[6月1日〜6月30日]

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1998年6月30日(火)晴れ。苫小牧

樽前も 見えず歩き 日が暮れて

「千六本」

 大根を細長く刻んだものを「千六本〔センロッポン〕」と呼称する。これをまた、「千切り〔センぎり〕」ともいう。この「千六本」だが、元は「繊蘿蔔」の唐音読み「センロウポ」が転じたことばである。これを「繊六本」とも表記される。「千」と「繊」両字ともに「セン」、かたや数の多いこと。かたや形の細かいことを表している。これに下接「ロウポ>ロッポ>ロッポン」として「六本」の字を当てた。この当て字「六本」って何だろうか?少し疑問に思う。

 大根をこのように細長く包丁で刻む職人の腕前は、今も捨てたのものではないのだ。これを刺身の色添えに用いて「刺身のツマ」とも云う。

1998年6月29日(月)晴れ。

気づく間も 断り無きや 夕暮れか

「介」

 単漢字「介」は、音「カイ」、訓「すけ」。熟語として近年もっとも使用されている語に「介護」がある。この字を分解すれば「人」と「二本の縦線」、これは何を物語っているのでしょう。人を支える二本の腕なのかもしれません。この字を名前として用いると、「金之介」「大介」「洋介」「孝介」「龍之介」などと男性の名を飾る力強いイメージとなる。

 ところで、魚の名にも、「介党鱈〔スケトウダラ〕」(または、「助宗鱈〔スケソウダラ〕・助惣鱈」ともいう。この場合、なぜか「助」の字で表記がされる)という表記がなされる。この読みの異なりにおいてなぜ、表記区分がなされるのだろうか?現況の国語辞書では、この点を明確に示していないのである。この理由が如何なものか?ここはじっくり論議しておきたいところである。

1998年6月28日(日)晴れ。

天の顔 遠き山並み 凛と立つ

「山」

「やま」ということばの響きには、それぞれ異なる思いが込められている。北海道で「やま」といえば、まず以前であれば、基幹産業であった「炭鉱」を意味していた。美唄・砂川・三笠・夕張といった「鉱山」がこの空知地区にあった。

また、「山」は、この時節に「やま」という場合、それは独活や筍といった「山菜取り」を意味する。「明日は家族で山に行こう」というから、てっきりハイキングかなと思えば、「山菜取り」に車で出かけることなのであった。

そして、この季節、忘れてならない「やま」は、やはり「夏山登山」なのである。「山開き」のあと、雪で閉ざされていた山々がハイカーでいよいよ賑わう。雪渓の残る夏山には、高山植物もそう高い山でなくても自由に観察できるのである。

 「山親爺」にも遭遇することも稀でない。この「山親爺」とは、「羆〔ヒグマ〕」の代名詞。昨年、三日間の登山中10頭の「クマ」と遭遇したという話を知り合いから聞いた。これからが本番である。とはいえ、「山」の遭難のうち、山菜取りに入って夢中になって道を失うといった遭難のケースがこの時期に結構ある。

 まだまだある。参院選挙告示され、以前、「山が動いた」という形容の名ゼリフを用いた某女性党首も今も健在である。「山師(詐欺師)」などと人に評価されるにいたっては、だれもが不快な氣持ちにもなるであろう。

1998年6月27日(土)曇り一時雨。気温20度

昼小闇 郭公屡鳴き まとめたり

「三寳鳥」

 本日、北澤光昭さんより「『身延山図経』の研究」の御著書を賜った。この影印中末尾に「三寳鳥」についての詩がいくつかあがっている。

三寳鳥並引     日潮

今茲甲子孟夏朔三寳鳥古来言山内有セハ∨吉則鳴クト予丙辰之秋初入山。是時聞ク∨數日ニシテ而止ンヌ矣。這回〔コノタヒ〕鳴十數様一更シテ∨ル‖五更ニ|。是ソヤ乎。粛敬シテス∨止。作テ∨偈以ルト∨

三寳鳥賛      日潮

七面山古来棲シム‖三寳鳥|而シモ々鳴ク時ハ則吉ナリ也。桑色日富上人図シテ‖ヲ|フ‖賛詞ヲ|。賛

神山棲シム‖霊鳥ヲ|。出則告ク|感應ヲ‖。翠羽兮丹嘴聲々仏法僧三帰克クシ‖三軌ヲ|最上乗ヲ|終宵扶ク我カ行フ|別頭大良明。

とある。この「三寳鳥」だが、「ブッポウソウ」と鳴く。この鳴き声と姿形とが江戸時代にあっては一致していなかった。今で云う「姿のぶっぽうそう(渡り鳥。鳩よりやや小さく、体色は青緑色で、嘴と足が赤い)」と「声のブッポウソウ(コノハズク)」とに分かれるところである。

1998年6月26日(金)曇り夜小雨。気温23度湿度70パーセント

浜梨の 香華に誘はれ 汗流す

「虎が雨」

『吾妻鏡』巻第十三の建久四年、

 六月十八日、故曽我十郎妾〔セウ〕大磯〔ヲホイソ〕虎〔トラ〕雖スト除髪〔チヨハツ〕。着〔チヤク〕シ‖衣袈裟〔ケサ〕、迎〔ムカヘ〕亡夫〔バウフ〕三七日忌辰〔キシン〕ヲ|。於テ‖筥根山〔ハコネヤマ〕別當行實〔ギヤウジツ〕坊ニ|。修〔シユ〕ス‖佛事ヲ|。捧〔サヽゲ〕和字〔ワジ〕諷誦文〔フシユモン〕ヲ|。引〔ヒキ〕葦毛〔アシゲ〕馬一疋ヲ|。爲ス‖唱導〔シヤウダウ〕施物等〔セモツトウ〕ト|。件馬者祐成最期〔サイゴ〕。所與〔アタフル〕也。則今日遂〔トゲ〕出家ヲ|。趣信濃善光寺ニ|。于時年十九歳也。見聞〔ケンフン〕緇素〔シソ〕莫〔ナシ〕ストコト拭〔ノゴハ〕悲涙〔ヒルイ〕云々。

という譚からきている。実際、「虎が雨」は、「曽我の雨」ともいい、曽我十郎敵討ちの五月廿八日をあてて、民庶はかならずこの日雨が降ると伝聞してきたのである。がしかし、十郎亡きあとの虎御前が除髪の日というのが摂理にかなっているのではなかろうかと思うのだが、そうではないようだ。ここに曽我兄弟の鎮魂浄化のイメージが絡んでいるからに他ならない。後世、俳諧『毛吹草』追加・上[岩波文庫406頁]に、

  虎か涕〔なみだ〕とふらひなきか時鳥      作者不知

が見える。江戸時代の『俳諧歳時記』上巻96オに、

 虎が雨 五月廿八日多く雨ふるこれを虎が泪〔なみだ〕の雨といふ大磯の虎といふ遊女〔うかれめ〕曽我祐成と相別〔わかる〕涙変〔へん〕じて雨となる。故に世俗今日の雨は虎が涙〔なみた〕也といふ。相別に弟時致の社あり。勝名荒神といふ。建久四年五月廿八日の夜兄弟富士野御狩〔みかり〕の旅館〔しよくわん〕井手の屋形に推参〔すいさん〕して父の讐〔あた〕五藤祐種を討ち祐成は討死し時致は誅〔ちう〕に伏す。吉原〔よしはら〕蒲原〔かんはら〕の間厚原〔あつはら〕といふ所に兄弟を神に祭て秀倉〔ほこら〕あり。八幡と号ス。厚原〔あつはら〕の並びに久次といふ所あり。此所に泉福寺といふ寺あり。そこに兄弟の石塔あり。祐成を高崇院峯巖良雪大禅定門〔かうそういんほうがんりやうせつだいぜんでうもん〕、時致を鷹岳院士山良冨大居士〔おうがくいんしざんりやうふ〕と号ス。虎は祐成討死の後、尼〔あま〕となり所の翁を案内にて井手の屋形のほとり祐成の最期〔さいご〕跡をみていとゝ歎〔なげ〕きにしつみつゝ

  露とのみ消〔きえ〕にし跡を来てみれは尾花か末〔すへ〕に秋風そ吹〔ふく〕

此哥曽我物語巻の十二にみへたり。

と詳細な解説が記載されている。「虎が雨」は、「虎の雨」とは決して云わない。この「が」だが意外と趣の深い表現でもある。

1998年6月25日(木)晴れ。

夏兆し 蝦夷蝉鳴くや 温い立ち

「龍吐水」

 国語辞典を読んでいると、時にふだんあまり目にしない、耳にしないことばにでくわす。これがまた、辞書読みの楽しみというものである。ここに紹介する「りゅうどすい【龍吐水】」なることばもその一例である。

「りゅうどすい【竜吐水】」とは、いったい何ぞや?とみるに、

岩波『国語辞典』に、

  1. 水のはいった大きな箱の上に押し上げポンプを装置し、横木を動かして水をふき出させるしかけの、旧式の消化用具A水鉄砲(みずでっぽう)。

新明解『国語辞典』に、

  1. 昔の消火器の名。水を入れた箱の中に押上げポンプを装置したもの。A水鉄砲。

新潮『現代国語辞典』【竜吐水・龍吐水】に、

@火消し(昔の消防隊)が用いた、水槽つきの手押し放水ポンプ。「りうとすい〔ヘボン〕」A水鉄砲。

『新選国語辞典』小学館【龍吐水】に、

[名]@消化用具で、大きな箱に押し上げポンプをとりつけ、箱の中の水をふき出させるもの。A〔文章語〕みずでっぽう。

明治書院『精選国語辞典』に、

《名》横木を動かして放水する水槽〔すいそう〕付きの消化ポンプ。

新潮『国語辞典』に、

  1. 昔の消火器具の一。大きな箱の中に押し上げポンプの装置を置き、横木を交互に上下して箱の中の水を噴出するようにしたもの。りゅうこし。A高所へ水をくみあげる器械。〔成形図説一二〕B水鉄砲。

学研『国語大辞典』【竜吐水・龍吐水】に、

《名》@手押しポンプの一種。水槽そうの上に押し上げポンプを装置し、横木を上下して水を吹き出させるもの。消火用具などとして用いた。「消せ、消さんか、何を立つて見とる! ―は如何した?<徳富・自然と…>」A水鉄砲みずでっぽう

角川『必携国語辞典』は、未収載。

と意味記述されている。このなかで、用例を記述するのは唯一、学研『国語大辞典』のみである。新潮『現代国語辞典』の引用するJC・ヘボン『和英語林集成』第三版は、「Ryutosui 龍吐水 n.(lit. water vomiting dragon) A fire-engine.」[515r]と記載している。日本語では、消火器具・消火用具・消化ポンプといった類語別字表現が何故か目につく。「竜吐水」とはまさに、使ってこそわかる代物といえよう。国語辞典には、水槽の大きさ、容量については何も記されていないのが現実である。実物は博物館入りしていて、じっくり見たいと思う人は、実際見るのもよかろう。

1998年6月24日(水)晴れ。札幌

陽浴びて 寛ぐ窓辺に 芍薬花

「怒り」のことば

 感情表現の「怒」を表現することばを、どう表現しているか調べてみよう。普通、「いかる」とか「おこる」という。でも、これでは心の内を表現できないとでも言うのか、近頃の若者たちは男女問わずちょっとしたことでも、気に障ると「むかつく」ということばを連発してみせる。これは、胸がむかむかするの象徴語「むかむか」に活用語尾「つく」が下接した派生語である。彼らはこのことばを発することで周囲の大人に信号を送りつづけている。

 これ以前には、胸でなく顔の「仏頂面」「膨れっ面」、「鶏冠に来る」と頭にあがり、その前は腹で表現していた。俗に「腹立つ」と表現していたのである。漢語では「立腹〔リップク〕」、そして「腹立ち」にも「小腹、中ッ腹、向ッ腹」と立つ場所も複雑多様であった。

 眉山の蘇氏は、「忍〔しのべ〕バ∨事トヲ腹如シ∨嚢〔ふくろ〕」と云い、平安時代末の『大鏡』は、「おぼしきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地〔ここち〕しける。」と表現している。鎌倉時代の吉田兼好の随筆『徒然草』にも「腹立ち」の表現が見えている。

 『日本書紀』には、「發憤〔ムツカル〕」や「天皇赫怒〔カクト〕シテ」といった感情表現が見えている。また、『遊仙窟』には、「佯嗔〔イツハリハラタツ〕」という怒りの感情表現が見えている。現代においても、「憤怒〔ゲキド〕」を筆頭に「憤激、憤慨」「恚憤〔イフン〕、激憤、積憤、義憤、公憤、私憤、痛憤、憂憤、悲憤、余憤」といった感情表現がある。この表現じっくりみれば、他愛ない怒りもきっとおさまろうものというものである。心うちに溜めないためには穏やかに聞く立場の人もやはり必要となろう。

1998年6月23日(火)晴れ。苫小牧

車窓から 涼風靡かせ 緑輝く

「用」の字謎

 『斎東俗談(せいとうぞくだん)』巻四(単字部)に字謎が紹介されている。

字書。謎〔メイ〕。隠語〔インコ〕也。〓〔王+良〕邪代酔編〔ラウヤタイスイヘン〕三十五云。古ヘノ之所謂痩詞〔ソウシ〕。即之隠語ニシテ。而俗所謂。謎〔ナゾ〕ナリ。用謎〔ナソ〕曰ク。一月復〔マタ〕一月。両月共〔トモ〕半邊〔―ヘン〕。一山又二山。三山皆〔ミナ〕倒〔サカサマ〕懸〔カヽル〕。上リ‖ツ∨耕〔タカヘス〕之由。下長流之川〔カハ〕。六口共ニシ‖一室ヲ|。両口不團〔フタン〕圓ナラ

といった具合にである。この字謎も、一種の漢字の分解によりなっているのである。

1998年6月22日(月)晴れ。瀬戸瀬温泉〜

湯煙りや 一日平癒し 学び舎ぞ

「蛸」

 「たこ」を「章魚」と書く。また、「蛸」という単字が使われている。八本足(足か手かについては、以前取り上げている。「たこ」の語源は「手瘤〔てこぶ〕」から)の海生物であり、私たち、日本人の食味には欠かせない一品である。この蛸の足を天日で乾燥させ、鉋で削り節のように削るとふわっと淡白くなり、これを「雪の花」と称して北海の産物として明治時代には知られていた。また、蛸の卵を使った「蒲鉾」の料理も北海の知られざる漁師の料理の一品なのである。

さて、「たこ」の字だが院政時代の古字書観智院本『類聚名義抄』に、

 「〓〔魚+肖〕音消。又山交反。タコ」僧下一三E

 「海〓〔魚+肖〕子 タコ[平平]」僧下一三E

 「小〓〔魚+肖〕魚 チヒサキタコ[平平平平平平]。一云スルメ[上上―]」僧下一三F

 「貝〓〔魚+肖〕 カヒタコ[平平平濁上]」僧下一三F

 「〓〔魚+鬼〕 タコ」僧下一五A

 「〓〔魚+梗〕 カヒタコ」僧下一五B

 「海蛸子 正〓〔魚+肖〕。タコ」僧下一九B

 「小蛸魚 並在魚部」僧下一九C

といった漢字が収載されていて、今日見かけない表記「魚篇に鬼」や「魚篇に梗」といた文字も見える。「たこ」の品種にも「ちひさきたこ」「かひだこ」の二種が収録されている。正字は、「〓〔魚+肖〕」で「蛸」は俗字となるともある。「章魚」の字は未収載。

 これは余談だが、学生時代の同期生の姓字に「蛸〔たご〕」さんがいた。

1998年6月21日(日)雨時折曇り。

湧別サロマ湖100kmウルトラマラソン大会

縮こまり 野の花咲きつ 人迎へ

「符丁」

 「符丁〔あひことば〕」は、理屈のとおった内容で、通常の物言いをちょっと変えたに過ぎない。江戸時代「編み笠」というは、深く包み隠せ、人に知られるな。「金〔かね〕」を「肺〔ハイ〕」というのは五行説で人間の五臓で肺は金蔵から。「ささやく」ことを「くちみみ」とそのものズバリを表現している。

 さらに、物を言うことを「にむ」と云い、カタカナ表記にして「ニム」すなわち、「云」の漢字を分解した表現。また、「人のため」も「偽〔いつはり〕」の分解字表現。「文口〔ふみくち〕」も「吝〔けち〕」の分解字表現といった具合に数多く使われている。この漢字を分解することは、江戸時代全般にわたって庶民に流布した『小野篁歌字盡』によるところが大なのである。滝沢馬琴も読本『南総里美八犬傳』において「犬」の字を分解し、「ヽ大和尚」。里美家にまつわる「魚」は「鯉〔こい〕」であり、犬の八房を育てる「獣」は「狸〔たぬき〕」などと符丁表現をもって作品の登場人物やモチーフを「名詮自性」として形成していることは、有名である。この漢字の分解・合成の集字の最古の字書資料が鎌倉時代の『〓〔玉+肖〕玉集』(真福寺本)である。現代も「只」の字を分解して「ロハ」すなわち、無料の意に用いたりしているのも同じである。

 次に精進潔斎を大事にする僧侶の世界にあって、「生魚」を表現するにも、「鯛」は「若狭」、「鰤」を「丹後」、「鮒」を「近江殿」と地名で表現したり、「蛸」を「天蓋」、「まな鰹」を「銅鑼」と形状で表現したりする。さらに、「魚骨」を「こつ」といったようによそよそしく婉曲に表現する類のことばも符丁ことばとして云えよう。

1998年6月20日(土)雨。湧別

浄め雨 向かへ楽しき 人の顔

「アユ」

 川魚の帝王ともいう「アユ」は、清流にしか棲息しない。英名は「Sweet Smelt」という。本邦古字書の観智院本『類聚名義抄』にあっては、

  「年魚 アユ[平上]、サケ[平上]」僧下一D

  「細鱗魚 同(アユ[平上])」僧下一G

  「銀口魚 アユ[平上]」僧下一F

  「鮎 奴魚反。アユ[平上]」僧下三@

  「〓〔魚+是〕 音題。ヒシコイハシ、アユ、フク、クソナメル。音〓〔豆+支〕」僧下三A

  「〓〔魚+夷〕魚 アユ」僧下三@

  「〓〔魚侖〕 音倫。アユ、アチ」僧下一二A

  「〓〔魚+卜〕 アユ」僧下一四G

  「出 吹律反。イツ、サル、アラハル、アユ、ミユ、ウカフ。禾主ツ、イツ、スイ/イタス」僧下八三@

などの漢字をあてる。単漢字「鮎」の読みは、本邦独自の読みで『肥前風土記』に、神功皇后が新羅平定の際、松浦川(玉島川)で戦勝の成否を占い、皇后が自らの裳裾の紐で鮎を釣り上げたことに由来する。これ以後、魚篇に占の字を書くことになったというのである。中国ではこの「鮎」の字を「なまづ」と読む(日本では「鯰」の字を用いる)。この後、虹ノ松原の入り口に注ぐ松浦川で、万葉の哥人大伴旅人が鮎釣りの娘子と交わした問答歌が詠まれている。その折の娘子が応えた歌(『万葉集』八五九)に、

 春去れば吾家の里の川門には阿由故〔あゆこ〕さ走る君待ちがてに

という、「さ走る鮎子〔あゆこ〕」に女心を重ねて恋心を巧みに描写している。この「阿由故〔あゆこ〕」は若鮎、別名「柳ッ葉」のことをさす。

 また、「〓〔魚+歳〕」や「香魚」の字を「あゆ」と読む訓は、『名義抄』には未収載なのである。江戸時代の文政六年刊高井蘭山編『俳字節用集』下・生47ウBには、「〓〔魚+條〕アユ 細鱗魚。年魚。銀口魚。渓鰛」とあるに留まる。ここでも、見出し語「〓〔魚+條〕」と割注「渓鰮」の漢字表記が目新しい。

 ここで、実際に用いる漢字表記の頻度の高いものとして、「鮎」の漢字が筆頭にくる。『古事記』中巻に、「飯粒〔いひぼ〕を餌〔ゑ〕にして、その河の年魚〔あゆ〕を釣りたまひき」[岩波文庫一三五E]の表記例が見える。これが第二というところか。

ところで、「鮎寿司(820円)」の駅弁は、現在では東海道本線の岐阜駅、「鮎ずし(900円)」は、久大本線の日田駅にしか取り扱われていない。古くは、平塚などでもあったのだが……。この「鮎鮨」も古くは『延喜式』にみえ、建長六(一二五四)年成立の橘成季『古今著聞集』巻第十八・644 三条中納言某大食の事に、

又一人鮎のすしといふ物を、五六十ばかりをかしらをして、それも銀の鉢にもりてをきたり。(中略)かくする事七八度になりぬれば、鉢なりつる水飯もあゆのすしも、みなになりにけり[大系四八九頁]

といった、説話が収載されている。

1998年6月19日(金)晴れ後曇り

群がって 紅輪蒲公英 遠き空

「睦」と「陸」

 活力のあることばって、おもしろいことばであり、よれよれになっていない新鮮さをともなうことばを指す。同義の異形語・類似語による表現の多様さ、多彩さが結果として巷に放出することになる。これと同じように、文字にも共通する旁字から文字表現による同じ読みがなされているのである。

 たとえば、「睦〔ロク〕」の字を「むつ」と読み、「陸〔リク〕」の字にも「陸奥〔むつ〕」という読みがある。ここからさらに、魚の「〓〔魚土八土〕」という魚名にも「むつ」が生まれてきた。字は同じだが共通する意味関係は、ここにはないのである。院政時代の古字書である観智院本『類聚名義抄』に、

「睦 音目。ムツラムツマシ、ミル、ヤハラク、シタカフ、?ヘシム、アブル。又穆。禾木」佛中六九F

「陸 音六。ムツ、ミチ、クムガ[クカ]、アツシ、ヌク、(六ク)」法中四七@

「〓〔魚土八土〕 音六。魚状如牛。ムツ」僧下一二E

と旁字の部分が共通しているところから同じ読みが付加され、この平安時代から院政時代には「陸奥〔みちのく〕」を「むつ」と呼称するにとどまらず、東北以南日本海に棲息する珍味な魚の名にも「むつ」の訓が既に用いられていたことをここに知るのである。この魚に『名義抄』の注文は「形状を牛のようだ」といっているところが面白い。これに「ウミウシ」なる訓がないのもまた妙なところといえる。

 逆に文字は類似していても、まったく縁のない文字も無いわけではない。「陽炎〔かげろう〕」の「陽〔かげ〕」の字と「蜥蜴〔とかげ〕」の「蜴〔かげ〕」の文字の旁は「易」と共通していても、この「易」に「かげ」と読む由縁はないのである。

1998年6月18日(木)曇鱆り後晴れ

暗雲も つるッと一飲み 晴れ晴れし

「感字」

漢字表記することで、そのことがらの意味を表現しようとするとき、もしこんな漢字表記ができれば便利で面白いのではないか。こう考えて創造した漢字を「カンジ」の同音に見立てて「感じる字」と表記し、「感字」という。

カタカナ外来語における「感じ文字」の作例として、

「マラソン」を「走長」

「カレーライス」を「辛米」

「マスコミ」を「世騒」

「コンピュータ」を「電脳」

「アンケート」を「思書」

「セルフサービス」を「自用意」

「エレベーター」を「重上下」

といったふうにである。まだまだ、こんな「感字」っていう漢字を教えてください。こんなのもいい。「口母」で「うるさい」。「女若」で「ギャル」なんてのもある。

1998年6月17日(水)曇り。

すべて待ち 選り取り見取り 花の色

「っぽ」

 語尾に「っぽ」となる語を逆引き辞書でみるに、逆引き『熟語林』(日外アソセーション辞書編集部編)に、

「尾っぽ」「空っぽ」「筒っぽ」「端っぽ」

が収載されている。日本語逆引き辞典(大修館書店刊)には、

「先っぽ」「ろくすっぽ<副詞>」「そっぽ【外方】」「空っぽ」

を収載する。逆引き『広辞苑』(岩波書店刊)には、

「書生っぽ」「尾っぽ」「先っぽ」「陸すっぽ」「筒っぽ」「赤のっぽ(長身)」「空っぽ」「のらっぽ(なまけ者)」「尻っぽ」

が収載され、「しっぽ【尻尾】」「ねずっぽ【鼠坊】」「かたっぽ【片っ方】」は、【 】内で漢字表示され、「はとぽっぽ【鳩ぽっぽ】」「きしゃぽっぽ【汽車ぽっぽ】」は、幼児語の「ぽっぽ」がひとつの形成としてみて除外した。「ろくすっぽ」は、「ろくすつぽう」の縮めた語で「ろくに」の口語表現にして「ろく」は呉音「陸」(満足すべき状態をいう)、「すっぽう」は「寸法」とするか定かでない。

 ここで、人に連関する語をみるに、「のっぽ」は、もとは象徴語「のつぽり」の「り」が脱落した表現である。また「書生っぽ」「のらっぽ」なる語が見える。この二語は、相手を見下した物言いで、「書生っぽ」は、〔実社会の裏面を知らない小僧っ子という意〕でと新明解『国語辞典』第五版は記述している。

 また、地域名称でその出身人物を見下した物言いがある。時代は江戸時代後期、地名は「薩摩」「水戸」「会津」「土佐」がそれにあたる。「薩摩っぽ」「水戸っぽ」などという。このような物言いをする側は江戸・京都・大坂といった大都市の民衆であったようだ。

 実際、天明五(1785)年、千差万別著『無駄酸辛甘』山中共古著『砂払』権蒟蒻(右)岩波文庫・下118頁)に、

 声の面白い人ならば、水戸〔みと〕ッぱうの六に、明神下の伝公。

天明四(1784)年三月跋、泥田房述序、万象亭著『二日酔巵〓〔角+単〕』(同上119頁)に、

  夫〔それ〕だが水戸ッぽうであれほどにうたはふと言〔いう〕はよつぽどきついやつだ。

と都人からみた鄙人「水戸者」の意で「う」を付けた「ッぱう」「ッぽう」にて表現されている。この「っぽう」は、「水戸坊〔―ボウ〕」が訛って「みとっぽう」となったか?これが幕末近くになると「う」が落ちた形で、一層見下しの物言いが強まったということになろうか。ところで、現代人の「都会の人」に対し、「地方の方」と言うように、最初は軽蔑する気持ちはなかったのでしょうが、やがてこの蔑みの気持ちが少しずつ加味されていくのであろうか。「ぽっとでの山だし」を転倒して、「山っぽ」という言い方も捨てがたいところである。

1998年6月16日(火)曇り夕方小雨。苫小牧

空低れて 花の色のみ 好き勝手

「新世界語」

 明治39年の頃、「エスペランド」がもてはやされ、本郷台より神田辺において男女学生による「ニュー・エスペランド」が流行した。この「新世界語〔ニュー・エスペランド〕」は、羅馬字綴りを逆さから読む方法で、例えば、「馬鹿」を羅馬字で書くと「BAKA〔バカ〕」で、これを逆さに読むのであるからにして、「AKAB〔アカブ〕」と云うのである。「愛する」は「AISURU〔アイスル〕」で「URUSIA〔ウルシア〕」と表現する。この類のことばを使って、人前で情話を交わそうが一種の暗語であるから、この意を介する者同士にしか通じない。この人に知られないで表現するその優越なる快感が堪らないということか、「貴方、ニュー・エスペランドで申しますよ」と上得意という記事が当時の新聞を沸かせている。この「新世界語」がどれだけ、当時の学生諸氏に広がりを見せていたのか探ってみるもの面白かろう。

「MANABU〔学ぶ〕」>「UBANAM〔ウバナム〕」

「IZAKAYA〔居酒屋〕」>「AYAKAZI〔アヤカジ〕」

「OKANE〔お金〕」>「ENAKO〔エナコ〕」

「GAKKO〔学校〕」>「OKKAG〔オッカグ〕」

「SAKE〔酒〕」>「EKAS〔エカス〕」

「YUKU〔行く〕」>「UKUY〔ウクユ〕」

などの表現が推定され、

「オッカグでエカスを飲むエナコを集めて、ウバナムことをやめてアヤカジにでもウクユか」

といった会話が当時、学生の暗語として成り立っていたのであろうか?「新世界語」の流行は、現代若者ことばの流れを考えていくうえで興味を惹く話題である。

1998年6月15日(月)曇り一時雨。

昼暗き 梅雨の入りには 朱牡丹

別れの挨拶今昔「バイバイ」「さばよ」

 このごろ、別れ際に若者がかわす挨拶ことばは、「バイバイ」「またネー」である。この「バイバイ」は英語の「グッド・バイ」の「バイ」からきている。そして、この「バイ」と「さようなら」の「なら」とが合成して「バイなら」なる別れの挨拶表現が誕生したのも昭和年代にはあったが今はもう耳にしない。

 ところで、江戸時代の若者たちはどうであったのだろうかと、思いつつ見ると、山中共古『砂払』権蒟蒻(左)に安永二年卯月、夢中山人著『南閨雑話』を引いて、

○[幸]……オヽ寒い。行ツて寝よふ[忠]いくか[幸]さばよ[里]お休みねんし。

此「さばよ」と別〔わかれ〕の詞は童児の言葉にて、子供輩が友と別れる時は、「アバヨ、芝よ、金杉〔かなすぎ〕よ」と云へり又「アバヨサバヨ」と云へるもあり。

と記録されていている。ここに「さばよ」とあるのは、「おさらばよ」の省略形か?現代の歌謡曲『昴』の一節に、「さらば、スバルよー」とある「さらばよ」である。この「ら」中抜きにしたのが、「さばよ」であると推論するが確証はない。岩波『古語辞典』補訂版には、「≪サバは接続詞。そうならばよ、の意≫別れる時の挨拶。さようなら。さばえ。「『晩程、茨木屋で逢ひませうによ』『さばよ』」<伎・椀久浮世十界>」と見える。

 また、これに類似する「あばよ」も添えられている。そして、童児の使っていた「あばよ」は、粋な兄ちゃんが別れ際に使うことばとして長くながく今日まで使われてきたということにもなる。この「あばよ」も、松田優作主演映画の「あばよ」があったり、中島みゆきの歌の題目にあったが、この頃は廃れてきているようだ。これも元は「この世にあらばよ」の「ら」中抜き言葉か?国語辞典では、この「あばよ」を新明解『国語辞典』第五版に「さよ(う)なら」の意の口頭語表現〔もとは幼児語〕として収載する。この「もとは幼児語」という説明は、この『砂払』を根拠としているということか。そしてこの幼児語だが、岩波『古語辞典』の用例からみて幼児から成長した大人も用いるようになっていたと考えたい。

1998年6月14日(日)曇り。札幌

綿毛舞ひ 緑地の憩ひ 誘ひ人

「桿」(さお?)

 木類の「幹〔カン・みき〕」、「草類」の「茎〔ケイ・くき〕」に対応する竹類の部位名称はといえば、「桿」という。国語辞典に未収載の語である。漢和辞典によれば、読み方は、音「カン」訓「×」とある。

 竹の文化と日本人の関係は、『古事記』中巻に「乃取其伊豆志河之河嶋一節竹而、作八目之荒籠、取其河石、合鹽而裹其竹葉、令詛言、如此竹葉青、如此竹葉萎而青萎」や『日本書紀』の時代にまで遡ってみることができる。そして「木の幹」や「草の茎」にあたる「竹」の部位名称を「さを」という。この「桿」の字と和訓「さを」とは共通しないのだろうか?

 実際、竹冠の字で「サヲ」の訓を有する漢字を観智院本『類聚名義抄』で拾うと、「竿、音干〔カン〕、サヲ[平平]フタ」[僧上六六B]「〓〔竹+手+高〕、サヲ[平平]」[僧上八〇C]の二種の字が収載されている。そして『名義抄』において、「桿」の字は未収載である。「竹+旱」の合成字は勿論ない。ここで、現代の『大漢語林』<大修館書店刊>で確認すると、「竿〔さお〕」で、意味を「竹ざお。竹の幹。「竹竿」」と記述し、「竹の幹」なる表現が用いられていることを知るのである。しかし、「竹の幹」なる表現でよいのだろうか?「竹のさお」が正しいのではないのか?この「たけのさお」が合成され、「竹ざお」となる。本来、葉・枝・根のある「竹身部位」を呼称していたものが、竹材として葉・枝・根と切り離されたそのものを「さお竹」(「俄ニ大風ニナリテ。捍索モ。〓〔扼+ク〕竿モ。吹アゲテ竿ダケニ。吹風ノ音ガ。人ノ嘯クヤウナソ」[『中華若木詩抄』巻中四三オF])、「竹ざお」と表現されるに至ったのである。この「さお」の漢字表記が問題なのである。

表1 <植物部位名称>

木類

竹類

稲類

草類

T

花〔はな〕

花〔はな〕

花〔はな〕

花〔はな〕

U

葉〔は〕

葉〔は〕

葉〔は〕

葉〔は〕

V

枝〔えだ〕

枝〔えだ〕

×

×

W

〔みき〕

〔さお〕

〔くき〕

〔くき〕

X

根〔ね〕

根〔ね〕

根〔ね〕

根〔ね〕

 「さお」と読む字に「棹」があり、「棹」と「桿」の字は字形相似の関係にある。このあたりに、表1のWの部位名称、竹類「桿」の字を「さお」と読むことが生じてきたのではなかろうか。さらに、稲類の「〔くき〕」の字に引かれることも要因としては見逃せまい。そして、字形相似による読み違えをいつの頃からなのかが氣になるところである。

<花支える枝、枝支える幹、幹支える根>

1998年6月13日(土)晴れ。

はったと打ち ほっかと夢醒め 大安楽

「どうも」と「おおきに」

 関東では「どうもありがとう」を縮めて「どうも」。関西では「大きにありがとう」を縮めて「おおきに」と日常挨拶として用いる。この関東の「どうも」には、「こんにちは」「ありがとう」「お久しぶり」「さようなら」「お待たせしました」「すみません」「いらっしゃいませ」といった多くのニュアンスをこめた挨拶の代替え表現として使われているのである。

この「どうも」と「おおきに」を併合して「どうも、おおきに」と表現する。また、「どうも」は、「どうもどうも」と重複表現することはあるが、「おおきに」のほうは「おおきにおおきに」と重ねては表現しない。このあたりが関東と関西の表現の差なのだろうか?

また、はじめての人へのあいさつに「よろしく、どうも」がある。これも「よろしゅう、おおきに」という表現は成立していない。「おおきに」が古く、「どうも」は、かの柳田國男博士が戦後の昭和二〇年代に予測したように、現在では「どうも―」を日常挨拶の表現として連発してやまないといえよう。

1998年6月12日(金)曇り時折小雨。

窓の外 白樺樹木 見下ろして

「やきとり」と「焼鳥」

「やきとりで一杯!」といえば、酒飲みの楽しみ。ひらがなでの「やきとり」というのは、なぜ「豚肉」に限られるのであろうか?これは四つ足動物の肉食をもっとも好まない仏教・儒教の影響がもたらしたことによる表現方法であった。すなわち、二足の鳥類には、罪悪感やとがめだてられることがないことで、食されてきたのである。この獣肉禁食はあくまで建前であったようだ。食うものに困った庶民は、死んで間も無い四足動物を密かに食していた。建前上、食すことのできない獣肉を食するとき、竹串に指していかにも鶏肉のようにカモフラージュして焼いたのがこの仮名表記にした「やきとり」であった。このとき、鶏肉に代えて豚肉だけが代用されていたかは、定かでない。牛肉の店は、「焼肉屋」という。そして漢字で「焼鳥」と表記するお店は、鶏肉を食すといったしきたりがあるようだ。一度調べてみるのもおもしろい。

長寿の秘訣か

江戸時代初期の人々は、人目には、「やきとり」にして長寿養生の体力増強・健康維持のために、獣肉を食していたのである。鈴木正三『驢鞍橋』下・一三に、

「亦我後、何と爲たらば、人に何と云れん抔と思ふことなし。右の如く出家して、諸方を行脚し、野山に臥、衣食を詰、亦一比は律僧に成て身を責、三州、千鳥山に在て律を行ひたる時分は、麦粥麦飯にて送りける。如是しける間、風雨に身をさらされ、麁食に脾胃痩れて病起り、既に大事に及ぶ。様様療治を加ふれども本復せず。余多の醫者尽く放す。我も一定死に究めけり。位詰に成、何とも活らるべき様なかりければ、近里の親類共皆走聚る。我弟大略の醫者にて有けるが、此由を聞来りて言は、薬も何も入ぬ、只食養生にて能候んと云ふ。其故を問ば、肉食〔にくじき〕のこと也と云。我疾も云ざることよ、養生ならば死人を喰べしと云て用之。二年程かかりてすきと本復す。病癒て薬も用なければ、亦潔斎して今日に及べり。」[岩波文庫一七三頁]

と記し、「其比、人に悪く云れたると言こと、中中のこと也」と続けている。

1998年6月11日(木)曇り時折小雨。

まっしぐら 走るスピ−ドは 汗ぞ知る

「かむ」と「とちる」

 ウーン、昨晩某局女性ニュース・キャスターが、流暢に読上げている姿がテレビで流れていた。と、そのとき、ふと読み違えるというか、つっかったのである。このとき、これを見ていた若者が「あ!かんでやがる」と評言したのだ。この仕種が舌を噛むような状態にとれることからか、いつのころからか、お笑い系の業界用語で「かんでしまう」とか「かんでる」とか表現するようになったというのである。これが、現代の男性若者ことばとしてよく使われている。この「かむ」に類似する表現として、古くは、芝居芸人や役者俳優が台詞〔セリフ〕を読み違えることを「とちる」といった。「とちめく」の語根「とち」に活用語尾「る」が付属して構成することばである。

これと同じように、いま、お笑い芸人などが芸談ちゅうにつっかかって、詰まって言葉にならないようなとき、突っ込み即座にいうのである。「何をこんなところでかんでいるんだ」と……。

この「かむ」ということばであるが、古くはいつごろから言い出したものなのか知りたいところでもある。

1998年6月10日(水)朝晴れ後曇り。

草息れ ぐんとあがるや 空の青

「ー」

 登山シーズン、「俎ー〔まないたぐら〕」という地名だが、尾瀬沼に近い燧ヶ岳登山道の地名として知られる。「ー」の字について考えてみたい。音は「ガン」訓は「いわ」で、山と品を逆に配置した「嵒」の字も同じ。

確か人の名にも「岩村嵒〔いわむらいわお〕」さんという方と「岩村ー〔いわむらいわお〕」さんという方がおられた。このお名前だが、漢和辞典編纂者の立場からすれば同訓で変わりないというのだろうが、ご当人にお聞きすると、どうも異なりがあるようである。山のてっぺんに洞穴があるところと、山の麓に洞穴があるところの違いなのだそうな。難訓苗字にも「ー淵〔いわぶち〕」というのがある。

この「ー」の字だが、平安時代の『篆隷萬象名義』に、

「「 牛咸反。巖」

とあるのを受けて、院政時代の観智院本『類聚名義抄』にも「ー」の字は見えない。山のてっぺんに洞穴の字である「嵒」の字だけが収載されているのである。

 牛咸反。山巖( 五〓〔行+金〕反。イハホ、ミネ、ケハシ、フカシ、ツク、スル。禾カム)」[法上114G]

 時代は降って室町時代、永正五年写の尊経閣文庫蔵『字鏡抄』山部にも、

[平]せフ/カム。サカシ、イハヤ」

※同じ山部の後ろに「巖」の字が排列されていて、「カム。〓〔石+厳〕同。スレ、ツク、ケハシ、ミネ、アラシ、イハホ、イハヤ、フカシ」とある。

慶長十八年版『倭玉篇』下・山(三百、八ウF)にも、

 カン。タカシ、イワヲ」(「巖 ガン。イワヲ、ミネ、キヒシ、ケワシ」)

とあるだけで、やはり、この別字体「ー」の字は、ここでも収載がみられないのである。江戸時代文化十一年版の『文選字引』や弘化四年版の『四書五経文選字引』に、

 ガン/ギン。{咸}タカシ、イワホ。嵒齬〔カンゴ/チガヘリ〕[西京]」

 カン/イワヲ。同上。ーー。タカシ」

と収載されている。これが江戸時代のいつの頃から字書に収載するのかは、いまは断言できない。これをお読みの方で初出字書をご存知であれば、ご教授いただきたい。

※さっそく、北海道大学池田証寿さんより、寛文十一〔一六七一〕年の『字彙』が初出ではないかという旨、お知らせいただいた。(感謝!)

 ガン{咸}古ノ巖ノ字。又嶄。嵒ハ山高キ貌。又叶{侵}魚金ノ切音ハ吟〔キン〕[稽叔夜琴賦]盤紆隠深崔嵬岑嵒玄嶺巉巖〓〔山+乍〕〓〔山+各〕嶇崟同上ニ」「和刻本『辞書字典集成』3・一九五E」

 この「ー」の字の和訓にあたらない「まないたぐら【俎ー】」の地名の読み方の「くら」の読み訓をいまは未審に思うのである。そして、「くら」は、「座・鞍」の意と通じ、人や物をのせておく台状のものをいうのかもしれない。この地形がこれにふさわしいものなのかもしれない。一度訪ねてみたくなった。

1998年6月9日(火)曇りのち小雨。苫小牧

どんよりと 垂れ込めし空に 都だち

「業界専門用語」はちんぷかんぷん

 患者さんから、「この粉薬〔こなぐすり〕の量なんだけど、今まで病院でもらっていたときより量が多いような気がするのだけれど……」といった問いかけに、薬剤師さんの患者に薬を渡すときの答えようだが、「しょうりょうのさんざいを、せいかくにふくするのは、むずかしいので、ふけいざいをいれてありますから……」という。この答え方のなかで、「さんざい」や「ふけいざい」といった表現がこの専門用語なのである。「さんざい」とは「散剤」と書き、粉薬をいう。「ふけいざい」とは、「賦形剤」と書き乳糖のことをいう。一般には何のことかと首を傾げたくなるようなわかりにくい言葉だといってよい。この薬剤師の云わんとしたことは、「少量の粉薬=散剤を正確に服用するのは難しいので、乳糖=賦形剤を入れて量を増やしてありますから……」と云っているのである。こんなお話を本日の読売新聞(29)に「口頭やりとり、危ない誤解」として医薬情報研究所SIC堀美智子さんが寄せていた。

話中にあっては、一般の方にこうした薬局専門用語が使われると、何がなんだかさっぱりわからなくなってパニックに陥るケースにもなりかねまい。また、裏返して云えば、こうした特殊な専門用語は一般になじんでいないことを暗示しているのである。まだ私たちの身の回りには、業界の人にしか理解できないチンプンカンプンな専門用語が口を突いて喋られ、かな文字表記されているということなのである。

1998年6月8日(月)晴れ

練り返し 町を町にと 人の声

「笑い」の表現

 「グヒヤアアア、ヒャヒャヒャヒャ、ヒャヒャヒャ、ヒャッヒャッ」という笑い方の表現ってどんな状況においてであろうか?

さらに、

 「ガハハハ」「ダハハハハ」「うひゃひゃぁひゃぁ」

 「アハハ」「イヒヒヒ」「うふふふ」「えへへへ」「おほほほ」

などとア行音を語頭においたハ行音の笑い声がならぶ。

人の笑う声には、実にさまざまな表現が登場する。そんな笑いの声を集めてみるのも面白くよかろう。

[笑い声事典]

  1. 西明寺の閻魔さま:「おん、かかか、びさんまえい、そわか」「オーン、ハハハ、ヴィサマエー、スヴァーハー」(笑い声)
  2. 「みんなこつちがまぬけだからよ。ハヽヽヽヽ」[東海道中膝栗毛]第五編上
  3. 「似たとも似たとも、こりゃたまらぬ、舟虫殿じや、オホホホホ、ヘヘヘヘヘ、ハハハハハ」と、しどもなく笑ひそしりのかしましさ。隣へ筒抜け。[『明烏後正夢』第四編巻上之上]

1998年6月7日(日)快晴(気温17.2度)。

第十一回岩見沢/夕張80kmランニング大会(郭公初鳴きを聞く)

共走や 夕張丁未 眼下道

「竹」

 新明解『国語辞典』第五版に、

  たけ【竹】イネ科タケ亜科植物のうち、節(よ)〔=ふしと ふしとの間〕が長めで、中空であるものの総称。茎は建築・器具・細工物に使い、若い芽〔=たけのこ〕は食用。「―を割ったような〔=性質がさっぱりして、こだわりの無い〕性格」[かぞえ方]自生の状態は一むら。切り出した後は一本

と、竹の性質と利用方法が知られる。「たけ」の語源は形容詞「たか【高】」で、高く伸びるものというところからきているというが、岩波『古語辞典』には「アクセントを考えると成立困難である†take」ともいう。この「竹」の品種だが、知られるものだけでも約二百種にも及ぶ。このなかには、「ささだけ」というもので、「ささ」と「たけ」に二分できるものである。

 また、利用方法も建築工法の変化にともない建材としての利用も少なくなってきている。古い座敷の天井の梁に「四方竹」が使われていたのが実に懐かしい。また、竹の効用も健康器具として「足踏み竹」だけでなく、「竹炭」そして「竹酢液〔チクサクエキ〕」が家庭健康用品として徐々に広がりつつある。また、伝統ある茶道具における「茶筌」などの竹細工も見逃せない需要のひとつである。

この「竹」だが、北海道には自生しない。このごろ、道南の地にあるというが、極寒の地には無理のようだ。この時期道内でも「竹の子採り」が行われる。これは、熊笹の新芽の細いものを「筍〔たけのこ〕」と呼称していうのである。「ささだけ」のものを指すのである。

[言葉の実際]

○喜助の家は、古びた藁ぶき屋根であるが、なるほど四面がに囲まれていた。メダケ、クロチク、マダケ、モウソウ……葉のそよぎをみただけで、数種の藪〔やぶ〕に囲まれているのがわかるのである。[水上勉『越前竹人形』184M新潮文庫]

1998年6月6日(土)晴れ。

陽戻りに 水洗い仕事 はかどりし

「へ」という「おなら」

 日本語で第一音節だけで表現できることばには、やはり限度がある。古い日本語はこの第一音節表現の語が原点にあるからだ。「おなら」ということばを使う以前に、「へ」とたった一音節だけで表示するのがこの語であり、漢字も「屁」の字をあてる。平安時代の古辞書『和名類聚抄』に「屁、倍比流、下部出気也」と見え、ここでは、慣用句型の「へひる」と訓読している。『古今著聞集』五四二に、「おさなくより不便〔ふびん〕の物におぼしめして、ちかくめしつかひけるが、へをひるより外の事なかりけり。立つにもひり、ゐるにもひり、はたらく拍子ごとにひりけり」<大系四二五頁>と目的格の助詞「を」を添えて「へをひる」というのが今も変わらない言い方でもある。

 「へ」は、身体(腸)の中にたまったガスを尻の穴から体外に排出するそのものであり、これを人前でするとブーイングの嵐となるのはいうまでもない。この「へ」にも音のでるのと音無しとがあって、音無しのほうは性質が悪いといわれる。これを「おなら」ともいう。この接頭辞の「お」に、「なら」は「ならす【鳴らす】」ことからきていることばである。となれば、音無しの「屁」は「おなら」にならないのだろうか。そして、「すかし屁」という。いずれにせよ「おなら」は、「へ」を婉曲に表現した云いまわしなのである。

 そこで、どちらが口語性なのかというと、以前は「おなら」だったのであろう。ところが、昨今の若者の会話を耳にしていて、なんとストレートに「へ」がズバリ会話中に飛び交っているから面白い。「屁の河童」とか、「屁でもない」「屁とも思わない」という慣用句がこれを支えているのだろうか。これを英語では、「wind」「gas」といい、おならをすることを「break wind」「pass gas」といい、俗語で「fart」という。

1998年6月5日(金)曇り。

寒さ抜け ひらりと交わす 陽だまりか

「足手影」

 謡曲『隅田川』に、「都の人の足手影も懐かしう候へば、この路の傍に築き篭めて、標に柳を植ゑて賜はれとおとなしやかに申し、念佛四五返唱へ終に事終わって候」という一節がある。ここに「足手影」という語が用いられている。意味は、人の足や手の影をいうのであるから、もとは「人の往来が絶えることのないほど絶え間ないところ」というのだが、ここでの使われ方は、広く面影といった意味になる。

 手と足を表現する語それなりの意味をまだすかとしては、「手足」と手が先にくる表現が通常に用いられるのに対し、「足手」と足が先に表現された「足手纏い」、「足手限り」、「足手息災」といったもうひとつのグループがある。

 「足手影」だが、人の往来する道に陽の光に広がる影法師の足そして手がまさにこの語にふさわしき表現なのである。足手影が人の面影をあらわすということは、古人にしてみれば、人の身振り手振り、しぐさ、そして人と人の交流がこの語にこめられていたのであろう。まだまだ地に根ざしたこの語のもつ意味が現代人に理解されていないようだ。

1998年6月4日(木)曇り後雨。

しとしとと 道に通ひし 花の雨

「素足」と「裸足」

 類語表現にある「素足」と「裸足」の語について考えてみたい。この両語だが、今日どう使い分けられているのであろうか。私見では「素足〔すあし〕」は、足袋・靴下・ソックスなどを履いていない足をいう。すなわち、「素足」で靴などの履物を履いてもいいのである。「素足のままでランニングシューズを履く」とか、「昭和二十三年に富士山麓から伊豆へかけて、田下駄を求めて歩き回ったときに、お百姓が裸足〔はだし〕か、素足〔すあし〕に足半〔あしなか〕をはいて農作業を足ゆびを踏ん張ってしているのを見て、先生は、裸足の歴史は長く裸足の効用は現代に入ってもなお息づいていることを教えられたのだと気がついた。」<近藤四郎『ひ弱になる日本人の足』八H草思社刊より>という言い方があるからだ。これに対し、「裸足〔はだし〕」の方は、靴も履かない状態にある足をいうのである。上記の本のなかに、「裸足と素足は混同して使われていることがよくある。裸足は文字通りの裸の足のことで、その臨場感はといえば、大地の上に裸足ですっくと立つというような場面が思い浮かぶ。素足とは、履物をはいている裸の足のことであり、したがって「履物を裸足ではく」という表現はおかしく、「履物を素足ではく」とか「素足に履物」というのが正しい。履物は、素足でなければ、靴下や足袋の上にはくものである。」<四三C>と記述している。この両語の表出状況について、さらに言及してみようではないか。

 「すあし」と「はだし」の両語は、院政時代の古辞書観智院本『類聚名義抄』に、「跣 音銑。ハダシ、ユク、スアシ」[法上七六C]。「踐 音餞。フム、呉―淺、アサシ、カヘル、スアシ、シタカフ、ハタシ」[法上八八D]と両語が「跣」と「踐」の二字に収載されている。収載の排列順がそれぞれ異なることも注意しておかねばなるまい。とりわけ、最後に排列された訓には、いわゆる取りを飾るというか、語訓の締め括りとして、それなりの要素のあることばが提示されていると私は常々思っているからなのだ。また、「はだし」という云い方は、それ以前の平安時代の古辞書である昌住『新撰字鏡』に、「〓〔足+度〕跣、波太志」と見えるから両語ともかなり古くから呼称されていたことが知られよう。

 この両語の意味上の使い分けは、『名義抄』の時代から明治・大正時代のいわゆる近代にいたるまでにどうあるのであろうか?というのは、「素足」のルビに「はだし」とする表現があるからにほかならない。逆に「裸足」のルビに「すあし」もあるかもしれないがまだこちらは未見である。

1998年6月3日(水)晴れ後曇り。

夏寒き されど半袖 晴れの空

「本命」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』に収載する「本命元辰〔ホンミヤウゲンシン〕」の下接語省略形がもとである。「ホンミヤウ」と発音している。これが「ホンメイ」と発音するようになる。そして、この「ホンメイ」がさらに詰って「ホンメ」と発音されだした。この「ホンメ」だが、「本馬」と書く。これは競馬で優勝第一候補にある馬を指していうときに用いる。

 現在「本命」も「ホンミョウ」というときは、生まれた年の干支をさして云い、「本命日〔ホンミョウニチ〕」「本命星〔ホンミョウショウ〕」「本命的殺〔ホンミョウテキサツ〕」と表現する。陰陽道〔オンミョウドウ〕や易〔えき〕の用語として耳にする。古くは、鎌倉時代の『源平盛衰記』十二に「一切衆生の本命元辰として是を化益し」と表現されている。

 そして、「ホンメイ」は、(スポーツ競技全般にわたって優勝)第一候補を指して使い、さらには政界・学界などで「次期総理候補の本命○○」とか「次期学長候補の本命○○」と比喩的用いている。俗には、ねらいを定めて一番に取得したいと思う対象を云う。

1998年6月2日(火)晴れ。苫小牧

リラ冷えや 夏衣にセーター 乙女子は

「つ」の字の下に二本の短い足

 この「つ」の字の下に二本の短い足がついたという形容表現は、何を言わんとしてるのかといえば、腰の曲がった「老婆」の容姿をこう表現している。この老婆の手には杖を持つか、もしくは箱車が押している場景が描写される。

 このように、文字造形を他のものに見立てて表現する言い方に出会える。かな文字は、まだまだ表現できる要素を有している。文字形容表現のルーツを探してみるのも面白い。

1998年6月1日(月)晴のち曇り。大阪>一時雨、北海道

水無月に 参る宮城 美しき

「徒歩」の読み

 国語辞書で繙くに、この漢字の読み方がどう引かれるのか興味がある。音で「トホ」、これがとぼとぼと歩くさまを連想して、「トボ」なら近いから「トホ」にぶつかる。新潮『国語辞典』第二版に、

  トホ【徒歩】乗り物にのらずに歩くこと。かちあるき。かち。「―旅行」

とあり、この読みをさらに深めて「かちあるき」や「かち」という和語の読み方に出会う。ここで「かち」なる語を引くことにもなる。「かちあるき」という見出し語はなく、「かちありき」で徒歩で行くことと出ている。その前に「かち」の見出し語があり、

  かち【徒】@歩いて行くこと。徒歩。A陸路を行くこと。陸路。B【徒士】@「かちざむらいい@」に同じ。A江戸時代の武士の身分で、騎乗を許されない下級の者。幕府の御家人にあたる。B江戸幕府の職名で、城内の警衛、将軍の先払いなどにあったた役。<用例省略>

ところで、この「かち」は「徒歩〔トホ〕」の何かということだ。音読みが「トホ」、訓読みが単に「かち」でいいのか?ちょっと気になるのである。三省堂新明解『国語辞典』第五版は、

  かち【徒】@「徒歩」の意の雅語的表現。「―渡り〔=川などを歩いてわたること〕」A江戸時代、乗馬を許されなかった下級武士。[表記]@は「歩脚・歩行」、Aは「徒士」とも書く。

とあって、@の意味には雅語的表現となる。となれば、「かち」のルーツは何なのか知りたくもなるというものである。古くは『万葉集』に、

「人夫〔ヅマ〕の馬より行くに己夫〔オノヅマ〕し歩〔かち〕より行けば」<三三一四>

「まそ鏡持〔も〕てれど吾はしるしなし君が歩行〔かち〕よりなづみ行く見れば」<三三一六>

「馬買はば妹歩行〔かち〕ならむよしゑやし石は履むとも吾〔わ〕は二人行かむ」<三三一七>

と、「歩」「歩行」を「かち」と訓読している。また、『日本書紀』にも、

「皇師勒歩〔かち〕ヨリ竜田」<神武前紀>

「長髄彦即取饒速日命之天羽羽矢一隻及歩〔かち〕靫〔ユキ〕以奉天皇」<神武前紀>

と「歩」の字を「かち」と訓読している。これを裏づけるのに、古辞書観智院本『類聚名義抄』法上・九七Eには、「歩、蒲故反。アユム。オコナフ。ユク。タヅヌ。アリク。カチ。禾フ」と第六訓めに「かち」の訓がある。「徒」の字にはこの訓は見えない。

 「徒」の字が用いられた資料として注目したいものとして、『宇治拾遺物語』巻第十五・二[日本古典文学全集の底本は、宮内庁書陵部蔵無刊記古活字本、古典大系は、同じく無刊記古活字本を底本とするが、「かち」とかな書きにする。また、角川文庫本は、宮内庁書陵部蔵写本(江戸中期)を底本とし、これも「かち」とかな書きにする。]がある。

  川原のはたに集(あつま)り立ちて、聞きも知らぬ事をさへづり合ひて、川にはらはらとうち入りて渡りける程に、千騎ばかりやあらんとぞ見えわたる。これが足音の響(ひびき)にて、遙(はるか)に聞(きこ)えけるなりけり。徒(かち)の者をば、馬に乗りたる者のそばに、引きつけ引きつけして渡りけるをば、ただ徒渡(かちわたり)する所なめりと見けり。三十日ばかり上(のぼ)りつるに、一所も瀬なかりしに川なれば、かれこそ渡る瀬なりけれと見て、人過ぎて後(のち)にさし寄せて見れば、同じやうに、底ひも知らぬ淵にてなんありける。馬筏(うまいかだ)を作りて泳がせけるに、徒人(かちびと)はそれに取りつきて渡りけるなるべし。<一八七 頼時(よりとき)が胡人見たる事>

と、「徒の者」「徒渡する」「徒人」の三例であり、同一内容の『今昔物語集』巻三一第一一話では、「歩」の字を用いていることを指摘しておく。「徒」の字を使って「かち」と読ませる用字法は、漢籍訓読に基づくところから鎌倉時代の正安元年(一二九九年)に元の学僧一寧が帰化して朱熹の『論語集注』を伝えて以来、しだいに新注が普及し、室町時代の古辞書『温故知新書』に、「徒〔カチ〕、歩〔同(カチ)〕」、三省堂『節用集』に、「徒行〔カチ〕、歩行〔同(カチ)〕路ヲタヽニ行也、跣〔カチ〕」と収載されるに至り、といった『論語』先進第十一の「吾不徒行以爲之椁、以吾従大夫之後、不可徒行也」といった「徒行〔トカウ〕」の用語を「かち」、「かちゆく」と訓読したところからであろうと推察する。

 さしずめ、現代語では通常「あるき」と訓読するところである。ここに宮部みゆき『平成お徒歩日記』(新潮社、六月刊行。平成六年夏「小説新潮」掲載)のエッセイ集は、「トホ」でも「あるき」でもない「ヘイセイおかちニッキ」と読むようだ。

 

 

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