とりかへばや物語 巻一 いつの比にか、権大納言にて大将かけ給へる人、御かたち身の才心もちゐよりはじめて、人柄世のおぼえもなべてならず物し給へば、何事かは飽かぬことあるべき御身ならぬに、人しれぬ御心のうちの物思はしさぞ、いとつきせざりける。 北方二所ものし給ふ。 一人は、源宰相と聞えしが御むすめにものしたまふ。 御心ざしはいとしもすぐれねど、人よりさきに見そめ給てしかば、をろかならず思ひ聞え給に、いとゞ世になく玉光る男君さえ生まれ給にしかば、またなく去りがたき物に思ひ聞え給へり。 いま一所は、藤中納言と聞こえしが御むすめにものし給ふが御腹にも、姫君のいとうつくしげなる生まれ給ひしかば、さま/゛\めづらしく、思ふさまにおぼしかしづく事かぎりなし。 上たちの御有様のいづれもいとしもすぐれ給はぬを、おぼすさまならず口惜しき事におぼしたりしかど、今は君だちのさま/゛\うつくしうて生い出給ふに、いづれの御方をもすてがたき物に思ひ聞え給ひて、今はさる方におはしつきにたるべし。  君だちの御かたちの、いづれもすぐれ給へるさま、たゞ同じ物とのみ見えて、とりもたがへつべうものし給を、同じ所ならましかば、不用ならましを、所/\にて生い出で給ぞ、いとよかりける。 おほかたは、たゞ同じ物と見ゆる御かたちの、若君は、あてにかほりけだかく、なまめかしき方添ひて見え給、姫君は、はな/゛\とほこりかに、見ても飽く世なく、あたりにもこぼれちる愛敬などぞ、今より似るものなく物し給ふける。  いづれもやう/\おとなび給まゝに、若君はあさましう物恥ぢをのみし給ひて、女房などにだに、すこし御前とをきには見え給事もなく、父の殿をもうとく恥づかしくのみおぼして、やう/\御文習はしさるべき事どもなど教へきこえ給へど、おぼしもかけず、たゞいと恥づかしとのみおぼして、御丁のうちにのみうづもれ入りつゝ、絵かき、雛遊び・貝おほひなどし給を、殿はいとあさましきことにおぼしの給はせて、つねにさいなみ給へば、果てはては涙をさへこぼして、あさましうつゝましとのみおぼしつゝ、たゞ母上・御乳母、さらぬはむげに小さき童などにぞ見え給ふ。 さらぬ女房などの御前へも参れば、御几丁にまつはれて、恥づかしいみじとのみおぼしたるを、いとめづらかなる事におぼし嘆くに、又姫君はよりいとさがなくて、おさ/\内にも物し給はず、外にのみつとおはして、若き男ども童べなどと、鞠・子弓などをのみもてあそび給。 御出で居にも、人/\参りて文作り、笛吹き、歌うたひなどするにも走り出で給て、もろともに人も教へ聞えぬ琴笛の音も、いみじう吹きたて弾きならし給ふ。 ものうち誦じ、歌うたひなどし給を、参り給殿上人・上達部などは、めでうつくしみきこえつゝ、かたへは教へたてまつりて、この御腹のをば姫君と聞こえしは、ひが事なりけりなどぞ、みな思ひあへる。 殿の見あひ給へるおりこそ、とりとゞめても隠し給へ、人/\の参るには、殿の御装束などし給ほど、まづ走り出で給ひて、かく馴れ遊び給へば、中/\え制しきこえ給はねば、たゞ若君とのみ思ひて、もて興じうつくしみ聞えあへるを、さ思はせてのみ物し給ふ。 御心のうちにぞ、いとあさましく、返ゝとりかへばやとおぼされける。  かくいひ/\ても、幼きほどはいまをのづからなどなぐさめつゝさてもあり、やう/\十にもあまり給へど猶同じさまなるを、こはいかゞすべきと、世とともに嘆かしきより外の事なかりけり。 さりとも、年月過ぎばおぼし知る事もとのみ待ち給へるを、おさ/\なをり給まじく見果給ふに、なをいとめづらしう、世にためしなき御心地ぞし給ける。 今は、かろびたる御ありきもつきなきほどの御よそをしさなれば、殿広く造りて、西東の対に二所の北方を住ませきこえて、殿をば玉の台に磨きて、殿の御出で居にぞせられける。 これに、もろともにさしならびて、心ゆく北方のおはせぬは、口惜しき事なりかし。 十五日づつうらやみなく通ひ給ふ。 君だちをも、今はやがて聞こえつけて、若君、姫君とぞ聞こゆなる。  春のつれ/゛\、御物忌にてのどやかなる昼つ方、姫君の御方にわたり給へれば、れいの御丁の内に、箏の琴をしのびやかに弾きすさび給なり。 女房などこゝかしこに群れ居つゝ、碁・双六など打ちて、いとつれ/゛\げ也。 御几丁押しやりて、「などかくのみ埋れては。 ∨盛りなる花のにほひも御覧ぜよかし。 ∨御たちなどあまりいぶせく、物すさまじげに思ひて侍はや」とて、床に押しかゝりて居給へば、御髪は丈に七八寸ばかりあまりたれば、花薄の穂に出たる秋のけしきをおぼえて、裾つきのなよなよとなびきかゝりつゝ、物語に扇を広げたるなど、こちたく言ひたるほどにはあらで、これこそなつかしかりけれ、いにしへのかぐや姫も、けぢかくめでたき方はかくしもやあらざりけん、と見給ふにつけては、目もくれつゝ、近くより給て、「こは、いかでかくのみはなりはて給にか」と、涙を一目浮けて、御髪をかきやり給へば、いと恥づかしげにおぼし入りたる御けしき、汗になりて、御顔の色は紅梅の咲き出でたるやうににほひつゝ、涙も落ちぬべく見ゆる御まみのいと心苦しげなるに、いとゞ我もこぼれて、つく/゛\とことごとなくあはれに見奉り給。  さるは、かたはらいたければ、つくろひ化粧じ給はねど、わざともいとよくしたる色あひなり。 御額髪も汗にまろがれて、わざとひねりかけたるやうにこぼれかゝりつゝ、らうたく愛行づきたり。づきたり。 白くおびたゝしくしたてたるは、いとけうとかりけり。 かくてこそ見るべかりけれと見ゆ。 十二におはすれど、かたなりにをくれたる所もなく、人柄のそびやかにてなまめかしきさまぞ、限りなきや。 桜の御衣のなよゝかなる六ばかりに、葡萄染めの織物の袿、あはひにぎはゝしからぬを着なし給へる、人柄にもてはやされて、袖口・裾の褄までおかしげ也。 いであさましや、尼などにて、ひとへにその方のいとなみにてやかしづきなまし、と見たまふも口惜しく、涙ぞかきくらされ給。   いかなりし昔の罪と思ふにも此世にいとゞ物ぞかなしき  西の対にわたり給に、横笛の声すごく吹きすましたなり。 空にひゞきのぼりて聞ゆるに、我心地もかき乱るやうなれど、さりげなくもてなして、若君の御方をのぞき給へば、うちかしこまりて笛はさし置きつ。 桜・山吹など、これはいろ/\なるに、萌黄の織物の指貫着て、顔はいとふくらかに、色あはひいみじうきよらにて、まみらう/\じう、いづことなくあざやかににほひ満ちて、愛敬は指貫の裾までこぼれ落ちたるやうなり。 見まほしく目もおどろかるゝを打見るに、落つる涙も物の嘆かしさも忘られて、うち笑まるゝ御さまを、あないみじ、これももとの女にてかしづきたてたらんに、いかばかりめでたくうつくしからんと胸つぶれて、御髪もこれは長さこそ劣りたれ、裾などは、扇を広げたらんやうにて、丈にすこしはづれたるほどにこぼれかゝれる様態・頭つきなど、見るごとに笑まれながらぞ心の内はかきくらさるゝや。 いと高き人の子供などあまた率て、碁・双六打ち、はなやかに笑ひのゝしり、鞠・子弓など遊ぶも、いと様ことにめづらかなり。 あないみじのわざや、さてもこれはかくて有べき事かは、今はともかくもしなすべき方のなきも、いまさらにせめて女にとりなすべきやうもなかめり。 これも法師になして、人に交らせず、後の世を勤めさせんこそよからめとおぼすも、心/゛\は又さしもあらじかし、かばかりの宿世なりければ、いま少し言ひ所あることもこそまさらめ、本意深き道心ならぬものから、みないたづらにしなしてやみなんがよしなさよ、などおぼしくだく。 世に似ずるたなかりける宿世かなとかへす/゛\おぼし知らる。  かやうの君だちは、をのづからしどけなくも有を、かれはいといみじく、今よりはか/゛\しく、才かしこくて、おほやけのおほやけの御後見に生い出給ふ。 琴笛の音も天地をひゞかし給へるさま、いとめづらかなり。 読経うちし、歌うたひ、詩など誦じ給へる声はさまことに、斧の柄も朽ちぬべく、ふる里忘れぬべし。 何事もさらに飽かぬことなき御有様を、かくのみおぼし乱るゝぞいとおしかめる。  かゝる御・かたちすぐれ給へる事やう/\世に聞こえて、内・春宮にも、さばかり何事にもすぐれたなるを、今まで殿上などもせさせず、交ろはせぬ事と、つきせずゆかしがらせ給て、大将殿にもたび/\御けしきあれど、いとゞ胸つぶれ、あさましくかたはらいたければ、いまだいはけなきさまを奏して、とり出で給はぬを、童姿目ならさじとするならんとて、かうぶりをさへをして給はらせて、とく/\おとなびさせて参らすべきさまにのみたび/\御けしきあるにさへ、いかに聞えて参らせぬやうあるべきならねば、さりとては、たゞさらばあるにまかせてあるばかり、これも前の世のことならめば、かゝる筋にても、をの/\さても物し給ふべき契りこそはと、ひたぶるにおぼしなりて、今年は御裳着・御元服、われも/\といそぎ給。  その日になりて、この殿の御しつらひ、世の常ならずみがきたてて、姫君渡し奉り給。 東の上も渡り給へり。 大殿ぞ御腰は結ひ給。 うと/\しからぬはねぢきたれど、さすがにかたはらいたくおぼすなるべし。 かゝる御事どもを聞くよそ人は、思ひ寄るべき事ならねば、たゞ若君姫君を思ひたがへ、聞きひがめたりけるとのみぞ心得ける。 まれ/\くはしく知りたる人は、またいかでかうち出づべきことのさまならねば、なべて世に知る人なきぞいとよかりける。  若君の御引き入れは、殿の御兄の右大臣殿ぞし給。 御あげまさりのうつくしさ、かねて見きこえし事なれど、いともてはなれ世になきかたちのし給へるを、引き入れの大臣のめでたてまつり給さまことはりなり。 この大臣は、姫君のかぎりぞ四人もち給へる。 大君は内の女御、中の君は春宮の女御、三、四の君はたゞにておはするを、ならべて見まほしくおぼさるべし。 禄ども贈り物など、さらに世になききよらをつくし給へり。  かうぶりは童より得給へりしかば、大夫の君と聞こゆ。 やがてその秋の司召しに侍従になり給ぬ。 帝・春宮をはじめ奉りて、天の下の男女、この君を一目も見きこえては、飽く世なくいみじき物に思ふべかめり。 おぼしときめか給ふさま、やんごとなき人の御子といひながら、いとたぐひなきもことはりと見えて、琴笛の音にも、作り出づる文の方にも、歌の道にも、はかなく引きわたす筆のあやつりまで、世にたぐひなくうちふるまひ交じらひ給へるさまのうつくしさ、かたちはさる物にて、今よりあるべきさまにむね /\しく、世の有様おほやけ事をさとり知りたる事のさかしく、すべてこと/゛\にこの世の物にもあらぬを、父大臣も、さはいかゞせん、さるべきにこそ、といふかひなければ、やう/\かゝる方につけて、うれしく、うつくしき事をのみおぼし慰みゆくを、この君、なを幼きかぎりはわが身のいかなるなどもたどられず、かゝるたぐひもあるにこそはと、心をやりてわが心のまゝにもてなしふるまひ過ぐしつるを、やう/\人の有様を見聞き知りはて、物思ひ知らるゝまゝには、いとあやしくあさましう思ひ知られゆけど、さりとて、今はあらため思ひ返してもすべきやうもなければ、などてめづらかに人にたがひける身にかと、うちひとりごたれつゝ、物嘆かしきまゝに身をもておさめて、物とをくもてしづめつゝ交らひ給へる用意などいとめでたきを、その時の帝四十余ばかりにて、いとめでたくおはします。 春宮は廿七八にて、御かたちなどもたゞ王気づきてけだかくおはしますが、この妹の君の御かたち、名高くすぐれて聞こえ給へば、いづれも御心をかけて仰せ事あれど、せん方なき御物恥ぢに事よせて、おぼしもかけず、げにさやうにももてかしづきてあらましかばと、いみじき御物思ひ也。  帝は、失せ給にし后の御腹に女一宮ひとりおはしますを、あはれに心苦しき事に、御目はなたずもてかしづき奉らせ給。 さらでは、内・春宮にも男御子のおはしまさぬを、天の下の大事にて、われも/\と御祈りひまなし。 右大臣殿の女御、やんごとなくてさぶらひ給めれど、一の人の御むすめならねば、后にもえ居給はず。 帝はこの女一宮の御事を、朝夕にうしろめたくおぼし嘆きて、この侍従の有様の、この世の物とも見えずなりゆくを、この宮の御後見をせさせばやと、御覧ずるたびごとに御目とゞまる。 御後見などのはか/゛\しからぬけにや、まだいと若くあふな/\おはしますを、妹の姫君のさばかりめでたかなるに見ならひて、めざましき心もや御覧ぜられんと、またまだいと物げなきほども、すこしもの/\しきほどに見なして、などぞおぼしめしける。  かやうの御けしきをもり聞き給にも、殿は胸うち騒ぎて、あはれ、かゝらざらましかばいかに面目ありうれしからましと、口惜しく心憂き物から、すこしほゝ笑まれてぞ聞き給。 侍従の君はいと心かしこく、かばかりのほどにも似ず、あるべかしくめでたく、内裏わたりにも、御方/゛\の女房などは見るごとに心化粧せられて、つゆの一言葉もいかでかけられしがなと見えしらがひけり。 よからぬ身を思ひ知りながら、ありそめにける身をえもて隠しやる方なくて交らふにこそあれ、何かは目のたまらん。 いとまめやかにもておさめたるを、さう/゛\しく口惜しと思ふ人多かり。  そのころの御かどの御叔父に式部卿宮と聞こゆる人の御一つ子の君、この侍従の君には二つばかりのこのかみにて、かたち有様、いと侍従のほどにこそほはね、なべての人よりはこよなくすぐれて、あてにをかしく、心ばへたとしえなく、かゝらぬくまなく好ましく、なよびなまめかしくて、思ひいたらぬ方なき心にて、この殿の姫君、右の大臣の四の君、取り/゛\に名高くいわれ給ふを、いづれをもいかでと思ふ心深くて、さるべき方よりあながちに尋ね寄りつゝ、心のかぎりかいつくし焦られわぶれど、人柄のいとあだなぬに、つゆの事もあなゆゝしと、いづかたにもおぼし離れて返事する人もなきを、わりなく嘆きつゝ、この侍従のあまりいみじく物まめやかに、乱るゝ所もなくおさめたるこそ、おまりさう/゛\しきやうなれど、見る目かたちの似る物なく、愛敬こぼれてうつくしきさまの、かゝる女のあらましかばと、見るたびにいみじくおもはしきを、妹もかくこそはものし給らめ、女はいま一際まさるらんほどを思ひやるに見たてまつらでやむべき心地もせず。 わびしきまゝにこの君をいとよく語らひ、思ひあまるときは涙もつゝまず、うれへ嘆きかへるさまの、人よりすぐれてあはれになまめきたるを、いとおしくあはれに、異人よりはなつかしくうち語らひながら、我はいと打とけむつびられず。 うち出づるごとには、人の御身の世づかざりけることのみ知らるゝに、胸うちつぶるれば、いたくもあひしらはづ言少ななるほどに、心恥づかしうのみもてなしたるを、ねたく恨めしと、涙をもつゝまず、思ひ焦られたるけしきの心苦しさを見るごとにも、   たぐひなく憂き身を思ひ知るからにさやは涙のうきてながるゝ とぞ答へまほしけれど、 「何事をさは思ふぞ」と問ひかゝらんも、述べどころなければ、たゞなさけなくもてすくよかなるさまにてぞたち別れける。  かゝるほどに、帝御心地例ならで、久しくなりぬるは、さるべきにこそはあらめ、いにしへもさる例なくやはとおぼして、春宮に御位を譲り給て、女一宮を春宮に据へたてまつり給て、我御身は朱雀院におはします。 大殿も、今は御年七十にをよび、御病も重くのみおぼさるれば御髪おろし給て、この殿左大臣になり給てぞ関白し給。 公卿つぎになりあがりて、殿の侍従三位して中将になり給ぬ。  右大臣殿の女御、后に居給はずなりぬるを飽かず口惜しくおぼして、此中将の君、人柄もいとこよなくまさりて、いさゝかあだ/\しくかろびたるふるまひなどすとも聞こえぬにます事あるべきならねば、それにおぼし定めて、父大臣にも聞こえ給へば、おかしとおぼしながら、何かは、いかいいひてかあるまじき事とは物せんとおぼして、 「いかなるにか、かやうに世づきたる心は、ゆめにも侍らざめるは。 ∨さりとも、まめやかなる方ばかりは、いとよく人に御覧ぜらるべきものに侍」と、うけひき申給つ。 北方にかくなんとの給に、「児めかしからん人のむすめの、あやしなど思ひとがめ言ふべきならず。 ∨たゞうち語らひて、人目を世の常にもてなして、出で入りせよかし」と、うち笑ひて「よき後見なり」との給ふ。  まだいと若くおはすれば、後めたかりぬべけれど、あふな/\はまだおはすべくもあらぬさまなれば、心やすくて、御文書かせたてまつり給。 何事もおぼし分かず、男どもの中にも好もしくのみ聞きならひ給へれば、懸想の方にこそはとて、   これやさは入りてしげきは道ならん山口しるくまどはるゝかな と書き給へる、えもいはずめでたき見ものなり。 御年のほどをおぼすに、いかでかゝりけんと、をかしくもあはれにも涙ぐまれ給。  右の大臣には、からうして言ひをもける給へることなれば、御返事そゝかし書かせ奉り給ふ。   ふもとよりいかなる道にまどふらん行方も知らずおちこちの山 かくてのちは、常に聞こえ給へば、我すゝみ給にし事なれば、その日とおぼしたちにたり。 いとやんごとなき本意おはする人にて、すぐれてかしづき聞こえ給御むすめに、大殿の三位の中将をとりよせ給ふ御けしき有様、何事もなのめによろしからんやは。  そのころの大納言亡くなりにたれば、しだひになりのぼりて、権中納言にて左衛門督かけ給つ。 いとゞはなやかにめでたしともをろかなり。 式部卿の宮の中将も、かけながら宰相になり給ぬれど、方〃つくしつる心の一方は、かく塩焼く煙に聞きなしつることうを、喜びを何とも思はぬ顔に行きあふおり/\は、すこし心をくけしきに嘆きしめりたるを、中納言は、なぞや、かく思ひたる人をかひ/゛\しく見給はでと、おかしく思ひ給けり。 中納言は十六、女君は十九にぞおはずれば、かたちも心もかたなりなる所なくよきほどに、年よりはじめ、飽かぬ所もなくめでたくて、姉君たちよりもこよなく親たちのおぼしかしづきつる、わが心おごりも、人知れず上なき位にもをよむべき身とおぼしつるに、こよなくあさはかなる心地するを、けしきにこそ 出だし給はねど、かくやはものをと心のうちにては嘆かれながらも、たゞ人柄のいとおかしくすぐれて、疎ましきもてなしもなく、たゞいとあければにうち語らひつゝ、見馴るゝまゝには、思ひもおとされ給はざりけり。  夜の衣も人目にはうち交わしながら、かたみにひとえの隔てはみなありて、うちとくる方なきも、深くはいかでか知る人あらん。 いと人目に見えて、今めかしくまつれは給ことぞことになく、あゞあてやかにめやすきほどの御なからひに見ゆるは、かばかり飽かぬ事なき御有様を、幾千夜かさぬとも飽くまじきを、思ふ程よりはと見ゆれども、 「男君はまだいと若くものし給へば、さこそは過ぐし給へど、ものつゝましくあぼさるゝなめり」など、罪もなくことはりて、もてかしづき給ふさま、世にたぐひなし。 また、懸想がましくゆきたはぶれたるけしきはたゆめになく、大殿・内裏の御遊びなどよりは、ことなる夜離れなどもし給はぬを、たゞ月ごとに四十五日ぞ、あやしく所せき病の、人に見えてつくろふべきにあらぬを、 「物のけにおこるおり/\の侍れば」とて、御乳母の里にはひ隠れ給をぞ、いかなる事ぞを心をかるゝふしにはありける。 九月十五日、月いと明かきに、御遊びにさぶらひて、御宿直なる夜、梅壺の女御のまうのぼり給を、わざとゆかしくはあらねど、藤壺へ通る塀のわたりに立ち隠れて見れば、更けぬる月のくまなく澄めるに、火取り持たる童の、濃き衵に、薄物の汗衫なめり、透きとをりたるに、髪いとおかしくかゝりて歩み出でたり。 女房もみな打ちたる衣に、薄物の唐衣脱ぎかけたる、たゞ今の空おぼえておかしく見ゆるに、女御は御凡丁うるはしくさして、いみじくもてなしかしづかれ給さまの心にくゝめでたきを、あわれ、あないみじ、ひたおもてに、身をあらぬさまに交らひありくは、うつゝの事にはあらずかし、と思ひ続くるに、かきくらさるゝ心地して、   月ならばかくてすままし雲の上をあはれいかなる契りなるらん 我こそ契りつたなくてかゝらめ、姫君だに世の常にて、かやうの交らひし給はましかば、飽かぬ事なからまし、身を嘆きても、一人は世の常にておはすと見てこそは、かやうのおりのぼりのかしづきもせましなど、我身ひとつのことを思ひ続くるに、これより出でてやがて深き山に跡も絶えなまほしくおぼゆるまゝに、とばかり見送られて、ありつる一人ごとを思ひ続くるほどに、「蓬莱洞の月」と、声は似る物なく澄みのぼりたるを、宰相の中将もこよひの御遊びにさぶらひて、今はたゞ一方に大殿の姫君のことを思ひこがれて、例のかひなくとも、この中納言に恨みも、また世になきかたちけはいも、見まほしさにも慰めんと思ひて、まかで給はずなりぬるを、いづくのくまにはひ隠れて見えぬならんと、うかゞひ歩きけるに、この声を聞き、惑ひ尋ね来て見れば、織物の直衣、指貫に紅のつやこぼるばかりなるを脱ぎかけて、いとさゝやかに見ゆれど、若くおかしげにて、月影に光るばかりめでたく見えて、常よりもうちしめりたるもてなし、けしき、袖ぬれわたるに、例しめたるにも似ず世になきかほりなるを、男の身にめでたく見ゆるを、まひて、この人の一言もかけ寄らんを、聞きしのぶ人はあらじかしと、うらやましく、我身恥づかしけれど、ひきとゞめてわりなき事を恨み言ふも、いと艶におかしうなまめきたるは、いと憎からず。  人は、いかにも、すべて身にならはしそめ語ら日などせず、いとあまり物とをくのみ持てすぐる心にも、この人ばかりにはさし放ちがたうあはれなれば、「かうのみの給を。 ∨なべて言よき御月草の移りやすさはうしろめたけれど。 ∨心苦しう思ひ聞えさするおり/\侍れど、身づからの心にまかすべき方なき事にて。 ∨たゞかくのみうけ給はるこそ、かひなくいとおしけれ」と、うち嘆きて、身を思ひ知りつるなごり、いたくながめいるけしき、かばかり思ふことなげなる身に、何の飽かぬことと世とともに嘆かしきならん、あまりことさらびまめやかなるも、いみじう思ふ事のあるなめり、見る人とても飽かぬことありとは 聞かぬを、常のことにそれをば目馴らして、いかばかりのことのことのかくはおぼゆるならん、この比の春宮などの御事か、それもこの人の御身には、いといみじう有がたかるべきならず、いたくつゝむことある人の、ことの外にあはれなるかなと、推しはかりけしきどりて、よろづにとりなし、「言ひおぼさんことは、身にかえてもたばかりけしきどりてかなへたてまつりてん。 ∨深く隔て給へるこそ」と恨むるに、答へん方もなければ、「わが身になりて聞こえあはせたらんに、しかやすかりぬべき御心なめり」と打笑ひて、   その事と思ふならねど月見ればいつまでとのみ物ぞかなしき 答へたる声もいみじうにほひあり、なつかしうおぼゆるに、今めかしきくせはほろ/\と泣かれて、   そよやその常なるまじき世中にかくのみ物を思ひわぶらん「いと罪深くのみ思ひ知られ侍れば、この御けしき見はてて、深き山に跡を絶えなんと思ふ」と語らへば、「そはしも、さおぼしたらん時はをくらかし給なよ。 ∨かくて世にはあらじとそゞろにおぼゆる心の、年月に添へてもまさり侍れど、さすがにえこそ思ひたち侍らね」と、あわれに打語らひ明かして、をの/\まかでても、この中納言よろづめでたくすぐれたる中にも、掲焉にこまやかなるけはひなどの、女にていみじう見まほしう、をかしうもあるかなと、恋しきにぞ、いとゞ妹の姫君は思ひやられける。  かく心をつくし思ひ惑へど、かけてなずらへに聞き入るべきけしきならぬを、いかにせんと思ひわぶるに、院の上、春宮を今はたち離れて、近くもえ見たてまつらせ給はぬを、御乳母などいひても、はか/゛\しくも心ばせある人もさぶらはず、我御みづからは、いと物はかなくいはけなくのみおはしますを、うしろめたくおぼつかなく嘆き聞えさせ給て、この大殿の姫君、婿取り、内裏参りの方は、思ひ絶えて聞こしめすを、この御後見にせばやとおぼしなりて、参り給へるに、御物語などこまやかに聞こえ給ついでに、「中納言の妹は、いかにしなさんと思ひおきてられたるぞ」と問はせ給。 例の猶御けしきあるかと胸つぶれて、「いかにも/\思ひ給へず。 ∨親と申せど、あさましううとく恥づかしき物に思ひて、に見え侍れば汗になりて心地さへたがへたる人なれば、尼などになして、その方におもむけてや見ましとのみなん思ふ給へなりにたり」とて、うち泣き給ひぬるを、げに世をのがれんとにはあらざりけりと、あはれに御覧じて、「それいとあるまじき事也。春宮はか/゛\しき人なく、をのれをたち離れて、いと心苦しきを、その君御遊びがたきに参らせ給へ。 ∨世中にともかくもあらば、后にはゐ給なん」とおほせらるゝに、中納言のことおぼし出でられて、これもさるべきやうこそはあらめと、うれしくもめづらかにも、さま/゛\御心乱れて、げに、さほどの交らひは仕う奉りもやせんとて、「母なる人にの給あはせん」とてまかで給ぬ。 上に、「かくなん」と聞こえ給へば、「いさや、いかなるべき事にかとえ思ひ定められでなん」との給へば、中納言の有様を見れば、これもかうざまにてよかるべきにもやあらん、仰せ事たがへず、げに、后の位にさだまり給やうもありなん、思ひの外にめでたき事にてこそはあらめとおぼす。 あらましごとにも、胸打さはぎ給ふ也。 御祈りさま/゛\にせらる。 「同じくはとく」と仰せらるれば、十一月十日ごろに参らせ奉り給。 何事かは飽かぬことあらん。 女房四十人、童・下仕へ八人、めでたくかしづきたてて参らせ給に、世の常なるべき御交らひにもあらぬに、そのこととなくてさぶらひ給はんもそゞろなれば、内侍の督になりてぞ参り給ける。  春宮は梨壺におはしませば、御局は宣耀殿にせられたり。 しばしは夜/\のぼりて、一つ御丁に御とのごもるに、宮の御けはひ手あたり、いと若く、あてにおほどかにおはしますを、さこそいみじうもの恥ぢし、つゝましき御心なれど、何心なくうちとけたる御らうたげさには、いと忍びがたくて、夜/\御宿直のほど、いかゞさしすぎ給けん、宮は、いとあさましう、思ひの外におぼさるれど、見る目けはひはいさゝか疎ましげもなく、世になくおかしげにたを/\とある人ざまなれば、さるやうこそはと、ひとへによき御遊びがたきとおぼしまとはしたる、世になくあはれにおぼえ給けり。 昼なども、やがて上の御局にさぶらひ給て、手習ひ・絵かき・琴弾きなど、起き臥しもろともに見たてまつるに、よろづつゝましく、恥づかしきものと埋もれしほどのつれ/゛\よりは、何事もまぎるゝ心地し給。  今とてもわづらはしき思ひあるまじきならねば、宮の宰相も離れず。 中/\きびしき窓のうちに籠り給へりしほどこそ、思ひおよぶ方なかりしか、中/\かゝる方に立ち出で給へるはいとうれしくて、夜昼宣耀殿のわたりを離れず、大方のけしきをも見るに、けだかうもてなしたるさま、大方の覚え世にもいみじきを、いかならん世に我思ひかなえんとのみぞ思ひける。  その年の五節に、中院の行幸ありければ、みな人/\小忌にて参る中に、宰相中将・権中納言の青摺、いとゞいみじう見ゆ。 宰相は、いとそゝろかに雄雄しくあざやかなるさまして、なまめかしうよしあり、色めきたるけしきいとおかしう見ゆ。 中納言は、はな/゛\と見れども飽くまじうにほはしく、こぼるばかりの愛行、似る物なきに、もてなし有様も、さはいへどなごやかにたを/\と、いとなつかしきほどの、人にこよなくすぐれて目もあやなるを、御方/゛\の人/\をかしと見るに、宮の宰相は、いさゝかも人のけはひするところはたゞにも過ぎず、かならず立ちどまり物など言ふを、中納言は見る目にたがひて、宰相の行きもやらずとゞこほりがちなるを、後目に見をこせつゝ過ぎぬるを檜熊川ならば、「しばし水かへ」とうち出でつべく、みな見送らるゝ中にも、しみていみじと思ふ人ありけり。 御随身のたち遅れて参れる、申べき事あり顔に、けしきばみてさぶらへば、「何事ぞ」と問はせ給へば、「麗景殿の細殿の、一の口にうち招きとゞめて、参らせよと侍りつる」とて、いみじう艶なる文とり出でたり。 「あな、おぼえな」とて、見給へば、   逢ふ事はなべてかたきの摺り衣かりそめに見るぞ静心なき と、いとおかしげなるを、あやし、誰ならんと、うちほゝ笑まれて、騒がしければ返事もせず。  情なくやと、いとおしさに、事果ててみな人も静まりぬるに、夜深き月のいと明かく澄めるに、麗景殿の細殿をとかくたゝずみて、   逢ふ事はまだ遠山のすりめにも静心なく見ける誰なり とぞうそぶくに、人声もせず。 人もなきにやと思ふに、文出だしつる一の口に、   めづらしと見つる心はまがはねどなにならぬ身のなのりをばせじ と答へたるけしきも、なべてならずおかしかんなり。 立ち寄りて、「なのらずは誰と知りてか朝倉やこの世のまゝも契り交さん こやかたきの摺り衣なりける」など、そこはかとなく言ひすさむけはひの、近まさりはたなつかしう、いみじく愛敬づきたるを、いとゞ心にしみてをかしと思ふに、のどやかに立ち給へる、いかゞあらんと、いとつゝましうやゝましけれど、世の常のさまに乱れ入りなどすべうもあらず。 女も、女御の御をとうとやうの人なるべし、なべてのけしきならずと見知らるれば、情なからぬほどに語らひて、人/\来る音すれば、うちしのびて立ちあかなれぬ。  かやうに、ひとめも見る人の、心をつけて待ちおぼさん所も、人の聞き伝へん事も知らず、聞こえうちかゝるあまたあれど、人のほど軽らかならず、いとおかしかりぬべければ、情なからぬほどにおり/\言い交はし、さらぬかきまぜのほどは、知らず顔にて聞きすごし、いとこよなくもの遠くもておさめ給へるを、玉のきずと、飽かぬことに思ふ人/\あり。この宰相のあまり過ぐさず尋ねかゝりうかゞひありくを、おかしと思ふ人多かりけり。  その年たちかはり、ついたちごろ、霞める空は春のけしきとのみ見えながら、まだふる年にかよふ雪うち散り、おかしきほどに、宣耀殿に参り給へれば、中納言もさぶらひ給ひけり。 里の御住居にては、いにしへは、上たちの御いどみ心のなごり、ことの外にうと/\しかりしかど、「この二所のほかには、又たぐひもなし。 ∨我世も知らぬを、世づかぬ有様をも、異人に言ひあはせ給はんよりは、かたみにうち語らひつゝこそ過ぐし給はめ」と言ひ知らせつゝ、をの/\およすげ給ひしより、御簾のうちには入れ給ひしかど、ことの外の御物恥ぢに、母屋のうちの御簾の隔てはなをあべかりしを、内裏に参り給ては、おりのぼりの御かしづきのほどにけ近くならひ、督の君も世をおぼし知り、やう/\おも馴れ行心にや、今はたゞ木丁ばかりの隔てにて、物などなつかしう聞こえ給。 世に似ずおかしき御けはひなどを、我身はさるものにいひをき、この御有様をだに例の人と見たてまつらばやと、飽かずかなしうおぼす。 督の君も、この御有様を見るたびごとに、胸うちつぶれつゝ、かたみにおぼし乱るゝ心の中ども、をのづからさるべき程といひながら、疎からずあはれも深かりけり。  御しつらひは、紅梅の織物の御丁、御几丁は三重なるに、女房などは、梅の五重をひとへうち重ねつゝ、紅梅の織物の唐衣、萌黄の三重の色あひも、世になくつくして、数もなくなみさぶらふに、中納言紫の織物の指貫、紅の色深くつやこぼるばかりなるを出だして、あざやかについ居給へるかたちの、常よりもはな/゛\と、あたりこぼるゝ愛行、見まほしくなつかしげなること、いとたぐひなきを、例の世とともに胸あく世なき殿の御心の中なれど、見るにはうち笑まれて物思ひも忘るゝ心地して、御丁の内をさしのぞき給へれば、紅梅のうへ薄くにほひたる御衣どもに、濃き?練、桜の織物の御小袿、紅梅襲の御扇をもてまぎはらし給へる御かたち、中納言の顔のにほひをうつし取りたらんほどに、見分きがたきまでかよひ給へれど、これはいま少しあてにかほり、なまめきたる所やこよなくおかしからん。 御髪は、つや/\とまよふ筋なく、ゆるゝかにかゝりて、丈に二尺ばかりあまり給へる末つきの、白き御衣にけざやかにもてはやされたるなど、いづくともなく絵にかきたるほどなるを、見るごとにあないみじと胸うちふたがりて、この御有様のよろしやかに飽かぬ所あらましかば、さばれや、尼法師になして、深き山に跡を絶え給はん事も、あたらしき思ひも薄くやあらまし、かくすぐれ給へる御さまどもにつけては、うれはしうもかなしくも、方/゛\もろき涙ぞこぼるゝ。  暮れてつきいと明かきに、「御琴の音はいかゞなりたる。 ∨中納言の笛の音に合わせてうけ給わらん」とて、箏の御琴そゝのかしこきえ給手、中納言に横笛奏り給ふ。 例の澄みのぼりおかしげなる音の、はるかに雲居を分けて響きのぼるやうに、おもしろういみじきを、涙とゞめがたきに、掻きあはせ給へる御琴の音、おとらず限りなきを、あたりもさらぬ宮の宰相立ち聞きけるに、笛の音も琴の音も、いみじのことや、この世の物ならぬ妹背の御才どもかな、かたち有様もかくこそはあらめと聞くに、そゞろに涙こぼれて、しのぶべくもあらねど、「まやのあまり」をうちうそぶきて、反橋の方に立ち出でたれば、中納言琵琶をふととりかへて、「をし開きて来ませ」とかき鳴らしたり。 「帷丁ならぬ」こそわびしけれとて、心ときめきせらるれど、大臣のこと/\しきさまして出で居給ぬれば、かひなく口惜しうて、いとすくよかになりぬ。 異殿上人・上達部など参りて、御対面あるにも、宰相はありつる御琴の音のみ耳につきて、さばかり何事にも世のひとつものなる中納言の目うつしにも、いかばかいならん事の御耳にもとまりなんと思ふに、いとねたく口惜しうて、琵琶奉り給ふをわりなくすまひ給。 女房など、中納言殿にこそひとしからね、なべての人にはことなくすぐれたるを、いとなつかしうおかしと見けり。 同じ御垣の内になりては、時/\かやうの琴の音を聞くにも、「岩うつ浪の」とのみ、思ふ事のかなふべき世はなげなるを思ひわびて、霞みわたれる月のけしきにも、心のみ空にあくがれにたるにながめわびて、例の中納言殿に語らひて慰めんとおぼして、前駆などもこと/\しうに追わせず、しのびやかにておはしたれば、例ならずしめやかにて、「内裏の御宿直に参らせ給ぬ」と言ふが、かひなく口惜しく、内裏へや参らましなどながむるに、内の筆の琴の音ほのかに聞こえたるに、耳とまりてさならんかしと思ふに、これもあさからず心を乱りし人の「塩焼く煙」になりしぞかしと思ふに、今とても思ひ放たぬ心は胸うちさはぎて、とかくまぎれ寄りてかいばめば、端近く簾を巻き上げて、弾き出でたる音を聞くよりも、月影にいと身もなく衣がちにて、あえかにうつくしうなまめきたるさま、内侍の督と聞こゆとも、限りあれば、これにはいかゞまさり給はんとする、すぐれたる名は高けれど、いとかくは思はざりしを、まことにいみじうありけるかなと思ふに、又魂一つはこの人の袖の中に入ぬる心地して、見捨ててたち帰るべき心地もせず。 うつくし心もなくなりにければ、さば、今宵入りなんと思ふに、夜更くれば人/\はとかく寄り臥し、あるは庭に下りて花のかげに遊びなどして、御前には人もなきに、琴の上に傾きかゝりて、つく/゛\と月をながめて、♪春の夜も見る我からの月なれば心づくしの影となりけり とひとりごちたる。 父母とても、あまたの中にすぐれたる思ひ限りなかなり、見る人とてもさばかりめでたくすぐれて、行きかゝづらふ所もなく、いとあまり世づかぬまでまめやかなるを、何事の心づくしなるにかと聞くに、いよ/\過ぐしがたくなりまさりて、をし開けてつゝまず歩み入り給を、人/\は中納言のおはすると思ひておどろかぬに、ふと寄りて、♪忘られぬ心や月にかよふらん心づくしの影と見けるは けはひのあらぬに、あさましとあきれて、顔をひき入れ給を、かき抱きて、丁の内に率て入りぬ。 「やゝ」とおびゆるやうにし給を、御前近き御乳母子の左衛門といふ、聞きつけて、殿のおはしましつると思ひつるを、いかなればとおどろきて寄りたるに、いひやる方なくいみじき御けしきなるに、しのびやかに泣き給けはひなるを、「あな心憂や。 ∨いとつらくおぼし捨てしかど、しふねき心に、のがれぬ御契りはかゝる世もありけるぞかし。 ∨いかにおぼすとも、今はかひ有べき事かは。∨たゞさりげなくてを」とこしらへ給ふにぞ、その人なりけりと聞くもあさましういみじけれど、げにいふかひなければ、人にだに知らせじと思ひて、「御前には入らせ給ぬなり。 ∨まろは御前にさぶらはん。 ∨月をも花をもよく見明かし給へ」と言へば、若き人/\「あはれ知れらんにこそ」と言ひながら遊び出でぬなり。  女君は中納言にならひて、人はたゞのどやかに恥づかしううち語らふ事より外にはなき物とのみおぼすに、いとをしたち情なきもてなしなるに、絶え入りぬばかり泣き沈むけはひ有様の、限りなくあはれにらうたげなるに、かくて後も心やすくあひ見ざらん事のわりなきに、中納言は猶あやしかりける人かな、いみじうまめなるはこの人に心ざしたぐひなきとのみ思ひしを、さま異なりける聖心にこそありけれと、めづらかにも、さま/゛\おぼゆ。 逢ふ人にしも飽かぬ夜を、まいてはかなう明けぬ也。 左衛門焦られわぶれば、出でぬべき心地もせねど、さりとて有べきならねば、泣く/\心のかぎりたのめ契りて出給心地夢のやう也。  「我ためにえに深ければ三瀬川のちの逢ふ瀬も誰かたづねん なをおぼし知らぬこそかひなけれ」と言へど、いらへもせず。左衛門にいみじき事ども語らひて、たち帰りても夢かとだにえ思ひ分かず、よゝと泣かれぬ。 女君は、まして、あさましううつゝともおぼえぬ心惑ひに、消え入る心地して、起きも上り給はねば、「御心地のわびしきにや」など人/\見たてまつりあつかふに、中納言内裏よりまかで給て入り給へるに、いとゞいかで見え奉らんと、わびしきまゝに引きかづき給へるを、「などかくは」と問ひ給へば、御前なる人、「夜より例ならずおはしまして」となん聞こゆれば、いとほしく心苦しうおぼして、添ひ臥し給て、「いかにおぼさるゝぞ。 ∨今まで御消息のなかりけるよ」など、いとなごやかにあてはかに見あつかひ給につけても、いとゞめづらかなりつるけしきはふと思ひ出られて、胸ふたがりぬ。  上もいかなる御心地ぞとおぼし騒ぎて、祭・祓、何やかやとさはがしげなれば、中納言も立ち出給はず、添ひゐ給へば、左衛門がもとに、たち返り隙なき御文をだに見せ奉らず。 跡絶えたるまゝに、宰相の君は月ごろの物思ひに、いよ/\重ねつる心地して、わびしく堪へがたく、かくては生きめぐるべき心地もせず、年ごろもののいとかくおぼえましかば、今まで生きめぐらましやはとおぼえて、これかれ惑へど、すべきやうもなし。 左衛門がもとにば、日に千度、「みくらの山」の所なきまで書きつくし給を、若やかに物深からぬ心には、えもいはず、あてになまめきたるけしきして、命も絶へぬばかり泣きわび給ひしあかつきを、いと浅からず心苦しと見たてまつりにし心のしみにしかば、御文の隙なき言の葉など、あはれにかなしげなるもいとおしく放ちがたく、色めきたる心には思へれば、いと夢のやうなる事の後、そのまゝにいみじくおぼし入らせ給ひて、御心地例ならず物し給へば、殿の隙なく添ひおはして、かひなきまでも、えこの御文を引き出でぬよしを、同じさまに書きをこす。  げにさもあらんかしと、消え入りぬばかりなりしけしきも思ひ出づるに、恨めしさも忘れて恋しくかなしきに、われも起き上がり歩きせんこともおぼえず、つく/゛\と起き臥し嘆きわびつゝは、さても中納言の浅からず見えながら、いかなりける事ぞとよ、ありし夜のほどにこそ、中納言も泣き沈むらめ、大方の人柄はいとめでたく、目もあやにすぐれて、なつかしう愛行づきながら、かやうの方はあながちにもと、ねたくうち思ひ放ちて、なさけ /\しくもてなして過ぐすなりつらんかしと思ひやるも、いとめづらかにありがたかりける人の心なり。 今より後、うちやとけんと思ひやるさへ、胸うちふたがれば、いかにかまへて、盗み出てしがなと思へど、かけても我に心を交し、つゆの言の葉を交さばこそあらめ、さりとて、ひたぶるに乱れ入るべきやうもなし、さばかり児めかしく、あえかなりつるけはひ有様には、中納言のめでたくなよびかになつかしう、たゞうち語らふのみこそあはれに心につきて思ふらめ、我をば情なく、憂かりしとぞ思出で給ふらんと思ひやるに、涙もとゞまらず、月を見るにも、「見る我からの」と一人ごちし、思ひ出づれば、かき乱る心地す。  中納言はさしてそのこととなく、おどろ/\しからぬ御心地にて過ぎ行けば、さのみもえ籠りゐ給はず、大殿・内裏などに参り給はんとて、「かくのみはれ/゛\しからぬ御心地を、歩き侍らん程こそ、いと静心なかりぬべけれ。 ∨世の常に起き上がりなどして心みさせ給へ。 ∨何事も同じ心に聞こえの給はせて過ぐしつるにこそ、いつまでと心細くおぼゆる道のほだしにも、まづ誰よりも引きとゞめらるゝ心地もし侍りつれ。 ∨かくてのみ沈み臥し給へるを見侍れば、いとゞながらふべくも侍らず。 ∨物むつかしうおぼえ侍る」と、御髪をかきやりつゝ、はな/゛\とにほひみちたる御顔に、涙を浮け給へるまみのけしき、いみじうあはれなり。 女君、いさゝか男男しくあら/\しきけはひもなく、たゞうち語らひて過ぐしつるは、つゆにても心置くひし交りてもおぼえざりつるを、わが世に知らぬ憂き契りゆへ、この人にも隔たりておぼえぬべき事、とおぼし続くるに、答えもやり給はず、いとゞ顔をひき入れて泣き給けしきなれば、いと心得がたく、もし我を疎かなりなど人の聞えたるにやと、いとおしく心苦しければ、うち嘆きて、「いと疾うまかで侍りなん。 ∨御前に人多くさぶらひ給へ。 ∨物の怪などのするわざなめり。 ∨心得ぬ御けしきのまじるは」と、言ひ置きて出で給ひぬ。  内裏に参り給へれば、内侍の督の君の御方に、女房などめづらしがり聞えて、日ごろの物語などするついでに、「宰相の君といふ人、いかにぞ」 「里のしるべにあらぬ身の、常に恨みらるゝがむつかしさに、譲りきこえてし。 ∨「都鳥は、あなづらはし、わたくしの心ざし添へられじ」 ∨にとや、この日ごろは音なきこそめやすく侍れ」と、こまやかに笑ふ。 弁の君、「その中将は、悩み給事あり」とこそ言ふなりしか。げにひまなく行きあひ、うるさきまでをとづるゝ人の、この日ごろ音なきはむべなりけり、いとおしかりける事かなと、聞き驚かれて、内裏よりまかで給まゝに立ち寄り給へれば、「日ごろ、例ならぬ病者にかゝり侍て、とぢ籠り侍つるがいぶせさに、内裏に参りて侍りつるに、いたはらせ給ことありて、久しく参らせ給はずといふ人の侍つれば、驚きながら」との給ふに、顔の赤む心地して、いとゞ静かならぬ心の内ながら、「わざとこと/゛\しかるべきにも侍らねど、乱れがはしうおこりたち侍ぬる時、はた動きなどもせられぬ癖にて、ゆでなどし侍とて、籠りゐ侍ぞ。 ∨この物せさせ給ふ病者、誰にか」と言ふにも、うち忘れてひが事もしつべし。 こと/\しからず言ひなせど、いといたく青み面やせて、まめやかに屈したるを、例は、見るたびごとに、うるさきまでよろづに語らひ乱るゝに、言少なにしめりたるは、げにおぼろけならず心地のあしきなめりと見ゆるも、いとおしけれど、女君の例ならぬけしきのおぼつかなければ、「まことに、御けしきなを例ならず、異なり。 ∨滝のよどみ、恥づかしげなるまでもやせ給にけるかな。 ∨御心地苦しきにはあらず。いかなる御心地の乱れぞ」と、うちほゝゑみて言ひあてたるに、面赤む心地すれど、これにぞうち笑はれて、「しほれ姿は、今のみや御覧ずる」と、いたく乱れぬほどのけしきにて、帰り出で給。 夕暮のたど/\しき霞の間より、にほひこぼれたる桜の花も、にほひをさるゝまでめでたき、つく/゛\と見送りて、かゝる人に朝夕目なれて、我をばなにとかは思はん、つきせずつらき、ことはりかなと思ひ続くに、いとゞ思ひやる方なく涙こぼれて、つゆまどろまでのみ夜を明かし給。  かくのみ嘆き焦られ、人目もえはゞかりあふまじくせめわび給に、左衛門、いと心弱く語らひなびかされて、中納言、例の内裏の御宿直なるおり/\、夢のやうに導き入れ奉るを、女君は、たびごとに涙にまつはれて、つゆにても人にけしき聞きつけられては、いかでながらふべき身ぞと、おぼし入りながらも、ほのかなる行きあひのおり/\、うつし心もなきまで泣き惑ひ焦らるゝさま、なまめかしうあはれげなるも、たび重なれば見知られ給はずもあらず。 中納言のいとめでたくすぐれながら、よそ/\にて、人目ばかり情あるさまに、のどやかにさまよき目移しには、かういといみじく死ぬばかり思ひ焦らるゝ人を、心ざしあるにこそと思ひながら、けしきにても人の漏り聞きたらん時と、恐ろしうそら恥づかしきに、人知れぬあはれの見知られずしもあらずなりにけるも、我ながらいと心憂と思ひ知らる。  かくのみものをのみ思ひ、はればれしからで明かし暮らすに、ことにおぼしも分かぬに、三四月にもなり給ひぬれば、みな人見奉り知りて、大臣、「この月ごろ、さしてそこはかとなき御心地の、かくのみ例ならぬは、もしあるやうあるにや」と尋ね案内し給にも、たしかならぬ限りはさも聞こえざりつるを、御湯など参る人/\見たてまつりて、「さにおはしけり」と聞こゆれば、いといみじくおぼして、笑みひろごりて、「今まで御祈りなどもせざりける事」と騒ぎ給て、「中納言の心ざしなどの、横目もせずねんごろなるさまよ。 ∨さばかりの人ざまにては、残るくまなくて好き歩かんも、いかにとがむべきぞ。 ∨いさゝかの迷ひなく、まめやかなるさまのありがたく、世のためしにも引き出でつべきぞかし。 ∨まして、この人の顔つきに似たる人さへさし出でなば、わが家の光にこそはあらめ」と、涙ぐみつゝ言ひ続け給て、いみじく笑みてわたり給て、丁の前に居給へるに、いと苦しくて寝給へるに、殿の御けはひの近くすれば、起き上がり給へるに、いみじくうれしとおぼしたるさまにて、寄り給て、「いかにぞ。 ∨例ならぬ御心地を今まで聞かざりける事。 ∨御祈りなどもせさすべきこと」と、泣きに泣き給ふも、あやし、かやうには常に心地なやましくのみおぼゆるを、あやしかりける事の後は、物嘆かしく心細くのみおぼゆるを、まことにさる事もあらば、中納言いかにおぼさん、同じさまにて見えたてまつらんことのいみじさをおばす心惑ひに、汗になりておはすれば、「あいなの御物恥ぢや」とて、いみじくうれしとおぼしたるさまこそ、限りなきや。  帰り給ても、さま/゛\の果物何やかやと、おぼし至らぬくまなくあつかひ聞え給て、上に「とくわたりて見たまへ」と聞こへ給へば、「恥づかしうもおぼすらん。あまり顕証にな聞こえ給ふそ」との給へば、「いでや、そこには大将・女御の御方/゛\をこそ思ひきこえ給へれ。 ∨この御方にはをろかなるなめり。 ∨かくしるくなるまで、知らぬ人やある。 ∨年ごろ思ひきこえし本意ありて、わが胸を開け給べき事」とて、御乳母も召して、「かならずしも、え見知り給はじ。 ∨今日吉き日なり。 ∨夜さりおはしたらんに、ほのめかしきこえ給へ」などの給程に、中納言おはしたり。「さりや。 ∨夜をだに更かし給はぬさまよ。 ∨この人の御心をろかにあは/\しからましかば、いかに胸いたからまし。 ∨女は后になりても、何にかはせん。 ∨この人に用ゐられたらんのみこそ、めでたかるべきことなれ。 ∨かしこく思ひ寄にけり」と、我ぼめをし、言ひ散らし居給へるも、いとあはれ也。  中納言御もの参らする御まかなひに、中務の乳母さぶらひて、大臣のおぼしよろこびて、とく聞えさせよとの給はせつる由ほのめかし出でたるに、中納言胸うちつぶれて、あさましと聞くに、御顔のさと赤みたるを、恥づかしとおぼしたるなめりと心得て、さはいへど若の御さまやとおかしううつくしう見奉る。  女君は、いとわびしく、汗も涙もひとつにてひきかづき給へるを、中納言も例のやうに臥し給へれど、何事をかは聞こえ給はん。 世づかぬ身の、うつしざまにてながらふるを、かりそめに静心なく思ひながら、その事となきかぎりは、たゞ母上の、人におされぬおぼえあなづらはしからざめるを、見捨てたてまつりてはいかなる闇にかまどひ給はん、殿も不用のものともおぼし捨てず、一日も御覧ぜられぬをばいとおぼつかなきものにおぼしたるなどを、さま/゛\背き捨てたてまつりてもいとゞ罪浅からずこそならめと、さすがにすが/\しくも思ひ立たずありふれば、つゐにおこがましきことも出で来ぬる、我身の心の中こそ人に似ず心憂けれ、大方の世のおぼえは塵つくべうもあらぬ身を、世にとりては痴れがましう見思ふ人あらん、いみじき事なりかし、かくて有ながら、いまだ古りざりけるさまなどを、あやしと思ひあやむる人もあらんなど、さま/゛\といと憂き身の恥づかしさなりや、かゝる身にては、幾世もあるまじきほど、一人あらんと思ひしを、くやしう心憂くもあるかなと、つゆまどろまず思ひ明かさるゝに、なを世中に跡とめん方もおぼえず。  誰ならん、かゝる事のありけるを、なを何心もなく出で入り交らひつるを、いかにおこがましとうちまもる人もあるらんなど、つく/゛\と思ひ明かして、かたみにとみにも起き上がらず、背き/\にて、「起き出で給」とて、女君を引きおどろかすに、いよ/\ひきかづきまさり給へば、「いと耐へがたきわざかな。 ∨月ごろも、あやしくゆるされぬ御けしきと見侍ながらも、くもりなきみづからの心のまゝに、何心なく御覧ぜられつるを。 ∨世づかぬ身の有様を、いかにおぼしなるぞなど、いとおしうこそ嘆かれ侍に、心も知らず殿のひとへにおぼしとがめさせ給はんこそ、いと苦しけれ。 ∨いかゞおはしはて給べき。 ∨いさや、これより過ぎたるらん心ざしの行方も、知り侍らざりけるや。 ∨人にはたゞ分くる方なく、御あたり離れぬばかりを、たぐひなき事に思ひ侍ける痴れ/゛\しさも、みづからはくやしくも恥づかしくも、かへす/゛\思ひ給へらるれば」と、いとのどやかにいみじう恥づかしげにて、忍びがたきふし/゛\ばかりをうちほのめかして、わが心の中にも、いづくを恨み所にかはと、心ながらもおかしうおぼゆるに、いとしも心動くほどの心やましさはなきなるべし。  えもいはず、にほひやかにうちゝ笑みて臥し給へるを見るに、いとゞしき心地は、泣き沈み給へるも、こしらふべき言の葉もおぼえねば、「御前に人さぶらへや」と言ひをきて、御手水召して行ひ給にも、我心の中はいたく心動き、あながちに物を苦しう思ふべき故もなきに、人はおこがましとも世づかずとも、さま/゛\目をたてて思ふらんこそ、いみじう恥づかしけれ。 なぞや、すべてつゐにながらふるおこたりに、かゝる違ひ目は出で来ぬるぞなど、いとゞ思ひとぢめつる心地して、経をつくづくと読みゐ給へる、何となく物思はしき御心のすむにまかせて、     とうち上げて、いみじう尊く読み給ふなるを、聞き臥し給へる女君の御心地、耐へがたうかなしく、面のをき所なく嘆き乱れ給ふをも、人はいかでか知らん。 めづらしううれしき事を喜び思ひて、大殿にもいつしかとほのめかし聞かせ奉り給へるを、殿は、いとあやしうあさましき事哉、中納言、今はさる方に、世にならびなく交らひたちにたれば、世づかぬ身を知るとてもさのみ思ひ嘆くべきならぬを、世とともにいみじく物思はしげなるけしきなるも、かやうに下にあやしき事のありける乱れにやと、聞きおどろかれ給へど、「いかなる事ぞ」と問ひ聞え給はんも、今はいと恥づかしげなるさま、親といひながらはゞかられて、え聞え出給はず。  人聞は、例ざまに聞きはやし給顔なるを、中納言は、殿のおぼすらん事、中/\かたはらいたくおぼえて、出で交らふも、我にはおこがましともあやしとも、目をかけて見る人あらんかしとおぼすに、いと人をば雲居にもの遠くもてなし、世をかりそめに思ひなす顔を、今はもてあらはして。 月ごろは、女君をもさる方に浅からず契り交して、起き臥しもなつかしう、ひとつ心にて、世づかぬわが身にたぐひ給べかりける契りも心苦しう、世の常の迷ひなどありと聞かれ奉らずもがなと、内裏の御宿直などにたちどまれる夜な/\も、いかにおぼすらんなど思ひはゞかられ、深くあはれに思ひきこえしを、かゝる事の後は、あやしくもありけるかなとおぼし知らるらんかしと思ふに、恥づかしうもあいなくも、心の中は隔たる心地して、むげにさのみうらなからんもおこがましかるべければ、いとありしやうにもむつび給はぬを、女は、ことはりに、言はん方なく恥づかしうかなしとおぼし入りて、うちとけてもさらに見あはせ給ふ時なく、「仲のうとくも」といふやうになりゆく御けしきを、さはいへど、まことの契りこそ心に入るらめとのみ心得るに、あながちに恨み慰むべきやうもなければ、けしきもあらぬさまにひきよけ、思ひすましたるさま深くなりまさりて、おはする折も外がちに、たゞ行ひにのみ心を入れて、明かし暮らし給ふ。  大殿・内裏の御宿直がちになりたるを、めづらしきこと添ひては、いますこし心ざし添ひなんと思ひしを、いとあやしと人/\も見たてまつる。 殿も上も、「あやしく、中納言の精進がちに、夜離れがちに、この比なり給へるかな。 ∨いかなる事にかあるらん」と嘆き給ふを、見聞き給御心地、をき所なくわびしう、いかで消え失せ、身をなきになしてしがなとのみおぼしなるを、かの人は、左衛門浅からず心を寄せたる道のしるべなれば、心地の有様などくはしく聞くに、いとゞあはれに、契りのほど思ひ知られて、さばれ、世のつゝましさ人目の見苦しさも知らず、盗み隠してしがなと焦られまさり給へど、さはた有べき事ならねば、思ひ乱るゝ事多かる世にぞありける。  中納言の君は、宰相のいとありしやうにはあらず、いみじく物を思ひ入れたるけしき、もとより心ざし深しと聞きしに、この人ばかりこそあらめ、さはいへど、異人はえふと思ひ寄らじを、さらば異人よりも、うちまもり下に思はんことの恥づかしくもねたくも有べきかなと思ひ寄れど、さしてさは知りがたき事なりかし、なぞや、いと憂き世中にせめてながらふべき、親の御思ひなどを深くたどるほどに、かゝる事も出来ぬるぞかしなど、千々に思ひあくがれて、見えぬ山路たづねまほしき御心ぞ、やうやう出で来にける。  その比、吉野山に宮と聞こゆる人おはしけり。 先帝の三の御子にぞおはしましける。 よろずの事すぐれて、おくれたる事なく、世の人のしとする事、方々の才、陰陽・天文・夢解き・相人などいふ事まで、道きはめたる才どもなりける。 この世にあまりすぎて、昔は遊学生とて、十二年に一度唐土にさるべき人渡しつかはして、かの国の才を習はさりけり。 末の世となるまゝに、人の容面・根性いとわろくなり行により、唐に渡る人絶えにたるを、我渡らんとせちに申請ひて渡り給にければ、その国に待ちうけて、日本の人あまた渡り来ぬ、わが国にもかしこき人多かれど、道/\の才かばかりかしこき人なかりきと驚きあふぎて、その国の一の大臣、ならびなくいつきかしづきける一人娘に婿にとりて、思ひいたづきけるほどに、ほどなくうちしきり女二人を産みをきて、その母なく成にけり。 あらぬ世の人なりとても、物とをく世づかぬ心地もせず、この国は知らず、日本にてをのづから女御・后・帝の御むすめをはじめて見しに、かばかりのかたち・さましたる女のたぐひなかりきと、深き心をとゞめて、たち帰る御心も思ひ絶えにけるに、かなしういみじうとは世の常なり。 やがてその国のうちにて本意をもとげ身をも捨てんとおぼしけれど、形見にとゞまり給へる姫君にひき別れん事もかなしく、おぼしわずらひしほどに、その大臣もかなしみに病づき、命たへずしてなくなりにければ、いとゞたづきなくさへなりて、ありめぐるべくもおぼされぬに、その時の大臣・公卿、又婿に取らんと聞こえけるを、又人を見るべき心地もし給はざりければ、かけても聞き入れ給はざりければ、ねたき心ども出で来て、殺さんとさへかまふるけしきを聞き給て、惜しからぬ命とはいひながら、知らぬ国にわが身をはふらかしてんこといとかなしく、われを又なく思ひあがめいみじく心につく人のある時こそ、ふるく見し世も忘るゝ心もありけれ、ありにくゝ恐ろしく帰りなまほしき事出で来て、この姫君たちを見捨てんもいみじくかなしきに、唐土の海に、なにしうといひける人をさせまろが率て渡りけるに、え渡らずなりにけるより、女かよはぬ道と聞けどいかゞはせん、舟とむる海竜王もあらば、やがて我も旅の空に命を捨てん、惜しからずと、ひたぶるにおぼしなりて、なくなりにし大臣の子どもに語らひて、逃ぐるやうにて帰りおはしけるに、悪しき竜王もいかに心かはりける世にか、船のよどむ時なく、思ふ方の風ことさらに送るやうにて帰り給ひにけれど、世の例にも言ひながされじ、唐の女の腹に子ども有けるなど言はれじとおぼしければ、この姫君たちをいみじく隠して率てのぼり給て、あらぬ世のさかひになりてしも、煙となり給にし雲居さへはるかに隔たり、かなしき事をおぼしほれて、うちしのび、この君たちをかきなでつゝ、又人をけぢかくこの世に見るべきものともおぼされず、うち絶えはてて、泣く/\過ごし給に、いかゞしけん、「この御子、おほやけの御ためにうしろやすからぬ心思ひて、我こそ国の王ならんも道理なれとおぼし寄りたる」といふ事出で来て、はるかなる山のさかひにも放ちつかはされぬべきを、夢のやうに聞きまどひ、すべて、我この世に例のかたちにてあるをこたりなり、心ばかりはあらぬ世に住みはてながら、むげにつきなく、なを君達のあつかひをして交りいたらん事のつきなさに、いかにもわが世と物思ひ知り給まで、と思ひ過ぐしける、いとくやしき事とおぼしたちて、にはかに御髪おろして、吉野山の麓におもしろき御領ありけるに、此君だちひき具し、いづちともなく、人にも見え知られで入給にしより後、鳥の音だになつかしく聞きなされしは、をとづるゝ人なき吉野山の峰の雪にうづもれて過ぐし給。  姫君たちの御かたち有様のあはれにあたらしく、はかなくかき鳴らし給琴の音も、唐国の本体おぼえて人にすぐれ給へるを、あはれにかなしく見たてまつり給て、今は我身ばかりこれより深く跡絶えなまほしきに、また知る人なくいみじき御有様どもに、ひたすら憂き世をえ行き離れ給はぬほど、いと所せけれど、さりともをのづからいさゝかも人めき出給ふ道のしるべは必ず出で来なんと、心に深くおぼし悟りて、契りさだめたる人を待たんやうにおぼしけり。  中納言、いとゞいかで世にあらじとおぼしなる事まさりて、花紅葉につけても、よもの山辺に交りゐて、人に行方知られで、はひ籠るべからん谷の隠れ、峰の上の、さすがに本意を添へつべき所ありやとおぼしまはすに、吉野山の宮の御上を、くはしく語り出る人ありて、「その御住処なん、むげに世捨て離れたる聖の御住処とは見えながら、水の流れ岩のたゝずまひも、都にはすべて目馴れぬさまにて、物思ひも慰め、かつは心行きぬべき御住居なる」と語り出たるを、さる人ものし給とはみな聞きをき給へれば、世を背かんも、むげに山伏などのあたりに立ち寄りて、その人の弟子になりてあらんは、さすがに物恐ろしくわびしかるべきを、御心ばへも有様も、なべてにはものし給はじかしと、今までわが思ひ寄らざりけるよとおぼして、この語る人を召して、「何のゆかりにくはしくは知りたるぞ」と問はせ給。 「おぢに侍人、かの宮の御弟子にて、夜昼御あたりも離れで、仏にとりわき思ひ給ふるやうありてさぶらふに、さるべき時/゛\あひとぶらひまかり侍」と申。 「いとうれしき事かな。 ∨我、その宮を、年ごろいかで知りたてまつりて参りかよひて、世に絶えたる琴ならひ奉り、まだ見をよばぬ文のところ/゛\聞きあらはさんと思ひながら、さばかり住み離れたる所ある御心に、よもうけひき給はじと思ひはゞかりて、口惜しく思ひ過ぐすを、御けしき給はらせよ。 ∨よろしくおぼしめされば、いみじく密かに参らん」と、いとねんごろなるけしきにて語らひ給。 「いとたはやすき事にさぶらふなる」と申せば、「さらば、このごろのほどに参れ」との給へば、往にけり。  おぢの僧に、「しか/\。 ∨殿の権中納言殿の、かう/\申させ給」とくはしく聞こゆれば、 「さき/゛\さるべき人参り給、御消息ども申させ給もありしかど、すべてまだ世にありけりと人にも聞きつけられじとて、さらになん聞こしめし入れぬ物となりにたれば、この四五年は、訪れきこえ給人もなかめるを、いかなるべきことにかは。御けしき給はりて聞こえん」とて、しばしとゞめて、「かう/\なん、わざとなにがしが甥なる人を使にて給はせたる」と申せば、とばかりうちおぼしめぐらして、「さばかり栄耀にまとはれて、めでたき蝶花の事のみこそ心に入るらめ、いかに聞き給てか、深き山までおぼし入るらん。 ∨それもさるべき縁ものし給人にこそあらめ。 ∨いとうれしくなん。たち寄らせ給へ」と、いと御心に入りたるけしきにて、すが/\しくうけひき給を、いとあやしけれど、おぼし得る所あるにこそ有べきと心得て、「いとかたきことと、いとおしく、かひなくて帰り給はんことを思ひつるに、かう/\なんの給はする」と語れば、喜びながら帰り参りて、くはしく聞ゆ。 かつ/゛\思ひかなひぬる心地して、うれしき事かぎりなし。 「あなかしこ、かくなんと人に聞かすな」と口がため給ふべし。  この度、あまり世背きなん事あへなかるべしとおぼしなん、又よかなりとうけひき給はじ、たゞ、人の御有様を見たてまつりて、この世ならずたのみ申よしを契り聞えて、この度はたち帰りなんとおぼせば、「夢いみじくさはがしく見ゆと告ぐる人あれば、浄きわざせさせに七日八日ばかり山寺になん有べき。 ∨そこと知られぬれば、心あはたゝしく、人/\来などして、行ひもまぎるゝ心地す」など、言ひまぎらはし給て、出でたち給とても、女君とは、二三日とも隔たるべきほどはおぼつかなかるべき事を、あはれになつかしくうち語らひ、さる方に浅からぬ御中と見えしを、この事の後は、かの御心の中の人目もおこがましければ、さしもあらずなりにたるを、女君はいと恥づかしくかなしき物から、かゝるにつけても、あながちなる人の契り浅からぬあはれはこよなく身にしみたるも、我ながらいと心憂し。 中納言も、さこそおぼすらめと推しはかるも、それを恨むべきゆへある身かはと思ひ離れ、よろづを見聞き知り顔ならぬぞねたげなる。  御伴には、しるべせし人ばかり、さては御乳母子やうの人、親しくおぼす四五人ばかり、いみじくしのびてまうで給。 九月ばかりなれば、むら/\けしきばみゆく山のけしきもあはれなるに、まだ見も知らず遠く分け入り給まゝに、心ぼそくあはれに、殿・上なに事をかはをはしますらんとおぼつかなく、かりそめと思ふ道だにかうこそおぼゆれ、まして今はと思ひ立たんほどよと、人わろくおぼし知らる。   涙しも先にたつこそあやしけれ背くたびにもあらぬ山路を 道よりしるべの人先立てて奉り給へば、御しつらひかき払ひつくろひて、御衣奉りかへなどして待ちきこえ給。 陽うち入る際にぞ、おはしたるよし御消息聞こゆるも、いたく用意して入りおはしたり。  浮線綾の、所/\秋の草をつくして縫ひたる指貫に、尾花色の象嵌の襖に、紅の打ちたる脱ぎかけて、光を放ちはな/゛\とめでたく、たゞ今極楽の迎へありて雲の輿寄せたりとも、なをとゞまりて見まほしき御有様なり。  何事もみな口惜しくあせゆく世の末なれど、かゝる人のものし給けるよと驚かれて、とばかり目守り給に、いとゞもてしづめてさぶらひ給。 御子の御有様も、いときよげにおはしける人の、行ひにやつれ給へるさま、色白く頭はいと青やかに、あてにかはらにて、思ひやりきこえつるよりは、若くきよげにおはします。 御物語やう/\打とけゆくまゝに、才のほどなどこの世にあまりて、こと/゛\にすぐれたりける人かな、いかでかゝらんとめづらかにおぼす。 姫君たちの人めき出で給はんしるべなりと、御心の中にさとりおぼせば、いとなつかしくうちとけ給て、昔よりの事どもを、唐土に渡り給てありしさま、かなしういみじき目を見て、世になき女二人をえ見捨てず、例なきやうなる世の音聞きかしこく身に添へて、憂かりし世の乱れにもひきかゝり、なをこの人/\を道のほだしにて、これより深くも身をえ隠さぬ由を言ひ続け給へるも、あまりすぐして聖だちても見えず、あてやかにあはれげにうちおぼしのどむるけしき、見る人も涙とゞめがたきに、我も泣く/\、「さてものし給か。 ∨今の人目は、人より異に、心ぼそくも口惜しくもあるべきにも侍らねど、いはけなくよりあやしく世にたがひ、人に似ぬ有様にて、やう/\物思ひ知らるゝまゝに、世に有にくゝ思ひなる」さまを聞こえ給へば、みなさ見え給所あれば、うち泣き給て、「しか御心ならずおぼすべき事なれど、それしばしの事也。 ∨いかなるにもこの世の事ならず、前の世の物の報ひなれば、ともかくも人のおぼすべき。 ∨この世に、世を嘆き人を恨むるなん、いと心幼く、むげに悟りなきことに侍べき。 ∨さらにおぼしいとふべき御事にも侍らず。 ∨つゐには思ひのごと、上を極め給べき契り、いと高くものし給めり。 ∨くはしく聞こえさせずとも、をのづからさ言ひきかしとおぼしあはするやうもあらん。 ∨うたて、相人めかしく聞こえ続けじ」との給を、いかに見給にかあらん、にはかに、世づかぬ身を、何故に上を極むべきにかとおぼす。  「女御たちの御事、はか/゛\しき身には侍らずとも、世にめぐらひ果つらんかぎりは、うしろみ奉りてん。 ∨さらに、その御事うしろめたくおぼしめしそ」と聞こえ給へば、「昔より、さらに人にかゝる事ありと聞かせ侍らぬを、さるべきにや、あやしき問はず語りを聞こえ出でつるも、常のことなど思ひ給へかくべきならず。 ∨かうながらも、女の身、捨つれど捨てられず、背かれぬ物にて、あひとぶらひ給ふ人なくては侍まじきわざとばかりを、所せく思ひ侍れど、人の契り・宿世みな侍わざなれば、さらに、この山に世をつくせなども、遺言し思ひ給はず。 ∨しか思ひをきて侍れど、宿世といふ物侍れば、それにもかなひ侍らじ。 ∨人聞きおどろ/\しからず、おもりかに身を用ゐよとも思ひ給へず。 ∨たゞ宿世にまかせてとなん。 ∨その程のいまだはるけきにやといと心苦しきが、うるさく思ひ給ふる」とうち泣きつゝ、つきすべうもあらぬ御物語に夜も明けぬ。  めでたくなつかしき御あたりに、御物語とても、唐土・韓国までおぼつかなく、とゞこほる所なく、地獄の底・浄土の奥まで曇りなき心地するに、よろづ心ゆき、身の嘆きをもさまして、かつは、あはれにかなしき事多くいみじきに、たち帰るべき心地もせず。 この世にまだもて伝へざりける文ども開げて見せ給に、この中納言の御才、さとりの妙なる事、唐土にも並ぶ人なしと思ひたりし我にも劣るまじかりけり、めづらかなる人かなとおぼし驚かる。 題出だして文作らせ給に、おもしろくかなしき事、唐土よりもて伝へたる文どもにまさりて作り出で、書き出で給へる手のさま筆の先らめづらかに、いみじき人をも見るかな、変じ出でたる人にこそあめれとおぼし驚きて、うちうなづき給ふし/゛\あれば、めづらしう見給。  はかなくて二日三日過ぎぬ。 宮は、この御有様才の限りなきにめでて、行ひも懈怠し給へり。 琴の御琴をゆかしげにおぼしたれば、深き夜の澄める月にかき鳴らし給へれば、取りて弾き給へる、さらに同じ調べをふと聞き取りて、いとおそろしきまで。 「残りの音は、聞こえさせつるほだしども、このはかなき人に教へをき侍しに、違はず弾き取りたるとおぼえ侍るは、山臥しの、吉野の峰の山おろしに耳馴らして侍ひが耳にや。 ∨されど、わざと訪ねさせ給へるよろこびには、疎う思ひ聞ゆべきにも侍らず」とて、姫君の御方に渡り給て、「かゝる人訪ねものし給て、日ごろ物し給へるを、こなたにて、物など聞こえ給へ。 ∨なべての人のやうに見えぬ御有様也。 ∨ゆくりかになど人目あやしかるべけれど、うしろめたうは見えざめり」とて、さるべきさまにひきつくろひて、暁近く出づる月の、霧りわたりあはれなるに、御消息あれば、えもいはずにほひ満ちて、まばゆきさまにておはしたれば、端近くながめ給へる姫君たち、いと恥づかしくてひき入り給を、「たゞ聞こえんまゝに。 ∨かばかり世づかぬ御住居には、何かは。 ∨世の常にもてなし給はんもたがへり。 ∨うしろめたくは有まじきを」とこしらへをきて、我御身はあなたにおはしぬ。  この御方は、少し奥にひき入りて、小さやかなる寝殿の、いとことさらに事そぎたるしも見所あり。 心とゞめてもてあそび給へる人の御住処と見ゆ。 内外しめ/゛\と人気もせず、水に映れる月ばかりぞさやかなる。 かゝる所に、いつとなくつく/゛\とながめ給姫君たちの、御心の中いかならんと、いみじう心苦しく思ひやらるゝに、この世近き方はなく、唐国の心地ものすく/\しう、深きもののあはれなどは知られ給はずやあらん、など推しはからるゝもゆかしきに、人声もせねば、「吉野山うき世背きに来しかどもこと問ひかゝる音だにもせず ∨わりなのわざや」とながめ出でて、うち泣き給へるけしき、いみじうなつかしうあはれなるを、都の人だにたぐひなく思へる、中の思ひに燃ゆる人多かるに、まいて、なべての人だに見ならひ給はぬ御心地ども、あさましきまでおぼさるゝに、御答へなどおもなく聞こえ出づべき人もなければ、いと恥づかしうわりなけれど、久しくなるもかたはらいたくて、姉宮少しいざり寄りて、   絶えず吹く峰の松風我ならでいかにと言はん人影もなし ほのかなるけはひ、いみじくあてに心恥づかしく、よしあり心にくきほど、都にもかばかりのけはひは有り難うおぼゆるに、いづれならんと思ふもいとゞ心もとなければ、   大方に松の末吹く風の音をいかにと問ふも静心なし 世の常の懸想びてはあらねど、たゞあはれに心深く訪ね入るよし〔を、いみじくなつかしげに言ひなし給ふに、少し〕おもなれ行くにや、おり/\浅からずさし答へ給へる、いみじくおかしき人のけはひ・心ばへ、我にてはかひなくもあるかな、宮の宰相は、かゝる人世にものし給ともいまだ聞きつけぬにやあらん、いかに聞きまどひ心を尽くさんと、まづ思ひ出られて、我身も嘆かしく、うち笑まれ、月はくまなく霧りわたりたるに、虫の声/゛\乱りがはしく、水の流れ・風の音・鹿の音などひとつに聞こえて、あはれを添へ、涙をもよほすつまとある所のさま・人の御あたりなり。  「かゝる御簾の外、いまだならひ侍らぬ事にて、はしたなく恐ろしくこそ思ふ給へらるれ。 ∨な疎ませ給そ」とて、やをらすべり入り給ぬ。 あさましくあきれまどひ給て、うつぶしふし給へるを、「あが君、かくな疎ませ給そよ。 ∨なれ/\しき有様は、よに御覧ぜられ侍らじ。 ∨かたじけなきことなれど、あやしながら、いま一人たぐひあるとおぼせ」と、いとのどやかに、なつかしうこしらへ慰むれど、夢のやうに思ひ騒ぎ給へる、いとことはりなるに、中の君も、身に添へてゐざり出で給へりければ、うち添ひ給へるなるべし。  さぶらふ人人、など、こはいかにと、あはたゝしく見るもあべかめれど、いつとなくかゝる御住居を心ぼそき事と思ひ嘆く心どもなれば、かうめづらしくめでたき人のおはすると聞きて、心ときめきせらるゝに、をの/\の姿どもうちなへばみたるに、かゝやかしくて入ぬるぞ、頼もしげなきや。 こはいかにとて寄り来る人なきよとわりなきに、人のもてなしもあやにくに今めかしくなどもあらず、たゞなつかしげなるに、我のみ思ひ騒がんもあまりなるに、心をのべて、姉宮、「隔てなしとは、かゝるをのみや。 ∨人の思はん所よ。 ∨あさまし」とあはめ給へば、「そはたゞをのづから心安くおぼしなせ。 ∨世中にめぐらひ侍らんかぎりは、いかで心ざしのかぎりを尽くして、御覧ぜられにしがなと思ひ給ふるには、あまりおぼつかなく隔て多かる心地して、いぶせく侍りければ、たゞうらなく我も人も疎かるまじきよしを、思ひ給へ寄りてなん」など聞こえ給ふに、やう/\慰めてものし給。  中の君、いとわりなくてひきかづきてうづもれ入り給を、げに心苦しくて、几帳さし隠して入れつ。 「心憂くも隔てさせ給ぬるかな。 ∨いづれをも同じこととこそ思ひきこえさすれ」と恨むるに、うち続き給ぬべきけしきなれば、世の常めかしくひきとゞめて、たゞうち添ひ臥して、この世ならず契り語らひ臥し給さまの、つゆばかり疎むべきやうもなきを、いかでか見知り給はぬ人のあらん。 たゞいとわりなく恥づかしう、かうやうなる人の有様を見知り給はぬに、あやしうもうしろめたうもおぼゆ。  明け行くに、いとゞわりなく、はしたなしとおぼいたり。 白き単襲ばかり、なよゝかなる御姿いとほそやかに、ものより抜け出でたるさまして、頭つき髪のかゝり、なべてならず、うちやられたるほど、袿にもいと多くあまれるなるべし。 ゆへ深くもてまぎらはし給へる側目、いとくまなく白くうつくしげにて、言はん方なくけだかくきよらにものし給けり。 唐土の人めかしく、けどをく人に似ぬ所やなど、ゆかしさにかばかり乱れつるを、いとあてに見まほしき御有様かなと、あはれにめでたく、いよ/\心のかぎりたのめ契り給、男の御さまはたさらなり。 いみじくめでたきあさけの御さま姿を、かたみにいとめでたしと見給ふにも、明かくなり行けば出で給ぬ。 おかしかりける人のさまかなと、思ひ出られて、御文聞こえたまふ。   今の間もおぼつかなきをたちかへり折りてもみばや白菊の花 と、世の常めきたるを、むげにさやうにとりなしけしきばむを、姫君は、あいなく人のけはひのなつかしうあはれなりつるに、そこはかとなくうち語らはれつるを、今ぞいかなりつる事ぞと、あさましく恥づかしきに、心地さへたがひておぼえ給へば、御返も聞こえ給はぬを、人/\いみじくかたはらいたがりきこゆれど、「かならずさしも聞こゆべき事かは」とて、やみ給ぬ。  暮れぬれば、例のそなたに渡りて、月を見つゝうち語らひ、琴の音もかきあはせつゝ明かすに、心入りはてて、たち帰るべき心地もせず。  はかなくて、日ごろ多く過ぎ行くに、かく隔てなきさまにと聞き給へど、いかなる事ぞなどもおぼし驚かず、「いとよくうち語らひておはせ」とのみ聞え給へば、いとゞいかでか隔てもあらん。 さりとて身をばかへぬ物から、かくてあるべきならず。 殿・上、いかにおぼつかなくおぼし嘆くらん、右の大臣もいみじう恨み嘆かるらんかし、みづからの御心ひとつこそさしもおぼさるらめと、さま/゛\思ひやらるゝ事多かるに、さのみもたえ籠り給はで、出で給とて、宮にも、麻の御衣・法服・御宿直物などまで、まことに峰の松風音にのみ聞き給ばかり、あらゝかに奉り給。 上下もさぶらふ人/\、姫君たちの御料、紅の?練に織物の袿など、世になき色あひに仕立て、さらぬ絹綾などいふ物多く奉り給。 御扇など、なべてならぬさまなるを、さらにあまりこちたく、「かゝる事は思ひたまへ捨ててし物を、本意なき事になん」などの給へど、人柄のいとあてに心恥づかしげなるに、心のまゝにも返さひにくゝて、「ほだしにかゝづらひ侍る人/\の上は、頼みきこえて心安くなん。 ∨これより深く思給へ入りなんとする」よしを、うち語らひての給ふ。  中納言も、さらなることは聞こえさせん方なく、「かゝる御住居も移ろはしきこえ侍らんとなん思ひ給ふる」と聞こえ給へば、「そは、たゞ今、しかゆくりなからんことは、御ためも人聞き便なく侍なん。かくながらも、おぼし捨つまじきさまにだに思ひ侍らは、うしろめたき思ひは慰み侍ぬべく」など、契り交して、御贈物に唐土よりもて渡り給へる、世になくこの世に伝はらぬ薬ども、あるかぎり奉り給。  姫君には、たち返り限りなき心ざしを契りをきても、あかずあはれなれば、   静心あらしに身をぞくだかまし聞きならひぬる峰の松風 女君も、目もあやになつかしうあはれげなる御有様を見ざらんは、いま少しさう/゛\しさまさりぬべくおぼえて、   年を経て聞きならひつる松風に心をさへぞ添へて吹くべき 我ならざらん人に、見せきかせまほしう、めでたき御有様けはひなるも、あかぬ心地して帰り給。  野山のけしき、やう/\色深くなりにけり。 はかなく、日ごろにもなりにけるなどあはれにて、まづ殿へ参り給へれば、 「なを二三日かとこそ思ひしを、日ごろ見え給はざりつれば、心をまどはして、思はぬ山なく。 ∨いづくにものし給へるぞ」と、「世離れて、人に知られで歩き給は、なをいとかろ/゛\しき事を」とて、日ごろは物もおさ/\参らざりけるを、今ぞ御前に物参らせ給ついでに、もろともに聞こし召す。 世づかぬ御有様を、今はさるべきなりけりと、かゝるさまにつけても、めでたくすぐれて世に交らひつき給へば、おぼし慰みはてつるに、うれしくいみじとおぼしたる御けしき、いとあはれなり。 見れども/\はなやかに飽く世なく、めづらしくうつくしげなるを、うち笑みてつきせずまぼり給て、「右の大殿も、日ごろ思ひ嘆きて、心苦しき事の添ひてしも、心とまらぬやうになり行くこそ嘆かれけれ。 ∨などて、さはた見ゆる。 ∨人目はめやすくもてなしてこそ」など教への給はせて、そゝのかし給ものから、「世にあらん程は、なを朝夕の隔てなく見え給へ」とて、涙ぐみ給。  右の大殿には、四五日と言ひ置き給しに、十余日まで音もせずかき籠り給へりつるを、おぼつかなく、あやしき事に思ひ嘆き、大臣は物も参らずおぼし嘆きたるを、女君は我ゆへかくのみ物をおぼすと、いとおしくかなしきに、常に心ぼそげにて世中にあり果つまじきさまにのみ思ひ給へる人なれば、いかにおぼしなりにけるぞと、いみじくよろづに思ひ乱れ騒ぐをも知らず、宮の宰相は、これをよきひまと、泣く/\こがれ惑ひ給を、心弱く導き聞ゆる夜な/\を、心憂しと思ふ方は方として、これこそはまことに深き心ざしなめれと、思ひ知られ行。 あはれも浅からずうちなびき、腹などいとふくらかにうち悩み、思ひ乱れたる人ざまの、限りなくいみじきを、しのびつゝほのかに見る宰相の心惑ひぞ、ことはりなる。 かたみに涙にまつはれつゝ、たち別れ給ふ夜な/\、物をのみおぼしまさるに、殿はいでやなどおぼしのどむる所なく、御きよめをさへ〔し騒ぎ、「女房常よりもあざやかにさうぞき化粧せよ」とさへ〕たち騒ぎ、姫君をも「などかくては臥し給へる」と、せめて起こし据へて、よろづにつくろひ据へ給ふも、かたはらいたく苦しきに、入り給音すれば、物のうしろに立ち隠れてのぞき給へば、日比のほどにかたちはいま少しにほひまさりにける心地して、はな/゛\と愛行づきはあたりにこぼるゝやうにて、いとのどやかについ居て、女君にさし寄りて、「しばしと思ひ給へし山里に、見まほしき文などの侍けるを、え見さし侍らざりつるほどを、おぼつかなしと尋ねさせ給やと、心み侍つるに、過ぎ侍おり/\も、かひなく思ひわびて、人わろくこそたち帰り侍ぬれ」と聞こえ給に、御答へせん方なくて、いとゞしくそばみて顔をもてまぎらはして、答へ給はざめれば、「さりや。 ∨いとゞおぼしのみこそ疎ませ給にけれ。 ∨めづらしくやなど、おぼしなをるとこそ思ひ給へしか」と、後目にかけて、いたくも恨みこしらへで、たゞうちながめ出で給へるぞ、いみじく心やましき。  女君の御袖口・裾の褄まで、あてになまめかしくたを/\として、御髪のひまなくかゝり、袿の裾にながれゆきたる末つき、絵にかくとも世の常なりや。 きはもなくうつくしげなるさま、見ても飽かぬ心地ぞすべきを、さまよきほどに言ひなして、いたくも馴れ寄らぬを、見立ち給へる親の御心地、いといみじく恨めしう胸いたけれど、さし並び給へる、異人並びたらましよとぞ、人わろく見なされ給ふや。  女君、うち臥しても、なつかしうあはれにうち語らひ契りつゝ、さる方に浅からざりし御けしきの、ひきかへこよなくこまやかならずなりにたるもいとことはりに、わが身恥づかしくつゝましう、又わが心の中も隔てなくしもあらぬに、「仲のうとくも」といふやうに背きになりぬるを、さはいへど、まことならぬ契りを浅くおぼしなるにこそはと、ことはりに恨み所なきに、我身恥づかしう思ひ知られて、鏡の影を恨みても、おほどかにあてにおはせん女は、たゞなつかしうあはれなるよその語らひしもこそあはれなるべけれと、我より深くおぼしなびかるゝ方のあらんよと思ふに、なま心憂けれど、そのまゝに恨み言はんもあいなければ、「さばれ、かくと世をかりそめに思ひなすには、憂きも憂からず」となん。  巻二 吉野の山の峰の雪、おぼつかなからぬ程に踏みならし給ふ御恨みさへ、とくる世なきほどながら、月日もはかなく過ぎて、女君の御産屋のほどにもなりにけり。 おそろしくあやうき事におぼし騒ぎて、ひまなき御読経・修・大殿にも、あやしながら、人目例ならず見せじと添へ始められたる御祈りども、殿の内ひまなきまでこちたきしるしにや、かねてよりはれ/゛\しからずのみ悩みわたり給しを、いとたいらかに、おかしげなる女にて生まれ給ひぬるを、おぼしつる本意にごとく、行末上なく思ひやらるゝさまにておわするを、いみじき事に大臣おぼしよろこび、御産屋の儀式ありさま、限り有ことに事を添へ、いそぎ騒ぎ給ふさま、ことはりにもすぎたり。 大殿よりも、御湯殿の事などまでおぼしやりたるさまこちたきを、かひ/゛\しう待ちとり、はやし給に、すべてたがふ所なく、たゞ宮の宰相なるちごの御かたちなるに、さればよとうち見るに胸つぶれて、疎き人にだにあらで、昔より隔つることなく、かたみにまつはれたる人にしも、いかにあやしともおこがましとも思らんと、恥ずかしく心憂きに、胸いたきまで思ひあまり、子持ちの君、いみじかりつる事のなごり、綿など打かずき、所せげにくゝみ臥せられて寝給へるに、さし寄りて、「ものけ給はる」とある声に、うち驚きて見上げ給へれば、たゞなる時だにいみじう恥ずかしげに、おぼろけの人見えにくきを、まいて思ふ心あり、打ほゝ笑みて「これはいかゞ御覧ずる。    ∨この世には人のかたみの面影をわが身に添へてあはれとや見ん」 との給へる恥づかしげさに、何事かは言はれ給はん。 顔をひき入れ給へるも、ことはりなりや。 「いでや、さはれ。 ∨かくてあり果つべき身ならばこそは。 ∨世の人の見思はん言の葉を聞き入れられ奉るもあいなし。 ∨すべてわが身の世づかぬをこたりのみこそ、思ふにもつきせぬ心地すれ」と、涙さへ落つるを、さばかりもて騒がるゝに、ゆゝしと見る人もこそとわづらはしければ、たちのきぬるなごりも、女の御心の中ぞいと苦しう消えぬばかりなれど、人はいかでか思ひ知らん。  ひとつに喜びて、殿上の御湯殿、大将殿の上迎へ湯などもて騒がるにゝに、中納言の御有様、あまりすさまじうと目とゞむる人もあれど、人柄のあまり思ひすまし、さまあしからずもてしづめ給へるけなめりとぞ見なしける。  七日の夜、大将殿の御産養にて、上達部・殿上人、残りなく参りづどひたるに、宮の宰相のみぞ、いたはる事有て参らぬ。 いかにと人知れず思ひ惑はれし事を、平らかに念じなしても、人の上にうち聞きて、はるかにいぶせきにおぼしあまり、左衛門が局におはしけり。 「かばかりの契りをおぼし知らぬにはあらじ。 ∨たゞ今宵夢ばかり」と責め惑ひ給ふを、いとわりなき事と思へど、いと心苦しきに、のぼりて見れば、人/\はみな出でゐたり。おとなしき人は、台盤所の方にてとかうことをきて、大上の禄どもなど見給ことどもありて我方におはしなどして、子持ちの御方、中/\今宵湯ゆでなどして、人少なにて臥し給へり。中/\さもありぬべきまぎれかなと見て、御殿油などとかくまぎらはして入れてけり。女君、いとおり悪しとおぼしながら、あながちなりける契りのあはれにのがるべくもあらざりつるに、いと暗くはあらぬ火影に、意図さゝやかに細うおかしげなる人の色はくまなく白きに、白き衣共にうづもれて、頭に菊の上おぼえて綿ひき散らされたり。 こちたく長き髪をひき結ひてうちやりたるなど、かくてこそまことにおかしう見まほしけれと思ふに、大方はかほり満ち、いみじうなつかしげ也。のろづをかき尽くし、さばかりくまなく色めかしき色好みの、深くあはれと心にしめられんと尽くし給ふ言の葉・けしき、何の岩木もなびきつべきに、女君も心強からずうち泣きて、いみじうあはれげなるけしきに、いとゞたち別るべき空もなし。 外には、中納言拍子とりて、「伊勢の海」うたふなる声、すぐれておもしろう聞こゆるを、あやし、かばかりの人を心にまかせて見つゝ、などて疎かりけん、さばかりのかたちのにほひやかに、たをやぎおかしきにはたがひて、いみじう物まめやかに、あやしきまでもておさめて、いとたう物を思ひ乱れたるさまの常にあるは、いかばかりの事を思ひしめて、ほかに移ろふ心のなかるらんと、ゆかしき事ぞ限りなきや。  まだ事も果てぬに、中納言、衣どもを人に脱ぎかけて、いと寒かりければ、忍びて衣着かふとてまぎれ入り給へるに、丁の内にあきれ惑ひ騒ぐけしきのあやしさに、さしのぞき給えれば、起きかける人は丁より外に出でたるべし。 いたく騒ぎて、扇・畳紙など落したなり。 女君、いみじとおぼし入りて、隠さんの御心もなきに、やをら寄りて、扇の枕上に落ちたるを火のもとに寄りて見れば、赤き紙に竹に雪の降りたるなど描きたるが塗骨に張りたるに、裏の方に心ばへある事ども手習ひすさびたる、その人のなりけり。 さればよと思ふに、かくまぎれんとて来ぬにこそありけれと思ふに、いみじうねたかるべき事のさまなれど、さしもおぼえず。 男はさこそあらぬ、女はしもいと深くはおはせぬ折といひながら、今はじめたる事ならねば、仲立ちの人も知らぬやうもなかりつらん、かうなど消息しけん物を、かゝるほどうひとけ人給ひつらんは、おぼろけにおぼすにはあらぬなめり、かの人の、心ざしにまかせて嬉しとは思ひながら、なま心劣りせぬやうはあらじかし、いと恥ずかしき人をかつはうち思ふらんかし、のどかに我なきひま/\も多かるものを、かばかりうちとけ給へるほどの、いみじう騒がしうのゝしりたる折しも、見る人もありつらん、人目こそ我ため人のいみじういとをしけれ、なをいかにすべき世にかあらん、さりとて、このあたりにかき絶えなんも、人聞きいと軽/゛\し、さりとて、かくのみかたみに人目もつゝむましかめるに、知らず顔にて過ぐさん事も、いと心なきことと思ひ乱れて、遊びや何やかやとあれど、いたうももてはやさず。  この産屋のほど過ぎぬれば、例の、吉野山に思入りてぞ、よろづおぼし慰めける。 そのほどの事ども、くだ/\しければさのみ書き続けんやは。  宮の宰相は、しのぶる道の、逢ふ事かたき恋ひ思ひに、嘆き沈みつゝも、これは心を交し、おり/\すぐさぬ行きあひに心を慰みて、例のくせは、これは限りなけれど、ひとつ事のみやはあるべきにやあらず、中納言のもり聞かん所もいとかたはらいたし、なを宣耀殿の内侍の督はしも、限りなくおかしうて、人に心をかるゝ振る舞ひは思ひのどめられなんかし、と猶思ひなされて、又たちかへり、宰相の君といふ人を、泣く/\語らひ尽くして、いかなる紛れにかありけん、御もの忌みかたうて、梨壺にもまうのぼり給はぬ夜、入りにけり。  督の君、あさましういみじとおぼすに、物もおぼえ給はず。 さはいへど、つきづきしく心深くひきつゝみて、動きをだにし給べくもあらず。 泣く/\恨みわびて、明けぬれば出でずなりぬ。 めづらかに、かたみにわりなしとおぼせど、いふ方なくて、かたき御物忌にことづけて、丁の帷おろしまはし、母屋の御簾も参りわたしなどして、下なる人上にもあげずなどして、心知りの二人ばかりぞわりなく思ひ惑ふに、男は、名高くいはれ給御かたちを、ゆかしくいみじと聞き思御有様なれば、見たてまつらんと思ふに、たゞ今はよろづ忘れたり。 そびえ、いと小さき手あたりこそおはせねど、くせと見ゆべくもあらず。 御髪は、糸をよりかけたるやうに、ゆるゝかにこちたうて、あながちにても見ける御顔は、たゞ中納言の、いま少しあてにかほりすみたるけしき添ひて、心にくゝなまめきまされり。 あぢきなく心を尽くす中納言の女君は、あてにおかしげに、こまかになつかしう、らうたげなる事ぞ似る物なき。 此御有様は、にほひぞめでたく、目もあやなる光ぞこよなかりけるかしと見るに、心肝も尽きはてて恨みわぶるに、大方は、いみじうたを/\と、あてになまめかしう、あへかなるけしきながら、さらにたはみなびくべうもあらず。 心を惑はし涙を尽くして、その日も暮れ、その夜も明けぬべきにおぼしわび、督の君も、「忌み果てぬれば、殿参り給ふ。 ∨中納言もおはしなんを。 ∨かくてのみいとわりなかるべきを、まことに深き御心ならば、志賀の浦をおぼいて出で往なばいかにうれしからん」と、言ひ出で給へる声のわりなく愛敬づきたるほども、たゞ中納言なりけり。 めづらしういみじきにさへ聞き惑ひ、いとゞ出べき心地もせず。  「後にとて何を頼みに契りてかかくては出でん山の端の月 ∨めづらかなるわざかな」とも言ひやらず。  「志賀の浦とたのむることに慰みて後もあふみとおもはましやは ∨わが君、よし見給へ」とぞ、うつくしうの給に、あやにくならんもわりなくて、魂のかぎりとゞめをきて、殻のかぎりながら出でぬ。  その後、かき絶え御文の返事もなく、雲居にもて離れ給へるに、すかし出だされたてまつりしことの、ねたく悲しうくやしきに、またこの比はほれ惑ひて、もののひまもやと内裏にのみさぶらへば、中納言の参り給ふを見るに、露もたがはぬ顔つきの、かれはあてになまめかしう、心にくきけしきまさり、これははな/゛\と今めきて、こぼるばかりの愛敬ぞすゝみ給ふらんと見るに、胸つぶれて、思はんところもしのばれず、ほろ/\とこぼるゝを、中納言もいとあやしとおぼしたれば、「いはけなくより、隔てなくみなれそなれて。乱り心地のうちはへ苦しうのみなりまされば、ながらふまじきなめりと思ふにつけて、乱れまされば、心弱くめゝしきやうに侍ぞや」と押しのごふ。 「誰も千歳の松ならねど、をくれ先だつ末の露のほどこそ、あはれなるべけれ」と言ひても、心の中には、いかに我をおこがましとも見思ふらん、とはしたなけれど、なつかしううち語らふ。  かくのみ思ひわび、ひとつ心にあはれを知る方とても、かたみに心のみこそ通へ、わりなき人目の関を、あながちにはゞからず、見聞きつけたらんもなのめならず、いとおしう恥づかしかるべければ、かたみにいみじうつゝみ給ほどに、逢ひ見る事は夢よりもげにいとはかなく難し。  いま一方、はたすかし出だされにし後は、今はいよ/\もて離れつれなきに、まことに枕よりあとより恋のせめくる心地して、左右の袖を濡らしわびつゝは、方/゛\の形見と、中納言のいと見まほしかりければ、すゞろなるやうなりともいかゞはせんと思ひておはしたれば、「出でさせ給ぬ」とて無し。 壺の方を見入れて、歩み進みては入らまほしけれど、かひなければうち嘆くを事にて、「いづち出で給へるぞ」と問へば、「大殿におはする」と聞こゆれば、そなたざまにおはしたり。  大方には忍びて、例の中納言の方なる西の対に忍びやかに入り給へれば、いと暑き日にて、うちとけ解き散らして居たりける、見つけて、「いと不便に、無礼にて侍に」とて逃げ入るに、「あが君、たゞさて」と言ふに、聞かねば、女も無き所なれば心やすくて、続きて入りたれば、「まことに身苦しう」とうち笑ひて、つい居ぬ。 「乱り心地の悪しきに、対面の久しくなるは、いみじう恋しく心細ければ、わざと尋ね参りつること」と恨むれば、 「わりなしや。 ∨なめげなるに」と言ふを、「をのれも苦しきに、さて侍らんずるぞ」とて、装束解けば、「さらば、よかなり」とて居たり。 涼しき方に、昼のおまし敷きてうち休みて、団扇せさせて物語などするに、中納言の、紅の生絹の袴に白き生絹の単衣着て、うちとけたるかたちの、暑きにいとゞ色はにほひまさりて、常よりもはな/゛\とめでたきをはじめ、手つき身なり、袴の腰ひき結はれてけざやかに透きたる腰つき、色の白きなど、雪をまろがしたらんやうに、白うめでたくをかしげなるさまの、似る物なくうつくしきを、あないみじ、かゝる女の又あらん時、わがいかばかり心を尽くし惑はんと見るぞ、いみじう物思はしうて、乱れ寄りて臥したるを、「暑きに」とうるさがれど、聞かず。  物語などして、暮れぬれば、風涼しくうち吹き、秋来にけるけしきことにおぼゆるに、いと起こすべくもあらず。 内侍の督の御方にもつゆの御消息伝ふる人のなく、こゝらの年比の思ひむなしうなりなば、我身の跡なくなりぬべきよしを言ひ続けて、恨むるさまのいみじうあはれなるに、このわたりにもかくぞ言ひけんかし、げに女にて心弱くなびかではえ有まじくもあるかな、さてもうしろめたのわざや、忍びても、さばかりひとつ心になびかし果てでは、それをまたなき事に思ひ嘆きて、逢ひても逢はぬ恋のひとつにてもあらず、またかく添へて思言ふよ、いかにひまなき心の中ならんと苦しきにも、さま/゛\あつかはるゝにしのびがたくて、   ひとつにもあらじなさてもくらぶるに逢ひての恋と逢はぬ嘆きを うちほゝ笑みたるけしきにて、まぎらはすけはひなど、すくよかにをし放ちて見るめでたさは、物にもあらざりけり。  身に近くうち添ひて、すくよかならず乱れたるなつかしさに、さらに逢ひての恋も逢はぬ思ひも、みな慰みぬる心地して、思はしういみじきに、見けるをやと思ふいとをしさもさしをかれて、いとゞかき抱き寄せられて、♪くらぶるにいづれもみなぞ忘れぬる君に見馴るゝほどの心は とも言ひやらず、うるさければ、「そも頼もしげなかなり。 ∨誰にも離れる形見としもおぼさるらん」とて起くるを、さらに起こさず。 「まことは、あな物狂おし、殿の御前にの給事ありつれど、いみじう暑かりつればうち休みしに、急ぎたちて参らねば、あやしとおぼすらん。 ∨まづ参りてこん」とて起くるを、いかにおぼゆるにか、あやにくにひき別るべき心地もせず、「あが君」とつととらへて、わりなう乱るゝを、 「こはいかに、うつし心はおはせぬか」と、あはめ言へど聞きも入れず。 さはいへど、けゝしくもたなし、すくよかなる見る目こそ男なれ、とりこめたてられてはせん方なく、心弱きに、こはいかにしつる事ぞと、人わろく涙さへ落つるに、さてもめずらかにあさましくとは思ひながら、あはれにかなしき事、方/゛\の思ひひとつにかきあはせつる心地して、あやしなど思ひとがめられんも、ことのよろしき時の事也けり。  残るくまなく見つくしつと思ふに、かばかり心にしみてあぼゆる事のなかりつるかなとおぼゆるぞ、心惑ひのひとつなるにくらされて、あさましかりけるなども思ひ分かぬけしきなるを、中納言は、いかに思ふらんとかなしう、世にながらえて、ゐにわが身の憂さを人に見え知られぬるよと、涙もとまらぬけしきの、うつくしうあはれなることぞ、似る物なきや。  我も泣く/\、「今はかた時離れてもえ有まじきを、いかゞすべき」と言ひわぶるに、夜も明けぬれど、起き出づべきけしきもなし。 今は、言ひはしたなめても、我身の世づかぬ有様を見知られぬれば、たけかるべきやうもなし、心をあらだてても、あさましき世語りに、さるべき人と打言ひ出でてもいかゞはせん。 吉野の宮のの給しやうに、是もこの世の事ならず、さるべき契りにこそはありけめと思ひなすに、いともて離れがたければ、「あはれ、げに、人目のいと例なきやうなるを、同じ心にあひおぼほして、人目見苦しからずもて、なし給はばなん、まことに深き御心とは知るべき。 ∨世にむもれ、人しげうなどはおぼすべき身ならねば、いつも/\さりげなくて、かばかりの対面は難かるべきにもあらず」と、いとなつかしげに語らひ慰めて出だすも、げにさる事と思へど、たゞかた時、たち離るべき心地せぬに、起き別れん事のわびしうおぼゆれば、返々誓ひ契りて、からうして出でぬるなごりも夢の心地して、なぞや、世に消えやしなましと、この人に出で交らふも恥づかしう、あさましうもあべいかなと思へど、殿・上のしばしも御覧ぜぬをば、いみじき物におぼしたるをと思ふにぞ、せめてひき留めらるゝ心地する。 例のまづうち笑みて、限りなき御けしきにうちまぼり給て、「今宵は、こゝにものせられつるか」「宰相の中将の、文の事問ふべき事ありとて、わざとまうで来たりつれば」と聞こえても、胸うちつぶる。 「右の大殿の、内にいみじう思ひ嘆かる也や。 ∨なを人の恨みなくもてなされよ」との給も、かたはらいたきに、「人の御恨みあるべきもてなしありとも思給へぬは」と答へたるも、ことはり也。 御前にて御台など参りて、出で給ほどにぞ、宰相の文、  いかにせんたゞ今の間の恋しきに死ぬるばかりに惑はるゝかな ∨暮れざらんに、あが君/\」とぞある。 うけひき返事せざらんも、わが身いとあやしかるべければ、例のすくすくしううち書きて、   人ごとに死ぬる/\と聞きつゝも長きは君が命とぞ見る と、ことさらに書きたる筆のたちど・書きざま、目もをよばずぞ、今朝はいとゞ見なさるゝや。  この暮れの逢ふ瀬をいかにとも書かぬは、否とや、といとわびしければ、又たち返、   死ぬと言ひいくら言ひてもいまさらにまだかばりの物は思はず 右の大殿におはしぬるにぞ、持ちて参れる。いとうるさけれど、心を破らじと思ふばかりに、   まして思へ世にたぐひなき身の憂さに嘆き乱るゝほどの心を げにと待ち取り、ほろ/\といとゞ泣かるゝ。  すなはち、右の大殿におはしたれば、中納言、いと人目あやしかるべきに、出でてだに会ひなば逃れやらんやうなしと思ふに、いとむつかしううるさければ、「昼より乱り心地苦しうて、え対面給はらぬ。 ∨かしこまりは、ことさらに参りてなん」と、いとすくよかに言ひ出でたり。 恨めしうかなしきに、人目もえつゝみあへず、「聞こえさすべき事ありてなん。 ∨なをこの曹司口にさし出でさせ給へ」との給へど、「よろしからんには、いかでか。 ∨おはしまいたらんに、みづから聞こえさせぬやうは侍らん。 ∨乱り胸いと不覚に起りて侍ほどなれば」とて出でずなりぬるが、かなしうわびしきに、わりなくうちしのび、あはれ知る人ももろともならんかしと思ひやらるゝに、このわたりは、方/゛\いとたち離るべき方なきふるさとなれど、人目あやしかりぬべければ、たち帰る心地もあるにもあらず嘆き明かしつ。  中納言も面なく交らひて、この人に見えん事のまばゆさに、乱り心地にことづけて、外にも立ち出で給はねば、宰相の中将、日ゝにたち返り恨みわび、いかに/\と問ひ来つゝも、かひなくてのみ帰る心地、いとわびしかりけり。 からうして内裏へ参り給と聞き給に、心も騒ぎて、あり/\てうち見給ふ心地は、年比もかく恋ひつくせど、行きあはざらん人を見つけたらん心地して、心惑ひのするなかに、中納言もうち見あはせて、けしきことに顔赤みて、いみじうもてしづめて、物とをくすくよかにて、馴れ寄るべくもあらぬに、よそに見る心地、なをいみじう心もとなくわびし。  御前に召しありて参りたれば、例のけ近く召し寄せて、例の内侍の督の御ことなりけり。 うちまもり御覧ず。 中納言のかたちのいみじうにほひやかに見まほしきを御覧じて、督の君のいとよく似たりと聞く、げにこれ、髪長くてよく化粧じ、額髪長やかにかゝりたらんは、天女の天降りたらんもうるはしうこと/゛\しかりぬべし、これはげにぞ愛行づき、はなやかなるさまは並ぶ人あらじをなどおぼしやるに、さらに御覧ぜでは有まじく、わりなき御心地せさせ給ひけり。 け近く馴らしては、宰相にこりにたれば、まめやかにかしこまりて、いかにも世の常の有様を思ひ離れたるさまをすくよかに奏して候ふが、あく世なく御覧ぜまほしければ、無期に出させ給はぬを、宰相、わがやうに御覧じつけたらん時、例なきさまにても、御横目あらじかしと思ひ寄るに、いつも御覧じつけては、かくのみ語らひなづさはせ給と見しかど、日ごろは何とも思ひとゞめられざりしを、うしろめたく、胸のみつぶれて静心なし。  からうして御前を立ち出でたれば、待ちうけて、例の休み所にする所につれて行くを、せめてもえひきも離れず、もろともに御宿直などやうにてとゞまりぬ。 この君達の候ひ給時は、殿上人などもいと心ことに思ひて、宿直所につどひ集まるに、宵の程は物さはがしくむつかしければ、こまやかなる物語のやうにて、いたく誰をも見入れずなりぬれば、とかく行き別れぬほどに、泣き恨み給さま、いみじうあはれ也。 「人目もいとあやしかるべし。 ∨あが君や、まことにあひおぼさば、いとかくいちじるくなもてなし給そ。 ∨見る目のかたく、行き逢ふ瀬あるまじき事こそ、かやうにはおぼさめ、明け暮れかくさし向かひ御覧ぜらるゝには、何のめづらしきふしにか、さもおぼさるべき。 ∨たゞ世づかぬおこがましき身の有様を、ことさらにもてかろめ給べきなめりとなん思へば、いとなん心憂き」と、向ひ火つくりて怨ずれば、 「かうの給、いと心憂くわびしく。 ∨中/\世の常に逢ふ瀬かたからんことは、とてもありや。 ∨かうて見奉るこそ。 ∨をし放ち、もてすくよけ給へるを見るこそ、心惑ひの何にもたとふべき方なき」とて、わりなきけしきなるも、あはれならぬにはあらねど、さりとてもかくのみ惑はしたてられてのみも、いとあやしう、世づかぬ身の有様をあらはれぬべければ、「なを人目見苦しからぬほどにを」と契るも、いと堪へがたき事に思ひ惑ひたり。  忍びわたりの事をほのめかし出でて、「けしきはみな知り侍りにしかど、何とて、わが身は例のやうならで、誰にもあやめ顔ならんと思ひ侍しかば、たゞほれ/゛\しきやうにて過ぎ侍を、さるべからん時/\は、いとおしげなるけしきも慰めさせ給へ」と言ひ出でたるに、いみじういとおしけれど、わづらはしき思ひ交らねば、心やすく、隔てありては見えじと思へば、はじめよりありしさまをくはしう語りて、かれに心慰むまじきよしを言ふ。 いで、あな心憂、たぐひなげなりしけしきを、かく言ふやう、これこそは月草の移ろひやすき心なめれと見るに、あはれと思はんかぎりは、うちほのめかし言ふべきにもあらざめり、また、思ひ移ろふ方あらん時は、めづらかなることの有しやと言ひ出んと思ふに、いとうしろめたう、かゝる人にしものがれぬ契りのありけるよと思ふも、いと心憂し。  かうのみしつゝ、内裏にもいづくにも、身をさらぬ影のごとく立ち添ひたれど、まことに思心のゆくばかりの逢ふ瀬は、いとかたうのみもてなしつゝ、大方はいとなつかしううち語らひ、あひ見るほどはあやしかりける身の、えさらずのがれざりける契りを思ひ知り、いみじうなびきながら、たち離れたちぬれば、さはいへど、心にまかせつべき行きあひを、さらに心やすくもあらず、わりなくありがたうもてなすも、いとわびしうなりまさるに、「思ひわづらひ忍ぶる人に」など、時/\は言ひすゝめて、我は知らず顔にて、いとようさりぬべきひまをつくり出でてあひ見する、げにいとめづらしう、あはれにいみじき心ざし、これこそは世の常のことと思へど、なを中納言になかばすぎは分けてける心なれば、例のことにおぼえなりにたり。 心弱くせめてもて離れたる、さま/゛\の事のみまさりてわりなけれど、かれにさし離れたるほどの心慰めに、はた異人を見るべき心地もせず。 これは、そのまぎらはしばかりの睦びにや、あはれになつかしう、今は大方の人目ばかりをこそつゝめ、中納言の聞きやつけんの恐ろしき方は失せて、ありしよりもしげううちほのめきわたるに、女も、こよなく見馴れにたる心地して、いとようなびきあはれなるも、つらき人は、先胸つぶれておぼえけり。 中納言、このけしきはみな隔てなく見聞き知り給うへれば、あやしの事どもやと、おかしうも世づかずもうち嘆かれつゝ、今はたまいて、女君に見聞き知るけしきばかりも見せず、いつまでかはと思へば、いとなつかしううち語らひて、例の月ごとの起こることあるにより、乳母の家の六条わたりなるに、はひ隠れてものし給に、宰相は尋ね来にけるものか。  ま近き柴垣のもとに立ち隠れて見たれば、うち時雨つゝ、曇り暮らしたる夕べの空のけしきあはれなるを、簾巻き上げて、紅に薄色の唐綾かさねて、ながめ出でたる夕映の常よりもくまなくはな/゛\と見えて、つらづえつきたる腕つきなども、物をみがきたるやうにて、涙をしのごひて、「時雨する夕べの空のけしきにも劣らず濡るゝわが袂かな ∨いく世しもあらじ我身に」と、独りごちつゝながめたるはしも、絵に描くとも筆及ぶべくもあらず。 まして、宰相は心惑ひまさりて、ふと寄り来るまゝに、   かきくらし涙時雨にそぼちつゝ尋ねざりせばあひ見ましやは 思ひかけぬに、驚かるれど、折はたあはれなれば、   身ひとつにしぐるゝ空とながめつゝ待つとは言はで袖ぞ濡れぬる けしきをだに知られではひ隠れ、一人ながめ給けるほどのつらさをも言ひやらず、「かうのみつらき御心ならば、さらにえあるまじうなん思ひなりゆく」と言ひ尽くしつゝ、いと心やすき所なれば、うちかさねて臥し、よろづに泣きみ笑ひみ言ひ尽くす言の葉、まねびやらん方なし。  明くるも知らず、もろともに起き居つゝ見るに、近づくべくもあらずあざやかにまてばし、すくよかなるこそ男男しかりけれ、乱れたちて、うちなびきとけたるもてなしは、すべてたを/\となつかしう、あはれげに心苦しう、らうたきさまぞ限りなきや。 例の人は、心ならぬ嘆きむすぼほれながら、うちとけぬとても、なを世の常なりけり、まことに我も人も見ならひたる人の、ひきかへ心苦しうにほひやかに、うちなびきたはぶれもするに、けなつかしうやはらかにとけたるもてなし、はた言はん方なく、これを出だしたててよそに見る時もあるはいみじきわざかなと、ひたぶるに籠めすへて、我ものに見まほしきまゝに、「年ごろは、例の男の御有様と見るを、かくて見奉るは、いみじきものの姫君よりもけになん覚ゆるを、もとの御有様もさにこそはあめるを、今は忍びて女ざまにて籠り居給ね。 ∨かくてのみは、心のまゝに見奉るべきゆへもげになきことなれば、いみじうなんわびしき。 ∨昔より、かゝる中となりぬれば、いみじうあるまじき事いへど、その便なきに従ふこそ例のことなれ。 ∨御ためにも、いとあやしき御有様也」と、ひたぶるにわが物と見なして起き臥し語らふを、げにさる事にはあれど、かゝるさまにてあるべくありつきにたる身の、にはかにさて入り居なんもあやしかるべければ、さらばともえ思ならぬを、恨み泣きつゝ臥し起き、いと思さまに胸あきて、例籠り居給へるほどよりも多く過ぎ行に、右の大殿、又いかにおぼし嘆くらんとおぼしやるも、いと苦しければ、御文聞こえ給。  「例の心地の、常よりもをこたり侍らねば、かうてのみ籠り侍に、つゐにいかになり果つべき身にかと、心細きに添へても、   ∨ありながら有かひもなき身なれども別れ果てなんほどぞかなしき」 とあるを、こゝには「いかならん御心地も、打まかせ給はんこそ世の常ならめ」 「時/\さし離れたる御離れ居の心得ずなん」 「いかなるべき御なからひにか」と、大臣嘆き、人/\うちさゝめき思へるけしき見え、心ひとつには身のをこたりを思ひ知れば、ことはりに身のみつらう恥づかしきに、かうのみ心をやりて殿のの給もいとおしう、忍ぶる人もいと有しやうには焦られずなりにたるを、かきつゞけながめ給ほどに、この御文を殿もさすがにゆかしうおぼして、まづひき開けて見給て、「ゆゝしき事をもの給かな」と、つらさも忘れうち泣かれて、「など、かくのみ心得ず、あつしう物し給ふらん。 ∨人柄末の世にはいとあまりすぐれて、消息には過ぎ給へるぞゆゝしきや。 ∨御手などこそ、いとかうは人の書き出ぬわざを」と、うちかへし見給つゝ、「御返、あはれと見給ふばかり」と、そゝのかし給に、いとゞ心地もをくしぬべき心地し給ふや。   憂き事にかばかりいとふわが身だに消えもやらでぞ今日まではふるいとおかしげに書き給へるを、ゆかしげなき事なれば、宰相に見せでもあらばやと思ひて広げさせぬを、さなめりと見ながらあながちに奪い取りて見るに、ふと胸つぶれて、さこそいへ、見るに顔の色うち変はりまめだつけしきの、なをいみじう物深げなるを見るに、かゝる人を頼みて、わが身をもてかへて入り居なんよなど、頼もしげなくおぼゆるに、宰相は千代の命のびぬる心地して、かたはなるまで起き臥し遊びたはぶれて、この世ならぬまで契り語らひて、あまり日数の多く過ぐれば、出で給なんとするを、「またいかにもて離れ、ことの外なる御けしきならん」と、言ひ返して恨むれど、さてのみあるべきならねば、こしらへ出だして我もところ/゛\に出でぬ。  かくのみするほどに、十月ばかりより「音無しの里」に居籠ることとまりて、心地例ならず。 かゝらんとは思ひ寄らず、たゞいかならんと心細く起き臥しつゝ、これは隠れ所求むべき心地ならねば、右の大殿におはすれば、女君いとあてはかにらうたげなるさまして、かう物し給ほどはよろづ思ひ消ちて、あたりも離れずあつかひ嘆き給へるは、見るにいとあはれなれば、なからん後の忍び所におぼし出づばかりと思へば、心とゞめてあはれに打語ひ給けしきを、父大臣はうれしう心ゆきて、御祈りやなにやとたち騒ぎて、思ひあつかひ聞え給。  女君もまたたゞならず成給にけり。 あまりうちしきり、かたはらいたき事とおぼせば、人にけしきも知らせ給はず。  いづ方にも人知れぬ宰相は、かう例ならで籠り物し給へば、「大淀」ばかりの慰めだに、人目のしげからんを思へば、文をだに思心ゆくばかりは書きやらず、わりなく思ひ嘆くほどに、十二月ばかりにも成ぬ。 臥し沈みおどろ/\しからぬ御心地なれば、大殿ばかりには絶えず参り通ひ給へど、物もさらに参らず、いたく面やせて、つゆ橘・柑子やうの物も見入れず、つきかへしなどし給を、殿もおぼし惑ひて、御祈りひまなくおぼし騒ぎたるに、中納言の御心の中に、さる人こそかくはあれ、この女君などもかくこそは物し給めりしかとおぼしあはするに、言はん方なく心憂く、まことに今ぞ跡はかなくも行き隠れぬべき心地する、心ひとつには思ひやる方なし、さりとて、我こそかゝれと人に言ひあはすべき事にもあらず、親などにも待ちおぼさん事、いといみじう恥づかしさをばいかゞはせん、なをかの人にや知らせて、同じ心に思ふべき、逢ひ見ぬ恋のかさなるまゝに、恨みわび、忍びかねても、人目をつゝむべくもあらぬも、いとわびしう、又あやしかりける我身の契りを思ひ知るにも、この人はさし放ちがたうあはれなれば、六条わたりに行きあひて、待ち聞かんところも恥づかしけれど、男の姿となり給にければ、さはいへど、面なく、 「かういみぎきことを嘆き重ぬるに、月ごろになれば、いと契りもめしう、疎ましきまでなん」と言ひ出でたるを、宰相も、げにめずらかにあさましと聞くに、いと浅からざりける契りを泣く/\言ひしらせて、「かゝる事さへ出で来ぬとならば、なをはじめも聞こえしやうに、むすぶの神の契りをたがへぬさまにおぼしなりね。 ∨かくてのみは、誰が為もいとたへがたくなん。 ∨誰も/\、なにとなく若き程なるこそ、内裏わたりなどにて常に同じ所にあるもつき/゛\しけれ、をの/\大人・上達部などにもなりぬれば、ことなる事なくてはえ内裏わたりなどにても御宿直もなし。 ∨里にても、かたみに行きあふ事、人目をおぼせばおぼろけならぬ限りはなく、見まほしきもあまりわりなきを、かゝるつゐでに身をなきになしつとおもして、聞こゆるさまに従ひ給ひね。 ∨かゝる御さまにてはいかでかあるべき事ぞ。 ∨たゞおぼせかし」と言ひ知らするも、いと恥ずかしう、さる事なければ、今はかゝる方にても有るべき物におぼし慰みたるに、あらはれて今は籠り居ぬと人に知らるべきならねば、殿・上にも知られたてまつらでとぢ籠り、おぼし嘆かせんも、いとおしうおぼゆ。 「世づかずなりにける身を思知りしほどより、世にはあらであらばやと思ふ心は深くなりながら、殿・上のおぼさんところにはゞかりて、今まで世にながらえて、あやしき有様を人に御覧ぜられぬる事。  ∨わが身のはてもなくしなしつる、心憂くいみじきこと」とて、はな/゛\と愛行づきうつくしげなるかたちの、つぬのまよひありて物思ふべくもあらぬに、いみじうおぼほれて、袖を顔に押し当てて泣き入り給へるが、例なき有様を思ひとくにはをかしうあさましけれど、見るには、七八尺の髪ひき垂れて、その道にことはりうけたらん女も、中/\なににかはせん、さま変はりて、おかしうあはれなる人柄なるに、宰相は、「いとゞことはりなれど、すべてこはさるべきにこそは。 ∨かうなおぼし入りそ」と、泣く/\こしらへて、今日明日にても、此さまを変へて籠り居給べきよしを言ふ。 げに、かうながらはあるべき事にもあらねば、さこそは有べきなめれと思ひなるには、交らひ馴れにたる世の思ひ出で多く、あはれなる事のみ、はるけやるべき方なきをもととして、さばかりいみじう涙を流し、言の葉を尽くし給ふは、こは、げにさ思ふにこそと思ふ。 宰相は、うち別れぬればいみじき文書きをしつゝ、「打つ墨縄」にはあらず。 ともすればこの女君に、我にけしき見するたび見せぬたびさし交りつゝ、うらなくだにあらず忍びまぎるゝけしきを見るに、このほども又たゞならずなりにたるを、かうのみあまたになりにたる契りのほどを、浅からず知らるゝなるべしと見るに、たぐひなく一筋ならん心ざしにてだに、かばかりの我身の覚え・官位を捨てて、深き山に跡絶えなんは、後の世の思ひやり頼もしきにこの世はかへつる事にても、そは悔しかるべきやうなし、人柄のをかしうなまめきたる事こそ人にことなれ、かばかりの人に見をまかせて、入り居なん我身の契りは、いと飽かぬことなるべきを、まいて、人の心きはめて頼もしげなく、あまりあだめき過ぎて好ましう色めき、たゞ今だに心ざし劣らぬさまに、絶えずひき忍ぶる心いと深し、まして今は、これはかうぞかしと、をだしう、常のことと目馴れて、つらき心も見るらん時は、いかばかりかはものの悔しう、人笑はれたるべきと思ひ続くるに、宰相の語らひにつかんことは、なをいと物し、かうてのみまた世に出で交らひ過ぐすべきならねば、いかにも/\、わが身は世にもなうなりなんとするぞかしと思ひなるに、親たちを見たてまつるにもかなしう、内裏に参りまかづるも物あはれに、常の事と思ふ時こそあれ、いま一月二月世には有べきと思へば、吹く風につけても物がなしう心細き事かぎりなし。  宰相は、かくことざまに思ひ続くる心の中をば知らず、今は我ものにこそ籠めすへ見るべけれと思ふに、いとわりなく惑はれし心は少しゆるび、右の大殿の君の、又も例ならぬさまを心苦しげに嘆きて、例のわりなきほどに、身の有様をも世の憂へをも、言続けてもえ言ひやらず、たゞうち嘆きつゝ、「さま/゛\に契り知らるゝ身の憂さにいとゞつらゝを結びかためそ ∨冬の夜深く寝ば、さびし」など、言ひまぎらはしたる有様の、あてにあへやかに、いみじうなまめきたるあはれを、さしあたりて見る時は、もとより心ざししみにし方は、いとたぐひなくあはれにて、中納言だにだて籠り居給なば、この人をも何事にかはつゝまん、さてこそは見めと思ふかねごとも、胸つぶれてうれしういみじきに、左右の袖濡るゝ心地して、つらしとまで思ひ寄られける我身も恨めしかりければ、わりなうかまへつゝ行きあふべかんめるを、中納言は、さればよ、たゞかうぞかし、さばかり憂へかけつとならば、ひとへにいかなるべき事ぞなど、思ひ嘆きてもあらず、さてしも、あなたざまの深き心のあやにくに添ふべかめるよと思ふ。 恨めしうもあれど、そのまゝに恨み言はんも、人わろく世づかぬ心地するに、思ひ忍びつゝさらぬ顔にいみじく物嘆かしきまゝに、心地もなをるともおぼえず。 十二月つごもりがた、殿に参り給うへれば、大方は騒がしけれど、夜の間の隔てもおぼつかなくおぼしめしたる御心なれば、いつしかと待ちよろこびまもり聞え給に、あまりさかりににほひ給へりしかたちの、いたう面やせて打しめりてさぶらひ給を、胸つぶれて、「などいたく損じ給へる。なを心地の悪しきにや」との給。 「わざと苦しと思ふところも侍らねど、例ならで久しう侍しなごりにや」と聞こえ給へば、「いと恐ろしき事。 ∨祈りをこそ又始むべかりけれ」とて、さるべき人/\召して、御修法・祭・祓などすべき事の給を見聞くに、あはれ、かくおぼしたるに、跡はかなく消え失せなば、いかばかりの御思ひならんと見奉るに、え念ぜず、ほろ/\と涙のこぼれぬるをもてまぎらはせど、 「あやしう思はずなるさまどもを、身の厄と思ひしに、命も尽くる心地しき。 ∨今は官位きはめ、出で交らひ給きはになりては、おほやけわたくし、人にほめられ面目あり。 ∨はか/゛\しからぬ身のおもて起こし給へば、その嘆きをも慰みて、さるべきにこそありけめと、憂へを休むるきはに、かうのみ例ならず心地悪しげなるよりも、物思ひ嘆かれたるけしきの見ゆれば、いとこそわびしう、生けるかひなけれ」とてうち泣き給に、いと堪へがたうかなしくて、 「何事をかは思ひ給へん。 ∨乱り心地の例ならず侍を、かくおぼし騒がせ給につけても、命さへ思にかなはず、御覧じはてられずやなりなんと、思ひ給ふるばかりになん」と聞こえ慰めて、念じて、御前にて物参りなどすれば、いとゞうれしとおぼし慰めて、もろともに聞こしめす。 母上は、中/\いとあら/\しくて、いかなる事をも見とがめ給はず。  年さへ返りぬれば、羊の歩みの心地して、いつまで有べき身ぞとおぼせば、正月には、御車・下簾・榻などまで新しう清らに、随身などまで色を整へ、装束どをも給はせたり。 御みずから、はたさらなり。 上の御衣・下襲の打ち目まで、氷解けたる池の面のごとかゝやきたる、もてなしも用意もいとゞ心を添へて、まづ殿に参り給て、殿・上拝し奉給。 御かたちの光るばかり見ゆる事、今年は常よりもいといみじと見奉給て、言忌みもえしあへ給はず。  内裏に参り給へるに、見たてまつる人ごとに目を驚かしたり。 宰相の中将も、人よりことなるさまして参りあひて見るに、かばかりにて交らひそめ、世の覚え・有様、かくもてなされたるに、身を変へにくからんやと胸つぶれて、目をつけて見れば、いと大方にもてすくよけ、え行きあはず。 内侍の督の御方に参り給へるに、殿上人・上達部あまたさぶらへば、出で居もてはやすも、今はかやうの交らひはしたなく苦しけれど、いかゞせん。 宰相に琵琶そゝのかして、「梅が枝」うたひなる声もいみじうめでたし。 宰相は、この人に移ろひては慰みにし心なれど、なをあさましう心強くてやみ給にしと思ひ出づるに、胸心静かならでまかでぬ。  中納言は、節会ごとに参り、いとまめによろづをつとめ給つゝ、陣の定めなどに、年老ひやんごとなき上達部などよりも、たゞ此人の言ひ出で給をかしこき事におぼし、世にありがたき覚え世のきはなり。  その年の三月一日ごろ、花盛り常よりもことなる年なるに、南殿の桜の花御覧じはやさせ給。 世にありとある道/\の博士ども召して、いみじかるべき度の事と心を尽くす。 その日になりて、題給はりて文ども作るに、中納言作り出で給へる、すぐれて名を得たる博士といへど、作りをよぶなかりけり。 「この世にはさらにもいはず、唐土にもかゝるたぐひなかりけり」と、上をはじめ奉り誦じのゝしりて、御前に召して、さるべき人/\をさし分け、御衣脱ぎてかづけさせ給。 下りて、けしきばかり舞踏し給かたち・用意・有様、いつよりもすぐれてめでたく御覧ぜらる。 花のにほひもけをさるゝやうなるを、見る人涙を落す。 まして、父大臣は、あはれ、かゝりけるものを、わが思ひ嘆きしよ、大方は誰かは知る人の有ける、かくても、げにいとよう有ぬべき事にこそありけれ、と見給ふ。 御喜びの涙、ましてことはりなりや。 右の大殿、はたさらにもいはず。 二所の御心の中のうれしさ、劣りまさらざりけり。  暮れゆくまゝに、御遊び始まるに、中納言、又は吹きたつべきかはとおぼせば、おり/\の御遊びにしぶり隠したる音を、心に入れて吹きたてなる、雲居をわけ響きのぼり、そゞろ寒くおもしろき事いはん方なし。 さま/゛\興尽くしたる才・有様は、すべてこの世の物ならず。 あまりかゝる栄やなからざらんとゆゝしきに、上いといみじう御心ゆき、時ありて、さらでもこの人は官位ども然るべきやうもなきに、今日かくよろづすぐれたらんしるしあらんこそ、我心ざしのしるしならめ、とおぼしめして、右大将の宣旨下させ給。 これもいと人にすぐれたるを、おぼしめして、権中納言になさせ給ひつ。 面目あり、うれしなどは世の常なりや。 大将の宣旨うけ給はりて夜に入りて、父大臣・右の大臣ひき続きて出で給。 近衛府の格して待ち迎へたてまつる、そゞろ寒くめでたきにつけて、あはれ、我心ひとつこそ人にたがへる身と嘆かしさの絶ゆる時なけれ、大方にはかくきら/\しうなりのぼる身を、跡はかなくなりなん事よなど、かゝるにつけても、心ひとつはかきくらされ、ものがなしきも知り給はず。 大殿、やがてひき続き右の大殿に送り入れ給を、待ちうけ、殿の内のゝしり喜びたるさまぞ、后に立ちて見給はましにもまさりて、うれしげなるや。  権中納言は、我身の喜びも、人にすぐれて面立たしきは、たゞ世の人のなりのぼるに続き立ちにしいとおしさばかり、と思へばさしも喜ばれず。 いみじかりけるかたち・才のほどかな、かゝる身をもてうづもらさん事も、我になりて思ふに難しかしと、夜もすがら思ひ明かして、御喜びの事など書きて、   紫の雲の衣のうれしさに有し契りや思ひかへつる 内外、喜びや何やと騒がしけれど、我御心ひとつには、中/\心尽くしに思ひ乱るゝおりなれば、心をくめるもおかしうあはれにて、「御喜びをこそ、これよりまづと思ひ給つれ」とて、   物をこそ思ひかさぬれ脱ぎかへていかなる身にかならんと思へば とあるを、おぼしけるまゝと、ことはりにあはれなるに、色めかしさは喜びもおぼえずぞうち泣かるゝや。 喜びや何やともて騒がるゝにいとゞひまなくて、行きあふ事かたけれど、月日を数へつゝ、我ものとなるべきぞかしと思ふに、わりなき心を慰め過ぐす。  大将は、身の所せくなりゆくまゝに、げになを捨てがたき身といひながら、かくて有べきならずと思にいと心細くて、内裏などの宿直がちにさぶらひ給ふに、権中納言も参り給て、例の休み所に行きあひて語らふを、忍びやかに人の返ごとをぞ書く。 うちけしきばみて取らすめる。 隠せば隔て顔なり、隠さねばいとをしく、思ひわづらひたるけしきを、右の大殿の君のなめりとしるく見て、「いで、誰がぞ、見ん」と言ふに、いはん方なしと思へるおかしさに、たはぶれて引き奪ひたれば、つゆも隔て顔にはと思へば、えもひき隠さず。 えもいはぬ紫の紙に、墨薄くあるかなきかの書きざま、たがふべくもあらず。あらず。 「目の前のうれしさをぞ思ふらん」など、言ひやりたりける返事なるべし。   上に着る小夜の衣の袖よりも人知れぬをばたゞにやは聞く とぞ書きたる。 見るに猶まばゆければ、「あまり薄墨にて、何とこそ見えね。 ∨誰がぞよ」と、言ひまぎらはしてさしやりたれば、あまえて、「何事かある」とぞ問ふ。 「いさ、たど/\しくて、え見えず」とてやみぬ。心の中にぞ、男も女も、頼もしげなき物は人の心かな、この女君、見る目有様は児めかしうあてやかに、物遠きながら、かくこそは物し給けれ、うち/\の我心こそ、いかゞはせんに思ひなさるれ、よその人聞き・ことの有様、我ためいみじき事也や、まして世の常ならんなべての人の心、いかならんと思ひやるに、いと憂けれど、今さらに何かは、露もものしげなるけしき見えんと思へば、女君にはかけてもけしきもらさず。  この月ばかりこそ、かくてもあらめと思へば、殿に日ゝに参り、宿直などしつゝ、年ごろかくてはあれど、上達部・殿上人などに、ことなる事なければ、目も見入れ物言ひふるゝ事もなきを、「あたらいみじうおはするに、人を人ともせず、物遠く上衆めき給へる」など、そればかりをぞ難に思ひ聞えたりつるを、この比となりて、あまねく人に目見入れつゝ、いとなつかしうもてなし給て、さるべき女房などのうち出でがたき物に思ひ聞えたるを、情なからぬほどに聞きとゞめなどし給ぞ、いとゞ人の心尽くしなるや。  内裏の御宿直なるに、廿日あまりの月もなきほど、「闇はあやなし」とおぼゆるにほひにて、五節のころ、「なべてかたきの」と有し人を思ひ出て、殿上人などしづまりたるに、麗景殿のわたりをいと忍びやかに立寄りて、   冬に見し月の行方を知らぬ哉あなおぼつかな春の夜の闇 と、末つ方おもしろくうそぶきたるに、ふとさし寄りて、   見しまゝに行方も知らぬ月なれば恨みて山に入りやしにけん と答ふる、ありしけはひなり。 物の心細きに、わざとさしすぎたりしもたゞならず、さしもやはと思ひつる、同じ心也けるも過ぐしがたくて、立ち寄り給ぬとぞ。    巻三  四月にもなりぬれば、やう/\身も所せく、ふるまひにくきほどになりゆくに、せめてさりげなくもてなし、忍び歩くもいと苦しきに、権中納言は、心やすくあひ見ぬ事のわりなきまゝに、「いかに、今までかくのみ。 ∨人目もあやしく、見とがむる人もあらん時は、いかにいみじからん」と言ひ知らせつゝ、宇治のわたりに、宮の御領いとおもしろきがありけるを、さるべきさまに用意して、かならず取りこむべき物に思ひて、心もとながり言ひ恨むるを、この人になびかん事は有るまじく思ひとりても、たゞ軽らかなる御身ひとつならば、吉野の宮にも身を隠しつべけれど、仏の現はれたまへるやうなる御あたりに、ともかくもあらん事、いと無心に便なかるべし、御娘どもゝ、さばかり恥づかしげなめるに、あやし、あさましと見えきこえんも、いとおしかるべし、それよりほか、さはいへどなきに、心を心とたてて、此人をさへ隔て恨みて、親しといひながら、乳母などやうの人にもかゝる有様あつかわれん事、恥づかしかるべしと、さらに思ひわづらひぬ。 さはいかにせんと、後行く末までいとわづらはしや、かゝるほどは、なにをこの人に従ひて世をも背き隠すばかりと、所せく世づかぬ有様を異人に見あるかはれん、あやしかるべかりけりと思ひなおして、その日ばかりと契りさだめて、まづ吉野の宮に参り給。  おはしそめしに後は、せべてよろづこまかにくわしう、室のとぼその所せきまで、姫君たちの御上までいたらぬ事なく扱ひはぐくみ聞え給て、かばかりはるけき道のほどをも、ふりはえつゝ参り通ひ給さまいと心深きを、さばかり若くはなやかにものし給へる人の、有がたかりける心ざまとぞ思ひ知り聞え給事、あさからず。 待ちよろこびて、今はたいとゞ隔てなくよろづうち語らひきこへ給ても、大将もあらはしてあらねど、世の常よりも思ひやり心細きよしを聞こえ給へば、親王いち泣き給て、「さりとも、けしうはものし給はじ。 ∨たゞしばしの御心の乱れなり」とて、いと真心に護身など参り給。 姫君たちにも、例の御対面ありて、あはれに心深き事どもを泣く/\聞こえ給て、「かゝるかたちを変へても、かならずこれをつゐの住処とうち頼み参り侍らんとなんするを、そのほどおもほし忘るなよ。 ∨いま三月ばかりなん、え参りをとづれきこえさすまじく侍。 ∨限りにつきぬる命ならば、これこそは限りに侍らめ。 ∨もし思ひの外にながらへ侍らば、かならずかゝるかたちならで、いますこし疎からずおばされぬべきさまにて参り侍なんとす」と聞こへ給。 しばしは、あやしくにはかなるわざかなとつゝましかりしかど、あさましきまであはれに深き御心を、さらばこの人を、この世の知る人に思ひきこゆべきにこそとおぼすに、かくいと残りなく心細げなる御けしきを、いかなるにかとあはれに心細くおぼえて、みなうち泣き給ぬ。 かくてあるほどだに、殿・上に見えたてまつり、見たてまつらんと思へば、心のどかならず帰り給ふほど、あはれにおぼし続けらる。   またも来てうき身隠さん吉野山峰の松風吹きな忘れそ あやしく例ならぬ御けしきかなと、うち泣かれつゝ、   ほどな経そ吉野の山の松風はうき身あらじと思ひおこせて いかなるさまになりても、身にはたがへきこゆまじけれど、しばしもをとづれきこえざらんほどの事をおぼして、よろずこまかに秋冬までの御用意をおぼし心しらひたり。 宮も、見奉りしわたりことしあれば、よく護身参り給、御薬奉り給。  日ゞに、明くるより暮るまで殿・上の御前にさぶらひ給を、いとうれしとおぼして笑みて見たてまつり給ごとに、涙はひまなくこぼる。 右大臣殿の、わりなく恨み、限りなき物におぼし惑ふもあやなく、いかにいみじとおぼさんといと心苦しくあはれにおぼえ、女君もやう/\いとふくらかなるほどに成給て、いとらうたげに悩ましげなる御けしきも、思ふ心のつくからに、げに憂きも憂からずも、人こそ人にはこよなくおぼしおとすべかめれ、なにとなく見馴れぬる年月のあはればかりを思惑ふ。 中納言にさらに思ひをとされぬ我心は、人にたがへりしかと思ひ知られながら、今はまして、何の心をくけしきか見えん。 夏に改めたる御しつらひも、人よりことに涼しげなるに、藤襲の御衣に、青朽葉の織物の小袿着給へる、身もなく御衣がちになよ/\とあてになまめかしく、かぼりうつくしげ也。 姫君の、ものして作りたらんやうにて、やう/\おさへ立つほどなるがうつくしきも、目のみとゞまりて、いかなるさまにても、命だにあらば、殿・上にもつゐに御覧ぜられなん、此わたりにはこれこそ限りなめり、又は何しにかはたち帰らんと思へば、さしも見入れざりし女房などまで、目のみぞとまる。 「もし世になくもなりなば、あはれともおぼしぬべくや」と、さし寄りて問ひ聞え給へば、恥ぢらひてうち赤む色あはひ、いとおかしげににほひて、   をくるべき我身の憂さにあらばこそ人をあはれとかけてしのばめ とうちまぎらはし給へる、子めきらうたげなれど、かの「人知れぬをぞ」とありし思ひ出づれば、こよなき心ぞやと心やましくおぼしうんぜられぬべきに、何のあはれもさめぬべけれど、今日はたゞひたぶるにあはれなるも、おこがましの心やとおぼゆ。  「しのばれん我身と思はばいかばかり君をあはれと思ひをかまし ∨まことは、年比、世の人のやうにことよくかざる心などの侍ねば、たゞ心の中の浅からぬばかりを同じことに思ひなして過ぎ侍つれど、事と心とはたがふ事にて侍ければ、人よりも薄き物にこよなくおぼしなされにたる、恥づかしくもいとをしくも思給ふる方は方として、世の音聞き人目いとをこがましく、人わろき名の流れ侍らんもすべてたどり知られず、物心細く世にあり果つまじき心地し侍ときぞ、ひたぶるにあはれに思ひきこえさするをも、さりともをのづから、人苦しう聞きにくゝ物言ひのありしはや、とおぼしめされぬやうも侍なんかし」とて、袖を顔に押しあて給に、何事か言はれ給はん。 いとことはりに恥づかしくかなしきに、身にも流れ出ぬべき汗になりてもにし給。  いと心苦しいければ、かつは、慰めつゝ、中/\今日は殿へも参らじ、見奉らんにいみぎく心弱くたへがたかりけりと思へば、内侍の督の御方にぞ参り給。常よりもひきつくろひて、例ならずさし寄りて、「内裏へ参りて、さもさぶらひぬべくは宿直にもさぶらひ、さらずはまかでぬべし」と聞えて、「人/\よく御前にさぶらへ。 ∨常ははれ/゛\しからぬ御けしきこそわびしけれ」とて出で給を、姫君のいとうつくしげにて手をさゝげて慕ひ聞え給ふが、いとうつくしければ、たち返りつい居て、あやしの我身の有様や、人目は親子の中と見ゆらんを、知らぬ人になり果てなんずとうちまぼるに、すゞろに涙ぐまれて、かき抱き出で給御かたちの、常よりもいみじくめでたく見え給ふ。 十九にぞなり給かし。 女君は、いま三つがこの上にぞなり給べき。 指貫の裾まで愛敬こぼれ落つるやうに見えて、御前どもの参るほど、縁のつまにしばし立ち止まて、うち見めぐらして、「翠竹のほとりの夕べの鳥の声」と、ゆるゝかに打ずんじ給声あないみじとのみぞ聞こゆる。  宣耀殿に参り給へれば、御前に人多くもさぶらはで、御前の庭のなでしこつくろはせて御覧ずとて、三尺の御木丁ばかりを引き寄せておはします。 のどかに御物語聞え給へば、いみじく恥づかしがなる人/\も御几丁のうしろにすべり隠れぬるに、「去年の秋つ方より、心地のあやしく例ならず、物心細く思ふ給へらるゝは、世の尽き果てぬるにやと、あるにつけてはいみじく世づかぬ憂うさも思給へ知りながら、ひとへに限りと思給へしほどは、殿・上のおぼしめさん事をはじめとして、あまただになくたゞかくさぶらふぞかしと思給へるだに、数の少なきと心もとなく思給へらるゝに、ましていかにおぼされんと、御心さへ心ときめきして汲み侍こそ」とのたまゝに、涙の浮きぬるを、監の君は、われもさおぼさるゝ事なるに、いとわりなかりし御物恥ぢも、やう/\大人び人知れず世の中思ひ知らるゝまゝに、異人こそなうをつゝましけれ、あまただになきたぐひぞかしとおぼすはいと親しく憐れなるに、我おぼす同じ心なる事を言ひ出てうち泣き給ひなるに、我心地にもいととめがたくぼされければ、「年月の過侍まゝには、かやうにいぶせき有様も、こはいかなりし有様ぞと、世づかずあさましくなど、かゝるたぐひは又あらじを、いまさらにと言ひて立つ出でんも、あるべき事ならず。深からん山などに後を絶えばやとの給やうにこそ、思ひ知らぬやうにて過ぎ侍ぬれ。 ∨さりともかくてのみやは。 ∨なをいとめづらしう思ひ知られゆき侍ぞや」とて、いみじく泣き給。 げにさぞおぼすらんかしと聞くも、藤の織物の御几丁、なでしこの御衣、青朽葉の小袿奉りて、御几丁よりほの/゛\と見ゆる御有様、今はじめたる事ならねど、身を思ひ限るにつけても、いみじくあさましくおぼゆ。 督の君は、大将のはな/゛\とにほひ限りなきかたちのいたく面やせたるしも、いとゞうつくしうらうたげなるに、おほやけしくもてすくよけたるほどこそ男男しくも見えけれ、かやうに思ひしめり屈じ給へるはたを/\とあはれになつかしく見ゆるを、世づかざりける身どもかな、我ぞかくて有べきかしと、かたみに見交し給て、尽きせずあはれにかなしきことども聞え交し給て、いみじく泣き給も、あはれに立ち離れぐるし。 暮るゝまでさぶらひて、「誰/\かさぶらひ給御前に人少ななり。 ∨あまた参り給へ」など言ひをきて、まかで給ひぬ。 少しゐざり出て、あやしく例ならぬけしきのし給たりつるかなと、胸つぶれて見奉りをくり給ふ。 御供の人・御前などに、「今宵は宣耀殿にさぶらふべきぞ。 ∨つとめて、車・人/\も参るべきぞ」とて、みな返し給てけり。  中納言は、いつしか網代車にやつれ乗りて北の陣におはしたりければ、忍び出づる心地、夢のやうにいぼされながら、車に乗り給ひて宇治へおはする道すがらも、こはいかにしつる我身ぞとかきくらさるゝに、月澄みのぼりて道のほどもをかしきに、木幡のほど、何のあやめも知るまじき山がつのあたりを、うちとけ、幼くより手ならし給し横笛ばかりぞ、吹き別れなんかなしさ、いずれの思ひにも劣らぬ心地して、身に添へ給けるを、物の心細きまゝに吹き増し給へる音、さらにいふかいりなし。 中納言、扇うち鳴らして、「豊浦の寺」とうたひおはす。  おはし着きたれば、いとおもしろき所に、さる心地して、内のしつらひなどいとおかしくしなしたり。 女房なくては有べきならねば、中納言の御乳母子二人ばかり、さてはむげに物の行方も知るまじき若き人・童女など率て渡しをきたりければ、いとありつきて待ちうけたり。  車より下るゝより、いかにしつる事ぞとあさましく、いななをとて又返るべきにもあらず、かばかりに取り得ては返すべきにもあらず、我ながらあはれなる心地して、その夜は明けぬ。  つとめて、格子ども上げわたしたるに、うち見出でたるも、うつゝの事とはおぼえぬを、中納言は思ひかなひぬる心地してうれしきまゝに、あたま洗はせなどして、髪もかき垂れなどして見れば、尼のほどにふさ/\とかゝりたり。 眉抜きかねつけなど女びさせたれば、かくてはいとゞにほひまさりけるをやと見えていみじくうつくしげなるを、かひありうれしと思ひ惑ひたれど、我心は、いかにしつる身ぞとのみおぼえて、世中の事もいぶせくほれ/゛\として物のみかなしければ、起きも上がらぬを、中納言はかなしと思ひて、「これこそは世の常の事なれ。 ∨年ごろの御有様は、うつしごととやおぼしつる。 ∨もとよりひたおもてにさし出でて、あまねく人に見え交らはんの御このみに、ことさら交らひ給しにこそありけれ。 ∨めでたくとも、我身をあらぬに変へて過ぐし給へる事、有べきことならず。 ∨あやしくとも、かくておはせんこそ、例の事なれ。 ∨殿にも聞かれ給はん、さらにあしと、世に思ひ聞え給はじ」と言ひ知らせあはむるに、げにもことはりに恥づかし。我身の例ざまならばこそあらめ、ありしながらならずとも、命だにあらば誰にも対面する事もやと思ひ慰めてあるに、髪のむげに見苦しければ、吉野の宮の取らせ給へりし薬の中に、夜に三寸髪かならず生うとありしを、かゝらんものぞとおぼして持ち給へるして、日ゝに洗ひてこの薬をつくるに、人にも見せで、さばかり好ましうなまめける身を、おりたちて中納言のあつかひ給にうちまかせて、我もほれぼれしく忍び音がちにて、はかなく日ごろにもなりゆく。  京には、つとめて、御前・御車など参りたるに、「夜更けてまかでさせ給にき」と言ふに、所/\尋ね奉るにさらに見え給はず。 例も月ごとに五六日かならず隠ろへ給ぞかしと思へど、御乳母の家にもおはせず。 さき/゛\も吉野の宮に十余日も籠り給おりもあるぞと思ふほども過ぎ、御供にあるべき人もみなありて、「ついたちごろにおはしたりしかど、二三日ありて帰らせ給にし物を」と言ふに、言はん方なくかなし。  大殿は、「いみじく世を思ひ嘆きたりしかども、なをあやしかりける身かななど思ふにこそあめれ。 ∨さりとも、かばかりになりぬる身を、その事となくて背 ∨くやうあらじとこそ思ひつれ。 ∨去年の冬ごろより、いといみぎくあやしと見ゆる時/\有しを、などて見もあやめざりけん」と、泣き惑ひ給とはをろかなり。 よろづの事すぐれて世のひとつ物にいて、うち参り迎へ給へば、物思ひ忘れ、老ひも背くばかりのさまかたちにて、見るかひありし御さまなどをおぼし続くるに、すべて物おぼえ給はず、なき人にておはす。 殿の内、騒ぎ惑ひたるさまさらなり、よろしからんやは。 なべての世にも、たぐひなかりし御さまかたちを思ひ出できこゆるに、いかになり給にけん、そこになんさまを変へてものし給なりといふ事だに聞こえで日ごろになりぬる事を、あはれにかなしきことを言ひ思はぬ人なし。 内・院などにも、ましていみじかりつる世の光の失せぬる事をおぼしめし嘆き、かつはいかでかさるやうのあらんと、山/\寺/゛\修法・読経をはじめ、おほやけわたくし天の下騒がしきまで、世に変はらぬさまにてたち帰り給べき御祈りを、世にあまるまでののしるしるし、さりともあるやうあらんと頼もしながら、音なくて日ごろも過ぎ行くまゝに、世にすぐれ給へりし御さまを一目も見聞き奉りし人は、恋ひかなしみつゝ、野山に交りて求めたてまつり、世の中に光さすべきかげの雲にまがひなんばかりにくれ惑ひたり。  まいて、右の大臣の御心地、よろしからんは。 女君は、かくおぼしての給しにこそと、出で給し日の事おぼし出づるに、消え入るやうに臥し沈み給ふ。 右の大臣は、父大臣の御心地に劣らず、かつは、むげにあひおぼさざりけるかな、いふかひなく幼き人もあり、又も心苦しきけしきを見ながら、かくやはとて、恨めしさを添へて泣きこがれ給に、世にはあやしくあさましき事を言ひのゝしるあまり、「権中納言の女君に通ひ給ひけるを、有心げにいみじくおはせし人にて、うむじて隠れ給にける」と世に言ひ出でて、「この生まれ給へる君も、その子になんあなる」と言ひのゝしるを、大殿にも聞き給て、げにさもあらん、あやしと思ひて、いとかしこく心深かりし人にて、世づかぬ我有様を人に見え知られぬ、さてはいかでか交らはんと思ひて隠れたるなりと心得給に、かなしく、かゝる事ぞと言はず心ひとつに思ひあまり身を失ひてけるよと泣きこがれ給に、右の大臣、なをおぼつかなさに参り給へるを、近く入れ奉り対面し給うへるに、いとしも深からぬ御心ざしにやと見たてまつりしもしるく、かくおぼし捨てたること、我心をやりてうち泣き給ふもいとつらく、もののせちにおぼさるゝには心えんもなきわざなりければ、うつし心もひきかへ給てけるにや、世に人の申さまとて、しか/\とくはしく聞こえ給て、「始めは、いとやんごとなきものに又なきものに思ひかしづききこえたりしを、近き世となりては、あやしく世を思ひ嘆くおり/\侍しを、今なんさはさや有けんと思ひ給へあはする」殿給出でたるに、右の大臣、涙もとまり、あさましくいみじとあきれ惑ひて、参りつらんことも面恥づかしければ、帰り給ひて、母北方に、大臣のの給しさま、しか/\と語り聞え給ふに、あさましとはをろかなり。  この君をのみ限りなきものに思ひ聞え給て、異御方/゛\はことの外ににみ思ひ落し給へるを、ねたしいみじとのみ思ひつめける御乳母の、いと心のうちにあかぬ、かゝる事ほのけしきき聞きつけて、かゝるきほひに、大臣の見給ひつばかりの所に、「大将殿は、権中納言のことにうむじて失せ給へるなり。 ∨この生まれ給へる姫君も、かの人のなりけり。 ∨我御子とおぼしていみじく喜び給へりしほどに、生まれ給へりしさま、たがふ所なくものし給に、見あやめ奉り給へりけるに、七日の夜入り臥し給たりけるを見つけ給へりし」など、つぶつぶと書きつけて落したりけるを、上見つけ給て殿にも見せ奉り給へるに、あさましとおぼして姫君を見奉り給ふに、たがふ所なくそれなりけるも、いつはりにはあらざりけりとおぼすに、言わん方なく心憂くねたくなりて、立腹におはする大臣にて、この御むすめを長く勘事し給て見給はずなりぬ。 「いと心憂し。 ∨この内になものし給そ。 ∨今におきてはまぼりいさめんも無益なり。 ∨人の聞く耳、大臣のおぼさん所もあり。 ∨大将も世を捨てても聞き給はん事、いと恥づかし。 ∨聞きつけて、憂しとこそ思ひけれとだに聞かれ奉らん」とて、ほかに放ちわたして見きこえ給はず。 女君の心の中、いかばかりかはおぼされん。 いとゞ消え入/\ていみじうおぼし入りたるを、左衛門、思ひやる方なくいみじと見奉りて、憂しとても今は誰かはと思ひて、心苦しき事をおぼし入てむげに限りになり給へるけしきを、五六枚にあはれにかなしげに書き続けて、御使に来し侍尋ねとりて、「これたしかに奉れ」とて取らせたれば、宇治にもて参りて奉る。  こゝに、はかなくて廿日にもあまりぬれば、いかゞはせんに、やう/\ありつくにつけても、殿・上のおぼすらんさまなど、いとかなしくて思ひ続けられ、わが身も夢を見る心地していとゞ心憂く苦しきを、かくつゝまでやすらかにうち臥したるばかりを、身のやすまりにておはするに、薬のしるしにや、御髪も引きのぶるやうにうつくしげにこりかゝりて、眉などもかりはらはせて、日ごろになり行く。 いとありつき女ざまになり果てて、はな/゛\とうつくしくにほひやかなる見どころいますこしまさりて、顔いといたく思ひ乱れ屈じしめりて、ひとへにうち頼みて身に添ひたるほどの、今は我身かくてあるべきぞかしと思ひ知り、なよ/\ともてなしたるは、ありし人ともおぼえずらうたげにたをやかなるを、すべて限りなく思ふさまなるを、昔より寝ても覚めてもかやうならん人を見ばやと願ひしに、仏・神のわが思ひかなへ給なりけりと思ひよろこび、いかでくやしと思はせじ、ありし世を思ひ出でさせじとよろづにもてなすに、いかに慰みゆく。  やう/\、その人のとありしかゝりしなどやうのことさへ、さし並びにし身なれば、思ひ出らるゝおり/\多かるを、みづからは、人近くもてないて、さることの好ましきぞと言ひ恥ぢしめらるゝも聞きにくければ、さらぬ心に忍び過ごすほどに、この御文を見て、つゆ隔てあらじと持て入り見せ、「我ためも、世の聞き耳、殿の聞き給らん所も、いとかたはらいたく不便なることに侍りしな。 ∨この人も、げにいかなる心地すらん。 ∨我ゆへいたづらになりぬる身ぞと思ひ入るらんも、いとおしの事や」と言ふも、「げに、とてもかくても世づかぬ身のゆかり、我も人も世の乱れあるべきを思へば、たゞ人一人のあまりくまなき御をこたりと思ふぞ、疎ましきまでおぼゆれ。さる方にても、動きなく過ごしつべかりし身を」と、これにつけてもうち涙ぐむものから、うちかこちかけたるさまのわりなく愛行づき見まほしきに、かた時も立離れん事いと静心なけれど、かゝるも心苦しければ、「たゞ、夜のほど」とて出で給ぬ。いかにしやるべき我身にかと、かなしきまゝにしほ/\とうち泣きくらさるゝに、暮れて月いと明かく、水の面も澄みわたるに、いと思ひ出づること尽きせず、胸よりあまる心地ぞする。   思ひきや身を宇治川にすむ月のあるかなきかのかげを見んとは   中納言は、道のほども静心なく、面影離れずながら、おはし着きて、かしこには、夜いたく更けて、いみじう忍びてたち寄り給へるに、佐衛門対面して、ことの有様泣く/\聞えて、「たゞ、あるかなきかに、今は限りのさまと消え入り給やうなる心細さかなしさは、誰にかはと思ひ給へくなん」と言ふもことはりなれば、「見奉らん」とあるも、今は心ごはくてもたけかるべきやうもなく、「限りなる御有様をも見奉り給へかし」と、あさはかなる心には、物わりなくおぼゆる心にまかせて入れたてまつる。  ほのかなる火影に、いとゞ身もなくあはれげなるさまにて、髪はいと長くうち添へて、腹はいとふくらかにてうち臥し給へるを、この世ならざらん武士/奥の夷といふらんものにてだに、うち見んあはれをろかなるべくもあらぬを、ましてさばかりの心ざしには、うち見るより目もくれ惑ひ涙にくらされて、添ひ臥して腕をとらへて、「やゝ」と驚かせば、いとたゆげにうち見開けて、あないみじ、いとゞしき世に、こはいかに、またかくはと思ふもいみじければ、息も絶えつゝ涙流るゝけしき、いとかなしくことはりなるに、我も忍びがたく涙にくらされて、「あないみじ。 ∨さるべきなり。 ∨いとかうなおぼし入りそ。 ∨我命だにあらば親の御ゆるされも有なん。 ∨たゞならぬさまにてなくなる人は、罪もいと深く」と言ひ知らせて、御湯をさへすくひ入れ給へど、たゞ消えに消え入るやうなるを、かなしういみじとは世のつね也。  「かばかりにては、何かは」とて、御殿油近くとりなさせて見奉り給に、引き入るゝ顔・手つき、あてにおかしげなる事ぞ限りなきや。 これをむなしくしなしたらんかなしさ思ふに、いみぎければ、我も同じさまに添ひ臥して、明けぬれば、別れ出で給べき心地もせず。 いと忍びて人召して、御祈り始むべきことの、心のかぎりの給などして添ひものし給。 いかにとつゝましながら、頼もしおぼゆるもはかなし。 宇治にも、ありつかず世を思ひ乱れ給へるも、いかに/\と静心なけれど、うち見る哀をいと見捨てん事もいとかたければ、御文ばかりをたち返り書き尽くして、五六日とこれに添ひ居て、泣く/\あつかひ給。 かなしくあるまじきことと空さへ恐ろしながら、いかゞはせんに、命をかくるやうなれども、いとゞ見捨てがたく、あはれにかなしきまゝに、たちも離れず心をかけて、いとひまなく苦しげなること限りなし。  世の中に、大将の失せ給ぬることを、おほやけわたくし嘆きかなしみて、「中納言のことによりて」とぞ言ひのゝしれば、いと聞きにくゝもあり、大殿の聞きおぼすらんもいとわづらはしくかたはらいたければ、世をはゞかるやうにて歩きもせず、さま/゛\祈りをせさせ、よろづにあつかひ、泣く/\言ひをきて、又宇治に立帰り給へれば、いと人少なにて、これもいとふくらかにところせう苦しげにて、よろづを思ひ続け、かきくらし思ひ乱れてながめ臥し給へるさまは、いかでこの日ごろ隔て過ごしつるぞと、あさましきまでおぼしつらん心の中もいとことはりにいみじければ、又こゝにても濡らし添へつゝ言ひ慰め、かの人の有しさまなど隔てなくうち語らはんも、いと浅からずおぼつかなげに思ひやりげにて、静心なく文書きがましくて、さらに我にも劣るまじげなるを、ほのかに並び立ちて、一目もいかに我身のやつれとなるらんと思ひぬべかりし、女君の御事をだに何とも思ひとゞめざりし御心なれば、これを恨み言はんも我身につきなかるべき心地して、見知らぬ顔なれど、心の中には、我をまたなく思はんだに、ありし有様にてはこよなしかし、まして、かくのみ心を分けられては何にかはせん、などぞ思へど、いかにも/\、このほどまではこの人を背き隔つべきにあらずと、さはいへど、男にならひにし御心はうち思ひとりて、やすらかなるけしきをと、いと思さまにめでたくうれしと思ふ事限りなし。 大殿には、忍び歩き給しにならして、今日や/\と待ち暮らし給に、あらぬさまなるも尋ね出ることなくて二月ばかりにもあまりぬるにぞ、世を背きても、そこらさばかり尋ね求むるに、見聞きつけぬやうあらじ、はるかなるゐ中などまではよにおはせじ、また国々の境まで求めぬ所なし、中納言こそさしも思ひ寄らざらめ、心よからぬ使ひ人などは、わが君のかくて心やすからず忍び通ひ給女あひなしなど安からず思て、ひたぶるにゆゝしきさまにやしなしてけんとおぼし寄るにも、物おぼえ給はず、今は恋ひ泣き給しことばさえ絶えて、ほれ/゛\と臥し沈み給にたるを、殿の内又これを嘆きあつかひたてまつる。 内侍の督もまかで給て、有し夕べの給ひしさまなどおぼし出づるに、さは、かく身を限りに思ひとぢめ給けるにこそありけれ、かくと知らましかばその夜出ださましや、我もろともにとこそ言ふべかりけれ、幼かりしほどこそ疎/\しかりしか、かく離れ出でては、出で入り下り上りにもたち添ひあつかひ給ひこそ、我身の光心地して頼もしくうれしくおぼえしか、たゞ二人ありつるに、行方なくなりぬるいみじさこそ、男のさまにて世に交らひしかど、思ひとくには、女のさまにて交らひ給しかど、いかなる世界に行き隠れ、いづれの野山に跡を絶え給ふらん、心ありの物思ひ知り顔なりし君にて、女ながらかく思ひなりにたり、男の身となりをきにし身の、幼かりしほどこそ心ひく方にまかせても過ごししか、今はかくて過ぐるに、いつかれ埋もれたるはいとあさましく心憂きことなり、殿の御身もいたづらになり給ふべきなめり、我御身は限りある御身なれば、尋ね求むべきにもあらず、人はたゞ大方の世の響きばかりこそ歩くめれ、まことに心に入れて尋ねぬにこそあめれ、またいみじくとも、この世の外にはいづちかおはせん、我、かくてのみあらじ、男の姿になりて此君を尋ねみんに、いかなるさまにても、尋ね出でたらばもろともに帰り来ん、尋ね得ずなりなば、やがて我身もかたちを変へて、深き山に跡を絶えなん、殿の御身には人/\をのづからつかうまつりてん、年ごろ女にていつかれつる身の、にはかにさし出で掟てあつかひきこゆべきやうなし、たゞかくながらたち遅れ奉りて我身の世に有べきにもあらずと、夜昼涙に沈みて、我さへたゞ消え失せなば、世の音聞きも物ぐるをし、殿におぼし言はんもいみじかるべければ、上に心細げに聞えなし給て、「この人の行方知り侍らぬこと、あまた待ちねばいとゞいみじく心細くかなしきをばさるものにて、殿のむげにいたづらにならせ給ぬべきを、男の身にてたゞかくて見たてまつるなん、いといみじく侍。 ∨われもとの有様になりて、この人を心の及ばんかぎり尋ね侍らんとなん思ひ侍」と、例ならずいとあるべかしうの給に、母上、「こはいかなる事ぞ」とあさましくなりて、「いなや、いかなる御心変はりぞ。 ∨あへかに女のさまにてなりはて給へる御身に、いづくと尋ね給ふべきぞ」と、たゞ泣きに泣き給へば、「そはな、さなん侍。 ∨山/\国/゛\尋ね求むといへど、大方響きのみしていかにも心ざしのなきにこそあらめ。 ∨さるべきにてこそはらからとなり侍けめ、などてか、心を入れて求めむに、尋ね出ださぬやう侍らん。 ∨かつは、我求めぬよと思ひ侍らん。 ∨求め侍らんに、さらに世にいみじうとも忍びはべらじ。 ∨所/\に生ひ立ちたる人ともなく、心ばへのあはれにねんごろなりしさまのさるべきほどにも過ぎたりし恋しさの、堪へがたく侍」とも言ひやらず忍びがたげなるを、げにとうち泣きて、「いかなるべき事にか。 ∨とかくおぼしやるも、げにさるべく。 ∨御心にこそはあなれ」との給を、いとうれしくおぼして、「我失せたりと世の人の聞き侍らん、世づかずあやしく侍れば、女房などにも四五人より外は見え侍らねば、ありなしのけぢめ知りも侍らじかし、たゞある顔にておはしませ。 ∨大臣にもしばしな聞かせ奉りそ。 ∨問はせ給おりあらば、心地例ならでとを申させ給へ。 ∨ゆめ/\例ならぬけしきを人に見えさせ給な。 ∨殿はあるかなきかの御けしきにて、渡り御覧ずるやうもあらじ。 ∨我はた、あなたの上のものし給人しげければ、渡り見奉らぬものとまりたれば、このけぢめもあやむる人も侍らじ」とて、仕うまつる人の御前に参るには返々口がため給て、狩衣・指貫、上に聞こえ給て、御乳母子の春宮の進にて親しくおぼしめすを御丁のうしろに召し入れて、長き御髪を押し切りて例のもとゞりにとりなし給ほど、母上・御乳母など、「こはいかなる事ぞ」とあさましくいみじけれど、もとの御有様たゞこれぞあるべき事なれば、いかにとも妨げきこえず。 この世のものならぬ御さまなれば、おぼし得る所をろかならじと、おぼし慰めながらぞあさましき。 この進は、年比御声をだにうけ給はる時なく雲居にならひて、にはかに召し寄せられて、かくなり給を見る心地、いとめづらかなり。 烏帽子うちし給て、狩衣・指貫奉りたる、いさゝかうゐ/\しくあたらしき事と見えずありつき、たゞ失せ給にし大将にひとつ違ふ所なく、男女ざまにておはせし折だに、顔はたゞ二つうつしたりと見えしを、同じさまになり給て、ましてたゞその人の帰りたるやうにていとあさましきを、「これを殿にとく見せ奉らばや。 ∨内侍の督にてそゞろに給も、御かしづきのみこそめでたけれ、殿の御ために、大将にてこれをあはせ奉らんに、いかばかりうれしくめでたからん」と、母上の御乳母も、中/\うれしかるべきことにみな慰めぬべし。 「ゆめ/\、うち嘆き、例ならぬけしき人に見え知られ給な。 ∨たゞあるさまにてを」と、返々言ひをきて出で給。  この君を尋ね出でずは、我身も世に帰るべきにもあらずかしと思には、親たちの御事はさらなる御事にて、春宮を朝夕に見奉りなれて、たゞならぬ御さまにやと見ゆるを見捨て奉らんかなしさは、さらにいはん方なくひきとゞむる心地し給ふに、「大臣のいみじくあやうげになりまさり侍ば、参り侍らん事もいつとなく思給ふるがいぶせさ」と書き尽くして、   あはれとも君しのばめやつねならずうき世の中にあらずなりなば と聞え給へる、御返事もいとあはれげにて、   君だにもあらずなりなば世の中にとゞまるまじきわが身とをしれ との給はせたるを限りなく見て、これをやがて畳紙にさし入れて、六月ばかりの夜深き月に、御乳母子のかぎり三人、その供の者のいふかひなく何事もあやむまじきいと頼もしきつは物七八人ばかりして出給。 いとあへかに、母屋より外にだにさし出でずおはせし人の、いとかる/゛\しくつき/゛\しくうち装束きて出給を、見奉る限りの人、あさましくとて忌まれながら、の給を聞きしまゝに、おはします同じやうにもてなしたれば、知る人もなし。  この男君、かく出で立ちて、いづことさしておもむくべき方もおぼえぬまゝに、この御乳母子、「大将殿は、吉野山におはします聖の宮の御もとにぞおはしまし通ひて、つゐの住処とは契りきこえ給けれ。 ∨さやうにておはしますらん」と申せば、げにさもあるらん、大方に人の尋ねのゝしるは、我はさなりと言ふべきならねばこそあめれと思て、さしてそなたへおはして、日盛りにはいと暑くなりぬるに、宇治の渡りし給て、そのわたりに大きなる木の陰の川づら近きにたち寄りて涼み給に、川近くていとおもしろき所のあるを、見も知らずおかしくおもほして歩み人給へど、あなたの方に経の声ばかりしてことに人も見えず。 おかしき所かなとおぼして、小柴垣のもとに立ち寄り給へれば、簾巻き上げたるを、人こそありけれとおどろかれて、やをら見れば、前に水くも手に流れて、絵にかきたるやうに、よきほどに簾巻き上げて、あざやかなる木丁のかたびらうちかけて、十四五ばかりなる童のいと清げなる、二藍の単衣に紅の袴あざやかに踏みやりて、帯ゆるらかにうちして団扇すめる。 几丁に透きたる人も、見入るれば、紅の織単衣に同じ生絹の単衣袴なるべし。 いと悩ましげにてながめ出でて臥したる色あひ、はな/゛\と光るやうににほひて、額髪のこぼれかゝりたるなど絵にかきたるやうにて、いといみじく愛敬づきうつくしきかたちの見まほしきが、霊/\じうものよりけにねたげなるまみ、見しやうなる人かなと見るに、大将におぼえたりけり。 心惑ひして見れば、いといたううちながめて物思ひたるけしき似る物なく見えて、顔やうはなやぎたゞそれとおぼゆるに、我身を思へば女ざまに似給へると思ふに、ふとたち寄りて、「いかにしてかくておほするぞ」と問はまほしけれど、さして知りがたく、うきたる事により人にとがめられぬべければ、念じて見るに、人気やすらん、簾おろしつる、口惜しさぞ限りなき。  忍びかね、もしさてもおはせば、我をもあやしと見知りやし給らんとおぼゆるに、見えばやと思ひて小柴垣のもとまで歩み出でたるを、内にもあやしく人気のすると思ひて、簾をうちおろして見出だし給へるに、言ふかぎりなくけうらになまめきたる男のいみじくあてなるがさし出でたるに、いとあやしくおぼえなくとうちまぼらるれど、世に出で交らひこと/\しき人の見知らぬやうはなきに、さらに有しにはあらず、なを/\くだれる際とは見えず、我ありし世の鏡の影にて、うち思ひ出づれば、内侍の督の君、限りとおぼしし夕べ、いみじく打泣きて、まほにはあらずうちそばみ給へりし御顔におぼえたるかなとふと思ひ出づれど、うつたへにその御有様変はりぬらんと思ひ寄らず、世にかゝる人の有けるよと、目もあやに見やらるゝに、その前なる童、「殿をこそ世にたぐひなくめでたしと見奉れ、かゝる人のおはしけるよ」といとよく見知りて、驚きて奥なる人呼びて見すれば、「あないみじ。 ∨こは、世に失せてのゝしり尋ね聞ゆる大将にこそおはすめれ」 「いでや、かくおはしけるを知らぬならん」 「殿の嘆かせ給なるを、かくと人に告げばや」など言ひあへるを、女君は、あはれにもおかしくも聞き給て、涙の落つれば、奥に引入り給ひぬ。 とばかり立ちやすらへど、「殿の、人のおはしますやうにけしき見ゆな、との給はするものを」とて音せねば、うはの空にたゞ寄りて問ふべき事ならねば、かひなくうち嘆かれて、「これは誰が住む所ぞ」と、たち出て問はせ給へば、「式部卿の宮の御領」と申す。 ましてわづらはしかなりと聞て、見つる事の葉ばかりをだにえほのめかさず。えほのめかさず。 異人なるにても、かならず見まほしく心にかゝる面影身に添ひぬる心地して、うちつけにこのわたりさへ過ぎがたければ、夕風吹き出でぬれば過ぐる心地、いと口惜しく、この面影心にかゝりて、世にもあらばかやうなる人を見ばや、宮をば限りなく思ひ聞えさすといへど、こともあらずと、これにさへ心とまりて思ひおはす。  中納言は、忍ぶ方苦しさ静心なげにてまたおはしにしかば、こゝには月のかさなるまゝに、いとゞ起きも上がられずつれ/゛\とうちながめつゝ、かくてのみ有べきなめり、とる方なくあぢきなくも有べきかなと見るまゝに、人は、われに劣らず深き方に心を分けて、これに五六日又かれにさばかりと籠り居給絶え間を、さもならはずも待ちわたり思ひ過ぐさんこそ、あひなく心尽くしなるべけれ、さりとて、もとの有様に返りあらためなどせん事は有べき事ならず、ともかくもたいらかにもしあらば、吉野に参りて、尼になりてあらんとおぼすを慰めにし給へるを、中納言は知り給はず、今はをだしく、かくを見るべきものと打とけおぼしては、かぎり/\と見ゆる有様のいみじく心苦しきに浅からず心を分けて、大方の世にはゞかりて歩きもし給はぬまゝに、中/\心やすくこの二所に通ひ見給ふ。  年比、世とともに、心に物のかなはぬと嘆きわびつる思ひのかなふとおぼして、うち/\は、心やすくもうれしくも、又心のいとまなく苦しくもおぼえて、静心なくたち帰り給へるに、これもいと苦しげにうち悩み給へるを、いかならんと、いづくにも心のみ尽くる心地して、打臥して語らひ給に、御前なる人/\、「いなや。 ∨この昼、世に失せ給へるとのゝしる大将殿こそこれにおはしましつれ」と言ふに、あやしくと聞き給て、うちほゝ笑みて、「さて/\」と問ひ給へば、「狩装束にて、あの小柴垣のもとにこそ立ち給へりつれど、わづらはしさに音もし侍らざりつれば、立ちわづらひて帰り給ぬ」と言ふに、めづらかなれば、女君に、「まことか。 ∨見やし給へる。 ∨誰をかく言ふぞ」と聞こえ給へば、「まだ見ぬ心地する人の有つるを、さ言ふめりつれば、もし我身の身を離れけるにや」とぞほゝ笑むものから、涙の落ちぬるを、「なを有しさまにてあらまほしきとおぼす心の深き」と、例の恥ぢしめ給て、「さても、いかがありつる」と問ひ聞え給へば、「我によそへらるゝにてをしはかり給べし。 ∨めやすきならんやは」と答へてやみぬ。  かの人は、吉野の宮に尋ねおはして、まづ人をも入れて、「大将殿の御もとより参りたる人なんある」と言はせたれば、よもやまに、失せ給へるよし、騒ぎ求めらるゝに、かの人の尋ねおはしたりし後は、いとゞあはれにおぼつかなく思ひ聞え給に、かの御使ひに来たる人にやと喜びながら、「こなたに」と呼び入れ給へば、たゞ大将殿の同じさまに、けうらなる人のたがふ所なき、入りおはしたるに、おどろき給て、「いかに」との給へば、「大将、しか/\世に失せ給て、二月ばかりにあまりぬる。 ∨「此宮になん、時/\参り通ひ給ける。 ∨つゐの世のとまりとおぼしの給ひし」と告ぐる人の侍しかば、もし、申をき給へる事や侍けんと、うけ給はらまほしくて。 ∨そのはらからに侍る人の」との給へば、「おとゝしの秋ごろより、この世ならず契り給て、たち寄り訪はせ給事侍つれど、この四月一日ごろにものし給しに、大方の世を心細げにの給ひて、いつばかり、その折などは、の給をかず侍し。 ∨たゞ、「六月つごもり、七月ついたちの過ん事の、いみじくかたうおぼゆるを、それつれなくながらふる命、世にありなし、七月つごもりなどのほどに、かならず吹く風につけてもをとづれん」となん契り給しこと侍しかば、つゝしみ給べき事このごろにぞものし給らめと思ひやりきこえて、朝夕の念誦のつゐでにかならず思ひやり聞え侍れど、此世にはものし給ふらんを、げにたゞ今のおぼつかなさこそ、いといみじくいぶせくおぼすらめ」との給に、頼もしくなりて、「はらからとても、あまたも侍らず。 ∨たゞ二人侍をだに、心ぼそくあまたなき嘆きをし侍に、そことも知られで失せ給にたれば、思ひ給へやる方なく侍に、その中にまた、年さだ過ぎ給にたる親のいたづらになり給ぬべきが、いといみじく侍なり」とて泣き給へば、聖もいみじくしほたれ給て、「はか/゛\しかるまじく、我身のほだしとなりぬべきだに、恩愛の思ひといふ物、仏だにたけき事に説き給へるに、ましてさばかりの御有様を、いとことはりの御事にも侍かな。 ∨さりとも、かならず尋ねあひ奉り給なん。 ∨なおぼし入りそ」と、いと頼もしげに聞え給けり。  いみじかりける人の御相かなとうちかたぶきて、これぞ我むすめに縁ある人にものし給めりと見給ふに、かつ/゛\いとうれしく頼もしくて、所につけたる御あるじなどおかしくしなし給て、いにしへよりの御物語などこまやかに聞こえ給も、よろづ思ひ慰めつる心地して、にはかにさまを変へて、この君の有様をいつしかたち代はり顔ならんも、いとうたてあり、かゝるさまになりて、有しやうにうづもれたるべきにもあらず、をとづれんとの給けんほども、いくばくにもあらざんなり、京に出でて、かくなんありしと伝はり聞かんもおぼつかなし、その程こゝにありて、此御消息を待たんとおぼして、「かうなん思ふ」と聞え給へば、「いとうれしき事に侍る。 ∨さらばおはして待ちきこえ給へ。 ∨さの給し契り、よにたがへ給はじ」と聞え給へば、喜びながら、我さへ失せぬとおぼし嘆かん御心、いと物騒がしかりぬべければ、「七月一日に、かならずをとづれんとありける所にまうで来て、うゐ/\しき有様少しならし侍ほどなん侍べき。 ∨「おぼつかなくなおぼしそ」と聞こえさせをきしまゝに、たゞあるさまにもてなさせ給て、春宮より御消息侍らば、わづらふ事なんとて、それに御返は申させ給へ」など、上の御もとにくはしく聞こえ給。 いかにと胸つぶれ心もそらにおぼしつるに、いとうれしけれど、世離れたる所に長居し給もおぼつかなく、「世づかざりける御有様どもかな」と打泣給て、「なを侍らん限りは、さまを変へんとなおぼしそ。 ∨頼む方なきをのれふり捨て給て、かへりて御罪にもならん」など書きて、御衣や何やとよろづの物ども奉り給へり。  御供には、御乳母子一人、下に人一人、かばかりにてゐ給て、女しくて過し給へるに、文をも習ひなどし給ふ。 いとよき御学問の師なりとおぼして、世づかぬ身の有様など聞え給へば、「しか/\、大将のほのぼの憂へ給し、聞き侍き。 ∨いさゝかなる事の違ひ目に、しばしさる心のつき給しなり。 ∨大将も、もとの御有様になり給ぬらん。 ∨いとかしこく、国母の位に極め給ふべき相おはせし人なり」と聞こえ給。  宇治にて一目見し面影を心にかけて、また見る世ありなんやとおぼすさへぞ苦しき。   妹背山思ひもかけぬ道に入りてさま/゛\ものを思ふころかな 丁の内よりさし出づる事もかたくてならひにし身の、行方も知らぬ山にすゞろにてある、心ながらもいとあやしく、春宮におぼし隔たりにける夜な/\のあはれなど、まどろまれぬ中にも、宇治の川波ふとたちまじり、いみじく恋しく、又あひ見まほしくおぼし出でらる。   一目見し宇治の河瀬の川風にいづれのほどに流れあひなん とてうち泣かれぬ。  宇治には、いと苦しげにて、月もたちぬれば、中納言かた時もたち離れず、いかにせんとおぼし惑ふに、人柄の、かたちをはじめ、いとにほひ多く愛行づき、中/\いと見まほしきに、もてなし有様はれ/゛\しくならひ給にしかば、いとあへかに埋もれいぶせくはなく、わらゝかにおかしく、いと馴れたる心つきて、物を思ひ嘆きてもひとへに思ひ沈みてはあらず、泣くべき折はうち泣き、おかしく言ひたはぶるゝ折はうち笑ひ、いはん方なくにくからず愛敬づき給へる人の、まことに物心ぼそく苦しきまゝに、いとたゆたげになよ/\と心苦しげなるを見給ふ中納言の御心地、我身にかへてもこの人をいかでたひらかにとおぼし惑ふしるしにや、七月ついたち、思ふほどよりはいたくもほど経で、光るやうなる男君生まれ給へるうれしさ、世の常ならんや。 子持ちの君も、手づからかき臥せてあつかひ給さま、いとあはれなり。 若君をば目もはなたず、疎からぬ人の乳ある迎へ寄せて、乳母にも、世にあらはれてかゝる人のあらましかば、いかにかひ/゛\しくもてなされまし、よろづ隠れ忍びたるこそかひなく口惜しければ、このほどは異事なくこのあつかひに心入れて、あからさまにも立ち出でず。 日に添えて、この若君のうつくしく光り出づるさまを、母君の御もとにさし寄せつゝ、「あはれなりける契りを。 ∨昔よりかゝる御さまにて、思ひなくあらましかば」と言ひ出給にぞ、げにもあやしかりける身かなと思ひ出づるに、かの所の七日の夜扇見つけたりし事など、いとにほひやかにの給出でて、かたみにおかしくもあはれにもおぼす。  この御有様は、今は十余日にも過ぎぬれば、今はかくにこそはあめれと心落ちゐはててし身を、いかにしつる事ぞと思ひ乱れ給しかば、もとのさまにやなり返り給はんと、うしろめたく静心なかりしを、この若君をいとかなしげにおぼして、常に抱きあつかひ給めれば、これを見捨ててはふり離れじと思ふ頼みさへいと強くなりて、「いま一方、この世ながら身をかへたる心地して、かなしくいみじき事を思ひ入り、それもこのごろにこそはと、生きとまるべくもあらぬも、うしろめたくかなしく、身のいたづらになりにたるやうなるも、〔誰ゆへにもあらず。 ∨むげに聞きはなち侍らん事の情なきやうなれば、五十日になるまでもあつかひとぶらはんと思ひ侍を、しばしの程もおぼつかなく静心なくのみおぼゆるを、忍びてこゝに迎へ侍らむ。 ∨いかゞあるべき。 ∨御覧じはなたれにし人を」と給を、浅ましと思へど、さらぬ顔にもてなして、「げに、さおぼすべきことにこそは。 ∨中/\見しその人と見あらはされたらんこそ、異人よりは恥づかしかるべけれ」と、顔のうち赤み給へるが、はな/゛\とうつくしげに、見るかひありとうち笑まれて、「いさや、しばしのほどもおぼつかなからじとてぞや」と、言ひまぎらはし給。  こなたをば今はをだしくおぼして、忍ぶる方の心苦しさも、又心うつれる一方に隠れゐてあつかひ給さま、いと心やすげ也。 父大臣は、おどろ/\しげなる誓い言を立てて、そのまゝに見給はず。 幼くより母北の方は、大臣の御思ひの限りなきにおぼしゆづりて、いとすぐれてはなき御思ひにはありけん、「思はずに、心づきなかりける御有様かな」とうちうめきて、身にかへても添ひゐ給はず。 はらからの君だちも、並びなかりつる御おぼえにみな心をきて、かゝる世の騒ぎもことにいとをしとも思ひ聞え給はぬさまなればげにぞ哀にかなしげなる御さまなりける。 いかゞはせんに、中納言に忍びてうちまかせられてあつかはれ給へるも、いとあはれげなる人の、いみじくくづほれたる哀さ、さらに思ひ忍ぶべくも〕あらず、昼なども忍びてつと添ひて、よろづに言ひ慰めちぎり語らひ給に、いかゞはせんに、心こはからず言ひ慰めらるゝらうたさなど、見る折はたぐひなくのみおぼえて、この比はこなたがちにのみ添ひ居て、夜・夜中事もあらんに、遠くたち離れてはとみの有様え聞くまじきにより、宇治へも久しくおはせず。  御文は、日にたち返/\おぼつかなからねど、それがうれしかるべきにもあらず。 かくのみこそは有べきなめれ、わが心一つにこそよろづの事につけて嘆き絶えせざりしか、大方の世につけてはかたはらなくなりにし身をあひなくもてしづめて、たぐひなくだにあらず、かくのみ待ち遠に思ひ過ぐさん事こそ、なを有べき事にもあらね、右の大臣、世人の言ひ騒ぐほど、なをしばし勘じ給にこそあらめ、世になうかなしくし給御むすめにて、ひたぶるに一方に思ひ許し給はば、あなたづよにこそあらめ、我いかなりとも、その人と知られあらはるべきやうなければ、かゝる宇治の橋守に、網代の氷魚のよるのみ数へんほどの心尽くしや、さりとて、もとのまゝに返りなるべきにもあらず、いかにして吉野山に思ひ入りて、後の世をだに思はんと思ひなるには、この若君の捨てがたく、憂き世のほだしつよき心地し給。  七八日ありて、例のおはして、さすがに隔てなく、ある有様頼もしげなき事など憂へたるを聞くも中/\也。 さし隔ててことざまにも言ひなさばさても有べきに、さはた、え隔てず、幾世見るべき人にもあらずとおぼせば、いとよくもてなし給へるさま、いかなる人かをろかに思はん。 限りなき思ひに思ひを添へかさぬる心地して、なのめならずあはれなれど、人のさまいとあだにて、人ごとにしみかへる癖なれば、浅く思ひなさるべし。 例の、こゝにもしばしたちとまり給べしと思ふに、夕つ方、京より人来て、「いみじく常よりも苦しげにせさせ給を、その御けしきにや」とさゝめき聞ゆれば、静心なくて胸つぶるゝに、日ごろあり/\て今日のうちに驚き帰らんも、いかゞおぼすべきと思ふも、いと恐ろしくわりなき心地すれど、そはをのづから、ながらへゆかん心ざしは、見なをし給やうも有なん、かれはいま一度見でむなしくなさん事はなをあかずかなしければ、かゝるよしを言ひ置きて急ぎ出給も、「げにさる事」と心やすくうち言ひながら、あさましくめづらかに思ひし心、我こそ人に恨みられしかば、むつかしく胸やすからぬ思ひの有べくもなかりし物を、かゝるさまは憂き物にも有けるかな、かゝればこそ仏も罪深き物に思ひ置き給けれ、右の大臣は常に恨みられ、かの女君も恨めしげなるけしきのおり/\ありし報ひにや、我かゝる目を同じ人に代へて見つらんなど、来し方行く先、なつかしく物も言ふべき人もなければ、をしこめて思ふぞいと苦しかりける。  つとめて、「頼むべきやうもなきさまの、いみじくいとおしげなるを、近くて成はてんさま、聞き果て侍らんとてなん。 ∨心のどかならずたち返侍にしかば、いと心よりほかにおぼつかなく、児君もかた/゛\」などあれど、目もとまらず。 「いみじく思ひ入りても限りあるわざなるを、いかなれば。 ∨いとおしくも」と聞え給へるを、ほのかにならひにける人なれば、あながちなるもの恨みのけしきなく、さはやかにもあるかなと見給も、をこなりや。  うちたへ、いかで吉野の山に人奉りにしがなと思ふあまり、若君の御乳母、心ばへらう/\じく口惜しからぬ心ばへなるを、若君思はば、これこそ我方ざまの心浅からず、言ひたらん事人にうちまねびなどせざらめとおぼえて、いとなつかしくうち語らひ給て、「見馴るゝほどはなけれど、若君を思はばよも浅からじと頼まるゝ心地の深くおぼゆるを、聞こえん事人に知られでは聞きてんや」と、いとなつかしげにの給を、うれしくめでたしと思ひて、「いかでか。 ∨身を捨てよとさぶらふとも」と聞こゆ。 「これなる人/\にも、まして殿には知らせ奉らじ。 ∨吉野の山の奥におはする聖の宮に、御消息聞ゆべきゆへある。 ∨たばかりてんや」との給。 「いとたはやすくさぶらふ事」と聞こゆれば、うれしくて、「月ごろのほど、たいらかにおはしますらんや。 ∨いかにと心細く思給へられしを、今日まではことなくたいらかに侍り。 ∨御覧ぜられしさまも、あらずぞなりて侍。 ∨いかで参りなんとぞ思ふ給ふる」と書きて、いとよう封じて、「これ、さらば、たしかに」とてたまへり。 この人の御本体、誰といふこと知る人なかりければ、もしかの吉野の宮の御むすめ持ち給へりと聞きしにやとぞ心得る。 かくいふほど、八月ついたちごろ也。 我身に親しく侍めく者のあるを、たしかに/\教へて奉りつ。  吉野には、此男君、すゞろなるやうなれば学問などして、思ふさまにうれしき人に行きあひたてまつれると思ひよろこびて、事にふれて、姫君たちの御有様なべてならずおくゆかしけれど、聖だちたらん御あたりにふとけしきばみ寄らんも、いかゞとはゞかられて、かばかりに成ぬればさりともとのどめつゝ、このをとづれんと契り給けるほどの過るまゝに、心もとなく打わびらるゝ夕べ、つき/゛\しき男の、「御文参らせん」とぞ言ふなる。 「いづくよりぞ」と問ふなれば、「宮の御方にたしかに参らせ給へ」と言ふ也。 取りて御覧ずれば、大将の御文、いとめづらしくて、客人の君に見せ奉り給。 うれしとは世の常なり。 心惑ひして、あらぬさまにとあるに、法師などに成給へるなめり。 すゞろに失せ給やうもあらじと胸つぶれて、使ひを召し寄せて、「いづくにおはしますぞ」と問はせ給へど、そこと申せともなかりつるものをと思へば、申出でぬを、いといみじく清らにて問はせ給に、いとかたじけなくなりて、「宇治のわたりにおはしますとぞうけ給はる」と、「宇治はいづくのほどぞ」 「式部卿の宮の御領とぞうけ給はりし」と申せば、さればよ、見し人はこれにやと思ひあはせられて、うれしくかなしき事限りなし。  みづからも御文聞こえ給。 「六月その日思ひ立ちて、都を離れて、宇治の方にたち宿りて侍しより、この宮に尋ねまうで来て、御消息聞えんとありしと、聖の宮のの給を頼むことにて、そのまゝにこの山に跡を絶えて過すさま。 ∨いかなるさまにてかおはします。 ∨いかでか対面は給はるべき。 ∨参りぬべき所にや」など、こま/゛\と書き続けて、宮の御返に添へて給まゝに、この使ひに御衣一襲、乗りておはしましし御馬と給はせて、「これに乗りてとく参り着きて、御返り又たしかに給はりて来」とて給はすれば、「あさましくおぼえなくうれしき事」と喜びて、参りぬ。 御返参らするより、「たゞ今参れる御返り給はらん」と申さすれば、御覧ずるに、宮の御返りはうち見給、いま一つの御文御覧ずるにぞ、さは、この誰にかと思ひしは、内侍の督の君の、我を尋ねにとさまを変へて世を出で給にけるにこそありけれ、我口惜しく思ひ寄らざりけるよと、めづらしくかなしきにえも見やり給はず。 我もあらぬさまになり、かの君もことざまになり給にけるも、さるべきにこそ有けれと、泣く/\御返りこまかに書き給て、「くはしうはみづから聞こえまほしきに、このわたりにおはして、この男して御消息を給はせてよ」と聞え給へり。 見給ぞ、夢の心地してうれしき。 おはすらん有様見聞きてこそは、ともかくも殿にも御消息申さめとおぼして、いと忍びてこの男をしるべにておはして、そのわたり近き人の家におはし居て、消息聞え給へり。  中納言は、かの御心地のいみじきにも心惑ひて、その乳母に、「はらからにてものし給人の忍びておはしたるを、人にも知らせずいみじく忍びて対面せんと思ふに、心さかしらなるやうに殿の聞給はんもいとわびし。 ∨人にけしき見せじとなん思ふ」と語らひ給。 「いとやすき事にさぶらふなり。 ∨局に、京よりまうで来る人のやうにて、暗きまぎれにおはしまさせて、夜更けて対面せさせ給へ」など聞ゆれば、「さらば、さやうにも」との給。 殿の御乳母子など、はた、うちとけても見え給はねば、殿のおはせぬにはことに御前にもさぶらはねば、心やすきたそかれのまぎれに、乳母の局の廊の前なるに入れ奉りて、人のしづまるを待つほどに、夜いたく更けぬればみな人寝ぬるに、やをら乳母をしるべにて西の放出にすゑたてまつりて、やをら出給へるに、かたみに夢の心地して、物も聞こえやり給はず。 月いと明かき影に、髪はつや/\とひまなくかゝりて、限りなくうつくしげにて、いといみじく、女君、なつかしくうち泣きてゐ給へるも、いなや、こは誰そとおぼえ給。 えもいはず清らになまめきたる男にておはするも、うつゝともかたみにおぼえ給はず。 行方も知らず聞きなしたてまつりて、思ひしさま、出でて来しことに、あやしく似奉りたる人の有かなと、恨めしきに忍びがたくて、もし御覧じ知るやうもやとすゞろにたち出たりし事など、こまかに語りて、「さても、いかでかくてはおはしますぞ」と問ひ給に、答へきこゆべきやうもなく恥づかしけれど、艶にをしこめて有べきことならねば、「年比は、世づかぬ身の有様を思ひ嘆きながら、さる方に、いかゞせん、ありつきぬべきよと思ひ侍しに、心より外に憂きことの出で来侍にしかば、さて有べきゆもなく、思ひわびて身を隠し侍にし」さま、けしきばかりうちの給へる、さなんなりと心得はてて、「今はさは、かくておはしますべきにこそあなるを、かくのみ人知れぬさまにてはいかゞ過させ給はん。 ∨殿にはいかゞ申侍べき」との給へば、「その事に侍る。 ∨かくてのみなんさらに侍るまじうおぼゆるを、世づかぬ身なりしほどのみ、恥づかしさを、異人に見えあつかはるべきにはあらず、あさましと見え知られにし人にこそはと、ひたぶるに身をまかせて侍つれど、今はながらふべきやうにやと生きとゞまり侍に、かくてはらじとおぼえ侍れど、さりとて有しさまに身を又なし変へん事は、有べきにもあらず。 ∨とてもかくても、身の世づかぬをき所なくおぼえ侍を、此吉野山にかたちを変へて跡を絶えなんと思侍」と、うち泣きての給。 「わが君、かゝる事なの給そ。 ∨殿・上のおはせん限りは、我も人も世をなん思ひ限るまじき。 ∨御事により、殿はむげに不覚になり給へりしを、見置き奉りてなん出侍にし。 ∨げに、何にかはかくて忍び隠ろへておはしますべき。 ∨又、ことざまにては、聞こえ出で給はんもあいなし。 ∨我なん、「たゞあるさまにもてなしてあれ」と言置き出で侍にしかば、誰にも見え知らるゝ事も侍るらざりし身にて、そのけぢめのありなし知る人も侍らざなり、さてこそやがておはしまさめ。 ∨さても、中納言ものし給らん、悪しかるべきことにもあらず。 ∨今始めたるやうにもてなし、中/\人目やすくこそ侍らめ」との給を、答へはともかくもの給はず、「かくて、この人に行方知られであらばやと思ひ侍なり」と聞え給へば、「そは、いと悪しき事。 ∨人柄さておはしまさんに、げにいとやんごとなき事にはあらねど、口惜しかるべき際に侍らず。 ∨いかにも、さらばまづ忍びてわたらせ給て。 ∨殿の聞えさせ給やう侍なん」と聞え給へば、「殿に、かくてこそありけれとは聞こしめさあれじ。 ∨ただ、世づかざりける身をもたわづらひたりけるさまを」と、うち恥ぢらひ給へるも、年ごろいとすくよかなりし人の御もてなしとも見えず。 つきすべくもあらぬに、夜明けぬべければ、やをら出給て、これより京ざまにおもむきておはするも、今は限りと思ひたちしほどのあはれに思ひ出られ給て、おはしますをも知らせ給はず。  殿は、月日ごろの隔たるまゝに、多くの御祈り山/\寺/゛\尽くして、限りのおぼし入たるを、今宵の夢に、いとたうとくきよらなる僧の参りて、「かくなおぼし嘆きそ。 ∨この御事どもは、いとたいらかに、明けんあしたにその案内聞き給てん。 ∨昔の世より、さるべきたがひめの有し報ひに、天狗の男は女となし、女をば男のやうになし、御心に絶えず嘆かせつるなり。 ∨その天狗も業つきて、仏道にこゝらの年を経て、多くの御祈りどものしるしに、みなことなをりて、男は男に女は女にみななり給て、思ひのごと栄へ給はんとするに、かくおぼし惑ふもいさゝかの物の報ひなり」と見給て、こなたの上に、「督の君を、物おぼえざりつる月ごろえ見奉らざりつるに、たゞ今夢にかう/\なん見えつる」と語り給に、あさましく、有しさまのことくはしく聞え給に、夢にはまことなりけりとうれしながら、「この人も世に出給にけるを、我も知らで」とあさましくあきれ給て、やう/\明方になりぬと聞くほどに、上に人寄りてうちさゝめき申せば、おどろきて、「あはせはしたんなり」との給ふ。 人/\はみなまだ寝たるに、「こなたに」とても、幼かりし時より交らひつき給にし大将こそびゞしかりしか、あへかに人にも見えず籠り給てし人と思に、かたくなしくおはすらんとおぼすに、御前に参り給へるに、起き上りて、御殿油かゝげて見奉り給に、たゞ大将の御にほひ有様二つにうつしたるやうにて、これは今少しそゝろかになまめけるけしきまさり給へり。 かれは少しさゝやかに、小さき方により給へりしぞ飽かぬ心なりしかど、まだ年の若かりしに、これはいま少しもの/\しく、飽かぬ所なくぞ見え給。 うちまぼり給て、夢のやうなるも、行方なき、まづ堪へがたくおぼし出でて、声もおしまず泣き給。 あめらひて、「さて、いかに聞き出で給へりや」とて、問ひきこえ給。 「しかありし御さまにはあらず、女ざまになりて。 ∨「なをいと世づかず心憂かりしかば、もとのやうに身を変へて、心みんとてなをしばし隠れたりつる。 ∨髪などの生ふるほど人に見え知られじ」となんの給ひしを、御けしきにしたがひてこそは」と申給ふも、「いかに/\」と聞きもやり給はず、まさしかりつる夢の告げかなとうれしさに、喜び泣きさへし給て、「よし、此人を内侍の督にと聞えて、そこにこそは代はりし給はめ」との給へば、「年ごろ籠り居侍し身なれば、さやうの交はひはし侍らじ。 ∨又かの御有様聞き定めて。 ∨しばし、かくてさぶらふと人にも見え知られ侍じ。 ∨まづ、かの御迎へして後にを」とて、明けぬれば出給ひぬ。 なごりなく胸あきてうれしきに、起き居て御粥などいさゝか参る。 宇治には、「いつばかりにか御迎へには」と聞こえ給つ。  これには、御対面のなごりうれしく、夢のやうにおぼえて、今はあさましと思ひ給へば、若君ひき具し給はんもいとあやしく、さりとて見捨てん事もいとかなしきに、おぼしわづらえど、親子の御契り絶えぬものなれば、行きあひつゝ見ぬようにもあらじ、さばかりなりしわが身の、この児かなしとても、いとかく人げなくて、通はんをわづかに待ちとりて過ぐすべきかはと、なを過にし御心のなごり、強くおぼしとりて、さりげなくむつかしげなる反故ひき破り焼きなどし給て、若君を目離れず見給に、いみじくおかしげにて、やう/\物語り、人の影まもりて笑みなどするを見るぞ、いみじうかなしかりける。  中納言、例のあからさまと見えて渡り給へり。 今は限りと思へば、つゆ憎げなるけしきまいて漏らさず、ひきつくろひて限りなきさまにて居給へり。 紅の単襲に、をみなめしの表着、萩の小袿、いたく面やせ給へりしが、このごろなをり給へるまゝに、いとゞはなばなとにほひを散らしたるさまして、御髪もつや/\と影映るやうにかゝりて、丈に少しはづれたる〔末の、ふさ/\と物を引ひろげたる〕やうにかゝりたる裾つき、さがりば、八尺の髪よりもけにいみじくぞ見ゆる。 額髪よりかけたるやうにかゝれる絶え間、かしらつき・やうだいなど、こゝぞとおぼゆるくまなく、うち見るにはいみじからんもの思ひもはるけ、憂へも忘れぬべく見ゆるに、心のゆく心地して、「子持ち栄へこそあまりにし給へれ。 ∨などて過にし方おはせし有様をめでたしと思ひけん。 ∨かくてはこよなくまさり給へりけるを。 ∨かゝるさまにてさし出交らはせ奉らんに、うち見ん人ごとに心惑はざらんや」と、限りなきけしきにかき撫でつゝ、わが身にもかへつばかりに思ひ惑はるゝ人の御心苦しさは、たゞ今は慰みて、異事なく語らひて臥し給へるに、又人来て、「たゞ今いと限りのさまにて、消え入り給ぬべし」と告げにたり。  さのみたち返りつゝいと驚き帰らんもいみじく、いとおしく有るまじきことに思ふに、「さるけしき見えば告げに来」と言ひ置き給ける人、後に走り参れるに、忍びあへで、「たゞともかくもなるほどまでぞ。 ∨生きとまるまじき人なめれば、情なく見えじと思ひ侍ばかりぞや。 ∨いとよろづをようおぼしことはり、あながちなる物恨みなどのなきに、心やすくうれしくて、かくも侍ぞ。 ∨ともかくも見なしてん後の心を御覧じてのち、言ひ恨みさいなませ給へ」と、涙を落しつゝわりなげに思ひ給へるけしきを、かくてあらじと思ひなりにたれば何かは苦しからん、かねても思はざりし人の、心にもあらず、かゝらん物とは思しを、たゞあやしきほどを、知らぬ人に見え知られんよりはとばかり思ひなりにしにこそあれ、かくて有はつべき物と思はましかば、憂はしくめざましからましなど思ひ続けて、わりなくにほひやかにうちほゝ笑みて、「度ごとの御ことはりこそ、おぼし知るにつけて中/\なれ。 ∨物は思ひ知らぬこそよけれ」との給へるは、くね/\しく言ひ恨みんよりも恐ろしければ、すべて、「あが君、「早う行け」と、さはやかなるあらばをまからん」とて、え動き給はねば、「今早う。 ∨いとおしきほどにも」と言はれて、恐ろしくかへり見がちにて、出でもやらず見給程に、変はり給けしき見えじとさらぬ顔に忍ぶれど、出で給ぬれば、若君抱きて、つゆまどろまず泣き明かし給ふ。 つとめてぞ、「この夜中ばかりになん、からうしてをのがさま/゛\になりてなん。 ∨頼むべきさまにも見えざなり。 ∨今少しならん有様も見はてて、やがて参りなん」と書き給へり。 「うけ給はりぬ。 ∨聞き給へるほどよりも、めやすくも。 ∨これにつけても、まづ昔の事こそあはれに」と書き給へり。 このほどこそよかるべけれとおぼせば、宮に消息聞え給とて、日ぐらしこの若君をつと抱きつゝ、忍びて打泣きなどし給ふ。  その暮に、例の近き所におはし居て消息し給へれば、有しやうに乳母の局に入れ奉りて、人の静まるを待つほど、上は胸静かならず心騒ぎして、乳母にもかゝるけしき見えず、たゞこの君をつとまもらへてかきくらされ、かなしと人やりならずおぼすに、夜更けぬべし、人静まりぬれば、はじめのやうに入れ奉りて御消息聞こゆれば、心地も静かならずかき乱りて、「さは、これしばし」と抱き移させ給ふに、おどろきてうち泣き給へるをうちまぼりつゝ、身を分けとゞむる心地してゐざり出給を、人は何よりも子の道の闇は思ひ返さるべきわざなるを、さこそいへ、男にてならひ給へりけるなごりの心強さなりければなるべし。 「京には、しばし思ふやう侍ればおはしまさせて、吉野におはすべきやうに、殿には申したゝめてまうで来つる」とて、わが御乳母子の、女にて親しく使ひならひ給し、三人ばかり率ておはしたり。 月のいと明かきに、やをらかげに添ひて忍び出で給ほど、若君の面影は身に添ひて、ひき返さるゝ心地しながら、車に奉りぬ。 ひきかへ、あまたして、夜一夜おはしまし明かして、又の日ぞおはしまし着きたる。親玉もかゝるよし聞給て、これには便なかるべければ、姫君たちのおはする方をしつらへて、おろし奉り給て、あきらかにさし向かひて見奉り給に、かたみに、いとめでたき有様も夢のやうに、うれしくあはれにもおぼす。 殿よりも、おぼつかなく心もとなき御消息、遠き程とも見えずうちしきりて、そのわたりのさるべき物はみな奉るべきよしおぼせらるれば、みな持ち参り集まる。  心やましき思ひ絶えずいぶせかりし憂き世の中離れて、やすらかにおぼさるれど、明け暮れ見馴れし限りなく山口しるかりし顔つきぞ恋しく、人やりならずほれ/゛\しく打ながめて、ひはかにかゝるさまをあやしと見驚き給ぬべき恥づかしさに、あなたの姫君たちにも対面し給はず、つく/゛\と打臥し給へるを、男君は、たち離れながら、中納言の心の中苦しくおぼさるゝにやと心得たまひて、「あやしく世づかぬ有様も見奉り知り給にけん人を、あらためてかく離れさせ給はんも、あぢきなき御事に侍るべきを、いかにおぼしめし定めさせ給ぞ」との給を、「心より外に心得ぬ契りの有けるに、寝ざとくまではいかゞ侍らん。 ∨心憂しと思ひながら、何心なくいはけなき有様を身に添へて、あやしかりぬべき侍しかば。 ∨見捨てつる心苦しさばかりをなん思侍る」とて、忍びがたくうち泣き給ふけしき、いとあはれ也。 「げに、さおぼさるべき事に侍る。 ∨その御ゆかりしも、離れにくき御契り侍れ」と聞え給へば、さりけると殿などには聞え奉らじの御けしき深く、中納言にはかけ離れなんの御心なめりと見ゆるも、いかなるべき事にかく心苦しく、我もかくてすゞろにあり馴れにし身を変へて、参り初めにし後は、二夜と隔つることなく見奉り馴れにし春宮に、久しく離れたてまつりて、たゞならぬ御けしきの見えしも、かく見奉らで、行方知らぬ野山の末にあくがれ過ぐすも、またいとうつし心にもあらず、さりとても、にはかにさし出て人に見え知られんさまのうゐ/\しくまばゆきにより、身をも馴らすほど、思ひ念じつゝ、わが代はりにはこの人さておはせば、春宮に対面給はる事もおのづからかまへ出でてん、とかくおはしまさんほども、この人にこそ寄せたてまつりてこそはもて隠しあつかひ奉らめなど思ひなすにぞ、胸のひまあけて、「かう/\の事有しが、いとおぼつかなきを、わが代はりにもて隠し聞え給へ」と、いとこまかに語り聞え給へり。 聞くもいとあはれにて、「なを、ふる里には、いとあはれにてたち帰りにくく侍れど、殿・上を思ひ聞えさする方はさる物にて、その御事によりてこそ、えさらず思ひ立つべく侍なれ」などうち語らひつゝ、我有し代はりに交らひ給べきとおぼせば、かたちざまはいといたくたがひ給事もよにあらじ、大方の世の事ぞたがひてあやしからんとおぼせば、さかしきやうにあれど、うけ給はり行ひしおほやけ事ども、その人かの人の言ひつけし事、答へ給べきさまなど、さかしげなくいとよく聞え知らせ給ふ。 事笛の音、書き給手など、さばかりの人の、ものぐるをしくうつし心なきやうにて籠り居給へるなれば、たど/゛\しからず、たゞ同じ声に吹き鳴らし弾き鳴らし給へるさま、異人とあへて分くべくもあらず。 手などは、まして書き似せんとまねび給ふに、つゆたがふ所もなし。 御声けわひなん、もとこれは男の女まねび給しなれば、女のすくよかにつかひ馴らし給へりしなれば、もとよくかよへる御けはひ、いづくかはたがはん。 猶、さるべきあはれなりけるはらからの御契りなるや、とぞ見えたる。  つれ/゛\なるまゝに、さし向かひて、おほやけわたくしかゝる御物語の中に、麗景殿の細殿におり/\行きあひし人のことなどをさへ語り出て、「右の大殿の君のはじめよりの有様、大臣の明暮恨みられしを、内/\の乱れは知らず、世にある程にては訪れぬ恨みいみじう侍なんものぞ。 ∨げにすべてつゆ飽かぬことなく、いみじうすぐれてみでたきを、権中納言のこと思ふに、心より外の事にぞ侍かし。 ∨今はうけばり、我ものといみじう思ひとゞめてあつかひ給しを、昔ながらもの給ひ寄らん事」など、みな語り聞え給。  此姫君たちの御有様を近く見聞に、いとすぐれて思ふやうなるを、つれ/゛\なる長き夜の慰めにも過ぐしがたくて、さるべきおり/\聞こえ馴れ給を、はぢめの御有様もいとさやうなるほどは見え給はず、たがはぬけはひ有様を、宮は、いかに宿世にまかせて我あたりを放ちて、いま少しひとへに心を澄ましはてんとおぼすべかめれば、これはさなんとわきまへ知らせ給事もなかりければ、あやめもおぼさず、はじめのならひに何心もなきを、あさましう思ひの外なるなれ/\しさを、夢のやうにいみじうおぼし惑へど、男の御心には限りなくあはれにい深き御心ざしもまさるにや、いふかひなく見馴れゆくまゝに、あてにけだかくにほひあり、思ふさまなる御かたち有様を、かばかりの聖の御あたりに生ひ出給はん有様、此世近くはあらじとあなづりつる心さへぞ、くやしうおぼさる。  まことや、宇治には、若君の御乳母、明くるまで帰り給はねば、あやしと思ふに、御格子など参るほどまで見え給はず。 人/\尋ねあやしがりきこゆるに、いはん方なくあきれて、思ひ寄るまじきもののくま/゛\などまで尋ねもとめ奉るに、いづくにかおはせん。 いふかひなく思ひ惑ふ程に、殿おはしたるに、かう/\と聞えさすれば、うち聞き給よりかきくらし心惑ひ給て、物もおぼえ給はず。 「さても、いかなりし事ぞ。 ∨日ごろ、いかなるけしきか見え給し。 ∨ふるさとのわたりより訪れ寄る人や有し」と問ひ給を、我さへさはがれぬべければ、乳母もえ申出ず、「さる御けしきもえ見え侍らず。 ∨見奉らせ給ほどはさりげなくて、一所おはしますほどは若君を目もはなたず見奉らせ給つゝ、うち忍び泣き明かし暮らさせ給しをば、世の中に恨めしくもおぼつかなくも思ひ聞えさせ給人やおはしますらんなどこそ、心苦しく見奉り侍しか。 ∨かうざまにおぼしめしなるらん御けしきと、つゆも見奉らざりき」と聞ゆるに、いはん方なし。  限りなくのみもてかしづかれたりし身を、いとかく忍び隠ろへたるさまにて、あなたざまの事を心に入てあつかひつゝ、こゝにはありもつかず都がちにあくがれたりつるを、げにいかに見もならはずあやしくあひなしとおぼしけんを、うち見るには、すべてさりげなくやすらかなりし御けしき有様の、返々見るとも/\飽く世なくめでたかりし恋しさのやらん方なく、時のほどに心地もかき乱り、来し方行末もおぼえずかなしく堪へがたきに、めぐりあひあはん事おぼえず、いかにせんとかなしきに、若君のかゝる事やあらんとも知らず顔に、何心なき御笑み顔を、見るが限りと思ひとぢむるに、世のほだしといとゞ捨てがたくあはれなるにも、あはれ、かゝる人を見捨て給けん心強さこそと思へど、あさましく、ことはりは、返々も言ひやる方なく、胸くだけてくやしくいみじく、人の御つらさも限りなく思ひ知らる。 臥し給し御座所に脱ぎ捨て給へりし御衣どもの、とまれる匂ひたゞ有し人なるを、ひき着てよゝと泣かれ給。 かばかりの事を夢に見んだに、さめてのなごりゆゝしかるべし、かたち・けはひのいふ方なく愛行づきにほひみちて、憂きもつらきもあはれなるも、いとにくからず心うつくしげにうち言ひなし給し恋しさの、さらにたとへて言はん方なく、胸よりあまる心地して、人のをこがましと見思はん事もたどられず、足ずりといふらん事もしつべく泣きてもあまる心地して、沈み臥し給ぬる御けしきの、いみじくいとおしくわりなきを、見奉り嘆かる。 さても、心あはせ知りたる人なくてはいかでか出給けん、さりとも、人こそ知りてこそありけめ、いかなりける事ぞと思へど、心得ず。 もし見よと思ひて書き置き給へる歌などやうの物やあると〔思へど〕、さやうのねぢけばみかゝづらふべき人にもものし給はず。 「かのわたりなりける人の見ければ、「いひ知らずよにあてにおはする殿の、いと若きなん、たち隠れて、いとめでたき女を車に乗せ奉りておはしましにし。 ∨いかなる人にか」とあやしがる」と、人のまねび聞こゆるに、をのかさまに身をもてなしならひて、たゞや出でておはしつらんと思ひつるだに少しあやしかりつるを、ましていかなる事ぞと思ふに、いま少し胸心惑ひて、思ひやらん方なし。 昔よりよしなき事どもを思しは、物にもあらざりけり。 すき/゛\しくよろづに色めきて、はてはかくわびしく身をせむるやうにかなしきことを思ひ嘆きて明け暮るゝに、若君の御顔ばかりに命をかけて、いま少し涙流れまさりける。  ことのよろしき時や、あはれなる歌などもよみ、思ひ続けらるゝにこそありけれ、思へば胸くだけて、いみじく苦しくおぼししほるゝほどに、右の大臣の君は、この度もいとうつくしき女君生まれ給へりしかど、くづをれ給し人の、今もたいらかならん事もおぼしたらで、消え入りつゝ、さすがにあるかなきかにて、「殿をいま一度見奉らず、おぼしなをされでやみなんとするよ」とて、泣き入り給。 母上、いみじと見奉り給て、泣く/\、「かくなん」と聞え給。 「世にあらばこそ、世のそしりをおぼさめ」と聞え給ふを、気はたけく見じと放ち捨てても、月比の過ぐるまゝに恋しくかなしくて、たゞほれ惑ひ給心地なれば、いとたえがたく聞き給て、さはれかし、いかなるもさるべきにこそはありけめ、限りのさまなるを見で別れなば、いかばかりかはくやしくかなしかるべきとおぼして、渡りて見奉り給に、いみじくおかしげなる人の、あるかなきかなるさまにて、いとこちたく長き髪をうち添へて臥し給へるは、いかならん仇敵さらにをろかに思ふまじきを、まいて、さばかりかなしくし給親の御目には、なにせんにいとひが/\しく、いかにつらしとおぼすらんと、くやしくかなしくなりて、かなしくなりて、「あが君や、かうなり給ふまで見奉らざりけるよ。 ∨限りなく思ひきこえさするあまりに、思はずなる事をうち聞きしが、憂はしくやすからざりしまゝに、言ひ勘事し聞えてける、くやしき事。 ∨さはれや、たゞ生けて見聞えんにます事あらじを。 ∨仏・神、命にかへ給へ」と、声もおしまず泣き惑ひ給て、御湯などせめてすくひ入れ給ふに、有かなきかの御心地にも殿の御声と聞て、目をせめて見開けて御顔うちまもりて、涙の流るゝさまを、いみじくかなしく心苦しきに、御祈りどもを尽くして、つとかゝへて惑ひ給に、やう/\物おぼゆるけしきになりゆきて、「尼になし給てよ」と、息の下にの給ふを、ゆゆしくかなしくおぼして、「をのがあらん限りは、かゝる事なおぼしかけそ」と泣き惑ひ給て、よろづにあつかひ添ひ居給へるがうれしくあはれなるに、念じて湯など参るけにや、こよなくなり給にたれば、いつしかと殿に率てわたし奉り給て、かた時も離れずあつかひ聞え給つゝ、中納言のいみじき思ひに沈みて来し方行末を忘れ給へるも、ありしなごりならましかば恨めしからましを、かゝればこそなど思ひなすも、折よかりけり。 此度の姫君こそ、乳母あまた取りて限りなくかなしと見奉り給へば、殿より絶えて御消息だになきを、心憂しつらしとおぼすも、あひなかりけり。  吉野山には、かくてのみ絶え籠りて過ぐし給べきにもあらぬに、殿・上たちもいみじく心もとながり聞え給へば、げにさのみはと、忍びたち出給に、この宮の姫君をしばしにてもたち離れ給はん事、おぼつかなくおぼえて、「やがて此たび」といざなひ給を、心細くかなしきながら、跡絶えて住み馴れし山の陰を、いくらばかりも見馴るゝ事もなき人にうちなびきて、わが身一つにもあらず、中の君遅らかすべきにもあらねば、ひき具せむにも所せし、この世の外に住みはてで、同じふもと隔てぬ御住まゐならず、見奉る事かたく、宮の御有様をも思ひやり聞えさせんおぼつかなさはいみじかるべし、又、さるいみじき所に、人にも似ずうゐ/\しくてにはかに立出ても、人笑はれに憂き事添ひて帰り入らんも、松の思はん事恥づかしきをと思て、ことの外に思ひ離れて誘はるべきけしきもなきを、いみじく恨むれば、さすがに涙ぐみて、「住みわびて思ひ入りけん吉野山又やうき世にたちかへるべきたゞおぼせかし。 ∨かくながらも」と、言ひ消ひ給へる、いといみじくよし/\しく、あてになまめきたり。  「住わびて今はと山に入る人もさてのみあらぬものとこそ聞けよしや、身こそ恥づかしく」と恨みても、げに、にはかにひき具したらんも、春宮につゐに聞かせ給はで有べきならねば、あぼしあはせん事いと苦しく、また、げににはかにもあり、おはし所などしてわざと迎え奉らん、この度は隠ろへ忍び出づれば、むげに物げなきやう也、少し御心驚くばかりしてこそ、などおぼして、出で給ひぬ。  暗き程にまぎれて京におはし着きて、此女君をば督の君のおはしまししやうにその御方の御丁の前に入れ奉りて、男君は御前にさぶらひ給て、殿見奉り給に、とりかへばやの御嘆きばかりこそ変はる事なりけれ、うれしきにも、涙にくれてえ見奉り給はず。 いみじくうつくしげになつかしうはなやかなる女の、髪はつや/\ゆら/\とかゝりていといみじくめでたく、なよゝかなるさまにて居給へるも夢のやうに、えもいはず清らなる男にてありつき、びゞしくてさぶらひ給もうつゝともおぼえず、又いかゞなり変はり給はんと、あやうく静心なきぞことはりなるや。 月ごろの事どもなど聞え給て、「もとよりかゝるべかりし御さまどもの、いとめずらかなりし。 ∨をの/\御心たがひなく、此まゝにてものし給ふべきなり。かたち・さまの異人ならましかば、あしくも有べかりけるかな。 ∨いさゝかたがふ所のなきこぞ、あさましく、さるべかりける事かなとおぼゆれ。 ∨今ははやう大将にて交らはれよ。 ∨見るに、つゆたがふ所なし。 ∨少/\あはらぬ人と見ゆともいかゞはせん。 ∨論じあらがふ人あらじ。 ∨右の大臣のむすめ、権中納言わざと添い居てあつかひ窓ひけるが、大臣も勘事許して、我殿に迎へられにけり。 ∨げにうち/\こそさま異なる事どもも思へ、人聞きびんなしや。 ∨たがためにも」とぞうめきたまふにも、督の君は胸うちつぶれ給ひけり。  「内侍の督、日比例ならず悩み給」と言ひなしければ、春宮よりも御使い参りて、「いかゞおはしますらん。 ∨宮にも、御心地例ならじのみおはしまして、よろしくはとく参らせ給べきよし、御けしきになん」と聞き給ふ。 今の大将の御心地、いみじくぞあはれなりける。 「かの右の大臣の御わたりの、思はずなりし事のまぎれをうむじて、吉野の宮には隠れ給へりけると言ひなして、内裏にもとく参り給へ」といそがし給にも、いかにうゐ/\しからんと我心もいとまばゆく、世の人の物言ひも、いかなるにつけてもつき/゛\しきなれば、「大将は、権中納言の事に嘆きわび、吉野の宮には隠れ給ひて世の背きなんとおぼしけるに、此親王の御むすめ見つき聞え給ひて、世をえ背きはて給はぬ物から、猶都に立かへらん事は、このことの心やましさにおぼし絶えたりけるを、大殿の聞きつけて、「今は限りになりにたる親の顔を、いま一度見んとおぼさざりける事」と、泣きかなしみ恨みつゝ、しゐて聞き給ければ、それをさへいなみ給ふべきならで、いかゞせんに出で給へるなりけり」と言ひのゝしり、喜ぶ事限りなし。 帝も聞こしめして、まづさまを変へず今まで世に物し給ける事を、限りなくおぼほしよろこびて、召しあれば参り給ふ。  いみじくしたてて簀子に歩み出で給より、喜び騒ぐも、あまりはしたなくおぼさる。年比仕うまつり馴れし御前・御随身などは、闇にくれたる心地しつるに、うち見奉りつけたる心地ども、たとへん方なし。 涙さそへぞこぼれける。 つれなくもてしづめて内裏に参り給て、陣歩み入り給より、めづらしがり見奉る。 御前に参り給へれば、とばかり御覧ずれば、久しかりつる月比のほどにいとゞこよなくなりまさりにける心地して、かほりあてなる所さへ添いにけり。 あはれ、かゝる人のやがてさまを変へてましよ、いみじき世の憂へにこそあらめと、打まもらせ給て、涙をさへ落させ給ひけり。   雲の上も闇にくれたる心地して光も見えずたどりあひつる との給はす。 うちかしこまりて、   月のすむ雲の上のみ恋しくて谷にはかげも隠しやられず と奏し給へるさま、さはいへど、いとすくよかに物あざやかなる所さへ添ひにけりと、目もあやに御覧ぜらる。  春宮に参り給へれば、物遠き御簾の外にて、宣旨の君ゐざり出て、いみじくめづらしがり聞えて、「内侍の督の君の御心地は、なを悩ましげにや物せさせ給ふらん。 ∨御前にもあやしくのみ見えさせ給にも、よろしくは参らせ給へかし。 ∨おぼつかなく心苦しげなる御けしきのおり/\侍を、そゝのかし聞え給へ」など言ふ。 胸つぶれて、朝夕馴れ奉りし物を、今はかくのみこそは雲居なるべかめれ。 有しよりけにうち悩みおぼし乱れたるらん御けしきのふとおぼゆるに、えつゝみあへ給はず涙のこぼるれば、そゞろにはしたなき心地して、言少ななるほどにて立ちても、御前の方のみとばかり見やられて、   返してもくり返しても恋しきは君に見なれししづのをだまき  まかでて見給へば、内侍の督の君は、丁の前に添ひ臥し給てのどやかにながめ出て、おぼし出づる事どももありけるなるべし、今ぞをしのごひ隠し給へるけしき、いとゞにほひまさりて、起き上がり給へるも、さま/゛\げにいかにと、心苦しく見奉り給。 内裏わたりの事どもなど語り給ふに、かくぞ有しかしとおぼし出られて、あはれなり。  大将は、右の大殿の君の有様のさらにいとすぐしがたく見まほしきを、中納言のいとおりたち見馴れけんぞ、うたてゆかしげなく飽かぬふしなれど、たゞこれ一人をと思はばこそあらめ、人知れず春宮を思ひ出給へり、吉野の君を里のとまりにて、その中にをしまぜては見まほしければ、けしきもゆかしくて、督の君に聞こえあはせ給て、御文書き給。 「ことはり書き尽くさん方なければ。 ∨をのづから聞かせたまふらむ。 ∨  目ならべば忘れやしにしたれゆへに背きもはてず出し山路ぞ」 と聞え給けり。  この殿には、世に出でおはしたりとうち聞き給て、いかなりける事ぞと聞き惑はれ、ひたぶるに背きはて給なましかば、世をかけ離るゝ御心の有けるかと事よせて慰みぬべきを、さはおはしながらかき絶給ける恨めしさはいみじけれど、いかゞとおぼしける。 大臣の御胸つぶれ給へるに、この御文待ちつけ、取りあへず涙を落しつゝ、「いかにも女は、見え初めぬる人に忘らるゝをと聞くばかりいみじき事なし。 ∨それのみにもあらず、聞にくき事さへありて、疎まれはてなん世の聞えのいみじきをば、さはれ、かばかりの御心とは見つれどいかゞはせん。 ∨此御返聞え給へ」とそゝのかし聞え給へど、すべて有まじき事と思ひ離れ給へど、心にまかすべくもあらず。 添ひ居て聞こえ給へば、又御心にたがひてもと、恐ろしさに頭もたげて、   今はとて思ひ捨てつと見えしより有にもあらず消えつゝぞ経る あてにおかしげなるを、残りゆかしく心とまりて、督の君に見せ奉り給へば、かたち有様はいとおかしげにこそありしかど、手もそゞろに見馴れたりしほどあはれに思ひ出られて、忍びの森のゆかりを、方/゛\心に離れぬ契りと思ひ乱れ給。  春宮の御事をいぶせくあはれに思ふ、吉野山をいかに/\と思ひやりながらも、この人は見では有べき心地し給はねば、暮れにとおぼすに、かの殿にも、もしたち寄り給ふやうもこそあれと、手づから立ち居しつらひ、女房ひきつくろひなどし給を、女君、いといみじかりしほどのまぎれに、中納言にも残りなくうちとけ見馴れあつかはれし物を、またさへやはと、方/゛\に中納言の思はん事もいとおしく恥づかしく、こなたざまはよに打とけ見給はじものから、月比の隔ても恥づかしくまばゆく、朝夕見馴れし程だにいと恥づかしげに物し給し人を、わが面影もつゝましければと、今はじめたる事ならねば我心にまかすべきにもあらぬに、たち寄りもし給はばと、かたはらいたく苦しきに、うち泣かれぬ。 御髪まいらせ、えならぬ御衣にたきしめさせなど、手づからあつかひ聞え給もいと哀なるに、いかならんと胸つぶれて苦しくおぼすに、夜いたく更けて、馴れしあたりともなく、けしきばみ忍びてぞおはしたるさまぞ限りなきや。 ほのかなる火影に、いとほそやかになよ/\とうちふるまひてさし歩み出で給へる、いづくかはたがはん。 今はと思ひ奉りしに、変はらぬ御有様を、夢のやうにめづらしく見奉りて、みな打泣きぬ。  言多からぬほどにて、「いづら」などの給へど、とみに動き給はぬを、大臣、いと心もとなくおぼして、「いでや、かゝれば聞きにくくも言はれ給ぞかし」とうめき給に、いと恐ろしくて、有にもあらずいざり出給へり。 目にあひ見るべき物とも思はず、あさましくて出で給じを思出づるに、うつゝともおぼえず、泣きぬるけはひ手あたりのほのかなる火影など、あてにあへかになよ/\とあはれげなるほど、まことにいみじき人なりけりといとゞ心とまりて、「身のことはりを思ひ知りつゝも、なを恨めしかりし御心ばへを、背きぬべくやと、心みに吉野の峰の奥深くは尋ね入て侍しかど、おぼつかなきも忍びがたく、幼き人のあはれなど、わりなきほだしに人わろく思ひ返され侍にしもいと罪深きも、君は心やすげにうけ給りしこそ」など、こまやかにいとしたり顔に続け出で給へる、異人とは思ひ寄るべきにもあらず。 答へん方なきまゝに、   世をうしと背くにはあらで吉野山松のすゑ吹くほどとこそ聞け との給出でたる、子めきらうたげ也。 げにかくぞ答へんかしと、いとにくからずほゝ笑まれて、「その末をまつもことはり松山に今はととけて波はよせずや ∨身さへ心憂く、置き所なき心地しはべりてなん」と、ありしよりけに心恥づかしげにあはめ給へるけはひ、中/\なにしにうち出でつる事ぞと、汗も流れ給へるさま、いみじからん罪残りあるべくもあらず。  たゞいみじくなつかしくあはれにうち語らひて過ししならひ、今しも変はるべきことならねば、さこそはとおぼすに、あさましき御心変はりを、今はじめたらんよりも恥づかしくいみじけれど、おびえ騒ぐべきほどならねば、嘆き乱れたるけはひしるきを、げにあやしからんと、あはれにおぼす。 中納言のうけばりたるけしきも、とけては有べきほどとも思はざりつれど、なをざりごとのにてやむべくもあらず、あはれなる事誰にも劣らぬ心地しながら、吉野山の峰の雪に埋もれて、とけても寝られず思ひおこすらんあはれさも、忘れず思ひやらるゝぞ、浅からぬ心ざしなるや。  なをまばゆくて、昼はえとまり給はず、世をうちとけず猶恨み顔にて、夜/\おはす。 近きけはひなどの、男ながら、乱れうち語らふなどは、たを/\となよびかになつかしかりしを、これも同じなつかしさなまめきざまなれど、さすがにまことの男はまたさま異なることにや、あやしとのみおぼすに、あやしく心得がたしと返々おぼさるゝに、忍びかねて、   見しまゝの有しそれともおぼえぬはわが身やあらぬ人やかはれる とうち嘆き給へるに、思ひあやめらるゝふしあるべしと、おかしくもことはりにもおぼえて、   ひとつにもあらぬ心の乱れてやありしそれにもあらずとは思ふ と、いとゞまねび似せ給へば、分くべくぞあらぬや。  中納言、はかなく日ごろの過ぎ月のかさなるまゝには、若君のいみじくうつくしげにをよすげまさりて、やう/\起き返りなどするぼどになり給ひにたるを、かた時目もはなたず見居給て、いひ知らず見るかひありにほひ多かるさまして、いとあはれと思ひすましたるけしき、さすがに思ひはなたず抱きあつかひ給しものを、いづくにいかなるさまになり給て、これを見ず知らず行き隠れにけんとおぼすに、夜昼よどむ時なき涙に紅に色変はりて、命も尽きぬべき契りなりけりとおぼし続けて過すに、「大将は尋ね出でられ給て、おはす也。 ∨内裏などにも参り給なり」とまねぶ人あり。 うち聞きつけたる心惑ひぞ、又物に似ぬ。 さは、世にものし給けりと思ふに、命はかゝる心地するものから、さてもあさましや、さてならひにし人なれば、とかくあらんほどとおぼすにこそ有けれど、さばかりいとよう女び給にし身を、猶さてこそあらめとおぼしたちて出で給けんほど、いとめづらかに世に似ぬ心地しながら、いかならん、とかく思ひ知らんも、ことのよろしき時の事なりけり。  大淀ばかりにても、まづいと見まほしくけしきもゆかしければ、からうして思ひたちて、若君具して京の宮にまづ出で給て、陣にことの定めあるにかならず参り給はんと、をしはかりて参り給へれば、思ひしもしるく、前はなやかに追ひちらして参り給めり。 もてかしづかれ給さま、げにかくてならひけん人の、うち忍び隠ろへてはあひなくおぼしなりけん、ことはりなりとおぼゆるに、いといみじくあざ/\と清らににほひ、かほりなまめきたる事さへ添ひにけりと見ゆるに、目もくるゝ心地して、うちまぼるに、見あはせて、いかにあやしと此中納言思ふらんと思ふに、我もけしきうち変はる心地して、いとすくよかにもてしづめて、いかなるひまにものを言ひ寄りけしき見んと、異事なく目をつけて見れど、さ思ふべしと心得て、立ちとまり物言ひ寄るべくもあらず。 ことにそれかとも思はぬさまにて、こと果つるまゝに急ぎまかでぬるを見るに、我をこそひたぶるに思ひ捨て給はめ、若君を、さる人ありきかしと、いかゞなりにけんと思ふべくやあらんと思ふに、恨めしくかなしく、人わろく涙にくれて出で給ぬ。  夜もすがら思ひ明かして、なを忍ぶべき心地もせねば、   見ても又袖の涙ぞせきやらぬ身を宇治川にしづみはてなで さま/゛\書きやる方なく恨み尽くし給へるを、大将は見給て、有しそれとこそ見けれと、おかしくもいとおしくもおぼゆれば、督の君に見せ奉り給。 常に、あらましごとにてだに、ひたおもてにあらまほしげにて過ぎにし方を恋ふると言ひあはめし物を、げにいかにあさましく思ふらんと、さすがに胸うち騒ぎてあはれなるに、大将は、我にはあらずとあらがひ給ふべきにもあらず、この人の世づかぬものぞかしと思ふらん心の中ひとつは、いとおしく恥づかしかるべけれど、我身を世になくきよめんとても、督の君の御事をあはつけきやうに人に見せ聞かせじと思へば、「たゞさ思はせて。 ∨御返りは、心とき人にて、見あやむるやうもぞ侍る。 ∨これ聞こえ給へ」と、せちに督の君にそゝのかし聞え給へば、うち見ん所恥づかしくいとおしけれど、いとあへかにわりなく辞ぶべき我身ことのさまにあらねば、此御文のかたはらに、   心から浮かべる舟をうらみつゝ身を宇治川に日をも経しかな とばかり書きつけ給へる、ことに目もあやなり。 なをありがたくもとばかりうち見て、出だし給へるを、待ち取り、ことはりにぞかなしき。 我心のおこたりと、深く思ひ疎まれにけるも、いはん方なく、思ふにもあまる心地して、をこたりを書き尽くして、又立返り、   いとゞしきなげきぞまさることはりを思ふにつきぬ宇治の川舟  巻四  内侍の督の君、十一月つごもりに参り給へり。 春宮は、あさましきまでかき絶えておぼさるゝに、めずらしううれしくていつしかと待ちおはしますに、まうのぼり給ても、いかにおぼしめさんと、いとおしうかたはらいたくて、打出で聞えさすべき事の葉もおぼえ給はず。 いと苦しげにて臥し給るが小さく身もなき心地するに、いと所せうふくらかなるを奉るも心苦しうて、やおら添ひ臥し給へるに、右の大臣の女君にそゞろに見馴れし程の事おぼし出られて、さま/゛\にあはれなり。 宮は、異人とはたおぼし寄るべきならねば、日比のおぼつかなさいぶせさなど、うらもなくうちとけての給はるもいと心苦しうて、くはしき有様なども聞こえさせまほしけれど、さすがにうち出んにつけてまばゆき事のさまなれば、しばしうち思ひめぐらして、「日比も、いかゞとおぼつかなく思ひ聞えさせて、いつしか参り見奉らまほしいはべりながら、さま/゛\乱りがあしき人の上と思給へあつかひしほどに、今までになり侍りにけるも、心より外に」と、聞え出で給へるけはひもたがふ所なかりければいかでかはおぼしも寄らん。 その夜はうち語らひて、日比の御物語など聞え交し給て、「御文などだに見えで、月日隔たりしほどのおぼつかなさ」などの給はせてうち泣かせ給へるも、いとあはれに心苦し。 我も物あはれにおぼさるゝまゝにうち泣かれて、いとなつかしう語らひ聞え給御けはひ有様、愛行づき聞かまほしこと、年ごろよりもなをまさりにける心地せさせ給て、こよなく慰みておはしますも、いといとおし。 明けぬるにぞ、大将の忍びて奉れとて侍し御文ひき出で給へる。 おぼえなき心地すれど、ひきあけ給へれば、内侍の督の君の御手なりけり。 心も得させ給はねど、御覧ずれば、「あさましき程の乱れは、中/\聞えさせん方なくなん。 ∨ 見なれにしその面影を身に添へてあはれ月日を過ぐしける哉 ∨内侍の督の殿参らせ給ぬれば、月比のいぶせさも、さりとも今ははるけ侍りなんと思ふ給ふるに、命をかけてなん」とあるを、つく/゛\と御覧ずるに、なをあやしけれどおほせらるべき方もなければたゞうち泣きておはしますに、宮の宣旨、故母后の御乳母の子にて親しかるべき人なれば、さるべき御乳母やうの人もなきまゝにまたなくおもほしたる、御丁のもとに参りて、「日ごろのおぼつかなさ、御前にも忍びがたげなる御けしき見ゆるおり/\侍し」など聞こゆるまゝに、「この月ごろおぼつかなきことの侍るを、誰に問ひ求め、いかにかまへ、いかやうにもてなすべしともおぼえ侍らねば、心もとなく、入らせ給はんを待ち聞えさせ侍つる。 つとさぶらふやうなれど、をのづから離れ奉り、里にまかり出づる夜な/\も、たゞ御前には、参らせ給てより時のほどもおはしまし離るゝ事侍らねば、をのづからけしき心得させ給はぬ事も侍らじ。 此月ごろ、うちはへ例ならぬ御けしきと見奉り嘆きながら、たゞかく久しき御里居のおぼつかなさなど思給へしほどに、いとあやしく心得ぬさまの御心地と見奉り知り侍て、おぼえなくあさましながら、例せさせ給ふ御事などをはからひて、御帯の事などせさせ奉りて侍れど、いかなりける事とも思ひ分かれ侍らず。 さりとも、知る人なくてやはと思ひ侍りながら、うはの空には問ひ尋ぬべき事ならねば、心ひとつに思ひ乱れ、とく入らせ給はなんと思給て、をのづからけしき心得させ給ことや侍けんと、おぼつかなくも、又知らせ給はぬ事なりとも、同じ心に嘆きもあはせ侍らんと、心もとなく待ち聞えつる」とな打泣きたるに、言ふべき方なき心地して、とばかり物もの給はでおぼし続く。  さはいへど、男の御身にてならひ給にし御心なれば、道/\しく有べきさまもおぼしまはされて、さりとて我さへ知らずと言はんも宮の御ためいとおしく、まことにとかくおはしまさんほども同じ心にぞはなどおぼして、我もうち泣きて、宮の御前のつく/゛\と聞臥し給へるはかたはらいたけれど、それはいまおぼしあはする折もありなんとおぼして、「しか。 ∨みづからもあやしく見奉り知られ侍しかど、せめて思ひ寄らぬほどの御事は聞えさせん方なくて、誰にも聞えあはせず、又ひとへにさものせさせ給べしとも思ふ給へず侍しほどに、大将の御事のあさましかりしに、何事も忘れたるやうにてまかでしほどに、身づからさへやがて乱り心地重くなりて、月比は、いふかひなきさまにて明かし暮らし侍つるも、いかに/\とおぼつかなく心にかゝりて思ひ聞えさせながら、御文をだにいぶせきやうにて月ごろになり侍ぬるおぼつかなさも、よろしくなりてはいつしかと心もとなく思ひ給へしほどに、いとゞ大将の忍びて、「もしさる事もやと夢をなん見しかど、その後思ひあはすべきよすがだになき心地するに、とく参りてその程の事も見あつかひきこゆべき」やうにの給しに、やう/\思ひたまへあはせられて、いとゞとく参らまほしう侍しが、又同じ心に見奉り知り給けるなん、心ひとつに思ひあつかひきこえましよりも、頼りある心地してうれしく侍ぬる」との給けはひも、月比につゆたがふ事なし。 まして人は、御かたちなどまをに見奉る事なく、つゝましげにて御丁の内にのみかしづかれてものし給しならしなれば、いかでか異人には思はん。 たゞ昔の督の殿と思ひて、心あはせて大将の君を導き聞え給へると思ひ寄るに、月ごろ心ひとつにうはの空に思ひつるよりも力つきぬる心地して、そのほどの御事とやかくやと聞こえあはするにも、過ぎにし方よりも道/\しう、御けはひなどのたゞほのかに、言続けてもの給はざりしを、聞き分くほどに物うちの給へるも、愛敬づき聞かまほしきさまに、いとをかし。  「さても、いつの程にかならせ給ふらん」 「いざ、「師走ばかりの程にやあたらせ給らんとなんおぼゆる」とぞ、大将はの給し」との給へば、「さては、むげに今日明日といふばかりにこそなり侍りにけれ」と驚き嘆くを、宮はつくづくと聞き臥し給へるに、いとあさましう心得ず。 日ごろも宣旨のおり/\うち嘆けど、いま内侍の督参り給なばと思ひつるに、そもいと心得ぬ事どもをの給かな、大将には夢の中にも見えつる事なきを、いかにの給ふ事にかと、さすがにありのまゝにうち出づべき事のさまならねば、大将にはおほせ給ふなめりとおぼすには、又ありつる御文もいかなる事ぞと、かへす/゛\おぼつかなく心得がたけれど、たがふ所なきそれなれど、またさすがに見し人とはた見えず、かれはいふよしなくなまめきけぢかく物し給ひしに、これは又限りなう愛行づき見まほしきさまのし給へる、いかなる事ぞと心得給はぬまゝに、たゞ見し人は、さはいかになりにけるぞ、それや大将との給ならん、さらば又これは誰にか、はらからなどあまたありとも聞かざりし物をなどおぼさるゝに、日比いぶせく心もとなくて待ち出で給へるに、あらぬ人にやとおぼすより、つゝましさもかなしさもとり添へ、ひきかづきて泣かせ給を、督の君は、ことはりに聞こえん方なく、慰めやるべき方なければ、我もうち泣きてぞ御かたはらに添ひ臥し給へる。  暮れぬるにぞ、大将参り給て督の君に対面し給へれば、忍びて、宮の御有様、宣旨の憂へつる事ども、聞えしさまなどの給へば、大将もうち泣き給て、宵など過ぐる程に、人静まりぬるにぞ、いとよくまぎらはして宮に対面せさせ奉り給へる。 かたみに夢の心地して、聞ゆべき言の葉もおぼえねど、さてのみは有べき事ならねば、事の心もくはしく聞え知らせたりとも、めづらしき世語りにの給はせ出でなどすべきならねば、何かは隔て聞えんとおぼして、初めよりの事をこまかに聞え知らせ給にぞ、めづらかにあさましうも、又、さは我御事をば、またなくえ去りがたうは思ほさざりけり、あはれとも思給はましかば、かうたち離るゝ事なくならひて、かくわりなく心憂きさまになりにけるを、さばかり見知りながら、かけ離れ出で交らひて、人にゆづり、よそ/\に思ひなし給べしや、又、などかその折、しか/\との給はざらん、人にうち出でかゝる事など言ふべきにもあらねば、日比のほどなども、おぼつかなう恋しくも恨めしくも思ひ出聞えて、なつかしうあはれとおぼえしも、まことにさて埋もれ籠り給ふべき身ならねば、つゐにはさこそあらめど、このほどの有様をともかくも人にゆづらず見あつかひ給べかりけるを、たとしへなく心憂きさまを見給へ捨ててけるよと、人の御つらさも、身の心憂く恥づかしさも、つく/゛\とおもほし知られて、涙のみこぼれて、御答へもの給はせぬを、しかおぼさるゝにこそとことはりにあはれにて、日比のをこたりなど泣く/\聞え給へど、聞入れ給ふべうもあらず。  泣く/\こしらへて慰めて、明け行けしきなれば出給ひなんとするにも、朝夕起き臥し馴れし御あたりは、たち離れがたういとあはれにて、「忍びつゝ行きかよへやとや朝夕になれにし君があたりともなく ∨さらなる事にも侍らず。 ∨たゞかくて侍らばや。 ∨あやしと思ふ人侍とも、誰も/\さまでかたはにはおぼされざらまし。 ∨いとうしろやすき御後見とこそおぼしめさめ」と聞え給へば、「かくばかりかき絶えましや朝夕になれしあたりと思はましかば ∨今さらもて出でて、憂き名をさへ流しはて給はんこそあひなく」とても、うち泣かせ給へるも、中/\言多く言ひ続けて恨みんよりもことはりにわづらはしければ、「よし/\、聞ゆるもあいなかりけり。 ∨かばかりの対面は今よりも難う侍るまじけれど、たゞ朝夕起き臥し見馴れ奉りしを、よそ/\ならんがいぶせう侍るぞや。 ∨ところせき御位ならで、心やすきさまにておはしまさば、内侍の督のゆかり疎からぬ御後見なるさまにて、いとよう仕うまつりなん」など聞え給ふほどに、いたく明かくなれば出給ひぬ。  吉野の女君、右に大臣のなどばかりはえおばえ給はねど、年ごろのあはれなど浅くしもあらねば、その後のさりぬべきひま/\には、督の君いとよくまぎはらして対面せさせ奉り給ふ。 宮は、人の心の思はずに恨めしきに、なべての世に憂き名をさへたちて、心憂き身の宿世なりけると、さま/゛\におぼし乱るゝに、いとほどなき御身の所せきさへ、月日かさなるまゝにつゝみあふべくもおぼされぬまゝに、起きも上がり給はず沈み臥しておはしますを、督の君・宣旨とはなたちたる人/\は、たゞ御心地の例ならぬとの思ひて、院にも聞えさせ内裏にも聞こしめして、誰も/\おぼしめし嘆く。  上は、御悩みもさる事にて、昔の御心なを忘れさせ給はで、内侍の督の近く添ひさぶらふらん有様のいとゆかしうおぼされて、御悩みにことづけて梨壺に渡らせ給はんとおぼさる。 かねてさる御消息もなくて、しめやかなる昼つ方、いと忍びて渡らせ給て、御丁の後にやをら立ち隠れて御覧ずれば、宮の御前は、白き御衣のあつごへたるを御髪ごめにひきかづきてぞ大殿籠りたる。 督の君は少しひきさがりて、薄色ども八つばかり、上織物なめり、少しおぼえたる袷の衣、袖口長やかに引き出でて、口覆ひして添ひ臥し給へる、いみじううつくしの人やとふと見えて、愛行はあたりにも散りて、たゞ大将の御顔二つにうつしたるやうなれど、かれは、ねびもてゆくまゝに、けだかくなまめかしくよしぬけるさまぞ、似る物なく成まさり給める。 これは、たゞすゞろに見るに笑ましく、いみじからん物思ひ忘れぬべきさまぞいと限りなかりける。  年比も、名高きかたちゆかしくおぼしわたりつれど、いまだかばかりひまもなかりつるを、今まで御覧ぜざりつるさへくやしう、おぼしのどむべき心地もせさせ給はず。 今しもかたかるべき事ならねど、かばかり飽かぬ事なかりける人を、大臣の、宮仕への方思ひはなちたる、いたづらなる不用の人とかけ離れけんとおぼしめせば、今もさやうの御けしきども聞きてひきや籠めんと、あやうく静心なく、我ながらおもほしのどむべくもあらぬ御心焦られも、さるべきにやとまでおぼさるゝを、御心をしづめてなを御覧ずれば、白き薄様ににをし包みたる文の、いまだむすぼほれながら宮の御かたはらにあるを、少しをよびて取り給手つき、うちかたぶきたるにこぼれかゝれる髪のつや、さがりば、目もあやなるほどよりは、裾の上にうちやられたるほどはいと長くはあらぬにやと推し量られて、丈ばかりにやあらんと見ゆれど、くせとおぼゆるほどの短さにはあらず、袿の裾に八尺あまりたらん髪よりもうつくしげにぞ見ゆる。 少しうち嘆きて、「あなおぼつかなや。 ∨今朝も、御返りだになくて、いぶせげにの給へる物を」とてひき隠しつるを、誰がしなどおぼめくべきにはあらず、大将の宮に聞こゆること有べしとぞ、心得させ給ふべき。 いつとなく立たせ給へるに、中納言の君とて、宣旨のおとゝなる人参りて、「上の渡らせおはしましけるは、いづくのくまにか」とてさしのぞきつゝ、丁のかたびらおろしわたしつるに、たち出でて、今おはしますやうにてつゐ居させ給。  宣旨の君こそ、かやうにをのづから渡らせ給にも、御前にさぶらひて物など聞こえさする人にてはあるに、かぜをこりて下にさぶらふほどなれば、はか/゛\しく御前にさし出づる人もなくて、はた隠れつゝさぶらふに、ありつる面影も身を離れぬ心地すれば、声けはひも聞かまほしくて、「内侍の督の殿は、これにさぶらひ給か」とおほせらるゝに、聞えさせん方なくて少しうちみじろぎ給けはひなれば、「例ならぬ御こと、いつとなくものし給らんは、いかにおはします事にか。 ∨院にはかくと聞こしめしつるにや。 ∨御祈りなどはなきか」とおほせらるゝに、続け出でて聞えさすべき言の葉もおぼえねど、おぼつかなくてやむべき事ならねば、「そこはかとなくて月比にならせ給ぬるに、此ごろ又心よからぬやうなる御けしきのおり/\交り侍は、御物の怪にや侍らん」とばかり、はかなげに言ひまぎらはし給へるけはひもたゞ大将なるを、あさましきまで聞かせ給て、幾千代聞くとも飽く世あるまじう聞かまほしければ、御返り聞こえぬべき事をの給はせつゝいつとなくおはしませど、あまり答へ聞えさせんも今ははしたなき心地すれば、たゞおり/\うちみじろぎ給ばかりなるを、いとおぼつかなくおぼせど、そゞろにおはしまさんもあやしければ、「例ならぬ御事、いつとなからんは、いとたい/゛\しき事になん。 ∨なを御祈りなどの有べきにこそ」とて出させ給にも、ありつる面影身を離れぬ心地せさせ給。 春宮の御なからひは、さまで親しかるべきならねど、院の上の御事をろかならず思ひ聞えさせ給へば、その御心寄せことにこまやかにおもほしをきてたるなりけり。  督の君は、明け暮れさし向かひ、隔てなく御物語も聞こえさせ、琴笛の音をも同じ心にうち遊びつゝ過にし昔思ひ出られて、丁の内に埋もれ入りて、はつかなる物越しに御声を聞つるも、夢の心地して物あはれなり。   雲の上の月の光もかはらぬに我身ひとつぞ有しにもあらぬ とぞおぼさるゝ。  師走にもなりぬれば、この程にやと静心なけれど、まかでさせ奉りても、院の上、日ごろのおぼつかなささへとり添へつゝ、渡らせ給はんに、けしきも御覧ぜんにとつゝましければ、例なきことなれどいかゞせん、神わざなどしげからぬほどなればとおぼして、中/\程は、御心地の苦しげなるおり、かくとも聞こえで、督の殿・宣旨、さるべき心知れる女房二三人つと御前にさぶらひて、心もとなく思ひ明かし暮らすべし。 大将も、このほどは忍び/\に参りつゝ、御悩みにことづけてこの御方の宿直がちなるを、今さらに人あやしと思ひとがめんと、宮の御前は苦しうおぼさる。  上は、有し面影のみ身を離れぬ心地せさせ給て、見ではえやむまじうおぼさるれば、大将の参り給へるを、例の近く召し寄せて、こまやかなる御物語のついでに、例の尽きせぬ督の君の御事おほせらる。 今は、あながちにしぶりのがるべき事ならねど、さ聞えそめにし事なれば、「人柄のせめて物づつみをし、知らぬ人に見え聞えん事を苦しき事に思ひてものし侍を、大臣の、心をやぶらじとにや、その筋を思ひ絶へ侍しになん。 ∨今は、さりとも、年もおとなび、もの思ひ知るほどになり給にたれば、さしも侍らじを、なを大臣にこそはそのよしを聞こえ侍らめ」と奏してさぶらふを、つく/゛\と御覧ずるに、こゝぞとおぼゆる所なくねびとゝのひ、あざやかに清らにめでたきかたち有様を御覧ずるに、まづたがふ所なかりし人の面影はふと思ひ出られて、御涙もこぼれぬべきを、せめてまぎらはせ給ひて、「大臣にも、しかたび/\ほのめかしたりしかど、深く辞びてやまれにしかば、しゐては、言ひにくき事のさまなるを、たゞ忍びて宣耀殿に導かれなんや」と語らはせ給へど、さやうにかろ/゛\しくては御覧じそめさせじ、うるはしくもて出でてこそ参らせ奉らめと思へば、その事はともかくも聞えさせず、かしこまりてまかで給ふ。  「上にぞ、かう/\の給事ありしが、今ははゞかりおぼしめすべきやうもなし。 ∨かゝる御けしきの侍おり、たゞ参らせ奉り給へかし」と聞こえ給へば、「いさや。猶もて出でて参らせ奉らんも、さてならひにし御事なれば、まばゆき心地なんする。 ∨たゞ同じ御垣の内にさぶらひ給めれば、忍びても御覧じそめて、御心ざしにまかせて女御・后にもゐ給はむは、いとよし。 ∨さしも聞こえかへさひにし事を、いかに思ひあらためてかく奉るぞと、世人の思はん事もあやしかるべければ」とぞの給はす 大将も、げに、中納言の事などおぼし出づるに、もて出でて参らせ奉らん事などいかゞとおぼすに、いと口惜しう飽かぬ心地し給てける。   春宮には、かねて思ひつるよりもいたくも悩み給はず、いとうつくしげに、たゞ大将の御顔なる若君生まれ出で給へるを、宣旨などはいとあはれにかたじけなく見奉れど、もて出づべき事ならねば、忍びた督の殿の御方の女房の出づるやうにもてなして、中納言の君抱き奉りて殿に参りたれば、大将殿、母上に忍びて聞こえ知らせてあづけ聞え給ふ。 いとあはれにうれしくおぼして、大臣にも、「かく」と聞え給へば、驚きて御乳母などなべてならぬを選りてさぶらはせ給て、いみじくかしづき聞えてぞやしなひきこえ給。世には、たゞ、「忍びたる御あたりより出で来給へる」と言ひなしける。右の大臣のわたりには、さりげなくて、いつのほどにかゝる御事どもは有けるぞと、めづらかにおぼしけり。ありし昔のやうに、昼などうちとけては物し給はず、夕暮のまぎれなどにたち寄り給ひて、明くればたち帰り給。 内裏の御宿直などはなちては、をのづから夜など更かし給事だになし。吉野には、ほどのはるかさに常にもえ渡り給はず。 十月・霜月などにぞ、四五日渡りたまう。 その後は、いつしか迎へきこえさせ給べき御心まうけをぞし給ける。 春宮は、なか/\その後は消え入りつゝ、生きとまらせ給べくもおはしまさで、「院の上を、いま一度見奉らばや。尼になりなん」といふ事を、まれ/\の給はせつゝ頼み少なげに見え給へば、つゝむ事なき御事なれば、心やすくて院に聞えさせたれば、さばかりに物し給けるを、今まで見せ奉らざりけること、心やすき所にて御祈りもすばかりとおぼして、年の内に院へ出させ給ふべきよし聞え給へり。  内裏の上は、かくと聞かせ給て、内侍の督もや具してまかでんとすらんとおぼさるゝより、心細くあはたゝしき心地せさせ給も、かつはあやしとおぼしながら、大臣の参り給へるに、「春宮の御悩みをこたらでまかでさせ給なるは、内侍の督もろともにや」との給はすれば、「しか、さこそ侍らんずらめ。 ∨「参り給しより、かた時も離れがたくなんおぼしめされて」とぞうけ給はる」と奏し給へば、「そもさるべき事なれど、かしこにては、院の上などつと添ひおはしまさんに、便なきやうにあらん。 ∨御年はねびさせ給へれど、つきせず今めき給へるものを。 ∨さやうにて御覧ぜんは、そこにはげにあしからずおぼすべきことなれど、思ひ捨て給はんなん、ことはり知らず恨めしかるべき。 ∨世の常の女御・宮す所も物し給はず、おほぞうの宮仕へざまなめれば、宮出で給とも、なをさてこそはさぶらひ給はめ。 ∨ひき具しまかで給なば、内裏わたりもこよなくさう/゛\しかるべし。 若者どもも、その御方/゛\をこそ、心にくゝおくゆかしきあたりには思ひてつどふめれ」とおほせらるれば、「げに、かならず添ひ奉りてまかでぬべきにも侍らず。 ∨院の上の、添ひ聞えさせ給はぬがうしろめたくおぼしめさるゝ、御代はりの御後見にとぞの給はせし事なれば、かしこにてさへ添ひさぶらはるべきゆへも侍らねば、里へこそはまかでぬべきを、まことにおほやけざまの宮仕へもつとめさぶらふべき人なれば、ついたちのほどはまかででも侍なん」と聞えさせ給へば、いみじううれしとおぼされて、「いとよかなり。 ∨昔よりおぼし捨てられし方の事は、今はかけじ。 ∨たゞ女宮などだにいまだなかめるが、いとさう/゛\しき、代はりに思ひ聞えんとなん思を、同じ心ならずやと思ふこそかひなく」とおほせらるゝものから、御涙の浮きぬるを、なをざりにはおぼされぬ事と見るも、今はいとうれしくて、「たび/\御けしき侍りしも、かつ/゛\年比の本意かなふ心地し侍りて、限りなくよろこび思ひ給へながら、あさましき不用の人と思給へ捨て侍りて、御けしきにもしたがひ侍らず。 ∨今とても、さる方におぼしめし捨てさせ給はざらんなん、かたじけなくうれしう侍るべき」とて、涙をさへこぼしてよろこび奉り給ものから、なをもて出でて奉らんなどは思給はぬもあやしく、ほのかに見しにも、いとさいふばかりの物づつみにはあらざりしを、人のかしづきむすめなどの、あはれにすぎてもて出ではなやかならんはうたてこそ有べけれと、なをあやしくぞおぼさるべき。  春宮は、まかでさせ給ぬれば、院の上つと添ひおはしませば、つゝましくて、督の君はとゞまり給ぬ。 大将ぞ、いぶせからん事をおぼせど、今は、宣旨・中納言の君などいふ人/\心知りになりにたれば、御文など忍びて聞こえさせ給。 院は、めづらしささへとり添へて、月ごろのおぼつかなさにも、つとこの御方におはします。 さはいへど、御心地もやう/\よろしくならせ給にたり。 たゞ、かゝる位なんいと本意なき、さまを変へて、ひとすぢに後の世の勤めをせばやとおぼして、院の上にもたび/\申させ給へど、いとかなしう惜しうあたらしくおぼしめすもさることにて、まうけの君のおはしまさぬにより、ゆるし聞え給はず。  まことや、宮の中納言は、身に添ふ影にて、いかならんひまもがなと、もの言ひかゝらんと、それより外の事なくうかゞひありき給へど、昔こそとりわき御仲よかりしか、今は右の大臣のわたりの事ゆへ、少しそば/\しかるべく世人も思へり。 我御心にも、け近く馴らし寄りて恨み言はんに、答へやるべき心地もし給はねば、いとかけ離れもてなし給へるが、ねたく心やましくわりなくかなしきより外の心なくて、この女君にも有しやうにも恨みわび給はぬを、左衛門などは、大将殿の、あらはれもて出でてこそものせさせ給はね、さすがに夜々などは、変はらず渡らせ給へば、なか/\今はしもつゝみ給ふもことはりぞと思へり。 女君も、大方に打語らひて、過し昔だに、心より外なる事にて疎まれ聞えしはあいなかりしを、今はましてつゆのくまありて見え聞かれ奉らんも恥づかしく心憂かりぬべくおぼして、一くだりの御返事も今はおぼしもかけぬも、いたく恨み給はぬも、あやしく目やすくもなりにける御心かなとぞおぼえける。  大将殿は、年返らんまゝに吉野山の女君迎へきこえんとおぼして、二条堀川のわたりを三町築きこめて、三葉四葉に造りみがき給、いとめでたし。 右の大臣の君こそは渡り給べきを、中納言の御事のなを心やましくおぼさるれば、さやうにあらはれもて出でてあらん事は、いかにぞやおぼしけり。 人柄・有様、はた行く手にまぎらはしてやむべうもおぼされず。 限りもなしと思ひきこゆる吉野山の君も、たゞよしある、心にくゝおくゆかしく、あてになまめかしく、けだかくなどある方こそ似る物なけれ、ひとすぢに子めきらうたげに心苦しきさまは、これになずらふべき人ありがたくやと、見るほどは分くる心有べくもなきながら、いかにぞや、なま口惜しき一節思ひ出でらるゝにぞ、なにのあはれもさむる心地し給ける。 春宮の御前は、たゞひたぶるにあてなるより外の事はなく、うち語らひものなど聞こえあはせんに、よしありゆへ有さまになどものし給はぬぞかしなど、さま/゛\おぼしあはするに、御心の中ぞ恥づかしかりける。  年も立かはりぬれば、例の、内裏わたり今めかしく、大宮人さま/゛\思事なげに心地よげなるに、うちむれて、節会なにやと事しげきにもさはらず、帝は、月日に添へて、有し面影は身を離れぬ心地せさせ給て、おぼしわびて、ついたちのほど過ぎて、ことしげかりつるほど過ぎてのどやかなるに、忍びて宣耀殿のわたりをたゝずみありかせ給ふ。 箏の琴ほのかに聞こゆ。 うれしくて、しばし立ちとまりて聞かせ給へば、うぐひすのさへづりといふ調べを、二返りばかり弾きてやみぬなり。 琴の音も、たゞ大将のにたがふ所なきを、あはれなりける妹背の中かなとおぼしめさる。 蔀などはおろしてけるに、妻戸のいまだかゝらざりける、風に吹きあけられたる、うれしくてやはら入らせ給へど、知る人もなし。 暗き方に立隠れて御覧ずれば、人二人ばかり居て碁打つなるべし。 督の君は、丁の内に、琴を枕にて寄り臥して、手まさぐりにそこはかとなくかき鳴らして、火をつく/゛\とうちながめて物をいとあはれと思ひたる、似る物なくめでたきを、同じ内裏ながら今までよそ人に思ひて過にけるも、有がたくおぼし知られて、人見とがむとも今宵過ぐべき心地もせねば、心もとなく、前なる人もはや寝なんとおぼしめさる。  督の君は、さま/゛\過にし方恋しくおぼし続けられ、若君の、今はとひきあかれしほどの心の中、何心なくうち笑みて見あはせたりしをなどおぼし出られて、いみじう恋しうかなしきまゝに、   物をのみひとかたならず思ふにもうきはこの世のちぎり也けり とて、ほろ/\と涙のこぼるれば、はしたなくてひきかづきて臥し給ひぬ。 碁打ちつる人も打ち果てて、「御殿籠りぬめり。 ∨御衾参りね」とて、火も遠く取りやりて、「あなたの妻戸まだかゝらじ」とて、こなたざまに来る人あり。 いと恐ろしけれど、暗き方にやをらたち隠れさせ給へれば、妻戸かけなどして、「あやしく人気のするこそむくつけゝれ」とて、ふと入りてみな寝ぬ。  見れば、丁のそばに人もなし。 心やすくてやをら入らせ給まゝに、衣を引きやりて添ひ臥し給に、いまだとけても寝給はざりければ、あさましと驚かれて、異人とはおぼし寄らず、中納言のうかゞひて尋ね来にけるとおぼすに、ねたく腹立たしくて、御衣をひきかづきて動きもし給はぬを、しゐて引やりつゝ、年ごろ思ひし心の中、大臣のあながちに辞びし恨めしさ、春宮の御悩みの折ほのかに見そめてし事など、泣く/\言ひ続けさせ給に、あさましうなりて、あらぬ人なりけり、中納言と思ひしはひとすぢに心憂くねたかりしを、これは、わが身の憂さも御覧じあらはされなば、いかなる事ぞとおぼしとがめられ奉り、あは/\しかりける身の有様を御覧じあらはしては、あなづらはしき方さへ添へて、行く手におぼしめし捨てられなん事も心憂く恥づかしうて、なをこの世にいかでたち交らず跡絶えなんと深く思し身を、大将の、春宮の御事を憂へつゝ、さやうのしるべにもおぼしたりしを、ことはりに心苦しう思ひなりて、かくまでたち出にけんも悔しうかなしう、などて宮の出で給しにもろともに出でずなりけん、殿もついたちのほどはさてさぶらふべく、女房などもさう/゛\しかるべき事に思ひたりしを、何かは、臨時の祭まではさても、それ過ぎてこそは殿へもまかでめ、など思ひける心もあさましう思ひ続けられて、とりもあへず涙のこぼれぬるを、「あが君、かくなおぼしそ。 ∨さるべきにこそあらめ。 ∨たゞ同じ心にだにあひおぼさば、よも御ためかたはなる事あらじ」と泣く/\聞えさせ給さま、まねびやるべき方なし。 男の御さまにてびゞしくもてすくよけたりしだに、中納言に取り籠められてはえのがれやり給はざりしを、まして世の常の女び情なくは見え奉らじとおぼすには、いかでかは負けじの御心さへ添ひて、いとゞのがるべうもあらず。 乱れさせ給ふに、せん方なく恥づかしうわりなくて、声もたてつばかりおぼいたるさまなれど、人目をあながちにはゞかるべきにもあらず、聞きとがめて寄り来る人ありともいかゞはせん、驚かぬ御けしきなるに、せん方なし。  よそに御覧じつるよりも近まさりはこよなくおぼされて、今より後、昼のほどの隔てもいぶせく、かた時たち離れさせ給ふべくもおぼえ給はぬるに、いなや、いかなりける事ぞと、なま心劣りもしぬべき事ぞ交りたるや。 大臣の、あながちにもて離れ、あらぬさまにもてなししも、かくてなりけり、かくとの乱れによりて、さすがにかくとはえうち出づまじきことのさまなれば、かたはなる物恥ぢにことづけたりけりとぞおぼし寄りける。 さても、いかでありける事ぞ、誰ばかりにかあらん、此人を一目も見てんに、行く手にもてなしてやみなんと思ふ人はあらざりけんを、大臣など、さるけしきを知りながら許さずなりにけんは、むげにあさはかなる若君達などにやあらんと口惜しけれど、いみじからんとがも何とおぼゆべくもあらず、見る目・有様のたぐひなきに、何の罪も消え失せぬる心地して、泣く/\後の世まで契り頼めさせ給に、さすがに、あやしとおぼしめしとがめさせ給にやとおぼゆる御けしきの、色にこそ出だし給はねどいとしるきに、せん方なく恥づかしう、汗も涙もひとつに流れ添ふ心地して、人のあやしととがめむもさすがに苦しうおぼさるれば、出で給はんとても、浅からず契り語らはせ給さま、まねびやらん方なし。  「三瀬川のちの逢ふ瀬は知らねども来ん世をかねて契りつるかな ∨この世ひとつの契りはなを浅き心地するを、いかゞあらむ」との給はするまゝに、ほろ/\と続きぬる涙に、いとゞ聞え出でん言の葉もおぼえずいみじうつゝましけれど、「なを一言聞かではえなん出づまじき」とやすらはせ給も、いとわりなければ、   行末の逢ふ瀬も知らずこの世にてうかりける身の契りと思へば 朝夕聞き馴れさせ給へりし声けはひは、おぼしめしあやめらるゝことやとつゝましうて、いたくたえ/゛\まぎらはし給へつけはひの、愛行づき聞かまほしきことぞ限りなき。 かた時たち離れさせ給ふべき心地もせねど、御身をわかちとむる心地して、返々契りをきて、よべの妻戸より出させ給。  中将の内侍といふ人ばかり御供なりける、今や/\と待ち奉りけるに、明くるまでに成にければ、待ちわびてうつぶし臥したるを、ひき起こして渡らせ給て、やをら夜の御殿に入らせ給ても、有がたかりつる人の手あたり・けはひはつゆも御見を離れず、今も見てしがなと御涙もこぼるれど、御文取り伝ふべき人もなければ、大将をぞ、たゞ今参り給べきよしおほせられて、待ちおはします。 さばかり至らぬくまなき中納言の心にだに、逢ひての恋も逢はぬ嘆きもみな忘れし人の御さまなれば、まだかばかりなずらふ人だに御覧ぜざりければ、たえがたくおぼさるゝもことはりなり。  大将参り給へるよし聞かせ給て、御前に召したるに、いと清らに恥づかしげにてさぶらひ給に、うち出させ給はん事いみじくかたはらいたけれど、大きやかに結びたる文を御ふところより引き出でさせ給て、たゞ大方なるやうにて、「内侍の督に聞えん事を殿のゆるされありし後、今日よき日なれば奉て、やがて御返り見せ給へ。 ∨おほぞふの宮仕へなどにては、大臣の見給はざらんには心得ず思ひなして、返り事ふとあらん事かたかるべければ、わざと物しつる」との給はすれば、給はりて立ち給ぬ。 御けしきのあやしければ、もしけしき御覧じたるにやとばかりぞおぼし寄ける。  宣耀殿に参り給へれば、「夜より御心地悩ましとて、まだ御殿籠りて」と、大納言の君といふ人聞ゆれば、驚きて、「など告げ給はざりける。 ∨いかやうに、おぼさるゝぞ。 ∨御かぜにや」など聞え給も、いとかたはらいたければ起き上がりて、「胸のいたく侍れば、おさへて」との給ふ。 御顔もいたく赤みて、泣き給けりと見ゆ。 もし上の近づき寄らせ給ひけるにやと、此の御文のけしきもいみじくゆかしければ、近く寄りて、「今朝御前に召し侍つれば、参りて侍つるの、これ人伝ならで奉りて、やがて御返たゞ今御覧すべきよしおほせ侍づる」とて奉り給に、人も知らでやみなんをこそたけき事におぼすに、この人のかくの給に、けしき心得給らんかしといみじうつゝましうて、面をかん方なくおぼさるれど、若びかゝやかんも我身の有様にはたがひたるべければ、たゞ御顔うち赤めて御文は取り給へど、広げ給はぬを、「かならず御返り有べきさまにこそ給はせつれ。 ∨とりわきたる御使ひのかひなく待ちおぼされん、いと面目なかるべし」としゐてそゝのかし給へば、うち笑ひて、「異人の言はんやうにもの給はするかな。 ∨さすがに明け暮れ御覧じ馴れにし手も、かしこき御目にはあやしと御覧じとがめらるゝ事もあらんと、つゝましきはさる物にて、大臣なども知り給はで、心さかしらに御返聞えんも。 ∨さこそかならずとの給はすとも、御心劣りせぬやうはあらじを。 ∨たゞ、たしかに給はりぬるよしを申させ給へかし」との給も、げにさる事なれば、「げに、御返事は、ふと聞え給んに方/゛\はゞかりあらめ、見給はん事はなでう事かあらん」と、さりげなくてこの御文をゆかしげにおぼしたれば、開けんあやうげにおぼして、御顔いたく赤くなりてまぎらはし給もことはりなれば、参り給ぬ。  御前には、もしやと待ちおはしますに、むなしければ、いみじう口惜しくて、今のほどのおぼつかなさも堪えがたけれど、しゐてされげなくもてなさせ給て、「世の常の懸想のさまならん事のやうに。 ∨こはかやうに艶なるべきことのさまにもあらぬ物を」との給ものから、いみじういぶせくおぼつかなく、おぼしあまれば、又も給はせて、よべの事、「いとかく残りなく」とまではの給うはず、たゞ、「ほのかに、さにやとばかり見し火影のいみじうめづらしう、まだ見ぬさまなりしも、すゞろに身を離れぬ心地していと恋しくわりなきを、いかゞせましとひたぶるになん思ひなりぬるを、さるは、大臣のあながちに許さぬ事なりしを、しゐて知らず顔にてうちとくるほども、心なくやとつゝまぬにしもあらねど、従はぬ心なん、まだ我ながらかばかりなる心はなかりつるを、さるべきにやとまでなんおぼゆるを、そこにだに同じ心にしるべして、よべばかりの垣間見をだに今宵すぐさず導き給へ」と、の給まゝに御涙もこぼれぬるを、さればよ、たゞよその垣間見ばかりにてはかくおぼさるべきやうなし、督の君の御けしきもいとあやしかりつるを、あるやうある御けしきなるべしとおぼすに、限りなくおぼししめられたんめる御けしきも、かつ/゛\限りなくうれしく聞かれ給ふ。 思ひなく世の常のさまにて参り給て后の位にもゐ給はんに飽かぬ事あるまじき御身を、何となきさまにて御覧ぜられぬるぞ、いみじく口惜しき。  「さらば、まづこの御文を伝へ侍て」とてまかで給ても、隠すべき事ならでば、大臣に、御けしきどものあやしかりつるさま、の給はせつる事など聞え給に、なをさなるべしとおぼすに、かつ/゛\うれしく、年比心ゆかずのみおぼしわたる事なれば、限りなくおぼしよろこばるゝ事なれど、たゞ今は知らず顔にて、女房の装束・御装ひをも、常よりもことに清らを尽くして奉らせ給。 御丁のかたびら・御調度まで、いよ/\みがきしつらひ飾り給。 年比は、心を尽くしても見はやす人なき御交らひを口惜しうおぼされしに、かゝれば、いとゞうれしかりけり。  限りなき御心ざしに添へても、人柄・有様など少しもかたほなるべきならねば、后の位までなし御覧ぜんに飽かぬ事有まじきを、たゞ、いかにぞや、御心にかゝりたること一つぞ、心やましくおぼさるれど、なべてみな人知りたる事にはあらじ、たゞ心知りの人二三人などこそは、さる事ありきかしと思ひ出る人ありとても、わざと女御・宮す所にて参りたるにてもあらず、宮仕へざまにて忍びて御覧じそめんに、心ざしにまかせて后にもゐ給はん、なでう事かあらんとおぼしめして、つゝむべきならねば、ありし後、昼も渡らせ給ふ。 夜もつとのぼらせ給。 かたはらに又人もなきさまにのみもてなさせ給へば、殿・上・大将殿などのおぼしよろこびたるさま、限りなし。  大将殿の造りみがき給二条の出で来たれば、三月十余日のほどに吉野の山の上渡り給べければ、まづ十日ごろに大将殿おはしたれば、聖の宮ひきかへかたはらさびしくおぼされん事のおぼしやられて、よろづ頼もしう聞こえをき給。 このわたりの御牧などの物、さながらこの宮にのみもて参るべく、にぎはゝしくさびしかるまじき事を、宮は、「いと本意なく、口惜しかるべき事になん。 ∨さりがたきほだしどもにかゝづらひて、今日まで憂き世を思ひ知らず顔にて、なを世近き住まゐにても侍つれ、今は心やすく思ひをくことなくて、鳥の音聞こえぬ山に跡を絶え侍なん事をこそ限りなく思ひ給へるに、いみじうなむ本意なき」とて、何も返し奉り給て、山深く入りなん御心まうけをのみおぼし急ぐを、女君はいと口惜しく、なを世に似ずうゐ/\しき有様にて宮こにたち出でても、人笑はれに憂き事のみこそあらめ、さらば、また見えぬ山路もこゝをこそ頼みてつゐの住処とも思ふを、年ごろに変はらず住み荒さでおはしまさんこそうれしからめ、こゝを荒しはて給はんことはなを心細かりぬべくおぼさるれど、さかしきやうなれば、さも聞え給はず。  その日になりて、渡り給儀式、いとめでたし。 中の君もをくらかし給べきならねば、具しきこえてぞ出で給。 女君は、なを、いさや、いかなるべき事にかと物憂くのみおぼさるれど、父宮も有べき左右おぼしをきてて、「今は、何しにかはこの庵を又たち返り給べき。 ∨みづからも都にたち出侍ばきならねば、これなん対面の限りにて侍める。 ∨年ごろ、さりがたきほだしとかゝづらひ聞えて、後の世の勤めもをのづから懈怠し侍つるを、今よりはひとすぢに行ひ勤め侍べきなれば、いみじうなんうれしかるべき」とて、うち泣きたまひて、   行末もはるけかるべき別れには逢ひ見ん事のいつとなきかな とて、「今日は、言忌みすべしや」と、をしのごひ隠し給。 女君、   逢ふ事をいつとも知らぬ別れ路は出づべきかたもなく/\ぞ行く とて、袖を顔にをしあてて、出でやり給はず。 中の君、   いづかたに身をたぐへましとゞまるも出づるもともにおしき別れを 我はかならずしも急ぎ出づべきならねど、姫君にしばしもたち離れ聞えては、いとより所なき心地すべきもさる事にて、宮も、やがてついでに渡し奉りて、我は一すぢに思ひをく事なくてとおぼして、さるべき老ひしらへる女房などをだにとゞめ給はず、出だしたてさせ給。  大将殿・女君とは、ひとつ御車にておはします。 出車十、童・下仕へまでひき続き、かばかりの草の庵より出給御有様ども、いといかめしういきほひことにて、さるべき殿上人、五位六位などまでいと多く仕うまつれり。 女房も、縁にふれつゝ、目やすき人/\尋ね出でつゝぞさぶらはせける。 中の君の御車は少しひきさがりて、出車三ばかりして、これもさるべき人、御前などあまたして、ねび人どもはこの御方のあかれにてぞ忍び参りける。 宮はいとうれしく、かひあるさまと見送り聞え給。 なごりなくかいすむ心地して、心細くおぼさるれど、ひとすぢに行ひ勤めさせ給ければ、いみじくうれしく、年比おぼしつる本意、かなひはてぬる心地せさせ給ふ。  奈良の京に中宿りして、又の日ぞ二条殿には渡らせ給へる。 此殿は、三町を築きこめて、中築地をして、三方に分けて造りみがき給へる、中の寝殿に渡らせ給べき。 洞院おもてに、右の大臣の君忍びやかなるさまにて、迎へきこえんとおぼしたり。 堀川おもてには、内侍の督の殿のまかで給はん料、春宮の御方などもおはしますべし。かく、あらまほしくめでたくておはし着きぬるを、右の大臣わたりには、いと口惜しく思はずに胸苦しうおぼせど、一すぢに人の御咎にはあらざめるぞ、恨み所なき心地せさせ給ける。  師走ばかり、たゞならずなり給にけり。 この度は思ひ交ぜらるゝ事なけれど、それしもつゝましうてあながちにもて隠し給へる、このほどとなりてぞ誰も驚きて、御祈りなどを始めらるゝを、大殿にも聞かせ給て、これはおぼし疑ふべき御事ならねば、おぼしよろこびて御祈りなどをせさせ給を聞き給て、父の殿は限りなくうれしくおぼしけり。 大将も、人にのみ契り深く物し給けりと口惜しかりつるを、かゝれば、いとあはれに心苦しき御思ひいとゞ深くなりまさる物から、ねぢけがましきあたりにしもさる事の物し給ふらん、口惜しう、大殿に物し給ふ若君いとやんごとなかるべけれど、誰とも聞こへぬはむげに物げなきにやと、世人推し量るもことはりに、など思ひなきあたりにしもさる事のものし給はざるらんと、吉野山の御方にさる御けしきもなきを口惜しうおぼされて、若君を迎へ聞えて預け奉り給はんとおぼせど、殿・上かた時も放ち聞え給はで、大将殿にさへ心やすくも見せ奉給はざりけり。  内侍の督の君も、この春ごろよりたゞならず成給へるを、上は限りなき御心ざしに添へて、あまたの御方々にいまださる事ものし給はず、まうけの君おはしまさぬ比にて、山/\寺/゛\御祈りある比、かく物し給へば、限りなくおぼしよろこびたり。 殿も大将も、男宮にておはしまさむを、今より面だたしくおぼすべし。  宮の中納言は、月日に添へて、たゞひたぶるに行方なく思はば、恋しかなしとさのみやおぼえまし、これは、さても、いかでか女びはて給にし身をあらため、あたらしく捨てがたき身といひながら、またさはなり返り給ふべき、我をこそ憂しつらしと見るかひなくもおぼし捨てらめ、若君をさへ見ず知らじともて離れ給けん御心強さも、いま一度聞え知らせまほしけれど、世人も、いかにぞや隔て多かる仲に今は思へるに、ことぞとなくておはするあたりに立ち寄るべきやうもなし。 内裏わたりなどにて、はたことにもて離れすくよかに、もと見し人かとだに思ひたらぬけしきに、言ひ寄らん方なし。 文などは奉るも、すくよかなる御返りなどはいとよく書き交し給へど、その筋はかけてもかけ給はず。 思ひわび、心地もほけ/\しく、出でて交らひ歩くにつけても物のみかなしければ、昔くまなかりし御心もなごりなくまめになりて、右の大臣わたり跡絶えはててのみもてなし給も、あながちにありしやうにのみ焦られわび給はず。 内侍の督の君のかゝる御宿世は、いつくしさを聞き給も、たゞあさましく見たがふばかりに似給へりし物を、つれなくすかし出だされ聞えにしも、かゝるとりかへのあればと、うち慰みにしもこそ苦しからずもおぼえしか、いかにをこなり痴れ者とおぼし出づらんと思ふばかりにぞ、かく及びなく定まりはて給ぬるも、口惜しうおぼえ給ける。 月日に添へては、若君の物を引きのぶるやうにうつくしうなりまさり給ふを見給ふにつけては、かゝる人さへなからましかば何に心を慰めましとおぼすにも、また、もろともにうち語らひてかゝる人を同じ心に生ふし立てましに、何事をか思はましと思ふには、飽かずかなしくて、つく/゛\と歩きもせられ給はず、若君を夜昼御かたはらはなたず遊ばしきこえて明かし暮らし給も、思へばおこがましや。  人はさしもおぼし捨てけるを、我心にしも身をくだきつゝ思ひても何にかはせん、いとあはれに、同じ心にあはれをも知り情をも交し思ひし人をも、さこそ世にはゞかるといひながら、よその人に見捨てて月ごろになりにけるかなとおぼされて、つれ/゛\につく/゛\と慰む方なきまゝに、左衛門がりこま/゛\と文書き給ふ。 「月ごろのおぼつかなさもみづから聞こえまほしきを、それへいと忍びて女車のさまにて参らん。 ∨それが便なかりぬべくは、いと心やすく女もなき所なるを、これへにてもものし給へ」とあるを、左衛門は、久しくかき絶え給へれば、あまりにつれなきにおぼし絶えぬるなめりと心苦しかりつるに、めづらしくて、見れば、いと心苦しげなる事をこま/゛\と書き続け給へるが、いとあはれに忍びがたくて、月比のおぼつかなさにもいみじう聞えまほしくて、物の聞えはつゝましけれど、いと忍びて参るべく聞こえたり。 うれしくて、しるからぬ車つかはして待ち給ふ。 女君ばかりには忍びて、「かく」と聞こえて、大方に里へざまにまぎらはして参りたり。  めづらしくおぼして、「月比例にもあらず、乱り心地も堪えがたくて、歩きなどもせず、ほれ/゛\しくて過る事。 ∨やう/\面馴れ給へりしものを、あさましき心変はりに、いとゞ憂き身のほど思ひ知られて、恨み所なくかなしきにも、なをいま一度の対面はさはなくてやみぬべきにや」と、なを異事なくおぼし続けらるゝ折こそなごりなき御心地なれ、此人に向ひ給へば、過ぎにし方の事もさま/゛\おぼし出られて、泣く/\心深げに、「此ごろも、いと隙なきにはうけ給らぬを、さるべからん隙にはたばかり給へ」との給も、げに心苦しげなれば、うち泣きて、「年比とても、大将殿の御心ざしは、をろかなりと見ゆる事はべらざりき。 ∨大方には、いとやんごとなきことに思ひ聞えさせ給て、なつかしううち語らひておはしまししかど、いとけ近く今めかしくすきまなき御心ざしの、思ふほどよりは心もとなきやうにて、たゞ女どちのうち語らひたらん仲らひめきておはしまししかばこそ、いとうしろめたきやうに侍りながら、かやうにあながちなる御心焦られ、けしきも見給へわびつゝ、心弱く導ききこゆる夜な/\も侍りしか。 ∨いかなる事にか、この度たち帰らせ給ては、大方の御もてなしは、深くつゝませ給さまにわりなく忍びつゝ、昼などたちとまらせ給ふ事も有がたきやうに侍りながら、内/\の御心ざしは、ことの外にたちまさりてねんごろに見えさせ給に、いとゞ去年の冬よりたゞならぬさまにならせ給へるにつけても、いとゞ深き御心ざしのみまさるさまにおはします。 ∨大殿なども、姫君たちの御折は、さしもおぼしよろこびたる御けしきもいとゝ御覧じてしかば、あくがれたゝせ給にしを、この度はさやうにおぼしまがへさせ給ふ事も侍らぬにや、いと心苦しげに思ひ聞えさせ給て、このほどとなりてはこなたがちにおはしましつくやうに侍を、大臣も限りなくよろこびきこえさせ給まゝに、御前にも、今はつゆの事の乱れも聞きつけられ奉らんこと、いみじく憂かるべきことにおぼしかためて、「御返事までこそ侍らめ、御覧じにたる」と聞こゆるをも、かけてもおぼしかけざめれば、ましてさまでの事は思ひ寄るべき事にも侍らず。 ∨大将殿の御心ざしも深きながら、なをいと憂き事におぼしはてて、まづやんごとなき方には吉野の御方をおぼしおきてて、その次に、年比見馴れにしあはれ去りがたきばかりにもてなし聞え給へるを見侍も、本意のまゝにておはしまさましかば、此御前には、内/\こそともかくもおはしまさめ、大方のおぼえは誰かは立ち並び給はまし。 ∨かゝる御身のやつれの心尽くしなるも、御ゆへぞかしと思ひ給ふるは、いとなん恨めしかりける御契りと、過にし方さへくやしう侍れば、今はまして」と、若き心地に、人にをされたる御宿世見るがうれはしきまゝにうち言ふも、ことはりなれば、「げにみづからの御心にしかおぼしめしかためんはことはり、君さへなどかくひたぶるなる御心ぞ。 ∨かくやは思ひし」とばかりぞの給ふ。 御心の中には、女君のたゞならずなり給ふらん事をうちはじめ、この人の言ひ続くる事を聞き給にも、返々心得がたく、いかなる事ぞとおぼし乱るゝに、たゞ今少しうち忘れたりつる人の御こと、またかきくらし思ひ続けられて、堪へがたければ、いとゞ言少なにて、いみじく物おぼし乱れたる御けしきにて、「さらば、更けぬるに。 ∨人もあやしと思ふべかなり」とて、「参り給ね」とて帰しやり給ふも、あまりもて離れ聞えつるをつらしとおぼすにやと、さすがに心苦しうて、返り見がちにて参りぬ。 大将殿は二条殿におはしますほどなれば、女君に忍びてありつる事どもを聞こゆれば、うち泣き給へど、まことに逢ふ瀬は深くおぼし絶えにたるを、さはいへど、御けはひ有様、何事もこよなき御さまにて、御心ざしもいと深くなり行に、かゝる御心地の後はいとゞ浅からずおぼしためるさまども、この人の御心ざしに劣るべくもあらざめり。 恥づかしう恐ろしながらも、はじめはあながちなりしけしきに少しはかたよりにしぞかし。 今はた、世人の言ひ思らん事、大臣のおぼさん内/\の御有様といひ、方/゛\なずらひなるべくもおぼされぬ、ことはりなりかし。  中納言は、ひとすぢにだにあらず、方/゛\心得がたき事をさへとり重ねておぼし続くるに、夜もすがら涙の川に浮き沈みおぼし明かして、なを、いかでけ近くていま一度物をも聞え寄りて、御けしきをも見てしがなとおぼすにぞ、歩きもせまほしくて、内裏などへも、大将かならず参り給ふらんとおぼゆる日は我も参りつゝ、さりげなくて目をつけ聞え給へば、かれもさすがに見あはせ給へば、うちまめだちつゝいとすくよかにもてなして、をのづから馴らさるべくもなきぞいみじう心やましかるける。 このほど、督の君の御心地により、大将の君つと内にさぶらひ給へば、中納言、影につきてうかゞひ歩き給ふもをかしくおぼして、吉野山の中の君の御事、いと苦しう、いかにもてなさましとおぼすを、この人の、今は逢ひての恋も逢はぬ嘆きもうち忘れて、をさ/\うち乱るゝ事もなくてまめだち歩くめるにや許してまし、さこそ人ごとにしみかへる心ありとも、この人を見てはをろかにはえおぼさじを、とおぼしなるおり/\あれど、なをかの右の大臣のあたりの事おぼし出づるに、いかにぞや、この人にうらなく馴れ寄らんもおこがましきことやとおぼす御心にて、うち出で給はざりけり。  四月廿日あまり、祭など過て内わたりつれ/゛\なる比、督の君の物のついでに語り出で給し麗景殿の細殿の事おぼし出でて、そなたざまにおはしてたゝずみ給を、女は、何となくなつかしくうち語らひ給し夜な/\のこと忘るゝ世なく、世の中に跡絶へ給りしころも、たゞ我身ひとつの事と恋しくかなしく思ひ出で聞えし人なれば、今宵もつく/゛\と端をながめて居たるほどに、世目にもしるき御有様、さよと心得るに、あさましう音なくて月比も過ぎ給を恨めしくおぼえければ、心騒ぎして、物聞えんと思へど、ふとしも聞こえ出づべき心地もせねば、なを見けりとは知られまほしくて、   思ひ出づる人しもあらじ物ゆへに見し夜のつ月の忘られぬかな とうち嘆く人のあるは、この聞し人なるべしとおぼすに、同じ心なりけるもおかしうて、立寄り給て、   おどろかす人こそなけれもろともに見し夜の月を忘れやはする との給ふ御声けはひ、朝夕聞き馴れし人だに聞分き給はざりしかば、まして異人と思ひ寄らず。 例の、なつかしげになにくれと語らひ給て立ち給へり。 昔もかやうなる宵/\は目馴れしかば、今とても世の常の乱りがはしき御もてなしは有べきならねば、うちたゆみたるに、大将は、おぼしやりつるよりもにくからぬ人ざま・けはひの、いとなつかしうよしめけるも過ぐしがたくて、やをらすべり入りて、戸ををし立て給へるに、あさましくあきれて、「思はずにあさましかりける御心のほど」とあはむれど、いとのどやかに、騒ぐべきにもあらず。 うちたゆめて、やう/\隔てなくなり行き給をば、いかゞせん。 月比のおぼつかなさ、思ひあまりておどろかし聞えてけるくやしさも、今ぞ思ひ知られて、うち泣かれぬる。 男君、見給ふあたりの御有様どものつらにはいかでかあらん、なべてにはにくからず、世馴れたる宮仕へ人のつらにてはたあらざめるを、心苦しく、人のためいとおしく思ひやりなきわざをもしつるかなとおぼせど、たゞ今はいとなつかしく浅からずうち語らひ給。  いたくも待たれで明け行けしきなれば、女もいみじくつゝましげに思ひたるもことはりに、心あはたゝしくてやをら戸ををし開け給へれば、有明の月のくまなくさし入たるに、男の御さまはたさらなり。 女もいとらうたげにて、遣戸をうしろにして寄り居たり。 見捨てがたくてしばしやすらひ給ほどに、例の、中納言は身に添ふ影にてうかゞひ歩きけるに、忍びやかに男の物言ふけはひのすれば、もののくまにたち隠れて聞き給に、大将の御声と聞きなしつ。 うれしくて耳をたてて聞けば、年比なにとなくて過にける仲のたま/\逢坂越えにけるが、今より後もかたみに人目をつゝむべければ、心にしも〔えまかすまじきよしを、いとなつかしう〕語らひ給へば、女もいみじううち泣きて、かくて絶はて給はんもいみじう物嘆かしげなる物から、さすがにうちまかせて逢ふ瀬はありがたかるべきさまを、かたみに心苦しげにうち語らひて、えも出でやり給はぬけしきを、つくづくと聞き給に、いなや、さればこはいかなる事ぞ、月比も、御方/゛\の女房などにも、わざとならねどものの給ひふるゝ事も年ごろのやうにまめ/\しうもえ物し給はず、内裏の御方の中将の中侍や、中侍の督の宰相の君などには、わざと内裏の御宿直の折、夜などもたちとまり語らひ給夜な/\ありなど人のさゝめくなりしも、よにあらじ、たゞ、人の推し量りごとならんとのみ、思ひ寄らざりつるを、さだ/\と聞きつるもあさましう夢の心地して、もしなをあらぬ人にやと、かたちゆかしければ、たち隠れて見るに、   心ざし有明がたの月影をまた逢ふまでのかたみとは見よとて、やをら出給ふ音すれば、女、   かくばかりうかりける身のながらへていつまでか世に有明の月  いみじう心苦しげなるを、やう/\明行けしきなれば、聞きもはてぬやうにて出で給をみれば、まがふべくもなき大将なりけり。 あさましきに思ひのどめん方なくて、たち出づるまゝに直衣の袖ひかへたれば、「誰そ」とおぼえなくて見返り給へれば、この中納言なりけり。 かゝる有様のかろ/゛\しさを見あらはさねぬる事、人よりはねたくおぼせど、さりげなくもてなして立ちとゞまり給へれば、「をのづから見し人ともおぼしたらず、ことの外にもて離れ、おぼし捨てはてらるゝ身の恨めしさに、かくだに聞え侍らじと思ふ給へながら、従はぬ心のほども、我ながらもどかしう思ふ給へ知らぬには侍らねど」と言ふまゝに、涙をほろ/\とこぼし給へれば、うち笑ひて、「いかなりける御旅寝のなごり露けさを、かの慰めやり給はぬほどの御けしきぞよと。もことには、心のどかに聞えまほしき侍れど、さすがに、なにとなき若公達なる程こそかやうなるもつき/゛\そけれ、今はいとつきなきほどの位に我も人もなりのぼりにたえれば聞えぬを、をろかなる物におぼしめしなさるゝも、げにことはりに侍。 ∨をこたりも、わざと参りなん申侍べき」との給へるさま、さはいへど、をしのけたるよそ目こそあれ、かやうに近やかにて物などの給へるには、まことの男は又しるきわざなるを、返々あやしくて、とみにもゆるさで立ち給へり。 有り後、またかばかり近くて見奉る事もなきに、やう/\明けはなるゝそらのけしきくもりなきに、つく/゛\と見給へば、御ひげのわたりなどことの外にけしきばみけるも、いなや、こは誰ぞ、さらばありし人はいづちへ失せ、給にしぞと、返々心得がたくて、とばかりまぼり立てるを、大将は、さ思ふよとおかしくて、さすがにはしたなき心地すれば、いたく明かくなりぬるはいと見苦しうて、歩みのき給て、宣耀殿へ参り給て女房など起こして、督の君の御迎へに参り給ぬめり。中納言の君、ひとかたならずたち返り、此比は又いま少しもの思はしき心地してあくがれまさり、なをいかで心静かに対面して、ことの心をくはしう聞え出でてけしきを見ん、いかにもこの人は、ありし同じゆかりには物し給ふべしとおぼしあまり、夕風涼しきたそかれのほどに、大将殿の二条におはしにけり。  大将は右の大将におはするほど成るべし、人少なにのどやかなれば、口惜しくてたち帰り給に、世に知らずめでたき琴の声、風につきてほの聞ゆ。 心惑ひして、しばし立ちとまりて聞き給へば、筝の琴・琵琶なども掻きあはせたなり。 いづれとなき中に、此絶え/゛\なる琴の音は、すべてこの世の事とは、聞えぬに、いみじうおくゆかしうて、たち返り、中門の南の塀の外に薄などの多く生いたる中に、やをら立ち入りて見給へば、寝殿の南と東との格子二間ばかりあがりたる内に弾くなるべし。 いと心にくゝをくゆかしくて、いかで弾くらん有様ども見てしがなと静心なくおぼすほどに、日ごろ降りつる五月雨晴れ間待ち出でて、夕月夜の月くもりなくさし出たるに、若やかなる声して、「いとめづらしかめるを、たゞ今は誰か見ん。 ∨かくて御覧ぜと」とて、御簾巻き上げて外に居ぬ。 いとうれしくて見給へば、白き単衣のなへほころびがちなるに、何の裳にか、けしきばかりひきかけて、にくからぬ若人なるべし、内なりつる人/\二人ばかり、縁に出でて居ぬめり。 筝の琴弾くは、上がりたる簾のきはなりける、今ぞやをらすべり下りぬる。 いとほそやかに、髪のかゝり・頭つき・やうだいなど、若き人とぞ見ゆる。 琴と琵琶は、長押の上にぞ居たる。 くまなき月影に、こなたにさし向ひたれば、いとよく見ゆ。 琴の人は、少し奥に居たるに、かたはら臥して、琴をば押しやりて、月をつく/゛\とながめたるまみ・額つき・頭つき・髪のかゝりなど、いとけだかくなまめかしき、心にくゝ艶なるさま、こゝら見尽くしつる世にかばかりなる人は有がたき心地するに、ふと目とまりて、これや吉野山の宮の姫君たちならん、かばかりのひとを、この世のほかにて生いたち給けん有様、さはいふともいとなを/\しからんと思ひあなづりて、ゆかしくも思はざりけるもあさましくて、つく/゛\とながめまぼり給へば、宣耀殿の内侍の督ぞかやうには物し給しかと思ひ出づれば、かれは、かたはと見ゆるほどにはあらざりしかど、少しそゞろかに、小さきほどにはものし給はぬにやとおぼえし手あたり、心劣りすとはなかりしかど、さらでもと見ゆるふしなりしを、これは、いとほそやかに身もなきさまし給へる人の、あくまであてになまめかしき御かたち有様を、ありがたくもとうち見給ふに、例の色めかしさは、さこそなごりなくまめに成りし御心なれど、ふとうつりておくゆかしかりけり。 いま一人は、琵琶にかたぶきかゝりて端を見出だしたる、いとふくらかに愛行づき子めかしきさまして、いとうつくしげなり。さま/゛\見所有ける人/\かな、〔こゝら見あつむる中に、〕内侍に督の君、大殿の四つ君、行方なくなし聞えにし宇治の橋姫などこそは、さま/゛\たぐひなき御かたち有様と思ひしに、此人は、ひとすぢに子めきらうたげなるさまなどは、四つ君ばかりにや物し給はざらんと見ゆるを、なまめかしくけだかきさまは、たゞこれはこよなくまさりざまにぞ見ゆる、この琵琶の人は、また愛行づき子めきらうたげなるさまなぞど誰にもまさりて給てんと見ゆるに、たゞ今は、来し方行く先もたどられぬ物思ひもうち忘れて見立ち給へるに、月もくまなく澄みのぼるまゝに、心を澄まし掻きたて給へる琵琶の音、すべてこの世の事とも聞えず。 なにがしの大将の笛の音にめでており下りけん天つ乙女も耳とゞめつべかめるに、琴の人も起き上がりてほの/゛\弾き鳴らしたるぞ、たとへん方なき。 さらでだに物がなしく心も澄むものの音を、澄める夜の月に限りなき音を弾きたて給へるかたち有様よりはじめて、すべて今は世に絶えたるものにてをさ/\弾き鳴らす人もなかめるを、めづらしく弾きこめ給へりけるもありがたく、涙さへこぼれて、さばかりの心に又いづくに添ふにか、いみじく物がなしく、け近からんけはひ有様いと聞かまほしきもさる事にて、なを大将の御けしきゆかしきにぞ、いとゞこの人をさへ見過ぐさん事は有まじうもおぼされねど、さのみやうの物と人のもり聞かんもわづらはしければ、あるまじくおぼし返すにしもぞ、例の従はぬ心焦られもあやにくなりける。 ましてこの中の君はしも、言ひ寄らんにも、さまでもて離れ思ひ寄るまじきほどの事ならねど、なをこの御あたりにてかやうならん好き事悪しかりぬべきぞ、いかゞせましとおぼしあつかはる。  月も入りぬれば、琴の人は入り給ぬ。 今一人はなを端をながめて、筝の琴の人と、何事にか、言ひてうち笑ひなどすめり。 をの/\も山里の事などうち言ひ出でてあはれなりし事、おもしろかりし花紅葉のおり/\、雪の事なども語り出でて、何となきすゞろ事どもなれば、いつとなくかくてあらんも、けしき見つくる人もあらばいとわづらはしかるべければ、やをらたち出給も、まれ/\残りたりつる魂は、有つる御袖の中に入りぬる心地し給。  見つるよしだにほのめかさずなりぬるも飽かず口惜しうて、また此比は、これをさへとり重ねておぼし嘆くべし。 さま/゛\なりし思ひも、又思ふ方異にて背きはて給にしまゝには、世とともに一人寝のみにて明かし暮らし給も、しばしこそあれ、いとはしたなければ、有し琵琶の月影、いとけ近く打語らひてあらんに何心なくうつくしげなりしも思ひ出られて、いかで言ひ寄りにしがな、大将はいかゞみてなし給はんとおぼすらんなど、このごろは又此事にてぞ、行方なき御心の中はとき/゛\慰め給ける。 大将は、なをこの中の君をや中納言にあはせてまし、内侍の督の君も、さりげなくてこの若君の事をいとおぼつかなくおぼしたるにも、さやうのゆかりなくていかでか聞給ふべきなど、やう/\おぼしなる。  六月十余日に、内侍の督の御方に、泉などいとおもしろく、池に造りかけたる釣殿などいみじう涼しげなるに、女君・中の君具し聞えて渡り給て、さるべき殿上人・上達部など文作り、雅楽頭などして、昼より遊び暮らしたまひて、月さし出づるほどに宮の中納言に御消息聞え給へり。 蔵人の兵衛の佐とて、母上の御甥なる人奉りたまふ。   あるじゆへ訪はるべしとは思はねど月ぬはなどかたづね来ざらん 「やがて御供にさぶらふべくなん侍りつる」と言ふに、いかなる事ぞとおきどころなくおぼし惑はる。 心騒ぎをしづめて、   月のすむ宿のあはれはいかにともあるじからこそ訪はまほしけれ 「やがて参るべく、まず聞え給へ」とて、えならずたきしめ、心ことなる御直衣姿にて参り給へり。  釣殿に月はくまなくさし入りたるに、大将は、なよゝかなる御直衣に、唱歌忍びやかに、笛吹きすさびつゝ待ち聞え給へるなりけり。 まらうとの君に御琵琶奉り給いていみじうそゝのかし給へど、有し月影思ひ出るに、世にたぐひなかりし音を、いかでかさばかりは引きたてんとおぼせば、さらに手触れ給はぬを、「わざと聞えつる本意なく」と、笛を吹きつゝ聞声給へば、少し掻き鳴らし給へる、澄みのぼりていとめでたし。 大将の御笛の音、さらなる事なればいと限りなし。 佐衛門の督筝の琴、宰相の中将笙の笛、弁の小将篳篥、蔵人の兵衛の佐扇うち鳴らし、「席田」うたふ声いとよし。 こと/\しからぬ御遊びなれど、なか/\なまめかしうおもしろきに、中納言は琴の音のみ心にかゝりて、「かやうなる夜は、女のまじりたるこそおかしけれ」とのみ聞え給を、大将は、女君の琴を交ぜたらましかば、まいてめで惑はんとおぼすぞ、おこなるや。  御かはらけあまたたびになりて、人々もうち乱れつゝ、やう/\夜更け行に、中納言は、またこと/゛\もおぼえず、ひが事もしつべく、いかなる事有べきにか、ありし宇治の橋姫やこの簾の内にものし給ふらんなど、たゞこれより聞こえ出でていみじうけしきもゆかしけれど、御簾に几丁添へてたてわたし、女房のうちそよめく音など、忍びたれど、人近き心地すれば、有し面影どももいと恥づかしげなりしを、見出で給ふらんほどもたゞならで、えうち出で給はず。 人/゛\もかたへはまかでぬるに、中納言は近くゐ寄り給て、「わざと召し侍つるしるしは何事にか侍べき。 ∨をろならぬ御をくり物などの侍べきぞ」と聞こえ給へば、「いかでかたゞには侍らん。なべてにはあらぬ御引出物侍らば、日ごろの御恨みは残りなくとけ給ひなんや」と、打ほゝ笑みて聞こえ給へば、「昔見し宇治の橋姫それならでうらみとくべきかたはあらじを ∨いかなる世にか」とて、をしのごひ隠し給へり。 「橋姫は衣かたしき待ちわびて身を宇治川に投げてし物を ∨さて不用ななり。 ∨思ひとまりなん」との給御けしきも、いとすくよかなり。 なを/\あやしくて、めづらかなる事も、さいふとも、此わたりにて聞きあきらめんと、おぼさるれば、かの宇治の橋姫ならずとも、今宵の御引出物もいと過ぐしがたくて、いとゞ酔い悩めるさまにもてなして、「今宵はさらにえまかづまじ。 ∨この御簾の前にて明かし侍らん。 ∨かことやあひなく」との給へば、「げに、かろ/゛\しき御座ななり。 ∨これにを」とて、御簾の内に導き入れて、わが北の方具してあなたに渡り給ぬ。  いかにぞ、ありし人ならん時と、心騒ぎして寄り給へるに、丁の内にいとつゝましげにて寄り臥したる人の手あたり・けしき、あなうつくしとふとおぼゆる、有し月影の琵琶の人成べしとおぼゆれど、見し人にはあらざりけるとおぼすぞなを飽かずかなしくて、人を見給ふにつけても姨捨山の月見けん人の心地すれど、人柄・有様のいと思ふさまに、らうたく子めかしう心うつくしげなるさまなどにぞ、例の月草のうつりやすさは、さま/゛\也しふりにし恋どもも忘るゝとなけれど、なからすぎもの思ひ慰みぬる心地して、有し夜の月影にほのかに見そめ奉りしより、思ひし心の中など、こまかに例の事多く語らひ給ふ。 更けにける夜のなごり、ほどなく明けぬる心地すれば、出給はずなりぬ。 大将殿、聞きおどろきて、御手水・御粥など参り給。 女房の装束などひきつくろひて奉り給〔へり。 ∨日高く御殿籠り起きて、女君の御さま見たてまつり給ふ。〕 廿にも余り給はぬほどの、若くうつくしげに飽かぬ事なく整ひはてて、はな/゛\と愛行づき見まほしきさまなど、たぐひなしと見し人にいづくかは劣り給へると見るも、少し物思ひ慰む心地してうれしかりけり。 ものなど、聞え給、つゝましげなる物から、おぼつかなく埋れてもあらず、さこそはとおぼゆるほどにの給出づる言の葉も、残り多かるさまなるを、いと見るかひあり思ふさまなる事とおぼして、日一日語らひ暮らし給。  今ぞ、大将殿の御方より人参りて、「酔いのまぎれに、いと乱りがはしきあやまりも、参りて聞ゆべきを、乱り心地ためらひ侍ほど、渡らせ給なんや」と聞こえ給へば、参り給へり。 寝くたれの御朝顔ども、見るかひあり。 しめやかに物語聞え給にも、なを宇治の川波はかけても聞え給はぬぞ、いと心やましき。 「此御方には、あさましき不用の物におぼし捨てられにし身と思給へつゝみて、月ごろは、いはけなき人の事をもをのづから尋ね知らせ給はぬも、いかにとも心得ざりつるを、かくまでおぼし寄らせ給けんもをろかならず待ちよろこばれ侍にも、いさや、うつゝならぬ心地し侍は、猶物思ひにうつし心の失せ侍にけるにやとなんおぼえ侍れど、今はいかゞはせむ。 ∨行方なき御形見と見給ふる人も、さすがに男の見なれば、かた時たち離れでもあるべきやうなし。 ∨をのづからいとまなくて見ぬ日もいとうしろめたく侍を、今はこの御あたりに〔さぶらはせてこそは、心やすく思ひ給へめ。 ∨さりとも、〕誰もよもおぼしめし捨てさせ給はじと思ひ給ふる人の上なれば。 ∨かく聞ゆるもおこがましけれど」とて、忍びあへずほろ/\とこぼれぬるも、心苦しう大将見給ひて、「げに、しかおぼすらん、ことはりに思給へ知りながら、みづからのあやまちにも侍らず、人の御とがにもなき事なれば、聞こえさせん方なくて。 ∨これならで、月比の御恨みとくる方侍らじと思給てなん。 ∨おぼえなくにはかにおぼしめさるらめども、さりともよにをろかにはおぼされじと、心の闇に惑ひ侍」となん聞え給。 「げに、かゝる御慰め侍らざらましかば、さのみながらふる命もありがたくや侍らまし」など聞え給。  げに、これにては、なきふるさとにつく/゛\と涙ばかりを友にて明かし暮らし給しよりも、こよなくおぼし慰む心地す。 大将の御方へも、さるべき折は渡り給つゝ、琴笛の音も文の道の事も、同じ心に聞こえあはせつゝものし給。 女君も、見もてゆくまゝに飽かぬことなきを、いとうれしとおぼして御心ざし深く見ゆれば、大将も御心ゆきておぼす。 世には、「大将の吉野山の上の御をとうと、中納言通ひ給なり」 「大将殿の逢はせ奉り給なり」 「右の大臣わたりの事ゆへ、そば/\しかりぬべかりし御中もいとよく、大将殿の御心ばへのありがたく、人のいかにぞや思ぬべき所を、ひきたがへかく物し給こと」 「これにつけても、大将をぞめで奉るべき」 「中納言、さのみやうの物」と人聞き便なかるべきを、返々おぼし返せど、なを物懲りもし給はで、有し月影の琴の御かたち有様、なを身をも離れぬ心地し給へば、さりげなくてさりぬべき隙もやとうかゞひ給へど、いと物遠くもてなし給て、つゆの隙有べくもなきぞ心やましかりける。 七月には、督の君、五月と奏してまかで給ぬ。 大将殿、おぼしよろこびたるさま限りなし。 督の君、かゝるにつけても、初めの若君おぼし出られて、月日の重なりしまゝに、世の中心あはたゝしく物心細く、よろづのおほやけ事も見さすやうにて籠りゐにしこと、中納言さへ待ち遠に嘆き過ごして、宇治の橋姫、忘るゝ世なくおぼし出らる。 今は大将殿の御よすがにて、この御里居のほども中納言はつとさぶらひ給て、女房などと物言ひうち乱れなどして歩き給ふを、昔よりかたはなるまで馴れ遊びて、かたみに何事も隔てず言ひあはせうち語らひてのはて/\は、あさましう世づかぬ身の有様をさへ残りなく見えにし契りも、あはれならぬにも〔あらぬに、〕まして若君の何心なかりし御笑み顔おぼし出づるには、この人の声けはひを聞給たびには、あさからずあはれにて、御涙のこぼるゝおり/\も有を、見とがむる人もあらばあやしともこそ思へと、をしのごひまぎらはし給。  右の大臣の君、二条殿にて産み給ふべきを、八月つごもりに渡り給ぬ。 これにては、大将殿、つと渡り給つゝおぼしあつかひたるさま、いとあらまほし。 姫君たちを、なをかたはらいたければ具し聞え給はぬを、大将殿も、「などか。 ∨なを」なども聞え給はぬを、人の言ふことはそら事にはあらず、殿なども推し量り給ける。 九月ついたちごろ、いとやすく若君生まれ給へり。 大殿・大将殿、限りなくおぼしよろこびたり。 この度は、いかゞとおぼし疑ふ所なく、もて出でて、御産養ひやなにやとし給を、父大臣、物にあたりてぞ喜び給ける。 内侍の督の君、かくと聞き給にも、さま/゛\なりし過にし方の事おぼし出でられて、初めの姫君の七夜の事なども、後たび我も行方なき世界にていみじう心苦しう聞しなど、つく/゛\と人知れずおぼし出でて、めづらかに夢のやうにおぼさる。 この度の若君は、姉君たちにはつゆも似給はず、たゞ大将の御顔をうつしたるやうにぞものし給。 いとあはれにうれしく、大臣などおぼさる。  うちつゞき、督の君の御事、今は一すぢにおぼしあつかふに、おどろ/\しく悩み給はで、男宮生まれ給ぬ。 年比まうけの君おはしまさぬに、夜昼念じ奉り、多くの神仏に祈り申給へるしるしにや有けん、かく、思ひなくきら/\しきあたりにしも出でおはしましぬる事を、誰も/\めづらしき御幸いに思ひ驚き奉る。 御産屋のほどの事、言はずとも推し量るべし。 三日の夜大殿、五日春宮の大夫、七日内裏より、九日大将殿など、心/\にいどみ尽くし、心を尽くして仕うまつり給へる、いとめでたし。 常の事に事を添へ、御遊びやなにやと限りなくこと/\しきにも、督の君は、若君の御折の事、忘れ給べき世なし。 若宮のいとうつくしげに大きに王気づきておはしますを、たゞ人知れず人の生まれ給へりしほどとおぼゆるに、いみじうあはれにて、御涙ぞほろほろとこぼれぬる。   ひたぶるに思ひ出でじと思ふ世に忘れがたみのなに残りけん とぞ、御心の中におぼしける。  その比、大臣召しあるに、大将かけながら内大臣になり給ぬ。 次第になりのぼりて、中納言、大納言になり給ひぬ。 御喜びにつけても昔おぼし出でられて、中納言になりたりし折、かの四の君の 「人知れぬをぞ」と有しを見て、色には出だし給はざりしかど、いかにぞやうちおぼしたりしけしきの、たゞ今のやうに思ひ出給に、何事のうれしさもうちさますやうにおぼえて、ほろ/\とこぼし給つ。  若君も迎へ給て、この女君にあづけ聞え給へば、いとかなしき物に思ひきこえ給て抱きあつかひ給ふを、男君はうれしくおぼす。 若君の御乳母は、あさましくて跡絶え給にし人の御事、この吉野山の宮の御むすめにやとほの/゛\心得しを、かくにはかにおはしつきて若君も迎へ給へれば、行方なくおぼし嘆きし御事聞き出で給へると思ふに、いとうれしくかなしければ、いつしか参りて月比の御物語聞えんと思ひつるに、若君の御うつくしさに、乳母にもえ恥ぢあへ給はでほの/゛\見え給へど、見奉りし人にはおはせぬを、いと口惜しうて、心得がたく思へど、これもうつくしげにて、まことならんよりも中/\いみじくかなしくし奉り給へば、思ひやる方なく恋しくかなしかるつる心も慰めて、殿おはせぬほどは御前につとさぶらひて物など聞ゆるにも、いとなつかしく心うつくしげにうち語らひ給に、うれしくて、この君の御母君に離れ聞えしほど、飽かずかなしき御かたち有様のめでたくおはしまししなども、隔てなく語り聞えてうち泣く。 君も打泣き給て、「あはれの事や。 ∨たゞかく見奉るだに今はたち離れ聞えん事はいと苦しかるべきを、いかばかりの御心にてかゝる人をふり捨てて跡絶え給にけん」との給へば、「それは、御前の御はらからなどにや物せさせ給らん、などこそ思給へしか。 ∨これへ渡らせ給しおりも、異人とは思寄り侍らで、いつしか見奉らん事を思給へしに。 ∨異人にておはしますとても、中/\昔よりけになつかしう有がたう物せさせ給へばいとうれしう侍れど、ありし御面影はいづちいかにならせ給にけるにかと、胸あく世なくおぼえ侍は。 ∨もし、大将殿の御方や、それにてものせさせ給らん」と忍びて聞ゆれば、打笑ひ給て、「人は思ふ方ことに物し給けるに、何心なきさまにて見え奉りけるこそ恥づかしけれ。 ∨大将の上とまろはなちては又はらからなどなきを、大将の御方はさやうなるべき人にも物し給はぬ。 ∨いかなる人違へにか。 ∨あやしかるける事ゆへ、我も人も思ひ疑はれ聞えけるこそあひなかりけれ」との給けしきも、愛行づきおかしきにも、なをいふかひなかりし御事は、忘るゝ世なかりけり。  さま/゛\心ゆきめでたき御事どもにて、年も返りぬ。 まうけの君はおはしまさぬによりてこそ女春宮も立ち給しか、つきせぬ御悩みにことづけて、この位いかでのきなんとおぼしめしたれば、正月、御五十日のほど、若宮、春宮に立たせ給て、もとのは、院にならせ給て、女院と聞ゆ。 大将は、督の君の御心寄せをろかならぬにこと寄せて、いとねんごろに仕うまつり給へば、院の上もいとうれしくおぼさるべし。 若宮は、春宮に立たせ給。 督の君は、女御の宣旨かうぶり給。 やがて四月に后に立たせ給。 儀式・有様、世の常ならんや。 年比あるべかりし事どもの、いみじう心もとなかりつるなれば、いとゞ誰も/\御心ゆき給べし。 宮の大納言は、大将の御心寄せあるによりて中宮の大夫になり給ぬるにも、昔志賀の浦頼め給し夜の事おぼし出られて、物あはれにおぼさるゝぞ。 かの宇治の橋姫とはおぼし寄らぬぞ、あはれなるや。  若君の、今はいとよく物などの給て走り遊び給ふにも、忘るゝ世なきことはまづおぼし出でられて、さてもいかなりし事とだに聞あきらめぬよ、さりとも、この女君はけしき心得給事もあらんとおぼせば、おり/\けしきとりて問ひ給へど、心も得ぬけしきなるを、猶おぼつかなさに、「此大将の君は、いつごろより吉野山にはまうで給しぞ」と問へば、「いさ、中納言など聞こえしより、とき/゛\おはすとこそ聞きしか」との給ふ。 「此女君には、いつより住み給ふぞ。 ∨いかにしてかおはしそめし」などこまかに問ひ給へば、「おとゝしばかりにやあらん。 ∨知らず」と言ひまぎらはしてやみ給を、恨み給て、「我ぞ、年比又なく物を思ひて、はて/\は病ひにもなり命も絶えぬべかりしかど、思ひかけず見初め聞えしよりこそ、こよなくこの世にとまる心も出で来て、又なく隔てなく限りなき物に思ひ聞ゆるを、さりとも見知り給はずもあらじを、こよなき御心の隔てこそ、いとうたて思はずなれ。 ∨思ひ聞ゆる片端もおぼさましかば、おぼつかなくゆかしき事も、知り給へらんまゝにはの給ひてましを」と恨むれば、うちほゝ笑みて、「隔て聞ゆる事は何事にか。 ∨御心こそ隔て有て、ありのまゝにはの給はざめれ。 ∨御心の中をくみてもいかゞは聞ゆべからん」との給ふも、げにことはりなれば、打笑ひて、「隔て聞ゆとも思はねど、うち出で聞ゆべき方なき事はをのづからさなんある。 ∨聞こえさせずとも、その事にやとほの/゛\心得給事あらば、の給出でよかし。 ∨まろもそれにつきて、はじめよりの事も聞えん」と言へば、「御心の中に知り給たなる事をだにうち出にくゝおぼす事を、まいてほの/゛\心得んばかりにては、いかでか聞えも出でん。 ∨御心にかへて、たゞおぼせかし」とてうち笑ふも、いとにくからぬ人ざまなれば、見るかひありうれしくて、かゝらぬ人ならましかば、いかにいとゞわびしからましとおぼす。 女君は、さだ/\と言ひ聞かする人はなかりしかど、さにやとほの/゛\心得る事のすぢなめりとおぼすも、げにいかにおぼつかなくあやしく心得がたくおぼすらんと、御心の中苦しう推し量らるれど、たが御ためもいとめづらかにあやしかるべき事を、きと聞え出んもうしろやすからぬ事なりかしとおぼしかためて、の給ひ出でずなりぬるを、いと口惜しう恨めしとおぼして、よろづに聞えかこち給へど、「たゞあるやうあらんとおぼせかし。 ∨聞きあきらめ給へりとても、絶えはて給なん野中の清水は汲みあらため給はん事有がたからん物ゆへ、御心の中の苦しさもいとゞまさり、人の御名の世にもらんもいとよしなし」とて、言ひ出ぬほどの心やましさぞ、せん方なき。 中/\、行方なく思はんよりは、知りながらの給はぬよと思ふ心やましさぞ、言はん方なきや。  ほどなく年月も過ぎかはりて、中宮、二、三の宮・姫宮などさへ産み奉り給へるを、かゝりける人の御宿世となべての世にも罪ゆるし聞えて、かたへの御方/゛\も、我身をのみぞ恨み給べき。 右の大臣の女御は、人よりさきに参り給て、我はとおぼしたりつるに、こよなき世のけしきに交らふもはしたなくて、まかで給にしを聞給も、中宮は、昔四の君の御ゆかりに大臣に明け暮れ恨みられし報ひに、又宇治の橋姫にてながめし比、この御ゆへ人をつらしと思ひ入りし報ひにやとおぼえしに、又かく同じ身のゆへこの女御の世を恨みて籠り給ぬるも、さすがに契り浅からざりけるゆかりながら、かたみにこなたかなた恨み絶ゆまじかりけるもあはれにおぼゆべかりける中の契りとおぼし知られさせ給ふ。  大将殿も、四の君の御腹に男三人打通続き生まれ給て、大殿に生ひ出で給し若君も、今はおとなになり給て、童殿上などしてありき給。 吉野山の御方にかやうのこと心もとなくものし給へば、此若君をぞ御子にしきこえて、とりわきかなしうし奉り給。 女院には殿上して、つねに参り給ふを、昔の宣旨などはいとかなしう見奉りて、中宮の御ゆかり、大将の御心もをろかならずこの御方ざまに親しく物せさせ給にことずけて、御簾の内にも入れ聞えていみじう輿じうつくしみ奉るを、女院も、さこそ物づつみしあへかなる御心なれど、いとうつくしげにおとなび給へるさまを、御心の闇は、いみじうかなしうなん見奉り給ひける。  宮の大納言も、吉野の君の腹に姫君二人・若君と生まれ給へるを、乙姫君は、大将殿の上とりわききこえ給て、此若君、左右にて生ふし奉り給。  大納言の人知れぬ宇治の若君も、今はいとおよすげ給にたれば、殿上し給て、大将殿の若君同じやうにてあまりき給ふを、中宮は、御覧ずるにいとかなしう、春宮・宮/\の御事にも劣らず、見る度ごとにあはれにかなしうおぼさるゝに、春のつれ/゛\のどやかなる昼つ方、二の宮と若君と遊びつゝこの御方に渡らせ給へるが、いとよくうちかよひて、かれはいますこしにほひやかに愛行ずきたるさまさへこよなく見ゆるも、めざましくあはれに忍びがたく、御前に人あまたもあらぬほどなれば心やすくて、御簾の内に呼び入れ給へば、宮は入らせ給ぬれど入らぬを、「猶入り給へ。 ∨くるしかなう事ぞ」との給へば、縁にやをらうちかしこまりて御簾をひき着てさぶらふが、いみじううつくしきを御覧づるに、今はと引離れて乳母にゆづり取らせて忍び出し宵の事おぼしめし出づるに、今の心地せさせ給てかなしければ、あやしとや思はんと、しいてもて隠給へど、御涙こぼれていと堪へがたきを、をしのごひ隠して、「君の御母と聞えけん人は知り給へりや。 ∨大納言はいかゞの給」と問はせ給へば、やう/\物の心知り給まゝに、いかに成給ひけんとおぼつかなく、大納言も乳母も明暮れ言ひ出て恋ひ泣き給めれど、行方も知らぬ人の御事を、見る目・有様はいとうつくしう若くて、うち泣きていとあはれとおぼしての給ふが、もしこれやそれに物し給ふらんと思ひ寄るより、いみじくあはれなれど、これはさやうなるべき人の御有様かは、行方なく〔人に思ひまがへられ給ふべき〕人にも物し給はずと、いとおよすげておぼし続けられて、うちまめだちて物もの給はぬを、いかにおぼすにかとあはれにて、つく/゛\とうちまもりて、御袖を顔に押しあてていみじう泣かせ給へば、この君もうちうつぶして涙のこぼるゝけしきなるがいとかなしければ、少し近く居寄りて、髪などかきなでて、「君の御母、さるべくゆかり有人なれば、御ことをいと忘れがたく恋ひ聞ゆめるを見るが心苦しければ、かく聞えつるぞよ。 ∨大納言などは、今世になき人とぞ知り給へらん。 ∨さこそありしかとまねび給なよ。 ∨たゞ御心ひとつに、さる人は世にある物とおぼして、さるべからん折はこのわたりにつねに物し給へ。 ∨忍びて見せ聞えん」と語らひ給へば、いとあはれと思たるけしきにてうちうなづきて居たるが、いみじううつくしう離れがたき心地せさせ給へど、二の宮走りおはして、「いざ」とて引き立てておはしぬるなごりも飽かずかなしければ、端に猶涙をこぼしつゝ見をくりて臥し給へる。 十一にや成給ふらん、髪は脛のほどにゆる/\とかゝりてうつくしげにて、宮/\にうちかしこまりたるなど、いとあはれなれば、   同じ巣にかへるとならば田鶴の子のなどて雲居のよそになりけん とて、いみじく泣かせ給を、帝渡らせ給て、やをら物のはさまより御覧じけるに、此若君に向ひゐて泣く/\語らひ給を、あやしとおぼしめして、音なくていつとなく御覧じけるに、かゝる事どもあり。 さればよ、有やうあらんと思ひつかし、此若君は、さはこの宮の御腹也、あやしく母なん誰とも聞えで、明け暮れ涙の川に浮き沈み、これをかたはらさけず生ほし立てけると聞くは、むべなりけり、ひとゝせ、いとひさしく悩み給とて、春宮へも参らず年なかばばかり絶え籠りたりしも、此程の事なめりとおぼすに、やがてこの君の年の程などおぼすに、疑ひなく心得はて給に、年ごろなをおぼつかなく、誰とだに知らぬいぶせさをさりげなくておぼしわたりつるを、御覧じあらはしつるもいとうれしかりけり。 大臣の知りながら許さずなりにけるも、いかばかりあさはかなる人にかとなま心劣りしつるを、これはしも、帝と聞ゆとも、少/\かたほならんは何にかはせん、人柄・かたち・有様をはじめていとめづらかなめる人なれば、さまで思ひ寄るまじきほどの御仲らひにはあらざりけんを、せめて上なく思ひをごりけん心ざしの違はん本意なさ、また人柄のせめてあだに頼みがたく、右の大臣わたりになどめづらしげなきやうならんなどを、深く思ひはゞかりて、許さず成にけるならんかし、いかに男も女もかたみに心の中物思はしからんと、いとほしう推し量られさせ給。 なをけしきもゆかしければ、今おはしますやうにてたち出でさせ給へるにぞ、をしのごひ隠して起き上がり給へる御さま、日ごろは何ともおぼしめしさだめざりけるを、宮/\と交りて遊ぶめるさまのいとよくうちかよひたるも、今まで見さだめざりける心遅さも、おかしうおぼしめさるべし。 「大将の朝臣・源大納言など、今は老上達部になりはてて、かたち人なき心地するに、この末/゛\多くなりて、さらに劣るまじきかたち有様なめるこそ、なか/\世の末にしも有職多かりぬべかなるかな。 ∨此君、大将の四の君腹の太郎などこそ、今よりさまことなめれ。 ∨大将の大若君、この君との母、誰とも聞えぬこそあやしけれど、大将のは、女院の御あたりのことにやと世人さゝめくめりし、げに、なをさなるべしとしるき人ざま、けはひけだかく、なまめかしさ、さばかりにこそあらんかし。 ∨これこそは、いかにも言ひ出る事なかめれ。 ∨いさや、人は知たらめども、まろにまねぶ人のなきにや」と、うちほゝ笑ませ給ふ御けしき、もし、わがありつるけしきを、あやしとは御覧じけるにやと心得らるゝぞ、わびしけりける。 「いさ、これは知らず。 ∨大将の若君のことは、うたて、女院の御ためあは/\しきやうなる事をの給はするかな。 ∨異人の事や侍らん。 ∨この御事ばかりは、まろ知らではいかでかさる事の侍らん」との給へば、「されば、まろ知り給へる事とこそ人/\言ふなりしか。 ∨げに、さまで誰がためもかたはなるまじきほどの事なれば、いとよしや。 ∨さは、此事は知り給はざなり。 ∨いまひとつは知り給へりや。 ∨それこそまた知らまほしけれ」とおほせらるゝに、聞えん方なければ、御顔いと赤くなりてうちそむき給ぬるうつくしげさぞ、たぐひなき。 いみじきとが・あやまちありとも、うち見ん人ばかりだに何のとがも消え失せぬべき御有様を、まして年月かさなるまゝに梨原にのみなり行く御心は、いかなるにつけても、いよ/\御心ざし深くのみこそなりまさらせ給めれ。 何事にかは御心劣りせさせ給はん。 うちかさねて御殿籠りぬ。  若君は、ありつるなごり、何となく物あはれにて、まかで給て、御乳母にぞ忍びて、「まろが親にやとおぼゆる人をこそ見奉りつれ。 ∨「殿にな申そ」とありつれば、申まじ」とて、いとあはれにかなしくなりて、「いかに/\。 ∨いづくに物せさせ給へるぞ。 ∨いかでさは知り給へる。 ∨御かたち有様はいかゞおはしつる」と言へば、「御かたち有様はいと若くうつくしげにて、この母上よりもいま少し愛行づきけだかく物し給へる。 ∨さぞとの給ひ知らする事はなかりつれど、たゞ、「母といふ物は世には有とばかり思ひ出よ」とて、いみじう泣き給へる」とて、いとあはれにおぼしたる御けしきにて、なをいづくに物し給へるとはの給ひ出ぬを、いとおぼつかなくて、「殿の、さばかり寝てもさめても恋ひかなしみ奉り給に、さは世におはしましけりと、いみじく聞かせ奉らまほしきを、いかなればさは忍び給にか。 ∨いかで君をば見給し」と言へば、「「殿にはかくとな聞えそ」とこその給ひしに、いま又逢ひたらんに申て、「殿にも申せ」とあらん折こそ申さめ。 ∨たゞ今はな聞こえそ」と口がため給も、幼き人ともなく、いとうつくしういはけなからず物し給ふと見奉る。  まことや、大将殿は、麗景殿の人は、さすがに行く手にはおぼし捨ててやみ給はんも心苦しかるべき人ざまなれば、さりぬべきおり/\は忍びに語らひ給ふほどに、いとうつくしき姫君一人生まれ給しを、四の君腹の姫君たちはなちては女も物し給はねば、いと心苦しうおぼして、殿へ迎へ聞えんとおぼしたるを、麗景殿の、女宮だになどかおはしまさざらんと世とともに嘆き給に、此君のかくうつくしうて生まれ出給へれば、いみじうかなしうし奉り給てえはなち聞え給はねば、大将殿もいとよしとおぼして、女御の御事をもさるべきさまに後見聞え給へば、中宮の御有様のかたはら苦しげなめるにたち交りたるも、いと人わろき事多くはしたなき心地せしも、こよなく、さる方に心苦しき物に心寄せ仕うまつり給にぞ、何事ももて隠され給ける。  年月も過ぎかはりて、大殿御髪おろし給、右の大臣太政大臣になり給などして、大将殿左大臣になり給て関白し給。 宮の大納言、内大臣にて大将かけ給ふ。 若君たちも元服し給て、中将・少将とみな聞ゆめり。 帝もおりさせ給ひぬれば、春宮位につかせ給、二の宮坊にゐさせ給。 今の関白殿の四の君腹の大姫君、女御に参り給て藤壺にさぶらひ給。 うちつゞき、此麗景殿にて生ひ出給し姫君、春宮に女御に参り給ふ。 さま/゛\思ふさまにめでたく御心ゆくなかにも、内の大臣は、年月過ぎかはり世の中のあらたまるにつけても、思ひあはする方だになくてやみにし宇治の河波は、袖にかゝらぬ時の間なく、三位中将のおよすげ給まゝに、人よりことなる御さま・かたち・才のほどなどを見給につけては、いかばかりの心にて、これをかく見ず知らず跡を絶ちてやみなんと思ひ離れけんと思ふに、憂くもつらくも恋しくも、ひとかたならずかなしとや。 とりかへばや物語 終 2001.3.28 更新 [入力]竹内かおり [監修]萩原 義雄 陽明文庫蔵『とりかへばや物語』 資料は、岩波新日本古典文学大系26 校注、今井源衛・森下純昭・辛島正雄による翻刻本をもって電子入力 一文検索用に句点部分で適宜区切った。 長文には「∨」を入れ適宜区切った。