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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 
 
 
 
 
2003年12月31日(水)晴れ。東京(八王子)
岳=鶴岡(つるがおか)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「津」部に、標記語「」及び「岡八幡宮」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月十三日の状に、

躰殆令超過関東八幡宮参詣候訖〔至徳三年本〕

躰殆令超過關東鶴岡八幡宮參詣候畢〔宝徳三年本〕

躰殆令超過関東八幡宮參詣候畢〔建部傳内本〕

_躰殆令‖-過関-_--宮参-候訖〔山田俊雄藏本〕

躰殆(ホトント)()関東八幡宮参詣候畢〔経覺筆本〕

(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」及び「岡八幡宮」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「」及び「岡八幡宮」の語は未収載にする。実際には、江戸時代の古辞書である『書言字考節用集』に、

鶴岡(ツルガヲカ) 相州鎌倉郡。〔第一・乾坤ツ66五〕

とあって、標記語「鶴岡」の語を収載し、訓みを「ツルガヲカ」とし、その語注記は、「相州鎌倉の郡」と記載するのが唯一である。

 このように、上記当代の古辞書には、「」及び「岡八幡宮」の語は未収載であり、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語となっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月十三日の状には、

487其体殆令関東八幡宮参詣候畢 八幡善記二年癸丑日本始渡給也。仁王三十代欽明天王御宇九州豊前国宇佐郡蓮臺寺麓菱形八幡雲立也。然而六七歳童子託宣アリ。我人王十六代應神天王也。自天帝尺弓矢司給也。我敬可守不信當罰云也。是内裡。勅使ニテ宇佐八幡祝也。京八幡行教和尚其後勧請スル也。鎌倉ヘハ其後也。又云、弓矢八幡本地阿弥陀。正八幡正観音。若宮八幡十一面也。又云、大神宮昔、自高間原天降垂仁(スイ―)天王御宇廿五年三月上旬大和国笠縫里ヨリ伊勢国渡會郡五十鈴川上下津岩根大宮柱太立祝初奉自以降、日本六十余州三千七百五十餘社神祇冥道ニハ八幡猶勝給也。京ノ八幡供膳六膳也。一膳行教和尚膳也。〔謙堂文庫藏四七右F〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

去比(サンヌル)(アツカリ)御札ニ|候之處他行之際(アイタ)即不(サルノ)(  サ)御報之条失(ウシナヒ)本意ヲ|存候抑(ソモ/\)將軍家若宮(ワカミヤ)()参詣(サンケイ)事供()之日記被(シヤク)用或(アル)ニ|候後日(ワサト)之也其(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢路次(ロシ)()將軍家ノ御参詣(ケイ)ニハ。供奉ノ日記トテ有也。是ハ御供(トモ)ノ爲(タラク)(テイ)ヲシルシタル日記也。先代(せンタイ)當代相替(カハラ)ヌ様ニト云心ナリ。関東(クハントウ)(ツル)ガ岡(ヲカ)ノ八幡(ハチマン)トテアリ。御所ノ御代ニ一度ノ御参詣(ケイ)ナリ。惣八幡ノ本地ハ。一代教主(ケフシユ)本佛ノ釈迦如來也。故ニ九州(キウシウ)大隅(ヲホスミ)ノ八幡ニ。奇特(キドク)ノ有瑞相(ズイサウ)一夜ガ内ニ神前ニ大石(タイせキ)(ヨリ)地涌出(イテ)テ其(ソノ)(イシ)二ツニ破(ハレ)タリ。一方ニハ。南無八幡大菩薩ト云文字スワリ又一方ニハ。於靈鷲山(リヤウジユせン)妙法華經宮中()(ゲン)大菩薩(ボサツ)ト云文字スワリテ今ニ有之於ルヲ不審(フシン)参詣(ケイ)シテ可拝見(ハイケン)者也。昔(ムカシ)靈鷲山ニシテ。妙法華經ヲ説キ玉フ佛ハ釈迦ヨリ外ニ別ニ佛無之八幡ノ本地釈迦如來也ト云事無疑者也如キノ(カク)(せウ)文ハ。石躰(せキタイ)ノ銘(メイ)トテカクレナキ也。〔下24オ五〜24ウ四〕

とあって、この標記語「」とし、語注記は、「関東(クハントウ)(ツル)が岡(ヲカ)八幡(ハチマン)とてあり。御所の御代に一度の御参詣(ケイ)なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(その)(てい)(ほとんど)關東(くハんとう)(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)躰殆関東八幡宮参詣〔69オ七・八〕

とあって、この標記語「鶴ヶ岡」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

去比(さんぬるころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候(さふら)ふ之處(ところ)他行(たぎやう)()(あいだ)(すなハち)(おん)返事(へんじ)を申(まを)さ不()(さふら)ふ之()(でう)本意(ほんい)を失(うしな)ひ畢(おハん)ぬ存候抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()參詣(さんけい)()(こと)供奉(ぐぶ)の日記(につき)(ある)(かた)に借用(しやくよう)せら被()(さふら)ふ後日(ごにち)(わざ)と進(しん)ず可()き也(なり)(その)(てい)(ほとんど)關東(くハんとう)(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)。/比預リ‖御札ニ|之處他行之間則不サ‖御返事ヲ|之條失ヒ‖本意ヲ|抑將軍家若宮御参詣之事供奉日記せラニ|後日態キ∨躰殆関東八幡宮参詣▲岡八幡宮ハ相州(さかミ)鎌倉(かまくら)にあり。頼朝卿(よりともけう)の勧請(かんじやう)にして祭(まつ)る神(かミ)石清水と同じ。〔51オ五〜51ウ三〕 

去比(さんぬるころ)(あづかり)御札(ぎよさつ)に|(さふらふ)()(ところ)他行(たぎやう)()(あひだ)(すなハち)()(まうさ)(おん)返事(へんじ)を|(さふらふ)()(でう)(うしなひ)本意(ほんい)を|(をハんぬ)(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()参詣(さんけい)()(こと)供奉(くぶ)日記(につき)()(しやく)(よう)(ある)(かた)に|(さふらふ)後日(ごにち)(わざと)(べき)(しんず)(なり)(その)(てい)(ほとんと)(しめ)(てう)(くわせ)関東(くわんとう)鶴岡(つるがをか)八幡宮(はちまんぐうの)参詣(さんけい)(さふらひ)(をハんぬ)。▲岡八幡宮ハ相州(さかミ)鎌倉(かまくら)にあり。頼朝卿(よりともきやう)の勧請(くわんじやう)にして祭(まつ)る神(かミ)。石清水(いわしみづ)と同じ。〔91ウ五〜92ウ一〕

とあって、標記語「鶴ヶ岡」の語を収載し、その語注記は、「鶴ヶ岡八幡宮相州(さかミ)鎌倉(かまくら)にあり。頼朝卿(よりともけう)の勧請(かんじやう)にして祭(まつ)る神(かミ)。石清水と同じ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「」及び「鶴岡八幡宮」の語は未収載にある。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』にも、標記語「」及び「鶴岡八幡宮」の語は未収載にある。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「つるがおか-はちまんぐう鶴岡八幡宮】神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社。旧国幣中社。祭神は応神天皇、比売神、神功皇后。康平六年(一〇六三)源頼義が石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請(かんじょう)し、由比若宮、鶴岡若宮と称したのに由来する。治承四年(一一八〇)源頼朝が現在地に移したが建久二年(一一九二)焼失、後方の大臣山山頂に本殿を建てて本宮(上宮)とし、旧地に若宮(下宮)を再建。以後、鎌倉幕府の宗祀として将軍や拝賀式が行われ、源氏の氏神、武門の守護神となった。鎌倉八幡宮」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]HP:「鶴岡八幡宮」「鶴岡八幡宮」「鶴岡八幡宮
若公御參鶴岡八幡宮、被用御輿《訓み下し》若公鶴岡八幡宮ニ御参リ、御輿ヲ用ヒラル。《『吾妻鏡』文治二年十一月十二日の条》
 
 
超過(チョウカ)」ことばの溜め池(2002.01.05)参照。下記にその補遺を記載する。
 古写本『庭訓徃來』八月十三日の状に、

躰殆令超過関東岡八幡宮参詣候訖〔至徳三年本〕

躰殆令超過關東鶴岡八幡宮參詣候畢〔宝徳三年本〕

躰殆令超過関東岡八幡宮參詣候畢〔建部傳内本〕

_躰殆令‖--東鶴_--宮参-候訖〔山田俊雄藏本〕

躰殆(ホトント)()関東鶴岳八幡宮参詣候畢〔経覺筆本〕

(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月十三日の状には、

487其体殆令‖{「過」脱}関東岳八幡宮参詣候畢 八幡善記二年癸丑日本始渡給也。仁王三十代欽明天王御宇九州豊前国宇佐郡蓮臺寺麓菱形八幡雲立也。然而六七歳童子託宣アリ。我人王十六代應神天王也。自天帝尺弓矢司給也。我敬可守不信當罰云也。是内裡。勅使ニテ宇佐八幡祝也。京八幡行教和尚其後勧請スル也。鎌倉ヘハ其後也。又云、弓矢八幡本地阿弥陀。正八幡正観音。若宮八幡十一面也。又云、大神宮昔、自‖高間原|天降垂仁(スイ―)天王御宇廿五年三月上旬大和国笠縫里ヨリ伊勢国渡會郡五十鈴川上下津岩根大宮柱太立祝初奉自以降、日本六十余州三千七百五十餘社神祇冥道ニハ八幡猶勝給也。京ノ八幡供膳六膳也。一膳行教和尚膳也。〔謙堂文庫藏四七右F〕

※天理図書館藏『庭訓徃來註』は、「令」とし、国会図書館藏『左貫註』も同様に表記する。

とあって、標記語「超過」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

去比(サンヌル)(アツカリ)御札ニ|候之處他行之際(アイタ)即不(サルノ)(  サ)御報之条失(ウシナヒ)本意ヲ|存候抑(ソモ/\)將軍家若宮(ワカミヤ)()参詣(サンケイ)事供()之日記被(シヤク)用或(アル)ニ|候後日(ワサト)之也其(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢路次(ロシ)()將軍家ノ御参詣(ケイ)ニハ。供奉ノ日記トテ有也。是ハ御供(トモ)ノ爲(タラク)體(テイ)ヲシルシタル日記也。先代(せンタイ)當代相替(カハラ)ヌ様ニト云心ナリ。関東(クハントウ)ニ鶴(ツル)ガ岡(ヲカ)ノ八幡(ハチマン)トテアリ。御所ノ御代ニ一度ノ御参詣(ケイ)ナリ。惣八幡ノ本地ハ。一代教主(ケフシユ)本佛ノ釈迦如來也。故ニ九州(キウシウ)大隅(ヲホスミ)ノ八幡ニ。奇特(キドク)ノ有瑞相(ズイサウ)一夜ガ内ニ神前ニ大石(タイせキ)從(ヨリ)地涌出(イテ)テ其(ソノ)石(イシ)二ツニ破(ハレ)タリ。一方ニハ。南無八幡大菩薩ト云文字スワリ又一方ニハ。於靈鷲山(リヤウジユせン)説妙法華經宮中示()現(ゲン)大菩薩(ボサツ)ト云文字スワリテ今ニ有之於ルヲ不審(フシン)参詣(ケイ)シテ可拝見(ハイケン)者也。昔(ムカシ)靈鷲山ニシテ。妙法華經ヲ説キ玉フ佛ハ釈迦ヨリ外ニ別ニ佛無之八幡ノ本地釈迦如來也ト云事無疑者也如キノ斯(カク)證(せウ)文ハ。石躰(せキタイ)ノ銘(メイ)トテカクレナキ也。〔下24オ五〜24ウ四〕

とあって、この標記語「超過」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(その)(てい)(ほとんど)關東(くハんとう)(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)超過(てうくハ)()め候(さふら)ひ畢(おハん)躰殆関東岡八幡宮参詣其躰とハ其様子なり。殆とハちかき心なり。超過ハこへすぐと讀。關東の注前に見へたり。鎌倉をさして云也。鶴岡八幡宮ハ頼朝卿の勧請し玉へるによりてかまくら将軍代々信仰し玉へり。言こゝろハ今京都将軍の若宮御参詣の樣躰ハ鎌倉将軍乃鶴ケ岡参詣の粧ひよりもまさりたる樣也とそ。〔69オ七〜ウ八〕

とあって、この標記語「超過」の語を収載し、語注記は「超過は、こへすぐと讀む」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

去比(さんぬるころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候(さふら)ふ之處(ところ)他行(たぎやう)()(あいだ)(すなハち)(おん)返事(へんじ)を申(まを)さ不()(さふら)ふ之()(でう)本意(ほんい)を失(うしな)ひ畢(おハん)ぬ存候抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()參詣(さんけい)()(こと)供奉(ぐぶ)の日記(につき)(ある)(かた)に借用(しやくよう)せら被()(さふら)ふ後日(ごにち)(わざ)と進(しん)ず可()き也(なり)(その)(てい)(ほとんど)關東(くハんとう)(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)超過(てうくハ)()め候(さふら)ひ畢(おハん)。/比預リ‖御札ニ|之處他行之間則不サ‖御返事ヲ|之條失ヒ‖本意ヲ|抑將軍家若宮御参詣之事供奉日記せラニ|後日態キ∨躰殆関東岡八幡宮参詣。〔51オ五〜51ウ一〕 

去比(さんぬるころ)(あづかり)御札(ぎよさつ)に|(さふらふ)()(ところ)他行(たぎやう)()(あひだ)(すなハち)()(まうさ)(おん)返事(へんじ)を|(さふらふ)()(でう)(うしなひ)本意(ほんい)を|(をハんぬ)(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()参詣(さんけい)()(こと)供奉(くぶ)日記(につき)()(しやく)(よう)(ある)(かた)に|(さふらふ)後日(ごにち)(わざと)(べき)(しんず)(なり)(その)(てい)(ほとんと)(しめ)(てう)(くわせ)関東(くわんとう)鶴岡(つるがをか)八幡宮(はちまんぐうの)参詣(さんけい)(さふらひ)(をハんぬ)。〔91ウ五〜92オ五〕

とあって、標記語「超過」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

てう-くゎ〔名〕【超過】(一)他に越ゆること。勝(すぐ)るること。法苑珠林、唐、釋道世「超過三乘太平記、二、南都北嶺行幸事「近年相模入道が振る舞ひ、日來の不義に超過せり」(二)餘ること。程に過ぐること。「輸出超過」〔1347-4〕

とあって、標記語「超過」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ちょう-超過】〔名〕@他よりもきわだってすぐれること。すぐれまさること。A物の程度をすぎること。程度がはなはだしいこと。Bきめられたわくをこえること。一定の数量をこえること。C他の上をこえて先へ出ること。順位が他よりも前に行くこと」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
 
 
2003年12月30日(火)晴れ。東京(八王子)
其躰(そのテイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「天」部に、

(ソノ) 。〔元亀二年本156六〕〔静嘉堂本171五〕〔天正十七年本中17オ六〕 ×。〔元亀二年本〕〔静嘉堂本〕

とあって、標記語「」の語を収載し、標記語「」及び「」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月十三日の状に、

其躰殆令超過関東岡八幡宮参詣候訖〔至徳三年本〕

其躰殆令超過關東鶴岡八幡宮參詣候畢〔宝徳三年本〕

其躰殆令超過関東岡八幡宮參詣候畢〔建部傳内本〕

_殆令‖-過関-東鶴_--宮参-候訖〔山田俊雄藏本〕

(ホトント)()関東鶴岳八幡宮参詣候畢〔経覺筆本〕

(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

テイ/又作躰。〔黒川本・人躰門下16ウ二〕

。〔卷第・辞字門〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記に「又躰に作る」と記載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」及び「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(ソンタイ/タツトシ、テイ・カタチ) 。〔態藝門388八〕

とあって、標記語「尊體」の語をもって、「」の語を収載し、音訓みを「テイ」とし、その語注記に、「体・躰」の語を記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、「其(ソノ)(ウツロ)。其(ソノ)()。其(ソノ)()東国書之野口説。其(ソノ)()。其(ソノ)(ノチ)。其(ソノ)以後(イゴ)」の語を収載するが、標記語「其躰」乃至「其体」の語を未収載にする。また、易林本節用集』には、

(ソノ)(ノチ) ―験(シルシ)。―儀()。―邊(ヘン)。―方(ハウ)。〔言辞門66五〕

とあって、標記語「其後」の語を収載し、熟語群を含め、「其躰」は、未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書には、「其体」及び「其躰」の語は未収載であり、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語となっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月十三日の状には、

487其体殆令関東岳八幡宮参詣候畢 八幡善記二年癸丑日本始渡給也。仁王三十代欽明天王御宇九州豊前国宇佐郡蓮臺寺麓菱形八幡雲立也。然而六七歳童子託宣アリ。我人王十六代應神天王也。自天帝尺弓矢司給也。我敬可守不信當罰云也。是内裡。勅使ニテ宇佐八幡祝也。京八幡行教和尚其後勧請スル也。鎌倉ヘハ其後也。又云、弓矢八幡本地阿弥陀。正八幡正観音。若宮八幡十一面也。又云、大神宮昔、自高間原天降垂仁(スイ―)天王御宇廿五年三月上旬大和国笠縫里ヨリ伊勢国渡會郡五十鈴川上下津岩根大宮柱太立祝初奉自以降、日本六十余州三千七百五十餘社神祇冥道ニハ八幡猶勝給也。京ノ八幡供膳六膳也。一膳行教和尚膳也。〔謙堂文庫藏四七右F〕

とあって、標記語「其体」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

去比(サンヌル)(アツカリ)御札ニ|候之處他行之際(アイタ)即不(サルノ)(  サ)御報之条失(ウシナヒ)本意ヲ|存候抑(ソモ/\)將軍家若宮(ワカミヤ)()参詣(サンケイ)事供()之日記被(シヤク)用或(アル)ニ|候後日(ワサト)之也(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢路次(ロシ)()將軍家ノ御参詣(ケイ)ニハ。供奉ノ日記トテ有也。是ハ御供(トモ)ノ爲(タラク)(テイ)ヲシルシタル日記也。先代(せンタイ)當代相替(カハラ)ヌ様ニト云心ナリ。関東(クハントウ)ニ鶴(ツル)ガ岡(ヲカ)ノ八幡(ハチマン)トテアリ。御所ノ御代ニ一度ノ御参詣(ケイ)ナリ。惣八幡ノ本地ハ。一代教主(ケフシユ)本佛ノ釈迦如來也。故ニ九州(キウシウ)大隅(ヲホスミ)ノ八幡ニ。奇特(キドク)ノ有瑞相(ズイサウ)一夜ガ内ニ神前ニ大石(タイせキ)(ヨリ)地涌出(イテ)テ其(ソノ)(イシ)二ツニ破(ハレ)タリ。一方ニハ。南無八幡大菩薩ト云文字スワリ又一方ニハ。於靈鷲山(リヤウジユせン)妙法華經宮中()(ゲン)大菩薩(ボサツ)ト云文字スワリテ今ニ有之於ルヲ不審(フシン)参詣(ケイ)シテ可拝見(ハイケン)者也。昔(ムカシ)靈鷲山ニシテ。妙法華經ヲ説キ玉フ佛ハ釈迦ヨリ外ニ別ニ佛無之八幡ノ本地釈迦如來也ト云事無疑者也如キノ(カク)(せウ)文ハ。石躰(せキタイ)ノ銘(メイ)トテカクレナキ也。〔下24オ五〜24ウ四〕

とあって、この標記語「其の躰」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(その)(てい)(ほとんど)關東(くハんとう)(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)関東岡八幡宮参詣〔69オ七・八〕

とあって、この標記語「其の躰」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

去比(さんぬるころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候(さふら)ふ之處(ところ)他行(たぎやう)()(あいだ)(すなハち)(おん)返事(へんじ)を申(まを)さ不()(さふら)ふ之()(でう)本意(ほんい)を失(うしな)ひ畢(おハん)ぬ存候抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()參詣(さんけい)()(こと)供奉(ぐぶ)の日記(につき)(ある)(かた)に借用(しやくよう)せら被()(さふら)ふ後日(ごにち)(わざ)と進(しん)ず可()き也(なり)(その)(てい)(ほとんど)關東(くハんとう)(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)。/比預リ‖御札ニ|之處他行之間則不サ‖御返事ヲ|之條失ヒ‖本意ヲ|抑將軍家若宮御参詣之事供奉日記せラニ|後日態キ∨関東岡八幡宮参詣躰ハ。〔51オ五〜51ウ三〕 

去比(さんぬるころ)(あづかり)御札(ぎよさつ)に|(さふらふ)()(ところ)他行(たぎやう)()(あひだ)(すなハち)()(まうさ)(おん)返事(へんじ)を|(さふらふ)()(でう)(うしなひ)本意(ほんい)を|(をハんぬ)(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()参詣(さんけい)()(こと)供奉(くぶ)日記(につき)()(しやく)(よう)(ある)(かた)に|(さふらふ)後日(ごにち)(わざと)(べき)(しんず)(なり)(その)(てい)(ほとんと)(しめ)(てう)(くわせ)関東(くわんとう)鶴岡(つるがをか)八幡宮(はちまんぐうの)参詣(さんけい)(さふらひ)(をハんぬ)。▲躰ハ。〔91ウ五〜92ウ一〕

とあって、標記語「其躰」の語を収載し、その語注記は、「其躰ハ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tei.テイ() 体裁,格好,様子.〔邦訳642r〕

とあって、標記語「」及び「」の語の意味は、「体裁,格好,様子」と収載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』に、

てい〔名〕【】〔タイの呉音〕かたち。すがた。ありさま。やうす。ふり。字類抄「軆、テイ、四支」保元物語、一、新院御所各門門固事「兜をば郎等に持せて歩み出たる體、樊も斯やと覺えて、由由しかりき」狂言記、どぶかッちり「いや、座頭が酒を飲むていでござる」先哲叢談、三、熊澤蕃山「嘗至某侯、及入見一士人威儀特秀、骨體非常、相與、張目注視良久、遂不一言」「體を變へて」事なき體に」〔3-0447-4〕

とあって、標記語「」の語をもって収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「てい】@物の形。また、物事の有様。様子。たい。A(接尾語的に用いて)そのようなもの。そのような様子。風(ふう)。風体。ふぜい。Bたい(体)」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
〈字新田冠者經衡、〉二品召出彼等、覽其俊衡齡已及六旬《訓み下し》〈字ハ新田ノ冠者経衡、〉二品彼等ヲ召シ出シ、其ノ(テイ)ヲ覧タマフニ、俊衡ハ齢已ニ六旬ニ及ブ。《『吾妻鏡文治五年九月十五日の条》
 
 
関東(クワントウ)」ことばの溜池(2002.01.24)を参照。
 
2003年12月29日(月)晴れ。東京(八王子)→河津
(わざと)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「和」部に、

(ワザ)()。〔元亀二年本90六〕

(ワサ) 。〔静嘉堂本111六〕〔天正十七年本上55オ一〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月十三日の状に、

去比預御札候之處他行之間不申御返事候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉日記被借用有方候後日可進也〔至徳三年本〕

去比預御札候處他行之間即不申御返事候之條失本意候畢將軍家若宮御参詣事供奉日記被借用有方候後日可進也〔宝徳三年本〕

去比預御札候處他行之際即御返事不申候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉之日記被借用或方候後日可進之候也〔建部傳内本〕

比預御札ニ|候之處他行之間即不御返事ヲ|候條失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣事供奉日記被用或方ニ|候後日進也〔山田俊雄藏本〕

ヌル比預リ‖御札候処他行之間即御返亊ヲ|候之条失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣之事供奉(クフ)日記被或方ヨリ|候後日進候也〔経覺筆本〕

去比預リ‖御札ニ|候處他行之際即不申御返事候条失本意候又將軍家若宮御参詣事供奉(ク―)ノ日記被借用有方ニ|候後日可進也{自或方被借用以後日態可進之候}〔文明四年本〕 供奉(クフ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(ワザト/タイ)[去] 。〔態藝門250三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「ワザト」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ワザト) 。〔・言語進退門72三〕

とあって、弘治二年本だけが標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

(ワザト) 。〔言辞門68四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月十三日の状には、

486去比預御札ニ|候所他行之間即不御返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日進也 頼朝將軍若宮參詣之日記也。〔謙堂文庫藏四七右C〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

去比(サンヌル)(アツカリ)御札ニ|候之處他行之際(アイタ)即不(サルノ)(  サ)御報之条失(ウシナヒ)本意ヲ|存候抑(ソモ/\)將軍家若宮(ワカミヤ)()参詣(サンケイ)事供()之日記被(シヤク)用或(アル)ニ|候後日(ワサト)之也其(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢路次(ロシ)()將軍家ノ御参詣(ケイ)ニハ。供奉ノ日記トテ有也。是ハ御供(トモ)ノ爲(タラク)體(テイ)ヲシルシタル日記也。先代(せンタイ)當代相替(カハラ)ヌ様ニト云心ナリ。関東(クハントウ)ニ鶴(ツル)ガ岡(ヲカ)ノ八幡(ハチマン)トテアリ。御所ノ御代ニ一度ノ御参詣(ケイ)ナリ。惣八幡ノ本地ハ。一代教主(ケフシユ)本佛ノ釈迦如來也。故ニ九州(キウシウ)大隅(ヲホスミ)ノ八幡ニ。奇特(キドク)ノ有瑞相(ズイサウ)一夜ガ内ニ神前ニ大石(タイせキ)從(ヨリ)地涌出(イテ)テ其(ソノ)石(イシ)二ツニ破(ハレ)タリ。一方ニハ。南無八幡大菩薩ト云文字スワリ又一方ニハ。於靈鷲山(リヤウジユせン)説妙法華經宮中示()現(ゲン)大菩薩(ボサツ)ト云文字スワリテ今ニ有之於ルヲ不審(フシン)参詣(ケイ)シテ可拝見(ハイケン)者也。昔(ムカシ)靈鷲山ニシテ。妙法華經ヲ説キ玉フ佛ハ釈迦ヨリ外ニ別ニ佛無之八幡ノ本地釈迦如來也ト云事無疑者也如キノ斯(カク)證(せウ)文ハ。石躰(せキタイ)ノ銘(メイ)トテカクレナキ也。〔下24オ五〜24ウ四〕

とあって、この標記語「」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

後日(ごにち)(ハざ)(しん)ず可(べく)候也後日進也追て其元へも御覧に入れんと也。〔69ウ三・四〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は、「追て其元へも御覧に入れんとなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

去比(さんぬるころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候(さふら)ふ之處(ところ)他行(たぎやう)之()間(あいだ)則(すなハち)御(おん)返事(へんじ)を申(まを)さ不()候(さふら)ふ之()條(でう)本意(ほんい)を失(うしな)ひ畢(おハん)ぬ存候(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()參詣(さんけい)()(こと)供奉(ぐぶ)の日記(につき)(ある)(かた)に借用(しやくよう)せら被()(さふら)ふ後日(ごにち)(わざ)(しん)ず可()き也(なり)(その)(てい)(ほとんど)關東(くハんとう)鶴(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)ぬ。/比預リ‖御札ニ|之處他行之間則不サ‖御返事ヲ|之條失ヒ‖本意ヲ|抑將軍家若宮御参詣之事供奉日記せラニ|後日キ∨躰殆関東岡八幡宮参詣〔51オ五〜51ウ二〕 

去比(さんぬるころ)(あづかり)御札(ぎよさつ)に|(さふらふ)()(ところ)他行(たぎやう)()(あひだ)(すなハち)()(まうさ)(おん)返事(へんじ)を|(さふらふ)()(でう)(うしなひ)本意(ほんい)を|(をハんぬ)(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()参詣(さんけい)()(こと)供奉(くぶ)日記(につき)()(しやく)(よう)(ある)(かた)に|(さふらふ)後日(ごにち)(わざと)(べき)(しんず)(なり)(その)(てい)(ほとんと)(しめ)(てう)(くわせ)関東(くわんとう)鶴岡(つるがをか)八幡宮(はちまんぐうの)参詣(さんけい)(さふらひ)(をハんぬ)〔91ウ五〜92オ六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vazato.ワザト() 副詞.わざわざ,または,故意に.→Macaricoxi,su;Qeitat.〔邦訳682l〕

とあって、標記語「」の語の意味は「副詞.わざわざ,または,故意に」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

わざと〔副〕【】〔業(わざ)としての意か〕(一){ことさらに。わざわざ。源氏物語、二、帚木31「わざと倣ひ學ばねども、云云」(二)心を用ゐて。しひて。故意に。狭衣物語、三、上16「あいきゃうづき給へる御心ざまにて、わざとへだて奉り給ふ事もなかりけり」(三){とりわけ。わけて。特別に。源氏物語、十、榊36「御手などの、わざとかしこうこそものし給ふべけれ」(四)心ばかり。すこしばかり。こころざし。〔2166-2〕

とあって、標記語「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「わざと】〔副〕@こうしようという、ある意図や意識をもって事を行なうさまを表わす語。現在では、そうしなくてもいいのにしいてするさまにいう場合が多い。わざわざ。意識的に。わざっと。A状態がきわだつさま。格別に目立つさまを表わす語。とりわけ。特に。B正式であるさまを表わす語。本格的に。C事新しく行なうさまを表わす語。あらためて。Dほんの形ばかりであるさまを表わす語。ほんのちょっと。少しばかり。ざっと」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而折節、無乗馬之由、依令言上立雜色、被送遣之〈云云〉《訓み下し》而ルニ折節、乗馬無キノ由、言上ゼシムルニ依テ、(ワザ)雑色ヲ立テラレ、之ヲ送リ遣ハサルト〈云云〉。《『吾妻鏡元暦元年十二月二日の条》
 
 
2003年12月28日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
供奉(グブ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、

供奉() 。〔元亀二年本190六〕

供奉() 。〔静嘉堂本214七〕

供奉(クフ) 。〔天正十七年本中36ウ七〕

とあって、標記語「供奉」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月十三日の状に、

去比預御札候之處他行之間不申御返事候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔至徳三年本〕

去比預御札候處他行之間即不申御返事候之條失本意候畢將軍家若宮御参詣事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔宝徳三年本〕

去比預御札候處他行之際即御返事不申候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉之日記被借用或方候後日態可進之候也〔建部傳内本〕

比預御札ニ|候之處他行之間即不御返事ヲ|候條失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣供奉日記被用或方ニ|候後日態可進也〔山田俊雄藏本〕

ヌル比預リ‖御札候処他行之間即御返亊ヲ|候之条失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣之事供奉(クフ)日記被或方ヨリ|候後日進候也〔経覺筆本〕

去比預リ‖御札ニ|候處他行之際即不申御返事候条失本意候又將軍家若宮御参詣事供奉(ク―)日記被借用有方ニ|候後日可進也{自或方被借用以後日態可進之候}〔文明四年本〕 供奉(クフ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

供奉 クフ。〔黒川本・疉字門中81オ一〕

供養 〃給。〃御/〃佛。〃具。〃奉。〃料。〔卷六・疉字門446一〕

とあって、標記語「供奉」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

供奉(グブ) 。〔態藝門74四〕

とあって、標記語「供奉」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

供奉(グブトモ・ヤシナフ・タテマツル、ホウ・タテマツル)[去・上] 。〔態藝門544五〕

とあって、標記語「供奉」の語を収載し、訓みを「グブ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

供奉(グブ) 。〔・言語門163六〕

供養(クヤウ) ―給(キウ)―奉()。〔・言語門131八〕〔・言語門146八〕

供養(クヤウ) ―給。―奉。〔・言語門120九〕

とあって、弘治二年本は標記語「供奉」の語を収載し、他本は標記語「供養」の冠頭字「供」の熟語群として「供奉」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

供養(クヤウ) ―物(モツ)。―給(キフ)―奉()。〔言辞門132六〕

とあって、標記語「供養」の冠頭字「供」の熟語群として「供奉」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「供奉」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月十三日の状には、

486去比預御札ニ|候所他行之間即不御返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也 頼朝將軍若宮參詣之日記也。〔謙堂文庫藏四七右C〕

とあって、標記語「供奉」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

去比(サンヌル)(アツカリ)御札ニ|候之處他行之際(アイタ)即不(サルノ)(  サ)御報之条失(ウシナヒ)本意ヲ|存候抑(ソモ/\)將軍家若宮(ワカミヤ)()参詣(サンケイ)()之日記被(シヤク)用或(アル)ニ|候後日(ワサト)之也其(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢路次(ロシ)()將軍家ノ御参詣(ケイ)ニハ。供奉ノ日記トテ有也。是ハ御供(トモ)ノ爲(タラク)體(テイ)ヲシルシタル日記也。先代(せンタイ)當代相替(カハラ)ヌ様ニト云心ナリ。関東(クハントウ)ニ鶴(ツル)ガ岡(ヲカ)ノ八幡(ハチマン)トテアリ。御所ノ御代ニ一度ノ御参詣(ケイ)ナリ。惣八幡ノ本地ハ。一代教主(ケフシユ)本佛ノ釈迦如來也。故ニ九州(キウシウ)大隅(ヲホスミ)ノ八幡ニ。奇特(キドク)ノ有瑞相(ズイサウ)一夜ガ内ニ神前ニ大石(タイせキ)從(ヨリ)地涌出(イテ)テ其(ソノ)石(イシ)二ツニ破(ハレ)タリ。一方ニハ。南無八幡大菩薩ト云文字スワリ又一方ニハ。於靈鷲山(リヤウジユせン)説妙法華經宮中示()現(ゲン)大菩薩(ボサツ)ト云文字スワリテ今ニ有之於ルヲ不審(フシン)参詣(ケイ)シテ可拝見(ハイケン)者也。昔(ムカシ)靈鷲山ニシテ。妙法華經ヲ説キ玉フ佛ハ釈迦ヨリ外ニ別ニ佛無之八幡ノ本地釈迦如來也ト云事無疑者也如キノ斯(カク)證(せウ)文ハ。石躰(せキタイ)ノ銘(メイ)トテカクレナキ也。〔下24オ五〜24ウ四〕

とあって、この標記語「供奉」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

供奉(ぐぶ)の日記(につき)供奉日記御供(とも)の行列(ぎやうれつ)(かき)なり。〔69ウ二・三〕

とあって、この標記語「供奉」の語を収載し、語注記は、「御供(とも)の行列(ぎやうれつ)(かき)なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

去比(さんぬるころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候(さふら)ふ之處(ところ)他行(たぎやう)之()間(あいだ)則(すなハち)御(おん)返事(へんじ)を申(まを)さ不()候(さふら)ふ之()條(でう)本意(ほんい)を失(うしな)ひ畢(おハん)ぬ存候抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)御()參詣(さんけい)之()事(こと)供奉(ぐぶ)の日記(につき)或(ある)方(かた)に借用(しやくよう)せら被()候(さふら)ふ後日(ごにち)態(わざ)と進(しん)ず可()き也(なり)其(その)體(てい)殆(ほとんど)關東(くハんとう)鶴(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)ぬ。/比預リ‖御札ニ|之處他行之間則不サ‖御返事ヲ|之條失ヒ‖本意ヲ|抑將軍家若宮御参詣之事供奉日記せラニ|後日態キ∨躰殆関東岡八幡宮参詣▲供奉日記ハ御供(とも)の為躰(ていたらく)行列(ぎやうれつ)等の記録(かきもの)也。〔51オ五〜51ウ二〕 

去比(さんぬるころ)(あづかり)御札(ぎよさつ)に|(さふらふ)()(ところ)他行(たぎやう)()(あひだ)(すなハち)()(まうさ)(おん)返事(へんじ)を|(さふらふ)()(でう)(うしなひ)本意(ほんい)を|(をハんぬ)(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()参詣(さんけい)()(こと)供奉(くぶ)日記(につき)()(しやく)(よう)(ある)(かた)に|(さふらふ)後日(ごにち)(わざと)(べき)(しんず)(なり)(その)(てい)(ほとんと)(しめ)(てう)(くわせ)関東(くわんとう)鶴岡(つるがをか)八幡宮(はちまんぐうの)参詣(さんけい)(さふらひ)(をハんぬ)▲供奉日記は御供(とも)の為躰(ていたらく)行列(ぎやうれつ)等の記録(かきもの)也。〔91ウ五〜92オ六〕

とあって、標記語「供奉」の語を収載し、その語注記は、「供奉の日記は、御供(とも)の為躰(ていたらく)行列(ぎやうれつ)等の記録(かきもの)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Gubu.グブ(供奉) 伴をすること.§Gubuno fito.(供奉の人)伴をして行く人.§Gubusuru.(供奉する)伴をして行く.〔邦訳311l〕

とあって、標記語「供奉」の語の意味は「伴をすること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【供奉】(一)御供に、仕へ奉ること。保元物語、一、鳥羽院熊野御參詣事「法皇、云云、供奉の人人を召て」「行幸の供奉」「~輿の供奉」(二)内供奉の略、其條を見よ。さりぬるの條を見よ。榮花物語、十八、玉の臺「御厨子所の方を見れば、さるべき下臈男どもや、何くれの供奉達」〔0849-2〕

とあって、標記語「供奉」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-供奉】〔名〕@(「くぶ」とも)(―する)物を供給すること。供えること。供え奉ること。A(―する)従事する、仕えるの意を、その動作の相手を敬っていう語。お仕え申し上げること。B(―する)天皇の行幸などの行列に供として加わること。また、供の人々。C(「くぶ」とも)仏語。宮中の内道場に奉仕する僧。内供奉(ないぐぶ)のこと。日本では十禅師が兼ねた。内供(ないぐ)。供奉僧。D「ぐふそう(供奉僧)@」に同じ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
武衛參給武藏守義信、駿河守廣綱已下門客等、殊刷行粧、列供奉《訓み下し》武蔵ノ守義信、駿河ノ守広綱已下ノ門客等、殊ニ行粧ヲ刷ヒ、供奉(グブ)ニ列ス。《『吾妻鏡』元暦元年七月二十日の条》
 
 
2003年12月27日(土)晴れ。東京(八王子)
参詣(サンケイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、

参詣(ゲイ) 。〔元亀二年本267十〕

参詣(ケイ) 。〔静嘉堂本304六〕

とあって、標記語「参詣」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月十三日の状に、

去比預御札候之處他行之間不申御返事候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔至徳三年本〕

去比預御札候處他行之間即不申御返事候之條失本意候畢將軍家若宮御参詣事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔宝徳三年本〕

去比預御札候處他行之際即御返事不申候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉之日記被借用或方候後日態可進之候也〔建部傳内本〕

比預御札ニ|候之處他行之間即不御返事ヲ|候條失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣事供奉日記被用或方ニ|候後日態可進也〔山田俊雄藏本〕

ヌル比預リ‖御札候処他行之間即御返亊ヲ|候之条失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣之事供奉(クフ)日記被或方ヨリ|候後日進候也〔経覺筆本〕

去比預リ‖御札ニ|候處他行之際即不申御返事候条失本意候又將軍家若宮参詣事供奉(ク―)ノ日記被借用有方ニ|候後日可進也{自或方被借用以後日態可進之候}〔文明四年本〕 供奉(クフ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「参詣」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「参詣」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

参詣(サンケイマイル、マウデ)[平・去] 。〔態藝門784六〕

とあって、標記語「参詣」の語を収載し、訓みを「サンケイ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

参詣(サンケイ) 。〔・言語門214三〕

参會(サンクハイ) ―詣(ケイ)―禅(ぜン)。―暇()。―斈(ガク)。―篭(ロウ)。―賀()。―入(ニウ)。―上(ジヤウ)。―謁(エツ)。―内(ダイ)。―拝(ハイ)。―决(ケツ)。―扣(コウ)。―謝(ジヤ)。―社(シヤ)。〔・言語門178三〕

参會(サンクハイ) ―詣。―禅。―暇。―斈(ガク)。―篭。―賀。―入。―上。―謁。―内。―拝。―决。―扣。―謝。―社。〔・言語門167四〕

とあって、弘治二年本は標記語「参詣」の語を収載し、他本は標記語「参會」の冠頭字「参」の熟語群として「参詣」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

參會(サンクワイ) ―列(レツ)。―候(コウ)。―社(シヤ)。―洛(ラク)。―仕()。―拝(ハイ)。―謁(エツ)。―賀()。―籠(ロウ)―詣(ケイ)―内(ダイ)。―上(ジヤウ)。―向(カン)。―集(シフ)。―著(チヤク)。―宮(グウ)。〔言語門180四〕

とあって、標記語「參會」の冠頭字「參」の熟語群として「參詣」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書に、「参詣」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月十三日の状には、

486去比預御札ニ|候所他行之間即不御返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也 頼朝將軍若宮參詣之日記也。〔謙堂文庫藏四七右C〕

とあって、標記語「参詣」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

去比(サンヌル)(アツカリ)御札ニ|候之處他行之際(アイタ)即不(サルノ)(  サ)御報之条失(ウシナヒ)本意ヲ|存候抑(ソモ/\)將軍家若宮(ワカミヤ)()参詣(サンケイ)事供()之日記被(シヤク)用或(アル)ニ|候後日(ワサト)之也其(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢路次(ロシ)()將軍家ノ御参詣(ケイ)ニハ。供奉ノ日記トテ有也。是ハ御供(トモ)ノ爲(タラク)體(テイ)ヲシルシタル日記也。先代(せンタイ)當代相替(カハラ)ヌ様ニト云心ナリ。関東(クハントウ)ニ鶴(ツル)ガ岡(ヲカ)ノ八幡(ハチマン)トテアリ。御所ノ御代ニ一度ノ御参詣(ケイ)ナリ。惣八幡ノ本地ハ。一代教主(ケフシユ)本佛ノ釈迦如來也。故ニ九州(キウシウ)大隅(ヲホスミ)ノ八幡ニ。奇特(キドク)ノ有瑞相(ズイサウ)一夜ガ内ニ神前ニ大石(タイせキ)從(ヨリ)地涌出(イテ)テ其(ソノ)石(イシ)二ツニ破(ハレ)タリ。一方ニハ。南無八幡大菩薩ト云文字スワリ又一方ニハ。於靈鷲山(リヤウジユせン)説妙法華經宮中示()現(ゲン)大菩薩(ボサツ)ト云文字スワリテ今ニ有之於ルヲ不審(フシン)参詣(ケイ)シテ可拝見(ハイケン)者也。昔(ムカシ)靈鷲山ニシテ。妙法華經ヲ説キ玉フ佛ハ釈迦ヨリ外ニ別ニ佛無之八幡ノ本地釈迦如來也ト云事無疑者也如キノ斯(カク)證(せウ)文ハ。石躰(せキタイ)ノ銘(メイ)トテカクレナキ也。〔下24オ五〜24ウ四〕

とあって、この標記語「参詣」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)御()參詣(さんけい)事(こと)抑將軍家若宮御参詣之事此將軍家ハまさしく足利(あしかゝ)將軍をいえる也。若宮ハ山城乃石清水八幡宮(いわしみづはちまんぐう)なり。〔69オ七〜ウ二〕

とあって、この標記語「参詣」」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

去比(さんぬるころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候(さふら)ふ之處(ところ)他行(たぎやう)之()間(あいだ)則(すなハち)御(おん)返事(へんじ)を申(まを)さ不()候(さふら)ふ之()條(でう)本意(ほんい)を失(うしな)ひ畢(おハん)ぬ存候抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)御()參詣(さんけい)之()事(こと)供奉(ぐぶ)の日記(につき)或(ある)方(かた)に借用(しやくよう)せら被()候(さふら)ふ後日(ごにち)態(わざ)と進(しん)ず可()き也(なり)其(その)體(てい)殆(ほとんど)關東(くハんとう)鶴(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)ぬ。/比預リ‖御札ニ|之處他行之間則不サ‖御返事ヲ|之條失ヒ‖本意ヲ|抑將軍家若宮御参詣之事供奉日記せラニ|後日態キ∨躰殆関東岡八幡宮参詣〔51オ五〜51ウ一〕 

去比(さんぬるころ)(あづかり)御札(ぎよさつ)に|(さふらふ)()(ところ)他行(たぎやう)()(あひだ)(すなハち)()(まうさ)(おん)返事(へんじ)を|(さふらふ)()(でう)(うしなひ)本意(ほんい)を|(をハんぬ)(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()参詣(さんけい)()(こと)供奉(くぶ)日記(につき)()(しやく)(よう)(ある)(かた)に|(さふらふ)後日(ごにち)(わざと)(べき)(しんず)(なり)(その)(てい)(ほとんと)(しめ)(てう)(くわせ)関東(くわんとう)鶴岡(つるがをか)八幡宮(はちまんぐうの)参詣(さんけい)(さふらひ)(をハんぬ)〔91ウ五〜92オ五〕

とあって、標記語「参詣」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Sanqei.サンケイ(参詣) 寺(Tera),あるいは,神(Camis)の社に参ること.例Teraye sanqei suru.(寺へ参詣する).〔邦訳555r〕

とあって、標記語「参詣」の語の意味は「寺(Tera),あるいは,神(Camis)の社に参ること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さん-けい〔名〕【参詣】ものまうで。~佛を拝みに行くこと。晉書、王嘉傳「遷于倒獸山堅累徴、公侯以下、咸躬徃參詣」保元物語、一、「法皇熊野御參詣事」義經記、六「靜若宮八幡宮参詣事」。〔0849-2〕

とあって、標記語「參詣」の語としては未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さん-けい参詣】〔名〕@貴人のところを訪れること。A神社や寺にお参りすること。ものもうで」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
今日以後七箇日、可有鶴岡若宮參詣之由、立願給是東西逆徒蜂起事、爲靜謐也未明參給、被行御神樂〈云云〉。《訓み下し》今日ヨリ以後七箇日、鶴岡ノ若宮参詣有ルベキノ由、立願シ給フ。是レ東西ノ逆徒蜂起ノ事、静謐ノ為ナリ。未明ニ参リ給ヒ、御神楽ヲ行ハルト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承五年閏二月二十一日の条》
 
 
2003年12月26日(金)晴れ。東京(八王子)
若宮(わかみや)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「和」部に、「若衆(ワカシユ)。若生(ワカフ)。若子()。若菜()菜同。若黨(タウ)。若君(ギミ)。若水(ミヅ)。若栄(ヤグ)。若狭()二丁。若浦(ワカノウラ)和歌也。万。若紫(ムラサキ)源氏之名」の語を収載し、標記語「若宮」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月十三日の状に、

去比預御札候之處他行之間不申御返事候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔至徳三年本〕

去比預御札候處他行之間即不申御返事候之條失本意候畢將軍家若宮御参詣事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔宝徳三年本〕

去比預御札候處他行之際即御返事不申候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉之日記被借用或方候後日態可進之候也〔建部傳内本〕

比預御札ニ|候之處他行之間即不御返事ヲ|候條失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣事供奉日記被用或方ニ|候後日態可進也〔山田俊雄藏本〕

ヌル比預リ‖御札候処他行之間即御返亊ヲ|候之条失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣之事供奉(クフ)日記被或方ヨリ|候後日進候也〔経覺筆本〕

去比預リ‖御札ニ|候處他行之際即不申御返事候条失本意候又將軍家若宮御参詣事供奉(ク―)ノ日記被借用有方ニ|候後日可進也{自或方被借用以後日態可進之候}〔文明四年本〕 供奉(クフ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「若宮」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「若宮」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書には、「若宮」の語は未収載であり、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月十三日の状には、

486去比預御札ニ|候所他行之間即不御返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也 頼朝將軍若宮參詣之日記也。〔謙堂文庫藏四七右C〕

とあって、標記語「若宮」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

去比(サンヌル)(アツカリ)御札ニ|候之處他行之際(アイタ)即不(サルノ)(  サ)御報之条失(ウシナヒ)本意ヲ|存候抑(ソモ/\)將軍家若宮(ワカミヤ)()参詣(サンケイ)事供()之日記被(シヤク)用或(アル)ニ|候後日(ワサト)之也其(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢路次(ロシ)()將軍家ノ御参詣(ケイ)ニハ。供奉ノ日記トテ有也。是ハ御供(トモ)ノ爲(タラク)體(テイ)ヲシルシタル日記也。先代(せンタイ)當代相替(カハラ)ヌ様ニト云心ナリ。関東(クハントウ)ニ鶴(ツル)ガ岡(ヲカ)ノ八幡(ハチマン)トテアリ。御所ノ御代ニ一度ノ御参詣(ケイ)ナリ。惣八幡ノ本地ハ。一代教主(ケフシユ)本佛ノ釈迦如來也。故ニ九州(キウシウ)大隅(ヲホスミ)ノ八幡ニ。奇特(キドク)ノ有瑞相(ズイサウ)一夜ガ内ニ神前ニ大石(タイせキ)從(ヨリ)地涌出(イテ)テ其(ソノ)石(イシ)二ツニ破(ハレ)タリ。一方ニハ。南無八幡大菩薩ト云文字スワリ又一方ニハ。於靈鷲山(リヤウジユせン)説妙法華經宮中示()現(ゲン)大菩薩(ボサツ)ト云文字スワリテ今ニ有之於ルヲ不審(フシン)参詣(ケイ)シテ可拝見(ハイケン)者也。昔(ムカシ)靈鷲山ニシテ。妙法華經ヲ説キ玉フ佛ハ釈迦ヨリ外ニ別ニ佛無之八幡ノ本地釈迦如來也ト云事無疑者也如キノ斯(カク)證(せウ)文ハ。石躰(せキタイ)ノ銘(メイ)トテカクレナキ也。〔下24オ五〜24ウ四〕

とあって、この標記語「若宮」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)御()參詣(さんけい)事(こと)抑將軍家若宮御参詣之事此將軍家ハまさしく足利(あしかゝ)將軍をいえる也。若宮ハ山城乃石清水八幡宮(いわしみづはちまんぐう)なり。〔69オ七〜ウ二〕

とあって、この標記語「若宮」の語を収載し、語注記は、「若宮は、山城の石清水八幡宮(いわしみづはちまんぐう)なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

去比(さんぬるころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候(さふら)ふ之處(ところ)他行(たぎやう)()(あいだ)(すなハち)(おん)返事(へんじ)を申(まを)さ不()(さふら)ふ之()(でう)本意(ほんい)を失(うしな)ひ畢(おハん)ぬ存候抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()參詣(さんけい)()(こと)供奉(ぐぶ)の日記(につき)(ある)(かた)に借用(しやくよう)せら被()(さふら)ふ後日(ごにち)(わざ)と進(しん)ず可()き也(なり)(その)(てい)(ほとんど)關東(くハんとう)(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)。/比預リ‖御札ニ|之處他行之間則不サ‖御返事ヲ|之條失ヒ‖本意ヲ|抑將軍家若宮御参詣之事供奉日記せラニ|後日態キ∨躰殆関東岡八幡宮参詣▲若宮ハ城州(やましろ)の石清水(いはしみつ)八幡宮を指()す。〔51オ五〜51ウ二〕 

去比(さんぬるころ)(あづかり)御札(ぎよさつ)に|(さふらふ)()(ところ)他行(たぎやう)()(あひだ)(すなハち)()(まうさ)(おん)返事(へんじ)を|(さふらふ)()(でう)(うしなひ)本意(ほんい)を|(をハんぬ)(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()参詣(さんけい)()(こと)供奉(くぶ)日記(につき)()(しやく)(よう)(ある)(かた)に|(さふらふ)後日(ごにち)(わざと)(べき)(しんず)(なり)(その)(てい)(ほとんと)(しめ)(てう)(くわせ)関東(くわんとう)鶴岡(つるがをか)八幡宮(はちまんぐうの)参詣(さんけい)(さふらひ)(をハんぬ)▲若宮ハ城州(やましろ)の石清水(いはしミづ)八幡宮を指()す。〔91ウ五〜92オ五〕

とあって、標記語「若宮」の語を収載し、その語注記は、「若宮ハ城州(やましろ)の石清水(いはしミづ)八幡宮を指()」と記載する。※石清水八幡宮山城石清水八幡宮石清水八幡宮と僧行教
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Vacamiya.ワカミヤ(若宮) 皇子,すなわち,国王の子息で,国王の位を継ぐべき人.〔邦訳675l〕

とあって、標記語「若宮」の語の意味は「皇子,すなわち,国王の子息で,国王の位を継ぐべき人」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

わか-みや〔名〕【若宮】(一){皇子の、幼くましますを申す稱。源氏物語、七、紅葉賀14「若宮の御事を、わりなくおぼつかながり、云云」(二)親王家、又は、王家の御世継の御方を申す稱。又、一般に皇族の御子をも申す。(三)本宮の祭~の子を、其境内に祀る社。八幡宇佐宮御託宣集、若宮、貞觀十八年「大菩薩宮西方隠坐~未顕給、其名若宮~」二十二社註式「若宮八幡四所御事、若宮、仁徳天皇」(四)新宮の稱。本宮を別地に勸請して祀る社。吾妻鏡、一、治承四年十月十二日「勸請石清水、建瑞於當國由比郷」注「今號之下若宮〔2162-2〕

とあって、標記語「若宮」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「わか-みや若宮】〔名〕@幼少の皇子。また、一般に皇族の子。A將軍の子の僭称。B本宮の祭神の分霊を奉斎したもの。たとえば、本宮の応神天皇に対し仁徳天皇をまつる石清水八幡宮の若宮の類。Cはげしく祟る無縁の霊を斎(いわ)い込めるために、大きな神格の支配下においてまつり始めたもの。祠などにまったりする」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而宮御息若宮、〈八條院女房三位局盛章女腹〉御坐八條院之間、池中納言〈頼盛〉、爲入道相國使、率精兵、參八條御所、奉取若宮、歸六波羅此間洛中騷動、城外狼藉、不可勝計〈云云〉《訓み下し》而シテ宮ノ御息若宮、〈八条ノ院ノ女房三位ノ局盛章ノ女ノ腹〉八条ノ院ニ御坐ノ間、池ノ中納言〈頼盛〉、入道相国ノ使トシテ、精兵ヲ率シ、八条ノ御所ニ参ジテ、若宮(ワカミヤ)ヲ取リ奉リ、六波羅ニ帰ル。此ノ間洛中騒動シ、城外ノ狼藉、勝ゲテ計フベカラズト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年五月十六日の条》
 
 
2003年12月25日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
本意(ホンイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、「本尊(ゾン)。本末(マツ)。本領(リヤウ)。本来(ライ)。本所(ジヨ)。本役(ヤク)。本懐(グワイ)。本復(フク)。本主(ジユ)。本名(ミヤウ)。本道(ダウ)。本祖()。本卦()。本朝(テウ)。本草(サウ)。本手()、本方(ハウ)。本儀()。本願(クワン)。本韻(イン)。本寺()。本山(サン)。本迹(シヤク)―門/―門。本蘇()矢根」の語を収載し、標記語「本意」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月十三日の状に、

去比預御札候之處他行之間不申御返事候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔至徳三年本〕

去比預御札候處他行之間即不申御返事候之條失本意候候畢將軍家若宮御参詣事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔宝徳三年本〕

去比預御札候處他行之際即御返事不申候之条失本意候候將軍家若宮御参詣之事供奉之日記被借用或方候後日態可進之候也〔建部傳内本〕

比預御札ニ|候之處他行之間即不御返事ヲ|候條失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣事供奉日記被用或方ニ|候後日態可進也〔山田俊雄藏本〕

ヌル比預リ‖御札候処他行之間即御返亊ヲ|候之条失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣之事供奉(クフ)日記被或方ヨリ|候後日進候也〔経覺筆本〕

去比預リ‖御札ニ|候處他行之際即不申御返事候条失本意候又將軍家若宮御参詣事供奉(ク―)ノ日記被借用有方ニ|候後日可進也{自或方被借用以後日態可進之候}〔文明四年本〕 供奉(クフ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

本意 人情部/ホンイ。〔黒川本・言語門上38オ四〕

本末 〃誓。〃心。〃覺。〃師。〃願。〃躰。〃所。〃家。〃意。〃糸。〔卷第二・言語門332二〕

とあって、標記語「本意」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「本意」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

本意(ホンイ/モト、コヽロ・ヲモフ)[平・平去] 。〔態藝門101B〕

とあって、標記語「本意」の語を収載し、訓みを「タギヤウ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

本意(ホンイ) 。〔・言語進退門34五〕〔・言語門38七〕

本末(ホンマツ) ―意(ホンイ)。―系モトヲツク。―来(ライ)。―復(フク)。―懐(クワイ)。―性(シヤウ)。―跡(せキ)。―所。―領(リヤウ)。―体(タイ)。―樣。―望(マウ)。―分(フン)。―訴()。―券(ケン)。〔・言語門35一〕

本末(ホンマツ) ―意。―系。―来。―復。―懐。―性。―跡/―所。―領。―体。―樣。―望。―分。―訴。―地。〔・言語門31九〕

とあって、弘治二年本両足院本の標記語「本意」の語を収載し、他本は「本末」の冠頭字「本」の熟語群として「本意」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

本意() 。〔言語門60四〕

とあって、標記語「本意」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「本意」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月十三日の状には、

486去比預御札ニ|候所他行之間即不御返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也 頼朝將軍若宮參詣之日記也。〔謙堂文庫藏四七右C〕

とあって、標記語「本意」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

去比(サンヌル)(アツカリ)御札ニ|候之處他行之際(アイタ)即不(サルノ)(  サ)御報之条失(ウシナヒ)本意ヲ|存候抑(ソモ/\)將軍家若宮(ワカミヤ)()参詣(サンケイ)事供()之日記被(シヤク)用或(アル)ニ|候後日(ワサト)之也其(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢路次(ロシ)()將軍家ノ御参詣(ケイ)ニハ。供奉ノ日記トテ有也。是ハ御供(トモ)ノ爲(タラク)體(テイ)ヲシルシタル日記也。先代(せンタイ)當代相替(カハラ)ヌ様ニト云心ナリ。関東(クハントウ)ニ鶴(ツル)ガ岡(ヲカ)ノ八幡(ハチマン)トテアリ。御所ノ御代ニ一度ノ御参詣(ケイ)ナリ。惣八幡ノ本地ハ。一代教主(ケフシユ)本佛ノ釈迦如來也。故ニ九州(キウシウ)大隅(ヲホスミ)ノ八幡ニ。奇特(キドク)ノ有瑞相(ズイサウ)一夜ガ内ニ神前ニ大石(タイせキ)從(ヨリ)地涌出(イテ)テ其(ソノ)石(イシ)二ツニ破(ハレ)タリ。一方ニハ。南無八幡大菩薩ト云文字スワリ又一方ニハ。於靈鷲山(リヤウジユせン)説妙法華經宮中示()現(ゲン)大菩薩(ボサツ)ト云文字スワリテ今ニ有之於ルヲ不審(フシン)参詣(ケイ)シテ可拝見(ハイケン)者也。昔(ムカシ)靈鷲山ニシテ。妙法華經ヲ説キ玉フ佛ハ釈迦ヨリ外ニ別ニ佛無之八幡ノ本地釈迦如來也ト云事無疑者也如キノ斯(カク)證(せウ)文ハ。石躰(せキタイ)ノ銘(メイ)トテカクレナキ也。〔下24オ五〜24ウ四〕

とあって、この標記語「本意」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

本望(ほんもう)を失(うしな)ひ畢ぬヒ‖本望ヲ|こゝに云こゝろハ返し比書状を送られたりしに折あしく代出して返事申さるゝ事本望に背きたる仕合なりとそ。〔69オ七・八〕

とあって、この標記語「本望」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

去比(さんぬるころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候(さふら)ふ之處(ところ)他行(たぎやう)之()間(あいだ)則(すなハち)御(おん)返事(へんじ)を申(まを)さ不()候(さふら)ふ之()條(でう)本意(ほんい)を失(うしな)ひ畢(おハん)ぬ存候抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)御()參詣(さんけい)之()事(こと)供奉(ぐぶ)の日記(につき)或(ある)方(かた)に借用(しやくよう)せら被()候(さふら)ふ後日(ごにち)態(わざ)と進(しん)ず可()き也(なり)其(その)體(てい)殆(ほとんど)關東(くハんとう)鶴(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)ぬ。/比預リ‖御札ニ|之處他行之間則不サ‖御返事ヲ|之條失ヒ‖本意ヲ|抑將軍家若宮御参詣之事供奉日記せラニ|後日態キ∨躰殆関東岡八幡宮参詣〔51オ五〜51ウ一〕 

去比(さんぬるころ)(あづかり)御札(ぎよさつ)に|(さふらふ)()(ところ)他行(たぎやう)()(あひだ)(すなハち)()(まうさ)(おん)返事(へんじ)を|(さふらふ)()(でう)(うしなひ)本意(ほんい)を|(をハんぬ)(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()参詣(さんけい)()(こと)供奉(くぶ)日記(につき)()(しやく)(よう)(ある)(かた)に|(さふらふ)後日(ごにち)(わざと)(べき)(しんず)(なり)(その)(てい)(ほとんと)(しめ)(てう)(くわせ)関東(くわんとう)鶴岡(つるがをか)八幡宮(はちまんぐうの)参詣(さんけい)(さふらひ)(をハんぬ)〔91ウ五〜92オ五〕

とあって、標記語「本意」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fon-i.ホンイ(本意) Fonno cocoro.(本の意)本来の意味,または,本来の道理.§Foni uo somuqu.(本意を背く)道理と礼儀にそむく.§また,自分自身の願望.例,Foninin naru.(本意になる)自分の願望や意志を達する.〔邦訳260l〕

とあって、標記語「本意」の語の意味は「(本の意)本来の意味,または,本来の道理」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ほん〔名〕【本意】〔略して、ほい〕(一){まことのこころ。本懐。後漢書、竇融傳「又、京師百僚、不國家及將軍本意皇甫冉詩「一官知所傲、本意在雲泉字類抄「本意」宇津保物語、樓上、下28「ほんいのごと靜かなるべい事のかたかべいをなん、いかさまにせましと思ひ侍る」榮花物語、一、月宴「前の朱雀院の女みこ、云云、後にすゑ奉らんの御本意なるべし」(二)もとよりのこころ。根本のかんがへ。本來の意志。後漢書、張敏傳「臣伏見、孔子垂經典、皐陶造法律、原其本意、皆欲民爲一レ非也」源平盛衰記、十九、文覺發心事「年來(ごろ)日來、諸諸の~~、廻り行ひ祈る、祷りの甲斐ありて、本意をとげぬる嬉しさよ」〔1853-5〕

とあって、標記語「本意」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ほん本意】〔名〕@まことの心。本来の意志。実際の望み。かねての願い。本懐。本心。ほい。A真の意味。まことの意味。B本来あるべきさま。特に和歌・連歌・俳諧などで、ある題材が本来備えている、最もそれにふさわしいと考えられる性質や意味、あり方」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
趣退出、如本意、獲其首〈云云〉《訓み下し》退出スルニ趣(*誅罰スベキ趣ヲ存ジテ退出ス)、本意ノ如ク、其ノ首ヲ獲ルト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年九月十九日日の条》
 
 
2003年12月24日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
返事(ヘンジ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「遍」部に、

返事() 。〔元亀二年本49十〕

× 。〔静嘉堂本〕〔天正十七年本〕〔西來寺本〕

とあって、元亀二年本だけに標記語「返事」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月十三日の状に、

去比預御札候之處他行之間不申御返事候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔至徳三年本〕

去比預御札候處他行之間即不申御返事候之條失本意候畢將軍家若宮御参詣事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔宝徳三年本〕

去比預御札候處他行之際即御返事不申候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉之日記被借用或方候後日態可進之候也〔建部傳内本〕

比預御札ニ|候之處他行之間即不返事ヲ|候條失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣事供奉日記被用或方ニ|候後日態可進也〔山田俊雄藏本〕

ヌル比預リ‖御札候処他行之間即返事ヲ|候之条失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣之事供奉(クフ)日記被或方ヨリ|候後日進候也〔経覺筆本〕

去比預リ‖御札ニ|候處他行之際即不申御返事候条失本意候又將軍家若宮御参詣事供奉(ク―)ノ日記被借用有方ニ|候後日可進也{自或方被借用以後日態可進之候}〔文明四年本〕 供奉(クフ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「返事」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「返事」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

返亊(ヘンハン・カヘル、ワザ・コト)[上・去] 。〔態藝門115七〕

とあって、標記語「返事」の語を収載し、訓みを「ヘンジ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

返亊() 。〔・言語進退門39三〕

返閉(ヘンヘイ) ―進(シン)。―納(ナウ)。―奉(ホウ)。―答(タウ)/―窮(キウ)。―上(ジヤウ)。―報(ホウ)。―弁(ベン)―亊()。〔・言語門39三〕

返閉(ヘンヘイ) ―進。―奉。―納。―報/―答。―窮。―上。―弁。〔・言語門36二〕

返進(ヘンシン)返答(タウ)返上返報(ホウ)返弁(ベン)。〔・言語門43四・五〕

とあって、弘治二年本は標記語「返事」の語を収載し、永祿二年本は標記語「返閉」の語を収載し、冠頭字「返」の熟語群の末尾に「返事」の語を収載する。そして、他本は未収載となっている。また、易林本節用集』には、

返事() 。〔言語門37六〕

とあって、標記語「返事」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書にあって、「返事」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。ここで、『運歩色葉集』及び印度本節用集諸本に収載有無の異同が見られ、この要因がどのような編纂意図に依拠しているのかを考察するに、増補改訂のうえで、整理がついているのが静嘉堂本・天正本・西来寺本であって、元亀二年本が「返」を冠頭字とする熟語語彙を大きく二箇所で排列している状況から見ても、その元亀二年本の原本自体が大いに補足していた準備段階の古辞書であった可能性が高い。これを冠頭字を統一編纂するという第二次編纂は行われずして、元亀二年本はそのまま書写したものとみておくこととする。そのうえで、印度本節用集の諸本を見るに、ここでも各々異なりを見せていて、その語彙の取り込み状況が余りにも複雑化している箇所であることを指摘しておきたい。この箇所がある意味で、その成立過程での系統性を明らかにしていくうえで重要な役割を見せていることは言うまでもなかろう。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月十三日の状には、

486去比預御札ニ|候所他行之間即不返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也 頼朝將軍若宮參詣之日記也。〔謙堂文庫藏四七右C〕

とあって、標記語「返事」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

去比(サンヌル)(アツカリ)御札ニ|候之處他行之際(アイタ)即不(サルノ)(  サ)御報之条失(ウシナヒ)本意ヲ|存候抑(ソモ/\)將軍家若宮(ワカミヤ)()参詣(サンケイ)事供()之日記被(シヤク)用或(アル)ニ|候後日(ワサト)之也其(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢路次(ロシ)()將軍家ノ御参詣(ケイ)ニハ。供奉ノ日記トテ有也。是ハ御供(トモ)ノ爲(タラク)體(テイ)ヲシルシタル日記也。先代(せンタイ)當代相替(カハラ)ヌ様ニト云心ナリ。関東(クハントウ)ニ鶴(ツル)ガ岡(ヲカ)ノ八幡(ハチマン)トテアリ。御所ノ御代ニ一度ノ御参詣(ケイ)ナリ。惣八幡ノ本地ハ。一代教主(ケフシユ)本佛ノ釈迦如來也。故ニ九州(キウシウ)大隅(ヲホスミ)ノ八幡ニ。奇特(キドク)ノ有瑞相(ズイサウ)一夜ガ内ニ神前ニ大石(タイせキ)從(ヨリ)地涌出(イテ)テ其(ソノ)石(イシ)二ツニ破(ハレ)タリ。一方ニハ。南無八幡大菩薩ト云文字スワリ又一方ニハ。於靈鷲山(リヤウジユせン)説妙法華經宮中示()現(ゲン)大菩薩(ボサツ)ト云文字スワリテ今ニ有之於ルヲ不審(フシン)参詣(ケイ)シテ可拝見(ハイケン)者也。昔(ムカシ)靈鷲山ニシテ。妙法華經ヲ説キ玉フ佛ハ釈迦ヨリ外ニ別ニ佛無之八幡ノ本地釈迦如來也ト云事無疑者也如キノ斯(カク)證(せウ)文ハ。石躰(せキタイ)ノ銘(メイ)トテカクレナキ也。〔下24オ五〜24ウ四〕

とあって、この標記語「返事」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

他行(たぎやう)之()間(あいた)則(すなハち)御()(ほう)を申(まを)不()候の之条他行之間則不ヲ|候之條他行ハ外に出て家に居らぬ事也。又代出とも云。〔69オ六・七〕

とあって、この標記語を「返事」とせずに「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

去比(さんぬるころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候(さふら)ふ之處(ところ)他行(たぎやう)之()間(あいだ)則(すなハち)御(おん)返事(へんじ)を申(まを)さ不()候(さふら)ふ之()條(でう)本意(ほんい)を失(うしな)ひ畢(おハん)ぬ存候抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)御()參詣(さんけい)之()事(こと)供奉(ぐぶ)の日記(につき)或(ある)方(かた)に借用(しやくよう)せら被()候(さふら)ふ後日(ごにち)態(わざ)と進(しん)ず可()き也(なり)其(その)體(てい)殆(ほとんど)關東(くハんとう)鶴(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)ぬ。/比預リ‖御札ニ|之處他行之間則不サ‖返事ヲ|之條失ヒ‖本意ヲ|抑將軍家若宮御参詣之事供奉日記せラニ|後日態キ∨躰殆関東岡八幡宮参詣〔51オ五〜51ウ一〕 

去比(さんぬるころ)(あづかり)御札(ぎよさつ)に|(さふらふ)()(ところ)他行(たぎやう)()(あひだ)(すなハち)()(まうさ)(おん)返事(へんじ)を|(さふらふ)()(でう)(うしなひ)本意(ほんい)を|(をハんぬ)(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()参詣(さんけい)()(こと)供奉(くぶ)日記(につき)()(しやく)(よう)(ある)(かた)に|(さふらふ)後日(ごにち)(わざと)(べき)(しんず)(なり)(その)(てい)(ほとんと)(しめ)(てう)(くわせ)関東(くわんとう)鶴岡(つるがをか)八幡宮(はちまんぐうの)参詣(さんけい)(さふらひ)(をハんぬ)〔91ウ五〜92オ五〕

とあって、標記語「返事」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fenji.ヘンジ(返事) Cayeri coto.(返り事) 返事.〔邦訳221l〕

とあって、標記語「返事」の語の意味は「(返り事)返事」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

へん〔名〕【返事】かへりごと。こたへ。あいさつ。返答。答辭(とうじ)字類抄「返事、ヘンジ」源氏物語、四十三、竹川22「侍從の君は、この御返事せんとて、上にまゐりたまふを見るに」保元物語、一、左大臣上洛事「即ち内裏より御返事あり」〔1815-2〕

とあって、標記語「返事」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「へん返事返辞】〔名〕@ことばを返すこと。また、返すことば。もらった手紙や和歌、また、質問、問合わせなどに対して、答えて返す手紙、和歌、文書など。かえりごと。かえり。かえし。呼びかけられて相手に応じ返すことば。応答語。ハ諾否を答えること。承知か不承知かを言いやること。A贈り物の返礼。返礼の品。おかえし。B遊里で、客から呼ばれること。お座敷がかかること。[語誌](1)和語「かへりこと」に漢字を当て、それを音読することで生じた和製漢語であるが、中古には和語の「かえし」「かえり」が多く用いられた。(2)Aのようにことばに関わらない用法もあったが、ことばに対するもの、特に書簡に対する「返信」の意に用いられるのが普通となる。(3)話しことばを強く意識した「返言(へんごん)」のようないい方も現われ、「返辞」という表記も使われた」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
即御返事云、依無粮、退長門之条、只今不相向敵者有何事哉《訓み下し》即チ御返事ニ云ク、糧無キニ依テ、長門ニ退クノ条、只今敵ニ相ヒ向ハズハ何事カ有ランヤ。《『吾妻鏡』元暦二年二月十三日日の条》
 
 
2003年12月23日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
他行(タギヤウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

()(ギヤウ) 。〔元亀二年本135七〕

() 。〔静嘉堂本142八〕

()(キヤウ) 。〔天正十七年本中3ウ三〕

とあって、標記語「他行」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月十三日の状に、

去比預御札候之處他行之間不申御返事候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔至徳三年本〕

去比預御札候處他行之間即不申御返事候之條失本意候將軍家若宮御参詣事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔宝徳三年本〕

去比預御札候處他行之際即御返事不申候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉之日記被借用或方候後日態可進之候也〔建部傳内本〕

比預御札ニ|候之處他行之間即不御返事ヲ|候條失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣事供奉日記被用或方ニ|候後日態可進也〔山田俊雄藏本〕

去比預御札ニ|候所他行之間即不御返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也〔経覺筆本〕

去比預御札ニ|候所他行之間即不御返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「他行」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「他行」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

他行(ギヤウ・ヲコナウフタゴヽロ、カウ・ユク・ツラナル)[平・平去] 。〔態藝門349一〕

とあって、標記語「他行」の語を収載し、訓みを「タギヤウ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

()(ギヤウ) 。〔・言語進退門108六〕

とあって、弘治二年本のみが標記語「他行」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

()(ギヤウ) ―流(リウ)/―院(ヰン)。―腹(フク)。―郷(キヤウ)。―門(モン)。―所(シヨ)。―家()/―方(ハウ)。―國(コク)。―言(コン)。―念(ネン)。―筆(ヒツ)。―事()。〔言語門93六・七〕

とあって、標記語「他行」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「他行」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月十三日の状には、

486去比預御札ニ|候所他行之間即不御返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也 頼朝將軍若宮參詣之日記也。〔謙堂文庫藏四七右C〕

とあって、標記語「他行」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

去比(サンヌル)(アツカリ)御札ニ|候之處他行之際(アイタ)即不(サルノ)(  サ)御報之条失(ウシナヒ)本意ヲ|存候抑(ソモ/\)將軍家若宮(ワカミヤ)()参詣(サンケイ)事供()之日記被(シヤク)(アル)ニ|後日(ワサト)之也其(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢路次(ロシ)()將軍家ノ御参詣(ケイ)ニハ。供奉ノ日記トテ有也。是ハ御供(トモ)ノ爲(タラク)體(テイ)ヲシルシタル日記也。先代(せンタイ)當代相替(カハラ)ヌ様ニト云心ナリ。関東(クハントウ)ニ鶴(ツル)ガ岡(ヲカ)ノ八幡(ハチマン)トテアリ。御所ノ御代ニ一度ノ御参詣(ケイ)ナリ。惣八幡ノ本地ハ。一代教主(ケフシユ)本佛ノ釈迦如來也。故ニ九州(キウシウ)大隅(ヲホスミ)ノ八幡ニ。奇特(キドク)ノ有瑞相(ズイサウ)一夜ガ内ニ神前ニ大石(タイせキ)從(ヨリ)地涌出(イテ)テ其(ソノ)石(イシ)二ツニ破(ハレ)タリ。一方ニハ。南無八幡大菩薩ト云文字スワリ又一方ニハ。於靈鷲山(リヤウジユせン)説妙法華經宮中示()現(ゲン)大菩薩(ボサツ)ト云文字スワリテ今ニ有之於ルヲ不審(フシン)参詣(ケイ)シテ可拝見(ハイケン)者也。昔(ムカシ)靈鷲山ニシテ。妙法華經ヲ説キ玉フ佛ハ釈迦ヨリ外ニ別ニ佛無之八幡ノ本地釈迦如來也ト云事無疑者也如キノ斯(カク)證(せウ)文ハ。石躰(せキタイ)ノ銘(メイ)トテカクレナキ也。〔下24オ五〜24ウ四〕

とあって、この標記語「他行」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

他行(たぎやう)之()間(あいた)則(すなハち)御()(ほう)を申(まを)不()候の之条他行之間則不ヲ|候之條他行ハ外に出て家に居らぬ事也。又代出とも云。〔69オ六・七〕

とあって、この標記語「他行」の語を収載し、語注記は「他行は、外に出て家に居らぬ事なり。又、代出とも云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

去比(さんぬるころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候(さふら)ふ之處(ところ)他行(たぎやう)之()間(あいだ)則(すなハち)御(おん)返事(へんじ)を申(まを)さ不()候(さふら)ふ之()條(でう)本意(ほんい)を失(うしな)ひ畢(おハん)ぬ存候抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)御()參詣(さんけい)之()事(こと)供奉(ぐぶ)の日記(につき)或(ある)方(かた)に借用(しやくよう)せら被()候(さふら)ふ後日(ごにち)態(わざ)と進(しん)ず可()き也(なり)其(その)體(てい)殆(ほとんど)關東(くハんとう)鶴(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)ぬ。/比預リ‖御札ニ|之處他行之間則不サ‖御返事ヲ|之條失ヒ‖本意ヲ|抑將軍家若宮御参詣之事供奉日記せラニ|後日態キ∨躰殆関東岡八幡宮参詣〔51オ五〜51ウ一〕 

去比(さんぬるころ)(あづかり)御札(ぎよさつ)に|(さふらふ)()(ところ)他行(たぎやう)()(あひだ)(すなハち)()(まうさ)(おん)返事(へんじ)を|(さふらふ)()(でう)(うしなひ)本意(ほんい)を|(をハんぬ)(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()参詣(さんけい)()(こと)供奉(くぶ)日記(につき)()(しやく)(よう)(ある)(かた)に|(さふらふ)後日(ごにち)(わざと)(べき)(しんず)(なり)(その)(てい)(ほとんと)(しめ)(てう)(くわせ)関東(くわんとう)鶴岡(つるがをか)八幡宮(はちまんぐうの)参詣(さんけい)(さふらひ)(をハんぬ)〔91ウ五〜92オ五〕

とあって、標記語「他行」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Taguio<.タギヤウ(他行) すなわち,Yosoye yuqu.(よそへ行く)他所へ行くこと.例,Taguio< suru.(他行する)Taguio< nasareta.(他行なされた)〔邦訳602l〕

とあって、標記語「他行」の語の意味は「すなわち,Yosoye yuqu.(よそへ行く)他所へ行くこと」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たぎゃう〔名〕【他行】家を出でて、外へ行くこと。よそゆき。他出。魏書、列女、魏溥妻傳「以母、房命(アザムキテ)、給云他行源平盛衰記、三十九、重衡迎内裏女房事「都を落ち下だりし時、友時が他行して侍りし」〔1205-5〕

とあって、標記語「他行」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ぎょう他行】〔名〕その場を離れてよそへ行くこと。他の場所へ出かけること。外出すること。たこう」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而越州者、他行留守侍等、於彼南隣、搦取惡黨、〈自他所、逃來隠居〉之間、賊徒、或令自殺、或致防戰〈云云〉。《訓み下し》而ルニ越州ハ、他行(タギヤウ)シテ、留守ノ侍等、彼ノ南隣ニ於テ、悪党〈他所ヨリ、逃ゲ来テ隠居ス〉ヲ搦メ取ルノ間、賊徒、或ハ自殺セシメ、或ハ防戦ヲ致スト〈云云〉。《『吾妻鏡』寛喜三年九月二十七日の条》
 
 
2003年12月22日(月)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
御札(ギヨサツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「記」部に、

御札(サツ) 。〔元亀二年本281五〕

御札 。〔静嘉堂本321六〕

とあって、標記語「御札」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月十三日の状に、

去比預御札候之處他行之間不申御返事候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔至徳三年本〕

去比預御札候處他行之間即不申御返事候之條失本意候將軍家若宮御参詣事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔宝徳三年本〕

去比預御札候處他行之際即御返事不申候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉之日記被借用或方候後日態可進之候也〔建部傳内本〕

比預御札ニ|候之處他行之間即不御返事ヲ|候條失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣事供奉日記被用或方ニ|候後日態可進也〔山田俊雄藏本〕

去比預御札ニ|候所他行之間即不御返事候条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也〔経覺筆本〕

去比預御札ニ|候所他行之間即不御返事候条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「御札」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「御札」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

御札(ギヨサツヲサム、フダ)[去・入] 。〔態藝門830八〕

とあって、標記語「御札」の語を収載し、訓みを「ギヨサツ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「御札」の語は未収載にする。また、易林本節用集』には、

御感(ギヨカン) ―遊(イウ)。―句()―札(サツ)。―意()。〔言語門190四〕

とあって、標記語「御札」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「御札」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月十三日の状には、

486去比預御札ニ|候所他行之間即不御返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也 頼朝將軍若宮參詣之日記也。〔謙堂文庫藏四七右C〕

とあって、標記語「御札」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

去比(サンヌル)(アツカリ)御札ニ|候之處他行之際(アイタ)即不(サルノ)(  サ)御報之条失(ウシナヒ)本意ヲ|存候抑(ソモ/\)將軍家若宮(ワカミヤ)()参詣(サンケイ)事供()之日記被(シヤク)用或(アル)ニ|候後日(ワサト)之也其(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢路次(ロシ)()將軍家ノ御参詣(ケイ)ニハ。供奉ノ日記トテ有也。是ハ御供(トモ)ノ爲(タラク)體(テイ)ヲシルシタル日記也。先代(せンタイ)當代相替(カハラ)ヌ様ニト云心ナリ。関東(クハントウ)ニ鶴(ツル)ガ岡(ヲカ)ノ八幡(ハチマン)トテアリ。御所ノ御代ニ一度ノ御参詣(ケイ)ナリ。惣八幡ノ本地ハ。一代教主(ケフシユ)本佛ノ釈迦如來也。故ニ九州(キウシウ)大隅(ヲホスミ)ノ八幡ニ。奇特(キドク)ノ有瑞相(ズイサウ)一夜ガ内ニ神前ニ大石(タイせキ)從(ヨリ)地涌出(イテ)テ其(ソノ)石(イシ)二ツニ破(ハレ)タリ。一方ニハ。南無八幡大菩薩ト云文字スワリ又一方ニハ。於靈鷲山(リヤウジユせン)説妙法華經宮中示()現(ゲン)大菩薩(ボサツ)ト云文字スワリテ今ニ有之於ルヲ不審(フシン)参詣(ケイ)シテ可拝見(ハイケン)者也。昔(ムカシ)靈鷲山ニシテ。妙法華經ヲ説キ玉フ佛ハ釈迦ヨリ外ニ別ニ佛無之八幡ノ本地釈迦如來也ト云事無疑者也如キノ斯(カク)證(せウ)文ハ。石躰(せキタイ)ノ銘(メイ)トテカクレナキ也。〔下24オ五〜24ウ四〕

とあって、この標記語「御札」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(さんぬ)る比(ころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候之處ヌル御札ニ|候之処去ぬる比とハいつぞやハといふかことし。二十五章之内唯此章の之返状有て出状なし。〔69オ五・六〕

とあって、この標記語「御札」の語を収載し、語注記は「去ぬる比とは、いつぞやはといふがごとし」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

去比(さんぬるころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候(さふら)ふ之處(ところ)他行(たぎやう)之()間(あいだ)則(すなハち)御(おん)返事(へんじ)を申(まを)さ不()候(さふら)ふ之()條(でう)本意(ほんい)を失(うしな)ひ畢(おハん)ぬ存候抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)御()參詣(さんけい)之()事(こと)供奉(ぐぶ)の日記(につき)或(ある)方(かた)に借用(しやくよう)せら被()候(さふら)ふ後日(ごにち)態(わざ)と進(しん)ず可()き也(なり)其(その)體(てい)殆(ほとんど)關東(くハんとう)鶴(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)ぬ。/比預リ‖御札ニ|之處他行之間則不サ‖御返事ヲ|之條失ヒ‖本意ヲ|抑將軍家若宮御参詣之事供奉日記せラニ|後日態キ∨躰殆関東岡八幡宮参詣〔51オ五〜51ウ一〕 

去比(さんぬるころ)(あづかり)御札(ぎよさつ)に|(さふらふ)()(ところ)他行(たぎやう)()(あひだ)(すなハち)()(まうさ)(おん)返事(へんじ)を|(さふらふ)()(でう)(うしなひ)本意(ほんい)を|(をハんぬ)(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()参詣(さんけい)()(こと)供奉(くぶ)日記(につき)()(しやく)(よう)(ある)(かた)に|(さふらふ)後日(ごにち)(わざと)(べき)(しんず)(なり)(その)(てい)(ほとんと)(しめ)(てう)(くわせ)関東(くわんとう)鶴岡(つるがをか)八幡宮(はちまんぐうの)参詣(さんけい)(さふらひ)(をハんぬ)〔91ウ五〜92オ五〕

とあって、標記語「御札」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Guiosat.ギヨサツ(御札) Von fumi(御文)に同じ.尊敬して言うところの書状.〔邦訳302l〕

とあって、標記語「御札」の語の意味は「Von fumi(御文)に同じ.尊敬して言うところの書状」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「御札」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ぎょさつ御札】〔名〕(「札」は「書札」で、書状の意)他人を敬って、その書札をいう語。*新十二月徃来(1206頃か)「御札之旨謹以承候了」*易林本節用集(1597)「御札 ギョサツ」*ロドリゲス日本大文典(1604-08)「Guiosat(ギョサツ)」*咄本・醒睡笑(1628)三「『御札のごとくとは何といふこころぞや』『人のもとへ文をやりたるその返事のことばぞ』」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
兼又群盗事、付常胤行平、雖令献御札給、爲省紙筆、以一通、申御返事候也。《訓み下し》兼テハ又群盗ノ事、常胤行平ニ付ケテ、御札ヲ献ゼシメ給フト雖モ、紙筆ヲ省カン為ニ、一通ヲ以テ、御返事ヲ申シ候フナリ。《『吾妻鏡』文治三年十月三日の条》
 
 
2003年12月22日(日)晴れ。奈良GBS→東京(八王子)
去比(いぬるころ・さんぬるころ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部には「去」冠頭字とする熟語群は無く、「左」部に、「去間(サルアイタ)。去程(サルホドニ)。去者(サレハ)」の三語を収載し、標記語「去比」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月十三日の状に、

去比預御札候之處他行之間不申御返事候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔至徳三年本〕

去比預御札候處他行之間即不申御返事候之條失本意候將軍家若宮御参詣事供奉日記被借用有方候後日態可進也〔宝徳三年本〕

去比預御札候處他行之際即御返事不申候之条失本意候將軍家若宮御参詣之事供奉之日記被借用或方候後日態可進之候也〔建部傳内本〕

御札ニ|候之處他行之間即不御返事ヲ|候條失ヒ‖本意ヲ|候將軍家若宮御参詣事供奉日記被用或方ニ|候後日態可進也〔山田俊雄藏本〕

去比御札ニ|候所他行之間即不御返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也〔経覺筆本〕

去比御札ニ|候所他行之間即不御返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「去比」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「去比」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(イヌルキヨ・サル)[平・去] 皈去義。〔態藝門42一〕

とあって、標記語「去比」の語は未収載であり、「」の単字で訓みを「イヌル」とし、その語注記は「皈去の義」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(サル) 。〔・言語進退門213四〕

とあって、弘治二年本が標記語「去比」の語は未収載であるが、単字として「去」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

(サル)()()()。〔言辞門182七〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「去比」の語としては未収載であり、「去」のみでしか収載されていない。ここに、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月十三日の状には、

486去比御札ニ|候所他行之間即不御返亊候条失本意候將軍家若宮御参詣之亊供奉日記被用有方ニ|候後日態可進也 頼朝將軍若宮參詣之日記也。〔謙堂文庫藏四七右C〕

※静嘉堂文庫藏『庭訓往來抄』古寫「(サンヌル)」と訓じて表記する。天理図書館藏『庭訓徃來註』は、「(  ヌル)」と訓じていて判明しない。

とあって、標記語「去比」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

去比(サンヌル)(アツカリ)御札ニ|候之處他行之際(アイタ)即不(サルノ)(  サ)御報之条失(ウシナヒ)本意ヲ|存候抑(ソモ/\)將軍家若宮(ワカミヤ)()参詣(サンケイ)事供()之日記被(シヤク)用或(アル)ニ|候後日(ワサト)之也其(テイ)(ホトンド)(テウ)(クハ)関東鶴岡(ツルガヲカ)八幡宮参詣候畢路次(ロシ)()將軍家ノ御参詣(ケイ)ニハ。供奉ノ日記トテ有也。是ハ御供(トモ)ノ爲(タラク)體(テイ)ヲシルシタル日記也。先代(せンタイ)當代相替(カハラ)ヌ様ニト云心ナリ。関東(クハントウ)ニ鶴(ツル)ガ岡(ヲカ)ノ八幡(ハチマン)トテアリ。御所ノ御代ニ一度ノ御参詣(ケイ)ナリ。惣八幡ノ本地ハ。一代教主(ケフシユ)本佛ノ釈迦如來也。故ニ九州(キウシウ)大隅(ヲホスミ)ノ八幡ニ。奇特(キドク)ノ有瑞相(ズイサウ)一夜ガ内ニ神前ニ大石(タイせキ)從(ヨリ)地涌出(イテ)テ其(ソノ)石(イシ)二ツニ破(ハレ)タリ。一方ニハ。南無八幡大菩薩ト云文字スワリ又一方ニハ。於靈鷲山(リヤウジユせン)説妙法華經宮中示()現(ゲン)大菩薩(ボサツ)ト云文字スワリテ今ニ有之於ルヲ不審(フシン)参詣(ケイ)シテ可拝見(ハイケン)者也。昔(ムカシ)靈鷲山ニシテ。妙法華經ヲ説キ玉フ佛ハ釈迦ヨリ外ニ別ニ佛無之八幡ノ本地釈迦如來也ト云事無疑者也如キノ斯(カク)證(せウ)文ハ。石躰(せキタイ)ノ銘(メイ)トテカクレナキ也。〔下24オ五〜24ウ四〕

とあって、この標記語「去比」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(さんぬ)る比(ころ)ハ御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候之處ヌル御札ニ|候之処去ぬる比とハいつぞやハといふかことし。二十五章之内唯此章の之返状有て出状なし。〔69オ五・六〕

とあって、この標記語「去比」の語を収載し、語注記は「去ぬる比とは、いつぞやはといふがごとし」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

去比(さんぬるころ)御札(ぎよさつ)に預(あづか)り候(さふら)ふ之處(ところ)他行(たぎやう)之()間(あいだ)則(すなハち)御(おん)返事(へんじ)を申(まを)さ不()候(さふら)ふ之()條(でう)本意(ほんい)を失(うしな)ひ畢(おハん)ぬ存候抑(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)御()參詣(さんけい)之()事(こと)供奉(ぐぶ)の日記(につき)或(ある)方(かた)に借用(しやくよう)せら被()候(さふら)ふ後日(ごにち)態(わざ)と進(しん)ず可()き也(なり)其(その)體(てい)殆(ほとんど)關東(くハんとう)鶴(つる)が岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)の參詣(さんけい)に超過(てうくハ)せ令()め候(さふら)ひ畢(おハん)ぬ。/リ‖御札ニ|之處他行之間則不サ‖御返事ヲ|之條失ヒ‖本意ヲ|抑將軍家若宮御参詣之事供奉日記せラニ|後日態キ∨躰殆関東岡八幡宮参詣〔51オ五〜51ウ一〕 

去比(さんぬるころ)(あづかり)御札(ぎよさつ)に|(さふらふ)()(ところ)他行(たぎやう)()(あひだ)(すなハち)()(まうさ)(おん)返事(へんじ)を|(さふらふ)()(でう)(うしなひ)本意(ほんい)を|(をハんぬ)(そも/\)將軍家(しやうぐんけ)若宮(わかミや)()参詣(さんけい)()(こと)供奉(くぶ)日記(につき)()(しやく)(よう)(ある)(かた)に|(さふらふ)後日(ごにち)(わざと)(べき)(しんず)(なり)(その)(てい)(ほとんと)(しめ)(てう)(くわせ)関東(くわんとう)鶴岡(つるがをか)八幡宮(はちまんぐうの)参詣(さんけい)(さふらひ)(をハんぬ)〔91ウ五〜92オ五〕

とあって、標記語「去比」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Sa~nuru.サンヌル() 例,S~anuru coro.(去んぬる比)さきごろ.〔邦訳555r〕

とあって、標記語「」の語の意味は「(去んぬる比)さきごろ」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さんぬる〔連體〕【】さりぬるの條を見よ。〔0849-2〕

とあって、標記語「去比」の語としては未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さんぬる去―】〔連体〕(動詞「さる(去)」の連用形「さり」に完了の助動詞「ぬ」の連体形の付いた「さりぬる」の変化した語)すぎさった。前の。去る。すぐる。多く、年月日、行事などを表わす語の上に付けて用いる」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
就中、去比(コロ)鹿嶋大明神、御上洛之由、風聞出來之後、賊徒追討《訓み下し》中ニ就キテ、去ヌル比鹿島大明神、御上洛ノ由、風聞出来スルノ後、賊徒ヲ追討ス。《『吾妻鏡』寿永三年二月二十五日の条》
 
 
2003年12月20日(土)雪のち曇り。京都→奈良(西大寺→奈良) GBSシンポジウム
散位(サンミ)長谷部」と「民部大夫田原(タハラ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、「散乱(サンラン)。散藥(ヤク)。散田(テン)。散在(ザイ)。散用(ユウ)。散失(シツ)。散具(ク)。散米(マイ)」の八語を収載し、標記語「散位」の語は未収載にする。そして、「多」部も「田坪(ツホ)。田長(ヲサ)時鳥。○。田根(タネ)。○。田村(タムラ)同」の四語を収載し、標記語「田原」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

八月七日  散位長谷部〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕〔山田俊雄藏本〕〔経覺筆本〕〔文明四年本〕

と見え、いずれも「散位長谷部」とする。但し、内閣文庫藏本は、「民部大夫田原」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「散位」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「散位」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「散位」の語は未収載であり、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が別語を有していることもあって、この語の収載がないものとなっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

484八月七日  民部大夫田原〔謙堂文庫藏四七右A〕

※至徳三年本(神門寺藏)・山田俊雄家蔵本『庭訓徃来』には、「散位長谷部」という記載が見られる。※天理図書館藏『庭訓往来註』には、本文部を「散位長谷部」とし、右傍に「民部大夫原{田原イ}」という記載がなされ、さらに左傍らに「――ハ六位ヲ持ツヲ云也」と記載する。※国会図書館藏『左貫註庭訓』は、本文部を「民部大夫田原」とし、右傍に「散位長谷部――ハ六位ヲ持ヲ云也/散位トテ喩ハ五位ナリ四位ニノボルヲ云也。是源三位ヲ望テ哥曰、ノボルベキタヨリナケレバ木ノ本ニ四位ヲヒロイテ世ヲ渡ル哉、此哥ヲ以テ四位三位ニノボル也」と記載する。※静嘉堂藏『庭訓徃來抄』古冩には、「散(サン)位長谷部(ハせへ)喜公(ヨシタゝ)」とし、頭注書込みに、「△散位ト書キテ喩ヘハ五位ヨリ四位ノホル云也。是ニ付テ源三位哥曰、△ノホルヘキタヨリナケレバ木ノ本シイヲヒロイテ世ハタルカカナ。此以三位ノホル也」も同様の注記を記載する。

とあって、標記語「散位」の語は未収載にし、真字注諸本においては「民部大夫田原」と異同が見られるところである。その理由としては、八月書状三通における所載のなかで送り状と返し状における混同が考えられよう。

 古版庭訓徃来註』では、

八月七日  散位(サンミ)長谷部(ハせベ)。〔下24オ三〕

とあって、この標記語「散位長谷部」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

八月七日  散位(さんミ)長谷部(はせべ)八月七日  散位長谷部。〔69オ三〕

とあって、この標記語「散位」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

八月七日  民部(ミんぶ)の太輔(たいふ)田原(たはら)。/八月七日  民部大輔田原。▲田原ハ大職冠(たいしよくくハん)鎌足(かまたり)(こう)六代の孫(まご)(じう)五位下河内守村雄(むらを)の長男従四位下武蔵守鎮守(ちんじゆ)()将軍(しやうぐん)秀郷(ひでさと)()に俵(たハら)藤太と稱(しよう)す是其祖()也。兄弟(きやうたい)子孫(しそん)(ミな)田原と稱す。〔51オ二〜四〕 

八月(はちくわつ)七日(なぬか)  民部(ミんぶ)大輔(たいふ)田原(たはら)。▲田原ハ大職冠(たいしよくくハん)鎌足(かまたり)(こう)六代の孫(まご)(じう)五位下河内守村雄(むらを)の長男従四位下武蔵守鎮守(ちんじゆ)()将軍(しやうぐん)秀郷(ひでさと)()に俵(たハら)藤太と稱(しよう)す是其祖()也。兄弟(きやうたい)子孫(しそん)(ミな)田原と稱す。〔91ウ一〕

とあって、標記語「民部大輔田原」の語を収載し、「田原」について語注記に、「田原は、大職冠(たいしよくくハん)鎌足(かまたり)(こう)六代の孫(まご)(じう)五位下、河内守村雄(むらを)の長男従四位下武蔵守鎮守(ちんじゆ)()将軍(しやうぐん)秀郷(ひでさと)()に俵(たハら)藤太と稱(しよう)す是れ其の祖()なり。兄弟(きやうたい)子孫(しそん)(ミな)田原と稱す」と記載する。
 ここで、注釈諸本を見ると、上記『庭訓往来』古写本に従う「散位長谷部」と内閣文庫藏古写本及び真字注「民部大輔田原」とする二種に大きく分岐する。これを古辞書類がどう受容編纂しているか見ておくと、
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「散位」「田原」の両語とも未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「散位」の語を未収載にする。また、標記語「田原」の語については、見出し語「俵」の用例として、『帝王編年記』を揚げ、「田原藤太(田原は秀郷の出身、近江地名)」という記述が見える。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「さんみ散位】〔名〕」の語を未収載にする。よって、『庭訓徃來』のこの語用例も未記載となっている。
[ことばの実際]
從五位下、藤原俊綱、〈字足利太郎〉者、武藏守秀郷朝臣後胤、鎮守府將軍兼阿波守兼光六代孫、散位家綱男也《訓み下し》従五位ノ下、藤原ノ俊綱〈字ハ足利ノ太郎。〉ハ、武蔵ノ守秀郷朝臣ノ後胤、鎮守府将軍兼阿波ノ守兼光六代ノ孫、(サン)家綱ガ男ナリ。《『吾妻鏡』養和元年九月七日の条》
忠信、定通、有雅範茂以下公卿朝臣、可向宇治勢多、田原等〈云云〉《訓み下し》忠信、定通、有雅範茂以下ノ公卿ノ朝臣ハ、宇治勢多、田原(タハラ)等ニ向フベシ〈云云〉。《『吾妻鏡』承久三年六月八日の条》
 
 
2003年12月19日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
(ほぼ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、

(ホヽ)() 。〔元亀二年本47二〕〔天正十七年本上27オ六〕

(ホヾ)() 。〔静嘉堂本52七〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

其旨趣具難盡紙上御上洛之時心之所及可令申候也恐々謹言〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

其旨趣具難盡帋上御上洛之時心之所及可令申候也恐々謹言〔建部傳内本〕

其旨(シイ)_趣具シ‖紙上ニ|御上洛之時心之所(ホヾ)申候也恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

旨趣具シ‖紙上ニ|御上洛之時心(ホホ)申候也恐々謹言〔経覺筆本〕

旨趣(シイシユ)シ∨シ‖紙上(シ―)ニ|御上洛之時心之所(ホヽ)可令申候也恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ホヽ略幽 已上同。〔黒川本・辞字門上36ウ五〕

ホヽ幽略 已上同。〔卷第二・辞字門326四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(ホヾ)[上](同/リヤク)[入] 内々云心也。〔態藝門206五〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「ホヾ」とし、その語注記は「内々と云ふ心なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ホヽ) 同一義。()() 。〔・言語門36二〕

(ホヽ) 畧/幽。〔・言語門36二〕〔・言語門32九〕

(ホヽ) 畧。幽。〔・言語門39七〕

とあって、弘治二年本だけ標記語「略」として、同義語に「」の語を収載する。他本は標記語に「」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

(ホヾ)(ホヾ) 。〔言語門34一・二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

483方-規式不ル∨-(ゲイ)|其旨趣具紙上ニ|御上洛之時心(ホトンヽ/ホヽ)申候恐々謹言〔謙堂文庫藏四六左H〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

庭中家務(カム)恩賞(ヲンシヤウ)(カタ)法規式(シキ)勝計(せウケイ)其旨趣(シシユ)(ツフサ)(ツクシ)紙上御上洛之時心之所申候也庭中ト云事ハ。奏者(ソウシヤ)ナシニ物ヲ云様ナル事也。是尤似()タリ。昔(ムカシ)大唐(タイタウ)ニ恵果(ケイクハ)和尚ト申祖()師アリ。密教相應(サウヲウ)ノ人也。三密ノ法衣ヲ刷(ツクロ)ヒ給ヘリ。又我カ朝ニ弘法房(コウホウボウ)ト云法師アリ。讃岐(サヌキ)国屏風(ベウブ)カ浦(ウラ)ノ人ナリ。或(アル)時入唐(ニツタウ)シ彼恵果(ケイクハ)房ニ尋相(タツネアヒ)テ真言ノ奥藏(ワウサウ)ヲ極(キハ)メ給フ。彼(カノ)(ケイ)果房ニハ。三千人ノ御弟子(デシ)有弘法ヲ以テ第一トス。三密ノ法形ヲ譲(ユツ)リ渡(ワタ)シ度(タク)(メせ)共餘人ノ恨ミ鬱(イキトヲ)リヲ思召テ弘法ニ渡シ給ハズ。或時恵(ケイ)果出給テ庭ヲ自ラ掃()キ玉フ。弘法走(ハシ)リ出デ御箒(ミハウキ)ヲ給シ庭ヲ掃(ハラ)ハント申サレケレバ。箒(ハウキ)ヲバ渡シ給ハズ。暫(シバラ)クウナタレ跪(ヒサマツ)キ庭上ニ畏(カシコ)マル良(ヤヽ)有テ恵果(ケイクハ)。ハフキヲ投(ナゲ)カケ給テノ玉ハク。汝(ナンヂ)ハ庭(ニハ)ヲハカン爲(タメ)カ塵ヲハカン爲(タメ)カトノ玉ヘハ。愚身ハ。庭ヲハカントノ玉フヲ其マヽ御約束(ヤクソク)ニテ。内ヘ入玉ヘハ。弘法(コウボウ)ハシヅ/\ト庭(ニハ)ヲハハキテ彼(カノ)ハフキヲ我ガ學問(がくもん)処ヘ納(ヲサメ)テ見給ヘバ光明赫(カク)々タル三ノ儀軌(ギキ)有リ餘ノ人ノ不見其間ニトテ法王山ニ登(ノボ)リ虚空ヘ投(ナゲ)給フ日本秋津洲(アキツス)ニ留(トヽマ)リ。東寺ニ獨鈷(トクコ)アリ。高嶺(カウレイ)ニ。三鈷()アリ。五鈷()ハ御持物也。此ヨリ奥(ヲク)ニ日本紀()。大日經ノ沙汰有ランヤ。可秘(ヒス)一切此文俗抄ニアラスバ。筆ノ餘程(ヨテイ)モ記ヲカンニ真言(シンコ )ノ事ハ筆ヲナゲ口ヲ閉(トツ)ルト云也。弘法大師ハ。三密(ミツ)ノ法鏡ヲ讓(ユツリ)達シ玉フモ庭中也。是ヨリ直(スク)ニテ大儀ナル事ヲ申ヲ庭中ト云ナリ。庭(ニハ)ト塵(チリ)トノ喩(タト)ヘ潜(ヒソカ)ニ謂処ナシ。是專(モツハ)ラ秘()事ナリ。学文ノ及処ナリ。〔下23ウ一〜24オ二〕

とあって、この標記語「」の語を未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(こころ)の及(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候ふ也心之所こゝにこゝろハ家勢乃恩賞方法なとのおもむき事多けれは一/\帋の面に事遣かたきゆへ都にとられたる比思ひあたりけるたけハあらまし語らんとなり。〔68ウ八〜69オ二〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所恐々謹言〔49ウ六〜50オ五〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)〔89オ三〜ウ六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fobo.ホボ(略・) Voyoso(凡そ)に同じ.副詞.大部分.§Fobo mo<xi ireta.(略申し入れた)大部分,あるいは,大体のところは,その人に申した.〔邦訳255l〕

とあって、標記語「」の語の意味は「」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ほぼ〔名〕【】事を大凡に定め云ふ語。あらあら。あらまし。おほかた。大抵。字類抄粗 ホホ、幽、略、已上同」名義抄粗 ホホ、略 ホホ、アラアラ」字鏡30「粗 略也、保保」沙石集、十、上、第一條「保政、、聞きて、かの社の木陰に立ち隠れて見ければ」「ほぼ似たり」ほぼ同じ」〔1852-1〕

とあって、標記語「」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ほぼ】〔副〕全部あるいは完全にというわけではないが、それに近い状態にあることを表わす語。あらまし。おおよそ。おおかた」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
然而朝敵罪名、無據于宥歟訪前蹤、成務天皇御宇、三年正月、武内宿称、始任大臣《訓み下し》然レドモ朝敵ノ罪名、宥ムルニ拠無キカ。(ホヾ)前蹤ヲ訪ヌルニ、成務天皇ノ御宇、三年正月ニ、武内ノ宿祢、始メテ大臣ニ任ズ。《『吾妻鏡元暦二年六月二十一日の条》
 
 
2003年12月18日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
上洛(ジャウラク)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

上洛(―ラク) 。〔元亀二年本314四〕〔静嘉堂本368六〕

とあって、標記語「上洛」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

其旨趣具難盡紙上御上洛之時心之所及粗可令申候也恐々謹言〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

其旨趣具難盡帋上御上洛之時心之所及粗可令申候也恐々謹言〔建部傳内本〕

其旨(シイ)_趣具シ‖紙上ニ|上洛之時心之所及粗(ホヾ)申候也恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

旨趣具シ‖紙上ニ|上洛之時心及粗(ホホ)申候也恐々謹言〔経覺筆本〕

旨趣(シイシユ)シ∨シ‖紙上(シ―)ニ|上洛之時心之所(ホヽ)可令申候也恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「上洛」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「上洛」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

上洛(シヤウラク・カミノボル、ミヤコ)[上去・入] 。〔態藝門936四〕

とあって、標記語「上洛」の語を収載し、訓みを「シヤウラク」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

上洛(ラク) 。〔・言語門245八〕

上品(シヤウボン) ―手。―下。―裁。―表。―洛。―聞。〔・言語門210三〕

上品(シヤウホン) ―手。―下。―裁。―表。。―聞。〔・言語門194四〕

とあって、弘治二年本は、標記語「上洛」の語を収載し、他本は標記語「上品」の冠頭字「上」の熟語群として「上洛」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

上裁(ジヤウサイ) 公方義。―根(コン)。―代(ダイ)。―分(ブン)。―品(ボン)。―足(ソク)。―手()。―戸()。―首(シユ)。―意()。―智()。―堂(ダウ)。―古()。―覽(ラン)。―表(ヒヨウ)。―聞(ブン)。〔言語門215七〕

とあって、標記語「上裁」の冠頭字「上」の熟語群として「上洛」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「上洛」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

483方-規式不ル∨-(ゲイ)|其旨趣具紙上ニ|上洛之時心及粗(ホトンヽ/ホヽ)申候恐々謹言〔謙堂文庫藏四六左H〕

とあって、標記語「上洛」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

庭中家務(カム)恩賞(ヲンシヤウ)(カタ)法規式(シキ)勝計(せウケイ)其旨趣(シシユ)(ツフサ)(ツクシ)紙上上洛之時心之所申候也庭中ト云事ハ。奏者(ソウシヤ)ナシニ物ヲ云様ナル事也。是尤似()タリ。昔(ムカシ)大唐(タイタウ)ニ恵果(ケイクハ)和尚ト申祖()師アリ。密教相應(サウヲウ)ノ人也。三密ノ法衣ヲ刷(ツクロ)ヒ給ヘリ。又我カ朝ニ弘法房(コウホウボウ)ト云法師アリ。讃岐(サヌキ)国屏風(ベウブ)カ浦(ウラ)ノ人ナリ。或(アル)時入唐(ニツタウ)シ彼恵果(ケイクハ)房ニ尋相(タツネアヒ)テ真言ノ奥藏(ワウサウ)ヲ極(キハ)メ給フ。彼(カノ)(ケイ)果房ニハ。三千人ノ御弟子(デシ)有弘法ヲ以テ第一トス。三密ノ法形ヲ譲(ユツ)リ渡(ワタ)シ度(タク)(メせ)共餘人ノ恨ミ鬱(イキトヲ)リヲ思召テ弘法ニ渡シ給ハズ。或時恵(ケイ)果出給テ庭ヲ自ラ掃()キ玉フ。弘法走(ハシ)リ出デ御箒(ミハウキ)ヲ給シ庭ヲ掃(ハラ)ハント申サレケレバ。箒(ハウキ)ヲバ渡シ給ハズ。暫(シバラ)クウナタレ跪(ヒサマツ)キ庭上ニ畏(カシコ)マル良(ヤヽ)有テ恵果(ケイクハ)。ハフキヲ投(ナゲ)カケ給テノ玉ハク。汝(ナンヂ)ハ庭(ニハ)ヲハカン爲(タメ)カ塵ヲハカン爲(タメ)カトノ玉ヘハ。愚身ハ。庭ヲハカントノ玉フヲ其マヽ御約束(ヤクソク)ニテ。内ヘ入玉ヘハ。弘法(コウボウ)ハシヅ/\ト庭(ニハ)ヲハハキテ彼(カノ)ハフキヲ我ガ學問(がくもん)処ヘ納(ヲサメ)テ見給ヘバ光明赫(カク)々タル三ノ儀軌(ギキ)有リ餘ノ人ノ不見其間ニトテ法王山ニ登(ノボ)リ虚空ヘ投(ナゲ)給フ日本秋津洲(アキツス)ニ留(トヽマ)リ。東寺ニ獨鈷(トクコ)アリ。高嶺(カウレイ)ニ。三鈷()アリ。五鈷()ハ御持物也。此ヨリ奥(ヲク)ニ日本紀()。大日經ノ沙汰有ランヤ。可秘(ヒス)一切此文俗抄ニアラスバ。筆ノ餘程(ヨテイ)モ記ヲカンニ真言(シンコ )ノ事ハ筆ヲナゲ口ヲ閉(トツ)ルト云也。弘法大師ハ。三密(ミツ)ノ法鏡ヲ讓(ユツリ)達シ玉フモ庭中也。是ヨリ直(スク)ニテ大儀ナル事ヲ申ヲ庭中ト云ナリ。庭(ニハ)ト塵(チリ)トノ喩(タト)ヘ潜(ヒソカ)ニ謂処ナシ。是專(モツハ)ラ秘()事ナリ。学文ノ及処ナリ。〔下23ウ一〜24オ二〕

とあって、この標記語「上洛」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

()上洛(しやうらく)()(とき)上洛之時上洛ハ都に登る也。大據か京都将軍へ参勤乃時をいふなり。〔68ウ七・八〕

とあって、この標記語「上洛」の語を収載し、語注記は「上洛は、都に登るなり。大據が京都将軍へ参勤の時をいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上上洛之時心之所粗可恐々謹言〔49ウ六〜50オ五〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)〔89オ三〜ウ六〕

とあって、標記語「上洛」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xo<racu.ジャウラク(上洛) Miacoye noboru.(洛へ上る).都(Miyaco)へ行くこと.〔邦訳794r〕

とあって、標記語「上洛」の語の意味は「都(Miyaco)へ行くこと」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

じゃう-らく〔名〕【上洛】洛(みやこ)へ、のぼること。上京。(貴人に云ふ)らくやう(洛陽)の條を見よ。北史、齊高祖紀「神武自晉陽西討、遣兼僕射行臺汝陽王暹、司徒高昂等、趣上洛保元物語、一、官軍方方手分事「京中、物の由、承る間、其仔細を承らんとて、近國に候ふ者の、上洛仕るにて候ふ」〔0973-3〕

とあって、標記語「上洛」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「じょう-らく上洛】〔名〕@(古くは「しょうらく」都へ行くこと。地方から都へのぼること。上京。下洛)A大和国で、田舎から奈良へのぼること」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
爲加平氏上洛〈云云〉《訓み下し》平氏ニ加ハラン為ニ上洛スト〈云云〉。《『吾妻鏡治承四年十月十九日の条》
 
 
2003年12月17日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
紙上(シジャウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

紙上(シシヤウ) 。〔元亀二年本307四〕〔静嘉堂本358一〕

とあって、標記語「紙上」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

其旨趣具難盡紙上御上洛之時心之所及粗可令申候也恐々謹言〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

其旨趣具難盡帋上御上洛之時心之所及粗可令申候也恐々謹言〔建部傳内本〕

其旨(シイ)_趣具シ‖紙上ニ|御上洛之時心之所及粗(ホヾ)申候也恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

旨趣具シ‖紙上ニ|御上洛之時心及粗(ホホ)申候也恐々謹言〔経覺筆本〕

旨趣(シイシユ)シ∨シ‖紙上(シ―)ニ|御上洛之時心之所(ホヽ)可令申候也恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「紙上」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』に、標記語「紙上」の語は未収載にする。また、易林本節用集』には、

紙面(シメン) ―筆(ヒツ)―上(シヤウ)。〔言語門60四〕

とあって、標記語「紙面」の冠頭字「紙」の熟語群として「紙上」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「紙上」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

483方-規式不ル∨-(ゲイ)|其旨趣具紙上ニ|御上洛之時心及粗(ホトンヽ/ホヽ)申候恐々謹言〔謙堂文庫藏四六左H〕

とあって、標記語「紙上」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

庭中家務(カム)恩賞(ヲンシヤウ)(カタ)法規式(シキ)勝計(せウケイ)其旨趣(シシユ)(ツフサ)(ツクシ)紙上御上洛之時心之所申候也庭中ト云事ハ。奏者(ソウシヤ)ナシニ物ヲ云様ナル事也。是尤似()タリ。昔(ムカシ)大唐(タイタウ)ニ恵果(ケイクハ)和尚ト申祖()師アリ。密教相應(サウヲウ)ノ人也。三密ノ法衣ヲ刷(ツクロ)ヒ給ヘリ。又我カ朝ニ弘法房(コウホウボウ)ト云法師アリ。讃岐(サヌキ)国屏風(ベウブ)カ浦(ウラ)ノ人ナリ。或(アル)時入唐(ニツタウ)シ彼恵果(ケイクハ)房ニ尋相(タツネアヒ)テ真言ノ奥藏(ワウサウ)ヲ極(キハ)メ給フ。彼(カノ)(ケイ)果房ニハ。三千人ノ御弟子(デシ)有弘法ヲ以テ第一トス。三密ノ法形ヲ譲(ユツ)リ渡(ワタ)シ度(タク)(メせ)共餘人ノ恨ミ鬱(イキトヲ)リヲ思召テ弘法ニ渡シ給ハズ。或時恵(ケイ)果出給テ庭ヲ自ラ掃()キ玉フ。弘法走(ハシ)リ出デ御箒(ミハウキ)ヲ給シ庭ヲ掃(ハラ)ハント申サレケレバ。箒(ハウキ)ヲバ渡シ給ハズ。暫(シバラ)クウナタレ跪(ヒサマツ)キ庭上ニ畏(カシコ)マル良(ヤヽ)有テ恵果(ケイクハ)。ハフキヲ投(ナゲ)カケ給テノ玉ハク。汝(ナンヂ)ハ庭(ニハ)ヲハカン爲(タメ)カ塵ヲハカン爲(タメ)カトノ玉ヘハ。愚身ハ。庭ヲハカントノ玉フヲ其マヽ御約束(ヤクソク)ニテ。内ヘ入玉ヘハ。弘法(コウボウ)ハシヅ/\ト庭(ニハ)ヲハハキテ彼(カノ)ハフキヲ我ガ學問(がくもん)処ヘ納(ヲサメ)テ見給ヘバ光明赫(カク)々タル三ノ儀軌(ギキ)有リ餘ノ人ノ不見其間ニトテ法王山ニ登(ノボ)リ虚空ヘ投(ナゲ)給フ日本秋津洲(アキツス)ニ留(トヽマ)リ。東寺ニ獨鈷(トクコ)アリ。高嶺(カウレイ)ニ。三鈷()アリ。五鈷()ハ御持物也。此ヨリ奥(ヲク)ニ日本紀()。大日經ノ沙汰有ランヤ。可秘(ヒス)一切此文俗抄ニアラスバ。筆ノ餘程(ヨテイ)モ記ヲカンニ真言(シンコ )ノ事ハ筆ヲナゲ口ヲ閉(トツ)ルト云也。弘法大師ハ。三密(ミツ)ノ法鏡ヲ讓(ユツリ)達シ玉フモ庭中也。是ヨリ直(スク)ニテ大儀ナル事ヲ申ヲ庭中ト云ナリ。庭(ニハ)ト塵(チリ)トノ喩(タト)ヘ潜(ヒソカ)ニ謂処ナシ。是專(モツハ)ラ秘()事ナリ。学文ノ及処ナリ。〔下23ウ一〜24オ二〕

とあって、この標記語「紙上」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)紙上(しじやう)に盡(つく)し難(かた)其旨趣具紙上旨趣ハおもむきなり。〔68ウ六・七〕

とあって、この標記語「紙上」の語を収載し、語注記は「旨趣は、おもむきなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言〔49ウ六〜50オ五〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)〔89オ三〜ウ六〕

とあって、標記語「紙上」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「紙上」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「-じゃう〔名〕【紙上】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-じょう紙上】〔名〕@紙のおもて。紙のうえ。*運歩色葉集(1548)「紙上 シシヤウ」*滑稽本・浮世風呂(1809-13)四・跋「適(たまたま)硯にむかへば、滑稽帋上(シシヤウ)に溢れ、諧(くゎいがい)筆下に走る」*韓愈−盧郎中雲夫寄示送盤谷子詩以和之詩「開緘忽覩送帰作、字向紙上皆軒昂」A紙に書かれた文字や文章。多く、手紙をさしていう。*保元物語(1220頃か)下・左府の君達幵びに謀叛人各遠流の事「悲哉、更難紙上。只可賢察候」*新札徃来(1367)下「事々難紙上候之間、期奉謁之次」*改正増補和英語林集成(1886)「Shijo>(シジョウ)ニテ クワシク モウシアグベク ソウロウ」B新聞、雑誌などの記事面。紙面。*海外新聞別集(1862)下「殊に此奇獣の飼置場にての群集といふは、紙上にも述べ尽されざる程の事にて」*吾輩は猫である(1905-06)<夏目漱石>一一「万朝なぞでは花婿花嫁と云ふ表題で両君の写真を紙上に掲ぐるの栄はいつだろう」」とあって、『新札徃来』より古い『庭訓徃來(正平五(1350)年成、至徳三(1386)年写)のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
凡如本意、令申成給候条、不可申尽候、ゝゝ、委細之旨、難尽紙上候、禅海誠恐謹言、二月十十九日 僧(花押) 《『東大寺文書図未』(平安院政期)二月十九日の条、585-503・14/124
 
 
2003年12月16日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
難盡(つくしがた・し)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「津」部に、「難面(ツレナシ)」「難顔(ツレナシ)」の二語のみで、標記語「難盡」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

其旨趣具難盡紙上御上洛之時心之所及粗可令申候也恐々謹言〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

其旨趣具難盡帋上御上洛之時心之所及粗可令申候也恐々謹言〔建部傳内本〕

其旨(シイ)_趣具シ‖紙上ニ|御上洛之時心之所及粗(ホヾ)申候也恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

旨趣具シ‖紙上ニ|御上洛之時心及粗(ホホ)申候也恐々謹言〔経覺筆本〕

旨趣(シイシユ)紙上(シ―)ニ|御上洛之時心之所(ホヽ)可令申候也恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「難盡」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「難盡」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書には、「難盡」の語は未収載であり、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

483方-規式不ル∨-(ゲイ)|其旨趣具紙上ニ|御上洛之時心及粗(ホトンヽ/ホヽ)申候恐々謹言〔謙堂文庫藏四六左H〕

とあって、標記語「難盡」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

庭中家務(カム)恩賞(ヲンシヤウ)(カタ)法規式(シキ)勝計(せウケイ)其旨趣(シシユ)(ツフサ)(ツクシ)紙上御上洛之時心之所申候也庭中ト云事ハ。奏者(ソウシヤ)ナシニ物ヲ云様ナル事也。是尤似()タリ。昔(ムカシ)大唐(タイタウ)ニ恵果(ケイクハ)和尚ト申祖()師アリ。密教相應(サウヲウ)ノ人也。三密ノ法衣ヲ刷(ツクロ)ヒ給ヘリ。又我カ朝ニ弘法房(コウホウボウ)ト云法師アリ。讃岐(サヌキ)国屏風(ベウブ)カ浦(ウラ)ノ人ナリ。或(アル)時入唐(ニツタウ)シ彼恵果(ケイクハ)房ニ尋相(タツネアヒ)テ真言ノ奥藏(ワウサウ)ヲ極(キハ)メ給フ。彼(カノ)(ケイ)果房ニハ。三千人ノ御弟子(デシ)有弘法ヲ以テ第一トス。三密ノ法形ヲ譲(ユツ)リ渡(ワタ)シ度(タク)(メせ)共餘人ノ恨ミ鬱(イキトヲ)リヲ思召テ弘法ニ渡シ給ハズ。或時恵(ケイ)果出給テ庭ヲ自ラ掃()キ玉フ。弘法走(ハシ)リ出デ御箒(ミハウキ)ヲ給シ庭ヲ掃(ハラ)ハント申サレケレバ。箒(ハウキ)ヲバ渡シ給ハズ。暫(シバラ)クウナタレ跪(ヒサマツ)キ庭上ニ畏(カシコ)マル良(ヤヽ)有テ恵果(ケイクハ)。ハフキヲ投(ナゲ)カケ給テノ玉ハク。汝(ナンヂ)ハ庭(ニハ)ヲハカン爲(タメ)カ塵ヲハカン爲(タメ)カトノ玉ヘハ。愚身ハ。庭ヲハカントノ玉フヲ其マヽ御約束(ヤクソク)ニテ。内ヘ入玉ヘハ。弘法(コウボウ)ハシヅ/\ト庭(ニハ)ヲハハキテ彼(カノ)ハフキヲ我ガ學問(がくもん)処ヘ納(ヲサメ)テ見給ヘバ光明赫(カク)々タル三ノ儀軌(ギキ)有リ餘ノ人ノ不見其間ニトテ法王山ニ登(ノボ)リ虚空ヘ投(ナゲ)給フ日本秋津洲(アキツス)ニ留(トヽマ)リ。東寺ニ獨鈷(トクコ)アリ。高嶺(カウレイ)ニ。三鈷()アリ。五鈷()ハ御持物也。此ヨリ奥(ヲク)ニ日本紀()。大日經ノ沙汰有ランヤ。可秘(ヒス)一切此文俗抄ニアラスバ。筆ノ餘程(ヨテイ)モ記ヲカンニ真言(シンコ )ノ事ハ筆ヲナゲ口ヲ閉(トツ)ルト云也。弘法大師ハ。三密(ミツ)ノ法鏡ヲ讓(ユツリ)達シ玉フモ庭中也。是ヨリ直(スク)ニテ大儀ナル事ヲ申ヲ庭中ト云ナリ。庭(ニハ)ト塵(チリ)トノ喩(タト)ヘ潜(ヒソカ)ニ謂処ナシ。是專(モツハ)ラ秘()事ナリ。学文ノ及処ナリ。〔下23ウ一〜24オ二〕

とあって、この標記語「難盡」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(しじやう)(つく)し難(かた)其旨趣具紙上旨趣ハおもむきなり。〔68ウ六・七〕

とあって、この標記語「難盡」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)(つく)し難(がた)()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言〔49ウ六〜50オ五〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)〔89オ三〜ウ六〕

とあって、標記語「難盡」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、記語「盡難」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』。そして、現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「つくし-がた難盡】の語は未収載にする。いわゆる、国語辞書の見出し語においては、これを複合語としては収載しない方針が貫かれているのである。
[ことばの実際]
悲哉、更紙上。只可賢察候《保元物語(1220頃か)下・左府の君達幵びに謀叛人各遠流の事》
女夢、女幻、而戀慕之今《訓み下し》ゆめのごとくまぼろしのごとくして、れんぼのいまのなみだをつくしがたし。《延慶本『平家物語』三・十三、丹波少將故大納言墓詣事〔第二本43ウ、九〇頁六行〕》他四例。
貧僧今日貴公の親情こもるもてなし実に千金を受けたるよりも尚ほ嬉しく恩恵盡難し。依って聊か一つの手仕事を伝えん。《「深瀬桧笠の由来」聞書きより(明治三二年一一月二三日)》
 
 
2003年12月15日(月)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
(つぶさに)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「津」部に、

(ツブサニ) 。〔元亀二年本161五〕

(ツブサ) 。〔静嘉堂本177六〕

(ツフサ) 。〔天正十七年本中20オ四〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

其旨趣難盡紙上御上洛之時心之所及粗可令申候也恐々謹言〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

其旨趣難盡帋上御上洛之時心之所及粗可令申候也恐々謹言〔建部傳内本〕

其旨(シイ)_シ‖紙上ニ|御上洛之時心之所及粗(ホヾ)申候也恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

旨趣シ‖紙上ニ|御上洛之時心及粗(ホホ)申候也恐々謹言〔経覺筆本〕

旨趣(シイシユ)シ∨シ‖紙上(シ―)ニ|御上洛之時心之所(ホヽ)可令申候也恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ツフサニ備委贅 已上同。〔辞字門・中27ウ四〕

ツハヒラカニ審悉委曲評竟申四提諦ェ題一二祥熟 已上同。〔辞字門・中28オ二〕

ツフサナリ 已上同。〔卷四・辞字門622一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(ツブサ)[去] 。〔態藝門423三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みを「ツブサ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ツブサ) 。〔・言語進退門128七〕〔・言語門106四〕〔・言語門118六〕

(ツブサニ) 。〔・言語門96七〕

とあって、標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

(ツブサ)() 。〔言辞門107四〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

483方-規式不ル∨-(ゲイ)|其旨趣紙上ニ|御上洛之時心及粗(ホトンヽ/ホヽ)申候恐々謹言〔謙堂文庫藏四六左H〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

庭中家務(カム)恩賞(ヲンシヤウ)(カタ)法規式(シキ)勝計(せウケイ)其旨趣(シシユ)(ツフサ)(ツクシ)紙上御上洛之時心之所申候也庭中ト云事ハ。奏者(ソウシヤ)ナシニ物ヲ云様ナル事也。是尤似()タリ。昔(ムカシ)大唐(タイタウ)ニ恵果(ケイクハ)和尚ト申祖()師アリ。密教相應(サウヲウ)ノ人也。三密ノ法衣ヲ刷(ツクロ)ヒ給ヘリ。又我カ朝ニ弘法房(コウホウボウ)ト云法師アリ。讃岐(サヌキ)国屏風(ベウブ)カ浦(ウラ)ノ人ナリ。或(アル)時入唐(ニツタウ)シ彼恵果(ケイクハ)房ニ尋相(タツネアヒ)テ真言ノ奥藏(ワウサウ)ヲ極(キハ)メ給フ。彼(カノ)(ケイ)果房ニハ。三千人ノ御弟子(デシ)有弘法ヲ以テ第一トス。三密ノ法形ヲ譲(ユツ)リ渡(ワタ)シ度(タク)(メせ)共餘人ノ恨ミ鬱(イキトヲ)リヲ思召テ弘法ニ渡シ給ハズ。或時恵(ケイ)果出給テ庭ヲ自ラ掃()キ玉フ。弘法走(ハシ)リ出デ御箒(ミハウキ)ヲ給シ庭ヲ掃(ハラ)ハント申サレケレバ。箒(ハウキ)ヲバ渡シ給ハズ。暫(シバラ)クウナタレ跪(ヒサマツ)キ庭上ニ畏(カシコ)マル良(ヤヽ)有テ恵果(ケイクハ)。ハフキヲ投(ナゲ)カケ給テノ玉ハク。汝(ナンヂ)ハ庭(ニハ)ヲハカン爲(タメ)カ塵ヲハカン爲(タメ)カトノ玉ヘハ。愚身ハ。庭ヲハカントノ玉フヲ其マヽ御約束(ヤクソク)ニテ。内ヘ入玉ヘハ。弘法(コウボウ)ハシヅ/\ト庭(ニハ)ヲハハキテ彼(カノ)ハフキヲ我ガ學問(がくもん)処ヘ納(ヲサメ)テ見給ヘバ光明赫(カク)々タル三ノ儀軌(ギキ)有リ餘ノ人ノ不見其間ニトテ法王山ニ登(ノボ)リ虚空ヘ投(ナゲ)給フ日本秋津洲(アキツス)ニ留(トヽマ)リ。東寺ニ獨鈷(トクコ)アリ。高嶺(カウレイ)ニ。三鈷()アリ。五鈷()ハ御持物也。此ヨリ奥(ヲク)ニ日本紀()。大日經ノ沙汰有ランヤ。可秘(ヒス)一切此文俗抄ニアラスバ。筆ノ餘程(ヨテイ)モ記ヲカンニ真言(シンコ )ノ事ハ筆ヲナゲ口ヲ閉(トツ)ルト云也。弘法大師ハ。三密(ミツ)ノ法鏡ヲ讓(ユツリ)達シ玉フモ庭中也。是ヨリ直(スク)ニテ大儀ナル事ヲ申ヲ庭中ト云ナリ。庭(ニハ)ト塵(チリ)トノ喩(タト)ヘ潜(ヒソカ)ニ謂処ナシ。是專(モツハ)ラ秘()事ナリ。学文ノ及処ナリ。〔下23ウ一〜24オ二〕

とあって、この標記語「」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)紙上(しじやう)に盡(つく)し難(かた)其旨趣紙上旨趣ハおもむきなり。〔68ウ六・七〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言〔49ウ六〜50オ五〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)〔89オ三〜ウ六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tcubusani.ツブサニ() 副詞.細密に.§Tcubusani qijta.(具さに聞いた)私はすっかりこまごまと聞いた.〔邦訳621r〕

とあって、標記語「」の語の意味は「副詞.細密に」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

つぶさ-〔副〕【】〔詳(つばら)にに通ず。落つることなく、調へ備ふる意〕物に就きては漏るることなく、調ひそなはり、事に就きては、委しく丁寧なる状を云ふ語。つまびらかに。つばびらかに。つばらかに。つばらに。くはしく。字類抄、委、ツブサニ」清寧即位前紀「漢彦乃(ツブサニ)爲啓於大伴大連、不刑類古事記、上50「言委曲(ツブサニ)天~之詔命人丸集「認()め行かむ、つぶさに跡は、見えずとも、鹿のはかりは、知ると云ふなり」宇津保物語、祭使30「いつしか、まのあたりにて、つぶさなる身がたりも、申しうけ給はらんとなんなげき申す」〔1326-5〕

とあって、標記語「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「つぶさ】〔形動〕@すべてそなわっているさま。もれなくそろっているさま。完全なさま。Aこまかくくわしいさま。つまびらかなさま。詳細」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
定綱爲父秀義使、參著北條景親申状、以上啓之處、仰云、斯事四月以來、丹府動中者也《訓み下し》定綱父秀義ガ使トシテ、北条ニ参著ス。景親ガ申状、(ツブサ)ニ以テ上啓スルノ処ニ、仰セニ云ク、斯事四月ヨリ以来、丹府中ニ動スル者ナリ。《『吾妻鏡』治承四年八月十一日の条》
 
 
2003年12月14日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
旨趣(シシュ・シィシユ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、標記語「旨趣」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

旨趣具難盡紙上御上洛之時心之所及粗可令申候也恐々謹言〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕

旨趣具難盡帋上御上洛之時心之所及粗可令申候也恐々謹言〔建部傳内本〕

(シイ)_シ‖紙上ニ|御上洛之時心之所及粗(ホヾ)申候也恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

旨趣シ‖紙上ニ|御上洛之時心及粗(ホホ)申候也恐々謹言〔経覺筆本〕

旨趣(シイシユ)シ∨シ‖紙上(シ―)ニ|御上洛之時心之所(ホヽ)可令申候也恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「旨趣」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「旨趣」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書には、標記語「旨趣」の語は未収載であり、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語となっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

483方-規式不ル∨-(ゲイ)|旨趣紙上ニ|御上洛之時心及粗(ホトンヽ/ホヽ)申候恐々謹言〔謙堂文庫藏四六左H〕

とあって、標記語「旨趣」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

庭中家務(カム)恩賞(ヲンシヤウ)(カタ)法規式(シキ)勝計(せウケイ)旨趣(シシユ)(ツフサ)(ツクシ)紙上御上洛之時心之所申候也庭中ト云事ハ。奏者(ソウシヤ)ナシニ物ヲ云様ナル事也。是尤似()タリ。昔(ムカシ)大唐(タイタウ)ニ恵果(ケイクハ)和尚ト申祖()師アリ。密教相應(サウヲウ)ノ人也。三密ノ法衣ヲ刷(ツクロ)ヒ給ヘリ。又我カ朝ニ弘法房(コウホウボウ)ト云法師アリ。讃岐(サヌキ)国屏風(ベウブ)カ浦(ウラ)ノ人ナリ。或(アル)時入唐(ニツタウ)シ彼恵果(ケイクハ)房ニ尋相(タツネアヒ)テ真言ノ奥藏(ワウサウ)ヲ極(キハ)メ給フ。彼(カノ)(ケイ)果房ニハ。三千人ノ御弟子(デシ)有弘法ヲ以テ第一トス。三密ノ法形ヲ譲(ユツ)リ渡(ワタ)シ度(タク)(メせ)共餘人ノ恨ミ鬱(イキトヲ)リヲ思召テ弘法ニ渡シ給ハズ。或時恵(ケイ)果出給テ庭ヲ自ラ掃()キ玉フ。弘法走(ハシ)リ出デ御箒(ミハウキ)ヲ給シ庭ヲ掃(ハラ)ハント申サレケレバ。箒(ハウキ)ヲバ渡シ給ハズ。暫(シバラ)クウナタレ跪(ヒサマツ)キ庭上ニ畏(カシコ)マル良(ヤヽ)有テ恵果(ケイクハ)。ハフキヲ投(ナゲ)カケ給テノ玉ハク。汝(ナンヂ)ハ庭(ニハ)ヲハカン爲(タメ)カ塵ヲハカン爲(タメ)カトノ玉ヘハ。愚身ハ。庭ヲハカントノ玉フヲ其マヽ御約束(ヤクソク)ニテ。内ヘ入玉ヘハ。弘法(コウボウ)ハシヅ/\ト庭(ニハ)ヲハハキテ彼(カノ)ハフキヲ我ガ學問(がくもん)処ヘ納(ヲサメ)テ見給ヘバ光明赫(カク)々タル三ノ儀軌(ギキ)有リ餘ノ人ノ不見其間ニトテ法王山ニ登(ノボ)リ虚空ヘ投(ナゲ)給フ日本秋津洲(アキツス)ニ留(トヽマ)リ。東寺ニ獨鈷(トクコ)アリ。高嶺(カウレイ)ニ。三鈷()アリ。五鈷()ハ御持物也。此ヨリ奥(ヲク)ニ日本紀()。大日經ノ沙汰有ランヤ。可秘(ヒス)一切此文俗抄ニアラスバ。筆ノ餘程(ヨテイ)モ記ヲカンニ真言(シンコ )ノ事ハ筆ヲナゲ口ヲ閉(トツ)ルト云也。弘法大師ハ。三密(ミツ)ノ法鏡ヲ讓(ユツリ)達シ玉フモ庭中也。是ヨリ直(スク)ニテ大儀ナル事ヲ申ヲ庭中ト云ナリ。庭(ニハ)ト塵(チリ)トノ喩(タト)ヘ潜(ヒソカ)ニ謂処ナシ。是專(モツハ)ラ秘()事ナリ。学文ノ及処ナリ。〔下23ウ一〜24オ二〕

とあって、この標記語「旨趣」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(しじやう)に盡(つく)し難(かた)旨趣紙上旨趣ハおもむきなり。〔68ウ六・七〕

とあって、この標記語「旨趣」の語を収載し、語注記は「旨趣は、おもむきなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-旨趣紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言〔49ウ六〜50オ五〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)〔89オ三〜ウ六〕

とあって、標記語「旨趣」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xijxu.シィシュ(旨趣) Muneuo vomomuqi(旨の趣)何か物事の理由,あるいは,道理.〔邦訳765r〕

とあって、標記語「旨趣」の語の意味は「(旨の趣)何か物事の理由,あるいは,道理」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-しゅ〔名〕【旨趣】〔延べて、しいしゅとも云ふ〕(一)事の、おもむき。わけがら。、琴賦、序「覽旨趣、亦未禮樂之情也」(二)心中の所存。源平盛衰記、六、小松殿教訓事「最後の申状と存ずれば、心底に旨趣を不殘」〔0893-3〕

とあって、標記語「旨趣」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-しゅ旨趣】〔名〕@事のわけ。おもむき。内容。趣意。趣旨。しいしゅ。A心に思っていること。考え。所存。存念。しいしゅ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
仍轉讀分八百部、故欲啓白佛陀、如何者覺淵申云、雖不滿一千部、被啓白條、不可背冥慮者則供香花於佛前、啓白其旨趣《訓み下し》仍テ転読分八百部、故ニ仏陀ニ啓白セント欲ス、如何、テイレバ覚淵申シテ云ク、一千部ニ満タズト雖モ、啓白セラレンノ条、冥慮ニ背クベカラズ、テイレバ、則チ香花ヲ仏前ニ供ケ、其ノ旨趣(シイシユ)ヲ啓白ス。《『吾妻鏡』治承四年七月五日の条》
 
 
2003年12月13日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
勝計(ショウゲイ&あげてかぞ・ふ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、標記語「勝計」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

次寺社訴詔者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔至徳三年本〕

次寺社訴訟者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領與奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔宝徳三年本〕

次寺社訴詔者就本所挙達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊於庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔建部傳内本〕

-社訴-本所挙達-非之-訴覆-者依-題管--_行之於庭-()-賞方--式不-〔山田俊雄藏本〕

寺社訴訟者本所挙達-非之越訴覆勘依探題管領与奪_行之於庭中家務恩賞方法規式不カラ(カソフ)〔経覺筆本〕

--詔者就-挙達(キヨタツ)--覆勘(フカン)者依探題(タンタイ)管領(クワンレイ)与奪(ヨタツ)(シ )_行之(ソウ)於庭(テイ)家務(ケム)(ヲン)-(シヤウ)(ハウ)-(ハウ)()-(シキ)カラ(シヨウ)-(ケイ)〔文明四年本〕 挙達(キヨタツ)。覆勘(フカン)。探題(タンタイ)。管領(クワンレイ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「勝計」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「勝計」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

勝計(シヨウケイ、カツマサル・タヘタリ、ハカリ)[平・去] 。〔態藝門954一〕

とあって、標記語「勝計」の語を収載し、訓みを「シヨウケイ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「勝計」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書では、広本節用集』だけが「勝計」の語を収載していて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語となっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

483方-規式不ル∨-(ゲイ)其旨趣具紙上ニ|御上洛之時心及粗(ホトンヽ/ホヽ)申候恐々謹言〔謙堂文庫藏四六左H〕

とあって、標記語「勝計」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

庭中家務(カム)恩賞(ヲンシヤウ)(カタ)法規式(シキ)勝計(せウケイ)其旨趣(シシユ)(ツフサ)(ツクシ)紙上御上洛之時心之所申候也庭中ト云事ハ。奏者(ソウシヤ)ナシニ物ヲ云様ナル事也。是尤似()タリ。昔(ムカシ)大唐(タイタウ)ニ恵果(ケイクハ)和尚ト申祖()師アリ。密教相應(サウヲウ)ノ人也。三密ノ法衣ヲ刷(ツクロ)ヒ給ヘリ。又我カ朝ニ弘法房(コウホウボウ)ト云法師アリ。讃岐(サヌキ)国屏風(ベウブ)カ浦(ウラ)ノ人ナリ。或(アル)時入唐(ニツタウ)シ彼恵果(ケイクハ)房ニ尋相(タツネアヒ)テ真言ノ奥藏(ワウサウ)ヲ極(キハ)メ給フ。彼(カノ)(ケイ)果房ニハ。三千人ノ御弟子(デシ)有弘法ヲ以テ第一トス。三密ノ法形ヲ譲(ユツ)リ渡(ワタ)シ度(タク)(メせ)共餘人ノ恨ミ鬱(イキトヲ)リヲ思召テ弘法ニ渡シ給ハズ。或時恵(ケイ)果出給テ庭ヲ自ラ掃()キ玉フ。弘法走(ハシ)リ出デ御箒(ミハウキ)ヲ給シ庭ヲ掃(ハラ)ハント申サレケレバ。箒(ハウキ)ヲバ渡シ給ハズ。暫(シバラ)クウナタレ跪(ヒサマツ)キ庭上ニ畏(カシコ)マル良(ヤヽ)有テ恵果(ケイクハ)。ハフキヲ投(ナゲ)カケ給テノ玉ハク。汝(ナンヂ)ハ庭(ニハ)ヲハカン爲(タメ)カ塵ヲハカン爲(タメ)カトノ玉ヘハ。愚身ハ。庭ヲハカントノ玉フヲ其マヽ御約束(ヤクソク)ニテ。内ヘ入玉ヘハ。弘法(コウボウ)ハシヅ/\ト庭(ニハ)ヲハハキテ彼(カノ)ハフキヲ我ガ學問(がくもん)処ヘ納(ヲサメ)テ見給ヘバ光明赫(カク)々タル三ノ儀軌(ギキ)有リ餘ノ人ノ不見其間ニトテ法王山ニ登(ノボ)リ虚空ヘ投(ナゲ)給フ日本秋津洲(アキツス)ニ留(トヽマ)リ。東寺ニ獨鈷(トクコ)アリ。高嶺(カウレイ)ニ。三鈷()アリ。五鈷()ハ御持物也。此ヨリ奥(ヲク)ニ日本紀()。大日經ノ沙汰有ランヤ。可秘(ヒス)一切此文俗抄ニアラスバ。筆ノ餘程(ヨテイ)モ記ヲカンニ真言(シンコ )ノ事ハ筆ヲナゲ口ヲ閉(トツ)ルト云也。弘法大師ハ。三密(ミツ)ノ法鏡ヲ讓(ユツリ)達シ玉フモ庭中也。是ヨリ直(スク)ニテ大儀ナル事ヲ申ヲ庭中ト云ナリ。庭(ニハ)ト塵(チリ)トノ喩(タト)ヘ潜(ヒソカ)ニ謂処ナシ。是專(モツハ)ラ秘()事ナリ。学文ノ及処ナリ。〔下23ウ一〜24オ二〕

とあって、この標記語「勝計」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かつ)て計(かぞ)()から不()る也(なり)カラ-はかり■されすと也。甚た多きをいふ。〔68ウ六〕

とあって、この標記語「勝計」の語を収載し、語注記は「はかり■されすと也。甚た多きをいふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言〔49ウ六〜50オ五〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)〔89オ三〜ウ六〕

とあって、標記語「勝計」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「勝計」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「勝計」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「しょう-げい勝計】〔名〕一つ一つあげて数えること。とりたてて数えること。多く「勝計すべからず」の形で、数えきれない意に用いる。*明衡徃来(11C中か)上本「如此之輩不可勝計。彼年又所々村有其数」*正法眼蔵(1231-53)三十七品菩提分法「出家の功コを讃嘆せること、称計すべからず」*東寺百合文書−へ・康永二年(1343)三月七日・浄光寺光明院料田寄進状案(大日本古文書二・六八)「是不絶法事、不離寺領之勝計也」*滑稽本・古今百馬鹿(1814)下「第一には酒だ。和漢をいはず酒を賞する事勝計(ショウケイ)すべからず」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
彼老母〈武衛御乳母〉聞之、爲救愛息之命、泣參上申云、資通入道、仕八幡殿、爲廷尉禪室御乳母以降、代々間、竭微忠於源家、不可勝計《訓み下し》彼ノ老母〈武衛ノ御乳母〉之ヲ聞キ、愛息ノ命ヲ救ハンガ為ニ、泣参上シテ申シテ云ク、資通入道、八幡殿ニ仕ヘテ、廷尉禅室ノ御乳母タリシヨリ以降、代代ノ間、微忠ヲ源家ニ竭クスコト、(ア)ゲテ(カゾ)ベカラズ。《『吾妻鏡』治承四年十一月二十六日の条》
 
 
2003年12月12日(金)曇り時折小雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
規式(キシキ)」←ことばの溜め池「規式」(2002.09.02)参照。
 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

483方-規式ル∨-(ゲイ)|其旨趣具紙上ニ|御上洛之時心及粗(ホトンヽ/ホヽ)申候恐々謹言〔謙堂文庫藏四六左H〕

とあって、標記語「規式」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

庭中家務(カム)恩賞(ヲンシヤウ)(カタ)規式(シキ)勝計(せウケイ)其旨趣(シシユ)(ツフサ)(ツクシ)紙上御上洛之時心之所申候也庭中ト云事ハ。奏者(ソウシヤ)ナシニ物ヲ云様ナル事也。是尤似()タリ。昔(ムカシ)大唐(タイタウ)ニ恵果(ケイクハ)和尚ト申祖()師アリ。密教相應(サウヲウ)ノ人也。三密ノ法衣ヲ刷(ツクロ)ヒ給ヘリ。又我カ朝ニ弘法房(コウホウボウ)ト云法師アリ。讃岐(サヌキ)国屏風(ベウブ)カ浦(ウラ)ノ人ナリ。或(アル)時入唐(ニツタウ)シ彼恵果(ケイクハ)房ニ尋相(タツネアヒ)テ真言ノ奥藏(ワウサウ)ヲ極(キハ)メ給フ。彼(カノ)(ケイ)果房ニハ。三千人ノ御弟子(デシ)有弘法ヲ以テ第一トス。三密ノ法形ヲ譲(ユツ)リ渡(ワタ)シ度(タク)(メせ)共餘人ノ恨ミ鬱(イキトヲ)リヲ思召テ弘法ニ渡シ給ハズ。或時恵(ケイ)果出給テ庭ヲ自ラ掃()キ玉フ。弘法走(ハシ)リ出デ御箒(ミハウキ)ヲ給シ庭ヲ掃(ハラ)ハント申サレケレバ。箒(ハウキ)ヲバ渡シ給ハズ。暫(シバラ)クウナタレ跪(ヒサマツ)キ庭上ニ畏(カシコ)マル良(ヤヽ)有テ恵果(ケイクハ)。ハフキヲ投(ナゲ)カケ給テノ玉ハク。汝(ナンヂ)ハ庭(ニハ)ヲハカン爲(タメ)カ塵ヲハカン爲(タメ)カトノ玉ヘハ。愚身ハ。庭ヲハカントノ玉フヲ其マヽ御約束(ヤクソク)ニテ。内ヘ入玉ヘハ。弘法(コウボウ)ハシヅ/\ト庭(ニハ)ヲハハキテ彼(カノ)ハフキヲ我ガ學問(がくもん)処ヘ納(ヲサメ)テ見給ヘバ光明赫(カク)々タル三ノ儀軌(ギキ)有リ餘ノ人ノ不見其間ニトテ法王山ニ登(ノボ)リ虚空ヘ投(ナゲ)給フ日本秋津洲(アキツス)ニ留(トヽマ)リ。東寺ニ獨鈷(トクコ)アリ。高嶺(カウレイ)ニ。三鈷()アリ。五鈷()ハ御持物也。此ヨリ奥(ヲク)ニ日本紀()。大日經ノ沙汰有ランヤ。可秘(ヒス)一切此文俗抄ニアラスバ。筆ノ餘程(ヨテイ)モ記ヲカンニ真言(シンコ )ノ事ハ筆ヲナゲ口ヲ閉(トツ)ルト云也。弘法大師ハ。三密(ミツ)ノ法鏡ヲ讓(ユツリ)達シ玉フモ庭中也。是ヨリ直(スク)ニテ大儀ナル事ヲ申ヲ庭中ト云ナリ。庭(ニハ)ト塵(チリ)トノ喩(タト)ヘ潜(ヒソカ)ニ謂処ナシ。是專(モツハ)ラ秘()事ナリ。学文ノ及処ナリ。〔下23ウ一〜24オ二〕

とあって、この標記語「規式」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

家務(かむ)の恩賞(おんしやう)(ほう)(ハう)規式(ぎしき)家務-賞方法規式是ハ前状に所務の規式雜務の流儀存知度候といえるに善たるなり。家務ハ家事(かじ)なり。恩賞ハ褒美する事也。方法は法度(はつと)(おきて)なり。〔68ウ四・五〕

とあって、この標記語「規式」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言▲方法規式ハ法度(はつと)(おきて)の定式(ぢやうしき)也。〔49ウ六〜50オ五〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)▲方法規式ハ法度(はつと)(おきて)の定式(ぢやうしき)也。〔89オ三〜ウ六〕

とあって、標記語「規式」の語を収載し、その語注記は「方法規式は、法度(はつと)(おきて)の定式(ぢやうしき)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「規式」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「規式」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-しき規式】〔名〕定まった作法。きまり。規則。*雑談集(1305)四・養性事「若は強て坐し、若は規式(きしき)を守て坐禅するに似たれども」*庭訓往来(1394−1428頃)「綸旨・院宣者大庭之規式、令旨・官符宣者非今指南」*政談(1727頃)四「当時武家の規式の様に成たる上は」*随筆・近世江都著聞集(1575)三「子孫今にさかへ軒端高く千歳の松かざり御規式の御用達仰付られし人也」*米欧回覧実記(1877)<久米邦武>二・二六「規式厳粛なり、始めて立君国の威儀をみる」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
仰 条々一茜部庄延絹事、昨日重如被仰、始終規式斯時可治定之上者、能々被採択、任理重可被仰出矣《『東大寺文書・図書館未成卷文書』建武元年十二月晦日の条・554、14/17
 
 
2003年12月11日(木)晴れのち曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
方法(ハウホウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「葉」部に、「方等(ハウドウ)。方角(ガク)。方便(ベン)。方違(チカイ)」の四語を収載するが、標記語「方法」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

次寺社訴詔者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔至徳三年本〕

次寺社訴訟者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領與奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔宝徳三年本〕

次寺社訴詔者就本所挙達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊於庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔建部傳内本〕

-社訴-本所挙達-非之-訴覆-者依-題管--_行之於庭-()---式不-〔山田俊雄藏本〕

寺社訴訟者本所挙達-非之越訴覆勘依探題管領与奪_行之於庭中家務恩賞方法規式不カラ(カソフ)〔経覺筆本〕

--詔者就-挙達(キヨタツ)--覆勘(フカン)者依探題(タンタイ)管領(クワンレイ)与奪(ヨタツ)(シ )_行之(ソウ)於庭(テイ)家務(ケム)(ヲン)-(シヤウ)(ハウ)-(ハウ)()-(シキ)カラ(シヨウ)-(ケイ)〔文明四年本〕 挙達(キヨタツ)。覆勘(フカン)。探題(タンタイ)。管領(クワンレイ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「方法」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「方法」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書には、「方法」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語となっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

483-規式不ル∨-(ゲイ)|其旨趣具紙上ニ|御上洛之時心及粗(ホトンヽ/ホヽ)申候恐々謹言〔謙堂文庫藏四六左H〕

とあって、標記語「方法」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

庭中家務(カム)恩賞(ヲンシヤウ)(カタ)規式(シキ)勝計(せウケイ)其旨趣(シシユ)(ツフサ)(ツクシ)紙上御上洛之時心之所申候也庭中ト云事ハ。奏者(ソウシヤ)ナシニ物ヲ云様ナル事也。是尤似()タリ。昔(ムカシ)大唐(タイタウ)ニ恵果(ケイクハ)和尚ト申祖()師アリ。密教相應(サウヲウ)ノ人也。三密ノ法衣ヲ刷(ツクロ)ヒ給ヘリ。又我カ朝ニ弘法房(コウホウボウ)ト云法師アリ。讃岐(サヌキ)国屏風(ベウブ)カ浦(ウラ)ノ人ナリ。或(アル)時入唐(ニツタウ)シ彼恵果(ケイクハ)房ニ尋相(タツネアヒ)テ真言ノ奥藏(ワウサウ)ヲ極(キハ)メ給フ。彼(カノ)(ケイ)果房ニハ。三千人ノ御弟子(デシ)有弘法ヲ以テ第一トス。三密ノ法形ヲ譲(ユツ)リ渡(ワタ)シ度(タク)(メせ)共餘人ノ恨ミ鬱(イキトヲ)リヲ思召テ弘法ニ渡シ給ハズ。或時恵(ケイ)果出給テ庭ヲ自ラ掃()キ玉フ。弘法走(ハシ)リ出デ御箒(ミハウキ)ヲ給シ庭ヲ掃(ハラ)ハント申サレケレバ。箒(ハウキ)ヲバ渡シ給ハズ。暫(シバラ)クウナタレ跪(ヒサマツ)キ庭上ニ畏(カシコ)マル良(ヤヽ)有テ恵果(ケイクハ)。ハフキヲ投(ナゲ)カケ給テノ玉ハク。汝(ナンヂ)ハ庭(ニハ)ヲハカン爲(タメ)カ塵ヲハカン爲(タメ)カトノ玉ヘハ。愚身ハ。庭ヲハカントノ玉フヲ其マヽ御約束(ヤクソク)ニテ。内ヘ入玉ヘハ。弘法(コウボウ)ハシヅ/\ト庭(ニハ)ヲハハキテ彼(カノ)ハフキヲ我ガ學問(がくもん)処ヘ納(ヲサメ)テ見給ヘバ光明赫(カク)々タル三ノ儀軌(ギキ)有リ餘ノ人ノ不見其間ニトテ法王山ニ登(ノボ)リ虚空ヘ投(ナゲ)給フ日本秋津洲(アキツス)ニ留(トヽマ)リ。東寺ニ獨鈷(トクコ)アリ。高嶺(カウレイ)ニ。三鈷()アリ。五鈷()ハ御持物也。此ヨリ奥(ヲク)ニ日本紀()。大日經ノ沙汰有ランヤ。可秘(ヒス)一切此文俗抄ニアラスバ。筆ノ餘程(ヨテイ)モ記ヲカンニ真言(シンコ )ノ事ハ筆ヲナゲ口ヲ閉(トツ)ルト云也。弘法大師ハ。三密(ミツ)ノ法鏡ヲ讓(ユツリ)達シ玉フモ庭中也。是ヨリ直(スク)ニテ大儀ナル事ヲ申ヲ庭中ト云ナリ。庭(ニハ)ト塵(チリ)トノ喩(タト)ヘ潜(ヒソカ)ニ謂処ナシ。是專(モツハ)ラ秘()事ナリ。学文ノ及処ナリ。〔下23ウ一〜24オ二〕

とあって、この標記語「方法」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

家務(かむ)の恩賞(おんしやう)(ほう)(ハう)規式(ぎしき)家務-方法規式是ハ前状に所務の規式雜務の流儀存知度候といえるに善たるなり。家務ハ家事(かじ)なり。恩賞ハ褒美する事也。方法は法度(はつと)(おきて)なり。〔68ウ四・五〕

とあって、この標記語「方法」の語を収載し、語注記は「方法は、法度(はつと)(おきて)なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務--規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言▲方法規式ハ法度(はつと)(おきて)の定式(ぢやうしき)也。〔49ウ六〜50オ五〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)▲▲方法規式ハ法度(はつと)(おきて)の定式(ぢやうしき)也。〔89オ三〜ウ六〕

とあって、標記語「方法」の語を収載し、その語注記は「方法規式は、法度(はつと)(おきて)の定式(ぢやうしき)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「方法」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

はう-はふ〔名〕【方法】しかた。てだて。手段。方便。韓愈、送韓運使序「爲之奔走經營、相原濕之宜、指方法、故連二歳大熟」蘇軾詩「淮南風俗事、方法相傳竟留蓄」粉河寺縁起「願くは、免べき方法を示し給へ」〔3-813-3〕

とあって、標記語「方法」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ほう-ほう方法】〔名〕@(「ほうぼう」とも)物事を行なうしかた。目的を達するためのてだて。仕様。A哲学で、与えられた主題の認識を得るために使用される認識手段。思考対象の取り扱い方」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
当時之御所、暑熱之間、片時無可御坐之方法、仍不顧衆難、枉所渡御歟、且是非深難之由、重所有議定也《『玉葉』治承五年六月五日の条》
 
 
2003年12月10日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
恩賞(オンシヤウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「遠」部に、

恩賞(―シヤウ) 。〔元亀二年本77二〕〔静嘉堂本94二〕

恩賞(ヲンシヤウ) 。〔天正十七年本上46ウ七〕

とあって、標記語「恩賞」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

次寺社訴詔者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔至徳三年本〕

次寺社訴訟者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領與奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔宝徳三年本〕

次寺社訴詔者就本所挙達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊於庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔建部傳内本〕

-社訴-本所挙達-非之-訴覆-者依-題管--_行之於庭-()---式不-〔山田俊雄藏本〕

寺社訴訟者本所挙達-非之越訴覆勘依探題管領与奪_行之於庭中家務恩賞方法規式不カラ(カソフ)〔経覺筆本〕

--詔者就-挙達(キヨタツ)--覆勘(フカン)者依探題(タンタイ)管領(クワンレイ)与奪(ヨタツ)(シ )_行之(ソウ)於庭(テイ)家務(ケム)(ヲン)-(シヤウ)(ハウ)-(ハウ)()-(シキ)カラ(シヨウ)-(ケイ)〔文明四年本〕 挙達(キヨタツ)。覆勘(フカン)。探題(タンタイ)。管領(クワンレイ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「恩賞」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

恩賞(ヲンシヤウ) 。〔態藝門74五〕

とあって、標記語「恩賞」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

恩賞(ヲンシヤウイツクシ・ネンゴロ、モテアソブ)[平・上] 。〔態藝門215六〕

とあって、標記語「恩賞」の語を収載し、訓みを「ヲンシヤウ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

恩賞(ヲンシヤウ) 。〔・言語門69一〕

恩波(ヲンハ) ―慈()。―顧()。―言(ゴン)―賞(シヤウ)。―顔(ガン)。―惠(ケイ)。―許(キヨ)。―愛(アイ)。―免(メン)。―給(キウ)。―簡(カン)/―札(サツ)。―コ(ドク)。―情(シヤウ)。―問(モン)。―賜()。―容(ヨウ)。―恕(ジヨ)。―告(カウ)。―借(シヤク)。―領(リヤウ)。〔・言語門66二〕

恩波(ヲンハ) ―慈。―顧。―言。―賞。―顔。―惠。―許。―愛。―免。―給。―簡。―札/―コ。―情。―問。―賜。―容。―恕。―告。―借。―領。―扶持。〔・言語門60五〕

恩波(ヲンハ) ―慈。―顧。―言。―賞。―顔。―惠/―許。―愛。―コ。―借。―領。―問。〔・言語門71二〕

とあって、弘治二年本は、標記語「恩賞」の語を収載し、他本は標記語「恩波」の冠頭字「恩」の熟語群として「恩賞」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

恩賞(シヤウ) 。〔言語門62七〕

とあって、標記語「恩賞」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「恩賞」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

482依テ‖探題官領与奪ニ|‖_ヲ|(―)シ‖於庭中ニ|家務(ケム)ノ- トハ我雖ナレハ申次無シ∨人。故子細晝庭中立也。御召付申也。〔謙堂文庫藏四六左F〕

とあって、標記語「恩賞」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

庭中家務(カム)恩賞(ヲンシヤウ)(カタ)法規式(シキ)勝計(せウケイ)其旨趣(シシユ)(ツフサ)(ツクシ)紙上御上洛之時心之所申候也庭中ト云事ハ。奏者(ソウシヤ)ナシニ物ヲ云様ナル事也。是尤似()タリ。昔(ムカシ)大唐(タイタウ)ニ恵果(ケイクハ)和尚ト申祖()師アリ。密教相應(サウヲウ)ノ人也。三密ノ法衣ヲ刷(ツクロ)ヒ給ヘリ。又我カ朝ニ弘法房(コウホウボウ)ト云法師アリ。讃岐(サヌキ)国屏風(ベウブ)カ浦(ウラ)ノ人ナリ。或(アル)時入唐(ニツタウ)シ彼恵果(ケイクハ)房ニ尋相(タツネアヒ)テ真言ノ奥藏(ワウサウ)ヲ極(キハ)メ給フ。彼(カノ)(ケイ)果房ニハ。三千人ノ御弟子(デシ)有弘法ヲ以テ第一トス。三密ノ法形ヲ譲(ユツ)リ渡(ワタ)シ度(タク)(メせ)共餘人ノ恨ミ鬱(イキトヲ)リヲ思召テ弘法ニ渡シ給ハズ。或時恵(ケイ)果出給テ庭ヲ自ラ掃()キ玉フ。弘法走(ハシ)リ出デ御箒(ミハウキ)ヲ給シ庭ヲ掃(ハラ)ハント申サレケレバ。箒(ハウキ)ヲバ渡シ給ハズ。暫(シバラ)クウナタレ跪(ヒサマツ)キ庭上ニ畏(カシコ)マル良(ヤヽ)有テ恵果(ケイクハ)。ハフキヲ投(ナゲ)カケ給テノ玉ハク。汝(ナンヂ)ハ庭(ニハ)ヲハカン爲(タメ)カ塵ヲハカン爲(タメ)カトノ玉ヘハ。愚身ハ。庭ヲハカントノ玉フヲ其マヽ御約束(ヤクソク)ニテ。内ヘ入玉ヘハ。弘法(コウボウ)ハシヅ/\ト庭(ニハ)ヲハハキテ彼(カノ)ハフキヲ我ガ學問(がくもん)処ヘ納(ヲサメ)テ見給ヘバ光明赫(カク)々タル三ノ儀軌(ギキ)有リ餘ノ人ノ不見其間ニトテ法王山ニ登(ノボ)リ虚空ヘ投(ナゲ)給フ日本秋津洲(アキツス)ニ留(トヽマ)リ。東寺ニ獨鈷(トクコ)アリ。高嶺(カウレイ)ニ。三鈷()アリ。五鈷()ハ御持物也。此ヨリ奥(ヲク)ニ日本紀()。大日經ノ沙汰有ランヤ。可秘(ヒス)一切此文俗抄ニアラスバ。筆ノ餘程(ヨテイ)モ記ヲカンニ真言(シンコ )ノ事ハ筆ヲナゲ口ヲ閉(トツ)ルト云也。弘法大師ハ。三密(ミツ)ノ法鏡ヲ讓(ユツリ)達シ玉フモ庭中也。是ヨリ直(スク)ニテ大儀ナル事ヲ申ヲ庭中ト云ナリ。庭(ニハ)ト塵(チリ)トノ喩(タト)ヘ潜(ヒソカ)ニ謂処ナシ。是專(モツハ)ラ秘()事ナリ。学文ノ及処ナリ。〔下23ウ一〜24オ二〕

とあって、この標記語「恩賞」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

家務(かむ)恩賞(おんしやう)(ほう)(ハう)規式(ぎしき)家務-方法規式是ハ前状に所務の規式雜務の流儀存知度候といえるに善たるなり。家務ハ家事(かじ)なり。恩賞ハ褒美する事也。方法は法度(はつと)(おきて)なり。〔68ウ四・五〕

とあって、この標記語「恩賞」の語を収載し、語注記は「恩賞は、褒美する事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言▲恩賞ハ褒美(ほうび)の沙汰(さた)をいふ。〔49ウ六〜50オ五〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)▲恩賞ハ褒美(ほうび)の沙汰(さた)をいふ。〔89オ三〜ウ六〕

とあって、標記語「恩賞」の語を収載し、その語注記は「恩賞は、褒美(ほうび)の沙汰(さた)をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vonxo<.オンシャウ(恩賞) Megumi motenasu.(恩み賞す) ある功労などに対する賞として授けられる恩恵,あるいは,贈与.§Vonxo<uo tamauaru.(恩賞を賜はる)主君,または,高貴の方が,賞としてある恩恵や贈与を私に下さる.〔邦訳715r〕

とあって、標記語「恩賞」の語の意味は「(恩み賞す) ある功労などに対する賞として授けられる恩恵,あるいは,贈与」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

おん-しゃう〔名〕【恩賞】褒美に、物を惠み賜はること。後漢書、安成孝侯傳「恩賞特異」吾妻鏡、十五、建久六年十二月十二日「功績誠被世憐、恒隨軼人也、仍連連被恩賞訖」〔1-535-4〕

とあって、標記語「恩賞」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「おん-しょう恩賞】〔名〕@功労を賞して、主君が家臣に官位、所領、物品、税の徴収権などを与えること。また、そのもの。A恩恵。神の恵み。また一般に、世話を受けた恩。B世話になった恩を返すこと。恩返し。報恩」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
次常陸、下野、上野之間、同意三郎先生之輩所領等悉以被收公之朝政、朝光等、預恩賞〈云云〉《訓み下し》次ニ常陸、下野、上野ノ間、三郎先生ニ同意スルノ輩ノ所領等、悉ク以テ之ヲ収公セラル。朝政、朝光等、恩賞(ヲンシヤウ)ニ預ルト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承五年閏二月二十八日の条》
 
 
2003年12月09日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
家務(ケム)→(カム)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、「家督(トク)陶朱公長子――。家風(フウ)。家業(ケウ)。家具(カグ)。家門(モン)。家法(ホウ)。家醸(スイ)手作酒名。家常(ジヤウ)定飯之事」の八語と「氣」部に、「家人(ニン)。家来(ライ)。家子()」の三語を収載するが、標記語「家務」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

次寺社訴詔者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔至徳三年本〕

次寺社訴訟者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領與奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔宝徳三年本〕

次寺社訴詔者就本所挙達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊於庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔建部傳内本〕

-社訴-本所挙達-非之-訴覆-者依-題管--_行之於庭-()-賞方--式不-〔山田俊雄藏本〕

寺社訴訟者本所挙達-非之越訴覆勘依探題管領与奪_行之於庭中家務恩賞方法規式不カラ(カソフ)〔経覺筆本〕

--詔者就-挙達(キヨタツ)--覆勘(フカン)者依探題(タンタイ)管領(クワンレイ)与奪(ヨタツ)(シ )_行之(ソウ)於庭(テイ)家務(ケム)(ヲン)-(シヤウ)(ハウ)-(ハウ)()-(シキ)カラ(シヨウ)-(ケイ)〔文明四年本〕 挙達(キヨタツ)。覆勘(フカン)。探題(タンタイ)。管領(クワンレイ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「家務」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「家務」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書には、「家務」の語は未収載であり、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

482依テ‖探題官領与奪ニ|‖_ヲ|(―)シ‖於庭中ニ|家務(ケム)-賞 トハ我雖ナレハ申次無シ∨人。故子細晝庭中立也。御召付申也。〔謙堂文庫藏四六左F〕

とあって、標記語「家務」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

庭中家務(カム)恩賞(ヲンシヤウ)(カタ)法規式(シキ)勝計(せウケイ)其旨趣(シシユ)(ツフサ)(ツクシ)紙上御上洛之時心之所申候也庭中ト云事ハ。奏者(ソウシヤ)ナシニ物ヲ云様ナル事也。是尤似()タリ。昔(ムカシ)大唐(タイタウ)ニ恵果(ケイクハ)和尚ト申祖()師アリ。密教相應(サウヲウ)ノ人也。三密ノ法衣ヲ刷(ツクロ)ヒ給ヘリ。又我カ朝ニ弘法房(コウホウボウ)ト云法師アリ。讃岐(サヌキ)国屏風(ベウブ)カ浦(ウラ)ノ人ナリ。或(アル)時入唐(ニツタウ)シ彼恵果(ケイクハ)房ニ尋相(タツネアヒ)テ真言ノ奥藏(ワウサウ)ヲ極(キハ)メ給フ。彼(カノ)(ケイ)果房ニハ。三千人ノ御弟子(デシ)有弘法ヲ以テ第一トス。三密ノ法形ヲ譲(ユツ)リ渡(ワタ)シ度(タク)(メせ)共餘人ノ恨ミ鬱(イキトヲ)リヲ思召テ弘法ニ渡シ給ハズ。或時恵(ケイ)果出給テ庭ヲ自ラ掃()キ玉フ。弘法走(ハシ)リ出デ御箒(ミハウキ)ヲ給シ庭ヲ掃(ハラ)ハント申サレケレバ。箒(ハウキ)ヲバ渡シ給ハズ。暫(シバラ)クウナタレ跪(ヒサマツ)キ庭上ニ畏(カシコ)マル良(ヤヽ)有テ恵果(ケイクハ)。ハフキヲ投(ナゲ)カケ給テノ玉ハク。汝(ナンヂ)ハ庭(ニハ)ヲハカン爲(タメ)カ塵ヲハカン爲(タメ)カトノ玉ヘハ。愚身ハ。庭ヲハカントノ玉フヲ其マヽ御約束(ヤクソク)ニテ。内ヘ入玉ヘハ。弘法(コウボウ)ハシヅ/\ト庭(ニハ)ヲハハキテ彼(カノ)ハフキヲ我ガ學問(がくもん)処ヘ納(ヲサメ)テ見給ヘバ光明赫(カク)々タル三ノ儀軌(ギキ)有リ餘ノ人ノ不見其間ニトテ法王山ニ登(ノボ)リ虚空ヘ投(ナゲ)給フ日本秋津洲(アキツス)ニ留(トヽマ)リ。東寺ニ獨鈷(トクコ)アリ。高嶺(カウレイ)ニ。三鈷()アリ。五鈷()ハ御持物也。此ヨリ奥(ヲク)ニ日本紀()。大日經ノ沙汰有ランヤ。可秘(ヒス)一切此文俗抄ニアラスバ。筆ノ餘程(ヨテイ)モ記ヲカンニ真言(シンコ )ノ事ハ筆ヲナゲ口ヲ閉(トツ)ルト云也。弘法大師ハ。三密(ミツ)ノ法鏡ヲ讓(ユツリ)達シ玉フモ庭中也。是ヨリ直(スク)ニテ大儀ナル事ヲ申ヲ庭中ト云ナリ。庭(ニハ)ト塵(チリ)トノ喩(タト)ヘ潜(ヒソカ)ニ謂処ナシ。是專(モツハ)ラ秘()事ナリ。学文ノ及処ナリ。〔下23ウ一〜24オ二〕

とあって、この標記語「家務」とし、語注記は「家務と云ふ事は、奏者(ソウシヤ)なしに物を云ふ様なる事なり」と記載し、弘法大師の真言密教授受譚を詳細に示す。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

家務(かむ)の恩賞(おんしやう)(ほう)(ハう)規式(ぎしき)家務-賞方法規式是ハ前状に所務の規式雜務の流儀存知度候といえるに善たるなり。家務ハ家事(かじ)なり。恩賞ハ褒美する事也。方法は法度(はつと)(おきて)なり。〔68ウ四・五〕

とあって、この標記語「家務」の語を収載し、語注記は「家務は、家事(かじ)なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言▲家務ハ国家(こくか)の政務(せいむ)をいふなるべし。〔49ウ六〜50オ五〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)▲▲家務ハ国家(こくか)乃政務(せいむ)をいふなるべし。〔89オ三〜ウ六〕

とあって、標記語「家務」の語を収載し、その語注記は「家務は、国家(こくか)の政務(せいむ)をいふなるべし」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「家務」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「家務」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「-家務】〔名〕@一家の事務。A中世、武家で、一家の執事として家務をつかさどった役職。*鎌倉大草紙(16C中か)「扇の谷の家務は、太田左衛門入道道潅。山内の家務、長尾左衛門入道死去の間、長尾尾張守忠景に顕定より申付けらる」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
武州泰時、故政所吉書始〈云云〉又家務條々、被定其式、左近將監景綱、平三郎兵衛尉盛綱等、奉行〈云云〉。《訓み下し》武州泰時、故政所吉書始ト〈云云〉。又家務(カム)ノ条条、其ノ式ヲ定メラル、左近ノ将監景綱、平ノ三郎兵衛ノ尉盛綱等、奉行スト〈云云〉。《『吾妻鏡』貞応三年八月二十八日の条》
 
 
2003年12月08日(月)晴れのち曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
庭中(テイチユウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「天」部に、

庭中(―チウ) 。〔元亀二年本246五〕〔静嘉堂本284八〕〔天正十七年本中71オ六〕

とあって、標記語「庭中」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

次寺社訴詔者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔至徳三年本〕

次寺社訴訟者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領與奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔宝徳三年本〕

次寺社訴詔者就本所挙達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊於庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔建部傳内本〕

-社訴-本所挙達-非之-訴覆-者依-題管--_行之-()-賞方--式不-〔山田俊雄藏本〕

寺社訴訟者本所挙達-非之越訴覆勘依探題管領与奪_行之庭中家務恩賞方法規式不カラ(カソフ)〔経覺筆本〕

--詔者就-挙達(キヨタツ)--覆勘(フカン)者依探題(タンタイ)管領(クワンレイ)与奪(ヨタツ)(シ )_行之(ソウ)於庭(テイ)家務(ケム)(ヲン)-(シヤウ)(ハウ)-(ハウ)()-(シキ)カラ(シヨウ)-(ケイ)〔文明四年本〕 挙達(キヨタツ)。覆勘(フカン)。探題(タンタイ)。管領(クワンレイ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「庭中」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「庭中」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

庭中(テイチウ・アタルニワ、ナカ)[平・去](チキニ)(サヽゲ)訴訟状申上也。〔態藝門733二〕

とあって、標記語「庭中」の語を収載し、訓みを「テイチウ」とし、その語注記は「直(チキニ)訴訟状を捧(サヽゲ)申し上ぐるを云ふなり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

庭中(テイチウ)訴訟申也。〔・言語進退門199五〕

庭上(テイシヤウ) ―前(せン)。―儀()。―訓(キン)―中(チウ)直訴(ヂキソ)(せウ)申也。〔・言語門164六〕

庭上 ―前。―儀。―中/―訓訴訟申也。〔・言語門153七〕

とあって、弘治二年本は標記語「庭中」の語を収載し、他本は標記語「庭上」の冠頭字「庭」の熟語群として「庭中」の語を収載する。そして、語注記として「直に訴訟を申すなり」と記載する。また、易林本節用集』には、

庭訓 ―儀()―中(チウ)。〔言語門166三〕

とあって、標記語「庭中」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「庭中」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

482依テ‖探題官領与奪ニ|‖_ヲ|(―)シ‖庭中家務(ケム)ノ-賞 トハ我雖ナレハ申次無シ∨人。故子細晝庭中立也。御召付申也。〔謙堂文庫藏四六左F〕

とあって、標記語「庭中」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

庭中家務(カム)恩賞(ヲンシヤウ)(カタ)法規式(シキ)勝計(せウケイ)其旨趣(シシユ)(ツフサ)(ツクシ)紙上御上洛之時心之所申候也庭中ト云事ハ。奏者(ソウシヤ)ナシニ物ヲ云様ナル事也。是尤似()タリ。昔(ムカシ)大唐(タイタウ)ニ恵果(ケイクハ)和尚ト申祖()師アリ。密教相應(サウヲウ)ノ人也。三密ノ法衣ヲ刷(ツクロ)ヒ給ヘリ。又我カ朝ニ弘法房(コウホウボウ)ト云法師アリ。讃岐(サヌキ)国屏風(ベウブ)カ浦(ウラ)ノ人ナリ。或(アル)時入唐(ニツタウ)シ彼恵果(ケイクハ)房ニ尋相(タツネアヒ)テ真言ノ奥藏(ワウサウ)ヲ極(キハ)メ給フ。彼(カノ)(ケイ)果房ニハ。三千人ノ御弟子(デシ)有弘法ヲ以テ第一トス。三密ノ法形ヲ譲(ユツ)リ渡(ワタ)シ度(タク)(メせ)共餘人ノ恨ミ鬱(イキトヲ)リヲ思召テ弘法ニ渡シ給ハズ。或時恵(ケイ)果出給テ庭ヲ自ラ掃()キ玉フ。弘法走(ハシ)リ出デ御箒(ミハウキ)ヲ給シ庭ヲ掃(ハラ)ハント申サレケレバ。箒(ハウキ)ヲバ渡シ給ハズ。暫(シバラ)クウナタレ跪(ヒサマツ)キ庭上ニ畏(カシコ)マル良(ヤヽ)有テ恵果(ケイクハ)。ハフキヲ投(ナゲ)カケ給テノ玉ハク。汝(ナンヂ)ハ庭(ニハ)ヲハカン爲(タメ)カ塵ヲハカン爲(タメ)カトノ玉ヘハ。愚身ハ。庭ヲハカントノ玉フヲ其マヽ御約束(ヤクソク)ニテ。内ヘ入玉ヘハ。弘法(コウボウ)ハシヅ/\ト庭(ニハ)ヲハハキテ彼(カノ)ハフキヲ我ガ學問(がくもん)処ヘ納(ヲサメ)テ見給ヘバ光明赫(カク)々タル三ノ儀軌(ギキ)有リ餘ノ人ノ不見其間ニトテ法王山ニ登(ノボ)リ虚空ヘ投(ナゲ)給フ日本秋津洲(アキツス)ニ留(トヽマ)リ。東寺ニ獨鈷(トクコ)アリ。高嶺(カウレイ)ニ。三鈷()アリ。五鈷()ハ御持物也。此ヨリ奥(ヲク)ニ日本紀()。大日經ノ沙汰有ランヤ。可秘(ヒス)一切此文俗抄ニアラスバ。筆ノ餘程(ヨテイ)モ記ヲカンニ真言(シンコ )ノ事ハ筆ヲナゲ口ヲ閉(トツ)ルト云也。弘法大師ハ。三密(ミツ)ノ法鏡ヲ讓(ユツリ)達シ玉フモ庭中也。是ヨリ直(スク)ニテ大儀ナル事ヲ申ヲ庭中ト云ナリ。庭(ニハ)ト塵(チリ)トノ喩(タト)ヘ潜(ヒソカ)ニ謂処ナシ。是專(モツハ)ラ秘()事ナリ。学文ノ及処ナリ。〔下23ウ一〜24オ二〕

とあって、この標記語「庭中」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

庭中(ていちう)()(そう)庭中事を奏するとハ凡訴訟を裁断したる事を君に申上る事也。庭中とハ御殿の前の廣庭をいふなり。こゝにて公事乃捌きハ言終りたり。〔68ウ二・三〕

とあって、この標記語「庭中」の語を収載し、語注記は「庭中とは、御殿の前の廣庭をいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言▲庭中ハ御前(ごぜん)の庭(にハ)をいふ。〔49ウ六〜50オ四〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)▲庭中ハ御前(ごぜん)の庭(にハ)をいふ。〔89オ三〜ウ三〕

とあって、標記語「庭中」の語を収載し、その語注記は「庭中は、御前(ごぜん)の庭(にハ)をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Teichu.テイチユウ(庭中) すなわち,Giqinisoxo>uo mo<su,l,meyasuuo aguru.(直に訴訟を申す,または,目安を上ぐる)請願書,すなわち,竹につけた書付を高く差し上げて持ち,主君を途中に待ち受けて,誓願をし,その書付を捧げること.例,Teichu<uo suru,l,mo<su.(庭中をする,または,申す)上述のような請願をする,あるいは,その書付を捧げる.〔邦訳642l〕

とあって、標記語「庭中」の語の意味は「すなわち,Giqinisoxo>uo mo<su,l,meyasuuo aguru.(直に訴訟を申す,または,目安を上ぐる)請願書,すなわち,竹につけた書付を高く差し上げて持ち,主君を途中に待ち受けて,誓願をし,その書付を捧げること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「庭中」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「てい-ちゅう庭中】〔名〕@庭の中。庭内。A将軍など貴人の邸宅の庭さきから口頭で直訴すること。また、そのような場に提起される直訴。B法廷。朝廷の記録所および文殿、鎌倉幕府の評定の座などにあたる。*御成敗式目(1232)二九条「奉行人若令緩怠、空経二十ヶ日庭中之」C鎌倉・室町幕府の訴訟制度で、訴訟担当の奉行が依怙贔屓(えこひいき)をしたり訴訟手続に誤りがあったりしたときなどに、裁判所に申状を提出して訴えること。鎌倉幕府では、評定に訴える御前庭中、引付に訴える引付庭中があり、六波羅には庭中奉行が置かれた。室町幕府では庭中方がこの申状を処理した。また、朝廷でも鎌倉後期から室町時代にかけておかれたが、実態はよくわかっていない。*蒙古襲来絵詞(1293頃)「ときの御をんぶぎゃう、あきたのじゃうのすけどのやすもりの御まへにてていちう申事」D鎌倉・室町時代、将軍に直訴すること。一般的に禁止されていたが、ときに特例によって許されることもあった。*蔭涼軒日録−長禄三年(1459)一〇月一五日「経法師依御布施之怠転訴状中于御前」*伊京集(室町)庭中 テイチウ 直訴訟申義也」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
還御之後、召出庭中《訓み下し》還御ノ後、庭中(テイチウ)ニ召シ出ス。《『吾妻鏡』養和元年七月二十日の条》
 
 
2003年12月07日(日)曇り後晴れ。木曾→名古屋→大坂(長居)→東京(八王子)
(ソウ)す」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、標記語「」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

次寺社訴詔者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔至徳三年本〕

次寺社訴訟者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領與奪被執行之庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔宝徳三年本〕

次寺社訴詔者就本所挙達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之亊於庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔建部傳内本〕

-社訴-本所挙達-非之-訴覆-者依-題管--_行之於庭-()-賞方--式不-〔山田俊雄藏本〕

寺社訴訟者本所挙達-非之越訴覆勘依探題管領与奪_行之於庭中家務恩賞方法規式不カラ(カソフ)〔経覺筆本〕

--詔者就-挙達(キヨタツ)--覆勘(フカン)者依探題(タンタイ)管領(クワンレイ)与奪(ヨタツ)(シ )_行之(ソウ)於庭(テイ)家務(ケム)(ヲン)-(シヤウ)(ハウ)-(ハウ)()-(シキ)カラ(シヨウ)-(ケイ)〔文明四年本〕 挙達(キヨタツ)。覆勘(フカン)。探題(タンタイ)。管領(クワンレイ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ソウス。〔黒川本・人事門中16五〕

ソウス。〔卷第四・人事門532五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(ゴト)(ミル)(ソウ)スルヲ(カナラズ)(カリ)(ナツカシク)セヨ顔色(ガンソク)(コイネガウ)(キイ)諫諍(カンサウ)知故(ユヘ)(カウ)得失(トクシツ)貞観政要。〔態藝門672一〕

とあって、貞観政要の成句のなかに「」の語を収載し、訓みを「ソウス」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書には、『色葉字類抄』と広本『節用集』に「」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

482依テ‖探題官領与奪ニ|‖_ヲ|(―)シ於庭中ニ|家務(ケム)ノ-賞 トハ我雖ナレハ申次無シ∨人。故子細晝庭中立也。御召付申也。〔謙堂文庫藏四六左F〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は「とは、我れ理を持つと雖も貧なれば申し次ぐ人無し。故に子細を符に晝き庭中に立つるなり。御召しに付け申すなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

訴詔(ソせウ)(ハ)本所擧達(キヨタツ)(レ)是非越訴(ヲツソ)覆勘(フクカン)せ者依探題(タンダイ)管領(クワンリヨウ)與奪(ヨダツ)_行之(ソウ)訴詔ト云ハ。告(ツクル)(コトハ)也。訴(ソ)ト云字(ジ)ハ。下ヨリ上ヘ申告(ツク)ル事。詔(セウ)トハ。上ヨリ下ヘ告(ツ)ゲ下(クダ)サルヽ事也二様ナリ。寺ヲ建始(タテハジメ)シ事ハ欽明(キンメイ)天皇(ワウ)ノ御宇(キヨウ)ヨリ始也。大和(ヤマト)久米寺(クメジ)ト云寺(テラ)ヲ建(タ)テ塔(タウ)ヲモ建(タテ)ラレシ也。此塔ニ付テ至極(シゴク)ノ秘事アリ。大日經ノ内ヨリシ塔アリ。龍猛(リウミヤウ)不空(フクウ)ノ御建立(ゴコンリウ)ナリ。真言(シンゴン)秘教ノ霊地也。然ハ敏達天皇ノ御時イハイ始シ也。紀州日前宮是ナリ。然ハ則チ寺ニ品多シ王位ヨリ。勅願ト被行ハ。ヲバ院ト云サテハ寺號ナリ。唐ニハ。宮人ノ住処ヲ寺ト云日木ニハ僧ヨリ。外ニナシ。不審也。神ニ次第多シ。権者ノ神實者ノ神崇廟ノ神祚保ノ神トテ四ツノ義アリ。第一ノ権者ノ神トハ。往古ノ如來深位ノ大士ナリ垂迹ノ神ナレバ利生済度目出度い神ナリ。第二ニハ。實社ノ神荒神也。恨ミヲナス人ヲ神トイハフ也。是ヲ邪神ト云。又崇ル者則チ蛇ニナル。第三ニハ。崇廟ノ神也。此神ト申ハ伊弉諾ノ御子孫也。是又本地アラタナル神也。サテ祚保ノ神ハ異朝他國ヨリ。飛玉フ神也。稲荷祇園賀茂等ノ神ハソホウノ神也。伊勢春日八幡等ノ神ハ崇廟ノカミ也。熊野三所等ノ神ハ権者ノ神也。其外権現ト申ハ。皆権者ノカミナリ。キタ野日■ナンドハ。レイシヤノ■ニテマシマス。サリナガラシサイアル事ナリ。〔下23オ一〜ウ一〕

とあって、この標記語「」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

庭中(ていちう)()(そう)庭中事を奏するとハ凡訴訟を裁断したる事を君に申上る事也。庭中とハ御殿の前の廣庭をいふなり。こゝにて公事乃捌きハ言終りたり。〔68ウ二・三〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は「事を奏するとは、凡そ訴訟を裁断したる事を君に申し上ぐる事なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言〔49ウ六〜50オ三〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)〔89オ三〜ウ三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

So>xi,suru,ita.ソウシ,スル,シタ() 国王へ申し上げる.§Quanaguenuo so<suru.(管絃を奏する)国王の前で合奏する,または,曲に合わせて歌う.§Bugacu,l,cagurauo so>suru.(舞楽,または,神楽を奏す)国王,または,~(Cami)の前で歌と踊りが行われる.※So>suruの誤り.→Bugacu;Gacu(楽);Vongacu.〔邦訳579l〕

とあって、標記語「」の語の意味は「国王へ申し上げる」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

そう〔他動、左變〕【】〔康熙字典「人臣言事、章疏曰奏」〕(一){天子に、言を進む。帝王に、聞え上ぐ。奏聞す。(啓すに對す)漢書、汲黯傳「上嘗坐武帳、黯前事」源氏物語、帚木37「宮仕に出したてんと、もらしせしを」同、一、桐壺6「母君、泣く泣くして、まかでさせ奉り給ふ」(二)奏(かな)づ。歌舞、管絃を演ず。史記、廉頗臠相如傳「趙王好音、請瑟」古今著聞集、六、管絃歌舞「後に、席田(むしろた)を唱ふ、次、酒清司をぞしける」「樂をす」(三)遂ぐ。成す。「功をす」〔1140-5〕

とあって、標記語「」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「そう-する】〔他サ変〕@天皇、または上皇・法皇などに申し上げる。朝廷に奏上する。特に天皇に申し上げる場合に用いて、「啓する」と区別する。A音楽をかなでる。舞楽をする。演奏する。B(「結果を奏す」「功を奏す」の形で用い)成果や功績をもたらす。なしとげる。うまくしとげる」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
事不實〈奈利〉披陳〈仁〉無便〈志天〉只仰蒼天〈久〉間〈多仁〉華夷不靜〈須〉逆濫重疊〈勢利〉厥中〈仁〉《訓み下し》即チ事ヲシテ不実ナリ。披陳スルニ便無クシテ、只蒼天ヲ仰グ間ニ、華夷静カナラズ、逆濫重畳セリ。《『吾妻鏡養和二年二月八日の条》
 
 
2003年12月06日(金)曇り一時雨。名古屋(足助)→岐阜(岩村)→木曾
覆勘(フクカン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「不」部に、標記語「覆勘」の語を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

次寺社訴詔者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔至徳三年本〕

次寺社訴訟者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領與奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔宝徳三年本〕

次寺社訴詔者就本所挙達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊於庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔建部傳内本〕

-社訴-本所挙達-非之--者依-題管--_行之於庭-()-賞方--式不-〔山田俊雄藏本〕

寺社訴訟者本所挙達-非之越訴覆勘探題管領与奪_行之於庭中家務恩賞方法規式不カラ(カソフ)〔経覺筆本〕

--詔者就-挙達(キヨタツ)--覆勘(フカン)者依探題(タンタイ)管領(クワンレイ)与奪(ヨタツ)(シ )_行之(ソウ)於庭(テイ)家務(ケム)(ヲン)-(シヤウ)(ハウ)-(ハウ)()-(シキ)カラ(シヨウ)-(ケイ)〔文明四年本〕 挙達(キヨタツ)。覆勘(フカン)。探題(タンタイ)。管領(クワンレイ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「覆勘」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に、標記語「覆勘」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書には、全て「覆勘」の語を未収載にし、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本には見えている語となっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

481覆勘(フ―) 父祖沙汰ヲ|今孫申也。〔謙堂文庫藏四六左E〕

とあって、標記語「覆勘」の語を収載し、語注記は「父祖の代に沙汰を申さず、今孫の代に申すなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

訴詔(ソせウ)(ハ)本所擧達(キヨタツ)(レ)是非越訴(ヲツソ)覆勘(フクカン)者依探題(タンダイ)管領(クワンリヨウ)與奪(ヨダツ)_行之(ソウ)訴詔ト云ハ。告(ツクル)(コトハ)也。訴(ソ)ト云字(ジ)ハ。下ヨリ上ヘ申告(ツク)ル事。詔(セウ)トハ。上ヨリ下ヘ告(ツ)ゲ下(クダ)サルヽ事也二様ナリ。寺ヲ建始(タテハジメ)シ事ハ欽明(キンメイ)天皇(ワウ)ノ御宇(キヨウ)ヨリ始也。大和(ヤマト)久米寺(クメジ)ト云寺(テラ)ヲ建(タ)テ塔(タウ)ヲモ建(タテ)ラレシ也。此塔ニ付テ至極(シゴク)ノ秘事アリ。大日經ノ内ヨリシ塔アリ。龍猛(リウミヤウ)不空(フクウ)ノ御建立(ゴコンリウ)ナリ。真言(シンゴン)秘教ノ霊地也。然ハ敏達天皇ノ御時イハイ始シ也。紀州日前宮是ナリ。然ハ則チ寺ニ品多シ王位ヨリ。勅願ト被行ハ。ヲバ院ト云サテハ寺號ナリ。唐ニハ。宮人ノ住処ヲ寺ト云日木ニハ僧ヨリ。外ニナシ。不審也。神ニ次第多シ。権者ノ神實者ノ神崇廟ノ神祚保ノ神トテ四ツノ義アリ。第一ノ権者ノ神トハ。往古ノ如來深位ノ大士ナリ垂迹ノ神ナレバ利生済度目出度い神ナリ。第二ニハ。實社ノ神荒神也。恨ミヲナス人ヲ神トイハフ也。是ヲ邪神ト云。又崇ル者則チ蛇ニナル。第三ニハ。崇廟ノ神也。此神ト申ハ伊弉諾ノ御子孫也。是又本地アラタナル神也。サテ祚保ノ神ハ異朝他國ヨリ。飛玉フ神也。稲荷祇園賀茂等ノ神ハソホウノ神也。伊勢春日八幡等ノ神ハ崇廟ノカミ也。熊野三所等ノ神ハ権者ノ神也。其外権現ト申ハ。皆権者ノカミナリ。キタ野日■ナンドハ。レイシヤノ■ニテマシマス。サリナガラシサイアル事ナリ。〔下23オ一〜ウ一〕

とあって、この標記語「覆勘」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()越訴覆勘覆勘とハ幾度も/\○○して其是非を勘へきわむる事也。再吟味するをいふなり。〔68オ八〜ウ一〕

とあって、この標記語「覆勘」の語を収載し、語注記は「覆勘とは、幾度も/\○○して、其の是非を勘へきわむる事なり。再吟味するをいふなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言覆勘ハ奉行の勘判(かんはん)を覆(おほ)ふといふ意()()。爰(こゝ)にいふ奉行ハ寺社方なれバ其道(ミち)に越度(ミおとし)なきを以て私意(しい)立がたきゆへ直訴(ぢきそ)を遂(とぐ)るものにや。〔49ウ六〜50オ四〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)覆勘ハ奉行の勘判(かんはん)を覆(おほ)ふといふ意()歟。爰(こゝ)にいふ奉行ハ寺社方なれバ其道(ミち)に越度(ミおとし)なきを以て私意(しい)立がたきゆへ直訴(ぢきそ)を遂(とぐ)るものにや。〔89オ三〜ウ六〕

とあって、標記語「覆勘」の語を収載し、その語注記は「覆勘は、奉行の勘判(かんはん)を覆(おほ)ふといふ意()か。爰(こゝ)にいふ奉行は、寺社方なれば、其道(ミち)に越度(ミおとし)なきを以って私意(しい)立がたきゆへ直訴(ぢきそ)を遂(とぐ)るものにや」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「覆勘」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ふく-かん〔名〕【覆勘】(一)鎌倉時代の裁判上の語。原裁判の判決に不服なる時、或口實を造りて再審を訴願することならむと云ふ。安齋雜考、下、覆勘「覆の字、くつがへすとよむ、勘は公儀にて理非を勘へて、裁判したるをいふ、公義の裁判をくつがへし背きて、再び事を起して、訴へ出づるを云ふなるべし、越訴覆勘と一類に連ねて云ふを以て考ふべし」(二)父祖の代に出訴せざりし事件を、孫の代になりて出訴すること。古鈔庭訓徃來、八月七日「覆勘、注、父祖代不沙汰、今子孫代申ナリ」〔1732-3〕

とあって、標記語「覆勘」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ふく-かん覆勘】〔名〕→ふっかん(覆勘)」により標記語「ふっ-かん覆勘】〔名〕審査を加えて、保証する意。@平安時代、解(げ)・売券など役所に提出される文書の記載について、刀禰・郡司・別当などの現地係官が審査を加えて保証すること。覆審。ふかん。A鎌倉時代、京都大番役・異国警固番の勤務終了事実について審査を加え保証すること。→覆勘状。B中世の再審手続で判決に不服ある時、訴訟当事者が引付の頭人方(裁判所)に申請し、理由が認められた時、再び審理を行うこと。C父祖の代に出訴しなかった事件を、孫の代になって出訴すること。D平安時代、御書所および内御書所(うちのごしょどころ)の属官。E文書の記載内容を点検すること」とあって、Bの意味用例として『庭訓徃來』、Cの意味用例として『庭訓徃來註』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
造稲荷社造畢覆勘事《訓み下し》造稲荷ノ社造畢覆勘ノ事《『吾妻鏡文治六年二月十日の条》
 
 
2003年12月05日(金)曇り一時雨。東京(八王子)→名古屋(西尾・岡崎・足助)
越訴(ヲツソ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「於遠」部に、

越訴(―ソ) 。〔元亀二年本191三〕〔静嘉堂本215八〕〔天正十七年本中37オ七〕

とあって、標記語「越訴」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

次寺社訴詔者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔至徳三年本〕

次寺社訴訟者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領與奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔宝徳三年本〕

次寺社訴詔者就本所挙達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊於庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔建部傳内本〕

-社訴-本所挙達-非之--者依-題管--_行之於庭-()-賞方--式不-〔山田俊雄藏本〕

寺社訴訟者本所挙達-非之越訴覆勘依探題管領与奪_行之於庭中家務恩賞方法規式不カラ(カソフ)〔経覺筆本〕

--詔者就-挙達(キヨタツ)--覆勘(フカン)者依探題(タンタイ)管領(クワンレイ)与奪(ヨタツ)(シ )_行之(ソウ)於庭(テイ)家務(ケム)(ヲン)-(シヤウ)(ハウ)-(ハウ)()-(シキ)カラ(シヨウ)-(ケイ)〔文明四年本〕 挙達(キヨタツ)。覆勘(フカン)。探題(タンタイ)。管領(クワンレイ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

越訴 オツソ。〔黒川本・疉字門中69ウ六〕

越訴 オツソ。〃渡オツト。〃奏。〔卷第六・疉字門345六〕

とあって、標記語「越訴」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、

越訴(ヲツソ) 。〔態藝門76一〕

とあって、標記語「越訴」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

越訴(ヲツヱツ・コヱ、ウツタフ)[入・去] 。〔態藝門225八〕

とあって、標記語「越訴」の語を収載し、訓みを「ヲツソ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

越訴(ヲツソ) 。〔・言語門68三〕

越度(ヲツド) ―訴()/―奏(ソウ)。〔・言語門66四〕

越度(ヲツト) ―訴。―年/―奏。〔・言語門60七〕

越度(ヲツト) ―訴/―奏。〔・言語門71四〕

とあって、弘治二年本だけが標記語「越訴」の語をもって収載し、他本は標記語「越度」の冠頭字「越」の熟語群として「越訴」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

越訴() 。〔言語門63二〕

とあって、標記語「越訴」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「越訴」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

480被レ∨‖-非之ヲ|越訴 申次別人ニ|而訴詔申也。〔謙堂文庫藏四六左E〕

とあって、標記語「越訴」の語を収載し、語注記は「本の申し次を閣て別人に就いて訴詔申すなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

訴詔(ソせウ)(ハ)本所擧達(キヨタツ)(レ)是非越訴(ヲツソ)覆勘(フクカン)せ者依探題(タンダイ)管領(クワンリヨウ)與奪(ヨダツ)_行之(ソウ)訴詔ト云ハ。告(ツクル)(コトハ)也。訴(ソ)ト云字(ジ)ハ。下ヨリ上ヘ申告(ツク)ル事。詔(セウ)トハ。上ヨリ下ヘ告(ツ)ゲ下(クダ)サルヽ事也二様ナリ。寺ヲ建始(タテハジメ)シ事ハ欽明(キンメイ)天皇(ワウ)ノ御宇(キヨウ)ヨリ始也。大和(ヤマト)久米寺(クメジ)ト云寺(テラ)ヲ建(タ)テ塔(タウ)ヲモ建(タテ)ラレシ也。此塔ニ付テ至極(シゴク)ノ秘事アリ。大日經ノ内ヨリシ塔アリ。龍猛(リウミヤウ)不空(フクウ)ノ御建立(ゴコンリウ)ナリ。真言(シンゴン)秘教ノ霊地也。然ハ敏達天皇ノ御時イハイ始シ也。紀州日前宮是ナリ。然ハ則チ寺ニ品多シ王位ヨリ。勅願ト被行ハ。ヲバ院ト云サテハ寺號ナリ。唐ニハ。宮人ノ住処ヲ寺ト云日木ニハ僧ヨリ。外ニナシ。不審也。神ニ次第多シ。権者ノ神實者ノ神崇廟ノ神祚保ノ神トテ四ツノ義アリ。第一ノ権者ノ神トハ。往古ノ如來深位ノ大士ナリ垂迹ノ神ナレバ利生済度目出度い神ナリ。第二ニハ。實社ノ神荒神也。恨ミヲナス人ヲ神トイハフ也。是ヲ邪神ト云。又崇ル者則チ蛇ニナル。第三ニハ。崇廟ノ神也。此神ト申ハ伊弉諾ノ御子孫也。是又本地アラタナル神也。サテ祚保ノ神ハ異朝他國ヨリ。飛玉フ神也。稲荷祇園賀茂等ノ神ハソホウノ神也。伊勢春日八幡等ノ神ハ崇廟ノカミ也。熊野三所等ノ神ハ権者ノ神也。其外権現ト申ハ。皆権者ノカミナリ。キタ野日■ナンドハ。レイシヤノ■ニテマシマス。サリナガラシサイアル事ナリ。〔下23オ一〜ウ一〕

とあって、この標記語「越訴」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()越訴覆勘者覆勘とハ幾度も/\○○して其是非を勘へきわむる事也。再吟味するをいふなり。〔68オ八〜ウ一〕

とあって、この標記語「越訴」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言越訴ハ次第(しだい)を越(こへ)て上へ直(ぢき)に訴訟(うつたへ)するをいふ。〔49ウ六〜50オ三〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)越訴ハ次第(しだい)を越(こえ)て上へ直(ぢき)に訴訟(うつたへ)するをいふ。〔89オ三〜ウ三〕

とあって、標記語「越訴」の語を収載し、その語注記は「越訴は、次第(しだい)を越(こへ)て上へ直(ぢき)に訴訟(うつたへ)するをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vosso.ヲッソ(越訴) 一旦却下されるか,和解するかした後に,再びむし返して新たに提起された訴訟,または,請願.例,Vossouo suru.(越訴をする)上述のように,再び訴訟をむし返す.〔邦訳721l〕

とあって、標記語「越訴」の語の意味は「一旦却下されるか,和解するかした後に,再びむし返して新たに提起された訴訟,または,請願」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

をつ-〔名〕【越訴】又、ゑっそ。訴ふべき司に由らず、順序を越えて、其上官に訴へ出づること。(次條の語を參見せよ)。下學集、下、態藝門「越訴、ヲツソ」 類聚三代格、十二、延喜五年十一月三日、太政官符、應云云、辨定訴訟事「若所斷違理者、隨即於上官〔2203-2〕

とあって、標記語「越訴」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「おつ-越訴】〔名〕@律令制で、手続きを無視して訴訟を提起すること。所轄の官司でなく上級の官司へ訴えることで、禁止されていた。A中世・近世において、広く所定の手続きを無視して訴訟を提起すること。越次第(おつしだい)。B中世、武家訴訟法での、判決の過誤救済の手続き。一度与えられた判決に誤りがあるとして再び訴訟を提起すること。貞永元年(一二三二)、御成敗式目編纂当時すでに存在し、鎌倉中期に発達した制度で室町時代にも継承された」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
次不本所挙状越訴事。諸国庄公幵神社仏寺以本所挙状訴訟之処、不其状者既背道理歟。自今以後不成敗《『御成敗式目』(1232年)六条》
 
 
2003年12月04日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
擧達(キヨタツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「幾」部に、

×。〔元亀二年本は脱〕

擧達(キヨタツ) 。〔静嘉堂本327二〕〔天正十七年本中37オ七〕

とあって、標記語「擧達」の語を収載し、語注記は未記載にする。このことは、『運歩色葉集』の編者が『庭訓往来註』の語を引用するものの、その注記に従って、『御成敗式目』の語注記まで及んで記載する編纂姿勢が見られないことを示唆している。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

次寺社訴詔者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔至徳三年本〕

次寺社訴訟者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領與奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔宝徳三年本〕

次寺社訴詔者就本所挙達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊於庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔建部傳内本〕

-社訴-本所挙達-非之-訴覆-者依-題管--_行之於庭-()-賞方--式不-〔山田俊雄藏本〕

寺社訴訟者本所挙達-非之越訴覆勘依探題管領与奪_行之於庭中家務恩賞方法規式不カラ(カソフ)〔経覺筆本〕

--詔者就-挙達(キヨタツ)--覆勘(フカン)者依探題(タンタイ)管領(クワンレイ)与奪(ヨタツ)(シ )_行之(ソウ)於庭(テイ)家務(ケム)(ヲン)-(シヤウ)(ハウ)-(ハウ)()-(シキ)カラ(シヨウ)-(ケイ)〔文明四年本〕 挙達(キヨタツ)。覆勘(フカン)。探題(タンタイ)。管領(クワンレイ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「擧達」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「擧達」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

擧達(キヨタツユルス、イタル)[○・入] 。〔態藝門830四〕

とあって、標記語「擧達」の語を収載し、訓みを「キヨタツ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

擧達(キヨタツ) 。〔・言語門221七〕

挙状(キヨシヤウ) ―達(タツ)。〔・言語門184六〕

挙状(キヨシヤウ) ―達。〔・言語門174一〕

とあって、弘治二年本は、標記語「擧達」の語を収載し、他本は標記語「挙状」の冠頭字「挙」の熟語群として「擧達」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

擧達(キヨタツ) ―状(ジヤウ)。〔言語門一九〇六〕

とあって、標記語「擧達」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「擧達」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

479追-放以-下随辜輕-重其是非ニ|ル∨之次-社訴-詔者テ‖本所挙達ニ| 本所公家|。又寺社奉行也。〔謙堂文庫藏四六左C〕

とあって、標記語「擧達」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

訴詔(ソせウ)(ハ)本所擧達(キヨタツ)(レ)是非越訴(ヲツソ)覆勘(フクカン)せ者依探題(タンダイ)管領(クワンリヨウ)與奪(ヨダツ)_行之(ソウ)訴詔ト云ハ。告(ツクル)(コトハ)也。訴(ソ)ト云字(ジ)ハ。下ヨリ上ヘ申告(ツク)ル事。詔(セウ)トハ。上ヨリ下ヘ告(ツ)ゲ下(クダ)サルヽ事也二様ナリ。寺ヲ建始(タテハジメ)シ事ハ欽明(キンメイ)天皇(ワウ)ノ御宇(キヨウ)ヨリ始也。大和(ヤマト)久米寺(クメジ)ト云寺(テラ)ヲ建(タ)テ塔(タウ)ヲモ建(タテ)ラレシ也。此塔ニ付テ至極(シゴク)ノ秘事アリ。大日經ノ内ヨリシ塔アリ。龍猛(リウミヤウ)不空(フクウ)ノ御建立(ゴコンリウ)ナリ。真言(シンゴン)秘教ノ霊地也。然ハ敏達天皇ノ御時イハイ始シ也。紀州日前宮是ナリ。然ハ則チ寺ニ品多シ王位ヨリ。勅願ト被行ハ。ヲバ院ト云サテハ寺號ナリ。唐ニハ。宮人ノ住処ヲ寺ト云日木ニハ僧ヨリ。外ニナシ。不審也。神ニ次第多シ。権者ノ神實者ノ神崇廟ノ神祚保ノ神トテ四ツノ義アリ。第一ノ権者ノ神トハ。往古ノ如來深位ノ大士ナリ垂迹ノ神ナレバ利生済度目出度い神ナリ。第二ニハ。實社ノ神荒神也。恨ミヲナス人ヲ神トイハフ也。是ヲ邪神ト云。又崇ル者則チ蛇ニナル。第三ニハ。崇廟ノ神也。此神ト申ハ伊弉諾ノ御子孫也。是又本地アラタナル神也。サテ祚保ノ神ハ異朝他國ヨリ。飛玉フ神也。稲荷祇園賀茂等ノ神ハソホウノ神也。伊勢春日八幡等ノ神ハ崇廟ノカミ也。熊野三所等ノ神ハ権者ノ神也。其外権現ト申ハ。皆権者ノカミナリ。キタ野日■ナンドハ。レイシヤノ■ニテマシマス。サリナガラシサイアル事ナリ。〔下23オ一〜ウ一〕

とあって、この標記語「擧達」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

本所(ほんしよ)擧達(きよだつ)に就(つゐ)本所挙達本所ハ公事の起りし所を云。上に申上るを擧達といふ。〔68オ七〕

とあって、この標記語「擧達」の語を収載し、語注記は「上に申上るを擧達といふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言挙達ハ取挙るをいふなるべし。許容(きゝいれ)也。〔49ウ六〜50オ三〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)。▲挙達ハ取挙るをいふなるべし。許容(きゝいれ)也。〔89オ三〜ウ三〕

とあって、標記語「擧達」の語を収載し、その語注記は「挙達は、取挙るをいふなるべし。許容(きゝいれ)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qiotat.キョタツ(擧達) Ague tassuru.(挙げ達する)ある事について許容したり,許可を与えたりすること.または,人に何事かを申し上げて提言する意で,尊敬した言い方.文書語.※この説明は,“許”と“挙”との混同に基づくものか.〔邦訳503l〕

とあって、標記語「擧達」の語の意味は「(挙げ達する)ある事について許容したり,許可を与えたりすること.または,人に何事かを申し上げて提言する意で,尊敬した言い方.文書語」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「擧達」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「きょ-たつ擧達】〔名〕@推挙によって栄達すること。推挙されて、地位や官職などがあがること。*伊呂波字類抄(鎌倉)「擧達」*太平記(14c後)一三・足利殿東国下向事「若註進を経て、軍勢の忠否を奏聞せば擧達(ギヨタツ)道遠して、忠戦の輩勇を成す可からず」*尺素往来(1439-64)「為高官上位之故尤可申請将軍之御擧達」Aある事をとりあげて進達すること。目上の人に申し出たり許可を得たりすること。*貴嶺問答(1185-90頃)「頗雖驚目。於事有効験。擧達如件」*太平記(14c後)二五・自伊勢進宝剣事「今夜の夢に伊勢の国より参て、此三日断食したる法師の申さんずる事を、伝奏に擧達(キョタツ)せよと云示現を蒙て候」*庭訓往来(1394-1428頃)「寺社訴訟者、就本所擧達、被是非之」*日葡辞書(1603-04)「Qiotat(キョタツ)。アゲ、タッスル」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
宣旨、以此次可拝任尋常國之趣、内々望二品御擧達《訓み下し》宣旨ニ任セテ(*重ネテ遷任ノ宣旨ヲ賜ハル)、此ノ次ヲ以テ尋常ノ国ヲ拝任スベキノ趣、内内二品ノ御挙達(ゴキヨタツ)ヲ望ム。《『吾妻鏡』文治二年五月二日の条》
 
 
2003年12月03日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
本所(ホンジヨ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、

本所(―ジヨ) 。〔元亀二年本43四〕

本所(――) 。〔静嘉堂本47七〕〔天正十七年本上24ウ七〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「本所」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

次寺社訴詔者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔至徳三年本〕

次寺社訴訟者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領與奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔宝徳三年本〕

次寺社訴詔者就本所挙達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊於庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔建部傳内本〕

-社訴-本所挙達-非之-訴覆-者依-題管--_行之於庭-()-賞方--式不-〔山田俊雄藏本〕

寺社訴訟者本所挙達-非之越訴覆勘依探題管領与奪_行之於庭中家務恩賞方法規式不カラ(カソフ)〔経覺筆本〕

--詔者就-挙達(キヨタツ)--覆勘(フカン)者依探題(タンタイ)管領(クワンレイ)与奪(ヨタツ)(シ )_行之(ソウ)於庭(テイ)家務(ケム)(ヲン)-(シヤウ)(ハウ)-(ハウ)()-(シキ)カラ(シヨウ)-(ケイ)〔文明四年本〕 挙達(キヨタツ)。覆勘(フカン)。探題(タンタイ)。管領(クワンレイ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「本所」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「本所」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

本所(ホンシヨモト、トコロ)[上・上] 。〔態藝門100六〕

とあって、標記語「本所」の語を収載し、訓みを「ホンシヨ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

本所(ホンシヨ) 。〔・言語門34五〕〔・言語門38八〕

本末(ホンマツ) ―意(ホンイ)。―系モトヲツク。―来(ライ)。―復(フク)。―懐(クワイ)。―性(シヤウ)。―跡(せキ)。―所。/―領(リヤウ)。―体(タイ)。―様。―望(マウ)。―分(フン)。―訴()。―券(ケン)。〔・言語門35一〕

本末(ホンマツ) ―意。―系。―来。―復。―懐。―性。―跡/―所。―願。―体。―様。―望。―分。―訴。―地。〔・言語門31九〕

とあって、弘治二年本両足院本は、標記語「本所」の語を収載し、他本は標記語「本末」の冠頭字「本」の熟語群として「本所」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

本所(シヨ) 。〔言語門32二〕

とあって、標記語「本所」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「本所」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

479追-放以-下随辜輕-重其是非ニ|ル∨之次-社訴-詔者テ‖本所挙達ニ| 本所公家|。又寺社奉行也。〔謙堂文庫藏四六左C〕

とあって、標記語「本所」の語を収載し、語注記は「本所は、公家を指す又、寺社の奉行を指すなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

訴詔(ソせウ)(ハ)本所擧達(キヨタツ)(レ)是非越訴(ヲツソ)覆勘(フクカン)せ者依探題(タンダイ)管領(クワンリヨウ)與奪(ヨダツ)_行之(ソウ)訴詔ト云ハ。告(ツクル)(コトハ)也。訴(ソ)ト云字(ジ)ハ。下ヨリ上ヘ申告(ツク)ル事。詔(セウ)トハ。上ヨリ下ヘ告(ツ)ゲ下(クダ)サルヽ事也二様ナリ。寺ヲ建始(タテハジメ)シ事ハ欽明(キンメイ)天皇(ワウ)ノ御宇(キヨウ)ヨリ始也。大和(ヤマト)久米寺(クメジ)ト云寺(テラ)ヲ建(タ)テ塔(タウ)ヲモ建(タテ)ラレシ也。此塔ニ付テ至極(シゴク)ノ秘事アリ。大日經ノ内ヨリシ塔アリ。龍猛(リウミヤウ)不空(フクウ)ノ御建立(ゴコンリウ)ナリ。真言(シンゴン)秘教(ヒケウ)ノ霊地也。然(シカレ)ハ敏達(ヒンタツ)天皇ノ御時イハイ始シ也。紀州(キシウ)日前宮是ナリ。然ハ則チ寺ニ品(シナ)(ヲヽ)シ王位(ワウイ)ヨリ。勅(チヨク)願ト被(ル)行ハ。ヲバ院(イン)ト云サテハ寺號(カウ)ナリ。唐(タウ)ニハ。宮(ミヤ)人ノ住(ヂウ)処ヲ寺(テラ)ト云日木ニハ僧(ソウ)ヨリ。外ニナシ。不審(フシン)也。神(カミ)ニ次第多シ。権者(ゴンジヤ)ノ神實(ジツ)者ノ神崇廟(ソウヒヤウ)ノ神祚保(ソホウ)ノ神トテ四ツノ義アリ。第一ノ権者(ゴンジヤ)ノ神トハ。往古(ワウゴ)ノ如來深位ノ大士(ジ)ナリ垂迹(スイシヤク)ノ神ナレバ利生(リシヤウ)済度(サイド)目出度(メデナキ)神ナリ。第二ニハ。實(ジツ)社ノ神荒神(アラカミ)也。恨(ウラ)ミヲナス人ヲ神トイハフ也。是ヲ邪神(ジヤシン)ト云。又崇(アカム)ル者則蛇ニナル。第三ニハ。崇廟(ソウベウ)ノ神也。此神(カミ)ト申ハ伊弉諾(イアザナミ)ノ御子孫(シソン)也。是又本地アラタナル神也。サテ祚保(ソホウ)ノ神ハ異朝(イテウ)他國ヨリ。飛玉フ神也。稲荷(イナリ)祇園(キヲン)賀茂(カモ)等ノ神ハソホウノ神也。伊勢(イセ)春日(カスカ)八幡(ヤハタ)等ノ神ハ崇廟(ソウベウ)ノカミ也。熊野(クマノ)三所等ノ神ハ権(ゴン)者ノ神也。其外権現ト申ハ。皆権者ノカミナリ。キタ野日■ナンドハ。レイシヤノ■ニテマシマス。サリナガラシサイアル事ナリ。〔下23オ一〜ウ一〕

とあって、この標記語「本所」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に就(つゐ)本所挙達本所ハ公事の起りし所を云。上に申上るを擧達といふ。〔68オ七〕

とあって、この標記語「本所」の語を収載し、語注記は「本所は、公事の起りし所を云ふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)に寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言▲本所ハ寺社奉行の役所(やくしよ)也。〔49ウ六〜50オ三〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)▲本所ハ寺社奉行の役所(やくしよ)也。〔89オ三〜ウ三〕

とあって、標記語「本所」の語を収載し、その語注記は「本所は、寺社奉行の役所(やくしよ)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fonjo.ホンジョ(本所) Motono tocoro.(本の所)最初の所,あるいは,昔の場所.§Fonjoye cayeru.(本所へ帰る)自分の最初の所,あるいは,昔の〔居た〕所へ帰る.§また,一般の公家(Cu~gues)を呼ぶ名前で,Gofonjo(御本所)というように,必ずGo(御)をつけて用いられる.§Gofonjono cura.(御本所の鞍)Ixedono(伊勢殿)という名で有名な職人の作った,どのような馬にもぴたりと合う鞍.§また,上(Cami)では,Fonjyo(本所)はある地所とか家屋とかの借料・年貢を納める相手たる領主権の所有者を言う.〔邦訳260r〕

とあって、標記語「本所」の語の意味は「(本の所)最初の所,あるいは,昔の場所」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ほん-じょ〔名〕【本所】(一)そのところ。當所。又、この役所。(二)武家に對して、公家を云ふ語。三内口訣本所とは、諸家堂上之衆、皆一同に本所と稱候」太平記、廿六、執事兄弟奢侈事「四條大納言隆陰卿の青侍、云云、此地を通りけるが、云云、何者にて候やらん、爰を通る本所の侍が、かかりける事を申て過候つる、云云」(三)特に、武者所の稱。源平盛衰記、三十七、平家開城戸口「平山と名乘は、本所經たる名ある侍」同、三、十九、時頼横笛事「たとひ、わがもとへこそかよはずとも、本所の衆にて侍るに」(四)處處の地名にあるは、其國の守の取分の所なりと云ふ。(屠龍工随筆)〔1856-1〕

とあって、標記語「本所」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ほん-じょ本所】[]〔名〕(「ほんしょ」とも)@平安中期・中世、荘園領主(本家・領家)や国司などの上級諸職所有者をさす。当初は国司あるいは国衙に対比して荘園領主をさす用語としてもちいられたが、鎌倉以降、地頭を中心とする武家勢力の進出にともない、荘園公領制の職の体系化における地頭職以下の中下級諸職に対比して、国司を含めた上級諸職一般をさす用語としてもちいられるようになった。本家。本主。A本来の居所。もともとの住所。本居。本国。また、本来あるべき場所。B蔵人所(くろうどどころ)。特に蔵人所に属する、滝口の詰所。または、院の御所を警衛する武者所。C武家に対して公家をいう語。D本来正統である家や所。本家。E話題にしている、この所。当所。[](荘園制度による本所の名残り)[一]東京都墨田区南部、旧本所区にあたる地域の総称。明暦の大火(一六五七)以後武家町人の宅地として開け、東両国は盛り場となり、本所一ツ目には吉良上野介邸があった。[二]東京市三五区の一つ。隅田川の東岸にあり、明治一一年(一八七八)発足。昭和二二年(一九四七)向島区と合併して墨田区となる」とあって、[]Cの意味として『庭訓徃來註』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
已上女房御領、右庄園拾陸箇所注文如此、任本所之沙汰、彼家如元爲有知行、勤状如件《訓み下し》已上女房ノ御領、右庄園拾陸箇所ノ注文此ノ如シ。本所ノ沙汰ニ任セ、彼ノ家元ノ如ク知行有ランガ為、勤状(状ヲ勒スルコト)件ノ如シ《『吾妻鏡寿永三年四月六日の条》
 
 
2003年12月02日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
寺社(ジシヤ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、「寺家(ジケ)。寺門(モン)。寺僧(ソウ)。寺物(モツ)。寺領(リヤウ)。寺中(チウ)。寺内(ナイ)。寺外(ウワイ)。寺産(サン)。寺法(ハウ)。寺務(ム)。寺役(ヤク)。寺院(イン)」の語を収載するが、標記語「寺社」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

寺社訴詔者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔至徳三年本〕

寺社訴訟者就本所擧達被是非之越訴覆勘依探題管領與奪被執行之奏亊庭中家務恩賞方法規式不可勝計也〔宝徳三年本〕

寺社訴詔者就本所挙達被是非之越訴覆勘依探題管領与奪被執行之奏亊於庭中家務恩賞方法規式不可勝計〔建部傳内本〕

--本所挙達-非之-訴覆-者依-題管--_行之於庭-()-賞方--式不-〔山田俊雄藏本〕

寺社訴訟者本所挙達-非之越訴覆勘依探題管領与奪_行之於庭中家務恩賞方法規式不カラ(カソフ)〔経覺筆本〕

--詔者就-挙達(キヨタツ)--覆勘(フカン)者依探題(タンタイ)管領(クワンレイ)与奪(ヨタツ)(シ )_行之(ソウ)於庭(テイ)家務(ケム)(ヲン)-(シヤウ)(ハウ)-(ハウ)()-(シキ)カラ(シヨウ)-(ケイ)〔文明四年本〕 挙達(キヨタツ)。覆勘(フカン)。探題(タンタイ)。管領(クワンレイ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「寺社」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「寺社」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

寺社(ジシヤテラ、ヤシロ)[去・上] ――本所。〔態藝門907六〕

とあって、標記語「寺社」の語を収載し、訓みを「ジシヤ」とし、その語注記は「寺社本所」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

寺社(ジシヤ) ――本所。〔・言語門235二〕〔・言語門195五〕〔・言語門185五〕

とあって、標記語「寺社」の語を収載し、語注記も含め、広本節用集』を継承する。また、易林本節用集』には、

寺領(ジリヤウ) ―物(モツ)。―役(ヤク)―社(シヤ)。―門(モン)/―外(グワイ)。―内(ナイ)。―中(チウ)。―家()。〔言語門213六〕

とあって、標記語「寺領」の語を収載し、冠頭字「寺」の熟語群として「寺社」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「寺社」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語であり、この語注記も、古辞書広本節用集』印度本系『節用集』の語注記に近似たものとなっている。その点で、『運歩色葉集』がこの語を未収載することに留意せねばなるまい。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

479追-放以-下随辜輕-重其是非ニ|ル∨之次--詔者テ‖本所挙達ニ| 本所公家|。又寺社奉行也。〔謙堂文庫藏四六左C〕

とあって、標記語「寺社」の語を収載し、語注記は「本所は公家を指す。また、寺社の奉行を指すなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

寺社(シシヤ)トハ寺ニ寄進(キシン)ノ寺領(ジリヤウ)アリ。社(ヤシロ)ニ免許(メンキヨ)ノ宮田(クテン)アリ。人是ヲイロヒ。サバクル事ナリ。〔下22ウ八〕

とあって、この標記語「寺社」とし、語注記は「寺に寄進(キシン)寺領(ジリヤウ)あり。社(ヤシロ)免許(メンキヨ)宮田(クテン)あり。人是れをいろひ。さばくる事なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(つぎ)寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()-之訴訟者寺ハ僧都。社は神職を云。是等の公事ハ牢人とハ別なるゆへわけて書しなり。〔68オ六〜七〕

とあって、この標記語「寺社」の語を収載し、語注記は「寺は、僧都。社は神職を云ふ。是等の公事は牢人とは別なるゆへわけて書きしなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(つぎ)寺社(じしゃ)の訴訟(そしやう)()本所(ほんしよ)の擧達(きよだつ)に依(よつ)て之(これ)を是非(ぜひ)せら被()越訴(おつそ)の覆勘(ふくかん)()探題(たんだい)管領(くハんれい)の與奪(よだつ)に依(よつ)て之(これ)を執行(しゆぎやう)せら被()(こと)を庭中(ていちう)()(そう)す家務(かむ)乃恩賞(おんしよう)方法(はうほう)規式(ぎしき)(かつ)て計(かぞ)ふ可()から不()る也(なり)(その)旨趣(ししゆ)(つぶさ)に紙上(ししやう)に盡(つく)し難(がた)し御()上洛(しやうらく)()(とき)(こころ)()(およ)ぶ所(ところ)(ほゞ)(まを)さ令()む可()く候(さふら)ふ也(なり)(きやう)(/\)謹言(きんげん)。/--詔者本所挙達-セラ越訴覆勘者依探題管領與奪_セラ於庭中家務-賞方-法規式不カラ-其旨趣具紙上御上洛之時心之所粗可恐々謹言〔49ウ六〜50オ三〕 

(つぎ)寺社(じしや)訴詔(そじやう)()(つい)本所(ほんしよ)挙達(きよだつ)()()-()せら(これ)越訴(おつそ)覆勘(ふくかん)()(よつ)探題(だんだい)管領(くわんれい)與奪(よだつ)()(しゆ)_(ぎやう)せら(これ)(そう)(こと)於庭中(ていちう)家務(かむ)恩賞(おんしやう)方法(はうほう)規式(ぎしき)()(べから)(あげて)(かぞふ)(なり)。(その)旨趣(ししゆ)(つふさ)(がたし)(つくし)紙上(ししやう)御上洛(ごしやうらく)()(とき)(こゝろ)()(ところ)(およぶ)(ほゞ)(べく)(しむ)(まうさ)(さふらふ)(きよう)(/\)謹言(きんげん)〔89オ三〜ウ三〕

とあって、標記語「寺社」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iixa.ジシヤ(寺社) Tera,yaxiro.(寺,社)寺と神(Camis)の社.〔邦訳366l〕

とあって、標記語「寺社」の語の意味は「(寺,社)寺と神(Camis)の社」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ジシヤ〔名〕【寺社】てらと、やしろと。~社と、佛閣と。社寺。寺社奉行」寺社方」〔0892-5〕

とあって、標記語「寺社」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「ジシャ寺社】〔名〕@てらとやしろ。仏寺と神社。社寺。A「じしゃぶぎょう(寺社奉行)」の略」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
土肥次郎實平、向武藏國内寺社、是諸人亂入清浄地、致狼藉之由、依有訴、可令停止之旨、加下知之故也《訓み下し》土肥ノ次郎実平、武蔵ノ国ノ内ノ寺社(ジシヤ)ニ向フ。是レ諸人清浄ノ地ニ乱入シ、狼藉ヲ致スノ由、訴ヘ有ルニ依テ、停止セシムベキノ旨、下知ヲ加フルガ故ナリ。《『吾妻鏡』治承四年十一月十四日の条》
 
 
2003年12月01日(月)雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
輕重(キャウヂュウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「幾」部に、

輕重(キヤウジウ) 。〔元亀二年本×脱語〕〔静嘉堂本325六〕

とあって、標記語「輕重」の語を収載し、訓みを「キヤウジウ」とし、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』八月七日の状に、

此外火印追放以下随輕重其人是非可被行之〔至徳三年本〕

此外火印追放以下随輕重○{■}其人○{是}○{可}被行之〔宝徳三年本〕

此外火印追放以下随輕重其人是非被行之〔建部傳内本〕

此_外火-印追-放以-下随(ツミ)-其_人-〔山田俊雄藏本〕

外火印追放以下随(ツミ)輕重其人是非〔経覺筆本〕

此_外火-印追-放以-下随(ツミ)-重其_人-〔文明四年本〕 印(イン)。罪(ツミ)。輕重(キヤウシユウ)

と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「輕重」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「輕重」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

輕重(キヤウヂヨウ・ヲモシケイ・カロシ、カサナル)[平去・平去] 。〔態藝門830三〕

とあって、標記語「輕重」の語を収載し、訓みを「キヤウヂヨウ」とし、その語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

輕重(キヤウヂウ)。〔・言語門222八〕

軽忽(キヤウコツ) ―重(デウ)。―賤(せン)。―犯(ホン)。―慢(マン)又作―瞞。〔・言語門184七〕

軽忽(キヤウコツ) ―重。―賤。―犯。―瞞又作―慢。〔・言語門174二〕

とあって、弘治二年本は、標記語「輕重」の語を収載し、他本は「輕忽」の冠頭字「輕」の熟語群として「輕重」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

輕慢(キヤウマン) ―賤(せン)。―忽(コツ)。―罪(ザイ)―重(ヂウ)。〔言語門190三〕

とあって、標記語「輕慢」の冠頭字「輕」の熟語群として「輕重」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 このように、上記当代の古辞書に、「輕重」の語が収載されていて、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見えている語である。

 さて、真字本『庭訓往来註』八月七日の状には、

479追-放以-下随辜-是非ニ|ル∨之次-社訴-詔者テ‖本所挙達ニ| 本所公家|。又寺社奉行也。〔謙堂文庫藏四六左C〕

とあって、標記語「輕重」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(ツイ)-(ハウ)-下随(ツミ)(ケウ)-(ヂウ)是非ルヽ(ヲコナハ)追放トハ罪(トカ)人ヲ片髪(カタカミ)ヲ剃(ソリ)落シ。又ハ鼻(ハナ)ヲ割(キツ)テ。ヲイハナツ事ナリ。雖然辜(ツミ)輕重ニ依ルベシ。大唐ニハ三ノ道ヲ潜(クヾ)ルナリ。慈穴(ジケツ)道藪穴(ソウケツ)道暗(アン)穴道也。上罪(ザイ)ノ者暗(アン)穴道ヲ通(トヲ)ス也。三七日クラキ穴ヲ這々(ハルバル)トクヾル也。其内ニ難処多(ヲヽ)シ。中罪ノ者ヲバ。藪(ソウ)穴道ヲ通(トヲ)ス。二七日潜(クヽル)也。ウバラカラタチノミハヘテ毒虫(ドクチウ)(ヲヽ)キヤフノ穴(アナ)ヲクヾル也。下罪ノ者ヲバ慈穴道ヲ通ス也。一七日脚(アシ)(クンシ)ニ及ブ。水の穴(アナ)ヲ渡ル也。少シ休(ヤス)ム処アレバ是ヲ少(スコシ)ノツミト云ナリ。三國共業過難(ノガレ)。〔下22ウ四〜八〕

とあって、この標記語「輕重」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(こと)輕重(けいぢう)(その)(ひと)の是非(ぜひ)に随(したかつ)て之(これ)を行(おこな)(ハる)()輕重其人是非罪の軽きハ刑軽く罪の重きハ刑重し。其人理ありて是()なれハゆるし理なくして非なれハ罪し其罪次第に刑罪を行ふを云。是迄ハ侍所の事を説し也〔68オ三〜五〕

とあって、この標記語「輕重」の語を収載し、語注記は「罪の軽きは、刑軽く罪の重きは刑重し。其人理ありて是()なれはゆるし理なくして非なれば罪し其の罪次第に刑罪を行ふを云ふ。是れ迄は、侍所の事を説しなり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

斷罪(だんざい)す可()き者(もの)ハ之(これ)を誅(ちう)せら被()(いまし)む可()き者(もの)ハ之(これ)を禁獄(きんごく)し流刑(るけい)す可()き者(もの)流帳(るちやう)に記(しる)さ被()(この)(ほか)火印(くハゐん)追放(ついはう)以下(いげ)(こと)の輕重(けいぢう)(その)(ひと)の是非(ぜひ)に随(したがつ)て之(これ)を行(おこな)ハ被()()し。/-セラ-流帳此外火印追-放以-下随事輕-重其人是非。▲火印ハ科人(とがにん)の額(ひたひ)に焼(やき)がねをあつること。今の黥(いれずミ)の類(るい)也。〔49ウ五〜六〕 

()(だん)-(ざい)(もの)()(ちゆう)せら(これ)()(いましむ)(もの)(きん)(ごく)(これ)()()-(けい)(もの)()(しる)さる()(ちやう)(この)(ほか)火印(くわいん)(つゐ)-(はう)()-()(したが)つて(こと)(けい)-(ぢう)()(ひと)是非(ぜひ)()()(おこなハ)(これ)。▲火印ハ科人(とがにん)の額(ひたひ)に焼(やき)がねをあつること。今の黥(いれずミ)の類也。〔89オ二〜三〕

とあって、標記語「輕重」の語を収載し、その語注記は「輕重は、科人(とがにん)の額(ひたひ)に焼(やき)がねをあつること。今の黥(いれずミ)の類(るい)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qio<giu<.キャゥヂュウ(輕重) Caruxi,vomoxi.(軽し,重し)軽いことと重いことと.§Togano qio<giu>ni xitagatte tcumini vocono<.(科の軽重に従って罪に行ふ)罪科の重い軽いに応じて人を処断する.〔邦訳502l〕

とあって、標記語「輕重」の語の意味は「Caruxi,vomoxi.(軽し,重し)軽いことと重いことと」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

けい-ぢュう〔名〕【輕重】〔ヂュウは、呉音〕かろきと、おもきと。周禮、秋官篇、司寇「以辨罪之輕重左傳、宣公三年「楚子問鼎之大小輕重韓愈、送殷員外序「豈不眞知輕重大丈夫哉」申子「懸權衡、以稱輕重庭訓往來、八月「火印追放已下、隨輕重、其人是非、可是」〔0599-2:2-0147-2〕

とあって、標記語「輕重」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「けい-じゅう輕重】〔名〕(「じゅう」は「重」の慣用音)@物の重量の軽いこと重いこと。軽さと重さ。けいちょう。A物事の価値や程度の大小。けいちょう。B音声の高低。抑揚(よくよう)。C(―する)比較して軽さ重さを計ること。けいちょう。D(―する)大なり小なりの影響を及ぼすこと。なんらかの影響を与えること。物事を左右すること。けいちょう。[補注](1)現在は漢音で「けいちょう」と読むのが普通であるが、室町時代以前の資料では、「きょうじゅう」と読まれているものが多い。したがってAの「将門記」およびBの「史記抄」の例はあるいは「きょうじゅう」と読むべきか。(2)(Bについて)韻学では、清音で始まる音を「軽」として高く始まり、濁音で始まる音を「重」として低く始まるとしていた」と標記語「きょう-じゅう輕重】〔名〕軽いか重いかということ。主に罪の重さなど、抽象的な事柄についていう。けいじゅう。けいちょう」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
殊有御勘發、則自此所、被流遣伊豆國而可被究科輕重歟爲楚忽御沙汰之由、盛時、属義盛、頻愁申之《訓み下し》殊ニ御勘発有テ、則チ此ノ所ヨリ、伊豆ノ国ニ流シ遣ハサル。而ルニ科ノ軽重(ケイヂウ)ヲ究メラルベキカ。楚忽ノ御沙汰タルノ由、盛時、義盛ニ属シ、頻ニ之ヲ愁ヘ申ス。《『吾妻鏡』建久二年九月二十一日の条》
 
 
 

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