弁慶物語 竜吟ずれば、雲起こる。 鶴の及ぶところにはあらず。 虎うそむけば、風騒ぐ。 虹引の能ふところにあらず。 電光朝露、石の火の世の中なれば、災ひ、不思議の出できたる事多しともへども、西塔の武蔵坊弁慶が少しも居たるところに、諍ひの起こらぬ事のなきこそ不思議なれ。 そも/\、この武蔵坊と申すは熊野の別当弁心が子なり。 此弁心、いかなる前世の宿執やらん、五十の陰に入まで、男子にても女子にても、子といふもの一人もなし。 女房もこれを嘆き、あるとき二人ながら、若一王子に七日参籠申給ひて、申子をし給ふ。 七日の満じける夜の夢に、鳶の羽を賜ると御覧じてより後、懐妊し給ふ。 常の人は九月十月を限りとするに、この人は十月尼廿月過ぎ、三年にてぞ生まれける。 姿を見れば、世に超えて恐ろしく、常の人の三歳ばかりにぞありける。 髪は首まで生い下がり、目は猫の目に異ならず。 歯は生いそろひ、足手の筋さし表われ、伏したりけるが起き上がり、東西をきつと見て、『あら明かや』と言ひて、から/\とぞ笑ひける。 弁心この由御覧じて、『能はぬ子を申によりて、鬼子を賜びける事の心憂さよ』とて、腰の刀を抜き、既に害せんとせられければ、母の慈悲の憐れさは、弁心の袖にすがりて、『しばらく物を申さん、聞こし召せ。老子といふ人は七十年が間胎内に居て、鬢髭白くなりて生まれたると承る。いはんや、三年が間の春秋を送りしことなれば、髪長くして、物を言ふこそ理なれ。六趣生のそのうちに、いかなる業人が我らが子と生まれ、三年がほど胎内にあり、暗きところを出で、たま/\明かきところに出でて、月日の影を拝み奉らんとするに、幾程もなくして剣の先にかけ、修羅道に落とさん事こそ悲しけれ。いかなれば、無き時は祈誓申、たま/\有る時は害すべきぞや。神明の御はからいなれば、様あるべしと覚ゆる。又、若一王子より賜りたる子なれば、心に能はずは、運にまかせて、この山の奥にも棄てをき、善悪は神慮にまかせ奉り給へかし』と嘆きくどき給へば、弁心さすが恩愛の悲しびを思ひて、『さらば、ともかくも』とて乳房をだにも与えず、深山に棄て給ひけり。 七日と申せしに、『無慙やな。今ははや孤狼野干にも食はれてぞあるらん。もし又死骸も残りたらば取り集め、考養せよ』とて、人を遣はされければ、死なん事はゆめ/\なくして、木の実を拾ひて服し、制する人もなかりければ、思ひのまゝに遊び狂いkぇるところに、使ひの来たりたるを見て、『をのれは迎ひに来たれるか。連れて行け』とて追つかけたり。 かやうに言ふ声、耳に応へて恐ろしく、やう/\にして逃げのび、弁心の前にて大息をつき、汗を流し、物をさへ申さざりければ、『いかに/\』と尋ねられて申しけるは、『あら、心憂や。この山に鬼一人あり。我を見て追ひつるを、やう/\逃げのびて候。まさしく以前の幼ひ人にてまし/\けり』と申せば、その時、弁心はけしからずに思し召し、『以前害すべきものを』と後悔せられけれども、かひぞなき。 女房は浅ましくや思ひけん、伏し沈みてぞゐ給ふ。 その後、恐れ『行かん』と申人もなし。 誠に、若一王子の御氏なれば、孤狼野干も守護しけるか、人跡絶えたる山に三七日の日数を送りけれども、相違もなく、今さらいにしへ因位の事までを思ひだされて哀れなり。 その頃、都に五条の大納言と申人おはしける。 これも一人の子のなき事を悲しみ、後生菩提をも問はれんがために、若一王子に参り申子をし給ふうに、七日と申に示現ありけるは、『氏子を一日我が山に棄てて置きたり。拾ひて教育せば、今生の事は知らず、後生は必ず助かるべし』と夢想の告げあり。 夢うち醒め、急ぎ立ち出て、深山に入尋ねければ、幼ひ者に行き会ひけり。 大きに喜び、抱き、都に上り、見目容顔は世に超え悪しけれども、王子より賜りたる子なればとて、若一殿と名を名付け給ひけり。 成人するに従ひて、器量骨柄、心際健気さふにこそ見えたりけれ。 七歳と申せし春の頃より、比叡山西塔の伯棄の堅者慶俊とてあり、彼の坊へ上せたりければ、書くにも読むにも暗いからず、詩歌管絃、酒宴乱舞にも暗からず候ひけるが、たじし持ち扱ひたる事待りけり。  ひめむすに学問をし、夕暮にもなりぬれば、庭の白州に躍り出で、直垂の袖を結んで肩を越し、袴のそばを取り、飛び越え跳ね超え、早業、力持ち、弓矢は常の遊びなり。  木長刀を作り、誰を敵となけれども取りかゝりては武芸の道をたしなみ、あの稚児この稚児に寄せ合はせ、諍ひばかりを好みけり。  心に祟りは知りながら、人の心を見んために、あらけなき気色して、他坊の稚児、御童子、修学者たち、老僧下僧にいたるまで、つぶりを張りて廻れば、若一殿なかゝり、傷をつかぬはなかりけり。  さても、ただ一旦の事をこそ、五条の大納言、伯窺の堅者にも免じけれ。  ある時、一山の衆徒一同して慶俊に訴訟するやうは、『当山は一稚児二山王とて賞翫申さむに、学問をも御心に入られ、仏の救命をも継ぎ給はんこそめでたかるべきに、その儀はさらななくして、やゝすれば、人を打の企ては当山の掟をそむかせ給ふ事、しかるべからず。その上、学衆たちもこらえがたし。一人の稚児ゆへに多くの衆徒を失はるべきか。いかにも計らひ給へ。さもなくは、伯窺の堅者までもかなひ候まじ』と訴へければ、慶俊『まつとも御道理かな』とて、若一殿に向かひのたまひけるは、『現世当来までも頼み申さばやとこそ思ひしかども、あまりに左道にましませば、一山の訴訟なり、力及ばず。しばらくは傍らにおはしまし、世のありさまを御覧ぜられよ』との給ひければ、若一殿は聞き給ひ、やがて山を出でんとし給しが、心のうちに思ふやうは、遠国よりだにも当山に上り、髪を下ろしてをくぞかし。  いはんや,我この山に年月を送り、いかで童のかたちにては出づべきこそと思ひし間、法師になりたくは思へども、あまりに人に憎まれて候へば、髪を剃らすべき人こそなかりけれ。  つくづく物を思ふに、天が下に恐ろしき人三人あり。  棄てられたりといへども、親にましませば熊野の別当、又、教育して給はり候五条の大納言、又、一天多少の御恩なれば、伯窺の堅者もおそろしく候。  その上に、髪を剃られたらば、出家の師匠とて今一人加へ待らんもむつかしゝ。  所詮、諸法は信を持つて師匠とす。  自ら髪を剃らんとて、結い分け、自剃りにこそしたりけれ。  同じくは、戒を保たんとて、戒壇さしてぞ登りける。  番衆の法師はこれを見て、『すはや、件の若一こそ当山を払はるゝが、法師になりて来たれるぞ。彼に寄せ合ひ、拳張られて何かせん。いざや、傍らに逃げん』とて、戸をはたと立てて逃げけり。  『若一こそ法師になり、受戒せんために来たりけれ。開けよ』と言へども、音もせず。  『憎きやつらがふるまひかな。いで、をのれらに物見せん』とて、大力のをこの物、思ひかゝれる事なれば、妻戸、格子は物の数ともせず、はらりと押し破り内に入りて見ければ、人一人もなし。  『さては、若一に恐れて逃げけるや』と独り言して、人も許さぬ戒壇を日中ばかりぞ巡りける。  仏の御前にて名を付かばやと思ひ、『我はこれよりもとより王孫の身なれば、氏も双なき物ぞかし。公卿坊とやならまし。殿上坊とや名告らまし。それも余りにこと/゛\しゝ。西塔の武蔵坊と名告るべし。さて、名告りをば何とか名ずかん。思ひ出だしたる事あり。父は熊野の別当弁心と名告り給ふ。その弁の字を取るべし。さて、師匠は伯窺の堅者慶俊と申給へば、その慶の字を取り名告らん』とて、武蔵坊弁慶とぞ名告りける。  『同じくは仏の御前にて戒を保たん。殺生、楡盗、邪淫、妄語、飲酒、この五戒をよく保つや否や』と言ひて、自ら答へて曰く、『殺生戒とは、物の命を殺さぬ戒めごさんなれ。何と思ふとも憎からずる物を殺さずしては、こらへまじければ、殺生戒をば保つまじ。楡盗戒と申は物を盗まぬ戒ごさんなれ。前生、慳貪の業により、今生の果報は定まれりといひながら、なをもつて渡世にかなはず。』  過去の罪にて懺悔して、仏神に祈るべし。  ただし、栄啓期が三楽には貧をもつて第一としけると見えたりければ、楡盗戒をば保つなり。  又、邪淫戒と申すば、女に近づかざる戒ごさんなれ。  かたじけなくも、此山にて髪を剃り、いかでか女に近づくべき。  邪淫戒をも保つなり。  妄語戒よ申すは、空言いはぬ戒ごさんなれ。  人を害するほどにては、空言をせずしてかなはぬ事もありつべし。   又、時として人を助けんとするにも、空言をもする習ひなり。  仏の仰せも心得がたければ、妄語戒をも保つまじ。  又、飲酒戒と申は酒を飲まざる戒めなり。  ただし、観念、観法をいたさん時、驚動の心を起こさじかための戒めなり。  人は知らずや、弁慶にをひては必ず飲酒によるべからず。  楡盗、邪淫は保つべし。  残りの三をば保つまじ。  忘れ給ふな、仏とて、問ふつ、答へつ独り言して、恭敬礼拝事終はり、戒壇を出て、十町ばかり行きければ、讃岐の注記俊海と申して、六十余りの老僧なりけるが、長絹の衣に精好の袈裟かけ、長刀杖につき、ある方へ行きけるに、武蔵坊行き向かひて、袖かき合わせ申やう、『これはかねて聞こし召しをよびつらん、当山にて名を流せるゑせものに若一と申せし物なるが、今は出家して西塔の武蔵坊弁慶と申候が、親にも師にも憎まれて、衣をさらに得ず。事を欠きて候。しかるべくは御坊の御衣を賜び候へ』と申す。  俊海、『思ひも寄らぬ事』と言ふ。  弁慶申やう、『そなたは思ひも寄らずとも、こなたは思ひ寄りたるなり』。  俊海聞き、『持ち扱ひたる事かな。我が坊へ御入候へ。着替への衣を奉らん』と言ひければ、弁慶申やう、『御坊にて賜び候はんも同じ事。ただこゝにて、その召したる衣を賜び候へ』と言ひければ、『これは思ひも寄らず』とて、脱がざりけり。  彼の弁慶、腰をかがめ膝をたはめ、袖かき合はせたるほどには、足駄履きたる俊海に三尺ばかりぞ高かりける。  俊海をはたと睨みて、『憎き御坊が言ふ事かな。釈尊因位の行体をば御坊は聞きこそ知つつらめ。』  薩田王子はいかなれば、飢ゑたる虎に身を与え、四尾大王と生まれては、我しゝむらを秤にかけ、鳩の命を助くと聞く。  かくありてこそ釈迦牢尼仏と現れ給ひたれ。  さほどの事こそなからめ、御坊ほどの大名が、衣の一つにさまでの費ゑはよもあらじ。 当山第一の悪稚児が法体の身となりて、仏法修行をたしなまば、進んでも衣の一つは与ふべきに、とかく申は曲者なり。  御坊が衣よりほかに衣がなきにてもあらず。  くれずとも、百重もあるべけれども、惜しむところが憎ければ、慳貪なるをもこらさむがために、いで、剥ぎて着んずる物をと思ひ、『わ御坊は衣や惜しき、命や惜しき』と言ふまゝに、長刀奪ひ取り、躍りかゝつて打たんとす。  かなはじとや思ひけん、『しばらく御待ち候へ。脱ぎて参らせ候はん』とて、震ひわな/\き衣を脱ぐ。  『下の小袖も脱ぎ候へ。その大口もはや脱げ』とて、帷子一つに剥ぎなして、我が身は白き小袖に長絹の衣、精好の袈裟、塗り足駄履きて、長刀杖に突き、『良く似合ひたるか、御坊』と問へば、『悪し』と言ひては悪しかりなんとて、『良くこそ似合ひて候へ。ことに若美相にて候』と申しければ、『さては、よくぞあるらん。かやうに誉められて候へば、身の面目と存ずるなり。』  さりながら、浅ましや、仏の御前にては、人の物を取らじとこそ戒は保ちにし、もしも仏の偽りとや思すらん。  ただしこれは盗むにはあらず。  乞ふたるにてこそあれ。  さりながら、代はりを参らせ候はんとて、稚児にて着たりし色々の小袖、大口、直垂を参らせ、これを着たまへ、御坊と言ふ。 俊海は、『此歳にて、いかざさやうの色の物をば着候べき』とのたまへば、『とかくの給ひ、着給はぬは、御坊の衣装を剥ぎたりと御腹だちか。さもなくは、着給へ』と責めければ、俊海はこゝにて着ぬ物ならば、武蔵坊がありさまは事を出ださんずと思し召し、心ならずに震ひ震ひ着て、余りに恥ずかしさに、傍らの道を行かんとすれば、わざとも来し道に追い出し、『さばかりの御老僧に御同宿なきは見苦しき御事かな。御供に参らん』とて、六十ばかりの老僧をさきに立て、後よりも武蔵坊は長刀を抜き、彼の俊海のつぶりの上をかなたこなたへひらめかせば、肝魂も身にそはず。  人はこれを見て、『俊海の御坊こそ二度稚児になりけれ』と、足手を叩き笑はれて、からがら坊へぞ帰りける。  弁慶申けるは、『衣賜びたる御心ざし、なにより御嬉しく存ずるなり。とても御坊は見置き申たり。衣損じて候はば、心を置かず何時も参りて衣を申べし。その時、とかくのたまひて、弁慶恨み給ふな』とて、都の方へぞ走りける。  心のうちに思ひけるは、とても叡山にてゑせものの名を取り、追ひ出ださるゝうへは、日本国を廻りて、諍ひ修行をいざやせん。  天が下に弁慶ほどの物なくは、唐土へ渡り、七御門のうちを回り、諍ひして見んずるに、もし武蔵ほどの者なくは、道心起こして果てぬべし。  又、我朝に弁慶ほどの者あらば、現世後生を深く契りてあるべし。  所詮、諍ひ修行をせんずるには、太刀、刀持たではかなふまじとや、都三条小鍛治が流れに、鍛治の上のありければ、彼の宿所に行き、『これは右大将殿の御使ひにて候。五尺八寸の大太刀、三尺三寸の打ち給へ。やがて、これは奉公なり』とて、責めつけてこそ打たせけれ。もとより弁慶は金をばよく見知りたり。  『少しの瑕をもよく鍛ひ治せ』とて、総じて弁慶は内典、外典に暗からずしてもとより口は効きたり。  真空言取り混ぜて、天筑、震旦、我朝の事、なぐり語りに聞き取られて、日数の過ぐるも覚えず、百日ばかりぞ過ごしける。  その間に太刀、刀は打ちたててこそ渡しけれ。  弁慶申しけるは、『いざ、させ給へ。御供して引出物申奉らん』とて、太刀も刀も人には持たせず、弁慶持ちて行きけるが、とある唐門に立ち寄り、『しばらく御待ち候へ。申入て、やがて引出物を参らせん』とて、門の内に入り、筑地を跳ね超へて失せにけり。  さるほどに、件の鍛治は今や/\と待ちけれども、誠ならねば来たりもせず。  その日も暮方になりしかば、内へこの由言ひけり。  『これは狂人か、盗人か、物が憑いて狂ふか』と咎められて、をめ/\とぞ帰りける鍛治が心ぞ、おかしき。弁慶は傍らに独り言して居たりける。  『太刀と刀は子細なし。ただし研ぎ金具なくしては見苦しかるべし。思ひ出だしたる事あり。五条の吉内左衛門がもとに行き、させべし』とて、彼の宿所に越えて、『これは小松殿よりの仰せなり。研ぎ金具の上手を選び仰せつけられ候。心を留めて、結構に仕り候へ。これにて奉行して、こしらへさせよとの仰せにて』と言ひければ、そのころ平家の仰せとあらんずること、少しも無沙汰してはかなふまじと、急ぎ結構こしらへて、今に始めぬ弁慶が好みのまゝに結構す。  太刀の目貫は竹に虎、刀の目貫は獅子に牡丹、覆林、切羽ことごとく心も及ばず作らせて、『いざ、させ給へ、延貞。小松殿に御供して、この程の御わづらひ御ほねおりの由を申上げ、引出物奉らん』とて連れて行きけり。  『御刀、御腰の物を人に持たせ候はん』と申せば、緩怠なげに『上の御刀を人に持たせて参りたらば、よかるべきか』と言ふほどに、強ひて申に及ばずして、後に付いて行きければ、弁慶言ひけるやうは、『あつぱれ金子や、よき金子、あつぱれ上手。上様の召しをかれぬ先に誰にかみせん。誠、思い出したり。我が傍輩に日本一の物好みの物あり。見せて、やがて帰らん』とて小路中に待たせて、走りよる風情にて、行き方知らずぞ失せにける。  延貞は、今や/\と日暮れまで待ちたるが、あまりに遅くなりしかば、小松殿へ申しけるに、『思ひ寄らず』とありしかば、『結句なむ、恥にや会はんずらむ』とからがら逃げてぞ帰りける。  弁慶心に思ひけるは、太刀と刀はこしらへたれども、具足なくてはいかがせん。  思ひだしたる事ありとて、七条に三老左衛門吉次とて、腹巻細工のありけるに、行きて申やうは、『源氏兵庫頭頼政よりの御使ひなり。』  『出仕の時、直垂の下に召されん御ためなり。黒糸威の腹巻、左右の小手、脛当まで急ぎこしらへ賜び候へと、わざとそれがしを奉行に遣されたり』と礼ごしらへより始めて、思ひのまゝに威させて、雲に竜の左右の小手、白檀磨きの脛当てまでも光るばかりにこしらへたり。  弁慶申やうは、かやうにこしらへ給へども、重くも軽くもあるならば、我らも面目失ふべし。  頼みたる人の具足の重さ、大概覚えて候へば、まづ着てみ候はんとて、小手、脛当てをさし固め、腹巻取つて投げかけ、高紐、上帯むずと絞め、五尺余りの大太刀佩き、三尺三寸の打刀、まづ十文字に差死なし、五寸五分の鎧通しを馬手の脇に差すまゝに、件の大太刀すはと抜き、鞠の懸かりに躍り出て、今少しこの具足重きやうに覚ゆるなり。  重き具足を召したらば、いかで早業はせられまし。  まづ、それがし走りてみんとて、ひらかけ履きながら、八尺築地を躍り越え、天を駆けるか、地を潜るかと、ただ走りつゝ行方知らず、うち失せぬ。  腹巻細工は夜更くる夢の心地して、『あはや/\』と言ひけれども、そのかひなく、あきれはててぞいたりける。  さるほどに、武蔵坊は心を変へて思ふやう、浅ましや、仏の御前にて保ちたる楡盗戒を破りつる事よ。  げにや、聞けば渡辺の源馬之丞といふは、京、田舎に隠れもなき有徳の人と聞く。  これへ行きいて宝を乞ひ、三人の者どもが引出物に与へんと思ひて、武蔵坊は件の腹巻に左右の小手差し、脛当をし、長刀、杖に突き、馬之丞が館に入りみれば、四方に大濠掘らせ、櫓を上げ、乱佼、逆茂木を引き、自然の時、取り合はすべきと覚えて、物の具ひしと置ひたりけり。  されども、武蔵は人を人とも思はねば、庭の白州をしづ/\と歩み、広縁の際に近付き見れば、行春は綾紫に朽葉を重ねて、精好の大口に黄金作りの刀差し、自然の用と思しくて、槍長刀を立て並べ、今も酒宴のあげくとうち見えて、種々の肴に瓶子添へ、双六打ちてありけるに、武蔵坊申けるは、これは春より熊野へ参る修行僧なり。  糧米に尽きて候。  蔵を一つ賜び候へと言う。  行春これを聞き、腹を立て『こはいかに修行者といふ物は道心はなけれども、衣を着、袈裟を懸けて、飢へに臨みたる時は、飲酒を乞ふは習ひなり。さまでの事こそなくとも、物の具こそなくとも、物の具をし、蔵を乞ふは、いかさま夜打、強盗の類かや。若者どもはなきか。縛れ括れ』  と言ひければ、武蔵坊は聞き、『不思議の事を言ふ物かな。衣裳にものを与ふるか。何をも着よかし。それをいろひて何かせん。くずれは、くれぬまで。何を盗み奪い取り、夜討強盗のしるしとは見えたるぞ。をのれらに物見せん』と、広縁に踊り出で、打物抜きてかゝりければ、言葉にも似ずして、内を指してぞ逃げたりける。  太りせめたる男にて、逃ぐるとすれど追ひつめられ、殺さんは罪深しとや思ひけん。  太刀の切先を首のほとりに押し当てて、『何と申ぞ、とく申せ』と言ひければ、『何とも申さず候』と言ふ。  若党どもはこれを見て、『いかさま天狗の来たるか。又は堅牢地神の御仕業か。近く寄りて過ちすな』と近づき寄れる物ぞなき。   行春が女房は迎へて三日になりけるが、余りに悲しさに人目の事も思はず走り出でて、武蔵が袂にすがりつきて、『いかに客僧、下衆徳人のくせとして、人をも見知り申さず、物あらゝかに申けるをば、わらはに許し給へ』とて、ひたすらに武蔵に詫びたりけり。  その間に、馬之丞は内へ逃げて、戸を立て、震ひてぞいたりける。  女房行きて、『いかに御手負ひてやましますらん』と言へば、行春迎ひていまだ三日になる事なれば、恥づかしくや思ひけん、『これまで来たるを逃げたるなんどとな思ひ給ひそ。待のひつ違へ死なんことは、いと易けれど、我御前をいま一度見てこそ、とにもかくにもなるべけれと思いて、これまでは来たりたり。ただし、この法師の太刀の切先が背中に当たると覚えしつるは、斬られたるか、斬られぬか』と言はんに、余りにてあはてて言ふほどに、『御坊が太刀の切先が背中に当たると覚えしは、背中は後になりたるか』と申しける。  これを聞きて、傍らにて笑ふ者は多かりけり。  さるほどに、武蔵坊は内まで込み入り、物に腰を掛け、扇抜き持ち、草硯をとう/\と拍子に打ち、今様一ぞ歌ひたる。  『思へば、此世はほどもなし、栄華は皆これ春の夢、草葉の上に置く露の風待つほどの命なり。かゝる憂世に住みながら何とて宝をおしむらん』と歌ひければ、女房この由を聞きて、『仰せのごとく、我ら前世の宿縁にて、今生有徳の身となりて候へども、さるべき善知識もましまさねば、教化を濠ることみなし。有為転変の憂世の中とは知りながら、有為の宝に閉ぢられて、供仏施僧の営みさらになし。利益方便のために、仏の御計らひにて、忍辱の衣の上に甲異を帯し、愚痴なる我らを勧めんと、影向し給へりと覚えたり。宝は御用に候はんほど承り候へ』と申す。  武蔵、この由を聞き、『あゝ女房は殿には似ずして、良き善人にてましますや。それほどまでは候はずとも、少しの見継ぎにあづかり候へ。同じくは蔵の内を見参らせて、その分量をもつてさし申べし』とて、武蔵は蔵へぞ入にける。  女房を先に立てて、いずれも蔵の戸を開き、数の宝を見せければ、米銭の事は及ばず、物の具、絹布の類、そのほか唐土、天筑の宝の数を尽くしけり。  沈の骨、麝香の臍、金襴緞子、絵賛の物、ありとあらゆる宝の物、残るところはなかりけり。  されども、『宝欲しからず。染物を三十人に持たせて賜べ』と言ひければ、『易きあいだの事なり』とて、人夫を揃へて持たせけり。 武蔵、こを受け取り、『御心ざしほど申尽くしくがたふ喜び入て候なり。心置かず、何時もまたこそ申候はんづれ』とて、三十人の人夫を召し具し、京へ帰りて、十人は金細工に取らせ、十人は鍛冶屋、十人は具足細工に与へて、『みな/\以前の賃也』と言ひければ、三人の者共は思ひのほかに宝を儲け、喜ぶ事限りなし。  その後、武蔵殿、熊野へ参りける道にて、講堂にうち上がり、一夜を送りしに、夜半ばかりに、うち驚き、希代の事ぞ聞きたりける。強盗どもが集まり、御堂の内に充満して酒飯をこそ用ひけれ。  大将と思しき者、進み出でて、申っけるは、『方々は何と思ふぞ。今夜は初歩き也。させる所へ入ても、無益の事なうべし。重ねて良き日を選び、人を催し、しかるべからん所討つべし。何時がしかるべからん』  と言ひければある者の言ひけるは、『誰々と申とも、渡辺の源馬之丞ほど有徳の仁はよもあらじ。彼らがもとへ』と言ひければ、人々これに同心し、『今日より三日と申さんずる午の刻に』と定めて、方々ゑぞ散りにける。  弁慶は堂の下座にて、この事を聞きすまし、『あつぱれ、この源馬之丞は大果報者かな。多くの宝を得させつるに、こゝにて恩を報ぜん』と思ひ定めて、弁慶は熊野詣でを引き替へて、渡辺ゑこそ急ぎける。  源馬之丞は武蔵を見て、肝魂も身に添はず、震ひ/\内へ入て、女房に言ふやうは、『心憂や。又例の鬼坊こそ、これまし/\て候へ。いかがはせん』  と言ひければ、女房聞きて、『不覚なりとよ、源馬殿、かやうに猛き人には良くだに当たり、従へば、かへつて身方となるものを。心得給へ』と言ひければ、『もつとも』と申て、いかにも尋常に飯をこしらへて、武蔵坊に進めける。  武蔵、大きに喜んで、思ひのままに食して、もとより大酒の事なれば、差し受け/\心にまかせて飲ふだりける。  その後、手水うがひして、持仏堂に入らせ給ひ、法華経を読需し給ふ。  声明の尊さは中々申はかりもなし。  聴聞随喜する人も『鬼坊』とは言はずして、尊む事は限りなし。  ありし午の刻にもなりしかば、世間ひしめき渡り、『何事やらん』と問はすれば、『四方に武者どもが満々として、いかさまにこれへ寄すかと存じ候』と言ひければ、女房、武蔵が前に来たり、『まつぴら御坊を頼み奉る』由申。  弁慶聞いて、『心得申て候。それがにし御まかせあれ』とありしかば、大に喜びて、四方の櫓へは若党を上げて、いまや遅しと待ち受けたり。  いく程なふして、押し寄せ、関をどつと上げて、はや矢合をぞしたりける。  行き違ふ矢は暇もなし。  互ひにおめき叫んで戦ふ事、なか/\言葉にも尽くしがたし。  しかりと言へ共、弁慶は波の立つとも風の吹くとも思はず。  さらぬ体にて、法華経の八の巻にさしかゝり、時移るほどこそ読まれけれ。  『一乗の妙文は一掲一句、一念随喜の結縁だにも五波羅蜜の経にも超ゆ。ましては一掲読々は、皆々成等正覚、頓証菩提』と回向して、数珠さら/\と押師揉んでうち潜みたる、その気色、殊のほかにぞ見えにけり。  その後、弁慶四方の櫓へ言ふやうは、『人を出だして、少々は物の具どもを脱ぎ棄てさせ、門より内へ逃げさせけり。』寄せ手の勢はこれを見て、『内は馬場にてあるぞ。ただ参れ/\』と言ふままに、大庭指して乱れ入。  武蔵がその日の装束には、掲の鎧直垂に、黒糸威の腹巻を綿噛取つて投げかけ、揺つて、上帯ちやうど締め、雲に鶴の左右の子手、白檀磨きの脛当、五尺余りの太刀を佩き、一尺六寸の打刀、九寸五分の鎧通し、馬手の脇にぞ差いたりける。  三間木のありけるを脇にかいこうで、大庭指して躍り出で、将棋倒しをするごとく、皆ことごとく打ち伏する。  その時に、若党どもこゝかしこより出で会ひて、散々にこそ叩きける。  小門より入る勢を、これも後より門を閉す。  一人も洩らさずして、思ひのまゝにぞ叩きける。  既にはや三間木も打ち砕きとも、具足に疵付けじとして、走り帰つて、金剛杖をおつ取つて、頭と裾をぞなひだりけり。源馬之丞はこれを見て、『あら、尊の御事や。鬼坊にてはおはさずして、仏御坊にてましますぞや』と、夫婦の者はもろともに手を合わせてぞ拝みける。  軍散じて、その後に、死人を一所に取り集めければ、以上百二十七人也。  太刀、刀を取り集め、杜のごとくに積み重ね、馬之丞に与へ、『これ/\見給へ人。過ぎにし頃の染物の御銭に、これを参らせ候べし』  と言ひければ、馬之丞は喜び、女房に向かひ言ふやうは、我御前が計らひなかりせば、この御坊にも近づかじ。  この御坊に近づかずは、この度の夜盗には皆財宝を取られなんず。  財宝ばかりにてはよもあらじ。  二人が命も危うし。  日頃は鬼御坊と思ひしが、いまは行春がためには福御坊にてましますや。  今より後、いづくへも御入りなく、このところにおはしませ、と留めけれども、留まもせず。  さて、行春は都に上り、小松殿へ申けるは、『余りに国に悪党多く候て、よろづに乱れがはしく候ほどに、多くの悪党を滅ぼして候』由申上げれば、『神妙に仕りたり』とて、御感にあづかり、その上に勧賞にあづかりしかば、『めでたし』とて、我が家に帰る。  『これも御坊の故に、名を上げたり』と、のゝめりけり。                             弁慶物語 完 2001.03.08.更新  室町物語集 下巻 『弁慶物語』  東京:岩波書店 1989.7−1992.4『新日本古典文学大系・佐竹明広ほか』  著者標目:市古、貞次【1991−】イチコ、テイジ 佐竹、明広【1927−】サタケ、アキヒロ  分類:NDC8:918;NDC8:910.8;NDC8;913.4;NDLC:KG172  件名 物語文学 を参照した。 入力:市来由希子  監修:萩原 義雄