関西学院大学於

2002.06.22(土)
第10回短期大学部門検討会議〜教育の情報化事例と討議〜
Webサイトを利用しての国語学からのアプローチとその実践
―大学演習講義における実情報告と今後の取り組み方
駒澤短期大学国文科 萩原義雄(国語学専攻)
 
0、はじめに
 
 基本は何か?5Kである。1に会話、2に好奇心、3に見学、4に感動、5に継続というのが私の一教育者としての理念である。 この一つひとつがWebサイトを利用しての国語学からのアプローチの原点となっていることにほかならない。
 
1、いつから始めたのか?
 
Webが立ち上がる以前からPC利用による試みは実施してきた。それはDOS時代とも呼ばれた頃であり、私はその当時は駒澤大学北海道教養部の教員であった。“情報言語学”なる講座を開設し、サンプリング調査は常に現地に出かけ、見たもの、聞いたことすべてを己れと当時の学生とでまとめあげてきた。良い悪いの評価は後に閲覧いただく人々の目で判断がくだされると信じて、とにもかくにも和気藹々のなかでゼミ学生たちと取り組みを行なってきたのである。学校側からは“デスクワークとしての〜”といった冠題をいただくこともあった。やがて、時の趨勢で教養部が廃止され、私は現在の東京駒澤短期大学に籍を移し置くこととなった。
 
2、どんな取組みが出発点だったのか?
 
 当時の調査は北海道を調査地にして、全くこの地とは縁もゆかりもないところが私を含め学生たちの調査現場であった。調査時期の多くは夏休みに行うことにした。なかには雪深い季節に再び現地に後追い調査として出かけていった兵の学生もいる。その一人ひとりの熱意が今日の成果となってここに表出してきている。
 
3、移籍後の取組みはどうあるのか?
 
 東京では短期大学国文科に所属し、教えようとする科目は旧態依存型の科目が私に与えられ、来たる学生も教える私も日々是努力の日々であった。暇の少ないなかで教材開発コンテクストを毎週コツコツと作成し、体験学的実験学習が一季続いた。そのなかで、尤も苛酷に感じたのは学生諸君であったに違いない。でも一人ひとりを大切に取り組む姿勢は一人でも百人居ても変わらない。やる気のある学生をより育成していくことに力を注ぐ時間となっていった。中途半端な妥協は決してしないという意志が常に一定の緊張感を醸し出していた。これを客観的に表現するのであればより独創性のカテゴリィを感得できる高度な教育内容をめざし、ほかでは学習できないことに心血を注いでいたということである。そして徹底した落ち穂拾いが昼夜と休日を徹して行なわれた。
 
4、人との出会い
 
出会いを大切に
 北海道岩見沢市利根別自然休養林や雨竜沼湿原に咲く花です。私が北海道新聞社野生生物基金の活動のなかで出会った写真家岡本洋典さんの撮影された写真を使わせていただきました。
 

 

 
 
 
 
水芭蕉 雨竜沼湿原の夏景色 ノシメトンボ
 
 北海道新聞社とのおつきあいはウルトラマラソンでした。津田遥子編『北の話』選集“北海道を旅する手帖”珠玉の75編いま蘇るのなかになぜか登場する。私萩原と高石ともやさんが一緒に登場している。
フォークシンガー
―高石ともやさんに出会う―
 
 彼の唄う曲・歌詞は、私の心をそして一緒に随行した学生のこゝろを瞬く間に魅了しつづけた。
 生きることの大切さ 野の花の歌が聞こ〜えま〜すか……。あ〜わて〜なさんなと人が言う。
 
 
 
 
高石ともや『陽気に行こう』その2出版記念祝賀会
 
 それは、今も変わらない。
 
 
 
5、遠くへ行きたい
 
 河合隼雄さんが中学校二年生の道徳の教科書(光村図書)を執筆した。題は「何を目標にするか」である。数字にこだわらず、自然を相手に対峙すること。生きるなかで「風景を楽しまずまっしぐらに進むばかさ加減」を高石ともやさんを通じて河合さんが聴いたことをもとに語りかけている。この本は短大(国・英選択)の「実用表現法」のなかで実際に私が朗読で使ってみた。他に中条一雄さんの「クラークが最後に手にした金メダル」を学生の一人が読んでみて、自身の思いと一つに融合させ、これをスピーチ発表というかたちで聴かせた。この臨場感が伝わると良いのだが、本日お越しの会議場の皆さんにその模様をテープ録画により視聴していただくことにする。〔DBスピーチ動画像
 
6、国語演習T
 
大槻文彦編『大言海』を読む
 『大言海』という国語辞書を学生と読み続けている。ことばと言うのは実に奥が深いもので、丹念に調べて見ると意外なことに氣がつくものだ。ここに紹介するのは、「楚割」という語、これを一つ例にとって皆さんと一緒に模擬学習してみることにしよう。私のHPに「言葉の泉」というコーナーがあり、この一つに「ことばの溜め池」というサイトがある。日々更新がモットーで2000年3月14日付けでこの語について考察している。これを今年、さらに更新して演習の実践例として活用してみた。「楚割」の読みは古辞書『倭名類聚抄』(932年成立)に「須波夜利(すはやり)」とある。だが、室町時代の印度本系『節用集』及び『運歩色葉集』に、「スバシリ」として「鱒の背を(より)破りたる也」として収録されていて、干物が生物化している。これを大槻文彦編『大言海』は、「すはやり【楚割】すわやり〔和語名詞〕〔楚と、割との約、楚割とも云ふは、更に、其約なり、の音ならず〕魚肉を、細そく割りて、鹽を附け、乾して、氣條の如くしたるもの。削りて、食用とせしが如し、鯛のすはやり、平魚のすはやり、鮫のすはやり、すはやり鮭、雜魚のすはやりなど、古く見えたり。略轉して、そはやり。すはり。そわり。『倭名類聚抄』十六.17魚鳥類「魚條、讀須波夜利、本朝式云、楚割」撮壤抄「魚條、楚割、スハヤリ」遊仙窟「魚條」大膳職式「平魚楚割」内膳司式「楚割鮭」宮内省式「鯛楚割」廚事類記「楚割、鮭を鹽漬けずして、乾して、削天、供之」『吾妻鏡』十、文治六年十月十三日、佐々木綱、云云、鮭の楚割を獻ず、頼朝の歌に♪待ちえたる、人の情も、すはやりの、わりなく見ゆる、心ざしかな(すはえわりのわりなくの意)。魚條〔1058-1〕」としている。*1 そして、「すばしり【洲走】」の項目に、『節用集』及び『運歩色葉集』の注記内容が見えてきていることも確認できるのである。

この記載内容には、室町時代の上記古辞書編集語彙の有様については何も説明がなされていない。そして、このことは現代の国語辞典にも何も意識されずに継承され続けてきている現実がそのまま横たわっているのである。こうしたことばのすり替えが何故発生したのだろうか?その要因を演習という一問一答形式のなかで探ってみるのである。他に「菖蒲(しょうぶ)」と「薔薇(しょうび)」などがあります。

これについて、学生が実際にどう答えたかその資料を末尾にまとめておく。
 現代の研究では、奈良時代の木簡が発見され、これに、三河湾の篠島から天皇に献上された荷札があり、「佐米楚割=さわすわやり」の記述が確認されている。そして、これが鮫(さめ)の干物と考えられている。伊勢には現在も「サメのたれ」が知られ、この語源は一説には、干したとき、「垂れる」ところから「たれ」とついたと云う。
 
7、文献資料を読む
 
 昨年度から始めた新科目であり、この科目は、文学の「○○を読む」という組織系統型のものである。ただ、文学の「○○を読む」の科目は、学部編入時に、単位互換の可能な科目であるのに対し、この科目はそういう旨味は全くない。さて、古代日本の文字世界から近代作家(夏目漱石・森鴎外など)の文字表記までを何故Webサイトを利用して見て行くのかということに着目しておきたい。
 作家の肉筆原稿がそっくり遺っていることで、国語資料として位置付けることができる。その内容を見ると、活字化された文字表記と大いに異なっていることに誰もが気がつく。*2それが引き起こすところの文章内容の考察のし方の違いを考えておきたいのである。例えば、夏目漱石坊つちゃん』に見える「」と「」といった文字の意識的使い分けが好例といえよう。
 また、「いろはうた」を紹介する。国文科の学生であれば、一度は暗証したことがある仮名四十八音からなる歌である。これを七列七行で書いて見せる。ここから何が見えてくるか、そして江戸時代までにどのように考察がなされてきたのか詳細とはいかないながらもその要点を伝えて行く。
 本年は、朝一時間めであることから受講生は五名と少ない。内容からして敬遠科目の一つであったようだ。でも、この五名は幸福ものだ。名前も顔もそして微細に渡って私の講義が受けられる。
先日は、「人麿と文字世界」という東大教授神野志隆光さんの講演を千葉県佐倉市歴博に一緒に聴きにでかけてみた。二時間のその講演内容の速記録は、HPに公開しておいた。当日配布された要旨資料とこの速記録を基調にして、自分の直接気づいたことがらを各自が今リポートとして作成中である。
 
 
 
 
8、情報言語学
 
 電脳「国文学」を目玉にする。実は本学にこの四月から“情報処理”の科目を教えていただく谷本玲大さんをお招きした由縁はこの漢字文献情報処理研究会編の『電脳国文学』(好文出版刊)といったCD−ROM付の書物からであった。酒の上での話しで恐縮であるが、この本を教科書として採用したのは私が一番最初であったと言うのである。嘘か真かはお話戴いた谷本さんのみが知る世界である。この書籍を舐めるようにして利用して見ようというのが抑の動機であり、始まりであった。確かに教科書としては結構高価な部類に入るだろう。この付録のようなCD-ROMが実は威力を発揮する。国文学をめざす学徒が尤も近づき難い古典世界に魔法の絨毯に乗ったかの如く誘ってくれるからである。今までは単なる実験データや参考資料でしかなかった画像や映像、そして音声などをここに配置しているWeb上のリソースを広く見せているからにほかならない。
 講義では、まさしく国文学資料をWebサイトを駆使して考察を試みることを手がけてきている。ここでは、前期に基礎編を萩原が担当し、後期応用編を片山晴賢(国語学・日中比較語彙論専門)先生が担当して通年科目に仕立てている。
 前期の目玉の一つに、国文学資料館のデータベースへのアクセスの手続きを資料館にお願いして手がけてきている。さらには、近代の資料で試験公開(CD-ROMによる提供)にある国立国語研究所における雑誌「太陽」(田中牧郎さん他)のデータベースによることばの検索をも行なったりしている。ここでは画像処理、文字資料の再構築化が大きなテーマを荷っている。なぜならば、自らがこれらの作業手順を知らないのではどのHPが好いのか、またどのHPが利用に値しないのかをリサーチする能力を養えないからである。まだ試行錯誤の世界であり、十分な成果を見るに至っていないが、何回か回を重ねることでその報告公開が可能となるであろう。そして、近い将来には、彼女達のなかから「情報検索技能士」の国家的資格を有する優秀な「検索技能士」が誕生することを本学では目標としていきたい。
 
9、国語史
 
 紀田順一郎さんの『日本の書物』が面白い。だが、この本自体がなかなか読めないのである。なぜなら、古本屋でも滅多に見つからない本と成っているからである。これもちょっと智恵を搾ってみると図書検索OPACを利用して見るとどうにかなるものである。紀田さんには著作集本が刊行されているからだ。本学図書館OPACでの紀田さん著作書誌数は一二二件にも及ぶ。そのなかで、単行本としては収録されていないが、紀田順一郎著作集(三一書房 , 1998.2刊)が収納されていた。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
駒澤大学図書館OPACによ る紀田順一郎『日本の書物』
 これを元に学生と読むことにするのはいいが、この本を一人の学生が借り受けてしまうと、次の学生が読むには二週間も待たねばならないのである。こんなとき、著者の紀田さんには慎に失礼〔著作権法違反かな?〕なのだが、電子入力をすることで多くの学生がこの書物の内容に出会うことができるということで目を瞑ってもらう、責務はこの担当者である私自身が負えばいいからという思いでここに取り上げたのである。私はこの書物を“国語史”という単元のなかでなぜ採用したのかといえば、この書物は名著であるからだといえばそれまでだが、このまえがきに、「学校での古典教授法は、語句や文法にこだわって、その書物の生命力に迫ろうとはしない。それは古い書物をカビ臭い灰色の密室に閉じこめてしまうことを意味し、およそ一冊の書物に接する前提としては最も重要な、読者個人の主体的関心を疎外してしまう。古典はもっと、広い時空の中に解き放たるべきである」という文言に共感したからに他ならない。ここに国文学を学ぶ一人として参画してきた若者一人ひとりの声をここに投影し、反映させてみなければなるまい。その義務は教育者としての私にあるからだ。ここで、彼女等が何を学ぼうとしているのか?これを肌に感じ取る意識が働くかどうかが大きな分岐点なのかもしれない。古典として、日本語として、これらの多くの書物のなかに息づいている生命力を少しでも我が知識の糧粮にし、理会したい。換言すれば、“読みたい、知りたい、そして聞きたい”というものである。まさに、指南書と呼べるものがこれであると私自身が信じて疑わない。日本の書物への道しるべであり、羅針盤の働きをする原点なのである。これを敢えて運用する個性とその能力をここで試行錯誤しながらも出発してみて三年目を迎えた。因みに紀田さんご自身がHPを開設しているので紹介しておきたい。

◆  紀田順一郎のIT書斎  ◆
《http://www.kibicity.ne.jp/~j-kida/》。
 
 
 
 
 三年目を迎えて気づくのは、それぞれの作品に大いなる感動者がいて、彼等がまた、学究レヴェルに等しいHPをそれぞれ特徴を持たせて開設していることであった。このWeb上でのリンクが果す役割は大いに介助となってきている。また、各作品の原著や写本を所蔵する機関附属の図書館が公開をしていることが私の教材作成にとって強い味方となったのである。とりわけ、初期の段階として京都大学附属図書館のDB(データベース)は門外不出の貴重な書物を惜しみなく公開していた。これを推進した長尾 真教授に心から感謝せねばなるまい。なんと国宝に指定されている鈴鹿本今昔物語集』を原本画像と対照する翻刻テキスト、並びに解説・解題付きで公開しているからである。
 この資料が一つの電子貴重図書の取扱いをその後、大きくうねらせていく渦巻きとなったからである。実際、多くの各大学図書館が同じように公開を着手しはじめた。だが、以前図録式のある部分しか見せない方式を取っている機関もないわけではない。こうした機関は、学生たちからすぐに飽きられて行く。真剣に取組んでいる資料があるところに自ずとその検索やその目が向くからである。ここでは、専門の学術研究者だけでなく、時には専門領域とはかけ離れた世界のHP資料が検索されてきたりする。この資料を鵜呑みにすることはいけないので、しばらく時間を必要とする。そして、太鼓判が押せる、信頼のできる内容であれば、リンクして大いに喧伝するのが望ましいと考えてきた。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
京都大学附属図書館所蔵 国宝鈴鹿本『今昔物語集』〔卷29, p. 63-64〕羅城門登上層見死人盗人語第十八の画像部分
 
10、国語演習Uそして卒業研究
 
 通常の講義授業とは異なり、少数の国語演習Tや国文学演習Tを受講してきた学生を対象に、演習形式で執り行うものである。
 学生と私が研究して止まない古辞書の世界を旅することからスタートした。昨年、学部編入したゼミ生の発表報告書の内容が学界に広く知らしめるに値する優れたものであると判断した私は、2001年11月、国語学会中国四国支部大会(広島大学文学部於)で彼女と共同口頭研究発表を実践した。その資料を会場の諸先生方からご教示を受けたまわり、さらに補訂を加えたものを今年三月の駒澤短期大学紀要に掲載してその全貌を公開したのである。
 これは、まさにDBからの作成であった。DBからの検索をするに尤も適した研究領域としては典拠研究が挙げられる。中世鎌倉時代成立の古辞書『塵袋』印融上人書写本(東京国立博物館藏)をテキストとし、既に学界で示されている典拠研究を標(しるべ)にその研究成果を実際にデータ検索してみたのである。
 それを手がかりに中国の典拠作品中最も多く引用が見られた『文選』及び『文選注』を写本・宋版などに直接当たって確認していく地道な作業がなされた。この結果、宋版『文選』がこの典拠資料として見事に浮かび上がってきたのであった。その時の喜びは研究成果への道に繋がっていくのである。これをDBから次に原稿文字資料へと置換して行く作業がなされた。このとき、国文・歴史科の研究者にこよなく愛好されているワードプロッセサー・ソフト「一太郎Ver11」がその最大な難関である漢字左右訓・返り点・[割注]などの書き込み入力に適応していることから、これらの条件をクリアできるものとして私はこれを選択して彼女と作業にかかったのである。その時の一部データは、私のHP「テキストデータ((3)漢籍資料10,和刻本『文選』〔序・姓氏他〕→猪瀬亜希子さん入力)」にして公開しているので参照されたい。
 
 
『塵袋』東京国立博物館藏内表紙及卷中本文
 
 そして彼女は、現在日本の典拠用例の最大数を誇っている『日本書紀』へ着手し、本年度の学部卒業論文作成へと日夜努力をはじめていることをここに報告しておきたい。
 また、本年はこの古辞書から離れるように見えるのだが、決して隔たらぬ系統性のあるものであることを認識したうえで、『平家物語絵巻』と『平家物語』を演習題目に取り上げて目下着手し始めている。今までには考察がなかった世界をこの絵巻を通じて、繪師の物語文章の洞察力を高く評価し、そこから新たな『平家物語』を発見していく試みを始めている。
 
11、まとめ、
 
 已上、私の日々取り組んできている講義の概要を皆さんに御覧戴いてきた。ここでもうお気づきであろうことだが、どの講義そして演習科目であっても、私は常にWeb上でその内容を執り行ってきたのである。時には、非常勤講師の方の代講を成すときもあって、従来の普通教場で講義をすることもある。緑板に板書するのが嫌いでもないからだ。だが、情報機器をふんだんに縦横自在に連動させ、私の伝えようとする全てを画像・音声・文字媒体を瞬時に第三者である学生に見せ、この内容がどういうものに位置付けられているのかを説明し、このWeb資料を活かし、多くの学生にその学びの普遍性と広がりとを知ってもらうことで、次なる未来型の発想転換がなされていくことを切に願うからに他ならない。こうした電子媒体が発達することで、紙の媒体が滅びるということは決してありえないと私は考えている。むしろ、ここから紙の媒体物への回帰が可能となっていると考えるからだ。その一つの好事例を紹介しておこう。
 奈良女子大学の「伊勢物語の世界」に、大正6(1917)年5月、東京有楽町の阿蘭陀書房から刊行されたの吉井 勇作・竹久夢二絵の『新譯絵入伊勢物語』という電子図書が公開されている。
 
 
 
 
 
 
 
 この本の大いなる特徴は、まず一に内容全てを漢字ルビ付きで正確に読むことができること。二に文字の大きさを読者が自在に変更して読むことができること(PC機器による操作性)。三に本文中の挿絵の配置が優れていることに尽きる。
 とりわけ、最後に掲げた挿絵だが、表の挿絵の構図とその美しさはさることながら、裏頁の空白が鏡絵のようにして視覚残像を伴って次なる文脈を読み進めていく道しるべの役割を果していることにお気づきになるであろう。このようにして読むことができる紙の媒体である書物は、電子図書をもって広く広く、多くの方々に見る機会を提供しているのである。この素晴らしさなのだ。現代の挿絵にはこのような殘映像技法による読み物には、なかなかお目にかからなくなってきていることもその理由にあるからだ。これを実物で手にとって読みたいという衝動にかられるとしたら、このWeb上での公開は、この書物の複刻にも大いに左右して行くのではなかろうかと某出版者の営業の方に最近申し上げたことがある。その実現は期待しないが、何か夢の広がる世界がここにはあるという布石にはなるまいか?みなさんは如何な見解をお持ちになられたであろうか……。
 
授業風景

 
 
 
 
 
 
 
国語演習Tのメンバーと講義風景

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実用表現法の講義風景
 
[掲示板に寄せられた学生からのメッセージ]
国語演習T 投稿者:奥山美穂  投稿日: 6月 3日(月)15時04分26秒
レポート作るの大変でした。でも作ってて楽しかったです(^−^)
作る期間が短くて、できればもっと時間がほしかったです。初めてこういうのを作ったので試行錯誤しながらやりました。先生の感想とか聞けたらうれしいです。またこういうのを作っていくのでしょうか?もっとパソコンの技術とか覚えたいです。辞書の違いとかも知ることができて楽しかったです。大言海はすごく古いけど、ちゃんと辞書になっててすごいと思いました。でも今の辞書と内容がちょっと違っていて、辞書が進化しているのだと思いました。
 
国語演習T 投稿者:八木沢彩  投稿日: 6月 3日(月)13時48分17秒
何だか早過ぎてついていけない時もあるのですが、アヤメと花菖蒲について調べて、自分なりにまとめる作業は、とても楽しかったです。ただ、パソコンを使い慣れていないので、写真の貼り付けなどうまくできなかったので、下手なレポートになってしまったのですが、大丈夫でしょうか?
 
国語史 投稿者:竹村未央  投稿日: 5月29日(水)12時10分00秒
今日は音楽流しませんでしたんね。またお蕎麦屋さんみたいな曲聴きたいです。伊勢物語も以前少しやったことがあるので筒井筒は知ってました。絵のついた本もすごくきれいに残っているんですね。かきつばたの歌は中古文学史の授業でやりました。かきつばたとかあやめってすごくきれいですね。
 
(無題) 投稿者:福田淑恵  投稿日: 5月29日(水)12時07分38秒
和歌にあまり興味がなかったのですが、演習の授業で古今和歌集をやり始め和歌の面白みが少しはわかってきたので伊勢物語の業平の歌も見てみたら良いかもしれないなと思いました。資料もけっこうあるようなので家でも見ようかと思います。
 
国語史 投稿者:早川紫野  投稿日: 5月29日(水)11時52分47秒
原寸大の伊勢物語を見て、わりと小さいと感じました。今まで結構大きいものだと思っていたので驚きました。また色々な書物の原寸大の画像を是非見てみたいです。
 
実用表現法 投稿者:笠江理香  投稿日: 5月24日(金)17時51分42秒
自宅のパソコンはMOが入らないので今学校でこの前の授業の課題をやっていました。やっぱり増設するべきかなぁ・・・。パソコン初心者なので授業についていくのがなかなか大変だけど、毎回楽しく授業を受けています。
20日の授業で二者択一と模糊曖昧についてやりましたよね。他の授業のときに留学生の人が日本人は意見をはっきり言わないと言っていました。確かにはっきりすることは大事だけど、相手の気持ちや自分の立場を考えてはっきり言わないことも大事ですよね。二者択一=デジタル、模糊曖昧=アナログには『なるほど!』と思いました。
タイタニックの話で日本人には『みんな飛び込んでますよ。』と言えばいいというのを聞いて、確かに日本人は周りの人と同じであることに対して安心感を持っているなぁと感じました。人と違うことをすることに恐怖感のようなものすら持っている気がします。欧米人のようにもっと感性豊かになるべき!?
5月20日 投稿者:飯尾直子  投稿日: 5月20日(月)15時53分47秒
「曖昧」とか「デジタル」とか改めて考えてみると、現代の生活の中に無くてはならないものだなぁと思いました。タイタニックを例にとった「緊急な状況下における言葉表現」はとても興味深かったです。それぞれの国の人に合わせた説得の仕方から国特有の価値観などが伺えました。日本人に対する「皆が飛び込んでますよ」の台詞は、ブラックジョークで流せないところがありますね。
自分が弱ってるとき、「皆がやってる」って言葉には思わずふらりときてしまいます。曖昧にしておけば楽な部分っていっぱいあるから、そこに頼ってしまうときがあります。いけないいけない。
 
(無題) 投稿者:土橋麻里  投稿日: 5月20日(月)15時07分54秒
先生はいつめざましテレビに出てるんですか・・・・・・???
一度は見てみたいです!!!

*1室町時代の「楚割」の語を正しく継承するものとしては、『大言海』が引用する『撮壤集』の他に十卷本『伊呂波字類抄』がある。
*2山下 浩著『本文の生態学』漱石・鴎外・芥川〔日本エディタスクール出版部1993年刊〕の序章「本文は生きている」を参照。