2001・2・19更新 水鏡 上 (序) 一一  つゝしむべき年にて、過ぎにし二月の初午の日、龍蓋寺へ詣で侍りて、やがてそれより、初瀬に、たそがれのほどに参り着きたりしに、年の積もりには、いたく苦しう覚えて、師のもとにしばし休み侍りし程に、うちまどろにけり。 一一  初夜の鐘の声におどろかれて、御前に参りて通夜し侍りしに、世の中うちしづまる程に、修行者の瀧卅四五などにやなるらんと見えしが、経をいと尊く読むあり。 一一  かたはら近く居たれば、「いかなる人のいづこより参り給へるぞ。御経などの承らまほしからむには、尋ね奉らん」と云ふに、この修行者言ふやう、「いづこと定めたるところも侍らず。少しものゝ心つきて後、この十余年、世のなりまかるさまの心とゞむべくも見え侍らねば、人まねに、もし後世や助かるとて、かやういまどひありき侍るなり」と言へば、「まことにかしこく思しとりたる事にこそ。誰もさすがにこの理は思へどもまことしくは思ひ立たぬこそおろかに侍るめれ。この尼、今まで世に侍る、希有の事なり。今日明日とも知らず、今年七十三になんなり侍る。卅三を過ぎがたく相人なども申しあひたりしかば、岡寺は、厄を転じ給ふと承りて、詣で初めしより、つゝしみの年毎に、二月の初午の日、参りつる験にこそ、今まで世に侍るは。今年つゝしむべきにて参りつる、身ながらもをかしく、今は何の命かは惜しかうべきと思ひながら、年ごろ参りならひて侍るにあはせて、やがてこの御寺へも参らむと思ひ立ちてなん。今この御寺には、ひとへに後世助かり侍らん善知識に会はせさせ給へと申しに参れるに、かくいさぎよく後世思す人に会ひ奉りぬるは、しかるべにこそ。世を背く人もおのづからもの言ひふれ給ふ 一一、一二、一三  やうやうかたはらへ来寄りて言ふやう、『御経のいと尊く聞こえ侍りつれば、詣で来る』と言ふ。もの恐ろしく覚え侍りしかども、鬼魅などの姿にもあらざりしかば、仙人といふものにやと思ひて、かく申すほどに、八の巻の末つ方なりしかば、又一部を誦して聞かせ侍りしかば、この仙人喜びて、『修行し給ふ人多くおはせども、まことしく仙道を心にかけ給ふやらんと見奉るが、尊く覚え侍るなり。 一三、一四  いかなる事にて心を起し初め給へりしぞ』と、問ひしかば、先に申しつるやうに申ししを、仙人聞きて、『いとかしこきことなり。おほかたは、今の世をはかなく見、疎み給ひて、古はかくしもあらざりけんと浅く思すまじ。すべて三界は厭ふべき事なりとぞ思すべき。この目の前の世の有様は、折に従ひて、ともかくもなりまかるなり。古を褒め、今を謗るべきにあらず。神代より、この葛城、吉野山などを住処として、時々はかたちを隠して京の有様も、諸国に至るまで、見聞きて過ぎ侍りき。由なき事どもに侍れども、お経を承りぬる喜びに、ひとへに目の前の事ばかりをのみ謗る心おはして、古はかくしもなかりけんなど思す、一筋なる心のおはすろ方をも申し聞かせば、一分の執心をも失ひ奉りなば、仏道に進み給ふ方とも、などかならざらん。神の世より見侍りし事、おろおろ申し侍らん』と言へば、『いみじくうれしく侍るべきことなり。生年廿などまでは、男のまねかたにて、世に立ち交らひ侍りしかども、はかばかしく昔の事考へみる事もなかりき。 一四、一五  たゞ遊び戯れにて、夜を明かし日を暮らしてのみ過ぎ侍りしに、近ごろの事などを、人の語り伝へ申すを聞くに、この世の中はいかにかくはなりまかるやらんと、事に触れてあはれにのみ覚えて、かゝる道に入りにたれば、一方になべての世を謗る心ある罪も定めて侍らん。いで、のたまはせよ。承らん』と言ふに、仙人いはく、『さてはこの世の有様のみならず、内典の方なども疎くこそはおはすらめ。端々を申さん。生死は車の輪の如くにして、始まりては終り、終りては始まり、何時を初め、何時を終りといふ事あるべからず。 一五  まづ劫の有様を申して、世の成行く様もかくぞかしと知らせ奉らん。 一五  人の命の八万歳ありしが、百年と言ふに、一年の命の縮まり縮まりして、十歳になるを一の小劫とは申すなり。 一五  さて又、十歳より、又百年に一年の命を添へて、八万歳になりぬ。 一五  これをも一の小劫と申す。 一五  この二の小劫を合はせて一の中劫とは申すなり。 一五  さて世の始まる時をば成劫と申して、この中劫と申しつるほどを廿過すなり。 一六  その初めの一劫のほどはつやつやと世の中なくて、空の如くにてありしに、山河など出で来て、かく世間の出で来るなり。 一六  いま十九劫には、極光浄といふてんより、一人の天人生れて大梵王となる。 一六  その後、次第にやうやう下ざまに生れて、次に人生れ、餓鬼、畜生出で来て、果てに、地獄は出で来るなり。 一六  かくて成劫廿劫は究まりぬ。 一六  世間も有情もなり定まるによりて成劫とは申すなり。 一六  次に住劫と申して、又廿の中劫のほどを過すなり。 一六  たゞし初めの一劫は、命、次第に劣りのみして、まさる事なし。されば住劫の初めの人、命は八万歳にはあらで、無量歳にて、それより十歳までなるなり。 一六  されども程の経る事は、ひとつの中劫のほどなり。 一六  さて第二の劫より十九の劫まで、先に申しつるやうに、八万歳より十歳になり、十歳より八万歳になり、劫ごとにかく侍るなり。 一六  さて第廿の劫は、十歳より八万歳まで、まさる事のみありて、劣る事なし。 一六  これも過ぐるほどは一の中劫なり。 一六  これは天より地獄まで、成劫に出で来調ほりて、有情のある程なり。 一七  さて住劫とは申すなり。 一七  次に壊劫と申して、このほど又々廿の中劫のほどなり。 一七  初めの十九劫には、地獄より初めて、有情みな失せぬ。 一七  この失すと申すは、いづこともなく失せぬるにはあらず。 一七  しかるべくして天上へ生るゝなり。 一七  たゞし地獄の業なほ尽きぬ衆生をば、こと三千界の地獄へしばし移しやるなり。 一七  かくて第廿の劫に、水出で来て、しも風輪とて、風吹きはりたる所の上より梵天まで、山河も何もかもなく焼け失せぬ。 一七  かく破れぬれば、壊劫とは申すなり。 一七  次に空劫と申して、又廿の中劫のほどを、世の中に何もなくて、大空の如くにて過ぐるなり。 一七  空しければ、空劫とは申すなり。 一七  この成住壊空の四劫を経るほどは、八十の中劫を過しつるぞかし。 一七  これをひとつの大劫とは申すなり。 一七  かくて終りては又始まり始まりして、いつを限りといふ事なし。 一七  かくの如くして、水火風災などあるべし。 一七  こと長ければ申さず。 一七  この住劫と申しつるに、仏は世に出で給ふなり。 一八  その中に、人の命まさりざまになる折は、楽しみ驕れる心のみありて、教へに叶ふまじければ出で給はず。 一八  命やうやう落ちつ方に、ものゝあはれをも知り、教へにも叶ひぬべきほどを見はからひ給ひて出で給ふなり。 一八  この住劫にとりては、初め八劫には、仏出で給はず。 一八  第九の減劫に七仏の出て給ひしなり。 一八  釈迦の出で給ひしは、人の命百歳の時なれば、第九劫のむげに末になりにたるこそ。 一八  第九劫のむげに末になりにたるにこそ。 一八  第十の減劫の初めに、弥勒は出で給はんずるなり。 一八  第十五の減劫に、九百九十四仏出で給ふべし。 一八  かくの如く、世に従ひて、人の命も果報もなりまかるなり。 一八  おほかたはさる事にて、この日本国にとりても、又なかなか世あがりては事定まらず、かへりてこの頃に相似たる事も侍りき。 一八  仏法渡り、因果弁へなどしてより、やうやうしづまりまかりし名残の、又末になりて、仏法も失せ、世の有様もわろくなりまかるにこそあるべきことわりなれば、良し悪しを定むべからず。 一八、一九  ひとへにあらぬ世になるにやなど、欺き思ふべからず。 一九  万寿の頃ほひ、世継と申しし賢しき翁侍りき。 一九  文徳天皇より後つ方の事は暗からず申し置きたるよし承る。 一九  その前はいと聞き耳遠ければとて申さざりけれども、世の中を究め知らぬは、片おもむきに、今の世を謗る心出で来るも、かつは罪にも侍らん。 一九  目の前の事を昔に似ずとは、世を知らぬ人の申すことなるべし。 一九  かの嘉祥三年より前の事を、おろおろ申すべし。 一九  まづ神の世七代、その後、伊勢太神宮の御代より、うのかやふきあはせずのみことまで五代。 一九  合せて十二代のことは、言葉に表し申さむにつけて憚り多く侍るべし。 一九  神武天皇より申すべきなり。 一九  その帝、位に即き給ひし辛酉の歳より嘉祥三年庚午の歳まで、千五百二十二年にやなりぬらん。 一九  そのほど、帝五十四代ぞおはしましけん。まづ神武天皇より』とて、言ひ続けはべりし。 一九 一 第一代 神武天皇 二〇  神武天皇と申しし帝は、顱草葺不合尊の第四の御子なり。 二〇  御母海神の女玉頃依姫なり。 二〇  又まことの御母は海に入り給ひて、玉依姫は養ひ奉り給へりけるとも申しき。 二〇  その世に侍りしかども、こまかにも、知り侍らざりき。 二〇  この帝、父の帝の御世、庚午の歳、生れ給ふ。 二〇  甲申の歳、東宮に立ち給ふ。 二〇  御年十五。 二〇  辛酉の歳正月一日、位に即き給ふ。 二〇  御年五十二。 二〇  さて世を保ち給ふ事、七十六年。 二〇  神世より伝はりて剣三あり。 二〇  一は石上神布留の社にます。 二〇  一は熱田の社にます。 二〇  一は内裏にます。 二〇  又、鏡三あり。 二〇  一は太神宮におはします。 二〇  一は日前におはします。 二〇  一は内裏におはします。 二〇  内侍所にこしおはしますめれ。 二〇  この日本を秋津嶋とつけられし事はこの御時なり。 二〇  事はるかにしてこまかに申しがたし。 二〇  位に即かせおはしましゝ年ぞ、釈迦仏涅槃に入り給ひて後、二百九十年にあたり侍りし。 二〇  されば世あがりたりと思へども、仏の在世にだにもあたらざりければ、やうやう世の末にてこそは侍りけれ。 二一 一 二代 綏靖天皇 二一  次の帝、綏靖天皇と申しき。 二一  神武天皇第三の御子なり。 二一  御母、事代主神の御女、五十鈴姫なり。 二一  神武天皇の御世、四十二年正月甲寅の日、東宮に立ち給ふ。 二一  御年十九。 二一  庚辰の歳正月八日己卯、位に即き給ふ。 二一  御年五十二。 二一  世を保ち給ふ事、卅三年。 二一  父帝亡せ給ひて、諒闇のほど、世のことを御兄の皇子に申し付け給へりしを、この御兄の皇子の、弟達を失ひ奉らんと謀り給へりしを、この弟の皇子心得給ひて、御果てなど過ぎて、帝、いま一人の御兄の皇子と、御心を合はせて、かの兄の皇子を射させ奉らせ給ふに、この兄皇子、手を慄かしてえ射給はずなりぬ。 二二  帝、その弓を取り手射殺し給ひつ。 二二  このえ射ずなりぬる兄の皇子ののたまふやう、「我、兄なりと雖も、心弱くしてその身堪へず。 二二  汝は悪しき心持ちたる兄をすでに失へり。 二二  速やかに位に即き給ふべし」と申し給ひしに、互に位を譲りて、誰も即き給はで四年過し給へりしかども、つひにこの帝、兄の御勧めにて位に即き給へりしなり。 二二 一 三代 安寧天皇 二三  次の帝、安寧天皇と申しき。 二三  綏靖天皇の御子。 二三  御母、皇大后宮五十鈴依姫なり。 二三  綏靖天皇の御世、廿五年正月戊子の日、東宮に立ち給ふ。 二三  御年十一。 二三  父帝亡せ給ひて、明くる年十月廿一日ぞ位に即き給ひし。 二三  御年廿。 二三  世を保ち給ふ事、卅八年なり。 二三 一 四代 懿徳天皇 二三  次の帝、懿徳天皇と申しき。安寧天皇第三の皇子。御母、皇后渟名底中媛なり。 二三  安寧天皇の御世、十二年正月壬戌の日、東宮に立ち給ふ。 二三  御年十六。 二三  辛卯の歳二月四日壬子、位に即き給ふ。 二三  世を治らせ給ふ事、卅四年なり。 二三  卅二年と申ししにぞ孔子亡せ給ひにけると承りし。 二四 一 五代 孝明天皇 二四  次の帝、孝明天皇と申しき。 二四  懿徳天皇の御子。 二四  御母、皇太后宮天豊津媛なり。 二四  懿徳天皇廿二年三月戊午の日、東宮に立ち給ふ。 二四  御年十八。 二四  丙寅の歳正月九日、位に即き給ふ。 二四  御年卅二。 二四  世を保たせ給ふ事、八十三なり。 二四 一 六代 孝安天皇 二五  次の帝、孝安天皇と申しき。 二五  孝昭天皇の第二皇子。 二五  母、世襲足姫なり。 二五  孝昭天皇の御世、六十八年正月に東宮に立ち給ひき。 二五  御年廿。 二五  己牛の歳正月十三日辛卯、位に即き給ふ。 二五  御年卅六。 二五  世を保たせ給ふ事、百二年。 二五 一 七代 孝霊天皇 二五  次の帝、孝霊天皇第一の御子。 二五  御母、皇太后姉押姫なり。 二五  考安天皇の御世、七十六年正月に東宮に立ち給ふ。 二五  御年廿六。 二五  父帝亡せ給ひて次の年、正月二年ぞ位に即き給ひし。 二五  御年五十三。 二五  位を保ち給ふ事、七十六年なり。 二五  この御世とぞ覚え侍る、天竺の祗園精舎の焼けて後、旃育迦王の造り給ふと承り侍りしは。 二六  須達長者造りて仏に奉りて二百年と申ししに焼けにけるを、祗陀太子、又もとのやうに造り給へりける後、五百年にて焼けたるを、いま旃育迦王の造り給ふとぞ聞こえし。 二六 一 八代 孝元天皇 二六  次の帝、孝元天皇と申しき。 二六  孝霊天皇の御子。 二六  御母、皇后宮細媛なり。 二六  孝霊天皇の御世、卅六年丙午正月、東宮に立ち給ふ。 二六  御年十九、丁亥の歳正月十四日に位に即き給ふ。 二六  御年六十。 二六  世を治らせ給ふ事、五十七年なり。 二六  卅九年乙丑六月にゆゝしき大雪の降りたりしこそあさましく侍りしか。 二七 一 九代 開化天皇 二七  次の帝、開化天皇と申しき。 二七  孝元天皇の第二の御子。 二七  御母、皇太后鬱色迷命なり。 二七  孝元天皇の御世、卅二年丙午正月、東宮に立ち給ふ。 二七  御年十六。 二七  癸末の歳十一月十二日、位に即き給ふ。 二七  御年五十一。 二七  世を治り給ふ事、六十年。 二七  この御世のほどゞぞ覚え侍る。 二七  南天竺に龍猛菩薩と申す僧いますなりと承りしに、真言を初めて弘め給ひしことはこの菩薩なり。 二七  又、祗園精舎は二度まで焼けしを、旃育迦王の造り給へけるを、百年と申ししに、盗人焼き侍りにけり。 二七  何処も何処も心憂きは人の心なり。 二七  その後一三年ありて、六師迦王、又造り給へると承りしは、この御時、位に即かせ給ひて十年など申ししほどゝぞ覚え侍る。 二八 一 十代 崇神天皇 二八  次の帝、崇神天皇と申しき。 二八  開化天皇の第二の御子。 二八  御母、皇后伊香色迷命なり。 二八  甲申の歳、正月十三日に位に即き給ふ。 二八  御年五十二。 二八  世を治り給ふ事、六十八年なり。 二八  六年と申ししに斎宮は初めて立ち給へりしなり。 二八  又、国々の貢物徒歩より持て参る事、民も苦しみ、日数も経る悪しき事なりとて、諸国に船を造らせさせ給ひき。 二八  六十二年と申しし頃ほひ、天竺に悪王おはして、祗園精舎毀ちて人を殺すところと定め給ひしかば、四天王、沙竭羅龍王怒りをなして、毀ちける人を大きなる石をもちて押し殺し給ひけると承り侍りき。 二九  六十五年と申ししに熊野の本宮は出でおはしましゝなり。 二九  おほよそ御心めでたく、事におきて暗からずおはしましき。 二九 一 十一代 垂仁天皇 二九  次の帝垂仁天皇と申しき。 二九  崇神天皇第三の御子。 二九  母、皇后御間城姫なり。 二九  崇神天皇四十八年四月に御夢の告げありて、東宮に立て奉り給ひき。 二九  御年二十。 二九  壬辰の歳正月二日、位に即き給ふ。 三〇  御年四十三。 三〇  世を治り給ふ事九十九年なり。 三〇  四年と申ししに、后の兄、よき隙を窺ひて后に申し給ふやう、「兄と夫と誰をか心ざし深く思う給ふ」と申し給ふに、后何とも思さで、「兄をこそは思ひまし奉れ」とのたまふを聞きて、この御兄ののたまはく、「しからば夫は、わが色衰へず盛りなるほどなり。世の中に、かたちよく、われもわれもと思ふ人こそ多かる事にて侍れ。我、位に即きなば、この世におはせんほどは、世の中を御心にまかせ奉るべし。帝失ひ奉り給へ」とて、剣をとりて后に奉り給ひつ。 三〇  后あさましく恐ろしく思せど、かく言ひかけられなん事、逃るべき方もなくて、常に御衣の中に剣を隠して隙を窺ひ給ふに、明くる年の十月に、帝、后の御膝を枕にして昼御籠りたりしに、この事たゞ今にこそと思しゝに、おのづから涙下りて帝の御顔にかゝりしかば、帝おどろき給ひてのたまふやう、「われ、夢に錦の色の小蛇、わが首を纒ふと見つ。又、大きなる雨、后の方より降りきてわが顔に注ぐと見つ。いかなることにか」と仰せられしに、后え隠し果て給はで、震ひ怖ぢ怖れ給ひて、涙にむせびてありのまゝの事を申し給ふを、帝聞こしめして、「この事、后の御咎にあらず」と仰せられながら、兄の王、又、后をも失はせ給ひにき。 三〇、三一  ゆゝしきあさましかりし事に侍りき。 三一  七年と申ししにぞ、すまひは始まり侍りし。 三一  十五年と申ししに、丹波国に住み給ひし皇子の御女五人おはしき。 三一  帝これを皆参らすべき由、仰せ言ありしかば、奉り給へりしに、おのおのときめかせ給ひしに、中の弟のおはせし、容姿いと醜くなんおはしければ、本の国へ返し遣はしゝほどに、桂川渡りて心憂しとや思しけん、事より落ちてやがてはかなくなくなり給ひき。 三一、三二  さてそれよりかしこをおちくにと申ししを、この頃は、乙訓とぞ人は申すなる。 三二  その年の八月に、星の雨の如くにて降りしをこそ見侍りしか。 三二  あさましかりし事に侍りし。 三二  太神宮は初めて伊勢国におはしましゝなり。 三二  これよりさきに天降りおはしましたりしかども、所々におはしまして、伊勢に宮遷りおはしますことは、天照御神の御教へにて、この年ありしなり。 三二  廿八年と申ししに帝の御弟の御子亡せ給ひにき。 三二  そのほどの世の習ひにて、近く仕うまつる人々を、生きながら御墓に籠められにけり。 三二  この人々久しく死なずして、朝夕に泣き悲しむを、帝聞しめして、仰せらるゝやう、「生きたる人をもちて詞ぬるに従へん事は、古より伝はれる事なれどもなれども、我このことを見聞くに悲しき事限りなし。今よりこのこと長く止むべし」とのたまひて、その後、土師の氏の人形、けものゝ形などを作りてなん、人の代りに籠め侍りし。 三二、三三  朝廷これを喜びて、土師といふ姓は、そのを賜はせしまり。 三三  この頃大江と申す姓は、その土師の氏の末なるべし。 三三  八十二年、このほどゞぞ承りし。 三三  祗園精舎は荒れ果てゝ、人もなくて九十年ばかり過ぎにけるを、?利天王の第二御子を下して、人王となして、又造り磨かると承りき。 三三  仏などのおはしましゝにもまさりてめでたくぞ造られにける。 三三  九三年と申ししにぞ、後漢の明帝の御夢に、黄金の人来たると御覧じて、明くる年天竺より初めて仏法唐土へ伝はりにし。 三三 一 十二代 景行天皇 三四  次の帝、景行天皇と申しき。 三四  垂仁天皇第三の御子。 三四  御母、皇后日葉酢媛命。 三四  垂仁天皇の御世、卅年正月甲子の日、東宮に立ち給ふ。 三四  父帝、二人の御子に申し給ふやう、「おのおの心に何を得んと思ふ」とのたまふに、兄の御子「我は弓矢なん欲しく侍る」と申し給ふ。 三四  弟の御子は「我は皇位をなん得むと思ふ」と申し給ふ。 三四  このことにしたがひて、兄の御子には弓矢を奉り、弟の御子をば東宮に奉り給へりしなり。 三四  辛末の歳、七月十一日、位に即き給ふ。 三四  御年八十四。 三四  世を保ち給ふ事六十年なり。 三四  五十一年と申ししに内宴おこなひ給ひしに、成務天皇のいまだ皇子と申ししと、武内と、その座に参り給はざりしかば、帝、尋ねさせ給ひしに、申し給はく、「人々みな御遊びの間、心を緩ぶべき折なり。その時、もし隙に窺ふ心あるものも侍らんにと思ひて、門を固めてなむ侍る」と申ししかば、帝いよいよ並びなく籠し給ひき。 三四、三五  武内は孝元天皇の御孫なり。 三五  この後代々の帝の後見として、世に久しくおはしき。 三五  今に八幡の御傍に近く斎はれ給へるはこの人にいます。 三五  五十八年二月に近江の穂穴宮に遷りにき。 三五  熊野の新宮はこの時にぞ始まり給へりし。 三五 一 十三代 成務天皇 三五  次の帝、成j務天皇と申しき。 三五  景行天皇第四の御子。 三五  御母、皇后八坂入姫なり。 三五、三六  景行の御世五十一年八月壬子vの日、東宮に立ち給ふ。 三六  御年四十九。 三六  世を保ち給ふ事六十一年。 三六  御容ことにすぐれ、御たけ一丈ぞおはしましゝ。 三六  武内、この御時三年と申ししにぞ、大臣になり給へりし。 三六  大臣と申すことはこれより始まれり。 三六  もとは棟梁の臣と申しき。 三六  これもたゞ大臣おなじことなり。 三六  官の名を変へ給へりしばかりなり。 三六  この帝、御子おはせざりしぞ口惜しくは侍りし。 三六  さて御甥の皇子ぞ位には即き給へりし。 三六 一 十四代 仲哀天皇 三六  次の帝仲哀天皇と申しき。 三六  景行天皇の御子に日本武尊と申しし第二の御子におはします。 三六  母、垂仁天皇の御女なり。 三六  成務天皇卅八年三月に東宮に立ち給ふ。 三六  壬申の歳正月十一日、位に即き給ふ。 三六  御年四十四。 三六  世を保ち給ふ事九年。 三七  筑紫にて亡せ給ひにしかば、武内、御骨おばとりて京へ帰り給へりしなり。 三七 一 十五代 神功皇后 三七  次の帝、神功皇后と申しき。 三七  開化天皇の御曽孫なり。 三七  仲哀天皇の后にておはせしなり。 三七  御母、葛木高額媛。 三七  辛巳の歳十月二日、位に即き給ひき。 三七  女帝はこの御時始まりしなり。 三七  世を保ち給ふ事六十九年。 三七  御心ばへめでたく、御容よにすぐれ給へりき。 三七  仲衰天皇の御時、八年と申ししに、筑紫にて、神、この皇后につき給ひてのたまはく、「さまざまの宝多かる国あり。新羅といふ。行き向ひ給はゞ、おのづから従ひなん」とのたまひき。 三八  しかるにその事なくてやみにき。 三八  皇后いまのたまはく、「帝、神の教へに従ひ給はで、世を保ち給ふ事久しからずなりぬ。いと悲しき事なり。いづれの神のたゝりをなし給へるぞ」と、七日祈り給ひしに、神、託宣してのたまはく、「伊勢国鈴鹿の宮ぬ侍る神なり」とあらはれ給ひしによりて、皇后、浦に出でさせ給ひて、御髪を海にうち入れさせ給ひて、「この事かなふべきならば、わが髪分れて二つになれ」とのたまひしに、二つになりにき。 三八  すなはちみづらに結ひ給ひて、臣下にのたまはく、「軍をおこす事は国の大事なり。今このことを思ひたつ。ひとへに汝達に任す。われ女の身にして男の姿を借りて、軍をおこす。上には神の恵みを蒙り、下には汝達の助けを頼む」とて、松浦といふ河におはして祈りてのたまはく、「もし西の国を得べきならば、釣りにかならず魚を得む」とて釣り給ひしに、鮎を釣り上げ給ひにき。 三八、三九  その後諸国に船を召し、兵を集めて海を渡り給はんとて、まづ人を出して、国のありなしを見せさせ給ふに、見えぬよしを申す。 三九  又人を遣はして見せしめ給ふに、日数多く積もりて帰り参りて、「戌亥の方に山あり。雲かゝりてかすかに見え侍り」と申ししかば、皇后その国へ向ひ給はんとて、石をとりて御腰nはさみ給ひて、「事終りて帰らん日、この国にして産み奉らん」と祈り誓ひ給ひき。 三九  この程八幡をはらみ奉らせおはしましたりしなり。 三九  仲衰天皇亡せさせおはします事は二月なり。 三九  このことは十月になれば、たゞならずおはしますとも、帝は知らせ給はぬはどにもや侍りけん。 三九  さて、十月辛丑の日ぞ新羅へ渡り給へりしに、海の中の様々の大きなる魚ども、船どもの左右にしひて、大きなる風吹きてすみやかに至る。 三九  船に従ひて、波荒く立ちて、新羅国のうちへたゞ入りに入り来る時に、かの国の王、怖ぢ恐りて、臣下を集めて、「昔よりいまだかゝる事なし。海の水すでに国の内に満ちなんとす。運のつき終りて、国の海になりなんとするか」と嘆き悲しむほどに、軍の船海に満ちて鼓の声山を動かす。新羅の王、これを見て思はく、「これより東に神国あり。日本といふなり。その国の兵なるべし。われたちあふべからず」と思ひて、かの王進みて皇后の御船の前に参りて、「今より長く従ひ奉りて年毎に貢物を奉るべし」と申しき。 三九、四〇  皇后、その国へ入り給ひて、様々の財宝の倉を封じ、国の指図文書をとり給ひき。 四〇  王、様々の財宝を八十に積みて奉る。 四〇  高麗、百済といふ二の国、この事を聞きて、怖ぢ恐れて進みて従ひ奉りぬ。 四〇  かくて筑紫に帰り給ひて、十二月に皇子を産み奉り給ひき。 四〇  これぞ八幡の宮にはおはします。 四〇、四一  明くる年皇后京へ帰り給ひしを、御継子の御子たち思ひ給ふやう、「父帝、亡せ給ひにけり。又皇后すでに皇子を産み奉り給ひてけり。これを位に即けんとこそ謀り給ふらめ。われら兄にて、いかでか弟に従ふべき」とて、播磨の明石にて、皇后を待ち奉りて、傾け奉らんと謀り給ひしを、皇后聞き給ひてみづから皇子を抱き奉り給ひて、武内の大臣に仰せられて、南海へ御船を出し給ひしかば、おのづから紀伊国に至り給ひにき。 四一  その後、御子たち謀叛を起し給ひて、皇后を傾け奉らんとし給ひしほどに、赤き猪出で来たりて、兄の御子を食ひ殺してき。 四一  その後、次の御子、武内の大臣と、又戦ひ給ひしも失はれ給ひにき。 四一  さてもあさましかりしこの戦ひ給ひの間、昼の夜のごとくに暗くて、日数の過ぎしを、皇后大きに怪しみ給ひて、年老いたる者どもに問ひ給ひしかば、「二人をひと所に葬りたるゆゑなり」と申ししかば尋ねさせ給ふに、「小竹の祝と亡せにけるを、天野祝泣き悲しみて、『われ生きて何かはせん』とて、かたはらに伏して同じく亡くなりにけるを、ひとつ塚に籠めてり」と申ししかば、その塚を毀ちて見せさせ給ふに、まことに申すがごとくなりしかば、ほかほかに埋ませさせ給ひて後、すなはち日の光あらはれにしなり。 四一、四二  十月に臣下たち、皇后を皇太后にあげ奉る。 四二  この程とぞ覚え侍る。 四二  祗園精舎を天魔焼き侍りにけりと聞き侍りし。 四二 一 十六代 応神天皇 四三  次の帝、応神天皇と申しき。 四三  今の八幡の宮はこの御事なり。 四三  仲衰天皇第四の御子。 四三  御母、神功皇后の御世三年に東宮に立ち給ふ。 四三  御年四歳なり。 四三  庚寅の歳正月丁亥の日、位に即きおはしましき。 四三  御年七十一。 四三  世を知ろしめす事四十一年なり。 四三  八年と申す四月に武内の大臣を筑紫へ遣はして、事を定めまつりごたせ奉らせ給ひしに、この武内の御弟にておはせし人の、帝に申し給はく、「武内の大臣常に王位を心にかけたり。筑紫にて新羅、高麗、百済この三の国を語らひて、朝廷を傾け奉らんとす」と、無きことを讒し申ししかば、帝、人を遣はして、この武内を討たしめ給ふに、武内嘆きて、「われ君の御ため二心なし。今、罪なくして身を失ひてんとす。心憂きことなり」とのたまふ。 四三、四四  その時に壱岐直祖真根子といふものありき。 四四  容、武内の大臣に違はずあひ似たりき。 四四  この人、大臣に申していはく、「かまへて逃れて都へ参りて罪なきよしを申し給へ。われ大臣にかはり奉らん」と進み出でゝみづから死ぬ。 四四  武内ひそかに都に帰りて、事の有様を申し給ふに、大臣たち二人を召して、かさねて問はせ給ふに、武内罪おはせぬよし、おのづからあらはれにき。 四四  その後、帝、この武内の大臣を籠し給ひしなり。 四四 一 十七代 仁徳天皇 四四  次の帝、仁徳天皇と申しき。 四四  応神天皇第四の御子。 四四  御母、皇后仲姫なり。 四四  葵酉の歳正月己卯の日、位に即き給ふ。 四五  御年廿四。 四五  世を治り給ふ事、八十七年なり。 四五  この帝の御弟を東宮と申ししかば、すべからく位を継ぎ給ふべかりしに、兄に譲り申し給ひしかども、たがひに給はずして、空しく三年を過ぎさせ給ひしかば、東宮みづから命失ひ給ひにき。 四五  帝このことを聞こし召して、かの東宮へ急ぎおはしまして、泣き悲しみ給ひしかどもかひなくして、その後、位には即かせ給ひしなり。 四五  4年と申す二月に高き楼に登りて御覧ぜしに、民の住処賑ひて御覧ぜられければ、帝詠ませ給ひし。♪高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑ひにけり♪ 四五  四十三年と申しし九月にぞ鷹の鳥をとるといふ事は知りそめて、狩、始め給ひし。 四六  五十五年と申ししに、武内の大臣亡せ給ひにき。 四六  二百八十にぞなり給ひし。 四六  六代の帝の御後見をして、大臣の位にて二百四十四年ぞおはせし。 四六  六十二年と申ししに、氷すうることは出で来始めて、今に至るまで供御にそなりふるなり。 四六  この帝、御容よにすぐれて、御心ばえめでたくおはしましき。 四六 一 十八代 履中天皇 四六  次の帝、履中天皇と申しき。 四六  仁徳天皇の御子。 四六  御母、皇后磐之媛なり。 四六  仁徳天皇卅一年に東宮に立ち給ふ。 四七  御年五歳。 四七  庚子の歳二月一日、位に即き給ふ。 四七  御年六十二。 四七  世を保ち給ふ事六年。 四七  父帝亡せおはしまして後、いまだ位に即き給はざりしほどに、葦田の宿禰のむすめ黒媛といひし人にを、后とせんと思して、御弟の住吉仲皇子を遣はして、その日おはすべきよし仰せられしに、この皇子わが名を隠して、東宮のおはすさまにもてなして、この姫君に親しきさまになんなりける。 四七  さて持ちたりつる鈴を忘れて帰りにけり。 四七  その次の夜、東宮、姫君のもとへおはしたるに、居給へる傍らに、鈴のありければ、怪しく思して、姫君に問ひ奉り給ひけれべ、「これこそは昨夜持ておはしたりし鈴よ」とのたまふに、東宮、われと名告りて、皇子の近づき給ひにけるにこそと思して、帰り給ひにけり。 四七、四八  皇子、この事を東宮聞き給ひぬらん。 四八  わが身平らかなんこと難かるべしとおもほして、東宮を傾け奉らんと謀りて、兵をおこして、宮を囲みしをり、大臣たち東宮に、かゝる事侍りと告げ奉りしに、いふかひなく酔ひ給ひて、おどろき給はざりしかば、大臣たち、この東宮を馬にかき乗せ奉りて、逃げ侍りにき。 四八  これは津の国の難波の宮なり。 四八  東宮、大和の国におはして、酔ひさめ給ひて、「これはいづれのところぞ」と問ひ給ひしかば、大臣たち、このありつるさまを申し給ひき。 四八  さて、石上の宮におはし着きたりしに、又の御弟に瑞歯皇子と申しし人急ぎ参り給へりしを、疑ひ給ひて、会ひ給はざりしかば、この皇子、「われにおきてはさらに同じ心に侍らず」と申し給ひしかば、「しからば、かの住吉の仲皇子を殺してのちに来たるべし」とのたまはせしかば、この瑞歯の皇子、すなはち難波に帰りて、住吉の仲皇子の近く使ひ給ひし人を語らひて、「わが言はん事に従ひたらば、われ位を保たん時、汝を大臣になさん」とのたまひしかば、「いかにも仰せに従ふべし」と申ししかば、多くものどもを賜ひて、「さからば汝が主を殺して、われに得さすべし」とのたまふに、そのことに従ひて、主の皇子の厠におはするを矛をもちて刺し殺してき。 四九  瑞歯の皇子、その人を相具して参りて、このよしを申す。 四九  東宮ののたまはく、「この人わがために功労あれども、おのれが主を殺しつ。うるはしき心にあらず。されども大臣の位にのぼせさせ給ひて、今日大臣と酒盛りせん」とのたまはせて、顔隠るゝほどの大きなる盃にて、東宮まづ飲み給ふ。 四九  次に瑞歯の皇子飲み給ふ。 四九  次に大臣飲む折に、太刀を抜きて首を斬り給ひてき。 四九  さて、次の年、位に即き給ひて後、その黒媛をば、后に立て奉らせ給ひしなり。 四九  五年九月に、帝淡路の国におはして、狩りし給ひしに、空に風の音に似て声する物ありしほどに、にはかに人走り参りて、后亡せ給ひぬるよし申ししこそ、いとあへなく侍りしか。 四九 一 十九代 反正天皇 五〇  次の帝、反正天皇と申しき。 五〇  仁徳天皇第四の御子。 五〇  履中天皇の御弟なり。 五〇  御母、皇后磐之媛なり。 五〇  履中天皇の御世、二年正月に東宮に立ち給ふ。 五〇  御年五十。 五〇  履中天皇、御子おはせしかども、この帝を東宮に立て奉らせ給ひしなり。 五〇  丙午の歳正月二日、位に即き給ふ。 五〇  御年五十五。 五〇  世を治らせ給ふ事、六年。 五〇  帝、御容めでたくおはしましき。 五〇  御たけ九尺二寸五分。 五〇  御歯の長さ一寸二分。 五〇  上下整ほりて、玉を貫きたるやうにおはしき。 五〇  生まれ給ひし時、やがて御歯ひとつ骨のごとくにて生ひ給へりき。 五〇  さて瑞歯の、皇子とぞ申し侍りし。 五〇、五一  この御世には、雨風も時に従ひ、世安らかに、民豊かなりき。 五一  位に即き給ひて、次の年十月に京、河内国柴垣宮に遷りにき。 五一 一 廿代 允恭天皇 五一  次の帝、允恭天皇と申しき。 五一  仁徳天皇第五の御子。 五一  御母、皇后磐之媛なり。 五一  壬子の歳、十二月に位に即き給ふ。 五一  御年卅九。 五一  世を治り給ふ事、四十二年なり。 五一  兄の帝亡せ給ひて後、大臣を始めて、位にはこの君こそ立ち給ふべけれとて、璽の箱を奉りしかども受け取り給はずして、「我が身久しく病に沈めり。朝廷の位はおろかなる身に保つべきことならず」とのたまひしを、大臣以下なほすゝめ奉りて、「帝王の御位の、空しくて久しかるべきにあらず」と、たびたび申ししかども、なほ聞こし召さずして、正月に兄帝亡せおはしまして、明くる年の十二月まで帝おはしまさでありしを、御妻のておはしましゝ人の、水をとりて御うがひを奉り給ひしついでに、「皇子はなど位に即き給はで年月をば過させ給ふにか侍る。大臣より始めて、世の中の嘆きに侍るめり。人々の申すに従ひて位に即かせ給へかし」と申し給ふを、なほ聞こし召さで、うち後向き給ひて、もののたまはざりしかば、この御うがひを持ちて、さりとも、とかく仰せらるゝこともやと待ち給ひしほどに、十二月のことていと寒かりしに、久しくなりにしかば、御うがひも氷リて持ち給へる手も冷えとほりて、すでに死に入り給へリしを、皇子驚き給ひて、抱き扶けて、「位を継ぐことは極りなき大事なれば、今まで受け取らぬことにて侍れども、かくのたまひあひたることなれば、あながちに逃れ侍るべきことにあらず」 五一、五二、五三  三年と申しし正月に新羅へ医師を召しに遣はしたりしかば、八月に参りたりき。 五三  帝の御病をつくろはせさせ給ひしに、その験ありて、御病癒えさせおはしましにしかば、さまざまの祿どもなど賜はせて帰しつかはしてき。 五三  七年と申しし十二月に、御遊びありしに、帝琴を弾き給ふを、后聞き愛で奉りて、舞ひて、うち居給ひし折、「あはれ、姫御をまゐらせばや」と申し給ひしを、帝、「姫御とは誰がことにか」と問ひ申させ給ひしを、御琴のめでたさに、我にもあらず申し給へりけることにや侍りけん。さりながらも申し出したひぬることなれば、隠し給ふべきならで、「わが弟に侍り。弟姫となん申す。色、容貌なん世に又並ぶ類侍らず。衣の上、光り通り輝き侍り。世の人はされば衣通姫とぞ申す」帝、これを聞こし召して、「それ奉り給へ」と、后を責め申させ給ひしかども、ともかくも御返りも申し給はざりしかば、御使を遣はして七度まで召しゝかども参り給はざりしかば、又御使庭にひれ伏して、七日までつやつやとものを食はざりしを、御使のいふかひなく死なんことのあさましさに、弟姫内へ参り給ひにき。 五三、五四  帝喜び給ふ事限りなくて、ときめき給ふさまに並ぶ人なかりき。 五四  このことを姉后やすからぬ事にし給ひしかば、宮を別に造りてぞ据ゑ奉り給へりし。 五四  四十二年おはしましゝに、帝亡せ給ひしにを、新羅より年毎のことなれば、船八十に様々のもの積みて、楽人八十人あひ添へて奉りたりしに、帝亡せ給ひにけりと聞きて、泣き悲しむこと限りなし。 五四  難波の津より京まで、この貢物を持て続け奉りおきて帰りにき。 五四  この後はわづかに船二などをぞ奉りし。 五四  又、怠る年々も侍りき。 五四 一 廿一代 安康天皇 五五  次の帝、安康天皇と申しき。 五五  允恭天皇の第二の御子。 五五  御母、皇后忍坂大中姫なり。 五五  甲午の歳十月に兄の東宮を失ひ奉りて、十二月十四日に位には即き給ひしなり。 五五  御年五十六。 五五  世を治り給ふ事、三年なり。 五五  明くる年の二月に御弟の雄略天皇の大泊瀬の皇子と申しておはせし、御妻になし奉らんとて、御叔父の大香草の皇子と申しし人の御妹を奉り給へと、帝仰せ言ありて、御使を遣はしたりしに、この御子喜びて「身に病を受けて久しくまかりなりぬ。 五五  世に侍る事今日明日といふことを知らず。 五五  この人みなし子にて侍るを、見おき難くて黄泉路も安くまかられざるべきに、その容貌の醜きをも嫌ひ給はず、かゝる仰せを蒙る、忝き事なり。 五五  この心ざしをあらはし奉らん」とて、御使につけてめでたき財宝を奉れるを、御使これを見てふける心出で来て、この宝物をかすめ隠つ。 五五  さて帰り参りて、帝に申すやう、「さらに奉るべからず。同じ皇子たちといふとも、われらが妹にて、いかでかあはせ奉るべき」と申すよしを偽り申ししかば、大きに怒りたひて、軍を遣はして殺し給ひてき。 五五、五六  その妻をとりてわが后とし給ひ、その妹を召して本位のごとく大泊瀬の皇子にあはせ給ひつ。 五六  三年と申す八月に帝楼に登り給ひて、后の宮に「何事か思す事はある」と申しし給ひしかば、后の宮「帝の御いとほしみを蒙れり。何事をかは思ひ侍るべき」と申し給ふ。 五六  帝仰せられていはく、「我身には恐るゝ事あり。この継子の眉輪に王、おとなしくなりて、わが、その父を殺したりと知りなば、さだめて悪そき心を起してん」とのたまふを、この眉輪の王、楼の下に遊びありきて聞き給ひてけり。 五六  さて帝の酔ひて后の御膝を枕にして、昼御殿籠りたるを、傍らなる太刀を取りて、眉輪の王過ち奉りて、逃げ大臣の家におはしにき。帝の御弟の大泊瀬の皇子、このことを聞きて、軍を起して、かの大臣の家を囲みて戦ひ給ひき。 五六、五七  眉輪の王「もとよりわれ位に即かんとの心なし。たゞ父の仇を報ふるなり」と言ひて、自ら首を斬りて死ぬ。 五七  この眉輪の王七歳になんなり給ひし。 五七 一 廿二代 雄略天皇 五七  次の帝、雄略天皇と申しき。 五七  天皇第五の御子。 五七  御母、皇后忍坂大中姫なり。 五七  丙申の歳十一月十三日、位に即き給ふ。 五七  御年七十。 五七  世を治り給ふこと、廿三年なり。 五七  この帝、生まれ給ひし時、宮の内なん光りたりし。 五七  おとなになり給ひて後、心猛くして多くの人を殺し給ひき。 五八  世の人、大悪天皇と申しき。 五八  二年と申しし七月に、帝、愛せさせ給ひし女御、男にあひにけり。 五八  帝怒り給ひて、男女二人ながら召し寄せて、四つの肢を木の上に張りつけて、火をつけて焼き殺し給ひてき。 五八  四年二月と申ししに、帝、この葛城山にて狩をし給ひしに、帝の御容にいさゝかも違はぬ人出で来たれりき。 五八  帝「これは誰の人ぞ」とのやまはせしに、その人「まづ王の名を名告り給へ。その後申さむ」と申ししかば、帝名告り給ひき。 五八  その後「我は一言主の神に侍り」と申して、あひともに狩をして、日暮れて帰り給ひしに、この一言主の神、送り奉りしかば、世の中の人「たゞ人にはおはせぬか」とぞ申しあひたりし。 五八  廿二年と申しし七月に、浦島の子、蓬莱へまかりにけりといふ事侍りしなり。 五九  みな人の知り給ひたる事なれば、こまかには申すべからず。 五九 一 廿三代 清寧天皇 五九  次の帝、清寧天皇と申しき。 五九  雄略天皇の第三の御子。 五九  母、皇大夫人葛城韓姫なり。 五九  雄略天皇の御世廿二年正月に、東宮に立ち給ふ。 五九  御年廿五。 五九  世を治り給ふ事、五年。 五九  帝、生まれ給ひて、御髪白く長かりき。 五九  さて、白髪皇子とは申ししなり。 五九  民を愛し心ありしを、父帝、御子たちの中に籠し給ひて、東宮に立て奉り給ひしなり。 五九  庚申の歳正月四日、位に即き給ふ。 五九  御年卅七。 五九  世を治り給ふ事、五年なり。 五九、六〇  この帝、位に継ぐべき人なきことを嘆きて、よろづの国々に使を遣はして王孫を求め給ひしに、履中天皇の御孫といふ人二人を播磨国より求め出して、兄をば東宮に立てゝ、弟をば皇子とし給ひき。 六〇 一 廿四代 飯豊天皇 六〇  次の帝、飯豊天皇と申しき。 六〇  これは女帝におはします。 六〇  履中天皇の御子に押羽の皇子と申して、黒媛の御腹に皇子おはしき。 六〇  その御女なり。 六〇  御母、?媛なり。 六〇  甲子の歳二月に位即き給ふ。 六〇  御年四十五。 六〇  この帝御弟二人、互に位を譲りて即き給はざりしほどに、御妹を位に即け奉り給へりしなり。 六〇  さて、ほどなくその年の内十一月に亡せ給ひにしかば、この帝をば系図などにも入れ奉らぬとかやぞ承る。 六一  されども日本紀には入れ奉りて侍るなれば、次第に申し侍るなり。 六一 一 廿五代 顕宗天皇 六一  次の帝、顕宗天皇と申しき。 六一  飯豊天皇の同じ御腹の弟におはします。 六一  乙丑の歳正月一日、位に即き給ふ。 六一  御年卅六。 六一  世を治り給ふ事、三年。 六一  御父の押羽の皇子は、安康天皇の御世三年と申ししに、安康の御弟の雄t略天皇と申しし帝の、いまだ皇子にておはしましゝに、失はれ給ひしにかば、その御子二人、丹波国へ逃げておはしたりしに、なほ世の中を恐れり給ひて、弟の君、兄の君を勧め奉りて、播磨の国へおはして、御名どもをかへて、郡の司に仕へ給ひき。 六一、六二  さて、年月を過し給ひしほどに、弟の君、兄の君に申し給はく、「われら命逃れて、この所にて年を経にたり。命は名を顕はしてん」とのたまひしに、兄の君、「しからば、命を保たん事いと難かるべし」とのたまひしかば、又弟の君、「われらは履中天皇の御孫なり。身を苦しめて、人に使へて、馬牛を飼ふ。生ける甲斐なし。たゞ名を顕はして、命を失ひてん、いとよき事なり」とのたまひて、兄弟互に抱きつきて泣き給ふ事限りなし。兄の君、「さらば、とくわれらが名を顕はし給ひてよ」とのたまひしかば、二人相具して、郡の司の家におはして、雨垂りのもとに居給へりしかば、呼び入れ奉りて、竈の前に据ゑて、酒飲み遊びなどして、おのおの立ちて舞ふに、この弟の君、わが御身の有様を言ひ続けて舞ひ給ふを、郡の司、聞き驚きて、降りさわぎ、拝し奉りて、郡のうちの民どもを起して、にはかに宮造りして、かりそめに据ゑ奉りて、帝に、「この二人の王を迎へ奉り給へ」と申ししかば、清寧天皇喜びて、すなはち迎へ取り給ひつ。 六二  「われ子なし。位継ぎ給ふべし」とて、兄の王を東宮に立て奉り給ひき。 六二、六三  さて、清寧天皇亡せ給ひにしかば、東宮位に即き給ふべかりしを、御弟に譲り給ひしかども、あるべきことにあらずと申し給へりき。 六三  かくて互に位に即き給はざりしかば、御妹の飯豊天皇を即け奉り給ひしほどに、その年のうちに亡せ給ひにしかば、なほ弟の王、東宮の御勧めに従ひて、位に即き給ひき。 六三  その年、三月上巳の日ぞ、始めて曲水の宴行はせ給ひし。 六三  二年八月と申ししに、帝、御兄の東宮に申し給はく、「わが父の皇子、罪なくして、雄略天皇に失はれ給へりき。恨みの心、、今に止む事なし。われ、かの帝の陵を毀ちて、その骨を砕きて捨てん」とのたまひしを、東宮申し給はく、「雄略天皇は帝におはします。わが父は帝の御子なりといへども、位に登り給はざりき。又、帝、清寧天皇の御恵を蒙り給へり。雄略天皇の御父におはせずや。今、位に登り給ふ。いかでかその志を忘れ給はん。陵を破り給はん事あるべからず」と申ししかば、その言に従ひ給ひき。この御時、世治まり、民安らかに侍りき。 六三、六四 一 廿六代 仁賢天皇 六四  次の帝、仁賢天皇と申しき。 六四  顕宗天皇のひとつに御腹の御兄なり。 六四  清寧天皇の御世、三年四月に東宮に立ち給ふ。 六四  御年四十。 六四  世を治り給ふ事、十一年なり。 六四  この帝の御有様、顕宗天皇の御事の中に細かには申し侍りぬ。 六四  御心ざまめでたくおはしましき。 六四 一 廿七代 武烈天皇 六五  次の帝、武烈天皇と申しき。 六五  仁賢天皇の御子。 六五  御母、皇后春日大娘なり。 六五  仁賢天皇七年正月に東宮に立ち給ふ。 六五  御年六歳。 六五  戊寅の歳十二月、位に即き給ふ。 六五  御年十歳。 六五  世を治り給ふ事、八年。 六五  その程、人を殺すことを朝夕のしわざとし給ふ。 六五  孕める人の腹を裂き割りて、その子を見給ひ、人の爪を抜きて芋を掘らせ、人を木に登せて落として殺し、ある時は、人を水に入れて矛にて刺し殺し、ある時は、女を裸になして板の上に据ゑて、馬のゆゝしきわざするを見せさせ(給ふ)に、その方に入りたる女は板を潤ほすを、帝、これを憎みて、やがて殺し給ひき。 六五  さ無きをば召して宮仕へすべき仰せありき。 六五  かやうの、あさましく心憂き事多かりし御世なり。 六五  御年十八にて亡せ給ひにき。 六五  御子もおはせず。 六五、六六 一 廿八代 継体天皇 六六  次の帝、継体天皇と申しき。 六六  応神天皇第八の御子、隼総別皇子と申しき。 六六  その御子を太迹王と申しき。 六六  そのを子私斐王と申しき。 六六  又その子に彦主人の王と申しし王の子にて、この帝はおはしましゝなり。 六六  御母、垂仁天皇の七世の御孫、振姫なり。 六六  丁亥の歳二月に位に即き給ふ。 六六  御年五十八。 六六  世を治り給ふ事、廿五年。 六六  武烈天皇亡せ給ひて後、位に継ぎ給ふべき人なきことを、大臣をはじめて一天の人嘆きて、「仲衰天皇の五代の御孫、丹波国におはすと聞ゆ。かの王を迎へ奉りて、位に即け奉らん」とて、司司、御迎へに参りしを、はるかに見やりて、怖ぢ恐れ、色を失ひて、山中に隠れ給ひて、その行き方を知らずなりにき。 六六  かくて、明くる年の正月に、越前国に応神天皇の五代の御孫の王おはすといふ事聞えて、又、司司、御迎へに参りたりしに、この王、驚く御気色なくして、あぐらに尻をかけて、御前に候ふ人々、畏まり敬ひ奉る事、朝廷のごとくなりき。 六七  この御迎へに参りたる人々、いよいよ畏まりて、事の由を申しき。 六七  王、このことを疑ひ給ひて、空しく二日二夜を過させ給ひき。 六七  御迎への人々、重ねて、大臣の迎へ奉るよし、事の有様を申し侍りし時に、京へ入り給ひしなり。 六七  さりながらも位を受け取り給はざりしかば、大臣をはじめてあながちに勧め奉りしかば、つひに位に即き給ひしなり。 六七  この御時、都遷り三度ありき。 六七 一 廿九代 安閑天皇 六八  この帝、安閑天皇と申しき。 六八  継体天皇の御子。 六八  御母、妃尾張目子媛。 六八  葵丑の歳二月に位に即き給ふ。 六八  御年六十八。 六八  世を治り給ふこと、二年。 六八  位に即き給ひて、明くる年正月に、京、大和の高市郡に遷りにき。 六八 一 卅代 宣化天皇 六八  次の帝、宣化天皇と申しき。 六八  安閑天皇のひとつ腹の御弟におはします。 六八  乙卯の歳十二月に、位に即き給ふ。 六八  御年六十九。 六八  世を治り給ふ事、四年。 六八  位に即き給ひて三年と申ししにぞ、天台大師生まれ給ひしときに侍りしと、後に承りし。 六八、六九 一 卅一代 欽明天皇 六九  次の帝、欽明天皇と申しき。 六九  安閑天皇の御兄。 六九  御母、皇后手白香なり。 六九  葵亥の歳、位に即き給ふ。 六九  世を治り給ふこと、卅二年。 六九  十三年と申ししに、百済国より仏・経渡り給へりき。 六九  帝、喜び給ひて、世の中の、心地起りて、人多く患ひき。 六九  尾輿の大連といひし人、「仏法を崇むる故に、この病起るなるべし」と申して、寺を焼き失ひしかば、空に雲なくして雨降り、内裏焼け、かの大連亡せにき。 六九  この後、さまざまの仏・経なほ渡り給ひき。 六九  継体天皇の御世に唐土より人渡りて、仏を奉りて、崇め行ひしかども、その時の人、唐土の神と名づけて、仏とも知り奉らず。 六九、七〇  又世の中にも弘まり給はずなりにき。 七〇  この御世よりぞ、世の人、仏法といふことは知り初め侍りし。 七〇  卅三年と申ししに、聖徳太子、孕まれ給ひき。 七〇  御父の用明天皇は、この帝の第四の御子と申ししなり。 七〇  太子の御母の御夢に黄金の色したる僧の「われ、世を救ふ願あり。しばらく君が腹に宿らん」とのたまひしかば、御母「かくのたまふは誰にかおはする」と申し給ひき。 七〇  その僧「われは救世菩薩なり。家はこれより西の方にあり」とのたまひき。 七〇  御母申し給はく「わが身は穢らはし。いかでか宿り給はん」とのたまふに、この僧「われ穢らはしきを厭はず」とのたまひしかば、「しからば」と許し奉り給ひしに従ひて、母の御口に躍り入り給ふと思して、驚き給ひたりしに、御喉にものある心地し給ひて孕み給へりしなり。八月と申ししに、腹のうちにてもののたまふ、聞え侍りき。 七〇、七一  この頃ほひに、宇佐の宮は顕れ始めおはしましき。 七一  よしなき事に侍れども、この御時とぞ覚え侍る、野干を「きつね」と申し侍りしは。 七一  事の起りは、美濃の国に侍りし人、顔よき妻を求むとてものへまかりしに、野中に女会ひ侍りにき。 七一  この男、語らひ寄りて、「わが妻になりなんや」と言ひき。 七一  この女、「いかにも、のたまはんに従ふべし」と言ひしかば、相具して家に帰りて住むほどに、男子一人産みてき。 七一  かくて年月を過すに、家にある犬、十二月十五日に子を産みてき。 七一  その犬の子、少し大人びて、この妻の女を見る度ごとに吠えしかれば、かの妻の女、いみじくおぢて、男に、「これ、打ち殺してよ」と言ひしかども、夫の男聞かざりき。 七一  この妻の女、米白ぐる女どもにもの食はせんとて、唐臼の屋に入りにき。 七一  この犬走り来て、妻の女を食はせんとす。 七一、七二  この妻の女驚き恐れて、え堪へずして、野干になりて籬の上に登りてをり。 七二  男これを見て、あさましと思ひながらいはく、「汝と我との中に子既にいできにたり。我、汝を忘るべからず。つねに来て寝よ」と言ひしかば、その後、来たりて寝侍りき。 七二  さて「きつね」とは申し初めしなり。 七二  その妻は桃の花初めの裳をなん着て侍りし。 七二  その産みを産みたりし子をば「きつ」とぞ申しし。 七二  力強くて、走る事飛ぶ鳥のごとく侍りき。 七二  水鏡 中 一 卅二代 敏達天皇 七五  次の帝、敏達天皇と申しき。 七五  欽明天皇の第二の御子。 七五  宣化天皇の女、石姫皇后なり。 七五  欽明天皇の御世、十五年甲戌正月に東宮に立ち給ふ。 七五  世を治り給ふこと、十四年なり。 七五  今年正月一日ぞ聖徳太子は生れ給ひし。 七五  父の用明天皇は帝の御弟にて、いまだ皇子と申ししなり。 七五  御母、宮の内を遊びありかせ給ひに、厩の前にて、御心にいさゝか覚えさせ給ふことなくて、にはかに生れさせ給ひしなり。 七五  この月は十二月にぞ当たらせ給ひし。 七五  人々いそぎ抱きとり奉りてき。 七五  かくて、赤く黄なる光西の方とりさして、御殿の内を照らしき。 七五  帝この由を聞こしめして、行幸なりて、事の有様を問ひ申し給ふに、又ありつるやうに宮の内光さして輝けり。 七五  帝あさましと思して、「たゞにはおはすまじき人なり」とぞ、人々にのたまはせし。 七五、七六  四月になりにしかば、ものなどいとよくのたまひき。 七六  今年の五月とぞ覚え侍る。 七六  高麗より烏の羽にものを書きて奉りたりしを、いかにして読むべしとも覚えぬことにて侍りしを、なにがしの王とか申しし人の、こしきの内に置きて、写しとりて読みたりしこそいみじきことにて侍りしか。 七六  帝、愛でほめ給ひて、その王は御前近く常に候ふべき由など仰せられき。 七六  二年と申しし二月十五日、聖徳太子東に向ひて掌を合せて「南無仏」とのたまひき。 七六  御年二にこそはなり給ひしか。 七六  三年三月三日、父の皇子、聖徳太子を愛し奉りて抱き給へりしに、いみじく香ばしくおはしき。 七六  その後、多くの月日を過るまで、その移り香失せ給はざりしかば、宮の内の女房たち、われわれと争ひ抱き奉り侍りき。 七六  六年十月と申ししに、百済国より経論、又あまた渡り給へりしを、太子、「これを見侍らん」と帝に申し給ひしかば、帝そのゆゑを問ひ給ふ。 七七  太子申し給はく、「むかし唐土の衡山に侍りしに、仏教は見給へりき。今その経論を奉りて侍りなれば、見給へらんと思ひ給ふるなり」と申し給ひしかば、帝あさましく思し召して、「汝は六歳になり給ふ。いつの程に唐土に在りしとはのたまふぞ」と仰せ言ありしかば、太子「前の世のことの覚え侍るを申すなり」と申し給ひし時に、帝をはじめ奉りて、聞く人、手をうち、あさみ申しき。 七七  法華経は今年渡り給へりけるとぞ承りし。 七七  七年と申しし二月に、太子よろづの経論を開き見給ひて、「六斎日は梵天帝釈降り下り給ひて、国の政を見給ふ日なり。ものゝ命殺すことを止め給へ」と申し給ひしかば、宣旨を下し給ひき。 七七  今年太子七歳にぞなり給ひし。 七七  八年と申しし十月に、新羅より釈迦仏を渡し奉りしかば、帝喜び給ひて供養し奉り給ひき。 七八  山階寺東金堂におはしますはこの仏なり。 七八  十二年と申しし七月に百済国より日羅といふ人来たれりき。 七八  太子会ひ給ひて物語をし給ふほどに、日羅、身より光を放ちて、太子を拝み奉るとて「敬礼救世観世音伝灯東方栗散王」と申しき。 七八  太子、又、眉間より光を放ち給ひき。 七八  かくて人々にのたまひき。 七八 「我、むかし唐土にありしとき、日羅は弟子にてありしものなり。常の日を拝み奉りしによりて、かく身より光を出すなり。後の世に必ず天に生るべし」とのたまひき。 七八  十三年と申しし九月に、百済国より石にて造りたる弥勒を渡し奉りたりしを、蘇我馬子の大臣、堂を造りて据ゑ奉りき。 七八  いま元興寺におはします仏なり。 七八  十四年とそ申しきさんがつに、守屋の大臣、帝に申さく、「先帝の御時より今に到るまで、世の中の病いまだおこらず。蘇我の大臣、仏法を行ふ故なるべし」と申ししかば、仏法を失ふべき由、宣旨下りにき。 七九  守屋みづから寺に行き向ひて、塔を切り倒し、仏像を破り失ひ、火をつけて焼き、尼の着物を剥ぎ、笞をもちて打ちしほどに、空に雲なくして大きに雨降り風吹きゝ。 七九  天下に瘡おこりて命を失ふもの数を知らず。 七九  その瘡を病む人、身を焼きゝるがごとくになむ覚えける。 七九  仏像を焼きし罪によりてこの病起れりしなり。 七九  六月に、蘇我の大臣「病久しく癒えず、なほ三宝を仰ぎ奉らん」と申しき。 七九  帝「しからば、汝ひとり行ふべし」とのたまはせしかば、喜びて、又堂塔を造りき。 七九  仏法はこれよりやうやう弘まり始まりしなり。 七九  かくて八月十五日に帝は亡せさせ給ひにき。 八〇  この御時とぞ覚え侍る。 八〇  尾張の国に田を作るもおおのありき。 八〇  夏になりて田に水まかせんとせしほどに、俄に神鳴り雨降りしかば、木の下に立ち入りてありしほどに、その前に雷落ちにき。 八〇  その形、幼き子のごとし。 八〇  この男、鋤をもちて打たむとせしかば、雷「我を殺すことなかれ。必ずこの恩報いん」と言ひき。 八〇  男のいはく、「何事にて恩を報ゆべきぞ」と言ひき。 八〇  雷答へていはく、「汝に子をまうけさせて、かれにて恩報いん。我に、楠の船を造りて、水を入れて竹の葉を浮かべて、速やかに与へよ」と言ひしかば、この男、雷の言ふがごとくにして与へつ。 八〇  雷これを得て、すなはち空へのぼりにき。 八〇  その後、男、子をまうけてき。 八〇  生れにし時に、蛇その頭を纏ひて、尾・頭・項の方にさがれりき。 八〇  年十余になりて、方八尺の石投げき。 八〇  この童、元興寺の僧に仕へしほどに、その寺の鐘撞堂に鬼ありて、夜毎に鐘撞く人を喰ひ殺すを、この童、「鬼の人を殺すことを止めてん」と言ひしかば、寺の僧ども喜びて、速やかに止むべき由をすゝめき。 八〇、八一  その夜になりて、童、鐘撞堂に上りて鐘を打つほどに、例のごとく鬼来たれり。 八一  童、鬼の髪にとりつきぬ。 八一  鬼は外へ引き出さんとし、童は内へ引き入れんとするほどに、夜たゞ明けに明けなんとす。 八一  鬼し侘びて、髪際を放ち落して逃げ去りぬ。 八一  夜明けて、血を尋ねて求め侍りしかば、その寺の傍らなる塚のもとにてなん血止まり侍りにし。 八一  むかし心悪しかりし人を埋めりし所なり。 八一  その人、鬼なりにたりけるとぞ人々申しあひたりし。 八一  その後、鬼、人を殺すこと侍らざりき。 八一  鬼の髪は宝蔵にをさまりていまだ侍めり。 八一  この童、男なりて、なほこの寺に侍りき。 八一  寺の田を作りて水をまかせんとせしに、人々妨げて水を入れさせざりしかば、十余人ばかりして担ひつべきほどの鋤柄を作りて、水口に立てたりしを、人々抜きて捨てたりしかば、この、男、又、五百人して引く石をとりて、この人の田の水口に置きて、水を寺田に入れしかば、人々怖ぢ恐れてその水口を塞がずなりにき。 八一  かくて寺田焼くる事なかりしかば、寺の僧、法師になる事を許してき。 八一、八二  世の人、道場法師とぞ申しし。 八二 一 卅三代 用明天皇 八二  次の帝、用明天皇と申しき。 八二  欽明天皇の第四の御子。 八二  御母、大臣蘇我宿禰稲目の女、妃堅塩姫。 八二  乙巳の歳九月五日、位に即き給ふ。 八二  世を治り給ふ事、二年。 八二  位に即き給ひて明くる年、聖徳太子、父帝を相し奉りて、「御命ことのほかに短く見えさせ給へり。政をよくすなほにし給ふべし」と申し給ひき。 八二  かくて、次の年の四月に、父帝、御心地例ならずおはせしに、太子夜昼つきそひ奉りて、声絶えもせず祈り奉り給ひき。 八二  帝、大臣以下「三宝を崇め奉らん。いかゞあるべき」と仰せられあはせ給ひしに、守屋は「あるべきことにも侍らず。わが国の神を背きて、いかでか異国の神をば崇むべき」と申しき。 八二、八三  蘇我の大臣は「たゞ仰せ言に従ひて崇め奉らん」と申しき。 八三  帝、蘇我の大臣の言に従ひ給ひて、法師を内裏へ召し入れられしかば、太子の大きに喜び給ひて、蘇我の大臣手をとりて、涙流し、「三宝の妙理を知ることなくして、みだりがはしく用ゐ奉らざるに、大臣、仏法を信じ奉る、いといとかしこきことなり」とのたまひしを、守屋、大きに怒り、腹立ちき。 八三  太子、人々にのたまはく、「守屋、因果を知らずして今滅びなむとす。悲しき事なり」とのたまひしを、人ありて守屋に告げ聞かせしかば、守屋いとゞ怒りをなして兵を集め、様々の蠱業どもをしき。 八三  このこと聞えて、太子の、舎人を遣して、守屋に片寄れる人々を殺させ給ひしほどに、四月九日帝亡せさせ給ひにき。 八三  七月になりて、太子、蘇我の大臣もろともに軍をおこして、守屋と戦ひ給ふ。 八三  守屋が方の軍数を知らざりしかば、太子の御方の軍怖ぢ恐れて、三度まで退きかへりき。 八三  その時に太子大誓願を起し、白膠木をとりて四天王を刻み奉りて、頂きの上に置き奉りて、「今放つところの矢は四天王の放ち給ふところなり」とのたまはせて、舎人をして射させしめ給ひしかば、その矢守屋が胸に当たりて、たちどころに命失ひつ。 八三、八四  秦川勝をして首を切らせしめ給ふ。 八四  守屋が妹は、蘇我の大臣の妻にて侍りしかば、その妻の謀にて、守屋は討ちとられぬるなりとぞ、その時の人は申しあへりし。 八四  さてこの守屋を射殺して侍りし舎人をば、赤檮とぞ申し侍り。 八四  水田一万頃をなん賜はせし。 八四  かくて今年天王寺をば造り始められしなり。 八四 一 卅四代 崇峻天王 八四  次の帝、崇峻天皇と申しき。 八四  欽名天皇の第十二の御子。 八四  御母、稲目の大臣の女、小姉君姫なり。 八四  丁末の歳八月二日、位に即き給ふ。 八四  御年六十七。 八四、八五  世を治り給ふ事、五年。 八五  位に即き給ひて明くる年の冬、帝、聖徳太子を呼び奉りて、「汝よく人を相す。われを相し給へ」とのたまひしかば、太子「めでたくおはします。たゞし横さまに御命の危みなん見えさせおはします。心知らざらん人を宮の内へ入れさせ給ふまじきなり」と申し給ひしかば、帝「いかなる所を見てのたまふぞ」と仰せられしに、太子「赤きすぢ御眼を貫けり。これは傷害の相なり」と申し給ひしかば、帝御鏡にて見給ひしに、申し給ふごとくにおはしましゝかば、大きに驚き恐りおはしましき。 八五  かくて太子、人々に「帝の御相は、前の世の御事なれば、変るべき事にあらず」とぞのたまひし。 八五  三年と申しし十一月に、太子御年十九にて、元服し給ひき。 八五  五年と申しし二月に、帝しのびやかに太子にのたまはく、「蘇我の大臣、内には私をほしきまゝにし、外には偽り飾り、仏法を崇むるやうなれども、心正しからず。いかゞすべき」とのたまひしかば、太子「たゞこの事忍び給ふべし」と申し給ひしほどに、十月に人の猪を奉りたりしを、帝御覧じて、「いつか猪の首を斬るがごとくに、わが嫌ふところの人を断ち失ふべき」とのたまはせしかば、太子大きに驚き給ひて、「世の中の大事、この御言葉によりてぞ出で来べき」とて、にはかに内宴を行なひて、人々に禄賜はせなどして、「今日、帝ののたまはせつる事、ゆめゆめ散らすな」と語らひ給ひしを、誰か言ひけん、蘇我の大臣に、「帝かゝることをなんのたまひつる」と語りければ、わが身をのたまふにこそと思ひて、帝を失ひ奉らんと謀りて、東漢駒といふ人を語らひて、十一月の三日、帝を失ひ奉りてき。宮の内の人驚き騒ぎしを、蘇我の大臣、その人を捕へさせしめしかば、人々この大臣のしわざにこそと知りて、とかくものいふ人なかりき。 八五、八六  大臣、駒を賞して様々のものを賜はせて、わが家の内に、女房などの中にもはゞかりなく出で入り、心にまかせてせさしほどに、大臣の女を忍びて犯してき。 八七  大臣このことを聞きて、大きに怒りて、髪をとりて木に掛けて、自らこれを射き。 八七  「汝おろかなる心をもちて、帝を失ひ奉る」と言ひて矢を放ちしかば、駒叫びて「われその時に、大臣ことを知れりき、帝といふことを知り奉らず」と言ひしかば、大臣この時にいよいよ怒りて、剣をとりて腹を割き、頭を斬りてき。 八七  大臣の心悪しき事いよいよ世の中に広まりしなり。 八七 一 卅五代 推古天皇 八七  次の帝、推古天皇と申しき。 八七  欽明天皇の御女。 八七  御母、稲目の大臣の女、蘇我小姉君姫なり。 八七  壬子の歳十二月八日、位に即き給ふ。 八七  御年卅八。 八七  世を知ろしめすこと、卅六年。 八七  位に即き給ひて明くる年の四月に、帝「わが身は女人なり。心にもをさとらず。世の政は、聖徳太子し給へ」と申し給ひしかば、世の人喜びをなしき。 八八  太子はこの時に太子には立ち給ひて、世の政をし給ひしなり。その前はたゞ皇子と申ししかども、今、語り申すことなれば、さきざきも太子とは申し侍りつるなり。 八八  御年廿二になんなり給ひし。 八八  今年四天王寺をば難波荒陵には移し給ひしなり。 八八  元は玉造りの岸に立て給へりき。 八八  三年と申しし春、沈はこの国に波につきて来たれりしなり。 八八  土左の国の南の海に、夜毎に大きに光るものありき。 八八  その声雷のごとくにして、卅日を経て、四月に淡路の島の南の岸に寄り来たれりき。 八八  大きさ人の抱くほどにて、長さ八尺ばかりなん侍りし。 八八、八九  その香ばしき事たとへん方なくめでたし。 八九  これを帝に奉りき。 八九  島人なにとも知らず。 八九  多く薪になんしける。 八九  太子見給ひて「沈水香と申すものなり。この木を栴檀香といふ。南天竺の南も海の岸に生ひたり。この木のびやかなるのよりて、夏になりぬれば、もろもろの?まとひつけり。その時に、人かの所へ住き向ひて、その木に矢を射立てゝ、冬になりて、?穴にこもりて後、射立てし矢をしるしにて、これを捕るなり。その実は鶏舌香。その花は丁子。その油は薫陸。久しくなりたるを沈水といふ。久しからぬを浅香といふ。帝、仏法を崇め給ふがゆゑに、釈梵・威徳の浮べ送り給ふなるべし」と申し給ひき。 八九  帝この木にて観音をつくりて、比蘇寺になん置奉り給ひし。 八九  ときどき光を放ち給ひき。 八九  六年と申しし四月に、太子良き馬を求めしめ給ひしに、甲斐の国より黒き馬の四の足白きを奉れりき。 八九  太子多くの馬の中よりこれを選び出して、九月にこの馬に乗り給ひて、雲の中へ入りて、東をさしておはしき。 八九  麻呂といふ人ひとりぞ御馬の右の方にとりつきて、雲に入りしかば、見る人驚きあさみ侍りしほどに、三日ありて帰り給ひて、「われこんお馬に乗りて、富士の嶽に至りて、信濃の国へ伝はりて帰り来たれり」とのたまひき。 九〇  十一年と申しし十一月に、太子の持ち給へり仏像を「この仏、誰か崇め奉るべき」とのたまひしに、秦の川勝進み出でゝ申しうけ侍りしかば、賜はせたりしを、蜂岡寺を造りて、据ゑ奉れりき。 九〇  その蜂岡寺と申すは、今の太秦なり。 九〇  仏は弥勒とぞ承り侍りし。 九〇  十四年と申しし、七月に帝「わが前にて勝鬘経講じ給へ」と申し給ひしかば、太子、師子の床に上りて三日講じ給ひき。 九〇  その有様、僧のごとくになんおはせし。 九〇  めでたかりし事なり。 九〇  翁その庭に聴聞して侍りき。 九〇  果ての夜とぞ覚え侍る。 九一  蓮の花の長さ二三尺ばかりなる、空より降りたりし、あさましかりしことぞかし。 九一  帝その所に、寺を建て給ひき。 九一  今の橘寺これなり。 九一  十五年と申しし五月に、帝に申し給はく、むかし持ち奉りし経、唐土の衡山と申すところにおはします。 九一  取り寄せ奉りて、この渡れる経のひがごとの侍るに見合はせんと申し給ひて、小野の妹子を七月に唐土へ遣はしき。 九一  明くる年の四月に妹子、一巻にしたる法花経をもて来たれりき。 九一  九月に太子斑鳩の宮の夢殿に入り給ひて、七日七夜出で給はず。 九一  八日といふ朝に枕上に一巻の経あり。 九一  太子のたまはく、「この経なんわが前の世に持し奉りし経にておはします。妹子がもて来たれるは、わが弟子の経なり。この経に卅四の文字あり。世の中に弘まる経はこの文字なし」となんのたまひし。 九一  廿九年二月廿二日に、太子、亡せ給ひにき。 九一  御年四十九なり。 九一  帝を始め奉りて、一天下の人、父母を失ひたるがごとくに悲しびをなしき。 九一、九二  おほかた太子の御事、万が一を申し侍り。 九二  ことあたらしく申し続くべくもなけれども、めでたきことはみな人知り給ひつれども、繰り返し申さるゝなり。 九二  太子世に出で給はざらましかば、暗きより暗きに入りて、ながく仏法の名字を聞かぬ身にてぞあらまし。 九二  天竺より唐土に仏法伝はりて三百年と申ししに、百済国に伝はりて、百年ありてぞ、この国へ渡り給へりし。 九二  その時、太子の御力にあらざりせば、守屋が邪見にぞ、この国の人は従ひ侍らまし。 九二  卅四年と申しし六月に大雪降りて侍りき。 九二 一 卅六代 舒明天皇 九三  次の帝、舒明天皇と申しき。 九三  敏達天皇の御子に彦人大兄と申しし皇子の御子なり。 九三  御母、敏達天皇の御女、糠手姫なり。 九三  己丑の歳正月四日、位に即き給ふ。 九三  御年四十七。 九三  世を治り給ふ事、十三年なり。 九三  三年と申ししにぞ玄奘三蔵唐土より天竺へ渡り給ふと承り侍りし。 九三 一 卅七代 皇極天皇 九三  次の帝、皇極天皇と申しき。 九三  敏達天皇の曽孫におはします。 九三  舒明天皇の后にておはしき。 九三、九四  御母、欽明天皇の御孫に吉備姫と申し侍りしなり。 九四  壬寅の歳正月十五日、位に即き給ふ。 九四  世を治り給ふ事三年。 九四  女帝におはします。 九四  七月に世の中日照りして、様々御祈侍りしかども、その験さらになし。 九四  大臣蝦夷と申ししは、蘇我の馬子の大臣の子なり。 九四  このことを歎きて自ら香炉を取りて祈り請ひしかども、なほ験なかりき。 九四  八月になりて、帝川上に行幸し給ひて、四方を拝み、天に仰ぎて祈り請ひ給ひしかば、たちまちに神鳴り、雨下りて五日を経き。 九四  世の中みななほり、百穀豊かなりき。 九四  いみじく侍りしことなり。 九四  十一月十一日、蘇我の蝦夷の大臣の子入鹿、その罪といふこともなかりしに、聖徳太子の御子・孫廿三人を失ひ奉りてき。 九四  軍をおこして斑鳩の宮を囲みて攻め奉りしに、太子の御子に大兄王と申しし、獣の骨を取りて御殿隠りし所に置きて、我は逃げて生駒山に入り給へりしに、入鹿が軍、火を放ちて斑鳩の宮を焼きて、灰の中を見しに、ものゝ骨ありき。 九四、九五  これを大兄王、六日といひしに、この所に帰り来たり給ひて、香炉に捧げて誓ひ給ひしかば、煙、雲に上りて後、仙人、天人の形あらはれて、西に向ひて飛び去り給ひにき。 九五  光を放ち、空に楽の声聞きし人は遥かに礼拝をなしき。 九五  入鹿が父の大臣これを聞きて、「罪なくして太子の御後を失ひ奉れり。我ら久しく世にあるべからず」と驚き歎き侍りき。 九五  三年と申しし三月に天智天皇の中大兄皇子と申しし、法興寺にて鞠を遊ばし給ひしほどに、御沓の鞠につきて落ちて侍りしを、鎌足の取りて奉り給へりしを、皇子嬉しきことに思して、その時より相互ひに思す事、つゆ隔てなく聞えあはせ奉り給ひて、その御末の今日までも、帝の御後見はし給ふぞかし。 九五、九六  よき事も悪しき事もはかなきほどのことゆゑに出で来る事なり。 九六  十一月に大臣蝦夷その子入鹿、家を造りて、内裏のごとくに宮門といひて、我が子どもをばみな皇子と名づけき。 九六  五十人の兵を身に従へて、出で入りにいさゝかも立ち離れざりき。 九六  かくてひとへに世の政を執れるがごとくなりしかば、帝、入鹿を失はんの御心ありき。 九六  又、天智天皇のいまだ皇子と申ししも同じくこのことを御心のうちに思し立ちしかども、思ひのまゝならざらんことを思し恐れしほどに、鎌足、皇子を勧め奉りて、蘇我宿禰山田石川麻呂が女をかりそめにあはせ奉りて、この事を謀り給ひき。 九六  鎌足願を起して、丈六の釈迦仏の像をあらはし奉り給ひき。 九六  今の山階寺の金堂におはしますはこの仏なり。 九六、九七  六月に帝大極殿に出で給ひて、入鹿を召しき。 九七  入鹿召しに従ひて参りぬ。 九七  人の心を疑ひて夜昼太刀を佩きてなん侍りし。 九七  鎌足なにともなきさまに戯れに言ひなし給ひて、太刀を解かせて座に据ゑ給ひつ。 九七  その後十二門を鎖し固めて、山田石川麻呂にて、新羅、高麗、百済、この三韓の表を読ませしめ給ひしに、石川麻呂この事を謀り給ふを心のうちに怖ぢ恐れ思ひけるにや、身震ひ声わなゝきこえ読まずなりにければ、入鹿「いかなればかく怖ぢ恐れ侍るぞ」と問いしかば、「帝に近づき事の恐れ思ひ給ふるなり」と答ふ。 九七  かくて入鹿が首を斬るべきにてあるに、その事を承りたる人二人ながら怖ぢ恐れ、汗を流して寄らざりしかば、皇子その一人を相具し給ひて、入鹿が前に進み寄りて、その人をして肩を斬らせしめ給ひつ。 九七  入鹿驚きて騒ぎしに、また足を斬りつ。 九七  入鹿、帝に申していはく、「我なにごとの罪といふ事を知り侍らず。その事を承らん」と申しき。 九七  帝大きに驚き給ひて、「いかなる事ぞ」と問ひ給ひしかば、皇子「入鹿は多くの皇子を失ひ、帝の位に傾け奉らんとす」と申しし給ひしかば、帝立ちて内へ入り給ひにき。 九七、九八  この折つひに入鹿が首を斬りてき。 九八  その後入鹿が屍を父の大臣に賜はせしかば、大臣大きに怒りて、自ら命を滅ぼして、大鬼道に堕ちて、蘇我の一門、時のほどに滅び失せにき。 九八  この御時とぞ覚え侍る、但馬の国に人ありき。 九八  幼き女子を持ちたりき。 九八  その子庭にはひありきしほどに、にはかに鷲出できたりて子を取りて東をさして飛び去りぬ。 九八  父母、泣き悲しめども行き方知らず。 九八  その後八年といひしに、その子の父、ことの縁ありて、丹後の国へ行きて宿れる家に女の童あり。 九八  井に行きて水を汲む。 九八  この宿れる男、井のもとにて足を洗ひて立てるほどに、その村の女の童べども来たり集まりて水を汲むとて、ありつる女の童の汲みたりつる水を奪ひ取りければ、取られじと惜しむほどに、この女の童べども、「をのれは鷲の食ひ残しぞかし。いかでわれらをばいるかせにはいふべきぞ」とて打ちしかば、女の童泣きて、この宿りに足りつる家に帰りぬ。 九八、九九  男、家主に「この女の童を鷲の食ひ残しと申しあひたりつるは、いかなることぞ」と問へば、家主「その年のその月日、われ木に登りて侍りしに、鷲幼き子を取りて西の方より来たり巣に落し入れて、鷲の子に飼はせんとせしほどに、この子泣くこと限りなし。鷲の子、その声に驚き恐りて食はざりき。我、稚児泣く声を聞きて、巣のもとに寄りて取りおろし侍りし子なり。さてかく申しあひたるにこそ」と言ひしを聞くに、我が子の鷲に取られにし月日なり。 九九  このことを聞くに、あさましく覚えて、泣き悲しびて、親子というふことを知りにき。 九九  人の命限りあることは、あさましく侍る事なり。 九九 一 卅八代 孝徳天皇 九九  次の帝、孝徳天皇と申しき。 九九  皇極天皇の御弟。 九九  御母、欽明天皇の御孫吉備姫なり。 九九、一〇〇  乙巳の歳六月十四日に位に即き給ふ。 一〇〇  世を治り給ふ事、十年なり。 一〇〇  皇極天皇は位をわが御子の天智天皇のいまだ皇子と聞えしに譲り奉らんとのたまひしを、皇子「あるべきことに侍らず」と申し給ひて、鎌足に「帝かゝることをなんのたまはせつる」と言ひ合はせ給ひしに、鎌足「この帝の御子、御叔父の皇子を越え奉りて、いかでかその先に位を継ぎ給ふべき。世の人のうけ申さん事もありがたく侍るべし」と申し給ひしかば、皇子、わが御心にかなひて思しければ、あながちに申し返し給ひしかば、この帝に譲り奉り給ひしを、これも、又度々返し奉り給ひき。 一〇〇  又、天智天皇の兄の御子に譲り奉られしに、皇子「あるべきことに侍らず」とて出家して吉野山へ入り給ひにき。 一〇〇  二人の皇子、あながちにかく返り奉り給ひしかば、つひにこの帝は位に即き給ひしなり。 一〇〇  かくて鎌足、大臣の位になずらへて内臣となん始めて申し侍りし。 一〇一  大化二年に道登といひし者の宇治橋は渡り始めたりしまり。 一〇一  この御時に元興寺に智光・頼光といふ二人の僧ありき。 一〇一  幼くより同じ所にて学問をす。 一〇一  頼光身にする勤めもなく、又、人に会ひてものなどいふ事もなし。 一〇一  たゞいたづらにして月日を過す。 一〇一  智光あやしみをなして「いかにいたづらにておはするぞ」と問へども、ふつといらふる事なし。 一〇一  かくて多くの年を経て頼光亡せにき。 一〇一  智光歎きて、「年ごろの友なりき。いかなるところにか生まれぬらん。行ひする事もなく、ものをだれにもはかばかしく言はざりつれば、後の世の有様いとおぼつかなし」と思ひて、二三月のほど「頼光が在り所知らせ給へ」と仏に祈り申ししほどに、智光、夢に頼光が居たる所へ行きて身れば、たとへんかたなくめでたし。 一〇一  智光「これはいかなる所ぞ」と問へば、頼光「これは極楽なり。汝あながちに祈りつれば、わが生まれたる所を見するなり。汝があるべき所にあらず。とく帰りね」と言ふに、智光「われ浄土を願ふ身なり。いかでか帰らん」と言ふ。 一〇一、一〇二  頼光「汝、行ひをせず。しばしもいかでかこの所に止まらん」と言ふ。 一〇二  智光「汝、世にありし時、させる行ひもし給はざりき。いかにしてこの所には生れ給へるぞ」と言ふ。 一〇二  頼光「いかでか知り給はん。むかし経論を見給ひしに、極楽に生れんこといと難く覚えしかば、ひとへに世の事を捨て、もの言ふ事止めて、心の中に弥陀の相好、浄土の荘厳を観じて、多くの年を積もりてわづかに生れて侍るなり。汝、心乱れ善根少なくて、浄土へ参るべきほどにいまだ至らず」といふを、智光聞きて泣き悲しびて、「いかにしてか決定して往生すべき」と問ひしかば、頼光「仏に問ひ奉れ」とて、智光を相具して仏の御前に参りぬ。 一〇二  智光、仏を礼拝し奉りて、「いかなることをしてか、この所に参るべき」と申しき。 一〇二  仏、智光に告げてなたまはく、「仏の相好、浄土の荘厳を観ずべし」と。 一〇二  智光「この土の荘厳、心も眼も及ばず。凡夫はいかでかこれを観ずべき」と申ししかば、仏、右の御手を捧げ給ひて掌の内に小さき浄土を表し給ひき。 一〇二、一〇三  智光、夢さめて、この浄土の有様を写し書かせて、朝夕にこれを観じてつひに極楽へ参りにき。 一〇三  かゝれば仏道はたゞ心によるべき事に侍り。 一〇三 一 卅九代 斉明天皇 一〇三  次の帝、斉明天皇と申しき。 一〇三  これは皇極天皇と申しし女帝の又かへり即き給へるなり。 一〇三  乙卯の歳正月三日、位に即き給ふ。 一〇三  世を治り給ふ事、七年なり。 一〇三  二年と申ししに、鎌足病を受けて久しくなり給ひしかば、帝、大きに歎かせ給ひしに、百済国より来たれし尼、法明といひし、「維摩経を読みて、この病を祈らん」と申ししかば、大きに喜び給ひき。 一〇三、一〇四  法明、この経を読みしにすなはち鎌足の御病おこたり給ひにき。 一〇四 さて、明くる年、山階寺を建てゝ維摩会を始め給ひしなり。 一〇四  七月に智通・智達といふ二人の僧を唐土に遣はして、玄弉三蔵に法相宗をば伝へ習はせさせ給ひしなり。 一〇四  この御時に義覚といふ僧ありき。 一〇四  百済国より来たれりし人なり。 一〇四  難波の百済寺のなん住み侍りし。 一〇四  その寺に恵義といふ僧ありき。 一〇四  夜中ばかりに出でゝ、義覚がある所を寄りて見れば、室の内に光を放てり。 一〇四  恵義あやしく思ひて密かに窓の紙破りて見れば、義覚、経を読みける口より光を放てるなりけり。 一〇四  恵義あさましく思ひて、明くる日なん、人々に語り侍りし。 一〇四  義覚、弟子に語りしを聞き侍りしかば、「一夜、心経を読み奉りて百遍ばかりになりしほどに、目をあけて室の内を見しかば、廻りに隔てもさらになくて、庭のあらはに見えしかば、いかなることにかと思ひて、室を出でゝ寺の内を見廻りて帰りたりしかば、もとのごとく壁もあり、扉も閉じたりしかば、室の外の床に居て、又、心経を読み奉りしに、さきにありつるやうに隔てもなくなりにき。これは般若の不思議なり」となん申しし。 一〇四、一〇五  心に万法みなむなしと思ひて観念のいたりけると覚えてあはれに侍りし事なり。 一〇五 一 四十代 天智天皇 一〇五  次の帝、天智天皇と申しき。 一〇五  舒明天皇第二の御子。 一〇五  御母、斉明天皇なり。 一〇五  孝徳天皇位に即き給ひし日、東宮に立ち給ひき。 一〇五  壬戌の歳正月三日、位に即き給ふ。 一〇五  世を治り給ふ事、十年なり。 一〇五  七年と申しし十月三日、鎌足内大臣になり給ふ。 一〇六  この御時に初めて内大臣といふ官は出で来しなり。 一〇六  御姓は中臣と申ししを藤原と賜はせき。 一〇六  大織冠となん申しし。 一〇六  かゝりしほどに御心地例ならず思されしが、まことしく、重り給ひし時に、帝行幸し給ひて「思し置く事あらば、のたまはせよ」と仰せ言ありしかば、大臣「今は限りに侍り。何事をかは申し侍るべき」と申し給ひしを聞こし召して、帝、御涙にむせびて帰らせおはしまして、御弟の東宮を、又、大臣の家におはしてのたまはせよとて、「さきざきの帝の御後見多かりしかども、大臣の心ざしに比ぶべき人さらになし。われひとりかくさり難く思ふのみにあらず。次々の帝、大臣の末を恵て年ごろの恩を必ず報ゆべし」とのたまはせて、太政大臣に上げ奉り給ふよし仰せ給ふと、その時申しあひたりしかども、この事はたしかにも聞き侍らざりき。 一〇六  内大臣になり給ふを、太政大臣とはひがごとぞとも申し合ひたりしなり。 一〇六  十六日につひに亡せ給ひにき。 一〇七  帝歎き悲しび給ふ事限りなし。 一〇七  先に申し侍りつるやうに、帝も皇子と申し、大臣もいまだ位浅くおはせしに、御沓取りて奉り給へりしはかなかりし御心寄せの後、位に即き給ひて、今日に至るまで互に二心なく思し通はし給ひつるに、御年のほどのいまはいかゞはなど思し慰むべきにもあらず。 一〇七  今年五十六にこそはなり給ひしか。 一〇七  事にふれて思し続くるに、げにことわりと、帝の御心のうち推し量られ侍りしことなり。 一〇七  大臣は大中臣美気?卿の子におはす。 一〇七  十年と申しし正月五日、帝の御子に大友皇子と申ししを、太政大臣になし奉り給ひき。 一〇七  二十五にぞなり給ひし。 一〇七  東宮ばどにぞ立ち給ふべかりしを、帝の御弟の東宮にておはしましゝかば、かくなり給へりしにこそ。 一〇七  九月に帝例ならず思されしかば、東宮を呼び奉りて、「わが病重くなりにたり。今は位譲り奉りてん」とのたまはせしかば、東宮「あるべき事にも侍らず。身に病多く侍り。后の宮に位を譲り奉り給ひて、大友の太政大臣を摂政とし給ふべきなり。われ、帝の御ために仏道を行はん」と申し給ひて、やがて頭を剃りて吉野山に入り給ひにき。 一〇七、一〇八  さて十月にぞ大友太政大臣は東宮に立ち給ひし。 一〇八  十二月三日、帝御馬に奉りて山梨へおはして、林の中に入りて失せ給ひぬ。 一〇八  いづくにおはすといふことを知らず。 一〇八  たゞ御沓の落ちたりしを陵には籠め奉りしなり。 一〇八 一 四十一代 天武天皇 一〇八  次の帝、天武天皇と申しき。 一〇八  舒明天皇の第三の御子。 一〇八  御母、斉明天皇なり。 一〇八  天智天皇の御世七年二月に東宮に立ち給ふ。 一〇八  葵酉の歳二月廿七日に位に即き給ふ。 一〇八  世を治り給ふ事十五年なり。 一〇八  この帝、うちまかせては位を継ぎ給ふべかりしかども、又ありがたくして即き給ひしなり。 一〇八、一〇九  世を遁れ給ひしこと、天智天皇の御事の中に申し侍りぬ。 一〇九  天智天皇、十二月三日亡せさせ給ひにしかば、同じき五日、大友皇子位を継ぎ給ひて、明くる年の五月に、なほこの帝を疑ひ奉りて、家出して吉野の宮に入り籠らせ給へりしを、左右の大臣もろともに兵をおこして、吉野の宮を囲み奉らんと謀りしほどに、このこと洩り聞えにき。 一〇九  美濃尾張の国に、天智天皇の陵を造らん料とて、人夫をその数召すに、皆兵の具を持ちて参るべき由仰せ下さる。 一〇九  「このことさらに陵の事にあらず。必ず事の起り侍るべきにこそ。この宮を逃げ去り給はずは悪しかりなん」と告げ申す人あり。 一〇九  又「近江の京より大和の京まで所々にみな兵を置きて守らしめ侍り」など申す人もありき。 一〇九  大友皇子の御妻はこの帝の御女なりしかば、みそかにこの事の有様を御消息にて告げ申し給へりけり。 一一〇  吉野の宮には、位を譲り世を遁るゝことは、病をつくろひ命を保たんためとこそ思ひつるに、思はざるに我が身を失ふばからんには、いかでかはうちとけてもあるべきと思して、皇子たちをひき具し奉りて、ものにも乗り給はずして東国の方へ入り給ひし途に、懸犬養大伴といひし者、会ひ奉りて、馬に乗せ奉りき。 一一〇  又、妃の宮を輿に乗せ奉りて、御供には皇子二人、男ども廿余人、女十余人ぞ付き奉りたし。 一一〇  その日、勉田といふ所におはし着きたりしに、猟人廿余人従ひ奉りにき。 一一〇  又米負せたる馬卅疋ばかり逢ひ奉りたりしを、その米を下ろし捨てゝ、徒歩にて御供にさぶらふ人みな乗せ給ひて、夜中ばかりに伊賀の国におはし着きて、国の軍あまた従ひ奉りにしを相具して、明くる日、伊勢の国におはして、天照御神を拝み奉り給ひき。 一一〇  国の守、五百人の軍をおこして、鈴鹿の関を固め、大友皇子、三千人の軍を率ゐて、不破の関を固む。 一一一  帝、不破の宮におはして、国々の軍をおこし給ひしに、兵その数を知らず。 一一一  かくて七月六日より所々にして大友皇子と戦ひ給ふ。 一一一  廿一日に瀬田に攻め寄り給ひしに、大友皇子、左右大臣あひともに橋の西に陣を張りて戦ふ。 一一一  こなたかなたの軍、雲霞のごとくにして、その数を知らず。 一一一  矢の下ること雨のごとし。 一一一  かゝりしほどに、皇子の方の軍破れて、皇子も大臣もわづかに命を逃れて山に入りにき。 一一一  廿三日に皇子自ら遂に命を失ひしかば、廿六日にぞその首を取りて不破の宮に奉りてし。 一一一  廿七日に右大臣殺され、左大臣流されにき。 一一一  その他の人々、罪を被る、多く侍りき。 一一一  やがてその日ぞ、軍に力を入れたる人々、官位どもを賜はせし。 一一二  帝は皇子の御叔父にておはせしうへに、御舅にてもおはしましゝぞかし。 一一二  方々従ひ奉り給ふべかりしを、あながちに勝にのり給へりしことの仏神も受け給はずなりにしにこそ侍めれ。 一一二  八月に帝、野上の宮に遷り給ひたりしに、筑紫より足三ありし雀の朱きを奉れりしかば、年号を朱雀元とぞ申し侍りし。 一一二  明くる年三月に備後国より白き雉を奉りたりしかば、朱雀といふ年号を鳳凰とぞ更へられにし。 一一二  三月に川原寺にて初めて一切経を書かしめ給ひき。 一一二  九年と申しし十一月に、妃の宮御病によりて、薬師寺を建てさせ給ひしなり。 一一二、一一三  十三年と申ししに、帝例ならずおはしまして、東宮を初め奉りて、百官大安寺に詣でゝ、帝この寺にして法会を行はんと思す御願あるを、果たし遂げ給はずしてやみなんとす。 一一三  「たとひ定業なりとも、三年の御命を延べ奉り給へ。この大願を遂げさせ奉らん」と祈り申ししに、帝の御夢に御命延び給ふよし御覧ぜられて、御病怠らせ給ひにしかば、三年の間、仏をあらはし経を写して、本意のごとく供養し奉り給ひき。 一一三  十四年と申しし十月廿三日、天文のことごとくに乱れ、星の落つる事、雨のごとく侍りき。 一一三  十五年と申ししに、大和の国に朱き雉を奉れりき。 一一三  さて朱鳥元年と年号を更へられにき。 一一三  明くる年、大友皇子の子、父のゝたまはせ置きしによりて、三井寺をば造り給ひしなり。 一一三 一 四十二代 持統天皇 一一四  次の帝、持統天皇と申しき。 一一四  天智天皇の第二の御女。 一一四  天武天皇の妃なり。 一一四  御母、山田大臣石川麻呂女、越智姫なり。 一一四  丁亥の年を元年として、第四年に位に即き給ひて、世を治り給ふこと十年なり。 一一四  七年と申しし正月にぞ、踏歌は始まり侍りし。 一一四  十年と申ししに位を去り給ひて、太上天皇と申し侍りき。 一一四 一 四十三代 文武天皇 一一四  次の帝、文武天皇と申しき。 一一四  天武天皇の御子に草壁皇太子と申しし皇子の第二子。 一一四  母、元明天皇なり。 一一四  丁酉の歳八月一日、位に即き給ふ。 一一四  御年十五。 一一四、一一五  世を治り給ふ事、十一年。 一一五  三年と申しし五月に、役行者を伊豆国へ流しつかはしてき。 一一五  その行者は大和国の人なり。 一一五  広くものを習ひ、深く三宝を仰ぎて、卅二といひし年よりこの葛城山に籠りゐて、卅余年の程、藤の皮を着物とし、松の葉を食物として、孔雀の神呪を保ちて、様々の験を施しき。 一一五  五色の雲に乗りて仙宮に至り、鬼神を使ひて水を汲ませ薪を採らす。 一一五  又、御嶽とこの葛城の峰とに「岩橋渡せ」とこの鬼神どもに言ひしかば、夜々巌を運びて、削り整へて既に渡し始め程に、行者心もとながりて、昼もたゞ形をあらはして渡せと責めしを、一言主神、わが容貌の醜きことを恥ぢて、なほ夜々ばかり渡し侍りしかば、行者怒りて神呪をもちてこの一言主神を縛りて谷底に投げ入れてき。 一一五  その後、一言主神、帝に近くさぶらひし人につきて、「我は帝の御ために悪しき心をおこす人を鎮むものなり。役行者、帝を傾け奉らんと謀る」と申ししかば、宣旨を下して行者を召しに遣はしたりしに、行者、空に飛び上りて、捕ふべき力も及ばで、使帰り参りてこの由を申ししかば、行者の母を召し捕られたりし折、術なくて母に代らんが為に行者参れりしを、伊豆の大島へは流しつかはしたりしに、昼は朝廷に従ひ奉りてその島に居、夜は富士の山に行きて行ひき。 一一六  六月に、帝、丈六の仏像を造り奉らんとて、仏師のよからんを求め給ひしに、その人なかりしかば、帝、大安寺に行幸ありて、仏の御前に掌を合せ願をおこし給ひて、よき仏師に会ひてこの仏を造り奉らんと申したひしに、その夜の御夢に一人の層ありて「この寺の仏を造り奉りしは化人なり。又来たるべきにあらず。たとひよき仏師に会ひ給ふとも、なほ斧のつまづきあるべし。たとひよき絵師に会ひ給ふとも、いかでか筆のあやまりなからん。たゞ大きならん鏡を仏の御前に懸けて、その映り給へらん影を礼し奉り給へ。かけるにもあらず造れるにもあらずして、三身具足し給はん。そのかたちを見るは応身の躰なり。その影をうかゞふは化身の相なり。その空しき子とを観ずるは法身の理なり。功徳のすぐれたること、これに過ぎたるなかるべし」と申しき。 一一六、一一七  帝は御夢さめ給ひて、如来の御願に応じ給ふ事を喜び給ひて、大きなる鏡を仏前に懸けて、五百人の僧を請じて供養し奉り給ひき。 一一七  真実の功徳と覚え侍りし事なり。 一一七  この頃もこの思ひをなしてする人侍らば、いかにめでたきことに侍らん。 一一七  四年と申しし三月に道昭和尚と申しし人の室の内ににはかに光満ちて香ばしき事限りなかりき。 一一七  道昭、弟子を呼びて、「この光を見るや」と問ひしに、弟子、見ゆるとしを答へしかば、道昭「ものな言ひそ」と言ひしほどに、室より光出でゝ寺の庭に廻りて、やゝ久しくて、その光、西をさして行き去りて後、道昭縄床に端坐して、命終りにしかば、弟子ども火をもちて葬りて、その骨を取らせんとせしに、にはかに風吹きて、灰だにもなく吹き失ひてき。 一一七、一一八  日本に火葬はこれになん始まり侍りし。 一一八  五年と申しし正月に不比等中納言になり給ひて、やがてその日、大納言になり給ひにき。 一一八  その月とぞ覚え侍る。 一一八  役の行者、伊豆国より召し返されて、京に入りて後、空へ飛び上りて、わが身は草座に居、母の尼をば鉢に乗せて、唐へ渡り侍りにき。 一一八  さりながらも本所を忘れがたくして、三年に一度、この葛城山と富士の峰へとは来たり給ふなり。 一一八  時々は会ひ申し侍り。 一一八  唐にては第三の仙人にておはする由ぞ語り給ふ。 一一八  二月丁末の日、釈奠は始まると承り侍りき。 一一八  三月廿一日に対馬より初めて銀を参らせたりしかば、大宝元年と年号を申しき。 一一九  この後より年号はあひ続きて今日まで絶えず侍るにこそ。 一一九  二年と申しし七月よりぞ、御子達馬に乗りて九重の内に出で入り給ふ事は止まりにし。 一一九  四年と申しし五月五日、大極殿の西の楼の上に慶雲見えしかば、年号を慶雲とかへられにき。 一一九  二年と申ししに、世の中の心地おこりて煩ふひと多かりしかば、追儺といふことは始まれりしなり。 一一九 一 卅四代 元明天皇 一二〇  次の帝、元明天皇と申しき。 一二〇  天智天皇の第四の御女。 一二〇  御母、蘇我大臣山田石川麻呂の女、嬪姪娘なり。 一二〇  この帝は文武天皇の御母におはします。 一二〇  文武天皇、いまだ三十にだに及び給はで亡せさせおはしましにし、いと心憂かりし事なり。 一二〇  その時、聖武天皇はいまだいとけなくおはしましき。 一二〇  八歳にやならせ給ひけん。 一二〇  この頃こそ二三にても位に即かせおはしますめれ、そのほどまではさる事なかりしかば、御母にて位に即かせ給へりしなり。 一二〇  慶雲四年七月十七日に位に即き給ふ。 一二〇  御年卅六。 一二〇  世を治り給ふ事、七年なり。 一二〇  五年正月十一日に武蔵より銅を初めて奉りしかば、年号を和銅とかへられにき。 一二〇  三月に不比等、右大臣になり給ふ。 一二〇  同二年五月に新羅の使、様々の物を相具して参れりしに、不比等その使に会ひ給ひにき。 一二一  「昔より執政の大臣の会ふ事はいまだなき事なり。しかれどもこの国の睦まじきことをあらはすなり」とのたまひしかば、使ども座をさりて拝み奉りて、うるはしく又座につきて、「使どもは本国の賤しき者どもなり。王の仰せを蒙りて、今京に参れり。幸ひのはばはだしきなり。しかるにかたじけなく相見え奉りぬ。喜びおそるゝ事限りなし」と申しき。 一二一  国王・大臣も時に従ひて振舞ひ給ふべきにこそ。この頃ならば、片趣きに異国の人に一の人の会ひ給ふ、なき事なりなどぞ謗り申さまし。 一二一  同三年三月に難波より大和の平城の京へ都遷りて、左右京の條坊を定め給ひき。 一二一  これより前々も代々常に都に遷り侍りしかども、ことならぬをば申し侍らず。 一二一  この月に不比等、興福寺を山科より奈良の京に移し建て給ひき。 一二一  同六年、国々の郡の名を記し、様々の出で来る物どもの数を目録せさせしめ給ひき。 一二二  同七年十月、維摩会を山階寺に移し行ひ給ひき。 一二二  この会は九ところにて行はれしに、その事中絶えて、今年四十二年にぞなり侍りし。 一二二  同八年九月三日、位を御女の元正天皇の氷高内親王と聞えしに譲り奉り給ひき。 一二二 一 卅五代 元正天皇 一二二  次の帝、元正天皇と申しき。 一二二  文武天皇の御姉。 一二二  これも元正天皇の御腹におはします。 一二二  元正天皇位を去り給ひし時、聖武天皇を東宮と申ししかば、位を継ぎ給ふべかりしかども、その年ぞ御元服し給ひて、御年十四になり給ひしに、猶いまだいとけなくおはすとて、この帝は御伯母にて譲りを得給ひしなり。 一二二、一二三  和銅八年九月三日、位に即き給ふ。 一二三  御年卅五。 一二三  世を治り給ふ事、九年なり。 一二三  年号かはりて霊亀と申しき。 一二三  三年と申しし九月に帝、美濃国不破の山の出湯に行幸ありき。 一二三  その湯を浴みし人、白髪かへりて黒くなり、目暗かりし者たちまちに明らかになり、痛き所を洗ひしかば、すなはち癒えにき。 一二三  かくて帝帰り給ひて、十一月七日、年号を養老とかへられにき。 一二三  二年と申ししに不比等、律令を選びて帝に奉り給ひき。 一二三  同三年と申しし二月に百官をはじめて笏を持つ事は始まり侍りしなり。 一二三  同四年八月三日、不比等亡せ給ひにき。 一二四  九月に大隅、日向の国に朝廷に従ひ奉らぬ者どもありしかば、宇佐の宮の禰宜、宣旨承りて、軍をおこしてこれらを討ち平げてき。 一二四  その時に宇佐の宮、託宣し給ひて、「戦ひの間、多くの人を殺せり。これによりて放生をすべし」とのたまはせしかば、これより諸国の放生会は始まりしなり。 一二四  同五年八月三日、帝、太上天皇もろともに不比等の御果に山階寺の内に北円堂を建て給ひき。 一二四  同八年二月四日、帝位を東宮に譲り奉り給ひて、太上天皇と申しき。 一二四 一 卅六代 聖武天皇 一二五  次の帝、聖武天皇と申しき。 一二五  文武天皇の御子。 一二五  御母、不比等の御女、皇太后宮宮子なり。 一二五  養老八年二月四日、位に即き給ふ。 一二五  御年廿五。 一二五  世を治り給ふ事、廿五年なり。 一二五  年号を神亀とかへられにき。 一二五  二年と申ししに唐土より柑子の種を持て来たれりき。 一二五  これより初めてこの国には出で来初めしなり。 一二五  三年と申しし七月に太上天皇例ならずおはしましゝ御祈りに、帝、山階寺の内に東金堂をば建て給ひしなり。 一二五  その年、行基菩薩山崎の橋を造りて、その上に法会を設けて供養し給ひしに、にはかに大水出でゝ、流れ死ぬる人多かりき。 一二五  四年と申しし三月廿日、初瀬は供養せられしなり。 一二六  行基菩薩ぞ導師にておはせし。 一二六  天平五年七月に盂欄盆は始まりしなり。 一二六  同六年正月十一日に光明皇后、御母の橘の氏の御ために山階寺の内に西金堂を建て給ひき。 一二六  同七年、吉備の大臣、唐土に留められて、日月を封じたりければ、十日ばかり世の中暗くなりにけり。 一二六  この事を占はしめけるに、「日本国の人を留めて帰さゞるによりて、秘術をもちて日月を隠せるなり」と申しければ、この国へ帰り来たれりしなり。 一二六   同銃二年九月に大宰少弐広継と申しし人は、宇合の子におはす。 一二六  その人一万人の兵をおこして、帝を傾け奉らんと謀り奉るといふ事聞えて、東人といふ人に国々の軍一万七千人を相具して、八幡の宮に祈り申して戦はしめに遣はす。 一二六、一二七  十一月に帝、伊勢太神宮に行幸し給ひてこの事を祈り申し給ひしに、この月十一日に肥前国松浦の郡にて少弐鎮まり給ひしところなり。 一二七  今、鏡の宮とておはします。 一二七  同十三年六月戊寅の日の夜、京中の条々に飯降りて侍りき。 一二七  同十四年十一月に陸奥に赤き雪降りて侍りき。 一二七  十五年十月十五日、淡海の信楽京にて東大寺の大仏を始め給ひき。 一二七  同十七年八月廿三日に東大寺の大仏の座を築き始め給ふ。 一二七  同十九年九月廿九年、大仏を鋳奉り給ふ。 一二七  同廿年正月に陸奥より金九百両を奉れりき。 一二七  日本国に金出で来る事、これより始まれりき。 一二七  これによりて四月十八日に年号を天平感宝元年とかへられにき。 一二七  されどもこの年号はやがて又かはりにしかば、年代記などには入り侍らざなり。 一二七、一二八  七月二日、位を去りて、御髪下ろして太上天皇とぞ申し侍りし。 一二八  御年五十にならせ給ひしなり。 一二八 一 四十七代 孝謙天皇 一二八  次の帝、孝謙天皇と申しき。 一二八  聖武天皇の御女。 一二八  御母、不比等の御女、光明皇后におはす。 一二八  天平感宝元年七月二日、位に即き給ふ。 一二八  御年卅一。 一二八  世を治り給ふ事、十年なり。 一二八  御弟に東宮おはしましゝかども、神亀五年に御年二歳にて亡せ給ひにしかば、この帝、位を継ぎおはしましき。 一二八  天平感宝元年十月廿四日に東大寺の大仏を鋳奉りをはりにき。 一二八  三年の程、八度といふに事果てにしなり。 一二八  十一月に八幡の宮、託宣し給ひて、十二月に筑紫より京へ移りおはしましき。 一二八  梨原に宮造りして斎ひ奉りしなり。 一二八  七日丁亥、東大寺供養侍りき。 一二八  行幸ありき。 一二八  又聖武天皇は太上天皇とて同じくこの供養にあはせ給ひき。 一二八  八幡の宮もおはしましき。 一二八  めでたく侍りし事どもなり。 一二八、一二九  皆人知り給へる事なり。 一二九  天平勝宝四年三月十四日に東大寺の大仏に初めて金を塗り奉りき。 一二九  四月九日、万僧を請じて供養し奉り給ひき。 一二九  今年ぞかし。 一二九  道鏡内裏へ参りて如意輪法を行ひしに程に、やうやう帝の御覚え出で来始まりしかば、弓削の法皇と申ししはこの人なり。 一二九  宝字二年、帝、位を東宮の譲り奉り給ひて、太上天皇と申しき。 一二九  水鏡 下 一 卅八代 廃帝 一三三  次の帝、廃帝と申しき。 一三三  天武天皇の御子に一品舎人親王と申しし第七の御子なり。 一三三  御母、上総守老の女なり。 一三三  天平方字元年四月に東宮に立ち給ふ。 一三三  御年廿五。 一三三  同二年八月一日、位に即き給ふ。 一三三  御年廿六。 一三三  位にて六年ぞおはしましゝ。 一三三  この帝、東宮に立ち給ひし折は、ゆゝしきども事侍りき。 一三三  孝謙天皇の御時、東宮は新田部親王の子、道祖王とておはせしに、聖武天皇亡せさせ給ひて諒闇にてありしに、この東宮、このほどをも憚り給はず、女の方にのみ乱れ給へりしかば、孝謙天皇「折節も知り給はず、かくなおはせそ」と申させ給ひしかども、つゆその言に従ひ給はざりしかば、天平勝宝九年三月廿九年、大臣以下「この東宮は、聖武天皇の御すゝめに立て奉りき。しかるにその事をも思ひ知り給はず、かくみだりがはしき心のし給へるをば、いかゞし奉るべき」とのたまはせしに、人々みな「たゞ仰せ言従ふべし」と申ししかば、東宮を取り奉り給ひて、四月に大臣以下を召して、「東宮には誰をか立て奉るべき」と定め申すべき由、仰せ言ありしに、右大臣豊成、式部卿永手は、「前の東宮の御兄、塩焼の王、立ち給ふべし」と申しき。 一三四  摂津体夫珍努、左大弁古麿は、「池田王、立ち給ふべし」と申しき。 一三四  大納言仲麻呂は、「臣を知るほ君にはしかず。子を知るは父にはしかず。たゞ帝の御心にまかせ奉る」と、おのおの思ひ思ひに申ししかば、帝のたまはく、「御子達の中に舎人、新田部、この二人はむねとおはしませし人ばれば、新田部親王の子を東宮に立てたりつれども、かく教へに従ひ給はずなりぬれば、今は舎人親王の子を立て申すべきに、おのおの咎どもおはす。そのなかに、大炊王は年若くおはせど、させる咎聞えず。この人を立てんと思ふ。いかゞあるべき」とのたまはせき。 一三四  大臣以下みな仰せ言に従ふべき由、申しき。 一三四  この定めよりさきに、仲麿の大納言、この大炊王を迎へとり奉りて、わが家に据ゑ奉りしかば、内よりの御使その殿に参りて迎へ奉りて、東宮には立ち給ひしなり。 一三四、一三五  大炊王と申すは、すなはちこの帝におはします。 一三五  かくてのち、この東宮に選び捨てられ給ひつる王達、又、心ざしある人々あまた寄り合ひて、帝、東宮を傾け奉り、仲麿を失はんとすといふ事、おのづから漏り聞えしかば、仲麿内参りてこの由を申ししかば、さまざまの罪を行はれき。 一三五  そのほどのことども、推し量り給ふべし。 一三五  このほどは道鏡もいまだほろかに参りつかうまつらざりしかば、この仲麿、帝の御覚え並びなかりき。 一三五  天平宝字二年八月廿五日、仲麿大保になりき。 一三五  これは右大臣をかく申ししなり。 一三五  やがてその日、大将になりて、もとの藤原の姓に恵美といふ二文字を加へ賜はせき。 一三五  これらもみな太上天皇の御覚え並びなくてせさせ給ひしなり。 一三五  恵美といふ姓も御覧ずるたびに笑ましく思すとて賜はするとぞ申しあひたりし。 一三五  又、仲麿といふ名を変へておしかつとぞ申しし。 一三六  同三年六月二日、道のほとりに果物の木を植うべき由、仰せ下されき。 一三六  この事は、東大寺の普昭法師と申す人の申し行ひ侍りしなり。 一三六  そのゆゑは、国々の民、行き行き絶ゆる事なし。 一三六  その蔭に休み、その実をとりて疲れを支へんとなり。 一三六  いみじき功徳と覚え侍りし事なり。 一三六  八月三日、鑒真和尚と申しし人、聖武天皇の御ために、招提寺を建て給ひき。 一三六  同六年六月、太上天皇、尼になり給ひてのたまはく、「われ菩提心をおこして尼になりぬれども、帝ことにふれて恭しき気さらにおはせず。かやうに言はるべき身にはあらず。世の政の常の小事をば行ひ給へ。世の大事、賞罰をば、われ行はん」とのたまはせて、この後、世を行ひ給ひき。 一三六、一三七  同七年九月に道鏡少僧都になりて、常に太上天皇の御傍らにさぶらひて、御覚え並びなくなりしかば、恵美の大臣、私に太政官の印をさして事を行ふといふことを、大外記比良麻呂忍びやかに申したりしかば、十一日に太上天皇、少納言を遣はして、鈴印を収めさせしめ給ひしを、恵美の大臣聞きつけて、その途にわが子の宰相といひしをやりて、奪い止めさせしかば、又、太上天皇人を遣はして射殺さしめ給ひしに、大臣の使又会ひ、互に射殺してき。 一三七  かゝる世の乱れ出で来て、大臣官位とられ、関を固め、軍ををこして討たしめむとし給ひしかば、大臣その夜逃げて近江の国へ行きしに、御方の軍、外の道よりさきに至りて、瀬田の橋を焼きてき。 一三七、一三八  大臣これを見て、高嶋の郡の方へ逃げて、少領といふものゝ家に泊れりしに、星の大きさ甕のほどなりしが、その屋の上に落ちたりし、いかなる事にてか侍りけん。 一三八  さて越前の国に行きて、相具したりし人々を、「これは帝におはす。これは上達部なり」など偽りいひて、人の心をたぶらろかしき。 一三八  御方の軍追ひ至りて攻めしかば、大臣又近江の国へ帰りて、船に乗りて逃げんとせしほどに、悪しき風吹きて溺れなんとせしかば、船より下りて相戦ひしほどに、十八日に大臣討ち取られにき。 一三八  その頭をとりて京へ持て参れりしにこそ、同じ大臣と申せども、世の覚えめでたくおはせし人の、時の間にかくなり給ひぬる、あはれに侍りし事なり。 一三八  又心憂きこと侍りき。 一三九  その大臣の女おはしき。 一三九  色容めでたく、世に並ぶ人なかりき。 一三九  鑒真和尚の「この人、千人の男にあひ給ふ相おはす」とのたまはせしを、たゞうちあるほどの人にもおはせず、一二人のほどだにもいかでかと思ひしに、父の大臣討ち取られし日、御方の軍千人悉くに、この人犯してき。 一三九  相は恐ろしきことにぞ侍る。 一三九  廿日、太上天皇のたまはく、「仲麿、前の東宮の兄の塩焼の王を位に即けんといふことを謀りて、官の印をさして国々に遣はして、人の心をたぶろかし、関を固め、兵をおこし、罪もなかりける兄の豊成の大臣を讒し申して、位を退けたりけり。この事、仲麿が偽れる事と知り給ひぬ。 豊成を元のごとく大臣の位にをさめ給ふ。又この禅師、朝夕に仕うまつれる有様を見るに、いと尊し。われ髪を剃りて仏の御袈裟を着てあれども、世の政をせざるべきにあらず。仏も、経に、『国王位に即き給はん折は、菩薩戒を受けよ』とこそ説き置き給ひたれ。これを思へば、尼となりても世の政をせむに何の障りかあるべき。しかれば、帝の家出していませむに、又家出してあらん大臣もあるべしと思ひて、この道鏡禅師を大臣禅師と位を授け奉る」とのたまはせて、十月九日、太政天皇、兵をおこして内裏を囲み給ひしかば、宮の内に候ひし人々みな逃げ失せにしかば、帝、御母、又その仕り人二三人ばかりを相具して、徒歩にて図書寮の片におはして立ち給へりしにこそは、少納言向ひ奉りて、位をおろし奉る由の宣命をば読みかけ奉りしか。 一三九、一四〇  その御言葉には「位を保ち給ふべきうつはものにおはせぬにあはせて、仲麿と同じ心にて、われを害はんと謀り給ひけり。しかれば帝の位を退け給ひて、親王の位を賜ふ」とて、淡路の国へ流し奉り給ひてき。 一四〇  心憂く侍りし事なり。 一四〇 一 四十九代 称徳天皇 一四一  次の帝、称徳天皇と申しき。 一四一  これは孝謙天皇の又かへり即き給へりしなり。 一四一  天平宝字八年十月九日、位に即き給ふ。 一四一  御年四十七。 一四一  世を治り給ふこと五年なり。 一四一  同九年に淡路廃帝、国土を呪ひ給ふによりて、日照り大風吹きて、世の中悪くて、飢ゑ死ぬる人多かりきと申しあひたりき。 一四一  十月に廃帝怨みの心に堪へずして垣を越えて逃げ給ひしを、国守兵をおこして止め申ししかば、帰り給ひて明くる日亡せ給ひにき。 一四一  閏十月二日、大臣禅師道鏡、太上大臣になりき。 一四一  十一月に大嘗会ありしに、われ仏の御弟子となりとて、家出の人もあひ交りてつかはるべき由仰せられき。 一四二  今年西大寺を造り給ひて金銅の四天王を鋳奉り給ひしに、三躰は成り給ひて、いま一躰の、七度まで鋳損はれ給ひしかば、帝誓ひ給ひて、「もし仏徳によりて、ながく女の身を捨てゝ仏となるべくは、銅の沸くにわが手を入れん。この度、鋳られ給へ。もしこの願い叶ふべからずは、わが手焼けそこなはるべし」とのたまひに、御手にいさゝかなる疵なくして、天王の像なり給ひにき。 一四二  神護景雲二年十月廿日、道鏡に法皇の位を授け給ひき。 一四二  神護景雲三年七月に、和気清麿が姉の尼、偽りて八幡の宮の御託宣といひて、道鏡を位に即け給ひたらば、世の中おだしくよかるべき由を申しき。 一四二、一四三  道鏡この事を聞きて喜ぶ事限りなかりしほどに、八幡の宮、帝の御夢に見え給ひて、「我が国は昔より只人を君とすることは、いまだなき事なり。かくよこさまなる心あらむ心あらむ人をば、速やかに払ひのくべし」とのたまはせしを、道鏡大きに怒りをなして、帝を勧め奉りて、清麿を使として宇佐宮へ奉りて、この事を申し請はしめ奉りしに、託宣し給ひし事、帝の御夢にいさゝかも違はざりしかば、清麿「この事きはまりなき大事なり。宣託ばかりは信じがたかるべし。なほそのしるしをあらはし給へ」と祈り申ししかば、すなはち容を現はし給ひき。 一四三  御たけ三丈ばかりにて、望月のごとくにて光輝き給へり。 一四三  清麿、肝魂も失せて、え見奉らざりき。 一四三  この時に重ねて託宣したまはく、「道鏡、へつらへる幣帛をさまざまの神たちに奉りて、世を乱らんとす。われ天の日嗣の弱くなりゆくことを嘆き、悪しき輩のおこり出でんとする事を憂ふ。彼は多く我は少なし。仏の御力を仰ぎて、帝の末を助け奉らんとす。速やかに一切経を書き、仏像をつくり、最勝王経一万巻を読み奉り、ひとつの伽藍を建てゝ、この悪しき心ある輩を失ひ給へと申すべし。この事、一言葉も落すべからず」とのたまはせき。 一四三、一四四  清麿帰り参りてこの由を申ししかば、道鏡大きに怒りて、清麿が官を取り、大隅の国へ流し遣はして、よほろすぢを断ちてき。 一四四  清麿悲しびをなして、輿に乗りて宇佐宮へ参りしに、猪三万ばかり出で来たりて、道の左右に歩み連なりて十里ばかり行きて、山の中へ走り入りにき。 一四四  かくて清麿宇佐に参り着きて拝みし奉りにしに、すなはちもとのごとく立ちにき。 一四四  託宣し給ひて、神封の綿八万余屯を賜はせき。 一四四  同四年三月十五日、帝由義宮に行幸ありき。 一四四  道鏡日にそへて御覚え盛りにて、世の中すでに失せなんとせしを、百川憂へ嘆きしかども力も及ばざりしに、道鏡、帝の御心をいよいよゆかし奉らむとて、思ひがけぬものを奉れたりしに、あさましきこと出で来て、奈良の京へ帰らせおはしまして、様々の御薬どもありしかども、その験さらに見えざりしに、ある尼の一人出で来たりて、いみじき事どもを申して、「やすくおこたり給ひなん」と申ししを、百川怒りて追ひ出してき。 一四四、一四五  帝つひにこのことにて八月四日亡せさせ給ひにき。 一四五  細かに申さばおそりも侍り。 一四五  このことは百川の伝にぞ細かに書きたると承る。 一四五  この帝、只人にはおはしまさゞりしにこそ。 一四五  かやうの事も世の末を戒めむのためにやおはしましけんとぞ覚え侍りし。 一四五 一 五十代 光仁天皇 一四五  次の帝、光仁天皇と申しき。 一四五  天智天皇の御子に施基御子と申しし第六におはす。 一四五、一四六  母、贈太政大臣紀諸人のおんな、贈皇后橡姫なり。 一四六  神護景雲四年八月四日、称徳天皇亡せさせおはしましにしかば、位を継ぎ給ふべき人もなくて、大臣以下おのおのこの事を定め給ひしに、天武天皇の御子に長親王と申しし人の子に大納言文屋浄三と申す人を位に即け奉らむと申す人々ありき。 一四六  又、白壁王とてこの帝のおはしましゝを即け給へらんと申す人々もありしかども、なほ浄三をと申す人のみ強くてすでに即き給ふべきにてありしに、この浄三「我が身その器に叶はず」とあながちに申し給ひしかば、その弟の宰相大市と申ししを、さらば即け申さむと申すに、大市うけひき給ひしかば、すでに宣命を読むべきになりて、百川・永手・良継、この人々、心をひとつにて目をくはせて、密かに白壁王を太子と定め申す由の宣命をつくりて、宣命使を語らひて、大市の宣命をば巻き隠してこの宣命を読むべき由を言ひしかば、宣命使俄かに立ちて読むを聞くに、「事、俄かにあるによりて、諸臣たちはからく、白壁王は諸王の中に年たけ給へり。又、先帝の功あらゆるゑに太子と定め奉る」といふ由を読むを聞きて、この大市をたてんと言ひつる人々あさましく思ひて、とかくいふべき方もなくてありつるほどに、百川やがて官を催して白壁王を迎へ奉りて、帝と定め奉りてき。 一四六、一四七  この帝の位に即き給ふ事は、ひとへに百川のはかり給へりしなり。 一四七  廿一日に道鏡をば下野国へ流しつかはす。 一四七  大納言弓削清人を土佐へ流しつかはす。 一四七  この清人は道鏡が弟なり。 一四七  十一月一日、位に即き給ふ。 一四七  御年六十二。 一四七  世を治り給ふ事、十二年なり。 一四七  粉河寺は今年建てられしなり。 一四八  宝亀三年に帝、井上の后と博奕し給ふとて戯れ給ひて、「われ負けなば、盛りならむ男を奉らむ。后負け給ひなば、色・容並びなからむ女を得させ給へ」とのたまひて打ち給ひしに、帝負け給ひにき。 一四八  后まめやかに帝を責め申し給ふ。 一四八  帝、戯れとこそ思しつるに、こと苦りて思ひわづらひ給ふほどのに、百川この事を聞きて、「山部親王を后に奉り給へ」と帝にすゝめ申しき。 一四八  この山部親王と申すは桓武天皇なり。 一四八  さて、百川、又、親王の御もとへ参りて、「帝このことを申し給はんずらん。あなかしこ否び申し給ふな。思ふやうありて申し侍るなり」と申ししほどに、帝、親王を呼び奉り給ひて、「かゝる事なんある。后の御許へおはせ」と申し給ひしに、親王恐れ畏まりて「あるべき事に侍らず」と申してまかり出で給ひしを、たびたび強ひ給ひしかどもなほ承り給はざりしかば、「孝といふは父のいふことに従ふなり。われ年老いて力堪へず。速やかに后の許へ参り給へ」と責めのたまはせしかば、え逃れ給はずして、つひに后の御許へ参り給ひにき。 一四八、一四九  さて后、この親王をいみじきものにし奉り給ひし、いとけしからず侍りし事なり。 一四九  この后御年五十六になり給ひき。 一四九  この御腹の他戸の親王は帝の第四の御子にて、御年などもいまだいとけなくおはしまして、今年十二にぞなり給ひしかども、この后の御腹にておはせしかば、兄たちをおき奉りて去年の正月に東宮に立ち給ひしぞかし。 一四九  后、御年もたけ、東宮の御母などにて、いみじく重々しくおはすべかりしに、この山部親王、御継子にて御年などもことのほか似合ひ給はず。 一四九  今年卅六になり給ひしを、またなきものと思ひ申し給へりし、いと見苦しくこそ侍りしか。 一四九  常にこの親王をのみ呼び奉り給ひて、帝を疎くのみもてなし奉り給へば、帝、恥ぢ恨み給ふ御心やうやう出で来けり。 一四九  百川このほどの事どもをうかゞひ見るに、后蠱業をして御井に入れさせ給ひき。 一五〇  帝をとく失ひ奉りて、我が御子の東宮を位に即け奉らんといふ事どもなり。 一五〇  その井に入れたる物を、ある人とりて宮の内にもて扱ひしかば、此の事みな人知りにき。 一五〇  百川、帝に「此の事すでに顕れにたり。又、后宮の人八人、この頃よこざまなる事をのみ仕うまつりて、世の人堪ふべからず。人の妻を奪ひて、やがてその男の前にてゆゝしきわざをして見せ、又、その男を殺し、かやう事申し尽くすべからず。この八人を捕へさしめて人の憂へを鎮めむ」と申ししかば、帝、申ししまゝに許し給ひしかば、百川兵を遣はして召し捕りしほどに、その八人を打ち殺してき。 一五〇  その使、帰りてこの由を申すに、后、帝のおはしますところへ怒りておはして、「老朽ちはおのれが老いぼれたあるおば知らずして、我が宮人どもをばいかで殺さするぞ」と罵り申し給ひしかば、百川この事を聞きて「あさましく侍る事なり。后をしばし縫殿寮に渡し奉りてころしめ奉らむ。又、東宮も悪しき御心のみおはす。世のためいといと不便に侍り」と申ししかば、帝「よからんさまに行ふべし」とのたまひしかば、三月四日、后の位をとり奉りて、出で給ふべき由、啓せしかども、后さらに出で給はずして、しのびやかに巫どもを召し寄せてさまざまの物どもを賜はせて、帝を呪咀し奉り給へろしわ、百川聞きつけて、巫を尋ね召さしめしに、巫逃げ失せにしかば、その巫の親しかりしものを召して、「さらに恐りをなすべからず。ありのまゝにこの事を申さば、我かならず位を申し授くべし」といひしかば、すなはちこの由をかの巫に告げ言ひしかば、巫謀られて申していはく、「君をあやまち奉らんと謀れる罪は、逃れ難かるべき事なり。后宮、われらを召してさまざまの物賜はせたりしかども、いかにすべしとも覚え侍らで、たゞ帝の御ために、かへりて寺々に誦経にして悪しき心つゆ起さずなり侍りにき」と言ひき。 一五〇、一五一、一五二  この由を百川つぶさに帝に申ししかば、その巫どもを召し寄せて重ねて問はしめさせ給ひしに、おのおのみな落ち伏しにき。 一五二  帝この事を聞こし召して涙流し給ひて、「我、后のためにいさゝかのおろかなる心なかりつるに、いま此の事あり。いかにすべき事ぞ」と仰せ言ありしかば、百川申していはく「この事、世の中の人みな聞き侍りにたり。いかでださてはおはしますべき」と申ししかば、帝「まことにいかでかはたゞもあらん」とのたまはせて、后の御封などみな停め給へりしかども、后さらに憚り給ふけしきなくて、たゞ帝をさまざまのあさましき言葉にてみだりがはしく罵り申し給ふことよりほかになし。 一五二  百川「東宮をもしばし退け奉りて心鎮めたてまつらん」と申ししかば、帝許し給ひき。 一五二  百川偽りて宣命を作りて人々をもよほして、太政官にして宣命を読ましむ。 一五二  皇后及び皇太子を放ち追ひ奉る由なり。 一五二  この事をある人帝に申すに、帝大きに驚き給ひて、百川を召して「后なほ懲り給はず。しばし東宮退けむとこそ申し乞ひつるに、いかにかゝる事はありけるぞ」とのたまふに、百川申していはく「退くとは永く退くる名なり。母罪あり。子驕れり。まことに放ち追はんに足れる事なり」と少しも私あるけしきなく、ひとへに世のためと思ひたる心、容に顕れて見えしかば、帝かへりて百川に怖ぢ給ひて、ともかくものたなはせずして内々に歎き悲しみ給ふ事かぎりなかりき。 一五二、一五三  これも百川の計略にて、位に即き給へりし功労の量りもなかりしかば、たゞ申すまゝにておはしましゝなり。 一五三   同四年正月十四日に山部親王の中務卿と申しておはせし、東宮に立ち給ふ。 一五三  この事ひとへに百川の力なり。 一五三  等定と申しし僧を、百川、梵天・帝釈を造り奉りて行ひ奉りき。 一五三  大臣已下、帝に申していはく、「儲けの君はしばしもおはせずしてあるべき事ならず。速やかに立て奉り給へ」と申ししかば、帝「誰をか立つべき」とのたまはせしかば、百川進みて、第一御子山部親王を立て申し給ふべし」と申しき。 一五四  帝仰せらるゝやう「山部は無礼の親王なり。我いかに言ふとも、いかで后をば犯すべきぞ」とのたまはせしを、百川申していはく「この仰せ言いはれなく侍り。父の言ふことを違へざるを孝子とはいふなりと仰せ言ありしかばこそ、親王は仰せに従ひ給ひしか。初め勧め給ふも帝におはします。後に嫌ひ給ふも帝なり。いかにかくは仰せ言あるぞ」と申すに、浜成申していはく「山部親王は御母卑しくおはす。いかでか位に即き給はん」と申ししかば、帝「まことにさる事なり。酒人内親王を立て申さむ」とのたまひき。 一五四  浜成又申していはく「第二御子稗田親王、御母卑しからず。この親王こそ立ち給ふべけれ」と申ししを、百川目を怒らかし太刀を引きくつろげて、浜成を罵りていはく、「位に即き給ふ人、さらに母の卑しき尊きを選ぶべからず。山部親王御心めでたく、世の人もみな従ひ奉る心あり。浜成申すこと道理にあらず。我、命をも惜しみ侍らず。又、二心なし。たゞ早く帝の御ことはりをかうぶり侍らん」と責め申ししかば、帝ともかくものたまはで立ちて内へ入り給ひにき。 一五四、一五五  百川この事を承り聞かんとて、歯をくひしばりて、少しも眠らずして、四十余日立てりき。 一五五  帝、百川が心の強く弛ばざる事を御覧じて、「さらばとく山部親王の立つべきにこそ」としぶしぶに仰せ出だし給ひしを、御言葉いまだ終らざりしに、庭に下りて手を打ち喜ぶ声おびたゞしく高くして人々みな驚き騒ぎゝ。 一五五  百川やがて官々を召して、山部親王の御許へ奉りて、太子に立て奉りにき。 一五五  帝あはたゞしく思してあきれ給へるさまにてぞおはしましゝ。 一五五  浜成、色を失ひ、朽ちたる木などのごとくに見え侍りき。 一五五  百川、君の御ために力を尽くし身を捨つる事、古もかゝる例なしと人々申しあへるき。 一五五  同六年四月廿五日、井上の后亡せ給ひにき。 一五六  現身に龍になり給ひにき。 一五六  他戸の親王も亡せ給ひにきといふこと世に聞え侍りき。 一五六  同七年九月に、二十日ばかり、夜毎に瓦、石、土塊降りき。 一五六  つとめて見しかば、屋の上に降り積れりき。 一五六  同八年冬、雨も降らずして世の中の井の水みな絶えて、宇治川の水すでに絶えなんとする事侍りき。 一五六  十二月に百川が夢に、鎧冑を着たるもの百余人来たりて我を求むとたびたび見えき。 一五六  又、帝、東宮の御夢にもかやうに見えさせ給ひて悩ましく思されき。 一五六  これみな井上の后、他戸の親王の霊と思して、帝深く憂へ給ひて、諸国の国分寺にて金剛般若を読ましめさせ給へりき。 一五六  同九年二月に他戸の親王いまだ世におはすといふことを、ある人帝に申しき。 一五六、一五七  帝この親王を東宮に返し立てんの御心もとより深かりしかば、人を遣はして見せしめ給ひしに、百川、御使を呼び寄せて、「汝、あなかしこまことを申す事なかれ。もし申しては国は傾きなんずるぞ。安く生けらむものと思ふな」と言ひしかば、この御使怖ぢわなゝきながら行きて見るに、亡せ給ひにきと聞え給ひし他戸の親王はいさゝかつゝがもなくておはするものか。 一五七  あさましく思ひながらこの御使帰り参りて百川に怖ぢ恐りて「ひがごとに侍り。あらぬ人なり」と申ししを、親王の乳母、仕うまつり人集まり参りて御使とかたみに争ひ申すに、御使誓言を立てゝ、もし偽れる事を申さば二つの目抜け落ち侍るべし」と申ししかば、人みなひがごとゝ思ひて親王を追ひ棄て申して後いくばくのほどもなくて、その御使の目二つながら抜け落ち侍りにし、験にあさましく侍りしことなり。 一五七  十月に東宮、伊勢太神宮へ参り給ひき。 一五七  過ぎぬる春の頃、御病重くてさまざまにせさせ給ひしかども、その験なかりき。 一五七、一五八  その時の御願にて怠り給ひて後、参らせ給ひしなり。 一五八  今年とぞ覚え侍る、伝教大師、大安寺に行表と申しし僧の弟子になりて法師になり給ひしは。 一五八  年十二になり給ふとぞ承りし。 一五八  もと近江の国の人におはしき。 一五八  同十年五月に安倍の仲麿、唐土にて亡せにけりと聞え侍りき。 一五八  家乏しくして後の事など叶はずと、帝聞こし召して、絹百疋、綿さん百屯をなん賜はせし。 一五八  この人なり、唐土にて月の出づるを見て、この国の方を思ひ出して「三笠の山に出でし月かも」と詠めりき。 一五八  七月五日、ある巫、百川に「この月の九日、物忌かたくすべし。あなかしこ」と言ひしかば、百川常に夢見騒がしきことを思ひあはせて、巫の言を頼みて、九日になりて戸を鎖し固めて籠り居たるほどに、秦隆といふ僧は敏頃百川が祈りをしてあひ頼めりしものなり。 一五九  その僧の夢に井上の后を殺すによりて、百川が首をきる人ありと見て驚きさめて、すなはち百川が許へ走り行きてこのことを告げんとするに、百川、巫の教に従ひてこの秦隆にあはず。 一五九  秦隆爪弾きをして帰りにき。 一五九  この日、百川にはかに亡せにき。 一五九  年卅八になんなりし。 一五九  私の心なく世のためとてこそは申し行へりしかども、つひにかく又なりにし。 一五九  凡夫の心はいかに侍るべきにか。 一五九  帝「わが位を保てることはひとへに百川が力なり。永くその容をも見るまじきこと」とのたまひ続けて泣き歎かせ給ふこと限りなかりき。さらなり。又、東宮の御歎き思しやるべし。御容も変るほどにならせ給ひしかば、見奉る人「いかにかくならせ給へるぞ」と申ししかば、「百川わがために身をも惜しまず力を尽くせりき。我、させる報なし。今、図らざるに命失ひつ。この事を思ふに、かくなれるなり」とのたまひし、まことにことはりと覚え侍りし事なり。 一五九、一六〇  天応元年四月三日、帝、位を東宮に譲り奉り給ひて、太上天皇と申しき。 一六〇 一 五十一代 桓武天皇 一六〇  次の帝、桓武天皇と申しき。 一六〇  光仁天皇の御子。 一六〇  御母、贈正一位乙継女、皇大夫人高野新笠なり。 一六〇  宝亀四年正月十四日、東宮に立ち給ふ。 一六〇  御年卅七。 一六〇  そのほどの事、百川が力を入れ奉りしさま、光仁天皇の御事の中に申し侍りぬ。 一六〇、一六一  天応元年四月廿五日、位に即き給ふ。 一六一  御年四十五。 一六一  世を治り給ふ事、廿四年なり。 一六一  延暦元年五月四日、宇佐の宮託宣し給ふやう、「われ、無量劫の中に三界に化生して、方便をめぐらして衆生を導く。名をば大自在王菩薩となんいふ」とのたまひき。 一六一  尊く侍る事なり。 一六一  同三年五月七日、蛙三万ばかり集まりて三丁ばかりにつらなりて、難波より天王寺へ入りにき。 一六一  この事、都遷りのあるべき相なりと申しあへりしほどに、廿六日に山城の長岡に京たつべしといふこと出で来て、人々を遣はしてその所を定めさせ給ひき。 一六一  六月に長岡の京に宮造りを始めさせ給ふ。 一六一  諸国の正税六十八万束を大臣已下参議已上に賜ひて、長岡の京の家を造らしめ給ふ。 一六一  十一月八日の戌の時より丑の時まで、空の星走り騒ぎき。 一六一  十一日戊申、長岡の京に遷り給ふ。 一六一、一六二  同四年七月中の十日頃に、伝教大師比叡の山に登りて住み始め給ひき。 一六二  生年十九にぞなり給ひし。 一六二  八月に奈良の京へ行幸侍りき。 一六二  去年、都、長岡に遷りにしかども、斎宮はなほ奈良におはしましゝかば、伊勢へ下らせ給ふべき程近くなりて行幸ありしなし。 一六二   長岡の京には中納言種継留守にて候ひしを、帝の御弟の早良の親王、東宮とておはせしが、人を遣はして射殺しさしめ給ひてき。 一六二  事の起りは、帝、常にこゝかしこに行幸し給ひて、世の政を東宮にのみ預け奉りしかば、天応二年に佐伯今毛人といひし人を宰相になさせ給ひたりしを、帝帰らせ給ひたりしに、この「佐伯の氏のかゝることはいまだ侍らず」と帝に申ししかば、宰相をとり給ひて三位をせさせ給ひてしを、東宮よに口惜しきことに思して、「種継を賜はらん」と申し給ひしを、帝むづかり給ひて、さらに聞き給はずして、この後、東宮に政を預け奉り給ふ事なくなりしにを、安からず思して、その隙を年頃窺ひ給ひつるに、よき折節にて、かくし給ひつるなり。 一六二、一六三  帝、奈良より還り給ひにき。 一六三  丙戌の日、行幸ありて、今日は壬辰の日なれば、七日といひしに還り給へりぞ覚え侍る。 一六三  この頃は忌むなど申すとかや。 一六三  かくて十月に東宮を乙訓寺に籠め奉り給へりしに、十八日までその命、絶え給はざりしかば、淡路の国へ流し奉り給ひしに、山崎にて亡せさせ給ひにき。 一六三、一六四  延暦四年に去年の冬より今年の四月まで五月のほど雨降らで、世の人この事を歎きしに、帝、御湯殿ありて御身を清めて庭におりて祈り請ひ給ひしかば、しばしばかりありて空暗がり雲出で来て、たちまちに雨下りて世の人喜ぶ事、限りなかりき。 一六四  今年伝教大師比叡の山に根本中堂を建て給ひき。 一六四  生年廿二にぞなり給ひし。 一六四  やがて今年とぞ覚え侍る、弘法大師讃岐より京へ上り給ひき。 一六四  生年十五のぞなり給ひし。 一六四  同十年八月辛卯の日の夜、盗人伊勢太神宮を焼き奉りき。 一六四  今も昔も人の心ばかりゆゝしきものは侍らず。 一六四  十月に東宮伊勢へ参らせ給ひき。 一六五  御病の折の御願とぞ承りし。 一六五  この東宮と申すは平城天皇におはします。 一六五  同十二年に今の宮城を造り給ひき。 一六五  同十三年十二月廿二日辛酉、長岡の京より今の京に遷り給ひて、賀茂の社に行幸ありき。 一六五  同十五年に帝東寺を造り給ふ。 一六五  今年、又、藤原伊勢人といひし人、貴船の明神の御教にて鞍馬をば造り奉りしなり。 一六五  同十七年三月に勅使を淡路の国へ遣はして、早良の親王の骨を迎へ奉りて大和の国八嶋の御陵に納め給ひき。 一六六  この親王流され給ひて後、世の中心地おこりて人多く氏に亡せしかば、帝驚き給ひて御迎へに二度まで人を奉り給ひし、みな海に入り波に漂ひて命失ひてき。 一六六  第三度に、親王の御甥の宰相五百枝を遣はしき。 一六六  事に祈り請ひて平かに行き着きて渡し奉りしなり。 一六六  七月二日、田村の将軍清水の観音を造り奉り、又我が家を毀ちわたして堂に建てき。 一六六  同十九年七月己未の日、帝「思ふところあり」とのたまひて、前東宮早良親王を崇道天皇と申す。 一六六  又井上内親王を皇太后とすべき由、仰せられき。 一六六  おのおのおはしまさぬ後にも怨みの御心を鎮め奉らんと思し召しけるにこそ侍るめれ。 一六六、一六七  同廿一年正月十九日、和気の広世、高雄の法華会を行ひ始めき。 一六七  九月二日、伝教大師唐土へ渡り給ひて天台の教文伝ふべき由の宣旨を下され侍りしなり。 一六七  十月に維摩会をもとのやうに山階寺に行ひて、永くほかにて行ふべからざる由、宣旨を下さる。 一六七  これより先には長岡にして行はるゝ事もありき。 一六七  又奈良の法華寺にも行はれしなり。 一六七  同廿二年閏十月廿三日、伝教大師筑紫におはして、唐土へ平かに渡り給はんの御祈に、竈門の山寺にて薬師仏四躰を造り給ひき。 一六七  同じき廿三年五月十二日、弘法大師生年卅一と申ししに唐へ渡り給ひき。 一六七  七月に伝教大師同じく唐へ渡り給ひき。 一六七、一六八  同廿四年六月に伝教大師唐土より帰り給ひて天台の法文これより弘まりしなり。 一六八 一 五十二代 平城天皇 一六八  次の帝、平城天皇と申しき。 一六八  桓武天皇の御子。 一六八  御母、内大臣藤原良継の女、皇后乙牟漏なり。 一六八  延暦元年十一月廿五日に東宮に立ち給ふ。 一六八  御年十二。 一六八  早良親王の御代りなり。 一六八  同六年五月に御元服ありき。 一六八  大同元年五月廿八日に位に即き給ふ。 一六八  御年卅二。 一六八  世を治り給ふ事四年なり。 一六八  御心敏く、御才賢くおはしましき。 一六八  十一月に天台の受戒始まりき。 一六九  今年、崇道天皇の御ために、山科に八嶋寺を建て給ひて、諸国の正税の上分を奉りて祈り鎮め奉り給ひき。 一六九  帝位に即き給ひし日、御弟の嵯峨の帝を東宮に立て申させ給ひたりしを、帝棄て奉らん御心ありしに、冬嗣の、東宮の搏にておはせしが、「かゝる事なん」よ告げ申し給ひしかば、東宮怖ぢ恐り給ひて、「いかゞせむずる」とのたまはせしかば、冬嗣「この事、今日明日既に侍るべきことにこそ。人の力の及ぶべきにあらず。父帝の陵に祈り申し給ふべきなり」と申し給ひしかば、東宮、日の御装束奉りて、庭に下りて、遥かに柏原の方を拝して、雨雫と泣き愁へ申させ給ひしに、俄かに煙世の中に満ちて、夜のごとくになりにしかば、帝驚きをのゝき給ひて御占ありしに、柏原の御祟と占ひ申ししかば、帝大きに驚き給ひて、この事を陵に悔い申させ給ひしかば、三日ありて煙やうやう失せにき。 一六九  同二年廿二日に弘法大師唐土より帰り給へりき。 一七〇  東寺の仏法これより伝はれりしなり。 一七〇  この大師あらはに権者とふるまひ給ひき。 一七〇  御手ならびなく書かせ給ひしかば、唐土にても、御殿の壁の二間侍るなるに、羲之といひし手かきの物を書きたりけるが、年久しくなりて崩れにければ、又改められて後、大師に書き給へと唐土の帝申し給ひければ、五つの筆を、御口、左右の御足・手にとりて、壁に飛びつきて一度五行になん書き給ひける。 一七〇  この国に帰り給ひて南門の額は書き給ひしぞかし。 一七〇  さて又、応天門の額を書かせ給ひしに、上のまろなる点を忘れ給ひて、門にうちて後、見つけ給ひて驚きて、筆をぬらして投げ上げ給ひしかば、その所につきにき。 一七〇、一七一  見る人、手を打ちあさむこと限りなく侍りき。 一七一  たゞ空に仰ぎて文字を書き給ひしかば、その文字現はれき。 一七一  これのみならず、事にふれて、かやうのこと多く侍れど、たゞ今思ひ出さるゝ事を片端申すなり。 一七一  十一月に中務卿伊与親王、帝を傾けらむと謀り奉るといふこと聞えて、母の夫人ともに河原寺の北なりし所に籠められ給へりしに、みづから毒を食ひて亡せ給ひにき。 一七一  その親王管絃の方すぐれ給へりき。 一七一  その後、世の中、心地おこりて、大嘗会とゞまりにき。 一七一  同三年、慈覚大師、生年十五にて比叡の山に登り給ひて、伝教大師の御弟子になり給ひしなり。 一七一  もとは下野の国の人のおはす。 一七一  いまだ下野におはせしに、伝教大師を夢に見奉りて、明け暮れ、いかで大師の御もとへ参らむと思ひ給ひしに、つひに人にうtきて登り給ひて、山に登りて見奉り給ひしに、夢の御姿にいさゝか違ひ給はざりき。 一七一、一七二  同四年に、帝春の頃より例ならず思されて、怠り給はざりしかば、位を御弟の東宮に譲り奉りて、太上天皇と申しき。 一七二  御子の高岳親王を東宮に立て申し給ふ。 一七二 一 五十三代 嵯峨天皇 一七二  次の帝、嵯峨天皇と申しき。 一七二  桓武天皇の第二の御子。 一七二  平城天皇の一つ御腹なり。 一七二  大同元年五月十八日に東宮に立ち給ふ。 一七二  御年廿一。 一七二  同四年四月十三日に位に即き給ふ。 一七二  御年廿四。 一七二  弘仁元年正月に太上大臣、奈良の都に移り住み給ふ。 一七三  中納言種継の女に、内侍のかみと申しし人を思し召しき。 一七三  その兄の左右衛督仲成、心おちゐずして、妹の威をかりてさまざまの横さまの事をのみせしかども、世の人、憚りをなしてとかく言はざりき。 一七三  内侍のかみも心ざましづまり給はざりし人にて、太上天皇に、事にふれて、位を去り給ひにし事の口惜しき由をのみ申し聞かせしかば、悔しく思す心やうやう出で来給ひしほどに、九月に内侍のかみ、太上天皇を勧め奉りて、位に復り即きて、我、后に立たむといふこと出で来て、世の中静かならずさゞめきあへりしほどに、帝、内侍のかみの官位を取り給ひ、仲成を土佐国へ流し遣はす由、宣旨を下させ給ひしに、太上天皇大きに怒り給ひて、十日丁未、畿内の兵を召し集め給ひしかば、帝関を固めしめ給ひて、田村麿の中納言の大将と申ししを、俄に大納言になし給ひてき。 一七三  事すでに起りにしかば、かねて将軍の心を勇ませさせ給ひしにこそ。 一七三、一七四  さて十一日に、太上天皇、軍をおこして、内侍のかみと一つ御輿に奉りて東国の方へ向ひ給ひしに、大外記上毛頴人奈良より馳せ参りて、「太上天皇すでに諸国の軍を召し集めて東国へ入り給ひぬ」と帝に申ししかば、大納言田村麿、宰相綿麻呂えお遣はしてその道を遮りて、仲成を射殺してき。 一七四  太上天皇の御方の軍逃げ失せにしかば、太上天皇術なくて帰り給ひて、御髪おろして入道し給ひてき。 一七四  御年卅七なり。 一七四  内侍のかみ、みづから命を失ひてき。 一七四  恐しかりし人の心なり。 一七四  太上天皇の御子の東宮を棄て奉りて、帝の御弟の大伴親王とて淳和天皇のおはしましゝを、東宮に立て申させ給ひき。 一七四  すべて太上天皇の御方の人、罪を蒙る、多かりき。 一七四  同二年正月七日、初めて青馬を御覧じき。 一七五  廿三日に豊楽院の出で給ひて、弓遊ばして、親王以下射させ奉らせ給ひしに、帝の御弟の葛井親王はいまだ幼くおはして、弓射給ふうちにも思しよらざりしを、帝、たはぶれて「親王幼くとも弓矢をとり給ふべき人なり。射給へ」とのたまはせしに、親王立ち走りて射給ひしに、二つの矢みな的に当たりにき。 一七五  生年十二にぞなり給ひし。 一七五  母方の祖父にて田村麻呂大納言その座に侍りて、驚き騒ぎ喜びて、えしづめあへずして座を立ちて、孫の親王をかき抱き奉りて、舞ひかなでゝ帝に申していはく、「田村麻呂、昔、多くの軍の将軍として夷を討ち平げ侍りしは、たゞ帝の御威なり。兵の道を習ふといへども、いまだ究めざるところ多し。今、親王の年いとけなくしてかくおはする、田村麿さらに及び奉るべからず」と申しき。 一七五、一七六  今も昔も子孫を思ふ心はあはれに侍る事なり。 一七六  さて程なく、五月廿三日に田村麿亡せにき。 一七六  年五十四になんなりし。 一七六 容有様ゆゝしかりし人なり。 一七六  五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸、目は鷹の眼のごとく、髯は金の糸筋をかけたるごとし。 一七六  身を重くなすときは二百一斤、軽くなす折は六十四斤。 一七六  心にまかせて折に従ひしなり。 一七六  怒れる折は眼をめぐらせば獣皆倒れ、笑ふときは、容なつかしく、幼き子も怖ぢ恐れず抱かれき。 一七六  たゞ人とは見え侍らざりしなり。 一七六  同四年正月に御斎会の内論議は始まりしなり。 一七六  今年、冬嗣、山階寺のうちに南円堂を立て給ひき。 一七六  その時、藤氏の人僅に三四人おはせしを嘆きて、氏の栄を願して建て給へりしなり。 一七六  まことにその験と見え侍めり。 一七六、一七七  神武天皇より後、帝の御後見代々のはすれども、子孫相継ぎて今日明日までかくおはするは、この藤氏こそはおはすめれ。 一七七  六月一日、官符を下し給ひて、病人を道の辺に出し棄つる事を止めさせ給ひき。 一七七  「尊きも卑しきも命を惜む心は変る事なきを、世の人、生ける折は苦しめ使ひて、病づきむればすなはち大路に出す。あつかひ養ふ人さらになければ、つひに飢ゑ死ぬ。ながくこの事を止むべし」と仰せ下されしこそ、めでたき功徳と覚え侍りしか。 一七七  此の頃もやすくありぬべき事なり。 一七七  五年の春、伝教大師唐土へ渡り給ひし折の願を遂げんとて、筑紫へおはして仏を造り経を写し給ふ。 一七七  又、宇佐の宮の神宮寺にて、みづから法華経を講じ給ひしに、大菩薩託宣し給ひて、「我久しく法を聞かざりつ。今わがためにさまざまの功徳を行ひ給ふ。いとうれしき事なり。わが持てる衣あり」とのたまひて、託宣の人御殿に入りて、紫の七条の御袈裟一帖、紫の衾一領を大師に奉り給ひき。 一七八  禰宜・祝など、「昔よりかゝることをいまだ見聞かず」と申し侍りき。 一七八  その御袈裟・衾、今に比叡の山にあり。 一七八  五月八日、皇子たち源といふ姓を賜はり給ひき。 一七八  同七年、弘法大師、入定の所を高野の山に定め給ひき。 一七八  御年四十三。 一七八  同十三年六月四日、伝教大師亡せ給ひにき。 一七八  生年五十六になんなり給ひし。 一七八  同十四年、帝、位を御弟の東宮に譲り奉りて、やがてその御子の治部卿親王恒世を東宮に立て申し給ひしを、親王あながちにのがれ申し給ひて籠り居て、御使をだに通はし給はざりしかば、仁明天皇の御子にておはしましゝを東宮に立て申し給ひき。 一七九  位こそ東宮にておはしませば、限りありて譲り奉り給はめ。 一七九  わが御子のおはしまさぬにてもなきに、弟の御子を東宮にさへ立て奉らんとし給ひし御心はありがたかりし事なり。 一七九 一 五十四代 淳和天皇 一七九  次の帝、淳和天皇と申しき。 一七九  桓武天皇の第三の御子。 一七九  御母、参議百川の女、旅子なり。 一七九、一八〇  弘仁元年九月に東宮に立ち給ふ。 一八〇  御年廿五。 一八〇  平城天皇の御子、高岳親王の代りなり。 一八〇  同十四年四月廿八日に位に即き給ふ。 一八〇  御年卅八。 一八〇  世を治り給ふこと十年なり。 一八〇  天長二年十一月四日丙申、帝、嵯峨の法皇の卅の御賀し給ひき。 一八〇  今年、浦嶋の子は帰れりしなり。 一八〇  持たりし玉の箱を開けたりしかば、紫の雲、西ざまへまかりて後、いとけなかりける容姿たちまちに翁となりて、はかばかしくあゆみをだにもせぬほどになりにき。 一八〇  雄略天皇の御世に失せて、今年三百四十七年といひしに帰りたりしなり。 一八〇  同四年に智証大師生年十四にて、讃岐の国より上り給ひて、比叡の山へ登り給ひき。 一八〇  母は弘法大師の御姪なり。 一八〇  同九年十一月十二日に、弘法大師高雄より高野へ帰り居給ふべき由、申し給ひしかば、太上天皇、弘福寺賜はせき。 一八一  「高野より京に通ひ給はん途の宿所にし給へ」とぞのたまはせし。 一八一  弘福寺は天武天皇の御願なり。 一八一  同十年二月廿八日に、帝、位を御甥の東宮に譲り申し給ひて、西院に移りおはいましき。 一八一 一 五十五代 仁明天皇 一八一  次の帝、仁明天皇と申しき。 一八一  嵯峨天皇の第二の御子。 一八一  御母、太皇大后橘嘉智子なり。 一八一  弘仁十四年、東宮に立ち給ふ。 一八一  御年十五。 一八一  天長十年三月六日、位に即き給ふ。 一八一  御年廿四。 一八一  世を治り給ふ事、十七年。 一八一  御才賢く、管絃の方もいみじくおはしましき。 一八一  すべて御身の能、古への帝にもすぐれ給ひて、医師の方などさへ並び奉る人なかりしなり。 一八一、一八二  今年、慈覚大師、如法経を書き給ひき。 一八二  承和元年正月二日、淳和院へ朝覲の行幸侍き。 一八二  弘法大師の申し行ひ給ひしによりて、今年より後七日の御修法始まりしなり。 一八二  三月廿一日に、弘法大師、定に入り給ひにき。 一八二  同四年六月十七日、慈覚大師、唐土へ渡り給ひき。 一八二  同五年十二月十九日に仏名は始まりしなり。 一八二  この月に、小野篁を隠岐国へ流し遣はしき。 一八三  度々唐土へ遣はさんとせしかども、身に病侍る由など申してまからざしにあはせて、唐土へ遣はしける文に、言葉の続きにひかされて、世のために良からぬ事どもを書きたりけるを、嵯峨の法皇御覧じて、大きに怒り給ひて流し遣はさせ給ひしなり。 一八三  同六年正月にぞ篁隠岐へまかりし。 一八三  わたのはらやそぢまかけてこぎいでぬと人にはかたれあまつのつり舟とは、この時に詠み侍りしなり。 一八三  同七年四月八日、初めて潅仏行はれしなり。 一八三  六月に小野篁召し返されて、いまだ位もなかりしかば、黄なる上の衣を着てぞ京へ参れりし。 一八三、一八四  同九年七月十五日に、嵯峨法皇亡せさせ給ひにき。 一八四  当代の御父におはします。 一八四  十七日、平城天皇の御子に阿保親王と申しし人、嵯峨の大后の御許へ御消息を奉り申し給ふやう、「東宮の帯刀健岑と申す者、詣で来て、『太上法皇すでに亡せさせ給ひぬ。世の中の乱れ出で来侍りなんず。東宮を東国へ渡し奉らん』と申す」由を告げ申し給ひしかば、忠仁公の、中納言と申しておはせしを、后呼び申させ給ひて、阿保親王の文を帝に奉り給ひき。 一八四  この事、建岑と但馬権守橘逸勢と謀れりける事にて、東宮は知り給はざりけり。 一八四  廿四日に事顕れて、廿五日に但馬権守を伊豆国へ遣はし、建岑を隠岐へ遣はす。 一八四  又、中納言吉野、宰相秋津など流されにき。 一八五  此の但馬権守と申すは、世の人、きせいとぞ申す。 一八五  神になりておはすめり。 一八五  東宮恐り怖ぢ給ひて「太子を逃れん」と申し給ひしかば、帝「この事は建岑ひとりが思ひ立ちつる事なり。東宮の御誤りにあらず。とかく思すことなかれ」とて、たゞもとのやうにておはしまさせき。 一八五  東宮と申すは淳和天皇の御子なり。 一八五  帝には御従兄弟にておはしましゝなり。 一八五  今年、十六にぞなり給ひし。 一八五  八月三日、帝、冷泉院に行幸ありて涼ませ給ひしに、東宮もやがて参らせ給ひたりしに、何方よりともなくて文を投げ入れたりき。 一八五  建岑が東宮を教へ奉りたることゞもありしかば、俄に東宮の宮司、帯刀・御許人など百余人捕へられて、東宮を淳和院へ帰り奉りて、四日、当代の第一親王を東宮に立て申し給ひき。 一八五  文徳天皇これにおはします。 一八五  嘉祥元年三月廿六日に慈覚大師唐土より帰り給ふ。 一八五  唐土におはせし間、悪王に遭ひ奉りて、悲しき目どもを見給へりしなり。 一八五、一八六  仏、経を焼き失ひ、尼法師を還俗せさせしめ給ひし折に会ひて、この大師も男になりて、頭を包みておはせしなり。 一八六  同三年三月に、帝御病重くならせ給ひて、御髪下して中一日ありて、ことおはしましてきとて。 一八六  この申すことは、見聞きしことばかりなれば、大切なることゞも多く落ち侍りぬらん。 一八六  これはたゞ大様の有様を思し合はせさせむと思ひ給ふるばかりなり。 一八六  この申し続けつる事ども、暁の眠りの程の夢に何処か違ひ侍りたる。 一八六  いづらは愛でたかりし世の中、いづらは悪かりし事。 一八六  たとひ桓武天皇の御世より生きける人ありとも、我身にて思ふに、長き夢見たる人にてぞ侍らん。 一八六  ましてこの頃、人、命長からん定、七八十なり。 一八六  とてもかくてもありぬべし。 一八六  おほかた世の中の減劫の末、仏の滅後に小国の中に生れて、見聞く事の悪からんこそまことの理なれ』とて、もとの道ざまへ帰りまかりにき。 一八六  今、かく語り申すも、なほ仙人の申ししこと、十が一をぞ申すらん。 一八六、一八七  その中になほ僻言多く、世の人、皆知り、をこがましきことゞもにてこそ侍らめ。 一八七  いたづらに寝を寝んよりは、御目をも覚し奉らむとて、あさましかりしことの有様を語り申すなり。 一八七  御心の外に散らし給ふな」とて、夜明け方になりしかば、又所作などして、「京へ必ずおはせ」と契りてまかり出でにき。 一八七  その後、行き方を知らず。 一八七  尋ね来たることもなし。 一八七  本意なき事、限りなし。 一八七  心より外にはと言ひしかども、此の事を消ちて止まむ、口惜しくて書きつけ侍るなり。 一八七  世あがり、才かしこかりし人の大鏡などいひて書き置きたるに鈍みて、言葉卑しく、僻言多くして見どころなく、もし落ち散りて、見ん人に謗り欺かれんこと、疑ひなかるべし。 一八七  紫式部が源氏など書きて侍るさまは、たゞ人の為業とやは見ゆる。 一八七  されどもその時には日本書紀の御局などつけて笑ひけりとこそは、やがて紫式部が日記には書きて侍めれ。 一八七  ましてこの世の人の口、かねて推し量られてかたはらいたく覚ゆれども、人のためとも思ひ侍らず。  一八七  たゞ若くより、かや(う)の事の心にしみならひて、行ひのひまにも捨てがたければ、我ひとり見んとて書きつけ侍りぬ。 一八七、一八八  大鏡の巻も凡夫の為業なれば、仏の大円鏡智の鏡にはよも侍らじ。 一八八  これも、もし大鏡に思ひよそへば、そのかたち正しく見えずとも、などか水鏡の程は侍らざらんとてなん。 一八八 水鏡・終 "水鏡全注釈 / 金子大麓 [ほか] 注釈<ミズカガミ ゼンチュウシャク>. -- (BA 39206915) 東京 : 新典社, 1998.12 484p ; 22cm. -- (新典社注釈叢書 ; 9) 注記: 底本: 高田専修寺本 ; その他の注釈: 松本治久, 松村武夫, 加藤歌 子. ISBN: 4787915096 著者標目: 金子, 大麓(1917-)<カネコ, ダイロク> 分類: NDC8 : 913.425 ; NDC9 : 913.425 件名: 水鏡" 入力                                         石川 愛巳 監修                                         萩原 義雄