『大言海』[p4]

本書編纂に当りて

文学博士 大槻文彦

 初、編集の体例は、簡約なるを旨として、収むべき言語の區息、または、解釋の省略などは、およそ、米國の「エブスター」氏の英語辭書中の「オクタボ」という節略体のものに倣ふべしとなり。おもへらく、「オクタボ」の注釋を翻訳して、語ごとに埋めゆかむに、この業難からずとおもへり。これより、従來の辭書体の書、數部をあつめて、字母の順序をもて、まづ古今雅俗の普通語とおもふかぎりを採取分類して、解釋のありつるは併せて取りて、その外、東西西洋おなじ物事の解は、英辭書の注を訳してさしいれたり。かくすることに數年にして、通編を終へて、さて初にかへりて、各語を逐いて見もてば行けば、注のなれるは夙く成りて、成らぬは成らず、語のみしるしつけて、その下は空白となりて、老人の歯のぬけたらむやうなる所、一葉ごとに五十七語あり、古語古事物の意の解きがたきもの、動植物の英辭書の注釋に據りたりしもの、仔細に考へわくれば、物は同じけれども、形状色澤の、東西の風土によりて異なるもの、其他、雑草、稚魚、小禽、魚介、さては、俗間通用の病名などにいたりては、支那にもなく、西洋にもなく、邦書にも徴すべきなきが多し。かく、一葉ごとに、五十七語づつ注の空白となれるもの、これぞ此れ編集業の盤根錯節とはなりぬる。筆執りて机に臨めども、いたずらに望洋の歎をおこすのみ。言葉の海のただなかに櫂緒絶えて、いづこをはかとさだめかね、ただ、その遠く廣く深きにあきれて、おのがまなびの淺きを恥ぢ責むるのみなりき。さるにても、興せる業は忌むべきにあらず、王父の遺誡はここなりと、更に気力を奮いおこして、及ぶべきかぎり引用の書をあつめ、また有職に問ひ、書に就き、人に就き、ここに求め、かしこに質して、おほかたにも解釋し、旁、又、別に一業を興して、數十部の語学書をあつめ、和洋を参照折衷して、新にみづから文典を編み成して、終にその規定によりて語法を定めぬ。この間に年月を徒費せしこと、實に想像の外にて、およそ本書編成の年月は、この盤根錯節のために、つひやせること過半なりき。

 解釋をあなぐる事につきて、そのひとつふたつを言はむ。某語あり、語原つまびらかならず、外國語ならむの疑ひあり。或人、偶然に、「そは何人か、西班牙語ならむといへることあり。」といふ。さらばとて西英對譯辭書をもとむれど得ず。「何某ならば西班牙語を知らむ、」「君、その人を識らば添書を賜へ、」とて、やがて得て、その人を訪ふ。不在なり、ふたたび訪ひて遇へり。「おのれは深く知らず」さらば、君が識れるに、西語に通ぜる人や[p5]あらむ」、「某学校にその國の辭書を蔵せりとおぼゆ」、「さらば添書を賜へ、」とて、さらに、その学校にゆきて、遂にその語原を知ることを得たりき。捕吏の、盗人を蹤跡する詞に、「足がつく」、「足をつける、」といふことあり。語釋の穿鑿もこれに相似たりと、ひとり笑へる事ありき。その外、酒宴談笑、歌吹のあひだにも、ゆくりなき人のことばの、ふと耳にとまりて、はたと膝打ち、さなりさなりと覚りて、手帳にかいつけなどして、人のあやしみをうけ、又、汽車の中にて田舎人をとらへ、その地方の方言を問ひつめて、はては、うるさく思はれつることなど、およそ、かかるをこなる事もゑばゑばありき。すべて解釋の成れる後より見れば、何の事もなきようにみゆるも、多少の苦心を籠めつる多かり。

余は、日に夜に語原を研究してあり、この事、苦心中の苦心なれば、語原の研究に就きては、更に、若干條を述べむ。

一語に数義あるものは、その最も古き意義を、語原とすべきは勿論なるが、その語に、古義あるに心づかず、轉轉したる意義につきて考ふることあるを、最も恐るる所とす。又その数異義の転じたるは、如何なる理由に因るか、その遷れる経路を示さずはあるべからず。是れ亦苦しむ所なり。

爰に「ばさら」と云ふ語あり。その出典を集めたるに、数異義ありて、先ず古きに、二義あり、その語原と認むるは、跋折羅、梵語にて、金剛石のことなり、その二は、獨鈷、五鈷を跋折羅といふ。

翻訳名義集に「金剛石、梵語、跋折羅。」傅教大師将來目録に「五鈷、跋折羅、一口。」 倭名抄、十三の二丁、僧坊具、「三鈷、大日経疏云、獨鈷、三鈷、五鈷、跋折羅、千手経曰、若為降伏一切大魔神者、当於跋折羅手」無常経云、金剛智杵碎邪山、永断無始相纏縛。」

鈷とは真言にて、行を修する時用ゐる金属製の具にて、大き、手に握るばかりのもの、首尾、鋒の形を成し、一鋒なるを獨鈷と云ひ、三鋒なるを三鈷、五鋒なるを五鈷と云ふ。

然るに、南北朝の頃、足利氏の将士の衣服、飲食、遊興に過差の奢侈を従にするに、「ばさら」と云ふ語あり。江戸時代に及びては、放逸無類なるを「ばさら」と云へり。この語、前の、金剛石、獨鈷の跋折羅と同語なるか、さるにても余りに、至硬と至軟との差あり。或は後なるは文選の註に、「婆裟、放逸貌」とある婆裟なりと云ふ説もあれど、「ら」を如何にせんかと、案じ煩ふこと久かりしき。

建武式目「近日號婆佐羅専好過差、云云、風流服飾無不驚目。」

 

[p6]

太平記、二十四、天龍寺建立事「そぞろなるばさらに耽りて、身には五色をかざり、食には八珍を尽し、茶の曾、酒宴若干の費を入れ、傾城田楽に無量の財を輿へしかば、云々。」

写本洞房語園(享保)「萬治寛文の頃、町町に六法男達といふ者徘徊して、云々、吉原に入込み、抜折羅狼籍の事共、度々に及ぶ。」天和笑委記、六「ばさらを好む伊達女。」

 

然るに平安朝の頃、雅楽舞楽に笛を吹く調子、舞を舞う手振に、本法の外に出でて、味あるやうに吹き、又舞ふ事を「ばさら」と云ふと云ふ事を見出したり。

 

續教訓抄(文永)、十一に、友正が笛を白河院、聞こしめし、褒めたまひて、「下藤の笛ともなく、ばさらありて仕るものかな。」體源抄(大栄)九、舞の事、「萬人蜀目見之、不美何の興かあらむや、ばさらあり、しなあり、振舞はむとすれば、拍子を違へ、又拍子を不乖とすれば、ばさらなし、云云、此兩事を兼ねて、めでたく見むこと、云云、誠にありがたきなり。」

 

右の笛、舞の「ばさら」を、中間に入れて解せられたり。

 

第一、金剛石は至って堅きもの。

第二、獨鈷石のなに移りたるは、堅きを以って、如何なる煩悩をも碎き、天魔をも打ちすえて降伏せしむる意。

第三、舞笛の名に移りたるは、本法を破りて、以外の技をすること。

第四、常軌を逸して、過差なる奢侈に耽ること。

第五、又転じて放縦無頼なる振舞すること。

 

此のごとく、語の時代転義を次第して、始めて、第五の語原は第四として、第四の語原は第三、次第に溯りて根本語原の金剛石となり、至硬より至軟に四転して、意義變遷の徑路、整然分明なるを得たり。至堅を語原とし、転転して終に「ばさら」を好む伊達女など、お転婆娘の意となり、又「ばさける」などいふ語を生ずるに至る。語義の變遷、奇なり妙なりといふべし。植物名、動物名の語原を究むるなどには、先ずその物の野生にあるか、無きかを考え、野生にあらば本邦固有のもの、無くば外來のものとし、又、その物の名の何時頃の書に、始めて見えたるかを思はずはあるべからず。これを研究の標準とす。然して、外國より入れたるは、薬用の必要とせしものなることも、考慮の中に置くべし。

山椒を「はじかみ」と云ふ。これは野生あり、語原は罅裂子なり。生薑渡りて、呉のはじかみと云ひき。辛きこと椒の如くなれば名づけたるなり。本草和名に「乾薑、久禮乃波之加美とあるは、天治本新撰字鏡、七の三十六丁に「千薑、久禮乃椒」とあり、これを薬用としたるは、倭名抄、薬名類に、「乾薑丸、千薑散」とあるにて知らる。同書、[p7] 塩梅類に「乾薑、保之波之加美」ともあれば、食物の加薬ともしたるなり。後に薬用の必要として、その苗を取寄せて、土に植ゑたるに因りて、医心方、三十の二丁に、「土薑」とあり、外來種なること知るべし。

梅も野生になし。初め支那より烏梅を取寄せて、薬用としたるなり。因りて、字音にて烏梅と云いき。倭名抄、薬名類に「烏梅丸」あり。医心方、五の四十丁に、「烏梅」と見ゆ。後にその苗木を取寄せて、植ゑつけて、烏梅の木と云ひしが、直ちに樹の名となりしなり。

銀杏の成る「いちょう」といふ樹あり。この語の語原、并に仮名遣は、難解のものとして、語学家の脳を悩ましむるものにて、種種の語原説あり。この語の最も古く物に見えたるは、一篠禪閤(兼良公、文明十三年八十歳にて薨ず)の尺素従來に、「銀杏」とある、是なるべし。文安の下学集にも、「銀杏異名鴨脚、葉形、如鴨脚」とあり。字音の語の如く思はるれど、如何なる文字か知られず。黒川春村大人の硯鼠漫筆に「唐音、銀杏の轉ならむ」などあれど、心服せられず。降りて、元禄の合類節用集に至りて、「銀杏、鴨脚子、」とみえたれど、是れも如何なる字音なるか解せられず、正徳の和漢三才圖會に至りて、「銀杏、鴨脚子、俗云、一葉」とあり。始めて、一葉の字音なること見えたり。然れども、一葉の何の義なるか、不審深かりき。加茂真淵大人の冠辭考、「ちちのみの」の篠にも、「いてふ」と見ゆ。仮名遣は合類節用集か、三才圖繪かに據られたるものならむか。語原は説かれてあらず。さて倭訓栞の後編の出たるを見れば(明治後に出版せらる)、「いてふ、一葉の義なり、「ちえ」反「て」なり、各一葉ずつ別れて叢生せり、因て名とす」と、始めて解釋あるを見たり。十分に了解せられざれど、外に據るべき説もなければ、余が曩に作れる辞書「言海」には姑らくこれに従ひて「いてふ」としておきたり。然れども、一葉づつ別るといふこと、衆木皆然り、別に語原あるべしと考へ居たりしこと、三十年來なりき。

然るに、二三年前、支那に行きて帰りし人の、偶然の談に『己れ支那の内地を旅行せ時、銀杏の樹の下に立寄り、路案内する支那人に樹名を問ひしに「やちやお」とこたえたり。我が邦の「いちよう」と聲似たらずや』と語れるを聞きて、手を拍ちて調べたるに、鴨脚の字の今の支那音は「やちやお」なり。(支那にては、この樹を公孫樹と云ひ、又、鴨脚とも云ふ)是に於て、案ずるに、この樹、我が邦に野生なし、巨大なるものもあれど、樹齢七百年程なるを限りとす。されば鎌倉時代、禪宗始めて支那より傳はりし頃、我の禪僧相往來せり。その頃、實の銀杏を持ち渡りたる者ありて、植ゑたるにて、その時の鴨脚の宋音「いちやう(今の支那音「やちやお」は、その變なり)なりしものと知り得たり。その傍證は實の銀杏を「ぎんあん」(音便にて、ぎんなん)と云ふも、宋音なり。實の名、宗音なれば、樹の名の宋音なるべきは、思い半に過ぐ。畢竟するに、尺素往來の「いちやう」の訓、正しきなり。是れにて、[p8]三十年來の疑ひ釋然たり。困りて、この樹名の語原は、鴨脚の宋音にて、仮名遣は「いちやう」なりと定むることを得たり。

右と同時に、行脚といふ宋音語あり。鴨脚と比ぶるに、脚に「きや」、「ちや」の差あり。是れは、その伝へたる地方の音に因つて異なるなり。今も支那の地方にて因つて、脚の音に「きや」といふあり、「ちや」といふあり。禅宗の臨済宗、曹洞宗に用ゐる漢語に、同語にて宋音の異なるもあり。林逸節用集、安の部、雑用に「行脚」と見ゆ。

又、泥中に棲息する魚に「どぢよう」と云ふあり。この語の語原は、何なるか、仮名遣も「ぢ」なるか、「じ」なるか究めがたくして、是れ亦、國語学者の苦しむ所なり。

先づ、仮名遣につきては、土佐人は、日常言語の発音に「ぢ」「じ」の区別を現存す。嘗て、その國人に「どぢよう」の発音を聞きしに、「ぢ」なりと答へき。この語は、文安の『土+盖嚢鈔』の一に「鯲、土長」と見えたるを最も古しとす。因つて舊版の「言海」には「どぢやう」としたり。長享二年の賦魚鳥連歌にも「友どちや、うちむれ霞む野に出でて」などとあり。されどその原は、如何なることか、解せられざりき。

明慶の林逸節用集には、魚偏に丁の字に、ドジヤウと傍訓してあり。東京市中の飲食店の暖簾看板には、一定して「どぜう汁」と書す。

語原につきては、本草の泥鰌の転なりと云ふ説などあり。されど、本草などいふ書中の語の、我が民間の通用語となるべき謂われなく、且つ「ぢ」「じ」の違ひもあり、或いは泥生又は土生の説などもありて、帰着する所を知らざりき。

然るに、高田興清大人の松屋筆記の三に、「泥鰌、泥津魚の義なるべし」とあるを見て、驚きたり。この魚、外來のものならず、開闢よりありしものなるべければ、字音の語ならず、國語なるべきことに、おぞくも早く思ひつかざりき。我が思考力の斯くも鈍なるかと、恥ぢ思ひぬ。

この語、泥津魚なるべきこと、動かすべからず。且、この語に之の意なる「つ」のあるに因りて、古語なるを知る。古くは清音にて、「とろつうを」なりしこと疑ひなし。我が古語に、首音の濁るものなきは、一般の通例なるに、これは濁り、又「つ」は天つ風、沖つ波、など清音なるべきが如くなるにも拘はらず、これは濁り、又「ろ」を略し、「ぅを」を「を」といふなどにつきて、高田大人の説を、尚詳細に敷衍すべし。

元來、泥といふ語は、盪けた意にて、清音なるなり。今も、とろとろなど云ふ。日本後記、延暦十五年八月に「遊猟登勒野」類聚國史、三十二、天長六年十月に「幸泥濘池羅猟水鳥」(今の山城の、みどろの池、又、みぞろの池)とある。

三十年來の疑ひ釋然たり。困りて、この樹名の語原は、鴨脚の宋音にて、假名遣は「いちやう」なりと定むることを得たり。

右と同時に、行脚といふ宋音語あり。鴨脚と比ぶるに、脚に「きや」、「ちや」の差あり。是れは、その傅へたる地方の音に因つて異なるなり。今も支那の地方に因つて、脚の音に「きや」といふあり、「ちや」といふあり。禪宗の臨濟宗、曹洞宗に用ゐる漢語に、同語にて宋音の異なるもあり。林逸節用集、安の部、雑用に「行脚」と見ゆ。

又、泥中に棲息する魚に「どぢよう」と云ふあり。この語の語原は、何なるか、假名遣も「ぢ」なるか、「じ」なるか究めがたくして、是れ亦、國語学者の苦しむ所なり。

先づ、假名遣につきては、土佐人は、日常言語の發音に「ぢ」、「じ」の區別を現存す。嘗て、その國人に「どぢよう」の發音を聞きしに、「ぢ」なりと答へき。この語は、文安の『土+盖嚢鈔』の一に「鯲、土長」と見えたるを最も古しとす。因つて舊版の「言海」には「どぢやう」としたり。長享二年の賦魚鳥連歌にも「友どちや、うちむれ霞む野に出でて」などとあり。されどその原は、如何なることか、解せられざりき。

明慶の林逸節用集には、魚偏に丁の字に、ドジヤウと傍訓してあり。東京市中の飲食店の暖簾看板には、一定して「どぜう汁」と書す。

語原につきては、本草の泥鰌の轉なりと云ふ説などあり。されど、本草などいふ書中の語の、我が民間の通用語となるべき謂れなく、且つ「ぢ」「じ」の違ひもあり、或は泥生、又は土生の説などもありて、歸着する所を知らざりき。

然るに、高田興C大人の松屋筆記の三に、「泥鰌、泥津魚の義なるべし」とあるを見て、驚きたり。この魚、外來のものならず、開闢よりありしものなるべければ、字音の語ならず、國語なるべきことに、おぞくも早く思ひつかざりき。我が思考力の斯くも鈍なるかと、恥ぢ思ひぬ。

この語、泥津魚なるべきこと、動かすべからず。且、この語に之の意なる「つ」のあるに因りて、古語なるを知る。古くはC音にて、「とろつうを」なりしこと疑ひなし。我が古語に、首音の濁るものなきは、一般の通例なるに、これは濁り、又「つ」は天つ風、沖つ波、などC音なるべきが如くなるにも拘はらず、これは濁り、又「ろ」を略し、「ぅを」を「を」といふなどにつきて、高田大人の説を、尚詳細に敷衍すべし。

元來、泥といふ語は、盪けたる意にて、C音なるなり。今も、とろとろなど云ふ。日本後記、延暦十五年八月に「遊獵登勒野」類聚國史、三十二、天長六年十月に「幸泥濘池羅獵水鳥」(今の山城の、みどろの池、又、みぞろの池)とある[p9]いずれも清音なり。「とろ」の濁音となれるは、水を冠らせて、「みどろ」と用い、連声にて濁れるを、(水嵩、水草、血みどろ、汗みどろの如く)その「み」の略せられて、「どろ」の濁音のみ存せるなり。「とろ」の「ろ」を略するは、「をろがむ」(拝む)が「をがむ」となり、「こころもち」(心持)が「ここち」となる例にあり。「つ」は、前に挙げたる『土+盖嚢鈔』に「土長」とあり、賦魚鳥連歌に「友どち」とあれば、室町時代までは、清音なりしと思はる。然れども、濁るは、「厳之霊(雷)」を、奈良時代の佛足石の歌に、「伊加豆知」とある例もあり、「うを(魚)」を「を」といふは、倭名抄に、「白魚之呂乎」(康頼本草に、「白魚之呂知宇乎」とあり)「針魚、波利乎」とあり。

右の旨に因りて、この魚の語原は、泥之魚にて、それが「どろつを」と濁り、又転じて「どじょう」の仮名遣を定むることを得たり。又「ざうさ(造作)」旅費を「道中ざうさ」などいひ、力を費やさぬことを、「ざうさない」といひ、この「ざうさ」と云ふ語は、種種に用いられて、造作の字を書けり。この語の材料を集めたるに、意義凡そ三転せり。

第一、 造作は、家を造ること。

明月記、天福二年八月五日に「京中大火自翌日皆造作。」沙石集、(弘安)三の上、北条泰時が住所の修繕に「民の煩ひを思ひて遂に造作なかりけり。」

第二、 家を造る費用より転じて、直ちに、

入目、入費のこと。渡邉幸庵封話(寛永の記、この人、正徳元年、百三十歳にて残す)に、水戸光圀卿に朱舜水の言、「御庭之西湖、相違有之旨難じ、悉く直し候は、造作なることに候。」

色三味線(寛永)に「水風呂より湯風呂が得なれど、これをこしらへることを造作に思ひ、云云。」

第三、 出費の辱きを謝する意より移りて、人の饗應に会へるに、挨拶に云う語となる。御造作でございました。仙臺にて、人よりの賜物を謝する通語として、「おいたみをかけまして、おきのどく。」

第四、 出費なき意より転じて、「ざうさない」は、容易しの意となる。無造作と云へば、力を費やさぬ意なり。

家を建てて後、敷居、鴨柄などを取り付け、畳建具など入るるを「ざふさく」といひ、造作などと字を當つれど、是れは、雑作の字なるべし。作の字の音、造る意なる時は、即各反なり。

すべて、前人の説を取り、その事を言はずして、我が著作に記すは、剽竊なり。何書何人の説なること挙げずはあるべからず、さるに、何某の説と定めかぬるものありて、編纂中の一の苦心となれり。

初、某氏の説ならむと認めたるものの、諸書を閲しゆく中に、それより前なる他書に、それを見出し、また、更にそれより前なるより見出すことあり。又、同時なる諸書に、互に出でたるもあるは、伴信友大人、橘守部大人、鹿[p10]持雅澄大人の説などに多し。是れ等、暗合なるべけれど、何れを創説と定むべきなく、此の如きもの、殊に少なからず。かかる事情あるのみならず、余が見聞の狭き、更にその前、その他の書にあらむも知るべからず。囚つて、凡そ、元禄以後の書なるは、特別なるものの外は、何人の説なりと記さず。「と云う」として自説ならぬを標しおくこととしたり。実に巳むことを得ざればなり。

伊勢物語に、富士山の事を、「その山は、此処(京都)に 例えば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、形は、「しほじり」のやうになむありける、」とある。この「しほじり」といふを、古くより、難解の語として、種種の説あるは、人の知る所なり。然るに、名古屋の天野深景大人の随筆なる「塩尻」に、この語を、塩浜にて塩を焼くに、沙を聚めて堆を成し、これに塩水を浸し、日に曝らす、これを「しほじり」と云へり 、富士の形に似たりと解かれたり。(されど、「しほじり」の「しり」の語原、解すべからず、)然して、この説を、随筆の開巻第一に記し、且、その書名とせられたるは、この語釋を創見と思はれたるかと思はれ、人も然、思へるやうなり。

天野大人は、享保十八年、七十三歳にて歿せられぬ。(大人の名の信景は、「さだかげ」と訓むと、名古屋市史の編者堀田章左右氏語られき。)

同時の正徳年中の風流後日男冊子に「女房は、御所方に奉公せしとて、今に、そのうつりあつて、しほらしく、すりこ鉢のうつむけてあるを、冨士山と見立て、形は「しほじり」のやうにと、よろずに、きやしやなる言ひかた、云云、」ここに、塩焼くしほじりとはあらねど、巳に鉢を伏せたる形と云ひてあり、しほじりは、難波の川尻の事などいふ説には、遥に立ちまさりたり。

さるに、豈図らむや、この頃より遥に二百五十年前に、この説あらむとは。應永十三年の古今序注に「冨士山に多くの名ある中に、しほじり山と云う、云云、海士の塩たるるに、砂をたれはてて後、打ちこぼす沙を「しほじり」となむいふ。彼山、そのしほじりの姿に似たり故に、しほじり山といふ、云云、伊勢物語に云云」とあり、(比古婆衣、十九)ここに「砂をたれはてて後、打ちこぼす沙」云へる、即ち「塩後の沙」にて、後の語原は、是れなり。沙を大笊などやうの物に盛りて、覆へし棄つるに囚つて、鉢をふせたらむ如き形を成すなるべし。当時の製塩法、略知るべし。

語原、或は、塩代の轉ならむも知るべからず。日本後紀、大同二年八月、伊勢神宮の告文に、「禮代の大幣帛、」出雲國造神賀詞に「神の禮自利」とあり。是れは、試みに言ふのみ。されば、天野大人の「塩尻」の説は、古今序注と暗号にもあるべけれど、創見とはせられず。(製塩法の違ひは、古今に變遷あるなり。)

和訓栞、前編、しほじり「伊勢物語に、不二の山の事を、形は「しほじり」のやうにてと書けり。海人の潮たるる砂[p11]をたれはてて後、打ちこぼしたるを、塩尻と言ふ。今もいふ言葉にて、歯丘なりと言へ り、」とあるは全く、古今序注の説なり。

帯説。

帯説といふ事あり。支那にてある語に、不用の語を附帯せしめて用ゐることなり。この 帯説に心付かずして、語原を考ふるに、迷いし事あり。

風雨。易経に「潤之以風雨」極めて古き書なれど、風の字は帯説のやうに思はる。

緩急。緩やかなると急なるとなれど、唯、危急なる意にも用ゐらる。史記、袁〓伝「今、公、常従数騎、一旦有緩急、寧足恃乎。」

利害の利、早晩の早も、帯説なることあり。

翡翠。翡は鳥の羽の赤きなり。翠は青きなり。水鳥の、やませびを翡翠といひ、また翡鳥といふよりして、唯、緑なる意となり、緑髪を形容して、翡翠の簪などいひ、純緑なる玉を翡翠玉といひ、翡は帯説となる。

異物志云、翠鳥赤而雄日翡、青而雌日翠。

國家、自家。家の字を帯説とする場合多し。

睡覚。支那北京鍋の音、睡むること。

虎狼。朝鮮の音、虎のこと。

帯説の語、尚あり。この帯説といふものを考ふるに、支那語には、「た」、「きふ」、「こく」などに、同じ発音のもの、極めて多く、耳に聞きて紛ひやすければ、猶言緩急之急などいふ心にて、急といふに「緩急のきふ」、國といふに、「國家のこく」と、気づくる為に、附して言へるなるべし。然して、字に書きて、目に見する場合には、言ふを要せざれど、元來、談話の語なるが、書記にも移りたるならむ。我が國にても、金山寺、径山寺(共に支那の寺名)を耳に聞きては、聞きわけがたければ、「かね金山」、「こみち径山」などいひ、人名に「すけ」といふ字、種々あれば、「ほ輔」、「じょ助」などいひ、その他「くろ玄」、「もと元」、「はた秦」、「すすむ晋」など言ひわくること、皆談話の上の事なるにて知らる。(近き頃の唱へに、「きみ公」、「そろ候」、候にはあらざれど)

謡曲の猩猩に、「これは、唐土かね金山の麓、揚子の里にかうふうと申す民にて候」などいふも、舞台にて、口に謡うに因るなり。

我が國にても、二字の熟語に、各その意義あるを、一字を無意義に用ゐるやうになりし語あり。又、帯説の姿をなせり。語原を研究するに、心得べきことなり。

 

[p12]

興奪。殺生興奪の権など云ひて、興へ又奪ふ意なるを、奪を無意味にして、唯、譲り興ふる意にのみ用ゐらるることあり。 子に職を譲るなどにも云ふ。

職原抄、太政官。左大臣、「関白之人、為左大臣時、右大臣、行一上事、是依関白興奪也、」一上は、上卿の一の義にて、左大臣の異構なり。太政官中の事を、一切統領すればなり。海人藻芥、中、「権中座於有指令者、次第次第、次人可興奪。」

東常縁の宗祇に贈れる消息に、「拾遺、後選、愚老書写之本云、貴老へ興奪候。」 (東野州拾唾、北透随筆、初編三)

離合迷字。

支那にて離合迷字といふことあり。一字の偏と旁とを離し、或は二字合はせて一字として、迷字(謎)を作るなり。我が邦にも、語源ならで、字源を考えふるにつきて、この事を念頭に置かずはあるべからず。絶妙の字を分けて、色絲少女として、黄絹幼婦と云ひ、(世説捷悟)貨泉の泉を取りて、白水眞人と云ふなど、離迷字なり。六十一歳を華甲と云ふは、華の字の中に、十の字六つ、一の字一つあればなり。(本卦回なり。甲は十千の甲、)雙井(井井)を八十とし、来を四十八とするなど同じ。是れ等は、合迷字なり。中井積徳先生(履軒)のその著、通語の末に、その氏を隠して、「檻泉三箇、左壅右涸」とせられたるは、三井の左右なくて、中井なるなり。

貴族の家に、裁縫受持の婢針妙と云ふ。 今も宮中に召仕はるる者に、この称ありと聞けり。普通には、お針と云ふなり。この針は解せらるれども、妙とは如何に。針仕事に優れたるに云ふ意にもあるまじと考へ居たりしに、醒唾笑(元和)の三自墜落の談に、或檀那寺に参り、暫く雑談して立去るに、明日、無菜の齋を申さむと云へば、庫裡から「めう」が楚忽に出で、言ひける、「幸の事や、明日は、お坊様の精進の日ぢゃ」とあり。

この「めう」は妙にて、少女の合迷字なり。梵妻の隠語なり。この妙の、専ら針仕事する者に、針を冠らせて、針妙と云へるなり。僧侶の隠語の、普通語となりしを悟り得たり。

ウルユスと云ふ賣薬あり。片假名書きの看板の、今も場末の生薬屋などに掲げてあるなり。この薬名、片假名なれば、阿蘭陀薬ならむと思ひ、遍く和蘭の辞書を探りたれども得ず。然るに、何ぞ圖らむ、離迷字ならむとは。この薬は、緩和の下剤なれば腸内を「空シウス」の心にて「空」の字を三分にして作りたりる名なるを知りて、捧腹絶倒せり。ウツホを采の字に作れると、好對なり。明和、安永、天明の頃、幕府の老中、田沼玄蕃頭、全権の驕奢にて、和蘭の器物を愛玩したるに因りて、一時、蘭器、蘭薬など、大に流行せり。その頃、賣れゆきの好からむを圖りて、蘭薬めきたる名を附したるものとおぼゆ。

米を離して八木とし、社木を合して杜とし、土杯を坏、緑木を椽(縁側)、風木を凩、風巾を凧、十じ(十字)を辻、文〆を[p13]匁、(唐ノ開元通寶ノ一文ノ目方)叉手を扨、船尾木を梶、肉の雪白なる魚を鱈、東海の魚を鰊とするなど、枚擧すべからず。字を省きたるは、春日部を春日、五十日嵐を五十嵐なども、少なからず。

倒語。

「あたらし」と云ふ形容詞は、惜むべしの意なり。可惜事など、今もいふなり。「新しき」意なる形容詞は、「あらたし」なるべきを、「あたらし」といふは、平安朝の頃より紛ひたるにて、奈良朝以前には、言はざりし語なりと云ふ。この「らた」の「たら」となりたるは、「あらたし」の發音滑らかならざれば、發しやすきに從へるものか、とにもかくにも、顛倒なり。

 

萬葉集、二十の十一丁(一本) 「年月は、安良多安良多に、相見れど我が思ふ君は 、飽き足らぬかも。」

催馬樂、新年、「安良多之支、年の初に、かくしこそ、仕へまつらめ、萬代までに、」尊圓親王御筆、鍋島侯爵所藏書宛、七ノ二)

古今集二十、大歌所「あたらしき、年の初に、かくしこそ、千歳をかねて、樂しきをつめ。

 

文字には、定考と書きて、倒さまに、「かうぢやう」と読むが読例となり居るなり。是れは、倒読にあらず、読例なり。この読例は、「ぢようかう」と読めば、上皇とも聞ゆるを憚りてなりと云ふ。然る時は、平安朝の頃より、「ぢやう」、「じやう」、「かう」、「くわう」の音、既に混淆したりしものか。

定考とは、六位以下の官員に、加階せしめむが為に、その人物、行跡を定め考へらるる儀なり。称唯といふ語、是れも「いしよう」と倒読すべき読例なり。是れは、漢文法に称唯と書きて、それを称唯と読むなれば、称唯の意にて、そのまま「いしよう」と云ふなるべし。

「おおと申す」 とは敬ひて慶へて、「おお」と声を發することなり。

 

山城の太秦の牛祭祭文(恵心僧都の作と云傳ふ。寛仁元年、七十六歳にて寂す)に、「僧坊の中に忍入て、物取る世古盗人」とあり、「こそこそ、」「こそこそどろばう、」「こせこせ、」「こせつく」など云ふは、この世古の倒さになりたるものなるべきか、叉は頭に「こ」を加へて、「こせこせ」が、「こそこそ」とつづまりたるものか。

 

旧本、今昔物語、二十七ノ十八語に、「格子の迫(はざま)の塵ばかりありけるなり、此板 こそこそとして入りぬ。」

宇治拾遺、六、観音經、 化蛇、「蛇(タチナワ)、云云、谷より岸の上ざまに、こそこそとのぼりぬ。」

 

ぐりはま(蛤)、叉、ぐれはまといふ。江戸時代の初より行はれし語にて、蛤の倒語なり。物事の喰違ふ意に云ふ。蛤は、兩殻の合口は、極めて密接するものにて、逆にすれば合ふことなし。

佐夜中山集、(寛文)宗因、「ありがひも、何ぐりはまの、生御魂(イキミタマ)。」老後の述懐の作かと云ふ。(柳亭筆記、二)

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男子の鬢毛生際(はえぎは)の剃付(そりつけ)の風に、外へ圓く弓形なるを、「はまぐり」と云ふ。これと反對に、内へ剃り込むを「ぐれはま」といふ。

俳諧破邪顕正(延寶)に「清水の瀧を、瀧の清水などと言はば、作意にもなるべし。祇園林を、林祇園とは言はれまじ、云云。是を連歌にては芋の山(山の芋の倒)とて、大きに嫌ふ。俳諧にては、ぐりはまと云ふ。」(用捨箱、下)

連歌俳諧に、「今宵の月」を「月こよひ」、「をちこちの野邊」を「野邊のをちこち」と云ふを難ずる者あり。東花坊の十論に「畠山左衛門佐」を「助左衛門」とすれば、農夫となり、「商賣往來」を「往來商賣」とすれば、道中飛脚か雲助か。」

最近の物の注釋には困却すること尚多し。たとへば、飛行機の如き、骨折りて調べて、その構造など記すに、半年過ぎぬに、その製造全く變ず。かくては、二年も經なば、辭書の解は誤となりて、却つて人を惑はすこととなるべし。 その外、郵便規則の如き、頻繁に改正せられ、酒醤油の如き、日日、新製法起る。 されば、此の如きものは、漠然と記し置くこととせんとす。飛行機は、人の乗りて空中を飛行する機械、とやうにして、その専門の書に譲るべし。目前の物事は、現在、その道の人に聞かば知られむ。辭書は、古き書を読み、不審なる語にあへる時、引きて見るといふこと多ければ、余は、古き語に力を致すべし。 新しきには、作者、自らその人あるべし。 語原研究の話、一寸思ひつきたるところ、此の如し。(大正四年十一月記)