田夫物語 1,文月はじめごろ、残る暑さをわびて、いぶせき柴の庵わ出でつつ、友とするひと一人二人いざなひ、里わ離れ、川沿ひの清き流れをとめて、手足わ洗ひ、人なきままに、たがひに戯れごとを言ひつくす。 2,中に、そばなる者語りしば、「さだめて面面も聞きつらん。われが友とする者、たれかれ、このほどは若衆狂ひといふことをし出だし、暮るれば手足をにがき、身をたしなみ、ここの軒の下、かしこの萱すすきのもと、あるいは堂寺の縁の下にたたずみ、手枕を交わし、たがいのこころざしを語り、または及びなきひとを恋ひて、藻にすむ虫のわわれから身をくだき、仏神にかけて逢ふ瀬を祈り、あらぬ仲立ちをたのみ、あふにしかたれば命も惜しからぬよしを言ひ、胸の思ひを富士の高嶺に寄せ、千尋の浜によそへて深き心を文にあらはし、またはゆく水に数書くここちする。そともひとを恋びては、伊勢に海に釣りする海士のうけひかぬことをうらみ、腕を切り、足の腿を突き破るもあり。あるいはたがいに心を通わせ、末の松山をかけて、変わらざることを誓ひ、連なる枝をねがひ、翼をならぶる鳥をうらやむもあり。またかたはしには、訪はぬを待ちて、寝よとの鐘をうらみ、夕の雨の障りとなることをなげき、あかぬ別れをうらみては、暁の加鶏をかなしみ、夜のみじかきをかこち、秋の夜の長きも、ほどなく明くるを苦しみ、室の八島を恋ひてわがおもひのけぶりを人に見せばやと、沖の石を引きて、乾く間もなき袖をなげき、しのぶ山をかけては、人の心のおくをみることをねがひ、または、あひにて後の思いのいやまさることをくやしみ、飛鳥川を引きては、変わる逢ふ瀬をうらやみて、数ならぬ憂き身をかこち、または人に知られじと忍ぶもあり。もろともに穂に出でて人目も言わず、まことに余情がましく手を引き歩くもあり。あるいは二道かくるひとをそねみ、恋の山に入っては深くなげきを穂り集み、吉野かわを思ひて、はやく過ぎゆく月日を惜しみ、塩釜によそへては、近きかひなき契りを言ひ、さかしらうつ人をうらみ、または暁の鴫の羽賀きに来ぬ夜のほどをかぞえ、わが通ひち夜の数を知り、あるいは呉竹のうきしをたがひに言ひ、あふさきるさに物を思うもあり。または夜な夜な酒肴やうのくだものをこしらへ、うたひ遊ぶものもあり。さまざまなるよしを語り、われにも『ちと好けかし』などすすむるひとあり」と語る。 3,そばなる者聞きて、「さてもいらざることを好くものかな。むかしより好ける道を好けかし」など声高に言い散らし、提ずたひに通り侍りしに、あとをかえりみれば、ひと四五人、足をそらになし、走り血惑ひくるを見れば、額に髪のつける者もあり。 4,かのものどもこの方にことばをかけ、「いかに面々、さきほどより聞けば、若衆狂ひする者をとやかくとそしららる。いかなることぞや。その方のいやしき道を好きながら、われらが華奢におもしろき道をさやうにのたまふこと聞こえず。一寸ものがすまじ」とて、すでに五尺八寸に手をかけ肘まくりしてかかる。 5,すは、事出で来ぬと、われ走り寄り、まず左右へ押し分け、「さてもさてもその方たちはいらざることをのたまふものかな。たがひに堪忍したまへ」と押しのくれども、若衆方の者ども「なかなか聞くな。のがすな」と眼に角を入れ、顔を怒らかす。 6,笑止さに、「しからば女道のいやしく若道の華奢なる道を問答し、いずかたにも理の深からん方につき、理の浅きかた、堪忍したまへ」とすれば、たがひに合点して、しずまりぬ。 7,われも笑止さ、をかしさに、提のへりに腰うちかけ、渋団扇を腰にさしながら、あからめもさず双方の言ふことを聞きゐたり。 8,そこにて女道方の田夫者進み出でて、「その方ののたまふ若道の華奢にて女道にいやしきいはれ、いでいで語りたまへ。うけたまはらむ」と言ふ。 9,若道方の華奢を直し扇をたたきて、答へていはく、「若道の華奢なるといふいはれは、高家大名高位高官jの出家たち、もっぱら好きたまひて、まことに柳の風にたをやかなる姿したる若衆たちに、綾羅錦繍を身にまとはせ、金銀にて造りのべし刀脇差をささせ、ここの花見、かしこの月見、十種香などに、いざなひ通りたまう。袖の行きずりのふり、にほひまでも、なべてなつかしく、道すがら詩歌など口ずさみたまふことを見るに、華奢ならずや。女のいやしきと言ふは、さやふなる物見、手をひき歩かるべきや。もしは、傾城狂ひなどする人、さやうなることをすれば、ばかよ、うつけ者よと怒られ、のちには主の勘当を蒙り、あるいは親に久離を切られて、身の置き所もなくなるままに、盗みをして身を滅ぼす。をのれならず一門までに恥じをさらさせ侍りぬ。若道を好きてかかる例を聞かず。その上、たれが手かけよかれが足さすりなどいふ者を見れば、離れ布子に縄帯をして、足にはひびあかがりなど切れ、いぶせき顔をして、人中ともいはず、わがねんごろの方あれば、目まぜ、痴れ笑ひをしけ、または子など孕ませたるを、たれが子よ、など言はれんこと、聞くこもをこがまし。かやうなるいやしき道を好きて、われらが道をそしるこ、一向聞こえず」といふ。 10,田夫者答へていはく、「その方の言ふごとく、大名高家ならばわれらも好くべし。好くちて非道を犯し、後ののぞみはあらず。その方の言うごとく、十四五なる者を綺麗に仕立て、五人も十人もそば近く召し使ひたく思ふことなり。その方の好ける若衆狂ひは、愚かなり。われらが目には、わらび狂ひ、わつぱ狂ひとこそ存じ候へ。まづさゆみ加帷子を糊強にかはせ、肩や腰には色紙・短冊やうのつぎを、太布下帯を結びめ高にしなし、顔は翁の面ほそ黒きに、首すじ・額には垢をため、爪をもとらず、しゃうじゃうとやらんいふもののやうなる赤き頭をうち乱し、たまたま虱なそ所せきまで這ひ歩き、瘡のにほひにかたうち交はり、まことにえも言われぬにほひするわらんべどもをとらへ、むしろ上に木枕をならべ、たがひに心の奥を語り、『死なばもろとも』なそ言ひて、ひた好きに好くこと、目もあてられず。また若衆も貧欲者かなとぞ思わるれ。扇、手拭ひや、鼻紙のてたらすに愛で、眉をひそめ、口をゆがめて、痛き目をこらゆるありさま、あはれなる次第なり。さてその後も、やすきこともあらばこそ。はては痔といふわづらひをし出だし、ゑじかり股になり、竹杖など突き、よろめき歩くを、親ども見て、問いへども、言ふべき病ならねば、顔うち赤らめゐるありさま、なかなか見るもかはゆし。さて有馬・十津川の湯に入れども多くは治らで一期の病となり、念者をうらみ、のち後悔すれどもかひなし。またはこの間人の語りしは、念者と若衆と起請を書くを見れば、余の若衆待つな、女を待つななど、念者の手から血をしぼり、判をさせて取ると聞く。さてともさてとも武辺なる若衆かな。かやうなる武辺かな。陣のかりばへ出したらばよからんと存ずるなり。また傾城狂ひをして、身を亡ぶすこと、もつとも多きなり。さりながら今時は若衆歌舞伎といふことをし出だし、出家のみならず俗も多く好きて、あまたの金銀を費やし、財宝を失ふこと、定めて御存じなるべし。傾城狂ひと、いずれか見を亡ぼすことは、別に変わり目もあるまじ。また出家の好くと言はるること、しつけは家を出づるより、浮世に方に報心を残さじ、子を持たじとてする業なり。されば、若道より女道のおもしろきなればこそ、近きころも、出家たち、女を以つて亡ぼされしなり。その面々悪しくとも、わが道をこらへて、女のおもしろき道きたまはずな、かかる害にもあひたまはじ。その出家の好くものをその方たちのかちおとし好かば、その出家たちは、なにといたさんや。出家に事を欠かせたまはば、五逆罪なるべし。その方たちの頭をけずり、袈裟・衣を身にまとひ、魚鳥を断ちたまはば、なにと言ひて非道と言うべき。牛は牛連れ、馬は馬連れといふことあるぞかし。はやはやその方たちや、われに似合ひたる道に基づけ」と言ふ。 11,華奢者腹を立て、「若道の非なるといふこと聞こえまじ。されば釈迦にも阿難あり、孔子にも顔回あり、東坂にも季節推とて若衆あるかや。さやうに非なる道を釈迦や孔子も好きたまふべきや。されば仏は、女をきらひて五戒の一つにも戒め、または、女に執着をなす者は後世かならず剣の枝にて身を裂くとかや。子を産みそこなひて死したる者は、血の海とやらんに沈むといへり。十王経説に曰く、『一日のうちに堕獄の人一万人あり。即ち女人七千八千にして、男子二千なり』と言ふ。そのゆゑに我朝の祖師たちもきらひたまひて、多くの山々、寺寺へも戒めたまへるなり。男子をきらひたまはずや。子は三界の首枷とこそうけたまはれ。されば、一角仙人は女を以つて仙術を失ひ、我朝久米の仙人も女物洗ふ脛を見て通力を失ひたまふとかや。かくにごとくなる悪人を何として好くや」。 12,田夫者答へて曰く「釈尊も一向にきらひたまふにもあらじ。耶輪陀羅女ましまして、羅呉羅おはします。孔子にも鯉魚あり、東坂にも多くの女ありと聞く。さて堂寺に女をきらひたまふいはれあり。女はあまりにおもしろきものにて、人の心を深くなやますゆゑなり。されば経にも、『出家はかりそめにも宮中に近づかざれ。近づく時は、かならず色に染む』とあり。色白く肌のこまやかに、芙蓉の顔をなし、梨花雨を帯びたるよそほひにて、二八ばかりなる情深き宮女を、高野・三井寺などへ多く入れなば、いかなる出家たちも学問もなさず。俗に帰らんことをおぼしめて、戒めたまふと見えたり。されば、その方の申さざるごとく、久米の仙人、志賀寺の聖人なども、女の破らせたるにはあらず、われと心を動かしたまひ侍らずや。また我朝の聖徳太子にも、芹摘の后ましませり。その上、仁義は本末を先とす。たとへば、祖父・親は本なり。子孫は末なり。親ありてこそ子はあらずや。その方のごとく、世の人、若衆を好きて、みなみな子なくば、世間もやがて失せはて、 儒釈の道あつても何の益かあらん。もしまた、若衆の子を生むといふことあらば、さもあるなん。釈迦も孔子も、三世も諸仏も、その方やわれも、みなこのところより出生し侍らずや。次に、その方を非道といふいはれは、子は孝を以つて先とするに、たとへば今日にてもあれ明日にてもあれ、よき縁ヘ辺を聞き生出だし、親たちの走り廻り、才覚をして、女を呼び迎へたまはんとき、『われは若衆わ好き候ふほどに、若衆を呼うでたまはれ。女はいや』などと言ふならば、親たち喜びたまふべきや。また親の気に違はじとおんなを呼びなば、若衆好きとは言われまじ。その上、若衆の手前も面目あるまじ。われら様の女好きは、はやはや呼びたてまはれかしと、朝夕相手待つ折節に、呼び迎へたまへば、喜びをなし、女ともろともに親に孝をつくし、女と仲のときを親たちもともに喜び、遠き一門、近き燐までも呼び集め、似合ひに酒を盛り、その賑ひをなす。これ道にあらずや。その方の非道の証拠には、親合点して若衆を嫁に呼びたることもきかず。まして一門の聞き喜ぶこともなし。その上、もとだてを道なれば、子孫あることを孔子きらひたまはず、釈尊は御母のために安居の御法を説き、目連は地獄に落ちし母の苦しみを助けたまはずや。されば一子出家すれば九族天上に生まれるといふ。また源為義朝臣、清盛に亡ぼされしを、頼朝・義経出でて平家を亡ぼす。その御子頼家を実朝の殺したまひしも、公暁出でてこれをうち、そのほか曾我兄弟・河野道信など、みな親の敵をうちしなり。また平とものりは知盛の身に代わりたまふ。これみな子あるゆるゑなり。また女のいやしきといふこと、これまた、なほもつて聞こえがたし。また、尊女と住みたまはんとて、出雲国に大宮造りしたまひて、『八重垣つくる』と詠みはじめたまひし言の葉よりこのかた、よ代々のかしこき帝の選みまします集め歌、また源氏・狭衣・大和・世継物語などの、多き巻々にも、女に詠みし歌のみにて、若衆につかはしたるといふ歌なし。そのほかに、ありもやすらめと、集め歌ならば聞くも及ばず、これを以ちて、源氏・業平・狭衣の大将なども田夫者といふべきや」。 13,華奢者答へて曰く、「その方のごとく口かしこく言ふとも、女ほど悪しきものはなし。国を亡し、家を破る大敵なり。そのいはれは、殷のちゅうわうは、だつきもために亡ぼされ、周り幽王は褒似を以つて国を破り、唐の玄宗は貴妃を愛して禄山に世をみだれさる。越は西施がために国を奪われ、呉はまた西施がために越に亡ぼされる。我朝白河の院は美福門院を愛したまひ、いはれなき譲位によって、たちまちに保元の乱れ居で来ぬ。近きころ普広院の御所、赤松にうたれたまひしも、ひたへに女のなせしわざなり。とかく女は、邪見にして、夫を思わず、力寿とやらんいふ物は忠信うたせんとあう。貞女は両夫にまみえずといふに、その方たちや、今時の女を見れば、男の死するとはや、十人に九人は男を待ち、その上、親の合はうれば、たとひ目のつぶれ鼻の欠けたるごときの者も、是非に及ばす、添はでかなはぬなり。夢幻の世の中に、醜きものを片時も見て、何かせん。若衆は、わが思う人に心をかけ、たがひに合点をしていれば、別に迷惑なることもなし。たとへば、花も紅葉もしばしにて、散りやすきゆゑにこそ人も愛すれ。おんなはさやうにならず。肌は桃季の梨のごとくになり、頭には霜を頂き、顔には四海の波をたたへ、瑞歯ぐむ姿になるまで堪忍して、添ひたる心いかん苦しからんと推し量らはるれ。さた、わが道の頼もしきといふは、まづ唐に一人の帝おはします。幸の若衆あり。ともに錦のしとねに臥したまへり。帝起きたまはんとしたまひしとき、若衆、君の御袖を敷いて臥しけり。帝、かれが夢をおどろかさんことをいたみおぼしめて、御剣を抜いて御袖を切りたまひしを、かたじけなく存じ、帝崩御のとき、御伴申せしなり。これ、唐・日本、追腹のはじめとかや。また陣中に出でて敵を防ぎ、御最期の御伴を申すひと、多くは御物たちなり。その上、文覚も、六代の姿に愛でて命を助けたまふ。かやうなる頼もしきことこそよけれ。女の国を治め御最期の伴をしたるといふことを聞かず」といふ。 14,田夫者答へて曰く、「女の国を破り家を失ふことも、女道のあまりにおもしろきによつてなり。たとへば、金銀を多く持つて害にあふがごとし。わきて女の国を乱し言えを亡ぼすとは申しがたし。そのゆゑは、天下を保つを女一人にあらず。唐天王の后は高宗の御母なり。高宗崩じたまひ、太子幼少のゆゑ、皇后御即位あって、賢臣を挙げ、腐敗を除き、国を保ち、民を愛す。これによつて女中のげんしゅんと号す。我朝にも鎌倉右大将他界後、二位尼、民をあはれみ国を治めたまひしかば、国士久しく穏やかなりしなり。これを我朝の尼将軍と申すとかや。また女は戦功なきなどうけたまはる。人皇十六代仲哀天皇崩じたまひて、神功皇后世をつぎ、三韓を従へたまはずや。唐に項羽のいじ、本朝に木曾の巴・義経の静か、いづれかみづから戦場に出でてその功これなきや。その方の言ふごとく、力寿忠信をうたせんとすれども愛寿これを助く。また女の追腹切りたる例なきにしもあらず。近きところ、われら高野参詣せしとき、多くの石塔をかれよこれよと見るに、『これなん仙台中納言殿なり。そばなるは皆、御伴の衆なり』とて、あまたあり。その志の深きことわ感じて、片端より読みたるに、『これはなにがしの守、これはなにの衛門』などと言ふ中に、女の標もありしなり。これまた、女も追腹を切りたる証拠なり。その他あらあら語つて聞かせん。昔、津の国に女あり。これをよばふ男二人あり。女、たがひの志の変わらざることを思ひわびてありしを、親『いづ方へも一人の方へ心を通はせ』と言へど、さもせずして生田川に身を投げ、空しくなるなり。また唐にも一人の臣下あり。そのもとへ女の文をおこせたるを、帝叡覧あつて、筆のをかしきに愛で、叡慮を動かし、つひにその女を召し取りたまひしかども、少しも御心にしたがふことなし。男の鼻えお切り、見苦しき姿を見せたまへば、男をそのまま沈めにかけたまひしを、女恨みわびて、これも身を投げ空しくなる。また小野頼風とやらんも、女のために身を失ふ。その他、天の帝の采女、空蝉の尼とかや、建礼門院の横笛、鎌倉の千寿、道盛の小宰相局、一の宮の御息所、塩谷判官が女房、みなこれ貞女の心を破らず。しかるを、女の頼もしからざることをのたまふ。さりながら、よくよく心得てみたまへ。その方たちの女を待ちながら若衆を好く人あり。その人女や子を持ちながら若衆に預けたまふや。またわが妻子をおきてわが一跡の金銀を預け、また財宝の家蔵の鍵などを預けたまふや。またわが妻子をおいて若衆に家を継がせることも聞かず。また、年の寄るまで女に添ふといふばは、頼もしきゆゑなり。われ死して後のことまでも、ねんごろに分別しておくことも、男女の志の深きにとるなり、その方の若衆は、今、当座に事の欠けるままに、ねんごろにし、ほどなくつきさましたまふなり。その上、若衆をつづけ、成人し、頭のすみずみに角を入れ、頬桁に横筋違に髯を作りたる者に会ひたまはんとき、たがひの古のことを思ひ出さば、面目なかるべしと存ずるなり。また若衆の国を亡ぼしたる例なきにもあらず。われらは、国の大敵とこそ存ずれ。そのいはれは、大名の家々に譜代の家を護る人たちあるなり。しかるに若衆を寵愛して出頭させ、譜代の家老衆をかならずないがしろにするにより、家老は家に伝はるものなれば負けじとするに、また若衆はわが威勢にておしつけんとするによつて、言ひ事をし出だし、口論するに、かならず一方御引きあるにより、天下へも聞こしめせば、主の悪しきことどもを言ひ出だし、後々には、大名の国を失いたまふこと、近ごろあまた多し。その上、天下取る人、または大名にてもあれ、御世継ぎのなき間は、世の人を危ぶみ、その家の下々までも心を安くせずどうりかな。世継ぎなくしてはわが身に替へ、取りたまひし知行も空しく絶え果てずや。またわが身一人こそあれ、多くの侍たちを浪人させたまふこともあはれなる次第なり。天下も世継ぎなくしてはからず乱をなすこと冶定なり。天神七代の末、伊邪那美・伊邪那岐のの命、天の浮橋のもとにて男女まじあひしよりこのかた、地神五代を過ぎ、神武天皇我朝の御主としてすでに百皇に余れり。天児屋根命の御末、国の臣下として、幾代をたとふるに、近くは平清盛、源頼朝、天かの武将に具はりたまひしよりこの方、北条九代、尊氏卿の十三台の後も、若衆の世を保ち国を受け継ぐいはれもなし。子孫相継ぎてこそ、家をも保ちたまひしなり。その他、空を跳翔くるつばさ、地を走るけだもの、みなこれ夫婦の語らひをなせり。われ神国にまかせて、神のはじめたまひし道を守りたまはれば、いかでか恵みも深からん。その方の非道を、はやはや止めたまへ」と言ふ時、答へもせず、顔うち赤らめゐたり。 15,をれあまりの笑止さに、中に分け入り、「夜も更けば里の門もさされなん。はやはや帰りたまへ。重ねての問答にしたまへ」と言へば、たがひに別れて北へ去り、南へ去り行きけり。 仮名草子集 ; 浮世草子集 / 神保五彌 [ほか] 校注・訳<カナ ゾウシシュウ ; ウキヨ ゾウシシュウ>. -- (BN00969739) 東京 : 小学館, 1971.12 572p, 図版[12]p ; 23cm. -- (日本古典文学全集 / 秋山虔 [ほか] 編 ; 37 ) 内容: 露殿物語 ; 田夫物語 ; 浮世物語 ; 元のもくあみ ; 好色敗毒散 ; 浮世親仁気質 注記: 付: 参考文献 ISBN: 4096570370 著者標目: 神保, 五弥(1923-)<ジンボ, カズヤ> 分類: NDC8 : 918 仮名草子集 / 谷脇理史編<カナ ゾウシシュウ>. -- (BN11288766) 東京 : 早稲田大学出版部, 1994.9 616, 36p, 図版1枚 ; 22cm. -- (早稲田大学蔵資料影印叢書 ; 国書篇 第39巻) 入力日時 2001.02.18〜2003.04.26更新  入力者  武藤 かおり 監修者  萩原 義雄