2002年10月1日から10月31日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 

2002年10月31日(木)晴れのち曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

(やなぐひ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「屋」部に、

(ヤナグイ) 本也〔元亀本202八〕

(ヤナグイ)〔静嘉堂本229五〕

(ヤナクイ)〔天正十七年本中44ウ三〕

とあって、標記語「」と「」との二種類の表記が見られ、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

石打征矢筋切府妻K箆矢鴻{鵠}本白等尻籠鷹羽雁俣鷲羽鋒矢各相具臑當」〔至徳三年本〕

石打征矢切符妻K箆矢?本白等尻籠鷹羽雁俣鷲羽鋒矢各相具臑當」〔宝徳三年本〕

石打征矢筋切符妻K箆矢鵠本白等尻籠鷹羽雁俣鷲羽鋒矢各相具臑當」〔建部傳内本〕

(エヒラ)_(ヤナクイ)__(ソヤ)__(スチキリフ)_K_(ノ―)(クヽイ)(タウ)羽鶴_白等尻_(シコ)_(マタ)(トカリ)_矢各相‖__」〔山田俊雄藏本〕

石打征矢筋切符妻K箆矢鵠羽鶴本白等尻籠鷹雁股鷲鋒矢各相臑當」〔経覺筆本〕

石打征矢筋切符妻K箆矢鵠羽鶴本白等尻籠鷹雁股鷲鋒矢各相臑當」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)には、

ヤナクヒ/云服盛矢器也濕痲同/俗用之〔黒川本・雜物中85ウ二〕

ヤナクヒ/云服盛矢器濕痲已上同/俗用〔卷第・雜物518六〜519一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「」の語を未収載にする。また、易林本節用集』には、

(ヤナグイ)〔器財137七〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その語注記は未記載にする。

 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

364(ヤナクヒ) 之亊也。〔謙堂文庫藏三七左C〕

とあって、標記語「」とし、語注記は、「の亊なり」という。

 古版『庭訓徃来註』では、

半首(ハツブリ)涎懸(ヨダレカケ)鎖袴(クサリハカマ)逆頬(サカツラ)(ヱビラ)(ヤナクイ) 半首(ハツフリ)ト云ハ。首(カシラ)ノナリニ銕(クロカネ)ニテハルナリ。〔下十一ウ八〜十二オ一〕

とあって、この標記語「」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(やなぐい) 是も矢をさす物なり。亦色々の品あり。の矢数ハ五手式なり。又の内に長さ三寸の鎗に五六寸の柄を仕付て身壽に指と云。ハ箙の次に准(じゆん)ずるゆへ平士たり。是を用るなり。〔47オ六・七〕

とあって、標記語「」の語注記は、「是も矢をさす物なり。また、色々の品あり。の矢数は、五手式なり。また、の内に長さ三寸の鎗に五六寸の柄を仕付て身壽に指すと云ふ。は、箙の次に准ずるゆへ平士たり。是れを用るなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(ゑびら)(やなくい)石打(いしうち)征矢(そや)筋切(すぢきり)符妻K(ふつまぐろ)箆矢(のや)(くゞいらう)羽鶴(はつる)本白(もとじろ)(とう)尻籠鷹(しこたか)(はね)雁股(かりまた)(とう)(わし)(は)鋒矢(とがりや)(おの/\)臑當(こしあて)相具(あいぐ)石打征矢筋切符妻K箆矢鵠羽鶴本白等尻籠鷹雁股鷲鋒矢各臑當ハ箙(ゑびら)に似(に)て輕粗(けいそ)なるもの也。是亦品類(ひんるい)あり。矢(や)を挿(さ)すこと壺(つぼやなぐい)ハ十筋を本式(ほんしき)とす。平(ひら)ハ廿一筋と云々。〔三十五ウ四・五〕

(ヱビラ)(ヤナクイ)石打(いしうち)征矢(そや)筋切(すぢきり)符妻K(ふつまぐろ)箆矢(のや)(くゞいらう)羽鶴(はつる)本白(もとじろ)(とう)尻籠鷹(しこたか)(はね)雁股(かりまた)(とう)(わし)(は)鋒矢(とがりや)(おの/\)臑當(こしあて)相具(あいぐ)す▲ハ箙(えびら)に似(に)て輕粗(けいそ)なるもの也。是亦品類(ひんるゐ)あり。矢(や)を挿(さ)すこと壺(つぼやなくひ)ハ十筋を本式(ほんしき)とす。平(ひら)ハ廿一筋と云々。〔63オ六〜ウ一〕

とあって、標記語「」の語注記は、「は、箙に似て輕粗なるものなり。是れまた、品類あり。矢を挿すこと壺は、十筋を本式とす。平は、廿一筋と云々」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「」の語は未収載である。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

やな-ぐひ(名)【】〔矢之杙(やのくひ)の義か、又、矢具笈(やのぐおひ)の略轉か〕矢を盛りて負ふ具。箙(えびら)に似て輕粗なり、十矢を差す。形、細そく高く、筒の如きを、壺と云ひ、丈短く、下に盆の如きものありて、背に棒を添へて矢を平らに立てたるを、平(ひら)と云ふ。倭名抄、十三7、征戰具「箙、夜奈久比、盛逆矢器也、胡禄」字鏡33「靫、兵戈之具也、也奈久比」雄略紀、廿三年八月「二(ヤナグヒ)之箭既盡、即喚船人箭」〔0779-1〕

と記載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「やな-ぐい【】〔名〕(矢の杙(くい)」の意という)@矢と矢を盛る箙(えびら)とを合わせて完備した物の具の呼称。箙にさす矢羽や矢箆(やの)の名称から、石打・鷹羽(たかのは)・中黒・鵠羽(くぐいば)、あるいは節黒などがある。A儀仗の矢を盛る容器。木製で細長い方立に背板(せいた)をつけ、矢を末広形に盛る平や靫(ゆぎ)の遺制を示す筒形の壺がある。ともに、蒔絵、螺鈿、木地蒔絵などの製がある。また、簡素なものに狩がある。[語源説](1)やのくひ(矢杙)の意か〔和字正濫鈔・大言海〕。(2)ヤノグオヒ(矢具笈)の略転か〔大言海〕。(3)矢の笈の意か〔南留別志・安斎随筆〕。(4)やなくみ(簗組)の義か〔名語記〕。(5)食物を喰む意のなくひから、箭を喰ませる意でいうか〔古今要覧稿〕。(6)やのくはへ(矢加)の義か〔名言通〕。(7)矢を並べてぬきやすく射やすいように作った意で、クは早、イはいる(射)の意か〔和句解〕。(8)やくいれ(矢具入)の義〔言元梯〕」とあって、用例に『庭訓往来』は記載してない。

[ことばの実際]

(ヤナクヒ) 周礼注云音服夜奈久比唐令用胡二字 盛矢器也唐演]濕痲胡鹿二音箭室也。《十卷本『和名類聚抄』(934年頃)卷第五・征戰具七十三249I》

 

2002年10月30日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

(えびら)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「衞」部に、

(エビラ)〓〔竹+張〕(同)〔元亀本338三〕

(ヱビラ)〓〔竹+張〕(同)〔静嘉堂本404八〕

とあって、標記語「」と「〓〔竹+張〕」の語注記は、未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

石打征矢筋切符妻K箆矢鵠羽鶴本白等尻籠鷹雁股鷲鋒矢各相具臑當」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

石打征矢筋切符妻K箆矢鵠羽鶴本白等尻籠鷹雁股鷲鋒矢各臑當」〔山田俊雄藏本〕

石打征矢筋切符妻K箆矢鵠羽鶴本白等尻籠鷹雁股鷲鋒矢各臑當〔経覺筆本〕

石打征矢筋切符妻K箆矢鵠羽鶴本白等尻籠鷹雁股鷲鋒矢各臑當」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「」の語は未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)に、

(エビラ)〔器財門116七〕

とあり、標記語「」の語を収載する。次に、広本節用集』に、

(エビラ)〔器財門702一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(エヒラ)・財宝194六〕

(エビラ)・財宝160八〕 ・財宝150一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

(エビラ)〔器財179五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

363 云。付云也。是魔云、魔王表也。帝尺時、彼魔王矢数廿五ニテ射取給故、廿五刺也。是云也。其内大亊矢一有。是云也。大將ルト云亊无。縦矢射_尽打死トモ、此一ヘハ人大將知也。其時此シノ云也。〔謙堂文庫藏三七左A〕

とあって、標記語「」とし、語注記は、「負と云ふべし。付と云ふべからずなり。是は魔云く、魔王の頭を表すなり。帝尺の戦の時、彼の魔王を矢数廿五にて射取り給ふ故に、廿五刺すなり。是を箙の矢と云ふなり。其の内に大亊な矢一つ有り。是を体の矢と云ふなり。大將の矢を射ると云ふ亊无し。縦ひ矢を射尽し、打死にし給ふとも、此の一の矢を殘し給へば人大將と知るなり。其の時、此の矢を記しの矢と云ふなり」という。

 古版『庭訓徃来註』では、

半首(ハツブリ)涎懸(ヨダレカケ)鎖袴(クサリハカマ)逆頬(サカツラ)(ヱビラ)(ヤナクイ) 半首(ハツフリ)ト云ハ。首(カシラ)ノナリニ銕(クロカネ)ニテハルナリ。〔下十一ウ八〜十二オ一〕

とあって、この標記語「」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ゑひら) 矢をさす器なり。花箙・角箙・柳箙なととていろ/\の品あり。箙に矢をさす事計十四筋なり。又五筋乃事あり。此時ハ一筋本矢といふあり。是ハ羽中に名字官名をしるす。或ハ是を躰の矢とも云。死すまて残す矢なりとそ。〔47オ四〜六〕

とあって、標記語「」の語注記は、「矢をさす器なり。花箙・角箙・柳箙などとていろ/\の品あり。箙に矢をさす事、計十四筋なり。また、五筋の事あり。此の時は一筋本矢といふあり。是れは羽中に名字・官名をしるす。或は、是れを躰の矢とも云ふ。死すまで残す矢なりとぞ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(ヱビラ)(ヤナクイ)石打(いしうち)征矢(そや)筋切(すぢきり)符妻K(ふつまぐろ)箆矢(のや)(くゞいらう)羽鶴(はつる)本白(もとじろ)(とう)尻籠鷹(しこたか)(はね)雁股(かりまた)(とう)(わし)(は)鋒矢(とがりや)(おの/\)臑當(こしあて)相具(あいぐ)石打征矢筋切符妻K箆矢鵠羽鶴本白等尻籠鷹雁股鷲鋒矢各臑當ハ矢(や)を盛(もり)て背(せ)に負(お)ふ器(うつハ)なり。花箙(はなゑびら)・角箙(つの―)・柳箙(やなぎ―)等数品(すひん)あり。矢(や)を挿(さ)すこと廿四筋(すぢ)。或ハ五筋のこともありとぞ。〔三十五ウ四〕

(ヱビラ)(ヤナクイ)石打(いしうち)征矢(そや)筋切(すぢきり)符妻K(ふつまぐろ)箆矢(のや)(くゞいらう)羽鶴(はつる)本白(もとじろ)(とう)尻籠鷹(しこたか)(はね)雁股(かりまた)(とう)(わし)(は)鋒矢(とがりや)(おの/\)臑當(こしあて)相具(あいぐ)す▲ハ矢(や)を盛(もり)て背(せ)に負(お)ふ器(うつハ)なり。花箙(はなえびら)・角箙(つの―)・柳箙(やなき―)等数品(すひん)あり。矢(や)を挿(さ)すこと廿四筋(すぢ)。或ハ五筋のこともありとぞ。〔63オ五・六〕

とあって、標記語「」の語注記は、「は、矢を盛りて背に負ふ器なり。花箙・角箙・柳箙等数品あり。矢を挿すこと廿四筋。或は、五筋のこともありとぞ」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yebira.エビラ(箙) 日本人の用いるある種の矢筒で,中に矢の鏃の部分だけをさし込み,矢箆(やの)の部分は全部外に出しておくもの.※原文はColdre.→Vtcubo.〔邦訳815l〕

とあって、標記語「」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「-びら(名)【箙】」の語は、

-びら(名)【箙】〔蠶簿(えびら)(やなぐひ)の略にて、竹籠の竹箙(たかえびら)が、本なるべし、今昔物語、廿九、廿三語に「竹蠶簿(タカエビラ)、箭十ばかり刺したるを掻負て」とあり〕箭を盛りて、背に負ふ器。古製なるは、(やなぐひ)に同じ。後には、平(ひら―)に似たる製の物の稱となりて、逆頬(さかつら)(えびら)、柳箙、角箙、竹箙など、種種あり。矢の數、二十四本にて、其一本は、矢がらみの緒にて、鎧にからみつく。平家物語、四、橋合戰事「二十四刺したる矢を、指しつめ、散散に射る、矢庭に敵十二人射殺し、十一人に手負うせたれば、箙(えびら)に一つぞ殘りたる」。〔0277-4〕

と記載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「え-びら【】[一]〔名〕@矢をさし入れて腰に付ける箱形の容納具。矢をもたせる細長い背板の下に方立(ほうだて)と呼ぶ箱をつけ、箱の内側に筬(おさ)と呼ぶ簀子(すのこ)を入れ、これに鏃(やじり)をさしこむ。背板を板にせずに枠にしたものを端手(はたて)といい、中を防己(つづらふじ)でかがって中縫苧(なかぬいそ)という。端手の肩に矢を束ねて結ぶ緒をつけ、矢把(やたばね)の緒とする。葛箙(つづらえびら)、逆頬箙(さかつらえびら)、竹箙、角箙、革箙、柳箙などの種類がある。A能楽用の小道具。数本の矢を紐で束ね、箙に擬したもの。B連句の形式の一つ。箙にさす矢の数にかたどり、一卷二四句から成るもので、初折の表六句と裏六句、名残の表六句と裏六句、合わせて二四句を一連とした。[二]謡曲。二番目物。各流。作者未詳。寿永三年(一一八四)の春、摂津の生田の森の合戦において、梶原源太景季が箙に梅の枝をさして奮戦した故事に取材したもの。古名「箙の梅」。[語誌](1)「箙」の字は「十卷本倭名抄-五」「色葉字類抄」「観智院本名義抄」では「やなぐひ」の訓が付けられている。「やなぐひ」は、平安時代には朝廷で儀仗用などに用いられていた。平安時代末頃から衞府の随身や武士の使用していたものを指して「えびら」と呼ぶようになったと思われる。(2)「今昔-二八・三七」には「節黒の胡録(やなぐひ)の、雁袴二並(そへ)征箭四十許(ばかり)差たるを負たり。蚕簿(えびら)は塗蚕簿(ぬりえびら)なるべし」とあり、矢と容器とを含めて「やなぐひ」、矢を入れる容器だけを「えびら」と区別していたものと思われる。しかし、後には混同されることもあったようで、易林本『節用集』では、「」「箙」ともに「えびら」と読まれている。」とあって、用例に『庭訓往来』は記載してない。

[ことばの実際]

矢庭に十二人射殺して、十一人手負せたれば、に一つぞ殘たる。弓をばからと投捨て、も解て捨てけり。《『平家物語』(十三世紀)四・橋合戦》

 

2002年10月29日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

逆頬(さかつら・さかほお)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「佐」部に、

逆頬(サクリハミ/サカツラ) 頬當(ホウアテ)之事也。〔元亀本273一〕

逆頬(サカツラ) 頬當之事也。〔静嘉堂本312二〕

とあって、標記語「逆頬」の読みは「さかつら」で、その語注記は、「頬當のことなり」と記載する。その注記は、下記に示す『庭訓徃來註』の語注記を継承するものとなっている。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

同色袖并手蓋臑當半首唾懸鍍袴逆頬」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_袖并_(テカイ)_(スネ―)_(ハツフリ)_(ヨタレ−)_(クサスリハカマ)_(サカツラ)」〔山田俊雄藏本〕

__(カイ)臑當(スネアテ)半首(ハンブリ)_懸鎖袴(クサリハカマ)逆頬(サカツラ)〔経覺筆本〕

_(ケ)ノ袖并_(テカイ)臑當(スネアテ)_(ハツフリ)_(ヨタレカケ)鍍袴(クサリハカマ)_(サカツラ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「逆頬」の語は未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「逆頬」の語を未収載にする。また、易林本節用集』には、

逆茂木(サカモギ) ―頬箙(ツラエビラ)〔器財179五〕

とあって、標記語「逆茂木」の語を収載し、その語注記に「逆頬箙」の語を記載する。

 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

361逆頬 頬(ホウ)當之亊ナリ。〔謙堂文庫藏三七右H〕

とあって、標記語「逆頬」とし、語注記は、「頬の當りの亊なり」という。

 古版『庭訓徃来註』では、

半首(ハツブリ)涎懸(ヨダレカケ)鎖袴(クサリハカマ)逆頬(サカツラ)(ヱビラ)(ヤナクイ) 半首(ハツフリ)ト云ハ。首(カシラ)ノナリニ銕(クロカネ)ニテハルナリ。〔下十一ウ八〜十二オ一〕

とあって、この標記語「逆頬」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

逆頬(さかほう)逆頬 又猿頬とも云。頬當の鼻あるを面頬と云。鼻なきを逆頬といふ。〔47オ四〕

とあって、標記語「逆頬」の語注記は、「また、猿頬とも云ふ。頬當の鼻あるを面頬と云ふ。鼻なきを逆頬といふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(ならひ)手蓋(ておほひ)臑當(すねあて)半首(はつぶり)涎懸(よだれかけ)鍍袴(くさりばかま)逆頬(さかづら)手蓋臑當半首涎懸鍍袴逆頬逆頬ハ頬當(ほうあて)なり。〔三十五オ八〕

(ならび)に手蓋(ておほひ)の臑當(すねあて)半首(はつぶり)涎懸(よだれかけ)鍍袴(くさりはかま)逆頬(さかつら)逆頬ハ頬當(ほうあて)なり。〔62ウ六〕

とあって、標記語「逆頬」の語注記は、「逆頬ハ頬當なり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「逆頬」の語は未収載である。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「さか-ほを(名)【逆頬】」の語は未収載にあり、「さか-つら(名)【逆頬】」の語で、

さか-つら(名)【逆頬】〔つらとは、頬(ほほ)の古言なり〕(一)頬鬚(ほほひげ)の、逆立ちたるものなるべし。もみあげの條、參見すべし。霊異記(平安末期)下、第九縁「有人、鬚生逆頬、下着緋、上着ナ(ヨロヒ)」奥羽永慶軍記、廿九、大森合戰事「逆頬の赤きに、一尺許りの白髭をうゑて」(二)次條を見よ。〔0779-1〕

さかつら-えびら(名)【逆頬箙】〔前條を見よ〕箙の一種。熊、又は、猪の毛皮にて包みたるもの、其毛並(けなみ)を、逆(さか)に、上へ向はしむ、熊、猪は、猛く強き獸なる故曰に、軍陣に用ゐる、式正の物として、大將の用とす。(貞丈雑記、十一)略して、さかつら。 庭訓徃來(元弘)六月「逆頬箙、胡、石打征矢」 義經記、五、忠信吉野山合戰事「丈(たけ)、六尺許なる法師、云云、さかつらえびら、矢ノ配(くばり)、尋常なるに、云云」易林節用集(慶長)上、器財「逆頬(サカツラエビラ)後照院殿装束抄(群書類從)「執柄家、自小隨身逆顔(サカツラ)、云云、殿上人の間は、葛、公卿以後、逆顔也」記七十一番職人盡歌合(文安)五十四番、箙細工「閨の内に、枕傾け、眺むれば、さかつらにこそ、月も見えけれ」」〔0779-1〕

と記載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さか-ほお【逆頬】」の語は未収載にし、「さか-つら(名)【逆頬】」の語で、「@毛並みをさかさまに立てた毛皮。A「さかつえびら(逆頬箙)」の略。B頬当ての一種」とあって、用例に『庭訓往来』は記載してない。

[ことばの実際]

金足皮(カハ)逆頬(サカツラ)股抽(モヽヌキ)《『和泉往来』(平安末期)二月55AB》

 

2002年10月28日(月)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

鎖袴(くさりばかま)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、標記語「鎖袴」の語は、未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

同色袖并手蓋臑當半首鍍袴逆頬」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_袖并_(テカイ)_(スネ―)_(ハツフリ)_(ヨタレ−)_(クサスリハカマ)_(サカツラ)」〔山田俊雄藏本〕

__(カイ)臑當(スネアテ)半首(ハンブリ)_鎖袴(クサリハカマ)逆頬(サカツラ)」〔経覺筆本〕

_(ケ)ノ袖并_(テカイ)臑當(スネアテ)_(ハツフリ)_(ヨタレカケ)鍍袴(クサリハカマ)_(サカツラ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「鎖袴」の語は未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』には、標記語「鎖袴」の語を未収載にする。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(クサリハカマ)・衣服159八〕

とあって、弘治二年本だけに標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

鎖袴(クサリハカマ)〔器財131四〕

とあって、標記語「鎖袴」の語を収載し、語注記は未記載にする。※後、『伊京集』にも「(クサリバカマ)」の語を収載する。

 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

360鎖袴 金以作也。〔謙堂文庫藏三七右H〕

とあって、標記語「鎖袴」とし、語注記は、「金を以って作るなり」という。

 古版『庭訓徃来註』では、

半首(ハツブリ)涎懸(ヨダレカケ)鎖袴(クサリハカマ)逆頬(サカツラ)(ヱビラ)(ヤナクイ) 半首(ハツフリ)ト云ハ。首(カシラ)ノナリニ銕(クロカネ)ニテハルナリ。〔下十一ウ八〜十二オ一〕

とあって、この標記語「鎖袴」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

鎖袴(くさりはかま)鎖袴の佩たてなり。〔47オ三・四〕

とあって、標記語「鎖袴」の語注記は、「惣鎖の佩たてなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(ならひ)手蓋(ておほひ)臑當(すねあて)半首(はつぶり)涎懸(よだれかけ)鍍袴(くさりばかま)逆頬(さかづら)手蓋臑當半首涎懸鍍袴逆頬鍍袴ハ今いふ踏込(ふんごし)佩楯(はいだて)の類(たぐひ)なるべし。(くさり)に膝金(ひさかねいかだ)等を入て作る。其種類(しゆるい)多し。〔三十五オ七・八〕

(ならび)に手蓋(ておほひ)の臑當(すねあて)半首(はつぶり)涎懸(よだれかけ)鍍袴(くさりはかま)逆頬(さかつら)鍍袴ハ今いふ踏込(ふんごミ)佩楯(はいたて)の類(たぐひ)なるべし。(くさり)に膝金(ひざがねいかだ)等を入て作る。其種類(しゆるゐ)多し。〔62ウ四・五〕

とあって、標記語「鎖袴」の語注記は、「鍍袴ハ今いふ踏込佩楯の類ひなるべし。に膝金等を入れて作る。其の種類多し」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Cusari bacama.クサリバカマ(鎖袴・) 鎖を網目状に仕込んだ袴で,兵士の防具. ※原文はCalcoes.〔Facamaの略〕〔邦訳173l〕

とあって、標記語「鎖袴」の意味は「鎖を網目状に仕込んだ袴で,兵士の防具」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

くさり-ばかま(名)【鎖袴】くさりかたびらの條を見よ。〔0520-3〕

と記載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「くさり-ばかま【鎖袴】[名]小袴の表面を鎖の網目で覆ったもの。また、袷(あわせ)の袴の表と裏の間に鎖を入れたものもある」とあって、用例に『庭訓往来』を記載してない。岩波『古語辞典』はこの語を用例収載する。

[ことばの実際]

地ウ鎖袴(はかま)にK羽織忠義の胸當。打揃(そろ)ふ。げに忠臣の假名(かな)手本義心の手本義平が家名。《浄瑠璃『假名手本忠臣藏』第十一・大系377J》

 

2002年10月27日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(玉川→駒沢)

半首(はつぶり)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、

半首(ハツツブリ)〔元亀本30六〕

半首(ハツブリ)〔静嘉堂本30七〕

半首(ハツフリ)〔天正十七年本上16オ七〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「半首」の語注記は、未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

同色袖并手蓋臑當半首」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_袖并_(テカイ)臑當(スネ―)半首(ハツフリ)」〔山田俊雄藏本〕

__(カイ)臑當(スネアテ)半首(ハンブリ)」〔経覺筆本〕

_(ケ)ノ袖并_(テカイ)臑當(スネアテ)半首(ハツフリ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「半首」の語は未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「半首」の語を未収載にする。広本節用集』には、

半首(ハツブリ/―シユウ,ナカバ・カウベ)[○・去]。〔器財門59六〕

とあって、標記語「半首」の語注記は未記載にする。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

半首(ハツブリ)・財宝21八〕〔・財宝20一〕

半首(ハツフリ)・財宝17八〕〔・財宝22一〕

とあって、標記語「半首」の語を収載し、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

半首(ハツブリ)〔器財18七〕

とあって、標記語「半首」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

358臑當(スネ−)半首 志古路(无)甲申也。鉢斗ナリ。〔謙堂文庫藏三七右H〕

とあって、標記語「半首」とし、語注記は、「志古路も无き甲を申すなり。鉢斗なり」という。

 古版『庭訓徃来註』では、

半首(ハツブリ)涎懸(ヨダレカケ)鎖袴(クサリハカマテ)逆頬(サカツラ)(ヱビラ)(ヤナクイ) 半首(ハツフリ)ト云ハ。首(カシラ)ノナリニ銕(クロカネ)ニテハルナリ。〔下十一ウ八〜十二オ一〕

とあって、この標記語「半首」自体の語注記は、「半首と云ふは、首のなりに銕にてはるなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

半首(はつぶり)半首 又かふとの鉢の半(なかば)よりうしろに毛をうへたるを半首と云。一面にうへたるを惣髪(かふ)といふ。髻(もとゝり)(ゆひ)たるを野郎(やらう)と云。わげをしたるを老頭(らうとう)と云。毛乃短きを毛兜(かふと)と云。又しころなきを半首と云ともいへり。〔47オ一・二〕

とあって、標記語「半首」の語注記は、「又かふとの鉢の半ばよりうしろに毛をうへたるを半首と云ふ。一面にうへたるを惣髪といふ。髻結ひたるを野郎と云ふ。わげをしたるを老頭と云ふ。毛の短かきを毛兜と云ふ。また、しころなきを半首と云ともいへり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(ならひ)手蓋(ておほひ)臑當(すねあて)半首(はつぶり)涎懸(よだれかけ)鍍袴(くさりばかま)逆頬(さかづら)手蓋臑當半首涎懸鍍袴逆頬半首(しころ)なき冑(かぶと)也。頭(かしら)を覆(おほ)ふと頂(いたゞき)を蓋(おほ)ふとの二樣(やう)あり。〔三十五オ六〕

(ならび)に手蓋(ておほひ)の臑當(すねあて)半首(はつぶり)涎懸(よだれかけ)鍍袴(くさりはかま)逆頬(さかつら)半首(しころ)なき冑(かぶと)也。頭(かしら)を覆(おほ)ふと頂(いたゞき)を蓋(おほ)ふとの二樣(やう)あり。〔62ウ四・五〕

とあって、標記語「半首」の語注記は、「半首は、なき冑なり。頭を覆ふと頂きを蓋ふとの二樣あり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fatcuburi.ハツブリ(半首・半頭) 冑の一種.〔邦訳212l〕

とあって、標記語「半首」の意味は「冑の一種」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-つぶり(名)【半頭・半首】〔半頭(ハンつぶり)の略〕(一)兜の類の、錏(しころ)無きもの。頭へ半分かかる故の名。内冑を射さすまじき用心に、額より頭へ半分かくるなり。 易林節用集(慶長)上、器財門「半首、ハツフリ」保元物語、二、白河殿攻落事「よっ引いて放す矢が、御曹司の半首にからりとあたって、冑の(しころ)に射付けたり〔1598-5〕

と記載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「は-つぶり【半首】[名]@顔面を防御する武具の一種。前頭部から両頬にかけておおう鉄製の面具。猿頬(さるぼお)。A額金(ひたいがね)を入れた鉢巻き。語原説](1)ひらつぶりの義か。つぶりは円い意〔名語記〕。(2)頭へ半分かかるところから〔松屋筆記所引愚得随筆〕」とあって、用例に『庭訓往来』を記載してない。

[ことばの実際]

《『難太平記』》

 

2002年10月26日(土)雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

臑當(すねあて)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「須」部に、

臑當(スネアテ)臑充(同) 〔元亀本359六〕

(スネアテ)(同) 〔静嘉堂本437六〕

とあって、標記語「臑當」の語注記は、典拠である『庭訓徃來』の冠字「庭」を記載する。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

同色袖并手蓋臑當半首」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_袖并_(テカイ)臑當(スネ―)半首(ハツフリ)」〔山田俊雄藏本〕

__(カイ)臑當(スネアテ)半首(ハンブリ)」〔経覺筆本〕

_(ケ)ノ袖并_(テカイ)臑當(スネアテ)半首(ハツフリ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「臑當」の語は未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「臑當」の語を未収載にする。広本節用集』には、

臑當(スネアテ/―タウ)[○・平去] 或當作充。〔絹布門1124八〕

とあって、標記語「臑當」の語注記には、「或○作○」形式による別字の注記を示している。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

臑當(スネアテ)・財宝269八〕〔・財宝231六〕〔・財宝217五〕

髄當(スネアテ)・財宝88五〕〔・財宝96六〕

とあって、標記語「臑當」と「髄當」の語を収載し、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

臑當(スネアテ)〔器財240六〕

とあって、標記語「臑當」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

358臑當(スネ−)半首 志古路()甲申也。鉢斗ナリ。〔謙堂文庫藏三七右H〕

とあって、標記語「臑當」とし、語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

手盖(テカイ)ノ臑宛(スネアテ) 手蓋ト云テクサリニテスルナリ。〔下十一ウ八〕

とあって、この標記語「臑當」自体の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

臑當(すねあて)臑宛 又髄當(すねあて)とも書。篠立(しのたて)十王頭なとあり。篠ハ七八九十二三間にして二重鎖(にぢうくさり)を以てつなき絞具摺(だうくすり)にハ馬皮(ばひ)毛織(をり)等也。〔46ウ八〕

とあって、標記語「臑當」の語注記は、「また、髄當とも書く。篠立十王頭なとあり。篠は、七八九十二三間にして二重鎖をもってつなぎ絞具摺りには、馬皮・毛織り等なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(ならひ)手蓋(ておほひ)臑當(すねあて)半首(はつぶり)涎懸(よだれかけ)鍍袴(くさりばかま)逆頬(さかづら)手蓋臑當半首涎懸鍍袴逆頬臑當ハ篠立(しのだて)筒十王頭(つゝじふわうがしら)毘沙門(びしやもん)等其外數品(ひん)あり。〔三十五オ六〕

(ならび)に手蓋(ておほひ)の臑當(すねあて)半首(はつぶり)涎懸(よだれかけ)鍍袴(くさりはかま)逆頬(さかつら)臑當ハ篠立(しのだて)筒十王頭(つゝじふわうがしら)毘沙門(びしやもん)等其外數品(すひん)あり。〔62ウ三・四〕

とあって、標記語「臑當」の語注記は、「臑當は、篠立・筒十王頭・毘沙門等其外數品あり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Suneate.スネアテ(臑當) 臑当て,すなわち,臑につける具足.〔邦訳589l〕

とあって、標記語「臑當」の意味は「臑当て,すなわち,臑につける具足」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

すね-あて(名)【臑當】 鎧の具、臑(すね)を包むもの、即ち、脛巾(はばき)なり。布帛に、鐵板、(くさり)など附けて、綴る。脛甲 運歩色葉集「臑當、充」和漢三才圖會、廿9兵器「髄楯、臑當、須禰阿天」保元物語、二、白河殿攻落事「平野平太が左の臑當を射切られて、馬の太腹、彼方へ、つと射通さるれば、眞逆に倒れたり」太平記、六、關東大勢上洛事「長崎惡四郎左衞門尉は、鎧の磨著の臑當に」同、廿二、畑六郎左衞門事「六郎左衞門、云云、大立揚の臑當を、脇楯の下まで引籠て」明徳記、上「大内介、云云、小林、長刀を切放さんと、少、振仰(あふの)きける處を、長刀を取直て、臑當の端れを、横樣に薙いだりければ、因幡、脛楯の札共に、片股を、かけず切てぞ落しける」〔1056-3〕

と記載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「すね-あて【脛当臑當髄当】[名]@武装の小具足の一種。敵の攻撃に備えて脛を包みおおうもの。鉄板三枚を蝶番留(ちょうつがいどめ)とした筒脛当(つつすねあて)、この上に膝の覆いをつけた大立挙(おおたてあげ)、小鉄板による篠脛当(しのすねあて)、鎖だけを家地(いえじ)につけた鎖脛当、篠を鎖でつないで家地のない越中脛当などがあり、時代によって相違する。すねよろい。A野球の捕手などが、脛を保護するために用いる道具。[補注]@に相当するものは古くから存し、二枚鉄の筒状のものが古墳から出土されたり、札(さね)製とおぼしきものを着けた姿の武装埴輪が発掘されたりしているところから、「三代格-一八・太政官府」に認められる「脚纏」(弘仁六年二月十六日)、「足纏」(貞観十二年一月十五日)も脛当のことと考えられる」とあって、用例に『庭訓往来』を記載してない。

[ことばの実際]

かふとはわかたう(若党)にしられしかためにもろさねにもたせてほんふねにをきしほとにすねあて(臑当)をはすひてむすひあはせてかふとにせしときたかまさにいのちをおしみ候てし候とおほしめさるましく候《『蒙古襲来絵詞』(1293年頃)下》

 

2002年10月25日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

手蓋(てガイ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「天」部に、

手盖(―ツカイ)〔元亀本244三〕

手盖(―カイ)〔静嘉堂本281七〕〔天正十七年本中69ウ六〕

とあって、標記語「手盖」の語注記は、未記載にする。元亀本の読みは、「てっかい」と促音づけで読む。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

同色袖并手蓋臑當半首」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_袖并_(テカイ)臑當(スネ―)半首(ハツフリ)」〔山田俊雄藏本〕

__(カイ)臑當(スネアテ)半首(ハンブリ)」〔経覺筆本〕

_(ケ)ノ袖并_(テカイ)臑當(スネアテ)半首(ハツフリ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「手蓋」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』といった古辞書には、この語は未収載となっている。また、易林本節用集』には、

手水盥(テウヅダラヒ)―箱(バコ)。―鉾(ボコ)。―戟(同)。―矛(同)。―筥(ハコ)―蓋(カイ)。―楯(ダテ)。〔器財165三〕

とあって、標記語「手水盥」の冠頭字「手」の熟語群として、「手蓋」を収載し、語注記は未記載にする。古辞書では、『運歩色葉集』と易林本節用集』に収載されている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

357同毛袖并手蓋 籠手出手蓋者也。〔謙堂文庫藏三七右G〕

とあって、標記語「手蓋」とし、語注記には、「籠手の先きより出、手の甲を蓋するものなり」という。

 古版『庭訓徃来註』では、

手盖(テカイ)ノ臑宛(スネアテ) 手蓋ト云テクサリニテスルナリ。〔下十一ウ八〕

とあって、この標記語「手蓋」の語注記は、「手蓋と云ひてくさりにするなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ならひ)手盖(てがい)手盖 (こて)に附たる手甲の事也。或ハ鉄盖(てつかい)とも云。居紋(すへもん)なとをする也。又兵具(ひやうぐ)ハ俎談(そだん)に四家の次第あり。源家に手代(ゆかけ)。平家に手隠(ゆかけ)。藤家に手盖(ゆかけ)。橘家に手覆(ゆかけ)なりといえり。俎談の説経すへからされとも、しハらくこゝにしるす。〔46ウ六・七〕

とあって、標記語「手蓋」の語注記は、「に附たる手甲の事なり。或は、鉄盖とも云ふ。居紋などをするなり。また、兵具は俎談に四家の次第あり。源家に手代(ゆかけ)。平家に手隠(ゆかけ)。藤家に手盖(ゆかけ)。橘家に手覆(ゆかけ)なりといえり。俎談の説経すべからざれども、しばらくこゝにしるす」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(ならひ)手蓋(ておほひ)臑當(すねあて)半首(はつぶり)涎懸(よだれかけ)鍍袴(くさりばかま)逆頬(さかづら)手蓋臑當半首涎懸鍍袴逆頬手盖(こて)乃先に付たる手甲(てがふ)をいふ。居紋(すへもん)金錆(かなさび)(しのだて)等品々に作(つく)る。〔三十五オ六〕

(ならび)に手蓋(ておほひ)の臑當(すねあて)半首(はつぶり)涎懸(よだれかけ)鍍袴(くさりはかま)逆頬(さかつら)手盖(こて)の先に付たる手甲(てかふ)をいふ。居紋(すゑもん)金錆(かなさひ)(しのだて)(とう)品々に作(つく)る。〔62ウ三・四〕

とあって、標記語「手蓋」の語注記は、「手盖の先に付たる手甲をいふ。居紋金錆立等品々に作る」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「手蓋」の語は未収載である。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

て-がひ(名)【手蓋】 こて(籠手)に同じ。長門本平家物語(十三世紀前)十六、薩摩守忠度被討事「忠度落ちさまに三刀まで敵をさす、一の刀には手がひ(いい)をつき、二の刀には口を突き」〔1352-4〕

と記載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「て-がい【手蓋】[名]武具。籠手(こて)のこと。ておおい」とし、『庭訓往来』のこの用例は未記載にしている(因みに、岩波古語辞典』はこの用例を収録)。

[ことばの実際]

中にも一心坊の越後注記は、南都の若大衆の持ちたる四尺八寸の太刀を引き奪ひて、我一人の大事と切つて回りけるに、奈良法師切り立てられ、村雲立ちて見えけるところに、手掻の侍従房ただ一人踏み留まりて、一足も退かず、喚き叫びて切り合ひたり。《『太平記』卷第四十・南禅寺与三井寺確執事》※「手蓋の侍従を始として」〔国民文庫〕

[HP:ことば雑学]「東大寺転害門の謎」引用「奈良の東大寺南大門の西門を「転害門」と呼称している。この門由来はさまざまにて、「手貝、天貝、手蓋」などの宛字が用いられている。」

 

2002年10月24日(水)雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

(そで)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「曽」部に、

(ソデ)〔元亀本156一〕

(ソテ)〔静嘉堂本171一〕〔天正十七年本中17オ二〕

とあって、標記語「」の語注記は、未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

同色并手蓋臑當半首」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

__(テカイ)臑當(スネ―)半首(ハツフリ)」〔山田俊雄藏本〕

__(カイ)臑當(スネアテ)半首(ハンブリ)」〔経覺筆本〕

_(ケ)ノ_(テカイ)臑當(スネアテ)半首(ハツフリ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

(シウ) ソテ。袂。?(キヨ)??。?(シ)。袿(ケイ)。已上衣袖也。〔黒川本雜物中17オ四〕

ソテ。袂。???。?。?。袿已上同衣〔卷第四雜物535二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、

(ソテ)〔亀田本・絹布門77二〕※元和本は、「(ワキソデ)」〔絹布門98二〕とする。

とあって、標記語「」の語を収載する。広本節用集』には、

(ソデ/シユウ)[去] 合紀。沙展(ソデ)。〔絹布門386五〕

とあって、標記語「」の語注記には、「『(国花)合紀(集)』、沙展」と記載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ソデ) ?(同)。〔・支体120六〕

(ソテ) ?・財宝101四〕〔・財宝91八〕

(ソデ) ?。〔・111七〕

(ソテ) 沙展。・國花合紀集抜書281一〕

とあって、標記語「」と「?」の語を収載し、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

(ソデ) ?(同)。〔食服100二〕

とあって、標記語「」と「?」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

357同毛并手蓋 籠手出手蓋者也。〔謙堂文庫藏三七右G〕

とあって、標記語「」とし、語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

四方白(シロ)ノ(カブト)_(ハネ)(ソテ)四方白八方白常(ツネ)ニ有シナダレヲ金銀ニテスルナリ。〔下十一ウ六・七〕

とあって、この標記語「」自体の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(おな)(いろ)(そで) 同し色とハ鎧の綴(おとし)と色の同しき也。に大袖中袖小袖あり。大袖ハ本式の鎧にあらされハ用ひかたし。中袖小袖威(おと)し樣色/\あり。裏は金銀緞子(どんす)絃革なとにてつらすなり。〔46ウ三・四〕

とあって、標記語「」の語注記は、「に大袖中袖小袖あり。大袖ハ本式の鎧にあらされハ用ひかたし。中袖小袖威(おと)し樣色/\あり。裏は金銀緞子(どんす)絃革なとにてつらすなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おな)(いろ)(そで)同色とハ鎧(よろひ)の綴(おどし)と等しき色の肩罩(そて)也。〔三十五オ五・六〕

同色とハ鎧(よろひ)の綴(おどし)と等しき色の肩罩(そて)也。〔62ウ三〕

とあって、標記語「」の語注記は、「同色とは、鎧の綴しと等しき色の肩罩なり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Sode.ソデ(袖) 袖.§Sodeuo nurasu.(袖を濡らす)涙にくれてくずおれる.§Sodega nururu.(袖が濡るる)同上.§Sodeuo xiboru.(袖を絞る)ひどく泣く.§Sodeuo tcuranuru.(袖を列ぬる)多くの人々が集まっている,または,大勢の人々が一団になる.→Caqiauaxe,uru(掻き合はせ,する);Cataxiqi,u;Fiqiqiru,u(引き切り,る);Sugari,u(縋り,る);Tcugui,gu;Xibori,ru.〔邦訳569r〕

とあって、標記語「」の意味は「袖」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

そで(名)【袖】〔衣手(そで)の義と云ふ、或は、衣出(そいで)の約か〕(一){衣の左右の、手を入るゝ所の總名。(上世の下民は、筒袖なり)肱(かひな)に當る所を、たもととす。倭名抄、十二20衣服具「袖、曾天、所以受|∨手也」字鏡廿八「袂、袖末也、曾名義抄「袂、ソデ、タモト」續紀、四、和銅元年閏八月「制、自今以後、衣(そでぐち)、闊八寸已上、一尺已下、隨人大小之」 彈正臺式「凡、衣袖口闊、無高下、同作一尺二寸已下 (二)卷物、又、文書の、初の端(はし)。(文書の初に白く殘したるは、衣の端なる袖に似たれば、云ふ)倭名抄、五24文書具「帋、袖端也」江家次第、四、除目直物「可付今夜拝任官於申文袖、其上合點」「そで書(がき)」そで判」(三)鎧の具。頸より懸けて、肩を被ふもの。肩甲 保元物語、一、軍評定事「清盛などがへろへろ矢、何程の事か候ふべき、鎧のにも拂ひ、蹴散して捨てなん」(四)牛車、輿などの口の、左右、前後の所の名稱。前方にあるを前袖(まへそで)、後方にあるを後袖(あとそで)と云ふ。又、袖の内面を裏(うら)、又は内(うち)と云ひ、其外面を袖表(おもて)と云ふ。榮花物語、十、日蔭蔓「車のありさま、云云、には、置口にて蒔繪をしたり」(五)涙を拭ひて、浸りたる袖。新勅撰集、十六、雜、一「袖の波」「そでの雨」そでの水」{袖の柵(しがらみ)とは、袖を流るる涙を、抑(おさ)へとどむる柵(しがらみ)と見て云ふ語。源氏物語、四十、幻5「まして、のしがらみ堰きあへぬまで、あはれに」{袖の時雨とは、袖を潤(うるほ)す涙を、時雨と見て云ふ語。源氏物語、四十五、椎本21「九月にもなりぬ、云云、まして、のしぐれを催しがちに」袖の雫とは、袖に落つる涙。千載集、十三、戀、三「よそにして、抵(もど)きし人に、いつしかと、しづくを、問はるべきかな」{袖のわかれとは、後朝(きぬぎぬ)の離別(わかれ)。萬葉集、十二38「白妙の、(そで)(の)(わかれ)は、惜しけども、思ひ亂れて、縱(ゆる)しるつかも」〔1155-3〕

と記載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「そで【】[名]A鎧(よろい)の付属具。綿上(わたがみ)に付けて、手楯(てたて)の代用とするもの。通常、袖の緒(お)で胴に結びとめる。左を射向(いむけ)の袖、右を馬手(めて)の袖という。その大小、形状により、大袖、中袖、小袖、広袖、壺袖(つぼそで)、丸袖、置袖、最上袖(もがみそで)などの種類がある。よろいのそで。鎧袖(がいしゅう)」とあって、用例に『庭訓往来』を記載してない。

[ことばの実際]

是石橋合戰之日、經俊箭、所立于此御鎧也件箭口巻之上注瀧口三郎藤原經俊、自此字之際、切箆乍立御鎧、于今被置之、大以掲焉也《読み下し》是レ石橋合戦ノ日、経俊ガ箭、此ノ御鎧ノニ立ツ所ナリ。件ノ箭ノ口巻ノ上ニ、滝口三郎藤原ノ経俊ト注ス。此ノ字ノ際ヨリ、箆ヲ切ツテ御鎧ノニ立テナガラ(其箆ヲ)、今之ヲ置カル。大ダ以テ掲焉キナリ。《『吾妻鏡』治承四年十一月二十六日の条》

 

2002年10月23日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

同色(おなじいろ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「於」部に、標記語「同色」の語は未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

同色袖并手蓋臑當半首」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_袖并_(テカイ)臑當(スネ―)半首(ハツフリ)」〔山田俊雄藏本〕

__(カイ)臑當(スネアテ)半首(ハンブリ)」〔経覺筆本〕

_(ケ)袖并_(テカイ)臑當(スネアテ)半首(ハツフリ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「同色」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、といった古辞書には、この語は未収載となっている。広本節用集』には、

同色(ヲナシイロ/トウシヨク)[○・入]。〔態藝門226七〕

とあって、標記語「同色」の語注記は、未記載にする。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「同色」は、未収載とする。古辞書のなかでは、広本節用集』が唯一収載していることになる。

 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

357袖并手蓋 籠手出手蓋者也。〔謙堂文庫藏三七右G〕

※天理本「同毛」―イロソ。

とあって、標記語「同毛」とし、その語注記は未記載にする。この真字本古写本類が「色」ではなく「毛」の文字表記としていることが一つ注目されることであり、これは他に影響を及ぼしていないことから、『庭訓徃來』古写本系統では、経覺筆本と文明本とを継承するものであり、真字本系統『庭訓往来註』だけが継承する特立した表記字といえよう。

 古版『庭訓徃来註』では、

四方白(シロ)(カブト)_(ハネ)(ソテ)四方白八方白常(ツネ)ニ有シナダレヲ金銀ニテスルナリ。〔下十一ウ六・七〕

とあって、この標記語「同色」自体の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(おな)(いろ)(そで) 同し色とハ鎧の綴(おとし)と色の同しき也。袖に大袖中袖小袖あり。大袖ハ本式の鎧にあらされハ用ひかたし。中袖小袖威(おと)し樣色/\あり。裏は金銀緞子(どんす)絃革なとにてつらすなり。〔46ウ三・四〕

とあって、標記語「同色」の語注記は、「同じ色とは、鎧の綴と色の同じきなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おな)(いろ)(そで)同色袖とハ鎧(よろひ)の綴(おどし)と等しき色の肩罩(そて)也。〔三十五オ五・六〕

同色とハ鎧(よろひ)の綴(おどし)と等しき色の肩罩(そて)也。〔62ウ三〕

とあって、標記語「同色」の語注記は、「同色とは、鎧の綴しと等しき色の肩罩なり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Do>xiqi.ドウシキ(同色) Vonaji iro.(同じ色)同一の色.〔邦訳190r〕

とあって、標記語「同色」の意味は「同一の色」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』、そして、現代の『日本国語大辞典』第二版には、「おなじ-いろ(名)【同色】」は、未収載にする。

[ことばの実際]

爰江間殿、密々被示送于小山兵衛尉朝政曰、隨兵事、當日臨御出之期、可被定左右、以令著同色甲并直垂之者、可爲予合手之由、已申訖《訓み下し》爰ニ江間殿、密密ニ小山ノ兵衛ノ尉朝政ニ示シ送ラレテ曰ク、随兵ノ事、当日御出ノ期ニ臨ンデ、左右ヲ定メラルベシ、同色ノ甲并ニ直垂ヲ著セシムルノ者ヲ以テ、予ガ合手タルベキノ由、已ニ申サレ訖ンヌ(申シ請ケ訖ンヌ)。《『吾妻鏡』建久元年十一月二十八日の条》

 

2002年10月22日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

一刎(ひとはね)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「飛」部に、

一刎(―ハネ) 甲/一羽(同) 〔元亀本345四〕〔静嘉堂本415二〕

とあって、標記語「一刎」の語注記に、「甲。(訓往来)」と記載する。この部分は、下記に示す古写本『庭訓徃來』からの引用と言うことである。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

龍頭四方白甲各一刎」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(タツ)_頭四__(カフト)_(ハネ)」〔山田俊雄藏本〕

(タツ)_頭四__(カフト)_(ハネ)」〔経覺筆本〕

(タツ)_頭四__(カフト)_(ハネ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「一刎」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、といった古辞書には、この語は未収載となっている。広本節用集』には、

一刎(ヒトハネ/イチフン)[入・上](ワスレ)テモ之云甲――。〔數量門1036八・九〕

とあって、標記語「一刎」の語注記には、「刎の字忘れてもこれを書かず、甲一刎を云ふ」と記載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

一刎(―ハネ) 此字ハ忌(イミ)テ之。刎キル也。甲――。〔・数量255二〕

一刎(―ハネ) 此字忌不之。―キル也。〔・218一〕

一刎(―ハネ) 此字忌不書之。―キル也。〔・205二〕 

とあって、標記語「一刎」の語注記には、「此(「刎」)の字忌みてこれを書かず、甲一刎」として、広本節用集』が意味をなさない注記記述であるのに対し、これを修正できる注記内容となっている。易林本節用集』には、

一飾(ヒトカザリ) ―腰(コシ)。―振(フリ)。―對(クタリ)。―羽(ハネ)冑(カブト)―刎(ハネ)此ヲ忌テ不∨書∨之ヲ。―番(ツガヒ)鳥(トリ)。―懸(カケ)魚。〔器財225八〕

とあって、標記語「一飾」の冠頭字「一」の熟語群として、「一刎」を収載し、語注記に「此(「刎」)を忌みてこれを書かず」という。

 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

356各一羽 字不書也。〔謙堂文庫藏三七右G〕

一刎ノ字ハタトエハ如此ナレトモ只羽ノ字ヲ書テ好也。口傳アリ。〔国会図書館藏左貫注書込み〕

とあって、標記語「一羽」とし、語注記には、「刎の字は書くべからざるなり」という全く異なる見解を提示しているが、これを継承する編纂姿勢は古辞書には見られない。

 古版『庭訓徃来註』では、

四方白(シロ)(カブト)_(ハネ)(ソテ)四方白八方白常(ツネ)ニ有シナダレヲ金銀ニテスルナリ。〔下十一ウ六・七〕

とあって、この標記語「一刎」自体の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(おの/\)一刎(ひとはね)_ 一刎ハかふと一ツの事也。星白龍頭四方白皆一刎つゝゆへ各と書しなり。〔46ウ三・四〕

とあって、標記語「一刎」の語注記は、「一刎は、かぶと一ツの事なり。星白・龍頭・四方白皆一刎づゝゆへ各と書しなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おの/\)一刎(ひとはね)_一刎ハ冑(かぶと)一ツをいふ。但し爰(こゝ)にハ一枚とか一頭(かしら)とか書(かき)て可(か)ならん。一刎とハ敵(てき)の冑を指(さし)ていふ言葉(ことば)也。〔三十五オ五〕

_一刎ハ冑(かぶと)一ツをいふ。但し爰(こゝ)にハ一枚とか一頭(かしら)とか書(かき)て可(か)ならん。一刎とハ敵(てき)の冑を指(さし)ていふ言葉(ことば)也。〔62ウ二〕

とあって、標記語「一刎」の語注記は、「一刎は、冑一ツをいふ。但し、爰には一枚とか一頭とか書きて可ならん。一刎とは、敵の冑を指していふ言葉なり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Foxijiro.ヒトハネ(一刎) .〔邦訳r〕

とあって、標記語「一刎」の意味は「」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ひと-はね(名)【一刎】 冑、一枚の稱。はね(刎)の條を見よ。〔1681-2〕

と記載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ひと-はね【一刎】[名]」は未収載としている。

[ことばの実際]

長宗(ナガムネ)キツト見返(ミカヘツ)テ、「我総角(ワガアゲマキ)ニ取着(トリツイ)テアガレ。」ト云(イヒ)ケレバ、武部(タケベノ)七郎、妻鹿(メガ)ガ鎧ノ上帶(ウハオビ)ヲ蹈(フン)デ肩ニ乗揚(ノリアガ)リ、一刎(ヒトハネ)(ハネ)テ向(ムカヒ)ノ岸ニゾ着(ツキ)ケル。《『太平記』卷第九・六波羅攻事》

 

2002年10月21日(月)雨。東京(麹町)→世田谷(駒沢)

(かぶと)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、いわば補遺編として「名づくし」の語で終った「賀」の末部に、

(カブト)日本ニハ作―(カブト)。唐ニハ(カブト)(カブト)(カブト)天邊(テヘン)顛邊(同)手便(同)向上板(ミアゲノイタ)鷹角(タ―ツノ)吹返(フキガヘシ)真向(マツカウ)正面(同)鍬形(クワガタ)(同)雲腰巻(クモコシマキ)四方白(シハウジロ)(ハチ)(シコロ)(同)志古路(シコロ)食歯形(クハガタ)品垂(シナタレ)(シムル、ヲヽ)(クワガタ)一刎(―ハネ)庭訓一羽(同)太平記赤熊(シヤグマ)(同)今唐書之。赤鬘(同)赤頭(アカヾシラ)白頭(シロガシラ)立物(―モノ)小旗(―ハタハチ)五十二枚。表五十二星四十八枚 弥陀四十八願。(四十二) 長良四十二卷書卅二枚星廿八宿十二枚十二因縁。〔元亀本108四〜十〕

(カブト)唐日本ニハ作―。唐ニハ冑。(カブト)(同)天邊(―ベン)顛邊(同)手便(テヘン)向上板(ミアゲノイタ)鷹角(タカツノ)吹返(フキカヘシ)真向(マツカウ)正面(同)鍬形(クワカタ)(同)雲腰巻(クモコシワキ)四方白(――シロ)(ハチ)(シコロ)志古路(シコロ)食歯形(クハ―)品垂(シナダレ)(シムル、ヲヽ)(同)一刎(―ハネ)庭訓一羽(同)太平記赤熊(シヤクマ)(同)今唐書之。赤鬘(同)赤頭(アカヾシラ)白頭(シロカシラ)立物(タテモノ)小旗(コハタハチ)五十二枚表。五十二星。四十八枚 阿弥陀四十八願四十二枚 張良四十二卷三十二枚 星。二十八枚 表星廿八宿十二枚 星十二〔静嘉堂本136一〜七〕

(カブト)日本作―。唐作冑。天邊(トテンヘン)顛邊(テツヘン)手便(テベン)向上板鷹角(ユウカク)吹返(フキカヘシ)真向(マカウ)正面(マカウ)鍬形(クワカタ)(同)雲腰巻四方白(シホウシロ)志古路(シコロ)食歯形(クハカタ)品垂(シナタレ)縮緒卜緒一刎(―ハネ)庭訓一羽(ハ)太平記赤熊(アカクマ)今唐書之。赤鬘(アカカシラ)赤頭(同)白頭(シロカシラ)立物(タテモノ)小旗(コハタ)(ハチ)五十二枚表。五十二星。四十二枚 弥陀四十八願。四十二枚 表張良四十二卷書。三十二枚 表星。二十八枚 表廿八宿。十二枚 表十二因縁。〔天正十七年本上66ウ三〜八〕

(カブト)日本作甲。唐ニハ冑。(カブト)(同)天邊(―ヘン)顛邊(―ヘン)手便(同)向上板(カブト)鷹角(タカヽシラ)吹返(フキガヘシ)真向(マツカウ)正面(同)鍬形(クワカタ)(同)(ハチ)雲腰巻(クモコシマキ)四方白(シハウシロ)(ハチ)志古路(シコロ)食歯形(クワカタ)品垂(シナタレ)縮緒(チシメヲ)卜緒(シメヲ)一刎(―ハネ)庭訓一羽(ハネ)太平記赤熊(シヤグマ)(シヤグマ)同今唐書之。赤鬘(アカヽシラ)赤頭(同)白頭(シラカシラ)立物(タテモノ)小旗(コハタ)(ハチ)五十二枚表。五十二星。四十二枚。表弥陀四十八願。四十二枚。表張良四十二卷書。三十二枚。表星。廿八宿。廿八枚。十二枚。表十二因縁。〔西来寺本185三〜186四〕

とあって、標記語「」の語を統括語として、甲冑用語をここに収載する。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

龍頭四方白各一刎」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(タツ)_頭四__(カフト)各一_(ハネ)」〔山田俊雄藏本〕

(タツ)_頭四__(カフト)各一_(ハネ)」〔経覺筆本〕

(タツ)_頭四__(カフト)各一_(ハネ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

(チウ) カフト。首鎧 同。 同。〔黒川本・雜物上81オ一〕

カフト。首鎧 已上同。〔卷第三・雜物218三・四〕

※「」の字は与部雜物(黒川本上94オ八)に「ヨロヒ」として収載する。

とあって、標記語「」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、通常の古写本が「よろひ」と訓んでいるところを教育大本は、

(カフト)(同) 二字義同。然ルニ日本俗、呼甲為。大誤歟。或呼天下勝事天下甲者、義取甲乙之甲。非甲冑之甲也。〔教育大本・器財門95六〕

として、収載している。次に広本節用集』は、

(カブト/ホウ)[平](同/トウ)(同/チウ)[平去]。三字皆同。異名夏篆。犀渠。兜。〔器財門270一〕

とあって、「」の字は与部の「よろひ」の訓みで収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

(カブト)天邊(トテンヘン)。顛邊(同)。手便(同)向上板(ミタケノイタ)。鷹角(タカツノ)。吹返(フキカヘシ)。真向(マツカウ)。正面(同)。鉢志古路(シコロ)庭注。鍬形(クワカタ)。喰歯形(クハカタ)(同)四方白(シホウシロ)。雲腰巻(クモコシマキ)。縮(シムル、ヲヽ)。卜(同)一刎(ヒトハネ)。一羽(同)太平。赤熊(シヤクマ)。赤鬘(同)(同)。赤頭(同)。白頭(シロカシラ)。品垂(シナタレ)。立物(タテモノ)。小旗(コハタ)(ハチ)五十二枚表(ヘウ)。五十二星。四十二表。弥陀四十八願(グハン)。四十二枚 張良(チヤウリヤウ)四十二卷書。卅二枚 表星。廿八枚 表廿八宿。十二枚 表十二因縁(インエン)也。山伏ノ頭巾(トキン)同前庭注。〔・畜類81一〕

(カブト)(同)(同)(同)。〔・財宝84一〕

とあって、弘治二年本の注記記述に基づくに、上記『運歩色葉集』と大方共通する注記内容であり、ここには、それぞれの語の典拠として、古写本『庭訓徃來』及び下記に示す真字本『庭訓往来註』に基づくものであることが明らかとなっている。その箇所は、『庭訓徃來』が「四方白(シホウシロ)」と「一刎(ヒトハネ)」、『庭訓往来註』が「志古路(シコロ)」と「(ハチ)五十二枚表(ヘウ)。五十二星。四十二表。弥陀四十八願(グハン)。四十二枚 張良(チヤウリヤウ)四十二卷書。卅二枚 表星。廿八枚 表廿八宿。十二枚 表十二因縁(インエン)也。山伏ノ頭巾(トキン)同」の箇所となっている。また、易林本節用集』には、標記語「甲」の語は未収載となっている。

 さて、上記の古辞書で示した箇所であるが、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

355四方白 五十二枚張亊五十二星四十八枚張亊阿弥陀四十八願近代四十二枚張亊張良十二巻三十二枚二十八枚廿八宿十二枚十二因縁也山伏頭巾也。〔謙堂文庫藏三七右E〕

とあって、標記語「」だけの語注記は、未記載にしている。ここで気づくことは、『運歩色葉集』が元亀本・静嘉堂本が「小旗(コハタハチ)」としているのに対し、天正十七年本と西来寺本とがこれを「小旗」と「鉢」とに分割している点である。この点についてこの語に限ってその記述を分析するに、原本を忠実書写した度合は、天正十七年本と西来寺本系統にあるといえよう。さらに、末部注記内容「山伏頭巾也」は、『運歩色葉集』が記載しないのに対し、弘治二年本節用集』が載せていることをもって考えるとき、その系統がこの時点で二分化していること。それは辞書が果たす役割そのものが大いに異なることを示唆している。ここでの「山伏」という一つの職種を意識的に削除した『運歩色葉集』編者の宗教性環境がこの辺りから見えてきているのではなかろうか。この点については、まだ不勉強であるため大方のご教授を待ちたい。

 古版『庭訓徃来註』では、

四方白(シロ)ノ(カブト)_(ハネ)(ソテ)四方白八方白常(ツネ)ニ有シナダレヲ金銀ニテスルナリ。〔下十一ウ六・七〕

とあって、この標記語「」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

四方(しほうしろ)(かぶと)四方白 かぶとの筋を銀にて四方へ作りたるを四方白といふ。又二方八方へ作りたるを二方白八方白と云。ある傳にハ金乃筋冑(かふと)を八方白と云。銀の筋冑を四方白と云説もあり。ハもとよろひの事也。然るをあやまりてかぶとゝ訓する事近比の事にあらす。〔46ウ一・二〕

とあって、標記語「」の語注記は、「は、もとよろひの事なり。然るをあやまりてかぶとゝ訓ずる事、近比の事にあらず」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

四方白(しはうじろ)(かぶと)(おの/\)一刎(ひとはね)四方白各一刎▲四方白ハ鉢(はち)の四方に銀の篠垂(しのたれ)あるをいふ。昔(むかし)ハ銀又ハ白鑞(しろめ)を注(そゝ)ぎたる板を打(うち)たるをいひしとそ。但(たゞ)し甲ハ冑(かぶと)に作(つく)るべし。甲ハヨロヒなり。カブトと訓(よ)むハ誤(あやまり)なり。〔三十五オ四・五〕

四方白各一刎四方白ハ鉢(はち)の四方に銀の篠垂(しのたれ)あるをいふ。昔ハ銀又ハ白鑞(しろめ)を注(そゝ)ぎたる板(いた)を打たるをいひしとぞ。但し甲ハ冑(かぶと)に作(つく)るべし。ハヨロヒなり。カブトと訓(よ)むハ誤(あやまり)なり。〔62オ六〜ウ二〕

とあって、標記語「」の語注記は、「但しは、冑に作るべし。は、ヨロヒなり。カブトと訓むは、誤りなり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Cabuto.カブト(冑・兜) 冑.§Cabutouo nugu.(冑を脱ぐ)戦争において降伏する,あるいは,屈服する.〔邦訳71r〕

とあって、標記語「」の意味は、ただ「冑」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かぶと(名)【甲】 〔頭蓋(かづぶた)の約轉。(みとらし、みたらし。いたはし、いとほし)朝鮮語にもかぶおとと云ふ、甲(よろひ)の字をかぶとに用ゐる、誤なり〕武具の名、頭に被(かぶ)る、鐵製のもの。頂に當る所を鉢(はち)と云ふ、形、鉢を伏せたるが如し、項(うなじ)に錏(しころ)をつく。これは、尋常のものなり、其製、尚種種あり。天武紀、上、元年五月「甲冑(よろひかぶと)」字鏡、43金笠の合字に「加夫止倭名抄、十三、7「、首鎧也、賀布度」 かぶとを脱ぐとは、降參す。降服す。富樫記「急ぎを脱ぎ、荊を負ひ、面縛して降參可申」〔0408-1〕

と記載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「かぶと【】[名]@頭部防御の武具。軍陣用としては、頭にかぶる部分である鉢(はち)とその下に垂れて首の部分をおおう錏(しころ)からなる。鉢の頂きを頂辺(てへん)、通俗には八幡座(はちまんざ)ともいい、鉢の正面のところを真向(まっこう)という。製法や形状により、多くの種類がある。A舞楽の楽人や舞人がかぶる、鳳凰(ほうおう)の頭にかたどった冠。とりかぶと。B「かぶとにんぎょう(兜人形)」の略。C男の子の称。その節供には兜人形を飾るところからいう。D「かぶとがた(兜形)A」の略。Eかしら。かしらだつ者。F紋所の名。柏立て兜。筋兜。立て烏帽子兜、破軍立兜(はぐんだてかぶと)、星兜、龍頭兜(りゅうずかぶと)等の種類がある。G緒の結び方の名称。H頭、また頭の毛をいう、てきや・盗人仲間の隠語。〔日本隠語集(1892)〕I酒屋の店先で、桝酒やコップ酒をあおることをいう、てきや・盗人仲間の隠語。〔模範新語通語大辞典(1919)〕[語誌](1)「かぶ」は頭の意。「甲」は本来ヨロヒを意味する字であるが、これをカブトと訓むのは「華厳経音義私記」の「甲、可夫刀」(上巻)、「被甲 上<略>可何布流、下可夫度」(下巻)、「甲冑上又為ナ字、可夫止」(上巻)にまで遡ることができるが、誤用である。<以下(2)から(4)省略する>」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

朝政、著火威、駕鹿毛馬、時年廿五勇力太盛、而懸四方、多亡凶徒也《読み下し》朝政ハ、火威ノ(ヨロヒ)ヲ著、鹿毛ノ馬ニ駕ル。時ニ年二十五。勇力太ダ盛ニシテ、四方ニ懸ケテ、多ク凶徒ヲ亡ボスナリ。《『吾妻鏡』治承五年閏二月二十三日の条》

 

 

 

2002年10月20日(日)曇り一時薄晴のち雨。東京(八王子)→世田谷(玉川→駒沢)

四方白(しはうじろ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、標記語「四方白」の語を未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

龍頭四方白甲各一刎」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(タツ)___(カフト)各一_(ハネ)」〔山田俊雄藏本〕

(タツ)___(カフト)各一_(ハネ)」〔経覺筆本〕

(タツ)___(カフト)各一_(ハネ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「四方白甲」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』といった古辞書には、この語は未収載となっている。

 さて、上記の古辞書が未収載な箇所であるが、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

355四方白甲 五十二枚張亊、表五十二星、四十八枚張亊阿弥陀四十八願、近代四十二枚張亊張良四十二巻表書、三十二枚、二十八枚廿八宿、十二枚十二因縁也。山伏頭巾同也。〔謙堂文庫藏三七右E〕

とあって、標記語「四方白甲」の語注記は、「鉢を五十二枚に張亊は、五十二星を表し、四十八枚張亊は、阿弥陀の四十八願、近代四十二枚に。張亊は、張良が四十二巻を書き表す、三十二枚は、星を表す、二十八枚は、廿八宿、十二枚は、十二因縁なり。山伏の頭巾も同じなり」と記載する。

 古版『庭訓徃来註』では、

四方白(シロ)(カブト)_(ハネ)(ソテ)四方白八方白常(ツネ)ニ有シナダレヲ金銀ニテスルナリ。〔下十一ウ六・七〕

とあって、この標記語「四方白甲」の語注記は、「四方白・八方白常に有しなだれを金銀にてするなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

四方(しほうしろ)(かぶと)四方白 かぶとの筋を銀にて四方へ作りたるを四方白といふ。又二方八方へ作りたるを二方白八方白と云。ある傳にハ金乃筋冑(かふと)を八方白と云。銀の筋冑を四方白と云説もあり。甲ハもとよろひの事也。然るをあやまりてかぶとゝ訓する事近比の事にあらす。〔46ウ一・二〕

とあって、標記語「四方白甲」の語注記は、「かぶとの筋を銀にて四方へ作りたるを四方白といふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

四方白(しはうじろ)(かぶと)(おの/\)一刎(ひとはね)四方白各一刎四方白甲ハ鉢(はち)の四方に銀の篠垂(しのたれ)あるをいふ。昔(むかし)ハ銀又ハ白鑞(しろめ)を注(そゝ)ぎたる板を打(うち)たるをいひしとそ。但(たゞ)し甲ハ冑(かぶと)に作(つく)るべし。甲ハヨロヒなり。カブトと訓(よ)むハ誤(あやまり)なり。〔三十五オ四・五〕

四方白各一刎四方白甲ハ鉢(はち)の四方に銀の篠垂(しのたれ)あるをいふ。昔ハ銀又ハ白鑞(しろめ)を注(そゝ)ぎたる板(いた)を打たるをいひしとぞ。但し甲ハ冑(かぶと)に作(つく)るべし。甲ハヨロヒなり。カブトと訓(よ)むハ誤(あやまり)なり。〔62オ六〜ウ二〕

とあって、標記語「四方白甲」の語注記は、「四方白の甲は、鉢の四方に銀の篠垂あるをいふ。昔は、銀又は、白鑞を注ぎたる板を打たるをいひしとぞ。但し甲は、冑に作るべし。甲は、ヨロヒなり。カブトと訓むは、誤りなり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「四方白」は未収載としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しはう-じろ(名)【四方白】 鐵地に、銀のしのだれを、四方に附けたる兜。義經記、六、忠信最期事「小櫻縅の鎧、四方白の兜」〔0917-2〕

と記載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「しほう-じろ【四方白甲】[名]兜(かぶと)の鉢の装飾の一つ。鉢の前後左右にあたる四方に鍍金・銀の地板を据え、上にそれぞれ数条ずつ鍍金・銀の篠垂(しのだれ)を打つのを普通とする。八方白、二方白、片白などの兜もある」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

その日の御裝束(しやうぞく)には、九ほん正覺(しやうがく)の鎧直垂(よろいびたたれ)、相好莊嚴(さうがうしやうごん)の篭手(こて)をさし、上求菩提(じやうぐぼだひ)の膝鎧(ひざよろひ)、下化衆生(げゝしゆじやう)の脛當(すねあて)し、二求兩願(じぐりやうぐわん)の綱貫(つなぬき)はき、大悲(ひ)だいじゆらの頬當(ほうあて)し、無數方便(むしゆはうべん)の赤絲(あかいと)の鎧(よろひ)に、紫磨黄金(しまわうごん)の裾金物(すそかなもの)をうちける、萬徳圓滿(まんどくゑんまん)の月、まかうにうちたる、畢竟空(ひつきやうくう)しくの四方白(はうじろ)の兜(かぶと)を猪首(いくび)にき、五劫思惟(こうしゆい)の嚴物(いかもの)づくりの太刀(たち)はき、首楞嚴定(しゆれうごんぢやう)の刀(かたな)さし、くわしや三昧(さんまい)の月弓(ゆみ)に、實相般若(じつさうはんにや)の弦(つる)をかけ、智徳無量(ちとくむりやう)の矢數(やかず)を、隨類化現(ずひるいけげん)の筥(はこ)にさして、はたかにおひなし給((たまふ))。もとより手(て)なれたる大蛇(じや)、後(うしろ)よりはひかゝり、左右(さう)の肩(かた)に手(て)をを((お))き、兜(かぶと)の上に頭(かしら)をもたし、兩眼(りやうがん)の光(ひかり)あきらかにして、時々(とき/\)(いなづま)四方(はう)にちり、紫(むらさき)の舌(した)の色(いろ)あざやかにして、折々(おり/\)火焔(くわゑん)をふきいだす勢(いきおひ)、天(てん)にあまる。《『曽我物語』卷第六・辯才天(べんざいてん)の御事・大系248頁》

 

 

2002年10月19日(土)曇り後晴れ夜半雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)→飯田橋(法政大学)日本古文書学会

龍頭(たつがしら)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

龍頭(タツカシラ)。〔元亀本140五〕〔静嘉堂本149八〕〔天正十七年本中6ウ七〕

とあって、標記語「龍頭」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

龍頭四方白甲各一刎」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(タツ)___(カフト)各一_(ハネ)」〔山田俊雄藏本〕

_(タツカシラ)__(カフト)各一_(ハネ)」〔経覺筆本〕

_(タツカシラ)__(カフト)各一_(ハネ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「龍頭」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』といった古辞書には、この語は未収載となっている。易林本節用集』には、

龍首(タツカシラ)。〔器財92四〕

とあって、標記語「龍首」で、語注記は未記載にする。

 ここで、古辞書に見られる「龍頭」は、『運歩色葉集』となり、標記語「龍首」で、易林本節用集』にあるということになる。標記語が真字本『庭訓往来註』と同じなのは、『運歩色葉集』だけということになり、その継承性の収載度合がここに見えてくる。

 『庭訓往来註』六月十一日の状にも、

354黒白龍頭 何甲之義。〔謙堂文庫藏三七右E〕

とあって、標記語「龍頭」の語注記は、「いずれも甲の義」という。

 古版『庭訓徃来註』では、

龍頭(タツガシラ) ト云ハ甲(カブト)ノ鉢(ハチ)ナリ。〔下十一ウ七・八〕

とあって、この標記語「龍頭」自体の語注記は、「甲の鉢なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

龍頭(たつかしら)龍頭 かぶとの真向(まつかう)に龍の頭を設(も)ふく。是ハ大将のかぶとに限りたる事なり。〔46オ八〜ウ一〕

とあって、標記語「龍頭」の語注記は、「かぶとの真向に龍の頭を設ふく。是は、大将のかぶとに限りたる事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

龍頭(たつかしら)龍頭龍頭ハ則(すなハち)大将(たいしやう)の冑也。〔三十五オ四〕

龍頭(たつかしら)龍頭ハ則(すなハち)大将(たいしやう)の冑(かぶと)也。〔62オ六〕

とあって、標記語「龍頭」の語注記は、「龍頭は、則ち大将の冑なり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tatcugaxira.タツガシラ(龍頭) 冑の項に飾りとしてつける竜の頭.※原文はlagarto.〔Reo>(竜)の注〕〔邦訳616r〕

とあって、標記語「龍頭」の意味は「冑の項に飾りとしてつける竜の頭」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たつ-がしら(名)【龍頭】器の飾に、龍の頭を作れるもの。兜の立物にするは、鍬形の中に据う、大將の用とす。リュウヅ。矢島草子「五枚兜に、鍬形打ちて、龍がしらすゑたるを、猪首に召され」「緋威龍頭の兜」〔1222-1〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「たつ-がしら【龍頭】[名]@龍の頭の形をしたもの。兜(かぶと)の前立物、または葬礼の旗頭などにつけて飾りとする。A近世和船の船首材である水押(みよし)の別称。特に龍の頭をかたどったものではないが、関船や弁財(べざい)船などのように水押の先端を長く突き出した場合に呼ぶことが多い。B「たつ(龍)の口@」に同じ。たつがしらの兜(かぶと)兜の頭上の作りもの。真向(まっこう)から天辺(てっぺん)にかけて龍の姿を打ちものとしてつくりつけた兜」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

去程(サルホド)ニ、搦手(カラメテ)ノ兵(ツハモノ)、思(オモヒ)モ寄(ヨラ)ズ勝手(カツテ)ノ明神(ミヤウジン)ノ前ヨリ押寄(オシヨセ)テ、宮ノ御坐有(ゴザアリ)ケル藏王堂(ザワウダウ)ヘ打(ウツ)テ懸(カカ)リケル間、大塔(ノ)宮今ハ遁(ノガ)レヌ處也ト思食切(オボシメシキツ)テ、赤地(アカヂ)ノ錦ノ鎧直垂(ヨロヒヒタタレ)ニ、火威(ヒヲドシ)ノ鎧ノマダ巳(ミ)ノ刻(コク)ナルヲ、透間(スキマ)モナクメサレ、龍頭(タツガシラ)(カブト)ノ緒(ヲ)ヲシメ、白檀磨(ビヤクダンミガキ)ノ臑當(スネアテ)ニ、三尺五寸ノ小長刀(コナギナタ)ヲ脇ニ挾(サシハサ)ミ、劣ラヌ兵廾余人前後左右(ゼンゴサイウ)ニ立(タテ)、敵ノ靉(ムラガツ)テ引(ヒカ)ヘタル中ヘ走リ懸(カカ)リ、東西(トウザイ)ヲ掃(ハラ)ヒ、南北ヘ追廻(オヒマハ)シ、黒煙(クロケブリ)ヲ立(タテ)テ切(キツ)テ廻(マハ)ラセ給フニ、寄手(ヨセテ)大勢也(オホゼイナリ)ト云ヘ共(ドモ)、纔(ワヅカ)ノ小勢ニ被切立テ、木(コ)ノ葉(ハ)ノ風ニ散(チル)ガ如ク、四方ノ谷ヘ颯(サツ)トヒク。《『太平記』卷第七・吉野城軍事》

 

 

2002年10月18日(金)曇り後晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

緋威(ひをどし)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「比」部に、

火威(―ヲドシ)緋鬼(同)。〔元亀本341一〕〔静嘉堂本408六〕

とあって、標記語「緋威」の語は未収載にし、「火威」と「緋鬼」の語で収載する。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、至徳三年本建部傳内本文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、すべて未収載にしている。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「緋威」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、

火威(ヒヲドシ)鎧(ヨロイ)ノ色。謂火_威|也。〔元和版・彩色門137一〕

火威(ヒヲドシ)鎧(ヨロイ)ノ毛。〔村口本・彩色門61ウ一〕

とあって、標記語「火威」で収載し、語注記には「鎧の毛」と古写本類がするのに対し、元和版は、「鎧の色、これを火威と謂ふなり」という。次に、広本節用集』には、

火威鎧(ヒヲドシノヨロイ/クワイガイ)[上・平・去]緋権(ヒヲドシ)。魚権(ヒヲドシ)。〔光彩門1036五〕

とあって、標記語「火威鎧」で収載し、語注記には、別表記の「緋権」と「魚権」の二語を記載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

緋権(ヒヲトシ)火威鎧(ヒヲトシノヨロヒ)魚権(ヒイホトシノ心也)。〔・財宝衣服254五〕

火威鎧(ヒヲトシノヨロイ)緋権(ヒヲトシ)魚権(ヒイヲトシ)ノ心也。〔・財宝217五〕

火威鎧(ヒヲトシノヨロイ)緋権魚権心也。〔・203一〕

とあって、いずれも若干ずつ異なるが大筋は広本節用集』の内容を継承する。また、易林本節用集』には、

日綴(ヒヲドシ)火威鎧(ヒヲドシノヨロヒ)。火又作(ヒ)。〔器財225二〕

とあって、標記語「日綴」と「火威鎧」の語を収載し、後者の語注記として「火また緋に作る」と記載する。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状には、

353緋威(ヒヲドシ)ノ 以金作。以黄絲威也。是光也。又淀(アジロ)ノ繋鯉学、鯉氷魚云也。核ニテ作、赤毛引氷魚云也。魚学也。〔謙堂文庫藏三七右C〕

とあって、標記語「緋威」の語を収載し、語注記には、「金をもって核を作る。黄絲をもって威とするなり。是は、旭の光りを学ぶなり。また、淀の筵の中の繋鯉と云ふを学び、鯉を氷魚と云ふなり。核に首を銀にて作り、赤く毛引を氷魚威と云ふなり。魚の首を双ぶを学ぶなり」としている。

 古版『庭訓徃来註』、時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』では、この標記語「緋威」自体未記載にする。いわば、上記における真字『庭訓往来註』だけが記載する部分である。なぜ、このような記載が生まれたかは注記釈内容に大いに関わっているものと判断したい。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Fivodoxi.ヒヲドシ(緋威) 例,Fivodoxino yproi.(緋縅の鎧)薄い金属片〔札(さね)〕を真紅の絹の撚糸で結び連ね〔縅し〕た日本の鎧.〔邦訳251r〕

とあって、標記語「緋威」の意味は「薄い金属片〔札(さね)〕を真紅の絹の撚糸で結び連ね〔縅し〕た日本の鎧」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-をどし(名)【緋威】鎧の縅(をどし)絲の、總べて紅染なるもの。又、紅染の革なるにも云ふ。朱

。緋甲。紅甲。紅縅穿。平義器談(1771年)、ひおどしの鎧の事「緋威火威とも書なり、日威と書たる例なし、又、緋の絲にて威たるをば、絲の字をそへて、絲緋威といふなり、絲の字そへて云は、革のひおどしにまぎれぬ爲なり、又、ひおどしと赤威との差別は、緋は紅花にて染る、赤は茜根にて染る、緋は、はなやかにて、火のもえ出る如くなる故曰、火威とも書なり、赤は少Kみある樣にて、もえ出るごとくなる光彩なし、云云」平家物語、四、宮御最後事「伊勢武者ハ、皆ひをどしの鎧着て」太平記、十七、山門攻事「眼さかさまに裂け、鬚左右へ分れたるが、緋縅の鎧に龍頭の兜の緒を縮(し)め」〔1715-3〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ひ-おどし【緋威緋縅火威】[名]@鎧(よろい)の威の一種。緋に染めた革や組糸を用いた威。また、その鎧。くれないおどし。緋威の鎧。A「ひおどしちょう(緋威蝶)」の略。[補注]随筆「梅の塵―氷魚綴の事」に「氷魚綴(ひをどし)と云有。是白糸にて縅したるなり。氷魚とは麺条魚と云て、即ち白魚の事なり」とあり、白糸でおどしたものとするが、「武器考証―八」には「氷魚綴鎧<略>按、氷魚綴、古き書に見えず。唯緋威の異字也。ひをどしとよむ、氷魚の字に付て僻説あり。取るに足らず」とも記され、「梅の塵」の説は誤りと思われる」とあって、『庭訓徃来』の用例でなく、『新札往来』〔1367年〕上「白糸・紫・黒糸<略>火威。思々好之候」の用例を記載する。その補注内容も、真字『庭訓往来註』の事柄には触れずじまいにある。

[ことばの実際]

朝政、著火威甲、駕鹿毛馬、時年廿五勇力太盛、而懸四方、多亡凶徒也《読み下し》朝政ハ、火威(ヒヲドシ)(ヨロヒ)ヲ著、鹿毛ノ馬ニ駕ル。時ニ年二十五。勇力太ダ盛ニシテ、四方ニ懸ケテ、多ク凶徒ヲ亡ボスナリ。《『吾妻鏡』治承五年閏二月二十三日の条》

 

 

2002年10月17日(木)晴れ夜半雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

星白(ほししろ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、標記語「星白」の語を未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

縄目紺綴腹當星白」〔至徳三年本〕

縄目紺糸綴腹當星白」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

__(フシナワ)__(コン―リ)ノ__(―)()」〔山田俊雄藏本〕

縄目(フシナワメ)紺系威(コンイトヲトシ)腹當(ハラアテ)星白(ホシシロ)」〔経覺筆本〕

__(フシナワメ)__(コンイトヲトシ)_(ハラアテ)_(ホシシロ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「星白」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』といった古辞書には、この語は未収載となっている。

 さて、上記の古辞書が未収載な箇所であるが、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

354黒白龍頭 何甲之義。〔謙堂文庫藏三七右E〕

とあって、標記語「K白」とし、「星白」の語は、なぜか未収載となっている。

 古版『庭訓徃来註』では、

縄目(フシナワメ)紺系威(コンイトヲトシ)腹當(ハラアテ)星白(ホシシロ) 縄目(フシナハメ)(イト)マせ具足(クソク)ナリ。〔下十一ウ六・七〕

とあって、この標記語「星白」自体の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

紺糸綴(こんいとおどし)腹當(はらあて)星白(ほししろ)紺糸綴腹當星白 かぶとの筋の間にある星を銀にてしたるをいふ。〔46オ五〜七〕

とあって、標記語「星白」の語注記は、「かぶとの筋の間にある星を銀にてしたるをいふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

縄目(ふしなハめ)紺糸縅(こんいとおどし)腹當(はらあて)星白(ほししろ)縄目紺糸綴腹當星白星白ハ銀の星冑(ほしかぶと)也。〔三十五オ三・四〕

縄目(ふしなハめ)紺糸綴(こんいとおどし)腹當(はらあて)星白(ほししろ)星白ハ銀の星冑(ほしかぶと)也。〔62オ六〕

とあって、標記語「星白」の語注記は、「星白ハ銀の星冑なり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Foxijiro.ホシシロ(星白) 昔,冑に施した一種の飾り.〔邦訳266r〕

とあって、標記語「星白」の意味は「昔,冑に施した一種の飾り」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「ほし-しろ(名)【星白】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ほし-しろ【星白】[名]@鹿などの毛にある白い斑点。また、その毛皮。A兜の鉢の星を銀で包んで作ったもの。B「ほしじろ(星白)の兜(かぶと)」の略」とあって、『庭訓徃来』の用例をBに記載する。

[ことばの実際]

ひやうもんの狩衣の菊とぢおほきらかにしたるに、重代のきせなが、ひおどしのよろひに星じろの甲の緒をしめ、いか物づくりの大太刀はき、廿四さいたる大なかぐろの矢おひ、瀧口の骨法わすれじとや、鷹の羽にてはいだりける的矢一手ぞさしそへたる。《『平家物語』卷第四、競・大系295六》

 

 

2002年10月16日(水)晴れ。祝祷音楽法要と文化講演、東京(八王子)→世田谷(駒沢)

腹當(はらあて)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「葉」部に、

腹當(―アテ) 。〔元亀本25八〕〔天正十七年本上12ウ八〕〔西来寺本〕

腹當(ハラアテ) 。〔静嘉堂文庫本23五〕

とあって、標記語「腹當」との語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

縄目紺綴腹當星白」〔至徳三年本〕

縄目紺糸綴腹當星白」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

__(フシナワ)ノ__(コン―リ)ノ__(―)()」〔山田俊雄藏本〕

縄目(フシナワメ)ノ紺系威(コンイトヲトシ)腹當(ハラアテ)星白(ホシシロ)」〔経覺筆本〕

__(フシナワメ)ノ__(コンイトヲトシ)_(ハラアテ)_(ホシシロ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「腹當」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、

腹當(ハラアテ) 〔器財門115一〕

とあって、標記語「腹當」の語を収載する。次に、広本節用集』には、

腹當(ハラアテ/フクタウ)[入・平入] 〔器財門59四〕

とあって、標記語腹當」を収載し、語注記は未記載にする。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

腹當(ハラアテ) 。〔弘治二年本・財宝21五〕〔永祿二年本・財宝19二〕〔尭空本・財宝17五〕〔両足院・財宝21六〕

とあって、標記語腹當」を収載し、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

腹當(ハラアテ) 。〔器財19一〕

とあって、標記語「腹當の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。

 ここで古辞書における「腹當」についてまとめておくと、『色葉字類抄』には未収載で、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載され、室町時代の古辞書渾てに収載されている語である。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

352 縄目紺絲威腹當 絲縄目ルナリ貞任宗任追伐時、押付中一通引切、被損棄腹當。押付草摺一間、腹當八間也。〔謙堂文庫藏三七右B〕

とあって、標記語を「腹當」についての語注記は、「(安倍)貞任・宗任追伐の時、押付の中、一通を引き切り、損じ棄せられ、是を腹當と云ふ。押付の草摺一間、腹當は八間なり」と記載する。※『吾妻鏡』元暦元年十一月二十三日の条に、「今ノ代ニ*(*必ズ)其ノ蹤ヲ守ルベシ。又貴下ノ先祖、伊予ノ入道、詔命ヲ蒙リ承リ、貞任ヲ征伐スルノ刻、先ヅ園城ノ仁祠ニ詣シ、殊ニ新羅ノ霊社ヲ祈リ、其ノ効験ニ依テ、彼ノ夷狄ヲ伏シ、梟首ヲ洛中ニ伝ヘ、虎威ヲ関東ニ施ス。」とある前九年役と後三年役の折という設定になる。

 古版『庭訓徃来註』では、

縄目(フシナワメ)ノ紺系威(コンイトヲトシ)腹當(ハラアテ)星白(ホシシロ) 縄目(フシナハメ)(イト)マせ具足(クソク)ナリ。〔下十一ウ六・七〕

とあって、この標記語「腹當」自体の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

紺糸綴(こんいとおどし)腹當(はらあて)星白(ほししろ)紺糸綴腹當星白 かぶとの筋の間にある星を銀にてしたるをいふ。〔46オ五〜七〕

とあって、標記語「腹當」の語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

縄目(ふしなハめ)紺糸縅(こんいとおどし)腹當(はらあて)星白(ほししろ)縄目紺糸綴腹當星白。〔三十四ウ五〕

縄目(ふしなハめ)紺糸綴(こんいとおどし)腹當(はらあて)星白(ほししろ)。〔62オ三〜五〕

とあって、標記語「腹當」の語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Faraate.l,faramaqi.ハラアテ,または,ハラマキ(腹當,または,腹巻) 鎧.〔邦訳207l〕

とあって、標記語「腹當」の意味は「鎧」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「はら-あて(名)【腹當】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「はら-あて【腹當】[名]中世の鎧(よろい)の一種。胸腹を防御するもので、草摺(くさずり)のないものもある。多くは歩卒用で身軽に装う時に用いたが、大鎧の下に着重ねることもあった。A腹掛け。腹巻。《季・夏》B馬の腹をおおう布。はらがけ」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

片小手(カタコテ)腹當(ハラアテ)シテ、諸具足(モログソク)シタル中間(チユウゲン)五百余人、二行(ガウ)ニ列ヲ引キ、馬ノ前後(ゼンゴ)ニ隨(シタガツ)テ、閑(シヅカ)ニ路次(ロシ)ヲゾ歩(アユ)ミケル。《『太平記』卷第六・關東大勢上洛事》

 

 

2002年10月15日(火)晴れ。120周年記念式典、東京(八王子)→世田谷(駒沢)

紺糸綴(コンいとをどし)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、「紺掻(カキ)紺。紺染(ソメ)。紺青(ジヤウ)。紺布(コンブ)在笠懸在之。紺紙(シ)」の五語を収載するだけで、標記語「紺糸綴」の語は未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

縄目紺綴腹當星白」〔至徳三年本〕

縄目紺糸綴腹當星白」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

__(フシナワ)__(コン―リ)__(―)()」〔山田俊雄藏本〕

縄目(フシナワメ)紺系威(コンイトヲトシ)腹當(ハラアテ)星白(ホシシロ)」〔経覺筆本〕

__(フシナワメ)__(コンイトヲトシ)_(ハラアテ)_(ホシシロ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「紺糸綴」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「紺糸綴」の語を未収載にする。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

352 縄目紺絲威腹當 絲縄目ルナリ貞任宗任追伐時、押付中一通引切、被損棄腹當。押付草摺一間、腹當八間也。〔謙堂文庫藏三七右B〕

とあって、標記語を「紺糸綴」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

縄目(フシナワメ)紺系威(コンイトヲトシ)腹當(ハラアテ)星白(ホシシロ) 縄目(フシナハメ)(イト)マせ具足(クソク)ナリ。〔下十一ウ六・七〕

とあって、この標記語「紺糸綴」自体の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

紺糸綴(こんいとおどし)腹當(はらあて)星白(ほししろ)紺糸綴腹當星白 かぶとの筋の間にある星を銀にてしたるをいふ。〔46オ五〜七〕

とあって、標記語「紺糸綴」の語注記は、「かぶとの筋の間にある星を銀にてしたるをいふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

縄目(ふしなハめ)紺糸縅(こんいとおどし)腹當(はらあて)星白(ほししろ)縄目紺糸綴腹當星白。〔三十四ウ五〕

縄目(ふしなハめ)紺糸綴(こんいとおどし)腹當(はらあて)星白(ほししろ)。〔62オ三〜五〕

とあって、標記語「紺糸綴」の語注記は、「縄目は、黒地を啄木の糸にて綴るをいふ。昔は、白と藍と紺とを縄目に染めなしたる色革にて縅せしとぞ」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)には、標記語「紺糸綴」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』にも、「こんいと-をどし(名)【紺糸綴】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「こんいと-おどし【紺糸綴】[名]鎧(よろい)の威毛(おどしげ)の一種。紺色の糸で威したもの。こういとおどし」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

貞長は、狩衣の下に紺糸威の腹巻を著し、立烏帽子(たてえぼし)に嗔物作の太刀脇に挟て出けるが、太刀をば御所の簀に立て、御気色(おんきしよく)の次第を相尋ぬ。《『源平盛衰記』(14世紀前)卷第三五・P0866》

 

2002年10月14日(月)晴れ。体育の日、東京(八王子)→世田谷(駒沢)

第14回「出雲全日本大学選抜駅伝競走」(日本学生陸上競技連合、出雲市主催)

出雲市周辺の6区44キロのコースで開催。結果は、駒澤大学(2時間11分3秒)にて第3位。

縄目(ふしなわめ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「布」部に、

縄目(フシナワメ) 。〔元亀本225十〕〔天正十七年本中58ウ四〕

縄目(フシナワメ) 附子縄目(同) 。〔静嘉堂文庫本259二〕

とあって、標記語「縄目」は三写本に収載され、静嘉堂本だけが「附子縄目」の語をその後に収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

縄目紺綴腹當星白」〔至徳三年本〕

縄目紺糸綴腹當星白」〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

__(フシナワ)__(コン―リ)ノ__(―)()」〔山田俊雄藏本〕

縄目(フシナワメ)紺系威(コンイトヲトシ)腹當(ハラアテ)星白(ホシシロ)」〔経覺筆本〕

__(フシナワメ)__(コンイトヲトシ)_(ハラアテ)_(ホシシロ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「縄目」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「縄目」の語を未収載にする。

とある。次に、広本節用集』には、

縄目(フシナワメ/―ジヨウホク)[○・平・入] 鎧。〔器財門622八〕

とあって、標記語「縄目の読みは「ふしなわめ」で、語注記に「鎧」という。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「縄目」の語を未収載にする。

 ここで古辞書における「縄目」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』には未収載で、広本節用集』と『運歩色葉集』にだけ収載が見られる語である。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

352 縄目紺絲威腹當 縄目ルナリ貞任宗任追伐時、押付中一通引切、被損棄腹當。押付草摺一間、腹當八間也。〔謙堂文庫藏三七右B〕

とあって、標記語を「縄目」についての語注記は、「絲を縄目に爲るなり」と記載する。

 古版『庭訓徃来註』では、

縄目(フシナワメ)紺系威(コンイトヲトシ)腹當(ハラアテ)星白(ホシシロ) 縄目(フシナハメ)(イト)マせ具足(クソク)ナリ。〔下十一ウ六・七〕

とあって、この標記語「縄目」自体の語注記は、「縄目系まぜ具足なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

縄目(ふしなはめ)縄目 又節(ふし)縄目とも。索目(ふじなわめ)とも書なり。啄木の糸にておとす啄木縅なれとも糸のへし様に口傳ありと也。ある書に惣地縫延(さうぢぬひのへ)を薄焦地(うすからぢ)の色にして縄目の頭を濃焦地(こいからぢ)にするを云とそ。〔46オ五〜七〕

とあって、標記語「縄目」の語注記は、「また、節縄目とも。索目とも書くなり。啄木の糸にておどす啄木縅なれども、糸のべし様に口傳ありとなり。ある書に惣地縫延を薄焦地の色にして縄目の頭を濃焦地にするを云ふとぞ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

縄目(ふしなハめ)紺糸縅(こんいとおどし)腹當(はらあて)星白(ほししろ)縄目紺糸綴腹當星白縄目ハ黒地を啄木(たくぼく)の糸にて綴(つゞ)るをいふ。昔(むかし)ハ白と藍(あい)と紺(こん)とを縄目(なハめ)に染(そめ)なしたる色革(いろかハ)にて縅(おど)せしとぞ。〔三十五オ三〕

縄目(ふしなハめ)紺糸綴(こんいとおどし)腹當(はらあて)星白(ほししろ)縄目ハ黒地を啄木(たくぼく)の糸にて綴(つゞ)るをいふ。昔(むかし)ハ白と藍(あい)と紺(こん)とを縄目(なハめ)に染(そめ)なしたる色革(いろかハ)にて縅(おど)せしとぞ。〔62オ三〜五〕

とあって、標記語「縄目」の語注記は、「縄目は、黒地を啄木の糸にて綴るをいふ。昔は、白と藍と紺とを縄目に染めなしたる色革にて縅せしとぞ」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fuxinauame.フシナワメ(縄目) 鎧の作り方,縅し方の一種.〔邦訳288l〕

とあって、標記語「縄目」の意味は「鎧の作り方,縅し方の一種」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ふし-なはめ(名)【伏繩】よろひのをどしに用ゐる染革の名。目。下の出典を見よ。 安斎雜考、下「ふしなはめと云ふは、染革の名也、白、あさぎ、紺三色を、幕の手繩の如く交へて、筋を染めたる革也。この革を裁ちて、絲威(をどし)の如く威したるを、ふしなはめの鎧と云ふなり」義經記、三、書寫山炎上事「廿二三ばかりなる法師の、衣の下に、節繩目の鎧腹卷着てぞ出で來る」〔1746-4〕

とあって、標記語「伏縄目」の語を収載し、意義説明のなかに「縄目」を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ふし-なわめ【縄目】[名](のち、「伏」の字に「藤」をあて「ふじなわめ」とも)@染革の文様の一つ。色変りの繧繝(うんげん)で、斜めまたは波頭(なみがしら)に染めだした文様。縄目ともいう。A「ふしなわめおどし(伏繩目威)」の略」とし、標記語「ふしなわめ-おどし【伏縄目威】[名]鎧(よろい)の威の一種。伏縄目の革を細く裁ち、縄のように綯(な)いてまぜて威したもの。ふしなわめのおどし。ふしなわめ」とあって、『庭訓徃来』の用例は、直接には未記載だが、用例として『甲組類鑑』(18世紀後か)を引用し、ここに「伏縄目威 フシナワメオトシ〈略〉此等の書伏縄目とも節縄目縄目とも記せり庭訓徃來の字を用ゆ異制庭訓往来には附子縄目に作れり〈略〉尺素往来には索目に作れり」を挙げる。

[ことばの実際]

褐の直垂に節繩目の腹卷着て、赤銅造りの太刀帶いて、一尺三寸ありける刀に、御免樣革にて、表鞘を包みてむずとさし、大長刀の鞘をはづし、杖に突き、法師なれども常に頭を剃らざりければ、おつつかみ頭に生ひたるに、出張頭巾ひつかこみ、鬼のごとくに見えける。《『義經記』(室町中期)義經鬼一法眼が所御出の事》

 

 

2002年10月13日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(玉川→岡本〔静嘉堂文庫〕→駒沢)

筒丸(ドウまる)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「津」部に、

筒丸(ドウマル) 胴丸(同) 。〔元亀本56八〕

筒丸(トウマル) 胴丸(同) 。〔静嘉堂文庫本64一〕〔天正十七年本上32ウ八〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「筒丸」と「胴丸」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威大荒目筒丸」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_(―カワ)_(キー)__綾小___(ヲトシ)_(アラ)__」〔山田俊雄藏本〕

赤皮(―カワ)黄絲(キ―)腹卷唐綾(カラアヤ)小櫻(コサクラ)黒革威(―カワヲトシ)大荒目(ヲヲアラメ)筒丸(トウマル)」〔経覺筆本〕

_(―カワ)_(キイト)__(カラアヤ)_(コ―)__(―カワヲトシ)__(―アラメ)_(トウマル)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「筒丸」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、

筒丸(ドウマル) 日本俗所ロ∨也。但筒或ル∨誤也。是。喩(タトフ)ル也。同字無。今用ンソ(ヤ)云々。〔器財門115一〕

とある。次に、広本節用集』には、

筒丸(ドウマロ) 鎧名。日本俗所言也。但筒作同大ニ誤也。是以人身。喩竹筒也。同(タイ)。今用(モチイル)(ナンソ)(ヤ)。〔器財門131二〕

とあって、その読みは「ドウまろ」で、語注記に「鎧の名。日本の俗の言ふところなり。但し、筒を同に作るは大に誤りなり。是は人身をもって、竹筒に喩ふなり。同の字は、体無し。今これを用いる何ぞや」という『下學集』の語注記を継承する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

筒丸(ドウマル) 鎧名。〔弘治二年本・財宝43二〕

筒丸(ドウマル) 鎧名。但―或作同大誤也。是以。喩筒也。同字無体。今用之何哉。永祿二年本・財宝44二〕

筒丸(ドウマル) 名。但―或同大誤也。是以人身。喩竹筒。同字无体。今用之何哉。尭空本・財宝41三〕

筒丸(トウマル) 名。但―或同大誤也。是以人身。喩竹筒。同字無体。今用之何哉。両足院・財宝49二〕

とあって、語注記を弘治二年本だけが「鎧の名」として後の部分を省略しているのに対し、他三写本は、『下學集』及び広本節用集』を継承している。また、易林本節用集』には、

胴丸(ドウマロ) 鎧也。〔服食42六〕

とあって、標記語「胴丸の語をもって収載し、その語注記は弘治二年本節用集』と同じように、「鎧なり」と記載する。

 ここで古辞書における「筒丸」についてまとめておくと、『色葉字類抄』には未収載で、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類に収載され、『運歩色葉集』と易林本節用集』には、別表記「胴丸」が収載されているが、語注記が短いかないのが特徴である。これに対し、『下學集』、広本節用集』、印度本『節用集』〔永祿二年本尭空本両足院本〕には、詳細な語注記が付されているのである。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

351黒皮威大荒目筒丸 實也。〔謙堂文庫藏三七右B〕

とあって、標記語を「筒丸」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

赤革(アカカワ)黄絲(キイト)ノ腹卷(ハラマキ)唐綾(カラアヤ)小櫻(コザクラ)黒革威(クロカハヲドシ)大荒目(アラメ)ノ筒丸(トウマル)赤革(アカカハ)ノ具足(クー)ハ染革(ソメカハ)ノ具足ナリ。小櫻(サクラ)ハ白キ内ニ。少シアカミノサシタルナリ。〔下十一ウ五・六〕

とあって、この標記語「筒丸」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

大荒目(おほあらめ)胴丸(とうまる)大荒目筒丸(ゆるき)札毛(さねけ)引番(ひきつかい)なきを胴丸といひ、又筒丸とも書。大荒目の胴丸とハ縫延(ぬいのべ)にしたるを云。又紋の大なる革にてつゝみたるをも云。今ハ大石目のたゝきぬりをもいふなり。〔46オ四・五〕

とあって、標記語「筒丸」の語注記は、「揺き札毛引番なきを胴丸といひ、又筒丸とも書く。大荒目の胴丸とは、縫延にしたるを云ふ。又、紋の大なる革にてつゝみたるをも云ふ。今は、大石目のたゝきぬりをもいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

赤革(あかがハ)黄糸(きいと)腹巻(はらまき)唐綾(からあや)小櫻(こざくら)K革縅(くろかハおどし)大荒目(おほあらめ)筒丸(どうまる)赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威。大荒目筒丸。▲大荒目筒丸とハ筒丸ハ胴(とう)の名(な)其形(かたち)(まる)く竹筒(たけのつゝ)のごとくゆへ名(なつ)く。前後(まへうしろ)一連(ひとつら)にて射向(いむけ)の方蝶番(てうつがひ)なく馬手(めて)の方引合(ひきあはせ)高紐(たかひも)にてしむる也。是を縫延(ぬいのべ)にしたるを大荒目の筒丸といふ。〔三十四オ二〕

赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威。大荒目筒丸。▲大荒目筒丸とハ筒丸ハ胴(どう)の名(な)其形(かたち)丸く竹(たけ)の筒(つゝ)のごときゆゑ名(なづ)く。前後(まへうしろ)一連(ひとつら)にて射向(いむけ)の方蝶番(てうつがひ)なく馬手(めて)の方引合(ひきあハせ)高紐(たかひも)にてしむる也。是を縫延(ぬひのべ)にしたるを大荒目の筒丸といふ。〔62オ三〜五〕

とあって、標記語「筒丸」の語注記は、「筒丸は、胴の名。其の形丸く竹の筒のごときゆゑ名づく。前後一連にて射向の方蝶番なく、馬手の方引合せ高紐にてしむるなり。是を縫延にしたるを大荒目の筒丸といふ」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Do>maru.ドウマル(筒丸) 鎧の一形式で,片側の脇腹で閉じるようになっているもの.〔邦訳188l〕

とあって、標記語「筒丸」の意味は「鎧の一形式で,片側の脇腹で閉じるようになっているもの」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

どう-まる(名)【筒丸】〔胴を丸く圍む故に云ふ〕鎧の一種。其製、胴の左に、つがひ無くして屈伸し、右の脇まで、十分に合ふものと云ふ。どうまろ。 盛衰記、廿二、衣笠合戰事「弓よく射る者どもは、鎧を着ざれ、腹巻、腹當、胴丸などを着て」高館草紙(室町時代)「卯花威の鎧、絲緋威の胴丸、三領重ね」〔1390-1〕

とあって、標記語「筒丸」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「どう-まる【筒丸】[名](胴を丸く囲むところからの称)中世の札(さね)仕立ての鎧(よろい)の一種。騎射用の大鎧に対し、徒歩戦闘に適するようにすこぶる軽快につくられた歩卒の鎧。歩兵の集団戦が盛んになった室町頃から武将たちにも用いられた。胴丸の具足。どうまろ。[語誌](1)右脇で引き合わせる形式の鎧で、これは「伴大納言絵詞」等の古画にすでに見られるから平安後期ごろには存在していたと思われる。初期はもっぱら徒立の下卒に着用され、あるいは、上級武士が軽快に出で立つときに、装束の下に着籠められた。一般的には、袖はなく、杏葉と呼ばれる鉄板で肩上を覆った。(2)南北朝頃から、打物による徒立の戦闘が増加するに伴い、袖・冑を皆具するようになり、上級武士の間でも大鎧に代わって広く用いられるようになった。[方言]@そでなし。そでなし羽織」と、標記語「どう-まろ【筒丸】[名]「どうまる(胴丸)」に同じ」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

(ココ)ニ何者トハ知(シラ)ズ見物衆(ケンブツシユ)ノ中(ナカ)ヨリ、年十五六計(バカリ)ナル小兒(コチゴ)ノ(カミ)唐輪(カラワ)ニ上(アゲ)タルガ、麹塵(キヂン)筒丸(ドウマロ)ニ、大口(オホクチ)ノソバ高ク取リ、金作(コガネヅクリ)ノ小太刀(コダチ)ヲ拔(ヌイ)テ快實ニ走懸(ハシリカカ)リ、甲(カブト)ノ鉢ヲシタヽカニ三打四打(ミウチヨウチ)ゾ打(ウチ)タリケル。《『太平記』卷第二・長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事》

 

 

2002年10月12日(土)晴れ。国際フォーラム、東京(八王子)→世田谷(駒沢)

大荒目(おほあらめ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「於」部に、標記語「大荒目」の語を未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威大荒目筒丸」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_(カワ)_(キー)__綾小___(ヲトシ)_(アラ)__」〔山田俊雄藏本〕

赤皮(―カワ)黄絲(キ―)腹卷唐綾(カラアヤ)小櫻(コサクラ)黒革威(―カワヲトシ)大荒目(ヲヲアラメ)筒丸(トウマル)」〔経覺筆本〕

_(―カワ)_(キイト)__(カラアヤ)_(コ―)__(―カワヲトシ)__(―アラメ)_(トウマル)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「大荒目」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』といった古辞書には、標記語「大荒目の語を未収載にする。江戸時代の『書字考節用集』に見えるのが最初となる。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

351黒皮威大荒目筒丸 實也。〔謙堂文庫藏三七右B〕

大荒目―実ヲヒロクスル也〔天理図書館藏『庭訓徃來註』書込み〕

とあって、標記語を「大荒目」についての語注記は、「實を白く爲るなり」と記載する。

 古版『庭訓徃来註』では、

赤革(アカカワ)黄絲(キイト)ノ腹卷(ハラマキ)唐綾(カラアヤ)小櫻(コザクラ)黒革威(クロカハヲドシ)大荒目(アラメ)筒丸(トウマル)赤革(アカカハ)ノ具足(クー)ハ染革(ソメカハ)ノ具足ナリ。小櫻(サクラ)ハ白キ内ニ。少シアカミノサシタルナリ。〔下十一ウ五・六〕

とあって、この標記語「大荒目」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

大荒目(からあや)胴丸(とうまる)大荒目筒丸(ゆるき)札毛(さねけ)引番(ひきつかい)なきを胴丸といひ、又筒丸とも書。大荒目の胴丸とハ縫延(ぬいのべ)にしたるを云。又紋の大なる革にてつゝみたるをも云。今ハ大石目のたゝきぬりをもいふなり。〔46オ四・五〕

とあって、標記語「大荒目」の語注記は、「大荒目の胴丸とは、縫延にしたるを云ふ。又、紋の大なる革にてつゝみたるをも云ふ。今は、大石目のたゝきぬりをもいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

赤革(あかがハ)黄糸(きいと)腹巻(はらまき)唐綾(からあや)小櫻(こざくら)K革縅(くろかハおどし)大荒目(おほあらめ)筒丸(どうまる)赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威。大荒目筒丸。▲大荒目筒丸とハ筒丸ハ胴(とう)の名(な)其形(かたち)(まる)く竹筒(たけのつゝ)のごとくゆへ名(なつ)く。前後(まへうしろ)一連(ひとつら)にて射向(いむけ)の方蝶番(てうつがひ)なく馬手(めて)の方引合(ひきあはせ)高紐(たかひも)にてしむる也。是を縫延(ぬいのべ)にしたるを大荒目の筒丸といふ。〔三十四オ二〕

赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威。大荒目筒丸。▲大荒目筒丸とハ筒丸ハ胴(どう)の名(な)其形(かたち)丸く竹(たけ)の筒(つゝ)のごときゆゑ名(なづ)く。前後(まへうしろ)一連(ひとつら)にて射向(いむけ)の方蝶番(てうつがひ)なく馬手(めて)の方引合(ひきあハせ)高紐(たかひも)にてしむる也。是を縫延(ぬひのべ)にしたるを大荒目の筒丸といふ。〔62オ三〜五〕

とあって、標記語「大荒目」の語注記は、「前後一連にて射向の方、蝶番なく、馬手の方、引合高紐にてしむるなり。是を縫延にしたるを大荒目の筒丸といふ」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「大荒目」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

おほ-あらめ(名)【大荒目】鎧のをどし方の名。札(さね)も絲も、大きく太く粗く綴りたるもの。 保元物語、一、新院御所各門門固事「白き唐綾を以て威したる大荒目鎧」〔0310-5〕

とあって、標記語「大荒目」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「おお-あらめ【大荒目】[名](鎧(よろい)の札(さね)が幅広で威(おどし)の穴と穴の間が粗くなっているところからいう)鎧の札の一種。幅の広い札は威の緒も太く粗くなるところから、その威、またはその鎧をいう」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

長七尺計有けるが、黒革縅の鎧の、大荒目に金まぜたるを、草摺ながに著成て、冑をば脱ぎ法師原に持せつゝ、白柄の大長刀杖につき、「あけられ候へ。」とて、大衆の中を押分々々先座主のおはしける所へつと參りたり。大の眼を見瞋し、暫にらまへ奉り、「その御心でこそ、かゝる御目にも逢せ給へ。とう/\召るべう候。」と申ければ、怖さに急ぎのり給ふ。《『平家物語』二・一行阿闍梨之沙汰》

 

2002年10月11日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

K革威(くろかはをどし)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、標記語「黒革威」の語を未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威大荒目筒丸」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_(カワ)_(キー)__綾小___(ヲトシ)_(アラ)__」〔山田俊雄藏本〕

赤皮(―カワ)黄絲(キ―)腹卷唐綾(カラアヤ)小櫻(コサクラ)黒革威(―カワヲトシ)大荒目(ヲヲアラメ)筒丸(トウマル)」〔経覺筆本〕

_(―カワ)_(キイト)__(カラアヤ)_(コ―)__(―カワヲトシ)__(―アラメ)_(トウマル)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「黒革威」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「黒革威の語を古辞書すべてが未収載にする。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

351黒皮威大荒目筒丸 實也。〔謙堂文庫藏三七右B〕

とあって、標記語を「黒革威」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

赤革(アカカワ)黄絲(キイト)ノ腹卷(ハラマキ)唐綾(カラアヤ)小櫻(コザクラ)黒革綴(クロカハヲドシ)大荒目(アラメ)ノ筒丸(トウマル)赤革(アカカハ)ノ具足(クー)ハ染革(ソメカハ)ノ具足ナリ。小櫻(サクラ)ハ白キ内ニ。少シアカミノサシタルナリ。〔下十一ウ五・六〕

とあって、この標記語「黒革威」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

黒革威(くろかわおとし)黒革縅 黒札(くろさね)に黒糸を以て綴(おと)したるなり。尋常にハ黒具足に濃淺黄(こいあさき)の糸を用ひたるをもいふ。〔46オ三〕

とあって、標記語「黒革威」の語注記は、「黒札に黒糸を以って綴したるなり。尋常には、黒具足に濃淺黄の糸を用ひたるをもいふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

赤革(あかがハ)黄糸(きいと)腹巻(はらまき)唐綾(からあや)小櫻(こざくら)K革縅(くろかハおどし)大荒目(おほあらめ)筒丸(どうまる)赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威。大荒目筒丸。▲黒革縅ハ黒札(くろざね)に黒糸を以て綴(つゞ)りたるをいふ。〔三十五オ一〕

赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威。大荒目筒丸。▲黒革縅ハ黒札(くろざね)に黒糸を以て綴(つゞ)りたるをいふ。〔62オ一〕

とあって、標記語「黒革威」の語注記は、「黒革縅ハ黒札に黒糸を以て綴りたるをいふ」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Curocauauodoxi.クロカハヲドシ(黒革威) 鎧の作り方,すなわち,縅し方の一種で,黒色の革で縅したもの.〔邦訳171l〕

とあって、標記語「黒革威」の意味は「鎧の作り方,すなわち,縅し方の一種で,黒色の革で縅したもの」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

くろかは-をどし(名)【K革威】鎧の縅毛(をどしげ)の名、K色の革を、細そく裁ちて縅したるもの。 保元物語、二、白河殿夜討事「K革縅の鎧に、同じ毛の五枚冑を、猪頸に着」庭訓徃來、六月「K革縅」〔0563-1〕

とあって、標記語「黒革威」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「くろかわ-おどし【黒革威】[名]鎧(よろい)の威(おどし)の一種。藍を深く染めた黒革を細く裁ち切って威したもの」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

起座、着黒皮威甲、相具雑賀次郎〈西国住人、強力者也〉以下郎従五人、赴于阿闍梨在所、備中阿闍梨宅之刻、阿闍梨者、義村使、遅引之間、登鶴岡後面之峰、擬至于義村宅《読み下し》座ヲ起チ、黒皮威(クロカハヲドシ)ノ甲ヲ着シ、雑賀ノ次郎〈西国ノ住人。強力ノ者ナリ〉以下郎従五人ヲ相ヒ具シ、阿闍梨ノ在所、備中阿闍梨ノ宅ニ赴クノ刻、阿闍梨ハ、義村ガ使、遅引ノ間、鶴岡ノ後面ノ峰ニ登リ、義村ガ宅ニ至ント擬ス。《『吾妻鏡』建保七年正月二十七日の条》

 

ことばの溜池「小櫻威」(2000.02.26)参照。

2002年10月10日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

唐綾(からあや)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

唐綾(―アヤ) 。〔元亀本93五〕〔静嘉堂文庫本115七〕〔天正十七年本上57オ一〕

とあって、標記語「唐綾」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威大荒目筒丸」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_(カワ)_(キー)_____(ヲトシ)_(アラ)__」〔山田俊雄藏本〕

赤皮(―カワ)黄絲(キ―)腹卷唐綾(カラアヤ)小櫻(コサクラ)黒革威(―カワヲトシ)大荒目(ヲヲアラメ)筒丸(トウマル)」〔経覺筆本〕

_(―カワ)_(キイト)__(カラアヤ)_(コ―)__(―カワヲトシ)__(―アラメ)_(トウマル)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「唐綾」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「唐綾の語を未収載にする。

 ここで古辞書における「唐綾」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』といった古辞書には未収載で、唯一、『運歩色葉集』に収載が見られるのである。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

350赤皮黄絲腹巻唐綾小櫻 唐綾裹物也。小櫻全体白シテ而金物黄也。或薄赤クモ之也。〔謙堂文庫藏三七右A〕

とあって、標記語を「唐綾」についての語注記は、「唐綾は裹物なり」と記載する。

 古版『庭訓徃来註』では、

赤革(アカカワ)黄絲(キイト)ノ腹卷(ハラマキ)唐綾(カラアヤ)小櫻(コザクラ)黒革綴(クロカハヲドシ)大荒目(アラメ)ノ筒丸(トウマル)赤革(アカカハ)ノ具足(クー)ハ染革(ソメカハ)ノ具足ナリ。小櫻(サクラ)ハ白キ内ニ。少シアカミノサシタルナリ。〔下十一ウ五・六〕

とあって、この標記語「唐綾」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

唐綾(からあや)小櫻(こさくら)唐綾 からあやにてつゝミたるなり。〔45ウ八〕

とあって、標記語「唐綾」の語注記は、「からあやにてつゝミたるなり」と真字注と同じ内容で記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

赤革(あかがハ)黄糸(きいと)腹巻(はらまき)唐綾(からあや)小櫻(こざくら)K革縅(くろかハおどし)大荒目(おほあらめ)筒丸(どうまる)赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威。大荒目筒丸。▲唐綾ハ唐綾にて包ミ又ハ疊(たゝ)ミてしたる也。〔三十四ウ八〕

赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威。大荒目筒丸。▲唐綾ハ唐綾にて包ミ又ハ疊(たゝ)ミて縅(おど)したる也〔62オ一〕

とあって、標記語「唐綾」の語注記は、「唐綾は、唐綾にて包み、又は、疊みて縅したるなり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Caraaya.カラアヤ(唐綾) シナのある種の織物で,Linsやダマスク織〔綾織〕のようなもの.※未詳.あるいは“綾”の唐音に基づくもので,“綾子”すなわち“綸子”を示すか.なお,日西辞書はこれをlincos(リンネル)とし,日仏辞書はCrepes(縮み)とする.→AYA(綾).〔邦訳99r〕

とあって、標記語「唐綾」の意味は「シナのある種の織物で,Linsやダマスク織〔綾織〕のようなもの」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

カラ-あや(名)【唐綾】〔唐織物の條を見よ〕唐織の綾。 枕草子、八、九十一段「宮ハ白き御衣(おんぞ)共に、紅のからあや二ツ、白からあやと奉り」〔0437-3〕

とあって、標記語「唐綾」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「から-あや【唐綾】[名]中国から伝来した綾。綾を浮織にしたもの。わが国でその製法にならって織ったものにもいう。からのあや」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

院之由、申之次別、進解文二通、二品并御臺所御方唐錦、唐綾、唐絹、南廷〈五十〉甲冑、弓、八木、大豆等也《読み下し》院ニ進ルノ由、之ヲ申ス。次ニ別ニ、解文二通、二品并ニ御台所ノ御方ニ進ズ。唐錦、唐綾(カラアヤ)、唐絹、南廷〈五十〉甲冑、弓、八木、大豆等ナリ。《『吾妻鏡』文治元年十月二十日の条》

 

ことばの溜池「腹巻」(2002.07.24)参照。

2002年10月09日(水)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

黄絲(きいと)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「記」部に、標記語「黄絲」の語は未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威大荒目筒丸」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_(カワ)_(キー)__綾小___(ヲトシ)_(アラ)__」〔山田俊雄藏本〕

赤皮(―カワ)黄絲(キ―)腹卷唐綾(カラアヤ)小櫻(コサクラ)黒革威(―カワヲトシ)大荒目(ヲヲアラメ)筒丸(トウマル)」〔経覺筆本〕

_(―カワ)_(キイト)__(カラアヤ)_(コ―)__(―カワヲトシ)__(―アラメ)_(トウマル)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「黄絲」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「黄絲の語を未収載にする。

 ここで古辞書における「黄絲」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』といったすべての古辞書に未収載となっている。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

350赤皮黄絲腹巻唐綾小櫻 唐綾裹物也。小櫻全体白シテ而金物黄也。或薄赤クモ之也。〔謙堂文庫藏三七右A〕

とあって、標記語を「黄絲」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

赤革(アカカワ)黄絲(キイト)腹卷(ハラマキ)唐綾(カラアヤ)小櫻(コザクラ)黒革威(クロカハヲドシ)大荒目(アラメ)ノ筒丸(トウマル)赤革(アカカハ)ノ具足(クー)ハ染革(ソメカハ)ノ具足ナリ。小櫻(サクラ)ハ白キ内ニ。少シアカミノサシタルナリ。〔下十一ウ五・六〕

とあって、この標記語「黄絲」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

黄絲(きいと)腹卷(はらまき)黄絲腹卷 前に注せり。ある書に云。永承(ゑいしやう)六年に阿部(あべ)の貞任(さだたう)宗任(むねたう)追伐(ついはつ)乃為頼義(よりよし)下向の時いむけの一方の草摺(くさずり)乃やふれ残れるを三間を當てやぶり弦走(つるはし)りの皮をのけて腹卷と号するとなり。〔45ウ六・七〕

とあって、標記語「黄絲」の語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

赤革(あかがハ)黄糸(きいと)腹巻(はらまき)唐綾(からあや)小櫻(こざくら)K革縅(くろかハおどし)大荒目(おほあらめ)筒丸(どうまる)赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威。大荒目筒丸。▲赤革縅ハ赤き染革(そめかハ)にて包(つゝ)ミたる也。又赤革包(あかがハづゝミ)ともいふ。〔三十四ウ八〕

赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威。大荒目筒丸。▲赤革縅ハ赤き染革(そめかハ)にて包(つゝ)ミたる也。又赤革包(あかかハつゝミ)ともいふ。〔62オ一〕

とあって、標記語「黄絲」の語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「黄糸」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』にも、「-いと(名)【黄絲】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「き-いと【黄糸】[名]黄色の糸」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

主上ハ軍勢ニ紛(マギ)レサセ給ハン爲ニ、山本判官ガ進(マヰラ)セタリケル黄絲ノ鎧ヲメシテ、栗毛(クリゲ)ナル馬ニメサレタルヲ、一宮(イチノミヤ)彈正左衞門有種(アリタネ)追蒐進(オヒカケマヰラ)セテ、「可然大將トコソ見進(マヰラ)セ候。蓬(キタナ)クモ敵ニ被追立、一度モ返サセ給ハヌ者哉。」ト呼(ヨバ)ハリ懸テ、弓杖(ユンヅエ)三杖許(ヂヤウバカリ)近付(キ)タリケルヲ、法性寺左兵衞(ノ)督屹(キツ)ト顧(カヘリミ)テ、「惡(ニク)ヒ奴原(ヤツバラ)ガ云樣哉。イデ己(オノレ)ニ手柄(テガラ)ノ程ヲ見セン。」トテ、馬ヨリ飛(トン)デ下(オ)リ、四尺八寸ノ太刀ヲ以テ、甲(カブト)ノ鉢ヲ破(ワレ)ヲ碎ケヨトゾ打(タ)レタル。《『太平記』卷第三十一・南帝八幡御退失事》

 

ことばの溜池「腹巻」(2002.07.24)参照。

2002年10月08日(火)曇り一時雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

赤革(あかがは)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「阿」部に、「赤毛(アカケ)。赤飯(イゝ)。赤子(コ)。赤人(ヒト)聖武天皇時ノ人。赤根(ネ)」の五語を収載するだけで、標記語「赤革」の語は未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威大荒目筒丸」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_(カワ)_(キー)_____(ヲトシ)_(アラ)__」〔山田俊雄藏本〕

赤皮(―カワ)黄絲(キ―)腹卷唐綾(カラアヤ)小櫻(コサクラ)黒革威(―カワヲトシ)大荒目(ヲヲアラメ)筒丸(トウマル)」〔経覺筆本〕

_(―カワ)_(キイト)__(カラアヤ)_(コ―)__(―カワヲトシ)__(―アラメ)_(トウマル)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「赤革」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「赤革の語を未収載にする。

 ここで古辞書における「赤革」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』といったすべての古辞書に未収載となっている。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

350赤皮黄絲腹巻唐綾小櫻 唐綾裹物也。小櫻全体白シテ而金物黄也。或薄赤クモ之也。〔謙堂文庫藏三七右A〕

とあって、標記語を「赤革」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

赤革(アカカワ)黄絲(キイト)腹卷(ハラマキ)唐綾(カラアヤ)小櫻(コザクラ)黒革威(クロカハヲドシ)大荒目(アラメ)筒丸(トウマル)赤革(アカカハ)ノ具足(クー)ハ染革(ソメカハ)ノ具足ナリ。小櫻(サクラ)ハ白キ内ニ。少シアカミノサシタルナリ。〔下十一ウ五・六〕

とあって、この標記語「赤革」の語注記は、「赤革の具足は、染革の具足なり」とする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

黒糸(くろいと)(よろい)赤革(あかかわ)黒絲鎧赤革 赤き染皮にて色たるなり。又赤革色ともいふ。〔45ウ五・六〕

とあって、標記語「赤革」の語注記を「赤き染皮にて色たるなり。又赤革色ともいふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

赤革(あかがハ)黄糸(きいと)腹巻(はらまき)唐綾(からあや)小櫻(こざくら)K革縅(くろかハおどし)大荒目(おほあらめ)筒丸(どうまる)赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威。大荒目筒丸。▲赤革縅ハ赤き染革(そめかハ)にて包(つゝ)ミたる也。又赤革包(あかがハづゝミ)ともいふ。〔三十四ウ八〕

赤革黄絲腹卷唐綾小櫻黒革威。大荒目筒丸。▲赤革縅ハ赤き染革(そめかハ)にて包(つゝ)ミたる也。又赤革包(あかかハつゝミ)ともいふ。〔62オ一〕

とあって、標記語「赤革」の語注記は、「赤革縅は、赤き染革にて包みたるなり。また、赤革包ともいふ」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Acagauauodoxi.アカガワヲドシ(赤革威) 鎧の作り方の一種で,赤革の紐で鏈(くさり)のように綴り合わせもの.〔邦訳9r〕

とあって、標記語「赤革」の意味は「」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

あかがは-をどし(名)【赤革縅】あかをどしの條を見よ。〔0005-5〕

あか-をどし(名)【赤縅】鎧の縅毛(をどしげ)に、茜染の絲、又は、革を用ゐたるもの。緋縅に比ぶれば、暗赤にして、光澤なし、赤絲縅、赤革縅など云ひ、赤鎧とも云ふ、赤腹卷も同じ。 杉原本保元物語、三、義朝幼少の弟悉く誅せらるる事「五十餘人の兵も、皆、袖をぞ濡らしける、其中に、波多野が赤革縅の鎧の袖は、洗革にや成りぬらむ」盛衰記、十五、宇治合戰事「先陣に進み戰ひける内に、三人共に、赤威の鎧に、赤注付けたりける武者」梅松論、下、「曾我上野介師資、練貫の小袖の上に、赤絲鎧の縫目より切捨てたるに、四尺餘りなる太刀、二振帶びて」太平記、十、長崎次郎高重最後合戰事「精好の大口の上に、赤絲の腹卷着て」増鏡、十五、むら時雨「大納言は、唐の香染(カウゾメ)の羅(うすもの)の狩衣に、掲焉(ケチエン)に、あかきはらまきを透(すか)して」〔0013-4〕

とあって、標記語「赤革」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「あか-がわ【赤革】[名]@赤い色、または、茶色系統の色に染めてある、なめしがわ。A「あかがわおどし(赤革威)の略」と標記語「あかがわ-おどし【赤革威】[名]鎧の威の一種。茜(あかね)または蘇芳(すおう)で染めた鹿の革による威。あかおどし。革火威」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

赤革、令重于表者、頗相似平家赤旗赤標也《読み下し赤キ革ヲ以テ、表ニ重ネシムルノ者、頗ル平家ノ赤旗赤標ニ相似タルナリ。《『吾妻鏡』建久元年九月十八日の条》

《『冨士野徃来』》
 

 

2002年10月07日(月)雨上がり晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

K絲鎧(くろいとのよろひ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、「K漆(クロウルシ)。黒塩(シヲ)。黒柿(ガキ)」の三語が収載され、標記語「K絲」「K絲鎧」といった語は未収載にある。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

卯花威黒絲鎧」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

花威(ヲトシ)黒絲(ヨロイ)」〔山田俊雄藏本〕

花威黒絲」〔経覺筆本〕

花威(ヲトシ)黒絲(ヨロイ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「K絲鎧」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「K絲」と「K絲鎧」との語を未収載にする。

 ここで古辞書における「K絲鎧」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』のすべてに未収載となっている。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

348黒絲鎧 鎧腹巻ニハ行葉云者有。張良之矢留之表、又爲ナリ小波世|。〔謙堂文庫蔵三六左H〕

とあって、標記語を「K絲鎧」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

卯花威黒絲鎧 卯花威(ウノハナヲトシ)(イタツ)テ白キ系ノ色(イロ)ナリ。〔下十一ウ四〕

とあって、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

黒糸(くろいと)(よろい)赤革(あかかわ)黒絲鎧赤革 一赤き染皮にて色たるなり。又赤革色ともいふ。〔45ウ五〕

とあって、標記語「黒糸鎧」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

黒糸(くろいと)(よろい)赤革(あかかわ)黒絲鎧赤革。〔三十四ウ三〕

黒絲(くろいと)の(よろい)赤革(あかがハ)。〔61ウ三〕

とあって、標記語「黒糸鎧」の語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に「くろいと」を含め、標記語「黒糸鎧」の語は未収載としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「くろいと-よろひ(名)【K絲鎧】」は未収載であるが、

くろいと-をどし(名)【K絲縅】鎧の、K絲にて縅したるもの。略して、K絲。 平治物語、一、六波羅行幸事「K絲縅の腹卷」 太平記、九、六波羅攻事「老武者の、K絲の鎧に、五放兜の緒をしめて」〔0196-3〕

とあって、『太平記』卷第九の用例に標記語「K絲の鎧」の語を収載するので取り上げておく。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも見出し語として、「くろいと-よろい【黒糸鎧】」は未収載であり、「くろいと-おどし【黒糸威黒糸縅】[名]鎧(よろい)の威(おどし)の一種。黒色の糸でおどしたもの。黒糸」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

黒系威甲、駕鹿毛馬者、先取予引落《読み下し》*黒系威ノ甲ヲ著(黒糸威ノ甲ヲ着)、鹿毛ノ馬ニ駕リタル者、先ヅ予ヲ取リテ引キ落ス。《『吾妻鏡』文治五年九月七日の条》

 

2002年10月06日(日)晴れ後曇り、夜半雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

品革威(しながはをどし)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、標記語「品革威{}」の語は未収載にする。

 古写本(〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕〔山田俊雄藏本〕〔経覺筆本〕〔文明本〕)『庭訓徃來』六月十一日の状には、標記語「品革威{}」の語は未収載にある。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「品革威{}」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「品革威{}の語を未収載にする。

 ここで古辞書における「品革威{}」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』といった諸古辞書に未収載となっている。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

346品革威 色々革威也。〔謙堂文庫蔵三六左H〕

とあって、標記語を「品革威」についての語注記は、「色々の革を以って威すなり」という。

 古版『庭訓徃来註』、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』では、標記語「品革威」の語を未収載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「品革威」を未収載としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しな-がは-をどし(名)【品革縅】〔齒朶革縅(しだがはをどし)の轉と云ふ(いただき、いなたき。わだく、わなく)〕鎧を、藍革に、齒朶(しだ)の紋ある革にて、縅したるもの。 盛衰記、十五、宇治合戰事「源三位入道は、薄墨染の長絹の直垂に、しな革縅の鎧、著て、今日を限りとや思ひけん」〔0911-4〕

とあって、標記語「品革縅」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「しな-がわ-おどし【品革縅】[名]品革を裁って、その緒で鎧(よろい)の札(さね)を威すこと。また、その威した鎧。[補注軍用記-三」に、「品革は、藍地に白く歯朶の葉を二枚むかい合せ、本の方をうちちがへて、形丸く両方より向かひ合せたる紋をしげく染めたる革なり」とあり、品革をもっておどすことを「しながはをどし」と呼んだらしい。ただし、「品革威考」に「品革おどしとは藍革に紋のしだをぞ付けたりけると有り、然ども其革の制いまだ見る事を得ず」とあり、その実物は早く明らかでなくなっていたらしい」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

卯花威。(かしとり)威。緋威。品革威。黄櫨匂。《『尺素徃来』(1439-64年)》

ことばの溜池「卯花威(うのはなをどし)」(2000.11.14)参照。

 

2002年10月05日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

糸綴(いとおどし)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部と「遠」部に、

(イト) 。〔元亀本94七〕 (ヲドス) 左傳氏不―。孟子(ヲドス)天下(同) (同) 簔公三年以(ヨロイ)ヲ。〔元亀本84九〕

(イト) 。〔静嘉堂文庫本16一〕 (ヲドス) 左傳氏不孟子天下(同) (同) 哀公三以組―。〔静嘉堂文庫本104三〕

(イト) 。〔天正十七年本上9オ五〕 (ヲトス) 左傳氏不―。孟詩天下(同) (同) 哀公三以組―(ヨロイ)ヲ 。〔天正十七年本上51ウ二〕

(ツヾル) 。〔元亀本162一〕〔静嘉堂文庫本178四〕(ツヽル) 。〔天正十七年本中20ウ二〕

とあって、標記語「」「」との二語をもって収載し、「」の読みは、「をどす」と「つづる」で、その語注記として「哀公三年組を以って甲を綴す 左傳』」と記載する。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

次武具之亊雖見苦候紫絲萌黄絲綴」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

武具事雖見苦紫_絲青黄(モエキ)絲綴(ツヽリ)」〔山田俊雄藏本〕

武具之事雖見苦紫絲青黄絲綴(ヲトシ)」〔経覺筆本〕

-事雖見__紫_絲(ムラサキイト)萌_黄(モヨキ)ノ糸_綴(ヲトシ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「絲綴」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「糸綴の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

(ヲドス/)[平]。〔態藝門232七〕

(テイ・ツヾル) [去]左傳襄公三年正義曰以(クミ)ヲ(ヲド)ス(カフト)ヲ。〔態藝門290四〕

とあって、「をどす」の標記語は、「」「」の語を収載し、「つづる【綴】」の語注記として、「『左傳』襄公三年正義に曰く組を以って甲を綴す」と記載している。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ヲドス) ー鎧。ー敵。(同) 左傳襄公三年正義云以組綴甲。〔・言語進退65二〕

(ヲドス) 摂怖。ー鎧。ー敵。〔・言語67二〕

(ヲドス) ー鎧。ー敵。〔・言語61三〕

(ヲドス) 摂怖。鎧。敵。〔・言語72二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、弘治二年本だけが、標記語「」の語を収載し、その語注記に「左傳襄公三年正義云以組綴甲」と広本節用集』と同様の記載をなしている。また、易林本節用集』には、   

(ヲドス) 。〔言語64一〕

とあって、標記語「」の語を収載するにとどまる。

 ここで古辞書における「」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』に未収載にし、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。ただし、印度本系統の『節用集』類の上記に示した三本と易林本節用集』は、「」の語だけでの収載となっている。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

345能々可用意武具之亊雖見苦候紫絲萌黄絲綴 上下萌黄ニテ紅也。是義。〔謙堂文庫蔵三六左F〕

とあって、標記語を「絲綴」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

武具(ブグ)ノ事雖トモ見苦敷(ミクルシク)紫系(ムラサキイト)萌黄(モヘギ)系綴(イトヲドシ) 紫系綴(ムラサキイトヲトシ)ハ大將軍ノ御(ヲン)キセナガナリ。〔下十一ウ三・四〕

とあって、この標記語「絲綴」の語注記は、「紫系綴は、大將軍の御きせながなり」とする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(つぎ)武具(ぶぐ)(の)(こと)見苦(みぐる)しく(いへとも)之紫糸(むらさきいと)萌黄糸(もへきいと)黄糸綴(きいとおどし)武具之事雖見苦シク紫糸萌黄糸黄糸綴 一本(あるほん)にハ黄糸の二字なし。綴(おどし)ハ糸を以てつゝる鎧かぶとの装束也。綴し糸の色によりて名とす。紫にておどせば紫綴と呼ひ、黄糸にておどせハ黄糸綴と云の類なり。又縅(おとし)とも書なり。威(い)あるをもつて縅(い)と云。つゝるによりて綴(てつ)といふとなり。〔45オ七〜ウ二〕

とあって、標記語「絲綴」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)武具(ぶぐ)(の)(こと)見苦敷(みぐるし)(さふら)ふと(いへとも)紫糸(むらさきいと)萌黄(もへきいと)(おどし)武具事雖見苦敷フト紫糸萌黄糸綴紫糸とハ紫(むらさき)の糸(いと)にて縅(おどし)たるをいふ。勿論(もちろん)主将(しゆしやう)の鎧(よろひ)也。〔三十四ウ七〕

(つぎ)ニ武具(ぶぐ)の(こと)(いへども)見苦敷(みぐるし)く(さふらふ)と紫糸(むらさきいと)萌黄(もへぎ)糸綴(いとおどし)紫糸とハ紫(むらさき)の糸(いと)にて縅(おどし)したるをいふ。勿論(もちろん)主将(しゆしやう)乃鎧(よろひ)也。〔61ウ六〕

とあって、標記語「絲綴」の語注記は、「紫糸とは、紫の糸にて縅したるをいふ。勿論、主将の鎧なり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tcuzzuri,ruutta.ツヅリ,ル,ッタ(綴り,る,つた) 着物などの破れたものを修理して,縫い繕う.§Cotoba uo tcuzzuru.(言葉を綴る)上手に作文する,または,言葉を順序よく並べたり,上手に連ねたりして文飾を施す.〔邦訳639l〕

とあって、標記語「」の意味は「着物などの破れたものを修理して,縫い繕う」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いと-おどし(名)【絲縅】鎧、及、腹卷の、絲にて縅したるもの。(革縅に對す) 長門本平家物語、十五、義仲押寄法住寺事「播磨中將雅賢云云、糸威の腹卷に、重目ゆひ直垂を被着たりけるが」本朝軍器考、九、甲冑「鎧の威毛の色などは、云云、或は絲、或は綾、或は革などいふ事、さだかなるべきにもあらず、白絲、K絲、黄絲、紺絲、紫絲、淺黄絲、萠黄絲威などいふ物は、疑ふ所なし、これは皆、絲威なり」〔0196-3〕

とあって、標記語「絲縅」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「いと-おどし【絲威絲縅】[名]鎧(よろい)の威(おどし)の一種。絹の組糸で札(さね)をつづったもの。糸の色によって、赤糸威、黒糸威などという。糸毛」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

尤可申之著黒系威甲、駕鹿毛馬者、先取予引落。《読み下し》尤モ之ヲ申スベシ。黒系威ノ甲ヲ著(黒糸威ノ甲ヲ着)、鹿毛ノ馬ニ駕リタル者、先ヅ予ヲ取リテ引キ落ス。《『吾妻鏡』文治五年九月七日の条》

 

2002年10月04日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

萌黄(もえぎ・もよぎ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「毛」部に、

萌黄(モヨギ) 青黄(同) 。〔元亀本348十〕〔静嘉堂文庫本419七・八〕

萌黄(―トル) 。〔天正十七年本上57ウ八〕

とあって、標記語「萌黄」と「青黄」の二語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

次武具之亊雖見苦候紫絲萌黄絲綴」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

武具事雖見苦紫_絲(モエキ)絲綴(ツヽリ)」〔山田俊雄藏本〕

武具之事雖見苦紫絲絲綴(ヲトシ)」〔経覺筆本〕

-事雖見__紫_絲(ムラサキイト)萌_黄(モヨキ)_(ヲトシ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古写本は、「もえぎ&もよぎ」の表記を「萌黄」と「青黄」とにする二種から成る。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

萌黄モエキ 萌木。〔黒川本・光彩門下98ウ一〕〔卷第十光彩409二〕

とあって、標記語「萌黄」の語を収載する。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、

青黄(モエキ) (ヘウ)也。或萌黄(モヘキ)ニ也。〔彩色門136七〕

とあって、標記語「青黄の語をもって収載し、語注記に「縹なり。或は萌黄に爲すなり」という。次に広本節用集』には、

青黄(モヱギ/セイクワウ、アホシ,キナリ) [平・平]或作萌黄。萌黄権(モヱギヲドシ/ハウクワウケン) [平・平・平]。〔光彩門1068三〕

とあって、標記語「青黄」の語を収載し、語注記に「或は萌黄と作す」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

萌黄権(モエキヲトシ) 。〔・財宝260一〕

青黄(モエキ) 萌黄(同) 。〔・光彩260二〕

青黄(モエギ) 縹也。萌黄権(モエキヲドシ) 。〔・財宝221九〕

青黄(モエギ) 縹也。○。萌黄権(モエキヲドシ) 。〔・財宝208三〕

とあって、標記語「青黄」の語を先出しとし、後に「萌黄」収載する。また、易林本節用集』には、 

萌黄(モエギ) 青黄(同)。〔器財83六〕

とあって、標記語「萌黄」の語を収載する。

 ここで古辞書における「萌黄」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

345能々可用意武具之亊雖見苦候紫絲萌黄絲綴 上下萌黄ニテ紅也。是義。〔謙堂文庫蔵三六左F〕

とあって、標記語を「萌黄」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

武具(ブグ)ノ事雖トモ見苦敷(ミクルシク)紫系(ムラサキイト)萌黄(モヘギ)系綴(イトヲドシ) 紫系綴(ムラサキイトヲトシ)ハ大將軍ノ御(ヲン)キセナガナリ。〔下十一ウ三・四〕

とあって、この標記語「萌黄」の語注記は、未記載とする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(つぎ)武具(ぶぐ)(の)(こと)見苦(みぐる)しく(いへとも)之紫糸(むらさきいと)萌黄糸(もへきいと)黄糸綴(きいとおどし)武具之事雖見苦シク紫糸萌黄糸綴 一本(あるほん)にハ黄糸の二字なし。綴(おどし)ハ糸を以てつゝる鎧かぶとの装束也。綴し糸の色によりて名とす。紫にておどせば紫綴と呼ひ、黄糸にておどせハ黄糸綴と云の類なり。又縅(おとし)とも書なり。威(い)あるをもつて縅(い)と云。つゝるによりて綴(てつ)といふとなり。〔45オ七〜ウ二〕

とあって、標記語「萌黄」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)武具(ぶぐ)(の)(こと)見苦敷(みぐるし)(さふら)ふと(いへとも)紫糸(むらさきいと)萌黄(もへきいと)(おどし)武具事雖見苦敷フト紫糸萌黄糸綴。〔三十四ウ七〕

(つぎ)武具(ぶぐ)の(こと)(いへども)見苦敷(みぐるし)く(さふらふ)と紫糸(むらさきいと)萌黄(もへぎ)糸綴(いとおどし)。〔61ウ六〕

とあって、標記語「萌黄」の語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Moyegui.モエギ(萌黄) 深緑.※原文はVerde escuro. →Vsumoyogui.〔邦訳428r〕

とあって、標記語「萌黄」の意味は「深緑」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

もえ-(名)【萌葱】〔葱の萌え出づる色より云ふ、淺葱に對す(淺葱色(あさねぎいろ)の語原を見よ)、或は云ふ、萌木の芽の色の意と〕(一)黄と青との間色。淺緑。うすみどり。訛して、もよぎ。緑。 字類抄、「萌黄、モエキ」夫木抄、七、夏「おもかげは、しぐれし秋の、もみぢにてうすもえぎなる、~奈備の森」(二)襲(かさね)の色目の名。表は薄青にして、裏の縹色なるもの。又表裏とも萌葱なるもの。紫式部日記、「紅梅にもえぎ、柳のからぎぬ〔1998-5〕

とあって、標記語「萌葱」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「もえ-ぎ【萌葱萌黄萌木】[名](葱(ねぎ)の萌え出ずる色の意)@黄と青との中間色。やや黄色がかかった緑色。萌葱色。また、織物の色で萌葱色のもの。A襲(かさね)の色目の名。表・裏ともに@の色のもの。また、表は薄青、裏は縹(はなだ)ともいう。一一月から二月ごろまで着用。萌葱色」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

前備前守行家、〈櫻威甲〉伊豫守義經、〈赤地錦直垂、萠黄威甲、〉等赴西海《読み下し》前ノ備前ノ守行家、〈桜威ノ甲〉伊予ノ守義経、〈赤地ノ錦ノ直垂、萌黄(モエギ)威ノ甲、〉等西海ニ赴ク。《『吾妻鏡』文治元年十一月三日の条》

 

2002年10月03日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

紫絲(シシ・むらさきいと)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「無」部と「志」部に、標記語「紫絲」の語は未収載であり、「無」部に、

(ムラサキ) 。〔元亀本178二〕〔静嘉堂文庫本199一〕〔天正十七年本中29オ一〕

(イト) 。〔元亀本20一〕〔静嘉堂文庫本16一〕〔天正十七年本上9オ五〕〔西來寺本

とあって、標記語「」と「」の二語にして収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

次武具之亊雖見苦候紫絲萌黄絲綴」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

武具事雖見苦紫_絲青黄(モエキ)絲綴(ツヽリ)」〔山田俊雄藏本〕

武具之事雖見苦紫絲青黄絲綴(ヲトシ)」〔経覺筆本〕

-事雖見__紫_絲(ムラサキイト)萌_黄(モヨキ)ノ_(ヲトシ)」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「紫絲」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「紫絲の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

(ムラサキ/) [上]。〔光彩門461八〕

(イト/) [平]。印(イト)合紀。〔絹布門461八〕

とあって、標記語「」と「」との二語にして収載し、「」の語注記に「『國花合紀集』に印狠」とあることを記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ムラサキ) ー色。〔・草木145三〕

(ムラサキ) 。〔・草木116六〕〔・草木106六〕〔・草木129五〕

(イト) (同)。〔・財宝7三〕

(イト) 。〔・財宝4五〕〔・財宝5二〕

とあって、標記語「」と「」の二語にして収載し、弘治二年本には、「」語注記に「紫色」を記載し、「」には異体字「」を記載する。また、易林本節用集』には、標記語「紫絲」、「」と「」の語をも未収載にする。

 ここで古辞書における「紫絲」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、易林本節用集』に未収載にし、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類には「」と「」との二語にして収載見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

345能々可用意武具之亊雖見苦候紫絲萌黄絲綴 上下萌黄紅也。是義。〔謙堂文庫蔵三六左F〕

とあって、標記語を「紫絲」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

武具(ブグ)ノ事雖トモ見苦敷(ミクルシク)紫系(ムラサキイト)萌黄(モヘギ)系綴(イトヲドシ) 紫系綴(ムラサキイトヲトシ)ハ大將軍ノ御(ヲン)キセナガナリ。〔下十一ウ三・四〕

とあって、この標記語「紫絲」の語注記は、「紫系綴は、大將軍の御きせながなり」とする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(つぎ)武具(ぶぐ)(の)(こと)見苦(みぐる)しく(いへとも)紫糸(むらさきいと)萌黄糸(もへきいと)黄糸綴(きいとおどし)武具之事雖見苦シク紫糸萌黄糸黄糸綴 一本(あるほん)にハ黄糸の二字なし。綴(おどし)ハ糸を以てつゝる鎧かぶとの装束也。綴し糸の色によりて名とす。紫にておどせば紫綴と呼ひ、黄糸にておどせハ黄糸綴と云の類なり。又縅(おとし)とも書なり。威(い)あるをもつて縅(い)と云。つゝるによりて綴(てつ)といふとなり。〔45オ七〜ウ二〕

とあって、標記語「紫絲」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)武具(ぶぐ)(の)(こと)見苦敷(みぐるし)(さふら)ふと(いへとも)紫糸(むらさきいと)萌黄糸(もへきいと)(おどし)武具事雖見苦敷フト紫糸萌黄糸綴紫糸とハ紫(むらさき)の糸(いと)にて縅(おどし)たるをいふ。勿論(もちろん)主将(しゆしやう)の鎧(よろひ)也。〔三十四ウ七〕

(つぎ)武具(ぶぐ)の(こと)(いへども)見苦敷(みぐるし)く(さふらふ)と紫糸(むらさきいと)萌黄(もへぎ)糸綴(いとおどし)紫糸とハ紫(むらさき)の糸(いと)にて縅(おどし)したるをいふ。勿論(もちろん)主将(しゆしやう)乃鎧(よろひ)也。〔61ウ六〕

とあって、標記語「紫絲」の語注記は、「紫糸とは、紫の糸にて縅したるをいふ。勿論、主将の鎧なり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Murasaqi.ムラサキ(紫) 紫色.〔邦訳434l〕

Ito.イト(糸) 糸.→次条.〔邦訳346l〕

Ito.イト(糸) §また,絹の織糸.§また,楽器の絃.→Caicurui,u;Curi,u;Faye,uru;Fe,uru.〔邦訳346l〕

とあって、標記語「」と「」の意味は「紫色」と「」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「-(名)【紫絲】」、「むらさき-いと(名)【紫絲】」とも未収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「むらさき-いと【紫糸】[名]「むらさきいとおどし(紫糸威)」に同じ」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

御鎧、〈紫糸威、副赤地錦御直甲櫃盖、〉越後守光時、遠江式部大夫時章、置御前長押下〈以冑前、向御前〉《読み下し》御鎧〈紫糸(ムラサキイトヲドシ)。赤地ノ錦ノ御直シ甲櫃ノ蓋ヲ副フ〉ハ、越後ノ守光時、遠江ノ式部ノ大夫時章、御前ノ長押ノ下ニ置ク。〈冑ノ前ヲ以テ、御前ニ向フ〉《『吾妻鏡』寛元二年四月二十一日の条》

 

ことばの溜池用意(2001.05.23)。武具(1999.09.28)。見苦(2002.02.01)参照。

 

2002年10月02日(水)晴れ。東京(八王子)→大阪

能々(よくよく)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「與」部に、標記語「能々」の語を未収載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

能々可有用意」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

_-」〔山田俊雄藏本〕

能々用意」〔経覺筆本〕

_用意」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「能々」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「能々の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

能々(ヨク/\/ノウ) [平]。〔態藝門327四〕

とあって、標記語「能々」の語を収載し、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「能々」の語を未収載する。

 ここで古辞書における「能々」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に未収載にし、広本節用集』にだけ収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

345能々用意武具之亊雖見苦候紫絲萌黄絲綴 上下萌黄ニテ紅也。是義。〔謙堂文庫蔵三六左F〕

とあって、標記語を「能々」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

高名(カウミヤウ)能々(ヨク/\)(ラ)ル用意 高名ハ元(モト)ヨリ名(ナ)高キ事也。〔下十一ウ三〕

とあって、この標記語「能々」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

能々(よく/\)用意(ようい)(らる)(べき)也/能々(ヨク/\)(ラ)ル用意 心せられよとなり。是まては軍中の心得をいえるなり。〔45オ六・七〕

とあって、標記語「能々」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(をよ)(いけどり)分捕(ぶんどり)(ハ)軍忠(ぐんちう)専一(ぜんいち)軍旅(ぐんりよ)(の)高名(かうめう)(なり)能能(よくよく)用意(ようゐ)せら(る)(べ)(なり)凡虜---一軍-旅之高-名也能々-セラ。〔三十四オ六〕

(およ)そ(いけどり)分捕(ぶんどり)(ハ)軍忠(ぐんちう)の専一(せんいち)軍旅(ぐんりよ)(の)高名(かうミやう)(なり)能々(よくよく)(べ)き(らる)用意(ようい)せ(なり)。〔60ウ六〕

とあって、標記語「能々」の語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yocuyocu.ヨクヨク(よくよく) 副詞.非常によく.→Imaxime,uru;Qinpo<(禁防).〔邦訳824r〕

とあって、標記語「よくよく」の意味は「副詞.非常によく」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

よく-よく(副)【善善】(一)念に念を入れて。綿密に。つらつら。つくづく。 著聞集、八、好色「親しくなりて後は、云云、能く能く拵へおきて、男歸りにけり」(二)よくせきに同じ。丹波與作(寳永、近松作)道中雙六「見れば見る程よい子ぢゃに、馬方させる親の身は、よくよくであらう」よくよくの事とは、已むことを得ぬ事の意。よくせきの事。〔2084-3〕

とあって、標記語「善善」の語で収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「よく-よく【善善能能】[一][副](「よく」を重ねて意味を強めた語)@まったく手落ちのないようにして十分に。念には念を入れて。注意の上に注意を重ねて。くれぐれも。よっく。A程度がきわめてはなはだしいさまを表わす語。極度に。ひどく。非常に。大変。[二][形動]@どうしても他に手段がなくやむなくそうするさま。それ以外、他に考えおよばないさま。A限度をはるかに越えているさま」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

廿八度御參、卅度ニ、滿マホシク、心願無他之趣、能々可被計仰之由候也《読み下し》二十八度ノ御参リ、三十度ニ、満タマホシク、御)心願他無キノ趣キ、能ク能ク(ヨクヨク)計ラヒ仰セラルベキノ由ニ候ナリ。《『吾妻鏡』文治二年二月九日の条》

 

2002年10月01日(火)雨、台風21号通過。東京(八王子→南大沢)

高名(カウミャウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

高名(カウミヤウ) 。〔元亀本91二〕〔静嘉堂文庫本112四〕

高名(―ミヤウ) 。〔天正十七年本上55オ七〕

とあって、標記語「高名」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

凡虜分取者軍忠専一軍旅之高名」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

凡生_虜(イケトリ)分取者軍-之専-一軍-高名」〔山田俊雄藏本〕

虜取(イケトリ)分取(フントリ)ハ軍忠専一軍-(グンリヨ)ノ高名」〔経覺筆本〕

生_虜(イケトリ)分捕者軍-之専-(せン―)-(クンリヨ)-」〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

標記語「高名」の語を未収載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「高名の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

高名(カウミヤウ/タカシ,メイ・ナ) [平・平]。〔態藝門275六〕

とあって、標記語「高名」の語を収載し、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

高名(カウミヤウ) 。〔・言語進退85四〕

高名(カウミヤウ) ー聞(フン)。ー覧(ラン)。〔・言語82四〕

高名(カウミヤウ) ー卑。ー家。ー下。ー聞。ー覧。ー察。ー声。ー直。ー運。〔・言語74八〕

高名(カウミヤウ) ー聞。ー覧。ー察。ー声。ー直。ー運。〔・言語90一〕

とあって、標記語「高名」の語を収載し、弘治二年本には、語注記に「人」と記載がある。また、易林本節用集』には、   

高名(カウミヤウ) 。〔言語77三〕

とあって、標記語「高名」の語を収載する。

 ここで古辞書における「高名」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』には未収載にし、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本節用集』に収載が見られるものである。

 さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、

344虜捕分取軍忠之専一軍旅之高名也 トハ六十騎。万二千五百人。爲軍。五百人也。〔謙堂文庫蔵三六左E〕

とあって、標記語を「高名」についての語注記は、未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

高名(カウミヤウ)能々(ヨク/\)(ラ)ル用意 高名ハ元(モト)ヨリ名(ナ)高キ事也。〔下十一ウ三〕

とあって、この標記語「高名」の語注記は、「高名は、元より名高き事なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(およ)(いけどり)分捕(ぶんどり)(ハ)軍忠(ぐんちう)(の)専一(せんいち)軍旅(ぐんりよ)(の)高名(かうミやう)也/凡虜分捕者軍忠之専一 専一とハ第一の事としたはげむ所といふ義なり。〔45オ三〕

とあって、標記語「高名」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(をよ)(いけどり)分捕(ぶんどり)(ハ)軍忠(ぐんちう)専一(ぜんいち)軍旅(ぐんりよ)(の)高名(かうめう)(なり)能能(よくよく)用意(ようゐ)せら(る)(べ)(なり)凡虜---一軍-旅之-能々可-セラ▲軍旅ハもと隊伍(たいこ)の称(しよう)。万二千五〇〇人五百人を軍(ぐん)といひ、又百人を旅(りよ)といふ。蓋(けたし)(こゝ)にハ唯(たゞ)軍陣(ぐんぢん)の事と見るべし。〔三十四オ六〕

(およ)そ(いけどり)分捕(ぶんどり)(ハ)軍忠(ぐんちう)の専一(せんいち)軍旅(ぐんりよ)(の)高名(かうミやう)(なり)能々(よくよく)(べ)き(らる)用意(ようい)せ(なり)▲軍旅ハもと隊伍(たいこ)の称(しよう)。万二千五〇〇人五百人を軍(ぐん)といひ、又百人を旅(りよ)といふ。蓋(けたし)(こゝ)にハ唯(たゞ)軍陣(ぐんぢん)の事と見るべし。〔60ウ六〕

とあって、標記語「高名」の語注記は、未記載にする。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Co<mio<.コウミョウ(高名) Tacai na.(高い名) 戦争の際に立てた或る手柄によって得たよい評判や名声.§Co<mio<uo suru.(高名をする)戦争で勇敢な働きをする.→Iendai;Qega;Qiuame,uru;Vchidori.〔邦訳145l〕

とあって、標記語「高名」の意味は「戦争の際に立てた或る手柄によって得たよい評判や名声」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かう-みゃう(名)【高名】名高きこと。なだたること。高名(カウメイ)。 後漢書、韋彪傳「兄順、字叔文、平與令、有高名新猿樂記「大君(ヲホキミ)ノ(ヲウト)者、高名博打也」著聞集、十、馬藝「高名の馬乘」〔0348-2〕

とあって、標記語「高名」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「こう-みょう【高名】[名](「みょう」は「名」の呉音)@高貴な名前。A(形動)名声が高いこと。有名なこと。そのさまや、その名。こうめい。B(ーする)てがらをたてること。武功をたてること。また、そのてがら。功名。[語誌](1)漢語の原義は、高い名声、すなわち、立派だ、あるいは優れているという世間的評価の意であり、挙例の「枕草子」「大鏡」をはじめとして、平安末期までは、その意味の用例がほとんどである。(2)鎌倉初期から、特に軍記物語において、Bの意味用法が派生し、以後、この意味の用例が圧倒的に多くなる。(3)もと、「高名」の字音ついてはカウミョウ、カウメイの二通りの読み方があったが、別にコウメイと読まれた「功名」があって、コウ、カウの区別が乱れた室町末期に至ると、意味的近似から混同する例が現われ、江戸時代には、ミョウ、メイの弁別意識も薄れて混同が進み、明治以降は、手柄の意の「コウミョウ」を、専ら「功名」と表記するようになった。→「こうみょう【功名】の語誌」」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。

[ことばの実際]

其故何者、佐汰毛四郎、常陸國奥郡、花園山、楯篭、自鎌倉令責御時、其日御合戰、直實、勝萬人、前懸一陣、懸壊、一人當千顯高名其勸賞、《読み下し》其ノ故何ナレバ、佐汰毛ノ四郎、常陸ノ国奥ノ郡、花園山ニ、楯篭リ、鎌倉ヨリ責メシメ御フ時、其ノ日ノ御合戦ニ、直実、万人ニ勝レ、一陣ニ前懸シ、懸壊リ(前懸シ、一陣ヲ懸壊リ)、一人当千ノ高名ヲ顕ハス。《『吾妻鏡』寿永元年六月五日の条》

 

 

 

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