大  鏡     上          序 [一]雲林院の菩提講にて、翁たちの出会い  先(さい)つ頃(ころ)、雲林院(うりんゐん)の菩提講(ぼだいこう)に詣(まう)でてはべりしかば、例人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁(おきな)二人、嫗(おうな)といきあひて、同じ所に居(ゐ)ぬまり。「あはれに、同じやうなるもののさまかな」と見はべりしに、これらうち笑ひ、見かはして言ふやう、  世継『年頃(としごろ)、昔の人に対面(たいめ)して、いかで世の中の見聞くことをも聞こえあはせむ、このただ今の入道殿下(にふだうてんが)の御有様(ありさま)をも申しあはせばやと思ふに、あはれにうれしくも会ひ申したるかな。今ぞ心やすく黄泉路(よみぢ)もまかるべき。おぼしきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地(ここち)しける。かかればこそ、昔の人はもの言はまほしくなれば、穴を掘りては言ひ入れはべりけめとおぼえはべり。かへすかへすうれしく対面(たいめ)したるかな。さてもいくつにかなりたまひぬる』と言へば、いま一人(ひとり)の翁(おきな)、  重木『いくつといふこと、さらに覚えはべらず。ただし、おのれは、故太政(こだいじやう)のおとど貞信公(ていしんこう)、蔵人(くらうど)の少将(せうしやう)と申しし折の子舎人童(こどねりわらは)、大犬丸(おほいぬまろ)ぞかし。ぬしは、その御時の母后(ははきさき)の宮(みや)の御方の召使(めしつかひ)、高名(かうみやう)の大宅世継(おほやけよつぎ)とぞ言ひはべりしかしな。されば、ぬしの御年(みとし)は、おのれにはこよなくまさりたまへらむかし。みづからが小童(こわらは)にてありし時、ぬしは二十五六ばかりの男(をのこ)にてこそはいませしか。』と言ふめれば、世継、 『しかしか、さかべりしことなり。さてもぬしの御名(みな)はいかにぞや』と言ふめれば、  重木『太政大臣殿にて元服(げんぶく)つかまつりし時、「きむぢが姓(さう)はなにぞ」と仰せられしかば、「夏山(なつやま)となむ申す」と申ししを、やがて、重木(しげき)となむつけさせたまへりし』など言ふに、いとあさましうなりぬ。 [二]若侍の登場 世継・重木の年齢と出自  たれも、少しよろしき者どもは、見おこせ、居寄(ゐよ)りなどしけり。年三十ばかりなる侍(さぶらひ)めきたる者の、せちに近く寄りて、  侍『いで、いと興(きよう)あること言ふ老者(らうざ)たちかな。さらにこそ信ぜられね』と言へば、翁(おきな)二人見かはしてあざ笑ふ。重木と名のるがかたざまに見やりて、  侍『「いくつといふこと覚えず」といふめり。この翁どもは覚えたぶや』と問へば、  世継『さらにもあらず。一百九十歳にぞ、今年(ことし)はなりはべりぬる。されば、重木は百八十におよびてこそさぶらふらめど、やさしく申すなり。おのれは水尾(みづのを)の帝(みかど)のおりおはします年の、正月の望(もち)の日(ひ)生まれてはべれば、十三代にあひたてまつりてはべるなり。けしうはさぶらはぬ年なりな。まことと思(おぼ)さじ。されど、父が生学生(なまがくしやう)に使はれたいまつりて、「下藹(げらふ)なれども都ほとり」と言ふことなれば、目を見たまへて、産衣(うぶぎぬ)に書き置きてはべりける、いまだはべり。丙申(ひのえさる)の年にはべり』と言ふも、げにと聞こゆ。  いま一人(ひとり)に、  侍『なほ、わ翁(おきな)の年(とし)こそ聞かまほしけれ。生まれけむ年は知りたりや。それにていとやすく数(かず)へてむ。』と言ふめれば、  重木『これはまことの親にも添(そ)ひはべらず、他人のもとに養はれて、十二三まではべりしかば、はかばかしくも申さず。ただ、「我は子うむわきも知らざりしに、主の御使(つかひ)に市(いち)へまかりしに、また、私(わたくし)にも銭十貫を持ちてはべりけるに、   母が抱(いだ)きて、「この児(ちご)買はん人がな」とひとりごちしを聞きて、見はべりけるに、色白うてにくげもはべらざりければ、さるべきにや、あはれにおぼえて抱きとりはべりけるに、うち笑みてかきつきてはべりけるに、いとどかなしくて、「など、かくうつくしき児(ちご)を放(はな)たむとは思はるるぞ」と問ひはべりければ、「まろも子を十人(とたり)まで・・・・・・」。  にくげもなき児を抱(いだ)きたる女の、「これ人に放たむとなむ思ふ。子を十人までうみて、これは四十(よそ)たりの子にて、おとど五月にさへ生まれてむつかしきなり」と言ひはべりければ、この持ちたる銭にかへてきにしなり。「姓は何(なに)とか言ふ」と問ひはべりければ、「夏山」とは申しける」。さて、十三にてぞ、おほき大殿(おほどの)にはまゐりはべりし』など言ひて、  世継『さても、うれしく対面(たいめ)したるかな。仏(ほとけ)の御しるしなめり。年頃(としごろ)、ここかしこの説経(せきやう)とののしれど、なにかはとてまゐらずはべり。かしこく思ひたちて、まゐりはべりにけるが、うれしきこと』とて、  世継『そこにおはするは、その折の女人にやみでますらむ』と言ふめれば、重木がいらへ、『いで、さもはべらず。それははやうせはべりにしかば、これは、その後(のち)あひ添(そ)ひてはべるわらべなり。さて閣下(かふか)はいかが』と言ふめれば、世継がいらへ、『それははべりし時のなり。今日(けふ)もろともにまゐらむと出でたちはべりつれど、わらはやみをして、あたり日(び)にはべりつれば、口惜(くちを)しくえまゐりはべらずなりぬる』と、あはれに言ひ語らひて泣くめれど、涙落つとも見えず。 [三]講師待つ間の歴史語り 世継の抱負  かくて講師(こうじ)待つほどに、我も人もひさしくつれづれなるに、この翁(おきな)ともの言ふやう、  世継『いで、さうざうしきに、いざたまへ。昔物語(むかしものがたり)して、このおのおはさふ人々に、「さは、いにしへは、世はかくこそはべりけれ」と、聞かせたてまつらむ』と言ふめれば、いま、一人(ひとり)、  重木『しかしか、いと興(きよう)あることなり。いで覚えたまへ。時々、さるべきことのさしいらへ、重木もうち覚えはべらむかし』と言ひて、言はむ言はむと思へる気色(けしき)ども、いつしか聞かまほしく、おくゆかしき心地(ここち)するに、そこらの人多かりしかど、ものはかばかしく耳とどむるもあらめど、人目にあらはれて、この侍(さぶらひ)ぞ、よく聞かむと、あどうつめりし。世継が言ふやう。 『世はいかに興あるものぞや。さりとも、翁(おきな)こそ、少々のことは覚えはべらめ。昔さかしき帝(みかど)の御政(まつりごと)の折は、「国のうちに年老いたる翁・嫗(おうな)やある」と召し尋ねて、いにしへの掟(おきて)の有様(ありさま)を問はせたまひてこそ、奏(そう)することを聞こし召しあはせて、世の政は行はせたまひけれ。されば、老いたるは、いとかしこきものにはべり。若き人たち、なあなづりそ。』とて、黒柿(くろかへ)の骨九あるに、黄(き)なる紙張りたる扇(あふぎ)をさしかくして、気色だち笑ふほども、さすがにをかし。  世継『まめやかに世継が申さむと思ふにことは、ことごとかは。ただ今の入道殿下(にふだうてんが)の御有様の、世にすぐれておはしますことを、道俗男女の御前(おまえ)にて申さむと思ふが、いとこと多くなりて、あまたの帝王・后(きさき)、また大臣(だいじん)・公卿(くぎやう)の御上(うへ)をつづくべきなり。そのなかに、幸(さいは)ひ人(びと)におはします、この御有様申さむと思ふほどに、世の中のことのかくれなくあらはるばきなり。つてにうけたまはれば、法華経(ほけきやう)一部を説きたてまつらむとてこそ、まづ余教(よけう)をば説きたまひけれ。それを名づけて五時教(ごじけう)とは言ふにこそはあなれ。しかのごとくに、入道殿の御栄えを申さむと思ふほどに、余教の説かるると言ひつべし』など言ふも、わざわざしく、ことごとしく聞こゆれど、「いでやさりとも、なにばかりのことをか」と思ふに、いみじうこそ言ひつづけはべりしか。  世継『世間の摂政(せつしやう)・関白(くわんぱく)と申し、大臣(だいじん)・公卿(くぎやう)と聞こゆる、古今(いにしへいま)の、皆、この入道殿(にふだうどの)の有様(ありさま)のやうにこそはおはしますらめとぞ、今様(いまやう)の児(ちご)どもは思ふらむかし。されども、それさもあらぬことなり。言ひもていけば、同じ種一(ひと)つ筋(すぢ)にぞおはしあれど、門(かど)別れぬれば、人々の御心用(こころもち)ゐも、また、それにしたがひてことごとになりぬ。この世はじまりて後(のち)、帝(みかど)はまづ神の世七代をおきたてまつりて、神武天皇(じんむてんわう)をはじめたてまつりて、当代(たうだい)まで六十八代にぞならせたまひにける。すべからくは、神武天皇をはじめたてまつりて、次々の帝の御次第(しだい)を覚え申すべきなり。しかりと言へども、それはいと聞き耳遠ければ、ただ近きほどより申さむと思ふにはべり。文徳(もんとく)天皇と申す帝おはしましき。その帝よりこなた、今の帝まで十四代にぞならせたまひにける。世をかぞへはべれば、その帝、位(くらゐ)につかせたまふ嘉祥(かしやう)三年庚午(かのえうま)の年より、今年(ことし)までは一百七十六年ばかりにやなりぬらむ。かけまくもかしこき君の御名を申すは、かたじけなくさぶらへども』とて、言ひつづけはべりし。 五十五代        文徳(もんとく)天皇  道康(みちやす) [四]文徳天皇の略歴  世継『文徳天皇と申しける帝は、仁明(にんみやう)天皇御第一の皇子なり。御母、太皇太后宮藤原順子(たいくわうたいこうぐうふぢはらのじゆんし)と申しき。その后(きさき)、左大臣贈性一位太政大臣冬嗣(さだいじんんぞうじやういちゐだいじやうだいじんふゆつぎ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝、天長(てんちやう)四年丁末(ひのとひつじ)八月に生まれたまひて、御心あきらかに、よく人をしろしめせり。承和(じようわ)九年壬戌(みづのえいぬ)二月二十六日に御元服(げんぶく)。同八月四日、東宮(とうぐう)にたちたまふ。御年十六。仁明(にんみやう)天皇もとおはする東宮(とうぐう)をとりて、この帝(みかど)を、承和(じようわ)九年八月四日、東宮にたてたてまつらせたまひしなり。いかにやすからず思(おぼ)しけむとこそおぼえはべれ。嘉祥(かしやう)三年庚午(かのえうま)三月二十一日、位(くらゐ)につきたまふ。御年二十四。さて世をたもたせたまふこと八年。 [四‐2]五条の后と業平の中将  御母后(きさい)の御年十九にてぞ、この帝をうみたてまつりたまふ。嘉省三年四月に后にたたせたまふ。御年四十二。斎衡(さいかう)元年甲戌(きのえいぬ)の年、皇后宮にあがりゐたまふ。貞観(ぢやうぐわん)三年辛巳(かのとみ)二月二十九日癸酉(みづのととり)、御出家(すけ)して、潅頂(くわんぢやう)などせさせたまへり。同六年丙申(ひのえさる)正月七日、皇太后にあがりゐたまふ。これを五条后(ごでうのきさい)と申す。伊勢語(ものがたり)に、業平中将(なりひらのちゆうじやう)の、「よひよひごとにうちも寝ななむ」とよみたまひけるは、この宮の御ことなり。「春や昔の」なども。  同じことのやうにさぶらふめる。いかなることにか、二条(にでう)の后(きさい)に通ひまされける間のことどもとぞ、うけたまはりしを。「春や昔の」なども。五条の后の御家とはべるは、わかぬ御仲にて、その宮に養はれたまへれば、同じ所におはしけるにや。 五十六代        清和(せいわ)天皇  惟仁(これひと) [五]清和天皇の略歴 東宮争い 源氏の武者  次の帝、清和天皇と申しけり。文徳天皇の第四皇子なり。御母、皇太后宮明子(あきらけいこ)と申しき。太政大臣良房(よしふさ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝、嘉祥三年庚午三月二十五日に、母方の御祖父(おほぢ)、おほきおとどの子一条の家にて、父帝(ちちみかど)の位につかせたまへる、五日といふ日、生まれたまへりけむこそ、いかに折さへはなやかにめでたかりけむとおぼえはべれ。この帝は、御心いつくしく、御かたちめでたくぞおはしましける。惟喬(これたか)親王の東宮あらそひしたまひけむも、この御こととこそおぼゆれ。やがて生まれたまふ年の十一月二十五日戊戌(つちのえいぬ)、東宮(とうぐう)にたちたまひて、天安(てんあん)二年戊寅(つちのえとら)八月二十七日、御年九にて位(くらゐ)につかせたまふ。貞観(ぢやうぐわん)六年正月一日戊子(つちのえね)、御元服(げんぶく)、御年十五なり。世をたもたせたまふこと十八年。同十八年十一月二十九日、染殿院(そめどののゐん)にておりさせたまふ。元慶(ぐわんぎやう)三年五月八日、御出家(すけ)。水尾(みづのを)の帝(みかど)と申す。この御末(すゑ)ぞかし、今の世に源氏(げんじ)の武者(むさ)の族(ぞう)は。それもおほやけの御かためとこそはなるめれ。 [六]母后、染殿の后明子と物の怪  御母、二十三にて、この帝をうみたてまつりたまへり。貞観六年正月七日、皇后宮(くわうごうぐう)にあがりゐたまふ。后(きさい)の位にて四十一年おはします。染殿(そめどの)の后と申す。その御時の護持僧(ごぢそう)には智証大師(ちしようだいし)におはす。  さばかりの仏の護持僧にておはしけむに、この后の御物(もの)の怪(け)のこはかりけるに、など、えやめたてまつりたまはざりけむ。前(さき)の世(よ)のことにておはしましけるにやとこそおぼえはべれ。  天安(てんあん)二年戊寅(つちのえとら)にぞ唐より帰りたまふ。 五十七代        陽成院(やうぜいゐん)  貞明(さだあきら) [七]陽成院天皇の略歴 釈迦如来の一年の兄  次の帝、陽成院天皇と申しき。これ、清和天皇の第一皇子なり。御母、皇太后宮高子(たかいこ)と申しき。権中納言贈性一位(ごんちゆうなごんぞうじやういちゐ)太政大臣長良(ながら)の御女(むすめ)なり。この帝、貞観十年戊子(つちのえね)十二月十六日、染殿院にて生まれたまへり。同じき十一月二月一日己丑(つちのとうし)、御年二にて東宮にたたせたまひて、同じき十八年丙申(ひのえさる)十一月二十九日、位につかせたまふ。御年九歳。元慶六年壬寅(みづのえとら)正月二日乙巳(きのとみ)、御元服。御年十五。世をしらせたまふこと八年。位おりさせたまひて、二条院(にでうのゐん)にぞおはしましける。さて六十五年なれば、八十一にてかくれさせたまふ。御法事(ほふぢ)の願文(ぐわんもん)には、「釈迦如来(しやかによらい)の一年(ひととせ)の兄(このかみ)」とは作られたるなり。智恵(ちゑ)深く思ひよりけむほど、いと興(きよう)あれど、仏の御年よりは御年高しといふ心の、後世(ごせ)の責(せ)めとなむなれるとこそ、人の夢に見えけれ。 [八]母后、二条の后高子と在中将  御母后、清和の帝(みかど)よりは九年の御姉なり。二十七と申しし年、陽成院(やうぜいゐん)をばうみたてまつりたまへるなり。元慶(ぐわんぎやう)元年正月に后(きさい)にたたせたまふ、中宮(ちゆうぐう)と申す。御年三十六。同じき六年正月七日、皇太后宮にあがりたまふ。御年四十一。この后宮の、宮仕(みやづか)ひしそめたまひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだ世ごもりておはしける時、在中将(ざいちゆうじやう)しのびて率(ゐ)てかくしたてまつりたりけるを、御せうとの君達、基経(もとつね)の大臣・国経(くにつね)の大納言などの、若くおはしけむほどのことなりけむかし、取り返しにおはしたりける折、「つまもこもれりわれもこもれり」とよみたまひたるは、この御ことなれば、末の世に、「神代(かみよ)のことも」とは申し出でたまひけるぞかし。されば、世(よ)の常(つね)の御かしづきにては御覧(ごらん)じそめられたまはずやおはしましけむとぞ、おぼえはべる。もし、離れぬ御仲にて、染殿宮(そめどののみや)にまゐり通ひなどしたまひけむほどのことにやとぞ、推(お)しはかられはべる。およばぬ身に、かやうのことをさへ申すは、いとかたじけなきことなれど、これは皆人(みなひと)の知ろしめしたることなれば。いかなる人かは、この頃(ごろ)、古今(こきん)・伊勢語(ものがたり)など覚えさせたまはぬはあらむずる。「見もせぬ人の恋しきは」など申すことも、この御なからひのほどとこそはうけたまはれ。末の世まで書き置きたまひけむ、おそろしき好き者なりかしな。いかに、昔は、なかなかに気色(けしき)あることも、をかしきこともありけるもの』とて、うち笑ふ。気色ことになりて、いとやさしげなり。  世継『二条(にでう)の后と申すは、この御ことなり。 五十八代        光孝(くわうかう)天皇  時康(ときやす) [九]光康天皇の略歴 御局の黒戸のこと  次の帝(みかど)、光康天皇と申しき。仁明(にんみやう)天皇第三皇子なり。御母、贈皇太后宮藤原沢子(たくし)、贈太政大臣総継(ふさつぎに)御女(むすめ)なり。この帝、淳和(じゆんな)天皇御時の天長(てんちやう)七年庚戌(かのえいぬ)、東五条家にて生まれたまふ。御親の深草(ふかくさ)の帝の御時の承和(じようわ)三年丙辰(ひのえたつ)正月七日、四品(しほん)したまふ。御年七。嘉祥三年正月、中務卿(なかつかさきやう)になりたまふ。御年二一。仁寿(にんじゆ)元年十一月二十一日、三品(さんぼん)にのぼりたまふ。御年二十二。貞観(ぢやうぐわん)六年正月十六日、上野大守(かうづけのかみ)かけさせたまふ。御年三十五。同八年正月十三日、大宰権師(だざいのごんのそち)にうつりならせたまふ。同十二年二月七日、二品(にほん)にのぼらせたまふ。御年四十。同十八年二月二十六日、式部卿にならせたまふ。御年四十六。元慶(ぐわんぎやう)六年正月七日、一品(いつぽん)にのぼらせたまふ。御年五十三。同八年に大宰師かけたまひて、二月四日、位につきたまふ。御年五十五。世をしらせたまふこと四年。小松(こまつ)の帝と申す。この御時に、藤壷(ふぢつぼ)の上(うへ)の御局(みつぼね)の黒戸(くろど)は開(あ)きたると聞きはべるは、まことにや。 五十九代        宇多(うだ)天皇  定省(さだみ) [一〇]宇多天皇の略歴 賀茂の臨時祭 旅寝の夢  次の帝、亭子(ていじ)の帝と申しき。これ、小松の天皇の御第三皇子。御母、皇太后宮班子(はんし)女王と申しき。二品式部卿贈一品太政大臣仲野(なかの)親王御女(むすめ)なり。この帝、貞観九年丁亥(ひのとゐ)五月五日、生まれさせたまふ。元慶八年四月十三日、源氏になりたまふ。御年十八。  王侍従(わうじじゆう)など聞こえて、殿上人(てんじやうびと)にておはしましける 時、殿上の御椅子(ごいし)の前にて、業平(なりひら)の中将(ちゆうじやう)と相 撲(すまひ)とらせたまひけるほどに、御椅子にうちかけられて高欄(かうらん)折れ にけり。その折目(をれめ)今にはべるなり。 仁和(にんな)三年丁末(ひのとひつじ)八月二十六日に春宮にたたせたまひて、やがて同日に位につかせたまふ。御年二十一。世をしらせたまふこと十年。寛平(くわんぴやう)元年己酉(つちのととり)十一月二十一日己酉の日、賀茂(かも)の臨時祭(りんじのまつり)はじまること、この御時よりなり。使(つかひ)には右近中将時平(うこんのちゆうじやうときひら)なり。昌泰(しやうたい)元年戊午(つちのえうま)四月十日、御出家(すけ)せさせたまふ。  この帝(みかど)、いまだ位(くらゐ)につかせたまはざりける時、十一月二十余(よ)日のほどに、賀茂の御社(みやしろ)の辺(へん)に、鷹(たか)つかひ、遊びありけるに、賀茂の明神(みやうじん)託宣したまひけるやう、「この辺にはべる翁(おきな)どもなり。春は祭多くはべり。冬のいみじくつれづれなるに、祭たまはらむ」と申したまへば、その時に賀茂の明神の仰せらるるとおぼえさせたまひて、「おのれは力およびさぶらはず。おほやけに申させたまふべきことにこそさぶらふなれ」と申させたまへば、「力およばせたまひぬべきなればこそ申せ。いたく軽々(きやうきやう)なるふるまひなさせたまひそ。さ申すやうありとて。近くなりはべり」とて、かい消(け)つやうにうせたまひぬ。いかなることにかと心得ず思(おぼ)し召(め)すほどに、かく位につかせたまへりければ、臨時の祭せさせたまへるぞかし。賀茂の明神の託宣して、「祭せさせたまへ」と申させたまふ日、酉(とり)の日(ひ)にしてはべりければ、やがて霜月(しもつき)のはての酉の日、臨時の祭ははべるぞかし。東遊(あづまあそび)の歌は、敏之(としゆき)の朝臣(あそん)のよみけるぞかし。  ちはやぶる賀茂の社(やしろ)の姫小松(ひめこまつ)よろづ代経(よふ)とも色は変はらじ  これは古今(こきん)に入りてはべり。人皆(ひとみな)知らせたまへることなれども、いみじくよみたまへるぬしかな。今に絶えずひろごらせたまへる御末(すゑ)、帝(みかど)と申すともいとかくやはおはします。位(くらゐ)につかせたまひて二年といふにはじまれり。使(つかひ)、右近中将時平(ときひら)の朝臣(あそん)こそはしたまひけれ。寛平(くわんぴやう)九年七月五日、おりさせたまふ。昌泰(しやうたい)三年己末(つちのとひつじ)十月十四日、出家(すけ)せさせたまふ。御名、金剛覚(こんがうかく)と申しき。承平(しやうへい)元年七月十九日、うせさせたまひぬ。御年六十六。肥前掾橘良利(ひぜんのぞうたちばなのよしとし)、殿上(てんじやう)にさぶらひける、入道(にふだう)して、修行(すぎやう)の御供(とも)にも、これのみぞつかうまつりける。されば、熊野(くまの)にても、日根(ひね)といふ所にて、「たびねの夢に見えつるは」ともよむぞかし。人々の涙落とすも、ことわりにあはれなることよな。 [一一]王侍従 当代は家人にはあらずや  この帝の、ただ人になりたまふほどなどおぼつかなし。よくも覚えはべらず。御母、洞院(とうゐん)の后(きさき)と申す。この帝の、源氏にならせたまふこと、よく知らぬにや、「王侍従」(わうじじゆう)とこそ申しけれ。陽成院(やうぜいゐん)の御時、殿上人(てんじやうびと)にて、神社行幸(ぎやうかう)には舞人(まひびと)などせさせたまひたり。位につかせたまひて後(のち)、陽成院を通りて行幸ありけるに、「当代(たうだい)は家人(けにん)にはあらずや」とぞ仰せられける。さばかりの家人持たせたまへる帝も、ありがたきことぞかし。 六十代        醍醐(だいご)天皇  敦仁(あつひと) [一二]醍醐天皇の略歴 御子の五十日の祝い  次の帝(みかど)、醍醐天皇と申しき。これ、亭子太上法皇(ていじだいじやうほふわう)の第一の皇子におはします。御母、皇太后宮胤子(いんし)と申しき。内大臣藤原高藤(たかふぢ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝、仁和元年乙巳(きのとみ)正月十八日に生まれたまふ。寛平(くわんぴやう)五年四月十四日、東宮(とうぐう)にたたせたまふ。御年九歳。同七年正月十九日、十一歳にて御元服。また同九年丁巳(ひのとみ)七月三日、位につかせたまふ。御年十三。やがて今宵(こよひ)、夜(よる)の御殿(おとど)より、にはかに御かぶりたてまつりて、さし出でおはしましたりける。「御手づからわざ」と人の申すは、まことにや。さて、世をたもたせたまふこと三十三年。この御時ぞかし、村上(むらかみ)か朱雀院(すざくゐん)かの生まれおはしましたる御五十日(いか)の餅(もちひ)、殿上(てんじやう)に出(い)ださせたまへるに、伊衡(これひら)中将の和歌つかうまつりたまへるは」とて、覚ゆめる。  世継『ひととせにこよひかぞふる今よりはももとせまでの月影を見む とよむぞかし。御返し、帝のしおはしましけむかたじけなさよ。  いはひつる言霊(ことだま)ならばももとせの後(のち)もつきせぬ月をこそ見め 御集(ぎよしふ)など見たまふるに、いとなまめかしう、かくやうの方(かた)さへおはしましける。 六十一代        朱雀院(すざくゐん)  寛明(ひろあきら) [一三]朱雀院天皇の略歴 石清水の臨時の祭  次の帝、朱雀院天皇と申しき。これ、醍醐の帝第十一皇子なり。御母、皇太后宮穏子(をんし)と申しき。太政大臣基経(もとつね)のおとどの第四女なり。この帝(みかど)、延長(えんちやう)元年癸末(みづのとひつじ)七月二十四日、生まれさせたまふ。同三年十月二十一日、東宮(とうぐう)にたたせたまふ。御年三歳。同八年庚寅(かのえとら)九月二十二日、位(くらゐ)につかせたまふ。御年八歳。承平(しようへい)七年正月四日、御元服。御年十五。世をたもたせたまふこと十六年なり。  八幡の臨時の祭は、この御時よりあるぞかし。この帝生まれさせたまひては、御格子(みかうし)もまゐらず、夜昼灯(ひ)をともして御帳の内にて三まで生(おほ)したてまつらせたまひき。北野に怖(お)ぢ申させたまひてかくありしぞかし。この帝生まれおはしまさずは、藤氏の栄えいとかうしもおはしまさざらまし。いみじき折節生まれさせたまへりしぞかし。位につかせたまひて、将門(まさかど)が乱れ出(い)できて、御願にてぞと聞こえはべりし、この臨時の祭は。その東遊(あづまあそび)の歌、貫之(つらゆき)のぬしの詠みたりし。  松も生ひまたも影さす石清水(いはしみづ)行末遠く仕へまつらむ 六十二代        村上(むらかみ)天皇  成明(なりあきら) [一四]村上天皇の略歴  次の帝、村上天皇と申す。これ、醍醐(だいご)の帝の第十四皇子なり。御母、朱雀院(すざくゐん)の同じ御腹(はら)におはします。この帝、延長四年丙戌(ひのえいぬ)六月二日、桂芳坊(けいはうばう)にて生まれさせたまふ。天慶(てんぎやう)三年二月十五日辛亥(かのとゐ)、御元服。御年十五。同七年甲辰(きのえたつ)四月二十二日、春宮(とうぐう)にたたせたまふ。御年十九。同九年丙午(ひのえうま)四月十三日、位につかせたまふ。御年二十一。世をしらせたまふこと二十一年。 [一五]母后穏子と大輔の君の詠歌  御母后、延喜(えんぎ)三年癸亥(みづのとゐ)、前坊(せんばう)をうみたてまつらせたまふ。御年十九。同二十年庚辰女御(かのえたつにようご)の宣旨(せんじ)下りたまふ。御年三十六。同二十三年癸末(みづのとひつじ)、朱雀院生まれさせたまふ。閏(うるふ)四月二十五日、后(きさき)宣旨かぶらせたまふ。御年三十九。やがて、帝(みかど)うみたてまつりたまふ同月に、后(きさき)にもたたせたまひけるにや。四十二にて、村上は生まれさせたまへり。后にたちたまふ日は、先坊(せんばう)の御ことを、宮のうちにゆゆしがりて申し出づる人もなかりけるに、かの御乳母子(めのとご)に大輔(たいふ)の君(きみ)と言ひける女房(にようばう)の、かくよみて出(い)だしける、 わびぬれば今はとものを思へども心に似ぬは涙なりけり また、御法事はてて、人々まかり出づる日も、かくこそはよまれたりけれ。  今はとてみ山を出づる郭公(ほととぎす)いづれの里に鳴かむとすらむ 五月のことにはべりけり。げにいかにとおぼゆるふしぶし、末の世まで伝ふるばかりのこと言ひおく人、優(いう)にはべりかしな。前(さき)の東宮(とうぐう)におくれたてまつりて、かぎりなく嘆かせたまふ同年、朱雀院(すざくゐん)生まれたまひ、我(われ)、后にたたせたまひけむこそ、さまざま、御嘆き御よろこび、かきまぜたる心地(ここち)つかうまつれ。世の、大后(おほきさき)とこれを申す。 六十三代        冷泉院(れいぜいゐん)  憲平(のりひら) [一六]冷泉院天皇の略歴 三条天皇の大嘗会延期  次の帝、冷泉院天皇と申しき。これ、村上天皇第二皇子なり。御母、皇太后宮安子(あんし)と申す。右大臣師輔(もろすけ)のおとどの第一御女なり。この帝、天暦(てんりやく)四年庚戌(かのえいぬ)五月二十四日、在衡(ありひら)のおとどのいまだ従五位下(じゆごゐげ)にて、備前介(びぜんのすけ)と聞こえける折の五条家にて、生まれさせたまへり。同年の七月二十三日、東宮にたたせたまふ。応和(おうわ)三年二月二十八日、御元服(げんぶく)。御年十四。康保(かうほう)四年五月二十五日、御年十八にて位(くらゐ)につかせたまふ。世をたもたせたまふこと二年。寛弘(くわんこう)八年十月二十四日、御年六十二にてうせさせおはしましけるを、三条院(さんでうゐん)につかせたまふ年にて、大嘗会(だいじやうゑ)などの延びけるをぞ、「をりふし」と、世の人申しける。 六十四代        円融院(ゑんゆうゐん)  守平(もりひら) [一七]円融院の略歴 立太子のほどのこと  次の帝(みかど)、円融院天皇と申しき。これ村上の帝の第五皇子なり。御母、冷泉院(れいぜいゐん)の同腹(はら)におはします。この帝、天徳(てんとく)三年己末(つちのとひつじ)三月二日、生まれさせたまふ。この帝の東宮(とうぐう)にたたせたまふほどは、いと聞きにくく、いみじきことどもこそはべれな。これは皆人(みなひと)の知ろしめしたることなれば、ことも長し、とどめはべりなむ。安和(あんな)二年己巳(つちのとみ)八月十三日にこそは位につかせたまひけれ。御年十一にて。世をたもたせたまふこと十五年。 [一七−2]母后安子后崩御を嘆く村上天皇  母后(ははきさき)の、御年二十三四にて、うちつづき、この帝、冷泉院とうみたてまつりたまへる、いとやむごとなき御宿世(すくせ)なり。御母方の祖父(おほぢ)は出雲守従五位下(いづものかみじゆごゐげ)藤原経邦(つねくに)と言ひし人なり。末(すゑ)の世(よ)には、奏(そう)せさせたまひてこそは、贈三位(ぞうさんみ)したまふとこそはうけたまはりしか。いませぬ後(あと)なれど、この世の光はいと面目(めいぼく)ありかし。中后(なかきさき)と申す。この御ことなり。女十宮うみたてまつりたまふたび、かくれさせたまへりし御嘆きこそ、いとかなしくうけたまはりしか。村上御日記御覧(ごらん)じたる人もおはしますらむ。ほのぼの伝へうけたまはるにも、およばぬ心にも、いとあはれにかたじけなくさぶらふな。そのとどまりおはします女宮こそは、大斎院(おほさいゐん)よ。 六十五代        花山院(くわさんゐん)  師貞(もろさだ) [一八]花山院の略歴  次の帝(みかど)、花山院天皇と申しき。冷泉院(れいぜいゐん)第一皇子なり。御母、贈皇后宮懐子(ぞうくわうごうぐうくわいし)と申す。太政大臣伊尹(これまさ)のおとどの第一御女(むすめ)なり。この帝、安和元年戊辰(つちのえたつ)十月二十六日丙子(ひのえね)、母方の御祖父(おほぢ)の一条の家にて生まれさせたまふとあるは、世尊寺(せそんじ)のことにや。その日は、冷泉院御時の大嘗会御禊(だいじやうゑごけい)あり。同二年八月十三日、春宮(とうぐう)にたちたまふ。御年二歳。天元(てんげん)五年二月十九日、御元服。御年十五。永観(えいくわん)二年八月二十八日、位(くらゐ)につかせたまふ。御年十七。寛和(くわんな)二年丙戌(ひのえいぬ)六月二十二日の夜(よ)、あさましくさぶらひしことは、人にも知らせさせたまはで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道(にふだう)せさせたまへりしこそ。御年十九。世をたもたせたまふこと二年。その後(のち)二十二年おはしましき。 [一八−2]出家行の夜、道兼、帝の内裏脱出に従ふ  あはれなることは、おりおはしましける夜は、藤壷(ふぢつぼ)の上(うへ)の御局(つぼね)の子戸(こど)より出(い)でさせたまひけるに、有明(ありあけ)の月のいみじく明(あ)かかりければ、「顕証(けんしよう)にこそありけれ。いかがすべからむ」と仰せられけるを、「さりとて、とまらせたまふべきやうはべらず。神璽(しんし)・宝剣(ほうけん)わたりたまひぬるには」と、粟田殿(あはたどの)のさわがし申したまひけるは、まだ、帝出でさせおはしまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮の御方にわたしたてまつりたまひてければ、かへり入らせたまはむことはあるまじく思(おぼ)して、しか申させたまひけるとぞ。さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲(くも)のかかりて、すこしくらがりゆきければ、「わが出家(すけ)は成就するなりけり」と仰せられて、歩み出でさせたまふはどに、弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)の御文(ふみ)の、日頃(ひごろ)破(や)り残して御身も放(はな)たず御覧(ごらん)じけるを思(おぼ)し召(め)し出でて、「しばし」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿(あはたどの)の、「いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ。ただ今(いま)過ぎば、おのづから障(さは)りも出でまうできなむ」と、そら泣きしたまひけるは。 [一九]安倍晴明、退位を感知 式神を使ふ  さて、土御門(つちみかど)より東(ひんがし)ざまに率(ゐ)て出(い)だしまゐらせたまふに、晴明(せいめい)が家の前をわたらせたまへば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王(みかど)おりさせたまふと見ゆる天変(てんぺん)ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。まゐりて奏(そう)せむ。車に装束(そうぞく)とうせよ」といふ声聞かせたまひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。「且(かつがつ)、式神一人内裏(だいり)にまゐれ」と申しければ、目には見えぬものの、戸をおしあけて、御後(うしろ)をや見まゐらせけむ、「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口(まちぐち)なれば、御道なりけり。 [二〇]花山寺にて出家 道兼の奸策 兼家の関与  花山寺におはしまし着きて、御髪(みぐし)おろさせたまひて後(のち)にぞ、粟田殿は、「まかり出でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内(あない)申して、かならずまゐりはべらむ」と申したまひければ、「朕(われ)をば謀(はか)るなりけり」とてこそ泣かせたまひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃(ひごろ)、よく、「御弟子(でし)にてさぶらはむ」と契りて、すかし申したまひけむがおそろしさよ。東三条殿(とうさんでうどの)は、「もしさることやしたまふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者(むさ)たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤(つつみ)の辺(わたり)よりぞうち出でまゐりける。寺などにては、「もし、おして人などやなしたてまつる」とて、一尺(ひとさく)ばかりの刀(かたな)どもを抜きかけてぞまもり申しける。 [二一]一条院天皇の略歴 母后詮子とその母  次の帝(みかど)、一条院天皇と申しき。これ、円融院第一皇子なり。御母皇后詮子(せんし)と申しき。これ、太政大臣兼家(かねいへ)のおとどの第二御女(むすめ)なり。この帝、天元(てんげん)三年庚辰(かのえたつ)六月一日、兼家のおとどの東三条(とうさんでう)の家にて生まれさせたまふ。東宮(とうぐう)にたちたまふこと、永観(えいくわん)二年八月二十八日なり。御年五歳。寛和(くわんな)二年六月二十三日、位(くらゐ)につかせたまふ。御年七歳。永祚(えいそ)二年庚寅(かのえとら)正月五日、御元服(げんぶく)。御年十一。世をたもたせたまふこと二十五年。御母は、十九にて、この帝をうみたてまつりたまふ。東三条の女院(にようゐん)とこれを申す。この御母は、摂津守(つのかみ)藤原中正(なかまさ)女なり。 六十七代        三条院(さんでうゐん)  居貞(ゐさだ) [二二]三条院天皇の略歴  次の帝、三条院と申す。これ、冷泉院(れいぜいゐん)第二皇子なり。御母、贈皇后宮超子(てうし)と申しき。太政大臣兼家(かねいへ)のおとど第一御女なり。この帝、貞元(ぢやうげん)元年丙子(ひのえね)正月三日、生まれさせたまふ。寛和二年七月十六日、東宮にたたせたまふ。同日、御元服。御年十一。寛弘(くわんこう)八年六月十三日、位(くらゐ)につかせたまふ。御年三十六。世をたもたせたまふこと五年。 [二三]眼疾 一品の宮禎子を鐘愛 三条院の御券  院にならせたまひて、御目を御覧(ごらん)ぜざりしこそ、いといみじかりしか。こと人(ひと)の見たてまつるには、いささか変はらせたまふことおはしまさざりければ、そらごとのやうにぞおはしましける。御まなこなども、いと清らかにおはしましける。いかなる折にか、時々は御覧ずる時もありけり。「御廉(みす)の編諸(あみを)の見ゆる」なども仰せられて。一品宮(いつぽんのみや)ののぼらせたまひけるに、弁(べん)の乳母(めのと)の御供にさぶらふが、さし櫛(ぐし)を左にさされたりければ、「あゆよ、など櫛はあしくさしたるぞ」とこそ仰せられけれ。この宮をことのほかにかなしうしたてまつらせたまうて、御髪(みぐし)のいとをかしげにおはしますを、さぐり申させたまうて、「かくうつくしうおはする御髪を、え見ぬこそ、心憂(こころう)く口惜(くちを)しけれ」とて、ほろほろと泣かせたまひけるこそ、あはれにはべれ。わたらせたまひたる度(たび)には、さるべきものを、かならず奉らせたまふ。三条院の御券(けん)を持(も)て帰りわたらせたまうけるを、入道殿(にふだうどの)、御覧じて、「かしこくおはしける宮かな。幼き御心に、古反古(ふるほぐ)と思(おぼ)してうち捨てさせたまはで、持てわたらせたまへるよ」と興(きよう)じ申させたまひければ、「まさなくも申させたまふかな」とて、御乳母(めのと)たちは笑ひ申させたまける。冷泉院(れいぜいゐん)も奉らせたまひけれど、「昔より帝王の御領にてのみさぶらふ所の、いまさらに私(わたくし)の領になりはべらむは、便(びん)なきことなり。おほやけものにてさぶらふべきなり」とて、返し申させたまひてけり。されば、代々のわたりものにて、朱雀院(すざくゐん)の同じことにはべるべきにこそ。 [二四]寒の水をそそぐ 桓算供養の物の怪 参篭  この御目のためには、よろづにつくろひおはしましけれど、その験(しるし)あることもなき、いといみじきことなり。もとより御風(かぜ)重くおはしますに、医師(くすし)どもの、「大小寒(だいせうかん)の水を御頭(みぐし)に沃(い)させたまへ」と申しければ、凍(こほ)りふたがりたる水を多くかけさせたまけるに、いといみじくふるひわななかせたまて、御色もたがひおはしましたりけるなむ、いとあはれにかなしく人々見まゐらせけるとぞうけたまはりし。御病(やまひ)により、金液丹(きんえきたん)といふ薬(くすり)を召したりけるを、「その薬くひたる人は、かく目をなむ病(や)む」など人は申(ま)ししかど、桓算供奉(くわんざんぐぶ)の御物(もの)の怪(け)にあらはれて申しけるは、「御首(くび)に乗りゐて、左右の羽をうちおほひ申したるは、うちはぶき動かす折に、すこし御覧ずるなり」とこそいひはべりけれ。御位(くらゐ)去らせたましことも、多くは中堂(ちゆうだう)にのぼらせたまはむとなり。さりしかど、のぼらせたまひて、さらにその験(しるし)おはしまさざりしこそ、口惜(くちを)しかりしか。やがておこたりおはしまさずとも、すこしの験はあるべかりしことよ。されば、いとど山の天狗(てんぐ)のしたてまつるとこそ、さまざまに聞こえはべれ。太奏(うづまさ)にも蘢(こも)らせたまへりき。さて仏の御前(おまへ)より東の廂(ひさし)に、組入(くみれ)はせられたるなり。 [二五]兼家公に似た院 斎宮の「別れた御櫛」   御鳥帽子(えぼうし)せさせたまひけるは、大入道殿(おほにふだうどの)にこそ似たてまつりたまへりけれ。御心(こころ)ばへいとなつかしう、おいらかにおはしまして、世の人いみじう恋ひ申すめり。「斎宮(さいぐう)下らせたまふ別れの御櫛(みぐし)ささせたまては、かたみに見返らせたまはぬことを、思ひかけぬに、この院はむかせたまへりしに、あやしとは見たてまつりしものを」とこそ、入道殿は仰せらるなれ。 六十八代         後一条院(ごいちでうゐん)  敦成(あつひろ) [二六]後一条天皇の略歴 後見多く頼もし  次の帝(みかど)、当代(たうだい)。一条院の第二皇子なり。御母、今の入道殿下の第一御女なり。皇太后宮彰子(しやうし)と申す。ただ今、たれかはおぼつかなく思(おぼ)し思ふ人のはべらむ。されどまづすべらぎの御ことを申すさまにたがへはべらぬなり。寛弘(くわんこう)五年戊申(つちのえさる)九月十一日、土御門殿(つちみかどどの)にて生まれさせたまふ。同八年六月十三日、春宮(とうぐう)にたたせたまひき。御年四歳。長和(ちやうわ)五年正月二十九日、位(くらゐ)につかせたまひき。御年九歳。寛仁(くわんにん)二年正月三日、御元服(げんぶく)。御年十一。位につかせたまて十年にやならせたまふらむ。今年、万寿(まんじゆ)二年乙丑(きのとうし)とこそは申すめれ。同じ帝王と申せども、御後見(うしろみ)多く頼(たの)もしくおはします。御祖父(おほぢ)にてただ今の入道殿下、出家せさせたまへれど、世の親、一切衆生(いつさいしゆじやう)を一子のごとくはぐくみ思(おぼ)し召(め)す。第一の御舅(をぢ)、ただ今の関白左大臣(くわんばくさだいじん)、一天下(いつてんが)をまつりごちておはします。次の御舅、内大臣・左近大将にておはします。次々の御舅と申すは、大納言春宮(だいなごんとうぐう)の大夫(だいふ)、中宮権大夫(ちゆうぐうのごんのだいぶ)、中納言など、さまざまにておはします。かやうにおはしませば、御後見多くおはします。昔も今も、帝(みかど)かしこしと申せど、臣下のあまたして傾(かたぶ)けたてまつる時は、傾きたまふものなり。されば、ただ一天下はわが御後見のかぎりにておはしませば、いと頼もしくめでたきことなり。昔、一条院の御悩(なやみ)の折、仰せられけるは、「一の親王をなむ春宮とすべけれども、後見申すべき人のなきにより、思ひかけず。されば二宮をばたてたてまつるなり」と仰せられけるぞ、この当代(たうだい)の御ことよ。げにさることぞかし』 [二七]帝紀から列伝へ 歴史語りの手順  世継『帝王の御次第(しだい)は申さでもありぬべけれど、入道殿下の御栄花(えいぐわ)もなにによりひらけたまふぞと思へば、まづ帝・后(きさき)の御有様(ありさま)を申すなり。植木は根をおほくて、つくろひおほしたてつればこそ、枝も茂りて木(こ)の実(み)をもむすべや。しかれば、まづ帝王の御つづきを覚えて、次に大臣のつづきはあかさむとなり』と言へば、大犬丸(おほいぬまろ)をとこ、『いでいで、いといみじうめでたしや。ここらのすべらぎの御有様をだに鏡をかけたまへるに、まして大臣などの御ことは、年頃闇(としごろやみ)に向(むか)ひたるに、朝日のうららかにさし出でたるにあへらむ心地(ここち)もするかな。また、翁(おきな)が家(いへ)の女(をんな)どものもとなる櫛笥鏡(くしげかがみ)の、影見えがたく、とぐわきも知らず、うち挟(はさ)めて置きたるにならひて、あかく磨(みが)ける鏡に向ひて、わが身の顔を見るに、かつは影はづかしく、また、いとめづらしきにも似たまへりや。いで興(きよう)ありのわざや。さらに翁、いま十二十年の命は、今日(けふ)延びぬる心地しはべり』と、いたく遊戯(ゆげ)するを、見聞く人々、をこがましくをかしけれども、言ひつづくることどもおろかならず、おそろしければ、ものも言はで、皆聞きゐたり。 [二八]過去・現在・未来を映す鏡 重木・世継の歌  大犬丸(おほいぬまろ)をとこ、『いで、聞きたまふや。歌一首つくりてはべり』と言ふめれば、世継、『いと感あることなり』とて、  世継『うけたまはらむ』と言へば、重木、いとやさしげにいひ出づ。『あきらけに鏡にあへば過ぎにしも今ゆく末のことも見えけり』と言ふめれば、世継いたく感じて、あまた度誦(たびす)して、うめきて、返し、『すべらぎのあともつぎつぎかくれなくあらたに見ゆる古鏡かも  今様(いまやう)の葵八花(あふひやつはな)がたの鏡、螺鈿(らでん)の筥(はこ)に入れたるに向ひたる心地したまふや。いでや、それは、さきらめけど、曇りやすくぞあるや。いかにいにしへの古体(こたい)の鏡は、かね白くて、人手ふれねど、かくぞあかき』など、したり顔(がほ)に笑ふ顔つき、絵にかかまほしく見ゆ。あやしながら、さすがなる気(け)つきて、をかしく、まことにめづらかになむ。 [二九]日本紀聞くとおぼすばかり  世継『よしなきことよりは、まめやかなることを申しはてむ。よくよく、たれもたれも聞こし召せ。今日の講師(こうじ)の説法(せつぽふ)は、菩提(ぼだい)のためと思(おぼ)し、翁(おきな)らが説くことをば、日本紀(にほんぎ)聞くと思すばかりぞかし』と言へば、僧俗(そうぞく)、  『げに説経・説法多くうけたまはれど、かく珍しきことのたまふ人は、さらにおはせぬなり』とて、年老いたる尼・法師ども、額(ひたひ)に手をあてて、信をなしつつ聞きゐたり。 [三〇]道長の栄花ならびなし 一乗の法のごとし  世継『世継はいとおそろしき翁にはべり。真実の心おはせむ人は、などか恥づかしと思さざらむ。世の中を見知り、うかべたてて持ちてはべる翁なり。目にも見、耳にも聞き集めてはべるよろづのことの中に、ただ今の入道殿下の御有様(ありさま)、古(いにしへ)を聞き今を見はべるに、二もなく三もなく、ならびなく、はかりなくおはします。たとへば一乗(いちじよう)の法(ほふ)のごとし。御有様のかへすかへすもめでたきなり。世の中の太政大臣・摂政・関白と申せど、始終(はじめをはり)めでたきことは、えおはしまさぬことなり。法文(ほふもん)・聖教(しやうげう)の中にもたとへるなるは、「魚子(うをのこ)多かれど、まことの魚となることかたし。菴羅(あんら)といふ植木あれど、木(こ)の実(み)を結ぶことかたし」とこそは説きたまへなれ。天下の大臣・公卿(くぎやう)の御中に、この宝(たから)の君(きみ)のみこそ、世にめづらかにおはすめれ。今ゆく末(すゑ)も、たれの人かかばかりはおはせむ。いとありがたくこそはべれや。たれも心をとなへて聞こし召せ。世にあることをば、なにごとをか見残し聞き残しはべらむ。この世継が申すことどもはしも、知りたまはぬ人々多くおはすらむとなむ思ひはべる』と言ふめれば、  人々『すべてすべて申すべきにもはべらず』とて聞きあへり。 [三一]列伝の序 大臣の由来  世継『世はじまりて後(のち)、大臣皆(みな)おはしけり。されど、左大臣・右大臣・内大臣・太政大臣と申す位(くらゐ)、天下になりあつまりたまへる、かぞへて皆覚えはべり。世はじまりて後今にいたるまで、左大臣三十人、右大臣五十七人、内大臣十二人なり。太政大臣はこの帝(みかど)の御代(みよ)に、たはやすくおかせたまはざりけり。あるいは帝の御祖父(おほぢ)、あるいは御舅(をぢ)ぞなりたまひける。また、しかのごとく、帝王の御祖父・舅などにて、御後見(うしろみ)したまふ大臣・納言(なごん)数多くおはす。うせたまひて後、贈(ぞう)太政大臣などになりたまへるたぐひ、あまたおはすめり。さやうのたぐひ七人ばかりやおはすらむ。わざとの太政大臣はなりがたく、少なくぞおはする。神武(じんむ)天皇より三十七代にあたりたまふ孝得(かうとく)天皇と申す帝の御代にや、八省・百官・左右大臣・内大臣なりはじめたまへらむ。左大臣には阿倍倉橋麿(あべのくらはしまろ)、右大臣には蘇我山田石川麿(そがやまだのいしかはまろ)、これは、元明(げんめい)天皇の御祖父なり。石川麿大臣、孝徳天皇位につきたまての元年乙巳(きのとみ)、大臣になり、五年己酉(つちのととり)、東宮(とうぐう)のために殺されたまへりとこそは、これはあまりあがりたることなり。内大臣には中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)なり。年号いまだあらざれば、月日(つきひ)申しにくし。また、三十九代にあたりたまふ帝、天智(てんぢ)天皇こそは、はじめて太政大臣をばなしたまけれ。それは、やがてわが御弟(おとと)の皇子におはします大友皇子(おほとものみこ)なり。正月に太政大臣になり。同年十二月二十五日に位につかせたまふ。天武(てんむ)天皇と申しき。世をしらせたまふこと十五年。神武天皇より四十一代にあたりたまふ持統(ぢとう)天皇、また、太政大臣に高市皇子(たけちのみこ)をなしたまふ。天武(てんむ)天皇の皇子なり。この二人の太政大臣はやがて帝(みかど)となりたまふ、高市皇子(たけちのみこ)は大臣ながらうせたまひにき。その後(のち)、太政大臣いとひさしく絶えたまへり。ただし、職員令(しきゐんりやう)に、「太政大臣にはおぼろけの人はなすべからず。その人なくは、ただにおけるべし」とこそあんなれ。おぼろけの位(くらゐ)にははべらぬにや。四十二代にあたりたまふ文武(もんむ)天皇の御時に、年号定(さだま)りたり。大宝(たいほう)元年といふ。文徳(もんとく)天皇の末(すゑ)の年、斎衡(さいかう)四年丁丑(ひのとうし) 二月十九日、帝の御舅(をぢ)、左大臣従一位(じゆいちゐ)藤原良房(よしふさ)のおとど、太政大臣になりたまふ。御年五十四。このおとどこそは、はじめて摂政もしたまへれ。やがてこの殿(との)よりして、今の閑院(かんゐん)大臣まで、太政大臣十一人つづきたまへり。ただし、これよりさきの大友皇子(おほとものみこ)・高市皇子くはへて、十三人の太政大臣なり。太政大臣になりたまひぬる人は、うせたまひて後、かならず諡号(いみな)と申すものあり。しかれども、大友皇子やがて帝になりたまふ。高市の皇子の御諡号おぼつかなし。また、太政大臣といへど、出家しつれば、諡号なし。されば、この十一人つづかせたまへる太政大臣、二所(ふたところ)は出家したまへれば、諡号おはせず。この十一人の太政大臣たちの御次第(しだい)・有様(ありさま)。始終(はじめをはり)申しはべらむと思ふなり。流れを汲(く)みて、源(みなもと)を尋ねてこそは、よくはべるべきを、大織冠(たいしよくくわん)よりはじめたてまつりて申すべけれど、それはあまりあがりて、この聞かせたまはむ人々も、あなづりごとにははべれど、なにごととも思(おぼ)さざらむものから、こと多くて講師(こうじ)おはしなば、こと醒(さ)めはべりなば、口惜(くちを)し。されば、帝王の御ことも、文徳の御時より申してはべれば、その帝の御祖父(おほぢ)の鎌足(かまたり)のおとどより第六にあたりたまふ、世の人は、ふぢさしとこそ申すめれ、その冬嗣(ふゆつぎ)の大臣より申しはべらむ。その中に、思ふに、ただ今の入道殿、世にすぐれさせたまへり。 左大臣冬嗣(さだいじんふゆつぎ) [三二]閑院の大臣 主なる女たち  このおとどは、内麿(うちまろ)のおとどの三郎。御母、正六位上飛鳥部奈止麿(しやうろくゐじやうあすかべのなどまろ)の女(むすめ)なり。公卿(くぎやう)にて十六年、大臣(だいじん)の位(くらゐ)にて六年。田邑(たむら)の御祖父(おほぢ)におはします。かるがゆゑに、嘉祥(かしやう)三年庚午(かのえうま)七月十七日、贈(ぞう)太政大臣になりたまへり。閑院(かんゐん)の大臣と申す。このおとどは、おほかに男子(をのこご)十一人おはしたるなり。されど、くだくだしき女子(をんなご)たちなどのことは、くはしく知りはべらず。ただし、田邑(たむら)の帝(みかど)の御母后(ははきさき)・贈太政大臣長良(ながら)・太政大臣良房(よしふさ)のおとど・右大臣良相(よしみ)のおとどは、一つ御腹(はら)なり。 太政大臣良房(だいじやうだいじんよしふさ)   忠仁公(ちゆうじんこう) [三三]藤氏初の太政大臣と摂政  このおとどは、左大臣冬嗣の二郎なり。天安(てんあん)元年二月十九日、太政大臣になりたまふ。同年四月十九日、従一位(じゆいちゐ)、御年五十四。水尾(みづのを)の帝(みかど)は御孫(まご)におはしませば、即位の年、摂政の詔(みことのり)あり、年官(ねんくわん)・年爵(ねんしやく)たまはりたまふ。貞観(ぢやうぐわん)八年に関白にうつりたまふ。年六十三。うせたまひて後(のち)、御諡号(いみな)忠仁公と申す。また、白川(しらかわ)の大臣・染殿(そめどのの)大臣とも申し伝へたり。ただし、このおとどは、文徳天皇の御舅(をぢ)、太皇太后明子(あきらけいこ)の御父、清和天皇の祖父(おほぢ)にて、太政大臣・准三宮(じゆさんぐう)の位にのぼらせたまふ。年官・年爵の宣旨(せんじ)下り、摂政・関白などしたまひて、十五年こそはおはしましたれ。おほかに公卿にて三十年、大臣の位にて二十五年ぞおはする。この殿ぞ、藤氏のはじめて太政大臣・摂政したまふ。めでたき御有様(ありさま)なり。 [三三−2]和歌の上手素性君の哀傷歌  和歌もあそばしけるにこそ。古今(こきん)にも、あまたはべるめるは。「前(さき)のおほいまうち君(ぎみ)」とは、この御ことなり。多かる中にも、いかに御心ゆき、めでたくおぼえてあそばしけむと推(お)しはからるるを、御女(むすめ)の染殿后(そめどののきさき)の御前(おまへ)に、桜の花の瓶(かめ)にさされたるを御覧(ごらん)じて、かくよませたまへるにこそ。  年経(ふ)ればよはひは老いぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし 后を、花にたとへ申させたまへるにこそ。  かくれたまひて、白川(しらかは)にをさめたてまつる日、素性(そせい)ぎみのよみたまへりしは、  血の涙落ちてぞたぎつ白川は君が世までの名にこそありけれ 皆人(みなひと)知ろしめしたらめど、ものを申しはやりぬれば、さぞはべる。かくいみじき幸(さいは)ひ人(びと)の、子のおはしまさぬこそ口惜(くちを)しけれ。御兄(このかみ)の長良(ながら)の中納言、ことのほかに越えられたまひけむ折、いかばかり辛(から)う思(おぼ)され、また世人もことのほかに申しけめども、その御末(すゑ)こそ、今に栄えおはしますめれ。ゆく末は、ことのほかにまさりたまひけるものを。 右大臣良相(うだいじんよしみ) [三四]西三条の大臣 子孫不振とそのわけ  このおとどは、冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの五郎。御母は、白川の大臣に同じ。大臣の位(くらゐ)にて十一年、贈性一位(ぞうじやういちゐ)。西三条(さいさんでう)の大臣と申す。浄蔵定額(じやうざうぢやうがく)を御祈(いのり)の師にておはす。千手陀羅尼(せんじゆだらに)の験徳(げんとく)かぶりたまふ人なり。この大臣の御女子の御ことよく知らず。一人ぞ、水尾(みづのを)の御時の女御(にようご)。男子(をのこご)は、大納言常行(ときつね)卿と聞こえし。御子二人おはせしも、五位にて典薬助(てんやくのすけ)・主殿頭(とのものかみ)など言ひて、いとあさくてやみたまひにき。かくばかり末栄えたまひける中納言殿を、やへやへの御弟(おとと)にて、越えたてまつりたまひける御あやまちにや、とこそおぼえはべれ。 権中納言従二位左兵衛督長良(ごんちゆうなごんじゆにゐさひやうゑのかみながら) [三五]陽成天皇の祖父、基経のおとどの父  この中納言は、冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの太郎。母、白川(しらかはの)大臣・西三条(さいさんでうの)大臣に同じ。公卿(くぎやう)にて十三年。陽成院(ようぜいゐん)の御時に、御祖父(おほぢ)におはするがゆゑに、元慶(ぐわんぎやう)元年正月に贈(ぞう)左大臣正一位(じやういちゐ)、次、贈太政大臣。枇杷(びはの)大臣と申す。この殿(との)の御男子(をのこご)六人おはせし、その中に基経(もとつね)のおとどすぐれたまへり。 太政大臣基経(だいじやうだいじんもとつね)  昭宣公(せうせんこう) [三六]基経は二帝の祖父 略歴  この大臣(おとど)は、長良の中納言の三郎におはす。このおとどの御女(むすめ)、醍醐(だいご)の御時の后(きさき)、朱雀院幵(すざくゐんならびに)村上二代の御母后(ははきさき)におはします。このおとどの御母、贈太政大臣総継(ふさつぎ)の女、贈正一位大夫人乙春(たいふぢんおとはる)なり。陽成院位(くらゐ)につかせたまひて、摂政宣旨(せつしやうのせんじ)かぶりたまふ。御年四十一。寛平(くわんぴやうの)御時、仁和(にんな)三年十一月二十一日、関白(くわんばく)にならせたまふ。御年五十六にてうせたまひて、御諡号(いみな)、昭宣公と申す。公卿にて二十七年、大臣の位にて二十年、世をしらせたまふこと十余年かとぞ覚えはべる。世の人、堀河(ほりかはの)大臣と申す。 [三六−2]光孝天皇の擁立 陣定  小松(こまつ)の帝(みかど)の御母、この大臣(おとど)の御母、はらからにおはします。さて、児(ちご)より小松の帝をば親しく見たてまつらせたまうけるに、  ことにふれ 迹(きやうじやく)におはします。「あはれ君かな」と見たてまつらせた まひけるが、 良房のおとどの大饗(だいきやう)にや、昔は親王たち、かならず大饗につかせたまふことにて、わたらせたまへるに、 (きじ)の足はかならず大饗に盛るものにてはべるを、いかがしけむ、尊者(そんじや)の御前(おまへ)にとり落してけり。陪膳(はいぜん)の、皇子(みこ)の御前(おまへ)のをとりて、まどひて尊者(そんじや)の御前に据(す)うるを、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ、御前の大殿油(おほとなぶら)を、やをらかい消(け)たせたまふ。このおとどは、その折は下藹(げらふ)にて、座の末(すゑ)にて見たてまつらせたまふに、「いみじうもせさせたまふかな」と、いよいよ見めでたてまつらせたまひて、陽成院(やうぜいゐん)おりさせたまふべき陣定(ぢんのさだめ)にさぶらはせたまふ。融(とほる)のおとど、左大臣にてやむごとなくて、位(くらゐ)につかせたまはむ御心ふかくて、「いかがは。近き皇胤(くわういん)をたづねば、融らもはべるは」と言ひ出でたまへるを、このおとどこそ、「皇胤なれど、姓(しやう)た はりて、ただ人(びと)にて仕へて、位につきたる例(ためし)やある」と申し出でたまへれ。さもあることなれど、このおとどの定(さだ)めによりて、小松(こまつ)の帝(みかど)は位につかせたまへるなり。帝の御末もはるかに伝はり、おとどの末もともに伝はりつつ後見(うしろみ)申したまふ。さるべく契りおかせたまへる御仲にやとぞおぼえはべる。 [三六−3]深草山に葬る 堀河院と閑院 三平  大臣(おとど)うせたまひて、深草(ふかくさ)の山(やま)にをさめたてまつる夜(よ)、勝延僧都(しやうえんそうづ)のよみたまふ、  うつせみはからを見つつも慰めつ深草の山煙(けぶり)だに立て また、上野峯雄(かんつけのみねを)と言ひし人のよみたる、  深草の野辺(のべ)の桜し心あらば今年ばかりは墨染(すみぞめ)に咲けなどは、古今(こきん)にはべることどもぞかしな。御家は堀河院(ほりかはゐん)・閑院(かんゐん)とに住ませたまひしを、堀河院をば、さるべきことの折、はればれしき料(れう)にせさせたまふ。閑院をば、御物忌(ものいみ)や、また、うとき人などはまゐらぬ所にて、さるべくむつましく思(おぼ)す人ばかり御供(とも)にさぶらはせて、わたらせたまふ折もおはしましける。堀河院(ほりかはゐん)は地形(ぢぎやう)のいといみじきなり。大饗(だいきやう)の折、殿(との)ばらの御車の立ちやうなどよ。尊者(そんじや)の御車をば東に立て、牛は御橋(みはし)の平葱柱(ひらきはしら)につなぎ、こと上達部(かんだちめ)の車をば、河よりは西に立てたるがめでたきをは。「尊者の御車の別(べち)に見ゆることは、こと所はえはべらぬものをや」と見たまふるに、この高陽院殿(かやのゐんどの)にこそおされにてはべれ。方四町(ほうしちやう)にて四面に大路(おほぢ)ある京中の家は、冷泉院(れいぜいゐん)のみとこそ思ひさぶらひつれ、世の末(すゑ)になるままに、まさることのみ出でまうで来るなり。この昭宣公(せうせんこう)のおとどは、陽成院(やうぜいゐん)の御舅(をぢ)にて、宇多(うだ)の帝(みかど)の御時に、准三宮(じゆさんぐう)の位(くらゐ)にて年官(ねんくわん)・年爵(ねんしやく)をえたまふ。朱雀院(すざくゐん)・村上の祖父(おほぢ)にておはします。「世覚(おぼ)えやむごとなし」と申せばおろかなりや。御男子(をのこご)四人おはしましき。太郎左大臣時平(ときひら)、二郎左大臣仲平(なかひら)、四郎太政大臣忠平(ただひら)』と言ふに、重木、気色(けしき)ことになりて、まづうしろの人の顔うち見わたして、『それぞ、いはゆる、この翁(おきな)が宝の君貞信公(ていしんこう)におはします』とて、扇(あふぎ)うちつかふ顔もち、ことにをかし。  世継『三郎にあたりたまひしは、従三位(じゆさんみ)して宮内卿兼平(くないきやうかねひら)の君(きみ)と申してうせたまひにき。さるは、御母、忠良(ただよし)の式部卿(しきぶきやう)の親王の御女(むすめ)にて、いとやむごとなくおはすべかりしかど。この三人の大臣たちを、世の人、「三平」と申しき。 左大臣時平(さだいじんときひら) [三七]菅原道真と朝政を執る 道真の左遷  この大臣(おとど)は、基経(もとつね)のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹人康(しほんだんじやうのゐんさねやす)親王の御女なり。醍醐(だいご)の帝の御時、このおとど、左大臣の位(くらゐ)にて年いと若くておはします。菅原(すがはら)のおとど、右大臣の位にておはします。その折、帝御年いと若くおはします。左右の大臣に世の政(まつりごと)を行ふべきよし宣旨(せんじ)下さしめたまへりしに、その折、左大臣、御年二十八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八にやおはしましけむ。ともに世の政をせしめたまひしあひだ、右大臣は才(ざえ)世にすぐれめでたくおはしまし、御心(こころ)おきても、ことのほかにかしこくおはします。左大臣は御年も若く、才もことのほかに劣りたまへるにより、右大臣の御おぼえことのほかにおはしましたるに、左大臣やすからず思(おぼ)したるほどに、さるべきにやおはしけむ、右大臣の御ためによからぬこと出できて、昌泰(しやうたい)四年正月二十五日、大宰権師(だざいのごんのそち)になしたてまつりて、流されたまふ。 [三八]配流 自邸での和歌 途次の詩歌  この大臣(おとど)、子どもあまたおはせしに、女君達は婿(むこ)とり、男君達は、皆ほどほどにつけて位(くらゐ)どもおはせしを、それも皆方々(かたがた)に流されたまひてかなしきに、幼くおはしける男君・女君達慕ひ泣きておはしければ、「小さきはあへなむ」と、おほやけもゆるさせたまひしぞかし。帝(みかど)の御おきて、きはめてあやにくにおはしませば、この御子どもを、同じ方(かた)につかはさざりけり。かたがたにいとかなしく思し召して、御前(おまへ)の梅の花を御覧(ごらん)じて、  東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな また、亭子(ていじ)の帝に聞こえさせたまふ、  流れゆく我は水宵(みくづ)となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ なきことにより、かく罪せられたまふを、かしこく思し嘆きて、やがて山崎(やまざき)にて出家(すけ)せしめたまひて、都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思(おぼ)されて、  君が住む宿の梢(こずゑ)をゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや また、播磨国(はりまのくに)におはしましつきて、明石(あかし)の駅(むまや)といふ所に御宿りせしめたまひて、駅の長(をさ)のいみじく思へる気色(けしき)を御覧じて、作らしめたまふ詩、いとかなし。  駅長(えきちやう)驚クコトナカレ、時ノ変改(へんがい)  一栄一落(いつえいいつらく)、是(こ)レ春秋(しゆんじう) [三九]配所における和歌と詩 菅家後集   かくて筑紫(つくし)におはしつきて、ものをあはれに心ぼそく思さるる夕(ゆふべ)、をちかたに所々(ところどころ)煙(けぶり)立つを御覧(ごらん)じて、  夕されば野にも山にも立つ煙なげきよりこそ燃えまさりけれ また、雲の浮きてただよふを御覧じて、  山わかれ飛びゆく雲のかへり来るかげ見る時はなほ頼(たの)まれぬ さりともと、世を思し召されけるなるべし。月のあかき夜(よ)、  海ならずたたへる水のそこまでにきよき心は月ぞ照らさむ これいとかしこくあそばしたりかし。げに月日(つきひ)こそは照らしたまはめとこそあはめれ』まことに、おどろおどろしきことはさるものにて、かくやうの歌や詩などをいとなだらかに、ゆゑゆゑしう言ひつづけまねぶに、見聞く人々、目もあやにあさましく、あはれにもまもりゐたり。もののゆゑ知りたる人なども、むげに近く居寄(ゐよ)りて外目(ほかめ)せず、見聞く気色(けしき)どもを見て、いよいよはえてものを繰(く)り出(い)だすやうに言ひつづくるほどぞ、まことに希有(けう)なるや。重木、涙をのごひつつ興(きよう)じゐたり。  世継『筑紫におはします所の御門(みかど)かためておはします。大弐(だいに)の居所(ゐどころ)は遥かなれども、楼(ろう)の上の瓦(かはら)などの、心にもあらず御覧(ごらん)じやられけるに、またいと近く観音寺(くわんおんじ)といふ寺のありければ、鐘の声を聞こし召して、作らしめたまへる詩ぞかし、  都府楼(とふろう)ハ纔(わづか)ニ瓦ノ色ヲ看(み)ル  観音寺ハ只(ただ)鐘ノ声ヲ聴(き)ク これは、文集(もんじふ)の、白居易(はくきよい)の遺愛寺(ゐあいじ)ノ鐘ハ欹(そばだ)テテ枕ヲ聴キ、香(かう)炉(ろ)峯(ほう)ノ雪ハ撥(かか)ゲテ簾(すだれ)ヲ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめたまへりとこそ、昔の博士ども申しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京におはしましし時、九月の今宵(こよひ)、内裏(だいり)にて菊の宴ありしに、このおとどの作らせたまひける詩を、帝(みかど)かしこく感じたまひて、御衣(おんぞ)たまはりたまへりしを、筑紫に持(も)て下らしめたまへりければ、御覧ずるに、いとどその折思(おぼ)し召(め)し出(い)でて、作らしめたまひける、  去年ノ今夜(こよひ)ハ清涼(せいりやう)ニ侍(はべ)リキ  秋思(しうし)ノ詩篇(しへん)ニ独(ひと)リ腸(はらわた)ヲ断(た)チキ  恩賜(おんし)ノ御衣(ぎよい)ハ今此(ここ)ニ在(あ)リ  捧(ささ)ゲ持チテ毎日余香(よかう)ヲ拝シタテマツル この詩、いとかしこく人々感じ申されき。このことどもただちりぢりなるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせたまへりけるを、書きて一巻とせしめたまひて、後集(こうしふ)と名づけられたり。また折々(をりをり)の歌(うた)書きおかせたまへりけるを、おのづから世に散り聞こえしなり。世継若(わか)うはべりし時、このことのせめてあはれにかなしうはべりしかば、大学(だいがく)の衆(しゆう)どもの、なま不合(ふがふ)にいましかりしを、訪(と)ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋(ゑぶくろ)・破子(わりご)やうのもの調(てう)じて、うち具(ぐ)してまかりつつ、習ひとりてはべりしかど、老(おい)の気(け)のはなはだしきことは、皆こそ、忘れはべりにけれ。これはただ頗(すこぶ)る覚えはべるなり』と言へば、聞く人々、『げにげに、いみじき好き者にもものしたまひけるかな。今の人は、さる心ありなむや』など、感じあへり。  世継『また、雨の降る日、うちながめたまひて、  あめのしたかわけるほどのなければやきてし濡衣(ぬれぎぬ)ひるよしもなき [四〇]北野と安楽寺 内裏火災と道真の怨霊  やがてかしこにてうせたまへる、夜のうちに、この北野(きたの)にそこらの松を生(お)ほしたまひて、わたり住みたまふをこそは、ただ今の北野宮と申して、現人神(あらひとがみ)におはしますめれば、おほやけも行幸(ぎやうかう)せしめたまふ。いとかしこくあがめたてまつりたまふめり。筑紫のおはしまし所は安楽寺(あんらくじ)と言ひて、おほやけより別当(べたう)・所司(しよし)などなさせたまひて、いとやむごとなし。内裏(だいり)焼けて度々(たびたび)造らせたまふに、円融院(ゑんゆうゐん)の御時のことなり、工(たくみ)ども、裏板(うらいた)どもを、いとうるはしく鉋(かな)かきてまかり出でつt、またの朝(あした)にまゐりて見るに、昨日の裏板にもののすすけて見ゆる所のありければ、梯(はし)に上(のぼ)りて見るに、夜(よ)のうちに、虫の食(は)めるなりけり。その文字は、  つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくて、このおとど、筑紫におはしまして、延喜(えんぎ)三年癸亥(みづのとゐ)二月二十五日にうせたまひしぞかし。御年五十九にて。 [四一]時平一族の短命 大将保忠の焼餅 臆病  さて後(のち)七年ばかりありて、左大臣時平(ときひら)のおとど、延喜九年四月四日うせたまふ。御年三十九。大臣の位(くらゐ)にて十一年ぞおはしける。本院(ほんゐんの)大臣と申す。この時平のおとどの御女(むすめ)の女御(にようご)もうせたまふ。御孫(まご)の春宮(とうぐう)も、一男八条大将保忠(はちでうのだいしやうやすただ)卿もうせたまひにきかし。この大将、八条に住みたまへば、内(うち)にまゐりたまふほどいと遥かなるに、いかが思(おぼ)されけむ、冬は餅(もちひ)のいと大きなるをば一つ、小さきをば二つを焼きて、焼き石のやうに、御身にあてて持ちたまへりけるに、ぬるくなれば、小さきをば一つづつ、大きなるをば中よりわりて、御車副(くるまぞひ)に投げとらせたまひける。あまりなる御用意なりかし。その世にも、耳とどまりて人の思ひければこそ、かく言ひ伝へためれ。この殿(との)ぞかし、病(やまひ)づきて、さまざま祈りしたまひ、薬師経読経(やくしきやうのどきやう)、枕上(まくらがみ)にてせさせたまふに、「所謂宮毘羅大将」(しよゐくびらだいしやう)とうちあげたるを、「我を[くびる]とよむなりけり」と思しけり。臆病(おくびやう)に、やがて絶(た)え入(い)りたまへば、経の文といふ中にも、こはき物(もの)の怪(け)にとりこめられたまへる人に、げにあやしくはうちあげてはべりかし。さるべきとはいひながら、ものは折ふしの言霊(ことだま)もはべることなり。 [四二]敦忠は和歌・管絃の上手 先坊の御息所  その御弟(おとと)の敦忠(あつただ)の中納言もうせたまひにき。和歌の上手(じやうず)、菅絃(くわんげん)の道にもすぐれたまへりき。世にかくれたまひて後(のち)、御遊びある折、博雅三位(ひろまさのさんみ)の、さはることありてまゐらざる時は、「今日の御遊びとどまりぬ」と、度々(たびたび)召されてまゐるを見て、ふるき人々は、「世の末(すゑ)こそあはれなれ。敦忠中納言のいますかりし折は、かかる道に、この三位、おほやけをはじめたてまつりて、世の大事に思ひはべるべきものとこそ思はざりしか」とぞのたまひける。先坊(せんぼう)に御息所(みやすどころ)まゐりたまふこと、本院(ほんゐん)のおとどの御女(むすめ)具して三四人なり。本院のは、うせたまひにき。中将の御息所と聞こえし、後(のち)は重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)親王の北の方にて、斎宮女御(さいぐうのにようご)の御母にて、そもうせたまひにき。いとやさしくおはせし。先坊を恋ひかなしびたてまつりたまひ、大輔(たいふ)なむ、夢に見たてまつりたると聞きて、よみておくりたまへる、  時の間も慰めつらむ君はさは夢にだに見ぬ我ぞかなしき 御返りごと、大輔、  恋しさの慰むべくもさらざりき夢のうちにも夢と見しかば いま一人の御息所は、玄上(はるかみ)の宰相(さいしやう)の女にや。その後朝の使(つかひ)、敦忠(あつただ)中納言、少将にてしたまひける。宮うせたまひて後、この中納言にはあひたまへるを、かぎりなく思ひながら、いかが見たまひけむ、文範(ふみのり)の民部卿(みんぶきやう)の、播磨守(はりまのかみ)にて、殿(との)の家司(けいし)にてさぶらはるるを、「我は命みじかき族(ぞう)なり。かならず死なむず。その後、君は文範にぞあひたまはむ」とのたまひけるを、「あるまじきこと」といらへたまひければ、「天(あま)がけりても見む。よにたがへたまはじ」などのたまひけるが、まことにさていまするぞかし。 [四三]右大臣顕忠の恭謙    ただ、この君たちの御中には、大納言源昇(みなもとののぼる)の卿(きやう)の御女の腹の顕忠(あきただ)のおとどのみぞ、右大臣までなりたまふ。その位(くらゐ)にて六年おはせしかど、少し思(おぼ)すところやありけむ、出でて歩(あり)きたまふにも、家内にも、大臣の作法(さほふ)をふるまひたまはず。御歩きの折は、おぼろけにて御前(ごぜん)つがひたまはず。まれまれも数少なくて、御車のしりにぞさぶらひし。車副(くるまぞひ)四人つがはせたまはざりき。御先(みさき)も時々(ときどき)ほのかにぞまゐりし。盥(たらひ)して御手すますことなかりき。寝殿(しんでん)の日隠(ひがくし)の間(ま)に棚(たな)をして、小桶(こをけ)に小 (こひさご)して置かれたれば、仕丁(じちやう)、つとめてごとに、湯を持(も)てまゐりて入れければ、人してもかけさせたまはず、我(われ)出でたまひて、御手づからぞすましける。御召物(めしもの)は、うるはしく御器(ごき)などにもまゐり据(す)ゑで、  ただ御土器(かはらけ)にて、台などもなく、折敷(をしき)にとり据ゑつつぞまゐら せける。 倹約(けんやく)したまひしに、さるべきことの折の御座と、御判所(はんしよ)とにぞ、大臣とは見えたまひし。かくもてなしたまひし故(け)にや、このおとどのみぞ、御族(ぞう)の中に、六十余までおはせし。四分一の家にて大饗(だいきやう)したまへる人なり。富小路(とみのこうぢ)の大臣と申す。 [四三−2]時平の子孫ふるわず  これよりほかの君達、皆三十余、四十に過ぎたまはず。そのゆゑは、他(た)のことにあらず、この北野の御嘆きになむあるべき。顕忠(あきただ)の大臣の御子、重輔(しげすけ)の右衛門佐(うゑもんのすけ)とておはせしが御子なり、今の三井寺(みゐでら)の別当心誉僧都(べたうしんよそうづ)・山階寺(やましなでら)の権別当扶公(ごんのべたうふこう)僧都なり。この君達こそはものしたまふめれ。敦忠(あつただ)中納言の御子あまたおはしける中に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)なにがし君(ぎみ)とかや申(ま)しし、その君出家(すけ)して往生(わうじやう)したまひにき。その仏(ほとけ)の御子なり、石蔵(いはくら)の文慶(もんけい)僧都は。敦忠の御女子は枇杷(びはの)大納言の北の方にておはしきかし。あさましき悪事(あくじ)を申し行ひたまへりし罪により、このおとどの御末(すゑ)はおはせぬなり。さるは、大和魂(やまとだましひ)などは、いみじくおはしましたるものを。 [四四]時平・過差を止める  延喜(えんぎ)の、世間の作法(さほふ)したためさせたまひしかど、過差(くわさ)をばえしづめさせたまはざりしに、この殿(との)、制(せい)を破りたる御装束(さうぞく)の、ことのほかにめでたきをして、内(うち)にまゐりたまひて、殿上(てんじやう)にさぶらはせたまふを、帝(みかど)、小蔀(こじとみ)より御覧(ごらん)じて、御気色(けしき)いとあしくならせたまひて、職事(しきじ)を召して、「世間の過差の制きびしき頃、左(ひだり)のおとどの一(いち)の人(ひと)といひながら、美麗(びれい)ことのほかにてまゐれる、便(びん)なきことなり。はやくまかり出(い)づべきよし仰せよ」と仰せられければ、うけたまはる職事は、「いかなることにか」と怖(おそ)れ思ひけれど、まゐりて、わななくわななく、「しかじか」と申しければ、いみじくおどろき、かしこまりうけたまはりて、御随身(みずいじん)の御先(みさき)まゐるも制したまひて、急ぎまかり出でたまへば、御前(ごぜん)どもあやしと思ひけり。さて本院の御門一月(みかどひとつき)ばかり鎖(さ)させて、御簾(みす)の外(と)にも出でたまはず、人などのまゐるにも、「勘当(かんだう)の重ければ」とて、会はせたまはざりしにこそ、世の過差はたひらぎたりしか。内々によくうけたまはりしかば、さてばかりぞしづまらむとて、帝と御心あはせさせたまへりけるとぞ。 [四五]時平の笑癖  もののをかしさをぞえ念ぜさせたまはざりける。笑ひたたせたまひぬれば、頗(すこぶ)ることも乱れけるとか。北野と世をまつりごたせたまふあひだ、非道(ひだう)なることを仰せられければ、さすがにやむごとなくて、せちにしたまふことをいかがはと思(おぼ)して、「このおとどのしたまふことなれば、不便(ふびん)なりと見れど、いかがすべからむ」と嘆きたまひけるを、なにがしの史(し)が、「ことにもはべらず。おのれ、かまへてかの御ことをとどめはべらむ」と申しければ、「いとあるまじきこと。いかにして」などのたまはせけるを、「ただ御覧ぜよ」とて、座につきて、こときびしく定めののしりたまふに、この史、文刺(ふんさし)に文挟(ふみはさ)みて、いらなくふるまひて、このおとどに奉るとて、いと高やかに鳴らしてはべりけるに、おとど文もえとらず、手わななきて、やがて笑ひて、「今日は術(ずち)なし。右(みぎ)のおとどにまかせ申す」とだに言ひやりたまはざりければ、それにこそ菅原(すがはら)のおとど、御心のままにまつりごちたまひけれ。 [四六]道真、雷神となる 王威と理非  また、北野の、神にならせたまひて、いとおそろしく雷(かみ)鳴りひらめき、清涼殿(せいりやうでん)に落ちかかりぬと見えけるが、本院(ほんゐん)の大臣(おとど)、太刀(たち)を抜きさけて、「生きてもわが次にこそものしたまひしか。今日、神となりたまへりとも、この世には、我に所置きたまふべし。いかでかさらではあるべきぞ」とにらみやりてのたまひける。一度はしづまらせたまへりとぞ、世(よ)の人(ひと)、申しはべりし。されど、されは、かの大臣(おとど)のいみじうおはするにはあらず、王威(わうゐ)のかぎりなくおはしますによりて、理非(りひ)を示させたまへるなり。 左大臣仲平(さだいじんなかひら) [四七]枇杷の大臣 廂の大饗  この大臣(おとど)は、基経(もとつね)のおとどの次郎。御母は、本院(ほんゐん)の大臣に同じ。大臣の位(くらゐ)にて十三年ぞおはせし。枇杷(びは)の大臣と申す。御子持たせたまはず。伊勢集(いせしふ)に、  花薄(はなすすき)われこそしたに思ひしかほに出でて人にむすばれにけり などよみたまへるは、この人におはす。貞信公(ていしんこう)よりは御兄なれども、三十年まで大臣になりおくれたまへりしを、つひになりたまへれば、おほきおほいどのの御よろこびの歌、  おそくとくつひに咲きぬる梅の花たが植ゑおきし種にかあるらむ やがてその花をかざして、御対面(たいめ)の日、よろこびたまへる。廂(ひさし)の大饗(だいきやう)せさせたまひけるにも、横さまに据ゑまゐらせさせたまひけるこそ、年頃(としごろ)少しかたはらいたく思(おぼ)されける御心(こころ)とけて、いかにかたみに心ゆかせたまへりけむ、御あはひめでたけれ。この殿(との)の御心、まことにうるはしくおはしましける。皆人聞き知ろしめしたることなり、申さじ。このおとどに伊勢(いせ)の御息所(みやすどころ)の忘られてよむ歌なり。  人知れずやみなましかばわびつつも無き名ぞとだに言はましものを 太政大臣忠平(だいじやうだいじんただひら)  貞信公(ていしんこう) [四八]忠平のおとどと五人の御子  この大臣(おとど)、これ、基経(もとつね)のおとどの四郎君。御母、本院(ほんゐんの)大臣・枇杷(びはの)大臣に同。このおとど、延長(えんちやう)八年九月二十一日摂政、天慶(てんぎやう)四年十一月関白宣旨(せんじ)かぶりたまふ。公卿(くぎやう)にて四十二年、大臣位にて三十二年、世をしらせたまふこと二十年。後(のち)の御諡号(いみな)貞信公と名づけたてまつる。子一条(こいちでう)太政大臣と申す。朱雀院幵(すざくゐんならびに)村上の御舅(をぢ)におはします。この御子五人。その折は、御位(くらゐ)太政大臣にて、御太郎、左大臣にて実頼(さねより)のおとど、これ、小野宮(をののみや)と申しき。二郎、右大臣師輔(もろすけ)のおとど、これを九条殿(くでうどの)と申しき。四郎、師氏(もろうじ)の大納言と聞こえき。五郎、また左大臣師尹(もろまさ)のおとど、子一条殿と申しきかし。これ、四人君達、左右(さう)の大臣、納言(なごん)などにて、さしつづきおはしましし、いみじかりし御栄花(えいぐわ)ぞかし。女君一所(をんなぎみひとところ)は、先坊(せんばう)の御息所(みやすどころ)にておはしましき。 [四九]小一条邸と宗像明神  つねにこの三人の大臣たちのまゐらせたまふ料(れう)に、小一条(こいちでう)の南、勘解由小路(かでのこうぢ)には、石畳(いしだたみ)をぞせられたりしが、まだはべるぞかし。宗像(むなかた)の明神(みやうじん)のおはしませば、洞院(とうゐん)。小代(こしろ)の辻子(つじ)よりおりさせたまひしに、雨などの降る日の料とぞうけたまはりし。凡その一町(ひとまち)は、人まかり歩(あり)かざりき。今は、あやしの者も馬・車に乗りつつ、みしみしと歩(ある)きはべれば、昔のなごりに、いとかたじけなくこそ見たまふれ。この翁(おきな)どもは、今もおぼろけにては通りはべらず。今日もまゐりはべるが、腰のいたくはべりつれば、術(ずち)なくてぞまかり通りつれど、なほ石畳をばよきてぞまかりつる。南のつらのいとあしき泥(でい)をふみこみてさぶらひつれば、きたなきものも、かくなりてはべるなり』とて、引き出でて見す。  世継『「先祖の御ものは何もほしけれど、小一条のみなむ要(えう)にはべらぬ。人は子うみ死なむが料にこそ家もほしきに、さやうの折、ほかへわたらむ所は、なににかはせむ。また、凡、つねにもたゆみなくおそろし」とこそ、この入道殿(にふだうどの)は仰せらるなれ。ことわりなりや。この貞信公には、宗像の明神、うつつに、ものなど申したまひけり。「我よりは御位(くらゐ)高くて居(ゐ)させたまへるなむ、くるしき」と申したまひければ、いと不便(ふびん)なる御こととて、神の御位申しあげさせたまへるなり。 [五〇]忠平の豪胆と南殿の鬼  この殿(との)、何(いづれの)御時とは覚えはべらず、思ふに、延喜(えんぎ)・朱雀院(すざくゐん)の御ほどにこそははべりけめ、宣旨(せんじ)奉(うけたまは)らせたまひて、おこなひに陣座(ぢんのざ)ざまにおはします道に、南殿(なでん)の御帳(みちやう)のうしろのほど通らせたまふに、もののけはひして、御太刀(たち)の石突(いしづき)をとらへたりければ、いとあやしくてさぐらせたまふに、毛はむくむくと生ひたる手の、爪(つめ)ながく刀(かたな)の刃(は)のやうなるに、鬼なりけりと、いとおそろしくおぼえけれど、臆(おく)したるさま見えじと念(ねん)ぜさせたまひて、「おほやけの勅宣(ちよくせん)うけたまはりて、定(さだめ)にまゐる人とらふるは何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ」とて、御太刀をひき抜きて、かれが手をとらへさせたまへりければ、まどひてうち放(はな)ちてこそ、丑寅(うしとら)の隅(すみ)ざまにまかりにけれ。思ふに夜(よる)のことなりけむかし。こと殿(との)ばらの御ことよりも、この殿の御こと申すは、かたじけなくもあはれにもはべるかな』とて、音(こゑ)うちかはりて、鼻度々(たびたび)うちかむめり。  世継『いかなりけることにか、七月にて生まれさせたまへるとこそ、人申し伝へたれ。天暦(てんりやく)三年八月十一日にぞうせさせたまひける。正一位(じやういちゐ)に贈(ぞう)せられたまふ。御年七十一。 太政大臣実頼(だいじやうだいじんさねより)  清慎公(せいしんこう) [五一]実頼の人となり 稲荷明神  このおとどは、忠平のおとどの一男におはします。小野(をの)の宮(みや)のおとどと申しき。御母、寛平(くわんぴやう)法皇の御女(むすめ)なり。大臣の位(くらゐ)にて二十七年、天下執行(しふぎやう)、摂政・関白したまひて二十年ばかりやおはしましけむ。御諡号(いみな)、清慎公なり。和歌の道にもすぐれおはしまして、後撰(ごせん)にもあまた入りたまへり。凡、何事にも有識(いうそく)に、御心うるはしくおはしますことは、世の人の本(ほん)にぞひかれさせたまふ。小野宮の南面(みなみおもて)には、御髻放(もとどりはな)ちては出でたまふことなかりき。そのゆゑは、稲荷(いなり)の杉のあらはに見ゆれば、「明神(みやうじん)、御覧(ごらん)ずらむに、いかでかなめげにては出でむ」とのたまはせて、いみじくつつしませたまふに、おのづから思(おぼ)し召(め)し忘れぬる折は、御袖(そで)をかづきてぞ驚きさわがせたまひける。 [五一−2]実頼の女子敦敏少将の早世  この大臣(おとど)の御女子(をんなご)、女御(にようご)にてうせたまひにき。村上の御時にや、よくも覚えはべらず。男君(をとこぎみ)は、時平のおとどの御女(むすめ)の腹に、敦敏(あつとし)少将と聞こえし、父大臣(おとど)の御先にかくれたまひにきかし。さていみじう思し嘆くに、東(あづま)のかたより、うせたまへりとも知らで、馬を奉りたりければ、大臣(おとど)、  まだ知らぬ人もありけり東路(あづまぢ)に我もゆきてぞ住むべかりける いとかなしきことなり」とて、目おしのごふに、  世継『大臣(おとど)の御童名(わらはな)をば、うしかひと申しき。されば、その御族(ぞう)は、牛飼(うしかひ)を「牛つき」とのたまふなり。 [五二]能書家佐理と三島明神  敦敏の少将の子なり、佐理(すけまさ)の大弐(だいに)、世の手書(てかき)の上手(じやうず)。任はてて上(のぼ)られけるに、伊予国(いよのくに)のまへなるとまりにて、日いみじう荒れ、海のおもてあしくて、風おそろしく吹きなどするを、少しなほりて出でむとしたまへば、また同じやうになりぬ。かくのみしつつ日頃(ひごろ)過(す)ぐれば、いとあやしく思(おぼ)して、もの問ひたまへば、「神の御祟(たたり)」とのみ言ふに、さるべきこともなし。いかなることにかと、怖(おそ)れたまひける夢に見えたまひけるやう、いみじうけだかきさましたる男(をとこ)のおはして、「この日の荒れて、日頃ここに経(へ)たまふは、おのれがしはべることなり。よろづの社(やしろ)に額(がく)のかかりたるに、おのれがもとにしもなきがあしければ、かけむと思ふに、なべての手して書かせむがわろくはべれば、われに書かせたてまつらむと思ふにより、この折ならではいつかはとて、とどめたてまつりたるなり」とのたまふに、「たれとか申す」と問ひ申したまへば、「この浦の三島(みしま)にはべる翁(おきな)なり」とのたまふに、夢のうちにもいみじうかしこまり申すと思すに、おどろきたまひて、またさらにもいはず。さて、伊与(いよ)へわたりたまふに、多くの日荒れつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまに追風(おひかぜ)吹きて、飛ぶがごとくまうで着きたまひぬ。湯度々(たびたび)浴(あ)み、いみじう潔斎(けつさい)して、清(きよ)まはりて、昼(ひ)の装束(さうぞく)して、やがて神の御前(おまへ)にて書きたまふ。神司(かみづかさ)ども召(め)し出(い)だして打たせなど、よく法(はふ)のごとくして帰りたまふに、つゆ怖(おそ)るることなく、すゑずゑの船にいたるなで、たひらかに上(のぼ)りたまひにき。わがすることを人間(にんげん)にほめ崇(あが)むるだに興(きよう)あることにてこそあれ、まして神の御心にさまでほしく思(おぼ)しけむこそ、いかに御心おごりしたまひけむ。また、おほよそこれにぞ、いとど日本第一の御手のおぼえはとりたまへりし。六波羅蜜寺(ろこはらみつじ)の額も、この大弐(だいに)の書きたまへるなり。されば、かの三島(みしま)の社(やしろ)の額と、この寺のとは同じ御手にはべり。 [五三]佐理は懈怠者 中関白、障子を書かせる  御心ばへぞ、懈怠者(けだいしや)、少しは如泥人(じよでいにん)とも聞こえつべくおはせし。故中関白殿(なかのくわんばくどの)、東三条(とうさんでう)つくらせたまひて、御障子(しやうじ)に歌絵(うたゑ)ども書かせたまひし色紙形(しきしがた)を、この大弐に書かせましたまひけるを、いたく人さわがしからぬほどに、まゐりて書かれなばよかりぬべかりけるを、関白殿わたらせたまひ、上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)など、さるべき人々まゐりつどひて後(のち)に、日高く待たれたてまつりてまゐりたまひければ、少し骨(こち)なく思(おぼ)し召(め)さるれど、さりとてあるべきことならねば、書きてまかでたまふに、女装束かづけさせたまふを、さらでもありぬべく思さるれど、捨つべきことならねば、そこらの人の中をわけ出でられけるなむ、なほ懈怠の失錯(しつさく)なりける。「のどかなる今朝(けさ)、とくもうちまゐりて書かれなましかば、かからましやは」とぞ、皆人(みなひと)も思ひ、みづからも思したりける。「むげのその道、なべての下藹(げらふ)などにこそ、かやうなることはせさせたまはめ」と、殿(との)をも謗(そし)り申す人々ありけり。 [五四]佐理の女妹とその子  その大弐(だいに)の御女(むすめ)、いとこの懐平(やすひら)の上衛門督(うゑもんのかみ)の北の方にておはせし、経任(つねたふ)の君の母よ。大弐におとらず、女手書(をんなてかき)にておはすめり。大弐の御妹は、法住寺(ほふぢゆうじ)のおとどの北の方にておはす。その御腹(はら)の女君(をんなぎみ)は、花山院(くわざんゐん)の御時の弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)、また、入道(にふだう)中納言の御北の方。また、男子(をのこご)は、今の中宮(ちゆうぐう)の大夫斎信(だいぶただのぶ)の卿(きやう)とぞ申すめる。 [五五]斎敏の子孫実資、かくや姫をかしずく  小野宮(をののみや)の大臣(おとど)の三郎、敦敏(あつとし)の少将の同腹の君(ぎみ)、右衛門督までなりたまへりし、斎敏(ただとし)とぞ聞こえしかし。その御男君、播磨守尹文(はりまのかみまさぶん)の女の腹に三所(みところ)おはせし。太郎は高遠(たかとほ)の君、大弐にてうせたまひにき。二郎は懐平(やすひら)とて、中納言・右衛門 督までなりたまへりし。その御男子なり、今の右兵衛督経通(うひやうゑのかみつねみち)の君、また侍従宰相資平(じじゆうのさいしやうすけひら)の君、今の皇太后宮権大夫(くわうたいごうぐうのごんのだいふ)にておはすめる。その斎敏の君の御男子、御祖父(おほぢ)小野宮のおとどの御子にしたまひて、実資(さねすけ)とつけたてまつりたまひて、いみじうかなしうしたまひき。このおとどの御名の文字なり、「実」文字は』  といふほども、あまり才(ざえ)がりたりや。「童名(わらはな)は、大学丸(だいが くまろ)とぞつけたりける 『その君こそ、今の小野宮の右大臣と申して、いとやむごとなくておはすめり。このおとどの、御子なき嘆きをしたまひて、わが御甥(をひ)の資平の宰相を養ひたまふめり。末に、宮仕人(みやづかへびと)を思(おぼ)しける腹に出でおはしたる男子は、法師にて、内供良円君(ないぐりやうゑんのきみ)とておはす。また、さばらひける女房(にようばう)を召しつかひたまひけるほどに、おのづから生まれたまへりける女君、かくや姫(ひめ)とぞ申しける。この母は頼忠(よりただ)の宰相の乳母子(めのとご)。北の方は、花山院の女御、為平式部卿(ためひらのしきぶきやう)の御女(むすめ)。院そむかせたまひて、道信(みちのぶ)の中将も懸想(けさう)し申したまふに、この殿まゐりたまひにけるを聞きて、中将の聞こえたまひしぞかし、うれしきはいかばかりかは思ふらむ憂(う)きは身にしむ心地(ここち)こそすれ この女御、殿にさぶらひたまひしなり  この女君、千日(せんにち)の講(こう)おこなひたまふ。祐家(すけいえ)中納言の上(うへ)の母なり。兼頼(かねより)の中納言北の方にてうせたまひにき。おほかに、子かたくおほしましける族(ぞう)にや。これも、中宮(ちゆうぐう)の権大夫(ごんのだいぶ)の上も、継子(ままこ)を養ひたまへる。 この女君を、小野宮(をののみや)の寝殿(しんでん)の東面(ひんがしおもて)に帳(ちやう)たてて、いみじうかしづき据ゑたてまつりたまふめり。いかなる人か御婿(むこ)となりたまはむとすらむ。 [五六]実資と小野宮の御堂  かの殿は、いみじき隠(こも)り徳人(とくにん)にぞおはします。故小野宮のそこばくの宝物(たからもの)・荘園(しやうゑん)は、皆この殿にこそはあらめ。殿づくりせられたるさま、いとめでたしや。対(たい)・寝殿・渡殿(わたどの)は例のことなり、辰巳(たつみ)の方(はう)に三間四面の御堂(みだう)たてられて、廻廊は皆、供僧(ぐそう)の房(ばう)にせられたり。湯屋(ゆや)に大きなる鼎(かなへ)二つ塗(ぬ)り据(す)ゑられて、煙(けぶり)立たぬ日なし。御堂には、金色(こんじき)の仏多くおはします。供米(くまい)三十石(こく)を、定図(ぢやうづ)におかれて絶ゆることなし。御堂へまゐる道は、御前(おまへ)の池よりあなたをはるばると野につくらせたまひて、時々(ときどき)の花・紅葉(もみぢ)を植ゑたまへり。また舟に乗りて池より漕(こ)ぎてもまゐる。これよりほかに道なし。  これよりほかの道なきけにや、心やすきけなし。さだめて、三日精進(かさうじ)なり。さらずはあへてたひらかにまゐるべきならず。 住僧(ぢゆうそう)にはやむごとなき智者(ちしや)、あるいは持経者(ぢきやうじや)・真言師(しんごんし)どもなり。これに夏冬の法服(ほふぶく)を賜(た)び、供料(くれう)をあて賜びて、わが滅罪生善(めつざいじやうぜん)の祈(いのり)、また姫君の御息災を祈りたまふ。この小野宮(をののみや)をあけくれつくらせたまふこと、日に工(たくみ)の七八人絶(た)ゆることなし。世の中に手斧(てをの)の音する所は、東大寺(とうだいじ)とこの宮とこそははべるなれ。祖父(おほぢ)おほいどのの、とりわきたまひししるしはおはする人なり。まこと、この御男子は、今の伯耆守資頼(ははきのかみすけより)と聞こゆめるは、姫君の御一(ひと)つ腹(ばら)にあらず、いづれにかありけむ。 太政大臣頼忠(だいじやうだいじんよりただ)  廉義公(れんぎこう) [五七] 賀茂詣でに威儀を示す慣例と灯油倹約  このおとどは、小野宮実頼(さねより)のおとどの二郎なり。御母、時平(ときひら)の大臣の御女(むすめ)、敦敏(あつとし)少将の御同腹(おなじはら)なり。大臣の位(くらゐ)にて十九年、関白にて九年、この生(しやう)きはめさせたまへる人ぞかし。三条(さんでう)よりは北、西洞院(にしのとうゐん)より東(ひんがし)に住みたまひしかば、三条殿と申す。この大臣(おとど)、いみじくことどもしおきたまへる人なり。賀茂詣(かもまうで)に、検非違使(けびゐし)、車のしりに具(ぐ)すること、また馬の上の随身(ずいじん)、左右(さう)に四人つがはしむることも、この殿(との)のしいでたまへり。古(いにしへ)は、物節(もののふし)のかぎり、一人づつありて、府生(ふしやう)はなくてはべりしなり。一(いち)の人(ひと)おはすなど見ゆることはべらざりけり。必ずかくはべるなりけることなりかし。あまりよろづしたためあまりたまひて、殿(との)のうちに宵(よひ)にともしたる油を、またのつとめて、侍(さぶらひ)に油瓶(あぶらがめ)を持たせて、女房(にようばう)の局(つぼね)までめぐりて、残りたるを返し入れて、また、今日の油にくはへてともさせたまひけり。あまりにうたてあることなりや。  よそ人の悲哀−隆家の無礼 頼忠参内の時  一条院位(くらゐ)につかせたまひしかば、よそ人(びと)にて、関白退(の)かせたまひにき。ただ、おほきおほいどのと申して、四条(しでう)の宮(みや)にこそは、一つに住ませたまひしか。それに、この前(さき)の師殿(そちどの)は、時の一(いち)の人(ひと)の御孫(まご)にて、えもいはずはなやぎたまひしに、六条殿(ろくでうどの)の御婿(むこ)にておはせしかば、つねに西洞院(にしのとうゐん)のぼりに歩(あり)きたまふを、こと人(ひと)ならばこと方(かた)よりよきてもおはすべきを、大后(おほきさき)・太政大臣のおはします前を、馬にてわたりたまふ。おほきおほいどのいとやすからず思(おぼ)せども、いかがはせさせたまはむ。なほいかやうにてかとゆかしく思して、中門(ちゆうもん)の北廊(きたのらう)の連子(れんじ)よりのぞかしたまへば、いみじうはやる馬にて、御紐(ひも)おしのけて、雑色(ざふしき)二三十人ばかりに、先(さき)いと高くおはせて、うち見いれつつ、馬の手綱(たづな)ひかへて、扇(あふぎ)高くつかひて通りたまふを、あさましく思せど、なかなかなることなれば、こと多くものたまはで、ただ、「なさけなげなる男(をのこ)にこそありけれ」とばかりぞ申したまひける。非常(ひじやう)のことなりや。さるは、師中納言殿(そちのちゆうなごんどの)の上(うへ)の六条殿(ろくでうどの)の姫君は、母は三条殿の御女におはすれば、御孫ぞかし。されば、人よりはまゐりつかまつりだにこそしたまふばかりしか。この頼忠(よりただ)のおとど、一(いち)の人(ひと)にておはしまししかど、御直衣(なほし)にて内(うち)にまゐりたまふことはべらざりき。奏(そう)せさせたまふべきことある折は、布袴(ほうこ)にてぞまゐりたまふ。さて、殿上(てんじやう)にさぶらはせたまふ。年中行事(ねんちゆうぎやうじ)の御障子(さうじ)のもとにて、さるべき職事蔵人(しきじくらうど)などしてぞ、奏せさせたまひ、うけたまはりたまひける。また、ある折は、鬼間(おにのま)の帝(みかど)出でしめたまひて、召しある折ぞまゐりたまひし。関白したまへど、よその人におはしましければにや。 [五八] 円融院女御遵子の仏道供養と恵心僧都  故中務卿代明(こなかつかさきやうよあきら)親王御女の腹に、御女二人・男子一人おはしまして、大姫君(おほひめぎみ)は、円融院(ゑんゆうゐん)の御時の女御(にようご)にて、天元(てんげん)五年三月十一日に后(きさき)にたちたまひ、中宮(ちゆうぐう)と申しき。御年二十六。御子(みこ)おはせず。四条(しでう)の宮とぞ申すめりし。いみじき有心者(うしんじや)・有識(いうぞく)にぞいはれたまひし。功徳(くどく)も御祈(いのり)も如法(によほふ)に行はせたまひし。毎年の季御読経(きのみどきやう)なども、つねのこととも思(おぼ)し召(め)したらず、四日がほど、二十人の僧を、房(ばう)のかざりめでたくて、かしづき据ゑさせたまひ、湯あむし、斎(とき)などかぎりなく如法に供養(くやう)せさせたまひ、御前(おまへ)よりも、とりわきさるべきものども出でさせたまふ。御みづから清き御衣(おんぞ)奉り、かぎりなくきよまはらせたまひて、僧に賜(た)ぶものどもは、まづ御前にとり据ゑさせて置かせたまひて後(のち)につかはしける。恵心(ゑしん)の僧都(そうづ)の頭陀行(づだぎやう)せられける折に、京中こぞりて、いみじき御斎(とき)を設(まう)けつつまゐりしに、この宮には、うるはしくかねの御器(ごき)どもうせたまへりしかば、「かくてあまり見ぐるし」とて、僧都は迄食(こつじき)とどめたまひてき。  いま一所(ひとところ)の姫君(ひめぎみ)、花山院(くわさんゐん)の御時の女御(にようご)にて、四条宮に尼にておはしますめり。  やがて后・女御の一(ひと)つ腹(ばら)の男君、ただ今の按察大納言公任(あぜちのだいなごんきんたふ)卿と申す。小野宮(をののみや)の御孫(むまご)なればにや、和歌の道すぐれたまへり。世にはづかしく心にくきおぼえおはす。その御女(むすめ)、ただ今の内大臣の北の方にて、年頃(としごろ)多くの君たちうみつづけたまへりつる、去年(こぞ)の正月にうせたまひて、大納言よろづを知らず、思し嘆くことかぎりなし。また、男君一人ぞおはする。左大弁定頼(さだいべんさだより)の君、若殿上人(わかてんじやうびと)の中に、心あり、歌なども上手(じやうず)にておはすめり。母北の方いとあてにおはすかし。村上の九宮の御女(むすめ)、多武峯(たむのみね)の入道(にふだうの)少将、まちをさ君(ぎみ)の御女の腹(はら)なり。内大臣殿の上(うへ)も、この弁の君も、されば御なからひいとやむごとなし。 [五九] 大納言公任の失言 素腹の后  この大納言殿、無心(むしん)のこと一度ぞのたまへるや。御妹の四条宮(しでうのみや)の、后(きさき)にたちたまひて、初めて入内(じゆだい)したまふに、洞院(とうゐん)のぼりにおはしませば、東三条(とうさんでう)の前をわたらせたまふに、大入道殿(おほにふだうどの)も、故女院(にようゐん)も胸痛く思(おぼ)し召(め)しけるに、按察(あぜちの)大納言は后の御せうとにて、御心地(ここち)のよく思されけるままに、御馬をひかへて、「この女御は、いつか后にはたちたまふらむ」と、うち見入れてのたまへりけるを、殿(との)をはじめたてまつりて、その御族(ぞう)やすからず思しけれど、男宮(をのこみや)おはしませば、たけくぞ。よその人々も、「益(やく)なくものたまふかな」と聞きたまふ。一条院(いちでうゐん)、位(くらゐ)につきたまへば、女御、后にたちたまひて入内したまふに、大納言、啓の将(すけ)につかまつりたまへるに、出車(いだしぐるま)より扇をさし出(い)だして、「やや、もの申さむ」と、女房(にようばう)の聞こえければ、「何事にか」とて、うち寄りたまへるに、進内侍(しんのないし)、顔をさし出でて、「御妹の素腹(すばら)の后は、いづくにかおはする」と聞こえかけたりけるに、「先年のことを思ひおかれたるなり。自(みづか)らだいかがとおぼえつることなれば、道理なり。なくなりぬる身にこそとこそおぼえしか」とこそのたまひけれ。されど、人柄しよろづによくなりたまひぬれば、ことにふれて捨てられたまはず、かの内侍のとがなるにてやみにき。 [六〇] 公任卿、大井川三船の誉れ  ひととせ、入道殿の大井川(おほいがは)に逍遥(せうえう)せさせたまひしに作文(さくもん)の船(ふね)・管絃(くわんげん)の船・和歌の船と分(わか)たせたまひて、その道にたへたる人々を乗せさせたまひしに、この大納言のまゐりたまへるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき」とのたまはすれば、「和歌の船に乗りはべらむ」とのたまひて、よみたまへるぞかし、   をぐら山あらしの風のさむければもみぢの錦(にしき)きぬ人ぞなき 申しうけたまへるかひありてあそばしたりな。御みづからも、のたまふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。口惜(くちを)しかりけるわざかな。さても、殿(との)の、『いづれにかと思ふ』とのたまはせしになむ、われながら心おごりせられし」とのたまふなる。一事(ひとこと)のすぐるだにあるに、かくいづれの道もぬけ出でたまひけむは、いにしへも侍らぬことなり。  大臣(おとど)、永祚(えいそ)元年六月二十六日に、うせたまひて、贈正(ぞうじやう)一位になりたまふ。廉義公とぞ申しける。この大臣(おとど)の末、かくなり。 一 左大臣師尹(もろまさ) [六一] 西宮の左大臣高明左遷は、師尹の陰謀 この大臣(おとど)、忠平のおとどの五郎、小一条(こいちでう)の大臣(おとど)と聞えさせたまふめり。御母、九条殿に同じ。大臣の位にて三年。左大臣にうつりたまふこと、西宮殿(にしのみやどの)、筑紫へ下りたまふ御替(かはり)なり。その御ことのみだれは、小一条の大臣(おとど)のいひ出でたまへるとぞ、世の人聞えし。さて、その年も過(すぐ)さずうせたまふことをこそ申すめりしか。それもまことにや。 [六二] 宣耀殿の女御芳子 御娘(むすめ)、村上の御時の宣耀殿(せんえうでん)の女御(にようご)、かたちをしげにうつくしうおはしけり。内(うち)へまゐりたまふとて、御車(みくるま)にたてまつりたまひければ、わが御身は乗りたまひけれど、御(み)ぐしのすそは、母屋(もや)の柱のもとにぞおはしける。一筋(すぢ)をみちのくにがみに置きたるに、いかにもすき見えずとぞ申し伝へためる。御目のしりの少しさがりたまへるが、いとどらうたくおはするを、帝(みかど)、いとかしこくときめかせさせたまひて、かく仰(おほ)せられけるとか、   生きての生死にてののちの後(のち)の世もはねをかはせる鳥となりなむ 御返し、女御(にようご)、   秋になることの葉だにもかはらずはわれもかはせる枝となりなむ 古今うかべたまへりと聞かせたまひて、帝、こころみに本(ほん)をかくして、女御には見せさせたまはで、「やまとうたは」とあるをはじめにて、まへの句のことばを仰せられつつ、問はせたまひけるに、いひたがへたまふこと、詞(ことば)にても歌にてもなかりけり。かかることなむと、父大臣(おとど)は聞きたまひて、御装束(しやうぞく)して、手洗(あら)ひなどして、所々(ところどころ)に誦経(ずきやう)などし、念じ入りてぞおはしける。帝、箏(しやう)の琴(こと)をめでたくあそばしけるも、御心(みこころ)にいれてをしへなど、かぎりなくときめきたまふに、冷泉院の御母后(ははきさき)うせたまひてこそ、なかなかこよなく覚え劣りたまへりとは聞えたまひしか。「故宮(こみや)のいみじうめざましく、やすらかぬものに思(おぼ)したりしかば、思ひ出づるに、いとほしく、くやしきなり」とぞ仰(おほ)せられける。  この女御の御腹に、八の宮とて男親王(をとこみこ)一人生れたまへり。御かたちなどは清げにおはしけれど、御心きはめたる白物(しれもの)とぞ、聞きたてまつりし。世の中のかしこき帝(みかど)の御ためしに、もろこしには堯(げう)・舜(しゆん)の帝と申し、この国には延喜(えんぎ)・天暦(てんりやく)とこそは申すめれ。延喜とは醍醐の先帝(せんだい)、天暦とは村上の先帝の御ことなり。その帝の御子(みこ)、小一条(こいちでう)の大臣(おとど)の御孫(まご)にて、しかしれたまへりける、いとどあやしきことなりかし。 [六三] 師尹男、左大将済時とその虚栄 その母女御の御せうと、済時(なりとき)の左大将と申(ま)しし、長徳(ちやうとく)元年己未(つちのとひつじ)四月二十三日うせたまひにき、御年五十五.この大将は、父大臣よりも御心(こころ)ざまわづらはしく、くせぐせしきおぼえまさりて、名聞(みやうもん)になどぞおはせし。御妹の女御(にようご)殿に、村上の、琴をしへさせたまひける御前(おまへ)にさぶらひたまひて、聞きたまふほどに、おのづから、われもその道の上手(しやうず)に、人にも思はれたまへりしを、おぼろげにて心よくならしたまはず、さるべきことの折も、せめてそそのかされて、もの一つばかりかきあはせなどしたまひしかば、「あまりけにくし」と、人にもいはれたまひき。人の奉りたる贄(にへ)などいふものは、御前(おまえ)の庭にとりおかせたまひて、夜(よる)は贄殿(にへどの)に納(をさ)め、昼はまたもとのやうにとり出でつつ置かせなど、また人の奉りかふるまでは置かせたまひて、とりうごかすことはせさせたまはぬ、あまりやさしきことなりな。人などのまゐるにも、かくなむと見せたまふ料(れう)なめり。昔人(むかしびと)はさることをよきにはしければ、そのままの有様(ありさま)をせさせたまふとぞ。 [六四] 八の宮永平親王、大饗の滑稽と済時の辱号 かくやうにいみじう心ありて思(おほ)したりしほどよりは、よしなしごとしたまへりとぞ、人にいはれたまふめりし。御甥(をひ)の八の宮に大饗(たいきやう)せさせたてまつりたまひて、上戸(じやうご)におはすれば、人々酔(ゑ)はしてあそばむなど思して、「さるべき上達部(かんだちめ)たちとく出づるものならば、『しばし』など、をかしきさまにとどめさせたまへ」と、よくをしへまうさせたまへりけり。さこそ人がらあやしくしれたまへれど、やむごとなき親王(みこ)の大事(だいじ)にしたまふことなれば、人々あまたまゐりたりしも古体(こたい)なりかし。されど、公事(おほやけごと)さしあはせたる日なれば、いそぎ出でたまふに、まことさることありつ、と思し出でて、大将の御方をあまたたび見やらせたまふに、目をくはせたまへば、御おもていと赤くなりて、とみにえうち出でさせたまはず、ものも仰(おほ)せられで、にはかにおびゆるやうに、おどろおどろしくあららかに、人々の上(うへ)の衣(きぬ)の片袂(かたもと)落ちぬばかり、とりかからせたまふに、まゐりとまゐる上達部(かんだちめ)は、末の座まで見合せつつ、えしづめずやありけむ、顔けしきかはりつつ、とりあへずことにことをつけつつなむ急ぎ立ちぬ。この入道殿(にふだうどの)などは、若殿上人(わかてんじやうびと)にておはしましけるほどなれば、ことすゑにてよくも御覧(ごらん)ぜざりけり。「ただ人々のほほゑみて出でたまひしをぞ見し」とぞ、この頃、をかしかりしことに語りたまふなる。大将は、「なにせむにかかることをせさせたてまつりて、また、しかのたまへとも、をしへきこえさせつらむ」と、くやしく思(おぼ)すに、御色も青くなりてぞおはしける。まことに、親王(みこ)をば、もとよりさる人と知りまうしたれば、これをしも、謗(そし)りまうさず、この殿(との)をぞ、「かかる御心を見る見る、せめてならであるべきことならぬに、かく見ぐるしき御有様を、あまた人に見せきこえたまへること」とぞ、謗りまうしし。いみじき心ある人と世覚えおはせし人の、口惜(くちを)しき辱号(ぞくがう)とりたまへるよ。 [六五] 済時の女子と男子 この殿の御北の方にては、枇杷(びわ)の大納言延光(のぶみつ)の御女(むすめ)ぞおはする。女君二所(ふたところ)・男君二人ぞおはせし。女君は、三条院の東宮(とうぐう)にておはしましし折の女御(にようご)にて、宣耀殿と申して、いと時におはしましし。男親王(をとこみこ)四所(よところ)・女宮二人、生れたまへりしほどに、東宮、位につかせたまひてまたの年、長和(ちやうわ)元年四月二十八日、后(きさき)にたちたまひて、皇后宮と申す。また、いま一所の女君は、父殿(ちちとの)うせたまひにし後(のち)、御心(こころ)わざに、冷泉院の四(し)の親王(みこ)、師(そち)の宮(みや)と申す御上(うへ)にて、二三年ばかりおはせしほどに、宮、和泉式部(いづみしきぶ)に思しうつりにしかば、本意(ほい)なくて、小一条に帰らせたまひにし後(のち)、この頃、聞けば、心えぬ有様の、ことのほかなるにてこそおはすなれ。 [六六]〓〔女+成〕子皇后の御腹、敦明親王東宮退位す この殿の御おもておこしたまふは、皇后宮におはしましき。この宮の御腹の一の親王(みこ)敦明(あつあきら)の親王とて、式部卿(しきぶきやう)と申ししほどに、長和四年正月二十九日、三条院おりさせたまへば、この式部卿、東宮にたたせたまひにき。御年二十三。ただし、道理あることと、皆人思ひまうししほどに、二年ばかりありて、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ、宮たちと申しし折、よろづに遊びならはせたまひて、うるはしき御有様いとくるしく、いかでかからでもあらばや、と思しなられて、皇后宮に、「かくなむ思ひはべる」と申させたまふを、「いかでかは、げにさもとは思さむずる。すべてあさましく、あるまじきこと」のみ諌(いさ)めまうさせたまふに、思しあまりて、入道殿に御消息(せうそこ)ありければ、まゐらせたまへるに、御物語こまやかにて、「この位去りて、ただ心やすくてあらむとなむ思ひはべる」と聞えさせたまひければ、「さらにさらにうけたまはらじ。さは、三条院の御末はたえねと思し召し、おきてさせたまふか。いとあさましくかなしき御ことなり。かかる御心のつかはせたまふは、ことごとならじ、ただ冷泉院の御物(もの)の怪(け)などの思はせたてまつるなり。さ思し召すべきぞ」と啓(けい)したまふに、「さらば、ただ本意(ほい)ある出家(すけ)にこそはあなれ」とのたまはするに、「さまで思し召すことなれば、いかがはともかくも申さむ。内(うち)に奏しはべりてを」と申させたまふ折にぞ、御けしきいとよくならせたまひにける。 [六七]三の宮敦良親王立坊 壺切の太刀のこと さて、殿(との)、内(うち)にまゐりたまひて、大宮(おほみや)にも申させたまひければ、いかがは聞かせたまひけむな。このたびの東宮には式部卿(しきぶきやう)の宮をとこそは思し召すべけれど、一条院の、「はかばかしき御後見(うしろみ)なければ、東宮に当代(たうだい)をたてまつるなり」と仰(おほ)せられしかば、これも同じことなりと思しさだめて、寛仁(くわんにん)元年八月五日こそは、九つにて、三の宮、東宮にたたせたまひて、   同じ月の二十三日にこそは、壺切(つぼきり)といふ太刀(たち)は、内より持(も)てまゐりしか。当代位につかせたまひければ、すなはち東宮にもまゐるべかりしを、しかるべきにやありけむ、とかくさはりて、この年頃(としごろ)、内(うち)の納殿(をさめどの)にさぶらひつるぞかし。 寛仁三年八月二十八日、御年十一にて、御元服せさせたまひしか。前(まへ)の東宮をば小一条院(こいちでうゐん)と申す。今の東宮の御有様、申すかぎりなし。つひのこととは思ひながら、ただいまかくとは思ひかけざりしことなりかし。 [六八] 東宮退位のこと敦明親王東宮退位の真相 小一条院、わが御心(みこころ)と、かく退(の)かせたまへることは、これをはじめとす。世はじまりて後(のち)、東宮の御位とり下(さ)げられたまへることは、九代ばかりにやなりぬらむ。中に法師(ほふし)東宮(とうぐう)おはしけるこそ、うせたまひて後(のち)に、贈太上(ぞうだいじやう)天皇と申して、六十余国にいはひすゑられたまへれ。公家(おほやけ)にも知ろしめして、官物(くわんもつ)のはつをさき奉らせたまふめり。この院のかく思(おぼ)したちぬること、かつは殿下(でんか)の御報(ごはう)の早くおはしますにおされたまへるなるべし。また多くは元方(もとかた)の民部卿(みんぶきやう)の霊(りやう)のつかうまつるなり。」といへば、侍(さぶらひ)、「それもさるべきなり。このほどの御ことどもこそ、ことのほかに変りて侍れ。なにがしは、いとくはしくうけたまはること侍るものを」といへば、世継、「さも侍るらむ。伝はりぬることは、いでいでうけたまはらばや。ならひにしことなれば、もののなほ聞かまほしくはべるぞ」といふ。興(きよう)ありげに思ひたれば、侍「ことの様体(やうだい)は、三条院のおはしましけるかぎりこそあれ、うせさせたまひにける後(のち)は、世(よ)の常(つね)の東宮のやうにもなく、殿上人(てんじやうびと)まゐりて、御遊びせさせたまひや、もてなしかしづきまうす人などもなく、いとつれづれに、まぎるるかたなく思(おぼ)し召(め)されけるままに、心やすかりし御有様のみ恋しく、ほけほけしきまでおぼえさせたまひけれど、三条院おはしましつるかぎりは、院(ゐん)の殿上人(てんじやうびと)もまゐりや、御使もしげくまゐり通ひなどするに、人目もしげく、よろづ慰めさせたまふを、院うせおはしましては、世の中のものおそろしく、大路(おほち)の道かひもいかがとのみわづらはしく、ふるまひにくきにより、宮司(みやづかさ)などだにも、まゐりつかまつることもかたくなりゆけば、ましてげすの心はいかがはあらむ、殿守司(とのもりづかさ)の下部(しもべ)、朝ぎよめつかうまつることなければ、庭の草もしげりまさりつつ、いとかたじけなき御すみかにてまします。  まれまれまゐりよる人々は、世に聞ゆることとて、「三の宮のかくておはしますを、心ぐるしく殿(との)も大宮(おほみや)も思ひまうさせたまふに、『もし、内(うち)に男宮(をとこみや)も出でおはしましなば、いかがあらむ。さあらぬ先に東宮にたてたてまつらばや』となむ仰(おほ)せらるなる。されば、おしてとられさせたまふべかむなり」などのみ申すを、まことにしもあらざらめど、げにことのさまも、よもとおぼゆまじければにや、聞かせたまふ御心地(ここち)は、いとどうきたるやうに思し召されて、ひたぶるにとられむよりは、我(われ)とや退(の)きなまし、と思し召すに、また、「高松殿(たかまつどの)の御匣殿(みくしげどの)まゐらせたまひ、殿(との)、はなやかにもてなしたてまつらせたまふべかなり」とも、例のことなれば、世(よ)の人(ひと)のさまざま定め申すを、皇后宮、聞かせたまひて、いみじう喜ばせたまふを、東宮は、いとよかるべきことなれど、さだにあらば、いとどわが思ふことえせじ、なほかくてえあるまじく思されて、御母宮に、「しかじかなむ思ふ」と聞えまうさせたまへば、「さらなりや、いといとあるまじき御ことなり。御匣殿の御ことをこそ、まことならば、すすみきこえさせたまはめ。さらにさらに思しよるまじきことなり」と聞えさせたまひて、御物(もの)の怪(け)のするなりと、御祈(いのり)どもせさせたまへど、さらに思(おぼ)しとどまらぬ御心(みこころ)のうちを、いかでか世の人も聞きけむ、「さてなむ、『御匣殿(みくしげどの)まゐらせたてまつりたまへ』とも聞えさせたまふべかなる」などいふこと、殿(との)の辺(へん)にも聞ゆれば、まことにさも思しゆるぎてのたまはせば、いかがすべからむ、など思す。 [六九] 東宮、退位を決心 道長への仲介を求む さて東宮はつひに思し召したちぬ。後(のち)に御匣殿の御こともいはむに、なかなかそれはなどかなからむなど、よきかたざまに思しなしけむ、不覚(ふかく)のことなりや。   壺切(つぼきり)などのこと、僻事(ひがごと)にさぶらふめり。故三条院たびたび申させたまひしかども、とかく申しやりて奉らせざりしとこそ聞きはべりしか。されば、故院も、「さむばれ、なくともたてでは」とて、おはしまししなり。しかるべきとは、おのづからのことを申させて。 皇后宮にもかくとも申したまはず、ただ御心のままに、殿(との)に御消息(せうそこ)聞えむと思し召すに、むつましうさるべき人もものしたまはねば、中宮権大夫殿(ちゆうぐうごんのだいぶどの)のおはします四条の坊門(ばうもん)と西洞院(にしのとうゐん)とは宮近きぞかし、そればかりを、こと人よりはとや思し召しよりけむ、蔵人(くらうど)なにがしを御使にて、「あからさまにまゐらせたまへ」とあるを、思しもかけぬことなれば、おどろきたまひて、「なにしに召すぞ」と問ひたまへば、「申させたまふべきことのさぶらふにこそ」と申すを、この聞ゆることどもにや、と思せど、退(の)かせたまふことは、さりともよにあらじ、御匣殿(みくしげどの)の御ことならむ、と思す。いかにもわが心ひとつには、思ふべきことならねば、「おどろきながらまゐりさぶらふべきを、大臣(おとど)に案内(あない)申(まう)してなむさぶらふべき」と申したまひて、まづ、殿(との)にまゐりたまへり。「東宮より、しかじかなむ仰(おほ)せられたる」と申したまへば、殿もおどろきたまひて、「何事ならむ」と仰せられながら、大夫殿(だいぶどの)と同じやうにぞ思(おぼ)しよらせたまひける。まことに御匣殿(みくしげどの)の御ことのたまはせむを、いなびまうさむも便(びん)なし。まゐりたまひなば、また、さやうにあやしくてはあらせたてまつるべきならず。また、さては世の人の申すなるやうに、東宮退(の)かせたまはむの御思ひあるべきならずかし、とは思せど、「しかわざと召さむには、いかでかまゐらではあらむ。いかにも、のたまはせむことを聞くべきなり」と申させたまへば、まゐらせたまふほど、日も暮れぬ。  陣(ぢん)に左大臣殿の御車(みくるま)や、御前(ごぜん)どものあるを、なまむつかしと思し召せど、帰らせたまふべきならねば、殿上(てんじやう)に上(のぼ)らせたまひて、「まゐりたるよし啓(けい)せよ」と、蔵人(くらうど)にのたまはすれば、「おほい殿の、御前(おまへ)にさぶらはせたまへば、ただいまはえなむ申しさぶらはぬ」と聞えさするほど、見まはさせたまふに、庭の草もいと深く、殿上の有様も、東宮のおはしますとは見えず、あさましうかたじけなげなり。おほい殿出でたまひて、かくと啓すれば、朝餉(あさがれひ)の方に出でさせたまひて、召しあれば、まゐりたまへり。「いと近く、こち」と仰せられて、「ものせらるることもなきに、案内(あない)するもはばかり多かれど、大臣(おとど)に聞ゆべきことのあるを、伝へものすべき人のなきに、間近(まぢか)きほどなれば、たよりにもと思ひて消息(せうそこ)し聞えつる。その旨(むね)は、かくて侍るこそは本意(ほい)あることと思ひ、故院のしおかせたまへることをたがへたてまつらむも、かたがたにはばかり思はぬにあらねど、かくてあるなむ、思ひつづくるに、罪深くもおぼゆる。内(うち)の御ゆく末はいと遥かにものせさせたまふ。いつともなくて、はかなき世にも命も知りがたし。この有様退きて、心に任(まか)せて行ひもし、物詣(ものまうで)をもし、やすらかにてなむあらまほしきを、むげに前東宮(さきのとうぐう)にてあらむは、見ぐるしかるべくなむ。院号(ゐんがう)たまひて、年(とし)に受領(ずりやう)などありてあらまほしきを、いかなるべきことにかと、伝へ聞えられよ」と仰(おほ)せられければ、かしこまりてまかでさせたまひぬ。  その夜はふけにければ、つとめてぞ、殿(との)にまゐらせたまへるに、内へまゐらせたまはむとて、御装束(さうぞく)のほどなれば、え申させたまはず。おほかたには御供(とも)にまゐるべき人々、さらぬも、出でさせたまはむに見参(げざん)せむと、多くまゐり集りて、さわがしげなれば、御車(みくるま)にたてまつりにおはしまさむに申さむとて、そのほど、寝殿(しんでん)の隅(すみ)の間(ま)の格子(かうし)によりかかりてゐさせたまへるを、源民部卿(げんみんぶきやう)寄りおはして、「などかくてはおはします」と聞えさせたまへば、殿には隠しきこゆべきことにもあらねば、「しかじかのことのあるを、人々もさぶらへば、え申さぬなり」とのたまはするに、御けしきうち変りて、この殿もおどろきたまふ。「いみじくかしこきことにこそあなれ。ただとく聞かせたてまつりたまへ。内にまゐらせたまひなば、いとど人がちにて、え申させたまはじ」とあれば、げにと思(おぼ)して、おはします方にまゐりたまへれば、さならむと御心得(こころえ)させたまひて、隅の間に出でさせたまひて、「春宮(とうぐう)にまゐりたりつるか」と問はせたまへば、よべの御消息(せうそこ)くはしく申させたまふに、さらなりや、おろかに思し召さむやは。おしておろしたてまつらむこと、はばかり思し召しつるに、かかることの出で来(き)ぬる御よろこびなほつきせず。まづいみじかりける大宮(おほみや)の御宿世(すくせ)かな、と思し召す。  民部卿殿に申しあはせさせたまへば、「ただとくとくせさせたまふべきなり。なにか吉日(よきひ)をも問はせたまふ。少しも延びば、思しかへして、さらでありなむとあらむをば、いかがはせさせたまはむ」と申させたまへば、さることと思して、御暦(こよみ)御覧(ごらん)ずるに、今日あしき日にもあらざりけり。やがて関白殿もまゐりたまへるほどにて、「とくとく」と、そそのかしまうさせたまふに、「まづいかにも大宮に申してこそは」とて、内(うち)におはしますほどなれば、まゐらせたまひて、「かくなむ」と聞かせたてまつらせたまへば、まして女の御心はいかが思(おぼ)し召(め)されけむ。それよりぞ、東宮にまゐらせたまひて。 [七〇] 道長、関白頼通以下を具し東宮御所に参上  御子(みこ)どもの殿(との)ばら、また例(れい)も御供(とも)にまゐりたまふ上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)引き具(ぐ)せさせたまへれば、いとこちたく、ひびきことにておはしますを、待ちつけたまへる宮の御心地(ここち)は、さりとも、少しすずろはしく思し召されけむかし。  心も知らぬ人は、つゆまゐりよる人だになきに、昨日(きのふ)、二位中将殿(にゐのちゆうじやうどの)のまゐりたまへりしだにあやしと思ふに、また今日、かくおびただしく、賀茂詣(かもまうで)などのやうに、御先(みさき)の音もおどろおどろしうひびきてまゐらせたまへるを、いかなることぞとあきるるに、少しよろしきほどのものは、「御匣殿(みくしげどの)の御こと申(ま)させたまふなめり」と思ふは、さも似つかはしや。むげに思ひやりなき際(きは)のものは、またわが心にかかるままに、「内のいかにおはしますぞ」などまで、心さわぎしあへりけるこそ、あさましうゆゆしけれ。母宮(ははみや)だにえ知らせたまはざりけり。かくこの御方にものさわがしきを、いかなることぞとあやしう思して、案内(あない)しまうさせたまへど、例(れい)の女房(にようぼう)のまゐる道を、かためさせたまひてけり。 [七一] 東宮、道長と対面、院号を受ける 殿(との)には、年頃(としごろ)思(おぼ)し召(め)しつることなどこまかに聞えむと、心強く思し召しつれど、まことになりぬる折は、いかになりぬることぞと、さすがに御心さわがせたまひぬ。向(むか)ひきこえさせたまひては、かたがたに臆(おく)せられたまひにけるにや。ただ昨日のおなじさまに、なかなか言少(ことずく)なに仰(おほ)せらるる。御返りは、「さりとも、いかにかくは思し召しよりぬるぞ」などやうに申させたまひけむかしな。御けしきの心ぐるしさを、かつは見たてまつらせたまひて、少しおし拭(のご)はせたまひて、「さらば、今日、吉日(よきひ)なり」とて、院(ゐん)になしたてまつらせたまふ。やがてことども始めさせたまひぬ。よろづのこと定め行はせたまふ。判官代(はうぐわんだい)には、宮司(みやづかさ)ども・蔵人(くらうど)などかはるべきにあらず。別当(べたう)には中宮権大夫(ちゆうぐうのごんのだいぶ)をなしたてまつりたまへれば、おりて拝(はい)しまうさせたまふ。ことども定まりはてぬれば、出でさせたまひぬ。  いとあはれにはべりけることは、殿のまださぶらはせたまひける時、母宮(ははみや)の御方より、いづかたの道より尋ねまゐりたるにか、あらはに御覧(ごらん)ずるも知らぬけしきにて、いとあやしげなる姿したる女房(にようばう)の、わななくわななく、「いかにかくはせさせたまへるぞ」と、声もかはりて申しつるなむ、「あはれにも、またをかしうも」とこそ仰せられけれ。勅使(ちよくし)こそ誰(たれ)ともたしかにも聞きはべらね。禄(ろく)など、にはかにて、いかにせられけむ」といへば、世継「殿こそはせさせたまひけめ。さばかりのことになりて、逗留(とうりう)せさせたまはむやは」侍「火焚屋(ひたきや)・陣屋(ぢんや)などとりやられけるほどにこそ、え堪(た)へずしのび音(ね)泣く人々侍りけれ。まして皇后宮・堀河(ほりかは)の女御殿(にようごどの)など、さばかり心深(こころぶか)くおはします御心どもに、いかばかり思(おぼ)し召(め)しけむとおぼえはべりし。世の中の人、「女御殿、  雲居(くもゐ)まで立ちのぼるべき煙(けぶり)かと見えし思ひのほかにもあるかな  といふ歌よみたまへり」など申すこそ、さらによもとおぼゆれ。いとさばかりのことに、和歌のすぢ思(おぼ)しよらじかしな。 [七二]皇后宮の御妹零落し所領回復を道長に愁訴 いま一所の女君(をんなぎみ)こそは、いとはなはだしく心憂(こころう)き御有様にておはすめれ。父大将のとらせたまへりける処分(そうぶん)の領所(らうしよ)、近江(あふみ)にありけるを、人にとられければ、すべきやうもなくて、かばかりになりぬれば、もののはづかしさも知られずや思はれけむ、夜(よる)、かちより御堂(みだう)にまゐりて、うれへ申したまひしはとよ。  殿の御前(おまへ)は、阿弥陀堂(あみだだう)の仏の御前(おまへ)に念誦(ねんず)しておはしますに、夜いたくふけにければ、御脇息(けふそく)によりかかりて、少し眠(ねぶ)らせたまへるに、犬防(いぬふせぎ)のもとに、人のけはひのしければ、あやしと思し召しけるに、女のけはひにて、忍びやかに、「もの申しさぶらはむ」と申すを、御僻耳(ひがみみ)かと思し召すに、あまたたびになりぬれば、まことなりけり、と思(おぼ)し召(め)して、いとあやしくはあれど、「誰(た)そ、あれは」と問はせたまふに、「しかじかの人の、申すべきことさぶらひて、まゐりたるなり」と申しければ、いといとあさましくは思し召せど、あらく仰(おほ)せられけむも、さすがにいとほしくて、「何事(なにごと)ぞ」と問はせたまひければ、「知ろしめしたることにさぶらふらむ」とて、ことの有様こまかに申したまふに、いとあはれに思し召して、「さらなり、みな聞きたることなり。いと不便(ふびん)なることにこそはべるなれ。いま、しかすまじきよし、すみやかにいはせむ。かくいましたること、あるまじきことなり。人してこそいはせたまはめ。とく帰られね」と仰せられければ、「さこそはかへすがへす思ひたまへさぶらひつれど、申しつぐべき人のさらにさぶらはねば、さりともあはれとは仰(おほ)せ言(ごと)さぶらひなむ、と思ひたまへて、まゐりさぶらひながらも、いみじうつつましうさぶらひつるに、かく仰せらるる、申しやるかたなくうれしくさぶらふ」とて、手をすりて泣くけはひに、ゆゆしくも、あはれにも思し召されて、殿(との)も泣かせたまひにけり。  出でたまふ途(みち)に、南大門(なんだいもん)に人々ゐたる中をおはしければ、なにがしぬしの引(ひ)き留(とど)められけるこそ、いと無愛(ぶあい)のことなりや。後(のち)に、殿も聞かせたまひければ、いみじうむつからせたまひて、いとひさしく御かしこまりにていましき。さて御うれへの所は、長く論あるまじく、この人の領(らう)にてあるべきよし、仰せ下されにければ、もとよりいとしたたかに領じたまふ、きはめていとよし。「さばかりになりなむには、ものの恥(はぢ)しらでありなむ。かしこく申したまへる、いとよきこと」と、口々ほめきこえしこそ、なかなかにおぼえはべりしか。大門にてとらへたりし人は、式部大夫(しきぶのたいふ)源政成(みなもとのまさなり)が父なり。 大鏡 中 一 右大臣師輔(もろすけ) [七三]九条殿師輔の子女 弘微殿の女御安子  世継「この大臣(おとど)は、忠平(ただひら)の大臣(おとど)の二郎君、御母、右大臣源能有(みなもとのよしあり)の御女(むすめ)、いはゆる、九条殿(くでうどの)におはします。公卿にて二十六年、大臣の位にて十四年ぞおはしましし。御孫(まご)にて、東宮(とうぐう)、また、四・五の宮を見おきたてまつりてかくれたまひけむは、きはめて口惜し(くちを)き御ことぞや。御年まだ六十(むそじ)にもたらせたまはねば、ゆく末はるかに、ゆかしきこと多かるべきほどよ」とせめてささやくものから、手を打ちてあふぐ。 世継「その殿(との)の 御公達(きんだち)十一人、女五六人ぞ、おはしましし。第一の御女、村上の先帝(せんだい)の御時の女御(にようご)、多くの女御、御息所(みやすどころ)のなかに、すぐれてめでたくおはしましき。帝(みかど)も、この女御殿にはいみじう怖(お)ぢまうさせたまひ、ありがたきことをも奏(そう)せさせたまふことをば、いなびさせたまふべくもあらざりけり。いはむや自余(じよ)のことをば申すべきならず。少し御心(みこころ)さがなく、御もの怨(うら)みなどせさせたまふやうにぞ、世の人にいはれおはしましし。帝をもつねにふすべまうさせたまひて、いかなることのありける折にか、ようさりわたらせおはしましたりけるを、御格子(みかうし)を叩(たた)かせたまひけれど、あけさせたまはざりければ、叩きわづらはせたまひて、「女房に、『などあけぬぞ』と問へ」と、なにがしのぬしの、童殿上(わらはてんじやう)したるが御供(とも)なるに仰(おほ)せられければ、あきたる所やあると、ここかしこ見たうびけれど、さるべき方は皆たてられて、細殿(ほそどの)の口のみあきたるに、人のけはひしければ、寄れてかくとのたうびければ、いらへはともかくもせで、いみじう笑ひければ、まゐれて、ありつるやうを奏しければ、帝もうち笑はせたまひて、「例(れい)のことななり」と仰(おほ)せられてぞ、帰りわたらせおはしましける。この童は、伊賀前司資国(いがのぜんじすけくに)が祖父(おほじ)なり。 [七四] 安子のはげしい嫉妬心 藤壷(ふぢつぼ)・弘徽殿(こきでん)との上(うへ)の御局(みつぼね)は、ほどもなく近きに、藤壷の方には小一条(いちでう)の女御、弘徽殿にはこの后(きさき)の上(のぼ)りておはしましあへるを、いとやすからず、えやしづめがたくおはしましけむ、中隔(なかへだて)の壁に穴をあけて、のぞかせたまひけるに、女御の御かたち、いとうつくしくめでたくおはしましければ、「むべ、ときめにこそありけれ」と御覧(ごらん)ずるに、いとど心やましくならせたまひて、穴よりとほるばかりの土器(かはらけ)のわれして、打たせたまへりければ、帝おはしますほどにて、こればかりはえたへさせたまはずむつかりおはしまして、「かうやうのことは、女房(にようぼ)はせじ。伊尹(これまさ)・兼通(かねみち)・兼家(かねいへ)などが、いひもよほして、せさするならむ」と仰(おほ)せられて、皆、殿上(てんじやう)にさぶらはせたまふほどなりければ、三所(みところ)ながら、かしこまらせたまへりしかば、その折に、いとどおほきに腹立(はらだ)たせたまひて、「わたらせたまへ」と申させたまへば、思ふにこのことならむ、と思(おぼ)し召(め)して、わたらせたまはぬを、たびたび、「なほなほ」と御消息(しようそく)ありければ、わたらずは、いとどこそむつからめと、おそろしくいとほしく思し召して、おはしましけるに、「いかでかかることはせさせたまふぞ。いみじからむさかさまの罪ありとも、この人々をば思しゆるすべきなり。いはむや、まろが方(かた)ざまにてかくせさせたまふは、いとあさましう心憂(こころう)きことなり。ただいま召し返せ」と申させたまひければ、「いかでかただいまはゆるさむ。音聞(おとぎ)き見ぐるしきことなり」と聞えさせたまひけるを、「さらにあるべきことならず」と、せめまうさせたまひければ、「さらば」とて、帰りわたらせたまふを、「おはしましなば、ただいまもゆるさせたまはじ。ただこなたにてを召せ」とて、御衣(おんぞ)をとらへたてまつりて、立てたてまつらせたまはざりければ、いかがはせむと思し召して、この御方へ職事(しきじ)召してぞ、まゐるべきよしの宣旨(せんじ)下させたまひける。これのみにもあらず、かやうなることども多く聞えはべりしかは。 [七五] 安子の人間的な面  おほかたの御心(みこころ)はいとひろく、人のためなどにも思ひやりおはしまし、あたりあたりに、あるべきほどほど過ぐさせたまはず、御かへりみあり。かたへの女御(にようご)たちの御ためも、かつは情(なさけ)あり、御みやびをかはさせたまふに、心よりほかにあまらせたまひぬる時の御もの妬(ねた)みのかたにや、いかが思し召しけむ。この小一条の女御は、いとかく御かたちのめでたくおはすればにや、御ゆるされにすぎたる折々の出でくるより、かかることもあるにこそ。その道は心ばへにもよらぬことにやな。かやうのことまでは申さじ、いとかたじけなし。  おほかた、殿上人(てんじやうびと)・女房(にようばう)、さるまじき女官(にようくわん)までも、さるべき折のとぶらひせさせたまひ、いかなる折も、かならず見過(みすぐ)し聞き放(はな)たせたまはず、御覧じ入れて、かへりみさせたまひ、まして、御はらからたちをば、さらなりや。御兄(あに)をば親のやうに頼(たの)みまうさせたまひ、御弟(おとと)をば子のごとくにはぐくみたまひし御心(こころ)おきてぞや。されば、うせおはしましたりし、ことわりとはいひながら、田舎世界(ゐなかせかい)まで聞きつぎたてまつりて、惜しみ悲しびまうししか。帝(みかど)、よろづの政(まつりごと)をば聞(きこ)えさせ合(あは)せてせさせたまひけるに、人のため嘆きとあるべきことをば直(なほ)させたまふ、よろこびとなりぬべきことをばそそのかし申させたまひ、おのづからおほやけ聞し召してあしかりぬべきことなど人の申すをば、御口(くち)より出(いだ)させたまはず。かやうなる御心おもむけのありがたくおはしませば、御祈(いのり)ともなりて、ながく栄えおはしますにこそあべかめれ。  冷泉院・円融院・為平(ためひら)の式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)と、女宮(をんなみや)四人との御母后(ははきさき)にて、またならびなくおはしましき。帝・春宮(とうぐう)と申し、代代(よよ)の関白・摂政と申すも、多くは、ただこの九条殿(くでうどの)の御一筋(ひとすぢ)なり。男宮(をとこみや)たちの御有様は、代々の帝の御ことなれば、かへすがへすまたはいかが申(ま)しはべらむ。 [七六]為平親王の不遇 守平親王立坊の事情 この后の御腹には、式部卿の宮こそは、冷泉院の御次に、まづ東宮にもたちたまふべきに、西宮殿(にしみやどの)の御婿(むこ)におはしますによりて、御弟の次の宮にひき越されさせたまへるほどなどのことども、いといみじく侍(はべ)る。そのゆゑは、式部卿の宮、帝にゐさせたまひなば、西宮殿の族(ぞう)に世の中うつりて、源氏の御栄えになりぬべければ、御舅(をぢ)たちの魂(たましひ)深く、非道(ひだう)に御弟をば引き越しまうさせたてまつらせたまへるぞかし。世の中にも宮のうちにも、殿(との)ばらの思(おぼ)しかまへけるをば、いかでかは知らむ。次第のままにこそはと、式部卿の宮の御ことをば思ひまうしたりしに、にはかに、「若宮(わかみや)の御(み)ぐしかいけづりたまへ」など、御乳母(めのと)たちに仰(おほ)せられて、大入道殿(おほにふだうどの)、御車(みくるま)にうち乗せたてまつりて、北(きた)の陣(ぢん)よりなむおはしましけるなどこそ、伝へうけたまはりしか。されば、道理あるべき御方人(かたうど)たちは、いかがは思(おぼ)されけむ。その頃、宮たちあまたおはせしかど、ことしもあれ、威儀(ゐぎ)の親王(みこ)をさへせさせたまへりしよ。見たてまつりける人も、あはれなることにこそ申しけれ。そのほど、西宮殿などの御心地(ここち)よな、いかが思しけむ。さてぞかし、いとおそろしく悲しき御ことども出できにしは。かやうに申すも、なかなかいとどことおろかなりや。かくやうのことは、人中(ひとなか)にて、下臈(げらふ)の申すにいとかたじけなし、とどめさぶらひなむ。されどなほ、われながら無愛(ぶあい)のものにて、おぼえさぶらふにや。  式部卿の宮、わが御身の口惜(くちを)しく本意(ほい)なきを、思しくづほれてもおはしまさで、なほ末の世に、花山院の帝(みかど)は、冷泉院の皇子(みこ)におはしませば、御甥(をひ)ぞかし、その御時に、御女奉りたまひて、御みづからもつねにまゐりなどしたまひけるこそ、「さらでもありぬべけれ」と、世の人もいみじう謗(そし)りまうしけり。さりとても、御継(つぎ)などのおはしまさば、いにしへの御本意のかなふべかりけるとも見ゆべきに、帝、出家(すけ)したまひなどせさせたまひて後(のち)、また今の小野宮(をののみや)の右大臣殿の北の方にならせたまへりよ、いとあやしかりし御ことどもぞかし。その女御殿(にようごどの)には、道信(みちのぶ)の中将の君も御消息(せうそこ)聞えたまひけるに、それはさもなくて、かの大臣(おとゞ)に具(ぐ)したまひければ、中将の申したまふぞかし、「憂(う)きは身にしむ心地(ここち)こそすれ」とは、今に人の口にのりたる秀歌(しうか)にて侍(はべ)めり。 [七七] 為平親王、子の日の御遊のきらめき まこと、この式部卿の宮は、世にあはせたまへるかひある折一度おはしましたるは、御子(ね)の日(ひ)ぞかし。御弟(おとと)の皇子たちもまだ幼くおはしまして、かの宮おとなにおはしますほどなれば、世覚え(よおぼえ)・帝(みかど)の御もてなしもことに思ひまうさせたまふあまりに、その日こそは、御供の上達部(かんだちめ)・殿上人などの狩装束(かりさうそく)・馬鞍(うまくら)まで内裏(だいり)のうちに召し入れて御覧(ごらん)するは、またなきこととこそはうけたまはれ。滝口(たきぐち)をはなちて、布衣(ほい)のもの、内にまゐることは、かしこき君の御時も、かかることの侍りけるにや。おほかたいみじかりし日の見物ぞかし。物見車(ものみぐるま)、大宮(おほみや)のぼりに所やは侍りしとよ。さばかりのことこそ、この世にはえさぶらはね。 殿(との)ばらも、のたまひけるは、大路(おおぢ)わたることは常(つね)なり。藤壷(ふぢつぼ)の上(うへ)の御局(みつぼね)につぶとえもいはぬ打出(うちいで)ども、わざとなくこぼれ出でて、后(きさき)の宮(みや)・内(うち)の御前(おまへ)などさしならひ、御簾(みす)のうちにおはしまして御覧ぜし御前(おまえ)通りしなむ、たふれぬべき心地(ここち)せし」とこそのたまひけれ。またそれのみかは、大路にも宮出車十(いだしぐるまとを)ばかり引きつづけて立てられたりしは。一町かねてあたりに人もかけらず、l滝口・侍(さぶらひ)の御前(ごぜん)どもに選(え)りととのへさせたへりし、さるべきものの子どもにて、心のままに、今日はわが世よと、人払はせ、きらめきあへりし気色(きそく)どもなど、よそ人、まことにいみじうこそ見はべりしか」とて、車の衣(きぬ)の色などをさへ語りゐたるぞあさましきや。 [七八]選子の崇仏御禊の禄 追従ぶかき老狐 世継「さて、この御腹におはしましし、女宮一所こそ、いとはかなく、うせたまひにしか。」いま一所、入道一品の宮とて三条におはしましき。うせたまひて十余年にやならせたまひぬらむ。うみおきたてまつらせたまひしたびの宮こそは、今の斎院におはしませ。いつきの宮、世に多くおはしませど、これはことにうごめきなく、世にひさしくたもちおはします。ただこの御一筋のかく栄えたまふべきとぞ見まうす。昔の斎宮・ 斎院は、仏経などのことは忌ませたまひけれど、この宮には仏法をさへあがめたまひて、朝ごとの御念誦かかせたまはず。近くは、この御寺の今日の講には、さだまりて布施をこそは贈らせたまふめれ。いととうより神人にならせたまひて、いかでかかることを思し召しよりけむとおぼえさぶらふは。賀茂の祭の日、一条大路に、そこら集りたる人、さながらともに仏とならむと、誓はせたまひけむこそ、なほあさましく侍れ。さりとてまた、現世の御栄華をととのへさせたまはぬか。御禊よりはじめ三箇日の作法、出車などのめでたさ、おほかた御さまのいと優に、らうらうじくおはしましたるぞ。今の関白殿、兵衛左にて、御禊に御前せさせたまへりしに、いと幼くおはしませば、例は本院に帰らせたまひて、人々に禄などたまはするを、これは川原より出でさせたまひしかば、思ひがけぬ御ことにて、さる御心もうけもなかりければ、御前の召しありて、御対面などせさせたまひて、奉りたまへりける小袿をぞ、かづけたてまつらせたまひて、「いとをかしくもしたまへるかな。禄なからむもたよりなく、取りにやりたまはむもほど経ぬべければ、とりわきたるさまを見せたまふなめり。えせ者は、え思ひよらじかし」とぞ申させたまひける。  この当代(とうだい)や東宮(とうぐう)などの、まだ宮たちにておはしましし時、祭見せたてまつらせたまひし御桟敷(さじき)の前過ぎさせたまふほど、殿(との)の御膝(ひざ)に、二所(ふたところ)ながらすゑたてまつらせたまひて、「この宮たち見たてまつらせたまへ」と申させたまひば、御輿(みこし)の帷(かたびら)より赤色(あかいろ)の御扇(あふぎ)のつまをさし出でたまへりけり。殿をはじめたてまつりて、「なほ心ばせめでたくおはする院(ゐん)なりや。かかるしるしを見せたまはずは、いかでか、見たてまつりたまふらむとも知らまし」とこそは、感じたてまつらせたまひけれ。院より大宮(おほみや)に聞えさせたまひける、   ひかりいづるあふひのかげを見てしより年積(つ)みけるもうれしかりけり 御返し、   もろかづら二葉(ふたば)ながらも君にかくあふひや神のゆるしなるらむ げに賀茂(かも)の明神(みゃうじん)などのうけたてまつりたまへればこそ、二代までうちつづき栄えさせたまふらめな。このこと、「いとをかしうせさせたまへり」と、世の人申ししに、前帥(さきのそち)のみぞ、「追従(ついそう)ぶかき老(おい)ぎつねかな。あな、愛敬(あいぎゃう)な」と申したまひける。 [七九] 妹貞観殿の内侍登子 まこと、この后(きさい)の宮の御おととの中の君は、重明(しげあきら)の式部卿の宮の北の方にておはしまししぞかし。その親王(みこ)は、村上(むらかみ)の御はらからにおはします。この宮の上(うへ)、さるべきことの折は、もの見(み)せたてまつりにとて、后の迎へたてまつりたまへば、忍びつつまゐりたまふに、帝(みかど)ほの御覧じて、いと色なる御心ぐせにて、宮に、「かくなむ思ふ」とあながちにせめ申させたまへば、一二度、知らず顔(がほ)にて、ゆるしまうさせたまひけり。さて後(のち)、御心は通はせたまひける御けしきなれど、さのみはいかがとや思(おぼ)し召(め)しけむ、后(きさき)さらぬことだに、この方(かた)ざまは、なだらかにもえつくりあへさせたまはざめる中(なか)に、ましてこれはよそのことよりは、心づきなうも思し召すべけれど、御あたりをひろうかへりみたまふ御心深(こころぶか)さに、人の御ため聞きにくくうたてあれば、なだらかに色にも出でず、過(ずぐ)させたまひけるこそ、いとかたじけなうかなしきことなれな。さて后(きさい)の宮(みや)うせさせおはしまして後(のち)に、召しとりて、いみじうときめかさせたまひて、貞観殿(ちやうぐわんでん)の尚侍(ないしのかみ)とぞ、申ししかし。世になく覚えおはして、こと女御(にようご)・御息所(みやすどころ)そねみたひしかども、かひかなりけり。これにつけても、「九条殿の御幸ひ」とぞ、人申し」ける。 また三の君は、西宮殿(にしのみやどの)の北の方にておはせしを、御子(みこ)うみて、うせたまひにしかば、よその人は、君達(きんだち)の御ためあしかりなむとて、また御おととの五にあたらせたまふ愛宮(あいみや)と申ししにうつらせたまひにき。四の君はとくうせたまひにき。六の君、冷泉院の東宮(とうぐう)におはしまししに、まゐらせたまひなど、女君(をんなぎみ)たちは、皆かくおはしまさふ。 [八〇] 師輔の男子多武峯の少将高光の出家  男君たちは、十一人の御中に、五人は太政大臣にならせたまへり。それあさましうおどろおどろしき御幸ひなりかし。その御ほかは右兵衛督忠君(うひゃうゑのかみただきみ)、また北野(きたの)の三位遠度(さんみとほのり)、大蔵卿遠量(おほくらきゃうとほかず)、多武峯(たむのみね)の入道少将(にふだうせうしゃう)なり。また法師にては、飯室(いひむろ)の権僧正(ごんのそうじゃう)、今の禅林寺(ぜんりんじ)の僧正などにこそおはしますめれ。法師といへども、世の中の一(いち)の験者(げんざ)にて、仏のごとくに公私(おほやけわたくし)、頼(たの)みあふぎまうさぬ人なし。また北野の三位の御子(みこ)は、尋空律師(じんくうりし)・朝源(てうげん)律師などなり。また大蔵卿の御子は、粟田殿(あはたどの)の北の方、今の左衛門督 (さゑもんのかみ)の母上。この御族(ぞう)、かやうにぞおはしますなかにも、多武峯の少将、出家(すけ)したまへりしほどは、いかにあはれにもやさしくもさまざまなることどもの侍りしかは。なかにも、帝(みかど)の御消息(せうそこ)つかはしたりしこそ、おぼろけならず、御心もや乱れたまひけむと、かたじけなくうけたまはりしか。   みやこより雲のうへまで山の井の横川(よかは)の水はすみよかるらむ 御返し、   九重(ここのへ)のうちのみつねにこひしくて雲の八重(やへ)たつ山はすみ憂 (う)し はじめは、横川におはして、後(のち)に多武峯(たむのみね)には住ませたまひしぞかし。いといみじう侍りしことぞかし。されども、それは九条殿・后(きさい)の宮(みや)などうせさせおはしまして後(のち)のことなり。 [八一] 顕信の出家  この馬頭殿(うまのかみのとの)の御出家(すけ)こそ、親たちの栄えさせたまふことのはじめをうちすてて、いといとありがたく悲しかりし御ことよ。とうより、さる御心(こころ)まうけは思(おぼ)しよらせたまひにけるにや、御はらからの君たちに具(ぐ)したてまつりて、正月二七夜(にしちや)のほどに、中堂(ちゆうだう)に登らせたまへりけるに、さらに御行(おこな)ひもせで、大殿篭(おおとのごも)りたりければ、殿(との)ばら、暁(あかつき)に、「など、かくては臥(ふ)したまへる。起きて、念<>(ねんず)もせさせたまへかし」と申さたまひければ、「いま一度に」とのたまひしを、その折は、思ひもとがめられざりき。「かやうの御有様を思しつづけけるにや」とこそ、この折には、君たち思し出でて申したまいけれ。さりとて、うち屈(く)しやいかにぞやなどある御(み)けしきもなかりけり。人よりことにほこりかに、心地(ここち)よげなる人柄(ひとがら)にてぞおはしましける。 [八二]百鬼夜行にあう 元方と双六 吉夢むなし  この九条殿は、百鬼夜行(ひやくきやぎやう)にあはせたまへるは。いづれの月といふことは、えうけたまはらず、いみじう夜(よ)ふけて、内(うち)より出でたまふに、大宮(おほみや)より南ざまへおはしますに、あははの辻(つじ)のほどにて、御車(みくるま)の簾(すだれ)うち垂(た)れさせたまひて、「御車牛(みくるまうし)もかきおろせ、かきおろせ」と、急ぎ仰(おほ)せられければ、あやしと思へど、かきおろしつ。御随身(みずいじん)・御前(ごぜん)どもも、いかなることのおはしますぞと、御車のもとに近くまゐりたれば、御下簾(したすだれ)うるはしくひき垂(た)れて、御笏(さく)とりて、うつぶさせたまへるけしき、いみじう人にかしこまりまうさせたまへるさまにておはします。「御車は榻(しぢ)にかくな。ただ随身どもは、轅(ながえ)の左右(ひだりみぎ)の軛(くびき)のもとにいと近くさぶらひて、先(さき)を高く追へ。雑色(ざふしき)どもも声絶えさすな。御前ども近くあれ」と仰せられて、尊勝陀羅尼(そんしようだらに)をいみじう読みたてまつらせたまふ。牛をば御車の隠(かく)れの方にひき立てさせたまへり。さて、時中(ときなか)ばかりありてぞ、御簾(すだれ)あげさせたまひて、「今は、牛かけてやれ」と仰せられけれど、つゆ御供(とも)の人は心えざりけり。後々(のちのち)に、「しかじかのことのありし」など、さるべき人々にこそは、忍(しの)びて語り申させたまひけめど、さるめづらしきことは、おのづから散りはべりけるにこそは。  元方(もとかた)の民部卿(みんぶきやう)の御孫(まご)、儲(まうけ)の君(きみ)にておはする頃、帝(みかど)の御庚申(かうしん)せさせたまふに、この民部卿 まゐりたまへり、さらなり。九条殿、・いで、今宵(こよひ)の攤つかうまつらむ・と仰(おほ)せらるるままに、この孕まれたまへる御子(みこ)、男におはしますべくは、調六(でうろく)出(い)で来(こ)・とて、打たせたまへりけるに、ただ一度に出でくるものか。ありとある人、目を見かはして、めで感じもてはやしたまひ、御みづからもいみじと思(おぼ)したりけるに、この民部卿の御けしきいとあしうなりて、色もいと青くこそなりたりけれ。さて後(のち)に、霊(りやう)に出でまして、・その夜(よ)やがて、胸に釘(くぎ)はうてき・とこそのたまひけれ。  おほかた、この九条殿、いとただ人(びと)にはおはしまさぬにや、思(おぼ)しよるゆく末のことなども、かなはぬはなくぞおはしましける。口惜(くちを)しかりけることは、まだいと若くおはしましける時、・夢に、朱雀門(すざくもん)の前に、左右(さう)の足を西東(にしひんがし)の大宮(おほみや)にさしやりて、北向きにて内裏(だいり)を抱(いだ)きて立てりとなむ見えつる・と仰せられけるを、御前(おまへ)になまさかしき女房のさぶらひけるが、・いかに御股(また)痛くおはしましつらむ・と申したりけるに、御夢たがひて、かく子孫は栄えさせたまへど、摂政・関白えしおはしまさずなりにしなり。また御末に思はずなることのうちまじり、帥殿(そちどの)の御ことなども、かれがたがひたる故に侍るめり。「いみじき吉相(きつさう)の夢もあしざまにあはせつればたがふ」と、昔より申し伝へて侍ることなり。荒涼(くわうりやう)して、心知らざらむ人の前に、夢語りな、この聞かせたまふ人々、しおはしまされそ。今ゆく末も九条殿の御末のみこそ、とにかくにつけて、ひろごり栄えさせたまはめ。 [八三]貫之、魚袋の歌 御孫冷泉院と藤原氏  いとをかしきことは、かくやむごとなくおはします殿(との)の、 貫之(つらゆき)のぬしが家におはしましたりしこそ、なほ和歌はめざましきことなりかしと、おぼえはべりしか。正月一日つけさせたまふべき魚袋(ぎよたい)のそこなはれたりければ、つくろはせたまふほど、まづ貞信公(ていしんこう)の御もとにまゐらせたまひて、「かうかうのことの侍れば、内(うち)に遅くまゐる」のよしを申させたまひければ、おほきおとど驚かせたまひて、年頃(としごろ)持たせたまへりける、取り出でさせたまひて、やがて、「あえものにも」とて奉らせたまふを、ことうるはしく松の枝につけさせたまへり。その御かしこまりのよろこびは、御心(みこころ)のおよばぬにしもおはしまさざらめど、なほ貫之に召さむ、と思(おぼ)し召(め)して、わたりおはしましたるを、待ちうけましけむ面目(めいぼく)、いかがおろかなるべきな。   吹く風にこほりとけたる池の魚千代(ちよ)まで松のかげにかくれむ 集に書き入れたる、ことわりなりかし。  いにしへより今にかぎりもなくおはします殿(との)の、ただ冷泉院の御有様のみぞ、いと心憂(こころう)く口惜(くちを)しきことにておはします」といへば、侍(さぶらひ)、 「されど、ことの例(れい)には、まづその御時をこそは引かるめれ」といへば、世継「それは、いかでかはさらでは侍らむ。その帝(みかど)の出でおはしましたればこそ、この藤氏(とうし)の殿(との)ばら、今に栄え御はしませ。「さらざらましかば、この頃わづかにわれらも諸大夫(しよだいぶ)ばかりになり出でて、ところどころの御前(ごぜん)・雑役(ざふやく)につられ歩(あり)きなまし」とこそ、入道殿(にふだうどの)は仰(おほ)せられければ、源民部卿(げんみんぶきやう)は、「さるかたちしたるまうちぎみだちのさぶらはましかば、いかに見ぐるしからまし」とぞ、笑ひ申させたまふなる。かかれば、公私(おほやけわたくし)、その御時のことをためしとせさせたまふ、ことわりなり。御物(もの)の怪(け)こはくて、いかがと思(おぼ)し召(め)ししに、大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)にこそ、いとうるはしくて、わたらせたまひにしか。「それは、人の目にあらはれて、九条殿なむ御後(うしろ)を抱(いだ)きたてまつりて、御輿(みこし)のうちにさぶらはせたまひける」とぞ、人申しし。げに現(うつつ)にても、いとただ人(びと)とは見えさせたまはざりしかば、ましておはしまさぬ後(あと)には、さやうに御守(まぼり)にても添(そ)ひまうさせたまひつらむ」 侍「さらば、元方(もとかた)卿・桓算供奉(くわんざんぐぶ)をぞ、逐(お)ひのけさせたまふべきな」。 世継「それはまた、しかるべき前(さき)の世(よ)の御報(むくひ)にこそおはしましけめ。さるは、御心(みこころ)いとうるはしくて、世の政(まつりごと)かしこくせさせたまひつべかりしかば、世間(よのなか)にいみじうあたらしきことにぞ申すめりし。  さてまた、今は故九条殿の御子(みこ)どもの数(かず)、この冷泉院・円融院の御母、貞観殿(ぢやうぐわんでん)の尚侍(ないしのかみ)、一条摂政、堀河殿(ほりかはどの)、大入道殿(おほにふだうどの)、忠君(ただきみ)の兵衛督(ひやうゑのかみ)と六人は、武蔵守(むさしのかみ)従(じゆ)五位上経邦(つねくに)の女(むすめ)の腹におはしまさふ。世の人「女子(をんなご)」といふことは、この御ことにや。おほかた、御腹ことなれど、男君(をとこぎみ)たち五人は太政大臣、三人は摂政したまへり。 一 太政大臣伊尹(これまさ)謙徳公(けんとくこう) [八四] 伊尹短命のわけ 折々の和歌 過差を好む  この大臣(おとど)は、一条摂政と申しき。これ、九条殿(くでうどの)の一男におはします。いみじき御集(ぎよしふ)つくりて、豊景(とよかげ)と名のらせたまへり。大臣になり栄えたまひて三年。いと若くてうせおはしましたることは、九条殿の御遺言(ゆいごん)をたがへさせおはしましつる故(け)とぞ人申しける。されどいかでかは、さらでもおはしまさむ。御葬送(さうそう)の沙汰(さた)を、むげに略定(りやくぢやう)に書きおかせたまへりければ、「いかでか、いとさは」とて、例(れい)の作法(さはう)に行(おこなは)せたまふとぞ。それはことをりの御しわざぞかし。ただ、御かたち・身の才(ざえ)、何事もあまりすぐれさせたまへれば、御命のえととのはせたまはざりけるにこそ。 折々の御和歌などこそめでたく侍れな。春日(かすが)の使(つかひ)におはしまして、帰るさに、女のもとに遺(つか)はしける、 暮ればとくゆきて語らむ逢(あ)ふことはとをちの里の住み憂(う)かりしも 御返し、 逢ふことはとをちの里にほど経(へ)しも吉野の山と思ふなりけむ 助信(すけのぶ)の少将の、宇佐(うさ)の使にたたれしに、殿(との)にて、餞(うまのはなむけ)に「菊の花のうつろひたる」を題にて、別れの歌よませたまへる、 さは遠くうつろひぬとかきくの花折りて見るだに飽(あ)かぬ心を 帝(みかど)の御舅(をぢ)・東宮(とうぐう)の御祖父(おほぢ)にて摂政せさせたまへば、世の中はわが御心(みこころ)にかなはぬことなく、過差(くわさ)ことのほかに好ませたまひて、大饗(たいきやう)せさせたまふに、寝殿(しんでん)の裏板(うらいた)の壁の少し黒かりければ、にはかに御覧(ごらん)じつけて、陸奥紙(みちのくにがみ)をつぶと押させたまへりけるがなかなか白く清(きよ)げに侍りける。思ひよるべきことかはな。御家は今の世尊寺(せそんじ)ぞかし。御族(ぞう)の氏寺(うぢでら)にておかれたるを、かやうのついでには、立ち入りて見たまふれば、まだその紙の押されて侍るこそ、昔にあへる心地(ここち)してあはれに見たまふれ。かやうの御栄えを御覧じおきて、御年五十(いそじ)にだなたらでうさせたまへるあたらしさは、父大臣(おとど)にもおとらせたまはずこそ、世の人惜しみたてまつりしか。 [八五] 伊尹の子女火の宮尊子 三宝絵 その御男(をとこ)・女君(をんなぎみ)たちあまたおはしましき。女君一人は、冷泉院の御寺の女御(にようご)にて、花山院の御母、贈(ぞう)皇后宮にならせたまひにき。次々の女君二人は、法住寺(ほふぢゆうじ)の大臣(おとど)の北の方にて、うちつづきうせさせたまひにき。九の君は、冷泉院の御皇子(みこ)の弾上(だんじやう)の宮(みや)と申す御上(うへ)にておはせしを、その宮うせたまひて後(のち)、尼(あま)にていみじう行ひつとめておはすめり。また、忠君(ただきみ)の兵衛督(ひやうゑのかみ)の北の方にておはせしが、後(のち)には、六条の左大臣殿の御子(みこ)の右大弁(うだいべん)の上にておはしけるは、四の君とこそは。 また、花山院の御妹(いもうと)の女一の宮はうせたまひにき。女二の宮は冷泉院の御時の斎宮(さいぐう)にたたせたまひて、円融院の御時の女御にまゐりたまへりしほどもなく、内(うち)の焼けにしかば、火(ひ)の宮(みや)と世の人つけたてまつりき。さて二三度まゐりたまひて後(のち)、ほどもなくうせたまひにき。この宮に御覧(ごらん)ぜさせむとて、三宝絵(さんぽうゑ)はつくれるなり。 [八六]前少将挙賢後少将義孝 義孝、極楽往生  男君たちは、代明(よあきら)の親王(みこ)の御女(むすめ)の腹に、前少将挙賢(たかかた)・後少将義孝(よしたか)とて、花を折りたまひし君たちの、殿(との)うせたまひて、三年ばかりありて、天延(てんえん)二年甲戌(きのえいぬ)の年、皰瘡(もがさ)おこりたるに、煩(わづら)ひたまひて、前少将は、朝(あした)にうせ、後少将は、夕(ゆふべ)にかくれたまひにしぞかし。一日(ひとひ)がうちに、二人の子をうしなひたまへりし、母北の方の御心地(ここち)いかなりけむ、いとこそ悲しくうけたまはりしか。  かの後少将は義孝とぞ聞えし。御かたちいとめでたくおはし、年頃(としごろ)きはめたる道心者(だうしんざ)にぞおはしける。病重くなるままに、生くべくもおぼえたまはざりければ、母上に申したまひけるやう、「おのれ死にはべりぬとも、とかく例(れい)のやうにせさせたまふな。しばし法華経(ほけきやう)誦(ず)じたてまつらむの本意(ほい)侍れば、かならず帰りまうで来(く)べし」とのたまひて、方便品(はうべんぼん)を読みたてまつりたまひてぞ、うせたまひける。その遺言(ゆいごん)を、母北の方忘れたまふべきにはあらねども、ものも覚えでおはしければ、思ふに人のしたてまつりてけるにや、枕(まくら)がへしなにやと、例のやうなる有様どもにしてければ、え帰りたまはずなりにけり。後(のち)に、母北の方の御夢に見えたまへる、   しかばかり契りしものを渡り川かへるほどには忘るべしやは とぞよみたまひける、いかにくやしく思(おぼ)しけむな。  さて後(のち)、ほど経(へ)て、賀縁(がえん)阿闍梨(あざり)と申す僧の夢に、この君たち二人おはしけるが、兄、前少将いたうもの思へるさまにて、この後少将は、いと心地(ここち)よげなるさまにておはしければ、阿闍梨、「君はなど心地よげにておはする。母上は、君をこそ、兄君よりはいみじう恋ひきこえたまふめれ」と聞えければ、いとあたはぬさまのけしきにて、   しぐれとは蓮(はちす)の花ぞ散りまがふなにふるさとに袖(そで)濡(ぬ)らすらむ など、うちよみたまひける。さて後(のち)に、小野宮(をののみや)の実資(さねすけ)の大臣(おとど)の御夢に、おもしろき花のかげにおはしけるを、うつつにも語らひたまひし御中(なか)にて、「いかでかくは。いづくにか」とめづらしがり申したまひければ、その御いらへに、   昔ハ契リキ、蓬莱宮(ほうらいきゆう)ノ裏(うち)ノ月ニ   今ハ遊ブ、極楽界(ごくらくかい)ノ中(なか)ノ風ニ 昔契蓬莱宮裏月 今遊極楽界中風 とぞのたまひける。極楽に生れたまへるにぞあなる。かやうにも夢など示(しめ)いたまはずとも、この人の御往生(わうじやう)疑ひまうすべきならず。  世の常(つね)の君達(きんだち)などのやうに、内(うち)わたりなどにて、おのづから女房(にようばう)と語らひ、はかなきことをだにのたまはせざりけるに、いかなる折にかありけむ、細殿(ほそどの)に立ち寄りたまへれば、例(れい)ならずめづらしう物語りきこえさせけるが、やうやう夜中などにもなりやしぬらむと思ふほどに、立ち退(の)きたまふを、いづかたへかとゆかしうて、人をつけたてまつりて見せければ、北(きた)の陣(ぢん)出でたまふほどより、法華経(ほけきやう)をいみじう尊く誦(ずん)じたまふ。大宮(おほみや)のぼりにおはして、世尊寺へおはしましつきぬ。なほ見ければ、東(ひんがし)の対(たい)の端(つま)なる紅梅(こうばい)のいみじく盛りに咲きたる下に立たせたまひて、「滅罪(めつざい)生善(しやうぜん)、往生(わうじやう)極楽(ごくらく)」といふ、額(ぬか)を西に向(む)きて、あまたたびつかせたまひけり。帰りて御有様語りければ、いといとあはれに聞きたてまつらぬ人なし。  この翁(おきな)もその頃大宮なる所に宿りて侍りしかば、御声にこそおどろきていといみじううけたまはりしか。起き出でて見たてまつりしかば、空は霞(かす)みわたりたるに月はいみじうあかくて、御直衣(なほし)のいと白きに、濃(こ)き指貫(さしぬき)に、よいほどに御くくりあげて、何色(なにいろ)にか、色ある御衣(おんぞ)どもの、ゆたちより多くこぼれ出でて侍りし御様体(やうだい)などよ。御顔の色、月影に映(は)えて、いと白く見えさせたまひしに、鬢茎(びんぐき)の掲焉(けちえん)にめでたくこそ、まことにおはしまししか。やがて見つぎ見つぎに御供(とも)にまゐりて、御額(ぬか)つかせたまひしも見たてまつりはべりにき。いとかなしうあはれにこそ侍りしか。御供(とも)には童(わらは)一人ぞさぶらふめりし。 また、殿上(てんじやう)の逍遥(せうえう)侍りし時さらなり、こと人はみな、こころごころに狩装束(かりしやうぞく)めでたうせられたりけるに、この殿(との)はいたう侍たれたまひて、白き御衣どもに、香染(かうぞめ)の御狩衣(かりぎぬ)、薄色(うすいろ)の御指貫(さしぬき)、いとはなやかならぬあはひにて、さし出でたまへりけるこそ、なかなかに心を尽(つ)くしたる人よりはいみじうおはしましけれ。常(つね)の御ことなれば、法華経、御口(くち)につぶやきて、紫檀(したん)の数珠(ずず)の、水精(すいせう)の装束(さうぞく)したる、ひき隠して持ちたまひける御用意などの、優(いう)にこそおはしましけれ。おほかた、一生(いつしやう)精進(さうじん)をはじめたまへる、まづありがたきことぞかし。なほなほ同じことのやうにおぼえはべれど、いみじう見たまへ聞きおきつることは、申さまほしう。  この殿は、御(おほん)かたちのありがたく、末の世にもさる人や出でおはしましがたからむとまでこそ見たまへしか。雪のいみじう降りたりし日、一条(いちでう)の左大臣殿にまゐらせたまひて、御前(おまへ)の梅の木に雪のいたう積(つも)りたるを折りて、うち振らせたまへりしかば、御上に、はらはらとかかりたりしが、御直衣(なほし)の裏の花なりければ、かへりていと斑(まだら)になりて侍りしに、もてはやされさせたまへりし御かたちこそ、いとめでたくおはしまししか。御兄の少将も、いとよくおはしましき。この弟殿(おととどの)はかくあまりにうるはしくおはせしをもどきて、すこし勇幹(ようかん)にあしき人にてぞおはせし。 [八七] 義孝の子孫行成、俊賢の推挙で蔵人頭に  その義孝の少将、桃園(ももぞの)の源(げん)中納言保光(やすみつ)卿の女(むすめ)の御腹にうまれたまへりし君ぞかし、今の侍従(じじゆう)大納言行成(ゆきなり)卿、世の手書きとののしりたまふは。この殿(との)の御男子(をのこご)、ただいまの但馬守(たじまのかみ)実経(さねつね)の君・尾張守(をはりのかみ)良経(よしつね)の君二人は、泰清(やすきよ)の三位(さんみ)の女の腹なり。嫡腹(むかひばら)の少将行経(ゆきつね)の君なり。女君(をんなぎみ)は、入道殿(にふだうどの)の御子(みこ)の、高松腹(たかまつばら)の権(ごん)中納言殿の北の方にておはせし、うせたまひにきかし。また、今の丹波守(たんばのかみ)経頼(つねより)の君の北の方にておはす。また、大姫君(おほひめぎみ)おはしますとか。  この侍従大納言殿こそ、備後介(びごのすけ)とてまだ地下(ぢげ)におはせし時、蔵人頭(くらうどのとう)になりたまへる、例(れい)いとめづらしきことよな。その頃は、源民部卿殿(げんみんぶきようどの)は、職事(しきじ)にておはしますに、上達部(かんだちめ)になりたまふべければ、一条院(いちでうゐん)、「この次にはまた誰(たれ)かなるべき」と問はせたまひければ、「行成なむまかりなるべき人にさぶらふ」と奏(そう)させたまひけるを、「地下(ぢげ)の者はいかがあるべからむ」とのたまはせければ、「いとやむごとなき者にさぶらふ。地下など思(おぼ)し召(め)し憚(はばか)らせたまふまじ。ゆく末にもおほやけに、何事にもつかうまつらむにたへたる者になむ。かやうなる人を御覧(ごらん)じ分(わ)かぬは、世のためあしきことに侍り。善悪をわきまへおはしませばこそ、人も心遣(こころづか)ひはつかうまつれ。このきはになさせたまはざらむは、いと口惜(くちを)しきことにこそさぶらはめ」と申させたまひければ、道理のこととはいひながら、なりたまひにしぞかし。 [八八]蔵人頭の任官争い 朝成憤怒し悪霊となる  おほかた昔は、前頭(さきのとう)の挙(きよ)によりて、後(のち)の頭はなることにて侍りしなり。されば、殿上(てんじやう)に、われなるべしなど、思ひたまへりける人は、今宵(こよひ)と聞きてまゐりたまへるに、いづこもととかにさしあひたまへりけるを、「誰(たれ)ぞ」と問ひたまひければ、御名のりしたまひて、「頭になしたびたれば、まゐりて侍るなり」とあるに、あさましとあきれてこそ、動きもせで立ちたまひたりけれ。げに思ひがけぬことなれば、道理なりや。   この源民部卿かく申しなしたまへることを思(おぼ)し知りて、従二位の折かとよ、越えまうしたまひしかど、さらに上(かみ)に居(ゐ)たまはざりき。かの殿(との)出でたまふ日は、われ、病(やまひ)まうし、またともに出でたまふ日は、われ、病(やまひ)まうし、またともに出でたまふ日は、むかへ座(ざ)などにぞ居(ゐ)たまひし。さて民部卿正二位の折こそは、もとのやうに下臈(げらふ)になりたまひしか。  おほかた、この御族(ぞう)の頭争(とうあらそ)ひに、敵(かたき)をつきたまへば、これもいかがおはすべからむ。みな人知ろしめしたることなれど、朝成(あさひら)の中納言と一条摂政と同じ折の殿上人(てんじやうびと)にて、品(しな)のほどこそ、一条殿とひとしからねど、身の才(ざえ)・人覚(ひとおぼ)え、やむごとなき人なりければ、頭になるべき次第(しだい)いたりたるに、またこの一条殿さらなり、道理の人にておはしけるを、この朝成の君申したまひけるやう、「殿(との)はならせたまはずとも、人わろく思ひ申すべきにあらず。後々(のちのち)にも御心(みこころ)にまかせさせたまへり。おのれは、このたびまかりはづれなば、いみじう辛(から)かるべきことにてなむ侍るべきを、このたび、申させたまはで侍りなむや」と申したまひければ、「ここにもさ思ふことなり。さらば申さじ」とのたまふを、いとうれしと思はれけるに、いかに思しなりにけることにか、やがて問ひごともなく、なりたまひにければ、かく謀(はか)りたまふべしやはと、いみじう心やましと思ひまうされけるに、御中(なか)よからぬやうにて過ぎたまふほどに、この一条院殿のつかまつり人とかやのために、なめきことしたうびたりけるを、「本意(ほい)なしなどばかりは思ふとも、いかに、ことにふれてわれなどをば、かくなめげにもてなしぞ」と、むつかりたまふと聞きて、「あやまたぬよしも申さむ」とて、まゐられたりけるに、はやうの人は、われより高き所にまうでては、「こなたへ」となきかぎりは、上(うへ)にものぼらで、下(しも)に立てることになむありけるを、これは六七月のいと暑くたへがたき頃、かくと申させて、今や今やと、中門(ちゆうもん)に立ちて待つほどに、西日(にしび)もさしかかりて暑くたへがたしとはおろかなり、心地(ここち)もそこなはれぬべきに、「はやう、この殿(との)は、われをあぶり殺さむと思(おぼ)すにこそありけれ。益(やく)なくもまゐりにけるかな」と思ふに、すべて悪心(あくしん)おこるとは、おろかなり。夜(よる)になるほどに、さてあるべきならねば、笏(しやく)をおさへて立ちければ、はたらと折れけるは。いかばかりの心をおこされにけるにか。さて家に帰りて、「この族(ぞう)ながく絶(た)たむ。もし男子(をのこご)も女子(をんなご)もありとも、はかばかしくてはあらせじ。あはれといふ人もあらば、それをも恨(うら)みむ」など誓ひて、うせたまひにければ、代々(だいだい)の御悪霊(あくりやう)とこそはなりたまひたれ。されば、まして、この殿(との)近くおはしませば、いとおそろし。殿の御夢に、南殿(なでん)の御後(うしろ)、かならず人のまゐるに通る所よな、そこに人の立ちたるを、誰(たれ)ぞと見れど、顔は戸の上(かみ)に隠れたれば、よくも見えず。あやしくて、「誰(た)そ誰(た)そ」と、あまたたび問はれて、「朝成(あさひら)に侍り」といらふるに、夢のうちにもいとおそろしけれど、念じて、「などかくては立ちたまひたるぞ」と問ひたまひければ、「頭弁(とうのべん)のまゐらるるを待ちはべるなり」といふと見たまひて、おどろきて、「今日は公事(くじ)ある日なれば、とくまゐらるらむ。不便(ふびん)なるわざかな」とて、「夢に見えたまへることあり。今日は御病まうしなどもして、物忌(ものいみ)かたくして、なにかまゐりたまふ。こまかにはみづから」と書きて急ぎ奉りたまへど、ちがひていととくまゐりたまひにけり。まもりのこはくやおはしけむ、例(れい)のやうにはあらで、北(きた)の陣(ぢん)より藤壺(ふぢつぼ)・後涼殿(こうらうでん)のはさまより通りて、殿上(てんじやう)にまゐりたまへるに、「こはいかに。御消息(せうそこ)奉りつるは、御覧(ごらん)ぜざりつるか。かかる夢をなむ見はべりつるは」。手をはたと打ちて、いかにぞと、こまかにも問ひ申させたまはず、また二つものものたまはで出でたまひにけり。さて御祈(いのり)などして、しばしは内(うち)へもまゐりたまはざりけり。この物(もの)の怪(け)の家は、三条(さんでう)よりは北、西洞院(にしのとうゐん)よりは西なり。今に一条殿の御族(ぞう)あからさまにも入らぬところなり。 [八九] 行成、歌道に暗し 着想卓抜(独楽・扇) この大納言殿、よろづにととのひたまへるに、和歌の方や少しおくれたまへりけむ。殿上(てんじよう)に歌論義(うたろぎ)といふこと出できて、その道の人々、いかが問答(もんだふ)すべきなど、歌の学問よりほかのこともなきに、この大納言殿は、ものものたまはざりければ、いかなることぞとて、なにがしの殿(との)の、「難波津(なにはづ)に咲くやこの花冬ごもり、いかに」と聞えさせたまひければ、とばかりものものたまはで、いみじう思((おぼ)し案(あん)ずるさまにもてなして、「え知らず」と答へさせたまへりけるに、人々笑ひて、こと醒(さ))めすこしいたらぬことにも、御魂(たましひ)の深くおはして、らうらうじうしなしたまひける御根性(こんじよう)にて、帝(みかど)幼くおはしまして、人々に、「遊び物どもまゐらせよ」と仰(おほ)せられければ、さまざま、金(こがね)・銀(しろかね)など心を尽(つ)くして、いかなることをがなと、風流(ふりう)をし出でて、持(も)てまゐりあひたるに、この殿(との)は、こまつぶりにむらごの緒(を)つけて奉りたまへりければ、「あやしの物のさまや。こはなにぞ」と問はせたまひければ、「しかじかの物になむ」と申す、「まはして御覧(ごらん)じおはしませ。興(きよう)ある物になむ」と申されければ、南殿(なでんに出でさせおはしまして、まはさせたまふに、いと広き殿(との)のうちに、のこらずくるべき歩(ある)けば、いみじう興ぜさせたまひて、これをのみ、つねに御覧じあそばせたまへば、こと物どもは籠(こ)められにけり。  また、殿上人(てんじやうびと)、扇(あふぎ)どもしてまゐらするに、こと人々は、骨に蒔絵(まきゑ)をし、あるは、金・銀・沈(ぢん)・紫壇(したん)の骨になむ筋(すぢ)を入れ、彫物(ほりもの)をし、えもいはぬ紙どもに、人のなべて知らぬ歌や詩や、また六十余国の歌枕(うたまくら)に名あがりたる所々などを書きつつ、人人まゐらするに、例(れい)のこの殿(との)は、骨の漆(うるし)ばかりをかしげに塗(ぬ)りて、黄(き)なる唐紙(からかみ)の下絵(したゑ)ほのかにをかしきほどなるに、表(おもて)の方には楽府(がくふ)をうるはしく真(しん)に書き、裏には御筆(ふで)とどめて草(さう)にめでたく書きて奉りたまへりければ、うち返しうち返し御覧(ごらん)じて、御手箱(てばこ)に入れさせたまひて、いみじき御宝(たから)と思(おぼ)し召(め)したりければ、こと扇どもは、ただ御覧じ興(きよう)ずるばかりにてやみにけり。いずれもいずれも、帝王(みかど)の御感(ぎよかん)侍るにますことやはあるべきよな。 [九〇] たくみな警句家 高陽院殿の競馬 いみじき秀句(すく)のたまへる人なり。この高陽院殿(かやゐんどの)にて競馬(くらべうま)ある日、鼓(つづみ)は、讃岐前司明理(さぬきのぜんじあきまさ)ぞ打ちたまひし。一番にはなにがし、二番にはかがしなどいひしかど、その名こそ覚えね。勝つべき方の鼓をあしう打ちさげて、負(まけ)になりにければ、その随身(ずいじん)の、やがて馬の上にて、ない腹(ばら)を立ちて、見返るままに、「あなわざはひや。かばかりのことをだにしそこなひたまふよ。かかれば、『明理・行成(ゆきなり)』と一双(いつさう)にいはれたまひしかども、一(いち)の大納言にて、いとやむごとなくてさぶらはせたまふに、くさりたる讃岐前司古受領(ふるずりやう)の、鼓打ちそこなひて、立ちたまひたるぞかし」と放言(はうごん)したいまつりけるを、大納言聞かせたまひて、「明理の濫行(らんかう)に、行成が醜名(しこな)呼ぶべきにあらず。いと辛(から)いことなり」とて、笑はせたまひければ、人々、「いみじうのたまはせたり」とて、興(きよう)じたてまつりて、その頃のいひごとにこそしはべりしか。 [九一]義懐の器量 朝餉の壺 義懐と惟成 また、一条摂政殿の御男子(をのこご)、花山院の御時、帝(みかど)の御舅(をぢ)にて、義懐(よしちか)の中納言と聞えし、少将たちの同じ腹よ。その御時は、いみじうはなやぎたまひしに、帝の出家(すけ)せさせたまひてしかば、やがて、われも、遅れたてまつらじとて、花山(はなやま)まで尋ねまゐりて、一日をはさめて、法師になりたまひにき。飯室(いひむろ)といふ所に、いと尊く行ひてぞかくれたまひにし。その中納言、文盲(もんまう)にこそおはせしかど、御心(こころ)魂(たましひ)いとかしこく、有識(いうそく)におはしまして、花山院の御時の政(まつりごと)は、ただこの殿(との)と惟成(これしげ)の弁(べん)として行ひたまひければ、いといみじかりしぞかし。  その帝をば、「内劣(うちおと)りの外(と)めでた」とぞ、世の人、申しし。「冬(ふゆ)の臨時(りんじ)の祭(まつり)の、日の暮るる、あしきことなり。辰(たつ)の時に人々まゐれ」と、宣旨(せんじ)下させたまふを、さぞ仰(おほ)せらるとも、巳(み)・午(うま)の時にぞはじまらむなど思ひたまへりけるに、舞人(まひびと)の君達(きんだち)装束(さうぞく)たまはりにまゐりおはさうじたりければ、帝は御装束たてまつりて、立たせおはしましたりけるに、この入道殿も舞人にておはしましければ、この頃、語らせたまふなるを、伝へてうけたまはるなり。あかく大路(おほち)などわたるがよかるべきにやと思ふに、帝、馬をいみじう興(きよう)ぜさせたまひければ、舞人の馬を後涼殿(こうらうでん)の北の馬道(めだう)より通させたまひて、朝餉(あさがれひ)の壺(つぼ)にひきおろさせたまひて、殿上人(てんじやうびと)どもを乗せて御覧(ごらん)ずるをだに、あさましう人々思ふに、はては乗らむとさへせさせたまふに、すべき方もなくてさぶらひあひたまへるほどに、さるべきにや侍りけむ、入道中納言さし出でたまへりけるに、帝、御おもていと赤くならせたまひて、術(ずち)なげに思(おぼ)し召(め)したり。中納言もいとあさましう見たてまつりたまへど、人々の見るに、制(せい)しまうさむも、なかなか見ぐるしければ、もてはやし興じまうしたまふにもてなしつつ、みづから下襲(したがさね)のしりはさみて乗りたまひぬ。さばかりせばき壺(つぼ)に折りまはし、おもしろくあげたまへば、御けしきなほりて、あしきことにはなかりけり、と思(おぼ)し召(め)して、いみじう興(きよう)ぜさせたまひけるを、中納言あさましうもあはれにも思さるる御けしきは、同じ御心(みこころ)によからぬことを囃(はや)しまうしたまふとは見えず、誰(たれ)もさぞかしとは見知りきこえさする人もありければこそは、かくも申し伝へたれな。また、「みづから乗りたまふまではあまりなり」といふ人もありけり。  これならず、ひたぶるに色にはいたくも見えず、ただ御本性(ほんじやう)のけしからぬさまに見えさせたまへば、いと大事(だいじ)にぞ。されば源民部卿(げんみんぶきよう)は、「冷泉院の狂(くる)ひよりは、花山院の狂ひは術(ずち)なきものなれ」と申したまひければ、入道殿は、「いと不便(ふびん)なることをも申さるるかな」と仰(おほ)せられながら、いといみじう笑はせたまひけり。  この義懐(よしちか)の中納言の御出家(すけ)、惟成(これしげ)の弁(べん)の勧(すす)めきこえられたりけるとぞ。いみじういたりありける人にて、「いまさらに、よそ人(びと)にてまじらひたまはむ見ぐるしかりなむ」と聞えさせければ、げにさもと、いとど思して、なりたまひにしを、もとよりおこしたまはぬ道心(だうしん)なれば、いかがと人思ひきこえしかど、落(お)ち居(ゐ)たまへる御心(みこころ)の本性なれば、懈怠(けたい)なく行ひたまひて、うせたまひにしぞかし。  その御子(みこ)は、ただいまの飯室(いひむろ)の僧都(そうづ)、また、絵阿闍梨(ゑあざり)の君(きみ)、入道中将成房(なりふさ)の君なり。この三人(みたり)、備中守(びつちゆうのかみ)為雅(ためまさ)の女(むすめ)の腹なり。その中将の女は、定経(さだつね)のぬしの妻(め)にてこそはおはすめれ。一条殿の御族(ぞう)は、いかなることにか、御命短くぞおはしますめる。 [九二]花山院の修行 南院焼亡 祭のかへさ 花山院の、御出家(すけ)の本意(ほい)あり、いみじう行はせたまひ、修行(すぎやう)せさせたまはぬところなし。されば、熊野(くまの)の道に千里(ちさと)の浜といふところにて、御心地(ここち)そこなはせたまへれば、浜づらに石のあるを御枕にて、大殿籠(おほとのごも)りたるに、いと近く海人(あま)の塩焼く煙(けぶり)の立ちのぼる心ぼそさ、げにいかにあはれに思されけむな。   旅の空夜半(よは)のけぶりとのぼりなば海人(あま)の藻塩火(もしほび)焚(た)くかとや見む  かかるほどに、御験(ごげん)いみじうつかせたまひて、中堂(ちゆうだう)にのぼらせたまへる夜(よ)、験競(げんくら)べしけるを、試(こころみ)むと思(おぼ)し召(め)して、御心(みこころ)のうちに念(ねん)じおはしましければ、護法(ごほふ)つきたる法師、おはします御屏風(びやうぶ)のつらに引きつけられて、ふつと動きもせず、あまりひさしくなれば、今はとてゆるさせたまふ折ぞ、つけつる僧どものがり、をどりいぬるを、「はやう院(ゐん)の御護法の引き取るにこそありけれ」と、人々あはれに見たてまつる。それ、さることに侍り。験(げん)も品(しな)によることなれば、いみじき行(おこな)ひ人(びと)なりとも、いかでかなずらひまうさむ。前生(ぜんしやう)の御戒力(かいりき)に、また、国王の位をすてたまへる出家(すけ)の御功徳(くどく)、かぎりなき御ことにこそおはしますらめ。ゆく末までも、さばかりならせたまひなむ御心には、懈怠(けだい)せさせたまふべきことかはな。それに、いとあやしくならせたまひにし御心あやまちも、ただ御物(もの)の怪(け)のしたてまつりぬるにこそ侍(はべ)めりしか。  なかにも、冷泉院の、南院(みなみのゐん)におはしましし時、焼亡(せうまう)ありし夜(よ)、御とぶらひにまゐらせたまへりし有様こそ不思議にさぶらひしか。御親の院は御車(みくるま)にて二条町尻(まちじり)の辻(つじ)に立たせたまへり。この院は御馬にて、頂(いただき)に鏡いれたる笠、頭光(づくわう)にたてまつりて、「いづくにかおはします、いづくにかおはします」と、御手づから人ごとに尋ね申させたまへば、「そこそこになむ」と聞かせたまひて、おはしましどころへ近く降りさせたまひぬ。御馬の鞭腕(むちかひな)に入れて、御車の前に御袖(そで)うち合(あは)せて、いみじうつきづきしう居(ゐ)させたまへりしは、さることやは侍りしとよ。それにまた、冷泉院の、御車のうちより、高やかに神楽歌(かぐらうた)をうたはせたまひしは、さまざま興(きよう)あることをも見聞くかなと、おぼえさぶらひし。明順(あきのぶ)のぬしの、「庭火(にはび)、いと猛(まう)なりや」とのたまへりけるにこそ、万人(ばんにん)えたへず笑ひたまひにけれ。  あてまた、花山院の、ひととせ、祭(まつり)のかへさ御覧(ごらん)ぜし御有様は、誰(たれ)も見たてまつりたまひけむな。前の日、こと出(いだ)させたまへりしたびのことぞかし。さることあらむまたの日は、なほ御歩(あり)きなどなくてもあるべきに、いみじき一(いち)のものども、高帽頼勢(かうぼうらいせい)をはじめとして、御車(みくるま)のしりに多くうちむれまゐりしけしきども、いへばおろかなり。なによりも御数珠(ずず)のいと興(きよう)ありしなり。小さき柑子(かうじ)をおほかたの玉には貫(つらぬ)かせたまひて、達磨(だつま)には大柑子(おほかうじ)をしたる御数珠、いと長く御指貫(さしぬき)に具(ぐ)して出(いだ)させたまへりしは、さる見物(みもの)やはさぶらひしな。紫野(むらさきの)にて、人人、御車に目をつけたてまつりたりしに、検非違使(けびゐし)まゐりて、昨日、こと出(いだ)したりし童(わらは)べ捕(とら)ふべし、といふこと出できにけるものか。このごろの権(ごん)大納言殿、まだその折は若くおはしまししほどぞかし、人走らせて、「かうかうのことさぶらふ。とく帰らせたまひね」と申させたまへりしかば、そこらさぶらひつるものども、蜘蛛(くも)の子を風の吹き払(はら)ふごとくに逃げぬれば、ただ御車副(みくるまぞひ)のかぎりにてやらせて、物見車(ものみぐるま)のうしろの方よりおはしまししか。さて検非違使つきや、いといみじう辛(から)う責(せ)められたまひて、太上(だいじやう)天皇の御名は下(くだ)させたまひてき。かかればこそ、民部卿殿の御いひ言(ごと)はげにとおぼゆれ。 [九三]花山院の御製秀逸 意匠の巧妙さ  さすがに、あそばしたる和歌は、いづれも人の口にのらぬなく、優(いう)にこそうけたまはれな。「ほかの月をも見てしがな」などは、この御有様に思(おぼ)し召(め)しよりけることともおぼえず、心ぐるしうこそさぶらへ。あてまた冷泉院に笋(たかうな)奉らせたまへる折は、   世の中にふるかひもなきたけのこはわが経(へ)む年をたてまつるなり 御返し、   年経ぬる竹のよはひを返してもこの世をながくなさむとぞ思ふ 「かたじけなく仰(おほ)せられたり」と、御集(ぎよしふ)に侍るこそあはれにさぶらへ。まことに、さる御心(みこころ)にも、祝ひ申さむと思(おぼ)し召(め)しけるかなしさよ。  この花山院は、風流者(ふりうざ)にさへおはしましけるこそ。御所(ごしよ)つくらせたまへりしさまなどよ。   寝殿(しんでん)・対(たい)・渡殿(わたどの)などは、つくりあひ、檜皮葺(ひはだふ)きあはすることも、この院のし出でさせたまへるなり。昔は別々(べちべち)にて、あはひに樋(ひ)かけてぞ侍りし。内裏(だいり)は今にさてこそは侍るめれ。 御車(みくるま)やどりには、板敷(いたじき)を奥には高く、端(はし)はさがりて、大きなる妻戸(つまど)をせさせたまへる、ゆゑは、御車の装束(さうぞく)をさながら立てさせたまひて、おのづからとみのことの折に、とりあへず戸押し開かば、からからと、人も手もふれぬさきに、さし出(いだ)さむが料(れう)と、おもしろく思し召しよりたることぞかし。御調度(てうど)どもなどの清(けう)らさこそ、えもいはず侍りけれ。六の宮の絶(た)えいりたまへりし御誦経(みずきやう)にせられたりし御硯(すずり)の箱見たまへき。海賦(かいぶ)に蓬莱山(ほうらいせん)・手長(てなが)・足長(あしなが)、金(こがね)して蒔(ま)かせたまへりし、かばかりの箱の漆(うるし)つき、蒔絵のさま、くちをかれたりしやうなどのいとめでたかりしなり。  また、木立(こだち)つくらせたまへりし折は、「桜の花は優(いう)なるに枝ざしのこはごはしく、幹(もと)のやうなどもにくし。梢(こずゑ)ばかりを見るなむをかしき」とて中門(ちゆうもん)より外(と)に植ゑさせたまへる、なによりもいみじく思(おぼ)し寄りたりと、人は感じまうしき。また、撫子(なでしこ)の種を築地(ついひぢ)の上にまかせたまへりければ、思ひがけぬ四方(よも)に、色々の唐錦(からにしき)をひきかけたるやうに咲きたりしなどを見たまへしは、いかにめでたく侍りしかは。  入道殿、競馬(くらべうま)せさせたまひし日、迎へまうせさせたまひけるに、わたりおはします日の御装(よそひ)は、さらなり、おろかなるべきにあらねど、それにつけても、まことに、御車(みくるま)のさまこそ、世にたぐひなくさぶらひしか。御沓(くつ)にいたるまで、ただ、人の見物(みもの)になるばかりこそ、後(のち)には持(も)て歩(あり)くとうけたまはりしか。  あて、御絵(ゑ)あそばしたりし、興(きよう)あり。さは、走り車の輪(わ)には、薄墨(うすずみ)に塗(ぬ)らせたまひて、大きさのほど、輻(や)などのしるしには墨(すみ)をにほはせたまへりし、げにかくこそ書くべかりけれ。あまりに走る車は、いつかは黒さのほどやは見えはべる。また、笋(たかうな)の皮を、男の指(および)ごとに入れて、目かかうして、児(ちご)をおどせば、顔を赤めてゆゆしう怖(お)ぢたるかた、また、徳人(とくにん)・たよりなしの家のうちの作法(さはふ)などかかせたまへりしが、いづれもいづれも、さぞありけむとのみ、あさましうこそさぶらひしか。この中(なか)に、御覧(ごらん)じたる人もやおはしますらむ。 一 太政大臣兼通(かねみち)忠義公(ちゆうぎこう) [九四]堀河の関白関白は次第のままに この大臣(おとど)、これ、九条殿(くでうどの)の次郎君、堀河(ほりかは)の関白と聞(きこ)えさせき。関白したまふこと、六年。   安和(あんな)二年正月七日、宰相(さいしやう)にならせたまふ。閏(うるふ)五月二十一日、宮内卿(くないきやう)とこそは申ししか。天禄(てんろく)二年閏二月二十九日、中納言にならせたまひて、大納言をば経(へ)で、十一月二十七日、内大臣にならせたまふ。いとめでたかりしことなり。弟(おとうと)の東三条殿(とうさんでうどの)の中納言におはしまししに、まだこの殿は宰相にていと辛(から)きことに思(おぼ)したりしに、かくならせたまひしめでたかりしことなりかし。天延(てんえん)二年正月七日、従(じゆ)二位せさせたまふ。二月二十八日に太政大臣にならせたまふ。やがて正二位せさせたまひ、輦車(てぐるま)ゆるさせたまひて、三月二十六日、関白にならせたまひにしぞかし。宰相にならせたまひし年より六年(むとせ)といふにかくならせたまひてき。貞元(ぢやうげん)二年十一月八日うせさせたまひにき、御年五十三.同じ二十日、贈正(ぞうじやう)一位(いちゐ)の宣旨(せんじ)あり。後(のち)の御いみな、忠義公と申しき。この殿(との)、かくめでたくおはしますほどよりは、ひまなくて大将にえなりたまはざりしぞ、口惜(くちを)しかりしや。それかやうならんためにこそあれ。さてもありぬべきことなり。ただ思(おぼ)し召(め)せかしな。 御母のことのなきは、一条殿(いちでうどの)の同じきにや。大入道殿(おほにふだふどの)、納言(なごん)にておはしますほど、御兄(このかみ)なれど、宰相(さいしやう)にて年頃(としごろ)経(へ)させたまひけるを、天禄(てんろく)三年二月に中納言になりたまひて、宮中のこと内覧(ないらん)すべき宣旨うけたまはらせたまひにけり。同じ年十一月に、内大臣にて関白の宣旨かぶらせたまひてぞ、多くの人越えたまひける。   円融院の御母后(ははきさき)、この大臣(おとど)の妹(いもうと)におはしますぞかし。この后(きさき)、村上の御時、康保(かうはう)元年四月二十九日にうせたまひにしぞかし。この后のいまだおはしましし時に、この大臣(おとど)いかが思しけむ、「関白は、次第(しだい)のままにせさせたまへ」と書かせたてまつりて、取りたまひたりける御文(ふみ)を、守(まもり)のやうに首にかけて、年頃(としごろ)、持ちたりけり。御弟(おとと)の東三条殿は、冷泉院の御時の蔵人頭(くらうどのとう)にて、この殿(との)よりも先(さき)に三位(さんみ)して、中納言にもなりたまひにしに、この殿は、はつかに宰相ばかりにておはせしかば、世の中すさまじがりて、内(うち)にもつねにまゐりたまはねば、帝(みかど)も、うとく思(おぼ)し召(め)したり。   その時に、兄の一条(いちでう)の摂政(せつしやう)、天禄三年十月にうせたまひぬるに、この御文(ふみ)を内(うち)に持(も)てまゐりたまひて、御覧(ごらん)ぜさせむと思すほどに、上(うへ)、鬼(おに)の間(ま)におはしますほどなりけり。折よしと思し召すに、御舅(をぢ)たちの中に、うとくおはします人なれば、うち御覧じて入(い)らせたまひき。さし寄りて、「奏(そう)すべきこと」と申したまへば、立ち帰らせたまへるに、この文を引き出でてまゐらせたまへれば、取りて御覧ずれば、紫の薄様(うすやう)一重(ひとかさね)に、故宮(こみや)の御手にて、「関白をば、次第(しだい)のままにせさせたまへ。ゆめゆめたがへさせたまふな」と書かせたまへる、御覧ずるままに、いとあはれげに思し召したる御けしきにて、「故宮の御手よな」と仰(おほ)せられ、御文をば取りて入らせたまひにけりとこそは。さてかく出でたまへるとこそは聞(きこ)えはべりしか。いと心かしこく思しけることにて、さるべき御宿世(すくせ)とは申しながら、円融院孝養(けうやう)の心深くおはしまして、母宮の御遺言(ゆいごん)たがへじとて、なしたてまつらせたまへりける、いとあはれなることなり。   その時、頼忠(よりただ)の大臣(おとど)、右大臣にておはしましかば、道理のままならば、この大臣(おとど)のしたまふべきにてありしに、この文(ふみ)にてかくありけるとこそは聞えはべりしか。東三条殿も、この堀河殿よりは上臈(じやうらふ)にておはしまししかば、いみじう思し召しよりたることぞかし。   [九五]兼通の袴着卯酒に〓〔矢+鳥〕の生肉 この殿(との)の御着袴(ちやくこ)に、貞信公(ていしんこう)の御もとにまゐりたまへる、贈物(おくりもの)に添(そ)へさせたまふとて、貫之(つらゆき)のぬしに召したりしかば、奉れたりし歌、   ことに出でて心のうちに知らるるは神のすぢなはぬけるなりけり 引出物(ひきいでもの)に、琴をせさせたまへるにや。  御かたちいと清(きよ)げに、きららかになどぞおはしましし。堀河院(ほりかはのゐん)に住ませたまひしころ、臨時客(りんじきやく)の日、寝殿(しんでん)の隅(すみ)の紅梅(こうばい)盛(さか)りに咲きたるを、ことはてて内(うち)へまゐらせたまひざまに、花の下に立ち寄らせたまひて、一枝をおし折りて、御挿頭(かざし)にさして、けしきばかりうち奏(かな)でさせたまへりし日などは、いとこそめでたく見えさせたまひしか。  この殿(との)には、御夜(ごや)に召す卯酒(ばうしゆ)の御肴(さかな)には、ただいま殺したる〓〔矢+鳥(きじ)〕をぞまゐらせける。持(も)てまゐりあふべきならねば、宵(よひ)よりぞまうけておかれける。業遠(なりとほ)にぬしのまだ六位にて、はじめてまゐれる夜(よ)、御沓櫃(くつびつ)のもとに居(ゐ)られたりければ、櫃(ひつ)のうちに、もののほとほとしけるがあやしさに、暗(くら)まぎれなれば、やをら細めにあけて見たまひければ、〓〔矢+鳥〕の雄鳥(をとり)かがまりをるものか。人のいふことはまことなりけりと、あさましうて、人の寝にける折に、やをら取り出(いだ)して、懐(ふところ)にさし入れて、冷泉院(れいぜいゐん)の山に放(はな)ちたりしかば、ほろほろと飛びてこそ去(ゐ)にしか。「し得(え)たりし心地(ここち)は、いみじかりしものかな。それにぞ、われは幸(さいは)ひ人(びと)なりけりとはおぼえしか」となむ、語られける。殺生(せつしやう)は殿(との)ばらの皆せさせたまふことなれど、これはむげの無益(むやく)のことなり。 [九六]堀河の中宮〓〔女+皇〕子の信仰 兼通・顕光の子女 この殿(との)の御女(むすめ)、式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)元平(もとひら)の親王(みこ)の御女の御腹の姫君(ひめぎみ)、円融院の御時にまゐりたまひて、堀河(ほりかは)の中宮(ちゆうぐう)と申しき。幼くおはしまししほど、いかなりけるにか、例(れい)の御親のやうにつねに見たてまつりなどもしたまはざりければ、御心(みこころ)いとかしこう、また御後見(うしろみ)などこそは申しすすめけめ、物詣(ものまうで)・祈(いのり)をいみじうせさせたまひけるとか。稲荷(いなり)の坂にても、この女(をんな)ども見たてまつりけり。いと苦しげにて、御〓〔巾+皮〕(むし)おしやりて、あふがれさせたまひける御姿つき、指貫(さしぬき)の腰ぎはなども、さはいへど、多くの人よりは気高(けだか)く、なべてならずぞおはしける。かやうにつとめさせたまへるつもりにや、やうやうおとなびたまふままに、これよりおとななる御女(むすめ)もおはしまさねば、さりとて后(きさき)にたてたてまつらであるべきならねば、かくまゐらせたてまつらせたまひて、いとやむごとなくさぶらはせたまひしぞかし。いま一所(ひとところ)の姫君は、尚侍(ないしのかみ)にならせたまへりし、今におはします。六条の左大臣殿の御子(みこ)の讃岐守(さぬきのかみ)の上(うへ)にておはするとかや。  また、太郎君(たらうぎみ)、長徳(ちやうとく)二年七月二十一日、右大臣にならせたまひにき。御年七十八にてやうせおはしましけむ。うせたまひて、この五年(いつとせ)ばかりにやなりぬらむ。悪霊(あくりやう)の左大臣殿と申し伝へたる、いと心憂(こころう)き御名なりかし。そのゆゑどもみな侍るべし。この御北の方には、村上の先帝(せんだい)の女五の宮、広幡(ひろはた)の御息所(みやすどころ)の御腹ぞかし。その御腹に、男子(をのこご)一人・女二人おはしまししを、男君(をとこぎみ)は重家(しげいへ)の少将とて、心ばへ有識(いうそく)に、世覚(よおぼ)え重くてまじらひたまひしほどに、ひさしくおはしますまじかりければにや、出家(すけ)してうせたまひにき。女君(をんなぎみ)一所(ひとところ)は、一条院の御時の承香殿(しようきやうでん)の女御(にようご)とておはせしが、末には、為平(ためひら)の式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の御子(みこ)、源宰相(げんさいしやう)頼定(よりさだ)の君の北の方にて、あまたの君達(きんだち)おはすめり。そのほどの御ことどもは、皆人知ろしめたらむ。その宰相うせたまひにしかば、尼(あま)になりておはします。いま一所は、今の小一条院(こいちでうゐん)の、まだ式部卿の宮と申(ま)しし折、婿(むこ)にとりたてまつらせたまへりしほどに思(おぼ)ししかど、院にならせたまひにし後(のち)は、高松殿(たかまつどの)の御匣殿(みくしげどの)にわたらせたまひて、御心(みこころ)ばかりは通はしたまひながら、通はせたまふこと絶えにしかば、女御も父大臣(ちちおとど)も、いみじう思(おぼ)し嘆きほどに、御病にもなりにけるにや、うせたまひにき。   いみじきものになりて、父大臣(おとど)具(ぐ)してこそ、し歩(あり)きたまふなれ。院の女御には、つねにつきわづらはせたまふなり。 その腹に、宮たちあまた所(ところ)おはします。 [九七] また、堀河の関白殿の御二郎、兵部卿(ひやうぶきやう)有明(ありあきら)の親王(みこ)の御女(むすめ)の腹の君、中宮の御一(ひと)つ腹(ばら)にはおはせず。これはまた、閑院(かんゐん)の大将朝光(あさてる)とぞ申しし。兄(このかみ)の大臣(おとど)、宰相にておはしけるほどは、この殿(との)は中納言にてぞおはしける。ひき越されたまひけるぞめでたく、その頃などすべていみじかりし御世覚(よおぼ)えにて、御まじらひのほどなど、ことのほかにきらめきたまひき。胡〓〔竹+禄〕(やなぐひ)の水精(すいさう)の筈(はず)も、この殿の思ひ寄りし出でたまへるなり。何事(なにごと)の行幸(ぎやうかう)にぞや仕(つか)まつりたまへりしに、この胡〓〔竹+禄〕負(お)ひたまへりしは、朝日の光に輝(かかや)きあひて、さるめでたきことやは侍りし。今は目馴(めな)れにたれば、めづらしからず人も思ひて侍るぞ。何事につけても、はなやかにもて出でさせたまへりし殿の、父殿(ちちどの)うせたまひにしかば、世の中おとろへなどして、御病も重くて、大将も辞(じ)したまひてこそ、口惜(くちを)しかりしか。さて、ただ按察大納言(あぜちのだいなごん)とぞ聞えさせし。和歌などこそ、いとをかしくあそばししか。四十五にてうせたまひにき。  北の方には、貞観殿(ぢやうぐわんでん)の尚侍の御腹の、重明(しげあきら)の式部卿の宮の御中姫君ぞおはせしかし。その御腹に、男君三人、女君のかかやくごとくなるおはせし、花山院の御時まゐらせたまひて、一月ばかりいみじうときめかせたまひしを、いかにしけることにかありけむ、まう上(のぼ)りたまふこともとどまり、帝(みかど)もわたらせたまふこと絶えて、御文(ふみ)だに見えきこえずなりにしかば、一二月さぶらひわびてこそは、出でさせたまひにしか。また、さあさましかりしことやはありし。御かたちなどの、世の常ならずをかしげにて、思(おぼ)し嘆くも、見たてまつりたまふ大納言・御せうとの君たち、いかがは思しけむ。その御一(ひと)つ腹(ばら)の男君三所(みところ)、太郎君は、今の藤(とう)中納言朝経(あさつね)の卿におはすめり。人に重く思はれたまへるめり。次郎・三郎君は、馬頭(うまのかみ)・少将などにて、みな出家(すけ)しつつうせたまひにき。この馬(うま)の入道(にふだう)の御男子(をのこご)なり、今の右京大夫(うきやうのだいぶ)。 [九八]朝光と延光の寡婦 この閑院(かんゐん)の大将殿は、後(のち)にはこの君達(きんだち)の母をばさりて、枇杷(びは)の大納言延光(のぶみつ)の卿のうせたまひにし後(のち)、その上(うへ)の、年老いて、かたちなどわろくおはしけるにや、ことなること聞えたまはざりしをぞ住みたまひし。徳(とく)につきたまへるとぞ世の人申しし。さて、世覚(よおぼ)えもおとりたまひにしぞかし。 もとの上、御かたちもいとうつくしく、人のほどもやむごとなくおはしまししかど、不合(ふがふ)におはすとて、かかる今北の方をまうけて、さりたまひにしぞかし。この今の上の御もとには、女房(にようばう)三十人ばかり、裳(も)・唐衣(からぎぬ)着せて、えもいはずさうぞきて、すゑ並べて、しつらひ有様よりはじめて、めでたくしたてて、かしづききこゆることかぎりなし。大将歩(あり)きて帰りたまふ折は、冬は火おほらかに埋(うづ)みて、薫物(たきもの)多きにつくりて、伏籠(ふせご)うち置きて、褻(け)に着たまふ御衣(おんぞ)をば、暖かにてぞ着せたてまつりたまふ。炭櫃(すびつ)に銀(しろかね)の提子(ひさげ)二十ばかりを据ゑて、さまざまの薬を置き並べてまゐりたまふ。また、寝たまふ畳(たたみ)の上筵(うはむしろ)に、綿入れてぞ敷(し)かせたてまつらせたまふ。寝たまふ時には、大きなる熨斗(のし)持ちたる女房三四人(みたりよたり)ばかり出で来(き)て、かの大殿籠(おほとのごも)る筵(むしろ)をば、暖かにのしなでてぞ寝させたてまつりたまふ。あまりなる御用意なりしかは。 おほかたのしつらひ・有様、女房の装束(さうぞく)などはめでたけれども、この北の方は、練色(ねりいろ)の衣(きぬ)の綿厚き二つばかりに、白袴(しろばかま)うち着てぞおはしける。年四十余(よそぢあまり)ばかりなる人の、大将には親ばかりにぞおはしける。色黒くて、額(ひたひ)に花がたうち付きて、髪ちぢけたるにぞおはしける。御かたちのほどを思ひ知りて、さまにあひたる装束と思(おぼ)しけるにや、まことにその御装束こそ、かたちに合ひて見えけれ。さばかりの人の北の方と申すべくも見えざりけれど、もとの北の方重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の姫君、貞観殿(ぢやうぐわんでん)の尚侍(ないしのかみ)の御腹、やむごとなき人と申しながら、かたち・有様めでたくおはしけるに、かかる人に思しうつりて、さりたてまつらせたまひけむほど思ひはべるに、ただ徳(とく)のありて、かくもてかしづききこゆるに、思ひのおはしけるにや。やむごとなき人だにこそかくはおはしけれ。あはれ、翁(おきな)らが心にだに、いみじき宝(たから)を降(ふ)らしてあつかはむといふ人ありとも、年頃(としごろ)の女(をんな)どもをうち捨ててまからむは、いとほしかりぬべきに、さばかりにやむごとなくおはします人は、不合(ふがふ)におはすといふとも、翁らが宿(やど)りのやうに侍らむやは。この今北の方のことにより、世の人にも軽(かろ)く思はれ、世覚(よおぼ)えもおとりたまひにし、いと口惜(くちを)しきことに侍りや。さばかりのこと思しわかぬやう侍るべしや。あやしの翁らが心におとらせたまはむやは、と思ひたまふれど、口惜しく思ひたまふることなりしかば、申すぞや」とて、ほほゑむけしき、はづかしげなり。 世継「さばかりの人だにかくおはしましければ、それより次々の人のいかなる振舞(ふるまひ)もせむ、ことわりなりや。翁らがここらの年頃、あやしの宿(やど)りに、わりなき世を念(ねん)じ過して侍りつるこそ、ありがたくおぼえはべりつれ」 快(こころよ)くうちすみたりし顔けしきこそいとをかしかりしか。 世継「さて、時々、もとの上(うへ)の御もとへおはしまさむとて、牛飼(うしかひ)・車副(くるまぞひ)などに、「そなたへ車をやれ」とて仰(おほ)せられけれどさらに聞かざりけれ。この今北の方、侍(さぶらひ)・雑色(ざふしき)・隨身(ずいじん)・車副などに、装束(さうずく)もの取らすることはさるものにて、日ごとに酒を出(いだ)して飲ませ遊ばせ、いみじき志(こころざし)どもをしける。その故(け)にや、かくしけるを、それまたいとあやしき御心(みこころ)なりや。雑色・牛飼の心にまかせて、それによりてえおはしまさざりけむよ。さることやは侍るな。さるは、この大将は、御心(こころ)ばへもかたちも、人にすぐれてめでたくおはせし人なり。 [九九] 兼通の子孫天道やすからず思し召しけむ また、堀河殿(ほりかはどの)の御子(みこ)、大蔵卿(おほくらきやう)正光(まさみつ)と聞えしが御女(むすめ)、源帥(げんのそち)の御中(なか)の君(きみ)の御腹のぞかし。今の皇太后宮の御匣殿(みくしげどの)とてさぶらひたまふ、ただいまの左兵衛督(さひやうゑのかみ)の北の方。また、上野前司(かうづけのぜんじ)兼定(かねさだ)の君ぞかし。まことや、北面(きたおもて)の中納言とかや、世の人の申(ま)しし時光(ときみつ)の卿、それまた、右京大夫(うきやうのだいふ)にておはせし。この大夫の御子(みこ)ぞかし、今の仁和寺(にんなじ)の別当(べたう)、律師(りし)尋清(じんせい)の君。堀河殿の御末、かばかりか。 この大臣(おとど)、すべて非常(ひざう)の御心ぞおはしし。かばかり末絶えず栄えおはしましける東三条殿(とうさんでうどの)を、ゆゑなきことにより、御官位(つかさくらゐ)を取りたてまつりたまへりし、いかに悪事(あくじ)なりしかは。天道(てんたう)もやすからず思(おぼ)し召(め)しけむを。その折の帝(みかど)、円融院にぞおはしましし。かかる嘆きのよしを長歌(ながうた)によみて、奉りたまへりしかば、帝の御返り、「いなふねの」とこそ仰(おほ)せられければ、しばしばかりを思し嘆きしぞかし。 [一〇〇] 兼通と兼家の不和 最後の除目強行 堀河殿、はてはわれうせたまはむとては、関白をば、御いとこの頼忠(よりただ)の大臣(おとど)にぞ譲りたまひしこそ、世の人いみじき僻事(ひがごと)と謗(そし)りまうししか」。 この向(むか)ひ居(を)る侍(さぶらひ)のいふやう、 「東三条殿(とうさんでうどの)の官(つかさ)など取りたてまつらせたまひしほどのことは、ことわりとこそうけたまはりしか。おのれが祖父(おほぢ)親(おや)は、かの殿(との)の年頃(としごろ)の者にて侍りしかば、こまかにうけたまはりしは。この殿たちの兄弟(あにおとと)の御中(なか)、年頃の官位(つかさくらゐ)の劣(おと)り優(まさ)りのほどに、御中あしくて過ぎさせたまひし間に、堀河殿御病重くならせたまひて、今はかぎりにておはしまししほどに、東(ひんがし)の方に、先(さき)追ふ音のすれば、御前(おまへ)にさぶらふ人たち、「誰(たれ)ぞ」などいふほどに、「東三条殿の大将殿まゐらせたまふ」と人の申しければ、殿(との)聞かせたまひて、年頃なからひよからずして過ぎつるに、今はかぎりになりたると聞きて、とぶらひにおはするにこそはとて、御前(おまへ)なる苦しきもの取り遣(や)り、大殿籠(おほとのごも)りたる所ひきつくろひなどして、入れたてまつらむとて、待ちたまふに、「早く過ぎて、内(うち)へまゐらせたまひぬ」と人の申すに、いとあさましく心憂(こころう)くて、御前(おまへ)にさぶらふ人々も、をこがましく思ふらむ。おはしたらば、関白など譲ることなど申さむとこそ思ひつるに。かかればこそ、年頃なからひよからで過ぎつれ。あさましくやすからぬことなりとて、かぎりのさまにて臥(ふ)したまへる人の、「かき起(おこ)せ」とのたまへば、人々、あやしと思ふほどに、「車に装束(さうぞく)せよ。御前(ごぜん)もよほせ」と仰(おほ)せらるれば、もののつかせたまへるか、現心(うつしごころ)もなくて仰せらるるかと、あやしく見たてまつるほどに、御冠(かぶり)召し寄せて、装束などせさせたまひて、内(うち)へまゐらせたまひて、陣(ぢん)のうちは君達(きんだち)にかかりて、滝口(たきぐち)の陣の方より、御前(おまへ)へまゐらせたまひて、昆明池(こんめいち)の障子(さうじ)のもとにさし出でさせたまへるに、昼(ひ)の御座(ござ)に、東三条の大将、御前(おまへ)にさぶらひたまふほどなりけり。 この大将殿は、堀河殿すでにうせさせたまひぬと聞かせたまひて、内(うち)関白のこと申さむと思ひたまひて、この殿(との)の門(かど)を通りて、まゐりて申したてまつるほどに、堀河殿の目をつづらかにさし出でたまへるに、帝(みかど)も大将も、いとあさましく思(おぼ)し召(め)す。大将はうち見るままに、立ちて鬼(おに)の間(ま)の方におはしましぬ。関白殿御前(おまへ)につい居(ゐ)たまひて、御けしきいとあしくて、「最後の除目(ぢもく)行ひにまゐりたまふるなり」とて、蔵人頭(くらうどのとう)召して、関白には頼忠(よりただ)の大臣(おとど)、東三条殿の大将を取りて、小一条(こいちでう)の済時(なりとき)の中納言を大将になしきこゆる宣旨(せんじ)下して、東三条殿をば治部卿(ぢぶきやう)になしきこえて、出でさせたまひて、ほどなくうせたまひしぞかし。心意地(こころいぢ)にておはせし殿(との)にて、さばかりかぎりにおはせしに、ねたさに内(うち)にまゐりて申させたまひしほど、こと人すべうもなかりことぞかし。 されば、東三条殿官(つかさ)取りたまふことも、ひたぶるに堀河殿の非常(ひざう)の御心(みこころ)にも侍らず。ことのゆゑは、かくなり。「関白は次第(しだい)のままに」といふ御文(ふみ)思(おぼ)し召(め)しより、御妹(いもうと)の宮に申して取りたまへるも、最後に思すことどもして、うせたまへるほども、思ひはべるに、心つよくかしこくおはしましける殿なり」。 一 太政大臣為光(ためみつ) 恒徳公(こうとくこう) [一〇一] 為光の子女 誠信・斉信の官位争い 世継「この大臣(おとど)は、これ九条殿(くでうどの)の御九郎君、大臣の位にて七年、法住寺(ほふぢゆうじ)の大臣(おとど)と聞(きこ)えさす。御男子(をのこご)七人・女君(をんなぎみ)五人おはしき。女二所(ふたところ)は、佐理(すけまさ)の兵部卿(ひやうぶきやう)の御妹の腹、いま三所(みところ)は、一条(いちでう)の摂政(せつしやう)の御女(むすめ)の腹におはします。男君(をとこぎみ)たちの御母、皆あかれあかれにおはしましき。女君一所は、花山院の御時の女御(にようご)、いみじう時におはせしほどに、うせたまひにき。いま一所も、入道中納言(にふだうちゆうなごん)の北の方にてうせたまひにき。 男君、太郎は左衛門督(さゑもんのかみ)と聞えさせし、悪心(あくしん)起してうせたまひにし有様は、いとあさましかりしことぞかし。人に越えられ、辛(から)いめみることは、さのみこそおはしあるわざなるを、さるべきにこそはありけめ。同じ宰相(さいしやう)におはすれど、弟殿には人柄(ひとがら)・世覚(よおぼ)えの劣りたまへればにや、中納言あくきはに、われもならむ、など思(おぼ)して、わざと対面(たいめん)したまひて、「このたびの中納言望みまうしたまふな。ここに申しはべるべきなり」と聞えたまひければ、「いかでか殿(との)の御先(さき)にはまかりなりはべらむ。ましてかく仰(おほ)せられむには、あるべきことならず」と申したまひければ、御心(こころ)ゆきて、しか思して、いみじう申したまふにおよばぬほどにやおはしけむ、入道殿、この弟殿に、「そこは申されぬか」とのたまはせければ、「左衛門督の申さるれば、いかがは」と、しぶしぶげに申したまひけるに、「かの左衛門督まかりなるまじくは、由(よし)なし。なしたぶべきなり」と申したまへば、またかくあらむには、こと人はいかでかとて、なりたまひにしを、いかでわれに向(むか)ひて、あるまじきよしを謀(はか)りけるぞ、と思すに、いとど悪心(あくしん)を起して、除目(ぢもく)のあしたより、手をつよくにぎりて、「斉信(ただのぶ)・道長(みちなが)にわれははまれぬるぞ」といひいりて、ものもつゆまゐらで、うつぶしうつぶしたまへるほどに、病づきて七日といふにうせたまひしには。にぎりたまひたりける指(および)は、あまりつよくて、上にこそ通りて出でてははべりけれ。  いみじき上戸(じやうご)にてぞおはせし。この関白殿のひととせの臨時客(りんじきやく)に、あまり酔(ゑ)ひて、御座(ござ)に居(ゐ)ながら立ちもあへたまはで、ものつきたまへりけるにぞ、高名(かうみやう)の弘高(ひろたか)が書きたる楽府(がふ)の屏風(びやうぶ)にかかりて、そこなはれたなる。この中納言になりたまへるも、いと世覚えあり、よき人にておはしき。  また、権中将(ごんのちゆうじやう)道信(みちのぶ)の君、いみじき和歌の上手(じやうず)にて、心にくき人にいはれたまひしほどに、うせたまひにき。また、左衛門督(さゑもんのかみ)公信(きんのぶ)の卿・法住寺(ほふぢゆうじ)の僧都(そうづ)の君・阿闍梨(あざり)良光(よしみつ)の君おはす。まこと、一条(いちでう)摂政殿(せつしやうどの)の御女の腹の女君(をんなぎみ)たち、三・四・五の御方。三の御方は、鷹司殿(たかつかさどの)の上(うへ)とて、尼(あま)になりておはします。四の御方は、入道殿の俗(ぞく)におはしましし折の御子(みこ)うみて、うせたまひにき。五の君は、今の皇太后宮にさぶらはせたまふ。この大臣(おとど)の御有様かくなり。  法住寺をぞ、いといかめしうおきてさせたまへる。摂政・関白せさせたまはぬ人の御しわざにては、いと猛(まう)なりかし。この大臣(おとど)、いとやむごとなくおはしまししかど、御末ほそくぞ。 [一〇二] 閑院の大臣 公季の子孫たち この大臣(おとど)、ただいまの閑院(かんゐん)の大臣(おとど)におはします。これ、九条殿(くでうどの)の十一郎君、母、宮腹(みやばら)におはします。皇子(みこ)の御女(むすめ)をぞ、北の方にておはしましし。その御腹に、女君(をんなぎみ)一所(ひとところ)、男君二所(ふたところ)、女君は、一条院の御時の弘微殿(こきでん)の女御(にようご)、今におはします、男一人は、三味噌都(さんまいそうづ)如源(によげん)と申(ま)しし、うせたまひにき。いま一所の男君は、ただいまの右衛門督(うゑもんのかみ)実成(さねなり)の卿にぞおはする。この殿(との)の御子(みこ)、播磨守(はりまのかみ)陳政(のぶまさ)の女の腹に、女二所・男一人おはします。大姫君(おほひめぎみ)は、今の中宮権大夫殿(ちゆうぐうごんのだいぶどの)の北の方、いま一所は源(げん)大納言俊賢(としかた)の卿、これ民部卿(みんぶきやう)と聞ゆ、その御子のただいまの頭中将(とうのちゆうじやう)顕基(あきもと)の君の御北の方にておはすめる。男君をば、御祖父(おほぢ)の太政大臣殿、子にしたてまつりたまひて、公政(きんなり)とつけたてまつらせたまへるなり。蔵人頭(くらうどのとう)にて、いと覚えことにておはすめる君になむ。この太政大臣殿の御有様かくなり。帝(みかど)・后(きさき)、たたせたまはず。 [一〇三] 公季の母康子内親王 師輔ひそかに通う このおほきおとどの御母上は、延喜(えんぎ)の帝の御女、四の宮と聞えさせき。延喜、いみじうときめかせ、思ひたてまつらせたまへりき。御裳着(もぎ)の屏風(びやうぶ)に、公忠(きんただ)の弁(べん)、   ゆきやらで山路(やまぢ)くらしつほととぎすいま一声の聞かまほしさに とよむは、この宮なり。貫之(つらゆき)などあまたよみて侍りしかど、人にとりては、すぐれてののしられたまひし歌よ。二代の帝の御妹(いもうと)におはします。  さて、内住(うちず)みして、かしづかれおはしまししを、九条殿は女房(にょうばう)をかたらひて、みそかにまゐりたまへりしぞかし。世の人、便(びん)なきことに申し、村上のすべらぎも、やすからぬことに思(おぼ)し召(め)しおはしましけれど、色に出でて、咎(とが)め仰(おほ)せられずなりにしも、この九条殿の御覚えの、かぎりなきによりてなり。まだ、人々うちささめき、上(うへ)にも聞し召さぬほどに、雨のおどろおどろしう降り、雷鳴(かみな)りひらめきし日、この宮、内(うち)におはしますに、「殿上(てんじやう)の人々、四の宮の御方へまゐれ。おそろしう思し召すらむ」と仰せごとあれば、たれもまゐりたまふに、小野宮(をののみや)の大臣(おとど)ぞかし、「まゐらじ。御前(おまへ)のきたなきに」とつぶやきたまへば、後(のち)にこそ、帝、思し召しあはせけめ。  さて殿(との)にまかでさせたてまつりて、思ひかしづきたてまつらせたまふといへば、さらなりや。さるほどに、この太政大臣殿をはらみたてまつりたまひて、いみじうもの心ぼそくおぼえさせたまひければ、「まろはさらにあるまじき心地(ここち)なむする。よし見たまへよ」と男君につねに聞えさせたまひければ、「まことにさもおはしますものならば、片時(かたとき)も後(おく)れまうすべきならず。もし心にあらずながらへさぶらはば、出家(すけ)かならずしはべりなむ。また二つこと人見るといふことはあるべきにもあらず。天(あま)がけりても御覧(ごらん)ぜよ」とぞ申させたまひける。法師にならせたまはむことはあるまじとや、思(おぼ)し召(め)しけむ、小さき御唐櫃(からびつ)一具(ひとよろひ)に、片つ方は御烏帽子(えぼうし)、いま片つ方には襪(したうづ)を、一唐櫃づつ、御手づからつぶと縫(ぬ)ひ入れさせたまへりけるを、殿(との)はさも知らせたまはざりけり。さてつひにうせさせたまひしには。されば、この太政大臣殿は、生れさせたまへる日を、やがて御忌日(きにち)にておはしますなり。かの縫ひおかせたまひし御烏帽子・御襪、御覧ずるたびごとに、九条殿しほたれさせたまはぬ折なし。まことに、その後(のち)、一人住(ひとりず)みにてぞやませたまひにし。 [一〇四] 公季の幼時 このうみおきたてまつりたまへりし太政大臣殿をば、御姉の中宮(ちゆうぐう)、さらなり、世の常ならぬ御族(ぞう)思ひにおはしませば、養(やしな)ひたてまつらせたまふ。内(うち)にのみおはしませば、帝もいみじうらうたきものにせさせたまひて、つねに御前(おまへ)にさぶらはせたまふ。何事(なにごと)も、宮たちの同じやうに、かしずきもてなしまうさせたまふに、御膳(おもの)召す御台(みだい)のたけばかりをぞ、一寸(ひとき)おとさせたまひけるを、けぢめに知ることにはせさせたひける。昔は、皇子(みこ)たちも、幼くおはしますほどは、内住(うちず)みせさせたまふことはなかりけるに、この若君(わかぎみ)のかくてさぶらはせたまふは、「あるまじきこと」と謗(そし)りまうせど、かくて生(お)ひたたせたまへれば、なべての殿上人(てんじやうびと)などになずらはせたまふべきならねど、若(わか)うおはしませば、おのづから、御たはぶれなどのほどにも、なみなみにふるまはせたまひし折は、円融院の帝は、「同じほどの男(をのこ)どもと思ふにや、かからであらばや」などぞうめかせたまひける。 [一〇五] 公季の老後 頭中将、公成をかわいがる かかるほどに、御年積(つも)らせたまひて、また御孫(まご)の頭中将(とうのちゆうじやう)公成(きんなり)の君を、ことのほかにかなしがりたまひて、内(うち)にも、御車(みくるま)のしりに乗せさせたまはぬかぎりは、まゐらせたまはず。さるべきことの折も、この君、遅くまかり出でたまへば、弓場殿(ゆばどの)に、御先(みさき)ばかりまゐらせたまひて、待ち立たせたまへりければ、見たてまつりたまふ人、「など、かくては立たせたまへる」と申させたまへば、「いぬ、待ちはべるなり」とぞ仰(おほ)せられける。無量壽院(むりやうじゆゐん)の金堂(こんだう)供養(くやう)に、東宮(とうぐう)の行啓(ぎやうけい)ある御車(みくるま)にさぶらはせたまひて、ひとみち、「公成思(おぼ)し召(め)せよ、思し召せよ」と、同じことを啓(けい)させたまひける、「あはれなるものから、をかしくなむありし」とこそ、宮仰せられけれ。繁樹(しげき)が姪(めい)の女(むすめ)の、中務(なかつかさ)の乳母(めのと)のもとに侍るが、まうできて語りはべりしなり。 [一〇六] 公季曾孫資綱(顕基の子)の五十日の祝 頭中将顕基(あきもと)の君の御若君(わかぎみ)おはすとかな。五十日(いか)をば四条(しでう)にわたしきこえて、太政大臣殿こそくくめさせたまひけれ。御舅(をぢ)の右衛門督(うゑもんのかみ)ぞいだききこえたまへるに、この若君の泣きたまへば、「例(れい)はかくもむづからぬに、いかなればかからむ」と、右衛門督立ち居(ゐ)なぐさめたまひければ、「おのづから児(ちご)はさこそあれ。ましも、さぞありし」と、太政大臣殿のたまはせけるにこそ、さるべき人々まゐりたまへりける、皆ほほゑみたまひけれ。なかにも四位少将(しゐのせうしやう)隆国(たかくに)の君は、つねに思ひ出でてこそ、今に笑ひたまふなれ。かやうにあまり古体(こたい)にぞおはしますべき。昔の御童名(わらはな)は、宮雄君(みやをぎみ)とこそは申ししか。 一 太政大臣兼家(かねいへ) [一〇七]東三条の大臣 この大臣(おとど)は、九条殿(くでうどの)の三郎君、東三条の大臣(おとど)におはします。御母は、一条(いちでう)摂政(せつしやう)に同じ。冷泉院・円融院の御舅(をぢ)、一条院・三条院の御祖父(おほぢ)、東三条の女院(にようゐん)・贈皇后宮の御父。公卿にて二十年、大臣の位にて十二年、摂政にて五年、太政大臣にて二年、世をしらせたまふ、栄(さか)えて五年ぞおはします。出家(すけ)せさせたまひてしかば、後(のち)の御いみななし。 [一〇八] 兼家の専横 内(うち)にまゐらせたまふには、さらなり、牛車(ぎつしや)にて北(きた)の陣(ぢん)まで入(い)らせたまへば、それよりうちはなにばかりのほどならねど、紐(ひも)解(と)きて入らせたまふこそ。されど、それはさてもあり、相撲(すまひ)の折、内(うち)・春宮(とうぐう)のおはしませば、二人の御前(おまへ)に、なにをもおしやりて、汗(あせ)とりばかりにてさぶらはせたまひけるこそ、世にたぐひなくやむごとなきことなれ。 末には、北の方もおはしまさざりしかば、男(をとこ)住(ず)みにて、東三条殿の西(にし)の対(たい)を清涼殿(せいりやうでん)づくりに、御しつらひよりはじめて、住ませたまふなどをぞ、あまりなることに人申すめりし。なほ、ただ人(びと)にならせたまひぬれば、御果報(くわはう)のおよばせたまはぬにや。さやうの御身持ちにひさしうはたもたせたまはぬとも、定(さだ)め申すめりき。 [一〇九]ある人の夢想と打伏しの巫女 その時は、夢解(ゆめとき)も巫女(かんなぎ)も、かしこきものどもの侍りしぞとよ。堀河(ほりかは)の摂政のはやりたまひし時に、この東三条殿は御官(つかさ)どもとどめられさせたまひて、いと辛(から)くおはしまし時に、人の夢に、かの堀河院(ほりかはゐん)より、箭(や)をいと多く東(ひんがし)ざまに射るを、いかなることぞと見れば、東三条殿に皆落ちぬと見けり。よからず思ひきこえさせたまへる方よりおはせたまへば、あしきことかな、と思ひて、殿(との)にも、申しければ、おそれさせたまひて、夢解(ゆめとき)に問はせたまひければ、いみじうよき御夢なり。世の中の、この殿にうつりて、あの殿の人の、さながらまゐるべきが見えたるなり」と申しけるが、当てざらざりしことかは。  また、その頃、いとかしこき巫女(かんなぎ)侍りき。賀茂(かも)の若宮(わかみや)のつかせたまふとて、伏(ふ)してのみものを申(ま)ししかば、「うち伏しのみこ」とぞ、世の人つけて侍りし。大入道殿(おほにふだうどの)に召して、もの問はせたまひけるに、いとかしこく申せば、さしあたりたること、過ぎにし方のことは、皆さいふことなれば、しか思(おぼ)し召(め)しけるに、かなはせたまふことどもの出でくるままに、後々(のちのち)には、御装束(さうぞく)奉り、御冠(かぶり)せさせたまひて、御膝(ひざ)に枕をせさせてぞ、ものは問はせたまひける。それに一事(ひとこと)として、後後のこと申しあやまたざりけり。さやうに近く召し寄するに、いふがひなきほどのものにあらで、少しおもとほどのきはにてぞありける。 [一一〇]兼家、法興院を好む、法興院の怪 この殿(との)、法興院(ほこゐん)におはしますことをぞ、こころからよからぬ所と,人は、うけ申さざりしかど、いみじう興(きよう)ぜさせたまひて、聞きも入れで、わたらせたまひて、ほどなくうせさせおはしましにき。   「東山(ひがしやま)などのいとほど近く見ゆるが、山里とおぼえて、をかしきなり」とぞ仰せられける。   御物忌(ものいみ)の折は、わたりたまはむとて、「おはしましてはいかがある」と、占(うら)せさせたまひて、そのたび、法興院にて病づきてうせたまひにき。  「御厩(みまや)の馬に御随身(みずいじん)乗せて、粟田口(あはたぐち)へつかはししが、あらはにはるばると見ゆる」など、をかしきことに仰(おほ)せられて、月のあかき夜(よ)は、下格子(げかうし)もせで、ながめさせたまひけるに、目にも見えぬものの、はらはらとまゐりわたしければ、さぶらふ人々は怖(お)ぢさわげど、殿(との)は、つゆおどろかせたまはで、御枕上(まくらがみ)なる太刀(たち)をひき抜かせたまひて、「月見るとてあげたる格子おろすは、何者のするぞ。いと便(びん)なし。もとのやうにあげわたせ。さらずは、あしかりなむ」と仰せられければ、やがてまゐりわたしなど、おほかた落ち居ぬことども侍りけり。さて、つひに殿(との)ばらの領(らう)にもならで、かく御堂(みだう)にはなさせたまへるなめり。  この大臣(おとど)の君達(きんだち)、女君(をんなぎみ)四所(よところ)・男君五人、おはしましき。女二所・男三所(みところ)、五所(いつところ)は、摂津守(せつつのかみ)藤原中正(ふぢはらのなかまさ)のぬしの女(むすめ)の腹におはします。三条院の御母の贈(ぞう)皇后宮と、女院(にようゐん)、大臣三人ぞかし。 [一一一] 兼家の正室時姫、かつて夕占を問う  この御母、いかに思(おぼ)しけるにか、いまだ若うおはしける折、二条の大路(おほち)にいでて、夕占(ゆうけ)問ひたまひれば、白髪(しらが)いみじう白き女のただ一人ゆくが、立ちとまりて、「なにわざしたまふ人ぞ。もし夕占問ひたまふか。何事(なにごと)なりとも、思さむことかなひて、この大路よりも広くながく栄えさせたまふべきぞ」と、うち申しかけてぞまかりにける。人にはあらで、さるべきものの示したてまつりけるにこそ侍りけめ。 [一一二] 東宮(三条天皇)の尚侍綏子  女君は、女院(にようゐん)の后(きさい)の宮にておはしましし折の宣旨(せんじ)にておはしき。また、対(たい)の御方(おんかた)と聞こえし御腹の女(むすめ)、大臣(おとど)いみじうかなしくしきこえさせたまひて、十一におはせし折、尚侍(ないしのかみ)になしたてまつらせたまひて、内住(うちず)みせさせたてまつらせたまひし。御かたちいとうつきしうて、御(み)ぐしも十一二のほどに、糸をよりかけたるやうにて、いとめでたくおはしませば、ことわりとて、三条院の東宮(とうぐう)にて御元服(げんぷく)せさせたまふ夜(よ)の御添臥(そひふ)しにまゐらせたまひて、三条院もにくからぬものに思(おぼ)し召(め)したりき。夏いと暑き日わたらせたまへるに、御前(おまへ)なる氷(ひ)をとらせたまひて、「これしばし持ちたまひたれ。まろを思ひたまはば、『今は』といはざらむかぎりは、置くたまふな」とて、持たせきこえさせたまひて御覧(ごらん)じければ、まことに、かたの黒むまでこそ持ちたまひたりけれ。「さりとも、しばしぞあらむと思ししに、あはれさすぎて、うとましくこそおぼえしか」とぞ、院(ゐん)は仰ぎ(おほ)せられける。 [一一三] 源頼定、綏子と密通 あやしきことは、源宰相(げんさいしやう)頼定(よりさだ)の君の通ひたまふと、世に聞えて、里に出でたまひにきかし。ただならずおはすとさへ、三条院聞かせたまひて、この入道殿に、「さることのあなるは、まことにやあらむ」と仰せられければ、「まかりて見てまゐりはべらむ」とて、おはしましたりければ、例(れい)ならずあやしく思して、几帳(きちやう)ひき寄せさせたまひけるを、押しやらせたまへれば、もとはなやかなるかたちに、いみじう化粧(けさう)じたまへれば、常(つね)よりもうつくしう見えたまふ。「春宮(とうぐう)にまゐりたりつるに、しかじか仰せられつれば、見たてまつりにまゐりつるなり。そらごとにもおはせむに、しか聞し召されたまはむが、いと不便(ふびん)なれば」とて、御胸をひきあけさせたまひて、乳(ち)をひねりたまへりければ、御顔にさとはしりかかるものか。ともかくものたまはで、やがて立たせたまひぬ。春宮(とうぐう)にまゐりたまひて、「まことにさぶらひけり」とて、したまひつる有様を啓(けい)せさせたまへれば、さすがに、もと心ぐるしう思し召しならはせたまへる御中(なか)なればにや、いとほしげにこそ思し召したりけれ。「尚侍(ないしのかみ)は、殿(との)帰らせたまひて後(のち)に、人やりならぬ御心(こころ)づから、いみじう泣きたまひけり」とぞ、その折見たてまつりたる人語りはべりし。春宮(とうぐう)にさぶらひたまひしほども、宰相(さいしやう)は通ひまゐりたまふ。ことあまり出でてこそは、宮も聞(きこ)し召(め)して、「帯刀(たちはき)どもして蹴(け)させやせましと思ひしかど、故大臣(おとど)のことを、なきかげにもいかがと、いとほしかりしかば、さもせざりし」とこそ仰(おほ)せられけれ。この御あやまちより、源(げん)宰相、三条院の御時は殿上もしたまはで、地下(ぢげ)の上達部(かんだちめ)にておはせしに、この御時にこそは殿上し、検非違使(けびゐし)の別当(べたう)などになりて、うせたまひにしか。 [一一四] 兼家、三条院に雲形の帯を奉る  いま一つの御腹の大君(おほいぎみ)は、冷泉院の女御(にようご)にて、三条院・弾正(だんじやう)の宮(みや)・帥(そち)の宮(みや)の御母にて、三条院位につかせたまひしかば、贈(ぞう)皇后宮と申しき。この三人の宮たちを、祖父(おほぢ)殿ことのほかにかなしうしまうしたまひき。世の中の少しのことも出でき、雷(かみ)も鳴り、地震(なゐ)もふるときは、まづ春宮の御方にまゐらせたまひて、舅(をぢ)の殿(との)ばら、それならぬ人々などを、「内(うち)の御方へはまゐれ。この御方にはわれさぶらはむ」とぞ仰せられける。雲形(くもがた)といふ高名(かうみやう)の御帯(おび)は、三条院にこそは奉らせたまへれ。かこの裏に、「春宮に奉る」と、刀のさきにて、自筆(じひつ)に書かせたまへるなり。この頃は、一品(いつぽん)の宮(みや)にとこそうけたまはれ。 [一一五] 冷泉院の宮たち 敦道親王と和泉式部 この春宮の御弟(おとと)の宮たちは、少し軽々(きやうきやう)にぞおはしましし。帥の宮の、祭のかへさ、和泉式部(いづみしきぶ)の君とあひ乗らせたまひて御覧(ごらん)ぜしさまも、いと興(きよう)ありきやな。御車(みくるま)の口の簾(すだれ)を中より切らせたまひて、わが御方をば高う上げさせたまひ、式部が乗りたる方をばおろして、衣(きぬ)ながう出(いで)させて、紅(くれなゐ)の袴(はかま)に赤き色紙(しきし)の物忌(ものいみ)いとひろきつけて、地(つち)とひとしうさげられたりしかば、いかにぞ、物見(ものみ)よりは、それをこそ人見るめりしか。弾正尹(だんじやうのゐん)の宮(みや)の、童(わらは)におはしましし時、御かたちのうつくしげさは、はかりも知らず、かかやくとこそは見えさせたまひしか。御元服(げんぶく)おとりのことのほかにせさせたまひにしをや。  この宮たちは、御心(みこころ)の少し軽(かろ)くおはしますこそ、一家(け)の殿ばらうけまうさせたまはざりしかど、さるべきことの折などは、いみじうもてかしづきまうさせたまひし。帥(そち)の宮(みや)、一条院の御時の御作文(さくもん)にまゐらせたまひしなどには、御前(ごぜん)などにさるべき人多くて、いとこそめでたくまゐらせたまふめりしか。御前(おまへ)にて御襪(したうづ)のいたうせめさせたまひけるに心地(ここち)もたがひて、いとたへがたうおはしましければ、この入道殿にかくと聞えさせたまひて、鬼(おに)の間(ま)におはしまして、御襪をひき抜きたてまつらせたまへりければこそ、御心地(ここち)なほらせたまへりけれ。  贈后(ぞうこう)の御一(ひと)つ腹(ばら)の、いま一所(ひとところ)の姫君は、円融院の御時、梅壷(うめつぼ)の女御(にようご)と申して、一(いち)の皇子(みこ)生まれたまへりき。その皇子五つにて春宮(とうぐう)にたたせたまひ、七つにて位につかせたまひにしかば、御母、女御殿、寛和(かんな)二年七月五日、后にたたせたまひて、中宮(ちゆうぐう)と申しき。   この帝(みかど)を一条院と申しき。その母后(ははきさき)、入道せさせたまひて、太上天皇とひとしき位にて、女院(にようゐん)と聞えさせき。一天下(いちてんか)をあるままにしておはしましし。 [一一六] 道綱の母の『かげろふの日記』 この父大臣(おとど)の御太郎君、女院の御一(ひと)つ腹(ばら)の道隆(みちたか)の大臣(おとど)、内大臣にて関白せさせたまひき。二郎君、陸奥守(みちのくにのかみ)倫寧(ともやす)のぬしの女の腹におはせし君なり。道綱(みちつな)と聞えし。大納言までなりて、右大将かけたまへりき。この母君、きはめたる和歌の上手(じやうず)におはしければ、この殿(との)の通はせたまひけるほどのこと、歌など書き集めて、『かげろふの日記(にき)』と名づけて、世にひろめたまへり。殿のおはしましたりけるに、門(かど)をおそくあけければ、たびたび御消息(せうそこ)いひ入れさせたまふに、女君(をんなぎみ)、   嘆きつつひとり寝(ぬ)る夜(よ)のあくるまはいかにひさしきものとかはしる いと興(きよう)ありと思(おぼ)し召(め)して、   げにやげに冬の夜(よ)ならぬ槙(まき)の戸もおそくあくるは苦しかりけり されば、その腹の君ぞかし、この道綱(みちつな)の卿の、後(のち)には東宮傅(とうぐうのふ)になりたまひて傅(ふ)の殿(との)とぞ申すめりし。いとあつくして、大将をも辞(じ)したまひてき。その殿、今の入道殿の北(きた)の政所(まんどころ)の御はらからに住みたてまつらせたまひて、生れたまへりし君、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)兼経(かねつね)の君よ。父大納言はうせたまひにき、御年六十六とぞ聞きたてまつりし。大入道殿の三郎、粟田殿(あはたどの)。また、四郎は、外腹(ほかばら)の治部少輔(ぢぶせふ)の君とて、世のしれものにて、まじらひもせでやみたまひぬとぞ、聞えはべりし。五郎君、ただいまの入道殿におはします。女院(にようゐん)の御母北の方の御腹の君達(きんだち)三所(みところ)の御有様、申しはべらむ。昭宣公(せうせんこう)の御君達、「三平(さんぺい)」と聞えさすめりしに、この三所をば、「三道(さんだう)」とや世の人申しけむ、えこそうけたまはらずなりにしか」 とて、ほほゑむ。 一 内大臣道隆(みちたか) [一一七] 道隆の大酒癖 「この大臣(おとど)は、これ、東三条(とうさんでう)の大臣(おとど)の御一男なり。御母は、女院(にようゐん)の御同じ腹なり。関白になり栄えさせたまひて六年ばかりやおはしけむ、大疫れい(おほえきれい)の年こそうせたまひけれ。されど、その御病にてはあらで、御酒(みき)のみだれさせたまひにしなり。男(おのこ)は、上戸(じやうご)、ひとつの興(きよう)のことにすれど、過ぎぬるはいと不便(ふびん)なる折侍りや。祭のかへさ御覧(ごらん)ずとて、小一条(こいちでう)の大将・閑院(かんゐん)の大将と一つ御車(みくるま)にて、紫野(むらさいの)に出でさせたまひぬ。烏(からす)のつい居(ゐ)たるかたを瓶(かめ)につくらせたまひて、興あるものに思(おぼ)して、ともすれば御酒(みき)入れて召す。今日もそれにてまゐらする、もてはやされたまふほどに、やうやう過ぎさせたまひて後(のち)は、御車(みくるま)の後(しり)・前(まへ)の簾(すだれ)皆あげて、三所(みところ)ながら御髻(もとどり)はなちておはしましけるは、いとこそ見ぐるしかりけれ。おほかたこの大将殿たちのまゐりたまへる、世の常にて出でたまふをば、いと本意(ほい)なく口惜(くちを)しきことに思(おぼ)し召(め)したりけり。ものもおぼえず、御装束(さうぞく)もひきみだりて、車さし寄せつつ、人にかかれて乗りたまふをぞ、いと興あることにせさせたまひける。 ただしこの殿(との)、御酔(ゑひ)のほどよりはとくさむることをぞせさせたまひし。御賀茂詣(かもまうで)の日は、社頭(しやとう)にて三度(みたび)の御かはらけ定まりてまゐわするわざなるを、その御時には、禰宜(ねぎ)・神主(かうぬし)も心得て、大かはらけをぞまゐらせしに、三度はさらなることにて、七八度など召して、上(かみ)の社(やしろ)にまゐりたまつふ道にては、やがてのけざまに、しりの方を御枕にて、不覚(ふかく)に大殿篭(おほとおのごも)りぬ。一(いち)の大納言にてつは、この御堂(みだう)ぞおはしまししかば、御覧(ごらん)ずるに、夜(よ)に入りぬれば、御前(ごぜん)の松の光にとほりて見ゆるに、御透影(すきかげ)のおはしまさねば、あやしと思し召しけるに、まゐりつかせたまひて、御車かきおろしたれど、え知らせたまはず。いかにと思へど、御前(ごぜん)どももえおどろかしまうさで、たださぶらひなめるに、入道殿おりさせたまへるに、さてあるべきことならねば、轅(ながえ)の戸(と)ながら、高(たか)やかに、「やや」と御扇(あふぎ)を鳴らしなどせさせたまへど、さらにおどろきたまはねば、近く寄りて、表(うへ)の御袴(はかま)の裾(すそ)を荒らかにひかせたまふ折ぞ、おどろかせたまひて、さる御用意はならはせたまへれば、御櫛(くし)・笄具(かうがいぐ)したまへりける取り出でて、つくろひなどして、おりさせたまひけるに、いささかさりげなくて、清(きよ)らかにてぞおはしましし。されば、さばかり酔(ゑ)ひなむ人は、その夜は起きあがるべきかは。それに、この殿(との)の御上戸(じやうど)は、よくおはしましける。その御心(みこころ)のなほ終りまでも忘れさせたまはざりけるにや、御病づ来てうせたまひけるとき、西にかき向けたてまたりて、「念仏(ねんぶつ)申させたまへ」と、人々のすすめたてまつりければ、「済時(なりとき)・朝光(あさてる)なむどもや極楽(ごくらく)にはあらずむらむ」と仰(おほ)せられけるこそ、あはれなれ。つねに御心に思(おぼ)しならひたることなればにや。あの、地獄の鼎(かなへ)のはたに頭(かしら)うちあてて、三宝(さんぽう)の御名(みな)思ひ出でけむ人のやうなることなりや。 [一一八] 道隆、御かたちいときよら  御かたちぞいと清らにおはしましし。帥殿(そちどの)に天下執行(しゆぎやう)の宣旨(せんじ)下したてまつりに、この民部卿殿(みんぶきやうどの)の、頭弁(とうのべん)にてまゐりたまへりけるに、御病いたくせめて、御装束(さうぞく)もえたてまつらざりければ、御直衣(なほし)にて御簾(みす)の外(と)にゐざり出でさせたまふに、長押(なげし)をおりわづらはせたまひて、女装束(をんなさうぞく)御手にとりて、かたのやうにかづけさせたまひしなむ、いとあはれなりし。こと人のいとさばかりなりたまむは、ことやふなるべきを、なほいとかはらかにあてにおはせしかば、「病づきてしもこそかたちはいるでかりけれ、となむ見えし」とこそ、民部卿殿はつねにのたまふなかれ。 [一一九] 道隆の子孫 その関白殿は腹(はら)ばらに男子(をのこご)・女子(をんなご)あまたおはしましき。今の北の方は、大和守高階成忠(やまとのかみたかしなのなりただ)のぬしの御女(むすめ)なり。後(のち)には高二位(かうにゐ)とこそいひはべりしか。さて積善寺(しやくぜんじ)の供養(くやう)の日は、この入道殿の上(かみ)にさぶらはせしは、いとめだうなりしわざかな。 その腹に男君三所(をとこぎみみところ)・女君四所(をんなぎみよところ)おはしましき。大姫君(おほひめぎみ)は、一条院の十一にて御元服せしめたまひしに、十五にてやまゐらせたまひけむ。やがてその年六月一日、后(きさき)にゐさせたまふ。中宮(ちゆうぐう)と申しき。 東三条殿(とうさんでうどの)の御悩(ごなう)のさかりも過ぐさせたまはで、奉らせたまひしをぞ、世人(よひと)、いかにぞや申しはべりし。 さて関白殿などうせさせたまひて後(のち)に男御子(をとこみこ)一人・女御子二人うみたてまつらせたまへりき。女一の宮は、九つにてうせたまひにき。男親王(みこ)、式部卿(しきぶきやう)の宮篤康(みやあつやす)の親王(みこ)とこそ申ししか。たびたびの御思ひたがひて、世の中を思(おぼ)し嘆きてうせたまひにき、御年二十にて。あさましうて病(や)ませたまひにしかは。冷泉院の宮たちなどのやうに、軽々(きようきよう)におはしまさましかば、いとほしさもよろしくや、世の人思ひまさまし。御才(ざえ)いとかしこう、御心(こころ)ばへもいとめでたうぞおはしましし。 さてまた、この宮の御母后(ははきさき)の御さしつぎの中(なか)の君(きみ)は、三条院の東宮(とうぐう)と申しし折のしげいさとて、はなやがせたまひしも、父殿(ちちどの)うせたまひにし後(のち)、御年二十二三ばかりにてうせさせたまひにき。 三の御方は、冷泉院の四の皇子(みこ)、帥(そち)の宮(みや)と申ししをこそは、父殿(ちちどの)婿(むこ)どりたてまつらせたまへりしも、後(のち)には、やがて御中(なか)絶えにしかば、末の世は、一条の渡りにいとあやしくておはするとぞ聞えたまひし。まことにや、御心ばへなどの、いと落(お)ち居(ゐ)ずおはしければ、かつは、宮もうつうみきこえさせたまへりけるとかや。客人(まらうど)などのまゐりたる折は、御簾(みす)をいと高やかに押しやりて、御懐(ふところ)をひろげて立ちたまへりければ、宮は御おもてうち赤(あか)めてなむおはしましける。さぶらふ人も、おもての色たがふ心地(ここち)して、うつぶしてなむ、立たむもはしたに、術(ずち)なかりける。宮、後(のち)には、「見返りたりしままに、動きもせられず、ものこそ覚えざりしか」とこそ仰せられけれ。 また、学生(がくしやう)ども召し集めて、作文(さくもん)し遊ばせたまひけるに、金(こがね)を二三十両ばかり、屏風(びやうぶ)の上より投げ出(いだ)して、人々うちたまひければ、ふさはしからず憎しとは思はれけれど、その座にては饗応(きやうよう)しまうしてとり争ひけり。「金たまはりたるはよけれども、さも見ぐるしかりしものかな」とこそ今に申さるなれ。人々文(ふみ)作るて講じなどするに、よしあしいと高やかに定めたまふ折もありけり。二位の新発(しぼち)の御流(ながれ)にて、この御族(ぞう)は、女も皆、才(ざえ)のおはしたるなり。 母上は高内侍(こうないし)ぞかし。されど、殿上(てんじやう)えせられざりしかば、行幸(ぎやうかう)・節会(せちゑ)などには、南殿(なでん)にぞまゐられし。それはまことしき文者(もんざ)にて、御前(おまへ)の作文(さくもん)には、文(ふみ)奉られしはとよ。少々(せうせう)の男(をのこ)にはまさりてこそ聞えはべりしか。さやうの折、弘徽殿(こきでん)の上(うえ)の御局(みつぼね)の方より通ひて、二間(ふたま)に南無サブらひたまひけるとこそうけたまはりしか。古体(こたい)に侍りや。「女のあまりに才(ざえ)かしこきは、ものあしき」と、人の申すなるに、この内侍、後(のち)にはいといみじう堕落(だらく)せられにしも、その故(け)とこそはおぼえはべりしか。さて、その宮の上の御さしつぎの四の君は、御くしげ殿(みくしげどの)と申しし。御かたちいとうつくしうて、式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の御母代(ははしろ)にておはしまししも、はかなくうせたまひにき。されば、一(ひと)つ腹(ばら)の女君たちかくなり。対(たい)の御方(おんかた)と聞えさせし人の御腹にも、女君おはしけるは、今の皇太后宮にこそはさぶらひたまふなれ。またも聞えたまふかし。 [一二〇] 大千代君(道頼)・小千代君(伊周) 男君たちは、太郎君、故伊予守守仁(いよのかみもりひと)のぬしの女(むすめ)の腹ぞかし、大千代君(おほちよぎみ)よな。それは祖父大臣(おほぢおとど)の御子(みこ)にしたてまつりたまひて、道より(みちより)の六郎君とこそは申(ま)ししか。大納言なでなりたまへりき。父関白殿うせたまひし年の六月十一日に、うちつづきうせたまひにき。御年二十五とぞ聞えさせたまひし。御かたちいと清(きよ)げに、あまりあたらしきさまして、ものより抜け出でたるやうにぞおはせし。御心(こころ)ばへこそ、こと御はらからにも似たまはずいとよく、また、ざれをかしくもおはせしか。この殿(との)は、こと腹(ばら)におはす。皇后宮と一つ腹の長君、法師にて、十あまりのほどに僧都(そうづ)になしたてまつりたまへりし。それも三十六にてうせたまひにき。いま一所(ひとところ)は、小千代君(こちよぎみ)とて、かの外腹(ほかばら)の大千代君にはこよなくひき越し、二十一におはせしとき、内大臣になしたてまつりたまひて、わがうせたまひし年、長徳(ちやうとく)元年のことなり、御病重くなるきはに、内(うち)にまゐりたまひて、「おのれかくまかりなりにてさぶらふほど、この内大臣伊周(これちか)の大臣(おとど)に、百官ならびに天下執行(しゆぎやう)の宣旨(せんじ)たぶべき」よし、申し下さしめたまひて、われは出家(すけ)せさせたまいてしかば、この内大臣殿を関白殿とて、世の人集りまゐりしほどに、粟田殿(あわたどの)にわたりにしかば、手に据(す)ゑたる鷹をそらいたらむやうにて嘆かせたまふ。一家にいみじきことに思(おぼ)しみだりしほどに、その移りつる方も夢のごとくにてうせたまいにしかば、今の入道殿、その年の五月十一日より世をしろしめししかば、かの殿(との)いとど無徳(むとく)におはしまししほどに、またの年、花山院の御こと出できて、御官位(つかさくらゐ)とられて、ただ太宰権帥(だざいのごんのそち)になりて、長徳二年四月二十四日にこそは下りたまひにしか、御年二十三。いかばかりあはれにかなしかりしことぞ。されど、げにかならずかやうのこと、わがおこたりにて流されたまふにしもあらず。よろづのこと身にあまりぬる人の、唐(もろこし)にもこの国にもあるわざにぞ侍るなる。昔は北野(きたの)の御ことぞかし」などいひて、鼻うちかむほどもあはれに見ゆ。 [一二一] 伊周・道長の供争い 「この殿も、御才(ざえ)日本にはあまらせたまへりしかば、かかることもおはしますにこそ侍りしか。 さて、式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の生れさせたまへる御よろこびにこそ召し返させたまひつれ。さて、大臣になずなふる宣旨(せんじ)かぶらせたまひて歩(あり)きたまひし御有様も、いと落(お)ち居(ゐ)ても覚えはべらざりき。いと見ぐるしきことのみ、いかに聞えはべりしものとて。内(うち)にまいらせたまひけるに、北(きた)の陣(ぢん)より入らせたまひて、西ざまにおはしますに、入道殿もさぶらはせたまふほどなれば、梅壷(うめつぼ)の東(ひんがし)の塀(へい)の戸(と)のはさまに、下人(げにん)どもいと多くゐたるを、この帥殿(そちどの)の御供(とも)の人々いみじう払(はら)へば、いくべき方のなくて、梅壷の塀のうちにはらはらと入りたるを、これはいかにと、殿御覧(とのごらん)ず。あやしと人々見れど、さすがにえともかくもせぬに、なにがしといひし御隋身(みずいじん)の、そら知らずして、荒らかにいたく払ひ出(いだ)せば、また戸(と)ざまに、、いとらうがはしく出づるを、帥殿の御供の人々、このたびはえ払ひあへねば、ふとりたまへる人にて、すがやかにもえ歩(あゆ)み退(の)きたまはで、登花殿(とうくわでん)の細殿(ほそどの)の小じとみに押し立てられたまひて、「やや」と仰(おほ)せられけれど、狭(せば)きところに雑人(ざふにん)いと多く払はれて、おしかけられまつりぬれば、とみにえ退かで、いとこそ不便(ふびん)に侍りけれ。それはげに御罪(つみ)にあらねど、ただはなやかなる御歩(あり)き・振舞(ふるまひ)をせさせたまはずは、さやうに軽々(かろがろ)しきことおはしますべきことかはとぞかし。 [一二二] 御嶽詣と道長・伊周公の双六 また、入道殿、御嶽(みたけ)にまゐらせたまへりし道にて帥殿の方より便(びん)なきことあるべしと聞えて、常(つね)よりも世をおそれさせたまひて、たひらかに帰らせたまへるに、かの殿(との)も、「かかること聞えたりけり」と人の申せば、いとかたはらいたく思(おぼ)されながら、さりとてあるべきならねば、まゐりたまへり。道のほどの物語などせさせたまふに、帥殿いたく臆(おく)したまへる御けしきのしるきを、をかしくもまたさすがにいとほしくも思されて、「ひさしく双六(すぐろく)つかまつらで、いと差うざうしきに、今日あそばせ」とて、双六のばんを召して、忍野ごはせたまふに、御けしきこよなうなほりて見えたまへば、殿(との)をはじめたてまつりて、まゐりたまへる人々、あはれになむ見たてまつりける。さばかりのことを聞かせたまはむには、少しすさまじくももてなさせたまふべけれど、入道殿は、あくまで情(なさけ)おはします御本性(ほんじやう)にて、かならず人のさ思ふらむ事をば、おしかへし、なつかしうもてなさせたまふなり。この御博奕(ばくやう)は、うちたたせたまひぬれば、二所(ふたところ)ながら裸(はだか)に腰からませたまひて、夜半(よなか)・暁(あかつき)まであそばず。「心幼くおはする人にて、便(びん)なきこともこそ出でくれ」と、人はうけまうさざりけり。いみじき御賭物(かけもの)どもこそ侍りけれ。帥殿(そちどの)はふるきものどもえもいはぬ、入道殿はあたらしきが興(きよう)ある、をかしきさまにしなしつつぞ、かたみにとりかはさせたまひぬれど、かやうのことさへ、帥殿はつねに負けたてまつらせたまひてぞ、まかでさせたまひける。 [一二三] 伊周病み、祈祷  かかれど、ただいまは、一の宮のおはしますをたのもしきものに思(おぼ)し、世の人もさはいへど、したには追従(ついそう)し、怖(お)づまうしたりしほどに、今の帝(みかど)・春宮(とうぐう)さしちづき生れさせたまひにしかば、世を思しくづほれて、月頃(つきごろ)御病もつかせたまひて、寛弘(くわんこう)七年正月二十九日うせさせたまひにしぞかし。御寝ん三十七とぞうけたまはりし。かぎりの御病とても、いたう苦しがりたまふこともなかりけり。御しはぶき病にやなど思しけるほどに、重(おも)りたまひにければ、修法(ずほふ)せむとて、僧召せど、まゐるもなきに、いかがはせむとて、道雅(みちまさ)の君を御使にて、入道殿に申したまへりける。夜(よ)いたうふけて、人もしづまりにければ、やがて御格子(みかうし)にもとによりて、うちはぶきたまふ。「誰そ」と問はせたまへば、御名のり申して、「しかじかのことにて、修法(ずほふ)はじめむとつかまつれば、阿闍梨(あざり)にまうでくる人もさぶらはぬを、たまはらむ」と申したまへば、「いと不便(ふびん)なる御ことかな。えこそうけたまはざりけれ。いかやうなる御心地(ここち)ぞ。いとたいだいしき御ことにもあるかな」と、いみじうおどろかせたまひて、「誰(たれ)を召したるにまゐらぬぞ」など、くはしく問はせたまふ。なにがし阿闍梨をこそはたてまちらせたまひしか。されぢ、世の末は人の心も弱くなりにけるにや、「あしくおはします」など申ししかど、元方の大納言のゆにやは聞えさせたまふな。また、入道殿下(にゆうどうでんか)のなほすぐれさせたまへる威(ゐ)のいみじきに侍るめり。老(おい)の波にいひ過(すぐ)しもぞしはべる」と、けしきだちて、このほどうちささめく。 [一二四] 伊周の臨終と伊周の子供たち 世継「源(げん)大納言重光(しげみつ)の御女(むすめ)の腹に、女君二人・男君一人おはせしが、この君たち皆おとなびたまひて女君たちは后(きさき)がねとかしづきたてまつりたまひしほどに、さまざま思(おぼ)ししことどもたがひて、かく御病さへ重(おも)りたまひにければ、この姫君たちをすゑなめて、泣く泣くのたまひける「年頃(としごろ)、仏(ほとけ)・神(かみ)にいみじうつかうまつりつれば、何事もさりともとこそ頼(たの)みはべりつれど、かくいふかひなき死(しに)をさへせむことのかなしさ。かく知らましかば、君たちをこそ、われより先にうせたまひねと、祈り思ふべかりけれ。おのれ死なば、いかなる振舞(ふるまひ)・有様をしたまはむずらむと思ふが悲しく、人笑はれなるべきこと」と、いひつづけて泣かせたまふ。「あやしき有様をもしたまはば、なき世なりとも、かならずう恨(うら)みきこえむずるぞ」とぞ、母北の方にも、泣く泣く遺言(ゆいごん)したまひけるかし。その君たち、大姫君(おほひめぎみ)は、高松殿(たかまつどの)の春宮大夫殿(とうぐうのだいふどの)の北の方にて、多くの君達(きんだち)うみつづけておはすめり。それは、あしかるべきことならず。いま一所(ひとところ)は、大宮(おほみや)にまゐりて、帥殿(そちどの)の御方とて、いとやむごとなくてさぶらひたまふめることは、思(おぼ)しかけぬ御有様なめれ。あはれなりかし。 [一二五] 春宮亮道雅 男君は、松の君とて、生れたまへりしより、祖父大臣(おほぢおとど)いみじきものに思して、迎へたてまつりたまふたびごとに、贈物(おくりもの)をせさせたまふ。御乳母(めのと)をも饗応(きやうよう)したまひし君ぞかし。この頃三位(さんみ)しておはすめるは。この君を、父大臣(おとど)、「あなかしこ、わがなからむ世に、あるまじきわざせず、身捨てがたしとて、もの覚えぬ名簿(みやうぶ)うちして、わがおもてふせて、『いでや、さありしかど、かかるぞかし』と、人二位ひのたてせさすな。世の中にありわびなむときわ、出家(すけ)すばかりなり」と、泣く泣くい費おかせたまひけるに、この君、当代(たうだい)の春宮(とうぐう)にておはしましし折の亮(すけ)になりたまひて、いとめやすきことと見たてまつりいしほどに、春宮亮道雅(とうぐううのすけみちまさ)の君とて、いと覚えおはしきかし。それに、いかがしけむ、位につかせたまひしきざみに、蔵人頭(くらうどのとう)にもえなりたまはずして、坊官(ぼうくわん)の労(らう)にて三位ばかりして、中将を堕にえかけた間は図なりにしは、いとかなしかりしことぞかし。あさましう思ひかけむことどもかな。 この君、故帥中納言惟仲(そちのちゆうなごんこれなか)の女(むすめ)に住みたまひて、男一人・女一人うませたまへりしいは、法師にて、明尊僧都(めいそんそうず)の御房(ごぼう)にこそはおはすめれ。女君は、いかが思ひたまひけむ、みそかに逃げて、今の皇太后宮にこそまゐりて、大和(やまと)の宣旨(せんじ)と手さぶらひたまふなれ。年頃の妻子(めこ)とやは頼(たんお)むべかりける。なかなかそれしもこそあなずりて、をこがましくもてなしけれ。あはれ、翁(おきな)らがわらはべのさやうに侍らましかば、しららがみをも剃(そ)り、鼻をもかきおとしはべなまし。よき人と申すものは、いみじかし名の惜しければ、絵とも描くもしたまはぬにこそあめれ。さるは、かの君、さやうにしれたまへる人かは、たましひはわきたまふ君をは。 [一二六] 道長の同情と伊周の文才和歌の序代 帥殿(そちどの)は、この内(うち)の生れさせたまへりし七夜(しちや)に、和歌の序代(じよだい)書かせたまへりしぞ、なかなか心なきことやな。本体(ほんたい)はまゐらせたまふまじきを、それに、さし出でたまふより、多くの人の目をつけたてまつりて、「いかに思(おぼ)すらむ」「なにせむにまゐりたまへるぞ」とのみ、まもられたまふ。いとはしたなきことにはあらずや。それに、例(れい)の入道殿はまことにすさまじからずもてなしきこえさせたまへるかひありて、憎さは、めでたくこそ書かせたまへりけれ。当座(とうざ)の御おもては優(いう)にて、それにぞ人々ゆるしまうしたまひける。 [一二七] 阿古君(隆家)隆家と道長 この帥殿の御一(ひと)つ腹(ばら)の、十七にて中納言になりなどして、世の中のさがなものといはれたまひし殿(との)の、御童名(わらはな)は阿古君(あこぎみ)ぞかし。この兄殿(あにどの)の御ののしりにかかりて、出雲権守(いずものごんのかみ)になりて、但馬(たじま)にこそはおはせしか。さて、帥殿の帰りたまひし折、この殿(との)も上(のぼ)りたまひて、もとの中納言になりや、また兵部卿(ひやうぶきやう)などこそは聞えさせしか。それも、いみじうたまひしおはすとぞ、世の中に思はれたまへりし。あまたの人々の下臈(げらふ)になりて、かたがたすさまじう思されながら歩(ある)かせたまふに、御賀茂詣(かもまうで)につかうまつりたまへるに、むげに下(くだ)りておはするがいとはしくて、殿(との)の御車(みくるま)に乗せたてまつらせたまひて、御物語こまやかなるついでに、「ひととせのことは、おのれが申し行(おこな)ふとぞ、世の中にいひはべりける。そこにもしかぞ思しけむ。されど、さもなかりしことなり。宣旨(せんじ)ならぬこと、一言(ひとこと)にてもくはへて侍らましかば、この御社(みやしろ)にかくてまゐりなましや。天道(てんたう)も見たまふらむ。いとおそろしきこと」とも、まめやかにのたまはせしなむ、「なかなかにおもておかむかたなく、術(ずち)なくおぼえし」とこそ、後(のち)にのたまひけれ。それも、この殿(との)におはすれば、さやうにも仰(おほ)せらるるぞ。帥殿(そちどの)にはさまでもや聞えさせたまひける。 この中納言は、かやうにえさりがたきことの折々ばかり歩(あり)きたまひて、いといにしへのやうに、まじろひたまふことはなかりけるに、入道殿の土御門殿(つちみかどどの)にて御遊びあるに、「かやうのことに、権(ごん)中納言のなきこそ、なほさうざうしけれ」とのたまはせて、わざと御消息(せうそく)聞えさせたまふほど、杯(さかづき)あまたたびになりて、人々みだれたまひて、紐(ひも)おしやりてさぶらはるるに、この中納言まゐりたまへれば、うるはしくなりて、居直(ゐなほ)りなどせられければ、殿、「とく御紐解(と)かせたまへ。ことやぶれはべりぬべし」と仰(おほ)せられければ、かしこまりて逗留(とうりう)したまふを、公信(きんのぶ)の卿、うしろより、「解きたてまつらむ」とて寄りたまふに、中納言御けしきあしくなりて、「隆家(たかいへ)は不運なる事こそあれ、そこたちにかやうにせらるべき身にもあらず」と、荒らかにのたまふに、人々御けしき変りたまへるなかにも、今の民部卿殿(みんぶきやうどの)は、うはぐみて、人々の御顔をとかく見たまひつつ、こと出できなむず、いみじきわざかなと思(おぼ)したり。入道殿、うち笑はせたまひて、「今日は、かやうのたはぶれごと侍らでありなむ。道長(みちなが)解きたてまつらむ」とて寄らせたまひて、はらはらと解きたてまつらせたまふに、「これらこそあるべきことよ」とて、御けしきなほりたまひて、さしおかれつる杯(さかづき)とりたまひてあまたたび召し、常(つね)よりも乱れあそばせたまひけるさまなど、あらまほしくおはしけり。殿(との)もいみじうぞもてはやしきこえさせたまひける。 [一二八]式部卿の宮敦康親王のこと さて式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の御ことを、さりともさりともと待ちたまふに、一条院の御悩(なやみ)重(おも)らせたまふきはに、御前(おまへ)にまゐりたまひて、御気色(きそく)たまはりたまひければ、「あのことこそ、つひにえせずなりぬれ」と仰(おほ)せられけるに、「『あはれの人非人(にんぴにん)や』とこそ申さまほしくこそありしか」とこそのたまひけれ。さて、まかでたまうて、わが御家の日隠(ひがくし)の間(ま)に尻(しり)うちかけて、手をはたはたと打ちゐたまへりける。世の人は、「宮の御ことありて、この殿(との)、御後見(うしろみ)もしたまはば、天下の政(まつりごと)はしたたまりなむ」とぞ、思ひまうしためりしかども、この入道殿の御栄えのわけらるまじかりけるにこそは。 三条院の大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)に、きらめかせたまへりしさまなどこそ、常(つね)よりもことなりしか。人の、このきはは、さりともくづほれたまひなむ、と思ひたりしところをたがへむと、思(おぼ)したりしなめり。さやうなるところのおはしまししなり。節会(せちゑ)・行幸(ぎやうかう)には、掻練襲(かいねりがさね)たてまつらぬことなるを、単衣(ひとへ)を青くてつけさせたまへれば、紅葉襲(もみぢがさね)にてぞ見えける。表(うへ)の御袴(はかま)、竜胆(りんだう)の二重織物(ふたへおりもの)にて、いとめでたく清(けう)らにこそ、きらめかせたまへりしか。 [一二九] 隆家の眼疾 大宰大弐となる  御目のそこなはれたまひにしこそ、いといとあたらしかりしか。よろづにつくろはせたまひしかど、えやませたまはで、御まじらひ絶えたまへる頃、大弐(だいに)の闕(けち)出できて、人々望みののしりにし、唐人(からびと)の目つくろふがあなるに、見せむと思して、「こころみにならばや」と申したまひければ、三条院の御時にて、またいとほしくや思し召しけむ、二言(ふたこと)となくならせたまひてしぞかし。その御北の方には、伊予守兼資(いよのかみかねもと)のぬしの女なり。その御腹の女君二所(ふたところ)おはせしは、三条院の御子(みこ)の式部卿の宮の北の方、いま一所(ひとところ)は、傅(ふ)の殿(との)の御子に宰相中将兼経(さいしやうのちゆうじやうかねつね)の君この二所の御婿(むこ)をとりたてまつりたまひて、いみじういたはりきこえたまふめり。  政(まつりごと)よくしたまふとて、筑紫人(つくしびと)さながら従ひまうしたりければ、例(れい)の大弐(だいに)、十人ばかりがほどにて、上(のぼ)りたまへりとこそ申ししか。 [一三〇] 刀伊国の来襲 将門と純友 かの国におはしまししほど、刀伊国(といこく)のものにはかにこの国を討ち取らむとや思ひけむ、越え来たりけるに、筑紫にはかねて用意もなく、大弐殿、弓矢(ゆみや)の本末(もとすえ)も知りたまはねば、いかがと思(おぼ)しけれど、大和心(やまとごころ)かしこくおはする人にて、筑後(ちくご)・備前(びぜん)・肥後(ひご)、九国の人をおこしたまふをばさることにて、府(ふ)の内(うち)に仕(つか)うまつる人をさしおしこりて、戦はせたまひければ、かやつが方のものども、いと多く死にけるは。さはいへど、家高くおはします故(け)に、いみじかりしこと、平(たひら)げたまへる殿(との)ぞかし。公家(おほやけ)、大臣・大納言にもなさせたまひぬべかりしかど、御まじらひ絶えにたれば、ただにはおはするにこそあめれ。この中に、むねと射返(いかへ)したるものどもしるして、公家に奏(そう)せられ たりしかば、皆賞せさせたまひき。種材(たねき)は壱岐守(ゆきのかみ)になされ、その子は大宰監(だざいげん)にこそなさせたまへりしか。 この種材が族(ぞう)は、純友(すみとも)討(う)ちたりしものの筋(すぢ)なり。この純友は、将門(まさかど)同心(どうしん)に語らひて、おそろしきこと企(くはだ)てたるものなり。将門は、「帝(みかど)を討ちとりたてまつらむ」といひ、純友は、「関白にならむ」と、同じく心あはせて、この世界に我(われ)と政(まつりごと)をし、君(きみ)となりてすぎむ、といふことを契りあひて、一人は東国(ひんがしくに)にいくさをととのへ、一人は西国(にしぐに)の海に、いくつともなく、大筏(おほいかだ)を数知らず集めて、筏の上に土(つち)をふせて、植木をおほし、よもやまの田をつくり、住みつきて、おひかたおぼろけのいくさに、動(どう)ずべうもなくなりゆくを、かしこうかまへて、討ちたてまつりたるは、いみじきことなりな。それはげに人のかしこきのみにはあらじ、王威(わうゐ)のおはしまさむかぎりは、いかでかさることあるべきと思へど。 さて壱岐(ゆき)・対馬国(つしまのくに)の人を、いと多く刀伊国にとりていきたりければ、新羅(しらぎ)の帝(みかど)いくさをおこしたまひて、皆討(う)ち返したまひてけり。さて便をつけて、たしかにこの島に送りたまへりければ、かの国の便には、大弐(だいに)、金(こがね)三百両とらせてかへさせたまひける。このほどのことも、かくいみじうしたためたまへるに、入道殿、なはこの帥殿(そちどの)を捨てぬものに思ひきこえさせたまへるなり。さればにや、世にもいとふり捨てがたき覚えにてこそおはすめれ。御門(みかど)には、いつかは馬 ・車の三つ四つ絶ゆる時ある。また、道もさりあへず立つ折もあるぞかし。この殿(との)の御子(みこ)の男君、ただいまの蔵人少将良頭(くらうどのせうしやうよしより)の君、また、右中弁経輔(うちゆうべんつねすけ)の君、また式部丞(しきぶぞう)などにておはすめり。 [一三一] 花山院と隆家どのあらがいごと まことに、世にあひてはなやぎたまへりし折、この帥殿は花山院とあらがひごとまうさせたまへりしはとよ。いと不思議なりしことぞかし。「わぬしなりとも、わが門(かど)はえわたらじ」と仰(おほ)せられければ、「隆家(たかいへ)、などてかわたりはべらざらむ」と申したまひて、その日と定められぬ。輪(わ)つよき御車(みくるま)に、逸物(いちもち)の御車牛(みくるまうし)かけて、御烏帽子(えぼし)・直衣(なほし)いとあざやかにさうぞかせたまひて、葡萄染(えびぞめ)の織物(おりもの)の御指貫(さしぬき)少しゐ出(い)でさせたまひて、祭のかへさに紫野(むらさきの)走らせたまふ君達(きんだち)のやうに、踏板(ふみいた)にいと長やかに踏みしだかせたまひて、くくりは地(つち)にひかれて、簾(すだれ)いと高やかに巻き上げて、雑色(ざふしき)五六十人ばかり、声のあるかぎり、ひまなく御先(みさき)まゐらせたまふ。院(いん)には、さらなり、えもいはぬ勇幹幹了(ようかんかんれう)の法師ばら・大中童子(だいちゆうどうじ)など、あはせて七八十人ばかり、大きなる石・五六尺ばかりなる杖(つえ)ども持たせさせたまひて、北・南の御門(みかど)・築地(ついぢ)づらに、小一条(こいちでう)の前、洞院(とういん)の裏うへ、ひまなく立て並(な)めて、御門のうちにも、侍(さぶらひ)・僧の若やかに力強(ちからづよ)さかぎり、さるまうけしてさぶらふ。さることをのみ思ひたる上下(かみしも)の、今日にあへるけしきどもは、げにいかがはありけむ。いづ方にも、石・杖(つえ)ばかりにて、まことしき弓矢(ゆみや)まではまうけさせたまはず。中納言殿の、御車(みくるま)、一時(ひととき)ばかり立てたまひて、勘解由小路(かでのこうぢ)よりは北に、御門(みかど)近うまでは、やり寄せたまへりしかど、なほえわたりた湊はで、帰らせたまふに、院方(いんがた)にそこらつどひたるものども、ひとつ心に、目をかためまもりまもりて、やりかへしたまふほど、「は」と一度に笑ひたりし声こそ、いとおびたたしかりしか。さる見物(みもの)やは侍りしとよ。王威(おうい)はいみじきものなりけり。えわたらせたまはざりつるよ。「無益(むやく)のことをもいひてけるかな。いみじき辱号(ぞくがう)とりつる」とてこそ、笑ひたまひけれ。院は勝ちえさせたまへりけるを、いみじと思(おぼ)したるさまも、ことしもあれ、まことしきことのやうなり。 [一三二] 道隆の子孫ふるわず この帥殿(そちどの)の御はらからといふ君達(きんだち)、数あまたおはすべし。頼親(よりちか)の内蔵頭(くらうのかみ)、・周頼(ちかより)の木工頭(もくのかみ)などいひし人、かたはしよりなくなりたまひて、今は、ただ兵部大輔周家(ひようぶのたいふちかいえ)の君ばかり、ほのめきたまふなり。小一条院(こいちでうゐん)の御宮たちの御乳母(めのと)の夫(をとこ)にて、院の格勤(かくごん)してさぶらひたまふ、いとかしこし。また、井手(ゐで)の少将とありし君は、出家(すけ)とか。故関白殿の御心(こころ)おきていとうるはしく、あてにおはししかど、御末あやしく、御命も短くおはしますめり。今は、入道一品(いつぽん)の宮(みや)と、その帥(そちの)中納言殿(ちゆうなごんどの)とのみこそは、残らせたまへめれ。 [一三三] 七日関白道兼急病 実資と病床対話 この大臣(おとど)、これ、大入道殿(おほにふだうどの)の御三郎、粟田殿(あはたどの)とこそは、聞えさすめりしか。長徳(ちやうとく)元年乙未(きのとひつじ)五月二日関白の宣旨(せんじ)かうぶらせたまひて、同じ月の八日うせさせたまひにき。大臣の位にて五年、関白と申して七日ぞおはしまししか。この殿(との)ばらの御族(ぞう)に、やがて世をしろしめさぬたぐひ多くおはすれど、またあらじかし、夢のやうにてやみたまへるは。出雲守相如(いずものかみすけゆき)のぬしの御家(みいへ)に、あからさまにわたりたまへりし折、宣旨(せんじ)は下りしかば、あるじのよるこびたうびたるさま、おしはかりたまへ。狭(せば)うて、ことの作法(さはふ)えあるまじとて、たたせたまふ日ぞ、御よろこびも申させたまふ。殿(との)の御前(ごぜん)は、えもいはぬもののかぎりすぐられたるに、北の方の二条に帰りたまふ御供人(ともびと)は、よきもあしきも、数知らぬまで、布衣(ほうい)などにてあるもまじりて、殿の出(いだ)したてたてまつりて、わたりたまひしほどの、殿のうちの栄え・人のけしきは、ただ思(おぼ)しやれ。あまりにもと見る人もありけり。御心地(ここち)は少し例(れい)ならず思されけれど、おのづからのことにこそは、いまいましく今日の御よろこび申しとどめじと思して、念(ねん)じて内(うち)にまゐらせたまへるに、 いと苦しうならせたまひにければ、殿上(てんじやう)よりはえ出でさせたまはで、御湯殿(おゆどの)の馬道(めだう)の戸口に、御前(ごぜん)を召してかかりて、北(きた)の陣(ぢん)より出でさせたまふに、こはいかにと人々見たてまつる。殿には常(つね)よりもとり経営(けいめい)して待ちたてまつりたまふに、人にかかりて、御冠(かうぶり)もしどけなく、御紐(ひも)おしのけて、いといみじう苦しげにておりさせたまへるを見たてまつりたまへる御心地、出でたまふつる折にたとしへなし。されど、ただ「さりとも」と、ささめきにこそささめけ、胸はふたがりながら、ここちよ顔(かお)をつくりあへり。されば、世にはいとおびたたしくも聞えず。  今の小野官(をののみや)の右大臣殿の御よろこびにまゐりたまへりけるを、母屋(もや)の御簾(みす)をおろして、呼び入れたてまつりたまへり。臥(ふ)しながら御対面(たいめ)ありて、「乱れ心地、いとあやしう侍りて、外にはえまかり出でねば、かくて申しはべるなり。年頃(としごろ)、  はかなきことにつけても、心のうちによるこび申すことなむ侍りつれど、させることなきほどは、ことごとにもえ申しはべらでなむ過ぎまかりつるを、今はかくまかりなりて侍れば、公私(おほやけわたくし)につけて、報(ほう)じまうすべきになむ。また、大小のことをも申し合せむと思うたまへれは、無礼(むらい)をもえはばからず、かくらうがはしき方に案内まうしつるなり」などこまやかにのたまへど、言葉もつづかず、ただおしあてにさばかりなめりと聞きなさるるに、「御息ざしなどいと苦しげなるを、いと不便(ふびん)なるわざかなと思ひしに、風の御簾(みす)を吹き上げたりしはさまより見入れしかば、さばかり重き病をうけとりたまひてければ、御色もたがひて、きららかにおはする人ともおぼえず、ことのほかに不覚(ふかく)になりたまひにけりと見えながら、ながかるべきことどものたまひしなむ、あはれなりし」とこそ、後に語りたまひたれ。 [一三四] 道兼の長男、福足君ど道隆の機転 この粟田殿(あはた)の御男君達(をとこきんだち)ぞ三人おはせしが、太郎君は福足君(ふくたりぎみ)と申ししを、幼き人はさのみこそはと思へど、いとあさましう、まさなう、あしくぞおはせし。東三条殿(とうさんでうどの)の御賀に、この君、舞せさせたてまつらむとて、習(なら)はせたまふほども、あやにくがりす女ひたまへど、よろづにをこづり、祈(いのり)をさへして、教へきこえさするに、その日になりて、いみじうしたてたてまつりたまへるに、舞台(ぶたい)の上にのぼりたまひて、ものの音調子(ねてうし)吹き出づるほどに、「わざはひかな、あれは舞はじ」とて、髭頬(びづら)ひき乱(みだ)り、御装束(さうざく)はらはらとひき破(や)りたまふに、粟田殿、御色真青(まあを)にならせたまひて、あれかにもあらぬ御けしきなりありとある人、「さ思ひつることよ」と見たまへど、すべきやうもなきに、御舅(をぢ)の中関白殿(なかのくわんぱくどの)のおりて、舞台に上(のぼ)らせたまへば、いひをこづらせたまふべきか、また憎さにえたへず、追ひおろさせたまふべきかと、かたがた見はべりしに、この君を御腰のほどに引きつけさせたまひて、御手づからいみじう舞はせたりしこそ、楽(がく)もまさりておもしろく、かの君の御恥(はぢ)もかくれ、その日の興(きよう)もことのほかにまさりたりけれ。祖父(おほぢ)殿もうれしと思(おぼ)したりけり。父大臣(おとど)はさらなり、よその人だにこそ、すずろに感じたてまつりけれ。かやうに、人のためになさけなさけしきところおはしましけるに、など御末かれさせたまひにけむ。この君、人しもこそあれ、蛇(くちなは)れうじたまひて、その崇(たた)りにより、頭(かしら)にものはれて、うせたまひにき。  一三五 道兼ニ男兼陸・三男兼網 この御弟(おとど)の次郎君、今の左衛門督兼隆(さえもんのかみかねたか)の卿は、大蔵卿(おほくらきやう)の女(むすめ)の腹なり。この左衛門督の君達(きんだち)、男女(をとこをんな)あまたおはすなり。大姫君(おほひめぎみ)は、三条院の三の皇子(みこ)、敦平(あつひら)の中務(なかつかさ)の宮に、このきさらぎかとよ、婿(むこ)どりたてまつりたまへる、いとよき御中にておはしますめり。また、姫君なる四人おはす。また、粟田殿(あはたどの)の三郎、前 頭中将兼綱(さきのとうのちゆうじやうかねつな)の君。その君の祭の日ととのへたまへりし車こそ、いとをかしかりしか。桧網代(ひあじろ)といふものを張(は)りて、的(まと)のかたに彩(いろど)られたりし車の、横ざまのふちを、弓(ゆみ)の形(かた)にし、縦(たて)ぶちを矢の形にせられたりしさまの、興(きよう)ありしなり。和泉式部(いずみしきぶ)の君、歌によまれて侍めりき。  とをつらの馬ならねども君乗れば車もまとに見ゆるものかな  さて、よき御風流(ふりう)と見えしかど、人の口やすからぬもの にて、「賀茂(かも)の明神(みやうじん)の御矢めおひたまへり」と、いひなしてしかば、いと便(びん)なくてやみにき。この君の、頭(とう)とられたまひし、いといみじく侍りしことぞかし。頭になりておどろきよるこびた率ふべきならねど、あるべきことにてあるに、「粟田殿、花山院すかしおろしたてまつり、左衛門督(さえもんのかみ)、小一条院(こいちでういん)すかしおろしたてまつりたまへり。帝(みかど)・春宮(とうぐう)の御あたり近づかでありぬべき族(ぞう)」といふこと出できにしぞ、いと希有(けう)に侍りきな。誰(たれ)も聞(きこ)し召(め)し知りたることなれど。男君(をとこぎみ)たち、かくなり。 [一三六] くらべやの女御 道兼の妻  女君は、故一条院の御乳母(めのと)の藤三位(とうさんみ)の腹に出でおはしましたりを、やがてその御時のくらべやの女御(にようご)と聞えし。後(のち)に、この大蔵卿通任(おおくらきやうみちたふ)の君の御北の方にてうせたまひにしかし。御嫡腹(むかへばら)に、仏(ほとけ)・神(かみ)に申してはらまれたまえりし君、今の中宮(ちゆうぐう)に、二条殿の御方とてこそはさぶらひたまふめれ。父殿(ちちどの)、女子(をんなご)をほしがり、願(ぐわん)をたてたまひしかど、御顔をだにえ見たてまつりたまはずなりにき。かやうにあはれなることどもの、世に侍りしぞかし。 その殿(との)の御北の方、栗田殿の御後は、この堀河殿(ほりかはどの)の御子(みこ)の左大臣に北の方にてこそは、年頃(としごろ)おはすと、聞きたてまつりしか。その北の方、九条殿(くでうどの)の御子の大蔵卿の君の女(むすめ)ぞかし。されば、この栗田殿の御有様、ことのほかにあへなくおはしましき。さるは、御心(みこころ)いとなさけなくおそろしくて、人にいみじう怖(お)ぢられたまへりし殿の、あやしく末なくてやみたまひにしなり。 [一三七] 道兼に対する人間批判  この殿、父大臣(おとど)の御忌(いみ)には、土殿(つちどの)などにもゐさせたまはで、暑きにことつけて、御簾(みす)どもあげわたして、御念誦(ねんず)などもしたまはず、さるべき人々呼び集めて、後撰(ごせん)・古今(こきん)ひろげて、興言(きようげん)し、遊びて、つゆ嘆かせたまはざりけり。そのゆゑは、花山院をばわれこそすかしおろしたてまつりたれ、されば、関白をも譲らせたまふべきなり、といふ御恨みなりけり。世(よ)づかぬ御ことなりや。さまざまよからぬ御ことどもこそきこえしか。傅(ふ)の殿・この入道殿二所(ふたところ)は、如法(によほう)に孝(けう)じよてたてまつりたまひけりとぞ、うけたまはりし。 大鏡 下 一 太政大臣道長(みちなが)(上) [一三八] 道中は兼家の五男 母は時姫 入道殿下  この大臣(おとど)は、法興院(ほこゐん)の大臣(おとど)の御五男、御母、従四位(じゆしゐ)上摂津守(じやうつのかみ)右京大夫藤原中正朝臣(うきやうのだいぶふぢはらのなかまさあそん)の女(むすめ)なり。その朝臣は従二位中納言山蔭(やまかげ)卿の七男なり。この道長のおとどは、今の入道殿下(にふだうでんか)これにおはします。一条院・三条院の御舅(をぢ)、当代(たうだい)・東宮(とうぐう)の御祖父(おほじ)にておはします。この殿(との)、宰相(さいしやう)にはなりたまはで、ただちに権(ごん)中納言にならせたまふ、御年二十三。その年、上東門院(じやうとうもんゐん)生れたまふ。四月二十七日、従二位したまふ、御年二十七。関白殿生れたまふ年なり。長徳(ちやうとく)元年乙羊(きのとひつじ)四月二十七日、左近大将(さこんのたいしやう)かけさせたまふ。 [一三九] 長徳元年の流行病と道長の幸運 その年の祭の前より、世の中きはめてさわがしきに、またの年、いとどいみじくなりたちにしぞかし。まづは、大臣・公卿多くうせたまへりしに、まして、四位・五位のほどは、数やは知りし。 まづその年うせたまへる殿(との)ばらの御数、閑院(かんゐん)の大納言、三月二十八日、中関白殿(なかのくわんぱくどの)、四月十日。これは世の疫(え)におはしまさず、ただ同じ折のさしあはせたりしことなり。小一条(こいちでう)の左大将済時(なりとき)卿は四月二十三日、六条の左大臣殿・粟田(あはた)の右大臣殿・桃園(ももぞの)の中納言保光(やすみつ)卿、この三人は五月八日、一度にうせたまふ。山井(やまのゐ)の大納言殿、六月十一日ぞかし。またあらじ、あがりての世にも、かく大臣・公卿七八人、二三月のうちにかきはらいたまふこと。希有(うけ)なりしわざなり。それもただこの入道殿の御幸(さいは)ひの、上(かみ)をきはめたまふにこそ侍るめれ。かの殿ばら、次第(しだい)のままにひさしく保(たも)ちたまはましかば、いとかくしもやはおはしまさまし。 まづ帥殿(そちどの)の御心(こころ)もちゐのさまざましくおはしまさば、父大臣(おとど)の御病のほど、天下執行(しゆぎやう)の宣旨(せんじ)下りたまへりしままに、おのづからさてもやおはしまさまし。それにまた、大臣(おとど)うせたまひにしかば、いかでか、みどりごのようなる殿の、世の政(まつりごと)したまはむとて、粟田殿にわたりにしぞかし。さるべき御次第にて、それまたあるべきことなり。あさましく夢などのやうに、とりあへずならせたまひにし、これはあるべきことかはな。この今の入道殿、その折、大納言中宮大夫(ちゆうぐうのだいぶ)と申して、御年いと若く、ゆく末待ちつけつさつせたまふべき御齢(よはひ)のほどに、三十にて、五月十一日に、関白の宣旨うけたまはりたまふて、栄えそめさせたまひにしままに、また外(ほか)ざまへも分かれずにしぞかし。いまいまも、さこそは侍るべかむめれ。 [一四〇] 北の政所倫子と、その子女たち この殿(との)は、北の方二所(ふたところ)おはします。この宮宮(みやみや)の母上と申すは、土御門(つちみかど)の左大臣源雅信(みなもとのまさざね)のおとどの御女(むすめ)におはします。雅信のおとどは、亭子(ていじ)の帝(みかど)の御子(みこ)、一品式部卿(いつぽんしきぶきやう)の宮敦実(みやあつみ)の親王(みこ)の御子、左大臣時平(ときひら)のおとどの御女(むすめ)の腹に生れたまひし御子なり。その雅信のおとどの御女を、今の入道殿下の北(きた)の政所(まんどころ)と申すなり。その御腹に、女君四所(おんなぎみよところ)・男君(をとこぎみ)二所ぞおはします。その御有様(ありさま)は、ただいまのことなれば、皆人見たてまつりたまふらめど、ことばつづけ申さむとなり。 第一の女君は、一条院の御時、十二にて、まゐらせたひて、またの年、長保(ちやうはう)二年庚子(かのえね)二月二十五日、十三にて后(きさき)にたちたまひて、中宮(ちゆうぐう)と申ししほどに、うちつづき男親王(をとこみこ)二人うみたてまつりたまへりしこそは、今の帝・東宮におはしますめれ。二所の御母后(ははきさき)、太皇太后宮と申して、天下第一の母にておはします。 その御さしつぎの尚侍(ないしのかみ)と申しし、三条院の東宮におはしまししに、まゐらせたまうて、宮、位につかせたまひにしかば、后にたたせたまひて、中宮と申しき、御年十九。さてまたの年、長和二年みづのと丑(うし)七月二十六日に、女親王(おんなみこ)生れさせたまへるこそは、三四ばかりにて一品(いつぽん)にならせたまひて、今におはしませ。この頃は、この御母宮を皇太后宮と申して、枇杷殿(びはどの)におはします。一品の宮は、三宮(さんぐう)に准(じゆん)じて、千戸(こ)の御封(みぶ)を得させたまへば、この宮に后二所おはしますがごとくなり。 また次の女君、これも尚侍にて、今の帝(みかど)十一歳にて、寛仁(くわんにん)二年戊午(つちのえうま)正月二日、御元服せさせたまふ、その二月にまゐりたまうて、同じき年の十一月十六日に后にゐさせたまふ。ただいまの中宮と申して、内におはします。 また、次の女君、それも尚侍、十五におはします、今の東宮十三にならせたまう年、まゐらせたまひて、東宮の女御(にようご)にてさぶらはせたまふ。入道せしめたまひて後のことなれば、今の関白殿の御女と名づけたてまつりてこそはまゐらせたまひしか。今年は十九にならせたまふ。妊(にん)じたまひて、七八月(つき)にぞ当たらせたまへる。入道殿の御有様見たてまつるに、かならず男(をのこ)にてぞおはしまさむ。この翁(おきな)、さらによも申しあやまちはべらじ」と、扇(あふぎ)を高くつかひつついひしこそ、をかしかりしか。 「女君たちの御有様かくのごとし。男君二所と申すは、今の関白左大臣頼通(よりみち)のおとどと聞(きこ)えさせて、天下をわがままにまつりごちておはします。御年二十六にてや内大臣・摂政にならせたまひけむ。帝(みかど)およすけさせたまひにしかば、ただ関白にておはします。二十余(はたちあまり)にて納言などになりたまふをぞ、いみじきことにいひしかど、今の世の御有様かくおはしますぞかし。御童名(わらはな)は鶴君なり。いま一所は、ただいまの内大臣にて、左大将かけて、教通(のりみち)のおとどと聞えさす。世の二の人にておはしますめり。御童名、せや君ぞかし。 [一四一] 倫子の栄華と、世の親にておわすこと かかれば、この北の政所の御栄えきはめさせたまへり。 御女の御幸(さいは)ひは、あるいは、帝・東宮(とうぐう)の御母后(ははきさき)にならせたまひ、あるいは、わが御親一の人にておはするには、御子生れさせたまはねど、かねて后にみなゐませたまふめり。女の御幸ひは、いと所狭きにおはします。いみじきとみのことなれど、おぼろけならねば、えうごかせたまはず。陣屋(ぢんや)ゐぬれば、女房(にようばう)たやすく心にもまかせず。かように所狭げなり。 ただ人(びと)と申せど、帝・春宮の御祖母(おほば)にて、准三宮(じゆさんぐう)の御位にて、ゆかしく思(おぼ)し召しけることは、世の中の物見、なにの法会(ほふゑ)やなどある折は、御車にても、かならず御覧ずめり。内・東宮・宮々と、あかれあかれよそほしくておはしませど、いづかたにもわたりまゐらせたまひてはさしならびおはします。 ただいま三后(さんこう)・東宮(とうぐう)の女御(にようご)・関白左大臣・内大臣の御母・帝・春宮はた申さず、おほよそ世の親にておはします。入道殿と申すもさらなり、おほかたこの二所ながら、さるべき権者(ごんじや)にこそおはしますめれ。御なからひ四十年ばかりにやならせたまひぬらむ。あはれにやむごとなきものにかしづきたてまつらせたまふ、といえばこそおろかあなれ。世の中には、いにしへ・ただいまの国王(こくおう)・大臣、皆藤氏(とうし)にてこそおはしますに、この北(きた)の政所(まんどころ)ぞ、源氏にて御幸(さいは)ひきはめさあせたまあひにたる。一昨年(おととし)の御賀(が)の有様などこそ、皆人見聞きたまひしことなれど、なほかえすがへすもいみじく侍りしものかな。 [一四二] 高松殿の上明子とその子女 また、高松殿(たかまつどの)の上(うえ)と申すも、源氏にておはします。延喜(えんぎ)の皇子高明(みこたかあきら)の親王(みこ)を左大臣になしたてまつらせたまへりしに、思はざるほかのことによりて、帥にならせたまひて、いといと心憂かりしことぞかし。その御女におはします。それを、かの殿、筑紫におはしましける年、この姫君まだいと幼くおはしましけるを、御をぢの十五の宮と申したるも、同じ延喜の皇子におはします、 女子(をんなご)もおはせざりければ、この君をとりたてまつりて、養ひかしづきたてまつりて、もちたまへるに、西宮殿(にしのみやどの)も、十五の宮もかくれさせたまひにし後(のち)に、故女院(にようゐん)の后におはしましし折、この姫君を迎へたてまつらせたまひて、東三条殿(とうさんでうどの)の東(ひんがし)の対(たい)に、帳(ちよう)を立てて、壁代(かべしろ)をひき、わが御しつらひにいささかおとさせたまはず、しすゑきこえさせたまひ、女房(にようばう)・侍(さぶらひ)・家司(けいし)・下人(しもびと)まで別(べち)にあかちあてさせたまひて、姫宮(ひめみや)などのおはしまさせしごとくにかぎりなく、思ひかしづききこえさせたまひにしかば、御せうとの殿(との)ばら、我(われ)も我もと、よしばみ申したまひけれど、后かしこく制しまうさせたまひて、今の入道殿をぞ許しきこえさせたまひければ通ひたてまつらせたまひしほどに、女君二所(ふたところ)・男君四人おはしますぞかし。 女君と申すは、今の小一条院(こいちでうゐん)の女御(にようご)。いま一所(ひとところ)は故中務卿具平(なかつかさきやうともひら)の親王(みこ)と申す、村上の帝の七の親王におはしましき、その御男君三位中将師房(さんみのちゆうじやうもろふさ)の君と申すを、 今の関白殿の上(うへ)の御はらからなるが故(ゆゑ)に、関白殿、御子(みこ)にしたてまつらせたまふを、 入道殿婿(むこ)どりたてまつらせたまへり。「あさはかに、心得ぬこと」とこそ、世の人申ししか。殿(との)のうちの人も思(おぼ)したりしかど、入道殿思ひおきてさせたまふやうありけむしかな。 男君は、大納言にて春宮大夫頼宗(とうぐうのだいぶよりむね)と聞ゆる。御童名(わらはな)、石君(いはぎみ)。 いま一所、これに同じ、大納言中宮権大夫能信(ちゆうぐうのごんのだいぶよしのぶ)と聞ゆる。 いま一所、中納言長家(ながいへ)。御童名、小若君(こわかぎみ)。 [一四三] 顕信の出家 乳母悲嘆 受戒 いま一人は、馬頭(うまのかみ)にて、顕信(あきのぶ)とておはしき。御童名、苔君(こけぎみ)なり。寛弘(くわんこう)九年壬子(みづのえね)正月十九日、入道したてたまひて、この十余年は、仏のごとくして行はせたまふ。思ひがけず、あはれなる御ことなり。みづかrの菩提(ぼだい)を申すべからず、殿の御ためにもまた、法師なる御子(みこ)のおはしまさぬが口惜(くちを)しく、こと欠けさせたまへるやうなるに、「されば、やがて一度に僧正(そうじやう)になしたてまつらむ」となむ仰(おほ)せられけるとぞうけたまはるを、いかが侍らむ。うるはしき法服(ほうぶく)、宮々よりも奉らせたまひ、殿よりは麻の御衣(ころも)奉るなるをば、あるまじきことに申させたまふなるをぞ、いみじく侘(わ)びさせたまひける。 出でさせたまひけるには、緋の御あこめのあまたさぶらひけるを、「これがあまた重(かさ)ねて着たるなむうるさき。綿を一つに入れなして一つばかりを着たらばや。しかせよ」と仰せられければ、「これかれそそきはべらむもうるさきにことを厚くしてまゐらせむ」と申しければ、「それはひさしくもなりなむ。ただとくと思ふぞ」と仰せられければ、思(おぼ)し召(め)すやうこそはと思ひて、あまたを一つにとり入れてまゐらせたるをたてまつりてぞ、その夜は出でさせたまひける。 されば、御乳母(めおと)は、「かくて仰せられけるものを、なにしにしてまゐらえけむ」と、「例ならずあやしと思はざりけむ心のいたりなさよ」と、泣きまどひけむこそ、いとことわりにあはれなれ。ことしもそれにさhらせたまはむやうに。かくと聞きつけたまひては、やがて絶え入りて、なき人のやうにておはしけるを、「かく聞かせたまはば、いとほしと思して、御心(みこころ)や乱(みだ)れたまはむ」と、「今さらによしなし。これぞめでたきこと。仏(ほとけ)にならせたまはば、我が御ためにも、後の世のよくおはせむこそ、つひのこと」と、人々のいひければ、「われは仏にならせたまはむもうれしからず。わが身の後のたすけられたてまつらむもおぼえず。ただいまのかなしさよりほかのことなし。殿の上も、御子(おほんこ)どもあまたあおはしませば、いとよし。ただわれ一人がことぞや」とぞ、伏(ふ)しまろびまどひける。げにさることなりや。道心(だうしん)なからむ人は、後の世までも知るべきかはな。 高松殿(たかまつどの)の御夢にこそ、左の方の御ぐしを、なからより剃(そ)り落とさせたまふと御覧(ごらん)じけるを、かくて後(のち)にこそ、これが見えけるなりけりと思ひさだめて、「ちがへさせ、祈などをもすべかりけることを」と仰(おほ)せられける。 皮堂(かはだう)にて御ぐしおろさせたまひて、やがてその夜、山へ登らせたまひけるに、「鴨河(かもがは)渡りしほどのいみじうつめたくおぼえしなむ、少しあはれなりし。今はかやうにてあるべき身ぞかしと思ひながら」とこそ仰せられけれ。 今の右衛門督(うゑもんのかみ)ぞ、とくより、この君をば、「出家(すけ)の相こそおはすれ」とのたまひて、中宮権大夫殿(ちゆうぐうのごんのだいふどの)の上(うへ)に御消息(せうそこ)聞えさせたまひけれど、「さる相ある人をばいかで」とて、後にこの大夫殿(だいぶどの)をばとりたてまつりたまへるなり。正月に、内(うち)より出でたまひて、この右衛門督(うゑもんのかみ)、「馬頭(うまのかみ)の、物見(ものみ)よりさし出でたりつるこそ、むげに出家(すけ)の相(さう)近くなりにて見えつれ。いくつぞ」とのたまひければ、頭中将(とうのちゆうじやう)「十九にこそなりたまふらめ」と申したまひければ、「さては、今年ぞしたまはむ」とありけるに、かくと聞きてこそ、「さればよ」とのたまひけれ。相人(さうにん)ならねど、よき人は、ものを見たまふなり。 入道殿は、「益(やく)なし。いたう嘆きてかなし。心乱らせたまうも、この人ののためにいとほし。法師子(ほふしご)のなかりつるに、いかがはせむ。幼くてもなさむと思ひしかども、すまひしかばこそあれ」とて、ただ例(れい)の作法(さはふ)の法師の御やうにもてなしきこえたまひき。受戒(じゆかい)には、やがて殿(との)登らせたまひ、人々我も我もと、御供(とも)にまゐりたまひて、いとよそほしげなりき。御先(さき)に、有職(うしき)・僧網(そうがう)どものやむごとなきさぶらふ。山の所司(しよし)・殿(との)の御随身(みずいしん)ども、人払(ばら)ひののしりて、戒壇(かいだん)にのぼらせたまひけるほどこそ、入道殿はえ見たてまつらせたまはざありけれ。御みづからは、本意(ほい)なくかたはらいたしと思したりけり。座主(ざす)の、手興(たごし)に乗りて、白蓋(びやくがい)ささせてのぼられけるこそ、あはれ天台(てんだい)座主、戒和尚(かいわじやう)の一や、とこそ見えたまひけれ。世継(よつぎ)が隣(となり)に侍る者の、そのきにはにあひて見たてまつりけるが、語りはべりしなり。 「春宮大夫(とうぐうのだいぶ)・中宮権大夫殿(ちゆうぐうのごんのだいぶどの)などの、大納言にならせたまひし折は、さりしも、御耳とまりてきかせたまふらむ、とおぼえしかど、その大饗の折のことども、大納言の座敷(し)き添えられしほどなど、語り申ししかど、いささか御けしき変らず、念ずうちして、「かうやうのこと、ただしばしのことなり」とうちのたまはせしなむ、めでたく優(いう)におぼえし」とぞ、通任(みちたふ)の君、のたまひける。 [一四四] 北の政所は二人ながら源氏 この殿(との)の君達(きんだち)、男女あはせたてまつりて一二人、数(かず)のままにておはします。男も女も、御官位(つかさくらゐ)こそ心にまかせたまへらめ、御心(こころ)ばへ・人柄(ひとがら)どもさへ、いささかかたほにて、もどかれさせたまふべきもおはしまさず、とりどりに有識(ゆうそく)にめでたくおはしまさふも、ただことごとならず、入道殿の御幸(さいは)ひのいふかぎりなくおはしますなめり。先々(さきざき)の殿(との)ばらの君達おはせしかども、皆かくしも思ふさまにやはおはせし。おのづから、男も女もよきあしきまじりてこそおはしまさふめりしか。この北(きた)の政所(まんどころ)の二人ながら源氏(げんじ)におはしませば、末の世の源氏の栄えたまふべきと定(さだめ)め申すなり。かかれば、この二所(ふたところ)の御有様、かくのごとし。 [一四五] 道長のにわかな入道 ただし、殿の御前(おまへ)は、三十より関白せさせたまひて、一条院・三条院の御時、世をまつりごち、わが御ままにておはしまししに、また当代(たうだい)の九歳にて位につかせたまひにしかば、御年五十一にて摂政せさせたまふ年、わが御身は太政大臣にならせたまひて、摂政をば大臣(おとど)に譲りたてまつらせたまひて、御年五十四にならせたまふに、寛仁(くわんにん)三年己未(つちのとひつじ)  三月十八日の夜中ばかりより御胸を病ませたまひて、わざとにおはしまさねど、いかが思(おぼ)し召(めしけむ、にはかに、二十一日、未(ひつじ)の時ばかり、起き居(ゐ)させたまひて、御冠(かうぶり)し、掻練(かいねり)の御下襲(したがさね)に布袴(ほうこ)をうるはしくさうずかせたまひて、御手水(てうづ)召せば、何事(なにごと)にかと、関白殿をはじめたてまつりて殿ばらも思し召す。寝殿(しんでん)の西(にし)の渡殿(わたどの)に出でさせたまひて、南面(みなみおもて)拝(はい)せさせたまひて、春日(かすが)の明神(みやうじん)にいとま申させたまふなりけり。慶明僧都(きやうめいそうづ)・定基律師(ぢやうきりし)して、御(み)ぐしおろさせたまふ。関白殿をはじめとして、君達(きんだち)・殿(との)ばらなど、いとあさましく思(おぼ)せど、思したちてにはかにせさせたまふことなれば、誰(たれ)も誰もあきれて、え制(せい)しまうさせたまはず。あさましとはおろかなり。院源法印(ゐんげんほふいん)、御戒師(かいし)したまふ。信恵(しんゑ)僧都の袈裟(けさ)・衣をぞ奉りける。にはかのことにてまうけさせたまはざりけるにや。御名は行観(ぎやうくわん)とぞ侍りし。  かくて後(のち)にぞ、内(うち)・東宮(とうぐう)・宮々たちには、かくと聞えさせたまひける。聞きつけさせたまへる宮たちの御心(みこころ)ども、あさましく思しさわぐとは、 おろかなり。申(さる)の時ばかりに、小一条院(こいちでういん)わたらせたまひ、御門(おんかど)の外(と)にて、御車(みくるま)かきおろして、引き入れて、中門(ちゆうもん)の外にておりさせたまひてこそはおはしまししか。寄(よ)せてもおりさせたまはで、かしこまりまうさせたまふほども、いともかたじけなくめでたき御有様なりかし。宮たちも、夜(よ)さりこそはわたらせたまひしか。  中宮(ちゆうぐう)・皇后宮などは、一つ御車にてぞわたらせたまひし。行啓(ぎやうけい)の有様、にはかにて、例(れい)の作法(さはふ)も侍らざりける。同じき年九月二十七日奈良にて御受戒(じゆかい)侍りき。かかる御有様につけても、いかにめでたき御有様にことどもの多く侍りしかば、皆人知りたまへることどもなれば、こまかには申しはべらじ。 三月二十一日、御出家(すけ)したまひつれど、なはまた同じき五月八日、准三宮(じゆさんぐう)の位にならせたまひて、年官・年爵(ねんしやく)得させたまふ。帝(みかど)・東宮(とうぐう)の御祖父(おほじ)、三后(みきさき)・関白左大臣・内大臣・あまたの納言(なごん)の御父にておはします。世をたもたせたまふこと、かくて三十一年ばかりにやならせたまひぬらむ。今年(ことし)は満六十におはしませば、督(かん)の殿(との)の御産(ごさん)の後(のち)、御賀(か)あるべしとぞ人申す。いかにまたさまざまおはしまさへて、めでたく侍らむずらむ。おほかたまた世になきことなり、大臣(だいじん)の御女三人(みたり)、后(きさき)にてさし並べたてまつりたまふこと。 あさましう希有(けう)のことなり。唐(もろこし)には、昔三千人の后おはしけれど、それは筋(すぢ)をたづねずしてただかたちありなど聞ゆるを、隣(となり)の国まで選び召して、その中に楊貴妃(やうきひ)ごときは、あまりときめきすぎて、かなしきことあり。王昭君(わうせうくん)は父の申すにたがひて胡(こ)の国の人となり、上陽人(じやうやうじ ん)は楊貴妃にそばめられて、帝に見えたてまつらで、深き窓のうちにて、春のゆき秋の過ぐることをも知らずして、十六にてまゐりて、六十までありき。かやうなれば、三千人のかひなし。  わが国には、七(なな)の后こそおはすべけれど、代々(よよ)に四人ぞたちたまふ。この入道殿下の御一門(ひとつかど)よりこそ、大皇太后宮・皇太后宮・中宮、三所(みところ)出でおはしましたれば、まことに希有希有(けうけう)の御幸(さいは)ひなり。皇后宮一人のみ、筋わかれたまへりといへども、それそら貞信公(ていしんこう)の御末におはしませば、これをよそ人と思ひまうすべきことかは。しかれば、ただ世の中は、この殿(との)の御光ならずといふことなきに、この春こそはうせたまひにしかば、 いただ三后(みきさき)のみおはしますめり。 [一四六] 道長の詩歌の才にすぐれていること この殿、ことにふれてあそばせる詩・和歌など、居易(きよい)・人麿(ひとまろ)・躬恒(みつね)・貫之(つらゆき)といふとも、え思ひよらざりけむとこそ、おぼえはべれ。春日(かすが)の行幸(ぎやうかう)、先(さき)の一条院の御時よりはじまれるぞかしな。それにまた、当代(たうだい)幼くおはしませども、かならずあるべきことにて、はじまりたる例になりにたれば、大宮御興(おほみやみこし)に添(そ)ひまうさせたまひておはします、めでたしなどはいふも世の常なり。 すべらぎの御祖父にて、うち添ひつかうまつらせたまへる殿の御有様・御かたちなど少し世の常にもおはしまさましかば、あかぬことにや。そこらあつまりたる田舎世界(ゐなかせかい)の民百姓(たみひやくしやう)、これこそは、たしかに見たてまつりけめ、ただ転論聖王(てんりんじやうわう)などはかくやと、光るやうにおはしますに、仏見たてまつりたらむやうに、額(ひたひ)に手を当てて拝みまどふさま、ことわりなり。大宮の、赤色(あかいろ)の御扇(あぶき)さし隠して、御肩のほどなどは、少し見えさせたまひげり。かばかりにならせたまひぬる人は、つゆの透影(すきかげ)もふたぎ、いかがとこそはもて隠したてまつるに、ことかぎりあれば、今日はよそほしき御有様も、少しは人の見たてまつらむも、などかはともや思し召しけむ。殿も宮も、いふよしなく、御心ゆかせたまへりけること、おしはかられはべれば、殿、大宮に、   そのかみや祈りおきけむ春日野(かすがの)のおなじ道にもたづねゆくかな、 御返し、    曇(くも)りなき世の光にや春日野のおなじ道にもたづねゆくらむ かやうに申しかはさせたまふほどに、げにげにと聞えて、めでたく侍りしなかにも、大宮のあそばしたりし、   三笠山(みかさやま)さしてぞ来(き)つるいそのかみ古きみゆきのあとをたづねて これこそ、翁(おきな)らが心およばざるにや。あがりても、かばかりの秀歌(しようか)えさぶらはじ。その日にとりては、春日(かすが)の明神(みやうじん)もよませたまへりけるとおぼえはべり。今日かかることともの栄(は)えあるべきにて、先(さき)の一条院の御時にも、大入道殿(おほにうだうどの)、行幸(ぎやうかう)申し行はせたまひけるにやとこそ、心得られはべれな。  おほかた、幸ひおはしまさむ人の、和歌の道おくれたまへらむは、ことの栄えなくやはべらまし。この殿は、折節(をりふし)ごとに、かならずかやうのことを仰(おほ)せられて、ことをはやさせたまふなり。ひととせの、北(きた)の政所(まんどころ)の御賀(が)に、よませたまりしは、   ありなれし契りは絶えていまさらに心けがしに千代(ちよ)といふらむ  また、この一品(いつぽん)の宮の生れおはしましたりし御産養(うぶやしなひ)、大宮のせさせたまへりし夜(よ)の御歌は、聞きたまへりや。それこそいと興(きよう)あることを。ただ人は思ひよるべきにも侍らぬ和歌の体(てい)なり。   おと宮(みや)の産養(うぶやしなひ)をあね宮のしたまふ見るぞうれしかりけるとかや、うけたまはりし」とて、こころよく笑(ゑ)みたり。 [一四七] 若き日の道長  世継「四条(しでう)の大納言のかく何事(なにごと)もすぐれ、めでたくおはしますを、大入道殿「いかでかかからむ。うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏むべくもあらぬこそ口惜(くちをし)しけれ」と申させたまひければ、中関白殿(なかのくわんぱくどの)・粟田殿(あはたどの)などは、げにさもとや思(おぼ)すらむと、恥づかしげなる御け気色(けしき)にて、ものものたまはぬに、この入道殿は、いと若くおはします御身にて、「影をば踏まで、面(つら)をや踏まぬ」とこそ仰(おほ)せられけれ。まことこそさおはしますめれ。内大臣殿をだに、近くてえ見たてまつりたまはぬよ。 さるべき人は、とうより御心魂(こころだましひ)のたけく、御守(まもり)もこはきなめりとおぼえはべるは。花山院(くわさんゐん)の御時に、五月下(しも)つ闇(やみ)に、五月雨(さみだれ)も過ぎて、いとおどろおどろしくかきたれ雨の降る夜(よ)、帝(みかど)、さうざうしとや思(おぼ)し召(め)しけむ、殿上(てんじやう)に出でさせおはしまして、遊びおはしましけるに、人々、物語申しなどしたまうて、昔恐ろしかりけることどもなどに申しなりたまへるに、「今宵(こよひ)こそいとむつかしげなる夜なめれ。かく人がちなるだに、気色(けしき)おぼゆ。まして、もの離れたる所などいかならむ。 さあらむ所に一人(ひとり)往(い)なむや」と仰せられけるに、「えまからじ」とのみ申したまひけるを、入道殿は、「いづくなりともまかりなむ」と申したまひければ、さるところおはします帝(みかど)にて、「いと興(きよう)あることなり。さらば行け。道隆(みちたか)は豊楽院(ぶらくゐん)、道兼(みちかね)は仁寿殿(じじゆうでん)の塗籠(ぬりごめ)、道長は大極殿(だいこくでん)へいけ」と仰せられければ、よその君たちは、便(びん)なきことをも奏(そう)してけるかなと思ふ。  また、うけたまはらせたまへる殿ばらは、御気色変はりて、益(やく)なしと思したるに、入道殿は、つゆさる御けしきもなくて、「私の従者(ずさ)をば具(ぐ)しさぶらはじ。この陣(ぢん)の吉上(きちじやう)まれ、滝口(たきぐち)まれ、一人を、『昭慶門(せうけいもん)まで送れ』と仰(おほ)せ言(ごと)賜(た)べ。それよりうちには一人(ひとり)入りはべらむ」と申したまへば、「証(そう)なきこと」と仰せらるるに、「げに」とて、御手箱(てばこ)に置かせたまへる小刀(こがたな)申して立ちたまひぬ。いま二所(ふたところ)も、苦(にが)む苦む各(おのおの)おはさうじぬ。「子(ね)四(よ)つ」と奏して、かく仰せられ議(ぎ)するほどに、丑(うし)にもなりにけむ。「道隆は右衛門(うゑもん)の陣(ぢん)より出(い)でよ。道長は承明門(しようめいもん)より出でよ」と、それをさへ分(わ)かたせたまへば、しかおはしましあへるに、中関白殿(なかのくわんぱくどの)、陣まで念じておはしましたるに、宴(えん)の松原(まつばら)のほどに、そのものともなき声どもの聞こゆるに、術(ずち)なくて帰りたまふ。粟田殿(あはたどの)は、露台(ろだい)の外(と)まで、わななくわななくおはしたるに、仁寿殿(じじゆうでん)の東面(ひんがしおもて)の砌(みぎり)のほどに、軒(のき)とひとしき人のあるやうに見えたまひければ、ものもおほえで、「身のさぶらはばこそ、仰(おほ)せ言(ごと)もうけたまはらめ」とて、おのおのたち帰りまゐりたまへれば、御扇(あふぎ)をたたきて笑はせたまふに、入道殿はいとひさしく見えさせたまはぬを、いかがと思(おぼ)し召(め)すほどにぞ、いとさりげなく、ことにもあらずげにてまゐらせたまへる。「いかにいかに」と問はせたまへば)いとのどやかに、御刀に、削(けづ)られたる物を取(と)り具(ぐ)して奉らせたまふに、「こは何(なに)ぞ」と仰せらるれは、「ただにて帰りまゐりてはべらむは、証(そう)さぶらふまじきにより、高御座(たかみくら)の南面(みなみおもて)の柱のもとを削りてさぶらふなり」と、つれなく申したまふに、いとあさましく思し召さる。こと殿達の御気色(気色)は、いかにもなほ直(なほ)らで、この殿(との)のかくてまゐりたまへるを、帝(みかど)よりはじめ感じののしられたまへど、うらやましきにや、またいかなるにか、ものも言はでぞさぶらひたまひける。なほ、うたがはしく思し召されければ、つとめて、「蔵人(くらうど)して、削り屑(くづ)をつがはしてみよ」と仰せ言ありければ、持(も)て行きて押しつけて見たうびけるに、つゆ違(たが)はざりけり。その削り跡は、いとけざやかにてはべめり。末(すゑ)の世にも、見る人はなはあさましきことにぞ申ししかし。 [一四八] 観相と道長ら虎子如渡深山峰  故女院(にようゐん)の御修法(みしほ)して、飯室(いひむろ)の権僧正(ごんのそうじやう)のおはしましし伴僧(ばんさう)にて、相人(さうにん)のさぶらひしを、女房どもの呼びて相(さう)ぜられけるついでに、 「内大臣殿はいかがおはす」など間ふに、「いとかしこうおはします。天下(てんか)とる相(さう)おはします。中官大夫殿(ちゆうぐうだいふ)こそいみじうおはしませ」といふ。また、粟田殿(あはたどの)を問ひたてまつれば、「それもまた、いとかしこくおはします。大臣の相おはします」。 また、「あはれ中宮大夫殿こそいみじうおはしませ」といふ。 また、権大納言殿を間ひたてまつれば、「それも、いとやむごとなくおはします。雷(いかづち)の相なむおはする」と申しければ、「雷はいかなるぞ」と間ふに、「ひときはは、いと高く鳴(な)れど、後遂(と)げのなきなり。されば、御末(すゑ)いかがおはしまさむと見えたり。中官の大夫殿こそ、かぎりなくきはなくおはしませ」と、異人(ことひと)を間ひたてまつる度(たび)には、この入道殿をかならず引(ひ)き添(そ)へたてまつりて申す。「いかにおはすれば、かく毎度(たびごと)には聞こえたまふぞ」といへば、「第一相には、虎(とら)の子の深き山の峰を渡るがごとくなるを申したるに、いささかも違(たが)はせたまはねばかく申しはべるなり。この譬(たと)ひは、虎の子のけはしき山の峰を渡るがごとしと申すなり。御かたち・容体(ようてい)は、ただ毘沙門(びしやもん)の生(いき)本見たてまつらむやうにおはします。御相かくのごとしといへば、誰(たれ)よりもすぐれたまへり」とこそ申しけれ。いみじかりける上手(じやうず)かな。当て違はせたまへることやはおはしますめる。帥(そち)のおとどの大臣までかくすがやかになりたまへりしを、「はじめよし」とはいひけるなめり。雷(いかづち)は落ちぬれど、またもあがるものを、星の落ちて石となるにぞたとふべきや。それこそ返りあがることなけれ。 [一四九] 道長の容姿 賀茂行幸の雪  折々につけたる御かたちなどは、げにながき思(おも)ひ出(い)でとこそは人申すめれ。中にも三条院の御時、賀茂行幸の日、雪ことのほかにいたう降りしかば、御単(ひとへ)の袖(そで)をひき出でて、御扇(あふぎ)を高く持たせたまへるに、いと白く降りかかりたれば、「あないみじ」とて、うち払(はら)はせたまへりし御もてなしは、いとめでたくおはしまししものかな。上(うへ)の御衣(ぞ)は黒きに、御単衣(ひとへぎぬ)は紅(くれなゐ)のはなやかなるあはひに、雪の色ももてはやされて、えもいはずおはしまししものかな。高名(かうみやう)のなにがしといひし御馬、いみじかりし悪馬(あくめ)なり。あはれ、それをたてまつりしづめたりしはや。三条院も、その日のことをこそ思(おぼ)し召(め)し出(い)でおはしますなれ。御病のうちにも、「賀茂行幸の日の雪こそ、忘れがたけれ」と仰(おほ)せられけむこそ、あはれにはべれ。 [一五〇] 不遇時の道長、伊周との競射 世間の光にておはします殿(との)の、一年(ひととせ)ばかり、ものをやすからず思し召したりしよ、いかに天道(てんたう)御覧(ごらん)じけむ。さりながらも、いささか逼気(ひけ)し、御心(みこころ)やは倒させたまへりし。おほやけざまの公事(くじ)・作法(さほふ)ばかりにはあるべきほどにふるまひ、時違(たが)ふことなく勤(つと)めさせたまひて、うちうちには、所も置ききこえさせたまはざりしぞかし。  帥殿(そちどの)の、南院(みなみのゐん)にて人々集めて弓あそばししに、この殿わたらせたまへれば、思ひがけずあやしと、中関白殿(なかのかんばくどの)思(おぼ)し驚きて、いみじう饗応(きやうよう)しまうさせたまうて、下藤(げらふ)におはしませど、前にたてたてまつりて、まづ射(い)させたてまつらせたまひけるに、帥殿、矢数(やかず)いま二つ劣(おと)りたまひぬ。中関白殿、また御前(おまへ)にさぶらふ人々も、「いま二度延(の)べさせたまへ」と申して、延べさせたまひけるを、やすからず思しなりて、「さらば、延べさせたまへ」と仰せられて、また射させたまふとて、仰せらるるやう、「道長が家より帝・后たちたまふべきものならば、この矢あたれ」と仰せらるるに、同じものを中心にはあたるものかは。次に、帥殿射たまふに、いみじう臆(おく)したまひて、御手もわななく故にや、的のあたりにだに近くよらず、無辺世界を射たまへるに、関白殿、色青くなりぬ。また、入道殿射たまふとて、「摂政・関白すべきものならば、この矢あたれ」と仰せらるるに、はじめの同じやうに、的の破るばかり、同じところに射させたまひつ。饗応し、もてはやしきこえさせたまひつる興もさめて、こと苦うなりぬ。父大臣、帥殿に、「なにか射る。な射そ、な射そ」と制したまひて、ことさめにけり。  入道殿、矢もどして、やがて出でさせたまひぬ。その折は左京大夫(さきやうのだいぶ)とぞ申しし。弓をいみじう射させたまひしなり。また、いみじう好ませたまひしなり。 今日に見ゆべきことならねど、人の御さまの、いひ出でたまふことのおもむきより、かたへは臆せられたまふなむめり。 [一五一] 石山詣 上巳の御禊  また、故女院(にようゐん)の御石山詣(いしやままうで)に、この殿は御馬にて、帥殿は車にてまゐりたまふに、さはることありて、粟田口(あはたぐち)より帰りたまふとて、院の御車(みくるま)のもとにまゐりたまひて、案内(あない)申したまふに、御車もとどめたれば、轅(ながえ)をおさへて立ちたまへるに、入道殿は、御馬をおしかへして、帥殿(そちどの)の御項(うなじ)のもとに、いと近ううち寄せさせたまひて、「とく仕(つか)うまつれ。日の暮れぬるに」と仰(おほ)せられければ、あやしく思されて見返りたまへれど、おどるきたる御けしきもなく、とみにも退(の)かせたまはで、「日暮れぬ。とくとく」とそそのかせたまふを、いみじうやすからず思せど、いかがはせさせたまはむ、やはら立ち退かせたまひにけり。父大臣(おとど)申したまひければ、「大臣(だいじん)軽(かろ)むる人のよきやうなし」とのたまはせける。  三月巳(み)の日(ひ)の祓(はらへ)に、やがて造遥(せうえう)したまふとて、帥殿、河原(かはら)にさるべき人々あまた具(ぐ)して出でさせたまへり。平張(ひらばり)どもあまたうちわたしたるおはし所(どころ)に、入道殿も出でさせたまへる、御車を近くやれば、「便(びん)なきこと。かくなせそ。やりのけよ」と仰せられけるを、なにがし丸(まろ)といひし御車副(みくるまぞひ)の、「何事(なにごと)のたまふ殿(との)にかあらむ。かくきこしたまへれば、この殿は不運にはおはするぞかし。わざはひや、わざはひや」とて、いたく御車牛(みくるまうし)をうちて、いま少し平張のもと近くこそ、つかうまつり寄せたりけれ。「辛(から)もこの男(をとこ)にいはれぬるかな」とぞ仰せられける。さて、その御車副をば、いみじうらうたせさせたまひ、御かへりみありしは。かやうのことにて、この殿たちの御中(なか)いとあしかりき。    [一五二] 東三条院の愛情と道長の幸運 女院(にようゐん)は、入道殿をとりわきたてまつらせたの愛惰と道長のまひて、いみじう思ひまうさせたまへりしかば、帥殿はうとうとしくもてなさせたまへりけり。帝(みかど)、皇后官をねんごろにときめかさせたまふゆかりに、帥殿はあけくれ御前(おまへ)にさぶらはせたまひて、入道殿をばさらにも申さず、女院をもよからず、ことにふれて申させたまふを、おのづから心得(こころへ)やせさせたまひけむ、いと本意(ほい)なきことに思し召しける、ことわりなりな。入道殿の世をしらせたまはむことを、帝いみじうしぶらせたまひげり。皇后官、父大臣おはしまさで、世の中をひきかはらせたまはむことを、いと心ぐるしう思し召して、粟田殿にも、とみにやは宣旨(せんじ)下させたまひし。されど、女院の道理(だうり)のままの御ことを思し召し、また帥殿をばよからず思ひきこえさせたまうければ、入道殿の御ことを、いみじうしぶらせたまひけれど、「いかでかくは思し召し仰せらるるぞ。大臣越えられたることだに、いといとほしく侍りしに、父大臣(おとど)のあながちにしはべりしことなれば、いなびさせたまはずなりにしこそ侍れ。粟田(あはた)の大臣(おとど)にはせさせたまひて、これにしも侍らざらむは、いとほしさよりも、御ためなむ、いと便(びん)なく、世の人もいひなしはべらむ」など、いみじう奏(そう)せさせたまひければ、むつかしうや思し召しけむ、後(のち)にはわたらせたまはざりけり。されば、上(うへ)の御局(みつぼね)にのぼらせたまひて、「こなたへ」とは申させたまはで、我(われ)、夜(よる)の御殿(おとど)に入らせたまひて、泣く泣く申させたまふ。その日は、入道殿は上の御局にさぶらはせたまふ。いとひさしく出でさせたまはねは、御胸つぶれさせたまひけるほどに、とばかりありて、戸をおしあげて出でさせたまひける、御顔は赤み濡(ぬ)れつやめかせたまひながら、御口はこころよく笑(ゑ)ませたまひて、「あはや、宣旨下りぬ」とこそ申させたまひけれ。いささかのことだに、この世ならず侍るなれば、いはむや、かばかりの御有様は、人の、ともかくも思しおかむによらせたまふべきにもあらねども、いかでかは院をおろかに思ひまうさせたまはまし。そのなかにも、道理(だうり)すぎてこそは報(はう)じたてまつり仕(つか)うまつらせたまひしか。御骨(こつ)をさへこそはかけさせたまへりしか。  中関白殿(なかのくわんばくどの)・粟田殿(あはたどの)うちつづきうせさせたまひて、入道殿に世のうつりしほどは、さも胸つぶれて、きよきよとおぼえはべりしわざかな。いとあがりての世は知りはべらず、翁(おきな)もの覚えての後(のち)は、かかることさぷらはぬものをや。今の世となりては、一(いち)の人の、貞信公(ていしんこう)・小野宮殿(をののみやどの)をはなちたてまつりて、十年とおはすることの、近くは侍らねば、この入道殿もいかがと思ひまうしはべりしに、いとかかる運におされて、御兄たちはとりもあへずほろびたまひにしにこそおはすめれ。それもまた、さるべくあるやうあることを、皆世はかかるなむめりとぞ人々思(おぼ)し召(め)すとて、有様を少しまた申すべきなり。   藤原氏物語 [一五三] 藤原氏物語始祖鎌足・不比等ら 世の中の帝、神代(かみよ)七代(ななよ)をばさるものにて、神武(じんむ)天皇よりはじめたてまつりて、三十七代にあたりたまふ孝徳(かうとく)天皇の御代(みよ)よりこそは、さまざまの大臣定(さだ)まりたまへなれ。ただしこの御時、中臣鎌子(かまこ)の連(むらじ)と申して、内大臣になりはじめたまふ。その大臣は常陸国にて生れたまへりければ、三十九代にあたりたまへる帝、天智天皇と申す、その帝の御時こそこの鎌足のおとどの御姓(しやう)、藤原とあらたまりたまひたる。されば世の中の藤氏のはじめには内大臣鎌足のおとどをしたてまつる。その末々より多くの帝・后・大臣・公卿(くぎやう)さまざまになり出でたまへり。  ただし、この鎌足のおとどを、この天智天皇いとかしこくときめかし思して、わが女御一人をこの大臣に譲らしめたまひつ。その女御ただにもあらず、草みたまひにければ、帝の思し召しのたまひけるやう、この女御の九卒Jぶりる子、男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子とせむと思して、かの大臣に仰せられけるやう、「男ならば大臣の子とせよ。女ならば朕(わ)が子にせむ」と契らしめたまへりけるに、この御子、男にて生れたまへりければ、内大臣の御子としたまふ。この大臣は、もとより男一人・女一人をぞ、持ちたてまつりたまへりける。この御腹に、さしつづき女二人・男二人生れたまひぬ。その姫君、天智天皇の皇子、大友皇子と申ししが、太政大臣の位にて、次にはやがて同じ年のうちに帝となりたまひて、天武天皇と申しける帝の女御(にようご)にて、二所ながらさしつづきおはしけり。  大臣(おとど)のもとの太郎君をば、中臣意美暦(おみまろ)とて、宰相(さいしやう)までなりたまへり。天智天皇の御子の字まれたまへりし、右大臣までなりたまひて、藤原不比等(ふひと)のおとどとておはしけり。うせたまひて後、贈(ぞう)大政大臣になりたまへり。鎌足のおとどの三郎は宇合(うまかひ)とぞ申しける。四郎は麿(まろ)と申しき。この男君たち、皆宰相ばかり率でぞなりたまへる。かくて鎌足のおとどは、天智天皇の御時、藤原の姓たまはりたまひし年ぞ、うせさせたまひける。内大臣の位にて、二十五年ぞおはしましける。太政大臣になりたまはねど、藤氏(とうし)の出ではじめのやむごとなきによりて、うせさせたまへる後の御いみな、淡海公(たんかいこう)と申しいり この繁樹(しげき)がいふやう、「大織冠(だいしよくくわん)をば、いかでか淡海公と申さむ。大織冠は大臣の位にて二十五年、御年五十六にてなむかくれおはしましける。 ぬしののたぶことも、天の川をかき流すやうに侍れど、折々かかる僻事のまじりたる。されども、誰かまた、かうは語らむな。仏在世(ざいせ)の浄名居士(じやうみやうこじ)とおぼえたまふものかな」といへは、世継がいはく、 「昔、唐国に、孔子(くじ)と申すもの知り、のたまひけるやう侍り。 「智者(ちさ)は千のおもひはかり、かならず一つあやまちあり」とあれば、世継、年百歳(ももとせ)に多くあまり、二百歳にたらぬほどにて、かくまでは間はず語り申すは、昔の人にも劣らざりけるにやあらむ、となむおぼゆる」といへは、繁樹、「しかしか。まことに申すべき方なくこそ興あり、おもしろくおぼえはべれ」 とて、かつは涙をおしのごひなむ感ずる、まことにいひてもあまりにぞおほゆるや。 [一五四] 鎌足の子不比等と子たち 世継「御子の右大臣不比等(ふひと)のおとど、実は天智天皇の御子なり。されど、鎌足のおとどの二郎になりたまへり。この不比等のおとどの御名よりはじめ、なべてならずおはしましけり。「ならびひとしからず」とつけられたまへる名にてぞ、この文字は侍りける。この不比等のおとどの御男君たち二人ぞおはしける。太郎は武智暦(なちまろ)と聞えて、左大臣までなりたまへり。二郎は房前と申して、宰相までなりたまへり。この不比等のおとどの御女二人おはしけり。一所は、聖武天皇の御母后、光明皇后と申しける。いま一所の御女は、聖武天皇の女御にて、女親王(ひめみこ)をぞうみたてまつりたまへりける。女御子を、聖武天皇、女帝(ひめみかど)にすゑたてまつりたまひてけり。この女帝をば、高野(たかの)の女帝と申しけり。二度位につかせたまひたりける。  さて、不比等のおとどの男子二人、また御弟二人とを、四家となづけて、皆門わかちたまへりけり。その武智暦をば南家となづけ、二郎房前(ふささき)をば北家となづけ、御はらからの宇合の式部卿(しきぶきよう)をば式家となづけ、その弟の暦をば京家となづけたまひて、これを、藤氏の四家とはなづけられたるなりけり。 この四家よりあまたのさまざまの国王・大臣・公卿多く出でたまひて栄えおはします。しかあれど、北家の末、今に枝ひろどりたまへり。その御つづきを、また一筋(ひとすぢ)に申すべきなり。 絶えにたる方をば申さじ。人ならぬほどのものどもは、その御末にもや侍らむ。 [一五五] 北家十三代の系譜 維摩会の由来 この鎌足のおとどよりの次々、今の関白まで十三代にやならせたまひぬらむ。その次第を聞し召せ。藤氏と申せば、ただ藤原をぱさいふなりとぞ、人は思さるらむ。さはあれど、本末知ることは、いとありがたきことなり。  一、内大臣鎌足のおとど、藤氏の姓たまはりたまひての年の 十月十六日にうせさせたまひぬ、御年五十六。大臣の位にて 二十五年。この姓の出でくるを聞きて、紀氏(きのうち)の人のいひける、「藤かかりぬる木は枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなむずる」とぞのたまひけるに、まことにこそしか侍れ。この鎌足のおとどの病づきたまへるに、音この国に仏法(ぶつほふ)ひろまらず、僧などたはやすく侍らずやありけむ、聖徳太子伝へたまふといへども、この頃だに、生れたる児も法華経(ほけきやう)を読むと申せど、まだ読まぬも侍るぞかし、百済(くだら)国よりわたりたりける尼して、維摩経供養(ゆいまきやうくやう)じたまへりけるに、御心地ひとたびにおこたりて侍りければ、その経をいみじきものにしたまひけるままに、維摩会(ゆいまゑ)は侍るなり。  一、鎌足のおとどの二郎、左大臣正二位不比等、大臣の位にて十三年。贈大政大臣にならせたまへり。元明(げんめい)天皇・元正(げんしやう)天皇の御時二代。  一、不比等のおとどの二郎、房前、宰相にて二十年。大炊(おほひ)天皇の御時、天平宝字(てんびやうはうじ)四年庚子八月七日、贈大政大臣になりたまふ。元正天皇・聖武天皇二代。  一、房前のおとどの四男、真楯(またて)の大納言、称徳天皇の御時、天平神護二年三月十六日、うせたまひぬ、御年五十二。贈大政大臣。公卿にて七年。  一、真楯の大納言の御二郎、右大臣従二位左近大将内暦のおとど、御年五十七。公卿にて二十年、大臣の位にて七年。 贈従一位左大臣。桓武天皇・平城(へいぜう)天皇二代にあひたまへり。  一、内暦のおとどの御三郎、冬嗣のおとどは、左大臣までなりたまへり。贈大政大臣。この殿より次、さまざまあかしたればこまかに申さじ。 [一五六] 冬嗣、南円堂を建立 丈六不空羅索観音 鎌足(かまたり)の御代(みよ)より栄えひろごりたまへる・御末々(すゑずゑ)やうやううせたまひて、この冬嗣のにはどは無下(むげ)に心ほそくなりたまへりし。その時は、源氏(げんじ)のみぞ、さまざま大臣・公卿にておはせし。それに、この大臣なむ南円堂を建てて、丈六(じやうろく)の不空願桐索観音(ふくうくゑんじやくくわんおん)を据(す)ゑたてまつりたまふ。  さて、やがて不空羅索経一千巻供養(くやう)じたまへり。今にその経ありつつ、藤氏(とうし)の人々とりて守りにしあひたまへり。その仏経(ぶつきやう)の力にこそ侍るめれ、また栄えて、帝(みかど)の御後見(うしろみ)今に絶えず、末々(すゑずゑ)せさせたまふめるは。その供養の日ぞかし、こと姓(しやう)の上達部(かんだちめ)あまた、日のうちにうせたまひにければ、まことにや、人々申すめり。 一、冬嗣(ふゆつぐ)のおとどの御太郎、長良(ながら)の中納言は、贈太政大臣。 一、長良のおとどの御三郎、基経(もとつね)のおとどは、太政大臣までなりたまへり。 一、基経のおとどの御四郎、忠平(ただひら)のおとどは、太政大臣までなりたまへり。 一、忠平のおとどの御ニ郎、師輔(もろすけ)のおとどは、右大臣までなりたまへり。 一、師輔のおとどの御三郎、兼家(かねいへ)のおとど、太政大臣まで。 一、兼家のおとどの御五郎、道長(みちなが)のおとど、太政大臣まで。 一、道長のおとどの御太郎、ただいまの関白左大臣頼通のおとど、これにおはします。  この殿(との)の御子(みこ)の、今までおはしまさざりつるこそ、いと不便(ふびん)に侍りつるを、この若君(わかぎみ)の生れたまひつる、いとかしこきことなり。母は申さぬことなれど、これはいとやむごとなくさへおはするこそ。故左兵衛督(さひようのかみ)は、人柄こそ、いとしも思はれたまはざりしかど、もとの貴人(あてびと)におはするに、また、かく世をひびかす御孫(むまご)の出でおはしましたる、なき後にもいとよし。七夜(しちや)のことは、入道殿せさせたまへるに、つかはしける 年を経て待ちつる松の若枝にうれしくあへる春のみどりご帝(みかど)・東宮(とうぐう)をはなちたてまつりては、これこそ孫(むまご)の長(をさ)とて、やがて御童名(わらはな)を長君(をさぎみ)とつけたてまつらせたまふ。この四家(しけ)の君(きみ)たち、昔も今もあまたおはしますなかに、道絶えずすぐれたまへるは、かくなり。 [一五七] 藤原氏の氏神の由来 その 鎌足(かまたり)のおとど生まれたまへるは、常陸国(ひたちのくに)なれば、かしこに鹿島(かしま)といふ所に、氏(うじ)の御神を住ましめたてまつりたまひて、その御代(みよ)より今にいたるまで、あたらしき帝(みかど)・后(きさき)・大臣たちたまふ折は、幣(みてぐち)の使(つかひ)かならずたつ。帝、奈良におはしましし時に、鹿島遠しとて、大和国三笠山(やまとのくにみかさやま)にふりたてまつりて、春日明神(かすがみやうじん)となづけたてまつりて、今に藤氏(とうし)の御氏神(うぢがみ)にて、公家(おほやけ)、男(をとこ)・女使(をんなづかひ)たてさせたまひ、后(きさい)の宮(みや)・氏(うぢ)の大臣(おとど)・公卿、皆、この明神に仕(つか)うまつりたまひて、二月(きさらぎ)・十一月(しもつき)上(かみ)の申(さる)の日、御祭にてなむ、さまざまの使たちののしる。帝、この京に遷(うつ)らしめたまひては、また近くふりたてまつりて、大原野(おおはらの)と申す。二月の初卯(はつう)の日・霜月の初子(はつね)の日と定(さだ)めて、年(とし)に二度の御祭あり。また同じく公家の使たつ。藤氏(とうし)の殿(との)ばら、皆、この御神に御幣(みてぐら)・十列(とをつら)奉りたまふ。なほし近くとて、またふりたてまつりて、吉田(よしだ)と申しておはしますめり。この吉田の明神は、山陰(やまかげ)の中納言のふりたてまつりたまへるぞかし。御祭の日、四月(うづき)下(した)の子(ね)・十一月(しもつき)下(しも)の申(さる)の日とを定めて、「わが御族(ぞう)に、帝・后の宮たちたまふものならば、公(おおやけ)祭(まつり)になさむ」と誓(ちか)ひたてまつりたまへれば、一条院の御時より、公祭にはなりたるなり。 [一五八] 氏寺多武峯山階寺と「山階道理」の由来 また、鎌足のおとどの御氏寺(こうちでら)、大和国多武峯(たむのみね)に造(つく)らしめたまひて、そこに御骨を納めたてまつりて、今に三昧行ひたてまつりたまふ。不比等のおとどは、山階寺を建立(こんりふ)せしめたまへり。それにより、かの寺に藤氏を祈りまうすに、この寺ならびに多武峯・春日・大原野・吉田に、例にたがひ、あやしきこと出できぬれば、御寺の僧・禰宜等(ねぎら)など公家に奏し申して、その時に、藤氏(とうし)の長者殿占はしめたまふに、御慎みあるべきは、年のあたりたまふ殿ばらたちの御もとに、御物忌(ものいみ)を書きて、一の所より配らしめたまふ。おほよそ、かの寺よりはじまりて、年に二三度、会を行はる。正月八日より十四日まで、八省(はつしやう)にて、奈良方の僧を講師(こうじ)とて、御斎会行はしむ。公家よりはじめ、藤氏の殿ばら、皆加供したまふ。  また、三月十七日よりはじめて、薬師寺にて最勝会七日、また山階寺にて十月十日より維摩会七日。皆これらのたびに、勅使下向(ちよくしげ)して余つかはす。藤氏の殿ばらより五位まで奉りたまふ。南京(なんきやう)の法師、三会(さんゑ)講師しつれば、己講(いこう)と名づけて、その次第をつくりて、律師、僧綱になる。かかれば、かの御寺、いかめしうやむごとなき所なり。いみじき非道のことも、山階寺にかかりぬれば、またともかくも、人ものいはず、「山階道理」(やましなだうり)とつけて、おきつ。かかれば、藤氏の御有様たぐひなくめでたし。   同じことのやうなれども、またつづきを申すべきなり。后(きさい)の官の御父・帝の御祖父(おほじ)となりたまへるたぐひをこそは、あかし申さめ」とて、  「一、内大臣鎌足のおとどの御女二人、やがて皆天武天皇に奉りたまへりけり。男・女親王たちおはしましけれど、帝・春宮たたせたまはざめり。  一、膳大政大臣不比等のおとどの御女二所、一人の御女は、文武(もんむ)天皇の御時の女御(にようご)、親王(みこ)生れたまへり。それを聖武天皇と申す。御母をば光明(こうみやう)皇后と申しき。いま一人の御女は、やがて御甥(おひ)の聖武天皇に奉りて、女親王うみたてまつりたまへろを、女帝(ひめみかど)にたてたてまつりたまへるなり。高野(たかの)の女帝と申す、これなり。四十六代にあたりたまふ。それおりたまへるに、また帝一人を隔てたてまつりて、また四十八代にかへりゐたまへるなり。母后を贈皇后と申す。しかれば不比等のおとどの御女、二人ながら后にましますめれど、高野の女文中の御母后は、贈后(ぞうこう)と申したるにて、おはしまさぬ世に、后の宮にゐたまへると見えたり。かるが故に、不比等のおとどは、光明皇后、また贈后の父、聖武天皇ならびに高野の女帝の御祖父。或本(あるほん)にまた、「高野の女帝の母后、生きたまへる世に后にたちたまひて、その御名を光明皇后と申す」とあり。聖武の御母も、おはします世に、后となりたまひて、贈后と見えたまはず。 一、贈大政大臣冬嗣(ふゆづき)のおとどは、大皇太后順子(じゆんし)の御父、文徳 天皇の御祖父。 一、太政大臣良房のおとどは、皇太后官明子(あきらけいこ)の御父、清和(せいわ) 天皇の御祖父。 一、贈大政大臣長良のおとどは、皇太后高子(たかいこ)の御父、陽成院(やうぜうゐん)の御祖父。 一、贈大政大臣総継のおとどは、贈皇太后沢子の御父、光孝天皇の御祖父。 一、内大臣高藤(たかふぢ)のおとどは、皇太后胤子の御父、醍醐天皇の御祖父。 一、太政大臣基経のおとどは、皇后官穏子の御父、朱雀・村上二代の御祖父。 一、右大臣師輔のおとどは、皇后安子の御父、冷泉院ならびに円融院の御祖父。 一、太政大臣伊尹(これまさ)のおとどは、贈皇后懐子(くわいし)の御父、花山院の 御祖父。 一、太政大臣兼家のおとどは、皇太后宮詮子(せんし)、また贈后超子(てうし) の御父、一条院・三条院の御祖父。 一、太政大臣道長のおとどは、大皇太后宮彰子(しやうし)・皇太后官妍子(けんし)・中官威子(ゐし)・東宮の御息所(みやすどころ)の御父、当代ならびに春宮の御祖父におはします。ここらの御中に、后三人並べすゑて見たてまつらせたまふことは、入道殿下よりほかに聞えさせたまはざんめり。関白左大臣・内大臣・大納言二人・中納言の御親にておはします。さりや、聞し召しあつめよ。日本国には唯一無二(ゆいいつむに)におはします。 [一五九] 道長の無量寿院建立と諸寺 浄妙寺建立 まづは、造(つく)らしめたまへる御堂(みだう)などの有様、鎌足のおとどの多武峯(たむのみね)・不比等(ふひと)のおとどの山階寺・基経のおとどの極楽寺(ごくらくじ)・忠平(ただひら)のおとどの法性寺(ほふしやうじ)・九条殿の楞厳院(れうごんゐん)・天(あめ)のみかどの造りたまへる東大寺も、仏ばかりこそは大きにおはすめれど、なほこの無量寿院(むりやうじゆゐん)には並びたまはず。まして、こと御寺御寺はいふべきならず。大安寺は、兜率天(とそつてん)の一院を天竺(てんぢく)の祇園精舎(ぎをんしやうじや)にうつし造り、天竺の祇園精舎を唐の西明寺にうつし造り、唐(もろこし)の西明寺(さいみやうじ)の一院を、この国の帝は、大安寺にうつさしめたまへるなり。しかあれども、ただいまはなほこの無量寿院まさりたまへり。南京のそこばくの多かる寺ども、なはあたりたまふなし。恒徳公(こうとくこう)の法住寺(ほふちゆうじ)いと猛(まう)なれど、なはこの無量寿院すぐれたまへり。難波(なには)の天王寺(てんわうじ)など、聖徳太子の御心に入れ造りたまへれど、なほこの無量寿院まさりたまへり。奈良は七大寺・十五大寺など見くらぶるに、なほこの無量寿院いとめでたく、極楽浄土(ごくらくじやうど)のこの世にあらはれけると見えたり。かるが故に、この無量寿院も、思ふに、思し召し願(ぐわん)ずること侍りけむ。浄妙寺は、東三条の大臣の、大臣になりたまひて、御慶(よろこ)びに木幡(こはた)にまゐりたまへりし御供に、入道殿具したてまつらせたまひて御覧(ごらん)ずるに、多くの先祖の御骨(こつ)おはするに、鐘の声聞きたまはぬ、いと憂きことなり、わが身思ふさまになりたらば、三昧堂(さんまいだう)建てむと、御心のうちに思し召し企(くはだ)てたりける、とこそうけたまはれ。 [一六〇] 基経の極楽寺建立と、その発願  昔も、かかりけること多く侍りけるなかに、極楽寺(ごくらくじ)・法性寺(ほふしやうじ)ぞいみじく侍るや。御年なんどもおとなびさせたまはぬにだにも思(おぼ)し召(め)しよるらむほど、なべてならずおぼえはべるに、いづれの御時とはたしかにえ聞きはべらず、ただ深草(ふかくさ)の御ほどにやなどぞ思ひやりはべる。芹河(せりかは)の行幸(みゆき)せしめたまひけるに、昭宣公童殿上(せうせんこうわらはてんじやう)にて仕(つか)うまつらせたまへりけるに、帝(みかど)、琴(きん)をあそばしける。この琴弾(ひ)く人は、別(べち)の爪(つめ)つくりて、指にさし入れてぞ、弾くことにて侍りし。さて持たせたまひたりけるを、落しおはしまして、大事に思し召しけれど、またつくらせたまふべきやうもなかりければ、さるべきにてぞ思し召しよりけむ、おとなしき人々にも仰(おほ)せられずて、幼くおはします君にしも、「求めてまゐれ」と仰せられければ、御馬をうち返しておはしましけれど、いづくをはかりともいかでかは尋ねさせたまはむ。見つけてまゐらせざらむことのいといみじく思し召しければ、これ求め出でたらむ所には一伽藍(がらん)を建てむと、願(ぐわん)じ思して、求めたまひけるに、出できたる所ぞかし、極楽寺は。幼き御心(みこころ)に、いかでか思し召しよらせたまひけむ。さるべきにて御爪も落ち、幼くおはします人にも仰せられけるにこそは侍りけめ。 〔一六一〕法性寺甥厳院の由来と権者  さて、やむごとなくならせたまひて、御堂(みだう)建てさせにおはします御車(みくるま)に、貞信公(ていしんこう)はいと小さくて具(ぐ)したてまつりたまへりけるに、法性寺の前わたりたまふとて、「父こそ。こここそ、よき堂所(だうどころ)なむめれ。ここに建てさせたまへかし」と聞えさせたまひけるに、いかに見てかくいふらむと思して、さし出でて御覧(ごらん)ずれば、まことにいとよく見えければ、幼き目にいかでかく見つらむ、さるべきにこそあらめと、思し召して、「げにいとよき所なめり。汝(まし)が堂を建てよ。われはしかじかのことのありしかば、そこに建てむずるぞ」と申させたまひける。さて法性寺は建てさせたまひしなり」。 繋樹「また、九条殿(くでうどの)の飯室(いひむろ)のことなどはいかにぞ。横川(よかは)の大僧正(だいそうじやう)、御房(ごばう)にのぼらせたまひし御供には、繁樹まゐりて侍りき」 世継「かやうのことども聞き見たまふれど、なは、この入道殿、世にすぐれ抜け出でさせたまへり。天地にうけられさせたまへるは、この殿こそはおはしませ。何事も行はせたまふ折に、いみじき大風吹き、長雨(ながあめ)降れども、まづ二三日かねて、空晴れ、土乾(かわ)くめり。かかれば、あるいは聖徳太子の生れたまへると申し、あるいは弘法大師(こうぼふだいし)の仏法興隆(ぶつぼふだいし)のために生れたまへるとも申すめり。げにそれは、翁らがさがな目にも、ただ人とは見えさせたまはざめり。なは権者(ごんじや)にこそおはしますべかめれとなむ、仰(あふ)ぎ見たてまつる。  [一六二] 一法成寺建立 道長一族の無量寿院参詣 かかれば、この御世(みよ)の楽しきことかぎりなし。そのゆゑは、音は、殿ばら・宮(みや)ばらの馬飼(うまかひ)・牛飼(うしかひ)、なにの御霊会・祭の料とて、銭・紙・米など乞ひののしりて、野山の草をだにやは刈らせし。仕丁(じちやう)・おものもち出できて、人のもの取り奪ふこと絶えにたり。また、里の刀禰(とね)・村の行事(ぎやうじ)出できて、火祭やなにやと煩(わづら)はしく責めしこと、今は聞えず。かばかり安穏泰平(あんおんたいへい)なる時にはあひなむやと思ふは。翁らがいやしき宿りも、帯(おび)・紐(ひも)を解(と)き、門(かど)をだに鎖(さ)さで、安らかに偃(のいふ)したれば、年も若え、命も延びたるぞかし。まづは、北野(きたの)・賀茂河原(かもがはら)に作りたる、まめ・ささげ・うり・なすびといふもの、この中頃は、さらに術(ずち)なかりしものをや。この年頃は、いとこそたのしけれ。 人の取らぬをばさるものにて、馬・牛だにぞ食(は)まぬ。されば、ただまかせ捨てつつ置きたるぞかし。かくたのしき弥勒(みろく)の世にこそあひて侍れや」といふめれば、いま一人(ひとり)の翁、  繋樹「ただいまは、この御堂の夫(ぶ)を頻(しきり)に召すことこそは、人は堪(た)へがたげに申すめれ。それはさは聞きたまはぬか」  といふめれは、世継、  「しかしか、そのことぞある。二三日(ふつかみか)まぜに召すぞかし。されどそれ、まゐるにあしからず。ゆゑは、極楽浄土のあらたにあらはれ出でたまふべきために召すなり、と思ひはべれば、いかで、力堪へば、まゐりて仕うまつらむ。ゆく末に、この御堂の草木となりにしかなとこそ思ひはべれ。されば、ものの心知りたらむ人は、望みてもまゐるべきなり。されば、翁ら、またあらじ、一度欠(か)かずたてまつりはべるなり。さてまてまゐる果物をさへ恵み賜(た)び、つねに仕うまつるものは、衣裳をさへこそ宛(あ)て行はしめたまへ。されば、まゐる下人も、いみじういそがしがりてぞ、すすみつどふめる」といへば、 繋樹「しか、それさることに侍り。ただし翁らが思ひ得て侍るやうは、いとたのもしきなり。翁いまだ世に侍るに、衣裳破(や)れ、むつかしき目見はべらず。また、飯(いひ)・酒(さけ)乏(とも)しき目見はべらず。もしこのことどもの術なからむ時は、紙三枚をぞ求むべき。ゆゑは、入道殿下の御前に申文(もうしぶみ)を奉るべきなり。その文に作るべきやうは、「翁、故太政大臣貞信公殿下の御時の小舎人童(こどねりわらは)なり。それ多くの年積りて、術なくなりて侍り。閤下の君、末の家の子におはしませば、同じ君と頼み仰ぎたてまつる。もの少し恵みたまはらむ」と申さむには、少々のものは賜(た)ばじやはと思へば、それは案のものにて、倉に置きたるごとくになむ思ひはべる」といへば、世継、「それはげにさることなり。家貧しくならむ折は御寺に申文を奉らしめむとなむ、卑しきわらはべとうち語らひはべる」と、同じ心にいひかはす。  世襲.さてもさても、うれしう対面(たひめ)したるかな。年頃の袋の口あげ、綻びを裁ちはべりぬること。さても、このののしる無量寿院には、いくたびまゐりて拝みたてまつりたまひつ」といへば、  繋樹「おのれは大御堂の供養の年の会の日は、人いみじう払ふべかなりと聞きしかば、試楽(しがく)といふこと、三日かねてせしめたまひしになむ、まゐりて侍りし」といへば、世継、「おのれは、たびたびまゐりはべり。供養の日の有様のめでたさは・さらにもあらずや。またの日・今日は御仏(みほとけ)など遣うて拝みたてまつらむ、ものども取りおかれぬ先(さき)にと思ひて、まゐりて侍りしに、宮たちの諸堂拝みたてまつらせたまひし、見まうしはべりしこそ、かかることにあはむとて、今まで生きたるなりけりとおぼえはべりしか。もの覚えて後、さることをこそまだ見はべらね。御輦車(てぐるま)に四所たてまつりたりしぞかし。口に大宮・皇太后官、御袖ばかりをいささかさし出ださせたまひて侍りしに、枇杷(びは)殿の宮の御ぐしの、地(つち)にいと長く引かれさせたまひて、出でさせたまへりしは、いとめづらかなりしことかな。しりの方には、中宮・督(かん)の殿たてまつりて、ただ御身ばかり御車におはしますやうにて、御衣(おんぞ)どもは皆ながら出でて、それも地までこそ引かれはべりしか。一品(いつぽん)の官も中にたてまつりたりけるにや、御衣どもは、なにがしぬしの持ちたうび、御車のしりにぞさぶらはれし。単の御衣ぽかりをたてまつりておはしましけるなめり。御車には、まうちぎみたち引かれて、しりには関白殿をはじめたてまつり、殿ばら、さらぬ上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)、御直衣(なほし)にて歩みつづかせたまへりし、-いで、あないみじや。  中官権大夫殿のみぞ、堅固(けんご)の御物忌(ものいろ)にて率ゐらせたまはざりし。さていみじく口惜しがらせたまひける。中宮の御装束(さうざく)は、権大夫殿せさせたまへりし、いと清らにてこそ見えはべりしか。 「供養の日、啓すべきことありて、おはします所にまゐりて、五所居並ばせたまへりしを見たてまつりしかば、中官の御衣の優に見えしはわがしたればにや」とこそ、大夫殿仰せられけれ。かく口ばかりさかしだちはべれど、下らふ(げらふ)のつたなきことは、いづれの御衣も、ほど経ぬれば、色どものつぶと忘れはべりにけるよ。ことにめでたくせさせたまへりければにや、下は紅薄物(うすもの)の御単衣重(ひてぇがさね)にや、御表着よくも覚えはべらず。萩(はぎ)の織物(おりもの)の三重襲(みへがさね)の御唐衣に、秋の野を縫物にし、絵にもかかれたるにやとぞ、目もとどろきて見たまへし。  こと官々のも、殿ばらの調(てう)じて奉らせたまへりけるとぞ、人申しし。大宮は、二重織物折り重ねられて侍りし。皇太后宮は、そうじて唐装束(からそうぞく)。督(かん)の殿のは、殿こそせさせたまへりしか。こと御方々のも、絵かきなどせられたり、と聞かせたまて、にはかに薄押(はくお)しなどせられたりければ、入道殿、御覧じて、「よき呪師(じゆし)の装束かな」とて、笑ひまうさせたまひけり。  殿は、まづ御堂御堂あげつつ待ちまうさせたまふ。南大門(なんだいもん)のほどにて見まししだに、笑(ゑ)ましくおぼえはべりしに、御堂(みだう)の渡殿のもののはさまより、一品の宮の弁(べん)の乳母(めおと)、いま一人は、それも一品の宮の大輔(たいふ)の乳母・中将の乳母とかや、三人とぞうけたまはりし、御車よりおりさせたまひて、ゐざりつづかせたまへるを見たてまつりたるぞかし。  おそろしさにわななかれしかど、今日、さばかりのことはありなむやと思ひて、見まゐらするに、などてかはとは申しながら、いづれと聞えさすべきにもなく、とりどりにめでたくおはしまさふ。大宮、御ぐし御衣の裾(すそ)にあまらせたまへり。 中官は、たけに少しあまらせたまへり。皇太后官は、御衣に一尺ばかりあ率らせたまへる御裾、扇のやうにぞ。督の殿、御たけに七八寸あまらせたまへり。御扇少しのけてさし隠させたまひける。一品の宮は、殿の御前、「なにか居させたまふ。立たせたまへ」とて、長押(なげし)おりのぼらせたまふ御手をとらへつつ、助けまうさせたまふ。あまりなることは、目ももどろく心地なむしたまひける。あらはならずひきふたぎなど、つくるはせたまひけるほどに、御覧じつけられたるものかは。「あないみじ。宮仕(みやつか)へに宿世(すくせ)の尽くる日なりけり」と、生ける心地もせで、三人ながらさぶらひたまひけるほどに、「宮たち見たてまつりつるか。いかがおはしましつる。この老法師(おいほふし)の女(むすめ)たちには、けしうはあらずおはしまさふな。なあなづられそよ」と、うち笑みて仰せられかけて、いたうもふたがせたまはでおはしましたりしなむ、生き出でたる心地して、うれしなどはいふべきやうもなく、かたみに見れば、顔はそこら化粧(けさう)じたりつれど、草の葉の色のやうにて、また赤くなりなど、さまざま汗水(あせみづ)になりて見かはしたり。「さらぬ人だに、あざれたるもの覗きは、いと便なきことにするを、せめてめでたう思し召しければ、御よろこびに堰(た)へで、さはれと思し召しつるにこそと思ひなすも、心驕(こころおご)りなむする」と、のたまひいまさうじける。   かやうのことどもを見たまふるままには、いとどもこの世の栄花の御栄えのみおぼえて、染着(せんぢやく)の心のいとどますますにおこりつつ、道心(だうしん)つくべくも侍らぬに、河内国(かはちのくに)そこそこに住むなにがしの聖人(しやうにん)は、庵(いほり)より出づることもせられねど、後世の責めを思へばとて、のぼりまゐられたりけるに、関白殿まゐらせたまひて、雑人(ざふにん)どもを払ひののしるに、これこそは一の人におはすめれと見たてまつるに、入道殿の御前に居させたまへば、なはまさらせたまふなりけりと見たてまつるほどに、また行幸なりて、乱声(らんじやう)し、待ちうけたてまつらせたまふさま、御興(みこし)の入らせたまふほどなど、見たてまつりつる殿たちの、かしこまりまうさせたまへば、なは国王こそ日本第一のことなりけれと思ふに、おりおはしまして、阿弥陀堂(あみだだう)の中尊(ちゆうそん)の御前につい居(ゐ)させたまひて、拝(をが)みまうさせたまひしに、「なはなほ仏こそ上なくおはしましけれと、この会(ゑ)の庭にかしこう結縁(けちえん)しまうして、道心なむいとど熟しはべりぬる」とこそ申されはべりしか。かたはらに居られたりしなりや、まこと、忘れはべりにけり。 [一六三] 彰子受戒予定 嬉子懐妊小一条女御病気  世の中の人の申すやう、「大宮(おほみや)の入道(にふだう)せしめたまひて、太上天皇(だいじやうてんわう)の御位にならせたまひて、女院(にようゐん)となむ申すべき。この御寺(みてら)に戒壇(かいだん)あるべかなれば、世の中の尼(あま)どもまゐりて受くべかむなり」とて、よろこびをこそすなれ。この世継(よつぎ)が女(をんな)ども、かかることを伝へ聞きて、申すやう、「おのれを、その折にだに、白髪(しらが)の裾(すそ)そぎてむとなむ。なにか制(せい)する」と語らひはべれば、「なにせむにか制せむ。ただし、さらむ後(のち)には、若からむ女(め)のわらはべ求めて得さすばかりぞ」といひはべれば、「わが姪(めい)なる女(をんな)一人あり。それを今よりいひ語らはむ。いとさし離れたらむも、情(なさけ)なきこともぞある」と申せば、「それあるまじきことなり。近くも遠くも、身のためにおろかならむ人を、いまさらに寄すべきかは」となむ語らひはべる。やうやう裳(も)・袈裟(けさ)などのまうけに、よき絹(きぬ)一二疋(ひき)求めまうけはべる」 などいひて、さすがにいかにぞや、ものあはれげなるけしきの出できたるは、女(をんな)どもにそむかれむことの心ぼそきにやとぞ見えはべりし。 世継「さて、今年こそ天変(てんぺん)頻(しきり)にし、世の妖言(えうげん)などよからず聞(きこ)えはべるめれ。督(かん)の殿(との)のかく懐妊(くわいにん)せしめたまふ、院の女御殿の常の御悩(なやみ)のなかにも、今年となりては、ひまなくおはしますなるなどこそ、おそろしううけたまはれ。いでや、かうやうのことをうちつづけ申せば、昔のことこそただいまのやうにおぼえはべれ」 見かはして、繁樹(しげき)がいふやう、 「いであはれ、」かくさまざまにめでたきことども、あはれにもそこら多く見聞きはべれど、なほ、わが宝(たから)の君(きみ)に後(おく)れたてまつりしやうに、もののかなしく思うたまへらるる折こそ侍らね。八月十日あまりのことにさぶらひしかば、折さへこそあはれに、「時しもあれ」とおぼえはべりしものかな」とて、鼻たびたびかみて、えもいひやらず、いみじと思ひたるさま、まことにその折もかくこそと見えたり。 「一日(ひとひ)片時(かたとき)生きて世にめぐらふべき心地(ここち)もしはべらざりしかど、かくまでさぶらふは、いよいよひろごり栄えおはしますを見たてまつり、よろこびまうさせむとに侍(はべ)めり。さて、またの年五月二十四日こそは、冷泉院(れいぜいゐん)は誕生せしめたまへりしか。それにつけていとこそ口惜(くちを)しく、折のうれしさは、はかりもおはしまさざりしか」 などいへば、世継も、 「しか、しか」とこころよく思へるさまおろかならず。 世継「朱雀院(すざくゐん)・村上などのうちつづき生れおはしまししは、またいかが」などいふほど、あまりに恐ろしくぞ。 [一六四] 世継の夢想 また、「世継が思ふことこそ侍れ。便(びん)なきことなれど、明日とも知らぬ身にて侍れば、ただ申してむ。この一品(いつぽん)の宮(みや)の御有様のゆかしくおぼえさせたまふにこそ、また命惜しくはべれ。そのゆゑは、生れおはしまさむとて、いとかしこき夢想(むさう)見たまへしなり。さおぼえはべりことは、故女院(にようゐん)・この大宮(おほみや)など孕(はら)まれさせたまはむとて見えし、ただ同じさまなる夢に侍りしなり。それにて、よろづおしはからせたまふ御有様なり。皇太后宮にいかで啓(けい)せしめむと思ひはべれど、その宮の辺(ほとり)の人に、え会ひはべらぬが口惜(くちを)しさに、ここら集りたまへる中(なか)に、もしおはしましやすらむと思うたまへて、かつはかく申しはべるぞ。ゆく末にも、よくいひけるものかなと、思(おぼ)しあはすることも侍りなむ」といひし折こそ、記者「ここにあり」とて、さし出でまほしかりしか。 一 太政大臣道長(下)/雜々物語(くさぐさものがたり) [一六五] 光孝天皇即位の光景と、賀茂臨時祭の始  いといとあさましくめづらかに、尽(つ)きもせず、二人語らひしに、この侍(さぶらひ)、「いといと興(きよう)あることをもうけたまはるかな。さても、ものの覚えはじめは何事(なにごと)ぞや。それこそ、まづ聞かまほしけれ。語られよ」といへば、世継(よつぎ)、「六七歳より見聞きはべりしことは、いとよく覚えはべれど、そのこととなきは、証(そう)のなければ、用ゐる人もさぶらはじ。九つに侍りし時の大事(だいじ)を申しはべらむ。  小松(こまつ)の帝(みかど)の、親王(みこ)にておはしましし時の御所(ごしよ)は、皆人知りて侍り。おのが親のさぶらひし所、大炊御門(おつひのみ)よりは北、町尻(まちじり)よりは西にぞ侍りし。されば、宮の傍(かたはら)にて、つねにまゐりて遊びはべりしかば、いと閑散(かんさん)にてこそおはしまししか。二月(きさらぎ)の三日、初午((はつうま)といへど、甲午(きのえうま)の最吉日(さいきちにち)、常(つね)よりも世こぞりて、いたり事うで稲荷詣(いなりまうで)にののしりしかほ、父の詣ではべりし供にしたひまゐりて、さは申せど、幼きほどにて、坂のこはきを登りはべりしかば、困(こう)じて、えその日のうちに還向(げかう)つかまつらざりしかば、父がやがて、その御社の禰宜大夫(ねぎのたいふ)が後見(うしろみ)つかうまつりて、いとうるさくてさぶらひし宿(やど)りにまかりて、一夜は宿りして、またの日帰りはべりしに、東洞院(ひがしにとうゐん)よりのぼりにまかるに、大炊御門(ひのみかど)より西ざまに、人々のさざと走れば、あやしくて見さぶらひしかば、わが家のほどにしも、いと暗うなるまで人立ちこみて見ゆるに、-いとどおどろかれて、焼亡(せうまう)かと思ひて、上を見あぐれば、煙(けぶり)も立たず。さは、大きなる追捕(ついぶ)かなど、かたがたに心もなきまでまどひ亥かりしかば、小野官(ののみや)のほどにて、上達部の御車や、鞍(くら)置きたる馬ども、冠(かうぶり)・表(うへ)の衣(きぬ)着たる人々などの見えはべりしに、心得ずあやしくて、「何事ぞ、何事ぞ」と、人ごとに間ひさぶらひしかば、「式部卿の宮、帝にゐさせたまふとて、大殿(おほとの)をはじめたてまつりて、皆人まゐりたまふなり」とて、急ぎまかりしなどぞ、もの覚えたることにて見たまへし。  また、七つばかりにや、元慶(ぐわんぎやう)二年ばかりにや侍りけむ、式部卿の宮の侍従と申ししぞ、寛平(くわんびやう)の天皇、つねに狩を好ませおはしまして、十一月(しもつき)の二十余日(はつかあまり)のほどにや、鷹狩(たかがり)に、式部卿の宮より出でおはしましし御供に走りまゐりて侍りし。 賀茂(かも)の堤(つつみ)のそこそこなる所に、侍従殿、鷹使はせたまひて、いみじう興(きよう)に入らせたまへるほどに、俄(にはか)に霧たち、世間(せけん)もかい暗がりて侍りしに、東西(ひんがしにし)もおぼえず、暮(くれ)の往(い)ぬるにやとおぼえて、藪(やぶ)の中(なか)に倒(たふ)れ伏(ふ)して、わななきまどひさぶらふほど、時中(ときなか)や侍りけむ。後(のち)にうけたまはれば、賀茂の明神(みやうじん)のあらはれおはしまして、侍従殿にもの申させおはしますほどなりけり。そのことは、皆世に申しおかれて侍るなればなかなか申さじ。知ろしめたらむ、あはそかに申すべきに侍らず。  さて後(のち)六年ばかりありてや、賀茂の臨時(りんじ)の祭はじまりはべりけむ。位につかせおはしましし年とぞ覚えはべる。その日、酉の日にて侍れば、やがて霜月(しもつき)の果(は)ての酉の日にては侍るぞ。 はじめたる東遊(あづまあそび)の歌、敏行(としゆき)の中将ぞかし。   ちはやぶる賀茂の社(やしろ)の姫小松(ひめこまつ)よろづ代までも色はかはらじ古今(こきん)に入りて侍り。皆人知るしめしたることなれど、いみじうよみたまへるぬしかな。今に絶えずひろごらせたまへる御末とか。帝(みかど)と申せど、かくしもやはおはします。 [一六六] 八幡臨時祭 宇多・醍醐天皇の人間味 八幡(やはた)の臨時の祭、朱雀院の御時よりぞかし。朱雀院生れさせた率ひて三年は、おはします殿の御格子(みかうし)もまゐらず、夜昼(よるひる)火をともして、御帳(みちやう)のうちにておはしたてたてまゐらせたまふ、北野に怖(お)ぢまうさせたまひて。天暦(てんりやく)の帝は、いとさも守りたてまつらせたまはず。いみじき折節(おりふし)に生れおはしましたりしぞかし。朱雀院生れおはしまさずは、藤氏の御栄え、いとかくしも侍らざらまし。さて位につかせたまひて、将門(まさかど)が乱(みだれ)出できて、その御願にてとぞうけたまはりし。その東遊(あづまあそび)の歌、貫之(つらゆき)のぬしぞかし。   松もおひまたも苔(こけ)むす石清水(いはしみづ)ゆく末とほくつかへまつらむ集(しふ)にも書きて侍るぞかし」といへば、繁樹、 「この翁も、あのぬしの申されつるがごとく、くだくだしきことは申さじ。同じことのやうなれど、寛平・延喜などの御譲位のほどのことなどは、いとかしこく忘れず覚えはべるをや。伊勢(いせ)の君の、弘徴殿(こきでん)の壁に書きつけたうべりし歌こそは、 そのかみに、あはれなることと人申ししか。   別るれどあひも思はぬももしきを見ざらむことやなにかかなしき  法皇(ほふわう)の御返し、   身ひとつのあらぬほかりをおしなべてゆきかへりてもなどか見ざらむ」といへば、かたはらなる人、 「法皇の書かせたまへりけるを、延喜の、後に御覧じつけて、かたはらに書きつけさせたまへるともうけたまはるは、いづれかまことならむ」。 繋樹「同じ帝と申せど、その御時に生れあひてさぶらひけるは、あやしの民(たみ)の竃(かまど)まで、やむごとなくこそ。大小寒(だいせうかん)のころはひ、いみじう雪降り、冴えたる夜は、「諸国の民百姓いかに寒からむ」とて、御衣(おんぞ)をこそ、夜の御殿より投げ出(いだ)しおはしましければ、おのれまでも、恵みあはれびられたてまつりて侍る身と、面立(おもだ)たしくこそは。  されば、その世に見たまへしことは、なは末までもいみじきことと覚えはべるぞ。人々聞し召せ。この座にて申すは、はばかりあることなれど、かつは、若くさぶらひしほど、いみじと身にしみて思うたまへし罪も、今にうせはべらじ。今日この伽藍(がらん)にて、擬悔(さんげ)つかうまつりてむとなり。  六条(ろくでう)の式部卿の宮と申ししは、延喜の帝の一つ腹(ばら)の御はら からにおはします。野の行幸(みゆき)せさせたまひしに、この宮供奉(ぐぶ) せしめたまへりけれど、京のほど遅参(ちさん)せさせたまひて、桂(かつら)の 里にぞまゐりあはせたまへりしかば、御興とどめて、先立てたてまつらせたまひしに、なにがしといひし犬飼(いぬかひ)の、大の前足を二つながら肩に引き越して、深き河の瀬渡りしこそ、行幸に仕うまつりたまへる人々、さながら興じたまはぬなく、帝も、労ありげに思し召したる御けしきにてこそ、見えおはしまししか。  さて山口(やまぐち)入らせたまひしほどに、しらせうといひし御鷹の、鳥をとりながら、御興の鳳(ほう)の上に飛びまゐりて居てさぶらひし、やうやう日は山の端に入りがたに、光のいみじうさして、 山の紅葉(もみぢ)、錦(にしき)をはりたるやうに、鷹の色はいと白く、雉(きじ)は紺青(こんじやう)のやうにて、羽うちひろげて居てさぶらひしほどは、まことに雪少しうち散りて、折節とり集めて、さることやはさぶらひしとよ。身にしむばかり思うたまへしかば、いかに罪得はべりけむ」とて、弾指(だんし)はたはたとす。 繋樹「おほかた、延喜の帝、つねに笑みてぞおはしましける。 そのゆゑは、「まめだちたる人には、ものいひにくし。うちとけたるけしきにつきてなむ、人はものはいひよき。されば、大小こと聞かむがためなり」とぞ仰せ言ありける。それさることなり。けにくき顔には、ものいひふれにくきものなり。  さて、「われいかで、七月(ふづき).九月(ながつき)に死にせじ。相撲(すまひ)の節(せち)・九日(ここぬか)の節のとまらむが口惜(くちを)しきに」と仰せられけれど、九月にうせさせたまひて、九日の節はそれよりとどまりたるなり。その日、左衛門(さゑもん)の陣(ぢん)の前にて御鷹ども放たれしは、あはれなりしものかな。とみにこそ飛び退かざりしか。  公忠(きんただ)の弁(べん)をば、おほかたの世にとりても、やむごとなきものに思し召したりし中にも、鷹のかたざまには、いみじう興ぜさせたまひしなり。日々に政(まつりごと)を勤(つと)めたまひて、馬をいづこにぞや立てたまうて、こと果つるままにこそ、中山へはいませしか。官(くわん)のつかさの弁の曹司(ぞうし)の壁には、その殿の鷹のものはいまだ付きて侍らむ。久世の鳥・交野の鳥の味(あぢはひ)ひ、まゐり知りたりき。「かたへはそらごとをのたまふぞ。こころみたいまつらむ」とて、みそかに二所の鳥をつくりまぜて、しるしをつけて、人のまゐりたりければ、いささかとりたがへず、「これは久世(くぜ)の、これは交野(かたの)のなり」とこそまゐり知りたりけれ。かかれば、「ひたぶるの鷹飼にてさぶらふものの、殿上にさぶらふこそ見ぐるしけれ」と、延蓋『に奏しまうす人のおはしければ、「公事をおろそかにし、狩をのみせばこそは罪はあらめ、一度政(ひとたびまつりごと)をもかかで、公事をよるづ勤めて後に、ともかくもあらむは、なんでふことかあらむ」とこそ仰せられけれ。 [一六七] 大井河の行幸 いでまた、いみじく侍りしことは、やがて同じ君の、大井河(おほゐがは)の行幸(みゆき)に、富小路(とみのこうぢ)の御息所の御腹の親王(みこ)、七歳にて舞せさせたまへりしはかりのことこそ侍らざりしか。万人(ばんにん)しはたれぬ人侍らざりき。あまり御かたちの光るやうにしたまひしかば、山の神めでて、取りたてまつりたまひてしぞかし。  その御時に、いとおもしろきことども多く侍りきや。お陰かた申し尽くすべきならず。まづ申すべきことをも、ただ覚ゆることにしたがひて、しどけなく申さむ。 法皇(ほうわう)の、ところどころの修行(すぎやう)しあそばせたまうて、宮滝御覧(みやたきごらん)ぜしほどこそいといみじう侍りしか。その折、菅原(すがはら)のおとどのあそばしたりし和歌、   水ひきの白糸(しらいと)はへて織るはたは旅のころもにたちやかさねむ 大井の御幸(ごかう)も侍りしぞかし。さてまた、「みゆきありぬべき所」と申させたまふ、ことのよし秦せむとて、小一条(こいちでう)のおほいまうちぎみぞかし、   小倉山紅葉(をぐらやまもみぢ)の色もこころあらばいまひとたびのみゆきまたなむ あはれ優(いう)にもさぶらひしかな。さて行幸(みゆき)に、あまたの題ありて、やまと歌つかうまつりし中(なか)に、「猿叫∨峡(さるかひにさけぶ)」、躬恒(みつね)、   わびしらにましらななきそあしひきの山のかひある今日にやはらぬ その日の序代(じよだい)は、やがて貫之(つらゆき)のぬしこそはつかうまつりたまひしか。 [一六八] 朱雀天皇譲位の事情 さてまた、朱雀院(すざくゐん)も優(いう)におはしますとこそはいはれさせたまひしかども、将門(まさかど)が乱(みだれ)など出できて、怖(おそ)れ過ごさせおはしまししはどに、やがてかはらせたまひにしぞかし。そのほどのことこそ、いとあやしう侍りけれ。母后(ははきさき)の御もとに行幸せさせたまへりしを、「かかる御有様の思ふやうにめでたくうれしきこと」など秦(そう)せさせたまひて、「いまは、東宮(とうぐう)ぞかくて見きこえまほしき」と申させたまひけるを、心もとなく急ぎ思(おぼ)し召(め)しけることにこそありけれとて、ほどもなく譲(ゆづ)りきこえさせたまひけるに、后(きさき)の宮(みや)は、「さも思ひても申さざりしことを。ただゆく末のことをこそ思ひしか」とて、いみじう嘆かせたまひげり。  さて、おりさせたまひて後(のち)、人々の嘆きけるを御覧(ごらん)じて、院(ゐん)より后の宮に聞(きこ)えさせたまへりし、国譲(くにゆづ)りの日、   日のひかり出でそふ今日のしぐるるはいづれの方の山辺なるらむ 后の宮の御返し、   白雲(しらくも)のおりゐる方(かた)やしぐるらむおなじみ山のゆかりながらになどぞ聞えはべりし。院は数月(つきごろ)、綾綺殿(りようきでん)にこそおはしまししか。後(のち)は少し悔(く)い思し召すことありて、位にかへりつかせたまふべき御祈(いのり)などせさせたまひげりとあるは、まことにや。御心(みこころ)いとなまめかしうもおはしましし。御心地(ここち)おもくならせたまひて、太皇太后官の幼くおはしますを見たてまつらせたまひて、いみじうしはたれおはしましけり。   くれ竹のわが世はことになりぬともねは絶えせずぞなほなかるべき まことにこそかなしくあはれにうけたまはりしか。 [一六九] 村上天皇の寛容  村上(むらかみ)の帝(みかど)、はた申すべきならず。「なつかしうなまめきたる方(かた)は、延喜(えんぎ)にはまさりまうさせたまへり」とこそ、人申すめかりしか。「われをば人はいかがいふ」など、人に問はませたまひけるに、「『ゆるになんおはします』と、世には申す」と奏(そう)しければ、「さてはほむるなんなり。王(きみ)のきびしうなりなば、世の人いかが堪(た)へむ」とこそ仰(おほ)せられけれ。 [一七〇] 鶯 宿 梅  いとをかしうあはれに侍りしことは、この天暦(てんりやく)の御時に、清涼殿(せいりようでん)の御前(おまへ)の梅の木の枯れたりしかば、求めさせたまひしに、なにがしぬしの蔵人(くらうど)にていますがりし時、うけたまはりて、「若き者どもはえ見知らじ。きむぢ求めよ」とのたまいしかば、一京(ひときやう)まかり歩(あり)きしかども、侍らざりしに、西京(にしきやう)のそこそこなる家に、色濃(いろこ)く咲きたる木の、様体(やうだい)うつくしきが侍りしを、掘りとりしかば、家あるじの、「木にこれ結(ゆ)ひつけて持(も)てまゐれ」といはせたまひしかば、あるやうこそはとて、持てまゐりてさぶらひしを、「なにぞ」とて御覧(ごらん)じければ、女の手にて書きて侍りける。 勅(ちよく)なればいともかしこしうぐいすの宿はと問はばいかが答へむとありけるに、あやしく思(おぼ)し召(め)して、「何者(なにもの)の家ぞ」とたづねさせたまひければ、貫之(つらゆき)のぬしの御女(みむすめ)の住む所なりけり。「遺恨(ゐこん)わざをもしたりけるかな」とて、あまえおはしましける。繁樹(しげき)今生(こんじやう)の辱号(ぞくがう)は、これや侍りけむ。さるは、「思ふやうなる木持てまゐりたり」とて、衣(きぬ)かづけられたりしも、辛(から)くなりにき」とて、こまやかに笑ふ。 [一七一] 承香殿の女御 斎宮の女御  繁樹、また、「いとせちにやさしく思ひたまへしことは、この同じ御時のことなり。承香殿(しようきやうでん)の女御(にようご)と申ししは、斎宮(さいぐう)の女御よ。「帝(みかど)ひさしくわたらせたまはざりける秋の夕暮(ゆうぐれ)に、琴(こと)をいとめでたく弾(ひ)きたまひければ、急ぎわたらせたまひて、御かたはらにおはしましけれど、人やあるとも思(おぼ)したらで、せめて弾きたまふを、聞(きこ)し召(め)せば、 秋の日のあやしきほどの夕暮に荻(おぎ)吹く風のおとぞきこゆると弾きたりしほどこせちなりしか」と御集(ぎよしふ)に侍るこそ、いみじうさぶらへ」といふは、あまりかたじけなしやな。  [一七二]  薬樹の妻・世継の妻・良琴衆樹ら ある人、「城外(じやうぐわい)やしたまへりし」といへば、 繋樹「遠国(おんごく)にはまからず。和泉国(いづみのくに)にこそ、貫之(つらゆき)のぬしの御任(ごにん)に下(くだ)りて侍りしか。「ありとはしをば思ふべしやは」と、よまれしたびの供(とも)にもさぶらひき。雨の降りしさま」 など語りしこそ、古草子(ふるざうし)にあるを見るは、ほど経たる心地しはべりしに、昔にあひにたる心地して、をかしかりしか。  この侍(さぶらひ)もいみじう興じて、 「繁樹が女(め)どもこそ、いま少しこまやかなることどもは語られめ」 といへば、妻「われは京人(きやうびと)にも侍らず、高き宮仕(みやづかへ)へなどもしはべらず。若くより、この翁に添ひさぶらひにしかば、はかばかしきことをも見た率へぬものをは」といらふれば、 侍「いづれの国の人ぞ」と間ふ。 妻「陸奥国安積(みちのくにあさか)の沼にぞ侍りし」といへば、 侍「いかで京には来(こ)しぞ」と間へば、 妻「その人とは、え知りたてまつらず、歌よみたまひし北(きた)の方(かた)おはせし守(かみ)の御任にぞ、上(のぼ)りはべりし」といふに、中務(なかつかさ)の君(きみ)にこそと聞くもをかしくなりぬ。 侍「いといたきことかな。北の方をば誰(たれ)とか聞(きこ)えし。よみたまひげむ歌は覚ゆや」といへば、 妻「その方(かた)に心も得で、覚えはべらず。ただ上りたまひしに、 逢坂(あふさか)の関(せき)におはして、よみたまへりし歌こそ、ところどころ覚えはべれ」とて、   都(みやこ)には待つらむものを逢坂の関まで来(き)ぬと告(つ)げややら まし など、たどたどしげに語るさま、まことに男(をとこ)にたとしへなし。   繁樹、  「この人をば人と覚えずかとよ。さやうの方(かた)は覚ゆらむものぞ。世間(せけん)だましひはしも、いとかしこく侍るをとり所にて、え去りがたく思ひたまふるなり」  といふに、世継(よつぎ)、  「いで、この翁(おきな)の女人(をんなびと)こそ、いとかしこくものは覚えはべれ。  いまひとめぐりがこのかみにさぶらへば、見たまへぬほどのことなども、あれは知りて侍るめり。染殿(そめどの)の后(きさい)の宮(みや)の洗(すま)しに侍りけり。母も上(かん)の刀自にて仕うまつりければ、幼くよりまゐり通ひて、忠仁公(ちゆうじんこう)をも見たてまつりけり。童部(わらはべ)がたちのほどの、いとものぎたなうもさぶらはざりけるにや、やむごとなき君達(きんだち)も御覧じいれて、兼輔(かねすけ)の中納言・良峯衆樹(よしみねもろのき)の宰相(さいしやう)の御文(ふみ)なども持ちて侍るめり。中納言はみちのくにがみに書かれ、宰相のは胡桃色(くるみいろ)にてぞ侍るめる。  この宰相ぞかし、五十までさせることなく、おぼやけに捨てられたるやうにていますがりけるが、八幡(やはた)にまゐりたうび たるに、雨いみじう降る石清水(いはしみづ)の坂登りわづらひつつまゐりたまへるに、御前の橘(たちばな)の木の少し枯れて侍りけるに立ち寄りて、   ちはやぶる神の御前の橘ももろきもともに老いにけるかなとよみたまへは、神聞き、あはれびさせたまひて、橘も栄え、宰相も思ひかけず頭(とう)になりたまふとこそはうけたまはりしといへば、侍(さぶらひ)、「賀茂(かも)の御前(おまへ)にとかや、はるかの世の物語(ものがたり)にわらはべ申しはべるめるは」といらふれば、世継「さもや侍りけむ。ほど経て僻事(ひがごと)も申しはべらむ。宰相をば見たいまつりしかど、人となりてこそ尋ねうけたまはれ」といらふ。侍、「そはさなり。その宰相は、五十六にて宰相になり、左近中将(さこんのちゆうじやう)かけていませしか」  世継「その折はなにともおほえはべらざりしかど、この頃(ごろ)思ひ出ではべれば、見ぐるしかりけることかなと思ひはべる」この侍、「いかでさる有識(いうそく)をば、ものげなきわかうどにてはとりこめられしぞ」と間へば、世継「さればこそ。さやうに好き惚(ほ)きさぶらひしものの、心にもあらず、世継が家にはまうで来(き)よりては、恥(はぢ)にして、いかばかりのいさかひはべりしかど、さばかりにこかけそめて、あからめせさせはべりなむや。さるほどに、ゐつきさぶらひては、翁(おきな)をまた一夜(ひとよ)もほかめせさせはべらぬをや」と、ほほゑみたる口つき、いとをこがまし。  世継「また、この女どもも、世継も、しかるべきにて侍りけるぞ。かの女、二百歳ばかりになりにてはべり。兼輔の中納言・衆樹(もろき)の宰相(さうしやう)も、今まであとかはねだにいませず、いかがしはべらまし。世継も、今様(いまよう)の若き女ども、さらに語らはれはべらじ」といへば、繁樹「かかる命長(いのちなが)の生きあはず侍らましかば、いとあしく侍らまし」とて、こころよく笑ふ。げにと聞えてをかしくもあり、語るも現(うつつ)のことともおぼえず。 [一七三] 兵衛の内侍の親 実頼ら先帝を偲ぶ 世継「あはれ、今日具(ぐ)して侍らましかば、女房(にようぼう)たちの御耳に、いま少しとどまることどもは、聞かせたまへてまし。私(わたくし)の頼(たの)む人に ては、兵衛内侍(ひやうゑのないし)の御親をぞしはべりしかば、内侍のもとへは、時々まかるめりき」といふに、「とは誰(たれ)にか」といふ人ありければ、世継「いで、この高名(かうみやう)の琵琶(びは)ひき。相撲(すまひ)の節(せち)に玄上(げんじやう)たまはりて、御前(おまへ)にて「青海波(せいがいは)」つかうまつられたりしは、いみじかりしものかな。博雅(はくが)の三位(さんみ)などだにおぼろげにはえ鳴らしたまはざりけるに、これは承明門(しようめいもん)まで聞えはべりしかば、左(ひだり)の楽屋(がくや)にまかりて、うけたまはりしぞかし。  かやうにもののはえ、うべうべしきことどもも、天暦(てんりやく)の御時までなり。冷泉院(れいぜいゐん)の御世(みよ)になりてこそ、さはいへども、世は暗れふたがりたる心地せしものかな。世のおとろふることも、その御時よりなり。小野宮殿(おののみやどの)も、一(いち)の人と申せど、よそ人にならせたまひて、若くはなやかなる御舅(をぢ)たちにまかせたてまつらせたまひ、また帝(みかど)は申すべきならず。  あはれにさぶらひけることは、村上うせおはしまして、またの年、小野宮(をののみや)に人々まゐりたまひて、いと臨時客(りんじきやく)などはなけれど、「嘉辰令月(かしんれいげつ)しなどうち誦(ずん)ぜさせたまふついでに、一条(いちでう)の左大臣・六条殿(ろくでうどの)など拍子(はうし)とりて、「席田(むしろだ)」うち出でさせたまひけるに、「あはれ、先帝(せんだい)のおはしまさましかば」とて、御笏(しやく)もうち置きつつ、あるじ殿(との)をはじめたてまつりて、事忌(こといみ)もせさせたまはず、上(うへ)の御衣(おんぞ)どもの袖濡(そでぬ)れさせたまひにけり。さることなりや。何事(なにごと)も、聞き知り見分(みわ)く人のあるはかひあり、なきはいと口惜(くちを)しきわざなり。今日かかることども申すも、わ殿(どの)の聞きわかせたまへは、いとどいま少しも申さまほしきなり」といへは、侍(さぶらひ)もあまえたりき。 [一七四] 一条雅信・六条重信  世継「藤氏(とうし)の御ことをのみ申しはべるに、源氏(げんじ)の御こともめづらしう申しはべらむ。この一条殿・六条の左大臣殿たちは、六条の一品式部卿(いつぽんしきぶきやう)の宮(みや)の御子(みこ)どもにおはしまさふ。寛平(くわんぴよう)の御孫(まご)なりとばかりは申しながら、人の御有様、有識(いくそく)におはしまして、いづれをも村上の帝(みかど)ときめかしまうさせたまひしに、いま少し六条殿をば愛しまうさせたまへりけり。兄殿(あにどの)は、いとあまりうるはしく、公事(おほやけごと)よりほかのこと、他分(たぶん)には申させたまはで、ゆるぎたる所のおはしまさざりしなり。弟殿(おととどの)は、みそかごとは無才(むざえ)にぞおはしまししかど、若らかに愛敬(あいぎやう)づき、なつかしき方はまさらせたまひしかばなめりとぞ、人申しし。父宮(ちちみや)は出家(すけ)せさせたまひて、仁和寺(にんなじ)におはしまししかば、六条殿、修理大夫(すりのかみ)にておはしまししほどなれば、仁和寺へまゐらせたまふゆき帰りの道を、一度(ひとたび)は、東(ひんがし)の大宮(おほみや)より上(のぼ)らせたまひて、一条より西ざまにおはしまし、また一度は、西の大宮より下(くだ)らせたまひて、二条より東(ひんがし)ざまなどに過ぎさせたまひつつ、内裏(だいり)を御覧(ごらん)じて、破れたる所あれば、修理(すり)せさせたまひげり。いと手ききたる御心(こころ)ばへなりな。  また、一条殿の仰(おほ)せられけるは、「親王(みこ)たちのなかにて、世の案内(あない)も知らず・だづきなかりしかば・さるべき公事(くじ)の折は、人より先にまゐり、こと果(は)てても、最末(いとすゑ)にまかり出でなどして、見習ひしなり」とそのたまはせける。八幡(やはた)の放生会(はうじやうゑ)には・御馬奉らせたまひしを・御使(つかひ)などにも浄衣(じやうえ)をたまはせ、御みずからも清(きよ)らせたまひしかばにや、御前(おまへ)近き木に山鳩(やまばと)のかならず居て、ひき出づる折に飛び立ちければ、かひありと、よるこび興(きよう)ぜさせたまひげり。御心(みこころ)いとうるはしくおはします人の、信(しん)をいたさせたまひしかば、大菩薩(だいぼさつ)のうけまうさせたまへりけるにこそ。ひととせの旱(ひでり)の御祈(いのり)にこそ、東三条殿(とうさんでうどの)の御賀茂詣(かもまうで)せさせたまひしには、この一条殿もまゐらせたまひき。大臣にならせたまひぬれは、さる例(れい)なけれども、天下の大事(だいじ)なりとて、御出立(いでた)ちの所にはおはしまさで、わが御殿(ごてん)の前わたらせたまひしほどに、引き出でて具(ぐ)しまうさせたまひしなり。この生には御数珠(ずず)とらせたまふことはなくてただ毎日、「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、南無金峯山金剛蔵王(きんぶさんこんがざわう)、南無大般若波羅蜜多心経(だいはんにやはらみたしんぎやう)」と、冬の御扇(あふぎ)を数(かず)にとりて、一百遍(いちひやくへん)づつぞ念(ねん)じ申させたまひける。それよりほかの御勤(つとめ)せさせたまはず。四条(しでう)の大后(おほきさい)の宮(みや)に、かくなむと申す人のありければ、聞かせたまひて、「なつかしからぬ御本尊(ごほんぞん)かな」とぞ仰(おほ)せられ この殿(との)こそ、「荒田(あらた)に生(お)ふる」をば、なべてのやうには謡(うた)ひ変へさせたまひけれ。一条院(いちでういん)の御時、臨時の祭の御前(おまへ)のこと果てて、上達部たちの物見(ものみ)に出でたまひしに、外記(げき)の隅(すみ)のほど過ぎさせたまふとて、わざとはなく、口ずさみのやうに謡はせたまひしが、なかなか優(いう)におぼえはべりし。「富草(とみくさ)の花、手に摘(つ)みいれて、宮へまゐらむ」のほどを、例(れい)には変りたるやうにうけたまはりしかば、遠きほどに、老(おい)の僻耳(ひがみみ)にこそはと思ひたまへしを、この按察大納言殿(あぜちだいなごんどの)もしかのたまはせける。 「殿上人(てんじやうびと)にてありしかば、遠くて、よくも聞かざりき。変りたりしやうの、めづらしう、さまかはりておぼえしは、あの殿(との)の御ことなりしかばにや。またも聞かまほしかりしかども、さもなくてやみにしこそ、今に口惜(くちお)しくおぼゆれ」とこそのたまふなれ。  このおほい殿(どの)たちの御弟(おとと)の大納言、優(いう)におはしましき。おほかた六条の宮の御子(みこ)どもの、皆めでたくおはしまさひしなり。御法師子(ほふしご)は、広沢(ひろさか)の僧正(そうじやう)・勧修寺(くわんしゆうじ)の僧正二所(ふたところ)こそはおはしまししか。おほかたそのほどには、かたがたにつけつつ、いみじき人々のおはしまししものをや」といへは、「この頃(ごろ)もさやうの人はおはしまさずやはある」と、侍(さぶらひ)のいへば、世継「この四人の大納言たちよな。斉信(ただのぶ)・公任(きんたふ)・行成(ゆきなり)・俊賢(としかた)など申す君達(きんだち)は、またさらなり。 [一七五] 円融院、右清水臨時祭を御覧 さてまた、多くの見物(みもの)しはべりし中(なか)にも、花山院(くわさんゐん)の御時の石清水(いはしみづ)の臨時の祭、円融院(ゑんゆうゐん)の御覧(ごらん)ぜしばかり、興(きよう)あることさぶらはざりき。その折の蔵人頭(くらうどのとう)にては、今の小野宮(をののみや)の右大臣殿ぞおはしましし。御前(おまへ)のこと果(は)てけるままに、院はつれづれにおはしますらむかしと思(おぼ)し召(め)して、まゐらせたまへりければ、さるべき人もさぶらひたまはざりけり。蔵人・判官代(はうぐわんだい)ばかりして、いといとさうざうしげにておはします。かくまゐらせたまへるを、いと時よう思し召したる御けしきを、いとあはれに心ぐるしう見まゐらせさせたまひて、「もの御覧ぜよ 」など、御けしきたまはらせたまへば、「にはかにはいかがあるべからむ」と仰(おほ)せられけるを、「かくて実資(さねすけ)さぶらへば、また、殿上(てんじやう)にさぶらふ男(をのこ)どもばかりにてあへはべりなむ」とそそのかし申させたまふ。御厩(みまや)の御馬ども召して、さぶらひしかぎり、御前仕(ごぜんつか)まつり、頭中将(とうちゆうじやう)は束帯(そくたい)ながらまゐりたまふ。堀河院(ほりかはのゐん)なれば、ほど近く出でさせたまふに、物見車(ものみぐるま)ども二条大宮(にでうおほみや)の辻(つじ)に立ちかたまりて見るに、布衣(ほい)・衣冠(いくわん)なる御前(ごぜん)したる車の、いみじく人払(はら)ひ、なべてならぬ勢(いきはひ)なる来(く)れは、誰(たれ)ばかりならむとあやしく思ひあへるに、頭中将(とうちゆうじやう)、下襲(したがさね)の尻(しり)はさみて、移置(うつしお)きたる馬に乗りておはするに、院のおはしますなりけりと見て、車どもも、徒人(かちびと)も、てまどひし立ち騒(さわ)ぎて、いとものさわがし。二条(にでう)よりは少し北によりて、冷泉院(れいぜいゐん)の築地(ついひぢ)づらに、御車(みくるま)立てつ。御前(ごぜん)どもおりてさぶらひ並(な)みたまふほどに、内(うち)より見物(みもの)しに、引きつづき出でたまふ上達部(かんだちめ)たちの見たまふに、大路(おほち)のいみじうののしれば、あやしくて、「何事ぞ(なにごと)」と問はせたまふに、「院のおはしますなり」と申しけるを、よにあらじと思(おぼ)すに、「頭中将もおはします」 といふにぞ、まことなりけりとおぼえつつ、御車(みくるま)よりいそぎおりつつ、皆まゐりたまひし。大臣二人は、左右(さう)の御車の筒(どう)うち押(おさ)へて立たせたまへり。東三条殿(とうさんでうどの)・一条(いちでう)の左大臣殿よ。さて納言以下(なごんいげ)は、轅(ながえ)のこなたかなたにさぶらひたまふ。なかなかうるはしからむ、ことの作法(さはふ)よりも、めでたく侍りしものかな。舞人(まひびと)・陪従(べいじゆう)は皆乗りてわたるに、時中(ときなか)の源大納言(げんだいなごん)の、いまだ大蔵卿(おほくらきやう)と申しし折ぞ、使(つかひ)にておはせし、御車の前近く立ちとどまりて、「求子(もとめご)」を袖(そで)のけしきばかりつかまつりたまひて、つい居(ゐ)たまひしままに、御はた袖を顔におしあててさぶらひたまひしかば、香(かう)なる御扇(あふぎ)をさし出させたまひて、「はやう」とかかせたまひしかばこそ、少しおし拭(のご)ひて立ちたまひしか。すべてさばかり優(いう)なることまたさぶらひなむや。 げにあはれなることのさまなれば、人々も御けしきかはり、院(ゐん)の御前(おまへ)にも、少し涙ぐみおはしましけりとぞ、後(のち)にうけたまはりし。神泉(しんせん)の丑寅(うしとら)の角(すみ)の垣(かき)のうちにて見たまへしなり。  また、若く侍りし折も、仏法(ぶつぽう)うとくて、世ののしる大法会(だいほふゑ)ならぬには、まかりあふこともなかりしに、まして年積(としつも)りては、動きがたくさぶらひしかども、参河(みかは)の入道(にふだう)の入唐(につたう)の馬のはなむけの講師(こうじ)、清照法橋(せいせうほつけう)のせられし日こそ、まかりたりしか。さばかり道心(だうしん)なきものの、はじめて心起ることこそさぶらはざりしか。まづは神分(しんぶん)の心経(しんぎやう)・表白(へうびやく)のたうびて、鐘(かね)打ちたまへりしに、そこぼくあつまりたりし万人(ばんにん)、さとこそ泣きて侍りしか。それは道理(だうり)のことなり。  また、清範律師(せいはんりし)の、犬(いぬ)のために法事(ほふぢ)しける人の講師に請(しやう)ぜられていくを、清照法橋、同じほどの説法者(せほふざ)なれば、いかがすると聞きに、頭(かしら)つつみて、誰(たれ)ともなくて聴聞(ちやうもん)しければ、「ただいまや、過去聖霊(くわこしやうりやう)は蓮台(れんだい)の上にてひよと吠(ほ)えたまふらむ」とのたまひければ、「さればよ。こと人、かく思ひよりなましや。なは、かやうのたましひあることは、すぐれたる御房(ごばう)ぞかし」とこそほめたまひけれ。まことにうけたまはりしに、をかしうこそさぶらひしか。これはまた、聴聞衆(ちやうもんしゆう)ども、さざと笑ひてまかりにき。いと軽々(きやうきやう)なる往生人(わうじやうにん)なりや。また、無下(むげ)のよしなしごとに侍れど、人のかどかどしく、たましひあることの興(きよう)ありて、優(いう)におぼえはべりしかばなり。  法成寺(ほふじやうじ)の五大堂供養(ごだいだうくやう)は、師走(しはす)には侍らずやな。きはめて寒かりし頃(ころ)、百僧(ひやくそう)なりしかば、御堂(みだう)の北の庇(ひさし)にこそは、題名僧(だいみやうそう)の座(ざ)はせられたりしか。その料(れう)にその御堂の庇はいれられたるなり。わざとの僧膳(そうぜん)はせさせたまはで、湯漬(ゆづけ)ばかりたまふ。行事(ぎやうじ)二人に、五十人づつ分(わか)たせたまひて、僧の座せられたる御堂の南面(みなみおもて)に、鼎(かなへ)を立てて、湯をたぎらかしつつ、御(お)ものを入れて、いみじう熱くてまゐらせ渡したるを、思ふにぬるくこそはあらめと、僧たち思ひて、ざふざふとまゐりたるに、はしたなききはに熱かりければ、北風(きたかぜ)はいとつめたきに、さばかりにはあらで、いとよくまゐりたる御房たちもいまさうじけり。後に、「北向きの座にて、いかに寒かりけむ」など、殿(との)の問はせたまひければ、「しかじかさぶらひしかば、こよなく暖(あたたまりて)まりて、寒さも忘れはべりにき」と申されければ、行事(ぎやうじ)たちをいとよしと思(おぼ)し召(め)されたりけり。ぬるくてまゐりたりとも、別(べち)の勘当(かんだう)などあるべきにはあらねど、殿をはじめたてまつりて、人にほめられ、ゆく末にも、「さこそありけれ」といはれたうばむは、ただなるよりはあしからず、よきことぞかし。 [一七六] 故女院詮子の四十の賀  いでまた、故女院(にようゐん)の御賀に、この関白殿、「陵王(りようわう)」、春宮大夫殿(とうぐうのだいぶどの)、「納蘇利(なつそり)」舞(ま)はせたまへりしめでたさはいかにぞ。「陵王」はいと気高(けだか)くあてに舞はせたまひて、御禄(ろく)たまはらせたまひて、舞ひすてて、知らぬさなにて入りらせたまひぬる御うつくしさ、めでたさに、並(なら)ぶことあらじ、と見まゐらするに、「納蘇利」のいとかしこく、また、御禄を、これはいとしたたかに御肩(おほんかた)にひきかけさせたまひて、いまひとかへり、えもいはず舞はせたまへりし興(きよう)は、またかかるべかりけるわざかな、とこそおぼえはべりしか。御師(おんし)の、「陵王」はかならず御禄は捨てさせたまひてむぞ、同じさまにせさせたまはむ、目馴(めな)れたるべければ、さまかへさせたてまつりたるなりけり。心ばせまされりとこそはいはれはべりしか。女院かうぶたまはせば、大夫殿(だいぶどの)をいみじくかなしがりまさせたまはすめりしか。かたのやうに舞かせたまふともあしかるべき御年のほどにもおはしまさず、わろしと人の申すべきにも侍らざりしに、まことにこそ、二所(ふたところ)ながら、この世の人とは見えせたまはで、天童(てんどう)などの降り来(き)たるとこそ見えさせたまひしか。 [一七七] 太皇太后彰子の大原野行啓の華やかさ  また、この大宮(おほみや)の大原野(おほはらの)行啓(ぎやうけい)はいみじうはべりし。ことに雨の降りしこそいと口惜(くちを)しくはべりしことよ。舞人(まいびと)には、たれたれ、それそれの君達(きんだち)などかそへて、一(いち)の舞(まひ)には、関白殿(くわんぱくどの)の君(きみ)とこそはせさせたまひしか。試楽(しがく)の日、掻練襲(かいねりがさね)の御下襲(したがさね)に、黒半臂(くろはんび)たてまつりたりしは、めづらしくさぶらひしものかな。闕腋(わきあけ)に人の着たまへりしを、いまだ見はべらざりしかば。行啓には、入道殿、それがしといふ御馬にたてまつりて、御随身(みずいじん)四人と、らんもんにあげさせたまへりしは、軽々(かろがろ)しかりしわざかな。公忠(きんただ)が少し控(ひか)けつつ、所おきまうししを、制せさせたまひしかば、なほ少し怖(おそ)りましてこそありしか。かしこく京(きやう)のほどは雨も降らざりしぞかし。閑院(かんゐん)の太政大臣殿の、西の七条より帰らせたまひしをこそ、入道殿いみじう恨みまうさせたまひけれ。堀河(ほりかは)の左大臣殿は、御社(みやしろ)までつかまつらせたまひて、御引出物(ひきいでもの)御馬あり。枇杷殿(びはどの)の宮(みや)・中宮(ちゆうぐう)とは、金造(こがねづくり)の御車(みくるま)にて、まうちぎみたちの、やむごとなきかぎり選(え)らせたまへる御前具(ごぜんぐ)しまうさせたまへりき。御車のしりには、皇后宮の御乳母(めのと)、維経(これつね)のぬしの御母(みはは)、中宮の御乳母、兼安(かねやす)・実任(さねたふ)のぬしの御母、おのおのこそさぶらはれけれ。殿(との)の君達(きんだち)のまだ男(をとこ)にならせたまはぬ、童(わらは)にて皆仕(つか)うまつらせたまへりき。 [一七八] 怪異、後の障りなし―大極殿・春日社前 また、ついでなきことには侍れど、怪(け)と人の申すことどもの、させることなくてやみにしは、前(さき)の一条院(いちでうゐん)の御即位の日、大極殿(だいこくでん)の御装束(そうぞく)すとて人々あつまりたるに、高御座(たかみくら)のうちに、髪(かみ)つきたるものの頭(かしら)の、血うちつきたるを見つけたりける、あさましく、いかがすべきと行事(ぎやうじ)思ひあつかひて、かばかりのことを隠すべきかとて、大入道殿(おほにうだうどの)に、「かかることなむさぶらふ」と、なにがしのぬしして申させけるを、いと眠(ねぶ)たげなる御けしきにもてなせたまひて、ものも仰(おほ)せられなば、もし聞(きこ)し召(め)さぬにやとて、また御けしきたまはれど、うち眠らせたまひて、なほ御いらへなし。いとあやしくて、さまで大殿籠(おおとのごも)り入りたりとは見えさせたまはぬに、いかなればかくてはおはしますぞと思ひて、とばかり御前(おまへ)にさぶらふにぞ、うちおどろかせたまふさまにて、「御装束(そうぞく)は果(は)てぬるにや」と仰せらるるに、聞かせたまはぬやうにてあらむと、思(おぼ)し召(め)しけるにこそと心得て、立ちたうびける。げにかばかりの祝(いはひ)の御こと、また今日になりてとまらむも、いまいましきに、やをらひき隠してあるべかりけることを、心肝(こころぎも)なく申すかなと、いかに思し召しつらむと、後(のち)にぞ、かの殿(との)もいみじう悔(く)いたまひける。さることなりしかな。されば、なでふことかはうはします、よきことにこそありけれ。 また、大宮(おほみや)のいまだ幼くおはしましける時、北(きた)の政所具(まんどころぐ)したてまつらせたまひて、春日(かすが)にまゐらせたまひけるに、御前(おまへ)のものどものまゐらせすゑたりけるを、俄(にはか)に辻風(つじかぜ)の吹き纒(まつ)ひて、東大寺(とうだいじ)の大仏殿(だいぶつでん)の御前に落したりけるを、春日(かずが)の御前なるものの源氏(げんじ)の氏寺(うじでら)に取られたるはよからぬことにや。これをも、その折、世の人申ししかど、ながく御末つがせたまふは吉相(きつさう)にこそはありけれ、とぞおぼえはべるな。夢も現(うつつ)も、「これはよきこと」と人申せど、させることなくてやむやう侍り。また、かやうに怪(け)だちて見たまへきこゆることも、かくよきこともさぶらふな。 [一七九] 世継、自分の話を自慢し侍の才学ほめる まことは、世の中にいくそばくあはれにもめでたくも興(きよう)ありて、うけたまはり見たまへ集めたることの、数(かず)知らず積(つも)りて侍る翁(おきな)どもとか、人々思し召す。やむごとなくも、また下(くだ)りても、間近(まぢか)き御簾(みす)・簾(すだれ)のうちばかりや、おばつかなさ残りて侍らむ。 それなりとも、各宮(おのおのみや)・殿(との)ばら・次々の人の御あたりに、人の うち聞くばかりのことは、女房(にようばう)・わらはべ申し伝へぬやうやは侍る。されば、それも、不意(ふい)に伝へうけたまはらずしもさぶらはず。されど、それをばなにとかは語りまうさむずる。ただ世にとりて、人の御耳とどめさせたまひぬべかりし昔の ことばかりを、かく語りまうすだにいとをこがましげに御覧(ごらん)じおこする人もおはすめり。今日は、ただ殿のめづらしう興(きよう)ありげに思(おぼ)して、あどをよくうたせたまふにはやされたてまつりて、かばかりも口あげそめて侍れば、なかなか残り多く、またまた申すべきことは、期(ご)もなく侍るを、もしまことに聞(きこ)し召(め)しはてまほしくは、駄一疋(だいつぴき)をたまはせよ。はひ乗りてまゐりはべらむ。 かつまた、御宿(やど)りにまゐりて、殿の御才学(さいがく)のほどもうけた女はらまはしう思ひたまふるやうは、いまだ年頃(としごろ)、かばかりもさしいらへしたまふ人に対面(たいめ)たまはらぬに、時々くはへさせたまふ御ことばの、見たてまつるは、翁らが玄孫(やしはご)のほどにこそはとおぼえさせたまふに、この知るしめしげなることども、思ふに古き御日記(にき)などを御覧(ごらん)ずるならむかしと心にくく下ラフ(げらふ)はさばかりの才(ざえ)はいかでか侍らむ。ただ見聞きたまへしことを心に思ひおきて、かくさかしがり申すにこそあれ。まこと人(びと)にあひたてまつりては、思(おぼ)し咎(とが)めたまふことも侍らむと、はづかしうおはしませば、老(おい)の学問にもうけたまはりあかさまほしうこそ侍れ」といへば、繁樹(しげき)もただ、「かうなり、かうなり。さらむ折は、かならず告(つ)げたまふべきなり。杖(つゑ)にかかりても、かならずまゐりあひまうしはべらむ」と、うなづきあはす。 [一八〇] 世継、自分の話の真実なるを誓う 世継「ただし、さまでのわきまへおはせぬ若き人々は、そら物語(ものがたり)する翁(おきな)かなと思すもあらむ。わが心におぼえて、一言(ひとこと)にても、むなしきことくははりて侍らば、この御寺(みてら)の三宝(さんぽう)、今日の座(ざ)の戒和尚(かいわじやう)に請(しやう)ぜられたまふ仏(ぶつ)・菩薩(ぼさつ)を証(しよう)としたてまつらむ。なかにも、若うより、十戒(じつかい)のなかに、妄語(まうご)をばたもちて侍る身なればこそ、かく命をばたもたれてさぶらへ。今日、この御寺のむねとそれを授(さづ)けたまふ講(こう)の庭にしもまゐりて、あや率ちまうすべきならず。おほかた、世のはじまりは、人の寿(いのち)は八万歳なり。それがやうやう減(げん)じもていきて、百歳になる時、仏(ほとけ)は出でおはしますなり。されど、生死(しやうじ)の定(さだ)めなきよしを人に示(しめ)したまふとて、なはいま二十年を約(つづ)めて八十と申しし年(とし)、入滅(にうめつ)せさせたまひにき。その年より今年まで、一千九百七十三年にぞなりはべりぬる。釈迦如来(しやかによらい)滅したまふを期(ご)にて、八十には侍れど、仏、人の命を不定(ふぢやう)なりと見せさせたまふにや、この頃(ごろ)も、九十・百の人、おのづから聞(きこ)えはべるめれど、この翁(おきな)どもの寿(いのち)は希(まれ)なること、「甚深甚深希有希有(じんしんじんしんけうけう)なり」とは、これを申すべきなり。  いと昔は、かばかりの人侍らず。神武(じんむ)天皇をはじめたてまつりて、二十余代までの間に、十代ばかりがほどは、百歳・百余歳までたもちたまへる帝(みかど)もおはしましたれど、末代(まつだい)には、けやけき寿(いのち)もちて侍る翁なりかし。かかれば、前生(ぜんしやう)にも戒(かい)を受けたもちてさぶらひけると思ひたまふれば、この生にも破らでまかりかへらむと思ひたまふるなり。今日、この御堂(みだう)に影向(かげかう)したまふらむ神明(しんめい)・冥道(みやうだう)たちも聞(きこ)し召(め)せ」とうちいひて、したり顔(がほ)に、扇(あうぎ)うちつかひつつ、見かはしたるけしき、ことわりに、何事(なにごと)よりも、公(おほやけ)私(わたくし)うらやましくこそ侍りしか。 [一八一] 繁樹の長寿と高麗の相人の言 繋樹「さてもさても、繁樹(しげき)が年かぞへさせたまへ。ただなる折は、年を知りはべらぬが口惜(くちお)しきに」 といへば、侍、「いでいで」とて、侍「十三にておほき大殿(おほとの)にまゐりき」とのたまへは、.十(とを)ばか りにて、陽成院(やうぜいゐん)のおりさせたまふ年はいますがりけるにこそ。 それにて推(すい)し思ふに、あの世継(よつぎ)のぬしには、いま十余年が弟(おとと)にこそあむめれば、百七十には少しあまり、八十にもおよばれにたるべし」など、手を折りかぞへて、侍「いとかほかりの御年(みとし)どもをば、相人(さうにん)などに相(さう)せられやせし」と間へは、繁樹「さる人にも見えはべらざりき。ただ狛(こまうど)人のもとに、二人つれてまかりたりしかば、「二人長命」と申ししかど、いとかばかりまでさぶらふべしとは、思ひかけさぶらふべきことか。ことごと間はむ、と思ひたまへしほどに、昭宣公(せうせんこう)の君達(きんだち)三人おはしまして、え申さずなりにき。それぞかし、時平(ときひら)のおとどをば、「御かたちすぐれ、心(こころ)だましひすぐれ賢(かしこ)うて、日本にはあまらせたまへり。日本のかためと用(もち)ゐむにあまらせたまへり」と相しまうししは。枇杷殿(びはどの)をば、「あまり御心(みこころ)うるはしくすなほにて、へつらひ飾(かざ)りたる小国にはおはぬ御相なり」と申す。貞信公(ていしんこう)をば、「あはれ、日本国のかためや。ながく世をつぎ門(かど)ひらくこと、ただこの殿」と申したれば、「われを、あるが中に、才(ざえ)なく心諂曲(てんごく)なりと、かくいふ、はづかしきこと」と仰(おほ)せられけるは。  されど、その儀(ぎ)にたがはせたまはず、門をひらき、栄花(えいぐわ)をひらかせたまへば、なほいみじかりけりと思ひはべりて、またまかりたりしに、小野宮殿(をののみやどの)おはしまししかば、え申さずなりにき。ことさらにあやしき姿をつくりて、下ラフ(げらふ)の中に遠く居(ゐ)させたまへりしを、多かりし人の中より、のびあがり見たてまつりて、指(および)をさしてものを申ししかば、何事(なにごと)ならむと思ひたまへりしを、後にうけたまはりしかば、「貴臣(きしん)よ」と申しけるなりけり。さるは、いと若くおはしますほどなりしかな。いみじきあざれごとどもに侍れど、まことにこれは徳至(いた)りたる翁どもにてさぶらふ。などか人のゆるさせたまはざらむ。また、拙(つたな)き下臈(げらふ)のさることもありけるはと聞(きこ)し召(め)せ。 [一八二] 宇多法皇と遊女白女との出会い 亭主院(ていじのゐん)の、河尻(かはじり)におはしまししに、白女(しろめ)といふ遊女(あそび)召して、御覧(ごらん)じなどせさせたたまひて、「はるかに遠くさぶらふよし、歌につかうまつれ」と仰(おほ)せ言(ごと)ありければ、よみて奉りし、  浜千鳥(はまちどり)飛びゆくかぎりありければ雲立つ山をあはとこそ見れ いといみじうめでさせたまひて、物かづけさせたまひき。「命だに心にかなふものならば」も、この白女が歌なり。  また、鳥飼院(とりかひのゐん)におはしましたるに、例(れい)の遊女(あそび)どもあまたまゐりたる中に、大江玉淵(おおえのたまぶち)が女(むすめ)の、声よくかたちをかしげなれば、あはれがらせたまひて、うへに召しあげて、「玉淵はいと労(らう)ありて、歌などいとよくよみき。この『とりかひ』といふ題を、人々のよむに、同じ心につかうまつりたらば、まことの玉淵が子とは思(おぼ)し召(め)さむ」と仰(おほ)せたまふをうけたまはりて、すなはち、 「ふかみどりかひある春にあふ時はかすみならねどたちのぼりけり」 など、めでたがりて、帝(みかど)よりはじめたてまつりて、ものかづけたまふほどのこと、南院(なんゐん)の七郎君(しちらうぎみ)にうしろむべきことなど仰せられけるほどなど、くはしくぞ語る。 [一八三] 延喜の帝、貴之・躬恒の歌を召す  「延喜(つらゆき)の御時に、古今抄(こきんせう)せられし折、貫之(つらゆき)はさらなり、忠岑(ただみね)や躬恒(みつね)などは、御書所(ごしよどころ)に召されてさぶらひけるほどに、四月二日なりしかば、まだ忍音(しのびね)の頃(ころ)にて、いみじく興(きよう)じおはします。貴之召し出でて、歌つかうまつらしめたまへり。 こと夏はいかが鳴きけむほととぎすこの宵ばかりあやしきぞなき それをだに、けやけきことに思ひたまへしに、同じ御時、御遊びありし夜、御前(おまへ)の御階(みはし)のもとに躬恒 (みつね)を召して、「月を弓張(ゆみはり)といふ心はなにの心ぞ。これがよしつかうまつれ」と仰せ言ありしかば、   照る月を弓はりとしもいふことは山辺をさしていればなりけり と申したるを、いみじう感ぜさせたまひて、大袿(おほうちき)たまひて、肩にうちかくるままに、   白雲(しらくも)のこのかたにしもおりゐるは天(あま)つ風(かぜ)こそ吹き手きぬらし いみじかりしものかな。さばかりの者に、近う召しよせて、勅禄(ちよくろく)たまはすべきことならねど、謗(そし)り まうす人とのなきも、君(きみ)の重くおはしまし、また躬恒(みつね)が和歌の道にゆるされたるとこそ、思ひたまへしか。かの遊女(あそび)どもの、歌よみ、感たまはるは、さぞ侍る。院(ゐん)にならせたまひ、都(みやこ)離れたる所なれば」と優(いう)にこそ、あまりにおよすけたれ。 [一八四] 円融院の子の日の御遊と曾禰好忠  この侍(さぶらひ)問ふ、「円融院(ゑんゆうゐん)の紫野(むらさいの)の子(ね)の日(ひ)の日、會禰好忠(そねのよしただ)いかに侍りけることぞ」といへば、 繁樹「それそれ、いと興(きよう)に侍りしことなり。さばかりのことに上下(かみしも)をえらばず、和歌を賞(しやう)せさせたまはむに、げに入(い)らまほしきことに侍れど、かくろへにて、優なる歌をよみ出(いだ)さむだに、いと無礼(むらい)に侍るべき。ことに、座(ざ)に、ただつきにつきたりし、あさましくはべりことぞかし。小野宮殿(をののみやどの)・閑院(かんゐん)の大将殿などぞかし、「引き立てよ、引き立てよ」と、おきてさせたまひしは。躬恒(みつね)が別禄(べちろく)たまはるに、たとしへなき歌よみなりかし。歌いみじくとも、をりふし・きりめを見て、つかうまつるべきなり。けしうはあらぬ歌よみなれど、辛(から)う劣りにしことぞかし」といふ。 [一八五] 三条院の大嘗会の御禊  侍(さぶらひ)、こまやかにうち笑(ゑ)みて、「いにしへのいみじきことどもの侍りけむは知らず。なにがしもの覚(おぼ)えて後(のち)、不思議なりしことは、三条院(さんでうゐん)の大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)の出車(いだしぐるま)、大宮(おほみや)・皇太后宮より奉らせたまへりしぞありしや。大宮の一(いち)の車の口(くち) の眉(まゆ)に、香嚢(かのうふくろ)かけられて、空薫物(そらだきもの)たかれたりしかば、二条(にでう)の大路(おほち)のつぶと煙(けぶり)満ちたりしさまこそめでたく、今にさばかりの見物(みもの)またなし」などいへば、世継(よつぎ)、 「しかしか、いかばかり御心(みこころ)に入れて、いどみせたまへりしかは。それに、女房(にようぼう)の御心のおほけなさは、さばかりのことを、簾(すだれ)おろしてわたりたうびにしはとよ。あさましかりしことぞかしな。ものけたまはる口に乗るべしと思はれけるが、しりに押し下されたまへりけるとこそはうけたまはりしか。げに女房の辛(から)きことにせらるれども、主(しゆう)の思(おぼ)し召(め)さむところも知らず、男(をとこ)はえしかあるまじくこそ侍れ。 [一八六] 一品の宮の御嘗着と女房の我執  おほかた、その宮には、心おぞましき人のおはするにや。一品(いつぽん)の宮(みや)の御裳着(もぎ)に、入道殿より、玉を貫(つらぬ)き、岩を立て、水を遣(や)り、えもいはず調(てう)ぜさせたまへる裳(も)・唐衣(からきぬ)を、「まづたてまつらせたまひて、なかにも、とりわき思し召さむ人にたまはせよ」と申させたまへりけるを、さりともと思ひたまへりける女房の、たまはらで、やがてそれ嘆きの病つきて、七日といふにうせたまひにけるを、などいとさまで覚えたまひけむ。罪ふかく、まして、いかにもの妬(ねた)みの心ふかくいましけむ」などいふに、あさましく、いかでかくよろづのこと、御簾(みす)のうちまで聞くらむとおそろしく。 [一八七] 講師登壇、世継等の姿見失う  かやうなる女・翁なんどの古言(ふること)するは、いとうるさく、聞かまうきやにこそおぼゆるに、これはただ昔にたち返りあひたる心地して、またまたもいへかし、さしいらへごと・問はまほしきこと多く、心もとなきに、「講師(こうじ)おはしにたり」と、立ち騒(さわ)ぎののしりしほどに、かきさましてしかば、いと口惜(くちを)しく、こと果(は)てなむに、人つけて、家はいづこぞと、見せむと思ひしも、講(こう)のなからばかりがほどに、そのこととなく、とよみとて、かいののしり出(い)で来(き)て、居(ゐ)こめたりつる人も、皆くづれ出づるほどにまぎれて、いづれともなく見まぎらはしてし口惜しさこそ。何事(なにごと)よりも、かの夢の聞かまほしさに、居所(ゐどころ)も尋ねさせむとはべりしかども、ひとりびとりをだに、え見つけずなりにしよ。 [一八八] 朝覲行幸に鳳輦を階下に寄せる由来  まことまこと、帝(みかど)の、母后(ははきさき)の御もとに行幸(みゆき)せさせたまひて、御輿(みこし)寄することは、深草(ふかくさ)の御時よりありけることとこそ。それがさきは、降りて乗らせたまひけるが、后(きさい)の宮(みや)、「行幸の有様見たてまつらむ。ただ寄せてたてまつれ」と申させたまひければ、そのたび、さておはしましけるより、今は寄せて乗らせたまふとぞ。  後日物語(二の舞の翁の物語)  皇后宮大夫殿(くわうぐうのだいぶどの)書きつがはれたる夢なり。  この年頃(としごろ)聞けば、百日・千日の講(かう)行(おこな)はぬ家々なし。老いたるも若きも、後(のち)の世(よ)の勤(つと)めをのみ思(おぼ)しまうすめるに、一日の講も行はず、ただつらつらといたづらに起(お)き臥(ふ)してのみ侍る罪ふかさに、ある所の千日の講、卯(う)の時になむ行ふと聞きてまゐりたりけるに、人々(ひとびと)、所もなく、車もかちの人もありけむ。やや侍てど講師(こうじ)見えず。人々のいふを聞けば、「今日の講は、夕(ゆふ)つ方(かた)ぞあらむ」などいふに、帰らむも罪得がましく思ふに、百歳(ももとせ)ばかりにやあらむと見ゆる翁(おきな)の居(ゐ)たるかたはらに、法師の同じほどに見ゆる、人の中(なか)を分(わ)けてきて、この翁に、  僧「いとかしこく見たてまつりつけて、あながちにまゐりつるなり。そもそも御前(おまへ)は、ひととせ世継(よつぎ)の菩提講(ぼだいこう)にて物語(ものがたり)したまひし、あながちに居寄(ゐよ)りて、あどうちたまひしと見たてまつるは、老法師(おいほふし)の僻目(ひがめ)か」 といへば、男(おとこ)、「さもや侍りけむ」といふ。  僧「これはいで、興(きよう)ありて。その世継には、またやあひたまへりし」といへば、  翁「後三条院(ごさんでうゐん)生れさせたまひてなむ、あひて侍りし」といへば、「さてさていかなることか申されけむ。そのかみごろも、耳もおよばずうけたまはり思うたまへし。その後(のち)さまざま興あることも侍るを、聞かせたまひけむ。まことに今の世のこと、とりそへてのたまはせよ。あはれ、幾歳(いくとせ)にななりたまひはべりぬらむ」といへば、  翁「二の舞(まひ)の翁(おきな)にてこそは侍らめ。さはあれど、聞かむと思(おぼ)し召(め)さば、すこぶる申しはべらむ。まづ、その年、万寿(まんじゆ)二年乙(きのと)の丑(うし)の年、今年己(つちのと)の亥(ゐ)の年とや申す。八十三年にこそ、なりにて侍りけれ。いでや、なにばかり見聞きたることの情(なさけ)も侍らず。かの世継の申されしことも、耳にとどまるやうにも侍らざりき」といへば、法師、  「いでいで、さりとも八十三年の功徳(くどく)の林(はやし)とは、今日の講(こう)を申すべきなめり。今も昔もしかぞ侍りし。二の舞の翁、物まねびの翁、僧(そう)らが申さむことを、正教(しやうげう)になずらへて、誰(たれ)も聞(きこ)し召(め)せ」といへば、翁、  「聞し召し所(ところ)も侍るまじけれど、かくせちにすすめたまへば、今はのきざみに、痴(をこ)のものに笑はれたてまつるべきにこそ。見聞きはべりしは、後一条院(ごいちでうゐん)、長元(ちやうげん)九年四月十七日うせさせたまへる。天下(てんか)をしろしめすこと、二十一年。そのほど、いらなく悲しきこと多く侍りき。中官(ちゆうぐう)はやがて思し召し嘆きて、同じ年の九月六日うせさせたまひにし。上東門院(じやうとうもんゐん)思し召し嘆きしかど、これにも後(おく)れたてまつらせたまひて、一品(いつぽん)の宮(みや)・前斎院(さきのさいゐん)をこそは、かしづきたてまつらせたまひしか。院の御葬送(おほんさうそう)の夜(よ)ぞかし、常陸国(ひたちのくに)の百姓とかや、   かけまくもかしこぎ君が雲のうへに煙(けぶり)かからむものとやは見し  五月ばかり、郭公(ほととぎす)を聞(きこ)し召(め)して、女院(にようゐん)、    一言(ひとこと)を君に告げなむほととぎすこのさみだれは闇(やみ)に   まどふと この御思(おほんおも)ひに、源(げん)中納言顕基(あきもと)の君(きみ)出家(すけ)したまひて後(のち)、女院に申したまへりし、    身を捨てて宿を出でにし身なれどもなは恋しきは昔りけり 御返し、    時の間も恋しきことのなぐさまば世はふたたびもそむかれなまし その時は、かやうなること多く聞えはべりしかど、数々(かずかず)申すべきならず。 後朱雀院(ごすざくゐん)位につかせたまうて、さはいへど、はなやかにめでたく世にもてなされて、しばしこそあれ、一(いち)の宮(みや)の方にゐさせたまふ一品(いつぽん)の宮(みや)、后(きさき)にたたせたまふ。後三条院(ごさんでうゐん)生れさせたまひにしかば、さればこそ、昔の夢はむなしかりけりや。「なからむ末伝へさせたまふべき君におはします」とぞ、世継申されし。今后(いまきさき)、弘徴殿(こきでん)におはしまし、春官、梅壷(うめつぼ)におはしまして、先帝(せんだい)の一品の宮、春宮(とうぐう)にまゐらせたまひて、藤壷(ふぢつぼ)におはしまして、女院入らせたまひて、ひとつにおほしたてまつらせたまへる宮たち、いづれともおぼつかなからず見たてまつらせたまふめでたさに、故院(こゐん)のおはしまさぬ嘆き、尽(つ)きせず思(おぼ)し召(め)したりけり。 関白殿に養ひたてまつらせたまひし、故式部卿(しきぶやう)の宮(みや)の姫君(ひめぎみ)、内(うち)にまゐらせたまひて、弘微殿におはしますべしとて、かねて后(きさき)の宮(みや)出でさせたまひしこそ、いかに安(やす)からず思し召すらむと、世の人、悩みまうししか。明日まかでさせたまはむとて、上(うへ)にのぼらせたまひて、帝(みかど)いかが申させたまひげむ、宮、   今はただ雲居(くもゐ)の月をながめつつめぐりあふべきほども知られず この宮に女宮(をんなみや)二所(ふたところ)おはします。斎宮(さいぐう)・斎院(さいゐん)にゐさせたまうて、いとつれづれに、宮たち恋しく、世もすさまじく思(おぼ)し召(め)すに、五月五日に、内(うち)より、   もろともにかけし菖蒲(あやめ)のねを絶えてさらにこひぢにまどふ頃かな 御返し、   かたがたにひき別れつつあやめ草あらぬねをやはかけむと思ひし 殿(との)の御もてなし、かたはらいたくわづらはしくて、ひさしく入らせたまはず。されど、この宮おはしますこそは、たのもしきことなれど、今の宮に男皇子(をとこみこ)うみたてまつりたまひてば、うたがひなき儲(まうけ)の君(きみ)と思し召したる、ことわりなり。よき女房(にようばう)多く、出羽(いでは)・少将(せうしやう)・小弁(こべん)・小侍従(こじじゆう)などいひて、手書き・歌よみなど、はなやかにていみじうて、さぶらはせたまふ」 <凡例> 本文は、小学館刊日本古典文学全集『大鏡』校註・訳 橘 健二(底本は、京都大学付属図書館蔵平松家旧蔵の古本系三巻本)により入力した。 《入力ミスの校正について》 2006.12.15更新 147段〜150段の箇所のミスを訂正した。 ?道長・公任、競射のこと  今の入道殿、若くて弓をいみじくこのませたまひき。上手にもおはしまししを、この宮、弓射(い)させたてまつりて見むとおぼして、わたらせたまふべき御消息ありければ、まゐらせたまへるに、女房、うちいでしわたして、見はやしたてまつらせたまふ。賭(か)け物(もの)は銀(しろかね)の枝に、金の大柑子(かうじ)を十ばかりならして、州浜(すはま)に立てられたりけり。その折、入道殿は大納言中宮の大夫とぞ申し、四条大納言、まだ宰相にてぞおはせし。うしろに立ちたまへり。入道殿、三度(ど)のくだりに四の矢数(やかず)にさだめて射させたまへり。一度、入道殿の片矢(かたや)あたりぬ。大納言二ながら射はづしたまひつ。二度(ど)に入道殿諸矢(もろや)あたりぬ。大納言片矢あたりぬ。三度に入道殿最初(さいそ)のあたりぬ。大納言最初の矢あたりぬ。入道殿、「矢数射(い)つ」と心やすく思(おぼ)し召(め)して、乙矢(おとや)いと心にもいれさせたまはずやはべりけむ、はづれぬ。大納言、乙矢かざしてたちたまへり。宮も人々も、「これはよも射あてられじ。心せらるらむ」と思し召し思ふほどに、同じあたるものか、的(まと)の中(なか)のわれぬばかりひびきなる。人々も宮もあさましとおぼすに、入道殿、「道長、術(ずち)なくさぶらふ」とて逃げて出(い)でさせたまへば、大進(だいじん)なにがしのぬしとかやして、御車に奉るところに、賭け物をもてまゐりて、前駆にとらすれば、見かへらせたまひて、「勝ちてこそ賭け物をば給はらめ」とて、捨てて出でさせたまひぬ。されば、術なくてもてまゐりたれば、宮も人々も大納言をにくみたまふ。いとあさましく心なきわざなり。さるは、心ありいみじくおはする殿の、心なきことしたまへるぞかし。宮、「など、かかるわざしたまへるぞ。口惜(くちを)しきことなり」と、仰せられければ、「そこのとにさぶらふ、ほかを射はべりさぶらひつるが、吾(あれ)にもあらず、あたりてはべるなり。目のいかにもいかにも見えはべりて」とぞ申したまひける。