[4月1日〜4月30日]

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1998年4月30日(木)晴れ時々曇り

開け広げ 内と外とを 一にして

「清談」

「清談」ってことばを音にしてみると、「セイダン」で、これを漢字表記にするとなると、日曜日のテレビ番組に“政談談義”する「日曜討論」(NHK)、「サンデープロジェクト」(HTB)、「新世紀歓談」(TVH)などといった“政談番組”のことかと思う人も多かろう。また、酒のはいる話の席では、今の政治をこけおろし、仕事の憂さ晴らし、行き着くは大林宣彦監督による阿部定の生き方を描いた邦画「SADA」(原作・脚本西澤裕子[中央公論社刊])などの「性談」へとつながる。この「性談」のことか?そして北の地もいよいよ花見の季節、大勢で飲むのもよいが、氣の合った二人してふと夜空を見上げて「星談」すれば、お目当ての「清談」の境地により近づく。

この「清談」という語、新明解『国語辞典』に「〔金もうけ・暮らしむきの話や人のうわさ話とは関係の無い〕趣味・芸術・学問・信念などについての話。」とあるように、古くは中国魏晋南北朝時代の風流人士、山中深く分け入って夜もすがら(朝から晩まで)酒を飲みつつ老荘や易の話をしていたそうな。俗世間を離れ、学問や高尚な趣味の話といった「清談」は余人を交えぬ二人に限るのかもしれない。これにも一人加われば「相談」となる。ことわざに「三人寄れば文殊の知恵」というように実用談義となっていく。では多ければどうなるかといえば、四人では遊び心が顔を出し、麻雀ではないが卓を囲むに過ぎないし、五人以上ともなると、「船頭多くして船山に登る」のことわざではないが、暗礁に乗り上げて二進も三進もいかなくなる。

「清談」は常に二人かなと思うが、この二人の構成は常に同じでなくてよいようだ。室町時代の古辞書『下学集』に、

 七賢【(シチ)ゲン】〓〔稽+〕康〔ケイカウ〕阮籍〔ゲンセキ〕阮咸〔ゲンカン〕向秀〔シヤウシウ〕劉伶〔リウレイ〕山濤〔サンタウ〕王戎〔ワウジウ〕以上ノ七人、避〔サケ〕テ晋〔シン〕ヲ栖〔スム〕ノ竹林ニ之隱逸〔インイツ〕ナリ也。[數量142-3]

で知られる “竹林の七賢”は、山野に隠棲した七人の隠者それぞれ俗世を避けて「清談」(『下学集』にはこの漢語は未収載。)に耽ったことが知られるが、その「清談」の内容は知る人ぞ知る世界を感じさせてやまない。

1998年4月29日(水)晴れ

花開く 草木花も 溢れ出し

「伯楽」

 「千里の馬は常にあれど伯楽は常にあらず」とは、中国唐代の文人韓愈のことばである。この「伯楽」は、中国春秋時代に実在した馬を見分ける名人、今風に言えば、馬のことならこの「伯楽」にお任せということだ。一日千里を駈ける駿馬はいつの時代にも誕生するが、その駿馬を見極める「伯楽」は、いつの時代もいるとは限らないという格言である。

 これを人間社会に置き換えてみると、世の中には有能な人材は数多く輩出しているが、これを掘り出し、個々の持つ秘めた才能や手腕を十分に発揮させるための人材発掘者は少ないという譬えに用いる。

 韓愈はこの格言に続けて、「駿馬はいても、つまらない人間に飼われ、一生こき使われ、馬小屋でむなしく死んでいくのである」と言う。つまらない人間すなわち雇い主や上司に無駄な精力を費やされ、馬小屋を窮屈な場所や施設とみれば、たとえ、本人がどんなに駿馬の如き有能な持ち主と自負していても世に認められぬ状況にあることは間違いなかろう。

「伯楽がわが社にいないと駄馬嘆き」(長野市、丸山宣久さん作)などと云った川柳に詠まれるように、今日もこの「伯楽」を求めて止まない。「駿馬」か「駄馬」かとこれを見極める目利きは実にむつかしいというものがある。伯楽の如き目利きに長けていないのなら、急いで決めつけるものではないともいえる。鑑定家は事物を鑑定をして鑑定の極意を知るのみである。「木のことは木に聞け」ともいうのに共通する。

この「伯楽」だが、室町時代の古辞書『下学集』にも収録されている人物で、我が国にでも馬と人とは深い関わりを持ちつづけてきたようである。この「伯楽」について描いているので下記に挙げておくことにする。

  伯樂〔ハクラク〕戰國ノ之時ニ相〔−〕スル馬ヲ人也。由テ是ニ日本ニモ亦呼テ相スル馬ヲ人ヲ云伯樂ト也。伯樂ハ乃チ星ノ名ナリ也。此ノ星典〔ツカサトル〕天馬ヲ。故ニ以テ爲〔ス〕相〔−〕スル馬ヲ人ノ之名ト也。伯樂實名ハ孫陽ナリ也。[人名51-4]

 よい馬を見分ける名人は、星図の名として留められてもいる。「天馬をつかさどる星」として祭られる。星座名も西洋神話によるカタカナ読みが広く浸透しているが、この「伯楽」を機会に東洋神話にもとづく星座名に関心をもつのも楽しい。さらに、「伯楽」の実名は「孫陽」というとある。

1998年4月28日(火)晴れ後雨

かたかごの 野辺の丘に 花開き

「敬遠」

 プロ野球、そして大学野球などが開幕して、ゲーム前半戦がスタートした。野球用語のなかで漢語「敬遠」ということばが使われる。この「敬遠」だが、当日のゲームのなかでもっとも当たっている打者を迎え、大量得点につながる恐れのあるとき、バッテリーが打者と真っ向から勝負しない対応に出ることをいう。実際には、捕手は立ち上り、投手がボール球を四球投げつづける。

この「敬遠」は、元は『礼記』に「敬神而遠之」と見えることばによる。神を敬うように決して近づいてけがさないこと、神のごとき立派な人物に対して使う。

 ところが、昨今「敬遠」される人と言えば、会社の上司が女性社員から相手にされない状態を招くこととなる。こんな前触れのとき、「課長そんな口うるさいことばかり言うと敬遠されますよ」と忠告めいたことばが返ってくる。この「敬遠」には尊敬の念はなにもない。嫌うなら嫌えという態度に出るか、はたまた、嫌われてなるものかということで胡麻を磨りはじめるということになる。

 前者の方向に対し、表面では敬うような様子を見せながら、内情は当たらずさわらず、つまはじき、“いじめの世界”でいえば「無視」される。後者の態度には、掌を返したような変わり身に畏怖感を覚えたり、軽く感じたり多様である。いずれにせよ、このような状況を社内関係にあって決して迎えるべきではない。ギスギスした人間関係では、組織は前進しないからだ。

 ところで、野球の「敬遠策」は、味方チームのピンチを救う意味で、かってピンクレデイの“サウスポー”の歌詞にも唄われていた。「敬遠」は相手強打者を立派な打者として高める立場にある。唯一、本来の意味に最も近い表現とは言えないだろうか。

1998年4月27日(月)曇り薄晴れ

風寒き 陽に助けられ 桜花

「田舎臭い」

 都会にくらす人に、田舎の雰囲気を感得する力があるとすれば、目・耳・鼻・口・肌で感じとれるのであろう。このすべてで目で「景色」、耳で「音楽、人声、生き物の鳴き声」、鼻で「匂い」、口で「食べ、飲み、吸い、咥え、吹く」、肌で「触れる」ということになろう。この「田舎臭い」は、匂いをもっとも敏感に打ち出している。「ムモォー、ンメェー」の家畜の鳴き声よりも、プゥ〜ンと漂うように匂ってくるその匂いがここを田舎だと確定認識させるのだ。目では既に田舎風の佇まいを認識していても、この香りが漂い迫ることで確かさがグーンと増す。そして、この地が「田舎臭い」ことを自覚する。

 また、都会暮らしをしている人たちがふとセンスを全く氣にもとめないで、粗野な格好で人前に登場する人を見届けて「まあ、なんて田舎臭い人なのだろう」と口に出さずにもこう思う。土の匂いを感じ取っていないが、都会の日常生活を普通とすればこれとは全く異なる仕種をする人をみてこうつぶやくのである。

 都会の真っ只中にも「田舎じみた」場所が全くないわけでない。風呂屋、豆腐屋、煙草屋、駄菓子屋、牛乳屋、氷屋、魚屋、肉屋、八百屋が犇めくように林立する町並みに「田舎臭さ」が漂っている。人は「下町」と呼ぶのか。これを「田舎めいた」というのか、この暮らしぶりが都会の雑踏から私の足をふぅっと吸い込むように誘ってくれる。田舎暮らしに慣れ親しんだ私にこの「田舎風」の心地よさはいいようが無いほど幸せにしてくれる。「みやこ」に対する「田舎」をこれからも大切にしていきたい。

 ことばも「田舎びた」ところでは「たむ」と云い、「舌だむ」「言だむ」と云ってきた。田舎人の言葉は、だみ声すなわち濁った言回しで、かつ「ざっぱく」な音調で聞きとりがたいというのだ。本人は「口がかわいた」と言っているのに、「ぐちぐぁくぁいだ」と聞こえ、言っていることがわからず首を傾げている談話場面を想像してみればああ訛言〔なまり〕が強いなあと感じる。これを方言とはいわないのである。あくまで「田舎訛り」の範疇としている。都会の風流人士は、さもこの言葉の妙を察知してか「澄むと濁るとでは斯くも異なる○○は○○」なんて茶化して遊び楽しむ。ここに雅びなことばの優越感がにょきにょきと雨後の筍のように蔓延って止まない姿勢がないわけではない。

1998年4月26日(日)曇り

寒戻り こと伝へやる 正にしく

「下らない」

 「下る⇔上る」を「さがる⇔あがる」「おりる⇔あがる」「くだる⇔のぼる」と読むが、この最後の読みの否定表現「くだらない」について考えることは、そんなに「下らない」とはいえないと思う。

 明治以前までは、京都に“みやこ”が置かれていた。すなわち、天帝の御在処である内裏を常に中心にして、ここに向かうことを「のぼる」といい、この中心から外の地に出向くことを「くだる」と表現していたのである。現在では“みやこ”が東京にあり、この「上り、下り」は、ここを中心にいうのは先のことがらに起因しているのである。

 さらに、地方から献上される海山種々の品々も、この“みやこ”で認定され、文物の名産品として、はじめて上等な物や興趣な品物として加工標示される。これが再び地方に「下る」ことになる。これが、うまく加工されず粗悪な品であれば、下等な物として標示され、「下る」ことは許されない。すなわち、「下らない」物となるのである。これは“みやこ”にあって自然淘汰されてしまう物でもあるのかなとふと思ったりしてもいる。たとえば、京野菜の種子の多くは地方にもたらされず、なぜかこの盆地でしか栽培されないし、大豆の加工品である「豆腐」「納豆」は、各地に拡大されているのに、なぜか「湯葉」は古都に留まって広がりを見せないでいる。

 また、この「くだらない」の語呂合わせからであろうか、朝鮮半島にあった「百済国」を「くだら」と読みなし、この「百済」から日本国に帰化した渡来人がもたらした仏教系の造形物(建物・仏像など)を中心にして「百済の物」と「百済のでない物」とに識別する意識から「くだらもの(上等な品)」と「くだらないもの(下等な品)」ということばが生まれ、これを「下らない」の語源とする見方もあるとのこと、果していかがなものかというところか。

 さて、事実は否もので、「下る物」がすべて極上品かとさぞ思いきや、“みやこ”から東の国お江戸へ送りこまれる物資のなかで「下り諸白(酒類)」ぐらいが上物ということで知られているが、「くだり物」のなかにも粗悪な品が紛れ込むこともおかしくないようだ。

1998年4月25日(土)雨のち曇り

新緑に 糸流るゝ 聞く思ひ

「フットルス」

久しぶりに音楽番組を見た。アメリカの音楽バンド名を日本語に置き換えて言うと、「ふっと留守」なんて宛ててしまう。またまた、歌詞に「とびだしゃいい」「旅すりゃいい」「〜しちゃう」などと表現する歌がある。

これは「〜だせばいい」「〜すればいい」「〜してしまう」などのより口語的な言回しなのである。ちょっと投げやりな口調なのだが、一人で前に進めないでいるひ弱な心の持ち主にインパクトを与え、勇気づけることば表現なのかもしれない。

物事に対し、「前向き」に事にあたれという感じがしないではない。「後ろ向き」や「横向き」でないところが肝要なのにちがいない。だが、逆思考の「後ろ向き」や「横向き」が若者を惹きつける場合もあるようだ。

1998年4月24日(金)雨のち曇り

覚めやらぬ 心さはめき 行く方見る

「おみ」ことば

 年輩の女性が「おみ足をおもみもうしましょうか?」という。この「おみ足」という「おみ」は接頭語の重ね表現である。ただ「お足」というと、金銭の意味が色濃いゆえに実にまぎらわしいことばとなってしまう。そこで「お」と「み」とをあえて重ねて表現したのだろうか。

 この「おみ」を冠にして表現することばに「おみ帯」(身体につける帯のこと。)「おみ折」(料理屋で食べ残したものを客の帰りしなに折に詰めて持たせてくれる。この残り物を詰めたものを云う。)がある。同じように「おみ酒」(神前に供える酒をいう。)「おみ輿」(祭りに担ぐもの。) 「おみ籤」(神社など参拝した折、時運を神に恃む紙片)などが知られる。

 とはいえ、現代の国語辞典に「おみ帯」や「おみ折」の語は見えているだろうか。と同時に、この前者の「おみ」ことばは、「おみ足」と同様に女人が使うことばであり、男性が使うとやや氣になることばであったはずだ。「お帯」「お折」というとただ言うのでは言いにくい。また「み帯」「み折」ではなおさら古風がましくなってしまう。こんなことからか「おみ帯」「おみ折」と重ね表現していたのではあるまいか。今ではまったくといっていいくらい、耳にしないことばでもある。実際、「おみ帯」と「おみ折り」は、国語辞典に未収載なのが今の現状でもある。知りたいことばに辿りつかないというところか。

 また、後者の「おみ」ことばは、「御神酒」「御神輿」「御神籤」と表記することでも知られるように「おほみ」の約まったことばである。あと一つ、「味噌汁」の丁寧語である「おみおつけ」という女房詞から派生して今では一般化したことばがあり、このもとは、「おみそおつけ」の略語表現とされている。

1998年4月23日(木)曇り。

苦のあとに 胸膨らむや 時の春

「みちしるべ」と「道標」

 「道標〔ダウヘウ〕」ということばは、諸橋『大漢和大辞典』によれば、『高僧伝』の用例をあげている。ところが、この漢語「道標」だが、本邦の古辞書から国語辞典にあっては取り上げられていない。室町時代の古辞書『文明本節用集』に、「道シルベ」[態藝門八九四F]の語は収載されているが、「道標」はない。同じく『日葡辞書』にも「michixirube.ミチシルベ。道案内」[邦訳四〇二l]とみえ、江戸時代の『書言字考節用集』には、「郷導〔ミチシルベ/ミチビキ〕{旧事記}山∨幾」[人倫四74C]と「郷導」の字を宛てていて、「道標」の字は使われていない。こののち、明治時代の国語辞書である山田美妙『日本大辞書』にあっても、見出し語は「みちしるべ」だけで、漢字も「導べ」を使い、(1)路の方向を記した杙。(2)路の案内。(3)蟲の名。ミチヲシヘ。と記す。ここに大槻文彦『大言海』を繙くに、同じく漢語「道標」の語は、見出し語には見えず、まずは、「みちしるべ」(名)【路導】(1)路の方向〔むき〕など記したる木石の杙、路標。(2)みちびき。行く路の案内。嚮導。*千載集11恋「さきにたつ、涙とならば人しれず、恋路にまどふみちしるべせよ」(3) 蟲の名。ミチヲシヘ(路教)に同じ。とあり、さらにこのなかに見える「路標」なる語を繙くと、「ロヘウ【路標】ミチシルベ。道標。」とはじめて、「道標」なる漢語が収載されているのである。

このように、「道標」を和語「みちしるべ」と結びつくまでには、本邦の辞書史の歩みからみたとき、かなりの時を必要としていたことが知られるのである。現代の国語辞典である小学館『日本語国語大辞典』には、見出し語「道標」は収載されていて、用例には夏目漱石の『満韓ところどころ』と『作戦要務令』が引用されている。また、宮本百合子の自伝小説『道標』を紹介する。

1998年4月22日(水)晴れ。

春といへ 汗ばむ温み 走り行く

「手紙」あれこれ

 この頃、郵便物の封書や端書きを手にして思うことは、タックシールで住所と名前が印刷されたものが非常に多くなっている。こうした便利さを優先するのも相当数の同一文書を作成し、多くの方に届けようとすることと、これにかける時間の短縮をまず考えてのことだけであろう。

 特定の相手にだけに送るとき、差出人の住所と氏名が手書きで認められている、こうした書簡は、心思いのある趣きを感じる。封の仕方にも糊付けし、〆印のあるものは開くものに一服の安らぎをもたらしてくれもする。

 内容は、ご案内や誘いなどといった通知がもっとも多く、個人の近況報告などは少ない。返事を認めるべき内容のものは、その日のうちにしておかないと、思いも遠のいていく。そして、出しそびれるのだ。こんな経験を繰り返し、これでは相手に失礼になるからと、筆を執るように心がけねばいつまでたっても、思いの丈を伝える手紙は書けない。

 書いて封をし、どのように相手の許に届くのかと考えるとき、セロテープやホッチキスでとめられた手紙だけは止めたいと思う。なぜならば私自身、受け取ったとき、ああこれは頭数のうちなんだという感じがしてしまうからにほかならない。自分の便利さだけが先行すると、受け取り人の気持ちなどどうでもいいといった身勝手さだけが目立ってしまう。いわば、「佳人の善言であれ、心あらざる姿では相手を魅了することにはならない」感を思わないではない。

 敬称の「様」の字にも「樣」と「永」のところを「次」で記す「さま」とがある。この使い分けが対人関係で変わってくる。目上であれば「永」、目下であれば「次」の「さま」を使う。一般には「様」でよい。

1998年4月21日(火)晴れ。苫小牧

新設の 学び舎据えし ネット講

「かける」と「あてる」

この二種類の動詞と連関することばに「パーマ」がある。「パーマをかける」と「パーマをあてる」と両様に云う。正確に言えば、「パーマネントをあててかける」というのだろうが、どうも「あててかける」と表現するのでは間延びした感が強いのかもしれない。そこで美容室に行き、客は「パーマをかけてください」とお願いし、美容師さんは「どのようにパーマをあてましょうか?」とやりとりしているようだ。

一連の動作を表現する際、受け手と遣り手とでは、同じ行動動作を表現するにも斯くも使うことばが異なることを教えてくれている。この「かける」と「あてる」に関わることばとして他に「アイロン」がある。その用法は、

アイロンをかける。(通常動作状況では、こちらを用いると私は思う)

アイロンをあてといたよ。(そして、動作終了状況の伝達のときにこれを用いるのではないかと思う)

と表現できる。

1998年4月20日(月)晴れ。

日々の道 走り通ふは 事始め

「お」ことば

 「お」のつくことば、なにもかもが「尊敬語」ではない。「お腹が空いた」の「お」は「はら【腹】」をいう女房詞「おなか」が一般化した語である。「お」を取り除けて「なかが空いた」では、意味をなさない。「なかが空いたので少し休憩しましょう。」などと表現しても、身体部の腹が空いたとはとれない表現になってしまうからだ。ご飯の「お代わり」も「お」を外すと具合がよくないことばである。人称語表現にも「お兄さん」「お姉さん」そして、「おとうと」「いもうと」とあって、末の人称語には「お」が使われない傾向にある。「おとうと」の「お」は敬語でないということだ。

「お茶」「お花」「お菓子」などといった語の「お」は接頭辞で美化語表現にあたる。この類の接頭辞には「ご」や「ぎょ」で表現することばもある。概ね漢語で「ご苦労」「ご器」「ご殿」などと表現する。

1998年4月19日(日)晴れ。長崎県島原から帰道

人の道 空かける機は ひとッ飛び

「やせる袋」

旅にあって、どしゃぶりの雨にやりこめられ、濡れ鼠になった日にも三度出遭った。バッグの中味もすべて濡れてしまう。こんな折、ビニールの袋を通りがかりの商店の方から貰う。これがしのつく雨水を防止してくれた。これに「燃やせる袋」と書いてあったのだが、巻頭の「燃」の字が隠れて「やせる袋」と読めたとき、ひとり苦笑していた。だって、本当に「やせる袋」の気分であったのだから……。一字文字が隠れると妙な意味合いのことばが顔をのぞかせてくれる。

「とりたてやさい」の末尾「さい」が隠れて「とりたてや【取り立て屋】」。

1998年4月18日(土)晴れ。<湯江から諫早、長崎県島原市>

観音に 導かれつく 吾が身心

「缶忍」

 旅の途中、何度となく設置されていた飲料自動販売機のお世話になった。この缶飲料、実は4月から10円値上げされていて、120円に変更されていた。なれてない人には、110円で買えないことがどれほどもどかしく苦しいのか、これを和らげるかのように、「缶忍してくださいな。10円値上げ」の標示は、「堪忍」に「缶忍」を引っ掛けた言回しが、目を惹きつける宛字であった。走る旅の途中、なかには以前同様110円で買える販売機にも出会ったものだ。100円の販売機が嬉しい気持ちにさせてもくれた。

<4月18日17:09島原市本光寺に無事ゴール!>

 日本を代表するウルトラマラソンの達人高石ともやさん(京都在住)に、最後の伴走をいただいたことにジャニー・ランナーとしてこの上ない幸福さを感じております。

 また、この途方もない走りの夢を受け入れてくれた本光寺住職片山秀賢先生、そして、各地の曹洞宗寺院の方丈さまには御朱印を頂戴し、山門を到着地点とさせていただいたことを心から感謝申し上げます。

最後に、私の走りを支えてくれたり、ご協力いただいた各地の多くのランナーの皆様に感謝申し上げるとともに、この幸田市と福知山市そして島原市の三点を人の足でひとつの線として結べた喜びをかみしめるうえからも、次に継続する人々への足がかりとなるルートづくりができたことを私自身喜んでおります。そして新しき交流活動がが生まれることを心から願うものであります。

1998年4月17日(木)晴れ。<鳥栖から久留米、佐賀、鹿島、朝小長井>

干拓地 土の色と 生きるもの(有明海)

 鍋島藩の菩提寺である佐賀の高傳寺に立ち寄り、しばしの休息。この寺であの有名な書物『葉隠』の名を寺の副住職から聴かされる。この『葉隠』を語源とすることばに、学生の挨拶ことばの「おッす」があった。この語は「忍し」がもとであるという。ここを辞し、一路鹿島をめざす。「ムツゴロウ」の文字が目に付くようになる。

1998年4月16日(水)晴れ。<下関から門司、福岡、夜半鳥栖>

朝早く 関門の端 走りぬけ(門司にて)

北九州入り。八幡に「萩原」の地あり。

1998年4月15日(火)晴れ。<岩国から防府、小郡、夜半下関>

道の春 椿峠を 今越えし(防府にて)

「兄部」の表札。「かんべ」と読む。佐波街道をゆく。

1998年4月14日(月)雨後晴れ。<上下町から夜広島入り、岩国>

春の雨 行けども絶えぬ 山路道

「乢」という地名「たわ」と読む。

 

1998年4月13日(日)曇り後雨。<美作から津山、勝山、新見、東城、夜半上下町>

朝靄に 山吹の花 仄明かり(新見にて)

「みち」のことば

 出雲街道。石に「右何里、左何里」と刻んだ“みちしるべ”の残る道。これを「道標」と表現すると旅のイメージが車社会の慌ただしさにすりかえられてしまう氣がしてならないのは私だけであろうか。今は「道の駅」が建設され、トイレなどが完備され、あらゆる飲食自販機がならぶ。休憩所は夜間は閉じられ使用できない。使いやすいようで意外と使いにくい。当然、「道案内〔みちアンナイ〕」の看板があるのかというとこれがないのだ。道には車のための道路状況の標識が数多くあり、見上げねばならない。“みちしるべ”という人の目の高さが失われつつある現代、「道路工事」の標示はやはりくるま用でしかない。工事現場を数キロ進んだところで、工事関係者の人に出会い、人の行ける道を教えていただくばかりでなく、出口まで案内していただいたりもした。山越えをするところでは、隧道〔トンネル〕ができ、ここを私も抜ける。人の通るスペースともいう「路肩〔ロかた〕」すら厳しいものもある。腕の袖が排気ガスで汚れた壁に触れてか黒く煤けている。途中「歩道」が右になったり、左になったりしているのはごく普通の日本の道である。さらに町並みが近づくと、今度は蒲鉾型に隆起した細かな浮き沈みが波打っている状況になる。自転車も人もここをゆく。だが、車道をひとつ外れて進むと人の匂いのする懐かしい旧街道風の道に出会う。こんな道では、子どもたちの遊ぶ姿や、道でばったり出会い立ち話をする光景があってほのぼのとさせてくれる。こうした道を私の心のナビゲータは、求めて止まない。

「みちしるべ」とは、古いやまとことばである。これに対応する漢語「道標」も、高僧傳に見えている。「路肩」を漢語読みすれば「ロケン」というのだが、このことばを私たちは、混種による重箱読みで「ロかた」と読んでいる。『日本国語大辞典』には、用例は未収載であり、この「路肩」そのものが車社会の新しいことばなのであることを示唆している。

1998年4月12日(土)晴れ。<三宮から加古川、姫路、夜半美作>

早朝の 明石の橋は 何の端(明石にて)

「非時香菓〔ときじくのかぐこのみ〕」(歳をとらずにいつまでも長生きができるという食べ物)<田道間守>

羽黒橋 渡り来て魅し 姫路かな

中国街道。

1998年4月11日(金)晴れ。<京都から高槻、大阪(長居)、三ノ宮>

夜走りに 神戸舗道を 通り過ぐ(三宮にて)

吹田街道。

1998年4月10日(木)晴れ。<京都五条から福知山>

九号線 のぼりにのぼる 福知山(福知山にて)

街道。

1998年4月9日(木)雨。<桑名から鈴鹿、大津、京都伏見>

夜の雨 桃山伏見 桜吹雪(京都にて)

「吉左右」を「きっそう」と読む。

1998年4月8日(水)晴れ後雨。[花祭り]<幸田から刈谷、名古屋、夜半桑名>

仄々と 田圃道の 鷺鳥は(刈谷にて)

筍に 舌つづみしや 鐘朧(幸田にて)

<4月8日から18日まで11日間休業します。>

1998年4月7日(火)晴れ。[空路名古屋から幸田入り]

出発の 支度もそこそこ 門を出づ

「氣心」

 何か用があって相談することを「用談〔ようだん〕」という。このごろ、忙しくなってこの用談すら電話やファックスはたまた、Eメールなどが使われる。即戦力のように見えても、やはり人は直に会って話し合わないと事がスムーズにいかないことが多々あるようだ。情報交流の最先端を10日間未使用にすることで、もう一度、原点に戻る思いで「用談」を含む人との交流を考えてみようと思っている。

 これが不便か便利か、情報をどう伝えていけばいいのか、私自身ここで初心にかえって研修してみることが何より大切な氣がしてならない。明日から「徳川ウルトラマラソン(災害復興交流記念ロード)」ということで愛知県幸田市の本光寺から長崎県島原市の本光寺に向けて1300kmの道程を走りだす。

しばらく、何も書けませんが、“情報言語学”の充電期間と私は思っている。「氣」をつかさどる自然界の真直中に身をおくことで、私の内奥に潜んでいるというか宿っている「心」の働きを活発化する。「氣」は人間の意志だけでは簡単にコントロールすることはできない。人の心(内面性)を介在して多様な働きを繰り返してくれるものだと私は考えている。そしてこの「氣」と「心」とを合体した「氣心〔きごころ〕」というと、何か現代の私たちは実にふわっとした軽いものとしてとらえがちだが、どかっと腰を据えた「氣心」を養ってみようというのが今回の私自身のねらいなのである。

1998年4月6日(月)晴れ。<春の全国交通安全運動>

外套の 重みを捨てて 綿貫ぞ

「枳殻」の字音読み

「枳殻」を和語で読むと「からたち」。これを漢語読みすると「キコク」と読む。この「キコク」を「ウ」と誤ることを“字形相似による誤記”という。この誤記が新明解『国語辞典』第五版にある。新明解には字音「キコク」の見出し語は未収載で、和語の「からたち」の項目に収載されている。次に記す。

からたち[0]【<枳>】生け垣などにする落葉低木。とげが多く、春、白い花を開く。実は薬用。枳殻(キコ)[0]。〔ミカン科〕[表記]「<橙・<棘・{枳殻}・{臭<橘>」とも書く。[かぞえ方]一株・一本

このことに氣づくきっかけは、朝のTV番組“おはようクジラ”で漢字資格検定のことを触れていたときである。この設問なかに「枳殻」の字があったのがそもそも辞書を繙くきっかけであった。“解答は「キコク」と読みます”と説明され、私は義訓「からたち」と読んだ和語と漢語の読み方の相違がこの誤記に出会うことになったのである。他に番組では「器皿」を漢語読みし、これも一般辞書に未収載といった難問が提示されていたのである。

編者であれば、辞書の校閲は最善を尽くすことは当然だが、受容する側の人である吾人にとっては、人の香りのする辞書とは、こういった字形相似による誤記を見つけたときであり、そこがジワジワッとし、ほのぼのとするのは私だけであろうか。見つけたら知らせて、次回の刷りの時にでも訂正していく作業が作り手と使い手のキャッチボールとなってほんわかしてなぜかこれがいいのだ。因みに第二版は「キコク」と記載していて正しいことを付記しておきたい。

1998年4月5日(日)晴れ。

春風に ゆるりゆるりと 魚信かな

「らくちん」

 所ジョウジさんが出演している車のテレビCMに、「らくちん!、キャバリエ」というのがある。この「らくちん」だが、人が乗り物などで移動することにより汗も流さず気分的にゆったりした状態にあることをいう。そして、「らくちん」の「らく」は「樂」で単漢字音とすぐに解かるが、下接語の「ちん」は、一体いかなる語かと首を傾げてしまう。こんな語に出会ったとき通常、国語辞典を繙くのが近道となるが、通常小型の国語辞書に未収載の語であるため、結果的には「ちん」の語源は判明しないのである。大型国語辞書では、

『広辞苑』第四版

らく-ちん【楽ちん】(もと、幼児語) 楽なこと。楽で気持がよいこと。

*下記に示した「ことばの実際」を鑑みるに、「もと、幼児語」と記すことが現状の使用状況にいちばん意味に即応している説明文として評価できる。

『大辞林』第二版

らく-ちん [0] (名・形動)〔幼児語〕楽である・こと(さま)。「おんぶをしてもらって―だ」

『大辞泉』

らく-ちん[名・形動](幼児語で)楽であること。楽で気持ちがよいこと。また、そのさま。「―ないす」

小学館『国語大辞典』1988.(新装版)

らく-ちん【楽ちん】(形動)小児語。楽であること。気持のよいこと。

小学館『日本国語大辞典』に、

らく-ちん〈名〉(形動)小児語。楽であること。気持のよいこと。また、そのさま。

とあった(いずれも用例は未収載)。そして、問題の「ちん」だが、「小児語」であれば象徴語の「ちん」が有力かと思って「ちんちん電車」といった語感を頭に浮べる。漢字音であれば、「珍」「賃」「陳」「朕」などがあるが、「樂珍」だとすれば、珍しく楽しい。また「樂賃」であれば、お金かからず楽しいなどなどということか、いや、「ちん」の部分に漢字を宛てない仮名書きの「楽ちん」がどうもこの語の構成をはっきりさせていないのかもしれない。また、元は「小児語(幼児語)」であったのが、いまや大人社会でも通用することばとして認知されつつある状況にあるということのようだ。因みに、『広辞苑』は第三版までは、この「らくちん」の語は未收載であった。

「らくちん」の下接「ちん」の語を漢字表記する用例を知っている方、見つけた人、またまた、下接語「ちん」に興味のある方どうぞ下記にご一報ください。

[ことばの実際]

1998年4月4日(土)晴れ。

ひしこみ手 胸に描くは 走り道

「鶴亀々々」

 縁起をかついでいう唱えことばに「鶴亀々々」がある。幸田露伴『五重塔』に、

と、一文の長い表現の冒頭部分に用いられている。そして、この唱えことばだが辞書では、感動詞として取扱われる。

「鶴」と「亀」という共に長命の生き物と考え、命を長らえることから縁起を担ぎ、祝う席に欠かせないのである。どんな最悪な状況下にあっても、この「鶴」と「亀」とを合体させ、「つるかめ、つるかめ」と唱える。人は良い縁を呼び寄せようとする庶民の知恵ことばなのかもしれない。成立は、庶民の活躍する江戸時代かと推理する。実際、滑稽本『花暦八笑人』弐編上に、

  ○アア鶴亀鶴亀。なんでもわりイおれに計りなすりつけやアがる

とある。この唱えことばをいまは唱える人も少なくなってきているようだ。

1998年4月3日(金)晴れ。

音も無き 夜窓縁にや サバを置き

「すってんてん」

 今の財産状況はといえば、「“す”に点二つですよ」という。すなわち、俗語の「すってんてん」のこと、類語に「一文無し」がある。この俗語だが『大言海』には、「すってん(副)俄然、顛倒する状に云ふ語。「すってんコロリ」すッてんすッてん、一物なし」と収載され、「すってんてん」とまだ省略されていない。さらに、「すってんてれつく(名)至ッて、貧しきこと。極貧。赤貧。」を次に収載している。これを現代の国語辞典にあっては、「すってんてん」がどのように収載しているのかといえば、新潮『現代国語辞典』に、

 ○すってんてん(形動)金を使い果たしたさま。無一文。「―になる」

と品詞を“形容動詞”と認定し、意味記述と類語表現、用例句が続く。実際の作品資料による用例は記載しない。学研『国語辞典』では、同じく“形容動詞”と認定し、意味記述のあとに実際の用例「―になってこの寒空に泣いている人間…<太宰・ヴィヨン…>」「金をにぎると、すぐ競馬場へ行って、―<四六・五・一・毎日夕>」があり、類語「すっからかん」を記載している。このように、『大言海』と現代の辞書とを比較してみるに、この語の認識そのものが変わってきていることを知るのである。

類語は「無一文」=「一文無し」[正統語]>「すってんてん」や学研の示す「すっからかん」が[俗語]となる。

[ことばの実際]

●吉田拓郎さんの曲『落陽』の歌詞に「すつてんてんのあのじいさんときたら…」という文句があった。

1998年4月2日(木)晴れ。

待ちに待ち 人も少なき 学舎に

「明日」

「明日」という表記漢字、実に自由な読み方が許されていることばである。ある時は、「あす、そちらに伺います」という「あす」であり、「あした、天気になあーれ」の「あした」、ちょっと畏まって「みょうにち、如何でしょう」の「ミョウニチ」と表記はひとつでも、読み手の感覚で「明日」を三樣の言回しができるのである。これを曖昧な漢字表記のことばだと考える人もいよう。こう考える方は、「ミョウニチ」と読む時だけ、「明日」と表記すればよく、そして、「あす」、「あした」は仮名表記するのがよかろうというかもしれない。こうした文字表記指導は、はたして日本語にとってどのくらいの効能があるのだろうか。

たとえば、本日の朝日新聞の「東京国際スリーデーマーチ」5月3日開幕の記事で大会のテレホンカードをデザインしたイラストレーターの真鍋博さん(65)の文章談に、「十五年まえぐらいまでは、街の人の目が輝いていたような気がする。言葉に力があった。明日を信じていたのだろう。二、三年前には話が「……」と、自身なげに終わるようになった。最近は「分からない」「調べている」などと、語尾に「?」がつく」

の「明日」の語をあなたなら、どう読みますか?

実際、CM表現に「週刊新潮は明日発売」のような文字表記された文章を朗読してみると、「明日」と漢字表記されていても、「ミョウニチ」と読まずに「あす」「あした」と読みたい表現に出会うものである。この自由な読みを知ることで、私などは感性を活かした文字読みの力を養うことの方が大切なような氣がしている。たとえ、漢字で「明日」と書かれていようが迷わず読み取る感性の素晴らしさは、書き手に対する思いやりの気持ちであり、書き手の文字心に近づく作業であるからだ。書き手の文字使用の能力に一歩でも近づくことで、自身の文字感得の力をつけることができる喜びを大切にしていきたいものだ。多くの人が文字読みの達人になれたらと思うのである。

1998年4月1日(水)晴れ。

自重に 一夜限りか 春の雪

「干烏賊〔するめ〕」

 「烏賊〔いか〕」の内臓を取り除き天日で乾した物。これを「するめ」という。烏賊の内臓には墨汁が多く含まれていて、「すみまるめ」(「Sumimarume」>「Surume」の転か)の状態にあるあたりが「するめ」の語源ではないかと私自身は思っている。この「するめ」という語、「鯣」とか「干烏賊」などと宛てる。

 室町時代の古辞書『下学集』に「鯣〔スルメ〕」[氣形64C](「烏賊〔イカ〕」も別行に収載)、『運歩色葉集』(静嘉堂文庫蔵四四七F)魚名には、「鯣〔スルメ〕。〓〔魚契〔同〕。「干烏賊」」の三様表記が収載されている。易林本『節用集』も「小蛸魚〔スルメ〕干烏賊〔スルメ〕鯣〔同〕」[ス部氣形239B]とこれも三様表記を収載する(「烏賊〔イカ〕の語には割注は無い」)。また、文明本『節用集』にては、「鯣〔スルメ〕或云烏賊」[1123F]と「鯣」を見出し語とし割注で「烏賊」を併合した記載となっている。

 ここで、古辞書での記載状況を示してみたが、実は『下学集』の記載状況に、「するめ【鯣】」と「いか【烏賊】」とを別種扱いしていること。これは、「干し烏賊」だけを「するめ」と位置づけしない規範意識にもとづく編纂方法がここに反映していること。これを裏付けるように、源順編『倭名抄』八49亀貝類に、「小蛸魚、知比佐岐太古、一云、須流米」とあるのが本邦辞書記載もっとも古い用例であり、「小蛸魚」を「ちひさきたこ」とし、これを「するめ」ということが挙がっている。これが「たこ【蛸】」の類であれば、「するめ」とは、本来「烏賊」と「蛸」の干物加工の総称であったのかと推定するのである。ただ、加工食品であれば、飲食門に分類されるからして、干物でない生物をも含めて云うのかもしれない。これが『運歩色葉集』や文明本『節用集』へと継承されるなかで、「するめ」といえば、「いか」の干し物を指すことに辞書編纂における規範内容が変遷するのである。邦訳『日葡辞書』に「Surume.スルメ(鯣)干した烏賊〔いか〕」[591l]と記載されている。この編纂意識の確定が現代に及んでいるのだと思われる。この過程で「するめいか」という生き物品種名も誕生するのであろう。

 従来の語源説も、『大言海』のいう「すみむれ【墨群】」の約転(「SUMIMURE」>「SUMIRE」>「SURUME」と子音「M」と「R」が入れ替わり)説が有力である。「烏賊」や「蛸」などを「すみむれ」と称し、「するめ」ということばが生まれたのは、奈良時代以前のことかと夢は広がる。「さきいか」「あたりめ」などと云って、今では庶民の酒のつまみとして口にするものであるが、古代は祭祀の祝事に欠かせない品物であったようだ。噛めば噛むほど味が出るこの「するめ」、「和製ガム」ともいう。コクのある食品として欠かせない。

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