2003年09月01日から9月30日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

2003年9月30日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
御前(ゴゼン)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、

御前(―せン) 。〔元亀二年本229二〕

御前(―ぜン) 。〔静嘉堂本262四〕

御前(――) 。〔天正十七年本中60オ四〕

とあって、標記語「御前」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

御前遂對决任雌雄是非奉行人令捨事書於引付窺御評定異見所令成敗也〔至徳三年本〕

御前遂對决任雌雄是非奉行人令取捨事書於引付窺御評定異見所令成敗也〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

----(シユウ)ノ---人令‖--__----〔山田俊雄藏本〕

御前對决雌雄(シユウ)ノ是非奉行人事書引付御評定異見(イ―)ヲムル成敗〔経覺筆本〕

御前-(マカ)せ-(シユウ)ノ-(ゼヒ)ニ--人令メ∨-(シユシヤ/トリスツル)_(コトカキ)ヲ_(ウカヽ)井---(イケン)ヲ成敗〔文明四年本〕※對决(タイケツ)。取捨(シユシヤ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「御前」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「御前」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

御前(ゴぜギヨ・ヲサム、せン・マヱ)[去・平](ヲンナ)盲目(マウモク)。〔人倫門655八〕

とあって、標記語「御前」の語を収載し、訓みを「ゴゼ」とし、その語注記は「女盲目」と記載するうえで、茲の意味とは合致しない語である。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「御前」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書中では、『運歩色葉集』にのみ「御前」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語となっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

463於御前對决雌雄是非奉行人令メ∨‖-捨亊書引付御評定之異見成敗問注所者永代沽(ウリ)券 科註ニ曰、組券也。長一尺二寸法十二月|、廣三寸法-地人刻思云曰、小券短書也。則賣買之札也云々。〔謙堂文庫蔵四五右F〕

とあって、標記語「御前」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

三問答訴陳(ソチン)ニ御前(ト)ゲ對决(タイケツ)シテ三問答ト云事ハ。論人訴人ト相對(サウタイ)シテ。三問答スル也。問答三度(タヒ)ノ後ハ是非ヲイハセズ。理ニ任せテ御裁許(サイキヨ)有ナリ。〔下21オ二〜三〕

とあって、この標記語「御前」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

御前(ごぜん)に於(おゐ)て對決(たいけつ)を遂(とげ)御前(ト)ゲ對决(タイケツ)ヲ 對决とハ訴られたる者にあり。されとかゝわるへからす。〔64ウ一〜二〕

とあって、この標記語「御前」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗〔47ウ五〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)〔85オ三〜五〕

とあって、標記語「御前」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Gojen.ゴゼン(御前) Von maye.(御前)貴人の前.〔邦訳306r〕

とあって、標記語「御前」の語の意味は「御前、貴人の前」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-ぜん〔名〕【御前】〔御前(みまへ)の字の音讀〕御前(みまへ)。御前(おまへ)。御面前。天子に申し、貴人に云ふ。天子には「御前の試み」御前の内取」今も、御前會議あり。蔡?の獨斷に「天子所在曰御前」とあり、和漢、暗合なり。西宮記、十一月、五節舞姫人人「頭、持硯紙等、候御前之」(蔵人頭(くらうどのとう)なり)吾妻鏡、一、治承四年八月六日「召邦道、昌長等於御前、有卜筮」(源頼朝)蜷川親元日記、文明十七年八月十五日「奉行衆出仕、飯尾大和入道、清備中入道、云云、以上御前衆」(足利義尚)「御前公事」(徳川)〔0687-4〕

とあって、標記語「御前」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-ぜん御前】[]〔名〕@貴人の前、または貴人の座の前。おまえ。A神仏または神社仏閣を敬っていう語。また、神主、住職を敬っていう。B大名、高家などの妻の敬称。奥方。C(「御前驅(ごぜんく)の略」)貴人の前駆。みさきばらい。みさきおい。D近世、大名、旗本などをその家臣が敬って呼ぶ語。また、明治以後、高位高官の人を敬って呼ぶ語。E→ごぜん(御膳)C。[]〔代名〕対称。@婦人に対する敬称。A高位高官の男性を敬って、その人に仕えている者などがいう称。[]〔接尾〕@~の名に付けて、その~に対する尊敬の意を添える。A人を表わす名詞に付けて、その人に対する尊敬の意を添える。男女いずれにも用いた。B特に、白拍子の名に付ける敬称。[語誌](1)院政期以前の仮名文献に見える@の意味の「ごぜん」は、「おまへ」と読むべき「御前」が伝写の際に書き替えられたものであったとする説がある。(2)院政期以降においても、は婦人に対してのみ用いられており、和語「おまへ」が「御前」と表記され、それが音読されて成立したものといわれるが、成立当初から両者には意味用法に違いがあったようである。(3)Cの意味のものもまた、、和語「みさき」が「御前」と表記され、それが音読されて成立したものか」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
常胤、相伴一弱冠進御前云、以之可被用今日御贈物〈云云〉《訓み下し》常胤、一ノ弱冠ヲ相ヒ伴ヒ、御前ニ進メテ云ク、之ヲ以テ今日ノ御贈物ニ用ヰラルベシト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年九月十七日の条》
 
 
2003年9月29日(月)晴れ。兵庫県(村岡)→東京世田谷(駒沢)
訴陳(ソチン)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、

訴陳(―チン) 。〔元亀二年本152五〕〔静嘉堂本166五〕

とあって、標記語「訴陳」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

令召進之時者被封下訴状番三問答訴陳〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

令召進之時者被封下訴状番三問答訴陳〔宝徳三年本〕

ル‖_之時レ∨(フウ)シ‖-下訴-調-問三--〔山田俊雄藏本〕

召進之時(ホウ)ジ‖-訴状三問答訴陳〔経覺筆本〕

(シメ)ン∨-(シン)せ者之レ∨(フウ)せ‖_(クタ)サ-(ツカ井)-○{三}--〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「訴陳」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「訴陳」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

訴陳(ソチンウタヱ、ノブル・ツラナル)[去・○] 。〔態藝門404五〕

とあって、標記語「訴陳」の語を収載し、訓みを「ソチン」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

訴陳(ソチン) 。〔・言語進退門122六〕

訴訟(ソせウ) ―論(ロン)―陳(チン)。〔・言語門101七〕

訴訟(ソせウ) ―論。―陳。〔・言語門92二〕〔・言語門112三〕

とあって、弘治二年本が標記語「訴陳」の語を収載し、他本は標記語「訴訟」の冠頭字「訴」の熟語群として収載する。また、易林本節用集』には、

訴陳(ソチン) ―訟(セウ)。―人(ニン)/―状(ジヤウ)。〔言辞門101四〕

とあって、標記語「訴陳」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「訴陳」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

462就違背-ヲハ者直レ∨‖-知于訴人ルノ∨‖-進之ンハ‖-下訴状(ツカイ)三問答訴陳 三問答召符下之処、論人違-シテ參、直訴人下知。若又參則封‖-下訴状、遂三問答也。〔謙堂文庫蔵四五右D〕

とあって、標記語「訴陳」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

三問答訴陳(ソチン)御前(ト)ゲ對决(タイケツ)シテ三問答ト云事ハ。論人訴人ト相對(サウタイ)シテ。三問答スル也。問答三度(タヒ)ノ後ハ是非ヲイハセズ。理ニ任せテ御裁許(サイキヨ)有ナリ。〔下21オ二〜三〕

とあって、この標記語「訴陳」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

三問答(さんもんとう)訴陳(そぢん)を番(つが)ひ/三問三答之訴陳 番ハつかふと訓して互に問つ答(こたへ)つするをいふ也。三問答の云るハ凡の事大抵(たいてい)三度にして定る物ゆへ三と云屹(きつ)と三度に語りたるにはあらす。陳ハ此訳ハケ根/\と言訳(いひわけ)る事也。問と訴とハ訴たる者にあり。答と陳とハ訴られたる者にあり。されとかゝわるへからす。〔64オ七〕

とあって、この標記語「訴陳」の語を収載し、語注記は「陳は、此訳はケ根/\と言訳る事なり。問と訴とは、訴へたる者にあり。答と陳とは、訴へられたる者にあり。されどかゝわるべからず」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗。▲番三問三答之訴陳ハ初めて出す訴状を初問(しよもん)とし其答(こたへ)を初答(しよたふ)といふ。此(かく)のごとく凡三度(と)訴人(そにん)と相手方(あひてかた)と互(たかひ)に問答(もんだふ)の言葉(ことば)を番(つか)ふをいふ。陳(ちん)ハ相手方の言訳(いひわけ)也。〔47ウ七〜八〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)。▲番三問三答之訴陳ハ初(はじ)めて出す訴状を初問(しよもん)とし其答(こたへ)を初答(しよたふ)といふ。此(かく)のごとく凡三度(ど)訴人(そにん)と相手方(あひてかた)と互(たかひ)に問答(もんだふ)の言葉(ことば)を番(つが)ふをいふ。陳(ぢん)ハ相手方の言訳(いひわけ)なり。〔85オ六〜85ウ一〕

とあって、標記語「訴陳」の語を収載し、その語注記は、「陳(ぢん)ハ相手方の言訳(いひわけ)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Sochin.ソチン(訴陳) 告訴.文書語.〔邦訳568l〕

とあって、標記語「訴陳」の語の意味は「告訴.文書語」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-ちん〔名〕【訴陳】訴状と、陳状と。又、原告と被告との申立。目安。解状。太平記、十三、龍馬進奏事「訴人、日日に、滅じて、訴陳徒らに閣ける」、三十五、青砥左衞門事「地下の公文と、相模守と訴陳に番ふ事あり」〔1154-3〕

とあって、標記語「訴陳」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-ちん訴陳】〔名〕@訴え述べること。A甲者が乙者を訴え、乙者が甲者の訴えに答えること。とくに、中世、訴人(原告)と論人(被告)とが互いに申立てをすること。B「そちんじょう(訴陳状)」の略。そちんに番(つが)う 鎌倉・室町幕府の訴訟制度で、訴人と論人とが訴状・陳状を交換して、相手の主張を論難して自分の立場を弁護し主張すること。鎌倉幕府の制度では、三度まで訴陳に番えることが認められていた(三問三答)」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
資俊、晴賢等、就天變事相論、及其状今日外記大夫倫重讀申于御所、相州、武州、被候〈云云〉《訓み下し》資俊、晴賢等、天変ノ事ニ就テ相論シ、訴ニ及ブ(訴陳(ソチン)ニ及ブ。)*其状ヲ陳ズ(*其状ヲ)今日外記ノ大夫倫重読ミ申ス。御所ニテ、相州、武州、候ゼラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』文暦二年七月八日の条》
 
 
2003年9月28日(日)晴れ。兵庫県(村岡)第6回村岡ダブルフルマラシン大会→東京(駒沢)
三問答(サンモンダウ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「參」部に、標記語「三問答」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

令召進之時者被封下訴状番三問答訴陳〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

令召進之時者被封下訴状番三問答訴陳〔宝徳三年本〕

ル‖_之時レ∨(フウ)シ‖-下訴-調---〔山田俊雄藏本〕

召進之時(ホウ)ジ‖-訴状三問答訴陳〔経覺筆本〕

(シメ)ン∨-(シン)せ者之レ∨(フウ)せ‖_(クタ)サ-(ツカ井)-○{}--〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「三問答」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「三問答」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

三問三答(サンモンサンタフミタビ、フン・トフ、ミタビ、コタウ)[平去・去・平去・入] 。〔態藝門794二〕

とあって、標記語「三問三答」の語を収載し、訓みを「サンモンサンタフ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

三問(サンモン) ―答(タウ)―天。〔・言語門178七〕

三問(――) ―答。〔・言語門167八〕

とあって、標記語「三問三答」の語を収載する。また、易林本節用集』には、標記語「三問三答」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「三問答」としてより「三問三答」の語で収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には「三問答」として見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

462就違背-ヲハ者直レ∨‖-知于訴人ルノ∨‖-進之ンハ‖-下訴状(ツカイ)三問答訴陳 三問答召符下之処、論人違-シテ參、直訴人下知。若又參則封‖-下訴状、遂三問答也。〔謙堂文庫蔵四五右D〕

とあって、標記語「三問答」の語を収載し、語注記は「三問答は、直に召符を下され、之の処に、論人違背して參らず、直に訴人に下知を爲す。若し又、參る則は訴状を封じ下し、三問答を遂げるなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

三問答訴陳(ソチン)ニ御前(ト)ゲ對决(タイケツ)シテ三問答ト云事ハ。論人訴人ト相對(サウタイ)シテ。三問答スル也。問答三度(タヒ)ノ後ハ是非ヲイハセズ。理ニ任せテ御裁許(サイキヨ)有ナリ。〔下21オ二〜三〕

とあって、この標記語「三問答」とし、語注記は「三問答と云ふ事は、論人・訴人と相對して、三問答するなり。問答三度の後は、是非をいはせず。理に任せて御裁許有るなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

三問答(さんもんとう)の訴陳(そぢん)を番(つが)ひ/三問答之訴陳 番ハつかふと訓して互に問つ答(こたへ)つするをいふ也。三問答の云るハ凡の事大抵(たいてい)三度にして定る物ゆへ三と云屹(きつ)と三度に語りたるにはあらす。陳ハ此訳ハケ根/\と言訳(いひわけ)る事也。問と訴とハ訴たる者にあり。答と陳とハ訴られたる者にあり。されとかゝわるへからす。〔64オ七〕

とあって、この標記語「三問答」の語を収載し、語注記は「三問答の云るは、凡その事大抵、三度にして定る物ゆへ三ど云ひ屹と三度に語りたるにはあらず」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗。▲番三問三答之訴陳ハ初めて出す訴状を初問(しよもん)とし其答(こたへ)を初答(しよたふ)といふ。此(かく)のごとく凡三度(と)訴人(そにん)と相手方(あひてかた)と互(たかひ)に問答(もんだふ)の言葉(ことば)を番(つか)ふをいふ。陳(ちん)ハ相手方の言訳(いひわけ)也。〔47ウ七〜八〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)。▲番三問三答之訴陳ハ初(はじ)めて出す訴状を初問(しよもん)とし其答(こたへ)を初答(しよたふ)といふ。此(かく)のごとく凡三度(ど)訴人(そにん)と相手方(あひてかた)と互(たかひ)に問答(もんだふ)の言葉(ことば)を番(つが)ふをいふ。陳(ぢん)ハ相手方の言訳(いひわけ)なり。〔85オ六〜85ウ一〕

とあって、標記語「三問三答」の語を収載し、その語注記は、「三問三答の訴陳を番ふは、初めて出す訴状を初問とし、其の答へを初答といふ。此くのごとく凡そ三度訴人と相手方と互ひに問答の言葉を番ふをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「三問答」「三問三答」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

標記語「三問答」「三問三答」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さんもん-さんとう三問三答】〔名〕中世、鎌倉・室町幕府の訴訟手続きで、訴人(原告)の訴状に対して論人(被告)が陳状を裁判所に提出する問答が三回にまで及んでなされること。このことを三問三答を番(つが)うという。なお訴人が三回の問答で申し残したことがあれば、追加申状として上申することができた。また、訴訟は必ずしも三問三答に及ばないで、中間で和議が成立することがあり、この和解の契約書を和与状という」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。

[ことばの実際]
正安二年五月廿一日讓與家明畢、大江氏帶先判状、爭可訴訟哉之旨、資有陳之、仍訴陳所三問答《『留守家文書』徳治二年十一月の裁許状》
 
 
2003年9月27日(土)晴れ。兵庫県(村岡)
(つがひ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「津」部に、

(ツマヒラカ)(同) 。〔元亀二年本161八〕※「審」の「宀」を欠画した語で静嘉堂本をもって確認できる。

とあって、標記語「」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

令召進之時者被封下訴状三問答訴陳〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

令召進之時者被封下訴状三問答訴陳〔宝徳三年本〕

ル‖_之時レ∨(フウ)シ‖-下訴-調-問三--〔山田俊雄藏本〕

召進之時(ホウ)ジ‖-訴状三問答訴陳〔経覺筆本〕

(シメ)ン∨-(シン)せ者之レ∨(フウ)せ‖_(クタ)サ-(ツカ井)-○{三}--〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

(ハン) ツカヒ/手―數次第也。。〔黒川本・員數門、中24ウ八〕

ツカフ/手―。。〔黒川本・疉字門、中26ウ八〕

ツカヒ/手/數次第也。。一―唱和集/鴛鴦一―具也。他作鴛鴦。〔卷第四・員數門598五〕

ツカフ/手―。。〔卷第四・辞字門621三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(ツガイ/バン)[平・平上・去](ツガイ)同。〔數量門415一〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「ツガイ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ツカイ・ツルムル) 鳥一―。(同)。〔・言語進退門129六〕〔・言語門96七〕〔・言語門118六〕

(ツガイ・ツルムル)一―。(同)。〔・言語門106四〕

とあって、標記語「」語を収載し、訓みを「つがい」とする。また、易林本節用集』には、

(ツガヒ) 一―。〔言辞門107一〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「つがい」とする。

 このように、上記当代の古辞書に、「」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

462就違背-ヲハ者直レ∨‖-知于訴人ルノ∨‖-進之ンハ‖-下訴状(ツカイ)三問答訴陳 三問答召符下之処、論人違-シテ參、直訴人下知。若又參則封‖-下訴状、遂三問答也。〔謙堂文庫蔵四五右D〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

違背(イハイ)-(サン―)ニ(ヂキ)ニレ∨‖-セラ于訴人(メシ)-時者サレ∨(フウ)シ‖-訴状(ツガヒ)違背(イハイ)散状(サン―)ト云ハ。奉書ヲ付テ罪(ツミ)ノ輩(トモカラ)ヲタヽス処ニ上ヲ恐(ヲソ)レズ其(ソノ)状ヲ物ナシニシテ引破(ヒキヤブ)リ。結句(ケツク)其ノ使ヲ。チヤウチヤクシナンドスルヲ云フナリ。〔下20ウ八〜21オ二〕

とあって、この標記語「」とし、語注記は「訴状散状と云ふは、奉書を付けて罪の輩をただす処に上を恐れず其の状を物なしにして引き破り。結句其の使ひを、ちやうちやくしなんどするを云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ツガヒ)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)サレ∨(フウ)シ‖- 訴人前出したる訴状を封し訴人の相手に見せて其の答を違也。〔64オ七〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)(つが)御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗〔47ウ五〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)〔85オ三〜五〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tcugai.ツガヒ() 四肢とか骨とかの関節,戸などの蝶番,など.§Tcugaiga fanareta.(番が離れた)物と物とを結びつけてあったものが解けて離れる,または,はめてあった蝶番が外れる.§また,比喩.好機,あるいは,よいしおどき.例,Tcugaiuo mite mo<so<zu.(番を見て申さうず)好い折を見て,あるいは,好機を見て,お話しよう.→Tcugai,o<.〔邦訳625r〕

とあって、標記語「」の語の意味は「四肢とか骨とかの関節,戸などの蝶番,など」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

つが-〔名〕【】(一){番(つが)ふこと。組むこと。名義抄、ツガヒ」欽明紀、十四年六月「遣内臣使於百濟、云云、勅云、所請軍者隨王所一レ須、別勅醫博士、易博士、暦博士等、宜依(ツガヒ)上下(マヰテキマカル)、令上件色(シナ)ノ、正當相代年月、宜還使相代(二)番ひたるもの。くみあひ。つぎめ。ふし。骨節。關節。「腰の(三){禽獸の牝牡一對。匹偶源氏物語、四十四、橋姫6「池の水鳥どもの、云云、つがひ離れぬを羨ましく眺め給ひて」檜垣嫗集、「一つがひ、ならはざりける、鴛鳥の、みづから來たる、ものと知らなむ」〔1305-3〕

とあって、標記語「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「つが-】[]〔名〕(動詞「つがう(番)」の連用形の名詞化)[一]複数のものが組になること。組むこと。また、そのもの。@二つのもの、あるいは複数のものが、組合うこと。また、そのものや人。組。A動物の雄と雌一対。B夫婦。めおと。C組になっているものの一員、または相手。D組になっているものが順次交代で事を行なうこと。E「つがいまい(番舞)」の略。[二]組み合わさっているものの、つながっている部分。@つなぎ目の部分。合わせめ。また、前後、順序あるものなどのつなぎ目。A骨の関節。B事をしようとする、ちょうど、その時。また、機会。C「つがいぎ(番木)」に同じ。[]《接尾》組になっているものを数えるのに用いる」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
義秀者、自牛渡津橋、打出同西頬、指御所方馳參各相逢于妻手、義秀見光蓮、頗合鐙、進寄《訓み下し》義秀ハ、牛渡津橋ヨリ、同ク西頬ニ打ツテ出デ、御所ノ方ヲ指シテ馳セ参ズ。各妻手ニ相ヒ逢テ、(ツガ)。義秀光蓮ヲ見テ、頗ル鐙ヲ合セ、進ミ寄ル。《『吾妻鏡』仁治二年十二月二十七日の条》
 
 
2003年9月26日(金)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)→京都(福知山)
訴状(ソジヤウ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、

訴状(―ジヤウ) 。〔元亀二年本152五〕

(―シヤウ) 。〔静嘉堂本166五〕

とあって、元亀二年本は標記語「訴状」の語を収載し、静嘉堂本は「」と表記する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

令召進之時者被封下訴状番三問答訴陳〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

令召進之時者被封下訴状番三問答訴陳〔宝徳三年本〕

ル‖_之時レ∨(フウ)シ‖--調-問三--〔山田俊雄藏本〕

召進之時(ホウ)ジ‖-訴状三問答訴陳〔経覺筆本〕

(シメ)ン∨-(シン)せ者之レ∨(フウ)せ‖_(クタ)サ-(ツカ井)-○{三}--〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「譜代相傳之重書等者於引付方可被」の文言を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「訴状」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「訴状」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

訴状(ソジヤウウタヱ、カタチ)[去・去] 。〔態藝門404五〕

とあって、標記語「訴状」の語を収載し、訓みを「ソジヤウ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

訴状(―ジヤウ) 。〔・言語進退門122六〕

とあって、弘治二年本だけが標記語「訴状」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

訴陳(ソチン) ―訟(セウ)。―人(ニン)―状(ジヤウ)。〔言辞門101四〕

とあって、標記語「訴陳」の冠頭字「訴」の熟語群として「訴状」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「訴状」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

462就違背-ヲハ者直レ∨‖-知于訴人ルノ∨‖-進之ンハ‖-訴状(ツカイ)三問答訴陳 三問答召符下之処、論人違-シテ參、直訴人下知。若又參則封‖-下訴状、遂三問答也。〔謙堂文庫蔵四五右D〕

とあって、標記語「訴状」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

違背(イハイ)-(サン―)ニ(ヂキ)ニレ∨‖-セラ于訴人(メシ)-時者サレ∨(フウ)シ‖-訴状(ツガヒ)違背(イハイ)散状(サン―)ト云ハ。奉書ヲ付テ罪(ツミ)ノ輩(トモカラ)ヲタヽス処ニ上ヲ恐(ヲソ)レズ其(ソノ)状ヲ物ナシニシテ引破(ヒキヤブ)リ。結句(ケツク)其ノ使ヲ。チヤウチヤクシナンドスルヲ云フナリ。〔下20ウ八〜21オ二〕

とあって、この標記語「訴状」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)サレ∨(フウ)シ‖-訴状 訴人前出したる訴状を封し訴人の相手に見せて其の答を違也。〔64オ七〕

とあって、この標記語「訴状」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗〔47ウ五〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)〔85オ三〜五〕

とあって、標記語「訴状」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「訴状」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-じゃう〔名〕【訴状】訴訟(うつたへ)の文書(かきもの)訴牒宋書、竟陵王誕傳「竝如訴状御成敗式目「就訴状召文事」 建武以來追加「一、奉行人直請取訴状披露事」常照愚草「一、公樣方江訴状の目安を捧事、武家は、杉原也、公家門跡は、引合を被用、然に、常コ院殿樣(足利義尚)御代、關東管領上杉四郎と、仁木兵部大輔(丹波仁木事)相論之時、目安、何も、引合也、汲古(伊勢常照の父、貞宗)へ、不審申處、古今、引合にも被調、云云、又、杉原も被用也、三職、山名なども、又、一色なども、引合に、目安の例在之と」評定所留役覺書「訴状下げ相願ひ候」〔1152-1〕

とあって、標記語「訴状」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-じょう訴状】〔名〕@訴えごとを記した文書。訴訟を起すとき、裁判所に提出する文書。中世、訴人が訴訟を起こす手続きとして、証拠文書などをそえて幕府の賦(くばり)奉行方に提出した文書。その書式は法で定められてはいなかったが、おおよそ類似の様式によっている(沙汰未練書(14c初)。申状・解状(げじょう)・目安ともいう。また最初の訴状を本解状・初問状、二回目の訴状を二問状、三回目のを三問状といい、二問状以下を重訴状・重申状という。陳状(ちんじょう)・訴陳状。願いごとをするとき、領主、支配者などに提出する書付け。願書。嘆願書。A民事訴訟で、訴えの趣旨を記載して裁判所に提出する書面。[語誌](1)文書様式としての@は「解(げ)」の系統を引くものであり、形式上、解の様式を残している。書出しは「何某謹言上」「何某謹訴申」などで、書止めは「言上如件」「訴申如件」などが多い。差出人名は書出しに記しているので、日下(にっか)には記さない。また、宛名は書かないのが普通であるが、時代が下ると共に差出人名・宛名を記したものが多くなる。南北朝時代以後は、書出しに「目安」と記し、書止めに「目安言上如件」と記すものが見られるようになる。これは訴えの内容を箇条書にして見やすく、わかりやすくしたものである。(2)鎌倉幕府の訴訟制度では訴人が訴状を提出すると、被告人にそれに対する反論を書いた陳状の提出を求めた。この訴状・陳状の提出を三回ずつ行ない、理非を判断し、裁許状を発給した。裁許に対する再審請求の訴えを越訴(おっそ)状という。(3)近世になると願書の形式をとり、書出しは「乍恐書付を以御訴訟申上候」、書止めは「乍恐可奉申上候、以上」などと記したものが多く、日下に差出人名を記し、宛名を明記している。したがって内容によって願書と訴状の区別をすることになる」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
鶴岳供僧禪訴状云、長日不退御祈祷更無怠慢之處、於恩賜田畠准平氏、被充催公事愁訴難慰〈云云〉《訓み下し》鶴岡ノ供僧禅訴状(ソジヤウ)ヲ捧ゲテ云ク、長日不退ノ御祈祷更ニ怠慢無キノ処ニ、恩賜ノ田畠ニ於テ平民ニ准ヘ、公事ヲ充テ催サル。愁訴慰シ難シト〈云云〉。《『吾妻鏡』寿永元年八月五日の条》※他九例在。
 
 
2003年9月25日(木)曇り後雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
封下(フウじくだす)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「福」部に、

(フウズル) 。〔元亀二年本228六〕

(フウス) 。〔静嘉堂本261七〕

(フウスル) 。〔天正十七年本中59ウ七〕

とあって、標記語「」の語を収載し、「」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

令召進之時者被封下訴状番三問答訴陳〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

令召進之時者被封下訴状番三問答訴陳〔宝徳三年本〕

ル‖_之時レ∨(フウ)シ‖--調-問三--〔山田俊雄藏本〕

召進之時(ホウ)ジ‖-訴状三問答訴陳〔経覺筆本〕

(シメ)ン∨-(シン)せ者之レ∨(フウ)せ‖_(クタ)サ-(ツカ井)-○{三}--〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「譜代相傳之重書等者於引付方可被」の文言を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

(ホウ)フ 府容反/フウス。〔黒川本・人事門中102ウ五〕

フウス。〔卷第七・人事門52六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、「」の語については、自動詞「クタル/クタリ」でしか収載を見ない。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「封下」「」「」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(フウズルツヽム)[平入] 。〔態藝門651六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「フウズル」とし、その語注記は未記載にする。そして、「」は久部の態藝門に自動詞「クダル」のみを収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(フウスル)(同)。〔・言語進退門181五〕

(ホウス) 果―。() 。〔・言語進退門36四〕

(ホウス) 。〔・言語門36三〕〔・言語門32九〕〔・言語門39八〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「フウする」と「ホウス」と両訓で収載が見られる。また、易林本節用集』には、

(フヽズル)(同) 。〔言辞門152四〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「フヽずる」とする。また、「」は久部の辞字門に自動詞「クダル」のみを収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「封下」の複合動詞の語としては未収載であり、「」の語で収載が見られ、また古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語を分化した掲載は下記に示す『日葡辞書』に見えている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

462就違背-ヲハ者直レ∨‖-知于訴人ルノ∨‖-進之ンハ‖-訴状(ツカイ)三問答訴陳 三問答召符下之処、論人違-シテ參、直訴人下知。若又參則封‖-下訴状、遂三問答也。〔謙堂文庫蔵四五右D〕

とあって、標記語「封下」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

違背(イハイ)-(サン―)ニ(ヂキ)ニレ∨‖-セラ于訴人(メシ)-時者サレ∨(フウ)シ‖-訴状(ツガヒ)違背(イハイ)散状(サン―)ト云ハ。奉書ヲ付テ罪(ツミ)ノ輩(トモカラ)ヲタヽス処ニ上ヲ恐(ヲソ)レズ其(ソノ)状ヲ物ナシニシテ引破(ヒキヤブ)リ。結句(ケツク)其ノ使ヲ。チヤウチヤクシナンドスルヲ云フナリ。〔下20ウ八〜21オ二〕

とあって、この標記語「封下」とし、語注記は「封下散状と云ふは、奉書を付けて罪の輩をただす処に上を恐れず其の状を物なしにして引き破り。結句其の使ひを、ちやうちやくしなんどするを云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

訴状(そじやう)(ふう)じ下(くだ)(れ)サレ∨(フウ)シ‖-訴状 訴人前出したる訴状を封し訴人の相手に見せて其の答を違也。〔64オ七〕

とあって、この標記語「封下」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)(ふう)じ下(くだ)(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗。〔47ウ五〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)〔85オ三〜五〕

とあって、標記語「封下」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fu<ji,zuru,ita.フウジ,ズル,ジタ(じ,ずる,じた)書状の封をする.§また,しるしを付ける,あるいは,封印をする.〔邦訳273r〕

Cudaxi,su,aita.クダシ,ス,イタ(し,す,いた) ある物を下ろす,または,高い所から低い所へ下降させる,あるいは,送る.※原文にはDecer a algua cousa,とあるが,文中のaは不要であろう.→Icadaxi;Men(免).〔邦訳162r〕

とあって、標記語「」と「」の二語にして収載し、それぞれの意味は「書状の封をする」と「ある物を下ろす,または,高い所から低い所へ下降させる,あるいは,送る」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ふうじ-くだ封下】」の語は未収載であり、

ふう〔他動、左變〕【】(一)封をなす。ふうじる。漢書、平帝紀、註「傳信、御史大夫印章、張毆傳「上具獄事、有之、不可者、不巳、爲涕泣、面而之、其愛人如此」嬉遊笑覧、三、書畫「永禄の頃までは、世間に、状文さへ包みてずることなし」櫻の林(千家尊澄)二「例の聞書も書き終へたれば、じてんと思ふ折しも」(二){神佛の通力を以て禁錮(とど)む。封じ込む。諸國里人談(菊岡涼)五「開山上人、蛙の聲は學問の妨なりとぜられたり、一山の蛙今以て鳴かず」源氏物語、三十四、下、若菜、下72「もののけに向ひて物語し給はんもかたはらいたければ、ふうじこめて」十訓抄、下、第十、第六十五條「術者これを聞きて、龍の泣くぞと思ひて、心に龍の聲とどむる符を作りて、これをじてけり」 (三)閉じこむ。和漢朗詠集、上、春「梅北面雪寒」卯花園漫録(石上宣續)二「蟇目の守じやう有り、則この守を封じ置き、人にも與へ、又重ねて己蟇目を行ふ時の守も、この時封じ置く」〔1721-1〕

くだ〔他動、四〕【】〔下(くだ)るの他動、いたる、いたす。きたる、きたす〕(一)下(くだ)るやうにす。下(した)へ遣(や)る。さぐ。おろす。拾遺集、十一、戀、一「大井川、くだす筏の、みなれ棹、みなれぬ人も、戀しかりけり」(二)都より、田舎へ行かしむ。(のぼすの(三)を見よ)沙石集、二、上、第四條「田舎よりも、國の物のぼせ、京よりも、いろいろの物くだしなんどして」(三)賜ふ。與ふ。下賜延慶本平家物語、二、中、三位入道鵺射事「御衣(おんぞ)を下させたまふ」(四)筆を、紙におろして、書く。下筆宇治拾遺物語、九、第二條「繪師、云云、筆をくださむとするに」(五){貶(おと)す。さぐ。退くる。字鏡、7「〓(K+歩)、久太須」沙石集、六、上、第七條「我が身の非を知らず、持戒の人をばくだし」「位一級をくだす」(六)勝ちて、我れに從はす。降參せしむ。「敵を降す」城を降す」(七){さげわたす。申しわたす。下附す。源氏物語、七、紅葉賀30「おほやけ事、多く奏しくだす日にて」(八)大便を、通ぜしむ。「下剤にてくだす」水を呑み過(す)ぎて、腹をくだす」〔0527-3〕

とあって、標記語「」と「」の両語にして収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ふうじ-くだ封下】」の複合動詞としては、未収載にあり、やはり、「ふうずる】〔他サ変〕@封をする。Aとじこめる。封じこめる。B神仏の力によって活動させないようにする。Cある行動や、そのための手段を禁ずる。禁止する」と「くだ〔他動、四〕【】めしぶみ(召文)@」に同じ。A「めしぶみ(召文)A」に同じ」とあって、Aの用例として『庭訓徃來註』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
兼康取之復座、次第取下、卜申了、封上書卜乙卜合之由(或封下書之云々)《『玉葉』承安元年六月廿八日の条》
 
2003年9月24日(水)曇り後雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
散状(サンジヤウ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、「散乱(サンラン)。散藥(ヤク)。散田(テン)。散在(ザイ)。散用(ユウ)。散失(シツ)。散具(ク)。散米(マイ)」の語を収載し、標記語「散状」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

{執筆}書与問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被召符違背散状者直被下知于訴人〔至徳三年本〕

執筆書與問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被下召符就違背散状者直被下知于訴人〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-筆書‖_-奉書於訴-之時及--タラハ使-(シ―)ニレ∨_(フ)ヲテハ--者直レ∨‖-セラ于訴人〔山田俊雄藏本〕

執筆書ヘル問状奉書於訴人之時及兩度无音ナラハ者仰使節違背散状者直‖-知于訴人〔経覺筆本〕

-(カキ)‖_(アタユ)ル(モン)-奉書テ∨-(ソ―)ニ之時キニ-。有-使-(シせツ)ニレ∨{ヲ}-(イ―)-(サン―)(チキ)ニレ∨下知-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「散状」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「散状」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

散状(サンジヤウチル、カタチ)[上・去] 。〔態藝門790八〕

とあって、標記語「散状」の語を収載し、訓みを「サンジヤウ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

散用(――) ―状。――。―向。〔・言語門178八〕

散用(サンヨウ) ―状。―向。――。〔・言語門167九〕

とあって、永祿二年本尭空本は標記語「散用」の冠頭字「散」の熟語群として「散状」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

散用(サンヨウ) ―乱(ラン)。―動(ドウ)。―失(シツ)/―機(キ)。―善(ぜン)。〔言辞門180五〕

とあって、標記語「散用」の冠頭字「散」の熟語群にも未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「散状」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

462就違背-ヲハ者直レ∨‖-知于訴人ルノ∨‖-進之ンハ‖-下訴状(ツカイ)三問答訴陳 三問答召符下之処、論人違-シテ參、直訴人下知。若又參則封‖-下訴状、遂三問答也。〔謙堂文庫蔵四五右D〕

とあって、標記語「散状」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

違背(イハイ)-(サン―)(ヂキ)ニレ∨‖-セラ于訴人(メシ)-時者サレ∨(フウ)シ‖-訴状(ツガヒ)違背(イハイ)散状(サン―)ト云ハ。奉書ヲ付テ罪(ツミ)ノ輩(トモカラ)ヲタヽス処ニ上ヲ恐(ヲソ)レズ其(ソノ)状ヲ物ナシニシテ引破(ヒキヤブ)リ。結句(ケツク)其ノ使ヲ。チヤウチヤクシナンドスルヲ云フナリ。〔下20ウ八〜21オ二〕

とあって、この標記語「散状」とし、語注記は「違背散状と云ふは、奉書を付けて罪の輩をただす処に上を恐れず其の状を物なしにして引き破り。結句其の使ひを、ちやうちやくしなんどするを云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

違背(ゐはい)散状(さんじやう)に就(つゐ)て者(ハ)違背-者 是ハ訴人の相手上を恐れす不敵(ふてき)のふるまひをするをいえるなり。違背とハ上の命にそむき召に應せさるをいふ。散状とハ回状の奉書を紛失(ふんしつ)なとしたるをいふ。〔64オ一〜二〕

とあって、この標記語「散状」の語を収載し、語注記は「散状とは、回状の奉書を紛失などしたるをいふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背-‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗〔47ウ五〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ(めしふ)(つい)て‖違背(ゐはい)散状(さんじやう)(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)〔85オ三〜五〕

とあって、標記語「散状」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「散状」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さん-じゃう〔名〕【散状】〔交名(ケウミヤウ)の人人の許に散らす意にてもあるか(散米(サンマイ)の、散)〕朝廷にては、諸人の姓名を、一紙に列載して、廻達する文書。武家にては、多くは、將軍出行の供奉人の人員を定めて、廻達せしむるなどに云へり。江家次第、十二、開奉幣使と串儀「上卿著仗座、召外記、被使等散状」(奉幣使等の姓名を、一紙に連署せしなり)吾妻鏡、四十二、建長四年七月十四日「來月放生會、御參宮供奉人、散状之、云云」、四十三、建長五年正月二日「明日依御行始于相州御亭、(北條時頼邸)今夕被供奉人、是以元日著庭衆撰也、云云、令朝夕(テウジヤク)雜色(ザフシキ)等、廻散状官位稽籍雜鈔、「散状、記人交色、得下知、以其中、定其事也、記其交名状、謂散状」(古事類苑、散状)〔0840-3〕

とあって、標記語「散状」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さん-じょう散状】〔名〕@古代・中世の、人名を列挙した文書。多く、行事の諸役配当の結果を記す場合に用いた。交名(きょうみょう)。A中世、二人以上の者に諸役を勤めるべきことを命じ、または裁判にあたって原告被告双方に出頭を命じるために、順に回覧させた文書。返事はこの文書上に簡略に記入した。回文。回状。B上からの命令または質問に対する、簡略な形式の返答書。Cちらかった状態。とりちらかしたさま」とあって、Aの意味用例として『庭訓徃來』のこの語を記載する。
[ことばの実際]
右件御庄、文治元二兩年分、運上領家〈中納言入道〉之旨、沙汰人、所申上之由、若有御不審者、進雜掌於寺家、可申散状《訓み下し》右件ノ御庄、文治元二両年ノ分ハ、領家ニ運上スルノ〈中納言入道〉旨、沙汰人、申シ上グル所ノ由(ナリ)、若シ御不審有ラバ、雑掌ヲ寺家ニ進ゼ、散状(サンジヤウ)ヲ申スベキカ。《『吾妻鏡』文治四年七月二十八日の条》
 
 
2003年9月23日(火)晴れ午後曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
違背(イハイ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

違背(イハイ)字誤歟。〔元亀二年本10四〕

違背(イハイ) 俗作字誤歟。〔静嘉堂本1四〕

違背(―ハイ) 俗作字誤歟。〔天正十七年本上3オ三〕

とあって、標記語「違背」の語を収載し、語注記に「俗に字作り誤るか」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

{執筆}書与問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被召符違背散状者直被下知于訴人〔至徳三年本〕

執筆書與問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被下召符就違背散状者直被下知于訴人〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-筆書‖_-奉書於訴-之時及--タラハ使-(シ―)ニレ∨_(フ)ヲテハ--者直レ∨‖-セラ于訴人〔山田俊雄藏本〕

執筆書ヘル問状奉書於訴人之時及兩度无音ナラハ者仰使節違背散状者直‖-知于訴人〔経覺筆本〕

-(カキ)‖_(アタユ)ル(モン)-奉書テ∨-(ソ―)ニ之時キニ-。有-使-(シせツ)ニレ∨{ヲ}-(イ―)ノ-(サン―)ニ(チキ)ニレ∨下知-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

違背 怨敵部/ヰハイ。〔黒川本・疉字門中57ウ二〕

違背 〃例。〃勅。〃格。〃期。〃乱。〃衆。〃紛。〃濫。〃犯。〔卷第五・疉字門234四〕

とあって、標記語「違背」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「違背」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

違背(イハイソムク・タガウ、せナカ・ソムク)[去・去] 。〔態藝門17五〜六〕

とあって、標記語「違背」の語を収載し、訓みを「イハイ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

違背(イハイ/―、ソムク) 。〔・言語進退門13一〕

違背(―ハイ) 。〔・言語門8三〕

違乱(イラン) ―背。―約。―衆朋友。/―変。―例。―期。―犯。〔・言語門6五〕

違乱(イラン) ―背(ハイ)。―約(ヤク)。―衆(シユ)朋友。―変(ヘン)/―例(レイ)。―期(ゴ)。―犯(ボン)。〔・言語門8二〕

とあって、弘治二年本永祿二年本は標記語「違背」の語を収載し、他二本は「違乱」の冠頭字「違」の熟語群として収載する。また、易林本節用集』には、

違變(イヘン) ―背(ハイ)。―犯(ボン)/―乱(ラン)。〔言辞門122四〕

とあって、標記語「違乱」の冠頭字「違」の熟語群として「違背」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「違背」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

462就違背-ヲハ者直レ∨‖-知于訴人ルノ∨‖-進之ンハ‖-下訴状(ツカイ)三問答訴陳 三問答召符下之処、論人違-シテ參、直訴人下知。若又參則封‖-下訴状、遂三問答也。〔謙堂文庫蔵四五右D〕

とあって、標記語「違背」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

違背(イハイ)-(サン―)ニ(ヂキ)ニレ∨‖-セラ于訴人(メシ)-時者サレ∨(フウ)シ‖-訴状(ツガヒ)違背(イハイ)散状(サン―)ト云ハ。奉書ヲ付テ罪(ツミ)ノ輩(トモカラ)ヲタヽス処ニ上ヲ恐(ヲソ)レズ其(ソノ)状ヲ物ナシニシテ引破(ヒキヤブ)リ。結句(ケツク)其ノ使ヲ。チヤウチヤクシナンドスルヲ云フナリ。〔下20ウ八〜21オ二〕

とあって、この標記語「違背」とし、語注記は「違背散状と云ふは、奉書を付けて罪の輩をただす処に上を恐れず其の状を物なしにして引き破り。結句其の使ひを、ちやうちやくしなんどするを云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

違背(ゐはい)散状(さんじやう)に就(つゐ)て者(ハ)違背-状者 是ハ訴人の相手上を恐れす不敵(ふてき)のふるまひをするをいえるなり。違背とハ上の命にそむき召に應せさるをいふ。散状とハ回状の奉書を紛失(ふんしつ)なとしたるをいふ。〔64オ一〜二〕

とあって、この標記語「違背」の語を収載し、語注記は「違背とは、上の命にそむき召に應せさるをいふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗違背(こゝ)にハ相手方(あい―かた)を召寄(めしよせ)らるゝ指紙(さしかミ)也。昔(むかし)ハすべて使者を遣(つかハ)すに皆(ミな)割符(わりふ)を持(もた)せたるもの也。爰ハ人を召(め)す使(つかひ)ゆゑ召符(めしふ)といふ。割符の事ハ四月乃返状に見ゆ。〔47ウ五〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)違背(こゝ)にハ相手方(あいてかた)を召寄(めしよせ)らるゝ指紙(さしがミ)也。昔(むかし)ハすべて使者(ししや)を遣(つかハ)すに皆(ミな)割符(わりふ)を持(もた)せたるもの也。爰(こゝ)ハ人を召(め)す使(つかひ)ゆゑ召符(めしふ)といふ割符(わりふ)の事ハ四月乃返状に見ゆ。〔85オ三〜五〕

とあって、標記語「違背」の語を収載し、その語注記は、「違背爰には、相手方を召寄せらるゝ指紙なり。昔は、すべて使者を遣はすに皆割符を持たせたるものなり。爰は、人を召す使ひゆゑ違背といふ。割符の事は、四月乃返状に見ゆ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

IFai.イハイ(違背) Tagai somuqu.(違ひ背く)違反.例,Fattouo ifaisuru.(法度を違背する)法を犯す.〔邦訳331r〕

とあって、標記語「違背」の語の意味は「違ひ背く・違反」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-はい〔名〕【違背】たがいそむくこと。もとること。違反すること。禮記正義序「其見於世者、唯皇熊二家而已、熊則本經沙石集、五、上、第三條「治生産業實相に違背せず」〔2184-5〕

とあって、標記語「違背」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-はい違背】〔名〕ある事柄に反すること。特に、命令、規則などにそむくこと。違反」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而偏爲一身大功之由、廷尉自稱、剰今度及歸洛之期、於關東、成怨之輩者、可属義經之旨、吐詞、縱雖令違背予、爭不憚後聞乎《訓み下し》而ルニ偏ニ一身ノ大功タルノ由、廷尉自称シ、剰ヘ今度帰洛ノ期ニ及テ、関東ニ於テ、怨ミヲ成スノ輩ハ、義経ニ属スベキノ旨、詞ヲ吐ク、縦ヒ予ニ違背(イハイ)セシムト雖モ、争カ後聞ヲ憚ラザランヤ。《『吾妻鏡』元暦二年六月十三日の条》
 
 
2003年9月22日(月)曇り後晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
召符(めしフ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「免」部に、「召捕(メシトル)()。召籠(コムル)。召放(ハナス)。召使(ツカウ)。召出(イダス)。召文(ブミ)」の六語を収載し、標記語「召符」の語は未収載にする。ただし、このなかで、「召文」の語が類似する語でもある。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

{執筆}書与問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被召符就違背散状者直被下知于訴人〔至徳三年本〕

執筆書與問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被下召符就違背散状者直被下知于訴人〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-筆書‖_-奉書於訴-之時及--タラハ使-(シ―)ニレ∨_()ヲテハ-背散-者直レ∨‖-セラ于訴人〔山田俊雄藏本〕

執筆書ヘル問状奉書於訴人之時及兩度无音ナラハ者仰使節違背散状者直‖-知于訴人〔経覺筆本〕

-(カキ)‖_(アタユ)ル(モン)-奉書テ∨-(ソ―)ニ之時キニ-。有-使-(シせツ)ニレ∨{ヲ}-(イ―)ノ-(サン―)ニ(チキ)ニレ∨下知-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「譜代相傳之重書等者於引付方可被」の文言を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「召符」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』に、標記語「召符」の語を未収載にする。また、『塵芥』(1510年〜1550年頃)にも、

召符(メシフ) 文イ。〔態藝門359四〕

とあり、そして、易林本節用集』には、

召捕(メシトル) ―仕(ツカフ)。―次(ツギ)―符(フ)/―文(ブミ/ブ)。―籠(コムル)。―具(グ)。〔言辞門197二〕

とあって、標記語「召捕」の冠頭字「召」の熟語群として「召符」の語を収載する。また、天正十八年本節用集』には、「召文(メシフ)下知」〔下27ウ四〕と記載が見えている。

 このように、上記当代の古辞書では、『塵芥』と易林本節用集』に、「召符」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

461闔閤ル∨執筆書‖_(トヒ)_奉書於訴人之時及兩度-ナラハ者仰せテ使節召符 召符執筆人|、問状訴人|。急此問状論人預、彼論人シテ參也。其時論人、若及兩度無音召符也。〔謙堂文庫蔵四五右A〕

とあって、標記語「召符」の語を収載し、語注記は「召符は、執筆人より問状を訴人に給ふ。急ぎ此の問状論人に預け、彼の論人を召して參るべきなり。其の時論人、若し、兩度に及んで無音は、直に召符を下すなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

問状(ホウ)於訴(ソ)之時及兩度-(イン)ナラハせテ使節(シせツ)ニ召符(メシフ)ヲ問状ト云事ハ。罪科(サイクハ)ノ人ノ問(トヒ)状ナリ。〔下20ウ六〕

とあって、この標記語「召符」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)(さる)使節ル∨召符 使節ハ使者也。注前に見へたり。符ハわりふなり。軍勢の諸役又ハ使者を遣し人を召(めさ)るゝに皆わりふを用ゆ。召符とハ訴人の相手方を召るゝわり符を云。〔64オ一〜二〕

とあって、この標記語「召符」の語を収載し、語注記は「召符とは、訴人の相手方を召るゝわり符を云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗召符(こゝ)にハ相手方(あい―かた)を召寄(めしよせ)らるゝ指紙(さしかミ)也。昔(むかし)ハすべて使者を遣(つかハ)すに皆(ミな)割符(わりふ)を持(もた)せたるもの也。爰ハ人を召(め)す使(つかひ)ゆゑ召符(めしふ)といふ。割符の事ハ四月乃返状に見ゆ。〔47ウ五〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)召符(こゝ)にハ相手方(あいてかた)を召寄(めしよせ)らるゝ指紙(さしがミ)也。昔(むかし)ハすべて使者(ししや)を遣(つかハ)すに皆(ミな)割符(わりふ)を持(もた)せたるもの也。爰(こゝ)ハ人を召(め)す使(つかひ)ゆゑ召符(めしふ)といふ割符(わりふ)の事ハ四月乃返状に見ゆ。〔85オ三〜五〕

とあって、標記語「召符」の語を収載し、その語注記は、「召符爰には、相手方を召寄せらるゝ指紙なり。昔は、すべて使者を遣はすに皆割符を持たせたるものなり。爰は、人を召す使ひゆゑ召符といふ。割符の事は、四月乃返状に見ゆ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Mexibu.メシフ(召符) 人を召喚する旨を命ずる書状.§Mexibuuo nasaruru.(召符をなさるる)主君が誰かを召喚する書状,あるいは,令状を出される.→Tcuqe,uru(付・着け,くる).〔邦訳399r〕

とあって、標記語「召符」の語の意味は「人を召喚する旨を命ずる書状」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

めし-〔名〕【召符】次條(めしぶみ【召文】)の語に同じ。庭訓徃來、八月「執筆被與問状奉書於訴人之時、及兩度無音、仰使節、被召符吾妻鏡、四十、建長二年二月五日「諸國守護地頭御家人等、背六波羅召符由事、有其沙汰、向後於此之輩者、可罪科之由、被仰出云云」〔1988-5〕

※見出し語を「めしふ」と清音表記することから、『日葡辞書』のような「ローマ字表記」された資料をここでは取り込めていなかったことも知られよう。

とあって、標記語「召符」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「めし-召符召文】〔名〕(「めしふ」とも)@「めしぶみ(召文)@」に同じ。A「めしぶみ(召文)A」に同じ」とあって、Aの用例として『庭訓徃來註』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
諸國民間訴詔、於出來者、面収以前、召符不可下之旨、今日政所問注所等、被仰〈云云〉《訓み下し》諸国民間ノ訴詔、出来ニ於テハ、面収以前ニ、召符(セウフ)ヲ下スベカラザルノ旨、今日政所問注所等ニ、仰セラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』建長三年七月二十日の条》
召状ノ事、訟目安時、奉行對充状、路次ノ遠近ヲ勘ヘ、何月何日前可到着者也、若及遲參バ、不理非、越度ニ可仰付トモ、可申付トモ書出ス状也、是ヲ召文トモ召符トモ云。《『簡禮記』》
 
 
2003年9月21日(日)雨模様。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
使節(シセツ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

使節(―せツ) 。〔元亀二年本306十〕

使節(シせツ) 。〔静嘉堂本357六〕

とあって、標記語「使節」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

{執筆}書与問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節召符就違背散状者直被下知于訴人〔至徳三年本〕

執筆書與問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被下召符就違背散状者直被下知于訴人〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-筆書‖_-奉書於訴-之時及--タラハ使-(シ―)ニレ∨_(フ)ヲテハ-背散-者直レ∨‖-セラ于訴人〔山田俊雄藏本〕

執筆書ヘル問状奉書於訴人之時及兩度无音ナラハ者仰使節違背散状者直‖-知于訴人〔経覺筆本〕

-(カキ)‖_(アタユ)ル(モン)-奉書テ∨-(ソ―)ニ之時キニ-。有-使-(シせツ)ニレ∨{ヲ}-(イ―)ノ-(サン―)ニ(チキ)ニレ∨下知-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「譜代相傳之重書等者於引付方可被」の文言を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「使節」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、標記語「使節」の語を未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

使節(シセツ) 相公使。〔・人倫門238三〕

使節(シセツ) 。〔・人倫門198五〕

使節(シセツ) ―者。〔・人倫門188五〕

とあって、標記語「使節」の語を収載し、弘治二年本の語注記に「相公使」と記載する。また、易林本節用集』には、

使節(シセツ) 。〔人倫門204三〕

とあって、標記語「使節」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書では、『伊京集』『運歩色葉集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』に、「使節」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

461闔閤ル∨執筆書‖_(トヒ)_奉書於訴人之時及兩度-ナラハ者仰せテ使節召符 召符執筆人|、問状訴人|。急此問状論人預、彼論人シテ參也。其時論人、若及兩度無音召符也。〔謙堂文庫蔵四五右A〕

とあって、標記語「使節」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

問状(ホウ)於訴(ソ)之時及兩度-(イン)ナラハせテ使節(シせツ)ニ召符(メシフ)ヲ問状ト云事ハ。罪科(サイクハ)ノ人ノ問(トヒ)状ナリ。〔下20ウ六〕

とあって、この標記語「使節」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

使節(しせつ)に仰(おほ)せて召符(めしふ)を下(くだ)(さる)使節ル∨召符 使節ハ使者也。注前に見へたり。符ハわりふなり。軍勢の諸役又ハ使者を遣し人を召(めさ)るゝに皆わりふを用ゆ。召符とハ訴人の相手方を召るゝわり符を云。〔64オ一〜二〕

とあって、この標記語「使節」の語を収載し、語注記は「使節は、使者なり。注前に見へたり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗使節ハ使番(つかひはん)を主(つかさと)る役人也。〔47ウ五〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)使節ハ使番(つかひばん)を主(つかさど)る役人也。〔85オ三〕

とあって、標記語「使節」の語を収載し、その語注記は、「使節は、使番を主る役人なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xixet.シセッ(使節) すなわち,Qibixij tcucai.(厳しい使)厳命をおびた使者,または,使節.〔邦訳785r〕

とあって、標記語「使節」の語の意味は「すなわち,厳しい使、厳命をおびた使者,または,使節」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-せつ〔名〕【使節】〔節は、國使の持する標識(しるし)〕國君、又は、政府の命を奉じて、他國に使する官人。周禮、掌節篇「凡、邦國之使節、山國用虎節、士國用人節、澤國用龍節易林本節用集使節、シセツ」〔0895-3〕

とあって、標記語「使節」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-せつ使節】〔名〕(昔、中国で他国に使者として行く人は符節(割符)を賜わり、これを持参したところからいう)国家、または君主の命を受けて、その代表として諸方に使する人。使臣」とあって、『庭訓往来』三月十三日状の語用例を記載する。
[ことばの実際]
若於有勝功者先預諸國之使節、兼御即位之後、必隨思可賜勸賞也《訓み下し》若シ勝功有ルニ於テハ先ンジテ諸国ノ使節ニ預ラシメ、兼テハ御即位ノ後、必ズ思フニ随ツテ(乞フニ随ツテ)勧賞ヲ賜ハルベキナリ。《『吾妻鏡』治承四年四月二十七日の条》
 
 
2003年9月20日(土)雨、一時曇り再び雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
無音(ブイン)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「福」部に、「無為(ブイ)。無事(ブシ)。無道(ダウ)。無力(リヨク・リキ)。無興(ケウ)。無性(シヤウ)。無災(サイ)。無難(ナン)。無骨(コツ)曰―(ナキ)ヲ―格(コツカク)ノ。無双(サウ)。無勢(せイ)。無功(ゴウ)。無射(シヤ)九月」の十三語を収載し、標記語「無音」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

{執筆}書与問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被召符就違背散状者直被下知于訴人〔至徳三年本〕

執筆書與問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被下召符就違背散状者直被下知于訴人〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-筆書‖_-奉書於訴-之時及--タラハ使-(シ―)ニレ∨_(フ)ヲテハ-背散-者直レ∨‖-セラ于訴人〔山田俊雄藏本〕

執筆書ヘル問状奉書於訴人之時及兩度无音ナラハ者仰使節違背散状者直‖-知于訴人〔経覺筆本〕

-(カキ)‖_(アタユ)ル(モン)-奉書テ∨-(ソ―)ニ之時キニ-。有-使-(シせツ)ニレ∨{ヲ}-(イ―)ノ-(サン―)ニ(チキ)ニレ∨下知-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「譜代相傳之重書等者於引付方可被」の文言を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

無音 フイン。〔黒川本・疉字門中107ウ二〕

無雙 〃頼。〃事。〃極。〃窮。〃頂。〃為。〃涯。〃邊。〃何。〃卿帝王。〃答。〃射九月。〃限。〃端。〃偏。〃愛。〃彊キヤウ。〃道。〃音。〔卷第七・疉字門84四〕

とあって、標記語「無音」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「無音」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

無音信(ブインシンナシ、コヱ・ヲト、マコト・ノブ)[○・平・去] 。〔態藝門635二〕

とあって、標記語「無音信」の語を収載し、訓みを「ブインシン」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

無音(ブイン) 。〔・言語進退門182五〕

無道(ムダウ) ―音(イン)。―為(イ)。―力(リヨク)。―災(サイ)。―骨(コツ)。―双(サウ)/―礼(レイ)。―亊(ジ)。―菜(サイ)。―難(ナン)。―興(キヤウ)。―頼(ライ)。〔・言語門149七〕

無道(ブタウ) ―音。―為/―度。―流/―菜。―興。―沙汰。―四調。―骨。―双/―礼。―亊。―難。―頼。―所存。―心得。〔・言語門139五〕

とあって、弘治二年本は、標記語「無音」の語を収載し、他本は標記語「無道」の冠頭字「無」の熟語群として、「無音」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

無禮(ブレイ) ―道(タウ)。―性(シヤウ)。―頼(ライ)。―功(コウ)。―コ(トク)。―興(ケウ)。―骨(コツ)。―為(ヰ)。―事(ジ)。―沙汰(サタ)。―器用(キヨウ)。―人数(ニンジユ)/―力(リヨク)。―勢(せイ)。―人(ニン)。―雙(サウ)―音(イン)。―覺悟(カクゴ)。―故實(コシツ)。―所存(ソゾン)。―興隆(コウリウ)。―案内(アンナイ)。无單袴(ブタンゴ)。〔言辞門151七〜152一〕

とあって、標記語「無禮」の冠頭字「無」の熟語群として、「無音」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「無音」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

461闔閤ル∨執筆書‖_(トヒ)_奉書於訴人之時及兩度-ナラハ者仰せテ使節召符 召符執筆人|、問状訴人|。急此問状論人預、彼論人シテ參也。其時論人、若及兩度無音召符也。〔謙堂文庫蔵四五右A〕

とあって、標記語「无音」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

問状(ホウ)於訴(ソ)之時及兩度-(イン)ナラハせテ使節(シせツ)ニ召符(メシフ)ヲ問状ト云事ハ。罪科(サイクハ)ノ人ノ問(トヒ)状ナリ。〔下20ウ六〕

とあって、この標記語「無音」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

兩度(りやうど)に及(およ)んて無音(ぶいん)せば/兩度-せハ者 兩度ハ二度也。無音とハ訴人の相手方一向に回状の奉書に應(おう)せさるをいふなり。〔63ウ八〜64オ一〕

とあって、この標記語「無音」の語を収載し、語注記は「無音とは、訴人の相手方一向に回状の奉書に應ぜざるをいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗無音(こゝ)にハ訴人(そにん)の相手方(あいてがた)一向(いつかう)に問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)に應(おう)ぜざるをいふ。〔47ウ四〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)無音(こゝ)にハ訴人(そにん)の相手方(あいてかた)一向(いつかう)に問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)に應(おう)ぜざるをいふ。〔85オ二〜三〕

とあって、標記語「無音」の語を収載し、その語注記は、「無音爰には、訴人の相手方一向に問状の奉書に應ぜざるをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Buin.ブイン(無音) Votozzurenaxi.(音づれ無し) 礼儀を欠き,訪問しないこと.→BV(無).〔邦訳64r〕

とあって、標記語「無音」の語の意味は「礼儀を欠き,訪問しないこと」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-いん〔名〕【無音】(一)音信をせぬこと。たよりせざること。おとづれざること。無沙汰。契闊易林本節用集(慶長)下、言辭門「無音、ブイン」(二)發言せざること。黙し居ること。無言。源平盛衰記、四十六、頼朝義經中違事「閉口是非の返事申す人なし、鎌倉殿相待ち給へども無音の間、腹立して、いやいや、此中には誰誰と云とも、梶原計ぞ侍らん」〔1718-3〕

とあって、標記語「無音」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-いん無音】〔名〕@挨拶をしないこと。ことわりもなく行なうこと。ひそかにすること。A久しく音信をしないこと。長く無沙汰をすること。B発言しないこと。黙っていること。隠して言わないこと。無言。C不調法。不行届。失礼」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
此弟ノ子、今ヤ返スト待ニ无音也。《『今昔物語集』(1120年頃)卷第二・33》
子尅、將軍家、出御南面于時、燈消人定、悄然無音只月色蛬、思傷心計也。《訓み下し》子ノ剋ニ、将軍家、南面ニ出御シタマフ。時ニ、灯消ヘ人定マリ、悄然トシテ(ヲト)スルコト無シ。只月色ノ蛬、思ヒ傷ムノ心計ナリ。《『吾妻鏡』建暦三年八月十八日の条》
 
 
2003年9月19日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
兩度(リヤウド)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「利」部に、「両舌(リヤウゼツ)。両班(ハン)。両方(バウ)。両買(ガイ)錦。両口{舌(ゼツ)}。両樣(ヤウ)。両流(リウ)」の七語を収載する。そして、標記語「兩度」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

{執筆}書与問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被召符就違背散状者直被下知于訴人〔至徳三年本〕

執筆書與問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被下召符就違背散状者直被下知于訴人〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-筆書_-奉書於訴-之時及--タラハ使-(シ―)ニレ∨_(フ)ヲテハ-背散-者直レ∨‖-セラ于訴人〔山田俊雄藏本〕

執筆書ヘル問状奉書於訴人之時及兩度无音ナラハ者仰使節違背散状者直‖-知于訴人〔経覺筆本〕

執筆書‖_(トヒ)_奉書於訴人之時及兩度-ナラハ者仰せテ使節召符違背散-状者‖-セラ于訴人〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「譜代相傳之重書等者於引付方可被」の文言を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「兩度」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「兩度」の語を未収載にする。唯一、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

兩度(リヤウド・―、ノリフタツ、ハカル)[上去・去入] 。〔態藝門198一〕

とあって、標記語「兩度」の語を収載し、訓みを「リヤウド」とし、その語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』だけがこの「兩度」の語を収載していて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語となっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

461闔閤ル∨執筆書‖_(トヒ)_奉書於訴人之時及兩度-ナラハ者仰せテ使節召符 召符執筆人|、問状訴人|。急此問状論人預、彼論人シテ參也。其時論人、若及兩度無音召符也。〔謙堂文庫蔵四五右A〕

とあって、標記語「兩度」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

問状(ホウ)於訴(ソ)之時及兩度-(イン)ナラハせテ使節(シせツ)ニ召符(メシフ)ヲ問状ト云事ハ。罪科(サイクハ)ノ人ノ問(トヒ)状ナリ。〔下20ウ六〕

とあって、この標記語「兩度」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

兩度(りやうど)に及(およ)んて無音(ぶいん)せば/兩度-せハ 兩度ハ二度也。無音とハ訴人の相手方一向に回状の奉書に應(おう)せさるをいふなり。〔63ウ八〜64オ一〕

とあって、この標記語「兩度」の語を収載し、語注記は「兩度ハ二度なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗〔47ウ三〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)〔85オ一〕

とあって、標記語「兩度」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Rio<do.リャウド(兩度) Futatabi.(再び) 二回.〔邦訳534r〕

とあって、標記語「兩度」の語の意味は「二回」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

りゃう-〔名〕【兩度】ふたたび。二度。長門本平家物語、十五、室山合戰事「平家、室山水島兩度の軍に打勝て、云云」〔2130-3〕

とあって、標記語「兩度」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「りょう-兩度】〔名〕二度」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
所謂高二郎大夫經直、〈種直家子、〉兩度拒押使宗房〈種益郎等、〉一箇度也《訓み下し》所謂高ノ二郎大夫経直、〈種直ガ家ノ子、〉両度(―ド)。拒押使宗房〈種益ガ郎等、〉一箇度ナリ。《『吾妻鏡』元暦二年六月十四日の条》
 
 
2003年9月18日(木)薄晴れ後曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
訴人(ソニン)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、

訴人(ソニン) 。〔元亀二年本152四〕

訴人(――) 。〔静嘉堂本166五〕

とあって、標記語「訴人」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

{執筆}書与問状奉書訴人之時及兩度無音仰使節被召符就違背散状者直被下知于訴人〔至徳三年本〕

執筆書與問状奉書訴人之時及兩度無音仰使節被下召符就違背散状者直被下知于訴人〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-筆書_-奉書-之時及--タラハ使-(シ―)ニレ∨_(フ)ヲテハ-背散-者直レ∨‖-セラ訴人〔山田俊雄藏本〕

執筆書ヘル問状奉書訴人之時及兩度无音ナラハ者仰使節違背散状者直‖-知于訴人〔経覺筆本〕

-筆書(カキ)‖_(アタユ)ル(モン)-奉書テ∨-(ソ―)之時キニ-。有-使-(シせツ)ニレ∨{ヲ}-(イ―)ノ-(サン―)ニ(チキ)ニレ∨下知-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「譜代相傳之重書等者於引付方可被」の文言を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「訴人」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「訴人」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

訴人(ニンウタヱ、ジン・ヒト)[去・平] 。〔態藝門404六〕

とあって、標記語「訴人」の語を収載し、訓みを「ソニン」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

訴人(ソニン) 。〔・人倫門118七〕〔・人倫門100六〕〔・人倫門91一〕〔・人倫門110七〕

とあって、訴人」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

訴陳(ソチン) ―訟(せウ)―人(ニン)。―状(ジヤウ)。〔言辞門101四〕

とあって、標記語「訴陳」の語を収載し、その冠頭字「訴」の熟語群として収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「訴人」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

461闔閤ル∨執筆書‖_(トヒ)_奉書訴人之時及兩度-ナラハ者仰せテ使節召符 召符執筆人|、問状訴人|。急此問状論人預、彼論人シテ參也。其時論人、若及兩度無音召符也。〔謙堂文庫蔵四五右A〕

とあって、標記語「訴人」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

問状(ホウ)(ソ)之時及兩度-(イン)ナラハせテ使節(シせツ)ニ召符(メシフ)ヲ問状ト云事ハ。罪科(サイクハ)ノ人ノ問(トヒ)状ナリ。〔下20ウ六〕

とあって、この標記語「訴人」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

執筆(しゆひつ)問状(とひじやう)の奉書(ほうしよ)訴人(そにん)(に)書与(かきあたゆ)るの時(とき)執筆‖_問状奉書訴人之時 執筆ハ書役也。回状の奉書とハ訴人の相手方へ事の様子を問尋ねらるゝ奉書なり。訴人とハ事をうつたへ出たる者なり。〔63ウ六〜八〕

とあって、この標記語「訴人」の語を収載し、語注記は「訴人とは、事をうつたへ出たる者なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗〔47ウ三〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)〔85オ一〕

とあって、標記語「訴人」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Sonin.ソニン(訴人) Vttayuru fito.(訴ゆる人) 告訴人,すなわち,訴訟における原告.〔邦訳573r〕

とあって、標記語「訴人」の語の意味は「告訴人,すなわち,訴訟における原告」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-にん〔名〕【訴人】(一)うったへ出づる人。訴訟する人。原告。(論人に對す)首告人太平廣記、張質「案牘分明、訴人遠」(二)めあかし(目證)の異名。甲陽軍艦、八、品第十七「訴人岩間大藏左衞門とて、御分國中、萬事の儀を申上る侍一人あり」武家名目抄、六十、職名「甲州にて訴人と云ひし所職は、今云ふ、目明(めあかし)の類なるよし、見聞雜録に見えたるが、如何にも其云へる所の如く、常ならぬ事に、眼をつけて、窺ひ知れるままを密告すべき職(つかさ)なり」〔1158-2〕

とあって、標記語「訴人」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-にん訴人】〔名〕@うったえ出た人。告訴した人。A中世、訴訟の原告をいう。被告を論人といい、原告と被告を合わせて訴論人という。B違法行為を摘発する人。また、めあかし。おかっぴき。C(―する)人を訴え出ること」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
但宗信等後日陳謝、若有其謂者、還可被處訴人於罪科之趣、被載之〈云云〉《訓み下し》但シ宗信等、後日ニ陳謝シテ、若シ其ノ謂レ有ラバ、還ツテ訴人(ソ―)ヲ罪科ニ処セラルベキノ趣、之ヲ載セラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承五年三月十四日の条》
 
 
2003年9月17日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
問状(モンジヤウ・といジャウ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「毛」部に、

問状(―ジヤウ) 。〔元亀二年本348七〕

(―ヂヤウ) 。〔静嘉堂本419三〕

とあって、標記語「問状」の語を収載する。但し、静嘉堂本は、「門状」に作って異なりを見せている。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

{執筆}書与問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被召符就違背散状者直被下知于訴人〔至徳三年本〕

執筆書與問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被下召符就違背散状者直被下知于訴人〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-筆書_-奉書於訴-之時及--タラハ使-(シ―)ニレ∨_(フ)ヲテハ-背散-者直レ∨‖-セラ于訴人〔山田俊雄藏本〕

執筆書ヘル問状奉書於訴人之時及兩度无音ナラハ者仰使節違背散状者直‖-知于訴人〔経覺筆本〕

-筆書(カキ)‖_(アタユ)ル(モン)-奉書テ∨-(ソ―)ニ之時キニ-。有-使-(シせツ)ニレ∨{ヲ}-(イ―)ノ-(サン―)ニ(チキ)ニレ∨下知-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「譜代相傳之重書等者於引付方可被」の文言を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「問状」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』に、標記語「問状」の語を未収載にする。また、易林本節用集』には、

問答(モンダフ) ―註(ヂフ)。〔言辞門230七〕

とあって、標記語「問状」の語をやはり未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、唯一『運歩色葉集』に「問状」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

461闔閤ル∨執筆書‖_(トヒ)_奉書於訴人之時及兩度-ナラハ者仰せテ使節召符 召符執筆人|、問状訴人|。急此問状論人預、彼論人シテ參也。其時論人、若及兩度無音召符也。〔謙堂文庫蔵四五右A〕

とあって、標記語「問状」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

問状(ホウ)於訴(ソ)之時及兩度-(イン)ナラハせテ使節(シせツ)ニ召符(メシフ)ヲ問状ト云事ハ。罪科(サイクハ)ノ人ノ問(トヒ)状ナリ。〔下20ウ六〕

とあって、この標記語「問状」とし、語注記は「問状と云ふ事は、罪科の人の問状なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

執筆(しゆひつ)問状(とひじやう)の奉書(ほうしよ)を訴人(そにん)(に)書与(かきあたゆ)るの時(とき)執筆書‖_問状奉書於訴人之時 執筆ハ書役也。回状の奉書とハ訴人の相手方へ事の様子を問尋ねらるゝ奉書なり。訴人とハ事をうつたへ出たる者なり。〔63ウ六〜八〕

とあって、この標記語「問状」の語を収載し、語注記は「執筆ハ書役なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗執筆ハ書役(かきやく)也。〔47ウ三〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)執筆ハ書役(かきやく)也。〔85オ一〕

とあって、標記語「問状」の語を収載し、その語注記は、「問状は、書役なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Monjo<.モンジヤウ(問状) To> fumi.(問ふ文) すなわち,toibumi.(問文) ある訴訟などに関して質問をする書状,書付.§また,裁判官が訴訟当事者に対して,その正当性を自ら弁明することを命ずる書状.〔邦訳420l〕

とあって、標記語「問状」の語の意味は「すなわち,問文 ある訴訟などに関して質問をする書状,書付」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

もん-じゃう〔名〕【問状】問注所、又は、引附方より被告に下して答辯を出さしむる令状。其執權の名を以するを問状御教書と云ひ、頭人、又は、奉行の名を以てするを問状奉書と云ふ。御成敗式目、帶問状御教書狼藉事「右就訴状問状者定例也、而以問状致狼藉事、云云」〔2017-3〕

とあって、標記語「問状」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「もん-じょう問状】〔名〕@貴重な書類。重要な文書。A地所に対する権利を証明する各種の文書。手継文書」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
問状事、問答訴人等、掠申之旨、露顯之時者、可處罪科之由、面々可被仰含之〈云云〉《訓み下し》問状(モンジヤウ)ノ事、問答ノ訴人等、掠メ申スノ旨、露顕ノ時ハ、罪科ニ処スベキノ由、面面ニ之ヲ仰セ含メラルベシト〈云云〉。《『吾妻鏡』仁治元年閏十月五日の条》
 
 
2003年9月16日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
執筆(シユヒツ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

執筆(―ヒツ) 。〔元亀二年本307九〕〔静嘉堂本359一〕

とあって、標記語「執筆」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

{執筆}書与問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被召符就違背散状者直被下知于訴人〔至徳三年本〕

執筆書與問状奉書於訴人之時及兩度無音仰使節被下召符就違背散状者直被下知于訴人〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-_-奉書於訴-之時及--タラハ使-(シ―)ニレ∨_(フ)ヲテハ-背散-者直レ∨‖-セラ于訴人〔山田俊雄藏本〕

執筆ヘル問状奉書於訴人之時及兩度无音ナラハ者仰使節違背散状者直‖-知于訴人〔経覺筆本〕

-(カキ)‖_(アタユ)ル(モン)-奉書テ∨-(ソ―)ニ之時キニ-。有-使-(シせツ)ニレ∨{ヲ}-(イ―)ノ-(サン―)ニ(チキ)ニレ∨下知-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「執筆」の悟を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「執筆」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・に、標記語「執筆」の語を未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

執筆(シユヒツ) ―衆。―人。〔・人倫門238八〕

執行(シユキヤウ) ―筆(ヒツ)。―事(シツジ)。〔・人倫門198四〕

執行(シユキヤウ) ―事代。―事。―筆。〔・人倫門188四〕

とあって、弘治二年本は、標記語「執筆」の語を収載し、他二本は標記語「執行」の冠頭字「執」の熟語群として収載する。また、易林本節用集』には、

執着(シフヂヤク) ―情(ジヤウ)。―寧(ネイ)。―心(シム)―筆(シユヒツ)。〔言辞門215一〕

とあって、標記語「執着」の冠頭字「執」の熟語群として収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「執筆」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

461闔閤ル∨執筆‖_(トヒ)_奉書於訴人之時及兩度-ナラハ者仰せテ使節召符 召符執筆人|、問状訴人|。急此問状論人預、彼論人シテ參也。其時論人、若及兩度無音召符也。〔謙堂文庫蔵四五右A〕

とあって、標記語「執筆」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

執筆(シユヒツ)‖_問注所トハ。罪科(サイクハ)人ヲ糾明(キウメイ)スル処ロナリ。〔下20ウ六〕

とあって、この標記語「執筆」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

執筆(しゆひつ)問状(とひじやう)の奉書(ほうしよ)を訴人(そにん)(に)書与(かきあたゆ)るの時(とき)執筆書‖_問状奉書於訴人之時 執筆ハ書役也。回状の奉書とハ訴人の相手方へ事の様子を問尋ねらるゝ奉書なり。訴人とハ事をうつたへ出たる者なり。〔63ウ六〜八〕

とあって、この標記語「執筆」の語を収載し、語注記は「執筆ハ書役なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗執筆ハ書役(かきやく)也。〔47ウ三〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)執筆ハ書役(かきやく)也。〔85オ一〕

とあって、標記語「執筆」の語を収載し、その語注記は、「執筆は、書役なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xuxxi.シユヒツ(執筆) Fude tori.(筆執り) 書記.〔邦訳800l〕

とあって、標記語「執筆」の語の意味は「書記」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しゅ-ひつ〔名〕【執筆】かきやく。記録方。書記。右筆(いうひつ)。執筆(しゆひつ)太平記、七、千劔破城軍事「長崎四郎左衞門尉、軍奉行にてありければ、手負、死人の實檢をしけるに、執筆十二人、夜晝、三日が間、筆をも置かず、記せり」〔0998-5〕

とあって、標記語「執筆」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「しゅ-ひつ執筆】〔名〕@記録すること。文書などを書くこと。しっぴつ。A叙位・除目を主宰し記録する係。原則として関白を除いた第一の大臣をつとめるものとされるが、除目では天皇臨席の場合のみこれが守られ、大臣の直廬で行なわれるものでは参議である大弁がつとめるのが例であった。B鎌倉時代、鎌倉・六波羅・鎮西にそれぞれ置かれた幕府の政務・裁判機関である引付(ひきつけ)において、訴訟関係文書の起草・清書・交付などをつかさどる役職、また、その人。本奉行。執筆奉行。公文。C連歌や俳諧の席で、宗匠のさしずに従い、文台に臨み、参会者の出す句を懐紙に記入して披露する役。また、指合・去嫌を指摘し、会席がとどこほりなく運ぶように気を配ることも、その任務とされた。D→しっぴつ(執筆)B。[語誌](1)中古においては、「延五暮春十二時執筆、同剋書了。学生大江家国」(大東急記念文庫蔵『史記』孝景本紀・卷十一識語)のように「執筆」を「筆を手に執って書き始める」意味で使用した例や、普通は「執筆」と書かれるべき箇所に「長治二年歳次乙酉九月十日甲辰始奉書写、願主賢昭也。筆執求法僧□彌也」(兵庫県住吉神社蔵『大般若経』卷四七四の奥書)のように「筆執」と転倒させた例も見られる。現代語の「小説を執筆(しっぴつ)する」のように作品の創造・創作に関しては用いられず、あくまで「筆で文字を書く」意味で、典籍を書写したり、文書を書記したり、和歌や議事を記録したりする場合に使用された。(2)「書記する」「記録する」ことに限らず、「その行為を行なう人」という意味にも多用され、さらに役や係の名として固定的に用いられた。典籍の奥書に多く見られる「嘉保三年極月一六日於金剛峯寺書写了。執筆僧静真」(高山寺蔵『本命供略作法』奥書)のような書写者を表わす「執筆」の用法である。平安時代の叙位・除目における「執筆」をはじめとして、鎌倉時代にはBのように幕府の職名として使用された。(3)連歌でCのような役割をする人物が「執筆」と呼ばれるようになるのは、「中右記―嘉保二年一一月二九日」の「相侍使帰参之間、於下侍方連歌連句倭漢任意、宮内丞蔵人宗仲執筆、興頗入魔歟」や「吾妻鏡―文永二年一〇月七日」の「於御所有連歌御会。三河阿闍梨円勇候執筆役」に見られる書記役の呼び名から意味が拡充していったものであろう」とあって、Cの意味として『庭訓往来』の語用例を記載する。ただし、ここの意味はBの意味である。
[ことばの実際]
然者奉寄附田園於兩社追可申事由於前武衛歟者皆不及異儀、召執筆令書寄進状。《訓み下し》然レバ田園ヲ両社ニ寄附シ奉テ、追テ事ノ由ヲ前ノ武衛ニ申スベキカ、テイレバ皆異儀ニ及バズ、執筆(シユヒツ)ヲ召シ(執筆ノ人ヲ召シ)寄進ノ状ヲ書カシム。《『吾妻鏡』治承四年九月十日の条》
 
 
2003年9月15日(月)晴れ。東京(八王子)→立川→練馬
(くばり)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、

(クハル)(同) 。〔元亀二年本198八〕〔天正十七年本中42オ五〕

(クバル)(同) 。〔静嘉堂本225七〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所闔閤重賦之〔至徳三年本〕

問注所闔閤〔宝徳三年本〕

問注所闔閤〔建部傳内本〕

テ‖--(クバ)リ--〔山田俊雄藏本〕

テ‖問注所(クバ)リ闔閤〔経覺筆本〕

テ‖--(モンヂウ―)ノ(クハ)-(カイカウ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

クハル/七宿反/徂公―杼。 已上同。〔黒川本・辞字門中77ウ八〕

/徂予杼是也。 已上同。〔卷第六・辞字門434五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(クバル)[去] 莊子祖公―杼。朝三暮四。〔態藝門551三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「クバル」とし、その語注記は「『莊子』祖公(篇)、杼。朝三暮四」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(クバル)物。○。(クハル) 勢。〔・言語進退門160七〕

(クバル) 。〔・言語門149一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

(クバル) 。〔言辞門135六〕

とあって、標記語「配」の語を収載し、「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

460右筆(ウヒツ)ノ奉行人(ラ)終日評定窮屈更无御休息儀問注所(クハリ) 問住所如何樣云。亊触申也。〔謙堂文庫蔵四四左H〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

問注所(モンヂウ―)ノ(クバリ)闔閤ハ重テ賦之。〔下20ウ二〜三〕

とあって、この標記語「」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

問注所(もんぢうしよ)(くば)に就(つゐ)て闔閤(かい/\)(かさね)て之(これ)(くは)テ‖問注所リニ闔閤 問注所ハ罪科(ざいくわ)を糾明(きうめい)する所なり。問注所よりくはりたる訴状(そじやう)の趣を闔閤より又公事からの諸役人へくはるをいふなり。〔63ウ五〜六〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

頭人(とうにん)上衆(じやうしゆ)闔閤(かいがふ)右筆(いうひつ)奉行人(ぶきやうにん)(とう)終日(ひねもす)御評定(ごひやうちやう)の爲(ため)窮屈(きうくつ)(あ)りと雖(いへども)(さら)に御休息(ごきうそく)(な)く之(これ)を勘判(かんばん)せら被(れ)問注所(もんちうしよ)(くばり)に就(つい)て闔閤(かいかふ)(かさ)ねて之(これ)(くば)頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日御評定ノ|リト|窮屈更無ク‖御休息せラ‖判之ヲ|テ‖問注所闔閤重ネテとハ問注所にて事を問究(とひきわ)めたる趣(おもむき)を認(したゝ)めし配賦(はいふ)也。〔47ウ二〕

頭人(とうにん)上衆(じやうしゆ)闔閤(かいがふ)右筆(いうひつ)奉行人(ぶきやうにん)(とう)(ため)終日(ひねもす)御評定(ごひやうちやう)の(いへとも)(あ)りと窮屈(きうくち)(さら)に(な)く御休息(ごきうそく)(れ)(かんばん)せら(これ)を(つい)問注所(もんちゆうしよ)(くばり)闔閤(かいがふ)(かさね)(くは)(これ)とハ問注所にて事を問究(とひきハ)めたる趣(おもむき)を認(したゝ)めし配賦(はいふ)也。〔84ウ五〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その語注記は、「とは、問注所にて事を問ひ究めたる趣を認めし配賦なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Cubari,u.クバリ,ル,ッタ(配り,る,つた) 分配する.§Meuo cubaru.(目を配る)あちこちいろんな方向へ目を向ける.→Bio<do>ni;Ma〜;So>(惣);Zanzato.〔邦訳159l〕

とあって、標記語「」の語の意味は「分配する」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

くば〔他動、四〕【】〔分(くま)ると通ず、隠(なば)る、なまる〕(一){分けて、與ふ。銘銘に、割りわたす。配分す。字鏡15「、以財施於僧尼也、久波留」宇津保物語、藏開、下21「心にしたがひて、人人にくばりたまふ事なむ侍りし」(二){遍く、行きわたらす。枕草子、十二、百五十五段「目を配りつつ讀みゐたるこそ、罪や得らんと覺ゆれ」「心をくばる」(三){縁づくる。かたづける。令嫁。源氏物語、四十九、東屋3「娘多かり、云云、初(前妻)の腹の二三人は、皆、さまざまにくばりて、おとなびさせたり」(四)それぞれ、適當なる處に置く。配置。「兵を配る」字を配る」〔0541-1〕

とあって、標記語「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「くば】〔他ラ五(四)〕(上代語「くまる」の変化した形)@割り当てて渡す。分けて与える。配分する。A配慮、注意などを広くいきわたらせる。「心を配る」「気を配る」B(相応の人を見つけてあちこちに)めあわせること。とつがせる。結婚させる。C必要に応じて適当な所におく。配置する。D非常警戒をする、また、非常線を張ることをいう、盗人仲間の隠語。〔特殊語百科事典(1931)〕」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
依此米催事、民戸殊費於今者殆無乃貢運上計之由、頻有領家訴之間、及此儀然者遣使者、可觸廻之由、可被仰北條殿者《訓み下し》此ノ米催シノ事ニ依テ、民戸殊ニ費ユ。今ヨリハ殆ド乃貢運上ノ計無キノ由、頻ニ領家ノ訴ヘ有ルノ間、此ノ儀ニ及ブ。然レバ使者ヲ(クバ)遣ハシ、触レ廻ラスベキノ由、北条殿ニ仰セラルベキ者ナリ。《『吾妻鏡』文治二年二月二十八日の条》
 
 
2003年9月14日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
休息(キウソク)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「氣」部に、

休息(キウソク) 。〔元亀二年本脱欠〕〔静嘉堂本326六〕

とあって、標記語「休息」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日之御評定雖有窮崛更無御休息被勘判之〔至徳三年本〕

頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日御評定雖有窮屈更無御休息被勘判之〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-人上--(カイガウ)-筆奉--人等爲(シ)テ‖-日之御評-ト|リト-屈更休息-判之〔山田俊雄藏本〕

頭人上衆闔閤(カイカウ)右筆奉行人等爲(シ)テ‖終日(ヒメモス)御評定ヲ|リト窮屈(キウクツ)休息-判之〔経覺筆本〕

-人上--(カイガウ)-筆奉--人等爲(シ)テ-(ヒメモス)之御評-リト-(キウクツ)--判之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「譜代相傳之重書等者於引付方可被」の文言を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

休息 人事部/キウソク。〔黒川本本・疉字門下51オ二〕

休退(キウタイ) 〃息。〃目。〃徴チヨウ。〃命。〃假。〃幕。〃烈。〃コ。〃顯。〔卷第八・疉字門522六〕

とあって、標記語「休息」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

休息(キウソク) 。〔態藝門87一〕

とあって、標記語「休息」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

休息(キウソクヤスム・イコウ、ヤム・イキ)[平・入] 。〔態藝門831一〕

とあって、標記語「休息」の語を収載し、訓みを「キウソク」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

休息(キウソク) ヤスム義。〔・言語進退門221三〕

休息(キウソク) 。〔・言語門185五〕

休息(キフソク) 。〔・言語門174七〕

とあって、標記語休息」の語を収載し、訓みを「キウソク」「キフソク」とし、その語注記は弘治二年本だけに「やすむ義」と記載する。また、易林本節用集』には、

休息(キフソク) 。〔言辞門190一〕

とあって、標記語「休息」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「休息」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

460右筆(ウヒツ)ノ奉行人(ラ)終日評定窮屈更无休息問注所(クハリ) 問住所如何樣云。亊触申也。〔謙堂文庫蔵四四左H〕

とあって、標記語「休息」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

終日(シウ―)評定(イフ)トモ窮屈(キウクツ)(サラ)ニ休息(キウソク)終日ト云ハ朝ヨリ夕(ユウヘ)マデノ事。〔下20ウ二〜三〕

とあって、この標記語「休息」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(さら)に御休息(こきうそく)(な)く之(これ)を勘判(かんばん)せ被(らる)休息ル∨判之ヲ| 休息ハやすみいこふと讀。勘判の注ハ前にあり。〔63ウ三〜四〕

とあって、この標記語「休息」の語を収載し、語注記は「休息は、やすみいこふと讀む」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

頭人(とうにん)上衆(じやうしゆ)闔閤(かいがふ)右筆(いうひつ)奉行人(ぶきやうにん)(とう)終日(ひねもす)御評定(ごひやうちやう)の爲(ため)窮屈(きうくつ)(あ)りと雖(いへども)(さら)に御休息(ごきうそく)(な)く之(これ)を勘判(かんばん)せら被(れ)問注所(もんちいうしよ)の賦(くばり)に就(つい)て闔閤(かいかふ)(かさ)ねて之(これ)を賦(くば)る/頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日御評定ノ|リト|窮屈更無ク‖休息せラ‖判之ヲ|テ‖問注所闔閤重ネテ〔47ウ一〕

頭人(とうにん)上衆(じやうしゆ)闔閤(かいがふ)右筆(いうひつ)奉行人(ぶきやうにん)(とう)(ため)終日(ひねもす)御評定(ごひやうちやう)の(いへとも)(あ)りと窮屈(きうくち)(さら)に(な)く休息(ごきうそく)(れ)(かんばん)せら(これ)を(つい)問注所(もんちゆうしよ)(くばり)闔閤(かいがふ)(かさね)(くは)(これ)。〔84ウ三〜四〕

とあって、標記語「休息」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qiu<socu.キウソク(休息) 休むこと.〔邦訳512l〕

とあって、標記語「休息」の語の意味は「休むこと」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

きう-そく〔名〕【休息】休(やす)み、息(いこ)ふこと。いきつぎ。休憩。詩經、周南、漢廣篇「南有喬木、不休息庭訓徃來、八月「爲終日御評定、雖窮屈、更無休息〔0453-1〕

とあって、標記語「休息」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「きゅう-そく休息休足】〔名〕@のんびりくつろぐこと。仕事や歩行などをやめて体を休めること。→くそく。A休止すること。とだえること」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
去八月上旬出京、於路次發病之間、一兩月休息美濃國神地邊《訓み下し》去ヌル八月上旬ニ京ヲ出デ、路次ニ於テ発病ノ間、一両月美濃ノ国神地ノ辺ニ休息(キウソク)ス。《『吾妻鏡』治承四年十月十九日の条》
 
 
2003年9月13日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
窮屈(キウクツ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「氣」部に、

窮屈(キウクツ) 。〔元亀二年本欠脱〕〔静嘉堂本326六〕

とあって、標記語「窮屈」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日之御評定雖有窮崛更無御休息被勘判之〔至徳三年本〕

頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日御評定雖有窮屈更無御休息被勘判之〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-人上--(カイガウ)-筆奉--人等爲(シ)テ‖-日之御評-ト|リト-休息-判之〔山田俊雄藏本〕

頭人上衆闔閤(カイカウ)右筆奉行人等爲(シ)テ‖終日(ヒメモス)御評定ヲ|リト窮屈(キウクツ)休息-判之〔経覺筆本〕

-人上--(カイガウ)-筆奉--人等爲(シ)テ-(ヒメモス)之御評-リト-(キウクツ)--判之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「譜代相傳之重書等者於引付方可被」の文言を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

窮屈 貧賤分/キウクツキウクヰツ。〔黒川本・疉字門下51オ四〕

窮屈(キウクヰツ) 〃老。〃國。〃者。〃塵。〃貧。〃民。〃通。〃溟メイ。〃賤。〃用。〃困コン。〔卷第八・疉字門522三〕

とあって、標記語「窮屈」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

窮屈(キウクツ) 。〔態藝門160一〕

とあって、標記語「窮屈」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

窮屈(キユウクツキワマル、クヾム)[平・入] 。〔態藝門826七〕

とあって、標記語「窮屈」の語を収載し、訓みを「キユウクツ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

窮屈(キウクツ) 。〔・言語進退門221四〕

窮屈(キウクツ) ―困(コン)。〔・言語門184八〕

窮屈(キウクツ) ―困。〔・言語門174三〕

とあって、標記語「窮屈」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

窮屈(キウクツ) ―困(コン)。〔言辞門190二〕

とあって、標記語「窮屈」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「窮屈」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

460右筆(ウヒツ)ノ奉行人(ラ)終日評定窮屈更无御休息儀問注所(クハリ) 問住所如何樣云。亊触申也。〔謙堂文庫蔵四四左H〕

とあって、標記語「窮屈」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

終日(シウ―)評定(イフ)トモ窮屈(キウクツ)(サラ)ニ御休息(キウソク)終日ト云ハ朝ヨリ夕(ユウヘ)マデノ事。〔下20ウ二〜三〕

とあって、この標記語「窮屈」とし、語注記は「窮屈と云は、朝より夕べまでの事」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

窮屈(きうくつ)(あり)と雖(いへとも)窮屈 窮屈ハ事に倦(うミ)厭たる事なり。〔63ウ二〜三〕

とあって、この標記語「窮屈」の語を収載し、語注記は「窮屈は、事に倦厭たる事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

頭人(とうにん)上衆(じやうしゆ)闔閤(かいがふ)右筆(いうひつ)奉行人(ぶきやうにん)(とう)終日(ひねもす)御評定(ごひやうちやう)の爲(ため)窮屈(きうくつ)(あ)りと雖(いへども)(さら)に御休息(ごきうそく)(な)く之(これ)を勘判(かんばん)せら被(れ)問注所(もんちいうしよ)の賦(くばり)に就(つい)て闔閤(かいかふ)(かさ)ねて之(これ)を賦(くば)る/頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日御評定リト窮屈更無御休息せラ判之問注所闔閤重ネテ窮屈ハ氣(き)つまりなる躰(てい)。〔47ウ一〕

頭人(とうにん)上衆(じやうしゆ)闔閤(かいがふ)右筆(いうひつ)奉行人(ぶきやうにん)(とう)(ため)終日(ひねもす)御評定(ごひやうちやう)の(いへとも)(あ)りと窮屈(きうくち)(さら)に(な)く御休息(ごきうそく)(れ)(かんばん)せら(これ)を(つい)問注所(もんちゆうしよ)(くばり)闔閤(かいがふ)(かさね)(くは)(これ)窮屈ハ氣(き)つまりなる躰(てい)。〔84ウ四〜五〕

とあって、標記語「窮屈」の語を収載し、その語注記は、「窮屈は、氣つまりなる躰」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qiu<cut.キュゥクッ(窮屈) すなわち,Qino tcumaru coto.l,taicut.(気の詰まること.または,退屈) 倦怠を覚えること,または,気がつまること.§Qiu<cutuo noburu.(窮屈を伸ぶる)心を晴らす,あるいは,気散じをする.〔邦訳511l〕

とあって、標記語「窮屈」の語の意味は「すなわち,Qino tcumaru coto.l,taicut.(気の詰まること.または,退屈) 倦怠を覚えること,または,気がつまること.」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

きゅう-くつ〔名〕【窮屈】身心の、思ひのままに動き得ぬこと。身の、安樂ならぬこと。字類抄窮屈、キウクツ」太平記、五、大塔宮熊野落事「終夜の禮拝に、御窮屈ありければ、御肱を曲けて枕として、暫く御まどろみありける」〔0497-5〕

とあって、標記語「きゅう-くつ窮屈】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「きゅう-くつ窮屈】〔名〕(形動)@(―する)狭かったり、堅苦しかったり、思うように動けないこと。身心の自由を束縛されること。また、気づまりに感じること。また、そのさま。A疲れること。また、そのさま。疲労。B貧しくて思うようにならないこと。また、そのさま」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
今月少人數度出御、其儀各移剋之處、敢無御窮屈、偏如成人。《訓み下し》今月少人数度ノ出御。其ノ儀各剋ヲ移スノ処ニ、敢テ御窮屈(キウクツ)無ク、偏ニ成人ノ如シ。《『吾妻鏡』寛元二年四月二十一日の条》
 
 
2003年9月12日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
終日(ひねもす・シウジツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「飛」部と「志」部に、

終日(ヒネモソ) 。〔元亀二年本341三〕 終日(せウヂツシウ―) 。〔元亀二年本311五〕

終日(ヒネモス) 。〔静嘉堂本408八〕  終日(シウジツ) 。〔静嘉堂本364四〕

とあって、標記語「終日」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日之御評定雖有窮崛更無御休息被勘判之〔至徳三年本〕

頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日御評定雖有窮屈更無御休息被勘判之〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-人上--(カイガウ)-筆奉--人等爲(シ)テ‖-之御評-ト|リト-屈更休息-判之〔山田俊雄藏本〕

頭人上衆闔閤(カイカウ)右筆奉行人等爲(シ)テ‖終日(ヒメモス)御評定ヲ|リト窮屈(キウクツ)休息-判之〔経覺筆本〕

-人上--(カイガウ)-筆奉--人等爲(シ)テ-(ヒメモス)之御評-リト-(キウクツ)--判之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「譜代相傳之重書等者於引付方可被」の文言を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

終日(ヒネモス) シウシツ。〔黒川本・疉字門下76ウ七〕

終始 〃頭。〃夜。〃日。〃曽。〃古。〔卷第九・疉字門195二〕

とあって、標記語「終日」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「終日」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

終日(ヒネモス/シウシツ・ヲワル、ヒ)[平・入] 又竟日。盡日。〔態藝門1048六〕

とあって、標記語「終日」の語を収載し、訓みを「ひねもす・シウシツ」とし、その語注記は「また、竟日・盡日」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

終日(ヒネモス/シウジツ)盡日(同/ジン―)。〔・時節門251一〕

終日(ヒメモス)盡日(同)。〔・時節門214七〕

終日(/ヒメモス) 。〔・天地門79三〕 終日(ヒメモス) 尽日(同)。〔・言語門200一〕

とあって、標記語「終日」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

盡日(ヒネモス) 終日(同/シウジツ) 。〔時候門221七〕

とあって、標記語「終日」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「終日」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。訓みは、「シュウジツ」「ひね{め}もす」といった音訓両用が考えられる。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

460右筆(ウヒツ)ノ奉行人(ラ)終日評定窮屈更无御休息儀問注所(クハリ) 問住所如何樣云。亊触申也。〔謙堂文庫蔵四四左H〕

とあって、標記語「終日」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

終日(シウ―)評定(イフ)トモ窮屈(キウクツ)(サラ)ニ御休息(キウソク)終日ト云ハ朝ヨリ夕(ユウヘ)マデノ事。〔下20ウ二〜三〕

とあって、この標記語「終日」とし、語注記は「終日と云は、朝より夕べまでの事」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

終日(ひねもす)御評定(ごひやうちやう)の爲(ため)終日評定 朝より暮迄を終日と云。評定とハ事のよしあしを論して定るを云。〔63ウ一〜二〕

とあって、この標記語「終日」の語を収載し、語注記は「朝より暮までを終日と云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

頭人(とうにん)上衆(じやうしゆ)闔閤(かいがふ)右筆(いうひつ)奉行人(ぶきやうにん)(とう)終日(ひねもす)御評定(ごひやうちやう)の爲(ため)窮屈(きうくつ)(あ)りと雖(いへども)(さら)に御休息(ごきうそく)(な)く之(これ)を勘判(かんばん)せら被(れ)問注所(もんちいうしよ)の賦(くばり)に就(つい)て闔閤(かいかふ)(かさ)ねて之(これ)を賦(くば)る/頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日御評定リト窮屈更無御休息せラ判之問注所闔閤重ネテ終日ハ朝(あさ)より晩(ばん)までといふこと。〔47ウ一〕

頭人(とうにん)上衆(じやうしゆ)闔閤(かいがふ)右筆(いうひつ)奉行人(ぶきやうにん)(とう)(ため)終日(ひねもす)御評定(ごひやうちやう)の(いへとも)(あ)りと窮屈(きうくち)(さら)に(な)く御休息(ごきうそく)(れ)(かんばん)せら(これ)を(つい)問注所(もんちゆうしよ)(くばり)闔閤(かいがふ)(かさね)(くは)(これ)終日ハ朝(あさ)より晩(ばん)までといふこと。〔84ウ三〜四〕

とあって、標記語「終日」の語を収載し、その語注記は、「終日は、朝より晩までといふこと」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fimemosu.ヒメモス(終日) 終日.→次条;〔邦訳232r〕

Fimemusu.ヒメムス(終日) 終日.例,Sono tcuguino fi fimemusu yomosugara taiv furi,&c.(その次の日ひめむす夜もすがら大雨降り,云云)Tai.(太平記)卷二十八.一日中,そして一晩中ひどい大雨が降って,云々. ※卷二十七の誤りであろう.太平記,二十七,田樂事付長講見物事.なお,神田本・玄玖本・西源院本も卷二十七の中に見える.→前条;Xu<jit(終日).〔邦訳232r〕

Xu<jit.シュゥジッ(終日) Fimemosu.l,fimemusu.(ひめもす.または,ひめむす)すなわち,朝から晩まで一日中.〔邦訳801l〕

とあって、標記語「終日」の語の意味は「」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ひね-もす〔名〕【終日盡日】〔晝(ひ)の經亦盡(へもすがら)にの約略と云ふ、ひめもすとも云ふ、夜もすがらに對す〕朝より夕まで。日一日(ひひとひ)。シュウジツ。又、ひめもす。名義抄「盡日、ヒネモス、ヒメモス、終日、ヒメモス」萬葉集、九22長歌「終日に、鳴けど聞きよし、幣(古義に、舊本弊に誤る)はせむ、とほくなゆきそ、吾宿の、花橘に、住みわたりなけ」、十八7「をふのさき、こきたもとほり、比禰毛須に、見とも厭くべき、浦にあらなくに」伊勢物語、八十四段「斯る程に、雪こぼすが如く降りて、ひねもすにやまず」土左日記、二月四日「然れども、ひねもすに浪風たたず」大和物語、上「別るべき、こともあるものを、ひねもすに、待つとてさへも、歎きつるかな」續後記、十九、嘉祥二年三月、長歌「茜刺須、終日須加良爾、烏玉乃、狭夜通左右、時日經天」夫木抄、二、?ひめもすに、己が鳴き織る、聲の文は、けに百色(尋イ)に、成りもしぬらむ」〔1686-4〕

しゅう-じつ〔名〕【終日】朝より夕まで。ひねもす。イチニチ。老子、廿三章「驟雨不朝、雨不論語、衞靈公篇「子曰、吾嘗、終日食、終夜不寢、以思、無u、不學也」書經、多方篇「大淫昏、不終日于帝之迪〔0986-3〕

とあって、標記語「終日」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ひね-もす終日】〔名〕朝から夕まで。一日中。ひねむす。ひめもす。ひめむす。[語誌](1)「昼はひねもす、夜はよもすがら」と慣用的に用いられるように「よもすがら」に対応する。「日」に接尾語「ね」が付いた「ひね」に助詞「も」が付き、さらに接尾語「ね」が付いた「ひねもすがら」の変化した語と思われる。(2)上代から中古にかけて多用されたが、中世から近世にかけては「ひめもす」の方が一般的で、中世にはほかに「ひめもそ」「ひめむす」「ひねむす」などがあり、かなり語形が揺れていた。近世以降は再び「ひねもす」が多くなるが、雅語として規範意識に基づいて古形に戻されたものと考えられる。(3)近世の辞書などに散見される「ひねもそ」形は、誤れる回帰と見なすべきであろう」、標記語「ひね-むす終日】〔名〕「ひねもす(終日)」に同じ」と標記語「しゅう-じつ終日】〔名〕朝から晩まで。まる一日。ひねもす」とあって、『庭訓往来』のこの語用例はいずれにも未記載にする。
[ことばの実際]
自昨日雨降、終日不休止爲明日合戰無爲、被始行御祈祷《訓み下し》昨日ヨリ雨降ル。終日(ヒメモス)休止マズ。明日ノ合戦無為ノ為ニ、御祈祷ヲ始メ行ハル。《『吾妻鏡』治承四年八月十六日の条》
 
 
2003年9月11日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
闔閤→開闔(カイガウ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

開闔(―カウ) 。〔元亀二年本94八〕〔静嘉堂本117六〕〔天正十七年本上58オ一〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「開闔」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日之御評定雖有窮崛更無御休息被勘判之〔至徳三年本〕

頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日御評定雖有窮屈更無御休息被勘判之〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

-人上--(カイガウ)-筆奉--人等爲(シ)テ‖-日之御評-ト|リト-屈更休息-判之〔山田俊雄藏本〕

頭人上衆闔閤(カイカウ)右筆奉行人等爲(シ)テ‖終日(ヒメモス)御評定ヲ|リト窮屈(キウクツ)休息-判之〔経覺筆本〕

-人上--(カイガウ)-筆奉--人等爲(シ)テ-(ヒメモス)之御評-リト-(キウクツ)--判之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

開闔 カイカフ/戸閇開也/闔字閇也。〔黒川本・疉字門上90オ二〕

開闔 〃墾メウ。〃檢。〃闢。〃閇。〃門。〃負。〃眼。〃敷。〃落。〃悟。〃化。〃發。〔卷第三・疉字門269二〕

とあって、標記語「開闔」の語を収載する。三卷本の語注記に「戸の閇開なり/闔の字は閇なり」と記載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「闔閤」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

闔閤(カイカフトビラ、ネヤ)[入・入] 奉行人職。〔人倫門260七〕

開闔(カイカフヒラク、―)[平・入] 。〔官位門263四〕

開闔(カイカツヒラク、トヂル)[平・入] 。〔態藝門272三〕

とあって、門をそれぞれ別にして標記語「闔閤」と「開闔」の両語を収載し、訓みも「カイカフ」と「カイカツ」とし、その語注記は、人倫門に「奉行人職」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

闔閤(カイカウ) 奉行人職。〔・人倫門77四〕〔・人倫門77一〕〔・人倫門83二〕

闔閤(カイカフ) 奉行人職。〔・人倫門69七〕

とあって、標記語「闔閤」として収載し、語注記は広本節用集』と同様に「奉行人職」と記載する。また、易林本節用集』には、

闔閤(カイカフ) 奉行人職。〔人倫門71四〕

とあって、標記語「闔閤」の語を収載し、語注記は広本節用集』と同様に「奉行人職」と記載する。

 このように、上記当代の古辞書には、「闔閤」の語が人倫門に収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。ただし、この標記語は、下記に示す近現代の国語辞書においては、見出し語漢字表記として用いられていない。すべて、「開闔」の表記のみである。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

459譜代相傳重書等者引付(アハサ)沙汰-人上-闔閤(カツ―/カイカウ) 合也。尽也。闔閤松田丹後守仕也。是當代細川殿被官也。人搦捕諸沙汰人也。〔謙堂文庫蔵四四左F〕

※―獄屋奉行也。/―(闔)トハ沙汰ノ時ノ亊ヲ云イ始ル人也。獄屋奉行也。又沙汰処ニハ十三仏ヲ掛也。十三人ノ奉行ヲ表也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』古冩書込み〕△明行道沙汰時十三仏掛也。十三人評定人也。是心也。將軍即閻魔王也。問注――トハ如何様之御沙汰有ト云テ觸フルヲ又引付ヨリ重テ賦――。〔同頭注書込み〕

とあって、標記語「闔閤」の語を収載し、語注記は、「闔は、合なり。尽なり。闔閤は、松田丹後守仕るなり。是れは當代は、細川殿被官なり。人を搦め捕る諸の沙汰人なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

闔閤(カイカフ)ハ。沙汰ヲスル処ナリ。諸評定人。カイカフノ宿処ヘ集(アツ)マリ給(タマヒ)テ。評定有ナリ。又奉書(ホウシヨ)御教書(ミゲウシヨ)ヲ賦(クハ)ルモ。カイカフノ処ヨリ配ルナリ。〔下20ウ二〜三〕

とあって、この標記語「闔閤」とし、語注記は「沙汰をする処なり。諸評定人。かいがふの宿処へ集まり給ひて。評定有るなり。又、奉書・御教書を賦るも。かいがふの処より配るなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

頭人(とうにん)上衆(じやうしゆ)闔閤(かい/\)右筆(ゆうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)-人上-闔閤右筆奉行人等 皆役人也。〔63オ八〜ウ一〕

とあって、この標記語「闔閤」の語を収載し、語注記は「皆役人なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

頭人(とうにん)上衆(じやうしゆ)闔閤(かいがふ)右筆(いうひつ)奉行人(ぶきやうにん)(とう)終日(ひねもす)御評定(ごひやうちやう)の爲(ため)窮屈(きうくつ)(あ)りと雖(いへども)(さら)に御休息(ごきうそく)(な)く之(これ)を勘判(かんばん)せら被(れ)問注所(もんちいうしよ)の賦(くばり)に就(つい)て闔閤(かいかふ)(かさ)ねて之(これ)を賦(くば)る/頭人上衆闔閤右筆奉行人等爲終日御評定リト窮屈更無御休息せラ判之問注所闔閤重ネテ闔閤ハ奉行(ぶぎやう)の下役(したやく)也。科人(とがにん)を搦捕(からめとり)などする者。〔47ウ一〕

頭人(とうにん)上衆(じやうしゆ)闔閤(かいがふ)右筆(いうひつ)奉行人(ぶきやうにん)(とう)(ため)終日(ひねもす)御評定(ごひやうちやう)の(いへとも)(あ)りと窮屈(きうくち)(さら)に(な)く御休息(ごきうそく)(れ)(かんばん)せら(これ)を(つい)問注所(もんちゆうしよ)(くばり)闔閤(かいがふ)(かさね)(くは)(これ)闔閤ハ奉行(ぶぎやう)の下役(したやく)也。科人(とがにん)を搦捕(からめとり)などする者。〔84ウ三〜四〕

とあって、標記語「闔閤」の語を収載し、その語注記は、「闔閤は、奉行の下役なり。科人を搦め捕りなどする者」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Caico<.カイカゥ(闔閤) Firaqi,u.(開き,く) 獄卒,または,刑を執行する人.※この訓注は穏当でない.“ヒラク,トヅ”とあるべきもの.〔邦訳80r〕

とあって、標記語「闔閤」の語の意味は「獄卒,または,刑を執行する人」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かい-かふ〔名〕【開闔】〔職原抄標註に、開闔は、善を開き、惡を闔(と)づる義にて、判斷の人なりと見ゆ〕記録所、和歌所、御書所等に置かれたる職名、次官(すけ)の如し。職原抄、下「記録所、上卿、辨、開闔、寄人」薩戒記、永享五年八月廿五日「和歌所開闔事、被尭孝僧都中右記、寛治元年十二月廿六日甲辰「今日被始御書所、別當、云云、開闔孝言、衆三人」〔0333-1〕

とあって、標記語「開闔」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「かい-こう開闔】〔名〕(「かいごう」とも)@開くことと閉じること。A朝廷の記録所、和歌所などにおかれた職名。書物、資料の出納管理等雑務のことをつかさどる。B中世、鎌倉・室町幕府の職名。当該機関構成員のうち、最も職務に熟達した者が任ぜられ、訴訟事務の進行等にあたった」とあって、Aの意味にあたるが、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
奉置文書之所、一切不開闔也、今日大外記頼業真人進二字、依穢不参入也、《『玉葉』承安二年十一月廿六日の条》
 
 
2003年9月10日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
重書(ヂウシヨ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「地」部に、

重書(ヂウシヨ) 。〔元亀二年本65四〕

重書(チウシヨ) 。〔静嘉堂本76四〕〔天正十七年本上38ウ1〕

とあって、標記語「重書」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

譜代相傳之重書等者於引付方可被逢御沙汰〔至徳三年本〕

譜代相傳重書等者於引付方可被逢御沙汰〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

譜代---__-〔山田俊雄藏本〕

-代相傳重書等者引付方沙汰〔経覺筆本〕

譜代相傳重書等者引付方(アハ)せ沙汰〔文明四年本〕逢(アワせ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで至徳三年本は、「譜代相傳之重書等者於引付方可被」の文言を脱落する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「重書」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、標記語「重書」の語を未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

重書(ヂウジヨ) ―代(ダイ)/箱(ハコ)。〔・言語門52二〕

重書(ヂウシヨ) ―代/―箱。〔・言語門56三〕

重書(ヂウシヨ) ―代/―箱。〔・言語門56三〕

とあって、標記語「重書」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

重書(―シヨ) 。〔言辞門53一〕

とあって、標記語「重書」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「重書」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

459譜代相傳重書等者引付(アハサ)沙汰-人上-闔閤(カツ―/カイカウ) 合也。尽也。闔閤松田丹後守仕也。是當代細川殿被官也。人搦捕諸沙汰人也。〔謙堂文庫蔵四四左F〕

とあって、標記語「重書」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

譜代(フダイ)相傳(ソウテン)ノ重書(ヂウ―)等者於引付シ∨(アハせ)沙汰譜代相傳ノ重書ハ家々ノ傳(ツタ)ハレル氏文ナリ。〔下20オ八〜ウ二〕

とあって、この標記語「重書」とし、語注記は「家々の傳はれる氏文なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

譜代(ふだい)相傳(そうでん)(の)重書(ぢうしよ)(とう)(ハ)譜代相傳重書等者 譜代ハ代々。相傳ハ傳来といへるかことし。〔63オ五〜六〕

とあって、この標記語「重書」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

活持(くハつち)(の)計畧(けいりやく)を用意(ようゐ)せら被(る)(べ)し。先(まづ)擧状(きよじやう)を代官(たいくハん)(に)(しん)ぜら被(れ)(バ)公所(くしよ)の出仕(しゆつし)諸亭(しよてい)の經廻圖師(けいくわいづし)を申(まふ)す可(べ)き也。奉行人(ぶきやうにん)の賄賂(わいろ)衆中(しゆちう)の屬託(そくたく)上衆(しやうしゆ)乃秘計(ひけい)口入(くちいり)頭人(とうにん)内奏(ないそう)贔屓(ひいき)機嫌(きげん)を窺(うかゝ)ひ之(これ)を申(まふ)す可(へ)し。讓状(ゆつりしやう)乃謀實(はうしつ)越境(ゑつきやう)の相論(さうろん)(いまだ)甲乙(かふをつ)の次第(しだい)を分(わか)た未(さる)譜代(ふたい)相傳(さうでん)(の)重書(ちうしよ)(とう)(ハ)引付方(ひきつけかた)に於(おいて)御沙汰(ごさた)に逢(あ)は被(る)(べ)し/シ∨セラ活持之計略ヲ|先被セラ挙状代官-所出-諸亭之經廻キ∨圖師(―)奉行人-衆中属託--口入頭人内奏屓贔機嫌ヲ|讓状謀實--タ/ズ∨タ‖甲乙次第|。譜代相傳重書等者引付方沙汰。▲重書ハ重代(ちうたい)の書物(かきもの)なり。〔46ウ八〕

(べし)(る)(ようい)せら活持(くわつぢ)(の)計略(けいりやく)(まづ)(れ)(しん)ぜられ擧状(きよじやう)(を)代官(たいくわん)(バ)-(くしよ)の-(しゆつし)諸亭(しよてい)(の)(けいくわい)(べ)き∨(まう)図師(づし)を(なり)奉行人(ぶぎやうにん)-(わいろ)衆中(しゆちゆう)属託(ぞくたく)-(じやうしゆ)-(ひけい)口入(くちいれ)頭人(とうにん)内奏(ないさう)屓贔(ひいき)(うかが)機嫌(きげん)(べ)し(まう)(これ)讓状(ゆづりじやう)謀實(ばうじつ)-(ゑつきやう)-(さうろん)(いまだ/ず)(わか)た‖甲乙(かふをつ)次第(したい)を|。譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)重書(ぢうしよ)(とう)(ハ)(おい)て引付方(ひきつけかた)(べ)(る)(あ)沙汰(ごさた)重書ハ重代(ちうたい)の書物(かきもの)なり。〔83ウ三〜四〕

とあって、標記語「重書」の語を収載し、その語注記は、「重書は、重代の書物なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Giu<xo.ヂウシヨ(重書) すなわち,Iyeni tcutauaru xo.(家に伝わる書)ある一族に代々伝わって来た,その家系やや領地などに関する書物.〔邦訳320r〕

とあって、標記語「重書」の語の意味は「家に伝わる書、ある一族に代々伝わって来た,その家系やや領地などに関する書物」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ぢゅうしょ【重書】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「じゅう-しょ重書】〔名〕@貴重な書類。重要な文書。A地所に対する権利を証明する各種の文書。手継文書」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
丑尅、町大路東災火大夫属入道善信宅災重書再問註記以下焼失〈云云〉《訓み下し》丑ノ剋ニ、町ノ大路ノ東災火ス。大夫属入道善信ガ宅災ス。重書再ビニ問註記以下焼失スト〈云云〉。《『吾妻鏡承久三年正月二十五日の条》
 
 
2003年9月9日(火)晴れ。岩手(陸前高田→遠野→花巻)→東京(駒沢)
次第(シダイ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

次第(シダイ) 。〔元亀二年本307十〕

次第(シタイ) 。〔静嘉堂本359二〕

とあって、標記語「次第」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

讓状謀実越境相論未分甲子〔至徳三年本〕

讓状謀實越境相論未分甲子次第〔宝徳三年本〕

讓状謀実越境相論未分甲子之次第〔建部傳内本〕

_(ユツリ―)ノ謀実越-論未-(ミ―)--〔山田俊雄藏本〕

讓状謀実越境相論未次第(―タイ)|〔経覺筆本〕

_(ユツリ―)ノ-(ホウシツ)-(ヲツキヤウ/コシ)-論未-(ミフン)-(カツシ)ノ-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。このうち、至徳三年本は此語を脱落書写する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

次第 亦秩分/シタイ。〔黒川本・疉字門下78ウ四〕

次第 。〔卷第九・疉字門223六〕

とあって、標記語「次第」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「次第」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

次第(ダイ/ツギ、テイ)[去・去] 。〔態藝門494一〕

とあって、標記語「次第」の語を収載し、訓みを「シダイ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

次第(シダイ)。〔・言語進退門249七〕

とあって、標記語「次第」の語を弘治二年本だけが収載する。また、易林本節用集』には、

次第(シダイ) 〔言辞門217二〕

とあって、標記語「次第」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「次第」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

458屓贔窺機嫌謀實越-境違-乱未-分甲子(カウシ)ノ次第 甲子‖-買所帶等之時、差年記云也。私曰、庶子惣領云也。〔謙堂文庫蔵四四左D〕

贔屓(ヒイキ)(ウカヽイ)機嫌(―ケン)之讓状(ユツリ―)謀實(ボウジツ)越境違乱(イ―)―相論イ甲子(カツ―)ノ次第甲子トハ‖-買所帶等之時、差季記云也。私_云、庶子惣領云也。〔天理図書館蔵『庭訓徃來註』〕

とあって、標記語「次第」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

甲乙(コウヲツ)ノ次第(シダイ)ヲ|トハ。嫡子(チヤクシ)ノ子(コ)ナリ。法意ノ如クナラバ。假令(ケリヤウ)布七十五端(タン)ヲ分ルニ嫡母(チヤクホ)ハ。二十端(タン)。継母(ケイ―)モ廿端。嫡子モ廿端。庶子(ソシ)ハ十端。女子ハ五端ナリ。是本女楚(ソ)ノ女房ノアツシ時親ノ分ブン加様ニ定メヲカルヽカ。嫡母ハ離別ノ後ハ。継母ナリ。又楚母ヲ楊(ヤウ)ト云事。玄宗皇帝ノ后(キサ)キ多ク御座(ゴザ)せ共一ノ后ヲバ虞氏(グシ)君ハ。第一ノ本(ホン)后ノ宮(ミヤ)ナリ。二ハソヘテナサルヽニヨリテ。楊ト云字ヲ置テ楊貴妃也。又楊ノ字ヲ事氏(ウジ)トモ聞ヘタリ。昔(ムカシ)ハ上高キ女ハ。名ノ上ニ氏(ウヂ)ヲ云イソユル事是和朝ニモ先蹤(せンジユ)ヲ多シ。楊貴妃ハ氏ノ説一定タランカ。但シ二ヲ楊ノ字付タル物ノ本モ可之少智ニテハ慥(タシカ)ニ不被知事ナリ。内外典(ナイゲテン)トモニ事モ廣博(クワウバク)ノ義ナレバ一樣ニハ。難(サタメ)佛説サヘ三國共ニ摺(スリ)本ナントニモ。誤リ來ル事惟(コレ)多シト先コ先儒者(ジユシヤ)書ヲキ給ヒシ物ノ本アリ。〔下20オ三〜八〕

とあって、この標記語「次第」とし、語注記は上記の如く長文で記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(いま)だ甲乙(かうおつ)次第(したい)を分(わか)た未(ず)タ/ス∨甲乙次第ヲ| 凡物の一を甲と云。次を乙と云、甲乙乃次第をわかたずとハ黒白(こくびやく)是非(ぜひ)乃わたりかねたるをいふなり。〔63オ四〜五〕

とあって、この標記語「次第」の語を収載し、語注記は、「甲乙の次第をわかたずとは、黒白是非のわたりかねたるをいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

活持(くハつち)(の)計畧(けいりやく)を用意(ようゐ)せら被(る)(べ)し。先(まづ)擧状(きよじやう)を代官(たいくハん)(に)(しん)ぜら被(れ)(バ)公所(くしよ)の出仕(しゆつし)諸亭(しよてい)の經廻圖師(けいくわいづし)を申(まふ)す可(べ)き也。奉行人(ぶきやうにん)の賄賂(わいろ)衆中(しゆちう)の屬託(そくたく)上衆(しやうしゆ)乃秘計(ひけい)口入(くちいり)頭人(とうにん)内奏(ないそう)贔屓(ひいき)機嫌(きげん)を窺(うかゝ)ひ之(これ)を申(まふ)す可(へ)し。讓状(ゆつりしやう)乃謀實(はうしつ)越境(ゑつきやう)の相論(さうろん)(いまだ)甲乙(かふをつ)次第(しだい)を分(わか)た未(さる)譜代(ふたい)相傳(さうでん)(の)重書(ちうしよ)(とう)(ハ)引付方(ひきつけかた)に於(おいて)御沙汰(ごさた)に逢(あ)は被(る)(べ)し/シ∨セラ活持之計略先被セラ挙状代官-所出-諸亭之經廻キ∨圖師(―)ヲ奉行人-衆中属託--口入頭人内奏屓贔機嫌讓状謀實--タ/ズ∨タ‖甲乙次第ヲ|。譜代相傳之重書等者引付方沙汰甲乙次第ハ理非(りひ)の有無(うむ)也。〔46ウ七〕

(べし)(る)(ようい)せら活持(くわつぢ)(の)計略(けいりやく)(まづ)(れ)(しん)ぜられ擧状(きよじやう)(を)代官(たいくわん)(バ)-(くしよ)の-(しゆつし)諸亭(しよてい)(の)(けいくわい)(べ)き∨(まう)図師(づし)を(なり)奉行人(ぶぎやうにん)-(わいろ)衆中(しゆちゆう)属託(ぞくたく)-(じやうしゆ)-(ひけい)口入(くちいれ)頭人(とうにん)内奏(ないさう)屓贔(ひいき)(うかが)機嫌(きげん)(べ)し(まう)(これ)讓状(ゆづりじやう)謀實(ばうじつ)-(ゑつきやう)-(さうろん)(いまだ/ず)(わか)た‖甲乙(かふをつ)次第(したい)を|。譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)重書(ぢうしよ)(とう)(ハ)(おい)て引付方(ひきつけかた)(べ)(る)(あ)沙汰(ごさた)甲乙次第ハ理非(りひ)の有無(うむ)也。〔83ウ三〕

とあって、標記語「次第」の語を収載し、その語注記は、「甲乙次第は、理非の有無なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xidai.シダイ(次第) 順序,また,調和,あるいは,規律.§また,副詞.…のとおりに,…に従って,…によって.例,Sonata xidai.(そなた次第)あなたの望みどおりに.§Deqixidai.(出来次第)出来上り次第.§Nozomixidai.(望み次第)あなたの望みに従って.→Fitofo>dai;Guioi(御意).〔邦訳762r〕

とあって、標記語「次第」の語の意味は「順序,また,調和,あるいは,規律」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-だい〔名〕【次第】(一){ついで。前後のならび。順(ジユン)後漢書、第五倫傳「以次第氏」枕草子、十、百三十三段、うれしきもの「出でさせ給ひし夜、車の次第もなく、まづまづと、乘り騒ぐが、憎ければ」「次第を正す」次第に從ふ」(二)てつづき。なりきたり。來由保元物語、一、新院御謀叛事「過たぬ次第を、辨へ申せば「此の次第に因りて」如何なる次第にて」〔0897-1〕

とあって、標記語を「次第」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-だい次第】[一]〔名〕上・下、前・後などの並びをいう。@順序。順。ついで。A正しい順序。正当な手続き。B(―する)順序を追ってすること。順序正しく並ぶようにすること。順序をつけること。→次第に。Cはじめから終わりまで。一部始終。D物事の事情や由来、理由、成り行きなど。E能や狂言で用いる語。F拍子、調子。→しだいを取る。[二]〔接尾〕名詞や動詞の連用形に付いて、その物や事柄の事情に因る意を表わす。@名詞に付いて、その人の意向、またはその物事の事情のいかんによる意を表わす。A名詞または動詞の連用形などに付いて、その動作が行なわれるままにする意を表わす。放題。B動詞の連用形に付いて、その動作がすんだら直ちにの意を表わす」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
景親、乍爲源家譜代御家人、今度於所々、奉射之次第、一旦匪守平氏命《訓み下し》景親、源家譜代ノ御家人タリナガラ、今度所所ニ於テ射奉ルノ次第(シダイ)、一旦平氏ノ命ヲ守ルノミニ匪ズ。《『吾妻鏡治承四年九月三日の条》
 
 
2003年9月8日(月)小雨後本降り。岩手(一ノ関→陸前高田)
甲子(カウシ)」→「(カウヲツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

甲乙(―ヲツ) 。〔元亀二年本95二〕

甲乙(カウヲツ) 。〔静嘉堂本118四〕〔天正十七年本上58オ六〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「」の語を収載し、標記語「甲子」の語については未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

讓状謀実越境相論未分甲子〔至徳三年本〕

讓状謀實越境相論未分甲子次第〔宝徳三年本〕

讓状謀実越境相論未分甲子之次第〔建部傳内本〕

_(ユツリ―)ノ謀実越-論未-(ミ―)--〔山田俊雄藏本〕

讓状謀実越境相論未之次第(―タイ)ヲ|〔経覺筆本〕

_(ユツリ―)ノ-(ホウシツ)-(ヲツキヤウ/コシ)-論未-(ミフン)-(カツシ)ノ-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。このうち、経覺筆本と山田俊雄藏本とが「甲乙」と表記し、他本は「甲子」と表記する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

同/カウ{フ}ヲツ/又帳名。〔黒川本・疉字門上90オ二〕

〃弟。〃子。〃兵。〃冑。〃科。〃帳。〃宅。甲斐無。〔黒川本・疉字門上90オ二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、十巻本の熟語群に「甲子」の語を収載するが意味はここでは不明である。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「甲子」「」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書にあって「甲子」の語は、十巻本伊呂波字類抄』に収載されているだけである。そして、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

458屓贔窺機嫌謀實越-境違-乱未-甲子(カウシ)ノ次第 甲子‖-買所帶等之時、差年記云也。私曰、庶子惣領云也。〔謙堂文庫蔵四四左D〕

贔屓(ヒイキ)(ウカヽイ)機嫌(―ケン)之讓状(ユツリ―)謀實(ボウジツ)越境違乱(イ―)―相論イ甲子(カツ―)次第甲子トハ‖-買所帶等之時、差季記云也。私_云、庶子惣領云也。〔天理図書館蔵『庭訓徃來註』〕

※―地ヲ賣ニ廿年計ガ用廿年過レハ不用也。甲子惣領也。―二説ニ見也。證文アレトモ何―何時云フヲ答也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』古冩書込み〕

とあって、標記語「甲子」の語を収載し、語注記は、「甲子は、所帶等の賣買の時、年記を差して云ふなり。私に曰く、庶子惣領云ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

甲乙(コウヲツ)次第(シダイ)ヲ|トハ。嫡子(チヤクシ)ノ子(コ)ナリ。法意ノ如クナラバ。假令(ケリヤウ)布七十五端(タン)ヲ分ルニ嫡母(チヤクホ)ハ。二十端(タン)。継母(ケイ―)モ廿端。嫡子モ廿端。庶子(ソシ)ハ十端。女子ハ五端ナリ。是本女楚(ソ)ノ女房ノアツシ時親ノ分ブン加様ニ定メヲカルヽカ。嫡母ハ離別ノ後ハ。継母ナリ。又楚母ヲ楊(ヤウ)ト云事。玄宗皇帝ノ后(キサ)キ多ク御座(ゴザ)せ共一ノ后ヲバ虞氏(グシ)君ハ。第一ノ本(ホン)后ノ宮(ミヤ)ナリ。二ハソヘテナサルヽニヨリテ。楊ト云字ヲ置テ楊貴妃也。又楊ノ字ヲ事氏(ウジ)トモ聞ヘタリ。昔(ムカシ)ハ上高キ女ハ。名ノ上ニ氏(ウヂ)ヲ云イソユル事是和朝ニモ先蹤(せンジユ)ヲ多シ。楊貴妃ハ氏ノ説一定タランカ。但シ二ヲ楊ノ字付タル物ノ本モ可之少智ニテハ慥(タシカ)ニ不被知事ナリ。内外典(ナイゲテン)トモニ事モ廣博(クワウバク)ノ義ナレバ一樣ニハ。難(サタメ)佛説サヘ三國共ニ摺(スリ)本ナントニモ。誤リ來ル事惟(コレ)多シト先コ先儒者(ジユシヤ)書ヲキ給ヒシ物ノ本アリ。〔下20オ三〜八〕

とあって、この標記語「甲乙」とし、語注記は上記の如く長文にて記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(いま)甲乙(かうおつ)の次第(したい)を分(わか)た未(ず)タ/ス∨甲乙次第ヲ| 凡物の一を甲と云。次を乙と云、甲乙乃次第をわかたずとハ黒白(こくびやく)是非(ぜひ)乃わたりかねたるをいふなり。〔63オ四〜五〕

とあって、この標記語「甲乙」の語を収載し、語注記は、「凡そ物の一を甲と云ふ。次を乙と云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

活持(くハつち)(の)計畧(けいりやく)を用意(ようゐ)せら被(る)(べ)し。先(まづ)擧状(きよじやう)を代官(たいくハん)(に)(しん)ぜら被(れ)(バ)公所(くしよ)の出仕(しゆつし)諸亭(しよてい)の經廻圖師(けいくわいづし)を申(まふ)す可(べ)き也。奉行人(ぶきやうにん)の賄賂(わいろ)衆中(しゆちう)の屬託(そくたく)上衆(しやうしゆ)乃秘計(ひけい)口入(くちいり)頭人(とうにん)内奏(ないそう)贔屓(ひいき)機嫌(きげん)を窺(うかゝ)ひ之(これ)を申(まふ)す可(へ)し。讓状(ゆつりしやう)乃謀實(はうしつ)越境(ゑつきやう)の相論(さうろん)(いまだ)甲乙(かふをつ)の次第(しだい)を分(わか)た未(さる)譜代(ふたい)相傳(さうでん)(の)重書(ちうしよ)(とう)(ハ)引付方(ひきつけかた)に於(おいて)御沙汰(ごさた)に逢(あ)は被(る)(べ)し/シ∨セラ活持之計略先被セラ挙状代官-所出-諸亭之經廻キ∨圖師(―)ヲ奉行人-衆中属託--口入頭人内奏屓贔機嫌讓状謀實--タ/ズ∨タ‖甲乙次第ヲ|。譜代相傳之重書等者引付方沙汰。▲甲乙次第ハ理非(りひ)の有無(うむ)也。〔46ウ七〕

(べし)(る)(ようい)せら活持(くわつぢ)(の)計略(けいりやく)(まづ)(れ)(しん)ぜられ擧状(きよじやう)(を)代官(たいくわん)(バ)-(くしよ)の-(しゆつし)諸亭(しよてい)(の)(けいくわい)(べ)き∨(まう)図師(づし)を(なり)奉行人(ぶぎやうにん)-(わいろ)衆中(しゆちゆう)属託(ぞくたく)-(じやうしゆ)-(ひけい)口入(くちいれ)頭人(とうにん)内奏(ないさう)屓贔(ひいき)(うかが)機嫌(きげん)(べ)し(まう)(これ)讓状(ゆづりじやう)謀實(ばうじつ)-(ゑつきやう)-(さうろん)(いまだ/ず)(わか)た‖甲乙(かふをつ)次第(したい)を|。譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)重書(ぢうしよ)(とう)(ハ)(おい)て引付方(ひきつけかた)(べ)(る)(あ)沙汰(ごさた)甲乙次第ハ理非(りひ)の有無(うむ)也。〔83ウ三〕

とあって、標記語「甲乙」の語を収載し、その語注記は、「甲乙次第は、理非の有無なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Co<uot.カウヲツ(甲乙) 高下.§また,日本の時の数え方.計り方における或る時間の名前.→次条..〔邦訳155l〕

とあって、標記語「甲子」の語は未収載で「甲乙」の意味は「高下」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かふ-〔名〕【甲子】きのえね。かっし(甲子)の條を見よ。〔0407-2〕

かッ-〔名〕【甲子】〔かふしの音便〕支干の六甲の第一。きのえね。きのえね。暦傳、三「十干、十二支を、轉輪相配して、甲子に始まり、癸亥に終れる樣、左に視せる如きを、今は六十花甲と稱すれど、古くは六甲と云へり、其は、甲子、甲戌、甲申、甲午、甲辰、甲寅、各各九干支を綜て、其首たればなり」〔0387-4〕

とあって、標記語を「甲子」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「こう-甲子】〔名〕十干と十二支とを組み合わせたものの第一番目。きのえね。かっし。←干支(えと)」とあって、意味を異にし、また、標記語「こう-おつ甲乙】〔名〕Aものの順序いうことば。第一と第二。また、一般に順番をいう」についても『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
古與今甲乙如何。《訓み下し》古ト今ト甲乙(カフヲツ)如何。〔『吾妻鏡』文治五年九月七日の条〕
 
 
2003年9月7日(日)曇り。岩手県(一ノ関←→水沢)
未分(ミブン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「未」部に、「未進(ミシン)。未納(ナウ)。未済(サイ)。未下(ケ)。未来(ライ)。未練(レン)。未断(ダン)。未聞(モン)。未定(ジヤウ)。未熟(ジユク)。未開(カイ)花。未生(シヤウ)」の十二語を収載するが、標記語「未分」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

讓状謀実越境相論未分甲子〔至徳三年本〕

讓状謀實越境相論未分甲子次第〔宝徳三年本〕

讓状謀実越境相論未分甲子之次第〔建部傳内本〕

_(ユツリ―)ノ謀実越--(ミ―)--〔山田俊雄藏本〕

讓状謀実越境相論之次第(―タイ)ヲ|〔経覺筆本〕

_(ユツリ―)ノ-(ホウシツ)-(ヲツキヤウ/コシ)--(ミフン)-(カツシ)ノ-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。このうち、経覺筆本は訓読し「未だ分かたず」とするが、他本は総て字音熟語として「ミブン」とする。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「未分」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「未分」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

未分(ミフンイマダ、ワカツ)[去・平去] 。〔態藝門893四〕

とあって、標記語「未分」の語を収載し、訓みを「ミブン」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

未練(ミレン) ―熟(ジユク)。―進(シン)。―断(ダン)。―聞(モン)―分(ブン)/―来(ライ)。〔・言語進退門233五〕

未練(ミレン) ―断(ダン)。―聞(モン)―分(ブン)/―熟(ジユク)。―進(シン)。―来(ライ)。〔・言語門194四〕

未練(ミレン) ―錬。―断。―聞。―分/―熟。―進。―来。―定。〔・言語門184一〕

とあって、標記語「未練」の冠頭字「未」の熟語群として「未分」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

未練(ミレン) ―断(ダン)。―進(シン)―分(ブン)/―定(ジヤウ)。―熟(ジユク)。―来(ライ)。―聞(モン)不見(フケン)/―落居(ラツキヨ)。〔言辞門200五〕

とあって、標記語「未練」の冠頭字「未」の熟語群として「未分」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「未分」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

458屓贔窺機嫌謀實越-境違--甲子(カウシ)ノ次第 甲子‖-買所帶等之時、差年記云也。私曰、庶子惣領云也。〔謙堂文庫蔵四四左D〕

贔屓(ヒイキ)(ウカヽイ)機嫌(―ケン)之讓状(ユツリ―)謀實(ボウジツ)越境違乱(イ―)―相論イ甲子(カツ―)ノ次第甲子トハ‖-買所帶等之時、差季記云也。私_云、庶子惣領云也。〔天理図書館蔵『庭訓徃來註』〕

とあって、標記語「未分」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

タ/ス∨(ワカタ)‖トハ。イマダワケズト云フ義ナリ。〔下20オ三〕

とあって、この標記語「未分」とし、語注記は「いまだわけずと云ふ義なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(いま)だ甲乙(かうおつ)の次第(したい)を分(わか)た未(ず)/ス∨甲子次第ヲ| 凡物の一を甲と云。次を乙と云、甲乙乃次第をわかたずとハ黒白(こくびやく)是非(ぜひ)乃わたりかねたるをいふなり。〔63オ四〜五〕

とあって、この標記語「未分」の語を収載し、語注記は、「是は、前状にいえる未分違乱の事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

活持(くハつち)(の)計畧(けいりやく)を用意(ようゐ)せら被(る)(べ)し。先(まづ)擧状(きよじやう)を代官(たいくハん)(に)(しん)ぜら被(れ)(バ)公所(くしよ)の出仕(しゆつし)諸亭(しよてい)の經廻圖師(けいくわいづし)を申(まふ)す可(べ)き也。奉行人(ぶきやうにん)の賄賂(わいろ)衆中(しゆちう)の屬託(そくたく)上衆(しやうしゆ)乃秘計(ひけい)口入(くちいり)頭人(とうにん)内奏(ないそう)贔屓(ひいき)機嫌(きげん)を窺(うかゝ)ひ之(これ)を申(まふ)す可(へ)し。讓状(ゆつりしやう)乃謀實(はうしつ)越境(ゑつきやう)の相論(さうろん)(いまだ)甲乙(かふをつ)の次第(しだい)(わか)た未(さる)譜代(ふたい)相傳(さうでん)(の)重書(ちうしよ)(とう)(ハ)引付方(ひきつけかた)に於(おいて)御沙汰(ごさた)に逢(あ)は被(る)(べ)し/シ∨セラ活持之計略先被セラ挙状代官-所出-諸亭之經廻キ∨圖師(―)ヲ奉行人-衆中属託--口入頭人内奏屓贔機嫌讓状謀實--甲子次第ヲ|。譜代相傳之重書等者引付方沙汰。〔46ウ七〕

(べし)(る)(ようい)せら活持(くわつぢ)(の)計略(けいりやく)(まづ)(れ)(しん)ぜられ擧状(きよじやう)(を)代官(たいくわん)(バ)-(くしよ)の-(しゆつし)諸亭(しよてい)(の)(けいくわい)(べ)き∨(まう)図師(づし)を(なり)奉行人(ぶぎやうにん)-(わいろ)衆中(しゆちゆう)属託(ぞくたく)-(じやうしゆ)-(ひけい)口入(くちいれ)頭人(とうにん)内奏(ないさう)屓贔(ひいき)(うかが)機嫌(きげん)(べ)し(まう)(これ)讓状(ゆづりじやう)謀實(ばうじつ)-(ゑつきやう)-(さうろん)(いまだ)(わか)甲乙(かふをつ)次第(したい)を|。譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)重書(ぢうしよ)(とう)(ハ)(おい)て引付方(ひきつけかた)(べ)(る)(あ)沙汰(ごさた)。〔83ウ三〕

とあって、標記語「未分」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Mibun.ミブン(未分) Imada vacarezu.(未だ分れず)まだ作られていないこと.または,

まだ現われていないこと.例,Tenchi mibunno ijen.(天地未分の以前)天と地とが出来上がる以前.〔邦訳401l〕

とあって、標記語「未分」の語の意味は「」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語を「未分」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-ぶん未分】〔名〕まだ分かれていないこと。未処分のこと」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
故匠作遺領事、未分死去之間、任去々年十二月廿三日惣目録、被支配。《訓み下し》故匠作遺領ノ事、未ダ分(ワカ)タズシテ死去スルノ間、去去年十二月二十三日ノ惣目録ニ任セ、子息等ニ支配セラル。《『吾妻鏡延応二年四月十二日の条》※訓読する
 
 
2003年9月6日(土)晴れ。東京(八王子)→宮城県(仙台→多賀城)
謀實(ボウジツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、「謀計(ボウケイ)。謀略(リヤク)。謀訴(ホウソ)。謀書(シヨ)。謀判(ハン)。謀逆(ギヤク)」の六語を収載し、標記語「謀實」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

讓状謀実越境相論未分甲子〔至徳三年本〕

讓状謀實越境相論未分甲子次第〔宝徳三年本〕

讓状謀実越境相論未分甲子之次第〔建部傳内本〕

_(ユツリ―)ノ謀実-論未-(ミ―)--〔山田俊雄藏本〕

讓状謀実越境相論未之次第(―タイ)ヲ|〔経覺筆本〕

_(ユツリ―)ノ-(ホウシツ)-(ヲツキヤウ/コシ)-論未-(ミフン)-(カツシ)ノ-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「謀實」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「謀實」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書には、「謀實」の語は未収載であり、そしてて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

458屓贔窺機嫌之状謀實-境違-乱未-分甲子(カウシ)ノ次第 甲子‖-買所帶等之時、差年記云也。私曰、庶子惣領云也。〔謙堂文庫蔵四四左D〕

贔屓(ヒイキ)(ウカヽイ)機嫌(―ケン)之讓状(ユツリ―)謀實(ボウジツ)越境違乱(イ―)―相論イ甲子(カツ―)ノ次第甲子トハ‖-買所帶等之時、差季記云也。私_云、庶子惣領云也。〔天理図書館蔵『庭訓徃來註』〕

謀實(ボウシツ)―虚実也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』古冩書込み〕

とあって、標記語「謀實」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

謀實(ボウジツ)トハ。謀ハ。イツハリ。實(シツ)ハ誠也。〔下20オ二〕

とあって、この標記語「謀實」とし、語注記は「謀は、いつはり。實は、誠なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

讓状(ゆづりじやう)謀実(ばうじつ)讓状謀実 讓状ハ人に物を譲るに後々他より妨けする者あらん事を恐れ證拠(しやうこ)にけに證文(もん)なり。謀ハ偽(いつわり)をかまへ偽状(にせしやう)をこしらへたるを云。正明(しやうめい)にして偽りにあらさるをいふ。是ハ前状にいえる遺法争論の事也。遺跡をあらそふこと畢竟讓状の分明ならさるより事起りたる事ゆへこゝにハ詞をかえて讓状の謀実と書たるなり。此句より下ハ皆公事捌の事をいふ。〔62ウ八〜63オ三〕

とあって、この標記語「謀實」の語を収載し、語注記は、「謀ハ偽りをかまへ偽状をこしらへたるを云ふ。正明にして偽りにあらざるをいふ。是は、前状にいえる遺法争論の事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

活持(くハつち)(の)計畧(けいりやく)を用意(ようゐ)せら被(る)(べ)し。先(まづ)擧状(きよじやう)を代官(たいくハん)(に)(しん)ぜら被(れ)(バ)公所(くしよ)の出仕(しゆつし)諸亭(しよてい)の經廻圖師(けいくわいづし)を申(まふ)す可(べ)き也。奉行人(ぶきやうにん)の賄賂(わいろ)衆中(しゆちう)の屬託(そくたく)上衆(しやうしゆ)乃秘計(ひけい)口入(くちいり)頭人(とうにん)内奏(ないそう)贔屓(ひいき)機嫌(きげん)を窺(うかゝ)ひ之(これ)を申(まふ)す可(へ)し。讓状(ゆつりしやう)謀實(はうしつ)越境(ゑつきやう)の相論(さうろん)(いまだ)甲乙(かふをつ)の次第(しだい)を分(わか)た未(さる)譜代(ふたい)相傳(さうでん)(の)重書(ちうしよ)(とう)(ハ)引付方(ひきつけかた)に於(おいて)御沙汰(ごさた)に逢(あ)は被(る)(べ)し/シ∨セラ活持之計略先被セラ挙状代官-所出-諸亭之經廻キ∨圖師(―)ヲ奉行人-衆中属託--口入頭人内奏屓贔機嫌讓状謀實--タ/ズ∨タ‖甲子次第ヲ|。譜代相傳之重書等者引付方沙汰。▲讓状謀實ハ人の遺跡(ゆいせき)など譲(ゆつ)り与(あた)ゆるとき後日(こにち)他人(たにん)の乱妨(らんはう)なからしめんために書遺(かきつか)ハす。證文(しやうもん)也。悪人(あくにん)ハ是を謀(はかつ)て偽状(にせしやう)を作(つく)る謀判(はうはん)なとの類也。ケ樣(かよう)なる謀(たくらふ)もの歟(か)(まこと)のもの歟をいふ。〔46ウ六〜七〕

(べし)(る)(ようい)せら活持(くわつぢ)(の)計略(けいりやく)(まづ)(れ)(しん)ぜられ擧状(きよじやう)(を)代官(たいくわん)(バ)-(くしよ)の-(しゆつし)諸亭(しよてい)(の)(けいくわい)(べ)き∨(まう)図師(づし)を(なり)奉行人(ぶぎやうにん)-(わいろ)衆中(しゆちゆう)属託(ぞくたく)-(じやうしゆ)-(ひけい)口入(くちいれ)頭人(とうにん)内奏(ないさう)屓贔(ひいき)(うかが)機嫌(きげん)(べ)し(まう)(これ)讓状(ゆづりじやう)謀實(ばうじつ)-(ゑつきやう)-(さうろん)(いまだ/ず)(わか)た‖甲乙(かふをつ)次第(したい)を|。譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)重書(ぢうしよ)(とう)(ハ)(おい)て引付方(ひきつけかた)(べ)(る)(あ)沙汰(ごさた)讓状謀實ハ人の遺跡(ゆいせき)など譲(ゆづ)り与(あた)ふるとき後日(こにち)他人(たにん)の乱妨(らんはう)なからしめんために書遺(かきつか)ハす。證文(しようもん)也。悪人(あくにん)ハ是を謀(たはかつ)て偽状(にせしやう)を作(つく)る。謀判(ばうはん)などの類也。ケ樣(かやう)なる謀(たくミ)もの歟実(まこと)のもの歟をいふ。〔83オ六〜ウ一〕

とあって、標記語「謀實」の語を収載し、その語注記は、「悪人は、是れを謀って偽状を作る。謀判などの類なり。か樣なる謀みものか。実のものかをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「謀實」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語を「謀實」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ぼう-じつ謀實】〔名〕うそとまこと。いつわりと真実」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
濫妨之輩現形仕候之処、不弁謀實之是非、員外各別之輩於訴申武家、欲令損亡候云々《『東大寺・図書館未成卷文書元徳弐年閏六月日の条、211・11/99
 
 
2003年9月5日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
讓状(ゆづりジヤウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「遊」部に、

讓状(ユヅリジヤウ) 。〔元亀二年本293三〕

讓状(ユヅリシヤウ) 。〔静嘉堂本340七〕

とあって、標記語「讓状」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

讓状謀実越境相論未分甲子〔至徳三年本〕

讓状謀實越境相論未分甲子次第〔宝徳三年本〕

讓状謀実越境相論未分甲子之次第〔建部傳内本〕

_(ユツリ―)ノ謀実越-論未-(ミ―)--〔山田俊雄藏本〕

讓状謀実越境相論未之次第(―タイ)ヲ|〔経覺筆本〕

_(ユツリ―)ノ-(ホウシツ)-(ヲツキヤウ/コシ)-論未-(ミフン)-(カツシ)ノ-〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「讓状」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「讓状」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

讓状(ユヅリジヤウシヤウ、カタチ)[去・去] 。〔態藝門869一〕

とあって、標記語「讓状」の語を収載し、訓みを「ゆづりジヤウ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、「讓状」の語を未収載にする。また、易林本節用集』には、

讓状(ユヅリジヤウ) ―與(アタフ)。〔言辞門194六〕

とあって、標記語「讓状」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「讓状」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

458屓贔窺機嫌謀實越-境違-乱未-分甲子(カウシ)ノ次第 甲子‖-買所帶等之時、差年記云也。私曰、庶子惣領云也。〔謙堂文庫蔵四四左D〕

贔屓(ヒイキ)(ウカヽイ)機嫌(―ケン)讓状(ユツリ―)謀實(ボウジツ)越境違乱(イ―)―相論イ甲子(カツ―)ノ次第甲子トハ‖-買所帶等之時、差季記云也。私_云、庶子惣領云也。〔天理図書館蔵『庭訓徃來註』〕

とあって、この真字注本全てが標記語を「」とするのではなく、謙堂文庫本が脱落書写したものと言えよう。他写本は、すべて標記語「讓状」としている。そして、この語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

讓状(ユヅリジヤウ)(シタシ)ミ近(チカツ)キニアテ行(ヲコナ)イシ文(フン)ナリ。〔下20オ二〕

とあって、この標記語「讓状」とし、語注記は「親しみ近づきにあって行いし文なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

讓状(ゆづりじやう)乃謀実(ばうじつ)讓状謀実 讓状ハ人に物を譲るに後々他より妨けする者あらん事を恐れ證拠(しやうこ)にけに證文(もん)なり。謀ハ偽(いつわり)をかまへ偽状(にせしやう)をこしらへたるを云。正明(しやうめい)にして偽りにあらさるをいふ。是ハ前状にいえる遺法争論の事也。遺跡をあらそふこと畢竟讓状の分明ならさるより事起りたる事ゆへこゝにハ詞をかえて讓状の謀実と書たるなり。此句より下ハ皆公事捌の事をいふ。〔62ウ八〜63オ三〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は、「讓状は、人に物を譲るに後々他より妨げする者あらん事を恐れ證拠に、げに證文なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

活持(くハつち)(の)計畧(けいりやく)を用意(ようゐ)せら被(る)(べ)し。先(まづ)擧状(きよじやう)を代官(たいくハん)(に)(しん)ぜら被(れ)(バ)公所(くしよ)の出仕(しゆつし)諸亭(しよてい)の經廻圖師(けいくわいづし)を申(まふ)す可(べ)き也。奉行人(ぶきやうにん)の賄賂(わいろ)衆中(しゆちう)の屬託(そくたく)上衆(しやうしゆ)乃秘計(ひけい)口入(くちいり)頭人(とうにん)内奏(ないそう)贔屓(ひいき)機嫌(きげん)を窺(うかゝ)ひ之(これ)を申(まふ)す可(へ)し。讓状(ゆつりしやう)乃謀實(はうしつ)越境(ゑつきやう)の相論(さうろん)(いまだ)甲乙(かふをつ)の次第(しだい)を分(わか)た未(さる)譜代(ふたい)相傳(さうでん)(の)重書(ちうしよ)(とう)(ハ)引付方(ひきつけかた)に於(おいて)御沙汰(ごさた)に逢(あ)は被(る)(べ)し/シ∨セラ活持之計略先被セラ挙状代官-所出-諸亭之經廻キ∨圖師(―)ヲ奉行人-衆中属託--口入頭人内奏屓贔機嫌讓状謀實--タ/ズ∨タ‖甲子次第ヲ|。譜代相傳之重書等者引付方沙汰。▲讓状謀實ハ人の遺跡(ゆいせき)など譲(ゆつ)り与(あた)ゆるとき後日(こにち)他人(たにん)の乱妨(らんはう)なからしめんために書遺(かきつか)ハす。證文(しやうもん)也。悪人(あくにん)ハ是を謀(はかつ)て偽状(にせしやう)を作(つく)る謀判(はうはん)なとの類也。ケ樣(かよう)なる謀(たくらふ)もの歟(か)(まこと)のもの歟をいふ。〔46ウ六〜七〕

(べし)(る)(ようい)せら活持(くわつぢ)(の)計略(けいりやく)(まづ)(れ)(しん)ぜられ擧状(きよじやう)(を)代官(たいくわん)(バ)-(くしよ)の-(しゆつし)諸亭(しよてい)(の)(けいくわい)(べ)き∨(まう)図師(づし)を(なり)奉行人(ぶぎやうにん)-(わいろ)衆中(しゆちゆう)属託(ぞくたく)-(じやうしゆ)-(ひけい)口入(くちいれ)頭人(とうにん)内奏(ないさう)屓贔(ひいき)(うかが)機嫌(きげん)(べ)し(まう)(これ)讓状(ゆづりじやう)謀實(ばうじつ)-(ゑつきやう)-(さうろん)(いまだ/ず)(わか)た‖甲乙(かふをつ)次第(したい)を|。譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)重書(ぢうしよ)(とう)(ハ)(おい)て引付方(ひきつけかた)(べ)(る)(あ)沙汰(ごさた)讓状謀實ハ人の遺跡(ゆいせき)など譲(ゆづ)り与(あた)ふるとき後日(こにち)他人(たにん)の乱妨(らんはう)なからしめんために書遺(かきつか)ハす。證文(しようもん)也。悪人(あくにん)ハ是を謀(たはかつ)て偽状(にせしやう)を作(つく)る。謀判(ばうはん)などの類也。ケ樣(かやう)なる謀(たくミ)もの歟実(まこと)のもの歟をいふ。〔83オ六〜ウ一〕

とあって、標記語「讓状」の語を収載し、その語注記は、「讓状謀實は、人の遺跡など譲り与ふるとき後日他人の乱妨なからしめんために書遺はす。證文なり。悪人は、是れを謀つて偽状を作る」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yuzzurijo<.ユヅリジョウ(讓状) 遺言状.〔邦訳839l〕

とあって、標記語「譲状」の語の意味は「遺言状」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ゆずり-じょう〔名〕【讓状】(一)所領、財産などの讓渡の旨を記したる證文。又、己れが領地を、子弟、其他へ讓與したる旨を記したる證文。(年號を記す) ゆづりぶみ。運歩色葉集讓状太平記、三十五、青砥左衞門事「父義時朝臣の頓死して、讓状のなかりし時」〔2070-4〕

とあって、標記語を「讓状」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ゆずり-じょう讓状】〔名〕@平安以後、特定の土地・財産などに対する権利を特定の人に譲り渡す旨を書きしるした証文。書式は必ずしも一定しないが、讓渡の対象となる所領・所職、与える相手の名、日付、差出人の名と署判が必ず記入されていなければならない。讓証文。讓文。処分状。A遺言状」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
義景申云、先法師者、義景外孫也。縱雖請讓状、外祖存生、爭可競望乎是偏義實姦曲也。〈云云〉《訓み下し》義景申シテ云ク、先法師ハ、義景ガ外孫ナリ。縦ヒ譲状(ユヅリ―)ヲ請クト雖モ、外祖存生ナラバ、争カ競ヒ望ムベケンヤ。是レ偏ニ義実ガ姦曲ナリト〈云云〉。《『吾妻鏡文治四年八月二十三日の条》
 
 
2003年9月4日(木)朝方雨後晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
譏嫌機嫌(キゲン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「幾」部に、

機嫌(―ゲン) 。〔元亀二年本281九〕

機嫌(キゲン) 。〔静嘉堂本322一〕

とあって、標記語「機嫌」の語を収載し、訓みを「キゲン」とする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

奉行人賄賂衆中属託上衆秘計口入頭人内奏屓贔可申之〔至徳三年本〕

奉行人賄賂衆中屬託上衆秘計口入頭人内奏屓贔可申之〔宝徳三年本〕

奉行人賄賂衆中属託上衆秘計口入頭人内奏屓贔機嫌可申之〔建部傳内本〕

---(ワイロ)--託上--計口-入頭----〔山田俊雄藏本〕

奉行人賄賂衆中属託(ソクタク)上衆秘計(ヒケイ)口入頭人内奏(ナイソウ)屓贔(ヒイキ)機嫌(キケン)。〔経覺筆本〕

-行人-(ワイロ)--(ソクタク)--(ヒケイ)-入頭-(トウ―)-(―ソウ)-(ヒ井キ)(ウカヽ)イ(キケン)〔文明四年本〕※賄賂(ハイロ)。機嫌(キケン)。機(キ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

氣驗 キケン機嫌(キケン)/計形勢之儀也。〔黒川本・疉字門下52オ二〕

氣色 〃調。〃味。〃序。〃力。〃假。〃驗機嫌(キゲン) 。〔卷第八・疉字門527二〕

機抒(キヨ) 〃急。〃縁。〃根。〃感。〔卷第八・疉字門529二〕

とあって、標記語「氣驗」と「機嫌」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「機嫌」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

機嫌(キゲンハタモノ、キラウ)[平・平] 。〔態藝門818六〕

とあって、標記語「機嫌」の語を収載し、訓みを「キゲン」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

機嫌(キゲン) 。〔・言語進退門221四〕

機縁 ―轉(テン)―嫌(ゲン)。〔・言語門184九〕

機縁 ―轉。―嫌。〔・言語門174四〕

とあって、弘治二年本は、標記語「機嫌」の語を収載し、他二本については、標記語「機縁」の冠頭字「機」の熟語群として「機嫌」の語を収載する。また、易林本節用集』も、

機縁(キエン) ―嫌(ゲン)。―根(コン)。―轉(テン)。―愛(アイ)。〔言辞門189五〕

とあって、標記語「機縁」の冠頭字「機」の熟語群として「機嫌」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「機嫌」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

458屓贔窺機嫌之状謀實越-境違-乱未-分甲子(カウシ)ノ次第 甲子‖-買所帶等之時、差年記云也。私曰、庶子惣領云也。〔謙堂文庫蔵四四左D〕

とあって、標記語を「機嫌」とし、その語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

屓贔(ヒイキ)(ウカヾヒ)‖機嫌(キゲン)。贔屓(ヒイキ)ハ。力(チカラ)ヲソユル人ナリ。〔下20オ一・二〕

とあって、この標記語を「機嫌」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

機嫌(きげん)を窺(うかゝ)ひ之(これ)を申可。/ヒ‖機嫌 機嫌ハ様子といふかことし。仏教より出たり。言こゝろハ奉行人へ乃進物等ハ様子を見はからひ能時節にし申んとなり。〔62ウ七・八〕

とあって、この標記語「機嫌」の語を収載し、語注記は、「機嫌は、様子といふがごとし。仏教より出たり。言こゝろは、奉行人への進物等は様子を見はからひ能き時節にし申さんとなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

活持(くハつち)(の)計畧(けいりやく)を用意(ようゐ)せら被(る)(べ)し。先(まづ)擧状(きよじやう)を代官(たいくハん)(に)(しん)ぜら被(れ)(バ)公所(くしよ)の出仕(しゆつし)諸亭(しよてい)の經廻圖師(けいくわいづし)を申(まふ)す可(べ)き也。奉行人(ぶきやうにん)の賄賂(わいろ)衆中(しゆちう)の屬託(そくたく)上衆(しやうしゆ)乃秘計(ひけい)口入(くちいり)頭人(とうにん)内奏(ないそう)贔屓(ひいき)機嫌(きげん)を窺(うかゝ)ひ之(これ)を申(まふ)す可(へ)し。讓状(ゆつりしやう)乃謀實(はうしつ)越境(ゑつきやう)の相論(さうろん)(いまだ)甲乙(かふをつ)の次第(しだい)を分(わか)た未(さる)譜代(ふたい)相傳(さうでん)(の)重書(ちうしよ)(とう)(ハ)引付方(ひきつけかた)に於(おいて)御沙汰(ごさた)に逢(あ)は被(る)(べ)し/シ∨セラ活持之計略先被セラ挙状代官-所出-諸亭之經廻キ∨圖師(―)ヲ奉行人-衆中属託--口入頭人内奏屓贔機嫌謀實--タ/ズ∨タ‖甲子次第ヲ|。譜代相傳之重書等者引付方沙汰。▲機嫌ハ俗(ぞく)に様子(やうす)容躰(ようたい)といふ意の所に用ひ來れり。〔46ウ六〕

(べし)(る)(ようい)せら活持(くわつぢ)(の)計略(けいりやく)(まづ)(れ)(しん)ぜられ擧状(きよじやう)(を)代官(たいくわん)(バ)-(くしよ)の-(しゆつし)諸亭(しよてい)(の)(けいくわい)(べ)き∨(まう)図師(づし)を(なり)奉行人(ぶぎやうにん)-(わいろ)衆中(しゆちゆう)属託(ぞくたく)-(じやうしゆ)-(ひけい)口入(くちいれ)頭人(とうにん)内奏(ないさう)屓贔(ひいき)(うかが)機嫌(きげん)(べ)し(まう)(これ)讓状(ゆづりじやう)謀實(ばうじつ)-(ゑつきやう)-(さうろん)(いまだ/ず)(わか)た‖甲乙(かふをつ)次第(したい)を|。譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)重書(ぢうしよ)(とう)(ハ)(おい)て引付方(ひきつけかた)(べ)(る)(あ)沙汰(ごさた)機嫌ハ俗(ぞく)に様子(やうす)容躰(ようたい)といふ意の所に用ひ來れり。〔83オ六〜ウ一〕

とあって、標記語「機嫌」の語を収載し、その語注記は、「機嫌ハ俗(ぞく)に様子(やうす)容躰(ようたい)といふ意の所に用ひ來れり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qiguen.キゲン(機嫌) 顔つき.§Fitono qiguenuo toru.(人の機嫌を取る)人を満足させる,または,人を喜ばせるように努める.§Qiguenuo yo> suru.(機嫌を良うする)良い顔,明るい顔つきを見せる.§Qiguenuo socono<.(機嫌を損ふ)人を不快にする,または,不快な顔つきをさせる.→Tcucuroi,ro>〔邦訳495r〕

とあって、標記語「機嫌」の語の意味は「顔つき」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-げん〔名〕【機嫌】〔普通に、機嫌と書けど、譏嫌なり、人の氣受の意に轉じてより、機を見る意に移して、音通の字を用ゐるなるべし〕(一)人人、譏(そし)り嫌(きら)ふこと。譏嫌後漢書、馬巖傳「明コ皇后既立、嚴乃閉門自守、猶復慮譏嫌、遂徒北地、斷絶賓客佛教の戒律に、譏嫌戒と云ふあり、世の誹謗を受くるが如き事をせざらしむるなり。大乘起信論「當譏嫌上レ衆生妄起過罪楞嚴經「誹謗比丘、罵詈徒衆、計露人事、不譏嫌(二)人の譏嫌を窺ひ測る意に轉じて、人の、内心の思はく。人の、氣受け。意向長門本平家物語、十四「今一度、君を見まゐらせむと存候て、きげんを顧み候はず、推參仕て候」十訓抄、中、第六、序「腹立ちたる時、強(こは)く制すれば、いよいよ怒る、云云、然れば、譏嫌を憚りて、やはらかに諫むべし」〔0461-2〕

とあって、標記語を「機嫌」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-げん機嫌譏嫌】〔名〕@(機嫌)そしりきらうこと。世人の嫌悪すること。A事を行なうしおどき。Bその時々の様子や形勢。事情。C表情、言葉、態度にあらわれている、そ人の気分のよしあし。D(形動)気分のよいこと。心持の愉快なさま。ごきげん。[語誌](1)「譏嫌」が本来の用字と思われる。「随筆・安齋図筆-十六」に「言偏の譏の字を用いて譏嫌と書たるは<略>人に譏られ嫌らはるると云事なり。木偏の機字を用ひたるとは別の事なり」とあって、「譏嫌」と「機嫌」を別語としているが、疑問。@を考慮するところからAの意が生じ、Aを見はからうためにBの意が生じることになったと見られる。(2)Bの挙例「『色葉字類抄』で「気験」を当てるのは早くからCの意味のニュアンスが生じていたからと思われる。さらに転じて、Dの意になっている。[方言]@体の調子。A人に与える感じ。応対ぶり」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
金吾於蹴鞠者、不論機嫌之由、雖令申給、終以令抑留給〈云云〉《訓み下し》金吾蹴鞠ニ於テハ、機嫌(―ゲン)ヲ論ゼザルノ由、申サシメ給フト雖モ、終ニ以テ抑留セシメ給フト〈云云〉《『吾妻鏡建仁二年正月二十九日の条》※日国のAの意味用例。
幕府、又御精進折節也雖爲無慙之俗、盍存公私機嫌《訓み下し》幕府ハ、又御精進ノ折節ナリ。無慚ノ俗タリト雖モ、盍ゾ公私ノ機嫌(キゲン)ヲ存ゼザランヤ。《『吾妻鏡建長二年十一月十一日の条》譏嫌。
 
 
2003年9月3日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
内奏(ナイソウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「奈」部に、「内證(ナイせウ)。内訴(ソ)。内儀(ギ)。内談(ダン)。内者(シヤ)。内痔(チ)。内通(ツウ)。内徳(トク)。内外(ゲ)。内縁(エン)。内報(ホウ)。内検(ケン)。内評(ビヤウ)。内戚(シヤク)父方。内勘(カン)。内心(シン)。内典(テン)。内々。内記(ギ)唐名内吏(シ)/柱下。内藤(トウ)。内熱(ネツ)。内状(ジヤウ)。内方(ハウ)。内損(ソン)。内客(カク)。内院(イン)」の二十七語を収載するが、標記語「内奏」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

奉行人賄賂衆中属託上衆秘計口入頭人内奏屓贔嫌可申之〔至徳三年本〕

奉行人賄賂衆中屬託上衆秘計口入頭人内奏屓贔嫌可申之〔宝徳三年本〕

奉行人賄賂衆中属託上衆秘計口入頭人内奏屓贔機嫌可申之〔建部傳内本〕

---(ワイロ)--託上--計口-入頭----〔山田俊雄藏本〕

奉行人賄賂衆中属託(ソクタク)上衆秘計(ヒケイ)口入頭人内奏(ナイソウ)屓贔(ヒイキ)機嫌(キケン)。〔経覺筆本〕

-行人-(ワイロ)--(ソクタク)--(ヒケイ)-入頭-(トウ―)-(―ソウ)-(ヒ井キ)(ウカヽ)イ(キケン)〔文明四年本〕※賄賂(ハイロ)。機嫌(キケン)。機(キ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』に、

内奏 帝王部/ナイソウ/政理分。〔黒川本・疉字門中37オ八〕

とあって、標記語「内奏」の語を収載する。十巻本伊呂波字類抄』は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「内奏」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

内奏(ナイソウダイ・ウチ、スゝム)[去・去] 。〔態藝門438六〕

とあって、標記語「内奏」の語を収載し、訓みを「ナイソウ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

内奏(―ソウ)。〔・言語進退門141三〕

内通(ナイツウ) ―状(ジヤウ)。―儀(ギ)。―談(ダン)。―外(ケ)。―評(ヒヤウ)―奏(ソウ)。―訴(ソ)。―戚(セキ)。〔・言語門111七〕

内通(ナイツウ) ―状。―談。―外。―儀。/―評。―奏。―訴。―戚。〔・言語門102四〕

内通(ナイツウ) ―状。―儀。―談。―外。/―評。―奏。―訴。―戚。〔・言語門125一〕

とあって、弘治二年本は、標記語「内奏」の語を収載し、他三本も標記語「内通」の冠頭字「内」の熟語群として「内奏」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

内外(ナイゲ) ―證(シヤウ)。―談(ダン)。―檢(ケン)。―通(ツウ)。―縁(エン)。―戚(シヤク)/―者(シヤ)。―心(シン)。―義(ギ)。―典(テン)。―訴(ソ)。〔言辞門111一〕

とあって、標記語「内奏」の語は未収載にする。

 このように、上記当代(室町時代)の古辞書においては、広本節用集』と印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』に「内奏」の語が収載されている。ここで、『運歩色葉集』が何故此語を未収載にしたのか問わねばなるまい。そして、継承原典である古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

457内奏 取奏亊也。〔謙堂文庫蔵四四左D〕

内奏ハ隠密トリテ亊奏スル也。〔天理図書館藏『庭訓徃來註』頭注書込み〕

※―ハ隠密ニ神ヲ取ニセヌ。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』古冩書込み〕

とあって、標記語を「内奏」とし、その語注記は、「縁を取り、亊を奏すなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

内奏(ナイソウ)ノハ。内ニテ事ヲ尽ス人ナリ。〔下20オ一〕

とあって、この標記語を「内奏」とし、語注記は「内にて事を尽す人なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

頭人(とうにん)内奏(ないそう)乃贔屓(ひゐき)頭人内奏屓贔 頭人ハ所役を宰(つかさとつ)て事を上下(かミしも)に返して物の支配(しはい)をする役人也。内奏ハうち/\にて事を申上る人也。贔屓ハ力をそへる事也。頭人内奏へ力を添(そへ)て玉ハれとたのむ事をいふなり。〔62ウ五〕

とあって、この標記語「内奏」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

活持(くハつち)(の)計畧(けいりやく)を用意(ようゐ)せら被(る)(べ)し。先(まづ)擧状(きよじやう)を代官(たいくハん)(に)(しん)ぜら被(れ)(バ)公所(くしよ)の出仕(しゆつし)諸亭(しよてい)の經廻圖師(けいくわいづし)を申(まふ)す可(べ)き也。奉行人(ぶきやうにん)の賄賂(わいろ)衆中(しゆちう)の屬託(そくたく)上衆(しやうしゆ)乃秘計(ひけい)口入(くちいり)頭人(とうにん)内奏(ないそう)贔屓(ひいき)譏嫌(きげん)を窺(うかゝ)ひ之(これ)を申(まふ)す可(へ)し。讓状(ゆつりしやう)乃謀實(はうしつ)越境(ゑつきやう)の相論(さうろん)(いまだ)甲乙(かふをつ)の次第(しだい)を分(わか)た未(さる)譜代(ふたい)相傳(さうでん)(の)重書(ちうしよ)(とう)(ハ)引付方(ひきつけかた)に於(おいて)御沙汰(ごさた)に逢(あ)は被(る)(べ)し/シ∨セラ活持之計略先被セラ挙状代官-所出-諸亭之經廻キ∨圖師(―)ヲ奉行人-衆中属託--口入頭人内奏屓贔機嫌謀實--タ/ズ∨タ‖甲子次第ヲ|。譜代相傳之重書等者引付方沙汰。▲内奏ハ内縁(ないえん)を取て事を奏(そう)する也。〔46ウ五・六〕

(べし)(る)(ようい)せら活持(くわつぢ)(の)計略(けいりやく)(まづ)(れ)(しん)ぜられ擧状(きよじやう)(を)代官(たいくわん)(バ)-(くしよ)の-(しゆつし)諸亭(しよてい)(の)(けいくわい)(べ)き∨(まう)図師(づし)を(なり)奉行人(ぶぎやうにん)-(わいろ)衆中(しゆちゆう)属託(ぞくたく)-(じやうしゆ)-(ひけい)口入(くちいれ)頭人(とうにん)内奏(ないさう)屓贔(ひいき)(うかが)機嫌(きげん)(べ)し(まう)(これ)讓状(ゆづりじやう)謀實(ばうじつ)-(ゑつきやう)-(さうろん)(いまだ/ず)(わか)た‖甲乙(かふをつ)次第(したい)を|。譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)重書(ぢうしよ)(とう)(ハ)(おい)て引付方(ひきつけかた)(べ)(る)(あ)沙汰(ごさた)内奏ハ内縁(ないえん)を取て事を奏(そう)する也。〔83オ六〕

とあって、標記語「内奏」の語を収載し、その語注記は、「内奏は、内縁を取て事を奏するなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Naiso>.ナイソウ(内奏) 貴人に何事かを内密に知らせること,または,提案すること.〔邦訳444l〕

とあって、標記語「内奏」の語の意味は「貴人に何事かを内密に知らせること,または,提案すること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ない-そう〔名〕【内奏】(一)内内に奏聞すること。又、内密の奏請。源平盛衰記、四十一、頼盛關東下向事「大納言殿に可成返之由、被内奏ける上、本の知行、庄園は一所も無相違、其外、所領八箇所の下文等、書副へて奉る」(二)後宮より主上に奏聞して、事を取計らふこと。又、奥向に取入りて、奏聞すること。〔1442-2〕

とあって、標記語を「内奏」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ない-そう内奏】〔名〕@内々に天皇に奏請すること。内密に奏上して願うこと。A中世、特に南北朝時代、所領をめぐる訴訟などで、天皇の近臣あるいは女性を通じて訴え、有利な裁許を得ようとすること。B室町時代の訴訟手続きの一つ遅延したり、受理されなかったりする訴えにつき、提訴すること。前代の内訴・奏事に相当する」とあって、『庭訓往来』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
以武威、恣令内奏或申下院宣或掠取國司領家等下文、貪地利、欠公平〈云云〉。《訓み下し》武威ヲ以テ、恣ニ内奏セシメ、或イハ院宣ヲ申シ下シ、或イハ国司領家等ノ下文ヲ掠メ取リ、地利ヲ貪リ、公平ヲ欠クト〈云云〉。《『吾妻鏡元暦二年五月十九日の条》
 
 
2003年9月2日(火)曇り後晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
頭人(トウニン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「登」部に、

頭人(ツウニン) 。〔元亀二年本54二〕

頭人(トウニン) 。〔静嘉堂本60二〕〔天正十七年本上31オ三〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「頭人」の語を収載し、訓みは「ツウニン」と「トウニン」の両用があって、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

奉行人賄賂衆中属託上衆秘計口入頭人内奏屓贔嫌可申之〔至徳三年本〕

奉行人賄賂衆中屬託上衆秘計口入頭人内奏屓贔嫌可申之〔宝徳三年本〕

奉行人賄賂衆中属託上衆秘計口入頭人内奏屓贔機嫌可申之〔建部傳内本〕

---(ワイロ)--託上--計口-----〔山田俊雄藏本〕

奉行人賄賂衆中属託(ソクタク)上衆秘計(ヒケイ)口入頭人内奏(ナイソウ)屓贔(ヒイキ)機嫌(キケン)。〔経覺筆本〕

-行人-(ワイロ)--(ソクタク)--(ヒケイ)--(トウ―)-(―ソウ)-(ヒ井キ)(ウカヽ)イ(キケン)〔文明四年本〕※賄賂(ハイロ)。機嫌(キケン)。機(キ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「頭人」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「頭人」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

頭人(トウニンカシラ・カウヘ、ジン・ヒト)[平・平] 。〔人倫門128二〕

とあって、標記語「頭人」の語を収載し、訓みを「トウニン」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

頭人(トウニン) 奉行――。〔・人倫門42三〕〔・人倫門43二〕〔・人倫門39七〕

頭人(トウニン) 奉行。〔・人倫門39七〕

頭人(トウニン) 。〔・言語進退門46五〕〔・言語門45八〕

奉行(ブギヤウ) 頭人(トウニン)。〔・人倫門147六〕

頭役(トウヤク) ―人。〔・言語門42四〕〔・言語門50五〕

とあって、標記語「頭人」として収載し、語注記に「奉行頭人」と記載する。また、易林本節用集』には、

頭人(タウニン) 奉行。〔人倫門41二〕

とあって、標記語「頭人」の語を収載し、語注記には「奉行」と記載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「頭人」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

456口入頭人(トウニン) 沙汰之頭取人也。〔謙堂文庫蔵四四左D〕

とあって、標記語を「頭人」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

衆中属託(ゾクタク)上衆秘計(ケイ)_頭人(トウニン)衆中ノ属託(ソクタク)雜賞(サツシヤウ)也。〔下19ウ八〕

とあって、この標記語を「頭人」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

頭人(とうにん)内奏(ないそう)乃贔屓(ひゐき)頭人内奏屓贔 頭人ハ所役を宰(つかさとつ)て事を上下(かミしも)に返して物の支配(しはい)をする役人也。内奏ハうち/\にて事を申上る人也。贔屓ハ力をそへる事也。頭人内奏へ力を添(そへ)て玉ハれとたのむ事をいふなり。〔62ウ五〕

とあって、この標記語「頭人」の語を収載し、語注記は「頭人は、所役を宰つて事を上下に返して物の支配をする役人なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

活持(くハつち)(の)計畧(けいりやく)を用意(ようゐ)せら被(る)(べ)し。先(まづ)擧状(きよじやう)を代官(たいくハん)(に)(しん)ぜら被(れ)(バ)公所(くしよ)の出仕(しゆつし)諸亭(しよてい)の經廻圖師(けいくわいづし)を申(まふ)す可(べ)き也。奉行人(ぶきやうにん)の賄賂(わいろ)衆中(しゆちう)の屬託(そくたく)上衆(しやうしゆ)乃秘計(ひけい)口入(くちいり)頭人(とうにん)内奏(ないそう)贔屓(ひいき)譏嫌(きげん)を窺(うかゝ)ひ之(これ)を申(まふ)す可(へ)し。讓状(ゆつりしやう)乃謀實(はうしつ)越境(ゑつきやう)の相論(さうろん)(いまだ)甲乙(かふをつ)の次第(しだい)を分(わか)た未(さる)譜代(ふたい)相傳(さうでん)(の)重書(ちうしよ)(とう)(ハ)引付方(ひきつけかた)に於(おいて)御沙汰(ごさた)に逢(あ)は被(る)(べ)し/シ∨セラ活持之計略先被セラ挙状代官-所出-諸亭之經廻キ∨圖師(―)ヲ奉行人-衆中属託--口入頭人内奏屓贔機嫌謀實--タ/ズ∨タ‖甲子次第ヲ|。譜代相傳之重書等者引付方沙汰。▲頭人ハ或(ある)(せつ)に沙汰の頭(かしら)をとる人今の物頭(ものかしら)也といへり。〔46ウ五〕

(べし)(る)(ようい)せら活持(くわつぢ)(の)計略(けいりやく)(まづ)(れ)(しん)ぜられ擧状(きよじやう)(を)代官(たいくわん)(バ)-(くしよ)の-(しゆつし)諸亭(しよてい)(の)(けいくわい)(べ)き∨(まう)図師(づし)を(なり)奉行人(ぶぎやうにん)-(わいろ)衆中(しゆちゆう)属託(ぞくたく)-(じやうしゆ)-(ひけい)口入(くちいれ)頭人(とうにん)内奏(ないさう)屓贔(ひいき)(うかが)機嫌(きげん)(べ)し(まう)(これ)讓状(ゆづりじやう)謀實(ばうじつ)-(ゑつきやう)-(さうろん)(いまだ/ず)(わか)た‖甲乙(かふをつ)次第(したい)を|。譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)重書(ぢうしよ)(とう)(ハ)(おい)て引付方(ひきつけかた)(べ)(る)(あ)沙汰(ごさた)頭人ハ或(ある)(せつ)に沙汰の頭(かしら)をとる人今の物頭(ものかしら)也といへり。〔83オ五・六〕

とあって、標記語「頭人」の語を収載し、その語注記は、「頭人は、或説に沙汰の頭をとる人、今の物頭なりといへり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

To>nin.トゥニン(頭人) 良い集団であれ、悪い集団であれ,とにかくある集団の頭目で長たる人.〔邦訳661l〕

とあって、標記語「頭人」の語の意味は「良い集団であれ、悪い集団であれ,とにかくある集団の頭目で長たる人」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

とう-にん〔名〕【頭人】(一)かしらだつ人。をさ。頭目首班者首領。(二)鎌倉時代、引付衆などの頭首。吾妻鏡、四十、建長二年四月二日「引付事、巳尅以前可始行一レ之、云頭人奉行人、莫遲參(三)室町時代、政所、評定所、侍所などの長官。相京職鈔、一「執事、一人、政所之長官也、故に頭人と稱す」康冨記、嘉吉二年八月廿八日「御評定始日、與頭人波多野出雲守、座席令相論也、爲評定衆上者、任位階上首、可頭人出頭上之由、肥前申之」花營三代記、貞治七年四月十日「侍所沙汰始、頭人(今川中書)宿所」(四)轉じて、足利氏の一族にて、評定衆たるものの稱。〔1388-4〕

とあって、標記語を「頭人」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「とう-にん頭人】〔名〕@集団の長として、集団を代表し、統率する人。首領。頭(かしら)。とうじん。A鎌倉・室町幕府の引付の部局長。引付頭人、頭人奉行。B室町幕府の政所・評定所・侍所などの長官。C大名の家中の常備軍である各隊の長。番頭(ばんがしら)。物頭(ものがしら)。組頭。D歌会・詩会・茶会などの会合で、頭役をつとめる人。世話役。主人。E祭礼で、頭役をつとめる人。また、祭礼の世話役。頭屋の主人。[方言]@きつね使い。また、その類の祈祷師(きとうし)。A嫡子」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
其人若不致一倍之辨〈天〉猶以令難澁者、頭人慥可令申事由也。《訓み下し》其ノ人若シ、一倍ノ弁ヲ致サズシテ、猶以テ難渋セシメバ、頭人(トウ―)慥ニ事ノ由ヲ申サシムベキナリ。《『吾妻鏡延応元年五月二十六日の条》
 
 
2003年9月1日(月)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
口入(くちいれ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、

口入(―イレ) 。〔元亀二年本190五〕〔天正十七年本中36オ五〕

口入(―ニウ) 。〔静嘉堂本214六〕

とあって、標記語「口入」の語を収載する。訓みについては、元亀二年本と天正十七年本が「(くち)いれ」とし、静嘉堂本だけが「(く)ニウ」とする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

奉行人賄賂衆中属託上衆秘計口入頭人内奏屓贔嫌可申之〔至徳三年本〕

奉行人賄賂衆中屬託上衆秘計口入頭人内奏屓贔嫌可申之〔宝徳三年本〕

奉行人賄賂衆中属託上衆秘計口入頭人内奏屓贔機嫌可申之〔建部傳内本〕

---(ワイロ)--託上-------〔山田俊雄藏本〕

奉行人賄賂衆中属託(ソクタク)上衆秘計(ヒケイ)口入頭人内奏(ナイソウ)屓贔(ヒイキ)機嫌(キケン)。〔経覺筆本〕

-行人-(ワイロ)--(ソクタク)--(ヒケイ)--(トウ―)-(―ソウ)-(ヒ井キ)(ウカヽ)イ(キケン)〔文明四年本〕※賄賂(ハイロ)。機嫌(キケン)。機(キ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「口入」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「口入」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書にあっては、唯一『運歩色葉集』に「口入」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。そして訓みは、「くちいれ」と「くニウ」とが併用されていたのであるまいか。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

456口入頭人(トウニン) 沙汰之頭取人也。〔謙堂文庫蔵四四左D〕

とあって、標記語を「口入」とし、その語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

衆中属託(ゾクタク)上衆秘計(ケイ)_頭人(トウニン)衆中ノ属託(ソクタク)雜賞(サツシヤウ)也。〔下19ウ八〕

とあって、この標記語を「口入」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

上衆(じやうしゆ)秘計(ひけい)口入(くちいれ)上衆秘計口入 秘計ハ内々にて事をはかる人なり。〔62ウ三〕

とあって、この標記語「口入」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

活持(くハつち)(の)計畧(けいりやく)を用意(ようゐ)せら被(る)(べ)し。先(まづ)擧状(きよじやう)を代官(たいくハん)(に)(しん)ぜら被(れ)(バ)公所(くしよ)の出仕(しゆつし)諸亭(しよてい)の經廻圖師(けいくわいづし)を申(まふ)す可(べ)き也。奉行人(ぶきやうにん)の賄賂(わいろ)衆中(しゆちう)の屬託(そくたく)上衆(しやうしゆ)乃秘計(ひけい)口入(くちいり)頭人(とうにん)内奏(ないそう)贔屓(ひいき)譏嫌(きげん)を窺(うかゝ)ひ之(これ)を申(まふ)す可(へ)し。讓状(ゆつりしやう)乃謀實(はうしつ)越境(ゑつきやう)の相論(さうろん)(いまだ)甲乙(かふをつ)の次第(しだい)を分(わか)た未(さる)譜代(ふたい)相傳(さうでん)(の)重書(ちうしよ)(とう)(ハ)引付方(ひきつけかた)に於(おいて)御沙汰(ごさた)に逢(あ)は被(る)(べ)し/シ∨セラ活持之計略先被セラ挙状代官-所出-諸亭之經廻キ∨圖師(―)ヲ奉行人-衆中属託--口入頭人内奏屓贔機嫌謀實--タ/ズ∨タ‖甲子次第ヲ|。譜代相傳之重書等者引付方沙汰。▲口入ハ物事いひ入れする人。取次(とりつき)の類也。〔46ウ五〕

(べし)(る)(ようい)せら活持(くわつぢ)(の)計略(けいりやく)(まづ)(れ)(しん)ぜられ擧状(きよじやう)(を)代官(たいくわん)(バ)-(くしよ)の-(しゆつし)諸亭(しよてい)(の)(けいくわい)(べ)き∨(まう)図師(づし)を(なり)奉行人(ぶぎやうにん)-(わいろ)衆中(しゆちゆう)属託(ぞくたく)-(じやうしゆ)-(ひけい)口入(くちいれ)頭人(とうにん)内奏(ないさう)屓贔(ひいき)(うかが)機嫌(きげん)(べ)し(まう)(これ)讓状(ゆづりじやう)謀實(ばうじつ)-(ゑつきやう)-(さうろん)(いまだ/ず)(わか)た‖甲乙(かふをつ)次第(したい)を|。譜代(ふだい)相傳(さうでん)(の)重書(ぢうしよ)(とう)(ハ)(おい)て引付方(ひきつけかた)(べ)(る)(あ)沙汰(ごさた)口入ハ物事いひ入れする人。取次(とりつき)の類(るゐ)也。〔83オ五〕

とあって、標記語「口入」の語を収載し、その語注記は、「口入は、物事いひ入れする人。取次の類なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Co>ju.コウジュ(口入) Cuchi ire.(口入れ) 仲介すること,または,人のために口をきいてやること.〔邦訳144l〕

とあって、標記語「口入」の語の訓みを「コウジュ」とし、その意味は「仲介すること,または,人のために口をきいてやること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

くち-いれ〔名〕【口入】(一)くちいるること。くちだし。(二)此方(こなた)の用事を、彼方(かな―)へ言ひ入るること。言傳(ことづて)の仲立すること。ひきあはせ。口入(くにふ)紹介。(三)奉公人の奉公口を、世話すること。又、それを營業とする人。ケイアン。雇人口入宿。心中重井筒(寳永、近松作)上、「堀江の口入れ、治右衞門といふ者ぢゃ」〔0529-3〕

とあって、標記語を「口入」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「くち-いれ口入】〔名〕@横合いから言葉をさしはさんだり、世話をやいたりすること。干渉すること。口出し。くにゅう。A対立する人たちの間に入って、関係をとりもつこと。B江戸時代、金銭の斡旋をすること。また、それを業とする人。金貸し。くにゅう。C奉公口、縁談などを周旋すること。また、それを業とする人。桂庵(けいあん)。[方言]横合いから言葉をさしはさんだり、世話をやいたりすること。干渉すること。口出し」とあって、『庭訓往来』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而適列御門葉奉一方追討使、可爲本懐之處、實平乍相具此手、稱蒙各別仰、於事不加所談、剰云西海雑務、云軍士手分、不交兼信口入、獨可相計之由、頻結搆。《訓み下し》而ルニ適御門葉ニ列シ一方ノ追討使ヲ奉ハリ、本懐タルベキノ処ニ、実平此ノ手ニ相ヒ具シナガラ、各別ノ仰セヲ蒙ルト称ジ、事ニ於テ所談ヲ加ヘズ、剰ヘ西海ノ雑務ト云ヒ、軍士ノ手分ト云ヒ、兼信ガ口入ヲ交ヘズ、独相ヒ計ルベキノ由、頻ニ結構ス。《『吾妻鏡』寿永三年三月十七日の条》
 
 
 
 
 

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