2003年07月01日から7月31日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

2003年7月31日(木)薄晴れ後曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
珎重・珍重(チンチヤウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「地」部に、

珎重(チンテウ) 。〔元亀二年本63七〕

珎重(――) 。〔静嘉堂本73八〕〔天正十七年本上37オ六〕

とあって、標記語「珎重」の語を収載し、訓みを「チンテウ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之條珎重々々〔至徳三年本〕

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之條珍重々々〔宝徳三年本〕

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之条珎重々々〔建部傳内本〕

キニタル__-之至驚_入候芳問之条-重々々〔山田俊雄藏本〕

シタルルコト申通略之至驚(ヲドロキ)入候之處芳問之条珍重々々〔経覺筆本〕

_(ツネ)ニ不申_-(ソリヤク)之至驚(ヲトロキ)_入候處芳問(ハウモン)之条-重々々〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

珎重 稱譽分/チンチヤウ。〔黒川本・疉字門上55ウ八〕

珎財 〃寳。〃重。〃膳。〃恠。〃臺。〃。〃既。〃奇。〃菓。〃美。〃舘。〃亊。〔卷第二・疉字門471三〕

とあって、標記語「珎重」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「珎重」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

珎重(チンヂヨウ・ヲモシ/メヅラシ、シゲシ・カサナル)[○・去]釋氏相見將退、即口珍重(タヽ)合掌俯首示敬也。在釋氏要覽。〔態藝門876八〕

とあって、標記語「珎重」の語を収載し、語注記は「釋氏相見て將に退くべし、即ち口に珍重と云ふ但、合掌俯首敬ひ示すなり。『釋氏要覽』に在り」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

珎重(チンテウ) 。〔・言語進退門53八〕

珎重(チンテウ) ―宝(ボウ)。―財(ザイ)。―菓。―物(ブツ)。―美(ミ)。―亊(ジ)。〔・言語門53八〕

珎重(――) ―宝。―財。―菓。―物。―美。―亊。〔・言語門48八〕

珎重(チンチユウ) ―宝。―物。―財。―菓。〔・言語門57七〕

とあって、標記語「珎重」の語を収載し、訓みを「チンテウ」「チンチユウ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

珍重(チンテウ) 。〔言辞門54六〕

とあって、標記語「珍重」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書は、「珎重」「珍重」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

452依指亊ルコト/ス申通略之至驚入候芳問之条珎重々々_本望忽以滿足仕候畢庶幾(ソキ)何亊四海太平一天静謐人々(ハライ)-(サイ)ヲ所々幸祐也沙汰亊嚴密執行更非停滞(―タイ)預儀之政道| 預猶預之義也。〔謙堂文庫蔵四四右E〕

024自他嘉幸千萬々々御芳札披見之處青陽遊遊宴殊珍重 青東色也。言陽気自東發之間云青陽也。翫也。爰ニハ二字トモニ翫也。念比之義也。〔謙堂文庫藏七右A〕→正月十五日の状

083祝言於于今亊_旧候猶以珎重々々慶賀日重畳家門迎繁昌自他不際限参賀御領入部无相違之条先以神妙之曲御感候也。→三月三日の状

742御消息披見(ヒ−)珎重々々 尽也。通也。息生也。消象於陰。息於陽只音信マテ。又消(ケス)(イキ)ヲ。讀間筆ニテシテニテルヲ言消息也。〔謙堂文庫蔵六三左G〕→十二月の状

とあって、標記語を「珎重」とし、その語注記は、未記載にする。024の語注記に「珎は、翫なり。爰には、二字ともに翫なり。念比の義なり」とあるのが注記なる文言と言えよう。

 古版庭訓徃来註』では、

テ∨_(サせル―)|(ツネ)ニ_疎畧(ソリヤク)之至(イタリ)(ヲドロキ)__處芳問(ハウモン)之条(デウ)珍重(チンテウ)日來(ヒゴロ)ノ本望(ホンモフ)(スミヤカ)ニ滿足(マンゾク)ニ庶幾(ソキ)(シカ)ン∨(ヤ)庶幾トハ。隨ヒウクル心ナリ。〔下19オ一〜三〕

とあって、この標記語を「珎重」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

珍重(ちんてう)々々(/\)日來(ひころ)の本望(ほんもう)(たちまち)(もつ)て滿足(まんそく)候ひ訖ぬ/珎重々々日來本望忽以滿足候畢 滿ハみつる、足ハたれりと訓す。日比の望ミ十分に足れりと也。〔61オ二・三〕

とあって、この標記語「珎重」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(さ)せる事(こと)(な)きに依(よつ)て常に申(まふ)し通ぜ不(す)疎略(そりやく)(の)(いた)り驚(おどろ)き入(い)り候(さふら)ふ之(の)(ところ)芳問(はうもん)之條(てう)珍重(ちんちやう)珍重(ちんちやう)日來(ひころ)の本望(ほんもう)(たちまち)(もつて)滿足(まんそく)し候(さふら)ひ訖(をハん)ぬ庶幾(そき)何事(なにこと)か之に如(しか)ん哉(や)四海泰平(しかいたいへい)一天静謐(いつてんせいひつ)乃事(こと)人人(ひとびと)の攘災(しやうさひ)所所(しよ/\)の幸祐(こうこ)(なり)御沙汰(こさた)乃事(こと)嚴密(けんミつ)に執行(しゆきやう)せら被(ら)る所(ところ)(なり)(さら)に停滞(ていたい)豫儀(よぎ)(の)政道(せいたう)に非(あら)ず訴訟(そせう)(もし)悠々緩怠(ゆう/\くハんたい)(の)(き)(あ)ら者(ハ)御在洛(こさいらく)(の)(ついえ)(なり)テ∨指事略之至入候之處芳問之條珎重々々日來本望忽以滿足庶幾(ソキ)何事カン∨四海太平一天静謐人々-所々幸祐也沙汰事嚴密執行セラ停滞豫儀之政道訴訟若有悠々緩怠之儀御在洛之費〔45ウ二〜八〕

(よつ)て∨(なき)に‖(させる)(こと)|(つね)(ず)‖(まう)(つう)(そりやく)(の)(いたり)(おとろ)き(い)り(さふらふ)(の)(ところ)芳問(はうもん)(の)(でう)珎重(ちんちよう)々々(/\)日來(ひごろ)本望(ほんまう)(たちまち)(もつて)滿足(まんそく)(さふらひ)(をハんぬ)庶幾(そき)何事(なにこと)(しか)ん(これ)(や)四海(しかい)泰平(たいへい)一天(いつてん)静謐(せいひつ)(こと)人々(ひと/\)の攘災(じやうさい)所々(しよ/\)幸祐(かうこ)(なり)沙汰(こさた)(こと)嚴密(げんミつ)(ところ)(るゝ)執行(しゆぎやう)せら(なり)(さら)(あら)停滞(ていたい)豫儀(よぎ)(の)政道(せいたう)に|訴訟(そしやう)(もし)(あ)悠々(いう/\)緩怠(くわんたい)(の)(ぎ)|(バ)御在洛(ございらく)(の)(つひえ)(なり)〔81オ三〜81ウ五〕

とあって、標記語「珎重」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。但し、正月十五日の状に、「珎重ハめづらしく重(おも)んずる意」〔3ウ八〕という。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Chincho>.チンチャウ(珎重) Mezzuraxu casanuru.(珍しう重ぬる)おもに年頭の喜びを表わす言葉.例,Chincho> chincho>.(珍重珍重)新年おめでとう,祝日おめでとうございます.§Chincho>ni zonzuru.(珍重に存ずる)感謝し喜ぶ,あるいは,おめでとうの意.→Caqei(嘉慶).〔邦訳122l〕

とあって、標記語「珎重」の語の意味を「おもに年頭の喜びを表わす言葉」として収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ちん-ちゃう〔名〕【珍重】(一)珍(メヅラ)しとし重んずること。朗詠集、下「珍重紅房透翠簾(二)めでたしと喜び祝ふ語。學山録(藤原明遠)六「俗間書牘、有珍重語、此有本、文粹載、比裴度寄書、末云、間猶希尺牘、珍重珍重、力書無餘、又朝聘曰、珍重祝人保養自重如珍寳也」九條殿遺誡「在朝也、欲珍重矜莊、在私也、欲雍容仁愛拾遺集、十八、雜、賀「流俗(リウシヨク)の、色にはあらず、梅の花」珍重すべき、ものとこそ見れ」珍重に存ず」(三)人に自重自愛を勤むる敬語。釋氏要覽、中「釋氏相見將退、即口ニ云珍重、如此方俗、云安置也、言珍重、即是嘱云善加保重也」(四)轉じて、我が身を大切にすること。自重すること。王僧孺、與何炯書「握手戀戀、難別珍重」〔1276-4〕

とあって、標記語を「珎重」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ちん-ちょう珎重】〔名〕@(形動)(―する)めずらしくて大切なこと。めずらしいものとして大切にすること。また、そのさま。A(形動)めでたいこと。祝うべきこと。結構なこと。また、そのさま。B(―する)自分を大切にすること。自重すること。書簡などに用いて、相手に自重自愛をすすめる語。C(形動)和歌・連歌や俳諧などで用いるほめことば。非常にすぐれていること。また、その作品につける評語。俳諧の評点としては、長点と平点の中間の点とされた。[補注]Bは僧徒の間で多く使用され、唐音で「シンジュン」とも読まれた」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
凡含十字之體、及三口之禮、各所傳用、皆有差別珎重々々由蒙御感仰、其後勸盃數献〈云云〉《訓み下し》凡十字ヲ含ムノ体、三口ノ礼ニ及テ、各伝ヘ用ル所ニ、皆差別有リ。珍重珍重ノ由御感ノ仰セヲ蒙リ(之)、其ノ後勧杯数献ト〈云云〉。《『吾妻鏡』建久四年九月十一日の条》
 
 
2003年7月30日(水)小雨後曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
芳問(ハウモン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、「芳札。芳翰。芳書。芳墨。芳志。芳情。芳恵。芳恩。芳言。芳免。芳恕。芳存。芳意。芳藥。芳名」の語を収載するが、標記語「芳問」の語を未収にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之條珎重々々〔至徳三年本〕

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之條珍重々々〔宝徳三年本〕

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之条珎重々々〔建部傳内本〕

キニタル__-之至驚_入候芳問之条珎-重々々〔山田俊雄藏本〕

シタルルコト申通略之至驚(ヲドロキ)入候之處芳問之条珍重々々〔経覺筆本〕

_(ツネ)ニ不申_-(ソリヤク)之至驚(ヲトロキ)_入候處芳問(ハウモン)之条珎-重々々〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「芳問」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「芳問」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

芳問(ハウモン/カウバシ、ブン・トウ)[平・去]〔態藝門62八〕

とあって、標記語「芳問」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

芳問(ハウモン) 。〔・言語進退門26二〕

芳志(ハウシ) ―命(メイ)。―非(ヒ)。―枝(シ)。―墨(ボク)。―意(イ)。―詞(シ)。―翰(カン)。―言(ゴン)。―心(シン)。―約(ヤク)。―札(サツ)。―談(ダン)。―恩(ヲン)。―情(せイ)。―契(ケイ)―問(モン)。―艶(エン)美女也。―存(ゾン)。―恵(ケイ)。〔・言語門22六〕

芳志(ハウシ) ―命。―非。―枝。―墨。―意。―詞。―翰。―言。―心。―約。―札。―談。―恩。―情。―契。―問。―艶美女也。―存。―恵。〔・言語門20五〕

とあって、標記語「芳問」の語を収載し、訓みを「ハウモン」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

芳問(―モン) 。〔言語門20六〕

とあって、標記語「芳問」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書は、「芳問」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

452依指亊ルコト/ス申通略之至驚入候芳問之条珎重々々_本望忽以滿足仕候畢庶幾(ソキ)何亊四海太平一天静謐人々(ハライ)-(サイ)ヲ所々幸祐也沙汰亊嚴密執行更非停滞(―タイ)預儀之政道| 預猶預之義也。〔謙堂文庫蔵四四右E〕

とあって、標記語を「芳問」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

テ∨_(サせル―)|(ツネ)ニ_疎畧(ソリヤク)之至(イタリ)(ヲドロキ)__芳問(ハウモン)之条(デウ)珍重(チンテウ)日來(ヒゴロ)ノ本望(ホンモフ)(スミヤカ)ニ滿足(マンゾク)ニ庶幾(ソキ)(シカ)ン∨(ヤ)庶幾トハ。隨ヒウクル心ナリ。〔下19オ一〜三〕

とあって、この標記語を「芳問」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

芳問(はうもん)之条(でう)芳問之条 芳問ハ先方よりおのれをたつねられしを云。○○して芳の字を○たり芳ハかうばしと讀。〔60ウ八〜61オ一〕

とあって、この標記語「芳問」の語を収載し、語注記は「芳問は、先方よりおのれをたづねられしを云ふ。○○して芳の字を○たり。芳は、かうばしと讀む」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(さ)せる事(こと)(な)きに依(よつ)て常に申(まふ)し通ぜ不(す)疎略(そりやく)(の)(いた)り驚(おどろ)き入(い)り候(さふら)ふ之(の)(ところ)芳問(はうもん)之條(てう)珍重(ちんちやう)珍重(ちんちやう)日來(ひころ)の本望(ほんもう)(たちまち)(もつて)滿足(まんそく)し候(さふら)ひ訖(をハん)ぬ庶幾(そき)何事(なにこと)か之に如(しか)ん哉(や)四海泰平(しかいたいへい)一天静謐(いつてんせいひつ)乃事(こと)人人(ひとびと)の攘災(しやうさひ)所所(しよ/\)の幸祐(こうこ)(なり)御沙汰(こさた)乃事(こと)嚴密(けんミつ)に執行(しゆきやう)せら被(ら)る所(ところ)(なり)(さら)に停滞(ていたい)豫儀(よぎ)(の)政道(せいたう)に非(あら)ず訴訟(そせう)(もし)悠々緩怠(ゆう/\くハんたい)(の)(き)(あ)ら者(ハ)御在洛(こさいらく)(の)(ついえ)(なり)テ∨指事略之至入候之處芳問之條珎重々々日來本望忽以滿足庶幾(ソキ)何事カン∨四海太平一天静謐人々-所々幸祐也沙汰事嚴密執行セラ停滞豫儀之政道訴訟若有悠々緩怠之儀御在洛之費。▲芳問ハ先方より我(われ)を尋(たづ)ねられしをいふ。〔45ウ二〜46オ一〕

(よつ)て∨(なき)に‖(させる)(こと)|(つね)(ず)‖(まう)(つう)(そりやく)(の)(いたり)(おとろ)き(い)り(さふらふ)(の)(ところ)芳問(はうもん)(の)(でう)珎重(ちんちよう)々々(/\)日來(ひごろ)本望(ほんまう)(たちまち)(もつて)滿足(まんそく)(さふらひ)(をハんぬ)庶幾(そき)何事(なにこと)(しか)ん(これ)(や)四海(しかい)泰平(たいへい)一天(いつてん)静謐(せいひつ)(こと)人々(ひと/\)の攘災(じやうさい)所々(しよ/\)幸祐(かうこ)(なり)沙汰(こさた)(こと)嚴密(げんミつ)(ところ)(るゝ)執行(しゆぎやう)せら(なり)(さら)(あら)停滞(ていたい)豫儀(よぎ)(の)政道(せいたう)に|訴訟(そしやう)(もし)(あ)悠々(いう/\)緩怠(くわんたい)(の)(ぎ)|(バ)御在洛(ございらく)(の)(つひえ)(なり)。▲芳問ハ先方より我(われ)を尋(たづ)ねられしをいふ。〔81オ三〜81ウ六〕

とあって、標記語「芳問」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fo<mon.ハウモン(芳問) Co<baxu>to>.(芳しう問ふ)手紙で尋ね問う,または,手紙によって見舞う意で,その見舞ってくれた人,手紙を書き送ってくれた人を敬って言う.文書語.〔邦訳259l〕

とあって、標記語「芳問」の語の意味を「手紙で尋ね問う,または,手紙によって見舞う意で,その見舞ってくれた人,手紙を書き送ってくれた人を敬って言う.文書語」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語を「芳問」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「はう-もん芳問】〔名〕相手を敬って、その人から問われること、また、訪問されることをいう語」とあって、『庭訓往来』の語用例を記載する。
[ことばの実際]
廷尉、日來所存者、令參向關東者、征平氏間事、具預芳問、又被賞大功、可達本望歟之由、思儲之處、忽以相違、剰不遂拜謁、而空歸洛。《訓み下し》廷尉、日来ノ所存ハ、関東ニ参向セシメバ、平氏ヲ征スル間ノ事、具ニ芳問(ハウモン)ニ預カリ、又大功ヲ賞セラレ、本望ヲ達スベキカノ由、思ヒ儲クルノ処ニ、忽チ以テ相違シ、剰ヘ拝謁ヲ遂ゲズシテ、空シク帰洛ス。《『吾妻鏡』元暦二年六月九日の条》
 
 
2003年7月29日(火)曇り一時小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
驚入(をどろきい・る)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「遠」部に、「驚破(ヲメク)」の語を収載するだけで標記語「驚入」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之條珎重々々〔至徳三年本〕

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之條珍重々々〔宝徳三年本〕

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之条珎重々々〔建部傳内本〕

キニタル__-之至_芳問之条珎-重々々〔山田俊雄藏本〕

シタルルコト申通略之至(ヲドロキ)候之處芳問之条珍重々々〔経覺筆本〕

_(ツネ)ニ不申_-(ソリヤク)之至(ヲトロキ)_候處芳問(ハウモン)之条珎-重々々〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「驚入」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「驚入」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

驚入(ヲドロキイル/ケイシフ)[平・○]〔態藝門229二〕

とあって、標記語「驚入」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「驚入」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書では、広本節用集』のみが「驚入」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語となっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

452依指亊ルコト/ス申通略之至驚入芳問之条珎重々々_本望忽以滿足仕候畢庶幾(ソキ)何亊四海太平一天静謐人々(ハライ)-(サイ)ヲ所々幸祐也沙汰亊嚴密執行更非停滞(―タイ)預儀之政道| 預猶預之義也。〔謙堂文庫蔵四四右E〕

とあって、標記語を「驚入」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

テ∨_(サせル―)(ツネ)ニ_疎畧(ソリヤク)之至(イタリ)(ヲドロキ)__處芳問(ハウモン)之条(デウ)珍重(チンテウ)日來(ヒゴロ)ノ本望(ホンモフ)(スミヤカ)ニ滿足(マンゾク)ニ庶幾(ソキ)(シカ)ン∨(ヤ)庶幾トハ。隨ヒウクル心ナリ。〔下19オ一〜三〕

とあって、この標記語を「驚入」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

疎略(そりやく)(の)(いた)(おどろ)き入(い)(さふら)之処/略之至驚入候之處 疎略ハうとくおろそか也と訓す。是迄ハこゝえよりも無暮したるを同しなり。〔60ウ七・八〕

とあって、この標記語「驚入」の語を収載し、語注記は「さしたる事」と記載するに留まる。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(さ)せる事(こと)(な)きに依(よつ)て常に申(まふ)し通ぜ不(す)疎略(そりやく)(の)(いた)(おどろ)き入(い)(さふら)ふ之(の)(ところ)芳問(はうもん)之條(てう)珍重(ちんちやう)珍重(ちんちやう)日來(ひころ)の本望(ほんもう)(たちまち)(もつて)滿足(まんそく)し候(さふら)ひ訖(をハん)ぬ庶幾(そき)何事(なにこと)か之に如(しか)ん哉(や)四海泰平(しかいたいへい)一天静謐(いつてんせいひつ)乃事(こと)人人(ひとびと)の攘災(しやうさひ)所所(しよ/\)の幸祐(こうこ)(なり)御沙汰(こさた)乃事(こと)嚴密(けんミつ)に執行(しゆきやう)せら被(ら)る所(ところ)(なり)(さら)に停滞(ていたい)豫儀(よぎ)(の)政道(せいたう)に非(あら)ず訴訟(そせう)(もし)悠々緩怠(ゆう/\くハんたい)(の)(き)(あ)ら者(ハ)御在洛(こさいらく)(の)(ついえ)(なり)テ∨指事略之至之處芳問之條珎重々々日來本望忽以滿足庶幾(ソキ)何事カン∨四海太平一天静謐人々-所々幸祐也沙汰事嚴密執行セラ停滞豫儀之政道訴訟若有悠々緩怠之儀御在洛之費〔45ウ二〜八〕

(よつ)て∨(なき)に(させる)(こと)(つね)(ず)(まう)(つう)(そりやく)(の)(いたり)(おとろ)き(い)り(さふらふ)(の)(ところ)芳問(はうもん)(の)(でう)珎重(ちんちよう)々々(/\)日來(ひごろ)本望(ほんまう)(たちまち)(もつて)滿足(まんそく)(さふらひ)(をハんぬ)庶幾(そき)何事(なにこと)(しか)ん(これ)(や)四海(しかい)泰平(たいへい)一天(いつてん)静謐(せいひつ)(こと)人々(ひと/\)の攘災(じやうさい)所々(しよ/\)幸祐(かうこ)(なり)沙汰(こさた)(こと)嚴密(げんミつ)(ところ)(るゝ)執行(しゆぎやう)せら(なり)(さら)(あら)停滞(ていたい)豫儀(よぎ)(の)政道(せいたう)に訴訟(そしやう)(もし)(あ)悠々(いう/\)緩怠(くわんたい)(の)(ぎ)(バ)御在洛(ございらく)(の)(つひえ)(なり)〔81オ三〜81ウ五〕

とあって、標記語「驚入」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「驚入」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

おどろき-〔自動・四〕【驚入】深く驚く。狂言記、腰祈「さてもさても、奇特千萬、おどろきいりましてござる」〔0303-3〕

とあって、標記語を「驚入」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「おどろき-驚入】〔自ラ五(四)〕ひじょうに驚く。すっかり驚いてしまう」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
右衛門入道謹言上右大山庄一院谷貞清名可為一色由被仰出候、驚入候、一一院谷御百姓等条忝仕候。《『東寺百合文書・に』嘉慶元年十月十七日の条・49-1、1/995》
 
2003年7月28日(月)曇り後薄晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
疎略(ソリヤク)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、

疎略(ソリヤク) 。〔元亀二年本152五〕

踈畧(―リヤク) 。〔静嘉堂本166六〕

とあって、標記語「疎略」「踈畧」の語を収載し、訓みを「ソリヤク」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之條珎重々々〔至徳三年本〕

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之條珍重々々〔宝徳三年本〕

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之条珎重々々〔建部傳内本〕

キニタル__-之至驚_入候芳問之条珎-重々々〔山田俊雄藏本〕

シタルルコト申通疎略之至驚(ヲドロキ)入候之處芳問之条珍重々々〔経覺筆本〕

_(ツネ)ニ不申_-(ソリヤク)之至(ヲトロキ)_候處芳問(ハウモン)之条珎-重々々〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

踈略(ヲロソカ也) 无{礼歟}略分/ソリヤク/踈詞。〔黒川本・疉字門中18ウ八〕

踈略 〃簡。〃遠。〃漏。〃頑クワン/ヲロカナリ。〔卷第四・疉字門552三〕

とあって、標記語「踈畧」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

疎略(ソリヤク) 。〔疉字門159二〕

とあって、標記語「疎略」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

踈略(ソリヤク/ヲロソカ・ウトム、ハカリコト)[平・入] 。〔態藝門403六〕

とあって、標記語「踈略」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

踈畧(ソリヤク) 。〔・言語進退門122一〕

踈略(ソリヤク) ―遠(エン)。―忽(コツ)。卒骨・鼠骨・楚忽。〔・言語門101七〕

疎略(ソリヤク) ―遠。―忽鼠―。―竟/又楚忽又卒忽又卒骨。〔・言語門92二〕

疎略(ソリヤク) ―遠。―忽(コツ)又鼠―/―竟(キヤウ)。又楚忽又卒忽又卒骨。〔・言語門112三〕

とあって、標記語「疎略」の語を収載し、訓みを「ソリヤク」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

疎鬱(ソウツ) ―略(リヤク)。―遠(ヱン)。―縁(エン)。―相(サウ)。―意(イ)。―學(ガク)。〔言辞門101三〕

とあって、標記語「疎鬱」の冠頭字「疎」の熟語群として「疎略」語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書は、「疎略」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

452依指亊ルコト/ス申通疎略之至驚入候芳問之条珎重々々_本望忽以滿足仕候畢庶幾(ソキ)何亊四海太平一天静謐人々(ハライ)-(サイ)ヲ所々幸祐也沙汰亊嚴密執行更非停滞(―タイ)預儀之政道| 預猶預之義也。〔謙堂文庫蔵四四右E〕

とあって、標記語を「疎略」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

テ∨_(サせル―)|(ツネ)ニ_疎畧(ソリヤク)之至(イタリ)(ヲドロキ)__處芳問(ハウモン)之条(デウ)珍重(チンテウ)日來(ヒゴロ)ノ本望(ホンモフ)(スミヤカ)ニ滿足(マンゾク)ニ庶幾(ソキ)(シカ)ン∨(ヤ)庶幾トハ。隨ヒウクル心ナリ。〔下19オ一〜三〕

とあって、この標記語を「疎略」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

疎略(そりやく)(の)(いた)り驚(おどろ)き入(い)り候(さふら)之処/疎略之至驚入候之處 疎略ハうとくおろそか也と訓す。是迄ハこゝえよりも無暮したるを同しなり。〔60ウ七・八〕

とあって、この標記語「疎略」の語を収載し、語注記は「疎略は、うとくおろそかなりと訓ず。是までは、こゝえよりも無暮したるを同じなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(さ)せる事(こと)(な)きに依(よつ)て常に申(まふ)し通ぜ不(す)疎略(そりやく)(の)(いた)り驚(おどろ)き入(い)り候(さふら)ふ之(の)(ところ)芳問(はうもん)之條(てう)珍重(ちんちやう)珍重(ちんちやう)日來(ひころ)の本望(ほんもう)(たちまち)(もつて)滿足(まんそく)し候(さふら)ひ訖(をハん)ぬ庶幾(そき)何事(なにこと)か之に如(しか)ん哉(や)四海泰平(しかいたいへい)一天静謐(いつてんせいひつ)乃事(こと)人人(ひとびと)の攘災(しやうさひ)所所(しよ/\)の幸祐(こうこ)(なり)御沙汰(こさた)乃事(こと)嚴密(けんミつ)に執行(しゆきやう)せら被(ら)る所(ところ)(なり)(さら)に停滞(ていたい)豫儀(よぎ)(の)政道(せいたう)に非(あら)ず訴訟(そせう)(もし)悠々緩怠(ゆう/\くハんたい)(の)(き)(あ)ら者(ハ)御在洛(こさいらく)(の)(ついえ)(なり)テ∨指事疎略之至入候之處芳問之條珎重々々日來本望忽以滿足庶幾(ソキ)何事カン∨四海太平一天静謐人々-所々幸祐也沙汰事嚴密執行セラ停滞豫儀之政道訴訟若有悠々緩怠之儀御在洛之費〔45ウ二〜八〕

(よつ)て∨(なき)に‖(させる)(こと)|(つね)(ず)‖(まう)(つう)疎略(そりやく)(の)(いたり)(おとろ)き(い)り(さふらふ)(の)(ところ)芳問(はうもん)(の)(でう)珎重(ちんちよう)々々(/\)日來(ひごろ)本望(ほんまう)(たちまち)(もつて)滿足(まんそく)(さふらひ)(をハんぬ)庶幾(そき)何事(なにこと)(しか)ん(これ)(や)四海(しかい)泰平(たいへい)一天(いつてん)静謐(せいひつ)(こと)人々(ひと/\)の攘災(じやうさい)所々(しよ/\)幸祐(かうこ)(なり)沙汰(こさた)(こと)嚴密(げんミつ)(ところ)(るゝ)執行(しゆぎやう)せら(なり)(さら)(あら)停滞(ていたい)豫儀(よぎ)(の)政道(せいたう)に|訴訟(そしやう)(もし)(あ)悠々(いう/\)緩怠(くわんたい)(の)(ぎ)|(バ)御在洛(ございらく)(の)(つひえ)(なり)〔81オ三〜81ウ五〕

とあって、標記語「疎略」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Soriacu.ソリャク(疎略) 疎漏.Soreacu(疎略)の条を見よ.〔邦訳576l〕

とあって、標記語「疎略」の語の意味を「疎漏」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-りゃく〔名〕【疎略麁略】おろそかにすること。丁寧ならぬこと。漢書、夏侯勝傳「爲疎略英雄記、魏、王粲「丁原爲麁略、有武勇、善騎射平家物語、七、忠度都落事「薩摩守、申されけるは、先年、申し承りてより後は、ゆめゆめ、疎略を存ぜずとは申しながら」「麁略に取扱」〔1171-1〕

とあって、標記語を「疎略」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-りゃく疎略粗略麁略】〔名〕(形動)物事に対して十分に手を尽さないこと。物事をおろそかに扱うこと。また、そのさま。ぞんざい。なげやり。そらく」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
涓塵、不存踈略况不忠之疑哉况反逆之儀哉。《訓み下し》涓塵ト雖モ、疎略(ソリヤク)ヲ存ゼズ。況不忠ノ疑ヲヤ。況ヤ反逆ノ儀ヲヤ。《『吾妻鏡』寿永三年二月二十日の条》
 
2003年7月27日(日)薄晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
指事(さしたること)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

(サス)(同)(同)(同) 蜂。〔元亀二年本279八〕

(サス)(同)(サス)(同) 蜂。〔静嘉堂本319六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「さす」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之條珎重々々〔至徳三年本〕

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之條珍重々々〔宝徳三年本〕

依無指事常不申通疎略之至驚入候之處芳問之条珎重々々〔建部傳内本〕

キニタル__-之至驚_入候芳問之条珎-重々々〔山田俊雄藏本〕

シタルルコト申通略之至驚(ヲドロキ)入候之處芳問之条珍重々々〔経覺筆本〕

_(ツネ)ニ不申_-(ソリヤク)之至(ヲトロキ)_候處芳問(ハウモン)之条珎-重々々〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「指事」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「指事」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

指亊(サシタルコト/・ユビ、)[上・去] 又作差亊。〔態藝門790二〕

とあって、標記語「指事」の語を収載し、語注記は「また、差亊に作る」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

差亊(サシタルコト) 。○。指事(サシタルコト) 。〔・言語進退門215三〕

差亊(サシタルコト) ―寄(サシヨせ)。―上。―作(ハゲテ)。―迫(ツメ)。〔・言語門178九〕

差亊(サシタルコト) ―寄。―上。―作。―迫。〔・言語門168一〕

とあって、標記語「指事」「差亊」の両語を収載し、訓みを「さしたること」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、標記語「指事」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書のうち広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)と印度本系統の弘治二年本節用集』にだけ「指事」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

452依指亊ルコト/ス申通略之至驚入候芳問之条珎重々々_本望忽以滿足仕候畢庶幾(ソキ)何亊四海太平一天静謐人々(ハライ)-(サイ)ヲ所々幸祐也沙汰亊嚴密執行更非停滞(―タイ)預儀之政道| 預猶預之義也。〔謙堂文庫蔵四四右E〕

とあって、標記語を「指事」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

テ∨_(サせル―)(ツネ)ニ_疎畧(ソリヤク)之至(イタリ)(ヲドロキ)__處芳問(ハウモン)之条(デウ)珍重(チンテウ)日來(ヒゴロ)ノ本望(ホンモフ)(スミヤカ)ニ滿足(マンゾク)ニ庶幾(ソキ)(シカ)ン∨(ヤ)庶幾トハ。隨ヒウクル心ナリ。〔下19オ一〜三〕

とあって、この標記語を「指事」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(さ)せる事(こと)(なき)に依(よつ)て常(つね)に申(もふし)(つふ)せ不(す)疎略(そりやく)(の)(いた)り驚(おとろ)き入(いり)候之処/テ∨_(サせル―)(ツネ)ニ_ さしたる事もあらさるゆへ常々音信もなく遠(とを)く處打へたりと也。〔60ウ六・七〕

とあって、この標記語「指事」の語を収載し、語注記は「さしたる事」と記載するに留まる。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(さ)せる事(こと)(な)きに依(よつ)て常に申(まふ)し通ぜ不(す)疎略(そりやく)(の)(いた)り驚(おどろ)き入(い)り候(さふら)ふ之(の)(ところ)芳問(はうもん)之條(てう)珍重(ちんちやう)珍重(ちんちやう)日來(ひころ)の本望(ほんもう)(たちまち)(もつて)滿足(まんそく)し候(さふら)ひ訖(をハん)ぬ庶幾(そき)何事(なにこと)か之に如(しか)ん哉(や)四海泰平(しかいたいへい)一天静謐(いつてんせいひつ)乃事(こと)人人(ひとびと)の攘災(しやうさひ)所所(しよ/\)の幸祐(こうこ)(なり)御沙汰(こさた)乃事(こと)嚴密(けんミつ)に執行(しゆきやう)せら被(ら)る所(ところ)(なり)(さら)に停滞(ていたい)豫儀(よぎ)(の)政道(せいたう)に非(あら)ず訴訟(そせう)(もし)悠々緩怠(ゆう/\くハんたい)(の)(き)(あ)ら者(ハ)御在洛(こさいらく)(の)(ついえ)(なり)テ∨指事略之至入候之處芳問之條珎重々々日來本望忽以滿足庶幾(ソキ)何事カン∨四海太平一天静謐人々-所々幸祐也沙汰事嚴密執行セラ停滞豫儀之政道訴訟若有悠々緩怠之儀御在洛之費〔45ウ二〜八〕

(よつ)て∨(なき)に‖(させる)(こと)(つね)(ず)‖(まう)(つう)(そりやく)(の)(いたり)(おとろ)き(い)り(さふらふ)(の)(ところ)芳問(はうもん)(の)(でう)珎重(ちんちよう)々々(/\)日來(ひごろ)本望(ほんまう)(たちまち)(もつて)滿足(まんそく)(さふらひ)(をハんぬ)庶幾(そき)何事(なにこと)(しか)ん(これ)(や)四海(しかい)泰平(たいへい)一天(いつてん)静謐(せいひつ)(こと)人々(ひと/\)の攘災(じやうさい)所々(しよ/\)幸祐(かうこ)(なり)沙汰(こさた)(こと)嚴密(げんミつ)(ところ)(るゝ)執行(しゆぎやう)せら(なり)(さら)(あら)停滞(ていたい)豫儀(よぎ)(の)政道(せいたう)に|訴訟(そしやう)(もし)(あ)悠々(いう/\)緩怠(くわんたい)(の)(ぎ)|(バ)御在洛(ございらく)(の)(つひえ)(なり)〔81オ三〜81ウ五〕

とあって、標記語「指事」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Saxitaru.サシタル() 重要な(こと).否定語を伴う.例,Saxitaru yo>niua arazu.(さしたる用にはあらず)必須の事でもなく,大切な用事でもない.〔邦訳565l〕

とあって、標記語「指事」の語の意味を「重要な(こと).否定語を伴う」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「さし-たる】」は未収載であり、ただの

-〔他動・四〕【】(一)人指指(ひとさしゆび)を向けて、其方を示す。ゆびざす。指點。「鹿を指して、馬なりと云ふ」(二){其方へ、向ふ。こころざす。古今集、十五、戀「蘆邊より、雲居をさして、行く雁の、いや遠ざかる、我が身悲しも」土左日記、十二月廿七日「大津より、浦戸をさして、漕ぎ出づ」司馬相如、上林賦「率乎(シユツコ)として直指」呂公、注「指、行也」(三){それと、定む。決むる。指定神武紀15「謂來目歌、此的(サシテ)歌者而名之也」「名をさす」日をさす」指し定むる」指し招く」(四)尺(ものさし)にて、測(はか)る。(長短を指し示すなり)「着物の丈をさす」(五)匣、机など、作る。(尺にて、さして作るなり)雍州府志(天和)七、土産門「倭俗、以板造器、總謂(サス)ト、造之家、號指物屋」「本箱をさす」(さし物師) (六)指し狙(ねら)ひて、突き捕る。「黐竿(モチザヲ)にて、雀をさす」〔0805-4〕

とあって、標記語を「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さし-たる】〔連体〕(動詞「指す」の連用形に完了の助動詞「たり」の連体形の付いた「指したる」が連体詞化したもの)@特に心にこうと思い定めた。とりたててちゃんとした。特にこれこれの。A(下に打消しの語を伴って)特にこれというほどの。これといった。たいした。さほどの。させる。[語誌](1)平安時代の公家日記など記録体の文章で生まれた「指(させる)」十二世紀に入って「さしたる」と、読まれるようになったもの。助動詞「り」が衰え「」たり」が盛んに用いられるようになったのに応じて、定着していく。従って、古記録などに見られる「指」の文字には「さしたる」と読んだか「させる」と読んだかはっきりしないものがある。(2)中世の古記録では、「指」のほかに「差」「為差」とも表記されていたが、次第に平仮名書きが多くなり、副詞「さ」にサ変動詞「す」の連用形「し」、完了の助動詞「たり」の連体形「たる」が付いたものと意識されるようにもなる。(3)近代に入ると漢字表記はほとんどされず、文語的な表現に仮名書きで見られるようになる」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
向後、兩國爲院御熊野詣驛家雜事、自今以後、無指事外、不可置守護人《訓み下し》向後ハ、(而シテ彼ノ)両国ヲ院ノ御熊野詣ノ駅家ノ雑事トシテ、自今以後、指セル事無キノ外、守護人ヲ置クベカラズ。《『吾妻鏡』建永二年六月二十四日の条》
 
2003年7月26日(土)晴れ後曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
民部(ミンブ)ノ大輔(タイフ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「見」部に、

民部卿 唐名 戸部(コホウ)〔元亀本301十〕

民部卿(ミンブキヤウ) 唐名戸部。〔静嘉堂本351六〕

とあって、標記語「民部卿」の語を収載し、語注記は「唐名戸部」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

謹上 民部大夫殿〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

謹上 民部大輔殿〔山田俊雄藏本〕

進上 民部大夫殿〔経覺筆本〕

謹上 民部大夫殿〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「民部」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・易林本節用集』に、標記語「民部」の語を未収載にする。広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

民部省(ミンブセイ/タミ、ツカサ、ハブク)[平・上・去] 。當唐戸部(コホウ)。卿一人相當正四位下、唐名戸(コ)部尚書。大輔一人。権相當正五位下唐名戸部侍郎。少輔一人権相當從五位下、唐名同負外郎。丞二人小一人。唐名戸部郎中。録大少、唐名戸部主事。〔官位門889六〕

とあって、標記語「民部省」の語をもってその注記に「大輔」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

民部(ミンブ)―大輔。――少輔。――卿/以上唐名戸部尚書。〔・官名232四〕

民部(ミンブ)―大輔。〃―少輔/〃―卿。唐名戸部(コホウ)尚書。〔・官名193三〕

民部(ミンブ)―大輔。〃―少輔/〃―卿。唐名戸部尚書。〔・官名183二〕

とあって、尭空本両足院本節用集』に標記語「民部」の語を収載し、その語注記に「民部大輔」を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「民部」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

451進上民部大輔殿〔謙堂文庫蔵四四右D〕

とあって、標記語を「民部大輔」とし、その語注記は未記載にする。後の十一月状に詳しい。

 古版庭訓徃来註』では、

謹上 民部(ミンブ)大輔(タイウ)殿下18ウ八

とあって、この標記語「民部大輔」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

謹上/民部(ミんぶ)大夫(たゆふ)殿(との)謹上 民部大夫殿。〔60ウ五〕

とあって、この標記語「民部大夫」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

民部(ミんふ)大輔(たいふ)殿(との)民部大輔殿。▲民部大輔ハ正五位下に相當す。唐名(からな)ハ戸部(とほう)侍郎(しらう)といふ。〔45ウ一〕

民部(みんぶ)の大輔(たいふ)殿(どの)民部大輔ハ正五位下に相當(さうたう)す。唐名(からな)ハ戸部(とほう)侍郎(じらう)といふ。〔81オ一〕

とあって、標記語「民部大輔」の語を収載し、その語注記は、「民部の大輔は、正五位下に相當す。唐名は、戸部侍郎といふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「民部」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

みんぶ--たいふ〔名〕【民部大輔】〔大夫は五位の通稱なり〕民部省の丞(六位相當官)をやめて、受領となりたる五位の人の稱。即ち、民部丞の、五位に叙せられたるものを云ふ。〔1949-2〕

とあって、標記語を「民部大輔」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「みん-民部】@中国、後周の頃に設けられた官名。大司徒卿の属に民部中大夫を置き、司徒の教を受け籍帳の法を以て人民の衆募を計ることをつかさどったもの。隋の初め、度支尚書があってこの職を兼ねたが、唐代、太宗李世民の名を避けて戸部(こほう)と改め、以後はこれによった。A「みんぶしょう(民部省)@」の略。B「みんぶきょう(民部卿)@」の略。C女官の呼名。また、民部丞などを父親にもつ女房の称」みんぶの大輔(たいふ)民部省@の次官二人のうち、上位の者の官名。正五位下相当の官」とあって、『庭訓往来』の「民部」の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
將軍家、御方違尾張前司山庄刑部少輔教時、越後守實時、民部大輔時隆已下數輩供奉。《訓み下し》将軍家、尾張ノ前司ガ山庄ニ御方違、刑部ノ少輔教時、越後ノ守実時、民部大輔時隆已下ノ数輩供奉ス。時隆。《『吾妻鏡』正嘉二年五月二十九日の条》
 
 
2003年7月25日(金)曇り後小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
和氣(ワケ)」→ことばの溜池(2000.12.03)参照。
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「和」部に、

和氣(―ケ)〔元亀本87D〕〔静嘉堂本107F〕〔天正十七年本上53オF〕

とあって、標記語「和氣」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

七月晦日   加賀大拯和氣〔至徳三年本〕

七月卅日   加賀大拯和氣〔宝徳三年本〕

七月晦日   加賀大丞和氣〔建部傳内本〕

七月晦日   加賀大掾和氣〔山田俊雄藏本〕

七月卅日   加賀大丞和氣(ワケ)〔経覺筆本〕

七月晦日   加賀大丞和氣()〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「和氣」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・易林本節用集』に、標記語「和氣」の語を未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

和氣(―ケ) 。〔・人名64F〕〔・人名76E〕

とあって、尭空本両足院本節用集』に標記語「和氣」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書では、『運歩色葉集』と印度本系統の尭空本両足院本節用集』とに「和氣」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

450八月三日   加賀大丞和氣{醫道之氏也}〔謙堂文庫蔵四四右C〕

とあって、標記語を「和氣」とし、その語注記は、「醫道の氏なり」と記載する。後の十一月状に詳しい。

 古版庭訓徃来註』では、

七月晦日(ツモコリ)  加賀(カガ)ノ大丞(タイせウ)和氣(ワケ)。〔下18ウ七〕

とあって、この標記語「和氣」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

七月晦日/加賀(かゝ)の大丞(たいぜう)和氣(わけ)七月晦日  加賀大丞和氣。〔60ウ四〕

とあって、この標記語「和氣」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

八月三日/加賀(かが)の大掾(たいせう)和氣(わけ)八月三日   加賀大掾和氣。▲和氣の姓(せい)ハ垂仁(すいしん)天皇十五代の孫(そん)大納言僧(そう)正三位清麿(きよまろ)に始る。〔45ウ一〕

八月(はちぐわつ)三日()   加賀(かが)大掾(だいじやう)和氣(わけ)。▲和氣の姓(せい)ハ垂仁(すゐにん)天皇十五代の孫(そん)大納言僧(ぞう)正三位清麿(きよまろ)に始る。〔80オ一・二〕

とあって、標記語「大掾」の語を収載し、その語注記は、「和氣の姓は、垂仁天皇十五代の孫大納言僧正三位清麿に始る」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「和氣」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【和氣】國造、稲置などの類にて、古へ、諸國の處處にありて、其地を治むる職。後に尸(かばね)となり、又、氏ともなりたり。 古事記、中(景行)44「其餘七十七王者、悉別賜國國之國造、亦和氣、及稻置、縣主景行紀、四年二月「七十餘子。皆封國郡。各如其國。故當今時。謂諸國之別者。即其別王之苗裔焉弟稻背入彦皇子。是播磨別之始祖也續紀、廿六、天平~護元年三月「從六位上藤野別眞人清麻呂等三人、賜姓吉備藤野和氣眞人〔2165-2〕

とあって、標記語を「-〔名〕【和氣】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-和気】姓氏の一つ」(【別】の[補注](2)四七一年のもとされる埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘に「乎獲居(ヲワケ)」などの例があり、「古事記」では「天石戸別(あまのいはとわけ)神」(上)「伊邪本和気(いざほわけ)命」(下)のように「別」または「和気」と表記されている。高貴な血筋を分けた者の意であり、それが地方に封ぜられた皇族にも与えられたのであろう)」とあって、『庭訓往来』に見る中世の「和気」の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
又施藥院使丹波良基朝臣、叙正四位上、超越和氣清成朝臣。《訓み下し》又施薬院使丹波ノ良基ノ朝臣ヲ、正四位ノ上ニ叙セラル、和気(ワケ)ノ清成ノ朝臣ニ超越ス。《『吾妻鏡』嘉禎二年十二月二十六日の条》
 
 
2003年7月24日(木)曇り後薄晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
大拯大丞(タイゼウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、標記語「大拯」「大丞」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

七月晦日   加賀大拯和氣〔至徳三年本〕

七月卅日   加賀大拯和氣〔宝徳三年本〕

七月晦日   加賀大丞和氣〔建部傳内本〕

七月晦日   加賀和氣〔山田俊雄藏本〕

七月卅日   加賀大丞和氣(ワケ)〔経覺筆本〕

七月晦日   加賀大丞和氣()〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。表記は「大拯」「大丞」「大掾」の三種からなり、山田本の「大掾」は同音異語表記による誤認定か。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「大拯」「大丞」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「大拯」「大丞」の語を未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書では、「大拯」「大丞」の語を未収載にし、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

450八月三日   加賀大丞和氣{醫道之氏也}〔謙堂文庫蔵四四右C〕

とあって、標記語を「大丞」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

七月晦日(ツモコリ)  加賀(カガ)ノ大丞(タイせウ)和氣(ワケ)。〔下18ウ七〕

とあって、この標記語「大丞」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

七月晦日/加賀(かゝ)大丞(たいぜう)和氣(わけ)七月晦日  加賀大丞和氣。〔60ウ四〕

とあって、この標記語「大丞」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

八月三日/加賀(かが)大掾(たいせう)和氣(わけ)八月三日   加賀大掾和氣。〔45オ七〕

八月(はちぐわつ)三日(ミつか)   加賀(かが)大掾(だいじやう)和氣(わけ)。〔80ウ五〕

とあって、標記語「大掾」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「大拯」「大丞」の語の意味を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語を「だい-じょう〔名〕【大拯大丞】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「だい-じょう大丞】〔名〕@大弁(だいべん)の唐名。A明治二年(1869年)に制定された官制で、各省と大学校に設置された官名」因みに、標記語「だい-じょう大掾】〔名〕中世以降、町人・職人のほか、人形細工師、操師(あやつりし)、浄瑠璃太夫などが受領して名乗った名所称号。大掾・掾・稱掾の三階級の一つ」とあって、別の意味としている。そして、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
貢馬八疋、被進京都和泉大拯國守、具足之〈云云〉《訓み下し》貢馬八疋、京都ニ進ゼラル。和泉ノ大丞(ゼウ)国守、之ヲ具足スト(之ヲ相具スト)〈云云〉。《『吾妻鏡』建久六年十月八日の条》
亭主第四、證悟也亭主以範元下座之儀、可若對座之由、被称之處、大拯禪門云、以合點員數、可守其座次之由、治定先訖而非一行座者、頗可爲無念歟〈云云〉《訓み下し》亭主範元ヨリ下座ノ儀ヲ以テ、対座ノ若クスベキノ由、称ゼラルルノ処ニ、大丞(セウ)禅門ノ云ク、合点ノ員数ヲ以テ、其ノ座ノ次ヲ守ルベキノ由、治定先ニ訖ンヌ。《『吾妻鏡』弘長三年二月十日の条》
 
 
2003年7月23日(水)小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
面拝(メンハイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「免」部に、

面拝(―バイ) 。〔元亀二年本296二〕

面拝(――) 。〔静嘉堂本344二〕

とあって、標記語「面拝」の語を収載し、訓みを「(メン)バイ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

右筆等雖難叶候雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝恐々謹言〔至徳三年本〕

右筆等雖難叶候雜訴風情者成管見之窺度候心事不及能腐毫併期面拝恐々謹言〔宝徳三年本〕

右筆等雖難叶雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝之時候恐々謹言〔建部傳内本〕

-筆等雖シト∨フト-(ザツ―)ノ-情計者成-之窺(ウカヽヒ)ヲ度候心事不腐毫(フゴウ)併期面拝之次恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

管見之窺(ウカガヒ)ヲ候心事不腐毫(フガウ)ニ併期面拝之時候恐々謹言〔経覺筆本〕

右筆(ユウ−)雜訴(サツソ)ノ-情計者成(ナシ)管見(クハンケン)ノ之窺(ウカヽイ・ウカヽヒ)ヲ(タク)候心事不及腐毫(フカウ)ニ併期面拝恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

面拜 同/メンハイ。〔黒川本・疉字門下60オ四〕

面目 〃拜。〃。〃談。〃前。〃子。〃。〃謁。〃展。〃縛。〃勤。〔卷第九・疉字門52二〕

とあって、標記語「面拝」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「面拝」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

面拜(メンハイ/ヲモテ、ヲガム)[去・去]〔態藝門876八〕

とあって、標記語「面拝」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

面拜(メンハイ) 。〔・言語進退門229六〕

面拜(メンハイ) ―談(ダン)。―展(テン)。―謁(エツ)。―目(ボク)。/―活(カツ)。―皮(ヒ)。―賀(カ)。―打(チヤウ)。〔・言語門191二〕

面拜(メンハイ) ―談。―展。―謁。―目。―前/―話。―皮。―賀。―打。―体。〔・言語門180六〕

とあって、標記語「面拜」の語を収載し、訓みを「メンハイ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

面目(メンエツ) ―談(ダン)―拜(ハイ)。―話(ワ)。―張(チヤウ)。―道(タウ)。―目(モク)。―會(クワイ)。――皮(ヒ)。―上(ジヤウ)。―受口決(ジユクケツ)。―壁(ヘキ)。―展(テン)。―打(チヤウ)。〔言辞門196六・七〕

とあって、標記語「面目」の冠頭字「面」の熟語群として「面拜」語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書は、「面拝」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

449心亊不腐毫併期面拝恐々謹言 〔謙堂文庫蔵四四右B〕

とあって、標記語を「面拝」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

雜訴(ザツソ)ノ之風情(フゼイ)(ハカリ)(ハ)(ナシ)‖管見(クハンケン)ヲ(ウカヽヒ)(タク)候心事不腐毫(フガウ)(シカシ)ナカラ面拝(ハイ)之時 雜訴ノ風情(フセイ)(バカリ)トハ。色々ヲウツタヘサハク事ナリ。風情可也。〔下18ウ四〜六〕

とあって、この標記語「面拝」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(しかしなから)面拝(めんはい)を期(ご)し候/(シカシ)ナカラ面拝候 この注も前にあり。〔60オ六〕

とあって、この標記語「面拝」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。〔44ウ七〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(フゼイ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。〔79五・六〕

とあって、標記語「面拝」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Menpai.メンパイ(面拝) Vomoteuo vogamu.(面を拝む)貴人に恭しく対面すること.〔邦訳397l〕

とあって、標記語「面拝」の語の意味を「貴人に恭しく対面すること」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

めん-ぱい〔名〕【面拝】おんめにかかること。拝顔。面展。 庭訓徃來、二月「面拝之後、中絶良久、遺恨如山、何時散意霧哉」〔0942-2〕

とあって、標記語を「面拝」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「めん-はい面拝】@お目にかかること。拝顔。面展。Aまのあたりに拝すること」とあって、『庭訓往来』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
仍及面拜不屑眉目也《訓み下し》仍テ面拝ニ及ブ。不屑ノ眉目ナリ。《『吾妻鏡』寿永三年三月二十八日の条》
 
 
2003年7月22日(火)薄晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
腐毫(フガウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「福」部に、標記語「腐毫」のの語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

右筆等雖難叶候雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝恐々謹言〔至徳三年本〕

右筆等雖難叶候雜訴風情者成管見之窺度候心事不及能腐毫併期面拝恐々謹言〔宝徳三年本〕

右筆等雖難叶雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝之時候恐々謹言〔建部傳内本〕

-筆等雖シト∨フト-(ザツ―)ノ-情計者成-之窺(ウカヽヒ)ヲ度候心事不腐毫(フゴウ)併期面拝之次恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

管見之窺(ウカガヒ)ヲ候心事不腐毫(フガウ)ニ併期面拝之時候恐々謹言〔経覺筆本〕

右筆(ユウ−)雜訴(サツソ)ノ-情計者成(ナシ)管見(クハンケン)ノ之窺(ウカヽイ・ウカヽヒ)ヲ(タク)候心事不及腐毫(フカウ)併期面拝恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「腐毫」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「腐毫」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(フデ/ヒツ)[入]。(同/カフ)[平] 《前略》意遊管翠羽(スイウ)鶏距彫筆兎毛腐毫禿筆義也」〔態藝門423二〕

とあって、標記語「腐毫」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「腐毫」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書では、広本節用集』の「筆」の語注記に「腐毫」の語を収載し、語注記には「禿筆義なり」とし、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。ここで、広本節用集』の語注記「禿筆義也」だが、下記に示す真字本、正月五日の語注記に「又禿筆之義也」とあって、ここに合致するものである。

 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状と正月五日の状に、

449心亊不腐毫併期面拝恐々謹言 〔謙堂文庫蔵四四右B〕

〔謙堂文庫蔵四四右A〕

017少々有テ‖御誘引思食立給本望也。心事雖多為ンヤ∨参會之次ハ‖腐毫ニ| 念_比申義也。又禿筆之義也。又筆名也。〔謙堂文庫藏五左H〕

とあって、標記語を「腐毫」とし、449には語注記は、未記載にし、017には「腐は、念比に申すに及ばざる義なり。また、禿筆の義なり。また、筆の名なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

雜訴(ザツソ)ノ之風情(フゼイ)(ハカリ)(ハ)(ナシ)‖管見(クハンケン)ヲ(ウカヽヒ)(タク)候心事不腐毫(フガウ)(シカシ)ナカラ面拝(ハイ)之時 雜訴ノ風情(フセイ)(バカリ)トハ。色々ヲウツタヘサハク事ナリ。風情可也。〔下18ウ四〜六〕

とあって、この標記語「腐毫」とし、語注記は「腐毫すべきなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

雜訴(ざつそ)の風情(ふぜい)(はかり)(ハ)雜訴風情計 雑訴ハいろ/\の公事なり。風情とハ訴を取捌く大方を云。〔60オ六〕

とあって、この標記語「腐毫」の語を収載し、語注記には「腐毫とは、訴を取り捌く大方を云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。〔44ウ七〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(フゼイ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。〔79五・六〕

とあって、標記語「腐毫」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fugo<.フガゥ(腐毫) Cusare fude.(腐れ毫)すでにいたんだりこわれたりしたペン〔筆〕.書状用語で,これによって謙遜の意を示す語.例,Fugo<ni atauazu.(腐毫に能はず)このちびた,あるいは,いたんだペン〔筆〕では,とても書くことができない.〔邦訳273l〕

とあって、標記語「腐毫」の語の意味を「すでにいたんだりこわれたりしたペン〔筆〕.書状用語で,これによって謙遜の意を示す語」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語を「-がう〔名〕【腐毫】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-ごう腐毫〔名〕腐ったり、すりきれたりした筆。禿筆(とくひつ)。また、その筆で書いたもの。転じて自分の筆跡をへりくだっていう語」とあって、『庭訓往来』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
 猶此使以覚書可申入候条、不能腐毫候、恐恐謹言、八月六日。《『島津文書』慶長四年八月六日日の条、1153・2/454》
 
 
2003年7月21日(月)曇り後雷雨そして曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
心事(シンジ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、「心經(ギヤウ)。心緒(シヨ)。心底(テイ)。心氣(キ)。心中。心肝(カン)」の語を収載するが、標記語「心事」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

右筆等雖難叶候雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝恐々謹言〔至徳三年本〕

右筆等雖難叶候雜訴風情者成管見之窺度候心事不及能腐毫併期面拝恐々謹言〔宝徳三年本〕

右筆等雖難叶雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝之時候恐々謹言〔建部傳内本〕

-筆等雖シト∨フト-(ザツ―)ノ-情計者成-之窺(ウカヽヒ)ヲ度候心事腐毫(フゴウ)ニ併期面拝之次恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

管見之窺(ウカガヒ)ヲ心事腐毫(フガウ)ニ併期面拝之時候恐々謹言〔経覺筆本〕

右筆(ユウ−)雜訴(サツソ)ノ-情計者成(ナシ)管見(クハンケン)ノ之窺(ウカヽイ・ウカヽヒ)ヲ(タク)心事不及腐毫(フカウ)ニ併期面拝恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「心事」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「心事」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

心亊(シンジ/コヽロ、コト・ワザ)[平・去] 。〔態藝門942一〕

とあって、標記語「心事」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

心事(シンジ) 。〔・言語進退門247七〕

心底(シンテイ) ―性。―労。―中。―肝。―亊。〔・言語門212四〕〔・言語門196三〕

とあって、標記語「心事」の語を収載し、訓みを「シンジ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

    心事(シンジ) 。〔言辞門106五〕

とあって、標記語「心事」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「シンジ」として、「心事」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語であるが、読みからして合致できるのは広本節用集』の「つかまつる」に過ぎない。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

449心亊腐毫併期面拝恐々謹言 〔謙堂文庫蔵四四右B〕

とあって、標記語を「心事」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

雜訴(ザツソ)ノ之風情(フゼイ)(ハカリ)(ハ)(ナシ)‖管見(クハンケン)ヲ之窺(ウカヽヒ)(タク)心事腐毫(フガウ)(シカシ)ナカラ面拝(ハイ)之時 雜訴ノ風情(フセイ)(バカリ)トハ。色々ヲウツタヘサハク事ナリ。風情可也。〔下18ウ四〜六〕

とあって、この標記語「心事」とし、語注記は「心事すべきなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

心事(しんじ)腐毫(ふがう)に及(およ)ハ不(す)心事腐毫 心に思ふ事共前にのせかたしとなり。腐毫の注前に見へたり。〔60ウ二〕

とあって、この標記語「心事」の語を収載し、語注記には「心に思ふ事共前にのせかたしとなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊腐毫併期面拝-々謹-。〔44ウ七〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(フゼイ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。〔79五・六〕

とあって、標記語「心事」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「心事」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しん-〔名〕【心事】(一)心に、思ひ設けてある事柄。 謝靈運、詩序「徐幹少無宦情、有箕頴之心事、故仕世多素辭榮花物語、十五、疑)「我若向後至大位心事相諧者、云云」心事を明かす」〔0942-2〕

とあって、標記語を「心事」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「しん-心事】〔名〕@心に思う事柄。心中。意中。A心に思うことと現実」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而於海上、並舟舩、相逢于三浦之輩、互述心事伊欝〈云云〉《訓み下し》而ルニ海上ニ於テ、舟船ヲ並ベ、三浦ノ輩ニ相ヒ逢ウテ、互ニ心事ノ伊欝ヲ述ブルト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年八月二十七日の条》
 
 
2003年7月20日(日)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
(うかがひ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「宇」部に、

(ウカヽウ)() 。〔元亀二年本184九〕〔静嘉堂本208一〕〔天正十七年本中33オ五〕

とあって、標記語「伺」と「」の二表記で収載し、訓みをそれぞれ「ウカヽウ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

右筆等雖難叶候雜訴風情計者成管見之度候心事不及腐毫併期面拝恐々謹言〔至徳三年本〕

右筆等雖難叶候雜訴風情者成管見之度候心事不及能腐毫併期面拝恐々謹言〔宝徳三年本〕

右筆等雖難叶雜訴風情計者成管見之度候心事不及腐毫併期面拝之時候恐々謹言〔建部傳内本〕

-筆等雖シト∨フト-(ザツ―)ノ-情計者成-(ウカヽヒ)度候心事不腐毫(フゴウ)ニ併期面拝之次恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

管見之(ウカガヒ)候心事不腐毫(フガウ)ニ併期面拝之時候恐々謹言〔経覺筆本〕

右筆(ユウ−)雜訴(サツソ)ノ-情計者成(ナシ)管見(クハンケン)ノ(ウカヽイ・ウカヽヒ)(タク)候心事不及腐毫(フカウ)ニ併期面拝恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(ウカヽウ/)[平](同/キ) 。〔態藝門488四〕

(ウカガイ)(テン)ヲ(モツテ)―蠡(レイ)ヲ(ハカル)(カイ)ヲ 文選。〔態藝門532五〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ウカヽウ)() 。〔・言語進退門150六〕

(ウカヽウ) 。〔・言語門123二〕

(ウカウ) 。〔・言語門112七〕

(ウカヾウ) 。〔・言語門137三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「ウカヽウ」「ウカウ」」「ウカヾウ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

    (ウカヽウ)()()() 。〔言辞門120一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ウカヽウ」として、「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

448風-情計者管見之度候 筆法師穴也。少義也。以管窺〔謙堂文庫蔵四四右A〕

とあって、標記語を「」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

雜訴(ザツソ)ノ之風情(フゼイ)(ハカリ)(ハ)(ナシ)‖管見(クハンケン)ヲ(ウカヽヒ)(タク)候心事不腐毫(フガウ)(シカシ)ナカラ面拝(ハイ)之時 雜訴ノ風情(フセイ)(バカリ)トハ。色々ヲウツタヘサハク事ナリ。風情可也。〔下18ウ四〜六〕

とあって、この標記語「」とし、語注記は「窺すべきなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

管見(くわんけん)(の)(うかゝひ)を成(な)し度(た)く候/シ‖管見之度候 こゝに云こゝろハ右筆の掛亊ハ事廣き事にてそれをつゝあきらめん事ハ及ひかたけれとも雑訴の捌き方はかりハ其つと端(はし)を心得たしと也。管見の字ハ荘子(そうじ)に出たり。管の中より大空をうかゝふといふ詞あり。是によりて書しなり。管見は唯其一ト端を見るはかりといふ義なり。〔60オ六〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之心亊不腐毫併期面拝-々謹-。〔44ウ七〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(フゼイ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。〔79五・六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

‡Vcagai.ウカガイ() →Quanqen(管見).〔邦訳683r〕

とあって、標記語「」の語の意味をただ、「→Quanqen(管見)」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

うかが〔名〕【】(一){伺ふこと。のぞくこと。 宇津保物語、俊蔭55「人のうかがひなどするに、尋ね出られて」(二){竊に敵陣の動静(やうす)を探り知ること。うかみ。ものみ。しのび。斥候間諜天治字鏡、三13「諜、伊久佐乃宇加加比」(三)官に、事を申立てて、指令を仰ぐこと。伺を立つると云ふ。申稟。〔0223-3〕

とあって、標記語を「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「うかが】〔名〕(動詞「うかがう(窺)」の連用形の名詞化。古くは「うかかい」)[一](窺)@そっとのぞき見ること。様子を見ること。A敵陣の様子をひそかに探ること。また、その人。まわしもの。間者(かんじゃ)。間諜(かんちょう)。[二](伺)@
神仏や目上の人などに指図・意見を仰ぐこと。特に、人民や下級の役人・官庁から、幕府・政府や上級の官庁に指示を仰ぐこと。A「問うこと」「聞くこと」「訪問すること」などの謙譲語で、相手を敬って用いる。B譏嫌伺いの客。<音史>@上代「うかかひ」と清音らしい。平安「うかかひ」「うかがひ」清濁両形。以後濁音」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
諜 伊久佐乃宇加加比。《『新撰字鏡』(898-901頃)》
伊東次郎祐親法師、爲屬小松羽林浮舩於伊豆國鯉名泊、擬廻海上之間、天野藤内遠景、得之、令生虜今日相具、參黄瀬河御旅亭。《訓み下し》伊東次郎祐親法師、小松ノ羽林ニ属センガ為ニ、船ヲ伊豆ノ国鯉名ノ泊ニ浮ベ、海上ヲ廻ラント擬スルノ間、天野ノ藤内遠景、之ヲ(ウカガ)ヒ得テ、生虜ラシメ、今日相ヒ具シテ、黄瀬河ノ御旅亭ニ参ズ。《『吾妻鏡』治承四年十月十九日の条》
 
 
2003年7月19日(土)薄晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
風情(フゼイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「福」部に、

風情(―せイ) 。〔元亀二年本222七〕

風情(―ゼイ) 。〔静嘉堂本254五〕

風情(――) 。〔天正十七年本中56オ八〕

とあって、標記語「風情」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(フ)ゼイ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

右筆等雖難叶候雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝恐々謹言〔至徳三年本〕

右筆等雖難叶候雜訴風情者成管見之窺度候心事不及能腐毫併期面拝恐々謹言〔宝徳三年本〕

右筆等雖難叶雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝之時候恐々謹言〔建部傳内本〕

-筆等雖シト∨フト-(ザツ―)ノ-者成-之窺(ウカヽヒ)ヲ度候心事不腐毫(フゴウ)ニ併期面拝之次恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

管見之窺(ウカガヒ)ヲ候心事不腐毫(フガウ)ニ併期面拝之時候恐々謹言〔経覺筆本〕

右筆(ユウ−)雜訴(サツソ)ノ-計者成(ナシ)管見(クハンケン)ノ之窺(ウカヽイ・ウカヽヒ)ヲ(タク)候心事不及腐毫(フカウ)ニ併期面拝恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

風情 同/フせイ。〔黒川本・疉字門中106ウ八〕

風情 〃流。〃聞。〃俗。〃月。〃景。〃皃。〃簾。〃雲。〃烈。〃宋。〃化。〃霜。〃荷。〃雅。〃疾。〃土。〃塵。〃業。〃骨。〃襟キン。〃光。〃痺。〃物。〔卷第七82二〕

とあって、標記語「風情」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

風流(フウリウ/フリウ) 風情(フせイ)義也。日本俗呼拍子物(ハヤシモノ)ヲ風流。〔態藝門78五〕

とあって、標記語「風流」の語注記に収載するのみである。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

風情(フぜイ/カぜ、コヽロ・ナサケ)[平・平] 。〔態藝門625五〕

とあって、標記語「風情」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

風情(フゼイ) 。〔・言語進退門181六〕

風雅(フウガ) ―聞(ブン)。―(ぜイ)。―度(ト)。―流(リウ)風情之義也。拍子物(ハヤシモノ)ヲ――ト云。〔・言語門149六〕

風雅(フウガ) ―聞。―。―度。―流拍子物―情義。〔・言語門139四〕

とあって、標記語「風情」の語を収載し、訓みを「フゼイ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

風俗(フウゾク) ―躰(テイ)。―便(ビン)。―波(ハ)。―聞(ブン)。―流(リウ)。―味(ミ)。―葉(ヨフ)。―晨月夕(シンゲツセキ)。〔言辞門152三〕

とあって、標記語「風情」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「フゼイ」として、「風情」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

448-計者管見之窺度候 筆法師穴也。少義也。以管窺。〔謙堂文庫蔵四四右A〕

とあって、標記語を「風情」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

雜訴(ザツソ)ノ風情(フゼイ)(ハカリ)(ハ)(ナシ)‖管見(クハンケン)ヲ之窺(ウカヽヒ)(タク)候心事不腐毫(フガウ)(シカシ)ナカラ面拝(ハイ)之時 雜訴ノ風情(フセイ)(バカリ)トハ。色々ヲウツタヘサハク事ナリ。風情可也。〔下18ウ四〜六〕

とあって、この標記語「風情」とし、語注記は「風情すべきなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

雜訴(ざつそ)風情(ふぜい)(はかり)(ハ)雜訴風情 雑訴ハいろ/\の公事なり。風情とハ訴を取捌く大方を云。〔60オ六〕

とあって、この標記語「風情」の語を収載し、語注記には「風情とは、訴を取り捌く大方を云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之-者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。〔44ウ七〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(フゼイ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。〔79五・六〕

とあって、標記語「風情」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fujei.フゼイ(風情) 格好,あるいは,様子.§Icarino fujeiuo arauasu.(怒の風情をあらはす)怒りの表情と態度をあらわに見せる.→Vomozaxi.〔邦訳273r〕

とあって、標記語「風情」の語の意味を「格好,あるいは,様子」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-ぜい〔名〕【風情】(一)けしき。けはひ。おもむき。あぢはひ。趣致。 方丈記「跡ノ白波ニ身ヲヨスル朝ニハ、岡ノ屋ニ行キカフ船ヲナガメテ、滿沙彌ガ風情ヲヌスミ」花傳書別紙口傳(應永、世阿彌)「口傳に曰く、音曲、舞、働、振、風情、これまた同じ心なり」(二)さま。やうす。ふう。平家物語、一、鱸事「似るを友とかやの風情にて、忠盛の好いたりければ、此女房も優なりけり」源氏烏帽子折(元禄、近松作)三「地にひれふし、穴へも入りたき風情なり」(三)などやうのもの。平家物語、十、三日平氏事「長持、云云、黄金、卷物、染物ふぜいの物を入れて奉らる」徒然草、五十四段「風流の破籠やうの物、懇に營み出でて、箱風ぜいの物にしたため入れて、垂フ岡の便りよき所に埋みおきて」(四)などやうのやから。又、たぐひ。(卑めて云ふ) 海人藻芥、中「當時襌家幵時衆風情の輩、坊中の具足を令結構柳樽、七編「下女ふぜい、などと陳ずる、若旦那」〔1751-4〕

とあって、標記語を「風情」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-ぜい風情〔名〕@風流・風雅の趣や味わい。情趣。情調。また、それを解する心。A事柄の内容の大体の方向。趣。流儀。B様子。けはい。姿。態度。C能樂で、所作(しょさ)、しぐさのことをいう。D身の回りを整えること。みだしなみ。〔接尾〕@名詞に付いて、…のようなもの、…に似通ったもの、…の類、などの意を添える。A名詞、特に人名や代名詞に付いて、それをいやしめ、または、へりくだる意を添える」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
又居蛇結文於腰充、其風情殊珎重也旁御感之餘、向後重端、可爲此儀次蛇結丸、可爲宗季手文之由、被仰含〈云云〉《訓み下し》又蛇結文ヲ腰充ニ居ユ、其ノ風情(フゼイ)殊ニ珍重ナリ。旁御感ノ余リ、向後端ヲ重ネバ、此ノ儀タルベシ。次ニ蛇結ノ丸ハ、宗季ガ手ノ文タルベキノ由、仰セ含メラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』建久元年九月十八日日の条》
 
 
2003年7月18日(金)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
雜訴(ザツソ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「佐」部に、標記語「雜訴」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

右筆等雖難叶候雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝恐々謹言〔至徳三年本〕

右筆等雖難叶候雜訴風情者成管見之窺度候心事不及能腐毫併期面拝恐々謹言〔宝徳三年本〕

右筆等雖難叶雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝之時候恐々謹言〔建部傳内本〕

-筆等雖シト∨フト-(ザツ―)-情計者成-之窺(ウカヽヒ)ヲ度候心事不腐毫(フゴウ)ニ併期面拝之次恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

管見之窺(ウカガヒ)ヲ候心事不腐毫(フガウ)ニ併期面拝之時候恐々謹言〔経覺筆本〕

右筆(ユウ−)雜訴(サツソ)-情計者成(ナシ)管見(クハンケン)ノ之窺(ウカヽイ・ウカヽヒ)ヲ(タク)候心事不及腐毫(フカウ)ニ併期面拝恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「雜訴」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「雜訴」の語を未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ザッソ」として、「雜訴」の語はすべて未収載となっている。古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語であり、下記『吾妻鏡』の用例などに見いだせる語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

447不‖_日記法例引付一見不審之亊者可尋明右筆等雖叶候雜訴(ソ) 小公亊等也。〔謙堂文庫蔵四三左H〕

とあって、標記語を「雜訴」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

雜訴(ザツソ)之風情(フゼイ)(ハカリ)(ハ)(ナシ)‖管見(クハンケン)ヲ之窺(ウカヽヒ)(タク)候心事不腐毫(フガウ)(シカシ)ナカラ面拝(ハイ)之時 雜訴ノ風情(フセイ)(バカリ)トハ。色々ヲウツタヘサハク事ナリ。風情可也。〔下18ウ四〜六〕

とあって、この標記語「雜訴」とし、語注記は「雜訴の風情ばかりとは、色々をうつたへさはぐ事なり。風情可なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

雜訴(ざつそ)の風情(ふぜい)(はかり)(ハ)雜訴風情計 雑訴ハいろ/\の公事なり。風情とハ訴を取捌く大方を云。〔60オ六

とあって、この標記語「雜訴」の語を収載し、語注記には「雑訴は、いろ/\の公事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。▲雑訴風情ハ種々(いろ/\)様々(さま/\)の公事(くし)を捌(さば)く趣(おもむき)也。〔44ウ八〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(ざつそ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。▲雑訴風情ハ種々(いろ/\)様々(さま/\)の公事(くじ)を捌(さば)く趣(おもむき)也。〔79ウ六〜80オ一〕

とあって、標記語「雜訴」の語を収載し、その語注記は、「雑訴の風情は、種々様々の公事を捌く趣きなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「雜訴」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ざッ-〔名〕【雜訴】ざふそ(雜訴)を見よ。〔0812-4〕

ざふ-〔名〕【雜訴】種種なる、訴へごと。急呼して、ざっそ。〔0824-5〕

とあって、標記語を「雜訴」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ざッ-雜訴】いろいろの訴えごと。種々の要求。特に、公家法では政事に対する、一般の民事訴訟の卑称として用いた」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
雜訴(ザツソ)。《『書字考節用集』十一冊、言辭54@》
被差遣雜色六人於典膳大夫近藤七等之許、是畿内雜訴成敗之間、久經三人國平三人可召仕之由、所被仰付也《訓み下し》雑色六人ラ典膳ノ大夫近藤七等ガ許ニ差シ遣ハサル、是レ畿内雑訴(ザツソ)成敗ノ間、久経ニ三人。国平ニ三人。召シ仕フベキノ由、仰セ付ケラルル所ナリ。《『吾妻鏡』元暦二年五月二十五日日の条》
 
 
2003年7月17日(水)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
難叶(かなひがたし)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

(カナウ)()() 。〔元亀二年本105四〕 (カナウ) 道―。()() 〔元亀二年本106二〕

(カナウ) 。〔静嘉堂本132一〕 (カナウ) 道―。()() 略。〔静嘉堂本132一〕

(カナウ)(カナウ)() 。〔天正十七年本上64ウ七〕 (カナウ) 道―。()()〔天正十七年本上65オ七〕

とあって、標記語「」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「カナウ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

右筆等雖難叶候雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝恐々謹言〔至徳三年本〕

右筆等雖難叶候雜訴風情者成管見之窺度候心事不及能腐毫併期面拝恐々謹言〔宝徳三年本〕

右筆等雖難叶雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝之時候恐々謹言〔建部傳内本〕

-筆等雖シト∨フト-(ザツ―)ノ-情計者成-之窺(ウカヽヒ)ヲ度候心事不腐毫(フゴウ)ニ併期面拝之次恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

管見之窺(ウカガヒ)ヲ候心事不腐毫(フガウ)ニ併期面拝之時候恐々謹言〔経覺筆本〕

右筆(ユウ−)雜訴(サツソ)ノ-情計者成(ナシ)管見(クハンケン)ノ之窺(ウカヽイ・ウカヽヒ)ヲ(タク)候心事不及腐毫(フカウ)ニ併期面拝恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

カナフ 。〔黒川本・辞字門上84ウ二〕

カナフ 不―。 ―心懐。 不―。 已上カナフ。 〔卷第三・辞字251二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「難叶」「」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(カナウ/ケフ)[入](同/ケフ)[入](同/ケフ)[入] 。〔態藝門311六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(カナウ) 。〔・言語進退門81八〕〔・言語門85一〕〔・言語門92八〕

(カナフ) 。〔・言語門76九〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「カナウ」「カナフ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

    (カナフ)()() ()。〔言語門82一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「カナフ」として、「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語であるが、熟語「難叶」としては未収載にある。下記に示す『吾妻鏡』の用例と合致するものである。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

447不‖_日記法例引付一見不審之亊者可尋明右筆等雖雜訴(ソ)ノ 小公亊等也。〔謙堂文庫蔵四三左H〕

とあって、標記語を「難叶」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

右筆(ユウヒツ)等雖トモ(ガタシ)ト∨(カナヒ) 右筆トハ計(ハカラヒ)書人也。〔下18ウ四〕

とあって、この標記語「難叶」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ふる)日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)ハらハ/右筆等 右筆ハ筆取乃職なり。禁中(きんちう)にてハ外記(けき)内記(ないき)といふ武家にてハ右筆と云。是ハ鎌倉将軍(かまくらしやうくん)頼朝(よりとも)公の時邦通(くにみち)といひし者を引付乃公事とせられしよりはしまりたり〔60オ四・五

とあって、この標記語「難叶」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。〔44ウ七〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(ざつそ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。〔79五・六〕

とあって、標記語「難叶」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Canai,o<.カナイ,ゥ,ゥタ(・適ひ,ふ,うた) 可能である.§また,望みや祈願などが成就する,あるいは,遂げられる.例,Nozomi,l,guanga cano<ta.(望み,または,願が叶うた)希望,あるいは,祈願が遂げられた.§また(適ふ),満足させる,ぴたりと適合する.例,Cocoroni cano<(心に適ふ) §Michini cano<ta coto,l,aicano<ta coto.(道に適うた事,または,相適うた事)道理に合致している事,または,ある特定の技芸の法に合った事.→Ben;Bumei;Fanjin;Fonguai;Iibun(自分);Nanito;Tanpu;Xo<-i.〔邦訳87l〕

とあって、標記語「難叶」の語の意味を「可能である」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かな〔自動、四〕【】〔兼合(かねあ)ふの約か、玉箒「叶、古文字」〕(一)善く合ふ。ふさふ。あてはまる。相當す。相應す。適合。 萬葉集、一10「熟田津(にぎたづ)(伊豫)に舩乘(ふなのり)せむと、月待てば、潮も可奈比ぬ、今は漕出(こぎで)な」 名義抄、カナフ、アタル」 字類抄、カナフ」(二)望みに合ふ。思ふやうになる。成就。 古今集、八、離別「命だに、心にかなふ、ものならば、何か別れの、悲しからまし」 源氏物語、七、紅葉賀19「思ひしこと、かなふと思(おぼ)す」 かなはずとは、(一)力、及ばず。成し得ず。能はず。はたらかず。不能。 宇治拾遺物語、十二、第二十二條「我が心一つにてはかなはじ、此由を院に申してこそは」 七十一番職人盡歌合(文安)三十九番、硯士「逢ふことは、なほ難ければ、硯石、金剛杵(コンガウシヨウ)も、かなはざりけり」詞書(若王子(ジヤクワウジ)(石の名)は、白み堅くて、切りにくき」「かなはぬ時の~頼み」強敵にはかなはぬ」手足がかなはぬ」(二)已むことを得ず。よんどころなし。狂言記、節分「かなはぬ用の事がござる、平(ひら)に、ここを明けてくだされい」〔1393-5〕

とあって、標記語を「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「かな〔自ワ五〕@ちょうどよく合う。うまくあてはまる。ある条件に適合する。A思うとおりになる。望んでいたことが成就する。(イ)「心にかなう」の形で用いる。(ロ)単独で用いる。多く「…がかなう」の形で用いる。B(多く打消の語を伴って用いられる)…することができる。また、することが許される。C(多く打消の語を伴って用いられる)競走相手として同程度である。匹敵する。D→かなわ(適)ない。〔他ハ下二〕→かなえる(適)」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
於南庭、各及嗷々論之間、相州、招忠綱於閑所、密々被仰云、今度世上無爲之條、偏依義村忠節然者米町合戰先登事、無異論之上者、政所前事對彼金吾、相論、難叶時儀歟存穏便者、被行不次之賞、無其疑〈云云〉《訓み下し》南庭ニ於テ、各嗷嗷ノ論ニ及ブノ間、相州、忠綱ヲ閑所ニ招キ、密密ニ仰セラレテ云ク、今度世上無為ノ条、偏ニ義村ガ忠節ニ依レリ。然ラバ米町合戦ノ先登ノ事、異論無キノ上ハ、政所ノ前ノ先登ノ)事ハ、彼ノ金吾ニ対シ、相論、時儀ニ(カナ)ヒ難(ガタ)カ。穏便ヲ存ゼバ、不次ノ賞ニ行ハレンコト、其ノ疑ヒ無シト〈云云〉。《『吾妻鏡』建暦三年五月四日の条》
 
 
2003年7月16日(水)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
右筆(イウヒツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「遊」部に、

右筆(―ヒツ) 。〔元亀二年本293一〕〔静嘉堂本340四〕

とあって、標記語「右筆」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(ユウ)ヒツ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

右筆等雖難叶候雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝恐々謹言〔至徳三年本〕

右筆等雖難叶候雜訴風情者成管見之窺度候心事不及能腐毫併期面拝恐々謹言〔宝徳三年本〕

右筆等雖難叶雜訴風情計者成管見之窺度候心事不及腐毫併期面拝之時候恐々謹言〔建部傳内本〕

-等雖シト∨フト-(ザツ―)ノ-情計者成-之窺(ウカヽヒ)ヲ度候心事不腐毫(フゴウ)ニ併期面拝之次恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

管見之窺(ウカガヒ)ヲ候心事不腐毫(フガウ)ニ併期面拝之時候恐々謹言〔経覺筆本〕

右筆(ユウ−)雜訴(サツソ)ノ-情計者成(ナシ)管見(クハンケン)ノ之窺(ウカヽイ・ウカヽヒ)ヲ(タク)候心事不及腐毫(フカウ)ニ併期面拝恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「右筆」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「右筆」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

右筆(ユウヒツ/ミギリ、フデ)[上・入] 。〔態藝門867七〕

とあって、標記語「右筆」の語を収載し、訓みを「ユウヒツ」とし、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

右筆(―ヒツ) 。〔・言語進退門11二〕〔・言語門6三〕

右筆(ユウヒツ) 。〔・言語進退門227五〕〔・言語門189一〕〔・言語門178五〕

右動(イウトウ)。〔・言語門5八〕

右筆(イウヒツ) 。〔・言語門7一〕

とあって、標記語「右筆」の語を収載し、訓みを伊部に「(イウ)ヒツ」、遊部に「ユウヒツ」とし、伊部・遊部両方にその語を収載する。また、易林本節用集』には、標記語「右筆」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「イウヒツ」、「ユウヒツ」として、「右筆」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

447不‖_日記法例引付一見不審之亊者可尋明右筆等雖叶候雜訴(ソ)ノ 小公亊等也。〔謙堂文庫蔵四三左H〕

とあって、標記語を「右筆」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

右筆(ユウヒツ)等雖トモ(ガタシ)ト(カナヒ) 右筆トハ計(ハカラヒ)書人也。〔下18ウ四〕

とあって、この標記語「右筆」とし、語注記は「右筆とは、計らひ書く人なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ふる)日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)ハらハ/右筆叶候 右筆ハ筆取乃職なり。禁中(きんちう)にてハ外記(けき)内記(ないき)といふ武家にてハ右筆と云。是ハ鎌倉将軍(かまくらしやうくん)頼朝(よりとも)公の時邦通(くにみち)といひし者を引付乃公事とせられしよりはしまりたり〔60オ四・五

とあって、この標記語「右筆」の語を収載し、語注記には「右筆は、筆取りの職なり。禁中にては、外記・内記といふ。武家にては、右筆と云ふ。是は、鎌倉将軍頼朝公の時、邦通といひし者を引付の公事とせられしよりはじまりたり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。▲右筆ハ執筆(ふてとり)の役(やく)をいふ。〔44ウ七〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(ざつそ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。▲右筆ハ執筆(ふてとり)の役(やく)をいふ。〔79ウ六〕

とあって、標記語「右筆」の語を収載し、その語注記は、「右筆は、執筆の役をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yu<fit.イウヒツ(右筆) 主君に代わって書きものをする書記.例,Xujinno yu<fituo suru.(主人の右筆をする)主人のために書きものをする.〔邦訳834l〕

とあって、標記語「右筆」の語の意味を「主君に代わって書きものをする書記」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いう-ひつ〔名〕【右筆】〔右手に筆を執る意か、繪を、左筆と稱する語もありと云ふ〕(一)筆を執りて、文を書くこと。執筆。雲州消息、中、末「右筆暇、追可百寮訓要抄、「參議、陣の座にて、物をよみ、右筆する器也」 嚢鈔、二27「右筆、フムデヲトル」(二)轉じて、文學を以て奉仕する者。右文左武(ウブンサブ)の語もあり。文筆平家物語、一、殿上闇討事「忠盛、云云、我れ右筆の身にあらず、武勇の家に生れて」吾妻鏡、二、壽永元年五月十二日「伏見冠者藤原廣綱、初參武衞、是右筆也」(三)轉じて、武家の職名、文書を作り、書くことを掌るもの。かきやく。ものかき。筆吏庭訓徃來、八月「管領、寄人、右筆、奉行」 徳川幕府にては、(祐筆などとも記す)表右筆、奥右筆おあり、奥右筆と云ふもの、古記録、前例を考へ、幕府の公文を作る機密に參して、權力ありき。〔0130-2〕

とあって、標記語を「右筆」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「いう-ひつ右筆祐筆】〔名〕@(―する)筆を執って文を書くこと。A文筆に長じたもの。文書にたずさわって仕えるもの。文官。B武家社会に多く見られる職務。文書・記録の執筆・作成にあたる常置の職。鎌倉幕府の引付(ひきつけ)の右筆、江戸幕府の奥右筆・表右筆など。武将の家などにも見られる。C(―する)代筆をすること。また、その人。代書」とあって、Bの意味として『大言海』同様に『庭訓往来』八月の語用例を記載する。
[ことばの実際]
康清歸洛武衛遣委細御書、被感仰康信之功大和判官代邦道右筆、被加御筆并御〈云云〉《訓み下し》康清帰洛ス。武衛委細ノ御書ヲ遣ハシ、康信ガ功ヲ感ジ仰セラル。大和ノ判官代邦通右筆(ユウヒツ)ス。御筆并ニ御(又御筆)判ヲ加ヘラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年六月二十二日日の条》
 
 
2003年7月15日(火)曇り時々薄き晴れ間が覗く。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
尋明(たづねあからむ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、標記語「尋明」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

雖晩学候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明〔至徳三年本〕

雖晩學候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明〔宝徳三年本〕

雖晩学候螢雪鑽仰之功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審之事者可尋明〔建部傳内本〕

--雪鑽-(サンカウ)(ノ)(カウ)カラ∨(ムナシ)カル‖_-記法-引付-テハ-者可尋_明候也〔山田俊雄藏本〕

晩学フト蛍雪(ケイ―)鑽仰(サンキヤウ)之功(ムナシ)カル。給古日記法例引付管見之窺(ウカガヒ)ヲ〔経覺筆本〕

-蛍雪(ケイせツ)-(サンキヤウ)ノ之功(コウ)不可捐(スツ)(カシ)_(タマワツ)テ(コ)---一見不審亊者可尋明〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「尋明」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「尋明」の語を未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書での訓みを「タヅネアカラム」として、「尋明」の語は全くと言っていいほど未収載である。これに対し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語であり、かつ語の用例としてあげた、『吾妻鏡』に見えている当代の語であることを確認しておく。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

447不‖_日記法例引付一見不審之亊者可尋明右筆等雖叶候雜訴(ソ)ノ 小公亊等也。〔謙堂文庫蔵四三左H〕

とあって、標記語を「尋明」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

鑽仰(せンカウ)之功(コウ)(ムナシ)カル(カシ)‖_ハヽ-記法-(レイ)ノ引付一見不審(シン)ノ之亊者可(タツ)ネ(アカラ)ム 鑽仰ト云事。孔子の。弟子ニ顔淵(カンエン)ト云シ人アリ。師ノ智(チ)ノ難(カタ)ク。又大木(タイボク)ヲ小刀ニテキルニ日ヲ經テモ切竭(キリツク)シ難シ。其ノ間ニ我身ノ根機(コンキ)(ツキ)(タユ)ル如クナリト。孔子ヲ崇(アガ)メホメタル事ナリ。コヽヲ以テ鑽(サン)ノ字ヲバ。キルトヨメリ。仰(カウ)ノ字ヲ。アヲヌク共。又アフグトモヨムナリ師ノ智ヲ。アフキ智ノ大(タクマ)シキ事大小ノカタキニ比(ヒ)シ高山ノ峯(ミネ)ヲ仰ギミル樣ナリト云フ心ナリ。〔下18オ六〜ウ三〕

とあって、この標記語「尋明」とし、語注記は「年寄っての學問なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ふる)日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)ハらハ/‖_ウハ古日記 昔より代々の政道の事ともをつくしかたる書物也。〔59ウ七・八

とあって、この標記語「尋明」の語を収載し、語注記には「昔より代々の政道の事どもをつくしかたる書物なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。〔44ウ七〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(ざつそ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。〔79五・六〕

とあって、標記語「尋明」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)にも、標記語「尋明」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「たづねあから・む〔動〕【尋明】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「たづねあから・む尋明】」」という複合動詞としてはやはり、未収載にあって、当然『庭訓往来』の語用例も未記載となっている。
[ことばの実際]
人數八人、不殘兮搦取之、尋明所犯之間、不相待常胤、將又不相觸使廳、任北條殿之例、刎彼等首訖。《訓み下し》人数八人、残ラズ之ヲ搦メ取リ、所犯ヲ尋ネ明ラムルノ間、常胤ヲ相ヒ待タズ、将又使ノ庁ニ相ヒ触レズ、北条殿ノ例ニ任セ、彼等ガ首ヲ刎ネ訖ンヌ。《『吾妻鏡』文治三年十月八日の条》
 
 
2003年7月14日(月)雨のち曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
一見(イッケン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

一見(―ケン) 。〔元亀二年本18四〕〔静嘉堂本13一〕〔天正十七年本上7ウ八〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「一見」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(イツ)ケン」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

雖晩学候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔至徳三年本〕

雖晩學候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔宝徳三年本〕

雖晩学候螢雪鑽仰之功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審之事者可尋明也〔建部傳内本〕

--雪鑽-(サンカウ)(ノ)(カウ)カラ∨(ムナシ)カル‖_-記法-引付-テハ-者可尋_明候也〔山田俊雄藏本〕

晩学フト蛍雪(ケイ―)鑽仰(サンキヤウ)之功(ムナシ)カル。給古日記法例引付管見之窺(ウカガヒ)ヲ〔経覺筆本〕

-蛍雪(ケイせツ)-(サンキヤウ)ノ之功(コウ)不可捐(スツ)(カシ)_(タマワツ)テ(コ)---一見不審亊者可尋明〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで、経覺筆本は、「一見於不審之事者可尋明也」の文言が脱落しているため、この「一見」の語を見いだせない。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「一見」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「一見」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

一見(イツケン/―、ミル)[入・去] 。〔態藝門37二〕

とあって、標記語「一見」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

一見(―ケン) 。〔・言語進退門7七〕〔・言語進退門5三〕

一位(――) 《前略》―番。一見。―流。《後略》〔・言語門5五〕

一位(――) 《前略》―番(バン)一見(ケン)。―流(リウ)。《後略》〔・言語門6五〕

とあって、標記語「一見」の語を収載し、訓みを「(イツ)ケン」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

    一見(―ケン) 。〔言語門5六〕

とあって、標記語「一見」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「(イツ)ケン」として、「一見」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

447不‖_日記法例引付一見不審之亊者可尋明右筆等雖叶候雜訴(ソ)ノ 小公亊等也。〔謙堂文庫蔵四三左H〕

とあって、標記語を「一見」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

鑽仰(せンカウ)之功(コウ)(ムナシ)カル(カシ)‖_ハヽ-記法-(レイ)ノ引付一見不審(シン)ノ之亊者可(タツ)ネ(アカラ)ム 鑽仰ト云事。孔子の。弟子ニ顔淵(カンエン)ト云シ人アリ。師ノ智(チ)ノ難(カタ)ク。又大木(タイボク)ヲ小刀ニテキルニ日ヲ經テモ切竭(キリツク)シ難シ。其ノ間ニ我身ノ根機(コンキ)(ツキ)(タユ)ル如クナリト。孔子ヲ崇(アガ)メホメタル事ナリ。コヽヲ以テ鑽(サン)ノ字ヲバ。キルトヨメリ。仰(カウ)ノ字ヲ。アヲヌク共。又アフグトモヨムナリ師ノ智ヲ。アフキ智ノ大(タクマ)シキ事大小ノカタキニ比(ヒ)シ高山ノ峯(ミネ)ヲ仰ギミル樣ナリト云フ心ナリ。〔下18オ六〜ウ三〕

とあって、この標記語「一見」とし、語注記は「年寄っての學問なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

一見(いつけん)を加(くハ)へ/一見 一覧を遂(とげ)るといふかことし。一通り見る事なり。〔59ウ七・八

とあって、この標記語「一見」の語を収載し、語注記には「一覧を遂げるといふがごとし。一通り見る事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。〔44ウ一〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(ざつそ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。〔79オ三〕

とあって、標記語「一見」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Icqen.イッケン(一見) 例,Icqen tcucamatcutta.(一見仕つた)私はちょっと見た,または,一度目を通した.〔邦訳329r〕

とあって、標記語「一見」の語の意味は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いッ・けん〔形〕【一見】(一)ひとわたり見ること。一覽。漢書、趙充國傳「百聞不一見」 雲圖抄「頭一見、聊加校正」(頭ノ藏人が文書を校正すると云なるべし) 太平記、廿七、雲景未來記事、貞和五年六月二十日、山伏「是は、諸國一見の者にて候ふが、云云、大伽藍にて候ふなれば、一見仕候はばやと存じて、天龍寺へ參り候ふなり」(二)初對面。一見、舊の如し」〔0183-5〕

とあって、標記語を「一見」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「いッ・けん一見】@(―する)一度見ること。一通り見ること。ちらっと見ること。一覧。A(―する)一度会うこと。初対面。いちげん。B(副詞的に用いて)ちょっと見ると」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
維茂男、敢不耻上古之間、時人感之將軍宣旨以前、押而稱將軍而以武威、雖爲大道、毎日轉讀法華經八軸、毎年一見六十巻〈玄義文句止觀〉一部亦謁惠心僧都、談往生極樂要須、《訓み下し》維茂ノ男、敢テ(*勇敢)上古ニ恥ザルノ間、時ノ人之ヲ感ジテ将軍宣旨ノ以前ニ、押シテ将軍ト称シテ、武威ヲ以テ、大道トスト雖モ、毎日法華経八軸ヲ転読シテ、毎年六十巻〈玄義文句止観〉一部ヲ一見ス。亦恵心僧都ニ謁シ、往生極楽ノ要須ヲ談ズ。《『吾妻鏡』文治四年九月十四日日の条》
 
 
2003年7月13日(日)曇り後小雨。東京(八王子)→多摩
法例(ホウレイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、標記語「法例」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

雖晩学候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔至徳三年本〕

雖晩學候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔宝徳三年本〕

雖晩学候螢雪鑽仰之功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審之事者可尋明也〔建部傳内本〕

--雪鑽-(サンカウ)(ノ)(カウ)カラ∨(ムナシ)カル‖_--引付-テハ-者可尋_明候也〔山田俊雄藏本〕

晩学フト蛍雪(ケイ―)鑽仰(サンキヤウ)之功(ムナシ)カル。給古日記法例引付管見之窺(ウカガヒ)ヲ〔経覺筆本〕

-蛍雪(ケイせツ)-(サンキヤウ)ノ之功(コウ)不可捐(スツ)(カシ)_(タマワツ)テ(コ)---一見不審亊者可尋明〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「法例」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「法例」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(ホフリヤウ/ノリ、レイ・ノリ)[入・去] 。〔態藝門102一〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ホウリヤウ) 。〔・言語進退門34六〕

法文(―モン) ―會(エ)。―(リヤウ)。―相(ホツサウ)。―用(ヨウ)。―家(ケ)。―華(ホツケ)。―門(モン)。―談(タン)。―條(デウ)。―樂(ラク)。―務(ム)。―式(シキ)。〔・言語門34六〕

法文(―モン) ―會。―。―用。―家。―華。―門。―談。―條。―樂。―務。―式。―衣。―流。〔・言語門31七〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「ホウリヤウ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、標記語「法例」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ホウリヤウ」として、「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語は収載されていないのである。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

447不‖_日記法例引付一見不審之亊者可尋明右筆等雖叶候雜訴(ソ)ノ 小公亊等也。〔謙堂文庫蔵四三左H〕

とあって、標記語を「法例」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

鑽仰(せンカウ)之功(コウ)(ムナシ)カル(カシ)‖_ハヽ--(レイ)引付一見不審(シン)ノ之亊者可(タツ)ネ(アカラ)ム 鑽仰ト云事。孔子の。弟子ニ顔淵(カンエン)ト云シ人アリ。師ノ智(チ)ノ難(カタ)ク。又大木(タイボク)ヲ小刀ニテキルニ日ヲ經テモ切竭(キリツク)シ難シ。其ノ間ニ我身ノ根機(コンキ)(ツキ)(タユ)ル如クナリト。孔子ヲ崇(アガ)メホメタル事ナリ。コヽヲ以テ鑽(サン)ノ字ヲバ。キルトヨメリ。仰(カウ)ノ字ヲ。アヲヌク共。又アフグトモヨムナリ師ノ智ヲ。アフキ智ノ大(タクマ)シキ事大小ノカタキニ比(ヒ)シ高山ノ峯(ミネ)ヲ仰ギミル樣ナリト云フ心ナリ。〔下18オ六〜ウ三〕

とあって、この標記語「法例」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ふる)日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)ハらハ/法例 法ハ法度。例ハ先例なり。〔59ウ八

とあって、この標記語「法例」の語を収載し、語注記には「法ハ法度。例ハ先例なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。▲法例ハ法度(はつと)の倣(ならひ)。〔44ウ七〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(ざつそ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。▲法例ハ法度(はつと)の倣(ならひ)。〔79五・六〕

とあって、標記語「法例」の語を収載し、その語注記は、「法例は、法度(はつと)の倣(ならひ)」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fo<rei.ホウレイ(法例) 法規,または,一般のしきたり.§Fo<reini suguita coto.(法例に過ぎた事)しきたり,あるいは,一般のやり方を越えた,あるいは、それに外れた事.〔邦訳263l〕

とあって、標記語「法例」の語の意味を「法規,または,一般のしきたり」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ほふ-れい〔名〕【法例】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ほう-れい法例】〔名〕@法律上の定め。従来のおきて。しきたり。A法規の適用関係に関する諸原則を定めた規定。たとえば刑法一編一章、商法一編一章などがある。B明治三一年(一八九八)法律一〇号の題名。法律の施行期日に関する規定、慣習の効力に関する規定、国際私法的規程から成る」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
仰云、明経道任算道明法例申可挙任内官之由、可被定申者、隆季取之還座、余以顕官挙并申文等与関白、々々進挙於御所、於御申文指大束了(故実巻籠申文於挙之中進御所、今所為違例歟)、各見下奏状、此間数刻徒以祗候。《『玉葉』治承四年正月廿七日の条》※他に六例見える。
 
 
2003年7月12日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
古日記(ふるニツキ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「丹」部に、

日記(―キ) 。〔元亀二年本38五〕〔天正十七年本上21ウ二〕〔西來寺本〕

日記(――) 。〔静嘉堂本41六〕

とあって、標記語「日記」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(ニツ)キ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

雖晩学候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔至徳三年本〕

雖晩學候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔宝徳三年本〕

雖晩学候螢雪鑽仰之功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審之事者可尋明也〔建部傳内本〕

--雪鑽-(サンカウ)(ノ)(カウ)カラ∨(ムナシ)カル‖_--引付-テハ-者可尋_明候也〔山田俊雄藏本〕

晩学フト蛍雪(ケイ―)鑽仰(サンキヤウ)之功(ムナシ)カル。日記法例引付管見之窺(ウカガヒ)ヲ〔経覺筆本〕

-蛍雪(ケイせツ)-(サンキヤウ)ノ之功(コウ)不可捐(スツ)(カシ)_(タマワツ)テ(コ)---一見不審亊者可尋明〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「古日記」そして「日記」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「古日記」そして「日記」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

日記(ニツシツ・ヒ、シルス)[入・去] 犬追者所役也。〔態藝門89六〕

とあって、標記語「日記」の語を収載し、語注記は「犬追者所役なり」と記載する。この注記内容は、他の古辞書にもまた、下記真字注にも未収載の内容にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

日記(―) 。〔・言語進退門30一〕〔・言語門31四〕

日限(―ゲン) ―果(ニツクハ)。―給(キウ)帝王―。―勞(ラウ)。―參(サン)―記(キ)。―数(シユ)。〔・言語門29四〕

日限(ニチケン) ―課。―給帝王部。―労。―参。―記。―数。〔・言語門26六〕

とあって、標記語「日記」の語を収載し、訓みを「(ニツ)キ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

    日記(―キ) 。〔言辞門28三〕

とあって、標記語「日記」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ニツキ」として、「日記」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。ただし、「古日記」と混種熟語では採録が見えていないのである。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

447不‖_日記法例引付一見不審之亊者可尋明右筆等雖叶候雜訴(ソ)ノ 小公亊等也。〔謙堂文庫蔵四三左H〕

とあって、標記語を「日記」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

鑽仰(せンカウ)之功(コウ)(ムナシ)カル(カシ)‖_ハヽ--(レイ)ノ引付一見不審(シン)ノ之亊者可(タツ)ネ(アカラ)ム 鑽仰ト云事。孔子の。弟子ニ顔淵(カンエン)ト云シ人アリ。師ノ智(チ)ノ難(カタ)ク。又大木(タイボク)ヲ小刀ニテキルニ日ヲ經テモ切竭(キリツク)シ難シ。其ノ間ニ我身ノ根機(コンキ)(ツキ)(タユ)ル如クナリト。孔子ヲ崇(アガ)メホメタル事ナリ。コヽヲ以テ鑽(サン)ノ字ヲバ。キルトヨメリ。仰(カウ)ノ字ヲ。アヲヌク共。又アフグトモヨムナリ師ノ智ヲ。アフキ智ノ大(タクマ)シキ事大小ノカタキニ比(ヒ)シ高山ノ峯(ミネ)ヲ仰ギミル樣ナリト云フ心ナリ。〔下18オ六〜ウ三〕

とあって、この標記語「日記」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ふる)日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)ハらハ/‖_ウハ古日記 昔より代々の政道の事ともをつくしかたる書物也。〔59ウ七・八

とあって、この標記語「日記」の語を収載し、語注記には「昔より代々の政道の事どもをつくしかたる書物なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。▲古日記ハ先々より代々政道(せいたう)の事どもを記(しる)したる書物也。〔44ウ七〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(ざつそ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。▲古日記ハ先々より代々政道(せいたう)の事ともを記(しる)したる書物(かきもの)也。〔79五・六〕

とあって、標記語「日記」の語を収載し、その語注記は、「古日記は、先々より、代々政道のことどもを記したる書物なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Nicqi.ニツキ(日記) 毎日記入する帳簿,または,書付.→次条.〔邦訳462r〕

†Nicqi.*ニツキ(日記) §Nicqini noru.(日記に載る) ある帳簿に記載される.〔邦訳462r〕

とあって、標記語「日記」の語の意味を「する」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ふる-にっき古日記】〔名〕」の語は見えず、ただ、

にッき〔形〕【日記】にき。日次(ひなみ)の記。日毎に起これる事を、記しつけて置くもの。日録。日誌。日乘清波雜志(宋、周W)「雖數日程道倥偬之際、亦有日記」 宇津保物語、藏開、上84「俊蔭の朝臣、唐に渡りける日より、父は日記し」〔1494-5〕

とあって、標記語を「日記」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ふる-にっき古日記】〔名〕使い古した日記。特に一年間使ってきた日記帳を、年末にふり返っていう。《季・冬》」とし、その用例を石川啄木の『悲しき玩具』(1912)から引用しているが、この『庭訓徃來』の用例、若しくは、江戸時代の庭訓徃來捷注』が初出用例として、ここに加味されても良かろう。ただし、意味は異なるので上記注解のような意味を付けておく必要がある。また、ただの標記語「にっき日記】@事実を記録すること。また、その記録。実録。にき。Aできごとや感想を一日ごとにまとめ、日づけをつけて、その当日または接近した時点で記録すること。また、その記録。日録。日乗。にき。にちき。B「にっきちょう(日記帳)」の略」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而於彼家後面之山際搆文庫將軍家御文籍雜務文書并散位倫兼日記已下、累代文書等納置之處、悉以爲灰燼《訓み下し》而シテ彼家ノ後面ノ山ノ際ニ於テ文庫ヲ構ヘ、将軍家ノ御文籍、雑務ノ文書并ニ散位倫兼ノ日記已下、累代ノ文書等之ヲ納メ置ク処ニ、悉ク以テ灰燼トナル。《『吾妻鏡』承元二年正月十六日日の条》
花田狩衣袴をぞきたりける。舞はてゝ入ける時、櫻人をあらためて蓑山をうたはれければ、政方又立歸て同急を舞ける。おはりに花のした枝を折てのち、おどりてふるまひたりけり。いみじくやさしかりける事也。この事、いづれの日記にみえたりとはしらねども、古人申傳て侍り。《『古今著聞集』(1254年)卷七、二四三・大宮右府俊家の唱歌に多政方舞を仕る事》
 
 
2003年7月11日(金)曇り後晴れ午後一時小雨降る。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
(むな・し→す・つ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「無」部に、

(ムナシ)(同) 。〔元亀二年本178四〕〔静嘉堂本199三〕 

(ムナシヽ)(同) 。〔天正十七年本中20ウ一〕

(スツル)(同)(同)(同) (スキ)ヲ。〔元亀二年本161十〕

(スツル)(同)(同)(同) 釆。〔静嘉堂本442二〕

とあって、標記語「」の表記での訓みは、「ムナシ」は未収載であり、「スツル」の訓みとして収載している。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

雖晩学候螢雪鑽仰功不可借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔至徳三年本〕

雖晩學候螢雪鑽仰功不可借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔宝徳三年本〕

雖晩学候螢雪鑽仰之功不可借給古日記法例引付加一見於不審之事者可尋明也〔建部傳内本〕

--雪鑽-(サンカウ)(ノ)(カウ)カラ∨(ムナシ)カル‖_-記法-引付-テハ-者可尋_明候也〔山田俊雄藏本〕

晩学フト蛍雪(ケイ―)鑽仰(サンキヤウ)之功(ムナシ)カル給古日記法例引付管見之窺(ウカガヒ)ヲ〔経覺筆本〕

-蛍雪(ケイせツ)-(サンキヤウ)ノ之功(コウ)不可(スツ)(カシ)_(タマワツ)テ(コ)---一見不審亊者可尋明〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。このうち、文明四年本が「すつ」の訓を示しているのが注目されるところであり、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』が「むな・し」であるのに対し、室町時代の古辞書群が「す・つ」としている点に共通し、「」の訓みにこの時代の差異が見いだせるからである。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ムナシ虚無穹亡喪泯死沖唐竅素盂唐康断徒曠―箕嵶已上同空也。〔黒川本辞字門中45五〜七〕

ムナシ虚無亡穹喪湲泯死沖唐竅索盂淺鵆断徒曠已上/ムナシ。〔卷第五、辞字127五〜128四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(ムナシ/キヨ)(同/クウ) 。〔態藝門466四〕

(ステル/) 同。(同/ヱン)(同/シヤ) 。〔態藝門1133五〕

とあって、標記語「」の語を「ステル」の訓みに収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ムナシク) 。〔・言語進退門146六〕〔・言語門108二〕〔・言語門131五〕

(スツ)(同) ()扇。〔・言語進退門270六〕

(スツ)()扇。(同)。〔・言語門231九〕

(スツル)() ―扇。(スツ) (スツ) 同。〔・言語門217九〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「スツ」「スツル」とし、語注記は「扇を捐つる」と記載する。また、易林本節用集』に、

    (ムナシ)(同) 。〔言辞門115五・六〕 

(スツ)()(同)(同)。〔・言辞門242五〕

とあって、標記語「」の語を「スツ」の訓みとして収載する。

 このように、上記当代の古辞書での「」の語の訓みは「ムナシ」ではなく、「スツ」「ステル」を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語であるが、読みからしては、鎌倉時代の古辞書三卷本色葉字類抄』に見える「ムナシ」の訓みを古写本庭訓徃來』は用いているのに対し、真字注本は室町時代の古辞書の読みである「スツ」を用いていることに、その時代差を見て良かろう。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

447不‖_日記法例引付一見不審之亊者可尋明右筆等雖叶候雜訴(ソ)ノ 小公亊等也。〔謙堂文庫蔵四三左H〕

とあって、標記語を「」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

鑽仰(せンカウ)之功(コウ)(ムナシ)カル(カシ)‖_ハヽ-記法-(レイ)ノ引付一見不審(シン)ノ之亊者可(タツ)ネ(アカラ)ム 鑽仰ト云事。孔子の。弟子ニ顔淵(カンエン)ト云シ人アリ。師ノ智(チ)ノ難(カタ)ク。又大木(タイボク)ヲ小刀ニテキルニ日ヲ經テモ切竭(キリツク)シ難シ。其ノ間ニ我身ノ根機(コンキ)(ツキ)(タユ)ル如クナリト。孔子ヲ崇(アガ)メホメタル事ナリ。コヽヲ以テ鑽(サン)ノ字ヲバ。キルトヨメリ。仰(カウ)ノ字ヲ。アヲヌク共。又アフグトモヨムナリ師ノ智ヲ。アフキ智ノ大(タクマ)シキ事大小ノカタキニ比(ヒ)シ高山ノ峯(ミネ)ヲ仰ギミル樣ナリト云フ心ナリ。〔下18オ六〜ウ三〕

とあって、この標記語「」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(むなし)かる可(へか)ら不(ず) 年老たりとも志の厚く出精したらんにハ得さるといふ事なし。されハ年老ひたれはとて学問の志は絶(たつ)へからすとなり。〔59ウ六・七

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記には「年老たりとも志の厚く出精したらんには、得ざるといふ事なし。されば、年老ひたればとて学問の志は絶べからずとなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。〔44オ三〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(ざつそ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。〔79オ一〜ウ二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Munaxij.ムナシイ(空しい) 空虚な,無駄な(こと).例,Munaxij xinro<.(空しい辛労)無益な,あるいは,甲斐のない骨折り.〔邦訳432r〕

Sute,tcuru,eta.ステ,ツル,テタ(捨・棄て,つる,てた) 棄てる,あるいは,投げ捨てる.→Fitojichi;Inochi;Mei(命).〔邦訳592r〕

とあって、上記古辞書群における「」の訓みでの意味としては、「空虚な,無駄な(こと).」と「棄てる,あるいは,投げ捨てる」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

むな・し〔形〕【】〔空(むな)の活用、實無し、の義〕(一)中に物無し。明きてあり。空(から)なり。萬葉集、三52「人もなき、空家(むなしきいへ)は、草枕、旅にまさりて、苦しかりけり」(二)事の痕、無し。源氏物語、廿一、少女24「むなしき事にて、人の御名やけがれんとの給へば、云云」(三)身空しく失せたり。死したり。源氏物語、四、夕顔30「此人を空しくしなしてん事の、いみじく思さるるにそへて」同、四十四、橋姫39「空しうなり給ひし騒ぎに」「空しき人」「空しき躯(から)(四)いたづらなり。無uなり。不用なり。徒爲萬葉集、十九14長歌「ますらをや、無奈之久あるべき」「空しく待ツ」「空しく骨折る」、(五)かりそめなり。はかなし。萬葉集、五4「世の中は、牟奈之伎ものと、知る時し、いよよますます、悲しかりけり」螢雪捐、ツカマツル」 宇津保物語、藤原君32「かしら白き女水汲む、女童一人お物ほりつかまつる」同、祭使20「御~樂の召人、催馬樂つかまつるべき右近尉松方」〔1306-3〕

とあって、標記語を「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「むな】〔形シク〕@中に物がない。そこにあるべきものがない。空虚である。内容がない。→むなしく(空)する。A事実無根である。根拠がない。B頼るに足る確かなものではない。かりそめである。はかない。Cいたずらに経過する。ある行為や事柄の効果が現れない。かいがない。D死んで魂がなくなっている。命がない。→むなしく(空)する・むなしく(空)なる」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
捐 スツ[上平] ムナシ ウツ 音縁[平] 衆― ― 寔― 和同。《観智院本類聚名義抄』佛下本73》
爲參御所、打出之處、彼妻〈泰村妹〉取西阿鎧袖云、若州、參左親衛御方之事者、武士所致歟《訓み下し》御所ニ参ンガ為ニ、打テ出ルノ処ニ、彼ノ妻〈泰村ガ妹〉西阿ガ鎧ノ袖ヲ取テ云ク、若州ヲ(ス)テ、左親衛ノ御方ニ参ルノ事ハ、武士ノ致ス所カ。《『吾妻鏡』宝治元年六月五日の条》
 
 
2003年7月10日(木)こぬか雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
鑽仰功(サンギヤウのカウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「佐」部に、標記語「鑽仰」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

雖晩学候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔至徳三年本〕

雖晩學候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔宝徳三年本〕

雖晩学候螢雪鑽仰之功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審之事者可尋明也〔建部傳内本〕

---(サンカウ)(ノ)(カウ)カラ∨(ムナシ)カル‖_-記法-引付-テハ-者可尋_明候也〔山田俊雄藏本〕

晩学フト蛍雪(ケイ―)鑽仰(サンキヤウ)之功(ムナシ)カル。給古日記法例引付管見之窺(ウカガヒ)ヲ〔経覺筆本〕

-蛍雪(ケイせツ)-(サンキヤウ)之功(コウ)不可捐(スツ)(カシ)_(タマワツ)テ(コ)---一見不審亊者可尋明〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

    鑽仰(ホメアフク) 同(文章部)/サンキヤウ。〔黒川本、疉字門下・42ウ四〕

    鑽仰(サンキヤウ) 。〔卷第八、疉字門450二〕

とあって、標記語「鑽仰」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「鑽仰」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

螢雪鑽仰(サンギヤウ/キリ、アホグ、ツトム)[上]ノ(コウ/ツトム) 。〔態藝門603八〕

とあって、標記語「螢雪鑽仰功」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「鑽仰」の語を未収載にする。また、易林本節用集』に、

    鑽仰(サンキヤウ) 學道。〔言辞門182五〕

とあって、標記語「鑽仰」の語を収載し、語注記「學道」とする。

 このように、上記当代の古辞書広本節用集』、易林本節用集』での訓みを「サンギヤウ」として、「鑽仰」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

446雖晩覚---功 車胤蛍讀書。孫康シテ∨書。終學匠也。論語云、仰弥高鑽弥堅、言顔回学孔子之道及処譽詞也。此学文辛労シテ到処ヨリ見義也。〔謙堂文庫蔵四三左F〕

 

とあって、標記語を「鑽仰」とし、その語注記は、「『論語』に云く、仰ぐこと弥よ高く、鑽は弥よ堅し、言は、顔回孔子の道を学び及ばざる処譽むる詞なり。此れは、学文辛労して、到る処より見る義なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

鑽仰(せンカウ)之功(コウ)(ムナシ)カル(カシ)‖_ハヽ-記法-(レイ)ノ引付一見不審(シン)ノ之亊者可(タツ)ネ(アカラ)ム 鑽仰ト云事。孔子の。弟子ニ顔淵(カンエン)ト云シ人アリ。師ノ智(チ)ノ難(カタ)ク。又大木(タイボク)ヲ小刀ニテキルニ日ヲ經テモ切竭(キリツク)シ難シ。其ノ間ニ我身ノ根機(コンキ)(ツキ)(タユ)ル如クナリト。孔子ヲ崇(アガ)メホメタル事ナリ。コヽヲ以テ鑽(サン)ノ字ヲバ。キルトヨメリ。仰(カウ)ノ字ヲ。アヲヌク共。又アフグトモヨムナリ師ノ智ヲ。アフキ智ノ大(タクマ)シキ事大小ノカタキニ比(ヒ)シ高山ノ峯(ミネ)ヲ仰ギミル樣ナリト云フ心ナリ。〔下18オ六〜ウ三〕

とあって、この標記語「鑽仰」とし、語注記は「鑽仰と云ふ事、孔子の弟子に顔淵と云ひし人あり。師の智の難く、また、大木を小刀にてきるに日を經ても切り竭し難し。其の間に我が身の根機盡き絶ゆる如くなりと。孔子を崇めほめたる事なり。ここを以って鑽の字をば、きるとよめり。仰の字を。あをぬく共。また、あふぐともよむなり。師の智をあふぎ、智の大しき事大小のかたきに比し、高山の峯を仰ぎみる樣なりと云ふ心なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

螢雪(けいせつ)鑽仰(さんこう)の功(こう)螢雪鑽仰之功 是ハ學問に出精(しゆつせい)して厚く道に志(こゝろさ)すを云○車胤(しやいん)といひし人学問に志(こゝろさう)せしか家(いへ)(まつしく)して燈油を求ん力もなし。かくてハ学問乃功もはか/\しからすとて歎(なけ)き居いたりしにふと思ひ出てゝ夏の夜にハ練(ねり)の袋(ふくろ)に数十乃螢(ほたる)を入其光りにて書籍(しよじやく)を讀たり。又孫康(そんかう)といひし人も家貧(まづ)しかりしかは冬の夜ことに雪の光りを以て書物を照らして勤学したり。かゝりし事なれは二人共に終(つゐ)に大儒(たいじゆ)の名を得たりし也。この故事(こじ)によりて学問に出精する事を螢雪といえるなり。又孔子(こうし)の御門人に顔淵(がんゑん)と云し人あり。数年孔子に從(したか)ひて学ひたりしか孔子の御コ乃廣くまし/\て及ひかたきを嘆美(たんひ)して是を仰(あを)けはいよ/\高く是を鑽(き)れはいよ/\かたしと申されたり。此語(このご)によりて道に厚く志すを鑽仰といえるなり。〔59ウ一〜六

とあって、この標記語「鑽仰」の語を収載し、語注記には「孔子の御門人に顔淵と云し人あり。数年孔子に從ひて学びたりしが孔子の御コの廣くまし/\て及びがたきを嘆美して、これを仰げばいよ/\高く、これを鑽ればいよ/\かたしと申されたり。この語によりて道に厚く志すを鑽仰といえるなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト--之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。▲鑽仰ハ尽(つく)すこと能(あた)ハさるの義。むかし孔子(こうし)の御弟子(でし)顔淵(かんゑん)といへる人聖人(せいじん)の道の窮(きハまり)なきことを歎(たん)して仰(あふけハ)(これを)(いよ/\)(たかく)(きれは)(これを)(いよ/\)(かたし)といへるより出たる詞(ことは)。〔44オ三〜六〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(ざつそ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。▲鑽仰ハ尽(つく)すこと能(あた)ハざるの義。むかし孔子(こうし)の御弟子(でし)顔淵(がんえん)といへる人聖人(せいじん)の道(ミち)の窮(きハまり)なきことを歎(たん)じて仰(あふけハ)(これを)(いよ/\)(たかく)(きれは)(これを)(いよ/\)(かたし)といへるより出たる詞(ことは)。〔79オ一〜ウ五〕

とあって、標記語「螢雪鑽仰功」の語を収載し、その語注記は、「鑽仰は、尽すこと能はざるの義。むかし、孔子の御弟子顔淵といへる人、聖人の道の窮りなきことを歎じてこれを仰げば弥高く、これを鑽れば弥堅しといへるより出たる詞」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tcucamatcuri,ru,utta.サンギヤウノコウ(螢雪鑽仰功) する.〔邦訳622r〕

とあって、標記語「螢雪鑽仰功」の語の意味を「する」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さん-ぎゃう〔名〕【鑽仰】〔論語、子罕篇「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅」〕他人の威徳を、仰ぎ慕ふこと。保元物語、二、左府御最期事「内外の鑽仰、只、一心の爲めなり」〔0833-2〕

とあって、標記語を「鑽仰」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さん-ぎょう鑽仰賛仰】(「論語ー子罕」の「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅」にようる語)聖人の道やそのコを深く研究し、とうとぶこと。あおぎしたうこと。さんごう」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
疲稽古而又無学禄、誰聚草鑽仰之窓、而於定勝者、非正縁之附弟、非夏之更闌、以何篇可為座主職哉 《『醍醐寺文書』永十二年正月 日の条、574・3/206》
 
 
2003年7月09日(水)曇り後一時小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
螢雪鑽仰功(ケイセツサンカウのカウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「氣」部に、標記語「螢雪鑽仰功」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

雖晩学候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔至徳三年本〕

雖晩學候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔宝徳三年本〕

雖晩学候螢雪鑽仰之功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審之事者可尋明也〔建部傳内本〕

---(サンカウ)(ノ)(カウ)カラ∨(ムナシ)カル‖_-記法-引付-テハ-者可尋_明候也〔山田俊雄藏本〕

晩学フト蛍雪(ケイ―)鑽仰(サンキヤウ)之功(ムナシ)カル。給古日記法例引付管見之窺(ウカガヒ)ヲ〔経覺筆本〕

-蛍雪(ケイせツ)-(サンキヤウ)ノ之功(コウ)不可捐(スツ)(カシ)_(タマワツ)テ(コ)---一見不審亊者可尋明〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「螢雪」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「螢雪」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

螢雪(ケイセツ/ホタル、ユキ、ツトム)[平・○](コウ)[平]螢雪鑽仰(サンギヤウ/キリ、アホグ、ツトム)[上]ノ(コウ/ツトム) 。〔態藝門603八〕

とあって、標記語「螢雪」と「螢雪鑽仰」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

螢雪(ケイセツ) 。〔・言語門145六〕

蛍雪(ケイセツ) 。〔・言語門135三〕

とあって、標記語「螢雪」「蛍雪」の語を収載し、訓みを「ケイセツ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

    螢雪鑽仰(ケイせチサンキヤウ) 斈文義。〔言辞門147五〕

とあって、標記語「螢雪鑽仰」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ケイセツ」「ケイセチ」として、「螢雪鑽仰功」の語をもって収載するし広本節用集』が古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にもとっも近接している採録であることとなる。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

446雖晩覚---功 車胤蛍讀書。孫康シテ∨書。終學匠也。論語云、仰弥高鑽弥堅、言顔回学孔子之道及処譽詞也。此学文辛労シテ到処ヨリ見義也。〔謙堂文庫蔵四三左F〕

とあって、標記語を「螢雪鑽仰功」とし、その語注記は、「車胤は、蛍を集め書を讀む。孫康は、雪に映じて書を読む。終に、學匠と成るなり。『論語』に云く、「仰弥高鑽は、弥堅く、言は、顔回孔子の道を学び、及ばざる処を譽詞なり。此れは、学文辛労して到る処より見る義なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

螢雪(ケイセツ) トハ。昔シコトタラハズシテ。油蝋燭(アブララウソク)ナケレバ。螢(ホタル)(ユキ)ヲ集(アツ)メ燈(トモシヒ)トシテ。其(ヒカリ)ニテカクセシ人トモ也。委(クハシ)ク童子教(ドウジケウ)ニ各トモハ有。〔下18オ六・七〕

とあって、この標記語「螢雪」とし、語注記は「昔し、ことたらはずして。油蝋燭なければ、螢・雪を集め、燈として、其の光にて、かくせし人どもなり。委しく童子教に名どもは有り」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

螢雪(けいせつ)鑽仰(さんこう)の功(こう)螢雪鑽仰之功 是ハ學問に出精(しゆつせい)して厚く道に志(こゝろさ)すを云○車胤(しやいん)といひし人学問に志(こゝろさう)せしか家(いへ)(まつしく)して燈油を求ん力もなし。かくてハ学問乃功もはか/\しからすとて歎(なけ)き居いたりしにふと思ひ出てゝ夏の夜にハ練(ねり)の袋(ふくろ)に数十乃螢(ほたる)を入其光りにて書籍(しよじやく)を讀たり。又孫康(そんかう)といひし人も家貧(まづ)しかりしかは冬の夜ことに雪の光りを以て書物を照らして勤学したり。かゝりし事なれは二人共に終(つゐ)に大儒(たいじゆ)の名を得たりし也。この故事(こじ)によりて学問に出精する事を螢雪といえるなり。又孔子(こうし)の御門人に顔淵(がんゑん)と云し人あり。数年孔子に從(したか)ひて学ひたりしか孔子の御コ乃廣くまし/\て及ひかたきを嘆美(たんひ)して是を仰(あを)けはいよ/\高く是を鑽(き)れはいよ/\かたしと申されたり。此語(このご)によりて道に厚く志すを鑽仰といえるなり。〔59ウ一〜六

とあって、この標記語「螢雪鑽仰功」の語を収載し、語注記には「是は、學問に出精して厚く道に志すを云ふ」と記載し、その後に故事を詳細に説明している。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学候フト--仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。▲螢雪ハ学文(かくもん)をする故事(こし)也。むかし唐土(もろこし)の車胤(しやいん)といふ人ハうす絹(きぬ)の嚢(ふくろ)に螢(ほたる)を入て其光(ひかり)にて書(しよ)を讀(よ)ミ又孫康(そんかう)といふ人の雪(ゆき)を聚(あつ)めて其光にて夜学(やかく)せしとぞ何(いつ)れも家(いへ)(まつし)く燈(とも)すべき油さへなかりけれバケ樣(かやう)にしても勤(つと)めて遂(つい)に大儒(たいしゆ)と成けり。〔44オ四〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)に(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(ざつそ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。▲螢雪ハ学文(がくもん)をする故事(こじ)也。むかし唐土(もろこし)の車胤(しやゐん)といふ人ハうす絹(きぬ)の嚢(ふくろ)に螢(ほたる)を入て其光(ひかり)にて書(しよ)を讀(よ)ミ又孫康(そんかう)といふ人の雪(ゆき)を聚(あつ)めて其光にて夜学(やがく)せしとぞ何(いづ)れも家(いへ)(まづし)く燈(とも)すへき油(あぶら)さへなかりけれバケ樣(かやう)にしても勤(つと)めて遂(つひ)に大儒(たいしゆ)と成けり。〔79オ一〜ウ二〕

とあって、標記語「螢雪」の語を収載し、その語注記は、「螢雪は、学文をする故事なり。むかし唐土の車胤といふ人は、うす絹の嚢に螢を入れて其の光りにて書を讀み、また、孫康といふ人の雪を聚めて其の光りにて夜学せしとぞ何れも家貧しく燈すべき油さへなかりければケ樣にしても勤めて、遂に大儒と成りけり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qeixet.ケイセツ(螢雪) Fotaru,yuqi.(螢,雪) 螢と雪と.§Qeixetno co>uo tcumu.(螢雪の功を積む)夜も昼も勉強する.または,勉強に精を出す.灯火が無いために,その小虫〔螢〕と雪の明りで勉強した,あるシナの学生のことから比喩として取られたもの.〔邦訳483l〕

とあって、標記語「螢雪鑽仰功」の語の意味を「螢と雪と」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

けい-せつ〔名〕【螢雪】〔車胤、孫康が故事より云ふ、出典を見よ〕辛苦、勉勵して、學問うること。苦學すること。晉書、車胤傳「家貧不常得一レ油、夏月則練嚢盛數十、以照書、以夜繼日焉、云云、爲中書侍郎」 蒙求、上「孫康、家貧無油、常映書、云云、後至御史大夫」 魏書、崔傳「未嘗聚、懸頭刺一レ股」 沙石集、一、下、第七條「螢雪の功、年積(つも)りて、碩學の聞えありけり」〔0598-4〕

とあって、標記語を「螢雪」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「けい-せつ螢雪】(貧しいために灯火用の油が買えないので、晉の車胤(しゃいん)は蛍(ほたる)を集めてその光で書を読み、孫康(そんこう)は雪の明りで書を読むという苦労をしたという「晉書-車胤伝」の故事から)苦労して勉強すること。苦学。蛍窓。A蛍と雪」」とあって、『庭訓往来』の語用例を@の意味に記載する。
[ことばの実際]
去康和年中之比、於学徒為励螢雪之勤、経 上奏、於当今之寄符百疋・千両之以来、紹隆勧学之営無懈、《『東大寺文書別集』文永三年六月 日の条、60・1/181》
 
 
2003年7月08日(火)曇り後小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
晩學(バンガク)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、

晩學(バンガク) 。〔元亀二年本27一〕

晩學(バンガク) 。〔静嘉堂本25五〕

晩學(―カク) 。〔天正十七年本上13ウ七〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「晩學」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「バンガク」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

晩学候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔至徳三年本〕

晩學候螢雪鑽仰功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審亊者可尋明也〔宝徳三年本〕

晩学候螢雪鑽仰之功不可捐借給古日記法例引付加一見於不審之事者可尋明也〔建部傳内本〕

--雪鑽-(サンカウ)(ノ)(カウ)カラ∨(ムナシ)カル‖_-記法-引付-テハ-者可尋_明候也〔山田俊雄藏本〕

晩学フト蛍雪(ケイ―)鑽仰(サンキヤウ)之功(ムナシ)カル。給古日記法例引付管見之窺(ウカガヒ)ヲ〔経覺筆本〕

-蛍雪(ケイせツ)-(サンキヤウ)ノ之功(コウ)不可捐(スツ)(カシ)_(タマワツ)テ(コ)---一見不審亊者可尋明〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「晩學」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「晩學」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

晩學(バンガク/ヲソシ・クレ、マナブ)[上] 。〔態藝門77五〕

とあって、標記語「晩學」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

晩學(バンガク) 。〔・言語進退門25六〕

晩頭(――)(バンガク)。―田(テン)。―春。―夏(カ)。―秋。―冬。〔・言語門21六〕

晩頭(バンドウ)。―田。―春。―夏。―秋。―冬。〔・言語門19四〕

晩斈(ハンガク) 。〔・言語門24二〕

とあって、標記語「晩學」「晩斈」の語を収載し、訓みを「バンガク」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

    晩學(バンガク) 。〔言辞門21五〕

とあって、標記語「晩學」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「バンガク」として、「晩學」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

446雖晩覚-雪鑽--功 車胤蛍讀書。孫康シテ∨書。終學匠也。論語云、仰弥高鑽弥堅、言顔回学孔子之道及処譽詞也。此学文辛労シテ到処ヨリ見義也。〔謙堂文庫蔵四三左F〕

とあって、標記語を「晩覚」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

晩學(バンガク)ニト トハ。年シ寄(ヨツテ)ノ學問也。〔下18オ六〕

とあって、この標記語「晩學」とし、語注記は「年寄っての學問なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

存知(ぞんち)(たく)晩学(ばんかく)に候と雖(いへとも)存知度候雖晩学 学問ハ年若き時よりすへき事也。年老て後学問始るを晩学といふ。晩は暮方の事故遅(おそ)しと云義也。〔59オ七・八

とあって、この標記語「晩学」の語を収載し、語注記には「学問は、年若き時よりすべき事なり。年老いて後学問始めるを晩学といふ。晩は暮方の事故遅しと云ふ義なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

晩學(ばんがく)に候(さふら)ふと雖(いへとも)螢雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)つ可(べ)から不(ず)(ふる)き日記(につき)法例(ほふれい)引付(ひきつけ)を借(か)し給(たま)はゞ一見(いつけん)を加(くハ)へ不審(ふしん)の事(こと)に於(おいて)(ハ)(たつ)ね明(あきら)む可(へ)き也(なり)右筆(いうひつ)(とう)(かな)ひ難(かた)く候(さふら)ふと雖(いへとも)雜訴(さつそ)(の)風情(ふせい)(ばかり)(ハ)管見(くハンけん)(の)(うかがひ)を成(な)し度(た)く候(さふら)ふ心事(しんし)腐毫(ふかう)に及(およ)ば不(す)(しかな)面拝(めんはい)を期(こ)す恐々(きやうきやう)謹言(きんげん)晩学フト-雪鑽-仰之_功カラ∨‖_ハヽ--例引付一見不審之亊者可右筆等雖フト雜訴之風-情計者成管見之窺心亊不腐毫併期面拝-々謹-。▲晩学ハ年(とし)(たけ)て學問(ものまなひ)するをいふ。〔44オ三〕

(いへども)‖晩学(ばんがく)(さふら)ふと蛍雪(けいせつ)鑽仰(さんかう)(の)(こう)(す)(べ)から∨(す)(か)(たま)ハヽ(ふる)日記(につき)法例(はふれい)引付(ひきつけ)(くハ)一見(いつけん)(おいて)‖不審(ふしん)の(の)(こと)(ハ)(べ)(たつ)(あきら)(なり)右筆(いうひつ)(とう)(いへども)‖(がたく)(かな)(さふら)ふと雜訴(ざつそ)(の)風情(ふぜい)(ばかり)(ハ)(な)管見(くわんけん)(の)(うかゞ)ひを(た)(さふら)心亊(しんじ)(ず)(あた)腐毫(ふがう)(しかし)なから(ご)面拝(めんはい)恐々(きようきょう)謹言(きんげん)。▲晩学ハ年(とし)(たけ)て學問(がくもん)するをいふ。〔79オ一〜ウ二〕

とあって、標記語「晩学」の語を収載し、その語注記は、「晩学は、年闌けて學問するをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Bangacu.バンガク(晩学) Vosoi gacumon.(晩い学文)おそくなってから,すなわち,年をとってから勉学すること.例,Bangacuua ro<xite co>naxi.(晩学は労して功なし)おそくとりかかった学問は,骨が折れて,効果があがらない.〔邦訳48r〕

とあって、標記語「晩学」の語の意味を「おそくなってから,すなわち,年をとってから勉学すること」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ばん-がく〔名〕【晩學】年長けて晩(おそ)く學問を始むること。書字考節用集、八、言辭門「晩學、バンガク、顔氏家訓、孔子五十學易、曾子七十、荀子五十乃學、公孫弘四十、方讀春秋、皇甫謐二十、始受孝經論語」 陳書、沈不害傳「遂踰一紀、後世敦悦不函丈之儀晩學鑽仰、徒深椅席之歎〔1620-5〕

とあって、標記語を「晩學」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ばん-がく晩学】@あとから進む学者。後進の学者。後学。A年をとってから学問に志すこと」とあって、『庭訓往来』の語をAの意味用例として記載する。
[ことばの実際]
上下均力也、所謂資衆身也、近代以僕力易労者、後生晩學相習、則誰敢深錐痛剳、非古人搬土石之風也 《『大徳寺文書全史料』天正十七稔秋の条3244・13/50》
 
 
2003年7月07日(月)曇り後晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
仕度(つかまつりたく)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「津」部に、

(ツカユル) ―君。〔元亀二年本161十〕

(ツカウル) ―君。〔静嘉堂本178三〕

(ツカヘル) 君。〔天正十七年本中20ウ一〕

とあって、標記語「」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「ツカユル」「ツカウル」「ツカヘル」とし、語注記は「君に仕る」とその用例句を記載する。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰異-見儀-之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-之流(リウ)-例下-知成-敗傍-例律-令武---。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下可二_御沙汰之法所務之規式雜務之流例下成敗傍例律令(リツレウ)武家相違存知〔経覺筆本〕

引付(ヒキ―ケ)-注所(モンチウ―)ノ-(サイ)-(カンばン)之躰-(イケン)-定之趣ムキ--衆已下(シル)シ_(タマ)ハルコト--汰之法所-(―ム)ノ-(キ―)-(サウム)ノ-(ルレイ)---(ハウレイ)-(リツリヤウ)-家相--仕度〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(ツカマツル/)[上] 。〔態藝門423二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ツカサ、ツカフル)() 。〔・言語進退門129一〕

(ツカウル)。〔・言語門106二〕

(ツカフ) 。〔・言語門96六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「ツカフル」「ツカウル」「ツカフ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

    (ツカフル) 。〔言辞門106五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ツカフル」として、「」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語であるが、読みからして合致できるのは広本節用集』の「つかまつる」に過ぎない。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

445无相違存知-候 刺史之存知処也。〔謙堂文庫蔵四三左E〕

とあって、標記語を「仕度」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傍例(ハウレイ)納法(ナツハウ)律令(リツリヤウ)武家(ブケ)-(サウイ)-(―ンチ)_候雖トモ ト云事傍輩(ハウバイ)ノ律令ト云事。律令トハ。律ハヲキテ也。令ハ誡(イマシ)メナリ。傍輩(ハウバイ)衆中猥(ミダリガハ)シキ事多(ヲ―)シ上ヨリヲキテ無ンバ。衆中猥ハシカルベシ。此ノヲキテヲ律令ト云ナリ。〔下18オ四〜六〕

とあって、この標記語「仕度」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

存知(ぞんち)(たく)候晩学(ばんかく)に候と雖(いへとも)存知度候雖晩学 学問ハ年若き時よりすへき事也。年老て後学問始るを晩学といふ。晩は暮方の事故遅(おそ)しと云義也。〔59オ七・八

とあって、この標記語「」の語を未収載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。〔44オ三〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)。下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ〔78オウ一〕

とあって、標記語「仕度」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tcucamatcuri,ru,utta.ツカマツリ,ル,ッタ(仕り,,つた) する.〔邦訳622r〕

とあって、標記語「」の語の意味を「する」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

つかまつ〔名〕【】つかうまつる(仕)の約。爲(す)、爲(な)す、行ふの敬語。名義抄、ツカマツル」 宇津保物語、藤原君32「かしら白き女水汲む、女童一人お物ほりつかまつる」同、祭使20「御~樂の召人、催馬樂つかまつるべき右近尉松方」〔1306-3〕

とあって、標記語を「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「つかまつ】(「つこうまつる(仕)」あるいは「つかんまつる(仕奉)」の変化したもの)[一]〔自ラ四〕「つこうまつる(仕)」に同じ。[二]〔他ラ四〕@「つこうまつる(仕)一@」に同じ。A「つこうまつる(仕)一A」に同じ。[補注]平安初期の訓点資料にみられる「つかまつる」は、あるいは「つかむまつる」(「む」は撥音mか)の撥音無表記とも考えられるとする説がある。平安初期から中期にかけてのころの他の資料の用例にも、ほぼ同様の事情があったかもしれず、当時、確実にこの語形の存在を主張することはむずかしい」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
小川三郎左衛門方へ三連計会尺仕度候、為寺家可然之由申之間、披《『東寺百合文書・ち』永享三年正月廿三日の条、8-2・3/910》
冨左兵衛尉頻有馬のことく帰帆仕度由鎌刑にて申候、《『上井覚謙日記』天正十年十二月二十一日の条1/173・405-0》
 
 
2003年7月06日(日)曇りのち夜雨。東京(八王子)
武家(ブケ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「福」部に、

武家(―ケ) 。〔元亀二年本223三〕〔静嘉堂本255二〕〔天正十七年本中56ウ六〕

とあって、標記語「武家」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「ブケ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰異-見儀-之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-之流(リウ)-例下-知成-敗傍-例律----度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下可二_御沙汰之法所務之規式雜務之流例下成敗傍例律令(リツレウ)武家相違存知〔経覺筆本〕

引付(ヒキ―ケ)-注所(モンチウ―)ノ-(サイ)-(カンばン)之躰-(イケン)-定之趣ムキ--衆已下(シル)シ_(タマ)ハルコト--汰之法所-(―ム)ノ-(キ―)-(サウム)ノ-(ルレイ)---(ハウレイ)-(リツリヤウ)---知仕度候〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「武家」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「百姓」の語注記に、「八十氏武家(ブケ)ナリ也」とあって、「武家」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、標記語「武家」の語を未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

武家(ブケ) 公家/――。〔・言語進退門183六〕

とあって、標記語「武家」の語を収載し、訓みを「ブケ」とし、語注記は単に「公家・武家」と記載する。また、易林本節用集』に、

武略(ブリヤク) ―邊(ヘン)。―具(グ)―家(ケ)。―藝(ゲイ)。〔・言語進退門151三〕

とあって、標記語「武略」とし、冠頭字「武」の熟語群に「武家」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「ブケ」として、「武家」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

444武家 ~武始也。凡八十氏也。〔謙堂文庫蔵四三左E〕

とあって、標記語を「武家」とし、その語注記は、「~武より始まるなり。凡そ八十氏」と記載する。この注記は『下學集』そして『運歩色葉集』などの古辞書には継承されていないのである。

 古版庭訓徃来註』では、

傍例(ハウレイ)納法(ナツハウ)律令(リツリヤウ)武家(ブケ)-(サウイ)-(―ンチ)_度候雖トモ ト云事傍輩(ハウバイ)ノ律令ト云事。律令トハ。律ハヲキテ也。令ハ誡(イマシ)メナリ。傍輩(ハウバイ)衆中猥(ミダリガハ)シキ事多(ヲ―)シ上ヨリヲキテ無ンバ。衆中猥ハシカルベシ。此ノヲキテヲ律令ト云ナリ。〔下18オ四〜六〕

とあって、この標記語「武家」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

武家(ぶけ)の相違(そうゐ)武家相違 公家武家乃掟(おきて)乃事に皆同しからさる事多し。〔59オ六・七

とあって、この標記語「武家」とし、語注記は「公家・武家の掟の事に、皆同じからざる事多し」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。▲武家相違とハ公家(くげ)の律令(りつれう)と武家の作法(さほふ)との異(たか)ひたる事をいふ。〔44オ七〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)。下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ武家相違とハ公家(くげ)の律令(りつれい)と武家(ふげ)の作法(さはふ)との差(たか)ひめをいふ。〔78オ二〜ウ五〕

とあって、標記語「武家」の語とし、語注記は、「武家の相違とは、公家の律令と武家の作法との異ひたる事をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Buqe.ブケ(武家) Buxino iye.(武士の家)公方(Cubo<)を棟梁とする兵士,あるいは,騎士の一族.公方はまた,Xo<gun(将軍)とも呼ばれ,日本国王の軍隊の総司令官である.§Buqeno goxo.(武家の御所)すなわち,Cubo<.(公方)日本国王の軍隊の総司令官.→Samixi,suru.〔邦訳66lr〕

とあって、標記語「武家」の語の意味を「武士の家、公方を棟梁とする兵士,あるいは,騎士の一族.公方はまた,将軍とも呼ばれ,日本国王の軍隊の総司令官である」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【武家】武士(もののふ)の家筋。即ち、鎌倉時代以後、公家に對して、將軍、大小名、及、其家の稱。武弁盛衰記、十四、興福寺返牒事「清盛入道者、平氏之糟糠、武家之塵芥也」太平記、一、御告文事「御治世の御事は、朝議に任せ奉る上は、武家(いろ)ひ申すべきにあらず」〔1740-3〕

とあって、標記語を「武家」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-武家】〔名〕@武士の家筋。武門。また、中世以後の幕府・将軍家、およびそれに仕える守護、地頭、御家人以下の一般の武士の総称。朝廷に属する公家に対していう、武士。A鎌倉時代、鎌倉の幕府に対して六波羅探題をいう。B室町時代、特に、幕府・将軍家をいう」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
以常陸國橘郷、令奉寄鹿嶋社是依爲武家護持之神、殊有御信仰〈云云〉。《訓み下し》常陸ノ国橘ノ郷ヲ以テ、鹿島ノ社ニ寄セ奉ラシム。是レ武家ノ護持ノ神タルニ依テ、殊ニ御信仰有ルト〈云云〉。《『吾妻鏡』養和元年十月十二日の条》
 
 
2003年7月05日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
律令(リツリヤウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「利」部に、「律呂。律儀。律師。律僧。律家。律宗」の語を収載しているが、標記語「律令」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰異-見儀-之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-之流(リウ)-例下-知成-敗傍-----度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下可二_御沙汰之法所務之規式雜務之流例下成敗傍例律令(リツレウ)武家相違存知〔経覺筆本〕

引付(ヒキ―ケ)-注所(モンチウ―)ノ-(サイ)-(カンばン)之躰-(イケン)-定之趣ムキ--衆已下(シル)シ_(タマ)ハルコト--汰之法所-(―ム)ノ-(キ―)-(サウム)ノ-(ルレイ)---(ハウレイ)-(リツリヤウ)-家相--知仕度候〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「律令」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「律令」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

律令(リチリヤウ/タヾシ・ノリ、ノリ)[入・○] 。〔態藝門196八〕

とあって、標記語「律令」の語を収載し、訓みを「リチリャウ」とし、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「律令」の語を未収載にする。また、易林本節用集』にも、標記語「律令」の語を未収載にする。このことは、当代の実務社会には、この用語そのものがあまり必要不可欠とされていなかったということを浮彫りにした結果とも言えよう。唯一、広本節用集』が収載する。また、『伊京集』人倫門に、「律令(リツリヤウ)暦博士司暦正」の語が見えている。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「リチリヤウ」として、「律令」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

443-- 弘仁格序曰、律以以懲粛宗、令ハ以勧誡本。格則量時立制、式則補闕拾遺矣也。〔謙堂文庫蔵四三左D〕

とあって、標記語を「法例」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傍例(ハウレイ)納法(ナツハウ)律令(リツリヤウ)武家(ブケ)-(サウイ)-(―ンチ)_度候雖トモ ト云事傍輩(ハウバイ)ノ律令ト云事。律令トハ。律ハヲキテ也。令ハ誡(イマシ)メナリ。傍輩(ハウバイ)衆中猥(ミダリガハ)シキ事多(ヲ―)シ上ヨリヲキテ無ンバ。衆中猥ハシカルベシ。此ノヲキテヲ律令ト云ナリ。〔下18オ四〜六〕

とあって、この標記語「律令」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

納法(なつぽふ)律令(りつれい)納法律令 納法の注ハ前に見へたり。律令ハ成敗の式目(しきもく)政事(せいじ)の定格(でうかく)を記せし書物なり。〔59オ五・六

とあって、この標記語「律令」とし、語注記は「律令は、成敗の式目、政事の定格を記せし書物なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。▲律令(りつ)ハ掟(おきて)。令(れい)ハ誡(いましめ)也。〔44オ六〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)。下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ律令(りつ)ハ掟(おきて)。令(れい)ハ誡(いましめ)也。〔78オ二〜79オ一〕

とあって、標記語「律令」の語とし、語注記は、「律令律は、掟。令は、誡しめなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「律令」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

りつ-りょう〔名〕【律令】次條の語を見よ。天武紀、下、十年二月「朕今更欲律令法式〔2124-3〕

りつ-れい〔名〕【律令】〔史記、杜周傳「前主所是、著爲律、後主所是、疏爲令」〕(一)のり。おきて。法令。(二)臺湾總督の發する命令。其管轄内に於ては、法律と同等の効力あるもの。〔2124-4〕

とあって、標記語を「律令」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「りつ-りょう律令】〔名〕古代国家の基本法である律と令。律は禁制法規であって、すべからざることとそれに違反した場合の刑罰を定め、令は教令法規であって、すべきことを挙げる。また、それぞれ、律法典。令法典をさすこともある。日本の律令は唐のそれに日本の国情を考慮して作られたもので近江令、飛鳥浄御原律令を経て大宝律令に至り法典として完成したが、これは失われて伝わらない。大宝律令に字句の訂正を加えた養老令の大部分と養老律の一部が伝わる。りつれい。[補注]唐の法典などをさす場合は漢音で「りつれい」と読むことが多い」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
是則可比淡海公律令歟彼者海内龜鏡、是者關東鴻寶也。〈元正天皇御宇、養老二年戊午淡海公、令擇律令給〈云云〉〉《訓み下し》是レ則チ淡海公ノ律令ニ比スベキカ。彼ハ海内ノ亀鏡、是レハ関東ノ鴻宝ナリ。〈元正天皇ノ御宇、養老二年戊午。淡海公、律令ヲ択バシメ給フト〈云云〉〉《『吾妻鏡』貞永元年八月十日の条》
 
2003年7月04日(金)曇り後晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
傍例(バウレイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、

傍例(―レイ) 。〔元亀二年本26一〕〔静嘉堂本24二〕〔天正十七年本上13オ四〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「傍例」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(バウ)レイ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰異-見儀-之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-之流(リウ)-例下-知成---令武---度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下可二_御沙汰之法所務之規式雜務之流例下成敗傍例律令(リツレウ)武家相違存知〔経覺筆本〕

引付(ヒキ―ケ)-注所(モンチウ―)ノ-(サイ)-(カンばン)之躰-(イケン)-定之趣ムキ--衆已下(シル)シ_(タマ)ハルコト--汰之法所-(―ム)ノ-(キ―)-(サウム)ノ-(ルレイ)---(ハウレイ)-(リツリヤウ)-家相--知仕度候〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

傍例 公事部/バウレイ/流例ト。〔黒本本・疉字門上25ウ七〕

傍官 〃輩。〃例。〃像。〃徨―クハウ/タチモトホル。傍若无人。〔卷第三・疉字門209四・五〕

とあって、標記語「傍例」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「傍例」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

傍例(ハウレイカタワラ、タグイ)[平・去] 。〔態藝門69四〕

とあって、標記語「傍例」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

傍例(ハウレイ) 。〔・言語進退門25一〕〔・言語門24三〕

傍例(ハウレイ)公事部 ―坐(ハウサ)。―題(タイ)。―孫(ソン)人倫部。―輩(バイ)。〔・言語門22二〕

傍例(ハウレイ) ―坐。―題。―輩(バイ)/―孫人倫部。〔・言語門19九〕

とあって、標記語「傍例」の語を収載し、訓みを「ハウレイ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、

傍例(ハウレイ) 。〔言語門21一〕

とあって、標記語「傍例」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「バウレイ」乃至は「ハウレイ」として、「傍例」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』に見えている語である。下記に示した真字本には、「法例」という表記となっている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

443--令 弘仁格序曰、律以以懲粛宗、令ハ以勧誡本。格則量時立制、式則補闕拾遺矣也。〔謙堂文庫蔵四三左D〕

とあって、標記語を「法例」とし、その語注記は、未記載にする。本来は「傍例」と表記するところであるが、同音異表記である「法例」の語表記を用いているところがこの真字注表記の特徴点と考えられる。因みに古辞書には、この「法例」の語は未収載にある。

 古版庭訓徃来註』では、

傍例(ハウレイ)納法(ナツハウ)律令(リツリヤウ)武家(ブケ)-(サウイ)-(―ンチ)_度候雖トモ ト云事傍輩(ハウバイ)ノ律令ト云事。律令トハ。律ハヲキテ也。令ハ誡(イマシ)メナリ。傍輩(ハウバイ)衆中猥(ミダリガハ)シキ事多(ヲ―)シ上ヨリヲキテ無ンバ。衆中猥ハシカルベシ。此ノヲキテヲ律令ト云ナリ。〔下18オ四〜六〕

とあって、この標記語「傍例」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

下知(げぢ)成敗(せいはい)傍例(ハうれい)下知成敗傍例 定りたる大方の例の外に又種々の例あるを傍例と云。あるひハ云めし度事の例を正例(せいれい)といひ憂(うれい)の事の例を傍例と云。成敗ハ憂に属したる事ゆへ傍例といふ。〔59オ三・四

とあって、この標記語「傍例」とし、語注記は「定りたる大方の例の外に又、種々の例あるを傍例と云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。▲傍例ハ定式(しき)の外(ほか)に又種々(いろ/\)ある事の倣(ならひ)をいふ。〔44オ六〜七〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)。下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ傍例ハ定式(ぢやうしき)の外に又種々(いろ/\)ある事の倣(ならひ)をいふ。〔78オ二〜ウ六〕

とあって、標記語「傍例」の語とし、語注記は、「傍例は、定式の外にまた、種々ある事の倣ひをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「傍例」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ばう-れい〔名〕【傍例】定法以外の例。運歩色葉集傍例、バウレイ」庭訓徃來、七月「雜務之流例、下知、成敗、傍例、納法、律令」」〔1563-1〕

とあって、標記語を「傍例」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ぼう-れい傍例】〔名〕(「ほうれい」とも)ふつう一般の慣習、しきたり。慣例」とあって、『大言海』が収載する『庭訓往来』のこの語用例については未記載にする。
[ことばの実際]
然者任傍例、如一倍之定、於百貫文錢者、早可沙汰渡義信〈云云〉。《訓み下し》然レバ傍例ニ任セ、一倍ノ定メノ如キ、百貫文ノ銭ニ於テハ、早ク義信ニ沙汰渡スベシ〈云云〉。《『吾妻鏡』正嘉二年七月十日の条》
 
 
2003年7月03日(木)曇り後薄晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
成敗(セイバイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「勢」部に、

成敗(―バイ) 。〔元亀二年本352五〕

成敗(セイバイ) 。〔静嘉堂本424四〕

とあって、標記語「成敗」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「セイバイ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰異-見儀-之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-之流(リウ)-例下---例律-令武---度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下可二_御沙汰之法所務之規式雜務之流例下成敗傍例律令(リツレウ)武家相違存知〔経覺筆本〕

引付(ヒキ―ケ)-注所(モンチウ―)ノ-(サイ)-(カンばン)之躰-(イケン)-定之趣ムキ--衆已下(シル)シ_(タマ)ハルコト--汰之法所-(―ム)ノ-(キ―)-(サウム)ノ-(ルレイ)---(ハウレイ)-(リツリヤウ)-家相--知仕度候〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「成敗」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

成敗(セイバイ) 。〔態藝門75一〕

とあって、標記語「成敗」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

成敗(セイハイナル、ヤブル)[平・去]平也。敗乱也。言政道理乱義也。〔態藝門197六〕

とあって、標記語「成敗」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

成敗(セイバイ)平也。敗乱也。言平政道之乱。〔・言語進退門265六〕

成敗(セイハイ)平也。敗乱也。平ニスル政道之乱也。〔・言語門226八〕

成敗(セイバイ)平也。敗乱也。平政道之乱也。〔・言語門213五〕

とあって、標記語「成敗」の語を収載し、訓みを「セイバイ」とし、語注記は「成は平なり。敗は乱なり。政道の乱れを平らかにするなり」と記載する。また、易林本節用集』に、

成敗(セイバイ) ―長(ヂヤウ)。―功(コウ)。〔態藝門75一〕

とあって、標記語「成敗」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「セイバイ」「セイハイ」として、「成敗」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

442異見儀定之趣キ、評定衆-下可(シルシ)‖_給之ヲ|沙汰-所務之規式、雜-()-‖_成敗 就也。平也。畢也。敗敗也。廢也。〔謙堂文庫蔵四三左C〕

とあって、標記語を「成敗」とし、その語注記は、「成は、就なり。平なり。畢なり。敗は、敗なり。廢なり」と記載し、古辞書の注記とは異なっている。

 古版庭訓徃来註』では、

流例(ゲチ)_成敗(せイバイ) トハ。先代ヨリ。有様ノ例也。其ノ如クニ。下知成敗せヨト云フ心ロナリ。〔下18オ三〜四〕

とあって、この標記語「成敗」とし、語注記は「先代より、有様の例なり。其の如くに、下知成敗せよと云ふ心なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

下知(げぢ)成敗(せいはい)の傍例(ハうれい)下知成敗傍例 定りたる大方の例の外に又種々の例あるを傍例と云。あるひハ云めし度事の例を正例(せいれい)といひ憂(うれい)の事の例を傍例と云。成敗ハ憂に属したる事ゆへ傍例といふ。〔59オ三・四

とあって、この標記語「成敗」とし、語注記は「成敗は、憂ひに属したる事ゆへ傍例といふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。▲成敗ハ天下を治(おさ)むる政道(せいたう)をいふ。〔44オ六〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)。下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ成敗ハ天下を治(おさ)むる政道(せいたう)をいふ。〔78オ二〜ウ五〕

とあって、標記語「成敗」の語とし、語注記は、「成敗は、天下を治むる政道をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xeibai.セイバイ(成敗) 殺すこと,または,処刑すること.§Xeibaiuo suru,l,cuuayuru.(成敗をする,または,加ゆる) 死刑に処する.→Voconai,no<.〔邦訳744r〕

とあって、標記語「成敗」の語を収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

せい-はい〔名〕【成敗】成(な)ると、敗(やぶ)るると。成就と、失敗(しくじり)と。成否。史記、高祖紀「天下匈匈、苦戰數載、成敗知」〔1087-3〕

せい-ばい〔名〕【成敗】〔善を成し、惡を敗る意〕(一)政事を、取扱ふこと。貞永の御成敗式目とは、武家政事の法令なり。平家物語、一、禿童事「いかなる賢王の御政、攝政、關白の御成敗にも及ばず」(二)罪なふこと。罰すること。仕置(しおき)刑罰。(三)斬り棄つること。死刑。松隣夜話、下「御不斷所へ、彼の娘を被召出、云云、此の女、去る子細あり、只今、於御前成敗仕れ、云云、脇差を抜き、小首を不掛討落す」狂言記、武惡「汝を成敗せぬに於ては、身共まで、御手討になさるとの御事ぢゃ」(四)取りさばくこと。裁斷すること。吾妻鏡、四、元暦二年六月十六日「典膳大夫、近藤七等、爲關東御使、帶院宣、巡検畿内近國、成敗土民訴訟(五)取り計らふこと。工夫すること。太平記、廿二、鞆軍事「敵の小勢に、御方を合すれば、一騎に十騎を對しつべし、飽くまで敵を悩まして、弊(つひえ)に乘りて、一揉、揉みたらんに、などか、是等を討たざるべきと、委細に、手段を成敗して、旗の眞前に露れて、閑閑(しづしづ)とぞ進まれたる」王靈妃二レ道士李榮詩「別有衆中稱黜帝、天上人間少成敗〔1087-3〕

とあって、標記語を「成敗」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「せい-ばい成敗】〔名〕@政治を行なうこと。政務を執ること。執政。政務。Aとりはからうこと。処置すること。工夫。計画。Bさばくこと。Cこらしめること。処罰すること。しおき。特に罪人を斬罪に処すること。打ち首にすること。お手討ち。D→せいはい(成敗)。[語源説]善を成し、悪を敗る意から〔大言海〕」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
今日就武家輩事、於自仙洞被仰下事者、不論是非、可成敗至武家帯道理事者、追可奏聞之旨、被定〈云云〉《訓み下し》今日武家ノ輩ノ事ニ就テ、仙洞ヨリ仰セ下サルル事ニ於テハ、是非ヲ論ゼズ、成敗(セイバイ)スベシ。武家道理ヲ帯スル事ニ至リテハ、追ヒテ奏聞スベキノ旨、定メラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』寿永三年三月二十八日の条》
 
 
2003年7月02日(水)曇り後晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
下知(ゲヂ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「氣」部に、

下知(―ヂ) 。〔元亀二年本213四〕〔静嘉堂本242三〕

下知(―チ) 。〔天正十七年本中50ウ三〕

とあって、標記語「下知」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「(ゲ)ヂ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰異-見儀-之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-之流(リウ)---敗傍-例律-令武---度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下可二_御沙汰之法所務之規式雜務之流例成敗傍例律令(リツレウ)武家相違存知〔経覺筆本〕

引付(ヒキ―ケ)-注所(モンチウ―)ノ-(サイ)-(カンばン)之躰-(イケン)-定之趣ムキ--衆已下(シル)シ_(タマ)ハルコト--汰之法所-(―ム)ノ-(キ―)-(サウム)ノ-(ルレイ)---(ハウレイ)-(リツリヤウ)-家相--知仕度候〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「下知」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))と広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、標記語「下知」の語は未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

下知(―ヂ) 成敗。〔・言語進退門175四〕

下品(ゲボン) ―向(カウ)―知(ヂ)。―行(ギヤウ)。―国(コク)/―直(ジキ)。―劣(レツ)。―着(チヤク)/―輩(ハイ)。下戸(ゲコ)。―少(せウ)。―用(ヨウ)。―臈(ラウ)。〔・言語門144四〕

下品(ゲホン) ―向。―知。―行。―国。―直。―劣/―着。―輩。―戸。―用。―臈。――。〔・言語門134二〕

とあって、標記語「下知」の語を収載し、訓みを「(ゲ)ヂ」とし、語注記は弘治二年本にだけ「成敗」と記載する。また、易林本節用集』に、

下行(ゲキヤウ) ―賎(せン)。―根(コン)―知(ヂ)。―國(コク)。―馬(バ)。―座(ザ)。―戸(ゲコ)。―用(ヨウ)。―品(ホン)。―向(カウ)。―劣(レツ)。―剋上(コクシヤウ)。―直(ヂキ)。〔言辞門145六〕

とあって、標記語「下行」の冠頭字「下」の熟語群に「下知」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「(ゲ)ヂ」として、「下知」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

442異見儀定之趣キ、評定衆-下可(シルシ)‖_給之ヲ|沙汰-所務之規式、雜-()-‖_成敗 就也。平也。畢也。敗敗也。廢也。〔謙堂文庫蔵四三左C〕

とあって、標記語を「下地」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

流例(ゲチ)_成敗(せイバイ) トハ。先代ヨリ。有様ノ例也。其ノ如クニ。下知成敗せヨト云フ心ロナリ。〔下18オ三〜四〕

とあって、この標記語「下知」とし、語注記は「先代より、有様の例なり。其の如くに、下知成敗せよと云ふ心なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

下知(げぢ)成敗(せいはい)の傍例(ハうれい)下知成敗傍例 定りたる大方の例の外に又種々の例あるを傍例と云。あるひハ云めし度事の例を正例(せいれい)といひ憂(うれい)の事の例を傍例と云。成敗ハ憂に属したる事ゆへ傍例といふ。〔59オ三・四

とあって、この標記語「下知」とし、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之流-下知成敗------。▲下知ハ上より下へ告知(つけし)らしむをいふ。〔44オ六〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)。下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ下知ハ上より下へ告知(つげし)らしむるをいふ。〔78オ二〜ウ五〕

とあって、標記語「下知」の語とし、語注記は、「下知は、上より下へ告げ知らしむるをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Guegi.ゲヂ(下知) 命令.§Guegiuo suru,l,nasu,l,cuuayuru.(下知をする,または,なす,または,加ゆる)命ずる,あるいは,命令を下す.→Naxi,su(為し,す)Qen-i.〔邦訳294r〕

とあって、標記語「下知」の語を収載し、意味は「命令」するという。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【下地】下等の地位。しもの位地。沙石集、八、下、十六條「下總國に、先世房と云者ありけり、下地の者なりけれども、心樣、尋常なりけり」〔0613-1〕

-〔名〕【下知】〔下(くた)し知らしむる義、下文(くだしぶみ)などの意〕(一)おほせ。申しつけ。いひつけ。さしづ。命令。指揮。下命。文徳實録、一、嘉祥三年四月「宣早下知莫一レ更然盛衰記、四十二、屋島合戰事「鞆の六郎が(せがい)に立って、己れは軍もせず、人の舟を下知して、軍は、とこそすれ、かくこそすれと云ひける」(二)鎌倉幕府にて、將軍の命を奉じて、執權の下(くた)す命令。其文書を、下知状と云ふ、下文(くだしぶみ)なり、末文に「依仰下知如件」など、記す。室町幕府に至りては、奉行人より下知状を下せり、奉書と、略、似たり。吾妻鏡、三十五、仁治四年五月廿三日「評定是難事終、書遅遅之時、諸人歎申事也、向後付奉行人等、引合事書與御下知草案、加内評定之後、可清書之由、云云」 沙汰未練書、「御下知とは、就訴論人相論事、蒙御成敗下知状也(又、裁許云也)」王靈妃道士李榮詩「別有衆中稱黜帝、天上人間少下知〔0613-1〕

とあって、標記語を「下地」と「下知」の語を意味上、区分して収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-下地】〔名〕@仏語。菩薩の十地のうち、下等の地位。また、三界を九地に分けて、そのうちの劣った下等の地位。A下級の地位。身分の低いこと。B(天上界に対して)地上の世界。下界」と標記語「-下知】〔名〕(後世「げち」とも)@上から下へ指図すること。命令。いいつけ。A「げじじょう(下知状)」の略。B連歌、俳諧などで、命令的な表現を使って詠むこと。また、その表現。[語誌]平安・鎌倉期には、仮名文資料に用例を見出すことはできず、もっぱら記録体などの資料に用いられていた。室町時代になると、狂言など口語資料にも例が見られるようになる。しかし、命令するという語義から、使用場面は限られている」とあって、『庭訓往来』の語用例は、「-下知】A」にこの用例を記載する。
[ことばの実際]
日者張行非法、令惱亂土民之間、可停止其儀之趣、武衛、令加下知給。《訓み下し》日者非法ニ張行シテ、土民ヲ悩乱セシムルノ間、其ノ儀ヲ停止スベキノ趣、武衛、下知ヲ加ヘシメ給フ。《『吾妻鏡』治承四年八月十九日の条》
但於阿射賀者、補地頭所也然者、可加下地也。《訓み下し》但シ阿射賀ニ於テハ、地頭ヲ補スル所ナリ。然レバ、下地ヲ加フベキナリ。《『吾妻鏡』建久元年四月十九日の条》
 
 
2003年7月01日(火)曇り一時小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
流例(リウレイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「理」部に、

流例(―レイ) 。〔元亀二年本310五〕〔静嘉堂本94六〕

流例(リウレイ) 。〔天正十七年本中50ウ四〕

とあって、標記語「流例」の表記で収載し、訓みをそれぞれ「リウレイ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』七月晦日の状に、

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違之存知仕度候〔至徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務規式雜務流例下知成敗傍例律令○-{格式}武家-○{無}相違存知仕度候〔宝徳三年本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見儀定之趣評定衆以下可注給之御沙汰之法所務之規式雑務流例下知成敗傍例律令武家相違存知仕度候〔建部傳内本〕

_-注所上--之躰異-見儀-之趣評-定衆以-下可‖_給之-之法所-之規-式雜-(リウ)--知成-敗傍-例律-令武---度候。〔山田俊雄藏本〕

引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下可二_御沙汰之法所務之規式雜務之流例成敗傍例律令(リツレウ)武家相違存知〔経覺筆本〕

引付(ヒキ―ケ)-注所(モンチウ―)ノ-(サイ)-(カンばン)之躰-(イケン)-定之趣ムキ--衆已下(シル)シ_(タマ)ハルコト--汰之法所-(―ム)ノ-(キ―)-(サウム)ノ-(ルレイ)---(ハウレイ)-(リツリヤウ)-家相--知仕度候〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

流例 公事部/リウレイ。〔黒本本・疉字門上59ウ六〕

流例 〃俗。〃涕。〃后。〃年。〃冗流散(〃カウ)也。〃電。〃星。〃離。〃溢〃イツ。〃吏。〃家。〃眄メン/ナカシメニミユ。〔卷第三・疉字門13三〕

とあって、標記語「流例」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「流例」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

流例(リウレイナガルヽ、タグイ)[平・去] 。〔態藝門197六〕

とあって、標記語「流例」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

流例(リウレイ) 。〔・言語進退門176三〕

流水(リウスイ) ―穴(ケツ)流散也。―涕(テイ)。―眄(メン)。―鳥(テウ)火名。―俗。/―離(リ)―例。〔・言語門58四〕

流水(リウスイ) 琴名―穴流散也。―俗。―例。―鳥火名。―眄。―理離。〔・言語門52八〕

とあって、標記語「流例」の語を収載し、訓みを「リウレイ」とし、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』に、標記語「流例」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書での訓みを「リウレイ」として、「流例」の語を収載し、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』七月卅日の状には、

442異見儀定之趣キ、評定衆-下可(シルシ)‖_給之ヲ|沙汰-所務之規式、雜-()-‖_地成敗 就也。平也。畢也。敗敗也。廢也。〔謙堂文庫蔵四三左C〕

とあって、標記語を「流例」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

流例(リウレイ)_地成敗(せイバイ) トハ。先代ヨリ。有様ノ例也。其ノ如クニ。下知成敗せヨト云フ心ロナリ。〔下18オ三〜四〕

とあって、この標記語「流例」とし、語注記は「先代より、有様の例なり。其の如くに、下知成敗せよと云ふ心なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

御沙汰(ごさた)の法(ほう)所務(しよむ)の規式(ぎしき)雜務(ざうむ)流例(りうれい)沙汰之法所務之規-式雜-- 年中の行事(げうじ)の内重き事を所務と云。軽き事を雜務と云。流例とハ前々よりし來りしならハせ也。〔58ウ七・八

とあって、この標記語「流例」とし、語注記は「流例とは、前々よりし來りしならはせなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引付(ひきつけ)問注所(もんちうしよ)上裁(しやうさい)勘判(かんぱん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)評定衆(ひやうちやうしゆ)以下(いげ)(これ)を注(ちう)し給(たま)ふ可(へ)し御沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)雜務(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(けち)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうい)存知(ぞんち)(つかまつ)り度(た)く候(さふら)ふ/引付問注所上裁勘判之躰異見議定之趣評定衆以下‖_沙汰-法所務之規式-務之-下知成敗------。▲流例ハ先々(せんせん)より仕來(しきた)りしならハせるなり。〔44オ六〕

引付(ひきつけ)問注所(もんちゆうしよ)上裁(じやうさい)勘判(かんはん)(の)(てい)異見(いけん)議定(ぎぢやう)(の)(おもむき)。評定衆(ひやうぢやうしゆ)以下(いげ)(べ)し∨(ちゆう)し‖_(たま)ふ(これ)を|沙汰(ごさた)(の)法所務(ほふしよむ)(の)規式(きしき)-(ざふむ)(の)流例(りうれい)下知(げぢ)成敗(せいばい)傍例(はうれい)納法(なつぽふ)律令(りつれい)武家(ぶけ)の相違(さうゐ)存知(ぞんぢ)(つかまつ)り(た)く(さふら)ふ流例ハ先々(せんせん)より仕來(しきた)りしならハせなり。〔78オ二〜ウ五〕

とあって、標記語「流例」の語とし、語注記は、「流例は、先々より仕來たりしならはせるなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「流例」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

りゅう-れい〔名〕【流例】慣(なら)ひ來れる例。舊例。先例。駱賓王、代王靈妃道士李榮詩「別有衆中稱黜帝、天上人間少流例〔2119-5〕

とあって、標記語を「流例」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「りゅう-れい流例】〔名〕古くからある習慣やならわし。しきたり。慣例。るれい。」とあって、『庭訓往来』の語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
又令檢封之事、諸國一同之流例也。《訓み下し》又検封セシムルノ事ハ、諸国一同ノ流例(リウレイ)ナリ。《『吾妻鏡』文治三年四月二十三日の条》
 
 

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