2005年05月01日から05月31日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 
 
 
 
 
2005年5月31日(火)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
相尋(あひたづね)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「阿」部に、「相手(アイテ)。相姓(アイシヤウ)。相圖(ヅ)。相白(シライ)」の四語を収載し、標記語「相尋」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「相尋」と表記し、訓みは文明四年本に「(あ)い(たづ)ね」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「相尋」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「相尋」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

相尋(アイタヅネシヤウ・トモニ、ジン)[平・平] 。〔態藝門752四〕

とあって、標記語「相尋」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、標記語「相尋」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

相逢(アヒアフ) ―比(ヒス)―伴(トモナフ)―構(カマヘテ)―語(カタル)―叶(カナフ)―姓(シヤウ)―圖(ヅ)―觸(フル)。〔言辞門172二〕

とあって、標記語「相尋」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』だけに標記語「相尋」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「相尋」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)之仁(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「相尋の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

医骨(いこつ)(の)(じん)相尋(あひたづ)候と雖(いへと)も/相尋醫骨之仁フト 医骨とハ医術(ゐじゆつ)の奥儀(おくぎ)に通達したる名医を云。骨ハ肉(にく)の内にありて外に見へさるものゆへ奥儀といふ事にたとへたるなり。〔92ウ一〜三〕

とあって、この標記語「相尋」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)相尋(あひたづ)(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来〔68オ七〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)〔122ウ四〕

とあって、標記語「相尋」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Aitazzune,uru.アヒタヅネ,ヌル,ネタ(相尋ね,ぬる,ねた) Tazzune,uru(尋ね,ぬる)の条を見よ.〔邦訳19l〕

とあって、標記語「相尋」の語の意味は「Tazzune,uru(尋ね,ぬる)の条を見よ」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「あひ-たづぬ〔〕【相尋】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「あい-たづ相尋】〔他ナ下二〕(「あい」は接頭語。「たずぬ」の改まった言い方)ありかや様子のわからないものを捜す。様子を探る。調べる。詮索(せんさく)する。海道記(123頃)逆川より鎌倉「此次(ついで)に相尋れば、一条宰相中将信能、美濃国遠山と云ふ所にて、露の命、風をかくしてけり」*太平記(14C後)二七・上杉畠山流罪死刑事「何事やらんと内々相尋て候へば」*日葡辞書(1603-04)「Aitazzune, uru,eta(アイタヅヌル)」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
合戰敗績之今耻重國心中、不來歟者則遣郎從等於方々、令相尋〈云云〉《訓み下し》合戦敗績ノ今、重国ガ心中ヲ恥ヂテ、来タラザルカ、テイレバ則チ郎従等ヲ方方ニ遣ハシテ、相ヒ尋(タヅ)シムト〈云云〉。《『吾妻鑑』治承四年八月二十六日の条》
 
 
2005年5月30日(月)雨。東京→世田谷(駒沢)
灸治(キウヂ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「幾」部に、

×〔脱落〕 。〔元亀二年本63九〕

灸治(キウジ) 。〔静嘉堂本326八〕

とあって、標記語「灸治」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「灸治」と表記し、訓みは経覺筆本に「キウ(チ)」、文明四年本に「キウヂ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「灸治」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、標記語「灸治」の語は未収載にする。次に印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

灸治(キウヂ) 。〔・言語進退門223三〕〔・言語門185七〕〔・言語門175一〕

とあって、標記語「灸治」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

灸處(キウシヨ) ―治(ヂ)。〔支躰門186三〕

とあって、標記語「灸處」の熟語群に「灸治」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「灸治」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「灸治」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)之仁(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「灸治の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かた/\)(もつて)療治(りやうぢ)灸治(きう )の為(ため)旁以爲療治灸治 療冶ハいやしおさむと訓す。灸治ハ灸にて病を責るなり。〔92オ八〕

とあって、この標記語「灸治」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来〔68オ七〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)〔122ウ四〕

とあって、標記語「灸治」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qiu<gi.キウヂ(灸治) すなわち,Yaito>.l,yaifi.(やいとう.または,焼火)灸.¶Qiu<gi suru.(灸治する)灸をすえる.※原文はBotoe~s de fogo.〔Qiu>の注〕〔邦訳511r〕

とあって、標記語「灸治」の語の意味は「すなわち,Yaito>.l,yaifi.(やいとう.または,焼火)灸」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

きう-〔名〕【灸治】灸して、療冶すること。拾芥抄、下、末、養生「灸治寸法」保元物語、一、爲朝生捕遠流事「病み出して、灸治など多くして、温疾大切の閨v〔453-2〕

とあって、標記語「きう-〔名〕【灸治】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「きう-〔名〕【灸治】〔名〕灸をすえて療治すること」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
於前濱、被撰御的射手雖令參向、多以有申障之輩武田五郎七郎〈雖參弓場、加灸治之由申有難治故障〈云云〉〉《訓み下し》前浜ニ於テ、御的ノ射手ヲ撰バル。参向セシムト雖モ、多ク以テ障リヲ申スノ輩有リ。武田ノ五郎七郎〈弓場ニ参ルト雖モ、灸治ヲ加フルノ由申ス。難治ノ故障有リト〈云云〉。〉《『吾妻鑑』建長五年正月九日の条》
 
 
2005年5月29日(日)晴れ。大阪(日本橋)→兵庫(岡本・甲南大学)日本語学会
療治(レウヂ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「礼」部に、

療治(レウシ) 。〔元亀二年本149十〕

療治(レウヂ) 。〔静嘉堂本163五〕

療治(チ) 。〔天正十七年本上37オ八〕

とあって、標記語「療治」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「療治」と表記し、訓みは文明四年本に「レウチ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

療治 病醫部/レウチ。〔黒川本・畳字門中14ウ五〕

療治 〃病。〔卷第四・畳字門516三〕

とあって、標記語「療治」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「療治」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

療治(リヨウヂイヱル、ヲサム)[去・平]義療子/同字。〔態藝門195六〕

とあって、標記語「療治」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、

療治(レウチ) 。〔・言語進退門116八〕

療治(レウチ) ―養。・言語門99二〕〔・言語門53六・89九〕

療治(レウチ) ・言語門109三〕

療治(リヤウヂ) 。〔・言語進退門58六〕

療治(リヨウジ) ―養。・言語門59二〕

療治(リヨウヂ) ―養。・言語門61八〕

とあって、標記語「療治」の語を収載し、訓みを「レウヂ」と「リヨウヂ〔ジ〕」の両様記載する。また、易林本節用集』に、

療治(リヨウヂ) 。〔言語門58一〕

とあって、標記語「療治」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「療治」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「療治」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)之仁(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「療治の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かた/\)(もつて)療治(りやうぢ)灸治(きう )の為(ため)旁以爲療治灸治 療冶ハいやしおさむと訓す。灸治ハ灸にて病を責るなり。〔92オ八〕

とあって、この標記語「療治」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来〔68オ七〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)〔122ウ四〕

とあって、標記語「療治」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Reo>gi.レゥヂ(療治) Iyaxi,su.(療し、す)病人に藥を与えること.¶Reo>gini cacauarannu yamai.(療治にかかはらぬ病)不治の病気,すなわち,薬を用いても何の効きもない病気.〔邦訳530l〕

とあって、標記語「療治」の語の意味は「Iyaxi,su.(療し、す)病人に藥を与えること」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

れう-〔名〕【療治】病を癒すこと。治療。北魏書、裴延儁傳「遇重患、云云、還療治〔2143-3〕

とあって、標記語「れう-〔名〕【療治】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「れう-〔名〕【療治】〔名〕@病気やけがを治すこと。治療。A悪いところをなおすこと」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
然者早加療治、平喩之後、可廻計之趣、可披露之由〈云云〉者、二品仰曰、同意行家之間、搆虚病之条、已以露顯〈云云〉《訓み下し》然ラバ早ク療治(レウヂ)ヲ加ヘ、*平喩(*平愈)ノ後、計ヲ廻ラスベキノ趣、披露スベキノ由ト〈云云〉、テイレバ、二品仰セニ曰ク、行家ニ同意スルノ間、虚病ヲ構フルノ条、已ニ以テ露顕セリト〈云云〉。《『吾妻鑑』文治元年十月六日の条》
 
 
2005年5月28日(土)晴れ。大阪(日本橋)→兵庫(岡本・甲南大学)日本語学会
(かたがた)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

(カタ/\) 。〔元亀二年本104十〕〔静嘉堂本131五〕〔天正十七年本上64ウ四〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚等更發以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「」と表記し、訓みは文明四年本に「かた/\」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

旁以(カタゞモツテハウイ)[平・上] 。〔態藝門299六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、

(カタ/\) 。〔・言語門85五〕〔・言語門93五〕

(カタ々) 。〔・言語門77四〕

とあって、弘治二年本だけ未収載で他本に標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

(カタガタ) 。〔言語門82六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては標記語「」の語を収載し、とりわけ広本節用集』には、「」の語とは別に標記語「旁以」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)之仁(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かた/\)(もつて)療治(りやうぢ)灸治(きう )の為(ため)以爲療治灸治 療冶ハいやしおさむと訓す。灸治ハ灸にて病を責るなり。〔92オ八〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来〔68オ七〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)〔122ウ四〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Catagata.カタガタ() あなた方.¶また,あれこれの事.¶Catagata mo<xinobeo>zu.(方々申し述べうず)あれこれの事を説明しましょう.¶また,他の事のついでに.そちらかこちらかで,つまり,そちらで,すなわち,私があなたにお会いした時か,こちらで,すなわち,あなたが私に会ってくださった時かに,私は詳しくお話いたしましょう.〔邦訳106r〕

とあって、標記語「」の語の意味は「あなた方.¶また,あれこれの事」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かた-がた〔名〕【】〔前條の語の轉か、或は、かてらがてらの約か〕其の傍に。且。序(つい)でに。相兼ねて。(書の文に)名義抄「傍、カタガタ」「報書旁伺候」〔378-1〕

とあって、標記語「かた-がた〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「かた-がた〔名〕【】[一]〔名〕@「人々」を敬っていう。A貴人の部屋、屋敷の複数形。Bいろいろの場所や事柄を表わす。あちらこちら。ほうぼう。あれやこれや。[二]〔代名〕対称。多人数の相手をさすていねいな言い方。本来は複数をさすが、単数をさす場合にも用いられた。おのおのがた。あなたがた。[三]〔副〕@あれこれと。なにやかやと。さまざまに。Aあちらこちら。また、至る所に。Bいずれにしても。どのみち。[四]〔接続〕ついでに。兼ねて。かつ。[五]〔接尾〕@(動作性の意を持った名詞に付いて)「…のついで」「…がてら」「…を兼ねて」の意を表わす。A(物事を表わす名詞に付いて)そのことがあれやこれやとあって、の意を表わす。」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
在思慮、無左右、稱不可參上、引込于當國金砂城《訓み下し》(カタ/\)思慮在リテ、左右無ク、参上スベカラズト称シテ、当国金砂ノ城ニ引込モル。《『吾妻鑑』治承四年十一月四日の条》
 
 
2005年5月27日(金)晴れ。大阪(日本橋)→兵庫(岡本・甲南大学)訓点語学会
更發(カウホツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、標記語「更發」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「更發」と表記し、訓みは経覺筆本・文明四年本に「カウホツ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

更發 ――分/病詞/カウホツ。黒川本・畳字門上87ウ七〕

更衣 〃發〔卷第三・畳字門274六〕

とあって、標記語「更發」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「更發」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

更發(カウ・サラニ、ホツフクル・カワル、ハツ・ヲコル)[○・入] 。〔態藝門287五〕

とあって、標記語「更發」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、

更發(カウホツ) 。〔・言語進退門88二〕〔・言語門84五〕〔・言語門76六〕〔・言語門92三〕

とあって、標記語「更發」の語を収載しする。また、易林本節用集』に、標記語「更發」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「更發」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「更發」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)之仁(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「更發の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かハる/\)(おこ)/\ いろ/\のやまひ引かへ/\おこるをいふなり。〔92オ八〕

とあって、この標記語「更發」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来〔68オ七〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)〔122ウ四〕

とあって、標記語「更發」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iiai.カウホツ(更發) .〔邦訳r〕

とあって、標記語「更發」の語の意味は「」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「かう-ほつ〔名〕【更發】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「こう-ほつ〔名〕【更發】〔名〕@ふたたび起こること。多く病気などにいう。玉葉-仁安元年(1166)一一月三日「余依所労更発、触示其由於時忠退出」*東寺百合文書-は・建治二年(1276)七月一七日・阿性房静俊書状(大日本古文書一・三〇)「可参入言上仕候之処、自去十四日、胸病更発仕候之間、捧愚状候之条、畏恐存候」*実隆公記-長享元年(1487)閏一一月二日「自禁裏召、<略>痔所労更発之間不参」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
申剋、依若君御不例更發復、被行御祭七座招魂祭、《訓み下し》申ノ剋ニ、若君ノ御不例(サラ)ニ発(ホツフク)スルニ依テ、御祭ヲ行ハル。《『吾妻鑑寛元二年三月十七日の条》
 
 
2005年5月26日(木)晴れ。東京→新大阪(梅田→鳴尾)MKCRセミナー
虚労(キョラウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「幾」部に、

×〔脱落〕 。〔元亀二年本〕

虚労(キヨラウ) 。〔静嘉堂本326四〕

とあって、標記語「虚労」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、文明四年本は、未収載、至徳三年本は「虚身」、宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本は、「虚労虚勞」と表記し、訓みは経覺筆本に「キヨラウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「虚労」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「虚労」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

虚勞(キヨラウムナシ、ツカルヽ・イタワル)[平・平] 。〔態藝門842七〕

とあって、標記語「虚勞」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、

虚労(キヨラウ) 。〔・支体門183二〕〔・言語門172五〕

とあって、永祿二年本尭空本に標記語「虚労」の語を収載し、他本は未収載にする。また、易林本節用集』に、

虚労(キヨラウ) 。〔支躰門186四〕

とあって、標記語「虚労」の語を支躰門に収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「虚労」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「虚労」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)之仁(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「虚労の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)又心氣腹病虚労又とハ甚上となり。心氣ハ胸の病なり。腹病ハはらのわつらゐ也。虚労ハ氣血不足乃やまひなり。〔92オ七・八〕

とあって、この標記語「虚労」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来▲虚勞ハ真気(しんき)損(そん)じ諸臓(しよざう)傷(やぶ)るゝの症(しやう)。〔68オ七・68ウ四〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)▲虚勞ハ真気損(そん)じ諸臓(しよさう)傷るゝの症(しやう)。〔122ウ四・123オ五〕

とあって、標記語「虚労」の語をもって収載し、その語注記は「虚勞は、真気(しんき)損(そん)じ諸臓(しよざう)傷(やぶ)るゝの症(しやう)」を記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qioro>.キョロゥ(虚労) Munaxu< tcucaruru.(虚しう労るる)疲労するとか,元気や活気がなくなるとかする病気.※Qioro<(キョラゥ)の誤り.〔邦訳503l〕

Qioro<.キョラゥ(虚労) ある種の労咳,すなわち,肺病.〔邦訳503l〕

とあって、標記語「虚労」の語の意味は「Munaxu< tcucaruru.(虚しう労るる)疲労するとか,元気や活気がなくなるとかする病気」と「ある種の労咳,すなわち,肺病」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

きょ-らう〔名〕【虚労】病に因りて、精力の衰へ、身體の疲るること。庭訓往來、十一月「心氣、腹病、虚勞」〔505-2〕

とあって、標記語「きょ-らう〔名〕【虚労】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「きょ-らう〔名〕【虚労】〔名〕@病気などで、心身が疲労衰弱すること。また、その病気。A肺病」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
ある人、虚労してさんざん顏色おとろへ、醫者にあふ。《『きのふはけふの物語』の条》
 
 
2005年5月25日(水)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
腹病(フクビャウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「福」部に、

腹病(フクビヤウ) 。〔元亀二年本223二〕

(フク) 。〔静嘉堂本255四〕

腹病(フクヒヤウ) 。〔天正十七年本中56ウ八〕

とあって、標記語「腹病」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、経覺筆本は「腹痛」とし、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・文明四年本は、「腹病」と表記する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「腹病」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、標記語「腹病」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

腹病(フクビヤウ) ―中(チウ)。―立(リフ)〔支躰門149一〕

とあって、標記語「腹病」の語を支躰門に収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、『運歩色葉集』と易林本節用集』に標記語「腹病」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「腹病」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(コノ)(アヒタ)持病(チビヤウ)再發(サイホツ)、又心氣(シンキ)腹病(フクビヤウ)虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)之仁(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「腹病の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)又心氣腹病虚労等 又とハ甚上となり。心氣ハ胸の病なり。腹病ハはらのわつらゐ也。虚労ハ氣血不足乃やまひなり。〔92オ七・八〕

とあって、この標記語「腹病」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来▲腹病ハ積聚(しやくじゆ)の類(るい)すべて腹中(はらのうち)のわづらひ也。〔68オ七・68ウ四〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)▲腹病ハ積聚(しやくじゆ)の類すべて腹中(はらのうち)のわづらひ也。〔122ウ四〕

とあって、標記語「腹病」の語をもって収載し、その語注記は「腹病は、積聚(しやくじゆ)の類(るい)すべて腹中(はらのうち)のわづらひなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fucubio<.フクビャゥ(腹病) Farano yamai(腹の病)に同じ.腹がふくれ上がり,顔色が黄緑色になる,ある種の病気.〔邦訳270l〕

とあって、標記語「腹病」の語の意味は「Farano yamai(腹の病)に同じ.腹がふくれ上がり,顔色が黄緑色になる,ある種の病気」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ふく-びゃう〔名〕【腹病】病氣の一。和爾雅に、黄腫病等の漢名を擧げたれば、黄疸(わうだん)の類か。胖病。書言字考節用集、五、肢體門「胖病、フクビャウ、正曰黄胖病、又云、黄腫病」撮壤集、下、病疾類「赤痢、黄痢、腹病芭蕉句集「水無月は、ふくびゃうやみの、暑さかな」〔1736-1〕

とあって、標記語「ふく-びゃう〔名〕【腹病】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ふく-びょう〔名〕【腹病】〔名〕@下痢などを伴う胃腸病の総称。はらのやまい」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
法印隆辨、於御所中、自初夜、始行御不豫安寧御祈千手法、療腹病信讀大般若經〈云云〉。《訓み下し》法印隆弁、御所ノ中ニ於テ、初夜ヨリ、御不予安寧ノ御祈トシテ千手ノ法ヲ始行シテ、腹病ヲ療ス。大般若経ヲ信読スト〈云云〉。《『吾妻鑑』建長四年八月七日の条》
 
 
2005年5月24日(火)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
心氣(シンキ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

心氣( キ) 。〔元亀二年本305七〕

心氣(シンキ) 。〔静嘉堂本355八〕

とあって、標記語「心氣」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)心氣虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「心氣」と表記し、訓みは文明四年本に「コ(サイ)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「心氣」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』・には、標記語「心氣」の語は未収載にする。また、易林本節用集』にも、

心性(シンシヤウ) ―地(ヂ)。―緒(シヨ)。―念(ネン)。―底(テイ)/―中(ヂウ)。―事(ジ)。銘(メイ)―肝(カン)〔支躰門50二〕

とあって、標記語「心氣」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、『運歩色葉集』だけに標記語「心氣」の語を収載していて、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「心氣」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(コノ)(アヒタ)持病(チビヤウ)再發(サイホツ)、心氣(シンキ)腹病(フクビヤウ)虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)之仁(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「心氣の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)心氣腹病虚労等 又とハ甚上となり。心氣ハ胸の病なり。腹病ハはらのわつらゐ也。虚労ハ氣血不足乃やまひなり。〔92オ七・八〕

とあって、この標記語「心氣」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来▲心気ハ心わづかひの積(つも)りより発(おこ)る病(やまひ)。〔68オ七・68ウ三〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)心気ハ心づかひの積(つも)りより發る病。〔122ウ四・123オ四〕

とあって、標記語「心氣」の語をもって収載し、その語注記は「心気は、心づかひの積(つも)りより發る病」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xinqi.シンキ(心氣) 憂鬱症.¶Xinqiuo yamu.(心気を病む)憂鬱病患者である,または,その病気にかかっている.〔邦訳772r〕

とあって、標記語「心氣」の語の意味は「憂鬱症」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しん-〔名〕【心氣辛氣】(一)ここち。こころもち。氣分(きぶん)禮記、月令篇「仲夏之月、云云、節嗜欲、定心氣(二)俗に、心氣、むすぼれて、悶(もだ)へ思ふこと。(上方の語)自由ならず、煩はしきこと。しんきくさきこと。懊惱。(性急(しんき)にて、明人の俗語なりと、陳元贇は云へりと)槍權三重帷子(享保、近松作)上「額付、髪つぎて、下地の良いお顔が、猶、美しうならしゃんして、女子でさへ辛氣が涌く、裸身をむっくりと抱て寐たい」生玉心中(正徳、近松作)上「辛氣燃して待つ宵に」薩摩歌(元禄、近松作)上「あらぬ女の眞似をして、五年、七年、しんきを砕くも、大事を思ひ立たる故」〔937-4〕

とあって、標記語「しん-〔名〕【心氣】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しん-〔名〕【心氣】〔名〕@こころ。こころもち。気持。気分。A(形動)心がくさくさして、気が重くなること。心の病にかかること。また、気がもめること。じれったいこと。また、そのさま。B(形動)苦しくてつらいこと。また、そのさま」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
今次第如何、貴客者、眤近之仁也、以事次、盍諷諫申哉〈云云〉能成雖有甘心氣、不能發言〈云云〉《訓み下し》今ノ次第如何、貴客ハ、昵近ノ仁ナリ、事ノ次ヲ以テ、盍ゾ諷諫シ申サザルヤト〈云云〉。能成甘心ノ気有リト雖モ、発言スルコト能ハズト〈云云〉。《『吾妻鑑』建仁元年九月二十二日の条》
 
 
2005年5月23日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
再發(サイホツ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、

再發(ホツ) 。〔元亀二年本267五〕〔静嘉堂本303七〕

とあって、標記語「再發」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「再發」と表記し、訓みは経覺筆本に「サイホツ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「再發」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「再發」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

再發(サイホツフタヽビ、ハツ・ヲコル)[上去・平去] 。〔態藝門785八〕

とあって、標記語「再發」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、

再發(サイホツ) 。〔・言語進退門214一〕

再興(サイコウ) ―三(サン)。―拝(ハイ)。―會(クハイ)。―往(ワウ)(ホツ)。―住(ヂウ)。―祚()天子二即云。・言語門178二〕

再興(サイコウ) ―三。―拝。―會。―往。。―住/―祚天子即位云。・言語門167三〕

とあって、弘治二年本だけに標記語「再發」の語を収載し、語注記に「病」と記載する。他本は「再興」の熟語群に収載する。また、易林本節用集』に、

再興(サイコウ) ―往(ワウ)。―住(ヂウ)。―進(シン)。―誕(タン)/―來(ライ)。―三。―會(クワイ)。―變(ヘン)。〔言語門181三〕

とあって、標記語「再發」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「再發」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「再發」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

再發(サイホツ)ハ。二度ヲコルナリ。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「再發の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(この)(あひだ)ハ持病(じびやう)再發(さいほつ)此間持病再發 平癒(へいゆ)して後又起るを再發と云。〔92オ6〕

とあって、この標記語「再發」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来〔68オ七〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)〔122ウ四〕

とあって、標記語「再發」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Saifot.サイホツ(再發) Futatabi vocoru.(再び発る)病気,傷,腫物,潰瘍がよくなって後に,またぶり返すこと.例Yamai,qizu nado saifot suru. (病,傷など再発する).〔邦訳550l〕

とあって、標記語「再發」の語の意味は「Futatabi vocoru.(再び発る)病気,傷,腫物,潰瘍がよくなって後に,またぶり返すこと」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さい-ほつ〔名〕【再發】再び、發ること。源平盛衰記、廿二、衣笠合戰事「大介、云ひけるは、我が老老として、所勞の折節、再發せり」「病氣再發」「騒動再發」常如絶人、非出仕之身〔0763-2〕

とあって、標記語「さい-ほつ〔名〕【再發】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「さい-ほつ〔名〕【再發】〔名〕(「ほつ」は「発」の慣用音)「さいはつ(再発)」に同じ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
齒御勞、再發〈云云〉《訓み下し》歯ノ御労、再発(サイホツ)ト〈云云〉。《『吾妻鑑』建久五年九月二十二日の条》
 
 
2005年5月22日(日)晴れ。東京→世田谷(玉川・駒沢)
持病(ヂビヤウ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「知」部に、

持病(チビヤウ) 。〔元亀二年本63九〕

持病 。〔静嘉堂本74二〕〔天正十七年本上37オ八〕

とあって、標記語「持病」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「持病」と表記し、訓みは文明四年本に「コ(サイ)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「持病」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「持病」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

持病(ビヤウモツ、ヘイ・ヤマイ)[平・去] 。〔態藝門174四〕

とあって、標記語「持病」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、

持病(ヂビヤウ) 。〔・言語進退門52六〕

持齋(ヂサイ) ―律(チリツ)―病(ヒヤウ)。―物(モツ)。―疑(キ)。―參(サン)。〔・言語門53三〕

持齋 ―律。―病。―物。―疑。―參。〔・言語門48四〕

持齋(ヂサイ) ―律。―病。―物。・言語門57三〕

とあって、弘治二年本だけに標記語「持病」の語を収載し、他本は「持齋」の熟語群に収載する。また、易林本節用集』に、

持病(ヂ ) 。〔支躰門50二〕

とあって、標記語「持病」の語を支躰門に収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「持病」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「持病」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(コノ)(アヒタ)持病(チビヤウ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「持病の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(この)(あひだ)持病(じびやう)再發(さいほつ)し/此間持病再發 平癒(へいゆ)して後又起るを再發と云。〔92オ6〕

とあって、この標記語「持病」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来〔68オ七〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)〔122ウ四〕

とあって、標記語「持病」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Gibio<.ヂビャゥ(持病) たとえば,結石とか偏頭痛などのように,ある人が生来持っている病気.〔邦訳315r〕

とあって、標記語「持病」の語の意味は「たとえば,結石とか偏頭痛などのように,ある人が生来持っている病気」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-びゃう〔名〕【持病】〔身に持つ病の意〕もちまへのやまひ。常に病み艱む病。宿痾。宿疾。痼。痼疾。明月記、文暦二年正月四日「持病相發、常如絶人、非出仕之身〔1272-5〕

とあって、標記語「-びゃう〔名〕【持病】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-びょう〔名〕【持病】〔名〕@ひどく悪くはならないが、常時、または周期的に苦しみ悩む病気。身についた、なおりにくい病。宿痾(しゅくあ)。痼疾(こしつ)。A転じて、身についた悪いくせ。なかなかなおらない悪習」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
那波左近大夫筑前々司〈持病更發之間、加灸之由〉《訓み下し》那波ノ左近ノ大夫筑前ノ前司〈持病更ニ発ルノ間、灸ヲ加フルノ由〉《『吾妻鑑』建長五年七月十七日の条》
 
 
2005年5月21日(土)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
巨細(コサイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、標記語「巨細」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

依所望粗示之巨細令参相伴之時可計申也恐々謹言〔至徳三年本〕

依所望粗示之巨細令參相伴之時可計申也恐々謹言〔宝徳三年本〕

依所望粗示之巨細令参相伴之時可計申也恐々謹言〔建部傳内本〕

所望(ホヾ)巨細者相伴(バン)之時可恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

所望(ホヽ)(シメス)巨細相伴(ハン)之時可ライ恐々謹言〔経覺筆本〕

(ヨツ)所望(ホヽ)(シメス)巨細(コ )(サン)‖レ相伴(シヤウバン)之時可(ハカライ)申候恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「巨細」と表記し、訓みは文明四年本に「コ(サイ)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

巨細(キヨせイ) 〃多。〃人。〃億。〃害大害也巻第八・畳字門527四〕

とあって、十巻本に標記語「巨細」の語を「キヨせイ」の訓みで収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「巨細」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

巨細(コサイキヨせイ・ヲヽイ也、ホソシ)[上・去] 。〔態藝門690八〕

とあって、標記語「巨細」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

巨細(コサイ) 。〔・言語進退門190一〕

巨細(コサイ) ―多(タ)。〔・言語門155八〕

巨細(コサイ) 。〔・言語門145七〕

とあって、標記語「巨細」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

巨細(コサイ) ―多(タ)―益(ヤク)―難(ナン)。〔言辞門158五〕

とあって、標記語「巨細」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「巨細」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

699依所望粗示巨細相伴之時可計申恐々謹言〔謙堂文庫蔵五九左B〕

とあって、標記語「巨細」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

巨細(コサイ)巨細(コサイ)ハ。コマヤカニホソンシトヨムナリ。〔36オ七〕

とあって、標記語「巨細の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

巨細(こさい)ハ相伴(しやうばん)に参(さん)せ令(しめ)(し)(とき)(はからひ)申可也。/巨細メシ相伴之時可 巨ハ大細ハ小也。大なる事もすへたる意也。なを委細なとゝいへるかことし。相伴ハあいともなふと訓す。客人とならひて座につくをいふ。云こゝろハ點心布施のあらましハ前のことし。其くわしき事は相伴に参りたる節相談せんとなり。〔92オ一〜四〕

とあって、この標記語「巨細」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

所望(しよまう)に依(よつ)て粗(ほゞ)(これ)を示(しめ)す。巨細(こさい)相伴(しやうばん)に参(さん)ぜ令(し)むる之(の)(とき)(はから)ひ申(まを)す可(べ)き也(なり)。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)所望粗示巨細ムレ相伴之時恐々謹言。〔67ウ五〕

(よつ)所望(しよまう)(ほゞ)(しめす)(これ)巨細(こさい)(しむる)(さん)相伴(しやうばん)(の)(とき)(べき)(はからひ)(まうす)(なり)恐々(きよう/\)謹言(きんげん)〔121ウ四〕

とあって、標記語「巨細」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Cosai.コサイ(巨細) Comacani yu` coto.(細かに言ふこと)詳しく,あるいは,こまごまと言うこと.¶Cosaini voyobazu.(巨細に及ばず)一つ一つ長々と事をわけて述べる必要はない.文書語.〔邦訳151l〕

とあって、標記語「巨細」の語の意味は「Comacani yu` coto.(細かに言ふこと)詳しく,あるいは,こまごまと言うこと.¶Cosaini voyobazu.(巨細に及ばず)一つ一つ長々と事をわけて述べる必要はない」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-さい〔名〕【巨細】事の、大なると、小なると。事こまやかなること。細大。キョサイ。史記、田傳「政無巨細、皆斷相」大學集註、序「詳略相因、巨細畢擧」吾妻鑑、九、文治五年九月十日「可注巨細之由、言上」〔676-3〕

とあって、標記語「-さい〔名〕【巨細】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-さい〔名〕【巨細】〔名〕@大きいこととこまかいこと。細大。大小。きょさい。A(形動)細かくくわしいこと。また、そのさま。一部始終。委細。きょさい」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
十二間の遠侍には、烏兎・雉・白鳥、三竿に懸け並べ、三石入りばかりなる大桶に酒を湛へ、遁世者二人留め置きて、「誰にてもこの宿所へ来たらん人に一献を勧めよ」と、巨細を申し置きにけり。《『太平記』卷第三十七・新将軍京落ちの事の条》
 
 
監寺(カンス)」ことばの溜池(2004.09.16)を参照。
進上(シンジャウ)」ことばの溜池(2001.07.03)を参照。
衣鉢(エハツ)」ことばの溜池(2004.10.04)を参照。
 
2005年5月20日(金)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
(はからひ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、標記語「」の語を収載するものの、訓みは「ハカリコト」(元龜本36五・天正十七年本上20オ五、静嘉堂本は無訓)と記載する。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

依所望粗示之巨細令参相伴之時可申也恐々謹言〔至徳三年本〕

依所望粗示之巨細令參相伴之時可申也恐々謹言〔宝徳三年本〕

依所望粗示之巨細令参相伴之時可申也恐々謹言〔建部傳内本〕

所望(ホヾ)巨細者令相伴(バン)之時可恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

所望(ホヽ)(シメス)巨細相伴(ハン)之時可ライ恐々謹言〔経覺筆本〕

(ヨツ)所望(ホヽ)(シメス)巨細(コ )(サン)‖レ相伴(シヤウバン)之時可(ハカライ)申候恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「(はから)い」、経覺筆本に「(はか)らい」、文明四年本に「はからい」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「」の語は未収載にする。字書である『字鏡抄』にては、「計」を「ハカル」と動詞で示した語訓は見えるが「ハカライ」と訓んだ例は見えない。これが当代の『倭玉篇』にてはその語訓を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

699依所望粗示巨細相伴之時可恐々謹言〔謙堂文庫蔵五九左B〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

相伴(シヤウバン)之時可(ハカラヒ) 相伴(シヤウハン)ハ。アヒトモナヒ座ニ出ル事也。〔36オ七・八〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

巨細(こさい)ハ相伴(しやうばん)に参(さん)せ令(しめ)(し)(とき)(はからひ)申可也。/巨細メシ相伴之時可 巨ハ大細ハ小也。大なる事もすへたる意也。なを委細なとゝいへるかことし。相伴ハあいともなふと訓す。客人とならひて座につくをいふ。云こゝろハ點心布施のあらましハ前のことし。其くわしき事は相伴に参りたる節相談せんとなり。〔92オ一〜四〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

所望(しよまう)に依(よつ)て粗(ほゞ)(これ)を示(しめ)す。巨細(こさい)相伴(しやうばん)に参(さん)ぜ令(し)むる之(の)(とき)(はから)(まを)す可(べ)き也(なり)。恐々(きよう/\)謹言(きんげん)所望粗示巨細令ムレ相伴之時恐々謹言。〔67ウ五〕

(よつ)所望(しよまう)(ほゞ)(しめす)(これ)巨細(こさい)(しむる)(さん)相伴(しやうばん)(の)(とき)(べき)(はからひ)(まうす)(なり)恐々(きよう/\)謹言(きんげん)〔121ウ四〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Facarai.ハカラヒ() ポロビデンシヤ(Prouidencia摂理),または,管轄支配.→Iinqwi;Ten-vn.〔邦訳192r〕

とあって、標記語「」の語の意味は「ポロビデンシヤ(Prouidencia摂理),または,管轄支配」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

はからひ〔名〕【】はからふこと。とりあつかひ。處置。措置。古今著聞集、一、神祇「大明~の御はからひにて、衆徒合戰理にしける、嚴重なりける事なり」〔1566-3〕

とあって、標記語「はからひ〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「はからひ〔名〕【】〔名〕(動詞「はからう(計)」の連用形の名詞化)@考え。判断。配慮。分別。A措置。取り成し。計画。とりはからい。B数量の多少の過不足を許容すること。特に、株式売買の注文する時、その値段を一応指定し、取引の成行によって多少の値幅をもたせ、証券業者の判断で売買価格に弾力性をつけること」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
是於人雖被禁獨歩之思、至家門草創之期、令求諸人之一族給御計也。《訓み下し》是レ人ニ独歩ノ思ヲ禁ゼラルト雖モ、家門草創ノ期ニ至リテハ、諸人ノ一族ヲ求メシメ給フ御計(ハカリコト)ナリ。《『吾妻鑑』治承四年八月六日の条》
 
 
相伴(シヤウバン)」ことばの溜池(2004.11.27)を参照。
 
2005年5月19日(木)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
浦山敷(うらやましく)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「宇」部に、

羨敷(ウラヤマシク) 。〔元亀二年本182三〕〔静嘉堂本204五〕

とあって、標記語「羨敷」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

請暇病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可被思歟〔至徳三年本〕

請暇病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可被思歟〔宝徳三年本〕

請暇病暇寮暇暫暇僧定浦山敷可被思歟〔建部傳内本〕

請暇(シンカ)病暇寮暇(レウカ)暫暇(ザンカ)僧衆定浦山敷思歟〔山田俊雄藏本〕

請暇(シンカ)病暇(カ)寮暇(リヤウカ)暫暇(サンカ)僧衆定浦山敷思歟(カ)〔経覺筆本〕

請暇(シンカ)病暇(ヒヤウカ)寮暇(レウカ)暫暇(ザンカ)(ノ)僧衆(シユ)浦山敷〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「浦山敷」と表記し、訓みは文明四年本に「(うらやまし)く」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ウラヤマシ。〔黒川本・畳字門〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「浦山敷」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

浦山敷(ウラヤマジクホサンフ)[上・○・○] 或作羨敷。〔態藝門485六〕

とあって、標記語「浦山敷」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、

羨敷(ウラヤマシク)浦山敷(同) 。〔・言語進退門152二〕

浦山敷(ウラヤマシク) 。〔・言語門122九〕〔・言語門112六〕

浦山敷(ウラヤマシク) 羨。〔・言語門137一〕

とあって、標記語「浦山敷」の語を収載する。また、易林本節用集』は、標記語「浦山敷」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「浦山敷」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

697菱(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛意之請暇(シンカ)病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可思歟 浦山二字万雜也。莫クハ彼二也。〔謙堂文庫蔵五九右G〕

御自愛意之請暇(シンカ)病暇(カ)(レウ)(サン)僧衆定浦山敷思歟 浦山二字万雜也。莫クハ彼二也。〔天理図書館藏『庭訓徃來註』〕

とあって、標記語「浦山敷」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

暫暇(ザンカ)僧衆(ソウシユ)浦山敷(ウラヤマシク)思召(ヲホシメサ)歟點心料(テンシンレウ)レ‖(ヲクリ)(ハ)キ∨(タル)暫暇(サンカ)ハ少(スコ)シノ隙(ヒマ)ノ入人ニモ點心料(テンジンレウ)ヲ送(ヲク)ルナリ。〔下36オ四〜六〕

とあって、標記語「浦山敷の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

浦山敷(ウラヤマシク)思召(ヲホシメサ)故障(こしやう)ありて来らさる僧達ハ浦山敷思んとなり。〔91ウ六〕

とあって、この標記語「浦山敷」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(ざんか)僧衆(そうしゆ)定て浦山(うらやま)敷(し)く思(おぼ)し召(め)き被(る)可(べ)き歟請暇病暇寮暇暫暇僧衆浦山敷▲浦山敷ハ人に請(こハ)れて宿(やと)に居合(ゐあハ)さぬをいふ。〔67ウ二〜四、67ウ六〕

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(ざんか)僧衆(そうしゆ)浦山(うらやま)(し)(おぼ)(め)(る)(べ)▲浦山敷ハ人に請(こハ)れて宿(やど)に居合(ゐあハ)さぬを云。〔121オ六〜121ウ二、121ウ五〕

とあって、標記語「浦山敷」の語をもって収載し、その語注記は「浦山敷は、人に請(こハ)れて宿(やと)に居合(ゐあハ)さぬをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vrayamaxij.ウラヤマシイ(羨しい) 他人が持っているのを見て,自分も欲しいと望んだり,願ったりする(こと),あるいは,何かある物を羨望し、それを手に入れたいと望む(こと).Vrayamaxisa.Vrayamaxu<.〔邦訳732l〕

とあって、標記語「浦山敷」の語の意味は「他人が持っているのを見て,自分も欲しいと望んだり,願ったりする(こと),あるいは,何かある物を羨望し、それを手に入れたいと望む(こと)」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

うら-やまし・シキ・シケレ・シク・シク〔形・二〕【】〔次條の語の未然形、うらやまを活用す、やむ、やまし。ねたむ、ねたまし〕(一)ねたまし。そねまし。日本霊異記、上、第十二縁「妬忌、于良ヤマシ」(二)羨むべくあり。けなるし。羨。源氏物語、十二、須磨22「よる波の、かつかへるを見給ひて、うらやましくもと打ちずし給へる」〔0263-3〕

とあって、標記語「うら-やまし〔形・シク〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「うら-やまし】〔形・シク〕(動詞「うらやむ(羨)」の形容詞化)@他人のようす、状態などが自分より恵まれているように見えて、憎らしく思われる。ねたましい。A他人や他の事物のようす、状態などが自分よりすぐれているように見えて、そうありたいと願われる」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
僧衆(ソウシユ)」は、ことばの溜池「僧衆」(2004.08.31)を参照。
 
2005年5月18日(水)晴れ。東京→国際展示場(有明)
暫暇(ザンカ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、

暫暇( カ) 。〔元亀二年本270七〕

暫暇(ザンカ) 。〔静嘉堂本308六〕

とあって、標記語「暫暇」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

請暇病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可被思歟〔至徳三年本〕

請暇病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可被思歟〔宝徳三年本〕

請暇病暇寮暇暫暇僧定浦山敷可被思歟〔建部傳内本〕

請暇(シンカ)病暇寮暇(レウカ)暫暇(ザンカ)僧衆定浦山敷可思歟〔山田俊雄藏本〕

請暇(シンカ)病暇(カ)寮暇(リヤウカ)暫暇(サンカ)僧衆定浦山敷可思歟(カ)〔経覺筆本〕

請暇(シンカ)病暇(ヒヤウカ)寮暇(レウカ)暫暇(ザンカ)(ノ)僧衆(シユ)浦山敷〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「暫暇」と表記し、訓みは経覺筆本に「サンカ」、山田俊雄藏本・文明四年本に「ザンカ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「暫暇」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「暫暇」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

暫暇(ザンカシバラク、イトマ)[○・上] 。〔態藝門774八〕

とあって、標記語「暫暇」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

暫暇(ザンカ) 。〔・言語進退門214五〕

暫暇(ザンカ) ―借(シヤク)―時。〔・言語門178四〕

暫暇(ザンカ) ―借―時。〔・言語門167五〕

とあって、弘治二年本だけに標記語「暫暇」の語を収載する。また、易林本節用集』に、標記語「暫暇」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「暫暇」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

697菱(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛意之請暇(シンカ)病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可思歟 浦山二字万雜也。莫クハ彼二也。〔謙堂文庫蔵五九右G〕

とあって、標記語「暫暇」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

暫暇(ザンカ)僧衆(ソウシユ)浦山敷(ウラヤマシク)思召(ヲホシメサ)汁菜(シルサイ)何(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)雪(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「暫暇の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(さんか)僧衆(そうしゆ)/請暇病暇寮暇暫暇僧衆 請暇ハ人に請けし障入なり。病暇ハやまひのさわり也。寮暇ハ寮の事に付ての障入也。暫暇ハ鳥渡(ちょつと)したる不時(ふじ)の障入也。〔91ウ三〜五〕

とあって、この標記語「暫暇」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(ざんか)僧衆(そうしゆ)定て浦山(うらやま)敷(し)く思(おぼ)し召(め)き被(る)可(べ)き歟請暇病暇寮暇暫暇僧衆浦山敷▲暫暇ハ暫時(ちと)の用向(ようむき)に支(さゝ)へらるゝなり。〔67ウ三、67ウ七〕

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(ざんか)僧衆(そうしゆ)浦山(うらやま)(し)(おぼ)(め)(る)(べ)▲暫暇ハ暫時(ちと)の用向(ようむき)に支(さゝ)へらるゝなり。〔121ウ一、121ウ六〕

とあって、標記語「暫暇」の語をもって収載し、その語注記は「暫暇は、暫時(ちと)の用向(ようむき)に支(さゝ)へらるゝなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Zanca.ザンカ(暫暇) Xibaracuno itoma.(暫くの暇) 短い時間の合間.〔邦訳841l〕

とあって、標記語「暫暇」の語の意味は「Xibaracuno itoma.(暫くの暇) 短い時間の合間」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ざん-〔名〕【暫暇】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ざん-暫仮暫暇】〔名〕禅宗寺院で、僧が所用のために一時的に暇をとること。請暇。空華日用工夫略集-永徳二年(1382)正月六日「恵詳暫仮、帰省法華元章師庭訓往来(1394-1428頃)「請暇、病暇、寮暇、暫暇僧衆、定浦山敷依可思歟」禅林象器箋(1741)叢軌「請仮亦曰暫仮。謂暫時請仮也」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
 
 
2005年5月17日(火)晴れ後曇り。東京→世田谷(駒沢)
寮暇(レウカ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「礼」部に、標記語「寮暇」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

請暇病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可被思歟〔至徳三年本〕

請暇病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可被思歟〔宝徳三年本〕

請暇病暇寮暇暫暇僧定浦山敷可被思歟〔建部傳内本〕

請暇(シンカ)病暇寮暇(レウカ)暫暇(ザンカ)僧衆定浦山敷可思歟〔山田俊雄藏本〕

請暇(シンカ)病暇(カ)寮暇(リヤウカ)暫暇(サンカ)僧衆定浦山敷可思歟(カ)〔経覺筆本〕

請暇(シンカ)病暇(ヒヤウカ)寮暇(レウカ)暫暇(ザンカ)(ノ)僧衆(シユ)浦山敷〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「寮暇」と表記し、訓みは経覺筆本に「リヤウカ」、山田俊雄藏本・文明四年本に「レウカ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「寮暇」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「寮暇」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「寮暇」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

697菱(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛意之請暇(シンカ)病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可思歟 浦山二字万雜也。莫クハ彼二也。〔謙堂文庫蔵五九右G〕

とあって、標記語「寮暇」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

寮暇(レウカ)ハ。寮(レウ)ニ隙(ヒマ)ノ入者也。〔36オ四〕

とあって、標記語「寮暇の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(さんか)僧衆(そうしゆ)請暇病暇寮暇暫暇僧衆 請暇ハ人に請けし障入なり。病暇ハやまひのさわり也。寮暇ハ寮の事に付ての障入也。暫暇ハ鳥渡(ちょつと)したる不時(ふじ)の障入也。〔91ウ三〜五〕

とあって、この標記語「寮暇」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(ざんか)僧衆(そうしゆ)定て浦山(うらやま)敷(し)く思(おぼ)し召(め)き被(る)可(べ)き歟請暇病暇寮暇暫暇僧衆浦山敷▲寮暇ハ内(うち)に留(とゝま)りて坊舎(ばうしや)を守る也。〔67ウ三、67ウ七〕

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(ざんか)僧衆(そうしゆ)浦山(うらやま)(し)(おぼ)(め)(る)(べ)▲寮暇ハ内(うち)に留(とゞま)りて坊舎(ばうしや)を守る也。〔121オ六〜121ウ二、121ウ五〕

とあって、標記語「寮暇」の語をもって収載し、その語注記は「寮暇は、内(うち)に留(とゝま)りて坊舎(ばうしや)を守るなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「寮暇」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「れう-〔名〕【寮暇】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「れう-寮暇】〔名〕仏語。禅宗の寺院で、僧が休暇をもらって、寮内で休息すること。*庭訓往来(1394-1428頃)「請暇。病暇。寮暇」*譬喩盡(1786)七「寮暇(リヤウカ)非番の暇也」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
 
 
2005年5月16日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
病暇(ビヤウカ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「飛」部に、

病暇( ガ) 。〔元亀二年本343三〕

病暇( カ) 。〔静嘉堂本412四〕

とあって、標記語「病暇」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

請暇病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可被思歟〔至徳三年本〕

請暇病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可被思歟〔宝徳三年本〕

請暇病暇寮暇暫暇僧定浦山敷可被思歟〔建部傳内本〕

請暇(シンカ)病暇寮暇(レウカ)暫暇(ザンカ)僧衆定浦山敷可思歟〔山田俊雄藏本〕

請暇(シンカ)病暇(カ)寮暇(リヤウカ)暫暇(サンカ)僧衆定浦山敷可思歟(カ)〔経覺筆本〕

請暇(シンカ)病暇(ヒヤウカ)寮暇(レウカ)暫暇(ザンカ)(ノ)僧衆(シユ)浦山敷〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「病暇」と表記し、訓みは経覺筆本に「(ビヤウ)カ」、文明四年本に「ヒヤウカ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「病暇」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「病暇」の語を未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、『運歩色葉集』にのみ標記語「病暇」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載していることから、その継承連関性の語の一つとして位置づけられる。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

697菱(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛意之請暇(シンカ)病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可思歟 浦山二字万雜也。莫クハ彼二也。〔謙堂文庫蔵五九右G〕

とあって、標記語「病暇」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

病暇(カ)ハ違例(イレイ)シヤナリ。〔36オ四〕

とあって、標記語「病暇の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(さんか)僧衆(そうしゆ)請暇病暇寮暇暫暇僧衆 請暇ハ人に請けし障入なり。病暇ハやまひのさわり也。寮暇ハ寮の事に付ての障入也。暫暇ハ鳥渡(ちょつと)したる不時(ふじ)の障入也。〔91ウ三〜五〕

とあって、この標記語「病暇」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(ざんか)僧衆(そうしゆ)定て浦山(うらやま)敷(し)く思(おぼ)し召(め)き被(る)可(べ)き歟請暇病暇寮暇暫暇僧衆浦山敷▲病暇ハ病(やまひ)に臥(ふ)して引き籠(こも)り居(ゐ)る也。〔67ウ三、67ウ六・七〕

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(ざんか)僧衆(そうしゆ)浦山(うらやま)(し)(おぼ)(め)(る)(べ)▲病暇ハ病(やまひ)に臥(ふ)して引(ひき)(こも)り居(ゐ)るなり。〔121オ六〜121ウ二、121ウ五〕

とあって、標記語「病暇」の語をもって収載し、その語注記は「病暇は、病(やまひ)に臥(ふ)して引き籠(こも)り居(ゐ)るなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「病暇」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「びゃう-〔名〕【病暇】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「びゃう-病暇病仮】〔名〕病気のために暇を請うこと。病気で引きこもっている期間。庭訓往来(1394-1428頃)「請暇。病暇」*譬喩盡(1786)「病暇(ビヤウカ)所労に付引暇也」*白居易-「病仮中少尹魚酒相過詩「宦情牢絡年将暮、病仮聯綿日漸深」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
 
 
2005年5月15日(日)曇り時折晴れ間。東京→世田谷(二子玉川→駒沢)
請暇(シンカ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

請暇(シンカ) 。〔元亀二年本312九〕〔静嘉堂本366四〕

とあって、標記語「請暇」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

請暇病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可被思歟〔至徳三年本〕

請暇病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可被思歟〔宝徳三年本〕

請暇病暇寮暇暫暇僧定浦山敷可被思歟〔建部傳内本〕

請暇(シンカ)病暇寮暇(レウカ)暫暇(ザンカ)僧衆定浦山敷可思歟〔山田俊雄藏本〕

請暇(シンカ)病暇(カ)寮暇(リヤウカ)暫暇(サンカ)僧衆定浦山敷可思歟(カ)〔経覺筆本〕

請暇(シンカ)病暇(ヒヤウカ)寮暇(レウカ)暫暇(ザンカ)(ノ)僧衆(シユ)浦山敷〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「請暇」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「シンカ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「請暇」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

請暇(シンカ) 。〔態藝門84二〕

とあって、標記語「請暇」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

請暇(シンカせイ・ウク、イトマ)[平・上] 。〔之部態藝門943七〕

とあって、標記語「請暇」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

請暇(シンカ) 。〔・言語進退門244六〕

とあって、弘治二年本だけに標記語「請暇」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

請待(シヤウダイ) ―滿(マン)―來(ライ)―用(ヨウ)―益(シンエキ)―暇(シンカ)。〔言辞門215六〕

とあって、標記語「請待」の熟語群として「請暇」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「請暇」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

697菱(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛意之請暇(シンカ)病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可思歟 浦山二字万雜也。莫クハ彼二也。〔謙堂文庫蔵五九右G〕

とあって、標記語「請暇」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

請暇(シンカ) 請暇ハイトマヲコウ人也。〔下36オ三・四〕

とあって、標記語「請暇の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(さんか)僧衆(そうしゆ)請暇病暇寮暇暫暇僧衆 請暇ハ人に請けし障入なり。病暇ハやまひのさわり也。寮暇ハ寮の事に付ての障入也。暫暇ハ鳥渡(ちょつと)したる不時(ふじ)の障入也。〔91ウ三〜五〕

とあって、この標記語「請暇」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(ざんか)僧衆(そうしゆ)定て浦山(うらやま)敷(し)く思(おぼ)し召(め)き被(る)可(べ)き歟請暇病暇寮暇暫暇僧衆浦山敷▲請暇ハ人に請(こハ)れて宿(やと)に居合(ゐあハ)さぬをいふ。〔67ウ二〜四、67ウ六〕

請暇(しんか)病暇(びやうか)寮暇(りやうか)暫暇(ざんか)僧衆(そうしゆ)浦山(うらやま)(し)(おぼ)(め)(る)(べ)▲請暇ハ人に請(こハ)れて宿(やど)に居合(ゐあハ)さぬを云。〔121オ六〜121ウ二、121ウ五〕

とあって、標記語「請暇」の語をもって収載し、その語注記は「請暇は、人に請(こハ)れて宿(やと)に居合(ゐあハ)さぬをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xinca.シンカ(請客請暇) Itomauo vquru.(暇を請くる)禅宗僧(Ie~xus)の間における取次ないし他の僧で、他人に代わって長老に物事を申し出たり許可を乞うたりするのを役とする者.※正しくは“請客”であるが,“請暇”とも書いたらしく,訓注はそれによったものか.“請客侍者,又云侍客,接客官也”(文明本節用集),“侍客,請暇侍者也”(妙本寺本いろは字).〔邦訳769l〕

とあって、標記語「請暇」の語の意味は「Itomauo vquru.(暇を請くる)禅宗僧(Ie~xus)の間における取次ないし他の僧で、他人に代わって長老に物事を申し出たり許可を乞うたりするのを役とする者」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しん-〔名〕【請暇】〔シンは、宋音〕親の喪によりて、暇を請ふこと。請暇(セイカ)南史、蕭惠開傳「自京江、請暇還都」下學集、下、態藝門「請暇、シンカ」〔936-4〕

とあって、標記語「しん-〔名〕【請暇】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しん-請暇請仮】〔名〕(「しん」は「請」の唐宋音)@仏語。禅家で、一五日以内の外出許可を求め他行すること。日限内に再び帰堂することを参暇という。また、一五日を過ぎると籍を抜くことを原則としたため、一五日以上の暇を得て他行することを起単(きたん)という」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
かくのごとくいひて、すなはち請暇するに、提挙いはく、「未恨不領、且喜見師《未だ不領なるをば恨みず、且喜ぶ師を見ることを》」。《『正法眼藏』十六・行持下,四26ウHの条》
 
 
2005年5月14日(土)曇り。東京→世田谷(渋谷→駒沢)
御計(おんはからひ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「於」部に、標記語「御計」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

點心料被送進者可為無遮御計〔至徳三年本〕

點心料被送進者可爲無遮御計〔宝徳三年本〕

點心料被送進者可爲無遮御計〔建部傳内本〕

點心料被レハ送進者可(せ )無遮(ムシヤ)御計〔山田俊雄藏本〕

點心(レウ)送進者可御計(ハカライ)者也〔経覺筆本〕

點心料(テンシンレウ)送進(ヲクリシン)(ハ)、可(タル)無遮(フシヤ)御計(ハカラ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「御計」と表記し、訓みは経覺筆本・文明四年本に「(おん)はからい」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「御計」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「御計」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「御計」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

698点心料被送進者、可无遮御計者也 字、言百億須弥、百億日月境、一大三千界衆生病人一藥丸ルヲ、一无遮之善根云者也。{無遮ノ御計トハ一切亊ヲ拵(コシラヘル)人也}〔謙堂文庫蔵五九左@〕

とあって、標記語「御計」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

点心料被送進者、可无遮御計者也汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「御計の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

無遮(むしや)御計(おんはから)(たる)(へき)也/無遮之御計無遮ハへたてなきを云。平等(ひやうとう)のはからひなりと也。〔91ウ七・八〕

とあって、この標記語「御計」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

點心料(てんしんれう)(おく)り進(しん)ぜら被(れ)(バ)無遮(むしや)(の)御計(おんはから)(た)る可(べ)き也(なり)點心料被セラ無遮之御計〔67ウ四・五〕

點心料(てんしんれう)(れ)送進(おくりしんせら)(バ)(べき)(たる)無遮(むしや)(の)御計(おんはからひ)(なり)〔121ウ二・三〕

とあって、標記語「御計」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「御計」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「おん-はからひ〔名〕【御計】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「おん-はからい御計】〔名〕」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
是於人雖被禁獨歩之思、至家門草創之期、令求諸人之一族給御計也《訓み下し》是レ人ニ独歩ノ思ヲ禁ゼラルト雖モ、家門草創ノ期ニ至リテハ、諸人ノ一族ヲ求メシメ給フ( ン)(ハカリコト)ナリ。《『吾妻鏡』治承四年八月六日の条》
 
 
2005年5月13日(金)曇り。東京→世田谷(駒沢)
無遮(ムシヤ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「牟」部に、標記語「無遮」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

點心料被送進者可為無遮御計也〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕

點心料被レハ送進者可(せ )無遮(ムシヤ)御計〔山田俊雄藏本〕

點心(レウ)送進者可御計(ハカライ)者也〔経覺筆本〕

點心料(テンシンレウ)送進(ヲクリシン)(ハ)、可(タル)無遮(フシヤ)御計(ハカラ)〔文明四年本〕

と見え、経覺筆本が「无差」、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・文明四年本は「無遮」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「ムシヤ」、文明四年本に「フシヤ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「無遮」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「無遮」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「無遮」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

698点心料被送進者、可无遮御計者也 字、言百億須弥、百億日月境、一大三千界衆生病人一藥丸ルヲ、一无遮之善根云者也。{無遮御計トハ一切亊(コシラヘル)人也}〔謙堂文庫蔵五九左@〕

とあって、標記語「无遮」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

点心料被送進者、可无遮御計者也汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「无遮の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

無遮(むしや)の御計(おんはから)ひ為(たる)(へき)也/無遮之御計無遮ハへたてなきを云。平等(ひやうとう)のはからひなりと也。〔91ウ七・八〕

とあって、この標記語「無遮」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

點心料(てんしんれう)(おく)り進(しん)ぜら被(れ)(バ)無遮(むしや)(の)御計(おんはから)ひ為(た)る可(べ)き也(なり)點心料被セラ無遮之御計〔67ウ四・五〕

點心料(てんしんれう)(れ)送進(おくりしんせら)(バ)(べき)(たる)無遮(むしや)(の)御計(おんはからひ)(なり)〔121ウ二・三〕

とあって、標記語「無遮」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「無遮」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-しゃ〔名〕【無遮】限りもなきこと。極めて寛大にして遮るものなきこと。圓覺經「不無遮大悲、爲諸菩薩、開秘密藏庭訓往來、十月「點心料被送進者、可無遮之御計也」〔四548-1〕

とあって、標記語「-しゃ〔名〕【無遮】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-しゃ無遮】〔名〕仏語。制限したり差別したりしないこと。きわめて寛容で平等なこと」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
國内人、此(キヽ)(ナ)(カナシミ)(ホウ)ゼムト(オホク)(タカラ)出集(イダシアツメ)(ヒロ)无遮(ムシヤ)大會(ダイエ)(マウ)。《『今昔物語集』卷一・二十三の条》※大系本頭注に「无遮は、無制限・無差別の意。聖凡・貴賤・上下等の区別なく、一切平等に財施と法施とを行ずる大法会。無遮会」と記す。
 
 
2005年5月12日(木)晴れ。東京→世田谷(駒沢→三軒茶屋)
送進(おくりシン・ず)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「於」部に、標記語「送進」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

點心料被送進者可為無遮御計也〔至徳三年本〕

點心料被送進者可爲無遮御計也〔宝徳三年本〕

點心料被送進者可爲無遮御計也〔建部傳内本〕

點心料被レハ送進者可(せ )無遮(ムシヤ)御計〔山田俊雄藏本〕

點心(レウ)送進者可御計(ハカライ)者也〔経覺筆本〕

點心料(テンシンレウ)送進(ヲクリシン)(ハ)、可(タル)無遮(フシヤ)御計(ハカラ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「送進」と表記し、訓みは文明四年本に「をくりシンせ(らる)は」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「送進」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「送進」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「送進」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

698点心料被送進者、可无遮御計者也 字、言百億須弥、百億日月境、一大三千界衆生病人一藥丸ルヲ、一无遮之善根云者也。{無遮ノ御計トハ一切亊ヲ拵(コシラヘル)人也}〔謙堂文庫蔵五九左@〕

とあって、標記語「百合草」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

点心料被送進者、可无遮御計者也汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「送進の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

點心料(てんしんりやう)(おく)り進(しん)(られ)ハ/點心料被レハ‖セ|障入ありて來らさる僧に送るなり。〔91ウ二・三〕

とあって、この標記語「送進」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

點心料(てんしんれう)(おく)り進(しん)ぜら(れ)(バ)無遮(むしや)(の)御計(おんはから)ひ為(た)る可(べ)き也(なり)點心料被セラ無遮之御計〔67ウ四・五〕

點心料(てんしんれう)(れ)送進(おくりしんせら)(バ)(べき)(たる)無遮(むしや)(の)御計(おんはからひ)(なり)〔121ウ二・三〕

とあって、標記語「送進」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「送進」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「おくり-しん〔サ變〕【送進】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にあっても、標記語「おくり-しん送進】〔サ変〕」は語は未収載であり、依って『庭訓徃來』のこの語用例は未記載となる。
[ことばの実際]
令奉寄神田於洲崎宮給御寄進状、今日被送進社頭〈云云〉《訓み下し》神田ヲ洲崎ノ宮ニ寄セ奉ラシメ給フ。御寄進ノ状、今日社頭ニ送リ進(シン)ゼラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年九月十二日の条》
 
 
2005年5月11日(水)曇り。東京→世田谷(新宿→駒沢)
御自愛(ゴジアイ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

自愛( アイ) 。〔元亀二年本308六〕

自愛(ジアイ) 。〔静嘉堂本360一〕

とあって、標記語「自愛」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

隨躰可引之時以後之菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草御自愛可用之〔至徳三年本〕

隨躰可引之時以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草御自愛可用之〔宝徳三年本〕

隨躰可引之齋以後菓子者生栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草御自愛可用之〔建部傳内本〕

之可時以後菓子者生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子枝椎(  シイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )野老(トコロ)零陵子(ヌカコ)テ‖御自愛( アイ)〔山田俊雄藏本〕

之可(ヒク)時以後菓子者()生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(エタシイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草隨御自愛ニ|意之〔経覺筆本〕

之可(トキ)以後菓子(クワシ)()生栗(ナマクリ)搗栗(カチクリ)串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子( ナシ)枝椎(エタシ井)(ヒシ)田烏(クワ井)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )テ‖御自愛(コジアイ)ニ|可用之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「御自愛」と表記し、訓みは経覺筆本に「(ゴジ)アイ」、文明四年本に「ゴジアイ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「御自愛」及び「自愛」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「御自愛」及び「自愛」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

自愛(――ヨリ・ミツカラ・ヲノツカラ、ヲシム)[○・○] 。〔之部態藝門933七〕

とあって、標記語「自愛」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

自賛(ジサン) ―賣(マイ)―歎(タン)―餘(ヨ)―身(シン)―筆(ヒツ)―他(タ)―滅(メツ)―慢(マン)―害(ガイ)―性(シヤウ)―誓(セイ)―然(ネン)―得(トク)―業(ゲウ)―愛(アイ)。〔・言語進退門245三〕

自賛(ジサン) ―慢―害―餘―身/―賣―業―誓―愛―由―他―然―滅―得―性―言―今以後―擅或作専―歎。〔・言語門209六〕

自賛(ジサン) ―慢―害―餘―身。―賣―業―誓/―今以後―得―在。―筆―愛―由―他―然―滅―性―言/―称。―擅又作専―歎―火―力。〔・言語門193八〕

とあって、標記語「自賛」の熟語群として「自愛」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

自然(ジネン) ―讃(サン)―訴―判(ハ )―行(ギヤウ)―他(タ)―作(サク)―滅(メツ)―由(イウ)―専(せン)―筆(ヒツ)―己(コ)―力(リキ)―害(ガイ)―問(モン)自答(ジタフ)―餘(ヨ)―物(モツ)―慢(マン)―称(せウ)―水(スイ)水死也―愛(アイ)―用(ヨウ)―見(ケン)―身―今(コン)已後(イゴ)。〔言辞門213六・七〕

とあって、標記語「自然」の熟語群として「自愛」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「自愛」の語を収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

697菱(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛意之請暇(シンカ)病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可思歟 浦山二字万雜也。莫クハ彼二也。〔謙堂文庫蔵五九右G〕

とあって、標記語「御自愛」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛ニ|思歟汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「御自愛の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

御自愛(ごじあひ)隨(したかつ)之(これ)用(もち)可(へし)御自愛 御自愛に隨ふとハ好(このミ)に任(まか)する也。是にて食後の菓子ハ言終りたり。〔91ウ二・三〕

とあって、この標記語「御自愛」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(とき)以後(いご)の菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしい)菱(ひし)田烏子(くハゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)御自愛(ごじあい)隨(したがつ)之(これ)用(もち)可()し/齋以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草御自愛〔67オ五〜八〕

(とき)以後(いごの)菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほ なつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしひ)(ひし)田烏子(くわゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)(したがつて)御自愛(ごじあいに)(べし)(もちふ)(これを)〔120ウ六〕

とあって、標記語「御自愛」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iiai.ジアイ(自愛) Mizzucara aisuru.(自ら愛する)かわいがって愛情を示すこと.〔邦訳359r〕

とあって、標記語「御自愛」の語の意味は「Mizzucara aisuru.(自ら愛する)かわいがって愛情を示すこと」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-あい〔名〕【自愛】(一)自ら、其身を、大切にすること。老子、七十二章「聖人自知不自見、自愛不自貴(二)行を愼むこと。自重。史記、平凖書「人人自愛、而重法」舒明即位前紀「愼以自愛(ツトメヨ)矣」(三)物を、重く愛すること。珍重。太平記、廿八、漢楚合戰事「項王、白壁を受けて、誠に天下の重寳なり、感悦して、座上に置きて、自愛し給ふ事、類なし」〔872-2、三604-4〕

とあって、標記語「-あい〔名〕【自愛】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-あい自愛】〔名〕@自分を大切にすること。自分の体に気をつけること。現代では、「御自愛」の形で、手紙の末文などで相手に向けて用いることが多い。A品行をつつしむこと。自重すること。B(形動)人や物を大事にすること。珍重すること。また、それに値するさま。C自分の利益をはかること。D自己保存の自然の感情。この感情が、他人への愛の根底あるとする見方と、他愛と別個であるとする見方がある」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。この@の用例として中世の徃來書『明衡往来』と『釋氏徃來』のそれぞれから引用されているが、「御自愛」とするのは、上記の『庭訓徃來』にあることを指摘しておく。
[ことばの実際]
是眞實御所願、叶佛意之故、以男不及死悶、始終有恃之由、武衛、御自愛(ジアイ)再三〈云云〉《訓み下し》是レ真実ノ御所願、仏意ニ叶フガ故ニ、男ヲ以テ(此ノ男)死悶ニ及バズ、始終恃ミ有ルノ由、武衛、御自愛(ジアイ)再三ト〈云云〉。《『吾妻鏡元暦二年三月十八日の条》
 
 
2005年5月10日(火)晴れ午後曇り。東京→世田谷(駒沢)
零陵子(ぬかご)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「奴」部に、

零陵子 。〔元亀二年本224一〕〔天正十七年本中57ウ一〕

零陵子 。〔静嘉堂本256五〕

とあって、標記語「零陵子」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

隨躰可引之時以後之菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔至徳三年本〕

隨躰可引之時以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔宝徳三年本〕

隨躰可引之齋以後菓子者生栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔建部傳内本〕

之可時以後菓子者生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子枝椎(  シイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )野老(トコロ)零陵子(ヌカコ)テ‖御自愛( アイ)〔山田俊雄藏本〕

之可(ヒク)時以後菓子者()生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(エタシイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草隨御自愛ニ|意之〔経覺筆本〕

之可(トキ)以後菓子(クワシ)()生栗(ナマクリ)搗栗(カチクリ)串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子( ナシ)枝椎(エタシ井)(ヒシ)田烏(クワ井)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )テ‖御自愛(コジアイ)ニ|可用之〔文明四年本〕

とあって、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には「零陵子」の語は未収載にする。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

零餘子ヌカコ 暑預子也零陵子 。〔黒川本・殖物門〕

零餘子ヌカコ 暑預子也零陵子 。〔卷第三・殖物門27二・三〕

とあって、標記語「零陵子」「零餘子」の両表記の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

零餘子(ヌカゴ) 山薬実(ミ)ナリ。〔草木門128一〕

とあって、標記語「零餘子」の語を収載し、語注記に「即ち、山薬の実(ミ)なり」と記載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

零陵子(ヌカゴ/レイヨシ・ヲチル、アマル、ミ)[平・平・上] 或作零餘子即薯蕷(ミ)。〔草木門200五〕

とあって、標記語「零陵子」、そして語注記に「零餘子」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

零餘子(ヌカゴ/レイヨシ) 或作零陵子也/即薯蕷實也。〔・草木門59二〕

零餘子(ヌカゴ) 或作零陵子也/即薯蕷實(シヨノミ)。〔・草木門60四〕

零餘子(ヌカ子) 或作零陵子也/即薯蕷實(シヨノミ)。〔・草木門63一〕

とあって、標記語「零餘子」にして語注記に「零陵子」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

零餘子(ヌカコ) 又作零陵子。〔草木門59二〕

とあって、標記語「零餘子」にして語注記に「零陵子」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「零餘子」と「零陵子」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が「零陵子」で収載しているのである。但し、広本節用集』だけが標記語を「零陵子」として語注記に「零餘子」を収載していることは『庭訓徃來』との連関性を見ていくうえで留意すべきところである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

697菱(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛意之請暇(シンカ)病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可思歟 浦山二字万雜也。莫クハ彼二也。〔謙堂文庫蔵五九右G〕

とあって、標記語「零陵子」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛ニ|思歟汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「零陵子の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

零陵子(むかご)零陵子 (きよ)を補ひ腰膝を強くし腎を益す。〔91ウ二〕

とあって、この標記語「零陵子」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(とき)以後(いご)の菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしい)菱(ひし)田烏子(くハゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)御自愛(ごじあい)隨(したがつ)之(これ)用(もち)可()し/齋以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草零陵子御自愛〔67オ五〜八〕

(とき)以後(いごの)菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほ なつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしひ)(ひし)田烏子(くわゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)(したがつて)御自愛(ごじあいに)(べし)(もちふ)(これを)〔120ウ六〕

とあって、標記語「零陵子」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Nucago.ヌカゴ(零余子) .〔邦訳475l〕

とあって、標記語「零陵子」の語の意味は「前に」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ぬか-〔名〕【零餘子】〔糠子(ぬかご)の義、糠ハ小なる意か〕むかご(零餘子)に同じ。倭名抄、十七7芋類「零餘子、沼加古、薯蕷子也」本草和名、下55「零餘子、署豫子、在葉上生、大者如卵、奴加古」今物語、十九、「いものつるのはひかかりて、ぬかごなどのなりたりけるを見て」〔1510-1・三727-2〕

むか-〔名〕【零餘子】古くは、ぬかご。今も地方によりて、しか云ふ。やまのいも(山芋)、つくねいも(佛掌薯)などの子(み)。其蔓の葉の閧ノ生ず。形、大なるは鶏卵の如く、小さきは鉛丸(たま)の如し。皮、青黄褐にして、斑あり、肉白し、食用とし、又、その種(たね)とす。重修本草綱目啓蒙、十九、柔滑類「零餘子、ヌカゴ(古名、薩州)、ムカゴ」蕪村句集、秋「うれしさの、箕に餘りたる、むかご哉」〔1957-4・四532-3〕

とあって、標記語「ぬか-〔名〕【零餘子】」と「むか-〔名〕【零餘子】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ぬか-零余子】〔名〕「むかご(零余子)」に同じ。《季・秋》補注「ぬかご」「むかご」の二つの語形が存在するが、「ぬかご」が古く、近世になってから「むかご」が一般的になったようである」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年5月9日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
百合草(ゆり)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の補遺「草花名」部に、

百合草(ユリ) 。〔元亀二年本377六〕〔静嘉堂本460六〕

とあって、標記語「百合草」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

隨躰可引之時以後之菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔至徳三年本〕

隨躰可引之時以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔宝徳三年本〕

隨躰可引之齋以後菓子者生栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔建部傳内本〕

之可時以後菓子者生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子枝椎(  シイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )野老(トコロ)零陵子(ヌカコ)テ‖御自愛( アイ)〔山田俊雄藏本〕

之可(ヒク)時以後菓子者()生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(エタシイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草御自愛ニ|意之〔経覺筆本〕

之可(トキ)以後菓子(クワシ)()生栗(ナマクリ)搗栗(カチクリ)串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子( ナシ)枝椎(エタシ井)(ヒシ)田烏(クワ井)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )テ‖御自愛(コジアイ)ニ|可用之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「百合草」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・文明四年本に「ゆり」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

百合ユリ重匡楊玄重邁磨羆中逢花名強瞿強仇―即瞿也出陶景注山丹出拾遺/已上(ユ)。〔黒川本・植物門007三〕

百合ユリ重匡楊玄重邁磨羆中逢花名強瞿強仇―即瞿也出陶景注山丹出拾遺/已上(ユ)。〔卷第九・殖物門3六〕

とあって、標記語「百合」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

百合草(ユリ) 。〔草木門124四〕 百合草(ヒヤクカウサウ/ユリ) 。〔春良本・草木門118四〕

とあって、標記語「百合草」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

百合草(ユリ/ハクカフサウ・モヽ、アワスル、クサ)[入・入・上] 又作中逢花唐出荊州ヨリ云々。〔草木門858八〕

とあって、標記語「百合草」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

百合草(ユリ) 。〔・草木門225一〕〔・草木門187五〕〔・草木門177一〕

とあって、標記語「百合草」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

百合草(ユリ) 。〔草木門193四〕

とあって、標記語「百合草」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「百合草」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

697菱(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛意之請暇(シンカ)病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可思歟 浦山二字万雜也。莫クハ彼二也。〔謙堂文庫蔵五九右G〕

とあって、標記語「百合草」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛ニ|思歟汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「百合草の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

百合草(ゆり  )百合草 (おに)ゆり。姫(ひめ)ゆりあり。〔91ウ一・二〕

とあって、この標記語「百合草」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(とき)以後(いご)の菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしい)菱(ひし)田烏子(くハゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)御自愛(ごじあい)隨(したがつ)之(これ)用(もち)可()し/齋以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草御自愛〔67オ五〜八〕

(とき)以後(いごの)菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほ なつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしひ)(ひし)田烏子(くわゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)(したがつて)御自愛(ごじあいに)(べし)(もちふ)(これを)〔120ウ六〕

とあって、標記語「百合草」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yuri.ユリ(百合草) 玉葱のように球根のある植物.※原文はCebola albarraa~.〔邦訳837r〕

とあって、標記語「百合草」の語の意味は「玉葱のように球根のある植物」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【百合】〔古名は佐韋にて、ゆりは韓語なりとも云ふ、花大きく、莖細く、風に揺(ゆ)れば云ふかと〕(一){百合科の草木の名。山に自生す。莖、圓く、高さ三四尺、直立す。葉は笹に似て、厚く光る。夏の半に、莖の梢に花を開くこと一二箇、年久しきは、數十箇に至る、皆、開きて傍に向ふ。六瓣、長さ四五寸許り、鐘樣にして、白きに黄赤色の斑點を有し、紫を帶びて美し。根は、球をなして白く、瓣多く並び重なりて蓮花の如し、食用とす。類名に對して、山百合、笹百合、の名もあり。其他、鬼百合、姫百合などあり。各條に註す。倭名抄、廿21草類「百合、由里」(二)襲(かさね)の色目の名。表赤く、裏の朽葉なるもの。〔4-735-3〕

とあって、標記語「-〔名〕【百合】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-百合草】〔名〕@ユリ科ユリ属の植物の総称。地中に、白・淡黄または紫色の鱗茎がある。葉は線形または披針形。春から夏にかけ、大きな両性花が咲く。花は六個の花被片からなり、赤・桃・白・黄・紫色など。雄しべは丁字形の(やく)がめだつ。ヤマユリ・オニユリなどの鱗茎は食用ともなる。北半球の温帯に広く分布、鑑賞用に栽培されるものが多い。リリー。学名はLilium《季・夏》A襲(かさね)の色目(いろめ)の名。表は赤、裏は朽葉色。夏用いる」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
白(百)合二八月採根曝干由利。《『新撰字鏡』458七、36ウ、59ウ》
 
 
2005年5月8日(日)晴れ。東京→世田谷(玉川→お茶の水)
覆盆子(いちご)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の補遺「草花名」部に、

(イチゴ)。〔元亀二年本380十〕

覆盆子 。〔静嘉堂本458二〕 (イチゴ)。〔静嘉堂本459四〕

とあって、標記語「莓」及び「覆盆子」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

隨躰可引之時以後之菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔至徳三年本〕

隨躰可引之時以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔宝徳三年本〕

隨躰可引之齋以後菓子者生栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔建部傳内本〕

之可時以後菓子者生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子枝椎(  シイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )野老(トコロ)零陵子(ヌカコ)テ‖御自愛( アイ)〔山田俊雄藏本〕

之可(ヒク)時以後菓子者()生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(エタシイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草隨御自愛ニ|意之〔経覺筆本〕

之可(トキ)以後菓子(クワシ)()生栗(ナマクリ)搗栗(カチクリ)串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子( ナシ)枝椎(エタシ井)(ヒシ)田烏(クワ井)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )テ‖御自愛(コジアイ)ニ|可用之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「覆盆子」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「いちこ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

藜苜(イチコ)(ホ)同/又作莓(フクホン )同俗作/覆盆。〔黒川本・殖物門上3オ五〕

(イチコ)イチコ藜苜苺子陵累陰累本條馬屡陸荊音/茂馬苺已上三名出疏文大苺出小品/方。木苺山苺已上名出義名宛/已上イチコ。〔卷第一・殖物門8五〜9三〕

とあって、標記語「」の語を以て収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

覆盆子(イチコ) 。〔草木門125七〕

とあって、標記語「覆盆子」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

覆盆子(イチゴ・ヲヽフ、―、―フクボンシ・クツカヘス、ホトキ、―)[上去入・平・上] 。〔草木門6三〕

とあって、標記語「覆盆子」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

覆盆(イチゴ/フクボン) 。〔・草木門6四〕

覆盆(イチゴ/フクホン)(同) 。〔・草木門3九〕

覆盆(イチコ) 又茎。〔・草木門2六〕

覆盆(イチコ) 又茎(ケイ)。〔・草木門3一〕

とあって、標記語「覆盆」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

覆盆子(イチゴ) 。〔草木門2五〕

とあって、標記語「覆盆子」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「覆盆子」「覆盆」の語を以て収載し、前者の語を古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

697菱(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛意之請暇(シンカ)病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可思歟 浦山二字万雜也。莫クハ彼二也。〔謙堂文庫蔵五九右G〕

とあって、標記語「覆盆子」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛思歟汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「覆盆子の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

覆盆子(いちご)覆盆子 腎を補ふの能あり。〔91ウ一〕

とあって、この標記語「覆盆子」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(とき)以後(いご)の菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしい)菱(ひし)田烏子(くハゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)御自愛(ごじあい)隨(したがつ)之(これ)用(もち)可()し/齋以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草御自愛▲覆盆子ハ蔓(つる)にして一枝(えだ)五葉(えふ)のものをいふ。〔67オ五〜八、67ウ一〕

(とき)以後(いごの)菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほ なつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしひ)(ひし)田烏子(くわゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)(したがつて)御自愛(ごじあいに)(べし)(もちふ)(これを)▲覆盆子ハ蔓(つる)にして一枝(えだ)五葉(えふ)のものをいふ。〔120ウ六、121オ四・五〕

とあって、標記語「覆盆子」の語をもって収載し、その語注記は「覆盆子は、蔓(つる)にして一枝(えだ)五葉(えふ)のものをいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Ichigo.イチゴ(覆盆子) いちご.桑の実のような果実.〔邦訳325l〕

とあって、標記語「覆盆子」の語の意味は「前に」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いち-〔名〕【】〔語原、考へられず、但し此語は、いちびこの中略なるべし、其條を見よ、(濁音、顛倒す、臍(ほぞ)、戸ぼそ。繼(つぎつ)ぐ、つづく)相新嘗(あひにひなめ)、あひなめ。洗染(あらひぞめ)、あらひぞめなどの如き、中略なり〕いちびこ。亞灌木、路傍に多し。葉は、どびに似て、深緑にして、皴あり、莖、葉に、毛刺多し、春の末に、枝の梢に、五出の白き花を開く、大きさ一寸許、夏の初め、實熟して赤し、大きさ六七分あり。同種に對して、くさいちごとも云ふ。又、同種の内にて、最も早く熟すれば、わせいちごの名もあり。。同種に、きいちご、なはしろいちごなどあり、又、草本(くさだち)なるに、へびいちごあり、又、蔓生(つるだち)なるに、とっくりいちごなどあり、皆、各條に注す。倭名抄、十七7「覆盆子、以知古」枕草子、三、二十六段、あてなるもの「いみじううつくしき兒の、いちご食ひたる」本朝食鑑(元禄)四「苺、訓伊知古合類節用集、六、生殖門「覆盆子(イチゴ)、苺(イチゴ)古今著聞集、五、和歌「北條四郎時政が候ひけるが、連歌をなむしける「守山(もるやま)の、いちごさかしく、なりにけり」〔168-5〕

とあって、標記語「いち-〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「いち-覆盆子】〔名〕バラ科のオランダイチゴ属、カジイチゴ属、ヘビイチゴ属、さらにキジムシロ属の一部をも含めた植物の総称。主として小低木または多年草で、実が多汁質で多数種子があり、食用となるものが多い。《季・春》A植物「オランダいちご(―苺)」の通称。《季・夏》」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
顱 和名以知古。《『本草和名』の条》
 
 
2005年5月7日(土)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
田烏子(くわゐ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の補遺「草花名」部に、

烏芋(クハイ) 。〔元亀二年本379四〕

烏芋(クワイ) 。〔静嘉堂本463四〕

とあって、標記語「烏芋」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

隨躰可引之時以後之菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔至徳三年本〕

隨躰可引之時以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔宝徳三年本〕

隨躰可引之齋以後菓子者生栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔建部傳内本〕

之可時以後菓子者生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子枝椎(  シイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )野老(トコロ)零陵子(ヌカコ)テ‖御自愛( アイ)〔山田俊雄藏本〕

之可(ヒク)時以後菓子者()生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(エタシイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草隨御自愛ニ|意之〔経覺筆本〕

之可(トキ)以後菓子(クワシ)()生栗(ナマクリ)搗栗(カチクリ)串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子( ナシ)枝椎(エタシ井)(ヒシ)田烏(クワ井)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )テ‖御自愛(コジアイ)ニ|可用之〔文明四年本〕

と見え、文明四年本が「田烏」、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本は、「田烏子」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本に「くわい」、文明四年本に「くわゐ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

烏芋 クワ井/沢之類也。〔黒川本・植物門〕

烏芋 クワイ/澤類也 。〔卷六・植物門386三・四〕

とあって、標記語「烏芋」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「田烏子」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

烏芋(クワイ・カラス、イモ)[平・去] 一名茨菰(シコ)/又田烏子。〔草木門499七〕

とあって、標記語「烏芋」の語を収載し、その語注記に「茨菰」そして「田烏子」の語を「又○○」として収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

烏芋(クワイ) 茨菰/定。〔・草木門157一〕

烏芋(クハイ) 一名茨菰。〔・草木門128三〕

烏芋(クワイ) 一名茨菰/又。〔・草木門117二〕

烏芋(クワイ) 一名茨/菰又(クワイ)。〔・草木門142二〕

とあって、標記語「烏芋」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

烏芋(クハイ) 。〔草木門130四〕

とあって、標記語「烏芋」の語を以て収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「烏芋」が用いられ、辛うじて広本節用集』の語注記に「田烏子」の語を収載する。これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

697菱(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛意之請暇(シンカ)病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可思歟 浦山二字万雜也。莫クハ彼二也。〔謙堂文庫蔵五九右G〕

とあって、標記語「田烏子」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛ニ|思歟汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「田烏子の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

田烏子(くわゐ)田烏子 くろくわゐ也。白くわゐハ慈姑(じこ)と書。多く食すれハ臍下(さいか)いたむ。〔91オ八〜91ウ一〕

とあって、この標記語「田烏子」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(とき)以後(いご)の菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしい)菱(ひし)田烏子(くハゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)御自愛(ごじあい)隨(したがつ)之(これ)用(もち)可()し/齋以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草御自愛▲田烏子ハ烏芋(くろくハゐ)也。〔67オ五〜八、67ウ一〕

(とき)以後(いごの)菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほ なつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしひ)(ひし)田烏子(くわゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)(したがつて)御自愛(ごじあいに)(べし)(もちふ)(これを)▲田烏子ハ烏芋(くろくはゐ)也。〔120ウ六、121オ四〕

とあって、標記語「田烏子」の語をもって収載し、その語注記は「田烏子は、烏芋(くろくハゐ)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「田烏子」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

くわ-〔名〕【茨菰慈姑】〔破集(くいわれゐ)の義にて、葉の形に云ふにもあるか〕水菜の名、舊き根塊(おや)を、水田に植う、一根より叢生す、葉は、長くして尖り、下は、二つに分れて、剪刀(はさみ)の如し、因りて、剪刀草の漢名もあり、冬、春、塊に、側子(こ)を生ず、形、圓く、徑(わたり)、一寸許、皮、淡緑にして、肉、白く堅し、煮て食ふべし、Kくわゐ(い)に對して、白くわゐ(い)の名もあり、秋、花を開く、三瓣にして、白く、おもだかの花に似て、大なり。倭名抄、十七7芋類「烏芋、久和井、生水中、澤寫之類也」(烏芋は、本草和名に、久呂久和爲とありて、當らず)〔592-3〕

とあって、標記語「くわ-〔名〕【茨菰慈姑】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「くわ-田烏子】〔名〕@オモダカ科の水生多年草。中国原産で、古くから各地の水田で栽培される。高さ九〇〜一二〇センチb。ほぼ球形で径三〜四センチbぐらいの葉を叢生する。秋、葉間から花茎をのばし、白色の三弁花を円錐状につける。地下茎は食用になり、その液汁は、やけどに効くという。漢名、慈姑。しろぐわい。ごわい。学名はSagittaria trifolia var. edulis《季・春》A植物「くろぐわい(黒慈姑)」の古名」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
クハイ 如何、答烏芋トカケリ、クロハタヤキノ反、クワイヲクワイトイヘル也《『名語記』卷八の条》
 
 
2005年5月6日(金)曇り後雨。東京→世田谷(駒沢)
(ひし)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「飛」部に、「菱絲(ヒシイト)。菱紅(ヒシクレナイ)」の二語を収載するが、標記語「」の語は未収載にする。また補遺「草花」部にも未収載とする。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

隨躰可引之時以後之菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔至徳三年本〕

隨躰可引之時以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔宝徳三年本〕

隨躰可引之齋以後菓子者生栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔建部傳内本〕

之可時以後菓子者生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子枝椎(  シイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )野老(トコロ)零陵子(ヌカコ)テ‖御自愛( アイ)〔山田俊雄藏本〕

之可(ヒク)時以後菓子者()生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(エタシイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草隨御自愛ニ|意之〔経覺筆本〕

之可(トキ)以後菓子(クワシ)()生栗(ナマクリ)搗栗(カチクリ)串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子( ナシ)枝椎(エタシ井)(ヒシ)田烏(クワ井)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )テ‖御自愛(コジアイ)ニ|可用之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「ひし」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

菱子(リヨウシ) ヒシ/鏡中輒筰。〔黒川本・植物門下87ウ一〕

菱子 ヒシ亦乍輒筰楊玄/作反菰首音/出陶景注音/騎亦乍音負猪鼻水栗皆垢二音已上四名出兼名苑/已上ヒシ。〔巻第十・植物門320三〜321一〕

とあって、標記語「菱子」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

(ヒシ) 角草也。〔草木門126一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(ヒシレウ)[○] 格物論陵也。生水中葉浮水茎(シ)。或四角。或三角。或紫。或青。肉白(クラフ)トモ甘脆熟シテ能飽人。異名水栗。紫角。尖角。穿萍並對。脂角。飜角。紫双了。釘頭。懐玉。雲銀。野。毛。。〔草木門1031二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は『下學集』とは全く異なっていて、典拠及び異名の語彙を掲げ実に詳細な記載となっている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

(ヒシ) 菱同。〔・草木門251五〕

(ヒシ) 角屮。〔・草木門215三〕〔・草木門200六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、永祿二年本尭空本の語注記は古写本『下學集』を継承する。また、易林本節用集』に、

(ヒシ)(同)レウ 。〔草木門224三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。但し、広本節用集』の語注記は、大いに異なっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

697(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛意之請暇(シンカ)病暇寮暇暫暇僧衆定浦山敷可思歟 浦山二字万雜也。莫クハ彼二也。〔謙堂文庫蔵五九右G〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(ヒシ)・田烏子(クワイ)・覆盆子(イチコ/フクホンシ)・百合草(ユリ)・零陵子(ヌカコ)、御自愛ニ|思歟汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ひし) 。中を安じ酒毒(しゆとく)を解(げ)す。多く食へハ陽気を損す。〔91オ八〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(とき)以後(いご)の菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしい)(ひし)田烏子(くハゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)御自愛(ごじあい)隨(したがつ)之(これ)用(もち)可()し/齋以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草御自愛▲菱ハ両角(ふたかと)あるものをいふ。四角(よつかど)あるを(き)といふ。水草(すいさう)の実(ミ)也。〔67オ五〜八、67ウ一〕

(とき)以後(いごの)菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほ なつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしひ)(ひし)田烏子(くわゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)(したがつて)御自愛(ごじあいに)(べし)(もちふ)(これを)▲菱ハ両角(ふたかと)あるものをいふ。其四角(よつかど)あるを(き)といふ。水草(すゐさう)の実(ミ)也。〔120ウ六、121オ四〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は「菱は、両角(ふたかと)あるものをいふ。四角(よつかど)あるを(き)といふ。水草(すいさう)の実(ミ)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fixi.ヒシ() 沼・池などの中に生ずる,ある草の実.〔邦訳252lr〕

とあって、標記語「」の語の意味は「沼・池などの中に生ずる,ある草の実」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【】〔緊(ひし)の意にて、鋭刺より云へるか、或は云ふ、鰭(ひれ)と通ずと〕(一){水草の名。池、沼などに自生し、根は、水底にありて、葉は、水面に叢生す、形平たく、蝶の翅の如く、厚くして光る。莖は長くして張れ、蛙の股の如し。夏、四辨の小白花を開く。實、形、三角なり、或は、四角、兩角にありて、堅刺、尖りて鋭し。秋、熟すればKく、仁、白く、食ふべし。實。倭名抄、十七7類「菱、比之」本草和名、下29「實、比之」字鏡52「、菱、比志」重修本草綱目啓蒙、廿二、水果類「實、ミズモグサ(古歌)、ヒシ、云云、ひしの葉は、七八葉排生して、水面に浮ぶ、夏月、四辨の黄白花を開く、大さ五分許あり、又、實の小なるを野菱とし、大なるを家菱とする説は隱ならず、この根を水田に栽て培養したるを家菱とし、野生のものを野菱とす」和漢三才圖會、九十一、水果類「菱、水栗、沙角、比之、無角者名三河菱、云云」應神紀、十三年九月「河股江の、比辭(ヒシ)殻の、刺しけく知らに」萬葉集、七23「君がため、うきぬの池の、菱(ひし)とると、我がそめし袖、ぬれにけるかも」、十六28「豐國の、きくの池なる、菱(ひし)のうれを、つむとや妹が、御袖ぬれけむ」夫木集、九、菱「船ばたを、たたくもさびし、宵の閧ノ、ひし取る船や、江に歸るらん」上下の角は鈍く、左右の角は鋭し。斜角。これを種種の模樣、又は、紋所などに用ゐて、幸菱(さいはひびし)、花菱、劔菱、松皮(まつかは)菱、武田菱など云ふ。各條に註す。〔1661-4〕

とあって、標記語「-〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-】〔名〕@ヒシ科の水生一年草。各地の池沼に生える。前年泥中に落ちた果実から芽を出して長い茎を水面にのばし、先端に菱状三角形の葉を多数放射状につける。葉柄は中空でふくれ、浮袋の役割をする。夏、葉腋から出た柄の先に小さな白い四弁花が咲く。果実は扁平で横長のほぼ菱形で両側に鋭いとげがあり、中に一個の種子が含まれる。種子は多肉質の子葉をもち食用になる。漢名、。学名はTrapa japonica《季・夏》A植物「はまびし(浜菱)」の異名。B武器の一種。刺股(さすまた)状の刃に長い柄をつけたもの。C鉄製で菱の実の形をして、先端をとがらせたとげをつけたもの。戦場や河中に立て、また、まきちらして、敵の進攻を妨げるのに用いる。→鉄菱。D()漁具の一つ。柄の先に二股の鉄の刃をつけたもので、魚を突き刺して捕らえる道具。F「ひしぬい(菱縫)」の略」G「ひしがた(菱形)の略」Hとがった角をもつ崖。菱根(ひしね)。I盗人仲間の隠語。イ窃盗犯をいう。〔隠語輯覧(1915)〕ロ昼間の空き巣ねらいをいう。〔特殊語百科辞典(1931)〕」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
菱子(ヒシ ) 説文云菱音陵比之。秦謂之輒筰皆后二音。楚謂之音波。《十卷本『倭名類聚抄』卷九16オ》
 
 
2005年5月5日(木)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
枝椎(えだしゐ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「江」部に、標記語「枝椎」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

隨躰可引之時以後之菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔至徳三年本〕

隨躰可引之時以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔宝徳三年本〕

隨躰可引之齋以後菓子者生栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔建部傳内本〕

之可時以後菓子者生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子枝椎(  シイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )野老(トコロ)零陵子(ヌカコ)テ‖御自愛( アイ)〔山田俊雄藏本〕

之可(ヒク)時以後菓子者()生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(エタシイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草隨御自愛ニ|意之〔経覺筆本〕

之可(トキ)以後菓子(クワシ)()生栗(ナマクリ)搗栗(カチクリ)串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子( ナシ)枝椎(エタシ井)(ヒシ)田烏(クワ井)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )テ‖御自愛(コジアイ)ニ|可用之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「枝椎」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「(えだ)しい」、経覺筆本に「えたしい」、文明四年本に「えたしゐ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「枝椎」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「枝椎」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「枝椎」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、広本節用集』の語注記は、大いに異なっている。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

696隨之可之時以後之菓子者生栗(イケクリ)搗栗(カチ―)串柿熟柿(―クシ)干棗(―ナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(ヱタシイ)胡桃(クルミ) 生北土。今陜洛間、多有之。大株厚葉多陰、實亦外有皮包之。胡桃乃核中桃為胡桃内秋冬熟時採之。外青皮染髪及帛黒、其樹皮可褐也云々。〔謙堂文庫蔵五九右E〕

とあって、標記語「枝椎」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎胡桃汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「枝椎の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

枝椎(ゑたしい)枝椎 性あしくして人に益なし。くらふへからす。〔91オ七・八〕

とあって、この標記語「枝椎」の語を収載し、語注記は上記の如く記載していて註釈書のなかでも唯一の語注記の記載となっている。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(とき)以後(いご)の菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしい)菱(ひし)田烏子(くハゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)御自愛(ごじあい)隨(したがつ)之(これ)用(もち)可()し/齋以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草御自愛〔67オ五〜八〕

(とき)以後(いごの)菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほ なつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしひ)(ひし)田烏子(くわゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)(したがつて)御自愛(ごじあいに)(べし)(もちふ)(これを)〔120ウ六〕

とあって、標記語「枝椎」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「枝椎」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「えだ-しゐ〔名〕【枝椎】」の語は未収載にする。現代の『日本国語大辞典』第二版においても、標記語「えだ-しい枝椎】〔名〕」は未収載にあって、依って『庭訓徃來』の語用例は未記載となっている。
[ことばの実際]
 
 
2005年5月4日(水)晴れ。東京→世田谷(神保町→駒沢)
花梨子(はななし)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、標記語「花梨子」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

隨躰可引之時以後之菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔至徳三年本〕

隨躰可引之時以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔宝徳三年本〕

隨躰可引之齋以後菓子者生栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔建部傳内本〕

之可時以後菓子者生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子枝椎(  シイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )野老(トコロ)零陵子(ヌカコ)テ‖御自愛( アイ)〔山田俊雄藏本〕

之可(ヒク)時以後菓子者()生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(エタシイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草隨御自愛ニ|意之〔経覺筆本〕

之可(トキ)以後菓子(クワシ)()生栗(ナマクリ)搗栗(カチクリ)串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子( ナシ)枝椎(エタシ井)(ヒシ)田烏(クワ井)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )テ‖御自愛(コジアイ)ニ|可用之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「花梨子」と表記し、訓みは経覺筆本に「はななし」、文明四年本に「(はな)なし」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「花梨子」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「花梨子」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「花梨子」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

696隨之可之時以後之菓子者生栗(イケクリ)搗栗(カチ―)串柿熟柿(―クシ)干棗(―ナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(ヱタシイ)胡桃(クルミ) 生北土。今陜洛間、多有之。大株厚葉多陰、實亦外有皮包之。胡桃乃核中桃為胡桃内秋冬熟時採之。外青皮染髪及帛黒、其樹皮可褐也云々。〔謙堂文庫蔵五九右E〕

とあって、標記語「花梨子」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎胡桃汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「花梨子の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

花梨子(はななし)花梨子 梨の品いろ/\あり。性大寒(たいかん)なり。実熱の人ハ是を食すへし。虚冷(きよれい)の人はくらふへからす。〔91オ六・七〕

とあって、この標記語「花梨子」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(とき)以後(いご)の菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしい)菱(ひし)田烏子(くハゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)御自愛(ごじあい)隨(したがつ)之(これ)用(もち)可()し/齋以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草御自愛〔67オ五〜八〕

(とき)以後(いごの)菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほ なつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしひ)(ひし)田烏子(くわゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)(したがつて)御自愛(ごじあいに)(べし)(もちふ)(これを)〔120ウ六〕

とあって、標記語「花梨子」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「花梨子」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「はな-なし〔名〕【花梨子】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「はな-なし花梨子】〔名〕」は未収載にあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載となっている。
[ことばの実際]
 
 
2005年5月3日(火)晴れ。伊豆高原→東京
干棗(ほしなつめ)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、標記語「干棗」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

隨躰可引之時以後之菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔至徳三年本〕

隨躰可引之時以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔宝徳三年本〕

隨躰可引之齋以後菓子者生栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔建部傳内本〕

之可時以後菓子者生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子枝椎(  シイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )野老(トコロ)零陵子(ヌカコ)テ‖御自愛( アイ)〔山田俊雄藏本〕

之可(ヒク)時以後菓子者()生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(エタシイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草隨御自愛ニ|意之〔経覺筆本〕

之可(トキ)以後菓子(クワシ)()生栗(ナマクリ)搗栗(カチクリ)串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子( ナシ)枝椎(エタシ井)(ヒシ)田烏(クワ井)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )テ‖御自愛(コジアイ)ニ|可用之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「干棗」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「ほしなつめ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「干棗」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「干棗」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「干棗」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

696隨之可之時以後之菓子者生栗(イケクリ)搗栗(カチ―)串柿熟柿(―クシ)干棗(―ナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(ヱタシイ)胡桃(クルミ) 生北土。今陜洛間、多有之。大株厚葉多陰、實亦外有皮包之。胡桃乃核中桃為胡桃内秋冬熟時採之。外青皮染髪及帛黒、其樹皮可褐也云々。〔謙堂文庫蔵五九右E〕

とあって、標記語「干棗」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎胡桃汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「干棗の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)熟柿干棗 生にて食すれは脾(ひ)(ゐ)を傷(やぶ)り、乾して食すれは脾胃を調(とゝの)ふ。〔91オ五・六〕

とあって、この標記語「干棗」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(とき)以後(いご)の菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしい)菱(ひし)田烏子(くハゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)御自愛(ごじあい)隨(したがつ)之(これ)用(もち)可()し/齋以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草御自愛〔67オ五〜八〕

(とき)以後(いごの)菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほ なつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしひ)(ひし)田烏子(くわゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)(したがつて)御自愛(ごじあいに)(べし)(もちふ)(これを)〔120ウ六〕

とあって、標記語「干棗」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「干棗」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ほし-なつめ〔名〕【干棗】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ほし-なつめ干棗乾棗】〔名〕棗の実を干してかわかしたもの。*延喜式(927)三九・内膳司「干棗子、生栗子」*宇津保物語(970-999頃)蔵開中「しろかねむすび袋に、信濃梨・ほしなつめなど入れて」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年5月2日(月)晴れ。東京→東伊豆(河津→伊豆高原)
熟柿(じゆくし)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

熟柿(ジユクシ) 。〔元亀二年本315三〕

熟柿(シユクシ) 。〔静嘉堂本370一〕

とあって、標記語「熟柿」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

隨躰可引之時以後之菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔至徳三年本〕

隨躰可引之時以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔宝徳三年本〕

隨躰可引之齋以後菓子者生栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔建部傳内本〕

之可時以後菓子者生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子枝椎(  シイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )野老(トコロ)零陵子(ヌカコ)テ‖御自愛( アイ)〔山田俊雄藏本〕

之可(ヒク)時以後菓子者()生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(エタシイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草隨御自愛ニ|意之〔経覺筆本〕

之可(トキ)以後菓子(クワシ)()生栗(ナマクリ)搗栗(カチクリ)串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子( ナシ)枝椎(エタシ井)(ヒシ)田烏(クワ井)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )テ‖御自愛(コジアイ)ニ|可用之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「熟柿」と表記し、訓みは経覺筆本・文明四年本に「シユクシ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「熟柿」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「熟柿」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

(ジクシ) 。〔草木門207六〕

とあって、標記語「熟柿」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、『運歩色葉集』そして、易林本節用集』に標記語「熟柿」の語を収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

696隨之可之時以後之菓子者生栗(イケクリ)搗栗(カチ―)串柿熟柿(―クシ)干棗(―ナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(ヱタシイ)胡桃(クルミ) 生北土。今陜洛間、多有之。大株厚葉多陰、實亦外有皮包之。胡桃乃核中桃為胡桃内秋冬熟時採之。外青皮染髪及帛黒、其樹皮可褐也云々。〔謙堂文庫蔵五九右E〕

とあって、標記語「熟柿」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎胡桃汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「熟柿の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)熟柿干棗 生にて食すれは脾(ひ)(ゐ)を傷(やぶ)り、乾して食すれは脾胃を調(とゝの)ふ。〔91オ五・六〕

とあって、この標記語「熟柿」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(とき)以後(いご)の菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしい)菱(ひし)田烏子(くハゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)御自愛(ごじあい)隨(したがつ)之(これ)用(もち)可()し/齋以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草御自愛▲熟柿ハよく熟たる柿也。〔67オ六、67ウ一〕

(とき)以後(いごの)菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほ なつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしひ)(ひし)田烏子(くわゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)(したがつて)御自愛(ごじあいに)(べし)(もちふ)(これを)▲熟柿ハよく熟たる柿也。〔121オ一、121オ四〕

とあって、標記語「熟柿」の語をもって収載し、その語注記は「熟柿は、よく熟たる柿なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iucuxi.ジュクシ(熟柿) 非常に良く熟した柿.※原文はFigos de Iapa~o.〔邦訳371lr〕

とあって、標記語「熟柿」の語の意味は「非常に良く熟した柿」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

じゅく-〔名〕【熟柿】よく、うるみたる柿。きざはし。きざがき。ずくし。狂言記、成上物「澁柿が、熟柿に成り上がります」伊曾保物語(文禄)「身が賞翫せうと思切って居た、其熟柿をば」〔990-4〕

とあって、標記語「じゅく-〔名〕【熟柿】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「じゅく-熟柿】〔名〕熟した柿。よく熟して柔らかくなった柿。きざわし。ずくし。じゆくしがき。《季・秋》」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
熟柿折一合、以伊勢肥前守之《『蔭凉軒日録』寛正六年(1465)十一月三日の条》
 
 
2005年5月1日(日)晴れ午後曇り。東京→世田谷(駒沢)
串柿(くしがき)」
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、

串柿(クシガキ) 。〔元亀二年本189七〕

串柿(クシカキ) 。〔静嘉堂本213五〕〔天正十七年本中36オ五〕

とあって、標記語「串柿」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十月日の状に、

隨躰可引之時以後之菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔至徳三年本〕

隨躰可引之時以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔宝徳三年本〕

隨躰可引之齋以後菓子者生栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎菱田烏子覆盆子百合草隨御自愛可用之〔建部傳内本〕

之可時以後菓子者生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子枝椎(  シイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )野老(トコロ)零陵子(ヌカコ)テ‖御自愛( アイ)〔山田俊雄藏本〕

之可(ヒク)時以後菓子者()生栗(ナマクリ)搗栗(カチ  )串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(エタシイ)(ヒシ)田烏子(クワイ)覆盆子(イチコ)百合草隨御自愛ニ|意之〔経覺筆本〕

之可(トキ)以後菓子(クワシ)()生栗(ナマクリ)搗栗(カチクリ)串柿(クシカキ)熟柿(シユクシ)干棗(ホシナツメ)花梨子( ナシ)枝椎(エタシ井)(ヒシ)田烏(クワ井)覆盆子(イチコ)百合草(ユリ )テ‖御自愛(コジアイ)ニ|可用之〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「串柿」と表記し、訓みは経覺筆本・文明四年本に「くしかき」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「串柿」の語は、未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「串柿」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(クシガキクワン、―)[去・○] 。〔飲食門503七〕

とあって、標記語「串柿」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

串柿(クシガキ) 。〔・食物門160四〕

とあって、弘治二年本だけに標記語「串柿」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

(クシカキ) 。〔衣服門131二〕

とあって、標記語「」の語を以て収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「串柿」「」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

696隨之可之時以後之菓子者生栗(イケクリ)搗栗(カチ―)串柿熟柿(―クシ)干棗(―ナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(ヱタシイ)胡桃(クルミ) 生北土。今陜洛間、多有之。大株厚葉多陰、實亦外有皮包之。胡桃乃核中桃為胡桃内秋冬熟時採之。外青皮染髪及帛黒、其樹皮可褐也云々。〔謙堂文庫蔵五九右E〕

とあって、標記語「串柿」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎胡桃汁菜(シルサイ)(イツ)レモ雪林菜(せツリンサイ)(ユキ)アヘトテ有(アン)也。食事(シヨクジ)ハ皆人ノ御存(ゴゾンシ)也。〔下35ウ四〜36オ一〕

とあって、標記語「串柿の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

串柿(くしがき)串柿 柿数品(すひん)ありといへとも皆性寒(かん)なり。熱(ねつ)を去り渇(かわき)を止め身を湿(うるほ)し腹を渋(しぶ)らす。聲枯たるを治し反胃(ほんゐ)を治す。〔91オ四・五〕

とあって、この標記語「串柿」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(とき)以後(いご)の菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほしなつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしい)菱(ひし)田烏子(くハゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)御自愛(ごじあい)隨(したがつ)之(これ)用(もち)可()し/齋以後菓子者生栗搗栗串柿熟柿干棗花梨子枝椎田烏子覆盆子百合草御自愛〔67オ五〜八〕

(とき)以後(いごの)菓子(くハし)()生栗(なまぐり)檮栗(かちぐり)串柿(くしがき)熟柿(じゆくし)干棗(ほ なつめ)花梨子(はななし)枝椎(えだしひ)(ひし)田烏子(くわゐ)覆盆子(いちご)百合草(ゆり)零陵子(むかご)(したがつて)御自愛(ごじあいに)(べし)(もちふ)(これを)〔120ウ六〕

とあって、標記語「串柿」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Cuxigaqi.クシガキ(串柿) 干し柿.※原文はFigos passados.〔邦訳176lr〕

とあって、標記語「串柿」の語の意味は「干し柿」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

くし-がき〔名〕【串柿】晒柿(さらしがき)の、竹串に貫きたるもの、安藝の西條柿(さいでうがき)、名あり。康頼本草、上59「、クシガキ」〔521-3〕

とあって、標記語「くし-がき〔名〕【串柿】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「くし-がき串柿】〔名〕@渋柿の皮をむき、竹や木の串に刺して干したもの。ほしがき。ころがき。《季・秋》」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
《『醒睡笑』六の条》
 
 

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