2003年01月01日から1月31日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 

2003年1月31日(金)晴れ一時雨。長崎(島原→大村)
(そな・ふ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、

(ソナユル)。〔元亀本156六〕〔静嘉堂本171四〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その読みを「ソナユル」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

棄一命被竭粉骨者載證判状可被後胤龜鏡也〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(ステ)ヽ-ヲ|レハ∨(ツク)-ヲ|者載-ニ|-(―イン)ノ-ニ| 〔山田俊雄藏本〕

(ステ)テ一命ヲ|(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ|者載(ノ)セ證判ニ|(ソナ)ヘ後胤(ソナフ)之亀鏡(キケイ)ニ| 〔経覺筆本〕

(ステ)一命ヲ|(ツクサ)粉骨ヲ|者書-(ノセ)テ證判(セウハン)ノニ|-(コウイン)(ノ)-(キケイ)ニ| 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ソナヘ 関備厨該聚備具量軽舟也人与―也經供藏待虞裴該痔撰已上備也。〔黒川本・辞字中18オ二・三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その読みを「ソナヘ」とする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

(ソナエル)[去]。(同/・ツブサ)[平]。(同/キヨウ)[平去]。〔態藝門408五〕

とあって、標記語「」を収載し、その読みを「ソナエル」とし、その語注記は、未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ソナフ) 〔弘・言語進退152一〕〔両・言語136七〕

(ソナフ) ―楯(ダテ)。〔永・言語122八〕

(ソナフ) ―楯。〔尭・言語112四〕

とあって、標記語「」語を収載し、その読みを「ソナフ」とし、その語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

(ソナフ) ―卷(マキ)。―影(カゲ)。〔言辞119四〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、冠頭字「後」の熟語群二語収載する。
 このように、上記当代の古辞書には訓を「ソナフ」として、「」の語が収載され、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えているものである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389油-單等-具心-之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「」の読みを「ソナフ」とし、その語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)(ハ)武士(ブシ)ノ名誉(メイヨ)夜詰(ヨツメ)(ウシロ)者陳旅(ヂンリヨ)ノ之軍致(グンチ)フデ一命(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ(ハ)(ノツ)テ證判(せウ―)ノニ|キ∨ル∨(ソナヘ) 先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)ハ武士ノ名誉。夜詰(ツメ)(ウシ)ロ詰各可然事。〔下十二ウ七〜十三オ一〕

とあって、この標記語「」の読みを「ソナフ」とし、その語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

後胤(こうゐん)の龜鏡(きけう)(そなへ)(らる)(へき)也。/後胤亀鏡ニ|。 後胤ハ子孫の事也。龜鏡ハ手本となる事也。龜ハうらなひに用る龜なり。是を卜(ぼく)と云。今ハ其(その)(でん)(たへ)てなし。鏡ハかゝみ也。龜ハ事の吉凶(きつけう)を告(つく)るものなれはそれによりてよきに従(したか)ひあしきを避(さ)く。鏡は形の美悪(びあく)をあらハすものなれはそれによりて美敷(うつくしき)にしたかひ悪(ミにくき)をあらたむ。又惣して人乃善(せん)をして福(さいわひ)を得れは人ミなそれを見真似(ミまね)て善をなし悪をして禍(わさわひ)を更れハ人皆それを恐れて悪をいましむる事鏡の善悪を示(しめ)し龜の吉凶を告るに同しけれは凡そ善につき悪につき人のいましめ手本となす事を龜鏡といふなり。〔50ウ五〜51オ二

とあって、標記語「」の読みを「ソナへ」とし、語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)ら武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)。一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を謁(つく)さ被(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)(そな)ら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕者武士-夜詰後詰者陳旅之軍致也一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|テ‖後胤之亀鏡ニ|。〔38オ一〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)を(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)に(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)亀鏡(ききやう)ニ|(なり)。〔67ウ二〕

とあって、標記語「」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Sonaye,uru.ソナエ,ユル,エタ.(具・供・へ,ゆる,へた) 何か物を貴人や仏(Fotoques)などの前に差し上げる,あるいは,供える.例,Xo>rani sonayuru.(照覧に供ゆる)~(Camis)や仏(Fotoques)に何か物を提示する,あるいは,提供する.§Gocu<uo sonayuru.(御供を供ゆる)神(Camis)の前に食物を供える,あるいは,差し上げる.§Miquiuo sonayuru.(御酒を供ゆる)神(Cami)の前に酒を供える.§De' teni tcuqi,fi,foxiuo sonayetamo<.(デウス天に月,日,星を備なへ給ふ)デウス(De'神)が天に月,太陽,星を順序正しくお置きになった,など.§Fitouo curaini sonayuru.(人を位に備ゆる)人を官位に就ける.→Co<ran(高覧)Qiqei.〔邦訳572r〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味を「何か物を貴人や仏(Fotoques)などの前に差し上げる,あるいは,供える」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

そな・ふ(他動、下二)【】〔装(よそ)ひ竝(なら)ぶの略轉かと云ふ〕(一)足らぬこと無く、滿(み)ち齊ふる。飽かぬこと無く齊ふる。置き足らはす。取り揃ふ。數數の物を調ふる。~代記、上20「品物悉備(ソナヘ)貯之百机、而饗之」拾遺集、廿、哀傷「三十餘り、二つの姿、そなへたる、昔の人の、蹈める跡ぞこれ」(二)備へて、奉る。(~佛、貴人などに) 供。祈念祭祝詞「種種の物どもを(そなへ)奉りて」風雅集、廿、賀「貢物、斷えずそなふる、東路の、勢田の長橋、音もとどろに」「~に、供物をそなふ奏聞にそなふ」(三)用意す。支度す。準備す。(軍などに)續紀、廿六、天平~護元年八月、詔「朝廷乎動傾止之天、兵乎備流(そなふる)時仁」萬一にそなふ」變にそなふ」〔1157-5〜1158-1〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「そなえ・る【】〔他ア下一(ハ下一)〕[文]そな・ふ〔他ハ下二〕@物・状態・条件などをそろえととのえる。それらを具備させる。用意する。A身につける。自分のものとする。B(「…にそなえる」の形で)その地位につける。すえる。C(供)神仏や貴人に、物を整えてさしあげる。D(「…にそなえる」の形で、相手の動作をさして)その用にたてる。供する。[補注]室町時代頃からヤ行にも活用した。→そなゆ(備)」とあって、この『庭訓往来』の語用例を未記載にする。
[ことばの実際]
仍賜身暇、仰曰、令誅兼隆、欲備義兵之始。《訓み下し》仍テ身ノ暇ヲ賜ハリ、仰ニ曰ク、兼隆ヲ誅セシメ、義兵ノ始ニ備ヘント欲ス。《『吾妻鏡』治承四年八月十三日の条》
 
2003年1月30日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)→長崎(島原)
龜鏡(キケイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「幾」部に、

亀鏡(キケイ)。〔静嘉堂本327五〕

とあって、標記語「龜鏡」の語を収載し、その読みを「キケイ」とし、語注記は未記載にする。ただし、元亀二年本は脱語の部分となっている。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

棄一命被竭粉骨者載證判状可被備後胤龜鏡〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(ステ)ヽ-ヲ|レハ∨(ツク)-ヲ|者載-ニ|-(―イン)ノ-ニ| 〔山田俊雄藏本〕

(ステ)テ一命ヲ|(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ|者載(ノ)セ證判ニ|(ソナ)ヘ後胤(コウイン)亀鏡(キケイ)ニ| 〔経覺筆本〕

(ステ)一命ヲ|(ツクサ)粉骨ヲ|者書-(ノセ)テ證判(セウハン)ノニ|-(コウイン)(ノ)-(キケイ)ニ| 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「龜鏡」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「龜鏡」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

龜鏡(キケイ/カメ,カヾミ)[平・去]――外聞。龜鑑(キカン/カメ,カヾミル)[平・去]同上義也。〔態藝門835一〕

後胤(―イン)[平去・○]ノ龜鏡(キケイ/カメ,カヾミ)[平・去]。〔態藝門668三〕

とあって、標記語「龜鏡」を収載し、その読みを「キケイ」とし、その語注記には、「龜鏡外聞」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

龜鏡(キケイ) 外聞。〔弘・言語進退221四〕

龜鏡(キケイ) 外聞(グハイブン)。〔永・言語185三〕

とあって、標記語「龜鏡」の語を収載し、その読みを「キケイ」とし、その語注記には「外聞」と記載する。また、易林本節用集』には、標記語「龜鏡」の語を未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書には訓を「キケイ」として、「龜鏡」の語が収載され、とりわけ広本節用集』は、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本からの引用を伺わせるように四字収載となっていることに注目しておきたい。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389油-單等-具心-之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「龜鏡」の読みを「キケイ」とし、その語注記は、「鏡」の注記内容の説明として記載する。
 古版庭訓徃来註』では、

亀鏡(キケイ)ニ|及可キ∨(タヅネ)尋常(ジンジヤウ)ノ具足之處境節(ヲリフシ)所々(ソウゲキ)大畧(リヤク)(シキ)ニ候也諸亊期(ゴ)歸宅(キタク)ノ之時 龜鏡(キケイ)トハサシアラハシテ。カクレモナシト一心也。去ハ龜鏡(キケイ)ト書テカメノカヽミトヨメリ。其(ソノ)(ユヘ)何ン昔(ムカシ)者漢土ニ照旦鏡(シヤツタンキヤウ)ト云カヽミアリ。此鏡ハ裏(ウラ)ヨリ表(ヲモテ)ヘ見ヘ通(トヲ)ル也。其外人ノ吉凶(キツキヤウ)罪科(ザイクハ)ノ輕重(キヤウチウ)ヲ見スル鏡(カヽミ)也。タテヨコノ一尺有シ也。マスカヽミト云也。去バマス鏡(カヽミ)トハ十寸鏡也。彼(カノ)(カヽミ)ヲ。カメガ負(ヲフ)テ上ル也。去ルホドニカヾミノ裏毎(ウラゴト)ニカメヲ鑄(イ)事ナレ。爰ヲ以テ龜鏡(キケイ)ト云也。無(カクル)ト云事ヲ云也。鏡ノ起(ヲコ)リ是也。猶(ナヲ)々カヾミニ付テ多ノ子細アリ。鏡ハ百王ノ御面ヲソナハシ官人萬民ノ正路ナリ。龜ハ萬歳ノ生(イキ)物也。千秋ノ鶴(ツル)ノ音(コヘ)五岳ノ嶺(ミネ)ニ響(ヒヾ)ケバ。萬歳ノ龜海中ヨリ。涌出(ユシユツ)シテ蓬莱(ホウライ)爰ニ現ス。目出度カリケル事共ナリ。〔下十三オ二〜八〕

とあって、この標記語「龜鏡」の読みを「キケイ」とし、その語注記は、龜鏡とは、さしあらはして、かくれもなしと一心なり。去れば、龜鏡と書きて「カメノカヽミ」とよめりとし、その理由を詳細に記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

後胤(こうゐん)龜鏡(きけう)に備(そなへ)(らる)(へき)也。/後胤亀鏡ニ|。 後胤ハ子孫の事也。龜鏡ハ手本となる事也。龜ハうらなひに用る龜なり。是を卜(ぼく)と云。今ハ其(その)(でん)(たへ)てなし。鏡ハかゝみ也。龜ハ事の吉凶(きつけう)を告(つく)るものなれはそれによりてよきに従(したか)ひあしきを避(さ)く。鏡は形の美悪(びあく)をあらハすものなれはそれによりて美敷(うつくしき)にしたかひ悪(ミにくき)をあらたむ。又惣して人乃善(せん)をして福(さいわひ)を得れは人ミなそれを見真似(ミまね)て善をなし悪をして禍(わさわひ)を更れハ人皆それを恐れて悪をいましむる事鏡の善悪を示(しめ)し龜の吉凶を告るに同しけれは凡そ善につき悪につき人のいましめ手本となす事を龜鏡といふなり。〔50ウ五〜51オ二

とあって、標記語「龜鏡」の読みを「キケイ」とし、語注記は、「龜鏡は、手本となる事なり」とし、さらに上記のように詳細なる注記を記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)ら武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)。一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を謁(つく)さ被(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)に備(そな)へら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕者武士-夜詰後詰者陳旅之軍致也一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|ヘテ‖後胤之亀鏡ニ|。▲龜鏡(き)ハ龜卜事を決するのこと。鏡(きやう)ハ善悪を顕(あらハ)すの意。共(とも)に人の手本となるの義とす。〔38オ一〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)を(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)に(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)亀鏡(ききやう)ニ|(なり)。▲龜鏡(き)ハ龜卜(ほく)事を決(けつ)するのこと。鏡(きやう)ハ善悪(せんあく)を顕(あらハ)すの意(い)。(とも)に人の手本となるの義とす。〔67ウ三〕

とあって、標記語「龜鏡」の語注記は、「龜鏡龜は、龜卜事を決するのこと。鏡は、善悪を顕すの意。共に人の手本となるの義とす」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qiqio<.l,Qiqei.キケイ.(龜鏡) キキャゥ.または,キケイ.(亀鏡) 鏡.§また,良い模範.§Iennin no qiqio<uo manabu.(善人の亀鏡を学ぶ)聖人の模範をまねる.〔邦訳505l〕

とあって、標記語「龜鏡」の語を収載し、意味を「鏡」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「」

き-きやう(名)【龜鏡】龜鑑(きかん)に同じ、其條を見よ。〔0458-2〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「き-けい【龜鏡】〔名〕(「亀」は吉凶をうらなうもの、「鏡」は物の形をうつすもの。ともに人々の従うものであるところから)@証拠。証文。Aのり。てほん。模範。亀鑑。ききょう。B外聞。世間体。評判。ていさい」とあって、Aの用例として『運歩色葉集』や『日葡辞書』を引用しているが、この『庭訓往来』の語用例を未記載にする。
[ことばの実際]
常胤分者、別被副置御判、可爲子孫末代龜鏡之由、申請之 《訓み下し》常胤ガ分ニ於テハ、別ニ御判ヲ副ヱ置カルレバ、子孫末代ノ亀鏡(キキヤウ)トスベキノ由、之ヲ申シ請クル。《『吾妻鏡』の建久三年八月五日条》 
 
2003年1月29日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
後胤(コウイン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、

後胤(―イン)。〔元亀本229九〕〔静嘉堂本263四〕〔天正十七年本中60ウ四〕

とあって、標記語「後胤」の語を収載し、その読みを「コウイン」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

棄一命被竭粉骨者載證判状可被備後胤龜鏡也〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(ステ)ヽ-ヲ|レハ∨(ツク)-ヲ|者載-ニ|-(―イン)ノ-ニ| 〔山田俊雄藏本〕

(ステ)テ一命ヲ|(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ|者載(ノ)セ證判ニ|(ソナ)ヘ後胤(コウイン)之亀鏡(キケイ)ニ| 〔経覺筆本〕

(ステ)一命ヲ|(ツクサ)粉骨ヲ|者書-(ノセ)テ證判(セウハン)ノニ|-(コウイン)(ノ)-(キケイ)ニ| 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「後胤」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「後胤」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

後胤(―イン)[平去・○]ノ龜鏡(キケイ/カメ,カヾミ)[平・去]。〔態藝門668二〕

とあって、標記語「後胤龜鏡」の四字熟語として収載し、その読みを「コウインのキケイ」とし、その語注記は、未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

後胤(コウエイ) 〔弘・言語進退190八〕

後悔(コウクハイ) ―勘(カン)。―判(ハン)。―陣(ゴチン)。―世(セイ)。―胤(イン)。〔永・言語155四〕

後悔(コウクワイ) ―勘。―判。―陣。―世。―胤。〔尭・言語145四〕

とあって、標記語「後胤」語を収載し、その読みを「コウイン」とし、その語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

後代(コウダイ) ―記(キ)。―訴(ソ)。―證(シヨウ)。―悔(クワイ)。―便(ビン)。―勘(カン)。―期(キ)。―顔(カン)。―輩(ハイ)。―人(ジン)―胤(イン)。―音(イン)。―生(セイ/シヤウ)。―昆(コン)。―參(サン)。―來(ライ)。―學(ガク)。―見(ケン)。―陣(ヂン)。―世(セ)。〔言辞159一〕

とあって、標記語「後代」の語をもって収載し、冠頭字「後」の熟語群に収載する。
 このように、上記当代の古辞書には訓を「コウイン」として、「後胤」の語が収載され、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えているものである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389油-單等-具心-之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「後胤」の読みを「コウイン」とし、その語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

後胤(コウイン)トハ。アトツギノ事。〔下十三オ二〕

とあって、この標記語「後胤」の読みを「コウイン」とし、その語注記は、「あとつぎの事」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

後胤(こうゐん)の龜鏡(きけう)に備(そなへ)(らる)(へき)也。/後胤亀鏡ニ|後胤ハ子孫の事也。龜鏡ハ手本となる事也。龜ハうらなひに用る龜なり。是を卜(ぼく)と云。今ハ其(その)(でん)(たへ)てなし。鏡ハかゝみ也。龜ハ事の吉凶(きつけう)を告(つく)るものなれはそれによりてよきに従(したか)ひあしきを避(さ)く。鏡は形の美悪(びあく)をあらハすものなれはそれによりて美敷(うつくしき)にしたかひ悪(ミにくき)をあらたむ。又惣して人乃善(せん)をして福(さいわひ)を得れは人ミなそれを見真似(ミまね)て善をなし悪をして禍(わさわひ)を更れハ人皆それを恐れて悪をいましむる事鏡の善悪を示(しめ)し龜の吉凶を告るに同しけれは凡そ善につき悪につき人のいましめ手本となす事を龜鏡といふなり。〔50ウ五〜51オ二

とあって、標記語「後胤」の読みを「コウイン」とし、語注記は、「後胤は、子孫の事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)ら武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)。一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を謁(つく)さ被(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)に備(そな)へら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕者武士-夜詰後詰者陳旅之軍致也一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|ヘテ‖後胤之亀鏡ニ|。▲後胤ハ子孫(しそん)のをいふ。〔38オ一〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)を(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)に(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)亀鏡(ききやう)ニ|(なり)。▲後胤ハ子孫(しそん)のをいふ。〔67ウ二〕

とあって、標記語「後胤」の語注記は、「後胤は、子孫をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Co>in.コウイン.(後胤) Fochinotame.(後の胤) 子孫.※Nochino taneの誤植.〔邦訳142r〕

とあって、標記語「後胤」の語を収載し、意味を「子孫」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

こう-いん(名)【後胤】うみのこ。はつこ。數代の後の子。子孫。又、後裔(こうえい)三國志、魏志、齊王紀「祚及後胤書經、微子之命篇「功加時コ垂後裔續紀、十八、天平勝寳三年二月己卯「陳名長代、示後胤〔0643-5〜0644-1〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「こう-いん【後胤】〔名〕数代の後の子。子孫。後裔(こうえい)。末裔(まつえい)。すえ」とあって、この用例として、上記の易林本節用集』を記載しているが、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
重忠、治承四年以來、専忠直間、右大將軍依鑒其志給、可奉護後胤之旨、被遺慇懃御詞者也《訓み下し》重忠、治承四年ヨリ以来、忠直ヲ専ラニスル間、右大将軍其ノ志ヲ鑑ミ給フニ依テ、後胤(コウイン)ヲ奉護スベキノ旨、慇懃ノ御詞ヲ遺サルル者ナリ。《『吾妻鏡』元久二年六月二十一日の条》 
 
2003年1月28日(火)晴れ。東京(八王子)→静岡(清水町)
證判(シヤウバン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「勢」部に、「證(セウコ)。證状(―ジヤウ)。證文(―モン)。證明(―ミヤウ)。證跡(―ゼキ)」の五語を収載するが、標記語「證判」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

棄一命被竭粉骨者載證判状可被備後胤龜〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(ステ)ヽ-ヲ|レハ∨(ツク)-ヲ|者載-ニ|-(―イン)ノ-ニ| 〔山田俊雄藏本〕

(ステ)テ一命ヲ|(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ|者載(ノ)セ證判ニ|(ソナ)ヘ後胤(コウイン)之亀(キケイ)ニ|経覺筆本

(ステ)一命ヲ|(ツクサ)粉骨ヲ|者書-(ノセ)テ證判(セウハン)ニ|-(コウイン)(ノ)-(キケイ)ニ| 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「證判」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「證判」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

證判(シヨウバン/アラワス,ワカツ・コトワル)[去・去]。〔態藝門943八〕

とあって、標記語「證判」を収載し、その読みを「シヨウバン」とし、その語注記は、未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「證判」語を未収載にする。また、易林本節用集』には、「證(セウコ)。―明(ミヤウ)。―人(ニン)」の三語を収載するだけで、標記語「證判」の語は未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書には、広本節用集』だけに「シヤウバン」として、「證判」の語が収載され、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えているものである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389油-單等-具心-之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「證判」の読みを「シヤウバン」とし、その語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)(ハ)武士(ブシ)ノ名誉(メイヨ)夜詰(ヨツメ)(ウシロ)者陳旅(ヂンリヨ)ノ之軍致(グンチ)フデ一命(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ(ハ)(ノツ)證判(せウ―)ニ|(ソナヘ) 先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)ハ武士ノ名誉。夜詰(ツメ)(ウシ)ロ詰各可然事。〔下十二ウ七〜十三オ一〕

とあって、この標記語「證判」の読みを「シヤウバン」とし、その語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

證判状(しやうハんじやう)に載(の)せ/證判状ニ| 感状(かんしやう)御墨付の類なり。〔50ウ四・五

とあって、標記語「證判状」の読みを「シヤウバンジヤウ」とし、語注記は、「感状・御墨付の類なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)ら武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)。一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を謁(つく)さ被(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)に備(そな)へら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕者武士-夜詰後詰者陳旅之軍致也一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|ヘテ‖後胤之亀鏡ニ|。▲證判状ハ軍功(くんこう)を記す感状(しやう)の事也。〔38オ一〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)を(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)亀鏡(ききやう)ニ|(なり)。▲證判状ハ軍功(ぐんこう)を記(しる)す感状(かんじやう)の事也。〔67ウ二・三〕

とあって、標記語「證判」の語注記は、「證判状は、を記す感状の事なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、「正判」の語は見えているが、標記語「證判」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しやう-はん-の-じゃう(名)【證判状】勲功の賞状。感状。庭訓徃來、六月、「棄一命、被粉骨者、書證判状、可後胤之龜鏡也」〔1009-4〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「しょう-ばん【証判】〔名〕@権威者によるあかしや判定や確認。また、その確認文言および署判。A「しょうばんじょう(証判状)」の略」と標記語「しょうばん-じょう【証判状】〔名〕権利または事実について、権限ある者の證判を受けた文書。土地関係文書と軍事的勤務に関する着到状。軍忠状などに多い。一見状。証判」とあって、この「証判状」の用例として、『庭訓往来』の語用例を記載する。
[ことばの実際]
家之心漸発歟、明年・明々年是證判期也、無可修一善之方、若雖過《『小右記』長和四年十二月五日の条、4卷/105頁》 
 
「ことばの溜池」の「粉骨」(2000.08.29)を参照。
2003年1月27日(月)冷雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
(つく・す)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「津」部に、

(ツクス)(同)。〔元亀本161五〕

(ツクス)(同)。〔静嘉堂本177六〕〔天正十七年本中20オ四〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その読みを「つくす」とし、語注記は未記載にする。ただし、元龜二年本は、「」の字に作る。正しくは、「」である。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

棄一命被粉骨者載證判状可被備後胤龜〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(ステ)ヽ-ヲ|レハ∨(ツク)-ヲ|者載-ニ|-(―イン)ノ-ニ| 〔山田俊雄藏本〕

(ステ)テ一命ヲ|(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ|者載(ノ)セ證判ニ|(ソナ)ヘ後胤(コウイン)之亀(キケイ)ニ|経覺筆本

(ステ)一命ヲ|(ツクサ)粉骨ヲ|者書-(ノセ)テ證判(セウハン)ノニ|-(コウイン)(ノ)-(キケイ)ニ| 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、院政時代の観智院本『類聚名義抄』に、

反 ツクス[上平平]{―キヌ[○平上]}/カハク 禾タル。〔法上90六〕

俗 和結 カチ イタヽク スツ ヤフル/コト/\ク[上上○○○]。〔法上90七〕

とあって、「つくす」「つきぬ」の訓が用いられている。鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ツクス /ツク究極貲輪歇泯勦國見悉殉磐填没厠褊贅離索《後略》酒飲盡也/已上盡也。〔黒川本・中27オ三〕

 
とあって、標記語「」の語を親字とし先頭から四番めに「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

(ツキルケツ)[入]。(同/ジン,コト/\)[上]。(同/タン)[平]。(同/ユウ,コト/\)[平]。〔態藝門423五〕

とあって、標記語「」を収載し、その読みを「つき・る」とし、その語注記は、未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ツクス)(同)―力。〔弘・言語進退129六〕

(ツクス) 。〔永・言語106六〕〔両・言語118八〕

(ツクス) 〔尭・言語96九〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その読みを「つく・す」とし、語注記は弘治二年本に「力を竭す」の語を記載する。また、易林本節用集』には、

(ツクス)(同)〔言辞107一〕

とあって、標記語「」と「」の二語をもって収載し、語注記は未記載にする。
 このように、上記当代の古辞書には訓を「つく・す」として、「」の語が収載され、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えているものである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389油-單等-具心-之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「」の読みを「つく・す」とし、その語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)(ハ)武士(ブシ)ノ名誉(メイヨ)夜詰(ヨツメ)(ウシロ)者陳旅(ヂンリヨ)ノ之軍致(グンチ)フデ一命(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ(ハ)(ノツ)證判(せウ―)ニ|(ソナヘ) 先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)ハ武士ノ名誉。夜詰(ツメ)(ウシ)ロ詰各可然事。〔下十二ウ七〜十三オ一〕

とあって、この標記語「」の読みを「つく・す」とし、その語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

一命(いちめい)を棄(すて)粉骨(ふんこつ)(つく)(され)ハ/一命ヲ|レハ∨粉骨ヲ| 粉骨を竭すとハ粉骨のはたらきを十分にする也。粉骨の注前に出。〔50ウ三・四

とあって、標記語「」の読みを「つく・す」とし、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)ら武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)。一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)(つく)(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)に備(そな)へら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕者武士-夜詰後詰者陳旅之軍致也一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|ヘテ‖後胤之亀鏡ニ|。〔38オ一〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)を(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)に(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)亀鏡(ききやう)ニ|(なり)。〔67ウ二〕

とあって、標記語「」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tcucuxi,u,ita.ツクシ,ス.イタ() 余さず消費する,使い果たす.¶Cocorouo tcucusu.(心を尽す)非常に心配する,または,心を痛めながら非常に精出してする.¶Yomi tcucusu.(読み尽す)余すところなく全部読み切る.¶Monouo cuitcucusu.(物を食ひ尽す)全部食べてしまう.Teuo tcucusu.(手を尽す)ある物事をするのに念を入れる,または,剣術などで,習得したあらゆる技あるいは手を使う.¶Fixxeiuo tcucusu.(筆勢を尽す)立派に文字を書こうとして,また,絵を描こうとして丹精をこめる.〔邦訳625l〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味を「」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

つく(名)【】(一)盡くるやうになす。用ゐて、殘り無くす。終ふる。なくなす。萬葉集、一八32長歌「馬の爪、い都久須きはみ、ふなのへの、いはつるまでに」(二)盡くるまでする。あるかぎりなす。はたす。竹取物語「心をくだきて、千餘日に力をつくしたること少なからず」「義を盡す」心を盡す」財を盡す」身を盡す」忠を盡す」〔1312-3〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「つく・す【】〔他サ五(四)〕(「つきる(尽)」の他動詞形)@つきるようにする。イなくする。終わりにしする。ロあるかぎり出す。全部出しきる。つきるまでする。Aその極まで達する。できるかぎりする。きわめる。B(動詞の連用形に付いて)十分にする、すっかりする、余すところなくするの意を添える。「言いつくす」「書きつくす」「しつくす」など。C(「力を尽くす」などを略した表現で)他のもののために働く。人のために力を出す。D(「意を尽くす」などを略した表現で)十分に表現する。くわしく述べる。E心をよせる。熱をあげる。F「あんだらつくす」「阿呆(あほう)つくす」「馬鹿つくす」などの略から「言う」「する」の意の俗語となる。イ「言う」をののしっていう語。ぬかす。ほざく。ロ「する」をののしっていう語。しやがる。しくさる」とあって、この『庭訓往来』の語用例を未記載にする。
[ことばの実際]
未口外、偏依恃汝、被仰合之由、毎人被慇懃御詞之間、皆喜一身抜群之御芳志、面々欲《訓み下し》未ダ口外セズト雖モ、偏ニ汝ヲ恃ムニ依テ、仰セ合サルルノ由、人毎ニ慇懃ノ御詞ヲ(ツク)ルルノ間、皆一身抜群ノ御芳志ヲ喜ンデ、面面ニ勇敢ヲ励マサント欲ス。《『吾妻鏡』治承四年八月六日の条》
 
2003年1月26日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
一命(イチメイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

一命(―メイ)。〔元亀本19一〕〔静嘉堂本14三〕〔天正十七年本上8ウ一〕

とあって、標記語「一命」の語を収載し、その読みを「イチメイ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

一命被竭粉骨者載證判状可被備後胤龜〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(ステ)ヽ-ヲ|レハ∨(ツク)-ヲ|者載-ニ|-(―イン)ノ-ニ| 〔山田俊雄藏本〕

(ステ)テ一命ヲ|(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ|者載(ノ)セ證判ニ|(ソナ)ヘ後胤(コウイン)之亀(キケイ)ニ|経覺筆本

(ステ)一命ヲ|(ツクサ)粉骨ヲ|者書-(ノセ)テ證判(セウハン)ノニ|-(コウイン)(ノ)-(キケイ)ニ| 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「一命」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「一命」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

一命(イツメイ/ヒトツ,イノチ)[入・去]。〔態藝門36八〕

とあって、標記語「一命」を収載し、その読みを「イツメイ」とし、その語注記は、未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

一命(―メイ) 〔弘・言語進退8七〕〔永・言語進退6一〕

一位(――) 《前略》―命。《後略》〔尭・言語5七〕

一位(――) 《前略》―命(メイ)。《後略》〔両・言語6八〕

とあって、標記語「一命」語を収載し、その読みを「イチメイ」とし、その語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、標記語「一命」の語を未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』に「一命」の語が収載され、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えているものでもある。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389油-單等-具心-之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「一命」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)(ハ)武士(ブシ)ノ名誉(メイヨ)夜詰(ヨツメ)(ウシロ)者陳旅(ヂンリヨ)ノ之軍致(グンチ)フデ一命(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ(ハ)(ノツ)證判(せウ―)ニ|(ソナヘ) 先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)ハ武士ノ名誉。夜詰(ツメ)(ウシ)ロ詰各可然事。〔下十二ウ七〜十三オ一〕

とあって、この標記語「一命」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

一命(いちめい)を棄(すて)粉骨(ふんこつ)を竭(つく)(され)ハ/一命ヲ|レハ∨竭粉骨ヲ| 粉骨を竭すとハ粉骨のはたらきを十分にする也。粉骨の注前に出。〔50ウ三・四

とあって、標記語「一命」の読みを「イチメイ」とし、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)ら武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を謁(つく)さ被(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)に備(そな)へら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕者武士-夜詰後詰者陳旅之軍致也一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|ヘテ‖後胤之亀鏡ニ|。〔37ウ六〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)に(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)亀鏡(ききやう)ニ|(なり)。〔67オ四〕

とあって、標記語「一命」の語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Ichimei.イチメイ(一命) Inochi.(命) 生命,または,人の生きている間.例,Ichimeino aida.〔邦訳326r〕

とあって、標記語「一命」の語を収載し、意味を「生命,または,人の生きている間」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いち-めい(名)【一命】一人の命(いのち)庭訓徃來(元弘)六月十一日「棄(ステ)テ一命、被粉骨合戰者」〔0176-2〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「いち-めい【一命】〔名〕@ひとつのいのち。生命。A死没すること。Bひとたび任命したり命令したりすること。また、その任命や命令。C古代中国で、はじめて官などを授けられて正使となること。また、その辞令や官位」とあって、この@の用例の第二用例として、『庭訓往来』の語用例を記載する。
[ことばの実際]
夜党(よたう)の者山々へ逃散り候を尋出し、甲斐・信濃大将廿一人、究竟(くきやう)の侍千百余斬捨(きりすて)、岩村籠城の者筋力(きんりよく)ヲ抛(ナケウツ)一命(いちめい)御扶(おんたすけ)なされ候の樣にと塚本小大膳を以て御侘言(わびこと)申候。《『信長公記』卷八・角川文庫204四》
 
2003年1月25日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
軍致(グンチ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、「軍陣(クンヂン)。軍兵(―ビヤウ)。軍慮(―リョ)。軍勢(―ゼイ)。軍功(―コウ)。軍忠(―チウ)。軍卒(―ソツ)。軍讖(―シン)。軍幕(―マク)」の九語を収載するが標記語「軍致」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_者陳--(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_者陳--(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

-又定ルヽ存知歟然-而先キ-(ガケ)-(ブンドリ)--誉夜-(ヅメ)(ウシロ)-者陳旅(レヨ)ノ軍致(チ)」 〔経覺筆本〕

(カネテ)ハ(マタ)ルヽ存知せ|歟然ルニ而先-(カケ)-(トリ)者武-士名-(ヨ)-(ツメ)ロ-詰者陳-(チンリヨ)ノ-(ク[ン]チ{チ/イタス})」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「軍致」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』に、標記語を「軍致」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

軍致(グンチ/イクサ,イタス)[平・去]。〔態藝門529六〕

とあって、標記語「軍致」を収載し、その読みを「グンチ」とし、その語注記は、未記載にする。
 このように、上記当代の古辞書には訓を「グンチ」として、「軍致」の語を収載するのは広本節用集』だけであり、これは古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えている語でもある。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389油-單等-具心-之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「軍致」の読みを「グンチ」とし、その語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)(ハ)武士(ブシ)ノ名誉(メイヨ)夜詰(ヨツメ)(ウシロ)者陳旅(ヂンリヨ)ノ軍致(グンチ)フデ一命(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ(ハ)(ノツ)證判(せウ―)ニ|(ソナヘ) 先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)ハ武士ノ名誉。夜詰(ツメ)(ウシ)ロ詰各可然事。〔下十二ウ七〜十三オ一〕

とあって、この標記語「軍致」の読みを「グンチ」とし、その語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

陣旅(ぢんちよ)軍致(ぐんち)也/陣旅軍致 陣旅ハ軍陣。軍旅といふに同し。軍致とハ合戰の旨とする事也〔50ウ二・三

とあって、標記語「軍致」の読みを「こつめ」とし、語注記は、「軍致とは、合戰の旨とする事なり」記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)ら武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)。一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を謁(つく)さ被(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)に備(そな)へら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕者武士-夜詰後詰者陳旅之軍致一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|ヘテ‖後胤之亀鏡ニ|。▲軍致ハ合戰(かつせん)の先途(せんど)といふ義。〔38オ一〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)を(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)に(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)亀鏡(ききやう)ニ|(なり)。▲軍致ハ合戰(かつせん)の先途(せんと)といふ義。〔67ウ二〕

とあって、標記語「軍致」の語注記は、「軍致は、合戰の先途といふ義」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「軍致」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』にも、「ぐん-ち(名)【軍致】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ぐん-ち【軍致】〔名〕戦陣で、非常に重大な、肝腎の事柄」とあって、この用例として、『庭訓往来』の語用例を文明本(広本)『節用集』とともに記載する。
 
2003年1月24日(金)晴れ後曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
陳旅(ヂンリヨ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「地」部に、「陣起(チンダチ)又立。陣頭(―トウ)。陣臨(―ノゾキ)。陣開(―ビラキ)。陣拂(―バライ)。陣替(―ガエ)。陣争(―アラソイ)。陣所(―シヨ)」の八語を収載するが、標記語「陳旅」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

-又定ルヽ存知歟然-而先キ-(ガケ)-(ブンドリ)--誉夜-(ヅメ)(ウシロ)-陳旅(レヨ)之軍致(チ)」 〔経覺筆本〕

(カネテ)ハ(マタ)ルヽ存知せ|歟然ルニ而先-(カケ)-(トリ)者武-士名-(ヨ)-(ツメ)ロ-詰者-(チンリヨ)之軍-(ク[ン]チ{チ/イタス})」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「陳旅」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』に、標記語を「陳旅」の語を未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書には、「陳旅」の語はまったく未収載となっている。これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語なのである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389油-單等-具心-之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「陳旅」の読みを「ヂンリヨ」とし、その語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)(ハ)武士(ブシ)ノ名誉(メイヨ)夜詰(ヨツメ)(ウシロ)陳旅(ヂンリヨ)之軍致(グンチ)フデ一命(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ(ハ)(ノツ)證判(せウ―)ニ|(ソナヘ) 先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)ハ武士ノ名誉。夜詰(ツメ)(ウシ)ロ詰各可然事。〔下十二ウ七〜十三オ一〕

とあって、この標記語「陳旅」の読みを「ヂンリヨ」とし、その語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

陣旅(ぢんりよ)軍致(ぐんち)也/陣旅軍致也 陣旅ハ軍陣。軍旅といふに同し。軍致とハ合戰の旨とする事也〔50ウ二・三〕

とあって、標記語「陳旅」の読みを「ヂンリヨ」とし、語注記は、「陳旅は軍陣。軍旅といふに同じ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)ら武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)。一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を謁(つく)さ被(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)に備(そな)へら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕者武士-夜詰後詰陳旅之軍致也一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|ヘテ‖後胤之亀鏡ニ|。▲陣旅ハ軍旅(ぐんりよ)軍陣(ぐんぢん)などいふに同じ。〔37ウ八〜38オ一〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)を(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)に(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)亀鏡(ききやう)ニ|(なり)。▲陣旅ハ軍旅(ぐんりよ)軍陣(ぐんぢん)などいふに同じ。〔67ウ二〕

とあって、標記語「陳旅」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「陳旅」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』にも、「ぢん-りよ(名)【陳旅】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ぢん-りょ【陳旅】〔名〕軍隊の陣営。また、戦場。軍陣。戦陣」とあって、この用例として、『庭訓往来』の語用例を記載する。
[ことばの実際]
日来在他所云々、内成朝臣在将軍旅所者、件事今{日}朝自将軍御 《『小右記』長徳二年六月十四日の条、2卷/15頁》
 
2003年1月23日(木)冷雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
後詰(うしろづめ→ごづめ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「宇」部に、

後攻(―ヅメ)。〔元亀本179五〕

後攻(ウシロツメ)。〔静嘉堂本200五〕

後攻(―ツメ)。〔天正十七年本中29ウ五〕

とあって、標記語「後詰」の語を収載し、その読みを「うしろづめ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

-又定ルヽ存知歟然-而先キ-(ガケ)-(ブンドリ)--誉夜-(ヅメ)(ウシロ)-者陳旅(レヨ)ノ之軍致(チ)」 〔経覺筆本〕

(カネテ)ハ(マタ)ルヽ存知せ|歟然ルニ而先-(カケ)-(トリ)者武-士名-(ヨ)-(ツメ)ロ-者陳-(チンリヨ)ノ之軍-(ク[ン]チ{チ/イタス})」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「後詰」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「後詰」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

後詰(ウシロツメコウカウ)[去・去入]。〔態藝門479四〕

とあって、標記語「後詰」を収載し、その読みを「うしろづめ」とし、その語注記は、未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

後詰(ウシロツメ) 〔弘・言語進退152一〕〔両・言語136七〕

後詰(ウシロヅメ) ―楯(ダテ)。〔永・言語122八〕

後詰(ウシロツメ) ―楯。〔尭・言語112四〕

とあって、標記語「後詰」語を収載し、その読みを「うしろづめ」とし、その語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

後詰(ウシロヅメ) ―卷(マキ)。―影(カゲ)。〔言辞119四〕

とあって、標記語「後詰」の語をもって収載し、冠頭字「後」の熟語群二語収載する。
 このように、上記当代の古辞書には訓を「うしろづめ」として、「後詰」の語が収載され、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えているものである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389油-單等-具心-之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-(ウシロ)-者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「後詰」の読みを「うしろづめ」とし、その語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)(ハ)武士(ブシ)ノ名誉(メイヨ)夜詰(ヨツメ)(ウシロ)陳旅(ヂンリヨ)之軍致(グンチ)フデ一命(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ(ハ)(ノツ)證判(せウ―)ニ|(ソナヘ) 先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)ハ武士ノ名誉。夜詰(ツメ)(ウシ)ロ詰各可然事。〔下十二ウ七〜十三オ一〕

とあって、この標記語「後詰」の読みを「うしろづめ」とし、その語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

夜詰(よつめ)後詰(こつめ)(ハ)夜詰後詰 夜詰ハ夜かけなり。後詰とハ後(あと)に備(そな)へて先の援(たすけ)となる事なり。〔50ウ一

とあって、標記語「後詰」の読みを「こつめ」とし、語注記は、「後詰とは、後に備へて先の援となる事なり」記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)ら武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)。一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を謁(つく)さ被(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)に備(そな)へら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕者武士-夜詰後詰者陳旅之軍致也一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|ヘテ‖後胤之亀鏡ニ|。〔37ウ五〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)を(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)に(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)亀鏡(ききやう)ニ|(なり)。〔67オ三〕

とあって、標記語「後詰」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vxirozzume,l,vxiromaqi.ウシロヅメ.または,ウシロマキ(後詰.または,後巻) 敵を後方から圧迫すること,または,後方から攻めること.〔邦訳739l〕

とあって、標記語「後詰」の語を収載し、意味を「敵を後方から圧迫すること,または,後方から攻めること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

うしろ-づめ(名)【後詰】〔詰むは、攻むなり、字類抄「征、つむ、迫軍也」後詰(ごづめ)は、湯桶讀にするなり〕味方を攻むる敵軍を、其背後(うしろ)より取巻きて攻むること。うしろまき。後詰(ごづめ)。後攻(ごぜめ)。後援。梅松論、上「五十四郡の軍勢を率して、後詰の爲に、不破關を越えて」撮壤集、下、武略部「後詰(うしろづめ)史記抄(文明)十72「齊へ深入らむと思へども、云云、韓、魏が、うしろづめをせうずらうと思ひて、怖(お)ぢうぞ」太平記、十八、金崎落城事「後攻(ごぜめ)する者なくては、此城、今十日とも堪へ難し」赤松再興記、永正十六年十二月「浮田能家、三石城爲後卷出張す」豐鑑、長濱眞砂、天正六年、毛利氏軍「上月の城(播磨)を幾重も圍みぬ、鹿之助(山中氏)後責を請ひければ、秀吉、小寺氏など催し加へて向ひ、高倉山に陣立したまふ」〔0231-3〕

ご-づめ(名)【後詰】うしろづめの條を見よ。太平記、三、赤坂城軍事四「畿内の案内者を先に立て、後攻(ごづめ)のなき樣に、山を苅廻(かりまはり)、家を燒拂て、心易く城を責むべきなんと」〔0696-3〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「うしろ-づめ【後詰】〔名〕(「うしろつめ」とも)@攻撃または防御部隊の後方に控えていて、必要に応じて応援する予備の部隊。ごづめ。A(―する)敵を背後から攻めること。また、その軍勢。うしろぜめ。ごぜめ。うしろまき。B(―する)背後にいて、応援すること。代わってことにあたること。また、その者。あとおし。うしろだて」とあり、また、標記語「ご-づめ【後詰】〔名〕@城を包囲した敵や布陣した敵の後方から攻撃すること。また、その軍隊。背後を襲う伏兵。うしろぜめ。ごぜめ。うしろづめ。A先陣の交替・補充のため、うしろに控えている軍勢。予備軍。援軍。うしろづめ。」とあって、この@の用例として、『庭訓往来』の語用例を記載する。
[ことばの実際]
訓み下し》小早川陣仕崩候而、其侭山内為後詰、至下江田罷出候処、是豊御退《『毛利』(年月日未詳)251 1/222》
 
2003年1月22日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
夜詰(よづめ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「與」部に、

夜詰(ヨヅメ)。〔元亀本131六〕

夜詰(ヨツメ)。〔静嘉堂本137六〕〔天正十七年本中1オ七〕

とあって、標記語「夜詰」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

-又定ルヽ存知歟然-而先キ-(ガケ)-(ブンドリ)---(ヅメ)(ウシロ)-者陳旅(レヨ)ノ之軍致(チ)」 〔経覺筆本〕

(カネテ)ハ(マタ)ルヽ存知せ|歟然ルニ而先-(カケ)-(トリ)者武-士名-(ヨ)-(ツメ)ロ-詰者陳-(チンリヨ)ノ之軍-(ク[ン]チ{チ/イタス})」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「夜詰」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「夜詰」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

夜詰(ヨヅメヤカウ)[平・去]。〔態藝門318六〕

とあって、標記語「夜詰」の語注記は、未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

夜詰(ヨツメ) 〔弘・言語進退93六〕

夜詰(ヨヅメ) 。―討(ウチ)。―(ヨ)ヲ(ツク)(ヒ)ニ。―這(バイ)。〔永・言語88八〕

夜詰(ヨヅメ) 。―討。―這。―入。―継。〔尭・言語80七〕

(ヨツメ) 。―討(ヨウチ)。―這(ヨバイ)。―入(ヨコシ)。―(ツク)。〔両・言語97三〕

とあって、標記語「夜詰」語を収載し、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

夜討(ヨウチ) ―待(マチ)―詰(ヅメ)。―這(ハヒ)。―懸(カケ)。―(ヨ)ヲ(ツク)(ヒ)ニ。―居(ズエ)。―入(コミ)。―紛(マキレ)。〔言辞86四〕

とあって、標記語「夜討」の語をもって収載し、冠頭字「夜」の熟語群八語として「夜詰」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 このように、上記当代の古辞書には訓「ヨヅメ」として、「夜詰」の語が収載され、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えているものである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389---之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-者武-士名--(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「夜詰」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)(ハ)武士(ブシ)ノ名誉(メイヨ)夜詰(ヨツメ)(ウシロ)陳旅(ヂンリヨ)之軍致(グンチ)フデ一命(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ(ハ)(ノツ)證判(せウ―)ニ|(ソナヘ) 先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)ハ武士ノ名誉。夜詰(ツメ)(ウシ)ロ詰各可然事。〔下十二ウ七〜十三オ一〕

とあって、この標記語「夜詰」についての語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

夜詰(よつめ)後詰(こつめ)(ハ)夜詰後詰者 夜詰ハ夜かけなり。後詰とハ後(あと)に備(そな)へて先の援(たすけ)となる事なり。〔50ウ一

とあって、標記語「夜詰」の語注記は、「夜かけなり」記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)ら武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)。一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を謁(つく)さ被(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)に備(そな)へら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕者武士-夜詰後詰者陳旅之軍致也一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|ヘテ‖後胤之亀鏡ニ|。〔37ウ五〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)を(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)に(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)(ききやう)ニ|(なり)。〔67オ三〕

とあって、標記語「夜詰」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「夜詰」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

よ-づめ(名)【夜詰】夜中詰め居ること。夜間の詰番。夜番。宿直。良將達徳録、四「前田利常公御代には、御咄之衆とて、云云、毎夜御夜詰に罷出で、四方山の事ども咄し申す」〔2093-1〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「よ-づめ【夜詰】〔名〕@夜間、攻めかけること。夜攻め。A夜間、詰めていること。夜、君側または役所などに出勤していること。夜番。夜勤。また、夜おそくまで働くこと。夜業」とあって、@の用例として『庭訓往来』の語用例を記載する。
[ことばの実際]
訓み下し》窃盗にも 夜詰・番衆も くたびれば ふかくをとらん 始めなりけり つかれより ゆだんおこれる 物なれば かはりかはりに 夜詰ばんせよ《『よしもり百首』伊勢三郎義盛(?〜1186)作》
 
2003年1月21日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)⇔市川
名誉(メイヨ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「免」部に、

名誉(メイヨ)。〔元亀本296五〕

名誉(メイヨ)。〔静嘉堂本344五〕

とあって、標記語「名誉」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

-又定ルヽ存知歟然-而先キ-(ガケ)-(ブンドリ)---(ヅメ)(ウシロ)-者陳旅(レヨ)ノ之軍致(チ)」 〔経覺筆本〕

(カネテ)ハ(マタ)ルヽ存知せ|歟然ルニ而先-(カケ)-(トリ)者武--(ヨ)-(ツメ)ロ-詰者陳-(チンリヨ)ノ之軍-(ク[ン]チ{チ/イタス})」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「名誉」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

名誉(メイヨ)。〔態藝門75二〕

とあって、標記語を「名誉」の語を収載し、語注記は未記載にする。次に広本節用集』には、

名誉(メイヨ/ナ,ホマレ)[平・平]。〔態藝門873七〕

とあって、標記語「名誉」の語注記は、未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

名誉(メイヨ) 〔弘・言語進退229五〕

名誉(メイヨ) ―望(バウ)。〔永・言語191二〕〔尭・言語180六〕

とあって、標記語「名誉」語を収載し、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

名譽(メイヨ) ―物(ブツ)。―作(サク)。―望(バウ)。―所(シヨ)。―文(モン)。―句(ク)。―香(カウ)。―筆(ヒツ)。―言(ゲン)。〔言辞197一〕

とあって、標記語「名誉」語をもって収載し、冠頭字「名」の熟語群九語を収載し、語注記は未記載にする。
 このように、上記当代の古辞書には訓「メイヨ」として、「名誉」の語が収載され、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えているものである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389---之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-者武---詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「名誉」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)(ハ)武士(ブシ)ノ名誉(メイヨ)夜詰(ヨツメ)(ウシロ)陳旅(ヂンリヨ)之軍致(グンチ)フデ一命(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ(ハ)(ノツ)證判(せウ―)ニ|(ソナヘ) 先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)ハ武士ノ名誉。夜詰(ツメ)(ウシ)ロ詰各可然事。〔下十二ウ七〜十三オ一〕

とあって、この標記語「名誉」についての語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

武士(ぶし)名誉(めいよ)武士之名誉 名誉とは名の無に聞へてほまれある事なり。〔50オ七・八〕

とあって、標記語「名誉」の語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)ら武士(ぶし)名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)。一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を謁(つく)さ被(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)に備(そな)へら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕者武士-夜詰後詰者陳旅之軍致也一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|ヘテ‖後胤之亀鏡ニ|。〔37ウ五〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)を(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)に(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)(ききやう)ニ|(なり)。〔67オ三〕

とあって、標記語「名誉」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Meiyo.メイヨ(名誉) Nano fomare.(名の誉れ)賞賛,あるいは,高い名声.§Meiyouo nokcosu.(名誉を残す)偉大な名前を残しとどめる.〔邦訳396l〕

とあって、標記語「名誉」の語を収載し、意味は「賞賛,あるいは,高い名声」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

めい-よ(名)【名誉】(一)ほまれあること。身の好き評判。ほまれ。莊子、天運篇「至貴國爵幵焉、至富國財幵焉、至願名譽幵焉、是以道不渝」字類抄「名譽」平家物語、八、征夷將軍院宣事「武勇の名譽、長じ給へるに依って」(二)上手なること。義殘後覺(文禄、愚軒)「諸國より名譽の相撲ども到來しける程に、内野七本松にて、勸進相撲行す」(三)名高きこと。著名なること。有名。平治物語、二、義朝野間下向事「隠れなき強盗、名譽の大剛の者にて候」〔1982-5〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「めい-よ【名誉】[一]〔名〕@(形動)人の才能や特定の技能などに関するすぐれた評判。よい評判を得ていること。また、そのさま。A(形動)事の善悪にかかわりなく、評判の高いこと。程度のはなはだしいこと。また、そのさま。B(―する)評判になること。名声を博すること。有名になること。また、そのようなはたらき。C個人、または集団の人格に対して、社会的に承認された価値。また、それに対する自覚。体面。面目。D地位や職名を表わす語に冠して用い、その人に敬意を表し、また、その功労をたたえるために贈られる称号とする。「名誉総裁」「名誉市民」「名誉教授」など。E世にまれなこと。奇特なこと。不思議なこと。また、そのさま。めいよう。めんよ。めんよう。[二]〔副〕(Eから転じて)事態がよく理解できなくて、いぶかるさまを表わす語。どういうわけか。不思議に。奇妙に。めいよう」とあって、『庭訓往来』の語用例「武士の名誉」は未記載にする。
[ことばの実際]
和漢之間、有武將名譽之分、就有御尋、仲章朝臣、注出之、令獻覽《訓み下し》和漢ノ間、武将名誉(メイヨ)有ルノ分、御尋ネ有ルニ就テ、仲章ノ朝臣、之ヲ注シ出シ、献覧セシム。《『吾妻鏡建暦元年十二月十日の条
今度、因幡国取鳥、名城と云ひ、大敵と云ひ、一身の覚悟を以て、一国平均に申付けらるゝ事、武勇の名誉前代未聞(ぜんだいみもん)の旨、御感状をなされ、頂戴、面目の至り申すばかりなり。《『信長公記』卷十五・角川文庫372三》
 
2003年1月20日(月)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
武士(ブシ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「福」部に、

武士(―シ)。〔元亀本223三〕〔静嘉堂本255二〕〔天正十七年本中56ウ七〕

とあって、標記語「武士」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

-又定ルヽ存知歟然-而先キ-(ガケ)-(ブンドリ)--誉夜-(ヅメ)(ウシロ)-者陳旅(レヨ)ノ之軍致(チ)」 〔経覺筆本〕

(カネテ)ハ(マタ)ルヽ存知せ|歟然ルニ而先-(カケ)-(トリ)--(ヨ)-(ツメ)ロ-詰者陳-(チンリヨ)ノ之軍-(ク[ン]チ{チ/イタス})」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「武士」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「武士」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

武士(フシ/ヲトコ・タケシ,サブライ)[上・上]異名甲者。介士。旅。孟賁。孫呉。〔人倫門620二・三〕

とあって、標記語「武士」の語注記は、異名の語群「甲者。介士。旅。孟賁。孫呉」とある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

武士(ブシ) 〔弘・人倫179七〕〔弘・言語進退183六〕

武士(ブシ) 。〔永・言語147六〕〔尭・言語137六〕

とあって、弘治二年本は、標記語「武士」語を人倫門と言語進退門の両方に収載し、永祿二年本尭空本は、人倫門のみに収載し、いずれも語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

武士(ブシ)。〔人倫148七〕

とあって、標記語「武士」語をもって収載し、語注記は未記載にする。
 このように、上記当代の古辞書には訓「ブシ」として、「武士」収載がみられ、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えているものであり。このなかで、明らかに広本節用集』が異名語群を増補しているといえよう。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389---之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者--誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「武士」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)(ハ)武士(ブシ)名誉(メイヨ)夜詰(ヨツメ)(ウシロ)者陳旅(ヂンリヨ)之軍致(グンチ)フデ一命(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ(ハ)(ノツ)證判(せウ―)ニ|(ソナヘ) 先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)ハ武士ノ名誉。夜詰(ツメ)(ウシ)ロ詰各可然事。〔下十二ウ七〜十三オ一〕

とあって、この標記語「武士」についての語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

武士(ぶし)の名誉(めいよ)武士之名誉 名誉とは名の無に聞へてほまれある事なり。〔50オ七・八〕

とあって、標記語「武士」の語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)。一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を謁(つく)さ被(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)に備(そな)へら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕武士-夜詰後詰者陳旅之軍致也一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|ヘテ‖後胤之亀ニ|。〔37ウ五〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)を(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)に(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)(ききやう)ニ|(なり)。〔67オ三〕

とあって、標記語「武士」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Buxi.ブシ(武士) 軍人.〔邦訳69l〕

とあって、標記語「武士」の語を収載し、意味は「軍人」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ぶ-し(名)【武士】常に武術を習ひ、軍陣に出づるを職とする者。もののふ。さむらひ。武者。武人。兵士。漢書、韓信傳「高祖令武士|∨信、載後車後漢書、功都夷傳「先以詔書|、示三郡、密徴武士、重其購賞、乃進軍」續紀、八、養老五年詔「文人武士國家所重、醫卜方術古今斯祟」書安齋随筆、十五、武士武家「武士といふは、朝廷武官の人の總稱にて、上古の書にも、武士といふ名目あり」〔0783-2〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ぶ-し【武士】〔名〕武芸を習い、主として軍事にたずさわったもの。中世・近世には支配層として、武家政治をになった。さむらい。もののふ。武芸人。武家。武者。武人。」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
奉勅答、不歸參之以前、不可有狼藉之由、被仰關東武士等畢《訓み下し》勅答ヲ奉ハリ、帰参サザルノ以前ニ、狼藉有ルベカラザルノ由、関東ノ武士等ニ仰セラレ畢ンヌ。《『吾妻鏡寿永三年二月二十日の条
 
2003年1月19日(日)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
先懸(さきがけ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、標記語「先懸」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ___(トリ)ハ者武--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ___(トリ)ハ者武--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

-又定ルヽ存知歟然-キ-(ガケ)-(ブンドリ)--誉夜-(ヅメ)(ウシロ)-者陳旅(レヨ)ノ之軍致(チ)」 〔経覺筆本〕

(カネテ)ハ(マタ)ルヽ存知せ|歟然ルニ-(カケ)-(トリ)者武-士名-(ヨ)-(ツメ)ロ-詰者陳-(チンリヨ)ノ之軍-(ク[ン]チ{チ/イタス})」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「先懸」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「先懸」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

先懸(サキガケせンケン)[平・平]魁好。〔態藝門792八〕

とあって、標記語「先懸」の語注記は、「魁好」とする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(サキガケ) 戰―。(同)〔弘・言語進退213七〕

(サキガケ) 。〔永・言語179五〕

(サキカケ) 。前蒐(サキガケ)太平記在之。〔尭・言語168六〕

とあって、弘治二年本は、標記語「」と「」の二語をもって収載し、永祿二年本は、「」の一語、尭空本は、「」と「前蒐」の二語をもって収載する。また、易林本節用集』には、

先懸(サキガケ)(同)(同/クワイ)〔言辞182五・六〕

とあって、標記語「先懸」と「」と「」の三語をもって収載する。
 このように、上記当代の古辞書には訓「サキガケ」として、「先懸」「」「」、「前蒐」といった多様な表記が用いられていてその収載状況が個々によって異なっているのが特徴である。こうしたなかで、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えている表記を示しているのは広本節用集』と易林本節用集』と言うことになる。なぜか、『運歩色葉集』は、この標記語を未収載とし、「勢」部に音読みした「先駆(―グ)」という語を収載するにすぎない。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389---之所及奔-走之-又定被存知歟然---捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「先懸」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)(ハ)武士(ブシ)ノ名誉(メイヨ)夜詰(ヨツメ)(ウシロ)者陳旅(ヂンリヨ)之軍致(グンチ)フデ一命(ツクサ)粉骨(フンコツ)ヲ(ハ)(ノツ)證判(せウ―)ニ|(ソナヘ) 先懸(サキカケ)分捕(ブンドリ)ハ武士ノ名誉。夜詰(ツメ)(ウシ)ロ詰各可然事。〔下十二ウ七〜十三オ一〕

とあって、この標記語「先懸」についての語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(しか)れとも先懸(さきかけ)分捕(ぶんどり)(ハ)レトモ先懸分捕者 衆人(しゆうじん)に先んじて敵中(てきちう)にすゝむを先懸といふ。〔50オ七・八〕

とあって、標記語「先懸」の語注記は、「衆人に先んじて敵中にすゝむを先懸といふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)ら武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陣旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)。一命(いちめい)を棄(すて)て粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を謁(つく)さ被(れ)(バ)證判状(しやうばんじやう)に載(の)せて後胤(こういん)(の)龜鏡(ききやう)に備(そな)へら被(る)(べ)き也(なり)。/先懸分捕者武士-夜詰後詰者陳旅之軍致也一命ヲ|(―ク)サ粉骨之合戰ヲ|セテ證判状ニ|ヘテ‖後胤之亀鏡ニ|。▲先懸ハ衆人(しうじん)に先(さき)んじて敵中(てきちう)へ進(すゝ)むをいふ。〔37ウ四〜八〕

然而(しかうして)先懸(さきがけ)分捕(ぶんどり)(ハ)武士(ぶし)の名誉(めいよ)夜詰(よづめ)後詰(ごづめ)(ハ)陳旅(ぢんりよ)(の)軍致(ぐんち)(なり)(すて)て一命(いちめい)を(れ)(つくさ)粉骨(ふんこつ)(の)合戰(かつせん)を(ば)(のせ)て證判状(しやうばんじやう)に(べき)(る)(そなへ)ら後胤(こういん)(の)亀鏡(ききやう)ニ|(なり)。▲先懸ハ衆人(しうじん)に先(さき)じて敵中(てきちう)へ進(すゝ)むをいふ。〔67オ二〜ウ一〕

とあって、標記語「先懸」の語注記は、「先懸は、衆人に先んじて敵中へ進むをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Saqigaqe.サキガケ(先懸) 先に立って,攻め込んだり,突進したりすること.〔邦訳558l〕

とあって、標記語「先懸」の語を収載し、意味は「先に立って,攻め込んだり,突進したりすること」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さき-がけ(名)【先驅】〔戰に進むを、驅(か)くと云ひ、退くを、引くと云ふ、驅引(かけひき)、抜驅(ぬけがけ)なども云ふ〕戰に、最も先に、敵に打掛かること。先登。吾妻鏡、二、養和二年六月五日、熊谷直實「勝(すぐれ)萬人(さきがけ)し一陣、懸壞(かけやぶり)一人當千、顕高名」同、九、文治五年七月八日「兵本意者、先登(さきがけ)也、進先登之時、云云」」承久軍、三「一人抜け出でて、さきをかけ、高名せむと思ふが、本意也」〔0783-2〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さき-がけ【先懸】〔名〕@まっさきに立って敵中へ攻め入ること。また、その人。A他のものより先になること。さきんずること。また、その人やそのもの。B足袋をいう。盗人仲間の隠語。C「さきおい(先追)」に同じ」とあって、@の意味用例として『庭訓往来』のこの用例を記載する。
[ことばの実際]
其故何者、佐汰毛四郎、常陸國奥郡、花園山、楯篭、自鎌倉令責御時、其日御合戰、直實、勝萬人、前懸一陣、懸壊、一人當千顯高名《訓み下し》其ノ故何ナレバ、佐汰毛ノ四郎、常陸ノ国奥ノ郡、花園山ニ、楯篭リ、鎌倉ヨリ責メシメ御フ時、其ノ日ノ御合戦ニ、直実、万人ニ勝レ、一陣ニ前懸シ、懸壊リ(前懸シ、一陣ヲ懸壊リ)、一人当千ノ高名ヲ顕ハス。《『吾妻鏡寿永元年六月五日の条
 
2003年1月18日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
存知(ゾンチ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、

存知(ゾンヂ)中庸。〔元亀本152七〕

存知(―チ)。〔静嘉堂本166八〕

存知(――)中庸。〔天正十七年本上25オ三〕

とあって、標記語「存知」の語を収載し、語注記には「中庸」とし、この典拠『中庸』としている。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_又定ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

-又定ルヽ存知歟然-而先キ-(ガケ)-(ブンドリ)--誉夜-(ヅメ)(ウシロ)-者陳旅(レヨ)ノ之軍致(チ)」 〔経覺筆本〕

(カネテ)ハ(マタ)ルヽ存知せ|歟然ルニ而先-(カケ)-(トリ)者武-士名-(ヨ)-(ツメ)ロ-詰者陳-(チンリヨ)ノ之軍-(ク[ン]チ{チ/イタス})」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「存知」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「存知」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

存知(ゾンチアル,シル)[平・平]。〔態藝門402五〕

とあって、標記語「存知」の語注記は、未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

存知(ゾンチ) 中。〔弘・言語進退122二〕

存命(ゾンメイ) ―知(ヂ)。―分(ブン)。―生(ジヤウ)/―亡(マウ)。―外(クハイ)。―日(ジツ)。〔永・言語101八〕

存命(ゾンメイ) ―知。―分。―生/―亡。―外。―日。〔尭・言語92三〕〔両・言語112五〕

とあって、弘治二年本だけが、標記語「存知」とし、その語注記に「中」と記載する。他本は「存命」の標記語で冠頭字「存」の熟語群中に「存知」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

存知(ゾンチ)外居(同)〔器財31六〕

とあって、標記語「存知」と「外居」の語をもって収載し、印度本のように「此字非歟」の語注記は未記載にして『下學集』同様に肯定いた並列標記とする。
 このように、上記当代の古辞書には訓「ゾンチ」として、「外居」と「存知」の標記字が示され、後者が古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えている表記であり、この表記字に対しては肯定型と否定型とが注記に見えている。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389---之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「存知」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

行器(ホカイ)野宿(ノジユク)(レウ)ニ雨皮(アマカハ)敷皮(シキカハ)油單(ユタン)雜具(ザウク)心之所ロ∨-(ホンソウ)スヲ|(カネテ)ハ-(ラル)ヽ存知(カ)-シテ 行器(ホカイ)ハ雜掌(サウシヤウ)入テ。餘所(ヨソ)ヘ遣(ツカハ)スウツハ物ナリ。〔下十二ウ五〜七〕

とあって、この標記語「存知」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かね)て又(また)(さため)て存知(ぞんじ)(らるゝ)(か)(カネテ)-ルヽ存知 兼てとハあわせてと云事なり。前文の事云送る序(ついて)に下文の事をもあわせて送るゆへ、兼て又と書し也。此句下の段へつけて見るへし。〔50オ六・七〕

とあって、標記語「存知」の語注記は、「兼てとハあわせてと云事なり。前文の事云送る序でに下文の事をもあわせて送るゆへ、兼て又と書きしなり。此の句下の段へつけて見るべし」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かね)てハ又(また)(さだめ)存知(ぞんち)ら被(る)る歟(か)テハ又定ルヽ存知ラ|。〔37ウ四〕

(かねて)ハ-(また)(さだめ)て(るゝ)存知(ぞんぢ)(か)。〔67オ二〕

とあって、標記語「存知」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「存知」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ぞん-ぢ(名)【存知】〔存在を知る意〕知り居ること。承知。吾妻鏡、七、文治三年十月三日「爲御貪知、所申候也」御存知の者」〔1165-4〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ぞん-じ【存知】〔名〕」→「ぞん-ち【存知】〔名〕(「ぞんぢ」とも)@存在を知っていること。知って理解していること。A心得て覚悟していること。[語誌](1)「存知」を「存じ」の当て字と見る説もあるが、「平家物語」など中世の文献に「存知して」とあるように「存知」のサ変動詞として用いた例が多く見られるところから、「存知」と「存じ」とはもとは別語であったと考えるべきであろう。(2)「存知」は和製漢語と思われ、発音は「文明本『節用集』などの古辞書類に記されているようにゾンチと第三音節が清音であった。それが中世後期には、連濁現象の流行によって、ゾンヂに変化した。「存じ」とは別語であったが、中世末期に生じた四つ仮名の混同によって同音となり、次第に混同して使われるようになった」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
又以此旨、早可令仰含官軍等者相守此仰官軍等、本自無合戰志之上、不及存知、相待院使下向之處、同七日、關東武士等、襲來于叡舩之汀依《訓み下し》又此ノ旨ヲ以テ、早ク官軍等ニ仰セ含メシムベシテイレバ、此ノ仰セヲ相ヒ守ル官軍等、本自合戦ノ志無キノ上、存知ニ及バズ、院使ノ下向ヲ相ヒ待ツノ処ニ、同キ七日ニ、関東ノ武士等、叡船ノ汀ニ襲ヒ来ル。《『吾妻鏡の条
 
2003年1月17日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
兼又(かねてはまた)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「加」部に、標記語「兼又」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名譽夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

兼又定被存知歟然而先懸分捕者武士名誉夜詰後詰者陳旅之軍致也」〔建部傳内本〕

_ルヽ存知せ|歟然レトモ_而先_懸分_(トリ)ハ者武--誉夜_(ツメ)(ウシロ)_者陳-之軍-(チ)」 〔山田俊雄藏本〕

-ルヽ存知歟然-而先キ-(ガケ)-(ブンドリ)--誉夜-(ヅメ)(ウシロ)-者陳旅(レヨ)ノ之軍致(チ)」 〔経覺筆本〕

(カネテ)ハ(マタ)ルヽ存知せ|歟然ルニ而先-(カケ)-(トリ)者武-士名-(ヨ)-(ツメ)ロ-詰者陳-(チンリヨ)ノ之軍-(ク[ン]チ{チ/イタス})」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「兼又」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「兼又」の語は、未収載にする。次に広本節用集』には、

兼亦(カネマタケンヤク)[平・入]。〔態藝門283一〕

とあって、標記語「兼亦」の語を収載し、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

兼又(カネテハマタ) 〔弘・言語86四〕〔永・言語83九〕〔両・言語91七〕

兼又(カネテハ―) 。〔尭・言語76二〕

とあって、標記語「兼又」の語をもって収載し、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』は、標記語「兼又」の語を未収載とする。『節用集』類では他に、明応本・天正十八年本・黒本本に収載が見られるのである。
 このように、上記当代の古辞書には訓「カネテはマタ」として、「兼又」と「兼亦」(広本『節用集』のみ)の標記字が示され、前者が古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えている表記と共通するものである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389---之所及奔-走之-定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「兼又」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

行器(ホカイ)野宿(ノジユク)(レウ)ニ雨皮(アマカハ)敷皮(シキカハ)油單(ユタン)雜具(ザウク)心之所ロ∨-(ホンソウ)スヲ|(カネテ)ハ-(ラル)ヽ存知(カ)-シテ 行器(ホカイ)ハ雜掌(サウシヤウ)入テ。餘所(ヨソ)ヘ遣(ツカハ)スウツハ物ナリ。〔下十二ウ五〜七〕

とあって、この標記語「兼又」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かね)て又(また)(さため)て存知(ぞんじ)(らるゝ)(か)(カネテ)-ルヽ存知 兼てとハあわせてと云事なり。前文の事云送る序(ついて)に下文の事をもあわせて送るゆへ、兼て又と書し也。此句下の段へつけて見るへし。〔50オ六・七〕

とあって、標記語「兼又」の語注記は、「兼てとハあわせてと云事なり。前文の事云送る序でに下文の事をもあわせて送るゆへ、兼て又と書きしなり。此の句下の段へつけて見るべし」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かね)てハ又(また)(さだめ)て存知(ぞんち)ら被(る)る歟(か)テハルヽ存知ラ|。〔37ウ四〕

(かねて)ハ-(また)(さだめ)て(るゝ)存知(ぞんぢ)ら(か)。〔67オ二〕

とあって、標記語「兼又」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「兼又」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かねて(副)【】〔後を兼ねての義、其時、行末かけての意〕あらかじめ。かねがね。嘗て。前(さき)に。前廉(まへかど)より。前びろに。前以て。萬葉集、二23「かからむと、(かねて)知りせば」同、十五32「かくばかり、戀ひむと可禰弖、知らませば、妹をば見ずぞ、あるべかりける」〔0396-4〕

また(接)【】〔間(マ)の義、二つにわたる、たを添へて、改まる意〕そのうへに。そのほかに。いまひとつ。ならびに。史記、孔子世家「他日復間政於孔子|神代紀、上30「春則填渠毀畔、又秋穀已成、則互以絡繩|源氏物語、廿二、玉蔓37「俄にまどひ出給しさはぎに、皆をくらかしてければ、、人もなし」狭衣物語、一、下28「道のほどの有樣思ひやらる、めのと、、、人ひとりばかりぞ、しりに乘りぬる」「山川」食ひて又飲む」又の世と云ふは、次の世。來世。佛足石歌、「のちの世のため、麻多乃與のため」〔1882-3〕

とあって、「かねて」と「また」の二語をもって収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「かね-て【―・―】〔連語〕」の小見出しに「かねては-また 前のことに関連して。前のことと同じく」」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
縱雖平家雖源氏不義遠波忠臣遠波兼又、古今二宮新加御領申立伊雑宮造替神寳調進勢牟土所祈請奈利訓み下し》縦ヒ平家ト雖モ、源氏ト雖モ、不義ヲバ罰シ、忠臣ヲバ賞シ賜ヘ。(カネ)テハ又(マタ)、古今ノ例ヲ訪ネテ、二宮ニ、新加ノ御領ヲ申シ立テ、伊雑宮ヲ造替シ、神宝ヲ調進セムト、祈請スル所ナリ。《『吾妻鏡養和二年二月八日の条
 
奔走(ホンサウ)」については、「ことばの溜め池」(2002.03.31)収載参照。
2003年1月16日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
心之所及(こころのおよぶところ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、標記語「心之所及」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兵粮之米{八木}鞍替糒袋行器野宿料雨皮油單等雑具心之所及奔走之」〔至徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油單等雜具心之所及奔走之」〔宝徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油単等雑具心之所及奔走之」〔建部傳内本〕

--木鞍_(―カイ)ノ_(ホシイ―)_(ホカイ)-宿-之雨__-(―タ ン)-之所及-」 〔山田俊雄藏本〕

兵粮(ラウ)八木鞍替(―カヘ)ノ糒袋(ホシイフクロ)行器(ホツカイ)宿雨皮(アマ―)敷皮油単(ユタン)雑具心之所走之」 〔経覺筆本〕

-粮之八木鞍_(クラカエ)ノ_(ホシヰフクロ)_(ホカヰ)-宿(ヤ―)料之雨-(アマカワ)-(ユタン)之雑-心之所及奔走」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「心之所及」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』に、標記語「心之所及」の語は未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書には訓「こころのをよぶところ」として、「心之所及」の標記語の収載は見られない。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389---之所-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「心之所及」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

行器(ホカイ)野宿(ノジユク)(レウ)ニ雨皮(アマカハ)敷皮(シキカハ)油單(ユタン)雜具(ザウク)心之所-(ホンソウ)スヲ|(カネテ)ハ-又定(ラル)ヽ存知(カ)-シテ 行器(ホカイ)ハ雜掌(サウシヤウ)入テ。餘所(ヨソ)ヘ遣(ツカハ)スウツハ物ナリ。〔下十二ウ五〜七〕

とあって、この標記語「心之所及」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/心之所-(ホンソウ)スヲ| 奔走ハ世話する事なり。既に前にくわし。〔50オ五・六〕

とあって、標記語「心之所及」の語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

兵粮(ひやうらう)の等八木(はちぼく)鞍替(くらかひ)の糒袋(ほしひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)乃料(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきがハ)油単(ゆたん)(とう)雑具(ざふぐ)(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/兵粮八-鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮--心之所-。〔37ウ一〕

兵粮(ひやうらう)-(はちぼく)鞍替(くらかへ)の糒袋(ほしいひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)の(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきかハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)(の)(ところ)(およぶ)-(ほんさう)す(これ)を。〔66ウ一〜五〕

とあって、標記語「心之所及」の語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「心之所及」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「こころのおよぶところ【心之所及】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「こころ【心】」の小見出しに「こころのおよぶところ【心之所及】」の語は、やはり未収載にとなっている。
[ことばの実際]
例、于時日未没之程也、今日事心之所及申沙汰之、強無違失、偏是《『岡屋関白記』仁治三(1242)年三月十八日の条・1卷/71頁》
武衛顧面曰、少冠口状者、偏非心之所也《訓み下し》武衛面ヲ顧テ曰ク、少冠ノ口状ハ、偏ニ心ノ発スルニ非ザルナリ。《『吾妻鏡治承五年閏二月二十七日の条
 
2003年1月15日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
雜具(ザフグ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、「雜々。雜説。雜談。雜言。雜事。雜色。雜用。雜熱。雜羹。雜仕。雜地。雜駄。雜羽。雜掌。雜紙。雜。雜居。雜舎。雜喉魚名。雜賀。雜役自能州書之」とあって、標記語「雜具」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兵粮之米{八木}鞍替糒袋行器野宿料雨皮油單等雑具心之所及奔走之」〔至徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油單等雜具心之所及奔走之」〔宝徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油単等雑具心之所及奔走之」〔建部傳内本〕

--木鞍_(―カイ)ノ_(ホシイ―)_(ホカイ)-宿-之雨__-(―タ ン)-之所及-」 〔山田俊雄藏本〕

兵粮(ラウ)八木鞍替(―カヘ)ノ糒袋(ホシイフクロ)行器(ホツカイ)宿雨皮(アマ―)敷皮油単(ユタン)雑具心之所及奔走之」 〔経覺筆本〕

-粮之八木鞍_(クラカエ)ノ_(ホシヰフクロ)_(ホカヰ)-宿(ヤ―)料之雨-(アマカワ)-(ユタン)-心之所及奔走」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「雜具」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』に、標記語を「雜具」の語を未収載にする。また、易林本節用集』には、

雜談(ザフタン)―行(ギヤウ)―作(サ)―役(ヤク)―説(セツ)―乱(ラン)―物(モツ)―事(ジ)―用(ヨウ)―意(イ)―務(ム)―書(シヨ)―具(グ)―言(ゴン)―心(シム)―訴(ソ)―掌(シヤウ)〔言辞181一・二〕

とあって、標記語「雜談」の冠頭字「」の熟語群として「雜具」の語を収載している。
 このように、上記当代の古辞書には訓「ザフグ」として、「雜具」の標記字が見えているのは、易林本『節用集』のみになっている。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389---之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「雜具」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

行器(ホカイ)野宿(ノジユク)(レウ)ニ雨皮(アマカハ)敷皮(シキカハ)油單(ユタン)雜具(ザウク)心之所ロ∨-(ホンソウ)スヲ|(カネテ)ハ-又定(ラル)ヽ存知(カ)-シテ 行器(ホカイ)ハ雜掌(サウシヤウ)入テ。餘所(ヨソ)ヘ遣(ツカハ)スウツハ物ナリ。〔下十二ウ五〜七〕

とあって、この標記語「雜具」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

油単(ゆたん)(とう)雜具(ぞうぐ)油単等雜具 いろ/\の道具をすべて雜具と云。右武具馬具弓矢雜具等まてくわしく図説(づせつ)に挙(あげ)たれハ并(あわ)せみるへし。〔50オ三・四〕

とあって、標記語「雜具」の語注記は、「いろ/\の道具をすべて雜具と云ふ。右武具・馬具・弓矢・雜具等までくわしく図説に挙げたれば、并せみるべし」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

兵粮(ひやうらう)の等八木(はちぼく)鞍替(くらかひ)の糒袋(ほしひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)乃料(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきがハ)油単(ゆたん)(とう)雑具(ざふぐ)(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/兵粮八-鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮--心之所-。〔37ウ一〕

兵粮(ひやうらう)-(はちぼく)鞍替(くらかへ)の糒袋(ほしいひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)の(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきかハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)(の)(ところ)(およぶ)-(ほんさう)す(これ)を。〔66ウ三〕

とあって、標記語「雜具」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Zo<gu.ザゥグ(雑具) 家財道具.〔邦訳843l〕

とあって、標記語「雑具」の語を収載し、意味は「家財道具」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ざふ-ぐ(名)【雜具】種種の家具、調度。ザツグ。〔0824-1〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ぞう-ぐ【雜具】〔名〕いろいろの道具。種々の家具。ざつぐ」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
召遣、被仰云、若有穢気、調備雑具猶不穢、可奏其由、随則給代官《『小右記』天元五年(982)二月十日の条・ 1卷/13頁》
梶原源太左衛門尉景季、同平次兵衛尉景高、持參雜具訓み下し》梶原源太左衛門ノ尉景季、同キ平次兵衛ノ尉景高、雑具(ザフグ)ヲ持参ス。《『吾妻鏡文治五年四月十八日の条
 
2003年1月14日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
油単(ユタン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「由」部に、

油単(―タン)油炭(―タン)。〔元亀本292三・四〕

油単(ユタン)油炭(―タン)。〔静嘉堂本339二・三〕

とあって、標記語「油単」「油炭」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兵粮之米{八木}鞍替糒袋行器野宿料雨皮油単等雑具心之所及奔走之」〔至徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油單等雜具心之所及奔走之」〔宝徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油単等雑具心之所及奔走之」〔建部傳内本〕

--木鞍_(―カイ)ノ_(ホシイ―)_(ホカイ)-宿-之雨__-(―タ ン)-具心之所及-」 〔山田俊雄藏本〕

兵粮(ラウ)八木鞍替(―カヘ)ノ糒袋(ホシイフクロ)行器(ホツカイ)宿雨皮(アマ―)敷皮油単(ユタン)雑具心之所及奔走之」 〔経覺筆本〕

-粮之八木鞍_(クラカエ)ノ_(ホシヰフクロ)_(ホカヰ)-宿(ヤ―)料之雨-(アマカワ)-(ユタン)等之雑-具心之所及奔走」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「油単」の語は、未収載にする。

油單ユタン 俗。〔黒川本・雜物下55ウ四〕

油單(ユタン) ユタル。〔卷九・雜物14一〕

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

油単(ユタン) 之具也。〔器財門112七〕

とあって、標記語を「油単」にして、その語注記は、「雨の具なり」という。次に広本節用集』には、

油單(タンユウ・アブラ,ヒトヱ)[平・平]或單(タン)ヲ(タン)ト。又油炭(タン)モ同。雨紙也。〔器財門861二・三〕

とあって、標記語「油単」の語注記は、『下學集』の語注記を継承せず、「或は單を襌と作す。また、油炭も同じ。雨紙なり」と別注記内容で記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

油炭(―タン)西種。油單(ユタン) 雨紙。〔弘・財宝225八〕

油炭(ユタン/アフラスミ)。/油單(ユタン) 雨具。〔永・財宝188二〕

油炭(ユタン)―単。―盞。―烟。〔尭・財宝177八〕

とあって、弘治二年本は、標記語「油炭」と「油単」の二語をもって収載し、「油単」の語注記に「雨紙」(広本『節用集』系)または「雨具」(『下學集』系)という。また、易林本節用集』には、

油單(ユタン)雨紙。/油炭(ユタン/アブラスミ)〔食服193七〕

とあって、標記語「油単」と「油炭」の語をもって収載し、「油単」の語注記に「雨紙」(広本『節用集』系)と記載する。
 このように、上記当代の古辞書には訓「ユタン」として、「油炭」と「油単」の標記字が示され、後者が古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えている表記である。また、広本節用集』には、「油襌」の表記をこの用語として同じく認定している。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

389--具心-之所及奔-走之-又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致(チ)也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|也 昔有人、龜鑄也。故通処成也。荘子、龜鏡只鏡也。我朝ニハ天照大~自被鑄移ヲ|。守‖-ントナリ日本ヲ|、始鑄疵有紀州日前国見有。後鑄給伊勢形容。我岩戸~是也。太~、彼二~ニシテ守也。胡正月大圓鏡用也。三種~祗引。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語「油単」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

行器(ホカイ)野宿(ノジユク)(レウ)ニ雨皮(アマカハ)敷皮(シキカハ)油單(ユタン)雜具(ザウク)心之所ロ∨-(ホンソウ)スヲ|(カネテ)ハ-又定(ラル)ヽ存知(カ)-シテ 行器(ホカイ)ハ雜掌(サウシヤウ)入テ。餘所(ヨソ)ヘ遣(ツカハ)スウツハ物ナリ。〔下十二ウ五〜七〕

とあって、この標記語「油単」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

油単(ゆたん)(とう)の雜具(ぞうぐ)油単雜具 いろ/\の道具をすべて雜具と云。右武具馬具弓矢雜具等まてくわしく図説(づせつ)に挙(あげ)たれハ并(あわ)せみるへし。〔50オ三・四〕

とあって、標記語「油単」の語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

兵粮(ひやうらう)の等八木(はちぼく)鞍替(くらかひ)の糒袋(ほしひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)乃料(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきがハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/兵粮八-鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮--心之所-油単ハ雨を厭(いと)ひ器(うつわ)を覆(おほ)ふもの。〔37ウ四〕

兵粮(ひやうらう)-(はちぼく)鞍替(くらかへ)の糒袋(ほしいひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)の(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきかハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)(の)(ところ)(およぶ)-(ほんさう)す(これ)を油単ハ雨を厭(いと)ひ器(うつハ)を覆(おほふ)もの。〔67オ一〕

とあって、標記語「油単」の語注記は、「油単は、雨を厭ひ器を覆ふもの」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yutan.ユタン(油単) 物がひどい取り扱いをされたり,損じたりしないように,荷物や箱などの上に掛ける油紙やその他いろいろの物.〔邦訳838l〕

とあって、標記語「油単」の語を収載し、意味は「物がひどい取り扱いをされたり,損じたりしないように,荷物や箱などの上に掛ける油紙やその他いろいろの物」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ゆ-たん(名)【油単】〔油を引きたる單被ならむ〕 (一){器具の敷物。簀薦(すごも)の下などに敷く。倭名抄(934年頃)、十四13、廚膳具「油單枕草子(10世紀終)、六、第五十一段「燈臺の打敷を蹈みて立てるに、新らしきゆたんなれば、強うとらへられにけり」(二)櫃長持、などを被ふ物。布帛にて製す。略して、ゆた。吾妻鏡、十一、建久二年十一月廿二日「ながもち一合、内おおい、だい、ゆたんあり」(覆、臺、油單) (三)物におほひおく袋などの稱。浄瑠璃物語、四段、そとの管弦「腰より横笛(ヤウデウ)取り出し、錦のゆたんをはづし」〔1830-1〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ゆ-たん【油単】〔名〕@ひとえの布や紙などに油をしみ込ませたもの。湿気を防ぐために、唐櫃(からびつ)・長持(ながもち)などの調度や、槍・笛などの器具のおおいにしたもの。また、灯明台(とうみょうだい)の敷物などに用いられた。A油紙や布で作った風呂敷。多く旅行用具として衣類を包んだり、雨雪を防いだり、防寒具の代用としたりした。B箪笥(たんす)や長持などにおおいかぶせる布。近世以後、多く用いられた。ふつう、木綿でつくられ、萠黄(もえぎ)色、浅葱色、紺色などに家紋を入れたり、唐草、松竹梅などの模様を染め出したりした。C「ゆたんづつみ(油単包)」に同じ」とあって、Aの意味となるが、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
色目文等、件二合韓櫃〓皆用油単、尽其幣木等裹薦付辛櫃、〉使《『小右記治安三(1023)年六月二日の条・6卷/170頁
然儲座〈天〉立大盤居物、今日油単伊予前司泰仲(高階)朝臣折之《『殿暦嘉承二(1107)年一月十九日の条・2卷/171頁
あまかはをゆたむといへる如何。油単也。《『名語記』(1275年)八》
 
2003年1月13日(月)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
敷皮(シキカハ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、「敷島。敷居。敷持。敷席。敷地」の五語を収載し、標記語「敷皮」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兵粮之米{八木}鞍替糒袋行器野宿料雨皮油単等雑具心之所及奔走之」〔至徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油單等雜具心之所及奔走之」〔宝徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油単等雑具心之所及奔走之」〔建部傳内本〕

--木鞍_(―カイ)ノ_(ホシイ―)_(ホカイ)-宿-之雨__-(―タ ン)-具心之所及-」 〔山田俊雄藏本〕

兵粮(ラウ)八木鞍替(―カヘ)ノ糒袋(ホシイフクロ)行器(ホツカイ)宿雨皮(アマ―)敷皮油単(ユタン)雑具心之所及奔走之」 〔経覺筆本〕

-粮之八木鞍_(クラカエ)ノ_(ホシヰフクロ)_(ホカヰ)-宿(ヤ―)料之雨-(アマカワ)-(ユタン)等之雑-具心之所及奔走」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで、至徳三年本と文明四年本には、この語を未採録録または脱語していることが注目され、そのどちらかなのかは判定未審である。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「敷皮」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語を「敷皮」の語は、未収載にする。次に広本節用集』には、

敷皮(シキカワフヒ―)[平・平]又皮作革。〔器財門927三〕

とあって、標記語「敷皮」の語注記は、「又○作○」の形式によって「敷革」の語を当代に認知しているのである。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

敷革(シキカハ) 〔弘・財宝242四〕

敷革(シキカワ) 〔永・財宝208四〕

敷革(シキガハ) 。〔尭・財宝192五〕

とあって、弘治二年本は、標記語「敷革」の語をもって収載し、語注記は未記載にする。ここで、上記の広本節用集』が注記で認定した語を標記語にして本来の「敷皮」は未採録となっていることに注目したい。そして、なぜ『運歩色葉集』の編纂者は、この語を採録しなかったのだろうかという新たな疑問が起こってくるのである。また、易林本節用集』には、

敷革(シキガハ)。〔器財209六〕

とあって、標記語「敷革」の語をもって収載し、語注記は未記載にする。
 このように、上記当代の古辞書には訓「シキカ{ガ}ハ」として、「敷皮」と「敷革」の標記字が示され、前者が古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えている表記であり、両用表記時代にあっても、注釈書系統は、原表記をもって記載されているのに対し、古辞書では、とりわけ『節用集』にこの異同を認めることができる。『下學集』そして、『運歩色葉集』といった、『庭訓徃來』及び下記真字本を継承する辞書がなぜこの語を採録しなかったのかは、個々にその要因があって、『下學集』は古写本『庭訓徃來』における未収載と連関している可能性が大であり、『運歩色葉集』の方は、その確乎たる原因が広本節用集』のような両用表記を認知する辞書でない印度本系『節用集』との関わりから斥けられたにせよ何ら収載されなかったその要因が全く見えてこないのが現状である。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

388爲御餞之兵粮-木鞍替(クラカイ)ノ糒袋行器(ホカイ)野宿(―/ノシヨク)ノ(テ/レウ)-- 鹿皮本也。〔謙堂文庫藏三八左E〕

とあって、標記語「敷皮」の語注記は、「鹿の皮本なり」と記載する。
 古版庭訓徃来註』では、

行器(ホカイ)野宿(ノジユク)(レウ)ニ雨皮(アマカハ)敷皮(シキカハ)油單(ユタン)雜具(ザウク)心之所ロ∨-(ホンソウ)スヲ|(カネテ)ハ-又定(ラル)ヽ存知(カ)-シテ 行器(ホカイ)ハ雜掌(サウシヤウ)入テ。餘所(ヨソ)ヘ遣(ツカハ)スウツハ物ナリ。〔下十二ウ五〜七〕

とあって、この標記語「敷皮」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

行器(ほかい)野宿(のしゆく)の料(りやう)の雨皮(あまかわ)敷皮(しき―)行器野宿料雨-- 雨皮ハ皮の雨おゝひなり。敷皮ハ鹿(しか)の夏毛(なつけ)を用ひ緒(を)にハ黒革(くろかわ)を用る也。〔50オ二・三〕

とあって、標記語「敷皮」の語注記は、「敷皮は、鹿の夏毛を用ひ緒には、黒革を用るなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

兵粮(ひやうらう)の等八木(はちぼく)鞍替(くらかひ)の糒袋(ほしひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)乃料(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきがハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/兵粮八-鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮--心之所-敷皮ハ夏毛(なつげ)の鹿革(しかのかハ)を用ひ黒革(くろかハ)菖蒲革(しやぶかハ)等にて縁(ふち)をとり上の方に黒革の緒(を)を付る。裏(うら)ハ布本式(ぬのほんしき)也と。〔37ウ三・四〕

兵粮(ひやうらう)-(はちぼく)鞍替(くらかへ)の糒袋(ほしいひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)の(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきかハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)(の)(ところ)(およぶ)-(ほんさう)す(これ)を敷皮ハ夏毛(なつげ)の鹿革(しかのかハ)を用ひ黒革(くろかハ)菖蒲革(しやぶかハ)等にて縁(ふち)をとり上の方に黒革の緒(を)を付る。裏(うら)ハ布本式(ぬのほんしき)也とぞ。〔66ウ六〜67オ一〕

とあって、標記語「敷皮」の語注記は、「敷皮は、敷皮は、夏毛の鹿の革を用ひ、黒革・菖蒲革等にて縁をとり、上の方に黒革の緒を付る。裏は、布本式なりとぞ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xiqigaua.シキカハ(敷皮) その上に坐るために敷きのべる皮.〔邦訳775r〕

とあって、標記語「敷皮」の語を収載し、意味は「その上に坐るために敷きのべる皮」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しき-がは(名)【敷皮】毛皮(けがは)の敷物。皮のしとね。古へ、軍陣中にて、將士の、地上に敷きたる毛皮をも云ふ。皮褥。軍用記敷皮は、鹿の皮なり、秋二毛とて、星の、所所にあるが、良し、長さ三尺許、幅二尺あまり、見はからひ、能き程にすべし、但し、二尺二寸程にて可然、裏は、白布に粉のりをつけて、白くすべし、布のつぎ目は、ふせ縫ひ也、云云、豹虎の皮、將軍家、竝に、三職の御衆、被之、熊の皮、彈正官の人、用之、何も、平人は、斟酌あるべし」平治物語、二、信頼降參事「六條河原にして、既に、敷皮の上に引据ゑたれども」平家物語、十二、六代事「千本松原といふ所に、御輿、舁き据ゑさせ、若君、下りさせ給へとて、敷皮敷きて、据ゑ奉る」〔0882-1〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「しき-かわ【敷皮敷革】〔名〕@毛皮の敷物。胡床(こしょう)や床几(しょうぎ)などの腰掛の上や地上に敷く。官位によって区別があり、四位は豹、五位は虎、弾正官は熊皮、他は多くは鹿の皮を用いる。上部を櫛上(くしかみ)、櫛形(くしがた)などといい、鹿は下端に兎の白毛を入れるのを例とした。A江戸時代、両替屋で金銀を取り扱うときに敷いた鹿皮。B青漆で紋をすった革。苔革。C牛や豚の革で作った、靴の中底に敷く革。中敷」とあって、『庭訓往来』の語用例は@の意味だが未記載にする。
[ことばの実際]
早重忠可召問之者仍重忠手自取敷皮、持來于由利之前令坐之、正禮而誘云、携弓馬者、爲怨敵被囚者、漢家本朝通規也《訓み下し》早ク重忠之ヲ召シ問ハスベシテイレバ、仍テ重忠手自敷皮(シキガハ)ヲ取リ、由利ガ前ニ持チ来リ之ヲ坐セシメ、礼ヲ正シテ誘ツテ云ク、弓馬ニ携ハル者ハ、怨敵ノ為ニ囚ハルルハ、漢家本朝ノ通規ナリ。《『吾妻鏡文治五年九月七日の条
 
2003年1月12日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
雨皮(アマカハ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「阿」部に、「雨請。雨傘。雨紙。雨宿。雨水。雨夜」の六語を収載するが、標記語「雨皮」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兵粮之米{八木}鞍替糒袋行器野宿料雨皮油単等雑具心之所及奔走之」〔至徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油單等雜具心之所及奔走之」〔宝徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油単等雑具心之所及奔走之」〔建部傳内本〕

--木鞍_(―カイ)ノ_(ホシイ―)_(ホカイ)-宿-__-(―タ ン)-具心之所及-」 〔山田俊雄藏本〕

兵粮(ラウ)八木鞍替(―カヘ)ノ糒袋(ホシイフクロ)行器(ホツカイ)宿雨皮(アマ―)敷皮油単(ユタン)雑具心之所及奔走之」 〔経覺筆本〕

-粮之八木鞍_(クラカエ)ノ_(ホシヰフクロ)_(ホカヰ)-宿(ヤ―)料之-(アマカワ)-(ユタン)等之雑-具心之所及奔走」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「雨皮」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』に、標記語を「雨皮」は、未収載にする。また、易林本節用集』には、

雨皮(アマカハ)。〔器財171六〕

とあって、標記語「雨皮」の語をもって収載する。
 このように、上記当代の古辞書には訓「アマカハ」として、「雨皮」の標記字が示されているのは、唯一、易林本節用集』となっていることに注目すべきであろう。そして、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えているこの語をどのように継承されてきたのか、どういう形態で採録がなされたかを今後検証が必要となってきている。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

388爲御餞之兵粮-木鞍替(クラカイ)ノ糒袋行器(ホカイ)野宿(―/ノシヨク)ノ(テ/レウ)--皮 鹿皮本也。〔謙堂文庫藏三八左E〕

とあって、標記語「雨皮」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

行器(ホカイ)野宿(ノジユク)(レウ)ニ雨皮(アマカハ)敷皮(シキカハ)油單(ユタン)雜具(ザウク)心之所ロ∨-(ホンソウ)スヲ|(カネテ)ハ-又定(ラル)ヽ存知(カ)-シテ 行器(ホカイ)ハ雜掌(サウシヤウ)入テ。餘所(ヨソ)ヘ遣(ツカハ)スウツハ物ナリ。〔下十二ウ五〜七〕

とあって、この標記語「雨皮」の語注記は、「雨皮は、雜掌入て、餘所ヘ遣はすうつは物なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

行器(ほかい)野宿(のしゆく)の料(りやう)雨皮(あまかわ)敷皮(しき―)行器野宿-- 雨皮ハ皮の雨おゝひなり。敷皮ハ鹿(しか)の夏毛(なつけ)を用ひ緒(を)にハ黒革(くろかわ)を用る也。〔50オ二・三〕

とあって、標記語「雨皮」の語注記は、「雨皮は、皮の雨おゝひなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

兵粮(ひやうらう)の等八木(はちぼく)鞍替(くらかひ)の糒袋(ほしひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)乃料(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきがハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/兵粮八-鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮--心之所-雨皮ハ未考。盖(けだし)合羽(かつば)の類(るい)なるべし。〔37ウ三〕

兵粮(ひやうらう)-(はちぼく)鞍替(くらかへ)の糒袋(ほしいひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)の(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきかハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)(の)(ところ)(およぶ)-(ほんさう)す(これ)を雨皮ハ未考。盖(けだし)合羽(かつぱ)の類(るゐ)なるべし。〔66ウ六〕

とあって、標記語「雨皮」の語注記は、「雨皮は、未考。盖し合羽の類なるべし」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「雨皮」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

あま-かは(名)【雨皮】〔貞丈雑記、八、雨皮「根本は、毛皮を用ひたる故に、雨皮と云ふか」とあれど、皮とは、唯、包む意にて、云ふなるべし〕 牛車(ギッシャ)、又、輿の屋形の雨覆(あまおほひ)。即ち、油單(ユタン)なり、下に、張筵(はりむしろ)と云ふを張りて、其上に覆ふ、白絹にて作り、油をさす。これを持ちて、行列に従ふ者を、雨皮持と云ふ。山伏などの携ふるあまかはと云ふは、桐油紙(トウユがみ)にて作る。西宮記、臨時、八、車「雨皮、公卿以上ノ車ニ張之」物具装束抄、雨皮「面、練、薄青染之、差油、裏、白生絹」蛙抄、車、輿、雨皮「先、下ニ張張筵(はりむしろ)、其上ニ張雨皮也」輿車圖考、四、唐車「張筵とは、むしろをはりて、雨を除(よ)くる也」謡曲、安宅「強力が負ひたる笈を、義經取て肩に懸け、笈の上には、雨皮、形箱(かたばこ)、取付て、云云」謡抄雨皮は、厚紙を、四枚つぎて、油を引く也、云云、形箱は、經佛具を入るる箱也」貞丈雑記、八、「雨皮は、車の雨覆の油單也。古書に、参内などの行列に、雨皮持とあるは、右の雨皮を持つ役人也。云云、山伏の雨皮は、雨降の用意の、油單の事也」〔0079-3〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「あま-かわ【雨皮】〔名〕(「あまがわ」とも)@中古、雨天の際、輦(れん)、牛車(ぎっしゃ)、輿(こし)などをおおったもの。生絹または厚紙に油を塗って作る。A桐油を引いた厚紙で作ったかっぱ。山伏などが着用した。油単(ゆたん)」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
五十人、別荷征箭三腰、<以雨皮裸之、>三十人、令持鋤鍬《訓み下し》五十人ハ、別ニ(人別ニ)征箭三腰ヲ荷フ。〈雨皮ヲ以テ之ヲ裸ム(裹ム)、〉三十人ハ、鋤鍬ヲ持タシム。《『吾妻鏡文治五年七月十九日の条
 
2003年1月11日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
(レウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「礼」部に、標記語「」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兵粮之米{八木}鞍替糒袋行器野宿雨皮油単等雑具心之所及奔走之」〔至徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮油單等雜具心之所及奔走之」〔宝徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮油単等雑具心之所及奔走之」〔建部傳内本〕

--木鞍_(―カイ)ノ_(ホシイ―)_(ホカイ)-宿-之雨__-(―タ ン)-具心之所及-」 〔山田俊雄藏本〕

兵粮(ラウ)八木鞍替(―カヘ)ノ糒袋(ホシイフクロ)行器(ホツカイ)宿雨皮(アマ―)敷皮油単(ユタン)雑具心之所及奔走之」 〔経覺筆本〕

-粮之八木鞍_(クラカエ)ノ_(ホシヰフクロ)_(ホカヰ)-宿(ヤ―)之雨-(アマカワ)-(ユタン)等之雑-具心之所及奔走」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

レウ 〔黒川本・辞字中14オ四〕

レウ /―理也。〔卷四・辞字512四〕

とあって、標記語「」「」の二語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』に、標記語を「」語は未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書にあっては、三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』にだけ「レウ」として、「」の標記字が示されるに過ぎない。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

388爲御餞之兵粮-木鞍替(クラカイ)ノ糒袋行器(ホカイ)野宿(―/ノシヨク)ノ(テ/レウ)-皮敷-皮 鹿皮本也。〔謙堂文庫藏三八左E〕

※他にも、次の三例が見えている。

301并初献海月 史記曰、海月骨者。晋霊運句曰、掛席拾――註蛤属也。〔謙堂文庫藏三二左F〕―モテナシ也。〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古冩書込み〕

380張--ノ橋金地 一懸云也。〔謙堂文庫藏三八右I〕

698点心送進者、可无遮御計者也 字、言百億須弥、百億日月境、一大三千界衆生病人一藥丸ルヲ、一无遮之善根云者也。{無遮ノ御計トハ一切亊ヲ拵(コシラヘル)人也}〔謙堂文庫蔵五九左@〕

とあって、標記語「」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

行器(ホカイ)野宿(ノジユク)(レウ)雨皮(アマカハ)敷皮(シキカハ)油單(ユタン)雜具(ザウク)心之所ロ∨-(ホンソウ)スヲ|(カネテ)ハ-又定(ラル)ヽ存知(カ)-シテ 行器(ホカイ)ハ雜掌(サウシヤウ)入テ。餘所(ヨソ)ヘ遣(ツカハ)スウツハ物ナリ。〔下十二ウ五〜七〕

とあって、この標記語「」の語注記は、「は、雜掌入て、餘所ヘ遣はすうつは物なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

行器(ほかい)野宿(のしゆく)(りやう)の雨皮(あまかわ)敷皮(しき―)行器野宿-皮敷-を入て脊負(せお)ふものなり。〔50オ・二〕

とあって、標記語「」の語注記は、「物を入て脊負ふものなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

兵粮(ひやうらう)の等八木(はちぼく)鞍替(くらかひ)の糒袋(ほしひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきがハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/兵粮八-鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮--心之所-野宿とハ野山(のやま)に宿(やど)りて夜(よ)を明(あか)す用意(ようゐ)の品(しな)といふこと也。〔37ウ二・三〕

兵粮(ひやうらう)-(はちぼく)鞍替(くらかへ)の糒袋(ほしいひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)の(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきかハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)(の)(ところ)(およぶ)-(ほんさう)す(これ)を野宿とハ野山(のやま)に宿(やど)りて夜(よ)を明(あか)す用意(ようい)の品といふこと也。〔66ウ一〜五〕

とあって、標記語「」の語注記は、「野宿とは、野山に宿りて夜を明かす用意の品といふことなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Reo>.レウ(料) 用具.文書語.〔邦訳529r〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味は「用具(文書語)」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

れう(名)【】(一){其所用に供ふる物。まうけ。まけ。宇津保物語、藤原君21「このことおもむけしめ給へとて、此の御燈の、みてぐらの、皆取らせ給ひつ」「差しの刀」飲みの茶」(二)價の代(しろ)。代金。(三)爲(ため)平治物語、三、頼朝擧義兵事「那須の湯詣のとて通り給ふ」〔2143-1〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「れう【】〔名〕[一]@器具、衣服、飲食物など、何かの用にあてる物。ある物事に使用する物。Aある物を作るための材料。資料。Bある物事のもとになるもの。根拠となるもの。C僧などへのお礼の用にあてる物。布施(ふせ)。Dある用にあてる人。召し使ったり、身近に従えたりするための人。E何かの代償とするための金品。費用。代金。料金。F名詞に助詞「の」を伴ったものに付いて、そのものに、利益・恩恵を与えることを表わす。利益。便益。[二]形式名詞として用いる。@意志を持って行なう動作の目的を表わす。ため。Aいろいろな連体修飾の語を受けて、その事柄が他の事柄の理由・原因・根拠であることを表わす。わけ。せい。ため」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
藥屋外郭用途者。所被省充諸御家人也。《訓み下し》薬屋外郭ノ用途ノハ、諸ノ御家人ニ省キ充テラルル所ナリ。《『吾妻鏡嘉禄三年二月十三日の条
 
2003年1月10日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)市ヶ谷
野宿(のジユク)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「乃」部に、「野伏。野邊。野等。野。野晒。野經。野遊。野分」を収載し、また、「屋」部にも「野心。野干。野州。野遊。野菜。野」の語を収載するに止まり、標記語「野宿」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兵粮之米{八木}鞍替糒袋行器野宿料雨皮油単等雑具心之所及奔走之」〔至徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油單等雜具心之所及奔走之」〔宝徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油単等雑具心之所及奔走之」〔建部傳内本〕

--木鞍_(―カイ)ノ_(ホシイ―)_(ホカイ)-宿-之雨__-(―タ ン)-具心之所及-」 〔山田俊雄藏本〕

兵粮(ラウ)八木鞍替(―カヘ)ノ糒袋(ホシイフクロ)行器(ホツカイ)野宿雨皮(アマ―)敷皮油単(ユタン)雑具心之所及奔走之」 〔経覺筆本〕

-粮之八木鞍_(クラカエ)ノ_(ホシヰフクロ)_(ホカヰ)-宿(ヤ―)料之雨-(アマカワ)-(ユタン)等之雑-具心之所及奔走」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで、上記文明本の訓みに「(シユク)」と見えていることからして、すべてが音読みの語であったのが、やがて、注釈書や『日葡辞書』にあるように「のシユク」と混種読みとなってきていることを確認する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「野宿」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』に、標記語を「野宿」の語を未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書群にあっては、訓「のジユク」乃至「ヤシュク」としての「野宿」の標記字は未採録にあるものである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

388爲御餞之兵粮-木鞍替(クラカイ)ノ糒袋行器(ホカイ)野宿(―/ノシヨク)(テ/レウ)-皮敷-皮 鹿皮本也。〔謙堂文庫藏三八左E〕

とあって、標記語「野宿」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

行器(ホカイ)野宿(ノジユク)(レウ)ニ雨皮(アマカハ)敷皮(シキカハ)油單(ユタン)雜具(ザウク)心之所ロ∨-(ホンソウ)スヲ|(カネテ)ハ-又定(ラル)ヽ存知(カ)-シテ 行器(ホカイ)ハ雜掌(サウシヤウ)入テ。餘所(ヨソ)ヘ遣(ツカハ)スウツハ物ナリ。〔下十二ウ五〜七〕

とあって、この標記語「野宿」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

行器(ほかい)野宿(のしゆく)の料(りやう)の雨皮(あまかわ)敷皮(しき―)行器野宿料雨-皮敷-を入て脊負(せお)ふものなり。〔50オ・二〕

とあって、標記語「野宿」の語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

兵粮(ひやうらう)の等八木(はちぼく)鞍替(くらかひ)の糒袋(ほしひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)乃料(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきがハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/兵粮八-鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮--心之所-野宿料とハ野山(のやま)に宿(やど)りて夜(よ)を明(あか)す用意(ようゐ)の品(しな)といふこと也。〔37ウ二・三〕

兵粮(ひやうらう)-(はちぼく)鞍替(くらかへ)の糒袋(ほしいひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきかハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)(の)(ところ)(およぶ)-(ほんさう)す(これ)を野宿料とハ野山(のやま)に宿(やど)りて夜(よ)を明(あか)す用意(ようい)の品といふこと也。〔66ウ一〜五〕

とあって、標記語「野宿」の語注記は、「野宿の料とは、野山に宿りて夜を明かす用意の品といふことなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Nojucu.ノジユク(野宿) Noni yadoru.(野に宿る)野原に寝ること,または,泊まること.例,Noucu suru.(野宿する)〔邦訳470r〕

とあって、標記語「野宿」の語を収載し、意味は「野原に寝ること,または,泊まること」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

の-ジュク(名)【野宿】 露天(ロテン)に宿すること。屋外に宿泊すること。くさぶし。露宿。露臥。今昔物語集、廿五、第十三語「阿久利の邊に野宿したるに」林葉集、六「遠き所へまかりはべるとて、野宿して心におぼえはべりし」〔1536-2〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「の-じゅく【野宿】〔名〕(「のじく」とも)野山や屋外で宿泊すること。露宿。のやどり。やしゅく」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
其故者、御野宿之間、御家人等僮僕、多以亂入當寺、放取金堂壁板十三枚畢《訓み下し》其ノ故ハ、御野宿(ノジユク)ノ間ニ、御家人等ノ僮僕、多ク以テ当寺ニ乱レ入リ、金堂ノ壁板十三枚ヲ放チ取リ畢ンヌ。《『吾妻鏡文治五年九月九日の条
 
2003年1月9日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢⇔用賀)
行器(ほかい)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、

行器(ホカイ)外居(同)下斈。〔元亀本43七〕

行器(ホカイ)外居(同)下学。〔静嘉堂本48三・四〕

行器(ホカイ)外居(ホカイ)下学。〔天正十七年本上25オ三〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「行器」の語を収載し、語注記には「下斈{学}」とし、この典拠『下學集』としている。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兵粮之米{八木}鞍替糒袋行器野宿料雨皮油単等雑具心之所及奔走之」〔至徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油單等雜具心之所及奔走之」〔宝徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油単等雑具心之所及奔走之」〔建部傳内本〕

--木鞍_(―カイ)ノ_(ホシイ―)_(ホカイ)-宿-之雨__-(―タ ン)-具心之所及-」 〔山田俊雄藏本〕

兵粮(ラウ)八木鞍替(―カヘ)ノ糒袋(ホシイフクロ)行器(ホツカイ)野宿雨皮(アマ―)敷皮油単(ユタン)雑具心之所及奔走之」 〔経覺筆本〕

-粮之八木鞍_(クラカエ)ノ_(ホシヰフクロ)_(ホカヰ)-宿(ヤ―)料之雨-(アマカワ)-(ユタン)等之雑-具心之所及奔走」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「行器」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

外居(ホカイ) 行器(ホカイ)也。〔器財門106三〕

とあって、標記語を「外居」にして、その語注記は、「或○○也」の形式で別表記ということで「行器」の語を記載する。次に広本節用集』には、

行器(ホカイカウキ―・ツラナル,ウツワモノ)[去・去]或作外居。〔器財門99三〕

とあって、標記語「行器」の語注記は、『下學集』の標記語と語注記を逆に置換して継承する内容にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

行器(ホカイ) 此字非歟。外居(同)〔弘・財宝32二・三〕

外居(ホカイ) 或作行器非也。〔永・財宝32六〕

外居(ホカイ) 或作行器非也。〔尭・財宝31二〕〔両・財宝37四〕

とあって、弘治二年本は、標記語「行器」と「外居」の二語をもって収載し、「行器」の語注記に「此字非歟」とし、永祿二年本尭空本両足院本は、『下學集』に同じく標記語を「外居」にして、その語注記は、、「或作○○非也」の形式で「非」を添え改編継承する内容にある。また、易林本節用集』には、

行器(ホカイ)外居(同)〔器財31六〕

とあって、標記語「行器」と「外居」の語をもって収載し、印度本のように「此字非歟」の語注記は未記載にして『下學集』同様に肯定いた並列標記とする。
 このように、上記当代の古辞書には訓「ホカイ」として、「外居」と「行器」の標記字が示され、後者が古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えている表記であり、この表記字に対しては肯定型と否定型とが注記に見えている。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

388爲御餞之兵粮-木鞍替(クラカイ)ノ糒袋行器(ホカイ)野宿(―/ノシヨク)ノ(テ/レウ)-皮敷-皮 鹿皮本也。〔謙堂文庫藏三八左E〕

とあって、標記語「行器」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

行器(ホカイ)野宿(ノジユク)(レウ)ニ雨皮(アマカハ)敷皮(シキカハ)油單(ユタン)雜具(ザウク)心之所ロ∨-(ホンソウ)スヲ|(カネテ)ハ-又定(ラル)ヽ存知(カ)-シテ 行器(ホカイ)ハ雜掌(サウシヤウ)入テ。餘所(ヨソ)ヘ遣(ツカハ)スウツハ物ナリ。〔下十二ウ五〜七〕

とあって、この標記語「行器」の語注記は、「行器は、雜掌入て、餘所ヘ遣はすうつは物なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

行器(ほかい)野宿(のしゆく)の料(りやう)の雨皮(あまかわ)敷皮(しき―)行器野宿料雨-皮敷- 物を入て脊負(せお)ふものなり。〔50オ・二〕

とあって、標記語「行器」の語注記は、「物を入て脊負ふものなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

兵粮(ひやうらう)の等八木(はちぼく)鞍替(くらかひ)の糒袋(ほしひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)乃料(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきがハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/兵粮八-鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮--心之所-行器ハ食物(しよくもつ)を盛(もつ)て舁(にな)はしむるもの。〔37ウ一・二〕

兵粮(ひやうらう)-(はちぼく)鞍替(くらかへ)の糒袋(ほしいひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)の(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきかハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)(の)(ところ)(およぶ)-(ほんさう)す(これ)を行器ハ食物(しよくもつ)を盛(もり)て舁(にな)はしむるもの。〔66ウ一〜五〕

とあって、標記語「行器」の語注記は、「行器は、食物を盛りて舁はしむるもの」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Focai.ホカイ(行器) 弁当(Bento<)のような一種の箱で,旅行に出るとか船に乗るとかする時に,食物を入れて持って行くもの.〔邦訳255l〕

とあって、標記語「行器」の語を収載し、意味は「弁当(Bento<)のような一種の箱で,旅行に出るとか船に乗るとかする時に,食物を入れて持って行くもの」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ほ-かい(名)【外居行器】〔外行に居(す)うる義〕 食物を盛りて、持ち運ぶに用ゐる器。食籠(ジキロウ)の大なるものなり。形、圓くして高く、蓋あり、三脚ありて、脚、外へ反る。下學集、下、器財門「外居、ホカヰ、或作行器實方集「この櫃は、何その櫃ぞ、おぼつかな、かたねの前の、ほかゐなりけり」古事談、二、臣節「長櫃に飯二、外居に鶏子一、折櫃に擣鹽一杯納之て」吾妻鏡、三十四、仁治二年十二月一日「酒宴經營之間、或用風流菓子、或衝重、外居等、畫圖爲事」〔1830-1〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ほ-かい【外居行器】〔名〕@遠行の際に食料を納めて持参させる曲物(まげもの)の類。弁当箱の一種。また、食物を納める移動用の調度。塗物で円筒形、蓋と外へ反った三つの脚がある。ほっかい」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際] 行器 行器
外居ホカヒ 白キ長持也。《『江家次第』殿上賭弓事》
酒宴經營之間、或用風流菓子、或衝重外居等畫圖爲事《訓み下し》酒宴経営ノ間、或ハ風流ノ菓子ヲ用ヒ、或ハ衝重外居等画図ヲ事トス。《『吾妻鏡仁治二年十二月一日
 
2003年1月8日(水日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
糒袋(ほしひぶくろ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、標記語「糒袋」の語とただの「」の語をも未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兵粮之米{糒袋}鞍替糒袋行器野宿料雨皮油単等雑具心之所及奔走之」〔至徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油單等雜具心之所及奔走之」〔宝徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油単等雑具心之所及奔走之」〔建部傳内本〕

--木鞍_(―カイ)ノ_(ホシイ―)_(ホカイ)-宿-之雨__-(―タ ン)-具心之所及-」 〔山田俊雄藏本〕

兵粮(ラウ)八木鞍替(―カヘ)ノ糒袋(ホシイフクロ)行器(ホツカイ)野宿雨皮(アマ―)敷皮油単(ユタン)雑具心之所及奔走之」 〔経覺筆本〕

-粮之八木鞍_(クラカエ)ノ_(ホシヰフクロ)_(ホカヰ)-宿(ヤ―)料之雨-(アマカワ)-(ユタン)等之雑-具心之所及奔走」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

() ホシイヒ/乾飯也也。〔黒川本・飲食上35オ六〕

〔卷二・飲食309一〕

とあって、標記語「糒袋」の語は、未収載にし、ただ、「」の語をもって収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)に、

(ホシイ) 二字義同〔飲食門100三・四〕

とあって、標記語「糒袋」の語は、未収載にし、ただ、標記語「」「」の語注記は「二字の義同じ」と記載し両用表記を示すものである。次に広本節用集』には、

(ホシイヽシウ)()干飯(カンハン) 倭字歟。〔飲食門98八〕

とあって、標記語「糒袋」の語は未収載にし、ただ、標記語「」「」「干飯」の三語をもって収載し、その語注記には「倭字か」と記載し三用表記を示すものである。標記語は、『下學集』より「干飯」の語が一語増補している。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ホシイ)()干飯()〔弘・食物32六〕

(ホシイヽ)()干飯()〔永・食物32九〕

(ホシイ)干飯。〔尭・食物31四〕

(ホシイヽ)干飯。〔両・食物37八〕

とあって、標記語「糒袋」の語は未収載にし、ただ、標記語「」「」「干飯」の三語をもって収載し、その語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

(ホシイヒ)()。〔食服31四〕

とあって、標記語「糒袋」の語は未収載にし、ただ、標記語「」「」の二語をもって収載し、その語注記は未記載にする。をもって収載し、語注記は未記載にする。
 このように、上記当代の古辞書には訓「ホシイ」「ホシイイ{ヒ}」として食物としての「」の標記字が示され、るに過ぎず、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている器財としての「糒袋」の語は未収載としている編纂方針に注目したい。このことは、当代のみならず、現代の国語辞書にまで影響し続けているからである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

388爲御餞之兵粮-木鞍替(クラカイ)ノ糒袋行器(ホカイ)野宿(―/ノシヨク)ノ(テ/レウ)-皮敷-皮 鹿皮本也。〔謙堂文庫藏三八左E〕

とあって、標記語「糒袋」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

兵粮(ヒヤウラフ)八木鞍替(クラカイ)ノ糒袋(ホシヒフクロ) トハ。兵ヲヤシナフ。カテナリ。〔下十二ウ五〕

とあって、この標記語「糒袋」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

兵粮(ひやうらう)の等八木(やぎ)鞍替(くらがへ)糒袋(ほしゐふくろ)兵粮-木鞍替糒袋 くらにほしゐをつけて軍用とするなり。〔50オ二〕

とあって、標記語「糒袋」の語注記は、「くらにほしゐをつけて軍用とするなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

兵粮(ひやうらう)の等八木(はちぼく)鞍替(くらかひ)の糒袋(ほしひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)乃料(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきがハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/兵粮八-鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮--心之所-鞍替糒袋ハ鞍(くら)に結(いハ)へ付る粮袋(かてふくろ)などいふ意なるべし。〔37ウ二〕

兵粮(ひやうらう)-(はちぼく)鞍替(くらかへ)の糒袋(ほしいひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)の(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきかハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)(の)(ところ)(およぶ)-(ほんさう)す(これ)を▲鞍替糒袋ハ鞍(くら)に結(ゆハ)へ付る粮袋(かてふくろ)などいふ意なるべし。〔66ウ五〕

とあって、標記語「糒袋」の語注記は、「鞍替の糒袋は、鞍に結へ付る粮袋などいふ意なるべし」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Foxiy.ホシイ(糒) 非常に小粒な干した飯の一種で,cuscuz〔玉蜀黍あるいは米の粉を丸めて蒸した菓子〕のようなもの.※日仏辞書はFochiiy(ホシイイ)としている.〔邦訳267l〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味は「非常に小粒な干した飯の一種で,cuscuz〔玉蜀黍あるいは米の粉を丸めて蒸した菓子〕のようなもの」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「ほしいひ-ぶくろ糒袋】」の語は未収載にあり、ただ、「ほしいひ」と「ほしひ」の語で、

ほし-いひ(名)【】〔干飯(ほしいひ)の義〕ほしひ(糒)の條を見よ。史記、大宛傳「戴貳師、轉車人徒走連屬至燉煌倭名抄、十六14飯餅類「、保之以比、乾飯也」榮花物語、十八、玉臺「持て續き參らせたれば、云云、干飯などいふ物を召し出でて、池堀り木どもひく者に賜ふ」〔1836-3〕

ほし-ひ(名)【】〔乾飯(ほしいひ)の約〕飯を日に乾したるもの。今、特に、善く精げたる糯米(もちごめ)を洗ひて炊ぎ、乾して、粗く磨り碎きたるものを云ふ。水に潤(ほと)びさせて食ふ、貯へて、軍中、又は、夏月の用とし、又、菓子製造の原料とす。ほしいひ。かれいひ。かれひ。周禮、地官篇、廩人、注「行道曰糧、謂糒也、止居曰食、謂米也」字鏡29「、乾飯也、加禮伊比、又、保志比」允恭紀、七年十二月「仍經七日、伏於庭中、與飲食而不、密食懐中之糒(ほしひ)〔1837-3〕

とあって、その語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、「ほしいひ-ぶくろ糒袋】」の語は未収載にあり、ただ、「ほしい」と「ほしいい」の語で、標記語「ほしい【】〔名〕「ほしいい(干飯)」の変化した語」と「ほし-いい【】〔名〕米を蒸して乾燥させた食料。貯蔵用の乾燥飯。湯水に浸せばすぐ食用となり、兵糧や旅行の際などに用いた。後には、夏季に冷水に浸して賞味したりした。大阪府藤井寺市の道明寺と宮城県仙台産のものが特に有名で、菓子の原料としても用いる。かれいい。道明寺。ほしい。《季・夏》」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
「水參せよ。」と宣へば干飯を洗て參せたり。水をばめして、干飯をばめさず差し置き給へば、常陸房取て食うてけり。《『平家物語』卷第十二長谷六代
 
2003年1月7日(火)薄晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
鞍替(くらかい{え・へ})」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、標記語「鞍替」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兵粮之米{八木}鞍替糒袋行器野宿料雨皮油単等雑具心之所及奔走之」〔至徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油單等雜具心之所及奔走之」〔宝徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油単等雑具心之所及奔走之」〔建部傳内本〕

--_(―カイ)_(ホシイ―)_(ホカイ)-宿-之雨__-(―タ ン)-具心之所及-」 〔山田俊雄藏本〕

兵粮(ラウ)八木鞍替(―カヘ)糒袋(ホシイフクロ)行器(ホツカイ)野宿雨皮(アマ―)敷皮油単(ユタン)雑具心之所及奔走之」 〔経覺筆本〕

-粮之八木_(クラカエ)_(ホシヰフクロ)_(ホカヰ)-宿(ヤ―)料之雨-(アマカワ)-(ユタン)等之雑-具心之所及奔走」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「鞍替」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』に、標記語「鞍替」の語注記は、未収載にする。また、易林本節用集』には、

鞍替袋(クラガヘフクロ)。〔器財131五〕

とあって、標記語「鞍替袋」の語をもって収載し、語注記は未記載にする。
 このように、上記当代の古辞書には易林本にのみ「くらがへぶくろ」として「鞍替」の標記字が示され、これは古写本『庭訓徃來』及び下記真字本における「鞍替(クラカイ)糒袋」を中締めにした表現と見られる語であることが注目される。この語は、現代の国語辞典には、やはり、収載されない語となっている。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

388爲御餞之兵粮-鞍替(クラカイ)糒袋行器(ホカイ)野宿(―/ノシヨク)ノ(テ/レウ)-皮敷-皮 鹿皮本也。〔謙堂文庫藏三八左E〕

とあって、標記語「鞍替」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

兵粮(ヒヤウラフ)ノ八木鞍替(クラカイ)糒袋(ホシヒフクロ) トハ。兵ヲヤシナフ。カテナリ。〔下十二ウ五〕

とあって、この標記語「鞍替」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

兵粮(ひやうらう)の等八木(やぎ)鞍替(くらがへ)の糒袋(ほしゐふくろ)兵粮-鞍替糒袋 くらにほしゐをつけて軍用とするなり。〔50オ一〕

とあって、標記語「鞍替」の語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

兵粮(ひやうらう)の等八木(はちぼく)鞍替(くらかひ)の糒袋(ほしひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)乃料(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきがハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/兵粮八-鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮--心之所-鞍替糒袋ハ鞍(くら)に結(いハ)へ付る粮袋(かてふくろ)などいふ意なるべし。〔37ウ二〕

兵粮(ひやうらう)-(はちぼく)鞍替(くらかへ)糒袋(ほしいひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)の(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきかハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)(の)(ところ)(およぶ)-(ほんさう)す(これ)を鞍替糒袋ハ鞍(くら)に結(ゆハ)へ付る粮袋(かてふくろ)などいふ意なるべし。〔66ウ五〕

とあって、標記語「鞍替」の語注記は、「鞍替の糒袋は、鞍に結へ付る粮袋などいふ意なるべし」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「鞍替」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

くら-がへ(名)【鞍替】〔寢座替(ねぐらがへ)の上略ならむ(きりぎりすを、ぎす。ところてんを、てんと略するなどあり)遊女の生涯を、籠の鳥と云ひ、其病むを、塒(とや)につくと云ふ〕年季奉公の遊女の、他の伎樓に、住替へすること。〔0554-4〕

とあって、この標記語を収載するが、意味を別にするものである。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「くら-がえ【鞍替】〔名〕(「くらがい」とも)@馬の鞍につけて予備に持っていくもの。A遊女や芸者などが他の遊女屋または遊里に勤めの場所をかえること。主家をかえること。また、場所を移すこと。Bそれまでにしていたことをやめて、他のことをはじめること。職業などをかえること。C住居を移転することをいう。盗人仲間の隠語」とあって、@の意味用例として『庭訓往来』の語用例を記載する。
[ことばの実際]
用例は、『庭訓徃來』類以外は未採録。
 
2003年1月6日(月)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
八木(ハチ{ツ}ボク)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、

八木(ハツボク) 米名。〔元亀本30七〕

八木(ハチホク) 米名。〔静嘉堂本30八〕

八木(―ホク) 米名。〔天正十七年本上16オ八〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「八木」の語を収載し、語注記は静嘉堂本に、「米名」と記載する。これは、「米」の字を分解して表現したものである。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兵粮之{八木}鞍替糒袋行器野宿料雨皮油単等雑具心之所及奔走之」〔至徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油單等雜具心之所及奔走之」〔宝徳三年本〕

兵粮八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮敷皮油単等雑具心之所及奔走之」〔建部傳内本〕

--_(―カイ)ノ_(ホシイ―)_(ホカイ)-宿-之雨__-(―タ ン)-具心之所及-」 〔山田俊雄藏本〕

兵粮(ラウ)八木鞍替(―カヘ)ノ糒袋(ホシイフクロ)行器(ホツカイ)野宿雨皮(アマ―)敷皮油単(ユタン)雑具心之所及奔走之」 〔経覺筆本〕

-粮之八木_(クラカエ)ノ_(ホシヰフクロ)_(ホカヰ)-宿(ヤ―)料之雨-(アマカワ)-(ユタン)等之雑-具心之所及奔走」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「八木」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)に、標記語「八木」の語を未収載にする。次に広本節用集』には、

八木(ハチボクヤツ,キ)(コメ)ノ分字(ワケ―)也。〔飲食門58五〕

とあって、標記語「八木」の語注記は、「米の分字なり」とあり、この注記から漢字の分解文字を「分字(わけじ)」と呼称していたことが確認できる。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

八木(ハチボク) 米。〔弘・食物18一〕

八木(ハツボク) 米也。〔永・草木16八〕

八木(ハチボク) 米也。〔尭・草木14六〕

とあって、標記語「八木」の語をもって収載し、語注記は「米」または、「米なり」とある。また、易林本節用集』には、

八木(ハチボク) 米也。〔衣食18二〕

とあって、標記語「八木」の語をもって収載し、語注記は「米なり」と記載する。
 このように、上記当代の古辞書には訓「ハツボク」乃至「ハチボク」として「八木」の標記字が示され、これは古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えているのである。そして、語注記は広本節用集』が尤も詳細であり、そして、この語注記は下記真字注には見えないものである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

388爲御餞之兵粮-鞍替(クラカイ)ノ糒袋行器(ホカイ)野宿(―/ノシヨク)ノ(テ/レウ)-皮敷-皮 鹿皮本也。〔謙堂文庫藏三八左E〕

とあって、標記語「八木」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

兵粮(ヒヤウラフ)八木鞍替(クラカイ)ノ糒袋(ホシヒフクロ) トハ。兵ヲヤシナフ。カテナリ。〔下十二ウ五〕

とあって、この標記語「八木」の語注記は、「兵を養ふ糧なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

兵粮(ひやうらう)の八木(やぎ)鞍替(くらがへ)の糒袋(ほしゐふくろ)兵粮-鞍替糒袋 八木ハ米の事也。米といふ字を分(わく)れハ八木となるゆへなり。 〔49ウ・八〜50オ一〕

とあって、標記語「八木」の語注記は、「八木は、米のことなり。米といふ字を分れば八木となるゆへなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

兵粮(ひやうらう)の八木(はちぼく)鞍替(くらかひ)の糒袋(ほしひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)乃料(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきがハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/兵粮-鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮--心之所-兵粮八木ハ軍用(ぐんよう)の米也。但し八木ハ米の一字に作るべし。元より点畫(てんくハく)(たか)へバなり。〔37ウ一・二〕

兵粮(ひやうらう)-(はちぼく)鞍替(くらかへ)の糒袋(ほしいひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)の(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきかハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)(の)(ところ)(およぶ)-(ほんさう)す(これ)を兵粮八木ハ軍用(ぐんよう)の米也。但し八木ハ米の一字に作るべし。元より点畫(てんくハく)(たか)へバなり。〔66ウ一〜五〕

とあって、標記語「八木」の語注記は、「兵粮八木は、軍用の米なり。但し、八木は、米の一字に作るべし。元より点畫違へばなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fachibocu.ハチボク(八木) Come(米)に同じ. 米.〔邦訳193r〕

とあって、標記語「八木」の語を収載し、意味は「米」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

はち-ぼく(名)【八木】〔離合迷字にて、米の字を二つに分析したるもの。梅を木母になす類〕やぎ。米の異稱。通俗編(清、)テキコウ)「今謂米曰八木、茶曰草木中人易林本節用集(慶長)上、衣食門「八木(ハチボク)、米也」小右記(寛仁萬寿の頃)「晩景詣室町、伊與介未八木百石解文東大寺造立供養記、建久六年三月十二日「始則以八木一萬石助成」「八木卅石」〔1591-1〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「はち-ぼく【八木】〔名〕@(「米」の字を分解すれば、「八」「木」の二字となるところから)米の異称。はちもく。A八種の木。松・柏・桑・棗(なつめ)・橘(たちばな)・柘(つげ)・楡(にれ)・竹の称」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
東大寺修造事、殊可抽丹誠之由、武衛、被遣御書於南都衆徒中又被送奉加物於大勸進重源聖人訖所謂八木一萬石、沙金一千兩、上絹一千疋〈云云〉。《訓み下し》東大寺修造ノ事、殊ニ丹誠ヲ抽ンヅベキノ由、武衛、御書ヲ南都ノ衆徒中ニ遣ハサル。又奉加物ヲ大勧進重源聖人ニ送ラレ訖ンヌ。所謂八木一万石、沙金一千両、上絹一千疋ト〈云云〉。《『吾妻鏡元暦二年三月七日の条
 
2003年1月5日(日)晴れのち曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
兵粮(ひやうらう)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「飛」部に、

兵粮(ヒヤウラウ)。〔元亀本341九〕

兵粮(ヒヤウラウ)糧。〔静嘉堂本409七〕

とあって、標記語「兵粮」の語を収載し、語注記は静嘉堂本に、「糧」と記載する。これは、「粮」の字を「糧」の字に置換した「兵糧」の表記を示唆しているのかもしれない。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

兵粮之米{八木}鞍替糒袋行器野宿料雨皮油単等雑具心之所及奔走之」〔至徳三年本〕

兵粮之八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮油単等雑具心之所及奔走之」〔宝徳三年本〕「兵粮之八木鞍替糒袋行器野宿料雨皮油単等雑具心之所及奔走之」〔建部傳内本〕--木鞍_(―カイ)ノ_(ホシイ―)_(ホカイ)-宿-之雨_皮敷_皮油-(―タ ン)-具心之所及-」 〔山田俊雄藏本〕

兵粮(ラウ)八木鞍替(―カヘ)ノ糒袋(ホシイフクロ)行器(ホツカイ)野宿雨皮(アマ―)敷皮油単(ユタン)雑具心之所及奔走之」 〔経覺筆本〕

-粮之八木鞍_(クラカエ)ノ_(ホシヰフクロ)_(ホカヰ)-宿(ヤ―)料之雨-(アマカワ)-(ユタン)等之雑-具心之所及奔走」 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「兵粮」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)に、

兵粮(ヒヤウラウ) 糧同字也。〔飲食門102二〕

とあって、標記語「兵粮」の語注記は「粮と糧と同字なり」と記載されていて、両用表記にあることががす示されている。次に広本節用集』には、

兵粮(ヒヤウラウヘイ―・ツワモノ,カテ)―與糧同。〔飲食門1034五〕

とあって、標記語「兵粮」の語注記は、『下學集』の語注記を継承する内容にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

兵粮(ヒヤウラウ) 粮与糧同。〔弘・食物254七〕

兵粮(ヒヤウラウ)。〔永・食物217九〕

兵粮(ヒヤウラウ)。〔尭・食物203五〕

とあって、標記語「兵粮」の語をもって収載し、語注記は弘治二年本に「粮与糧同」とあって、広本節用集』と同じく『下學集』の語注記を継承する内容にある。また、易林本節用集』には、

兵粮(ヒヤウラウ)。〔食服225一〕

とあって、標記語「兵粮」の語をもって収載し、語注記は未記載にする。
 このように、上記当代の古辞書には訓「ヒヤウラウ」として「兵粮」の標記字が示され、これは古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にも見えている。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

388爲御餞兵粮-木鞍替(クラカイ)ノ糒袋行器(ホカイ)野宿(―/ノシヨク)ノ(テ/レウ)-皮敷-皮 鹿皮本也。〔謙堂文庫藏三八左E〕

とあって、標記語「兵粮」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

兵粮(ヒヤウラフ)八木鞍替(クラカイ)ノ糒袋(ホシヒフクロ) トハ。兵ヲヤシナフ。カテナリ。〔下十二ウ五〕

とあって、この標記語「兵粮」の語注記は、「兵を養ふ糧なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

兵粮(ひやうらう)等八木(やぎ)鞍替(くらかえ)の糒袋(ほしひふくろ)兵粮-木鞍替糒袋 八木ハ米の事也。米といふ字を分(わく)れハ八木となるゆへなり。 〔49ウ・八〜50オ一〕

とあって、標記語「兵粮」の語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

兵粮(ひやうらう)等八木(はちぼく)鞍替(くらかひ)の糒袋(ほしひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)乃料(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきがハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)の及(およ)ぶ所(ところ)(これ)を奔走(ほんそう)す/兵粮-鞍替糒袋行器野宿雨皮敷皮--心之所-兵粮八木ハ軍用(ぐんよう)の米也。但し八木ハ米の一字に作るべし。元より点畫(てんくハく)(たか)へバなり。〔37ウ一・二〕

兵粮(ひやうらう)-(はちぼく)鞍替(くらかへ)の糒袋(ほしいひぶくろ)行器(ほかい)野宿(のじゆく)の(れう)雨皮(あまかハ)敷皮(しきかハ)油単(ゆたん)(とう)の雑具(ざふぐ)(こゝろ)(の)(ところ)(およぶ)-(ほんさう)す(これ)を兵粮八木ハ軍用(ぐんよう)の米也。但し八木ハ米の一字に作るべし。元より点畫(てんくハく)(たか)へバなり。〔66ウ一〜五〕

とあって、標記語「兵粮」の語注記は、「兵粮八木は、軍用の米なり。但し、八木は、米の一字に作るべし。元より点畫違へばなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fio<ro<.l,feo<ro<.ヒャウラゥ.または,ヘャゥラゥ(兵糧・兵粮) Tcuuamonono cate.(兵の糧) 兵士の食糧.§Fio<ro<ni tcumaru.(兵糧に詰まる)食糧が欠乏する.§Fio<ro<ga tcuquru.(兵糧が尽くる)食糧がなくなる.§Fio<ro<uo comuru.(兵糧が籠むる)備蓄用の食糧を城内に入れる.→Cariuosame,uru;Caxiqi,u;Qetbocu.§〔邦訳235r〕

とあって、標記語「兵糧兵粮」の語を収載し、意味は「兵士の食糧」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ひゃう-らう(名)【兵粮兵糧】軍人に給する食料。軍糧。主税寮式、「兵粮料四萬束」籠城守禦之卷「兵 粮渡樣の事、云云、尤兵粮つかふ事は、持口の明かざる樣に、更代食すべき也」〔4-101-4〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ひょう-ろう兵粮】〔名〕@将兵に給する糧食。兵食。A江戸時代、武家の食料にあてる米」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
貞能、爲平家使者、此間在鎮西、而申下官使、相副數輩私使、稱兵粮、廻國郡、成水火之責《訓み下し》貞能、平家ノ使者トシテ、此ノ間鎮西ニ在リテ、官使ヲ申シ下シ、数輩ノ私使ヲ相ヒ副ヘ、兵粮(ヒヤウラウ)ト称ジ(兵糧米)、国郡ヲ廻リ、水火ノ責ヲ成ス。《訓み下し《『吾妻鏡養和二年四月十一日の条
 
2003年1月4日(土)晴れ。東京(八王子)
(たてまつる)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

(タテマツル)()()日本。〔元亀本148三〕〔静嘉堂本160二・三〕〔天正十七年本中12オ 八〕

とあって、標記語「」「」「」の三語を収載し、語注記は第三ばんめの「」に「日本」すなわち、典拠である『日本書紀』を記載する。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍料鞍橋金地鎧白磨轡大房鞦細筋手綱腹帯豹皮鞍覆虎皮鹿子切付水豹泥障泥障鞭差縄等爲御餞進之」〔至徳三年本〕

黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍料鞍橋金地鎧白磨轡大房鞦細筋手綱腹帯豹皮鞍覆虎皮鹿子切付水豹熊皮泥障鞭差縄等爲御餞進之」〔宝徳三年本〕

黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍料鞍橋金地鎧白磨轡大房鞦細筋手綱腹帯豹皮鞍覆虎皮鹿子切付水豹熊皮泥障鞭差縄等爲御餞進之」〔建部傳内本〕

--(キンブクリン)ノ-(カイグラ)-(シラホネ)-(クロヌリ)ノ-(ハリクラ)(レウ)ノ鞍橋(クラホネ)金地(カナヂリ)(アブミ)白磨(シラミカキ)ノ(クツワ)大房(ヲホブサ)ノ(シリガヒ)細筋(ホソスヂ)ノ手綱(タヅナ)腹帯(ハルビ)豹皮(ヒヨウノ―)(クジカ)ノ鞍覆(クラヲホヒ)虎皮(トラノカワ)鹿子(カノコ)ノ切付(キツツケ)水豹(アザラシ)熊皮(クマノカハ)ノ-(アヲリ)鞭差縄(ムチサシナワ)等爲(シ)テ御餞(ハナムケ)ト|シ∨ 〔山田俊雄藏本〕

金輻輪(キンフクリン)ノ螺鞍(カイクラ)白橋(シラホネ)黒漆張鞍料(レウ)ノ鞍橋(―ホネ)金地(カナチ)ノ鎧白磨(―ミカキ)ノ(クツワ)大形(―ブサ)ノ(シリガイ)細筋(―スヂ)ノ手繩(タツナ)腹帯豹(ヘウ)ノ(クジカ)ノ鞍覆(―ヲホヒ)(トラ)ノ皮鹿子(カノコ)ノ切付(キツツケ)水豹(アサラシ)熊皮泥障(アヲリ)(ムチ)差縄(サシナワ)等為(―メ)ニ御餞(ハナムケ)| 〔経覺筆本〕

--(キフクリン)ノ-(カイクラ)-(シラホネ)-(―ヌリ)ノ-(ハリ―)(ヲリ)之鞍橋(―ラホネ)金地(カナチ)ノ(アフミ)白磨(―ミカキ)ノ(クツハ)大形(ヲホカタ)ノ(シリカヒ)細筋(ホソスシ)之手綱(タツナ)腹帶(ハルヒ)豹皮(ヒヨウノカワ)(クシカ)ノ鞍覆(クラヲホヒ){虎}(トラ)ノ皮鹿(カノ)皮之切付(キツツケ)水豹(アサラシ)皮之泥-(アヲリ)(ムチ)_(サシナワ)等爲御餞(ハナムケ)ノ| 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

タテマツル(クヰ)(ヨウ)進享獻?責薦上納舉税已上同。〔黒川本・辭字中9オ五・六〕

(タテマツル)。〔卷第・辞字〕

とあって、標記語「」の語を筆頭に13語をもって収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)に、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』には、

(タテマツルホウ)[](タテマツルケン)[上・去](同/シヤウ)[上・去]。〔態藝門371二〕

とあって、標記語「」「」「」の3語をもって収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(タテマツル)()()日本(同)山谷。〔弘・言語106二〕

(タテマツル)。〔永・言語96四〕

(タテマツル)。〔尭・言語87八〕〔両・言語106六〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、語注記は弘治二年本の「」に「日本」(『運歩色葉集』の注記に同じ)、「」に「山谷(典拠『山谷集』)」と記載する。また、易林本節用集』には、

(タテマツル)(同)(同)(同)(同)。〔氣形95六〕

とあって、標記語「」「」「」「」の4語をもって収載し、語注記は未記載にする。
 このように、上記当代の古辞書には訓「たてまつる」として「」の表記字があり、これは古写本『庭訓徃來』にも見えている。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

388爲御餞之兵粮-木鞍替(クラカイ)ノ糒袋行器(ホカイ)野宿(―/ノシヨク)ノ(テ/レウ)-皮敷-皮 鹿皮本也。〔謙堂文庫藏三八左E〕

とあって、標記語「」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

馬者連錢葦毛(レンセンアシゲ)柑子栗毛(カウジクリゲ)烏黒(カラスグロヒバリゲ)(クロツキゲ)鹿毛(カゲ)糟毛(カスゲ)河原毛(カワラゲ)青鵲(アヲサ)髪白(ヒタイジロ)月額(―ヒタヒ)葦毛駮(アシゲブチ) 雪踏(ヨツジロ)等相(アヒ)_(ソヘ)舎人(トネリ)_(カイ―)ヲ--(キンブクリン)ノ-(カイグラ)-(シラホネ)-(クロヌリ)ノ-(ハリクラ)(レウ)ノ鞍橋(クラホネ)金地(カナヂリ)(アブミ)白磨(シラミカキ)ノ(クツワ)大房(ヲホブサ)ノ(シリガヒ)細筋(ホソスヂ)ノ手綱(タヅナ)腹帯(ハルビ)豹皮(ヒヨウノ―)(クジカ)ノ鞍覆(クラヲホヒ)虎皮(トラノカワ)鹿子(カノコ)ノ切付(キツツケ)水豹(アザラシ)熊皮(クマノカハ)ノ-(アヲリ)(ムチ)差縄(サシナワ)等爲(シ)テ御餞(ハナムケ)トヲ 事連錢葦毛(レンセンアシ―)ハ尾髪(ヲカミ)(クロ)クテ(ホシ)アル也。惣(ソウ)シテ(ケ)。平人タルナリ。別ナシ。〔下十二オ七〜ウ五〕

とあって、この標記語「」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

差縄(さしなわ)(とう)御餞(おんはなむけ)と為(し)て之(これ)を進(しん)(たてまつ)差縄等爲御餞 旅立(たひたつ)人に物を送るを餞といふ。〔49ウ・七八〕

とあって、標記語「」の語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

--(きんふくりん)の螺-鞍(かいくら)白橋(しらほね)黒漆(くろぬり)乃張鞍(はりくら)(りやう)の鞍橋(くらほね) 金地(かなぢ)の鎧(あぶミ)白磨(しらミがき)の轡(くつわ)大房(おほふさ)の鞦(しりがい)細筋(ほそすぢ)の手綱(たつな)腹帯(はらび)(へう)の皮(かハ)(くしか)の鞍覆(くらおほひ)(とら)乃皮(かハ)鹿(か)の子(こ)の切付(きつゝけ) 水豹(あざらし)(くま)の皮(かハ)の泥障(あほり)(むち)差縄(さしなハ)(とう)(おん)(はなむけ)の爲(ため)(これ)を送(おく)(たてまつ)る/黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍鞍橋金地白磨大房細筋手綱腹帯鞍覆鹿切付水豹皮泥障差縄等爲御餞ヲ。〔三十六ウ八〕

金輻輪(きんふくりん)の螺鞍(かいくら)白橋(しらほね)黒漆(くろぬり)の張鞍(はりくら)(れう)の鞍橋(くらほね)金地(かなぢ)の(あぶミ)白磨(しらミかき)の(くつわ)大形(おほふさ)の(しりかひ)細筋(ほすすぢ)の手綱(たづな)腹帯(はらおび)豹皮(へうのかハ)(くじか)鞍覆(くらおほひ)虎皮(とらのかハ)鹿子(かのこ)の切付(きつつけ)水豹(あざらし)熊皮(くまのかハ)の泥障(あほり)(むち)差縄(さしなハ)(とう)(ため)御餞(おんはなむけ)の(たてまつ)る(おく)り(これ)を。〔65ウ三〕

とあって、標記語「」の語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tatematcuri,ru,tta.タテマツリ,ル,ッタ(奉り,る,つた) 他の動詞に連接して,話し手を下げ,相手の人を上げて言う動詞.§また,身分の高い人に献ずる,差し上げる.例,Deusni inochiuo tatematcuru.(デウスに命を奉る)デウス(Deos神)に命を捧げる.⇒Faixi,suru(配し,する);Qibucu;Qifucu;Taixi,suru(対し,する).〔邦訳617l〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味は「他の動詞に連接して,話し手を下げ,相手の人を上げて言う動詞.§また,身分の高い人に献ずる,差し上げる」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たて-まつる・ル・レ・ラ・リ・レ(自動、四)【】己れが動作の動詞に添ふる敬語。續後紀、十五、承和十二年正月八日、尾張連M主の獻ぜし歌「七繼の、御代に參遇(まうへ)る、百(ももち)まり、十の翁の、舞ひ多天萬川流」拾遺集、九、雜、下「御碁遊ばしける、負け奉りて」太平記、五、大塔宮熊野落事「辻堂の内に置きたてまつりて」「率て歩き奉り」見奉る」拝み奉る」〔3-252-3〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「たて-まつ】(動詞「まつる(奉)」の上に、出発させる意の動詞「たてる(立)」の連用形「たて」の付いたもの)[一]〔他ラ五(四)〕(一)@下位者から上位者へ物などをおくる、ささげる意から、「やる」「おくる」動作の対象を敬う謙譲語になったもの。イ物などをさしあげる。献上する。ロ特に、人をさしあげるというところから、人を参上させる。使いをさしあげる。A「やる」の意味で、わざと敬語を用いてからかい気味にいう。B便宜上、ある地位にすえておく。敬意を表する。まつりあげる。C貴人が身に受け入れたりつけたりする動作を、傍の人がしてさしあげるものとしていう尊敬語。イ「飲む」「食う」の尊敬語。召しあがる。ロ衣服その他を、着たり身につけたりすることをいう尊敬語。お召しになる。御着用になる。(二)補助動詞として用いる。他の動詞に付いて、その動作が下位から上位に向けて行われることを示すところから、その動作の対象を敬う謙譲表現を作る。イ動詞(または動詞に使役や受身の助動詞の付いたもの)に直接付く場合。…申し上げる。…してさしあげる。ロ特に、動詞「いる(率)」には助詞「て」を介して付き、「率てたてまつる」の形で、お連れ申しあげる、の意を表わす。[二]〔自ラ四〕(貴人の行動を、傍からその用意をするものとしていう尊敬語)@「乗る」の尊敬語。お乗りになる。お召しになる。A(「(座に)つく」の尊敬語。おつきになる。御着座になる。[三]〔他ラ下二〕(未然・連用形の用例しかないが、下二段活用と認められる)[一]@が下二段活用化して使役性を持つようになったものか。物をさしあげたり、人を行かせたりする、その先方を敬う謙譲語。一説に@に同じとも。イ物などをさしあげさせる。人を通じてさしあげる、贈る。ロ人を参上させる。使いをさしあげる。伺わせる。[二]補助動詞として用いる。他の動詞に付いて、その動作を…させ申しあげる意を添え、その動作の対象を敬う。時に使役の意が薄れて、四段補助動詞「たてまつる」と同用法かと思われるものもある。[語源説](1)タテマツル(献奉)の意〔大言海〕。(2)タットミマツルの義〔和句解・日本釈名〕。(3)タテマツル(立帰順)の義〔和訓栞〕。(4)タカ、タメ、ミナ、タツ、ラスの反〔名語記〕。(5)貴人に物を献上するとき、高い木の枝につけて立てて献上したところから、タテマツル(立祭)の義〔名語記・雅言考・名言通・祭りの話=折口信夫〕。(6)タテマウスル(置前居)の義〔言元梯〕。(7)ツカヘタテマツルの約〔和訓集説〕」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
行實、差同宿南光房送《訓み下し》行実、同宿南光房ヲ差シテ之ヲ送リ奉ル《『吾妻鏡治承四年八月二十五日の条
 
2003年1月3日(金)霰から小雪後雨。箱根→東京(大手町)→世田谷(玉川→八王子)
第79回東京箱根間往復大学駅伝競走“箱根駅伝”復路 駒澤大学5:31:02 優勝
総合成績11:03:47 総合優勝二連覇達成!
(はなむけ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、

(ハナムケ)。〔元亀本35八〕〔静嘉堂本38二〕

(ハナムケ)。〔天正十七年本上19ウ六〕〔西来寺本62六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍料鞍橋金地鎧白磨轡大房鞦細筋手綱腹帯豹皮鞍覆虎皮鹿子切付水豹泥障泥障鞭差縄等爲御奉進之」〔至徳三年本〕

黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍料鞍橋金地鎧白磨轡大房鞦細筋手綱腹帯豹皮鞍覆虎皮鹿子切付水豹熊皮泥障鞭差縄等爲御奉進之」〔宝徳三年本〕

黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍料鞍橋金地鎧白磨轡大房鞦細筋手綱腹帯豹皮鞍覆虎皮鹿子切付水豹熊皮泥障鞭差縄等爲御奉進之」〔建部傳内本〕

--(キンブクリン)ノ-(カイグラ)-(シラホネ)-(クロヌリ)ノ-(ハリクラ)(レウ)ノ鞍橋(クラホネ)金地(カナヂリ)(アブミ)白磨(シラミカキ)ノ(クツワ)大房(ヲホブサ)ノ(シリガヒ)細筋(ホソスヂ)ノ手綱(タヅナ)腹帯(ハルビ)豹皮(ヒヨウノ―)(クジカ)ノ鞍覆(クラヲホヒ)虎皮(トラノカワ)鹿子(カノコ)ノ切付(キツツケ)水豹(アザラシ)熊皮(クマノカハ)ノ-(アヲリ)鞭差縄(ムチサシナワ)等爲(シ)テ(ハナムケ)ト|ル∨シ∨ 〔山田俊雄藏本〕

金輻輪(キンフクリン)ノ螺鞍(カイクラ)白橋(シラホネ)黒漆張鞍料(レウ)ノ鞍橋(―ホネ)金地(カナチ)ノ鎧白磨(―ミカキ)ノ(クツワ)大形(―ブサ)ノ(シリガイ)細筋(―スヂ)ノ手繩(タツナ)腹帯豹(ヘウ)ノ(クジカ)ノ鞍覆(―ヲホヒ)(トラ)ノ皮鹿子(カノコ)ノ切付(キツツケ)水豹(アサラシ)熊皮泥障(アヲリ)(ムチ)差縄(サシナワ)等為(―メ)ニ(ハナムケ)ル∨ 〔経覺筆本〕

--(キフクリン)ノ-(カイクラ)-(シラホネ)-(―ヌリ)ノ-(ハリ―)(ヲリ)之鞍橋(―ラホネ)金地(カナチ)ノ(アフミ)白磨(―ミカキ)ノ(クツハ)大形(ヲホカタ)ノ(シリカヒ)細筋(ホソスシ)之手綱(タツナ)腹帶(ハルヒ)豹皮(ヒヨウノカワ)(クシカ)ノ鞍覆(クラヲホヒ){虎}(トラ)ノ皮鹿(カノ)皮之切付(キツツケ)水豹(アサラシ)皮之泥-(アヲリ)(ムチ)_(サシナワ)等爲(ハナムケ)ノ|奉進 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ハナムケ/馬―。〔黒川本・辞字上24ウ八〕

(ハナムケ)。〔卷第・辞字〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、三卷本の語注記には、「馬餞」と記載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)に、

餞別(ハナムケ)。〔態藝門80六〕

とあって、標記語「餞別」の語をもって収載する。次に広本節用集』には、

(ハナムケせン)[]送行(ソウアン)也。〔態藝門83六〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、語注記に「送行なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

餞別(ハナムケ/センヘツ)。〔弘・言語26八〕

餞別(ハナムケ)送行。〔永・言語23八〕〔両・言語27三〕

とあって、標記語「餞別」の語をもって収載し、語注記は「送行」と記載する。また、易林本節用集』には、

餞別(ハナムケ)。〔言語23五〕

とあって、標記語「餞別」の語をもって収載し、語注記は未記載にする。
 このように、上記当代の古辞書には「」と「餞別」との二表記があって、このうち古写本『庭訓徃來』及び下記に示す真字注に見えるのは、前者の「」の語をもって収載するものであることからして、『運歩色葉集』と広本節用集』とが共通する標記語となっている。。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

388爲之兵粮-木鞍替(クラカイ)ノ糒袋行器(ホカイ)野宿(―/ノシヨク)ノ(テ/レウ)-皮敷-皮 鹿皮本也。〔謙堂文庫藏三八左E〕

とあって、標記語「」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

馬者連錢葦毛(レンセンアシゲ)柑子栗毛(カウジクリゲ)烏黒(カラスグロヒバリゲ)(クロツキゲ)鹿毛(カゲ)糟毛(カスゲ)河原毛(カワラゲ)青鵲(アヲサ)髪白(ヒタイジロ)月額(―ヒタヒ)葦毛駮(アシゲブチ) 雪踏(ヨツジロ)等相(アヒ)_(ソヘ)舎人(トネリ)_(カイ―)ヲ--(キンブクリン)ノ-(カイグラ)-(シラホネ)-(クロヌリ)ノ-(ハリクラ)(レウ)ノ鞍橋(クラホネ)金地(カナヂリ)(アブミ)白磨(シラミカキ)ノ(クツワ)大房(ヲホブサ)ノ(シリガヒ)細筋(ホソスヂ)ノ手綱(タヅナ)腹帯(ハルビ)豹皮(ヒヨウノ―)(クジカ)ノ鞍覆(クラヲホヒ)虎皮(トラノカワ)鹿子(カノコ)ノ切付(キツツケ)水豹(アザラシ)熊皮(クマノカハ)ノ-(アヲリ)(ムチ)差縄(サシナワ)等爲(シ)テ(ハナムケ)ヲ 事連錢葦毛(レンセンアシ―)ハ尾髪(ヲカミ)(クロ)クテ(ホシ)アル也。惣(ソウ)シテ(ケ)。平人タルナリ。別ナシ。〔下十二オ七〜ウ五〕

とあって、この標記語「」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

差縄(さしなわ)(とう)(おんはなむけ)と為(し)て之(これ)を進(しん)し奉(たてまつ)る/差縄等爲 ル∨ 旅立(たひたつ)人に物を送るを餞といふ。〔49ウ・七八〕

とあって、標記語「」の語注記は、「旅立人に物を送るを餞といふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

--(きんふくりん)の螺-鞍(かいくら)白橋(しらほね)黒漆(くろぬり)乃張鞍(はりくら)(りやう)の鞍橋(くらほね)金地(かなぢ)の鎧(あぶミ)白磨(しらミがき)の轡(くつわ)大房(おほふさ)の鞦(しりがい)細筋(ほそすぢ)の手綱(たつ な)腹帯(はらび)(へう)の皮(かハ)(くしか)の鞍覆(くらおほひ)(とら)乃皮(かハ)鹿(か)の子(こ)の切付(きつゝけ)水豹(あざらし)(くま)の皮(かハ)の泥障(あほり)(むち)差縄(さしなハ)(とう)(おん)(はなむけ)の爲(ため)(これ)を送(おく)り奉(たてまつ)る/黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍鞍橋金地白磨大房細筋手綱腹帯鞍覆鹿切付水豹皮泥障差縄等爲ハ旅(たび)だつ人を送(おくり)て飲食(いんしよく)するをいふ。爰(こゝ)にハ物(もの)を送(おく)るるの義にとる也。但し。贐(はなむけ)に作て可(か)ならん。人の行くに貨財を送るを贐といふ。〔三十七オ七〕

金輻輪(きんふくりん)の螺鞍(かいくら)白橋(しらほね)黒漆(くろぬり)の張鞍(はりくら)(れう)の鞍橋(くらほね)金地(かなぢ)の(あぶミ)白磨(しらミかき)の(くつわ)大形(おほふさ)の(しりかひ)細筋(ほすすぢ)の手綱(たづな)腹帯(はらおび)豹皮(へうのかハ)(くじか)鞍覆(くらおほひ)虎皮(とらのかハ)鹿子(かのこ)の切付(きつつけ)水豹(あざらし)熊皮(くまのかハ)の泥障(あほり)(むち)差縄(さしなハ)(とう)(ため)(おんはなむけ)の(たてまつ)る(おく)り(これ)をハ旅(たび)だつ人を送(おくり)て飲食(いんしよく)するをいふ。爰(こゝ)にハ物(もの)を送(おく)るの義にとる也。但し。贐(はなむけ)に作て可(か)ならん。人の行くに貨財(くわざい)をおくるを贐といふ。〔66オ六〜ウ一〕

とあって、標記語「」の語注記は、「は、旅だつ人を送りて飲食するをいふ。爰には、物を送るの義にとるなり。但し、贐に作りて可ならん。人の行くに貨財をおくるを贐といふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fanamuqe.ハナムケ(餞) 遠方へ赴く人に贈る進物.〔邦訳202r〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味は「遠方へ赴く人に贈る進物」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

はな-むけ(名)【・贐】〔馬のはなむけの略〕旅立つ人を送り、其馬の鼻へ向けて物を贈ること。轉じて、馬に向はずても、旅行の人に贈る凡べての品物、又は、詩歌。たむけ、餞(セン)。餞別。易林本節用集(慶長)上、言辭門「餞、ハナムケ」謡曲、烏帽子折「東路の御はなむけと思し召され候へとて、此の御腰の物を強ひて參らせ上げければ」〔3-891-2〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「はな-むけ・贐】〔名〕(「うまのはなむけ」の略)旅立ちや門出を祝って金品や詩歌などを贈ったり、送別の宴を開いて見送ったりすること。また、その金品・詩歌や宴など。[語源説](1)ウマノハナムケ(馬鼻向)の略〔日本釈名・菊池俗言考・大言海・話の大事典=日置昌一〕。(2)馬の鼻に向かって餞別する意〔和訓栞・日本語源=加茂百樹〕。(3)行くべき方へ馬の鼻を向けてやる意〔安斎随筆・俚言集覽・喪志編〕。馬の鼻の向かう方の意〔和句解〕。(4)ハナモウケ(鼻設)の義。ハナは始の義で、駅首をいう〔名言通〕。(5)ハナムケ(花向)の義〔紫門和語類集〕。(6)ワカマウケ(別饗)の義〔言元梯〕」とあって、『庭訓往来』の語用例を記載する。
[ことばの実際]
繪師、下総權守爲久歸洛賜御馬<置鞍>已下物〈云云〉《訓み下し》絵師、下総ノ権ノ守為久帰洛ス。御馬<鞍ヲ置ク>已下ノ(ハナムケモノ)ヲ賜ハルト〈云云〉。《『吾妻鏡元暦元年八月十九日の条
 
2003年1月2日(木)晴れ。東京(八王子)→箱根
 第79回東京箱根間往復大学駅伝競走“箱根駅伝”往路 駒澤大学5:32:45 準優勝
差縄(さしなわ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、

差縄(サシナワ)。〔元亀本267二〕

差縄(サシナワ)。〔静嘉堂本303四〕

とあって、標記語「差縄」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍料鞍橋金地鎧白磨轡大房鞦細筋手綱腹帯豹皮鞍覆虎皮鹿子切付水豹泥障泥障鞭差縄等爲御餞奉進之」〔至徳三年本〕

黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍料鞍橋金地鎧白磨轡大房鞦細筋手綱腹帯豹皮鞍覆虎皮鹿子切付水豹熊皮泥障鞭差縄等爲御餞奉進之」〔宝徳三年本〕

黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍料鞍橋金地鎧白磨轡大房鞦細筋手綱腹帯豹皮鞍覆虎皮鹿子切付水豹熊皮泥障鞭差縄等爲御餞奉進之」〔建部傳内本〕

--(キンブクリン)ノ-(カイグラ)-(シラホネ)-(クロヌリ)ノ-(ハリクラ)(レウ)ノ鞍橋(クラホネ)金地(カナヂリ)(アブミ)白磨(シラミカキ)ノ(クツワ)大房(ヲホブサ)ノ(シリガヒ)細筋(ホソスヂ)ノ手綱(タヅナ)腹帯(ハルビ)豹皮(ヒヨウノ―)(クジカ)ノ鞍覆(クラヲホヒ)虎皮(トラノカワ)鹿子(カノコ)ノ切付(キツツケ)水豹(アザラシ)熊皮(クマノカハ)ノ-(アヲリ)差縄(ムチサシナワ)等爲(シ)テ御餞(ハナムケ)ト|ル∨シ∨ 〔山田俊雄藏本〕

金輻輪(キンフクリン)ノ螺鞍(カイクラ)白橋(シラホネ)黒漆張鞍料(レウ)ノ鞍橋(―ホネ)金地(カナチ)ノ鎧白磨(―ミカキ)ノ(クツワ)大形(―ブサ)ノ(シリガイ)細筋(―スヂ)ノ手繩(タツナ)腹帯豹(ヘウ)ノ(クジカ)ノ鞍覆(―ヲホヒ)(トラ)ノ皮鹿子(カノコ)ノ切付(キツツケ)水豹(アサラシ)熊皮泥障(アヲリ)(ムチ)差縄(サシナワ)等為(―メ)ニ御餞(ハナムケ)|ル∨ 〔経覺筆本〕

--(キフクリン)ノ-(カイクラ)-(シラホネ)-(―ヌリ)ノ-(ハリ―)(ヲリ)之鞍橋(―ラホネ)金地(カナチ)ノ(アフミ)白磨(―ミカキ)ノ(クツハ)大形(ヲホカタ)ノ(シリカヒ)細筋(ホソスシ)之手綱(タツナ)腹帶(ハルヒ)豹皮(ヒヨウノカワ)(クシカ)ノ鞍覆(クラヲホヒ){虎}(トラ)ノ皮鹿(カノ)皮之切付(キツツケ)水豹(アサラシ)皮之泥-(アヲリ)(ムチ)_(サシナワ)等爲御餞(ハナムケ)ノ|奉進 〔文明本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「差縄」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)に、

差繩(サシナワ)。〔元和版・器財門117二〕

とあって、標記語「差繩」の語をもって収載する。次に広本節用集』には、

差繩(サシナワシヤジヨウ)[平去・平]。〔器財門781八〕

とあって、標記語「差繩」の語をもって収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

差縄(サシナワ)。〔弘・財宝212四〕

差縄(サシナハ)。〔永・財宝177二〕

差縄(サシナワ)。〔尭・財物165八〕

とあって、標記語「差縄」の語をもって収載し、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

指繩(サシナワ)。〔器財180二〕

とあって、標記語「指繩」の語をもって収載し、語注記は未記載にする。
 このように、上記当代の古辞書には「差縄」と「指繩」とがあり、これは古写本『庭訓徃來』及び下記に示す真字注に見えるのは、「差縄」の語である。この同表記は、『下學集広本節用集』『運歩色葉集』印度本系統の『節用集』をもって収載するものである。
 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

387差縄 鞭廿八宿。依其長、短切云也。取卸(ツカ)七寸云。 長二尺八寸也。本来面目剱也。周文王馬進以馬、自夫始云説有。竹根鞭犬追用也。常塗鞭本也。〔謙堂文庫藏三八左D〕

とあって、標記語「差縄」の語注記は、未記載にする。
 古版庭訓徃来註』では、

馬者連錢葦毛(レンセンアシゲ)柑子栗毛(カウジクリゲ)烏黒(カラスグロヒバリゲ)(クロツキゲ)鹿毛(カゲ)糟毛(カスゲ)河原毛(カワラゲ)青鵲(アヲサ)髪白(ヒタイジロ)月額(―ヒタヒ)葦毛駮(アシゲブチ) 雪踏(ヨツジロ)等相(アヒ)_(ソヘ)舎人(トネリ)_(カイ―)ヲ--(キンブクリン)ノ-(カイグラ)-(シラホネ)-(クロヌリ)ノ-(ハリクラ)(レウ)ノ鞍橋(クラホネ)金地(カナヂリ)(アブミ)白磨(シラミカキ)ノ(クツワ)大房(ヲホブサ)ノ(シリガヒ)細筋(ホソスヂ)ノ手綱(タヅナ)腹帯(ハルビ)豹皮(ヒヨウノ―)(クジカ)ノ鞍覆(クラヲホヒ)虎皮(トラノカワ)鹿子(カノコ)ノ切付(キツツケ)水豹(アザラシ)熊皮(クマノカハ)ノ-(アヲリ)(ムチ)差縄(サシナワ)等爲(シ)テ御餞(ハナムケ)トヲ 事連錢葦毛(レンセンアシ―)ハ尾髪(ヲカミ)(クロ)クテ(ホシ)アル也。惣(ソウ)シテ(ケ)。平人タルナリ。別ナシ。〔下十二オ七〜ウ五〕

とあって、この標記語「差縄」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

差縄(さしなわ)(とう)御餞(おんはなむけ)と為(し)て之(これ)を進(しん)し奉(たてまつ)る/差縄等爲御餞 ル∨ 差縄ハ小口縄の事なり。〔49ウ・七〕

とあって、標記語「差縄」の語注記は、「差縄ハ小口縄の事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

--(きんふくりん)の螺-鞍(かいくら)白橋(しらほね)黒漆(くろぬり)乃張鞍(はりくら)(りやう)の鞍橋(くらほね)金地(かなぢ)の鎧(あぶミ)白磨(しらミがき)の轡(くつわ)大房(おほふさ)の鞦(しりがい)細筋(ほそすぢ)の手綱(たつな)腹帯(はらび)(へう)の皮(かハ)(くしか)の鞍覆(くらおほひ)(とら)乃皮(かハ)鹿(か)の子(こ)の切付(きつゝけ)水豹(あざらし)(くま)の皮(かハ)の泥障(あほり)(むち)差縄(さしなハ)(とう)(おん)(はなむけ)の爲(ため)(これ)を送(おく)り奉(たてまつ)る/黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍鞍橋金地白磨大房細筋手綱腹帯鞍覆鹿切付水豹皮泥障差縄等爲御餞差縄ハ手縄(てなハ)ともいふ。小口縄(こぐちなハ)の事にて手綱(たづな)の類(るい)也。〔三十七オ六・七〕

金輻輪(きんふくりん)の螺鞍(かいくら)白橋(しらほね)黒漆(くろぬり)の張鞍(はりくら)(れう)の鞍橋(くらほね)金地(かなぢ)の(あぶミ)白磨(しらミかき)の(くつわ)大形(おほふさ)の(しりかひ)細筋(ほすすぢ)の手綱(たづな)腹帯(はらおび)豹皮(へうのかハ)(くじか)鞍覆(くらおほひ)虎皮(とらのかハ)鹿子(かのこ)の切付(きつつけ)水豹(あざらし)熊皮(くまのかハ)の泥障(あほり)(むち)差縄(さしなハ)(とう)(ため)御餞(おんはなむけ)の(たてまつ)る(おく)り(これ)を差縄ハ手縄(てなハ)ともいふ。小口縄(こくちなハ)の事にて手綱(たづな)の類也。〔66オ六〕

とあって、標記語「差縄」の語注記は、「差縄は、手縄ともいふ。小口縄の事にて手綱の類なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Saxinaua.サシナワ(差縄) 麻縄.〔邦訳564r〕

とあって、標記語「差縄」の語を収載し、意味は「麻縄」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さし-なは(名)【差縄】乘馬の口につけて曳(ひ)く繩。又、差綱(サシヅナ)。古くは、調布を縒(より)合はせて用ゐたり。後世なるは、麻布二筋を綯(な)ひて作る、太さ、大指のほどなり。馬〓。飾抄(鎌倉時代)下「差綱(さしづな)、祭使、種種〓村濃、或打交、云云、公卿、師差繩(もろさしなは)、四位以下、片差繩今昔物語集廿五、第五語「馬、云云、鞍も下し、轡も放ちたれば、指繩ばかりを付けて、飼ふ」古今著聞集十、馬藝「轡をはげて、さしなはを取らせたりける」庭訓徃來(元弘)六月十一日「泥障、鞭、差繩、等、爲御餞之」。〔2-489-2〕

と収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さし-なわ差縄】[一]〔名〕@馬具の引き綱の一種。馬の頭から轡(くつわ)にかけてつけるもので、手綱に添えて用いる。牽馬(ひきうま)には〓(有+龍)(くちとり)が左右からつかんで引く。軍陣には手綱の補助として四緒手(しおで)にかける。付け方に諸(もろ)差縄と片(かた)差縄とがある。麻縄、または紺・白・浅葱(あさぎ)の撚紐を用いる。小口繩(こぐちなわ)。さしさしなわ。差綱。A物をしばるための細い麻繩。細引。B罪人をとらえて縛る縄。捕繩(とりなわ)。いましめ繩。C(?繩)銭の孔に差し通す細い縄。ぜにさし。[二](?繩)狂言。「狂言記に見える名で、ふつう「繩綯(なわない)」と呼ばれる。家来の太郎冠者まで打ちこんだ博打(ばくち)に負けた主人が、冠者を相手の何某の家に行かせるが、持病などを言いたてて冠者は働かず、もどされる。冠者はもとの主人のもとで縄をないながら、何某の悪口を言うが、いつのまにか主人に代わって何某がその現場にいるのであわてて逃げる」」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
然テ「大刀・刀投ヨ」ト制命ズレバ、皆投テ居ルヲ、寄テ取テ打伏セテ、馬ノ指縄ヲ以テ木ニ強ク縛リ付ケテツ。然テ、女ノ許ニ寄来テ見ルニ、年廾餘許ノ女ノ、下衆ナレドモ愛敬付テ糸清氣也。《『今昔物語集』(1120年頃)第廿九、具妻行丹波國男、於大江山被縛語第廾三,大系176
 

2003年1月1日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

泥障(あほり)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「安」部に、

泥障(アヲリ)〔元亀本258十〕

泥障(アヲリ)一懸〔静嘉堂本〕

とあって、標記語「泥障」の語を収載し、静嘉堂本に語注記「曰一懸」とあって、下記に示す真字注の語注記に共通していて、これはまさに引用注記といえるものである。

 古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、

黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍料鞍橋金地鎧白磨轡大房鞦細筋手綱腹帯豹皮詛鞍覆虎皮鹿子切付水豹泥障泥障鞭差縄等爲御餞奉進之」〔至徳三年本〕

黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍料鞍橋金地鎧白磨轡大房鞦細筋手綱腹帯豹皮詛鞍覆虎皮鹿子切付水豹熊皮泥障鞭差縄等爲御餞奉進之」〔宝徳三年本〕

黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍料鞍橋金地鎧白磨轡大房鞦細筋手綱腹帯豹皮詛鞍覆虎皮鹿子切付水豹熊皮泥障鞭差縄等爲御餞奉進之」〔建部傳内本〕

--(キンブクリン)ノ-(カイグラ)-(シラホネ)-(クロヌリ)ノ-(ハリクラ)(レウ)ノ鞍橋(クラホネ)金地(カナヂリ)(アブミ)白磨(シラミカキ)ノ(クツワ)大房(ヲホブサ)ノ(シリガヒ)細筋(ホソスヂ)ノ手綱(タヅナ)腹帯(ハルビ)豹皮(ヒヨウノ―)(クジカ)ノ鞍覆(クラヲホヒ)虎皮(トラノカワ)鹿子(カノコ)ノ切付(キツツケ)水豹(アザラシ)熊皮(クマノカハ)ノ-(アヲリ)鞭差縄(ムチサシナワ)等爲(シ)テ御餞(ハナムケ)ト|ル∨シ∨ 〔山田俊雄藏本〕

金輻輪(キンフクリン)ノ螺鞍(カイクラ)白橋(シラホネ)黒漆張鞍料(レウ)ノ鞍橋(―ホネ)金地(カナチ)ノ鎧白磨(―ミカキ)ノ(クツワ)大形(―ブサ)ノ(シリガイ)細筋(―スヂ)ノ手繩(タツナ)腹帯豹(ヘウ)ノ皮詛(クジカ)ノ鞍覆(―ヲホヒ)(トラ)ノ皮鹿子(カノコ)ノ切付(キツツケ)水豹(アサラシ)熊皮泥障(アヲリ)(ムチ)差縄(サシナワ)等為(―メ)ニ御餞(ハナムケ)|ル∨ 〔経覺筆本〕

--(キフクリン)ノ-(カイクラ)-(シラホネ)-(―ヌリ)ノ-(ハリ―)(ヲリ)之鞍橋(―ラホネ)金地(カナチ)ノ(アフミ)白磨(―ミカキ)ノ(クツハ)大形(ヲホカタ)ノ(シリカヒ)細筋(ホソスシ)之手綱(タツナ)腹帶(ハルヒ)豹皮(ヒヨウノカワ)(クシカ)ノ鞍覆(クラヲホヒ){虎}(トラ)ノ皮鹿(カノ)皮之切付(キツツケ)水豹(アサラシ)皮之-(アヲリ)(ムチ)_(サシナワ)等爲御餞(ハナムケ)ノ|奉進 〔文明本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

障泥(シヤウテイ)アヲリ/上或作/或泥障。同。蔽泥同。〔黒川本・雜物下26ウ五・六〕

泥障アフリ/鞍飾也。亦泥鞍。〔卷第八・雜物307四〕

とあって、三卷本は、標記語「障泥」「」「蔽泥」の三語をもって収載し、語注記には、「上或作/或泥障」とし、十巻本泥障」の語注記は、「鞍飾なり。亦泥鞍」と記載する。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)に、

泥障(アヲリ)〔器財門117一〕

とあって、標記語「泥障」の語をもって収載する。次に広本節用集』には、

泥障(アヲリ・ナヅム,ヘダツ/トロ、サヽウ)〔器財門749八〕

とあって、標記語「泥障」の語をもって収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

泥障(アヲリ)・財宝204四〕〔・財宝169九〕〔・財宝159三〕

とあって、標記語「泥障」の語をもって収載し、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

障泥(アヲリ)鞍具。〔器財171四〕

とあって、三卷本色葉字類抄』と同じ標記語「障泥」の語をもって収載し、語注記は「鞍具」と記載する。

 このように、上記当代の古辞書には「泥障」とがあり、これは古写本『庭訓徃來』にも見え、下記に示す真字注は、「泥障」の語をもって収載する系統のものである。

 さて、真字本『庭訓往来註』六月十一日の状には、

386水豹(アザラシ)熊皮- 水豹栖者也。泥障一懸云也。〔謙堂文庫藏三八左C〕

とあって、標記語「泥障」の語注記は、「泥障一懸と云ふなり」と記載する。

 古版『庭訓徃来註』では、

馬者連錢葦毛(レンセンアシゲ)柑子栗毛(カウジクリゲ)烏黒网毛(カラスグロヒバリゲ)黒稱毛(クロツキゲ)鹿毛(カゲ)糟毛(カスゲ)河原毛(カワラゲ)青鵲(アヲサ)髪白(ヒタイジロ)月額(―ヒタヒ)葦毛駮(アシゲブチ)雪踏(ヨツジロ)等相(アヒ)‖_(ソヘ)舎人(トネリ)_(カイ―)ヲ|--(キンブクリン)ノ-(カイグラ)-(シラホネ)-(クロヌリ)ノ-(ハリクラ)(レウ)ノ鞍橋(クラホネ)金地(カナヂリ)(アブミ)白磨(シラミカキ)ノ(クツワ)大房(ヲホブサ)ノ(シリガヒ)細筋(ホソスヂ)ノ手綱(タヅナ)腹帯(ハルビ)豹皮(ヒヨウノ―)(クジカ)ノ鞍覆(クラヲホヒ)虎皮(トラノカワ)鹿子(カノコ)ノ切付(キツツケ)水豹(アザラシ)熊皮(クマノカハ)ノ-(アヲリ)鞭差縄(ムチサシナワ)等爲(シ)テ御餞(ハナムケ)ト|ル∨シ∨ ノ事連錢葦毛(レンセンアシ―)ハ尾髪(ヲカミ)(クロ)クテ星(ホシ)アル也。惣(ソウ)シテ馬ノ毛(ケ)。平人モ知タル事ナリ。別ニ記ス様ナシ。〔下十二オ七〜ウ五〕

とあって、この標記語「泥障」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

氷豹(あざらし)(くま)(かわ)泥障(あをり)(むち)氷豹熊泥障 馬の両脇にさけ鎧の(じか)にあたるをふせくものなり。〔49ウ・五〕

とあって、標記語「泥障」の語注記は、「とも書く。したくらとも云ふ。馬の脊に脊を置き、其の上に泥障、其の上に鞍を置くなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

--(きんふくりん)-(かいくら)白橋(しらほね)黒漆(くろぬり)張鞍(はりくら)(りやう)鞍橋(くらほね)金地(かなぢ)(あぶミ)白磨(しらミがき)(くつわ)大房(おほふさ)(しりがい)細筋(ほそすぢ)手綱(たつな)腹帯(はらび)(へう)(かハ)(くしか)鞍覆(くらおほひ)(とら)(かハ)鹿(か)(こ)切付(きつゝけ)水豹(あざらし)(くま)(かハ)ノ泥障(あほり)鞭差縄(むちさしなハ)(とう)(おん)(はなむけ)(ため)(これ)(おく)(たてまつ)黄覆輪螺鞍白橋黒漆張鞍鞍橋金地白磨大房細筋手綱腹帯鞍覆鹿切付水豹皮泥障差縄等爲御餞ノ|ル∨リ∨泥障ハ蝦夷(ゑぞ)の海中(かいちう)にあり。大四五尺灰白色(はいしろいろ)にして豹(へう)の文(もん)ある獸(けだもの)也。〔三十七オ五〕

金輻輪(きんふくりん)の螺鞍(かいくら)白橋(しらほね)黒漆(くろぬり)の張鞍(はりくら)(れう)の鞍橋(くらほね)金地(かなぢ)の(あぶミ)白磨(しらミかき)の(くつわ)大形(おほふさ)の(しりかひ)細筋(ほすすぢ)の手綱(たづな)腹帯(はらおび)豹皮(へうのかハ)(くじか)鞍覆(くらおほひ)虎皮(とらのかハ)鹿子(かのこ)の切付(きつつけ)水豹(あざらし)熊皮(くまのかハ)の泥障(あほり)鞭差縄(むちさしなハ)(とう)(ため)御餞(おんはなむけ)の|(たてまつ)る∨(おく)り∨(これ)を泥障ハ蝦夷(えぞ)の海中(かいちう)にあり。大四五尺灰白色(はいしろいろ)にして豹(へう)の文(もん)ある獸(けだもの)也。〔66オ三・四〕

とあって、標記語「泥障」の語注記は、「泥障は、蝦夷の海中にあり。大さ四五尺灰白色にして豹の文ある獸なり」と記載する。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Auori.アヲリ(障泥・泥障) 鞍下毛布を半分にしたような馬具で,革やその他の物で作り,馬の鐙のあたる部分に着けるもの.※原文はgualdrapas.馬の鞍下に敷き,両脇に垂らす毛布,あるいは布.→Xiuode;Xiuodeno neuo.〔邦訳40r〕

とあって、標記語「泥障」の語を収載し、意味は「鞍下毛布を半分にしたような馬具で,革やその他の物で作り,馬の鐙のあたる部分に着けるもの」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

あふり(名)【泥障】〔足觸(あふ)るの名詞形、(足蹈(あしぶみ)、鐙(あぶみ))障泥(シヤウデイ)とは、泥を障(ささ)ふる義、泥障とも書けるあるは、どろささへの意なるか〕馬具の名。下鞍(したぐら)より、鎧の内にて、馬の兩脇に垂るるもの。本は、雨天に、泥の、衣服にはねあがるを防ぐ用なるに、後には、晴天にも、飾としてつくるやうになれり、毛皮にて作るを本とす、用ある時は、敷皮ともす、虎皮、熊皮等、階級あり、後世は、多く塗革にて作る、後の製のものは、長さ、二尺八寸、幅、上部一尺五寸、下部二尺一寸を制とすと云ふ。天治字鏡、十二29、「阿不利倭名抄、十五1「唐韻云、障泥、鞍飾也、阿不利令義解、四、職員「漆部司、漆部二十人之中、泥障二戸」彈正臺式「羆皮障泥、聽五位以上著|∨之」山槐記、治承四年三月四日、新院御幸「于時雨下、云云、行列、公卿以下、皆束帶用泥障源氏物語、五十、浮舟68「山賤(やまがつ)の、垣根のおどろ、葎(むぐら)の蔭に、あふりと云ふ物を敷きて、下(おろ)したてまつる」大和物語、下、「日暮れて、立田山に宿りぬ、草の中に、あふりを解き敷きて、臥せり」〔0075-5〜0076-1〕

とあって、この語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「あお-り【障泥・泥障】〔名〕@馬具の一種。下鞍(したぐら)の小型の大和鞍、水干鞍を使うとき、泥が飛びはね、衣服を汚すのを防ぐため、下鞍の間に垂らす大型の皮革。晴天、軍陣、騎射の際にはじゃまになるので用いなかったが、のちに装飾用として、晴天の時にも用い、漆塗りの革を張るようになった。A「あおりいか(障泥烏賊)」の略。[語源説](1)あふる(足触)の名詞形〔名語記・東雅・大言海〕。(2)アブミスリの中略であろう〔類聚名物考〕。(3)アハリ(足張)、またはアヲリ(足折)の義〔日本釈名〕。(4)馬に乗る時に足を折りかがめる意のアヲリ(足折)からか〔和句解〕」とあって、『庭訓往来』の語用例を記載する。

[ことばの実際]

參御所、御馬、〈葦毛白鞍、付金獅子丸打物、泥障白伏輪也〉《訓み下し》御所ニ参ル。御馬、〈葦毛白鞍、金ノ獅子ノ丸ノ打チ物ヲ付ケ、泥障(アヲリ)金ノ獅子ノ丸ノ打チ物泥障ヲ付ク)白伏輪ナリ〉。《『吾妻鏡』文治五年六月六日の条》

次二位家〈折烏帽子、染絹紺青丹打水干袴、紅衣、染羽野箭、夏毛行騰、黒馬楚鞦、水豹毛障泥〉《訓み下し》次二位家〈折烏帽子、染絹紺青丹打ノ水干袴、紅衣、染羽ノ野箭、夏毛ノ行騰、黒ノ馬楚鞦、水豹ノ毛ノ障泥〉《『吾妻鏡』建久元年十一月七日の条》

 

 

 

 

 

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