1998年度[3月1日〜3月31日]

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1998年3月31日(火)薄晴れのち下り坂。

地図広げ 新しき方 訪ねみむ

「およびでない」

 句「およびでない」は、言うまでもないが「および」と「でない」から成る。「および」は、接頭語「お」+「呼び(“呼ぶ”の連用形)」から成る派生語名詞で、「呼ぶ」ことの尊敬表現である。これに「でない」が下接する。「呼ばれていない」という意味から、「用事がない」「必要とされない」「無用である」意に用いられる。俗に多くは、自身がその場に必要とされていないことを氣まずそうに自嘲的に「お呼びでなかったですネ」と表現する。この「およびでない」を「及びでない」と勘違いして表記していることが機種機能は一様ではないが、ワープロ漢字変換のとき、「及びでなかった」などと実際に経験した人も多いのではなかろうか。

 この「及び」は上下の語を合接する語で「“A”及び“B”でない」とは表現されるが、「“A”及びでない」とは使わないからだ。こうした何気ない文章入力のなかでおこる珍句はまだまだありそうである。逆も然りで、「“A”および“B”でない」と入力し、漢字変換したとき、「および、及び、お呼び(御呼び)」と三様の表記が表示され、選択を余儀なくされていないであろうか?どうぞ御自分の機種でこの機能をお確かめ頂き、お教えいただきたい。

『大言海』に「お呼び」の語も「お呼びでない」の句についても未収載である。この俗な表現は、『大日本国語辞典』に譲り、句「お呼びでない」は未収載だが、「御呼び」の語を収載する。

1998年3月30日(月)晴れ。

さもあらん 草木萌え出で 春の色

「一入〔ひとしお〕」

 室町時代に成立した文学作品『義経記』<岩波書店・日本古典文学大系新装版>に、

○武蔵此事秀衡に申しければ、入道も且は御志の程を感じ、且は彼等が事を今一入〔―しほ〕不便〔ふびん〕に思ひ、しきりに涙にぞむせびける。[巻第八三六二N]

○判官「今一入〔ひとしほ〕」名残の惜しきぞよ。死なば一所とこそ契りしに、我も諸共に打出でんとすれば、不足なる敵なり。[巻第八三七九L]

などと見える。これは宛字で「一入」と書いて「ひとしお」と読む。同じく室町時代の古辞書『運歩色葉集』(静嘉堂文庫蔵本)にも「一入〔―シヲ〕」[415G]と収載されている。単漢字「入」を「しお」と読むこと、学研『漢字源』[一〇三]に、「〔国〕しお(しほ)物を染料に浸す度数をあらわすことば。“一入〔ひとしほ〕”」と記されていて、藍染めなどの染め物ことばが元になっているのである。染め物の技術は奈良時代から今日にまで引き継がれてきた伝統の技でもある。この染め物ことば「しほ」は、「染め絞り汁」のことで『万葉集』の「くれなゐの八しほのいろ」や『古今集』巻第一・春歌上24「ときはなる松の緑も春くればいまひとしほの色まさりけり」、『宇津保物語』菊宴441「ひとしほもそむべき物かむらさきの雲よりふれるをとめなりとも」などといった染めの色彩表現として用いられている。これが鎌倉時代になると、『平家物語』巻第十一<重衡被斬>に「北の方は、日來おぼつかなくおぼしけるより、今一しほかなしみの色をぞまし給ふ。」[日本古典文学全集(2)四四〇I]と「ひときわ」の意で用いられる。やがて「ひとしお」を「一度染め汁に入れる」意味から「一入」と宛てはじめたのである。概ね上接語に「いま」が付く。これが現代では、「寒さが今ひとしお身にしみる」などといった「ひときわ」や「一段と」といった副詞的用法の表現として用いられ、息のながいことばとなっているのである。

1998年3月29日(日)晴れ。

こと問いに 行きつ戻りつ 鳥の端

「ン十年」

 「ン十年」って表現。「孫と遊んでいたら、ン十年もたってしまったか?」などと、話し手には時のたった実数が実際解かっていてもぼかす、はっきりとした数認識をしない表現として用いるのである。この「ん」だが、ひらがなとカタカナで表記することによる使い分けの文字意識がひとつは考えられる。「ん十年」と表記する例があるか?これをまず知りたい。

 次に「ン十年」だが、「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク」と声に出して撥音便の「ん」が含まれるのは、「サン【三】」だけである。とすると、この「サンジュウネン」の頭拍の「サ」を省略したのが「ンジュウネン」で、「ン十年」の代表格となり、「ん」をカタカナ書きする素因はここにあって、そもそもこの「ン十年」語表記ことばの起こりかなーなどと推論してみる。(でも、これはあてずっぽうの推論だから、これ以上に素晴らしい結論が得られればいつでも撤回したいことがらだ。)そのうえで、他にも「ン+○○」と下接する語が見出せるのか?その実例はいかなるものか?もっと調べてみる必要もありそうだ。たとえば、仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』(岩波文庫)に、

と、「赤ん坊」、「黒ン坊」の二語がある。だが、ただ「(甘え)ン坊だからネ」と言う時、上接語「甘え」を省略して「ン坊だからネ」いう言い方は類推できてもこの作品資料からは実例はみない。「ん」と「ン」表記もどう意識するのかも結論を控えておくことにしたい。

さらに、この「ん」の用法を数ある国語辞典には、まだ示されていないのが現状でもある。日本語の辞書編集の立場にある方に「ン十年」の語用例を収集し、その用法を検討したうえで、見出し項目にこの「ン十年」の表現を設けることをここに提言したい。また、私自身、この語についても継続して語用例探索をしてみようと思っている。

[補遺:「ン」で始まる地名]アフリカのタンザニアに「ンゴロンゴロ」。子音Nで始まりそれに子音が続く地名は“ヌ”で表記されます。「キリマンジャロ」は、「キリマ・ンジャロ」だそうだ。

1998年3月28日(土)薄晴れ。

草臥れて こと頼むころか 電算機

「百」という漢数字

 「百」を物事の達成率と考えるとき、この「百」という漢数字の基準値はアラビア数字の「100」と比べて意味深いものがある。ことわざに「百里の道も一歩から」とは初めの心構え、故事の「百里を行く者は九十をなかばとす」(出典『戦国策』)は、九割方達成できるところまできていても、残り十里で失敗じるのでは、元も子もない、最後の詰めを怠る勿れということになる。「九十」のところは、まだ半分ぐらいのところと思ってやれば知らず知らず百里に到達しているというのだ。この距離を統制する役割をになうのが自身となると、どうも人は脆いものがある。強靭な精神で物事を成し遂げようとする堅固な意志のパワーが必要なのだ。この統制を、他人に預けておくとそんなに強く意識しないでもそこまでいっている不思議な道のりとなる。が、達成感は全くなくなってしまうから面白くない。

 この「百」を古辞書『類聚名義抄』(佛上七六G)でみると、「音伯(ハク)。(訓読み)もも、ももち、はけむ、みゝ。禾(和音)ヒャク」とある。「百」を「はげむ」と読むのは、上記の事柄を言い得ている。「もも」は、落語の演題に「百川」があり、人名に「百瀬〔ももせ〕」、「百田〔ももた〕」がある。鳥の「百舌〔もず〕」。昆虫に「百足」と書いて「むかで(ももが手か)」というのもある。他の漢数字五とか八と接続して「お」という読みをして「五百木〔いおぎ〕」、「八百屋〔やおや〕」。畳語にして「百百」で「とど」(百目鬼〔とどめき>どうめき〕)。などとなっているから宛字読みはことばの広がりを感じさせるのである。『名義抄』の最後の訓「みみ」で読むことばを未だ知らない。

1998年3月27日(金)曇り。

クゥークゥーと 雁矢にやりとり 飛鳥〔ふみ〕運び

「凄く素敵」

 昨晩の深夜TV放送『ビバリーヒルズ高校白書』再放送で、(女性)「今日私たち、どこにいくの?」、(男性)「献血にいくのさ。」、(女性)「凄く素敵なお話しね。」というごく自然な男女の会話表現があり、ここに女性が「すごい」と「すてき」という「す」を頭文字とする形容語が使われていた。「すごい」は「凄い」と漢字表記し、「すてき」も「素敵」と宛字で漢字表記する。前の「すごい」については、ある料理番組で、「おいしいですよ、コレ、凄くおいしい!」とコメントしていたのを覚えている。ここは、「実に」と表現すべきところかなと思って聞いていた。この「凄い」についてだが、漢和辞典と国語辞典という両方の辞書を一冊でも繙く必要があるまいか。思いたったら即実行である。『漢字源』(学研)に、

560【凄】3208・4028(10)セイ[漢]サイ[呉](qi)(平)斉。意味@{形}さむい(さむし)ひさめの降りしくようにはださむい。[同]淒。「春シ‖凄風〔左伝・昭四〕」A{形}すさまじい(すさまじ)。冷たさや、寂しさがはだみにこたえるさま。[同]淒。「凄切セイセツ」「月苦風凄ジク砧杵悲〔白居易・聞夜砧〕」B「凄凄セイセイ」「凄然セイゼン」とは、風や雨がそろってひしひしと吹きせまるさま。〔国〕すごい(すごし)。ひどく激しい。「もの凄い」解字<略>。

と、ひと肌で感じる自然観の意味用例があるのみである。次に国語辞典のほうだが、新潮『国語辞典』によれば、

すごい【凄い】(形)(文ク―し)@ぞっとするほど恐ろしい。気味が悪い。「言はむ方無く―き言の葉〔源・箒木〕」Aぞっとするほど物寂しい。「読経のたえだえーく聞ゆるなど〔源・若紫〕」B恐ろしいほどすぐれている。すばらしい。「拍子も(略)なまめかしく―う面白く〔源・若菜〕」C程度がはなはだしい。並はずれている。「―い人気」

と記述されているに留まる。これを新明解『国語辞典』(第五版)では、

すごい【凄い】(形)@恐ろしくて、ぞっとするような感じだ。「―うなり声/―ような美人」A普通では考えられないような事を見聞きしたり 予想外の事に接したり して、よくもそんな事が 行われるものだと、感心したり あきれたり する気持だ。「―腕前/―きれい〔=すごくきれい、の俗な表現〕」―さ【凄く】(副)「とても・非常に」の意の口頭語的表現。〔若い世代に好んで用いられる。強調表現は「すっごく」〕「―暑かった/―おこられた/―おもしろい」

と記述していて、「すごく」という副詞表現が新たに収載されていることが他の国語辞典と異なるところである。新明解では、若い世代と表現しているが、このとき結構年輩のアナウンサーがこのように表現していたのが氣になったのだ。これは世代表現なのか?若いとは三十五歳ぐらいまでを指すのかと。だが、新明解『国語辞典』(第五版)は「おいしい」にかかる副詞「すごく」を「若い世代」と断ってかくもとりいれたのである。

また、後の「すてき」についても以前、神奈川大学の学生さんからお問い合わせがあって、その語源に少しく紹介したことがある。「素敵」より「素適」を用いる人もいる。江戸時代に「すてきと寒いぜ」とか「すてきと油を売ったぜ〔滑・浮世床〕」と表現していた。新明解『国語辞典』(第五版)の「すてきに」(副)〔口頭〕「滅法」の意の美的表現。「今年のチームは―強いぜ」とは、これもいっきに変貌した。語源は、「す的→素的(「的」に“{形}A明らか、あざやか”の意がある。「す」は接頭語で、「すばらしい」意をもった。)」が正説である。民間語源説には、「できすぎ」の逆さ言葉である「すぎでき」が「すてき」となったともいう。江戸時代から明治における逆さ言葉表現(隠語で刑事を「デカ」というのは、明治「かくそで【角袖】」の着物を着用していたのを「くそでか」を逆さにし、これを上語省略して「デカ」いう類。)は結構浸透しているのも事実であるからにしてこれも信じられてきたのであろう。

「凄く、素敵」は、響きのいい語表現には変わりはない。これも下接する語をどうとらえるかでこの響きは良くも悪くもなるのであるまいか。

1998年3月26日(木)晴れ。

陽ぬくもりに キリリッと凄き 夜もすがら

「宛字・義訓」

 『万葉集』巻十三、挽歌3330(新3344)番に、「こもりくの 泊瀬の川の 上つ瀬に…」の歌に「玉こそは 緒の絶えぬれば くくりつつ」〔原文:玉社者 緒之絶薄 八十一里喚〓〔奚隹〕〕とあって、「くくりつつ」の原文は、「八十一里喚〓〔奚隹〕」で、「八十一」を「くく」と訓読する。これは、算数の掛け算による暗唱「くくはちじゅういち【九九八十一】」の読みからの宛字表記なのである。次いで、「喚〓〔奚隹〕」も鶏を呼ぶときの声で、今の私たちは「トー、トット、トット」と言うのによる。そして、奈良時代の発音が「tu:,tu:」と発音していたのであろうと推定し、「つつ」と解読したものである。「「喚〓〔奚隹〕」を「つつ」と読む意義訓になる。

 昨日の朝日新聞「天声人語」に「向島の芸者衆はドイツ語の歌詞を漢字と仮名に書き換えて暗記した。√風呂出で〔フロイデ〕詩へ寝る〔シエーネル〕月輝る〔ゲツテル〕粉健〔フンケン〕とホテル〔トホテル〕……」という。日本語の文字にドイツ語の歌詞を宛字して『第九』覚える。宛字の効果はなきにしもである。

この「宛字・義訓」による表現は、万葉の昔も平成の今も変わらない。現代では多くの国ぐにのカタカナ表記の外来語が民衆の日本語に受けいれられるときにこの効果はまだまだ捨てたものではないようだ。本日の「声」の欄に「ミュージカルソー」という楽器の名が紹介されていた。通称「のこぎりバイオリン」だそうだ。これも通称が「宛字・義訓」と同じ効果を醸し出しているような氣がする。「バイオリン」を中国人は「手に提げる琴」と翻訳し、「小提琴」と宛てている。これを受けて日本でも「提琴」と書く。「ミュージカルソー」という知名度が低いこの楽器が、「のこぎり……」であれば、さしずめ「鋸提琴」という漢字が当たるのかなどと物事を考えて漢字表記する。こうしたことばの楽しみを味わってみるのもよい。

[余録:カタカナ用語の宛字]

ウオッカ【火酒】、オルゴール【自鳴琴】、ガス【瓦斯】、コーヒー【珈琲】、コップ【酒杯】、スープ【肉汁】、ズボン【洋袴】、テーブル【卓子】、デッサン【素描】、トンネル【遂道】、バナナ【甘蕉】、ハンケチ【手巾】、ハンドル【把手】、ビール【麦酒】、ブラシ【刷毛】、メダル【賞牌】など。

1998年3月25日(水)晴れ。駒澤大学卒業式“おめでとう”>

世に問へば 行く道すがら まだにしも

「道可道非常道」

○「……この対聯の道道無常道という言葉ね。これはもとは老子の言葉ですよ。老子の言葉をもじったんです。この世に絶対不変の道、絶対不変の真理などというものはないのだ、というね。しかし、まあ、毎日、ささやかな別天地というものはある。と。だから天天小有天というわけです。料理屋の壁にかける科白としては名言だということ。もともと老子は、道可道非常道と言ったね。知っていますか。あなたなら知ってるでしょ。道ノ道〔イ〕ウベキハ常ノ道ニアラズ、というんですよ。口にだして言えるような真理はたいした真理じゃないと、こういうんです。それをもじったのがこの対聯ですワ」[開高健『珠玉』四七L]

 「道可道非常道」の「道〔タオ〕」について「…何しろ口で説明できるものではないという根本的な問題には何一つとしてふれていない。道の理解はむつかしいものなんだということを語っている点ではその話は賢いし、正しい。けれど、やっぱり口で説明しょうとした点ではまちがってる。むつかしいですね。道はむつかしいです」と受ける。「口で説明できるものでもないしね。だまって眺めているだけでいいんだ。」と感得する。「経験という果実はつぶして、砕いて、形を失わせてから酒にしなければならないが、いつ頃まで寝かせればいいか。それがわかるようでいてわからないことである。」また、孟子はこの「道」を「道在邇而諸遠」〔道は近きにあり、しかるにこれを遠きに求む〕と表現している。都の風は、あなたがたをどう導いていくのかは知れない。私自身、何年かかってもうまくつかめない、でも諦めてはならないのである。

1998年3月24日(火)晴れ。

芽吹き草 いよかな風に ここまでも

「はんなり」

 開高健さんは、『珠玉』(初出「文學界」1990年新年号)のなかで「はんなり」ということばをこのように説明し、珠玉を「はんなり」ということばで自らも表現している。

 この「はんなり」の語だが、国語辞典の収載は、現在では未収載のものはない。が、近代日本国語辞典の歩みを考える時、大槻文彦編『大言海』にこの語が一地方語として収載をみなかった事実を知っておきたい。続く上田萬年・松井簡治共著『大日本国語辞典』は「(副)はなやかなるさまにいふ語。今宮心中上「跡へはんなり入れ花の、茶びんご橋はこちこちと」」とこの語を収載する。岩波『広辞苑』(初版未調査、第二版には収載)の祖本『辞苑』(未調査)の親類筋ともいう、新村出編『言苑』(博友社・昭和13年刊)は未収載である。

新明解『国語辞典』(第五版)、副詞として「〔京阪方言〕明るくてはなやかこと」。

岩波『国語辞典』(第四版)、副詞として「上品ではなやかな感じがするさま。「―(と)したお召し物」▽関西方言」。

新潮『国語辞典』、副詞として「上品ではなやかなさま。関西地方でいう。「跡へ―入れ花の〔今宮心中上〕」。

学研・『国語大辞典』、副詞と自サとして「{副詞は「―と」の形でも使う}はなやかで、上品なようす。また、明るくはなやいだようす。「藤の花が―と咲いている」」。

とする。

岩波『古語辞典』、@明るくはなやかなさま。「晩唐の詩は当座は―とすれども」<中興禅林風月集抄>。「その時また―となりて」<評判・難波物語>A気がさっぱりとすること。はればれ。「急ぎ髪を剃り、―と数寄〔すき〕にあはん事をのみ思ひ」<咄・戯言養気集上>。

大修館『古語林』、副詞で「〔近世語〕華やかで明るいようす。上方で用いた語。<例>開き初めたる早咲き梅のはんなりと[近世歌謡・落葉集]」

とある。これらの辞書記載内容をまとめてみると、「はんなり」の語の種類は開高さんのいう「形容詞」と表現するものはなく、みなみな「副詞」(岩波古語だけが記さず。)であり、学研国は、「自サ」も表示し、現在でも関西・京阪地方で用いられていること。そのはじめは、近世江戸時代の初めに及ぶことばであること。意味は「上品で明るく華やいだようす」で草花の形容語表現はもとより、「娘、茶をはんなりと入れ」、「はんなりしといやす……えぇお嬢さんやわ…」(京ことば)などとあらゆる事物の形容、人の形容にも用いられていることが解かってくる。この「はんなり」だが、「はな+ほんのり」の合体した語「hanahonnori」が縮まって「hannari」が誕生したのではないかとか、「はななり【花形・花姿】」すなわち「hananari」が「hannari」と変化したか、「はなあり【花有り】」の「hanaari」が二重母音「aa」の「a」が脱落による「hanari」(私はこれかと思っている)などと推測できるのだが定かとはいえない。「はんなり」という形容表現「花〔はン〕なり」は、心地よい響きが漂う。いま、どのくらいのことばの広がりをもっていることばであろうか。

[補遺:現代の「はんなり」について]

・京都弁の変ぼう(消えゆく「はんなり」「ほっこり」)

1998年3月23日(月)夜半雪残り、曇りのち晴れ。

なごり雪 汚れ着飾り 麗しき

「浮気めかしい」

○男女の仲に言葉はいらない、目だけで済むというのは本当で、相手の目にちらっと流れた色気をるつ子はちゃんと読みとるのだし、はじめはそれが鋭敏にうす穢〔ぎた〕ない気がしたし、次には恥ずかしくてならなかったのに、今はもうその目の色がない男客はもの足りなく思えた。[幸田文『きもの』三〇八A]

 男を見る女の心の過程を「嫌悪>羞恥>好奇>魅力>もっと深く近づきたいと思う」と説明している。これを一言で統括表現するのがこの文例の冒頭「るつ子は自分が案外浮気めかしい心の持主だと気付いた。」という「浮気めかしい」ということばである。また、「割に浮気らしい、やわらかっ気の多い気性のようなのである。」とか「顔をさらす、とは自分の浮気っぽさを育てることであり、手あたり次第の相手の目に、かけらほど小さく浮いた男心でも見逃がしはしなくなることといえた。」といった類推表現につながっていく。

 この「浮気めかしい」という表現だが、「浮気〔うわき〕」(和語名詞)+「めく」(接尾語)=「浮気めく」(派生動詞)+「しい」(接尾)=「浮気めかしい」という派生形容詞が成立しているのである。『日本語逆引き辞典』(大修館書店刊)でこの接尾語「〜めかしい」表現を調べてみると、「今めかしい」「艶めかしい」「古めかしい」の三語が拾えた。『逆引き広辞苑』(岩波書店刊)でも「今めかしい」を除く後の二語が拾える。ここに取り上げた「浮気めかしい」なる語は、女性に限らず人の心の機微を見事に言い得て妙な辞書未収載の語表現のようだ。

1998年3月22日(日)薄晴れ。放送記念日<大相撲春場所千秋楽>

うすらっと 寒気遠のき 春間近

「神農さん」

 幸田文さんの小説『きもの』に、「神農さん」が描かれている。すこし長くなるが、引用してみることにする。

 そんなある秋の日、お祭りがあった。女の子は町内の揃〔そろ〕い浴衣を着たが、神輿〔みこし〕をかつぐ男の子は祭礼半纏をきて、鉢巻〔はちまき〕、足袋はだし、腰に本蒔絵〔ほんまきえ〕の印籠〔いんろう〕をさげている、生意気な子もいた。むらむらとその軽快な衣裳をきてみたかったが、女の子は一人もいなかった。さすがにその勇気もなかった。満たされない心で神社の賑〔にぎ〕わいを見て行くうち、ふとへんな絵に足をとめられた。薬屋が店をだしていて、へんな絵はうしろに張った幕へ描〔か〕いてある人物なのだった。大陸の人のような感じの顔で、白眼〔しろめ〕のところが水色に塗ってあり、顎〔あご〕にうすい髯〔ひげ〕が長くかきこまれていた。不思議なのはその着物で、譲葉〔ゆずりは〕のような大きな木の葉っぱを、屋根瓦〔がわら〕を葺〔ふ〕いたような形に、重ねて綴〔つづ〕ったものを着ていた。青っ葉の蓑を着ている、といってもいい。胴から出た裸の手には、なにやら草の枝をもち、膝〔ひざ〕からはむきだしのはだしである。気味のわるいような、異様にみえる人物だった。

「あのへんな人、なんなのかしらね。」

小さく言ったつもりが、薬屋さんにはちゃんと聞こえていた。

「これは神農〔しんのう〕さまそこいらの草を抜いては、一本一本自分の舌で試してみて、薬草を選〔よ〕りわけてくれた、偉い人だよ。お百姓の神様だから、神農さまというのさ。

神農さまのほかに、幕には二股〔ふたまた〕になった朝鮮人蔘〔にんじん〕や、梅の実のようなものを真二つに割った説明図がかいてあった。がやがやしたお祭りの賑わいに、そこだけが釣合〔つりあ〕いわるく沈んでみえた。

神農さまの着物、どうなってるの。」

おばあさんや母では間に合うまいと思って、父に訊〔き〕いた。

「なんだい、急にまた何をいいだしたんだ。」

「薬をつくった人だって。」

「ああ、神農か。お祭りに出ていたんだろう。おまえが気をとられそうなものだな。」

「あの着物、どういうふうになっているのかしら。葉っぱ縫ってあるの。貼〔は〕ってあるの。」

「さあ、わからいないな。昔のことだから、木の皮でも剥〔は〕いで糸代りに吊〔つる〕してあるんだろう。あれが気に入ったのか。」

「気に入るかどうか、着てみないとわからないけど、葉っぱさえあればこしらえられるかと思って。」

「いいかも知れないよ。だけど青っ葉じゃ、一日着たら枯れるだろうから、毎日着物で大忙しだ。」

父のそうした冗談を冗談とはきかず、るつ子は青い広葉の代りに、こまかいけれど、枝一杯に葉の群がっている萩〔はぎ〕を、何本も折って帯から並べてぶらさげた。それは無駄骨〔むだぼね〕折りだった。ちっともいい気持でも、美しくもなかった。下に揃い浴衣をきているせいで、裸でないからだとは思うものの、神農の白眼の青い、うす髯の顔が、木の葉をまとって立つ絵の、あのなんともいえない様子とは、似ても似つかないことだった。[新潮文庫三九J〜四一G]

 「神農」伝説には、薬草実践研究の集大成ともいう『神農本草』があり、365種の薬草を記した。占いの八卦や五弦琴を作ったとされ、最後は薬草の舐め過ぎで猛毒にあたって命を落としている。その毒草を「断腸草」という。この祭りの香具師〔やし〕を神農と呼ぶのは、源頼朝の命を浮けて、諸国の動静を探っていた長野録郎高友が身分を隠すに薬売りに扮して、各地で啖呵売〔たんかばい〕をしていたことによるとされている。香具師は節目節目に「神農」の掛け軸を飾るとうことだ。さらに、お茶も薬草として投与され、ここにも「神農さま」は、関わっている。話しはこうだ。「ある日、木陰で神農さまがやすんでいた時に、偶然お湯のなかに茶葉が舞いおり、これを飲んでみたところ、渋味がきいていて、とても妙味であったと言うことでやがて人々の間に薬草として広められた」というものです。もう一つ「農事の神様」への歩みはどうか、中国神話と言いながらその伝承はみえない。平凡社『世界百科大事典』の白川静さんの記述によれば、『孟子』滕文公、『易』昔辞伝下、『淮南子』脩務訓、『荘子』盗跖などをあげている。同じく「炎帝神農」の小南一郎さんは、「中国太古の伝説的な帝王。」と記し、「姓は姜(きよう)。母の女登は神竜に感じて彼を生み,人身にして牛首であったという。聖徳があって帝位につくと,陳に都を定め,耒(らい),耜(し)などの農具を発明して穀物をうえることを人々に教え,市場の制度を創始するなどして民生の安定につとめた。また草木を嘗(な)めて薬草を探し,《神農本草経》4巻を著したとされる。皇甫謐《帝王世紀》,司馬貞《補史記》三皇本紀を参照。」と詳述している。

 この「神農さん」は、草木をなめて効能を調べ、人々に教えたという中国医薬の神様で、古くから薬屋などで奉られている。薬の町、大阪道修町〔どしょうまち〕などでは「神農祭」が催されている。木曽には「神農茶」というお茶の銘柄が知られ、湯島聖堂には「孔子廟」と「神農廟」がある。香川県三野町では、町のイメージキャラクターを「神農」としている。今も受け継がれるこの「神農さん」だが、国語辞典には、未収載である辞書もないわけではない。

1998年3月21日(土)薄晴れ。彼岸の中日<明石海峡大橋開通>

土隠し 白き物替え 繰り返し

「おっぺす」

 幸田文さんの『きもの』を読むと、昨今耳にしない聞かれなくなったことばに出会う。この「おっぺす」の表現もその一つである。意味は「押しつぶすさま」をいう。実際の用例はこうだ。

  大勢のいる会社で働きたかった、でも来てみれば、ここで第一におぼえなくてはならなかったのが、身分ということで――新米で、しかも女の子の私は会社中でいちばん下の身分です。私から社長までのあいだに、何段の段があるのか、とにかく身分の順にすわっている人々の名簿をみただけで、おっぺされるような気がして、気が遠くなりました――とある。ゆう子からは電話があった。[新潮文庫二四〇H]

 「おっぺす」は、「おしへす【押し圧す】」の音便化表現で、幸田さんの作品『おとうと』にも、「だってぼく、あいつおっぺして起きたっておぼえないよ」と使われ、この用例はすでに学研『国語大辞典』に収録されている。ちなみに「おっぺす」を収載する国語辞典として、新潮『国語辞典』がある。そして、新潮『現代国語辞典』には、俗語「おっぺしょる」(「押しへし折る」の転で、力を加えて折る。へしおる。「折ツぺしょれてしまひさうだった」〔鮫人〕下一段の例)を収載している。

1998年3月20日(金)夜半風強く雨後雪に。

雨模様 白きも土に 含まるる

「護符」とその文句

 「護符」なるもの、神仏の加護をこめて、病気とか災厄の難除けに札や紙片に呪文・神仏の名・経文などを記したもので、護身符として絶えず身につけたり、方位をさだめて壁に貼り付けたりする。たとえば防火のための「護符」には、「紫微鑾駕〔シビランガ〕」の文字が記されている。新潮『国語辞典』によれば、「紫微鑾駕」の文句では収載されていず、個々に「紫微」は、「天帝の居所とされる天体。北極星のまわり。転じて王宮。禁城。紫微宮。〔字類抄〕」とあり、「鑾駕」には、「天子の乗物。鸞車」とある。この二つの語が防火の呪いとなる謂れはここでは知れないのである。(因みに最近発売された平凡社『世界大百科事典』(CD-ROM版)によって検索してみたところ、全文検索でも「鑾駕」の語は未収載であった)。

 次に、日本各地(京都八坂神社など)のお守りには、「蘇民将来〔ソミンショウライ〕子孫」の文字が記されている。この「蘇民将来」も同じく手近な新潮『国語辞典』を繙くに、「(南海に行った素戔嗚尊〔スサノオノミコト〕を蘇民将来という者が厚遇したため、尊は恩に報い、疫病を免れさせたという伝説から)疫病よけの護符にしるす語。また、その護符。柳の木で作った六角の搭状の棒のほか、木札・紙札もある。〔釋日本紀〕〔運歩色葉〕」とあって文句の内容が大略で知れるのである。

 室町時代の古辞書『下学集』によれば、「急急如律令〔キュウキュウニョリツリョウ〕」という文句が当時一般によく流布していたことが知れる。

 キウキウニヨリツレウ【急急如律令】

  神符ノ上ニ所書之ノ文也。言一切之悪鬼〔[アク]キ〕魔事〔マシ〕行〔−〕スル邪道〔シヤ[ダウ]〕ヲ者ノ教誡〔ヲシヘイマシムル〕ヲ之ヲ曰フテ急急如律令ト皈〔カヘス〕正道ニ也。律令ハ法度也。又事文類聚〔ルイジユ〕ニ曰ク律令ハ者雷辺〔ライヘン〕ノ捷鬼〔セウ[キ]〕ナリ也。愚謂〔ヲモヘラク〕事文類聚ノ意ニ言ク一切ノ悪事不ルコトハ蹤迹〔ジウセキ〕ヲ可シ如クナル律令ノ鬼ノ疾〔ト〕ク去〔サル〕カ。[神祇,元和本36-5]

この「急急如律令〔キュウキュウニョリツリョウ〕」について近代の国語辞典『大言海』には、「支那の漢代の公文に、趣意を書きたる末に、この旨を心得て、急急に、律令に示したる如くせよと云ふ意にて、此の如く爲〔せ〕よと云ふ語なり。後に、道家、陰陽家の厭勝〔まじなひ〕の符、祈祷僧の呪文〔ジユモン〕の末に用ゐて、悪魔を駆りて、速に去れと云ふ意とし、又、武芸伝授の書の末に用ゐて、教に違ふ勿れの意ともしたり。」と記載している。護符の文句を、意外とことばの辞書には詳述しているようだが、まだ謂れの知れない文句もあろうというものだ。

1998年3月19日(木)曇り。

風の音 強く揺らして 窓辺聞き

「おいてきぼり」と「おいてけぼり」

 置き去りにすること、後に残るものを見捨てて去ることの意の「おいてきぼり」と「おいてけぼり」の下接表現には、「―にする」(する側)や「―をくう」(される側)がくる。この「おいてきぼり」「おいてけぼり」を漢字表記にして合成内容をみると、「置いて来+堀」で、「置いて来」と「堀」に分解できる。前の語「置いて来」は句成分で「置く+て+来る」で、前後の和語動詞を接続助詞「て」でつなぐ表現からなっている。通常の複合動詞は、接続助詞「て」は用いない。同意の「置き去り」は「置き去る」の連用形「置き去り」の名詞化で「おきざり」と読むようにである。接続助詞「て」を挟む類語句には、「やってくる」がある。「やってき」、「やってけ」が活用表現になる。両語とも勧誘・命令の口調で用いられる。また、後の語「堀」だが、上接語と合成にともない「ぼり」と濁音化する。膠着部分があらわれた表現である。「堀」の上接には「内堀〔うちぼり〕」「外堀〔そとぼり〕」「釣堀〔つりぼり〕」「道頓堀〔ドウトンぼり〕」などと合成していることで理解できよう。

 当面の「置いて来ぼり」だが、「おいてきぼり」と「おいてけぼり」と二様が用いられ、国語辞典の見出し語にどちらを記載しているのか氣にもなるものである。また、事の謂れ(江戸の本所七不思議のひとつで、この錦糸堀の池で夕方魚釣りをすると、水の中から「置いてけ、置いてけ」という声がするという言い伝えからこの名がつく。余談だが「おいてき」の声の方が女性で、「おいてけ」の声の方が男性かなと思ったりしている。)を記載するか否かも注意してみることにしよう。

T、見出し語「おいてきぼり」

@(事の謂れを記載する)

  岩波国・明治書院精選国

A(事の謂れを記載しない)

  新明解国・新選国(なかに「おいてけぼり」を記す)

U、見出し語「おいてけぼり」

  新潮現国(なかに「おいてきぼり」を記す)

V、見出し語「おいてきぼり」「おいてけぼり」

@(事の謂れを記載する)(「おいてけぼり」に意味内容を置く)

  新潮国・学研国・小学館国大(CD-ROM版)・大辞泉(CD-ROM版)・大辞林(CD-ROM版)・広辞苑(CD-ROM版)

 [補遺]小学館国語大辞典には、他にない次の意味が付加されている。

   2、品物を取り上げて、代金は支払わないこと。

      3、(魚を全部返すまでは、その呼び声がやまないというTの故事からか)強情っぱりなこと。執念深いこと。また、その人。

W、未収載

  大言海

 このように辞書の記載収録方法には、それぞれ編纂者の意図があるようである。両語とも見出し語にすえる大型国語辞典は、「おいてけぼり」の本来の言い方に重きを置いている。逆に現代人の物言いを考えてか用例重視という立場にある小型クラスの国語辞典は、「おいてきぼり」の語を優先しているようだ。こうした「事の謂れ」に関する語の収載の取り扱い方は、ことばの成り立ちを含め、興味をそそる語の一つでもある。今後の記載収録の行末を考えるとき、参考までにこうした「事の謂れ」を収録してほしい氣がする。いかがなものか。

[ことばの実際]

 ○父も母も木綿夜具でおいてきぼりにして、自分だけ絹をふくふくと、よくも新調できたものだ、と腹が立ってくる。[幸田文『きもの』新潮文庫一三六O]

 ○母ひとりをおいてきぼりの目に合わせているような、気の毒さ申訳なさがくるのである。[幸田文『きもの』新潮文庫一七八I]

1998年3月18日(水)晴れ。

雪の嵩 また少し減り 春に向く

「思惑」

 知の代名詞『広辞苑』をして“焚書〔フンショ〕”の刑に処した陶芸家・西村陽平さん「千二百度の窯で焼くと紙は燃えず、文字だけが消える。紙質によって蛇腹状になったり、花が咲いたように華麗に変貌することも」、「手法は過激ですが、形の変容を面白がっているだけ。“知識人批判”などの深い思惑はないそうです」と『読めない本・新たな文字展』(東京・三鷹市芸術文化センター22日まで)の担当学芸員の荒木夏美さん。

 引用が長くなってしまったが、この「思惑」という表現、「おもワク」と湯桶読みの混種語である。「疑惑」「幻惑」「蠱惑」「困惑」「昏惑」「当惑」「不惑」「魅惑」「迷惑」「誘惑」「妖惑」と迷いのもとになる煩悩は数々あるが、この「思惑〔おもワク〕」には迷いがないのである。それもそのはず、和語動詞「おもう」の未然形「おもわ」に接尾語「く」を接続した派生語なのである。この種の語に「恐らく」がある。ということは、「思惑」は宛字であり、この宛字はどうも経済相場の「思惑買い」とか「思惑筋」などと用いられたのが近年いつのまにか「思うことには」の意に用いられるようになっていった語である。であるからにして、『大言海』には未収載の語である。また、幸田露伴『風流佛』第六・如是縁に、

「爺〔ぢい〕が身に覚〔おぼえ〕えあつてチャンと心得てあなたの思わく図星〔づぼし〕の外〔はづ〕れぬ様致せばおとなしくして御待〔おまち〕なされ」[日本近代文学大系6、五九@]

とあり、「わく」の部分を仮名書き表記していることからも解かる。

この「思惑」、漢字では同じ仲間のようにみえても、成り立ちが異なることを知っておきたい。

1998年3月17日(火)晴れ。札幌

待ちきれぬ 世のならひにや 風まかせ

「八葉三実一花」

 「ハチヨウサンみイチはな」と読む、これはキリンの缶入り茶飲料の名前である。漢字の傍らに読みがながついていることでなんとかこうとうか読めるわけだ。この読み自体音訓まぜこぜにしたものである。漢数字「八」「三」「一」の組み合わせは、これまではなかった。すべて合わせて「十二」で十二種の葉・実・花が調合された漢方薬風飲料なのである。

 まず「八葉」だが、「ハチエウ」と音読み。次に「三実」は「サンみ」と重箱読み。最後の「一花」も「イチはな」と重箱読みとなる。

漢数字には、妙な取り合いが存在している。ことば遊びにも「千千千千千千千千千」と書いてどう読むか?千が九つある。音読みが「セン」で、訓読みが「ち」である。さてあなたはこの文字をどう読み解くか?

[解答:泉岳寺〔センガクジ〕センがくジ]

1998年3月16日(月)晴れ。

雪雲の 近づく気配や 冷氣増す

「灰」の読み

 「灰」の字音は「カイ」。字訓は「はひ(イ)」となる。次に以下の熟語の読み方を確認しておこう。灰重石〔カイジュウセキ〕。灰塵〔カイジン〕。灰燼〔カイジン〕。塵灰〔ジンカイ〕。石灰〔セッカイ/いしばい〕。木灰〔モッカイ/きばい〕。洋灰〔ヨウカイ〕。灰汁〔あく〕といったふうになる。このなかで氣がつくのは、ほとんどが音読みであること。こうしたなか、音訓両読みの語もあることに氣づく。最後の「灰汁」は義訓という。ここで音訓混用の混種語は、この「灰」の語にどう使われているかを調べてみるに、「骨灰微塵」の読みが実際これにあたる。

コツぱいミジン【骨灰微塵】細かに打ち砕くこと。(新潮『現代国語辞典』による)

「骨灰」は音読みすれば、「コッカイ」だが、これを「コツばい」とか「コッぱい」と重箱読みする。ことばの実際も二葉亭四迷『浮雲』に、

○腹立紛れに贋物を取ッて骨灰微塵〔こつぱいみじん〕と打砕き、ホッと一息吐〔つ〕き敢えずまた穿鑿〔せんさく〕に取懸り、また贋物を掴ませられてまた事実〔もの〕にしてまた打砕き、打砕いてはまた掴み、掴んではまた打砕くと、何時まで経っても果〔はて〕しも附かず、始終同じ所に而已〔のみ〕止ッていて、前へも進まず後へも退〔しりぞ〕かぬ。[新潮文庫九一頁]

とその用例を見ることができる。この混種語読みが「カイ」の字音をしだいに薄くしているのではないかというのが今回の提唱である。たとえば、「降灰」を「コウばい」と発音してしまっている。正しく読むと「コウカイ」で、国語辞典も「コウばい」の混種読みは認知していない。和訓「はい」は歴史的仮名遣いで示せば「はひ」であり、二拍名詞の語源はなかなか定説をみないが、服部宜『和訓六帖』物名・天部には、「端火〔はしひ〕也」、大槻文彦『大言海』には、「死火〔はてひ〕の略か」と説明している。いずれも第二拍「ひ」は「火」が元となっていることが解る。「不知火」を「しらぬい(ひ)」と読むに等しい。この「火」を「い」で表記せずに「ひ」で表記すれば、この字音「カイ」の読みが字訓「はひ」ということで誤用意識が保たれはしまいかと思ったりもする。如何なものであろうか。

 因みに「灰」の漢字は、実は「厂〔がんだれ〕」ではなく、「火」を「手」でかき回しているものの図であった。『大言海』はこの字体を遺している。

1998年3月15日(日)一面の雪、晴れ。苫小牧<駒澤苫短大卒業式>

樽前山 くっきり麓に 新大学

「…ませ」と「…まし」

「…ませ」の上接は「ください」などがくる。文書語では、この「…ませ」を表示したことばはほとんどお目にかからないのが常である。強いて言えば手紙文ぐらいだろう。ところが、店内や車内サービスのアナウンスなどには「どうぞごゆるりとお寛ぎくださいませ」と文末にこの「…ませ」をつけて表現する。この「…ませ」は「ます」の勧誘形である。大半は、女性が用いる言い方である。昔は、女主人がこの「…ませ」の類語表現である「…まし」を親愛をこめた丁寧な勧誘表現として用いていたのをよく耳にした。こんな風にだ。「どうぞお上がりなさいまし」と特定人物に親愛勧誘で促す。逆に「…ませ」の方が「…まし」より一般普遍性を有している表現でもあることは確かのようである。

たとえば、店の暖簾をくぐると、店員が開口一番「いらっしゃいませ」というか、「いらっしゃいまし」というのかで店の品格が知れようというものである。昨今は前者の「…ませ」の表現が多くなってきていると感じるのは私だけではないと思っている。

「…ませ」が東京語の山の手の高踏性であるとすれば、「…まし」の語表現は、下町の庶民性の勧誘表現のことば表現とも言えまいか。このことばの実際を見ていくことにしょう。

二葉亭四迷『浮雲』の、

「些とお遣〔つか〕いなさいまし」トお勢は団扇〔うちわ〕を取出〔とりいだ〕して文三に勧め「しかしどうしましたと」[二二頁]

この表現は親愛な庶民風下町の会話表現と捉えることができる。

1998年3月14日(土)曇り。<長野パラリンピック>

自転車よ 初乗りの道 朝開き

「後引き」

 昭和56年7月5日NHK・FM放送「日曜喫茶室」気象学者根本順吉さんの談に、「関東地方は、低気圧が過ぎ去っても天気がよくならないことがあります。これをあとびきと言います。」という表現がカード資料にあった。

 このとき、「後引き」をA「あとひき」とB「あとびき」と清濁ふたつの読み方をすることを国語辞典で確認している。例えば『大言海』では、Aのみ所収で、「飽クコトヲ知ラズシテ、限リナク欲スルコト。其習慣アル飲酒家ヲ、あとひき上戸ナドトイフ。」(新明解『国語辞典』第5版・新潮『現代国語辞典』もAのみ)とあり、『大日本国語辞典』では、A・B所収で、A「得るに従ひて、愈貪ること(多く飯食にいふ)」。B「酒などを盛る時、酒の銚子の口を傳ひて流るる滴り」とするといった具合であった。『日本国語大辞典』にはBAとして「邦楽で、最後のうたの終了後に弾く三味線の伴奏。後奏。小唄に多い。」が加味されている。だが、上記の気象用語の「あとびき」という表現は、国語辞典にはいまだ記述されていないのである。

1998年3月13日(金)曇り。<長野パラリンピック>

雨上がり 雪の笠さへ 跡無形

「あまのじゃく」

 現代の国語辞典にも引用されている「あまのじゃく」、このことばの語源は、解っているようで意外と解っていないのではなかろうか?新明解『国語辞典』には、「天の邪鬼」と書いて、

  1. わざと他人の言うこと、することに逆らう人。つむじまがり。あまんじやく。
  2. 仁王の像が足の下に踏みつけている、小さな悪鬼。

と使われる。明治のヘボン『和英語林集成』(第3版)には、「アマノジャコ」「アマノザコ」として収載され、第4拍以下「ジャク」のところに「ジャコ」「ザコ」といった語形変化が生まれていることも明らかになってくる。このことは、「邪鬼」の漢字は通常「ジャキ」と読まれ、「ジャク」の読みとは異なるに「あまのじゃく」といって「天の邪鬼」と表記することに対するささやかな疑問に近づくことともなろう。『日葡辞書』に、「Amanozaco(アマノザコ)<訳>物を言うと言われるある獣の名。比喩、サシデガマシイモノ」(『日本国語大辞典』の「天の邪古」に用例引用する)が収載する。

 一説に、『古事記』『日本書紀』神代の巻に収載される「天探女〔あまのさぐめ〕(補注:室町時代の古辞書『運歩色葉集』に収載)」によるのではという。だが、「天の邪鬼」の語が中世の古辞書や文学資料などに未収載という点が氣になるところである。

 二の説に、仁王や四天王の足下に踏みつけられている悪鬼、毘沙門の腹帯の鬼面の名をいう。室町時代の古辞書『(土蓋)嚢抄』巻第十17,[三八四頁]に

常ニハ。是ヲ河伯面〔カハクメン〕ト云。大國ノ鎧ノ具也。毘沙門ニ限ベカラズ。佛師ハ是ヲカハヌト云。河伯面ヲ畧スル詞歟。又云誤〔アヤマ〕ル歟。又ハ秦皇ノ装束〔シヤウゾク〕ニ是アリ。ヲビクヒト云也。帯食〔ヲヒクヒ〕ト書。或ハ帯頭ト書ク。則河伯面也。河伯面トハ河ノカミノ面〔カホ〕ヲ模造〔ウツシツク〕レハナルヘシ。河伯ノ事。抱朴子〔ハウハクシ〕ノ鬼ノ篇ニ釋テ云ク。馮夷〔フイ〕人名溺死〔テキシヽ・ヲホレシニ〕テ河伯ト成ルト云々。馮夷〔フイ〕ハ花陰ノ人以テ‖八月上ヲ|。河ヲ渡ルニ溺〔ヲボ〕レテ死ス。天帝暑〔シヨ〕シテ爲河伯ト|云。花陰ハ所名也。又金傳云。河伯ハ花陰郷人。姓馮氏。名ハ夷於‖河中ニ|而溺レ死ス。是ヲ爲河伯ト|云々。子細知ヌ人ハ。帯頭ヲアマノジヤクカ頸〔クビ〕ト云ハ。僻事〔ヒカコト〕也ト云々。凡テハアマノシヤクト云。ヲボツカナキ事也。古キ日記ニ云。アマノジヤクト云事未知。日本記ニ天採女〔アマノサイメ〕ト云事アリ。若シ是ヲ云誤ル歟ト云々。或書ニ云。河伯面是ヲ海若〔アマノシヤク〕ト云。

と記されている。この@の「天採[探]女」とAの「天の邪鬼」とが、いかなる時期に結合されたかを今後考えていかねばなるまい。『(土蓋)嚢抄』の云う「古キ日記」や「或書」がいかなるものかもまだ明らかでない。

 この「あまのじゃく」の意として、上に表示した以外に『現代日本語方言大辞典』(明治書院刊)には、京都の古い言い方に「イッパモン」。大阪では「反対打ち」。福岡では「山川人〔やまかわジン〕」。佐賀では「カッチャービキ」。熊本では「モジャー」「モッコス」。秋山では「モジロ」。埼玉では「ごじ屋」といった表現が収集されている。

1998年3月12日(木)晴れ後雨。<長野パラリンピック>

卒業に 子らがつどいし 春間近

「ラッコ」

 昨日の続きになる。大槻文彦著『北海道風土記』巻20の産物・海獣の「ラッコ」と『言海』の同項目を同じように比較して見ることにする。

『北海道風土記』

猟虎〔ラツコ〕「ラツコ」ハ土言ナリ。支那人音ヲ以テ猟虎ノ字ヲ填ムルモノト云。「ヱトロフ」「クナシリ」「ネモロ」辺ノ土人初夏ヨリ「ウルップ」嶋ニ渡リテ採ル。大サ六七尺、毛厚ク柔カニシテ上下縦横ノ分ナク靡クナリ。色紫黒色席皮ノ上品トス。此獣海上ニ浮ム時ハ腹ヲ上ニシテ浮遊セリ。又嶼岩ニモ上ルト云。四足アレトモ極メテ短シ。大畧ノ形狸ニ似タリ。

『言海』

ラツコ【猟虎】外来名詞〔蝦夷語の音訳字なるべく思はる〕海獣の名、氷海の産、蝦夷海に多し、魚介類昆布等を食とす、大なるは五六尺、形、狸に似て、髭あり、四脚、尾、共に短く、毛色暗褐にして極めて柔軟なり、四方に摩するに順逆なし、毛皮の最上品として、価極めて貴し。海獺

と両書を比較してみて氣づくのは、大きさが六七尺(風土記)が五六尺(『言海』)としていること。文彦自身、「ラッコ」を実際に見ていないからこの点確乎たる数字でないことは仕方があるまい。現在の国語辞書でも数字の揺れはある。類似する獣として「狸〔たぬき〕」を両書とも記していて共通する。実際は、「カワウソ」に類似するのだが、「川獺」は一般認識の範疇から遠い獣だったのかという疑問が新たに生じてくる。毛皮については、彼自身手にしたものであろうか、色・質についての記述はほぼ等しい。海上での行動記載について、風土記では「腹を上にして浮遊する」こと、『言海』では「魚介類昆布等を食とす」と記述内容は異なっている。この両書の行動記載を併合したらよいのではないかと思うところだ。

「ラッコ」の辞書記載については、古くは文明本『節用集』にみえる。また、江戸期の『和漢三才図絵』にも収載されている。これらすべて毛皮品としての「ラッコ」として伝来したことばである。ちなみに現代の辞書『大辞泉』(小学館CD-ROM版)には、

らっこ【△猟×虎・海=獺・×獺×虎】

《アイヌ語から》イタチ科の哺乳類。海で生活し、体長約一・二メートル、尾長四〇センチ。全体に黒褐色から灰褐色で、四肢の指に水かきがある。海上であおむけに浮かび、腹の上に石をのせ、アワビ・ウニなどを打ちつけ殻を割って食べる。かつては北太平洋沿岸に広く分布したが、すぐれた毛皮のために乱獲されて激減、保護されている。(補注:体長は11.2mに達する。[エンカルタ98])。

と表示されているのである。

1998年3月11日(水)晴れ。<長野パラリンピック>

目で見てよ こころの芽にも 音響く

大槻文彦著『北海道風土記』

 大槻文彦著『北海道風土記』巻20の産物・海産の最初「鮭〔サケ〕」を読む。

鮭〔サケ〕或ハ過猟魚、〓〔魚+厥〕魚、松魚。土言「シベ」。毎所極メテ多ク土人ノ以テ食トシ生活スルハ只此ヲ頼ムナリ。食料第一トス。但浦河ノ地ナク天塩川多ケレトモ漁セス。大島小島生セズ。択捉島ハ細切ニシテ蔵スルナリ。余市ノ産ヲ第一トス。奥地殊ニ多シ。初秋ヨリ河ニ上リ彼岸ニ到レハ河水ト等シ。雌魚尾ヲ以テ河底ヲ掘リ卵ヲ放セハ雄魚「シラ子〔コ〕」ヲカクル。如∨粘ニシテ魚卵河底ニ附キ流ルヽコトナシ。又イカナル細流トイヘトモ魚ノ上ラザル河ナシ。故ニ処ニヨリテ魚ノ余多上ル。故に洪水スルコトアリ。来春雪解ノ水ト共ニ魚卵小魚トナリテ大洋ニ至ル。其河ニテ生レタル魚ハ他ノ河ヘ上ルコトナシト土人河岸ニ立チ長キ棒ノ先ニ鈎ヲ付ケタルヲ以テ刺シテ捕ル。○鮭ノ子ヲ筋子ト云フ〓〔魚+厥〕魚子。

と記す。この記述内容は、実に詳細である。彼自身、北海道を訪れ探索した形跡はない。これはすべて、祖父盤水、父盤渓の調査した諸記録そのものを彼自身が仙台にてこのようにまとめたものである。この風土記が著作の最初であった。

 ここで、大槻文彦編纂の『言海』に注目したい。「さけ【鮭】」の項目をどのように彼自身記述しているのか?また、この記述の折に、この書をどのように引用したかを含めての推論である。

さけ(名)【鮭・C】〔裂〔サケ〕ノ義ニテ、肉ノ裂ケ易キニイフカト云〕魚ノ名、東北ノ海ニ産ズ、河海ノ間アリテ、秋、河ニ溯リテ子ヲ生ム、鱒〔マス〕ニ似テ、圓クシテ肥エ、大ナルハ二三尺、鱗、細カク、色、赤青クシテ、腹、薄白シ、肉、赤クシテ、細刺〔コボネ〕アリ、脂多クシテ、厚美ナリ、多ク、鹽引、又ハ、乾鮭〔カラサケ〕トシテ、遠キニ送ル、子ヲすぢこトイフ。シャケ。アキアヂ。

 風土記では、「初秋ヨリ」とするが、『言海』では「秋」と時節を規定するのは地域気候差を考慮したものであろう。風土記においては、この魚の形状は記さない。このことは、他の魚の記述にあっても同じである。風土記にあっては、魚の習性を詳述する立場にあるようだ。共通するのは、子を「筋子」(風土記)、「すぢこ」(『言海』)という部分ぐらいか。「しべ」という現地語の記述は、日本語に取り入れられたアイヌ語研究にして貴重なものといえよう。

「鮭」に続く語は、以下の如くである。

「鯡〔ニシン〕ヘロキ」「鱒〔マス〕シヤケンベ・ヘモイ」「鰯〔イワシ〕ポンセプ」「鱈〔タラ〕ヘレクシ」「鯨〔クジラ〕フンベイ」「亀〔カメ〕イチンケ」「蟹〔カニ〕アンハヤヽ」「針嘴魚〔サヨリ〕フンベテツポ」「〔アイナメ〕シリボツケ」「〔ブリ〕コイゴセツプ」「鰐〔ワニ〕チコハグイ」「鱠残魚〔シラウヲ〕シキベンシロ」「ツリ」「アフラコ」「ソイ」「イトウ」「ワラツカ」「ルヲコム」「鰈〔カレイ〕タンタカ」「鮫〔サメ〕イヘシヤルコルベ」「青貫魚〔サバ〕シヤバ」「松魚〔0〕ツモトツヲン」「章魚〔タコ〕アツイナウ」「〔マグロ〕シユンビ」「海〓〔海即〔タナゴ〕ホイト」「潜龍魚〔0〕チヤワサメ」「〔カスベ〕カシユベ」「棘鬣魚〔タイ〕ニノエセツプ」「鮒〔フナ〕タンバラ」「鱸魚〔スヽキ〕アイロ」「鍋盖魚〔アカエイ〕アイチコルベ」「ラウニベ」「比目魚〔ヒラメ〕シムシベ」「河豚〔フグ〕ユルシカセーツプ」「海鼡〔ナマコ〕ウタ」「〔カズ〕ハランツカ」「アメ鱒〔―マス〕トクシヽ」「蝦〔ヱビ〕ホロカデレケ」「キナホ」「煎海鼡〔イリコ〕」「海参〔イリコ〕」「金海鼡〔キンコ〕」「蚫〔アワビ〕アイベ、貝殻ナキ土語、ムイ」「烏賊〔イカ〕マシタンベ」「帆立貝〔0〕アンケデーツケ」「蜆〔シヾミ〕トビバ」「海膽〔ウニ〕ニノ」「アサリ貝〔0〕シユルツプ」「串貝」「牡蠣〔カキ〕カハルセイ」「ウルツケウ」「シマツパラテツ」「ペラニセイ」「イタシベホツ」「昆布〔0〕」「志野利昆布〔シノリー〕」「菓子昆布」

1998年3月10日(火)晴れ。富良野<長野パラリンピック>

ホテル「オリカ」(アイヌ語で丘の上という意)中富良野に宿泊

白きけぶり 遠く見遣るる 十勝岳

「文字漢字の読み」

あなたは次の語を正しく読めますか?

1、「秋田犬」〔あきたいぬ〕

*「あきたケン」とは読まない。外国種の犬名は、「ハスキー犬〔ケン〕」と音読みする。が、国内種の犬名は、「柴犬〔しばいぬ〕」などと和語で表現する。

2、「一日千秋」〔イチジツセンシュウ〕の思い

*「イチニチ」とは読まない。「当日」も「トウジツ」、「同日」も「ドウジツ」と「ジツ」の音で読む。

3、「緒戦突破」〔ショセントッパ〕

 三つほど挙げてみた。漢字が正しく読めていない昨今、国語における漢字読解のための習得の場が危ういようだ。暗記方式で教え覚えるのは簡単だが、これでは身についていかない。読むことの楽しさを知ってこそ覚えもよくなる。教育における優越性を抑制していくことでは、読みの能力は高まらないのかもしれない。

1998年3月9日(月)晴れ。富良野<長野パラリンピック>

充ち足るに 夢の上には 朝氣顔

「のに」

 チャリティゴルフの映像のなかで「美女相手のに苦戦」という文章テロップが氣になった。この美女とは、藤原紀香(26)さんのこと。さて、接続助詞「のに」による上下の体言句の関係はどのようになるのだろうか?

1998年3月8日(日)曇り。<長野パラリンピック・名古屋国際女子マラソン>

日本最高記録2:25:48で高橋選手(積水化学)が優勝

草臥れた 身も心とも 朝寝坊

「キトラ古墳」

 「キトラ古墳」(七世紀後半―八世紀初め)は、奈良飛鳥の高松塚古墳に近い位置にある。この古墳については、高松塚古墳との類似比較対照にある。共通点は四神(玄武・白虎・龍・朱雀)図と星宿〔セイシュク〕図(古代の天体図)にある。相違点は白鳳文化の象徴ともいえる「飛鳥美人」の女性群像が描かれていない点にある。

 さて、この「キトラ古墳」の「キトラ」だが、報道資料では上記のように片仮名表記している。この地名の由来について「キトラ古墳の名前はどこから、壁画の亀虎からか?地名の北浦がなまる?」と新聞やテレビで報道されている。高松塚古墳に次いで1983年文化財保護団体「飛鳥古京顕彰会」などがファイバースコープを古墳内部に入れて確認したことにより一躍注目され、四神の二つである「玄武(亀)」と「白虎(虎)」をあわせた「亀虎」の混種漢字表記があてられたりもした。其の後、この小山付近の古い地名が「きたうら【北浦・北裏】」であって、「kitaura」の「au」の二重母音が交替して「o」となり、「kitora」と発音されていたことが明らかとなった。これを受けて片仮名表記するに落ち着いたようである。ということは、本統の古墳塚の名は別にあることになる。この古墳塚の主が明らかになるまでには、まだ時間がかかろう。とすれば、この地名読みの異郷臭の響きをもった和語の「キトラ」が今後固有名詞として定着するのであろう。

 寅年の今年に調査する「キトラ古墳」。なにか語呂合わせをした感もしないではない。内部壁画の四神の排列順序も、四季の春夏秋冬、方角の東西南北、色彩の青赤白黒を持ってすれば「龍・朱雀・白虎・玄武」となる。四神像を奉る「門」の名として横浜中華街などにも残っている。『続日本紀』巻第二には、「大宝元年春正月乙亥、天皇御大極殿朝。其儀、於正門烏形幢。左日像・朱雀幡、右月像・玄武白虎幡。蕃夷使者、陳―‖列左右。文物之儀、於是備矣。」と記録されている。

1998年3月7日(土)吹雪のち曇り。<長野パラリンピック>

土の色 見えし翌日 朝吹雪

「適塩」

 「塩」は、生命をつかさどるになくてはならない調味食材なのである。この「塩」を適量に摂取することを「テキエン」といい、「適塩」と漢字表記する。一般の国語辞典には未収載の語でもある。発掘!あるある大事典「塩分の間違った常識大検証」(再放送)で、この塩の摂り方について番組は進められていた。「適塩」の量は人によって異なる。家族にサイレントキラーと異名のある高血圧症状の人が含まれていれば、料理方法も氣をつけることになるのである。減塩、減塩といって全くの塩断ちをするのもよくないことを伝えている。まして、小児から大人に成長する過程でも「適塩」は知っておきたいものかもしれない。

 料理の味加減からでた「塩梅〔アンバイ〕」は、よく耳にし見かける言葉であるが、塩梅よく味付けするという。とりわけ、日本料理につかう味噌・味醂・醤油などや漬物にも塩分は含まれている。一日一日の「適塩」は健康な生活をおくるためのバロメータのひとつなのかもしれない。塩をつかう工夫が情報開示のなかでどのように示されているのか知ってみるのもよかろう。

 [雑学コーナー]

角力の一日の取り組みに撒かれる塩の量は45`。

塩分摂り過ぎたときには、「カリウム」食材を食べるとよい。

1998年3月6日(金)晴れ。富良野<長野パラリンピック>

大木の まさに消えるや 鳥声なし

「なにげに」

 「なにげに」桃の節句という表現が3月3日(火)付、朝日新聞の社説で目にふれた。このことば、女子高校生のなかで用いられ、現代も使われつづけているとのことである。用例として「なにげに彼の話聞いたらすっごく重かった」が上がっている。もとは、辞書にもあがっている「なにげなく」が変化して発せられたことばでのようである。意味は、「何事にせよ、あまり期待していない気分」を表現する。この社説のなかで「ノーフレ」ということばも紹介している。すなわち、「ノーフレンド」の省略で、帰り道に一緒にコンビニをのぞくほどの相手がいないといった意味合いである。こうしたことばの発露から、一人ぼっちは嫌だが、かといって強烈な友人関係を臨んでいるわけでもないらしいと記している。人を思いやり、みずからも潤う生き方をしようとしていないことを伝えている。

電車のなかで話しともだちと語らっている女子高生。まわりの耳は気にならないようだ。「1番目の彼氏じゃないんだ。2番目だからしょっちゅう一緒にいなくても全然平気なんだ。」とこんな会話が「濃密手帳」にそのまま記録されていくのだろうか。

[補遺:ことばの実際]

1998年3月5日(木)曇り午後雨から霙。東京<長野パラリンピック>

鶴見川 下って上って 自然人

「間引き」

 中央線の車内アナウンス、

「今夕、大雪の降ることが予想されています。JR中央線では、午後9時より70%から80%程度の間引き運転を予定しております。お帰りの節は、運行時間をご確認のうえ、ご乗車ください」

といった内容のお知らせが数度にわたって放送されていた。「間引き」という表現が車両運行の一部を省略して運転する処置表現として使われている。辞書には、「間引き」の項目の用例句「間引き運転」として掲載されていることを確認している。

 この「間引き」という語の本来の意味内容である「子間引き」については、辞書はいっさい収載する立場にないようだ。いまは遠い時代のことのようにしてしまっているのではなかろうか。後藤和子さんの「石を積む」の詩の一節に「慈悲の心の袖の中に 僕達はなにを見るのだ いにしえ まびきされた子のうめきか ひざをまげ生まれない前の形をして死んでいる子のさざめきか ほぞのおを首にまきつけ死んでいった多指症の子のいびきか 石積む子らの手に彫られなかった指紋は僕の心の唯一の道しるべとなる」(詩集『さいかち』1964年刊)とある。「子間引き」の慣習は、働き手として役立たない女の子が対象であったこと知っておきたい。

1998年3月4日(水)晴れ。東京

コケッコー 時を告げしや 田舎風情

「喫茶店」の冠詞

 仕事場での雰囲気になじまないような話をしたいとき、「喫茶店」が実に便利である。この「喫茶」だが、昭和初期から現代にいたるまで数多くの冠詞をつけた喫茶店が誕生している。たとえば、「名曲喫茶」だとか「歌声喫茶」などはその代表格といってよかろう。他に「伝言」「昼寝」「占い」「ゲーム」「ジャズ」「ノーパン」などとその種類をあげたらどのくらいになろうか。調査してもよかろうが、どなたかすでに報告されていらっしゃるのではないかと思っている。

 現代を反映するものでは、インターネットが使用できる「電脳喫茶」、漫画だけを読む目的の「マンガ喫茶」といったものが主流にあるようだ。酒類をださないただ「喫茶」目的のみの店には「純喫茶」と特別に区別する意味から「純」を冠にして呼んでいた。

1998年3月3日(火)<雛祭り>晴れ。東京

梅の香に ひときは愛でし ふかせかな

「夏いぜ」、「きびかった」

 和語名詞に「い」語尾を付けて「形容詞化」した「夏いぜ」といった広告表現が目に留まる。これはLAL機内雑誌2月号、マリアナ政府観光局の宣伝で、

「BLUE! BLUE! BULE! 

   夏いぜ。 

 SAIPAN TINIAN-ROTA」(モデル:竹之内豊)

 まだ北の国では名のみの春の雪景色、こんなときに南国では太陽のもと、ゆったりした夏の気分を味わうといった世界を匂わせる新種のことばである。

 この新種の造語は、「春夏秋冬」といった季節感を超越した世界のなかで、初めて意味的効力を持ち、季節の異なる世界に数時間のうちに人々を誘っている現代の空輸機構の観光目玉的産物ともいえよう。類似することばに「ハクいぜ」という俗語があった。

 電車のなかで女子高校生ふたりの会話を耳にした。そのことばに、「きびかった」という表現がある。ことばの意味は、「厳しかった」のニュアンスに用いているようだ。これは形容表現の省略化で、シク活用「きびしい」の連用形、「きびしかっ」の「し」を発音しない用法である。

 この二つの形容詞の変成は、21世紀日本語の特色になり得るのかは、次世代の若者の手に委ねられているということになろうか。善い悪い、好き嫌いは別にして、このことばの流れ流れて行き着く先を見守っていくことである。

1998年3月2日(月)快晴。東京

はだら雪 元の木阿弥 夕べには

「抑止」

 本日、南武線で遅れがでた。このときのアナウンスに「矢野口の踏み切りにおいて制御停止ボタンが押され、いまこの状況確認のために上下線各車両とも各駅にてヨクシ【抑止】されています。発車までいましばらくお待ちください」と流れた。そして、この確認がなされて発車前に再度アナウンスで「ヨクシ【抑止】が解除されました。お急ぎの所たいへんご迷惑をお掛け申し上げましたことをお詫び申し上げます」と入った。僅か17分間の出来事であった。

 この「抑止」ということば、文章語としては「無謀な行動を抑制する」とか、「インフレを抑制して、通貨量・物価水準などを現状維持させる」のように、使うことでお目にかかるのだが、このような緊急停止の際のアナウンスにも用いられるのかとふと思った。訓読すれば、「おさえ、とどめる」であるからして、緊急制御信号が働き、各車両の運転進行をストップさせる。これまさに「抑止」であった。

1998年3月1日(日)大雪。東京

寒目覚め 都の地に居り 雪景色

「ハマる」

 「ハマる」ということば表現が氣になる。「はまる」は、本来、二進も三進もいかなくなって、己の心が全く動かなくなってしまう状態をいう。将来に向かっての目標や目的意識が薄れ、何も考えたくなる。時には、他人から仕掛けられた「罠にはまる」など、マイナーなことば表現である。

 現代語の「ハマる」表現には、マイナーさがない。そして、これという意志や理由もないのに自分からこの状態を受け入れる状況にあるようだ。偶然、そのものと出会って、穴に吸い込まれるかのように、のめり込み、そこから抜け出せないでいる夢中になっている有様なのである。

 若者は「たまごっち」「プリクラ」にはまり、大人も「携帯電話」や「パソコン>インターネット」そして「カードビジネス」にはまって暮らしている。そのすべてが安易な便利さにほかならない。これを動かす原動力である核がまるで目に見えないとき人は畏怖し、考えかつ疑って調べようとする。この意欲が「ハマる」ということばからは、なぜか感じられないことが氣になるのである。

 「ハマる」ことを避けるのではない。一人ひとりが多くの疑惑を実りの魅惑に変える、考える(創意工夫)姿勢を常に持続することで「生きる楽しみ」を持ちたい。このためには、若者は「おタク」となって一人悦に入り、おじさんは自分の得たものを目下のものをつかまえては教えたがる現況を打破し、この両者がほどほどに融合する社会交流の場を作らねばなるまい。彼岸の火事の火の粉は此岸に舞いこんできたいま、「ハマる」、「ハマらない」生き方も私たち人類に与えられた選択すべき最後のメッセージなのではあるまいか。

 

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