)軍忠(ぐんちう)淺深(せんしん)(したか)つて朝恩(ヲン)。浴は湯(ゆ)をあびる事ゆへ蒙るといふ義にかり用ひたるなり。朝恩とは朝庭(てうてい)の恩賞(おんしやう)なり。こゝに云こゝろハ今度合戰の手柄(てがら)の大小によりて上乃恩賞を蒙ん事を願ふと也。〔41ウ七・八

とあって、標記語「朝恩」の語注記を「朝恩とは、朝庭の恩賞なり。こゝに云ふこゝろは、今度、合戰の手柄の大小によりて、上の恩賞を蒙ん事を願ふとなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ふんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言▲浴朝恩とハ朝家(ちやうか)乃恩沢(めぐミ)にあづかるをいふ。浴ハゆあミと訓(よミ)てひたされ蒙(かうむ)るの意(ゐ)にとる。〔三十二ウ三〕

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否(ちうひ)に(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)に(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)を(ず)(のこ)さ心底(しんてい)を(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)を|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。▲浴朝恩とハ朝家(ちやうか)の恩沢(おんたく)にあづかるをいふ。浴ハゆあミと訓(よミ)てひたされ蒙(かうむ)るの意(ゐ)にとる。〔57ウ五・六〕

とあって、標記語「朝恩」にして、その語注記は、「朝恩に浴すとは、朝家の恩沢にあづかるをいふ」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Cho>uon.チョウオン(朝恩) Teiio<no gouon.(帝王の御恩)国王の施す恩恵.〔邦訳128r〕

とあって、標記語「朝恩」を収載し、その意味を「国王の施す恩恵」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「ちょう-おん(名)【朝恩】天朝の恩。朝廷の恩澤。天恩。君恩。皇恩。聖恩、聖澤。舊唐書、李元通傳「吾荷朝恩、作藩東夏」と収載にする。

 これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ちょう‐おん【朝恩】[名]朝廷から受ける恩。天子の恩。君恩。皇恩。*權記―長保三年(1001)九月八日。*明衡徃来(11c中か)。*金刀比羅本保元物語(1220頃か)中・白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事。*曽我物語(南北朝頃)五・三浦与一をたのみし事。*旧唐書本。用例は作品のみ省略記載する」と収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載としている。

[ことばの実際]

當所者御曩祖、豫州禪門、平東夷給之昔、最初朝恩読み下し当所ハ御曩祖、予州禅門、東夷ヲ平ラケ給フノ昔、最初ノ朝恩(テウヲン)ナリ。《『吾妻鏡治承四年九月十一日の条》

 

 

2002年8月13日(火)晴れ一時曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「淺深(センジン・センシン)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「勢」部に、標記語「淺深」の語は未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

且依戦功之忠否且隨軍忠之浅深欲浴朝恩於譜代相傳之分領一所懸命之地者不可有相違者哉」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

戦功之忠否(ヒ)ニ軍忠浅深(シン)(―)せント朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地相違者哉」〔山田俊雄藏本〕

戦功之忠否(チウ―)軍忠之浅深朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地(ザ)ル相違者歟」〔経覺筆本〕

(カツウ)戦功(せンコウ)ノ之忠否(―フ)ニ軍忠之-(せンシン)(ヨク)せント--代相-傳之分領一所懸命之地有相違者哉」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「淺深」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「淺深」の語を未収載にする。次に、広本節用集』に、

淺深(センジン/アサシ,フカシ)[平・平]。〔態藝門1104八〕

とあって、標記語「淺深」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

浅深(せンシン)。〔・言語進退267一〕〔・言語214三〕

淺深(センジン/アサシ,フカシ)。〔・言語227六〕

とあって、標記語「淺深」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

淺深(センジン)。―機(キ)。―智(チ)。〔態藝門上36オ六〕

とあって、標記語「淺深」の語を収載する。

 ここで古辞書における「淺深」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、に未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』辛うじて『塵芥』だけに収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

331且隨軍中之浅深欲浴朝恩 浴恩餘之義也。〔謙堂文庫藏三五右G〕

浅深―勲功ノ――也。〔左貫注・静嘉堂本『庭訓徃来抄』古寫書込み〕

とあって、標記語を「淺深」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

一揆(キ)戰功(せンコウ)忠否(チウフ)ニ軍忠(グンチウ)浅深(せンシン)(ホツ)ス(ヨク)せド。〔十オ三〕

とあって、この標記語「淺深」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かつ)軍忠(ぐんちう)淺深(せんしん)(したか)つて軍忠之浅深。同し忠の内にも大なる忠あり。又小なる忠あるゆへ淺深といふ。〔41ウ六・七

とあって、標記語「浅深」の語注記を「同じ忠の内にも大なる忠あり。また、小なる忠あるゆへ淺深といふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ふんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言▲忠否浅深ハ爰(こゝ)に軍戰(たゝかひ)の懸引(かけひき)も君(きみ)に對(たい)して忠(まめやか)な事と否(まめやかならぬ)ことの道ありて浅(をとり)(まさり)の類(たぐひ)あるをいふ。〔三十二ウ二〕

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否(ちうひ)に(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)に(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)を(ず)(のこ)さ心底(しんてい)を(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)を|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。▲忠否浅深ハ爰(こゝ)に軍戰(たゝかひ)の懸引(かけひき)も君(きみ)に對(たい)して忠(まめやか)な事と否(まめやかならぬ)と乃道ありて浅(おとり)(まさり)の類(たぐひ)あるをいふ。〔57ウ四・五〕

とあって、標記語「淺深」にして、その語注記は、「忠否浅深は、爰に軍戰の懸引も君に對して忠な事と否との道ありて浅・深の類ひあるをいふ」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xenjin.センジン(浅深) Asai,fucai(浅い,深い)浅いのと深いのと,または,高尚で深遠なのと、軽微で僅少なのと.たとえば,智恵,罪などについて言う.〔邦訳128r〕

とあって、標記語「浅深」の語の意味を「浅いのと深いのと,または,高尚で深遠なのと、軽微で僅少なのと.たとえば,智恵,罪などについて言う」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「せん-じん(名)【淺深】」そして「せん-しん(名)【淺深】」とも未収載にする。

 これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「せん‐しん【淺深】[名](古くは「せんじん」とも)@程度の浅いことと深いこと。深浅。*三教指帰(797頃)上・序。*保元物語(1220頃か)上・新院御謀叛思召し立たるる事。*海道記(1223頃)花京の老母。*ロザリオの経(1623)二。以下略A色などの淡いことと濃いこと。深浅。B深いこと。深奥。*歎異抄(13c後)一八。」と収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載としている。

[ことばの実際]

次將軍家、令尋聞軍士等勲功之淺深読み下し次ニ将軍家、軍士等ガ勲功ノ浅深(センシン)ヲ尋ネ聞カシメ給フ。《『吾妻鏡建暦三年五月四日の条》

 

2002年8月12日(月)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「軍忠(グンチュウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、

軍忠(―チウ)〔元亀本189五〕〔静嘉堂本213二〕〔天正十七年本中36オ二〕

とあって、標記語「軍忠」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

且依戦功之忠否且隨軍忠之浅深欲浴朝恩於譜代相傳之分領一所懸命之地者不可有相違者哉」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

戦功之忠否(ヒ)ニ軍忠之浅深(シン)ニ(―)せント朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地相違者哉」〔山田俊雄藏本〕

戦功之忠否(チウ―)軍忠之浅深朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地(ザ)ル相違者歟」〔経覺筆本〕

(カツウ)戦功(せンコウ)ノ之忠否(―フ)ニ軍忠之浅-(せンシン)(ヨク)せント--代相-傳之分領一所懸命之地有相違者哉」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「軍忠」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、には、標記語「軍忠」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

軍忠(グンチウ/イクサ,タヾシ)[平・平]。〔態藝門529六〕

とあって、標記語「軍忠」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

軍忠(グンチウ)。〔・言語進退163三〕

軍陣(グンヂン)―忠。―旅(リヨ)。―敗(ハイ)。―中(チウ)。〔・言語132七〕

軍陣(グンヂン)―忠。―旅。―敗。―中。〔・言語121七〕

軍陣(グンヂン)―忠。―敗。―旅。〔・言語148一〕

とあって、標記語「軍忠」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

軍陣(グンチン)。―旅(リヨ)。―功(コウ)。―勢(せイ)。―忠(チウ)。〔態藝門上36オ六〕

とあって、標記語「軍忠」の語を収載する。

 ここで古辞書における「軍忠」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』に未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

331且隨軍中之浅深欲浴朝恩 浴恩餘之義也。〔謙堂文庫藏三五右G〕

とあって、なぜか標記語を同音異語の「軍中」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

一揆(キ)戰功(せンコウ)忠否(チウフ)ニ軍忠(グンチウ)之浅深(せンシン)ニ(ホツ)ス(ヨク)せド。〔十オ三〕

とあって、この標記語「軍忠」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かつ)軍忠(ぐんちう)淺深(せんしん)(したか)つて軍忠之浅深。同し忠の内にも大なる忠あり。又小なる忠あるゆへ淺深といふ。〔41ウ六・七

とあって、標記語「軍忠」の語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ふんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言。〔三十二オ六〕

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否(ちうひ)に(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)に(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)に(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)を(ず)(のこ)さ心底(しんてい)を(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)を|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。〔57オ五〜57ウ四〕

とあって、標記語「軍忠」にして、その語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Gunchu<.グンチュウ(軍忠) Icusano chu<xet.(軍の忠節) 戦争の時に立てた功労・忠義.文書語.→Nuqnde,zzuru.〔邦訳312l〕

Gunchu<.グンチュウ(軍中) Icusano naka.(軍の中) 戦争または戦闘の最中(さなか)。〔邦訳312l〕

とあって、標記語「軍忠」の語の意味を「戰争の時に立てた功労・忠義」とする。また、標記語「軍中」の語の意味については、「戦争または戦闘の最中」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「ぐん-ちゅう(名)【軍忠】軍功に同じ。いくさのてがら。武勲 己れが軍忠を記して上に申す文書を、軍忠状と云ふ。目安状の條を見よ」と収載する。

 これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ぐん‐ちゅう【軍忠】[名]いくさで主君にまごころを尽くすこと。軍事での忠節。戰場でのはたらき。*上杉家文書―建武三年(1336)六月八日・一色道献範氏軍勢催促状写(断簡)(大日本古文書一・十一)。*太平記(14c後)十二・公家一統政道事*尺素徃来(1439-64)」と収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載としている。

[ことばの実際]

參州、於安藝國、行賞於有勲功之輩是依武衛仰也其中、當國住人、山方介爲綱、殊被抽賞軍忠越人之故也〈云云〉読み下し参州、安芸ノ国ニ於テ、賞ヲ勲功有ルノ輩ニ行フ。是レ武衛ノ仰セニ依テナリ。其ノ中、当国ノ住人、山方ノ介為綱、殊ニ抽賞セラル。軍忠人ニ越エタルガ故ナリト〈云云〉。《『吾妻鏡元暦元年十月十二日の条》

 

2002年8月11日(日)晴れ。河津⇒東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「忠否(チュウフ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「地」部に、「忠節(チウセツ)。忠功(コウ)。忠勤(キン)。忠義(ギ)。忠臣(シン)。忠孝(カウ)。忠言(ゲン)。忠肝(カン)義膽ーー」とあるだけで、標記語「忠否」の語は未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

且依戦功之忠否」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

戦功(せンコウ)ノ忠否(チウフ)」〔山田俊雄藏本〕

戦功忠否(チウ―)」〔経覺筆本〕

(カツウ)戦功(せンコウ)ノ忠否(―フ)-」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「忠否」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「忠否」の語を未収載にする。また、『塵芥』(1510〜1550年頃)には、

忠否(チウヒ)。〔態藝門上36オ六〕

とあって、標記語「忠否」の語を収載する。

 ここで古辞書における「忠否」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に未収載にして、辛うじて『塵芥』だけに収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

330且戦功忠否(ブ) 否不忠之義也。〔謙堂文庫藏三五右G〕

とあって、標記語を「忠否」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

一揆(キ)戰功(せンコウ)忠否(チウフ)軍忠(グンチウ)之浅深(せンシン)ニ(ホツ)ス(ヨク)せド。〔十オ三〕

とあって、この標記語「忠否」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(より戰功忠否。且ハとは或ハなとゝいふこゝろなり。戰場にのそんて君の為に命を捨(すて)る事をかろんじ軍功を立るハ忠なり。左なきハ不忠也、否とハ不忠をいふなり。〔40ウ四〜六

とあって、標記語「忠否」の語注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ふんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言。〔三十二オ六〕

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否(ちうひ)(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)に(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)に(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)を(ず)(のこ)さ心底(しんてい)を(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)を|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。〔57オ五〜57ウ四〕

とあって、標記語「忠否」にして、その語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Chu>fu.チュウフ(忠否) 奉公に励むのと怠るのと.〔邦訳130l〕

とあって、標記語「忠否」を収載し、その意味を「奉公に励むのと怠るのと」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「ちゅう-(名)【忠否】」そして「ちゅう-(名)【忠否】」とも未収載にする。

 これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ちゅう‐ひ【忠否】[名](「ちゅうび」とも)忠と不忠。忠義の念が厚いかどうかということ。」と収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載としている。

[ことばの実際]

度々合合戰次第、軍士忠否等、分明注申之読み下し度度ノ合戦ノ次第、軍士ノ忠否等、分明ニ之ヲ注シ申ス。《『吾妻鏡元久元年五月六日の条》

 

2002年8月10日(土)晴れ。東京(八王子)→静岡(三島→河津)

「戰功(センコウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「勢」部に、

戦功(せンコウ)。〔静嘉堂本425五〕

※元亀本は、「先考」から「勢多」までの139語を脱す。

とあって、標記語「戰功」の語を静嘉堂本だけが収載する。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

且依戦功之忠否」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

戦功(せンコウ)之忠否(チウフ)ニ」〔山田俊雄藏本〕

戦功之忠否(チウ―)」〔経覺筆本〕

(カツウ)戦功(せンコウ)之忠否(―フ)ニ-」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「戰功」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「戰功」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

戰功(せンコウ/タヽカウ,ツトム)[去・平]。〔態藝門1115二〕

とあって、標記語「戰功」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、標記語「戰功」の語を未収載にする。また、易林本節用集』には、

戰功(せンコウ)。〔言辞236一〕

とあって、標記語「戰功」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 ここで古辞書における「戰功」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、印度本系統の『節用集』類には未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』(静嘉堂本)、易林本節用集』に収載されているのである。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

330且戦功之忠否(ブ)ニ 否不忠之義也。〔謙堂文庫藏三五右G〕

とあって、標記語を「戰功」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

一揆(キ)戰功(せンコウ)之忠否(チウフ)ニ軍中(グンチウ)之浅深(せンシン)ニ(ホツ)ス(ヨク)せド。〔十オ三〕

とあって、この標記語「戰功」の語注記は、「一揆とは一つれと云ふ心なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(より戰功之忠否。且ハとは或ハなとゝいふこゝろなり。戰場にのそんて君の為に命を捨(すて)る事をかろんじ軍功を立るハ忠なり。左なきハ不忠也、否とハ不忠をいふなり。〔40ウ四〜六

とあって、標記語「戰功」で、その語注記は「揆ははかると訓ず。一家一門の人々必死の働せんと一同にはかり定めしをいふ」とする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)戰功(せんこう)忠否(ちうひ)(よ)(かつ)軍忠(ぐんちう)(の)淺深(せんしん)(したが)朝恩(ちやうおん)(よく)せんと(ほつ)譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ふんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)(おいて)(ハ)相違(さうい)(あ)(べ)から(ざ)(もの)(かな)餘命(よめい)(かへりミ)(ざ)るに(よつ)心底(しんてい)(のこ)(ず)有候(さふら)(しかしながら)御許容(ごきよよう)(あふ)恐恐(きやう/\)謹言(きんげん)戰功之忠否軍忠之浅深せド朝恩譜代相傳之分領一所懸命之地カラ相違者哉ルニ餘命心底併仰御許容|。恐々謹言。〔三十二オ六〕

(かつ)(よ)り戰功(せんこう)(の)忠否忠否(ちうひ)に(かつ)(したが)ひ軍忠(ぐんちう)(の)浅深(せんしん)に(ほつ)す(よく)せんと朝恩(てうおん)に(おい)て譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)分領(ぶんりやう)一所懸命(いつしよけんめい)(の)(ち)に(ハ)(ざ)る(べ)から(あ)る相違(さうゐ)(もの)(かな)(より)て(ざる)に(かへり)ミ餘命(よめい)を(ず)(のこ)さ心底(しんてい)を(さふら)ふ(しかし)ながら(あふ)く御許容(ごきよよう)を|。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)。〔57オ五〜57ウ四〕

とあって、標記語「戰功」にして、その語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「戦功」を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

せん-こう(名)【戰功】たたかひのいさを。戰争の手柄。軍功。王維詩「王禮尊儒教|、天兵小戰功〔1122-2〕

とあって、標記語「戰功」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「せん‐こう【戦功】[名]戦争でたてた勲功。いくさのてがら。戦勲。軍功」と収載し、用例として『庭訓徃来』は未記載とし、静嘉堂本『運歩色葉集』を収載している。

[ことばの実際]

《『』》

 

2002年8月9日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「一揆(いつき)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、

一揆(―キ)〔元亀本18一〕

一揆(―キ)――。〔静嘉堂本12五〕

一揆(―キ)一―。〔天正十七年本上7ウ四〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「一揆」の語を収載し、読みを「イツキ」とし、静本と天本の語注記に「土一揆」と記載する。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

内戚外戚一族一揆者也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-(シヤク/チヽカタ)-(シヤク/ハヽカタ)ノ--(キ)者也」〔山田俊雄藏本〕

内戚(シヤク)外戚(シヤク)ノ一族ムル一揆(キ)者也」〔経覺筆本〕

-(シヤク)-(シヤク)ノ--(キ)者也」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「一揆」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、

一揆(―キ)同心義。〔筑波大藏・態藝門71五〕〔文明十一年本56三〕〔榊原本44六〕

一揆(イツキ)同心義也。〔春林本・態藝門83二〕

一揆(イツキ)同心義。〔亀田本64五〕

一揆(――)同心義。〔文明十七年本・態藝門12六〕

一揆(―キ)同心義也。〔前田家藏・態藝門45二〕

一揆(―キ)同心之義。〔村口本35ウ四〕

とあって、標記語「一揆」の語を収載し、その語注記には「同心の義なり」という。これが元和三年版には未収載になっていることもあってか、『日本国語大辞典』第二版の用例に春林本が引用されているにも関らず、[辞書]項目での記載がなされていない。次に、広本節用集』には、

一揆(イツキ/ヒトツ,ハカル)[平・上]。同心義也。〔態藝門36七〕

とあって、標記語「一揆」の語を収載し、語注記は古写本『下學集』を継承する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

一揆(―キ)。〔弘・言語進退8二〕〔永・言語進退5六〕

一位《前略》一揆(――)。《後略》〔堯・言語5六〕

一位《前略》一揆(――)。《後略》〔両・言語6六〕

とあって、標記語「一揆」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

一揆(―キ)民。〔言辞5三〕

とあって、標記語「一揆」の語を収載し、語注記は「民」という。

 ここで古辞書における「一揆」についてまとめておくと、『色葉字類抄』に未収載にして、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』には収載されていて、これも『庭訓徃来』に収載するというより、当代の普遍性の語と見て良かろう。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

329令一揆 門也。同也。〔謙堂文庫藏三五右G〕

一揆(―キ)―一成就也。――家也。―ヲモムキハカ(ル)也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』古冩書込み〕

とあって、標記語を「一揆」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

一揆(キ)戦功(せンコウ)ノ之忠否(チウフ)ニ軍中(グンチウ)之浅深(せンシン)ニ(ホツ)ス(ヨク)せド一揆トハ一ツレト云心ナリ。〔十オ二〕

とあって、この標記語「一揆」の語注記は、「一揆とは一つれと云ふ心なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

厳密(げんミつ)(うへ)(おんほろ)御旗(おんはた)(など)(くだ)し(たま)ふ(の)(あひだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)(の)一族(いちぞく)一揆(いつき)(しむ)(もの)(なり)厳密之上下御旗等之際内戚外戚一族ムル一揆者也。揆ははかると訓す。一家一門の人々必死の働(はたらき)せんと一同にはかり定しをいふ。〔40ウ三・四

とあって、標記語「一揆」で、その語注記は「揆ははかると訓ず。一家一門の人々必死の働せんと一同にはかり定めしをいふ」とする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(なか)(づ)將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)(くだ)(たま)(の)(あいだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)一族(いちぞく)一揆(いつき)(し)むる(もの)(なん)中將軍家御教書厳密之上下御旗等之際内戚外戚之一族ムル一揆者也。▲一揆(こゝ)にハ親族(しんそく)一味(いちミ)するをいふ。〔三十二オ一・六〕

(づ)く(なか)ん將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(くだ)し(たま)ふ(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)を(の)(あひだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)の一族(いちぞく)(し)むる一揆(いつき)(もの)(なり)。▲一揆(こゝ)にハ親族(しんそく)一味(ミ)するをいふ。〔五十六ウ四・57オ五〕

とあって、標記語「一揆」にして、その語注記は、「一揆爰には、親族一味するをいふ」とする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Icqi.イッキ(一揆) 主君に対する農民の蜂起,あるいは,反乱.§Icqiuo vocosu.(一揆を起す)領主に反抗して蜂起する.→Auoto<i;Baxacu.〔邦訳329r〕

とあって、標記語「一揆」を収載し、その意味を「主君に対する農民の蜂起,あるいは,反乱」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いッ-(名)【一揆】〔爾雅、釋言「揆、度(ハカル)也」出典の孟子を見よ〕(一)一致と云ふに同じ。孔安國尚書、序(書經)「雅誥奥義、其歸一揆」孟子、離婁、下篇「先聖、後聖、其揆、一也」集註「揆、度也、其揆一者(トハ)、言フハ度(ハカリ)之ヲ而其道無不同也」百練抄、十四、四條院、嘉禎元年八月五日「隆承法印爲御使山、(比叡)仰合子細之間、衆徒一揆、諸堂開戸、~輿自山上座本社(二)一身同心。吾妻鏡、一、治承四年十一月八日「天下勇士、可一揆之力庭訓徃來(元弘)十月「内戚外戚之一族、令一揆者也」鴉鷺合戰物語、(文明)「祗園林には、一揆知音の衆、皆、死出立して、云云、中島を攻落さずば、生きてかへらじ、云云」(三)軍陣中の一手、一手に、各、同族の兵、團結して、其武装(いでたち)、又は、旗の紋を同一にしたるを何一揆(なにイツキ)、某一揆(それイツキ)と云ひき。太平記、廿五、住吉合戰事、山名時氏、細川顯氏、天王寺へ向ふ「坂東、坂西、藤、橘、件の者共、五百騎づつ、一揆を結んで、大旗、小旗、下濃(ぬりご)の旗、三流立て、三手に分け、一足も不引可討死、と~水を飲てぞ打立ちける」、廿九、將軍上洛事「加茂川を前に境ひて、赤旗一揆、扇一揆、鈴附一揆二千餘騎を三所に控へて云云」、卅一、二條武藏野合戰事「是も五手に一揆して、云云、鍬形一揆、母衣一揆、是も五箇所に陣を張り云云」此一揆の團結は、主君に抵抗する原因ともなるが故に、後には、禁止せられたり。甲州法度次第「親類、被官、私令誓約之條、可逆心同前、但、於戰場之上、爲忠節、致盟約歟」〔0181-4〕

いッ-(名)【一揆】〔土一揆(どいつき)とも云ふ、土民一揆の中略なり、(土鍋(ドなべ)、土瓶(ドビン))侍(さぶらひ)一揆に對す、下の百姓一揆の條の『甲陽軍鑑』を見よ、一揆とのみ云ふは、更に上略なり。(一分判金、一分金。卒塔婆、塔婆)此語、前條の(三)の末の記事が、實現せしなり、一致の義なる語が、徒黨の意となれり〕(一)又、土一揆(どいつき)とも云ふ。徒黨して亂暴する惡徒の稱。洛中、洛外の~社、佛閣、又は、貴賤の家に打入り、略奪、放火し、其外、種種なる惡業をはたらける者なり。(應仁の亂に、同じ振舞をせし、足輕(あしがる)と稱する者ありき、其條を見よ)土寇。 建長以来追加、(北朝、貞治)諸國狼藉條、號一揆衆濫妨事「近年、或、押領他人之所領、對專使遵行、或爲私宿意、率黨類、及合戰、云云」宣胤卿記、文明十二年九月十五日「入夜上邊土一揆、物怱無極、一條高倉邊放火、酒屋、土藏、懸兵粮、伏見殿、右府許等、懸取酒肴料嚴助徃來記、天文十五年十月晦日「土一揆、禁中江參、致訴訟、先代未聞珍事有之、云云」(古事類苑、政治部、四、コ政一揆)」御湯殿の上の日記、天文十五年十月七日「一きども、そふせう(訴訟)を申して、是非もなき事にて、云云、八日、武家より御警固參らるる」(二)江戸時代に、百姓一揆と云ふあり、農民の、蜂起して強訴するあり、上に抵抗するあり、されど、常に云ふは、地頭、領主などの苛政に堪へず、憤り積(つも)りて起り、竹槍、席旗を押立て、役所に迫るを云へり。前項に記せる一揆と云ふもの、全く絶えての後は、專ら百姓一揆を、單に、一揆と稱するに到れり。 甲陽軍鑑、末書「侍一揆には、先、無事をなし、引退て、禮を盡すべし、百姓一揆には、推しつめて、食を斷ち、後、和を入るべし」(武家名目抄、稱呼、八、下、所引)信長公記、三、元龜元年十月廿日「江州に在之大坂門家之者、一揆を起し、云云、百姓等之儀に候間、云云、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、在所、在所を打廻り、一揆共切捨て、大方相靜る」(是れは、難波の石山の一向宗、本願寺の門徒の、近江に居たる者共にて、一向一揆と云ふ、法華一揆もありき)續武家閑談、十、「出羽國中、十二郡の檢地、景勝卿承て、檢使は大谷刑部也、云云、六郷にて大谷衆、繩を入るに、百姓ども強(あながち)に訴訟するを、大谷衆、權強く、三人は斬伏せ、云云、一揆起り、大谷衆雜人ども、五十六十人打殺す、云云」易林本節用集(慶長)言語「一揆(イツキ)民」紀州一揆覺書「此度紀州御國表、百書一揆起り、至て騒動敷儀有之候」(文政六年六月の書翰文、古事類苑、兵事部)〔0181-5〕

とあって、標記語「一揆」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「いっ‐き【一揆】[名](「揆」は、はかる意)@程度、種類、やり方などが同じであること。A(―する)おのおのの心を一つにすること。行動を共にすること。一致団結。B(―する)参加者の一味同心を目的にして結ばれた集団。また、そのような集団をつくること。中世、同一の目的を有する武士や農民の集団。小領主たちの結合(白旗一揆、平一揆、上州一揆、武州一揆等)や、室町時代の幕府や守護大名に対する地侍・農民・信徒たちの結合(土一揆・馬借一揆・徳政一揆・法華一揆等)などがった。C江戸時代に領主に対して農民がsの要求を実現するために、結合して行なった蜂起(ほうき)。また、その者たち。一般に百姓一揆と呼ばれた。D明治初期、政府の政策に反対した政治運動の一形態。徴兵反対一揆、地租改正反対一揆等」と収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載とする。

[ことばの実際]

新田大炊助源義重入道、〈法名上西、〉臨東國未一揆之時、以故陸奥守嫡孫、插自立志之間、武衛雖遣御書、不能返報、引篭上野國寺尾城、聚軍兵、読み下し新田大炊ノ助源ノ義重入道〈法名ハ上西、〉、東国未ダ一揆(キ)セザルノ時ニ臨ンデ、故陸奥ノ守ノ嫡孫ヲ以テ、自立ノ志ヲ挿ムノ間、武衛御書ヲ遣ハサルト雖モ、返報ニ能ハズ、上野ノ国寺尾ノ城ニ引キ篭リテ、軍兵ヲ聚ム。《『吾妻鏡治承四年九月三十日の条》

 

 

2002年8月8日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「間・際(あひだ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「阿」部に、

(アヒタ)〔元亀本265六〕

(アイダ)。〔静嘉堂本301五〕

とあって、標記語「」の語を収載し、読みを「アヒタ」と「アイダ」とにし、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

就中將軍家之御教書厳密之上下給御旗等之」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

中將-軍家御教--上下‖_(ホロ)御旗(ハタ)」〔山田俊雄藏本〕

中將軍家(シヤウ――)御教書(ミケフジヨ)厳密(ゲンミツ)之上(ホロ)御旗(ハタ)」〔経覺筆本〕

中將-軍_家之御教--(ケンミツ)ノ之上(タマワ)(ホロ)御旗(ハタ)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「」の語を未収載にする。

 室町時代の『下學集』には、標記語「」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

(アイダ/カン)[平去](同サイ)[去]。〔態藝門770六〕

とあって、標記語「」と「」の二語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

(アイタ)(同)。〔弘・言語進退205六〕

(アイダ)。〔永・言語172三〕〔堯・言語161二〕

とあって、標記語「」と「」の二語を収載する。また、易林本節用集』には、

(アヒダ)。〔言辞175二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 ここで古辞書における「」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』に未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』には収載されていて、これも『庭訓徃来』に収載するというより、当代の普遍性の語と見て良かろう。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

327令約諾候若存命仕候者再會之時可申入中將軍家之御教書厳密之上下御旗等之 六具武羅第二第三(ユカケ)第四射手旗第五第六六具也。《後略》〔謙堂文庫藏三四左F〕

メ‖約諾(ヤクダク)|候若存命(ツカマツ)リ候者(ハ)再會時可申入候也ツク∨カン將軍家之(ミ)-教書(シヨ)(ゲン―)ノ‖_ハル(ホロ)御_旗(ハタ)ヲ| 六具武羅(ホロ・モノノクノウスモノ也)第二(エヒラ)第三(ユカケ)第四射手旗(ハタ)第五(アフキ)第六(ムチ)六具也。《後略》〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩〕

とあって、標記語を「」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

將軍家御教書(ミゲフシヨ)厳密(ゲンミツ)之上シ‖(ホロ)御旗(ハタ)(アヒタ)ト云事。彼ノ樊會(ハンクハイ)ガ母(ハヽ)ノ衣(コロモ)ナリ。女ハ臆病(ヲクベウ)ニシテ臆心アレトモ肝(キモ)ニ泌(タギリ)ヲ持(モチ)(ヲトコ)ハ心ニ健(ケナゲ)ナル心アレ共。胸(ムネ)ニ臆病(ヲクヒヤウ)ノ心アルガ故ニ樊會(ハンクハイ)ガ合戰(カツ―)ニ出シニ母ウヘノ衣ヲ脱(ヌヒ)デ。子(コ)ニヤリテ。汝(ナンヂ)ガ心吾(ワガ)心催(モヨ)ホシテ。ケナゲナレト云心也。。其ヨリホロト云事出來タリ。旗(ハタ)ハ軍(イク)サノ験(シル)シナリ大事ナリ。〔下9ウ七〜十オ二〕

とあって、この標記語「」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

厳密(げんミつ)(うへ)(おんほろ)御旗(おんはた)(など)(くだ)し(たま)ふ(の)(あひだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)(の)一族(いちぞく)一揆(いつき)(しむ)(もの)(なり)厳密之上下御旗等内戚外戚之一族ムル一揆者也。〔40ウ三

とあって、標記語「」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(なか)(づ)將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)(くだ)(たま)(の)(あいだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)一族(いちぞく)際一揆(いつき)(し)むる(もの)(なん)中將軍家御教書厳密之上下御旗等内戚外戚之一族ムル一揆者也。〔三十一ウ八〜三十二オ二〕

(づ)く(なか)ん將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(くだ)し(たま)ふ(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)を(の)(あひだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)の一族(いちぞく)(し)むる一揆(いつき)せ(もの)(なり)。〔五十六ウ二〜四〕

とあって、標記語「」にして、その語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Aida.アイダ(間) Ma(間)に同じ.時間的な間隔,すなわち,期間,…する間,などの意.§例,Zaiqio<no aida.(在京の間)私が都(Miyaco)に居た間.§To>riu<no aida.(逗留の間)私が滞在していた間.§Fitotoqino aida.(一時の間)ひと時の間.§Cono aida.(此の間)この数日間,あるいは,過ぎ去った数日間.§また,空間的な間隔,すなわち,距離.例,Ichirino aida.(一里の間)1レグア〔legoa.約五キロメートル〕の間.§また,文書においては,…したので,の意.例,Mairi so<ro aida.(参り候間.または,申しける間)私が行ったので,または,私が言ったので.※原文はhua hora. 日本のひと時(二時間)にあてたもの.〔Fantoqiの注〕 原文はEntre,ou nomeo.〔Ai(間)の注〕〔邦訳17l〕

とあって、標記語「」を収載し、その意味を「Ma(間)に同じ.時間的な間隔,すなわち,期間,…する間,などの意」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

あひ-(名)【間】〔間處(あひど)の轉、(勾引(かと)ふ、かだふ)和訓栞、あひだ「間を訓(よ)めり、たは、とと通ず、處の義なるべし、~代紀に際もよめり」〕(一)かれとこれとの中(なか)。あはひ。あひ。 萬葉集、四46「如此(かく)してや、黙止(なほ)や退(まか)らむ、近からぬ、道の間を、煩(なづ)み參來(まゐき)て」宇津保物語、樓上、上16「一生のあひだ、歌をも詠みたまふ」(二)ひま。絶間(たえま)。間斷 齊明紀、四年五月「飛鳥川、水霧(みなぎら)ひつつ、行く水の、(如く)阿比娜もなくも、おもほゆるかも」(皇孫建(たける)王の、八歳にて薨ぜられしを、傷(いた)みたまへるなり) (三)頃(ころ)。程(ほど)。際 拾遺集、二十、哀傷「世の中、心細そくおぼえて、常ならぬ心地し侍りければ、云云、このあひだ、病重くなりにけり」宇津保物語、樓上、下53「相撲(すまひ)の事、云云、今年はあるまじかとか聞き侍りつる、若しさあらば、立たむ月のあひだにや、となむ思ひたまふる」〔0066-4〕

あひ-(接)【間】〔間(まま)を讀易へたるものか、畿内の口語に、故にを、さかひ(境)と云ふも、同意か〕に、因りて。が、故に。(多く、書状文、日記文に)「御召(めし)に候間罷出候」〔0066-4〕

とあって、標記語「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「あいだ【】[名][一]二つのものにはさまれた部分。@空間的に、二つのものにはさまれた部分。物と物とのま。中間。あいま。あわい。A時間的に、二つの部分にはさまれた時。時間の連続の切れた部分、絶え間。間隔。B人と人との関係。事物相互の関係。間柄。仲。C人と人との間柄が悪くなった状態。紛争。D二つ以上のもののうちの範囲を表わす。…のうち。…の中で。[二]あるひとまとまりの部分。@空間のへだたり。距離。A時間的に、限られた範囲。イ時の経過におけるある範囲。期間内。うち。ほど。ロ特別の時間でない、普通の時。なんでもない時。[三]形式名詞化して用いられる。@(接続助詞のように用いて)原因、理由を示す。…によって。…が故に。…ので。A「この間」の形で、漠然とした時を示す」と収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載とする。

[ことばの実際]

而項年之、平相國禪閤、恣管領天下、刑罰近臣読み下し而ルニ項年ノ、平相国禅閤、恣ニ天下ヲ管領シ、近臣ヲ刑罰ス。《『吾妻鏡治承四年四月二十七日の条》

而求事之次、向兼隆之舘、酒宴郢曲之、兼隆入興読み下し而ルニ事ノ次ヲ求メ、兼隆ガ館ニ向ヒテ、酒宴郢曲スルノ、兼隆興ニ入ル。《『吾妻鏡治承四年八月四日の条》

 
標記語「(ホロ)」については、“ことばの溜め池”2000年8月30日を参照。
 
 

2002年8月7日(水)晴れ。東京(八王子)→静岡県(三島)

「旗(はた)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「弥」部に、

(ハタ)(同)(同)(同)(同)〔元亀本35二〕

(ハタ)(同)(同)(同)(同)。〓〔巾+帝〕(同)/ハタホコ〔静嘉堂本37四〕

(ハタ)(同)(同)(同)(同)〔天正十七年本上19ウ一〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「」の語を収載し、同訓「ハタ」の語を五語併記し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

就中將軍家之御教書厳密之上下給等之間」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

中將-軍家御教-書厳-之上下‖_(ホロ)(ハタ)之間」〔山田俊雄藏本〕

中將軍家(シヤウ――)之御教書(ミケフジヨ)厳密(ゲンミツ)之上(ホロ)(ハタ)之間」〔経覺筆本〕

中將-軍_家之御教-書厳-(ケンミツ)ノ之上(タマワ)(ホロ)(ハタ)之間」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

(キ)ハタ/戰―。同。タン同。(モウ)同。(せイ)同/又作弓令。(同)。〓〔方+牟〕(同)(ハン)同/佛具也。〔黒川本・雜物上21オ七〕

ハタ/征戰具也。/亦作弘令。/佛具也。 ハタ 音祈 有鈴四―/諸隻所建也。/又作/音毛。/音余。已上同。〔卷第一・雜物178一〜四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 室町時代の『下學集』には、

(ハタ)二字義同〔器財門114四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。次に、広本節用集』には、

(ハタ/タウ)[平](同/ハン)[平]二字同法戦場用之。(ハタ/せイ)[平]毛詩正義曰折(サイ)シテ(ツク)ル素絲(ウツ)相連(ツケ)テ(サン)ニ以為飾リト列子云黄帝与炎帝鷹鳶為シト也。(ハタ/)二字共。戦場之。釋名云熊。々者期將軍所建。象虎与衆期スルニ於下也。〔器財門59四〕

とあって、「はた」の標記語として「幢幡」「旌」「」の四語をもって収載し、「」の語注記には、「二字共。戦場にこれを用ゆ。『釋名』に云く、熊は其れ旗と為る。旗は將軍の所建に期す。其の猛の虎の如く、ともにこれを下に衆期するに象どるなり」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

(ハタ)(同)凡戦塲ニハ用此二字。〔弘・財宝20六〕〔永・財宝18八〕

(ハタ)(ハタ)凡戦場者用此二字。〔堯・財宝17三〕

(ハタ/キ)(ハタ/せイ)凡戦場者用此二字。〔両・財寳21四〕

とあって、標記語「」「旌」の二語を収載し、語注記は「およそ、戦場には此の二字を用ゆ」とする。また、易林本節用集』には、

(ハタ)(同)旛佛同法。(ハタ)(同)軍陣。〔衣食17七〕

とあって、「はた」の標記語「幢幡」と「旌」の四語を二種に区分して記載し、後半部の語注記には「軍陣」という。

 ここで古辞書における「」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』には収載されていて、これも『庭訓徃来』に収載するというより、当代の普遍性の語と見て良かろう。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

327令約諾候若存命仕候者再會之時可申入中將軍家之御教書厳密之上下等之間 六具武羅第二第三(ユカケ)第四射手旗第五第六六具也。〔謙堂文庫藏三四左F〕

△籏以一陣一將云也。○長七尺五寸廣八寸五分也。七尺五寸、摩利支天表ス。八寸相毛修表也。八苦表也。籏兵皆持亊也。戰塲常在時籏ヲバ持也。長三尺二分廣五寸八分也。兵是戰塲軍勝戌亥正五九庚午用也。正五九庚午用三兩方ステヽ中トル也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』古冩書込み〕

とあって、標記語を「」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

將軍家御教書(ミゲフシヨ)厳密(ゲンミツ)之上シ‖(ホロ)(ハタ)之際(アヒタ)ト云事。彼ノ樊會(ハンクハイ)ガ母(ハヽ)ノ衣(コロモ)ナリ。女ハ臆病(ヲクベウ)ニシテ臆心アレトモ肝(キモ)ニ泌(タギリ)ヲ持(モチ)(ヲトコ)ハ心ニ健(ケナゲ)ナル心アレ共。胸(ムネ)ニ臆病(ヲクヒヤウ)ノ心アルガ故ニ樊會(ハンクハイ)ガ合戰(カツ―)ニ出シニ母ウヘノ衣ヲ脱(ヌヒ)デ。子(コ)ニヤリテ。汝(ナンヂ)ガ心吾(ワガ)心催(モヨ)ホシテ。ケナゲナレト云心也。其ヨリホロト云事出來タリ。(ハタ)ハ軍(イク)サノ験(シル)シナリ大事ナリ。〔下9ウ七〜十オ二〕

とあって、この標記語「」の語注記は、「旗は軍さの験しなり、大事なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)(くた)(たまハ)るの(あいた)シ‖(ホロ)(ハタ)之際《前略》旗(はた)の事天子ハ錦(にしき)に金銀を以て日月を織(おり)付るなり。金日の御旗にてハ軍をすゝめ、銀月の御旗にてハ衆を統(すふ)る。一對(つい)の御旗なり。扨又四家の旗地ハ皆練(ねり)なり。源家ハ皆白して風帯(ふうたい)一文字紅(くれなゐ)なり。平家ハ皆赤して風帯一文字白なり。藤家ハ水色にして風帯一文字鳥色(とりいろ)なり。橘家ハ黄色にして風帯一文字水色なり。諸家ハ思ひ/\の色を用ゆ。地ハ練三幅にして長一丈二尺、家々の紋を付るなり。惣る上古の旗ハ野連付(のれんつけ)なり。乳付(ちつけ)の旗ハ後(のち)の制(せい)也。竹木にかゝりて自由。あしく風雨にひるかへされて見へわかたさるゆへ乳付にしたりとなり。くわしくハ圖説にし見へたり。〔41オ四〜ウ一

とあって、標記語「」で語注記を上記のように詳細に記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(なか)(づ)將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)(くだ)(たま)(の)(あいだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)一族(いちぞく)際一揆(いつき)(し)むる(もの)(なん)中將軍家御教書厳密之上下之際内戚外戚之一族ムル一揆者也。▲旗天子の御旗ハ錦(にしき)にして日月の紋(もん)を織(をり)なす。長壹丈三尺にて三幅(はゞ)也。諸家(しよけ)ハ練(ねり)を用ゆ。長短(ちやうたん)(さた)まらず大抵(たいてい)壹丈八尺にて二幅(はゝ)也。四家(しか)の旗源氏(げんじ)ハ白色(しろいろ)にて風帯(ふうたい)一文字紅(くれない)。平氏(へいし)ハ赤色(あかいろ)にて風帯一文字白。藤氏(ふぢうち)ハ水色(ミついろ)にて風帯一文字焦色(こういろ)。橘氏(たちばなうぢ)ハ黄色(きいろ)にて風帯一文字水色也。餘(よ)ハ地色(ちいろ)に任(まか)せ家々の紋(もん)を付るなり。後世(こうせい)是に乳(ち)を施(ほとこ)して耳付旗(ミゝつけはた)とす。今俗(そく)にいふ幟(のほり)是也。〔三十二オ三〜六〕

(づ)く(なか)ん將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(くだ)し(たま)ふ(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)を(の)(あひだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)の一族(いちぞく)(し)むる一揆(いつき)せ(もの)(なり)。▲旗天子(てんし)の御旗ハ錦(にしき)にして日月の紋(もん)を織(おり)なす。長サ壹丈三尺にて三幅(はゞ)也。諸家(しよけ)ハ練(ねり)を用ふ。長短(ちやうたん)(さだ)まらず大抵(たいてい)壹丈八尺にて二幅(はゞ)也。四家(しか)の旗源氏(げんうじ)ハ白色にて風帯(ふうたい)一文字紅(くれなゐ)。平氏(へいうじ)ハ赤色(あかいろ)にて風帯一文字白。藤氏(ふぢうぢ)ハ水色にて風帯一文字焦色(こういろ)。橘氏(たちばなうぢ)ハ黄色(きいろ)にて風帯一文字水色也。餘(よ)ハ地色(ちいろ)に任(まか)せ家々の紋を付るなり。後世(こうせい)是に乳(ち)を施(ほどこ)して耳付旗(ミゝつけはた)とす。今俗(ぞく)にいふ幟(のぼり)是也。〔五十七オ一〜四〕

とあって、標記語「」の語注記を上記のように記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fata.ハタ(旗) 旗.§Fatauo maqu.(旗を巻く)旗を巻きくるめる.§Fatauo aguru.(旗を揚ぐる)旗を立てる.§Fatauo sasu.(旗を挿す)旗を腰にさして携行する.§Fatasaxi.(旗差)旗を持って行く者〔旗手〕.§Fatazauo.(旗竿)旗を巻きつける竹竿.→Finmaqi,u;Fuqinagaxi,su;Saxitate,tcuru;Tanabiqi,u. 〔邦訳211l〕

とあって、同音異義の標記語「」を収載し、その意味を「」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

はた(名)【旗旌幡】〔風にはためくものか、或は云ふ、(はた)を用ゐれば云ふか〕(一){文武の式、又は、佛式等に、立てて目標とする具。布帛にて長く製し、其一端を竿の端に繋け、高く立てて、翻へる如くす。布帛の上端の横木を横上(よこかミ)と云ひ、其裾を旗足、又は、あしと云ひ、又、横手と稱。其中央に紐を付けて、竿に結ひつけ、末は吹流しなり。源平の頃よりして、軍隊、及、敵に身分を識別せしめむが爲に、源家は白旗、平家は赤旗を用ゐ、皆無地、其外、諸武家、軍隊にては、新田氏は中K、足利氏は、引兩(ひきりやう)など、家家の紋をつく。倭名抄、十三、伽藍具「幡、波太」同、同、六征戰具「幡、波太、旌旗之總名也」字鏡79「()、旌也、旗之屬也、波太」漢書、陳湯傳「遂陥康居、屠五重城、搴歙侯之旗、斬到支之首、縣旌萬里之外、揚威昆山之西~代紀、上11「鼓(ツヾミ)吹(フエ)幡旗(ハタ)」萬葉集、二、34長歌「捧げたる、幡のなびきは、冬木成(ふゆごもり)、春去來れば、野毎に、つきて有る火の、風のむた、靡くが如く」平治物語、二、待權門軍事「これ皆源氏の勢なれば、白旗二十餘(ながれ)うち立てたり、大宮表には平家の赤旗三十餘さし上げて」(二)紙鳶(いかのぼり)の異名。(九州)〔1583-3〕

とあって、標記語「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「はた【】[名]@布や紙などでつくり、高くかかげ、目標、装飾とするもの。大小さまざまな形状があり、儀式、軍陣などには、一端を竿に付け、下端を長く垂らして風になびかせる手長旗(てながはた)、長旗(ながはた)、流旗(ながればた)などと呼ばれるものが用いられ、上部を手(て)、下部を足(あし)と称した。また、江戸時代には、布の側面に乳(ち)をつけて竿に通したものをさしてもいう。幟(のぼり)。現在では、国旗、社旗、校旗など。A(幡)仏語。仏菩薩などを供養する荘厳具。その材料などによって、平幡(ひらはた)、糸幡(いとはた)、玉幡など種々のものがあり、板で作られることもあった。江戸時代、良家の子女が若くして死んだ時など、振袖など生前の晴れ着を仕立ててつくり、これを寺院に納めて供養する風習が行なわれた。B江戸時代、大阪の相場で売ることをいう。C蛸(たこ)の異称。D紋所の名。@を図案化したもの。丸に一つ旗、三つ旗の丸などの種類がある」と収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載とする。

[ことばの実際]

相摸國石橋山給此間、以件令旨、被付御旗横上読み下し相模ノ国石橋山ニ陣シ給フ。此ノ間、件ノ令旨ヲ以テ、御旗(ハタ)ノ横上ニ付ケラル。《『吾妻鏡治承四年八月二十三日の条》

 
 

2002年8月6日(月)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「厳密(ゲンミツ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「氣」部に、

嚴密(ゲンミツ)〔元亀本216八〕

厳密(―ミツ)。〔静嘉堂本246八〕

厳密(―ミツ)。〔天正十七年本中52ウ六〕

とあって、標記語「厳密」の語を収載し、読みを「ゲンミツ」とし、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

就中將軍家之御教書厳密之上下給御旗等之間」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

中將-軍家御教--之上下‖_(ホロ)御旗(ハタ)之間」〔山田俊雄藏本〕

中將軍家(シヤウ――)御教書(ミケフジヨ)厳密(ゲンミツ)之上(ホロ)御旗(ハタ)之間」〔経覺筆本〕

中將-軍_家之御教--(ケンミツ)之上(タマワ)(ホロ)御旗(ハタ)之間」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「厳密」の語を未収載にする。

 室町時代の『下學集』には、

嚴密(ゲンミツ)。〔疉字門158五〕

とあって、標記語「嚴密」の語を収載する。次に、広本節用集』には、

嚴密(ゲンミツ/イツクシ,ヒソカ)[平・入]。〔態藝門594四〕

とあって、標記語「厳密」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

嚴密(ゲンミツ)。〔弘・言語進退175五〕

嚴重(ゲンデウ)―密(ミツ)。―親(シン)。―命(メイ)。―誡(カイ)。〔永・言語144三〕

嚴重(ゲンヂウ)―密。―親。―命。―誡。〔堯・言語134一〕

とあって、弘治二年本は標記語「厳密」の語を収載する。他二本は、冠頭字「嚴」の熟語群として「嚴密」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

嚴札(ゲンサツ)―重(デウ)。―命(メイ)。―旨(シ)―密(ミツ)。〔言辞146四〕

とあって、標記語「嚴札」の語注記熟語群として「厳密」の語を収載する。

 ここで古辞書における「厳密」についてまとめておくと、『色葉字類抄』に未収載にして、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』には収載されていて、これも『庭訓徃来』に収載するというより、当代の普遍性の語と見て良かろう。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

327令約諾候若存命仕候者再會之時可申入中將軍家之御教書厳密之上下御旗等之間 六具武羅第二第三(ユカケ)第四射手旗第五第六六具也。《後略》〔謙堂文庫藏三四左F〕

メ‖約諾(ヤクダク)|候若存命(ツカマツ)リ候者(ハ)再會時可申入候也ツク∨カン將軍家之(ミ)-教書(シヨ)(ゲン―)ノ‖_ハル(ホロ)御_旗(ハタ)ヲ|之間 六具武羅(ホロ・モノノクノウスモノ也)第二(エヒラ)第三(ユカケ)第四射手旗(ハタ)第五(アフキ)第六(ムチ)六具也。《後略》〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩〕

とあって、標記語を「厳密」についての語注記は、未記載にする。また、静嘉堂本は、この箇所を「厳重」と表記している。

 古版『庭訓徃来註』では、

將軍家御教書(ミゲフシヨ)厳密(ゲンミツ)之上シ‖(ホロ)御旗(ハタ)之際(アヒタ)ト云事。彼ノ樊會(ハンクハイ)ガ母(ハヽ)ノ衣(コロモ)ナリ。女ハ臆病(ヲクベウ)ニシテ臆心アレトモ肝(キモ)ニ泌(タギリ)ヲ持(モチ)(ヲトコ)ハ心ニ健(ケナゲ)ナル心アレ共。胸(ムネ)ニ臆病(ヲクヒヤウ)ノ心アルガ故ニ樊會(ハンクハイ)ガ合戰(カツ―)ニ出シニ母ウヘノ衣ヲ脱(ヌヒ)デ。子(コ)ニヤリテ。汝(ナンヂ)ガ心吾(ワガ)心催(モヨ)ホシテ。ケナゲナレト云心也。。其ヨリホロト云事出來タリ。旗(ハタ)ハ軍(イク)サノ験(シル)シナリ大事ナリ。〔下9ウ七〜十オ二〕

とあって、この標記語「厳密」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

厳密(げんミつ)(うへ)(おんほろ)御旗(おんはた)(など)(くだ)し(たま)ふ(の)(あひだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)(の)一族(いちぞく)一揆(いつき)(しむ)(もの)(なり)厳密之上下御旗等之際内戚外戚之一族ムル一揆者也。〔40ウ三

とあって、標記語「厳密」で、その語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(なか)(づ)將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)(くだ)(たま)(の)(あいだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)一族(いちぞく)際一揆(いつき)(し)むる(もの)(なん)中將軍家御教書厳密之上下御旗等之際内戚外戚之一族ムル一揆者也。〔三十一ウ八〜三十二オ二〕

(づ)く(なか)ん將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(くだ)し(たま)ふ(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)を(の)(あひだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)の一族(いちぞく)(し)むる一揆(いつき)せ(もの)(なり)。〔五十六ウ二〜四〕

とあって、標記語「厳密」にして、その語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Guenmit.l,Guengiu.ゲンミツ,または,ゲンヂュウ(厳密,厳重) 厳正で公平なこと.§Guenmitni vo>xetcuqerareta.(厳密に仰せ付けられた)きびしく,かつ公正に命じられた.〔邦訳295r〕

とあって、標記語「厳密」を収載し、その意味を「厳正で公平なこと」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

げん-みつ(名)【嚴密】漏(もれ)なく、嚴重にものすること。 後漢書、郎顛傳「宮禁嚴密唐書、忠義傳、「號令嚴密吾妻鏡、三十九、寳治二年十二月廿日「~社佛寺領事、停‖-止地頭新儀、可嚴密沙汰」〔0638-2〕

とあって、標記語「厳密」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「げん-みつ【厳密】[名]きびしくすきがないさま。厳重でこまかいさま。また厳正で公平なさま」と収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載とする。

[ことばの実際]

爰安房國住人、安西三郎景益者、御幼稚之當初、殊奉昵近者也。仍最前、被遣御書、其旨趣令旨嚴密之上者、相催在廳等、可令參上。読み下し爰ニ安房ノ国ノ住、安西三郎景益トイフ者、御幼稚ノ当初、殊ニ昵近シ奉ル者ナリ。仍テ最前ニ、御書ヲ遣ハサレ、其ノ旨趣令旨厳密(ゲンミツ)ノ上ハ(趣)、在庁等ヲ相ヒ催シ、参上セシムベシ。《『吾妻鏡治承四年九月一日の条》

 

2002年8月5日(月)晴れ。奈良⇒東京世田谷(駒沢)→(八王子)

「御教書(ミゲウシヨ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「弥」部に、

御教書(ミゲウシヨ)〔元亀本301九〕

御教書(―――)。〔静嘉堂本351四〕

とあって、標記語「御教書」の語を収載し、読みを「ミゲウシヨ」とし、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

就中將軍家之御教書厳密之上下給御旗等之間」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

中將-軍家御教--之上下‖_(ホロ)御旗(ハタ)之間」〔山田俊雄藏本〕

中將軍家(シヤウ――)御教書(ミケフジヨ)厳密(ゲンミツ)之上(ホロ)御旗(ハタ)之間」〔経覺筆本〕

中將-軍_家之御教--(ケンミツ)ノ之上(タマワ)(ホロ)御旗(ハタ)之間」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「御教書」の語を未収載にする。

 室町時代の『下學集』には、

御教書(ミゲウシヨ)。〔態藝門74七〕

とあって、標記語「御教書」の語を収載する。次に、広本節用集』には、

御教書(ミケウシヨキヨヲサム,カウ・ヲシユ,カク)[去・去・平]。〔態藝門894三〕

御教書(ミゲウシヨキヨヲサム,カウ・ナラウ,カク)[去・去・平]紙名。〔器財門894三〕

とあって、標記語「御教書」の語をもって器財門と態藝門にそれぞれ収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

御教書(ミケウシヨ)。〔弘・財宝233二〕〔堯・財宝183八〕

御教書(ミゲウシヨ)。〔永・財宝194二〕

とあって、標記語「御教書」の語を収載する。ただ、易林本節用集』には、

御幸(ミユキ)―教書(ゲウシヨ)。―作手(ツクテ)。―調物(ツキモノ)。―神樂(カグラ)。〔言辞200六〕

とあって、標記語「御教書」の語を語注記の熟語群として収載する。

 ここで古辞書における「御教書」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』に未収載にして、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』には収載されていて、これも『庭訓徃来』に収載するというより、当代の普遍性の語と見て良かろう。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

327令約諾候若存命仕候者再會之時可申入中將軍家之御教書厳密之上下御旗等之間 六具武羅第二第三(ユカケ)第四射手旗第五第六六具也。〔謙堂文庫藏三四左F〕

とあって、標記語を「御教書」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

將軍家御教書(ミゲフシヨ)厳密(ゲンミツ)之上シ‖(ホロ)御旗(ハタ)之際(アヒタ)ト云事。彼ノ樊會(ハンクハイ)ガ母(ハヽ)ノ衣(コロモ)ナリ。女ハ臆病(ヲクベウ)ニシテ臆心アレトモ肝(キモ)ニ泌(タギリ)ヲ持(モチ)(ヲトコ)ハ心ニ健(ケナゲ)ナル心アレ共。胸(ムネ)ニ臆病(ヲクヒヤウ)ノ心アルガ故ニ樊會(ハンクハイ)ガ合戰(カツ―)ニ出シニ母ウヘノ衣ヲ脱(ヌヒ)デ。子(コ)ニヤリテ。汝(ナンヂ)ガ心吾(ワガ)心催(モヨ)ホシテ。ケナゲナレト云心也。。其ヨリホロト云事出來タリ。旗(ハタ)ハ軍(イク)サノ験(シル)シナリ大事ナリ。〔下9ウ七〜十オ二〕

とあって、この標記語「御教書」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

將軍家(しやうぐんけ)御教書(みけうしよ)將軍家御教書將軍家の御下知をしるしたる御書なり。〔40ウ三

とあって、標記語「御教書」で、その語注記は、「將軍家の御下知をしるしたる御書なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(なか)(づ)將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)(くだ)(たま)(の)(あいだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)一族(いちぞく)際一揆(いつき)(し)むる(もの)(なん)中將軍家御教書厳密之上下御旗等之際内戚外戚之一族ムル一揆者也。▲御教書ハ三月の返状(へんしやう)に見ゆ。〔三十一ウ八〜三十二オ二〕

(づ)く(なか)ん將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(くだ)し(たま)ふ(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)を(の)(あひだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)の一族(いちぞく)(し)むる一揆(いつき)せ(もの)(なり)。▲御教書ハ三月の返状(へんじやう)に見ゆ。〔五十六ウ二〜四〕

とあって、標記語「御教書」にして、その語注記は、「御教書は、三月の返状に見ゆ」とする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Miguio>xo.ミギョゥショ(御教書) 公方様(Cubo<sama)の書状,あるいは,許可状.§Miguio>xouo taisuru.(御教書を帶する)公方様(Cubo<sama)の書状や許可状を受け取る.§また,公方様(Cubo<sama)が字を書く薄手の紙の一種.〔邦訳404r〕

とあって、同音異義の標記語「御教書」を収載し、その意味を「公方様(Cubo<sama)の書状,あるいは,許可状」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-げう-しよ(名)【御教書】下文(くだしぶみ)(其條をも見よ)の敬称。院より下さるるに云ひ、又、關白なるにも云ふ。又、室町將軍の下文にも云ふ。將軍、執権(管領)、奉行人等、談合して下興する文書。將軍より出すに、外に、奉書、内書あり。又、御教書の上下を折りて、表に將軍の御判(ゴハン)を認めたるを、御判御教書と云ふ。 平家物語、十、藤戸事「備前の兒島を佐佐木にたぶ、鎌倉殿の御教(ケウ)書にも載せられたり」太平記、十、金澤貞將討死事「軈て兩探題賦に可成、相模守にぞ被移ける」吾妻鏡、廿一、建暦三年五月三日「彼御教書(被將軍御判)者、云云」〔0755-5〕

とあって、標記語「御教書」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「み-ぎょう-しょ【御教書】[名](「み」は接頭語)[一]古文書の様式の一つ。平安時代以来、奉書形式の文書のうち、三位以上の公卿の意を承って出すもの。また、上皇などをはじめ、ひろく貴人の意を承る奉書をいうこともある。@公卿の奉書。特に、関白などの意を承って出される奉書。摂関家御教書など。A鎌倉時代將軍の意を承って出される奉書。初期のものは本文書留に「依鎌倉殿仰」の文言があるのが特徴であったが、三代將軍源実朝の時、執権北条泰時・連署北条時房の二名が署を連ねる様式が始まり、のち、奉者が二名の様式となる。これを関東御教書といい、普通本文中に「依仰」の文言がある。また、同様の文書を六波羅御教書・鎮西御教書という。B大寺院の座主(ざす)などの発する奉書。発する者が准三后の称号を受けていれば、多く令旨(りょうじ)と呼ばれる。[二]鎌倉幕府將軍の袖判の下文のこと。[三]御判(ごはん)の御教書のこと。南北朝・室町時代、將軍が花押(かおう)を書いて、直接発給する形をとった文書。文書の袖(右側の空白部)、または年月日の下に將軍が花押をすえた文章で、奉者の位置がなく、従って奉書形式をとっていない。[四]「みぎょうしょがみ(御教書紙)」の略」と収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載とする。

[ことばの実際]

帥中納言奉書到來新日吉領、武藏國河肥庄地頭、對捍去々年乃貢事、并同領長門國向津奥庄、武士狼籍事取庄家解状、被下之早可令尋成敗給之由、被載之、去六月一日御教書読み下し帥中納言ノ奉書到来ス。新日吉ノ領、武蔵ノ国河肥ノ庄ノ地頭、去去年ノ乃貢ヲ対捍スル事、并ニ同キ領長門ノ国向津奥ノ庄、武士狼藉ノ事。庄家ノ解状ヲ取リ、之ヲ下サル。早ク尋ネ成敗セシメ給フベキノ由、之ヲ載セラル。去ヌル六月一日ノ御教書ナリ。《『吾妻鏡文治二年七月二十八日の条》

 
 

2002年8月4日(日)晴れ。高野山(八王子)⇒奈良

「就中(なかんづく)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「那」部に、標記語「就中」の語を未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

就中將軍家之御教書厳密之上下給御旗等之間」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-軍家御教-書厳-之上下‖_(ホロ)御旗(ハタ)之間」〔山田俊雄藏本〕

將軍家(シヤウ――)之御教書(ミケフジヨ)厳密(ゲンミツ)之上(ホロ)御旗(ハタ)之間」〔経覺筆本〕

-軍_家之御教-書厳-(ケンミツ)ノ之上(タマワ)(ホロ)御旗(ハタ)之間」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

就中ナカンツクニ。〔黒川本・疉字門中37ウ七〕

就中ナカツク。〔卷第五68二〕

とあって、標記語「就中」の語を収載する。

 室町時代の『下學集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「就中」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

(ヅク,ナカンシユウ,―)[去・○]。〔態藝門442三〕

とあって、標記語「就中」の語を収載する。

 ここで古辞書における「就中」についてまとめておくと、『下學集』、『運歩色葉集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』に未収載にして、『色葉字類抄』、広本節用集』にのみ収載されている。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

327令約諾候若存命仕候者再會之時可申入將軍家之御教書厳密之上下御旗等之間 六具武羅第二第三(ユカケ)第四射手旗第五第六六具也。〔謙堂文庫藏三四左F〕

とあって、標記語を「就中」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

將軍家御教書(ミゲフシヨ)厳密(ゲンミツ)之上シ‖(ホロ)御旗(ハタ)之際(アヒタ)ト云事。彼ノ樊會(ハンクハイ)ガ母(ハヽ)ノ衣(コロモ)ナリ。女ハ臆病(ヲクベウ)ニシテ臆心アレトモ肝(キモ)ニ泌(タギリ)ヲ持(モチ)(ヲトコ)ハ心ニ健(ケナゲ)ナル心アレ共。胸(ムネ)ニ臆病(ヲクヒヤウ)ノ心アルガ故ニ樊會(ハンクハイ)ガ合戰(カツ―)ニ出シニ母ウヘノ衣ヲ脱(ヌヒ)デ。子(コ)ニヤリテ。汝(ナンヂ)ガ心吾(ワガ)心催(モヨ)ホシテ。ケナゲナレト云心也。。其ヨリホロト云事出來タリ。旗(ハタ)ハ軍(イク)サノ験(シル)シナリ大事ナリ。〔下9ウ七〜十オ二〕

とあって、この標記語「就中」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(づく)(なかん)前乃事言給り。又是と云こゝろなり。取分同ことの申にもと云義なり。〔40ウ三

とあって、標記語「就中」で、その語注記は、「前の事を言ひ給へり。また、是と云ふこゝろなり。取分、同じことの申すにもと云ふ義なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(なか)(づ)將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)(くだ)(たま)(の)(あいだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)一族(いちぞく)際一揆(いつき)(し)むる(もの)(なん)將軍家御教書厳密之上下御旗等之際内戚外戚之一族ムル一揆者也。▲御教書ハ三月の返状(へんしやう)に見ゆ。〔三十一ウ八〜三十二オ二〕

(づ)く∨(なか)ん將軍家(しやうぐんけ)御教書(ミげうしよ)厳密(げんミつ)(の)(うへ)(くだ)し(たま)ふ(おんほろ)御旗(おんはた)(とう)を(の)(あひだ)内戚(ないせき)外戚(ぐわいせき)の一族(いちぞく)(し)むる一揆(いつき)せ(もの)(なり)。▲御教書ハ三月の返状(へんじやう)に見ゆ。〔五十六ウ二〜四〕

とあって、標記語「就中」にして、その語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Nacanzzucu.ナカンヅク(就中) 副詞.特に.〔邦訳439l〕

とあって、同音異義の標記語「就中」を収載し、その意味を「副詞.特に」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

なか--づく(名)【就中】〔中に就きの音便轉〕其中にて取りわけて。殊に。 名義抄就中、ナカニツイテ、ナカムツク」書字考節用集、八、言辭門「、ナカンヅク」保元物語、二、爲義最期事「今改めて死罪に行はるべきにあらず、中ん就く故院、御中陰なり、かたがた宥められば宜しかるべき由」〔1449-1〕

とあって、標記語「就中」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「なかん-づく【就中】[名](「中(なか)に就(つ)く」の音便形。古くは「に」を伴って用いられた)その中でとりわけ。特に」と収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載とする。

[ことばの実際]

就中清重、於源家抽貞節者也読み下し中ニ就テ清重ハ、源家ニ於テハ貞節ヲ抽ンヅル者ナリ(忠節)。《『吾妻鏡』の条》

 

2002年8月3日(土)晴れ。奈良⇒高野山

「再會(サイクハイ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「左」部に、「再進(サイシン).再返(ヘン).再往(ワウ).再誕(タン).再生(せイ).再興(コウ).再住(チウ).再来(ライ).再造(サウ).再入(シウ).再説(せツ).再吟(キン).再三(サン).再發(ホツ).再任{仁}(ニン).再拝(ハイ).再勘(カン).再奏(ソウ).再訴(ソ).再見.再覽(ラン).再祚(ソ)天子再即位事」とあって、標記語「再會」の語については未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

若存命仕候者再會之時可申入候也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

存命仕候者再會之時可_候也」〔山田俊雄藏本〕

存命(メイ)仕候者再會之時可申入候也」〔経覺筆本〕

若存-命仕候者-之時可申入」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「再會」の語を未収載にする。

 室町時代の『下學集』には、標記語「再會」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

再會(サイクワイ/フタヽビ,アウ・アツマル)[上・去]。〔態藝門786一〕

とあって、標記語「再會」の語をもって収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

再會(サイクワイ)。〔弘・言語進退214二〕

再興(サイコウ)―三(サン)。―拝(ハイ)。―會(クハイ)。―徃(ワウ)。―發(ホツ)。―住(ジウ)。―祚(ソ)天子二即云。〔永・言語178三〕

再興(サイコウ)―三。―拝。―會。―徃。―發。―住。―祚 天子二即位云。〔堯・言語167三〕

とあって、標記語「再會」の語を収載する。ただ、易林本節用集』には、

再興(サイコウ)―徃(ワウ)。―住(ヂユ)。―進(シン)。―誕(タン)。―來(ライ)。―三。―會(クワイ)。―變(ヘン)。〔言辞181三〕

とあって、標記語「再會」の語を語注記の熟語群として収載する。

 ここで古辞書における「再會」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』に未収載にして、、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』には収載されていて、これも『庭訓徃来』に収載するというより、当代の普遍性の語と見て良かろう。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

327令約諾候若存命仕候者再會之時可申入中將軍家之御教書厳密之上下御旗等之間 六具武羅第二第三(ユカケ)第四射手旗第五第六六具也。〔謙堂文庫藏三四左F〕

とあって、標記語を「再會」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

再會(サイクハイ)之時可申入候也ハ。フタヽビアフト云心ナリ。〔下9ウ六・七〕

とあって、この標記語「再會」の語注記は、「ふたたびあふと云ふ心なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

再會(さいくわい)(とき)申入(もふしい)(へく)候也ハヽ再會之時可申入候也こゝに言こゝろは右のことく一門の人々と必死の約束したるなれは討死(うちしに)するハ必定(ひつでう)なり。若し万か一生(いき)なからへて帰陣(きぢん)したらハ又の閑言に申入んと也。是ハ一生のわかれを言送りたる也。〔40オ八六

とあって、標記語「再會」の語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

再會(さいくわい)(とき)申入(もふしい)(へく)候也ハヽ再會之時可申入候也〔三十一ウ六〕

再會(さいくわい)(の)(とき)(べき)申入(まうしい)る(なり)。〔五十六オ六〕

とあって、標記語「再會」にして、その語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「再會」を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さい-くはい(名)【再會】再び、出會(であ)ふこと。 保元物語、二、左府薨逝事「頼長、一たび去りて、再會、何の時をか待たん」〔0755-5〕

とあって、標記語「再會」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「さい-かい【再会】[名]いったんはなればなれになっていた者が再び会うこと」を収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載とする。

[ことばの実際]

 

 
 

2002年8月2日(金)晴れ一時雷雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)→奈良

「存命(ゾンメイ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「楚」部に、「存生(ゾンジャウ).存亡(―バウ).存知(―ヂ)中庸.存分(―ブン).存外(―グワイ).存失(―シツ)」とあって、標記語「存命」の語を未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

存命仕候者再會之時可申入候也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

存命仕候者再會之時可_候也」〔山田俊雄藏本〕

存命(メイ)仕候者再會之時可申入候也」〔経覺筆本〕

-仕候者再-會之時可申入」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「存命」の語を未収載にする。

 室町時代の『下學集』には、標記語「存命」の語を未収載にする。次に、広本節用集』には、

存命不定(ゾンメイフヂヤウ/アル,ノタマウ・イノチ,フウテイ・サダム)[平・去・平去・去]。〔態藝門402七〕

とあって、標記語「存命不定」の語をもって収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

存命(ソンメイ)。〔弘・言語進退122二〕

存命(ゾンメイ)―知(ヂ)。―分(ブン)。―生(ジヤウ)。―亡(マウ)。―外(クハイ)。―日(ジツ)。〔永・言語101八〕

存命(ソンメイ)―知。―分。―生。―亡。―外。―日。〔堯・言語92三〕〔両・言語112五〕

とあって、標記語「存命」の語を収載する。ただ、易林本節用集』には、

存生(ゾンジヤウ)―没(ホツ)。―外(クワイ)―命(メイ)。―亡(ハウ)。―知(チ)。―念(ネン)。―日(ジツ)。―分(フン)。〔言辞100一〕

とあって、標記語「存命」の語を語注記の熟語群として収載する。

 ここで古辞書における「存命」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、『運歩色葉集』に未収載にして、、広本節用集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』には収載されていて、これも『庭訓徃来』に収載するというより、当代の普遍性の語と見て良かろう。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

327令約諾候若存命仕候者再會之時可申入中將軍家之御教書厳密之上下御旗等之間 六具武羅第二第三(ユカケ)第四射手旗第五第六六具也。〔謙堂文庫藏三四左F〕

とあって、標記語を「存命」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

存命(ゾンメイ)候者トハ。命ナガラヘヨトヨムナリ。〔下9ウ六〕

とあって、この標記語「存命」の語注記は、「命ながらへよとよむなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(もし)存命(ぞんめい)(つかまつり)ハヽ存命仕候者若とハ万一といふかことし。存命ハ命なからへてある事也。〔40オ八六

とあって、標記語「存命」で、その語注記は、「存命ハ命なからへてある事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(もし)存命(ぞんめい)(つかまつり)(さふら)(バ)存命候者。〔三十一ウ六〕

(もし)存命(ぞんめい)(つかまつ)り(さふら)は(バ)。〔五十六オ五〕

とあって、標記語「存命」にして、その語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Zonmei.ゾンメイ(存命) Inochi nagarayuru.(命存らゆる)生存.例,Zonmei fugio<.(存命不定)生きながらえるのは,定めないことである.§Pedroua imada zonmeica?(ペドロは未だ存命か)ペドロはまだ生きているか.〔邦訳844l〕

とあって、同音異義の標記語「存命」を収載し、その意味を「生存」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ぞん-めい(名)【存命】生き、ながらへてあること。存生(ゾンジャウ)。生存。 北魏書、田u宗傳「僅コ存命平家物語、一、禿童事「清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一にて、病に犯され、存命のためにとて、即ち、出家入道す」〔1166-2〕

とあって、標記語「存命」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ぞん-めい【存命】[名]生きていること。生きながらえていること。生存。存生(ぞんじょう)」を収載し、『庭訓徃来』の用例は未記載とする。

[ことばの実際]

再不合眼者、老耄存命、甚無所據〈云云〉読み下し再ビ合眼セズンバ、老耄ノ存命(ゾンメイ)、甚ダ拠ル所無シト〈云云〉《『吾妻鏡元暦二年二月二十九日の条》

 
 

2002年8月1日(水)薄晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「約諾(ヤクダク)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「屋」部に、

約諾(―ダク)。〔元亀本201二〕〔静嘉堂本227二〕

約諾(―タク)。〔天正十七年本中43ウ二〕

とあって、標記語「約諾」の語を収載し、読みを「(ヤク)ダク」とし、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、

門葉人々可被粉骨之合戰之旨令約諾」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

門葉(やう)ノ人々可致粉骨合戦旨令約諾」〔建部傳内本〕

-_-之合-旨令約諾」〔山田俊雄藏本〕

-_-之合-旨令約諾()」〔経覺筆本〕

-(ヨウ)_--旨令約諾(ヤクタク)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「約諾」の語を未収載にする。

 室町時代の『下學集』には、

約諾(ヤクダク)。〔疉字門159三〕

とあって、標記語「約諾」の語を収載している。次に、広本節用集』には、

約諾(ヤクダク/セワセワシ・ツヾマヤカ,コタウ・ウナツク)[○・入]。〔態藝門563七〕

とあって、標記語「約諾」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

約諾(ヤクダク)。〔弘・言語進退167五〕

約諾(ヤクダク)―束(ソク)。〔永・言語136七〕

約諾(ヤクダク)―束。〔堯・言語125七〕

とあって、標記語「約諾」の語を収載する。ただ、易林本節用集』には、

約束(ヤクソク)―諾(ダク)。〔言辞138一〕

とあって、標記語「約諾」の語を語注記の熟語群として収載する。

 ここで古辞書における「約諾」についてまとめておくと、『色葉字類抄』に未収載にして、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』には収載されていて、これも『庭訓徃来』に収載するというより、当代の普遍性の語と見て良かろう。

 さて、『庭訓往来註』六月七日の状に、

327令約諾候若存命仕候者再會之時可申入中將軍家之御教書厳密之上下御旗等之間 六具武羅第二第三(ユカケ)第四射手旗第五第六六具也。〔謙堂文庫藏三四左F〕

とあって、標記語を「約諾」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

約諾ハ。ツヽマヤカニカシツクトヨメリ。一大事ノ有ン前ニ人々集(アツマ)リテ。酒宴(シユエン)會合(クハイ―)シテ(ワレ)人情(ナサケ)餘波(ナゴリ)ヲ惜(ヲシ)ミ互(タガヒ)ニ引出物(ヒキデモノ)ヲシ。内外ナク。同枕(マクラ)トサダムルヲ。ヤクダクト云ナリ。〔下9ウ三・四〕

とあって、この標記語「約諾」の語注記は、「ツヽマヤカニカシツクとよめり。一大事の有らん前に人々集まりて。酒宴會合して、我、人情餘波を惜しみ、互ひに引出物をし、内外なく、同枕とさだむるを、ヤクダクと云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

門葉(もんよう)人々(ひとびと)紛骨(ふんこつ)合戰(かつせん)(いた)(へき)(むね)約諾(やくだく)(しめ)候/約諾。諾とハ承知したる詞なるゆへ約諾と書て約上したる事也。こゝに言こゝろハ一門乃人々と相たかひに身命(しんミやう)をなけうち微塵(ミじん)になるともいとハすはけミはたらかんとやくそくをしたること也。〔40ウ六

とあって、標記語「合戰」で、その語注記は、「諾とは、承知したる詞なるゆへ、約諾と書きて約上したる事なり。こゝに言ふこゝろは、一門の人々と相たがひに身命をなげうち、微塵になるともいとはずはげみはたらかんと“やくそく”をしたることなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

門葉(もんよう)人々(ひとびと)紛骨(ふんこつ)合戰(かつせん)(いた)(へき)(むね)約諾(やくだく)(しめ)(さふら)門葉人々紛骨之合戰旨令約諾。〔三十一ウ六〕

門葉(もんよう)の人々(ひとびと)紛骨(ふんこつ)の合戰(かつせん)(いた)す(へき)の(むね)約諾(やくだく)(しめ)。〔五十六オ五〕

とあって、標記語「約諾」にして、その語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yacudacu.ヤクダク(約諾) Yacusocu.(約束)約束,あるいは,協定.〔邦訳806l〕

とあって、同音異義の標記語「約諾」を収載し、その意味を「約束,あるいは,協定」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

やく-だく(名)【約諾】ちかひうかがふこと。約束してうけひくこと。又、承知すること。 平治物語、三、牛若奥州下事「委細に語り給へば、仔細なしと約諾して、云云」〔2032-1〕

とあって、標記語「約諾」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「やく-だく【約諾】[名]契約を承諾すること。約束して承知すること。誓って引き受けること。また、その内容」を収載し、『庭訓徃来』の用例を記載する。

[ことばの実際]

忠綱本自背源家之間、成約諾読み下し忠綱本自源家ニ背クノ間、約諾(ヤクダク)ヲ成ス。《『吾妻鏡治承五年閏二月二十三日の条》

 

 

 

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