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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 
 
 
 
 
2005年7月31日(日)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
主計頭(かずえのかみ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

主計允(カズヘノテウ) 唐名度支郎。〔元亀二年本101一〕

主計允(カスヘノせウ) 唐名度支郎。〔静嘉堂本127一〕〔天正十七年本上62オ八〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「主計允」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

謹上  主計頭殿〔至徳三年本〕

謹上  主計頭殿〔宝徳三年本〕

謹上  主計頭殿〔建部傳内本〕

謹上  主計頭(カスヱノカミ)殿〔山田俊雄藏本〕

進上  主計頭(カスエノカミ)殿〔経覺筆本〕

謹上  主計頭殿〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「主計頭」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「かずゑのかみ」、経覺筆本に「かすえのかみ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「主計頭」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「主計頭」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

主計寮(カズヱノレウヌシ、ハカル・カスウ) 唐名金部又云度支頭一人。無權官相當従五位上。唐名金部郎中又云度支郎中助一人。權助一人。相當正六位下唐名金部員外郎允大少唐名度支郎属大少唐名度支主事明句抄。〔官位門262六〕

とあって、標記語「主計寮」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

主計頭(カズヘノカミ) ―頭―允。度支郎・官名門77八〕

主計頭(カスエノカミ) 度支郎。〔・官名門78三〕

主計頭(カスヘノカミ) 度支郎。〔・官名門71四〕〔・官名門85五〕

とあって、弘治二年本永祿二年本に標記語「主計頭」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

主計頭(カスエノカミ) 助/允〔人倫門71六・天理図書館蔵上36オ六〕

とあって、標記語「主計頭」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』・易林本節用集』に標記語「主計頭」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

714謹上  主計頭殿〔謙堂文庫蔵六一右B〕

とあって、標記語「主計頭」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

謹言  主計頭(カスエノカミ)殿 〔下37ウ四〕

とあって、標記語「主計頭」の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

謹上  主計頭殿(かすへのかミとの)謹上 主計頭殿 〔94ウ一・二〕

とあって、この標記語「主計頭」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

謹上(きんじやう)  主計(かずへ)の頭殿(かミとの)謹上 主計殿▲主計頭ハ従(じう)五位上に相當(さうたう)す。唐名(からな)ハ金部(きんほう)郎中(らうちう)といふ。〔70オ七、70オ八〕

謹上(きんじやう)  主計頭殿(かずへのかミどの)▲主計頭ハ従(じう)五位上に相當(さうたう)す。唐名(からな)ハ金部(きんほう)郎中(らうちう)といふ。〔125オ四、125オ六〕

とあって、標記語「主計頭」の語をもって収載し、その語注記は「主計頭は、従(じう)五位上に相當(さうたう)す。唐名(からな)は、金部(きんほう)郎中(らうちう)といふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「主計頭」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「かずへ--かみ〔名〕【主計頭】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「かずえ主計】〔名〕(「数え」の意)主計寮(かずえりょう)のこと」の小見出しに「かずえの頭(かみ)令制で、主計寮(かずえりょう)の長官。従五位相当の官。かぞえのかみ。かぞうるつかさ。令義解(718)官位・従五位条「主計頭」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年7月30日(土)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
主税助(ちからのすけ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「知」部に、

主税助〔元亀二年本316五〕

主税助〔静嘉堂本371六〕

とあって、標記語「主税助」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

十一月十二日  秦某〔至徳三年本〕

十一月十二日  秦〔宝徳三年本〕

十一月十二日  秦〔建部傳内本〕

十一月十二日  秦(ハタノ)〔山田俊雄藏本〕

十一月十二日  秦(ハダノ)〔経覺筆本〕

十一月十二日  秦某 ハダ〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「主税助」語は未記載にする。後世の真名註の書に見える語である。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「主税助」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「主税助」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

主税寮(チカラノレウシユセイ)[○・去・上] 唐名倉部又免田頭允属同主計。〔官位門161三〕

とあって、標記語「主税寮」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

主税(チカラノカミ) 倉部郎中・官名門49四〕〔・官名門51三〕〔・官名門46七〕〔・官名門55二〕

とあって、弘治二年本永祿二年本に標記語「主税頭」の語を収載し、語注記には唐名「倉部郎中」を記載する。また、易林本節用集』に、標記語「主税助」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「主税助」の語は未収載にあって、これを下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

713十一月十二日  主税助秦 秦始皇之流尓。〔謙堂文庫蔵六一右A〕

とあって、標記語「主税助」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

十一月十二日  秦某(ハダノナニガシ) 〔下37ウ四〕

とあって、標記語「主税助」の語は未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

十一月十二日 秦某十一月十二日 秦某 〔94ウ一・二〕

とあって、この標記語「主税助」の語は未収載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

十一月十二日 主税(ちから)の助(すけ)(はだ)十一月十二日 主税助▲主税助ハ正六位下に相當す。唐名ハ倉部(そうぼう)員外郎(いんぐわいらう)といふ。〔70オ六、70オ八〕

十一月(じふいちくわつ)十二日(じふにゝち) 主税助(ちからのすけ)(はだ)▲主税助ハ正六位下に相當す。唐名ハ倉部(そうほう)員外郎(いんぐわいらう)といふ。〔125オ四、1256オ六〕

とあって、標記語「主税助」の語を収載し、語注記に「主税助は、正六位の下に相當す。唐名は、倉部(そうほう)員外郎(いんぐわいらう)といふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「主税助」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には「税(ちから)」の語は収載するが、標記語「ちから〔名〕【主税助】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ちから主税】〔名〕(ちからりょう)のこと。また、そこの官人。しゅぜいりょう。しゅぜい」の小見出し「ちからの助(すけ)主税寮の次官。しゅぜいのすけ。*ロドリゲス日本大文典(1604-08)「Chicarano Suque(チカラノスケ)」」とあって、『庭訓徃來』真名註のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年7月29日(金)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
(はだ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、標記語「」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

十一月十二日  〔至徳三年本〕

十一月十二日  〔宝徳三年本〕

十一月十二日  〔建部傳内本〕

十一月十二日  (ハタノ)〔山田俊雄藏本〕

十一月十二日  (ハダノ)〔経覺筆本〕

十一月十二日  某 ハダ〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「」と表記し、訓みは、山田俊雄藏本に「ハタ」、経覺筆本・文明四年本に「ハダ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(シンせウ・イタサンせウ/ハダ、―)[平・平] 。〔草木門915二〕

とあって、標記語「秦椒」の語を収載し、その左訓に「はだ」と訓読する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』に標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

713十一月十二日  主税助 秦始皇之流尓。〔謙堂文庫蔵六一右A〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語における語注記は「秦始皇の流の故に尓云ふ」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

十一月十二日  (ハダノナニガシ) 〔下37ウ四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

十一月十二日 (はだのそれがし)十一月十二日 〔94ウ四〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

十一月十二日 主税(ちから)の助(すけ)(はだ)十一月十二日 主税助▲秦ハ人(にん)皇廿二代雄畧(ゆうりやく)天皇十五年酒(さけの)君に禹豆麻佐(うづまさ)の姓(せい)を賜(たま)ふ。是(これ)其はじめ也。盖(けだし)酒君ハ百濟國(ひやくさいこく)の王子(わうじ)也。禹豆麻佐の字を太秦(たいしん)と書(かく)。秦とのミ書も同(おな)じ。然(しか)るをハダと讀(よま)せるハもと誤(あやまり)なれども今にしてハまた改めがたし。〔70オ六、70オ八〜70ウ一〕

十一月(じふいちくわつ)十二日(じふにゝち) 主税助(ちからのすけ)(はだ)▲秦ハ人皇(にんわう)廿二代雄畧(ゆうりやく)天皇十五年酒君(さけのきミ)に禹豆麻佐(うづまさ)の姓(せい)を賜(たま)ふ。是(これ)其はしめ也。盖(けだし)君ハ百濟國(ひやくさいこく)の王子(わうじ)也。禹豆麻佐の字を太秦(たいしん)と書。秦とのミ書も同(おな)じ。然るをハダと讀(よま)せるハもと誤(あやまり)なれども今にしてハまた改(あらた)めがたし。〔126オ四、126オ六〜126ウ二〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は「秦は、人皇(にんわう)廿二代雄畧(ゆうりやく)天皇十五年酒君(さけのきミ)に禹豆麻佐(うづまさ)の姓(せい)を賜(たま)ふ。是(これ)其のはじめなり。盖(けだし)酒の君は、百濟國(ひやくさいこく)の王子(わうじ)なり。禹豆麻佐の字を太秦(たいしん)と書く。秦とのミ書くも同(おな)じ。然るをハダと讀(よま)せるは、もと誤(あやまり)なれども今にしては、また改(あらた)めがたし」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

はた-〔名〕【】〔古語拾遺「所貢絹綿軟肌膚、故訓秦字謂之波陀〕(一)はた(繪)に同じ。(二)韓國より歸化したる人の姓。〔1583-4〕

とあって、標記語「はだ〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「はた【畑・・羽田】〔名〕(羽田は「はだ」とも。秦は古くは「はだ」か)姓氏の一つ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際] 大酒神社
 《『廣隆寺來由記』十五》
 
 
2005年7月28日(木)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
(しかしながら)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

(シカシナガラ)〔元亀二年本334四〕

(シカシナカラ)〔静嘉堂本398五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

万端難馳筆面拝恐々謹言〔至徳三年本〕

萬端難馳筆面拝恐々謹言〔宝徳三年本〕

萬端難馳筆面拝之時候也恐々謹言〔建部傳内本〕

萬端難面拝恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

万端(タン)(ハせ)面拝恐々謹言〔経覺筆本〕

萬端難(カタシ)(ハせ)(フテ)面拝之時恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「」と表記し、訓みは経覺筆本に「(しかしなが)ラ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

シカシナカラ/必野必姓二反皆也〔黒川本・辞字門下76オ八〕

シカシナカラ/皆也〔卷第九・辞字門185三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(シカシナガラ/ヘイ)[去] 。〔態藝門1024三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

(シカシナカラ) ・言語進退門244一〕〔・言語門212九〕〔・言語門196七〕

とあって、弘治二年本永祿二年本に標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

(シカシナガラ) 〔言辞門219六・天理図書館蔵下42ウ六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

合食禁(カウシヨクキン)日記任(クス)殿壁書(ヘキシヨ)(ウツシ)ハル萬端(バンタン)(ハせ)(フテ)面拝之時合食禁トハ。食ニ付テ藥多キヲ忌(イ)メト云心ナリ。〔下37ウ一〜三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(しかしながら)面拝(めんばい)之時を期(ご)し候面拝之時 注前に見へたり。〔94ウ二・三〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

禁好物(きんかうぶつ)の注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)乃日記(につき)藥殿(くすどの)の壁書(へきしよ)に任(まか)せ冩(うつ)し給(たま)ふ可(べく)く候(さふらふ)。萬端(ばんたん)(ふで)を馳(はせ)せ難(がたし)(しかしながら)面拝(めんばい)を期(ご)す。恐々(きやう/\)謹言(きんげん)禁好物之注文合食禁日記藥殿壁書万端難面拝恐々謹言。〔69ウ四〕

禁好物(きんかうぶつ)注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)日記(につき)(まかせ)藥殿(くすりどの)壁書(へきしよ)(べく)写給(うつしたまふ)(さふらふ)万端(ばんたん)(がたし)(はせ)(ふで)(しかしながら)(ごす)面拝(めんはい)恐々(きよう/\)謹言(きんけん)。〔125オ四〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は「合食本望は、内の虚(きよ)したる所を補(おぎな)ひ益(ま)す薬」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xicaxinagara.シカシナガラ() 結局,すべての場合を通じて,あるいは,言った事のすべてについて,など.例,Xicaxinagara Coyetuo fedatcuruni nitari.(併ら胡越を隔つるに似たり)私が言った事を要約すると,まことに私どもは,互いに遙かに隔たっている胡(Co)と越(Yet)との二国のように,遠ざかり離れている.※併似隔胡越(庭訓往來,二月往状).〔邦訳761l〕

とあって、標記語「」の語の意味は「結局,すべての場合を通じて,あるいは,言った事のすべてについて,など」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しかしながら-〔副〕【】〔説文「併、兼也、合也、皆也、列也」然ながらに、天爾波の強め詞と云ふ、しを加へたる語にて、さしながらなどと、同用法の語か〕しかながら。さながら。それながら。ことごとく。悉皆。一切。日本霊異記、下、第十縁「發火、惣家皆悉燒滅」訓註「惣家、シカシナガラ名義抄、ナラブ、シカシナガラ」又「並、シカシナガラ」欽明紀、六年九月「普天之下、一切(シカシナガラ)衆生、皆蒙解脱平家物語、二、烽火事「重盛、始め、敍爵より、今、大臣の大將に至る迄、併しながら、君の御恩ならずと云ふ事なし」古今著聞集、二、釋教「此事は、もと我思寄りたるにあらず、仰せられし旨を聞きて、おのづから發願して、大功をなしたる、しかしながら、御恩なり」同、三、政道忠臣、末條「殿下、故なく流されさせ給ひし事は、しかしながら、平太政入道の強行にて侍りけるに」沙石集、一、下、第八條「その~は、只、古き釜なり、云云、靈、何の所にか有と云て、しかしながら、打くだきてけり」庭訓徃來、二月「參會之次伊達政宗感状之文「敵數輩討捕、得勝利、一段感悦候、、忠節無比類事、至子孫、可申傳候」」平家物語、三、燈籠事「謀叛の企、候ひし事、全く私の計略にあらず、、君、御許容あるに依てなり」字鏡84「傾城、擧城也、城、志加志奈加良」〔879-4〕

とあって、標記語「しかしながら〔副〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しかしながら併乍然乍】[一]〔副〕@そのまま全部。全部そっくり。すべて。さながら。ことごとく。さしながら。Aけっきょく。要するに。[二]〔接続〕先行の事柄に対し、後行の事柄が反対、対立の関係にあることを示す(逆接)。しかし。だが。さりながら。」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
可依此經八百部讀誦之加被〈云云〉《訓み下し》是レ(シカ)シナガラ此ノ経八百部読誦ノ加被ニ依ルベシト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年七月五日の条》
 
 
2005年7月27日(水)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
(ふでを(に)はす)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「布」部に、「筆跡(フテノアト)。筆結(ユイ)分真筆也」の二語を収載し、「波」部の「馳(ハスル)」(馬を馳する意)〔元亀二年本35九〕でしか収載していない。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

万端難馳筆併期面拝恐々謹言〔至徳三年本〕

萬端難馳筆併期面拝恐々謹言〔宝徳三年本〕

萬端難馳筆併期面拝之時候也恐々謹言〔建部傳内本〕

萬端難併期面拝恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

万端(タン)(ハせ)面拝恐々謹言〔経覺筆本〕

萬端難(カタシ)(ハせ)(フテ)併期面拝之時恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「」と表記し、訓みは経覺筆本・文明四年本に「ふではせ」、山田俊雄藏本及び下記注釈諸本に「ふではせ」と記載する。ここで、古写本の訓読中、「○○に●●」と「○○ヲ●●」といった両用の訓読形態が見えている。この受動形態が如何なる異なりを示しているのかを考察することは未だ言及できない。しかし、訓読文献資料においては、平安時代初期に既にこの両用形態が見えていることを述べておく。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語は未収載にし、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

合食禁(カウシヨクキン)日記任(クス)殿壁書(ヘキシヨ)(ウツシ)ハル萬端(バンタン)(ハせ)(フテ)面拝之時合食禁トハ。食ニ付テ藥多キヲ忌(イ)メト云心ナリ。〔下37ウ一〜三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

萬端(ばんたん)(ふで)を馳(はせ)(がたし)萬端難 病中にてものかきゆへ紙面にくわしく書記しかたしと也。〔94ウ一・二〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

禁好物(きんかうぶつ)の注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)乃日記(につき)藥殿(くすどの)の壁書(へきしよ)に任(まか)せ冩(うつ)し給(たま)ふ可(べく)く候(さふらふ)。萬端(ばんたん)(ふで)を馳(はせ)(がたし)。併(しかしながら)面拝(めんばい)を期(ご)す。恐々(きやう/\)謹言(きんげん)禁好物之注文合食禁日記藥殿壁書万端難併期面拝恐々謹言。〔69ウ四〕

禁好物(きんかうぶつ)注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)日記(につき)(まかせ)藥殿(くすりどの)壁書(へきしよ)(べく)写給(うつしたまふ)(さふらふ)万端(ばんたん)(がたし)(はせ)(ふで)(しかしながら)(ごす)面拝(めんはい)恐々(きよう/\)謹言(きんけん)。〔125オ四〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ふで--はす〔名〕【】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ふで【筆】〔名〕」の小見出しに「ふでを-(は)[=走(はし)らせる]すらすらと文章を書く。走り書きをする。筆を舞わす玉葉-元暦元年(1184)十二月二日「尊忠僧都持来日吉社御正体図絵一鋪銘之由、即了」*若宮社歌合(1191)「みじかきふでをはせてしるしつけ侍ぬ」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
應永三十一年八月十七日一見次、馳筆畢、此書記東塔坊光賢律師記而已、求沙門隆増之《『醍醐寺文書』弘長元年七月日の条320-7・2/75》
 
 
2005年7月26日(火)雨。東京→世田谷(駒沢)
冩給(うつしたまふ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「宇」部に、

(ウツス)〔元亀二年本184十〕〔静嘉堂本208二〕〔天正十七年本中33オ六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可給候〔至徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可給候〔宝徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可給候〔建部傳内本〕

禁好物注文合食(カツシヨ)日記任藥殿壁書〔山田俊雄藏本〕

(キン)好物注文合食禁日記任藥殿壁書(ヘキシヨ)〔経覺筆本〕

禁好物(キンカウ  )之注文合食(カツシヨ)之日記任(ヤク)殿(テン)壁書(ヘキ )(ウツシ)〔文明四年本〕

と見え、は未収載で、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本は、「冩」、山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「」と表記し、訓みは文明四年本に「ウツシ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

繕輪潟捷輸影搓捫迷運邇已上同ウツス/亦作/以手―也摺影冩已上同〔黒川本・辞字門中52ウ二・三〕

ウツス/書―亦作/以手―摺影冩已上同/ウツス〔卷第五・辞字門194四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(ウツスシヤ)[上] 。〔態藝門488八〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

(ウツス) 寫同―・言語進退門150八〕

(ウツス) 。〔・言語門123八〕〔・言語門137七〕

(ウツス) 。〔・言語門113三〕

とあって、弘治二年本永祿二年本に標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

(ウツロフ)ウツス 月/水(同)〔言辞門120二・天理図書館蔵上60ウ二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』に標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

合食禁(カウシヨクキン)日記任(クス)殿壁書(ヘキシヨ)(ウツシ)ハル萬端(バンタン)(ハせ)(フテ)面拝之時合食禁トハ。食ニ付テ藥多キヲ忌(イ)メト云心ナリ。〔下37ウ一〜三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(うつ)(たま)ふ可(べく)く候(さふらふ) 〔94オ八〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

禁好物(きんかうぶつ)の注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)乃日記(につき)藥殿(くすどの)の壁書(へきしよ)に任(まか)(うつ)(たま)ふ可(べく)く候(さふらふ)。萬端(ばんたん)(ふで)を馳(はせ)せ難(がたし)。併(しかしながら)面拝(めんばい)を期(ご)す。恐々(きやう/\)謹言(きんげん)禁好物之注文合食禁日記藥殿壁書万端難併期面拝恐々謹言。〔69ウ六〕

禁好物(きんかうぶつ)注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)日記(につき)(まかせ)藥殿(くすりどの)壁書(へきしよ)(べく)(うつしたまふ)(さふらふ)万端(ばんたん)(がたし)(はせ)(ふで)(しかしながら)(ごす)面拝(めんはい)恐々(きよう/\)謹言(きんけん)。〔125オ四〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は「合食本望は、内の虚(きよ)したる所を補(おぎな)ひ益(ま)す薬」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vtcuxi,su.ウツシ,ス,イタ(移・し,す,いた) ある物を他へ移転する,または,運び渡す.例,Iyeuo vtcusu.(家を移す)家を他の所へ移転する.¶Iremono uo vtcusu.(容れ物をうつす)箱や器物やそれに類する物をあけて空にする.¶また,写し取る.例,Fitono catachiuo vtcusu.(人の貌を写す)人をありのままに描く,または,写し取る.¶Qio<uo caqi vtcusu.(経を写す)ある教典を筆写する.→Guato;Iijit.〔邦訳736l〕

とあって、標記語「」の語の意味は「写し取る」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

うつ・す・ス・セ・サ・シ・セ〔他動・四〕【】〔字を移す意〕(一)他の文字、畫圖を、別に書き取る。 佛足石歌「釋迦のみあと、石(いは)に宇都志(うつし)おき、ゆきめぐり、歌ひまつり、吾がよはをへん」天治字鏡、一24「、亡夫反平、冩也、志太加太於支天宇豆須」(二)物の形、又、音に擬へて作る。摸造源氏物語、十四、澪標4「源氏の大納言の御顔を、二つにうつしたらやうに見え給ふ」十訓抄、下、第十、六十三條「師といふ人を召して、此聲を、琴の音にうつし給ふ」〔242-5〜243-1〕

とあって、標記語「うつ・す〔他動・四〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「うつ・す】〔他サ五(四)〕(「移す」の意から転じたもの)@元の物に似せて別の物をつくる。イ文字・絵、図などを見て、それに似せ、またはそのとおりに別に書きとる。模写する。書き写す。ロ実物の形にまねて作る。模造する。ハ音、ことば、人の性格、物事の状態ややり方などをもとのものとそっくりにあらわす。模倣する。まなぶ。A見聞したり考えたりした物事を、絵や文章に書く。描写する。B写真や映画にとる。撮影する。C(映)物の影や光などが他の物の上に現れるようにする。イ鏡、水、障子などに姿や影が現れるようにする。ロ映画、スライドなどで、映像がスクリーンに現れるようにする。映写する」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而能登國御家人、高畠太郎式久、備進彼式目安文之間、爲校合、可進旨、被下御教書於備後前司康持之處、依爲禁忌、同廿六日、被仰東入道唯明〈云云〉(ウツシ)進之《訓み下し》而ルニ能登ノ国ノ御家人、高畠ノ太郎式久、彼ノ式目ノ安文ヲ備ヘ進ズルノ間、校合ノ為ニ、写シ進ズベキノ旨、御教書ヲ備後ノ前司康持ニ下サルルノ処ニ、禁忌タルニ依テ、同二十六日ニ、東ノ入道唯明ニ仰セラルト〈云云〉。之ヲ写シ進ズ。《『吾妻鏡』建長五年九月二十六日の条》
 
 
2005年7月25日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
壁書(ヘキシヨ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「遍」部に、

壁書(ヘキシヨ)〔元亀二年本48二〕〔静嘉堂本55六〕〔西來寺本〕

壁書〔天正一七年本上28ウ六〕

とあって、標記語「壁書」の語を収載する。そして、語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔至徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔宝徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔建部傳内本〕

禁好物注文合食(カツシヨ)日記任藥殿壁書〔山田俊雄藏本〕

(キン)好物注文合食禁日記任藥殿壁書(ヘキシヨ)〔経覺筆本〕

禁好物(キンカウ  )之注文合食(カツシヨ)之日記任(ヤク)殿(テン)壁書(ヘキ )(ウツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「壁書」と表記し、訓みは経覺筆本に「ヘキシヨ」、文明四年本に「ヘキ(シヨ)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「壁書」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「壁書」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

壁書(ヘキシヨカベ、カク)[入・平] 禁制文也。〔器財門114六〕

とあって、標記語「壁書」の語を収載し、語注記に「禁制(きんぜい)の文なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

壁書(ヘキシヨ) 禁制・財宝門38四〕

壁書(ヘキシヨ) 。〔・言語門38二〕〔・言語門35三〕〔・言語門42六〕

とあって、標記語「壁書」の語を収載し、弘治二年本には、広本節用集』を継承して語注記に「禁制」と記載する。また、易林本節用集』に、

壁書(ヘキシヨ) 〔食服門37二・天理図書館蔵上19オ二〕

とあって、標記語「壁書」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』・『運歩色葉集』・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』に標記語「壁書」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。但し、広本節用集』及び弘治二年本のような「禁制…」の語注記はない。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「壁書」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

合食禁(カウシヨクキン)日記任(クス)殿壁書(ヘキシヨ)(ウツシ)ハル萬端(バンタン)(ハせ)レレ(フテ)面拝之時合食禁トハ。食ニ付テ?藥多キヲ忌(イ)メト云心ナリ。〔下37ウ一〜三〕

とあって、標記語「壁書」の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

藥殿(やくでん)の壁書(へきしよ)に任(まか)藥殿壁書 藥殿ハ藥一切の事を取扱(とりあつか)ふ所也。見やすきやうに壁(かへ)にしるし置を壁書といふ也。〔94オ八〕

とあって、この標記語「壁書」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

禁好物(きんかうぶつ)の注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)乃日記(につき)藥殿(くすどの)壁書(へきしよ)に任(まか)せ冩(うつ)し給(たま)ふ可(べく)く候(さふらふ)。萬端(ばんたん)(ふで)を馳(はせ)せ難(がたし)。併(しかしながら)面拝(めんばい)を期(ご)す。恐々(きやう/\)謹言(きんげん)禁好物之注文合食禁日記藥殿壁書万端難併期面拝恐々謹言。▲壁書ハ壁(かべ)に張(はり)をく書付と云定なり。〔69ウ六、70オ二〕

禁好物(きんかうぶつ)注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)日記(につき)(まかせ)藥殿(くすりどの)壁書(へきしよ)(べく)写給(うつしたまふ)(さふらふ)万端(ばんたん)(がたし)(はせ)(ふで)(しかしながら)(ごす)面拝(めんはい)恐々(きよう/\)謹言(きんけん)▲壁書ハ壁(かべ)に張(はり)おく書付と云定なり。〔125オ四、125ウ四・五〕

とあって、標記語「壁書」の語をもって収載し、その語注記は「合食本望は、内の虚(きよ)したる所を補(おぎな)ひ益(ま)す薬」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「壁書」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

へき-しょ〔名〕【壁書】(一)もと、吏員の執務上、守るべき事、又は、一般に布告すべき事柄。かべがき。和簡禮經、八、壁書事「奉行書より事始りたる儀候、諸人に知らせん事をかべに押付て、云云」太平記、十四、將軍御進發事「此度の合戰に於て、忠あらん者には、不日に恩賞行はるべしと云ふ壁書を、決斷所に押されたり」(二)戰國時代の大名などの家法。「今川壁書」「大内家壁書(三)壁に、心得、教訓などの文を書きて貼ること。又、その文章。芭蕉庵再興集、芭蕉庵壁書「草庵心得之事、一、火之元の大事第一也、云云」喫茶餘録、下「遠州宗甫居士壁書」〔1804-2〕

とあって、標記語「へき-しょ〔名〕【壁書】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「へき-しょ壁書】〔名〕壁に書くこと。また、その書かれたもの。かべがき。A法令や布告、また掟(おきて)や心得を板や紙に書いて壁にはりつけた掲示。特に、戦国時代の大名の家法。大内氏掟書など。かべがき」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
則被下一紙壁書、可押于圓隆寺南大門〈云云〉《訓み下し》則チ一紙ノ(ヘキ)ヲ下サレ、円隆寺ノ南大門ニ押スベシト〈云云〉。《『吾妻鏡』文治五年九月十七日条》
 
 
2005年7月24日(日)曇り。長野(車山高原)→東京
藥殿(ヤクデン・くすどの)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に「藥篩(クスリフルイ)。藥鍋(ナベ)。藥滓(ウス)。藥玉(ダマ)」の四語、また「屋」部に「藥研(ヤゲン)。藥(クワン)。藥種(シユ)。藥代(タイ)。藥料(リウ)。藥性(シヤウ)。藥方(ホウ)。藥器(キ)。藥師(シ)。藥醫(イ)典藥之唐名。藥籠(ルウ)」の十一語を収載するが、この標記語「藥殿」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔至徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔宝徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔建部傳内本〕

禁好物注文合食(カツシヨ)日記任藥殿壁書〔山田俊雄藏本〕

(キン)好物注文合食禁日記任藥殿壁書(ヘキシヨ)〔経覺筆本〕

禁好物(キンカウ  )之注文合食(カツシヨ)之日記任(ヤク)殿(テン)壁書(ヘキ )(ウツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「藥殿」と表記し、訓みは文明四年本に「ヤクテン」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「藥殿」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「藥殿」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「藥殿」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕※天理図書館蔵『庭訓往來注』・国会図書館蔵左貫注は、「藥殿」と記載する。

とあって、標記語「藥典殿(藥殿)」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

合食禁(カウシヨクキン)日記任(クス)殿壁書(ヘキシヨ)(ウツシ)ハル萬端(バンタン)(ハせ)(フテ)面拝之時合食禁トハ。食ニ付テ藥多キヲ忌(イ)メト云心ナリ。〔下37ウ一〜三〕

とあって、標記語「藥殿」の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

藥殿(やくでん)の壁書(へきしよ)に任(まか)藥殿壁書 藥殿ハ藥一切の事を取扱(とりあつか)ふ所也。見やすきやうに壁(かへ)にしるし置を壁書といふ也。〔94オ八〕

とあって、この標記語「藥殿」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

禁好物(きんかうぶつ)の注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)乃日記(につき)藥殿(くすどの)の壁書(へきしよ)に任(まか)せ冩(うつ)し給(たま)ふ可(べく)く候(さふらふ)。萬端(ばんたん)(ふで)を馳(はせ)せ難(がたし)。併(しかしながら)面拝(めんばい)を期(ご)す。恐々(きやう/\)謹言(きんげん)禁好物之注文合食禁日記藥殿壁書万端難併期面拝恐々謹言。〔69ウ六〕

禁好物(きんかうぶつ)注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)日記(につき)(まかせ)藥殿(くすりどの)壁書(へきしよ)(べく)写給(うつしたまふ)(さふらふ)万端(ばんたん)(がたし)(はせ)(ふで)(しかしながら)(ごす)面拝(めんはい)恐々(きよう/\)謹言(きんけん)。〔125オ五〕

とあって、標記語「藥殿」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「藥殿」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

くす-どの〔名〕【藥殿】又、くすりどの。禁中にて、典藥寮の侍醫、等の祗候する所。江家次第、一、供御藥(正月屠蘇)「藥殿(くすどの)謂御藥、云云、宮内典藥寮官人、侍醫等、謂申御藥、云云」欄外「藥殿、月華門南腋」續古事談、一、王道后宮「くすり殿の御銚子」〔523-5〕

とあって、標記語「くす-どの〔名〕【藥殿】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「くす-どの藥殿】〔名〕内裏の安福殿にあって、侍医や薬生が伺候する所。くすりどの」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。また、文明古写本の訓読「ヤクデン」の見出し語も近代国語辞書では未載録としていることも付加しておく。
[ことばの実際]
紫宸殿の東、薬殿の前には南都の大衆、西の長階の前には山門の衆徒、列立したりけるが、南都の衆徒は、面々に脇差の太刀など用意の事なれば、抜き連れて切つて懸かる。《『太平記』卷第三十九・最勝講の時闘諍に及ぶ事の条》
 
 
2005年7月23日(土)曇りのち晴れ。東京→長野(車山高原)
日記(ニッキ)」はことばの溜め池を(2003.07.12)参照。
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「丹」部に、

日記()〔元亀二年本38五〕〔天正一七年本上21ウ二〕

日記〔静嘉堂本41六〕〔西來寺本69五〕

とあって、標記語「日記」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔至徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔宝徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔建部傳内本〕

禁好物注文合食(カツシヨ)日記藥殿壁書〔山田俊雄藏本〕

(キン)好物注文合食禁日記藥殿壁書(ヘキシヨ)〔経覺筆本〕

禁好物(キンカウ  )之注文合食(カツシヨ )日記(ヤク)殿(テン)壁書(ヘキ  )(ウツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「日記」と表記する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「日記」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「日記」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

日記(ニツキシツ・ヒ、シルス)[入・去] 犬追者所役也。〔態藝門89六〕

とあって、標記語「日記」の語を収載し、語注記に「犬追者の所役なり」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

日記() ・言語進退門30一〕〔・言語門31四〕

日限(ゲン) ―果(ニツクハ)。―給(キウ)帝王―。―勞(ラウ)。―参(サン)―記()。―数(シユ)。〔・言語門29四〕

日限(ニチケン) ―課。―給帝王部。―労。―参。―記。―数。〔・言語門26六〕

とあって、弘治二年本永祿二年本に標記語「日記」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

日記() 〔言辞門28三・天理図書館蔵上14ウ三〕

とあって、標記語「日記」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』に標記語「日記」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「日記」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

合食禁(カウシヨクキン)日記(クス)殿壁書(ヘキシヨ)(ウツシ)ハル萬端(バンタン)(ハせ)(フテ)面拝之時合食禁トハ。食ニ付テ藥多キヲ忌(イ)メト云心ナリ。〔下37ウ一〜三〕

とあって、標記語「日記」の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

合食(がふしよく)(きん)日記(につき)合食禁日記 食合(くひあはせ)の品を記したる書面也。〔94オ七・八〕

とあって、この標記語「日記」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

禁好物(きんかうぶつ)の注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)日記(につき)藥殿(くすどの)の壁書(へきしよ)に任(まか)せ冩(うつ)し給(たま)ふ可(べく)く候(さふらふ)。萬端(ばんたん)(ふで)を馳(はせ)せ難(がたし)。併(しかしながら)面拝(めんばい)を期(ご)す。恐々(きやう/\)謹言(きんげん)禁好物之注文合食禁日記藥殿壁書万端難併期面拝恐々謹言。▲合食禁日記ハ食合(くひあハ)せの品(しな)を記(しる)したる書付也。〔69ウ四、70オ二〕

禁好物(きんかうぶつ)注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)日記(につき)(まかせ)藥殿(くすりどの)壁書(へきしよ)(べく)写給(うつしたまふ)(さふらふ)万端(ばんたん)(がたし)(はせ)(ふで)(しかしながら)(ごす)面拝(めんはい)恐々(きよう/\)謹言(きんけん)▲合食禁日記ハ食合(くひあハ)せの品(しな)を記(しる)したる書付也。〔125オ四、125ウ四〕

とあって、標記語「日記」の語をもって収載し、その語注記は「合食本望は、内の虚(きよ)したる所を補(おぎな)ひ益(ま)す薬」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Nicqi.ニッキ(日記) 毎日記入する帳簿,または,書付.→次条〔邦訳462r〕

とあって、標記語「日記」の語の意味は「毎日記入する帳簿,または,書付」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

にッ-〔名〕【日記】にき。日次(ひなみ)の記。日毎に起れる事を、記しつけて置くもの。日録。日誌。日乘清彼雜志(宋、周)「雖數日程道之際、亦有日記宇津保物語、藏開、上84「俊蔭の朝臣、唐に渡りける日より、父は日記し」〔1494-5〕

とあって、標記語「にッ-〔名〕【日記】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「にっ-日記】〔名〕@事実を記録すること。また、その記録。実録。にき。Aできごとや感想を一日ごとにまとめ、日づけをつけて、その当日または接近した時点で記録すること。また、その記録。日録。日乗。にき。にちき。B「にっきちょう(日記帳)」の略」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年7月22日(金)曇り。東京→世田谷(駒沢)
合食禁(ガツシヨクキン・ガツシヨキン)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

合食禁(カツジヨキン)〔元亀二年本100三〕

合食禁(ガツシヨキン)〔静嘉堂本125七〕

合食禁(カツシヨクキン)〔天正一七年本上61ウ七〕

合食禁(カウシヨクキ )〔西來寺本178六〕

とあって、標記語「合食」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔至徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔宝徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔建部傳内本〕

禁好物注文合食(カツシヨ)日記任藥殿壁書〔山田俊雄藏本〕

(キン)好物注文合食禁日記任藥殿壁書(ヘキシヨ)〔経覺筆本〕

禁好物(キンカウ  )之注文合食(カツシヨ)之日記任(ヤク)殿(テン)壁書(ヘキ )(ウツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「合食禁」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・文明四年本に「カツシヨ(キン)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「合食禁」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「合食禁」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

合食禁(ガツシヨクキンカワス、クラウ、イマシム)[入・入・平去] 。〔態藝門275一〕

とあって、標記語「合食禁」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

合食禁(ガツシヨキン)・言語進退門87三〕

合戦(カツセン) ―力(カウリヨク)。―點(カツテン)。―躰(テイ)。―宿(シユク)。―壁(ヘキ)。―期(ガウゴ)。―木(カウモク)―食禁(カツシヨキン)。〔・言語門82四〕

合戦(カツセン) ―力。―點。―体。―宿。―薬。―壁。―期。―食禁。―木。〔・言語門74八〕

合戦(カツセン) ―力。―點。―躰。―宿。―壁。―期。―木。―食禁。〔・言語門89八〕

とあって、弘治二年本に標記語「合食禁」の語を収載し、他本は標記語「合戦」の熟語群として収載する。また、易林本節用集』に、

合食禁(カツシヨクキン) 〔言語門83二・天理図書館蔵上42オ二〕

とあって、標記語「合食禁」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』・『運歩色葉集』・印度本系統の『節用集』・易林本節用集』に標記語「合食禁」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「合食禁」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

合食禁(カウシヨクキン)日記任(クス)殿壁書(ヘキシヨ)(ウツシ)ハル萬端(バンタン)(ハせ)(フテ)面拝之時合食禁トハ。食ニ付テ藥多キヲ忌(イ)メト云心ナリ。〔下37ウ一〜三〕

とあって、標記語「合食」の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

合食(がふしよく)(きん)の日記(につき)合食禁日記 食合(くひあはせ)の品を記したる書面也。〔94オ七・八〕

とあって、この標記語「合食」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

禁好物(きんかうぶつ)の注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)乃日記(につき)藥殿(くすどの)の壁書(へきしよ)に任(まか)せ冩(うつ)し給(たま)ふ可(べく)く候(さふらふ)。萬端(ばんたん)(ふで)を馳(はせ)せ難(がたし)。併(しかしながら)面拝(めんばい)を期(ご)す。恐々(きやう/\)謹言(きんげん)禁好物之注文合食禁日記藥殿壁書万端難併期面拝恐々謹言。▲合食禁日記ハ食合(くひあハ)せの品(しな)を記(しる)したる書付也。〔69ウ四、70オ二〕

禁好物(きんかうぶつ)注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)日記(につき)(まかせ)藥殿(くすりどの)壁書(へきしよ)(べく)写給(うつしたまふ)(さふらふ)万端(ばんたん)(がたし)(はせ)(ふで)(しかしながら)(ごす)面拝(めんはい)恐々(きよう/\)謹言(きんけん)▲合食禁日記ハ食合(くひあハ)せの品(しな)を記(しる)したる書付也。〔125オ四、125ウ四〕

とあって、標記語「合食禁」の語をもって収載し、その語注記は「合食禁日記は、食合(くひあハ)せの品(しな)を記(しる)したる書付なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Gaxxo<qin.ガウショウキン(合食禁) 互いに調和しない食物,または,それらを一緒に食べた人に害をなす食物.¶比喩.Cano fitoto,ano fitoua gaxxo<qingia.(あれはわが合食禁ぢや)あれは私の解毒剤である.〔邦訳293r〕

とあって、標記語「合食」の語の意味は「互いに調和しない食物,または,それらを一緒に食べた人に害をなす食物」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「がッしょく-きん〔名〕【合食禁】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「がっしょ-きん合食禁】〔名〕「がっしょくきん(合食禁)」の変化した語。運歩色葉集(1548)「合食禁(カッショキン)」*天正本節用集(1590)「合食禁 ガッショキン 薬」」と標記語「がっしょく-きん合食禁】〔名〕@同時に食べると体の害になる食物を食べないようにすること。また、そのような食物。食い合わせ。また、転じて、そのような食物を食べると下痢などを起こすというところから、解毒薬の意にも用いられる。がっしょうきん。がっしょきん。庭訓往来(1394-1428頃)「禁好物注文。合食禁日記。任薬殿壁書。可写給候」*文明本節用集(室町中)「合食禁(ガッショクキン)」黒本本節用集(室町)「合食禁(ガッショクキン)」Aお互いが性格的に相いれないこと。気が合わないこと。また、そのような人。がっしょうきん。がっしょきん」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
 
 
2005年7月21日(木)曇り。東京→世田谷(駒沢)
注文(チウモン)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「知」部に、

註文(モン)〔元亀二年本64十〕

注文(モン)〔静嘉堂本75七〕

註文(チウモン)〔天正十七年本上38オ三〕

(チウ)〔西來寺本116四〕

とあって、標記語元・天・西は「註文」の語を収載し、静は「注文」の語を記載する。

 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔至徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔宝徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔建部傳内本〕

禁好物注文合食(カツシヨ)日記任藥殿壁書〔山田俊雄藏本〕

(キン)好物注文合食禁日記任藥殿壁書(ヘキシヨ)〔経覺筆本〕

禁好物(キンカウ  )注文合食(カツシヨ )之日記任(ヤク)殿(テン)壁書(ヘキ  )(ウツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「注文」と表記する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「注文」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「注文」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

注文(チウモンアラワス・シルス、フン・フミ)[去・平] 。〔器財門162七〕

とあって、標記語「注文」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本堯空本両足院本節用集』には、

注文(モン) ・言語進退門54三〕

注文(チウモン) 。〔・言語門54四〕〔・言語門58一〕

注進(チウシン) ―文。〔・言語門49二〕

とあって、弘治二年本永祿二年本両足院本に標記語「注文」の語を収載し、堯空本は標記語「注進」の熟語群として収載する。また、易林本節用集』に、

註文(モン) 注同〔言語門53一・天理図書館蔵上27オ一〕

とあって、標記語「註文」の語を収載し、語注記に「註は注と同じ」と記載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』に標記語「注文」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「註文」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

禁好物(キンカウモツ)注文(チウモン)ハ病人ノ食事ニヨキコトヲ注(チウ)スルナリ。〔下37ウ一〕

とあって、標記語「注文」の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

禁好物(きんかうもつ)注文(ちうもん)禁好物注文 食してあしき物を禁物と云。よき物を好物と云。注文とハ何/\はよし何/\ハあしといふ事を記したる書付也。〔94オ六・七〕

とあって、この標記語「注文」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

禁好物(きんかうぶつ)注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)乃日記(につき)藥殿(くすどの)の壁書(へきしよ)に任(まか)せ冩(うつ)し給(たま)ふ可(べく)く候(さふらふ)。萬端(ばんたん)(ふで)を馳(はせ)せ難(がたし)。併(しかしながら)面拝(めんばい)を期(ご)す。恐々(きやう/\)謹言(きんげん)禁好物注文合食禁日記藥殿壁書万端難併期面拝恐々謹言。▲禁好物注文ハ病により食物(くひもの)に禁物(いむもの)と好物(ようきもの)とあるをしるしたる書付也。〔69ウ四、70オ一・二〕

禁好物(きんかうぶつ)注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)日記(につき)(まかせ)藥殿(くすりどの)壁書(へきしよ)(べく)写給(うつしたまふ)(さふらふ)万端(ばんたん)(がたし)(はせ)(ふで)(しかしながら)(ごす)面拝(めんはい)恐々(きよう/\)謹言(きんけん)▲禁好物注文ハ病により食物(くひもの)に禁物(いむもの)と好物(ようきもの)とあるをしるしたる書付也。〔125オ四、125ウ三・四〕

とあって、標記語「注文」の語をもって収載し、その語注記は「禁好物注文は、病により食物(くひもの)に禁物(いむもの)と好物(ようきもの)とあるをしるしたる書付なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Chu'mon.チュウモン(注文) 覚書きの表や書付.§また,贈物として,織物や沈香などが贈られる時の品目表.なぜならば,贈物が馬,太刀,樽(Tarus),肴(Sacanas)であれば,Mocurocu(目録)と呼ばれるからである.〔邦訳130r〕

とあって、標記語「注文」の語の意味は「覚書きの表や書付」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ちう-もん〔名〕【注文】(一)事を記し付けたる文書。「新恩所領注文。(二)物を誂(あつら)へ作らするに、其形、寸法など注(しる)せる書付。(三)轉じて、直に、誂へ作らすること。製造の好み。室町殿日記(楢林長教)「衣類注文(四)事を註したる文。又、注釋したる文。チュウブン。源平盛衰記、廿五、行御會事「官の外記の注文を召す、かの申状について」吾妻鏡、二、養和元年八月廿九日「至伊豆箱根兩山者、今被仰之、註文者、各一紙被遺彼山」〔1292-4〕

とあって、標記語「ちう-もん〔名〕【注文】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ちゅう-もん注文・註文】〔名〕@注進の文書。注進状。Aある事柄についての要件を列記した文書。書き付け。記録。B(―する)あつらえること。品種・数量・形式などを指定して、製作・送付・購入などを依頼すること。また、その依頼。Cあつらえるものの条件。製作や送付を依頼する場合、あらかじめ申し送る希望。また、その文書。D(―する)こうしたい、ああしたいと望むこと。願望。期待。E特に注意すべき事柄。特徴」とあって、『庭訓徃來』の用例はBの用例として記載する。
[ことばの実際]
 
 
2005年7月20日(水)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
好物(カウモツ)」「禁好物(キンカウモツ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

好物(カウモツ)〔元亀二年本95八〕〔静嘉堂本119二〕〔天正一七年本上58五〕

好物〔西來寺本170二〕

禁好物(キンカウモツ)〔元亀二年本285七〕〔静嘉堂本330五〕

とあって、標記語「好物」と「禁好物」の両語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔至徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔宝徳三年本〕

禁好物注文合食禁日記任藥殿壁書可冩給候〔建部傳内本〕

禁好物注文合食(カツシヨ)日記任藥殿壁書〔山田俊雄藏本〕

(キン)好物注文合食禁日記任藥殿壁書(ヘキシヨ)〔経覺筆本〕

禁好物(キンカウ  )之注文合食(カツシヨ)之日記任(ヤク)殿(テン)壁書(ヘキ )(ウツシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「禁好物」と表記し、訓みは経覺筆本に「キン(カウモツ)」、文明四年本に「キンカウ(モツ)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「好物」「禁好物」の語は未収載にする。
と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「好物」「禁好物」と表記し、訓みは経覺筆本に「メイイ」と記載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「好物」「禁好物」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

好物(コノムブツカウ・ヨシ、モノ)[去・入] 。〔態藝門280八〕

禁好物(キンカウ・コノムイマシメ、ヨシ、モノ)[平・平] 。〔態藝門827八〕

とあって、標記語「好物」「禁好物」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

好物(ブツ) ・言語進退門87八〕

好色(カウシヨク) ―物(ブツ)。―士()。〔・言語門83二〕

好色(カウシヨク) ―物。―士。〔・言語門75五〕

好色(カウシヨク) ―物。―使。―士。〔・言語門90八〕

とあって、標記語「好物」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

好物(ブツ) 〔言語門77五・天理図書館蔵上39オ五〕

禁制(キンゼイ) ―断(ダン)。―物(モツ)。―札(サツ)。―獄(ゴク)。―戒(カイ)。―忌()。―足(ソク)―好物(カウモツ)。―止()。〔言辭門189三・天理図書館蔵下27ウ三〕

とあって、標記語「好物」そして標記語「禁制」の熟語群に「禁好物」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』・『運歩色葉集』・易林本節用集』に標記語「好物」「禁好物」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「禁好物」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

禁好物(キンカウモツ)注文(チウモン)ハ病人ノ食事ニヨキコトヲ注(チウ)スルナリ。〔下37ウ一〕

とあって、標記語「禁好物」の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

禁好物(きんかうもつ)注文(ちうもん)禁好物注文 食してあしき物を禁物と云。よき物を好物と云。注文とハ何/\はよし何/\ハあしといふ事を記したる書付也。〔94オ六・七〕

とあって、この標記語「禁好物」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

禁好物(きんかうぶつ)の注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)乃日記(につき)藥殿(くすどの)の壁書(へきしよ)に任(まか)せ冩(うつ)し給(たま)ふ可(べく)く候(さふらふ)。萬端(ばんたん)(ふで)を馳(はせ)せ難(がたし)。併(しかしながら)面拝(めんばい)を期(ご)す。恐々(きやう/\)謹言(きんげん)禁好物之注文合食禁日記藥殿壁書万端難併期面拝恐々謹言。▲禁好物注文ハ病により食物(くひもの)に禁物(いむもの)と好物(ようきもの)とあるをしるしたる書付也。〔69ウ四、70オ一・二〕

禁好物(きんかうぶつ)注文(ちうもん)合食(がふしよく)(きん)日記(につき)(まかせ)藥殿(くすりどの)壁書(へきしよ)(べく)写給(うつしたまふ)(さふらふ)万端(ばんたん)(がたし)(はせ)(ふで)(しかしながら)(ごす)面拝(めんはい)恐々(きよう/\)謹言(きんけん)▲禁好物注文ハ病により食物(くひもの)に禁物(いむもの)と好物(ようきもの)とあるをしるしたる書付也。〔125オ四、125ウ三・四〕

とあって、標記語「禁好物」の語をもって収載し、その語注記は「禁好物注文は、病により食物(くひもの)に禁物(いむもの)と好物(ようきもの)とあるをしるしたる書付なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qinco<mot.キンカウモツ(禁好物) 病人に禁じられている有害な物と,病人に許されている良い物と.→Co<mot.〔邦訳498l〕

Co<mot.カウモツ(好物) Co<but(好物)と言う方がまさる.ある病気にとって良い物,あるいは,病人の服用する薬などに対して害をなす物となさない物.害をなせばQinmot(禁物)と言い,なさなければCo<mot(好物)と言う.→Co<but;Qinco<mot;Qinmot.〔邦訳145r〕

とあって、標記語「禁好物」の語の意味は「病人に禁じられている有害な物と,病人に許されている良い物と」と標記語「禁好物」の語の意味は「Co<but(好物)と言う方がまさる.ある病気にとって良い物,あるいは,病人の服用する薬などに対して害をなす物となさない物.害をなせばQinmot(禁物)と言い,なさなければCo<mot(好物)と言う」とを記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かう-ぶつ〔名〕【好物】(一)好(この)む物(もの)「好物の酒」(二)すき。このみ。〔347-4〕

とあって、標記語「かう-ぶつ〔名〕【好物】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「きんこう-もつ禁好物】〔名〕病気に悪い食物と良い食物。好禁物」とあって、『庭訓徃來』『運歩色葉集』のこの語用例を記載する。標記語「かう-ぶつ〔名〕【好物】@好いものすばらしいもの。A病気などによくきき、また、健康のためによい飲食物。B好んで食べるようなよい物。すきな飲食物。C一般的に、すきな物や事柄。このみ」と記載する。さらに、標記語「かう-もつ〔名〕【好物】「こうぶつ(好物)」に同じ」とし、『運歩色葉集』と『日葡辞書』を引用記載する。
[ことばの実際]
 
 
2005年7月19日(火)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
所望(シヨマウ)」はことばの溜め池(2002.02.15)を参照&「本望(ホンマウ)」は、ことばの溜め池(2003.08.01)を参照。
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部と「保」部に、

所望(マウ)〔元亀二年本309七〕

所望〔静嘉堂本361六〕

とあって、標記語「所望」の語を収載し、もう一つの「本望」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

同擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望〔至徳三年本〕

合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減一劑欲令服此條尤本望〔宝徳三年本〕

同者擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望〔建部傳内本〕

同擣(タウシ)合藥(ヤク)瀉藥(シヤヤク)(ホ)藥等任本方名醫加減一劑(ザイ)レレ(ブク)せント此条尤本望〔山田俊雄藏本〕

クハ(タウシ)合藥瀉藥(シヤ )本方名醫(メイイ)加減一劑(サイ)ント条尤本望〔経覺筆本〕

同擣篩(タウシ)(ガウ)藥瀉藥(シヤヤク)補藥(ホヤク)(トウ)(マカせ)本方(ホンホウ)名醫加減( ケン)一劑(サイ)(ホツ)(せシメン)(ブク)此条尤〔文明四年本〕※(タウシ)。一劑( サイ)。

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「本望」と表記し、訓みは文明四年本に「(モト)ノ(ノゾミ)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「所望」「本望」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「所望」「本望」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

所望(シヨマウ・ノゾミトコロ、ノゾム)[上・平] 。〔態藝門932七〕

本望(ホンマウ・ノゾミモト、ノゾム)[上・平去] 。〔態藝門101三〕

とあって、標記語「所望」「本望」の語を収載する。そして印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

所望(シヨマウ) ―行(ギヤウ)。―職(シヨク)。―為()。―課(クワ)。―勘(カン)。―務()年貢。―帯(タイ)。―領(リヤウ)。―役(ヤク)。―當(タウ)。―労(ラウ)。―作(サク)。―詮(せン)。〔・言語進退門245二〕

所職(シヨシヨク) ―行。―為。―課。―望。―勘。―領。―務()。―役。―當。―労。―詮。―帯。―作。〔・言語門210四〕

所職(シヨシヨク) ―行。―為。―課。―務。―役。―労。―望。―勘。―領。―當。―詮。―帯。―作。―持。―存。―用。〔・言語門194四・五〕

本望(ホンマウ) 遂―。〔・言語進退33七〕

本末(ホンマツ) ―意(ホンイ)。―系モトヲツク。―来(ライ)。―復(フク)。―懐(クワイ)。―性(シヤウ)。―跡(せキ)。―所。―領(リヤウ)。―体(タイ)。―様。―望(マウ)。―分(フン)。―訴()。―券(ケン)。〔・言語門35一〕

本末(ホンマツ) ―意。―系。―来。―復。―懐。―性。―跡。―所。―願。―体。―様。―望。―分。―訴。―地。〔・言語門31九〕

本望(ホンマウ) 。〔・言語門38八〕

とあって、標記語「所望」と「本望」の両語を収載する。また、易林本節用集』に、

所得(シヨトク) ―謂()。―詮(せン)。―犯(ホン)。―知()。―役(ヤク)。―作()。―願(グワン)。―辨(ベン)。―用(ヨウ)。―縁(エン)。―期()。―領(リヤウ)。―職(シヨク)―望(マウ)。―爲()。―帶(タイ)。―學(ガク)。―存(ゾン)。〔言語門214四・天理図書館蔵40オ四〕

本望(ホンマウ) 〔言語門32二・天理図書館蔵上16ウ二〕

とあって、標記語「所望」と「本望」の両語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』・易林本節用集』に標記語「所望」「本望」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。ここで、『運歩色葉集』だけが標記語「本望」の語を未収載としていることは、重要な意味を有しているといえよう。すなわち、『運歩色葉集』編者は古写本『庭訓徃來』を編纂の過程で直接引用していないという事実である。この点について今後、その証例の語彙をまとめて報告したい。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「所望」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚候同者擣(タウシノ)合藥補(ホ)藥等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「所望」の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(この)(でう)(もつとも)本望(ほんもう)此条尤本望 。定りたる本方に名医は加減したる薬を用ひん事願ひのそむ所なりとそ。〔94オ五・六〕

とあって、この標記語「所望」「本望」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おなじ)(ハ)(たうし)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)本方(ほんぱう)に任(まか)せ名醫(めいい)の加減(かげんを)を以(もつて)一劑(いちさいを)を合(あハ)し之(これ)を服(ふく)せ令(し)めんと欲(ほつ)す此(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)同者合藥瀉藥補藥等任本方名醫之加減一劑之條本望。〔69ウ五〕

(おなしく)(ハ)擣篩(たうしの)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)(まかせ)本方(ほんぱうに)(もつて)名醫(めいいの)加減(かげんを)(あハし)一劑(いちさいを)(ほつす)(しめんと)(ふくせ)(これを)(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)。〔125オ三〕

とあって、標記語「本望」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xomo<.シヨマウ(所望) Nozomu tocoro.(望む所)願望.§また,この語にMo<xi,su(申し,す),または,Tcucamatcuri,ru(仕り,る)が連接して,乞う,頼むという意.§Xomo< mo<su,l,Tcucamatcuritai cotoga aru.(所望申す,または,仕りたい事がある)私はあなたにお頼みしたい事がある〔邦訳793r〕

Fonmo<.ホンマウ(本望) 願望.例,Fonmo<uo toguru,l,tassuru.(本望を遂ぐる,又は,達する)自分の望みを達する.⇒Soquai.〔邦訳260r〕

とあって、標記語「所望」(省略)、「本望」の語の意味は「」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しョ-まう〔名〕【所望】又、そまう。のぞみ。このみ。注文。囑望。杜陽雜編(唐、蘇)「禄位茅土、皆非望」古今著聞集、十、相撲強力、頼朝、畠山重忠に「所望の事の候を、申出さんと思ふが」〔1017-3〕

ほん-まう〔名〕【本望】本來の希望。本心の望み。素志。素懷。宋書、劉傳「當法御一レ下、深思自警、以副本望平家物語、一、鹿谷事「いかにしても平家を亡ぼし、本望を遂げん」〔1859-2〕

とあって、標記語「しょ-まう〔名〕【所望】」「ほん-まう〔名〕【本望】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しょ-もう所望】〔名〕ある物を手に入れたい、ある事をしてほしいなどとのぞむこと。のぞみ。ねがい。注文」「ほん-まう〔名〕【本望】本来の望み。かねがね抱いている志。本懐。A望みを達して喜びを感じること。満足であること」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
たとひ身は誅せられさうとも秦のために地を得は、本望でさうと云ぞ。《『史記抄』一一・張儀》
 
 
2005年7月18日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
(フク)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「福」部に、

(ブク) 重。〔元亀二年本228七〕

(フク)(ヂウ)―。〔静嘉堂本261七〕

(フク) 重―。〔天正十七年本中59ウ八〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記に「重服」の熟語を記載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

同擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令此条尤本望也〔至徳三年本〕

合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減一劑欲令此條尤本望也〔宝徳三年本〕

同者擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令此条尤本望也〔建部傳内本〕

同擣(タウシ)合藥(ヤク)瀉藥(シヤヤク)(ホ)藥等任本方名醫加減一劑(ザイ)レレ(ブク)せン此条尤本望也〔山田俊雄藏本〕

クハ(タウシ)合藥瀉藥(シヤ )本方名醫(メイイ)加減一劑(サイ)ント条尤本望也〔経覺筆本〕

同擣篩(タウシ)(ガウ)藥瀉藥(シヤヤク)補藥(ホヤク)(トウ)(マカせ)本方(ホンホウ)名醫加減( ケン)一劑(サイ)(ホツ)(せシメン)(ブク)此条尤本望也〔文明四年本〕※(タウシ)。一劑( サイ)。

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「」と表記し、訓みは文明四年本に「ブクし」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(フクスル)[入](クスリ)。衣(コロモ)。〔態藝門651七〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記に「藥/衣」と記載する。そして印度本系統の弘治二年本永祿二年本・堯空本節用集』には、

(ブクスル)・言語門181四〕

(ブクスル)・言語門150九〕

(ブクス)・言語門140六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記に「薬」と記載する。また、易林本節用集』に、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・堯空本節用集』に標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚候同者擣(タウシノ)合藥補(ホ)藥等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条尤所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ふく)(しめ)んと欲(ほつ) 服ハ薬を飲事也。〔94オ五〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おなじ)(ハ)(たうし)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)本方(ほんぱう)に任(まか)せ名醫(めいい)の加減(かげんを)を以(もつて)一劑(いちさいを)を合(あハ)し之(これ)(ふく)(し)めんと欲(ほつ)す此(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)同者合藥瀉藥補藥等任本方名醫之加減一劑之條本望也。〔69ウ五〕

(おなしく)(ハ)擣篩(たうしの)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)(まかせ)本方(ほんぱうに)(もつて)名醫(めいいの)加減(かげんを)(あハし)一劑(いちさいを)(ほつす)(しめんと)(ふくせ)(これを)(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)。〔125オ三〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Bucu.ブク() 単独では用いられないで,必ずxi,suru(し,する)と共に用いられる.¶例,Bucusuru.(服する)食う.¶また,薬や茶(cha)を飲む.〔邦訳64l〕

とあって、標記語「」の語の意味は「Bucusuru.(服する)食う.¶また,薬や茶(cha)を飲む」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ふく・す・スル・スレ・セ・シ・セヨ〔他動・左變〕【】(一)附き從はしむ。孟子、公孫丑、上篇「以力服人者、非心服也、力不膽也、以人者、中心悦誠也」「敵をす」「天下をす」(二)着る。(衣に)。孝經、卿大夫章「非先王之法服、不衣服令「當色以下、各兼得之」(三)飲む。食ふ。ぶくす。〔1734-3〕

とあって、標記語「ふく・す〔他動・左變〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ぶく・する】〔自サ変〕@あきらめて、または得心して従う。服従する。承服する。心服する。Aある仕事につく。従事する。B(「ぶくする」とも)喪(も)にこもる。喪に服する。Cおびる。持っている。[二]〔他サ変〕@したがわせる。屈服させる。服従させる。A身につける。着る。B(「ぶくする」とも)茶、薬などを飲む。服用する。また、物を食う」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
われら、愚癡にして、あやまりて毒藥を服せり。(我等愚癡誤服毒薬)《西來寺本『仮名書き法華經』如來品901A》
 
 
2005年7月17日(日)小雨。京都東京→世田谷(駒沢)
一劑(イチザイ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

一劑(ザイ) 薬。〔元亀二年本19六〕〔静嘉堂本15三〕〔西來寺本30五〕

一劑(サイ) 薬。〔天正十七年本〕

とあって、標記語「一劑」の語を収載し、語注記に「薬」と記載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

同擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔至徳三年本〕

合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減一劑欲令服此條尤本望也〔宝徳三年本〕

同者擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔建部傳内本〕

同擣(タウシ)合藥(ヤク)瀉藥(シヤヤク)(ホ)藥等任本方名醫加減一劑(ザイ)レレ(ブク)せント此条尤本望也〔山田俊雄藏本〕

クハ(タウシ)合藥瀉藥(シヤ )本方名醫(メイイ)加減一劑(サイ)ント条尤本望也〔経覺筆本〕

同擣篩(タウシ)(ガウ)藥瀉藥(シヤヤク)補藥(ホヤク)(トウ)(マカせ)本方(ホンホウ)名醫加減( ケン)一劑(サイ)(ホツ)(せシメン)(ブク)此条尤本望也〔文明四年本〕※(タウシ)。一劑( サイ)。

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「一劑」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「(イチ)サイ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「一劑」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「一劑」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

一劑(イチザイ/―、ワクル・キサム)[○・去]。〔数量門12二〕

・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・堯空本・両足院本節用集』には、

一劑(サイ)・言語数量門8一〕

一劑(ザイ) ・言語進退門5六〕

一位 ―種。〜―部始終―劑。―擧。〜―笑・言語門5六〕

一位 ―種。〜―部始終―劑(サイ)。―擧。〜―落索(ラクサク)大K畫在之・言語門6六〕

とあって、弘治二年本永祿二年本に標記語「一劑」の語を収載する。他二本は標記語「一位」の熟語群に収載する。語注記は弘治二年本だけに広本節用集』を継承する「薬」を記載している。また、易林本節用集』に、

一劑(  ザイ) 薬合〔数量門6六・天理図書館蔵上3ウ六〕

とあって、標記語「一劑」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』に標記語「一劑」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「一劑」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚候同者擣(タウシノ)合藥補(ホ)藥等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条尤所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「一劑の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

一劑(いちさいを)を合(あハ)一劑 剤ハ調合する事也。薬を合(あわ)するに何(なに)ハ何匁(なんもんめ)、何ハ何匁と定りたる目方の通り合せたるを一劑といふなり。〔94オ四、94オ四・五〕

とあって、この標記語「一劑」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おなじ)(ハ)(たうし)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)本方(ほんぱう)に任(まか)せ名醫(めいい)の加減(かげんを)を以(もつて)一劑(いちさいを)を合(あハ)し之(これ)を服(ふく)せ令(し)めんと欲(ほつ)す此(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)同者合藥瀉藥補藥等任本方名醫之加減一劑之條本望也。▲剤ハ調(とゝの)へ合(あハ)すの義。〔69ウ四、70オ一〕

(おなしく)(ハ)擣篩(たうしの)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)(まかせ)本方(ほんぱうに)(もつて)名醫(めいいの)加減(かげんを)(あハし)一劑(いちさいを)(ほつす)(しめんと)(ふくせ)(これを)(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)。▲剤ハ調(とゝの)へ合(あハ)すの義。〔125オ一、125ウ三〕

とあって、標記語「一劑」の語をもって収載し、その語注記は「剤は、調(とゝの)へ合(あハ)すの義」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Ichizai.イチザイ(一劑) この言い方によって,薬のある重さや分量を数える.〔邦訳329l〕

とあって、標記語「一劑」の語の意味は「この言い方によって,薬のある重さや分量を数える」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いち-ざい〔名〕【一劑】〔正字通、説文「劑、齊也」漢書、藝文志「百藥齊和」註「與劑同」〕種種の藥品を、定量に應じて、合せ製したるもの。典藥寮式「白散一劑、屠蘇散一劑齋宮寮式「呉茱丸、芍藥丸、温白丸、各、一劑」〔1860-4〕

とあって、標記語「いち-ざい〔名〕【一劑】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「いち-ざい一劑】〔名〕薬剤の一回分。また、それを紙に包んだもの。一服」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年7月16日(土)晴れ一時曇り。東京→世田谷(駒沢)→京都
加減(カゲン)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、「加増(ソウ)。加薬。加味()。加持()。加護()。加勢。加階(カイ)。加賀。加州」の九語を収載するが、標記語「加減」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

同擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔至徳三年本〕

合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減一劑欲令服此條尤本望也〔宝徳三年本〕

同者擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔建部傳内本〕

同擣(タウシ)合藥(ヤク)瀉藥(シヤヤク)(ホ)藥等任本方名醫加減一劑(ザイ)レレ(ブク)せント此条尤本望也〔山田俊雄藏本〕

クハ(タウシ)合藥瀉藥(シヤ )本方名醫(メイイ)加減一劑(サイ)ント条尤本望也〔経覺筆本〕

同擣篩(タウシ)(ガウ)藥瀉藥(シヤヤク)補藥(ホヤク)(トウ)(マカせ)本方(ホンホウ)名醫加減( ケン)一劑(サイ)(ホツ)(せシメン)(ブク)此条尤本望也〔文明四年本〕※(タウシ)。一劑( サイ)。

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「加減」と表記し、訓みは文明四年本に「カ(ケン)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「加減」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「加減」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

加減(ゲンクワエル、カン・ヲトル)[平・去]。〔態藝門273三〕

・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

加減( ゲン) ・言語進退門87六〕

加護(カゴ) ―減。―級(キウ)亦?位義。―地子(ヂシ)。―持()。―判(ハン)。―被。〔・言語門82八〕

加護(カゴ) ―拭。―減。―級亦?位義。―地子。―増。―持。―判。―被。―薬。―勢。〔・言語門75三〕

加護(カゴ) ―減。―級?位義。―持。―判。―被。―勢。〔・言語門90五〕

とあって、弘治二年本に標記語「加減」の語を収載し、他本は標記語「加護」の熟語群として「加減」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

加減( ケン) 〔言語門80五・天理図書館蔵上40ウ五〕

とあって、標記語「加減」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』に標記語「加減」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「加減」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚候同者擣(タウシノ)合藥補(ホ)藥等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条尤所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「加減の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

加減(かげん)加減 虚分(きよぶん)を補(おきな)ひ益(ま)す薬なり。〔94オ一・二〕

とあって、この標記語「加減」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おなじ)(ハ)(たうし)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)本方(ほんぱう)に任(まか)せ名醫(めいい)加減(かげんを)を以(もつて)一劑(いちさいを)を合(あハ)し之(これ)を服(ふく)せ令(し)めんと欲(ほつ)す此(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)同者合藥瀉藥補藥等任本方名醫加減一劑之條本望也。▲加減ハ内の虚(きよ)したる所を補(おぎな)ひ益(ま)す薬。〔69ウ四、69ウ八〕

(おなしく)(ハ)擣篩(たうしの)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)(まかせ)本方(ほんぱうに)(もつて)名醫(めいいの)加減(かげんを)(あハし)一劑(いちさいを)(ほつす)(しめんと)(ふくせ)(これを)(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)▲加減ハ内の虚(きよ)したる所を補(おきな)ひ益(ま)す薬。〔125オ一、125ウ一・二〕

とあって、標記語「加減」の語をもって収載し、その語注記は「加減は、内の虚(きよ)したる所を補(おぎな)ひ益(ま)す薬」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Caguen.カゲン(加減) 程よくととのえること.¶また,物事のよい取合わせ,または,程あいなどの意味に取られる.→Ambai.Cami(加味).〔邦訳78l〕

とあって、標記語「加減」の語の意味は「程よくととのえること」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-げん〔名〕【加減】(一)加はると、減ると。又、加ふると、減らすと。東坡集、「秧馬、曲盡其用(二)ほどあひ。ぐあひ。あんばい。調子。狂言記、禰宜山伏「荼、云云、良いかげんにして進ぜられ」「味を加減する」(三)病気の容子。あんばい。「かげんがよい」かげんがわるい」〔1-609-2〕

とあって、標記語「-げん〔名〕【加減】@(―する)加えることと減らすこと。加わることと減ること。また、数学で加法・減法。A(―する)適度に調節すること。ほどよkぅすること。B物事の状態や、程度、調子、健康、時候、味覚、その他について広くいう。[二]〔接尾〕@具合。程度。また、適度に調節すること。Aある傾向であること。ややそのような具合であること。Bちょうどよい程度。「湯が入り加減だ」」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-げん加減】〔名〕」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
 
2005年7月15日(金)小雨。東京→世田谷(駒沢)
名醫(メイイ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「免」部に、

名醫(イ)〔元亀二年本296五〕〔静嘉堂本344六〕

とあって、標記語「名醫」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

同擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔至徳三年本〕

合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減一劑欲令服此條尤本望也〔宝徳三年本〕

同者擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔建部傳内本〕

同擣(タウシ)合藥(ヤク)瀉藥(シヤヤク)(ホ)藥等任本方名醫加減一劑(ザイ)レレ(ブク)せント此条尤本望也〔山田俊雄藏本〕

クハ(タウシ)合藥瀉藥(シヤ )本方名醫(メイイ)加減一劑(サイ)ント条尤本望也〔経覺筆本〕

同擣篩(タウシ)(ガウ)藥瀉藥(シヤヤク)補藥(ホヤク)(トウ)(マカせ)本方(ホンホウ)名醫加減( ケン)一劑(サイ)(ホツ)(せシメン)(ブク)此条尤本望也〔文明四年本〕※(タウシ)。一劑( サイ)。

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本には、「名醫」と表記し、訓みは経覺筆本に「メイイ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「名醫」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

耆婆(ギバ) 天竺阿闍(アジヤ)世王之時名醫(メイイ)ナリ 与釋尊(シヤクソン) 即奈女之子也 平生竊(ヒソカ)ニシテ藥王樹(テラシミ)テ之五臓病根 詳耆婆経云々〔人名門51一〕

とあって、標記語「耆婆」の注記語中に「名醫」の語を収載する。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

名醫(メイイナト、クスシ)[平・平] 。〔人倫門872一〕

とあって、標記語「名醫」の語を収載する。続いて印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

扁鵲(ヘンジヤク)末戦国名醫(メイイ)・人倫門37八〕

とあって、標記語「扁鵲」の注記語として「名醫」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

名僧( ソウ) ―人(ジン)―童(ドウ)―醫(イ)―匠〔人倫門195五・天理図書館蔵下30ウ五〕

とあって、標記語「名僧」熟語群に「名醫」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』・易林本節用集』に標記語「名醫」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「名醫」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚候同者擣(タウシノ)合藥補(ホ)藥等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条尤所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「名醫の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

名醫(めいい)の加減(かげんを)を以(もつて)一劑(いちさいを)を合(あハ)し之(これ)を服(ふく)せ令(し)めんと欲(ほつ)名醫之加減一劑 加ハくわへ。減ハへらすと訓す。定りたる本方を其病症によりて或ハ薬種を加へ或ハへらすを加減と云。医術に通達せさる人の加減したるハかへつて害をなす事多きゆへ名医の加減といひし也。〔94オ二、94オ三・四〕

とあって、この標記語「名醫」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おなじ)(ハ)(たうし)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)本方(ほんぱう)に任(まか)名醫(めいい)の加減(かげんを)を以(もつて)一劑(いちさいを)を合(あハ)し之(これ)を服(ふく)せ令(し)めんと欲(ほつ)す此(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)同者合藥瀉藥補藥等任本方名醫之加減一劑之條本望也。〔69ウ四〕

(おなしく)(ハ)擣篩(たうしの)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)(まかせ)本方(ほんぱうに)(もつて)名醫(めいいの)加減(かげんを)(あハし)一劑(いちさいを)(ほつす)(しめんと)(ふくせ)(これを)(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)。〔125オ二・三〕

とあって、標記語「名醫」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Mei-i.メイイ(名醫) Na aru cusuxi.(名ある医師)すなわち,Meijinno cusuxi.(名人の医師) 著名な医者.〔邦訳394r〕

とあって、標記語「名醫」の語の意味は「Na aru cusuxi.(名ある医師)すなわち,Meijinno cusuxi.(名人の医師) 著名な医者」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

めい-〔名〕【名醫】名高き醫者。技術の、すぐれたる良き醫師。上醫。國手。漢書、杜延年傳「昭帝末寢疾、懲天下名醫北史、許智藏傳「覽醫方、因而究極、時號名醫源平盛衰記、十一、大臣所勞事「重盛が身佛體にあらず、名醫亦耆婆に及ぶべからず」〔1979-3〕

とあって、標記語「めい-〔名〕【名醫】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「めい-名醫】〔名〕名高い医者。すぐれた医者」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
件時長、當世有名醫(メイイ)譽之間、重有沙汰、今日被差上専使、《訓み下し》件ノ時長ハ、当世名医ノ誉有ルノ間、重ネテ沙汰有テ、今日専使ヲ差シ上セラル。《寛永版『吾妻鏡』建久十年三月十二日の条》
 
 
2005年7月14日(木)小雨。東京→世田谷(駒沢)
本方(ホンハウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、

夲方(ハウ) 藥。〔元亀二年本43五〕〔天正十七年本上25オ一〕〔西來寺本〕

夲方 藥也。〔静嘉堂本48二〕

とあって、標記語「本方」の語を収載し、語注記に「藥(なり)」と記載する。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

同擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔至徳三年本〕

合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減一劑欲令服此條尤本望也〔宝徳三年本〕

同者擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔建部傳内本〕

同擣(タウシ)合藥(ヤク)瀉藥(シヤヤク)(ホ)藥等任本方名醫加減一劑(ザイ)レレ(ブク)せント此条尤本望也〔山田俊雄藏本〕

クハ(タウシ)合藥瀉藥(シヤ )本方名醫(メイイ)加減一劑(サイ)ント条尤本望也〔経覺筆本〕

同擣篩(タウシ)(ガウ)藥瀉藥(シヤヤク)補藥(ホヤク)(トウ)(マカせ)本方(ホンホウ)名醫加減( ケン)一劑(サイ)(ホツ)(せシメン)(ブク)此条尤本望也〔文明四年本〕※(タウシ)。一劑( サイ)。

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・経覺筆本・山田俊雄藏本・文明四年本には、「本方」と表記し、訓みは文明四年本に「ホンホウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「本方」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「本方」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

本方(ホンハウモト、ミチ・カタ)[上・平]。〔態藝門962二〕

とあって、標記語「本方」の語を収載し、語注記に「藥」と記載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』に標記語「本方」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「本方」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚候同者擣(タウシノ)合藥補(ホ)藥等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条尤所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「本方の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

本方(ほんぱう)に任(まか)本方 本方ハ定めある個人その法なり。〔94オ二〕

とあって、この標記語「本方」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おなじ)(ハ)(たうし)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)本方(ほんぱう)に任(まか)せ名醫(めいい)の加減(かげんを)を以(もつて)一劑(いちさいを)を合(あハ)し之(これ)を服(ふく)せ令(し)めんと欲(ほつ)す此(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)同者合藥瀉藥補藥等任本方名醫之加減一劑之條本望也。▲本方ハ古人(こじん)の定(さだ)め置(おか)れたる組合(くミあハ)せの薬方(はう)。〔69ウ四、69ウ八〜70オ一〕

(おなしく)(ハ)擣篩(たうしの)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)(まかせ)本方(ほんぱうに)(もつて)名醫(めいいの)加減(かげんを)(あハし)一劑(いちさいを)(ほつす)(しめんと)(ふくせ)(これを)(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)▲本方ハ古人(こじん)の定(さだ)め置(おか)れたる組合(くミあハ)せの薬方(やくはう)。〔125オ二、125ウ二〕

とあって、標記語「本方」の語をもって収載し、その語注記は「本方は、古人(こじん)の定(さだ)め置(おか)れたる組合(くミあハ)せの薬方(やくはう)なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fonpo>.ホンハウ(本方) 何かの病気に関して,ある著名な医師たちが書き残している養生法,あるいは,処方.¶Cusurino fonqo>(薬の本方)昔の書物に書いてある,或る薬の処方,すなわち,調合法.〔邦訳261l〕

とあって、標記語「本方」の語の意味は「何かの病気に関して,ある著名な医師たちが書き残している養生法,あるいは,処方」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ほん-ぱう〔名〕【本方】漢方醫術にて、古へより定まりたる調劑の方。庭訓徃來、十一月「瀉藥補藥者、任本方、以名醫加減、合一劑」〔1856-4〕

とあって、標記語「ほん-ぱう〔名〕【本方】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ほん-ほう本方】〔名〕漢方で、昔からきまっている調剤の方法」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
 
 
2005年7月13日(水)小雨後晴れ。東京→世田谷(駒沢)
補藥(ホヤク)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、標記語「補藥」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十一月十二日の状に、

同擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔至徳三年本〕

合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減一劑欲令服此條尤本望也〔宝徳三年本〕

同者擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔建部傳内本〕

同擣(タウシ)合藥(ヤク)瀉藥(シヤヤク)(ホ)等任本方名醫加減一劑(ザイ)レレ(ブク)せント此条尤本望也〔山田俊雄藏本〕

クハ(タウシ)合藥瀉藥(シヤ )本方名醫(メイイ)加減一劑(サイ)ント条尤本望也〔経覺筆本〕

同擣篩(タウシ)(ガウ)藥瀉藥(シヤヤク)補藥(ホヤク)(トウ)(マカせ)本方(ホンホウ)名醫加減( ケン)一劑(サイ)(ホツ)(せシメン)(ブク)此条尤本望也〔文明四年本〕※(タウシ)。一劑( サイ)。

と見え、経覺筆本は未収載で、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・文明四年本には、「補藥」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「ホ(ヤク)」、文明四年本に「ホヤク」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「補藥」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、標記語「補藥」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

補藥(ホヤク) 〔食服門31四・天理図書館蔵上16オ四〕

とあって、標記語「補藥」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』に標記語「補藥」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難ヲ。面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「補藥」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚候同者擣(タウシノ)合藥(ホ)等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条尤所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「補藥の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

補藥(ほやく)補藥 虚分(きよぶん)を補(おきな)ひ益(ま)す薬なり。〔94オ一・二〕

とあって、この標記語「補藥」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おなじ)(ハ)(たうし)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)本方(ほんぱう)に任(まか)せ名醫(めいい)の加減(かげんを)を以(もつて)一劑(いちさいを)を合(あハ)し之(これ)を服(ふく)せ令(し)めんと欲(ほつ)す此(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)同者合藥瀉藥補藥等任本方名醫之加減一劑之條本望也。▲補藥ハ内の虚(きよ)したる所を補(おぎな)ひ益(ま)す薬。〔69ウ四、69ウ八〕

(おなしく)(ハ)擣篩(たうしの)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)(まかせ)本方(ほんぱうに)(もつて)名醫(めいいの)加減(かげんを)(あハし)一劑(いちさいを)(ほつす)(しめんと)(ふくせ)(これを)(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)▲補藥ハ内の虚(きよ)したる所を補(おきな)ひ益(ま)す薬。〔125オ一、125ウ一・二〕

とあって、標記語「補藥」の語をもって収載し、その語注記は「補藥は、内の虚(きよ)したる所を補(おぎな)ひ益(ま)す薬」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Foyacu.ホヤク(補藥) Voguino> cusuri.(補ふ薬).舎利別〔シロップ〕などのような,少しずつ徐々に配合していく薬.¶また,体力を回復させたり,活気を与えたりする薬.〔邦訳267r〕

とあって、標記語「補藥」の語の意味は「」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-やく〔名〕【補藥】おぎなひぐすり(補藥)に同じ。庭訓徃來、十一月「瀉藥、補藥者、任本方、以名醫加減、合一劑花月草紙(文政、松平定信)三「補藥とても、草根。木皮もて、天受のかけたるは更なり、うちのやぶれしをもいかで補ふべき」」〔1860-4〕

とあって、標記語「-やく〔名〕【補藥】漢方で病態を緊張傾向の強い「実」と弛緩傾向の強い「虚」との二種類にわけるが、虚の病態に使う薬剤を補薬とよぶ。人参、黄耆など」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-やく補藥】〔名〕」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
(せン)モ又(マタ)大用(タヒヨウ)現前(ケンぜン)スレハ、丸薬(クハンヤク)ノ後(ノチ)補藥(ホヤク)(ブク)スルカ如シ。《米沢本『沙石集』卷五末の条187K》
 
 
 
2005年7月12日(火)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
瀉藥(シヤヤク)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

瀉藥(ヤク)〔元亀二年本316五〕

瀉藥(シヤヤク)〔静嘉堂本371六〕

とあって、標記語「瀉藥」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

同擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔至徳三年本〕

合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減一劑欲令服此條尤本望也〔宝徳三年本〕

同者擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔建部傳内本〕

同擣(タウシ)合藥(ヤク)瀉藥(シヤヤク)(ホ)藥等任本方名醫加減一劑(ザイ)レレ(ブク)せント此条尤本望也〔山田俊雄藏本〕

クハ(タウシ)合藥瀉藥(シヤ )本方名醫(メイイ)加減一劑(サイ)ント条尤本望也〔経覺筆本〕

同擣篩(タウシ)(ガウ)瀉藥(シヤヤク)補藥(ホヤク)(トウ)(マカせ)本方(ホンホウ)名醫加減( ケン)一劑(サイ)(ホツ)(せシメン)(ブク)此条尤本望也〔文明四年本〕※(タウシ)。一劑( サイ)。

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「瀉藥」と表記し、訓みは経覺筆本に「シヤ(ヤク)」、山田俊雄藏本・文明四年本に「シヤヤク」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「瀉藥」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「瀉藥」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

瀉藥(シヤヤクソヽク、クスリ)[上・入] 。〔態藝門962二〕

とあって、標記語「瀉藥」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、標記語「瀉藥」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

瀉藥(シヤヤク) 〔食服門208五・天理図書館蔵下37オ五〕

とあって、標記語「瀉藥」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「瀉藥」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「瀉藥」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚候同者擣(タウシノ)合藥補(ホ)藥等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条尤所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「瀉藥の語は未収載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

瀉藥(しややく)瀉藥 くたし薬也。〔94オ一〕

とあって、この標記語「瀉藥」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おなじ)(ハ)(たうし)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)本方(ほんぱう)に任(まか)せ名醫(めいい)の加減(かげんを)を以(もつて)一劑(いちさいを)を合(あハ)し之(これ)を服(ふく)せ令(し)めんと欲(ほつ)す此(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)同者合藥瀉藥補藥等任本方名醫之加減一劑之條本望也。▲瀉藥ハ(やまひ)の実(しつ)したるを瀉藥ハ(やまひ)の実(しつ)したるを泄(も)らす薬。〔69オ三、69ウ八〕

(おなしく)(ハ)擣篩(たうしの)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)(まかせ)本方(ほんぱうに)(もつて)名醫(めいいの)加減(かげんを)(あハし)一劑(いちさいを)(ほつす)(しめんと)(ふくせ)(これを)(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)▲瀉藥ハ(やまひ)の実(じつ)したるを泄(も)らす薬。〔125オ一、125ウ一・二〕

とあって、標記語「瀉藥」の語をもって収載し、その語注記は「瀉藥は、(やまひ)の実(じつ)したるを泄(も)らす薬」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xayacu.シャヤク(瀉藥) 下剤,すなわち,悪い物を排泄させる薬.〔邦訳743r〕

とあって、標記語「瀉藥」の語の意味は「下剤,すなわち,悪い物を排泄させる薬」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「しャ-やく〔名〕【瀉藥】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しゃ-やく瀉藥】〔名〕くだしぐすり。下剤。瀉剤。江談抄(1111頃)三「推之大に争在腹中。然者瀉薬を服せしめんとて、令呵梨勒丸」*正法眼藏隨聞記(1235-38)一・六「より来らば、灸治一所、瀉薬一種なんど用ゐんことは、行道の(さわり)ともならず」*新札往来(1367)下「蘇合円、閼伽陀薬、麝香丸、万病円、瀉薬大切に候」*看聞御記-応永二八年(1421)一〇月七日「違例同前。写薬之」*運歩色葉集(1548)「瀉薬シヤヤク」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年7月11日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
合藥(ガウヤク)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

合藥〔元亀二年本63九〕

合藥〔静嘉堂本74二〕〔天正十七年本上37オ八〕

とあって、標記語「合藥」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

同擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔至徳三年本〕

合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減一劑欲令服此條尤本望也〔宝徳三年本〕

同者擣合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔建部傳内本〕

同擣(タウシ)合藥(ヤク)瀉藥(シヤヤク)(ホ)藥等任本方名醫加減一劑(ザイ)レレ(ブク)せント此条尤本望也〔山田俊雄藏本〕

クハ(タウシ)合藥瀉藥(シヤ )本方名醫(メイイ)加減一劑(サイ)ント条尤本望也〔経覺筆本〕

同擣篩(タウシ)(ガウ)藥瀉藥(シヤヤク)補藥(ホヤク)(トウ)(マカせ)本方(ホンホウ)名醫加減( ケン)一劑(サイ)(ホツ)(せシメン)(ブク)此条尤本望也〔文明四年本〕※(タウシ)。一劑( サイ)。

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「合藥」と表記し、訓みは文明四年本に「寮」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

合藥 醫方部/カウ(フ)ヤク〔黒川本・畳字門上87ウ六〕

合離 〃戰。〃藥。〃眼。〃文。〃掌。〃阿弥陀佛等也。〃宿。〃聟。〃子。〃夕。〃力〔卷第三・畳字門273五〕

とあって、三卷本に標記語「合藥」の語を収載し、十巻本は熟語群に収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「合藥」の語は未収載にする。

 このように、三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』に見えるほかは上記当代の古辞書においては、標記語「合藥」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難ヲ。面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「合藥」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚候同者擣(タウシノ)合藥(ホ)藥等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条尤所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(たうし)合藥(がふやく)合藥 ハ臼(うす)にてつく事。ハ篩(ふるい)にてふるふ事也。合ハ調合(てうかう)なり。是ハ調合したる粉薬(こくすり)を云也。〔93ウ八〜94オ一〕

とあって、この標記語「合藥」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おなじ)(ハ)(たうし)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)本方(ほんぱう)に任(まか)せ名醫(めいい)の加減(かげんを)を以(もつて)一劑(いちさいを)を合(あハ)し之(これ)を服(ふく)せ令(し)めんと欲(ほつ)す此(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)同者合藥瀉藥補藥等任本方名醫之加減一劑之條本望也。▲擣合薬ハ(うす)にて(つ)き(ふるい)にて篩(ふる)ひたる調合藥(あハせくすり)也。練藥(ねりやく)(さん)薬の類(るい)なるべし。〔69オ三、69ウ七・八〕

(おなしく)(ハ)擣篩(たうしの)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)(まかせ)本方(ほんぱうに)(もつて)名醫(めいいの)加減(かげんを)(あハし)一劑(いちさいを)(ほつす)(しめんと)(ふくせ)(これを)(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)▲擣合薬ハ(うす)にて(つ)き(ふるひ)にて篩(ふる)ひたる調合藥(あハせくすり)也。練藥(ねりやく)散薬(さんやく)の類(るゐ)なるべし。〔125オ一、125ウ一〕

とあって、標記語「合藥」の語をもって収載し、その語注記は「擣合藥は、(うす)にて(つ)き(ふるひ)にて篩(ふる)ひたる調合藥(あハせくすり)なり。練藥(ねりやく)散薬(さんやく)の類(るゐ)なるべし」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「合藥」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

がう-やく〔名〕【合藥】あはせぐすり。くヮやく(火藥)の條を見よ。〔408-4〕

とあって、標記語「がう-やく〔名〕【合藥】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ごう-やく合藥】〔名〕@数種の薬剤を調合した薬。あわせぐすり。聖コ太子傳暦(971頃か)上・推古天皇二七年「天皇賜薬千余種。太子合薬而施諸病人」*今昔物語集(1120頃か)四・三一「思ひ煩ひて乳を非(あら)ぬ様に合薬し成して」*色葉字類抄(1177-81)「合薬 医方部 ガウヤク」玉葉−養和元年(1181)七月二五日「今日、於家中合薬、今案方也、為宿病也」*正法眼藏(1231-53)弁道話「それ医方をみる人の合薬をわすれん、なにの益かあらん」A火薬。*俳諧・談林十百韻(1675)上「合薬や松原さして匂ふらん<雪菜>直砂長じて石火矢の音<一朝>」*航米日録(1860)一「合薬又は火器類は、日本人に渡せし房室に置くべからず」*英政如何(1868)一〇「此時に合薬の発明ありて、古来戦争の法尽く廃れたり」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年7月10日(日)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
擣篩・(タウジ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、標記語「」「擣篩」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔至徳三年本〕

合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減一劑欲令服此條尤本望也〔宝徳三年本〕

同者合藥瀉藥補藥等任本方以名醫加減合一劑欲令服此条尤本望也〔建部傳内本〕

(タウシ)合藥(ヤク)瀉藥(シヤヤク)(ホ)藥等任本方名醫加減一劑(ザイ)レレ(ブク)せント此条尤本望也〔山田俊雄藏本〕

クハ(タウシ)合藥瀉藥(シヤ )本方名醫(メイイ)加減一劑(サイ)ント条尤本望也〔経覺筆本〕

擣篩(タウシ)(ガウ)藥瀉藥(シヤヤク)補藥(ホヤク)(トウ)(マカせ)本方(ホンホウ)名醫加減( ケン)一劑(サイ)(ホツ)(せシメン)(ブク)此条尤本望也〔文明四年本〕※(タウシ)。一劑( サイ)。

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本は、「」、文明四年本は、「擣篩」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「タウシ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

(ウチフルフ)ツキ? タウシ/同(醫方部)〔黒川本・畳字門中9ウ八〕

擣篩(タウシ)ウチフルウ 〃株〔巻第四・畳字門448五〕

とあって、標記語「」「擣篩」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「擣篩」の語は未収載にする。

 このように、三卷本色葉字類抄』に収載する語だが上記当代の古辞書においては、標記語「擣篩」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難ヲ。面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「擣篩」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚候同者(タウシノ)合藥補(ホ)藥等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条尤所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(たうし)合藥(がふやく)合藥 ハ臼(うす)にてつく事。ハ篩(ふるい)にてふるふ事也。合ハ調合(てうかう)なり。是ハ調合したる粉薬(こくすり)を云也。〔93ウ八〜94オ一〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おなじ)(ハ)(たうし)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)本方(ほんぱう)に任(まか)せ名醫(めいい)の加減(かげんを)を以(もつて)一劑(いちさいを)を合(あハ)し之(これ)を服(ふく)せ令(し)めんと欲(ほつ)す此(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)同者合藥瀉藥補藥等任本方名醫之加減一劑之條本望也。▲合薬ハ(うす)にて(つ)き(ふるい)にて篩(ふる)ひたる調合藥(あハせくすり)也。練藥(ねりやく)(さん)薬の類(るい)なるべし。〔69オ三、69ウ七・八〕

(おなしく)(ハ)擣篩(たうしの)合藥(がふやく)瀉藥(しややく)補藥(ほやく)(とう)(まかせ)本方(ほんぱうに)(もつて)名醫(めいいの)加減(かげんを)(あハし)一劑(いちさいを)(ほつす)(しめんと)(ふくせ)(これを)(この)(でう)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)合薬ハ(うす)にて(つ)き(ふるひ)にて篩(ふる)ひたる調合藥(あハせくすり)也。練藥(ねりやく)散薬(さんやく)の類(るゐ)なるべし。〔125オ一、125ウ一〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は「合薬は、(うす)にて(つ)き(ふるい)にて篩(ふる)ひたる調合藥(あハせくすり)なり。練藥(ねりやく)(さん)薬の類(るい)なるべし」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「擣篩」の語のは未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「たう-〔名〕【擣篩】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「とう-?】〔名〕すりつぶしてふるいわけること。色葉字類抄(1177-81)「ウチフルフ タウシ 医方部」至道要抄(1467頃)「は、わりくだきまっして、和合は中道実相也」*譬喩尽(1786)三「?の合薬、庭訓?はうすづく、はきぬぶるひなり」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年7月9日(土)曇りのち雨。東京→世田谷(駒沢)
無才覚(ブサイカク・サイカクなし)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、

才覚(サイカク)〔元亀二年本269一〕〔静嘉堂本306四〕

とあって、標記語「才覚」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

癲狂癩病傷寒傷風虚等者無才覚〔至徳三年本〕

癲狂癩病傷寒傷風虚勞等者無才覺〔宝徳三年本〕

癲狂(てんきやう)癩病傷寒傷風虚無才覚〔建部傳内本〕

癲狂(テンカウ)(ライ)病傷(シヤウ)風傷寒(シヤウカン)虚勞等者才覚〔山田俊雄藏本〕

(テン)狂癩(ライ)病傷寒傷風虚勞等者(ハ)才覚〔経覺筆本〕

癲狂(テンキヤウ)(ライ)病傷寒(シヤウカン)傷風(シヤウフウ)虚労(キヨラウ)(トウ)(ナク)才覚(サイカク)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「無才覚」と表記し、訓みは文明四年本に「サイカクなく」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「無才覚」「才覺」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「無才覚」「才覺」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

才覺(サイカク・サムルシワザ、サトル・ヲホユル)[平・入] 。〔態藝門787一〕

とあって、標記語「才覺」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

才覚(サイカク) ・言語進退門214二〕

才覚(サイカク)(ガク)。〔・言語門178四〕

才覚(サイカク) ―学。〔・言語門167五〕

とあって、弘治二年本永祿二年本に標記語「才覚」の語を収載する。また、易林本節用集』に、標記語「才覚」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「才覚」の語は収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「才覚」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚同者擣(タウシノ)合藥補(ホ)藥等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条尤所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「無才覚の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

虚勞(きよらう)(とう)(ハ)才覚(さいかく)(なく)虚勞等者才覚 。こゝに云こゝろハ我所近辺にある医者ハ御気より膜まて病症(ひやうしやう)をハ少しハ尋たれとも癲狂より虚労まての疾病の事ハ知りたる者なしと也。〔93ウ六〜八〕

とあって、この標記語「無才覚」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

癲狂(てんきやう)癩病(らいびやう)傷寒(しやうかん)傷風(しやうふう)虚勞(きよらう)(とう)(ハ)才覚(さいかく)(なく)(さふら)癲狂癩病傷寒傷風虚勞等者才覚。〔69オ四〕

癲狂(てんきやう)癩病(らいびやう)傷寒(しやうかん)傷風(しやうふう)虚勞(きよらう)(とう)(ハ)(なく)才覚(さいかく)(さふらふ)。〔124オ三・四〕

とあって、標記語「無才覚」の語をもって収載し、その語注記は「無才覚は、」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Busaicacu.ブサイカク(無才覚) 物事に関して才知や注意が足りないこと.〔邦訳67l〕

とあって、標記語「無才覚」の語の意味は「物事に関して才知や注意が足りないこと」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さい-かく〔名〕【才覚】〔ざえ(才)の條を見よ〕ざえのおぼえ。學問のさとり。文學の力。~皇正統記、後醍醐「白河の御時、修理大夫顯季と云ひし人、云云、參議を申しけるに、院の仰に、それも、物書きて上の事とありければ、理に伏して止みぬ。云云、和漢の才覺の足らぬにぞありけむ」〔3-407-2〕

さい-かく〔名〕【才覚】〔前條の語の轉〕(一)才(さい)の機轉(はたらき)。機智。七十一番職人歌合(文安)五十七番

庖丁師、判詞「左歌、庖丁には、魚も、鳥も、いくらも、寄せありぬべきを、二首ながら、鯉も詠()める、才覺なきに似たり」鷹筑波集(寛永)「二道かくる、人のさいかく(二)工夫して、索(もと)むること。工面(くめん)。算段(さんだん)經營狂言記、鱸包丁「方方、さいかく致して、淀一番の鯉を求めまして」西織留(貞享)「損銀、仇銀、年年積(つも)りて、才覺の花も散り」〔3-407-3〕

とあって、標記語「さい-かく〔名〕【才覚】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「さい-かく才覚才学】〔名〕(「さいがく」とも)@才知と学問。学問。学識。A(形動)知恵のすばやい働き。才知を働かせること。機知、機転、工夫などにすぐれていること。また、そのさま。B(―する)苦心、工夫して金、物品などを求めること。やりくり算段」とし、さらに、標記語「-さいかく無才覚】〔形動〕(「ぶさいかく」とも)才知や注意が足りないこと。勤勉でないこと。また、そのさま。羅葡日辞書「Vappa<略>Busaicacu(ブサイカク)、または、チョウホウナキモノ」*日葡辞書(1603-04)「Fusaicacu(フサイカク)<訳>物事に対して勤勉でなく,心を配ることをしないこと」日葡辞書(1603-04)「Busaicacuna(ブサイカクナ)」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
《『』の条》
 
 
2005年7月8日(金)曇り一時晴れ間。東京→世田谷(駒沢)
虚身(キヨシン)」&「虚勞(キヨラウ)」は、ことばの溜め池(2005.05.26)を参照。
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「幾」部に、

×〔元亀二年本は脱落語〕

虚労(キヨラウ)〔静嘉堂本326四〕

とあって、標記語「虚労」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

癲狂癩病傷寒傷風等者無才覚候〔至徳三年本〕

癲狂癩病傷寒傷風虚勞等者無才覺候〔宝徳三年本〕

癲狂(てんきやう)癩病傷寒傷風等無才覚候〔建部傳内本〕

癲狂(テンカウ)(ライ)病傷(シヤウ)風傷寒(シヤウカン)虚勞等者無才覚〔山田俊雄藏本〕

(テン)狂癩(ライ)病傷寒傷風虚勞等者(ハ)才覚〔経覺筆本〕

癲狂(テンキヤウ)(ライ)病傷寒(シヤウカン)傷風(シヤウフウ)虚労(キヨラウ)(トウ)(ナク)才覚(サイカク)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・建部傳内本は「」、宝徳三年本・・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「虚勞」と表記し、訓みは文明四年本に「キヨラウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」「虚勞」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「」「虚勞」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(キヨラウムナシ、ツカルヽ・イタワル)[平・平] 。〔態藝門842七〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

虚労(キヨラウ) ・支体門183二〕〔・支体門172五〕

とあって、永祿二年本尭空本に標記語「虚労」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

虚勞(キヨラウ) 〔支體門186四・天理図書館蔵下26オ四〕

とあって、標記語「虚勞」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、古写本至徳三年本・建部傳内本に見える標記語「虚身」の語は未収載にあるが、他古写本の標記語「虚勞」の語では収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「虚勞」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚候同者擣(タウシノ)合藥補(ホ)藥等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条尤所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「虚勞の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

虚勞(シヤウフウ)虚勞 也。〔93オ七〕

とあって、この標記語「虚勞」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

癲狂(てんきやう)癩病(らいびやう)傷寒(しやうかん)傷風(しやうふう)虚勞(きよらう)(とう)(ハ)才覚(さいかく)(なく)(さふら)癲狂癩病傷寒傷風虚勞等者無才覚。〔69オ三〕

癲狂(てんきやう)癩病(らいびやう)傷寒(しやうかん)傷風(しやうふう)虚勞(きよらう)(とう)(ハ)(なく)才覚(さいかく)(さふらふ)。〔124オ二〕

とあって、標記語「虚勞」の語をもって収載し、その語注記は「虚勞は、原(もと)心血(しんけつ)の不足(ふそく)より發る目(め)(くるめ)き仆(たほ)れ神気(しんき)(まも)らざるの病」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qioro>.キヨラウ(虚勞) Munaxu< tcucaruru.(虚しう労るる)疲労すると,元気や活気がなくなるとかする病気.※Qioro<(キョラゥ)の誤り.〔邦訳503l〕

とあって、標記語「虚勞」の語の意味は「疲労すると,元気や活気がなくなるとかする病気」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

きょ-らう〔名〕【虚勞】病に因りて、精力の衰へ、身體の疲るること。庭訓徃來、十一月「心氣、腹病、虚勞〔505-2〕

とあって、標記語「きょ-らう〔名〕【虚勞】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「きょ-ろう虚勞】〔名〕@病気などで、心身が疲労衰弱すること。また、その病気。A肺病」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。また、上記国語辞書は、標記語「」の語は未収載にする。
[ことばの実際]
嘔吐胸猶逆 脚且《訓み下し》嘔吐(オウト)して胸猶ほし逆(サカラ)ひぬ虚労(キヨラウ)して脚(アシ)も且(マ)(ナ)えにたり《『菅家後集』叙意一百韻の484条・大系488十》
中卒至.五藏絶閉.脉道不通.氣不往來.《『素問』玉機眞藏論篇第十九》
 
 
2005年7月7日(木)曇り一時晴れ間。東京→世田谷(駒沢)
傷風(シヤウフウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

傷風(フウ)〔元亀二年本309十〕

傷風〔静嘉堂本362二〕

とあって、標記語「傷風」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

癲狂癩病傷寒傷風等者無才覚候〔至徳三年本〕

癲狂癩病傷寒傷風虚勞等者無才覺候〔宝徳三年本〕

癲狂(てんきやう)癩病傷寒傷風等無才覚候〔建部傳内本〕

癲狂(テンカウ)(ライ)(シヤウ)傷寒(シヤウカン)虚勞等者無才覚〔山田俊雄藏本〕

(テン)狂癩(ライ)病傷寒傷風虚勞等者(ハ)才覚〔経覺筆本〕

癲狂(テンキヤウ)(ライ)病傷寒(シヤウカン)傷風(シヤウフウ)虚労(キヨラウ)(トウ)(ナク)才覚(サイカク)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「傷風」と表記し、訓みは文明四年本に「寮」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「傷風」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「傷風」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

傷風(シヤウフウヤブル、カぜ)[平・平] 。〔支體門923三〕

とあって、標記語「傷風」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「傷風」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』と『運歩色葉集』に標記語「傷風」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

712傷風(虚勞)等者无才覚擣篩(タウジ/ツキフルウ)合藥瀉藥補藥(ホ−)等任本方名醫之加減一劑(サイ)ヲ之条所望也好物之註文合食禁之日記藥典殿壁書写給萬端難面拝之時恐々謹言〔謙堂文庫蔵六〇左E〕

とあって、標記語「傷風」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷風(シヤウフウ)虚勞(キヨラウ)(トウ)(ハ)(ブ)才覚候同者擣(タウシノ)合藥補(ホ)藥等任(ホン)名醫(メイイ)加減(カゲン)一劑(ザイ)ント(ブク)此条尤所望(マウ)傷風ハ風ニ傷(ヤフレ)自汗(カン)(イツル)ヲ云也。〔下37オ六〜37ウ一〕

とあって、標記語「傷風の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

傷風(シヤウフウ)傷風 切疵(きりきづ)より風を受たる病也。破傷風(はしやうふう)といふ。〔93オ七〕

とあって、この標記語「傷風」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

癲狂(てんきやう)癩病(らいびやう)傷寒(しやうかん)傷風(しやうふう)虚勞(きよらう)(とう)(ハ)才覚(さいかく)(なく)(さふら)癲狂癩病傷寒傷風虚勞等者無才覚▲傷寒傷風ハ共にもと寒邪(かんじゃ)に傷(やぶ)られて發る。其寒気(かんき)肌肉(きにく)の間に伏(ふく)し夏(なつ)に至(いたつ)て変(へん)じて熱病(ねつびやう)と成。汗(あせ)なきを傷寒といひ、汗あるを傷風といふ。〔69オ四、69ウ二・三〕

癲狂(てんきやう)癩病(らいびやう)傷寒(しやうかん)傷風(しやうふう)虚勞(きよらう)(とう)(ハ)(なく)才覚(さいかく)(さふらふ)。傷寒傷風ハ共にもと寒邪(かんじゃ)に傷(やぶ)られて發る。其寒気肌肉(きにく)の間に伏(ふく)し夏(なつ)に至て変(へん)して熱病(ねつびやう)と成。汗(あせ)なきを傷寒といひ、汗あるを傷風といふ。〔124オ三、124ウ六〜125オ一〕

とあって、標記語「傷風」の語をもって収載し、その語注記は「傷寒・傷風は、共にもと寒邪(かんじゃ)に傷(やぶ)られて發る。其寒気(かんき)肌肉(きにく)の間に伏(ふく)し夏(なつ)に至(いたつ)て変(へん)じて熱病(ねつびやう)と成る。汗(あせ)なきを傷寒といひ、汗あるを傷風といふ」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xo<fu<.シャゥフゥ(傷風) Cajeni yabururu.(風に傷るる)風がもとで起こる病気.〔邦訳790r〕

とあって、標記語「傷風」の語の意味は「Cajeni yabururu.(風に傷るる)風がもとで起こる病気」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「しゃう-ふう〔名〕【傷風】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しょう-ふう傷風】〔名〕高熱を伴う風邪の一種。看聞御記-応永二七年(1420)九月六日「医師高間傷風之由申」*狂雲集(15c後)病僧与辛「病僧大苦発傷風、死脈頻々命欲終」*言継卿記−天文一九年(1550)閏五月一八日「次御今参所労之間、脈之事、傷風歟。吐瀉、云々」*日葡辞書(1603-04)「Xo<fu<(シャウフウ)。カゼニヤブルル<訳>風によっておこる病気」医学天正記(1607)乾上・傷風「傷風寒熱戦慄、頭痛嘔吐有汗、脈浮緩<略>寒熱退、冷汗眩暈、大便瀉難持」*病名彙解(1686)六「傷風(シヤウフウ)陰陽の二気皆よく臓腑を犯す、故に陽気太陽を犯すときは傷風となる。風を悪て汗あり」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年7月6日(水)曇り。東京→世田谷(駒沢)
傷寒(シヤウカン)」は、ことばの溜め池(2000.12.07)を参照。
《補遺》
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

癲狂癩病傷寒傷風虚等者無才覚候〔至徳三年本〕

癲狂癩病傷寒傷風虚勞等者無才覺候〔宝徳三年本〕

癲狂(てんきやう)癩病傷寒傷風虚等無才覚候〔建部傳内本〕

癲狂(テンカウ)(ライ)病傷(シヤウ)傷寒(シヤウカン)虚勞等者無才覚〔山田俊雄藏本〕

(テン)狂癩(ライ)傷寒傷風虚勞等者(ハ)才覚〔経覺筆本〕

癲狂(テンキヤウ)(ライ)傷寒(シヤウカン)傷風(シヤウフウ)虚労(キヨラウ)(トウ)(ナク)才覚(サイカク)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「傷寒」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・文明四年本に「シヤウカン」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「傷寒」の語は未収載にする。

 このように、当代の古辞書においては、広本節用集』に標記語「傷寒」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

711(コ/キヤ)咳病(ガイ―)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如形見知候歟癲狂(テンカウ)癩病(ライ―)傷寒 過ルヲ三日傷寒(カン)ト云。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「傷寒」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

傷寒(シヤウカン)ハ。寒ニ傷(ヤブラ)(ネツ)(アせ)ルヲヲ云。〔下37オ六〕

とあって、標記語「傷寒の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

傷寒(しやうかん)傷寒 つよく寒気を受けたる病なり。〔93ウ五〕

とあって、この標記語「傷寒」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

癲狂(てんきやう)癩病(らいびやう)傷寒(しやうかん)傷風(しやうふう)虚勞(きよらう)(とう)(ハ)才覚(さいかく)(なく)(さふら)癲狂癩病傷寒傷風虚勞等者無才覚。▲傷寒傷風ハ共にもと寒邪(かんじゃ)に傷(やぶ)られて發る。其寒気(かんき)肌肉(きにく)の間に伏(ふく)し夏(なつ)に至(いたつ)て変(へん)じて熱病(ねつびやう)と成。汗(あせ)なきを傷寒といひ、汗あるを傷風といふ。〔69オ四、69ウ二・三〕

癲狂(てんきやう)癩病(らいびやう)傷寒(しやうかん)傷風(しやうふう)虚勞(きよらう)(とう)(ハ)(なく)才覚(さいかく)(さふらふ)。▲傷寒傷風ハ共にもと寒邪(かんじゃ)に傷(やぶ)られて發る。其寒気肌肉(きにく)の間に伏(ふく)し夏(なつ)に至て変(へん)して熱病(ねつびやう)と成。汗(あせ)なきを傷寒といひ、汗あるを傷風といふ。〔124オ三、124ウ六〜125オ一〕

とあって、標記語「傷寒」の語をもって収載し、その語注記は「傷寒傷風ハ共にもと寒邪(かんじゃ)に傷(やぶ)られて發る。其寒気(かんき)肌肉(きにく)の間に伏(ふく)し夏(なつ)に至(いたつ)て変(へん)じて熱病(ねつびやう)と成。汗(あせ)なきを傷寒といひ、汗あるを傷風といふ」と記載する。
 明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しャう-かん〔名〕【傷寒】病の名、熱病の如くにして、重きもの。腸窒扶斯。傷寒論」〔961-2〕

とあって、標記語「しャう-かん〔名〕【傷寒】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しょう-かん傷寒】〔名〕昔の、高熱を伴う疾患。熱病。いまのチフスの類」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
乙酉、憲基来、為問法印事所召也、申云、去廿五日奉見之、以外大事也、但非今明之事、又今日一両日之間可見事也、風病之上、傷寒之気相加歟云々、諸医皆申不可有灸之由云々、《『玉葉』嘉応二年八月廿八日の条》
 
 
2005年7月5日(火)曇り一時晴れ間夜雨。東京→世田谷(駒沢)
癩病(ライビヤウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「羅」部に、

(ライ) 病也。〔元亀二年本174六〕〔天正十七年本中27オ三〕

病也。〔静嘉堂本194三〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記に「病なり」と記載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

癲狂癩病傷寒傷風虚等者無才覚候〔至徳三年本〕

癲狂癩病傷寒傷風虚勞等者無才覺候〔宝徳三年本〕

癲狂(てんきやう)癩病傷寒傷風虚等無才覚候〔建部傳内本〕

癲狂(テンカウ)(ライ)(シヤウ)風傷寒(シヤウカン)虚勞等者無才覚〔山田俊雄藏本〕

(テン)(ライ)傷寒傷風虚勞等者(ハ)才覚〔経覺筆本〕

癲狂(テンキヤウ)(ライ)傷寒(シヤウカン)傷風(シヤウフウ)虚労(キヨラウ)(トウ)(ナク)才覚(サイカク)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「癩病」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「ライ(ビヤウ)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「癩病」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「癩病」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

癩病(ライビヤウハタケ、ヘイ・ヤマイ)[去・去] 。〔態藝門452四〕

とあって、標記語「癩病」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』・易林本節用集』には、標記語「癩病」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「癩病」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

711(コ/キヤ)咳病(ガイ―)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如形見知候歟癲狂(テンカウ)癩病(ライ―)傷寒 過ルヲ三日傷寒(カン)ト云。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「癩病」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(ライ)ハ。身損(カサ)出デ五体(コタイ)チヾニ崩(クツル)ルナリ。崩(クズ)レテ後死スル也。〔下37オ五・六〕

とあって、標記語「癩病の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

癩病(らいびやう)癩病 皮肉(ひにく)くさるゝわつらひなり。〔93ウ五〕

とあって、この標記語「癩病」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

癲狂(てんきやう)癩病(らいびやう)傷寒(しやうかん)傷風(しやうふう)虚勞(きよらう)(とう)(ハ)才覚(さいかく)(なく)(さふら)癲狂癩病傷寒傷風虚勞等者無才覚。▲。〔69オ三、69ウ二〕

癲狂(てんきやう)癩病(らいびやう)傷寒(しやうかん)傷風(しやうふう)虚勞(きよらう)(とう)(ハ)(なく)才覚(さいかく)(さふらふ)。▲癩病ハ原(もと)心血(しんけつ)の不足(ふそく)より發る目(め)(くるめ)き仆(たほ)れ神気(しんき)(まも)らざるの病。〔124オ二、124ウ五〕

とあって、標記語「癩病」の語をもって収載し、その語注記は「癩病は、原(もと)心血(しんけつ)の不足(ふそく)より發る目(め)(くるめ)き仆(たほ)れ神気(しんき)(まも)らざるの病」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Raibio<.ライビャウ(癩病) すなわち,Cattaino yamai.(かつたゐの病)癩病.〔邦訳524l〕

とあって、標記語「癩病」の語の意味は「すなわち,Cattaino yamai.(かつたゐの病)癩病」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

らい-びャう〔名〕【癩病】古言。かたき。癩菌によりて起る傳染病にして、最も醜きもの。表皮に赤色の斑紋を生じ、痒きこと甚しく、乾きて白く、薄き痂(かさぶた)を生じ、眉毛、瞼毛等、脱落し、次第に深くして、後に全身腐爛す。ふくよし。かったゐ。なりんばう。どす。かはらもの。癩疾。天刑病。癩の條、參見せよ。増補下學集、上、二、支體門「癩病(ライビヤウ)醫心方、三、第廿「凡癩病、皆是惡風及犯觸忌害之、初覺皮膚不仁、或淫淫苦虫行、云云」〔2105-4〕

とあって、標記語「らい-びャう〔名〕【癩病】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「らい-びょう癩病】〔名〕ハンセン病をいった語。現在は用いない」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
或は又癩病をうけて悲む事極なかりき。《『寳物集』上の条》
 
 
2005年7月4日(月)雨。東京
癲狂(テンカウ・テンキヤウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「天」部に、

癲狂(テンカウ)〔元亀二年本245六〕

癲狂(テンキヤウ)〔静嘉堂本283五〕

とあって、標記語「癲狂」の語を収載し、訓みは「テンカウ」(元龜本)と「テンキヤウ」(静嘉堂本)の両訓で記載する。(真名本『庭訓往來註』は「テンカウ」表記)。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

癲狂癩病傷寒傷風虚等者無才覚候〔至徳三年本〕

癲狂癩病傷寒傷風虚勞等者無才覺候〔宝徳三年本〕

癲狂(てんきやう)癩病傷寒傷風虚等無才覚候〔建部傳内本〕

癲狂(テンカウ)(ライ)病傷(シヤウ)風傷寒(シヤウカン)虚勞等者無才覚〔山田俊雄藏本〕

(テン)(ライ)病傷寒傷風虚勞等者(ハ)才覚〔経覺筆本〕

癲狂(テンキヤウ)(ライ)病傷寒(シヤウカン)傷風(シヤウフウ)虚労(キヨラウ)(トウ)(ナク)才覚(サイカク)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「癲狂」と表記し、訓みは建部傳内本に「てんきやう」、山田俊雄藏本に「テンカウ」、経覺筆本に「テン(キヤウ)」、文明四年本に「テンキヤウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

癲狂 醫方部/疾病分/テンク井ヤウ〔黒川本・畳字門下18ウ三〕

癲狂(テンワウ) 〔卷第七・畳字門247三〕

とあって、標記語「癲狂」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「癲狂」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

癲狂(テンキヤウクツチ、クルウ)[○・平] 癲癇癲與二共病義。〔態藝門733四〕

とあって、標記語「癲狂」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、標記語「癲狂」の語は未収載にする。また、易林本節用集』に、

癲狂(テンキヤウ) 〔言辞門167一・天理図書館蔵一下16ウ一〕

とあって、標記語「癲狂」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「癲狂」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

711(コ/キヤ)咳病(ガイ―)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如形見知候歟癲狂(テンカウ)癩病(ライ―)傷寒 過ルヲ三日傷寒(カン)ト云。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「癲狂」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

癲狂(テンキヤウ)ト云ハ。頓(ニハカ)ニ倒(タヲ)レ臥(フシ)テクツキ入ナリ。〔下37オ五〕

とあって、標記語「癲狂の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

癲狂(てんかん)癲狂 (にわか)に倒(たを)れ伏して絶入(たへいる)わつらひ也。〔93オ七〕

とあって、この標記語「癲狂」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

癲狂(てんきやう)癩病(らいびやう)傷寒(しやうかん)傷風(しやうふう)虚勞(きよらう)(とう)(ハ)才覚(さいかく)(なく)(さふら)癲狂癩病傷寒傷風虚勞等者無才覚。▲癲狂ハ原(もと)心血(しんけつ)の不足(ふそく)より發る目(め)(くるめ)き仆(たほ)れ神気(しんき)(まも)らざるの病。〔69オ三、69ウ二〕

癲狂(てんきやう)癩病(らいびやう)傷寒(しやうかん)傷風(しやうふう)虚勞(きよらう)(とう)(ハ)(なく)才覚(さいかく)(さふらふ)。▲癲狂ハ原(もと)心血(しんけつ)の不足(ふそく)より發る目(め)(くるめ)き仆(たほ)れ神気(しんき)(まも)らざるの病。〔124オ二、124ウ五〕

とあって、標記語「癲狂」の語をもって収載し、その語注記は「癲狂は、原(もと)心血(しんけつ)の不足(ふそく)より發る目(め)(くるめ)き仆(たほ)れ神気(しんき)(まも)らざるの病」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Tengo<.テンカウ(癲狂) Cutcuchi(くつち)に同じ.癲癇.※別条Sanbio<(三病)の条では,クツチとテンガウとを区別して,後者は“癲癇”に似た別の病気としている.〔邦訳645l〕

とあって、標記語「癲狂」の語の意味は「Cutcuchi(くつち)に同じ.癲癇」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

てん-きャう〔名〕【癲狂】きちがひ。杜甫、寄漢中王詩「尚憐詩警策、猶憶?狂元?詩、「?亭今日顛狂醉、舞引紅娘打人」〔3-488-3〕

とあって、標記語「てん-きャう〔名〕【癲狂】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「てん-きょう癲狂】〔名〕@気がくるうこと。ものぐるい。狂気。てんごう。A癲癇(てんかん)と狂気」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
寄人刑部得麻呂〈年四十五癲狂、癈疾、〉戸主妻石部矢祁志売〈年卅三正耆女〉《『奈良時代古文書』大宝二年の条1/24》
癲狂ハ、モノニクルウコト也。 《『中華若木詩抄』卷下の条》
 
 
2005年7月3日(日)曇り。東京
見知(みしる)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「見」部に、「見面(同(ミメ))。見反(ソル)。見世(ミセ)。見擧(アゲ)。雖(ミ)」の五語を収載するが、標記語「見知」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「見知」と表記し、訓みは文明四年本に「みしり」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「見知」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「見知」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

見知(ミシルケンチ)[去・平] 。〔態藝門892二〕

とあって、標記語「見知」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

見知(シル) ・言語進退門233六〕

見澄(ミスマス) ―知(シル)。―苦(クルシ)・言語門194六〕

見澄(ミスマス) ―知。―上。―苦・言語門184二〕

とあって、弘治二年本に標記語「見知」の語を収載し、他本は「見澄」の熟語群に収載する。また、易林本節用集』に、

見繕(ミツクロフ) ―知(シル)。―継(ツグ)。―事(ゴト)。―仄(ソル)。―懲(ゴリ)。―苦(グルシ)。―直(ナホス)。―付(ツク)〔言語門200七・天理図書館本下33オ七〕

とあって、標記語「見知」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「見知」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

711(コ/キヤ)咳病(ガイ―)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如見知候歟癲狂(テンカラ)癩病(ライ―)傷寒 過ルヲ三日傷寒(カン)ト云。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「見知」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(キヤクヘイ)咳病(ガイビヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如(カタノ)見知(ミシリ)ハ。オコリ日マぜニ混(ヲコ)リテフルフ事也。傳送(テンソウ)ノ靈神付給フナリ。〔下37オ四・五〕

とあって、標記語「見知の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かた)の如(ごと)見知(ミし)候ふ見知(ガ) の字も濁りて讀へし。〔93ウ四〕

とあって、この標記語「見知」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)見知(ミし)(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。〔69オ三〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)。〔124オ三〕

とあって、標記語「見知」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Mixiri,u.tta.ミシリ,ル、ッタ(見知) 見分けてよく知る.¶Miuo mixiru.(身を見知る)自分自身をよく知る.〔邦訳413l〕

とあって、標記語「見知」の語の意味は「見分けてよく知る」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-ル・レ・ラ・リ・レ〔他動、四〕【見知】(一){見て知る。書言字考節用集、九、言辭門「見知、ミシル」源氏物語、四十八、寄生64「けせうにはしたなきさまには、えてもなし給はぬもの、見しり給へるにこそはと、思ふ心ときめきに」(二)交りて其人を知り居る。知り合ふ。相識。甲陽軍鑑、四、品第十二「靜にして、それぞれに人をみしりて使ひ給へば、一人として恨み申すべき樣なし」〔4-475-1〕

とあって、標記語「-しる〔他動、四〕【見知】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-しる見知】〔他ラ五(四)〕@見て知る。見てわかる。よく知っている。A面識がある。また、親しくつき合っている。交際してよく知る。その人の性質や性格を知る。B見て、その価値がわかる。風情や美などを見て理解する。C手痛い経験などによって、よくよく理解する。身にしみてわかる。D経験している」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
次依可被加實檢、見知俊綱面之者、有之歟由、被尋仰《訓み下し》次ニ実検ヲ加ヘラルベキニ依テ、俊綱ガ面ヲ(ミ)知ルノ者、之有ルカノ由、尋ネ仰セラル。《『吾妻鑑』養和元年九月十六日の条》
 
 
2005年7月2日(土)曇り一時雨。東京→世田谷(駒沢)
(かたのごとく)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、

(ゴトク)(カタノ)〔元亀二年本94七〕

(コトク)(カタノ)〔静嘉堂本117五〕〔天正十七年本上57ウ八〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒膜等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)膜等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「」と表記し、訓みは文明四年本に「かたのことく」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(ゴトクカタノジヨ―)[平・○] 。〔態藝門282五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・両足院本節用集』には、

(コトク)(カタノ) ・言語進退門85六〕〔・言語門83五〕〔・言語門94三〕

とあって、弘治二年本永祿二年本に標記語「」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

(コトク)(カタノ) 〔言語門83五・天理図書館本上42オ五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

711(コ/キヤ)咳病(ガイ―)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者見知候歟癲狂(テンカラ)癩病(ライ―)傷寒 過ルヲ三日傷寒(カン)ト云。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(キヤクヘイ)咳病(ガイビヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者(カタノ)見知(ミシリ)ハ。オコリ日マぜニ混(ヲコ)リテフルフ事也。傳送(テンソウ)ノ靈神付給フナリ。〔下37オ四・五〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(かた)の如(ごと)見知(ミし)リ候ふ見知(ガ) の字も濁りて讀へし。〔93ウ四〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者見知。〔69オ三〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)。〔124オ二〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Catanogotocu.かたのごとく() 副詞.普通に,中位に,または,適度に.〔邦訳108l〕

とあって、標記語「」の語の意味は「副詞.普通に,中位に,または,適度に」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

かたの-ごとく〔副〕【】法のとほり。例の如く。如法。源氏物語、三十四、下102「かたのごとくなむ、齋ひの御鉢參るべきを」保元物語、一、官軍方方手分事「身不肖に候へども、形の如く系圖なきにしも候はず」「葬式、かたのごとく執り行ひ」〔2-634-3〕

とあって、標記語「かたの-ごとく〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「かた】〔名〕かたの如(ごと) 形式の通りである。慣例に従っている。ひととおりである。形式だけ、典型的などの意を含む場合もある」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
遺言云、三箇日以後、可有葬之儀、於遺骨者、納播磨國山田法華堂、毎七日、可修如形佛事、《訓み下し》遺言ニ云ク、三箇日以後ニ、葬リノ儀有ルベシ。遺骨ニ於テハ、播磨ノ国山田ノ法華堂ニ納メ、七日毎ニ、(カタ)ノ如ク仏事ヲ修スベシ。《『吾妻鑑』治承五年閏二月四日の条》
 
 
2005年7月1日(金)曇り一時雨。東京→世田谷(駒沢)
(まけ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「滿」部に、

(マケ)(同)〔元亀二年本210四〕〔静嘉堂本239七〕

×〔天正十七年本中〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來』十一月十二日の状に、

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔内丁腫物病咳病疾齒等者如形見知候〔至徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内消丁腫物病咳病疾齒等者如形見知候歟〔宝徳三年本〕

此邊候輩者脚氣中風上氣頭風荒痢赤痢内痔内腫物病咳病疾齒等者如形見知候〔建部傳内本〕

此邊候輩者脚氣(カツケ)中風上氣(キ)頭風黄痢(クワウリ)赤痢(リ)内痔(ジ)(ヨウ)腫物(ヤウテウ)(ギヤク)ヲコリ病咳病疾齒(ムシクヒハ)(マケ)等者(ハ)見知〔山田俊雄藏本〕

此邊候輩者脚氣中風(キヤヘイ)上氣頭(ツ)風荒痢赤痢内痔(チ)(せウ)腫物(シユモツ)咳病(カイヘイ)病齒(ヤミハ)等者(ハ)見知候歟〔経覺筆本〕

此邊候輩(トモカラ)脚氣(カツケ)中風(フ)上氣(キ)頭風(ヅフウ)黄痢(クワウリ)赤痢(シヤクリ)内痔(ナイチ)(ナイせウ)(ヨウ)(チヤフ)腫物(シユモツ)(キヤヘイ)咳病(カイヒヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)(トウ)(ハ)(コトク)(カタ)見知(ミシリ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本は、「」と表記し、訓みは文明四年本に「まけ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

マケ/目病也〔黒川本・人躰門中90ウ五〕

マケ/目病也〔卷第五・人躰門564一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

(マケバク)[入](メノ)。〔支體門569六〕

とあって、標記語「」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

(マケ) 目病・支体門169四〕

(マケ) ・支体門139二〕〔・支体門128五〕

とあって、弘治二年本永祿二年本尭空本に標記語「」の語を収載し、両足院本は「醫方」の熟語群に収載する。また、易林本節用集』に、

眼膜(マケ) 〔支躰門141五〕

とあって、標記語「眼膜」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十一月十二日の状には、

711(コ/キヤ)咳病(ガイ―)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如形見知候歟癲狂(テンカラ)癩病(ライ―)傷寒 過ルヲ三日傷寒(カン)ト云。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、標記語「」の語を収載し、この語における語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

(キヤクヘイ)咳病(ガイビヤウ)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如(カタノ)見知(ミシリ)ハ。オコリ日マぜニ混(ヲコ)リテフルフ事也。傳送(テンソウ)ノ靈神付給フナリ。〔下37オ四・五〕

とあって、標記語「の語を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(まげ)膜等 膈膜(かくまく)とてむねに有。むねの病也。〔93オ三〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

此邊(このへん)に候(さふら)ふ輩(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうぶう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようてう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(かた)の如(ごと)く見知(ミし)リ候(さふら)ふ歟(か)此邊候輩者脚氣中風上氣頭風黄痢赤痢内痔腫物咳病疾齒等者如見知。▲膜ハかゝりものゝ類(るい)。眼(メ)の病也。多くハ血(ち)の不足(ふそく)より發る。〔69オ三、69ウ一〕

此邊(このへんに)(さふらふ)(ともがら)(ハ)脚氣(かくけ)中風(ちうふう)上氣(じやうき)頭風(づふう)黄痢(わうり)赤痢(しやくり)内痔(ないぢ)(ないようちやう)腫物(しゆもつ)(ぎやくびやう)咳病(がいびやう)疾齒(やミは)(まけ)(とう)(ハ)(ことく)(かたの)見知(ミしり)(さふらふ)(か)▲膜ハかゝりものゝ類(るゐ)。眼(め)の病也。多(おほ)くハ血の不足(ふそく)より發る。〔124オ二、124ウ四・五〕

とあって、標記語「」の語をもって収載し、その語注記は「膜は、かゝりものゝ類(るい)。眼(メ)の病なり。多くは、血(ち)の不足(ふそく)より發る」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iiai.まけ() 眼病の一種.¶Maqeuo vazzuro<.(を煩ふ)眼病にかかっている.〔邦訳384r〕

とあって、標記語「」の語の意味は「眼病の一種」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【】〔目氣の義、脚(キヤク)の氣と同趣〕又、ひ。眼の病。そこひ。外障眼(うはひ)目翳字類抄、マケ、目病也」天治字鏡、二7「、目生翳也、麻介」同、同「、麻介、又、目暗」〔4-394-4〕

とあって、標記語「-〔名〕【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-目気】〔名〕眼病の一つ。そこひ。ひ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
 

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