2005年06月01日から06月30日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 
 
 
 
 
2005年6月30日(木)雨のち晴れ。東京→世田谷(駒沢)
疾齒(やみは・むしくひは)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「無」部に、

齲齒(ムシクイバ)〔元亀二年本176四〕

齲歯(ムシクイバ)〔静嘉堂本196八〕

齲歯(ムシクイハ)〔天正十七年本中28オ三〕

とあって、標記語「齲歯」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、経覺筆本は「病齒」とし、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・文明四年本は、「疾齒」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「ムシクヒハ」、経覺筆本・文明四年本に「ヤミハ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

(ク)ムシカメハ〔黒川本・人躰門中43ウ二〕

〔卷第五・人躰門113六〕

とあって、標記語「齲齒」の語を収載し、訓みは「むしかめは」と記載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「疾齒」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

齲齒(ムシクヒバ) 〔支躰門114三・天理図書館本上57ウ三〕

とあって、標記語「齲齒」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「疾齒」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

711(コ/キヤ)咳病(ガイ―)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如形見知候歟癲狂(テンカラ)癩病(ライ―)傷寒 過ルヲ三日傷寒(カン)ト云。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「疾齒」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(キヤクヘイ)咳病(ガイビヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如(カタノ)見知(ミシリ)ハ。オコリ日マぜニ混(ヲコ)リテフルフ事也。傳送(テンソウ)ノ靈神付給フナリ。〔下37オ四・五〕

とあって、標記語「疾齒の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

疾齒(やミハ)疾齒 歯のわつらひなり。〔93ウ三〕

とあって、この標記語「疾齒」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲疾歯ハ牙歯(きばハ)のなやミ也。熱(ねつ)により虚(きよ)によつて発(おこ)る。〔69オ三、69ウ一〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)▲疾歯ハ牙歯(きばハ)のなやミ也。熱(ねつ)により虚(きよ)によつて發る。〔123ウ六、124オ六〕

とあって、標記語「疾齒」の語をもって収載し、その語注記は「疾歯は、牙歯(きばハ)のなやミなり。熱(ねつ)により虚(きよ)によつて発(おこ)る」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yamiba.ヤミバ(疾齒) 歯の病気.〔邦訳809r〕

とあって、標記語「疾齒」の語の意味は「歯の病気」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

むしくひ-〔名〕【蟲喰齒】むしば(齲齒)に同じ。増補下學集、上、支體門「齲齒、ムシカメハ、ムシクヒハ沙石集、七、上、第五條「南都に齒取唐人ありき、云云、蟲の食ひたる齒を取らせんとて、唐人が許へゆきぬ、齒一つ取るには、錢二文に定めたるを、一文にてとりてたべといふ」〔4-546-1〕

とあって、標記語「むしくひ-〔名〕【蟲喰齒】」の語を収載するに留まる。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「やみ-病齒】〔名〕(「やみば」とも)」病氣になっている歯。また、その病気。庭訓往来(1394-1428頃)「此間持病再発<略>疾歯・膜等」撮壤集(1454)「病歯ヤミハ」*日葡辞書(1603-04)「Yamiba(ヤミバ)<訳>歯の疾病」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。また、『大言海』のように、標記語「むしくい-虫食歯】〔名〕「むしば(虫歯)」に同じ」と収載する。
[ことばの実際]
 
 
2005年6月29日(水)雨のち曇り。東京→世田谷(駒沢)
咳病(ガイビヤウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

咳病(カイビヤウ)〔元亀二年本92七〕

(ガイ)〔静嘉堂本114七〕

(カイ)〔天正十七年本上56八〕

とあって、標記語「咳病」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「咳病」と表記し、訓みは経覺筆本に「カイヘイ」、文明四年本に「カイヒヤウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「咳病」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

咳病(ガイビヤウ) 〔態藝門76七〕

とあって、標記語「咳病」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

咳病(ガイビヤウ/―、ヘイ・ヤマイ)[○・去] 。〔支體門266七〕

とあって、標記語「咳病」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

咳病(ガイビヤウ) ・支體門79二〕

咳病(ガイビヤウ) ―氣(ケ)・支体門78七〕

(カイ) ―気・支体門71三〕

咳病(ガイビヤウ) ―気・支体門85三〕

とあって、標記語「咳病」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

咳病(ガイビヤウ) 〔人倫門71三・天理図書館本上36オ三〕

とあって、標記語「咳病」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「咳病」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

711(コ/キヤ)咳病(ガイ―)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如形見知候歟癲狂(テンカラ)癩病(ライ―)傷寒 過ルヲ三日傷寒(カン)ト云。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「咳病」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(キヤクヘイ)咳病(ガイビヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如(カタノ)見知(ミシリ)ハ。オコリ日マぜニ混(ヲコ)リテフルフ事也。傳送(テンソウ)ノ靈神付給フナリ。〔下37オ四・五〕

とあって、標記語「咳病の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

咳病(がいひやう)咳病 せきの出る病ひ也。〔93ウ3〕

とあって、この標記語「咳病」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲咳病ハ俗にいふせき也。肺気(はいけ)外邪(ぐわいじや)に傷(やぶ)られて発(おこ)る所。〔69オ二、69オ八〜ウ一〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)▲咳病ハ俗にいふせき也。肺気(はいけ)外邪(くわいじや)に傷られて発(おこ)る所。〔124オ一、124ウ三・四〕

とあって、標記語「咳病」の語をもって収載し、その語注記は「咳病は、俗にいふせきなり。肺気(はいけ)外邪(ぐわいじや)に傷(やぶ)られて発(おこ)る所」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Gaibio<.ガイビャウ(咳病) Xiuabuqino yamai.(咳の病)気管支カタル.§Gaibio<uo vocosu.(咳病を起す)気管支カタルを病み始める.§Gaibio<uo vazzuro<.(咳病を煩ふ) 気管支カタルにかかっている.〔邦訳291l〕

とあって、標記語「咳病」の語の意味は「Xiuabuqino yamai.(咳の病)気管支カタル」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「がい-びャう〔名〕【咳病】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「がい-びょう咳病】〔名〕咳(せき)の出る病気。しわぶきやみ。咳疾。御堂関白記-長保元年(999)三月二〇日「戌時許有御書、有内御悩気者、即馳参、殊事不御、御咳病耳」*後二条師通記−永長元年(1096)九月二六日「数日咳病重、八九日宜侍、依無力侍、不能参入」*今昔物語集(1120頃か)二七・一一「天下(てんが)に咳病盛りに(おこり)て」*文明本節用集(室町中)「咳病 ガイビヤウ」日葡辞書(1603-4)「Gaibio<(ガイビャウ)。シワブキノ ヤマイ<訳>Gaibio<uo(ガイビャウヲ)ヲコス<略>Gaibio<uo(ガイビャウヲ)ワヅラウ」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
將軍家、有御咳病氣近日此事、流布都鄙貴賎、不遁〈云云〉《訓み下し》将軍家、御咳病(ガイビヤウケ)有リ。近日此ノ事、流布ス。都鄙ノ貴賎、遁レズト〈云云〉。《『吾妻鑑』安貞二年九月二十三日の条》
 
 
2005年6月28日(火)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
(ギャヘイ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「幾」部に、

×〔元亀二年本、語脱落〕

(ギヤヘイ)〔静嘉堂本326八〕

とあって、標記語「瘧病」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「ギヤク/ヲコリ(ヘイ)」、経覺筆本・文明四年本に「キヤヘイ」と記載する。 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

疾病分〔黒川本・畳字門下50ウ四〕

とあって、三卷本に標記語「」の語を収載する。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、標記語「」の語は未収載にする。次に印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

(キヤ)ヲコリ(ヘイ) ・支体門183二〕〔・支体門172五〕

とあって、永祿二年本尭空本に標記語「瘧病」の語を収載する。また、易林本節用集』には、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、『運歩色葉集』と永祿二年本・尭空本節用集』とに標記語「瘧病」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

711(コ/キヤ)咳病(ガイ―)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如形見知候歟癲狂(テンカラ)癩病(ライ―)傷寒 過ルヲ三日傷寒(カン)ト云。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(キヤクヘイ)咳病(ガイビヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如(カタノ)見知(ミシリ)ハ。オコリ日マぜニ混(ヲコ)リテフルフ事也。傳送(テンソウ)ノ靈神付給フナリ。〔下37オ四・五〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ぎやくびやう) おこり乃事なり。〔93ウ二〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲瘧病ハ俗におこりといふ。外(ほか)風湿(ふうしつ)に感(かん)じ内飲食(うちいんしよく)に傷(やぶ)られて發(はつ)す。〔69オ二、69オ八〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)▲瘧病ハ俗におこりといふ。外(ほか)風湿(ふうしつ)に感(かん)じ内飲食(うちいんしよく)に傷(やぶ)られて發す。〔124オ一、124ウ三〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は「瘧病は、俗におこりといふ。外(ほか)風湿(ふうしつ)に感(かん)じ内飲食(うちいんしよく)に傷(やぶ)られて發(はつ)す」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ぎゃく-へい〔名〕【】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ぎゃく-へい瘧病】〔名〕(「へい」は「病」の漢音)「ぎゃく(瘧)」に同じ。医心方(984)一四・一三「瘧病多種各不同形」*小右記-寛弘九年(1012)六月八日「今暁度給御堂、縁瘧病之疑者、今日可行啓」*中右記−寛治五年(1091)閏七月四日「太后今日夕自宇治入洛、依瘧病也」*色葉字類抄(1117-81)「瘧病キヤクヘイ ワラハヤミ 又エヤミ」慶長見聞集(1614)四「昔將軍頼光公ぎゃくへいを煩い給ふ」*歌舞伎・土蜘蛛(1881)「夏三伏の暑に破れ、秋寒冷の時に発す、元風湿の業にして、是れを瘧病(ギヤクヘイ)と申すなり」[補注]挙例の「医心方-一四・一三」に記され、温瘧・瘧?・労瘧・鬼瘧の五瘧が挙げられているが、間欠性熱病の総称と考えられる」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
參河守病悩、隔日令發、是瘧病〈云云〉《訓み下し》参河ノ守病悩、隔日ニ発ラシム。是レ瘧病(ギヤヘイ)ト〈云云〉。《『吾妻鑑』文治四年二月二十三日の条》
 
 
2005年6月27日(月)晴れ。北海道(常呂)→東京
腫物(シュモツ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

腫物(シユモツ)〔元亀二年本317九〕

腫物〔静嘉堂本373七〕

とあって、標記語「腫物」の語を収載するが、この語に対する語注記は『下學集』と同じく未記載にする。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「腫物」と表記し、訓みは経覺筆本・文明四年本に「シユモツ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「腫物」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

腫物(シユモツ) 〔態藝門77一〕

とあって、標記語「腫物」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

腫物(シユモツシユウブツ・ハレモノ)[去・入] 。〔態藝門923四〕

とあって、標記語「腫物」の語を収載し、『下學集』と同じく語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

腫物(シユモツ) ・支体門201一〕〔・支体門190二〕

とあって、永祿二年本尭空本に標記語「腫物」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

腫物(シユモツ) 〔支躰門206三・天理図書館本下36オ三〕

とあって、標記語「腫物」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「腫物」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。そして、真名注の「惣名」の語注記は上記古辞書には見えない。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

710内痔(―ジ/カンハラヲ云也)内癰々丁腫物 癰不上底破也。丁腫顕也。腫物惣名。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「腫物」の語を収載し、この語における語注記は、「腫物は、惣名」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

内癰(ナイヨウ)(チヤウ)(シユ)内癰(ヨウ)ハ。腹中ノ煩(ワツラ)ヒナリ。〔下37オ三・四〕

とあって、標記語「腫物の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

腫物(しゆもつ)腫物 はれものと訓す。〔93オ七〕

とあって、この標記語「腫物」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲腫物ハはれものと訓(くん)ず。膿汁(うミしる)を含(ふく)む瘡類(かさるい)をすべていふ。〔69オ二、69オ八〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)▲腫物ハはれものと訓(くん)ず。膿汁(うミしる)を含(ふく)む瘡類(かさるい)をすべていふ。〔124オ一、124ウ二・三〕

とあって、標記語「腫物」の語をもって収載し、その語注記は「腫物は、はれものと訓(くん)ず。膿汁(うミしる)を含(ふく)む瘡類(かさるい)をすべていふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xumot.シュモツ(腫物) Faremono.(腫物)腫瘍,膿瘍,あるいは,腫れもの.〔邦訳801r〕

とあって、標記語「腫物」の語の意味は「Faremono.(腫物)腫瘍,膿瘍,あるいは,腫れもの」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しュ-もつ〔名〕【腫物】はれもの。瘡(かさ)。できもの。ふきでもの。腫瘍玉海、文治三年八月三日「二位中將腫物、今日加針、侍醫和氣時成候之」小右記、萬壽二年八月廿三日「相成云、院御肩頸閨A有腫物、御身熱振給、御心地不覺者、非腫物歟」古事談、三、僧行「相撲人、遠方勝、云云、俄に腫物出來、且可經御覽トテ、胸を掻出たりければ、乳上に、土器許、紫色にて、腫物出たり、苦痛し、無爲方、云云」〔2-826-2〕

とあって、標記語「しュ-もつ〔名〕【腫物】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しゅ-もつ腫物】〔名〕皮膚の一部分がはれて、中にうみなどをもったもの。はれもの。できもの。かさ。ふきでもの。しゅもの」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
伊豆國飛脚參申云、去六日戌剋入道遠江守、從五位下、平朝臣〈年七十八、〉於北條郡卒去日來煩腫物給〈云云〉《訓み下し》伊豆ノ国ノ飛脚参ジ申シテ云ク、去ヌル六日ノ戌ノ剋ニ入道遠江ノ守、従五位ノ下、平ノ朝臣〈年七十八、〉北条ノ郡ニ於テ卒去ス。日来(シユ)ヲ煩ヒ給フト〈云云〉。《『吾妻鑑』建保三年正月八日の条》
 
 
2005年6月26日(日)晴れ。北海道(湧別・佐呂間・常呂)サロマ湖100qウルトラマラソン
丁・(チヤウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「知」部に、

(ヂヤウ) 上腫。〔元亀二年本70八〕

(チヤウ) 上腫。〔静嘉堂本84四〕〔天正十七年本上41ウ六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記に「上腫」と記載していて、下記に示す真名注の注記文の抄句となっている。このことは、真名注本から『運歩色葉集』が引用継承しているその関係を証明しているその一つの事例といえる。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、建部傳内本・山田俊雄藏本は「」、至徳三年本・宝徳三年本・経覺筆本・文明四年本は、「」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「ヲ([テ])ウ」、文明四年本に「チヤウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、標記語「」「」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

(チヤウ) 〔支躰門50一・天理本上25ウ一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、『運歩色葉集』と易林本節用集』に標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。とりわけ、『運歩色葉集』は継承関係を示していることは、上記用例のところで付載した通りである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

710内痔(―ジ/カンハラヲ云也)内癰腫物 癰不上底破也。腫顕也。腫物惣名。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語における語注記は、「は、腫れ顕るなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

内癰(ナイヨウ)(チヤウ)(シユ)内癰(ヨウ)ハ。腹中ノ煩(ワツラ)ヒナリ。〔下37オ三・四〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(てう) 是もあしき腫物(しゆもつ)なり。其形ちびやうのときゆへ丁と云。丁ハびやうの事也。〔93ウ一〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲ハ面(かほ)手足(てあし)などに生ずる瘡(かさ)也。〔69オ二、69オ七〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)ハ面(かほ)手足(てあし)などに生ずる瘡(かさ)也。〔124オ一、124ウ二〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は「は、面(かほ)手足(てあし)などに生ずる瘡(かさ)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ちャう〔名〕【】腫物の名。面部に發するを面(メンチヤウ)と云ひて、疼痛劇甚にして、?、惡寒(ヲカン)、發熱を伴ひ、極めて險症なるものとす。。(俗に、癰(ヨウ)と混じ誤る)倭名抄、三12瘡類「、或作」〔3-339-3〕

とあって、標記語「ちゃう〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ちょう】〔名〕皮膚の汗腺(かんせん)や皮脂腺などから、化膿(かのう)菌ことにブドウ球菌が侵入して皮膚や皮下結合組織中に生じる、急性で悪性のはれもの。赤く空豆(そらまめ)大にはれ上がり、非常に痛み、悪寒発熱をともなう。顔面にできたものを面疔という。疔瘡(ちょうそう)」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
典薬頭和気定成参上、依召也、令見姫御前身、聊赤小瘡出之故也、申云非疱瘡、依温気出来熱気也、所労之体、気相交、但不及殊大事歟云々、《『玉葉治承五年二月七日の条》
 
 
2005年6月25日(土)晴れ。北海道(湧別・常呂)
(ヨウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「与」部に、標記語「」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「ヤウ」、文明四年本に「ヨウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

(井ヨウ) ヱウ〔黒川本・人躰門下85ウ一〕

とあって、三卷本に標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、標記語「」の語は未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

(ヨウ) 病/疽・支体門91三〕

とあって、弘治二年本に標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

(ヨウ) 〔人倫門85五・天理本上43オ五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

710内痔(―ジ/カンハラヲ云也)内癰腫物 癰不上底破也。丁腫顕也。腫物惣名。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

内癰(ナイヨウ)(チヤウ)(シユ)内癰(ヨウ)ハ。腹中ノ煩(ワツラ)ヒナリ。〔下37オ三・四〕

とあって、標記語「内癰の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

内癰(ないよう)内癰 ハあしき腫物(しゆもつ)也。腹中へ出來たるを内癰といふ。〔93ウ一〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲内癰ハ六腑(ろくふ)(くハ)せさるより發(おこ)る毒強(どくつよ)き腫物(しゆもつ)也。胸(むね)(はら)(せ)などに生(しやう)ず。〔69オ二、69オ七〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)内癰ハ六腑(ろくふ)(くハ)せさるより發(おこ)る毒強(どくつよ)き腫物(しゆもつ)也。胸(むね)(はら)(せ)などに生ず。〔124オ一、124ウ一〕

とあって、標記語「内癰」の語をもって収載し、その語注記は「内癰は、六腑(ろくふ)(くハ)せさるより發(おこ)る毒強(どくつよ)き腫物(しゆもつ)なり。胸(むね)(はら)(せ)などに生(しやう)ず」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Yo>.ヨウ() 癰,すなわち,背中にできる腫物.例,Yo>-ga deqita.(癰が出来た)〔邦訳822r〕

とあって、標記語「」の語の意味は「癰,すなわち,背中にできる腫物」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

よう〔名〕【】瘡の名。其状、皮の上、薄くして光澤あり、大抵、肩胛(かいがね)の閨A頸窩(ぼんのくぼ)、背、などに發す、甚だ危き腫物とす。瘡。(俗、これをと誤る)又同種に、疽(そ)と云ふあり、上の皮、固くして牛項の皮の如く、初、輕く見えて、毒更に深く、遲く膿みて、筋骨まで腐る。治し難し。倭名抄、三、13瘡類「(ヨウ)、氣壅結而不潰也」唐書、孝友傳、序「張士嚴、云云、母病、士嚴吮血」〔2080-4〕

とあって、標記語「よう〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「よう】〔名〕皮膚にある隣接した多くの毛嚢が化膿したもの。首すじ、背部に多く発生する。かたく赤く腫(は)れあがり、痛みが激しい。(せつ)の密生したもの。癰瘡」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 釋名云―於容反俗云去声氣壅結而不潰也。《高松宮旧蔵・十卷本『倭名類聚抄』卷第二本文40オ五》
 
 
2005年6月24日(金)晴れ。東京→北海道(女満別→湧別・常呂)
(ナイセウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「那」部に、標記語「」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本は「」、宝徳三年本は「内消」、建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は「」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「(ナイ)ヨウ」、経覺筆本に「(ナイ)セウ」、文明四年本に「ナイセウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、姓氏「」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

710内痔(―ジ/カンハラヲ云也)内癰々丁腫物 癰不上底破也。丁腫顕也。腫物惣名。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「」の語は未収載にする。

 古版庭訓徃来註』でも標記語「の語は未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈標記語「」の語は未収載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ない-せう〔名〕【】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にあっても、標記語「ない-しょう】〔名〕」は未収載にあって、依って『庭訓徃來』のこの語用例も未記載となる。
[ことばの実際]
 
 
2005年6月23日(木)曇り。東京→世田谷(駒沢)
内痔(ナイヂ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「那」部に、

内痔(チ)〔元亀二年本165四〕〔静嘉堂本183四〕〔天正十七年本中22オ七〕

とあって、標記語「内痔」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「内痔」と表記し、訓みは文明四年本に「寮」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「内痔」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「内痔」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、唯一『運歩色葉集』に標記語「内痔」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

710内痔(―ジ/カンハラヲ云也)内癰々丁腫物 癰不上底破也。丁腫顕也。腫物惣名。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「内痔」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

内痔(チ)ハ尻(シリ)ノ煩(ワツ)ラヒナリ。〔下37オ三〕

とあって、標記語「内痔の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

内痔(ナイヂ)内痔 痔は尻の病也。内痔は内にて痛む病也。〔93オ八〜ウ一〕

とあって、この標記語「内痔」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲内痔ハ五痔(ぢ)の一ッ也。肛門(こうもん)の内(うち)に瘡(かさ)を生(しやう)ずる病。〔69オ二、69オ七〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)▲内痔ハ五痔(ぢ)の一ッ也。肛門(かうもん)の内に瘡(かさ)を生(しやう)ずる病。〔123ウ六、124ウ一〕

とあって、標記語「内痔」の語をもって収載し、その語注記は「内痔は、五痔(ぢ)の一ッなり。肛門(こうもん)の内(うち)に瘡(かさ)を生(しやう)ずる病」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Naigi.ナイヂ(内痔) 痔疾の一種.〔邦訳443r〕

とあって、標記語「内痔」の語の意味は「痔疾の一種」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ない-〔名〕【内痔】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ない-(ヂ)内痔】〔名〕痔疾の一つ。肛門内部に疾患の生じるもの。庭訓往來(1394-1428頃)「赤痢、内痔運歩色葉集(1548)「内痔 ナイジ」日葡辞書(1603-04)「Naigi(ナイヂ)<訳>痔の一種」*滑稽本・八笑人(1820-49)二・下「何々あるじでも内痔(ナイヂ)でも用捨はねへ」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
 
 
2005年6月22日(水)雨のち曇り。東京→世田谷(駒沢)
赤痢(シヤクリ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、「赤口(シヤククウ)太―。赤脚(シヤツキヤク)…赤熊(シヤグマ)。…赤鬘(同)」の語を収載するのみで、標記語「赤痢」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「赤痢」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「(シャク)リ」、文明四年本に「シヤクリ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「赤痢」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

赤痢(シヤクリ) 〔態藝門77三〕

とあって、標記語「赤痢」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

赤痢(シヤクリアカシ、ハラノヤマイ)[入・去] ――白痢共腹(ハラノ)病也。〔態藝門923三〕

とあって、標記語「赤痢」の語を収載し、語注記に「赤痢・白痢共に腹の病なり」と記載する。印度本系統の永祿二年本・尭空本節用集』には、

赤痢(シヤクリ)アカイハラ・支体門201二〕

赤痢(シヤクリ) 白―・支体門190三〕

醫方(イホウ) ―書。―道。―療。―術/―骨。―家(ケ)。〔・言語門7六〕

とあって、弘治二年本永祿二年本に標記語「赤痢」の語を収載し、両足院本は「醫方」の熟語群に収載する。また、易林本節用集』に、

赤痢(シヤクリ)(ビヤク)〔支躰門206四・天理図書館蔵下36オ四〕

とあって、標記語「赤痢」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「赤痢」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

709此邊輩者脚気中風上氣頭風-(リ)-(ヨウ) 痩病。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「赤痢」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

上氣頭(ツ)風荒痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)上氣ハ風ノ心地にて目マフナリ。〔下37オ二・三〕

とあって、標記語「赤痢の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

赤痢(セキリ)赤痢 黄痢つのり肉とけてくたるゆへ色赤(あか)し。よつて赤痢と云。〔93オ八〕

とあって、この標記語「赤痢」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。黄痢ハ未考。赤痢ハあかはらといふ血(ち)に属(ぞく)す。共に痢病(りびやう)也。湿熱(しつねつ)食積(しよくしやく)によつて發す。〔69オ一・二、69オ六・七〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)▲黄痢ハ未考。赤痢ハあかはらといふ血(ち)に属(そく)す。共に痢病(り )也。濕熱(しつねつ)食積(しよくしやく)によつて發す。〔123ウ六、124オ六〜ウ一〕

とあって、標記語「赤痢」の語をもって収載し、その語注記は「赤痢は、あかはらといふ血(ち)に属(ぞく)す。共に痢病(りびやう)なり。湿熱(しつねつ)食積(しよくしやく)によつて發す」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xacuri.シャクリ(赤痢) 血便の出る下痢.¶Xacurino vazzurai.(赤痢の煩ひ)この下痢の病気.文書語.→Biacuri.〔邦訳741r〕

とあって、標記語「赤痢」の語の意味は「血便の出る下痢」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しゃく-〔名〕【赤痢】せきり(赤痢)に同じ。其條を見よ。〔2-783-4〕

せき-〔名〕【赤痢】せきりびゃう(赤痢病)の條を見よ。庭訓徃來、十一月「黄痢、赤痢」〔3-049-3〕

せきり-びゃう〔名〕【赤痢病】赤痢菌のために、烈しく下痢して、飴状の排泄物の出づる、一種の傳染病。腹痛を起し、便通、多くなりて、量、少なく、初は、粘液、次に、血液、次に、濃汁の如き便となりて、澁る。重きは一時閨A二三囘、下痢を催す。しゃくり。赤痢。吾妻鏡、四十九、文應元年八月七日「將軍家煩赤痢御」〔3-049-4〕

とあって、標記語「せき-〔名〕【赤痢】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しゃく-赤痢】〔名〕(「しゃく」は「赤」の呉音)「せきり(赤痢)」に同じ」→「せき-赤痢】〔名〕赤痢菌に依って起こる急性消化器系伝染病。血液、粘液、うみの混じった下痢便が何度も出て、腹痛・しぶり腹と熱を訴える。潜伏期は一〜四日。ふつう細菌性赤痢をいい、日本では少ないがアメーバ赤痢と呼ぶ。感染症法では二類感染症に分類される。しゃくり。赤痢病。《季・夏》」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を見出し語「しゃくり」に記載する。
[ことばの実際]
晩景、將軍家、赤痢病氣、御座時長、廣長等朝臣、爲御療治祗候《訓み下し》晩景ニ、将軍家、赤痢(シヤクリビヤウ)ノ気、御座ス。時長、広長等ノ朝臣、御療治ノ為ニ祗候ス。《『吾妻鑑』寛元元年五月二十八日の条》
 
 
2005年6月21日(火)晴れ。東京→神田→世田谷(駒沢)
黄痢(クワウリ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、

荒痢(リ)〔元亀二年本193一〕〔静嘉堂本218四〕〔天正十七年本中38ウ五〕

とあって、標記語「荒痢」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、宝徳三年本・建部傳内本・経覺筆本は「荒痢」と表記し、至徳三年本・山田俊雄藏本・文明四年本は「黄痢」と表記する。訓みは山田俊雄藏本・文明四年本に「クワウリ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「黄痢」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

荒痢(クワウリ) 〔態藝門77二〕

とあって、標記語「荒痢」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

荒痢(クワウリアルヽ、ハラノヤマイ)[平去・去] 。〔態藝門535一〕

とあって、標記語「荒痢」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

荒痢(クハウリ) ・支体門129五〕

荒凉(クワウリヤウ) ―言。―説。―廢/―痢。―野。〔・言語門120八〕

荒凉(クワウリヤウ) ―言(ゲン)。―説。―廢/―痢。―野。〔・支体門146七〕

とあって、永祿二年本に標記語「黄痢」の語を収載し、尭空本両足院本は「荒凉」の熟語群に収載する。また、易林本節用集』に、

黄痢(クワウリ) 赤―白―〔支體門129四・天理図書館蔵上65オ四〕

とあって、標記語「黄痢」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、上記に示した多くが標記語「荒痢」の語を収載しているなかで、易林本節用集』には標記語「黄痢」の語が収載され、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

709此邊輩者脚気中風上氣頭風-()-(ヨウ) 痩病。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「黄痢」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

上氣頭(ツ)荒痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)上氣ハ風ノ心地にて目マフナリ。〔下37オ二・三〕

とあって、標記語「荒痢の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

黄痢(づふう)黄痢 頭にふく毒(とく)を交たる病也。〔93オ七〕

とあって、この標記語「黄痢」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲黄痢ハ未考。赤痢ハあかはらといふ血(ち)に属(ぞく)す。共に痢病(りびやう)也。湿熱(しつねつ)食積(しよくしやく)によつて發す。〔69オ一・二、69オ六・七〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)▲黄痢ハ未考。赤痢ハあかはらといふ血(ち)に属(そく)す。共に痢病(り )也。濕熱(しつねつ)食積(しよくしやく)によつて發す。〔123ウ六、124オ六〜ウ一〕

とあって、標記語「黄痢」の語をもって収載し、その語注記は「黄痢は、未考」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「荒痢黄痢」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「くわう-〔名〕【黄痢】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「こう-荒痢黄痢】〔名〕はげしい下痢。ひどいはらくだり。園太暦-貞和五年(1349)七月八日「先日退出以後荒痢に披取籠候て以外候」*元和本下學集(1617)「荒痢クヮウリ」([辞書]のなかで、易林本の所収を見落としている)」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年6月20日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
頭風(ヅフウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「津」部に、

頭風(フウ)〔元亀二年本157八〕〔天正十七年本中18オ二〕

頭風(ヅフウ)〔静嘉堂本173一〕

とあって、標記語「頭風」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣(ツ)荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「頭風」と表記し、訓みは経覺筆本に「ツ(フウ)」、文明四年本に「ヅフウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「頭風」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「頭風」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

頭風(ヅフウ/カブリ・カシラ、カぜ)[平・平] 。〔態藝門414三〕

とあって、標記語「頭風」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

頭風(フウ) ・支体門126五〕

とあって、弘治二年本だけに標記語「頭風」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

頭痛(ヅツウ) ―頂(チヤウ)―然(ネン)(ネツ)―上(ジヤウ)―風(フウ)―目(モク)〔支体門103三・天理図書館蔵上52オ三〕

とあって、標記語「頭痛」の熟語群として「頭風」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「頭風」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

709此邊輩者脚気中風上氣頭風-(リ)-(ヨウ) 痩病。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「頭風」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

上氣(ツ)荒痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)上氣ハ風ノ心地にて目マフナリ。〔下37オ二・三〕

とあって、標記語「頭風の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

頭風(づふう)頭風 頭にふく毒(とく)を交たる病也。〔93オ七〕

とあって、この標記語「頭風」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲頭風ハ頭痛(づつう)の凝(こ)る所もと逆上(のぼせ)より發す。〔69オ一、69オ六〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)▲頭風ハ頭痛(づつう)の凝(こ)る所もと逆上(のぼせ)より發す。〔123ウ六、124オ六〕

とあって、標記語「頭風」の語をもって収載し、その語注記は「頭風は、頭痛(づつう)の凝(こ)る所もと逆上(のぼせ)より發す」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Zzufu<.ヅフウ(頭風) 寒さがもとで起こる,ある種の頭の病気.¶Zzufu<ga vocotta.(頭風が起こった)私にこの病気が起こった.〔邦訳845r〕

とあって、標記語「頭風」の語の意味は「寒さがもとで起こる,ある種の頭の病気」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-ふう〔名〕【頭風】づつう(頭痛)に同じ。倭名抄(一本)病類「頭風、加之良以太木也万比、俗云、豆封」名義抄頭風、ヅフウ」庭訓徃來、十一月「脚氣、中風、上氣、頭風〔3-420-3〕

とあって、標記語「-ふう〔名〕【頭風】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-頭風】〔名〕「ずつう(頭痛)」に同じ。→ずふう(頭風)」、「-ふう頭風】〔名〕「ずつう(頭痛)」に同じ。[補注]「医方撰要」(日本医学史所収)に「頭風と頭痛とはその痛の深浅によりて之を別つなり」とある」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
自執筆右大弁之許、送書状云、昨日御定趣、雖頭風記尚不慥、可注給一紙云々、仍如形注送了、書雖不当、近代作法云々《『玉葉』仁安三年十二月卅日の条》
 
 
2005年6月19日(日)晴れ。東京→世田谷(玉川→駒沢)
上氣(ジヤウキ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

上氣(キ)〔元亀二年本314四〕〔静嘉堂本368六〕

とあって、標記語「上氣」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「上氣」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・文明四年本に「(ジヤウ)キ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「上氣」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「上氣」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、『運歩色葉集』だけに標記語「上氣」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

709此邊輩者脚気中風上氣頭風黄-(リ)-痢内(ヨウ) 痩病。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「上氣」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

上氣(ツ)風荒痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)上氣ハ風ノ心地にて目マフナリ。〔下37オ二・三〕

とあって、標記語「上氣の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

上氣(じやうき)上氣 のぼせの事也。〔93オ六・七〕

とあって、この標記語「上氣」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲上気ハ気血(きけつ)逆上(ぎやくじやう)するをいふ。のぼせ也。〔69オ一、69オ六〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)▲上気ハ気血(きげつ)逆上(ぎやくじやう)するをいふ。のぼせ也。〔123ウ六、124オ五・六〕

とあって、標記語「上氣」の語をもって収載し、その語注記は「上氣は、気血(きけつ)逆上(ぎやくじやう)するをいふ。のぼせなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Io<qi.ジャウキ(上氣) Qiga agaru.(気が上がる)血や体液が頭にのぼること.例,Io<qi xita,l,suru.(上気した,または,する)〔邦訳369l〕

とあって、標記語「上氣」の語の意味は「Qiga agaru.(気が上がる)血や体液が頭にのぼること」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

じゃう-〔名〕【上氣】(一)逆上(のぼせ)上衝孕盤常(正コ、近松作)四「喰ひつくやら、抱きつくやら、頭は上氣の、濃い紅葉」(二)狂氣。〔961-4〕

とあって、標記語「じゃう-〔名〕【上氣】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「じょう-上氣】〔名〕@頭に血がのぼってぼうっとすること。のぼせること。逆上。A精神状態が尋常でなくなること」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
早々可致参一目国慮、頭痛以之外候而遅々仕候、炙仕候へハ即上気下り申候、後刻可参候、恐惶しかと 《『吉川家文書別集』(年月未詳)十四日の条265・3/213》
 
 
2005年6月18日(土)晴れ。東京→大阪→兵庫(武庫川)
中風(チウフウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「知」部に、

中風(フ)〔元亀二年本64一〕

中風〔静嘉堂本74四〕〔天正十七年本上37ウ二〕

とあって、標記語「中風」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「中風」と表記し、訓みは文明四年本に「(チュウ)フ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「中風」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、標記語「中風」の語は未収載にする。印度本系統の永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、

中風(チウブ) ・支体門51六〕〔・支体門46六〕

中風(チウブウ) ・支体門54八〕

とあって、『運歩色葉集』及び永祿二年本・尭空本・両足院本に標記語「中風」の語を収載する。また、易林本節用集』は、標記語「中風」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、印度本系統『節用集』に標記語「中風」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

709此邊輩者脚気中風上氣頭風黄-(リ)-痢内(ヨウ) 痩病。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「中風」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

脚氣(カツケ)中風トハコレヒサアシノ病也。中風ノワザナリ。〔下37オ二〕

とあって、標記語「中風の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

中風(ちうぶ)中風 卒中の事也。〔93オ六〕

とあって、この標記語「中風」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲中風ハ虚(きよ)する所ありて發(はつ)すしびるゝ病也。〔69オ一、69オ五・六〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)▲中風ハ虚(きよ)する所ありて發すしびるゝ病也。〔123ウ五・六、124オ五〕

とあって、標記語「中風」の語をもって収載し、その語注記は「中風は、虚(きよ)する所ありて發すしびるゝ病なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Chu'bu.チュウフウ(中風) 中風.¶Chubuuo vazzuro<,l,yamu.(中風を煩ふ,または,病む)中風の病気にかかっている.→Fanjin.〔邦訳129r〕

とあって、標記語「中風」の語の意味は「中風」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ちゅう-〔名〕【中風】次條の語に同じ。〔3-362-3〕

ちゅう-ぶう〔名〕【中風】〔惡風に中(あた)りて發する病の意〕病の名。身體の一部、或は、半身の、麻痺(しび)れて、功用(はたらき)の止むもの。(腦溢血(ナウイツケツ)の條を見よ)。莊子達生篇「中身當心、則爲病」注「猶醫書中風中暑是也」古今著聞集、七、能書「中風して手わななきて、手跡も異やうに成りにけり」吾妻鏡、五十一、弘長三年十月八日「和泉前司行方、此闢虫。之處、俄以煩中風所勞」〔3-362-3〕

とあって、標記語「ちゅう-〔名〕【中風】」→「ちゅう-ぶう〔名〕【中風】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ちゅう-ふう中風】〔名〕(「ちゅうぶう」「ちゅうぶ」とも)@脳卒中発作の後で現れる半身不随のこと。運動神経の大脳皮質よりの下降路の部分に脳血管障害が起きたための症状。脳出血または脳梗塞によることが多い。中気。中症。ちゅうぶ。A(「かぜ」に中(あた)る意)かぜをひくこと。かぜひき。風邪。感冒。ちゅうぶ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
未尅、前駿河守正五位下、平朝臣義村卒頓死大中風〈云云〉《訓み下し》未ノ剋ニ、前ノ駿河ノ守正五位ノ下、平ノ朝臣義村卒ス。頓死。大中風(チウブ)ト〈云云〉。《『吾妻鑑』延応元年十二月五日の条》
 
 
2005年6月17日(金)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
脚氣(カツケ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

(カクノキ)〔元亀二年本96二〕

脚氣(カツケ)〔静嘉堂本117三〕〔天正十七年本上57ウ六〕

とあって、標記語「脚氣」の語を収載する。ただし、元龜本は「(カクノキ)」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「脚氣」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「カツケ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

脚氣 〔黒川本・畳字門〕

脚力 〃病〃氣〔卷第四・畳字門275四〕

とあって、標記語「脚気」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

脚氣(カツケ) 〔態藝門78六〕

とあって、標記語「脚氣」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、標記語「脚気」の語は未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、

脚氣(カツケ)・支体門79二〕

脚氣(カツケ) ・支体門78七〕〔・支体門71三〕〔・支体門85三〕

とあって、標記語「脚気」の語を収載する。語注記は弘治二年本に「病」とだけ記載する。また、易林本節用集』に、

脚気(カツケ) 〔人倫門71三・天理図書館蔵上36オ三〕

とあって、標記語「脚気」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「脚氣」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

709此邊輩者脚気中風上氣頭風黄-(リ)-痢内(ヨウ) 痩病。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「脚気」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

脚氣(カツケ)中風トハコレヒサアシノ病也。中風ノワザナリ。〔下37オ二〕

とあって、標記語「脚氣の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

脚氣(かつけ)脚氣 足の病也。〔93オ六〕

とあって、この標記語「脚氣」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲脚気ハ外邪(ぐわいしや)湿熱(しつねつ)によつて發(はつ)す脚(あし)いたむ病也。〔69オ一、69オ五〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)▲脚気ハ外邪(ぐわいじや)湿熱(しつねつ)によつて發(はつ)す脚(あし)いたむ病也。〔123ウ四、124オ四〕

とあって、標記語「脚氣」の語をもって収載し、その語注記は「脚気は、外邪(ぐわいじや)湿熱(しつねつ)によつて發(はつ)す脚(あし)いたむ病なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Cacqe.カッケ(脚気) 足や脚部,その他四肢の,corrimentosのような病気.※Moraisその他の葡語辞典によれば,corrimentoは,人体のある部分を流れる体液の意であるが,Academiaその他の西語辞典によれば,人体のある器官に体液が病的に鬱積することの意で,十六世紀以来用いられて来た.本条ではその意であろうか.なお,本書の別条Subiqi,u;Sugiqe;Tcigiの諸条には,corrimentoをリューマチの意で用いているが,当時はリューマチも体液の作用によって生じる病気と考えられていたことに基づくものか.なお,本条のcorrimentoを日仏辞書にcrampe(けいれん)としているのは穏当でない.〔邦訳74r〕

とあって、標記語「脚気」の語の意味は「」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かっ-〔名〕【脚氣】かくけの條を見よ。〔2-644-2〕

かく-〔名〕【脚氣】古言、あしのけ。脚病(カクビヤウ)。脚(あし)に麻痺を感じ、水腫(すゐき)をおこす病。水腫なきを、空虚(から)(乾)脚氣(カクケ)と云ふ、重きは衝心(シヨウシン)す。撮壤集、下、痼疾「脚氣(カツケ)、アシ」〔2-597-3〕

とあって、標記語「かっ-〔名〕【脚氣】」→「かく-〔名〕【脚氣】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「かっ-脚気】〔名〕@足の感覚が麻痺したり、脛(すね)にむくみができる病気。ビタミンB1の欠乏により起こる。全身や足がだるくなり、疲れやすくなる。あしのけ。脚病。江戸わずらい。かけ。脚気症。《季・夏》A乞食をいう。盗人仲間の隠語。〔隠語輯覧(1915)[補注]昔から難病とされ、藤原定家の持病であったことは有名。江戸時代、享保年間(1716-36)に江戸で大流行し、箱根山を越えると治るとされたところから「江戸わずらい」と呼ばれたりした」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
北條殿、令煩脚氣給仍爲相勞之今暁被下向伊豆國北條、於彼所、可有御越年〈云云〉《訓み下し》北条殿、脚気(カツケ)ヲ煩ハシメ給フ。仍テ之ヲ相ヒ労ハラン為ニ、今暁伊豆ノ国北条ニ下向セラレ、彼ノ所ニ於テ、御越年有ルベシト〈云云〉。《『吾妻鑑』建久二年閏十二月二日の条》
 
 
2005年6月16日(木)曇り小雨模様。東京→世田谷(駒沢)
此邊(このへん)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、標記語「此邊」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「此邊」と表記記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「此邊」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「此邊」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、姓氏「此邊」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

709此邊輩者脚気中風上氣頭風-(リ)-(ヨウ) 痩病。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「此邊」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

術治養生之達者殊大切之亊候此邊候輩(トモカラ)術治ハ。マシナヒナヲス事也。瘧霍(キヤククハク)乱等ノ類也。祈(イノ)リ祭(マツ)ル事ナリ。〔下37オ二〕

とあって、標記語「此邊の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(この)(へん)に候輩(ともから)此辺候輩者 秦氏(はだうぢ)の近所(きんしよ)に居る医者を云。〔93オ五・六〕

とあって、この標記語「此邊」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。〔69オ一〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)。〔123ウ四〕

とあって、標記語「此邊」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「此邊」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「この-へん〔名〕【此邊】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「この-へん此邊】〔名〕」は未収載にあって、依って『庭訓徃來』のこの語用例は未記載となる。
[ことばの実際]
就中此邊者、本國近鄰也〈云云〉《訓み下し》中ニ就キテ(カ)ノ辺(ヘン)ハ、本国近隣ナリト〈云云〉。《『吾妻鑑』文治五年七月二十八日の条》
 
 
2005年6月15日(水)雨。東京→世田谷(駒沢)
術治(ジュツチ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、「術計(ジユツケイ)。術者(シヤ)」の二語を収載するだけで、標記語「術治」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

針治湯治養生之達者殊大切事候〔至徳三年本〕

針治湯治術治養性之達者殊大切之事候〔宝徳三年本〕

針治湯治術治養生之達者殊大切也〔建部傳内本〕

(シン)治湯治(シユツ)養生之(ノ)達者殊大切候也〔山田俊雄藏本〕

針治(シンチ)湯治術治(シユツチ)養生之達者(タツシヤ)大切事候〔経覺筆本〕

針治(シムチ)湯治術治(シユツチ)養生之達(タツ)者殊大切之事候〔文明四年本〕※養性(ヤウシヤウ)。殊(コトニ)

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「術治」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「ジユツ(チ)」、経覺筆本・文明四年本に「ジユツチ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「術治」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「術治」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、姓氏「術治」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

708針治湯治術治養生之達者大切之亊候 養生法、可座伸一-脚一脚、以兩手ロニ反掣各可三五度。亦跪シテ兩手(サヽヘ)回-顧シテ力虎視ルコト各三五度能去脾臓積風邪食也。〔謙堂文庫蔵六〇左@〕

とあって、標記語「術治」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

術治(シユツチ)養生之達(タツ)者殊大切之事候擧達(キヨタツ)トハ知ヨト云心ナリ。〔下36ウ八〕

とあって、標記語「術治の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

術治(じゆつ )術治 医術を以て病を治(なを)す也。〔93オ三〕

とあって、この標記語「術治」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

針治(しんぢ)湯治(とうぢ)術治(じゆつち)養生(ようじやう)(の)達者(たつしや)(こと)に大切(たいせつ)に候(さふら)針治湯治術治養生之達者殊大切之亊候▲術治ハ呪法(まじない)を以て病を禁(いまし)むる也。〔68ウ八、68ウ五〕

針治湯治術治養生之達者殊大切之亊候▲術治ハ呪法(まじなひ)を以て病を禁(いまし)むる也。〔123ウ四、124オ四〕

とあって、標記語「術治」の語をもって収載し、その語注記は「術治は、呪法(まじない)を以て病を禁(いまし)むるなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「術治」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

じゅつ-〔名〕【術治】まじなふこと。庭訓徃來、十一月「針治、湯治、術治、養生之達者、殊大切事候」〔3-815-2〕

とあって、標記語「じゅつ-〔名〕【術治】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「じゅつ-〔名〕【術知術治】わざと知恵。術策と才知。また、はかりごとをめぐらす知恵。知恵のあるはかりごと。知術」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年6月14日(火)曇り薄晴れ。東京→世田谷(駒沢)→高田馬場
湯治(タウヂ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

湯治(タウヂ)〔元亀二年本135四〕

(タウ)〔静嘉堂本142四〕

湯治(タウチ) 〔天正十七年本中3オ八〕

とあって、標記語「湯治」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

針治湯治述治養生之達者殊大切事候〔至徳三年本〕

針治湯治術治養性之達者殊大切之事候〔宝徳三年本〕

針治湯治術治養生之達者殊大切也〔建部傳内本〕

(シン)湯治(シユツ)治養生之(ノ)達者殊大切候也〔山田俊雄藏本〕

針治(シンチ)湯治術治(シユツチ)養生之達者(タツシヤ)大切事候〔経覺筆本〕

針治(シムチ)湯治術治(シユツチ)養生之達(タツ)者殊大切之事候〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「湯治」と表記記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

湯治 同(醫方部)/タウチ〔黒川本・畳字門中9ウ七〕

湯沐タウモク 〃治。〃薬〔卷第四・畳字門447二〕

とあって、標記語「湯治」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「湯治」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

湯治(タウヂ/ユ、ヲサムル)[平・平] 。〔態藝門366五〕

とあって、標記語「湯治」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、

湯治(タウヂ) ・言語進退門108四〕〔・言語門95一〕〔・言語門105三〕

湯治(タウチ) ・言語門86八〕

とあって、標記語「湯治」の語を収載収載する。また、易林本節用集』に、

湯治(タウヂ) ―藥(ヤク)〔言語門93二〕

とあって、標記語「湯治」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「湯治」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

708針治湯治術治養生之達者大切之亊候 養生法、可座伸一-脚一脚、以兩手ロニ反掣各可三五度。亦跪シテ兩手(サヽヘ)回-顧シテ力虎視ルコト各三五度能去脾臓積風邪食也。〔謙堂文庫蔵六〇左@〕

とあって、標記語「湯治」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

挙達(キヨタツせ)候也針治(シンヂ)湯治(ダウヂ)擧達(キヨタツ)トハ知ヨト云心ナリ。〔下36ウ八〕

とあって、標記語「湯治の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

湯治(たうぢ)湯治 藥湯に入りて療治するなり。〔93オ三〕

とあって、この標記語「湯治」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

針治(しんぢ)湯治(とうぢ)術治(じゆつち)養生(ようじやう)(の)達者(たつしや)(こと)に大切(たいせつ)に候(さふら)針治湯治術治養生之達者殊大切之亊候▲針治ハ経絡(けいらく)兪穴(ゆけつ)に針(はり)を刺(さ)して病(やまひ)を治(ぢ)する也。〔68ウ八、68ウ四・五〕

針治湯治術治養生之達者殊大切之亊候▲針治ハ経絡(けいらく)兪穴(ゆけつ)に針を刺(さ)して病を治する也。〔123ウ四、124オ四〕

とあって、標記語「湯治」の語をもって収載し、その語注記は「湯治ハ経絡(けいらく)兪穴(ゆけつ)に針(はり)を刺(さ)して病(やまひ)を治(ぢ)するなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

To<gi.タゥヂ(湯治) すなわち,Yuni iru.(湯に入る)病気療養のために入浴すること,あるいは,温泉に入ること.〔邦訳657l〕

とあって、標記語「湯治」の語の意味は「すなわち,Yuni iru.(湯に入る)病気療養のために入浴すること,あるいは,温泉に入ること」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たう-〔名〕【湯治】(一)藥湯(くすりゆ)庭訓徃來、十一月「五木八草湯治風呂」(二)温泉に浴して、病を治すること。參考保元物語、下、爲朝生捕事「近江國或山寺に立寄り湯治しけるに」古今著聞集、二釋教「壺坂の僧正のもとに、湯治のために忍びて湯の刻限を待ち候ほどに」吾妻鏡、五十一、弘長三年十月八日「和泉前司行方、此湯治之處、俄以煩中風所勞」〔1195-3〕

とあって、標記語「たう-〔名〕【湯治】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「とう-〔名〕【湯治】@温泉、または薬草などを入れた風呂にはいって、病気を治療したり健康を回復したりすること。A盗人仲間の隠語。イ刑務所にはいることをいう。ロ板の間かせぎをいう」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
和泉前司行方、此間湯治之處、俄以煩中風所勞〈云云〉《訓み下し》和泉ノ前司行方、此ノ間湯治スルノ処ニ、俄ニ以テ中風ヲ煩ヒ所労ト〈云云〉。《『吾妻鑑』弘長三年十月八日の条》
 
 
2005年6月13日(月)曇り一時晴れ。東京→世田谷(駒沢)
針治(シンヂ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、標記語「針治」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

針治湯治述治養生之達者殊大切事候〔至徳三年本〕

針治湯治術治養性之達者殊大切之事候〔宝徳三年本〕

針治湯治術治養生之達者殊大切也〔建部傳内本〕

(シン)湯治術(シユツ)治養生之(ノ)達者殊大切候也〔山田俊雄藏本〕

針治(シンチ)湯治術治(シユツチ)養生之達者(タツシヤ)大切事候〔経覺筆本〕

針治(シムチ)湯治術治(シユツチ)養生之達(タツ)者殊大切之事候〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「針治」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「シン(ヂ)」、経覺筆本に「シンヂ」、文明四年本に「シムヂ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「針治」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「針治」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

診治(シンヂミヤクヲコヽロム、ヲサム)[○・平] 療治之義也。〔態藝門977四〕

とあって、同音異表記の標記語「診治」の語を収載するのみである。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、標記語「針治」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

針治(シンヂ) 〔言辞門217四・天理蔵下41ウ四

とあって、標記語「針治」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』に「針治」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

708針治湯治術治養生之達者大切之亊候 養生法、可座伸一-脚一脚、以兩手ロニ反掣各可三五度。亦跪シテ兩手(サヽヘ)回-顧シテ力虎視ルコト各三五度能去脾臓積風邪食也。〔謙堂文庫蔵六〇左@〕

とあって、標記語「針治」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

挙達(キヨタツせ)候也針治(シンヂ)湯治(ダウヂ)擧達(キヨタツ)トハ知ヨト云心ナリ。〔下36ウ八〕

とあって、標記語「針治の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

針治(しんぢ)針治 はりを打て病を責るなり。〔93オ二・三〕

とあって、この標記語「針治」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

針治(しんぢ)湯治(とうぢ)術治(じゆつち)養生(ようじやう)(の)達者(たつしや)(こと)に大切(たいせつ)に候(さふら)針治湯治術治養生之達者殊大切之亊候▲針治ハ経絡(けいらく)兪穴(ゆけつ)に針(はり)を刺(さ)して病(やまひ)を治(ぢ)する也。〔68ウ八、68ウ四・五〕

針治(しんぢ)湯治(とうぢ)術治(じゆつち)養生(ようじやう)(の)達者(たつしや)(ことに)大切(たいせつに)(さふらふ)▲針治ハ経絡(けいらく)兪穴(ゆけつ)に針を刺(さ)して病を治する也。〔123ウ四、124オ四〕

とあって、標記語「針治」の語をもって収載し、その語注記は「針治ハ経絡(けいらく)兪穴(ゆけつ)に針(はり)を刺(さ)して病(やまひ)を治(ぢ)するなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Xingi.シンヂ(鍼治) Fari,cususu.(鍼,くすす)ある病気に対して,日本のやり方に従って針を使うこと.〔邦訳770l〕

とあって、標記語「鍼治」の語の意味は「」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しん-〔名〕【鍼治】鍼(はり)を用ゐて、病を治むること。はり。(鍼の條を見よ)。〔3-731-3〕

とあって、標記語「しん-〔名〕【針治】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しん-〔名〕【針治】鍼(はり)による病気の治療。鍼療治(はりりょうじ)」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
 
 
2005年6月12日(日)晴れ。東京→世田谷(玉川→駒沢)
擧達(キヨタツ)ことばの溜め池(2003.12.04)を参照。
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「幾」部に、

×。〔元亀二年本は脱〕

擧達(キヨタツ)〔静嘉堂本327二〕〔天正十七年本中37オ七〕

とあって、標記語「擧達」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

施藥院寮有可然之仁者可被擧達候也〔至徳三年本〕

施藥院寮可然之仁候者可被擧達候也〔宝徳三年本〕

施藥院寮有可然者可被挙達〔建部傳内本〕

施藥院(レウ)然仁(せ)挙達(キヨタツ)〔山田俊雄藏本〕

施藥院(カミ)ラバ然之仁者可挙達(キヨタツ)〔経覺筆本〕

(せ)藥院(カミ)然之仁者可(せラル)挙達(キヨタツ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「擧達」と表記し、訓みは文明四年本に「寮」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

舉動 〃達卷第八・畳字門532二〕

とあって、標記語「舉動」の熟語群に「舉達」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「舉達」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

舉達(キヨタツアグル、イタル)[○・入] 。〔態藝門830四〕

とあって、標記語「舉達」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

(キヨタツ) ・言語進退門221七〕

(キヨシヤウ) ―達(タツ)・言語門184六〕〔・言語門174一〕

とあって、弘治二年本に標記語「擧達」の語を収載し、永祿二年本・尭空本は「(キヨシヤウ)」の熟語群に収載する。また、易林本節用集』に、

舉達(キヨタツ)(ジヤウ)〔天理蔵、言辞門下28オ六・549〕

とあって、標記語「舉達」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、姓氏「擧達」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

707施藥院寮挙達。 自聖武天王光明皇后起也。施藥之字心醫師ルニ、京七口ニシテ无-縁藥、然シテ、名上品薬師也。悲田院之建立天-下非人施行也云々。〔謙堂文庫蔵六〇右G〕

とあって、標記語「擧達」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

挙達(キヨタツせ)候也針治(シンヂ)湯治(ダウヂ)擧達(キヨタツ)トハ知ヨト云心ナリ。〔下36ウ八〕

とあって、標記語「擧達の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

挙達(きよたつ)せ被可也挙達施薬院ハ医者の多く集り居る所ゆへ上手の医者あらは合せ玉ハれとなり。〔93オ一・二〕

とあって、この標記語「擧達」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

施藥院(やくいん)の寮(れう)に然(しかる)る可(べ)き之(の)(じん)(あ)ら者(バ)挙達(きよだつ)ら被(る)(べ)く候(さふら)ふ也(なり)施藥院挙達▲施薬院ハいにしへ諸國(しよこく)の薬種(やくしゆ)を収(おさ)めよる所なき病者(ひやうしや)窮民(きうミん)を救(すく)ひ養(やしな)ひ給ハりし所也。人皇(にんわう)四十五代聖武(しやうむ)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)天平(てんびやう)二年始(はじめ)て南都(なんと)に建(たて)給ふ。平安城(へいあんじやう)(せんと)の後(のち)も猶(なを)(たて)てられたり。今東(ひがし)九條村(くでうむら)烏丸(からすまる)の北に施薬院森(やくいのもり)といふあり。即(すなハち)これ其舊地(きうち)也とぞ。但し施薬院ハ只(たゞ)やくゐんとハかり(よむ)むべし。是習(ならひ)なり。〔68ウ一、68ウ七〕

施藥院(やくゐんの)(れう)(あら)(べき)(しかる)(か)(しん)(ハ)(べく)(る)挙達(きよだつせら)(さふらふ)(なり)▲施薬院ハいにしへ諸國(しよこく)の薬種(やくしゆ)を収(おさ)めよる所なき病者(ひやうしや)窮民(きうミん)を救(すく)ひ養(やしな)ひ給ハりし所也。人皇(にんわう)四十五代聖武(しやうむ)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)天平(てんびやう)二年始(はじめ)て南都(なんと)に建(たて)給ふ。平安城(へいあんじやう)?都(せんと)の後(のち)も猶(なを)(たて)てられたり。今東(ひがし)九條村(くでうむら)烏丸(からすまる)の北に施薬院森(やくいのもり)といふあり。即(すなハち)これ其舊地(きうち)也とぞ。但し施薬院ハ只(たゞ)やくゐんとハかり(よむ)むべし。是習(ならひ)なり。〔123オ二、123ウ一〜三〕

とあって、標記語「擧達」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qiotat.キョタツ(擧達) Ague tassuru.(挙げ達する)ある事について許容したり,許可を与えたりすること.または,人に何事かを申し上げて提言する意で,尊敬した言い方.文書語.※この説明は,“許”と“挙”との混同に基づくものか.〔邦訳503l〕

とあって、標記語「擧達」の語の意味は「Ague tassuru.(挙げ達する)ある事について許容したり,許可を与えたりすること.または,人に何事かを申し上げて提言する意で,尊敬した言い方.文書語」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「きょ-たつ〔名〕【擧達】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「きょ-たつ擧達】〔名〕(「ぎょたつ」とも)@推挙によって栄達すること。推挙されて、地位や官職などがあがること。伊呂波字類抄(鎌倉)「挙達」*太平記(14C後)一三・足利殿東国下向事「若註進を経て、軍勢の忠否を奏聞せば、挙達(ギョタツ)道遠して、忠戦の輩勇を成す可からず」*尺素往来(1439-64)「為高官上位之故尤可請将軍之御挙達Aある事をとりあげて進達すること。目上の人に申し出たり許可を得たりすること。貴嶺問答(1185-90頃)「頗雖驚目事有効験挙達件」*太平記(14C後)二五・自伊勢進宝剣事「今夜の夢に伊勢の国より参て、此三日断食したる法師の申さんずる事を伝奏に挙達(キョタツ)せよと云示現を蒙て候」*庭訓往来(1394-1428頃)「寺社訴訟者、就本所挙達、被非之日葡辞書(1603-04)「Qiotat(キョタツ)。アゲ タッスル」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
其上依賀茂齊院成功、賜重遷、任宣旨、以此次可拝任尋常國之趣、内々望二品御擧達《訓み下し》其ノ上賀茂ノ斎院ノ成功ニ依テ、重遷ヲ賜ハル、宣旨ニ任セテ(重ネテ遷任ノ宣旨ヲ賜ハル)、此ノ次ヲ以テ尋常ノ国ヲ拝任スベキノ趣、内内二品ノ御(ゴ)挙達(キヨタツ)ヲ望ム。《『吾妻鑑』文治二年五月二日の条》
 
 
(ジン)」は、ことばの溜め池(2003.06.15)を参照。
 
2005年6月11日(土)曇り。東京→神田小川町→世田谷(駒沢)
(しかるべく)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

〔元亀二年本63九〕

〔静嘉堂本74二〕〔天正十七年本上37オ八〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

施藥院寮有可然者可被擧達候也〔至徳三年本〕

施藥院寮可然候者可被擧達候也〔宝徳三年本〕

施藥院寮有可然者可被挙達也〔建部傳内本〕

施藥院(レウ)(せ)挙達(キヨタツ)〔山田俊雄藏本〕

施藥院(カミ)ラバ者可挙達(キヨタツ)〔経覺筆本〕

(せ)藥院(カミ)者可(せラル)挙達(キヨタツ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「」と表記し、訓みは文明四年本に「寮」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(ベシ、シカル/、―)[上・○] 。〔態藝門952六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みは「しかるべし」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、標記語「」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』に「」の語を収載し、訓みは異なるがこれを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

707施藥院寮挙達。 自聖武天王ノ后光明皇后起也。施藥之字心醫師ルニ、京七口ニシテ无-縁藥、然シテ、名上品薬師也。悲田院之建立天-下非人施行也云々。〔謙堂文庫蔵六〇右G〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

施藥院(せヤクイン)(リヤウ)(アラ)然之者可(ラル)施藥院ノ寮トハ。施(ホト)コス醫(イ)ト云リ。此謂(イ )レハ。天下二人多(ヲヽ)キニ不肖(せウ)ノ者大病ヲ受(ウケ)テ大醫(タイイ)ノ藥ヲ望(ノゾ)メトモ。不レハ(カナハ)其爲(ソノタメ)上代ヨリ其醫料(イレウ)トシ。別ニ知行ヲ内裏(タイリ)ヨリ被下テ。藥伏(ヤクタイ)ナシニ彼(カノ)無力(ムリキ)ノ人ニ藥(クスリ)ヲアタヘラルヽ処ヲ以テ施藥院トハ申ナリ。〔下36ウ六〜八〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(しかる)る可(へき)(じん)(あら)ラハ医術にくわしきものをいふ。〔93オ一〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

施藥院(やくいん)の寮(れう)(しかる)る可(べ)(の)(じん)(あ)ら者(バ)、挙達(きよだつ)せら被(る)(べ)く候(さふら)ふ也(なり)施藥院挙達セラ。〔68ウ一〕

施藥院(やくゐんの)(れう)(あら)(べき)(しかる)(か)(しん)(ハ)(べく)(る)挙達(きよだつせら)(さふらふ)(なり)。〔123オ二〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「(しかるべき)」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しかる-べく〔副〕【可然】さやうなら。ならう事なら。よろしく。よしなに。適當に。「此の事件は、しかるべく願ひます」〔3-620-1〕

とあって、標記語「しかる-べく〔名〕【可然】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しかる-べく〔連語〕(動詞「しかりあり(然有)の連体形「しかる」に助動詞「べし」の連用形「べく」の付いたもの)@→「しかり(然有)」の子見出し「しかるべし」。A(現代語で、副詞的に用いる)適当に。いいように。よろしく」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
祇候關東之輩、以顯要之官職、恣兼帶、不可然可令辭之旨、被仰下〈云云〉《訓み下し》関東ニ祗候スルノ輩、顕要ノ官職ヲ以テ、恣ニ兼帯スルコト、然ルベカラズ。辞セシムベキノ旨、仰セ下サルト〈云云〉《『吾妻鑑』建久二年十月二十日の条》
 
 
2005年6月10日(金)曇りのち雨。東京→世田谷(駒沢)
(レウ・かみ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「禮」部に、

(レウ)〔元亀二年本151九〕〔静嘉堂本165四〕〔天正十七年本中14ウ二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

施藥院有可然之者可被擧達候也〔至徳三年本〕

施藥院可然之候者可被擧達候也〔宝徳三年本〕

施藥院有可然者可被挙達也〔建部傳内本〕

施藥院(レウ)(せ)挙達(キヨタツ)〔山田俊雄藏本〕

施藥院(カミ)ラバ然之者可挙達(キヨタツ)〔経覺筆本〕

(せ)藥院(カミ)然之者可(せラル)挙達(キヨタツ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「レウ」、経覺筆本・文明四年本に「カミ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

(レウ) 〔黒川本・官職門〕

〔卷第四・官職門521二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、標記語「」の語は未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

(レウ) ・天地門114四〕

とあって、弘治二年本に標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』に、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、印度本系統の弘治二年本節用集』に「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本は収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

707施藥院挙達。 自聖武天王ノ后光明皇后起也。施藥之字心醫師ルニ、京七口ニシテ无-縁藥、然シテ、名上品薬師也。悲田院之建立天-下非人施行也云々。〔謙堂文庫蔵六〇右G〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

施藥院(せヤクイン)(リヤウ)(アラ)然之者可(ラル)施藥院ノ寮トハ。施(ホト)コス醫(イ)ト云リ。此謂(イ )レハ。天下二人多(ヲヽ)キニ不肖(せウ)ノ者大病ヲ受(ウケ)テ大醫(タイイ)ノ藥ヲ望(ノゾ)メトモ。不レハ(カナハ)其爲(ソノタメ)上代ヨリ其醫料(イレウ)トシ。別ニ知行ヲ内裏(タイリ)ヨリ被下テ。藥伏(ヤクタイ)ナシニ彼(カノ)無力(ムリキ)ノ人ニ藥(クスリ)ヲアタヘラルヽ処ヲ以テ施藥院トハ申ナリ。〔下36ウ六〜八〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

施藥院(せやくゐん)(りやう)施藥院 此院ハ藤原家(ふじハらけ)の先祖(せんそ)(そうもん)して諸国の薬種(やくしゆ)を集め病者(ひやうしや)を養(やしな)ひよるへき者を此所にて養育(よういく)ありしなり。洛陽九条坊門(ほうもん)の南西洞院(にしのとい)の東にありたり。今の施薬院の枩といふハ此院の舊跡(きうせき)なり。〔92ウ七〜93オ一〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

施藥院(やくいん)(れう)に然(しかる)る可(べ)き之(の)(じん)(あ)ら者(バ)、挙達(きよだつ)せら被(る)(べ)く候(さふら)ふ也(なり)施藥院挙達セラ▲施薬院ハいにしへ諸國(しよこく)の薬種(やくしゆ)を収(おさ)めよる所なき病者(ひやうしや)窮民(きうミん)を救(すく)ひ養(やしな)ひ給ハりし所也。人皇(にんわう)四十五代聖武(しやうむ)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)天平(てんびやう)二年始(はじめ)て南都(なんと)に建(たて)給ふ。平安城(へいあんじやう)?都(せんと)の後(のち)も猶(なを)(たて)てられたり。今東(ひがし)九條村(くでうむら)烏丸(からすまる)の北に施薬院森(やくいのもり)といふあり。即(すなハち)これ其舊地(きうち)也とぞ。但し施薬院ハ只(たゞ)やくゐんとハかり(よむ)むべし。是習(ならひ)なり。〔68ウ一、68ウ七〕

施藥院(やくゐんの)(れう)(あら)(べき)(しかる)(か)(しん)(ハ)(べく)(る)挙達(きよだつせら)(さふらふ)(なり)▲施薬院ハいにしへ諸國(しよこく)の薬種(やくしゆ)を収(おさ)めよる所なき病者(ひやうしや)窮民(きうミん)を救(すく)ひ養(やしな)ひ給ハりし所也。人皇(にんわう)四十五代聖武(しやうむ)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)天平(てんびやう)二年始(はじめ)て南都(なんと)に建(たて)給ふ。平安城(へいあんじやう)?都(せんと)の後(のち)も猶(なを)(たて)てられたり。今東(ひがし)九條村(くでうむら)烏丸(からすまる)の北に施薬院森(やくいのもり)といふあり。即(すなハち)これ其舊地(きうち)也とぞ。但し施薬院ハ只(たゞ)やくゐんとハかり(よむ)むべし。是習(ならひ)なり。〔123オ二、123ウ一〜三〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Reo<.レャウ() Feya.(部屋)部屋.※原文はCubiculo.小部屋,または,寝室の意.→Rio<(寮).〔邦訳529r〕

とあって、標記語「」の語の意味は「部屋」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

れう-〔名〕【】(一)昔、省(シヤウ)の被官のつかさの稱。四等の官は、頭(かみ)、助(すけ)、允(じよう)、屬(さくわん)なり。故實拾要、十三、諸寮「是諸とは八省の被官也、はつかさと讀て、八省の職の内を分て掌之也」「大學」玄蕃」圖書(二)學校、寺院、などにて、學生の寄宿する所。續傳燈録、一、葉縣省禪師章「師因去將息病僧(三)茶寮。すきや。かこひ。和爾雅、二、居處門「茶、俗云数奇屋(四)別莊。〔1899-2〕

とあって、標記語「れう-〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「れう-〔名〕【】@役所。官司。特に、令制で、多く省に属し、職(しき)より下位、司(し)より上位に位置する官司。四等官として、頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)を置く。允に大・少のあるものとないものによって、さらに二種に分けられる。この名称は明治以後の官制にも使用されたが、明治一八年(一八八五)の内閣制度実施以後は、宮内省の部局名としてのみ用いられ、昭和二四年(一九四九)に廃止された。Aおもに禅宗で、僧の住む寺内の建物。また、その部屋。修行する堂と区別された。寮舎。B僧が寄宿して自宗の学業を修学する道場。室町時代末から江戸時代にかけて、多く一宗一派の宗徒を集めて入寮させたもの。談所(だんしょ)。談林。学林。学寮。C部屋。居室。D江戸時代、幕府の学問所、藩の学校、私塾などで、学生が寄宿して学問する所。寄宿寮。居寮(きょりょう)。学問寮。学寮。E明治以降の学校や会社・商店などで、学生や従業員などのために設ける共同の宿舎。寄宿寮。F茶室。数寄屋(すきや)。茶寮(ちゃりょう)。また、茶室の名目で造った江戸の富裕町人の別宅や下屋敷。控えの家。隠居所。妾宅などに用いた。G遊女屋の別宅。かかえの遊女の療養・保養、また、遊芸のしこみなどの用にあてた」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
備後國歌嶋家清、乍爲地頭自大炊、妨之〈云云〉付、可有其催也《訓み下し》備後ノ国歌島家清、地頭タリナガラ。大炊ノ(レウ)ヨリ、之ヲ妨グルト〈云云〉。(レウ)ニ付イテ、其ノ催シ有ルベキナリ。《『吾妻鑑建久元年四月十九日の条》
 
 
施薬院(セヤク井ン)」は、ことばの溜め池(2000.12.4)を参照。
 
2005年6月9日(木)曇り。東京→世田谷(駒沢)
(あひがたし)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「阿」部に、標記語「」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

和氣丹波之典薬曽以難逢〔至徳三年本〕

和氣丹波之典藥曾以難逢〔宝徳三年本〕

和氣丹波之典薬曽以〔建部傳内本〕

和氣(ケ)丹波典薬曽(カツテ)〔山田俊雄藏本〕

和氣(ワケ)丹波之(ノ)典薬曽(アヒ)〔経覺筆本〕

和氣(ワケ)丹波(タンハ)(ノ)(テン)薬者曽(カツテ)(アヒ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「難逢」と表記し、訓みは経覺筆本・文明四年本に「あひ(かた)く」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「難逢」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「難逢」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、姓氏「」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

706典藥曽難逢候 典藥言天下十二人惣一也。十二人典藥々典施薬等之衆也。今断絶之亊也。至于今典藥殿中良井殿計也。于今京都竹田上池院兩衆天下十二人外也。彼兩人公方樣之薬師也竹田六百八病書也。同包紙之内体又禁好物等ニスル也。賞翫也。封字古文書也。字片計此也。即山王二字也。山王口傳。彼家牛黄圖秘傳也。上池院六百八病。藥銘草服包紙。即蘓香園秘傳也。典藥醫道極官也。他人不之。唐名大醫暑又尚藥局云頭也。四節藥草種。此寮アリ山谷曰、四休居士大醫孫君肪置此官也。去レハ三平二滿之説、藥ルニ滿平用也。滿平ヨリ休矣。此官和丹兩氏月次日次之藥進上スル者也云々。〔謙堂文庫蔵六〇右A〕

とあって、標記語「」の語を収載し、詳細な語注記を記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

典藥(テンヤク)(カツテ)( テ)( ク)(アヒ)典藥トハ。公方(クバウ)ノ御醫師(クスシ)也。内裏(タイリ)ヘ参ル醫師(クスシ)ヲ典薬ト云也。テンノ字殿此字徃古(ワウコ)ヨリ。書來(カキキタ)レル也。此ノ典ノ字モ不苦候也。先(マツ)本ノ如ク書付(カキツケ)申ス也。〔下36ウ四〜六〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かつ)て以(もつ)(あ)ひ難(かた)候ふ至て稀(まれ)なるを云。〔92ウ六・七〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

和氣(わけ)丹波(たんば)之典薬(てんやく)ハ曾以(かつてもつて)(あ)ひ難(がた)(さふら)和氣丹波之典薬者曽以(アヒ)▲和氣丹波ハ二家(か)の氏(うぢ)也。共に官醫(くハんい)の長(ちやう)たり。和氣ハ今の半井家(なかゐけ)。丹波ハ今の典薬頭(てんやくのかミ)錦小路殿(にしきこうぢどの)是也。典薬頭ハ相當(さうたう)従五位下唐名(からな)ハ大醫令(たいいれい)尚薬(しやうやく)奉御(ほうきよ)といふ。〔68ウ一、68ウ五〕

和氣(わけ)丹波(たんば)(の)典薬(てんやくハ)曾以(かつてもつて)(がたく)(あひ)(さふらふ)▲和氣丹波ハ二家(か)の氏也。共に官醫(くハんい)の長(ちやう)たり。和氣ハ今の半井家(なからゐけ)。丹波ハ今の典薬頭(てんやくのかミ)錦小路殿(にしきこうぢどの)是也。典薬頭ハ相當(さうたう)従五位下唐名(からな)ハ大醫令(たいいれい)尚薬(しやうやく)奉御(ほうきよ)といふ。〔123オ一、123オ六〕

とあって、標記語「難逢」の語をもって収載し、その語注記は「」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「あひ-がた〔名〕【難逢】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版にも、標記語「あひ-がた〔形〕【難逢】」の語は未収載にあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載となる。
[ことばの実際]
美玉韜光度幾年 知己難逢匪今耳 忘言罕遇從来然《『懐風藻』89七言、在常陸贈倭判官留在京(正三位式部卿藤原朝臣宇合)、大系153七》
菩提講の庭に参給(まいりたまひ)ければ、その御ともに参りたるによりて、あひがたき(のり)をうけたまはる事たるによりて、おほく罪をさへほろぼして、その力にて、人に生れ侍(はべる)べき功徳(くどく)の、ちかくなり侍れば、いよいよ悦(よろこび)をいたゞきて、かくて参りたるなり。《『宇治拾遺物語巻第四・五、五七・石橋の下の蛇(くちなは)の事
 
 
2005年6月8日(水)曇り薄晴れ。東京→世田谷(駒沢)
曾以(かつてもつて)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

(カツテ) 。〔元亀二年本105二〕〔静嘉堂本131八〕〔天正十七年本上64ウ六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

和氣丹波之典薬曽以難逢候〔至徳三年本〕

和氣丹波之典藥曾以難逢候〔宝徳三年本〕

和氣丹波之典薬曽以〔建部傳内本〕

和氣(ケ)丹波典薬(カツテ)〔山田俊雄藏本〕

和氣(ワケ)丹波之(ノ)典薬(アヒ)〔経覺筆本〕

和氣(ワケ)丹波(タンハ)(ノ)(テン)薬者(カツテ)(アヒ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「曾以」「曽以」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・文明四年本に「かつて(もつ)て」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「曾以」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「曾以」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(カツテソウ・ムカシ)[平](同シヤウ・ムカシ・ナム)[平]一向義也。〔態藝門311八〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

(カツテ) ・言語進退門82七〕〔・言語門85四〕〔・言語門77三〕〔・言語門93四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

(カツテ) (同) 〔言語門82六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。ただし、副詞「曽以」の語として収載が見られるのは『日葡辞書』だけである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

706典藥逢候 典藥言天下十二人惣一也。十二人典藥々典施薬等之衆也。今断絶之亊也。至于今典藥殿中良井殿計也。于今京都竹田上池院兩衆天下十二人外也。彼兩人公方樣之薬師也竹田六百八病書也。同包紙之内体又禁好物等ニスル也。賞翫也。封字古文書也。字片計此也。即山王二字也。山王口傳。彼家牛黄圖秘傳也。上池院六百八病。藥銘草服包紙。即蘓香園秘傳也。典藥醫道極官也。他人不之。唐名大醫暑又尚藥局云頭也。四節藥草種。此寮アリ山谷曰、四休居士大醫孫君肪置此官也。去レハ三平二滿之説、藥ルニ滿平用也。滿平ヨリ休矣。此官和丹兩氏月次日次之藥進上スル者也云々。〔謙堂文庫蔵六〇右A〕

典藥(ヤク) 〔天理図書館蔵『庭訓徃來註』〕※「以」を記載する

とあって、標記語「曽以」の語を収載し、この語の語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

典藥(テンヤク)(カツテ)( テ)( ク)(アヒ)典藥トハ。公方(クバウ)ノ御醫師(クスシ)也。内裏(タイリ)ヘ参ル醫師(クスシ)ヲ典薬ト云也。テンノ字殿此字徃古(ワウコ)ヨリ。書來(カキキタ)レル也。此ノ典ノ字モ不苦候也。先(マツ)本ノ如ク書付(カキツケ)申ス也。〔下36ウ四〜六〕

とあって、標記語「曽以の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かつ)て以(もつ)(あ)ひ難(かた)く候ふ逢候 至て稀(まれ)なるを云。〔92ウ六・七〕

とあって、この標記語「曽以」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

和氣(わけ)丹波(たんば)之典薬(てんやく)曾以(かつてもつて)(あ)ひ難(がた)く候(さふら)和氣丹波之典薬者曽以(アヒ)▲和氣丹波ハ二家(か)の氏(うぢ)也。共に官醫(くハんい)の長(ちやう)たり。和氣ハ今の半井家(なかゐけ)。丹波ハ今の典薬頭(てんやくのかミ)錦小路殿(にしきこうぢどの)是也。典薬頭ハ相當(さうたう)従五位下唐名(からな)ハ大醫令(たいいれい)尚薬(しやうやく)奉御(ほうきよ)といふ。〔68ウ一、68ウ五〕

和氣(わけ)丹波(たんば)(の)典薬(てんやくハ)曾以(かつてもつて)(がたく)(あひ)(さふらふ)▲和氣丹波ハ二家(か)の氏也。共に官醫(くハんい)の長(ちやう)たり。和氣ハ今の半井家(なからゐけ)。丹波ハ今の典薬頭(てんやくのかミ)錦小路殿(にしきこうぢどの)是也。典薬頭ハ相當(さうたう)従五位下唐名(からな)ハ大醫令(たいいれい)尚薬(しやうやく)奉御(ほうきよ)といふ。〔123オ一、123オ六〕

とあって、標記語「曾以」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Catcutemotte.カツテモッテ(曾以) 副詞.同上(どのようにも…しない.決してしない).〔邦訳110l〕

とあって、標記語「曾以」の語の意味は「」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かって-もって〔名〕【曾以】。萬葉集、十56「、曾以に」〔1899-2〕

とあって、標記語「かって-もって〔名〕【曾以】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「かって-もって〔副〕【曾以】(副詞「かつて」に「もって」が付いてできた語)@「かつて(曾)@イ」に同じ。日葡辞書(1603-04)「Catcutemotte(カツテモッテ)」寒川入道筆記(1613頃)愚痴文盲者口状之事「右のやつめ散々にわつらい、今をかぎりと見ゆる。しかれども、薬代をいやがりて、かつてもつて薬をのまぬ」*浄瑠璃・国性爺後日合戦(1717)五「たかさごを明渡さば北京を此方(こなた)に給はらんとのぶんしゃう、曾以(カツテモッテ)心腹に落がたし」A「かつて(曾)@ロ」に同じ。*天草本伊曽保物語(1593)ネテナボ帝王イソポに御不審の条々「Catcutemotte(カツテモッテ)ミキカヌ コトデ ゴザル」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而波多野右馬允義常山内首藤瀧口三郎經俊等者、曽以不應恩喚、剰吐條々過言〈云云〉《訓み下し》而ルニ波多野右馬ノ允義常、山ノ内首藤滝口ノ三郎経俊等ハ、(カツ)テ以テ恩喚ニ応ゼズ、剰ヘ条条ノ過言ヲ吐クト〈云云〉。《『吾妻鑑』治承四年七月十日の条》
 
 
2005年6月7日(火)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
典薬(テンヤク)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「天」部に、

典薬(ヤク) 大醫/唐名。〔元亀二年本245十〕

典薬(ヤク) 唐名/大醫。〔静嘉堂本284二・三〕

典薬(テンヤク) 唐名/大醫。〔天正十七年本中71オ一〕

とあって、標記語「典薬」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

和氣丹波之典薬曽以難逢候〔至徳三年本〕

和氣丹波之典藥曾以難逢候〔宝徳三年本〕

和氣丹波之典薬曽以難〔建部傳内本〕

和氣(ケ)丹波典薬(カツテ)〔山田俊雄藏本〕

和氣(ワケ)丹波之(ノ)典薬(アヒ)〔経覺筆本〕

和氣(ワケ)丹波(タンハ)(ノ)(テン)者曽(カツテ)(アヒ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「典薬」と表記し、訓みは文明四年本に「テン(ヤク)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「典薬」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「典薬の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

典藥(テンヤクレウノリ、クスリ、ツカサ)[上・入・○] 唐名大醫署。又云尚藥局。頭一人無權官一人。權官相當従五位下。唐名大醫令尚藥奉御(ホウゴ)キヨ助一人。權助相當従五位下。唐名大醫正(せイ)允大少。唐名大醫丞属大少。唐名大醫史。〔官位門715七〕

とあって、標記語「典藥」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

典薬(テンヤク) 大裏醫師・人倫門196八〕〔・人倫門162八〕

典薬(テンヤク) 天子医師・人倫門152一〕

とあって、標記語「典薬」の語を収載し、語注記は弘治二年本永祿二年本に「大裏醫師」、尭空院本は「天子医師」と記載する。また、易林本節用集』に、

典薬(テンヤク)(レウ) ――頭(カミ)〔官位門164三〕

とあって、標記語「典薬」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、姓氏「典薬」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

706典藥曽難逢候 典藥言天下十二人惣一也。十二人典藥々典施薬等之衆也。今断絶之亊也。至于今典藥殿中良井殿計也。于今京都竹田上池院兩衆天下十二人外也。彼兩人公方樣之薬師也竹田六百八病書也。同包紙之内体又禁好物等ニスル也。賞翫也。封字古文書也。字片計此也。即山王二字也。山王口傳。彼家牛黄圖秘傳也。上池院六百八病。藥銘草服包紙。即蘓香園秘傳也。典藥醫道極官也。他人不之。唐名大醫暑又尚藥局云頭也。四節藥草種。此寮アリ山谷曰、四休居士大醫孫君肪置此官也。去レハ三平二滿之説、藥ルニ滿平用也。滿平ヨリ休矣。此官和丹兩氏月次日次之藥進上スル者也云々。〔謙堂文庫蔵六〇右A〕

とあって、標記語「典薬」の語を収載し、詳細な語注記を記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

典藥(テンヤク)(カツテ)( テ)( ク)(アヒ)典藥トハ。公方(クバウ)ノ御醫師(クスシ)也。内裏(タイリ)ヘ参ル醫師(クスシ)ヲ典薬ト云也。テンノ字殿此字徃古(ワウコ)ヨリ。書來(カキキタ)レル也。此ノ典ノ字モ不苦候也。先(マツ)本ノ如ク書付(カキツケ)申ス也。〔下36ウ四〜六〕

とあって、標記語「典薬の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

和氣(わけ)丹波(たんば)典薬(てんやく)和氣丹波之典薬是ハ上手の医者の事をいえるなり。元和気丹波は医道の両氏(れうし)とて医術にくわしき者なり。和気の正嫡(しやうちやく)ハ今ハ断絶(だんぜつ)したり。典薬ハ上の御医師也。この七字ハ唯名医といふ事也と思ふへし。〔92ウ四〜六〕

とあって、この標記語「典薬」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

和氣(わけ)丹波(たんば)典薬(てんやく)ハ曾以(かつてもつて)(あ)ひ難(がた)く候(さふら)和氣丹波之典薬者曽以難(アヒ)▲和氣丹波ハ二家(か)の氏(うぢ)也。共に官醫(くハんい)の長(ちやう)たり。和氣ハ今の半井家(なかゐけ)。丹波ハ今の典薬頭(てんやくのかミ)錦小路殿(にしきこうぢどの)是也。典薬頭ハ相當(さうたう)従五位下唐名(からな)ハ大醫令(たいいれい)尚薬(しやうやく)奉御(ほうきよ)といふ。〔68ウ一、68ウ五〕

和氣(わけ)丹波(たんば)(の)典薬(てんやくハ)曾以(かつてもつて)(がたく)(あひ)(さふらふ)▲和氣丹波ハ二家(か)の氏也。共に官醫(くハんい)の長(ちやう)たり。和氣ハ今の半井家(なからゐけ)。丹波ハ今の典薬頭(てんやくのかミ)錦小路殿(にしきこうぢどの)是也。典薬頭ハ相當(さうたう)従五位下唐名(からな)ハ大醫令(たいいれい)尚薬(しやうやく)奉御(ほうきよ)といふ。〔123オ一、123オ六〕

とあって、標記語「典薬」の語をもって収載し、その語注記は「典薬頭は、相當(さうたう)従五位下、唐名(からな)は、大醫令(たいいれい)尚薬(しやうやく)奉御(ほうきよ)といふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tenyacu.テンヤク(典薬) 国王の重立った医者.〔邦訳647r〕

とあって、標記語「典薬」の語の意味は「国王の重立った医者」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

てん-やく〔名〕【典藥】(一)古へ、禁中、又は、幕府にて、醫藥の事を掌る職。庭訓徃來、十一月「和氣、丹波之典藥、曾以難逢」(二)くすりのすけ。醫藥を供奉する女官の稱。後宮職員令「藥司、尚藥一人(掌奉醫藥之事)典藥二人(掌同尚藥)」〔3-505-1〕

とあって、標記語「てん-やく〔名〕【典藥】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「てん-やく〔名〕【典薬】@「てんやくりょう(典藥寮)」の略。A「てんやく(典薬)の頭」の略。B令制で、後宮十二司の一つである薬(くすり)の司の次官。定員二人。准位は従八位。くすりのすけ。C令制で、諸国におかれた国の医師のこと。D近世、幕府や大名のおかかえの医師。御殿医(ごてんい)。E多く、医師をいう」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
於申刻、漸御氣分出現之間、醫師典藥頭時長朝臣、陰陽師主殿助泰房、驗者、清尊僧都、并良親律師等、參候《訓み下し》申ノ刻ニ於テ、漸ク御気分出現ノ間、医師典薬(テンヤク)ノ頭時長朝臣、陰陽師主殿ノ助泰房、験者ハ、清尊僧都、并ニ良親律師等、参候ス。《『吾妻鑑』建長三年五月十五日の条》
 
 
2005年6月6日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
丹波(たんば)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

丹波〔元亀二年本63九〕

丹波〔静嘉堂本74二〕〔天正十七年本上37オ八〕

とあって、標記語「丹波」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

和氣丹波之典薬曽以難逢候〔至徳三年本〕

和氣丹波之典藥曾以難逢候〔宝徳三年本〕

和氣丹波之典薬曽以難〔建部傳内本〕

和氣(ケ)丹波典薬曽(カツテ)〔山田俊雄藏本〕

和氣(ワケ)丹波(ノ)典薬曽(アヒ)〔経覺筆本〕

和氣(ワケ)丹波(タンハ)(ノ)(テン)薬者曽(カツテ)(アヒ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「丹波」と表記し、訓みは文明四年本に「タンハ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「丹波」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「丹波」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、姓氏「丹波」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、姓氏「丹波」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

705丹波 彼家即施藥院也。〔謙堂文庫蔵六〇右@〕

※「和家丹波ハ醫者ノ氏也。丹波トハ神代之丹―ニ來ル間云尓醫者ノ始也。不審也。又云古醫者ニ昌全ト云者アリ。醫書ヲ和字ニ書ヌイテ嫡子ニ渡スナリ。次男ニ丹表氏ノ漢字ヲ渡ナリ。丹和ト是ヨリ云ナリ」〔天理図書館蔵『庭訓徃來註』頭冠部書込み〕

※「和気丹波ハ醫者ノ氏也。丹波トハ神代之丹波ニ來ル間云尓也」〔国会図書館蔵『左貫註』傍部書込み〕

とあって、標記語「丹波」の語を収載し、語注記は「彼の家は、即ち施藥院なり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

和氣(ワケ)丹波(タンバ)(ノ)トハ。クスシノ氏(ウジ)也。〔下36ウ四〕

とあって、標記語「丹波の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

和氣(わけ)丹波(たんば)之典薬(てんやく)和氣丹波之典薬者 是ハ上手の医者の事をいえるなり。元和気丹波は医道の両氏(れうし)とて医術にくわしき者なり。和気の正嫡ハ今ハ断絶したり。典薬ハ上の御医師也。この七字ハ唯名医といふ事也と思ふへし。〔92ウ四〜六〕

とあって、この標記語「丹波」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

和氣(わけ)丹波(たんば)之典薬(てんやく)ハ曾以(かつてもつて)(あ)ひ難(がた)く候(さふら)和氣丹波之典薬者曽以難(アヒ)▲和氣丹波ハ二家(か)の氏(うぢ)也。共に官醫(くハんい)の長(ちやう)たり。和氣ハ今の半井家(なかゐけ)。丹波ハ今の典薬頭(てんやくのかミ)錦小路殿(にしきこうぢどの)是也。典薬頭ハ相當(さうたう)従五位下唐名(からな)ハ大醫令(たいいれい)尚薬(しやうやく)奉御(ほうきよ)といふ。〔68ウ一、68ウ五〕

和氣(わけ)丹波(たんば)(の)典薬(てんやくハ)曾以(かつてもつて)(がたく)(あひ)(さふらふ)▲和氣丹波ハ二家(か)の氏也。共に官醫(くハんい)の長(ちやう)たり。和氣ハ今の半井家(なからゐけ)。丹波ハ今の典薬頭(てんやくのかミ)錦小路殿(にしきこうぢどの)是也。典薬頭ハ相當(さうたう)従五位下唐名(からな)ハ大醫令(たいいれい)尚薬(しやうやく)奉御(ほうきよ)といふ。〔123オ一、123オ六〕

とあって、標記語「丹波」の語をもって収載し、その語注記は「和氣・丹波は、二家(か)の氏なり。共に官醫(くハんい)の長(ちやう)たり。《略》丹波は、今の典薬頭(てんやくのかミ)錦小路殿(にしきこうぢどの)是なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「丹波」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「たん-〔名〕【丹波】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「たん-〔名〕【丹波】姓氏の一つ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
姫君、追日憔悴御依之、爲奉加療治、被召針博士丹波時長之處、頻固辭、敢不應仰《訓み下し》姫君、日ヲ追テ憔悴シ御フ。之ニ依テ、*療治ヲ加ヘ奉ラン為ニ(*療養)、針博士丹波ノ時長ヲ召サルルノ処ニ、頻ニ固辞シテ、敢テ仰セニ応ゼズ。《『吾妻鑑』建久十年三月十二日の条》
 
 
和氣(わけ)」は、ことばの溜め池(2000.12.03)を参照。
 
2005年6月5日(日)曇り後晴れ。東京→世田谷(玉川→駒沢)
見來(みへきたり)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「見」部に、「見面(同(ミメ))。見反(ソル)。見世(ミセ)。見擧(アゲ)。雖(ミ)」の五語を収載し、標記語「見來」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之仁候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之仁候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「見來」と表記し、訓みは経覺筆本に「(み)へ(きたり)」、山田俊雄藏本に「(み)へ(きた)り」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「見來」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「見來」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「見來」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。また、下記『日葡辞書』には収録している。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「見來」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)之仁(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「見來の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(やぶ)医師(いし)(ハ)(まゝ)(ミへ)(きた)(か)藪医師者間見来シガ 下手(へた)医者の多きをいえり。此の字も濁りて讀へし。〔92ウ三・四〕

とあって、この標記語「見來」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来〔68オ七〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)〔122ウ四〕

とあって、標記語「見來」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Guenrai.ゲンライ(見来) Miye qitaru.(見え来たる)よそから到来したそのままで,人に送られる物.書状,および,話し言葉に用いられる.例,Guenraini macaxe xinji soro.(見来に任せ進じ候)到来したそのままで,これをあなたにさし上げます,あるいは、お送りします.¶Guenrai tcucamatcutta fodoni,xinjo< itasu.(見来仕つた程に,進上致す)同上.→Miyeqitari,u.〔邦訳296l〕

Miyeqitari,u,atta.ミヘキタリ,ル,ッタ(たり,る,つた) 現れる,または,よそから到来する.例,Miyeqitarisoro aida xinjisoro.(見え来たり候間進じ候)今よそから私の許に到来しましたから,これをあなたにさし上げます.→Guenrai.〔邦訳413r〕

とあって、標記語「見来」の語の意味は「現れる,または,よそから到来する」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「みへ-〔自カ変〕【見來】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「みえ-見來】〔自カ変〕現れる。やって来る。*万葉集(8C後)一二・三二〇二「柔田津に舟乗りせむと聞きいなへ何かも君が所見不来(みへこざる)らむ(作者未詳)」*源氏物語(1001-14頃)幻「おほぞらをかよふまぼろし夢にだにみえこぬ玉のゆくへたづねよ」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
先登詮者入敵陣之時事、打入馬於河之時、芝田雖聊先立、乗馬中矢、著岸之刻、不見來〈云云〉《訓み下し》先登詮ナル者敵陣ニ入ルノ時ノ事、馬ヲ河ニ打チ入ルルコトノ時、芝田聊カ先立ツト雖モ、乗リ馬矢ニ中リ、岸ニ著クノ刻ミ、(ミ)ヱ来(キ)タラズト〈云云〉。《『吾妻鑑承久三年六月十七日の条》
 
 
2005年6月4日(土)曇りのち雷雨。東京→世田谷(駒沢)
間・間々(まま)」←関連語として「間・際(あひだ)」(2002.08.08)がある。
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「滿」部に、

(ママ)〔元亀二年本211二〕

(マ) 一―(ヒトマ)。二―(フタマ)〔静嘉堂本240七〕

(マヽ) 一―。〔天正十七年本中49ウ一〕

とあって、標記語「」の語を収載し、元龜本及び天正十七年本にはその訓みを「まま」としている。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之仁候藪藥師等者見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之仁候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・山田俊雄藏本・文明四年本は「」と表記し、建部傳内本・経覺筆本は畳語で「間々」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「まゝ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

マ〃黒川本・辞字門中93オ四〕

卷第六・辞字門588二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、標記語「」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

閨X(マ ) 〔言辞門142五〕

とあって、標記語「閨X」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、『運歩色葉集』に標記語「」の語で収載し、また、易林本節用集』には標記語「閨X」の語を以て収載していて、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)之仁(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(やぶ)医師(いし)(ハ)(まゝ)(ミへ)(きた)りし(か)藪医師者見来リシガ 下手(へた)医者の多きをいえり。此の字も濁りて讀へし。〔92ウ三・四〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来〔68オ七〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)〔122ウ四〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Mama.ママ() 各部屋.例,Mamani fiuo toboite voqe.(間々に火をとぼいておけ)各部屋,あるいは,望みに従って.〔邦訳381l〕

とあって、標記語「」の語の意味を「各部屋」と記載し、その意味内容は下記に示す日国の[一]Aの意味であり異なっている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【】あひだごとに。あひだあひだ。あはひあはひ。すきますきま。萬葉集、十56「いはばしの、に生ひたる、かほ花の、花にしありけり、ありつつ見れば」〔1899-2〕

とあって、標記語「-〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-〔名〕【間間】[一]〔名〕@物と物のあいだごと。あいだあいだ。A部屋部屋。それぞれの部屋。[二]〔副〕そういつもというわけではないが、どうかすると時々出現するさまを表わす語。おりおり。たまたま。往々」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
靈鑒潛通。奇迹(マヽ)《『大唐西域記』》
 
 
2005年6月3日(金)曇り夜小雨。東京→世田谷(駒沢)
藪藥師(やぶくすし)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「弥」部に、標記語「藪藥師」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之仁候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之仁候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、宝徳三年本は、「野邊藥師」とし、至徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「藪藥師」と表記し、訓みは経覺筆本に「やぶくす(し)」、文明四年本に「やふ(くすし)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「藪藥師」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「藪藥師」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「藪藥師」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。ただし、下記に示したように『温故知新書』に標記語は異なるが「やぶくすし」の語を収載することを付加しておく。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「藪藥師」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)之仁(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「藪藥師の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(やぶ)医師(いし)(ハ)(まゝ)(ミへ)(きた)りし(か)藪医師者間見来リシガ 下手(へた)医者の多きをいえり。此の字も濁りて讀へし。〔92ウ三・四〕

とあって、この標記語「藪藥師」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来▲藪藥師ハ野巫醫(やぶい)也。下手(へた)醫者(しや)をいふ。〔68ウ一、68ウ四・五〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)▲藪藥師ハ野巫醫(やぶい)也。下手(へた)醫者をいふ。〔122ウ六〜123オ一、123オ五・六〕

とあって、標記語「藪藥師」の語をもって収載し、その語注記は「藪藥師は、野巫醫(やぶい)なり。下手(へた)醫者(しや)をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「藪藥師」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

やぶ-くすし〔名〕【藪藥師】やぶいしゃ〔藪醫者〕に同じ。誤りて、やぶやくし。庭訓徃來、十一月「雖尋醫骨之仁藪藥師(ヤブクスシ)等者、闌ゥ來歟、和氣丹波之典藥、曾以難逢候〔2047-4〕

とあって、標記語「やぶ-くすし〔名〕【藪藥師】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「やぶ-くすし〔名〕【藪藥師】〔名〕(「やぶくすし」とも)「やぶいしゃ(藪医者)に同じ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
サル程〔ニ〕、醫師ヲヨブベキニテ、薮クスシノ、近々ニアリケルヲ、ヨビテ見スレバ、「ユヽシキ御大事ノ物ナリ。《梵舜本『沙石集』卷第三・問注ニ我ト劣タル人事の条》
庸人(ヤフクスシ)。庸醫(同)。《『温故知新書』下26ウ三》※標記語は異なるが「やふくすし」の語を収載する。
 
 
2005年6月2日(木)晴れ後曇り。東京→世田谷(駒沢)
(ジン)」→ことばの溜め池(2003.06.15)を参照。
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、標記語「」を未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨之野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治尋醫骨之(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )尋醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「」と表記し、訓みは文明四年本に「(あ)い(たづ)ね」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

シン。如断反。〔黒川本・人事門下71オ一〕

シン。〔卷第九・人事門143四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))に、標記語「」の語を未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(シンヲシタシンズ)[去・○] 学而篇。〔態藝門1004三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

他救トシテ憐心。〔・数量門(「五常」)147四〕

とあって、尭空本に標記語「」の語を収載し、語注記には「自らを忘れ他を恵み危うきを救ひ極を助け惣じて物において志を先として憐心あるを仁と云ふ」と記載する。また、易林本節用集』に、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治尋醫骨之(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

医骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候と雖(いへと)相尋醫骨之フト 医骨とハ医術(ゐじゆつ)の奥儀(おくぎ)に通達したる名医を云。骨ハ肉(にく)の内にありて外に見へさるものゆへ奥儀といふ事にたとへたるなり。〔92ウ一〜三〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之フト上。藪藥師等者間見来〔68オ七〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)〔122ウ四〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iin.ジン() Fito.(ひと) 人.〔邦訳362l〕

とあって、標記語「」の語の意味は「人」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

じん〔名〕【】五常の一。又、三コの一、人たる者の、天性、固有の善コ、其發動する、親に施せば孝、君に施せば忠、行ふ所として、誠ならざるなきこと。なさけぶかきこと。いつくしみ。うつくしび。論語、學而篇「孝弟也者、其爲仁之本與」、顔淵篇「樊遲問仁、子曰、愛人」同卷「克己復禮、爲仁」禮記、禮運篇「仁者義之本也、順之禮也、得之者尊」同篇、「父慈、子孝、兄良、弟弟、夫義、婦聽、長惠、幼順、君仁、臣忠、十者、謂之人義古今著聞集、八、孝行恩愛「仁、義、禮、智、信の五常を亂らざるを、コとすべし」〔935-3〕

じん〔名〕【】〔説文、我部段注「仁者人也」論語、雍也篇「曰井有一レ仁焉」朱注「可以救井中之人」〕人(ひと)晉書、宋織傳「先生、人中之龍」南史、除勉傳「此所謂人中騏驥、必能致千里釋氏要覽「治禪經後序云、天竺大乘沙門、佛佗斯那、天才特拔、諸國特歩、内外綜博、莫藉不レ一練、世人咸曰人中獅子沙石集、四、下「道人可執着事」本朝文粹、大江匡衡文「臣謬當其仁(ヒト)、聊記盛事吾妻鏡、四十、建長二年三月廿六日「是相州仰、云云、依爲(タル)也」「彼ノ仁」〔935-4〕

とあって、標記語「-〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-〔名〕【】〔名〕@〜B省略。Cひと。にん。DE省略」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
其上我身も近習の也。《『平家物語法印問答の条》
 
 
2005年6月1日(水)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
醫骨(イコツ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

醫骨(イコツ)〔元亀二年本10八〕

醫骨(コツ)〔静嘉堂本2一〕〔天正十七年本上3オ八〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「醫骨」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此間持病再發又心氣腹病虚等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之仁候藪藥師等者間見来〔至徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以爲療治灸治雖相尋醫骨野邊藥師等者間見來歟〔宝徳三年本〕

此間持病再發又心氣腹病虚労等更發旁以為療治灸治雖相尋醫骨之仁候藪藥師等者間々見來〔建部傳内本〕

此間持病再發又心氣腹病虚勞等更發旁以為療治灸治醫骨(ノ)藪藥師(クスシ)等者(ハ)(マヽ)〔山田俊雄藏本〕

此間持病再發(サイホツ)又心氣腹虚労(キヨラウ)等更發(カウホツ)旁以療治灸治(キウ )醫骨(イコツ)(ノ)(ヤブ)藥師(クス )等者(ハ)間々(マヽ)来歟〔経覺筆本〕

此間持病再發(又)心氣腹病等更發(カウホツ)(カタ/\)療治(レウチ)灸治(キウチ)醫骨(ヤフ)藥師等者(ハ)(マヽ)見来〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「醫骨」と表記し、訓みは経覺筆本に「ヰコツ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「醫骨」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「醫骨」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

醫骨(イコツクスシ、ホネ)[平・入] 。〔態藝門20一〕

とあって、標記語「醫骨」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

醫骨( コツ) ・言語進退門12二〕〔・言語門7四〕

醫方(イホウ) ―書。―道。―療。―術/―骨。―家(ケ)。〔・言語門7六〕

とあって、弘治二年本永祿二年本に標記語「醫骨」の語を収載し、両足院本は「醫方」の熟語群に収載する。また、易林本節用集』に、

醫骨( コツ) ―書〔言語門7四〕

とあって、標記語「醫骨」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「醫骨」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

703此間持病再發又心氣腹病虚労等更發(カウハツ)之間(カタ/\)以爲療治灸治醫骨之仁(ヤフ)藥師等者(マヽ)見来歟 藪言醫方五經。難經・素問經・靈樞經・金亀經・甲乙經也。不彼五經藪藥師者也云々。〔謙堂文庫蔵五九左F〕

とあって、標記語「醫骨」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

虚勞(キヨラフ)(トウ)(カハル/\)(ヲコリ)(カタ/\)療治(レウヂ)灸治(キウヂ)ノ|、トモ下(アヒ)(タツネ)醫骨(イコツ)之仁(ジン)ヲ|ト上(ヤブ)藥師(クスシ)(トウ)(ハ)、(マヽ)(ミハ)(キタリ)トハ。イツモノ病也。〔下36ウ一〕

とあって、標記語「醫骨の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

医骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候と雖(いへと)相尋醫骨之仁フト 医骨とハ医術(ゐじゆつ)の奥儀(おくぎ)に通達したる名医を云。骨ハ肉(にく)の内にありて外に見へさるものゆへ奥儀といふ事にたとへたるなり。〔92ウ一〜三〕

とあって、この標記語「醫骨」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)し又(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚勞(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこ)り旁(かた/゛\)(もつ)て療治(りやうぢ)灸治(きうぢ)の為(ため)醫骨(いこつ)(の)(じん)を相尋(あひたづ)ね候(さふらふ)と雖(いへとも)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きた)(か)此間持病再發シ。又心氣腹病虚労等更發リ。旁以爲療治灸治相尋醫骨之仁フト上。藪藥師等者間見来▲醫骨之仁ハ醫術(いじゆつ)の骨柄(こつがら)ある人天性(てんせい)の妙手(めうしゆ)をいふ。〔68オ七・〕

(この)(あひだ)持病(ぢびやう)再發(さいほつ)(また)心氣(しんき)腹病(ふくびやう)虚労(きよらう)(とう)(かハる/\)(おこり)(かた/゛\)(もつ)(ため)療治(れうぢ)灸治(きうぢ)(いへども)相尋(あひたづね)醫骨(いこつ)(の)(じん)を|(さふらふ)(やぶ)藥師(くすし)(とう)(ハ)(まゝ)(ミ)(きたる)(か)▲醫骨之仁ハ醫術(いじゆつ)の骨柄(こつがら)ある人天性(てんせい)の妙手(めうしゆ)をいふ。〔122ウ四・〕

とあって、標記語「醫骨」の語をもって収載し、その語注記は「醫骨之仁は、醫術(いじゆつ)の骨柄(こつがら)ある人天性(てんせい)の妙手(めうしゆ)をいふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Icot.イコツ(醫骨) 医師のもっている治療上の経験.〔邦訳329r〕

とあって、標記語「醫骨」の語の意味は「医師のもっている治療上の経験」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-こつ〔名〕【醫骨】〔骨法の條を見よ〕醫術の骨法。醫道の心道。沙石集、二、上、第一條「或る在家人、山寺の僧を信じ、云云、藥までも問ひけり、此僧、醫骨もなかりければ、萬の病に、藤の疣を煎じて召せとぞ教へける」庭訓往來、十一月十二日「爲療治。灸治相尋醫骨之仁フト藪藥師等者間見来。和氣丹波之典藥、曾以難逢候」」〔146-2〕

とあって、標記語「-こつ〔名〕【醫骨】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-こつ〔名〕【醫骨】〔名〕@医術の秘訣(ひけつ)医者の心得」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
或在家人、山寺ノ僧ヲ信ジテ、世間出世ノ事、深ク憑テ、病事モアレバ、藥ナドモ問ケリ。此僧醫骨モナカリケレバ、萬ノ病ニ「藤ノコブヲ煎ジテメセ」ト教ヘケル。信ジテ是ヲ用ケルニ、萬病愈ズト云事ナシ。《梵舜本『沙石集卷第二の条・大系92@》
 
 

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