2004年11月01日から11月30日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 

 

 
 
 
2004年11月30日(火)雨。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
從僧(ジウソウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、「従類(ジウルイ)。従者()。従事()」の三語を収載し、この標記語「從僧」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

聖道者從僧駈士同朋推参之道俗臨時之客人任人数云點心云布施物糺臈次可注給上下品也〔至徳三年本〕

聖道者從僧駈使同朋推參之道俗臨時之客人任人數云點心云布施物糺臈次可注給上下品也〔宝徳三年本〕

聖道者従僧駈仕同朋推參之道俗臨時之客人任人数云點心云布施物糺臈次可注給上下之品也〔建部傳内本〕

聖道者從僧(ジウソ)駈使(クジノ)同朋(ホウ)推参(スイサン)之道俗臨時客人也任人数點心布施物(タヽシテ)臈次(ロウシ)上下之品(シナ)〔山田俊雄藏本〕

聖道者(シユウ)駈使(クシ)同朋推参之道俗臨時客人任人数点心(イヽ)布施物(タヽシテ)臈次(ラツシ)給上下(シナ)〔経覺筆本〕

聖道()從僧(ジウソウ)駈使(クシ)同朋(ホウ)(スイ)参之道俗(タウソク)臨時客僧(かくソウ){人}任人数(イヽ)點心(テンシン)布施物(タヽシテ)臈次(ラツシ)(シルシ)上下(シナ)〔文明四年本〕 ※布施(フせ)

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「從僧」とし、訓みは、経覺筆本に「ジユウ(ソウ)」、山田俊雄藏本・文明四年本に「ジウソウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

従僧 シユソウ。〔黒川本・人倫門下70オ四〕

從僧(シユソウ) 。〔卷第九・人倫門140二〕

とあって、標記語「従僧」「從僧」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「從僧」の語は未収載にする。ただし、『節用集』類では、天正十八年本にこの語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄十巻本伊呂波字類抄』に標記語「從僧」の語を収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

646聖道者(シユ)駈使(クシ/ハシリツカイ)同朋(−ボウ)推参(スイ−)之道臨時客人任人数点心布施臈次(ラツ−)ヲ 糺臈次。有式目四ケ条老之次第也。〔謙堂文庫蔵五六左A〕

とあって、標記語「從僧」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

從僧(ジユソウ) トハ。イタフク者也。〔下33オ七〕

とあって、この標記語「從僧を収載し、語注記に「いたふく者なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

聖道(しやうたう)()從僧(しゆそう)聖道者從僧 修して來るいやしき僧也。〔85ウ一・二〕

とあって、この標記語「從僧」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

聖道(しやうたう)()從僧(じうそう)驅使(くし)同朋(どうほう)推参(すいさん)()道俗(たうぞく)臨時(りんじ)()客人(きやくしん)人数(にんじゆに)に任(まかせ)せ點心(てんしん)と云()ひ布施物(ふせもつ)と云()ひ臈次(らつじ)を糺(たゞ)し上下(じやうげ)()(しな)を注(ちう)し給(たま)ふ可()き也(なり)聖道者從僧駈使同朋推参之道俗臨時客人任人数点心布施臈次給上下之品▲從僧ハ供(とも)に從(したが)ふ僧也。〔62ウ三、62ウ七〕

聖道(しやうだう)()從僧(じうそう)駈使(くし)同朋(どうほう)推参(すゐさん)()道俗(だうぞく)臨時(りんじ)()客人(きやくしん)(まかせ)人数(にんじゆに)(いひ)点心(てんしんと)(いひ)布施物(ふせもつと)(たゞし)臈次(らふじを)(べき)(ちゆうし)(たふ)上下(じやうげ)()(しなを)(なり)▲從僧ハ供(とも)に從(したが)ふ僧也。〔112オ六、112ウ五・六〕

とあって、標記語「從僧」の語をもって収載し、その語注記は、「從僧は、供(とも)に從(したが)ふ僧なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「從僧」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

じュう-ソウ〔名〕【從僧】三綱などに扈從する僧。ずそう。玄蕃寮式、「凡僧正、從僧五人、云云、大少僧都、各、從僧四人」〔0986-5〕

とあって、標記語「じュう-ソウ〔名〕【從僧】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「じゅう-そう從僧】〔名〕高僧や住職などに付き従う僧。ずそう」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
戊戌今日保忠蒙御氣色、是去夜打擲祖達房從僧之間、依彼憤也《訓み下し》戊戌今日保忠御気色ヲ蒙ル、是レ去ヌル夜祖達房ガ従僧(ジユウソウ)ヲ打擲スルノ間、彼ノ憤リニ依テナリ。《『吾妻鏡』建仁二年八月二十七日の条、》
 
 
2004年11月29日(月)晴れ午後から雨。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
外僧堂(トソウタウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「登」部に、標記語「外僧堂」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

陪堂外僧堂〔至徳三年本〕

陪堂外僧堂〔宝徳三年本〕

陪堂外僧堂〔建部傳内本〕

陪堂(ホイタウ)()僧堂〔山田俊雄藏本〕

(ホイ)()僧堂(トモカラ)〔経覺筆本〕

陪堂(ホイタウ)外僧堂(トソウタウ)(トモカラ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「外僧堂」とし、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本に「ト(ソウダウ)」、文明四年本に「トソウダウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「外僧堂」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「外僧堂」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「外僧堂」の語は未収載し、ただ、下記『日本国語大辞典』第二版が引用する『温故知新書』にあり、またこれを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

645陪堂(ホイタウ)(ト/ゲ)僧堂輩 平家内大臣重盛後生善所云、彼六八弘誓ラヘ東山四十八間立精舎。一間一充四十間四十八灯篭立。九-品*目耀光曜鸞鏡塋浄土ルカ毎月十四十五日シテ當家他家人々御方々ヨリ眉目好女房達請集一間六人充四十八間二百八十八人時衆定念佛勧也。十五日結願シテ大臣自(ミ−)西方向南無□養教-主(キヤウ−)弥陀善逝三界六道済度云也。回向發□有(ケレ)ハ人皆泪流也。依之灯篭大臣申也。今以一遍。今藤澤一遍當四代目云也。〔謙堂文庫蔵五六右D〕※「南无養」「回向發」〔天理本にて補足〕

とあって、標記語「外僧堂」の語を収載し、語注記には、平重盛の譚を記載し、他に見ない内容である。

 古版庭訓徃来註』では、

相伴(シヤウバン)(ロサイ)之僧陪堂(ホイタウ) 相伴(シヤウバン)ハ客(キヤク)人ノ時罷(マカリ)出デ食事(シヨクジ)ヲススムル人也。陪堂(ホイタウ)ハ飯米(ハンマイ)ヲ副(ソフル)僧ナリ。〔下33オ五・六〕

とあって、この標記語「外僧堂を収載し、語注記に「有職(ウシキノ)僧綱は、役(ヤク)人なり。一寺たる処には、此のごとき輩(トモカラ)有るなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

陪堂(ほいたう)外堂(とたう)の輩(ともから)陪堂外堂之輩 陪堂ハ堂の上につらなる事を得る者。外堂ハ堂の上に登る事をゆるされさるもの也。皆いやしき僧乃事なり。〔85オ八〜85ウ一〕

とあって、この標記語「外堂」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

陪堂(ほいだう)外僧堂(とそうたう)の輩(ともから)陪堂外僧堂之輩。▲邏齊之僧陪堂外僧堂ハいつれも仏事(ぶつじ)に携(たつさ)ハらすして、たゝ食(しよく)を乞()ひ供養(くよう)にあふ非人僧(ひにんそう)也。〔62ウ二・三、62ウ六〕

陪堂(ほいだう)外僧堂(とそうだうの)(ともから)▲邏齊之僧陪堂外僧堂ハいづれも仏事(ぶつじ)に携(たづさ)ハらずして、たゞ食(しよく)を乞()ひ供養(くやう)にあふ非人僧(ひにんそう)也。〔112オ六、112ウ五〕

とあって、標記語「外僧堂」の語をもって収載し、その語注記は、「邏齊之僧・陪堂・外僧堂ハいづれも仏事(ぶつじ)に携(たづさ)ハらずして、たゞ食(しよく)を乞()ひ供養(くやう)にあふ非人僧(ひにんそう)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「外僧堂」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「とそう-たう〔名〕【外僧堂】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「とそう-どう外僧堂】〔名〕僧堂のうち、外部にある堂をいう。禅寺にある内外両僧堂のうち、外面にある堂。暫到雲水などの坐禅・食事にあてられる所。「がいそうどう」とも読む。庭訓往来(1394-1428頃)「猶以禅家方者、相伴齋之僧、堂、外僧堂輩」温故知新書(1484)「外僧堂 トソウタウ」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
 
 
2004年11月28日(日)晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)
陪堂(ホイタウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、

陪堂(ホイタウ) 。〔元亀二年本43八〕〔静嘉堂本48四〕

陪堂(ホウタウ) 。〔天正十七年本上25オ四〕

とあって、標記語「陪堂」の語を収載し、訓みは「ホイタウ」と「ホウタウ」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

陪堂外僧堂輩〔至徳三年本〕

陪堂外僧堂輩〔宝徳三年本〕

陪堂外僧堂輩〔建部傳内本〕

陪堂(ホイタウ)()僧堂輩〔山田俊雄藏本〕

(ホイ)()僧堂(トモカラ)〔経覺筆本〕

陪堂(ホイタウ)外僧堂(トソウタウ)(トモカラ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「陪堂」として、訓みは経覺筆本に「ホイ(タウ)」、山田俊雄藏本・文明四年本に「ホイタウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「陪堂」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「陪堂」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

陪堂(ホイタウハンベル、イヱ)[○・○] 飯米也。〔飲食門098七〕

とあって、標記語「陪堂」の語を収載し、語注記に「僧の飯米なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

陪堂(ホイタウ) 僧食。〔・食物門032六〕〔・食物門032九〕〔・食物門031四〕〔・食物門037八〕

とあって、標記語「陪堂」の語を収載し、語注記に「僧食」と記載する。また、易林本節用集』に、標記語「陪堂」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「陪堂」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

645陪堂(ホイタウ)(ト/ゲ)僧堂輩 平家内大臣重盛後生善所云、彼六八弘誓ラヘ東山四十八間立精舎。一間一充四十間四十八灯篭立。九-品*目耀光曜鸞鏡塋浄土ルカ毎月十四十五日シテ當家他家人々御方々ヨリ眉目好女房達請集一間六人充四十八間二百八十八人時衆定念佛勧也。十五日結願シテ大臣自(ミ−)西方向南無□養教-主(キヤウ−)弥陀善逝三界六道済度云也。回向發□有(ケレ)ハ人皆泪流也。依之灯篭大臣申也。今以一遍。今藤澤一遍當四代目云也。〔謙堂文庫蔵五六右D〕

とあって、標記語「陪堂」の語を収載し、この語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

相伴(シヤウバン)(ロサイ)之僧陪堂(ホイタウ) 相伴(シヤウバン)ハ客(キヤク)人ノ時罷(マカリ)出デ食事(シヨクジ)ヲススムル人也。陪堂(ホイタウ)ハ飯米(ハンマイ)ヲ副(ソフル)僧ナリ。〔下33オ五・六〕

とあって、この標記語「陪堂を収載し、語注記に「有職(ウシキノ)僧綱は、役(ヤク)人なり。一寺たる処には、此のごとき輩(トモカラ)有るなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

陪堂(ほいたう)外堂(とたう)の輩(ともから)陪堂外堂之輩 陪堂ハ堂の上につらなる事を得る者。外堂ハ堂の上に登る事をゆるされさるもの也。皆いやしき僧乃事なり。〔85オ八〜85ウ一〕

とあって、この標記語「陪堂」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

陪堂(ほいだう)外僧堂(とそうたう)の輩(ともから)陪堂外僧堂之輩。▲邏齊之僧陪堂外僧堂ハいつれも仏事(ぶつじ)に携(たつさ)ハらすして、たゝ食(しよく)を乞()ひ供養(くよう)にあふ非人僧(ひにんそう)也。〔62ウ二・三、62ウ六〕

陪堂(ほいだう)外僧堂(とそうだうの)(ともから)▲邏齊之僧陪堂外僧堂ハいづれも仏事(ぶつじ)に携(たづさ)ハらずして、たゞ食(しよく)を乞()ひ供養(くやう)にあふ非人僧(ひにんそう)也。〔112オ六、112ウ五〕

とあって、標記語「陪堂」の語をもって収載し、その語注記は、「邏齊之僧・陪堂・外僧堂ハいづれも仏事(ぶつじ)に携(たづさ)ハらずして、たゞ食(しよく)を乞()ひ供養(くやう)にあふ非人僧(ひにんそう)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Foito<.ホイタゥ(陪堂) Cate(糧)に同じ.食糧.坊主(Bozos)などの用いる言葉.¶Fo<ito suru.(陪堂する)家々の門口を回って食糧を乞う.¶Iunreini foito<.(巡礼に陪堂)乞い求めるさま.すなわち,ある巡礼者に対する施し.※Foito<の誤植.〔邦訳258r〕

とあって、標記語「陪堂」の語の意味は「Cate(糧)に同じ.食糧.坊主(Bozos)などの用いる言葉」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ホイ-タウ〔名〕【陪堂】〔字の宋音、禪林にて、客僧などが僧堂の外堂に陪して、食を受くる處を云ふ〕(一)禪家の僧司の名。飯米を司るもの。庭訓鈔、十月「相伴邏齊之僧、陪堂」注「陪堂は飯米を副(そふる)僧なり」鷹筑波集、二「ひだるさ故に、やせわたる袖」附句「ほいたうの、僧は横川(よかハ)へ、行戻り」饅頭屋本節用集陪當(ホイタウ)撮壤集、上、禪僧「陪堂、ホイタウ」(二)轉じて、米。飯米。又、ヘイタウ。書言字考節用集、六、服食門「陪堂、ヘヰタウ、禪家飯米」舞の本、烏帽子折「山伏は十人にあまってさうぞ、今夜一夜のほいたうをたべやっとよばはって」(三)ものもらひ(物貰)の稱。ほいと。乞食。南海治亂記、四、讃州河野氏建不動堂記「眞言を宗とする者は、四國遍路陪當(ホイタウ)して、靈佛を巡禮し、菩提を祈る、此陪當人をも、門内に不入」遠碧軒記、二「陪堂(ホイタウ)、巡齋の事なり、佛經の字なり、ものもらひの事なり」〔1822-1〕

とあって、標記語「ほい-たう〔名〕【陪堂】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ほい-とう陪堂】〔名〕(「ほい」は「陪」の唐宋音)@禅宗で、僧堂の外で、食事のもてなし(陪食)を受けること。A禅宗で、僧の飯米をつかさどること。僧の食事のせわをすること。また、その僧やその飯米。B他人に食事を施すこと。また、その食事や飯米。C金品をもらって回ること。ものごいをすること。また、その人。ものもらい。こじき」とあって、Aの意味用例にこの『庭訓徃來』の語用例を記載する。他に古辞書では、『嚢鈔』を引く。
[ことばの実際]
一、地下人之子不可為弟子、同宿二七七不可然、況於他門、一、寺家陪堂之用、毎旬於住持之前、諸者相共可逐用、《大コ寺文書』康正三年五月十二日の条、1745・4/252 》
 
 
邏齊(ロサイ)」は、ことばの溜池(2000.09.15)を参照。
江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

猶(なを)以(もつ)禅家(ぜんけ)方者(かたハ)相伴(しやうばん)(ろさい)之()僧(そう)猶以禅家方者相伴之僧 邏齊ハときをもらふと訓す。是ハ功コ(くとく)もなく知識(ちしき)もなけれとも今度の大齋に付て其供養(くやう)にあふ僧をいふなり。〔85オ六・七〕

とあって、この標記語「邏齊」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

其外(そのほか)有識(いうしよく)僧綱(そうかう)僧徒(そうと)等(とう)猶(なを)以(もつて)禅家(せんけ)方者(かたハ)相伴(しやうばん)(ろさい)之()僧(そう)其外有職僧綱僧徒等猶以禅家方者相伴之僧。▲邏齊之僧陪堂外僧堂ハいつれも仏事(ぶつじ)に携(たつさ)ハらすして、たゝ食(しよく)を乞()ひ供養(くよう)にあふ非人僧(ひにんそう)也。〔62ウ二、62ウ六〕

其外(そのほか)有識(いうしよく)僧綱(そうかうの)僧徒(そうと)(とう)(なほ)(もつて)禅家(せんけ)方者(かたハ)相伴(しやうばん)(ろさい)()(そう)▲邏齊之僧陪堂外僧堂ハいづれも仏事(ぶつじ)に携(たづさ)ハらずして、たゞ食(しよく)を乞()ひ供養(くやう)にあふ非人僧(ひにんそう)也。〔112オ四、112ウ五〕

とあって、標記語「邏齊」の語をもって収載し、その語注記は、「邏齊之僧・陪堂・外僧堂ハいづれも仏事(ぶつじ)に携(たづさ)ハらずして、たゞ食(しよく)を乞()ひ供養(くやう)にあふ非人僧(ひにんそう)なり」と記載する。
 
2004年11月27日(土)雨後曇り。イタリア(ローマ・自宅AP)
相伴(シヤウバン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

相伴(シヤウバン) 。〔元亀二年本312八〕

相伴(シヤウバン) 。〔静嘉堂本366二〕

とあって、標記語「相伴」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

其外有職僧綱僧徒等禅家方者相伴齊之僧〔至徳三年本〕

其外有僧綱僧徒等猶以禪家方者相伴齊僧〔宝徳三年本〕

其外有職僧綱僧徒等猶以禅家相伴齊之僧〔建部傳内本〕

其外有職(シキ)僧綱(カウ)僧徒()等猶以禅家ニハ相伴(シヤウバン)(ロサイ)〔山田俊雄藏本〕

其外有職僧綱(カウ)僧徒等猶以禅家方者相伴(シヤウハン)邏齋(ロサイ)之僧〔経覺筆本〕

其外有職(ウシキ)僧綱(ソウカウ)僧徒()()猶以禅家ニハ相伴(シヤウバン)(ロサイ)()〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「相伴」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「相伴」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

相伴(シヤウバン) 對座也(ナリ)。〔態藝門87一〕

とあって、標記語「相伴」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

相伴(シヤウ・タスク、バンアウ、トモ)[平・上] 對座也。或作請番(シヤウバン)。〔態藝門965三〕

とあって、標記語「相伴」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

相伴(シヤウバン) 萬座義。〔・言語進退門244七〕

相伴(シヤウバン) ―看―待―用(シン)。〔・言語門209五〕

相伴(シヤウハン) ―眼―看―待―用―暇。〔・言語門193七〕

とあって、標記語「相伴」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

相伴(シヤウバン) ―看(カン)。〔言辞門215五〕

とあって、標記語「相伴」の語を以て収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「相伴」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、広本節用集』の語注記は、大いに異なっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

644僧徒等(ラ)猶以禅家方者相伴(ハン)邏齊(ロサイ)之僧 下学ニハ乞食云也。〔謙堂文庫蔵五六右D〕

とあって、標記語「相伴」の語を収載し、語注記は「諸職拵僧云なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

相伴(シヤウバン)(ロサイ)之僧陪堂(ホイタウ) 相伴(シヤウバン)ハ客(キヤク)人ノ時罷(マカリ)出デ食事(シヨクジ)ヲススムル人也。陪堂(ホイタウ)ハ飯米(ハンマイ)ヲ副(ソフル)僧ナリ。〔下33オ五・六〕

とあって、この標記語「相伴を収載し、語注記に「相伴(シヤウバン)は、客(キヤク)人の時罷(マカリ)出で、食事(シヨクジ)をすすむる人なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

猶(なを)以(もつ)禅家(ぜんけ)方者(かたハ)相伴(しやうばん)齊(ろさい)之()僧(そう)猶以禅家方者相伴齊之僧 邏齊ハときをもらふと訓す。是ハ功コ(くとく)もなく知識(ちしき)もなけれとも今度の大齋に付て其供養(くやう)にあふ僧をいふなり。〔85オ六・七〕

とあって、この標記語「相伴」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

其外(そのほか)有識(いうしよく)僧綱(そうかう)僧徒(そうと)等(とう)猶(なを)以(もつて)禅家(せんけ)方者(かたハ)相伴(しやうばん)齊(ろさい)之()僧(そう)其外有職僧綱僧徒等猶以禅家方者相伴齊之僧。〔62ウ二〕

其外(そのほか)有識(いうしよく)僧綱(そうかうの)僧徒(そうと)(とう)(なほ)(もつて)禅家(せんけ)方者(かたハ)相伴(しやうばん)(ろさい)()(そう)。〔112オ五〕

とあって、標記語「相伴」の語をもって収載し、その語注記を未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xo<ban.シヤウバン(相伴) Aitomono<.(相伴ふ)食卓の相手や食事のお伴をすること.¶Fitoni xo<ban suru.(人に相伴する)食事に他の人のお伴をする,すなわち,他の人と一緒に食事をする.〔邦訳787l〕

とあって、標記語「相伴」の語の意味は「Aitomono<.(相伴ふ)食卓の相手や食事のお伴をすること」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しゃう-ばん〔名〕【相伴】饗應の席に伴ひ、主人を助けて、客の相手となること。あひたけびと。伴食。陪食。陪膳。錢氏私誌、「令梁守道相伴、賜酒菓下學集、下、態藝門「相伴、對座也」〔0970-3〕

とあって、標記語「しゃう-ばん〔名〕【相伴】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しょう-ばん相伴】〔名〕@互いに連れ立つこと。伴って行くこと。A供応の席につらなって正客の相手をし、みずからも供応を受けること。他の人に便乗して飲食すること。また、その人。陪食。伴食。接伴。B他のつり合いや物事の行きがかりなどのためにいっしょにつき合うこと。また、その人」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
相伴僧、經山臥之巡路、赴甲州給《訓み下し》相ヒ伴フ僧(件ノ僧)、山臥ノ巡路ヲ経テ、甲州ニ赴キ給フ。《『吾妻鏡治承四年八月二十五日の条、》
 
 
禅家(ゼンケ)」は、ことばの溜池(2004.09.10)を参照。
 
2004年11月26日(金)曇り夜雨。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
僧徒(ソウト)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、「僧匠(ソウジヤウ)。僧都(ソウツ)聖家三官又小山田驚之物也。備中湯川寺玄宥――始作之故呼曰――。僧衆(シユ)。僧侶(リヨ)。僧俗(ゾク)。僧房(バウ)。僧坊(バウ)。僧堂(ダウ)。僧厠()律家呼東曰――。僧形(キヤウ)」の十語を収載し、この標記語「僧徒」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

其外有職僧綱僧徒禅家方者相伴齊之僧〔至徳三年本〕

其外有僧綱僧徒等猶以禪家方者相伴齊僧〔宝徳三年本〕

其外有職僧綱僧徒等猶以禅家者相伴齊之僧〔建部傳内本〕

其外有職(シキ)僧綱(カウ)僧徒()等猶以禅家ニハ者相伴(シヤウバン)(ロサイ)〔山田俊雄藏本〕

其外有職僧綱(カウ)僧徒等猶以禅家方者相伴(シヤウハン)邏齋(ロサイ)之僧〔経覺筆本〕

其外有職(ウシキ)僧綱(ソウカウ)僧徒()()猶以禅家ニハ者相伴(シヤウバン)(ロサイ)()〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「僧徒」とし、訓みは、山田俊雄藏本・文明四年本に「(ソウ)ト」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「僧徒」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「僧徒」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

僧俗(ゾク) ―侶(リヨ)―徒()。―衆(シユ)。〔人倫門99六〕

とあって、標記語「僧俗」の熟語群として「僧徒」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』熟語群「僧徒」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

644僧徒(ラ)猶以禅家方者相伴(ハン)(ロサイ)之僧 下学ニハ乞食云也。〔謙堂文庫蔵五六右D〕

とあって、標記語「僧徒」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

有職(ウシキノ)僧綱(ソウカウ)僧徒()等猶(ナヲ)(  テ)禪家(ぜンケ)有職(ウシキノ)僧綱ハ役(ヤク)人也。一寺タル処ニハ如(トモカラ)有ナリ。〔下33オ四・五〕

とあって、この標記語「僧徒を収載し、語注記未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

其外(そのほか)有識(ゆうしよく)の僧綱(そうかう)僧徒(そうと)等(とう)其外有識僧綱僧徒 有識ハ学問廣く知識高きを云。ある本にハ有職に作る。されハ彼目あるをいふ也。僧綱ハ重立(おもたち)たる僧。僧徒ハ其外の出家を多くさしたる也〔85オ一〜三〕

とあって、この標記語「僧徒」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

其外(そのほか)有識(いうしよく)僧綱(そうかう)僧徒(そうと)等(とう)猶(なを)以(もつて)禅家(せんけ)方者(かたハ)相伴(しやうばん)齊(ろさい)之()僧(そう)其外有職僧綱僧徒猶以禅家方者相伴齊之僧。〔62ウ一〕

其外(そのほか)有識(いうしよく)僧綱(そうかうの)僧徒(そうと)(とう)(なほ)(もつて)禅家(せんけ)方者(かたハ)相伴(しやうばん)(ろさい)()(そう)。〔112オ四〕

とあって、標記語「僧徒」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

So>to.ソウト(僧徒) 坊主(Bonzos).〔邦訳578l〕

とあって、標記語「僧徒」の語の意味は「坊主(Bonzos)」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

そう-〔名〕【僧徒】〔爾雅、釋訓篇「徒、輩者也」〕僧(そう)のともがら。梁書、到漑伝「別營小室、朝夕從僧徒、禮誦高祖吾妻鏡、廿九、文暦二年正月廿七日「被斷鎌倉中僧徒之兵杖〔1142-3〕

とあって、標記語「そう-〔名〕【僧徒】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「そう-僧徒】〔名〕僧の仲間。僧侶」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
皇院、流罪公臣、斷命流嶋、沈淵込樓、盗財領國奪官授職、無功許賞、非罪配過或召釣於諸寺之高僧、禁獄於修學僧徒、或給下於叡岳絹米、相具謀叛粮米、斷百王之跡、切一人之頭、違逆帝皇、破滅佛法、絶古代者也《訓み下し》皇院ヲ幽閉シ、公臣ヲ流罪シ、命ヲ断チ島ニ流シ(身ヲ流シ)、淵ニ沈メ楼ニ込メ、財ヲ盗ミ国ヲ領シ官ヲ奪ツテ職ニ授ケ、功無キニ賞ヲ許シ、罪非ザルニ過ニ配シ、或ハ諸寺ノ高僧ヲ召シ約メ、修学ノ僧徒(ソウド)ヲ禁獄シ、或ハ叡岳ノ絹米ヲ給下シ、謀叛ノ糧米ニ相ヒ具ヘ、百王ノ跡ヲ断チ、一人ノ頭ヲ切リ、帝皇ニ違逆シ、仏法ヲ破滅シ、古代ヲ絶セル者ナリ。《『吾妻鏡』治承四年四月二十七日の条、》
大神此状乎平久安久聞食天、朝廷乃威遠振ひ、僧徒の心相平天、真言止観乃道、共天地天久盛天、修習練行乃輩、積夏臈天常住せむ、 《『石清水文書(田中)』保安四年七月朔日の条、8・1/12》
 
 
2004年11月25日(木)晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
僧綱(ソウカウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、「僧匠(ソウジヤウ)。僧都(ソウツ)聖家三官又小山田驚之物也。備中湯川寺玄宥――始作之故呼曰――。僧衆(シユ)。僧侶(リヨ)。僧俗(ゾク)。僧房(バウ)。僧坊(バウ)。僧堂(ダウ)。僧厠()律家呼東曰――。僧形(キヤウ)」の十語を収載し、この標記語「僧綱」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

其外有職僧綱僧徒等禅家方者相伴齊之僧〔至徳三年本〕

其外有僧綱僧徒等猶以禪家方者相伴齊僧〔宝徳三年本〕

其外有職僧綱僧徒等猶以禅家者相伴齊之僧〔建部傳内本〕

其外有職(シキ)僧綱(カウ)僧徒()等猶以禅家ニハ者相伴(シヤウバン)(ロサイ)〔山田俊雄藏本〕

其外有職僧綱(カウ)僧徒等猶以禅家方者相伴(シヤウハン)邏齋(ロサイ)之僧〔経覺筆本〕

其外有職(ウシキ)僧綱(ソウカウ)僧徒()()猶以禅家ニハ者相伴(シヤウバン)(ロサイ)()〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「僧綱」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

僧綱 ソウカウ。〔黒川本・官職門中19ウ六〕

僧侶 〃徒。〃衆。〃正。〃祗。〃房。〃器。〃事。〃綱。〃供。〔卷第四・畳字門549一〕

とあって、標記語「僧綱」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

僧綱(ソウコウ) 。〔態藝門84七〕

とあって、標記語「僧綱」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

僧綱(ソウカウスミソメ・ヨステヒト、ヲヽヅナ)[平・平] 教家所。〔態藝門388一〕

とあって、標記語「僧綱」の語を収載し、語注記に「教家所言」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

僧綱(カウ) 。〔・言語進退門123一〕

僧綱(ソウカウ) 。〔・言語門102七〕

僧綱(ソウガウ) 。〔・言語門93一〕〔・言語門113四〕

とあって、標記語「僧綱」の語を収載し、訓みは、「ソウカウ」と「ソウガウ」の両用となっている。また、易林本節用集』に、

僧正(ソウシヤウ) ―都()。―綱(カウ)。〔官位門99四〕

とあって、標記語「僧正」の熟語群として「僧綱」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「僧綱」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、広本節用集』の語注記は、大いに異なっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

643以下承-(−ジ)-仕等也此外有職(ユウシキ)僧綱(−カウ) 諸職拵僧云也。〔謙堂文庫蔵五六右C〕

とあって、標記語「僧綱」の語を収載し、語注記は「諸職拵僧云なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

有職(ウシキノ)僧綱(ソウカウ)僧徒()等猶(ナヲ)(  テ)禪家(ぜンケ)有職(ウシキノ)僧綱ハ役(ヤク)人也。一寺タル処ニハ如(トモカラ)有ナリ。〔下33オ四・五〕

とあって、この標記語「僧綱を収載し、語注記に「有職(ウシキノ)僧綱は、役(ヤク)人なり。一寺たる処には、此のごとき輩(トモカラ)有るなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

其外(そのほか)有識(ゆうしよく)僧綱(そうかう)僧徒(そうと)等(とう)其外有識僧綱僧徒等 有識ハ学問廣く知識高きを云。ある本にハ有職に作る。されハ彼目あるをいふ也。僧綱ハ重立(おもたち)たる僧。僧徒ハ其外の出家を多くさしたる也。〔85オ一〜三〕

とあって、この標記語「僧綱」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

其外(そのほか)有識(いうしよく)僧綱(そうかう)僧徒(そうと)等(とう)猶(なを)以(もつて)禅家(せんけ)方者(かたハ)相伴(しやうばん)齊(ろさい)之()僧(そう)其外有職僧綱僧徒等猶以禅家方者相伴齊之僧。▲僧綱ハ僧正(そう  )僧都(そうづ)律師(りつし)法印(ほふゐん)法眼(ほふけん)法橋(ほつきやう)を称(しよう)す。諸職(しよしよく)を取扱(とりあつか)ふ頭(かしら)たる人也。〔61ウ四、62オ六〕

其外(そのほか)有識(いうしよく)僧綱(そうかうの)僧徒(そうと)(とう)(なほ)(もつて)禅家(せんけ)方者(かたハ)相伴(しやうばん)(ろさい)()(そう)▲僧綱ハ僧正(そうじやう)僧都(そうつ)律師(りつし)法印(ほふいん)法眼(  げん)法橋(ほつけう)を称(しよう)す。諸職(しよしよく)を取扱(とりあつかふ)(かしら)たる人也。〔110ウ四、112ウ四・五〕

とあって、標記語「僧綱」の語をもって収載し、その語注記は、「僧綱は、僧正(そうじやう)・僧都(そうづ)・律師(りつし)・法印(ほふいん)・法眼(ほふげん)・法橋(ほつけう)を称(しよう)す。諸職(しよしよく)を取扱(とりあつか)ふ頭(かしら)たる人なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「僧綱」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

そう-がう〔名〕【僧綱】〔綱とは、綱維の義、法務を綱持する意〕僧官に、僧正、僧都、律師の目あり、是れを、僧綱と云ふ。推古天皇の三十二年に、始めて之れを設く。後に、僧官位にも、相當ありて、清和天皇貞觀六年に、僧正は法印に、僧都は法眼に、律師は法橋に相當する事に定めらる。又、僧官の、俗官に相當する事は、後宇多天皇弘安八年を以て、僧正は參議に準じ、法印、僧都は四位殿上人に準じ、法眼、律師は五位殿上人に準じ、僧綱、法橋、上の位は地下四位諸大夫に準ずる等の相當を定められしが、後醍醐天皇建武二年に至り、更に大僧正は二位大納言に準じ、僧正は二位中納言に準じ、權僧正は三位參議に準ずることに定められたり。僧尼令、義解「凡任僧綱」謂「僧綱者、僧正、僧都、律師也」玄蕃寮式、「凡僧綱、勘知大寺雜事日本後紀、十二、延暦廿三年十一月「學士但馬守菅野朝臣眞道、木工頭從五位上兼行造宮亮播磨介石川朝臣河主、監僧綱宇津保物語、嵯峨院61「春宮の御讀經に、物の初なりとて、僧綱たち、名ある智者(ちさ)どもなど召して、論議などせさせ給ふ」〔1138-3〕

とあって、標記語「そう-がう〔名〕【僧綱】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「そう-こう僧綱】〔名〕@令制で、僧尼を統率し、法務を処理するために任命された僧官。僧正・僧都・律師の三つ。A僧官と僧位の総称。平安にはいって、制定をみた僧位九階のうち、修行位四階が有名無実となったため、別に僧綱の位階として定められた法印・法眼(ほうげん)・法橋の三位を僧正・僧都・律師の三官に加えたもの。B「そうごうくび(僧綱領)A」の略」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
仍毎月、限七箇日、■百口僧綱、大法師修百壇不動供《訓み下し》仍テ毎月、七箇日ヲ限リ、百口ノ僧綱ヲ屈シ、大法師(百口ノ僧綱大法師ヲ屈シ)百壇ノ不動供ヲ修ス。《『吾妻鏡』元暦元年十一月二十三日の条、》
仰治部省、特令得度者、令省寮僧綱共授度縁如件、《『石清水文書(田中)』康治二年四月日の条、614・2/407》
 
 
有職(ユウシヨク)」→「有識」は、ことばの溜池(2000.12.10)を参照。
 古版庭訓徃来註』では、

有職(ウシキノ)僧綱(ソウカウ)僧徒()等猶(ナヲ)(  テ)禪家(ぜンケ)有職(ウシキノ)僧綱ハ役(ヤク)人也。一寺タル処ニハ如(トモカラ)有ナリ。〔下33オ四・五〕

とあって、この標記語「有職を収載し、語注記に「有職(ウシキノ)僧綱は、役(ヤク)人なり。一寺たる処には、此のごとき輩(トモカラ)有るなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

其外(そのほか)有識(ゆうしよく)の僧綱(そうかう)僧徒(そうと)等(とう)其外有識僧綱僧徒等 有識ハ学問廣く知識高きを云。ある本にハ有職に作る。されハ彼目あるをいふ也。僧綱ハ重立(おもたち)たる僧。僧徒ハ其外の出家を多くさしたる也。〔85オ一〜三〕

とあって、この標記語「有職」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

其外(そのほか)有識(いうしよく)僧綱(そうかう)僧徒(そうと)等(とう)猶(なを)以(もつて)禅家(せんけ)方者(かたハ)相伴(しやうばん)齊(ろさい)之()僧(そう)其外有職僧綱僧徒等猶以禅家方者相伴齊之僧。▲有職ハ已講(いこう)内供奉(ないくぶ)阿闍梨(あしやり)を称(しよう)すとそ。〔61ウ四、62ウ五・六〕

其外(そのほか)有識(いうしよく)僧綱(そうかうの)僧徒(そうと)(とう)(なほ)(もつて)禅家(せんけ)方者(かたハ)相伴(しやうばん)(ろさい)()(そう)▲有職ハ已講(いこう)内供奉(ないぐぶ)阿闍梨(あしやり)を称(しよう)すとぞ。〔110ウ四、112ウ四〕

とあって、標記語「有職」の語をもって収載し、その語注記は、「有職は、已講(いこう)・内供奉(ないぐぶ)・阿闍梨(あしやり)を称(しよう)すとぞ」と記載する。
 明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-しき〔名〕【有職】〔元來、有識の字なるを、後世、職官の事を、兼ねて論ずる故に、職の字に誤りしなり、即ち、後世には專ら式例などを明かにする學を、有識といふこととなりたり、そは安齋随筆、四、有職者「後代、官職其外、公家方の故實を知りたる人を、有職といひ、又略して、職者といふ、これ地下にていふのみあらず、堂上衆も常に言ひ習はされし詞なり、これ後代の俗言なり、耳偏の職の字を用ふるハ誤なり、本は、言偏の識の字なり、有識の有は、有コ、有司などの有に同じく、たもつの義なり、識は、知識にて、ものしりなり、云云、何の道にても、その故實を知りたるもの、其道道の有職者なるなり、云云、後代、識を職と取り違ひて、官職の事を知るを有職といふぞと思ひ誤り、俗習となれるなり」とあるが如し〕凡べての道に明かなる人。故實、典禮に明かなる人。イウシキ。イウソク。イウソコ。續日本紀、四十、延暦八年七月「紀文曰、應~天皇命上毛野氏遠祖荒田別、使於百濟、捜有職、云云、以爲皇太子師續日本後紀、十五、承和十二年二月、善道眞貞條「遷阿波守、是時有職公卿一兩人、依詔旨、興諸儒等、修撰令義解」永昌記、大治元年三月十九日「參院、今夕可一代一度仁王會數、云云、雖恒事、近代無之之人、仍委記之、後奏卷數、猶不分明、重可有識歟」職原抄、下、検非違使「別當一人、世俗説、補大理之人、可備七コ、所謂譜第、器量、才幹、有識、近習、容儀、富有、云云」宇津保物語、吹上、下43「父こそ下人なれ、子はいうそくにて、いと心にくかりしものぞ」源氏物語、廿一、少女23「まことに、天の下ならぶ人なきいうそくには物せらるめれど」宇津保物語、菊宴05「かのぬしいうそこなれど、此道になれば、かくこそはあれ」〔0128-5〕

とあって、標記語「-しき〔名〕【有職】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-しき有職】〔名〕」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
 
 
2004年11月24日(水)晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
宮司・宮仕(みやじ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「見」部に、

宮仕(ミヤヅカイ)宮司(ヅカサ) 。〔元亀二年本300七〕

宮仕(ミヤヅカイ)宮司() 。〔静嘉堂本349八〕

とあって、標記語「宮仕宮司」の両語を収載し、元亀二年本は、「みやづかい」と「(みや)つかさ」と訓を別にするのに対し、静嘉堂本は同一とし、両本の訓みが異なるものとなっている。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-宮仕〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「宮司」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「宮司宮仕」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「宮司宮仕」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

宮仕(ミヤキウ、ツカマツル)[平・上] 。〔神祇門888七〕

とあって、標記語「宮仕」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

宮仕(ミヤジ) 。〔・人倫門231八〕〔・人倫門192九〕〔・人倫門182五〕

とあって、標記語「宮司」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

宮仕(ミヤジ) 。〔人倫門198四〕

とあって、標記語「宮仕」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「宮仕」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、広本節用集』の語注記は、大いに異なっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

643以下承-(−ジ)-等也此外有職(ユウシキ)僧綱(−カウ) 諸職拵僧云也。〔謙堂文庫蔵五六右C〕

とあって、標記語「宮仕」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

勾當(コウタウ)都維那(トイナ)寺主(シシユ)上座以下承仕(せウジ)宮仕(ミヤジ)(トウ)勾當(コウタウ)都維那(トイナ)寺主ハ。山伏道ニ用ル名也。

寺仕承仕(せウシ)宮仕使フ者也。カネツキ。キヨメスル者也。〔下33オ二〜四〕

とあって、この標記語「宮仕」の語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(せうし)宮仕(ミやし)等(とう)寺主上座以下承仕宮仕 承仕宮司ハ寺社の下知也。〔85オ一〜三〕

とあって、この標記語「宮仕」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕。〔62オ四〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)。〔110ウ四〕

とあって、標記語「宮仕」の語をもって収載し、その語注記は、未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「Qiu<ji.キュウジ(宮仕)」〔邦訳511r〕の語収載するが意味は異なるものとなっている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

みや-〔名〕【宮仕】古へ、下級の社僧にて、堂社の灑掃などの雜役に從事するもの。百錬抄、八、治承元年四月十三日「~人宮仕等、同中矢」〔1953-1〕

とあって、標記語「みや-〔名〕【宮仕】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「みや-宮仕】〔名〕掃除などの雑役に従事した下級の社僧」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
吉備津宮々仕、今日參著鎌倉《訓み下し》吉備津宮ノ宮仕(グウジ)、今日鎌倉ニ参著ス。《『吾妻鏡』元暦元年十二月十六日の条、》
次、参清瀧拝殿、奉弊、可召儲色宮仕長尾、於輿息下、拝之、次、帰着本坊、三宝院御□□ 《『醍醐寺文書』天承二年七月八日の条、171・1/131》
 
 
2004年11月23日(火)曇り一時晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
承仕(ジヨウジ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「勢」部に、

承仕() 。〔元亀二年本352五〕

承仕(ゼウジ) 。〔静嘉堂本424五〕

とあって、標記語「承仕」の語を収載し、訓みは、静嘉堂本に「ゼウジ」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下-宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「承仕」とし、訓みは、経覺筆本に「シヤウシ」、文明四年本に「セウシ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

承仕 シヨウシ。〔黒川本・官職門下83ウ八〕

承仕 。〔卷第十・官職門287二〕

とあって、標記語「承仕」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「承仕」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

承仕(シヨウジウケタマワル、ツカマツル)[平・上] 。〔官位門920四〕

とあって、標記語「承仕」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

承仕(ジヨウジ) 。〔・人倫門238四〕〔・世部人倫門224一〕

承仕(ゼウジ) 。〔・人倫門210九〕

承仕(セウジ) 。〔・人倫門263一〕

とあって、標記語「承仕」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

承仕(ジヨウジ) 。〔人倫門204三〕

とあって、標記語「承仕」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「承仕」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

643以下-(−)-仕等也此外有職(ユウシキ)僧綱(−カウ) 諸職拵僧云也。〔謙堂文庫蔵五六右C〕

※国会図書館蔵『左貫注』(書込み)に、「承仕―人供也。何モ寺ノ被官也/―私云承―宮―護广之時左右居テ走廻者也」と記載する。

とあって、標記語「承仕」の語を収載し、語注記は「高野にあり。また、神職の類なり。神領を拵ふる者なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

勾當(コウタウ)都維那(トイナ)寺主(シシユ)上座以下承仕(せウジ)宮仕(ミヤジ)(トウ)勾當(コウタウ)都維那(トイナ)寺主ハ。山伏道ニ用ル名也。

寺仕承仕(せウシ)宮仕使フ者也。カネツキ。キヨメスル者也。〔下33オ二〜四〕

とあって、この標記語「承仕は未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(せうし)宮仕(ミやし)等(とう)寺主上座以下承仕宮仕等 承仕宮司ハ寺社の下知也。〔85オ一〜三〕

とあって、この標記語「承仕」の語を収載し、語注記は上記の如く記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲承仕宮司ハ共に行者(あんしや)の下役(したやく)也。其うち法務(ほふむ)に預(あづか)る者ハ清僧(せいそう)俗務(そく )に預るものハ妻帶(さいたい)なりとぞ。〔61ウ四、62オ八〜ウ一〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲承仕宮司ハ共に行者(あんしや)の下役(したやく)也。其うち法務(ほふむ)に預(あづか)る者ハ清僧(せいそう)俗務(ぞくむ)に預るものハ妻帶(さいたい)なりとぞ。〔110ウ四、112オ三・四〕

とあって、標記語「承仕」の語をもって収載し、その語注記は、「承仕宮司は、共に行者(あんしや)の下役(したやく)なり。其うち法務(ほふむ)に預(あづか)る者は、清僧(せいそう)俗務(ぞくむ)に預るものは、妻帶(さいたい)なりとぞ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Io>ji.ジョウジ(承仕) 寺(Tera),または,坊主(Bozos)に仕える者.¶また,鐘を打ち鳴らすのを勤めとする者.〔邦訳368r〕

とあって、標記語「承仕」の語の意味は「寺(Tera),または,坊主(Bozos)に仕える者.¶また,鐘を打ち鳴らすのを勤めとする者」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しょう-〔名〕【承仕】(一)古へ、剃髪して、仙洞、又は、攝家、などの雜役を勤めし者。承仕法師。古今著聞集、二、釋教、永萬元年六月八日「山、云云、麓に、承仕ありけるが、件の山の峯より、やんごとなき老僧、出きて」(二)僧の、佛前の莊嚴、佛具などを掌るもの。嘶餘「御承仕(ヲセウシ)」注「云云、御持佛堂事を司也、莊嚴ヲ仕、佛具の取沙汰あるなり、幼時、御童子也」(三)禪家に、鐘を撞()く者の稱。〔1007-5〕

とあって、標記語「しょう-〔名〕【承仕】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しょう-承仕】〔名〕⇒じょうじ(承仕)」、「じょう-承仕】〔名〕(「しょうじ」とも。「じょう」は「承」の呉音。「しょう」は漢音)@仏語。僧の役名。寺社の内殿の掃除や荘厳仏具の管理、灯火。香華の用意など、雑用にあたる僧。宮寺承仕法師ともいう。しばしば上皇御所・摂関家などに召使われその雑用をつとめた。承仕法師。A仏語。禅宗の寺で、鐘をつく役目の僧。B室町幕府に仕え、殿中の裝飾や掃除など雑役に従事した僧形の者」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而於拜殿、御念誦宮寺承仕、法師榮光、來云、著于君御座、誰人哉早可退去〈云云〉《訓み下し》而ルニ拝殿ニ於テ、御念誦アリ。宮寺ノ承仕(ゼウシ)、法師栄光、来テ云ク(咎メ来テ云ク)、君ノ御座ニ著スルハ、誰人ゾヤ。早ク退キ去ルベシト〈云云〉。《『吾妻鏡』寿永元年十二月七日の条、》
亦嘉保二年十二月八日、就法務法印大和尚位定賢、重伝潅頂職位、爰東寺阿闍梨定海、親致承仕之功労、普学諸尊之印明、年来見其勤修、三時観念不怠、四等印契弥勤、修練漸積、持念更深因之、《『醍醐寺文書』康和三年十月廿六日の条、170・1/130》
 
 
2004年11月22日(月)曇天。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
寺主(ジシユ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、「寺家(ジケ)。寺門(モン)。寺僧(ソウ)。寺物(モツ)。寺領(リヤウ)。寺中(チウ)。寺内(ナイ)。寺外(クワイ)。寺産(サン)。寺法(ハウ)。寺務()。寺役(ヤク)。寺院(イン)」の十三語を収載し、標記語「寺主」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「寺主」とし、訓みは文明四年本に「チウシユ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「寺主」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「寺主」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「寺主」の語は未収載にあって、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

642奉仕 人供也 寺主 人供也。〔謙堂文庫蔵五六右B〕

天理図書館蔵『庭訓往来註』は、「寺仕()」と標記する。国会図書館蔵『左貫注』は、「寺人{主/仕()}」と標記する。

とあって、標記語「寺主」の語を収載し、語注記は「人供なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

勾當(コウタウ)都維那(トイナ)寺主(シシユ)上座以下承仕(せウジ)宮仕(ミヤジ)(トウ)勾當(コウタウ)都維那(トイナ)寺主ハ。山伏道ニ用ル名也。

寺仕承仕(せウシ)宮仕使フ者也。カネツキ。キヨメスル者也。〔下33オ二〜四〕

とあって、この標記語「寺主を収載し、語注記に「勾當(コウタウ)都維那(トイナ)寺主は、山伏道に用る名なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(せうし)宮仕(ミやし)等(とう)寺主上座以下承仕宮仕等 承仕宮司ハ寺社の下知也。〔85オ一〜三〕

とあって、この標記語「寺主」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲《前略》上座寺主ハ講師。〔61ウ四、62オ四〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲《前略》上座寺主ハ講師。〔110ウ四、111ウ三〕

とあって、標記語「寺主」の語をもって収載し、その語注記は、「上座寺主は、講師」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「寺主」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-しゅ〔名〕【寺主】〔僧侶官位志「寺主之訓、山門ニハ、寺主ト、二字共ニ、字音ノ如クニ訓ジ、御室ニハ、天良(テラ)(ジユ)ト訓ズルナリ」〕三綱の一、寺中ノ庶事ヲ掌リ、法會ノ際、執蓋ノ役ヲ勤ムル僧官。テラジュ。職原抄、下「僧官位、寺主(ジシユ)拾芥抄、中、末「寺官、寺主(テラシ)玄蕃寮式「凡、延暦寺三綱、一任之後、任諸國講讀師、其上座、寺主講師、都維那任讀師孝コ紀、大化元年八月「遣使於大寺、喚聚僧尼而詔曰、云云、別以惠妙法師、爲百濟寺寺主海人藻芥、上「三綱者、上座、寺主、都維那(ツヰナ)、是也、各、權一人有之」同、中「寺社三綱者、於其寺社法會者、必三綱随所役也、庭儀時、上座二人、執綱役勸之、寺主、蓋役勤仕也」〔0893-3〕

とあって、標記語「-しゅ〔名〕【寺主】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-しゅ寺主】〔名〕三綱(さんごう=上座・寺主・都維那)の一つ。寺中の庶務、雑事をつかさどる僧」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
是石清水別當法印宗清、執務鎮西筥崎宮之間、天台末寺、大山寺神人、舩頭長光安、爲筥崎宮留主相摸寺主行遍、并子息左近將監光助等、被殺害《訓み下し》是レ石清水ノ別当法印宗清、鎮西筥崎ノ宮ヲ執シ務ムルノ間、天台ノ末寺、大山寺ノ神人、船頭ノ長光安、筥崎ノ宮ノ留主相模ノ寺主行遍、并ニ子息左近ノ将監光助等ガ為ニ、殺害セラル。《『吾妻鏡』建保六年九月二十九日の条、》
 
 
2004年11月21日(日)晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)→ローマ市街
都維那(ツイナ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「津」部に、標記語「都維那」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と文明四年本が「都維那」とし、宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本が「都維那」と記載する。訓みは、山田俊雄藏本が「ツイノ」、経覺筆本・文明四年本が「ツイナ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「都維那」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「都維那」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「都維那」の語を未収載にあり、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

641専堂(セン−)(アツカリ)勾當(コウ−)都維那(ツイナ) 風呂奉行云也。〔謙堂文庫蔵五六右B〕

とあって、標記語「都維那」の語を収載し、語注記は「風呂奉行を云ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

勾當(コウタウ)都維那(トイナ)寺主(シシユ)上座以下承仕(せウジ)宮仕(ミヤジ)(トウ)勾當(コウタウ)都維那(トイナ)寺主ハ。山伏道ニ用ル名也。

寺仕承仕(せウシ)宮仕使フ者也。カネツキ。キヨメスル者也。〔下33オ二〜四〕

とあって、この標記語「都維那は未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

都維那(ついな)都維那 仏事法会に称名をはしむる者也。〔85オ三〕

とあって、この標記語「都維那」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲都維那寺主上座是(これ)を三綱(かう)といふ。諸大寺にあり。延暦寺(えんりやくし)の三綱一任(いちにん)の後(のち)、諸国(しよこく)の講讀師(かうとくし)に任(にん)す。上座寺主ハ講師、都維那ハ讀師と云々。〔61ウ四、62オ七・八〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲都維那寺主上座是(これ)を三綱(かう)といふ。諸大寺にあり。延暦寺(えんりやくじ)の三綱一任(いちにん)の後(のち)、諸国(しよこく)の講讀師(かうとくし)に任(にん)ず。上座寺主ハ講師、都維那ハ讀師と云々。〔110ウ四、112オ二・三〕

とあって、標記語「都維那」の語をもって収載し、その語注記は、「都維那寺主上座是(これ)を三綱(かう)といふ。諸大寺にあり。延暦寺(えんりやくじ)の三綱一任(いちにん)の後(のち)、諸国(しよこく)の講讀師(かうとくし)に任(にん)ず。上座寺主は講師、都維那は讀師と云々」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「都維那」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-ゐな〔名〕【都維那】〔梵語、羯磨陀那(Karmadana.)の轉化語。都は統都、維は綱維の義、那は羯磨陀那の那〕又、つゐの。略して、維那(ヰナ)、又、維那(ヰノ)。さんがう(三綱)の條を見よ。〔1341-2〕

とあって、標記語「-ゐな〔名〕【都維那】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-いな都維那】〔名〕(梵Karmadana羯磨陀那の意訳)仏語。三綱(さんごう)の一つ。寺院内の諸事務をつかさどる役。維那(いな・いの)。ついの」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]※『塵袋』(1264-88頃)卷五・人倫「三ニハ都維(ツヰ)ヲ要律儀ニハ寺護ト翻ス。又悦衆ト云フ。又知僧事。又ハ知事ト云フ施主ノ施於平等ニ分也。都ハ惣ノ義。維ハ綱維(ツナ)ノ義也。那ト云フハ羯磨陀那ノ終ノ字也。羯磨陀那ヲハ、コヽニハ授ル事ト云フ道宣律師寳梁并大集經ヲ引テ云」〔三七七〜三八〇〕
《訓み下し》権都維那大法師慶俊、権都維那大法師仁慶《『吾妻鏡』元暦元年十一月二十三日の条、》
 
 
2004年11月20日(土)晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)
勾當(コウタウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、

勾當(タウ) 。〔元亀二年本232六〕〔天正十七年本中62ウ二〕

勾當(コウタウ) 。〔静嘉堂本267三〕

とあって、標記語「勾當」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當(コウ)都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「勾當」とし、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本に「コウ(タウ)」、文明四年本に「コウタウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

勾當 コウタウ/在僧在俗。〔黒川本・官職門下11オ三〕

勾當 在大臣家/在僧俗。〔卷第七・官職門197三〕

とあって、標記語「勾當」の語を収載し、語注記に「在僧在俗」「在大臣家/在僧俗」と記載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、標記語「勾當」の語は未収載にする。次にに、

勾當(コウタウヲノレ・スデニ、マヱ)[去・平] 又作以前。〔態藝門416六〕

とあって、標記語「勾當」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

勾當(コウタウ) 。〔・人倫門186五〕〔・人倫門152六〕〔・人倫門142六〕

とあって、標記語「勾當」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

勾勘(コウカン) 勘解由(カゲユ)―當(タウ)。〔官位門154一〕

とあって、標記語「勾當」の語を以て収載するに留まる。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「勾當」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、広本節用集』は、この語を未収載にする。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

641専堂(セン−)(アツカリ)勾當(コウ−)都維那(ツイナ) 風呂奉行云也。〔謙堂文庫蔵五六右B〕

とあって、標記語「勾當」の語を収載し、語注記は「高野にあり。また、神職の類なり。神領を拵ふる者なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

勾當(コウタウ)都維那(トイナ)寺主(シシユ)上座以下承仕(せウジ)宮仕(ミヤジ)(トウ)勾當(コウタウ)都維那(トイナ)寺主ハ。山伏道ニ用ル名也。

寺仕承仕(せウシ)宮仕使フ者也。カネツキ。キヨメスル者也。〔下33オ二〜四〕

とあって、この標記語「勾當は未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

内供奉(ないくぶ)堂達(いこう)堂(とう)乃達預(たつよ)専當(せんとう)勾當(こうとう)内供奉已講堂達預専當勾當 皆講堂中の事を支配する役也。〔85オ一〜三〕

とあって、この標記語「勾當」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲專當勾當ハ真言家(しんごんけ)にあり。行者(あんじや)に等(ひとし)くして法務(ほふむ)に預(あつか)る者とぞ。〔61ウ四、62オ七〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲專當勾當ハ真言家(しんごんけ)にあり。行者(あんじや)に等(ひとし)くして法務(ほふむ)に預(あづか)る者とぞ。〔110ウ四、112オ一・二〕

とあって、標記語「勾當」の語をもって収載し、その語注記は、「專當勾當は、真言家(しんごんけ)にあり。行者(あんじや)に等(ひとし)くして法務(ほふむ)に預(あつか)る者とぞ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「勾當」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

こう-たう〔名〕【勾當】〔專當の義〕(一)事柄を、專ら擔當して、處分すること。唐書、第五g傳「帝悦、拝監察御史江淮租庸使宋史、曹彬傳「奉敕江南シテ公事(ヘタルニ)續日本紀、三十九、延暦七年三月「和氣朝臣清麻呂言、河内攝津兩國之境、堀川築堤、自荒陵南、遵河内川、西通於海、然則沃壤益廣、可以墾闘矣、於是、便遣清麻呂其事(二)掌侍(ないし)の、第一に居る者の稱、勾當の内侍と云ふ。有職問答、一「勾當事、内侍方御いづれの品にあたり候哉、此外にも、勾當と申人御座候哉(傍註、内侍方の内、第一の掌侍を勾當と申候、是は内侍所の別當と云心にて候也)」(三)關白家にて、大小の雜務を掌る者の稱。保元物語、一、左府頼長上洛事「新院の御方へ參りける人には、云云、平馬助忠正、其子院藏人長盛、次男皇后宮侍長忠綱、三男左大臣勾當正綱」(四)眞言宗の寺にて、專ら、寺務を執る職の稱。庭訓往來、十月「聖道者、一寺紂衍、云云、勾當(五)盲官(マウクワン)の名、其條を見よ。太平記、廿四、依山門嗷訴公卿僉議事趙世家「いかなる大刹の長老、大勾當の人も、路次に行き逢ふ時は、膝を屈めて、地に跪き」〔0648-4〕

とあって、標記語「こう-たう〔名〕【勾當】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「こう-とう勾当】〔名〕@もっぱらその事を担当して処置すること。また、それをするもの。A中古、記録所や大蔵省の率分所(りつぶんじょ)、長殿(ながとの)などで事務をつかさどったもの。B摂政、関白家の侍所で、別当の下にあって事務をつかさどったもの。C「こうとう(勾当)の内侍」の略。D寺内の庶務雑事をつかさどる役名。E盲人の官の一つ。F神官の位の一つ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
寅刻、若宮大路燒亡始自咒師勾當辻、至于大學辻、子火芳延其中間人家、皆以災太宰少貳景頼入道宅、在其中〈云云〉《訓み下し》寅ノ刻ニ、若宮ノ大路焼亡。始メ呪師勾当(コウタウ)ノ辻ヨリ、大学ノ辻ニ至ルマデ、子ノ火芳延ス。其ノ中間ノ人家、皆以テ災ス。大宰少弐景頼入道ガ宅、其ノ中ニ在リト〈云云〉。《『吾妻鏡』弘長三年十二月十日の条、》
呉楽頭補任状案観世音寺番客所勾当調公武右人、呉楽頭件師高死闕 《『東大寺文書(内閣)』寛弘九年八月廿九日の条、109-4・5/330》
 
 
2004年11月19日(金)曇り。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
專當(センタウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「勢」部に、

× 。〔元亀二年本は、この箇所脱落して書冩〕

專當(せンタウ) 。〔静嘉堂本429六〕

とあって、標記語「專當」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「專當」とし、訓みは、文明四年本に「せンタウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

專當 せンタウ。〔黒川本・官職門下107オ二〕

。〔卷第十・官職門479四〕

とあって、標記語「專當」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「專當」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

專當(せンダウ) 。〔官位門233二〕

とあって、標記語「專當」の語を収載し、訓みは「センダウ」と記載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』そして、『運歩色葉集』・易林本節用集』に標記語「專當」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

641(セン−)(アツカリ)勾當(コウ−)都維那(ツイナ) 風呂奉行云也。〔謙堂文庫蔵五六右B〕

※天理図書館蔵『庭訓往来註』は、「專當」と標記する。国会図書館蔵『左貫注』も同じ。書込みに、「專當―所帯ヲ―ツカウ也」と記す。

とあって、標記語「專堂{}」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

大勸進(クハンシン)(せウ)別當得業(トクコウ)内供奉(ナイグブ)已講(イカウ)堂達(タウタツ)()(せン) 大勸進トテ北國ノ寺ニ多シ。餘()ノ寺方キク事稀(マレ)也。中國ニナシ。得業(トクゴウ)内供奉(グブ)已講(イカウ)ノ類皆検者ナリ。〔下33オ一・二〕

とあって、この標記語「專當は未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

内供奉(ないくぶ)堂達(いこう)堂(とう)乃達預(たつよ)専當(せんとう)勾當(こうとう)内供奉已講堂達預専當勾當 皆講堂中の事を支配する役也。〔85オ一〜三〕

とあって、この標記語「專當」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲專當勾當ハ真言家(しんごんけ)にあり。行者(あんじや)に等(ひとし)くして法務(ほふむ)に預(あつか)る者とぞ。〔61ウ四、62オ七〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲專當勾當ハ真言家(しんごんけ)にあり。行者(あんじや)に等(ひとし)くして法務(ほふむ)に預(あづか)る者とぞ。〔110ウ四、112オ一・二〕

とあって、標記語「專當」の語をもって収載し、その語注記は、「專當勾當は、真言家(しんごんけ)にあり。行者(あんじや)に等(ひとし)くして法務(ほふむ)に預(あつか)る者とぞ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「專當」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

せん-たう〔名〕【專當】(一)專ら、其事務に當ること。吾妻鑑、廿四、健保七年正月廿七日「今有將軍之闕、吾專當東關之長、早可廻計議之由、被示合(二)僧の、卑しきもの。驅使に供せらる。宇治拾遺物語、三、第十三條「その寺の專當法師、これを見て、善心を起して」平家物語、一、御輿振事「大衆、~人、宮仕(ミヤジ)專當〔1127-4〕

とあって、標記語「せん-たう〔名〕【專當】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「せん-たう專當】〔名〕(「せんどう」とも)@もっぱらその事にあたること。ある特定の業務を担当すること。また、その職や人。A寺院・神社の職の一つ。下級の雑事に従事する僧侶・神職。B平安時代以降、荘園の荘官の一つ。荘園の実務を担当する荘司」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
伊豆國、走湯山專當參著《訓み下し》伊豆ノ国、走湯山ノ専当参著ス。《『吾妻鏡安貞二年二月三日の条、》
若致未進者、從可加其催其催也、又於真木山開発田者、専当杣ξ官省符四官至之内也、《『東大寺文書(未成卷文書)』保安二年閏五月日の条、13・10/55
 
 
2004年11月18日(木)晴れ一時曇り。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
(アヅカリ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「阿」部に、標記語「(アツカリ)」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「」とし、訓みを山田俊雄藏本に「ヨ」、経覺筆本・文明四年本に「アツカリ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

アツカリ。〔黒川本・官職門下34オ一〕

アツカリ。〔卷第八・官職門382五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「」の語は未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』に標記語「」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。
 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

640(アツカリ) 高野。又神職類也。神領拵者也。〔謙堂文庫蔵五六右A〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は「高野にあり。また、神職の類なり。神領を拵ふる者なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

大勸進(クハンシン)(せウ)別當得業(トクコウ)内供奉(ナイグブ)已講(イカウ)堂達(タウタツ)()(せン)大勸進トテ北國ノ寺ニ多シ。餘()ノ寺方キク事稀(マレ)也。中國ニナシ。得業(トクゴウ)内供奉(グブ)已講(イカウ)ノ類皆検者ナリ。〔下33オ一・二〕

とあって、この標記語「は未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

内供奉(ないくぶ)堂達(いこう)堂(とう)乃達預(たつよ)専當(せんとう)勾當(こうとう)内供奉已講堂達預専當勾當 皆講堂中の事を支配する役也。〔85オ一〜三〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲預ハ高野(かうや)にあり。一山の俗務(ぞくむ)に預(あつか)る者也。〔61ウ四、62オ七〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲預ハ高野(かうや)にあり。一山の俗務(ぞくむ)に預(あづか)る者也。〔110ウ四、112オ一〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記を「預は、高野(かうや)にあり。一山の俗務(ぞくむ)に預(あづか)る者なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Azzucari.アヅカリ() azzucarimono(預り物)に同じ.保管を依託された物,または,借り物として自分の用に役立て使う物.〔邦訳45l〕

とあって、標記語「」の語の意味は「azzucarimono(預り物)に同じ.保管を依託された物,または,借り物として自分の用に役立て使う物」と記載し意味を異にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

あづ-かり〔名〕【】〔預り引受けて守る意〕職名。其官署の事務を總管する者。御書所預(ゴシヨどころのあづかり)、御厨子所(みずしの)預、繪所預など、是れなり。古今集、序「御書のところのあづかり紀貫之」源順集「御書所預坂上茂樹」拾芥抄、中、末、宮城「御厨子所、四位殿上人爲別當、以民部大輔五位預也」倭訓栞、あづかり「諸院に預あり、職掌の名也。古へに云ふ、専當(センタウ)なるべし、云云、高野(カウヤ)にて、を、音もて呼べり」〔0049-5〕

とあって、標記語「あづ-かり〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「あず-かり】〔名〕C職名。イ古代、百済における地方軍事指揮官。都城以外を中、東、西、南、北の五方に分け、それぞれに指揮官を置いた。ロ平安時代の役人の一つ。実務担当の責任者。例えば御厨子所、画所、進物所、武者所などにおかれた」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而重家、自近衛殿、賜小橋庄所職候畢《訓み下し》而ルニ重家、近衛殿ヨリ、小橋ノ庄ノ預カリ所ノ職ヲ賜ハリ候ヒ畢ンヌ。《『吾妻鏡文治二年正月二十四日の条、》
 
 
2004年11月17日(水)晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
堂達(ダウタツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

堂達 。〔元亀二年本224一〕〔天正十七年本中57ウ一〕

堂達 。〔静嘉堂本256五〕

とあって、標記語「堂達」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「堂達」とし、訓みは文明四年本に「ダウタツ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

堂達 タウタツ。〔黒川本・官職門中12オ四〕

堂塔 〃閣。〃舎。〃牒。〃上。〃達。〃殿。〃室。〔卷四・畳字門445二〕

とあって、標記語「堂達」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「堂達」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「堂達」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、広本節用集』の語注記は、大いに異なっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

639堂達 已講也。〔謙堂文庫蔵五六右A〕

とあって、標記語「堂達」の語を収載し、語注記は「猶、已講のごときなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

大勸進(クハンシン)(せウ)別當得業(トクコウ)内供奉(ナイグブ)已講(イカウ)堂達(タウタツ)()(せン)大勸進トテ北國ノ寺ニ多シ。餘()ノ寺方キク事稀(マレ)也。中國ニナシ。得業(トクゴウ)内供奉(グブ)已講(イカウ)ノ類皆検者ナリ。〔下33オ一・二〕

とあって、この標記語「堂達は未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

内供奉(ないくぶ)已講(いこう)(とう)預(たつよ)専當(せんとう)勾當(こうとう)内供奉已講堂達預専當勾當 皆講堂中の事を支配する役也。〔85オ一〜三〕

とあって、この標記語「堂達預」の語を未収載にし、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲堂達ハ堂外(たうぐわい)に諸僧(しよそう)を引て執當(しつたう)へわたす役(やく)也。〔61ウ四、62オ六・七〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲堂達ハ堂外(たうぐわい)に諸僧(しよそう)を引て執當(しつたう)へわたす役也。〔110ウ四、111ウ六〜112オ一〕

とあって、標記語「堂達」の語をもって収載し、その語注記は、「堂達は、堂外(たうぐわい)に諸僧(しよそう)を引て執當(しつたう)へわたす役(やく)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「堂達」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「だう-たつ〔名〕【堂達】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「どう-だつ堂達】〔名〕仏語。七僧の一つ。法会(ほうえ)・受戒などの際に、唄師・散華などの下にあって諸事を行ない、願文を導師に、呪願文を呪願師に捧げる役僧。小右記−永延元年(987)五月四日「於東塔堂行堂、令修法、<略>講師<平景>、呪願<円賀僧都>、<略>堂達<厳康>、堂僧十四口等也」*左経記−寛仁四年(1020)三月二十二日「御堂供養請僧、<略>堂達二人阿闍梨道命、擬講教円」*庭訓往来(1394-1428頃)「已講、堂達大乗院寺社雑事記−文正元年(1466)四月晦日「為堂達也」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
当国講師進十市郡料八石 大堂達厳伝進城下郡西郷料一石 堂達厳〓進城下郡西郷料六斗 珍慶進一石之中、六斗山辺郡北郷料、四斗添上郡南郷料 財福守名僧蓮秀進山辺郡北郷料五斗九升 僧厳好進添上郡南郷料一斗未進弐斛陸斗壱升以前、白米進未勘申如件、 《『東大寺文書(内閣)』長保二年八月十三日の条、149・5/445》
 
 
已講(イカウ)」は、ことばの溜池(2000.12.11)を参照。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「已講」とし、訓みは経覺筆本に「イ(カウ)」、文明四年本に「イカウ」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

大勸進(クハンシン)(せウ)別當得業(トクコウ)内供奉(ナイグブ)已講(イカウ)堂達(タウタツ)()(せン)大勸進トテ北國ノ寺ニ多シ。餘()ノ寺方キク事稀(マレ)也。中國ニナシ。得業(トクゴウ)内供奉(グブ)已講(イカウ)ノ類皆検者ナリ。〔下33オ一・二〕

とあって、この標記語「已講を収載し、語注記は「得業(トクゴウ)・内供奉(グブ)・已講(イカウ)の類皆検者なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

内供奉(ないくぶ)已講(いこう)堂(とう)乃達預(たつよ)専當(せんとう)勾當(こうとう)内供奉已講堂達預専當勾當 皆講堂中の事を支配する役也。〔85オ一〜三〕

とあって、この標記語「已講」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲已講ハ即(すなハち)探題(たんだい)也。九月返状に見ゆ。〔61ウ四、62オ六〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲已講ハ即(すなハち)探題(たんだい)也。九月返状に見ゆ。〔110ウ四、111ウ六〕

とあって、標記語「已講」の語をもって収載し、その語注記は、「已講は、即(すなハち)探題(たんだい)なり。九月返状に見ゆ」と記載する。
 明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-かう〔名〕【已講】〔已に講じ畢へたる意、正韻「已()、音以」玉篇「止也、畢也」拾芥抄、中、末、綱所「已講(イカウ)、謂之有職」僧ノ職名。三會已講師の略。奈良の三會の講師を勤めたる者をも稱せり。さんゑ(三會)の條を見よ〕太鏡、下、道長、山階寺維摩會「南京法師は、三會講師しつれば、已講と名づけて、云云、律師僧綱になる」釋家官班記、下「講師調者、南北各別之勅命也、受講以後、謹仕以前稱擬講、謹仕以後號已講也」(古事類苑、已講)〔0132-5〕

とあって、標記語「-かう〔名〕【已講】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-こう已講】〔名〕(「三会已講師(さんえいこうし)」の略)僧の学階を表わす称号で、有職三綱の一つ。宮中の御齋会、薬師寺の最勝会、興福寺の維摩会の三会の講師を勤めあげた僧をいう。のちに、天台宗では天台三会の講師を勤めた者をもいう。法相宗、浄土宗などでは今日も学階の一つとして行われている」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
平泉内寺々住侶、源忠已講、心蓮大法師快能等參上《訓み下し》平泉ノ内寺寺ノ住侶、源忠已講(イカウ)、心蓮大法師快能等、参上ス。《『吾妻鏡』文治五年九月十一日の条》
法師、俄巧無実、往古院主遍陳已講、号院家修理料、彼往古之所領田畠、多注沽却由、雖致其訴、
遍陳已講沽劵無実之上、依無院家一紙文書、資範之親父行範、任所帯公験理、可令領知之由、賜公文所所裁判畢、《『東大寺文書(図書館・成卷文書)』保安四年二月十九日の条、412・7/263
 
 
2004年11月16日(火)晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
内供奉(ナイグブ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「那」部に、標記語「内供奉」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「内供奉」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「内供奉」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「内供奉」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

内記() ―供奉(グブ)。〔官位門109四〕

とあって、標記語「内記」の熟語群に「内供奉」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』に「内供奉」の語が収載されていて、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本も収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

637内供奉(−グフ) 座主参内之輿舁(カキ)也。〔謙堂文庫蔵五六右@〕

とあって、標記語「内供奉」の語を収載し、語注記は「座主、参内の輿舁(カキ)なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

大勸進(クハンシン)(せウ)別當得業(トクコウ)内供奉(ナイグブ)已講(イカウ)堂達(タウタツ)()(せン)大勸進トテ北國ノ寺ニ多シ。餘()ノ寺方キク事稀(マレ)也。中國ニナシ。得業(トクゴウ)内供奉(グブ)已講(イカウ)ノ類皆検者ナリ。〔下33オ一・二〕

とあって、この標記語「内供奉は未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

内供奉(ないくぶ)已講(いこう)堂(とう)乃達預(たつよ)専當(せんとう)勾當(こうとう)内供奉已講堂達預専當勾當 皆講堂中の事を支配する役也。〔85オ一〜三〕

とあって、この標記語「内供奉」の語を未収載にし、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲大勧進ハ。〔61ウ四、62オ四〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲内供奉ハ。〔110ウ四、111ウ三〕

とあって、標記語「内供奉」の語をもって収載し、その語注記は、「内供奉は、」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「内供奉」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ない-ぐぶ〔名〕【内供奉】〔内供奉僧の略〕宮中の内道塲に奉仕する僧職。寳龜三年始めて置かれ、廣く高コの僧十人を撰びて補せらる。故に、内供奉十禪師と云ふ。(禪師の條を見よ)略して、供奉。又、内供。後拾遺徃生傳「僧圓觀、云云、俗呼鳥樟供奉平家物語、三、赦文事「三條の院の御目も御覽ぜられざりしは、桓算供奉が靈とかや」、十、高野卷事「僧正の御弟子石山のないぐじゅんゆう(内供淳祐)其時はいまだとうきゃうにて供奉せられたり」塵添?嚢鈔、十五、内供奉事「十禪師は、光仁天皇寳龜二年三月に、始めて被置所也。十人の中に、闕あれば、海内の名コを撰で補之、十禪に定る故に有此名也、内供奉は同天皇、寳龜三年に普く勅諸國、智行を擇で此官に任ず、云云、唐のコ宗皇帝、圓昭法師を擇で、爲内供奉、内道塲の供僧なれば、内供奉と云ふ」〔1440-4〕

とあって、標記語「ない-ぐぶ〔名〕【内供奉】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ない-ぐぶ内供奉】〔名〕宮中の内道場に奉仕し、毎年御齋会(ごさいえ)が行われる時に読師(どくし)などの役をつとめ、国家鎮護の任を負った僧。十禅師の兼職で、諸国より浄行の高僧が選抜された。十禅師。内供」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
阿闍梨頼宴 内供奉辨盛《『吾妻鏡』正嘉元年十月一日の条、》
天暦三年八月廿八日伝伝阿闍梨内供奉十禅師淳祐妙成就許可之事高野旧風之中、所不行也。《『醍醐寺文書』の天暦三年八月廿八日条、163-1・1/120》
 
 
2004年11月15日(月)曇り一時小雨。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
得業(トクゴフ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「登」部に、標記語「得業」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「得業」とし、訓みは、経覺筆本に「トクケフ」、文明四年本に「トクコウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「得業」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「得業」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「得業」の語は未収載にあって、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本は、収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

636得業(トクキヤウ) 奈良之上官也。高野下職也。又聖家ニハ公家□也。〔謙堂文庫蔵五六右@〕

とあって、標記語「得業」の語を収載し、語注記は「奈良の上官なり。高野下職なり。また、聖家には、公家を□なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

大勸進(クハンシン)(せウ)別當得業(トクコウ)内供奉(ナイグブ)已講(イカウ)堂達(タウタツ)()(せン)大勸進トテ北國ノ寺ニ多シ。餘()ノ寺方キク事稀(マレ)也。中國ニナシ。得業(トクゴウ)内供奉(グブ)已講(イカウ)ノ類皆検者ナリ。〔下33オ一・二〕

とあって、この標記語「得業を収載し、語注記に「得業(トクゴウ)・内供奉(グブ)・已講(イカウ)の類、皆検する者なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

小別當(こべつとう)得業(とくげふ)小別當得業 学問を教る官なり。〔85オ一〕

とあって、この標記語「得業」の語を未収載にし、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲大勧進ハ。〔61ウ四、62オ四〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲得業ハ。〔110ウ四、111ウ三〕

とあって、標記語「得業」の語をもって収載し、その語注記は、「得業は、」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「得業」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

とく-ごふ〔名〕【得業】(一)文章(モンジヤウ)得業生の稱。唐名、秀才と云ふ。(二)僧の學階の名。南都にては、興福寺の維摩會、及、法華會、藥師寺の最勝會の三會の竪義(リフギ)を遂げしもの。山門にては、横川(よがは)の四季講、定心房の三講の聽衆を勤めしものを云ふ。〔1396-5〕

とあって、標記語「とく-ごふ〔名〕【得業】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「とく-ごう得業】〔名〕(「ごう」は「業」の呉音)仏語。@きめられた仏道修行をおさめ終えること。また、その人。A僧の学問上の階級の一つ。奈良三会(興福寺の維摩会、法華会、薬師寺の最勝会)に参列して論場で探題の出した問題について理論を述べて答えることをなし遂げた者の称号。比叡山では横川の四季講と定心房の三講の聴衆をつとめた者。B浄土宗や浄土真宗で、学階の一つ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]『書言字考節用集』に、「得業(トクゴフ)僧家積美稱」〔第四冊人倫四12三〕
豫州、隠住多武峯事、風聞依之、彼師壇鞍馬東光坊阿闍梨、南都周防得業等、有同意之疑、可被召下之〈云云〉《訓み下し》予州、多武ノ峰ニ隠レ住スル事、風聞ス。之ニ依テ、彼師檀鞍馬ノ東光坊阿闍梨、南都ノ周防ノ(トク)等、同意ノ疑ヒ有リ、之ヲ召シ下サルベシト〈云云〉。《『吾妻鏡』文治二年二月十八日の条》
目代明経准得業生紀在判応任本符旨、免除観世音寺碓井封田佰伍拾壱町肆段弐歩事 《『東大寺文書(図書館成卷文書)』長和三年二月十九日の条、321-1・7/126》
 
 
2004年11月14日(日)曇り。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
小別當(セウベツタウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「勢」部に、標記語「小別當」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「小別當」とし、訓みは文明四年本に「コヘツタウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「小別當」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「小別當」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「小別當」の語は未収載にあって、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

635小別當 同上。〔謙堂文庫蔵五六右@〕

とあって、標記語「小別當」の語を収載し、語注記は「同上」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

大勸進(クハンシン)(せウ)別當得業(トクコウ)内供奉(ナイグブ)已講(イカウ)堂達(タウタツ)()(せン)大勸進トテ北國ノ寺ニ多シ。餘()ノ寺方キク事稀(マレ)也。中國ニナシ。得業(トクゴウ)内供奉(グブ)已講(イカウ)ノ類皆検者ナリ。〔下33オ一・二〕

とあって、この標記語「小別當は未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

小別當(こべつとう)得業(とくげふ)小別當得業 学問を教る官なり。〔85オ一〕

とあって、この標記語「小別當」の語を未収載にし、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲小別當ハ別當(べつたう)の取次(とりつぎ)也。〔61ウ四、62オ五〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲小別當ハ別當(べつたう)の取次(とりつぎ)也。〔110ウ四、111ウ五〕

とあって、標記語「小別當」の語をもって収載し、その語注記は、「小別當は、別當(べつたう)の取次(とりつぎ)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「小別當」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

せう-たう〔名〕【少別當】(一)~社の~職、大別當の次席のもの。還碧軒日記、一、人倫「鎌倉の大別當と云は、古は、社僧の門跡なり、今は、これは絶えて、少別當ばかりあり、これも、社僧なり」新編鎌倉志、一「社務職次第に云、當社(鶴岡八幡宮)別當宮、圓曉法眼、三井寺より御下向、御供肥前法橋永契と申す坊官也、然閨A建久二年十一月日、別當圓曉御坊より、少別當の官を給り、社内の掃除奉行に定め置るる者也」台コ院殿御實紀、附録、四、慶長十六年正月廿日「連歌の筵、開かる、云云、鎌倉鶴岡八幡宮少別當大庭周能と云ふ者、御連衆に召し加へられ、常に御會に召し出さる」(二)寺院の僧職。初例抄、上、以正員僧綱東大寺小別當例、權律師覺雅、三會一勝鬘僧正入室弟子、六條右府息男、康治元、十二月、任(小別當)」〔1098-1〕

とあって、標記語「せう-べつたう〔名〕【少別當】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しょう-べつたう少別当小別当】〔名〕神社・寺院の位階の一つ。大別当の次席にあり、寺社の諸職を統轄した」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
右件保、所奉寄當宮神領也早爲少別當任賢沙汰、知行保務、爲祈祷、以所當物、可令神事用途之状、奉寄如件《訓み下し》右件ノ保ハ、当宮神領ニ寄セ奉ル所ナリ。早ク少別当任賢ガ沙汰トシテ、保務ヲ知行シ、祈祷ノ為ニ、所当物ヲ以テ、神事ノ用途トセシムベキ(宛テシムベキ)ノ状、奉寄件ノ如シ。《『吾妻鏡』元暦二年六月五日の条、》
件日時、正四位下行大膳権大夫安部季広勘注之、官符請取所司権寺主兼小別当盛継、御殿司山上執行云々、 《『石清水文書(田中)』建久三年二月四日の条、423・2/122
 
 
2004年11月13日(土)晴れ夜雨。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
大勧進(ダイクワンジン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、標記語「大勧進」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「大勧進」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「大勧進」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「大勧進」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「大勧進」の語は未収載にあって、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

634大勧進 法印頭也。又中堂造立座主也。用叡山之義也。〔謙堂文庫蔵五五左H〕

とあって、標記語「大勧進」の語を収載し、語注記は「法印の頭なり。また、中堂造立の座主なり。叡山、用ゆるの義なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

大勸進(クハンシン)(せウ)別當得業(トクコウ)内供奉(ナイグブ)已講(イカウ)堂達(タウタツ)()(せン)大勸進トテ北國ノ寺ニ多シ。餘()ノ寺方キク事稀(マレ)也。中國ニナシ。得業(トクゴウ)内供奉(グブ)已講(イカウ)ノ類皆検者ナリ。〔下33オ一・二〕

とあって、この標記語「大勧進の語を収載し、語注記は「大勸進とて北國の寺に多し。餘()の寺方きく事稀(マレ)なり。中國になし」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

大勧進(だいくわんしん)大勧進 山伏の頭なり。〔84ウ八〕

とあって、この標記語「大勧進」の語を未収載にし、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲大勧進ハ。〔61ウ四、62オ四〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲大勧進ハ。〔110ウ四、111ウ三〕

とあって、標記語「大勧進」の語をもって収載し、その語注記は、「大勧進は、」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「大勧進」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「だい-くゎんじん〔名〕【大勸進】」の語は未収載にし、ただ、

くゎん-じん〔名〕【勸進】〔勸誘、進導の義、自己の意志よりする、寄進に對する語なるべし〕(一)勸化に同じ。佛寺に要する金錢、材料を、諸人より募集すること。募縁。源平盛衰記、十八、文覺高雄勸進事「自力造營の事は、いかでか叶ふべきなれば、知識奉加の勸進にて、自他の利益を遍くせむ」宇治拾遺物語、十二、第四條「材木取らむとて勸進し、集めたる物を皆運び寄せて、此陰陽師に取らせつ」尺素徃來「爲勸進、本座新座之田樂、云云、可(ホドコス)所能候、殊見物之志候、桟敷四五閨A打聞可之候」勸進聖」勸進能」勸進相撲」(二)乞食の事を、伊豆にて、かんじんと云ひ、越後、出雲にて、かんじと云ふ、勸進聖の名に因りて、錢を乞ひしよりの名なり。〔0585-3〕

とあって、ここでの意味内容とは、異なることがらの意味説明となっている。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「だい-かんじん大勧進】[一]〔名〕寺院建立のため募財に従事する僧の頭目ならびに職。[二]浄土宗に属する大本願とともに、長野市の善光寺の寺務をつかさどる寺。天台宗に属する。もと、この寺の別当職の名で、転じて寺名となった。また、その善光寺仁王門下西側にある大勧進の寺をいう」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を[一]に記載する。
[ことばの実際]
信濃國、善光寺、五重塔婆供養也、浄定上人、爲大勸進、令知識奉加〈云々〉《訓み下し》信濃ノ国善光寺ノ、五重ノ塔婆供養ナリ。浄定上人、大勧進(ダイクワンジン)トシテ、知識奉加セシム(知識ヲ勧進シ奉加セシム)ト〈云云〉。《『吾妻鏡』嘉禎三年十月十六日の条、》
○当時戒壇院(律宗)長老ガ大勧進職デアリ、造東大寺料国ノ国司上人ヲ兼ネ、油倉ハソノ被官デアツタ、東大寺油倉地蔵菩薩修正料田等事右地蔵薩者、沙門道俊、于時油倉知事、為防州・肥前両国国衙祈祷、所奉造立也、《『東大寺文書(図書成卷文書)』康永三年十月二十四日の条、805・9/61》
 
 
2004年11月12日(金)朝晴れ後曇り。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
山目代(ヤマノモクダイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「弥」部に、標記語「山目代」の語は未収載にする。ただし、「毛」部には、

目代(モクダイ) 。〔元亀二年本348五〕

目代(ダイ) 。〔静嘉堂本419一〕

とあって、標記語「目代」の語で収載し、訓みは「モクダイ」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「山目代」とし、訓みは経覺筆本に「(ヤマ)ノモクタイ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

目代 史/部。〔黒川本・畳字門下100オ八〕

目代 モクタイ。〔卷第十・官職門428六〕

とあって、標記語「山目代」の語は未収載であるが、「目代」の語で収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「山目代」「目代」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

目代(モクダイホク・メ、シロ・カワル)[入・去] 。〔態藝門1071七〕

とあって、標記語「目代」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

目代(メシロ)モクタイ 。〔・人倫門228六〕

目代(モクダイ) 。〔・人倫門258六〕〔・人倫門220八〕〔・人倫門206九〕

とあって、標記語「目代」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

目代(モクダイ) 。〔人倫門229四〕

とあって、標記語「目代」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「山目代」の語では収載されず、標記語「目代」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

633僧都法印山目代 能州石動山用之一山守護也云々。〔謙堂文庫蔵五五左G〕

※「山目代弓矢取法師頭也。又云一山之守護也」〔天理図書館蔵『庭訓往來註』頭冠書込み〕

とあって、標記語「山目代」の語を収載し、語注記は「能州、石動山これを用ゆ。一山の守護なり云々」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

目代 ト云ハ。検断(ダン)人ナリ。〔下33オ一〕

とあって、この標記語「山目代語を収載し、語注記は「検断人なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(やま)の目代(もくだい)目代 一山乃検断(けんたん)たる役なり。〔84ウ八〕

とあって、この標記語「山目代」の語を未収載にし、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲山目代ハ叡山(ゑいざん)にあり。一山の俗務(そくむ)に預(あつか)る者也。高野山(かうやさん)の預()に同じとぞ。〔61ウ四、62オ五〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲山目代ハ叡山(ゑいざん)にあり。一山の俗務(ぞくむ)に預(あづか)る者也。高野山(かうやさん)の預()に同じとぞ。〔110ウ四、111ウ四〕

とあって、標記語「山目代」の語をもって収載し、その語注記は、「山目代は、叡山(ゑいざん)にあり。一山の俗務(ぞくむ)に預(あづか)る者也。高野山(かうやさん)の預()に同じとぞ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Mocudai.モクダイ(目代) Mexiro(目代)に同じ.自分に委託されたもの,たとえば,ある在所とか村落とかなどを,見回り監視することを職とする役人.¶また,寺院にあっては,管理者・宗務担任者のような役目.〔邦訳416l〕

とあって、標記語「目代」の語の意味は「寺院にあっては,管理者・宗務担任者のような役目」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』、さらにには、現代の『日本国語大辞典』第二版においても、標記語「やまの-もくだい〔名〕【山目代】」の語は、未収載にする。ただし、標記語「もく-だい〔名〕【目代】」の語で『大言海』に、

もく-だい〔名〕【目代】〔目は、見守る意、後の目付の如し、國司の目(サクワン)の代、の意とするにはあらず〕(一)又、めしろ。古へ、國司、任に趣かぬ時、代理せしむる者。眼代(ガンダイ)。目代(めダイ)字類抄目代、モクタイ」吾妻鑑、三、壽永三年四月廿三日「常陸御目代殿」(二)佛寺にて、寺領、其他の雜務を掌る僧職。庭訓徃來、十月「山目代、大勸進」(三)伊勢大~宮の~職の一。建久九年内宮假殿遷宮記、「司聽目代、外宮權~主」〔2001-2〕

とあって、(二)の意味に『庭訓徃來』「山目代」の用例が記載されている。『日本国語大辞典』第二版にも、「もく-だい目代】〔名〕@平安中期以降、国守の代理人。任国に下向しない国守の代わりに在国して執務する私的な代官。眼代(がんだい)。めしろ。A鎌倉以降、その職の正員(しょういん)の代わりに現地で執務する者。B江戸時代、代官のこと。C代理人。身代わり」とあって、『庭訓徃來』の語用例は未記載となっている。
[ことばの実際]
山目代《『高野山文書(宝簡)』宝治二年二月十日の条、395・1/427
 
 
2004年11月11日(木)雨。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
法印(ホウ()イン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、

法印(イン) 。〔元亀二年本42三〕〔天正十七年本上24オ三〕

法印 。〔静嘉堂本46三〕

とあって、標記語「法印」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「法印」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

法印 ホウ()イン。〔黒川本・官職門上39ウ二〕

法印 。〔卷第二・官職門348一〕

とあって、標記語「法印」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「法印」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

法印(ホフイン/ノリ、ヲビテ・シルシ)[入・去] 。〔官位門96五〕

とあって、標記語「法印」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

法印(イン) 。〔・人倫門32七〕

法印(ホウイン) 。〔・人倫門33三〕〔・人倫門35三〕

法師(ホウシ) ―眼。―橋。―印。〔・人倫門29八〕

とあって、標記語「法印」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

法印(ホフイン) 。〔人倫門29六〕

とあって、標記語「法印」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「法印」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、広本節用集』の語注記は、大いに異なっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

633僧都法印山目代 能州石動山用之一山守護也云々。〔謙堂文庫蔵五五左G〕

とあって、標記語「法印」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

律師(リツシ)僧都(ソウヅ)法印僧正 (ツネ)ノ名何(イツレ)モ權(コン)ノ字()ヲ置(ヲヒ)テ云也。僧都大小ヨリ。法印(ホウイン)僧正(ソウジヤウ)(ゴク)位ノ官也。綸旨(リンシ)墨紙(ボクシ)ノ名ナリ。〔下32ウ七・八〕

とあって、この標記語「法印の語を収載し、「法印(ホウイン)僧正(ソウジヤウ)(ゴク)位の官なり。綸旨(リンシ)墨紙(ボクシ)の名なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

法橋(ほつきやう)律師(りつし)僧都(そうづ)法印(ほういん)僧正(そうじやう)法橋律師僧都法印僧正 皆僧の位階なり。推古(すいこ)天皇(てんわう)の御宇(きよう)に初て僧官を立玉ひ観勒(くわんろく)といえる僧を僧正とし、鞍部(くらつくり)のコ積(とくづミ)を僧都とし、阿裹(あつミ)の連(むらじ)をコ頭とし玉へり。其後 清和(せいわ)天皇の御宇に法橋法眼(ほうけん)法印乃位階(かい)を制(せい)し、律師(りつし)已上の位とし玉ふ。法印の位を僧正の階とし、法眼の位を僧都の階とし、法橋の位を律師の階とす。されハ、法橋律師法眼僧都法印僧正といふへきに、今こゝに法眼乃二字なきハ脱落(たつらく)したるなるへし。〔84ウ四〜八〕

とあって、この標記語「法印」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲法印ハ大和尚の位也。相當僧正位(そうしやうゐ)。〔61ウ四、62オ四〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲法印ハ大和尚(たいおしやう)の位也。相當僧正位(そうしやうゐ)。〔110ウ四、111ウ三〕

とあって、標記語「法印」の語をもって収載し、その語注記は、「法印は、大和尚(たいおしやう)の位也。相當僧正位(そうしやうゐ)」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fo>in.ホウイン(法印) 坊主(Bozos),または,剃髪者の或る位.〔邦訳258l〕

とあって、標記語「法印」の語の意味は「坊主(Bozos),または,剃髪者の或る位」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ほふ-いん〔名〕【法印】(一){第一等の僧位。僧正の官に相當す。又、大和尚。和名抄、五2職名「僧位階、法印大和尚位、僧正位」初例抄、上、法印始「天台、覺助、關白右大臣道雅三男、自少僧都法印初例也、天喜三年十二月廿八日叙」東北院供養記、長元三年八月廿一日「大僧都永圓可法印榮花物語、三十七、烟の後「とみにも入らせ給はで、法印の物し給ふ小野の、いとをかしかなるも、御覽ぜまほしく」(二)俗に、山伏の稱。女殺油地獄(享保、近松作)「皆様知らずか、あんまり奇妙で、異名を白稲荷法印と申す、今の世の流行り山伏」(三)鎌倉時代より江戸時代にかけて、僧位の僧綱(ソウガウ)に准じて、儒者、佛師、連歌師、醫師、及、畫師などに授けし地位の稱。本朝畫史、一「託摩爲遠、藤原、任豊後守、云云、晩年號勝治剃髪叙法印基量卿記、貞享二年五月十八日「産後醫師良安、叙法印、職事基勝朝臣へ申渡了、抑産後醫師法印事、先例雖之、良安義、年來中宮御療治、云云」〔1849-4〕

とあって、標記語「ほふ-いん〔名〕【法印】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ほう-いん法印】〔名〕仏語。@(梵dharma-uddana,dharma-mudraの訳語)仏教を外道と区別する標識で、仏法が真実で不動不変であることを示す真理のしるし。小乗仏教では、諸行無常・諸法無我印・涅槃寂靜印の三法印とし、大乗仏教では、一実相印の一法印とする。A「ほういんだいおしょうい(法印大和尚位)」の略。B中世以降、僧侶の称号に準じて、儒者・仏師・医師・連歌師・画工などに授けられた称号。C山伏(やまぶし)の異称」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
石清水別當成清法印申、興行兩條、所被申京都也俊兼、奉行之《訓み下し》石清水ノ別当成清法印(イン)申ス、興行ノ両条、京都ニ申サルル所ナリ。俊兼、之ヲ奉行ス。《『吾妻鏡元暦元年十月二十八日の条、》
 
 
2004年11月10日(水)雨。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
僧都(ソウヅ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、標記語「僧都」の語は収載されているが、器財門に相当する語として収載するに留まるものである。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「僧都」と記載する。

 古辞書の収載については、前の「僧正」のところを参照いただきたい。但し、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

僧都 ソウツ/大少。〔黒川本・官職門中19ウ六〕

僧都 日本記曰、推古天皇卅二―甲申四月壬戌日以鞍部コ積僧都僧綱始也。件々々々々者高麗国僧也。〔卷第四・官職門562三〕

とあって、標記語「僧都」の語を収載する。
 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

632僧都 相當法印。〔謙堂文庫蔵五五左G〕

とあって、標記語「僧都」の語を収載し、語注記は「相當、法印」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

律師(リツシ)僧都(ソウヅ)法印僧正 (ツネ)ノ名何(イツレ)モ權(コン)ノ字()ヲ置(ヲヒ)テ云也。僧都大小ヨリ。法印(ホウイン)僧正(ソウジヤウ)(ゴク)位ノ官也。綸旨(リンシ)墨紙(ボクシ)ノ名ナリ。〔下32ウ七・八〕

とあって、この標記語「僧都」の語注記そのものは未収載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

法橋(ほつきやう)律師(りつし)僧都(そうづ)法印(ほういん)僧正(そうじやう)法橋律師僧都法印僧正 皆僧の位階なり。推古(すいこ)天皇(てんわう)の御宇(きよう)に初て僧官を立玉ひ観勒(くわんろく)といえる僧を僧正とし、鞍部(くらつくり)のコ積(とくづミ)を僧都とし、阿裹(あつミ)の連(むらじ)をコ頭とし玉へり。其後 清和(せいわ)天皇の御宇に法橋法眼(ほうけん)法印乃位階(かい)を制(せい)し、律師(りつし)已上の位とし玉ふ。法印の位を僧正の階とし、法眼の位を僧都の階とし、法橋の位を律師の階とす。されハ、法橋律師法眼僧都法印僧正といふへきに、今こゝに法眼乃二字なきハ脱落(たつらく)したるなるへし。〔84ウ四〜八〕

とあって、この標記語「僧都」の語注記は未収載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲僧都ハ四位殿上人(でんしやうひと)に准(しゆん)ず。〔61ウ四、62オ四〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲僧都ハ四位殿上人(てんしやうびと)に准(しゆん)ず。〔110ウ四、111ウ三〕

とあって、標記語「僧都」の語をもって収載し、その語注記は、「僧都は、四位殿上人(でんしやうひと)に准(しゆん)ず」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「僧都」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

そう-〔名〕【僧都】〔授事を司る僧を、都維那(ツヰナ)と云ふ、これより、僧都の名、出づと、高楠順次郎の説〕(一){僧官の名、僧正に次ぐ。大、少、各、正、權あり(僧綱(ソウガウ)の條を見よ)宇津保物語、嵯峨院83「萬づの、かしこしと云はるる、そうづ、僧正、申し集めて、不斷の御修法、七八壇せさせ給ふ」源氏物語、五、若紫10「そうづ、彼方より來て」 (二)案山子(かがし)(そほづの條を見よ)。運歩色葉集僧都」注「聖家之宮、又、山田、驚鳥之物也、備中湯川寺玄賓僧都始作之、故呼曰僧都續古今集、十七、雜、上「山田守()る、そうづの身こそ、あはれなれ、秋果て(厭果つに云ひかく)ぬれば、訪ふ人もなし」〔1142-1〕

とあって、標記語「そう-〔名〕【僧都】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「そう-僧都】〔名〕@僧官である僧綱の一つ。僧正に次いで僧侶を統轄するもの。もと、大僧都・少僧都各ひとりであったが、後には、大僧都・権大僧都・少僧都・権少僧都の四階級に分かれた。大宝令(七〇一)では俗人の従五位に凖じていたが、弘安八年(一二八五)の制度で四位の殿上人に準じた。後世諸宗の僧階でこの称を用いる。A「そおず(案山子)」に同じ。B⇒そうず(添水)」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
當庄根本者、開發領主、散位俊成、奉寄彼山之間、別當湛快、令領掌之、讓附女子始爲行快僧都之妻後嫁前薩摩守平忠度朝臣《訓み下し》当庄ノ根本ハ、開発ノ領主、散位俊成、彼ノ山ニ寄セ奉ルノ間、別当湛快、之ヲ領掌セシメ、女子ニ譲附ス。件ノ女子)始メハ行快僧都ノ妻タリ。後ニハ前ノ薩摩ノ守平ノ忠度朝臣ニ嫁ス。《『吾妻鏡』元暦二年二月十九日の条》
 
 
2004年11月9日(火)晴れ後曇り雨。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
僧正(ソウジヤウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「楚」部に、

僧正(ソウジヤウ) 。〔元亀二年本153一〕

僧正 。〔静嘉堂本167五〕

僧正(シヤウ) 。〔天正十七年本中15オ六〕

とあって、標記語「僧正」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「僧正」とあって、至徳三年本はこの語を未収載にする。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「僧正」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「僧正」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

僧正(ソウジヤウスミゾメ・ヨステビト、せイ)[平・平去] 僧都 二共。聖道家()官位也。〔官位門385六〕

とあって、標記語「僧正」の語を収載し、次の「僧都」と併せた形態で、語注記「二共、聖道家()の官位なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

僧正(ジヤウ)僧都() 二共。聖道家()官位。〔・人倫門118七〕

僧正 ―都()。〔・人倫門100六〕

僧都() ―正。〔・人倫門91一〕

僧都() ―正(ジヤウ)。〔・人倫門110七〕

とあって、標記語「僧正」の語を収載し、このうち弘治二年本は、広本節用集』の語注記を継承して「二共。聖道家()の官位」と記載する。また、易林本節用集』に、

僧正(ソウシヤウ) ―都()―綱(カウ)。〔官位門99四〕

とあって、標記語「僧正」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「僧正」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、広本節用集』の語注記は、大いに異なっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

632僧正 相當法印。〔謙堂文庫蔵五五左G〕

とあって、標記語「僧正」の語を収載し、語注記は「相當、法印」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

律師(リツシ)僧都(ソウヅ)法印僧正 (ツネ)ノ名何(イツレ)モ權(コン)ノ字()ヲ置(ヲヒ)テ云也。僧都大小ヨリ。法印(ホウイン)僧正(ソウジヤウ)(ゴク)位ノ官也。綸旨(リンシ)墨紙(ボクシ)ノ名ナリ。〔下32ウ七・八〕

とあって、この標記語「僧正を収載し、「法印(ホウイン)僧正(ソウジヤウ)(ゴク)位の官なり。綸旨(リンシ)墨紙(ボクシ)の名なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

法橋(ほつきやう)律師(りつし)僧都(そうづ)法印(ほういん)僧正(そうじやう)法橋律師僧都法印僧正 皆僧の位階なり。推古(すいこ)天皇(てんわう)の御宇(きよう)に初て僧官を立玉ひ観勒(くわんろく)といえる僧を僧正とし、鞍部(くらつくり)のコ積(とくづミ)を僧都とし、阿裹(あつミ)の連(むらじ)をコ頭とし玉へり。其後 清和(せいわ)天皇の御宇に法橋法眼(ほうけん)法印乃位階(かい)を制(せい)し、律師(りつし)已上の位とし玉ふ。法印の位を僧正の階とし、法眼の位を僧都の階とし、法橋の位を律師の階とす。されハ、法橋律師法眼僧都法印僧正といふへきに、今こゝに法眼乃二字なきハ脱落(たつらく)したるなるへし〔84ウ四〜八〕

とあって、この標記語「僧正」の語を未収載にし、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲僧正ハ参議(さんぎ)に准(じゆん)す。〔61ウ四、62オ四・五〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲僧正ハ参議(さんぎ)に准(じゆん)ず。〔110ウ四、111ウ三・四〕

とあって、標記語「僧正」の語をもって収載し、その語注記は、「僧正は、参議(さんぎ)に准(じゆん)ず」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

So>jo<.ソウジヤウ(僧正) 坊主(Bonzos)の或る位.〔邦訳571r〕

とあって、標記語「僧正」の語の意味は「坊主(Bonzos)の或る位」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

そう-じゃう〔名〕【僧正】〔僧史略、中「僧正者何、正政也、自正正人、克敷政令、故曰也、蓋以、比丘無法、如馬無轡勒、牛無貫繩、漸染俗風、將雅則、故、設コ望、以法而繩之、令乎正、故云僧正也」〕僧官の第一のもの。大、正、權、あり、大を大納言に、正を中納言に、權を参議に凖ず。易林本節用集(慶長)「僧正、ソウジヤウ」推古紀、三十三年正月「高麗王貢僧惠灌、仍任僧正續日本紀、大寳三年三月「以義淵法師、爲僧正元亨釋書、二、釋良辨「姓百濟氏、近州志賀里人、云云、寳字四年爲僧正宇津保物語、嵯峨院83「萬づの、かしこしと言はるる僧都、僧正、申し集めて、不斷の御修法、七八檀せさせ給ふ」〔1140-3〕

とあって、標記語「そう-じゃう〔名〕【僧正】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「そう-じょう僧正】〔名〕@僧官僧綱の最上位。また、その人。はじめは推古紀に見えて一人であったが、のちに大僧正・僧正・権僧正の三階級に分かれ、人数も一〇余人にふえた。大僧正は正二位大納言に、僧正は二位中納言に、権僧正は三位参議に准ぜられた。さらに後世は、各宗派の僧階としてこの称を用いるようになった。A「ビショップ@」の訳語」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
雜色時澤、爲使節上洛是園城寺長吏、僧正(ジヤウ)房覺、痢病危急之由、依有其聞、被訪申之故也武衛、日來御祈祷等事、被仰付〈云云〉《訓み下し》雑色時沢、使節トシテ上洛ス。是レ園城寺ノ長吏、僧正(ジヤウ)房覚、痢病危急ノ由、其ノ聞エ有ルニ依テ、之ヲ訪ヒ申サルルガ故ナリ。武衛、日来御祈祷等ノ事、仰セ付ケラルト〈云云〉。《『吾妻鏡元暦元年五月十二日の条、》
 
 
2004年11月8日(月)晴れ、冷え込む。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
法眼(ホウゲン)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、

法眼(ゲン) 。〔元亀二年本42三〕

法眼(ケン) 。〔静嘉堂本46四〕〔天正十七年本上24オ四〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「法眼」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當預勾當都維那師寺主上座以下承仕宮司等〔至徳三年本〕

僧都法印僧正山目代大勸進小別當得業内供奉已講堂達{預}専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔宝徳三年本〕

僧正僧都法印山目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達預専當勾當都維那寺主以下承仕宮仕等〔建部傳内本〕

法眼律師僧都法印僧正山目代大勧(クワン)小勧進小別當得業内供奉已講堂達預()専當勾(コウ)當都維那(ヅイノ)寺主上座以下承-仕宮仕等〔山田俊雄藏本〕

法眼僧正僧都( ヅ)法印山目代( ノモクタイ)大勧進小別當得業(トクケフ)内供奉(クフ)已講(イ )堂達預(アツカリ)専當預勾當(コウ  )都維那(ツイナ)寺主上座以下承仕(シヤウシ)宮仕公人〔経覺筆本〕

僧都(ソウツ)法印山目代僧正大勧進(クワンシン)小別當(コヘツタウ)得業(トクコウ)内供奉(ナイクブ)已講(イカウ)堂達(ダウタツ)(アツカリ)専當(せンタウ)勾當(コウタウ)都維那(ツイナ)()寺主(チウジユ)以下承仕(せウシ)宮司(ミヤジ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・文明四年本にはこの語は未収載であり、ただ、山田俊雄藏本・経覺筆本に「法眼」の語を記載しているのである。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

法眼 ホウ()ケン。〔黒川本・官職門上39ウ二〕

法眼 推古卅二―始被任僧綱後経一百九十年、淳和天皇天長元年弘法大師直令任少僧都東寺真言宗僧綱也。其後経四十余年貞観十一―二月廿六日遍照叙法眼和尚位是天台延暦寺僧綱初也。散位僧綱之始也。 件遍照僧正者貞觀十一年二月廿六日叙法眼年五十六。俗姓良峯宗貞大納言良峯朝臣安世卿八男。承和十一年補蔵人十二―正月五日叙五位下。嘉祥二年正月任右近衛權少将。同三年三月十七天皇晏駕宗貞先皇之寵臣也。先皇崩後哀慕无已自歸佛法以來報恩廿八日出家爲僧齊衡二年五月十二日登比叡山座主慈覺大師爲傳戒師受菩薩浄戒。〔卷第二・官職門348三〜349二〕

とあって、標記語「法眼」の語を収載し、十巻本の注記内容は、年を追って詳細に記載している。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「法眼」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

法眼(ホフゲンノリ、カン・マナコ)[入・上] 。〔官位門96五〕

とあって、標記語「法眼」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

法眼(ゲン) 。〔・人倫門32七〕

法眼(ホウゲン) 。〔・人倫門33二〕〔・官位門35三〕

法師 ―眼。―橋。―印。〔・人倫門29八〕

とあって、標記語「法眼」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

法眼(ゲン) 。〔人倫門29六〕

とあって、標記語「法眼」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「法眼」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、広本節用集』の語注記は、大いに異なっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

630法眼 官也。〔謙堂文庫蔵五五左G〕

とあって、標記語「法眼」の語を収載し、語注記は「官なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

律師(リツシ)僧都(ソウヅ)法印僧正 (ツネ)ノ名何(イツレ)モ權(コン)ノ字()ヲ置(ヲヒ)テ云也。僧都大小ヨリ。法印(ホウイン)僧正(ソウジヤウ)(ゴク)位ノ官也。綸旨(リンシ)墨紙(ボクシ)ノ名ナリ。〔下32ウ七・八〕

とあって、この標記語「法眼は未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

法橋(ほつきやう)律師(りつし)僧都(そうづ)法印(ほういん)僧正(そうじやう)法橋律師僧都法印僧正 皆僧の位階なり。推古(すいこ)天皇(てんわう)の御宇(きよう)に初て僧官を立玉ひ観勒(くわんろく)といえる僧を僧正とし、鞍部(くらつくり)のコ積(とくづミ)を僧都とし、阿裹(あつミ)の連(むらじ)をコ頭とし玉へり。其後 清和(せいわ)天皇の御宇に法橋法眼(ほうけん)法印乃位階(かい)を制(せい)し、律師(りつし)已上の位とし玉ふ。法印の位を僧正の階とし、法眼の位を僧都の階とし、法橋の位を律師の階とす。されハ、法橋律師法眼僧都法印僧正といふへきに、今こゝに法眼乃二字なきハ脱落(たつらく)したるなるへし〔84ウ四〜八〕

とあって、この標記語「法眼」の語を未収載にし、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

眼(ほふげん)僧都(そうづ)印(ほふいん)僧正(そうしやう)山(やま)の目代(もくだい)(大勧進)小別當(こべつとう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)預()専當(せんたう)勾當(こうとう)都維那(ついの)寺主(ししゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようし)宮仕(くうし)等(とう)法眼僧都法印僧正目代大勧進小別當得業内供奉已講堂達専當勾當都維那寺主上座以下承仕宮仕▲法眼ハ和尚(おしやう)の位也。相當僧都(そうづ)()。〔61ウ四、62オ四〕

法眼(ほふげん)僧都(そうづ)法印(ほふいん)僧正(そうじやう)山目代(やまのもくだい)大勧進(おほくわんじん)小別當(こべつたう)得業(とくげふ)内供奉(ないぐぶ)已講(いかう)堂達(だうたつ)()専當(せんたう)勾當(かうたう)都維那(つゐな)寺主(じしゆ)上座(じやうざ)以下(いげ)承仕(じようじ)宮仕(ぐうし)(とう)▲法眼ハ和尚(おしやう)の位也。相當僧都(そうづ)()。〔110ウ四、111ウ三〕

とあって、標記語「法眼」の語をもって収載し、その語注記は、「律師は、五位に准(じゆん)ず」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「法眼」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ほう-げん〔名〕【法眼】(一)佛教の五眼の一。分明に縁生の差別の法を觀察する眼。ごげん(五眼)の條を見よ。無量壽經、下「法眼觀察、究竟諸道(二)僧位の名。そうゐ(僧位)の條を見よ。僧綱補任、下、保安三年「法橋三人、八幡法印光清、別當、以下法眼二人、云云」(三)中古以降、醫師の位第二とす。即ち法印、法眼、法橋と次第す。(畫工、連歌師等にも授けらる)字類抄法眼易林本節用集(慶長)上、人倫門「法眼、ホフゲン」義經記、二、鬼一法眼事「陰陽師の法師に鬼一法眼とて」〔1850-1〕

とあって、標記語「ほう-げん〔名〕【法眼】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ほう-げん法眼】〔名〕@仏語。五眼の一つ。仏法の正理を見る智慧の目。菩薩はこれによって、一切の事物を観察して衆生を救う。法眼浄。A「ほうげんかしょうい(法眼和尚位)」の略。B中世以後、僧侶に準じて、医師、仏師、経師、画工、連歌師など法体の者に授けられた位。近世には、幕府の医師も授けられた」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
今日付別當法眼、奉佛舎利三粒於幕下而仰云、佛舎利歸依、太雖惟深去比東大寺上人、重源弟子、空體〈宋人云云〉於室内堀出數十粒佛舎利、盗取《訓み下し》今日別当法眼(ゲン)ニ付ケテ、仏舎利三粒ヲ幕下ニ奉ル。而ルニ仰ニ云、仏舎利ノ帰依、太惟深シト雖モ、去ヌル比東大寺ノ上人、重源ノ弟子、空体。〈宋人云云。〉室内ニ於テ数十粒ノ仏舎利ヲ堀出シ(室生)、盗ミ取ル。《『吾妻鏡』建久二年七月二十三日の条、》
四月廿五日伝授阿闍梨前大僧都法眼和尚位 妙成就之許可高野旧風所不行也《『醍醐寺文書』永祚二年四月廿五日の条、163-3・1/122》
 
 
2004年11月7日(日)雨夕方一時止む。イタリア(ローマ・自宅AP)
律師(リツシ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「利」部に、

律師() 。〔元亀二年本71十〕

律師() 。〔静嘉堂本256五〕〔天正十七年本上43オ六〕

とあって、標記語「律師」の語を収載し、訓みは「(リツ)ジ」「(リツ)シ」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

聖道者一寺検校執行別當長吏学頭座主院主執當先立阿闍梨法橋律師〔至徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔宝徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏学頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔建部傳内本〕

聖道者(ニハ)一寺檢校執行別當長吏()學頭(トウ)座主院主執(シツ)當先達阿闍梨法橋法眼律師〔山田俊雄藏本〕

聖道(シヤウダウ)()一寺検校(ケンケフ)(シ )行別當長吏()学頭(カクトウ)座主院主執(シツ)當先達(タチ)阿闍梨法橋(ケフ)律師〔経覺筆本〕

聖道者一寺檢校(ケンゲウ)執行(シユキヤウ)別當長吏()学頭(カクトウ)座主(ザス)院主執當(シツタウ)先達(せンタツ)阿闍梨( シヤリ)法橋(ホツケウ)律師(リツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「律師」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

律師 リツシ。〔黒川本・官職門上60ウ五〕

律師 日本記曰文武天皇二年戊戌十一月十五日元興寺僧善往始被補此職。〔巻第三・官職門22二〕

とあって、標記語「律師」の語を収載し、十巻本には、「『日本記』曰く、文武天皇二年戊戌十一月十五日、元興寺僧善往始めて此の職補せらる」として、語注記には日本における最初の「律師」についての注記を載せている。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「律師」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』・十巻本伊呂波字類抄』、そして『運歩色葉集』に標記語「律師」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。また、室町時代の他古辞書には未収載の語となっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

630律師 官也。〔謙堂文庫蔵五五左G〕

とあって、標記語「律師」の語を収載し、語注記は「官なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

律師(リツシ)僧都(ソウヅ)法印僧正 (ツネ)ノ名何(イツレ)モ權(コン)ノ字()ヲ置(ヲヒ)テ云也。僧都大小ヨリ。法印(ホウイン)僧正(ソウジヤウ)(ゴク)位ノ官也。綸旨(リンシ)墨紙(ボクシ)ノ名ナリ。〔下32ウ七・八〕

とあって、この標記語「律師」とし、語注記は上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

法橋(ほつきやう)律師(りつし)僧都(そうづ)法印(ほういん)僧正(そうじやう)法橋律師僧都法印僧正 皆僧の位階なり。推古(すいこ)天皇(てんわう)の御宇(きよう)に初て僧官を立玉ひ観勒(くわんろく)といえる僧を僧正とし、鞍部(くらつくり)のコ積(とくづミ)を僧都とし、阿裹(あつミ)の連(むらじ)をコ頭とし玉へり。其後 清和(せいわ)天皇の御宇に法橋法眼(ほうけん)法印乃位階(かい)を制(せい)し、律師(りつし)已上の位とし玉ふ。法印の位を僧正の階とし、法眼の位を僧都の階とし、法橋の位を律師の階とす。されハ、法橋律師法眼僧都法印僧正といふへきに、今こゝに法眼乃二字なきハ脱落(たつらく)したるなるへし。〔84ウ四〜八〕

とあって、この標記語「律師」の語をもって収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきよう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(ざす)院主(いんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)橋(ほつきやう)律師(りつし)聖道者一寺検校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師▲律師ハ五位に准(じゆん)す。〔61ウ四、62オ四〕

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきやう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(さす)院主(ゐんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)法橋(ほつけう)律師(りつし)▲律師ハ五位に准(じゆん)ず。〔110ウ四、111ウ二・三〕

とあって、標記語「律師」の語をもって収載し、その語注記は、「律師は、五位に准(じゆん)ず」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「律師」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

りつ-〔名〕【律師】(一)よく戒律を解するもの。戒律の師範。涅槃經、三「如是能知佛法所作、善能解説、是名律師(二)僧官の一。僧都に次ぎて、正、權、あり、五位に准ず。約めて、りし。續日本紀、一、二年三月壬午「詔以惠施法師爲僧正、智淵法師爲少僧都、善住(往イ)法師爲律師〔2123-5〕

とあって、標記語「りつ-〔名〕【律師】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「りつ-律師】〔名〕@仏語。戒律に通じた僧。A僧綱の一つ。僧正、僧都に次ぐ僧官。正・権の二階に分かれ、五位に凖ずる」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
壞渡故大僕卿〈義朝〉沼濱御舊宅、於鎌倉被寄附于榮西律師龜谷寺《訓み下し》故大僕卿〈義朝〉ノ沼浜ノ御旧宅ヲ壊チ渡シ、鎌倉ニ於テ栄西(リツ)ノ亀谷寺ニ寄附セラル。《『吾妻鏡』建仁二年二月二十九日の条》
貞観元年十二月廿五日使学頭延保「勘収学頭学頭玄豊学頭采龍学頭別当円宗検校権律師《『東大寺文書(図書館成卷文書)』貞観元年十二月廿五日の条、320・7/118
 
 
2004年11月6日(土)晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)
法橋(ホツキヤウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、

法橋(ホツギウ) 。〔元亀二年本42四〕

法橋(ケウ) 。〔静嘉堂本46四〕〔天正十七年本上24オ四〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「法橋」の語を収載し、訓みは「ホツギウ」「(ホツ)ケウ」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

聖道者一寺検校執行別當長吏学頭座主院主執當先立阿闍梨法橋律師〔至徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔宝徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏学頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔建部傳内本〕

聖道者(ニハ)一寺檢校執行別當長吏()學頭(トウ)座主院主執(シツ)當先達阿闍梨法橋法眼律師〔山田俊雄藏本〕

聖道(シヤウダウ)()一寺検校(ケンケフ)(シ )行別當長吏()学頭(カクトウ)座主院主執(シツ)當先達(タチ)阿闍梨法橋(ケフ)律師〔経覺筆本〕

聖道者一寺檢校(ケンゲウ)執行(シユキヤウ)別當長吏()学頭(カクトウ)座主(ザス)院主執當(シツタウ)先達(せンタツ)阿闍梨( シヤリ)法橋(ホツケウ)律師(リツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「法橋」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

法橋 ホツケウ。〔黒川本・官職門上39ウ二〕

法橋 。〔卷第二・官職門349四〕

とあって、標記語「法橋」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、標記語「法橋」の語は未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

法橋(ケウ) 。〔・人倫門32七〕

法橋(ホツケウ) 。〔・人倫門33二〕

法師 ―眼。―橋。―印。〔・人倫門29八〕

法橋(ホツキヨウ) 。〔・人倫門35二〕

とあって、標記語「法橋」の語を収載し、訓みは「ホツケウ」「ホツキヨウ」と記載する。また、易林本節用集』に、

法橋(ホツケウ) 。〔人倫門29六〕

とあって、標記語「法橋」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』、『運歩色葉集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』に、標記語「法橋」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、広本節用集』は、何故か知れないが此の語を未収載としている。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

629阿闍梨法橋 位也。相-當律師聖人位法橋云也。〔謙堂文庫蔵五五左F〕

とあって、標記語「法橋」の語を収載し、語注記は「位也。律師相當の聖人の位を法橋と云ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

聖道(シヤウダウ)一寺検校(ケンゲフ)(シユ)行別當(タウ)長吏(チヤウリ)學頭(ガクトウ)座主(サス)院主(インジユ)執頭(シツタウ)先達(せンダツ)阿闍梨(アジヤリ)法橋(ホツケウ) 聖道ハ一寺ノ検校(ケンケウ)(シユ)行別當(ベツトウ)金剛峯寺ナンドニハ。一寺ノ主ヲ検校(ケンゲフ)ト云。叡山(ヱイザン)ニハ。座主(ザス)ト云ナリ。東寺長者ト申也。書冩(シヨシヤ)ニハ院主(インジユ)ト云ナリ。其外長吏(チヤウリ)学頭(ガクトウ)(ベツ)當ナンド云事例(レイ)儀也。執當(シツタウ)先達(せンダツ)ハ。山伏(ブシ)ノ度ヲ蹈(フミ)タル人ナリ。阿闍梨(アシヤリ)法橋(ヒツキフハ)ノ名也。〔下32ウ四〜七〕

とあって、この標記語「法橋」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

法橋(ほつきやう)律師(りつし)僧都(そうづ)法印(ほういん)僧正(そうじやう)法橋律師僧都法印僧正 皆僧の位階なり。推古(すいこ)天皇(てんわう)の御宇(きよう)に初て僧官を立玉ひ観勒(くわんろく)といえる僧を僧正とし、鞍部(くらつくり)のコ積(とくづミ)を僧都とし、阿裹(あつミ)の連(むらじ)をコ頭とし玉へり。其後 清和(せいわ)天皇の御宇に法橋法眼(ほうけん)法印乃位階(かい)を制(せい)し、律師(りつし)已上の位とし玉ふ。法印の位を僧正の階とし、法眼の位を僧都の階とし、法橋の位を律師の階とす。されハ、法橋律師法眼僧都法印僧正といふへきに、今こゝに法眼乃二字なきハ脱落(たつらく)したるなるへし。〔84ウ四〜八〕

とあって、この標記語「法橋」の語をもって収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきよう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(ざす)院主(いんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)(ほつきやう)律師(りつし)聖道者一寺検校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師▲法橋ハ上人(しやうにん)の位(くらゐ)也。相當(さうたう)律師(りつし)()。〔61ウ四、62オ四〕

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきやう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(さす)院主(ゐんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)法橋(ほつけう)律師(りつし)▲法橋ハ上人(しやうにん)の位(くらゐ)也。相當(さうたう)律師(りつし)()。〔110ウ四、111ウ二〕

とあって、標記語「法橋」の語をもって収載し、その語注記は、「法橋は、上人(しやうにん)の位(くらゐ)なり。相當(さうたう)律師(りつし)()」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Focqio>.ホツキヤウ(法橋) Nori faxi.(法橋) ある位.〔邦訳256l〕

とあって、標記語「法橋」の語の意味は「ある位」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ほっ-けう〔名〕【法橋】(一)ほふけう(法橋)に同じ。字類抄法橋三代實録、八、貞觀六年二月十六日、詔「彼三階(滿位、法師位、大法師位)之外、更制法橋上人位、法眼和上位(僧綱補任、作法眼和尚位)、法印大和尚位等三階、以爲律師以上之位、宣云云、法橋上人位爲律師階(二)僧位の名。法眼に次ぎ、律師の官に相當し、五位に准ぜられる。具には法橋上人位と云ふ。清和天皇、貞觀六年の制定。又、上人。(三)昔、醫師、畫師などの位。ほふいん(法印)の條を見よ。土佐住吉繪所系譜「光吉孫、廣通男、廣澄、初廣純、通稱内記、法名具慶、云云、延寳二年六月四日叙法橋和漢三才圖繪、自叙「法橋寺島良安、書於浪華杏林堂〔1843-3〕

とあって、標記語「ほっ-きゃう〔名〕【法橋】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ほっ-きょう法橋】〔名〕仏語。@「ほっきょうしょうにんい(法橋上人位)」の略。A中世以後、僧侶に準じて、医師、絵師、連歌師などに与えられた称号」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
明日依可被修佛事今夕爲俊兼沙汰、被送遣施物僧食等於行慈法橋之許〈云々〉《訓み下し》明日仏事ヲ修セラルベキニ依テ、今夕俊兼ガ沙汰トシテ、施物僧食等ヲ行慈法橋ノ許ニ送リ遣ハサルト〈云云〉。《『吾妻鏡』文治二年七月十一日の条、》
応任官符旨令八幡宇佐宮弥勒寺講師法橋上人位元命門徒師資相承永勤仕元命建立喜多院所惣摂筥埼塔院三昧事《『石清水文書田中』治安四年四月十五日の条、405・2/92》
 
 
2004年11月5日(金)晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
阿闍梨(アジヤリ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「阿」部に、

阿闍梨(アシヤリ) 。〔元亀二年本261七〕

阿闍梨(アジヤリ) 。〔静嘉堂本296六〕

とあって、標記語「阿闍梨」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

聖道者一寺検校執行別當長吏学頭座主院主執當先立阿闍梨法橋律師〔至徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔宝徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏学頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔建部傳内本〕

聖道者(ニハ)一寺檢校執行別當長吏()學頭(トウ)座主院主執(シツ)當先達阿闍梨法橋法眼律師〔山田俊雄藏本〕

聖道(シヤウダウ)()一寺検校(ケンケフ)(シ )行別當長吏()学頭(カクトウ)座主院主執(シツ)當先達(タチ)阿闍梨法橋(ケフ)律師〔経覺筆本〕

聖道者一寺檢校(ケンゲウ)執行(シユキヤウ)別當長吏()学頭(カクトウ)座主(ザス)院主執當(シツタウ)先達(せンタツ)阿闍梨( シヤリ)法橋(ホツケウ)律師(リツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「阿闍梨」とし、訓みは文明四年本に「(ア)シヤリ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「阿闍梨」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「阿闍梨」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

阿闍梨(アジヤリヲモネリ、カド・トビラ、ナシ)[平・平・平] 。〔官位門747四〕

とあって、標記語「阿闍梨」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

阿闍梨(アジヤリ) 聖道官。〔・人倫門202六〕

阿闍梨(アジヤリ) 。〔・人倫門168三〕

阿闍梨(アシヤリ) 。〔・人倫門157三〕

とあって、標記語「阿闍梨」の語を収載し、弘治二年本に語注記「聖道の官」と記載する。また、易林本節用集』に、

阿闍梨(アジヤリ) 。〔官位門168三〕

とあって、標記語「阿闍梨」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「阿闍梨」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、弘治二年本節用集』にだけ見える語注記は、この真字本とは一致しない。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

629阿闍梨法橋 位也。相-當律師聖人位法橋云也。〔謙堂文庫蔵五五左F〕

とあって、標記語「阿闍梨」の語を収載し、語注記は「位なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

聖道(シヤウダウ)一寺検校(ケンゲフ)(シユ)行別當(タウ)長吏(チヤウリ)學頭(ガクトウ)座主(サス)院主(インジユ)執頭(シツタウ)先達(せンダツ)阿闍梨(アジヤリ)法橋(ホツケウ) 聖道ハ一寺ノ検校(ケンケウ)(シユ)行別當(ベツトウ)金剛峯寺ナンドニハ。一寺ノ主ヲ検校(ケンゲフ)ト云。叡山(ヱイザン)ニハ。座主(ザス)ト云ナリ。東寺長者ト申也。書冩(シヨシヤ)ニハ院主(インジユ)ト云ナリ。其外長吏(チヤウリ)学頭(ガクトウ)(ベツ)當ナンド云事例(レイ)儀也。執當(シツタウ)先達(せンダツ)ハ。山伏(ブシ)ノ度ヲ蹈(フミ)タル人ナリ。阿闍梨(アシヤリ)法橋(ヒツキフハ)ノ名也。〔下32ウ四〜七〕

とあって、この標記語「阿闍梨」とし、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

先達(せんだつ)阿闍梨(あしやり)先達阿闍梨 皆山伏の位なり。〔84ウ三・四〕

とあって、この標記語「阿闍梨」の語をもって収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきよう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(ざす)院主(いんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)橋(ほつきやう)律師(りつし)聖道者一寺検校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師▲阿闍梨ハ梵語(ほんご)阿庶梨耶(あしやりや)の訛言(よこなまり)也。よく弟子(でし)の行(おこなひ)を糾(たゞ)正すゆへに正行随(しやうきやうずい)といふ。又軌範(きはん)ともいふ。〔61ウ四、62オ三・四〕

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきやう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(さす)院主(ゐんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)法橋(ほつけう)律師(りつし)▲阿闍梨ハ梵語(ぼんご)阿庶梨耶(あしやりや)の訛言(よこなまり)也。よく弟子(でし)の行(おこなひ)を糾(たゞ)正すゆゑに正行随(しやうぎやうすゐ)といふ。又軌範(きはん)ともいふ。〔110ウ四、111ウ一〕

とあって、標記語「阿闍梨」の語をもって収載し、その語注記は、「阿闍梨は、梵語(ぼんご)阿庶梨耶(あしやりや)の訛言(よこなまり)なり。よく弟子(でし)の行(おこなひ)を糾(たゞ)正すゆゑに正行随(しやうぎやうすゐ)といふ。また、軌範(きはん)ともいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Ajari.アジャリ(阿闍梨) Xo<do<(聖道)と呼ばれる坊主(Bonzos)の特定の位.〔邦訳20r〕

とあって、標記語「阿闍梨」の語の意味は「Xo<do<(聖道)と呼ばれる坊主(Bonzos)の特定の位」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-じゃり〔名〕【阿闍梨】〔梵語、阿闍梨耶(アアザヤアルヤ)(Acarya.)の略、軌範と譯す、翻譯名義集、一、釋氏衆名「闍梨、寄歸傳云、梵語、阿遮梨耶、唐言軌範、今稱闍梨、訛略、云云、(阿彌陀、彌陀。阿修羅、修羅)南山抄云、能糾正弟子行故」〕(一)又、あざり。天台宗、眞言宗にて稱する僧の學位。略して、闍梨。傳法灌頂大阿闍梨位と云ふを極位とす。二中暦(應永)四、僧職「闍梨、傳当大法師位」(二)僧官の稱。字類抄、僧位「阿闍梨、アザリ、清和天皇御宇、貞觀元年己卯、始置之」撮壤集、下、官位「阿闍梨(アジヤリ)新儀式、五、臨時、任僧綱事「阿闍梨、天台十二人、元慶寺三人、法性寺一人」源氏物語、三十八、夕霧18「あざり、一人、とどまりて、なほ陀羅尼讀みたまふ」十訓抄、下、第十、三十四條、三井寺の覺讃、年高くなりて、有職を許(ゆる)されざりけるが、熊野に詣でて「山川の、あさりとならで、沈みなば、深き恨みの、名をや流さむ」(これは、阿闍梨を淺瀬にかけたり、淺處(あさり)の條を見よ)思ひのまま日記(貞治)「あじやりの扮装(いでたち)など、目も心も及ばず」〔0039-3〕

とあって、標記語「-じゃり〔名〕【阿闍梨】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-じゃり阿闍梨】〔名〕(梵acaryaの音訳。弟子を教授し、その軌範となる師の意)仏語。小乗の律ではこれに出家、受戒、教授、受経、依止(えじ)などの別を数え、また大乗では羯摩(かつま・こんま)、教授の二つをたてる。また密教では学法灌頂の二つをたてる。あざり。@イ密教で秘法に通じ、伝法灌頂(でんぼうかんじょう=秘法を伝授する儀式)を受けた者をいう。後に伝法灌頂を受けた僧に宣旨によって与えられる称号。A平安時代、勅旨を奉じて修せらる法会を、已講(いこう)、内供(ないぐ)とともにとり行なう僧。転じて、修法(ずほう=加持祈祷)の導師を勤める僧。B一般に弟子を教え、その師範となる高徳の僧の尊称。[語誌](1)一般に梵語アーチャリァの音写とされるが、中央アジアのトカラ語での語形アーシャリ、アシャリの音写とする見方もある。(2)密教では灌頂による師資相承を重んじ、阿闍梨になる伝法灌頂の儀式によって法が師から弟子へと伝えられる。儀式を執行する授法の師を伝法の阿闍梨、また大阿闍梨と称して区別することがある」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
阿闍梨定兼、依召自上総國、參上鎌倉是去安元々年四月廿六日、當國流人也《訓み下し》阿闍梨(アジヤリ)定兼、召シニ依テ上総ノ国ヨリ、鎌倉ニ参上ス。是レ去ヌル安元元年四月二十六日ニ、当国ニ流人ナリ。而ルニ知法ノ聞エ有リ。《『吾妻鏡』治承四年十二月四日の条、》
「印信集、石山 蓮台 延命院」最極秘密法界体伝法許可潅頂阿闍梨位之印、先師誡云、秘惜有罪、不授善人故、伝授有罪、授非器故云々 《『醍醐寺文書』天暦三年八月廿八日の条、163-1・1/120》
 
 
2004年11月4日(木)晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
先達(センダツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「勢」部に、

先達(ダツ) 山伏。〔元亀二年本352九〕〔静嘉堂本425一〕

とあって、標記語「先達」の語を収載し、語注記には「山伏」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

聖道者一寺検校執行別當長吏学頭座主院主執當先立阿闍梨法橋律師〔至徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔宝徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏学頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔建部傳内本〕

聖道者(ニハ)一寺檢校執行別當長吏()學頭(トウ)座主院主執(シツ)先達阿闍梨法橋法眼律師〔山田俊雄藏本〕

聖道(シヤウダウ)()一寺検校(ケンケフ)(シ )行別當長吏()学頭(カクトウ)座主院主執(シツ)先達(タチ)阿闍梨法橋(ケフ)律師〔経覺筆本〕

聖道者一寺檢校(ケンゲウ)執行(シユキヤウ)別當長吏()学頭(カクトウ)座主(ザス)院主執當(シツタウ)先達(せンタツ)阿闍梨( シヤリ)法橋(ホツケウ)律師(リツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本だけが、「先立」とし、宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は「先達」とし、訓みは経覺筆本に「(セン)タチ」、文明四年本に「センタツ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

先達 せンタツ。〔黒川本・人倫門下102オ七〕

先達 。〔卷第十・人倫門437六〕

とあって、標記語「先達」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

先達(センタチ) 引導人也〔態藝門80七〕

とあって、標記語「先達」の語を収載し、訓みを「センタチ」とし、語注記に「引導の人なり」と記載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

先達(せンダチマヅ、イタル)[平・入] 引導人也。〔人倫門1081三〕

とあって、標記語「先達」の語を収載し、訓みを「センダチ」とし、語注記は『下學集』を継承し、「引導人なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

先達(せンダチ) 山臥。〔・人倫門262八〕〔・人倫門224二〕

先師 ―輩。―達/―手。〔・人倫門210八〕

とあって、標記語「先達」の語を収載し、語注記は『下學集』・広本節用集』を継承せず「山臥」と記載する。但し、尭空本はその記載を見ない。また、易林本節用集』に、

先達(せンダツ) 山臥。〔人倫門233六〕

とあって、標記語「先達」の語を収載し、訓みを「センダツ」とし、語注記は印度本『節用集』を継承する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「先達」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。そして、この語注記は、『下學集』そして広本節用集』の注記内容と共通している。また、『運歩色葉集』と印度本系統の弘治二年本永祿二年本節用集』、易林本節用集』の語注記は何故か、これを継承せず、ただ「山伏・山臥」と記載していて、この注記内容について編者の選択が大きく二様に分岐したことを含め、やはり、注意すべきことである。下記に示した日国の「語誌」についても、古辞書の継承そして展開の上で、このことを補足しておきたいところである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

628先達 下覚-導人也。〔謙堂文庫蔵五五左F〕

先達 下学-導人也。〔天理図書館蔵『庭訓往來註』〕

とあって、標記語「先達」の語を収載し、語注記は「『下覚(學集)』、引導の人なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

聖道(シヤウダウ)一寺検校(ケンゲフ)(シユ)行別當(タウ)長吏(チヤウリ)學頭(ガクトウ)座主(サス)院主(インジユ)執頭(シツタウ)先達(せンダツ)阿闍梨(アジヤリ)法橋(ホツケウ) 聖道ハ一寺ノ検校(ケンケウ)(シユ)行別當(ベツトウ)金剛峯寺ナンドニハ。一寺ノ主ヲ検校(ケンゲフ)ト云。叡山(ヱイザン)ニハ。座主(ザス)ト云ナリ。東寺長者ト申也。書冩(シヨシヤ)ニハ院主(インジユ)ト云ナリ。其外長吏(チヤウリ)学頭(ガクトウ)(ベツ)當ナンド云事例(レイ)儀也。執當(シツタウ)先達(せンダツ)ハ。山伏(ブシ)ノ度ヲ蹈(フミ)タル人ナリ。阿闍梨(アシヤリ)法橋(ヒツキフハ)ノ名也。〔下32ウ四〜七〕

とあって、この標記語「先達」とし、語注記は「執當(シツタウ)先達(せンダツ)は、山伏(ブシ)の度を蹈(フミ)たる人ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

先達(せんだつ)阿闍梨(あしやり)先達阿闍梨 皆山伏の位なり。〔84ウ三・四〕

とあって、この標記語「先達」の語をもって収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきよう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(ざす)院主(いんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)橋(ほつきやう)律師(りつし)聖道者一寺検校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師▲先達ハ山伏(やまぶし)の頭(かしら)也。〔61ウ四、62オ三〕

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきやう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(さす)院主(ゐんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)法橋(ほつけう)律師(りつし)▲先達ハ山伏(やまぶし)の頭(かしら)也。〔110ウ四、111ウ一〕

とあって、標記語「先達」の語をもって収載し、その語注記は、「先達は、山伏(やまぶし)の頭(かしら)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xeodachi.l,xendat.センダチ,または,センダツ(先達) 山へ聖地巡拝に行く際の,山伏(Yamabuxis)のかしらで道案内をする者.¶また,比喩.案内者,すなわち,道を示しながら先に立って行く人.ただし,この第二の意味は,あまり正しい言い方ではなく,また,あまり用いられもしない.〔邦訳750r〕

とあって、標記語「先達」の語の意味は「前に」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

せん-だつ〔名〕【先達】(一)藝術に、最も長けて、同輩の師ともなるべき者。古參の人。先輩。顔氏家訓(北齋、顔之推)「皆有先達、可師表盧ェ詩「常慕先達概、觀古論得失侍中群要、一、藏人初參「先達藏人開簡、云云、隨先達氣色食、之了」(二)〔先立(さきだて)の湯桶讀か〕修驗者の、勤行を積みて、峯入の時など、同行に先立ちて、先導(しるべ)するもの。香首古今著聞集、一、神祇「助の僧正覺讃は、先達の山伏なり」下學集、下、態藝門「先達、引導之人也」〔1127-5〕

とあって、標記語「せん-だつ〔名〕【先達】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「せん-だつ先達】〔名〕@学問・技芸・修行などで、その道に達し、他を導くこと。また、その人。先輩。せんだち。A特に修験道で、他の修行者を導くこと。また、その人。峰入りどの時に、同行の修験者の先導となる熟達した山伏。せんだち。B一般に、案内すること。また、その人。案内者。指導者。せんだち。語誌](1)漢語としては、@の意であるが、平安時代後期以降、修験道が盛んになるにつれ、Aの意で広く使用されるようになった。「下学集」に「先達 引導人也」「易林本節用集」に「先達 山伏」とある。「日葡辞書」には、山伏の先導者の意味に加えて、比喩的に道案内人の意に用いられることが記されているが、それは「あまり正しくなく、さして用いられることもない」とある。(2)読みについて、古辞書の類では「色葉字類抄」には「センタツ」とあるが、中世には、「達」字の入声韻尾の表記の揺れを反映して「センダチ」とあるもの(「下学集」「文明本節用集」「伊京集」「饅頭屋本節用集」など)や、「センダツ」とあるもの(「明応本節用集」「天正本節用集」「黒本本節用集」「易林本節用集」など)、両者を挙げるもの(「日葡辞書」)など様々である。しかし江戸時代以後は、次第に「センダツ」に統一されるようになった」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
早以北條殿、爲先達可被來向黄瀬河之旨、可相觸武田太郎信義以下源氏之由〈云云〉《訓み下し》早ク北条殿ヲ以テ、先達(センダチ)トシテ黄瀬河ニ来リ向ハルベキノ旨、武田ノ太郎信義以下ノ源氏ニ相ヒ触ルベキノ由ト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年九月二十日の条、》
随光季為使、罷向件在地、令下知宣旨之間、金峯山寺先達法師原、率数多従類、不承引件宣旨、猥擬凌轢光季身之旨、甚以非常也 《『東大寺文書(図書館・成卷文書)』寛治六年四月廿五日の条、313-2・7/68》
 
 
2004年11月3日(水)晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
執當(シツタウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

執當(シツタウ) 。〔元亀二年本307八〕〔静嘉堂本358八〕

とあって、標記語「執當」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

聖道者一寺検校執行別當長吏学頭座主院主執當先立阿闍梨法橋律師〔至徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔宝徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏学頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔建部傳内本〕

聖道者(ニハ)一寺檢校執行別當長吏()學頭(トウ)座主院主(シツ)先達阿闍梨法橋法眼律師〔山田俊雄藏本〕

聖道(シヤウダウ)()一寺検校(ケンケフ)(シ )行別當長吏()学頭(カクトウ)座主院主(シツ)先達(タチ)阿闍梨法橋(ケフ)律師〔経覺筆本〕

聖道者一寺檢校(ケンゲウ)執行(シユキヤウ)別當長吏()学頭(カクトウ)座主(ザス)院主執當(シツタウ)先達(せンタツ)阿闍梨( シヤリ)法橋(ホツケウ)律師(リツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「執當」とし、訓みは、山田俊雄藏本・経覺筆本に「シツ(タウ)」、文明四年本に「シツタウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「執當」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

執當(シツタウ) 。〔態藝門84七〕

とあって、標記語「執當」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)は、標記語「執當」の語を未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

執當(シユタウ) 。〔・人倫門239三〕

執當(シツタウ) 。〔・人倫門198七〕〔・人倫門188七〕

とあって、標記語「執當」の語を収載し、訓みは「シユタウ」と「シツタウ」と記載する。また、易林本節用集』は、標記語「執當」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、『下學集』・『運歩色葉集』・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』に標記語「執當」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、真字註に見られる注記内容は、古辞書には見えない。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

627院主執頭(シツ−) 聖家之奏者也。〔謙堂文庫蔵五五左E〕

とあって、標記語「執當」の語を収載し、語注記は「聖家の奏者なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

聖道(シヤウダウ)一寺検校(ケンゲフ)(シユ)行別當(タウ)長吏(チヤウリ)學頭(ガクトウ)座主(サス)院主(インジユ)執頭(シツタウ)先達(せンダツ)阿闍梨(アジヤリ)法橋(ホツケウ) 聖道ハ一寺ノ検校(ケンケウ)(シユ)行別當(ベツトウ)金剛峯寺ナンドニハ。一寺ノ主ヲ検校(ケンゲフ)ト云。叡山(ヱイザン)ニハ。座主(ザス)ト云ナリ。東寺長者ト申也。書冩(シヨシヤ)ニハ院主(インジユ)ト云ナリ。其外長吏(チヤウリ)学頭(ガクトウ)(ベツ)當ナンド云事例(レイ)儀也。執當(シツタウ)先達(せンダツ)ハ。山伏(ブシ)ノ度ヲ蹈(フミ)タル人ナリ。阿闍梨(アシヤリ)法橋(ヒツキフハ)ノ名也。〔下32ウ四〜七〕

とあって、この標記語「執當」とし、語注記は「執當(シツタウ)先達(せンダツ)は、山伏(ブシ)の度を蹈(フミ)たる人ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

執當(しつたう)執當 奏者を聖家にてハ執當と云。〔84オ七〜ウ一〕

とあって、この標記語「執當」の語をもって収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきよう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(ざす)院主(いんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)橋(ほつきやう)律師(りつし)聖道者一寺検校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師▲執當ハ法会(ほふゑ)の奉行(ふぎやう)也。堂内(たうない)に在(あり)て諸僧(しよそう)着座(ちやくさ)の列(れつ)を定(さだ)むる等の事を勤(つと)むる也。〔61ウ四、62オ二・三〕

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきやう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(さす)院主(ゐんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)法橋(ほつけう)律師(りつし)▲執當ハ法会(ほふゑ)の奉行(ぶきやう)也。堂内(だうない)に在(あり)て諸僧(しよそう)着座(ちやくざ)の列(れつ)を定(さだ)むる等の事を勤(つと)むる也。〔110ウ四、111ウ一〕

とあって、標記語「執當」の語をもって収載し、その語注記は、「執當は、法会(ほふゑ)の奉行(ぶきやう)也。堂内(だうない)に在(あり)て諸僧(しよそう)着座(ちやくざ)の列(れつ)を定(さだ)むる等の事を勤(つと)むるなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「執當」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しッ-たう〔名〕【執當】〔執事別當の略〕僧の官。源平盛衰記、四、師高流罪宣事「執當法眼御房へ」〔0906-3〕

とあって、標記語「しッ-たう〔名〕【執當】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しっ-たう執當】〔名〕@庶務をつかさどる役職。とくに寺社の執務役職についてこの字を用いることが多い。A延暦寺の役職。諸堂の管理、諸役の補佐のことをつかさどり、三綱(さんごう)が輪番で勤めた」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
其故者、田尻万徳寺料田内中津町壱町者、仁弥勒寺執当御房慶印之置文、丹後法橋御房申子細給間、為如此料田之由、入阿依令申之 《『台明寺文書元亨三年二月廿日の条、140・/0
 
 
2004年11月2日(火)晴れ。イタリア(ローマ・自宅AP)→サレジオ大学ドン・ボスコ図書館
院主(ヰンジユ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

院主(インジユ) 。〔元亀二年本11六〕

院主(シユ) 。〔静嘉堂本3二〕

院主(インシユ) 。〔天正十七年本上4オ一〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「院主」の語を収載し、訓みは「インジユ」と「インシユ」の清濁両様が見えている。語注記は未記載にある。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

聖道者一寺検校執行別當長吏学頭座主院主執當先立阿闍梨法橋律師〔至徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔宝徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏学頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔建部傳内本〕

聖道者(ニハ)一寺檢校執行別當長吏()學頭(トウ)座主院主(シツ)當先達阿闍梨法橋法眼律師〔山田俊雄藏本〕

聖道(シヤウダウ)()一寺検校(ケンケフ)(シ )行別當長吏()学頭(カクトウ)座主院主(シツ)當先達(タチ)阿闍梨法橋(ケフ)律師〔経覺筆本〕

聖道者一寺檢校(ケンゲウ)執行(シユキヤウ)別當長吏()学頭(カクトウ)座主(ザス)院主執當(シツタウ)先達(せンタツ)阿闍梨( シヤリ)法橋(ホツケウ)律師(リツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「院主」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

院主 井ンシユ。〔黒川本・官職門中58オ一〕

院主 井ンシユ/僧官。〔卷第五・官職門244二〕

とあって、標記語「院主」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「院主」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

院家(井ンゲ) ―主(ジユ)。―司()。〔人倫門121五〕

とあって、標記語「院家」の熟語群として「院主」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、『運歩色葉集』と易林本節用集』に「院主」の語を収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

627院主執頭(シツ−) 聖家之奏者也。〔謙堂文庫蔵五五左E〕

とあって、標記語「院主」の語を収載し、語注記は「聖家の奏者なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

聖道(シヤウダウ)一寺検校(ケンゲフ)(シユ)行別當(タウ)長吏(チヤウリ)學頭(ガクトウ)座主(サス)院主(インジユ)執頭(シツタウ)先達(せンダツ)阿闍梨(アジヤリ)法橋(ホツケウ) 聖道ハ一寺ノ検校(ケンケウ)(シユ)行別當(ベツトウ)金剛峯寺ナンドニハ。一寺ノ主ヲ検校(ケンゲフ)ト云。叡山(ヱイザン)ニハ。座主(ザス)ト云ナリ。東寺長者ト申也。書冩(シヨシヤ)ニハ院主(インジユ)ト云ナリ。其外長吏(チヤウリ)学頭(ガクトウ)(ベツ)當ナンド云事例(レイ)儀也。執當(シツタウ)先達(せンダツ)ハ。山伏(ブシ)ノ度ヲ蹈(フミ)タル人ナリ。阿闍梨(アシヤリ)法橋(ヒツキフハ)ノ名也。〔下32ウ四〜七〕

とあって、この標記語「院主」とし、語注記は「聖道は、一寺の検校(ケンケウ)・執(シユ)行・別當(ベツトウ)。金剛峯寺なんどには、一寺の主を検校(ケンゲフ)と云ふ。叡山(ヱイザン)には、座主(ザス)と云ふなり。東寺、長者と申すなり。書冩(シヨシヤ)には、院主(インジユ)と云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

座主(ざす)院主(いんしゆ)座主院主 ??の注にあり。〔84オ七〜ウ一〕

とあって、この標記語「院主」の語をもって収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきよう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(ざす)院主(いんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)橋(ほつきやう)律師(りつし)聖道者一寺検校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師▲院主ハ書写(しよしや)一山の主の称。〔61ウ四、62オ二〕

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきやう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(さす)院主(ゐんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)法橋(ほつけう)律師(りつし)▲院主ハ書写(しよしや)一山の主の称。〔110ウ四、111オ六〕

とあって、標記語「院主」の語をもって収載し、その語注記は、「院主は、書写(しよしや)一山の主の称」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Inju.ヰンジュ(院主) 修道院長にあたるような坊主(Bonzo),または,個々の小寺院,すなわち,寺(Tera)の住み込みの主.※禅寺の監寺(かんす)を院主というのと,各寺院の住持をさすのとあることを説いたもの.〔邦訳335r〕

とあって、標記語「院主」の語の意味は「修道院長にあたるような坊主(Bonzo),または,個々の小寺院,すなわち,寺(Tera)の住み込みの主」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ゐん-じゅ〔名〕【院主】(一)寺院(てら)のあるじ。住持。寺主。三島宮御鎭座本縁「七十五代崇徳院御宇、云云、勝鬘を以て院主とし、神供寺を主り、何れも妻帶供僧云」類聚大補任、弘長二年十一月廿九日「菩提山、自院主失火」(二)禪林にては、監寺(カンス)の舊名。監寺は六知事の一にして、寺内を監督し、衆僧を總領する役僧なり。監院。院宰。釋氏要覽、下、住持「主事四員、一監寺、會要云、監者、總領之稱、所以不稱寺院主者、蓋推尊長老、云云」〔2186-3〕

とあって、標記語「ゐん-じゅ〔名〕【院主】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「いん-じゅ院主】〔名〕@禅宗寺院の監寺(かんす)の旧名。監寺は六知事の一つで、寺内の衆僧を監督する役。A寺院のあるじの僧。住持。住職」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
武藏國威光寺者、依爲源家數代御祈所、院主僧々圓相承之、僧坊寺領如元被奉免之〈云云〉《訓み下し》武蔵ノ国威光寺ハ、源家数代ノ御祈祷所タルニ依テ、院主ノ僧増円之ヲ相承ス。僧坊寺領元ノ如ク之ヲ免ジ奉ラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年十一月十五日の条、》
 
 
座主(ザス)」はことばの溜池(2000.12.17)を参照。
 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

626座主 日本三座主叡山宗一也。座主漉言曰有司謂之座主。或謂一座之主也。文徳天王始定慈覚天台座主謂也云々。〔謙堂文庫蔵五五左D〕

とあって、標記語「座主」の語を収載し、語注記は「日本に三座主あり。叡山の宗一なり。座主漉言曰く、有司之れを座主と謂ふ。或は一座の主を謂ふなり。文徳天王始めて慈覚を天台の座主に定めて謂ふなり云々」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

聖道(シヤウダウ)一寺検校(ケンゲフ)(シユ)行別當(タウ)長吏(チヤウリ)學頭(ガクトウ)座主(サス)院主(インジユ)執頭(シツタウ)先達(せンダツ)阿闍梨(アジヤリ)法橋(ホツケウ) 聖道ハ一寺ノ検校(ケンケウ)(シユ)行別當(ベツトウ)金剛峯寺ナンドニハ。一寺ノ主ヲ検校(ケンゲフ)ト云。叡山(ヱイザン)ニハ。座主(ザス)ト云ナリ。東寺長者ト申也。書冩(シヨシヤ)ニハ院主(インジユ)ト云ナリ。其外長吏(チヤウリ)学頭(ガクトウ)(ベツ)當ナンド云事例(レイ)儀也。執當(シツタウ)先達(せンダツ)ハ。山伏(ブシ)ノ度ヲ蹈(フミ)タル人ナリ。阿闍梨(アシヤリ)法橋(ヒツキフハ)ノ名也。〔下32ウ四〜七〕

とあって、この標記語「座主」とし、語注記は「聖道は、一寺の検校(ケンケウ)・執(シユ)行・別當(ベツトウ)。金剛峯寺なんどには、一寺の主を検校(ケンゲフ)と云ふ。叡山(ヱイザン)には、座主(ザス)と云ふなり。東寺、長者と申すなり。書冩(シヨシヤ)には、院主(インジユ)と云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

座主(ざす)院主(いんしゆ)座主院主 ??の注にあり。〔84オ七〜ウ一〕

とあって、この標記語「座主」の語をもって収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきよう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(ざす)院主(いんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)橋(ほつきやう)律師(りつし)聖道者一寺検校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師▲聖道ハ四月の進状に見ゆ。〔61ウ四、62オ一〕

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきやう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(さす)院主(ゐんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)法橋(ほつけう)律師(りつし)▲聖道ハ四月の進状に見ゆ。〔110ウ四、111オ四〕

とあって、標記語「座主」の語をもって収載し、その語注記は、「座主は、四月の進状に見ゆ」と記載する。
 明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【座主】〔一座の主の義にて、学識の高僧の私稱なりしが、僧職に移りしなり、釋氏要覽、上、稱謂、座主「言曰、有司謂座主今、釋氏學解優瞻頴抜座主、謂一座之主、古、高僧呼講者高座、或是高座之主」〕(一)一山の寺務を綜理する、首座の僧職の稱。始めて、僧職と定められて補せられたるは、文コ天皇の仁壽四年、比叡山延暦寺の圓仁(慈覺大師)なり、歴代、相、承けて、天台座主、又、山の座主、貫首(クワンジユ)とも云ふ。朝野群載、十六、佛事、補天台座主官牒「延暦寺、傳燈大法師圓仁、右、右大臣宣、奉勅、件法師、宣彼寺座主者、云云、仁壽四年四月三日」源氏物語、九、葵21「山のざす、何くれと、やんごとなき僧ども、云云、急ぎまかでぬ」増鏡、第一、おどろの下「此僧正、世にも、いと重く、山の座主にて物したまふ」(二)延暦寺に尋()ぎて、超昇寺、貞觀寺、醍醐寺、法性寺、極樂寺、等の諸寺にも、座主職ありしが、次第に廢絶して、後には、獨り、天台座主の專稱となりぬ。三代實録、十一、貞觀七年十月十六日「超昇寺座主、廿九「貞觀十八年八月廿九日「勅置貞觀寺座主初例抄、下「醍醐寺座主、云云、延喜十九年始補之」(古事類苑)春記、長暦三年閏十二月五日「法性寺の座主、日日に、御戒、授け奉らせたまふ」〔0806-2〕

とあって、標記語「-〔名〕【座主】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-座主】〔名〕@学徳すぐれた、一座の中の上首。また、講席の座の上首。A僧の職名。大寺の寺務を統括する首席の僧。延暦寺の天台座主にはじまり、金剛峰寺、醍醐寺などでもこの職を置いた」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
就五郎丸白状、可召進同意于豫州山侶之趣、相觸山座主之處、彼輩逃亡之旨申之《訓み下し》五郎丸ガ白状ニ就テ、予州ニ同意スル山侶ヲ召シ進ズベキノ趣、山ノ座主(ザス)ニ相ヒ触ルルノ処ニ、彼ノ輩逃亡ノ旨之ヲ申ス。《『吾妻鏡』文治二年閏七月二十六日の条、》
 
 
2004年11月1日(月)晴れ一時曇り。イタリア(ローマ・自宅AP) 祝日(Ognissanti)
學頭(ガクトウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

學頭(ツウ) 。〔元亀二年本92十〕

学頭(カクトウ) 。〔静嘉堂本115二〕〔天正十七年本上56ウ三〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「学頭」の語を収載し、訓みは、元亀二年本が「(ガク)ツウ」とし、他本と異なっている。
 古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、

聖道者一寺検校執行別當長吏学頭座主院主執當先立阿闍梨法橋律師〔至徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔宝徳三年本〕

聖道者一寺檢校執行別當長吏学頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔建部傳内本〕

聖道者(ニハ)一寺檢校執行別當長吏()學頭(トウ)座主院主執(シツ)當先達阿闍梨法橋法眼律師〔山田俊雄藏本〕

聖道(シヤウダウ)()一寺検校(ケンケフ)(シ )行別當長吏()学頭(カクトウ)座主院主執(シツ)當先達(タチ)阿闍梨法橋(ケフ)律師〔経覺筆本〕

聖道者一寺檢校(ケンゲウ)執行(シユキヤウ)別當長吏()学頭(カクトウ)座主(ザス)院主執當(シツタウ)先達(せンタツ)阿闍梨( シヤリ)法橋(ホツケウ)律師(リツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「学頭」とし、訓みは山田俊雄藏本「(ガク)トウ」、経覺筆本・文明四年本が「カクトウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「学頭」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「学頭」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

學頭(ガクトウマナブ、ホトリ・カシラ)[入・平] 。〔人倫門260三〕

とあって、標記語「學頭」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ガクトウ) 。〔・人倫門77三〕

學頭(ガクトウ) 。〔・人倫門76九〕

学頭(ガクトウ) 。〔・人倫門69六〕〔・人倫門83一〕

とあって、標記語「學頭学頭」の語を収載する。また、易林本節用集』には、標記語「学頭」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「學頭学頭」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

625学頭 官書曰、伶人之長曰学頭也。〔謙堂文庫蔵五五左D〕

とあって、標記語「学頭」の語を収載し、語注記は「『官書』に曰く、伶人の長を学頭と曰ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

聖道(シヤウダウ)一寺検校(ケンゲフ)(シユ)行別當(タウ)長吏(チヤウリ)學頭(ガクトウ)座主(サス)院主(インジユ)執頭(シツタウ)先達(せンダツ)阿闍梨(アジヤリ)法橋(ホツケウ) 聖道ハ一寺ノ検校(ケンケウ)(シユ)行別當(ベツトウ)金剛峯寺ナンドニハ。一寺ノ主ヲ検校(ケンゲフ)ト云。叡山(ヱイザン)ニハ。座主(ザス)ト云ナリ。東寺長者ト申也。書冩(シヨシヤ)ニハ院主(インジユ)ト云ナリ。其外長吏(チヤウリ)学頭(ガクトウ)(ベツ)當ナンド云事例(レイ)儀也。執當(シツタウ)先達(せンダツ)ハ。山伏(ブシ)ノ度ヲ蹈(フミ)タル人ナリ。阿闍梨(アシヤリ)法橋(ヒツキフハ)ノ名也。〔下32ウ四〜七〕

とあって、この標記語「学頭」とし、語注記は「其の外、長吏(チヤウリ)・学頭(ガクトウ)・別(ベツ)當なんど云ふ事は例(レイ)儀なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

学頭(かくとう)學頭 学者の頭なり。〔84ウ二〕

とあって、この標記語「学頭」の語をもって収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきよう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(ざす)院主(いんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)橋(ほつきやう)律師(りつし)聖道者一寺検校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師▲學頭ハ学文所(がくもんしよ)の長(おさ)也。〔61ウ四、62オ二〕

聖道(しやうだう)()一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきやう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(さす)院主(ゐんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)法橋(ほつけう)律師(りつし)▲学頭ハ学文所(がくもんしよ)の長(をさ)也。〔111オ六〕

とあって、標記語「學頭」の語をもって収載し、その語注記は、「学頭は、学文所(がくもんしよ)の長(をさ)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Gacuto>.ガクトウ(楽頭・学頭) 音楽や楽器の事における長たる人,あるいは,先任者.¶また(学頭),Xo<do<(聖道)と呼ばれる坊主(Bonzos)の間での長たる人,あるいは,長老.〔邦訳290r〕

とあって、標記語「学頭」の語の意味は「Xo<do<(聖道)と呼ばれる坊主(Bonzos)の間での長たる人,あるいは,長老」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

がく-とう〔名〕【學頭】(一)勸學院の職員。西宮記、臨時、五、勸學院「別當行院事、有學頭(二)學校長。(三)社僧中の職員。菅家御傳記、「安樂寺學頭」(太宰府、~宮寺) 當社學頭職次第(鶴岡八幡宮)「良喜、建仁元年、尊曉別當、始置學頭之、始、三十一年也」〔0361-1〕

とあって、標記語「がく-とう〔名〕【學頭】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「がく-とう学頭】〔名〕@(学道の頭領の意)諸大寺、諸社の学事を統轄するもの。古く延暦寺、園城寺などにそれぞれ一人を置き、僧綱に任じた。のち叡山の三塔にそれぞれ置き、その他関東の日光山修学院および東叡山凌雲院、南都の薬師寺、高野山の無量寿院および宝性院などに、広く置くようになった。学頭衆(がくとうしゅ)A勧学院の学生(がくしょう)代表者の者。学生の中から才学すぐれた者を選抜した。B学校長、または首席の教師」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
又信濃國之善光寺、修造被遂供養導師大夫竪者維真、〈當寺學頭〉檀那、陸奥守重時、令觀養坊勸進 《訓み下し》又信濃ノ国ノ善光寺、修造。供養ヲ遂ゲラル。導師ハ大夫竪者維真、〈当寺ノ学頭〉檀那ハ、陸奥ノ守重時、観養坊ヲシテ勧進セシム。《『吾妻鏡』建長五年四月二十六日の条、》
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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