2003年06月01日から6月30日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 
2003年6月30日(月)曇り一時雨。北海道(生田原)→札幌(札幌市)
雜務(ザウム)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「佐」部に、「雜々。雜説。雜談。雜言。雜事。雜色。雜用。雜熱。雜羹。雜仕。雜地。雜駄。雜羽。雜掌。雜紙。雜〓。雜居。雜舎。雜喉。雜賀。雜役」の語を収載するが、標記語「雜務」のを未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰異-見儀-之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規--之流(リウ)-例下-知成-敗傍-例律-令武---度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下可二_御沙汰之法所務之規式雜務之流例下成敗傍例律令(リツレウ)武家相違存知〔経覺筆本〕

引付(ヒキ―ケ)-注所(モンチウ―)ノ-(サイ)-(カンばン)之躰-(イケン)-定之趣ムキ--衆已下(シル)シ_(タマ)ハルコト--汰之法所-(―ム)ノ-(キ―)-(サウム)-(ルレイ)---(ハウレイ)-(リツリヤウ)-家相--知仕度候〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「雜務」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』に、標記語「雜務」の語を未収載にする。また、易林本節用集』に、

雜談(ザフタン) ―行(ギヤウ)。―作(サ)。―役(ヤク)。―説(せツ)。―乱(ラン)。―物(モツ)。―事(ジ)/―用(ヨウ)。―意(イ)―務(ム)。―書(シヨ)。―具(グ)。―言(ゴン)。―心(シム)。―訴(ソ)。―掌(シヤウ)。〔言辞門145六〕

とあって、標記語「雜談」の語を収載し、冠頭字「雜」の熟語群に「雜務」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書では易林本節用集』にだけ訓みを「ザフム」として、「雜務」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

442異見儀定之趣キ、評定衆-下可(シルシ)‖_給之ヲ|沙汰-所務之規式、-()-‖_地成敗 就也。平也。畢也。敗敗也。廢也。〔謙堂文庫蔵四三左C〕

とあって、標記語を「雜務」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

雜務(ザウム) トハ。所務(シヨム)ニ付テ多ノ品(シナ)有。米銭ニ限(カギ)ラズ。或ハ錦布絹(キンフケン)。或ハ檀(ダン)紙薄様(ウス―)(ウホ)(シホ)ノ類色々サマ/\ニ納(ヲサム)ル処也。是ヲ雜務ト云ナリ。〔下十七ウ五〕

とあって、この標記語「雜務」とし、語注記は「所務に付けて多くの品有り。米・銭に限らず、或は、錦・布・絹或は、檀紙・薄様・魚・塩の類、色々さまざまに納むる処なり。是れを雜務と云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

御沙汰(ごさた)の法(ほう)所務(しよむ)の規式(ぎしき)雜務(ざうむ)の流例(りうれい)沙汰之法所務之規-式雜-- 年中の行事(げうじ)の内重き事を所務と云。軽き事を雜務と云。流例とハ前々よりし來りしならハせ也。〔58ウ七・八

とあって、この標記語「雜務」とし、語注記は「年中の行事の内重き事を所務と云ふ。軽き事を雜務と云ふ。流例とは、前々よりし來りしならはせなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。▲雜務ハ何つれと混雑(ましらい)たる勤事也。〔44オ六〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ雜務ハ何つれと混雑(ましらひ)たる勤事也。〔78オ二〜ウ二〕

とあって、標記語「雜務」の語とし、語注記は、「雜務は、何づれと混雑たる勤事なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Zo<mu.ザツム(雜務) 家来に,それぞれの地位に応じて領地や知行を分配すること.§Zo<mu suru.(雑務する)同上.〔邦訳843r〕

とあって、標記語「雜務」の語を収載し、意味を「家来に,それぞれの地位に応じて領地や知行を分配すること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ざつ-〔名〕【雜務】雜多、些細なる仕事。雜務(ザフム)。〔0814-2〕

ざふ-〔名〕【雜務】雜多の仕事。ザツム。〔0825-2〕

とあって、標記語を「雜務」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ざつ-雜務】〔名〕@種々雑多の用務。こまごまとした仕事。ぞうむ。A→ぞうむ(雑務)」と標記語「ぞう-雜務】〔名〕@種々雑多の用務。日常的な行政事務一般。ざつむ。A特に、広く訴訟の事務一般をいう。B「ぞうむさた(雑務沙汰)A」に同じ。[補注]本項に関連する項目は、古辞書類の読みにより「ぞうむ」としたが、日本史などでは多く「ざつむ」と読まれている」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
諸國守護人等、奉行事、兼日被定置之外、動相交他雜務之由、其訴出來間、仍今日有沙汰。《訓み下し》諸国ノ守護人等、奉行ノ事(奉行ノ条ノ事)、兼日ニ定メ置カルルノ外、動スレバ他ノ雜務(ザフム)相ヒ交ハルノ由、其ノ訴ヘ出来スル間、仍テ今日沙汰有リ。《『吾妻鏡』建仁二年閏十月十五日の条》
 
2003年6月29日(日)曇り一時雨。北海道(サロマ湖100qウルトラマラソン大会)連続17回完走
所務(シヨム)」→ことばの溜池(2001.09.27)を参照。
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

所務(―ム) 。〔元亀二年本309七〕

所務(――) 。〔静嘉堂本361六〕

とあって、標記語「所務」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(ショ)ム」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰異-見儀-之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法-之規-式雜-之流(リウ)-例下-知成-敗傍-例律-令武---度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下可二_御沙汰之法所務之規式雜務之流例下成敗傍例律令(リツレウ)武家相違存知。〔経覺筆本〕

引付(ヒキ―ケ)-注所(モンチウ―)ノ-(サイ)-(カンばン)之躰-(イケン)-定之趣ムキ--衆已下(シル)シ_(タマ)ハルコト--汰之法-(―ム)-(キ―)-(サウム)ノ-(ルレイ)---(ハウレイ)-(リツリヤウ)-家相--知仕度候。〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「所務」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「所務」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

所務(ショム/トコロ、・ツトム)[上・去] 年貢義也。〔態藝門932四・五〕

とあって、標記語「所務」の語を収載し、語注記は「年貢の義なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

所望(シヨマウ) ―行(ギヤウ)。―職(シヨク)。―爲(イ)。―課(クワ)。―勘(カン)―務(ム)年貢/―帶(タイ)。―領(リヤウ)。―役(ヤク)。―當(タウ)。―労(ラウ)。―作(サク)。―詮(せン)。〔・言語進退門245二〕

所職(シヨシヨク) ―行。―爲。―課―望。―勘。―領。―務(ム)/―役。―當。―労。―詮。―帶。―作。〔・言語門210四〕

所職(シヨシヨク) ―行。―爲。―課―務(ム)。―役。―労。―望。―勘/―領。―當。―詮。―帶。―作。―持。―存。―用。〔・言語門194五〕

とあって、標記語「所望」または「所職」とし、冠頭字「」の熟語群として「所務」の語を収載し、訓みを「(シヨ)ム」とし、語注記は弘治二年本に「年貢」と記載する。また、易林本節用集』に、

所得(シヨトク) ―謂(イ)。―詮(せン)。―犯(ホン)。―知(チ)。―役(ヤク)。―作(サ)。―願(グワン)。―辨(ベン)。―用(ヨウ)。―縁(エン)。―期(ゴ)。―領(リヤウ)。―職(シヨク)。―望(マウ)。―爲(井)。―帶(タイ)。―學(ガク)。―存(ゾン)。〔言辞門145六〕

とあって、標記語「所務」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ショム」として、「所務」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

442異見儀定之趣キ、評定衆-下可(シルシ)‖_給之ヲ|沙汰-所務之規式、雜-()-‖_地成敗 就也。平也。畢也。敗敗也。廢也。〔謙堂文庫蔵四三左C〕

とあって、標記語を「所務」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

所務(シヨム)之規式(ギシキ) 色々有。奥(ヲク)ニ註ス。〔下十八オ二〕

とあって、この標記語「所務」とし、語注記は「色々有り。奥に註す」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

御沙汰(ごさた)の法(ほう)所務(しよむ)の規式(ぎしき)雜務(ざうむ)の流例(りうれい)沙汰之法所務之規-式雜-- 年中の行事(げうじ)の内重き事を所務と云。軽き事を雜務と云。流例とハ前々よりし來りしならハせ也。〔58ウ七・八

とあって、この標記語「所務」とし、語注記は「年中の行事の内重き事を所務といふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下‖_沙汰-所務之規式-務之流-下知成敗------。▲所務ハおもてたちたる重(おも)き勤事(つとめこと)也。〔44オ五〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)(ほふ)所務(しよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ所務ハおもてたちたる重(おも)き勤事(つとめこと)也。〔78オ二〜ウ二〕

とあって、標記語「所務」の語とし、語注記は、「所務は、おもてだちたる重き勤めことなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xomu.ショム(所務) 年貢の取立て.例,Xomu suru.(所務する).〔邦訳793r〕

とあって、標記語「所務」の語を収載し、意味を「年貢の取立て」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ショム〔名〕【所務】(一)つとむるところ。つとめ。(二)しょやく(所役)に同じ。吾妻鏡、四十四、建長六年四月廿九日「西國庄公地頭等所務事、有其沙汰〔1017-3〕

とあって、標記語を「所務」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ショム所務】〔名〕@つとめ。やくめ。仕事。所役。A転じて、職務にともなう権利義務をいう。特に中世では、荘園田地を管理して収益すること、また、年貢を収納することやその年貢をいい、さらにこれに関連して不動産物権を管理する行政的処置も含めて用いられた。荘務。江戸時代には、年貢、貢租の意味で用いられることが多かった。B「しょむさた(所務沙汰)」の略」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
般若野庄、藤内朝宗瀬高庄、藤内遠景、大嶋庄、土肥次郎實平、三上庄、佐々木三郎秀能、各或三年、或一兩年、煩所務、抑乃貢〈云々〉。《訓み下し》般若野ノ庄ハ、藤内朝宗、瀬高ノ庄ハ、藤内遠景、大島ノ庄ハ、土肥ノ次郎実平、三上ノ庄ハ、佐佐木ノ三郎秀能(秀綱)、各或ハ三年、或ハ一両年、所務ヲ煩ハシ、乃貢ヲ抑フルト〈云云〉。《『吾妻鏡』文治二年六月十七日の条》
 
2003年6月28日(土)晴れ。北海道(札幌)→(湧別→常呂)
評定衆(ヒヤウジヤウシウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「飛」部に、

評定(―ジヤウ) 。〔元亀二年本342一〕

評定(ヒヤウチヤウ) 。〔静嘉堂本410二〕

とあって、標記語「評定」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(ひやう)ジヤウ」「ヒヤウチヤウ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰異-見儀-之趣-定衆-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-之流(リウ)-例下-知成-敗傍-例律-令武---度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下可二_御沙汰之法所務之規式雜務之流例下成敗傍例律令(リツレウ)武家相違存知。〔経覺筆本〕

引付(ヒキ―ケ)-注所(モンチウ―)ノ-(サイ)-(カンばン)之躰-(イケン)-定之趣ムキ--已下(シル)シ_(タマ)ハルコト--汰之法所-(―ム)ノ-(キ―)-(サウム)ノ-(ルレイ)---(ハウレイ)-(リツリヤウ)-家相--知仕度候。〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「評定衆」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「評定衆」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

評定(ヒヤウヂヤウ/ヘイテイ・―、サダム)[去・去] 。〔態藝門1041八〕

とあって、標記語「評定」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

評定衆(ヒヤウヂヤウシウ) 談合人。〔・人倫門251八〕

評定衆(ヒヤウジヤウシユ) 談合人。〔・人倫門215五〕

評定衆(ヒヤウチヤウシユ) 談合人。〔・人倫門200九〕

とあって、標記語「評定衆」の語を収載し、訓みを「ヒヤウヂヤウシウ」「ヒヤウジヤウシユ」「ヒヤウチヤウシユ」とし、語注記は「談合人」と記載する。また、易林本節用集』に、

評定衆(ヒヤウヂヤウシユ) 談合人(ダンカフニン)。〔人倫門222三〕

とあって、標記語「評定衆」の語を収載し、語注記に「談合人」と記載する。

 このように、上記当代の古辞書では、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』と易林本節用集』に訓みを「ヒヤウヂヤウシユ」として、「評定衆」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。ただし、その語注記である「談合人」という語は見えない。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

442異見儀定之趣キ、評定衆-下可(シルシ)‖_給之ヲ|。沙汰-所務之規式、雜-()-‖_地成敗| 就也。平也。畢也。敗敗也。廢也。〔謙堂文庫蔵四三左C〕

とあって、標記語を「評定衆」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

評定衆(―デウシユ)-下可(シル)シ‖_ハル沙汰-(ハフ) 評定衆(ヒヨウテウシユ)ト云事内奏(ナイサウ)惣奉行(ソウブキヤウ)探題(タンタイ)管領(クハンリヤウ)閣閤(カクカウ)右筆(ユウヒツ)所司代(シヨシタイ)此人數(カズ)皆々(ミナ―)評定衆(ヒヤウデフシユ)ナリ。此衆一人モ缺(カケ)テハ。評定ト不成トナリ。〔下十七ウ五〕

とあって、この標記語「評定衆」とし、語注記は「評定衆と云ふ事、内奏・惣奉行・探題・管領・閣閤・右筆・所司代、此の人數皆々評定衆なり。此の衆一人も缺けては、評定と成らずとなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

評定衆(ひやうぜうしゆ)以下(いけ)評定衆以下 公事方の諸役人を云。下に注し給ふへしとあれハ其名前をいふ也。〔58ウ八〜59オ一

とあって、この標記語「評定衆」とし、語注記は「公事方の諸役人を云ふ。下に注し給ふべしとあれば、其の名前をいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。▲評定衆以下とハ公事方(くしかた)諸役人(しよやくにん)の作法(さほふ)をいふなるべし。〔44オ五〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ評定衆以下とハ公事方(くしかた)諸役人(しよやくにん)の作法(さほふ)をいふなるべし。〔78ウ四〕

とあって、標記語「評定衆」の語とし、語注記は、「評定衆以下とは、公事方・諸役人の作法をいふなるべし」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「評定衆」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ひゃうぢゃうしゅう〔名〕【評定衆】鎌倉、室町幕府の制に、軍政に參議する職。政所(まんどころ)に出仕して、執權(シツケン)と共に政務を評定す。吾妻鏡、廿九、天福元年八月十八日「召評定衆、被沙汰」 太平記、三十五、北野通夜物語事「一人は古へ關東の頭人評定衆なみに列て、云云」〔1700-5〕

とあって、標記語を「評定衆」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ひょうじょうしゅう評定衆】〔名〕(「ひょうじょうしゅ」とも)@鎌倉・室町時代の職名。鎌倉時代には執権連署の出席する評定所の会議に出仕し、政務を評議決定する職。引付衆から転補されるのがつねであり、多く世職。六波羅探題府、九州探題府にもこの職があった。室町幕府の評定衆は引付衆の別称。A鎌倉時代後期、天皇や上皇を補佐して政事を議する公卿。B江戸時代、評定所の会議にあずかる人々」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
即召評定衆被經沙汰。《訓み下し》即チ評定(ヒヤウヂヤウ)(シユ)ヲ召シ、沙汰ヲ経ラル。《『吾妻鏡』天福元年八月十八日の条》
 
2003年6月27日(金)晴れ。東京(八王子)→北海道(札幌)
儀定(ギヂヤウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「記」部に、

×〔元亀二年本310五〕

議定(―チヤウ) 。〔静嘉堂本328六〕

とあって、標記語「議定」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(ギ)チヤウ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰異--之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-之流(リウ)-例下-知成-敗傍-例律-令武---度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下可二_御沙汰之法所務之規式雜務之流例下成敗傍例律令(リツレウ)武家相違存知〔経覺筆本〕

引付(ヒキ―ケ)-注所(モンチウ―)ノ-(サイ)-(カンばン)之躰-(イケン)-之趣ムキ--衆已下(シル)シ_(タマ)ハルコト--汰之法所-(―ム)ノ-(キ―)-(サウム)ノ-(ルレイ)---(ハウレイ)-(リツリヤウ)-家相--知仕度候〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

議定(ハカリサタム) 評定部。キチヤウ。〔黒川本・疉字下51ウ二〕

議定。〔卷第八・疉字533六〕

とあって、標記語「議定」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「儀定」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

議定(ヂヤウ/ハカル、テイ・サダム)[去・去] 評定義同。〔態藝門828六〕

とあって、標記語「儀定」の語を収載し、語注記は「評定の義に同じ」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

義定(―ヂヤウ) 評定義。〔・言語進退門221六〕

義理(ギリ) ―式(シキ)。―(チヤウ)/―絶(ぜツ)。〔・言語門184八〕

義理(ギリ) ―式。―/―絶。〔・言語門174三〕

とあって、標記語「儀定」の語を収載し、訓みを「(ギ)ヂヤウ」とし、語注記は弘治二年本だけに「評定の義」と記載する。また、易林本節用集』に、

義理(ギリ) ―絶(ぜツ)。―者(シヤ)/―分(ブン)。―(ヂヤウ)。〔言辞門145六〕

議定(ギヂヤウ) ―奏(ソウ)。〔言辞門145六〕

とあって、標記語「議定」の語と「義理」の語の冠頭字「義」の熟語群にも「義定」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ギヂヤウ」として、「議定」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

442異見儀定之趣キ、評定衆以-下可(シルシ)‖_給之ヲ|沙汰-所務之規式、雜-()-‖_地成敗 就也。平也。畢也。敗敗也。廢也。〔謙堂文庫蔵四三左C〕

とあって、標記語を「儀定」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

儀定(キテウ)之趣(ヲモムキ) ノ事上ヨリノ御裁許ヲ受(ウク)ル共下ニテ奉行人達(タチ)。サシ集(アツマツ)テ公事ヲ目スルヲ義定ト云也。〔下十七ウ五〕

とあって、この標記語「儀定」とし、語注記は「儀定の趣の事上よりの御裁許を受くる共下にて奉行人達、さし集つて公事を目するを義定と云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

異見(いけん)議定(ぎじやう)の趣(おもむき)異見議定之趣 公事を捌くに評定衆打寄ておの/\の所存を述るを異見といふ。異見の申にてよろしきに従ひ判断(はんたん)するを議定といふ。〔58ウ七・八

とあって、この標記語「議定」とし、語注記は「異見の申にてよろしきに従ひ判断(はんたん)するを議定といふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。▲議定ハ異見(いけん)のうち其宜(よろしき)ニ従(したが)ひ一決(いつけつ)するをいふ。〔44オ三〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ議定ハ異見(いけん)のうち其宜(よろしき)ニ従(したが)ひ一決(いつけつ)するをいふ。〔78オ二〜ウ二〕

とあって、標記語「議定」の語とし、語注記は、「議定は、異見のうち其の宜しきに従ひ一決するをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Guigio<.ギヂヤウ(儀定) ある事柄に関して下される決定。あるいは,裁決.例,Guigio< suru,l,xita.(議定する,または,した)§Guigio< machimachi nari.(議定区なり)決定,あるいは,意見はさまざまであった.〔邦訳298l〕

とあって、標記語「儀定」の語を収載し、意味を「ある事柄に関して下される決定。あるいは,裁決」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-ぢゃう〔名〕【議定】(一)議(はから)ひて、定むること。議定(ギテイ)。平治物語、二、官軍除目を行るる事「此の程、大内に、凶徒、殿舎に宿し、狼藉、繁多なり、清められずして、還幸ならん事、然るべからざるよし、議定區區なりとぞ聞えける」 増鏡、第十五、村時雨「今より、記録所へも、御供に出でさせたまふ、儀(議)定などいふ事にも參り給ふべしと聞えつるに」(二)轉じて、議定したる掟。「議定を立つる」議定を破る」〔0471-2〕

とあって、標記語を「議定」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-ぢょう議定議定規定】〔名〕@(―する)合議して事を決定すること。また、その評議。ぎてい。A合議して定めたおきて。打ち合わせ。また、約束。B明治政府の初期に設置された官職。三職みら一つ。慶応三年(一八六七)一二月の王政復古のとき、皇族、公卿、諸侯から選任され、事務を分督し議事を決定した。のち、官制の変革に伴い議定官上局に位置して、行政の各局を統べたが、明治二年(一八六九)七月大政官制度の再興により廃止」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
大夫屬入道、送状申云、去月七日、於院殿上、有議定仰武田太郎信義、可被下武衛追討廳御下文之由、被定。《訓み下し》大夫属入道、状ヲ送リ申シテ云ク、去ヌル月七日ニ、院ノ殿上ニ於テ、議定(ギヂヤウ)有テ、武田ノ太郎信義ニ仰セ、武衛追討庁ノ御下文ヲ下サルベキノ由、定メラル。《『吾妻鏡』治承五年三月七日の条》
 
2003年6月26日(木)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
異見(イケン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

異見(―ケン) 。〔元亀二年本10七〕〔静嘉堂本1七〕〔天正十七年本上3オ六〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「異見」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(イ)ケン」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰--之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-之流(リウ)-例下-知成-敗傍-例律-令武---度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可‖_沙汰-法所務之規式雜-務之流-例下知成敗傍-例納-法律-令武---。〔経覺筆本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。〔文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「異見」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「異見」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

異見(イケンコトナリ、ミル)[去・去] 。〔態藝門597八〕

とあって、標記語「異見」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

異見(―ケン) 意見(同)。〔・言語進退門11五〕

異見(―ケン) 。〔・言語門6七〕

異相(イサウ) ―域。―様。―味。―形。―父。―能。―見/―体。―活。―治。―標。―論。―類。―儀。―人。〔・言語門6一〕

異相(イサウ) ―域(イキ)。―様(ヤウ)。―味。―形(キヤウ)。―父(フ)。―能(ノウ)―見(ケン)/―体(テイ)。―活(クワツ)。―治(チ)。―標。―論。―類。―儀。―人。〔・言語門7三〕

とあって、標記語「異見」の語を収載し、訓みを「(イ)ケン」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

異見(―ケン) 。〔言辞門7二〕

とあって、標記語「異見」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「イケン」として、「異見」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

442異見儀定之趣キ、評定衆以-下可(シルシ)‖_給之ヲ|。沙汰-所務之規式、雜-()-‖_地成敗|。 就也。平也。畢也。敗敗也。廢也。〔謙堂文庫蔵四三左C〕

とあって、標記語を「異見」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

異見(イ―) ノ趣(ヲモムキ)ハ。公事(クジ)ノ卒法上ヨリノ裁許(サイキヨ)マチ/\也。是ヲ異見(イケン)ト云フナリ。〔下十七ウ七〕

とあって、この標記語「異見」とし、語注記は「異見の趣は、公事の卒法上よりの裁許まち/\なり。是れを異見と云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

異見(いけん)議定(ぎじやう)の趣(おもむき)異見儀定之趣 公事を捌くに評定衆打寄ておの/\の所存を述るを異見といふ。異見の申にてよろしきに従ひ判断(はんたん)するを評定といふ。〔58ウ七・八

とあって、この標記語「異見」とし、語注記は「公事を捌くに評定衆打寄ておの/\の所存を述るを異見といふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。▲異見ハ公事(くし)を捌(さは)くに評定衆(ひやうちやうしゆ)打より各(をの/\)其思(おも)ふ所を述(のべ)らるゝをいふ。〔44オ四〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ異見ハ公事(くじ)を捌(さば)くに評定衆(ひやうぢやうしゆ)(うち)より各(おの/\)其思ふ所を述(のべ)らるゝをいふ。〔78ウ三〕

とあって、標記語「異見」の語とし、語注記は、「異見は、公事を捌くに評定衆打ちより各其の思ふ所を述べらるゝをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iqen.イケン(異見) 忠告,または,訓戒.§Iqunuo mo<su.l,Cuuayuru.(異見を申す,または,加ゆる)忠告を与える. →Guixocu;Saxiate,tcuru.〔邦訳338l〕

とあって、標記語「異見」の語を収載し、意味を「忠告,または,訓戒」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-けん〔名〕【異見】他人に異なる意見(みこみ)。異存。異論。異議。水經、注「莫觀以爲異見矣」 梁書、劉敲傳「互生異見〔0145-5〕

とあって、標記語を「異見」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-けん異見】〔名〕@他の人とちがった見解。異議。異論。異存。A→いけん(意見)」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
今日評定衆等、參相州亭、御産所、并御方違等事、有其沙汰、召陰陽師等、被尋面々異見。《訓み下し》今日評定衆等、相州ノ亭ニ参ジ、御産所并ニ御方違等ノ事、其ノ沙汰有テ、陰陽師等ヲ召シ、面面ノ異見ヲ尋ネラル。《『吾妻鏡』弘長三年十二月二十四日の条》
 
2003年6月25日(水)小雨一時晴れ間がのぞき曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
勘判(カンバン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、「勘文(カンモン)。勘定(ヂヤウ)。勘落(ラク)。勘合(ガウ)自大唐ス二日本ニ一象牙之破符也。勘辨(ベン)。勘當(ダウ)。勘氣(キ)。勘過(クワ)過云之詞。堪忍(ニン)。勘否(カンフ)」の十語を収載するが、標記語「勘判」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰異-見儀-之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-之流(リウ)-例下-知成-敗傍-例律-令武---度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可‖_沙汰-法所務之規式雜-務之流-例下知成敗傍-例納-法律-令武---。〔経覺筆本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。〔文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「勘判」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「勘判」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

勘判(カンハンカンガウ、ワカツ)[去・去] 。〔態藝門274三〕

とあって、標記語「勘判」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

勘判(カンバン) 。〔・言語進退門87二〕

勘氣(カンキ) ―文(モン)暦家所為。―落(ラク)―判(ハン)。―責(せキ)/―望(バウ)。―合(ガウ)。―辨(ベン)。/―發(ホツ)。―定(ヂヤウ)。―略(リヤク)。〔・言語門82六〕

勘當(カンダウ)君父所擯(コハム)。―落。―判。―責。―望。―過関過書文言義。―氣。―文暦家所為。―定。―合。―弁。―發。―略。〔・言語門75一〕

勘氣(カンキ) ―文暦家所為。―落。―判。―責。―望。―合。―辨。―發。―定。―略。〔・言語門90三〕

とあって、標記語「勘判」の語を収載し、訓みを「カンバン」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、標記語「勘判」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「カンバン」として、「勘判」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

441勘判之体(テイ) 上裁沙汰勘判スル也。此言引付問註所之人、并上裁ハルノ体同異見。義定皆可‖_給之也。〔謙堂文庫蔵四三左A〕

とあって、標記語を「勘判」とし、その語注記は、「上裁の沙汰勘判するなり。此の言は引付問註所の人、并びに上裁に拵へて裁はるの体同じく異見を云ひ。義定の趣を皆これを註したまふべきなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

引付(ヒキツケ)問注所(モンチユウシヨ)ニ上裁(サイ)勘判(カンバン)(テイ) ト云心ハ。問注所(モンチウシヨ)ハ何モ奉行所(ブキヤウシヨ)ナリ沙汰(サタ)也。上裁(サイ)勘判(カンハン)ト云事ハ公事ノ文ノ判形(ハンキヤウ)ヲ留(トヾ)メヲキテ一一ニ上ヘ申上ル。又上ヨリ御裁許(サイキヨ)ニ預(アツカ)ル事ヲ上裁ト云也。〔下十七ウ五〕

(カンバン)トハ。塗板(ヌリイタ)トテ塗(ヌリ)タル板ニ數人ヲ書也。〔下廿ウ五〕

とあって、この標記語「勘判」とし、語注記は「上裁勘判と云ふ事は、公事の文の判形を留めをきて一一に上へ申上る」そして、「塗板とて塗りたる板に數人を書くなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

上裁(じやうさい)勘判(かんぱん)の躰(てい)上裁勘判之躰 上裁とハ上の御裁許(ごさいきよ)也。裁ハはかり定る義なり。ハかんかへハわかつと訓す。捌(さは)きする事也。〔58ウ五〜六

とあって、この標記語「勘判」とし、語注記は「は、かんかへ、は、わかつと訓す。捌きする事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。▲勘判ハ其事を勘(かんか)へ是非(せひ)を判(わか)つをいふ。〔44オ四〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)儀定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ勘判ハ其事を勘(かんが)へ是非(ぜひ)を判(わか)つをいふ。〔78ウ二〜三〕

とあって、標記語「勘判」の語とし、語注記は、「勘判は、其の事を勘がへ是非を判つをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「勘判」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』にも、標記語「かん-ぱん〔名〕【勘判】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「かん-ばん勘判】〔名〕過去の例に照らし合わせて物事の是非を判定すること。考え合わせて判断すること」とあって、『庭訓往来』の語用例を収載する。
[ことばの実際]
 何及異議哉、望請鴻慈、任法家勘判、如旧被返付寺家者、将ξ支大仏修複用途、弥散衆徒多年之欝憤矣者、如解状者、去承徳二年備前守平正盛朝臣以当国私領寄進郁芳門院領、令立券庄号之時、件鞆田村内被打入彼庄内之由、有相論之刻、永久年中被下宣旨於本寺召両方証文被下法家之日、信貞・明兼等保安四年九月十二日勘状〓4方今東大寺領杣并山地荒野各在公験、元是為杣山、今開発田畠代代国司免除先畢。《『東大寺文書(図未)』寿永二年閏十月廿一日の条、362・12/131》
帳悉焼失、爰寺家請乞国郡図帳勘判之日、勘済使粟田茂明・高向福《『東寺百合文書り』延久3年10月8日の条、1066・3/1081》
 
2003年6月24日(火)曇りのち小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
上裁(ジャウサイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

上裁(―サイ) 。〔元亀二年本313十〕〔静嘉堂本368一〕

とあって、標記語「上裁」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(ジヤウ)サイ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所--之躰異-見儀-之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-之流(リウ)-例下-知成-敗傍-例律-令武---度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可‖_沙汰-法所務之規式雜-務之流-例下知成敗傍-例納-法律-令武---。〔経覺筆本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。〔文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「上裁」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「上裁」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

上裁(シヤウサイ・カミノボル、タツ)[上・平] 公方義也。〔態藝門936四〕

とあって、標記語「上裁」の語を収載し、語注記は「公方の義なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

上裁(シヤウサイ) 公方。〔・言語進退門245八〕

上品(シヤウボン) ―手。―下。―裁。―表。―洛。―聞。〔・言語門210三〕

上品(シヤウホン) ―手。―下。―裁。―表。―落。―聞。〔・言語門194四〕

とあって、弘治二年本が標記語「上裁」の語を収載し、訓みを「シヤウサイ」とし、語注記には「公方」と記載する。また、易林本節用集』に、

上裁(ジヤウサイ) 公方義。―根(コン)。―代(ダイ)。―分(ブン)。―品(ボン)。―足(ソク)。―手(ズ)。―戸(ゴ)。―首(シユ)。―意(イ)。―智(チ)。―堂(ダウ)。―古(コ)。―覧(ラン)。―表(ヒヨウ)。―聞(ブン)。〔言辞215七〕

とあって、標記語「上裁」の語を収載し、語注記に「公方の義」と記載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ジヤウサイ」として、「上裁」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「上裁」とし、その語注記は、「公方樣の耳に直に入るるを云ふ」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

引付(ヒキツケ)問注所(モンチユウシヨ)ニ上裁(サイ)勘判(カンバン)(テイ) ト云心ハ。問注所(モンチウシヨ)ハ何モ奉行所(ブキヤウシヨ)ナリ沙汰(サタ)也。上裁(サイ)勘判(カンハン)ト云事ハ公事ノ文ノ判形(ハンキヤウ)ヲ留(トヾ)メヲキテ一一ニ上ヘ申上ル。又上ヨリ御裁許(サイキヨ)ニ預(アツカ)ル事ヲ上裁ト云也。〔下十七ウ五〕

とあって、この標記語「上裁」とし、語注記は「上裁勘判と云ふ事は、公事の文の判形を留めおきて一一に上ヘ申し上ぐる。また、上より御裁許に預る事を上裁と云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)上裁勘判之躰 上裁とハ上の御裁許(ごさいきよ)也。裁ハはかり定る義なり。勘ハかんかへ判ハわかつと訓す。捌(さは)きする事也。〔58ウ五〜六

とあって、この標記語「上裁」とし、語注記は「上裁とは、上の御裁許(ごさいきよ)なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。▲上裁ハ上(かミ)の御裁許(さいきよ)也。上ハ公方(くハう)を指(さ)す。裁ハはかり定(さた)むる義。〔44オ四〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)儀定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ上裁ハ上(かミ)の御裁許(さいきよ)也。上ハ公方(くハう)を指(さ)す。裁ハはかり定(さだ)むる義。〔78ウ二〕

とあって、標記語「上裁」の語とし、語注記は、「上裁は、上(かミ)の御裁許(さいきよ)なり。上は、公方(くハう)を指(さ)す。裁は、はかり定(さだ)むる義」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「上裁」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

じャう-さい〔名〕【上裁】高貴の、親しく事を裁決せらるること。盛衰記、四、白山~輿登山事「宣聖斷、仰上裁〔096-1〕

とあって、標記語を「上裁」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「じょう-さい上裁】〔名〕@上級の裁判。身分の高い人がみずから亊の是非をさばくこと。高貴な人の裁決。A上奏に対する天皇の裁可。勅裁」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
定西申云、起請事、可依上裁云々者、召決真包法師与百姓等《『東大寺百合文書・ほ』寛元元年十一月廿五日の条、17・ 2/505》
 
2003年6月23日(月)曇りのち小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
問注所(モンチウシヨ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「毛」部に、

問註所(―ヂウシヨ) 頼朝始置。〔元亀二年本350六〕

問註所(―――) 頼朝始置。〔静嘉堂本421七〕

とあって、標記語「問註所」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(モン)ヂウシヨ」とし、語注記は「頼朝始めて置く」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所--之躰異-見儀-之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-之流(リウ)-例下-知成-敗傍-例律-令武---度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可‖_沙汰-法所務之規式雜-務之流-例下知成敗傍-例納-法律-令武---。〔経覺筆本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。〔文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「問注所」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「問注所」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

問注所(モンヂウシヨトイ、シルス、トコロ)[去・去・上] 頼朝之時始置之。〔人倫門1065八〕

とあって、標記語「問注所」の語を収載し、語注記は「頼朝の時始めてこれを置く」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

問注所(―ヂウシヨ) 頼朝(ヨリトモ)ノ時始置之。〔・人倫門258五〕

問注所(モンチウシヨ) 頼朝始置之。〔・言語門220八〕

問注所(モンチウシヨ) 頼朝時始置之。〔・人倫門207一〕

とあって、標記語「問注所」の語を収載し、訓みを「(モン)ヂウシヨ」「モンチウシヨ」とし、語注記は、いずれも広本節用集』の語注記を継承記載する。また、易林本節用集』に、

問注所(―ヂウシヨ) 頼朝(ヨリトモ)置之。〔人倫門229四〕

とあって、標記語「問注所」の語を収載し、語注記に「頼朝(ヨリトモ)これを置く」と広本節用集』の語注記を継承記載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「モンヂウシヨ」「モンチュウシヨ」として、「問注所」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』にて確認できる。ただし、注記の「頼朝の時始めてこれを置く」については、下記真字本には見えていないのである。この古辞書注記の遡源を別な資料に求めることが再び必要となってきている。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「問注所」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

引付(ヒキツケ)問注所(モンチウシヨ)上裁(サイ)勘判(カンバン)(テイ) ト云心ハ。問注所(モンチウシヨ)ハ何モ奉行所(ブキヤウシヨ)ナリ沙汰(サタ)也。上裁(サイ)勘判(カンハン)ト云事ハ公事ノ文ノ判形(ハンキヤウ)ヲ留(トヾ)メヲキテ一一ニ上ヘ申上ル。又上ヨリ御裁許(サイキヨ)ニ預(アツカ)ル事ヲ上裁ト云也。〔下十七ウ五〕

とあって、この標記語「問注所」とし、語注記は「奉行所は、物際の田畠をば、親しき中には互ひに替て作しなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)引付問注所 所も設所なり。下の返状にくわし。〔58ウ五

とあって、この標記語「問注所」とし、語注記は「所も設所なり。下の返状にくわし」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。▲問注所ハ公事(くし)を聴(き)く役所(やくしよ)也。〔44オ三〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)儀定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ問注所ハ公事(くじ)を聴(き)く役所(やくしよ)也。〔78オ二〜ウ二〕

とあって、標記語「問注所」の語とし、語注記は、「問注所は、公事を聴く役所なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Mongiu<xo.モンヂュウショ(問注所) 訴えを聞いて,ある文書係の役人に書きとめさせる所.〔邦訳420l〕

とあって、標記語「問注所」の語を収載し、意味を「訴えを聞いて,ある文書係の役人に書きとめさせる所」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

もんぢゅう-しょ〔名〕【問注所】鎌倉、室町幕府の訴訟裁判の署(つかさ)。原被兩造に問ひて、其言葉を注記して、訴訟を裁斷せし所。元暦元年十月、鎌倉柳營の東廂に設けられ(吾妻鏡)、其職に執事、寄人、等あり。庭訓徃來、八月「問注所者永代沽券、安堵年記、放券、奴婢雜人券契、和與状、負累證文等、謀實、糺明之|、管領、寄人、右筆、奉行人等評判也」〔2018-2〕

とあって、標記語を「問注所」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「もんちゅう-じょ問注所】〔名〕@(「もんぢゅうしょ」とも)鎌倉・室町幕府の政務機関。元暦元年(1184)に政所(まんどころ)に続いて設置。訴訟文書の審理や訴論人の召喚対決、訴訟記録の作成などを行なった。建長元年(1249)引付設置以後、御家人の訴訟は引付衆に移され、末期には金銭貸借に関する訴訟問題だけを管轄するようになり、室町時代には記録・証文の保管がおもな職務となった。長官を執事といい、職員に執事代・寄人などがある。A「もんちゅうじょしつじ(問注所執事)」の略。B室町幕府の問注所執事を世襲した町野氏のこと。職名から変化して家号・名字となった。C「もんちゅうじょよりゅうど(問注所寄人)」に同じ」とあって、『庭訓往来』の語用例は、『大言海』の用例と同じく@の意味として記載する。
[ことばの実際]
被建問注所於郭外、以大夫属入道善信、爲執事、今日始有其沙汰。《訓み下し》問注所(モンヂウシヨ)ヲ郭外ニ建テラル、大夫属入道善信ヲ以テ、執事トシテ、今日始メテ其ノ沙汰有リ。《『吾妻鏡』建久十年四月一日の条》
 
2003年6月22日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(玉川→渋谷→田町)
恐ス(ケウエツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「氣」部に、

恐ス(―エツ) 。〔元亀二年本215五〕

恐ス(ケウヱツ) 。〔静嘉堂本245六〕

恐ス(―エツ) 。〔天正十七年本中52オ四〕

とあって、標記語「恐ス」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「ケウエツ」「ケウヱツ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

被書与草案土代被引導奉行所者恐ス〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

被書與草案土代被引導奉行所者恐ス〔宝徳三年本〕

レ∨‖_-案土-レハ∨‖-導奉行--〔山田俊雄藏本〕

‖_与草案土代セラ奉行所恐ス〔経覺筆本〕

‖_与草案土代セラ奉行所恐ス文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「恐ス」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「恐ス」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

恐ス(キヨウヱツヲソレ、ヨロコブ)[去・入] 。〔態藝門829三〕

とあって、標記語「恐ス」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

恐ス(ケウエツ) 。〔・言語進退門177一〕 恐ス(―エツ) 。〔・言語進退門223七〕

恐恨(ケウコン) ―惶(クハウ)。―怖(フ)。――(ケウ/\)。/―欝(ウツ)―ス(エツ)。〔・言語門144五〕

恐恨(ケウコン) ―惶。―怖。/―欝。―ス。〔・言語門134二〕

とあって、標記語「恐ス」の語を収載し、訓みを「ケウエツ」と「キヨウエツ」(弘本)とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、標記語「恐ス」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「キョウエツ」または「ケウエツ」として、「恐ス」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代奉行所恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「恐ス」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

奉行所(フキヤウシヨ)ニ恐ス(ケウヱツ) 奉行所ニ引導トハ。奉行ノ処へ引付(ヒキツケ)テ。内奏(ソウ)スル事ナリ。〔下十七ウ五〕

とあって、この標記語「恐ス」とし、語注記は「奉行所は、物際の田畠をば、親しき中には互ひに替て作しなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

恐悦(きやうゑつ)に候/恐ス候 かくのことく世話して玉らハ悦ひ入るとなり。〔58ウ一〜二

とあって、この標記語「恐ス」とし、語注記は「かくのごとく世話して玉はらば悦び入るとなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス。〔43ウ七〕    

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)を(の)(ところ)(この)(あひだ)の疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)く合期(がふご)し(さふら)ふ(たのミ)貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)を(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)せ(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)∨(くハへ)ら御詞(おんことバ)を(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)∨(か)き‖_(あたへ)ら草案(さうあん)の土代(どだい)を(れ)∨(いんだう)せ奉行所(ぶぎやうところ)に(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)ふ。〔78オ二〕

とあって、標記語「恐ス」の語とし、語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

‡Qio>yet.キョゥエッ(恐ス) Vosore,yorocobu.(恐れ,悦ぶ)恐れと喜びと.文書語.〔邦訳503r〕

とあって、標記語「恐ス」の語を収載し、意味を「恐れと喜びと.文書語」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

きょう-えつ〔名〕【恐ス】かしこみ、よろこぶこと。人の事を悦ぶに云ふ敬語。庭訓徃來、八月、「貴殿御扶持代官短慮未練之仁令稽古之程御詞者越度出來歟_與草案土代導奉行所恐ス〔0499-2〕

とあって、標記語を「恐ス」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「きょう-えつ恐ス】〔名〕@相手の好意をもったいなく思って喜ぶこと。他人に感謝の喜びを述べるときの語。A目上の人の喜ばしい出来事を、自分も喜ぶという気持を表わす語。Bひどく喜ぶこと」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
勲功賞、度々可給申請御之旨雖被仰下、造作賞などよりは、勲功賞をば、可給事なれば、御居住田舎之上者、旁無便宜之間、乍恐ス、再三令辞退申給畢。《訓み下し》勲功ノ賞ハ、度度申シ請ケ給ハリ御フベキノ旨(申請ニ依リ御フベキノ旨)、仰セ下サルト雖モ、造作ノ賞ナドヨリハ、勲功ノ賞ヲバ、給ハルベキ事ナレバ、田舎ニ御居住ノ上ハ、旁便宜無キノ間、恐スシナガラ、再三辞退申サシメ給ヒ畢シヌ。《『吾妻鏡』文治三年十月二十五日の条》
 
2003年6月21日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
奉行所(ブギヤウシヨ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「福」部に、標記語「奉行所」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

被書与草案土代被引導奉行所者恐ス候〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

被書與草案土代被引導奉行所者恐ス候〔宝徳三年本〕

レ∨‖_-案土-レハ∨‖-奉行-者恐-〔山田俊雄藏本〕

‖_与草案土代セラ奉行所者恐ス〔経覺筆本〕

‖_与草案土代セラ奉行所者恐ス文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「奉行所」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「奉行所」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、標記語「奉行所」の語は未収載にし、ただ、

奉行(ブギヤウ/―カウ・タテマツル、ユク・ツラナル)[上・平去] 頭人〔態藝門650一〕

とあって、標記語「奉行」の語を収載し、語注記に「頭人」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

奉行(ブギヤウ) 。〔・人倫門179七〕

奉行(ブギヤウ) 頭人。〔・言語門147六〕 奉行人(ブギヤウニン) 。〔・後鳥羽院御宇鍛冶結番次第283二〕

奉行(ブキヤウ) 頭人。〔・言語門137六〕

とあって、広本節用集』と同じく標記語「奉行所」の語を未収載にし、標記語「奉行」の語をもって収載し、訓みを「ブギヤウ」とし、語注記も広本節用集』と同じ「頭人」と記載する。また、易林本節用集』に、

奉事(ブジ) ―仕(シ)―行(ギヤウ)。〔言辞門151三〕

とあって、標記語「奉事」の語を収載し、冠頭字「奉」の熟語群にも「奉行」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書では「奉行所」の語は未収載にし、ただの「奉行」の語をもって収載する。古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている「奉行所」の語は未記載にある。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「奉行所」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

奉行所(フキヤウシヨ)ニ者恐ス(ケウヱツ)ニ 奉行所ニ引導トハ。奉行ノ処へ引付(ヒキツケ)テ。内奏(ソウ)スル事ナリ。〔下十七ウ五〕

とあって、この標記語「恐ス」とし、語注記は「奉行所に引導とは、奉行の処へ引付けて。内奏する事なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

奉行所(ふぎやうしよ)に引導(ゐんだう)せ被(られ)(ハ)奉行所者 引ハひく導ハミちひくと讀。奉行所へ手引して玉ハれと也。〔58ウ三〜四

とあって、この標記語「奉行所」とし、語注記は「引は、ひく。導は、みちびくと讀む。奉行所へ手引して給はれとなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所者恐ス。〔43ウ四〕    

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)を(の)(ところ)(この)(あひだ)の疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)く合期(がふご)し(さふら)ふ(たのミ)貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)を(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)せ(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)∨(くハへ)ら御詞(おんことバ)を(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)∨(か)き‖_(あたへ)ら草案(さうあん)の土代(どだい)を(れ)∨(いんだう)せ奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)に(さふら)ふ。〔77ウ四〕

とあって、標記語「奉行所」の訓みを「ブギヤウところ」とし、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「奉行所」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ぶぎゃう-しょ〔名〕【奉行所】武家時代の官署の一。奉行の執務する役所。梅翁随筆、一「卯七月頃より本所邊騒騒しく、徃來の者を剥ぎ取るよし風聞あり、云云、無宿仙藏といふ者、奉行所へ召捕られしより、云云」 八木の話(北越逸民)、堂島米市起立事「早朝の寄附より大引迄の相場、一一に年行司より、日日、奉行所に訴ふることなり」〔1730-2〕

とあって、標記語を「奉行所」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ぶぎょう-しょ奉行所】〔名〕@武家時代の官署。奉行の執務する役所。主君の命を奉じて事を執行する役人の詰所。A武家時代の裁判役所。B江戸時代、町奉行所の略称。御番所」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
丙午、此日為輔季御読経闕請、午時許、行事左少弁経房、奉行所史綱所等来、余著衣冠、出居上達部座(外出居也、件所、東面前在広庇、余座北第一間傍奥西也、弁座傍南障子北面敷之、紫端自本所敷于端也、高麗畳二枚不撤之、又脇息、硯筥等不置之、件座総有三間也)《『玉葉』嘉応二(1170)年三月廿五日の条》
 
2003年6月20日(金)曇りのち晴れ。東京(八王子)→市ヶ谷(アルカディア)
引導(インダウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

引導(インダウ) 。〔元亀二年本11二〕

引導(インタウ) 。〔静嘉堂本2六〕

引導(―タウ) 。〔天正十七年本上3ウ五〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「引導」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「インダウ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

被書与草案土代被引導奉行所者恐ス候〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

被書與草案土代被引導奉行所者恐ス候〔宝徳三年本〕

レ∨‖_-案土-レハ∨‖-奉行-者恐-〔山田俊雄藏本〕

‖_与草案土代セラ奉行所者恐ス〔経覺筆本〕

‖_与草案土代セラ奉行所者恐ス文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

引導 同(佛法部)/インタウ。〔黒川本・疉字門上10オ八〕

引導 〃接。〃汲。〃裾。〃率。〃唱。〔卷第・疉字門65三〕

とあって、標記語「引導」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「引導」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

引導(インダウヒク、ミチビク)[上去・去] 。〔態藝門29六〕

とあって、標記語「引導」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

引導(インダウ) 。〔・言語進退門11七〕

引導(―ダウ) 。〔・言語門7一〕

引物(インブツ) ―率。―級。―攝。―。〔・言語門6一〕

引物(インブツ) ―率(ゾツ)。―級(キユウ)。―攝(セウ)。―。―声。―唱。〔・言語門7四〕

とあって、標記語「引導」の語を収載し、訓みを「インダウ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

引導(インダウ) 。〔言語門7六〕

とあって、標記語「引導」の語を収載し、語注記は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「インダウ」として、「引導」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「引導」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

土代(ドタイ)ヲレ∨(インダウ) 土代ハ。物際ノ田畠(テンバク)ヲバ。親(シタ)シキ中ニハ互(ガヒ)ニ替(カエ)テ作シナリ。〔下十七ウ四〜五〕

とあって、この標記語「引導」とし、語注記は「引導は、物際の田畠をば、親しき中には互ひに替て作しなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

奉行所(ふぎやうしよ)引導(ゐんだう)せ被(られ)(ハ)奉行所者 引ハひく導ハミちひくと讀。奉行所へ手引して玉ハれと也。〔58ウ三〜四

とあって、この標記語「引導」とし、語注記は「引は、ひく。導は、みちびくと讀む。奉行所へ手引して給はれとなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所者恐ス。〔43ウ四〕    

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)を(の)(ところ)(この)(あひだ)の疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)く合期(がふご)し(さふら)ふ(たのミ)貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)を(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)せ(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)∨(くハへ)ら御詞(おんことバ)を(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)∨(か)き‖_(あたへ)ら草案(さうあん)の土代(どだい)を(れ)∨(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)に(バ)恐ス(きょうえつ)に(さふら)ふ。〔77ウ三〕

とあって、標記語「引導」の語とし、語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Indo<.インダゥ(引導) Michibiqu.(導く) 導くこと.特に,死者のために葬礼を執り行ない,さらに法事を行なって,その霊を来世へと導いてやる坊主(Bonzos)のそれを言う.§Vaga xixiteno indo<ua qixouo tanomi zonzuru.(わが死しての引導は貴所を頼み存ずる)私の死んだ後,霊が救われるように私のために祈り,また導いてくださるよう,あなたに切にお願いします.〔邦訳335l〕

とあって、標記語「引導」の語を収載し、意味を「導くこと.特に,死者のために葬礼を執り行ない,さらに法事を行なって,その霊を来世へと導いてやる坊主(Bonzos)のそれを言う」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いん-だう〔名〕【引導】(一)ひき、みちびくこと。てびき。南史、王僧辨傳「有〓魚、躍水飛引導 明月記、寛喜二年七月十六日「右大臣殿、此事引導口入、可名簿歟」(二)佛教に、衆生を導きて、佛道に入らしむること。法華経、方便品「無數方便、以衆生太平記、二十四、壬生地藏事「今世後世、能引導す」(三)佛葬の時、導師の、棺前に立ち、法語を誦して、死者の、浄土に到るべき方所を示すこと。これを、引導をわたすと云ふ。智度論、「大愛道比丘尼涅槃、佛自在前、フ香爐引導〔0213-1〕

とあって、標記語を「引導」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「いん-どう引導】〔名〕@先に立って導くこと。案内すること。教え導くこと。A仏語。迷っている人々や霊を教えて仏道にはいらせること。また、極楽浄土へ導くこと。B仏語。死人を葬る前に、僧が、棺の前で、迷わずにさとりが開けるように、経文や法語をとなえること。また、その経文や法語」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
〈以子息權辨定經朝臣、傳奏〉法皇〈著御淨衣〉出御常御所、南面廣廂縁敷疊依戸部引導、參其座給。《訓み下し》〈子息権ノ弁定経朝臣ヲ以、伝奏ス〉法皇〈御浄衣ヲ著シタマフ〉常ノ御所ノ、南面ノ広廂ノ縁敷畳ニ出御シタマヒ戸部ノ引導(インダウ)ニ依テ、其ノ座ニ参リ給フ。《『吾妻鏡』建久元年十一月九日の条》
 
2003年6月19日(木)薄晴れのち曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
土代(ドタイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「登」部に、「(トコウ)孝徳天皇始定也(サン)(ザウ)(ヒン)(イ)(ドミン)(ヒツ/ツクヅクシ)(サウ)(クウ)春三月在釜。夏三月在門。秋三月在井。冬三月在。歴土公入トハ本地ニ帰ル也(エウ)兎日、春巳午、酉、夏ハ卯辰申。秋ハ未亥酉。冬ハ卯巳(トサ)九―(セウ)(イ)」の十三語を収載し、標記語「土代」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

被書与草案土代被引導奉行所者恐ス候〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

被書與草案土代被引導奉行所者恐ス候〔宝徳三年本〕

レ∨‖_--レハ∨‖-導奉行-者恐-〔山田俊雄藏本〕

‖_与草案土代セラ奉行所者恐ス〔経覺筆本〕

‖_与草案土代セラ奉行所者恐ス文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

土代 文章{書}部/トタイ。〔黒川本・疉字門上50オ六〕

〃古。〃膏。〃代。〃宜。〃風。〃コ。〃産。〃毛。〃民。〃器。〃壌。〃浪。〃宇。〃木。〔卷第・疉字門176三〕

とあって、標記語「土代」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「土代」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

土代(トタイツチ、シロ・カワル)[上・去] 。〔態藝門137七〕

とあって、標記語「土代」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(トボク) ―代。―毛。―餌(ジ)夫婦部/餌。―貢(コウ)/―公(クウ)。―産(サン)。―人(ニン)。―コ(トク)長者名。〔・言語門45一〕

(トホク) ―代。―毛。―餌。―貢/―公。―産。―人。―コ長者名。〔・言語門41七〕

土代(トダイ) 。〔・言語門49七〕

とあって、標記語「土代」の語を収載し、訓みを「トダイ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

土代(―タイ) 。〔言辞門44二〕

とあって、標記語「土代」の語を収載し、語注記を未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「トダイ」として、「土代」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「土代」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

土代(ドタイ)ヲレ∨(インダウ) 土代ハ。物際ノ田畠(テンバク)ヲバ。親(シタ)シキ中ニハ互(ガヒ)ニ替(カエ)テ作シナリ。〔下十七ウ一〕

とあって、この標記語「土代」とし、語注記は「土代は、物際の田畠をば、親しき中には互ひに替て作しなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

草案(そうあん)土代(どたい)を書(かき)(あた)へ被(られ)‖_與草案土代 田畠作物の取高等を記したる下事を認(したゝめ)てあたへられよと也。〔58ウ一〜二

とあって、この標記語「土代」とし、語注記は「田畠作物の取高等」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所者恐ス。▲草案土代ハ田地(てんぢ)一件(ひとまき)の下書(しだかき)案文(あんもん)なり。〔43ウ七〕    

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)を(の)(ところ)(この)(あひだ)の疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)く合期(がふご)し(さふら)ふ(たのミ)貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)を(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)せ(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)∨(くハへ)ら御詞(おんことバ)を(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)∨(か)き‖_(あたへ)ら草案(さうあん)の土代(どだい)(れ)∨(いんだう)せ奉行所(ぶぎやうところ)に(バ)恐ス(きょうえつ)に(さふら)ふ。▲草案土代ハ田地(てんぢ)一件(ひとまき)の下書(しだかき)案文(あんもん)なり。〔78オ二〕

とあって、標記語「土代」の語とし、語注記は、「草案の土代は、田地一件の下書案文なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「土代」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-だい〔名〕【土代】(一)受領を任命する時の下書(ゲシヨ)蝉冕翼抄(1322年)「小書出を受領の土代と云ふ」(二)文書の草案。下書(したがき)。草稿。庭訓往來、八月、「草案、土代」「小野道風、屏風土代〔1407-2〕

とあって、標記語を「土代」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-だい土代】〔名〕@文書・書画類の下書き。草案。草稿。A「どだい(土台)@」に同じ」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
甲戌、天晴、未刻、源中納言雅頼被来、示可被造献指図土代之由、納言諾、此外有示事等、今日祭除目云々、《『玉葉』安元三年四月五日の条》※他11件所収
 
2003年6月18日(水)曇りのち小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
草案(サウアン)」→「ことばの溜池」(2001.09.28)参照。
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、

草案(―アン) 。〔元亀二年本269九〕

草案(サウアン) 。〔静嘉堂本307五〕

とあって、標記語「草案」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「サウアン」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

被書与草案土代被引導奉行所者恐ス候〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

被書與草案土代被引導奉行所者恐ス候〔宝徳三年本〕

レ∨‖_--レハ∨‖-導奉行-者恐-〔山田俊雄藏本〕

‖_草案土代セラ奉行所者恐ス。〔経覺筆本〕

‖_草案土代セラ奉行所者恐ス。〔文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

草案(サウアン) 文章{書}部〔黒川本・疉字門下42ウ四〕

草創 〃聖。〃案。〃書。〃堂。〃花。〃樹。〃芥。〃庵。〃木。〃玄。〃。〃履。〃藁。〔卷第八・疉字門439四〕

とあって、標記語「草案」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

草案(サウアン) 。〔態藝門79七〕

とあって、標記語「草案」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

草案(サウアンクサ、カシマヅキ・カンカウ)[上・上]中書也。自(ヒシン)始也。〔態藝門597八〕

とあって、標記語「草案」の語を収載し、語注記は「文の中書なり。ェより始るなり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

草案(サウアン) 文。〔・言語進退門214五〕

草案(サウアン) ―紙(シ)。―亭(テイ)。〔・言語門178六〕

草案(サウアン) ―紙(シ)。―庵。―亭。〔・言語門167七〕

とあって、標記語「草案」の語を収載し、訓みを「サウアン」とし、語注記は弘治二年本のみだが、「文」と記載し、これは広本節用集』の語注記の簡略形とみる。また、易林本節用集』に、

草創(サウサウ) ―案(アン)。〔言辞門181一〕

とあって、標記語「草創」の語を収載し、冠頭字「草」の熟語群にも「草案」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「サウアン」として、「草案」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。ここで、広本節用集』の語注記「文中書也。自(ヒシン)始也」は、下記真字本には見えていないことからして広本節用集』の編者が別な資料よりこの注記を持ってきていることが知られるのである。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_草案土代奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「草案」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

草案(サウアン) トハ。古(イニシ)ヘハ。紙(カミ)ナカリシ。先(マツ)(コヽロミ)ニ草(クサ)ノ葉(ハ)ニ文(フミ)ヲ書キ人々ニ見セシ也。サテ草案ナリ。〔下十七ウ三〜四〕

とあって、この標記語「草案」とし、語注記は「忍へもなき心なり。草案と書きて思ひみじかしとよめり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

越度(おつど)出來(いできた)らん歟(か)越度出來 越度とハ思ひよらさるあやまちをし出し法度(はつと)をもかき言開ん詞もなきかこときをいふ。かくいひしこゝろハ投(なけ)かけて頼(たの)まん為なり。〔58ウ一〜二

とあって、この標記語「草案」とし、語注記は「草案は、よりたのむなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_草案土代セラ奉行所者恐ス。▲草案土代ハ田地(てんぢ)一件(ひとまき)の下書(しだかき)案文(あんもん)なり。〔43ウ七〕    

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)を(の)(ところ)(この)(あひだ)の疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)く合期(がふご)し(さふら)ふ(たのミ)貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)を(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)せ(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)∨(くハへ)ら御詞(おんことバ)を(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)∨(か)き‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)を(れ)∨(いんだう)せ奉行所(ぶぎやうところ)に(バ)恐ス(きょうえつ)に(さふら)ふ。▲草案土代ハ田地(でんぢ)一件(ひとまき)乃下書(したがき)案文(あんもん)なり。〔78オ二〕

とあって、標記語「草案」の語とし、語注記は、「草案の土代は、田地一件の下書案文なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

So<an.サウアン(草案)  Xitagaqi.(下書)ある書状とか書物とかの草稿や下書きであって、後で書き写されるはずのもの.例,So<anuo suru.(草案をする)この草稿や下書きをつくる.〔邦訳567l〕

とあって、標記語「草案」の語を収載し、意味を「(下書)ある書状とか書物とかの草稿や下書きであって、後で書き写されるはずのもの」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さう-あん〔名〕【草案】〔さうかう(草稿)の語原を見よ、正字通「著書起義、曰案」〕したがき。下書(ゲシヨ)草稿。〔0765-5〕

とあって、標記語を「草案」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「そう-あん草案】〔名〕文章、特に規約などの下書き。また、その下書きを書くこと。草稿。原案」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
大夫屬入道善信献草案是爲四海泰平萬民豐樂也〈云云〉。《訓み下し》大夫属入道善信。草案(サウアン)ヲ献ズ。是レ四海泰平万民豊楽ノ為ナリト〈云云〉。《『吾妻鏡』養和二年二月八日の条》
 
2003年6月17日(火)小雨のち曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
出來(シユツライ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

出來(―ライ) 。〔元亀二年本310五〕〔静嘉堂本94六〕

出來(シユツライ) 。〔天正十七年本中50ウ四〕

とあって、標記語「出來」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(シユツ)ライ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

短慮練之仁令稽古之程不被加御詞者越度出來〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

短慮練之仁令稽古程不被加御詞者越度出來〔建部傳内本〕

短慮(タン)之仁令稽古之程御詞者越度出來せン〔山田俊雄藏本〕

短慮(レヨ)(レン)之仁令稽古之程ンバ∨御詞(コトハ)者越度出來〔経覺筆本〕

-(タンリヨ)-(ミレン)ノ-(ケイコ)之程(ホト)不被御詞(コトハ)者越-(ヲツト)-文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「出來」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「出來」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

出來(シユツライイテル、キタル)[去入・平] 。〔態藝門933一〕

とあって、標記語「出來」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「出來」の語を未収載にする。また、易林本節用集』に、

出仕(シユツシ) ―納(ナフ)。―頭(トウ)。―物(モツ)。―世(せ)。―生(シヤウ)。―身(シン)。―家(ケ)。〔言辞門216七〕

とあって、標記語「出仕」の語を収載し、冠頭字「下」の熟語群にも「出來」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「シユツライ」として、「出來」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。但し、江戸時代の語注釈には、この語を「いでく」と訓読みするようになっていったことも留意しておきたいことである。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來‖_与草案土代奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「出來」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

越度(ヲツド)出來ラン(カ)(レ)∨‖_(アタヘ) 越度(ヲツト)トハ。ヤヽモスレバ誤(アヤマ)リ僻(ヒガコト)ヲシテハ後悔(コウクハ)ヒ悲(カナシ)ミ科(トガ)ヲシテハ。後(ノチ)ニ悲(カナシ)ムヲ云ナリ。〔下十七ウ三〕

とあって、この標記語「出來」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

越度(おつど)出來(いできた)らん歟(か)越度出來 越度とハ思ひよらさるあやまちをし出し法度(はつと)をもかき言開ん詞もなきかこときをいふ。かくいひしこゝろハ投(なけ)かけて頼(たの)まん為なり。〔58ウ一〜二

とあって、この標記語「出來」とし、語注記は「越度とは、思ひよらざるあやまちをし出し、法度をもかき、言ひ開かん詞もなきがごときをいふ。かくいひしこゝろは、投げかけて頼まん為なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス〔43ウ七〕        

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)。〔78オ一〜二〕

とあって、標記語「出來」の語とし、語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xutrai.シュッライ(出來) Ide qitaru.(出で来たる)何事かが到来したり,発生したりすること,または,何事かがなされること.〔邦訳804l〕

とあって、標記語「出來」の語を収載し、意味を「何事かが到来したり,発生したりすること,または,何事かがなされること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しゆつ-らい〔名〕【出來】〔出來(いでく)るの音讀、音便に、しゅったい〕(一)出で來ること。おこること。平治物語、一、待賢門院事「定めて、狼藉出來せんか」(二)物事の、成り調ひたること。出來上がること。成就。〔0613-4〕

とあって、標記語を「出來」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「しゆつ-らい出来】〔名〕@外に現れていなっかたものが出て来ること。しゅったい。A物事が起ること。事件が起ること。しゅったいBでき上がること。完成すること。成就。完成。しゅったい」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
又所逃亡之佐竹家人十許輩出來之由、風聞之間、令廣常、義盛生虜、皆被召出庭中、若可插害心之族、在其中否、覧其顔色令度給之處、著紺直垂上下之男頻垂面落涙之間、令問由緒給。《訓み下し》又逃亡スル所ノ佐竹ノ家人十許輩出来スルノ由、風聞スルノ、広常、義盛ヲシテ生虜ラシメ、皆庭中ニ召シ出ダサレ、若シ害心ヲ挿ムベキノ族、其ノ中ニ在ルヤ否ヤ(在ル者)、其ノ顔色ヲ覧度ラシメ給フノ処ニ(給フベキノ処ニ)、紺ノ直垂ノ上下ヲ著スルノ男、頻ニ面ヲ垂レ落涙セルノ間、由緒ヲ問ハシメ給フ。《『吾妻鏡』治承四年十一月八日の条》
 
2003年6月16日(月)曇り一時小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
越度(ヲツド・ヲチド)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「遠」部に、

越度(ヲツド) 。〔元亀二年本77五〕〔静嘉堂本94六〕

越度(ヲチト) 。〔天正十七年本上47オ二〕

とあって、標記語「越度」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「ヲツド」「ヲチト」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

短慮練之仁令稽古之程不被加御詞者越度出來歟〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

短慮練之仁令稽古程不被加御詞者越度出來歟〔建部傳内本〕

短慮(タン)之仁令稽古之程御詞越度出來せン〔山田俊雄藏本〕

短慮(レヨ)(レン)之仁令稽古之程ンバ∨御詞(コトハ)越度出來歟〔経覺筆本〕

-(タンリヨ)-(ミレン)ノ-(ケイコ)之程(ホト)不被御詞(コトハ)-(ヲツト)-來歟文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「越度」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「越度」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

越度(ヲツヱツ・コヱ、ワタル)[入・去] 或作乙度。〔態藝門225八〕

とあって、標記語「越度」の語を収載し、語注記は「或作○○」形式により別表記「乙度」の語を記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

越度(ヲツド) 。〔・言語進退門67四〕 乙度(ヲツド) 。〔・言語進退門69四〕

越度(ヲツド) ―訴(ソ)。―奏(ソフ)。 乙度(―ト) 。〔・言語門66四・66五〕

越度(ヲツト) ―訴。―年。―奏。 乙度(ヲツト) 。〔・言語門60七〕

越度(ヲツト) ―訴。―奏。 乙度(ヲツト) 。〔・言語門71四〕

とあって、標記語「越度」の語を収載し、訓みを「ヲツド」とし、語注記は未記載にする。ここで、広本節用集』が同種別表記に認定した「乙度」を別語枠で収載している点が着目されよう。また、易林本節用集』に、

越度(ヲツド) 。〔言語門63二〕

とあって、標記語「越度」の語を収載し、語注記を未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ヲチド」「ヲツド」として、「越度」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「越度」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

越度(ヲツド)出來ラン(カ)(レ)∨‖_(アタヘ) 越度(ヲツト)トハ。ヤヽモスレバ誤(アヤマ)リ僻(ヒガコト)ヲシテハ後悔(コウクハ)ヒ悲(カナシ)ミ科(トガ)ヲシテハ。後(ノチ)ニ悲(カナシ)ムヲ云ナリ。〔下十七ウ三〕

とあって、この標記語「越度」とし、語注記は「越度とは、やゝもすれば誤り僻をしては後悔悲しみ、科をして誤り、僻をしては後悔悲み、科をしては、後に悲しむを云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

越度(おつど)出來(いできた)らん歟(か)越度出來 越度とハ思ひよらさるあやまちをし出し法度(はつと)をもかき言開ん詞もなきかこときをいふ。かくいひしこゝろハ投(なけ)かけて頼(たの)まん為なり。〔58ウ一〜二

とあって、この標記語「越度」とし、語注記は「越度とは、思ひよらざるあやまちをし出し法度をもかき、言開かん詞もなきがごときをいふ。かくいひしこゝろは、投げかけて頼まん為なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス。▲越度(こゝ)にハ思慮(おもんばかり)の行(ゆき)(た)らぬをいふ。〔43ウ七〕        

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)越度(こゝ)にハ思慮(おもんはかり)の行(ゆき)(た)らぬをいふ。〔78オ一〜二〕

とあって、標記語「越度」の語とし、語注記は、「越度爰には、思慮の行き足らぬをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vochido.ヲチド(越度) 手落ち,または,不注意.→Votdo.〔邦訳698r〕

とあって、標記語「越度」の語を収載し、意味を「手落ち,または,不注意」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

をち-〔名〕【越度】(一)又、をつど。法律の語。古へ、關門、又は、津渡に由らず、法を破りて、間道を行くこと。制度(さだめ)に越ゆること。又、その罪名。衞禁律「凡私度關者、徒一年、攝津長門減一等、餘關又減二等越度者各加一等」 「不由門爲越」 居家必用、注「越度、謂關不門、律不濟者」 林エ節用集、雜用「越度、ヲチド」(二)轉じて、過失(あやまち)の罪となるもの。(常に落度など借書す)しそこなひ。あやまち。十訓抄、上、第一、第廿九條「公事につきて、失禮をもし、ただうちあるふるまひにも、越度(ヲチド)の出來ぬるは、口をしきことなり」 評定所留役覺書「曲事と可認哉、越度と可認哉之段、於一座評議いたし候處、検校之儀に付、越度と認候方に決す」 伊達日記(伊達成實)天正十六年三月「三郎(志賀)上矢(銃丸なり)に打候間、鞍の後輪を打欠き、犬子所へ打出で候、主殿(太田)むつむきに成り、云云、引除き候而、頓而越度申」(三)討死を云ふ。元龜、天正頃の文書に、於某地手負越度多き由、其聞得候などと見ゆ。水戸市上市大町渡邊源五郎藏、天正中の文書(二月十一日、渡邊源五郎右衞門宛、多賀谷重經)「昨日之樣躰無意元候、殊に宮ノ下には、ておい越度多由、其聞得候、具に樣躰被聞候べく候」〔2202-5〕

とあって、標記語を「越度」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ヲチド越度落度】〔名〕あやまち。手落ち。過失。おつど。[語誌]古くは「越度」から書かれ、ヲツドまたは、ヲチド、ヲツドとよまれたと思われる。「越度」は元来「おつど(越度@)」のような許可証なしに関所を越え度(わた)る関所破りの罪であるが、中世には関所の制が衰える一方、「度」が規則と解せられ、『日葡辞書』のように「のりこゆる」罪悪、違法の意から更に過失、手落ちをいうようになった。近世には「落度」の表記も見え、明治なって過失の「落度」が一般化した」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
仰云、不伴參其僧、甚越度也〈云云〉。《訓み下し》仰セニ云ク、其ノ僧ヲ伴ヒ参ラザルコト、甚ダ越度(ヲツド)ナリト〈云云〉。《『吾妻鏡』正治二年十二月三日の条》
縱雖道理。一同之憲法也。誤(アヤマリ)非拠。一同之越度也。言ハ十三人ノ内一人不違毎事ヲ被行者余十二人面目也。是好事切ナル義也。《京都大学法学部藏『御成敗式目』》
 
2003年6月15日(日)曇り。東京(八王子)→世田谷(玉川)→府中郷土の森博物館
(ジン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、標記語「」を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

短慮練之令稽古之程不被加御詞者越度出來歟〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

短慮練之令稽古程不被加御詞者越度出來歟〔建部傳内本〕

短慮(タン)稽古之程御詞者越度出來せン〔山田俊雄藏本〕

短慮(レヨ)(レン)稽古之程ンバ∨御詞(コトハ)者越度出來歟〔経覺筆本〕

-(タンリヨ)-(ミレン)ノ-(ケイコ)之程(ホト)不被御詞(コトハ)者越-(ヲツト)-來歟文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

シン。如断反。〔黒川本・人事門下71オ一〕

シン。〔卷第九・人事門143四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(シンヲシタシンズ)[去・○] 学而篇。〔態藝門1004三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

他救トシテ憐心。〔・数量門(「」五常」)147四〕

とあって、尭空本に標記語「」の語を収載し、語注記には「自らを忘れ他を恵み危うきを救ひ極を助け惣じて物において志を先として憐心あるを仁と云ふ」と記載する。また、易林本節用集』に、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ジン」として、「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(ミレン)ノ人之 ハ。イマダネレズトヨメリ。〔下十七ウ一〜二〕

とあって、この標記語「」とし、語注記は「いまだねれずとよめり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

短慮(たんりよ)未練(ミれん)(じん)短慮未練之 短慮ハ思慮の行足らぬを云。未練ハ事にねれさるをいふ。是ハ今度登る代官か事になれさるをいえるなり。〔58オ六〜七

とあって、この標記語「」とし、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス〔43ウ七〕        

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)。〔78オ一〜二〕

とあって、標記語「」の語とし、語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iin.ジン() Fito.(ひと) 人.〔邦訳362l〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味を「人」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「」

じん〔名〕【】〔説文、我部段注「仁者人也」論語、雍也篇「曰井有一レ(ヒト)焉」朱注「可以救井中之人」〕人(ひと)晉書、宋織傳「先生、人中之龍」南史、除勉傳「此所謂人中騏驥、必能致千里」 釋氏要覧、「治襌經後序云、天竺大乗沙門、佛佗斯那、天才特抜、諸國特歩、内外綜博、莫籍不練、世人咸曰人中獅子」 沙石集、四、下「道人可執着事」 本朝文粹、大江匡衡文「臣謬當(ヒト)、聊記盛事」 吾妻鏡、四十、建長二年三月廿六日「是相州仰、云云、依爲(タル)也」「舜明於庶物於人倫」「眞理をす」〔0935-4〕

とあって、標記語を「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「じん】〔名〕@孔子の道徳の根本原理。親に親しむという自然の親愛の情を、万人にひろめ及ぼした道徳的心情。A愛情を他に及ぼすこと。いつくしみ。なさけ。思いやり。B仁道を行なう人。仁者。有徳の人。Cひと。にん。D果実の核。さね。たね。E細胞核に含まれる一〜数個の球形または棒状の小体。おもに蛋白質とリボ核酸とからなり、デオキシリボ核酸を含まないので染色仁と区別される。作用については明かではない。[語誌](1)「仁」の字音は、漢音ジン、呉音ニンである。これは「人」と同様であり、BC等のように「仁・人」両字が相通じて使用される場合がある。(2)孔子は、天から人間に与えられた人間の本性の働きであり、たんなる情念ではなく、知と勇とをかねそなえ、克己復礼、孝悌、敬、忠恕、愛などに表現され、また制度としての礼の中にも具体化されるとした。さらに孟子は、天から与えられた惻隠の心を拡充した心情であるとした。宋代の朱子は、理気二元論の立場から、気としての愛情と区別して、これを愛の理とした。(3)日本の古学の伊藤仁斎は、朱子説を否定し、仁は愛であるという説を主張し、荻生徂徠は、天下を安んじる君主の心を仁と呼んで、特別の意味を与えた」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
重仰云、畠山次郎、次佐貫四郎等候之上者、何被申無其之由哉。《訓み下し》重ネテ仰セニ云ク、畠山ノ次郎、次ニ佐貫四郎等之ニ候ズル上ハ、何ゾ其ノ無キノ由ヲ申サレンヤ。《『吾妻鏡』養和元年七月二十日の条》
 
2003年6月14日(土)曇り後晴れ。東京(八王子)→武蔵小杉(川崎市民ミュージアム)→世田谷(駒沢)
未練(ミレン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「見」部に、

未練(―レン) 。〔元亀二年本299六〕〔静嘉堂本348三〕

とあって、標記語「未練」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(ミ)レン」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

短慮未練之仁令稽古之程不被加御詞者越度出來歟〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

短慮未練之仁令稽古程不被加御詞者越度出來歟〔建部傳内本〕

短慮(タン)未練之仁令稽古之程御詞者越度出來せン〔山田俊雄藏本〕

短慮(レヨ)未練(レン)之仁令稽古之程ンバ∨御詞(コトハ)者越度出來歟〔経覺筆本〕

-(タンリヨ)-(ミレン)-(ケイコ)之程(ホト)不被御詞(コトハ)者越-(ヲツト)-來歟文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

未練 ミレン。〔黒川本・疉字門下65ウ八〕

未進 〃熟。〃済。〃来。〃剴。〃發。〃達。〃練。〃償。〃然。〃見。〃定。〃煎甘葛。〃滿。〃結。〔卷第九・疉字門95六〕

とあって、標記語「未練」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

未練(ミレン) 。〔言辭門154六〕

とあって、標記語「未練」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

未練(レンイマダ、ネル)[去・去] 。〔態藝門893四〕

とあって、標記語「未練」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

未練(ミレン) ―熟(ジユク)。―進(シン)。―断(ダン)。―聞(モン)。―分(ブン)/―来(ライ)。〔・言語進退門233五〕

未練(ミレン) ―断(ダン)。―聞(モン)。―分(ブン)/―熟(ジユク)。―進(シン)。―来(ライ)。〔・言語門194四〕

未練(ミレン) ―錬。―断。―聞。―分/―熟。―進。―来。―定。〔・言語門184一〕

とあって、標記語「未練」の語を収載し、訓みを「ミレン」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

未練(ミレン) ―断(ダン)。―進(シン)。―分(ブン)/―定(ヂヤウ)。―熟(ジク)。―來(ライ)。〔言辞門200五〕

とあって、標記語「未練」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ミレン」として、「未練」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮未練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「未練」とし、その語注記は、未記載にする。この前にも『庭訓徃來註』二月廿四日の状に、

078才覚未練之間當座定可赤面 未練鍛錬也。或未練臆病相_似別也。臆人、未練无稽古之者云也。〔謙堂文庫藏一二右A〕

とあって、標記語を「未練」の語注記は、「未練は、鍛錬の義に非ざるなり。或は未練、臆病と相_似て別なり。臆は、人に畏まる、未練は、无稽古の者を云ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

未練(ミレン) ハ。忍(コラヘ)モナキ心也。未練ト書テ思(ヲモヒ)ミシカシトヨメリ。〔下十七ウ一〕

とあって、この標記語「未練」とし、語注記は「忍へもなき心なり。未練と書きて思ひみじかしとよめり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

短慮(たんりよ)未練(ミれん)の仁(じん)短慮未練之仁 短慮ハ思慮の行足らぬを云。未練ハ事にねれさるをいふ。是ハ今度登る代官か事になれさるをいえるなり。〔58オ六〜七

とあって、この標記語「未練」とし、語注記は「未練は、よりたのむなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス〔43ウ七〕        

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)。〔78オ一〜二〕

とあって、標記語「未練」の語とし、語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Guechacu.ミレン(未練) Imada nerezu.(未だ練れず)臆病.§Mire~uo camayuru.(未練を構ゆる)臆病である.この語の本来の意味は,軽々しさ・軽薄さということであって,すぐに飛びかかったり,腹を立てたりするけれども,肝心の時になると,へまをしたり,気力をなくしたり,逃げ出したりするような人について言う語.〔邦訳409r〕

とあって、標記語「未練」の語を収載し、意味を「(未だ練れず)臆病」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-れん〔名〕【未練】(一)いまだ事に慣れぬこと。いまだ鍛錬せぬこと。功の足らぬこと。未熟盛衰記、四十三、源平侍遠矢事「板東の者共は、馬上にてこそ口は聞候へども、船軍は未練なるべし」 徒然草、第二百三十段「五條内裏には、妖物ありけり、云云、未練の狐、化け損じけるのこそ」(二)思ひ切るべきに、尚、心の殘ること。あきらめ得ざること。遺念。「未練に思ふ」未練が殘る」〔1955-5〕

とあって、標記語を「未練」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-れん未練】〔形動〕@まだ事に熟練していないこと。また、そのさま。未熟。A思い切りの悪いこと。心の残ること。あきらめないこと。また、そのさま」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
未練之間、仰天之外無他、仍不覚之後悔了、但為人不便也、仍不尋也《『玉葉』仁安二年七月廿四日の条》※他に六〇件収載。
 
2003年6月13日(金)曇り後晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
短慮(タンリヨ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

短慮(―リヨ) 。〔元亀二年本135六〕〔静嘉堂本142六〕〔天正十七年本中3ウ一〕

とあって、標記語「短慮」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(タン)リヨ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

短慮練之仁令稽古之程不被加御詞者越度出來歟〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

短慮練之仁令稽古程不被加御詞者越度出來歟〔建部傳内本〕

短慮(タン)仁令稽古之程御詞者越度出來せン〔山田俊雄藏本〕

短慮(レヨ)(レン)之仁令稽古之程ンバ∨御詞(コトハ)者越度出來歟〔経覺筆本〕

-(タンリヨ)-(ミレン)ノ-(ケイコ)之程(ホト)不被御詞(コトハ)ヲ者越-(ヲツト)-來歟文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「短慮」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

短慮(タンリヨ) 。〔態藝門87五〕

とあって、標記語「短慮」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

短慮(タンリヨミジカシ、ヲモンハカル)[上・去] ――未練(ミレン)ノ(サウ)。〔態藝門355二〕

とあって、標記語「短慮」の語を収載し、語注記は「短慮は、未練の相」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

短慮(―リヨ) 。〔・言語進退門108四〕

短長(タンチヤウ) ―慮(リヨ)。―命(メイ)。―息(ゾク)。/―日(ジツ)。―氣(キ)。〔・言語門94八〕

短長(タンチヤウ) ―慮。―命。―息。/―日。―氣。―歌。〔・言語門86六〕〔・言語門105一〕

とあって、標記語「短慮」の語を収載し、訓みを「(タン)リヨ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

短慮(タンリヨ) ―命(メイ)。―氣(キ)。―才(サイ)。〔言辞門93二〜三〕

とあって、標記語「短慮」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「タンリヨ」として、「短慮」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「短慮」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

短慮(タンリヨ) ハ。忍(コラヘ)モナキ心也。短慮ト書テ思(ヲモヒ)ミシカシトヨメリ。〔下十七ウ一〕

とあって、この標記語「短慮」とし、語注記は「忍へもなき心なり。短慮と書きて思ひみじかしとよめり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

短慮(たんりよ)未練(ミれん)の仁(じん)短慮未練之仁 短慮ハ思慮の行足らぬを云。未練ハ事にねれさるをいふ。是ハ今度登る代官か事になれさるをいえるなり。〔58オ六〜七

とあって、この標記語「短慮」とし、語注記は「短慮は、よりたのむなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス。▲短慮(こゝ)にハ思慮(おもんばかり)の行(ゆき)(た)らぬをいふ。〔43ウ七〕        

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)短慮(こゝ)にハ思慮(おもんはかり)の行(ゆき)(た)らぬをいふ。〔78オ一〜二〕

とあって、標記語「短慮」の語とし、語注記は、「短慮爰には、思慮の行き足らぬをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tanrio.タンリョ(短慮) 怒り,あるいは,立腹.〔邦訳612l〕

とあって、標記語「短慮」の語を収載し、意味を「怒り,あるいは,立腹」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たん-りょ〔名〕【短慮】(一)思慮の足らざること。かんがへの淺きこと。淺慮。後漢書、袁紹傳、上「愚佻短慮輕進易退」謡曲、景清「只今はちと心にかかることの候ひて、短慮を申して候」清元、其小唄夢廓「生れ故郷は因幡の國、後先思はぬ若氣の短慮、義に依て人を害し、遙遙下りし此吾妻路」(二)たんき(短氣)に同じ。假名手本忠臣藏(寛延、出雲等)二「主人は生得、御短慮なる御生れつき」〔1250-2〕

とあって、標記語を「短慮」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「たん-りょ短慮】〔形動〕@考えが浅いこと。思慮が足りないこと。また、あさはかな考え。浅慮。短見。A気が短いこと。きみじか。せっかち。短気」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而先奉遇北條殿曰、将者不遁景親之圍給者永實云、客者若爲試永僧短慮給歟。《訓み下し》而ルニ先ヅ北条殿ニ遇ヒ奉ルニ武衛ノ御事ヲ問フ。北条殿)、曰ヘラク、将ハ景親ガ囲ヲ遁レ給ハズ、テイレバ、永実ガ云ク、客ハ若シ永僧ガ短慮(タンリヨ)ヲ試ミ給ハン為カ(羊僧)。《『吾妻鏡』の条》
勿怪な事は。気か短慮に酒にゑふては。人とからかひ。垣壁をも打やふり。らつしかなかつた。おほきずといふ。《寛永版『醒睡笑』》
 
標記語「御扶持」は、「ことばの溜池」(2002.02.04)参照。
 
2003年6月12日(木)小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
代官(ダイクハン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

代官(―クワン) 。〔元亀二年本138一〕

官也(タイクワン) 。〔静嘉堂本146五〕

代官(タイクワン) 。〔天正十七年本中5オ四〕

とあって、標記語「代官」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「タイクワン」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

憑貴方御扶持可進代官〔至徳三年本〕

憑貴方御扶持可進代官〔宝徳三年本〕

憑貴方御扶持可進代官〔建部傳内本〕

貴方御扶持|、代官〔山田俊雄藏本〕()

貴方御扶持|、代官〔経覺筆本〕

貴方御扶持|、代官文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「代官」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「代官」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

代官(ダイクワンシロ・カワリ、ツカサ)[去・平] 。〔人倫門334七〕

とあって、標記語「代官」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

代官(タイクワン) 。〔・人倫門99一〕

とあって、弘治二年本だけに標記語「代官」の語を収載し、訓みを「タイクワン」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

代官(ダイクワン) ―物(モツ)。〔言語門93六〕

とあって、標記語「代官」の語を収載し、語注記を未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「タイクワン」「ダイクワン」として、「代官」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「代官」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

-(ガウコ)シ候憑(タノン)貴方(キハウ)御扶持(フチ)ヲ|、代官(タイクワン) 合期ハ。不(ス)∨(シタカハ)ト云心也。ハタラキノ事ナリ。イトヽヲロカナルニ猶(ナヲ)短慮(タンリヨ)未練ニテハアシカルベシ。〔下十七オ六〕

とあって、この標記語「代官」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也/キ∨代官也 言こゝろハ前に言し如くにて自ら参訴する事を得さるゆへ貴辺の世話を頼ミとして名代をさし登(のほ)すと也。〔58オ五〜六

とあって、この標記語「代官」とし、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス。▲代官ハ名代(めうだい)のこと。〔43ウ六〜七〕         

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)代官ハ名代(めうだい)のこと。〔78一〕

とあって、標記語「代官」の語とし、語注記は、「代官は、名代のこと」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Daiquan.ダイクヮン(代官) Cauari tcucasadoru.(代りつかさどる) 主君の代理をつとめる人.§また,ある領地などを管理支配する役人,または,管理代行者.→Mochi,tcu.〔邦訳179r〕

とあって、標記語「代官」の語を収載し、意味を「主君の代理をつとめる人」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

だい-くゎん〔名〕【代官】(一)名代(ミヤウダイ)の職。長官に代りて土地を支配する職、國司の目代。又、すべて本官に代りて、其職掌を代理するもの。所司代、守護代、地頭代など云ふもこれなり。略して代とのみ云ふ。平家物語、十二、六代事「時政は鎌倉殿の御代官に、都の守護して候はれける」 太平記、一、頼員囘忠事「攝津國葛葉と云ふ處に、地下人、代官を背きて合戰に及ぶ事あり」(二)武家の世に、地方(ぢかた)の役。其支配地の年貢、公事、人別、を統べ掌る。徳川氏にては、これを郡代の次とし、勘定奉行に屬す。郡官。縣令。邑宰。吏徴別録、下「御代官前前之、云云、天和三年癸亥十一月廿五日、西國御代官野田三郎左衞門外八人、當分無役に入」明良帶録、世職「御代官」注「百五十俵高」〔1175-5〕

とあって、標記語を「代官」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「だい-かん代官】〔名〕@ある人の身代わり。かわりの人。Aある官職に正官としてではなく代理として臨時に勤める官。名代としての官職。B中世、主君の代理として事にあたる者。幕府の職制に定められた正官の代理を勤めるもの。諸国では守護の
代官を守護代といい、知行国では目代(もくだい)を知行主の代官といった。とくに守護代、地頭代をさすことが多い。C中世、荘官の下で荘園管理などその職務を代行したもの。預所(あずかりしょ)や請所(うけしょ)、下司代(げしだい)など。D江戸時代、幕府の直轄地(天領)数万石を支配する地方官の職名。勘定奉行に属し、管地の年貢収納と司法検察を主務として管地の民政一般をつかさどった。多くは二〇〇俵級の下級旗本が任命された。E(―する)江戸時代、大名が年貢収納その他、地方の支配に当たらせた役人。また、その役人として地方を支配すること」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
安田三郎使者、武藤五、自遠江國參著鎌倉、申云、爲御代官、令守護當國、相待平氏襲來。《訓み下し》安田ノ三郎ガ使者、武藤五、遠江ノ国ヨリ鎌倉ニ参著シテ、申シテ云ク、御代官トシテ、当国ヲ守護セシメ、平氏ノ襲ヒ来ルヲ相ヒ待ツ。《『吾妻鏡』治承五年三月十三日の条》
 
2003年6月11日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
貴方(キハウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「幾」部に、

貴方(―ハウ) 。〔元亀二年本281六〕

貴方(――) 。〔静嘉堂本321六〕

とあって、標記語「貴方」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(キ)ハウ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

貴方扶持可進代官也〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(タノン)テ貴方之御扶持|、代官〔山田俊雄藏本〕

貴方御扶持|、代官〔経覺筆本〕

貴方御扶持|、代官〔文明四年本〕()

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「貴方」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「貴方」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

貴方(キハウ/タトシ、カタ)[去・平] 。〔態藝門821六〕

とあって、標記語「貴方」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

貴方(―ハウ) 。〔・人倫門217七〕 貴方(キハウ) 。〔・言語進退門222一〕

貴人(キニン) ―方(ハウ)。―僧(ソウ)。〔・人倫門181九〕 貴命(キメイ) ―賤(せン)。―所。―殿。―答/―寵(テウ)―方。―辺。―報。〔・言語門185一〕

貴人(キニン) ―方。―所。―僧。―賤。〔・人倫門171六〕 貴命(キメイ) ―賤。―殿。―所。―答/―辺。―寵。―方。―報。〔・言語門174五〕

とあって、標記語「貴方」の語を収載し、訓みを「(キ)ハウ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

貴僧(キソウ) ―人(ニン)。―所(シヨ)―方(ハウ)。―斎(サイ)。〔人倫門185四〕

とあって、標記語「貴僧」の語を収載し、冠頭字「貴」の熟語群にも「貴方」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「キハウ」として、「貴方」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「貴方」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

-(ガウコ)シ候憑(タノン)貴方(キハウ)御扶持(フチ)ヲ|、代官(タイクワン)ヲ 合期ハ。不(ス)∨(シタカハ)ト云心也。ハタラキノ事ナリ。イトヽヲロカナルニ猶(ナヲ)短慮(タンリヨ)未練ニテハアシカルベシ。〔下十七オ六〕

とあって、この標記語「貴方」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也/ンテ貴方扶持 貴方ハよりたのむ也。貴方ハ先方をさす詞なり。貴公貴辺なとゝ云に同し。扶持ハ助力といふか如し。既に前に注せり。〔58オ四〜五

とあって、この標記語「貴方」とし、語注記は「貴方は、よりたのむなり。貴方は、先方をさす詞なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス〔43ウ六〕         

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)。〔77ウ六〕

とあって、標記語「貴方」の語とし、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、           

Qifo<.キハウ(貴方) Tattoqi cata.(貴き方) 上の条.〔Qifen(貴辺)〕に同じ.〔邦訳495r〕

とあって、標記語「貴方」の語を収載し、意味を「貴き方」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-はう〔名〕【貴方】あなた。あなたがた。太平記、十二、北野天満宮事「貴方と、愚僧と、師資の儀、淺からずといへども」〔0477-5〕

とあって、標記語を「貴方」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-ほう貴方】[一]〔名〕相手を敬って、その住む場所や住居をいう語。[二]〔代名〕対称。同等の相手に用いる敬称。男性が用いる。貴公。貴殿。貴君」とあって、『庭訓往来』の語用例は別な文で記載する。
[ことばの実際]
就中彼領家分者、自他無等閑之儀候之間、貴方ニ預置候也 《『大徳寺』(永徳二年)正月廿八日の条、3066・12/139》
 
2003年6月10日(火)薄晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
(タノミ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

(タノミ)()()() 。〔元亀二年本147七〕

(タノミ)()()() 。〔静嘉堂本159三〕

(タノミ)()()() 。〔天正十七年本中12オ二〕

とあって、標記語「」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「タノミ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

貴方扶持可進代官也〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

(タノン)貴方之御扶持|、代官〔山田俊雄藏本〕

貴方御扶持|、代官〔経覺筆本〕

貴方御扶持|、代官文明四年本()

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(タノム/ヒヨウ)[平](同/ライ)[去](同/)[上] 。〔態藝門371三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(タノム) 。〔・言語進退門106二〕〔・言語門96四〕〔・言語門87九〕〔・言語門106六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「タノム」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

(タノム)(同)(同) 。〔言辞門96五〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記を未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「タノミ」「タノム」として、「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

-(ガウコ)シ(タノン)貴方(キハウ)御扶持(フチ)ヲ|、代官(タイクワン)ヲ 合期ハ。不(ス)∨(シタカハ)ト云心也。ハタラキノ事ナリ。イトヽヲロカナルニ猶(ナヲ)短慮(タンリヨ)未練ニテハアシカルベシ。〔下十七オ六〕

とあって、この標記語「」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也/ンテ貴方扶持 ハよりたのむ也。貴方ハ先方をさす詞なり。貴公貴辺なとゝ云に同し。扶持ハ助力といふか如し。既に前に注せり。〔58オ四〜五

とあって、この標記語「」とし、語注記は「は、よりたのむなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)乃侘(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)(たの)代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス〔43ウ六〕         

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)。〔77ウ六〕

とあって、標記語「」の語とし、語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tanomi.タノミ() 懇願,または,信頼.§Tanomiuo caquru.(頼みを掛くる)誰か人に信頼をおき,期待をかける.§また,婚約のしるしとして送る贈物で,手付金のようなもの〔結納〕.§Tanomiuo yaru,l,vocuru.(頼みをやる,または,送る)そのような手付金〔結納金〕を送る.または,物を賣買する際に, その保証として手付金を渡す.〔邦訳611l〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味を「懇願,または,信頼」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たのみ〔名〕【】〔田穀の新たに實のりたるを、相賀して、頼む方へ奉りしより起ると云ふ〕稲の子(み)。源氏物語、十三、明石11「此世のまうけ、秋のたのみを刈りをさめ」 古今集、十、物名「後蒔の、「おくれて生ふる、苗なれど、あだにはならぬ、たのみとぞ聞く」 公事根源、下、八朔風俗「初は、田のみとて、米を打敷、かはらけなどに入れて、人のもとにつかはしけるとかや」 後撰集、五、秋、上「あけくらし、守るたのみを、刈らせつつ、袂そほづの、身とぞなりぬる」 小町集「實なき苗の穂に文をさして、人の許にやるに「秋風に、あふたのみこそ、悲しけれ、我身空しく、なりぬと思へば」〔1230-4〕

とあって、標記語を「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「たのみ】〔名〕(動詞「たのむ(頼)」の連用形の名詞化)@たのむこと、また、そのもの。イ力になるものとしてたよりに思うこと。また、そのもの。ロたよりに思ってはたらきかける事柄。A物を買うときの手付け金。B結納(ゆいのう)。言入(いいいれ)」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
天武皇子舊儀、追討王位推取之輩、訪上宮太子古跡、打亡佛法破滅之類矣、唯非人力。《訓み下し》天武皇子ノ旧儀ヲ尋イデ、王位ヲ推取スルノ輩ヲ追討シ、上宮太子ノ古跡ヲ訪ヒ、仏法破滅ノ類ヲ打チ亡ボサンコト、唯人力ノ構ヘヲムニ非ズ。《『吾妻鏡』治承四年四月二十七日の条》
 
2003年6月9日(月)曇り後晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
(タクサイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

(タクサイ)(シツ)スルヲ志曰――史記。〔元亀二年本140五〕

(タクサイ)志曰――史記。〔静嘉堂本149八〕

(タクサイ)(―)スルヲ曰――史記。〔天正十七年本中6ウ六〕

とあって、標記語「」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「タクサイ」とし、語注記は「志を失するをと曰ふ。『史記』」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

所領遺跡遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲労所領難合期候〔至徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違亂之際欲致參訴之處此間疲勞所領難合期候〔宝徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲所領難合期候〔建部傳内本〕

--堵遺-(ユイ―)ノ-論越ル∨-之間欲(ホツ)スル∨ント參訴之處此間疲勞(ヒ-)--(―サイ)-。〔山田俊雄藏本〕

所領安堵(―ト)遺跡(―セキ)ノ相論越境違乱之際欲ント參訴之處此間疲労(ヒラウ)所領侘(タクサイ)合期〔経覺筆本〕

--(ア―ト)-(ユイセキ)-(そう―)-(ヲツキヤウ)-乱之際ルニ∨サヌト參訴(サンソ)ヲ間疲-(ヒラウ)--(タクサイ)-(ーコ)文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

(ワヒアフ) 貧賤部/タクサイ。〔黒川本・疉字門中10オ五〕

(タクサイ) 。〔卷第四・疉字門452三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(タクサイワビル、ワビル)[入・○] 所領付非分義也。〔態藝門366一〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は「所領に非分を云ひ付き、民を悩ます義なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(タクサイ) 失志曰――。〔・言語進退門111二〕

(タクサイ) 。〔・言語門95八〕〔・言語門87五〕〔・言語門106二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「タクサイ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

絵鈷(タクサイ) 。 〔言語門93六〕

とあって、標記語「絵鈷」の語を収載し、語注記を未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「タクサイ」として、「」「絵鈷」の語を収載し、古写本
庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語であるが、広本節用集』の語注記とは異なりを見せるが、『運歩色葉集』や弘治二年本節用集』の語注記とは、これ以前の本文である
189知人之堪否理非分明ニシテ物之奸直者、万民之所帰也。心 ェ宥之扶(―)ヲ、強(ア―)ニ者、所領静謐之基也 史記云、失志云 又過ヲ∨必靜謐也。忘志皃。〔謙堂文庫藏二〇左D〕
とあって、この語注記「『史記』に云く、志を失するをと云ふ。また、大に過ちを必ず静謐に改めざるなり。志を忘るる皃」とあって、これに近似た語注記となっていることが確認できるのである。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--侘際-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

所領(シヨリヤウ)ノ侘際(タクサイ) トハ。所領ニサマタゲズ。〔下十七オ六〕

とあって、この標記語「」とし、語注記は「所領にさまたげず」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

所領(しよりやう)(たくせつ)合期(がうご)し難(かた)く候ふ/-侘際- 旅のつかれある上に又所領にいろ/\の事申ける者なとありて都合しかたきゆへ参訴する事もならすと也。合期の注ハ既に前にくわし。〔58オ二〜四

とあって、この標記語「」とし、語注記は「既に前にくわし」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間---貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐スハ四月ノ進状に見ゆ。〔43ウ六〕         

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)ハ四月進状に見ゆ。〔77ウ六〕

とあって、標記語「」の語とし、語注記は、「は、四月の進状に見ゆ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tacusai.タクサイ() 限界,あるいは,際限.例,Tacusaimo mo< vazzuro<.(侘際も無う煩ふ)自分のことがわからないほどひどく病んでいる.§Tacusaimo nai.(侘際もない)すなわち,Qiuamo nai.(際もない) はかりきれないほど限りもなく大きい(もの).〔邦訳600l〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味を「限界,あるいは,際限」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「たく-さい〔名〕【】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「たく-さい】〔名〕(「(たてい)」の慣用読み)志を失うこと。失意、困窮すること」とあって、『庭訓往来』の語用例を記載する。
[ことばの実際]
呵法譴責於諸庄之間、百姓等、及、不安堵由、遍有其聞。《訓み下し》呵法ノ譴責ヲ諸庄ニ致スノ間、百姓等、(タクサイ)ニ及テ、安堵セザル由、遍ク其ノ聞エ有リ。《『吾妻鏡』文応元年十二月二十五日の条》
 
2003年6月8日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(玉川→駒沢)
疲勞(ヒラウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「飛」部に、

疲勞(―ラウ) 。〔元亀二年本342四〕

疲勞(ヒラウ) 。〔静嘉堂本410四〕

とあって、標記語「疲勞」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「ヒラウ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

所領遺跡遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲労所領侘鈷難合期候〔至徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違亂之際欲致參訴之處此間疲勞所領侘鈷難合期候〔宝徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間所領侘鈷難合期候〔建部傳内本〕

--堵遺-(ユイ―)ノ-論越ル∨-之間欲(ホツ)スル∨ント參訴之處此間疲勞(ヒ-)-領侘-(―サイ)-。〔山田俊雄藏本〕

所領安堵(―ト)遺跡(―セキ)ノ相論越境違乱之際欲ント參訴之處此間疲労(ヒラウ)所領侘鈷(タクサイ)合期〔経覺筆本〕

--(ア―ト)-(ユイセキ)-(そう―)-(ヲツキヤウ)-乱之際ルニ∨サヌト參訴(サンソ)ヲ-(ヒラウ)-領侘-(タクサイ)-(ーコ)文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。なかで、建部傳内本が「疲身」という表記にしていて他写本と異なっている。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「疲勞」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「疲勞」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

疲労(ヒラウツカルヽ、イタワル)[平・平] 。〔態藝門1045七〕

とあって、標記語「疲労」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

疲勞(ヒラウ) 。〔・言語進退門256五〕〔・言語門218九〕

疲労(ヒラウ) 。〔・言語門204一〕

とあって、標記語「疲勞」「疲労」の語を収載し、訓みを「ヒラウ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

疲勞(ヒラウ) 。〔言辞門227二〕

とあって、標記語「疲勞」の語を収載し、語注記は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ヒラウ」として、「疲勞」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「疲勞」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

此間(ヒラウ) トハ。コトタラヌ事也。又ツカレイタム事ナリ。〔下十七オ六〜七〕

とあって、この標記語「疲勞」とし、語注記は「ことたらぬ事なり。又つかれいたむ事なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(この)(あいた)疲勞(ひらう)此間疲労 もつかれたる也。近比下者してまた旅のつかれあるをいふ。〔58オ一〜二

とあって、この標記語「疲勞」とし、語注記は「もつかれたる也。近比下者してまた旅のつかれあるをいふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)疲勞(ひらう)所領(しよれう)侘鈷(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘鈷-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス〔43ウ六〕         

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の侘鈷(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)。〔77ウ六〕

とあって、標記語「疲勞」の語とし、語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Firo<.ヒラウ(疲勞) Tcucare,itazzugauaxij.(疲れ,いたづがはしい)疲れ.§Firo<xita.(疲労した)私は疲れてくたくただ.§また,比喩.貧しく以前に持っていた家財や道具類もなくした人のことを言う.〔邦訳243l〕

とあって、標記語「疲勞」の語を収載し、意味を「(疲れ,いたづがはしい)疲れ」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-らう〔名〕【疲勞】身のつかるゝこと。三國志、魏志、ケ艾傳「將士疲勞、不使用、」太平記、三十五、京勢重南方撥向事「折を得て疲勞の軍勢、猛惡の下部共、辻辻に打散って」〔1708-3〕

とあって、標記語を「疲勞」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-ろう疲労】〔名〕@一般に、筋肉や臓器あるいは精神機能を使いすぎた結果機能が衰退し、だるさなどを感じるようになること。また、その状態。罷労。疲れ。A貧しくなること。また、貧乏なこと。B何度も使われて、その物に弾性限界内の力を加えてもこわれる状態になること。疲れ。「金属疲労」」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
姫君、猶令疲勞給剰自去十二日、御目上瞳御此事殊凶相之由、時長、驚申之。《訓み下し》姫君、猶疲労(ヒロウ)セシメ給フ。剰ヘ去ヌル十二日ヨリ、御目ノ瞳ヲ上ゲ御フ(御目ノ上腫レ御フ)。此ノ事殊ニ凶相ノ由、時長、之ヲ驚キ申ス。《『吾妻鏡』正治元年六月十四日の条》
 
2003年6月7日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(桜上水→駒沢)
參訴(サンソ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「佐」部に、「参宮(クウ)。参入(ニウ)。参詣(ゲイ)。参話(ワ)。参暇(カ)。参内(タイ)。参會(クワイ)。参篭(サンロウ)。参洛(ラク)。参議宰相之唐名。参和(ワ)。参上(ジヤウ)。参謁(エツ)。参拝(パイ)」の十四語を収載するが、標記語「參訴」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

所領遺跡遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲労所領侘難合期候〔至徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違亂之際欲致參訴之處此間疲勞所領侘難合期候〔宝徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲所領侘難合期候〔建部傳内本〕

--堵遺-(ユイ―)ノ-論越ル∨-之間欲(ホツ)スル∨ント參訴之處此間疲勞(ヒ-)-領侘-(―サイ)-。〔山田俊雄藏本〕

所領安堵(―ト)遺跡(―セキ)ノ相論越境違乱之際欲ント參訴之處此間疲労(ヒラウ)所領侘(タクサイ)合期〔経覺筆本〕

--(ア―ト)-(ユイセキ)-(そう―)-(ヲツキヤウ)-乱之際ルニ∨サヌト參訴(サンソ)間疲-(ヒラウ)-領侘-(タクサイ)-(ーコ)文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「參訴」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』に、標記語「參訴」の語を未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書においては訓みを「サンソ」として、「參訴」の語は未収載となている。これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には収載しているのである。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「參訴」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

參訴(サンソ)ノ之處ニ トハ。所領ニサマタゲズ。〔下十七オ六〕

とあって、この標記語「參訴」とし、語注記は「所領にさまたげず」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

參訴(さんそ)(いた)さんと欲(ほつ)するの処(ところ)スル∨サント參訴之處 參訴ハまいりうつたふる也。加賀の国中に所領安堵の者遺跡越境のあらそひなとありて大丞(だいじやう)か所存(しよそん)にて捌きかたき事ゆへ參らして訴人下知を成んと思ふをいふなり。〔57ウ七〜58オ一

とあって、この標記語「參訴」とし、語注記は「參訴は、まいりうつたふるなり。加賀の国中に所領安堵の者遺跡越境のあらそひなとありて大丞が所存にて捌きかたき事ゆへ參らして訴人下知を成んと思ふをいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨引付汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス〔43ウ六〕         

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)。〔77ウ六〕

とあって、標記語「參訴」の語とし、語注記は、「參訴は、親の遺し置れし跡を誰彼取らんと争そふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「參訴」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「さん-〔名〕【參訴】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さん-參訴】〔名〕参上、また参内して訴えること」とあって、『庭訓往来』の語用例を記載する。
[ことばの実際]
仍多見狼藉之由、彼山衆徒等、參訴之間、武衛、今日被遣御自筆御書、被宥仰之。《訓み下し》仍テ多ク狼藉ヲ見スノ由、彼ノ山ノ衆徒等、参訴(サンソ)スルノ間、武衛、今日御自筆ノ御書ヲ遣ハサル、之ヲ宥メ仰セラル。《『吾妻鏡』治承四年八月十九日の条》
 
2003年6月6日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
違乱(イラン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

違乱(イラン) 。〔元亀二年本10四〕

違乱(イラン) 。〔静嘉堂本1四〕

違乱(イラン) 。〔天正十七年本上3オ三〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「違乱」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「イラン」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

所領遺跡遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲労所領侘難合期候〔至徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違亂之際欲致參訴之處此間疲勞所領侘難合期候〔宝徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲所領侘難合期候〔建部傳内本〕

--堵遺-(ユイ―)ノ-論越ル∨-之間欲(ホツ)スル∨ント參訴之處此間疲勞(ヒ-)-領侘-(―サイ)-。〔山田俊雄藏本〕

所領安堵(―ト)遺跡(―セキ)ノ相論越境違乱之際欲ント參訴之處此間疲労(ヒラウ)所領侘(タクサイ)合期〔経覺筆本〕

--(ア―ト)-(ユイセキ)-(そう―)-(ヲツキヤウ)-之際ルニ∨サヌト參訴(サンソ)ヲ間疲-(ヒラウ)-領侘-(タクサイ)-(ーコ)文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

違濫 井ラン/乱イ本。〔黒川本・疉字門中57ウ三〕

違背 〃例。〃勅。〃格。〃期。〃乱。〃衆。〃紛。〃濫。〃犯。〔卷第六・疉字門234四〕

とあって、標記語「違背」の冠頭字「違」の熟語群に「違乱」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

違乱(イラン)字日本〓ニ。非ナリ也。〔言辭門151六〕

とあって、標記語「違乱」の語を収載し、語注記は「違の字日本に〓に作。非なり」と記載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

違亂(イランソムク・タガウ、ミダル)[去・上] 日本俗作〓乱。非也。〔態藝門597八〕

とあって、標記語「違乱」の語を収載し、語注記は「日本の俗〓と作す。非なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

違乱(イラン) 。〔・言語進退門13一〕〔・言語門8二〕

違乱(イラン) ―背。―約。―衆朋友/―変。―例。―期。―犯。〔・言語門6五〕

違乱(イラン) ―背(ハイ)。―約(ヤク)。―衆(シユ)朋友。―変(ヘン)/―例(レイ)。―期(ゴ)。―犯(ボン)。〔・言語門8二〕

とあって、標記語「違乱」の語を収載し、訓みを「イラン」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

違變(井ヘン) ―背(ハイ)。―犯(ボン)―乱(ラン)。〔言語門122四〕

とあって、標記語「違變」の語を収載し、冠頭字「違」の熟語群にも「違乱」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「イラン」として、「違乱」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越--之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「違乱」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

越境(エツキヤウ)違乱(イラン)之際(アヒタ)(イタサ)ントハ 越境違乱ノ事。我サカイ。人ノサカイト限(カキ)リ有ヲ。他ノサカイヲコシ。ワウリヤウス。其ヲ又辨(ワキ)マヘテ遺乱(イ―)ス是ヲ越境ト云フナリ。〔下十七オ五〜六〕

とあって、この標記語「違乱」とし、語注記は「越境違乱の事。我さかい。人のさかいと限り有るを。他のさかいをこし。わうりやうす。其れを又辨まへて遺乱す。是れを越境と云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

越境(ゑつきやう)違乱(いらん)の際(あいだ)越境違乱之際 (さかい)の入乱れて定かたきをとやかく申訴(うつた)ふるを云。〔57ウ五〜六

とあって、この標記語「違乱」とし、語注記は「境の入乱れて定めがたきをとやかく申し訴たふるを云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨引付汰定所領安堵遺跡争論--之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス。▲越境違乱ハ境(さかい)を越(こゆ)るの乱(ミだれ)也。境目(さいめ)の論(あらそい)をいふ。〔43ウ六〕

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)越境違乱ハ境(さかい)を越(こゆ)るの乱(ミだれ)也。境目(さいめ)の論(あらそい)をいふ。〔77ウ六〜七〕

とあって、標記語「違乱」の語とし、語注記は、「越境違乱は、境を越ゆるの乱れなり。境目の論をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iran.イラン(違乱) Tagai midaruru.(違ひ乱るる)何か約束事などに背いたり,それを破ったりして,物事を妨害したり,かき乱したりするようなことをいろいろと言うこと.§Iranuo yu<(違乱を言ふ)上述のようなことをいろいろと言う.§Cono gui iran aruna.(この儀違乱あるな)決して,違約するな,背くな,それのみならず,妨害するようなこととか,不都合なことなどを言うな.〔邦訳339r〕

とあって、標記語「違乱」の語を収載し、意味を「(違ひ乱るる)何か約束事などに背いたり,それを破ったりして,物事を妨害したり,かき乱したりするようなことをいろいろと言うこと」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-らん〔名〕【違乱】たがひみだるること。秩序の紊亂すること。又、法をみだすこと。左傳、桓公二年「而況將違亂之賄器於大廟、其若之何」 沙石集、五、下、第十四條「永代を限りて、子孫まで違亂あるまじき由の御下文給てぞ下ける、わりなき勸賞にこそ」〔2187-3〕

とあって、標記語を「違乱」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-らん違乱違濫】〔名〕@決まりなどにそむいて秩序を乱すこと。また、秩序が乱れること。A他人の考え、やり方に反対すること。苦情」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
兼又縱雖被下勅宣院宣事候、爲朝爲世、可及違亂端之事者、再三可令覆奏給候也。《訓み下し》兼テハ又縦ヒ勅宣院宣ヲ下サルル事候フト雖モ、朝ノ為世ノ為、違乱ノ端ニ及ブベキノ事ハ、再三覆奏セシメ給フベク候フナリ。《『吾妻鏡』文治二年四月三十日の条》
 
2003年6月5日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
越境(ヲッキャウ→エツキャウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「衛」部には、「越後(エチゴ)七―」の一語を収載するのみで標記語「越境」の語を未収載にする。そして、「遠」部に、

越境(―キヤウ) 。〔元亀二年本77五〕

越境(―キヤウ) 。〔静嘉堂本94六〕

越境(ヲツキヤウ) 。〔天正十七年本上47オ三〕

とあって、標記語「越境」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(ヲツ)キヤウ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

所領遺跡遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲労所領侘難合期候〔至徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違亂之際欲致參訴之處此間疲勞所領侘難合期候〔宝徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲所領侘難合期候〔建部傳内本〕

--堵遺-(ユイ―)ノ-ル∨-之間欲(ホツ)スル∨ント參訴之處此間疲勞(ヒ-)-領侘-(―サイ)-。〔山田俊雄藏本〕

所領安堵(―ト)遺跡(―セキ)ノ相論越境違乱之際欲ント參訴之處此間疲労(ヒラウ)所領侘(タクサイ)合期〔経覺筆本〕

--(ア―ト)-(ユイセキ)-(そう―)-(ヲツキヤウ)-乱之際ルニ∨サヌト參訴(サンソ)ヲ間疲-(ヒラウ)-領侘-(タクサイ)-(ーコ)文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載していて、とりわけ、「越境」の語については、文明四年本に「ヲツキヤウ」の訓が施されていて『運歩色葉集』に共通する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「越境」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』に、標記語「越境」の語を未収載にする。また、易林本節用集』に、

越境(―キヤウ) 。〔言語門063二〕

とあって、標記語「越境」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ヲツキヤウ」として、「越境」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論--乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「越境」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

越境(エツキヤウ)違乱(イラン)之際(アヒタ)(イタサ)ントハ 越境違乱ノ事。我サカイ。人ノサカイト限(カキ)リ有ヲ。他ノサカイヲコシ。ワウリヤウス。其ヲ又辨(ワキ)マヘテ遺乱(イ―)ス是ヲ越境ト云フナリ。〔下十七オ五〜六〕

とあって、この標記語「越境」とし、語注記は「越境違乱の事。我さかい。人のさかいと限り有るを。他のさかいをこし。わうりやうす。其れを又辨まへて遺乱す。是れを越境と云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

越境(ゑつきやう)違乱(いらん)の際(あいだ)越境違乱之際 (さかい)の入乱れて定かたきをとやかく申訴(うつた)ふるを云。〔57ウ五〜六

とあって、この標記語「越境」とし、語注記は「境の入乱れて定めがたきをとやかく申し訴たふるを云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨引付汰定所領安堵遺跡争論--乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス。▲越境違乱ハ境(さかい)を越(こゆ)るの乱(ミだれ)也。境目(さいめ)の論(あらそい)をいふ。〔43ウ六〕

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)越境違乱ハ境(さかい)を越(こゆ)るの乱(ミだれ)也。境目(さいめ)の論(あらそい)をいふ。〔77ウ六〜七〕

とあって、標記語「越境」の語とし、語注記は、「越境違乱は、境を越ゆるの乱れなり。境目の論をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vocqio<.ヲッキャウ(越境) Sacaiuo coyuru.(境を越ゆる) ある地所の境界を越えて,隣の人の地所に入ること.例,Vocqio< so<ron.(越境相論)地所の境界を越えることについての争論や紛争.〔邦訳700r〕

とあって、標記語「越境」の語を収載し、意味を「(境を越ゆる)ある地所の境界を越えて,隣の人の地所に入ること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ゑつ-きゃう〔名〕・をつ-きゃう〔名〕【越境】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「えつ-きょう越境】〔名〕@境界を越えること。特に国境を越え、不法に他国に侵入することをいう場合もある。A「えっきょうにゅうがく(越境入学)」の略」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にするが、@の意味で『庭訓往来抄』(1631年)中「越境違乱之際、欲參訴」の用例を収載する。また、標記語「おっ-きょう越境】〔名〕国境を越えること。国境を越えて隣国に侵入すること。えっきょう」とあって、こちらには『運歩色葉集』『日葡辞書』の用例が記載されている。
[ことばの実際]
畑庄屏風村・押部等地下人越境致違乱云々、事実者甚不可然、《『醍醐寺文書』応永卅二年十二月廿三日の条2630-1・12/112》
 
2003年6月4日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
相論(サウロン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「佐」部に、

相論(―ロン) 。〔元亀二年本270二〕〔静嘉堂本308一〕

とあって、標記語「相論」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「サウロン」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

所領遺跡遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲労所領侘難合期候〔至徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違亂之際欲致參訴之處此間疲勞所領侘難合期候〔宝徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲所領侘難合期候〔建部傳内本〕

--堵遺-(ユイ―)ノ-ル∨-之間欲(ホツ)スル∨ント參訴之處此間疲勞(ヒ-)-領侘-(―サイ)-。〔山田俊雄藏本〕

所領安堵(―ト)遺跡(―セキ)ノ相論越境違乱之際欲ント參訴之處此間疲労(ヒラウ)所領侘(タクサイ)合期〔経覺筆本〕

--(ア―ト)-(ユイセキ)-(そう―)-(ヲツキヤウ)-乱之際ルニ∨サヌト參訴(サンソ)ヲ間疲-(ヒラウ)-領侘-(タクサイ)-(ーコ)文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「相論」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「相論」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

相論(サウロンアウ、アラソウ)[平去・平去] 。〔態藝門786四〕

とあって、標記語「相論」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

相論(サウロン) 。〔・言語進退門214六〕

相續(サウゾク) ―應(ヲウ)。―違(イ)。―當(タウ)。―博(アイカエル)/―傳(デン)―論(ロン)。―加(カ)。〔・言語門178三〕

相續(サウゾク) ―應。―違。―當。―博/―傳。―論。―加。―通。〔・言語門167四〕

とあって、標記語「相論」の語を収載し、訓みを「サウロン」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

相論(サウロン) ―好(カウ)。―傳(デン)。―對(ツイ)。―順(シタガフ)。―生(シヤウ)。―當(タウ)/―違(イ)。―續(ゾク)。―尅(コク)。―承向(ぜウ)。―應(ヲウ)。〔言辞門180七〕

とあって、標記語「相論」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「サウロン」として、「相論」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「相論」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

遺跡(イセキ)相論(サウロン) ハ。親(ヲヤ)ノ讓(ユツラ)レシアトヲ辨(ハキマ)ヘテ相論スル事。〔下十七オ四〜五〕

とあって、この標記語「相論」とし、語注記は「親の讓られしあとを辨へて相論する事」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

遺跡(ゆいせき)爭論(さうろん)遺跡爭論 父の領所を一門の内にて誰彼(たれかれ)か取んとあらそふを云。〔57ウ五〜六

とあって、この標記語を「爭論」とし、語注記は「父の領所を一門の内にて誰彼が取らんとあらそふを云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨引付汰定所領安堵遺跡争論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス。▲遺跡争論ハ親(おや)の遺(のこ)し置(をか)れし跡(あと)を誰彼(たれかれ)(とら)んと争(あらそ)ふ也。〔43ウ六〕         

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)遺跡爭論ハ親(おや)の遺(のこ)し置れし跡(あと)を誰彼(たれかれ)(とら)んと争(あらさ)ふ也。〔77ウ六〕

とあって、標記語「爭論」の語とし、語注記は、「遺跡争論は、親の遺し置れし跡を誰彼取らんと争そふ」と記載する。このように、江戸時代の注釈書になると、「遺跡相論」は、「遺跡爭論」へ置換表記されていることが明確である。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

So>ron.(ママ)サウロン(相論) Ai,ronzuru.(相,論ずる)議論,論争,あるいは,口論.※So<ron(サウロン)の誤り.〔邦訳576r〕

とあって、標記語「相論」の語を収載し、意味を「(相,論ずる)議論,論争,あるいは,口論」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さう-ろん〔名〕【爭論】言ひあらそふこと。いさかひ。史記、儒林傳「爭論一」源平盛衰記、八、法皇三井寺灌頂事「縱ひ、和合海にこそ入らざらめ、諍論を專らにし」(に同じ)〔0775-5〕

とあって、標記語を「爭論」の語をもって収載するに留まる。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「そう-ろん相論】〔名〕自己の言い分を主張しあうこと。言い争うこと。また、紛争すること。特に、土地に関して両当事者がおのおの権利を主張すること。訴訟して争うこと」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而天野右馬允則景、生虜之由、相論之二品仰行政、先被注置兩人馬并甲毛等。《訓み下し》而ルニ天野ノ右馬ノ允則景、之ヲ生虜ルノ由、之ヲ相論(サウロン)ス。二品行政ニ仰セラレ、先ヅ両人ノ馬并ニ甲ノ毛等ヲ注シ置カル。《『吾妻鏡』文治五年九月七日の条》
 
2003年6月3日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
遺跡(ユ井セキ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「遊」部に、

遺跡(―セキ) 。〔元亀二年本292六〕〔静嘉堂本339六〕

とあって、標記語「遺跡」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(ユイ)セキ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

所領遺跡遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲労所領侘難合期候〔至徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違亂之際欲致參訴之處此間疲勞所領侘難合期候〔宝徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲所領侘難合期候〔建部傳内本〕

---(ユイ―)-論越ル∨-之間欲(ホツ)スル∨ント參訴之處此間疲勞(ヒ-)-領侘-(―サイ)-。〔山田俊雄藏本〕

所領安堵(―ト)遺跡(―セキ)相論越境違乱之際欲ント參訴之處此間疲労(ヒラウ)所領侘(タクサイ)合期〔経覺筆本〕

--(ア―ト)-(ユイセキ)-(そう―)-(ヲツキヤウ)-乱之際ルニ∨サヌト參訴(サンソ)ヲ間疲-(ヒラウ)-領侘-(タクサイ)-(ーコ)文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「遺跡」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「遺跡」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

遺跡(ユイせキノコル、アト)[去・去] 。〔態藝門862八〕

とあって、標記語「遺跡」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

遺跡(ユイセキ) 。〔・言語進退門227四〕

遺言(ユイゴン) ―跡(せキ)。―誡(カイ)。―物(モツ)。〔・言語門188八〕

遺言(ユイゴン) ―跡。―誡/―物。―恨。〔・言語門178四〕

とあって、標記語「遺跡」の語を収載し、訓みを「ユイセキ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

遺誡(ユイカイ) ―跡(せキ)。―物(モツ)。 ―言(コン)。―教經(ケウキヤウ)。―君(クン)。―骨(コツ)。〔言辞門194五〕

とあって、標記語「遺誡」の語を収載し、冠頭字「遺」の熟語群にも「遺跡」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ユイセキ」として、「遺跡」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

440遺跡相論越-境違-乱之際參訴之處此間(ビ/ヒ)--際難-貴方御扶持|、代官短慮練之仁令稽古之程ンハ∨御詞者越度出來歟‖_与草案土代導奉行所者恐ス引付問注所上裁(サイ) 公方樣耳直云也。〔謙堂文庫蔵四三右F〕

とあって、標記語を「遺跡」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

遺跡(イセキ)相論(サウロン) ハ。親(ヲヤ)ノ讓(ユツラ)レシアトヲ辨(ハキマ)ヘテ相論スル事。〔下十七オ四〜五〕

とあって、この標記語「遺跡」とし、語注記は「親の讓られしあとを辨へて相論する事」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

遺跡(ゆいせき)争論(さうろん)遺跡争論 父の領所を一門の内にて誰彼(たれかれ)か取んとあらそふを云。〔57ウ五〜六

とあって、この標記語「遺跡」とし、語注記は「父の領所を一門の内にて誰彼が取らんとあらそふを云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨引付汰定所領安堵遺跡相論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間---貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所恐ス。▲遺跡争論ハ親(おや)の遺(のこ)し置(をか)れし跡(あと)を誰彼(たれかれ)(とら)んと争(あらそ)ふ也。〔43ウ六〕         

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)遺跡争論ハ親(おや)の遺(のこ)し置れし跡(あと)を誰彼(たれかれ)(とら)んと争(あらさ)ふ也。〔77ウ六〕

とあって、標記語「遺跡」の語とし、語注記は、「遺跡争論は、親の遺し置れし跡を誰彼取らんと争そふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yuixeqi.ユイセキ(遺跡) Nocoru ato.(遺る跡) すなわち,人の死後に残る物.たとえば,家財など.§また,比喩.人が生前にして残しておく手本,または,行跡.〔邦訳835l〕

とあって、標記語「遺跡」の語を収載し、意味を「(遺る跡)すなわち,人の死後に残る物.たとえば,家財など」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ゆゐ-せき〔名〕【遺跡】又、ゐせき。古への物事ののこりたる跡。字鏡抄、「遺迹」易林本節用集(慶長)下、言辭門「遺跡、ユイセキ」〔2079-3〕

とあって、標記語を「遺跡」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ゆい-せき遺跡】〔名〕@ある人、または事件に深い関係のある場所、また建築物のあった跡。いせき。A故人ののこした領地、官職など、遺領(ゆいりょう)。また、それを相続する後嗣。跡目(あとめ)。いせき」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
八幡太郎遺跡、如舊相從東八箇國勇士、令對治八逆凶徒八條入道相國一族給之條、在掌裏。《訓み下し》八幡太郎ノ遺跡(ユイセキ)ヲ禀ケ、旧ノ如ク東八箇国ノ勇士ヲ相ヒ従ヘ、八逆ノ凶徒八条ノ入道相国ノ一族ヲ対治セシメ給ハンノ条、掌ノ裏ニ在リ。《『吾妻鏡』治承四年七月五日の条》
 
2003年6月2日(月)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
安堵(アンド)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「阿」部に、

安堵(アンド) 史記――如故。〔元亀二年本257二〕

安堵(アンド) 史記――如(モト)ノ。〔静嘉堂本290二〕

とあって、標記語「安堵」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「アンド」とし、語注記は「『史記』に、安堵故(モト)の如し」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

所領安堵遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲労所領侘難合期候〔至徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違亂之際欲致參訴之處此間疲勞所領侘難合期候〔宝徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲所領侘難合期候〔建部傳内本〕

---(ユイ―)ノ-論越ル∨-之間欲(ホツ)スル∨ント參訴之處此間疲勞(ヒ-)-領侘-(―サイ)-。〔山田俊雄藏本〕

所領安堵(―ト)遺跡(―セキ)ノ相論越境違乱之際欲ント參訴之處此間疲労(ヒラウ)所領侘(タクサイ)合期〔経覺筆本〕

--(ア―ト)-(ユイセキ)-(そう―)-(ヲツキヤウ)-乱之際ルニ∨サヌト參訴(サンソ)ヲ間疲-(ヒラウ)-領侘-(タクサイ)-(ーコ)文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

安堵 地部/アント/田舎部。〔黒川本・疉字門下32オ七〕

安危(アンヤク) 〃居九十日。〃閑。〃平。〃穏。〃坐。〃摩舞。〃寧。〃襌。〃慰。〃適。〃寢シム。〃祥。〃樂。〃堵。〃房國名。〃藝。〃置。〃養。〃内。〔卷第八・疉字門354六〕

とあって、標記語「安堵」の語を収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

安堵(アント) 。〔言辭門149一〕

とあって、標記語「安堵」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

安堵(アンド・イツクソヤスシ、カキ)[去・上] ――字出漢高紀ヨリ史記本記云。吏民――如故。〔態藝門750五〕

とあって、標記語「安堵」の語を収載し、語注記は「安堵の字漢高紀より出づ。史記本記云く。吏民安堵故の如し」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

安堵(アンド) 出于漢書。〔・言語進退門206六〕

安穏(アンヲン) ―平(ベイ)。―排(バイ)。―楽(ラク)。/―堵(ト)。―危(キ)。―全。〔・言語門170三〕

安穏(アンヲン) ―平。―排。―楽。―否。―寧。―養/―靜。―堵。―危。―全。―泰。―居。〔・言語門159七〕

とあって、標記語「安堵」の語を収載し、訓みを「アンド」とし、語注記は弘治二年本に、「『漢書』に出づ」と記載する。また、易林本節用集』に、

安穏(アンヲン) ―堵(ド)。―居(ゴ)。―全(せン)。―樂(ラク)。―置(ヂ)。―坐(ザ)。―否(フ)。―心(ジム)―危(キ)。〔言辞172四〕

とあって、標記語「安穏」の語を収載し、冠頭字「安」の熟語群に「安堵」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「アンド」として、「安堵」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

439定(ヲコナハシ)候歟所領安堵 堵五版堵、云一版二尺、是ルヲ、一堵墻、長丈高一丈也。〔謙堂文庫蔵四三右E〕

とあって、標記語を「安堵」とし、その語注記は、「堵は、五版を堵と爲す、云く一版の廣さ二尺、是れを五つ合せるを堵と舎し、一堵墻、長丈高さ一丈なり」と記載する。この注記は上記古辞書には全く反映されていない、いわば、特有の注記である。広本節用集』では、「環堵(クワント/メクル,カキ)」〔545四〕の注記に「謂計會人。土――之室。注ニ堵ハ長(ナカサ)一丈高一丈云々」とあって、これらが稍近似た注記である。

 古版庭訓徃来註』では、

所領(シヨリヤウ)ノ安堵(アント) ノコト先祖(ソ)ノ所領中絶(せツ)ス。今安堵(ト)シタリ。〔下十七オ四〕

とあって、この標記語「安堵」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

所領(しよれう)安堵(あんど)所領安堵 安堵の字漢書(かんしよ)に見へたり。師古(しこ)か注に動(うごか)しうつさゝるをいふといえり。所領安堵とハ今迄領し來りし地所を其儘に領するをいふなり。〔57ウ四〜五

とあって、この標記語「安堵」とし、語注記は「安堵の字『漢書』に見へたり。師古が注に動かしうつさざるをいふといえり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨御引付沙汰定所領安堵遺跡相論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間--領侘-貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所者恐ス。▲安堵ハ墻(かき)を安(やす)んずるにて其居所(きよしよ)に落着(をちつき)て動(うご)かざる義(き)也。三月ノ返状田堵(でんど)の注(ちう)を見合すべし。〔43ウ五〜六〕         

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)安堵ハ墻(かき)を安(やす)んずるにて其居所(きよしよ)に落着(おちつき)て動(うご)かざる義(き)也。三月ノ返状田堵(でんと)の注(ちゆう)を見合すべし。〔77ウ五〜六〕

とあって、標記語「安堵」の語とし、語注記は、「安堵は、墻を安んずるにて其の居所に落着きて動かざる義なり。。三月の返状田堵の注を見合すべし」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Ando.アンド(安堵) 以前からの望みを達したことから来る安心.§また,以前に自分が所有していた本来の領地に戻ること.§Ando suru.l,fonrio<ni ando suru.(安堵する.または,本領に安堵する)自分の本来の領地に帰される.§Andono vomoiuo nasu.(安堵の思をなす)心が静まり安心する.〔邦訳25r〕

とあって、標記語「安堵」の語を収載し、意味を「以前からの望みを達したことから来る安心.また,以前に自分が所有していた本来の領地に戻ること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

あん-〔名〕【安堵】〔説文「堵、垣(かき)也」己が居處の意〕(一)人民、其地に安んじて居ること。安住。史記、高祖紀、高祖入關「諸吏人、皆(ヤスン)ズルコト(モト)ノ」 文選、檄蜀文「百姓土民、安堵業」續記、七、靈龜元年十月「陸奥蝦夷、云云、請香河村、造建郡家、爲編戸民、永保安堵、云云、許之」(香河は、久呂河(黒川郡)の誤なるか)古今著聞集、十二、偸盗「昔は、八幡の兒(ちご)にて、云云、叔父を殺して、八幡にも安堵せず」(節文)(二)武家時代、安堵の地、即ち、將士、社寺の領地の所有權を、公認せらるること。父の領地を繼承し、又は、中絶せし舊領地を返し與へらるるを、本領安堵と云ひ、其公認の證書を、安堵下文(あんどのくだしぶみ)と云ひ、それを略して、安堵とのみも云ふ。安堵の請願、訴訟を受理し、證書を下附する職を、安堵奉行と云ふ。太平記、六、赤坂合戰事「本領安堵の御教書を成し、殊に功あらむ者には、則恩賞を可沙汰」(敵に對して云へるなり) 建内記、正長二年七月廿九日「可安堵御書於三寳院准后」(寺領安堵なり) 謡曲、鉢木、佐野源左衛門常世「常世が本領、佐野庄三十餘郷、返し與ふる所なり、云云、自筆の状、安堵を取添へ賜(た)びければ」 新編追加、雜務「御下文施行事、以配分状、可奉行人(三)身の落着(おちつき)。心のおちつき。安意。安心。百錬抄、十四、四條院「立兵士屋篝火、云云、諸人安堵之計也」 盛衰記、十八、文覺清水状事「沖吹く風も和(な)ぎて、岸打つ浪も靜なり、舟中の者も安堵し、云云」〔0093-1〕

とあって、標記語を「安堵」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「あん-安堵】〔名〕(「堵」は垣の意)@(―する)垣の内に安じて居ること。転じて、土地に安心して住むこと。家業に安ずること。また、安住できる場所。A(―する)心の落ち着くこと。安心すること。B(―する)中世、幕府や戦国大名が御家人・家臣の所領の領有を承認すること。特に、親から受けついだ所領の承認を本領安堵という。C以前本人またはその父祖が領有していた土地を取り戻すこと。D「あんどじょう(安堵状)」の略」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
右至于東國者、諸國一同、庄公皆可爲御沙汰之旨、親王宣旨状、明鏡也者住民等、存其旨、可安堵者也。《訓み下し》右東国ニ至テハ、諸国一同ニ、庄公皆御沙汰タルベキノ旨、親王宣旨ノ状、明鏡ナリ、テイレバ、住民等、其ノ旨ヲ存ジ、安堵スベキ者ナリ。《『吾妻鏡』治承四年八月十九日の条》
 
2003年6月1日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(玉川→駒沢)
所領(シヨリヤウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

所領(シヨレウ) 。〔元亀二年本309六〕

所領(―レウ) 。〔静嘉堂本361五〕

とあって、標記語「所領」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「シヨレウ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

所領安堵遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲労所領難合期候〔至徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違亂之際欲致參訴之處此間疲勞所領難合期候〔宝徳三年本〕

所領安堵遺跡相論越境違乱之際欲致參訴之處此間疲所領難合期候〔建部傳内本〕

--堵遺-(ユイ―)ノ-論越ル∨-之間欲(ホツ)スル∨ント參訴之處此間疲勞(ヒ-)--(―サイ)-。〔山田俊雄藏本〕

所領安堵(―ト)遺跡(―セキ)ノ相論越境違乱之際欲ント參訴之處此間疲労(ヒラウ)所領(タクサイ)合期〔経覺筆本〕

--(ア―ト)-(ユイセキ)-(そう―)-(ヲツキヤウ)-乱之際ルニ∨サヌト參訴(サンソ)ヲ間疲-(ヒラウ)--(タクサイ)-(ーコ)文明四年本

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「所領」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「所領」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

所領(シヨリヤウ/―レイ・トコロ、ノトル・クビ)[上・上] 。〔態藝門932五〕

とあって、標記語「所領」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

所領(シヨリヤウ) 。〔・天地門235五〕〔・天地門195九〕

所領(シヨリヤウ) ―帶。〔・天地門185八〕

所望(シヨマウ) ―行(ギャウ)。―職(シヨク)。―為(イ)。―課(クワ)。―勘(カン)。―務(ム)年貢/―帶(タイ)―領(リヤウ)。―役(ヤク)。―當(タウ)。―勞(ラウ)。―作(サク)。―詮(せン)。〔・言語進退門245二〕所職(シヨシヨク) ―行。―為。―課。―望。―勘。―領。―務(ム)/―役。―當。―勞。―詮。―帶。―作。〔・言語門210四〕

所職(シヨシヨク) ―行。―為。―課。―務。―役。―勞。―望。―勘/―領。―當。―詮。―帶。―作。―持。―存。―用。〔・言語門194五〕

とあって、標記語「所領」の語を収載し、訓みを「シヨリヤウ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

所得(シヨトク) ―謂(イ)。―詮(せン)。―犯(ホン)。―知(チ)。―役(ヤク)。―作(サ)。―願(グワン)。―辨(ベン)。―用(ヨウ)/―縁(エン)。―期(ゴ)―領(リヤウ)。―職(シヨク)。―望(マウ)。―為(井)。―帶(タイ)。―學(ガク)。―存(ゾン)。〔言辞門214四〕

とあって、標記語「所得」の語を収載し、冠頭字「所」の熟語群にも「所領」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「シヨトク」として、「所領」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

439定(ヲコナハシ)候歟所領安堵 堵五版堵、云一版二尺、是ルヲ、一堵墻、長丈高一丈也。〔謙堂文庫蔵四三右E〕

とあって、標記語を「所領」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

所領(シヨリヤウ)ノ安堵(アント) ノコト先祖(ソ)ノ所領中絶(せツ)ス。今安堵(ト)シタリ。〔下十七オ四〕

とあって、この標記語「所領」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

所領(しよれう)安堵(あんど)所領安堵 安堵の字漢書(かんしよ)に見へたり。師古(しこ)か注に動(うごか)しうつさゝるをいふといえり。所領安堵とハ今迄領し來りし地所を其儘に領するをいふなり。〔57ウ四〜五

とあって、この標記語「所領」とし、語注記は「所領安堵とは、今まで領し來りし地所を其ままに領するをいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(これ)に就(つい)て御引付(おんひきつけ)の沙汰(さた)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)(さだめ)て行(おこな)ハ被(れ)(さふら)ふ歟(か)所領(しよれう)安堵(あんど)遺跡(ゆいせき)争論(そうろん)越境(ゑつけう)違乱(いらん)(の)(あいだ)參訴(さんそ)を致(いた)さんと欲(ほつ)する之(の)(ところ)(この)(あいだ)の疲勞(ひらう)所領(しよれう)(たくさい)合期(がふご)し難(がた)く候(さふら)ふ。貴方(きはう)の御扶持(ごふち)を憑(たの)ミ代官(だいくハん)を進(しん)ず可(べ)き也(なり)。短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)稽古(けい―)せ令むる之(の)(ほど)御詞(おんことは)を加(くハ)へら被(れ)(さ)れ者(バ)越度(おちと)出來(いてきた)らん歟(か)草案(さうあん)の土代(とたい)を書(か)き與(あた)へら被(れ)奉行所(ふきやうところ)に引導(いんだう)せら被(れ)(ハ)恐悦(きやうゑつ)に候(さふら)ふ/テ∨引付汰定所領安堵遺跡相論-境違-乱之際スルニ∨サン參訴之處此間---貴方御扶持キ∨代官短慮未練之仁令ムル稽古之程レ∨ヘテ御詞者越度出來ラン‖_与草案土代セラ奉行所者恐ス〔43ウ四〜五〕         

(つい)て∨(これ)に(おん)引付(ひきつけ)の沙汰(さた)(さだ)めて(れ)∨(おこな)ハ(さふらふ)(か)所領(しよりやう)安堵(あんど)遺跡(ゆゐせき)争論(さうろん)越境(ゑつきやう)違乱(ゐらん)(の)(あひだ)(ほつ)する∨(いた)さんと參訴(さんそ)(の)(ところ)(この)(あひだ)疲労(ひらう)所領(しよりやう)の(たくさい)(がた)合期(がふご)し(さふら)(たのミ)貴方(きはう)御扶持(ごふち)(べ)き∨(しん)ず代官(だいくわん)(なり)短慮(たんりよ)未練(ミれん)(の)(しん)(し)むる稽古(けいこ)(の)(ほど)(ざ)れ∨(れ)(くハへ)ら御詞(おんことバ)(ハ)越度(をちど)出來(いできた)らん(か)(れ)(か)‖_(あたへ)ら草案(さうあん)土代(どだい)(れ)(いんだう)奉行所(ぶぎやうところ)(バ)恐ス(きょうえつ)(さふら)。〔77ウ四〜五〕

とあって、標記語「所領」の語とし、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xorio<.ショリャゥ(所領) Chiguio<(知行)に同じ.領地,または,相続した財産.〔邦訳795l〕

とあって、標記語「所領」の語を収載し、意味を「Chiguio<(知行)に同じ.領地,または,相続した財産.」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しよ-りやう〔名〕【所領】又、そりやう。領する所。領分。領地。北魏書、甄傳「邊外小縣、不百戸古今著聞集、五、和歌、鳥羽宮「和泉國に、相傳の所領の候を、人に、押して取られて候ふ」〔1018-1〕

とあって、標記語を「所領」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「しょ-りょう所領】〔名〕領有すること。また、その土地。また、それに付随する家屋類など。領地。知行所。処知。そりょう」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
次常陸、下野、上野之間、同意三郎先生之輩所領等悉以被收公之。《訓み下し》次ニ常陸、下野、上野ノ間、三郎先生ニ同意スルノ輩ノ所領等、悉ク以テ之ヲ収公セラル。《『吾妻鏡』治承五年閏二月二十八日の条》
 
 
 
 
 
 
 

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