2005年11月01日から11月30日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

 

 
 
 
 
2005年11月30日(水)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
(いち)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

(イチ)〔元亀二年本20四〕〔静嘉堂本16三〕〔天正十七年本上9オ七〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

飯盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成〔至徳三年本〕

飯盛物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成〔宝徳三年本〕

飯盛物積物以下盡時節之景物雜事厨調種々美物廰庭経営留主所結構如成〔建部傳内本〕

(ワウ  )盛物積物(ツミ  )以下盡時節景物雜亊厨(クリヤ)調種々美物廰庭(チヤウテイ)経営留守所結構如スカ〔山田俊雄藏本〕

椀飯(ワウハン)盛物(モリ  )以下盡時節(ジセツ)()景物雜事厨(クリヤ)調(  ヘ)種々(シユシユ)美物廰庭(チヤウ  )経営(ケイエイ)留守(ルス)結構如(イチ)〔経覺筆本〕

(ワウハン)盛物(モリ  )積物(ツミ  )以下盡(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイ  )雜事(サウシ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物(ビ )廰庭(チヤウテイ)()経営(ケイヱイ)留守(ルス)結構(ケツコウ)スカ〔文明四年本〕※盡(ツクス)

と見え、至徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「」と表記し、訓みは経覺筆本に「イチ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

() イチ/買賣所也。() イチクラ(テン) 同/俗作厘黒川本・地祇門上2ウ六〕

買賣之所也/イチ/神農始之。 買賣之所也。陳也/イチクラ 云遂。已上同/―遣/イチノミチ卷第一・地祇門6二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(イチ)[去](せイ)桓公(クワンコウ)(トキ)桓仲初之。毎月六度立ルヲ也。異名顋韋(クワンクワイ)。市門垣――。(ゼイカウ)貨遂井(クワスイせイ)中大路(アイト)水路廣塗大路。〔天地門4七〕

とあって、標記語「」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

(イチ) ・天地門3五〕〔・天地門1六〕〔・天地門1九〕〔・天地門2一〕

とあって、標記語「」の語を収載する。易林本節用集』に、標記語「」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

746如國遵行(シユン−)之亊大介 国之介也。〔謙堂文庫蔵六四右F〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

廰庭(チヤウテイ)經營(ケイヱイ)留守(ルス)結構(ケツコウ)(ナス)(イチ)(ジユン)行事大介(タイカイ)廰庭(チヤウテイ)ノ經營(ケイヱイ)ハ。厨イカニモ奔走(ホンソウ)結構(ケツカウ)ナル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三・四〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

留守所(るすどころ)の結構(けつこう)(いち)を成(なす)が如(ごと)留守所結構如スカ雜事の厨とは軽き者へふるまひするを云。種々の美物とハ色々のうまき物の事也。是より前状に官使代奏の饗膳厨の儀式示し給ハるへしとあるに善し也。〔100ウ六・七〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)時節(じせつ)の景物(けいぶつ)を盡(つく)し雑事(ざふじ)の厨(くりや)ハ種々(しゆ/゛\)乃美物(びぶつ)を調(とゝの)ヘ廰庭(ちやうてい)の經營(けいえい)留守所(るすどころ)の結構(けつこう)(いち)を成(なす)が如(ごと)椀飯盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如スカ▲成市とハ人多(おほ)く集(あつ)まる義。〔74ウ二、74ウ五・六〕

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)(つくし)時節(じせつ)景物(けいぶつ)雑事(ざふじ)(くりや)調(とゝの)種々(しゆ/゛\)美物(びぶつ)廰庭(ちやうてい)経営(けいえい)留守所(るすどころ)結構(けつこう)(ごと)(なす)(いち)▲成市とハ人多(おほ)く集(あつ)まる義。〔133ウ三、134オ二〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Ichi.イチ(市) 市.§Ichiga tatcu.(市が立つ)市が開かれる.§Ichini tacu.(市に立つ)市に行く.§比喩.Qixeb ichiuo nasu.(貴賎市を成す)身分の高い者も低い者もすべて集まる.§Monjenni ichiuo nasu.(門前に市を成す)大勢の人々や馬などが集まる.§また,比喩.盛名が高まり栄える,大勢の人々の訪問を受ける,などの意.⇒Renjacu(連雀);Sugari,u(すがり,る);Tate,tchru..〔邦訳324l〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味は「」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

いち-〔名〕【】〔倭訓栞、いち「市を云ふ、五十路(い ぢ)の義なるべし、萬葉集に、八十(やそ)の巷(ちまた)と云へるが如し」四通八達の路なり」〕(一){人の多く來り集(つど)ふ地。唯、集ふことにも云ふ。~代紀、上29「會八十萬~於高市(タケチ)」(たけちの條を見よ)武烈即位前紀に、大和國、城上(しきのかみ)郡、海柘榴(つばき)(いち)の巷(ちまた)に、人集りて、歌垣(うたかき)を行ひしこと見ゆ。萬葉集、十二29「紫は、灰さすものぞ、(序なり、紫染には椿灰(つばきばひ)を入る)海柘榴(つばき)市の、八十街(ちまた)に、會へる兒や誰れ」新六帖、六、蓬「世にしあらば、行交(ゆきか)ふ人も、いかばかり、蓬の門に、市をなさまし」孟子、梁惠王、下編「昔者、大王(後の周文王)居人曰、仁人也、不失也、從之者如市」集註、「歸市、人衆而爭先也」呂氏春秋、仲夏「關市無索」「市、人聚也」(二){市と云ふ語は、人の集る地なるに因りて、物を交易し、賣買する所の稱となれり。顯宗即位前紀「旨酒(ウマザケ)、餌香(ニガノ)(アタヒ)釋日本紀、十二「私記曰、師説、高麗人、來住餌香市醸旨酒、時人競以高價買飲云」續日本紀、三十、寳龜元年三月「權任會賀市」(此市は、今の河内國、南河内郡、道明寺村、國府の舊名なりと云ふ)出雲風土記、島根郡、朝酌促戸渡(アサクミノセトノワタリ)「大小雜魚、濱藻家(サカリナリ)市人四集、自然成(ナセリ)?(イチクラ)」(今、八束郡に入る、今も、朝酌村あり)(三){奈良朝に至りて、京城の全市街を、東西に大別して、東市、西市とせられたり。山城の京都も、亦然り。(東(ひがし)の市、西の市の條を見よ)天文本倭名抄、一、居宅、肆「説文云、市、賣買之所也、以知(イチ)易經、繋辭、下傳「日中爲市、致天下之民、聚天下之貨、交易而退」(四)後世は、時日を定めて市を行ふ、~社の祭日、佛寺の縁日、盆の草市、年末の歳市(としのいち)、書籍の賣買市などあり、これを市が立つ、市を立てる、と云ふ。(たてるは、始める意)寂蓮法師集、(俊成の姪)「七條のの立ちける、云云」今、各地に、四日市、八日市、など云ふ地名、存せり。又、米市、魚市、青物市、など云ふは、毎日、時を定めて行ふ、これを市場(いちば)と云ふ。源平盛衰記、十九、佐佐木取馬下向事「蒲生郡、小脇の八日へ行く者也」甲斐圖志、百一「商賣の所會聚、二日、三日、四日、云云」(東京、日本橋、江戸橋の閧ノ、四日と云ふ地名あり)〔166-4〕

とあって、標記語「いち-【】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「いち-【】〔名〕[一]@人が多く集まる所。原始社会や古代社会で、高所や大木の生えている神聖な場所を選び、物品交換、会合、歌垣(うたがき)などを行った。A特に物品の交換や売買を行なう所。市場。日を定めて定期的に開かれるものとがある。B(「とし(年)の市(いち)」の略)特に一二月一七、一八日の浅草観音の市をいうことが多い。C市街。まち。[二]いちこ(市子)@」の略」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
然後、皆持向八條河原大夫判官仲頼已下、請取之、各付于長鎗刀、又付赤簡〈平某之由、各注付之〉向獄門懸樹、観者成〈云云〉《訓み下し》然シテ後ニ、皆八条河原ニ持チ向フ。大夫判官仲頼已下、之ヲ請ケ取リ、各長鎗刀ヲ付ケ、又赤簡ヲ付ケテ、〈平ノ某ノ由、各注シテ之ヲ付ク。〉獄門ニ向ツテ樹ニ懸ク。観ル者ヲ成スト〈云云〉。《『吾妻鑑』寿永三年二月十三日の条》
 
 
結構(ケツカウ)」は、ことばの溜め池(2002.03.30)を参照。
 
2005年11月29日(火)晴れ。東京→八王子
留守所(ルスドコロ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「留」部に、

留守(ルス)〔元亀二年本76二〕〔静嘉堂本92五〕〔天正十七年本上46オ六〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「留守」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

飯盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔至徳三年本〕

飯盛物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔宝徳三年本〕

飯盛物積物以下盡時節之景物雜事厨調種々美物廰庭経営留主所結構如成市〔建部傳内本〕

(ワウ  )盛物積物(ツミ  )以下盡時節景物雜亊厨(クリヤ)調種々美物廰庭(チヤウテイ)経営留守所結構如スカ〔山田俊雄藏本〕

椀飯(ワウハン)盛物(モリ  )以下盡時節(ジセツ)()景物雜事厨(クリヤ)調(  ヘ)種々(シユシユ)美物廰庭(チヤウ  )経営(ケイエイ)留守(ルス)結構如(イチ)〔経覺筆本〕

(ワウハン)盛物(モリ  )積物(ツミ  )以下盡(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイ  )雜事(サウシ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物(ビ )廰庭(チヤウテイ)()経営(ケイヱイ)留守(ルス)結構(ケツコウ)スカ〔文明四年本〕※盡(ツクス)

と見え、至徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「留守所」と表記し、訓みは経覺筆本・文明四年本に「ルス(ドコロ)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「留守所」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「留守所」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

留守(ルリウジユウ・トヾム、マホル)[平・去] 或守作。〔態藝門206七〕

とあって、標記語「留守」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

留守( ス) ・言語進退門60八〕

留連(ルレン)(ナン)―守()・言語門62五〕

留連(ルレン)―守・天地門56七〕 

留連(ルレン)―守(ルス)・言語門65六〕

とあって、標記語「留守」の語を収載する。易林本節用集』に、

留守(ルス) 〔言語門60五・天理図書館蔵上30ウ五〕

とあって、標記語「留守」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「留守」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本では「留守所」として収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

745留守結構(ケツコウ) 留守旧国歟。師之説簾中也。〔謙堂文庫蔵六四右F〕

とあって、標記語「留守所」の語を収載し、語注記に「留守は、旧国か。師之説に簾中と曰ふなり」と記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

廰庭(チヤウテイ)經營(ケイヱイ)留守(ルス)結構(ケツコウ)(ナス)(イチ)(ジユン)行事大介(タイカイ)廰庭(チヤウテイ)ノ經營(ケイヱイ)ハ。厨イカニモ奔走(ホンソウ)結構(ケツカウ)ナル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三・四〕

とあって、標記語「留守所」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

留守所(るすどころ)の結構(けつこう)(いち)を成(なす)が如(ごと)留守所結構如スカ留守所とハ奥向(おくむき)の事也。結構ハ事を仕立(したて)る事なり。こゝハ□請するを云。今上(うへ)もなきといふ事を結構といふか如にそ。〔100ウ六・七〕

とあって、この標記語「留守所」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)時節(じせつ)の景物(けいぶつ)を盡(つく)し雑事(ざふじ)の厨(くりや)ハ種々(しゆ/゛\)乃美物(びぶつ)を調(とゝの)ヘ廰庭(ちやうてい)の經營(けいえい)留守所(るすどころ)の結構(けつこう)(いち)を成(なす)が如(ごと)椀飯盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如スカ。▲留守所ハ訴訟(そしやう)の者(もの)の長屋(たまりや)なとをいふにやあらん。〔74ウ一、74ウ五〕

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)(つくし)時節(じせつ)景物(けいぶつ)雑事(ざふじ)(くりや)調(とゝの)種々(しゆ/゛\)美物(びぶつ)廰庭(ちやうてい)経営(けいえい)留守所(るすどころ)結構(けつこう)(ごと)(なす)(いち)▲留守所ハ訴訟(そしやう)の者(もの)の長屋(たまりや)などをいふにやあらん。〔133ウ一、133ウ六〜134オ一・二〕

とあって、標記語「留守所」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Rusu.ルス(留守) Todomari mamoru.(留まり守る)家に居ないこと.あるいは,家以外の所に居ること. §Rusuo suru.(留守をする)他の人の不在中,家に残って番をする.§Rusu naru,l,dearu.(留守なる,または,である)よそへ出ている,あるいは,不在である.⇒Mori,u(守り,る).〔邦訳544l〕

とあって、標記語「留守」の語を収載し、意味は「Todomari mamoru.(留まり守る)家に居ないこと.あるいは,家以外の所に居ること」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

るす-どころ〔名〕【留守所】又。るすしょ。古へ國衙に國守在國せざる時、目代が留守して、國政を執行する所。沙汰未練書留守所者、國國府國衙沙汰所也」〔2137-3〕

とあって、標記語「るす-どころ留守所】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「るす-どころ留守所】〔名〕平安時代以降、国府にあって国務を執る役所。国司の遙任などにより国守が在京することが多いため、国守の代理として執務する在地の組織をいう。目代・在庁官人で構成される。国衙。るすしょ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
可遂出羽國地検之由、被仰置留守所《訓み下し》出羽ノ国ノ地検ヲ遂グベキノ由、留守所ニ仰セ置カル。《『吾妻鑑』文治五年十月二十四日の条》
 
 
廰庭(チヤウテイ)は、ことばの溜め池(2001.02.21)を参照。
經營(ケイエイ)は、ことばの溜め池(2002.02.12)を参照。
 
2005年11月28日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
美物(ビブツ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「飛」部に、

美物(ヒブツ)〔元亀二年本341二〕

美物(ビフツ)〔静嘉堂本408六〕

とあって、標記語「美物」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

飯盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔至徳三年本〕

飯盛物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔宝徳三年本〕

飯盛物積物以下盡時節之景物雜事厨調種々美物廰庭経営留主所結構如成市〔建部傳内本〕

(ワウ  )盛物積物(ツミ  )以下盡時節景物雜亊厨(クリヤ)調種々美物廰庭(チヤウテイ)経営留守所結構如スカ〔山田俊雄藏本〕

椀飯(ワウハン)盛物(モリ  )以下盡時節(ジセツ)()景物雜事厨(クリヤ)調(  ヘ)種々(シユシユ)美物廰庭(チヤウ  )経営(ケイエイ)留守(ルス)結構如(イチ)〔経覺筆本〕

(ワウハン)盛物(モリ  )積物(ツミ  )以下盡(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイ  )雜事(サウシ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物(ビ )廰庭(チヤウテイ)()経営(ケイヱイ)留守(ルス)結構(ケツコウ)スカ〔文明四年本〕※盡(ツクス)

と見え、至徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「美物」と表記し、訓みは文明四年本に「ビ(ブツ)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「美物」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「美物」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

美物(ビブツカホヨシ、モノ)[上・入] 。〔態藝門1040四〕

とあって、標記語「美物」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

美物(ビブツ) 日本俗呼魚肉・種々門253五〕

とあって、弘治二年本に標記語「美物」の語を収載し、語注記に「日本の俗、魚肉を呼びて美物と曰ふ」と記載する。易林本節用集』に、

美物(ビブツ) ―食(シヨク)〔食服門224七・天理図書館蔵下45オ七〕

とあって、標記語「美物」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「美物」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。ここで弘治二年本に見える語注記は、下記の真字注には見えないものであり、『下學集』及び広本節用集』にも見えない独自の内容である。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

744着府吏務(リム)法儀无ナル子細在廳人等日_(ナミ)ノ出仕恒例奉行无等閑椀飯(ワウハム)盛物(モリ―)物以下尽景物雜亊厨(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物廳庭(チヤウ−)ノ経営 政所之屋曰廳庭也。〔謙堂文庫蔵六四右C〕

とあって、標記語「美物」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

入境(ジユケイ)著任(ヂヤクニン)之儀式(キシキ)著府(チヤクフ)吏務(リム)()法儀(ホウギ)(コト)ナル子細(シサイ)在廳(サイチヤウ)人等日并(ヒナミ)出仕(シユツシ)恒例(ゴウレイ)奉行(ブギヤウ)等閑(ナヲザリ)椀飯(ワウハン)盛物(モリモノ)積物(ツミモノ)以下(イゲ)(ツクシ)雑事(ジセツ)景物(ケイブツ)雜亊(ザウジ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種種(シユジユ)美物(ブフツ)入境(ジユケイ)著任(チヤクニン)ト云事サカヒニ入國從(メク)ル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三〕

とあって、標記語「美物」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

雑事(ざうじ)の厨(くりや)ハ種々(しゆ/\)美物(びぶつ)を調(とゝの)雜事厨調種々美物雜事の厨とは軽き者へふるまひするを云。種々の美物とハ色々のうまき物の事也。是より前状に官使代奏の饗膳厨の儀式示し給ハるへしとあるに善し也。〔100ウ六・七〕

とあって、この標記語「美物」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)時節(じせつ)の景物(けいぶつ)を盡(つく)し雑事(ざふじ)の厨(くりや)ハ種々(しゆ/゛\)美物(びぶつ)を調(とゝの)ヘ廰庭(ちやうてい)の經營(けいえい)留守所(るすどころ)の結構(けつこう)(いち)を成(なす)が如(ごと)椀飯盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如スカ。▲雑事厨ハ定(さたま)れる料理(りやうり)の外(ほか)に出す肴(さかな)なとを司(つかさど)る臺所方(だいところかた)なるへし。〔74ウ一、74ウ五〕

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)(つくし)時節(じせつ)景物(けいぶつ)雑事(ざふじ)(くりや)調(とゝの)種々(しゆ/゛\)美物(びぶつ)廰庭(ちやうてい)経営(けいえい)留守所(るすどころ)結構(けつこう)(ごと)(なす)(いち)▲雑事厨ハ定(さたま)れる料理(りやうり)の外(ほか)に出す肴(さかな)なとを司(つかさど)る臺所方(だいところかた)なるべし。〔133ウ一、133ウ六〜134オ一〕

とあって、標記語「美物」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Bibut.ビブツ(美物) Vmaimono.(美い物)おいしい料理,あるいは,食物.殊に魚で作ったものを言う.〔邦訳55r〕

とあって、標記語「美物」の語を収載し、意味は「Vmaimono.(美い物)おいしい料理,あるいは,食物.殊に魚で作ったものを言う」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「-ぶつ美物】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-ぶつ美物】〔名〕鳥・魚などの味のよいもの。ごちそう。びもつ。今昔物語集(1120頃か)四・三一「此は極たる美物也」*名語記(1275)「美物などあつめて、人を饗応するをもことなどいへり」*太平記(14C後)二七・田楽事「種々の献盃、様々の美物(ビブツ)」*御伽草子・猿の草子(室町末)「さて又美物(ビブツ)は何々ぞ。<略>大鯛、小だゐ、あかしだゐ」*政談(1727頃)二「其数夥き賤人にも美物を望の儘に叶へさせんとする故」*礼記-祭統「三牲之俎、八之実、美物備矣」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
伊勢貞宗歳暮美物贈進注文(切紙)
○コノ文書、蜷川親元筆ニカカル、歳暮御美物文明十七 十二禁裏様若宮御方伏見殿御所様上様北御所二条《『蜷川文書文明十七年十二月の条、223・1/322
 
 
2005年11月27日(日)晴れ。東京→世田谷(玉川→駒沢)
種々(シュジュ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

種々(シユ  )〔元亀二年本309八〕

種々〔静嘉堂本361八〕

とあって、標記語「種々」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

飯盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔至徳三年本〕

飯盛物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔宝徳三年本〕

飯盛物積物以下盡時節之景物雜事厨調種々美物廰庭経営留主所結構如成市〔建部傳内本〕

(ワウ  )盛物積物(ツミ  )以下盡時節景物雜亊厨(クリヤ)調種々美物廰庭(チヤウテイ)経営留守所結構如スカ〔山田俊雄藏本〕

椀飯(ワウハン)盛物(モリ  )以下盡時節(ジセツ)()景物雜事厨(クリヤ)調(  ヘ)種々(シユシユ)美物廰庭(チヤウ  )経営(ケイエイ)留守(ルス)結構如(イチ)〔経覺筆本〕

(ワウハン)盛物(モリ  )積物(ツミ  )以下盡(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイ  )雜事(サウシ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物(ビ )廰庭(チヤウテイ)()経営(ケイヱイ)留守(ルス)結構(ケツコウ)スカ〔文明四年本〕※盡(ツクス)

と見え、至徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「種々」と表記し、訓みは経覺筆本に「シユシユ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「種々」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「種々」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、『運歩色葉集』に標記語「種々」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

744着府吏務(リム)法儀无ナル子細在廳人等日_(ナミ)ノ出仕恒例奉行无等閑椀飯(ワウハム)盛物(モリ―)物以下尽景物雜亊厨(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物廳庭(チヤウ−)ノ経営 政所之屋曰廳庭也。〔謙堂文庫蔵六四右C〕

とあって、標記語「種々」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

入境(ジユケイ)著任(ヂヤクニン)之儀式(キシキ)著府(チヤクフ)吏務(リム)()法儀(ホウギ)(コト)ナル子細(シサイ)在廳(サイチヤウ)人等日并(ヒナミ)出仕(シユツシ)恒例(ゴウレイ)奉行(ブギヤウ)等閑(ナヲザリ)椀飯(ワウハン)盛物(モリモノ)積物(ツミモノ)以下(イゲ)(ツクシ)雑事(ジセツ)景物(ケイブツ)雜亊(ザウジ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種種(シユジユ)美物(ブフツ)入境(ジユケイ)著任(チヤクニン)ト云事サカヒニ入國從(メク)ル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三〕

とあって、標記語「種々」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

雑事(ざうじ)の厨(くりや)種々(しゆ/\)の美物(びぶつ)を調(とゝの)雜事厨調種々美物雜事の厨とは軽き者へふるまひするを云。種々の美物とハ色々のうまき物の事也。是より前状に官使代奏の饗膳厨の儀式示し給ハるへしとあるに善し也。〔100ウ六・七〕

とあって、この標記語「種々」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)時節(じせつ)の景物(けいぶつ)を盡(つく)し雑事(ざふじ)の厨(くりや)種々(しゆ/゛\)乃美物(びぶつ)を調(とゝの)ヘ廰庭(ちやうてい)の經營(けいえい)留守所(るすどころ)の結構(けつこう)(いち)を成(なす)が如(ごと)椀飯盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如スカ。▲雑事厨ハ定(さたま)れる料理(りやうり)の外(ほか)に出す肴(さかな)なとを司(つかさど)る臺所方(だいところかた)なるへし。〔74ウ一、74ウ五〕

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)(つくし)時節(じせつ)景物(けいぶつ)雑事(ざふじ)(くりや)調(とゝの)種々(しゆ/゛\)美物(びぶつ)廰庭(ちやうてい)経営(けいえい)留守所(るすどころ)結構(けつこう)(ごと)(なす)(いち)▲雑事厨ハ定(さたま)れる料理(りやうり)の外(ほか)に出す肴(さかな)なとを司(つかさど)る臺所方(だいところかた)なるべし。〔133ウ一、133ウ六〜134オ一〕

とあって、標記語「種々」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Xuju.シユジユ(種々) 例,Xuju samazama.(種々様々)多くの様式や種類.〔邦訳801l〕

とあって、標記語「種々」の語を収載し、意味は未記載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しュ-じュ〔名〕【種種】くさぐさ。さまざま。いろいろ。陸遊詩「老來初心種種非」保元物語、一、法皇熊野御參詣事「諸人、目を澄まして見る處に、權現、既に下りさせ給ひけるにや、種種の~變を現じて後、巫、法皇に向ひ進らせて」〔994-5〕

とあって、標記語「しュ-じュ種々】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しゅ-じゅ種々】(古く「しゅしゅ」とも)[一]〔名〕(形動)@種類の多いこと。また、そのさま。さまざま。いろいろ。A髪の短く衰えたさま。[二]〔副〕さまざまに。いろいろに」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
四一半錢、目勝以下、種々品熊、不論上下、一向可被禁制之由、被仰出〈云云〉《訓み下し》四一半銭、目勝以下、種種ノ品熊、上下ヲ論ゼズ、一向ニ禁制セラルベキノ由、仰セ出サルト〈云云〉。《『吾妻鑑』寛元二年十月十三日の条》
 
 
2005年11月26日(土)曇り。東京→世田谷(駒沢→三軒茶屋)→新宿NSビル
雑事(ザウジ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「左」部に、

雜事( ジ)〔元亀二年本269六〕〔静嘉堂本307一〕

とあって、標記語「雑事」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

飯盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔至徳三年本〕

飯盛物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔宝徳三年本〕

飯盛物積物以下盡時節之景物雜事厨調種々美物廰庭経営留主所結構如成市〔建部傳内本〕

(ワウ  )盛物積物(ツミ  )以下盡時節景物雜亊(クリヤ)調種々美物廰庭(チヤウテイ)経営留守所結構如スカ〔山田俊雄藏本〕

椀飯(ワウハン)盛物(モリ  )以下盡時節(ジセツ)()景物雜事(クリヤ)調(  ヘ)種々(シユシユ)美物廰庭(チヤウ  )経営(ケイエイ)留守(ルス)結構如(イチ)〔経覺筆本〕

(ワウハン)盛物(モリ  )積物(ツミ  )以下盡(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイ  )雜事(サウシ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物(ビ )廰庭(チヤウテイ)()経営(ケイヱイ)留守(ルス)結構(ケツコウ)スカ〔文明四年本〕※盡(ツクス)

と見え、至徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「雜事」と表記し、訓みは文明四年本に「サウシ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「雑事」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「雑事」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

雜事(ザフジマシヱ、コト・ワザ)[入・去] ―厨。〔態藝門785五〕

とあって、標記語「雜事」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、標記語「雑事」の語は未収載にする。易林本節用集』に、

雜談(ザフタン) ―行(ギヤウ)。―作()。―役(ヤク)。―説(せツ)。―乱(ラン)。―物(モツ)―事()。―用(ヨウ)。―意()。―務()。―書(シヨ)。―具()。―言(ゴン)。―心(シム)。―訴()。―掌(シヤウ)〔言辞門181一・二天理図書館蔵上26ウ一・二〕

とあって、標記語「雜談」の熟語群として「雜事」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』、『運歩色葉集』に標記語「雜事」の語を収載し、熟語群では易林本節用集』に収載され、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

744着府吏務(リム)法儀无ナル子細在廳人等日_(ナミ)ノ出仕恒例奉行无等閑椀飯(ワウハム)盛物(モリ―)物以下尽景物雜亊(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物廳庭(チヤウ−)ノ経営 政所之屋曰廳庭也。〔謙堂文庫蔵六四右C〕

とあって、標記語「雑事」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

入境(ジユケイ)著任(ヂヤクニン)之儀式(キシキ)著府(チヤクフ)吏務(リム)()法儀(ホウギ)(コト)ナル子細(シサイ)在廳(サイチヤウ)人等日并(ヒナミ)出仕(シユツシ)恒例(ゴウレイ)奉行(ブギヤウ)等閑(ナヲザリ)椀飯(ワウハン)盛物(モリモノ)積物(ツミモノ)以下(イゲ)(ツクシ)雑事(ジセツ)景物(ケイブツ)雜亊(ザウジ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種種(シユジユ)美物(ブフツ)入境(ジユケイ)著任(チヤクニン)ト云事サカヒニ入國從(メク)ル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三〕

とあって、標記語「雑事」の語を収載し、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

雑事(ざうじ)の厨(くりや)ハ種々(しゆ/\)の美物(びぶつ)を調(とゝの)雜事調種々美物雜事の厨とは軽き者へふるまひするを云。種々の美物とハ色々のうまき物の事也。是より前状に官使代奏の饗膳厨の儀式示し給ハるへしとあるに善し也。〔100ウ六・七〕

とあって、この標記語「雑事」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)時節(じせつ)の景物(けいぶつ)を盡(つく)雑事(ざふじ)の厨(くりや)ハ種々(しゆ/゛\)乃美物(びぶつ)を調(とゝの)ヘ廰庭(ちやうてい)の經營(けいえい)留守所(るすどころ)の結構(けつこう)(いち)を成(なす)が如(ごと)椀飯盛物積物以下盡時節景物雜事調種々美物廰庭経営留守所結構如スカ。▲雑事厨ハ定(さたま)れる料理(りやうり)の外(ほか)に出す肴(さかな)なとを司(つかさど)る臺所方(だいところかた)なるへし。〔74ウ一、74ウ五〕

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)(つくし)時節(じせつ)景物(けいぶつ)雑事(ざふじ)(くりや)調(とゝの)種々(しゆ/゛\)美物(びぶつ)廰庭(ちやうてい)経営(けいえい)留守所(るすどころ)結構(けつこう)(ごと)(なす)(いち)▲雑事厨ハ定(さたま)れる料理(りやうり)の外(ほか)に出す肴(さかな)なとを司(つかさど)る臺所方(だいところかた)なるべし。〔133ウ一、133ウ六〜134オ一〕

とあって、標記語「雑事」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「雑事」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ざつ-〔名〕【雑事】(一)些細なる、種種の事柄。岳寺碑「今昔紛、雜事夥多」(二)ざふ(ぞう)じ(雜事)の(一)、及、ざふ(ぞう)じせん(雜事錢)を見よ。源平盛衰記、十七、祇王祇女佛前事「筑後守家貞に仰て、衣裳、絹布の類を送進すのみに非ず、毎月に、時料、雜事を運入る」〔812-2〕

とあって、標記語「ざつ-雑事】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ざつ-雑事】〔名〕@こまごまととした種々の事柄。いろいろの用事。ぞうじ。Aこまごまとしたいろいろの用事にかかる費用。雑事銭(ぞうじせん)。」→「ぞう-雑事】〔名〕@いろいろのこまごまとした事柄。ざつじ。A中世の荘園制のもとでの税の一つ。年貢以外に収める藁(わら)や野菜、油、塩などをいう。雑公事(ぞうくじ)。B食事の用意をすること。また、旅の道中の食糧。C「ぞうじせん(雑事銭)」の略。D「ぞうじもの(雑事物)」の略」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
梶原平三景時、可奉行御産間雜事之旨、被仰付〈云云〉《訓み下し》梶原平三景時、御産ノ間ノ雑事(ザフジ)ヲ奉行スベキノ旨、仰セ付ケラルト〈云云〉。《『吾妻鑑』寿永元年七月十二日の条》
 
 
景物(ケイブツ)」は、ことばの溜め池(2005.02.11)を参照。
 
2005年11月25日(金)晴れ。東京→世田谷(駒沢)→渋谷
時節(ジセツ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、

時節(せツ)〔元亀二年本307六〕〔静嘉堂本358五〕

とあって、標記語「時節」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

飯盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔至徳三年本〕

飯盛物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔宝徳三年本〕

飯盛物積物以下盡時節之景物雜事厨調種々美物廰庭経営留主所結構如成市〔建部傳内本〕

(ワウ  )盛物積物(ツミ  )以下盡時節景物雜亊厨(クリヤ)調種々美物廰庭(チヤウテイ)経営留守所結構如スカ〔山田俊雄藏本〕

椀飯(ワウハン)盛物(モリ  )以下盡時節(ジセツ)()景物雜事厨(クリヤ)調(  ヘ)種々(シユシユ)美物廰庭(チヤウ  )経営(ケイエイ)留守(ルス)結構如(イチ)〔経覺筆本〕

(ワウハン)盛物(モリ  )積物(ツミ  )以下盡(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイ  )雜事(サウシ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物(ビ )廰庭(チヤウテイ)()経営(ケイヱイ)留守(ルス)結構(ケツコウ)スカ〔文明四年本〕※盡(ツクス)

と見え、至徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「時節」と表記し、訓みは経覺筆本・文明四年本に「ジセツ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「時節」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「時節」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「時節」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

744着府吏務(リム)法儀无ナル子細在廳人等日_(ナミ)ノ出仕恒例奉行无等閑椀飯(ワウハム)盛物(モリ―)物以下尽景物雜亊厨(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物廳庭(チヤウ−)ノ経営 政所之屋曰廳庭也。〔謙堂文庫蔵六四右C〕

とあって、真字註だけが標記語「時節」でなく和語「(とき)」の語を以て収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

入境(ジユケイ)著任(ヂヤクニン)之儀式(キシキ)著府(チヤクフ)吏務(リム)()法儀(ホウギ)(コト)ナル子細(シサイ)在廳(サイチヤウ)人等日并(ヒナミ)出仕(シユツシ)恒例(ゴウレイ)奉行(ブギヤウ)等閑(ナヲザリ)椀飯(ワウハン)盛物(モリモノ)積物(ツミモノ)以下(イゲ)(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイブツ)雜亊(ザウジ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種種(シユジユ)美物(ブフツ)入境(ジユケイ)著任(チヤクニン)ト云事サカヒニ入國從(メク)ル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三〕

とあって、標記語「時節」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

時節(じせつ)の景物(けいぶつ)を盡(つく)時節景物時にあたりて賞翫(しやうかん)の物をこと/\く用ひたるを云。〔100ウ五・六〕

とあって、この標記語「時節」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)時節(じせつ)の景物(けいぶつ)を盡(つく)し雑事(ざふじ)の厨(くりや)ハ種々(しゆ/゛\)乃美物(びぶつ)を調(とゝの)ヘ廰庭(ちやうてい)の經營(けいえい)留守所(るすどころ)の結構(けつこう)(いち)を成(なす)が如(ごと)椀飯盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如スカ〔74ウ一〕

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)(つくし)時節(じせつ)景物(けいぶつ)雑事(ざふじ)(くりや)調(とゝの)種々(しゆ/゛\)美物(びぶつ)廰庭(ちやうてい)経営(けいえい)留守所(るすどころ)結構(けつこう)(ごと)(なす)(いち)〔133ウ一〕

とあって、標記語「時節」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iixet.ジセツ(時節) Toqi toqi.(時節)時.例,Iixet to<rai suru.(時節到来する)その時刻,あるいは,その時期が近づく,または,来る.〔邦訳366l〕

とあって、標記語「時節」の語を収載し、意味は「Toqi toqi.(時節)時」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-せつ〔名〕【時節】(一)時候。「緩和の時節」晴明の時節」(二)ときよ。とき。時代。をり。時機。國語、晉語「夫コ廣遠而有時節凱陣八島(貞享、近松作)二「先づ、奥州に下だり、秀衡を頼み、時節を伺ひ見ん」〔895-3〕

とあって、標記語「-せつ時節】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-せつ時節】〔名〕@一年のうちで、移り変わってゆく天候や風景などによって感じられるその折の季節。時候。A時間。時期。Bある状態になる時。物事を行なう時機。また、そうするのにふさわしい機会。折(おり)。Cその時代の世間の状態や世人の考え方。時世。D各務支考(かがみしこう)連句付合論に説く七名八体の付方の内、八体の一つ。春夏秋冬の季節や節句、正月などの行事をもって前句に付けること。E「じせつみまい(時節見舞)」の略」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
東大寺供養日事、可爲明春正月之由、已雖有其定、遠國之輩爲結縁令上洛者、時節若可有煩歟者依此事、將軍家可有御上洛《訓み下し》東大寺供養日ノ事、明春正月タルベキノ由、已ニ其ノ定メ有リト雖モ、遠国ノ輩結縁ノ為ニ上洛セシメバ、時節若シ煩ヒ有ルベキカテイレバ、此ノ事ニ依テ、将軍家御上洛有ルベシ。《『吾妻鑑』建久五年七月三日の条》
 
 
2005年11月24日(木)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
積物(ツミモノ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「津」部に、標記語「積物」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

飯盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔至徳三年本〕

飯盛物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔宝徳三年本〕

飯盛物積物以下盡時節之景物雜事厨調種々美物廰庭経営留主所結構如成市〔建部傳内本〕

(ワウ  )盛物積物(ツミ  )以下盡時節景物雜亊厨(クリヤ)調種々美物廰庭(チヤウテイ)経営留守所結構如スカ〔山田俊雄藏本〕

椀飯(ワウハン)盛物(モリ  )以下盡時節(ジセツ)()景物雜事厨(クリヤ)調(  ヘ)種々(シユシユ)美物廰庭(チヤウ  )経営(ケイエイ)留守(ルス)結構如(イチ)〔経覺筆本〕

(ワウハン)盛物(モリ  )積物(ツミ  )以下盡(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイ  )雜事(サウシ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物(ビ )廰庭(チヤウテイ)()経営(ケイヱイ)留守(ルス)結構(ケツコウ)スカ〔文明四年本〕※盡(ツクス)

と見え、至徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「積物」と表記し、訓みは「」記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「積物」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「積物」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

積物(ツミモノ/シヤクブツ)[去入・入] 。〔態藝門417六〕

とあって、標記語「積物」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「積物」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』に標記語「積物」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

744着府吏務(リム)法儀无ナル子細在廳人等日_(ナミ)ノ出仕恒例奉行无等閑椀飯(ワウハム)盛物(モリ―)物以下尽景物雜亊厨(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物廳庭(チヤウ−)ノ経営 政所之屋曰廳庭也。〔謙堂文庫蔵六四右C〕

とあって、標記語「積物」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

入境(ジユケイ)著任(ヂヤクニン)之儀式(キシキ)著府(チヤクフ)吏務(リム)()法儀(ホウギ)(コト)ナル子細(シサイ)在廳(サイチヤウ)人等日并(ヒナミ)出仕(シユツシ)恒例(ゴウレイ)奉行(ブギヤウ)等閑(ナヲザリ)椀飯(ワウハン)盛物(モリモノ)積物(ツミモノ)以下(イゲ)(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイブツ)雜亊(ザウジ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種種(シユジユ)美物(ブフツ)入境(ジユケイ)著任(チヤクニン)ト云事サカヒニ入國從(メク)ル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三〕

とあって、標記語「積物」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)椀飯盛物積物以下椀飯ハわうはんふるまいとてわき人にふるまいする事也。盛物積物ハ弛臺の品也。以下の字義ハ前に見へたり。〔100ウ三〜五〕

とあって、この標記語「積物」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)時節(じせつ)の景物(けいぶつ)を盡(つく)し雑事(ざふじ)の厨(くりや)ハ種々(しゆ/゛\)乃美物(びぶつ)を調(とゝの)ヘ廰庭(ちやうてい)の經營(けいえい)留守所(るすどころ)の結構(けつこう)(いち)を成(なす)が如(ごと)椀飯盛以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如スカ。▲盛物積物ハ共に饗應(ふれまひ)の品(しな)也。〔74オ八、74ウ四・五〕

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)(つくし)時節(じせつ)景物(けいぶつ)雑事(ざふじ)(くりや)調(とゝの)種々(しゆ/゛\)美物(びぶつ)廰庭(ちやうてい)経営(けいえい)留守所(るすどころ)結構(けつこう)(ごと)(なす)(いち)▲盛物積物ハ共に饗應(ふれまひ)のなり。〔133ウ一、133ウ六〜134オ一〕

とあって、標記語「積物」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「積物」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

つみ-もの〔名〕【積物】祭禮の飾、又は、芝居興行の時、役者へ贈物として、酒樽、餅、菓子、蒸籠などを、路傍に高く積立つるもの。(二)すべて、積みかさねたるもの。〔1331-5〕

とあって、標記語「つみ-もの積物】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「つみ-もの積物】〔名〕@積み重ねてある物。船などに積みこんである荷物など。A積み重ねて飾る贈り物。祭礼の飾り物や、開店や芝居興行などの際、祝儀とした蒸籠(せいろう)・俵物・酒樽(さかだる)・菓子などを家の表や木戸の前などに高く積み上げたもの。B(Aから転じて)贈り物。祝儀」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は@の意味用例として記載する。他に広本節用集』も収載する。
[ことばの実際]
次射手等分賜積物《訓み下し》次ニ射手等ニ積物ヲ分チ賜フ。《『吾妻鑑』仁治二年正月二十三日の条》
 
 
盛物(もりもの)」は、ことばの溜め池(2002.03.13)を参照。
 
2005年11月23日(水)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
椀飯(ワウバン)」→ことばの溜め池(2001.04.06)を参照。
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「和」部に、

椀飯(ワウバン) 正月武家出仕。〔元亀本88D〕

椀飯(ワウバン) 正月武家出仕。〔静嘉堂本109@〕

(ワウハン) 正月武家出仕。〔天正十七年本上54オ@〕

(ワウバン) 正月武家之出仕。〔西来寺本157@〕

とあって、標記語「椀飯」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

盛物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔至徳三年本〕

盛物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如成市〔宝徳三年本〕

盛物積物以下盡時節之景物雜事厨調種々美物廰庭経営留主所結構如成市〔建部傳内本〕

(ワウ  )盛物積物(ツミ  )以下盡時節景物雜事厨(クリヤ)調種々美物廰庭(チヤウテイ)経営留守所結構如スカ〔山田俊雄藏本〕

椀飯(ワウハン)盛物(モリ  )以下盡時節(ジセツ)()景物雜事厨(クリヤ)調(  ヘ)種々(シユシユ)美物廰庭(チヤウ  )経営(ケイエイ)留守(ルス)結構如(イチ)〔経覺筆本〕

(ワウハン)盛物(モリ  )積物(ツミ  )以下盡(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイ  )雜事(サウシ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物(ビ )廰庭(チヤウテイ)()経営(ケイヱイ)留守(ルス)結構(ケツコウ)スカ〔文明四年本〕※盡(ツクス)

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本文明四年本は「」、山田俊雄藏本は「(ワウ  )」、経覺筆本に「椀飯」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「ワウ(ハン)」、経覺筆本・文明四年本に「ワウハン」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

飲食部/ワウハン。〔黒川本・畳字門上72ウ四〕

ワウハン。〔卷第三・飲食門上119五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

椀飯(ワウバン) 正月武家出仕。〔態藝門79五〕

とあって、標記語「椀飯」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

椀飯(ワウハン/ワン、イヽ) 正月武家出仕義也。〔態藝門241五〕

とあって、標記語「椀飯」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

椀飯(同(ワウバン)) 正月武家之出仕義。〔・時節70C〕

椀飯(ワウバン) 正月武家之出仕之義也。〔・天地70B〕

椀飯(ワウハン) 正月武家之出仕之義也。〔・天地64B〕

椀飯(ワウバン) 正月武家之出仕之義也。〔・天地75F〕

とあって、標記語「椀飯」の語を収載する。易林本節用集』に、

椀飯(クワウイン) 〔言語門52七・天理図書館蔵上26ウ七〕

とあって、標記語「椀飯」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「椀飯」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

744着府吏務(リム)法儀无ナル子細在廳人等日_(ナミ)ノ出仕恒例奉行无等閑椀飯(ワウハム)盛物(モリ―)物以下尽景物雜亊厨(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物廳庭(チヤウ−)ノ経営 政所之屋曰廳庭也。〔謙堂文庫蔵六四右C〕

とあって、標記語「椀飯」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

入境(ジユケイ)著任(ヂヤクニン)之儀式(キシキ)著府(チヤクフ)吏務(リム)()法儀(ホウギ)(コト)ナル子細(シサイ)在廳(サイチヤウ)人等日并(ヒナミ)出仕(シユツシ)恒例(ゴウレイ)奉行(ブギヤウ)等閑(ナヲザリ)椀飯(ワウハン)盛物(モリモノ)積物(ツミモノ)以下(イゲ)(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイブツ)雜亊(ザウジ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種種(シユジユ)美物(ブフツ)入境(ジユケイ)著任(チヤクニン)ト云事サカヒニ入國從(メク)ル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三〕

とあって、標記語「椀飯」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)椀飯盛物積物以下椀飯ハわうはんふるまいとてわき人にふるまいする事也。盛物積物ハ弛臺の品也。以下の字義ハ前に見へたり。〔100ウ三〜五〕

とあって、この標記語「椀飯」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)時節(じせつ)の景物(けいぶつ)を盡(つく)し雑事(ざふじ)の厨(くりや)ハ種々(しゆ/゛\)乃美物(びぶつ)を調(とゝの)ヘ廰庭(ちやうてい)の經營(けいえい)留守所(るすどころ)の結構(けつこう)(いち)を成(なす)が如(ごと)椀飯物積物以下盡時節景物雜事厨調種々美物廰庭経営留守所結構如スカ。▲椀飯ハ三月の進状に見ゆ。〔74オ八、74ウ四〕

椀飯(わうはん)盛物(もりもの)積物(つミもの)以下(いげ)(つくし)時節(じせつ)景物(けいぶつ)雑事(ざふじ)(くりや)調(とゝの)種々(しゆ/゛\)美物(びぶつ)廰庭(ちやうてい)経営(けいえい)留守所(るすどころ)結構(けつこう)(ごと)(なす)(いち)▲椀飯ハ三月の進状に見ゆ。〔133ウ一、133ウ六〕

とあって、標記語「椀飯」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vo<ban.ワゥバン(椀飯・飯) 正月(Xo<guachi),内裏(Dairi),あるいは,ある屋形(Yacata)に,あらゆる種類の狩や漁などの獲物を携えて行って催される宴会.〔邦訳696l〕

とあって、標記語「椀飯」の語を収載し、上記の如く意味を記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

わう-ばん〔名〕【椀飯】〔わうハわぬの音便、の訛、強飯(常飯)の姫飯(ひめいひ)となり、粘りて土器に盛られざれば、木椀に盛るより名とす〕(一){姫飯(ひめいひ)の膳部。食膳。字類抄、ワウハン」江家次第、一、供御藥「陪膳女房、調、居其盤源氏物語、四十八、寄生80「屯食(トンジキ)五十具、碁手(ごて)の錢、わうばんなどはよのつねのやうにて、云云」(二)酒食の盛大なる饗宴。鎌倉、室町幕府の頃は、臣下より將軍に獻じたり。大饗應。盛饗。吾妻鏡、八、文治四年正月六日「上總介義兼獻、相副馬五疋(三)椀飯振舞の略。江戸時代には、正月、家の主人、家族、親族を集めて、饗應すること。新年第一の祝儀としたり。〔2159-1〕

とあって、標記語「わう-ばん椀飯】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「おう-ばん椀飯】〔名〕(「わう」は「わん()の変化したもの」)@飯器に盛った飯。椀に盛ってすすめる飯。A王朝時代、公卿たちが殿上に集まったときの供膳。鎌倉・室町時代には将軍家に大名が祝膳を奉る儀式となり、年頭の恒例として、また、慶賀の時などに行なった。応仁の乱以後はあまり行なわれなくなり、江戸時代には、民家で正月に親類などを招いて宴を催すことをいった。大供応。盛饗。《季・新年》B「おうばんやく(飯役)」に同じ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
正月七日椀飯(ワウバン)事終て、同十一日雪晴風止て、天氣少し長閑なりければ、里美伊賀守を大將として、義治五千餘人を金崎の後攻の爲に敦賀へ被差向。《『太平記』巻第十八、越前府軍并金崎後攻事・二238@》
 
 
等閑(トウクワン)」は、ことばの溜め池(2001.04.19)を参照。
 
2005年11月22日(火)晴れ。東京→世田谷(駒沢)→新宿
恒例(ゴウレイ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「古」部に、

恒例(ゴウレイ)〔元亀二年本232六〕

恒例(コウレイ)〔静嘉堂本267三〕〔天正十七年本中62ウ二〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「恒例」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

在廳人等日並出仕恒例奉行無等閑〔至徳三年本〕

在廳人等日並出仕恒例奉行無等閑〔宝徳三年本〕

在廳人等日次之出仕恒例奉行無等閑〔建部傳内本〕

在廳(テウ)人等日_(ナミ)出仕恒例奉行人等無等閑〔山田俊雄藏本〕

在廳人等日_(ナミ)出仕()恒例(コウレイ)奉行人无等閑〔経覺筆本〕

在廳(チヤウ)人等()日並(ヒナミ)出仕恒例(コウレイ)奉行人無等閑(トウカン)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「恒例」と表記し、訓みは経覺筆本・文明四年本に「コウレイ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「恒例」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

恒例(ゴウレイ) 〔言辭門151一〕

とあって、標記語「恒例」の語を収載する。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)

恒例(コウレイツネ、タグイ・ナラブ)[平・去] 。〔態藝門680三〕

とあって、標記語「恒例」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集

恒例(ゴウレイ) 嘉例義・言語進退門190二〕

恒例(ゴウレイ) 嘉例之義・言語門155六〕

恒例(コウレイ) 嘉―義・言語門145六〕 

とあって、標記語「恒例」の語を収載する。易林本節用集』に、

恒例(ゴウレイ) ―式(シキ)〔言語門159二・天理図書館蔵上12ウ二〕

とあって、標記語「恒例」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「恒例」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

744着府吏務(リム)法儀无ナル子細在廳人等日_(ナミ)ノ出仕恒例奉行无等閑椀飯盛(ワウハムモリ)物積物以下尽景物雜亊厨(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物廳庭(チヤウ−)ノ経営 政所之屋曰廳庭也。〔謙堂文庫蔵六四右C〕

とあって、標記語「恒例」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

入境(ジユケイ)著任(ヂヤクニン)之儀式(キシキ)著府(チヤクフ)吏務(リム)()法儀(ホウギ)(コト)ナル子細(シサイ)在廳(サイチヤウ)人等日并(ヒナミ)出仕(シユツシ)恒例(ゴウレイ)奉行(ブギヤウ)等閑(ナヲザリ)椀飯(ワウハン)盛物(モリモノ)積物(ツミモノ)以下(イゲ)(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイブツ)雜亊(ザウジ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種種(シユジユ)美物(ブフツ)入境(ジユケイ)著任(チヤクニン)ト云事サカヒニ入國從(メク)ル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三〕

とあって、標記語「恒例」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

恒例(ごうれい)の奉行(ぶぎやう)恒例奉行恒例ハ定式(ちやうしき)なり。奉行とハ上の下知(げぢ)を交て事を取行(とりおこな)ふをいふなり。役名の奉行にハあらす。〔100ウ一・二〕

とあって、この標記語「恒例」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

在廳人(さいちやうにん)(とう)日並(ひなミ)に出仕(しゆつし)して恒例(ごうれい)奉行(ぶぎやう)等閑(とうかん)()在廳人等日並出仕シテ恒例奉行無等閑▲恒例ハ政事(せいじ)の恒(つね)に定(さた)めとする例(おほむき)也。〔74オ七、74ウ四〕

在廳人(さいちやうにん)(とう)日並(ひなミに)出仕(しゆつし)して恒例(ごうれい)奉行(ぶぎやう)(なし)等閑(とうかん)▲恒例ハ政事(せいじ)の恒(つね)に定(さた)めとする例(おほむき)也。〔133オ六、133ウ五・六〕

とあって、標記語「恒例」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Go>rei.ゴウレイ(恒例) Tcuneno tamexi.(恒の例)不文律のような,通常の慣例.〔邦訳308r〕

とあって、標記語「恒例」の語を収載し、意味は「Tcuneno tamexi.(恒の例)不文律のような,通常の慣例」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

こう-れい〔名〕【恒例】公事(くじ)、儀式など、常例として行はるもの。定例(臨時に對す)。源平盛衰記、三、澄憲祈雨事「清凉殿にして、恒例の最勝講、行はる」古今著聞集、三、公事「恒例、臨時の大小事」〔652-4〕

とあって、標記語「ごう-れい恒例】(古くは「ごうれい」とも)物事が、きまったやりかたで行われること。多く、儀式や行事がきまった月日やきまった方式で行われることについていう。また、その儀式や行事。常例。定例」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ごう-れい恒例】〔名〕」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
其後、云日次之世務世理、云恒例之神事佛事、皆以擁怠《訓み下し》其ノ後、日次ノ世務世理ト云ヒ、恒例(ゴウレイ)ノ神事仏事ト云ヒ、皆以テ擁怠ス。《『吾妻鑑』寿永三年二月二十日の条》
 
 
出仕(シュッシ)」は、ことばの溜め池(2003.08.22)を参照。
 
2005年11月21日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
日並(ひなみ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「飛」部に、「日賃(ヒヂン)。日養(ヤウ)。日限(ゲン)。日別(ベツ)。日来(ゴロ)。日取(ドリ)。日干(ボシ)。日柄(ガラ)。日間()」の語を収載するが、標記語「日並」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

在廳人等日並出仕恒例奉行無等閑〔至徳三年本〕

在廳人等日並出仕恒例奉行無等閑〔宝徳三年本〕

在廳人等日次之出仕恒例奉行無等閑〔建部傳内本〕

在廳(テウ)人等_(ナミ)出仕恒例奉行人等無等閑〔山田俊雄藏本〕

在廳人等_(ナミ)出仕()恒例(コウレイ)奉行人无等閑〔経覺筆本〕

在廳(チヤウ)人等()日並(ヒナミ)出仕恒例(コウレイ)奉行人無等閑(トウカン)〔文明四年本〕

と見え、建部傳内本は「日次」、至徳三年本・宝徳三年本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「日並」と表記し、訓みは山田俊雄藏本・経覺筆本に「(ひ)なみ」、文明四年本に「ひなみ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「日並」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「日並」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)

日次(ヒナミジチシ・ツイデ)[入・去]。〔態藝門1046四〕

とあって、標記語「日次」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、標記語「日並」の語は未収載にする。易林本節用集』に、

日數(ヒカズ) ―並(ナミ)。―比(ゴロ)〔言語門226四・天理図書館蔵下46オ四〕

とあって、標記語「日並」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「日並」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

744着府吏務(リム)法儀无ナル子細在廳人等_(ナミ)ノ出仕恒例奉行无等閑椀飯盛(ワウハムモリ)物積物以下尽景物雜亊厨(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物廳庭(チヤウ−)ノ経営 政所之屋曰廳庭也。〔謙堂文庫蔵六四右C〕

とあって、標記語「日並」の語を収載し、語注記は未記載にする。

 古版庭訓徃来註』では、

入境(ジユケイ)著任(ヂヤクニン)之儀式(キシキ)著府(チヤクフ)吏務(リム)()法儀(ホウギ)(コト)ナル子細(シサイ)在廳(サイチヤウ)人等日并(ヒナミ)出仕(シユツシ)恒例(ゴウレイ)奉行(ブギヤウ)等閑(ナヲザリ)椀飯(ワウハン)盛物(モリモノ)積物(ツミモノ)以下(イゲ)(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイブツ)雜亊(ザウジ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種種(シユジユ)美物(ブフツ)入境(ジユケイ)著任(チヤクニン)ト云事サカヒニ入國從(メク)ル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三〕

とあって、標記語「日并」の語を収載し、語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

日並(ひなミ)の出仕(しゆつし)日並出仕出仕ハ公所へ出勤する事也。〔100ウ一〕

とあって、この標記語「日並」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

在廳人(さいちやうにん)(とう)日並(ひなミ)に出仕(しゆつし)して恒例(ごうれい)奉行(ぶぎやう)等閑(とうかん)()在廳人等日並出仕シテ恒例奉行無等閑。▲日並出仕シテハ役人(やくにん)毎日(まいにち)出勤(しゆつきん)する也。但し日並ハ日次(ひなミ)に作て可ならん。〔74オ七、74ウ三・四〕

在廳人(さいちやうにん)(とう)日並(ひなミに)出仕(しゆつし)して恒例(ごうれい)奉行(ぶぎやう)(なし)等閑(とうかん)。▲日並出仕シテハ役人(やくにん)毎日(まいにち)出勤(しゆつきん)する也。但し日並ハ日次(ひなミ)に作て可()ならん。〔133オ六、133ウ五〕

とあって、標記語「日並」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Finami.ヒナミ(日並) 日々の連続.¶Finamino renga.(日並の連歌)毎日引き続いて作られる歌〔連歌〕.¶Finamiga yoi,l,varui.(日並が良い,または,悪い)このごろは,良い日,すなわち,天気のよい日が続いている,または,悪い日,すなわち,天気の悪い日が続いている.→Tcuqinami.〔邦訳233r〕

とあって、標記語「日並」の語を収載し、意味は「日々の連続」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-なみ〔名〕【日次】〔日竝の義〕(一)日記などに記す朔日、二日、三日などと日の次第。日日の次第。(二)日毎にものすること。夫木抄、十八、鷹狩「今日いくか、日なみの御狩、かりくらし、かた野のを野を、ゆきかへるらん」「日次紀事(延寳、黒川道祐)」(三)日のよしあし。日がら。狂言記、薩摩守「今日はひなみもようござる程に、定めて乗りても御座らう」好色一代男(天和、西)三「其夜は辻堂にあかして、明日の日次を待ちしに」〔1685-4〕

とあって、標記語「-なみ日並】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-なみ日並日次】〔名〕@毎日すること。毎日。日ごと。A日の順序。日程、また、日々の次第。日々の記録。日記。B日のよしあし。日柄。また、ひより。天候」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
去月自伊豆國阿岐戸郷、雖令到著給、依日次不宜、止宿稲瀬河邊民居給〈云云〉《訓み下し》去ヌル月伊豆ノ国阿岐戸ノ郷ヨリ(去ヌル夜)、到著セシメ給フト雖モ、日次宜シカラザルニ依テ、稲瀬河ノ辺ノ民居ニ止宿シ給フト〈云云〉。《『吾妻鑑』治承四年十月十一日の条》
 
 
2005年11月20日(日)晴れ。東京→世田谷(玉川→駒沢)
法儀(ホウギ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」「保」部に、標記語「法儀」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

着府吏務法儀無殊子細〔至徳三年本〕

着符((府))吏務法儀無殊子細〔宝徳三年本〕

着府吏務法儀無殊子細〔建部傳内本〕

着府吏務(リ )()法儀ナル子細〔山田俊雄藏本〕

着府(チヤクフ)()吏務(リム)法儀(ナシ)ナル子細〔経覺筆本〕

着府(チヤクフ)吏務(リム)法儀(ハウギ)(ナシ)(コト)子細。〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「法儀」と表記し、訓みは文明四年本に「ハウギ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「法儀」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「法儀」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「法儀」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

744着府吏務(リム)法儀ナル子細在廳人等日_(ナミ)ノ出仕恒例奉行无等閑椀飯盛(ワウハムモリ)物積物以下尽景物雜亊厨(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物廳庭(チヤウ−)ノ経営 政所之屋曰廳庭也。〔謙堂文庫蔵六四右C〕

とあって、標記語「法儀」の語を収載し、その後に「在原」と記載し、茲に「在原業平」と『伊勢物語』について詳細な注記を記載しているのである。

 古版庭訓徃来註』では、

入境(ジユケイ)著任(ヂヤクニン)之儀式(キシキ)著府(チヤクフ)吏務(リム)()法儀(ホウギ)(コト)ナル子細(シサイ)在廳(サイチヤウ)人等日并(ヒナミ)出仕(シユツシ)恒例(ゴウレイ)奉行(ブギヤウ)等閑(ナヲザリ)椀飯(ワウハン)盛物(モリモノ)積物(ツミモノ)以下(イゲ)(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイブツ)雜亊(ザウジ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種種(シユジユ)美物(ブフツ)入境(ジユケイ)著任(チヤクニン)ト云事サカヒニ入國從(メク)ル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三〕

とあって、標記語「法儀」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

着府(ちやくふ)吏務(りむ)法儀(ほうぎ)着府吏務法儀着府の注前に見へたり。吏務ハ役所のつとめなり。吏ハ役人の事也。法ハ法式(しき)。儀ハ儀式也。〔100オ六・七〕

とあって、この標記語「法儀」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

着府(ちやくふ)吏務(りむ)法儀(ほうぎ)着府吏務法儀▲法儀ハ法度(はつと)儀則(きそく)也。〔74オ七、74ウ三〕

着府(ちやくふ)吏務(りむ)()法儀(ほふぎ)▲法儀ハ法度(はつと)儀則(きそく)也。〔132オ四・五、133ウ四〕

とあって、標記語「法儀」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Fo<gui.ホウギ(法儀) 国々,または,全国の法律.※原文はreyno,ou republica.諸侯の国とそれを包括する全国とを意味する.〔邦訳258l〕

とあって、標記語「法儀」の語を収載し、意味は「国々,または,全国の法律」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ほふ-法儀】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ほう-法儀】〔名〕[一]法と儀礼。また、法則。法度。日葡辞書(1603-04)「Fo<gui(ハウギ)」説教節・あいごの若(山本九兵衛板)(1661)初「つらつらおもんみるに、しんりんのほうぎをほんとして、君をうやまひたみをあわれみ」*管子-兵法「制法儀、出号令[二](ホフ…)仏語。@行儀。きまり。しきたり。正法眼藏(1231-53)大修行「仏祖の法儀を軽慢すべからず」*伝光録(1299-1302頃)釈迦牟尼仏「正像末の三時、かの法儀をしたふもの、仏の形儀をかたどり、仏の受用を受用して」A僧侶としての姿。法体。霊異記(810-824)中・七「法儀を生馬山に捨て、慈神彼の金の宮に遷りき」B仏法の儀式。歌舞伎・韓人漢文手管始(唐人殺し)(1789)四「先程より法義にかかりまして、御機嫌の程も窺ひませず」C極楽。大観謡曲・身延(室町末)「かの調達が五逆の因に、沈みはてにし阿鼻の苦しみ、終に法儀の台に変ず」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
有評定、雜人訴訟事、被定法儀《訓み下し》評定有リテ、雑人訴訟ノ事、法儀ヲ定メラル。《『吾妻鑑』建長二年六月十日の条》
 
 
2005年11月19日(土)晴れ。東京→神田→世田谷(駒沢)
吏務(リム)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「利」部に、「吏部。吏史(リシ)守之唐名」の二語を収載し、標記語「吏務」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

着府吏務法儀無殊子細〔至徳三年本〕

着符((府))吏務法儀無殊子細〔宝徳三年本〕

着府吏務法儀無殊子細〔建部傳内本〕

着府吏務(リ )()法儀無ナル子細〔山田俊雄藏本〕

着府(チヤクフ)()吏務(リム)法儀无(ナシ)ナル子細〔経覺筆本〕

着府(チヤクフ)吏務(リム)法儀(ハウギ)(ナシ)(コト)子細。〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「吏務」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「吏務」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「吏務」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「吏務」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

744着府吏務(リム)法儀无ナル子細在廳人等日_(ナミ)ノ出仕恒例奉行无等閑椀飯盛(ワウハムモリ)物積物以下尽景物雜亊厨(クリヤ)調(トヽノヘ)種々美物廳庭(チヤウ−)ノ経営 政所之屋曰廳庭也。〔謙堂文庫蔵六四右C〕

とあって、標記語「吏務」の語を収載し、その後に「在原」と記載し、茲に「在原業平」と『伊勢物語』について詳細な注記を記載しているのである。

 古版庭訓徃来註』では、

入境(ジユケイ)著任(ヂヤクニン)之儀式(キシキ)著府(チヤクフ)吏務(リム)()法儀(ホウギ)(コト)ナル子細(シサイ)在廳(サイチヤウ)人等日并(ヒナミ)出仕(シユツシ)恒例(ゴウレイ)奉行(ブギヤウ)等閑(ナヲザリ)椀飯(ワウハン)盛物(モリモノ)積物(ツミモノ)以下(イゲ)(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイブツ)雜亊(ザウジ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種種(シユジユ)美物(ブフツ)入境(ジユケイ)著任(チヤクニン)ト云事サカヒニ入國從(メク)ル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三〕

とあって、標記語「吏務」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

着府(ちやくふ)吏務(りむ)の法儀(ほうぎ)着府吏務法儀着府の注前に見へたり。吏務ハ役所のつとめなり。吏ハ役人の事也。法ハ法式(しき)。儀ハ儀式也。〔100オ六・七〕

とあって、この標記語「吏務」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

着府(ちやくふ)吏務(りむ)の法儀(ほうぎ)着府吏務法儀▲吏務ハ役人(やくにん)の国政(こくせい)を取(とり)さばく務(つとめ)かた也。〔74オ七、74ウ三〕

着府(ちやくふ)吏務(りむ)()法儀(ほふぎ)▲吏務ハ役人(やくにん)の国政(こくせい)を取(とり)さばく務(つとめ)かた也。〔132オ四・五、133ウ四〕

とあって、標記語「吏務」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「吏務」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

-〔名〕【吏務】役人のつとめ。又國司の執る事務。台記、仁平元年二月四日「近江國、云云、件國本禪閣掌吏務、云云」〔2125-3〕

とあって、標記語「-吏務】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「-吏務】〔名〕@役人としての職務。A職務にたずさわる役人」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
然者來秋之比、被任國司、被行吏務、可宜候《訓み下し》然レバ来秋ノ比、国司ヲ任ゼラレ、吏務(リム)ヲ行ハレテ、宜シカルベク候フ。《『吾妻鑑』寿永三年二月二十五日の条》
 
 
2005年11月18日(金)晴れ。大阪→高野山→東京
入境(ニツケイ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「仁」「志」部に、標記語「入境」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

入境着任儀式〔至徳三年本〕

入境着任儀式〔宝徳三年本〕

入境着任之儀式〔建部傳内本〕

入境(ニツケイ)着任儀式〔山田俊雄藏本〕

入境(ケイ)着任(チヤクニン)()儀式〔経覺筆本〕

入境(ジツキヤウ)着任(  ニン)儀式〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「入境」と表記し、訓みは山田俊雄藏本に「ニツケイ」、経覺筆本に「(ニツ)ケイ」、文明四年本に「ジツキヤウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「入境」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「入境」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「入境」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

743甚如(ウル)カ玉珠レハ参拝者難抑遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也(ケイ)着任儀式 着任云、守護也。〔謙堂文庫蔵六三左H〕

とあって、標記語「入境」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

入境(ジユケイ)著任(ヂヤクニン)之儀式(キシキ)著府(チヤクフ)吏務(リム)()法儀(ホウギ)(コト)ナル子細(シサイ)在廳(サイチヤウ)人等日并(ヒナミ)出仕(シユツシ)恒例(ゴウレイ)奉行(ブギヤウ)等閑(ナヲザリ)椀飯(ワウハン)盛物(モリモノ)積物(ツミモノ)以下(イゲ)(ツクシ)時節(ジセツ)景物(ケイブツ)雜亊(ザウジ)(クリヤ)調(トヽノヘ)種種(シユジユ)美物(ブフツ)入境(ジユケイ)著任(チヤクニン)ト云事サカヒニ入國從(メク)ル事ナリ。〔下40オ八〜40ウ三〕

とあって、標記語「入境」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

入境(じゆきやう)着任(ちやくにん)()儀式(ぎしき)入境着任儀式此句より下ハ任国中の事をいえるなり。入境とハ其国さかひに着入せし也。着任の注前に見へたり。〔100オ五・六〕

とあって、この標記語「入境」の語を収載し、語注記は、上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

入境(じゆけい)着任(ちやくにん)の儀式(ぎしき)入境着任儀式▲入境ハ任国(にんこく)の境(さかい)に入る也。〔74オ六、74ウ二〕

入境(じゆきやう)着任(ちやくにん)()儀式(ぎしき)▲入境ハ任国(にんこく)の境(さかい)に入る也。〔132オ四、133ウ四〕

とあって、標記語「入境」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「入境」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』及び現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「にッ-けい入境】」「じゅ-きょう入境】」の語は未収載にする。依って、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載となる。
[ことばの実際]
又云、明日卯剋出、来月二日可入境、府生保重持来府内取手結、今日無御前内取、依左相撲人不參云々。《『小右記』治安三年七月廿五日の条、6/187・302-0》
 
 
2005年11月17日(木)晴れ。東京→世田谷(駒沢)→大阪
恩問(オンモン)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「遠」部に、

恩問(モン)〔元亀二年本77二〕〔静嘉堂本94二〕〔天正十七年本上46ウ七〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「恩問」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

何時謝之便可啓案内之処路次之疲労長途之窮屈只忙然之外无他依恩問所被驚也〔至徳三年本〕

何時謝之便可啓案内之処路次之疲労長途之窮屈只忙然之外无他依恩問所被驚也〔宝徳三年本〕

何時謝之便可啓案内之処路次之疲労長途之窮屈只忙然之外无他依恩問所被驚也〔建部傳内本〕

何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔山田俊雄藏本〕

何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔経覺筆本〕

何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「恩問」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「恩問」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「恩問」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)

恩問(ヲンモンイツクシ・ネンゴロ、ブン・トウ)[平軽・去] 。〔態藝門215六〕

音問(ヲンモンインブン・コヱ、トウ)[平・去] 。〔態藝門217四〕

とあって、標記語「恩問」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集

恩問(ヲンモン) ・言語進退門69二〕

恩波(ヲンハ) ―慈()。―顧()。―言(ゴン)。―賞(シヤウ)。―顔(ガン)。―惠(ケイ)。―許(キヨ)。―愛(アイ)。―免(メン)。―給(キウ)。―簡(カン)/―札(サツ)。―コ(ドク)。―情(シヤウ)―問(モン)。―賜()。―容(ヨウ)。―恕(ジヨ)。―告(カウ)。―借(シヤク)。―領(リヤウ)・言語門66二〕

恩波(ヲンハ) ―慈。―顧。―言。―賞。―顔。―惠。―許。―愛。―免。―給。―簡/―札。―コ。―情。―問。―賜。―容。―恕。―告。―借。―領。―扶持・天地門60五〕 

恩波(ヲンハ) ―慈。―顧。―言。―賞。―顔。―惠/―許。―愛。―コ。―借。―領。―問・言語門71二〕

とあって、弘治二年本に標記語「恩問」の語を収載し、他本は標記語「恩波」の熟語群として「恩問」の語を収載する。易林本節用集』に、

恩問(  モン) 〔言語門62七・天理図書館蔵上31ウ七〕

とあって、標記語「恩問」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「恩問」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

743甚如(ウル)カ玉珠レハ参拝者難抑遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也(ケイ)着任儀式 着任云、守護也。〔謙堂文庫蔵六三左H〕

とあって、標記語「恩問」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

遼遠(レウヱン)之國輙(タヤスク)キニ音信(ハス)光陰(クワウイン)遺恨(イコン)深重(ジンヂウ)せンキノ案内(アンナイ)之處路次(ロシ)疲労(ビラウ)長途(テウト)窮屈(キウクツ)(タヽ)忙然(ハウゼン)之外(ホカ)()恩問(ヲンモン)(ルヽ)(ヲトロカ)遠遼(ヱンレウ)ノ国トハハルカニトヲキ國ノ事ナリ。〔下40オ五〜八〕

とあって、標記語「恩問」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

何時カ謝ン之ヲ。便可案内之処ニ路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依テ恩問ニ所被(サル)驚也何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔99オ七〕

とあって、この標記語「恩問」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

何時カ謝ン之ヲ。便可案内之処ニ路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依テ恩問ニ所被(サル)驚也何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔73ウ四〕

何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔132オ三〕

とあって、標記語「恩問」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

†Vonmon.ヲンモン(恩問) Voni touaruru.(恩に問はるる)すなわち,Nengorona fumi.(念比な文)好意的な,愛情のあらわれた書状.VoniあるいはVoniの誤り.〔邦訳714r〕

とあって、標記語「恩問」の語を収載し、意味は「Voni touaruru.(恩に問はるる)すなわち,Nengorona fumi.(念比な文)好意的な,愛情のあらわれた書状.VoniあるいはVoniの誤り」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

おん-もん〔名〕【音問】おとづれ。たより。陶潜詩「?襟或遼、音問其先」〔322-5〕

おん-もん〔名〕【恩問】前條の語の敬語。庭訓往來、二月「欲是令一レ申候之處、遮而預恩問〔322-5〕

とあって、標記語「おん-もん恩問】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「おん-もん恩問】〔名〕他人の訪問や書状を敬い、感謝の意をこめていいう語。なさけあるおたずね」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
然而恩問、不等閑之間、於弓馬事者、具以申之《訓み下し》然レドモ恩問(ヲンモン)、等閑ナラズノ間、弓馬ノ事ニ於テハ、具ニ以テ之ヲ申サン。《『吾妻鑑』文治二年八月十五日の条》
 
 
2005年11月16日(火)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
忙然(バウゼン)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、

惘然(バウぜン) 茫然(バウぜン) 。〔元亀二年本28六〕

惘然(バウせン) 茫然(ハウ  ) 。〔静嘉堂本27七〕

惘然(ハウせン) 茫然() 。〔天正十七年本上14ウ八〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「忙然」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

何時謝之便可啓案内之処路次之疲労長途之窮屈只忙然之外无他依恩問所被驚也〔至徳三年本〕

何時謝之便可啓案内之処路次之疲労長途之窮屈只忙然之外无他依恩問所被驚也〔宝徳三年本〕

何時謝之便可啓案内之処路次之疲労長途之窮屈只忙然之外无他依恩問所被驚也〔建部傳内本〕

何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔山田俊雄藏本〕

何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔経覺筆本〕

何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「忙然」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「忙然」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「忙然」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)

忙然(バウぜンイソカハシ、シカリ)[平・平] 茫然(バウぜン)[○・平] 惘然(ハウせンイタム、シカリ)[上・平] 。〔態藝門82一〕

とあって、標記語「忙然」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集

惘然(バウせン) 又云忘然()・言語進退門26三〕

忘家(バウカ)(せン)。―却(キヤク)。―失。―然(ぜン)。 ホルヽ(バウせン)・言語門22一・八〕

惘然(ハウせン)  忘家(ハウカ)。―却。―失。―然・天地門20三・19九〕 

忘然(バウぜン) ・言語門24三〕

とあって、標記語「忙然」の語は未収載にする。易林本節用集』に、

惘然(バウせン) 〔言語門52七・天理図書館蔵上11ウ七〕

とあって、標記語「忙然」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』に標記語「忙然」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

743甚如(ウル)カ玉珠レハ参拝者難抑遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也(ケイ)着任儀式 着任云、守護也。〔謙堂文庫蔵六三左H〕

とあって、標記語「忙然」の語を収載している。

 古版庭訓徃来註』では、

遼遠(レウヱン)之國輙(タヤスク)キニ音信(ハス)光陰(クワウイン)遺恨(イコン)深重(ジンヂウ)せンキノ案内(アンナイ)之處路次(ロシ)疲労(ビラウ)長途(テウト)窮屈(キウクツ)(タヽ)忙然(ハウゼン)之外(ホカ)()恩問(ヲンモン)(ルヽ)(ヲトロカ)遠遼(ヱンレウ)ノ国トハハルカニトヲキ國ノ事ナリ。〔下40オ五〜八〕

とあって、標記語「忙然」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

何時カ謝ン之ヲ。便可案内之処ニ路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依テ恩問ニ所被(サル)驚也何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔99オ七〕

とあって、この標記語「忙然」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

何時カ謝ン之ヲ。便可案内之処ニ路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依テ恩問ニ所被(サル)驚也何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔73ウ四〕

何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔132オ三〕

とあって、標記語「忙然」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Bo<jen.バウゼン(惘然) 気抜けしてぼんやりしていること,あるいは,呆然自失していること.§Bo<jento aqirefatete iru.(惘然と惘れ果てて居る)同上..〔邦訳60l〕

とあって、標記語「惘然」の語を収載し、意味は「気抜けしてぼんやりしていること,あるいは,呆然自失していること」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ばう-ぜん〔名〕【芒然忙然】據る所なき状、又は、呆(あき)れて思案なき状などに云ふ語。あっけにとらる。きぬけする。呆然。惘然。史記、魏世家「唐?到、入見秦王、秦王曰、丈人芒然、乃遠至此、甚苦矣、夫魏之來、求救數矣、寡人知魏之急已」莊子、大宗師篇「芒然徨乎塵垢之外杜甫詩「斯遊恐不遂、把酒意芒然」〔1559-3〕

とあって、標記語「ばう-ぜん芒然忙然】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ばう-ぜん忙然】〔形動タリ〕「ぼうぜん(呆然)」に同じ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
而暁天、〈二日、〉義盛襲來刻、憖著甲冑、雖令騎馬、依淵醉之餘氣、爲忙然之間、向後可斷酒之由、誓願訖《訓み下し》而ルニ暁天ニ〈二日〉、義盛襲ヒ来タルノ刻、憖ニ以テ)甲冑ヲ著シ、馬ニ騎ラシムト雖モ、淵酔ノ余気ニ依テ、忙然(バウゼン)惘然)タルノ間、向後ハ酒ヲ断ツベキノ由、誓願シ訖ンヌ。《『吾妻鑑建暦三年五月三日の条》
 
 
窮屈(キウクツ)」は、ことばの溜め池(2003.09.13)を参照。
長途(チヤウド)」は、ことばの溜め池(2005.09.06)を参照。
疲労(ヒラウ)」は、ことばの溜め池(2003.06.08)を参照。
路次(ロシ)」は、ことばの溜め池(2002.01.27)を参照。
案内(アンナイ)」は、ことばの溜め池(2001.07.04)を参照。
便(ビン)」は、ことばの溜め池(2002.01.28)を参照。
 
2005年11月15日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)→新宿
何時(いづれのとき)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、

(イヅレ)〔元亀二年本20八〕 (トキ)〔元亀二年本62三〕

(イヅレ)〔静嘉堂本16八〕 (トキ)〔静嘉堂本71五〕

(イツレ)〔天正十七年本上9ウ四〕 ×〔天正十七年本上38ウ二〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「何時」の語は未収載にに、標記語「」と「」にして収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

何時謝之便可啓案内之処路次之疲労長途之窮屈只忙然之外无他依恩問所被驚也〔至徳三年本〕

何時謝之便可啓案内之処路次之疲労長途之窮屈只忙然之外无他依恩問所被驚也〔宝徳三年本〕

何時謝之便可啓案内之処路次之疲労長途之窮屈只忙然之外无他依恩問所被驚也〔建部傳内本〕

何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔山田俊雄藏本〕

何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔経覺筆本〕

何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「何時」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「何時」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「何時」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(イヅレ)[平] (同シユク・タレ)[入] 。〔態藝門42四〕

(トキ)[平軽] (トキ)[○] 時字ノ古文(コモン)。〔時節門126三〕

とあって、標記語「」と「」の語を以て収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「何時」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」と「」の語を以て収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

743甚如(ウル)カ玉珠レハ参拝者難抑遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也(ケイ)着任儀式 着任云、守護也。〔謙堂文庫蔵六三左H〕

とあって、標記語「何時」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

遼遠(レウヱン)之國輙(タヤスク)キニ音信(ハス)光陰(クワウイン)遺恨(イコン)深重(ジンヂウ)せンキノ案内(アンナイ)之處路次(ロシ)疲労(ビラウ)長途(テウト)窮屈(キウクツ)(タヽ)忙然(ハウゼン)之外(ホカ)()恩問(ヲンモン)(ルヽ)(ヲトロカ)遠遼(ヱンレウ)ノ国トハハルカニトヲキ國ノ事ナリ。〔下40オ五〜八〕

とあって、標記語「何時」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(いつ)れの時(とき)(これ)を謝(しやせ)レノセン。是まてハ在国中無音したるをわびしなり。〔99オ八〕

とあって、この標記語「何時」の語を収載し、語注記上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(いづれ)の時(とき)か之(これ)を謝(しや)せん即(すなハち)案内(あんない)を啓(けい)す可()き之()(ところ)路次(ろじ)の疲労(ひらう)長途(ちやうど)の窮屈(きうくつ)(たゞ)忙然(ばうぜん)()(ほか)()()し恩問(おんもん)に依(よつ)て驚(おどろ)か被()ゝ所(ところ)(なり)セン即可案内之處路次疲労長途窮屈只忙然之外無恩問〔74オ三〜五〕

(いづれ)(とき)(しや)せん(これ)(すなハち)()(けい)案内(あんない)()(ところ)路次(ろじ)疲労(ひらう)長途(ちやうと)窮屈(きうくつ)(たゞ)忙然(ばうぜん)()(ほか)()()(よつ)恩問(おんもん)(ところ)()(おどろ)(なり)〔132ウ五〜133オ二〕

とあって、標記語「何時」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)には、標記語「何時」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「いづれ--とき何時】」の語は未収載にし、

いづれ〔代〕【】〔これ(是)の語原を見よ〕不定の事物に用ゐる代名詞。いづら。いづく。いづこ。どこ。どこら。どちら。どれ。萬葉集、十五6「大伴の、三津に舩乘り、漕ぎ出ては、伊都禮(イヅレ)の島に、いほりせむ我れ」、卷33「逢はむ日を、其の日と知らず、常闇に、伊豆禮(イヅレ)の日まで、吾れ戀ひ居らむ」〔193-4〕

とあって、標記語「いづれ】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「いづれ--とき何時】〔名〕」は未収載にあり、依って『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
 
 
2005年11月14日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
深重(ジンデウ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部に、「深浅(シンせン)。深更(ガウ)。深泥(デイ)。深雪(せツ)。深山(ザン)。深谷(コク)。深苦()。深夜()」の八語を収載し、標記語「深重」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

抑遼遠國輙依難通音信乍思馳光陰遺恨深重〔至徳三年本〕

抑遼遠國輙依難通音信乍思馳光陰遺恨深重〔宝徳三年本〕

抑遼遠國輙依難通音信乍思馳光陰遺恨深重〔建部傳内本〕

抑遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重〔山田俊雄藏本〕

抑遼遠(リヤウヱン)()(クニ)(タヤスク)難通音信思馳(ハせ)光陰遺恨深重(シンテウ)〔経覺筆本〕

抑遼遠(レウー)ノ國輙(タヤスク)難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「深重」と記載し、訓みは経覺筆本に「シンテウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「深重」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「深重」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

深重(ジンチヨウ・ヲモシフカシ、シゲシ・カサナル)[平去・平軽去] 。〔態藝門953五〕

とあって、標記語「深重」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「深重」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「深重」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

743甚如(ウル)カ玉珠レハ参拝者難抑遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重何時便可案内之処路次之疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也(ケイ)着任儀式 着任云、守護也。〔謙堂文庫蔵六三左H〕

とあって、標記語「深重」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

遼遠(レウヱン)之國輙(タヤスク)キニ音信(ハス)光陰(クワウイン)遺恨(イコン)深重(ジンヂウ)せンキノ案内(アンナイ)之處路次(ロシ)疲労(ビラウ)長途(テウト)窮屈(キウクツ)(タヽ)忙然(ハウゼン)之外(ホカ)()恩問(ヲンモン)(ルヽ)(ヲトロカ)遠遼(ヱンレウ)ノ国トハハルカニトヲキ國ノ事ナリ。〔下40オ五〜八〕

とあって、標記語「深重」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

遺恨(いこん)(しんちう)遺恨深重深ハふかし。重ハおもしと訓す。こゝに云こゝろハ遠路(ゑんろ)をへたてゝ音信しかたきゆへ空(むな)しく月日を送りて無音(ぶいん)したる事の心外(しんかい)なるハ少くらひとなり。〔99オ七・八〕

とあって、この標記語「深重」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そも/\)遼遠(れうゑん)()(くに)(たやすく)音信(ゐんしん)を通(つう)じ難(かた)きに依(よつ)て思(おも)ひ乍(ながら)光陰(くわうゐん)を馳()す遺恨(いこん)(しんぢう)(なり)抑遼遠之國キニ音信光陰遺恨深重也〔74オ一・二〕

(そも/\)遼遠(れうゑん)()(くに)(たやすく)(よつ)(かたき)(つう)音信(いんしん)(ながら)(おもひ)(はす)光陰(くわういん)遺恨(ゐこん)深重(しんぢう)(なり)。〔132ウ三〜五〕

とあって、標記語「深重」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Iingiu>.ジンヂュゥ(深重) Fuco< casanaru.(深う重なる)非常に増加すること,または,非常に累積すること.→次条.〔邦訳363l〕

‡Iingiu>.*ジンヂュゥ(深重) ¶また,深遠なこと,または,深く.〔邦訳363l〕

とあって、標記語「深重」の語を収載し、意味は「Fuco< casanaru.(深う重なる)非常に増加すること,または,非常に累積すること」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

しん-ちョう〔名〕【深重】おちつきて、おもおもしきこと。深湛。「態度、深重」〔948-2〕

とあって、標記語「しん-ちョう深重】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「しん-じゅう深重】〔名〕(形動)(古くは「じんじゅう」)幾重にもつみ重なること。度数の多く重なること。深く大きいこと。また、そのさま。しんちょう」→標記語「しん-ちょう深重】〔名〕(形動)(「じんちょう」とも)@「しんじゅう(深重)に同じ。A深みがあってもおもおもしいこと。また、そのさま」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
仍將軍、以重源上人、爲中使、爲値遇結縁、令招和卿給之處、國敵對治之時、多斷人命、罪業深重也《訓み下し》仍テ将軍、重源上人ヲ以テ、中使トシテ、値遇結縁ノ為ニ、和卿ヲ招カシメ給フノ処ニ、国敵対治ノ時、多ク人ノ命ヲ断チ、罪業深重(シンテウ)ナリ。《『吾妻鑑』建久六年三月十三日の条》
 
 
2005年11月13日(日)曇り。仙台(仙台市内)
光陰(クワウイン)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、

(イン)〔元亀二年本191六〕

光陰(イン)〔静嘉堂本216三〕〔天正十七年本中37ウ二〕

とあって、標記語「光陰」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

抑遼遠國輙依難通音信乍思馳光陰遺恨深重也〔至徳三年本〕

抑遼遠國輙依難通音信乍思馳光陰遺恨深重也〔宝徳三年本〕

抑遼遠國輙依難通音信乍思馳光陰遺恨深重也〔建部傳内本〕

抑遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也〔山田俊雄藏本〕

抑遼遠(リヤウヱン)()(クニ)(タヤスク)難通音信思馳(ハせ)光陰遺恨深重(シンテウ)〔経覺筆本〕

抑遼遠(レウー)ノ國輙(タヤスク)難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「光陰」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「光陰」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「光陰」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

光陰(クワウインヒカリ、カゲ)[平・平] 光?(ヱイ)。〔時節門499一〕

とあって、標記語「光陰」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、

光陰(クワウイン) ・時節門156六〕〔・時節門116九〕〔・時節門141七〕

光陰(クハウイン) ・時節門128一〕 ※また、言語門にも収載する。

とあって、標記語「光陰」の語を収載する。易林本節用集』には、標記語「光陰」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「光陰」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

743甚如(ウル)カ玉珠レハ参拝者難遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也何時便可案内之処路次疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也(ケイ)着任儀式 着任云、守護也。〔謙堂文庫蔵六三左H〕

とあって、標記語「光陰」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

遼遠(レウヱン)之國輙(タヤスク)キニ音信(ハス)光陰(クワウイン)遺恨(イコン)深重(ジンヂウ)せンキノ案内(アンナイ)之處路次(ロシ)疲労(ビラウ)長途(テウト)窮屈(キウクツ)(タヽ)忙然(ハウゼン)之外(ホカ)()恩問(ヲンモン)(ルヽ)(ヲトロカ)遠遼(ヱンレウ)ノ国トハハルカニトヲキ國ノ事ナリ。〔下40オ五〜八〕

とあって、標記語「光陰」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(たやすく)音信(ゐんしん)を通(つう)し難(かたき)に依(よつ)て思(おも)ひ乍(なが)光陰(くハういん)を馳(はす)難通音信思馳光陰思ひなからとハ心にハ忘れさるをいふ。光陰を馳スとハ月日を送り暮らすを云也〔99ウ五・六〕

とあって、この標記語「光陰」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そも/\)遼遠(れうゑん)()(くに)(たやすく)音信(ゐんしん)を通(つう)じ難(かた)きに依(よつ)て思(おも)ひ乍(ながら)光陰(くわうゐん)を馳()す遺恨(いこん)(しんぢう)(なり)抑遼遠之國キニ音信光陰遺恨深重也▲馳光陰ハ月日を過ごすをいふ。〔74オ一・二、74オ五・六〕

(そも/\)遼遠(れうゑん)()(くに)(たやすく)(よつ)(かたき)(つう)音信(いんしん)(ながら)(おもひ)(はす)光陰(くわういん)遺恨(ゐこん)深重(しんぢう)(なり)▲馳光陰ハ月日を過ごすをいふ。〔132ウ三〜五、133オ三〕

とあって、標記語「光陰」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Quo<-in.クヮゥイン(光陰) Ficarino cague.(光の陰).第一の原動力によって流れる時間.¶Quo<in yanogotoxi.(光陰矢の如し)時はあたかも一本の矢のようである.¶Quo<inuo voquru.(光陰を送る)生涯を過ごす.※原文はo primeiro mouel.昔の天文学において,地球を取り巻く層の最も外側にあるとされ,すべての天界運動の原動力をなすと想像された天の層.第十天.Primum mobile. 天草版金句集,P.547. 本書の一般表記法ではvocuru. →Fitcujino ayumi.〔邦訳522l〕

とあって、標記語「光陰」の語を収載し、意味は「Ficarino cague.(光の陰).第一の原動力によって流れる時間」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

くヮう-いん〔名〕【光陰】〔日の陰の義と云ふ〕ひま。とき。月日。歳月(としつき)顔氏家訓光陰惜、譬諸逝水朱熹詩「少年易老學難成」太平記、廿三、依直義病惱光嚴上皇御願書事「點七日之光陰、課彌天之蹟才、令讃妙法偈、可修尊勝供古今和歌集、二、春、下「梓弓、春立ちしより、年月の、射るが如くも、おもほゆるかな」(光陰、矢の如し)〔570-4〕

とあって、標記語「くヮう-いん光陰】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「こう-いん光陰】〔名〕(「光」は日、「陰」は月)@月日。年月。歳月。とき。A光と影。日光と月光」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
日無光陰。頗如薄蝕。月又同之。去十三日以後。此変為連日事云云。《訓み下し》日ニ光陰無シ。頗ル薄蝕ノ如シ。月又之ニ同ジ。去ヌル十三日以後、此ノ変為連日ノ事ト云云。《『吾妻鑑』建保七年三月十七日の条》
 
 
2005年11月12日(土)曇り。仙台(仙台市内)
(とほしがたし)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「登」部に、

(トヲル)()〔元亀二年本61八〕〔静嘉堂本70八〕

(トヲル)()()()〔天正十七年本上38ウ二〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「」の語は「とほす」の訓みは見えず「とをる」として収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

抑遼遠國輙依難通音信乍思馳光陰遺恨深重也〔至徳三年本〕

抑遼遠國輙依難通音信乍思馳光陰遺恨深重也〔宝徳三年本〕

抑遼遠國輙依難通音信乍思馳光陰遺恨深重也〔建部傳内本〕

抑遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也〔山田俊雄藏本〕

抑遼遠(リヤウヱン)()(クニ)(タヤスク)難通音信思馳(ハせ)光陰遺恨深重(シンテウ)〔経覺筆本〕

抑遼遠(レウー)ノ國輙(タヤスク)難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「難通」と表記し、訓みは山田俊雄藏本と文明四年本に「とをし(かた)し」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」の語は「とほる」の語で収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「難通」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

觸透(フレトヲスソクトウ)[入・去] 。〔態藝門647四〕

とあって、標記語「」の語は未収載にし、その語注記に「通」の字を記載し、ここでは「とをす」と訓んでいる。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、標記語「」の語は未収載にする。易林本節用集』に、

(トホル) () () 〔言語門46六・天理図書館蔵上23ウ六〕

とあって、標記語「」の語を収載し、訓みは「とほる」と記載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

743甚如(ウル)カ玉珠レハ参拝者難遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也何時便可案内之処路次疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也(ケイ)着任儀式 着任云、守護也。〔謙堂文庫蔵六三左H〕

とあって、標記語「難通」の語を収載している。

 古版庭訓徃来註』では、

遼遠(レウヱン)之國輙(タヤスク)キニ音信(ハス)光陰(クワウイン)遺恨(イコン)深重(ジンヂウ)せンキノ案内(アンナイ)之處路次(ロシ)疲労(ビラウ)長途(テウト)窮屈(キウクツ)(タヽ)忙然(ハウゼン)之外(ホカ)()恩問(ヲンモン)(ルヽ)(ヲトロカ)遠遼(ヱンレウ)ノ国トハハルカニトヲキ國ノ事ナリ。〔下40オ五〜八〕

とあって、標記語「難通」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(たやすく)音信(ゐんしん)(つう)し難(かたき)に依(よつ)て思(おも)ひ乍(なが)ら光陰(くハういん)を馳(はす)難通音信思馳光陰思ひなからとハ心にハ忘れさるをいふ。光陰を馳スとハ月日を送り暮らすを云也。〔99ウ五・六〕

とあって、この標記語「難通」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そも/\)遼遠(れうゑん)()(くに)(たやすく)音信(ゐんしん)を通(つう)じ難(かた)きに依(よつ)て思(おも)ひ乍(ながら)光陰(くわうゐん)を馳()す遺恨(いこん)(しんぢう)(なり)抑遼遠之國キニ音信光陰遺恨深重也〔74オ一・二〕

(そも/\)遼遠(れうゑん)()(くに)(たやすく)(よつ)(かたき)(つう)音信(いんしん)(ながら)(おもひ)(はす)光陰(くわういん)遺恨(ゐこん)深重(しんぢう)(なり)〔132ウ三〜五〕

とあって、標記語「難通」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Touoxi,su,oita.トヲシ,ス,イタ(通・徹し,す,いた) ある物を通す.または,通るにまかせる,あるいは,通過させる.例,Nacauo aqete touosu.(中をあけて通す)人に道のまん中をあけてやる.¶Iqidouoriuo touosu.(憤りを通す)怨恨をもち続ける.¶Nozomiuo touosu.(望みを通す)望みを抱いて,それをやり遂げるまで進む.¶Muneuo touosuyo<na itami.(胸を徹すような痛み)胸,あるいは,心臓をつき通すかと思われるほどの痛み.→Farino mimi;Mi〜;Qiqi〜;Tabane;Yomi〜.〔邦訳672l〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味は「ある物を通す.または,通るにまかせる,あるいは,通過させる」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「とをし-がたし難通】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「とをし-がたし難通】〔句〕」は未収載にあって、依って『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
塞鈴鹿關所、索險阻之際、縦雖不遂合戰人馬依難通之、廻美濃國、同廿七日、入伊勢國、凝計議、自今月十日、至同十二日、合戰《訓み下し》鈴鹿ノ関所ヲ塞ギ、険阻ヲ索ムルノ際、縦ヒ合戦ヲ遂ゲズト雖モ人馬之ヲ(カヨ)ヒ難(カタ)ニ依テ、美濃ノ国ニ廻リ、同キ二十七日ニ、伊勢ノ国ニ入リ、計議ヲ凝ラシ、今月十日ヨリ、同キ十二日ニ至マテ、合戦ス、《『吾妻鑑』元久元年四月二十一日の条》※「かよひがたき」と訓読
 
 
2005年11月11日(金)曇り。東京→仙台(仙台市内)
(たやすく)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「多」部に、

(タヤスク)〔元亀二年本147十〕〔静嘉堂本159七〕〔天正十七年本中12オ五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

抑遼遠國依難通音信乍思馳光陰遺恨深重也〔至徳三年本〕

抑遼遠國依難通音信乍思馳光陰遺恨深重也〔宝徳三年本〕

抑遼遠國依難通音信乍思馳光陰遺恨深重也〔建部傳内本〕

抑遼遠(レウー)ノ(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也〔山田俊雄藏本〕

抑遼遠(リヤウヱン)()(クニ)(タヤスク)難通音信思馳(ハせ)光陰遺恨深重(シンテウ)〔経覺筆本〕

抑遼遠(レウー)ノ(タヤスク)難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「」と表記し、訓は文明四年本に「たやすく」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

タヤスシ聊輟接易已上同黒川本・辞字門中8ウ六〕

タヤスシ聊輟接易已上タヤスシ卷第四・辞字門436四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「」の語は未収載にするが、標記語「小野篁」の語注記に「破軍星(ハグン  )化身ナルカ輙(タヤスク)往還(クワン)スル於冥府」と用いている。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

(タヤスク/テフ)[去] 。〔態藝門372七〕

容易(タヤスク/ヨウイ、ユルス・カタチ、ヤスシ)[○・去入] 或作(タヤスク)。〔態藝門366五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

(タヤスク) ・言語進退門106五〕

(タヤスク)テウ・言語門96五〕〔・言語門106三〕

(タヤスシ) ・言語門148四〕 

とあって、標記語「」の語を収載する。易林本節用集』に、

(タヤスシ) 〔言語門96二・天理図書館蔵上48ウ二〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

743甚如(ウル)カ玉珠レハ参拝者難遼遠(レウー)ノ(タヤス)難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也何時便可案内之処路次疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也(ケイ)着任儀式 着任云、守護也。〔謙堂文庫蔵六三左H〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

遼遠(レウヱン)之國輙(タヤスク)キニ音信(ハス)光陰(クワウイン)遺恨(イコン)深重(ジンヂウ)せンキノ案内(アンナイ)之處路次(ロシ)疲労(ビラウ)長途(テウト)窮屈(キウクツ)(タヽ)忙然(ハウゼン)之外(ホカ)()恩問(ヲンモン)(ルヽ)(ヲトロカ)遠遼(ヱンレウ)ノ国トハハルカニトヲキ國ノ事ナリ。〔下40オ五〜八〕

とあって、標記語「」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(たやすく)音信(ゐんしん)を通(つう)し難(かたき)に依(よつ)て思(おも)ひ乍(なが)ら光陰(くハういん)を馳(はす)難通音信思馳光陰思ひなからとハ心にハ忘れさるをいふ。光陰を馳スとハ月日を送り暮らすを云也。〔99ウ五・六〕

とあって、この標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そも/\)遼遠(れうゑん)()(くに)(たやすく)音信(ゐんしん)を通(つう)じ難(かた)きに依(よつ)て思(おも)ひ乍(ながら)光陰(くわうゐん)を馳()す遺恨(いこん)(しんぢう)(なり)抑遼遠之國キニ音信光陰遺恨深重也〔74オ一・二〕

(そも/\)遼遠(れうゑん)()(くに)(たやすく)(よつ)(かたき)(つう)音信(いんしん)(ながら)(おもひ)(はす)光陰(くわういん)遺恨(ゐこん)深重(しんぢう)(なり)。〔132ウ三〜五〕

とあって、標記語「」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Tayasui.タヤスイ(輙) 容易な(こと).Tayasu<.(輙う)副詞.Tayasusa(輙さ)→San(産).〔邦訳619r〕

とあって、標記語「」の語を収載し、意味は「容易な(こと)」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

たやす-〔副〕【】〔たやすしの副詞法〕憚るべき事を憚らず。輕輕しく。易く。難きことなく。容易に。欽明紀、元年九月「新羅怨曠積年、不輕爾(タヤスク)而伐續日本紀、廿五、天平寳字八年九月、詔「己師(ヲノレガシ)乎夜(ヲヤ)多夜須久(タヤスク)退(シリゾケ)、未都良武止(マツラムト)、念(ヲモヒ)()(アリ)()」〔1251-5〕

とあって、標記語「たやす-】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「たやす・い容易】〔形〕(「た」は接頭語)@わけなくできる。何でもない。むずかしくない。容易である。やさしい。Aかるがるしい。かるはずみである。軽率である」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
爰武衛、爲流人、被擧義兵之間、其形勢無高喚相者、直討取之、可献平家者《訓み下し》爰ニ武衛、流人トシテ、(タヤス)ク義兵ヲ挙ゲラルルノ間、其ノ形勢高喚ノ相無クンバ、直ニ之ヲ討チ取リ、平家ニ献ズベキ者ト。《『吾妻鑑』治承四年九月十九日の条》
 
 
2005年11月10日(木)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
遼遠(レウエン)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「礼」部に、

遼遠(レウエン)〔元亀二年本149十〕

遼遠(レイヱン)〔静嘉堂本163四〕

遼遠(レウヲン)〔天正十七年本中13ウ四〕

とあって、標記語「遼遠」の語を収載し、訓はそれぞれ異なっている。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

遼遠國輙依難通音信乍思馳光陰遺恨深重也〔至徳三年本〕

遼遠國輙依難通音信乍思馳光陰遺恨深重也〔宝徳三年本〕

遼遠國輙依難通音信乍思馳光陰遺恨深重也〔建部傳内本〕

遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也〔山田俊雄藏本〕

遼遠(リヤウヱン)()(クニ)(タヤスク)難通音信思馳(ハせ)光陰遺恨深重(シンテウ)〔経覺筆本〕

遼遠(レウー)ノ國輙(タヤスク)難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「遼遠」と記載し、訓みは経覺筆本に「リヤウヱン」、山田俊雄藏本・文明四年本に「レウ(ヱン)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

遼遠 地部/レウヱン/遠近部黒川本・畳字門中14ウ二〕

遼遠 〃廊卷第四・畳字門515四〕

とあって、標記語「遼遠」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「遼遠」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)には、

遼遠(レウヱンハルカナリ、トヲシ)[平・上] 。〔態藝門381五〕

とあって、標記語「遼遠」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

遼遠(レウエン) ・言語進退門116八〕

とあって、弘治二年本に標記語「遼遠」の語を収載する。易林本節用集』に、

遼遠(レウヱン) 〔言辞門98六・天理図書館蔵上49ウ六〕

とあって、標記語「遼遠」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「遼遠」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

743甚如(ウル)カ玉珠レハ参拝者難遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也何時便可案内之処路次疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也(ケイ)着任儀式 着任云、守護也。〔謙堂文庫蔵六三左H〕

とあって、標記語「遼遠」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

遼遠(レウヱン)之國輙(タヤスク)キニ音信(ハス)光陰(クワウイン)遺恨(イコン)深重(ジンヂウ)せンキノ案内(アンナイ)之處路次(ロシ)疲労(ビラウ)長途(テウト)窮屈(キウクツ)(タヽ)忙然(ハウゼン)之外(ホカ)()恩問(ヲンモン)(ルヽ)(ヲトロカ)遠遼(ヱンレウ)ノ国トハハルカニトヲキ國ノ事ナリ。〔下40オ五〜八〕

とあって、標記語「遼遠」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(そも/\)遼遠(れうゑん)()(くに)遼遠之國遼も遠もとをしと訓す。〔99ウ四・五〕

とあって、この標記語「遼遠」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そも/\)遼遠(れうゑん)()(くに)(たやすく)音信(ゐんしん)を通(つう)じ難(かた)きに依(よつ)て思(おも)ひ乍(ながら)光陰(くわうゐん)を馳()す遺恨(いこん)(しんぢう)(なり)遼遠之國キニ音信光陰遺恨深重也▲遼遠之国ハ任(にん)に赴(おもむ)きたる国のはるかに遠(とを)き也。〔74オ一・二、74オ五〕

(そも/\)遼遠(れうゑん)()(くに)(たやすく)(よつ)(かたき)(つう)音信(いんしん)(ながら)(おもひ)(はす)光陰(くわういん)遺恨(ゐこん)深重(しんぢう)(なり)▲遼遠之国ハ任(にん)に赴(おもむ)きたる国のはるかに遠(とを)き也。〔132ウ三〜五、133オ二・三〕

とあって、標記語「遼遠」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Reo>yen.レウエン(遼遠) Farucani touoi.(遼に遠い)非常に遠い距離,例,Reo>yenno cuni.(遼遠の国)非常に離れた国,あるいは,遠方の国.〔邦訳530r〕

とあって、標記語「遼遠」の語を収載し、意味は「Farucani touoi.(遼に遠い)非常に遠い距離」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

れう-ゑん〔副〕【遼遠】はるかにとほき状に云語。悠遠。迢遠。楚辭、九章篇、抽思「惟郢路之遼遠兮、魂一夕而九逝」〔2143-5〕

とあって、標記語「れう-ゑん遼遠】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「りょう-えん遼遠】〔名〕はるかに遠いこと。ほどとおいこと。また、そのさま。「前途遼遠」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
祭主親隆卿、令家人等奉送遼遠之境〈云云〉《訓み下し》祭主親隆卿、家人等ヲシテ遼遠(レウヱン)ノ境ニ送リ奉ラシムト〈云云〉。《『吾妻鑑』寿永元年九月二十日の条》
 
 
2005年11月09日(水)晴れ。東京→神田→世田谷(駒沢)
玉珠(ギヨクシユ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「幾」部に、「玉章(シヤウ)タマツサ。玉(タイ)。玉兎()月名」の三語を収載するが、標記語「玉珠」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

甚如玉珠非参拝者難謝之〔至徳三年本〕

甚如仰玉珠非參拝者難謝之〔宝徳三年本〕

甚如得玉珠非參拝者難謝之〔建部傳内本〕

(ウル)玉珠参拝者難〔山田俊雄藏本〕

玉珠ンバ参拝()〔経覺筆本〕

甚如(エタルカ)玉珠(キヨクシユ)参拝者更(サラニ)(カタシ)(シヤシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「玉珠」と記載し、訓みは文明四年本に「キヨクシユ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「玉珠」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「玉珠」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「玉珠」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

743甚如(ウル)カ玉珠レハ参拝者難遼遠(レウー)ノ國輙(タヤス)ク難通(トヲ)シ音信思馳光陰遺恨深重也何時便可案内之処路次疲労(ヒー)長途(チヤウー)之窮屈只忙然之外无他依恩問所被(サル)驚也(ケイ)着任儀式 着任云、守護也。〔謙堂文庫蔵六三左H〕

とあって、標記語「玉珠」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

披閲(ヒヱツ)珍重(チンテウ)珍重(チンテウ)(ハナハダ)玉珠(シユ)ンハ参拝(サンハイ)者難(カタシ)(シヤ)(ソモ/\)。披閲ト書テヒラキヒログルトヨムナリ。〔下40オ三・四〕

とあって、標記語「玉珠」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

珎重(ちんてう)々々(/\)(はなハ)玉珠を得()たるか如(こと)珎重々々甚如タルカ玉珠〔99ウ二・三〕

とあって、この標記語「玉珠」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

珎重(ちんてう)珍重甚(はなハだ)玉珠(ぎよくしゆ)を得()るが如(ごと)し参拝(さんばい)に非(あら)ずん者()(これ)を謝(しや)し難(かた)珎重々々甚如ルガ玉珠ズン参拝者難〔73ウ八〜74オ一〕

珎重(ちんちよう)々々(/\)(はなハた)(ごとし)(うるが)玉珠(ぎよくしゆ)(あらず)んハ参拝(さんはい)()(がたし)(しやし)(これ)〔132ウ二・三〕

とあって、標記語「玉珠」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Guiocuxu.ギョクシュ(玉珠) Tama tama.(玉珠) 宝石.〔邦訳300r〕

とあって、標記語「玉珠」の語を収載し、意味は「Tama tama.(玉珠)宝石」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ぎょく-しゅ玉珠】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ぎょく-しゅ玉珠】〔名〕玉と真珠。珠玉。*庭訓往來(1394-1428頃)「御消息忽披閲、珍重珍重、甚如玉珠日葡辞書(1603-04)「Guiocxu(ギョクシュ)タマタマ」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例を記載する。
[ことばの実際]
おほとものみゆきの大納言は、我〈が〉家の人あるかぎり、めしあつめての給はく、「たつのくびに五色にひかる玉あむなり。それもてたてまつりたらむ人には、ねがはむ事をかなえむ」との給〈ふ〉《『竹取物語』龍の首の玉の条》※「ラピスラズリ」
図絵の刻字:葡萄圖繪「紫白水晶玉珠〓沈存周」落款 沈(1629−1709年)果物刻円花式茶托
 
 
消息(セウソク)」は、ことばの溜め池(2000.03.26)を参照。
披見(ヒケン)」は、ことばの溜め池(2004.07.06)を参照。
珍重珎重(チンテウ)」は、ことばの溜め池(2003.07.31)を参照。
 
2005年11月08日(火)晴れ。東京→神田→世田谷(駒沢)
隼人佑(はやとのじょう)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、

隼人(ハヤト) 唐名布護(ホコ)〔元亀二年本65七〕

隼人(ハヤト) 唐名布護。〔静嘉堂本29四〕

隼人 唐名布護。〔天正十七年本上15ウ五〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「隼人」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

十二月三日  隼人佐〔至徳三年本〕

十二月三日  隼人佐〔宝徳三年本〕

十二月三日  隼人佐〔建部傳内本〕

十二月三日  隼人〔山田俊雄藏本〕

十二月三日  隼人佐(ハイトウノスケ)在原〔経覺筆本〕

十二月三日  隼人佐〔文明四年本〕

と見え、山田俊雄藏本に「隼人佐」、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本経覺筆本・文明四年本に「隼人佑」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「隼人佑」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、

隼人正(ハヤトノカミ) 布護(ホコ)將軍〔官位門43六〕

とあって、標記語「隼人正」の語を収載する。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)

隼人司(ハヤトノ ノツカサシユンジンシ) 唐名布護署(ホゴシヨ)。正一人相當正六位下唐名布護將軍。佑(せウ)唐名布護少尹。令史(サクワン)唐名布護生簿。〔官位門56七〕

とあって、標記語「隼人司」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集

隼人正(ハヤトノカミ) 布護將軍・官名門20八〕〔・官名門16三〕〔・官名門19八〕

とあって、標記語「隼人正」の語を収載する。易林本節用集』に、

隼人正(ハイトフノカミ) 布護〔官位門14六・天理図書館蔵上7ウ六〕

とあって、標記語「隼人正」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「隼人佑」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

741隼人佑在原 伊勢物語業平中將一生涯語也。彼業平平生天王第四王子阿保親王第五王子、御母桓武天皇御娘伊豆内親王御子也。天長二年丁巳年生。淳和天王御時七歳ニテ天上成深草御門時、三笠山臨時之役レサセ指給内裡ヨリ姿出立透額忍摺於祢衣召、角白申午被セ給々、五節伶人立シ故五節中將ナリ其後、承和十四年乙卯歳、在原在原中將トモ申也。其後業平娑婆芳札尽給、大和国布流布原寺云寺御名残サセヘリ。其テハ業平一生涯語也。然伊勢物語當宮御所ニテレケルニ作、サレクタル一人来、此物語作給者哉。其二首入ントリシ時、自四方御使ソトケレハ、其返亊云。不シテ神風伊勢M荻折敷旅寢ヤスラン荒M辺亊云テヤカマシケレ。加様詠シ立皈ントシ時、佐モアレ四方御通ソトケレハ、是伊勢ニテルカ失給。佐テハ疑処伊勢大神宮御使也トテ心謂伊勢物語申也。〔謙堂文庫蔵六三右H〕

とあって、標記語「隼人佑」の語を収載し、その後に「在原」と記載し、茲に「在原業平」と『伊勢物語』について詳細な注記を記載しているのである。※この注記については、ことばの溜め池「業平」(2000.07.11)を参照

 古版庭訓徃来註』では、

十二月三日    隼人佐(ハヤトノスケ)。〔下39ウ七〕

とあって、標記語「隼人佐」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

十二月三日  隼人佐(はやとのすけ)十二月三日  隼人佐。〔99オ七〕

とあって、この標記語「隼人佐」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

十二月三日  隼人(はいと)の佐(すけ)在原(ありハら)十二月三日  隼人在原〔73ウ四〕

十二月(じふにくわつ)三日(ミつか)  隼人佐(はいとのすけ)在原(ありはら)。〔132オ三〕

とあって、標記語「隼人佐在原」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「隼人佑」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

はや-〔名〕【隼人】(一)はやびと(隼人)の略。其條を見よ。隼人正の職名より轉じて、多くは人名に稱す。又、ハイト。清寧記、四年八月「天皇親録囚徒、是日蝦夷、隼人、竝内附」(二)東(あづま)百官(ヒヤククワン)の一。〔1631-3〕

とあって、標記語「はや-隼人】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「はや-隼人佑】〔名〕(「はやひと」(隼人)」の変化した語」@「はやひと(隼人)」に同じ。A「はやと」の司(つかさ)」の略。B九州南部、大隅・薩摩国(鹿児島県)の男子。はやと--(じょう)「はやひと(隼人)の佑」に同じ」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
隼人佐、并梶原平三景時等兼候宮中行事〈云云〉《訓み下し》隼人ノ佐、并ニ梶原平三景時等、兼テ宮中ノ行事ニ候ス(宮中ニ候ジテ行事ス)ト〈云云〉。《『吾妻鑑』文治五年六月九日の条》
 
 
2005年11月07日(月)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
越前守(ゑちぜんのかみ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「衛」部に、「越後(エチゴ)」の語はあるが、標記語「越前」→「越前守」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

謹上 越前守殿〔至徳三年本〕

謹上 越前守殿〔宝徳三年本〕

謹上 越前守殿〔建部傳内本〕

謹上 越前守殿〔山田俊雄藏本〕

謹上 越前守殿〔経覺筆本〕

謹上 越前守殿〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「越前守」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「越前守」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「越前守」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)

越前(ヱチぜンコユル、マヱ)[入・平] 越州六郡。水田。二万三千五百七十六町。敦賀(ツルガ)丹生(ニブ)府今立(イマタチ)足羽(アスハ)大野(ヲホノ)坂井(サカイ)。〔天地門698二〕

とあって、標記語「越前」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集

越前(エチゼン) 越э\二郡大野(ヲヽノ) 吉田() 今南東 今南西 今北東 内郡 敦賀(ツルカ) 足羽北(アスハキタ) 足羽南(アスハミナミ) 坂井(サカイ) 坂南 丹生 田数二万三千五百六十六町・北陸道291六〕

越前(エツ)・北陸道(ホクロクタウ)263四〕

越前 上越州六群。(ツル)賀 丹生(ニフ) 今立(イマタチ) 足羽 大野 坂井・天地門233八〕 

とあって、標記語「越前守」の語を収載する。易林本節用集』に、

越前(ヱツ)州 大管十二郡 南北三日半山當北海五穀(コク)(ジク)桑麻多或本五穀万倍大上〃圀也。敦賀(ツルガ)丹生(ニフ)今立(イマタチ)足羽(アシハ)大野(オホノ)坂井(サカ井)K田(クロダ)池上(イケガミ)榊田(サカキダ)吉田(ヨシダ)坂北(サカキタ)南條(ナンデウ)〔北陸道268C〜E・天理図書館蔵、北陸道下67オC〜E〕

とあって、標記語「越前」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「越前」の語を以て収載し、「越前守」の語は未収載にある。これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

740謹上 越前守殿〔謙堂文庫蔵六三右H〕

とあって、標記語「越前守」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

謹言 越前守(エチゼンノカミ)殿(ドノ)。〔下39ウ八〕

とあって、標記語「越前守」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

謹上(きんしやう) 越前守(えちぜんのかミ)殿(どの)謹上 越前守殿。〔99オ四・五〕

とあって、この標記語「越前守」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

謹上(きんしやう) 越前守(えちぜんのかミ)殿(どの)謹上 越前守殿▲越前守ハ越前の国司(くにつかさ)也。国司ハ徃古(いにしへ)にいふ國造(くにのミやつこ)也。後(のち)(あらた)めて守(かミ)といふ。大畧(たいりやく)五位以下に相當(さうたう)す。唐名(からな)ハ刺史(しし)といふ。〔73オ五、六〕

謹上 越前守殿▲越前守ハ越前の国司(くにつかさ)也。国司ハ徃古(いにしへ)にいふ國造(くにのミやつこ)也。後(のち)(あらた)めて守(かミ)といふ。大略(たいりやく)五位以下に相當(さうたう)す。唐名(からな)ハ刺史(しし)といふ。〔132オ四、五〕

とあって、標記語「越前守」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「越前守」の語は未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、標記語「ゑちぜん--かみ越前守】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「えちぜん--かみ越前守】〔名〕」は未収載にあって、依って『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
越前守高階朝臣高經。《『吾妻鑑』文治元年十二月二十九日の条》
 
 
2005年11月06日(日)曇り後雨。東京
十二月晦日(じふにぐゎつみそか)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「志」部及び「滿」部に、標記語「十二月」「晦日」の語は未収載にする。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

十二月三日  隼人佐〔至徳三年本〕

十二月三日  隼人佐〔宝徳三年本〕

十二月三日  隼人佐〔建部傳内本〕

十二月三日  隼人佑〔山田俊雄藏本〕

十二月三日  隼人佐(ハイトウノスケ)在原〔経覺筆本〕

十二月三日  隼人佐〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「十二月三日」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「十二月晦日」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「十二月晦日」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、標記語「十二月晦日」の語は未収載にあって、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

739十二月晦日 金谷曰、爲陰氣時絶陽氣来。陰陽相激化爲疾病之鬼爲人家作病。黄帝使防相氏黄金四日{目}、身著朱衣、手把楯、口儺々之声、以駈疾病之鬼、至今歳除夜爲之。尺素曰、寒更紅糟臘八佛具皆是一時一會之景物也。〔謙堂文庫蔵六三右E〕

とあって、古写本及びその他の注釈書が「十二月三日」としているところを「十二月晦日」の語として収載し、宋石孝友撰『金谷遺音』及び『尺素徃來』を引用し、今で言う「大晦日」について詳細なる注記を茲に記載する。

 古版庭訓徃来註』では、

十二月三日    隼人佐(ハヤトノスケ)。〔下39ウ七〕

とあって、標記語十二月晦日」ではなく十二月三日」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

十二月三日  隼人佐(はやとのすけ)十二月三日  隼人佐。〔99オ七〕

とあって、この標記語「十二月三日」の語を収載し、語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

十二月三日  隼人(はいと)の佐(すけ)在原(ありハら)十二月三日  隼人佐在原〔73ウ四〕

十二月(じふにくわつ)三日(ミつか)  隼人佐(はいとのすけ)在原(ありはら)。〔132オ三〕

とあって、標記語「十二月三日」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Misoca.ミソカ(晦日) 詩歌語.月の最後の日.〔邦訳410l〕

とあって、標記語「晦日」の語を収載し、意味は「詩歌語.月の最後の日」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

じふ--ぐゎつ〔名〕【十二月】年の、第十二の月。年の、終りの月。しはす。極月(ごくげつ)。臈月。月。月。大呂。〔924-5〕

みそ-〔名〕【三十日】月の第三十の日。陰暦にて、つごもり。盡日。大盡。晦。陰暦、小(せう)の月の、二十九日にて終るものを、九日(くにち)みそかと云ふ。小盡。十二月なるを、おほみそか(大晦日)、おほつごもり(大晦)と云ふ。後撰集、四、夏、水無月二つありける年「たなばたは、天の河原を、ななかへり、後のみそかを、みそぎにはせよ」「三十日蕎麥」〔1925-2〕

とあって、標記語「じふ--がつ十二月】」「みそ-三十日】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「じゅうに-がつ十二月】〔名〕@一年の月数。一年一二か月。じゅうにがち。じゅうにげつ。A一年で一番最後の月。年の終わりの月。師走(しわす)。極月(ごくげつ)。じゅうにがち。じゅうにげつ。《季・冬》」、「みそ-三十日晦日】〔名〕@日の数三〇日。また、三〇日間。さんじゅうにち。A暦の月の初めから三〇番目の日。また、月の末日をいい、一二月の末日は大みそか、二九日で終わるのを九日みそかという。さんじゅうにち。尽日(じんじつ)。つごもり」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
去年十二月晦日亥刻。走湯山御在所拜殿。竈殿。常行堂并廻廊。惣門。金剛力士像以下回祿之由。平左衞門尉盛綱披露之。《『吾妻鑑』嘉禄三年正月四日の条》
 
 
2005年11月05日(土)晴れ。屋久島
啓承(ケイシヤウ)・啓達(ケイタツ)・啓奉(ケイブ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「氣」部に、

啓達(タツ)〔元亀二年本215一〕〔天正十七年本中51ウ七〕

啓達(ケイタツ)〔静嘉堂本244七〕

とあって、標記語「啓達」の語だけを収載する。古写本や真字本に見える「啓承」の語は未収載となっている点が此語の行方を知る上で大切であるまいか。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

爲稽古巨細承度候也何樣遂面謁心事可啓承也恐々謹言〔至徳三年本〕

爲稽古巨細奉度候也何樣遂面謁心事可啓承也恐々謹言〔宝徳三年本〕

爲稽古巨細承度候也何樣遂面謁心事可也恐々謹言〔建部傳内本〕

稽古巨細承度候何樣遂面謁心事可也恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

稽古巨細承候何樣遂面謁心事可啓承ワル也恐々謹言〔経覺筆本〕

稽古(ケイコ)巨細承度候也何(イカ)樣遂(トケ)面謁(メンエツ)( ン)事可啓承(ケイせウ){マウシ}也恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、建部傳内本は、「啓奉」、山田俊雄藏本は「啓達」、至徳三年本・宝徳三年本・経覺筆本・文明四年本は、「啓承」と表記し、訓みは文明四年本に「ケイセウ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「啓承」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「啓承」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)

啓達(ケイタツヒラク、イタル)[上・入] 。〔態藝門599八〕

とあって、標記語「啓達」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、標記語「啓承」「啓達」「啓奉」の語を未収載にする。易林本節用集』に、

啓達(ケイタツ) ―上(シヤウ)。―白(ビヤク)〔言辞門147一・天理図書館蔵下6ウ一〕

とあって、標記語「啓達」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』、『運歩色葉集』、易林本節用集』標記語「啓達」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

738沙弥{汰}才覚示給也爲稽古巨細承度候何樣遂面謁心亊(―)シ候恐々謹言〔謙堂文庫蔵六三右B〕

とあって、標記語「啓承」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

巨細(コサイ)承度(ウケタマハリタク)候也何樣(ナニサマ)(トケ)面謁(メンエツ)心事(シンジ)(ベク)啓達(ケイダツ)候也巨細(コサイ)ハ。前ニ註(シル)ス。〔下39ウ五・六〕

とあって、標記語「啓承」ではなく草書体字形相似の「啓達」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

何樣(なにさま)面謁(めんゑつ)を遂(とけ)心事(しんじ)啓達(けいたつ)(へき)何樣遂面謁心事可啓達何樣とハいつれどのやなどゝいふかことし。面謁の注前に見へたり。啓達ハ申入るゝ事也。〔99オ五・六〕

とあって、この標記語「啓達」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

才覚(さいかく)の爲(ため)(しめ)し給(たま)ふ可()き也(なり)稽古(けいこ)の為(ため)巨細(こさい)(うけたまハ)り度()く候(さぶら)ふ何樣(なにさま)面謁(めんゑつ)を遂()げ心事(しんじ)啓達(けいたつ)可き也(なり)恐々(きやう/\)謹言(きんけん)才覚示給也爲稽古巨細承何樣遂面謁心事可啓達也恐々謹言▲府邊ハ府中(ふちう)と云に同じ。府ハ將軍(しやうぐん)の幕府(ばくふ)也。〔73オ六〕

(ため)才覚(さいかく)(べき)示給(しめしたま)(なり)(ため)稽古(けいこ)巨細(こさい)(うけたまハり)(たく)(さふら)何樣(なにさま)(とげ)面謁(めんえつ)心事(しんじ)(べき)啓達(けいたつ)(なり)恐々(きよう/\)謹言(きんけん)▲府邊ハ府中(ふちう)と云に同じ。府ハ將軍(しやうぐん)の幕府(ばくふ)也。〔131ウ二〕

とあって、標記語「啓達」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Qeitat.ケイタツ(啓達) 書状を与えること,または,送ること.例,Vazato qeitat xexime soro.(態と啓達せしめ候)わざわざこの書状を送ります.〔邦訳483l〕

とあって、標記語「啓達」の語を収載し、意味は「書状を与えること,または,送ること」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

けい-たつ〔名〕【啓達】申し入るること。庭訓往來、十二月「何樣遂面謁、心中可啓達也」〔599-1〕

とあって、標記語「けい-せう〔名〕【啓承】」「けい-〔名〕【啓奉】」の語は未収載とし、「けい-たつ啓達】」の語を以て収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「けい-しょう啓承】〔名〕」「けい-啓奉】〔名〕」は未収載とし、「けい-たつ啓達】〔名〕(「啓」は上申書の意)文書をもって申し入れること。また、手紙を出すこと」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
寺調雖進入、遠境之間、重而ξ為如此者也、雖未申通、依衆望啓達、抑龍翔寺領長門国河内包光名公用事、先年凌雲寺殿御在洛之之砌、且運上、其後怠慢 《『大コ寺文書』(天文十一年)二月十九日の条、599・1/609》
 
 
2005年11月03日(木)晴れ。屋久島
承度(うけたまはりたく)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「宇」部に、

(ウケタマハル)()〔元亀二年本185三〕〔静嘉堂本208五〕

(ウケタマワル)()〔天正十七年本中33オ八〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

爲稽古巨細承度候也何樣遂面謁心事可啓承也恐々謹言〔至徳三年本〕

爲稽古巨細奉度候也何樣遂面謁心事可啓承也恐々謹言〔宝徳三年本〕

爲稽古巨細承度候也何樣遂面謁心事可啓也恐々謹言〔建部傳内本〕

稽古巨細候何樣遂面謁心事可啓達也恐々謹言〔山田俊雄藏本〕

稽古巨細候何樣遂面謁心事可啓承ワル也恐々謹言〔経覺筆本〕

稽古(ケイコ)巨細承度候也何(イカ)樣遂(トケ)面謁(メンエツ)( ン)事可啓承(ケイせウ){マウシ}也恐々謹言〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「承度」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

ウケタマハル奉聽共請 已上同黒川本・辞字門中53オ八〕

ウケタマハル 已上同卷第五・辞字門187二・三〕

とあって、標記語「」の語を三卷本が収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「承度」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)

承度(ウケタマワリタク・ノリシヨウ・タビ・ハカル)[平・去] 。〔態藝門480六〕

とあって、標記語「承度」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

(ウケタマハル) ・言語進退門151一〕

(ウケタマハル) () ・言語門123四〕

(ウケタマハル)・言語門137五〕

とあって、標記語「」の語を収載する。易林本節用集』に、

(ウケタマハル) () 〔言語門120三・天理図書館蔵上60ウ三〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』に標記語「承度」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

738沙弥{汰}才覚示給也爲稽古巨細承度候何樣遂面謁心亊(―)シ候恐々謹言〔謙堂文庫蔵六三右B〕

とあって、標記語「承度」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

巨細(コサイ)承度(ウケタマハリタク)候也何樣(ナニサマ)(トケ)面謁(メンエツ)心事(シンジ)(ベク)啓達(ケイダツ)候也巨細(コサイ)ハ。前ニ註(シル)ス。〔下39ウ五・六〕

とあって、標記語「承度」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

巨細(こさい)(うけゐ)り度(たく)候也巨細承度候也上の句と意味一様なり。但し上の句ハ彼か教ん事を願ひ此句ハ己に更るをいえり。稽古巨細の注皆前に出す。〔99オ四・五〕

とあって、この標記語「承度」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

才覚(さいかく)の爲(ため)(しめ)し給(たま)ふ可()き也(なり)稽古(けいこ)の為(ため)巨細(こさい)(うけたまハ)り度()く候(さぶら)ふ何樣(なにさま)面謁(めんゑつ)を遂()げ心事(しんじ)啓達(けいたつ)す可き也(なり)恐々(きやう/\)謹言(きんけん)才覚示給也爲稽古巨細何樣遂面謁心事可啓達也恐々謹言▲府邊ハ府中(ふちう)と云に同じ。府ハ將軍(しやうぐん)の幕府(ばくふ)也。〔73オ六〕

(ため)才覚(さいかく)(べき)示給(しめしたま)(なり)(ため)稽古(けいこ)巨細(こさい)(うけたまハり)(たく)(さふら)何樣(なにさま)(とげ)面謁(めんえつ)心事(しんじ)(べき)啓達(けいたつ)(なり)恐々(きよう/\)謹言(きんけん)▲府邊ハ府中(ふちう)と云に同じ。府ハ將軍(しやうぐん)の幕府(ばくふ)也。〔131ウ二〕

とあって、標記語「承度」の語を収載し、語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Vqetamauari,ru,atta.ウケタマハリ,ル,ッタ(承り,る,ッた) “聞く”という意味であって,話す相手を尊敬して言う語.→次条.〔邦訳730l〕

†Vqetamauari,ru,atta.*ウケタマハリ,ル,ッタ(承り,る,ッた) ¶また,尊敬すべき人に関することを聞く.→Men(面);Vqetamo<ri,ru.〔邦訳730l〕

とあって、標記語「承度」の語を収載し、意味は「“聞く”という意味であって,話す相手を尊敬して言う語」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

うけたまは・ル・レ・ラ・リ・レ〔他動、四〕【】〔受け賜はるの義〕(一)受くの敬語。奉承~武紀「祇承(ウケタマハリ)夢訓、依以將行」崇~紀、四年十月「朕奉(ウケタマハリ)大運、愛育黎元(二)轉じて、聴くの敬語。拝聞~功攝政前紀、註「願欲(ウケタマハラム)其名雄略紀、元年三月「臣聞(ウケタマハル)」〔227-5〕

とあって、標記語「うけたまは】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「うけたまわ】〔他ラ五(四)〕(動詞「うける(受)」に「賜わる」の付いたもの)目上の人などから、物を「受け、いただく」意が本義。@「受ける」の謙譲語。イ(上の人から物や命令などを)つつしんでお受けする。いただく。ロ(「受け」は「受けつぐ」意)受けつがせていただく。つつしんで受けつぐ。A(目上の人のことばを身に頂戴する、の意から)「聞く」また「伝え聞く」の謙譲語。つつしんで聞く。拝聴する。うかがう。B(命令などを受け、聞いて)承諾する、受諾する」の謙譲語。つつしんで承諾する。つつしんで承知する。C(「私が…とうかがう」の気持から)「おっしゃる」の意を間接的にいう。D「うけたまわり…」の形で動詞と合して、「聞き…」「受け…」の謙譲語を作る」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
先基綱。行然等仰献奉書。《訓み下し》先ヅ基綱、行然等承リ仰セテ奉書ヲ献ズ。《『吾妻鑑』延応二年正月二十七日の条》
 
 
沙汰(サタ)」は、ことばの溜め池(2002.09.18)を参照。
才覚(サイカク)」は、ことばの溜め池(2004.12.10)(2005.07.09)を参照。
稽古(ケイコ)」は、ことばの溜め池(2001.03.20)を参照。
巨細(コサイ)」は、ことばの溜め池(2003.05.21)を参照。
 
2005年11月02日(水)晴れ。屋久島
判官代(ハンクハンダイ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「波」部に、

判官(ハウグワン) 唐名廷尉(テイイ)〔元亀二年本25四〕

判官 廷尉下司。〔静嘉堂本23一〕

判官(ハウクワン) 廷尉下司。〔天正十七年本上12ウ四〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「判官代」の語は未収載にするが、標記語「判官」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

且任國之際在廳官人等所行府邊被官輩景勢着任着府儀式官使大奏之饗膳厨規式兩樣納法郡司判官代等沙汰為才覚可示賜也〔至徳三年本〕

任國之際在廳官人等所行府邊被輩景勢着任着符((府))儀式官使大奏之饗膳厨現((規))式兩樣納法郡司判官代等沙汰爲才覺可示給也〔宝徳三年本〕

且任國之際在廳官人等所行府邊被官之輩景勢着任着府儀式官使大奏饗膳厨規式兩樣納法郡司判官代等沙汰為才覚可示給也〔建部傳内本〕

任國(ニン )之間在廳(ザイチヤウ)官人等所行府邊(フヘン)被官輩景勢着任(チヤクワウ)着府儀式官使( ヂウ)大奏( さウ)()饗膳(キヨウぜン)(クリヤ)規式兩樣納法郡司判官代沙汰爲才覚可示〔山田俊雄藏本〕

任國(ニン )之間在廳(  チヤウ)官人(クワン  )所行府邊(フヘン)被官(ヒクワン)氣勢着任(チヤクニン)着府儀式官使( シ)大奏饗膳厨規式兩樣納法郡司( シ)判官代沙汰為才覚(シメシ)〔経覺筆本〕

旦任国(ニンコク)()在廳(サイチヤウ)官人(クワン  )所行(シヨキヤウ)府邊(フヘン)被官(ヒクワン)(トモカラ)景勢(ケイセイ)着任(チヤクニン)着府(チヤクフ)儀式(キシキ)官使(クワンジ)大奏( ソウ)()饗膳(キヤウせン)(クリヤ)規式(ギ )兩樣(リヤウヤウ)納法(ナツハウ)郡司(グンシ)判官代(ハウクワン  )沙汰(タメ)才覚(サイカク)(シメシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「判官代」と表記し、訓みは文明四年本に「ハウクワン(ダイ)」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「判官代」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))・広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)・印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、標記語「判官代」の語は未収載にする。ただし、永祿二年本に標記語「判官」の語を収載する。また、易林本節用集』に、

判官代(ハウグワンタイ) 司直(シチヨク)〔官位門14六・天理図書館蔵上7ウ六〕

とあって、標記語「判官代」の語を収載する。

 このように、上記当代の古辞書においては、易林本節用集』に標記語「判官代」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

737納法郡司判官代(トウ) 丞殿也。扶(タスケ)テ云心也。〔謙堂文庫蔵六三右B〕

とあって、標記語「判官代」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

兩樣納法(ナツハフ)郡司(グンシ)判官代(ハンクハンダイ)沙汰(サタ)(タメ)才覚(サイカク)(タマハ)也爲(タメ)稽古(ケイコ)兩樣納法ハ。米銭(コメせニ)ノ納(ヲサ)メ口也。〔下39ウ四・五〕

とあって、標記語「判官代」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

郡司(ぐんじ)判官(はんくわん)(たい)(とう)の沙汰(さた)郡司判官代沙汰郡司ハ一部の代官也。判官代ハ事の判断する役也。明法道の少奉(せうふ)是に任す。沙汰の注七月晦日の書状に見へたり。〔98ウ8〜99オ一〕

とあって、この標記語「判官代」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)住國(ぢうこく)()(あいだ)在廳(ざいちやう)の官人(くハんにん)()の所行(しよぎやう)府邊(ふべん)被官(ひくハん)乃輩(ともがら)の形勢(ぎやうせい)着任(ちやくにん)着府(ちやくふ)の儀式(ぎしき)官使(くハんし)大奏(だいそう)の饗膳(きやうぜん)(くりや)の規式(きしき)兩樣(りやうやう)乃納(なつぼふ)郡司(ぐんし)判官(はんくハん)(だい)(とう)沙汰(さた)且住國之間在廳官人等所行府邊被官形勢着任着府儀式官使大奏之饗膳厨規式兩樣納法郡司判官代沙汰▲判官代ハ長官(ちやうくわん)次官(しくわん)に代りて廰内(ちやうだい)を糺判(きうはん)する義。但(たゞ)し爰(こゝ)にいふ所ハ年貢(ねんぐ)の勘定方(かんぢやうかた)を指()せる也。〔73オ一、73オ五〕

(かつ)住國(ぢうこく)()(あひだ)在廳(ざいちやう)官人(くわんにん)(らの)所行(しよぎやう)府邊(ふへん)被官(ひくわん)(ともがら)形勢(ぎやうせい)着府(ちやくふ)儀式(ぎしき)官使(くわんし)大奏(たいそう)饗膳(きやうぜん)(くりや)規式(きしき)兩樣(りやうやう)納法(なつほふ)郡司(ぐんし)判官(はんくわん)(だい)(とう)沙汰(さた)▲判官代ハ長官(ちやうくわん)次官(じくわん)に代(かハ)りて廰内(ちやうだい)を糺判(きうはん)する義。但(たゞ)し爰(こゝ)にいふ所ハ年貢(ねんぐ)の勘定方(かんぢやうかた)を指()せるなり。〔130ウ六、131オ五・六〕

とあって、標記語「判官代」の語を収載し、語注記は、「判官代は、長官(ちやうくわん)・次官(しくわん)に代りて廰内(ちやうだい)を糺判(きうはん)する義。但(たゞ)し爰(こゝ)にいふ所は、年貢(ねんぐ)の勘定方(かんぢやうかた)を指()せるなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Fabacari.ハンクヮンダイ(判官代) .〔邦訳r〕

とあって、標記語「判官代」の語を収載し、意味は「」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

はんぐゎん-だい〔名〕【判官代】院(ゐん)の廰の官名。はうくゎんだい(判官代)の條の(一)に同じ。〔1621-5〕

はうぐゎん-だい〔名〕【判官代】(一)院廰に奉仕する判官の稱。名目抄判官代(ハウグワンダイ)、五位」日本紀略、後編、三、天暦二年二月五日「於院、定判官代榮花物語、三、樣樣悦「ここらのとしごろ、なれつかうまつりつるそうぞく、殿上人、判官代、涙をながしまどひたる、云はんかたなし」(二)中古、國衙、庄園にて、專ら田政の事を掌らしめたる職。保元物語、一、新院被爲義事「近江國伊庭庄、美濃國青柳庄二箇所を賜って、即ち判官代に補して、上北面に候すべき由」〔1555-3〕

とあって、標記語「はんぐゎん-だい判官代】」→「はうぐゎん-だい判官代】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「はんがん-だい判官代】〔名〕@平安中期以来院の庁に置かれた職。また、その人。院の庁では主に五位・六位の蔵人をあてた。ほうがんだい。A国衙(こくが)の下級職員。また、荘園現地の管理者。ともに民政を直接担当し、上納物の徴収にあたった。ほうがんだい」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
三位入道、同子息〈仲綱、兼綱、仲宗〉及足利判官代義房等梟首〈三品禅門首、非彼面由、謳歌云云〉《訓み下し》三位ノ入道、同キ子息〈仲綱、兼綱、仲宗〉及ビ足利ノ判官代(ダイ)義房等、梟首セラル〈三品禅門ノ首ハ、彼ノ面ニ非ルノ由、謳歌スト云云〉。《『吾妻鑑』治承四年五月二十六日の条》
 
 
2005年11月01日(火)晴れ。東京→鹿児島→屋久島
郡司(グンジ)
 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、

()()〔元亀二年本189六〕

郡司()〔静嘉堂本213三〕〔天正十七年本中36オ三〕

とあって、標記語「郡司」の語を収載する。
 古写本『庭訓徃來十二月三日の状に、

且任國之際在廳官人等所行府邊被官輩景勢着任着府儀式官使大奏之饗膳厨規式兩樣納法郡司判官代等沙汰為才覚可示賜也〔至徳三年本〕

任國之際在廳官人等所行府邊被輩景勢着任着符((府))儀式官使大奏之饗膳厨現((規))式兩樣納法郡司判官代等沙汰爲才覺可示給也〔宝徳三年本〕

且任國之際在廳官人等所行府邊被官之輩景勢着任着府儀式官使大奏饗膳厨規式兩樣納法郡司判官代等沙汰為才覚可示給也〔建部傳内本〕

任國(ニン )之間在廳(ザイチヤウ)官人等所行府邊(フヘン)被官輩景勢着任(チヤクワウ)着府儀式官使( ヂウ)大奏( さウ)()饗膳(キヨウぜン)(クリヤ)規式兩樣納法郡司判官代等沙汰爲才覚可示〔山田俊雄藏本〕

任國(ニン )之間在廳(  チヤウ)官人(クワン  )所行府邊(フヘン)被官(ヒクワン)氣勢着任(チヤクニン)着府儀式官使( シ)大奏饗膳厨規式兩樣納法郡司( シ)判官代等沙汰為才覚(シメシ)〔経覺筆本〕

旦任国(ニンコク)()在廳(サイチヤウ)官人(クワン  )所行(シヨキヤウ)府邊(フヘン)被官(ヒクワン)(トモカラ)景勢(ケイセイ)着任(チヤクニン)着府(チヤクフ)儀式(キシキ)官使(クワンジ)大奏( ソウ)()饗膳(キヤウせン)(クリヤ)規式(ギ )兩樣(リヤウヤウ)納法(ナツハウ)郡司(グンシ)判官代(ハウクワン  )沙汰(タメ)才覚(サイカク)(シメシ)〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「郡司」と表記し、訓みは経覺筆本に「(グン)シ」、文明四年本に「グンシ」と記載する。

 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、

郡司 クンシ黒川本・官職門中82オ一〕

郡司 〔卷第六・官職門492三〕

とあって、標記語「郡司」の語を収載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「郡司」の語は未収載にする。次に、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)

郡司(グンシコホリ、ツカサ)[去・平] 。〔態藝門501二〕

とあって、標記語「郡司」の語を収載する。また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』・易林本節用集』には、標記語「郡司」の語は未収載にする。

 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』・『運歩色葉集』に標記語「郡司」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。

 さて、真字本『庭訓往来註』十二月三日の状には、

737納法郡司判官代等(トウ) 丞殿也。扶(タスケ)テ云心也。〔謙堂文庫蔵六三右B〕

とあって、標記語「郡司」の語を収載する。

 古版庭訓徃来註』では、

兩樣納法(ナツハフ)郡司(グンシ)判官代(ハンクハンダイ)沙汰(サタ)(タメ)才覚(サイカク)(タマハ)也爲(タメ)稽古(ケイコ)兩樣納法ハ。米銭(コメせニ)ノ納(ヲサ)メ口也。〔下39ウ四・五〕

とあって、標記語「郡司」の語を収載し、上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

郡司(ぐんじ)判官(はんくわん)(だい)(とう)の沙汰(さた)郡司判官代等沙汰郡司ハ一郡の代官也。判官代ハ事の判断(はんたん)する役也。明法道(めうほうたう)の少奉(せうふ)是に任す。沙汰の注七月晦日の書状に見へたり。〔98ウ八〜99オ一〕

とあって、この標記語「郡司」の語を収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(かつ)住國(ぢうこく)()(あいだ)在廳(ざいちやう)の官人(くハんにん)()の所行(しよぎやう)府邊(ふべん)被官(ひくハん)乃輩(ともがら)の形勢(ぎやうせい)着任(ちやくにん)着府(ちやくふ)の儀式(ぎしき)官使(くハんし)大奏(だいそう)の饗膳(きやうぜん)(くりや)の規式(きしき)兩樣(りやうやう)乃納(なつぼふ)郡司(ぐんし)判官(はんくハん)(だい)(とう)沙汰(さた)且住國之間在廳官人等所行府邊被官形勢着任着府儀式官使大奏之饗膳厨規式兩樣納法郡司判官代等沙汰▲郡司ハ郡縣(こほりあがた)を司(つかさど)る官也。〔73オ一、73オ五〕

(かつ)住國(ぢうこく)()(あひだ)在廳(ざいちやう)官人(くわんにん)(らの)所行(しよぎやう)府邊(ふへん)被官(ひくわん)(ともがら)形勢(ぎやうせい)着府(ちやくふ)儀式(ぎしき)官使(くわんし)大奏(たいそう)饗膳(きやうぜん)(くりや)規式(きしき)兩樣(りやうやう)納法(なつほふ)郡司(ぐんし)判官(はんくわん)(だい)(とう)沙汰(さた)▲郡司ハ郡縣(こほりあがた)を司(つかさど)る官也。〔130ウ六、131オ五〕

とあって、標記語「郡司」の語を収載し、語注記は、「郡司は、郡縣(こほりあがた)を司(つかさど)る官なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Gunxi.グンシ(郡司) Couorino tcucasa.(郡の司)国の中の一地区〔郡をさす〕の首長.〔邦訳312r〕

とあって、標記語「郡司」の語を収載し、意味は「Couorino tcucasa.(郡の司)国の中の一地区〔郡をさす〕の首長」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ぐん-〔名〕【郡司】(一)こほりのつかさ。古へ、一郡を統治する官。其政廰を、郡家(グウケ)と云ふ。(元の郡長、郡役所、の如し)四等の官は、大領(かみ)、少領(すけ)、主政(ジヨウ)、主帳(サクワン)、なり、大郡、上郡、中郡、下郡、小郡、にて、人員に差あり。郡司を選任する時は、國司、先づ、候補者を立てて、上申し、式部省にて試問し、及第したる者を任ず、これを、擬郡司(ぎぐんじ)と云ふ。大領(ダイリヤウ)を、おほいこほりのみやつこと云ひ、少領(セウリヤウ)を、すけのみやつこと云ふ。續日本紀、一、文武天皇二年三月「筑前國宗形(むなかた)、出雲國意宇(おう)、二郡司、云云、任諸國郡司、因詔、諸國司等、銓擬郡司、勿偏黨、云云」(二)專ら、大領(ダイリヤウ)の稱。宇治拾遺物語、九、第一條「郡の司に宿を取れり、主の郡司は、云云」〔548-1〕

とあって、標記語「ぐん-郡司】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ぐん-郡司】〔名〕@令制下の地方官。国司の下で、一郡を統治した。大化改新(六四五年)に始原があるが、大宝令以後は大領・少領・主政・主帳の四等官で構成される。郡司は以前の国造の系譜を引く現地の豪族が優先的に補任され、終身官で代々世襲された。これは律令制の他の官職に比べ、極めて顕著な特徴である。郡職。A@の長官。郡の大領を意味する」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
武藏國、諸雑事等仰在廳官人并諸郡司等、可令致沙汰之間、所被仰付江戸太郎重長也《訓下し》武蔵ノ国、諸雑事等ハ在庁ノ官人并ニ諸郡司(グンシ)等ニ仰セ、沙汰ヲ致サシムベキノ間、江戸ノ太郎重長ニ仰セ付ケラルル所ナリ。《『吾妻鑑』治承四年十月五日の条》
 
 
納法(ナッホウ)」は、ことばの溜め池(2001.04.08)を参照
 
 
 
 
 
 
 
 

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