2003年10月01日から10月31日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

2003年10月31日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
兩賊(リヤウゾク)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「利」部に、「両舌(リヤウセツ)。両班(ハン)。両方(バウ)。両買(ガイ)錦。両舌(ゼツ)。両様(ヤウ)。両流(リウ)」の7語を収載し、標記語「兩賊」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

侍所者謀叛殺害山海兩賊強竊二-盗放火〔至徳三年本〕

侍所者謀叛殺害山海兩賊強竊二-盗放火〔宝徳三年本〕

侍所者謀叛殺害山海兩賊強竊二-盗放火〔建部傳内本〕

(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)〔山田俊雄藏本〕

(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)〔経覺筆本〕

(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「兩賊」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「兩賊」の語を未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書には、「兩賊」の語が収載されず、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語である。
 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

472山海(―ンカイ)ノ---盗放-- 兵刃棒等以成疵也。〔謙堂文庫藏四六右C〕

とあって、標記語「兩賊」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

與奪(ヨダツ)ヲ當参者成書下下國之時者下奉書(ホウ―)ヲ-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)與奪ト云事罪過(ザイクハ)ニ処(シヨ)せラレテ。後ヒイキ人アリ。本ノ如ク御免(ユル)シヲ蒙(カウム)ルヲ與奪ト云也。又我処ヘ差(サシ)テ來ル財産(サイサン)ヲ近付人分(ツカハ)スヲ云フナリ。人ノ家ニツクル者ナリ。〔下21ウ三〜八〕

とあって、この標記語「兩賊」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

山海(さんかい)両賊(りやうぞく)強竊(かうせつ)の二盗(にとう)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-山賊海賊強盗窃盗の注前に見へたり。〔66ウ三〜四〕

とあって、この標記語「兩賊」の語を収載し、語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

侍所(さむらひどころ)(ハ)謀叛(むほん)殺害(せつがい)山海(さんかい)の両賊(りやうぞく)強竊(かうせつ)の二盗(にとう)放火(はうくハ)(サフラヒ)者謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)▲山海兩賊強竊二盗ハ六月の進状に見ゆ〔49オ八〕

侍所(さむらひところ)(ハ)謀叛(むほん)殺害(せつかい)山海(さんかい)兩賊(りやうぞく)-(がうせつ)二盗(にとう)放火(はうくわ)。▲山海兩賊強竊二盗ハ六月の進状に見ゆ〔88オ六〜ウ一〕

とあって、標記語「兩賊」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「兩賊」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』にも、標記語「兩賊」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版においても、標記語「りょう-ぞく両賊】〔名〕」は未収載とする。このことから『庭訓徃來』のこの語用例は本邦国語辞書全体を通して未記載となっていることが伺えよう。
[ことばの実際]
婦人を追(おい)とめんと二人ぞくハはしり行(ゆく)あとにでつちハ車の内の衣(い)ふくをつかつかと小わきにかい込ミ飛(とぶ)が如くニ家(いへ)ニ皈(かへ)り主(しゆう)のつつがなきをよろこび兩賊(ぞく)の云し事をいへバかのほろうを見(み)るにはたして二十円の金札あり夜(よ)の明(あけ)るをまちて訴(うつた)へけれバでつちの計(はから)ひ神妙なりとて賊金ハでつちに賜(たま)わりける《『諸國日々新聞集』二百七十八号・小野秀雄コレクション
 
 
2003年10月30日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
山海(サンカイ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、「山王(サンワウ)。山門(モン)。山号(カウ)。山上(シヤウ)。山下(カ)。山城(シロ)。山徒(ト)。山賊(ゾク)異名白波(ナミ)。山椒(セウ)。山庄(サウ)」の語を収載し、標記語「山海」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

侍所者謀叛殺害山海兩賊強竊二-盗放火〔至徳三年本〕

侍所者謀叛殺害山海兩賊強竊二-盗放火〔宝徳三年本〕

侍所者謀叛殺害山海兩賊強竊二-盗放火〔建部傳内本〕

(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)〔山田俊雄藏本〕

(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)〔経覺筆本〕

(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「山海」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「山海」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「山海」の語は未収載であり、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

472山海(―ンカイ)-賊強--盗放-- 兵刃棒等以成疵也。〔謙堂文庫藏四六右C〕

とあって、標記語「山海」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

與奪(ヨダツ)ヲ當参者成書下下國之時者下奉書(ホウ―)ヲ-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)與奪ト云事罪過(ザイクハ)ニ処(シヨ)せラレテ。後ヒイキ人アリ。本ノ如ク御免(ユル)シヲ蒙(カウム)ルヲ與奪ト云也。又我処ヘ差(サシ)テ來ル財産(サイサン)ヲ近付人分(ツカハ)スヲ云フナリ。人ノ家ニツクル者ナリ。〔下21ウ三〜八〕

とあって、この標記語「山海」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

山海(さんかい)の両賊(りやうぞく)強竊(かうせつ)の二盗(にとう)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-山賊海賊強盗窃盗の注前に見へたり。〔66ウ三〜四〕

とあって、この標記語「山海」の語を収載し、語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

侍所(さむらひどころ)(ハ)謀叛(むほん)殺害(せつがい)山海(さんかい)の両賊(りやうぞく)強竊(かうせつ)の二盗(にとう)放火(はうくハ)(サフラヒ)者謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)山海兩賊強竊二盗ハ六月の進状に見ゆ〔49オ八〕

侍所(さむらひところ)(ハ)謀叛(むほん)殺害(せつかい)山海(さんかい)兩賊(りやうぞく)-(がうせつ)二盗(にとう)放火(はうくわ)。▲山海兩賊強竊二盗ハ六月の進状に見ゆ〔88オ六〜ウ一〕

とあって、標記語「山海」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Sancai.サンカイ(山海) Yama,vmi.(山,海) 山と海と.例,Sancaino chinbut,cocudono quaxi.(山海の珍物,国土の菓子)海や陸地の結構な食物と,諸国の果物と.〔邦訳553r〕

とあって、標記語「山海」の語の意味は「山と海と」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さん-かい〔名〕【山海】やまと、うみと。うみやま。海陸。史記、平準書「通輕重之權山海之業犬子集(寛永)「山海の、珍物なれや、紅葉鮒」「山海の利」〔0830-5〕

とあって、標記語「山海」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さん-かい山海】〔名〕@やまとうみ。また、海陸。A「さんかい(山海)の珍」の略」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
所謂金百兩、鷲羽百尻、七間々中徑水豹皮、六十余枚、安達絹千疋、希婦細布二千端糠部駿馬五十疋、白布三千端、信夫毛地摺千端等也此外副山海珎物也《書き下し》所謂*(*円)金百両、鷲ノ羽百尻、七間間中径リノ水豹ノ皮、六十余枚、安達絹千疋、希婦ノ細布二千端、糠部ノ駿馬五十疋、白布三千端、信夫毛地摺千端等ナリ。此ノ外山海ノ珍物ヲ副フルナリ。《『吾妻鏡』文治五年九月十七日の条》
 
 
2003年10月29日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
殺害(セツガイ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「勢」部に、

× 。〔元亀二年本は欠落〕

殺害(セツガイ) 。〔静嘉堂本425八〕

とあって、標記語「殺害」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

侍所者謀叛殺害山海兩賊強竊二-盗放火〔至徳三年本〕

侍所者謀叛殺害山海兩賊強竊二-盗放火〔宝徳三年本〕

侍所者謀叛殺害山海兩賊強竊二-盗放火〔建部傳内本〕

(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)〔山田俊雄藏本〕

(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)〔経覺筆本〕

(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

同/セツカイ。〔黒川本・疉字門下105ウ五〕

〃生。〔卷十・疉字門463四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「殺害」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

殺害(せツガイコロス・ソコナウ)[入・去] 。〔態藝門1095二〕

とあって、標記語「殺害」の語を収載し、訓みを「セツガイ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

殺害(―ガイ) 。〔・言語進退門266一〕

殺生(セツシヤウ) ―害(ガイ)。―入(ジユ)。〔・言語門226五〕

殺生(セツシヤウ) ―害。―入。〔・言語門213二〕

とあって、標記語「殺害」との語を収載する。また、易林本節用集』には、

殺生(セツシヤウ) ―害(ガイ)。〔言語門236六〕

とあって、標記語「殺害」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「殺害」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

471殺害 有也。〔謙堂文庫藏四六右B〕

とあって、標記語「殺害」の語を収載し、語注記は、「直に殺すを有なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

與奪(ヨダツ)ヲ當参者成書下下國之時者下奉書(ホウ―)ヲ-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)與奪ト云事罪過(ザイクハ)ニ処(シヨ)せラレテ。後ヒイキ人アリ。本ノ如ク御免(ユル)シヲ蒙(カウム)ルヲ與奪ト云也。又我処ヘ差(サシ)テ來ル財産(サイサン)ヲ近付人分(ツカハ)スヲ云フナリ。人ノ家ニツクル者ナリ。〔下21ウ三〜八〕

とあって、この標記語「殺害」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

侍所(さむらひところ)ハ謀叛(むほん)殺害(せつがい)侍所者謀叛殺害山賊海賊強盗窃盗の注前に見へたり。〔66ウ二〜三〕

とあって、この標記語「殺害」の語を収載し、語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

侍所(さむらひどころ)(ハ)謀叛(むほん)殺害(せつがい)山海(さんかい)の両賊(りやうぞく)強竊(かうせつ)の二盗(にとう)放火(はうくハ)(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)殺害ハ人を殺(ころ)す者。〔48ウ四〕

侍所(さむらひところ)(ハ)謀叛(むほん)殺害(せつかい)山海(さんかい)兩賊(りやうぞく)-(がうせつ)二盗(にとう)放火(はうくわ)。▲殺害ハ人を殺(ころ)す者(もの)〔86ウ六〜87オ一〕

とあって、標記語「殺害」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xetgai.セツガイ(殺害) Coroxi,su.(殺し,す)殺すこと,すなわち殺戮.〔邦訳756lr〕

とあって、標記語「殺害」の語の意味は「殺すこと,すなわち殺戮」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

せつ-がい〔名〕【殺害】又、せちがい。ころし、害(そこな)ふこと。あやむること。(人に云ふ)後漢書、西域傳「疏勒王連相殺害謡曲、籠太鼓「荒けなき人心、情なしとは思へども、殺害の科を免れえぬ、報いの程ぞ無慙なる」〔1109-4〕

とあって、標記語「殺害」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「せつ-がい殺害】〔名〕(「せつ」は「殺」の呉音)人を殺すこと。さつがい。せちがい」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
去年冬、於河内國、爲平家所被殺害源氏、前武藏權守義基之首、今日渡大路懸獄門之樹《書き下し》去年ノ冬、河内ノ国ニ於テ、平家ノ為ニ殺害(セツガイ)セラルル所ノ源氏、前ノ武蔵ノ権ノ守義基ノ首、今日大路ヲ渡シ、獄門ノ樹ニ懸ク。《『吾妻鏡治承五年二月九日の条》
 
 
2003年10月28日(火)雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
探題(タンダイ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

探題(タンダイ) 。〔元亀二年本140九〕

探題(タンダイ) 。〔静嘉堂本150五〕

探題(タンダイ) 。〔天正十七年本中7オ三〕

とあって、標記語「探題」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

無音之時下使召文調訴陳状相對當所執事年管領奉-行人等可致問答披露沙汰探題之異見所加下知〔至徳三年本〕

無音之時下使召文調訴陳状相對當所執事年之管領奉-行人等致問答披露沙汰探題之異見所加下知〔宝徳三年本〕

無音之時使召文調訴陳状相對當所執事管領奉-行人等致問答披露沙汰探題之異見所加下知〔建部傳内本〕

(シカル)ニ-之時使-召文調--‖-シテ--(シツ―)-領奉--人等--沙汰探題(タンダイ)之異--〔山田俊雄藏本〕

无音之時下使召文調(シラ)ベ訴陳‖-當所執亊年々管領奉行人等問答沙汰探題(タンダイ)之異見下知〔経覺筆本〕

-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「探題」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

探題(タンタイ) 。〔態藝門84六〕

とあって、標記語「探題」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

探題(タンダイサグル、―) 。〔態藝門356八〕

とあって、標記語「探題」の語を収載し、訓みを「タンダイ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

探題(タンダイ) 。〔・言語進退門112六〕〔・言語門95五〕〔・言語門87二〕

探題(タンタイ) 。〔・言語門105七〕

とあって、標記語「探題」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

探題(タンダイ) 。〔言語門95四〕

とあって、標記語「探題」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「探題」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

470无-音之時-者下(クー)シ使_調訴陳‖-當所執亊(シツシ)ニ-領奉---問答披露沙汰探題(タンタイ)之異見下知侍所者謀叛 法意ニハ八扈内第三謀叛|。亦第一謀叛|、ルヲ∨ント国家|。必乱其国|、又背国云謀。背邑云叛。々音薄半反、離也。去也。又府遠反、覆也。不順也。漢音也。而呉音|、僻亊也。呉音叛讀。今不力也。〔謙堂文庫蔵四五左G〕

とあって、標記語「探題」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

與奪(ヨダツ)ヲ當参者成書下下國之時者下奉書(ホウ―)ヲ-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)與奪ト云事罪過(ザイクハ)ニ処(シヨ)せラレテ。後ヒイキ人アリ。本ノ如ク御免(ユル)シヲ蒙(カウム)ルヲ與奪ト云也。又我処ヘ差(サシ)テ來ル財産(サイサン)ヲ近付人分(ツカハ)スヲ云フナリ。人ノ家ニツクル者ナリ。〔下21ウ三〜八〕

とあって、この標記語「探題」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

當所(とうしよ)の執事(しつじ)年々(ねん/\)の管領(くわんりやう)奉行人(ふきやうにん)(とう)に相對(あいたい)して問答(もんとう)を致(いた)さす可(へし)沙汰(さた)を披露(ひろう)探題(たんだい)の異見(いけん)に就(つい)て下知(げち)を加(くハふ)る所(ところ)也/‖-當所執事之年々管領奉行人等サス問答-沙汰探題之異見下知皆上に注す。披露沙汰異見の注并に前に見へたり《以下略》。〔66オ一〕

とあって、この標記語「探題」の語を収載し、語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(しか)るに無音(ぶいん)(の)(とき)ハ使(しせつ)召文(めしぶミ)を下(くだ)し訴陳(そちん)の状(じやう)を調(とゝの)へ當所(たうしよ)乃執事(しつじ)年年(ねん/\・とし)の管領(くハんれい)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)に相對(あいたい)し問答(もんだふ)を致(いた)し沙汰(さた)を披露(ひろう)す可(べ)探題(たんたい)(の)異見(いけん)に就(つい)て下知(げぢ)を加(くハ)ふる所(ところ)(なり)-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執事(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知探題ハ鎌倉(かまくら)将軍(しやうぐん)久明親王(ひさあきらしんわう)の時永仁(ゑいにん)三年鎮西(ちんせい)國の探題を置れしより始(はじま)る。北條(ほうでう)の比(ころ)両六波羅(りやうろくはら)を京都の探題と云へり。即(すなハち)(いま)の所司代(しよしだい)也。〔48ウ四〜五〕

(しかる)に-(ぶいん)(の)(とき)(くだ)使(しせつ)召文(めしぶミ)を調(とゝの)ヘ訴陳(そちん)の(じやう)(あ)ひ‖-(たい)し當所(たうしよ)の執事(しつじ)年々(ねん/\)管領(くわんれい)-行人(ぶぎやうにん)(とう)(べし)(いたし)問答(もんだふ)を披露(ひろう)す沙汰(さた)(つい)探題(たんだい)(の)異見(いけん)に(ところ)(くハふ)下知(げぢ)(なり)。▲探題ハ鎌倉(かまくら)将軍(しやうぐん)久明親王(ひさあきらしんわう)の時永仁(ゑいにん)三年鎮西(ちんぜい)(ごく)の探題を置れしより始(はじま)る。北條(ほうでう)の比(ころ)両六波羅(りやうろくはら)を京都の探題と云へり。即(すなハち)(いま)の所司代(しよしだい)なり。〔87オ二〜三〕

とあって、標記語「探題」の語を収載し、その語注記は「探題は鎌倉将軍、久明親王の時、永仁三年鎮西國の探題を置れしより始まる。北條の比両六波羅を京都の探題と云へり。即ち、今の所司代なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tandai.タンダイ(探題) 統治者,または,司法官.〔邦訳610l〕

とあって、標記語「探題」の語の意味は「統治者,または,司法官」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たん-だい〔名〕【探題】(一)内宴、重陽の宴などにて、詩歌を賦する時、題を探りて分ち取ること。王建詩探題得幽石」字類抄探題、タムタイ、サクリアラハス」名目抄探題(タンダイ)、内宴重陽宴等時、取作文題事也、天台宗有此名目其事太相違」後撰集、十八、雜、四「左大臣ノ家にて、かれこれ題をさぐりて歌よみ侍りけるに、露といふ文字を得侍りて、云云」(二)鎌倉、北條氏の頃に、六波羅探題(京都)、中國探題(長門)、築紫探題(筑前)、陸奥探題などありて、遠隔重要の地方に置ける職名。其一地方の事を奉行し、訴訟成敗を掌り、外寇などの鎭とす。大和事始、二、官位門「伏見院の御時、北條貞時、始て北條兼時を六波羅より築紫に遣し、鎭西の探題とし、西國の成敗を掌り、異賊のおさへとす、又一族の内、一人を長門の探題とし、中國の事を掌らしむ、是れ探題職の始也」(三)佛家にて、法華會、又は、維摩會(ゆゐまゑ)などの時、論議の題を出し、其答辯の判定をする役僧。江家次第、五、圓宗寺最勝會「次探題參」行状翼讀、五、「判斷者ありて、是非を調べらる、是を題者と稱し、又探題と云ふ」武峯論話探題の名義は、歌道に出る歟、其人を指しては、必ず題者と云ふべし、高座にては精義者と云ふべし」〔1247-1〕

とあって、標記語「探題」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「たん-だい探題】〔名〕[一]@詩歌や俳句の会で、いくつかの題を出し、各人がくじで探り取った題によって詩歌をよむこと。さぐりだい。A法会の論議の時、論題を選定し、問答の可否を判定する役の僧。探題博士ともいう。題者。[二]中世、幕府の要職名。探題職。@鎌倉幕府の執権・連署と六波羅探題・鎮西探題(ちんぜいたんだい)をいう。A室町幕府の遠国職。遠隔の要地に置いてその地方の政務・訴訟・軍事をつかさどった。九州探題・奥州探題・羽州探題などがある」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
辛酉、今日、御堂八講竪義、探題顕意法橋云々、《『吾妻鏡』承安三年十二月三日の条》
 
 
2003年10月27日(月)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
問答(モンタウ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「毛」部に、

問答(モンダウ) 。〔元亀二年本348六〕

問答(―タウ) 。〔静嘉堂本419三〕

問答(モンタウ) 。〔天正十七年本中1ウ二〕

とあって、標記語「問答」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

無音之時下使召文調訴陳状相對當所執事年管領奉-行人等可致問答披露沙汰就探題之異見所加下知〔至徳三年本〕

無音之時下使召文調訴陳状相對當所執事年之管領奉-行人等問答披露沙汰就探題之異見所加下知〔宝徳三年本〕

無音之時使召文調訴陳状相對當所執事管領奉-行人等致問答披露沙汰就探題之異見所加下知〔建部傳内本〕

(シカル)ニ-之時使-召文調--‖-シテ--(シツ―)-領奉--人等--沙汰探題(タンダイ)ノ之異--〔山田俊雄藏本〕

无音之時下使召文調(シラ)ベ訴陳‖-當所執亊年々管領奉行人等問答沙汰探題(タンダイ)之異見下知〔経覺筆本〕

-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

問答 モンタウ。〔黒川本・疉字門下100ウ二〕

問訊 モンシン 〃者。〃冷。〃注/〃答。〃頭。〔卷四・疉字門366二〕

とあって、標記語「問答」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「問答」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

問答(モンダフフン・トイ、コタヱ)[去・入] 。〔態藝門1072六〕

とあって、標記語「問答」の語を収載し、訓みを「モンダフ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

問答(モンタウ) 。〔・言語進退門261一〕

問答(モンタウ) ―注(ヂウ)。―訊(シン)。〔・言語門222二〕

問答(モンタウ) ―注。―話。―訊。〔・言語門208五〕

とあって、標記語「問答」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

問答(モンダフ) ―註(ヂフ)。〔言語門230七〕

とあって、標記語「問答」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「問答」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

470无-音之時-者下(クー)シ使_調訴陳‖-當所執亊(シツシ)ニ-領奉---問答披露沙汰探題(タンタイ)之異見下知侍所者謀叛 法意ニハ八扈内第三謀叛|。亦第一謀叛|、ルヲ∨ント国家|。必乱其国|、又背国云謀。背邑云叛。々音薄半反、離也。去也。又府遠反、覆也。不順也。漢音也。而呉音|、僻亊也。呉音叛讀。今不力也。〔謙堂文庫蔵四五左G〕

とあって、標記語「問答」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

與奪(ヨダツ)ヲ當参者成書下下國之時者下奉書(ホウ―)ヲ-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)與奪ト云事罪過(ザイクハ)ニ処(シヨ)せラレテ。後ヒイキ人アリ。本ノ如ク御免(ユル)シヲ蒙(カウム)ルヲ與奪ト云也。又我処ヘ差(サシ)テ來ル財産(サイサン)ヲ近付人分(ツカハ)スヲ云フナリ。人ノ家ニツクル者ナリ。〔下21ウ三〜八〕

とあって、この標記語「問答」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

當所(とうしよ)の執事(しつじ)年々(ねん/\)の管領(くわんりやう)奉行人(ふきやうにん)(とう)に相對(あいたい)して問答(もんとう)を致(いた)さす可(へし)沙汰(さた)を披露(ひろう)し探題(たんだい)の異見(いけん)に就(つい)て下知(げち)を加(くハふ)る所(ところ)也/‖-當所執事之年々管領奉行人等サス問答-沙汰探題之異見下知皆上に注す。披露沙汰異見の注并に前に見へたり《以下略》。〔66オ一〕

とあって、この標記語「問答」の語を収載し、語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(しか)るに無音(ぶいん)(の)(とき)ハ使(しせつ)召文(めしぶミ)を下(くだ)し訴陳(そちん)の状(じやう)を調(とゝの)へ當所(たうしよ)乃執事(しつじ)年年(ねん/\・とし)の管領(くハんれい)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)に相對(あいたい)問答(もんだふ)を致(いた)し沙汰(さた)を披露(ひろう)す可(べ)し/-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執事(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知無音使訴陳等以下の注(ちう)(ミな)前に見ゆ。〔48ウ四〕

(しかる)に-(ぶいん)(の)(とき)(くだ)使(しせつ)召文(めしぶミ)を調(とゝの)ヘ訴陳(そちん)の(じやう)(あ)ひ‖-(たい)し當所(たうしよ)の執事(しつじ)年々(ねん/\)管領(くわんれい)-行人(ぶぎやうにん)(とう)(べし)(いたし)問答(もんだふ)を披露(ひろう)す沙汰(さた)(つい)探題(たんだい)(の)異見(いけん)に(ところ)(くハふ)下知(げぢ)(なり)。▲無音使訴陳等以下の注(ちう)(ミな)前に見ゆ。〔86ウ六〜87オ一〕

とあって、標記語「問答」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Mondo<.モンダゥ(問答) Toi,cotayuru.(問ひ,答ゆる)議論.§Mo~do<ni voyobu.(問答に及ぶ)議論をする.例,Saiuo<no mondo<ni voyobu becarazu.(再往の問答に及ぶべからず)Taif.(太平記)卷二十八.反論する必要はない,または,議論をむしかえす必要はない.§Mondo< suru.(問答する)議論する.※卷二十七の誤り.太平記,二十七,御所囲事.〔邦訳419r〕

とあって、標記語「問答」の語の意味は「議論」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

もん-だう〔名〕【問答】又、もだふ。問(と)ふと答(こた)ふると。雜纂續(宋、王祺)「少道理會、襌和尚問答、村學堂講書」大鏡、中、伊尹「殿上に歌ろぎと云ふこと出で來て、その道の人人いかがもんだふすべきなど、歌の學問より外の事もなきに」源平盛衰記、廿六、慈心坊得閻魔請事「勸進のために、暫殘留めて、閻魔王と問答の次でに申しけるは」〔2018-1〕

とあって、標記語「問答」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「もん-どう問答】〔名〕@問うことと答えること。問と答。また、言い合うこと。A仏語。イ法義の意味などを論じあうこと。特に、禅宗では、修行者が疑問を師家に問い、師家がこれに解答すること。問酬(もんしゅう)ともいう。ロ宗論や論議などのこと。大原問答・安土宗論などの類。B指導を受けること。疑問点などを問いただして教示を受けること。C中世の民事裁判で、訴人(原告)と論人(被告)が、裁判所を通じそれぞれ訴状と陳状(答弁書)を交換しあい、主張を行なうこと。三回まで行なうことができ、これを三問三答(三問答)という。また、この三問三答で決着のつかないときに、訴論人を引付の座(法廷)に呼び出して尋問すること(引付問答)をもいう。また、広く訴訟一般をさしてもいう。問注。問陳。D江戸時代、大名・旗本などからの、幕府奉行所への裁判や民政についての問い合わせと、これに対する奉行所の答(挨拶)のこと。E「もんどうか(問答歌)」の略。[補注]中世には、四段に活用させた動詞「もんだふ」が見られる。→もんだう(問答)」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
無繊介之憚、奉問答聞者莫不感《書き下し》繊介ノ憚リ無ク、問答(モンダフ)シ奉ル。聞ク者感ゼザルハ莫シ。《『吾妻鏡寿永三年三月二十八日の条》
 
 
2003年10月26日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(玉川→駒沢)
當所(タウシヨ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、「當座(ザ)。當敵(テキ)。當世(セイ)。當職(シヨク)。當代(タイ)。當時(ジ)。當住(ヂウ)。當今(ギン)。當權(ケン)。當方(ハウ)。當場(バ)。當学(ガク)。當流(リウ)。當番(バン)。當庄(シヤウ)。當城(ジヤウ)。當宗(シウ)。當寺(ジ)。當山(ザン)。當殿(デン)。當腹(ボク)。當分(ブン)。當季(キ)。當来(ライ)。當院(イン)。當家(ケ)。當皈(キ)薬。當保(ホウ)。當陳(ヂン)。當年(ネン)。當月(クワツ)。當日(ニチ)。當納(ナウ)。當坊(ハウ)。當律(リツ)。當寮(リヤウ)」の36語を収載し、標記語「當所」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

無音之時下使召文調訴陳状相對當所執事年管領奉-行人等可致問答披露沙汰就探題之異見所加下知〔至徳三年本〕

無音之時下使召文調訴陳状相對當所執事年之管領奉-行人等致問答披露沙汰就探題之異見所加下知〔宝徳三年本〕

無音之時使召文調訴陳状相對當所執事管領奉-行人等致問答披露沙汰就探題之異見所加下知〔建部傳内本〕

(シカル)ニ-之時使-召文調--‖-シテ--(シツ―)-領奉--人等--沙汰探題(タンダイ)ノ之異--〔山田俊雄藏本〕

无音之時下使召文調(シラ)ベ訴陳‖-當所執亊年々管領奉行人等問答沙汰探題(タンダイ)之異見下知〔経覺筆本〕

-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「當所」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「當所」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

當所(タウシヨ/アタル、トコロ)[去・上] 。〔態藝門348三〕

とあって、標記語「當所」の語を収載し、訓みを「タウシヨ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「當所」の語は未収載にする。また、易林本節用集』には、

當時(タウジ) ―代(ダイ)。―道(ダウ)。―流(リウ)。―腹(ブク)。―院(井ン)。―世(セイ)。―座(ザ)。―罰(バツ)。―番(バン)。―機(キ)/―學(ガク)。―用(ヨウ)。―家(ケ)。―山(サン)。―國(コク)―所(シヨ)。―來(ライ)。―季(キ)。―分(ブン)。〔言語門93一〕

とあって、標記語「當時」の冠頭字「當」の熟語群として「當所」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「當所」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

470无-音之時-者下(クー)シ使_調訴陳‖-當所執亊(シツシ)ニ-領奉---問答披露沙汰探題(タンタイ)之異見下知侍所者謀叛 法意ニハ八扈内第三謀叛|。亦第一謀叛|、ルヲ∨ント国家|。必乱其国|、又背国云謀。背邑云叛。々音薄半反、離也。去也。又府遠反、覆也。不順也。漢音也。而呉音|、僻亊也。呉音叛讀。今不力也。〔謙堂文庫蔵四五左G〕

とあって、標記語「當所」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

與奪(ヨダツ)ヲ當参者成書下下國之時者下奉書(ホウ―)ヲ-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)與奪ト云事罪過(ザイクハ)ニ処(シヨ)せラレテ。後ヒイキ人アリ。本ノ如ク御免(ユル)シヲ蒙(カウム)ルヲ與奪ト云也。又我処ヘ差(サシ)テ來ル財産(サイサン)ヲ近付人分(ツカハ)スヲ云フナリ。人ノ家ニツクル者ナリ。〔下21ウ三〜八〕

とあって、この標記語「當所」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

當所(とうしよ)の執事(しつじ)年々(ねん/\)の管領(くわんりやう)奉行人(ふきやうにん)(とう)に相對(あいたい)して問答(もんとう)を致(いた)さす可(へし)沙汰(さた)を披露(ひろう)し探題(たんだい)の異見(いけん)に就(つい)て下知(げち)を加(くハふ)る所(ところ)也/‖-當所執事之年々管領奉行人等サス問答-沙汰探題之異見下知皆上に注す。披露沙汰異見の注并に前に見へたり《以下略》。〔66オ一〕

とあって、この標記語「當所」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(しか)るに無音(ぶいん)(の)(とき)ハ使(しせつ)召文(めしぶミ)を下(くだ)し訴陳(そちん)の状(じやう)を調(とゝの)當所(たうしよ)乃執事(しつじ)年年(ねん/\・とし)の管領(くハんれい)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)に相對(あいたい)し問答(もんだふ)を致(いた)し沙汰(さた)を披露(ひろう)す可(べ)し/-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執事(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知〔48ウ四〕

(しかる)に-(ぶいん)(の)(とき)(くだ)使(しせつ)召文(めしぶミ)を調(とゝの)ヘ訴陳(そちん)の(じやう)(あ)ひ‖-(たい)し當所(たうしよ)の執事(しつじ)年々(ねん/\)管領(くわんれい)-行人(ぶぎやうにん)(とう)(べし)(いたし)問答(もんだふ)を披露(ひろう)す沙汰(さた)(つい)探題(たんだい)(の)異見(いけん)に(ところ)(くハふ)下知(げぢ)(なり)〔86ウ六〜87オ一〕

とあって、標記語「當所」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

To<xo.タウショ(當所) Cono tocoro.(この所) この場所,あるいは,この村里.〔邦訳673l〕

とあって、標記語「當所」の語の意味は「この場所,あるいは,この村里」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たう-しょ〔名〕【當處當所】このところ。この土地。當地。本地。又、そのところ。楞嚴經「心精通 當處湛然」謡曲、錦木「何れも何れも當所の名物なり」〔1194-4〕

とあって、標記語「當所」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「とう-しょ当所当処】〔名〕@現在の場所。この土地。ここ。当地。A自分が所属している、または話題にしている、この事務所・事業所など、「所」と名のつく施設・機関」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
今日卯剋、此事風聞于三浦之間、一族悉以引篭于當所衣笠城、各張陣《書き下し》今日卯ノ剋ニ、此ノ事三浦ニ風聞スルノ間、一族悉ク以テ当所(タウシヨ)衣笠ノ城ニ引キ篭リ、各陣ヲ張ル。《『吾妻鏡』治承四年八月二十六日の条》
 
 
2003年10月25日(土)曇り一時薄晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
召文(めしぶみ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「免」部に、

召文(―ブミ) 。〔元亀二年本296七〕

とあって、元亀二年本にだけであるが標記語「召文」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

無音之時下使召文調訴陳状相對當所執事年管領奉-行人等可致問答披露沙汰就探題之異見所加下知〔至徳三年本〕

無音之時下使召文調訴陳状相對當所執事年之管領奉-行人等致問答披露沙汰就探題之異見所加下知〔宝徳三年本〕

無音之時使召文調訴陳状相對當所執事管領奉-行人等致問答披露沙汰就探題之異見所加下知〔建部傳内本〕

(シカル)ニ-之時使-召文調--‖-シテ--(シツ―)-領奉--人等--沙汰探題(タンダイ)ノ之異--〔山田俊雄藏本〕

无音之時下使召文調(シラ)ベ訴陳‖-當所執亊年々管領奉行人等問答沙汰探題(タンダイ)之異見下知〔経覺筆本〕

-(イン)ノニハ使召文(メシフミ)調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「召文」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、標記語「召文」の語を未収載にする。印度本系統の弘治二年本節用集』には、

召文(メシフミ) 下知。〔・言語進退門229八〕

とあって、標記語「召文」の語を収載し、語注記に「下知」と記載する。また、易林本節用集』には、

召捕(メシトル) ―仕(ツカフ)。―次(ツギ)。―符(フ)―文(ブミ/ブ)。―籠(コムル)。―具(グ)。〔言語門197二〕

とあって、標記語「召捕」の冠頭字「召」の熟語群として「召文」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、元亀二年本『運歩色葉集』、印度本系統の弘治二年本節用集』、そして易林本節用集』に「召文」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

470无-音之時-者下(クー)シ使者_調訴陳‖-當所執亊(シツシ)ニ-領奉---問答披露沙汰探題(タンタイ)之異見下知侍所者謀叛 法意ニハ八扈内第三謀叛|。亦第一謀叛|、ルヲ∨ント国家|。必乱其国|、又背国云謀。背邑云叛。々音薄半反、離也。去也。又府遠反、覆也。不順也。漢音也。而呉音|、僻亊也。呉音叛讀。今不力也。〔謙堂文庫蔵四五左G〕

とあって、標記語「召文」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

與奪(ヨダツ)ヲ當参者成書下下國之時者下奉書(ホウ―)ヲ-(イン)ノニハ使節召文(メシフミ)調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)與奪ト云事罪過(ザイクハ)ニ処(シヨ)せラレテ。後ヒイキ人アリ。本ノ如ク御免(ユル)シヲ蒙(カウム)ルヲ與奪ト云也。又我処ヘ差(サシ)テ來ル財産(サイサン)ヲ近付人分(ツカハ)スヲ云フナリ。人ノ家ニツクル者ナリ。〔下21ウ三〜八〕

とあって、この標記語「召文」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

無音(ぶいん)の時(とき)ハ使節(しせつ)召文(めしぶミ)を下(くだ)す/無音之時者下使節召文皆上に注す。〔65ウ五〜六〕

とあって、この標記語「召文」の語を収載し、語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(しか)るに無音(ぶいん)(の)(とき)ハ使節(しせつ)召文(めしぶミ)を下(くだ)し訴陳(そちん)の状(じやう)を調(とゝの)へ當所(たうしよ)乃執事(しつじ)年年(ねん/\・とし)の管領(くハんれい)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)に相對(あいたい)し問答(もんだふ)を致(いた)し沙汰(さた)を披露(ひろう)す可(べ)し/-(イン)ノニハ使節召文(メシフミ)調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執事(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知無音使節訴陳等以下の注(ちう)(ミな)前に見ゆ。〔48ウ四〕

(しかる)に-(ぶいん)(の)(とき)(くだ)使節(しせつ)召文(めしぶミ)調(とゝの)ヘ訴陳(そちん)の(じやう)(あ)ひ‖-(たい)し當所(たうしよ)の執事(しつじ)年々(ねん/\)管領(くわんれい)-行人(ぶぎやうにん)(とう)(べし)(いたし)問答(もんだふ)を披露(ひろう)す沙汰(さた)(つい)探題(たんだい)(の)異見(いけん)に(ところ)(くハふ)下知(げぢ)(なり)。▲無音使節訴陳等以下の注(ちう)(ミな)前に見ゆ。〔86ウ六〜87オ一〕

とあって、標記語「召文」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「召文」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

めし-ぶみ〔名〕【召文】官より人を召す状。鎌倉幕府以來、御家人などを召すにも、又、訴訟にて被告人を召喚するにも云へり。めしジャウ。さしがみ。呼出状。徴書。召符。式目抄、坤、問注所難澁の輩事「右於遠國者、被召文之後、無故至于五月、不參對者、就訴人申状、可其沙汰也」〔1988-5〕

とあって、標記語「召文」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「めし-ぶみ召文】〔名〕@官公署が人を召し出すために出す書状。呼出状。召喚状。召状。召符。A鎌倉幕府・室町幕府の訴訟制度で、裁判所が法廷に訴人(原告)や論人(被告)を出頭させるために発給した召喚状。訴論人は特定の日数内に出頭し、それができない場合、その旨の請文を出した。召状。召符」とあって、『庭訓徃來』にこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
召文被下于相摸國以西御家人、存征伐之用意、可參上之趣也《書き下し》ヲ書キ相模ノ国ヨリ西ノ御家人ニ下サル、征伐ノ用意ヲ存ジ、参上スベキノ趣ナリ。《『吾妻鏡』文治六年正月七日の条》
 
 
无音(ブイン)」→「無音」ことばの溜池(2003.09.23)を参照。
2003年10月24日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
下國(ゲコク)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「氣」部に、「下戸(ケコ)。下向(カウ)。下行(キヤウ)。下劣(レツ)。下臈(ラウ)。下職(シヨク)。下界(カイ)。下知(ヂ)。下着(ヂヤク)。下司(シ)。下女(ヂヨ)。下品(ホン)。下用(ユウ)。下水(スイ)。下座(ザ)。下段(ダン)。下壇(ダン)。下根(ゴン)。下筆(ヒツ)。下第(テ)唐人不及第亊下輩(ハイ)。下馬(ハ)。下間(カン)襌家。下賤(せン)」の語を収載し、標記語「下國」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

奉行人得差符方之与奪當参仁者成書下々國之時者下奉書〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

奉行人得差符方與奪當參仁者成書下々國之時者下奉書〔宝徳三年本〕

--差符(サシ―)-(タツ)トヲ-ニハ者成書下々國之時者下-〔山田俊雄藏本〕

奉行人差符(サシフ)之与奪當参ニハ者成書下下國之時者下奉書〔経覺筆本〕

奉行人(エ)差符方(サシフカタ)ノ(ヨタツ)當参仁者(ハ)(ナ)シ書下(カキクタシ)ヲ下國之時者下奉書〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「下國」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「下國」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

下國(ゲコク・―、クダル・シタ、クニ)[上・入] 。〔態藝門597八〕

とあって、標記語「下國」の語を収載し、訓みを「ゲコク」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

下国(―コク) 。〔・言語進退門176三〕

下品(ゲボン) ―向(カウ)。―知(ヂ)。―行(ギヤウ)―国(コク)/―直(ジキ)。―劣(レツ)。―着(チヤク)。―輩(ハイ)。下戸(ゲコ)。―少(せウ)/―用(ヨウ)。―臈(ラウ)。〔・言語門144四〕

下品(ゲホン) ―向。―知。―行。―国。―直。―劣/―着。―輩。―戸。―用。―臈――。〔・言語門134二〕

とあって、標記語「下国」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

下行(ゲギヤウ) ―賤(せン)。―根(コン)。―知(ヂ)―國(コク)。―馬(バ)。―座(ザ)。―戸(コ)。/―用(ヨウ)。―品(ボン)。―向(カウ)。―劣(レツ)。―尅上(コクシヤウ)。―直(ヂキ)。〔言辞門145六〕

とあって、標記語「下行」の冠頭字「下」の熟語群として「下國」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書には、広本節用集』、弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』、易林本節用集』に「下國」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

469當参仁ニハ者成書下々國之時ンハ者下(クー)シ奉書 當參仁今在京仁也。訴人論人之一人在鄙、在下状、一人云也。国々人々、下奉書|。一人必在京也。成書下国時、奉書下云也。无音ナレハ使召文|。者二人有亊也。〔謙堂文庫蔵四五左E〕

とあって、標記語「下國」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

與奪(ヨダツ)ヲ當参者成書下下國之時者下奉書(ホウ―)ヲ-(イン)ノニハ使節召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)與奪ト云事罪過(ザイクハ)ニ処(シヨ)せラレテ。後ヒイキ人アリ。本ノ如ク御免(ユル)シヲ蒙(カウム)ルヲ與奪ト云也。又我処ヘ差(サシ)テ來ル財産(サイサン)ヲ近付人分(ツカハ)スヲ云フナリ。人ノ家ニツクル者ナリ。〔下21ウ三〜八〕

とあって、この標記語「下國」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

當参ニハ者成書下下國之時者下奉書當参とハ将軍家の御在所に参勤して居る者を云。下國とハ其願所/\へ帰り居る者を云。書下も奉書も皆問状の奉書の事なり。こゝにはこゝろハ奉行人差符方の差圖に從ひ公事あるものへ問状乃奉書を下すをいふなり。〔65ウ二〜五〕

とあって、この標記語「下國」の語を収載し、語注記は、「下國とは、其願所/\へ帰り居る者を云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

奉行人(ぶぎやうにん)差符方(さしふかた)(の)與奪(よだつ)を得(え)バ當參(たうざん)の仁(じん)(ハ)書下(しよげ)を成(な)下國(げこく)(の)(とき)(ハ)奉書(ほうしよ)を下(くだ)す/奉行人得差符方之與當参仁者成書下々國之時者下奉書下國ハ相手(あいて)の者國元(くにもと)に下(くだ)り居(ゐ)るをいふ。〔48ウ三・四〕

奉行人(ぶぎやうにん)(え)差符方(さしふかた)(の)(よだつ)當参(たうざん)(じん)(ハ)(な)書下(しよげ)下國(けこく)(の)(とき)(ハ)(くだ)奉書(ほうしよ)を下國ハ相手(あいて)の者國元(くにもと)に下(くだ)り居(ゐ)るをいふ。〔86ウ六〜87オ一〕

とあって、標記語「下國」の語を収載し、その語注記は「下國は、相手の者國元に下り居るをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Guecocu.ゲコク(下国) Cuniye cudaru.(国へ下る)都(Miyaco)から自分の国へ帰ること.〔邦訳294l〕

とあって、標記語「下國」の語の意味は「都(Miyaco)から自分の国へ帰ること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-こく〔名〕【下國】國(くに)へ、下(くだ)ること。都より、國許(くにもと)へ行くこと。庭訓徃來、八月「奉行人、得差符方與奪、當參仁者成書下下國時者下奉書、無音之時者下使者召文」云云、越訴覆勘者、依探題管領、被行之事於庭中〔0607-3〕

とあって、標記語「下國」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-こく下國】〔名〕@律令制で、国の等級を決めたものの一つ。大、上、中、下の四段階の最下級の国。「延喜式」民部上によれば、和泉・伊賀・志摩・伊豆・飛騨・隠岐・淡路・壱岐・対馬の九国。A(―する)都から国元へおもむくこと。国司が任国へおもむくこと」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
於源氏人々者、家禮猶可被怖畏、矧亦如抑留下國事、頗似服仕《書き下し》源氏ノ人人ニ於テハ、家礼猶怖畏セラルベシ、矧ヤ亦下国ヲ抑留スルガ如キ事、頗ル家人ニ服仕スルニ似タリ。《『吾妻鏡治承四年十月十九日の条》
 
 
2003年10月23日(木)晴れ後曇り。東京(八王子)→千葉(銚子・市立銚子高等学校)→世田谷(駒沢)
書下(ショゲ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、「書記(シヨキ)襌家官。書院(イン)。書籍(ジヤク)。書札(サツ)。書状(ジヤウ)。書信(シン)」の六語を収載し、標記語「書下」の語は未収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

奉行人得差符方之与奪當参仁者成書下々國之時者下奉書〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

奉行人得差符方與奪當參仁者成書下々國之時者下奉書〔宝徳三年本〕

--差符(サシ―)-(タツ)トヲ-ニハ者成書下々國之時者下-〔山田俊雄藏本〕

奉行人差符(サシフ)之与奪當参ニハ者成書下下國之時者下奉書〔経覺筆本〕

奉行人差符方之當参仁者成書下々國之時者下奉書〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「書下」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「書下」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においても、「書下」の語は未収載であって、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本にだけ見えている語となっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

469當参仁ニハ者成書下々國之時ンハ者下(クー)シ奉書 當參仁今在京仁也。訴人論人之一人在鄙、在下状、一人云也。国々人々、下奉書|。一人必在京也。成書下国時、奉書下云也。无音ナレハ使召文|。者二人有亊也。〔謙堂文庫蔵四五左E〕

とあって、標記語「書下」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

與奪(ヨダツ)ヲ當参者成書下下國之時者下奉書(ホウ―)ヲ-(イン)ノニハ使節召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)與奪ト云事罪過(ザイクハ)ニ処(シヨ)せラレテ。後ヒイキ人アリ。本ノ如ク御免(ユル)シヲ蒙(カウム)ルヲ與奪ト云也。又我処ヘ差(サシ)テ來ル財産(サイサン)ヲ近付人分(ツカハ)スヲ云フナリ。人ノ家ニツクル者ナリ。〔下21ウ三〜八〕

とあって、この標記語「書下」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

當参ニハ者成書下下國之時者下奉書當参とハ将軍家の御在所に参勤して居る者を云。下國とハ其願所/\へ帰り居る者を云。書下も奉書も皆問状の奉書の事なり。こゝにはこゝろハ奉行人差符方の差圖に從ひ公事あるものへ問状乃奉書を下すをいふなり。〔65ウ二〜五〕

とあって、この標記語「書下」の語を収載し、語注記は、「書下も奉書も皆問状の奉書の事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

奉行人(ぶぎやうにん)差符方(さしふかた)(の)與奪(よだつ)を得(え)バ當參(たうざん)の仁(じん)(ハ)書下(しよげ)を成(な)し下國(げこく)(の)(とき)(ハ)奉書(ほうしよ)を下(くだ)す/奉行人得差符方之與當参仁者成書下々國之時者下奉書▲書下奉書共(とも)に問状(うらいん)の事也。〔48ウ四〕

奉行人(ぶぎやうにん)(え)差符方(さしふかた)(の)(よだつ)當参(たうざん)(じん)(ハ)(な)書下(しよげ)下國(けこく)(の)(とき)(ハ)(くだ)奉書(ほうしよ)を書下奉書共(とも)に問状の事也。〔86ウ六〜87オ一〕

とあって、標記語「書下」の語を収載し、その語注記は「書下奉書、共に問状の事なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「書下」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「書下」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「しょ-書下】〔名〕」の語を未収載にする。
[ことばの実際]
親能惣奉行、行政、書下之其状書様、其國人々、京可沙汰上之由、所被仰也《書き下し》親能惣奉行トシテ、行政、之ヲ書キ下ス。其ノ状ノ書キ様、其ノ国ノ人人、京ヘ沙汰シ上ルベキノ由、仰セラルル所ナリ。《『吾妻鏡』建久五年十二月十七日の条》
 
 
2003年10月22日(水)雨後曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
當参(タウサン)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、「當座(ザ)。當敵(テキ)。當世(せイ)。當職(シヨク)。當代(タイ)。當時(ジ)。當住(ヂウ)。當今(ギン)。當權(ケン)。當方(ハウ)。當場(バ)。當学(ガク)。當流(リウ)。當番(バン)。當庄(シヤウ)。當城(ジヤウ)。當宗(シウ)。當寺(ジ)。當山(ザン)。當殿(デン)。當腹(ボク)。當分(ブン)。當季(キ)。當来(ライ)。當院(イン)。當家(ケ)。當皈(キ)薬。當保(ホウ)。當陳(ヂン)。當年(ネン)。當月(クワツ)。當日(ニチ)。當納(ナウ)。當坊(ハウ)。當津(リツ)。當寮(リヤウ)」とあって、標記語「當参」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

奉行人得差符方之与奪當参仁者成書下々國之時者下奉書〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

奉行人得差符方與奪當參仁者成書下々國之時者下奉書〔宝徳三年本〕

--差符(サシ―)-(タツ)トヲ-ニハ者成書下々國之時者下-〔山田俊雄藏本〕

奉行人差符(サシフ)之与奪當参ニハ者成書下下國之時者下奉書〔経覺筆本〕

奉行人差符方之當参者成書下々國之時者下奉書〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「當參」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「當参」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

當参(タウサンアタル、マイル)[平去・平] 。〔態藝門348二〕

とあって、標記語「當参」の語を収載し、訓みを「タウサン」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「當参」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書では、広本節用集』にだけ「當参」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

469當参仁ニハ者成書下々國之時ンハ者下(クー)シ奉書 當參仁今在京仁也。訴人論人之一人在鄙、在下状、一人云也。国々人々、下奉書|。一人必在京也。成書下国時、奉書下云也。无音ナレハ使召文|。者二人有亊也。〔謙堂文庫蔵四五左E〕

とあって、標記語「當参仁」の語を収載し、語注記は、「當參仁は、今在京の仁なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

與奪(ヨダツ)ヲ當参者成書下下國之時者下奉書(ホウ―)ヲ-(イン)ノニハ使節召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)與奪ト云事罪過(ザイクハ)ニ処(シヨ)せラレテ。後ヒイキ人アリ。本ノ如ク御免(ユル)シヲ蒙(カウム)ルヲ與奪ト云也。又我処ヘ差(サシ)テ來ル財産(サイサン)ヲ近付人分(ツカハ)スヲ云フナリ。人ノ家ニツクル者ナリ。〔下21ウ三〜八〕

とあって、この標記語「當参」とし、語注記は「與奪と云ふ事罪過に処せられて後ひいき人あり。本の如く御免しを蒙むるを與奪と云ふなり。また、我が処へ差して來る財産を近付人分遣はすを云ふなり。人の家につくる者なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

當参ニハ者成書下下國之時者下奉書當参とハ将軍家の御在所に参勤して居る者を云。下國とハ其願所/\へ帰り居る者を云。書下も奉書も皆問状の奉書の事なり。こゝにはこゝろハ奉行人差符方の差圖に從ひ公事あるものへ問状乃奉書を下すをいふなり。〔65ウ二〜五〕

とあって、この標記語「當参」の語を収載し、語注記は、「當参とは、将軍家の御在所に参勤して居る者を云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

奉行人(ぶぎやうにん)差符方(さしふかた)(の)與奪(よだつ)を得(え)當參(たうざん)の仁(じん)(ハ)書下(しよげ)を成(な)し下國(げこく)(の)(とき)(ハ)奉書(ほうしよ)を下(くだ)す/奉行人得差符方之與當参者成書下々國之時者下奉書當参仁ハ訴出る者(もの)をいふ。〔48ウ四〕

奉行人(ぶぎやうにん)(え)差符方(さしふかた)(の)(よだつ)當参(たうざん)(じん)(ハ)(な)書下(しよげ)下國(けこく)(の)(とき)(ハ)(くだ)奉書(ほうしよ)を當参ハ訴出る者(もの)をいふ。〔87オ一〕

とあって、標記語「當参仁」の語を収載し、その語注記は「當参は、訴へ出る者をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「當参」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たう-さん〔名〕【當参】參ること。又、其人。太平記、廿二、義助被吉野事「臨時の宣下ありて、一級を加へらる、加之、當参の一族、并に相順へる兵共に至るまで、或は恩賞を賜り、或は、官位を進められければ」〔1193-3〕

とあって、標記語「當参」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「とう-さん当参】〔名〕@将軍・大将などの許へ参集すること。また、その人。また、参集したばかりであること。A中世、訴訟のために鎌倉または京都に出頭すること。また、その人。B特定の場に参上すること」とあって、Aの意味として『庭訓徃來註』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
次爲御共、被差進當參在國御家人等《書き下し》次ニ御共トシテ、当参(トウ―)在国ノ御家人等ヲ差シ進ゼラル。《『吾妻鏡』文治二年二月六日の条》
 
 
2003年10月21日(火)曇り後晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
與奪(ヨダツ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「与」部に、

与奪(―ダツ) 。〔元亀二年本131九〕

与奪(ヨダツ) 。〔静嘉堂本138二〕

与奪(ヨタツ) 。〔天正十七年本中1ウ二〕

とあって、標記語「与奪」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

奉行人得差符方之与奪當参仁者成書下々國之時者下奉書〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

奉行人得差符方與奪當參仁者成書下々國之時者下奉書〔宝徳三年本〕

--差符(サシ―)-(タツ)トヲ-ニハ者成書下々國之時者下-〔山田俊雄藏本〕

奉行人差符(サシフ)与奪當参ニハ者成書下下國之時者下奉書〔経覺筆本〕

奉行人差符方之當参仁者成書下々國之時者下奉書〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

与奪 ヨタツ。〔黒川本・疉字門上98オ七〕

与奪 〃不。〔卷四・疉字門366二〕

とあって、標記語「与奪」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「与奪」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

與奪(ヨダツクミス・アタウ、ウバウ)[去・入] 。〔態藝門320二〕

とあって、標記語「與奪」の語を収載し、訓みを「ヨダツ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

与奪(ヨダツ) 。〔・言語進退門94四〕

與奪(ヨダツ) ―同(ドウ)。〔・言語門88九〕

與奪(ヨダツ) ―同。〔・言語門80八〕

與奪(ヨタツ) ―同。〔・言語門97五〕

とあって、標記語「与奪」と「與奪」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

與奪(ヨダツ) ―善(セン)。―同(トウ)。〔言語門86三〕

とあって、標記語「與奪」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「與奪」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

468‖-官領寄人(ヨリサウト)-(ウー)--等評判也奉行人差符‖- 方角奉行也。又奉行下ニシテ万亊云付人也。〔謙堂文庫蔵四五左C〕

とあって、標記語「与奪」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

與奪(ヨダツ)當参者成書下下國之時者下奉書(ホウ―)-(イン)ノニハ使節召文(メシフミ)ヲ調(トヽノ)ヘ訴陳(ソヂン)ノ‖-(タイ)シテ當所(タウ―)ノ執亊(シツジ)年々管領(クハンリヤウ)-(ブキヤウ)--問答(モンダウ)ヲ披露(ヒロウ)ス沙汰探題(タンダイ)之異見(イ―)ニロ∨下知(サフラヒ)謀叛(ムホン)殺害(せツガイ)山海(サンカイ)兩賊(―ゾク)-(カウせツ)ノ-(タウ)-(ハウ―)與奪ト云事罪過(ザイクハ)ニ処(シヨ)せラレテ。後ヒイキ人アリ。本ノ如ク御免(ユル)シヲ蒙(カウム)ルヲ與奪ト云也。又我処ヘ差(サシ)テ來ル財産(サイサン)ヲ近付人分(ツカハ)スヲ云フナリ。人ノ家ニツクル者ナリ。〔下21ウ三〜八〕

とあって、この標記語「與奪」とし、語注記は「與奪と云ふ事罪過に処せられて後ひいき人あり。本の如く御免しを蒙むるを與奪と云ふなり。また、我が処へ差して來る財産を近付人分遣はすを云ふなり。人の家につくる者なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

奉行人差符‖-。差符方も役所也。与奪とハあたふへきにハあたへうほふへきにハうほふといふこゝろにて事のきりもりをする事をいふなり。〔65オ七〜八〕

とあって、この標記語「與奪」の語を収載し、語注記は、「差符方も役所なり。与奪とは、あたふべきにはあたへ、うほふへきには、うほふといふこゝろにて事のきりもりをする事をいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

奉行人(ぶぎやうにん)差符方(さしふかた)(の)與奪(よだつ)を得(え)バ當參(たうざん)の仁(じん)(ハ)書下(しよげ)を成(な)し下國(げこく)(の)(とき)(ハ)奉書(ほうしよ)を下(くだ)す/奉行人得差符方之當参仁者成書下々國之時者下奉書差符方与奪差符方ハ他所(ほかのところ)へ差替(さしかへ)らる事なるべし。与奪ハ其職に代(かハ)るの義。〔48ウ三・四〕

奉行人(ぶぎやうにん)(え)差符方(さしふかた)(の)(よだつ)當参(たうざん)(じん)(ハ)(な)書下(しよげ)下國(けこく)(の)(とき)(ハ)(くだ)奉書(ほうしよ)を▲差符方与奪差符方ハ他所(ほかのところ)へ差替(さしかへ)らるゝ事なるべし。与奪ハ其職(しよく)に代(かハ)るの義。〔86ウ六〜87オ一〕

とあって、標記語「與奪」の語を収載し、その語注記は「与奪は其の職に代るの義」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yodat.ヨダツ(与奪) 相続によって与えること,すなわち,父が子に家や財産などを引き渡すこと.〔邦訳824r〕

とあって、標記語「與奪」の語の意味は「相続によって与えること,すなわち,父が子に家や財産などを引き渡すこと」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-だつ〔名〕【與奪】(一)あたふることと、うばふことと。晉書、祖納傳「好學不倦、從善如流、若使著一代之典、褒貶與奪、誠一時之儁」(二)其職に代はること。讓り與ふること。又、子に職を讓るなどにも云ふ。(奪の字は帶説なり)職原抄、上、左大臣「是依關白與奪也」海人藻芥、中「權上座於指合者、次第次第、次人可與奪(三)うはさの高きこと。有名なること。庭訓徃來、八月「奉行人、得差符方與奪、云云、越訴覆勘者、依探題管領與奪、被行之事於庭中〔1701-2〕

とあって、標記語「與奪」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-だつ与奪予奪】〔名〕@与えることと奪うこと。与えたり取りあげたりすること。A権限をもってその任にあたること。その事に関する権限を有して指揮、指図すること。B(「奪」の字の意味が欠落して)権利、権限を人に譲り与えること。職、あるいは家産などを譲ること」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
再徃聞其理非、少少與奪于攝津前司佐渡前司信濃民部大夫入道等方、可勘申申定〈云云〉《書き下し》再往其ノ理非ヲ聞キ、少少摂津ノ前司佐渡ノ前司信濃ノ民部ノ大夫入道等ガ方ニ与奪(ヨ―)シテ、勘ヘ申シ定ムベシト〈云云〉。《『吾妻鏡』寛元二年三月二十八日の条》
 
 
2003年10月20日(月)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
差符(さしフ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、標記語「差符」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

奉行人差符方之与奪當参仁者成書下々國之時者下奉書〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

奉行人差符方與奪當參仁者成書下々國之時者下奉書〔宝徳三年本〕

--差符(サシ―)-(タツ)トヲ-ニハ者成書下々國之時者下-〔山田俊雄藏本〕

奉行人差符(サシフ)之与奪當参ニハ者成書下下國之時者下奉書〔経覺筆本〕

奉行人差符方之與當参仁者成書下々國之時者下奉書〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「差符」「差符方」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「差符」「差符方」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「差符」の語は未収載であり、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語となっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

468‖-官領寄人(ヨリサウト)-(ウー)--等評判也奉行人差符‖- 方角奉行也。又奉行下ニシテ万亊云付人也。〔謙堂文庫蔵四五左C〕

△得府―ノ奪トハ自上古引付持タル者云。与奪引付与――ニ任せテ今モ与――スヘキ也。〔静嘉堂本『庭訓往来抄』古寫頭注書込み〕

とあって、標記語「差符」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

評判(ヒヤウバン)--(エ)差符(サシフ)(カタ)ノ評判トハ。評定衆(シユ)以下(イゲ)サシカイ判形ヲ加ルナリ。〔下21ウ二〕

とあって、この標記語「差符」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

奉行人差符‖-。差符方も役所也。与奪とハあたふへきにハあたへうほふへきにハうほふといふこゝろにて事のきりもりをする事をいふなり。〔65オ七〜八〕

とあって、この標記語「差符」の語を収載し、語注記は、「差符方も役所なり。与奪とは、あたふべきにはあたへ、うほふへきには、うほふといふこゝろにて事のきりもりをする事をいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

奉行人(ぶぎやうにん)差符方(さしふかた)(の)與奪(よだつ)を得(え)バ當參(たうざん)の仁(じん)(ハ)書下(しよげ)を成(な)し下國(げこく)(の)(とき)(ハ)奉書(ほうしよ)を下(くだ)す/奉行人差符方之與當参仁者成書下々國之時者下奉書差符方与奪差符方ハ他所(ほかのところ)へ差替(さしかへ)らる事なるべし。与奪ハ其職に代(かハ)るの義。〔48ウ三・四〕

奉行人(ぶぎやうにん)(え)差符方(さしふかた)(の)(よだつ)當参(たうざん)(じん)(ハ)(な)書下(しよげ)下國(けこく)(の)(とき)(ハ)(くだ)奉書(ほうしよ)を▲差符方与奪差符方ハ他所(ほかのところ)へ差替(さしかへ)らるゝ事なるべし。与奪ハ其職(しよく)に代(かハ)るの義。〔86ウ六〜87オ一〕

とあって、標記語「差符方」の語を収載し、その語注記は「他所へ差替らるゝ事なるべし」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「差符」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「差符」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さし-差符】〔名〕@中世、幕府の訴訟制度で、ある事件を担当する本奉行を任命する文書。本奉行は一方引付の公文の中からくじ引きで決められ、差符は当該の引付頭人が署名し、任命する本奉行人あてに出された。A寺院の法会に職衆を招請する文書。請定(しょうじょう)。差定(さじょう)」と標記語「さしふ-がた差符方】〔名〕「さしふ(差符)によって任命された奉行。また、その下役」とあって、後者の用例として『庭訓徃來註』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
六波羅奉行差符《『高野山文書・又続建治元年(1275)十一月廿四日の条1444-6・6/516
 
 
2003年10月19日(日)晴れ。島根(松江)→島根大学〔第49回国語学会中四国支部研究発表会〕→東京
評判(ヒヤウバン)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「飛」部に、

(―バン) 。〔元亀二年本342二〕※「ハン」の字は手偏に「判」とする。

(―ハン) 判。〔静嘉堂本410二〕 ※「ハン」の字は手偏に「判」とする。

とあって、標記語「?」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人評判〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人評判〔宝徳三年本〕

--者永-(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状負-(フルイ)-文等之謀-‖--領寄人(ヨリウト)----〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「評判」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「評判」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

評判(ヒヤウバンヘイ、―)[平去・去] 。〔態藝門1041八〕

とあって、標記語「評判」の語を収載し、訓みを「ヒヤウバン」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

評判(―バン) 。〔・言語進退門257五〕

評定(ヒヤウチヤウ) ―議。―判。〔・言語門218六〕〔・言語門203八〕

とあって、弘治二年本が標記語「評判」の語を収載し、他本は標記語「評定」の冠頭字「評」の熟語群として「評判」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

評議(ヒヤウギ) ―判(バン)。―定(ヂヤウ)。〔言辞門226六〕

とあって、標記語「評議」の冠頭字「評」の熟語群として「評判」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「評判」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

468‖-官領寄人(ヨリサウト)-(ウー)--評判奉行人差符‖- 方角奉行也。又奉行下ニシテ万亊云付人也。〔謙堂文庫蔵四五左C〕

とあって、標記語「評判」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

評判(ヒヤウバン)--(エ)差符(サシフ)(カタ)ノ評判トハ。評定衆(シユ)以下(イゲ)サシカイ判形ヲ加ルナリ。〔下21ウ二〕

とあって、この標記語「評判」とし、語注記は「評判とは、評定衆以下さしかい判形を加ふるなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)評判(ひやうばん)(なり)管領寄人右筆-行人評判 管領の事ハ下にあり。其□□□見へたり。評ハ事のすじを論する也。判ハ其よしあしをわくるなり。〔65オ七〜八〕

とあって、この標記語「評判」の語を収載し、語注記は、「評は、事のすじを論する也。判は、其よしあしをわくるなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)す管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-管領寄人---評判▲評判ハ事の條(すぢ)を論(ろん)じて是非(よしあし)を判(わか)つ也。〔48ウ三〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を管領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)▲評判ハ事の條(すぢ)を論(ろん)じて是非(よしあし)を判(わか)つ也。〔86ウ六〕

とあって、標記語「評判」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fio<ban.ヒャゥバン(評判) すなわち,Danco< suru.(談合する)Feo<ban(評判)の条を見よ.〔邦訳235lr〕

Fio<ban.l,feo<ban.ヒャゥバンまたは,ヘャゥバン(評判) Fifan(批判)に同じ.世間に流布する話.あるいは,噂. 〔邦訳235l〕

とあって、標記語「評判」の語の意味は「すなわち,談合する」「批判に同じ.世間に流布する話.あるいは,噂」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ひゃう-ばん〔名〕【評判】(一)評して、是非、善惡、醜美などを判ずること。評定。庭訓徃來、八月「問注所、云云、管領寄人、右筆奉行人等、評判也」(二)世人の評して、言觸らすこと。世の風評。うはさ。とりさた。織留(元禄、西鶴)一「賢き者の事を評判致しけるぞ」(三)うはさの高きこと。有名なること。浮世風呂(文化、三馬)二編、下「御部屋中で評判のお結構人でございました」〔1701-2〕

とあって、標記語「評判」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ひゃう-ばん評判】〔名〕@(―する)批評して是非を判定すること。批評して判断すること。評定。A(―する)世間で取りざたすること。また、世評。うわさ。B(形動)世間にその名が取りざたされること。名高いこと。有名なこと。また、そのさま」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
文所集会、召整両方之訴陳、加評判之処、如訴人平内男初問状者、 《『東大寺文書・図未』嘉暦二年三月日の条1131・18/251》
 
 
2003年10月18日(土)晴れ。島根(松江)→島根大学〔第49回国語学会中四国支部研究発表会〕
寄人(よりうど)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「与」部に、

寄人(ヨリウド) 。〔元亀二年本132二〕

寄人(ヨリウト) 。〔静嘉堂本138六〕

とあって、標記語「寄人」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

--者永-(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状負-(フルイ)-文等之謀-‖--寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「寄人」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「寄人」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

寄人(ヨリウド/キシン) 。〔官位門315八〕

とあって、標記語「寄人」の語を収載し、訓みを「ヨリウド」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

寄人(ヨリウト) 。〔・言語進退門94三〕

とあって、弘治二年本だけに標記語「寄人」の語を収載する。また、易林本節用集』には、標記語「寄人」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「寄人」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

468‖-官領寄人(ヨリサウト)-(ウー)--等評判也奉行人差符‖- 方角奉行也。又奉行下ニシテ万亊云付人也。〔謙堂文庫蔵四五左C〕

とあって、標記語「寄人」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

管領(クハンリヨウ)寄人(ヨリウド)右筆--管領(クハンリヨウ)寄人(ヨリウト)トハ。管領ニ隨(シタカ)ヒ贔屓(ヒイキ)ノ者ナリ。〔下21ウ一〜二〕

とあって、この標記語「管領」とし、語注記は「管領寄人とは、管領に隨がひ贔屓の者なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

管領(くハんれい)寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)管領寄人右筆-行人等評判也 管領の事ハ下にあり。其□□□見へたり。評ハ事のすじを論する也。判ハ其よしあしをわくるなり。〔65オ七〜八〕

とあって、この標記語「寄人」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)す管領(くハんれい)寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-管領寄人---評判也。▲管領寄人ハ執事(しつじ)の下司(したつかさ)也。執事ハ六月の返状(へんじやう)に見ゆ。〔48ウ三〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を管領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)。▲管領寄人ハ執事(しつじ)の下司(したつかさ)也。執事ハ六月の返状(へんじやう)に見ゆ。〔86ウ五〜六〕

とあって、標記語「寄人」の語を収載し、その語注記は「執事の下司なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「寄人」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

より-うど〔名〕【寄人】又、よりびと。和歌所、記録所、などに召されて、事を執る職。きにん。隆信集「和歌所のよりうどに參りて、吉書奏すとて、云云」〔2100-3〕

とあって、標記語「寄人」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「より-うど寄人】〔名〕よりゅうど(寄人)」で、標記語「よりゅ-うど寄人】〔名〕@記録所、御書所、後院などの職員。庶務や執筆に従事する者で、古法に通じた者が選ばれた。A和歌所の職員。和歌の選定のことなどちかさどった。召人(めしゅうど)。B荘園における荘民の一つ。身柄はその荘園領主とは別の領主に属して雑役を勤め、年貢は荘園領主に納めた。C鎌倉・室町幕府の政所(まんどころ)、問注所、侍所の職員。執事の下にあって雑務や執事などをつかさどった。Dもと宮内省御歌所の職員。御歌所寄人。[語源説]その官庁に寄り合う人の義〔類聚名物考〕」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
掃部允藤原行光、加政所寄人〈云云〉《訓み下し》掃部ノ允藤原ノ行光、政所ノ寄人(ヨリフト)ニ加ヱラルト〈云云〉。《『吾妻鏡建久五年三月九日の条》
 
 
2003年10月17日(金)晴れ。東京(八王子)→島根(松江)
管領(カンレイ)(カンリョウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、

管領(クワンレイ) 。〔元亀二年本189十〕〔静嘉堂本214一〕〔天正十七年本中36ウ一〕

とあって、標記語「管領」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

--者永-(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状負-(フルイ)-文等之謀-実糺‖--寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「官領」「管領」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「官領」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

管領(クワンレイフヱ、ノトル)[上・上] 。〔態藝門531七〕

とあって、標記語「管領」の語を収載し、訓みを「クワンレイ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

管領(クハンレイ) 。〔・人倫門157四〕〔・人倫門128七〕

管領(クワンレイ) 。〔・人倫門117八〕〔・人倫門143一〕

とあって、標記語「管領」の語を収載し、訓みは「クハンレイ」と「クワンレイ」の二種が見える。また、易林本節用集』には、

官領(クワンレイ) 殿上人頭也。―位。―途。―爵。〔言辞門128七〕

とあって、標記語「官領」の語をもって収載し、語注記に「殿上人頭なり」で、訓みは「クワンレイ」とする。

 このように、上記当代の古辞書に、「官領」「管領」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

468糺‖-官領寄人(ヨリサウト)-(ウー)--等評判也奉行人差符‖- 方角奉行也。又奉行下ニシテ万亊云付人也。〔謙堂文庫蔵四五左C〕

とあって、標記語「官領」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

管領(クハンリヨウ)寄人(ヨリウド)右筆--管領(クハンリヨウ)寄人(ヨリウト)トハ。管領ニ隨(シタカ)ヒ贔屓(ヒイキ)ノ者ナリ。〔下21ウ一〜二〕

とあって、この標記語「管領」とし、語注記は「管領寄人とは、管領に隨がひ贔屓の者なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)管領寄人右筆-行人等評判也 管領の事ハ下にあり。其□□□見へたり。評ハ事のすじを論する也。判ハ其よしあしをわくるなり。〔65オ七〜八〕

とあって、この標記語「管領」の語を収載し、語注記は、「管領の事ハ下にあり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-管領寄人---評判也。▲管領寄人ハ執事(しつじ)の下司(したつかさ)也。執事ハ六月の返状(へんじやう)に見ゆ。〔48ウ三〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を管領(くわんれい)寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)。▲管領寄人ハ執事(しつじ)の下司(したつかさ)也。執事ハ六月の返状(へんじやう)に見ゆ。〔86ウ五〜六〕

とあって、標記語「管領」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Quanrio<.クヮンリャウ(管領) Chiguio<uo tcucasadoru.(知行を管る)ある在所,領地などを所有,あるいは,管理支配すること.〔邦訳519r〕

Quanrei.クヮンレイ(管領) ある官職の名称.〔邦訳519l〕

とあって、標記語「管領」の語の意味は、「クヮンリャウ」で、「ある在所,領地などを所有,あるいは,管理支配すること」とし、「クヮンレイ」で、「ある官職の名称」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

くゎん-りゃう〔名〕【管領】〔くゎんれい(管領)を參見せよ〕占めて、我が物とすること。道徳指揮論「心意虚靜、~氣我順、天地、無包裹和漢朗詠集、上「歌酒家家花處處、莫上陽春後愚昧記、應安四年四月四日「佐川下人死人等、川原者取棄之、取衣裳之間、犬~人等、稱管領之旨、返川原者所之、云云」〔0591-1〕

くゎん-れい〔名〕【管領】〔日中行事「くゎんれいの陰陽師」林エ節用集(文明)人倫「關白(クワンパク)、管領(クワンレイ)」運歩色葉集「管領(クワンレイ)」れいは、領の漢音、令、靈、同じ、くゎんりょう(管領)を參見せよ〕(一)管(つかさど)り、治むること。支配すること。管轄すること。源平盛衰記、十九、文覺頼朝對面事「太政入道、云云、天下を管領すれども、惡逆無道にして、宿運、既に盡きたり」(二)管領する職。諏訪大明~繪詞(延文)「東夷起して、奥州騒亂する事ありき、云云、武家、其濫吹を鎭護せむ爲に、安藤太と云ふ者を、蝦夷管領とす」武家名目鈔、廿七、職名、下「蝦夷管領、又、稱蝦夷代官、云云、北條義時、武家の執權たりし時に、安藤氏を、津輕の夷地に居らしめて、奥羽、及、渡島(わたりじま)の蝦夷に備へ、夷人を管領せられし、云云」太平記、十四、新田足利確執奏状事「中務卿親王を、東國の御管領に成し奉り、新田左兵衞督義貞を、大將軍に定めて、國國の大名どもをぞ、添へられける」日中行事(後醍醐天皇)「代厄の御祭、くゎんれいの陰陽師勤むる也」(三)室町幕府の第一の重職の稱、鎌倉幕府の執權、江戸幕府の老中の如し、初、執事と稱せしが、將軍義滿以後、管領と改む、斯波氏、細川氏、畠山氏、の三家、代る代る、之れに補せられて、これを、三管領と稱せり。儀式などに、管領の出仕せざる時、其一族の者の代理するを、管領代と云ふ。又、別に、鎌倉に置きて東國を鎭せしめしを、關東管領と云ひき、其條を見よ。海人藻芥、下「細川武藏守頼之迄は、執事と稱す、其以後、皆稱管領此事、依時事歟」〔0591-1〕

とあって、標記語「官領」「管領」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「かん-りょう管領】〔名〕(「りょう」は「領」の呉音)@(―する)自分のものにすること。自分のものとして、完全に対象を掌握すること。かんれい。A(―する)管理、支配すること。領有すること。かんれい。B土地や人間を管理、支配する人。また、その職。頭領。かんれい。C「かんれい(管領)C」に同じ。D「かまくらくぼう(鎌倉公方)」に同じ。E「かんとうかんれい(関東管領)A」に同じ」と標記語「かん-れい管領】〔名〕@(―する)「かんりょう(管領)@」に同じ。A(―する)「かんりょう(管領)A」に同じ。B「かんりょう(管領)B」に同じ。C室町幕府の職名。將軍を補佐し、政務全体を管理した。はじめ執事(しつじ)といったが、貞治元年(一三六二)斯波義将が執事となってからこの名を用いるようになった。室町中期からは、足利一門の斯波、細川、畠山の三家のうちから任命されるのが例となった(三管領、三管)。かんりょう。管領職(かんれいしき)。D「かまくらくぼう(鎌倉公方)に同じ」。E「かんとうかんれい(関東管領)」に同じ」とあって、「かんれい」Bの用例として『庭訓徃來註』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
而項年之間、平相國禪閤、恣管領天下、刑罰近臣《訓み下し》而ルニ項年ノ間、平相国禅閤、恣ニ天下ヲ管領(クハンレイ)シ、近臣ヲ刑罰ス。《『吾妻鏡治承四年四月二十七日の条》
 
2003年10月16日(木)曇り一時晴れ間。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
糺明(キウメイ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「幾」部に、

×。〔元亀二年本はこの部分を欠落する〕

糺明(キウメイ) 。〔静嘉堂本326七〕

とあって、標記語「糺明」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

--者永-(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状負-(フルイ)-文等之謀-‖--領寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「糺明」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

糺明(キウメイ) 。〔態藝門89二〕

とあって、標記語「糺明」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

糺明(キウメイタヾス、アキラカ)[上・○] 。〔態藝門836一〕

とあって、標記語「糺明」の語を収載し、訓みを「キウメイ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

糺明(キウメイ) 。〔・言語進退門221六〕

糺明(キウメイ) ―決(ケツ)。〔・言語門184九〕

糺明(キウメイ) ―決。〔・言語門174四〕

とあって、標記語「糺明」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

糺明(キウメイ) ―決(ケツ)。〔言辞門190二〕

とあって、標記語「糺明」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「糺明」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

468‖-官領寄人(ヨリサウト)-(ウー)--等評判也奉行人差符‖- 方角奉行也。又奉行下ニシテ万亊云付人也。〔謙堂文庫蔵四五左C〕

とあって、標記語「糺明」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

負累(ブルイ)證文(セウ―)謀實(ボウジツ)‖-(キウメイ)負累證文トハ。公方(クハウ)私シ隠(カク)レモナキ文ナリ。〔下21オ八〜ウ一〕

とあって、この標記語「糺明」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(これ)糾明(きうめい)す/‖- 糺明ハたゝしくあきらかにすと訓す。〔65オ六〕

とあって、この標記語「糺明」の語を収載し、語注記は、「糺明ハたゝしくあきらかにすと訓ず」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)糾明(きうめい)す管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-管領寄人---評判也〔48ウ二〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)(これ)を管領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)〔86ウ五〕

とあって、標記語「糺明」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qiu<mei.キウメイ(糺明) Tadaxi aqiramuru.(糺し明らむる)裁判,または,審問.例,Qiu<mei suru.(糺し明らむる)審判する,または,取り調べる.〔邦訳511r〕

とあって、標記語「糺明」の語の意味は「裁判,または,審問」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

きう-めい〔名〕【糺明糾明】かんがふること。罪をただし、あきらむること。仔細に、事情を問ひ糺ぶること。糺問。吟味。侍所沙汰篇「一、刈田狼藉事、爲検斷方、可糺明之」〔0454-2〕

とあって、標記語「糺明」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「きゅう-めい糺明】〔名〕罪、不正などを問いただし、悪い所を追求してはっきりさせること。糺問。糺行」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而爲平太弘貞、領所之旨、捧申状之間、糺明之處、無相違《訓み下し》而ルニ平太弘貞ガ、領所タルノ旨、申状ヲ捧グルノ間、糺明(キウメイ)スルノ処ニ、相違無シ。《『吾妻鏡』治承五年四月二十日の条》
 
2003年10月15日(水)曇り一時晴れ間。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
證文(シヤウモン)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「勢」部に、

證文(―モン) 。〔元亀二年本352七〕

證文(――) 。〔静嘉堂本424六〕

とあって、標記語「證文」の語を収載し、その語注記は未記載にする。そして、他古辞書が「志」部に所載する語であるのに対し、『運歩色葉集』と下記に引用する印度本『節用集』類が「勢」部に所載する点が時代の異なりとして注目すべき点である。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

--者永-(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状負-(フルイ)-等之謀-実糺‖--領寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「證文」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「證文」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

證文(シヨウモンアラワス、ブン・フミ)[去・平] 。〔態藝門943七〕

とあって、標記語「證文」の語を収載し、訓みを「シヨウモン」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には「世」部に、

證文(セウモン) 。〔・言語進退門266七〕

證明(シヨウミヤウ) ―文。―拠(ゴ)。―跡(ゼキ)。〔・言語門226六〕

證明(シヨウミヤウ) ―文。―拠。―状/―跡。―人。〔・言語門213三〕

とあって、弘治二年本は、標記語に「證文」の語を収載し、他本は標記語「證明」の冠頭字「證」の熟語群として収載する。また、易林本節用集』には、

證據(シヨウコ) ―明(ミヤウ)。―人(ニン)。〔言辞門215三〕

とあって、標記語「證文」の語は、未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書では、広本節用集』『運歩色葉集』印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』に、「證文」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

467負累(ブルイ)證文之謀實(ホシツ) 負累負目之日記等也。〔謙堂文庫蔵四五左B〕

とあって、標記語「證文」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

負累(ブルイ)證文(セウ―)謀實(ボウジツ)‖-(キウメイ)負累證文トハ。公方(クハウ)私シ隠(カク)レモナキ文ナリ。〔下21オ八〜ウ一〕

とあって、この標記語「證文」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

負累(ふるい)證文(しやうもん)(とう)の謀實(ぼうじつ)負累證文謀実 負累ハわつらひをおふと訓す。あやまり證文の事也。謀実の注は前にあり。〔65オ五〜六〕

とあって、この標記語「證文」の語を収載し、語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)す管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文之謀実‖-管領寄人---評判也〔48ウ二〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を管領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)〔86ウ五〕

とあって、標記語「證文」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xo>mon.シヨウモン(證文) Xo>cono caqimono.(証拠の書き物)証拠となる真正の文書.〔邦訳793r〕

とあって、標記語「證文」の語の意味は「証拠となる真正の文書」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しょう-もん〔名〕【證文】(一)後の證(あかし)とする文書(かきもの)證書。(二)あかしとなる文章。典據(てんきょ)となる文。出典袋草子(藤原清輔)三「範兼、顯廣が同心時如虎、聞證文復如鼠也」(三)契約の文書。契約書。〔1010-1〕

とあって、標記語「證文」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「しょう-もん證文】〔名〕@後々の論拠とするための文書。ある事実を証明する文書。A特に、債権を証明する文書。[補注]ものの授与、売買、貸借などに関してとりかわされる、非政治的な文書の類を総称していう」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
公朝、就鎌倉内儀、支申之趣、發言然而不帶證文、親光捧嚴密御消息者也《訓み下し》公朝ハ、鎌倉ノ内儀ニ就テ、支ヘ申スノ趣、発言ス。然レドモ証文(シヨウモン)ヲ帯セズ、親光ハ厳密ノ御消息ヲ捧グル者ナリ。《『吾妻鏡』文治二年五月二日の条》
 
 
2003年10月14日(火)曇り小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
負累(フルイ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「布」部に、「負物」の一語を収載し、標記語「負累」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

--者永-(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状-(フルイ)-文等之謀-実糺‖--領寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(フルイ)-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

負累 勅吏/フルイ。〔黒川本・疉字門中106ウ三〕

負累 〃名。〃戴。〃。〃物。〃擔。〃笈。〃駄。〃荷。〔卷第七・疉字門84一〕

とあって、標記語「負累」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「負累」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書にあっては、三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』に「負累」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

467負累(ブルイ)證文等之謀實(ホシツ) 負累負目之日記等也。〔謙堂文庫蔵四五左B〕

とあって、標記語「負累」の語を収載し、語注記は、「負累負目の日記等なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

負累(ブルイ)證文(セウ―)謀實(ボウジツ)‖-(キウメイ)ス負累證文トハ。公方(クハウ)私シ隠(カク)レモナキ文ナリ。〔下21オ八〜ウ一〕

とあって、この標記語「負累」とし、語注記は「負累證文とは、公方私し隠れもなき文なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

負累(ふるい)證文(しやうもん)(とう)の謀實(ぼうじつ)負累證文等謀実 負累ハわつらひをおふと訓す。あやまり證文の事也。謀実の注は前にあり。〔65オ五〜六〕

とあって、この標記語「負累」の語を収載し、語注記は、「負累ハわつらひをおふと訓す。あやまり證文の事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)す管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-官領寄人---評判也。▲負累ハ古(ふる)き債(おひめ)の證文也と。〔48ウ二〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を官領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)。▲負累ハ古(ふる)き債(おひめ)の證文也と。〔86ウ五〕

とあって、標記語「負累」の語を収載し、その語注記は、「負累は、古き債めの證文なりと」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「負累」の語の未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「負累」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-るい負累】〔名〕他から金銭や物品を借り、その返済の義務を負うこと。負債。また、その記録証文類」とあって、用例として『庭訓徃來』及び『庭訓徃來註』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
當所去年依少損亡、去春庶民等粮乏、盡失耕作計之間、捧數十人連署状、給出舉米五十石、仍返上期、爲今年秋之處、去月大風之後、國郡大損亡、不堪飢之族、已以欲餓死故、負累件米之輩、兼怖譴責、插逐電思之由、令聞及給之間、爲救民愁、所被揚鞭也《訓み下し》当所ハ去年少シ損亡ニ依テ、去ヌル春ヨリ庶民等糧乏シク、尽ク耕作ノ計ヲ失フノ間(央バ耕作ノ計ヲ失フノ間)、数十人連署ノ状ヲ捧グ、出挙米五十石ヲ給ハル、仍テ返上ノ期ハ、今年ノ秋タルノ処ニ、去ヌル月大風ノ後、国郡大イニ損亡シ、飢ニ堪ヘザルノ族、已ニ以テ餓死ナント欲スルノ故ニ、件ノ米ヲヌルノ輩、兼テ譴責ヲ怖レ、逐電ノ思ヒヲ挿ムノ由、聞キ及バシメ給フノ間、民ノ愁ヘヲ救ハン為ニ、鞭ヲ揚ゲラルル所ナリ。《『吾妻鏡』建仁元年十月六日の条》
 
 
2003年10月13日(月)小雨後晴れ間。東京(八王子)→名古屋
和與(ワヨ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「和」部に、

和与(―ヨ) 。〔元亀二年本87五〕〔天正十七年本上53オ六〕

和与(ワヨ) 。〔静嘉堂本107六〕

とあって、標記語「和与」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

--者永-(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状-(フルイ)-文等之謀-実糺‖--領寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「和與」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「和與」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

和與(ワヨ/―、クニスル・アタウ)[○・去] 。〔態藝門238四〕

とあって、標記語「和與」の語を収載し、訓みを「ワヨ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

和與(ワヨ) 。〔・言語進退門73三〕

和合(ワガウ) ―讒(ザン)。―歌(カ)。―顔(ガン)。―塵(ヂン)。―同。―談(ダン)/―市(シ。―姦(カン)。―漢(カン)―與(ヨ)。―光(クハウ)。―儀(ギ)/―利。〔・言語門71九〕

和合(ワガウ) ―讒。―歌。―顔。―塵。―同。―談/―市。―姦。―與。―免。―儀。―利。〔・言語門65六〕

和合(ワカウ) ―歌。―談。―光/―漢。―與。―利。〔・言語門78一〕

とあって、弘治二年本は標記語「和與」の語を収載し、他本は標記語「和合」の冠頭字「和」の熟語群として収載する。また、易林本節用集』には、

和與(ワヨ) 。〔言辞門67五〕

とあって、標記語「和與」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「和與」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

466-(ゲイ){シタシキ中ヘウルヲ云}-状 和与式目有十九ケ条也。契盟之義以譲‖_与所帶云也。〔謙堂文庫蔵四五左B〕

とあって、標記語「和與」の語を収載し、語注記は、「和与式目十九ケ条に有るなり。契盟の義を以って所帶を譲与するを云ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

和與(ワヨせウ)ハ和合(ワガウ)ノ文(ブン)也。子孫(シソン)兄弟(ケイテイ)ノ中能(ヨク)々可然アレト書文也。〔下21オ八〕

とあって、この標記語「和與」とし、語注記は「和合の文なり。子孫・兄弟の中能々然るべくあれと書く文なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

和与状(わよじやう)和与 和睦(わぼく)のしるしとして取替(とりかわ)せたる證文なり。〔65オ四〕

とあって、この標記語「和與」の語を収載し、語注記は、「和睦のしるしとして取替せたる證文なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)す管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-管領寄人---評判也▲和與状ハ和睦(なかなをり)の取替(とりかは)せ證文也。〔48ウ二〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を管領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)▲▲和與状ハ和睦(なかなほり)の取替(とりかハ)せ證文也。〔86ウ五〕

とあって、標記語「和與」の語を収載し、その語注記は、「和與状は、和睦の取替せ證文なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Quayo.クヮヨ(和與) Voya quabocu.(和与和睦) 講和,あるいは,和解.※Vayoの誤植.〔邦訳521r〕

とあって、標記語「和與」の語の意味は「講和,あるいは,和解」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【和與】(一)和(やはら)ぎてあたふること。又、昔、田宅を授け與ふること。其書付を和與状と云ひ、其地を和與地と云ひ、すべて其物を和與物と云ふ。式目抄、三「和與はあまない與る也、財寳にてもあれ、田地にてもあれ、眞箇、發氣してやるを和與と云」尺素往来「本領之事、云云、~明寄進、佛陀施入、他人和與、庶子割分之地者、不悔還改動之儀(二)相與(とも)に和解すること。和談すること。源平盛衰記、三十七、則綱討盛俊事「我を助給たらん人をば、爭か我も助奉らで有べき、云云、和與して命は生たれ共、とても遁まじき盛俊也」〔2173-5〕

わよ-じゃう〔名〕【和與状】前條の語の(一)を見よ。忽那家古文書、建長六年三月八日「如去月廿四日和與状者、西浦者可重虎處分、云云、且兩方守和與状、相互無違亂沙汰〔2173-5〕

とあって、標記語「和與」と「和與状」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-和與】〔名〕@折り合いをつけること。和睦すること。和解。かよ。A財物・権利を無償で讓与すること。中世の慣習ではいったん血縁の者以外の他人に讓与した財物は悔やんでも返してもらうことができなかった。B中世の訴訟解決法の一つ。幕府の裁許を得る以前に、当事者で確認しあって和解するもの。和解が成立した際、当事者は各々和与状を作成して互いに交換して幕府裁判所に提出し、幕府の担当奉行はこれに裏封を加え、さらに和与裁許状を発給してこの和解を正式に認可した。和談。わよの状(じょう)「わよじょう(和与状)」に同じ」と「わよ-じゃう〔名〕【和與状】鎌倉時代、訴訟当事者で和解が成立した時に作成する文書。「和与」と書く頭書、訴訟の要旨を書く事書、契約内容を記す主文、日付と発行者の署判から成っている。当事者は互いに相手の文書と交換しあった後に幕府の裁判所に提出し、幕府では担当奉行が証判を裏書してその旨を確認した。和与の状」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
於爲和與芳心物者、不可改變之由今日被定、圖書允清定、奉行之《訓み下し》和与芳心ノ物タルニ於テハ、改変スベカラザルノ由今日定メラル、図書ノ允清定、之ヲ奉行ス。《『吾妻鏡元久二年十一月二十日の条》
而彼領者、信綱入道、承久之比、或以由緒之地彼本主讓状、申賜各別御下文知行、或以本所一圓之地、就彼和與状、令領掌凡式目者、貞永元年也《訓み下し》而ルニ彼ノ領ハ、信綱入道、承久ノ比、或ハ由緒ノ地ハ彼ノ本主ノ譲状ヲ以テ、各別ニ御下文ヲ申シ賜ハリ、知行シ、或ハ本所一円ノ地ヲ以テハ、彼ノ和与(ワヨ)(ジヤウ)ニ就テ、領掌セシム。凡ソ式目ハ、貞永元年ナリ。《『吾妻鏡寛元元年十一月一日の条》
 
 
2003年10月12日(日)小雨後晴れ間。東京(八王子)→世田谷(玉川→駒沢)
券契(ケンケイ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「氣」部に、標記語「券契」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

--者永-(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状負-(フルイ)-文等之謀-実糺‖--領寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「券契」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「券契」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

券契(ケンケイ/チギル・ノリ、チギル)[去・去] 證文。〔態藝門595四〕

とあって、標記語「券契」の語を収載し、訓みを「ケンケイ」とし、その語注記は「證文」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

券契(ケンケイ) 。〔・言語門145一〕

券契(ケンケイ)・言語門134七〕

とあって、標記語「券契」の語を収載する。また、易林本節用集』には、標記語「券契」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書には、広本節用集』と印度本系統の永祿二年本尭空本節用集』に「券契」の語が収載されていて、広本節用集』の語注記「證文」は、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えていない。即ち、語注記は異なった資料をもって記載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

466-(ゲイ){シタシキ中ヘウルヲ云}-状 和与式目有十九ケ条也。契盟之義以譲‖_与所帶云也。〔謙堂文庫蔵四五左B〕

とあって、標記語「券契」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

雜人(ザウ―)券契(ケンケイ)ハ。男女券契(ケンケイ)トハシタシキ中ヘウツルヲ云ナリ。〔下21オ七〕

とあって、この標記語「券契」とし、語注記は「男女券契とは、したしき中ヘうつるを云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

奴婢(ぬひ)雜人(ざうにん)の券契(けんけい)奴婢雜人券契 男子に奴と云。婦人に婢と云。皆人につかハるゝいやしき者也。雑人ハ下級也。券契はそれを召抱(めしかゝへ)し手形證文なり。〔65オ二〜四〕

とあって、この標記語「券契」の語を収載し、語注記は、「男子に奴と云ふ。婦人に婢と云ふ。皆人につかはるゝいやしき者なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)す管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-管領寄人---評判也▲奴婢雑人ノ券契ハ奴隷(しもべ)婢女(はした)など下人を召抱(めしかヽ)ゆる證文也。〔48ウ一〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を管領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)▲▲奴婢雑人ノ券契ハ奴隷(しもべ)婢女(はした)など下人を召抱(めしかヽ)ゆる證文也。〔86ウ二〜三〕

とあって、標記語「券契」の語を収載し、その語注記は、「奴婢雑人の券契は、奴隷婢女(はした)など下人を召抱(めしかヽ)ゆる證文」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「券契」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

けん-けい〔名〕【券契】地券、手形、割符などの總名。戦國策、齊策「約車治裝載券契而行」吾妻鏡、九、文治五年九月十四日「辨定諸郡券契、郷里田畠〔0626-5〕

とあって、標記語「券契」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「けん-けい券契】〔名〕(「ケンケイ」とも)@「めしぶみ(召文)@」に同じ。A「めしぶみ(召文)A」に同じ」とあって、Aの用例として『庭訓徃來註』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
仍件兄弟、暗注進兩國繪圖、辨定諸郡券契郷里田畠山野河海、悉見此中也《訓み下し》仍テ件ノ兄弟、暗ニ両国ノ絵図ヲ注進シ、諸郡ノ券契(ケンケイ)郷里ノ田畠ヲ弁定ス。(并ニ諸郡ノ券契ヲ定ム。郷里田畠)山野河海、悉ク以テ)此ノ中ニ見ヘタルナリ。《『吾妻鏡文治五年九月十四日の条》
 
 
2003年10月11日(土)晴れのち曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
雜人(ザフニン)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、標記語「雜人」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

--者永-(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状負-(フルイ)-文等之謀-実糺‖--領寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「雜人」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「雜人」の語を未収載にする。

 また、易林本節用集』には、

雜職(ザフシキ) ―人(ニン)。―兵(ヒヤウ)。〔人倫門177二〕

とあって、標記語「雜職」の冠頭字「雜」の熟語群に「雜人」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書にあっては、易林本節用集』に「雜人」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語となる。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

465放券奴婢雜人 旅券奴婢等賣放之券也。即年記云也。〔謙堂文庫蔵四五左A〕

とあって、標記語「雜人」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

雜人(ザウ―)券契(ケンケイ)ハ。男女券契(ケンケイ)トハシタシキ中ヘウツルヲ云ナリ。〔下21オ七〕

とあって、この標記語「雜人」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

奴婢(ぬひ)雜人(ざうにん)の券契(けんけい)奴婢雜人券契 男子に奴と云。婦人に婢と云。皆人につかハるゝいやしき者也。雑人ハ下級也。券契はそれを召抱(めしかゝへ)し手形證文なり。〔65オ二〜四〕

とあって、この標記語「雜人」の語を収載し、語注記は、「雑人は、下級なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)す管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-官領寄人---評判也。▲奴婢雑人ノ券契ハ奴隷(しもべ)婢女(はした)など下人を召抱(めしかヽ)ゆる證文也。〔48ウ一〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を官領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)。▲▲奴婢雑人ノ券契ハ奴隷(しもべ)婢女(はした)など下人を召抱(めしかヽ)ゆる證文也。〔86ウ二〜三〕

とあって、標記語「雜人」の語を収載し、その語注記は、「奴婢雑人の券契は、奴隷婢女(はした)など下人を召抱(めしかヽ)ゆる證文」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Zo<nin.l,zo<ninbara.ザウニン(雜人,または,雜人原) 下賤な者,または,下級の軍勢.〔邦訳843r〕

とあって、標記語「雜人」の語の意味は「下賤な者,または,下級の軍勢」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ざふ-にん〔名〕【雜人】奴婢の類。下賤のものども。吾妻鏡、四十三、建長五年十月一日「奴婢雜人事、被法、付出地仕百姓子息所從事、雖年序、宜彼輩之意太平記、十、新田義貞謀叛事「我が館のあたりを、雜人の馬の蹄にかけさせつることこそ、かへすがへすも無念なれ」俗語録、(寛文)「魏書、諸州雜人〔0824-5〕

とあって、標記語「雜人」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ぞう-にん雑人】〔名〕@社会的身分の低い者。下賤(げせん)の者。A平安時代以後、荘園の荘官や地頭、有力農民などに隷属して、家事、農事、軍事その他の主家の雑役に使われた者。下人。B鎌倉時代、侍である御家人・非御家人に対して名主・百姓以下の一般の庶民をさす。甲乙人。凡下。C中世、具足をつけないで武士に従う雑兵。ぞうにんばら」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而勢多橋、破損之間、爲佐々木定綱奉行、以舩奉渡湖海之處、延暦寺所司等、相交雜人之中、依現狼藉、定綱郎從、相從相咎間、不圖起闘亂及殺害《訓み下し》而ルニ勢多ノ橋、破損スルノ間、佐佐木ノ定綱ヲ奉行トシテ、船ヲ以テ湖海ヲ渡シ奉ルノ処ニ、延暦寺所司等、雜人(ザフ―)ノ中ニ相ヒ交ハリ、狼藉ヲ現スニ依テ、定綱ガ郎従、相ヒ従ツテ相ヒ咎ムル間、図ラザルニ闘乱ヲ起シ殺害ニ及ブ。《『吾妻鏡』文治三年十月七日の条》
 
 
2003年10月10日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
奴婢(ヌビ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「奴」部に、

奴婢(ヌビ)(ヌ)ト。女。〔元亀二年本75三〕

奴婢(ヌビ) 男曰―。女曰―。〔静嘉堂本91三〕

奴婢(ヌヒ) 男曰―。女曰―。〔天正十七年本上45ウ三〕

とあって、標記語「奴婢」の語を収載し、その語注記は、「男を奴と曰ふ。女を婢曰ふ」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

--者永-(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状負-(フルイ)-文等之謀-実糺‖--領寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

奴婢 ヌヒ/下賎部。〔黒川本・疉字門上62ウ六〕

奴婢 ヌヒ。〔卷第三・疉字門38三〕

とあって、標記語「奴婢」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「奴婢」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

奴婢(・ヤツコ、シモヲンナ)[上・○] 奴男婢女。共下人義。〔人倫門200八〕

とあって、標記語「奴婢」の語を収載し、訓みを「ヌヒ」とし、その語注記は、「奴は男、婢は女。共に下人の義」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

奴婢(ヌビ) 下人。〔・人倫門59四〕〔・人倫門60五〕〔・人倫門63三〕

奴婢(ヌビ/アルジ、ヤツコ) 下人也。〔・人倫門55一〕

とあって、標記語「奴婢」の語を収載し、語注記には「下人(なり)」と記載する。また、易林本節用集』には、

奴婢(ヌビ) 。〔人倫門58七〕

とあって、標記語「奴婢」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「奴婢」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。ただし、広本節用集』、『運歩色葉集』に見える語注記は、この『庭訓徃來註』とは異なっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

465放券奴婢雜人 旅券奴婢等賣放之券也。即年記云也。〔謙堂文庫蔵四五左A〕

とあって、標記語「奴婢」の語を収載し、語注記は、未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

奴婢(ヌビ)ハ。奴ハ女(ヲンナ)ノツカヒモノ。婢ハ男のツカヒモノ也。〔下21オ七〕

とあって、この標記語「奴婢」とし、語注記は「奴は、女のつかひもの。婢は、男のつかひものなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

奴婢(ぬひ)雜人(ざうにん)の券契(けんけい)奴婢雜人券契 男子に奴と云。婦人に婢と云。皆人につかハるゝいやしき者也。雑人ハ下級也。券契はそれを召抱(めしかゝへ)し手形證文なり。〔65オ二〜四〕

とあって、この標記語「奴婢」の語を収載し、語注記は、「男子に奴と云ふ。婦人に婢と云ふ。皆人につかはるゝいやしき者なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)す管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-官領寄人---評判也。▲奴婢雑人ノ券契ハ奴隷(しもべ)婢女(はした)など下人を召抱(めしかヽ)ゆる證文也。〔48ウ一〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を官領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)。▲▲奴婢雑人ノ券契ハ奴隷(しもべ)婢女(はした)など下人を召抱(めしかヽ)ゆる證文也。〔86ウ二〜三〕

とあって、標記語「奴婢」の語を収載し、その語注記は、「奴婢雑人の券契は、奴隷婢女(はした)など下人を召抱(めしかヽ)ゆる證文」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

NVbi.ヌヒ(奴婢) Yatcuco yatcuco.(奴婢) 奉公人の男,または,女.〔邦訳475l〕

とあって、標記語「奴婢」の語の意味は「奉公人の男,または,女」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【奴婢】下男と、下女と。めしつかひの男女。ドヒ。名義抄、二「奴、音駑、ヤッコ、ヤツカリ、ツカヒヒト、婢、ヤッコ、ヒ」運歩色葉集奴婢、ヌヒ、男曰奴、女曰婢」唐書、張志和傳「帝嘗賜奴婢各一人、志和配爲夫婦〔1514-3〕

とあって、標記語「奴婢」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-奴婢】〔名〕(古くは「ぬび」とも)@令制における賤民。人格を認められず、財産として、売買、讓渡、寄進の対象となった。奴は男、婢は女をさし、所有者が国家であれば官奴婢、私人であれば私奴婢と称される。令制に定める五種の賤民(官戸・陵戸・家人・公奴婢・私奴婢)のうちの最下級のもの。やつこ。やつがれ。A家に隷属して雑仕事に召使われる男女」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
奴婢等事、及評定越堺下人事、地頭等、有不知之子細、年來於令留之輩者、不論年記《訓み下し》奴婢(ヌビ)等ノ事、評定ニ及ブ。堺ヲ越ユル下人ノ事、地頭等、不知ノ子細有テ、年来留メシムルノ輩ニ於テハ、年記ヲ論ゼズ。《『吾妻鏡』寛元元年四月二十日の条》
 
 
2003年10月9日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
放券(ハウケン)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、「放埒(ハウラツ)(シタカ)法度如シ(ハナスカタチ云)ナリ。放火(クワ)。放題(ダイ)。放逸(イツ)。放参(サン)。放食(ガイ)養同/小鳥」の6語を収載し、標記語「放券」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

--者永-(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状負-(フルイ)-文等之謀-実糺‖--領寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「放券」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「放券」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

放券(ハウケンハナツ、ノリ)[去・○] 。〔態藝門69七〕

とあって、標記語「放券」の語を収載し、訓みを「ハウケン」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

放券(―ケン)。〔・言語進退門26一〕

放逸(ハウイツ) ―黨(タウ)―券(ケン)。―火(クワ)。―牧(ボク)。―参(サン)/―喰(サン)。―盞(サン)盃酒部。―縱(セウ)。―言(ゴン)音也/―逐(チク)。―言(ゴン)。―免(メン)。―坐(ザ)。―還(ケン)。―散(サン)牛馬。―題(ダイ)詩歌所言也。日本俗或云放埒人・言語門22四〕

放逸(ハウイツ) ―償。―券。―火。―牧/―参(サン)。―盞盃酒部。―縱/―言詈言也。―逐―免―坐―散牛馬。―題(ダイ)詩歌所言也。日本俗或云放埒如生馬―シテ也。―喰(サン)。〔・言語門20三〕

とあって、標記語「放券」とするのは弘治二年本であり、他本は標記語「放逸」の冠頭字「放」の熟語群として収載する。また、易林本節用集』には、標記語「放券」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「放券」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

465放券奴婢雜人 放券奴婢等賣放之券也。即年記云也。〔謙堂文庫蔵四五左A〕

とあって、標記語「放券」の語を収載し、語注記は、「放券は、我が奴婢等賣り放つの券なり。即ち年記を云ふ」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

問注所者永代沽券(ウリケン)安堵(アンド)ノ年記放券(ハウケン)ト云事ハ。賣渡(ウリワタ)ス事ナリ。放券(―ケン)ト云ナリ。〔下21オ六〜七〕

とあって、この標記語「放券」とし、語注記は「賣渡す事なり。放券と云ふ」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

安堵(あんと)年記(ねんき)の放券(ほうけん)安堵年記放券 安堵の注前に見えたり。〔65オ一〜二〕

とあって、この標記語「放券」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)す管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-官領寄人---評判也。▲安堵年記放券ハすべて質物(しちもつ)等の證文をいふ。是年限(ねんげん)を定(さだ)めて物を預(あづ)かる手形(てがた)也。其年(とし)の中(なか)ハ其(その)(もと)の安堵(もの)といふ意(ゐ)(か)。安堵の注(ちう)ハ前(まへ)の進状に見ゆ。〔48ウ一〜二〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を官領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)。▲安堵年記放券ハすべて質物(しつもつ)等の證文(しようもん)をいふ。是年限(ねんげん)を定(さだ)めて物(もの)を預(あづ)くる手形(てがた)也。其年(とし)の中(うち)ハ其(その)(もと)の安堵(もの)といふ意(い)(か)。安堵の注(ちゆう)ハ前(まへ)の進状に見ゆ。〔86ウ三〜四〕

とあって、標記語「放券」の語を収載し、その語注記は、「安堵年記放券は、すべて質物等の證文をいふ。是れ年限を定めて物を預かる手形なり。其年の中は、其の元の安堵といふ意か」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「放券」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「放券」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ほう-けん放券】〔名〕@土地・家屋などを売却・讓与すること。A「ほうけんじょう(放券状)」の略」とあって、Aの用例として『庭訓徃來註』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
○第五八七号文書ノ按文ヲ参看アルベシ、沽却  私領田事 合弐段者、字犂前(裏書)○コノコノ位置ニアリ、第三六〇・五八七号文書ノ裏書ト同筆、「此内南壱段、相博家地了、」 在左京五条五坊七坪内右件田元者、故平覚院之所領也、仍後家平中子伝領年尚、而依有要用、限直米伍斛・見絹伍拾疋、永沽却会所目代良春畢、仍相副本公験、放券文如件《『東大寺文書・図成』康和二年正月十日の条、669 8/211》
 
 
2003年10月8日(水)曇り後薄晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
年記(ネンキ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「祢」部に、

年紀(―キ)廿一年也。〔元亀二年本163九〕

年紀(ネンキ)廿一季也。〔静嘉堂本181二〕

年紀(―キ) 今廿一季云也。〔天正十七年本中21ウ三〕

とあって、標記語「年紀」の語をもって収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

--者永-(ウリ)--(キ)-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状負-(フルイ)-文等之謀-実糺‖--領寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「年記」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「年記」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

年記(ネンキトシ、シルス)[平・○] 契約限也。〔態藝門429一〕

とあって、標記語「年記」の語を収載し、訓みを「ネンキ」とし、その語注記は「契約の限りなり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

年記(ネンキ) 契約限。〔・時節門133一〕

年記(ネンキ) 契約(ケイヤク)之限。〔・言語門107三〕

年記(ネンキ) 契約之限。〔・言語門97九〕〔・言語門119七〕

とあって、標記語「年記」を収載し、その語注記は広本節用集』を継承し「契約の限り」と記載する。また、易林本節用集』には、

年齢(ネンレイ) ―紀(キ)。―預(ヨ)。―來(ライ)。―行事(キヤウジ)/―臈(ラフ)。―年。―貢(グ)。―号(ガウ)。〔言辞門108三〕

とあって、標記語「年齢」の冠頭字「年」の熟語群として「年紀」の語をもって収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、標記語「年記」の語をもって収載するのは、広本節用集』と印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』類であり、これらには「契約の限り」という意味説明の語注記が記載されている。そして、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語であるが、この注記は茲の箇所にはあたらない。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

464安堵年記 何ケ年云。篭記地、又人其記之時、返本錢|。賣買之物取_返者也云々。〔謙堂文庫蔵四五左@〕

とあって、標記語「年記」の語を収載し、語注記は、「何ケ年と云ふ。記して篭る地、また、人を賣るに當に其れを記すべきの時、本錢を返す賣買の物を取り返すものなり云々」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

問注所者永代沽券(ウリケン)安堵(アンド)ノ年記放券(ハウケン)ノト云事ハ。賣渡(ウリワタ)ス事ナリ。放券(―ケン)ト云ナリ。〔下21オ六〜七〕

とあって、この標記語「年記」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

安堵(あんと)年記(ねんき)の放券(ほうけん)安堵年記放券 安堵の注前に見えたり。〔65オ一〜二〕

とあって、この標記語「年記」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)す管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-官領寄人---評判也。▲安堵年記放券ハすべて質物(しちもつ)等の證文をいふ。是年限(ねんげん)を定(さだ)めて物を預(あづ)かる手形(てがた)也。其年(とし)の中(なか)ハ其(その)(もと)の安堵(もの)といふ意(ゐ)(か)。安堵の注(ちう)ハ前(まへ)の進状に見ゆ。〔48ウ一〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を官領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)。▲安堵年記放券ハすべて質物(しつもつ)等の證文(しようもん)をいふ。是年限(ねんげん)を定(さだ)めて物(もの)を預(あづ)くる手形(てがた)也。其年(とし)の中(うち)ハ其(その)(もと)の安堵(もの)といふ意(い)(か)。安堵の注(ちゆう)ハ前(まへ)の進状に見ゆ。〔86ウ三〜四〕

とあって、標記語「年記」の語を収載し、その語注記は、「安堵年記放券は、すべて質物等の證文をいふ。是れ年限を定めて物を預かる手形なり。其年の中は、其の元の安堵といふ意か」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)には、標記語「年記」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ねん-〔名〕【年紀】(一)としだて。よ。年代。後漢書、光武紀、下「孝宣帝毎嘉瑞、輒以改元、~爵、五鳳、甘露、黄龍、列爲年紀保元物語、三、爲義最期事「年紀三百四十七年」(二)としばへ。よはひ。年齢。晉書、魯褒傳「不優劣、不年紀、賓客輻輳、門常如市」〔1527-3〕

とあって、標記語「年紀」の語をもって収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ねん-年紀年記】〔名〕@とし。年代。A年齢。よわい。Bある時点から現在までの年月日。C平安末期から中世にかけて、不動産についての権利を取得し、または消失する特定の経過年月。とくに、鎌倉幕府は御成敗式目で、この期間を二〇年と定めたので、それ以後、二〇か年をさすことが多い。年序。D中世、本錢返・本物返。年季売などの契約で、各々の条件によって成立した貸借関係がまだ清算されていない期間。E「ねんき(年季)」に同じ」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
爲値遇結縁、欲被抽補當寺生身如來地頭者仍依請之由、賜御下文之後歴年記之處、寺家地頭、還成煩《訓み下し》値遇ノ結縁ノ為ニ(ヲ給ハランガ為ニ)、当寺生身ノ如来ノ地頭ニ抽補セラレンコトヲ欲スル者。仍テ請フニ依ルノ由、御下文ヲ賜ハルノ後、年記(―キ)ヲ歴ルノ処ニ、寺家ノ地頭トシテ)、還リテ煩ヒヲ成ス。《『吾妻鏡』承元四年八月十二日の条》
 
 
2003年10月7日(火)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
沽券(コケン・うりケン)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「宇」部と「古」部に、

沽券(ウリケン) 。〔元亀二年本180一〕    沽券(―ケン) 。〔元亀二年本231十〕

沽券(ウリケン) 。〔静嘉堂本201四〕     沽券(―ケン) 。〔静嘉堂本266五〕

沽券(ウリケン) 。〔天正十七年本中29ウ八〕  沽券(コケン) 。〔天正十七年本中62オ四〕

とあって、両部の標記語として「沽券」の語を収載し、訓みは「うりケン」と「(コ)ケン」として両用になる。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所者永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

---(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状負-(フルイ)-文等之謀-実糺‖--領寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「沽券」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「沽券」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

沽券(コケンウル、チギル・ノリ)[平・去] 券者文也。〔態藝門691五〕

とあって、標記語「沽券」の語を収載し、訓みを「コケン」とし、その語注記は「券者文なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

沽券(ウリケン)。〔・言語進退門152二〕  沽券(コケン)。〔・言語進退門189七〕

沽券(ウリケン)。 〔・言語門122八〕    沽券(コケン)。 ―却(キヤク)。〔・言語門155七〕

沽券(ウリケン)。 〔・言語門112四〕    沽券(コケン)。〔・言語門145六〕

沽券(ウリケン)。 〔・言語門136七〕 

とあって、標記語「沽券」の語を収載し、訓みは「うりケン」と「コケン」との両用にある。また、易林本節用集』には、

沽却(コキヤク) ―券(ケン)。〔言辞門158六〕

とあって、標記語「沽却」の冠頭字「沽」の熟語群として「沽券」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「沽券」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

463於御前對决雌雄是非奉行人令メ∨‖-亊書引付御評定之異見成敗問注所者永代(ウリ) 科註ニ曰、組券也。長一尺二寸法十二月|、廣三寸法-地人刻思云曰、小券短書也。則賣買之札也云々。〔謙堂文庫蔵四五右F〕

とあって、標記語「沽券」の語を収載し、語注記は、「券は、科註に曰く、組券なり。長さ一尺二寸十二月に法し廣さ三寸天-地人に法す。刻思が云ふに曰く、小券短書疏と号すなり。則ち賣買の札なり云々」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

問注所永代沽券(ウリケン)安堵(アンド)ノ年記放券(ハウケン)ノト云事ハ。賣渡(ウリワタ)ス事ナリ。放券(―ケン)ト云ナリ。〔下21オ六〜七〕

とあって、この標記語「沽券」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

永代(ゑいたい)沽券(こけん)永代沽券 旧地等賣渡しの證文なり。券は手形證文の事なり。〔65オ一〜二〕

とあって、この標記語「沽券」の語を収載し、語注記は「旧地等賣渡しの證文なり。券は手形證文の事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)す管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-官領寄人---評判也。▲永代沽券ハ田地(でんぢ」)屋敷(やしき)なと賣渡(うりわた)しの證文(しようもん)をいふ。〔48ウ一〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を官領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)。▲永代沽券ハ田地(でんち)屋敷(やしき)など賣渡(うりわた)しの證文(しようもん)をいふ。〔86ウ二〜三〕

とあって、標記語「沽券」の語を収載し、その語注記は、「永代沽券は、田地屋敷など賣り渡しの證文をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vriqen.ウリケン(沽券売券) 家屋,田畑や地所などを売る人が渡す売渡状.→Vri,u.〔邦訳732r〕

Coqe~.コケン(沽券) 家や地所などの売渡し証書.※原文はcha~o. これでは不十分と考えて,次条のように農耕地を意味する語に改めて補遺に収めたものか.→次条.〔邦訳148r〕

†Coqen.コケン(沽券) 家屋とか田畑とかの売渡し証書.※原文にou campo de casaとあるのは,de casa,ou campoの誤植であろう.〔邦訳148r〕

とあって、標記語「沽券」の語の意味は「家屋,田畑や地所などを売る人が渡す売渡状」「家屋とか田畑とかの売渡し証書」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

うり-けんじゃう〔名〕【沽券状】沽券(コケン)に同じ。〔0263-5〕

-けん〔名〕【沽券】〔沽却(コキヤク)の語原を見よ〕(一)賣券状(うりケンジヤウ)。沽券状(コケンジヤウ)。地所、屋敷などの賣買、所有を證する券(てがた)。即ち、賣渡(うりわたし)證文なり。光明寺舊記、一、「右件屋敷者、云云、所却渡于荒木田氏子、實正明白也、云云、沽券之状如件、永和四年戊午十一月一日、權禰宜度會久兼」東大寺文書、五「右件敷地者、云云、限永代、直錢拾伍貫文仁、宗安殿方奉賣渡事、實正明鏡也、云云、賣券状如件、應永五年戊寅八月廿二日、年預懐乘花押」(古事類苑)(二)價値(ねうち)の意より轉じて、人の資格。ひとがら。人品。品位「そんな言を云はれては、こけんにかかはる」黙っては、こけんがさがる」〔0270-2〕

とあって、標記語「沽券」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「うり-けん売券】〔名〕土地その他の財物を売り渡すとき、売り手から買い手に渡す証文。書式は解(げ)などによるが、中世では、私的証文の性格が強まり、また、冒頭に「売渡」「沽却」などの文言を付けるのが通例。また、徳政令の適用をさけるために、いわゆる徳政文言を含むもの、あるいは借用状で売券の形をかりるものが多かった。売り券状。売渡状。ばいけん。うりぶみ」と標記語「-けん沽券】〔名〕@売買契約を交わした際に、売主から買主に与える証文。売券(うりけん)。売券状(うりけんじょう)。売券(ばいけん)。沽却状。沽券証文。沽券状。沽券手形。A売値。売価。B品位。体面。品格。[補注]古辞書では「沽券」を「コケン」とも「ウリケン」ともよむ。[語誌](1)養老七年(七二三)の三世一身の法、天平一五年(七四三)の墾田永年私財法の発布以後、土地の私有が公認されるようになり、田地の売買も認められるようになった。しかし、当時の売買はすべて所轄の宮司の許可が必要であったため、その当時は、いまだ私的な売買証文としての沽券(売券)は見られなかった。それが、平安時代中期頃から売買当事者の間で直接証文が授受され、沽券(売券)が成立するようになる。(2)「沽券」や「沽却状」の名称は、証文の最初に通常記される「沽却 私地事」などの文言に基づいていると見られる。沽券には物件の価格も記されているから、「物件の価格が記された証文」でもあったわけで、そこからAのように「価格」自体をも意味するようになり、さらにBの意味をも派生させていったと考えられる」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
途支者也、仍為後代、本公験并沽券文相副、処分如件、《平安遺文『光明寺古文書』長徳二年(996)十一月三日の条、367・2/504》 
両所者、依実遠女孫当麻三子之沽券□□寺別当隆経所領也《『東大寺文書・図未』(天永三年?)の条(315・12/31)》
 
 
2003年10月6日(月)曇り一時小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
永代(エイタイ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「衛」部に、

永代(エイダイ) 。〔元亀二年本336五〕

永代(――) 。〔静嘉堂本401八〕

とあって、標記語「永代」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雑人券契和与状負累證文等謀実糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契和與状負累證文等謀實糺明之管領寄人右筆奉行人等評判也〔宝徳三年本〕

---(ウリ)--(キ)ノ-(ホウケン)-(ヌヒ)--(ケンケイ)-与状負-(フルイ)-文等之謀-実糺‖--領寄人(ヨリウト)----判也〔山田俊雄藏本〕

問注所永代沽券(ウリケン)、安堵年記放券奴婢雑人券契(ケンケイ)和与負累(フルイ)ノ證文等之謀実(ホウ―)‖-管領寄人(ヨリウト)右筆-行人等之評判也〔経覺筆本〕

--(ハ)--(コケン)-(ト)ノ(ネン)ノ--(ハウケン)-(ヌビ)-(サウニン)-(ケンケ井)-(ワヨ)ノ-(サフルイ)ノ-文等謀-(ホウシツ)-(キウメイ)ス-(クワンレイ)ノ-(ヨリウド)-(ユウヒツ)---判也〔文明四年本〕※契(ケイ)。累(ルイ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「永代」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「永代」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

永代(ヱイタイナガシ、カワル・ヨ)[上・去] 。〔態藝門704二〕

とあって、標記語「永代」の語を収載し、訓みを「エイタイ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

永代(エイタイ)。〔・言語進退門195六〕

永代(エイタイ)。 ―地(ヂ)。〔・言語門161二〕

永代(エイタイ)。 ―地。―領。〔・言語門150四〕

とあって、標記語「永代」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

永領(エイリヤウ) ―代(タイ)。〔言辞門163二〕

とあって、標記語「永領」の冠頭字「永」の熟語群として「永代」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「永代」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

463於御前對决雌雄是非奉行人令メ∨‖-亊書引付御評定之異見成敗問注所永代(ウリ)券 科註ニ曰、組券也。長一尺二寸法十二月|、廣三寸法-地人刻思云曰、小券短書也。則賣買之札也云々。〔謙堂文庫蔵四五右F〕

とあって、標記語「永代」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

問注所永代沽券(ウリケン)安堵(アンド)ノ年記放券(ハウケン)ノト云事ハ。賣渡(ウリワタ)ス事ナリ。放券(―ケン)ト云ナリ。〔下21オ六〜七〕

とあって、この標記語「永代」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

永代(ゑいたい)の沽券(こけん)永代沽券 旧地等賣渡しの證文なり。券は手形證文の事なり。〔65オ一〜二〕

とあって、この標記語「永代」の語を収載し、語注記は「取は、とる。捨は、すつると訓ず。理ありて直なるを取り、理なくして往れるを捨つるをいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

問注所(もんちうしよ)(ハ)永代(ゑいたい)の沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)の券契(けんけい)和與状(わよじやう)負累(ふるい)の證文(しやうもん)(とう)の謀實(ばうじつ)(これ)を糾明(きうめい)す管領(くハんれい)の寄人(よりうど)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)問注所永代沽券安堵年記放券奴婢雜人券契-負累證文等之謀実‖-官領寄人---評判也。▲永代沽券ハ田地(でんぢ」)屋敷(やしき)なと賣渡(うりわた)しの證文(しようもん)をいふ。〔48ウ一〕

問注所(もんちゆうしよ)(ハ)永代(えいたい)沽券(うりけん)安堵(あんど)年記(ねんき)の放券(はうけん)奴婢(ぬひ)雜人(ざふにん)券契(けんけい)-(わよ)(じやう)負累(ふるゐ)の證文(しようもん)(とう)(の)謀実(ばうじつ)‖-(きうめい)す(これ)を官領(くわんれい)の寄人(よりうと)右筆(いうひつ)奉行人(ぶぎやうにん)(とう)の評判(ひやうばん)(なり)。▲永代沽券ハ田地(でんち)屋敷(やしき)など賣渡(うりわた)しの證文(しようもん)をいふ。〔86ウ二〜三〕

とあって、標記語「永代」の語を収載し、その語注記は、「永代沽券は、田地屋敷など賣り渡しの證文をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yeitai.エイタイ(永代) Nagai yo.(永い代)永久に,あるいは,長く代々を通じて.〔邦訳817l〕

とあって、標記語「永代」の語の意味は「永久に,あるいは,長く代々を通じて」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

えい-たい〔名〕【永代】永世に同じ。魏武帝、令、「趙奢賽嬰之爲將也、受賜千金、一朝散之、故永代聲」〔0270-2〕

とあって、標記語「永代」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「えい-たい永代】〔名〕ながい年月。とこしえ。永世。[語誌](1)売券・讓状・寄進状・充行状等の証文の冒頭や本文中に、常套的に用いて、移動した所有権が、期間を限ったものではないことを明示する語として用いられた。(2)養老七年(七二三)の三世一身法、天平一五年(七四三)の墾田永年私財法の発布以後、土地所有が公認され、田地の売買も行なわれるようになるが、律令制下では、所轄の官司の許可を得て初めて売買契約が成立し、証文も、官司によって作成される、解(げ)や辞(じ)の様式を持つ公文書であった。この時期の公券には、「限永年(やうねん・えいねんをかぎり)」「永(ながく)」「永年」が用いられている。(3)平安中期頃から、売買公許の制度が崩壊して、申告の必要が無くなり、当事者間で直接交換される私的証文としての性格が強まると、文書の様式。用語は、変化する。一一世紀半ば頃から、権利の永続性を保証する常套句も、以上の用語に加えて、「限永代(やうたい・えいたいかぎり)」「永代」が現われ始め、承安年間以後、頻出するようになる。(4)鎌倉〜南北朝時代の文書では、「えいたい」「ゑいたい」という仮名書きされた多数の遺存例のほかに、「早稲田大学所蔵文書―貞応三年九月六日・ふつめうゆつり状案(鎌倉遺文)」に「やうたいおかきて、ししそんにいたるまで、りゃうちすべし」とあるように呉音でよむ形も並び行なわれたようである」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
其勸賞、件熊谷郷之地頭職成畢子々孫々、永代不可有他妨、故下百姓等宜承知、敢不可違失《訓み下し》其ノ勧賞ニ、件ノ熊谷ノ郷ノ地頭職ニ成シ畢ンヌ。子子孫孫、永代他ノ妨ゲ有ルベカラズ、故ニ下ス。百姓等承知スベシ、敢テ違失スベカラズ故ニ下ス)《『吾妻鏡』寿永元年六月五日の条》
 
 
2003年10月5日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(玉川→駒沢)
事書(ことがき)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、標記語「事書」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

於御前遂對决任雌雄是非奉行人令事書引付窺御評定異見所令成敗也〔至徳三年本〕

於御前遂對决任雌雄是非奉行人令取捨事書引付窺御評定異見所令成敗也〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

----(シユウ)ノ---人令‖--__----〔山田俊雄藏本〕

御前對决雌雄(シユウ)ノ是非奉行人事書引付御評定異見(イ―)ヲムル成敗〔経覺筆本〕

御前-(マカ)せ-(シユウ)ノ-(ゼヒ)ニ--人令メ∨-(シユシヤ/トリスツル)_(コトカキ)_(ウカヽ)井---(イケン)ヲ成敗〔文明四年本〕※對决(タイケツ)。取捨(シユシヤ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「事書」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「事書」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書には、「事書」の語が未収載となっていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語である。これを確認できる資料としては、下記に示す『日葡辞書』だけとなっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

463於御前對决雌雄是非奉行人令メ∨‖-亊書引付御評定之異見成敗問注所者永代沽(ウリ)券 科註ニ曰、組券也。長一尺二寸法十二月|、廣三寸法-地人刻思云曰、小券短書也。則賣買之札也云々。〔謙堂文庫蔵四五右F〕

とあって、標記語「事書」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

雌雄(シユウ)ノ是非--人令メ∨(シユシヤ)__(ウカヽ)ヒ御評-之異見(イ―)ヲ成敗(せイバイ)雌雄ノ是非トハ。女鳥(メドリ)男鳥(ヲントリ)ノ事也。戦(タヽ)カヒヲナス時ニ女鳥勝(カツ)時モ有男鳥勝ツ事モ有也。定難シ∨知。〔下21オ二〜三〕

とあって、この標記語「事書」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め/奉行人令‖-亊書 取ハとる。捨ハすつると訓す。理ありて直(すく)なるを取理なくして往(ゆか)れるを捨るをいふ也。事書とハ前に問答訴陳の時両人の申すを記したる事問なり。事書を取捨するとハゑらひわけるをいふなり。こゝにて罪の有無(うむ)事の是非先決着(けつちやく)したり。〔64ウ三〜四〕

とあって、この標記語「事書」の語を収載し、語注記は「事書とは、前に問答訴陳の時両人の申すを記したる事問なり。事書を取捨するとは、ゑらびわけるをいふなり。こゝにて罪の有無、事の是非先ず決着したり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗。▲取捨事書とハ前(まへ)の問答乃時(とき)両人の申口書(くちがき)を撰分(ゑらびわく)る也。〔48オ一〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)。▲取捨事書とハ前(まへ)の問答の時(とき)両人(りやうにん)の申口書(くちがき)を撰分(えらひわく)る也。〔85ウ三〕

とあって、標記語「事書」の語を収載し、その語注記は、「取捨事書とは、前の問答の時両人の申す口書を撰び分くるなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Cotogaqi.コトガキ(事書) 文書中のわかりにくい箇所を説明するために,そのそばに書き加える注釈.〔邦訳153r〕

とあって、標記語「事書」の語の意味は「文書中のわかりにくい箇所を説明するために,そのそばに書き加える注釈」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

こと-がき〔名〕【事書】事を、箇條に立てて、書き列ぬるもの。箇條書。公書にも、私書にも云ふ。吾妻鏡、八、文治四年二月二日「所所地頭等所領已下事、云云、御事書云、寳殿越後國、奥山莊、地頭不當事、修理大夫家、尾張國、津島社、板垣冠者、不所當之由事、云云」武家名目鈔、文書、三、上「凡、箇條書は、一條毎に、某事、某事と記すが故に、或は又、事書とも云ふなり」庭訓徃來、八月「奉行人令事書、於引付、窺御評定異見、所令成敗也」關城書考に戴する、興國二年十二月、常陸の關城中なる、北畠親房卿より、陸奥、白河なる、結城親朝に贈られたる書簡に「以事書之趣、能能可料簡候也」とあり。太平記、十五、三井寺合戰事、彌勒の首に、血の付きたりけるを見て「山法師や仕たりけむ、大札を立てて、一首の歌に、事書を副へたりけり」執筆被與問状奉書於訴人之時、及兩度無音、仰使節、被事書〔0699-2〕

とあって、標記語「事書」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「こと-がき事書】〔名〕@文書で、「一、何々之事」と箇条を立てて書くこと。また、その体裁で書かれた文書。箇条書。A法例をいう。B古文書学の用語。公文書で、本文の前にあって本文の主旨を要約し、「何々事」と記載してある見出し部分。C「ひきつけかんろくことがき(引付勘録事書)」の略。D中世、寺院の衆徒などが合議の意志を箇条書にして上級権力者に提出した文書。E和歌の前に添える、歌の題や趣旨を書いた文。詞書。F文中に施す注釈」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
以此次、京畿之間、可致沙汰条々、被遣御事書、其間、久經不可耽人之賄《訓み下し》此ノ次ヲ以テ、京畿ノ間、沙汰ヲ致スベキ条条、御事書(コトガキ)ヲ遣ハサル、其ノ間、久経ニハ人ノ賄ニ耽ルベカラズ。《『吾妻鏡』元暦二年五月二十五日の条》
 
 
2003年10月4日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
取捨(シユシヤ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、標記語「取捨」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

於御前遂對决任雌雄是非奉行人令事書於引付窺御評定異見所令成敗也〔至徳三年本〕

於御前遂對决任雌雄是非奉行人令取捨事書於引付窺御評定異見所令成敗也〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

----(シユウ)ノ---人令‖--__----〔山田俊雄藏本〕

御前對决雌雄(シユウ)ノ是非奉行人事書引付御評定異見(イ―)ヲムル成敗〔経覺筆本〕

御前-(マカ)せ-(シユウ)ノ-(ゼヒ)ニ--人令メ∨-(シユシヤ/トリスツル)_(コトカキ)ヲ_(ウカヽ)井---(イケン)ヲ成敗〔文明四年本〕※對决(タイケツ)。取捨(シユシヤ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

取捨 シユシヤ。〔黒川本・疉字門下81オ七〕

取捨 。〔卷第九・疉字門224二〕

とあって、標記語「取捨」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・に、標記語「取捨」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

取捨(シユシヤトル、ステル)[上・上] 用捨同意。〔態藝門944四〕

とあって、標記語「取捨」の語を収載し、訓みを「シユシヤ」とし、その語注記は「用捨と同意」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、「取捨」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書のうちでは、三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』と広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、「取捨」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。なぜ、『運歩色葉集』及び印度本系統の『節用集』類が此語を未収載したのか、能々考察する余地が残されている。いわば、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本『庭訓往来註』に記載が見られる総ての語を収載するという網羅的記載ではなく、ここには一つの選定意識が働いていると見て良かろう。この意味から、とりわけ、広本節用集』が収載するということ、また、語注記に「用捨」と同意といったことを付帯するものであることは、他『節用集』類が認知しなかったなかでの収載であり、まさに、その収載の特有性を有することをここに指摘しておく。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

463於御前對决雌雄是非奉行人令メ∨‖-亊書引付御評定之異見成敗問注所者永代沽(ウリ)券 科註ニ曰、組券也。長一尺二寸法十二月|、廣三寸法-地人刻思云曰、小券短書也。則賣買之札也云々。〔謙堂文庫蔵四五右F〕

とあって、標記語「取捨」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

雌雄(シユウ)ノ是非--人令メ∨(シユシヤ)事_書_(ウカヽ)ヒ御評-之異見(イ―)ヲ成敗(せイバイ)雌雄ノ是非トハ。女鳥(メドリ)男鳥(ヲントリ)ノ事也。戦(タヽ)カヒヲナス時ニ女鳥勝(カツ)時モ有男鳥勝ツ事モ有也。定難シ∨知。〔下21オ二〜三〕

とあって、この標記語「取捨」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)取捨(しゆしや)せ令(し)め/奉行人令‖-亊書 取ハとる。捨ハすつると訓す。理ありて直(すく)なるを取理なくして往(ゆか)れるを捨るをいふ也。事書とハ前に問答訴陳の時両人の申すを記したる事問なり。事書を取捨するとハゑらひわけるをいふなり。こゝにて罪の有無(うむ)事の是非先決着(けつちやく)したり。〔64ウ三〜四〕

とあって、この標記語「取捨」の語を収載し、語注記は「取は、とる。捨は、すつると訓ず。理ありて直なるを取り、理なくして往れるを捨つるをいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗。▲取捨事書とハ前(まへ)の問答乃時(とき)両人の申口書(くちがき)を撰分(ゑらびわく)る也。〔48オ一〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)。▲取捨事書とハ前(まへ)の問答の時(とき)両人(りやうにん)の申口書(くちがき)を撰分(えらひわく)る也。〔85ウ三〕

とあって、標記語「取捨」の語を収載し、その語注記は、「取捨事書とは、前の問答の時両人の申す口書を撰び分くるなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xuxa.シユシヤ(取捨) Toru,sutcuru.(取る,捨つる)取ることと捨てること.文書語.〔邦訳804l〕

とあって、標記語「取捨」の語の意味は「取ることと捨てること.文書語」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しゆ-しゃ〔名〕【取捨】取ると、捨つると。用ゐると、用ゐざると。班固、答賓戯「取捨者昔人之上務」「取捨選擇」〔0994-4〕

とあって、標記語「取捨」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「しゆ-しゃ取捨取舎】〔名〕取ることと、捨てること。よいものを取って用いることと悪いものを捨てて用いないこと」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
纔雖篇什未猶弁首尾。為取捨之訓説先以進覧《『明衡徃来』(11C中頃)上本》
義澄、雖奔至、已取捨〈云云〉《訓み下し》義澄、奔リ至ルト雖モ、已ニ取捨(シユシヤ)スト〈云云〉。《『吾妻鏡』養和二年二月十四日の条》
 
 
2003年10月3日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
是非(ゼヒ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「世」部に、

是非(――) 。〔静嘉堂本428一〕 ※〔元亀二年本×〕

とあって、標記語「是非」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

於御前遂對决任雌雄是非奉行人令捨事書於引付窺御評定異見所令成敗也〔至徳三年本〕

於御前遂對决任雌雄是非奉行人令取捨事書於引付窺御評定異見所令成敗也〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

----(シユウ)ノ---人令‖--__----〔山田俊雄藏本〕

御前對决雌雄(シユウ)ノ是非奉行人事書引付御評定異見(イ―)ヲムル成敗〔経覺筆本〕

御前-(マカ)せ-(シユウ)ノ-(ゼヒ)--人令メ∨-(シユシヤ/トリスツル)_(コトカキ)ヲ_(ウカヽ)井---(イケン)ヲ成敗〔文明四年本〕※對决(タイケツ)。取捨(シユシヤ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

是非 評定分/せヒ。〔黒川本・疉字門下105ウ四〕

是非 。〔卷第十・疉字門466三〕

とあって、標記語「是非」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・に、標記語「是非」の語を未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、未収載にする。また、易林本節用集』には、

是非(ぜヒ)。〔言辞門237二〕

とあって、標記語「是非」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書『運歩色葉集』と易林本節用集』とに、「是非」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

463於御前對决雌雄是非奉行人令メ∨‖-捨亊書引付御評定之異見成敗問注所者永代沽(ウリ)券 科註ニ曰、組券也。長一尺二寸法十二月|、廣三寸法-地人刻思云曰、小券短書也。則賣買之札也云々。〔謙堂文庫蔵四五右F〕

とあって、標記語「是非」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

雌雄(シユウ)ノ是非--人令メ∨(シユシヤ)事_書_(ウカヽ)ヒ御評-之異見(イ―)ヲ成敗(せイバイ)雌雄ノ是非トハ。女鳥(メドリ)男鳥(ヲントリ)ノ事也。戦(タヽ)カヒヲナス時ニ女鳥勝(カツ)時モ有男鳥勝ツ事モ有也。定難シ∨知。〔下21オ二〜三〕

とあって、この標記語「是非」とし、語注記は「雌雄の是非とは、女鳥・男鳥の事なり。戦かひをなす時に女鳥勝つ時も有り、男鳥勝つ事も有るなり。定め知り難し」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ/雌雄是非 雌ハめん鳥也。負たるにたとふ。雄ハおん鳥也。勝たるにたとふ。是ハ理ある也。非ハ理なきなり。〔64ウ三〜四〕

とあって、この標記語「是非」の語を収載し、語注記は「是は、理あるなり。非は、理なきなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗。▲雌雄是非ハ公事の勝負(かちまけ)をいふ。雄と是ハ勝方(かちかた)雌と非ハ負方(まけかた)也。〔47ウ八〜48オ一〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)。▲雌雄是非ハ公事(くじ)の勝負(かちまけ)をいふ。雄(ゆう)と是(ぜ)ハ勝方(かちかた)(し)と非(ひ)ハ負方(まけかた)也。〔85ウ二〜三〕

とあって、標記語「是非」の語を収載し、その語注記は、「雌雄是非は、公事の勝負をいふ。雄と是は、勝方、雌と非は、負方なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iefi.ゼヒ(是非) すなわち,Yoxi axi.(善し悪し) 善悪.§また,Iefe.(是非)すなわち,Iefitomoni.(是非ともに)どうしても.例,Iefi cudasarei.(是非下されい)どうしてもそれを私に下さい,あるいは,譲って下さい.→Ronji,zuru;Vacachi,tcu.〔邦訳356l〕

とあって、標記語「是非」の語の意味は「善し悪し、善悪」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【是非】よきと、あしきと。善惡。邪正。孟子、公孫丑、上篇「無是非之心、非人也」百練鈔、十四、仁治三年正月十九日「今夕、關東飛脚參洛、洛中馳走、不是非宇治拾遺物語、一、第十六條「尼、見るままに、ぜひも知らず、伏しまろびて、拝み入りて」「是非をわかつ」是非善惡」是非に及ばずとは、爲む方無し。是非するまでも無し。已むことを得ず。太平記、三、楠事「弓矢取る身の面目、何事か是に過ぎじ、と思ひければ、是非の思案にも不及、先づ忍びて、笠置へぞ參じける」〔1117-1〕

とあって、標記語「是非」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-是非】[]〔名〕@是と非。道理があることと道理がないこと。よいことと悪いこと。善悪。正邪。A(―する)是と非とを判断すること。ものごとのよしあしを判断すること。批評すること。是を是とし、非を非とすること。品評。[]〔副〕(「是非共(とも)に」の意から)@事情がどうあろうとも、あることを実現しよう、実現したいという強い意志や要望を表わす語。是が非でも。どうあっても。きっと。ぜひとも。A相手に、軽くまたは儀礼的に行為を求めるさまを表わす語。なにとぞ。どうぞ。ぜひとも。Bある条件のもとでは、必ずそういう結果になると断定する意を表わす語。きまって。かならず」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
事之體、可謂奇特被推問事由之處、不能是非陳謝只稱可被斬罪矣、《訓み下し》事ノ体、奇特ト謂ツツベシ。事ノ由ヲ推問セラルルノ処ニ、是非(ゼヒ)ニ能ハズ陳謝ス(是非(ゼヒ)ノ陳謝ニ能ハズ)。只斬罪セラルベシト称ス。《『吾妻鏡』養和元年七月二十日の条》
 
 
2003年10月2日(木)曇り後晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
雌雄(シイウ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

雌雄(シユウ) 。〔元亀二年本317四〕

雌雄(シヲウ) 。〔静嘉堂本373一〕

とあって、標記語「雌雄」の語を収載し、訓みを「シユウ」と「シヲウ」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

於御前遂對决任雌雄是非奉行人令捨事書於引付窺御評定異見所令成敗也〔至徳三年本〕

於御前遂對决任雌雄是非奉行人令取捨事書於引付窺御評定異見所令成敗也〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

----(シユウ)---人令‖--__----〔山田俊雄藏本〕

御前對决雌雄(シユウ)是非奉行人事書引付御評定異見(イ―)ヲムル成敗〔経覺筆本〕

御前-(マカ)せ-(シユウ)-(ゼヒ)ニ--人令メ∨-(シユシヤ/トリスツル)_(コトカキ)ヲ_(ウカヽ)井---(イケン)ヲ成敗〔文明四年本〕※對决(タイケツ)。取捨(シユシヤ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

雌雄 シイウ。〔黒川年本・疉字門下82オ五〕

雌雄 〃黄。〃伏。〔卷第九・疉字門207二〕

とあって、標記語「雌雄」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

鴛鴦(ヱンワウ)鳥尤異トナル也。養(ヒナ)ヲ土窟(トクツ)ニ。能使シテ/シム(クツネ)ヲ(マホラ)ヲ。雌雄(シイウ)クモ(ハナレ)。杜子美鴛鴦不宿。〔態藝門404五〕

とあって、標記語「鴛鴦」の語注記に「雌雄」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「雌雄」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書のうち、『色葉字類抄』『運歩色葉集』そして、『下學集』の標記語「鴛鴦」の語注記のなかに「雌雄」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

463於御前對决雌雄是非奉行人令メ∨‖-捨亊書引付御評定之異見成敗問注所者永代沽(ウリ)券 科註ニ曰、組券也。長一尺二寸法十二月|、廣三寸法-地人刻思云曰、小券短書也。則賣買之札也云々。〔謙堂文庫蔵四五右F〕

とあって、標記語「雌雄」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

雌雄(シユウ)是非--人令メ∨(シユシヤ)事_書_(ウカヽ)ヒ御評-之異見(イ―)ヲ成敗(せイバイ)雌雄ノ是非トハ。女鳥(メドリ)男鳥(ヲントリ)ノ事也。戦(タヽ)カヒヲナス時ニ女鳥勝(カツ)時モ有男鳥勝ツ事モ有也。定難シ∨知。〔下21オ二〜三〕

とあって、この標記語「雌雄」とし、語注記は「雌雄の是非とは、女鳥・男鳥の事なり。戦かひをなす時に女鳥勝つ時も有り、男鳥勝つ事も有るなり。定め知り難し」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ/雌雄是非 雌ハめん鳥也。負たるにたとふ。雄ハおん鳥也。勝たるにたとふ。是ハ理ある也。非ハ理なきなり。〔64ウ三〜四〕

とあって、この標記語「雌雄」の語を収載し、語注記は「雌は、めん鳥なり。負たるにたとふ。雄は、おん鳥なり。勝たるにたとふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗。▲雌雄是非ハ公事の勝負(かちまけ)をいふ。雄と是ハ勝方(かちかた)雌と非ハ負方(まけかた)也。〔47ウ八〜48オ一〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)。▲雌雄是非ハ公事(くじ)の勝負(かちまけ)をいふ。雄(ゆう)と是(ぜ)ハ勝方(かちかた)(し)と非(ひ)ハ負方(まけかた)也。〔85ウ二〜三〕

とあって、標記語「雌雄」の語を収載し、その語注記は、「雌雄是非は、公事の勝負をいふ。雄と是は、勝方、雌と非は、負方なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xiuo>.l,xiyu<.シヲゥ,または,シユゥ.(雌雄) Medori,vodori.(雌鳥,雄鳥)雌鳥と雄鳥と.§また,Maqe,cachi.(負け,勝ち)負けることと勝つこと.→Xiuo>fimbo.〔邦訳783r〕

とあって、標記語「雌雄」の語の意味は「雌鳥と雄鳥と」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-ゆう〔名〕【雌雄】(一)めと、をと。(鳥類に云ふ)詩經、小雅、祈父之什、正月篇「召彼故老、訊之占夢、具曰予聖、誰知烏之雌雄(二)かちまけ。勝負(シヨウブ)。優劣。史記、項羽紀「願與漢王戰決雌雄太平記、十七、山門牒送南都事「合戰の雌雄は、時の運による事にて候へば、かねて、勝負を定めがたく候」〔0985-3〕

とあって、標記語「雌雄」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-ゆう雌雄】〔名〕@めすとおす。めすおす。A二つで一組をなすものの両方。一対。B負けと勝ち。かちまけ。勝敗。C劣ることとまさること。優劣。また、弱いことと強いこと」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
殆及終日、爭雌雄然而遂獲義廣之首〈云云〉《訓み下し》殆ド終日ニ及ビテ、雌雄(シユウ)ヲ争フ。然シテ而遂ニ義広ガ首ヲ獲タリト〈云云〉。《『吾妻鏡』元暦元年五月十五日の条》
 
 
2003年10月1日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
對决(タイケツ)」」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

對决(タイケツ) 。〔元亀二年本135二〕〔天正十七年本中3オ五〕

對决(―ケツ) 。〔静嘉堂本142二〕

とあって、標記語「對决」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

於御前遂對决任雌雄是非奉行人令捨事書於引付窺御評定異見所令成敗也〔至徳三年本〕

於御前遂對决任雌雄是非奉行人令取捨事書於引付窺御評定異見所令成敗也〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

----(シユウ)ノ---人令‖--__----〔山田俊雄藏本〕

御前對决雌雄(シユウ)ノ是非奉行人事書引付御評定異見(イ―)ヲムル成敗〔経覺筆本〕

御前-(マカ)せ-(シユウ)ノ-(ゼヒ)ニ--人令メ∨-(シユシヤ/トリスツル)_(コトカキ)ヲ_(ウカヽ)井---(イケン)ヲ成敗〔文明四年本〕※對决(タイケツ)。取捨(シユシヤ)。

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「對决」の語を未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

對决(タイケツ) 。〔態藝門89一〕

とあって、標記語「對决」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

對决(タイケツコタフ・ムカウ、サクル)[去・入] 。〔態藝門353七〕

とあって、標記語「對决」の語を収載し、訓みを「タイケツ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

對决(タイケツ) 。〔・言語進退門108一〕

對决(タイケツ) ―治(ヂ)。―揚(ヤウ)。―論(ロン)。―桿(カン)敵退義。―面。〔・言語門94九〕

對决(タイケツ) ―治。―揚。―論。―悍敵退義。―面。〔・言語門86七〕

對决(タイケツ) ―治。―揚。―論。―悍敵退義。―面。―坐。〔・言語門105二〕

とあって、標記語「對决」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

對治(タイヂ)。―談(ダン)。―論(ロン)。―揚(ヤウ)。―桿(カン)―决(ケツ)。―面(メン)/―句(ク)。―座(サ)。〔言辞門93五〕

とあって、標記語「對治」の冠頭字「對」の熟語群として「對决」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「對决」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

463於御前對决雌雄是非奉行人令メ∨‖-捨亊書引付御評定之異見成敗問注所者永代沽(ウリ)券 科註ニ曰、組券也。長一尺二寸法十二月|、廣三寸法-地人刻思云曰、小券短書也。則賣買之札也云々。〔謙堂文庫蔵四五右F〕

とあって、標記語「對决」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

三問答訴陳(ソチン)ニ御前(ト)ゲ對决(タイケツ)シテ三問答ト云事ハ。論人訴人ト相對(サウタイ)シテ。三問答スル也。問答三度(タヒ)ノ後ハ是非ヲイハセズ。理ニ任せテ御裁許(サイキヨ)有ナリ。〔下21オ二〜三〕

とあって、この標記語「對决」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

御前(ごぜん)に於(おゐ)對決(たいけつ)を遂(とげ)御前(ト)ゲ對决(タイケツ) 對决とハ訴られたる者にあり。されとかゝわるへからす。〔64ウ一〜二〕

とあって、この標記語「對决」の語を収載し、語注記は「對决とは、訴られたる者にあり。されどかゝわるべからず」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

執筆(しゆひつ)問状(もんじやう)の訴人(そにん)(に)書與(かきあた)ふる之(の)(とき)兩度(りやうど)に及(およん)て無音(ぶいん)せバ使節(しせつ)に仰(おふ)せて召符(めしふ)を下(くだ)さ被(れ)違背(いはい)散状(さんじやう)に就(つい)て者(ハ)(ぢき)に訴人(そにん)(に)下知(げぢ)せら被(れ)(めし)(しん)せ令(し)むる之(の)(とき)(ハ)訴状(そじやう)を封(ふう)じ下(くだ)さ被(れ)三問三答(さんもんさんたふ)の訴陳(そちん)を番(つが)ひ御前(こぜん)に於(おいて)對決(たいけつ)を遂(と)げ雌雄(しゆう)是非(ぜひ)に任(まか)せ奉行人(ぶぎやうにん)事書(ことかき)を取捨(しゆしや)せ令(し)め引付(ひきつけ)に於(おいて)御評定(ごひやうじやう)乃異見(いけん)を窺(うかゞ)ひ成敗(せいばい)せ令(し)むる所(ところ)(なり)執筆書‖_フル_奉書於訴人之時兩度-セハセテ使節召符ヲハ違背散-状者‖-セラ于訴人ムル-之時者‖-訴状三問三答訴陳御前對决雌雄是非奉行人令‖-亊書引付御評定異見ムル成敗。▲對决ハ訴人と相手方とを召して問答(もんたふ)させ其言葉(ことば)の邪正(しやしやう)によつて理非(りひ)を決断(けつたん)するをいふ。〔47ウ八〕

執筆(しゆひつ)(かき)‖_(あた)ふる問状(もんじやう)の奉書(ほうしよ)於訴人(そにん)(の)(とき)(およん)兩度(りやうど)無音(ぶいん)せバ(おほ)せて使節(しせつ)(れ)(くだ)さ召符(めしふ)(つい)て違背(ゐはい)散状(さんじやう)に(ハ)(ぢき)(れ)‖-(げぢ)せら于訴人(そにん)(しむ)る∨(めし)‖-(しん)ぜ(の)(とき)(ハ)(れ)(ふう)じ‖-(くだ)さ訴状(そじやう)(つが)ひ三問三答(さんもんさんたふ)訴陳(そちん)(おい)て御前(ごぜん)(とけ)對决(たいけつ)(まか)雌雄(しゆう)是非(ぜひ)奉行人(ぶきやうにん)(し)め∨‖-(しゆしや)せ亊書(ことかき)(おい)て引付(ひきつけ)(うかゞ)御評定(ごひやうじやう)の異見(いけん)(ところ)(しむ)る成敗(せいばい)せ(なり)。▲對决ハ訴人と相手方とを召(め)して問答(もんたふ)させ其言葉(ことバ)の邪正(じやしやう)によつて理非(りひ)を決断(けつだん)するをいふ。〔85ウ二〕

とあって、標記語「對决」の語を収載し、その語注記は、「對决は、訴人と相手方とを召して問答させ、其の言葉の邪正によつて理非を決断するをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Taiqet.タイケツ(對决) ある訴訟事について,双方が裁判官の前でそれぞれ自分のために弁明して争うこと.〔邦訳604r〕

とあって、標記語「對决」の語の意味は「ある訴訟事について,双方が裁判官の前でそれぞれ自分のために弁明して争うこと」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たい-けつ〔名〕【對决】裁判に、訴訟人(原告)と、其相手方(被告)とを對(むか)ひ合はせて、訟を聽くこと。對理對審御成敗式目「兩方證文理非顯然時、擬對决事」〔1176-2〕

とあって、標記語「對决」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「たい-けつ對决】〔名〕@裁判で、当事者が提出する書類や証書などを比較検討して裁決すること。A鎌倉・室町時代の訴訟手続きの一つ。三問三答の訴陳を番がえた後で、なお理非がはっきりしない場合に(これ以前でも当事者の請求があれば行なわれた)、原告(訴人)と被告(論人)の両当事者が裁判所の召喚によって出頭し、交互に裁判所の提示する論点に対して口頭弁論を行なうこと。幕府、朝廷、諸権門が行なった。問注。問答。B両者が相対してどちらの側が正しいかをはっきり決めること。また、困難なことや問題の解決などに正面からはっきりと立ち向かうこと」とあって、『庭訓徃來註』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
新人大庭〈不應召外、相模武藏雜人等、不可參入南坪〉右差定奉行人、召問兩方之後、一方致難澁、送日數、自對决之日、過廿箇日者、不顧理非、任訴人申状、可有御成敗者《訓み下し》新人ハ大庭〈召ニ応ゼザル外、相模武蔵ノ雑人等、南ノ坪ニ参ベカラズ入ス。〉右奉行人ヲ差シ定メ、両方ヲ召シ問フノ後、一方難渋ヲ致シ、日数ヲ送リ、對决(タイケツ)ノ日ヨリ、二十箇日ヲ過ギハ、理非ヲ顧ミズ、訴人ノ申状ニ任セ、御成敗有ルベキ者ナリ《『吾妻鏡』宝治元年十二月十二日の条》
 
 
 

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