宇治拾遺物語   序  世に宇治拾遺物語といふ物あり。この大納言は隆国(たかくに)といふ人なり。西宮殿(にしのみやどの)の孫、俊賢(としたか)大納言の第二の男(なん)なり。としたこうなりては、暑さをわびて暇(いとま)を申して、五月(さつき)より八月(はつき)までは平等院(びやうどうゐん)一切経蔵(いつさいきやうぞう)の南の山ぎはに、南泉房(なんせんぼう)といふ所に籠(こも)りゐられけり。 さて、宇治大納言とは聞えけり。  髻(もとどり)を結(ゆ)ひわげて、をかしげなる姿にて、筵(むしろ)を板に敷きてすずみ居侍(いはべ)りて、大(おお)きなる打輪(うちわ)をもてあふがせなどして、往来(ゆきき)の者、上下をいはず呼び集め、昔物語をせさせて、我(われ)は内にそひ臥(ふ)して、語るにしたがひて大きなる双紙(さうし)に書かれけり。  天竺(てんじく)の事もあり、大唐(だいたう)の事もあり、日本の事もあり。それがうちに貴(とふと)きこともあり、きたなき事もあり、少々は空物語(そらものがたり)もあり、利口なる事もあり、様々(さまざま)やうやうなり。  世の人これを興じ見る。十四帖(でふ)なり。その正体は伝(つたは)りて、侍従(じじゆう)俊貞(としさだ)といひし人のものにとぞありける。いかになりにけるにか。後(のち)にさかしき人々書き入れたるあひだ、物語多くなれり。大納言より後の事書き入れたる本もあるにこそ。  さるほどに、今の世にまた物語書き入れたる出(い)で来(き)たれり。 大納言の物語にもれたるを拾ひ集め、またその後の事など書き集めたるなるべし。名を宇治拾遺物語といふ。宇治にのこれるを拾ふとつけたるにや。また侍従を拾遺といへば、宇治拾遺物語といへるにや。差別しりがたし。おぼつかなし。 一 道命於和泉式部許読経五条道祖神聴事[巻一・一]  今は昔、道命阿闍梨(あじやり)とて、傅殿(ふどの)の子に色に耽(ふけ)りたる僧ありけり。泉式部に通ひけり。経をめでたく読みけり。それが泉式部がり行きて臥(ふ)したりけるに、目覚めて経を心すまして読みける程に、八巻(やまき)読み果てて暁にまどろまんとする程に、人のけはひのしければ、「あれは誰(たれ)ぞ」と問ひければ、「おのれは五条西洞院(にしのとうゐん)の辺(ほとり)に候(さぶら)ふ翁(おきな)に候ふ」と答へければ、「こは何事ぞ」と道命いひければ、「この御経を今宵(こよひ)承りぬる事の、生々世々(しやうじやうせぜ)忘れがたく候ふ」といひければ、道命、「法華経を読み奉る事は常の事なり。など今宵しもいはるるぞ」といひければ、五条の齎(さい)日(いは)く、「清くて読み参らせ給ふ時は、梵天(ぼんてん)、帝釈(たいしやく)を始め、奉りて聴聞(てやうもん)せさえ給へば、翁(おきな)などは近づき参りて承るに及び候(さぶら)はず。今宵(こよひ)は御行水(ぎやうすい)も候はで読み奉らせ給へば、梵天(ぼんてん)、帝釈(たいしやく)も御聴聞候はぬひまにて、翁参り寄りて承りて候ひぬる事の忘れがたく候ふなり」とのたまひけり。  されば、はかなく、さは読み奉るとも、清くて読み奉るべき事なり。「仏念、読経(どきやう)、四威儀(しゐぎ)を破る事なかれ」と、恵心(ゑしん)の御坊(ごぼう)も戒め給ふにこそ。 二 丹波国篠村平茸生事[巻一・二]  これも今は昔、丹波国篠村といふ所に、年比(としごろ)、平茸やる方(かた)もなく多かりけり。里村の者これを取りて、人にも心ざし、また我も食ひなどして年比過ぐる程に、その里にとりて宗(むね)とある者の夢に、頭(かしら)をつかみなる法師どもの二十三人ばかり出(い)で来(き)て、「申すべき事」といひければ、「いかなる人ぞ」と問ふに、「この法師ばらは、この年比も宮仕(みやづかひ)よくして候ひつるが、この里の縁尽きて今はよそへまかり候ひなんずる事の、かつはあはれにも候ふ。また事の由(よし)を申さではと思ひて、この由を申すなり」といふを見て、うち驚きて、「これは何事ぞ」と妻や子やなどに語る程に、またその里の人の夢にもこの定(じやう)に見えたりとて、あまた同様に語れば、心も得で年も暮れぬ。  さて、次(つぐ)の年の九十月にもなりぬるに、さきざき出(い)で来(く)る程なれば、山に入りて茸を求むるに、すべて蔬(くさびら)大方(おほかた)見えず。いかなる事にかと、里(さと)国の者思ひて過ぐる程に、故仲胤僧都(ちゆういんそうづ)とて説法(せつぽふならびなき人いましけり。この事を聞きて、「こはいかに、不浄(ふじやう)説法する法師、平茸に生(ぬま)るといふ事のあるものを」とのたまひてけり。  されば、いかにもいかにも平茸は食はざらんに事欠くまじきものとぞ。 三 鬼に瘤とらるゝ事[巻一・三]  これも昔、右の顔に大きなる瘤ある翁(おきな)ありけり。大柑子(おほかうじ)の程なり。人に交じるに及ばねば、薪をとりて世を過ぐる程に、山の中に心にもあらずとまりぬ。また木こりもなかりけり。恐ろしさすべき方なし。木のうつほのありけるにはひ入りて、目も合はず屈(かが)まりゐたる程に、遥(はる)かより人の音多くして、とどめき来(く)る音す。いかにも山の中ただ一人(ひとり)ゐたるに、人のけはひのしければ、少しいき出づる心地して見出(みいだ)しければ、大方(おほかた)やうやうさまざまなる者ども、赤き色には青き物を着、黒き色には赤き物を褌(たふさぎ)にかき、大方目一つある者あり、口なき者など、大方いかにもいふべきにあらぬ者ども百人ばかりひしめき集まりて、火を天(てん)の目のごとくにともして、我がゐたるうつほ木の前にゐまはりぬ。大方いとど物覚えず。  宗(むね)とあると見ゆる鬼横座(よこざ)にゐたり。うらうへに二ならびに居並(ゐな)みたる鬼、数を知らず。その姿おのおの言ひ尽くしがたし。酒参らせ、遊ぶ有様、この世の人のする定(ぢやう)なり。たびたび土器(かはらけ)始りて宗(むね)との鬼殊(こと)の外(ほか)に酔(ゑ)ひたる様(さま)なり。末より若き鬼一人立ちて、折敷く(をしき)をかざして、何(なに)といふにか、くどきくせせる事をいひて、横座の鬼の前に練り出でてくどくめり。横座の鬼盃を左の手に持ちて笑(ゑ)みこだれたるさま、ただこの世の人のごとし。 舞うて入りぬ。次第に下より舞ふ。悪(あ)しく、よく舞ふもあり。 あさましと見る程に、横座にゐたる鬼のいふやう、「今宵(こよひ)の御遊びこそいつにもすぐれたれ。ただし、さも珍しからん奏(かな)でを見ばや」などいふに、この翁物の憑(つ)きたりけるにや、また然(しか)るべく神仏(かみほとけ)の思はせ給ひけるにや、「あはれ、走り出でて舞はばや」と思ふを、一度(いちど)は思ひ返しつ。それに何(なに)となく鬼どもがうち揚げたる拍子(ひやうし)のよげに聞えければ、「さもあれ、ただ走り出でて舞ひてん、死なばさてありなん」と思ひとりて、木のうつほより烏帽子(えぼし)は鼻に垂れかけたる翁の、腰に斧(よき)といふ木伐(き)る物さして、横座の鬼のゐたる前に踊(をど)り出でたり。この鬼ども踊りあがりて、「こは何(なに)ぞ」と騒ぎ合へり。翁(おきな)伸びあがり屈(かが)まりて、舞ふべき限り、すぢりもぢり、ゑい声を出(いだ)して一庭(ひとには)を走りまはり舞ふ。横座の鬼の曰(いは)く、「多くの年比(としごろ)この遊びをしつれども、いまだかかる者にこそあはざりつれ。今よりこの翁、かやうの御遊びに必ず参れ」といふ。翁申すやう、「沙汰(さた)に及び候(さぶら)はず、参り候ふべし。この度(たび)にはかにて納(をさ)めの手も忘れ候ひにたり。かやうに御覧にかなひ候はば、静かにつかうまつり候はん」といふ。横座の鬼、「いみじく申したり。必ず参るべきなり」といふ。奥の座の三番にゐたる鬼、「この翁はかくは申し候へども、参らぬ事も候はんずらんと覚え候ふに、質(しち)をや取らるべく候ふらん」といふ。横座の鬼、「然(しか)るべし、然るべし」といひて「何をか取るべき」と、おのおの言ひ沙汰(さた)するに、横座の鬼のいふやう、「かの翁が面(つら)にある瘤(こぶ)をや取るべき。瘤は福の物なれば、それをや惜(を)しみ思ふらん」といふに、翁がいふやう、「ただ目鼻をば召すとも、この瘤は許し給候はん。年比(としごろ)持ちて候ふ物を故(ゆゑ)なく召されん、すぢなき事に候ひなん」といへば、横座の鬼、「かう惜しみ申すものなり。ただそれを取るべし」といへば鬼寄りて、「さは取るぞ」とてねぢて引くに、大方(おほかた)痛き事なし。さて、「必ずこの度(たび)の御遊びに参るべし」とて暁に鳥など鳴きぬれば、鬼ども帰りぬ。翁顔を探るに、年比(としごろ)ありし瘤跡なく、かいのごひたるやうにつやつやなかりければ、木こらん事も忘れて家に帰りぬ。妻の姥(うば)「こはいかなりつる事ぞ」と問へば、しかじかと語る。「あさましきことかな」といふ。  隣にある翁、左の顔に大きなる瘤ありけるが、この翁、瘤の失せたるを見て、「こはいかにして瘤は失せ給ひたるぞ。いづのこなる医師(くすし)の取り申したるぞ。我に伝え給へ。この瘤取らん」といひければ、「これは医師(くすし)の取りたるにもあらず。しかじかの事ありて、鬼の鳥たるなり」といひければ「我(われ)その定(ぢやう)にして取らん」とて、事の次第をこまかに問ひければ、教えつ。この翁いふままにして、その木のうつほに入りて待ちければ、まことに聞くやうにして、鬼ども出(い)で来(き)たり。ゐまはりて酒飲み遊びて、「いづら、翁は参りたるか」といひければ、この翁恐ろしと思ひながら揺るぎ出でたれば、鬼ども「ここに翁参りて候(さぶら)ふ」と申せば、横座の鬼、「この度(度)はわろく舞うたり。かへすがへわろし。その取りたりし質(しち)の瘤(こぶ)返し賜(た)べ」といひければ、末(っゑ)つ方(かた)より鬼出で来て、「質の瘤返し賜(た)ぶぞ」とて、今片方(かたかた)の顔に投げつけたりければ、うらうへに瘤つきたる翁にこそなりたりけれ。物羨(ものうらや)みはすまじき事なりとか。 四 伴大納言事[巻一・四]  これも今は昔、伴大納言善男(よしお)は佐渡国郡司(さどのくにのぐんじ)が従者(ずさ)なり。かの国にて善男夢に見るやう、西大寺(さいだいじ)と東大寺とを胯げて立ちたりと見て、妻(め)の女にこの由(よし)を語る。妻(め)の曰(いは)く「そこの股(また)こそ裂かれんずらめ」と合わするに、善男驚きて、「よしなき事を語りてけるかな」と恐れ思ひて、主(しゆ)の郡司が家へ行き向ふ所に、郡司きはめたる相人(さうにん)なりけるが、日比(ひごろ)はさもせぬに殊(こと)の外(ほか)に饗応(きやうおう)して円座(わらうだ)取り出で、向ひて召しのぼせければ、善男あやしみをなして、「我をすかしのぼせて、妻のいひつるやうに股など裂かんずるやらん」と恐れ思ふ程に、郡司が曰く、「汝(なんぢ)やんごとなき高相(かうさう)の夢見てけり。それに、よしなき人に語りてけり。必ず大位(たいゐ)にはいたるとも、事出(い)で来(き)て罪を蒙(かぶ)らんぞ」といふ。  然(しか)る間(あひだ)、善男縁(えん)につきて京上(きやうのぼ)りして、大納言にいたる。されども猶(なほ)罪を蒙(かうぶ)る。郡司が言葉に違(たが)はず。 五 随求陀羅尼籠額法師事[巻一・五]  これも今は昔、人のもとに、ゆゆしくことごとしく斧(をの)を負ひ、法螺貝(ほらがひ)腰につけ、錫杖(しやくぢやう)つきなどしたる山伏(やまぶし)の、ことごとしげなる入り来て、侍(さむらい)の立蔀(たてじとみ)の内小庭(こには)に立ちけるを、侍(さぶらひ)、「あれはいかなる人御坊(ごばう)と問ひければ、「これは日比(ひごろ)白山(はくさん)に侍りつるが、御嶽(みたけ)へ参りて今二千日候(さぶら)はんと仕(つかまつ)り候ひつるが、斎料(ときれう)尽きて侍り。まかりあづからんと申しあげ給へ」といひて立てり。  見れば額(ひたひ)、眉(まゆ)の間の程に、髪際(かうぎは)に寄りて二寸ばかり傷(きず)あり。いまだなま癒(い)えにて赤みたり。侍問うていふやう、「その額の傷はいかなる事ぞ」と問ふ。山伏、いとたふとたふとしく声をなしていふやう、「これは随求陀羅尼を籠(こ)めたるぞ」と答ふ。侍の者ども、「ゆゆしき事にこそ侍れ。手足の指など切りたるはあまた見ゆれども、額(ひたひ)破りて陀羅尼籠めたるこそ見るとも覚えね」と言ひ合ひたる程に十七八ばかりなる小侍(こざむらひ)のふと走り出でて、うち見て、「あな、かたはらいたの法師や。なんでふ随求陀羅尼を籠めんずるぞ。あれは七条町に、江冠者(がうくわんじや)が家の大東(ひんがし)に鋳物師(いもじ)が妻をみそかみそかに入り臥(ふ)し入り臥しせし程に去年(こぞ)の夏入り臥したりけるに、男の鋳物師帰り合ひたりければ、取る物も取りあへず逃げて西へ走る。冠者が家の前程にて追いつめられて、金専(さひづゑ)して額(ひたひ)打ち破(わ)られたりしぞかし。冠者も見しは」といふを、あさましと人ども聞きて、山伏が顔を見れば、少しも事と思ひたる景色(けしき)もせず、少しまのししたるやうにて、「そのついでに籠めたるたるぞ」と、つれなういひたる時に、集れる人ども一度にはと笑ひたる粉れに逃げて住(い)にけり。 六 中納言師時法師の玉くきけんちの事[巻一・六]  これも今は昔、中納言法師といふ人おはしけり。その御もとに、殊(こと)の外(ほか)に色黒き墨染(すみぞめ)の衣の短きに、不動袈裟(ふどうげさ)といふ袈裟(けさ)掛けて、木攣子(もくれんじ)の念珠(ねんず)の大(おほ)きなる繰りさげたる聖法師(ひじりほふし)入り来て立てり。中納言、「あれは何する僧ぞ」と尋ねらるるに、殊(こと)の外(ひか)に声をあはれげなして、「仮の世にはかなく候(さぶら)ふを忍びがたくして、無始(むし)よりこのかた生死(しやうじ)に流転(るてん)するは、詮(せん)ずる所煩悩(ぼんなう)に控へられて、今にかくてうき世をを出(い)でやらぬこそ。これを無益(むやく)なりと思ひとて、煩悩を切り捨てて、ひとへにこの度(たび)生死の堺(さかひ)を出でなんと思ひ取りたる聖人(しやうにん)に候ふ」といふ。中納言、「さて煩悩を切り捨つとはいかに」と問ひ給へば、「くは、これを御覧ぜよ」といひて衣の前をかき上げて見すれば、まことにまめやかのはなくて、ひげばかりあり。 「こは不思議の事かな」見給ふほどに、下(しも)にさがりたる袋の、殊の外に覚えて、「人やある」と呼び給へば、侍(さぶらひ)二三人出(い)で来(き)たり。中納言、「その法師引き張れ」とのたまえば、聖(ひじり)まのしをして阿弥陀仏(あみだぶつ)申して、「とくとくいかにしも給へ」といひて、あはれげなる顔気色(かほへしき)をして、足をうち広げてあろねぶりたるを、中納言、「足を引き広げよ」とのたまえば、二三人寄り引き広げつ。さて小侍(こざむらひ)の十二三ばかりなるがあるを召し出でて、「あの法師の股(また)の上を手を広げて上(あ)げ下(おろ)しさすれ」とのたまへば、そのままにふくらかなる手して上げ下しさする。とばかりある程に、この聖まのしをして、「今はさておはせ」といひけるを、中納言、「よげになりにたり。たださすれ。それそれ」とありければ、聖、「さま悪しく候ふ。いまはさて」といふを、あやにくにさすり伏せける程に、毛の中より松茸(まつたけ)の大(おほ)きやかなる物のふらふらと出で来て、腹にすはすはと打ちつけたり。中納言を始めて、そこら集ひたる者ども諸声(もろごゑ)に笑ふ。聖もい手を打ちて臥(ふ)し転び笑ひけり。  はやう、まめやかものを下(した)の袋へひねり入れて、続飯(そくひ)にて毛を取りつけてさりげなくして人を謀(はか)りて物を乞(こ)はんとしたりけるなり。狂惑(わうわく)の法師にてありける。 七 竜門聖鹿にかはらんとす[巻一・七]  大和国(やまとのくに)に竜門といふ所に聖ありけり。住みける所を名にて竜門の聖とぞいひける。その聖の親しく知りたりける男の、明け暮れ鹿(しし)を殺しけるに、照射(ともし)といふ事をしける比(ころ)いみじう暗かりける夜、照射(ともし)に出でにけり。  鹿(しし)を求め歩(あり)く程に、目を合せたりければ、「鹿ありけり」とて押しまはし押しまはしするに、たしかに目を合せたり。矢比(やごろ)にまはしとりて、火串(ほぐし)に引きかけて、矢をはげて射んとて弓りたて見るに、この鹿の目の間(あひ)の、例の鹿の目のあはひよりも近くて目の色も変りたりければ、あやしと思ひて、弓を引きさしてよく見けるに、なほあやしかりければ、箭(や)を外(はづ)して火取りて見るに、「鹿の目にはあらぬなりけり」と見て、「起きばや起きよ」と思ひて。近くまはし寄せて見れば、身は一定(いちぢやう)の皮にてあり。「なほ鹿(しし)なり」とて、また射んとするに、なほ目のあらざりければ、ただうちに寄せて見るに、法師の頭(かしら)に見なしつ。「こはいかに」と見て、おり走りて火うち吹きて、「ししをり」とて見れば、この聖目打ちたたきて鹿の皮を引き被(かづ)きてそひ臥(ふ)し給へり。  「こはいかに、かくてはおはしますぞ」といへば、ほろほろと泣きて、「わ主(ぬし)が制する事を聞かず、いたくこの鹿を殺す。我(われ)鹿に代りて殺されなば、さりとも少しはとどまりなんと思へば、かくて射られんとして居(を)るなり。口惜(くちを)しう射ざりつ」とのたまふに、この男臥し転(まろ)び泣きて、「かくまで思(おぼ)しける事をあながちにし侍りける事」とて、そこにて刀を抜きて、弓たち切り、胡(やなぐひ)みな折りくだきて髻(もとどり)切りてやがて聖に具(ぐ)して法師になりて、聖のおはしけるが限り聖に使はれて、聖失せ給ひければ、またそこにぞ行ひてゐたりけるとなん。 八 易の占金取出事[巻一・八]  旅人の宿求めけるに、大(おほ)きやかなる家の、あばれたるがありけるによりて、「ここに宿し給ひてんや」といへば、女声にて「よき事、宿り給へ」といへば、皆おりゐにけり。屋大きなれども人のありげもなし。ただ女一人ぞあるけはひしける。  かくて夜明けにければ、物食ひしたためて出(い)でて行くを、この家にある女出で来て、「え出でおはせじ。とどまり給へ」といふ。「こはいかに」と問へば、「おのれが金(こがね)千両を負ひ給へり。その弁(わきま)へしてこそ出で給はめ」といへば、この旅人従者(ずんさ)ども笑ひて、「あら、しや、ざんなめり」といへば、この旅人、「しばし」といひて、またおりゐて、皮籠(かわご)を乞(こ)ひ寄せて幕(まく)引きめぐらして、しばしばかりありて、この女を呼びければ、出で来(き)にけり。  旅人問ふやうは、「この親はもし易(えき)のうらといふ事やせられし」と問へば、「いさ、さ侍りけん。そのし給ふやうなる事はしき給ひき」といへば「さるなる」といひて、「さても何事にて千両の金負ひたる、その弁(わきま)へせよとはいふぞ」と問へば、「おのれが親の失せ侍りし折に、世の中にあるべき程の物など得させ置きて申ししやう、『今なん十年ありてしに月にここに旅人来て宿らんとす。その人は我が金を千両負ひたる人なり。それにその金を乞ひて、耐へがたからん折は売りて過ぎるよ』と申ししかば、今までは親の得させて侍りし物を少しづつも売り使ひて、今年(ことし)となりては売るべき物も侍らぬままに、『いつしか我が親のいひし月日の、とく来(こ)かし』と待ち侍りつるに、今日(けふ)に当りてあはして宿り給へれば、『金負ひ給へる人なり』と思ひて申すなり」といへば、「金の事はまことなり。さる事あるらん」とて女を片隅(かたすみ)に引きて行(ゆ)きて、人にも知らせで柱を叩(たた)かすれば、うつほなる声のする所を、「くは、これが中にのたまふ金はあるぞ。明けて少しづつ取り出でて使ひ給へ」と教へて出でて往(い)にけり。  この女の親の、易のうらの上手にて、この女の有様を勘(かんが)へけるに、「今十年ありて貧しくならんとす。その月日、易の占(うらな)ひする男来て宿らんずる」と勘へて、「かかる金あると告げては、まだしきに取り出でて使ひ失ひては、貧しくならん程に使ふ物なくて惑ひなん」と思ひて、しか言ひ教え、死にける後にも、この家をも売り失はずして今日を待ちつけて、この人をかく責めければ、これも易の占ひする者にて、心得て占ひ出(いだ)して教へ、出でて往にけるなりけり。  易のうらは、行(ゆ)く末(すゑ)を掌(たなごころ)の中のやうに指(さ)して知る事にてありけるなり。 九 宇治殿たをれさせ給て実相房僧正に召事[巻一・九]  これも今は昔、高陽院(かやのゐん)造らるる間、宇治殿御騎馬(おんなりうま)にて渡らせ給ふ間(あひだ)、倒れさせ給ひて心地違(たが)はせ給ふ。心誉僧正(しんよそうじやう)に祈られんとて召しに遣はす程に、いまだ参らざる先に、女房の局(つぼね)なる女に物憑(ものつ)きて申して曰(いは)く、「別(べち)の事にあらず。きと目見入れ奉るによりてかくおはしますなり。僧正参られざる先に、護法(ごほふ)先だちて参りて追ひ払ひ候(さぶら)へば、逃げをはりぬ」とこそ申しけれ。即(すなは)ち、よくならせ給ひにけり。心誉僧正いみじかりけるとか。 一〇 秦兼久向通俊卿許悪口事[巻一・一〇]  今は昔、治部卿(ぢぶきやう)通俊卿、御拾遺(ごしふゐ)を撰(えら)ばれける時、秦兼久行き向ひて、「おのづから歌などや入る」と思ひてうかがひけるに、治部卿出でゐて物語して、「いかなる歌か詠みたる」といはれければ、「はかばかしき候(さぶら)はず。後三条院かくれさせ給ひて後(のち)、円宗寺(ゑんしゆうじ)に参り候ひしに、花の匂いは昔にも変わらず侍りしかば、つかうまつりて候ひしなり」とて、   「去年(こぞ)見しに色もかはらず咲きにけり花こそものは思はざりけれ とこそつかうまつりて候ひしか」といひければ、通俊の卿、「よろしく詠みたり。ただし、けれ、けり、けるなどいふ事は、いとしもなきことばかり。それはさることにて、花こそといふ文字こそ女(め)の童(わらは)などの名にしつべけれ」とて、いともほめられざりければ、言葉少なに立ちて、侍(さぶらひ)どもありける所に、「この殿は大方(おほかた)歌の有様知り給はぬにこそ。かかる人の撰集(せんじふ)承りておほするはあさましき事かな。四条大納言歌に、    春来てぞ人も訪(と)ひける山里は花こそ宿(やど)のあるじなりけれ と詠み給へるは、めでたき歌とて世の人口(ひとぐち)にのりて申すめるは。その歌に、『人の訪(と)ひける』とあり、また、『宿のあるじなりけれ』とあめるは。『花こそ』といひたるは、それには同じさまなるに、いかなれば四条大納言のはめでたく、兼久がはわろかるべきぞ。かかる人の撰集承りて撰(えら)び給ふ、あさましき事なり」といひて出でにけり。  侍(さぶらひ)、通俊のもとけ行きて、「兼久こそかうかう申して出でぬれ」と語りければ、治部卿(ぢぶきやう)うち頷きて、「さりけり、さりけり。物ないひそ」といはれけり。 一一 源大納言雅俊一生不犯金打せたる事[巻一・一一]  これも今は昔、京極(きようごく)の源大納言雅俊といふ人おはしけり。仏事(ぶつじ)をせられけるに、仏前にて僧に鐘を打たせて、一生不犯(いっしやうふぼん)なるを選びて講(かう)を行はれけるに、ある僧の礼盤(らいばん)上(のぼ)りて、少し顔気色(かほげしき)違(たが)ひたるやうになりて、撞木(しもく)を取りて振りまわして打ちもやらでしばしばかりありければ、大納言、いかにと思はれける程に、やや久しく物もいはでありければ、人どもおぼつかなく思ひける程に、この僧わななきたる声にて、「かはつるみはいかが候(さぶら)ふべき」といひたるに、諸人(しよにん)頤(おとがひ)を放ちて笑ひたるに、一人(ひとり)の侍(さぶらひ)ありて、「かはつるみはいくつばかりにて候ひしぞ」と問ひたるに、この僧、首をひねりて、「きと夜部(よべ)もして候ひき」といふに、大方(おおかた)とよみあえり。その紛れに早う逃げにけりぞと。 一二 児のかいもちするに空寝したる事[巻一・一二]  これも今は昔、比叡(ひえ)の山に児(ちご)ありけり。僧たち宵(よひ)のつれづれに、{いざ掻餅(かいもちひ)せん」といひけるを、この児心寄せに聞きけり。「さりとて、し出(いだ)さんを待ちて寝ざらんもわろかりなん」と思ひて、片方(かたかた(に寄りて、寝たる由(よし)にて出(い)で来(く)るを待ちけるに、すでにし出(いだ)したるさまにて、ひしめき合ひたり。  この児、「定めて驚かさんずらん」と待ちゐたるに、僧の、「物申し候(さぶら)はん。驚かせ給へ」といふを、うれしとは思へども、「ただ一度にいらへんも、待ちけるかともぞ思ふ」とて、「今一声(ひとこゑ)呼ばれていらん」と念じて寝たる程に、「や、な起し奉りそ。幼き人は寝入り給ひにけり」といふ声のしければ、あなわびしと思ひて、「今一度起せかし」と思ひ寝に聞けば、ひしひしとただ食ひに食ふ音のしければ、すべなくて、無期(むご)の後(のち)に、「えい」といらへたりければ、僧たち笑ふ事限りなし。 一三 田舎児桜散みて泣事[巻一・一三]  これも今は昔、田舎の児(ちご)比叡(ひえ)の山へ登りたりけるが、桜のめでたく咲きたりけるに、風のはげしく吹きけるを見て、この児さめざめと泣きけるを見て、僧のやはら寄りて、「などかうは泣かせ給ふぞ。この花の散るを惜(お)しう覚えさせ給ふか。桜ははかなきものにて、かく程なくうつろひ候(さぶら)ふなり。されどもさのみぞ候ふ」と慰めければ、「桜の散らんはあながちにいかがせん、苦しからず。我(わ)が父(てて)の作りたる麦の花散りて実(み)の入らざらん思ふがわびしき」といひて、さくりあげて、よよと泣きければ、うたてしやな。 一四 小藤太聟におどさる[巻一・一四]  これも今は昔、源大納言定房(さだふさ)といひける人のもとに、小藤太といふ侍(さぶらひ)ありけり。やがて女房にあひ具(ぐ)してぞありける。むすめの女房にてつかはれけり。この小藤太は殿の沙汰(さた)をしければ、三とほり四とほりに居広げてぞありける。この女(むすめ)の女房になまりやうけしの通ひけるありけり。宵(よひ)に忍びて局(つぼね)へ入りにけり。 暁より雨降りて、え帰らで臥(ふ)したりけり。  この女(むすめ)は女房は上(うへ)へのぼりにけり。この聟(むこ)の君、屏風(ひやうぶ)を立てまはして寝たりける。春雨いつとなく降りて、帰るべきやうもなく臥したりけるに、この舅(しうと)の小藤太、「この舅の君つれづれにておはすらん」とて、肴(さかな)折敷(をりしき)に据ゑて待ちて、今片手に提(ひさげ)に酒を入れて、「縁より入らんは人見つべし」と思ひて、奥の方(かた)よりさりげなくて持て行くに、この舅の君は衣(きぬ)を引き被(かず)きてのけざまに臥したりけり。「この女房のとく下(お)りよかし」と、つれづれに思ひて臥したりける程に、奥の方(かた)より遣戸をあけければ、「疑ひなくこの女房の上(うへ)より下(お)るるぞ」と思ひて、衣(きぬ)をば顔に被(かづ)きながら、あの物をかき出して腹をそらして、けしけしと起しければ、小藤太おびえてなけされかへりけるほどに、肴もうち散らし、酒もさながらうちこぼして、大ひさげをささげて、のけざまに臥して倒れたり。頭(かしら)を荒う打ちて眩(まく)入りて臥せりけりとか。 一五 大童子鮭ぬみたる事[巻一・一五]  これも今は昔、越後国(ゑちごのくに)より鮭を馬に負ほせて、廿駄(だ)ばかり粟田口(あはたぐち)より京へ追ひ入れけり。それに粟田口の鍛冶(かぢ)がゐたる程に、頂(いただきは)禿げたる大童子のまみしぐれて物むつかしう重らかにも見えぬが、この鮭の馬の中に走り入りにけり。道は狭(せば)くて、馬何(なに)かとひしめきける間、この大童子走り添ひて、鮭を二つ引き抜きて懐(ふところ)へ引き入れてんげり。さてさりげなくて走り先だちけるを、この鮭に具(ぐ)したる男見てけり。走り先だちて、童(わらわ)の項(たてくび)を取りて引きとどめていふやう、「わ先生(せんじやう)はいかでこの鮭を盗むぞ」といひければ、大童子、「さる事なし。何を証拠(しようこ)にてかうはのたまうぞ。わ主(ぬし)が取りて、この童に負ほするなり」といふ。かくひしめく程に上(のぼ)り下(くだ)る者市をなして行きもやらで見合いたり。  さる程に、この鮭綱丁(かうちよう)、「まさしくわ先生取りて懐に引き入れつ」といふ。大童子はまた、「わ主こそ盗みつれ」といふ時に、この鮭(さけ)につきたる男、「栓ずる所、我も人の懐(ふところ)見ん」といふ。大童子(だいどうじ)、「さまでやはあるべき」などいふ程に、この男袴(はかま)を脱ぎて、懐(ふところ)を広げて、「くは、見給へ」といひて、ひしひしとす。  さて、この男、大童子につかみつきて、「わ先生(せんじやう)、はや物脱ぎ給へ」といへば、童(わらは)、「さま悪しとよ、さまであるべき事か」といふを、この男、ただ脱がせに脱がせて前を引きあけたるに、腰に鮭を二つ腹に添えてさしたり。男、「くはくは」といひて引き出(いだ)したる時に、この大童子うち見て、「あはれ、もつたいなき主かな。こがやうに裸になしてあさらんには、いかなる女御(にようご)、后(きさき)なりとも、腰に鮭の一二尺なきやうはありなんや」といひければ、そこら立ち止(どま)りて見ける者ども、一度にはつと笑ひけるとか。 一六 尼地蔵み奉る事[巻一・一六]  今は昔、丹後国(たんごのくに)老尼ありけり。地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)は暁ごとに歩(あり)き給ふといふ事をほのかに聞きて、暁ごとに地蔵見奉らんとて、ひと世界惑ひ歩(あり)くに、博打(ばくうち)の打ちほうけてゐたるが見て、「尼君は寒きに何(なに)わざし給ふぞ」といへば、「地蔵菩薩の暁に歩(あり)き給ふなるに、あひ参らせんとて、かく歩(あり)くなり」といへば、「地蔵の歩(あり)かせ給ふ道は我こそ知りたれば、いざ給へ、あはせ参らせん」といへば、「あわれ、うれしき事かな。地蔵の歩(あり)かせ給はん所へ我を率(ゐ)て奉らん」といへば「我に物を得させ給へ。やがて率(ゐ)て奉らん」といひければ、「この着たる衣(きぬ)奉らん」といへば、「いざ給へ」とて隣なる所へ率(ゐ)て行(ゆ)く。  尼悦(よろこ)びて急ぎ行くに、そこの子にぢざうといふ童(わらは)ありけるを、それが親を知りたりけるによりて、「ぢざうは」と問ひければ、親、「遊びに徃(い)。今来(き)なん」といへば、「くは、ここなり。ぢざうのおはします所は」といへば、尼、うれしくて紬(つむぎ)の衣(きぬ)を脱ぎて取らすれば、博打(ばくち)は急ぎて取りて徃む。  尼は「地蔵見参らせん」とてゐたれば、親どもは心得ず、「などこの童を見んと思ふらん」と思ふ程に、十ばかりなる童の来たるを、「くは、ぢざう」といへば、尼(あま)見るままに是非(ぜひ)も知らず臥(ふ)し転(まろ)びて拝(をが)み入(い)りて土にうつぶしたり。童(わらわ)、木若(すはえ)を持(も)て遊びけるままに来たりけるが、その木若して手すさびのやうに額(ひたひ)をかけば、額より顔の上まで裂けぬ。裂けたる中よりえもいはずめでたき地蔵の御顔見え給ふ。尼拝み入りてうち見あげたれば、かくて立ち給へれば、波だを流して拝み入り参らせて、やがて極楽(ごくらく)へ参りけり。  されば心にだにも深く念じつれば、仏も見え給ふなりけりと信ずべし。 一七 修行者百鬼夜行にあふ事[巻一・一七]  今は昔、修行者のありけるが、津国(つのくに)まで行きたりけるに日暮れて、竜泉寺(りゆうせんじ)とて大(おお)きなる寺の古(ふ)りたるが人もなきありけり。これは人宿らぬ所といへども、そのあたりにまた宿るべき所なかりければ、いかがせんと思ひて、笈(おひ)打ちおろして内に入りてけり。  不動の呪(じゆ)を唱へてゐたるに、「夜中ばかりにやなりぬらん」と思ふう程に、人々の声あまたして来る音すなり。見れば、手ごとに火をともして、百人ばかりこの堂の内に来集(つど)ひたり。近くて見れば、目一つつきたりなどさまざまなり。人にもあらず、あさましき者どもなりけり。あるいは角(つの)生ひたり。頭もえもいはず恐ろしげなる者どもなり。恐ろしと思へども、すべきやうなくてゐたれければ、おのおのみなゐぬ。一人(ひとり)ぞまた所もなくてえゐずして、火をうち振りて我をつらつらと見ていふやう、「我(わ)がゐるべき座に新しき不動尊こそゐ給ひたれ。今夜ばかりは外(ほか)におはせ」とて、片手して我(われ)を引きさげて堂の縁の下に据ゑつ。さる程に、「暁になりぬ」とて、この人々ののしりて帰りぬ。 「まことにあさましく恐ろしかりける所かな、とく夜の明けよかし。徃(い)なん。と思ふに、からうじて夜明けたり。うち見まはしたれば、ありし寺もなし。はるばるとある野の来(こ)し方(かた)も見えず。人の踏み分けたる道も見えず。行くべき方(かた)もなければ、あさましと思ひてゐたる程に、まれまれ馬に乗りたる人どもの、人あまた具(ぐ)して出(い)来たり。いとうれしくて、「ここはいづくとか申し候(さぶら)ふ」と問へば、「などかくは問ひ給ふぞ。肥前国(ひぜんのくに)ぞかし」といへば、「あさましきわざかな」と思ひて、事のさま詳しくいへば、この馬なる人も「いと希有(けう)の事かな」肥前国にとりてもこれは奥の郡なり。これは御館(みたち)へ参るなり。といへば、修行者悦(よろこ)びて、「道も知り候はぬに、さらば道までも参らん」といひて行きければ、これより京へ行くべき道など教へければ、舟尋ねて京へ上(のぼ)りにけり。 さて人どもに、「かかるあさましき事こそありしか。津国(つのくに)の竜泉寺(りゆうせんじ)といふ寺に宿りたりしを、鬼どもの来て『所狭い(ところせば)し』とて、『新しき不動尊、しばし雨だりにおはしませ』といひて、かき抱(いだ)きて雨だりについ据(す)ゆと思ひしに、肥前国の奥の郡にこそゐたりしか。かかるあさましき事にこそあひたりしか」とぞ、京に来て語りけるとぞ。 一八 利仁芋粥事[巻一・一八]  今は昔、利仁の将軍の若かりける時、その時の一(いち)の人の御許(もと)に恪勤(かくご)して候(さぶら)ひけるに、正月に大饗(だいきやう)せられけるに、そのかみは、大饗果てて、とりばみといふ者を払ひて入れずして、大饗のおろし米(ごめ)とて給仕したる恪勤の者どもの食ひけるなり。その所に年比(としごろ)になりて給仕したる者の中には、所得(ところえ)たる五位ありけり。そのおろし米の座にて、芋粥(いもがゆ)すすりて舌打(したうち)をして、「あはれ、いかで芋粥に飽かん」といひければ、利仁これを聞きて、「大夫殿(たいふどの)、いまだ芋粥に飽かせ給はずや」と問ふ。五位、「いまだ飽き侍らず」といへば、「飽かせ奉りてんかし」といへば、「かしこく侍らん」とてやみぬ。  さて四五日ばかりありて曹司(ざうし)住(ず)みにてありける所へ利仁(としひと)来ていふやう、「いざさせ給へ、湯浴(あ)みに。大夫殿」といへば、「いとかしこき事かな。今宵(こよひ)身の痒(かゆ)く侍りつるに。乗物こそは侍らね」といへば、「ここにあやしの馬具(ぐ)して侍り」といへば、「あなうれし、うれし」といひて、薄綿(うすわた)の衣(きぬ)二つばかりに、青鈍(あをにび)の指貫(さしぬき)の裾(すそ)破(や)れたるに、同じ色の狩衣(かりぎぬ)の肩少し落ちたるに、したの袴(はかま)も着ず。鼻高なるものの、先は赤みて穴のあたり濡ればみたるは、洟(すすばな)をのごはぬなめりと見ゆ。狩衣の後(うし)ろは帯に引きゆがめられたるままに、ひきも繕(つくろ)はねば、いみじう見苦し。をかしけれども、先い立てて、我も人も乗りて川原ざまにうち出でぬ。五位の供には、あやしの童(わらは)だになし。利仁が供には、調度(てうど)懸(か)け、舎人(とねり)、雑色(ざふしき)一人(ひとり)ぞありける。川原うち過ぎて、粟田口(あはたぐち)にかかるに、「いづくへぞ」と問へば、ただ、「ここぞ、ここぞ」とて、山科(やましな)も過ぎぬ。「こはいかに。ここぞ、ここぞとて、山科も過(すぐ)しつるは」といへば、「あしこ、あしこ」とて関山(せきやま)も過ぎぬ。「ここぞ、ここぞ」とて、三井寺に知りたる僧のもとに行(い)きたれば、「ここに湯沸かすか」と思ふだにも、「物狂ほしう遠かりけり」と思ふに、ここにも湯ありげもなし。「いづら、湯は」といへば、「まことは敦賀(つるが)へ率(ゐ)て奉るなり」といへば、「物狂ほしうおはしける。京にてさとのたまはましかば、下人(げにん)なども具(ぐ)すべかりけるを」といへば、利仁あざ笑ひて、「利仁一人侍らば、千人と思(おぼ)せ」といふ。かくて物など食ひて急ぎ出でぬ。そこにて利仁胡篆(やなぐひ)取りて負ひける。  かくて行く程に、三津(みつ)の浜に狐の一つ走り出でたるをみて、「よき使ひ出(い)で来(き)たり」とて、利仁狐をおしかくれば、狐身を投げて逃ぐれども、追ひ責められて、え逃げず。落ちかかりて、狐の後足(しりあし)を取りて引きあげつ。乗りたる馬、いとかしこしとも見えざりつれども、いみじき逸物(いちもつ)にてありければ、いくばくも延(の)ばさずして捕へたる所に、この五位走らせて行(い)き着きたれば、狐を引きあげていふやうは、「わ狐、今宵のうちに利仁が家の敦賀にまかりていはむやうは、『にはかに客人(まらうど)を具(ぐ)し奉りて下るなり。明日(あす)の巳(み)の時に高嶋辺にをのこども迎へに、馬に鞍(くら)置きて二疋(ひき)具(ぐ)してまうで来(こ)』といへ。もしいはぬものならば。わ狐、ただ試みよ。狐は変化(へんげ)ありものなれば、今日(けふ)のうちに行き着きていへ」とて放てば、「荒涼(くわうりやう)の使ひかな」といふ。「よし御覧ぜよ。まからではよにあらじ」といふに、早く狐、見返し見返しして前に走り行く。「よくまかりめり」といふにあはせて走り先だちて失(う)せぬ。  かくてその夜は道にとまりて、つとめてとく出(い)で行くほどに、まことに巳(み)のときばかりに三十騎ばかりこりて来(く)るあり。何(なに)にかあらんと見るに、「をのこどもまうで来たり」といへば、不定(ふぢやう)の事かな」といふ程に、ただ近(ちか)に近くなりてはらはらとおるる程に、「これを見よ。まことにおはしたるは」といへば、利仁(としひと)うちひひゑみて、「何事ぞ」と問ふ。おとなしき朗等(らうどう)進み着て、「希有(けう)の事候(さぶら)ひつるなり」といふ。まづ、「馬はありや」といへば、「二疋(ひさ)候ふ」といふ。食物(くひもの)などして来ければ、その程におりゐて食ふつひでに、おとなしき朗等のいふやう、「夜部(よべ)、希有の事候ひしなり。戌(いぬ)の時ばかりに、台盤所(だいばんどころ)の胸をきりきりて病(や)ませ給ひしかば、いかなる事にかとて、にはかに僧召さんなど騒がせ給ひし程に、手づから仰(おほ)せ候ふやう、「何か騒がせ給ふ。をのれは狐なり。別(べち)の事なし。この五日、三津(みつ)の浜にて殿の下(くだ)らせ給ひつるにあひ奉りたりつるに、逃げつれど、え逃げで捕へられ奉りたりつるに『今日(けふ)のうちに我が家に行き着きて、客人(まらうど)具し奉りてなん下(くだ)る。明日(あす)巳(み)の時に、馬二つに鞍(くら)置きて具して、をのこども高嶋の津に参りあへといへ。もし今日(けふ)のうちに行き着きていはずは、からき目見せんずるぞ』と仰せられつるなり。をのこどもとくとく出で立ちて参れ。遅く参らば、我は勘当(かんだう)蒙(かうぶ)りなんと怖(お)ぢ騒がせ給ひつれば、をのこどもに召し仰せ候ひれば、例ざまにならせ給ひにき。その後(のち)鳥とともに参り候ひつるなり。といへば、利仁うち笑(ゑ)みて五位に見合(みあは)すれば、五位あさましと思ひたり。物など食い果てて、急ぎ立ち暗々(くらぐら)に行き着きぬ。「これを見よ。まことなりけり」とあさみ合ひたり。  五位は馬よりおりて家のさまを見るに、賑(にぎは)はしくめでたき事物のも似ず。もと着たる衣(きぬ)が上に利仁が宿衣(とのゐもの)を着せたれども、身の中(うち)しすきたるべければ、いみじう寒げに思ひたるに、長炭櫃(ながすびつ)に火を多うおこしたり。畳厚らかに敷きて、くだ物、食物(くひもの)し設けて、楽しく覚ゆるに、「道の程寒くおはしつらん」とて練色(ねりいろ)の衣(きぬ)の綿厚らかなる、三つ引き重ねて持(も)て来てうち被(おほ)ひたるに、楽しとはおろかなり。物食ひなどして事しづまりたるに舅(しうと)の有仁出(い)で来(き)いふやう、「こはいかでかくは渡らせ給へるぞ。これにあはせて御使(つかひ)のさま物狂ほしうて、上(うへ)にはかに病(や)ませ奉り給ふ。希有(けう)の事なり」といへば、利仁うち笑ひて、「物の心みんと思ひてしたりつる事を、まことにまうで来て告げて侍るにこそあなれ」といへば舅も笑ひて、「希有の事なり」といふ。「具(ぐ)し奉らせ給ひつらん人は、このおはします殿の御事か」といへば、「さりに侍り。『芋粥(いもがゆ)にいまだ飽かず』と仰せらるれば、飽かせ奉らんとて、率(ゐ)て奉りたる」といへば、「やすき物のもえ飽かせ給はざりけるかな」とて戯(たはぶ)るれば、五位、「東山に湯沸(わ)かしたりとて、人をはかり出(い)でて、かくのたまふなり」など言ひ戯れて、夜少し更(ふ)けぬれば舅も入りぬ。  寝所(ねどころ)と思(おぼ)しき所に五位入りて寝(ね)んとするに、綿四五寸ばかりある宿衣(とのゐもの)あり。我がもとの薄綿はむつかしう、何(なに)のあるにか痒(かゆ)き所も出で来る衣(きぬ)なれば、脱ぎ置きて、練色(ねりいろ)の衣(きぬ)三つが上にこの宿衣(とのゐもの)引き着ては臥(ふ)したる心、いまだ習はぬに気(き)もあげつべし。汗水(あせみず)にて臥したるに、また傍(かたは)らに人のはたらけば「誰(た)そ」と問へば、『「御足(みあし)給へ』と候(さぶら)へば、参りつるなり」といふ。けはひ憎からねば、かきふせて風の透(す)く所に臥せたり。  かかる程に、物高くいふ声す。何事ぞと聞けば、をのこの叫びていふやう、「この辺の下人(げにん)承れ。明日(あす)の卯(う)の時に、切口(きりくち)三寸、長さ五尺の芋、おのおの一筋(すぢ)づつ持(も)て参れ」といふなりけり。「あさましうおほのかにもいふものかな」と聞きて、寝入りぬ。  暁方(あかつきかた)に聞けば、庭に筵(むしろ)敷く音のするを、「何(なに)わざするにかあらん」と聞くに、小屋当番(こやたうばん)より始めて起き立ちてゐたる程に、蔀(しとみ)あけたるに見れば長筵(ながむしろ)をぞ四五枚敷きたる。「何の料(れう)にかあらん」と見る程に、下種男(けすをとこ)の、木のやうなる物肩にうち掛けて来て一筋置きて往(い)ぬ。その後(のち)うち続き持(も)て来つつ置くを見れば、まことに口(くち)三寸ばかりなるを、一筋づつ持て来て置くとすれど、巳(み)の時まで置きければ、ゐたる屋と等しく置きなしつ。夜部(よべ)叫びしは、はやうその辺にある下人(げにん)の限りに物いひ聞かすとて、人呼びの岡(をか)とてある塚(つか)の上にていふなり。ただその声の及ぶ限りのめぐりの下人の限り持て来るにだにさばかり多かり。まして立ち退(の)きたる従者(ずさ)どもの多さを思ひやるべし。あさましと見たる程に、五石(ごこく)なはの釜(かま)を五つ六つ担(か)き持(も)て来て、庭に杭(くひ)ども打ちて据ゑ渡したり。「何(なん)の料(れう)ぞ」と見る程に、しほぎぬの襖(あを)といふもの着て帯して、若やかにきたなげなき女どもの、白く新しき桶(をけ)の水を入れて、この釜どもにさくさくと入る。「何(なに)ぞ、湯沸かすか」と見れば、この水と見るはみせんなりれり。若きをのこどもの、袂(たもと)より手出(いだ)したる、薄らかなる刀の長やかなる持たるが、十余人ばかり出て来て、この芋(いも)をむきつつ透(す)き切(き)りに切れば、「はやく芋粥(いもがゆ)煮るなりけり」と見るに、食(く)ふべき心地もせず、かへりては疎ましくなりにけり。  さらさらとかへらかして、「芋粥出(い)でまうで来にたり」といふ。「参らせよ」とて、まづ大(おほ)きなる土器(かはらけ)具(ぐ)して、金(かね)の提(ひさげ)の一斗(とう)ばかり入りぬべきに三つ四つに入れて、「かつ」とて持(も)て来るに、飽きて一盛(ひとも)りをだにえ食はず。「飽きにたり」といへば、いみじう笑ひて集まりゐて「客人(まらうど)殿の御徳に芋粥食ひつ」と言ひ合へり。かやうにする程に、向かひの長屋の軒(のき)に狐のさし覗きてゐたるを利仁見つけて、「かれ御覧ぜよ。候(さぶら)ひし狐の見参(げざん)するを」とて、「かれに物食はせよ」といひければ食はするにうち食ひてけり。  かくて万(よろづ)の事、たのもしといへばおろかなり。一月ばかりありて上(のぼ)りけるに、けをさめの装束(さうぞく)どもあまたくだり、またただの八丈、綿、絹など皮籠(かはご)どもに入れて取らせ、初めの夜の宿衣(とのゐ)ものはた更なり。馬に鞍(くら)置きながら取らせてこそ送りけれ。  きう者なれども、所につけて年比(としごろ)になりて許されたる者は、さる者のおのづからあるなりけり。 宇治拾遺物語 巻第二 一九 清徳聖(せいとくひじり)、奇特(きどく)の事[巻二・一]  今は昔、清徳聖といふ聖のありけるが、母の死したりければ、棺(ひつぎ)にうち入れて、ただ一人愛宕(ひとりあたご)の山に持(も)て行きて、大(おほ)きなる石を四つの隅に置きて、その上にこの棺をうち置きて、千手陀羅尼(せんじゆだらに)を片時(へんし)休む時もなく、うち寝(ぬ)る事もせず、物も食はず、湯水も飲まで、声絶(こわだ)えもせず誦(じゆ)し奉りて、この棺をめぐる事三年(みとせ)になりぬ。  その年の春、夢ともなく現(うつつ)ともなく、ほのかに母の声にて、「この陀羅尼をかく夜昼よみ給へば、我は早く男子となりて天に生れにしかども、同じくは仏になりて告げ申さんとて、今までは告げ申さざりつるぞ。今は仏になりて告げ申すなり」といふと聞ゆる時、「さ思ひつる事なり。今は早うなり給ひぬらん」とて取り出(い)でて、そこにて焼きて、骨取り集めて埋(うづ)みて、上に石の卒都婆(そとば)など立てて例のやうにして、京へ出づる道々、西の京に水葱(なぎ)いと多く生ひたる所あり。  この聖困(こう)じて物いと欲(ほ)しかりければ、道すがら折りて食ふ程に、主(ぬし)の男出(い)で来(き)て見れば、いと貴(たふと)げなる聖の、かくすずろに折り食へば、あさましと思ひて、「いかにかくは召すぞ」といふ。聖、「困(こう)じて苦しきままに食ふなり」という時に、「さらば参りぬべくは、今少しも召さまほしからん程召せ」といへば、三十筋(すぢ)ばかりむずむずと折り食ふ。この水葱(なぎ)は三町ばかりぞ植ゑたりけるに、かく食へば、いとあさましく、食はんやうも見まほしくて、「召しつべくは、いくらも召せ」といへば、「あな貴(たふと)」とて、うちゐざりうちゐざり、折りつつ、三町をさながら食ひつ。主(ぬし)の男、「あさましう物食ひつべき聖(ひじり)かな」と思ひて、しばしゐさせ給へ。物して召させん」とて白米一石取り出でて飯(いひ)にして食はせたれば、「年比(としごろ)物も食はで困(こう)じたるに」とて、みな食ひて出でて往(い)ぬ。  この男いとあさましと思ひて、これを人に語りけるを聞きつつ、坊城の右の大殿(おほとの)に人の語り参らせければ、「いかでかさはあらん。心得ぬ事かな。呼びて物食はせてみん」と思(おぼ)して、「結縁(けちえん)のために物参らせてみん。とて、呼ばせ給ひければ、いみじげなる聖歩み参る。その尻(しり)に餓鬼(がき)、畜生(ちくしやう)、虎(とら)、狼(おほかみ)、犬、烏(からす)、数万の鳥獣など、千万(ちよろづ)と歩み続きて来けるを、異人(ことひと)の目に大方(おほかた)え見ず、ただ聖一人(ひとり)とのみ見けるに、この大臣(おとど)見つけ給ひて、「さればこそいみじき聖にこそありけれ。めでたし」と覚えて、白米十石をおものにして、新しき筵菰(むしろこも)に折敷(をしき)、桶(をけ)、櫃(ひつ)などに入れて、いくいくと置きて食はせさせ給ひければ、尻に立ちたる者どもに食はすれば、集りて手をささげみな食ひつ。聖は露(つゆ)食はで、悦(よろこ)びて出でぬ。「さればこそただ人にはあらざりけり。仏などの変じて歩(あり)き給ふにや」と思(おぼ)しけり。異人(ことひと)の目にはただ聖一人して食ふとのみ見えければ、いとどあさましき事に思ひけり。  さて出でて行く程に、四条の北なる小路(こうぢ)に穢土(ゑど)をまる。この尻に具(ぐ)したる者(もの)し散らしたれば、ただ墨のやうに黒き穢土を隙(ひま)もなく遥々(はるばる)とし散らしたれば、下種(げす)などもきたながりて、その小路を糞(くそ)の小路とつけたるを、帝(みかど)聞かせ給ひて、「その四条の南をば何といふ」といはせ給ひければ、「綾(あや)の小路となん申す」と申しければ、「さらばこれをば錦(にしき)の小路といへかし。あまりきたなきなり」など仰せられけるよりしてぞ錦の小路とはいひける。 二〇 静観僧正〔じやうくわんそうじやう〕祈る∨雨を法験〔ほふけん〕の事[巻二・二] 今は昔、延喜(えんぎ)の御時旱魃(かんばつ)したりけり。六十人の貴僧を召して大般若経(はんにやきやう)読ましめ給ひけるに、僧ども黒煙(くろけぶり)を立てて験(しるし)現(あらは)さんと祈りけれども、いたくのみ晴れまさりて日強く照りければ、御門(みかど)を始めて、大臣公卿(くぎやう)、百姓人民(ひやくしやうにんみん)、この一事より外の歎(なげ)きなかりけり。蔵人頭(くらうどのとう)を召し寄せて、静観僧正(じやうくわんそうじやう)に仰(おほ)せ下(くだ)さるるやう、「ことさら思(おぼ)し召さるるやうあり。かくのごと方々に御祈りどもさせる験(しるし)なし。座を立ちて別の壁のもとに立ちて祈れ。思し召すやうあれば、とりわけ仰せつくるなり」と仰せ下されければ、静観僧正その時は律師(りつし)にて、上に僧都(そうづ)、僧正、上臈(じやうらふ)どもおはしけれども、面目限りなくて、南殿(なんでん)の御階(みはし)より下(くだ)りて塀(へい)のもとに北向に立ちて、香炉(かうろ)取りくびれて、額(ひたひ)に香炉を当てて祈請(きせい)し給ふ事、見る人さへ苦しく思ひけり。  熱日(ねつじつ)のしばしもえさし出´いで)ぬに、涙を流し、黒煙を立てて祈請し給ひければ、香炉の煙空へ上(あが)りて扇(あふぎ)ばかりの黒雲になる。上達部(かんだちめ)は南殿に並びゐ、殿上人(てんじやうびと)は弓場殿(ゆばどの)に立ちて見るに、上達部の御前(ごぜん)は美福門(びふくもん)より覗く。かくのごとく見る程に、その雲むらなく大空に引き塞(ふた)ぎて、竜神振動し、電光大千界に満ち、車軸(しやぢく)のごとくまる雨降りて、天下たちまちにうるほひ、五穀豊饒(ほうぜう)にして万木果を結ぶ。見聞(けんもん)の人帰服せずといふなし。帝、大臣、公卿等随喜(ずいき)して、僧都になし給へり。  不思議の事なれば、末の世の物語にかく記せるなり。 二一 同僧正大嶽の岩祈り失ふ事[巻二・三]  今は昔、静観僧正(じやうくわんそうじやう)は西搭(さいたふ)の千手院といふ所に住み給へり。その所は南に向かひて大嶽(おほたけ)をまもる所にてありけり。大嶽の乾(いぬゐ)の方(かた)のそひに大きなる巌(いはほ)あり。その岩の有様、竜の口をあきたるに似たりけり。その岩の筋(すぢ)に向ひて住みける僧ども、命もろくして多く死にけり。しばらくは、「いかにして死ぬるやらん」と心も得ざりける程に、「この岩ある故(ゆゑ)ぞ」と言ひ立ちにけり。この岩を毒竜の巌とぞ名づけたりける。これによりて西搭有様ただ荒れにのみ荒れまさりける。この千手院のも人多く死にければ、住み煩(わづら)ひけり。この巌見るに、まことに竜の大口をあきたるに似たり。「人のいふ事はげにもさありけり」と僧正思ひ給ひて、この岩の方(かた)に向ひて七日七夜加持(かぢ)し給ひければ、七日といふ夜(よ)半(は)ばかりに、空曇り、振動する事おびたたし。大嶽(おほたけ)に黒雲かかりて見えず。しばらくありて空晴れぬ。夜明け、大嶽を見れば、毒竜巌砕けて散り失(う)せにけり。それより後、西搭に人住みけれども、祟(たた)りなかりけり。 西搭の僧どもは、件(くだん)の座主(ざす)をぞ今のいたるまで貴(たふと)み拝みけるとぞ語り伝へたる。不思議の事なり。 二二 金峯山(きんぶせん)薄打〔はくう〕ちの事[巻二・四]  今は昔、七條に箔打(はくうち)あり。御嶽詣(みだけまうで)しけり。参りて、金崩(かなくづ)れを行(ゆ)いて見れば、まことの金の様(やう)にてありけり。嬉しく思いて、件(くだん)の金を取りて、袖に包みて家に帰りぬ。おろして見ければ、きらきらとして眞(まこと)の金なりければ、不思議の事なり。この金取れば、神鳴り、地震ひ、雨降りなどして、少しもえ取らざんなるに、これはさる事もなし。この後もこの金を取りて、世の中を過ぐべしと嬉しくて、秤(はかり)にかけて見れば、十八両ぞ有りける。これを箔に打つに、七八千枚に打ちつ。それをまろげて、皆買はん人もがなと思ひて、暫く持ちたる程に、検非違使なる人の、東寺の佛造らんとて、箔を多く買はんと言ふと告ぐる者ありけり。喜びて懐(ふところ)にさし入れて行きぬ。「箔や召す。」といひければ、「幾らばかり持ちたるぞ。」と問ひければ、「七八千枚ばかり候。」といひければ、「持ちて参りたるか。」といへば、「候」とて、懐より紙に包みたるを取り出したり。見れば、破(や)れず、廣く、色いみじかりければ、擴げて數へんとて見れば、ちひさき文字にて、金の御嶽云々と悉く書かれたり。心も得で、「この書附は何の料の書附ぞ。」と問へば、箔打「書附も候はず。何の料の書附かは候はん。」といへば、「現(げん)にあり。これを見よ。」とて見するに、箔打見れば、まことにあり。あさましき事かなと思ひて、口もえあかず。検非違使「これはただ事に非ず。様(やう)あるべき。」とて、友を呼び具して、金をば看督長(かどのをさ)に持たせて、箔打具して、大理のもとへ参りぬ。件の事どもを語り奉れば、別富驚きて、「早く河原に出で行いて問へ。」と言はれければ、検非違使ども河原にゆいて、よせばし堀り立てて、身を働かさぬやうにはりつけて、七十度の勘(かう)じをへければ、脊中は紅の練単衣(ねりひとへ)を水にぬらして着せたるやうに、みさみさとなりてありけるを、重ねて獄にいれたりければ、僅に十日ばかりありて死にけり。箔をば金峯山に返して、元の所に置きけると語り傅へたり。それよりして人怖(お)ぢて、いよいよ件の金取らんと思ふ人なし。あな怖し。<1998.5.19三木牧子>  今はむかし、七条に薄打(はくうち)あり。御嶽(みたけ)詣(まうで)しけり。参りて金崩(かなくづれ)を行(ゆ)きて見れば、まことに金の様(やう)にてありけり。うれしく思ひて、件(くだん)の金取れば、神鳴(かみなり)、地震、雨降りなどして少しも取らざんなるに、これはさる事もなし。この後(のち)もこの金を取りて世の中を過ぐべし」とうれしくて、秤(はかり)にかけて見れば、十八両ぞありける。これを薄(はく)に打つに、七八千枚に打ちつ。「これをまろげてみな買はん人もがな」と思ひて、しばらく持ちたる程に、「倹非違使(けぴゐし)なる人の東寺の仏造らんとて薄を多く買はんといふ」と告ぐる者ありけり。  悦(よろこ)びて懐(ふところ)にさし入れて行きぬ。「薄(はく)や召す」といひければ、「いくらばかり持ちたるぞ」と問ひければ、「七八千枚ばかり候(さぶら)ふ」といひければ、「持ちて参りたるか」といへば、「候ふ」とて、懐より紙に包みたるを取り出(いだ)したり。見れば、破(や)れず、広い、色いみじかりければ、「広げて教へん」とて見れば、小さき文字にて「金の御嶽(みたけ)、金の御嶽」とことごとく書かれたり。心も得で、「この書きつけては何の料(れう)の書きつけぞ」といへば、「現(げん)にあり。これを見よ」とて見するに、薄打見れば、まことにあり。「あさましき事かな」と思ひて、口もえあかず。倹非違使、「これはただ事にあらず。様(やう)あるべき」とて、友を呼び具(ぐ)して、金を看督長(かどのをさ)に持たせて、薄打具して大理(だいり)のもとへ参りぬ。  件(くだん)の事どもを語り奉れば、別当驚きて、「早く川原に出で行(ゆ)きて問へ」といはれければ、検非違使(けびゐし)ども川原に行(ゆ)いて、よせばし掘り立てて身をはたらかさぬやうにはりつけて、七十度の勘(かう)じをへければ、背中は紅の練単衣(ねりひとえ)を水に濡(ぬ)らして着せたるやうにみさみさとなりてありけるを、重ねて獄に入れたりければ、わづかに十日ばかりありて死にけり。薄(はく)をば金峯山(きんぶせん)に返して、もとの所に置きけると語り伝へたり。  それよりして人怖(お)ぢて、いよいよ件(くだん)の金取らんと思ふ人なし。あな恐ろし。 二三 用経荒巻事[巻二・五]  今は昔、左京の大夫(かみ)なりける古上達部(ふるかんだちめ)ありけり。年老いていみじう古めかしかりけり。下(しも)わたりなる家に歩(あり)きもせ籠(こも)りゐたりけり。その司(つかさ)の属(さくわん)にて、紀用経(きのもちつね)といふ者ありけり。長岡になん住みける。司の属なれば、この大夫(かみ)のもとにも来てなんをとづりける。  この用経、大殿に参りて贄殿(にへどの)にゐたる程に、淡路守頼親(あわじのかみよりちか)が鯛(たひ)の荒巻(あらまき)を多く奉りたりけるを、贄殿に持(も)て参りたり。贄殿の預義澄(あづかりよしずみ)に二巻(ふたまき)用経乞(こ)ひ取りて、間木(まぎ)にささげて置くとて、義澄にいふやう、「これ、人して取りに奉らん折に、おこせ給へ」と言ひ置く。心の中に思ひけるやう、「これ我が司(つかさ)の大夫(かみ)に奉りて、をとづり奉らん」と思ひて、これを間木にささげて、左京の大夫(かみ)のもとに行きて見れば、かんの君、出居(いでゐ)に客人(まらうど)二三人ばかり来て、あるじせんとて地下炉(ちくわろ)に火をおこしなどして、我がもとにて物食はんとするに、はかばかしき魚もなし。鯉(こひ)、鳥などようありげなり。  それに用経が申すやう、「用経がもとにこそ、津国(つのくに)なる下人の、鯉の荒巻三つ持(も)てまうで来たりつるを、一巻(ひとまき)食(た)べ試み侍りつるが、えもいはずめでたく候ふ。急ぎてまうでつるに、下人の候はで持(も)て参り候はざりつるなり。只今とりに遣はさんはいかに」と、声高く、したり顔に袖(そで)をつくろひて、口脇(くちわき)かいのごひなどして、はやかり覗(のぞ)きて申せば、大夫(かみ)、「さるべき物なきに、いとよき事かな。とく取りにやれ」とのたまふ。客人(まらうど)どもも、「食ふべき物の候はざめるに、九月がかりの比(ころ)なれば、この比鳥の味はひいとわろし。鯉(こひ)はまだ出(い)で来ず、よき鯛(たひ)は奇異(きい)の物なり」など言ひ合へり。  用経(もちつね)馬控(ひか)へたる童(わらは)を呼び取りて、「馬をば御門の脇(わき)につなぎて只今走り、大殿に贄殿(にへどの)の預(あづかり)の主に、『その置きつる荒巻(あらまき)只今おこせ給へ』とささめきて時かはさず持(も)て来(こ)。外(ほか)に寄るな。とく走れ」とてやりつ。さて、「まな板洗ひて持(も)て参れ」と、声高くいひて、やがて、「用経、今日(けふ)の庖丁(はうちやう)は仕らん」といひて、真魚箸削(まなばしけづ)り、鞘(さや)なる刀抜いて設(まう)けつつ、「あな久し。いづら来(き)ぬや」など心もとながりゐたり。「遅し遅し」と言ひゐたる程に、やりつる童、木の枝に荒巻二つ結(ゆ)ひつけて持(も)て来たり。「いとかしこく、あはれ、飛ぶがごとく走りてまうで来たる童かな」とほめて、取りてまな板の上にうち置きて、ことごとしく大鯛作らんやうに左右の袖(そで)つくろひ、くくりひき結(ゆ)ひ、片膝(かたひざ)立て、今片膝伏せて、いみじくつきづきしくゐなして、荒巻の縄を押し切りて、刀して藁(わら)を押し開くに、ほろほろと物どもこぼれて落つるものは、平足駄(ひらあしだ)、古尻切(ふるしきれ)、古草鞋(ふるわらうづ)、古沓(ふるぐつ)、かやうの物の限りあるに、用経あきれて、刀も真魚箸もうち捨てて、沓(くつ)もはきあへず逃げて往(い)ぬ。  左京の大夫(かみ)も客人(まらうど)もあきれて、目も口もあきてゐたり。前なる侍どももあさましくて、目を見かはしてゐなみゐたる顔ども、いとあやしげなり。物食ひ、酒飲みつる遊びも、みなすさまじくなりて、一人(ひとり)立ち、二人(ふたり)立ち、みな立ちて往ぬ。左京の大夫(かみ)の曰(いは)く、「このをのこをば、かくえもいはぬ痴者(しれもの)狂(ぐる)ひとは知りたつれども、司(つかさ)の大夫(かみ)とて来(き)睦(むつ)びつれば、よしとは思はねど、追ふべき事もあらねば、さと見てあるに、かかわるわざをして謀(はか)らんをばいかがすべき。物悪(あ)しき人ははかなき事につけてもかかるなり。いかに世の人聞き伝へて、世の笑ひぐさにせんずらん」と、空を仰ぎて歎(なげ)き給ふ事限りなし。  用経は馬に乗りて馳(は)せ散(ちら)して殿に参りて、贄殿(にへどの)預義澄(あづかりよしずみ)にあひて、「この荒巻をば惜(を)しと思(おぼ)さば、おいらかに取り給ひてはあらで、かかる事し出で給へる」と泣きぬばかりに恨みののしる事限りなし。義澄曰(いは)く、「こはいかにのたまふことぞ。荒巻(あらまき)は奉りて後、あからさまに宿にまかりとつて、おのがをのこにいふやう、『左京の大夫(かみ)の主(ぬし)のもとから荒巻取りにおこせたらば、取りてそれに取らせよ』といひおきてまかでて、只今帰り参りて見るに、荒巻なければ、『いづち往(い)ぬるぞ』と問ふに、『しかじかの御使ひありつれば、のたまはせつるやうに取りて奉りつる』といひつれば、『さにこそはあなれ』と聞きてなん侍る。事のやうを知らず」といへば「さらばかひなくとも、言ひ預(あづ)けつらん主(ぬし)を呼びて問ひ給へ」といへば、男を呼びて問はんとするに、出でて往にけり。膳部(かしはで)なる男がいふやう、「おのれが部屋に入(い)りゐて聞きつれば、この若主(わかぬし)たちの『間木(まぎ)にささげられたる荒巻こそあれ。こは誰(た)が置きたるぞ。何(なん)の料(れう)ぞ』と問ひつれば、誰(たれ)にかありつらん、『左京の属(さくわん)の主(ぬし)のなり』といひつれば、『さては事にもあらず。すべきやうあり』とて取りおろして、鯛をばみな切り参りて、かはりに古尻切(ふるしきれ)、平足駄(ひらあしだ)などこそ入りて間木に置かると聞き侍りつれ」と語れば、用経聞きて、叱(しか)りののしる事限りなし。この声聞きて、人々、「いとほし」とはいはで、笑ひののしる。用経しわびて、かく笑ひののしられん程は歩(あり)かじと思ひて、長岡の家に籠(こも)りゐたり。その後、左京の大夫(かみ)の家にもえ行(い)かずなりにけるとかや。 二四 厚行死人を家より出すこと[巻二・六]  昔、右近将監下野(うこんのしやうげんしもづけの)厚行といふ者ありけり。競馬によく乗りけり。帝王(みかど)より始め奉りて、おぼえ殊(こと)にすぐれたり。朱雀院(すざくいん)御時より村上帝(むらかみのみかど)の御時などは、盛(さか)りにいみじき舎人(とねり)にて、人も許し思ひけり。年高くなりて西京(にしきよう)に住みけり。  隣なる人にはかに死にけるに、この厚行、弔(とぶら)ひに行きて、その子にあひて、別れの間(あひだ)の事ども弔ひけるに、「この死にたる親を出(い)ださんに門(かど)悪(あ)しき方(かた)に向へり。さればとて、さてあるべきにあらず。門よりこそ出(いだ)すべき事にてあれ」といふを聞きて、厚行がいふやう、「悪(あ)しき方(かた)より出(いだ)さん事、殊に然(しか)るべからず。かつはあまたの御子たちのため、殊(こと)に忌(い)まはしかるべし。厚行(あつゆき)が隔ての垣を破りて、それより出(いだ)し奉らん。かつは生き給ひたりし時、事にふれて情(なさけ)のみありし人なり。かかる折だにもその恩を報じ申さずば、何(なに)をもてか報ひ申さん」といへば、子どものいふやう、「無為(ぶゐ)なる人の家より出(いさ)さん事あるべきにあらず。忌(いみ)の方(かた)なりとも我(わ)が門より出(いだ)さめ」といへども、「僻事(ひかごと)なし給ひそ。ただ厚行が門より出(いだ)し奉らん」といひて帰りぬ。 吾が子どもにいふやう、「隣の主(ぬし)の死にたるいとほしければ、弔(とぶら)ひに行きたりつるに、あの子どものいふやう、『忌の方(かた)なれども門は一つなれば、これよりこそ出(いだ)さめ』といひつれば、いとほしく思ひて、『中の垣を破りて、我が門(かど)より出(いだ)し給へ』といひつる」といふに、妻子(めこ)ども聞きて、「不思議の事し給ふ親かな。いみじき穀断(こくだ)ちの聖(ひじり)なりとも、かかる事する人やはあるべき。身思はぬといひながら、我が門より隣の死人出す人やある。返す返すもあるまじき事なり」とみな言ひ合へり。厚行、「僻事(ひかごと)な言ひ合ひそ。ただ厚行がせんやうに任せてみ給へ。物忌(いみ)し、くすしく忌むやつは、命も短く、はかばかしき事なし。ただ物忌まぬは命も長く、子孫も栄ゆ。いたく物忌み、くすしきは人といはず。恩を思ひ知り、身を忘るるをこそは人とはいへ。天道もこれをぞ恵み給ふらん。よしなき事なわびしそ」とて、下人ども呼びて中の檜垣(ひがき)をただこぼちにこぼちて、それよりぞ出させける。  さてその事世に聞えて、殿ばらもあさみほめ給ひけり。さてその後(のち)、九十ばかりまで保ちてぞ死(しに)ける。それが子(こ)どもにいたるまで、みな命長くて、下野(しもつけ)氏の子孫は舎人(とねり)の中にもおぼえあるとぞ。 二五 鼻長僧の事[巻二・七]  昔、池の尾に善珍内供(ぜんちんないぐ)といふ僧住みける。真言などよく習ひて年久しく行(おこな)ひ貴(たふと)かりければ、世の人々さまざまの祈りをせさせければ、身の徳ゆたかにて、堂も僧坊も少しも荒れたる所なし。仏供(ぶつぐ)、御灯(みとう)なども絶えず、折節(をりふし)の僧膳(そうぜん)、寺の講演しげく行はせければ、寺中の僧坊に隙(ひま)なく僧も住み賑(ぬぎは)ひけり。湯屋(ゆや)には湯沸かさぬ日なく、浴(あ)みののしけり。またそのあたりには小家(こいへ)ども多く出(い)で来(き)て、里も賑ひけり。  さてこの内供(ないぐ)は鼻長かりけり。五六寸ばかりなりければ、頤(おとかひ)より下(さが)りてぞ見えける。居ろは赤紫にて、大柑子(おほかうじ)の膚(はだ)のやうに粒に立ちてふくれたり。痒(かゆ)がる事限りなし。提(ひさげ)に湯をかへらかして、折敷(をしき)を鼻さし入るばかりゑり通して、火の炎の顔に当たらぬやうにして、その折敷の穴より鼻さし出でて、提の湯にさし入れて、よくよくゆでて引きあげたれば、色は濃き紫色なり。それを側(そば)ざまに臥(ふ)せて、下に物をあてて人に踏ますれば、粒立ちたる孔(あな)ごとに煙のやうなる物出づ。それをいたく踏めば、白き虫の孔ごとにさし出づるを、毛抜(けぬき)にて抜けば、四分ばかりなる白き虫を孔どとに取り出(いだ)す。その跡はあなあきて見ゆ。それをまた同じ湯に入れて、さらめかし沸かすに、ゆづれば鼻小さくしぼみあがりて、ただの人の鼻のやうになりぬ。また二三日になれば、先のごとくに大きになりぬ。  かくのごとくしつつ、月長(は)れたる日数は多くありければ、物食ひける時は、弟子の法師に、平なる板の一尺ばかりなるが、広さ一寸ばかりなる鼻の下にさし入れて、向ひゐて上(かみ)ざまへ持(も)て上げさせて、物食ひ果ひつるまではありけり。異人(ことひと)して持て上げさする折は、あらく持て上げければ、腹を立てて物も食はず。さればこの法師一人(ひとり)を定めて、物食ふ度(たび)ごとに持て上げさす。それに心地悪(あ)しくてこの法師出でざりける折に、朝粥(あさがゆ)食はんとするに、鼻を持て上ぐる人なかりければ、「いかにせん」などといふ程に、使ひける童(わらは)の、「吾(われ)はよく持て上げ参らせてん。さらにその御房にはよも劣らじ」といふを、弟子の法師聞きて、「この童のかくは申す」といへば、中大童子(ちゆうだいどうじ)にてみめもきたなげなくありければ、うへに召し上げてありけるに、この童(わらは)鼻持て上げの木を取りて、うるはしく向ひゐて、よき程に高からず低(ひき)からずもたげて粥(かゆ)をすすらすれば、この内供(ないぐ)、「いみじき上手にてありけり。例の法師にはまさりたり」とて、粥をすする程に、この童、鼻をひんとて側(そば)ざまに向きて鼻をひる程に、手震ひて鼻もたげの木揺(ゆる)ぎて、鼻外(はづ)れて粥の中へふたりとうち入れつ。内供が顔にも童の顔にも粥とばしりて、一物(ひともの)かかりぬ。内供大(おほ)きに腹立ちて、頭、顔にかかりたる粥を紙にてのごひつつ、「おのれはまがまがしかりける心持ちたる者かな。心なしの乞児(かたゐ)とはおのれがやうなる者をいふぞかし。我ならぬやごとなき人の御鼻にもこそ参れ、それにはかくやはせんずる。うたてなりける心なしの痴者(しれもの)かな。おのれ、立て立て」とて、追ひたてければ、立つままに、「世の人の、かかる鼻持ちたるがおはしまさばこそ鼻もたげにも参らめ、をこの事のたまへる御房かな」といひければ、弟子どもは物の後(うし)ろに逃げ退(の)きてぞ笑ひける。 二六 晴明、蔵人少将を封ずる事[巻二・八]  昔、晴明、陣(ぢん)に参りたりけるに、前(さき)花やかに追はせて殿上人(てんじやうびと)の参りけるを見れば、蔵人少将とて、まだ若く花やかなる人の、みめまことに清げにて、車より降りて内(うち)に参りたりける程に、この少将の上に烏(からす)の飛びて通りけるが、穢士(ゑど)をおしかけけるを、清明きと見て、「あはれ、世にもあひ、年なども若くて、みめもよき人にこそあんめれ。式(しき)にうてけるにか。この烏は式神(しきじん)にこそありけれ」と思ふに、然(しか)るべくて、この少将の生くべき報(むく)ひやありけん、いとほしう晴明が覚えて、少将の側(そば)へ歩み寄りて、「御前へ参らせ給ふか。さかしく申すやうなれど、何(なに)か参らせ給ふ。殿は今夜え過ぐさせ給はじと見奉るぞ。然(しか)るべけて、、おのれには見えさせ給へるなり。いざさせ給へ。物試みん」とてこの一つ車乗りければ、少将わななきて、「あさましき事かな。さらば助け給へ」とて、一つ車に乗りて少将の里へ出(い)でぬ。申(さる)の時ばかりの事にてありければ、かく出でなどしつる程に日も暮れぬ。清明、少将をつと抱(いだ)きて身固めをし、また何事にか、つぶつぶと夜一夜(よひとよ)いもねず、声絶えもせず、読み聞かせ加持(かぢ)しけり。  秋の夜の長きに、よくよくしたりければ、暁方(あかつきがた)に戸をはたはたと叩(たた)けるに、「あれ、人出(いだ)して聞かせ給へ」とて聞かせければ、この少将のあひ聟(むこ)にて蔵人(くらうど)の五位のありけるも、同じ家にあなたこなたに据ゑたりけるが、この少将をばよき聟とてかしづき、今一人(ひとり)をば殊(こと)の外(ほか)に思ひ落したりければ、女石(ねた)がりて陰陽師(おんやうじ)を語らひて式をふせたりけるなり。さてその少将は死なんとしけるを、清明、「これ聞かせ給へ。夜部(よべ)見つけ参らせざらましかば、かやうにこそ候(さぶら)はまし」といひて、その使ひに人を添へてやりて聞きければ、「陰陽師はやがて死にけり」とぞいひける。式ふせさせける聟をば、舅(しうと)、やがて追ひ捨てけるとぞ。清明には泣く泣く悦(よろこ)びて多くの事どもしても飽かずぞ悦ける。誰(たれ)とは覚えず、大納言までなり給ひけるとぞ。 二七 季通わざはひにあはむとする事[巻二・九]  昔、駿河前司(するがのぜんじ)橘季通(たちばなのすえみち)といふ者ありき。それが若かりける時、さるべき所なりける女房を忍びて行き通ひける程に、そこのありける侍(さぶらひ)ども、「生(なま)六位の、家人似てあらぬが、宵(よひ)暁にこの殿へ出で入る事わびし。これたて籠(こ)めて勘(かう)ぜん」といふ事を集りて言ひ合せけり。 かかる事をも知らで、例の事なれば、小舎人(こどねり)童(わらは)一人(ひとり)具(ぐ)して局(つぼね)に入りぬ。童をば、「暁迎えに来よ」とて返しやりつ。この打たんとするをのこども窺(うかが)ひまもりければ、「例のむし来たつて局(つぼね)に入りぬるは」と告げまはして、かなたこなたの門どもをさしまはして、鍵(かぎ))取り置きて、侍(さぶらひ)ども引杖(ひきずゑ)して、築地(ついじ)の崩れなどのある所に立ち塞(ふたが)りてまもりけるを、その局(つぼね)の女(ね)の童(わらは)けしきどりて、主(しゆう)の女に、「かかる事の候(さぶら)ふはいかなる事にか候ふらん」と告げければ、主の女も聞き驚き、二人臥(ふ)したりけるが起きて、季通(すゑみち)も装束してゐたり。女、上(うへ)にのぼりて尋ねれば、「侍(さぶらひ)どもの心合せてするとはいひながら、主(しゆう)の男も空しらずしておはする事」と聞き得て、すべきやうなくて局に帰りて泣きゐたり。  季通、「いみじきわざかな。恥を見てんず」と思へども、すべきやうなし。女(め)の童(わらは)を出(いだ)して、出でて往(い)ぬべき少しの隙(ひま)やあると見せけれども、「さやうの隙ある所には、四五人づつ、くくりをあげ、稜(そば)を狭みて、太刀(たち)をはき、杖を脇挟(わきばさ)みつつ、みな立てりければ、出づべきやうもなし」といひけり。  この駿河前司(するがのぜんじ)はいみじう力ぞ強かりける。「いかがせん。明けぬとも、この局に籠(こも)りゐてこそは、引(ひ)き出(い)でに入り来(こ)ん者と取り合ひて死なめ。さりとも、夜明けて後(のち)、吾(われ)ぞ人ぞと知りなん後(のち)には、ともかくもえせじ。従者(ずんさ)ども呼びにやりてこそ出でても行かめ」と思ひたりけり。「暁この童(わらは)の来て、心も得ず門叩(たた)きなどして、我(わ)が小舎人(ことねり)童(わらは)と心得られて、捕らえ縛られやせんずらん」と、それぞ不便(ふびん)に覚えければ、女(め)の童(わらは)を出(いだ)して、もしや聞きつくると窺(うかが)ひけるをも、侍どもははしたなくいひければ、泣きつつ帰りて、屈(かが)まりゐたり。  かかる程に、暁方(あかつきかた)になりぬらんと思ふ程に、この童いかにしてか入りけん、入り来る音するを、侍、「誰(た)そ、その童は」と、けしきどりて問へば、あしくいらへなんずと思ひゐたる程に、「御読経(どきやう)の僧の童子に侍り」と名のる。さ名のられて、「とく過ぎよ」といふ。「かしこくいらへつる者かな、寄り来て、例呼ぶ女(め)の童(わらは)の名や呼ばんずらん」とまたそれを思ひゐたる程に、寄りも来(こ)で過ぎて往(い)ぬ。「この童も心得てけり。うるせきやつぞかし。さ心得てば、さりともたばかる事あらんずらん」と、童(わらは)の心を知りたれば頼もしく思ひたる程に、大路に女声(ごゑ)して、「引()(は)ぎありて人殺すや」とをめく。それを聞きて、この立てる侍(さぶらひ)ども、「あれからめよや。けしうはあらじ」といひて、みな走りかかりて、門をもえあけあえず、崩れより走り出でて、「何方(いづかた)へ往(い)ぬるぞ」、「こなた」、「かなた」と尋ね騒ぐ程に、「この童の謀(はか)る事よ」と思ひければ走り出でて見るに、門をばさしたれば、門をば疑はず、崩れのもとにかたへはとまりて、とかくいふ程に、門のもとに走り寄りて錠をねぢて引き抜きて、あくるままに走り退きて、築地(ついぢ)走り過ぐる程にぞこの童は走りあひたる。  具(ぐ)して三町ばかり走りのびて、例のやうにのどかに歩みて、「いかにしたりつる事ぞ」といひければ、「門どもの例ならずされたるに合せて崩れに侍どもの立ち塞(ふさが)りて、きびしげに尋ね問ひ候(さぶら)ひつれば、そこにては、『御読経の僧の童子』と名乗り侍りつれば、出で侍りつるを、それよりまかり帰つて、とかくやせましと思ひ丘へつれども、参りたりと知られ奉らでは悪(あ)しかりぬべく覚え侍りつれば、声を聞かれ奉りて帰り出でて、、この隣なる女童(めらは)のくそまりゐて侍るを、しや頭取りてうち伏せて衣(きぬ)剥(は)ぎ侍りつれば、をめき候ひつる声につきて人々ででまうで来つれば、今はさりとも出でさせ給ひぬらんと思ひて、こなたざまに参りあひつるなり」とぞいひける。童子なれども、かしこくうるせき者はかかる事をぞしける。 二八 袴垂合保昌事[巻二・一〇]  昔、袴垂(はかまだれ)とていみじき盗人の大将軍ありけり。十月ばかりに衣(きぬ)の用なりければ、衣(きぬ)少しまうけんとて、さるべき所々窺(うかが)ひ歩(あり)きけるに、夜中ばかりに人皆しづまり果てて後(のち)、月の朧(おぼろ)なるに、衣(きぬ)あまた着たりけるぬしの、差貫(さしぬき)の稜(そば)狭ばみてきぬの狩衣(かりぎぬ)めきたる着て、ただ一人(ひとり)笛吹きて行きもやらで練(ね)り行(ゆ)けば、「あはれ、これこそ我に衣(きぬ)得させんとて出でたる人なめり」と思ひて、走りかかりて衣(きぬ)を剥(は)がんと思ふに、あやしく物の恐ろしく覚えければ、添ひて二三町ばかり行けども、我に人こそ付きたれと思ひたる気色(けしき)もなし。いよいよ笛を吹きて行けば、試みんと思ひて、足を高くして走り寄りたるに、笛を吹きながら見かへりたる気色、取りかかるべくも覚えざりければ、走り退きぬ。  かやうにあまたたび、とざまかやうざまにするに、露(つゆ)ばかりも騒ぎたる気色なし。「希有(けう)の人かな」と思ひて、十余町ばかり具(ぐ)して行く。「さりとてあらんやは」と思ひて刀を抜きて走りかかりたる時に、その度(たび)笛を吹きやみて立ち返りて、「こは何者ぞ」と問ふに、心も失(う)せて、吾(われ)にもあらでついゐられぬ。また、「いかなる者ぞ」と問へば、「今は逃ぐともよも逃がさじ」と覚えければ、「引剥(は)ぎに候(さぶら)ふ)といへば、「何者ぞ」と問へば、「字袴垂(あざなはかまだれ)となんいはれ候ふ」と答ふれば、「さいふ者ありと聞くぞ。危(あやふ)げに希有のやつかな」といひて、「ともにまうで来(こ)」とばかりいひかけて、また同じやうに笛吹きて行く。この人の気色、「今は逃ぐともよも逃さじ」と覚えければ、鬼に神取られたるやうにて共に行く程に、家に行き着きぬ。いづこぞと思へば、摂津前司保昌(やすまさ)といふ人なりけり。家の内に呼び入れて、綿厚き衣(きぬ)一つ賜りて、「衣(きぬ)の用あらん時は参りて申せ。心も知らざらん人に取りかかりて、汝(なんじ)過(あやま)ちすな」とありしこそあさましく、むくつけく、恐ろしかりしか。いみじかりし人の有様なり。捕へられて後(のち)語りける。 二九 あきひら欲合殃事[巻二・一一]  昔、博士(はかせ)にて、大学頭明衡(だいがくのかみあきひら)といふ人ありき。若かりける時、さるべき所に宮仕(みやづかへ)ける女房をかたらひて、その所に入(いり)ふさんこと便(びん)なかりければ、そのかたはらに有(あり)ける下種(げす)の家を借(かり)て、「女房かたらひ出(いだ)してふさん」といひければ、男あるじはなくて、妻ばかりありけるが、「いとやすき事」とて、おのれがふす所に、ふすべき所のなかりければ、我(わが)ふしどころをさりて、女房の局の疊をとりよせて、ねにけり。家のああうじの男、我(わが)の妻のみそか男(おとこ)するとききて、「そのみそか男、こよひななはんかまふる」とつぐる人ありければ、来(こ)んをかまへて殺(ころ)さんと思ひて、妻には「遠く物行(ゆ)きて、いま四五日帰るまじき。といひて、そら行(い)きをしてうかがふ夜にてぞありける。  家あるじの男、夜ふけてたちぎくに、男(おとこ)女の、忍びて物いふけしきしけり。さればよ、かくし男(おとこ)きにけりと思(おもひ)て、みそかに入(いり)てうかがひ見(み)るに、わがね所に、男、女とふしたり。くらければ、たしかにけしき見(み)えず。男(おとこ)にいびきするかたへ、やをらのぼりて、刀をさかてに抜(ぬ)きもちて、腹の上とおぼしきほどをさぐりて、つかんと思(おもひ)て、腕(かいな)をもちあげて、突(つ)きたてんとする程に、月影の板まよりもりたりけるに、指貫(さしぬき)のくくり長やかにて、ふと見(み)えければ、それにきと思(おもふ)やう、わか妻(つま)のもとには、かやうに指貫きたる人は、よも来(こ)じものを、もし、人たがへしたらんは、いとほしくふびんなることと思(おもひ)て、手(て)をひきかへして、きたる衣(きぬ)などをさぐりける程に、女房、ふとおどろきて、「ここに人の音(をと)するはたそ」と忍(しのび)やかにいふけはひ、わが妻(つま)にあらざりければ、さればよと思(おもひ)て、居(ゐ)退(の)きける程に、このふしたる男(おとこ)も、おどろきて、「たそたそ」と問ふこゑをききて、我(わが)妻のしもなるところにふして、わが男のけしきのあやしかりつる、それがみそかに来(き)て、人たがへなどするにやとおぼえけるほどに、おどろきさはぎて、「あれはたそ。ぬす人か」などののしるこゑの、わが妻にてありければ、こと人々のふしたるにこそと思(おもひ)てはしり出(いで)て、妻がもとに行(い)きて、髪をとりてひきふせて、「いかなることぞ」と問(と“ひければ、妻、さればよと思ひて、「かしこう、いみじきあやまちすらん」。かしこには上臈(じようふらふ)の、今夜はかりとて、からせ給(たまひ)つれば、かしたてまつりて、われはやどにこそふしたれ。希有(けう)のわざする男かな」と、ののしるときにぞ、明衡(あきひら)もおどろきて、「いかなることぞ」と問(とひ)ければ、その時に、男、いできていふやう、「おのれは、甲斐殿の雑色(ざふしき)なにがしと申(まうす)者にて。候。一家(いつけ)の君おはしけるを知り奉らで、ほとほとあやまちをなんつかまつるべく候(さぶらひ)つるに、希有(けう)に御指貫(さしぬき)のくくりを見(み)つけて、しかじか思(おもひ)給(たまへ)てなん、腕(かいな)を引(ひ)きしじめてよりつる」といひて、いみじうわびける。  甲斐殿といふ人は、この明衡(あきひら)のいもうとの男なりけり。思(おもひ)かけぬ指貫(さしぬき)のくくりの徳に、希有(けう)の命をこそ生(い)きたりければ、かかれば、人は忍(しのぶ)といひながら、あやしのところには、たちよるまじきなり。 三〇 唐卒都婆血つく事[巻二・一二]  むかし、もろこしに大(おほき)なる山ありけり。其(その)山のいただきに、大なる卒都婆(そとば)一かてけり。その山のふもとの里に、年八十斗(ばかり)なる女の住みけるが、日に一度、其山の峯にある卒都婆(そとば)を、かならず見(み)けり。たかく大なる山なれば、ふもとより峯(みね)へのぼるほど、さがしく、はげしく、道遠かりけるを、雨ふり、雪ふり、風吹(ふき)、いかづちなり、しみ氷(こほり)たるにも、又あつ苦(くるし)き夏も、一日もかかず、かならずのぼりて、この卒都婆(そとば)を見(み)けり。  かくするを、人、え知(し)らざりけるに、わかき男ども、童部の、夏あつかりける比(ころ)、峯にのぼりて、卒都婆(そとば)の許(もと)に居つつ涼(すず)みけるに、此(この)女、あせをのごひて、腰二重(ふたへ)なるものの、杖(つえ)にすがりて、卒都婆(そとば)のもとにきて、卒都婆(そとば)をめぐりければ、おがみ奉るかと見れば、卒都婆(そとば)をうちめぐりては、則(すなはち)帰々(かへりかへり)すること、一度にもあらず、あまたたび、この涼(すず)む男どもに見(み)えにけり。「この女はなにの心ありて、かくは苦(くる)しきにするにか」と、あやしがりて、「けふ見えば、このこと問はん」と、いひ合せけるほどに、つねのことなれば、此(この)女、はふはふのぼりけり。男ども、女にいふやう、「わ女は、なにの心によりて、我らが涼(すず)みにくだるに、あつく、苦(くる)しく、大事(だいじ)なる道(みち)を涼(すず)まんと思ふによりて、のぼりくるだにこそあれ、涼(すず)むこともなし、べちにすることもなくて、卒都婆(そとば)を見めぐるを事にして、日々にのぼりおるること、あやしき女のわざなれ。此故(このゆゑ)しらせ給へ」と云(いひ)ければ、この女「わかきぬしたちは、げに、あやしと思(おもひ)給(たまふ)らん。かくまうできて、此卒都婆(そとば)みることは、このごろのことにしも侍らず。物の心知(し)りはじめてよりのち、この七十餘年、日ごとに、かくのぼりして、卒都婆(そとば)を見(み)奉るなり」といへば、「そのことの、あやしく侍(はべる)也。その故(ゆへ)をのたまへ」ととへば、「おのれが親は、百二十にしてなん失せ侍(はべり)にし。祖父(おほぢ)は百三十ばかりにてぞ失(う)せ給へりし。それにまた父祖父(ちちおほぢ)などは二百餘年まで生(い)きて侍(はべり)ける。「その人々のいひ置(を)かれたりける」とて、「この卒都婆に血のつかん折(おり)になん、この山は崩(くづ)れて、ふかき海となるべき」(と)なん、父の申(まうし)置(を)かれしかば、ふもとに侍る身なれば、山崩(くずれ)などは、うちおほはれて、死(しに)もぞすると思へば、もし血つかば、逃(にげ)てのかむとて、かく日ごとに見(み)るなり」といへば、この聞(き)く男ども、をこがりあざりけて、「おそろしきことかな。崩(くづ)れんときには、告(つげ)給へ」など笑(わらひ)けるをも、我をあざりけていふとも心得ずして、「さらなり。いかでかは、われひとり逃(にげ)むと思(おもひ)て、告(つげ)申さざるべき」といひて、帰(かへり)くだりにけり。  この男ども「此(この)女はけふはよも来(こ)じ。あす又来(き)てみんに、おどしてはしらせて、笑(わら)はん」といひあはせて、血をあやして、卒都婆(そとば)によくぬりつけて、この男ども、帰(かへり)おりて、里のもの共(ども)に、「此(この)ふもとなる女の日ごとに峯(みね)にのぼりて卒都婆(そとば)みるを、あやしさに問(と)へば、しかじかなんいへば、あすおどして、はしらせんとて、卒都婆(そとば)に血(ち)をぬりつるなり。さぞ崩(くづ)るらんものや」などいひ笑(わら)ふを里の者どもきき傳(つたへ)て、をこなる事のためしに引(ひき)、笑(わらひ)けり。  かくて、又のひ、女のぼりて見るに、卒都婆(そとば)に血(ち)のおほらかにつきたりければ、おんな、うち見(み)るままに、色をたがへて、倒(たう)れまろび、はしり帰(かへり)て、さけびいふやう、「この里(さと)の人々、とく逃(に)げのきて命生(い)きよ。この山はただいま崩(くづれ)て、深(ふか)き海になりなんとす」とあまねく告(つ)げまはして、家に行(ゆ)きて子孫どもに家の具足(ぐそく)ども負(お)ほせ持(も)たせて、おのれも持(も)ちて、手まどひして、里(さと)うつりしぬ。これを見(み)て、血つけし男ども手をうちて笑(わら)ひなどする程に、そのことともなく、さざめき、ののしりあひたり。風の吹(ふき)くるか、いかづちのなるかと、思(おもひ)あやしむほどに、空もつつみやになりて、あさましくおそろしげにて、この山ゆるぎたちにけり。「こはいかにこはいかに」とののしりあひたる程に、ただ崩(くづ)れに崩(くづ)れもてゆけば、「女はまことしけるものを」ばどひて逃(に)げ、逃(に)げえたる者もあれども、親のゆくへもしらず、子をも失(うしな)ひ家の物の具(ぐ)一も失(うしな)はずして、かねて逃(に)げのきて、しづかにゐたりける。かくてこの山みな崩(くず)れて、ふかき海となりにければ、これをあざけり笑(わら)ひしものどもは、みな死にけり。  あさましきことなり。 三一 なり村強力の学士にあふ事[巻二・一三]  むかし、成村(なりむら)といふ相撲(すまひ)ありけり。時に、国々の相撲ども、上(のぼり)あつまりて、相撲節待(すまひのせちまち)ける程、朱雀門(すざくもん)に集(あつ)まりてすずみけるが、そのへんあそぶゆくに、大学(だいがく)の東門(ひがしもん)を過(すぎ)て、南ざまにゆかんとしけるを、大学の衆どもも、あまた東の門荷出(いで)て、すずみたてにけるに、この相撲どものすぐるを、通(とを)さじとて、「鳴(な)り制(せい)せん。鳴(な)り高(たか)し」といひて、たちふさがりて、通(とほ)さざりければ、さすがに、やごつなき所の衆どものすることなれば、、破(やぶり)てもえ通(とほ)らぬに、たけひきらかなる衆の、冠、うへのきぬ、こと人よりはすこしよろしきが、中にすぐれて出(い)で立(た)ちて、いたく制するがありけるを、成村はみつめてけり。「いざいざ帰(かへり)なん」とて、もとの朱雀門に帰(かへり)ぬ。 そこにていふ、「この大学(がく)の衆、にくきやつども哉(かな)。何の心に、我らをば通(とほ)さじとはするぞ。ただ通(とを)らんと思(おもひ)つれども、さもあれ、けふは通らで、あす通(とを)らんと思(おもふ)なり。たけひきやかにて、中にすぐれて、「鳴(な)り制(せい)せん」といひて、通(とを)さじとたちふたがる男、にくきやつ也。あす通(とを)らんにも、かならず、けふのやうにせんずらん。なにぬし、その男が尻鼻、血あゆばかり、かならず蹴(け)たまへ」といへば、さいはるる相撲、わきをかきて、「おのれが蹴てんには、いかにも生(い)かじものを。がうぎにてこそいかめ」といひけり。この尻蹴(しりけ)よといはるる相撲は、おぼえある力、こと人よりはすぐれ、はしりとくなど有(あり)けるをみて、成村(なりむら)もいふなるけり。さて其日は、おのおの家々(いへいへ)に帰(かえり)ぬ。  又の日になりて、昨日参(まい)らざりし相撲などをあまためし集(あつ)めて、人がちになりて、通(とを)らんとかまふるを、大学の衆もさや心得にけん、きのふよりは人おほくなりて、かしがましう、「鳴(な)る制(せい)せん」といひたてけるに、この相撲(すまう)どもうち群(む)れて、あゆみかかりたり。きのふすぐれて制(せい)せし大学(がく)の衆、例(れい)のことなれば、すぐれて、大路を中に立(たち)て、すぐさじと思ひけしきしたり。成村(なりむら)「けよ」といひつる相撲に目をくはせければ、この相撲、人よりたけたかく大きに、わかくいさみたるをのこにて、くくり高(たか)やかに、かきあげて、さし進(すす)み歩(あゆ)みよる。それにつづきて、こと相撲(すまひ)も、ただ通(とを)りに通(とを)らんとするを、かの衆どもも、通(とほ)さじとするほどに、尻蹴(しりけ)んとする相撲、かくいふ衆(しゆ)に、はしりかかりて、蹴倒(けたを)さんと、足をいたくもたげるを、此衆(しゆ)は、目をかけて、背(せ)をたはめて、ちがひければ、蹴(け)はづして、足(あし)のたかくあがりて、のけざまになるやうにしたる足(あし)を大学(がく)の衆(しゆ)とりてけり。その相撲(すまひ)をほそき杖などを人の持(も)ちたるやうに、ひきさげて、かたへの相撲(すまひも)に、はしりかかりければ、それをみて、かたへの相撲(すまひ)逃(にげ)けるを追(を)ひかけて、その手にさげたる相撲(すまひ)をば投(あ)げければ、ふりぬきて、二三段(たん)ばかり投(な)げられて、倒(たう)れ伏(ふ)しにけり。身くだけて、おきあがるげくもなくなる。それをばしらず、成村(なりむら)も、目(め)をかけて逃(にげ)けり。心おかず追(お)ひければ、朱雀門のかたざまにはしりて、脇の門より走(はしり)入(いる)をやがてつめて、走(はしり)かかりければ、とらへられぬと思(おもひ)て、式部省の築地(つゐぢ)越(こ)えけるを、ひきとどめんとて、手をさしやりたりけるに、はやく越(子)えければ、異所(ところどころ)をばえとらへず、片足(かたあし)すこしさがりたりけるきびすを、沓加(くつくは)へながらとらへたりければ、沓のきびすに、あしの皮をとり加(くは)へて、沓のきびすを、刀にてきりたるやうに、引(ひき)きりて、、とりてけり。成村(なりむら)、築地のうちにたちて、足をみければ、血走(はし)りて、とどまるべくもなし。沓のきびす、きれて失(う)せにけり。我を追(お)ひける大学(がく)の衆(しゆ)あさましく力ある者にてぞありけるなめり。尻蹴(け)つる相撲をも、人杖(ひとづゑ)につかひて、投(な)げくだくめり。世中(よのなか)ひろければ、かかる物のあるこそおそろしき事なれ。投(な)げられたる相撲は死(しに)いたりければ、物にかきいれて、荷(にな)ひてもてゆきけり。  この成村(なりむら)、かたにすけに、「しかじかの事なん候(さぶらひ)つる。かの大学(がく)の衆はいみじき相撲にさぶらふめり。成村(なりむら)と申(まうす)とも、あふべき心ち仕らず」とかたりければ、かたのすけは、宣旨(せんじ)申(まうし)くだして、「式部の丞なりとも、そのみちにたへたらんはといふことあれば、まして大学(がく)の衆は何條ことかあらん」とて、いみじう尋(たづね)求められけれども、その人とも聞えずしてやみにけり。 三二 かきの木に仏現ずる事[巻二・一四]  昔、延喜の御門(みかど)の御時、五條の天神のあたりに、大なる柿(かき)の木の實ならぬあり。その木のうへに、佛あらはれてあはします。京中の人、こぞりて参りけり。馬、車もたてあへず、人もせきあへず、おのがにののしりけり。  かくするほどに、五六日あるに、右大臣殿、心得ずおぼし給(たまひ)ける間(あいだ)、まことの佛の、世の末に出(いで)給(たまふ)べきにあらず、我(われ)、行(ゆき)て試みんとおぼして、日の装束(さうぞく)うるはしくて、びりやうの車にのりて、御前(おんさき)多く具(ぐ)して集まりつどひたる者共(ども)のけさせて、車かけはづして、まもりて、一時斗(ばかり)あはするに、此(この)佛しばしこそ、花もふらせ、光をもはなち給(たまひ)けれ、あまりにもあまりにもまもられて、しわびて、大なるくそとびの羽おれたる、土におちて、まどひふためくを、童部どもよりて、うちころしてけり。大臣(おとど)は、さればこそとて、帰(かへり)給(たまひ)ぬ。  さて、ときの人、此大臣(おとど)をいみじくかしこき人にておはしますとぞ、ののしりける。 宇治拾遺物語 巻第三 三三 大太郎盗人事[巻三・一]  むかし、大太郎とて、いみじき、人の大将軍ありけり。しれが京へのぼりて、物とりぬべき所あらば入(い)りて物とらんとて思(おもひ)て、うかがひ歩(あり)きける程に、めぐりもあばれ、門などもかたかたは倒(たう)れたる。よこざまによせかけたる所のあがげなるに、男といふものは一人もみえずして、女のかぎりにて、はり物多(おほ)くとり散らしてあるにあはせて、八丈うる物など、あまたよび入(いれ)て、絹(きぬ)多(おほ)くとりいでて、えりかえさせつつ、物どもをかへば、もの多(おほ)かりける所かなと思(おもひ)て、たちどまりて見入(みい)るれば、折(おり)しも、風の南の簾(すだれ)を吹(ふき)あげたるに、簾(すだれ)のうちに、なにの入(いり)たりとはみえねども、皮子(かはご)に、いと高(たか)くうち積まれたる前に、ふたあきて、絹(きぬ)なめり(と)みゆるもの、とり散(ち)らしてあり。これをみて、うれしきわざかな、天道(たう)の我に物をたぶなりけりと思(おもひ)て、走(はしり)帰りて、八丈一疋人に借(か)りて、はきてうるとて、ちかくよりて見れば、内にもほかにも、男よいふものは一人もなし。ただ女どものかぎりして、見れば、皮籠(かはご)もおほかり。物は見えねど、うづたかく、ふたあほはれ、絹なども、殊外(ことのほか)にあり。布うち散(ち)らしなどして、いみじく物多(おほ)くありげなる所かなとみゆ。たかくいひて、八丈(じやう)をばうらでもちて帰(かへり)て、ぬしにとらせて、同類どもに、「かかる所こそあれ」と、いひまはして、その夜きて、門に入(い)らんとするに、たぎり湯(ゆ)を面(おもて)にかくるやうにおぼえて、ふつとえ入(い)らず。「こはいかなることぞ」とて、あつまりて、入(い)らんとすれど、せめて物のおそろしかりければ、「あるやうあらん。こよひは入(い)らじ」とて、帰(かへり)にけり。  つとめて、「さも、いかなりつる事ぞ」とて、同類(どうるい)など具(ぐ)して、うり物などもたせて、みてみるに、いかにもわづらわしき事なし。物多(おほ)くあるを、女どものかぎりして、とり出(いで)、取りおさめすれば、ことにもあらずと、返々(かへすがへす)思(おもひ)みふらせて、又暮(く)るれば、よくよく、したためて、入(い)らんとするに、猶(なほ)おそろしく覚(おぼ)えて、え入(い)らず。「わぬし、まづ入(い)れ」と、いひたちて、こよひもなほ、入(い)らずなりぬ。  又つとめても、おなじやうにみゆるに、猶(なほ)けしき異(け)なる物も見えず。ただ我が臆病(おくびやう)にて覚(おぼ)ゆるなめりとて、またその夜、よくしたためて、行向(ゆきむかひ)てたてるに、日ごろよりも、猶(なほ)ものおそろしかりければ、「こはいかなることぞ」といひて、かへりて云(いふ)やうは、「事を起(おこ)したらん人こそはまづ入る(い)らめ。先(まづ)大太郎が入(い)るべき」と云(いひ)ければ、「さもいはれたり」とて、身をなきになして入(いり)ぬ。それに取りつきて、かたへも入(いり)ぬ。入(い)りたれども、なほ物のおそろしければ、やはら歩(あゆ)みよりてみれば、あばらなる屋(や)の内に、火ともしたり。母屋(もや)のきはにかけたる簾(すだれ)をなおろして、簾(すだれ)のほかに、火をばともしたり。まことに、皮子(かはご)の多(おほ)かり。かの簾(すだれ)の中の、おそろしく覚(おぼ)ゆるにあはせて、簾(すだれ)の内に、矢を爪(つま)よる音のするが、その矢の来(き)て身にたつ心ちして、いふばかりなくおそろしく覚(おぼえ)て、帰(かえり)いづるも、せをそらしたるやうに覚(おぼ)へて、かまへていでえて、あせをのごひて、「こはいかなる事ぞ、あさましく、おそろしかりつる爪(つま)よりの音や」といひあわせて帰(かへり)ぬ。  そのつとめて、その家のかたはらに、大太郎がしりたりけることのありける家にy8うきたれば、みつけて、いみじく饗應(きやうよう)して、「いつのぼり給へるぞ。おぼつかなく侍りつる」などいへば、「ただいままうで来(き)つるままに、まうで来(き)たるなり」といへば、「土器(かはらけ)参(まい)らせん」とて、酒わかして、くろき土器(かはらけ)の大なるを盃にして、土器をとりて大太郎にさして、家あるじのみて、土器(かはらけ)わたしつ。大太郎とりて、酒を一土器(かはらけ)受(う)けて、持(も)ちながら、「この北には誰(た)が居(ゐ)給へるぞ」とぴへば、おどろきたるけしきにて、「まだ知(し)らぬか。おほ矢のすけたけのぶの、このごろのぼりて、居(ゐ)られたるなり」といふに、さは、入(いり)たらましかば、みな、かずをつくして、射殺(ころ)されなましと思ひけるに、物もおぼえず臆(おく)して、その受(う)けたる酒を、家あるじに、頭よりうつかけて、たちはしりける。物はうつぶしに倒(たを)れにけり。家あるじ、あさましと思(おもひ)て、「こはいかにこはいかに」と云(いひ)けれど、かへりみだにもせずして、逃げて去(い)にけり。  大太郎がとられて武者(むさ)の城のおそろしきよしを語(かたり)ける也。 三四 藤大納言忠家物言女放屁事[巻三・二]  今は昔、藤大納言忠家といふける人、いまだ殿上人におはしける時、美々(びび)しき色好(いろごの)みなりける女房と物いひて、夜ふくる程に、月は晝(ひる)よりもあかあかしけるに、たへかねて、御簾(す)をうちかづきて、なげしのうえにのぼりて、扇をかきて、引(ひき)よせられける程に、いとたかくならしてけり。女房は、いふにもたへず、くたくたとして、よりふしにけり。この大納言「心うきことにもあひぬるものかな。世にありても何(なに)にかはせん。出家せん」とて、御簾(す)のすそをすこしかきあげて、ぬき足をして、うたがひなく、出家せんと思ひて、二間(けん)ばかり行(ゆく)ほどに、そもそも、その女房あやまちせんからに、出家すべきやうやはあると思ふ心またつきて、ただただと、走(はし)出(い)でられにけり。女房はいかがなりけん、知らずとか。 三五 小式部内侍定頼卿の経にめでたる事[巻三・三]  今は昔、小式部内侍に貞頼中納言物(もの)いひわたりけり。それに又時の關白かよひ給(たまひ)けり。局(つぼね)に入(いり)て臥(ふし)給(たまひ)たりけるを、知(し)らざりけるにや、中納言よりきてたたきけるを、局(つぼね)の人「かく」とやいひたりけん、沓(くつ)をはきて行(ゆき)けるが、少しあゆみのきて、經を、はたと。二聲ばかりまでは、子式部内侍、きと耳をたつるやうにしければ、この入(い)りて臥(ふ)し給へる人、あやしとおぼしけるほどに、すかし聲(こゑ)遠(とを)うなるやうにて、四聲五聲(こゑ)ばかりゆきもやらでよみたりけるとき、「う」といひて、うしろざまにこそ、ふしかへりたれ。  この入(いり)臥(ふ)し給へる人の、「さばかりたへがたう、はづかしかりし事こそなかりしか」と、のちにのたまひけるとかや。 三六 山ぶし舟祈返事[巻三・四]  これもいまはむかし、越前国かふらきのわたりといふ所にわたりせんとて、者どもあつまりたるに、山ぶしあり。けいたう坊といふ僧なりけり。熊野(くまの)、御嶽(みたけ)はいふに及ばず。白山(しらやま)、伯耆の大山、出雲の鰐淵(わにぶち)、大かた修行し残したる所なかりけり。  それに、このかふらきの渡にゆきて、わたらんとするに、わたりせむとする者、雲霞(うんか)のごとし。おのおの物をとりてわたす。このけいたう坊「わたせ」といふに、わたし守、聞(き)もいれで、こぎいづ。その時に、此山ぶし「いかに、かくは無下にはあるぞ」といへども、大かた耳(みみ)にも聞(き)きいれずして、こぎ出(いだ)す。其(その)時にけいたう坊、歯をくひあはせて、念珠(ねんず)をもみちぎる。このわたし守、みかへるて、をこの事と思(おもひ)たるけしきにて、二三町ばかりゆくを、けいたう坊みやりて、足(あし)を砂子(すなご)に脛(はぎ)のなからばかりふも入(いれ)て、目もあかくにらみなして、數珠(ずず)をくだけぬと、もみちぎりて、「召(め)し返せ」とさけぶ。猶(なお)行過(ゆきすぐ)る時に、けいたう坊、袈裟を念珠とを、とりあはせて、汀(みぎは)ちかくあゆみよりて、「護法、召(め)しかへせ。召(めし)かへさずは、ながく三()に別(わかれ)奉らん」とさけびて、この袈裟(けさ)を海になげいれんとす。それをみて、このつどひゐたる者ども、色(いろ)うしなひてたてり。  かくいふほどに、風もふかぬに、このゆく舟のこなたへより来(く)。それをみて、けいたう坊「よるめくるは。はやう率(い)ておはせ」と、すはなちをして、みる者色違(たが)へたり。かくいふほどに、一町(ちやう)がうちにより来(き)たり。そのときけいたう坊「さて今はうちかへせ」とさけぶ。そのときに、つどひてみる者ども、一聲(こゑ)に、「むざうの申(まうし)やうかな。ゆゆしき罪(つみ)にも候。さておはしませ」といふとき、けいたう坊、いますこしけしきかはりて、「はや、打(うち)かへし給へ」とさけぶときに、此(この)わたし舟に廿餘人のわたる者(もの)、づぶりとなげ返しぬ。その時、けいたう坊、あせを押し(を)しのごひて、「あな、いたのやつばらや。まだしらぬか」といひて立(たち)帰(かへり)にけり。  世の末(すゑ)なれども、三寳おはしましけりとなん。<ここまで大系本参照> 三七 鳥羽僧正与国俊たはぶれ[巻三・五]  これも今は昔、法輪院(ほふりんゐん)大僧正覚猷(かくいう)といふ人おはしけり。その甥(をひ)に陸奥前司(むつのぜんじ)、国俊、僧正のもとへ行きて、「参りてこそ候(さぶら)へ」といはせければ、「只今見参(げんざん)すべし。そなたにしばしあはせ」とありければ、待ちゐたるに、二時(ふたとき)ばかりまで出であはねば、生(なま)腹立たしう覚えて、「出でなん」と思ひて、供に具(ぐ)したる雑色(ざふしき)を呼びければ、出(い)で来(き)たるに、「沓(くつ)持(も)て来(こ)」といひければ、持(も)て来たるをはきて、「出でなん」といふに、この雑色がいふやう、「僧正の御坊の、『陸奥殿に申したれば、疾(と)う乗れとあるぞ。その車率(ゐ)て来(こ)』とて、『小御門(こみかど)より出でん』と仰(おほ)せ事(ごと)候ひつれば、『やうぞ候ふらん』とて、牛(うし)飼(かひ)乗せ奉りて候へば、『侍たせ給へと申せ。時の程ぞあらんずる。やがて帰り来(こ)んずるぞ』とて、早う奉りて出でさせ給ひつるにて候ふ。かうて一時(ひととき)には過ぎ候ひぬらん」といへば、「わ雑色は不覚(ふかく)のやつかな。『御車をかく召しの候ふは』と、我にいひてこそ貸し申さめ。不覚なり。」といへば、「うちさし退(の)きたる人にもおはしまさず。やがて御尻切奉りて、『きときとよく申したるぞ』と、仰せ事候へば、力及び候はざりつる」といひければ、陸奥前司帰り上(のぼ)りて、いかにせんと思ひまはすに、僧正は定まりたる事にて湯舟(ゆぶね)に藁(わら)をこまごまと切りて一(ひと)はた入れて、それが上に筵(むしろ)を敷きて、歩(あり)きまはりては、左右(さう)なく湯殿(ゆどの)け行きて裸になりて、「えさい、かさい、とりふすま」といひて、湯舟にさくとのけざまに臥(ふ)す事をぞし給ひける。陸奥前司、寄りて筵を引きあげて見れば、まことに藁をみな取り入れてよく包みて、その湯舟に湯桶(をけ)をしたに取り入れて、それが上に囲碁盤(ゐごばん)を裏返して置きて、筵を引き掩(おほ)ひて、さりげなくて、垂布に包みたる藁をば大門(だいもん)の脇(わき)に隠し置きて、待ちゐたる程に、二時(ふたとき)余りありて、僧正、小門(こもん)より帰る音しければ、ちがひて大門へ出でて、帰りたる車呼び寄せて、車の尻(しり)にこの包みたる藁を入れて、家へはやらかにやりて、おりて、「この藁を、牛のあちこち歩(あり)き困(こう)じたるに、食はせよ」とて、牛飼童(うしかひわらは)に取らせつ。  僧正は例の事なれば、衣(きぬ)脱ぐ程もなく、例の湯殿(ゆどの)へ入りて、「えさい、かさい、とりふすま」といひて湯舟(ゆぶね)へ躍り(をど)り入りて、のけざまに、ゆくりもなく臥(ふ)したるに、碁盤の足のいかり差し上(あが)りたるに尻骨(しりぼね)を荒う突きて、年高うなりたる火との、死に入りて、さし反(そ)りて臥したりけるが、その後(のち)音なかりければ、近う使ふ僧寄りて見れば、目を上(かみ)に見つけて死に入りて寝たり。「こはいかに」といへど、いtrあへもせず。寄りて顔に水吹きなどして、とばかりありてぞ息の下におろおろいはれける。この戯(たはぶ)れ、いとはしたなかりけるにや。 三八 絵仏師良秀家の焼をみてよろこぶこと[巻三・六]  これも今は昔、絵仏師良秀といふありけり。家の隣より火出(い)で来(き)て、風おし掩(おほ)ひて責めければ、逃げ出(い)でて大路(おほじ)へ出でにけり。火との書かする仏もおはしけり。また衣(きぬき)着ぬ妻子なども、さながら内にありけり。それも知らず、ただ逃げ出てたるを事にして、向ひのつらに立てり。見れば、すでに我(わ)が家に移りて、煙(けぶり)炎くゆりけるまで、大方(おほかた)向ひのつらに立ちて眺めければ、あさましき事とて人ども来(き)とぶらひけれど、騒がず。「いかに」と人いひければ、向ひに立ちて、家の焼くるを見てうち頷(うなづ)きて時々笑ひけり。「あはれ、しつるせうとくかな。年比(としごろ)はわろく書きけるものかな」といふ時に、とぶらひに来たる者ども、「こはいかに、かくて立ち給へるぞ。あさましき事かな。物の憑(つ)き給へるか」といひければ、「何条(なんでふ)物の憑くべきぞ。年比不動尊の火焔(くわえん)を悪(あ)しく書きけるなり。今見れば、かうこそ燃えけれと、心得つるなり。これこそせうとくよ。この道を立てて世にあらんには、仏だによく書き奉らば、百千の家も出で来(き)なん。わたうたちこそ、させる能もおはせねば、物をも惜(を)しみ給へ」といひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。その後にや、良秀がよりぢり不動とて今に人々愛(め)で合へり。 三九 虎の鰐取たる事[巻三・七]  これも今は昔、筑紫(つくし)の人、商(あきな)ひしに新羅(しらぎ)に渡りけるが商ひ果てて帰る道に、山の根に沿ひて、舟に水汲(く)み入れんとて、水の流れ出でたる所に舟をとどめて水を汲む。  その程、舟に乗りたる者舟ばたにゐて、うつぶして海を見れば山の影うつりたり。高き岸三四十丈ばかり余りたる上に、虎つづまりゐて物を窺(うかが)ふ。その影水にうつりたり。その時に人々に告げて、水汲む者を急ぎ呼び乗せて、手ごとに櫓(ろ)を押して急ぎて舟を出(いだ)す。その時に虎躍る(をど)りおりて舟に乗るに、舟はとく出づ。虎は落ち来る程のありければ、今一丈ばかりをえ躍りつかで、海に落ち入りぬ。  舟を漕(こ)ぎて急ぎて行くままに、この虎に目をかけて見る。しばしばかりありて、虎海より出(い)で来(き)ぬ。泳ぎて陸(くが)ざまに上(のぼ)りて、汀(みぎは)に平なる石の上に登るを見れば、左の前足を膝(ひざ)より噛(か)み食ひ切られて血あゆ。「鰐(わに)に食ひ切られたるなりけり」と見る程に、その切れたる所を水に浸(ひた)して、ひらがりをるを、「いかにするにか」と見る程に、沖の方(かた)より鰐(わに)虎の方(かた)をさして来(く)ると見る程に、虎、右の前足をもて鰐の頭に爪(つめ)をうち立てて陸(くが)ざまに投げあぐれは、一丈ばかり浜に投げあげられぬ。のけざまになりてふためく。頤(おとがひ)の下を躍りかかりて食ひて、二度(ふたたび)酸度ばかりうち振りてなよなよとなして、肩にうちかけて、手を立てたるやうなる岩の五六丈あるを、三つの足をもちて下(くだ)り坂を走るがごとく登りて行けば、舟の内なる者ども、これが仕業(しわざ)を見るに、半(なか)らは死に入りぬ。「舟に飛びかかりたらましかば、いみじき剣刀(つるぎかたな)を抜きてあふとも、かばかり力強く早からんには、何(なに)わざをすべき」と思ふに、肝心(きもごころ)失(う)せて、舟漕(こ)ぐ空もなくてなん筑紫(つくし)には帰りけるとかや。 四〇 きこりうたのこと[巻三・八]  今は昔、木こりの山守(やまもり)に斧(よき)を取られて、わびし、心憂(こころう)しと思ひて、頬杖(つらづえ)突きてをりける。山守見て、「さるべき事を申せ。取らせん」といひければ、悪(あ)しきだになきわりねき世間(よのなか)によき取られてわれいかにせんと詠(よ)みてりければ、山守返しせんと思ひて、「うううう」と呻(うめ)きけれど、えさざりけり。さて斧(よき)返し取らせてければ、うれしと思ひけりとぞ。人はただ歌を構へて詠むべしと見えたり。 四〇 樵夫歌事(きこりうたのこと)[巻三・八]  今は昔(むかし)、木こりの、山守に斧(よき)を取られて、「わびし、心うし」と思て、つら杖うちつきておりける。山守(もり)見(み)て、「さるべきことを申せ。とらせん」といひければ、   あしきだになきはわりなき世中によきをとられて我いかにせん とよみたりければ、山守(もり)、返しせんと思て、「うゝ、うゝ」とうめきけれど、えせざりけり。さて、斧(よき)返(かへ)しとらせてければ、うれしと思けりとぞ。   人はたゞ、歌をかまへてよむべしと見(み)えたり。<1998.5.19牧恵子> 四一 伯母事[巻三・九]  今は昔、多気(たけ)の大夫(たいふ)といふ者の、常陸(ひたち)より上(のぼ)りて愁(うれ)へする比(ころ)、向かひに越前守(えちぜんのかみ)といふ人のもとに経誦(ず)しけり。この越前守は伯(はく)の母とて世にめでてき人、歌よみの親なり。妻は伊勢の大輔(たいふ)、姫君にたちあまたあるべし。多気の大夫つれづれに覚ゆれば、聴聞(ちやうもん)に参りたりけるに、御簾(みす)を風の吹き上げたるに、なべてならず美しき人の、紅(くれなゐ)の一重(ひとへ)がさね着たる見るより、「この人を妻(め)にせばや」といりもみ思ひければ、その家の上童(うへわらは)を語らひて問ひ聞けば、「大姫御前の、紅は奉りたる」と語りければ、それに語らひつきて、「我に盗ませよ」といふに、「思ひかけず、えせじ」といひければ、「さらば、その乳母(めのと)を知らせよ」といひければ、「それは、さも申してん」とて知らせてけり。さていみじく語らひて金(かね)百両取らせなどして、「この姫君を盗ませよ」と責め言ひければ、さるべき契(ちぎ)りにやありけん、盗ませてけり。  やがて乳母(めのと)うち具(ぐ)して常陸へ急ぎ下(くだ)りにけり。跡に泣き悲しねど、かひもなし。程経て乳母おとづれたり。あさましく心憂(こころう)しと思へども、いふかひなき事なれば、時々うちおとづれて過ぎけり。伯の母、常陸へかくいひやり給ふ。 匂ひきや都(みやこ)の花は東路(あづまぢ)にこちのかへしの風のつけしは返し、姉、   吹き返すこちのかへしは身にしみき都の花のしるべと思ふに  年月隔りて、伯(はく)の母、常陸守(ひたちのかみ)の妻(め)にて下(くだ)りけるに、姉は失(う)せにけり。女(むすめ)二人(ふたり)ありけるが、かくと聞きて参りたりけり。田舎(ゐなか)人とも見えず、いみじくしめやかに恥づかしげによかりけり。常陸守の上(うへ)を、「昔の人に似させ給ひたりける」とて、いみじく泣き合ひたりけり。四年が間(あひだ)、名聞(にやうもん)にも思ひたらず、用事(ようじ)などもいはざりけり。  任果てて上(のぼ)る折に、常陸守、「無下(むげ)なりける者どもかな。かくなん上(のぼ)るといひにやれ」と男にいはれて、伯の母、上(のぼ)る由(よし)いひにやりたりければ、「承りぬ。参り候(さぶら)はん」とて明後日(あさて)上(のぼ)らんとての日、参りたりけり。えもいはぬ馬、一つを宝にする程の馬十疋(びき)づつ、二人して、また皮籠(かはご)負(お)ほせたる馬ども百疋づつ、二人して奉りたり。何(なに)とも思ひたらず、かばかりに事したりとも思はず、うち奉りて帰りにけり。常陸守の、「ありける常陸四年が間(あひだ)の物は何ならず。その皮籠の物どもしてこそ万(よろづ)の功徳(くどく)も何(なに)もし給ひけれ。ゆゆしかりける者どもの心の大きさ広さかな」と語られけるとぞ。  この伊勢の大輔(たいふ)の子孫は、めでたきさいはひ人多く出(い)で来(き)給ひたるに、大姫君のかく田舎人になられたりける、哀れに心憂(こころう)くこそ。 四二 同人仏事事[巻三・一〇]  今は昔、伯(はく)の母仏供養(ほとけくやう)しけり。永縁(やうえん)僧正(そうじやう)を請(しやう)じて、さまざまの物どもを奉る中に紫の薄様(うすやう)に包みたる物あり。あけて見れば、朽(く)ちけるに長柄(ながら)の橋の橋柱法(のり)のためにも渡しつるかな長柄の橋の切(きれ)なりけり。  またその日つととめて、若狭阿闍梨(わかさのあじやり)隆源といふ人歌よみなるが来たり。「あはれ、この事を聞きたるよ」と僧正思(おぼ)す。み懐(ふところ)より名簿(みようぶ)を引き出でて奉る。「この橋の切賜(きれたまは)らん」と申す。僧正、「かばかりの希有(けう)の物はいかでか」とて、「何(なに)しにか取らせ給はん。口惜(くちを)し」とて帰りにけり。すきずきしくあはれなる事どもなり。 四三 藤六事[巻三・一一]  今は昔、藤六といふ歌よみありけり。下種(げす)の家に入りて、人もなかりける折を見つけて入りにけり。鍋(なべ)に煮(に)ける物をすくひける程に、家あるじの女、水を汲(く)みて、大路(おほち)の方より来て見れば、かくすくひ食へば、「いかにかく人もなき所に入りて、かくはする物をば参るぞ。あなうたてや、藤六にこそいましけれ。さらば歌詠(よ)み給へ」といひければ、   昔より阿弥陀(あみだ)ほとけのちかひにて煮ゆるものをばすくふとぞ知る とこそ詠みたりける。 四四 多田しんぼち郎等事[巻三・一二]  これも今は昔、多田満仲のもとに猛(たけ)く悪(あ)しき朗等(らうとう)ありけり。物の命を殺すをもて業(わざ)とす。野に出(い)で、山の入りて鹿を狩り鳥を取りて、いささかの善根(ぜんごん)する事なし。ある時出でて狩(かり)をする間、馬を馳(は)せて鹿追ふ。矢をはげ、弓を引きて、鹿に随(したが)ひて走らせて行く道に寺ありけり。その前を過ぐる程に、きと見やりたれば、内に地蔵(ぢざう)立ち給へり。左の手をもちて弓を取り、右の手して笠(かさ)を脱ぎて、いささか帰依(きえ)の心をいたして馳せ過ぎにけり。  その後(のち)いくばくの年を経ずして、病(やまひ)ちきて、日比(ひごろ)よく苦しみ煩(わづら)ひて、命絶えぬ。冥途(めいど)に行き向ひて、閻魔(えんま)の庁(ちやう)に召されぬ。見れば、多くの罪人、罪の重軽に随ひて打ちせため、罪せらるる事いといみじ。我(わ)が一生の罪業(ざいごふ)を思ひ続くるに、涙落ちてせん方(方)なし。  かかる程に、一人(ひとり)の僧出(い)で来(き)たりて、のたまはく、「汝(なんぢ)を助けんと思ふなり。早く故郷(ふるさと)に帰りて、罪を懺悔(ざんげ)すべし」とのたまふ。僧に問ひ奉りて曰(いは)く、「これは誰(たれ)の人の、かくは仰(おほ)せらるるぞ」と。僧答え給はく、「我は汝(なんぢ)鹿を追うて寺の前を過ぎしに、寺の中にありて汝に見えし地蔵菩薩(じざうぼさつ)なり。汝罪業(ざいごふ)深重(じんぢゆう)なりといへども、いささか我に帰依(きえ)の心の起りし功によりて、吾(われ)いま汝を助けんとするなり」とのたまふと思干てよみがへりて後(のち)は、殺生(せっしやう)を長く断ちて、地蔵菩薩につかうまつりけり。 四五 いなばの国別当地蔵作さす事[巻三・一三]  これも今は昔、因幡国高草(いながのくにたかくさ)の郡さかの里に伽藍(がらん)あり。国隆寺(こくりゆうじ)と名づく。この国の前(さき)の国司ちかなが造れるなり。そこに年老いたる者語り伝へて曰(いは)く、この寺の別当ありき。家に仏師(ぶつし)を呼びて地蔵を造らする程に、別当の妻が異男(ことをとこ)に語らはれて跡をくらうして失(う)せぬ。別当心を惑はして、仏の事をも仏師をも知らで、里村に手を分ちて尋ね求むる間、七八日を経ぬ。仏師ども檀那(だんな)を失ひて、空を仰びて手を徒(いたづ)らにしてゐたり。その寺の専当(せんだう)法師これを見て、善心を起して、食物(くひもの)を求めて仏師に食はせて、わづかに地蔵の木作(きづくり)ばかりをし奉して、彩色(さいしき)。瓔珞(やうらく)をばえせず。  その後(のち)、この専当法師病(やまひ)づきて命終りぬ。妻子悲しみ泣きて、棺(くわん)に入れながら捨てずして置きて、なほこれを見るに、死にて六日といふ日の未(ひつじ)の時ばかりに、にはかにこの棺はたらく。見る人おぢ恐れて逃げ去りぬ。妻泣き悲しみて、あけて見れば、法師よみがへりて、水を口に入れ、やうやう程経て、冥途(めいど)の物語す。「大(おほ)きなる鬼二人(ふたり)来たりて、我を捕らへて追ひ立てて広き野を行くに白き衣(きぬ)着たる僧出(い)で来(き)て『鬼ども、この法師とく許せ。我は地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)なり。因幡の国隆寺にて我を造りし僧なり。法師等食物なくて日比(ひごろ)経(へ)しに、この法師信心いたして、食物を求めて仏師を供養(くやう)して、我(わ)が像を造らしめたり。この恩忘れがたし。必ず許すべき者なり』とのたまふ程に、鬼ども、許しをはかりぬ。ねんごろに道教へて帰しつと見て、生き返りたるなり」といふ。  その後(のち)この地蔵菩薩を妻子ども彩色し、供養し奉りて、長く帰依(きえ)し奉りける。今はこの寺におはします。 四六 臥見修理大夫俊綱事[巻三・一四]  これも今は昔、伏見修理大夫は宇治殿の御子にておはす。あまり公達(きんだち)多くおはしければ、やうを変へて橘俊遠(たちばなのとしとほ)といふ人の子になし申して、蔵人(くらうど)になして、十五にて尾張守(おはりのかみ)になし給ひてけり。それに尾張に下(くだ)りて国行ひけるに、その比(ころ)熱田神(あつたのかみ)いちはやくおはしまして、おのづから笠(かさ)も脱がず、馬の鼻を向け、無礼(むらい)をいたす者をば、やがてたち所に罰せさせおはしましければ、大宮寺(だいぐうじ)の威勢、国司にもまさりて、国の者どもおぢ恐れたりけり。  そこに国司下(くだ)りて国の沙汰(さた)どもあるに、大宮司、我はと思ひてゐたるを国司咎(とが)めて、「いかに大宮司ならんからに、国にはらまれては見参(げんざん)にも参らぬるぞ」といふに、「さきざきる事なし」とてゐたりければ、国司むつかりて、「国司も国司にこそよれ。我らにあひてかうはいふぞ」とて、いやみ思ひて、「知らん所ども点(てん)ぜよ」などいふ時に、人ありて大宮司にいふ。「まことにも国司と申すにかかる人おはす。見参に参らせ給へ」といふければ、「さらば」といひて、衣冠(いくわん)に衣(きぬ)出(いだ)して、供の者ども三十人ばかり具(ぐ)して国司のがり向ひぬ。国司出であひて対面(たいめん)して、人どもを呼びて、「きやつ、たしかに召し籠(こ)めて勘当(かんだう)せよ。神官といはんからに、国中にはらまれて、いかに奇怪(きくわい)をばいたす」とて、召したててゆぶねに籠(こ)めて勘当す。  その時、大宮司、「心憂(こころう)き事に候(さぶら)ふ。御神はおはしまざむか。下臈(げらふ)の無礼(むらい)をいたすだにたち所に罰させおはしますに、大宮司をかくせさせて御覧ずるは」と、泣く泣くくどきてまどろみたる夢に、熱田(あつた)の仰(おほ)せらるるやう、「この事におきては我(わ)が力及ばぬなり。その故(ゆゑ)は僧ありき。法華経を千部読みて我に法楽(ほふらく)せんとせしに、百余部は読み奉りたりき。国の物ども貴(たふと)がりて、この僧に帰依(きえ)しあひたりしを、汝(なんぢ)むつかしがりて、その僧を追ひ払ひてき。それにこの僧悪心を起こして、『我この国の守(かみ)になりて、この答(こたへ)をせん』とて生れ来て、今国司になりてければ、我が力及ばず。その先生(せんじやう)の僧を俊綱といひしに、この国司も俊綱(としつな)といふなり」と、夢に仰せありけり。人の悪心はよしなき事なりと。 四七 長門前司女さうそうの時本所にかへる事[巻三・一五]  今は昔、長門前司といひける人の、女(むすめ)二人(ふたり)ありけるが、姉は人の妻にてありける。妹はいと若くて宮仕(みやづか)へぞしけるが、後(のち)には家にゐたりけり。わざとありつきたる男となくて、ただ時々通ふ人などぞありける。高辻室町(たかつじむろまち)わたりにこぞ家はありける。父母もなくなりて、奥の方(かた)には姉ぞゐたりける。南の表(おもて)の、西の方なる妻戸口にぞ常々人に逢(あ)ひ、物などいふ所なりける。  廿七八ばかりなりける年、いみじく煩(わずら)ひて失(う)せにけり。奥は所狭(ところせ)しとて、その妻戸口にぞやがて臥(ふ)したりける。さてあるべき事ならねば、姉などしたてて鳥部野(とりべの)へ率(ゐ)て往(い)ぬ。さて例の作法(さほふ)にとかくせんとて、車より取りおろす。櫃(ひつ)かろがろとして、蓋(ふた)いささかあきたり。あやしくて、あけて見るに、いかにもいかにも露(つゆ)物なかりけり。「道などにて落ちなどすべき事にもあらぬに、いかなる事にか」と心得ず、あさまし。すべき方(かた)もなくて、「さりとてあらんやは」とて、人々走り帰りて、「道におのづからや」と見れども、あるべきならねば、家へ帰りぬ。 「もしや」と見れば、この妻戸口に、もとのやうにてうち臥したり。いとあさましくも恐ろしくて、親しき人々集りて、「いかがすべき」と言ひ合せ騒ぐ程に、夜もいたく更(ふ)けぬれば、「いかがせん」とて、夜明けてまた櫃に入れて、この度(たび)はよくまことにしたためて、夜(よ)さりいかにもなど思ひてある程に、夕つかたに見る程に、この櫃の蓋細めにあきたりけり。いみじく恐ろしく、ずちなけれど、親しき人々、「近くてよく見ん」とて寄りて見れば、棺(ひつぎ)より出でて、また妻戸口に臥したり。「いとどあさましきわざかな」とて、またかき入れんとて万(よろづ)にすれど、さらにさらに揺(ゆ)るがず。土より生(お)ひたる大木などを引き揺るがさんやうなれば、すべき方(かた)なくて、「ただここにあらんと思(おぼ)すか。さらばここにも置き奉らん。かくてはいと見苦しかりなん」とて、妻戸口の板敷(いたじき)をこぼちて、そこに下(おろ)さんとしければ、いと軽(かろ)やかに下(おろ)されたれば、すべなくて、その妻戸口一間を板敷など取りのけこぼちて、そこに埋(うづ)みて高々と塚にてあり。家の人々もさてあひゐてあらん、物むつかしく覚えて、みな外(ほか)へ渡りにけり。さて年月経(へ)にければ、寝殿(しんでん)もになこぼれ失(う)せにけり。  いかなる事にか、この塚の傍(かたは)ら近くは下種(げす)などもえゐつかず。むつかしき事ありと言ひ伝へて、大方(おほかた)人もえゐつかねば、そこはただの塚一つぞある。高辻(たかつじ)よりは北、室町(むろまち)よりは西、高辻表に六七間ばかりが程は、小家(こいへ)もなくて、その塚一つぞ高々としてありける。いかにしたる事にか、塚の上に神の社(やしろ)をぞ一つ斎(いは)ひ据(す)ゑてあなる。この比(ごろ)も今にありとなん。 四八 雀報恩事[巻三・一六]  今は昔、春つかた、日うららかなりけるに、六十ばかりの女のありけるが、虫打ち取りてゐたりけるに、庭に雀のしありきけるを、童部(わらはべ)石を取りて打ちたれば、当たりて腰をうち折られにけり。羽をふためかして惑ふ程に、烏(からす)のかけりありきければ、「あな心憂(こころう)。烏取りてん」とて、この女急ぎ取りて、息(いき)しかけなどして物食はす。小桶に入れて夜(よる)はをさむ。明くれば米食はせ、銅(あかがね)、薬にこそげて食はせなどすれば、子ども孫など、「あはれ、女刀自(をんなとじ)は老いて雀飼はるる」とて憎み笑ふ。  かくて月比(つきごろ)よくつくろへば、やうやう躍(をど)り歩(あり)く。雀の心にも、かく養ひ生(い)けたるをいみじくうれしうれしと思ひけり。あからさまに物へ行くとても、人に、「この雀見よ。物食はせよ」など言ひ置きければ、子孫(こまご)など、「あはれ、なんでふ雀(すずめ)飼はるる」とて憎み笑へども、「さはれ、いとほしければ」とて飼ふ程に、飛ぶ程なりけり。「今はよも烏(からす)に取られじ」とて、外(ほか)に出(い)でて手に据ゑて、「飛びやする、見ん」とて、ささげたれば、ふらふらと飛びて往(い)ぬ。女、「多くの月比(つきごろ)日比(ひごろ)、暮るればをさめ、明くれば物食はせ習ひて、あはれや飛びて往ぬるよ。また来やすると見ん」など、つれづれに思ひていひければ、人に笑はれけり。  さて廿日ばかりありて、この女のゐたる方に雀のいたく鳴く声しければ、「雀こそいたく鳴くなれ。ありし雀の来るにやあらん」と思ひて出でて見れば、この雀なり。「あはれに、忘れず来たるこそあはれなれ」といふ程に、女の顔をうち見て口より露(つゆ)ばかりの物を落して置きたり。「持(も)て来たる、やうこそあらめ」とて、取りて持ちたり。「あないみじ、すずめの物得て宝にし給ふ」とて子ども笑へば、「さはれ、植ゑてみん」とて植ゑたれば、秋になるままに、いみじく多く生(お)ひ広ごりて、なべての瓢荷も似ず、大きに多くなりたり。女悦(よろこ)び興じて、里隣(さとどなり)の人にも食はせ、取れども取れども尽きもせず多かり。笑ひし子孫(こまご)もこれを明け暮れ食ひてあり。一里(ひとさと)配(くば)りなどして、果てにはまことにすぐれて大きなる七つ八つは瓢にせんと思ひて、内につりつけて置きたり。  さて月比(つきごろ)へて、「今はよくなりぬらん」とて見れば、よくなりにけり。取りおろして口あけんとするに、少し重し。あやしけれども切りあけて見れば、物一はた入りたり。「何(なに)にかあるらん」とて移して見れば、白米の入りたりつ。思ひかけずあさましと思ひて、大(おほ)きなる物に皆を移したるに、同じやうに入れてあれば、「ただ事にはあらざりけり。雀のしたるにこそ」と、あさましくうれしければ、物に入れて隠し置きて、残りの瓢どもを見れば、同じやうに入れてあり。これを移し移し使へば、せん方(かた)なく多かり。さてまことに頼もしき人にぞなにける。隣里(となりざと)の人も見あさみ、いみじき事に羨(うらや)みけり。  この隣にありける女の子どものいふやう、「同じ事なれど、人はかくこそあれ。はかばかしき事もえし出(い)で給はぬ」などいはれて、隣の女、この女房のもとに来たりて、「さてもさても、こはいかなりし事ぞ。雀(すずめ)のなどはほの聞けど、よくはえ知らねば、もとありけんままにのたまへ」といへば、「瓢(ひさこ)の種を一つ落としたりし植ゑたりしよりある事なり」とて、こまかにもいはぬを、なほ、「ありのままにこまかにのたまへ」と切(せつ)に問へば、「心狭(せば)く隠すべき事かは」と思ひて、「かうかう腰折れたる雀のありしを飼ひ生けたりしを、うれしと思ひけるにや、瓢の種を一つ持ちて、来たりしを植ゑたれば、かくなりたるなり」といへば、「その種ただ一つ賜(た)べ」といへば、「それに入れたる米などは参らせん。種はあるべき事にもあらず。さらにえなん散らすまじ」とて取らせねば、「我もいかで腰折れたらん雀見つけて飼はん」と思ひて、目をたてて見れど、腰折れたる雀さらに見えず。  つとめてごとに、窺(うかが)ひ見れば、せどの方(かた)に米の散りたるを食ふとて雀の躍(をど)り歩(あり)くを、石を取りてもしやとて打てば、あまたの中にたびたび打てば、おのづから打ち当てられて、え飛ばぬあり。悦(よろこ)びて寄りて腰よくうち折りて後に、取りて物食はせ、薬食はせなどして置きたり。「一つか徳をだにこそ見れ、ましてあまたならばいかにも頼もしからん。あの隣の女にはまさりて、子どもにほめられん」と思ひて、この内に米撒(ま)きて窺ひゐたれば、雀ども集まりて食ひに来たれば、また打ち打ちしければ、三つ打ち折りぬ。「今はかばかりにてありなん」と思ひて腰折れたる雀三つばかり桶(をけ)に取り入れて、銅(あかがね)こそげて食はせなどして月比(つきごろ)経(へ)る程に、皆よくなりにたれば、悦びて外(と)に取り出でたれば、ふらふらと飛びてみな往(い)ぬ。「いみじきわびしつ」と思ふ。雀は腰うち折られて、かく月比籠(こ)め置きたる、よに妬(ねた)しと思ひけり。  さて十日ばかりありて、この雀ども来たれば、悦びて、まづ「口に物やくはへたる」と見るに、瓢(ひさこ)の種を一つづつみな落として往ぬ。「さればよ」とうれしくて、取りて三所(みところ)に植ゑてけり。例よりもするすると生(お)ひたちて、いみじく大きになりたる。女、笑(ゑ)みまけて見て、子どもにいふやう、「はかばかしき事し出(い)でずといひしかど、我は隣の女にはまさりなん」といへば、げさにもあらなんと思ひたり。これは数の少なければ、米多く取らんとて、人にも食はせず、我も食はず。子どもがいふやう、「隣の女房は里隣(さとどなり)の人にも食はせ、我も食ひなどこそせしか。これはまして三つが種なり。我も人にも食はせらるらるべきなり」といへば、さもと思ひて、「近き隣の人にも食はせ、我も子どもにももろともに食はせん」とて、おほらかにて食ふに、にがき事物にも似ず。黄蘗(きはだ)のやうにて心地惑(まど)ふ。食ひと食ひたる人々も子どもも我も、物をつきて惑ふ程に、隣の人どももみな心地を損じて、来集(あつま)りて、「こはいかなる物を食はせつるぞ。あな恐ろし。露(つゆ)ばかりけふんの口に寄りたる者も、物をつき惑ひ合ひて死ぬべくこそあれ」と、腹立ちて「いひせためん」と思ひて来たれば、主(ぬし)の女を始めて子どももみな物覚えず、つき散(ち)らして臥(ふ)せり合ひたり。いふかひなくて、共に帰りぬ。二三日も過ぎぬれば、誰々(たれたれ)も心地直りにたり。女思ふやう、「みな米にならんとしけるものを、急ぎて食ひたれば、かくあやしかりけるなめり」と思ひて、残りをば皆つりつけて置きたり。  さて月比(つきごろ)経(へ)て、「今はよくなりぬらん」とて、移し入れん料(れう)の桶(をけ)ども具(ぐ)して部屋に入る。うれしければ、歯もなき口して耳のもとまで一人笑(ゑ)みして、桶を寄せて移しければ、虻(あぶ)、蜂(はち)、むかで、とかげ、蛇(くちなは)など出でて、目鼻ともいはず、一身(ひとみ)に取りつきて刺せども、女痛さも覚えず。ただ「米のこぼれかかるぞ」と思ひて、「しばし待ち給へ、雀(すずめ)よ。少しづつ取らん」といふ。七つ八つの瓢(ひさこ)より、そこらの毒虫ども出でて、子どもをも刺し食ひ、女をば刺し殺してけり。雀の、腰をうち折られて、妬(ねた)しと思ひて、万(よろづ)の虫どもを語らひて入れたりけるなり。  隣の雀は、もと腰折れて烏(からす)の命取りぬべかりしを養ひ生けたれば、うれしと思ひけるなり。されば物羨(うらや)みはすまじき事なり。 四九 小野篁(おののたかむら)、広才の事[巻三・一七]  今は昔、小野篁(おののたかむら)といふ人おはしけり。嵯峨帝(さがのみかど)の御時に、内裏(だいり)に札(ふだ)を立てたりけるに、「無悪善」と書きたりけり。帝、篁に、「読め」と仰(おほ)せられたりければ、「読みは読み候(さぶら)ひなん」されど恐れにて候へば、え申し候はじ」と奏(そう)しければ、「ただ申せ」とたびたび仰せられければ、「さがなくてよからんと申して候ふぞ。されば君を呪(のろ)ひ参らせて候ふなり」と申しければ、「おのれ放ちては誰(たれ)か書かん」と仰せられければ、「さればこそ、申し候はじとは申して候うひつれ」と申すに、御門(みかど)、「さて何(なに)も書きたらん物は読みてんや」と仰せられければ、「何(なに)にても、読み候ひなん」と申しければ、片仮名の子文字(ねもじ)を十二書かせて給ひて、「読め」と仰せられければ、「ねこの子のこねこ、ししの子のこじし」と読みたりければ、御門ほほゑませ給ひて、事なくてやみにけり。 五〇 平貞文・本院侍従事[巻三・一八]  今は昔、兵衛佐(ひやうゑのすけ)貞文をば平中(へいちゆう)といふ。色好(いろごの)みにて、宮仕人(みやづかへびと)はさらなり、人の女(むすめ)など、忍びて見ぬはなかりけり。思ひかけて文やる程の人の、なびかぬはなかりけるに、本院寺従といふは村上の御母后(ははぎさき)の女房なり。世の色好みにてありけるに、文やるに、僧からず返事(かへりごと)はしながら、逢(あ)ふ事はなかりけり。「しばしこそあらめ、遂(つひ)にはさりとも」と思ひて、物のあはれなる夕暮の空、また月の明(あか)き夜など、艶(えん)に人の目とどめつべき程を計らひつつおとづれければ、女も見知りて、情(なさけ)は交わしながら心をば許さず、つれなくて、はしたなからぬ程にいらへつつ、人ゐまじり、苦しかるまじき所にては物いひなどはしながら、めでたくのがれつつ心もとなくて、常よりも繁(しげ)くおとづれて、「参らん」といひおこせたりけるに、例のはしたなからずいらへたれば、四月の晦(つごもり)ごろに、雨おどろおどろしく降りて物恐ろしげなるに、「かかる折に行きたらばこそあはれとも思はめ」と思ひて出でぬ。  道すがら堪へがたき雨を、「これに行きたらに逢(あ)はで帰す事よも」と頼もしく思ひて、局(つぼね)に行きたれば、人出(い)で来(き)て、「上(うへ)なれば、案内(あんない)申さん」とて、端(はし)の方(かた)に入れて往ぬ。見れば、物の後(うし)ろに火ほのかにともして、宿直物(とのゐもの)とおぼしき衣(きぬ)、伏籠(ふせかご)にかけて薫物(たきもの)しめたる匂(にほ)ひ、なべてならず。いとど心にくくて、身にしみていみじと思ふに、人帰りて、「只今(ただいま)もおりさせ給ふ」といふ。うれしさ限りなし。則(すなは)ちおりたり。「かかる雨にはいかに」などいへば、「これにさはらんは、むげに浅き事にこそ」など言い交して、近く寄りて髪を探れば、氷をのしかけたらんやうに冷やかにて、あたきめでたき事限りなし。なにやかやと、えもいはぬ事ども言ひ交して、疑ひなく思ふに、「あはれ遣戸(やりど)をあけながら、忘れて来にける。つとめて、『誰(たれ)かあけながらは出でにけるぞ』など、煩(わずら)はしき事になりなんず。立てて帰らん。程もあるまじ」といへば、さる事と思ひて、かばかりうち解けにたれば心やすくて、衣(きぬ)をとどめて参らせぬ。まことに遣戸(やりど)たつる音して、「こなたへ来(く)らん」と待つ程に、音もせで奥ざまへ入りぬ。それに心もとなくあさましく、現心(うつしごころ)も失せ(う)せ果てて、這(は)ひも入りぬべけれど、すべき方(かた)もなくて、やりつる悔(くや)しさを思へど、かひなければ、泣く泣く暁近く出でぬ。家に行きて思ひ明かして、すかし置きつる心憂(こころう)さ書き続けてやりたれど、「何(なに)しにかすかさん。帰らんとせしに召ししかば、後にも」などいひて過(すご)しつ。 「大方(おほかた)目近(まぢか)き事はあるまじきなめり。今はさはこの人のわろく疎(うと)ましからん事を見て思ひ疎まばや。かくのみ心づくしに思はでありなん」と思ひて、随身(ずいじん)を呼びて、「その人の樋すましの皮籠(かはご)持(も)ていかん、奪(ば)ひ取りて我に見せよ」といひければ、日比(ひごろ)添ひて窺(うかが)ひて、からうじて逃げたるを追ひて奪(ば)ひ取りて、主(しゆう)に取らせつ。平中(へいちゆう)悦(よろこ)びて、かくれに持(も)て行きて見れば見れば、香(かう)なる薄物(うすもの)の、三重(みへ)がさねなるに包みたり。香ばしき事類(たぐひ)なし。引き解きてあくるに、香ばしさたとへん方(かた)なし。見れば、沈(ぢん)、丁子を濃く煎(せん)じて入れたり。さるままに香ばしさ推し量るべし。見るにいとあさまし。「ゆゆしげにし置きたらば、それに見飽きて心もや慰むとこそ思ひつれ。こはいかなる事ぞ。かく心ある人やはある。ただ人とも覚えぬ有様ども」と、いとど死ぬばかり思へど、かひなし。「我(わ)が見んとしもやは思ふべきに」と、かかる心ばせを見て後(のち)は、いよいよほけほけしく思ひけれども、遂(つひ)に逢(あ)はでやみにけり。 「我が身ながらも、かれに世に恥(はぢ)がましく、妬(ねた)く覚えし」と、平中(へいちゆう)みそかに人に忍びて語りけるとぞ。 五一 一条摂政歌事[巻三・一九]  今は昔、一条摂政とは東三条殿の兄にあはします。御かたちより初め、心用ひなどめでてく、才(ざえ)をも多く御覧じ興ぜざさせ給ひけるが、少し軽々(きやうきやう)に覚えさせ給ひければ、御名を隠せ給ひて、大蔵(おほくら)の丞豊蔭(じようとよかげ)と名のりて、上(うへ)ならぬ女のがりは御文(ふみ)も遣はしける。懸想(けさう)せさせ給ひ、逢はせ給ひもしけるに、皆人(みなひと)さ心得て知り参らせたり。  やんごとなくよき人の姫君のもとへおはしまし初(そ)めにけり。乳母(めのと)、母などを語らひて、父には知らせさせ給はぬ程に、聞きつけて、いみじく腹立ちて、母をせため、爪弾(つまはじ)きをして、いたくのたまひければ、「さる事なし」とあらがひて、「まだしき由(よし)の文書きて給(た)べ」と母君のわび申したりければ、 人知れず身はいそげども年経(へ)てなど越えがたき逢坂(あふさか)の関とて遣は したりければ、父に見すれば、「さては空事(そらごと)なりけり」と思ひて、返し、父のしける。   あづま路(ぢ)に行きかふ人にあらぬ身はいつか越えん逢坂の関 と詠(よ)みけるを見て、ほほゑまれけんかしと、御集(しふ)にあり。をかしく。 五二 狐家に火つくる事[巻三・二〇]  今は昔、甲斐国(かひのくに)に館(たち)の侍(さぶらひ)なりける者の、夕暮れに館を出でて家ざまに行きける道に、狐のあひたりけるを追ひかけて引目(ひきめ)して射ければ、狐の腰に射当ててけり。狐射まろばかされて、鳴きわびて、腰をひきつつ草に入りにけり。この男引目を取りて行く程に、この狐腰をひきて先に立ちて行くに、また射んとすれば失(う)せにけり。  家いま四五町とて見えて行く程に、この狐二町ばかり先だちて、火をくはへて走りければ、「火をくはへて走るはいかなる事ぞ」とて、馬をも走らせけれども、家のもとに走り寄りて、人になりて火を家につけてけり。「人のつくるにこそありけれ」とて、矢をはげて走らせけれども、つけ果ててければ、狐になりて草の中に走り入りて失せにけり。さて家焼けにけり。 かかる物もたちまちに仇(あだ)を報(むく)ふなり。これを聞きて、かやうの物をば構へて調(てう)ずまじきなり。 宇治拾遺物語 巻第四 五十三 狐人につきてしとぎ食(くらふ)事[巻四・一]  昔、物のけわづらひし所に、物のけわたしし程に、物のけ、物つきにつきていふやう、「お(を)のれは、たたりの物のけにても侍らず。うかれまかり通(とお)りつる狐也。塚屋に子どもなど侍るが、物をほしがりつれば、かやうの所には、くひ物ちろぼふ物ぞかしとて、まうできつるなり。しとぎばらたべてまかりなん」といへば、しとぎをせさせて、一折敷(おしき)とらせたれば、すこし食(く)ひて、「あなうまや、あなうまや」といふ。「此女の、しとぎほしかりければ、そらものづきてかくいふ」と、にくみあへり。「紙給はりて、是つつみてまかりて、たうめや子共などに食(く)はせん」といひければ、紙を二まい引ちがへて、つつみたれば、大やかなるを腰にはさみたれば、むねにさしあがりてあり。かくて、「追(を)ひ給へ。まかりなん」と、驗者にいへば、「追(を)へ追へ」といへば、立ちあがりて、たふれふしぬ。しばし斗ありて、やがておきあがりたるに、ふとおころなるものさらになし。  失せにけるこそふしぎなれ。 五四 左渡国(さどのくに)に金(こがね)ある事[巻第四・二] 能登国(のとのくに)には、鉄(くろがね)といふ物の、素鉄(すがね)といふ程なるを取りて、守(かみ)に取らする者、六十人ぞあなる。実房といふ守の任に、鉄取(くろがねとり)六十人が長(をさ)なりける者の、「佐渡国(さどのくに)にこそ、金(こがね)の花咲きたる所はありしか」と人にいひけるを、守伝へ聞きて、その男を守呼び取りて、物取らせなどして、すかし問ひければ、「佐渡国(さどのくに)には、まことに金の侍るなり。候(さぶら)ひし所を見置きて侍るなり」といへば、「さらば行きて、取りて来(き)なんや」といへば、「遣(つか)はさばまかり候はん」といふ。「さらば舟を出(いだ)し立てん」といふに、「人をば賜(たまは)り候はじ。ただ小舟一つと食物(くひもの)少しとを賜(たまは)り候ひて、まかりいたりて、もしやと取りて参らせん」といへば、ただこれがいふに任せて、人にも知らせず、小舟一つと食ふべき物少しとを取らせたりければ、それを持(も)て佐渡国へ渡りにけり。 一月ばかりありて、うち忘れたる程に、この男、ふと来て、守(かみ)に目を見合(みあは)せたりければ、守心得て、人伝(ひとづて)には取らで、みづから出であひたりければ、神うつしに、黒ばみたるさいでに包みたる物を取らせたりければ、守重げに引きさげて、懐(ふところ)にひき入れて、帰り入りにけり。その後(のち)、その金取(かねとり)の男はいづちともなく失(う)せにけり、万(よろづ)に尋ねけれども、行方も知らず、やみにけり。いかに思ひて失(う)せたりといふ事を知らず。金のある所を問ひ尋ねやすると思ひけるにやとぞ、疑ひける。その金八千両ばかりありけるとぞ、語り伝へたる。かかれば佐渡国(さどのくに)には金ありける由(よし)と、能登国(のとのくに)の者ども語りけるとぞ。 五五 薬(やく)師(し)寺(じの)別富(の)事[巻四・三]  今は昔、薬師寺の別富僧都といふ人ありけり。別富はしけれども、ことに寺(てら)の物もつかはで、極楽に生まれんことをなん願(ねが)ひける。年老(おい)、やまひして、しぬるきざみになりて、念佛して消(き)え入らんとす。無下にかぎりと見ゆるほどに、よろしうなりて、弟子を呼(よ)びていやふう、「見(み)るやうに、念佛は他念なく申(まうし)てむれば、極楽の迎へは見えずして、火の車を寄(よ)す。「こはなんぞ。かくは思はず。なんの罪(つみ)によりて、地獄の迎はむきたるぞ」といひつれば、車につきたる鬼共(ども)のいふ様(やう)、「此(この)てらの物を一年(ひととせ)、五斗かりて、いまだかへさねば、その罪によりて、此(この)むかへは得(え)たる也」といひつれば、我いひつるは、「さばかりの罪(つみ)にては、地獄におつべきやうなし。その物を返してん」といへば、火車(ひのくるま)をよせて待(ま)つなり。されば、とくとく一石誦経(ずきやう)にせよ」といひければ、弟子(でし)ども、手まどひをして、いふままに誦経にしつ。その鐘のこゑのする折(おり)、火車(ひのくるま)かへりぬ。さて、とばかりありて、「火の車はかへりて、極楽のむかへ、今なんおはする」と、手(て)をすり悦(よろこび)つつ、終(をは)りにけり。  その坊は、薬師寺の大門の北のわきにある坊なり。いまにそのかた、失(う)せずしてあり。さばかり程の物つかひたるにだに、火車(ひのくるま)迎へにきたる。まして、寺物を心のままにつかひたる諸寺の別富の、地獄のむかへ(ひ)こそ思ひやらるれ。 五六 妹背(いもせ)嶋(じま)の事[巻四・四] 土佐国幡多(はた)の郡(こほり)に住(すむ)下種(げす)有(あり)けり。お(を)のが国にはあらで、異(こと)国に田をつくりけるが、お(を)のがすむ国に苗代(なえしろ)をして、植ゑ(うへ)ん人どもに食(く)はすべき物よりはじめて、なべ、かま、すき、くは、からすきなどいふ物にいたるまで、家の具(ぐ)を舟にとりつみて、十一二ばかりなるをのこ子 (ご)、女子(をんなご)、二人の子(こ)を、舟のまのりめにのせ置きて、父母は、植ゑ(うへ)むといふ者やとはんとて、陸(くが)にあからさまにのぼりにけり。舟(ふね)をば、 あからさまに思(おもひ)て、すこし引(ひき)すゑ(へ)て、つながずして置(を)きたりけるに、此童部(わらはべ)ども、船底(ふなぞこ)に寝(ね)いりにけり。潮(しほ)のみちければ、舟(ふね)はうきてりけるを、はなつきに、すこし吹(ふき)いだされたりけるほどに、干潮(ひしほ)にひかれて、はるかにみなとへ出(い)でにけり。沖にては、いとど風吹(ふき)まさりければ、帆(ほ)をあげたるやうにて行(ゆく)。其の(その)ときに、童部、おきてみるに、かかりたるかたもなき沖に出(い)でたれば、泣(な)きまどへども、すべきかたもなし。いづかたともしらず、ただ吹(ふ)かれて行(ゆき)にけり。さるほどに、父母は、人々もやとへあつめて、船にのらんとて来てみるに、舟なし。しばしは、風がくれに指(さし)かくしたるかと見る程に、よびさわ(は)げども、たれかはいらへん。浦々(うらうら)もとめけれども、なかりければ、いふかひなくてやみにけり。 かくて、この舟は、遥(はるか)の南の沖にありける嶋に、吹きつけてけり。童部共(ども)、泣々(なくなく)おりて、舟つなぎて見れば、いかにも人なし。かへるべき方もおぼえねば、嶋におりていひけるやう、「今はすべきかたなし。さりとては、命を据(す)つべきにあらず。此食(く)ひ物のあらんかぎりこそ、すこしづつも食(くひ)て生(い)きたらめ。これつきなば、いかにして命(いのち)はあるべきぞ。いざ、この苗の枯れぬさきに植ゑ(うへ)ん」といひければ、「げにも」とて、水の流(ながれ)のありける所の、田(た)に作(つく)りぬべきを求(もと)めいだして、鋤(すき)、鍬(くは)はありければ、木きりて、庵などつくりける。なり物の木の、折(おり)になりたる多(おほ)かりければ、それを取(とり)食(くひ)てあかしくらすほどに、秋にもなりにけり。さるべきにやありけん。つくりたる田のよくて、こなたに作(つくり)たるにも、ことの外まさりたりければ、おほく苅置(かりお)きなどして、さりとてあるべきならねば、妻男(めおとこ)に成(なり)にけり。男子(おのこご)、女子(をんなご)あまた生(う)みつづけて、又それが妻男になりなりしつつ、大(おほき)なる嶋(しま)なりければ、田畠も多(おほ)くつくりて、此(この)ごろは、その妹背がうみつづけたりける人ども、嶋(しま)にあまるばかりになりてぞあんなる。 妹背嶋(いもせじま)とて、土佐の国の南の沖にあるとぞ、人かたりし。 五七 石橋の下の蛇(くちなは)の事[巻第四・五]  此(この)ちかくの事なるべし。女ありけり。雲林院(うりんゐん)の菩提講(ぼだいこう)に、大宮をのぼりに参りけるほどに、西院(さいゐん)の邊(へん)ちかくなりて、石橋ありける。水のほとりを、廿(はたち)あまり、三十ばかりの女、中ゆひてあゆみゆくが、石橋をふみ返して過(す)ぎぬるあとに、ふみ返されたる橋のしたに、まだらなる蛇の、きりきりとしてゐたれば、「石の下に蛇のありける」といふほどに、此(この)ふみ返したる女のしりに立ちて、ゆらゆらとこの蛇の行(ゆけ)ば、しりなる女の見るに、あやしくて、いかに思ひて行(ゆく)にかあらん。ふみ出(いだ)されたるを、あしと思(おもひ)て、それが報答(ほうたふ)せんと思(おもふ)にや。これがせんやう見んとて、しりにたちて行(ゆく)に、此(この)女、時々は見かへりなどすれども、わがともに、蛇のあるとも知らぬげなり。又、おなじやうに行(ゆく)人あれども、蛇の、女に具して行(ゆく)を、見つけいふ人もなし。たゞ、最初見つけつる女の目にのみ見えければ、これがしなさんやう見んと思(おもひ)て、この女のしりをはなれず、あゆみ行(ゆく)程に、雲林院に参りつきぬ。 寺の板敷にのぼりて、此(この)女ゐぬれば、此(この)蛇ものぼりて、かたはらにわだかまり伏したれど、これを見つけさわぐ人なし。希有(けう)のわざかなと、目をはなたず見るほどに、講はてぬれば、女立ち出づるにしたがひて、蛇もつきて出(いで)ぬ。此(この)女、これがしなさんやう見んとて、尻にたちて、京ざまに出でぬ。下ざまに行(ゆき)とまりて家有(あり)。その家に入れば、蛇も具して入(いり)ぬ。これぞこれが家なりける〔と〕思ふに、ひるはすがたもなきなめり、夜こそとかくすることもあらんずらめ、これか夜のありさまを見ばやと思ふに、見るべきやうもなければ、其家にあゆみよりて、「田舎よりのぼる人の、行きとまるべき所も候はぬを、こよひばかり、宿させ給はなんや」といへば、この蛇のつきたる女を家あるじと思ふに、「こゝに宿り給(たまふ)人あり」といへば、老(おい)たる女いできて、「たれかのたまふぞ」といへば、これぞ家のあるじなりけると思(おもひ)て、「こよひばかり、宿かり申(まうす)なり」といふ。「よく侍(はべり)なん。いりておはせ」といふ。うれしと思(おもひ)て、いりて見れば、板敷のあるにのぼりて、此(この)女ゐたり。蛇は、板敷のしもに、柱のもとにわだかまりてあり。目をつけて見れば、この女をまもりあげて、此蛇はゐたり。蛇つきたる女「殿にあるやうは」など、物がたりしゐたり。宮仕する者なりとみる。 かゝるほどに、日たゞ暮れに暮れて、くらく成(なり)ぬれば、蛇のありさまを見るべきやうもなく、此家主(このいへあるじ)とおぼゆる女にいふやう、「かく宿させ給へるかはりに、麻(を)やある、績(う)みて奉らん。火とぼし給へ」といへば、「うれしくのたまひたり」とて、火ともしつ。麻とり出して、あづけたれば、それを績(う)みつゝ見れば、此(この)女ふしぬめり。いまやよらんずらんと見れども、ちかくはよらず。この事、やがても告げばやと思へども、告げたらば、我(わが)ためもあしくやあらんと思(おもひ)て、物もいはで、しなさむやう見んとて、夜中の過(すぐ)るまで、まもりゐたれども、つひに見ゆるかたもなき程に、火きえぬれば、この女もねぬ。 明(あけ)て後、いかゞあらんと思(おもひ)て、まどひおきて見れば、此(この)女、よき程にねおきて、ともかくもなげにて、家あるじと覚(おぼゆ)る女にいふやう、「こよひ夢をこそ見つれ」といへば、「いかに見給へるぞ」と問(とへ)ば、「このねたる枕上(まくらがみ)に、人のゐると思(おもひ)て、見れば、腰よりかみは人にて、しもは蛇なる女、きよげなるがゐて、いふやう、「おのれは、人をうらめしと思ひし程に、かく蛇の身をうけて、石橋のしたに、おほくのとしを過ぐして、わびしと思ひゐたるほどに、昨日おのれがおもしの石をふみ返し給(たまひ)しにたすけられて、石のその苦をまぬかれて、うれしと思ひ給(たまへ)しかば、この人のおはしつかん所を見置き奉りて、よろこびも申さんと思(おもひ)て、御ともに参りしほどに、菩提講の庭に参給(まいりたまひ)ければ、その御ともに参りたるによりて、あひがたき法(のり)をうけたまはる事たるによりて、おほく罪をさへほろぼして、その力にて、人に生れ侍(はべる)べき功徳(くどく)の、ちかくなり侍れば、いよいよ悦(よろこび)をいたゞきて、かくて参りたるなり。此報ひには、物よくあらせ奉りて、よき男などあはせ奉るべきなり」といふとなん見つる」と語るに、あさましくなりて、此(この)やどりたる女の云(いふ)やう、「まことには、おのれは、田舎よりのぼりたるにも侍らず。そこそこに侍る者也。それが、きのふ菩提講に参り侍(はべり)し道に、其程〔に〕行(ゆき)あひ給(たまひ)たりしかば、尻に立(たち)てあゆみまかりしに、大宮のその程の河の石橋をふみ返されたりし下より、まだらなりし小蛇のいできて、御ともに参りしを、かくとつげ申さんと思(おもひ)しかども、つげ奉りては、我(わが)ためもあしきことにてもやあらんずらんと、おそろしくて、え申さざりし也。誠(まこと)、講の庭にも、その蛇侍りしかども、人もえ見つけざりしなり。はてて、出給(いでたまひ)し折、又具し奉りたりしかば、なりはてんやうゆかしくて、思(おもひ)もかけず、こよひ爰(ここ)にて夜をあかし侍(はべり)つるなり。此(この)夜中過(すぐ)るまでは、此(この)蛇、はしらのもとに侍りつるが、明(あけ)て見侍(はべり)つれば、蛇も見え侍らざりしなり。それにあはせて、かゝる夢語(がたり)をし給へば、あさましく、おそろしくて、かくあらはし申(まうす)なり。今よりは、これをついでにて、何事も申さん」などいひかたらひて、後はつねに行(ゆき)かよひつゝ、しる人になんなりにける。 さて此(この)女、よに物よくなりて、この比(ごろ)は、なにとはしらず、大殿(おおいどの)の下家司(しもげいし)の、いみじく徳有(ある)が妻になりて、よろづ事かなひてぞありける。尋(たづね)ば、かくれあらじかしとぞ。 五八 東北院(とうぼくゐん)の菩提講(ぼだいこう)の聖の事[巻四・六]  東北院の菩提講はじめける聖は、もとはいみじき悪人にて、人(ひと)屋に七度(たび)ぞ入(いり)たりける。七たびといひけるたび、検非違使どもあつまりて、「これはいみじき悪人也。一二度人屋にゐんだに、人としてはよかるべきことかは。ましていくそくばくの犯しをして、かく七度までは、あさましくゆゝしき事也。此(この)たびこれが足きりてん」とさだめて、足きりに率て[行き]て、きらんとする程に、いみじき相人(さうにん)ありけり。それが物へいきけるが、此足きらんとするものによりていふやう、「この人、おのれにゆるされよ。これは、かならず往生すべき相有(さうある)人なり」といひければ、「よしなき事いふ、ものもおぼえぬ相する御坊かな」といひて、たゞ、きりにきらんとすれば、そのきらんとする足のうへにのぼりて、「この足のかはりに、わが足をきれ。往生すべき相あるものの、足きられては、いかでかみんか。おうおう」とをめきければ、きらんとするものども、しあつかひて、検非違使に、「かうかうの事侍(はべり)」といひければ、やんごとなき相人のいふ事なれば、さすがに用ひずもなくて、別当に、「かゝる事なんある」と申(まうし)ければ、「さらばゆるしてよ」とて、ゆるされにけり。そのとき、この盗人、心おこして法師になりて、いみじき聖になりて、この菩提講は始めたる也。相(さう)かなひて、いみじく終とりてこそ失せにけれ。 かゝれば、高名せんずる人は、其(その)相ありとも、おぼろけの相人のみることにてもあらざりけり。はじめ置きたる講も、けふまで絶えぬは、まことにあはれなることなりかし。 五九 三川の入道(にうだう)遁世の事[巻第四・七] 参川入道、いまだ俗にて有(あり)ける折、もとの妻をば去りつゝ、わかくかたちよき女に思(おもひ)つきて、それを妻にて、三川へ率てくだりける程に、その女、久しくわづらひて、よかりけるかたちもおとろへて、うせにけるを、かなしさのあまりに、とかくもせで、よるも〔ひ〕るも、かたらひふして、口を吸ひたりけるに、あさましき香の、口より出(いで)きたりけるにぞ、うとむ心いできて、なくなく葬りてける。 それより、世うき物(もの)にこそありけれと、思ひなりけるに、三河の國に風祭(かざまつり)といふことをしけるに、いけにへといふことに、猪を生けながらおろしけるをみて、此(この)國退きなんと思ふ心つきてけり。雉子(きじ)を生(いけ)ながらとらへて、人のいできたりけるを、「いざ、この雉子、生けながらつくりて食はん。いますこし、あぢはひやよきとこゝろみん」といひければ、いかでか心にいらんと思(おもひ)たる朗等(らうだう)の、物もおぼえぬが、「いみじく侍(はべり)なん。いかでか、あぢはひまさらぬやうはあらん」など、はやしいひける。すこしものの心しりたるものは、あさましきことをもいふなど思(おもひ)ける。 かくて前にて、生けながら毛をむしらせければ、しばしは、ふたふたとするを、おさへて、たゞむしりにむしりければ、鳥の、目より血の涙をたれて、目をしばたゝきて、これかれに見あはせけるをみて、え堪へずして、立(たち)て退くものもありけり。「これがかく鳴(なく)事」と、興じわらひて、いとゞなさけなげにむしるものもあり。むしりはてて、おろさせければ、刀にしたがひて、血のつぶつぶといできけるを、のごひのごひおろしければ、あさましく堪へがたげなる声をいだして、死(しに)はてければ、おろしはてて、「いりやきなどして心みよ」とて、人々心みさせければ、「ことの外に侍(はべり)けり。死したるおろして、いりやきしたるには、これはまさりたり」などいひけるを、つくづくと見聞きて、涙をながして、声をたててをめきけるに、「うましき」といひけるものども、したくたがひにけり。さて、やがてその日國府をいでて、京にのぼりて法師になりにける。道心のおこりければ、よく心をかためんとて、かゝる希有(けう)の事をしてみける也。乞食といふ事しけるに、ある家に、食物えもいはずして、庭にたゝみをしきて、物を食はせければ、このたゝみにゐて食はんとしける程に、簾(すだれ)を巻上(まきあげ)たりける内に、よき装束(しゃうぞく)きたる女のゐたるを見ければ、我(わが)さりにしふるき妻なりけり。「あのかたゐ、かくてあらんを見んとおもひしぞ」といひて、見あはせたりけるを、はづかしとも、苦しとも思ひたるけしきもなくて、「あな貴と」といひて、物よくうち食ひて、かへりにけり。 有がたき心なりかし。道心をかたくおこしてければ、さる事にあひたるも、くるしとも思はざりけるなり。 六〇 進命婦清水寺参(しんみやうぶきよみずでらへまゐる)事[巻四・八] 今は昔、進命婦若かりける時、常に清水へ参りける間、師の僧きよかりけり。八〇(やそぢ)のもの也。法華經を八萬四千餘読(よみ)奉りたる者也。此(この)女房をみて、欲心(よくしん)をおこして、たちまちにやまひに成(なり)て、すでに死なんとするあひだ、弟子どもあやしみをなして、問(とひ)ていはく、「このやまひのありさま、うち任せたることにあらず。おぼしめすことあるか。仰(おほせ)られずはよしなき事也」といふ。この時、かたりていはく、「誠は、京より御堂へ参(まい)らるゝ女に、近づきなりて、物を申さばやとおもひしより、此(この)三か年、不食(ふしょく)のやまひなりて、今はすでに蛇道(じやだう)におちなんずる、心うきことなり」といふ。 こゝに弟子一人、進命婦のもとへ行(ゆき)て、このことをいふ時に、女、程なくきをたてたるやうにて、鬼のごとし。されども、此(この)女、おそるゝけしきなくして、いふやう、「とし比(ごろ)たのみてまつる心ざし淺(あさ)からず。何事にさぶらうとも、などか、おほせられざりし」といふときに、この僧、かきおこされて、念珠(ねんず)をとりて、押(を)しもみてやう、「うれしくきたらせたらせ給(たまひ)たり。八萬餘部よみ奉りたる法華經の最第一の文(もん)をば、御前に奉る。欲をうませ給はば(ゞ)、關白、攝政をうませ給へ。女をおませ給はば、女御、后を生(うま)せ給へ。僧をうませ給はば(ゞ)、法務(ほふむ)の大僧正を生(うま)せ給へ」といひ終(おは)りて、すなはち死(いに)ぬ。  其(その)後、女、宇治殿に思はれ参(まい)らせて、はたして、京極大殿、四條宮、三井の覺園座主をうみ奉れりとぞ。 六一 業遠朝臣蘇生(なりとほのあそんそせい)の事[巻第四・九] これも今は昔、業遠朝臣死ぬる時、御堂(みだう)の入道殿仰せられけるは、「言ひ置くべき事あらんかし。不便(ふびん)の事なり」とて、解脱寺観修(げだつじくわんじゅ)僧正を召し、業遠にむかひ給ひて加持(かぢ)する間、死人たちまち蘇生して、用事をいひて後(のち)、また目を閉ぢてけりとか。 六二 篤昌忠恒(あつまさただつね)等の事[巻第四・十] これも今は昔、民部大輔(みんぶのたいふ)篤昌といふ者ありけるを、法性寺殿(ほふしゃうじどの)の御時、蔵人所(くらうどどころ)の所司(しょし)に、義助(よしすけ)とかやいふ者ありけり。件者(くだんのもの)、篤昌を役(やく)に催しけるを、「我はかやうのやくはすべき者にもあらず」とて、参らざりけるを、所司(しょし)に舎人(とねり)をあまたつけて、苛法(かはふ)をして催しければ参りにける。さてまづこの所司に、「物申さん」と呼びければ、出であひけるに、この世ならず腹立ちて、「かやうの役に催し給ふはいかなる事ぞ。篤昌(あつまさ)をばいかなる者と知り給ひたるぞ。承らん」と、しきりに責めけれど、暫(しば)しは物もいはで居たりけるを叱りて、「のたまへ。まづ篤昌がありやう承らん」といたう責めければ、「別の事候(さぶら)はず。民部大輔(みんぶのたいふ)五位の鼻赤きにこそ知り申したれ」といひたりければ、「おう」といひて、逃げにけり。 またこの所司が居たりける前を、忠恒(ただつね)といふ随身(ずいじん)、異様(ことやう)にて練り通りけるを見て、「わりある随身の姿かな」と忍びやかにいひけるを、耳とく聞きて、随身、所司が前に立ちかへりて、「わりあるとは、いかにのたまふ事ぞ」と咎(とが)めければ、「我は、人のわりありなしもえ知らぬに、只今武正府生(たけまさふしょう)の通られつるを、この人々、『わりなき者の様体(やうだい)かな』と言ひ合(あは)せつるに、少しも似給はねば、さてはもし、わりのおはするかと思ひて、申したりつるなり」といひたりければ、忠恒、「をう」といひて逃げにけり。この所司をば荒所司(あらしょし)とぞつけたりけるとか。 六三 後朱雀院丈六の佛作り奉り給ふ事 [巻第四・十一] これも今は昔、後朱雀院例(れい)ならぬ御事、大事におはしましける時、後生(ごしやう)の事畏(おそ)れ思し召しけり。それに御夢に、御堂入道殿参りて、申したまひて曰く、「丈六の佛を作れる人、子孫に於て、更に悪道に堕(お)ちず。それがし多くの丈六をつくり奉れり。御菩提に於て疑い思し召すべからず。」と。これに依りて明快座主に仰せ合せられて、丈六佛を造らる。件の佛、山(やま)の灌佛院に安置し奉らる。 六四 式部大輔実重(しきぶのたいふさねしげ)賀茂の御正体拝み奉る事[巻第四・一二] これも今は昔、式部大輔実重は賀茂へ参る事ならびなき者なり。前生(ぜんしょう)の運おろそかにして、身に過ぎたる利生(りしょう)にあづからず。人の夢に、大明神、「また実重(さねしげ)来たり」とて、歎(なげ)かせおはします由(よし)見けり。実重、御本地を見奉るべき由祈り申すに、ある夜下(しも)の御社(やしろ)に通夜(つや)したる夜、上(かみ)へ参る間(あひだ)、なから木のほとりにて、行幸にあひ奉る。百官供奉(ぐぶ)常のごとし。実重片薮(かたやぶ)に隠れ居て見れば、鳳輦(ほうれん)の中に、金泥(こんでい)の経一巻おはしましたり。その外題(げだい)に、一称南無仏、皆巳成仏道(かいいじやうぶつだう)と書かれたり。夢則(すなわ)ち覚めぬとぞ。 六五 智海法印(ちかいほふいん)癩人(らいじん)法談(ほふだん)の事[巻第四・一三] これも今は昔、智海法印有職(うしき)の時、清水寺へ百日参りて、夜更(ふ)けて下向しけるに、橋の上に、「唯円教意(ゆいゑんけうい)、逆即是順(ぎやくそくぜじゆん)、自余三教(じよさんげう)、逆順定故(ぎやくじゆんぢやうこ)」といふ文(もん)を誦(じゆ)する声あり。貴(たふと)き事かな、いかなる人の誦するならんと思ひて、近う寄りて見れば、白癩人(びやくらいにん)なり。傍(かたはら)に居て、法文(ほうもん)の事をいふに、智海ほとほといひまはされけり。南北二京に、これ程の学生(がくしやう)あらじものをと思ひて、「いづれの所にあるぞ」と問ひければ、「この坂に候(さぶらふ)なり」といひけり。後にたびたび尋ねけれど、尋ねあはずしてやみにけり。もし化人(けにん)にやありけんと思ひけり。 六六 白河院(しらかはのゐん)おそはれ給ふ事[巻第四・一四]  これも今は昔、白河院御殿(しらかはのゐんおんとの)籠(ごも)りて後(のち)、物におそはれさせ給ひける。「然(しか)るべき武具(ぶぐ)を、御枕の上に置くべき」と、沙汰(さた)ありて、義家朝臣に召されければ、檀弓(まゆみ)の黒塗(くろぬり)なるを、一張(いつちやう)参らせたりけるを、御枕に立てられて後(のち)、おそはれさせおはしまさざしければ、御感ありて、「この弓は十二年の合戦の時や持ちたりし」と御尋(たづね)ありければ、覚えざる由(よし)申されけり。上皇しきりに御感ありけりとか。 七 永超僧都魚(やうてうそうづうお)食ふ事[巻第四・一五]  これも今は昔、南京の永超僧都は、魚なき限(かぎり)は、時(とき)、非時(ひじ)もすべて食はざりける人なり。公請(くじやう)勤めて、在京(ざいきやう)の間久しくなりて、魚を食はで、くづほれて下(くだ)る間、奈島(なしま)の丈六堂の辺(へん)にて、昼破子(ひるわりご)食ふに、弟子一人近辺(きんぺん)の在家(ざいけ)にて、魚を乞ひて、勧めたりけり。件(くだん)の魚の主(ぬし)、後(のち)に夢に見るやう、恐ろしげなる者ども、その辺(へん)の在家をしるしけるに、我が家しるし除きければ、尋ねぬる所に、使(つかひ)の曰(いは)く、「永超僧都に魚を奉る所なり。さてしるし除く」といふ。その年(とし)、この村の在家、ことごとく疫(えやみ)をして、死ぬる者多かりけり。その魚の主(ぬし)が家、ただ一宇(いちう)、その事を免(まぬか)るによりて、僧都のもとへ参り向ひて、この由(よし)を申す。僧都この由を聞きて、被物一重賜(かづけものひとかさねた)びてぞ帰されける。 六八 了延(れうえん)に実因(じちいん)湖水の中より法文(ほうもん)の事[巻第四・一六] これも今は昔、了延房阿闍梨日吉(あじゃりひえ)の社(やしろ)へ参りて帰る。唐崎(からさき)の辺(へん)を過ぐるに、「有相安楽行(うさんあんらくぎやう)、此依観思(しいくわんし)」といふ文誦(じゆ)したりければ、波中に、「散心誦法花(さんしんじゆほふけ)、不入禅三昧(ふにふぜんさんまい)」と、末の句をば誦する声あり。不思議の思(おもひ)をなして、「いかなる人のおはしますぞ」と問ひければ、具房(ぐぼう)僧都実因と名のりければ、汀(みぎは)に居て法文(ほうもん)を談じけるに、少々僻事(ひがごと)ども答へければ、「これは僻事なり。いかに」と問ひければ、よく申すとこそ思ひ候(さぶら)へども、生を隔てぬれば、力及ばぬ事なり。我なればこそこれ程も申せ」といひけるとか。 六九 慈恵僧正戒壇築かれたる事[巻四・一七]  これも今は昔、慈恵僧正は近江の国淺井群の人なり。叡山の戒壇を人夫かなはざりければ、え築(つ)かざりける比、淺井郡司は親しき上に、師壇にて佛事を修する間、此の僧正を請(しょう)じ奉りて、僧膳の料に、前にて大豆を炒りて、酢をかけけるを、「何しに酢をばかくるぞ。」と問はれけれぼ、郡司曰く、「暖なる時、酢をかけつれば、すむつかりとて、苦(にが)みにてよく挟(はさ)まるるなり。然らざれば、滑りて挟まれむなり。」という。僧正の曰く、「いかなりとも、なじかは挟まぬやうやあるべき。投げやるとも、はさみ食ひてん。」とありければ、「いかでさる事あるべき。」と爭(あらが)ひけり。僧正「勝ち申しなば、異事(ことごと)はあるべからず。戒壇を築(つ)きて給へ。」とありけれぼ、「易き事。」とて、煎大豆を投げやるに、一間計のきて居給ひて、一度も落さず挟まれけり。見る者あざまずといふ事なし。柚(ゆ)の実(さね)の只今搾り出したるを交ぜて、投げて遣りたるおぞ、挟みてすべらかし給ひ〔たり〕けれど、おとしもたてず、又やがて挟みとどめ給ひける。郡司一家廣き者なれば、人數をおこして、不日に戒壇を築(つ)きてけりとぞ。 宇治拾遺物語 巻第五 七〇 四宮河原地蔵事(しのみやかはらぢざうのこと)[巻第五・一] これも今は昔、山斗の道づらに、四(し)宮河原(かはら)といふ所にて、神くらべといふ、商人(あきびと)あつまる所あり。その辺に下種(げす)のありける。地蔵菩薩を一体つくりてたてまつたりけるを、開眼(かいげん)もせで、櫃(ひつ)にうち入て、奥の部屋などおぼしき所におさめ置(を)きて、世のいとなみにまぎれて、程へにければ、忘(わすれ)にけるほどに、三四年斗(ばかり)過にけり。 ある夜、夢に、大路(おほち)をすぐるものの、声高(こゑだか)に人をよぶ声のしければ、「何事ぞ」ときけば、「地蔵こそ、地蔵こそ」と高(たか)く、この家の前にて言(い)ふなれば、奥(おく)のかたより、「何事ぞ」といらふる声(こゑ)す也。「明日、天帝尺の地蔵会(じざうゑ)したまふには参(まい)らせ給はねか」といへば、此小家(こいへ)の内より、「参(まい)らんと思へど、まだ目もあかねば、え参(まい)るまじきなり」といへば、「構て、参(まい)り給へ」といへば、「目も見(み)えねば、いかでか参(まい)らん」といふ声す也。 うちおどろきて、「なにのかくは夢に見(み)えつるにか」と思(おも)ひまはすに、あやしくて、夜明けて、おくのかたをよくよく見(み)れば、此地蔵をお(を)さめて置きたてまつりたりけるを思出(い)でて、見いだしたりけり。「これが見(み)え給にこそ」とおどろき思(おも)ひて、いそぎ開眼したてまつりけりとなん。 七一 伏見修理大夫許(ふしみのしゆりのだいふのもと)へ殿上人共行向事(でんじやうびとどもゆきむかふこと)[巻五・二] これも今(いま)は昔、伏見修理大夫のもとへ、殿上人廿人ばかり押寄(をしよ)せたりけるに、俄にさは(わ)ぎけり。肴物とりあへず、沈地(ぢんぢ)の机に、時の物ども色々、たゞを(お)しはかるべし。盃、たびたびになりて、を(お)のを(お)のはぶれいでけるに、厩(うまや)に、黒馬の額すこし白きを、二十疋たてたりけり。移(うつし)の鞍廿具、鞍掛(くらかけ)にかけたりけり。殿上人、酔(ゑひ)みだれて、を(お)のを(お)の此馬に移(うつし)の鞍置(お)きてのせて返しにけり。 つとめて、「さても昨日、いみじくしたる物かな」といひて、「いざ、又、押寄(をしよ)せん」といひて、又、廿人、押寄(おしよせ)たりければ、このたびは、さる体(てい)にして、俄なるさまは昨日にかはりて、炭櫃(すびつ)をかざりたりけり。厩を見(み)れば黒栗毛なる馬をぞ、廿疋までたてたりける。これも額(ひたい)白かりけり。 大かた、かばかりの人はなかりけり。これは宇治殿の御子におはしけり。されども、公達(きんだち)おほくおはしましければ、橘の俊遠といひて、世中(よのなか)の徳人(とくにん)ありけり、其子になして、かゝるさまの人にぞ、なさせ給たりけるとか。 七二 以長物忌事(もちながものいみのこと)[巻五・三]  これも今は昔(むかし)、大膳亮大夫橘以長といふ蔵人の五位ありけり。宇治左大臣殿より召ありけるに、「今明日はかたき物忌といふことやある。たしかに参(まい)れ」と召(め)しきびしかりければ、恐ながら参(まい)りにけり。  さる程に十日斗ありて、左大臣殿に、世(よ)に知(し)らぬかたき御物忌いできにけり。御門(かど)のはざまに、かいだてなどして、仁王講おこなはるゝ僧も、高陽院(かやのゐん)のかたの土戸より、童子などもいれずして、僧斗ぞ参(まい)りける。御物忌ありと、この以長聞(き)きて、いそぎ参(まい)りて、土戸より参(まい)らんとするに舎人二人ゐて、「「人な入(い)れそ」と候」とて、立むかひたりければ、これらもさすがに職事にて、つねに見(み)れば、力及ばで、入れつ。 参(まい)りて、蔵人所に居て、なにともなく声だかに、物いゐたりけるを、左府聞(き)かせ給て、「この物いふは、たれぞ」と問せ給ければ、盛兼、申やう、「以長に候」と申ければ、「いかに、か斗かたき物忌には、夜部より参(まい)りこもりたるかと尋よ」と仰ければ、行て、仰の旨をいふに、蔵人所は御前より近かりけるに、「くわ、くわ」と大声して、憚からず申やう、「過候ぬる比、わたくしに物忌仕て候しに、召(め)され候き。物忌のよしを申候しを、物忌といふ事やはある。たしかに参(まい)るべき由、仰候しかば、参(まい)り候にき。されば物忌といふ事は候はぬと知(し)りて候也」と申ければ、聞(き)かせ給て、うちうなづきて、物もおほせられで、やみにけりとぞ。 七三 範久阿闍梨(はんきうあじゃり)西方(さいほう)を後(うしろ)にせぬ事[巻五・四] これも今は昔、範久阿闍梨といふ僧ありけり。山の楞厳院(りょうごんゐん)に住みけり。ひとへに極楽(ごくらく)を願ふ。行住座臥西方(ぎゃうぢゅうざぐわさいほう)を後(うしろ)にせず。唾(つばき)をはき、大小便西に向はず。入日を背中に負はず。西坂より山へ登る時は、身をそばだてて歩む。常に曰(いは)く、「うゑ木の倒るる事、必ず傾(かたぶ)く方(かた)にあり。心を西方にかけんに、なんぞ志を遂げざらん。臨終正念(しゃうねん)疑はず」となんいひける。往生伝に入りたりとか。 七四 陪従家綱行綱(べいじゅういへつなゆきつな)互ひに謀(はか)りたる事[巻第五・五] これも今は昔、陪従はさもこそはといひながら、これは世になき程の猿楽(さるがく)なりけり。堀河院の御時、内侍所(ないしどころの)の御神楽(みかぐら)の夜、仰(おほせ)にて、「今夜珍しからん事つかうまつれ」と仰(おほせ)ありければ、職侍(しきじ)、家綱を召して、この由仰せけり。承りて、何事をかせましと案じて、弟(おとうと)行綱を片隅へ招き寄せて、「かかる事仰せ下されたれば、我が案じたる事のあるは、いかがあるべき」といひければ、「いかやうなる事をせさせ給はんするぞ」といふに、家綱がいふやう、庭火(にはび)白く焚きたるに、袴(はかま)を高く引き上げて、細脛(ほそはぎ)を出(いだ)して、『よりによりに夜の更(ふ)けて、さりにさりに寒きに、ふりちうふぐりを、ありちうあぶらん』といひて、庭火を三めぐりばかり、走りめぐらんと思う。いかがあるべき」といふに、行綱が曰(いは)く、「さも侍りなん。ただしおほやけの御前にて、細脛かき出(いだ)して、ふぐりあぶらんなど候(さぶら)はんは、便なくや候(さぶらふ)べからん」といひければ、家綱、「まことにさいはれたり。さらば異事(ことごと)をこそせめ。かしこう申し合(あは)せてけり」といひける。 殿上人(てんじょうびと)など、仰(おおせ)せ承(うけたまは)りたれば、今夜いかなる事をせんずらんと、目をすまして待つに、人長(にんぢゃう)、「家綱召す」と召せば、家綱出でて、させる事なきやうにて入りぬれば、上よりもその事なきやうに思し召す程に、人長また進みて、「行綱召す」と召す時、行綱まことに寒げなる気色(けしき)をして、膝(ひざ)を股(もも)までかき上げて、細脛を出して、わななき寒げなる声にて、「よりによりに夜の更けて、さりにさりに寒きに、ふりちうふぐりを、ありちうあぶらん」といひて、庭火を十まはりばかり走りまはりたるに、上(かみ)よりも下(しも)ざまにいたるまで、大方(おほかた)とよみたりけり。家綱片隅に隠れて、きやつに悲しう謀られぬるこそとて、中違(なかたが)ひて、目も見合(みあは)せずして過ぐる程に、家綱思ひけるは、謀られたるは憎けれど、さてのみやむべきにあらずと思ひて、行綱にいふやう、「この事さのみぞある。さりとて兄弟の中違(なかたがひ)果つべきにあらず」といひければ、行綱悦(よろこ)びて行き睦(むつ)びけり。 賀茂の臨時の祭りの還立(かへりだち)に、御神楽のあるに、行綱、家綱にいふやう、「人長(にんぢゃう)召したてん時、竹台のもとに寄りて、そそめかんずるに、『あれはなんする者ぞ』と、囃(はや)い給へ。その時、『竹豹(ちくそう)ぞ、竹豹ぞ』といひて、豹のまねを尽(つく)さん」といひければ、家綱、「ことにもあらずてのきい囃さん」と事うけしつ。さて人長立ち進みて、「行綱(ゆきつな)召す」といふ時に、行綱やをら立ちて、竹の台のもとに寄りて、這(は)いありきて、「あれは何(なに)するぞや」といはば、それにつきて、「竹豹」といはんと待つ程に、家綱、「かれはなんぞの竹豹ぞ」と問ひければ、たれといはんと思ふ竹豹を、先にいはれければ、いふべき事なくて、ふと逃げて走り入りにけり。 この事上まで聞(きこ)し召して、なかなかゆゆしき興(きょう)にてありけるとかや。さきに行綱に謀(はか)られたるあたりとぞいひける。 七五 同清仲〔きよなか〕の事[巻第五・六] これも今は昔、二条の大宮と申しけるは、白河院〔しらかはのゐん〕の宮、鳥羽院〔とばのゐん〕の御母代〔ははしろ〕におはしましける。二条の大宮とぞ申しける。二条よりは北、堀川よりは東におはしましけり。その御所破れにければ、有賢〔ありかた〕大蔵卿、備後国〔びんごのくに〕を知られける重任〔ぢゆうにん〕の功〔こう〕に、修理〔しゆり〕しければ、宮も外〔ほか〕へおはしましにけり。 それに陪従〔べいじゆう〕清仲といふ者、常に候〔さぶら〕ひけるが、宮おはしまさねども、なほ、御車宿〔くるまやどり〕の妻戸に居て、古き物はいはじ、新しうしたる束柱〔つかはしら〕、蔀〔しとみ〕などをさへ破り焚〔た〕きけり。この事を有賢、鳥羽院〔とばのゐん〕に訴〔うた〕へ申しければ、清仲を召して、「宮渡らせおはしまさぬに、なほとまり居て、古物〔ふるきもの〕、新物〔あたらしきもの〕こぼち焚くなるは、いかなる事ぞ。修理する者訴へ申すなり。まづ宮もおはしまさぬに、なほ籠〔こも〕り居たるは、何事によりて候〔さぶらふ〕ぞ。子細〔しさい〕を申せ」と仰せられければ、清仲申すやう、「別の事に候はず。薪〔たきぎ〕に尽きて候〔さぶらふ〕なり」と申しければ、大方〔おほかた〕これ程の事、とかく仰せらるるに及ばず、「すみやかに追ひ出〔いだ〕せ」とて、笑はせおはしましけるとかや。 この清仲は法性寺殿〔ほつしやうじどの〕の御時、春日の祭、乗尻〔のりじり〕に立ちけるに、神馬〔じんめ〕つかひ、おのおのさはりありて、事欠けたりけるに、清仲ばかり、かう勤めたりしものなれども、「事欠けにたり。相構へて勤めよ。せめて京ばかりをまれ、事なきさまに計らひ勤めよ」と仰せられけるに、「かしこまりて奉〔うけたまは〕りぬ」と申して、やがて社頭〔しやとう〕に参りたりければ、返す返す感じ思〔おぼ〕し召す。「いみじう勤めて候」とて、御馬を賜〔た〕びたりければ、ふし転〔まろ〕び悦〔よろこ〕びて、「この定〔ぢやう〕に候〔さぶら〕はば、定使〔ぢやうづかひ〕を仕〔つかまつ〕り候はばや」と申しけるを、仰せつく者も、候ひ合ふ者どもも、ゑつぼに入りて、笑ひののしりけるを、「何事ぞ」と御尋〔たづね〕ありければ、しかじかと申しけるに、「いみじう申したり」とぞ、仰事〔おほせごと〕ありける。 七六 仮名暦(かなごよみ)あつらへたる事[巻第五・七] これも今は昔、ある人のもとに生(なま)女房のありけるが、人に紙乞ひて、そこなりける若き僧に、「仮名暦書きて給(た)べ」といひければ、僧、「やすき事」といひて、書きたりけり。始めつ方(かた)はうるはしく、神、仏(ほとけ)によし、坎日(かんにち)、凶会日(くゑにち)など書きたりけるが、やうやう末ざまになりて、あるいは物食はぬ日など書き、またこれぞあればよく食ふ日など書きたり。この女房、やうがる暦かなとは思へども、いとかう程には思ひよらず。さる事にこそと思ひて、そのままに違(たが)へず。またあるいは、はこすべからずと書きたれば、いかにとは思へども、さこそあらめとて、念じて過(すぐ)す程に、長凶会日(ながくゑにち)のやうに、はこすべからず、はこすべからずと続け書きたれば、二日三日までは念じ居たる程に、大方(おほかた)堪ふべきやうもなければ、左右の手にて尻をかかへて、「いかにせん、いかにせん」と、よぢりすぢりする程に、物も覚えずしてありけるとか。 七七 実子(じっし)にあらざる子の事[巻第五・八] これも今は昔、その人の一定(いちぢゃう)、子とも聞(きこ)えぬ人ありけり。世の人はその由を知りて、をこがましく思ひけり。その父と聞ゆる人失(う)せにける後、その人のもとに、年比(としごろ)ありける侍(さぶらひ)の、妻(め)に具(ぐ)して田舎(いなか)に去(い)にけり。その妻失(う)せにければ、すべきやうもなくなりて、京へ上(のぼ)りにけり。万(よろづ)あるべきやうもなく、便(たより)なかりけるに、「この子といふ人こそ、一定(いちぢゃう)の由(よし)いひて、親の家に居たなれ」と聞きて、この侍(さぶらひ)参りたいりけり。「故殿(こどの)に年比(としごろ)候(さぶら)ひしなにがしと申す者こそ参りて候へ。御見参(げんざん)に入りたがり候」といへば、この子、「さる事ありと覚ゆ。暫(しば)し候へ。御対面あらんずるぞ」といひ出(いだ)したりければ、侍、しおほせつと思ひて、ねぶり居たる程に、近う召し使ふ侍出で来て、「御出居(でゐ)へ参らせ給へ」といひければ、悦びて参りにけり。この召し次ぎしつる侍、「暫し候はせ給へ」といひて、あなたへ行きぬ。 見参らせば、御出居(でゐ)のさま、故殿のおはしましししつらひに、露(つゆ)変らず。御障子(みさうじ)などは少し古(ふ)りたる程にやと見る程に、中の障子引きあくれば、きと見あげたるに、この子と名のる人歩み出でたり。これをうち見るままに、この年比の侍、さくりもよよと泣く。袖もしぼりあへぬ程なり。このあるじ、いかにかくは泣くらんと思ひて、つい居て、「とはなどかく泣くぞ」と問ひければ、「故殿のおはしまししに違(たが)はせおはしまさぬが、あはれに覚えて」といふ。さればこそ、我も故殿には違はぬやうに覚ゆるを、この人々の、あらぬなどいふなる、あさましき事と思ひて、この泣く侍にいふやう、「おのれこそ殊(こと)の外(はか)に老いにけれ。世中(よのなか)はいかやうにて過ぐるぞ。我はまだ幼くて、母のもとにこそありしかば、故殿(こどの)ありやう、よくも覚えぬなり。おのれこそ故殿と頼みてあらんずるぞ。まづ当時(たうじ)寒げなり。この衣(きぬ)着よ」とて、綿ふくよかなる衣(きぬ)一つ脱ぎて賜(た)びて、「今は左右(さう)なし。これへ参るべきなり」といふ。この侍、しおはせて居たり。昨日今日(きのふけふ)の者の、かくいはんだにあり、いはんや故殿の年比(としごろ)の者の、かくいへば、家主(いへぬし)笑みて、「この男の年比ずちなくてありけん、不便(ふびん)の事なり」 とて、後見(うしろみ)に召し出でて、「これは故殿のいとほしくし給ひし者なり。まづかく京に旅立ちたるにこそ。思ひはからひて沙汰(さた)しやれ」といへば、ひげなる声にて、「む」といらへて立ちぬ。この侍は、空事(そらごと)せじといふをぞ、仏(はとけ)に申し切りてける。 さてこのあるじ、我を不定(ふぢゃう)げにいふなる人々呼びて、この侍に事の子細(しさい)いはせて聞かせんとて、後見(うしろみ)召し出でて、「明後日(あさて)これへ人々渡らんといはるるに、さる様に引き繕ひて、もてなしすさまじからぬやうにせよ」といひければ、「む」と申して、さまざまに沙汰(さた)し設けたり。この得意の人々、四五人ばかり来集(きあつま)りにけり。あるじ、常よりも引き繕ひて、出であひて、御酒たびたび参りて後、いふやう、「吾が親のもとに、年比(としごろ)生(お)ひ立ちたる者候(さぶらふ)をや御覧ずべからん」といへば、この集(あつま)りたる人人、心地よげに、顔さき赤め合ひて、「もとも召し出(いだ)さるべく候。故殿(こどの)に候ひけるも、かつはあはれに候」といへば、「人やある。なにがし参れ」といはば、一人(ひとり)立ちて召すなり。見れば、鬢禿(びんは)げたるをのこの、六十ばかりなるが、まみの程など、空事(そらごと)すばうもなきが、打ちたる白き狩衣(かりぎぬ)に、練色(ねりいろ)の衣(きぬ)のさる程なる着たり。これは賜(たまは)りたる衣(きぬ)と覚ゆる。召し出(いだ)されて、事うるはしく、扇を笏(しゃく)に取りてうづくまり居たり。 家主のいふやう、「やや、ここの父(てて)のそのかみより、おのれは生ひたちたる者ぞかし」などいへば、「む」といふ。「見えにたるか、いかに」といへば、この侍(さぶらひ)いふやう、「その事に候。故殿には十三より参りて候。五十まで夜昼離れ参らせ候はず。故殿の故殿の、小冠者小冠者と召し候ひき。無下(むげ)に候ひし時も、御跡(あと)に臥せさせおはしまして、夜中、暁、大壷(おおつぼ)参らせなどし候ひし。その時は侘びしう、堪へ難く覚え候ひしが、おくれ参らせて後(のち)は、などさ覚え候ひけんと、くやしう候(さぶらふ)なり」といふ。あるじのいふやう、「そもそも一日(ひとひ)汝(なんぢ)を呼び入れたりし折、我、障子(しゃうじ)を引きあけて出でたりし折、うち見あげてほろほろと泣きしは、いかなりし事ぞ」といふ。その時侍がいふやう、「それも別の事に候はず。田舎(ゐなか)に候ひて、故殿失(う)せ給ひにきと承りて、今一度参りて、御有様をだにも拝み候はんと思ひて、恐れ恐れ参り候ひし。左右(さう)なく御出居(でゐ)へ召し出(いだ)させおはしまして候ひし。大方(おほかた)かたじけなく候ひしに、御障子を引きあけさせ給ひしを、きと見あげ参らせて候ひしに、御烏帽子(あぼうし)の真黒にて、先(ま)づさし出でさせおはしまして候ひしが、故殿のかくのごとく出でさせおはしましたえりしも、御烏帽子は真黒に見えさせおはしまししが、思ひ出でられおはしまして、覚えず涙のこぼれ候ひしなり」といふに、この集(あつま)りたる人々も笑(ゑみ)をふくみたり。またこのあるじも気色(けしき)かはりて、「さてまたいづくか故殿(こどの)には似たる」といひければ、この侍(さぶらひ)、「その大方(おほかた)似させおはしましたる所おはしまさず」といひければ、人々ほほゑみて、一人二人(ひとりふたり)づつこそ、逃げ失(う)せにけれ。 七八 御室戸僧正(みむろどのそうじゃうの)事・一乗(じょう)寺(の)事[巻五・九] 是の今は昔、一乗寺僧正、御室戸僧正とて、三井(みゐ)の門流に、やんごとなき人おはしけり。御室戸の僧正は、隆家師(たかいへのそち)の第四の子なり。一乗寺僧正は、經輔大納言の弟五の子なり。御室戸をば隆明といひ。一乗寺をば摎_といふ。この二人、おのおの貴くて、生佛なり。 御室戸はふとりて、修行するに及ばず、ひとへに本尊の御前(おまへ)をはなれずして、夜書おこなふ鈴(れい)の音、たゆるときまかりけり。おのづから人の行(ゆき)むかひたれば、門をばつねにさしたる。門をたゝくとき、たまたまひとの出(いで)きて、「てれぞ」と問ふ。「しかじかの人の参らせ給(たまひ)たり」もしは、「院の御使にさぶらふ」などいへば「申(まうし)さぶらはん」とて、奥へ入(いり)て、無期(むご)にある程、鈴の音しきり也。さて、とばかりありて、門の關木(くわんのき)をはづして、扉(とびら)かたつかたを、人ひとりいる程あけたり。見いるれば、庭には草しげくして、道ふみあけたるあともなじ。露を分けてのぼりたれば、廣びさし一間(ま)あり。妻戸に明障子(あかりしょうじ)たてたり。すすけとほりたること、いつの世に張りたりともみえず。しばしばかりあて、墨染(ぞめ)きたる僧、あし音もせで出(いで)きて、「しばしそれにpはしませ。おこなひの程に候」といへば、待(まち)ゐたるほおどに、とばかりありて、内より、「それへいらせたまへ」とあれば、すゝけたる障子(しやうじ)を引(ひき)あけたるに、香(かう)の煙(けぶり)くゆりいでたり。なへとほりたる衣に、袈裟なども所々破(やぶれ)たり。物もいはでゐられたれば、この人も、いかにと思(おもひ)てむかひゐたるほおどに、こまむきて、すこしうつぶしたるやうにてゐられたり。しばしある程に、「おこなひの程よく成候(なりさぶらひ)ぬ。さらば、とく歸らせ給へ」とあれば、云(いふ)べき事もいはで出(いで)ぬれば、又門やがてさしつ。これは、ひとへに居(ゐる)行ひの人也。 一乘寺僧正は、大嶺は二度通られたり。蛇をみる法行はるゝ。又龍の駒などを見などして、あられぬありさまをして、行ひたる人なり。その坊は一二町ばかりよりひしめきて、田楽、猿楽などひしめき、隨身、衞府(ゑふ)のをのこ共(ども)など、出入(いでいり)ひしめく。物うりども、いりきて、鞍、太刀、さまざまのものをうるを、かれがいふまゝに、あたひを賜(た)びければ、市をなしてぞ集(つど)ひける。さて此(この)僧正のもとに、世の寳は集(つど)ひあつまりたりけり。 それに呪師(じゅし)小院といふ童(わらは)を、愛さられけり。鳥羽の田植に見つきしたりける。さきざきいくひにのりつゝ、みつきをしけるをのこの田うゑに、僧正いひあはせて、この比(ごろ)するやうに、扇にたちたちして、こはゝより出(いで)たりければ、大かた見る者も、驚き驚きしあひたりけり。此童(わらは)餘りに寵愛(てうあい)して、「よしなし。法師に成(なり)て、夜書はなれずつきてあれ」とありけるを、童(わらは)「いかゞ候(さぶらふ)べからん。今しばし、かくて候はばや」と云ひけるを、僧正猶いとほしさに、「たゞなれ」と有(あり)ければ、童(わらは)、しぶしぶに法師になりにけり。さてすぐる程に、春雨打(うち)そゝぎて、つれづれなりけるに、僧正、人をよびて、「あの僧の装束はあるか」と問はれかれば、此(この)僧「納(をさめ)殿にいまだ候」と申(まうし)ければ、「取(とり)て來(こ)」といへれけり。もてきたるを、「是(これ)を着(き)よ」といはれければ、咒師小院、「みぐるしう候(さぶらひ)なん」と、いなみけるを、「唯着(き)よ」と、せめのたまひければ、かた方へ行(ゆき)て、さうぞきて、かぶとして出(い)できたり。露(つゆ)むかしにかはらず。僧正、うちみて、かひをつくられけり。小院又おもがはりしてたてりけるに、僧正「未(いまだ)はしりて御おぼゆや」とありければ、「おぼえさぶらはず。たゞし、かたさらはのうてぞ、よくしつけてこし事なれば、少(すこし)おぼえ候」といひて、せうのなかわりてとほる程を走りてとぶ。かぶともちて、一拍子にわたりけるに、僧正、聲をはなちて泣かれける。さて、「こち來よ」と、呼びよせて打(うち)なでつゝ、「なにしに出家をさせけん」とて、泣かければ、小院も、「さればこそ、いましばしと申(まうし)候ひしものを」といひて、装束ぬがせて、障子(しやうじ)の内へ具(ぐ)して入(い)られにけり。其(その)後はいかなる事かありけん、しらず。 七九 ある僧人の許(もと)にて氷魚(ひを)盗み食ひたる事[巻五・十] これも今は昔、人のもとへ行きけり。酒など勤めけるに、氷魚はじめて出で来たりければ、あるじ珍しく思ひて、もてなしけり。あるじ用の事ありて、内へ入りて、また出でたりけるに、この氷魚の、殊(こと)の外(ほか)に少なくなりたりければ、あるじ、いかにと思へども、いふべきやうもなかりければ、物語し居たりける程に、この僧の鼻より、氷魚の一つ、ふと出でたりければ、あるじ径(あや)しう覚えて、「その鼻より氷魚の出でたるは、いかなる事にか」といひければ、取りもあへず、「この比(ころ)の氷魚は、目鼻より降り候(さぶらふ)なるぞ」といひたりければ、人皆、はと笑ひけり。 八〇 仲胤(ちういん)僧都地主權現(ぢしゅごんげん)説法(せつぽう)の事(こと)[巻五・一一]  是も今は昔、仲胤僧都を、山の大衆(だいしゆ)、日吉の二宮にて法華經を供養しける導師(だうし)に、請(しやう)じたりけり。説法えもいはずして、はてがたに、「地主權現(ごんげん)の申せとさぶらふは」とて、「比經難持(しきやうなんぢ)、若暫持者(にやくさんぢしゃ)、我即權喜(がそくくわんぎ)、諸佛亦然(しょぶつやくねん)」といひたりければ、そこらあつまりたる大衆、異口同音(いくどうおん)にあめきて、扇をひらきつかひたりけり。 これをある人、日吉の社の御正躰をあらはし奉りて、お(を)のおの御前にて、千日の講をおこなひけるに、二宮の御料(れう)の折(おり)、ある僧、此(この)句をすこしもたがへずしたりける。或人、仲胤僧都に、「かゝる事こそ有(あり)しか」と語(かたり)ければ、仲胤僧都、「きやうきやう」とわらひて、「是(これ)は、かうかうの時、仲胤がしたりし句(く)なり。ゑいゑい」とわらひて、「大方は此比(このごろ)の説教(せつきやう)をば、犬の糞説教(くそせつきやう)といふぞ。犬は人の糞を食(くひ)て、糞(くそ)をまる也。仲胤(ちういむ)が説教(けつぽう)をとりて、此比(このごろ)の説教師(せつきやうし)はすれば、犬(いぬ)の糞説教(くそせつきやう)といふなり」といひける。 八一 大二条殿に小式部内侍歌読みかけ奉る事[巻五・十二]  これも今は昔、大二条殿、小式部内侍おぼしけるが、絶え間がちになりけるころ、例(れい)ならぬことおはしまして、久しうなりて、よろしくなり給ひて、上東門院へ参らせ給ひたるに、小式部、台盤所(だいばんどころ)にゐたりけるに、出でさせ給ふとて、「死なんとせしは、など問はざりしぞ」と仰せられて過ぎ給ひける。御直衣(なほし)の裾を引きとどめつつ、申しけり。 死ぬばかり嘆きにこそは嘆きしか生きて問ふべき身にしあらねば堪へずおぼしけるにや、かき抱(いだ)きて局(つぼね)へおはしまして、寝させ給ひにけり。 八二 山横川賀能地蔵の事 [巻第五・一三] これも今は昔、山の横川に、賀能ち院といふ僧、破壊無慚の者にて、晝夜に佛の物をとり遣ふことをのみしけり。横川の執行にてありけり。政所へ行とて、塔のもとを常にすぎありきければ、塔のもとに、ふるき地蔵の、物のなかに捨置きたるを、きと見たてまつりて、時々、きぬかぶりしたるをうちぬぎ、頭をかたぶけて、すこしすこしうやまひおがみつゝゆく時も、有りけり。かゝる程に、かの賀能、はかなく失せぬ。師の僧都、これを聞きて、「かの僧、破壊無慚の者にて、後世さだめて地獄におちん事、うたがひなし」と心うがり、あはれみ給ふ事かぎりなし。 かかる程に、「塔のもとの地蔵こそ、この程みえ給はね。いかなることにか」と、院内の人々いひあひたり。「人の修理し奉らんとて、とり奉たるにや」などひけるほどに、この僧都の夢にみ給やう、「この地蔵の見え給はぬは、いかなることぞ」と尋給に、かたはらに僧ありていはく、「この地蔵菩薩、はやう賀能ち院が、無間地獄におちしその日、やがてたすけんとて、あひ具していり給し也」といふ。夢心ちにいとあさましくて、「いかにして、さる罪人には具して入給たるぞ」と問ひ給へば、「塔のもとを常にすぐるに、地蔵をみやり申て、時々おがみ奉りし故なり」とこたふ。夢さめてのち、みづから塔のもとへおはしてみ給に、地蔵まことに見え給はず。 さは、此僧に誠に具しておはしたるにやとおぼす程に、其後、又、僧都の夢にみ給やう、塔のもとにおはしてみ給へば、この地蔵たち給たり。「是はうせさせ給し地蔵、いかにして出でき給たるぞ」とのたまへば、又人のいふやう、「賀能具して地獄へいりて、たすけて帰給へるなり。されば御足のやけ給へるなり」といふ。御足をみ給へば、まことに御足くろう焼給ひたり。夢心ちに、寔にあさましき事かぎりなし。 さて夢さめて、涙とまらずして、いそぎおはして、塔の許(もと)をみ給へば、うつゝにも、地蔵たち給へり。御足をにれば、誠にやけ給へり。これをみ給に、哀にかなしきことかぎりなし。さて、泣く泣くこの地蔵を、いだき出し奉給てけり。今におはします。二尺五寸斗(ばかり)のほどにこそと、人は語りし。 是語ける人は、おがみ奉りけるとぞ。 宇治拾遺物語 巻第六 八三 廣貴炎魔王宮へ召(めさ)る事 [巻第六・一] 是も今は昔、藤原廣貴といふ者ありけり。死て閻魔の聴(ちやう)にめされて、王の御前とおぼしき所に参りたるに、王のたまふやう、「汝が子をはらみて、産をしそこなひたる女死にたり。地獄におちて苦をうくるに、うれへ申ことのあるによりて、汝をば召したるなり。まづさる事あるか」と問はるれば、廣貴「さる事候ひき」と申。王のたまはく、「妻のうたへ申心は『われ、男に具して、ともに罪をつくりて、しかも、かれが子を産みそこなひて、死して地獄におちて、かかるたへがたき苦をうけ候へども、いさゝかもわが後世をも、とぶらひ候はず。されば、我一人苦を受候ふべきやうなし。廣貴をも、もろともに召て、おなじやうにこそ、苦を受候はめ』と申によりて、召したる也」とのたまへば、廣貴が申やう、「此うたへ申事、もつともことわりに候。おほやけわたくし、世をいとなみ候間、思ながら後世をばとぶらひ候はで、月日はかなくすぎ候ふなり。たゞし今におき候ては、共に召されて苦をうけ候とも、かれがために、苦のたすかるべきに候はず。されば、此度はいとまを給はりて、娑婆(しやば)にまかりかへりて、妻のためにやろづを捨て、 仏経を書き供養して、とぶらひ候はむ」と申せば、王「しばし候へ」とのたまひて、かれが妻を召しよせて、なんぢが夫、廣貴が申やうを問ひ給へば、「げにげに、経仏をだに書き供養せんと申候はば、とくゆるし給へ」と申時に、また廣貴をめし出て、申まゝのことを仰きかせて、「さらば、此度はまかり帰れ。たしかに、妻のために、仏経を書き供養して、とぶらふべき也」とて、かへしつかはす。 廣貴、かゝれども、これはいつく、たれがのたまふぞ、ともしらず。ゆるされて、座をたちてかへる道にて思ふやう、此玉の簾のうちにゐさせ給て、かやうに物の沙汰して、我をかへさるゝひとは、たれにかおはしますらんと、いみじくおぼつかなくおぼえければ、又参りて、庭にいたれば、簾のうちより「あの廣貴は、かへしつかはしたるにはあらずや。いかにして又参りたるぞ」と、問はるれば、廣貴が申やう、「はからざるに、御恩をかうぶりて、帰がたき本国へかへり候ことを、いかにおはします人の仰共、え知り候はで、まかりかへり、候はむことの、きはめていぶせく、くちおしく候へば、恐ながらこれを承に、また参りて候なり」と申せば、「汝不覚也。閻浮提(えんぶだい)にしては、我を地蔵菩薩とせうす」とのたまふをききて、さは炎魔王と申は、地蔵にこそおはしましけれ。此菩薩につかうまつり候が、地獄の苦をばまぬかるべきにこそあめれと思ふ程に、三日といふに生きかへりて、其後、妻のために仏経を書き供養してけりとぞ。 日本の法華験記に見えたるとなん。 八四 世尊寺に死人掘(ほり)出(いだす)事[巻六・二] 今は昔、世尊寺といふ所は、桃園(ももぞの)の大納言住(すみ)給(たまひ)けるが、大将になる宣旨(せんじ)かうぶりに給(たまひ)にければ、大饗はあるじの料(れう)に修理し、まづは、いはひし給(たまひ)し程に、あさてとて、俄に失(う)せ給(たまひ)ぬ。つかはれ人、みな出(いで)ちりて、北方(きたのかた)、若君ばかりなん、すごくてすみ給(たまひ)ける。其若(わか)君は、主殿頭(とのもりのかみ)ちかみつといひしなり。此(この)家を一條攝政殿とり給(たまひ)て、太政大臣になりて、大饗おこなはれける。ひつじさるのすみに塚のありける、築地をつき出して、そのすみは、したうづがたにぞ有(あり)ける。殿「そこに堂をたてん。この塚をとりすてて、そのうへに堂たてん」と、さだめられぬれば、人人も、「塚(つか)のために、いみじう功徳(くどく)になりぬべきことなり」と申(まうし)ければ、塚をほり崩すに、中に石の辛櫃あり。あけてみれば、尼の年二十五六ばかりなる、色うつくしくて、くちびるの色(いろ)など露(つゆ)かはらで、えもいはずうつくしげなる、ね入(い)りたるやうにて臥(ふし)たり。いみじううつくしき衣の[色々なるをなん着(き)たりける。若かりける者(物)のにはかに死(しに)たるにや]金(こがね)の坏(つき)、うるはしくて据ゑ(すへ)たりけり。入(い)りたる物ねにもかうばしきことたぐひなし。あさましがりて、人々たちこみて見(み)る程に、乾(いぬい)の方より風ふきければ、色々なる塵(ちり)になんなりて失(う)せにけり。金(かね)の坏(つき)より外の物、露(つゆ)とまらず。「いみじきむかしの人也とも、骨髪の散(ちる)べきにあらず。かく風の吹(ふく)に、塵(ちり)になりて吹(ふ)き散(ち)らされぬるは、希有(けう)の物なり」といひて、その此(ころ)、人あさましがりける。攝政殿いくばくもなくて失(う)せ給(たまひ)にければ、「此(この)たたりにや」と人うたがひけり。 八十五 留志(るし)長者の事(こと)[巻六・三] 今は昔、天竺(てんぢく)に、留志(るし)長者とて、世にたのもしき長者ありける。大方蔵もいくらともなく持(も)ち、たのもしきが、心のくちを(お)しくて、妻子にも、まして従者にも、物くはせ、きすることなし。お(を)のれ物のほしければ、人にも見せず、かくして食(く)ふほどに、物のあかず多(おほく)ほしかりければ、妻にいふやう、「飯(いひ)、酒、くだもの共(ども)など、おほらかにしてたべ。我につきて、ものを(お)しまする慳貪(けんどん)の神まつらん」といへば、「物を(お)しむ心(こゝろ)うしなはんとする、よき事」とよろこびて、色々に調(てう)じて、おほらかにとらせければ、うけとりて、人も見(み)ざらむ所のいゆきて、よく食(く)はむと思(おもひ)て、ほかいにいれ、瓶子(へいじ)に酒入(いれ)などして、持(もち)ていでぬ。 「この木本(きのもと)にはからすあり、かしこには雀あり」など選(え)りて、人はなれたる山の中の木(き)の陰に、鳥獣(とりけだもの)もなき所にて、ひとり食(くひ)ゐたり。心のたのしさ物にも似ずして、誦(ずむ)ずるやう、「今曠野中(こんくわうやちう)、食飯〔飲〕酒大安楽(じきばんおんじゆだいあんらく)、獨過毘沙門天(どくくわびしやもんてん)、勝天帝釋(しようてんたいしやく)(天)」。此(この)心は、けふ人なき所に一人ゐて、物をくひ、酒(さけ)をのむ。安楽(あんらく)なること、毘沙門(びしやもん)、帝釋(たいしゃく)にもまさりたり、といひけるを、帝釋(尺)きと御らんじてけり。 にくしとおぼしけるにや、留志(るし)長者がかたちに化(け)し給(たまひ)て、彼(かの)家におはしまして、「我(われ)、山にて、物を(お)しむ神(かみ)をまつりたるしるしにや、その神(かみ)はなれて、物のを(お)しからねば、かくするぞ」とて、蔵どもをあけさせて、妻子をはじめて、従者ども、それならぬよその人々も、修行者、乞食(こつじき)にいたる迄、宝物(たからもの)どもをとりいだして、くばりとらせければ、みなみな悦(よろこび)て、わけとりける程にぞ、誠の長者はかへりたる。 倉共(ども)みな明(あけ)て、かく宝どもみな人の執(とり)あひたる、あさましく、かなしさ、いはん方なし。「いかにかくはするぞ」と、のゝしれども、われとたゞおなじかたちの人出(いで)きて、かくすれば、不思議(ふしぎ)なること限なし。「あれは変化(へんげ)のものぞ。我こそ其(そ)よ」といへど、きゝいるゝ人なし。御門(みかど)にうれへ申せば、「母上(はゝうえ)に問(と)へ」と仰(おほせ)あれば、母(はゝ)に問(と)ふに、「人に物くるゝこそ、わが子(こ)にて候はめ」と申せば、する方なし。「腰の程に、はゝくそ(ひ)と云物の跡ぞさぶらひし、それをしるしに御らんぜよ」といふに、あけてみれば、帝釋(たいしやく)それをまねばせ給はざらむたは。二人ながらおなじやうに、物のあたあれば、力なくて、仏(ほとけ)の御もとに、二人ながら参りたれば、其(その)とき、帝釋(たいしやく)もとのすがたになりて、御前におはしませば、論(ろむ)じ申(まうす)べき方なしと思ふ程に、仏(ほとけ)の御力にて、やがて須陀ねん果(ねんくは)を證(せう)したれば、悪き心はなたれば、物を(お)しむ心(こゝろ)もうせぬ。 かやうに、帝釋(尺)は、人をみちびかせ給(たまふ)事、はかりなし。そゞろに、長者が財(ざい)をうしなはむとは、何しにおぼしめさん。慳貪の業(ごう)によりて、地獄に落(おつ)べきを哀ませ給ふ御心ざしによりて、かく構(かま)へさせ給(たまひ)けるこそめでたけれ。 八六 清水寺(きよみづでら)に二千度参詣者(にせんどさんけいするもの)、打入双六事 (すごろくにうちいるること)[巻六・四]  今は昔(むかし)、人のもとに宮づかへしてある生侍(なまざむらひ)有けり。する事まゝに、清水へ、人まねして、千度詣を二たびしたりけり。 其後、いくばくもなくして、主(しう)のもに有ける同じ様なる侍と双六をうちけるが、おほく負(ま)けて、わたすべき物なりけるに、いたく責(せ)めければ、思わびて「我、持たる物なし。只今たくはへたる物とては、清水に二千度参(まい)りたる事のみなんある。 それを渡(わた)さん」といひければ、かたはらにて聞く人は、謀(はか)る也とをこに思て笑けるを、此勝(このかち)たる侍、「いとよき事也。渡さば、得ん」といひて、「いな、かくては請けとらじ。三日して、此よし申て、おのれ渡すよしの文、書きて渡さばこそ、請けとらめ」といひければ、「よき事なり」と契(ちぎり)て、其日より精進(しやうじん)して三日といひける日「さは、いざ清水へ」といひければ、此(この)負侍、「此しれ物にあひたる」とをかしく思いて、悦てつれて参りにけり。いふまゝに文書きて、御前にて師の僧よびて、事のよし申させて、「二千度参りつる事、それがしに双六に打いれつ」と書きてとらせれければ、請けとりつゝ悦て、ふし拝みてまかり出にけり。 そののち、いく程なくして、此負侍、思かけぬ事にて捕(とら)へられて、獄(ひとや)に居にけり。とりたる侍は、思かけぬたよりある妻まうけて、いとよく徳つきて、つかさなど成て、楽(たの)しくてぞありける。「目に見えぬ物なれど、誠の心をいたして請とりければ、仏、あはれとおぼしめしたりけるなんめり」とぞ人はいひける。 八七 観音経(くわんおんきょう)、化∨蛇輔∨人給事(くちなはにけしひとをたすけたまふこと)[巻第六・五] 今(いま)は昔(むかし)、鷹を役(やく)にて過る物有りけり。鷹の放れたるをとらんとて、飛にしたがいてい行ける程に、はるかなる山の奥の谷の片岸(かたきし)に、高き木のあるに、鷹の巣くひたるを見付て、いみじき事見置(を)きたると、うれしく思て、帰てのち、いまはよき程に成ぬらんとおぼゆる程に、子をおろさんとて、又、行て見(み)るに、えもいはぬ深山の深(ふか)き谷の、そこゐ(ひ)も知(し)らぬうへに、いみじく高(たか)き榎の木の、枝は谷にさしおほひたるが上(ゝみ)に、巣を食(くひ)て子をうみたり。鷹、巣のめぐりにしありく。見(み)るに、えもいはずめでたき鷹にてあれば、子もよかるらんと思て、よろづも知(し)らずのぼるに、やうやう、いま巣のもとにのぼらんとする程に、踏(ふ)まへたる枝折(お)れて、谷に落(お)ち入ぬ。谷の片岸にさし出(い)でたる木の枝に落ちかゝりて、その木の枝をとらへてありければ、生(いき)たる心地(ち)もせず。すべき方なし。見おろせば、そこゐ(ひ)も知らず、深き谷也。見(み)あぐれば、はるかに高き岸なり。かきのぼるべき方もなし。 従者どもは、谷に落ち入ぬれば、うたがひなく死ぬらんと思(おも)ふさるにても、いかゞあると見(み)んと思て、岸の端(はた)へ寄(よ)りて、わりなく爪立(つまだ)てて、おそろしけれど、わづかに見おろせば、そこゐ(ひ)も知らぬ谷の底に、木の葉しげくへだてたる下なれば、さらに見(み)ゆべきやうもなし。目くるめき、かなしければ、しばしもえ見(み)ず。すべき方なければ、さりとてあるべきならねば、みな家に帰りて、かうかうといへば、妻子ども亡きまどへどもかひなし。あはぬまでも見にゆかまほしけれど、「さらに道もおぼえづず。又、おはしたりとも、そこゐ(ひ)も知らぬ谷の底にて、さばかりのぞき、よろづに見(み)しかども、見え給はざりき」といへば、「まことにさぞあるらん」と人々もいへば、行(い)かずなりぬ。 さて、谷には、すべき方(方)なくて、石のそばの、折敷(をしき)のひろさにてさし出でたるかたそばに尻をかけて、木の枝をとらへて、すこしも身(み)じろぐべきかたなし。いさゝかもはたらかば、谷に落入ぬべし。いかにもいかにもせん方なし。かく鷹飼を役(やく)にて世をすぐせど、お(を)さなくより観音経を読奉り、たもち奉(たてまつ)りたりければ、「助給へ」と思て、ひとへに憑奉(たのみたてまつ)りて、此経を夜昼(よるひる)、いくらともなく読(よ)み奉(たてまつ)る。「弘誓深如海(ぐぜいしんにょかい)」とあるわたりを読(よ)む程に、谷の底の方(かた)より、物のそよそよと来(く)る心地(ち)のすれば、何にかあらんと思て、やをら見(み)れば、えもいはず大きなる蛇(くちなは)なりけり。長さ二丈斗(ばかり)もあるらんと見(み)ゆるが、さしにさしてはひ来(く)れば、「我は此蛇に食(く)はれなんずるなめり。」と、「かなしきわざかな。観音助給へとこそ思(おも)ひつれ。こはいかにしつる事ぞ」と思て、念(ねん)じ入てある程に、たゞ来(き)に来(き)て我(わが)ひざのもとをすぐれど、我を呑(の)まんとさらにせず。たゞ谷よりうへざまへのぼらんとする気色(けしき)なれば、「いかゞせん。たゞこれに取付たらば、のぼりなんかし」と思(おも)ふ心つきて、腰の刀をやはらぬきて、此蛇のせなかにつきたてて、それにすがりて、蛇の行ままにひかれてゆけば、谷より岸のうへざまに、こそこそとのぼりぬ。 その折(おり)、此男離(はな)れてのくに、刀をとらんとすれど、強(つよ)く突(つ)きたてにければ、え抜(ぬ)かぬ程に、ひきはづして、背に刀さしながら、蛇はこそろとわたりて、むかひの谷にわたりぬ。此男、うれしと思ひて、家へいそぎて行(ゆ)かんとすれど、此二三日、いさゝか身をもはたらかさず、物も食(く)はずすごしたれば、影(かげ)のやうにやせさらぼひつゝ、かつがつと、やうやうにして家に行つきぬ。 さて、家には、「今(いま)はいかゞせん」とて、跡とふべき経仏(きょうほとけ)のいとなみなどしけるに、かく思(おも)ひかけず、よろぼひ来たれば、おどろき泣さは(わ)ぐ事かぎりなし。かうかうのことも語(かた)りて、「観音の御たすけとて、かく生(い)きたるぞ」とあさましかりつる事ども、泣(なく)泣語(かた)りて、物など食ひて、その夜はやすみて、つとめて、とく起(お)きて、手洗(あら)ひて、いつも読(よ)み奉(たてまつ)る経を読(よま)んとて、引あけたれば、あの谷にて蛇の背につきたてし刀、此御経に「弘誓深如海」の所に立たる見(み)るに、いとあさましきなどはおろかなり。「こは、此経の、蛇に変じて、我をたすけおはしましけり」と思(おも)ふに、あはれにたうとく、かなし、いみじと思(おも)ふ事かぎりなし。そのあたりの人々、これを聞(き)きて、見あさみけり。 今さら申べき事ならねど、観音をたのみ奉んに、そのしるしなしといふ事はあるまじき事也。 八八 自賀茂社御幣紙米等給事(かものやしろよりごへいがみこめなどたまふこと)[巻六・六] 今は昔(むかし)、比叡山に僧ありけり。いと貧(まづ)しかりけるが、鞍馬に七日参りけり。「夢などや見(み)ゆる」とて参(まい)りけれど、見えざりければ、今七日とて参れども、猶見ねば、七日を延べ延(の)べして、百日といふ夜の夢に、「我はえ知らず。清水へ参れ」と仰らるゝと見ければ、明日日より、又、清水へ百日参るに、又、「我はえこそ知らね。賀茂に参りて申せ」と夢に見てければ、又、賀茂に参る。 七日と思へど、例の夢見ん見んと参るほどに、百日といふ夜の夢に、「わ僧がかく参る、いとをしければ、御幣紙(ごへいがみ)、打徹(うちまき)の米ほどの物、たしかにとらせん」と仰(おほせ)らるゝと見て、うちおどろきたる心地、いと心うく、あはれにかなし。「所所参りありきつきるに、ありありて、かく仰らるゝよ。打徹のかはり斗(ばかり)給はりて、なににかはせん。我山へ帰りのぼらむ、人目はづかし。賀茂川にや落ち入なまし」など思へど、又、さすがに身をもえ投(な)げず。 「いかやうにはからはせ給べきみか」と、ゆかしきかたもあらば、もとの山の坊に帰てゐたる程に、知りたる所より、「物申候はん」といふ人あり。「誰(た)そ」とて見れば、白き長櫃(ながひつ)をになひて、縁(ゑん)に置(を)きて帰ぬ。いとあやしく思て、使を尋れど、大かたなし。これをあけて見れば、白(しろ)き米と、よき紙とを。一長櫃入る。「これは見し夢のまゝなりけり。さりともとこそ思つれ、こればかりを誠にたびたる」と、いと心うく思へど、いかゞはせんとて、此米をよろづに使(つか)ふに、たゞおなじ多(おほ)さにて、尽(つ)くる事なし。紙もおなじごとつかへど、失(う)する事なくて、いと別(べち)にきらきらしからねど、いとたのしき法師になりてぞありける。 猶、心長(なが)く、物詣(まう)ではすべきなり。 八九 信濃国筑摩湯に観音沐浴事 [巻第六・七] 今は昔、信濃国に、筑摩の湯といふ所に、よろづの人のあみける薬湯あり。其わたりなる人の、夢にみるや宇、「あすの午のときに、観音、湯あみ給ふべし」といふ。「いかやうにてかおはしまさむずる」と問ふに、いらふるやう、「年三十斗の男の、鬚くろきが、あやい笠きて、ふし黒なるやなぐひ、皮まきたる弓持て、紺の襖きたるが、夏毛の行縢(むかばき)はきて、あしげの馬に乗りてなんくべき。それを観音としり奉るべし」といふとみて、夢さめぬ。おどろきて、夜あけて、人々に告げまはしければ、人々聞きつぎて、そ湯にあつまる事かぎりなし。湯をかへ、めぐりを掃除し、しめをひき、花香をたてまつりて、居あつまりて、まち奉る。 やうやう午のときすぎ、未になる程に、只此夢に見えつるに露たがはず見ゆる男の、顔よりはじめ、着たる物、馬、なにかにいたるまで、夢に見しにたがはず。よろずの人、にはかに立ちてぬかをつく。この男、大に驚て、心もえざりければ、よろずの人にとへども、たゞ拝みに拝みて、そのことといふ人なし。僧のありけるが、てをすりて、額にあてて、拝みいりたるがもとへよりて、「こはいかなる事ぞ。おのれをみて、かやうに拝み給ふは」と、こなまりたる声にてとふ。この僧、人の夢にみえけるやうをかたる時、この男いふやう、「おのれ、さいつころ狩をして、馬よりおちて、右のかひなをうち折りたれば、それをゆでんとて、まうできたる也」といひて、と行きかう行するほどに、人々しりにたちて、拝みのゝしる。 男、しわびて、我身はさは観音にこそありけれ。こゝは法師になりなんと思て、弓、やなぐひ、たち、刀きりすてて、法師になりぬ。かくなるを見て、よろづの人、泣き、あはれがる。さて見しりたる人いできて云やう、「あはれ、かれは上野(かむずけ)の国におはする、ばとうぬしにこそいましけれ」といふを聞きて、これが名をば、馬頭観音とぞいひける。 法師になりて後、横川(よかは)にのぼりて、かてう僧都の弟子になりて、横川に住みけり。その後は、土佐国にいにけりとなん。 九〇 帽子(ぼうしの)兒興‖孔子|問答(の)事[巻六・八] 今は昔、もろこしに孔子(こうし)、林の中の岡だちたるやうなる所(ところ)にて、逍遙(せうえう)し給(たまふ)。われは、琴をひき、弟子どもは、ふみをよむ。爰(ここ)に、舟に乗(おり)たる叟(そう)の帽子したるが、船をあしにつなぎて、陸(くが)にのぼり、杖をつきて、琴のしらべの終(をは)るを聞(き)く。人々、あやしき者(物)かなと思へり。この翁、孔子の弟子共(ども)をまねくに、ひとりの弟子、まねかりてよりぬ。翁云(いはく)、「此琴(こと)引(ひき)給(たまふ)はたれぞ。もし国の王か」と問(ゝ)ふ。「さもあらず」と云(いふ)。「さは、国の大臣か」、「それにもあらず」。「さは、国のつかさか」、「それにもあらず」。「さはなにぞ」と問(とゝ)ふに、「たゞ国のかしこき人として政(まつりごと)をし、あしき事を直(なを)し給(たまふ)かしこ人なり」とこたふ。翁、あざわらひて、「いみじきしれ者(物)かな」といひて去(さ)りぬ。 御弟子、ふしぎに思ひて、聞き(きゝ)しまゝにかたる。孔子(こうし)聞(きき)て、「かしこき人にこそあなれ。とくよび奉れ」。御弟子(でし)、はしりて、いま船こぎいづるを呼(よ)びかへす。よばれて出(いで)来たり。孔子(こうし)のたまはく、「なにわざし給(たまふ)人ぞ」。翁のいはく、「させるものにも侍らず。たゞ舟にのりて、心をゆかさんがために、まかりありくなり君は又何人ぞ」。「世の政を直(なを)さむために、まかりありく人なり」。おきなの云(いはく)、「きはまりてはかなき人にこそ。世にかげをいとふものあり。晴にいでて(ゝ)、離(はな)れんとはしる時、影離(はな)るゝ事なし。影にゐて、心のどかにを(お)らば、影離(はな)れぬべきに、さはせずして、晴(はれ)にいでて(ゝ)、離(はな)れんとする時には、力(中)こそつくれ、影離(はな)るゝことなし。また犬の死(し)かばねの水にながれてくだる、これをとらんとはしるものは、水におぼれて死(し)ぬ。かくのごとくの無益(むやく)の事をせらるゝなり。たゞしかるべきゐ所しめて、一生を送(をく)られん、是(これ)今生ののぞみなり。このことをせずして、心を世にそめて、さわ(は)がるゝ事は、きわめてはかなきことなり」といひて、返答も聞(き)かでかり行(ゆく)。舟にのりてこぎ出(いで)ぬ。孔子、そのうしろをみて、二たび拝(おが)みて、さを(ほ)の音せぬまで、拝(おが)み入(いり)てゐ給へり。音せずなりてなん、車にのりて、かへり給(たまひ)にけるよし、人のかたりしなり。 九一 僧伽多羅刹国(そうきやたらせつのくに)に行く事「巻第六・九」 昔、天竺(てんぢく)に僧伽多といふ人あり。五百人の商人(あきびと)を舟に乗せて、かねのつへ行くに、にはかに悪(あ)しき風吹きて、舟を南の方(かた)へ吹きもて行く事、矢を射るがごとし。知らぬ世界に吹き寄せられて、陸(くが)に寄りたるを、かしこき事にして、左右(さう)なくみな惑(まど)ひおりぬ。暫(しば)しばかりありて、いみじくをかしげなる女房十人ばかり出で来て、歌をうたひて渡る。知らぬ世界に来て、心細く覚えつるに、かかるめでたき女どもを見つけて、悦(よろこ)びて呼び寄す。えつるに、かかるめでたき女どもを見つけて、悦(よろこ)びて呼び寄す。呼ばれて寄り来ぬ。近(ちか)まさりして、らうたき事物にも似ず。五百人の商人目をつけて、めでたがる事限(かぎり)なし。 商人、女に問うて曰(いは)く、「我ら宝を求めんために出でにしに、悪しき風にあひて、知らぬ世界に来たり。堪へ難く思ふ間(あひだ)に、人々の御有様を見るに、愁(うれひ)の心みな失(う)せぬ。今はすみやかに具(ぐ)しておはして、我らを養ひ給へ。舟はみな損じたれば、帰るべきやうなし」といへば、この女ども、「さらば、いざさせ給へ」といひて、前に立ちて導きて行く。家に着きて見れば、白く高き築地(ついぢ)を、遠く築(つ)きまはして、門をいかめしく立てたり。その内(うち)に具して入りぬ。門の錠をやがてさしつ。内に入りて見れば、さまざまの屋(や)ども隔て隔て作りたり。男一人もなし。さて商人ども、皆々とりどりに妻にして住む。かたみに思ひあふ事限(かぎり)なし。片時(へんし)も離(はな)るべき心地せずして住む間、この女、日ごとに昼寝をする事久し。顔をかしげながら、寝入るたびに少しけうとく見ゆ。僧伽多、このけうときを見て、心得ず怪(あや)しく覚えければ、やはら起きて、方々(かたかた)を見れば、さまざまの隔て隔てあり。ここに一つの隔てあり。築地(ついぢ)を高く築(つ)きめぐらしたり。戸に錠を強くさせり。そばより登りて内を見れば、人多くあり。あるいは死に、あるいはによふ声す。また白き屍(かばね)、赤き屍多くあり。僧伽多(そうきやた)、一人(ひとり)の生きたる人を招き寄せて、「これはいかなる人の、かくてはあるぞ」と問ふに、答えて曰(いは)く、「我は南天竺(なんてんぢく)の者なり。商(あきなひ)のために海を歩(あり)きしに、悪(あ)しき風に放たれて、この嶋に来たれば、世にめでたげなる女どもにたばかられて、帰らん事も忘れて住む程に、産みと産む子は、みな女なり。限(かぎり)なく思ひて住む程に、また異商人(ことあきびと)舟、より来ぬれば、もとの男をば、かくのごとくして、日の食にあつるなり。御身どももまた舟来なば、かかる目をこそは見給はめ。いかにもして、とくとく逃げ給へ。この鬼は、昼三時ばかりは昼寝をするなり。この間よく逃げば逃ぐべきなり。この築(つ)かれたる四方は、鉄(くろがね)にて固めたり。その上よをろ筋(すぢ)を断たれたれば、逃ぐべきやうなし」と、泣く泣くいひければ、「怪(あや)しとは思ひつるに」とて、帰りて、残(のこり)の商人どもに、この由(よし)を語るに、皆あきれ惑(まど)ひて、女の寝たる隙(ひま)に僧伽多を始めとして、浜へみな行きぬ。 遙(はるか)に補陀落世界(ふだらくせかい)の方(かた)へ向ひて、もろともに声あげて、観音を念じけるに、沖の方(かた)より大(おほき)なる白馬、波の上を泳ぎて、商人らが前に来て、うつぶしに伏しぬ。これ念じ参らする験(しるし)なりと思ひて、ある限(かぎり)みな取りつきて乗りぬ。さて女どもは寝起きて見るに、男ども一人もなし。「逃げぬるにこそ」とて、ある限(かぎり)浜へ出でて見れば、男みな葦毛(あしげ)なる馬に乗りて、海を渡りて行く。女ども、たちまちにたけ一丈ばかりの鬼になりて、一四五丈高く(をど)り上りて、叫びののしるに、この商人の中に、女の世にありがたかりし事を思ひ出づる者、一人ありけるが、取りはづして海に落ち入りぬ。羅刹奪(らせつば)ひしらがひて、これを破り食ひけり。さてこの馬は、南天竺(なんてんじく)の西の浜にいたりて伏せりぬ。商人ども悦(よろこ)びておりぬ。その馬かき消(け)つやうに失(う)せぬ。 僧伽多深く恐ろしと思ひて、この国に来て後(のち)、この事を人に語らず。二年を経て、この羅刹女の中に、僧伽多が妻にてありし、僧伽多が家に来たりぬ。見しよりもなほいみじくめでたくなりて、いはん方(かた)なく美しく、僧伽多にいふやう、「君をばさるべき昔の契(ちぎり)にや、殊(こと)に睦(むつ)ましく思ひしに、かく捨てて逃げ給へるは、いかに思(おぼ)すにか。我が国にはかかるものの時々出で来て、人を食ふなり。されば錠をよくさし、築地(ついぢ)を高く築(つ)きたるなり。それに、かく人の多く浜に出でてののしる声を聞きて、かの鬼どもの来て、怒れるさまを見せて侍りしなり。敢(へ)て我らがしわざにあらず。帰り給ひて後、あまりに恋(こひ)しく悲しく覚えて。殿は同じ心にも思さぬにや」とて、さめざめと泣く。おぼろげの人の心には、さもやと思ひぬべし。されども僧伽多大に瞋(いか)りて、太刀(たち)を抜きて殺さんとす。限(かぎり)なく恨みて、僧伽多が家を出でて、内裏(だいり)に参りて申すやう、「僧伽多は我が年比(としごろ)の夫なり。それに我を捨てて住まぬ事は、誰(かれ)にかは訴(うた)へ申し候(さぶら)はん。帝皇(みかど)これを理(ことわ)り給へ」と申すに、公卿(くぎやう)、殿上人(てんじやうびと)これを見て、限(かぎり)なくめで惑(まど)はぬ人なし。帝聞し召して、覗(のぞ)きて御覧ずるに、いはん方(かた)なく美し。そこばくの女御(にようご)、后(きさき)を御覧じ比ぶるに、みな土くれのごとし。これは玉のごとし。かかる者に住まぬ僧伽多が心いかならんと、思し召しければ、僧伽多を召しければ、僧伽多を召して問はせ給ふに、僧伽多申すやう、「これは、更に御内(みうち)へ入れ見るべき者にあらず。返す返す恐ろしき者なり。ゆゆしき僻事(ひがごと)出で来候はんずる」と申して出でぬ。 帝(みかど)この由(よし)聞し召して、「この僧伽多はいひがひなき者かな。よしよし、後(うしろ)の方(かた)より入れよ」と、蔵人(くらうど)して仰せられければ、夕暮方に参らせつ。帝近く召して御覧ずるに、けはひ、姿、みめ有様、香(かう)ばしく懐(なつ)かしき事限(かぎり)なし。さて二人臥(ふたりふ)させ給ひて後(のち)、二日三日まで起きあがり給はず、世の政(まつりごと)をも知らせ給はず。僧伽多参りて、「ゆゆしき事出で来たりなんず。あさましきわざかな。これはすみやかに殺され給ひぬる」と申せども、耳に聞き入るる人なし。かくて三日になりぬる朝、御格子(みかうし)もいまだあがらぬに、この女夜(よる)の御殿(おとど)より出でて、立てるを見れば、まみも変りて、世に恐ろしげなり。口に血つきたり。」暫(しば)し世中(よのなか)を見まはして、軒より飛ぶがごとくして、雲に入りて失(う)せぬ。人人この由申さんとて、夜の御殿(おとど)に参りたれば、赤き首(かうべ)一つ残れり。その外(ほか)は物なし。さて宮の内、ののしる事たとへん事なし。臣下、男女泣き悲しむ事限(かぎり)なし。 御子の春宮(とうぐう)、やがて位につき給ひぬ。僧伽多を召して、事の次第を召し問はるるに、僧伽多申すやう、「さ候(さぶら)へばこそ、かかるものにて候へば、すみやかに追ひ出(いだ)さるべきやうを申しつるなり、今は宣旨(せんじ)を蒙(かうむ)つて、これを討ちて参らせん」と申すに、「申さんままに仰せ給(た)ぶべし」とありければ、「剣(つるぎ)の太刀(たち)はきて候はん兵(つはもの)百人、弓矢帯(たい)したる百人、早舟に乗りて出(いだ)し立てらるべし」と申しければ、そのままに出(いだ)し立てられぬ。僧伽多この軍兵(ぐんぴやう)を具(ぐ)して、かの羅刹(らせつ)の嶋へ漕(こ)ぎ行きつつ、まづ商人(あきびと)のやうなる者を、十人ばかり浜におろしたるに、例のごとく玉女ども、うたひを謡(うた)ひて来て、商人をいざなひて、女の城へ入りぬ。その尻(しり)に立ちて二百人の兵(つはもの)乱れ入りて、この女どもを打ち斬り、射るに、暫(しば)しは恨みたるさまにて、あはれげなる気色(けしき)を見せけれども、僧伽多大(おほき)なる声を放ちて、走りまはつて掟(おき)てければ、その時、鬼の姿になりて、大口をあきてかかりけれども、太刀にて頭(かうべ)をわり、手足打ち斬りなどしければ、空を飛びて逃ぐるをば、弓にて射落(いおと)しつ。一人も残る者なし。家には火をかけて焼き払ひつ。むなしき国となして果てつ。さて帰りて、おほやけにこの由(よし)申しければ、僧伽多にやがてこの国を賜(た)びつ。二百人の軍兵(ぐんぴやう)を具して、その国にぞ住みける。いみじくたのしかりけり。今は僧伽多が子孫、かの国の主にてありとなん申し伝へたる。 宇治拾遺物語 巻第七 九二 五色鹿事(ごしきのしかのこと)[巻七・一] これも昔(むかし)、天竺に、身の色は五色にて、角の色は白き鹿一ありけり。深き山のみ住て、人に知(し)られず。その山のほとりに大なる川あり。その山に又烏あり。此鹿(かせぎ)を友として過す。 ある時、この川に男一人流(なが)れて、既(すでに)死なんとす。「我を、人助(たす)けよ」と叫(さけ)ぶに、此鹿(かせぎ)、この叫(さけ)ぶ声を聞(き)きて、かなしみにたへずして、川を泳(およ)ぎ寄(よ)りて、此男を助けてけり。男、命の生(い)きぬる事を悦て、手をすりて、鹿むかひていはく、「何事をもちてか、この恩を報(むく)ひ奉(たてまつ)るべき」といふ。鹿(かせぎ)のいはく、「何事をもちてか恩をば報(むく)はん。たゞこの山に我ありといふ事を、ゆめゆめ人に語(かた)るべからず。我身の色、五色なり。人知(し)りなば、皮を取(と)らんとて、必(かならず)殺されなん。この事をおそるゝによりて、かゝる深山にかくれて、あへて人に知(し)られず。然(しかる)を、汝が叫(さけ)ぶ声(こゑ)をかなしみて、身の行(ゆくへ)ゑを忘て、助(たす)けつるなり」といふ時に、男「これ、誠にことは(わ)り也。さらにもらす事あるまじ」と返々(かへすがへす)契て去(さ)りぬ。もとの里に帰(かへ)りて月日を送れども、更に人に語(かた)らず。 かゝる程に、国の后、夢に見(み)給やう、大なる鹿(かせぎ)あり。味は五色にて角白し。夢覚て、大王に申給はく、「かゝる夢をなん見(み)つる。この鹿(かせぎ)、さだめて世にあるらん。大王、必(かなら)ず尋とりて、我に与(あた)へ給へ」と申給に、大王、宣旨を下して、「もし五色の鹿(かせぎ)、尋て奉(たてまつ)らん物には、金銀、珠玉等の宝、並(ならび)に一国等をたぶべし」と仰(おほせ)ふれらるゝに、此助(たす)けられたる男、内裏に参て申やう、「尋らるゝ色の鹿(かせぎ)は、その国の深山にさぶらふ。あり所を知(し)れり。狩人を給(たまはり)て、取て参(まい)らすべし」と申に、大王、大に悦(よろこび)給て、みづからおほくの狩人を具(ぐ)して、此男をしるべに召(め)し具(ぐ)して、行幸なりぬ。 その深山に入給。此鹿(かせぎ)、あへて知(し)らず。洞(ほら)の内にふせり。かの友とする烏、これを見(み)て大におどろきて、声(こゑ)をあげてなき、耳をくひてひくに、鹿おどろきぬ。烏(からす)告て云、「国の大王、おほくの狩人を具(ぐ)して、此山をとりまきて、すでに殺さんとし給。いまは逃(にぐ)げき方なし。いかゞすべき」と云て、泣(な)く泣(な)く去(さ)りぬ。鹿(かせぎ)、おどろきて、大王の御輿(みこし)のもとに歩寄(よ)るに、狩人ども、矢をはげて射んとす。大王の給(たまふ)やう、「鹿(かせぎ)、おそるゝ事なくして来(きた)れり。さだめてやうあるらん。射事(いること)なかれ」と。その時、狩人ども矢をはづして見るに、御輿の前にひざまづきて申さく、「我毛の色をおそるゝによりて、此山に深(ふか)く隠すめり。しかるに大王、いかにして我住所(すむところ)をば知(し)り給へるぞや」と申に、大王の給(たまふ)、「此興のそばにある、顔にあざのある男、告申たるによりて来れる也」。鹿(かせぎ)見(み)るに、顔(かほ)にあざありて、御輿(みこしの)傍に居(ゐ)たり。我助(たす)けたりし男なり。 鹿(かせぎ)、かれに向ていふやう、「命を助たりし時、此恩、何にても報じつくしがたきよしいひしかば、こゝに我あるよし、人に語(かた)るべからざるよし、返返(かへすがへす)契りし処也。然に今、其恩を忘て、殺させ奉らんとす。いかに汝、水におぼれて死なんとせし時、我(わが)命を顧ず、泳(をよ)ぎ寄(よ)りて助し時、汝かぎりなく悦し事はおぼえず」と、深(ふか)く恨たる気色にて、泪(なみだ)をたれて泣(な)く。 其時に、大王同じく泪をながしてのたまはく、「汝は畜生なれども、慈悲をもて人を助(たす)く。彼男は欲にふけりて恩を忘たり。畜生といふべし。恩を知(し)るをもて人倫とす」とて、此男をとらへて、鹿の見(み)る前にて、首(くび)を斬(き)らせらる。又、のたまはく、「今より後、国の中に鹿(かせぎ)を狩事(かること)なかれ。もし此宣旨をそむきて、鹿の一頭(ひとかしら)にても殺す物あらば、速(すみやか)に死罪に行はるべし」とて帰給(かえりたまひ)ぬ。 其後より、天下安全に、国土ゆたかなりけりとぞ。 九三 播磨守(はりまのかみ)爲家(ためいへの)侍[の]事[巻七・二] 今は昔、播磨(はりま)の守爲家といふ人あり。それが内に、させることもなき侍あり。あざなさたとなんいひけるを、例の名をば呼(よ)ばずして、主も、傍輩(はうばい)も、ただ、「さた」とのみ呼(よ)びける。さしたることはなけれども、まめにつかはれて、とし比(ごろ9になりにければ、あやしの郡の収納(すなう)などせさせければ、喜(よろこび)てその郡に行(ゆき)て、郡司のもとにたどりにけり。なすべき物の沙汰(さた)して、四五日ばかりありてのぼりぬ。 此(この)郡司がもとに、京よりうかれて、人にすかされてきたりける女房のありけるを、いとほ(おか)しがりて養(やしなひ)置(を)きて、物ぬはせなど使(つか)ひければ、さやうの事なども心得てしければ、あはれなるものに思ひて置(を)きたりけるを、此(この)さたに、従者がいふやう、「郡司(ぐんし)が家に、京のめなどいふものの(ゝ)、かたちよく、髪ながきがさぶらふを、かくし据ゑ(すへ)て、殿にもしらせ奉らで置(を)きてさぶらふぞ」と、かたりければ、「ねたきことかな。わ男、かしこにありしときは言(い)はで、こゝにてかく言(い)ふは、にくきことなり」といひければ、「そのおはしましし(ゝ)かたはらに、きりかけの侍(はべり)しをへだてて(ゝ)、それがあなたにさぶらひしかば、知(し)らせ給(たまひ)たるらんとこそ、思ひ給へしか」といへば、「このたびはしばし行(い)かじと思(おもひ)つるを、いとま申(まうし)て、とく行(ゆき)て、其(その)女房かなしうせん」といひけり。さて二三日ばかりありて、爲家に、「沙汰(さた)すべき」事どものさびらひしを、沙汰(さた)しさして参りて候(さぶらひ)しなり。いとま給りてまからん」と云(いひ)ければ、「ことを沙汰(さた)しさして、なにせんにのぼりけるぞ。とく行(い)けかし」といひければ、喜(よろこび)て下(くだり)けり。 行(ゆき)つきけるまゝに、とかくの事もいはず。もとより見慣(みな)れなどしたらんにてだに、うとからん程は、さやあるべき。従者などにせんやうに、着たりける水干(すゐかん)のあやしげなりけるが、ほころびたえたるを、きりかけの上(うへ)よりなげ越(こ)して、たかやかに、「これがほころび縫(ぬ)ひておこせよ」といひければ、ほどもなくなげかへしたりければ、「物縫(ぬ)はせごとさすと聞(き)くが、げにとく縫(ぬ)ひてお(を)こせたる女人かな」とあらゝかなる声(こゑ)してほめて、とりてみるに、ほころびは縫(ぬ)はで、みちのくに紙の文を、そのほころびのもとにむすびつけて、なげ返したるなりけり。あやしと思(おもひ)て、ひろげて見れば、かく書(か)きたり。 われが身は竹の林にあらねどもさたがころもをぬぎかくるかな(哉) とかきたるをみて、あはれなりと思(おもひ)しらん事こそかなしからめ、見(み)るまゝに、大に腹をたてて(ゝ)、「目つぶれたる女人かな。ほころび縫(ぬい)にやりたれば、ほころびのたえたる所をば、見(み)だにえ見(み)つけずして、「さたの」とこそいふべきに、かけまくもかしこき守殿(かうのとの)だにも、またこそこゝらの年月比(ごろ)、まだしか召(め)さね。なぞ、わ女め、「さたが」といふべき[事か。この女人に物ならは]さむ」といひて、よにあさましき所をさへ、なにせん、かせんと、罵(の)りのろひければ、女房は物もおぼえずして、泣(な)きけり。腹たちちらして、郡司も、「よしなき人をあはれみ置(を)きて、そのとくには、はては勘當かうぶるにこそあなれ」といひければ、かたがた、女、おそろしくうわしうわびしく思(おもひ)けり。 かく腹しかりて、帰(かへり)のぼりて、侍(さぶらひ)にて、「やすからぬ事こそあれ。物もおぼえぬくさり女に、かなしういはれたる。守(かう)の殿だに、「さた」とこそ召(め)せ。この女め、「さたが」といふべき故(ゆへ)やは」と、たゞ腹立(はらた)てば、きく人ども、え心得ざりけり。「さてもいかなる事をせられて、かくはいふぞ」と問(ゝ)へば、「きゝ給へよ、申さん。かやうのことは、たれもおなじ心に守殿にも申(まうし)給へ。君だちの名だてにもあり」といひて、ありのまゝのことを語(かた)りければ、「さたさた」といひて、笑(わら)ふ者(物)もあり。にくがる者(もの)もおほかり。女をば、皆(みな)いとほ(お)しがり、やさしがりけり。このことを爲家きゝて、前によびて問(とひ)ければ、我(わが)うれへなりにたりと悦(よろこび)て、ことごとくのびあがりていひければ、よく聞(きき)て後、其(その)男(をとこ)をば追(を)ひ出(いだ)してけり。女をばいとほ(お)しがりて、物とらせなどしける。 心から身を失(うしな)ひける男(をとこ)とぞ。 九四 三條(の)中納言水飯(すゐはんの)事[巻七・三] 今は昔、三条中納言といふ人有(あり)けり。三条右大臣の御子なり。才(さえ)かしこくて、もろこしのこと、此(この)世のこと、みな知(し)り給へり。心ばへかしこく、きもふとく、お(お)しからだちてなんおはしける。笙(しやう)の笛をなんきはめて吹給(ふきたまひ)ける。長(たけ)たかく、大にふとりてなんおはしける。 ふとりのあまり、せめてくるしきまで肥給(こえたまひ)ければ、薬師(くすし)重秀(しげひで)をよびて、「かくいみじうふとるおば、いかゞせむとする。たちゐなどするが、身のおもく、いみじうくるしきなり」とのたま(給)へば、重秀申(まうす)やう、「冬は湯づけ、夏は水漬(づけ)にて、物をめすべきなり」と申(まうし)けり。そのまゝにめしけれど、たゞおなじやうに肥(こえ)ふとり給(たまひ)ければ、せんかたなくて、又重秀をめして、「いひしまゝにすれど、そのしるしもなし。水飯(すゐはん)食(くひ)て見せん」とのたま(給)ひて、をのこどもめすに、侍(さぶらひ)一人参りたれば、「例のやうに、水飯(すゐはん)してもて来(こ)」といはれければ、しばしばかりありて、御臺(だい)もて参るをみれば、御臺(だい)かたがたよそひもてきて、御前に据ゑ(すへ)つ。 御臺(だい)に、はしの臺(だい)斗(ばかり)据ゑ(すへ)たり。つゞきて、御盤(ごばん)さゝげて参る。御まかなひ(い)の、臺に据う(すふ)るをみれば、御盤に、しろき干瓜(ほしうり)、三寸ばかりにきりて、十ばかり盛(も)りたり。亦(また)、すしあゆの、おせくゝに、ひろらかなまりを具(ぐ)したり。みな、御盤に据ゑ(すへ)たり。いま一人の侍、大なる銀(しろがね)の提(ひさげ)に、銀(しろがね)のかいをたてて(ゝ)、重(おも)たげにもて参(まい)りたり。金鞠を給(たまひ)たれば、かいに御物をすくひつゝ、高やかにもりあげて、そばに水をすこし入(いれ)て参(まい)らせたり。殿、盤をひきよせ給(たまひ)て、かなまりをとらせ給へるに、さはかり大におはする殿の御手に、大なるかなまりかなと見ゆるは、けしうはあらぬほどなるべし。干瓜(ほしうり)三きりばかり食(く)ひきりて、五六ばかり参りぬ。つぎに、水飯(すいはん)を引(ひき)よせて、二度(たび)ばかり箸(はし)をまはし給ふと見(み)るほどに、おものみな失(う)せぬ。「又」とて、さし賜(給)はす。さて二三度に、提(ひさげ)の物皆になれば、又提に入(いれ)て、もて参(まい)る。重秀、これをみて、「水飯(すいはむ)を、やくとめすとも、此(この)ぢやうにめさば、更に御ふとり直(なを)るべきにあらず」とて、逃(にげ)ていにけり。 さればいよいよ相撲(すまい)などのやうにてぞおはしける。 九五 検非違使忠明(けびゐしただあきらの)事[巻七・四] これもいまは昔、忠明(たゞあきら)といふ検非違使(けびゐし)ありけり。それが若かりける時、清水(きよみづ)の橋のもとにいぇ、京童部(きゃうわらんべ)どもと、いさかひをしけり。京童部、手ごとに刀をぬきて、忠明(たゞあきら)をたちこめて、ころさんとしければ、忠明もたちをぬい(ひ)て、御堂ざまにのぼるに、御堂の東のつまにも、あまた立(た)ちて、むかひあひたれば、内へ逃(にげ)て、しとみのもとを脇にはさみて、前の谷へを(お)どりおつ。しとみ、風にしぶかれて、谷の底(そこ)に、鳥のゐるやうに、やをら落(おち)にければ、それより逃(にげ)ていにけり。京童部ども、谷を見おろして、あさましがり、たち並(な)みて見(み)けれども、すべきやうもなくて、やみにけりとなん。 九六 長谷寺参籠男、(はせでらさんろうのをのこ)預利生事(りしやうにあづかること)[巻七・五] 今(いま)は昔(むかし)、父母(ぶも)、主(しう)もなく、妻も子もなくて、只一人 ある青侍ありけり。すべき方もなかりければ、「観音たすけ給へ」とて長谷(はせ)にまいゐりて、御前にうつぶし伏(ふし)て申けるやう、「此世にかくてあるべくは、やがて、此御前にて干死(ひじに)に死なん。もし又、を(お)のづからなる便(たより)もあるべくは、そのよしの夢を見(み)ざらんかぎりは出(いづ)まじ」とて、うつぶし臥(ふ) したりけるを、寺の僧見(み)て「こは、いかなる者(もの)の、かくては候ぞ。物食(くふ)所も見(み)えず。かくうつぶし臥したれば、寺のため、けがらひいできて、大事に成なん。誰を師にはしたるぞ。いづくにてか物は食(く)ふ」など問(と)ひければ、「かくたよりなき物は、師もいかでか侍らん。物食(く)ぶる所もなく、あはれと申人もなければ、仏の給はん物を食(た)べて、仏を師とたのみ奉て候也」とこたへければ、寺の僧ども集(あつ)まりて、「此事、いと ゞ不便(ふびん)の事也。寺のために悪(あ)しかりなん。観音をかこち申人にこそあんなれ。是(これ)集(あつ)まりて、養(やしな)ひてさぶらはせん」とてかはるがはる物を食(く)はせければ、もてくる物を食(く)ひつゝ、御前を立去(さ)らず候ける程に、三七日(さんしちにち)に成にけり。 三七日はてて、明(あけ)んとする夜の夢に、御帳(みちょう)より人の出(い)でて、「此お(を)のこ、前世の罪のむくひをば知(し)らで、観音をかこち申て、かくて候事、いとあやしき事也。さはあれども、申事のいとお(ほ)しければ、いさゝかの事、はからひ給りぬ。先(まづ)、すみやかにまかり出(いづ)んに、なににてもあれ、手にあたらん物を取て、捨ずして持(も)ちたれ。とくとくあかり出(いで)よ」と追(を)はるゝと見て、はい(ひ)起(お)きて、約束(やくそく)の僧のがりゆきて、物うち食てまかり出ける程に、大門(だいもん)にてけつまづきて、うつぶしに倒(たを)れにけり。 起(お)きあがりたるに、あるにもあらず、手ににぎられたる物を見(み)れば、藁(わら)すべといふ物をたゞ一筋にぎられたり。「仏の賜(た)ぶ物にて有(ある)にやあらん」と、いとはかなく思へども、仏のはからせ給やうあらんと思て、これを手まさぐりにしつゝ行程に、〓〔虫+盲あぶ〕一ぶめきて、かほのめぐりに有を、うるさければ、木の枝を折(お)りて払(はらひ)捨(す)つれども、猶たゞ同(おな)じやうに、うるさくぶめきければ、とらへて腰をこの藁(わら)すぢにてひきくゝりて、杖のさきにつけて持(も)たりければ、腰をくゝられて、ほかへはえ行(い)かで、ぶめき飛まはりけるを、長谷にまい(ゐ)りける女車の、前の簾をうちかづきてゐたる児(ちご)の、いとうつくしげなるが、「あの男の持(も)ちたる物はなにぞ。かれ乞(こ)ひて、我に賜(た)べ」と、馬に乗てともにある侍(さぶらひ)にいひければ、その侍、「その持たる物、若公(わかぎみ)の召(め)すに参(まい)らせよ」といひければ、「仏の賜(た)びたる物に候へど、かく仰事候へば、参(まい)らせて候はん」とて、とらせたりけば、「此男、いとあはれなる男也。若公の召(め)す物を、やすく参(まい)らせたる事」といひて、大柑子を、「これ、喉(のど)かは(わ)くらん、食(た)べよ」とて、三(みつ)、いとかうばしき陸奥国紙(みちのくにかみ)に包(つつみ)てとらせたりければ、侍、とりつたへてとらす。 「藁一筋が、大柑子三(みつ)になりぬる事」と思て、木の枝にゆい(ひ)付て、肩(かた)にうちてかけて行ほどに、「ゆへ(ゑ)ある人の忍てまいるよ」と見(み)えて、侍などあまた具(ぐ)して、かちよりまいる女房の、歩(あゆ)み困(こう)じて、たゞたりにたりゐたるが、「喉のかはけば、水飲(の)ませよ」とて、消(き)え入やうにすれば、ともの人、手まどひをして、「近(ちか)く水やある」と走さは(わ)ぎもとむれど、水もなし。「こはいかゞせんずる。御旅籠(はたご)馬にや、もしある」と問(と)へど、はるかにを(お)くれたりとて見(み)ず。ほとほとしきさまに見(み)ゆれば、まことにさは(わ)ぎまどひて、しあつかふを見(み)て、「喉かは(は)きてさは(わ)ぐ人よ」と見(み)ければ、やはら歩(あゆ)み寄(よ)りたるに、「こゝなる男こそ、水のあり所は知(し)りたるらめ。此辺(あたり)近(ちか)く、水の清(きよ)き所やある」と問ければ、「此四五町がうちには清(きよ)き水候はじ。いかなる事の候にか」と問(と)ひければ、「歩(あゆ)み困(こう)ぜさせ給て、御喉のかは(わ)かせ給て、水ほしがらせ給に、水のなきが大事なれば、たづぬるぞ」といひければ、「不便(ふびん)に候(さぶらふ)御事かな。水の所は遠(とほく)て、汲(くみ)て参(まい)らば、程へ候なん。これはいかゞ」とて、つゝみたる柑子を、三ながらとらせたりければ、悦さはぎて食(く)はせたれば、それを食て、やうやう目を見あけて、「こは、いかなりつる事ぞ」といふ。「御喉かはかせ給て、「水飲(の)ませよ」とおほせられつるまゝに、御殿籠(とのごも)り入(い)らせ給つれば、水もとめ候つれども、清き水も候はざりつるに、こゝに候(さぶらふ)男の、思かけるに、その心を得(え)て、この柑子を三(みつ)、奉(たてまつ)りたりつれば、参(まい)らせたるなり」といふに、此女房、「我はさは、喉(のど)かはきて、絶入たりけるにこそ有けれ。「水飲(の)ませよ」といひつる斗(ばかり)はおぼゆれど、其後の事は露おぼえず。此柑子えざらましかば、此野中にて消(き)え入なまし。うれしかりける男かな。此男(おとこ)、いまだあるか」と問(と)へば、「かしこに候」と申。「その男、しばしあれといへ。いみじからん事ありとも、絶(た)え入はてなば、かひなくてこそやみなまし。男のうれしと思(おも)ふばかりの事は、かゝる旅にては、いかゞせんずるぞ。食(く)ひ物は持(も)ちて来(き)たるか。食(く)はせてやれ」といへば、「あの男、しばし候へ。御旅籠(はたご)馬など参(まい)りたらんに、物など食てまかれ」といへば、「うけ給(たまはり)ぬ」とて、ゐたるほどに、旅籠(はたご)馬、皮籠(かはご)馬など「など、かくはるかにをくれては参(まい)るぞ。御旅籠(はたご)馬などは、つねにさきだつこそよけれ。とみの事などもあるに、かくをくるゝはよき事かは」などいひて、やがて幔引(まんひ)き、畳(たたみ)など敷(し)きて、「水遠かんなれど、困(こう)ぜさせ給たれば、召(め)し物は、こゝにて参(まい)らすべき也」とて、夫(ぶ)どもやりなどして、水汲(く)ませ、食物しいだしたれば、此男に、清(きよ)げにして、食(く)はせたり。物を食(く)ふ々、「ありつる柑子、なににかならんずらん。観音はからはせ給事なれば、よもむなしくてはやまじ」と思ゐたる程に、白(しろ)くよき布を三匹取(むらと)り出(い)でて、「これ、あの男に取らせよ。此柑子の喜(よろこび)は、いひつくすべき方もなけれども、かゝる旅の道にては、うれしと思(おも)ふ斗(ばかり)の事はいかゞせん。これはたゞ、心ざしのはじめを、見(み)する也。京のおはしまし所は、そこそこになん。必(かなら)ず参(まい)れ。此柑子の喜をばせんずるぞ」といひて、布三匹取(むらと)らせたれば、悦て布を取(と)りて、「藁筋(わらすぢ)一筋が、布三匹(むら)になりぬる事」と思て、腋(わき)にはさみてまかる程に其日は暮にけり。 道づらなる人の家にとゞまりて、明ぬれば鳥とともに起(お)きて行程に、日さしあがりて辰の時ばかりに、えもいはず良(よ)き馬に乗(の)りたる人、此馬を愛しつゝ、道も行(ゆ)きやらず、ふるまはするほどに、「まことにえもいはぬ馬かな。これをぞ千貫がけなどはいふにやあらん」と見(み)るほどに、此馬にはかにたうれて、ただ死(し)にに死(し)ぬれば、主、我にもあらぬけしきにて、下(お)りて立ゐたり。手(て)まどひして、従者どもも、鞍下(お)ろしなどして、「いかがせんずる」といへども、かひなく死(し)にはてぬれば、手を打(う)ち、あさましがり、泣(なき)ぬばかりに思ひたれど、すべき方なくて、あやしの馬のあるに乗ぬ。 「かくてここにありとも、すべきやうなし。我等は去(い)なん。これ、ともかくもして引き隠(かく)せ」とて、下種男(げすおとこ)を一人とどめて、去(い)ぬれば、此男見(み)て、「此馬、わが馬にならんとて死ぬるにこそあんめれ。藁一筋(すぢ)柑子三になりぬ。柑子三が布三匹(むら)になりたり。此布(ぬのの)、馬になるべきなめり」と思て、歩(あゆ)み寄(よ)りて、此下種(す)男にいふやう、「こは、いかなりつる馬ぞ」と問ひければ、「睦奥国(みちのくに)よりえさせ給へる馬なり。よろづの人のほしがりて、あたい(ひ)も限(かぎ)らず買(かは)んと申つるをも惜(お)しみて、放(はな)ち給はずして、今日(けふ)かく死(し)ぬれば、そのあたい(ひ)、少分をもとらせ給はずなりぬ。おのれも、皮をだにはがばやと思へど、旅にてはいかがすべきと思て、まもり立(たち)て侍なり」といひければ、「その事也。いみじき御馬かなと見侍りつるに、はかなくかく死(し)ぬる事、命ある物はあさましき事也。まことに、旅にては、皮はぎ給たりとも、え干(ほ)し給はじ。おのれは此辺(このあたり)に侍れば、皮はぎてつかひ侍らん。得(え)させておはしね」とて、此布を一匹(むら)とらせたれば、男、思はずなる所得したりと思て、思(おも)ひもぞかへすとや思(おも)ふらん、布をとるままに、見だにもかへらず走(はし)り去(い)ぬ。 男、よくやりはてて後、手かきあらひて、長谷(はせ)の御方のむかひて、「此馬、生(い)けて給はらん」と念じゐたる程に、この馬、目を見あくるままに、頭をもたげて、起(お)きんとしければ、やはら手をかけて起(お)こしぬ。うれしき事限なし。「をくれて来(く)る人もぞある。又、ありつる男もぞ来(く)る」など、あやう(ふ)くおぼえければ、やうやうかくれの方(かた)に引入て、時移(うつ)るまでやすめて、もとのやうに心地(ち)もなりにければ、人のもとに引もて行て、その布一匹(むら)して、轡(くつわ)やあやしの鞍にかへて馬乗ぬ。 京ざまに上(のぼ)る程に、宇治わたりにて日暮(く)れにければ、その夜は人のもとにとまりて、今一匹(むら)の布して、馬の草、わが食物(くひもの)などにかへて、その夜はとまりて、つとめていととく、京ざまにのぼりければ、九条わたりなる人の家に、物へ行(い)かんずるやうにて、立さは(わ)ぐ所あり。「此馬、京に率(い)て行たらんに、見知(し)りたる人ありて、盗(ぬす)みたるかなどいはれんもよしなし。やはら、これを売てばや」と思て、「かやうの所に、馬など用なる物ぞかし」とて下(お)り立て、寄(よ)りて、「もし馬などや買せ給ふ」と問(と)ひければ、「馬がな」と思けるほどにて、此馬を見(み)て、「いかゞせん」とさはぎて、「只今、かはり絹などはなきを、この鳥羽の田や米などにはかへてんや」といひければ、「中々、絹(きぬ)よりは第一の事也」と思て、「絹(きぬ)や銭などこそ用には侍れ。おのれは旅なれば、田ならば何にかはせんずると思給ふれど、馬の御用あるべくは、たゞ仰にこそしたがはめ」といへば、此馬に乗(の)り心み、馳(は)せなどして、「たゞ、思つるさま也」といひて、此鳥羽の近(ちか)き田三町、稲すこし、米などとらせて、やがて此家をあづけて、「おのれ、もし命ありて帰のぼりたらば、その時、返し得(え)させ給へ。のぼらざらんかぎりは、かくて居(ゐ)給へれ。もし又、命たえて、なくもなりなば、やがてわが家にして居給へ。子も侍らねば、とかく申人もよも侍らじ」といひて、あづけて、やがて下(くだ)りにければ、その家に入居て、みたりける。米、稲など取をきて、たゞひとりなりけれど、食物ありければ、かたはら、そのへんなりける下種(す)などいできて、つかはれなどして、たゞありつきに、居つきにけり。 二月斗の事なりければ、その得(え)たりける田を、半(なか)らか人に作らせ、今半(なか)らは我料(れう)に作(つく)らせたりけるが、人の方(かた)のもよけれども、それは世の常にて、おのれが分とて作たるは、ことのほか多(おほ)くいできたりければ、稲おほく刈をきて、それよりうちはじめ、風の吹つくるやうに徳つきて、いみじき徳(とく)人にてぞありける。その家あるじも、音(をと)せずなりにければ、其家も我物にして、子孫などいできて、ことのほかに栄(さか)へたりけるとか。 九七 小野宮大饗事(おののみやだいきやうのこと)・西宮(にしのみや)殿富子路(とみのこうじの)大臣大饗の事[巻七・六]  今は昔、小野宮殿の大饗に、九條殿の御膾物にし給(たまひ)たりける女の装束にそへられたりける紅の打(うち)たるほそながを、心なかりける御前(ごぜん)の、とりはづして、やり水に落(おと)し入(いれ)たりけるを、即(すなわち)とれあげて、うちふるひければ、水は走(はしり)て、かはきにけり其(その)ぬれたりけるかたの袖の、つゆ水にぬれたるとも見(み)えで、おなじやうに打(う)ち目(め)などもありける。昔(むかし)は、打(う)ちたる物は、かやうになんありける。 又、西宮殿の大饗に、「小野宮殿を尊者(そんじや)におはせよ」とありければ、「年老(としおい)、腰いたくて、庭の琲(はい)えすまじければ、え詣(まう)づまじきを、雨ふらば、庭の琲(はい)もあるまじければ、参(まい)れなん。ふらずば、えなん参(まゐ)るまじき」と、御返事のありければ、雨ふるべきよし、いみじく祈給(いのりたまひ)けり。そのしるしにやありけん。その日になりて、わざとはなくて、空くもりわたりて、雨そゝぎければ、小野〔宮〕殿は脇よれのぼれて、おはしけり。中嶋に、大に木(こ)だかき松、一本(ひともと)たてりけり。その松を見と見(み)る人「藤のかゝりたらましかば」とのみ、見つゝいひければ、この大饗の日は、む月のことなれども、藤の花いみじくをかしくつくりて、松の梢よりひまなうかけられたるが、ときならぬ物はすさまじきに、これは空(そら)のくもれて、雨(あめ)のそぼふるに、いみじくめでたう、をかしう見ゆ。池のおもてに影のうつりて、風の吹(ふけ)ば、水のうへもひとつになびきたる、まことに藤波といふことは、これをいふにやあらんとぞ見(み)えける。 後の日、富小路の大臣(おとゞ)の大饗に、御家のあやしくて、所々のひつらひも、わりなくかまへてありければ、人々も、見苦しき大饗かなと思ひたりけるに、日くれて、事(こと)やうやうはてがたになるに引出物の時になりて、東の廊(らう)のまへに〔ひ〕きたる幕のうちに、引出物の馬をひき立(たて)てありけるが、幕のうちながらいなゝきたりける聲、空をひゞかしけるを、人々「いみじき馬(むま)の聲(こゑ)かな」と、聞(き)きけるほどに、幕はしらを蹴折(けをり)て、口とりをひきさげて、いでくるを見れば、黒栗毛(くろくりげ)なる馬の、たけ八(や)きあまりばかりまる、ひらに見ゆるまで身ふとく肥(こえ)たる、かいこみなれば、額のもち月のやうにて白(しろ)くみえければ、見(み)てほめのゝしりける聲(こゑ)、かしがましきまでなん聞(きこ)えける。馬(むま)のふるまひ、おもだち、尻ざし、足(あし)つきなどの、こゝはと見(み)ゆる所なく、つきづきしかりければ、家のしつらひの、見苦(みぐる)しかりつるもきえて、めでたうなんありける。さて世の末(すゑ)までも、かたりつたふるなりけり。 九八 式成(のりなり) 満(みつる) 則員(のりかず)等三人滝口弓芸(ゆげい)の事[巻七・七] これも今は昔、鳥羽院(とばのゐん)位の御時、白河院の武者所(むしやどころ)の中に、宮道式成(みやぢののりなり)、源満、則員、殊(こと)に的弓(まとゆみ)の上手なり。その時聞えありて、鳥羽院(とばのゐん)位の御時の滝口(たきぐち)に、三人ながら召されぬ。試みあるに、大方(おおかた)一度もはづさず。これをもてなし興ぜさせ給ふ。ある時三尺五寸の的を賜(た)びて、「これが第二の黒み、射落(いおと)して持(も)て参られよ」と仰(おほせ)あり。己(み)の時に賜(たまは)りて、未(ひつじ)の時に射落して参れり。いたつき三人の中に三手なり。矢とりて、矢取(やとり)の帰らんを持たば、程経(へ)ぬべしとて、残(のこり)の輩(ともがら)、我と矢を走り立ちて、取り取りして、立ちかはり立ちかはり射る程に、未の時の半(なか)らばかりに、第にの黒みを射めぐらして、射落して持て参れりけり。「これすでに養由(やういう)がごとし」と時の人ほめののしりけるとかや。 宇治拾遺物語 巻第八 九九 大膳大夫以長(だいぜんのたいふもちなが)先駆(ぜんく)の間の事[巻八・一]  これのいまは昔、橘大膳亮(助)大夫以長といふ蔵人の五位ありけり。法勝寺千僧供養に、鳥羽院御幸ありけるに、宇治左大臣参り給(たまひ)けり。さきに、公卿(くぎゃう)の、車行(ゆき)けり。しりより、左府参り給(たまひ)ければ、車をおさへてありければ、御前(ごぜん)の髄身(ずゐじん)る、おりて通(とを)りけり。それに、此(この)以長一人をりざりけり。いかなることにかと見る程に、帰(かへ)らせ給(たまひ)ぬ。さて帰らせ給(たまひ)て、「いかなることぞ。公卿あひて、礼節して車をおさへたれば、御前の髄身みなおりたるに、未練(みれん)の者(物)こそあらめ、以長おりざりつるは」と仰(おほせ)らる。以長(もちなが)申(まうす)やう、「こはいかなる仰(おほせ)せにか候(さぶらふ)らん。礼節と申(まうし)候(さぶらふ)は、まへにまかる人、しりより御出なり候[は]ば、車をやりかへして、御車にむかへて、牛をかき(け)はづして、榻(しぢ)に軛(くび)木を置(ヽ)きて、通(とを)し参(まい)らするをこそ礼節とは申(まうし)候(さぶらふ)に、さきに行(ゆく)人、車をお(ヽ)さへ候(さぶらふ)とも、しりうぃむけ参らせて通し参(まい)らするは、礼節(れいせつ)にては候はで、無礼(ぶれい)をいたすに候(さぶらふ)とこそ見えつれば、さらん人には、なんでうおり候はんずるぞと思(おもひ)て、おり候はざりつるに候。あやまりてさも候はば(ゞ)、打(うち)よせて一言(こと)葉申さばやと思(おもひ)候(さぶらひ)つれども、以長年老(おい)候(さぶらひ)にたれば、おさへて候(う)つるに候」と申(まうし)ければ、左大臣殿「いさ、このこといかゞあるべからん」とて、あの御かたに、「かかる事こそ候へ。いかに候はんずることぞ」と申させ給(たまひ)ければ、「以長ふるざびらひ[に候(さぶらひ)けり」 とぞ仰事ありける。むかしは、かきはづして榻(しぢ)]をば、轅(ながえ)の中に、おりんずるやうに置(を)きけり。これぞ礼節にてはあんなるとぞ。 一〇〇 下野武正(しもつけのたけまさ)、大風雨日(おほかぜあめのひ)、参法性寺殿事(ほふしやうじどのにまゐること)[巻八・二] これも今は昔、下野武正といふ舎人(とねり)は、法性寺殿に候けり。あるお(を)り、大風、大雨降(ふ)りて、京中の家、みな壊(こぼれ)れ破(やぶ)れけるに、殿下(てんが)、近衛殿におはしましけるに、南面(みなみおもて)のかたに、ののしる物の声(こゑ)しけり。誰ならんとおぼしめして、見(み)せ給に、武正、赤香(あかかう)のかみしもに蓑笠を着(き)て、蓑(みの)の上(うえ)に縄を帯にして、檜笠(ひかさ)の上(うへ)を、又おとがひに、縄にてからげつけて、鹿杖(かせ(づゑ))をつきて、走回(まは)りておこなふ也けり。大かた、その姿、おびたたしく似(に)るべき物なし。殿、南面(おもて)へ出(い)でて御簾より御覧ずるに、あさましくおぼしめして、御馬をなん賜(た)びけり。 一〇一 信濃国(しなののくに)の聖(ひじり)の事[巻第八・三] 今は昔、信濃国に法師ありけり。さる田舎(ゐなか)にて法師になりにければ、まだ受戒もせで、いかで京に上(のぼ)りて、東大寺といふ所にて受戒せんと思ひて、とかくして上(のぼ)りて、受戒してけり。 さてもとの国へ帰らんと思ひけれども、よしなし、さる無仏世界のやうなる所に帰らじ、ここに居なんと思ふ心つきて、東大寺の仏の御前に候(さぶら)ひて、いづくにか行(おこなひ)して、のどやかに住みぬべき所あると、万(よろづ)の所を見まはしけるに、未申(ひつじさる)方(かた)に当(あた)りて、山かすかに見ゆ。そこに行ひて住まんと思ひて行きて、山の中に、えもいはず行ひて過す程に、すずろに小さやかなる廚子仏(づしぼとけ)を、行ひ出(いだ)したり。毘沙門(びしゃもん)にてぞおはしましける。 そこに小さき堂を建てて、据ゑ奉りて、えもいはず行ひて、年月経(ふ)る程に、この山の麓(ふもと)に、いみじき下種徳人(げすとくにん)ありけり。そこに聖の鉢は常に飛び行きつつ、物は入れて来けり。大(おほき)なる校倉(あぜくら)のあるをあけて、物取り出す程に、この鉢飛びて、例の物乞ひに来たりけるを、「例の鉢来にたり。ゆゆしくふくつけき鉢よ」とて、取りて、倉の隅に投げ置きて、とみに物も入れざりければ、鉢は待ち居たりける程に、物どもしたため果てて、この鉢を忘れて、物も入れず、取りも出(いだ)さで、倉の戸をさして、主(ぬし)帰りぬる程に、とばかりありて、この倉すずろにゆさゆさと揺(ゆる)ぐ。「いかにいかに」と見騒ぐ程に、揺ぎ揺ぎて、土より一尺ばかり揺ぎあがる時に、「こはいかなる事ぞ」と、怪(あや)しがりて騒ぐ。「まことまこと、ありつる鉢を忘れて取り出でずなりぬる、それがしわざにや」などいふ程に、この鉢、倉より漏り出でて、この鉢に倉乗りて、ただ上(のぼ)りに、空ざまに一二丈ばかり上(のぼ)る。さて飛び行く程に、人々ののしり。あさみ騒ぎ合ひたり。倉の主も、更にすべきやうもなければ、「この倉の行かん所を見ん」とて、尻に立ちて行く。そのわたりの人々もみな走りけり。さて見れば、やうやう飛びて、河内国(かふちのくに)に、この聖の行ふ山の中に飛び行きて、聖の坊の傍(かたはら)に、どうと落ちぬ。 いとどあさましと思ひて、さりとてあるべきならねば、この倉主、聖のもとに寄りて申すやう、「かかるあさましき事なん候(さぶらふ)。この鉢の常にまうで来れば、物入れつつ参らするを、今日(けふ)紛(まぎら)はしく候ひつる程に、倉にうち置きて忘れて、取りも出(いだ)さで、錠をさして候ひければ、この倉ただ揺ぎに揺ぎて、ここになん飛びてまうで落ちて候。この倉返し給(たまは)り候はん」と申す時に、「まことに怪しき事なれど、飛びて来にければ、倉はえ返し取らせじ。ここにかやうの物もなきに、おのづから物をも置かんによし。中ならん物は、さながら取れ」とのたまへば、主のいふやう、「いかにしてか、たちまちに運び取り返さん。千石積みて候(さぶらふ)なり」といへば、「それはいとやすき事なり。たしかに我運びて取らせん」とて、この鉢に一俵を入れて飛(とば)すれば、雁(かり)などの続きたるやうに、残(のこり)の俵ども続きたる。群雀(むらすずめ)などのやうに、飛び続きたるを見るに、いとどあさましく貴(たふと)ければ、主のいふやう、「暫(しば)し、皆な遣(つか)はしそ。米二三百石は、とどめて使はせ給へ」といへば、聖、「あるまじき事なり。それここに置きては、何(なに)にかはせん」といへば、「さまでも、入るべき事のあらばこそ」とえお、主(ぬし)の家にたしかにみな落ち居にけり。 かやうに貴(たふと)く行ひて過(すぐ)す程に、その比(ころ)延喜(えんぎ)の御門(みかど)、重く煩(わづら)はせ給ひて、さまざまの御祈(おんいのり)ども、御修法(みしほ)、御読経(みどきゃう)など、よろづにせらるれど、更に怠らせ給はず。ある人の申すやう、「河内国信貴(しぎ)と申す所に、この年来(としごろ)行ひて、里へ出づる事もせぬ聖候(さぶらふ)なり。それこそいみじく貴(たふと)く験(しるし)ありて、鉢を飛(とば)し、さて居ながら、よろづあり難き事をし候(さぶらふ)なれ。それを召して、祈らせさせ給はば、怠らせ給ひなんかし」と申せば、「さらば」とて、蔵人(くらうど)を御使(つかひ)にて、召しに遣(つか)はす。 行きて見るに、聖(ひじり)のさま殊(こと)に貴くめでたし。かうかう宣旨(せんじ)にて召すなり、とくとく参るべき由(よし)いへば、聖、「何(なに)しに召すぞ」とて、更々(さらさら)動きげもなければ、「かうかう、御悩(ごなう)大事におはします。祈り参らせ候はん」といふ。「さては、もし怠らせおはしましたりとも、いかでか聖の験(しるし)とは知るべき」といへば、「それが誰(た)が験(しるし)といふ事、知らせ給はずとも、御心地だに怠らせ給ひなば、よく候ひなん」といへば、蔵人、「さるにても、いかでかあまたの御祈(おんいのり)の中にもその験と見えんこそよからめ」といふに、「さらば祈り参らせんに、剣(つるぎ)の護法(ごほふ)を参らせん。おのづから御夢にも、幻(まぼろし)にも御覧ぜば、さたは知らせ給へ。剣(つるぎ)を編みつつ、衣(きぬ)に着たる護法なり。我は更に京へはえ出でじ」といへば、勅使帰り参りて、かうかうと申す程に、三日といふ昼つかた、ちとまどろませ給ふともなきに、きらきらとある物の見えければ、いかなる物にかとて御覧ずれば、あの聖のいひけん剣の護法なりと思(おぼ)し召すより、御心地さはさはとなりて、いささか心苦しき御事もなく、例ざまにならせ給ひぬ。人々悦(よろこ)びて、聖を貴がりめであひたり。 御門(みかど)も限(かぎり)なく貴く思し召して、人を遣はして、「僧正(そうじゃう)僧都(そうづ)にやなるべき。またもの寺に、庄(しゃう)などや寄すべき」と仰せつかはす。聖承りて、「僧都、僧正更に候(さぶらふ)まじき事なり。またかかる所に、庄など寄りぬれば、別当なにくれなど出で来て、なかなかむつかしく、罪得がましく候。ただかくて候はん」とてやみにけり。 かかる程に、この聖の姉ぞ一人ありける。この聖受戒せんとて、上(のぼ)りしまま見えぬ。かうまで年比(としごろ)見えぬは、いかになりぬるやらん、おぼつかなきに尋ねて見んとて、上(のぼ)りて、東大寺、山階寺(やましなでら)のわたりを、「まうれん小院(こゐん)といふひとやある」と尋ぬれど、「知らず」とのみいひて、知りたるとといふ人なし。尋ね侘(わ)びて、いかにせん、これが行末(ゆくすゑ)聞きてこそ帰らめと思ひて、その夜東大寺の大仏の御前にて、「このまうれんが在所(ありどころ)、教へさせ給へ」と夜一夜申して、うちまどろみたる夢に、この仏仰せらるるやう、「尋ぬる僧の在所(ありどころ)は、これより未申(ひつじさる)の方(かた)に山あり。その山に雲たなびきたる所を、行きて尋ねよ」と仰せらるると見て覚(さ)めたれば、暁方(あかつきがた)になりにけり。いつしか、とく夜の明けよかしと思ひて見居たれば、ほのぼのと明方(あけがた)になりぬ。未申の方(かた)を見やりければ、山かすかに見ゆるに、紫の雲たなびきたる、嬉(うれ)しくて、そなたをさして行きたれば、まことに堂などあり。人ありと見ゆる所へ寄りて、「まうれん小院やいまする」といへば、「誰(た)そ」とて出でて見れば、信濃なりし我が姉なり。「こはいかにして尋ねいましたるぞ。思ひかけず」といへば、ありつる有様を語る。「さていかに寒くておはしつらん。これを着せ奉らんとて、持(も)たりつる物なり」とて、引き出でたるを見れば、ふくたいといふ物を、なべてにも似ず、太き糸して、厚々とこまかに強げにしたるを持(も)て来たり。悦(よろこ)びて、取りて着たり。もとは紙絹一重をぞ着たりける。さていと寒かりけるに、これを下に着たりければ、暖かにてよかりけり。さて多くの年比(としごろ)行ひけり。さてこの姉の尼君も、もとの国へ帰らずとまり居て、そこに行ひてぞありける。 さて多くの年比、このふくたいをのみ着て行ひてれば、果てには破(や)れ破(や)れと着なしてありけり。鉢に乗りて来たりし倉を、飛倉(とびくら)とぞいひける。その倉にぞ、ふくたいの破(や)れなどは納めて、まだあんなり。その破(や)れの端(はし)を露(つゆ)ばかりなど、おのづから縁にふれて得たる人は、守りにしけり。その倉も朽(く)ち破れて、いまだあんなり。その木の端を露ばかり得たる人は、守りにし、毘沙門(びしゃもん)を造り奉りて持ちたる人は、必ず徳つかぬはなかりけり。されば聞く人縁を尋ねて、その倉の木の端をば買ひとりける。さて信貴(しぎ)とて、えもいはず験(しるし)ある所にて、今に人々明暮(あけくれ)参る。この毘沙門は、まうれん聖(ひじり)の行ひ出(いだ)し奉りけるとか。 一〇二 敏行の朝臣の事[巻第八・四] これも今は昔、敏行という歌よみは、手をよく書きければ、これかれがいふに随(したが)ひて、にはかに死にけり。我は死ぬるぞとも思はぬに、にはかにからめて引き張りて率(ゐ)て行けば、我ばかりの人を、おほやけと申すとも、かくせさせ給ふべきか、心得ぬわざかなと思ひて、からめていく人に、「これはいかなる事ぞ。何事の過(あやまち)により、かくばかりの目をば見るぞ」と問へば、「いさ、我は知らず。『たしかに召して来(こ)』と、仰(おほせ)せを承りて、率(ゐ)て参るなり。そこは法華経や書き奉りたる」と問へば、「しかじか書き奉りたり」といへば、「我がためにはいくらか書きたる」と問へば、「我がためとも侍らず。ただ、人の書かすれば、二百部ばかり書きたるらんと覚ゆる」といへば、「その事の愁(うれへ)出で来て、沙汰(さた)のあらんずるにこそあめれ」とばかりいひて、また異事(ことごと)もいはで行く程に、あさましく人の向ふべくもなく、恐ろしといへばおろかなる者の眼を見れば、雷光のやうにひらめき、口は炎(ほむら)などのやうに恐ろしき気色(けしき)したる軍(いくさ)の鎧兜(よろひかぶと)着て、えもいはぬ馬に乗り続きて、二百人ばかりあひたり。見るに肝(きも)惑ひ、倒(たふれ)れ伏しぬべき心地すれども、吾(われ)にもあらず、引き立てられていく。 さてこの軍は先立ちて去(い)ぬ。我(われ)からめて行く人に、「あれはいかなる軍ぞ」と問へば、「え知らぬか。これこそ汝(なんぢ)に経あつらへて書かせたる者どもの、その功徳(くどく)によりて、天にも生れ、極楽(ごくらく)にも参り、また人に生れ返るとも、よき身とも生るべかりしが、汝がその書き奉るとて、魚をも食ひ、女にも触れて、清まはる事もなくて、心をば女のもとに置きて、書き奉りたれば、その功徳のかなはずして、かくいかう武(たけ)き身に生れて、汝を妬(ねた)がりて、『呼びて給(たまは)らん。その仇(あだ)報ぜん』と愁へ申せば、この度(たび)は、道理にて召さるべき度(たび)にもあらねども、この愁(うれへ)によりて召さるるなり」といふに、身も切るるやうに、心もしみ凍(こほ)りて、これを聞くに死ぬべき心地す。 「さて我をばいかにせんとて、かくは申すぞ」と問へば、「おろかにも問ふかな。その持ちたりつる太刀(たち)、刀にて、汝が身はまづ二百に斬(き)り裂きて、おのおの一切(ひときれ)づつ取りてんとす。その二百の切(きれ)に、汝が心も分かれて、切(きれ)ごとに心のありて、責(せ)められんに随ひて、悲しく侘(わび)しき目を見んずるぞかし。堪へ難き事、たとへん方(かた)あらんやは」といふ。「さてその事をば、いかにしてか助かるべき」といへば、「更に我も心も及ばず。まして助かるべき力はあるべきにあらず」といふに、歩む空なし。 また行けば、大(おほき)なる川あり。その水を見れば、濃くすりたる墨(すみ)の色にて流れたり。怪(あや)しき水の色かなと見て、「これはいかなる水なれば、墨の色なるぞ」と問へば、「知らずや。これこそ汝(なんぢ)が書き奉りたる法華経の墨の、かく流るるよ」よいふ。「それはいかなれば、かく川にて流るるぞ」と問ふに、「心のよく誠をいたして、清く書き奉りたる経は、さながら王宮に納められぬ。汝が書き奉りたるやうに、心きたなく、身けがらはしうて書き奉りたる経は、広き野辺に捨て置きたれば、その墨の雨に濡(ぬ)れて、かく川にて流るるなり。この川は、汝が書き奉りたる経の墨の川なり」といふに、いとど恐ろしともおろかなり。「さてもこの事は、いかにしてか助かるべき事ある。教へて助け給へ」と泣く泣くいへば、「いとほしけれども、よろしき罪ならばこそは、助かるべき方(かた)をも構へめ。これは心も及び、口にても述ぶべきやうもなき罪なれば、いかがせん」といふに、ともかくもいふべき方(かた)なうて行く程に、恐ろしげなるもの走りあひて、「遅く率(ゐ)て参る」と戒(いまし)めいへば、それを聞きて、さけ立てて率て参りぬ。大(おほき)なる門に、わがやうに引き張られ、また頸枷(くびかし)などいふ物をはげられて、結(ゆ)ひからめられて、堪へ難げなる目ども見たる者どもの、数も知らず、十万より出で来たり。集(あつま)りて、門に所なく入り満ちたり。門より見いるれば、あひたりつる軍(いくさ)ども、目をいからかし、舌なめづりをして、我を見つけて、とく率て来(こ)かしと思ひたる気色(けしき)にて、立ちさまよふを見るに、いとど土も踏まれず。「さてもさても、いかにし侍らんとする」といへば、その控へたる者、「四巻経書き奉らんといふ願をおこせ」とみそかにいへば、今門入る程に、この科(とが)は四巻経書き、供養してあがはんといふ願をおこしつ。 さて入りて、庁の前に引き据(す)ゑつ。事沙汰(ことさた)する人、「彼(かれ)は敏行(としゆき)か」と問へば、「さに侍り」と、この付きたる者答ふ。「愁(うれへ)ども頻(しきり)なるものを、など遅くは参りつるぞ」といへば、「召し捕(と)りたるまま、滞(とどこほ)りなく率て参り候(さぶらふ)」といふ。「娑婆世界(しゃばせかい)にて何事かせし」と問はるければ、「仕(つかまつ)りたる事もなし。人のあつらへに随(したが)ひて、法華経を二百部書き奉りて侍りつる」と答ふ。それを聞きて、「汝(なんぢ)はもと受けたる所の命は、今暫(しばら)くあるべけれども、その経書き奉りし事の、けがらはしく、清からで書きたる愁(うれへ)の出で来て、からめられぬなり。すみやかに愁へ申す者どもに出(いだ)し賜(た)びて、彼らが思ひのままにせさすべきなり」とある時に、ありつる軍(いくさ)ども、悦(よろこ)べる気色(けしき)にて、請(う)け取らんとする時に、わななくわななく、「四巻経書き、供養せんと申す願の候(さぶらふ)を、その事をなんいまだ遂(と)げ候はぬに、召され候ひぬれば、この罪重く、いとどあらがふ方(かた)候はぬなり」と申せば、この沙汰(さた)する人聞き驚きて、「さる事やはある。誠ならば不便(ふびん)なりける事かな。帳を引きて見よ」といへば、また人、大(おほき)なる文を取り出でて、ひくひく見るに、我がせし事どもを一事も落(おと)さず、記しつけたる中に、罪の事のみありて、功徳(くどく)の事一つもなし。この門入りつる程におこしつる願なれば、奥の果(はて)に記(しる)されにけり。文引き果てて、今はとする時に、「さる事侍り。この奥にこそ記されて侍れ」と申し上げれば、「さてはいと不便の事なり。この度(たび)の暇(いとま)をば許し給(た)びて、その願遂げさせて、ともかくもあるべき事なり」と定められければ、この目をいからかして、吾(われ)をとく得んと、手をねぶりつる軍ども失(う)せにけり。「たしかに娑婆世界(しゃばせかい)に帰りて、その願必ず遂げさせよ」とて、許さるると思ふ程に、生き返りにけり。 妻子泣き合ひてありける二日といふに、夢の覚めたる心地して、目を見あけたりければ、生き返りたりとて、悦(よろこ)びて、湯飲ませなどするにぞ、さは、我は死にたりけるにこそありけれと心得て、勘(かんが)へられつる事ども、ありつる有様、願をおこして、その力にて許されつる事など、明らかなる鏡に向ひたらんやうに覚えければ、いつしか我が力付きて、清まはりて、心清く四巻経書き供養し奉らんと思ひけり。やうやう日比経(ひごろへ)、比(ころ)過ぎて、例のやうに心地もなりにければ、いつしか四巻経書き奉るべき紙、経師(きゃうじ)にうち継(つ)がせ、〓〔金界〕掛(けか)けさせて、書き奉らんと思ひけるが、なほもとの心の色めかしう、経仏の方に心のいたらざりければ、この女のもとに行き、あの女懸想(けさう)し、いかでよき歌詠(よ)まんなど思ひける程に、暇(いとま)なくて、はかなく年月過ぎて、経をも書き奉らで、この受けたりける齢(よはひ)、限(かぎり)にやなりにけん、遂(つひ)に失(う)せにけり。 その後十二年ばかり隔てて、紀友則(きのとものり)といふ歌よみの夢に見えけるやう、この敏行(としゆき)と覚(おぼ)しき者にあひたれば、敏行とは思へども、さまかたちたとふべき方(かた)もなく、あさましく恐ろしう、ゆゆしげにて、現(うつつ)にも語りし事をいひて、「四巻経書き奉らんといふ願によりて、暫(しばら)くの命を助けて、返されたりしかども、なほ心のおろかに怠りて、その経を書かずして、遂(つひ)に失(う)せにし罪によりて、たとふべき方(かた)もなき苦を受けてなんあるを、もし哀(あはれ)と思ひ給はば、その紙尋ね取りて、三井寺にそれがしといふ僧にあつらへて、書き供養せさせて給(た)べ」といひて、大(おほき)なる声をあげて、泣き叫ぶと見て、汗水(あせみず)になりて驚きて、明くるや遅きと、その料紙尋ね取りて、やがて三井寺に行きて、夢に見えつる僧のもとへ行きたれば、僧見つけて、「嬉(うれ)しき事かな。只今人を参らせん、みづからにても参りて申さんと思ふ事のありつるに、かくおはしましたる事の嬉しさ」といへば、まづ我が見つる夢をば語らで、「何事ぞ」と問へば、「今宵(こよひ)の夢に、故敏行朝臣の見え給へるなり。四巻経書き奉るべかりしを、心の怠りに、え書き供養し奉らずなりにしその罪によりて、きはまりなき苦を受くるを、その料紙は御前のもとになん。その紙尋ね取りて、四巻経書き供養奉れ。事のやうは、御前に問ひ奉れとありつる。大(おほき)なる声を放ちて、叫び泣き給ふと見つる」と語るに、哀(あはれ)なる事おろかならず。さし向ひて、さめざめと二人泣きて、「我もしかじか夢を見て、その紙を尋ね取りて、ここにもちて侍り」といひて、取らするに、いみじう哀(あはれ)れがりて、手づからみづから書き供養し奉りて後、また二人(ふたり)が夢に、この功徳(くどく)によりて、堪へ難き苦少し免れたる由(よし)、心地よげにて、形もはじめには変りて、よかりけりとなん見けり。 一〇三 東大寺華厳会(けごんゑ)の事[巻第八・五] これも今は昔、東大寺に恒例の大法会(だいほふゑ)あり。華厳会とぞいふ。大仏殿の内に高座(かうざ)を立てて、講師(かうじ)上(のぼ)りて、堂の後(うしろ)よりかい消(け)つやうにして、逃げて出つるなり。古老の伝へて曰(いは)く、「御堂建立(みだうこんりふ)のはじめ、鯖(さば)売る翁(おきな)来たる。ここに本願の上皇召しとどめて、大会(だいゑ)の講師(かうじ)とす。売る所の鯖を、経机(きゃうづくゑ)にし置く。変じて八十華厳経となる。即(すなは)ち講説の間(あひだ)、梵語(ぼんご)をさへづる。法会(ほうゑ)の中間に、高座にしてたちまち失(う)せをはりぬ」。また曰く、「鯖を売る翁、杖を持ちて鯖を担う。その物の数八十、則(すなは)ち変じて八十華厳経となる。件(くだん)の杖の木、大仏殿の内、東回廊の前に突き立つ。たちまちに枝葉をなす。これ白榛(びゃくしん)の木なり。今伽藍(がらん)の栄衰へんとするに随(したが)ひて、この木栄え、枯る」といふ。かの会の講師、この比(ころ)までも、中間に高座よりおりて、後戸よりかい消(け)つやうにして出づる事、これをまなぶなり。 この鯖の杖の木、三十四年が前(さき)までは、葉は青くて栄えたり。その後(のち)なほ枯木(かれき)にて立てりしが、この度(たび)平家の炎上に焼けをはりぬ。世の末ぞかしと口惜(くちを)しかりけり。 一〇四 猟師(れふし)仏を射る事[巻第八・六] 昔、愛宕(あたご)の山に、久しく行ふ聖(ひじり)ありけり。年比(としごろ)行ひて、坊を出づる事なし。西の方に猟師あり。この聖を貴(たふと)みて、常にはまうでて、物奉りなどしけり。久しく参りざりければ、餌袋(ゑぶくろ)に干飯(ほしいひ)など入れて、まうでたり。聖悦(よろこ)びて、日比(ひごろ)のおぼつかなさなどのたまふ。その中に、居寄りてのたまふやうは、「この程いみじく貴き事あり。この年比、他念なく経をたもち奉りてある験(しるし)やらん、この夜比(よごろ)、普賢菩薩(ふげんぼさつ)象に乗りて見え給ふ。今宵(こよひ)とどまりて拝み給へ」といひければ、この猟師、「世に貴き事にこそ候(さぶらふ)なれ。さらば泊りて拝み奉らん」とてとどまりぬ。 さて聖の使ふ童(わらは)のあるに問ふ。「聖のたまふやう、いかなる事ぞや。おのれも、この仏をば拝み参らせたりや」と問へば、童は、「五六度(ど)ぞ見奉りて候」といふに、猟師、「我も見奉る事もやある」とて、聖の後(うしろ)に、いねもせずして起き居たり。九月廿日の事なれば、夜も長し。今や今やと待つに、夜半(よは)過ぎぬらんと思ふ程に、東の山の嶺(みね)より、月の出づるやうに見えて、嶺の嵐もすさまじきに、この坊の内、光さしいりたるようにて明(あか)くなりぬ。見れば、普賢菩薩(ふげんぼさつ)象に乗りて、やうやうおはして、坊の前に立ち給へり。 聖(ひじり)泣く泣く拝みて、「いかに、ぬし殿は拝み奉るや」といひければ、「いかがは。この童も拝み奉る。をいをい、いみじう貴(たふと)し」とて、猟師(れふし)の思ふやう、聖は年比(としごろ)経をもたもち読み給へばこそ、その目ばかりに見え給はめ、この童、我が身などは、経の向きたる方(かた)も知らぬに、見え給へるは、心は得られぬ事なりと、心のうちに思ひて、この事試みてん。これ罪得(う)べき事にあらずと思ひて、尖矢(とがりや)を弓につがひて、聖の拝み入りたる上よりさし越して、弓を強く引きて、ひやうと射たりければ、御胸の程に当(あた)るやうにて、火を打ち消(け)つごとくにて、光も失(う)せぬ。谷へとどろめきて、逃げ行く音す。聖、「これはいかにし給へるぞ」といひて、泣き惑ふ限(かぎり)なし。男申しけるは、「聖の目にこそ見え給はめ、我が罪深き者の目に見え給へば、試み奉らんと思ひて、射つるなり。実(まこと)の仏ならば、よも矢は立ち給はじ。されば怪(あや)しき物なり」といひけり。夜明けて、血をとめて行きて見ければ、一町ばかり行きて、谷の底に大(おほき)なる狸、胸より尖矢(とがりや)を射通されて、死して伏せりけり。 聖なれど、無智なれば、かやうに化(ばか)されけるなり。猟師なれども、慮(おもんばかり)ありければ、狸を射害(いころ)し、その化(ばけ)をあらはしけるなり。 一〇五 千手院僧正仙人[巻第八・七] むかし、山の[西塔]千手院に住給ける静観僧正と申ける座主(ざす)、夜更て、尊勝陀羅尼(そんしようだらに)を、夜もすがらみて明して、年比になり給ぬ。きく人もいみじく貴(たうと)みけり。陽勝仙人と申仙人、空を飛て、この坊のうへをすぎけるが、此陀羅尼のこゑをきゝて、おりて、高欄のほこ木のうへにゐ給ぬ。僧正、あやしと思ひて、問給ひければ、蚊のこゑして、「陽勝仙人にて候なり。空をすぎ候つるが、尊勝陀羅尼の聲を承りて参り侍るなり」とのたまひければ、戸を明て請ぜられければ、飛び入て、前にゐ給ぬ。年比の物語して、「今はまかりなん」とて立ちけるが、人げにおされて、え立たざりければ、「香爐(かうろ)の煙をちかくよせ給へ」とのたまひければ、僧正、香爐をちかくさしよせ給ける。その煙にのりて、空へのぼりにけり。此僧正は、年をへて、香爐をさしあげて、煙をたててぞおはしける。此仙人は、もとつかひ給ける僧の、おこなひして失せにけるを、年比あやしとおぼしけるに、かくして参りたりければ、あはれあはれとおぼそてぞ、つねに泣き給ける。 宇治拾遺物語 巻第九 一〇六 滝口道則(たきぐちみちのり)、習∨術事(じゅつをならふこと)[巻第九・一] 昔(むかし)、陽成院位にておはしましける時、滝口道則、宣旨を承て陸奥(みちのく)へ下(くだ)る間(あひだ)、信濃国ヒクニといふ所に宿(やど)りぬ。群の司に宿(やど)をとれり。まうけしてもてなして後、あるじに郡司は郎等(らうどう)引具(ぐ)して出ぬ。 いも寝られざりければ、やはらに起(お)きてたゞずみ歩(あり)くに、見(み)れば、屏風を立(た)てまはして、畳など清(きよ)げに敷(し)き、火ともして、よろづ目安(めやす)きやうにしつらひたり。空(そら)だき物するやらんと、かうばしき香しけり。いよいよ心にくゝおぼえて、よくのぞきて見れば、年廿七ばかりなる女一人ありけり。見めことがら、姿(すがた)有様(さま)、ことにいみじかりけるが、たゞ一人臥(ひとりふ)したり。火は几帳の外にともしてあれば、明(あか)くあり。さて、この道則思ふやう、「よによにねんごろにもてなして、心ざし有りつる郡司の妻を、うしろめたなき心つかはん事、いとを(ほ)しけれど、この人の有様(ありさま)を見(み)るにたゞあらむことかなはじ」と思ひて、寄りてかたわらに臥(ふす)に、女、けにくゝも驚(おどろ)かず、口おほひをして、笑(わら)ひ臥(ふ)したり。いはんかたなくうれしく覚ければ、長月十日此なれば衣もあまた着(き)ず、一かさねばかり男も女も着(き)たり。かうばしき事限(かぎり)なし。我きぬをばぬぎて女の懐(ふところ)に入に、しばし引ふたぐやうにしけれども、あながちにけくからず、懐(ふところ)に入ぬ。男の前のかゆきやうなりければ、さぐりてみるに物なし。おどろきあやしみてよくよくさぐれども、頤(おとがひ)のひげをさぐるやうにて、すべてあとかたなし。大きに驚(おどろ)きて、此女のめでたげなるも忘(わす)られぬ。この男の、さぐりてあやしみくるめくに、女すこしほゝ笑(え)みて有ければ、いよいよ心得ずおぼえて、やはら起きて、わが寝所(ねどころ)へ帰てさぐるに、さらになし。あさましく成て、近(ちか)くつかふ郎等をよびよせて、かゝるとはいはで、「ここにめでたき女あり。我も行(いき)たりつる也」といへば、悦て、此男いぬれば、しばしありて、よによにあさましげにて此男とこ出(い)で来(き)たれば、是もさるなめりと思て、又異(こと)男をすゝめてやりつ。是も又しばしありて出来(き)ぬ。空をあふぎて、よに心得ぬけしきにて帰てけり。かくのごとく七八人まで郎等をやるに、同(おな)じ気色(けしき)に見ゆ。 かくするほどに、夜も明ぬれば、道則思ふやう、「宵(よい)にあるじのいみじうもてなしつるを、うれしと思つれども、かく心得(え)ず浅ましき事のあれば、とく出(い)でん」と思て、いまだ明果(あけは)てざるに急(いそぎ)て出(いづ)れば、七八町行程に、うしろより呼ばひて馬を馳て来(く)る物(もの)あり。はしりつきて、白き紙に包みたる物をさしあげて持(も)て来(く)。馬を引(ひか)へて待(ま)てば、ありつる宿(やど)にかよひしつる郎等也。「これは何ぞ」と問(と)へば、「此郡司の参(まい)らせよと候物にて候。かゝる物をば、いかで捨てておはし候ぞ。かたのごとく御まうけして候へども、御いそぎに、これをさへ落(おと)させ給てけり。されば、拾(ひろ)い(ひ)集(あつ)めて参らせ候」といへば、「いで、何ぞ」とて取て見(み)れば、松茸を包(つゝ)み集(あつ)めたるやうにてある物九(ここのつ)あり。あさましくおぼえて、八人の朗等共もあやしみをなして見(み)るに、まことに九の物あり。一度にさつと失(う)せぬ。さて、使はやがて馬を馳て帰(かへり)ぬ。そのお(を)り、我身よりはじめて郎等共、皆「ありあり」といひけり。 さて奥州にて金うけ取て帰(かへる)時、又、信濃の有し郡司のもとへ行きて宿りぬ。さて郡司に金、馬、鷲羽(わしのは)などおほくとらす。郡司、世に世に悦て、「これは、いかにおぼして、かくはし給ぞ」といひければ、近くに寄りていふ様、「かたはらいたき申し事なれ共(ども)、はじめこれに参(まい)りて候し時、あやしき事の候しはいかなることにか」といふに、郡司、物をおほく得(え)てありければ、さりがたく思て、有(あ)りのまゝにいふ。「それは、若(わか)く候し時、この国の奥(おく)の郡に候し郡司の、年寄(よ)りて候しが、妻の若(わか)く候しに、忍(しの)びて罷(まか)り寄(よ)りて候しかば、かくのごとく失(うせ)てありしに、あやしく思て、その郡司にねん此(ごろ)に心ざしをつくして習て候也。もし習(なら)はんとおぼしめさば、此度(たび)は大(おほ)やけの御使なり。速(すみやか)にのぼり給て、又、わざと下(くだり)給て習(なら)ひ給へ」といひければ、その契をなして、のぼりて金など参らせて、又暇(いとま)を申て下(くだ)りぬ。 郡司に、さるべき物など持(も)ちて下て、とらすれば、郡司、大に悦て、「心の及ばん限(かぎり)は教(をし)へん」と思て、「これは、おぼろけの心にて習ふ事にては候はず。七日、水を浴(あ)み、精進をして習(ならふ)事也」といふ。そのまゝに、清まはりて、その日になりて、ただ二人(ふたり)つれて、深(ふか)き山に入ぬ。大なる川の流(なが)るゝほとりに行て、様様の事共を、えもいはず罪深(ふか)き誓言どもたてさせけり。さて、かの郡司は水上(みなかみ)へ入ぬ。その川上より流(なが)れ来(こ)ん物を、いかにもいかにも、鬼にてもあれ、何にてもあれ、抱(いだ)け」といひて行ぬ。 しばしばかり有りて、水上の方より、雨降(ふ)り風吹きて、暗(くら)くなり、水まさる。しばしありて、川より頭(かしら)一いだきばかりなる大蛇の、目はかなまりを入たるやうにて、背中(せなか)は青く、紺青(こんじゃう)をぬりたるやうに、首(くび)の下(した)は紅のやうにて見ゆるに、「先(まづ)来ん物を抱(いだ)け」といひつれども、せんかたなくおそろしくて、草の中に臥しぬ。しばし有りて、郡司来(きた)りて、「いかに。取給つや」といひければ、「かうかうおぼえつれば、取(と)らぬ也」といひければ、「よく口惜事。さては、此事はえ習給はじ」といひて、「今一度心みん」といひて、又入ぬ。 しばし斗(ばかり)有りて、やをばかりなる猪のしゝの出(い)で来(き)て、石をはらはらとくだけば、火きらきらと出づ。毛をいらゝかして走てかゝる。せんかたなくおそろしけれども、「是をさへ」と思きりて走(はし)り寄(よ)りて抱(いだ)きて見(み)れば、朽木の三尺ばかりあるを抱(いだ)きたり。ねたく、くやしき事限(かぎり)なし。「はじめのも、かゝる物にてこそありけれ。などか抱(いだ)かざりけん」と思(おも)ふ程に、郡司来りぬ。「いかに」と問へば、「かうかう」といひければ、「前の物うしなひ給事は、え習(なら)ひ給はずなりぬさて、異(こと)事のはかなき物ををものになす事は、習(なら)はれぬめり。されば、それを教(をし)へん」とて教(をし)へられて帰上りぬ。口惜(くちをしき)事哉限なし。 大内に参りて、滝口どものはきたる沓どもを、あらがひをして皆犬子「ゑのこ」のなして走(はし)らせ、古き藁沓を三尺斗(ばかり)なる鯉になして、胎盤の上(うへ)にお(を)どらす事などをしけり。 御門、此由を聞(き)こしめして、黒戸のかたに召(め)して、習(なら)はせ給けり。御几帳の上(うへ)より賀茂祭など渡(わた)し給けり。 一○七 宝志和尚影(ほうしくわえしやうえいの)事[巻九・二]  昔、もろこしに宝志和尚といふ聖(ひじり)有(あり)。いみじく尊(たうと)くおはしければ、御門(みかど)「かの聖のすがたを、影(えい)に書(か)きとらん」とて、絵師三人をつかはして、「もし一人しては、書(かき)たがゆる事もあり」とて、三人して、面々にうつすべきよし、仰(おほせ)ふくめられて、つかはさせ給(たまふ)に、三人の絵師(ゑし)、聖(ひじり)のもとへ参りて、かく宣旨(せんじ)を蒙 (かうぶり)てまうでたるよし申(まうし)ければ、「しばし」といひて、法服の装束(さうぞく)して出(いで)あひ給へるを、三人の絵師、おのおの書(か)くべき絹をひろげて、三人ならびて筆をくださんとするに、聖(ひじり)「しばらく。我(わが)まことの影あり。それを見(み)て書(か)きうつすべし」とありければ、絵師、左右(さう)なく書か(かゝ)ずして、聖(ひじり)の御影をみれば、大ゆびのつめにて、額(ひたい)の皮をさしきりて、皮(かは)を左右へ引きのけてあるより、金色(こんじき)の菩薩の、かほをさし出(いで)たり。一人の絵師(ゑし)は、十一面(めん)観音とみる。一人の絵師は、聖(しやう)観音とおがみ奉りける。お(を)のおの見(み)るまゝにうつし奉りて、持(もち)て参りたりければ、御門おどろき給(たまひ)て、別(べち)の使を給(たまひ)て、問(と)はせ給ふに、かい消(け)つやうにして失(う)せ給ひぬ。それよりぞ「たゞ人にてはおはせざりけり」と申(まうし)あへりける。 一〇八 越前敦賀(ゑちぜんつるが)の女、観音(くわんおん)たすけ給ふ事[巻九・三] 越前の国に敦賀(つるが)といふ所にすみける人ありけり。とかくして、身ひとつばかり、わびしからで過(すぐ)しけり。女(むすめ)ひとりより外に、叉子もなかりければ、このむすめぞ、叉なき物に、かなしくしける。この女を、わがあらん折(おり)、たのもしく見置(みを)かんとて、男(おとこ)あはせけれど、男もたまらざりければ、これやこれやと、四五人まではあはせけれども、猶(なほ)たまらざりければ、しゐて、のちにはあはせざりけり。ゐたる家のうしろに、堂をたてて、「この女たすけ給へ」とて、観音を据ゑ(すへ)奉りける。供養(くやう)し奉(たてまつ)りなどして、いくばくも経(へ)ぬ程に、父うせにけり。それだに思ひなげくに、引(ひき)つゞくやうに、母もうせにければ、泣(な)きかなしめども、いふかひもなし。 しる所などもなくて、かまへて世をすぐしければ、やもめなる女ひとりあらむには、いかにしてか、はかばかしきことあらん。親(おや)の物のすこし有(あり)ける程は、つかはるゝ者、四五人ありけれども、物うせはてて(ゝ)ければ、つかはるゝ者(もの)、ひとりもなかりけり。物くふこと難(かた)くなりなどして、お(を)のずから求(もと)めいでたる折(おり)は、手づからいふばかりにして食(く)ひては、「我親(おや)の思(おもひ)しかひありて、たすけ給へ」と、観音にむかひ奉(たてまつり)て、なくなく申(まうし)ゐたる程に、夢にみるやう、このうしろの堂より、老(おい)たる僧の来て、「いみじういとほ(お)しければ、男あはせんと思(おもひ)て、よびにやりたれば、あすぞこゝに来(き)つかんずる。それがいはんにしたがひてあるべきなり」と、のたま(給)ふとみて、さめぬ。此仏の、たすけ給(たまふ)べきなめりと思ひて、水うちあみて、参りて、なくなく申(まうし)て、夢をたのみて、その人を待(まつ)とて、うち掃(は)きなどしてゐたり。家は大きにつくりたりければ、親うせて後は、すにつき、あるべかしき事なけれど、屋(や)ばかりは大きなりたければ、かたすみにぞゐたりける。敷(し)くべきむしろだになかりけり。 かゝるほどに、その日の夕がたになりて、馬の足音(あしおとゞ)どもして、あまた入(いり)くるに、人どものぞきなどするをみれば、旅人のやどかるなりけり。「すみやかに居よ」といへば、みな入(いり)きて「こゝよ(に)かりけり。家ひろし。いかにぞやなど、物云(いふ)べきあるじもなくて、我(わが)まゝにもやどりいるかな」といひあたり。 のぞきてみれば、あるじは三十ばかりなる男(おとこ)の、いときよげなる也。郎等二三十人ばかりある、下種(げす)などとり具(ぐ)して、七八十人ばかりあらんとぞみゆる。たゞゐにゐるに、むしろ、たゝみをとらせばやと思へども、はずかしと思(おもひ)てゐたるに、皮子むしろを乞(こ)ひて、皮に重(かさね)て敷(布)きて、幕引(ひき)まはしてゐぬ。ぞゞめくほどに、日(目)もくれぬれども、物くふとも見(み)えぬは、物のなきにやあらんとぞ見ゆる。物あらばとらせてましと思ひゐたるほどに、夜うちふけて、この旅人のけはひにて、「このおはします人、寄(よ)らせ給へ。物申さん」といへば、「なにごとにか侍らん」とて、いざり寄(よ)りたるを、なにのさはりもなければ、ふと入(い)りきてひかへつ。「こはいかに」といへど、いはすべきもなきにあはせて、夢にみし事もありしかば、とかく思ひいふべきにもあらず。 この男は、美濃国に猛将(まうしゃう)ありけり、それがひとり子にて、その親うせにければ、よろずの物うけつたへて、親(おや)にもおとらぬ者(物)にてありけるが、思(おもひ)ける妻にお(を)くれて、やもめにてありけるを、これかれ、聟にとらんといふもの、あまたりけれそも、ありし妻に似(ゝ)たらん人をと思(おもひ)て、やもめにて過(すぐ)しけるが、若狭(わかさ)に沙汰(さた)すべきことありて行(ゆく)なりけり。ひるやどりいる程に、かたすみにゐたる所も、なにのかくれもなかりければ、いかなる者(ものゝ)のゐたるぞと、のぞきて見(み)るに、たゞありし妻のありけるとおぼえければ、目もくれ、心もさわ(は)ぎて、「いつしか、疾(と)く暮(くれ)よかし。近からんけしきも試(心)みん」とて、入きたるなりけり。 ものうついひたるよりはじめ、露(つゆ)たがふ所なかりければ、「あさましく、かゝりけることもありけり」とて、「若狭(わかさ)へと思ひたゝざらましかば、この人を見(み)ましやは」と、うれしき旅にぞありける。若狭(わかさ)にも十日ばかりあるべかりけれども(共)、この人のうしろめたさに、「あけば行(ゆき)て、又の日帰(かへる)べきぞ」と、返々契(かへすがへすちぎりを)おきて、寒(さむ)げなりければ、衣もきせお(を)き、郎等四五人ばかり、それが従者などとり具(ぐ)して、廿人ばかりの人あるに、物くはすべきやうもなく、馬に草くはすべきやうもなかりければ、いかにせましと、思(おもひ)なげきける程に、親(おや)のみづし所に使(つか)ひける女(をんな)の、むすめのありとばかりは聞(きゝ)きけれども、来通(きかよ)ふこともなくて、よき男(をとこ)して、事かなひてありと斗(ばかり)は聞(きゝ)きわたりけるが、思ひもかけぬに来(きたり)けるが、たれにかあらんと思(おもひ)て、「いかなる人のきたるぞ」と問(ゝ)ひければ、「あな心うや。御覧じ知(し)れぬは、我(わが)身のとがにこそ候(さぶら)へ。お(を)のれは故上(うへ)のおはしましし折(ゝおり)、みづし所仕候(つかまつりさぶらひ)しものの(ゝ)むすめに候。年此(としごろ)、いかで参(まい)らんなど思(おもひ)てすぎ候(さぶらふ)を、けふは、萬をすてて(ゝ)参り候(さぶらひ)つるなり。かくたよりなくおはしますとならば、あやしくとも、ゐて候(さぶらふ)所にもおはしまし通(かよ)ひて、四五日づゝもおはしませかし。心ざしは思(おもい)たてまつれども(共)、よそながらは、明(あけ)くれとぶらひたてまつらんことも、お(を)ろかなるやうに、思(おも)はれ奉りぬべければ」など、こまごまとかたらひて、「この候(さぶら)ふ人々はいかなる人ぞ」と問(と)へば、「こゝにやどりたる人の、若狭へとていぬるが、あす、こゝへ帰(かへ)りつかんずれば、その程ひとて、このあるものどもをとゞめ置(を)きて、いにるに、これにも食(く)ふべき物は具(ぐ)せざりけり。こゝにも、食(く)はすべき物もなきに、日は高(たか)くなれば、いとほ(お)しと思へども(共)、すべきやうもなくてゐたるなり」といへば、「しりあつかひ奉るべき人にやおはしますらん」といへば、「わざと、さは思ねど、こゝに宿(やど)りたらん人の、物くはでゐたらんを、見過(みす)ぐさんも、うたてあるべう、又思ひはなつべきやうもなき人にてあるなり」といへば、「さていと易(やす)きことなり。けふしも、かしこく参り候(さぶらひ)にけり。さらば、まかりて、さるべきさまにて参(まい)らん」とて、たちていぬ。 いとほ(を)しかりつる事を、思ひかけぬ人のきて、たのもしげにいひていぬるは、いとかくたゞ観音の導びかせ給(たまふ)なめりと思(おもひ)て、いとゞ手をすりて念じ奉る程に、則(すなはち)物ども持(も)たせてきたりければ、食(くひ)物どもなどおほかり。馬の草まで、こしらへ持(も)ちてきたり。いふかぎりなく、うれしとおぼゆ。此(この)人々、もて饗應(きやうよう)し、物くはせ、酒のませはてて(ゝ)、入(いり)きたれば、「こはいかに。我親(おや)のいき返(かへり)おはしたるなめり。とにかくにあさましくて、すべきかたなく、いとほ(を)しかりつる恥をかくし給へること」と(ゝ)いひて、悦泣(よろこびな)きければ、女も、うち泣(な)きていふやう、「年此(としごろ)も、いかでかおはしますらんと思(おもひ)給へながら、世中(よのなか)すぐし候(さぶら)ふ人は、心とたがふやうにて過(す)ぎ候(さぶらひ)つるを、けふ、かゝる折(おり)に参りあひて、いかでか、お(を)ろかには思ひ参(まい)らせん。若狭へこえ給ひにけん人は、いつか帰(かへ)りつき給はんぞ。御とも人はいくらばかり候」と問(と)へば、「いさ、まことにあらん。あすの夕さり、こゝに来(く)べかんある。ともには、このある物ども具(ぐ)して、七八十人ばかりぞありし」といへば、「さては、その御まうけこそ、つかまつるべかんなれ」といへば、「これだに、思ひかけずうれしきに、さきまでは、いかゞあらん」といふ。「いかなることなりとも、今よりは、いかでか、つかまつらであらんずる」とて、たのもしくいひ置(を)きていぬ。この人々の、ゆふさり、つとめての食(くひ)物まで沙汰(さた)し置(を)きたり。覚(おぼ)えなくあさましきまゝには、たゞ観音を念じ奉る程に、その日も暮(くれ)ぬ。 又の日になりて、このあるものども「けふは殿おはしまさんずらんかし」と待(ま)ちたるに、申(さる)の時ばかりにぞつきたる。つきたるや遅(おそ)きと、此(この)女、物ども多(おほ)くもたせてきて、申(まうし)のゝしれば、物たのもし。此(この)男、いつしか入(いり)きて、おぼつかなかりつる事などいひ臥(ふ)したり。暁(あかつき)はやがて具(ぐ)して行(ゆく)べきよしなどいふ。いかなるべきことにかなど思へども、仏の「たゞまかせられてあれ」と、夢にみえさせ給(たまひ)しをたのみて、ともかくも、いふにしたがひてあり。この女、暁たゝんまうけなどもしにやりて、いそぎくるめくがいとほ(を)しければ、なにがなとらせんと思へども、とらすべき物なし。お(を)のずから入事(いること)もやあるとて、紅(くれなゐ)なる生絹(すゞし)の袴ぞ一(ひとつ)あるを、これをとらせてんと思ひて、我(われ)は男のぬぎたる生絹(すゞし)の袴(はかま)をきて、この女をよびよせて、「年比(としごろ)は、さる人あらんとだに知(し)らざりつるに、思もかけぬ折(おり)しも来(き)あひて、恥がましかりぬべかりつる事を、かくしつることの、この世ならずうれしきも、なににつけてか知(し)らせんと思へば、心ざしばかりに是(これ)を」とて、とらすれば、「あな心うや。あやまりて人の見(み)奉らせ給(たまふ)に、御さまなども心うく侍れば、奉らんとこそ思ひ給ふるに、こはなにしにか給はらん」とて、とらぬを、「この年比(としごろ)も、さそふ水あらばと、思ひわたりつるに、思もかけず、「具(ぐ)していなん」と、この人のいへば、あすは知(し)らねども、したがひなんずれば、かたみともし給へ」とて、猶、とらすれば、「御心ざしの程は、返々(かへすがへす)もおろかには思給(おもひたまふ)まじけれども、かたみなどおほせらるゝがかたじけなければ」とて、とりなんとするをも、程なき所なれば、この男、聞き(きゝ)ふしたり。 鳥鳴(なき)ぬれば、いそぎたちて、此(この)女のし置(を)きたるもの食(く)ひなどして、馬にくら置(を)き、引(ひき)いだして、のせんとする程に、「人の命しらねば、又おがみ奉らぬやうもぞあう」とて、旅装束しながら、手あらひて、うしろの堂に参りて、観音をおがみ奉(たてまつ)らんとて、み奉るに、観音の御肩(かた)に、あかき物かゝりたり。あやしと思ひて見れば、この女にとらせし袴なりけり。こはいかに、この女と思ひつるは、さは、この観音の、せさせ給(たまふ)なりけりと思ふに、涙の、雨しづくとふりて、しのぶとすれど、ふしまろび泣(な)くけしきを、男聞き(きゝ)つけて、あやしと思ひて、走(はしり)きて、「なに事ぞ」と問(と)ふに、泣(な)くさま、おぼろけならず。「いかなることのあるぞ」とて、みまはすに、観音の御肩に赤き袴(はかま)かゝりたり。これをみるに、「いかなることにかあらん」とて、ありさまを問(と)へば、此(この)女〔の〕、思(おもひ)もかけず来(き)て、しつるありさまを、こまかに語(かたり)て、「それにとらすと思(おもひ)つる袴(はかま)の、此観音(くはんをん)の御肩(かた)にかゝりたるぞ」といほいもやらず、こゑをたてて泣(ゝな)けば、男(をのこ)も、空寝(そらね)して聞き(きゝ)しに、女にとらせつる袴(はかま)にこそあんなれと思ふがかなしくて、おなじやうに泣(な)く。郎等共(ども)も、物の心しりたるは、手をすり泣(な)きけり。かくて、たて納(おさ)め奉(たてまつり)て、美濃へこえにけり。 其後(そののち)、おもひかはして、又よこめすることなくてすみければ、子ども生(う)みつゞけなどして、この敦賀(つるが)にも、つねに来通(きかよ)ひて、観音に返々(かへすがへす)つかうまつりけり。ありし女は、「さる者(物)やある」とて、近(ちか)く遠(とを)く尋(たづね)させけれども、さらにさる女なかりけり。それより後(のち)、又お(を)とづるゝこともなかりければ、ひとへに、この観音のせさせ給へるなりけり。この男女、たがひに七八十に成(なる)まで栄え(さかへ)て、男子(をのこゞ)、女子生(ごう)みなどして、死の別(わか)れにぞ別(わか)れにける。 一〇九 くうすけが佛供養(ほとけくやう)の事[巻九・四] くうすけといひて、兵(つはもの)だつる法師ありき。したしかりし僧のもとにぞありし。その法師の「佛をつくり、供養(くやう)し奉らばや」と、いひわたりしかば、うち聞(き)く人、佛師に物とらせて、つくり奉らんずるにこそと思(おもひ)て佛師を家によびたれば、「三尺の佛、造(つくり)奉らんとするなり。奉らんずる物どもはこれなり」とて、とり出(い)でて(ゝ)見せければ、佛師、よきことと(ゝ)思ひて、取(とり)て去(い)なんとするに、いふやう、「佛師に物奉りて、遅(をそ)く作(つくり)奉(たてまつ)れば、わが身も、腹だゝしく思ふことも出(い)でて(ゝ)、せめいはれ給(たまふ)佛師も、むつかしうなれば、功徳つくるもかひなくおどゆるに、このものどもは、いとよき物どもなり。封(ふう)つけてこゝに置(を)き給(たまひ)て、やがて佛をもこゝにて造(つく)り給へ。つくりいだし奉り給へらん日、皆ながら、とりてあはすべきなり」といひければ、佛師、うるさきことかなとは思(おもひ)けれど、物おほくとまつらまかしかば、そこにてこそは物は参(まい)らましか。こゝにいまして、物くはんとやはたのたまはまし」とて、物も食(く)はせざりければ、「さる事なり」とて、我(わが)家にて物うち食(く)ひては、つとめてきて、一日つくり奉りて、夜さりは帰(かへり)つゝ、日比(ひごろ)へて、つくり奉りて、「此(この)得(え)んずる物をつのりて、人に物をかりて、漆(うるし)ぬりよりは漆のあたひの程は、先得(まづえ)て、薄もきせ、漆(うるし)ぬりにもとらせん」といひけれども、「などかくのたまふぞ。(給)はじめ、みな申(もうし)したゝめたることにはあらずや。物はむれらかに得(え)たるこそよけれ。こまごまに得(え)んとのたまふ(給)、わろき事なり」といひて、とらせねば、人に物をばかりたりけり。 かくて、つくりはて奉(たてまつ)りて、佛の御眼など入(いれ)奉りて、「もの得(え)てかへらん」といひければ、いかにせましと思(おもひ)まはして、小女子どもの二人ありけるをば、「けふだに、此(この)佛師に物して参(まい)らせん。なにもとりて來(こ)」とて、いだしやりつ。我(われ)も又、ものとりて來(こ)んずるやうにて、太刀ひきはきて、出(いで)にけり。たゞ、妻ひとり佛師にむかはせて置(を)きたりけり。佛師、佛の御眼入(いれ)はてて(ゝ)、男の僧帰りきたらば、ものよく食(くひ)て、封つきて置(おき)たりしものども見(み)て、家にもて行(ゆき)て、その物は、かのことにつかはん、かの物はそのことにつかはんと、仕度(したく)しおもひける程に、法師、こそこそとして、入(いり)くるまゝに、目をいからかして、「人の妻まくものあり。やうやうをうをう」といひて、太刀をぬきて、佛師をきちんとて、走(はしり)かゝりければ、佛師、かしらうちわられぬと思(おもひ)て、たち走り逃(にげ)けるを、追ひ(をい)つきて、きりはづしきりはづしつゝ、追ひ逃(をいにが)していうやうは、「ねたの妻やまきける。をの、のちにあはざらんやは」とて、ねめかけて帰(かへり)にければ、佛師、逃(にげ)のきて、いきつきたちて、思ふやう、かしこく頭をうちわられずなりぬる、「後あはざらんやは」とねめずばこそ、腹の立(たつ)ほど、かくしつるかとも思はめ、見(み)え合(あ)はば(ゞ)、又「頭わらん」ともこそいへ、千萬の物、命にますものなしと思(おもひ)て、物の具(ぐ)をだにとらず、深(ふか)くかくれにけり。薄(はく)漆(うるし)の料(れう)に物かりたりし人、つかひをつけてせめければ、佛師、とかくして返(かへ)しけり。 かくて、くうすけ、「かしこき佛を造り奉りたる、いかで供養し奉らん」などいひてければ、このことを聞(きき)たる人々、わらふものあり、にくむも有(あり)けるに、「よき日取(とり)て、佛供養し奉らん」とて、主にもこひ、しりたる人にも物こひとりて、講師に前、人におつらへさせなどして、其(その)日になりて、講師よびければ、きにけり。 おりて入(いる)に、此(この)法師、いでむかいて、出(で)ゐをはきてゐたり。「こは、いかにし給(たまふ)ことぞ。」といへば、「いかでかく仕らではさぶらん」とて、名簿(みやうぼ)を書(かき)てとらせたりければ、講師は、「思ひかけぬことなり」といへば、「けふより後はつかうまつらんずれば、参らせ候(さぶらふ)なり」とて、よき馬を引出(ひきいだ)して、「異物(こともの)は候はねば、この馬を、御布施(おんふせ)には奉り候はんずるなり」といふ。また、にび色なる絹の、いれば、講師(かうじ)、笑(ゑ) みまげて、よしと思(おもひ)たり。前(まへ)の物まうけて据ゑ(すへ)たり。講師くはむとするに、云(いふ)やう、「まづ佛を供養して後、物をめすべきなり」といひければ、「さる事なり」とて、高座にのぼりぬ。布施(ふせ)よき物どもなりとて、講師(かうじ)、心に入(いれ)てしければ、きく人も、尊(たうと)がり、此(この)法師も、はらはらと泣(な)きけり。講(かう)はてて(ゝ)、鐘打(かねうち)て、高座よりおりて、物きはんとするに、法師よりきて、いふやう、手をすりて、「いみじく候(さぶらひ)つる物哉(ものかな)けふよりは、ながくたなみ参(まい)らせんずる也。つかうまつり人となりければ、御まかりに候(さぶらひ)なん」とて、はしをだにたてさせずして、とりてもちて去(い)ぬ。これをだにあやしと思ふほどに、馬(むま)ひきいだして、「この馬、はしのりに給はり候はん」とて、ひき返し去(い)ぬ。衣(きぬ)をとりて來(く)れば、さりとも、これは得(え)させんずらむと思ふほどに、「冬そぶつに給はり候はん」とて、とりて、「さらば帰らせ給へ」といひければ、夢にとびしたるらん心ちして、いでて去(ゝい)にけり。 異(こと)所によぶありけれど、これはよき馬など布施(ふせ)にとらんせんとすと、かねて聞き(きゝ)ければ、人のよぶ所にはいかずして、こゝに來(き)けるとぞ聞き(きゝ)し。かゝりともすこしの功徳は得(え)てんや。いかゞあるべからん。 一一〇 恒正(つねまさ)が郎等佛供養(ほとけくやう)の事[巻九・五]  昔、ひやうどうたいふつねまさといふ者(物)ありき。それは、筑前国(ちくぜんのくに)やまがの庄(しやう)といひし所にすみし。又そこにあからさまにゐたる人ありけり。つねまさが郎等に、まさゆきとてありしをのこの、佛造(つく)り奉りて、供養(くやう)し奉らんとすと聞き(きゝ)渡(わたり)て、つねまさがゐたるかたに、物くひ、酒(さけ)のみのゝしるを、「こはなにごとするぞ」といはすれば、「まさ行といふものの(ゝ)、佛供養(くやう)し奉らんとて、主(しう)のもとにかうつかうまつたるを、かたへの郎等どもの、たべのゝしる也。けふ、饗(きやう)百膳(ぜん)ばかりぞつかうまつる。あす、そこの御前の御料(れう)には、つねまさ、やがて具(ぐ)して參るべく候(さぶら)ふなる」といへば、「佛供養し奉る人は、かならず、かくやはする」「田舎(ゐ中)のものは、佛供養し奉らんとて、かねて四五日より、かゝることどもをし奉るなり。きのふ一昨日(をととひ)は、お(を)にがわたくしに、里隣、わたくしのものども、よびあつめて候(さぶら)ひつる」といへば、「をかしかつる事かな」といひて、「あすを待(まつ)べきなめり」といひてやみぬ。 あけぬれば、いつしかと待(ま)ちゐたる程に、つねまさ出(い)できにたり。さなめりと思ふ程に、「いづら。これ參(まい)らせよ」といふ。さればよと思ふに、さることあしくもあらぬ饗一二膳ばかり据ゑ(すへ)つ。雜色(ざふしき)、女どもの料(れう)にいたるまで、かずおほく持(も)てきたり。講師の御心みとて、こだいなる物据ゑ(すへ)たり。講師には、此(この)旅(たび)なる人の具(ぐ)したる僧をせんとしたるなりけり。 かくて、物くひ、酒のみなどする程に、この講師に請(しやう)ぜられんずる僧のいふやうは、「あすの講師とはうけたま(給)はれども、その佛を供養(くやう)せんずるぞとこそ、得(え)うけたまはらぬ。なに佛を供養(くやう)し奉るにかあらん。佛はあまたおはしますなり。うけたまはりて、説經をもせばや」といへば、つねまさ聞(きき)て、さることなりとて、「まさゆきや候」といへば、此(この)佛供養(くやう)し奉らんとするをのこなるべし、たけたかく、おせぐみたる者、赤鬚(あかひげ)にて、年五十斗(ばかり)なる太刀(たち)はき、股貫(もゝぬき)はきて、いできたり。 「こなたへ參(まい)れ」といへば、「いかでか知(し)り奉らんずる」といふ。「とはいかに。たが知るべきぞ。もし異(こと)人の供養したてまつるを、たゞ供養(くやう)のことのかぎりをするか」と問(ゝ)へば、「さも候はず。まさゆき丸が供養し奉るなり」といふ。「さては、いかでか、なに佛とは知(し)りたてまつらぬぞ」といへば、佛の御名を忘(わす)れたるならんと思ひて、「その佛師はいづくにかある」と問(ゝ)へば、「ゑいめいぢに候(さぶらふ)」といへば、「さては近(ちか)かんなり。よべ」といへば、この男かへり入(いり)て、よびきたり。ひらずらなる法師の、ふとりたるが、六十ばかりなるにてあり。 物に心得(え)たるらんかしとみえずいで來(たれはき)て、まさゆきにならびてゐたるに、「この僧は佛師か」と問(ゝ)へば、「さに候」といふ。「まさゆきが佛やつくりたる」と問(ゝ)へば、「作(つくり)奉りたり」といふ。「幾頭作(いくかしらつくり)奉りたるぞ」と問(ゝ)へば、「えたが知(し)らんぞ」といへば、「佛師はいかで知(し)り候はん。佛師の知(し)らずは、たが知(し)らんぞ」といへば、「講師の御かたこそ知(し)らせ給はめ」といふ。「こはいかに」とて、あつまりて笑ひのゝしれば、佛師は、はらだちて、「物のやうだいも知(し)らせ給はざりけり」とて、たちぬ。 「こはいかなる事ぞ」とてたずぬれば、はやうたゞ佛つくり奉れといへば、たゞまろがしらにて、齋(さい)の神の冠(かぶり)もなきやうなる物を五頭(かしら)きざみたてて(ゝ)、供養し奉らん講師して、その佛、かの佛と名をつけ奉るなりけり。それを問(と)ひきゝて、をかしかりし中にも、おなじ功徳にもなればと聞き(きゝ)し。あやしのものどもこそ、かく希有(けう)の事どもをし侍(はべり)ける也。 一一一 歌よみて罪をゆるさるゝ事[巻九・六]  今は昔、大隅守(おほすみのかみ)なる人、国の政をしたゝめおこなひ給(たまふ)あひだ、郡司のしどけなかりければ、「召にやりて、いましめん」といひて、先々の様にしどけなきこと有(あり)けるには、罪にまかせて、重く軽くいましむることありければ、一度にあらず、たびたび、しどけなきことあれば、重くいましめんとて、召すなりけり。「ここに召(めし)て、率て参り足たり」と、人の申(まうし)ければ、さきざきするやうに、し臥せて、しりかしらにのぼりゐたる人、しもとをまうけて、打(うつ)べき人まうけて、さきに、人ふたりひきはりて、出(いで)きたるを見れば、頭は黒髪もまじらず、いとしろく、年老(おい)たり。  みるに、打(ちやう)ぜんこといとほしくおぼえければ、何事につけてか、これをゆるさんと思ふに、事つくべきことなし。あやまちどもを、片はしより問ふに、たゞ老を高家にて、いらへをる。いかにして、これをゆるさんと思(おもひ)て、「おのれはいみじき盗人かな。歌よみてんや」といへば、「はかばかしからず候(さぶらへ)ども、よみ候(さぶらひ)なん」と申(まうし)ければ、「さらばつかまつれ」といはれて、ほどもなく、わなゝ聲にて、うちいだす。  としを経てかしらの雪はつもれどもしもとみるにぞ身はひえにけるといひければ、いみじうあはれがりて、感じてゆるしけり。   人はいかにもなさけはあるべし。 一一二 大安寺(だいあんじの)別當女(のむすめ)に嫁(か)する男、夢見る事[巻九・七]  今は昔、奈良の大安寺の別當なりける僧の女(むすめ)のもとに、蔵人(くらうど)なりける人、忍びてかよふほどに、せめて思はしかりければ、時々は、書もとまりけり。ある時、ひるねしたりける夢に、俄(にはか)に、この家の内に、上下の人、どよみて泣(な)きあひけるを、いかなる事やらんと、あやしければ、立出(たちいで)て見れば、しうとの、妻の尼公より始(はじめ)めて、ありとある人、みな大なる土器(かはらけ)をさゝげて泣(な)きけり。いかなれば、この土器をさゝげて泣くやらんと思ひて、よくよくみれば銅(あかゞね)の湯(ゆ)をを土器ごとにもれり。打はりて、鬼の飮ませんにだにも、のむべくもなき湯を、心と泣く泣くのむ也(なり)けり。からくして飮(のみはてつれば、又、乞ひそへて飮むものあり。下臈(らう)にいたるまでも、のまぬものなし。我(わが)かたはらにふしたる君を、女房、きてよぶ。おきて去ぬるを、おぼつかなさに、また見れば、この女も、大なる銀の土器(かはらけ)に、銅の湯を、一土器入れて、女房とらすれば、この女とりて、ほそく、らうたげなる聲をさしあげて、泣(な)く泣くのむ。目鼻より、けぶりくゆり出づ。あさましとみて立てる程に、又「まらうどに參(まい)らせよ」と云(いひ)て、土器を臺に据ゑ(すへ)て、女房もてきたり。我(われ)もかゝる物を飮(の)まんずるかと思ふに、あさましくて、まどふと思ふ程に、夢さめぬ。 おどろきて見(み)れば、女房くひ物をもて來(き)たり。しうとのかたにも、物くふ音(をと)して、のゝしる。寺の物をくふにこそあるらめ。それがかくは見(み)ゆるなりと、ゆゝしく、心うくおぼえて、女の思はしさも失(う)せぬ。さて心ちのあしきよしをいひて、物もくはずして出(い)でぬ。その後(ゝち)は、遂(つゐ)にかしこへゆかず成(なり)にけり。 一一三 博打聟入(ばくちむこいり)の事[巻九・八]  昔、博打(ばくち)の子の年わかきが、目鼻一所にとりよせたるやうにて、世の人にも似ぬありけり。ふたりの親(おや)、これいかにして世にあらせんずると思(おもひ)て有(あり)けるところに、長者の家にかしづく女(むすめ)のありけるに、顏(かほ)よからん聟(むこ)とらんと、母のもとめけるをつたへ聞き(きゝ)て、「天(あめ)の下(した)の顏(かほ)よしといふ、「むこのならん」とのたまふ」といひければ、長者、よろこびて、「聟にとらん」とて、日をとりて契(ちぎり)てけり。その夜になりて、裝束など人にかりて、月はあかゝりけれど、顏(かほ)みえぬやうにもてなして、博打(ばくち)ども集(あつま)りてありければ、人々しくおぼえて、心にくゝ思ふ。  さて、夜々いくに、書ゐるべきほどになりぬ。いかゞせんと思(おもひ)めぐらして、博打(ばくち)一人、長者の家の天井(てんじゃう)にのぼりて、ふたりねたる上(うへ)の天井を、ひしひしとふみならして、いかめしくおそろしげなる聲(こゑ)にて、「天(あめ)の下(した)の顏(かほ)よし」とよぶ。家のうちのものども、いかなることぞと聞き(きゝ)まどふ。聟(むこ)、いみじくおぢて、「おのれこそ、世の人「天の下(した)の顏(かほ)よし」といふと聞(き)け。いかなることならん」といふに、三度までよべば、いらへつ。「これはいかにいらへつるぞ」といへば、「心にもあらで、いらへつるなり」といふ。鬼のいふやう、「この家のむすめは、わが領(りやう)じて三年になりぬるを、汝、いかにおもひて、かくは通(かよ)ふぞ」といふ。「さる御事ともしらで、かよひ候(さぶらひ)つるなり。たゞ御たすけ候へ」といへば、鬼「いといとにくきことなり。一ことして歸らん。なんぢ、命(いのち)とかたちといづれか惜(お)しき」といふ。聟「いかゞいらふべき」といふに、しうと、しうとめ「なにぞの御かたちぞ。命だにおはせば。「たゞかたちを」とのたまへ」といへば、ヘへのごとくいふに、鬼「さらば吸(す)ふ吸(す)ふ」と云(いふ)時に、聟、顏(かほ)をかゝへて、「あらあら」といひて、ふしまろぶ。鬼はあよび歸(かへり)ぬ。  さて「顏はいかゞなりたるらん」とて、紙燭(しそく)をさして、人々見れば、目鼻ひとつ所にとり据ゑ(すへ)たるやうなり。聟(むこ)は泣(な)きて、「たゞ、命とこそ申(まうす)べかりけれ。かゝるかたちにて、世中にありてはなにかせん。かゝらざりつるさきに、顏(かほ)を一たび見(み)え奉らで、大かたは、かくおそろしき物に領(りよう)ぜられたりける所に參りける、あやまちなり」とかことければ、しうと、いとほしと思(おもひ)て、「此(この)かはりには、我(わが)もちたる寶を奉らん」といひて、めでたくかしづきければ、うれしくてぞありける。「所のあしきか」とて、別(べち)によき家を造りてすませければ、いみじくてぞ有(あり)ける。 宇治拾遺物語 巻第一〇 一一四 伴大納言(ばんのだいなごん)燒(く)應天門(おうてんもんを)事[巻十・一] 今は昔、水(み)の尾(を)の御門(みかど)の御時に、應天門やけぬ。人のつけたるになんありける。それを、伴善男といふ大納言、「これは信(まこと)の大臣(おとゞ)のしわざなり」と、おほやけに申し(まうし)ければ、その大臣(おとゞ)を罪(つみ)せんとせさせ給う(ふ)けるに、忠仁公、世の政は御おとうとの西三条の右大臣にゆづりて、白川にこもりゐる給へる時にて、此(この)事を聞き(きゝ)おどろき給(たまひ)て、御烏帽子直(ひた)垂(たれ)ながら、移(うつし)の馬に乘給(のりたまひて)乘(のり)ながら北の陣(ぢん)までおはして、御前に参り給(たまひ)て、「このこと、申(まうす)人の讒言にも侍らん。大事になさせ給(たまふ)事、いとことやうのことなり。かゝる事は、返々(かへすがへす)よくたゞすて、まこと、空事(そらごと)あらはして、おこなはせ給(たまふ)べきなり」奏(そう)し給(たまひ)ければ、まことにおぼしめして、たゞさせ給(たまふ)よし仰(おほせ)よ」とある宣旨うけたまはりてぞ、大臣(おとゞ)はかへり給(たまひ)ける。 左の大臣(おとゞ)は、すぐしたる事もなきに、かゝるよこざまの罪(つみ)にあたるを、おぼしなぎて、日の裝束して、、庭にあらごもをしきて、いでて、(ゝ)天道(てんたう)にうたへ申(まうし)給(たまひ)けるに、ゆるし給ふ御使に、頭中將(とうのちゅうじゃう)、馬にのりながら、はせまうでければ、いそぎ罪せらるゝ使ぞと心得て、ひと家なきのゝしるに、ゆるし給(たまふ)よしおほせかけて歸(かへり)ぬれば、又、よろこび泣(な)きおびたゞしかりけり。ゆるされ給(たまひ)にけれど、「おほやけにつかまつりては、よこざまの罪いで來(き)ぬべかりけり」といひて、ことに、もとのやうに、宮づかへもし給はざりけり。 此(この)ことは、過(すぎ)にし秋の比(ころ)右兵衛の舎人(とねり)なるもの、東の七条に住(すみ)けるが、つかさに参りて、夜更(ふけ)て、家に歸るとて、應天門の前を通(とを)りけるに、人のけはひしてささめく。廊(らう)の腋(わき)にかくれ立(たち)て見れば、柱(はしら)よりかゝぐりおるゝ者有(あり)。あやしくて見(み)れば伴大納言也。次に子なる人おる。又つぎに、雑色(ざうしき)とよ清と云(いふ)者おる。何わざして、おるゝにかあらんと、露(つゆ)心も得(え)でみるに、この三人、走(はし)ることかぎりなし。南の朱雀門ざまに行(ゆく)程に、二条堀川のほど行(ゆく)に、「大内のかたに火あり」とて、大路のゝしる。みかへりてみれば、内裏(だいり)の方とみゆ。走(はし)り歸(かへり)たれば、應天門のなからばかり、燃(も)えたるなりけり。このありつる人どもは、この火つくるとて、のぼりたりけるなりと心得てあれども、人のきはめたる大事なれば、あへて口より外(ほか)にいださず。その後(ゝち)、左の大臣(おとゞ)のし給へる事とて、「罪(つみ)かうぶり給(たまふ)べし」といひのゝしる。あはれ、したる人のあるものえお、いみじいことかなと思へど、いひいだすべき事ならねば、いとほしと思ひありくに、「大臣(おとゞ)ゆるされぬ」と聞けば、罪(つみ)なきことは遂(つゐ)にのがるゝものなりけりとなん思(おもひ)ける。 かくて九月斗(ばかり)になりぬ。かゝる程に、伴大納言の出納(しゅつなふ)も家の幼(おさな)き子と、舎人が小童といさかひをして、出納のゝしれば同じく出(い)でて(ゝ)、みるに、よりてひきはなちて、我(わが)子をば家に入(いれ)て、この舎人(とねり)が子のかみをとりて、うちふせて、死(し)ぬばかりふむ。舎人(とねり)思ふやう、わが子もひとの子(こ)も、ともに童部いさかひなり。たゞさではあらで、わが子をしもかく情(なさけ)なくふむは、いとあしきことなりと腹だゝしうて、「まうとは、いかで情(なさけ)なく、幼(おさな)きものをかくはするぞ」といへば、出納いふやう、「おれは何事いふぞ。舎人(とねり)だつる。おればかりのおほやけ人を、わがうちたらんに、何事のあるべきぞ。わが君大納言殿のおはしませば、いみじきああまちをしたりとも、何ごとの出(い)でえくべきぞ。しれごといふかたゐかな」といふに、舎人(とねり)、おほきに腹(はら)だちて、「おれはなにごといふぞ「わが主(しう)は、我口(わがくち)によりて人にてもおはするは知らぬか。わが口あけては、をのが主(しう)は人にてありなんや」といひければ、出納は腹(はら)だちさして家にはひ入る(いり)にけり。 このいさかひをみるとて、里隣(さととなり)の人、市(いち)をなして聞き(きゝ)ければ、いかにいふことにかあらんと思(おもひ)て、あるは妻子(めこ)にかたり、あるはつぎつぎかたりちらして、いひさわぎければ、世にひろごりて、おほやけまできこしめして、舎人を召(め)して問(と)はれければ、はじめはあらがひけれども、われも罪かうぶりぬべくといはれければ、ありのきだりのことを申(まうし)てけり。その後(ゝち)、大納言も問(と)はれなどして、ことあらはれての後なん流されける。 應天門をやきて、信(まこと)の大臣におほせて、かの大臣(おとゞ)を罪(つみ)せさせて、一の大納言なれば、大臣にならんとかまへけることの、かへりてわが身罪(つみ)せられけん、いかにくやかりけん。 一一五 放鷹楽明暹(はうようらくみやうせん)に是季(これすえ)が習ふ事[巻十・二] これも今は昔、放鷹楽といふ楽(がく)を、明暹已講(いこう)ただ一人、習ひ伝へたりけり。白河院野行幸明後日(あさて)といひけるに、山階寺(やましなでら)の三面の僧坊にありけるが、「今宵(こよい)は門(かど)なさしそ。尋ぬる人あらんものか」といひて待ちけるが、案のごとく、入り来たる人あり。これを問ふに、「是季なり」といふ。「放鷹楽習ひにか」といひければ、「然(しか)なり」と答ふ。則(すなは)ち坊中に入れて、件(くだん)の楽を伝へけり。 一一六 堀河院明暹に笛吹かさせ給ふ事[巻十・三] これも今は昔、堀河院の御時、奈良の僧どもを召して、大般若(だいはんにゃ)の御読経(みどきやう)行はれけるに、明暹この中に参る。その時に、主上御笛を遊ばしけるが、やうやうに調子を変へて、吹かせ給ひけるに、明暹調子ごとに、声違(たが)へず上(あ)げければ、主上怪(あや)しみ給ひて、この僧を召しければ、明暹ひざまづきて庭に候。仰(おほせ)によりて、上(のぼ)りて簀子(すのこ)に候(さぶらふ)に、「笛や吹く」と問はせおはしませければ、「かたのごとく仕(つかまつ)り候」と申しければ、「さればこそ」とて、御笛賜(た)びて吹かせられけるに、万歳楽(まんざいらく)をえもいはず吹きたりければ、御感ありて、やがてその笛を賜(た)びてけり。件(くだん)の笛伝(つたは)りて、今八幡別当(やはたのべつたう)幸清がもとにありとか。 一一七 浄蔵(じやうざう)が八坂(やさか)の坊に強盗入る事[巻十・四] これも今は昔、天暦(てんりやく)のころほひ、浄蔵が八坂の坊に、強盗その数入り乱れたり。然(しか)るに火をともし、太刀(たち)を抜き、目を見張りて、おのおの立ちすくみて、更にする事なし。かくて数刻を経(ふ)。夜やうやう明けんとする時、ここに浄蔵、本尊に啓白(けいびやく)して、「早く許し遣(つか)はすべし」と申しけり。その時に盗人ども、いたづらにて逃げ帰りけるとか。 一一八 播磨守(はりまのかみ)さだゆふが事[巻一〇・五] 今は昔、播磨(はりま)の守公行(きんゆき)が子に、さだゆふとて、五条わたりにしものは、この比(ころ)ある、あきむねといふものの父なり。そのさだゆふは、阿波守さとなりが供(とも)に、阿波へくだりけるに、道にて死(しに)けり。そのさだゆふは、河内前司(かはちのぜんじ)といひし人の類(るい)にてぞありける、その河内(かうち)の前司がもとに、あめまだらなる牛、ありけり。其(その)牛を人のかりて、車かけて、淀(よど)へ遣(やり)けるに、樋爪(ひづめ)の橋にて、牛(かひ)あしく遣(やり)て、かた輪を橋よりおとしたりけるに、引(ひか)れて車の橋より下(した)におちけるを、車のおつると心得て、牛のふみひごりて、てりければ、むながいきれて、車はおちてくだけにけり。牛はひとり、橋のうへにとゞまりてぞ有(あり)ける。人も乗らぬ車なりければ、そこなはるゝ人もなかりけり。「ゑせ牛(うし)ならましかば、ひかれて落ちて、牛もそこなはれまし。いみじき牛の力かな」とて、その邊の人いひほめける。 かくて、この牛をいたはりふ程に、此牛、いかにして失せたるといふことなくて、うせにけり。「こは、いかなることぞ」と、もとめさわげどなし。「はなれた出でたるか」と、ちかくより遠くまで、尋(たづね)もとめさすれどもなければ、「いみじかりつる牛をうしなひつる」となげくほどに、河内前司が夢にみるやう、このささゆふがきたりければ、これは海におち入(いり)て死(しに)けるときく人は、いかに來(きた)るにかと、思ひ思ひいであひたりければ、さだゆふがいふやう、「我は此丑寅(うしとら)のすみにあり。それより日に一ど、樋爪(ひづめ)の橋(はし)のもとにまかりて、苦をうけ侍るなり。それに、おのれが罪のふかくて、身のきはめておもく侍れば、乗物のたはずして、かちよりまかるがくるしきに、このあめまだらの御車牛の力(ちから)のつよくて、のりて侍(はべる)にいみじくともとめさせ給へば、今五日ありて、六日と申さん巳(み)の時ばかりには、返し奉らん。いたくなもとめ給ひそ」とみて、さめにけり。「かゝる夢をこそみつれ」といひて過ぎぬ。 その夢みつるより六日といふ巳(み)の時斗(ばかり)に、そゞろに此(この)牛あゆみ入(いり)たりけるが、いみじく大事したりげにて、くるしげに、舌たれ、あせ水にてぞ入(いり)たりける。「この樋爪(ひづめ)の橋(はし)にて、車おち入(いり)、牛(うし)はとまりたりける折(おり)なんどに行(ゆき)あひて、力(ちから)つよき牛かなとみて、借(かり)て乗(のり)てありきけるにやありけんと思(おもひ)けるもおそろしかりける」と、河内前司かたりし也。 一一九 吾妻人生贄(あづまびといけにへ)をとゞむる事[巻一〇・六] 今は昔、山陽道美作國(さんやうだうみまさかのくに)に、中山(ちゅうさん)、高野(かうや)と申(まうす)神おはします。高野(かうや)はきちなは、中山(さん)は猿丸にてなんおはする。その神、年ごとの姿に、かならず生贄(いけにへ)を奉る。人のむすめのかたちよく、髪がながく、色しろく、身なりをかしげに、姿(すがた)らうたげなるをぞ、えらびもとめて、奉りける。昔より今にいたるまで、その祭おこたり侍らず。それに、ある人の女(むすめ)、生贄にさしあてられにけり。親ども泣きかなしむこと限なし。人の親子となることは、さきの世の契りなりければ、あやしきをだにも、おろかにやは思ふ。まして、よろづにめでたければ、身にも増(まさ)りておろかならず思へども、さりとて、のがるべかなれば、なげきながら月日を過すほどに、やうやう命つゞまるを、親子とあひ見んこと、いまいくばくならずと思ふにつけて、日をかぞへて、明暮は、たゞねをのみ泣く。 かゝるほどにあづまの人の、狩といふ事をのみ役として、猪(ゐ)のしゝとおいふものの、腹だちしかりたるは、いとおそろしきものなり、それをだに、なにとも思(おもひ)たらず、心にまかせて、殺(ころし)とりくふことを役とする者の、いみじう身の力つよく、心たけく、むくつけき荒(あら)武者の、おのづから出(い)できて、そのわたりにたちめぐるほどに、この女の父母のもとに來(き)にけり。 物語するついでに、女の父のいふやう、「おのれ、女(むすめ)のたゞひとり侍(はべる)をなん、かうかうの生贄(いけにゑ)にさしあてられ侍(はべり)けり。さきの世にいかなる罪をつくりて、この國に生まれてかゝる目をみ侍るらん。かの女子(おなご)も、「心にもあらず、あさましき死をし侍りなんずるかな」と申(まうす)。いとあはれにかなしう侍る也。さるは、おのれが女(むすめ)とも申さじ、いみじううつくしげに侍(はべる)なり」といへば、あづまの人「さてその人は、今は死(しに)たまひなんずる人にこそはおはすれ。人は命にまさることなし。身のためにこそ、神もおそろしけれ。この度(たび)の生贄を出さずして、その女君を、みづからにあづけ給ふべし。死(しに)給はんことにこそおはすれ。いかでか、たゞひとりもち奉り給へらん御女(むすめ)を、目の前に、いきながらなますにつくり、きりひろげさせては見給はん。ゆゝしかるべき事也。さるめ見給はんもおなじ事なり。たゞその君を我にあづけ給へ」とて、とらせつ。 かくてあづま人、この女のもとに行(ゆき)てみれば、かたち、すがた、をかしげなり。愛敬(あいぎやう)めでたし。物思(おもひ)たるすがたにて、よりふして、手習をするに、なみだの、袖のうへにかゝりてぬれたり。かゝる程に、人のけはひのすれば、髪を顏(かほ)にふりかくるを見れば、髪もぬれ、顏もなみだにあらはれて、思(おもひ)いりたるさまなるに、人の來たれば、いとゞつゝましげに思(おもひ)たるけはひして、すこしそばむきたるすがた、まことにらうたげなり。およそ、けだかく、しなじなしう、をかしげなること、田舎人の子といふべからず。あづま人、これをみるに、かなしきこと、いはんかたなし。 されば、いかにもいかにも我身なくならばなれ。たゞこれにかはりなんと思(おもひ)て、此(この)女の父母にいふやう、「思(おもひ)かまふ(る)事こそ侍れ。もしこの君の御事によりてほろびなどし給はば、苦(くる)しとやおぼさるべき」と問(と)へば、「このために、みづからは、いたづらにもならばなれ。更に苦(くる)しからず。生きても、なににかはし侍らんずる。この御祭の御きよめするなりとて、四目引(しめひき)めぐらして、いかにもいかにも、人なよせ給(たまひ)そ。また、これにみづから侍(はべり)と、な人にゆめゆめしらせ給(たまひ)そ」といふ。さて日比(ごろ)こもりゐて、此(この)女房と思ひすむこといみじ。 かゝる程に、年比(としごろ)山につかひならはしたる犬の、いみじき中にかしこきを、ふたつえりて、それに、いきたる猿丸(さるまる)をとらへて、明暮は、やくやくと食(くひ)ころさせてならはす。さらぬだに、猿丸と犬とはかたきなるに、いとかうのみならはせば、猿をみては躍りかゝりて、くひ殺す事限なし。さて明暮(あけくれ)は、いらなき太刀(たち)えおみがき、刀をとぎ、つるぎをまうけつゝ、たゞこの女の君とことぐさにするやう、「あはれ、先(さき)の世にいかなる契をして、御命にかはりて、いたづらになり侍(はべり)なんとすらん。されど、御かはりと思へば、命は更に惜(お)しからず。たゞ別(わかれ)きこえなんずと思ひ給ふるが、いと心ぼそく、あはれなる」などいへば、女も「まことに、いかなる人のかくおはして、思(おもひ)ものし給(たまふ)にか」と、いひつゞけそのしゝむらを食(くひ)などする物は、かくぞある。おのづから、うけたまはれ。たしかにしやくび切りて、犬にかひてん」といへば、顏を赤くなして、目をしばたゝきて、歯をま白にくひ出して、目より血の涙をながして、まことにあさましき顏つきして、手をすりかなしめども、さらにゆるさずして、「おのれが、そこばくのおほくの年比(としごろ)、人の子どもをくひ、人の種を絶つかはりに、、しや頭きりて捨てん事、唯今にこそあれ。おのれが身、さらば、我をころせ。更に苦(くる)しからず」といひながら、さすがに、首をばとみに切りやらず。さるほどに、この二の犬どもに追はれて、おほくの猿(さる)ども、みな木のうへに逃(にげ)のぼり、まどひだわぎ、さけびのゝしるに、山もひゞきて、地もかへりぬべし。 かゝるほどに、一人の神主の神つきて、いふやう、「けふより後、更にさらにこの生贄(いけにゑ)をせじ。長くとゞめてん。人をころすこと、こりともこりぬ。命を絶(た)つ事、今よりながくし侍らじ。又我(われ)をかくしつとて、此(この)男とかくし、又けふの生贄にあたりつるの人ゆかりを、れうじはづらはすべからず。あやまりて、その人の子孫のすゑずゑにいたるまで、我、まもりとならん。たゞとくとく、このたびの我命(わがいのち)を乞(こ)ひうけよ。いとかなし。われをたすけよ」とのたまへば、宮司、神主よりはじめて、おほくの人ども、おどろくをなして、みな社(やしろ)のうちに入(いり)たちて、さわぐあわてて、手をすりて、「ことわりおのづからさぞ侍る。たゞ御神にゆるし給へ。御神もよくぞ仰(おほせ)らるゝ」といへども、このあづま人、「さなゆるされそ。人のいのちをたちころす物なれば、きやつに、もののわびしさ知らさんと思ふ也。わが身こそあなれ。たゞ殺されん、くるしからず」といひて、更にゆるさず。かゝるほどに、この猿の首は、きりはなたれぬと見ゆれば、宮司(つかさ)も手もどひして、まことにすべき方(かた)なければ、いみじき誓言(ちかごとゞ)どもをたてて、祈申(いのりまうし)て、「今よりのちは、かゝること、更に更にすべからず」など、神もいへば、「さらばよしよし。いまより後は、かゝることなせそ」と、いひふくめてゆるしつ。さてそれより後は、すべて、人を生贄(いけにゑ)にせずなりにけり。 さてその男、家にかへりて、いみじう男女あひ思ひて、年ごろの妻夫(めおと)になりて、すぐしけり。男はもとより故(ゆへ)ありける人の末(すゑ)んありければ、口惜しからぬさまにて侍りけり。其(その)後は、その國に、猪、鹿をなん生贄にし侍(はべり)けるとぞ。 一二〇 豊前王(とよさきの)(主)の事[巻一〇・七] 今は昔、柏原(かしはばら)の御門(みかど)の御子の五の御子にて、豊前(とよさき)の大君(ぎみ)といふ人ありけり。四位にて、司(つかさ)は刑部卿(ぎやうぶきやう)、大和守(やまとのかみ)にてなん有(あり)ける。世(よ)の事を能(よく)しり、心ばへすなほ(を)にて、おほ(大)やけの御政をも、よきあしきよく知(し)りて、除目(ぢもく)のあらんとても、先(まづ)、国のあたまあきたる、のぞむ人あるをも、国のほどにあてつゝ、「その人は、その国の守にぞなさるらん。その人は、道理たて望(さり)ともえならじ」など、国ごとにいひゐたりける事を、人聞(きゝ)きて、除目の朝に、この大君のお(を)しはかりごとにいふ事は、露たがはねば、「この大君のお(を)しはかり除目(ぢもく)かしこし」といひて、除目(ぢもく)のさきには、此(この)大君の家にいき集(つど)ひてなん、「なりぬべし」といふ人は、手をすりてよろこび、「えならじ」といふを聞き(きゝ)つる人(ひと)は、「なに事をいひを(お)るふる大君ぞ。さえの~まつりて、くるふにこそあれ」など、つぶやきてなん帰(かへり)ける。「かくなるべし」といふ人のならで、不慮(ふりょ)に、異(こと)人なりたるをば、「あしくなされたり」となん、世にはそしりける。されば、大(おほ)やけも、「豊前(とよさき)の大君は、いかゞ除目(ぢもく)をば、いひける」となん、したしく候(さぶらふ)人には、「ゆきて問(と)へ」となん仰(おほせ)られける。 これは、田村、水の尾(お)などの御時になん在(あり)けるにや。 一二一 蔵人頓死(くらうどとんし)のこと[巻第十・八] 今は昔、円融院(ゑんゆうゐん)の御時、内裏(だいり)焼けにければ、後院(こうゐん)になんおはしましける。殿上(てんじやう)の台盤(だいばん)に人々あたま着きて、物食ひけるに、蔵人貞高(さだたか)台盤に額(ひたひ)を当てて、ねぶり入りて、いびきをするなめりと思ふに、やや暫(しば)しになれば、怪(あや)しと思ふ程に、台盤に額を当てて、喉(のど)をくつくつと、くつめくやうに鳴(なら)せば、小野宮大臣殿、いまだ頭中将(とうのちゅうじやう)にておはしけるが、主殿司(とのもりづかさ)に、「その式部丞(しきぶのじよう)の寝様(ねざま)こそ心得ね。それ起(おこ)せ」とのたまひければ、主殿司寄りて起すに、すくみたるやうにて動かず。怪しさにかい探りて、「はや死に給ひにたり。いみじきわざかな」といふを聞きて、ありとある殿上人、蔵人物も覚えず、物恐ろしかりければ、やがて向きたる方(かた)ざまに、みな走り散る。 頭中将、「さりとてあるべき事ならず。これ、諸司(しよし)の下部(しもべ)召してかき出でよ」と行ひ給ふ。「いづ方(かた)の陣(ぢん)よりか出(いだ)すべき」と申せば、「東の陣より出すべきなり」とのたまふを聞きて、内の人ある限(かぎり)、東の陣にかく出で行くを見んとて、つどひ集(あつま)りたる程に、違(たが)へて、西の陣より、殿上の畳ながらき出でて出でぬれば、人々も見ずなりぬ。陣の口かき出づる程に、父の三位来て、迎えへ去りぬ。「かしこく、人々に見あはずなりぬるものかな」となん人々いひける。 さて甘日ばかりありて、頭中将の夢に、ありしやうにて、いみじう泣きて、寄りて物をいふ。聞けば、「いと嬉(うれ)しく、おのれが死の恥を隠させ給ひたる事は、世々に忘れ申すまじ。はかりごちて、西より出(いだ)させ給はざらましかば、多くの人に面(おもて)をこそは見えて、死の恥にて候(さぶら)はましか」とて、泣く泣く手を摺(す)りて悦(よろこ)ぶとなん、夢に見えりるける。 一二二 小槻當平(をづきまさひらの)事[巻一〇・九] いまは昔、主計頭(かずへのかみ)小槻當平といふ人ありけり。その子に算博士(さんはかせ)なるものあり。名は茂助となんいひける。主計頭忠臣が父、淡路守大夫史(あはぢのかみたいふのし)奉親が祖父(おほぢ)也。生きたらば、やんごとなくなりぬべきものなれば、いかでなくもなりなん。是(これ)が出(いで)たちなば、主計頭(かずへのかみ)、主税頭(ちからのかみ)、助、大夫史には、異(こと)人はきしろふべきやうもなかんめり。 なりつたはりたる職(さかり)なるうへに、才(ざえ)かしこく、心ばへもうるせかりければ、六位ながら、世のおぼえ、やうやうきこえ高くなりもてゆけば、なくてもありなんと思ふ人もあるのに、この人の家にさとしをしたりければ、その時(の)陰陽師に物をとふに、いみじく重(をも)くつゝしむべき日どもを(書)きいでて、とらせたりければ、そのまゝに、門(かど)をつよくさして、物忌(ものいみ)して居たるに、敵の人、かくれて、陰陽師に、死ぬべきわざどもをせさせければ、そのまじわざする陰陽師のいはく、「物忌してゐたるは、つゝしむべき日にこそあらめ。その日のろひあはせばぞ、しるしあるべき。されば、おのれを具(ぐ)して、その家におはして、よび出(い)で給へ。門は物忌ならばよもあけじ。たゞ聲(こゑ)をだに聞きてば、かならずのろふしるしありなん」といひければ、陰陽師を具(ぐ)して、それが家にいきて、門をおびたゞしくたゝきければ、下種(げす)いきでて、「たそ。この門(かど)たゝくは」といひければ、「それがしが、とみのことにて参(まい)れるなり。いみじきかたき物忌(ものいみ)なりとも、ほそめにあけて入(い)れ給へ。大切(たいせつ)のことなり」といはすれば、この下種(す)男、歸入(かへりいり)て、「かくなん」といへば、「いとわりことなり。世にある人の、身思はぬやはある。え入(い)れ奉(たてまつ)らじ。さらに不用(ふよう)なり。とく歸り給(たまひ)ね」といはすれば、又いふやう、「さらば、門(かど)をばあけ給はずども、その遣戸(やりど)から顏をさし出(いで)給へ。みづからきこえん」といへば、死ぬべき宿世(すくせ)にやありけん。「何ごとども」とて、遣(やり)戸から顏(かほ)をさしいでたりければ、陰陽師は、聲を聞き、顏をみて、すべきかぎりのろひつ。このあはんといふ人は、いみじき大事いはんといひつれども、いふべきこともおぼえねば、「たゞ今、田舎(いなか)へまかれば、そのよし申さむと思ひて、まうで來(き)つるなり。はや入り給(たまひ)ね」といへば、「大事にもあらざりけることにより、かく人を呼び出(いで)て、物もおぼえぬ主かな」といひて入りぬ。それよりやがて、かしらいたくなりて、三日といふに死に(しに)けり。 されば、物忌には、聲たかく、餘所(よそ)の人にはあふまじきなり。かやうにまじわざする人のためには、それにつけて、かゝるわざをすれば、いとおそろしき事なり。さて、其(その)のろひごとせさせし人も、いくほどなくて、殃(わざはひ)にあひて、しにけりとぞ。「身に負ひけるにや。あさましき事なり」となん人のかたりし。 一二三 海賊(かいぞく)發心(ほつしん)出家の事[巻一〇・一〇] 今は昔攝津國(せつつのくに)にいみじく老(おい)たる入道の、行(おこな)ひうちしてありけるが、人の「海賊にあひたり」といふ物語するついでにいふやう、われは、わかかりし折(おり)は、まことにたのもしくてありし身なり。着(き)るもの、食物に飽(あ)きみちて、明暮(あけくれ)海にうかびて、世をば過(すぐし)なり。淡路の六郎追捕使(ついぶくし)となんいひし。それに、安藝の嶋にて、異(こと)舟もことになかりしに、船一艘、ちかくこぎよす。見れば、廿五六斗(ばかり)の男の、清(きよ)げなるぞ、主とおぼしくてある。さては若(わか)き男二三人ばかりにて、わづかに見ゆ。さては、女どものよきなどあるべし。お(を)のづから、すだれのひまよりみれば、皮籠(かはご)などあまた見ゆ。物はよくつみたるに、はかばかしき人もなくて、たゞ、この我(わが)舟につきてありく。屋形(やかた)うへに、わかき僧一人ゐて、經よみてあり。くだれば、おなじやうにくだり、嶋へよれば、おなじやうによる。とまれば、又とまりなどすれば、此舟をえ見(み)も知(し)らぬなりけり。 あやしと思(おもひ)て、問(とひ)てんと思ひて、「こは、いかなる人の、かく、この舟にのり、いそぐことありてまかるが、さるべき頼(たの)もしき人も具(ぐ)せねば、、おそろしくて、此〔御〕舟をたのみて、かく、つき申(もうし)たるなり」といへば、いとを(お)こがましと思ひて、「これは、京にまかるにもあらず。爰(ここ)に人待(まつ)なり。待(まち)つけて、周坊(すぼう)の方へくだらんずるは。いかで具(ぐ)してこそおはせめ」といへば、「さらば明日(あす)こそは、さまいかにもせめ。こよひはなほ(を)、御舟(ふね)に具(ぐ)してあらん」とて、嶋がくれなる所に、具(ぐ)してとまりぬ。 人々も、「たゞ今(いま)こそよき時なめれ。いざ、この舟(ふね)うつしてん」とて、この舟に、みな乗(のる)時に、おぼれず、あきれ惑(まど)ひたり。物のあるかぎり、わが、舟にとり入(あ)れつ。人どもは、みな男女、みな海にとり入(いるる)間に主人、手をこそこそとすりて、水精(すゐしやう)のずゞの緒切(をき)れたらんやうなる涙を、はらはらとこぼしていはく、「よろずの物(もの)は、みなとり給へ。たゞ、我(わが)命のかぎりはたすけ給へ。京(きやう)に老(おひ)たる親の、限(かぎ)りにわづらいて、「今一度みん」と申(まうし)たれば、よるを晝(ひる)にて、つげにつかはしたれば、いそぎまかりのぼる也」とも、え言(い)ひやらで、われに目(め)をみあはせて、手をするさまいみじ。「これ、かくはいなせそ。例(れい)のごとく、とく」といふに、目(め)をみあはせて泣(な)きまどうさま、いといといみじ。あはれに無慙(むざう)におぼえしかども、さ言(い)ひて、いかゞせんと思(おもひ)なして、海にいれつ。 屋形(やかた)の上に廿斗(はたちばかり)にて、ひはつなる僧の經袋くびにかけて、よるひる經よみつるをとりて、海(うみ)にうち入(いれ)つ。時に手まどひして、經袋をとりて、水のうへにうかびながら、手をさゝげて、この經をさゝげて、浮(う)きいでいでするときに、希有(けゆ)の法師の、今まで死(し)なぬとて、舟のかいして、かしらをはたとうち、せなかをつき入(い)れなどすれど、浮(う)きいでいでしつゝ、この經をさゝぐ。あやしと思ひて、よく見れば、この僧の水にうかびたる跡まくらに、うつしげなる童の、びづらゆいたるが、白きずはえをもちたる、二三人斗(ばかり)見ゆ。僧のかしらに手をかけ、一人は、經をさゝげたる腕(かいな)を、とらへたりと見(み)ゆ。かたへの者(物)どもに、「あれみよ。この僧につきたる童部(わらはべ)はなにぞ」といへば、「いずらら。さらに人なし」といふ。わが目にはたしかに見ゆ。この童部そひて、あへて海にしづむことなし。浮(うか)びてあり。あやしければ、みんと思ひて、「これにとりつきて来(こ)」とて、さををさしやりたれば、とりつきたるを引(ひき)よせたれば、人々「などかくはするぞ。よしなしわざする」といへど、「さはれ、、この僧ひとりは生(い)けん。」とて、舟にのせつ。ちかくなれば、此童部(わらはべ)は見えず。 この僧に問(と)ふ。「我は京の人か。いづこへおはするぞ」と問(と)へば、「田舎(ゐ中)の人に候。法師になりて、久しく受戒をえ仕らねば、「いかで京(きやう)にのぼりて、受戒せん」と候(さぶらひ)しかば、まかりのぼるつるなり」といふ。「わ僧の頭やかひ(い)なに取(とり)つきたりつる兒共(ちごども)は、たそ。なにぞ」と問(ゝ)へば、「いつかさるもの候(さぶらひ)つる。さらにおぼえず」といへば、「さて經さゝげたりつるかひなにも、童(わらは)そひたりつるは。そもそも、なにと思ひて、たゞ今死(し)なんとするに、この經袋(きやうぶくろ)をばさゝげつるぞ」と問(ゝ)へば、「死なんずるは、思ひまうけたれば、命は惜(お)しくもあらず。我(われ)は死(し)ぬとも、經(きやう)を、しばしがほども、ぬらし奉らじと思(おも)ひて、さゝげ奉りしに、かひ(い)な、たゆくもあらず、あやまりてかろくて、かひ(い)なも長(なが)くなるやうにて、たかくさゝげられ候(さぶら)ひつれば、御經のしるしとこそ、死(し)ぬべき心ちにもおぼえ候(さぶらひ)つれ。命生(い)けさせ給はんは、うれしき事」とて泣(なく)に、此婆羅門(このばらもん)の様なる心にも、あはれに尊(たうと)くおぼえて、「これより國へ帰らんとや思ふ。また、京(きやう)にのぼりて、受戒(じゆかい)とげんとの心あらば、送(をく)らん」といへば、「これより返しやりてんとす。さてもうつくしかりつる童部は、なにに(ゝ)か、かくみえつる」とかたれば、この僧、哀に尊(たうと)くおぼえて、ほろほろ泣(な)かる。「七つより、法華經よみ奉りて、日ごろも異事(ことごと)なく、物のあそろしきまゝにも、よみ奉りたれば、十羅刹(らせつ)のおはしましけるにこそ」といふに、この婆羅門のやうなるものの(ゝ)心に、さは、仏經は、めでたく尊(たうと)くおはします物なりけりと思(おもひ)て、この僧に具(ぐ)して、山寺などへいなんと思(おもふ)心つきぬ。 さて、この僧と二人具(ぐ)して、糖(かて)すこしを具(ぐ)して、のこりの物どもは知(し)らず、みな此(この)人々にあづけてゆけば、人々、「物にくるふか。こはいかに。俄(にはか)の道心世にあらじ。物のつきたるか」とて、制(せい)しとゞむれども、きかで、弓、箙(ゑびら)、太刀(たち)、刀(かたな)もみな捨(すて)て、この僧に具(ぐ)して、これが師の山寺なる所にいきて、法師になりて、そこにて、經一部よみ參(まい)らせて、行(おこな)ひありくなり。かゝる罪(つみ)をのみつくりしが、無慙(むざう)におぼえて、この男の手をすりて、はらはらと泣(な)きまどひしを、海に入(いれ)しより、少(すこし)道心おこりにき。それに、いとゞ、この僧に十羅刹(せつ)の添(そ)ひておはしましけると思(おもふ)に、法華經の、めでたく、よみ奉らまほしくおぼえて、俄にかくなりてあるなりと、かたり侍りけり。 宇治拾遺物語 巻第一一 一二四 青常(あをつねの)事[巻一一・一] 今は昔、村上の御時、古き宮の御子にて、左京大夫(さきやうのだいふ)なる人おはしけり。ひとと(ゝ)なり、すこし細高(ほそだか)にて、いみじうあてやかなる姿(すがた)はしたれども、やうだいなどもを(お)こなりけり。かたくなはしき様ぞしたりける。頭の、あぶみ頭(がしら)なりければ、纓(ゑい)は背中(せなか)にもつかず、はなれてぞふられける。色は花(はな)をぬりたるやうに、青(あお)じろにて、まかぶら窪(くぼ)く、はなのあざやかに高(たか)くあかし。くちびる、うすくて、いろもなく、笑(ゑ)めば歯がちなるもの(物)の、歯肉(しにく)あかくて、ひげもあかくて、長か(ながゝ)りけり。声(こゑ)は、はな声にて高(たか)くて、物いへば、一(ひと)うちひゞきて聞えける。あゆめば、身をふり、肩をふりてぞ歩(あり)きける。色のせめて青(あお)かりければ、「青常(あをつね)の君」とぞ、殿上の君達(きんだち)はつけて笑(わら)ひける。わかき人たちの、たち居(ゐ)るにつけて、やすからず笑(わら)ひのゝしりければ、みかど、きこしめしあまりて、「このをのこどもの、これをかく笑(わら)ふ、便(びん)なきことなり。父の御子、聞(きき)て制(せい)せずとて、我をうらみざらんや」など仰(おほせ)られて、まめやかにさいなみ給へば、殿上の人々、したなきをして、みな、笑(わら)ふまじきよし、いひあへけり。さて、いひあへるやう、「かくさいなめば、今よりながく起請(きしやう)す。もしかく起請(きしやう)して後、「青常(あをつね)の君」とよびたらん者(物)をば、酒(さけ)、くだ物など取(とり)いださせて、あがひせん」といひかためて、起請(きしやう)してのち、いくばくもなくて、堀川殿の殿上人にておはしけるが、あう(ふ)なく、たちて行く(ゆき)うしろでをみて、忘れて、「あの青常(あをつね)まるは、いづち行(ゆ)くぞ」とのたま(給)ひてけり。殿上人共(ども)、「かく起請(きしやう)をやぶりつるは、いと便(びん)なきことなり」とて、「いひ定(さだ)めたるやうに、すみやかに酒、くだ物とりにやりて、このことあがへ」と、あつまりて、責(せ)めのゝしりければ、あらがひて、「せじ」とすまひ給(たまひ)けれど、まめやかにまめやかに責(せ)めければ、「さらばあさてばかり、青常(あをつね)の君〔の〕あがひせん。殿上人、蔵人、その日あつまり給へ」といひて出(いで)給ひぬ。 その日になりて、「堀川中将殿の、青常(あをつね)の君のあがひすべし」とて、参(まい)らぬ人なし。殿上人ゐならびて待(まつ)程に、堀川中将、直衣(なをし)すがたにて、かたちは光(ひか)るやうなる人の、香はえもいはずかうばしくて、愛敬(あいぎやう)こぼれにこぼれて、参(まい)り給へり。直衣(なをし)のながやかにめでたき裾(すそ)より、青き打(うち)たる出し衵(あこめ)して、指貫(さしぬき)も青色の指貫(さしぬき)をきたり。隨身三人、青(あを)き狩衣、袴着せて、ひとりには、青(あを)くいろどりたる折敷(おしき)に、あをぢのさらに、こくはを、盛(も)りてさゝげたり。今一人は、竹の杖に、山ばとを四五斗(ばかり)つけて持(もた)せたり。又ひとりには、あをぢの瓶に酒を入(いれ)て、あをき薄様(うすやう)にて、口をつゝみたり。殿上の前に、もちつゞきて出(いで)たれば、殿上人どもみて、諸声(もろごゑ)に笑(わら)ひどよむことおびたゝし。御門(みかど)、きかせ給(たまひ)て、「何事ぞ。殿上におびたゝしく聞(きこ)ゆるは」と問(と)はせ給へば、女房「兼通(道)が、青常(あをつね)よびてさぶらべば、そのことによりて、をのこどもに責(せ)められて、その罪あがひ候(さぶらふ)を、笑候(わらひさぶらう)なり」と申(まうし)ければ、「いかやうにあがひぞ」とて、昼御座(ひのおまし)にいでさせ給(たまひ)て、小蔀(こじとみ)よりのぞかせ給(たまひ)ければ、われよりはじめて、ひた青(あを)なる装束にて、青(あを)き食(く)ひ物どもを持(も)たせて、あがひければ、これを笑(わら)ふなりけりと御覧じて、え腹(はら)だゝせ給はで、いみじう笑(わら)はせ給(たまひ)けり。 その後(ゝち)は、まめやかにさいなむ人もなかりければ、いよいよなん笑(わらひ)あざけりける。 一二五 保輔(やすすけ)盗人たる事[巻第十一・二] 今は昔、丹後守保昌(たんごのかみやすまさ)の弟に、兵衛尉(ひょうゑのじょう)にて、冠(かうぶり)賜(たまは)りて、保輔といふ者ありけり。盗人の長(おさ)にてぞありける。家は姉が小路の南、高倉の東に居たりけり。家の奥に蔵を造りて、下を深う井のやうに堀りて、太刀(たち)、鞍(くら)、鎧(よろひ)、兜(かぶと)、絹、布など、万(よろづ)の売る者を呼び入れて、いふままに買ひて、「値(あたひ)を取らせよ」といひて、「奥の蔵の方(かた)へ具(ぐ)して行(ゆ)け」といひければ、「値賜(あたひたまは)らん」とて行きたるを、蔵の内へ呼び入れつつ、堀たる穴へ突き入れ突き入れして、持(も)て来たる物をば取りけり。この保輔(やすすけ)がり物持(も)て入りたる者の、帰り行くなし。この事を物売(ものうり)怪(あや)しう思へども、埋(うづ)み殺しぬれば、この事をいふ者なかりけり。 これならず、京中押しありきて、盗みをして過ぎけり。この事おろおろ聞(きこ)えたりけれども、いかなりけるにか、捕へからめらるる事もなくてぞ過ぎにける。 一二六 晴明(はれあきら)を試みる僧の事[巻十一・三] 昔、晴明が土御門(つちみかど)の家に、老(おい)しらみたる老僧来(きたり)ぬ。十歳ばかりなる童部(わらはべ)二人具したり。晴明「なにぞの人にておはするぞ」と問へば、「播磨の国の者にて候。陰陽師を習はん心ざしにて候。此(この)道に、殊にすぐれておはしますよしを承(うけたまはり)て、少々習ひ参らせんとて、参りたるなり」といへば、晴明が思ふやう、この法師は、かしこき者にこそあるめれ。われを試みんとてきたる者なり、それにわろく見えてはわろかるべし、この法師すこしひきまさぐらんと思(おもひ)て、共なる童部は、式~をつかひてきたるなめりかし、式~ならばめしかくせと、心の中に念じて、袖の内にて印をむすびて、ひそかに呪(じゅ)をとなふ。さて法師いふやう、「とく帰(下縁)給(たまひ)ね。のちによき日して、習はんとのたまはん事どもは、教へ奉らん」といへば、法師「あら、貴(たう)と」といひて、手をすりて額にあてて、たちはしりぬ。 いまは去ぬらんと思ふに、法師とまりて、さるべき所々、車宿(くるまやどり)などのぞきありきて、又まへによりきていふやう、「この供に候(さぶらひ)つる童の、二人ながら失ひて候。それ給はりて帰らん」といへば、晴明「御坊は、希有(けう)のこといふ御坊かな。晴明は何の故に、人の供ならん者をば、とらんずるぞ」といへり。法師のいふやう、「さらにあが君、おほきなる理(ことわ)り候。さりながら、たゞゆるし給はらん」とわびければ、「よしよし、御坊の、人の心みんとて、式~つかひてくるが、うらやましきを、ことにおぼえつるが、異(こと)人をこそ、さやうには試み給はめ。晴明をば、いかでさること、し給(たまふ)べき」といひて、物よむやうにして、しばしばかりありければ、外の方より童二人ながら走入(はしりいり)て、法師のまへに出来(いでき)ければ、その折、法師の申(まうす)やう、「実(まこと)に試み申(まうし)つるなり。使(つかふ)ことはやすく候。今よりは、ひとへに御弟子になりて候はん」といひて、ふところより、名簿(みやうぶ)ひきいでて、とらせけり。 一二七 晴明かへる殺(ころす)事[巻十一・三付] この晴明、あるとき、廣澤の僧正の御房に参りて、もの申(まうし)うけたまはりけるあひだ、若僧どもの、晴明にいふやう、「式神を使給(つかいたまふ)なるは、たちまちに人をば殺し給(たまふ)や」といひければ、「やすくはえ殺さじ。力をいれて殺してん」といふ。「さて蟲なんどをば、少(すこし)のことせんに、かならず殺しつべし。さて生くるやうを知らねば、罪を得つべければ、さやうのこと、よしなし」といふほどに、庭にかはづの出(いで)きて、五六(いつつむつ)ばかり躍りて、池のかたざまへ行(ゆき)けるを、「あれひとつ、さらば殺し給へ。試みん」と、僧のいひければ、「罪をつくり給(たまふ)御坊かな。されども試み給へば、殺(ころし)て見せ奉らん」とて、草の葉をつみきりて、物を誦(よむ)やうにして、かへるのかたへ投げやりければ、その草の葉の、かへるの上にかゝりければ、かへる、まひらにひしげて、死にたりけり。これをみて、僧どもの色かはりて、おそろしと思(おもひ)けり。 家の中に人なき折りは、この式神をつかひけるにや、人もなきに、蔀(しとみ)をあげおろし、門をさしなどしけり。 一二八 河内守(かうちのかみ)頼信(よりのぶ)平忠恒(ただつね)をせむる事[巻一一・四] 昔、河内守頼信、上野守(かうづけのかみ)にてありしとき、坂東に平忠恒といふ兵(つはもの)ありき。仰(おほせ)らるゝ事、なきがごとくにする、うたんとて、おほくの軍(いくさ)おこして、かれがすみのかたへ行(ゆき)むかふに、岩海にはるかにさし入(いり)たるむかひに、家をつくりてゐたり。この岩海をまはるものならば、七八日にめぐるべし。すぐにわたらば、その日の中に攻つべければ、忠恒、わたりの舟どもを、みな取隠してけり。されば渡るべきやうもなし。 濱ばたに打(うち)たちて、この濱のまゝにめぐるべきにこそあれと、兵ども思ひたるに、上野守のいふやう、「この海のまゝに廻てよせば日比(ごろ)へなん。その間に逃(にげ)もし、又よられぬ構へもせられなん。けふのうちによせて攻めんこそ、あのやつは存じのほかにして、あわてまどはんずれ。しかるに、舟どもは、みな取隠したる、いかゞはすべき」と、軍どもに問はれけるに、軍「更にわたし給(たまふ)べきやうなし。まはりてこそ、よせさせ給(たまふ)べく候」と申(もうし)ければ、「この軍共(ども)の中に、さりとも、この道しりたる者は有(ある)らん。頼信は、坂東がたはこの度こそはじめて見れ。されども、我(わが)家のつたへにて、聞き置きたることあり。この海中には、堤のやうにて、ひろさ一丈ばかりして、すぐにわたりたる道あるなり。深さは馬の太腹にたつと聞く。この程にこそ、その道はあたりたるらめ。さりとも、このおほくの軍どもの中に、しりたるもあるらん。さらば、さきに立ちてわたせ。頼信つゞきてわたさん」とて、馬をかきはやめて寄りければ、しりたるものにやありけん、四五騎斗(ばかり)の軍どもわたしけり。まことに馬の太腹に立(たち)てわたる。 おほくの兵どもの中に、たゞ三人ばかりぞ、この道はしりたりける。のこりは、「つゆもしらざりけり。聞くことだにもなかりけり。然(しかる)に、此(この)守殿(かうどの)、此(この)国をば、これこそ始にておはするに、我等は、これの重代のものどもにてあるに、聞(きき)だにもせず、しらぬに、かくしり給へるは、げに人にすぐれたる兵の道かな」と、みなさゝやき、怖ぢて、わたり行程に、忠恒は、海をまはりてぞ寄せ給はんずらん、舟はみなとりかくしたれば、浅道をば、わればかりこそ知りたれ。すぐにはえわたり給はじ。濱をまはり給はん間には、とかくもし、逃(にげ)もしてん。さうなくは、え攻め給はじと思(おもひ)て、心しづかに軍そろへてゐたるに、家のめぐりなる郎等、あわて走りきていはく、「上野殿は、此(この)うみの中に浅き道の候(さぶらひ)けるより、おほくの軍をひき具して、すでにこゝへ来給ひぬ。いかゞせさせ給はん」と、わなゝきごゑに、あわてていひければ、忠恒、かねてのしたくにたがひて、「われすでに攻められなんず。かやうにしたて奉らん」と云(いひ)て、たちまちに名簿をかきて、文ばさみにはさみてさし上(あげ)て、小舟に郎等一人のせて、もたせて、むかへて、参らせたりければ、守殿みて、かの名簿をうけとらせていはく、「かやうに、名簿に怠り文をそへていだす。すでに来たれるなり。されば、あながちに攻むべきにあらず」とて、この文をとりて、馬を引(ひき)かへしければ、軍どもみなかへりけり。その後より、いとゞ守殿をば、「ことにすぐれて、いみじき人におはします」と、いよいよいはれ給(たまひ)けり。 一二九 白河法皇北面受領(ずりやう)の下りのまねの事[巻十一・五] これも今は昔、白河法皇、鳥羽殿におはしましける時、北面の者どもに、受領の国へ下るまねさせて、御覧あるべしとて、玄審頭久孝(げんばのかみひさたか)といふ者をなして、衣冠(いくわん)に衣出(きぬいだ)して、その外(ほか)の五位どもをば前駆せさせ、衛府(ゑふ)どもをば、胡録(やなぐひ)負ひにして御覧あるべしとして、おのおの錦、唐綾(からあや)を着て、劣らじとしけるに、左衛門尉字(さゑもんのじょう)源行遠、心殊に出で立ちて、「人にかねて見えなば、めなれぬべし」とて、御前近かりける人の家に入り居て、従者を呼びて、「やうれ、御前の辺にて見て来」と、見て参らせてけり。 無期に見えざりければ、「いかにかうは遅きにか」と、辰の時とこそ催(もよほし)はありしか、さがるといふ定(ぢやう)、午未の時には、渡らんずらんものをと思ひて、待ち居たるに、門の方に声して、「あはれ、ゆゆしかりつるものかなゆゆしかりつるものかな」といへども、ただ参るものをいふらんと思ふ程に、「玄蕃殿の国司姿こそ、をかしかりつれ」といふ。「藤左衛門殿は錦を着給ひつ。源兵衛殿は縫物をして、金の文をつけて」など語る。 怪しう覚えて、「やうれ」と呼べば、この「見て来」とてやりつる男、笑みて出で来て、「大方かばかりの見物候はず。賀茂祭も物にても候はず。院の御桟敷の方へ、渡しあひ給ひたりつるさまは、目も及び候はず」といふ。「さていかに」といへば、「早う果て候ひぬ」といふ。「こはいかに、来ては告げぬぞ」といへば、「こはいかなる事にか候らん。『参りて見て来』と仰せ候へば、目もたたかず、よく見て候ぞかし」といふ。大方とかくいふばかりなし。 さる程に、「行遠は進奉不参(しんぶふさん)、返す返す奇怪(きくわい)なり。たしかに召し籠めよ」と仰せ下されて、廿日余り候ひける程に、この次第を聞し召して、笑はせおはしましてぞ、召し籠めはゆりてけるとか。 一三〇 蔵人得業猿沢(くらうどとくごふさるさは)の池の龍の事[巻一一・六] これも今は昔、奈良に蔵人得業恵印(ゑいん9といふ僧ありけり。鼻大きにて、赤かりければ、「大鼻の蔵人得業」といひけるを、後(のち)ざまには、ことながしとて、「鼻蔵人」とぞいひける。なほ後々(のちのち)には、「鼻蔵(はなくら)鼻蔵」とのみいひけり。 それが若かりける時に、猿沢の池の端(はた)に、「その月のその日、この池より龍(りよう)登らんずるなり」といふ札を立てけるを、往来(ゆきき)の者、若き老いたる、さるべき人々、「ゆかしき事かな」と、ささめき合ひたり。この鼻蔵人、「をかしき事かな。我がしたる事を、人々騒ぎ合ひたり。をこの事かな」と、心中におかしく思へども、すかしふせんとて、空知らずして過ぎ行く程に、その月になりぬ。大方大和(おほかたやまと)、河内(かわち)、和泉(いずみ)、摂津国(せつつのくに)の者まで聞き伝へて、集(つど)ひ合ひたり。恵印、「いかにかくは集(あつま)る。何かあらんやうのあるにこそ。怪(あや)しき事かな」と思へども、さりげなくて過ぎ行く程に、すでにその日になりぬれば、道もさり敢(あ)へず、ひしめき集(あつま)る。 その時になりて、この恵印思ふやう、ただごとにもあらじ。我がしたる事なれども、やうのあるにこそと思ひければ、「この事さもあらんずらん。行きて見ん」と思ひて頭(かしら)つつみて行く。大方近う寄りつくべきにもあらず。興福寺南大門の壇の上に登り立ちて、今や龍の登るか登るかと待ちたれども、何(なに)の登らんぞ。日も入りぬ。 暗々(くらぐら)になりて、さりとては、かくてあるべきならねば、帰りける道に、一つ橋に、盲(めくら)が渡り合ひたりけるを、この恵印、「あな、あぶなのめくらや」といひたりけるを、盲(めくら)とりもあへず、「あらじ。鼻くらなり」いひたりける。この恵印を、鼻蔵といふも知らざりけれども、めくらといふにつきて、「あらじ。鼻蔵(はなくら)ななり」といひたるが、鼻蔵に言ひ合(あは)せたるが、をかしき事の一つなりとか。 一三一 清水寺御帳給る女事[巻一一・七] 今は昔、たよりなかける女の、清水にあながちに参るありけり。年月つもりけれども、露(つゆ)ばかり、そのしるしと覚(おぼ)えたることなく、いとゞたよりなく成(な)りまさりて、果(はて)は、年(とし)比(ごろ)有(あり)ける所をも、其(その)事(こと)となくあくがれて、よりつくところもなかりけるまゝに、泣(な)く泣く観音を恨(うらみ)申(まうし)て、「いかなる先世のむくひなりとも(共)、たゞすこしのたより給(たまはり)候はん」と、いりもみ申(まうし)て、御前にうつぶしふしたりける夜(よ)の夢に、「御前より」とて、「かくあながちに申せば、いとほ(お)しくおぼしめせど、すこしにてもあるべきたよりのなければ、そのことをおぼしめし歎(なげ)くなり、これを給(たまは)れ」とて、御帳のかたびらを、いとよくたゝみて、前(まへ)にうち置(を)かると見(み)て、夢さめて、御あかしの光に見れば、夢のごとく、御帳(丁)のかたびら、たゝまれて前にあるを見(み)るに、さは、これより外(ほか)に、たぶべき物のなきにこそあんなれと思ふに、身のほどの思(おもひ)しられて、かなしくて申(まうす)やう、「これ、さらに給はらじ。すこしのたよりも候はば(ゞ)、にしきをも、御帳(ちやう)にはぬいて参らせんとこそ思(おもひ)候(さぶらふ)に、この御帳ばかりを給はりて、まかり出(いづ)べきやうも候はず。返し参(まい)らせさぶらひなん」と申(まうし)て、いぬふせぎの内に、さし入(いれ)て置(を)きぬ。又まどろみいたる夢に、「などさかしくはあるぞ。たゞ給(た)はん物をば給はらで、かく返し参(まい)らする。あやしきことなり」とて、又給はるとみる。さてさめたるに、又おなじやうに前にあれば、なくなくかくへし参(まい)らせつ。かやうにしつゝ、三(し)たび返し奉るに、猶またかへし給(た)びて、はての度(たび)は、この度(たび)かへし奉らんは、無禮(むらい)なるべきよしを、いましめられければ、かゝるとも知(し)らざらん寺そうは、御帳(丁)のかたびらを、ぬすみたるとや疑(うたが)はんずらと、思ふもくるしければ、まだ夜ぶかく、ふところにいれて、まかり出(いで)にけり。これをいかにとすべきならんと思(おもひ)て、ひきひろげて見て、きるぺき衣もなきに、さは、これを衣(絹)にして着(き)んと思ふ心つきぬ。これを衣にして着(き)てのち、見(みる)と見(み)る男にもあれ、女にもあれ、あはれにいとほ(お)しきものに思はれて、そゞろなる人の手より、物をおほく得(え)てけり。大事なる人のうれへをも、其衣(きぬ)をきて、しらぬやんごときなき所にも参りて申させければ、かならずなりけり。かやうにしつゝ、人の手よりものを得(え)、よき男にも思はれて、たのしくぞ有(あり)ける。されば、その衣をばおさめて、かならず先途(せんど)と思ふことの折(おり)にぞ、とり出(いで)て着(き)ける。かならずかなひけり。 一三二 則光盗人をきる事[巻一一・八]  今は昔、駿河前司橘季通(するがのぜんじたちばなのすゑみち)が父に、陸奥前司則光といふ人ありけり。兵家にはあらねども、人に所置かれ、力などいみじう強かりける。世のおぼえなどありけり。わかくて衞府の蔵人にぞ有けるとき、殿居所より女のもとへ行とて、太刀ばかりをはきて、小舎人童をたゞ一人具して、大宮をくだりに行きければ、大がきの内に人の立てるけしきのしければ、おそろしと思て過けるほどに、八九日の夜ふけて、月は西山にちかくなりたれば、西の大がきの内は影にて、人のたてらんも見えぬに、大がきの方より聲ばかりして、「あのすぐる人、まかりとまれ。公達のおはしますぞ。え過ぎじ」といひければ、さればこそと思ひて、すゝどく歩みて過るを、「おれは、さてはまかりなんや」とて、走かゝりて、物の來ければ、うつぶきて見るに、弓のかげは見えず。太刀のきらきらとして見えければ、木にはあらざりけりと思ひて、かい伏して逃るを、追ひつけてくれば、頭うち破られぬとおぼゆれば、にはかにかたはらざまに、ふとよりたれば、追ふ者の、走はやまりて、え止まりあへず、さきに出たれば、すごしたてて、太刀をぬきて打ければ、頭を中よりうち破たりければ、うつぶしに走りまろびぬ。ようしんと思ふ程に、「あれは、いかにしつるぞ」といひて、又、物の走りかゝり來れば、太刀をも、えさしあへず、わきにはさみて逃ぐるを、「けやけきやつかな」といひて、はしりかゝりて來る者、はじめのよりは、走のとくおぼ〔え〕ければ、これは、よもありつるやうには、はかられじと思ひて、俄に居たりければ、はしりはまりたる者にて、我にけつまづきて、うつぶしに倒れたりけるをちがひて、たちかゝりて、おこしたてず、頭を又打破てけり。いまはかくと思ふ程に、三人ありければ、今ひとりが、「さては、えやらじ。けやけくしていくやつ哉」とて、執念く走りかゝりて來ければ、「此たびは、われはあやまたれなんず。神佛たすけ給へ」と念じて、太刀を桙のやうにとりなして、走りはやまりたる者に、俄に、ふと立むかひければ、はるはるとあはせて、走りあたりにけり。やつも切りけれども、あまりに近く走りあたりてければ、衣だにきれざりけり。桙のやうに持たりける太刀なりければ、うけられて、中より通りたりけるを、太刀の束を返しければ、のけざまにたうれたりけるを切りてければ、太刀をもちたる腕を、肩より、うち落してけり。さて走りのきて、又人やあるときゝけれども、人の音もせざりければ、走りまひて、中御門の門より入て、柱にかいそひてたちて、小舎人童はいかゞしつよろこびて走り來にけり。殿居所にやりて、着がへ取りよせて着かへて、もと着たりけるうへのきぬ、指貫には血のつきたりければ、童して深くかくさせて、童の口よくかためて、太刀に血のつきたる洗ひなどしたゝめて、殿居所にさりげなく入りて、ふしにけり。夜もすがら、我したるなど、聞えやあらずらんと、胸うちさわぎて思ふほどに、夜明てのち、物どもいひさわぐ。「大宮大炊の御門邊に、大なる男三人、いくほどもへだてず、きりふせたる、あさましく使ひたる太刀かな。かたみにきり合て死たるかと見れば、おなじ太刀のつかひざま也。敵のしたりけるにや。されど盗人とおぼしきさまぞしたる」などいひのゝしるを、殿上人ども、「いざ、ゆきて見てこん」とて、さそひてゆけば、「ゆかじはや」と思へども、いかざらんも又心得れぬさまなれば、しぶしぶに去ぬ。車にのりこぼれて、やりよせて見れば、いまだ、ともかくもしなさで置きたりけるに、年四十餘斗なる男の、かつらひげなるが、無文のはかまに、紺の洗ひざらしの襖着、山吹の絹の衫よくさらされたる着たるが、猪のさやつかの尻鞘したる太刀はきて、猿の皮のたびに、沓きりはきなして、脇をかき、指をさして、と向きかう向き、物いふ男たてり。なに男にかとみるほどに、雑色のよりきて、「あの男の、盗人かたきにあひて、つかうまつりたると申」といひければ、うれしくもいふなる男かなと思ふ程に、車のまへに乗たる殿上人の、「かの男召しよせよ。子細問はん」といへば、雑色走よりて、召してもて來〔た〕り。みれば、たかずらひげにて、おとがひ反り、鼻さがりたり。赤ひげなる男の、血目にみなし、かた膝つきて、太刀のつかに手をかけてゐたり。「いかなりつることぞ」と問へば、「此夜中ばかりに、ものへまかるとて、こゝまかり過つるほどに、物の三人「おれは、まさに過ぎなんや」とて、はしりつゞきて、まうできつるを、盗人なめりと思給へて、あへくらべふせて候なり。今朝見れば、なにがしをみなしと思給ふべきやつばらにてさぶらひければ、かたきにて仕りたりけるなめりと思給れば、しや頭どもを、まつて、かくさぶらふなり」と、たちぬ居ぬ、指をさしなど、かたり居れば、人々、「さてさて」といひて、問ひきけば、いとゞ狂ふやうにして、かたりをる。その時にぞ、人にゆづりえて、面ももたげられて見ける。けしきやしるからんと、人しれず思たりけれじ、我と名告るものの出できたりければ、それにゆづりてやみにしと、老いてのちに、子どもにぞ語りける。 一三三 空(そら)入水(じゅすい)シタル僧事(そうのこと)[巻一一・九] これも今は昔、桂川に身投(な)げんずる聖とて、まづ祇蛇林寺にして、百日懺法行(おこな)ひければ、近(ちか)き遠きものども、道もさりあへず、拝みにゆきちがふ女房車などひまなし。 見れば、卅余斗なる僧の、細(ほそ)やかなる目をも、人に見合(みあ)はせず、ねぶり目(め)にて、時々阿弥陀仏を申。そのはざまは唇ばかりはたらくは、念仏なんめりと見(み)ゆ。又、時々、そゝと息をはなつやうにして、集(つど)ひたる者ども、こち押(を)し、あち押(を)し、ひしめきあひたり。さて、すでにその日のつとめては堂へ入て、さきにさし入たる僧ども、おほく歩(あゆ)み続(つゞ)きたり。尻(しり)に雑役車に、この僧は紙の衣、袈裟など着て、乗りたり。何(なに)といふにか、唇はたらく。人に目も見合(あ)はせずして、時々大息をぞはなつ。行道に立なみたる見物のものども、うちまきを霰の降るやうになか道す。聖、「いかに、かく目鼻に入(い)る。堪へがたし。心ざしあらば、紙袋などに入て、我居(ゐ)たりつる所へ送(をく)れ」と時々いふ。これを無下の者は、手をすりて拝(おが)む。すこし物の心ある者は、「などかうは、此聖はいふぞ。たゞ今、水に入なんずるに、「きんだりへやれ。目鼻に入、堪へがたし」などいふこそあやしけれ」などさゝめく物もあり。 さて、やりもてゆきて、七条の末にやり出(いだ)したれば、京よりはまさりて、入水の聖拝(おが)まんとて、河原の石よりもおほく、人集(つど)ひたり。河ばたへ車やり寄(よ)せて立てれば、聖、「たゞ今(いま)は何(なん)時ぞ」といふ。供(とも)なる僧ども、「申のくだりになり候にたり」といふ。「往生の刻限には、まだしかんなるは。今すこし暮(く)らせ」といふ。待かねて、遠くより来(き)たるものは帰などして、河原、人ずくなに成ぬ。これを見果(みは)てんと思たる者はなを立てり。それが中に僧のあるが、「往生には剋限やは定むべき。心得ぬ事かな。」といふ。 とかくいふほどに、此聖、たうさきにて、西に向ひて、川にざぶりと入程に、舟ばたなる縄に足をかけて、づぶりとも入(い)らで、ひしめく程に、弟子の聖はづしたれば、さかさまに入て、ごぶごぶとするを、男の、川へ下(お)りくだりて、「よく見ん」とて立(た)てるが、此聖の手をとりて、引上(あげ)たれば、左右の手して顔(かほ)はらひて、くゝみたる水をはき捨(す)てて、この引上たる男に向(むか)ひて、手をすりて、「広大の御恩は極楽にて申さぶらはむ」といひて、陸へ走のぼるを、そこら集(あつ)まりたる者ども、童部、河原の石を取て、まきかくるやうに打。裸なる法師の、河原くだりに走るを、集(つど)ひたる者ども、うけとりうけとり打ければ、頭うち割(わ)られにけり。 此法師にやありけん、大和より爪を人のもとへやりけるに文の上書(うはがき)に、「前の入水の上人」と書(か)きたりけるとか。 一三四 日蔵(にちざう)上人吉野山にて鬼にあふ事 巻一一の一〇 昔、吉野山の日蔵の君、吉野の奥におこなひありき給(たまひ)けるに、たけ七尺斗(ばかり)の鬼、身の色は紺青(こんじやう)の色にて、髪は火のごとくに赤く、くび細く、むね骨は、ことにさしいでて、いらめき、腹ふくれて、脛は細く有(あり)けるが、此おこなひ人にあひて、手をつかねて、なくこと限なし。 「これはなにごとする鬼ぞ」と問へば、この鬼、涙にむせびながら申(まうす)やう、「われは、此(この)四五百年をすぎてのむかし人にて候(さぶらひ)しが、人のために恨をのこして、今はかゝる鬼の身となりて候。さてその敵をば、思(おもひ)のごとくに、とり殺してき。それが子、孫、ひこ、やしは子にいたるまで、のこりなくとり殺しはてて、今は殺すべき者なくなりぬ。されば、なほかれらが生れかはりまかる後までも知りて、とり殺さんと思(おもひ)候(さぶらふ)に、つぎつぎの生れ所、露もしらねば、取(とり)殺すべきやうなし。瞋恚(しんい)の炎は、おなじやうに、燃ゆれども、敵の子孫はたえはてたり。我(われ)ひとり、つきせぬ瞋恚の炎に、もえこがれて、せんかたなき苦をのみうけ侍り。かゝる心を起さざらましかば、極楽天上にも生れなまし。殊に、恨みをとゞめて、かゝる身となりて、無量億劫(むりやうおくごう)の苦を受けんとすることの、せんかたなくかなしく候。人のために恨をのこすは、しかしながら、我(わが)身のためにてこそありけれ。敵の子孫は盡きはてぬ。わが命はきはまりもなし。かねてこのやうを知らましかば、かゝる恨をば、のこさざらまし」といひつゞけて、涙をながして、泣く事かぎりなし。そのあひだに、うへより、炎やうやう燃えいでけり。さて山の奥ざまへ、あゆみいりけり。 さて日蔵の君、あはれと思ひて、それがために、さまざまの罪ほろぶべき事どもをし給(たまひ)けるとぞ。 一三五 丹後守(たんごのかみ)保昌下向の時致経(むねつね)の父にあふ事[巻第一一・一一]  これも今は昔、丹後守保昌(やすまさ)、国へ下(くだ)りける時、与佐(よさ)の山に、白髪の武士一騎あひたり。路の傍(かたはら)なる木の下に、うち入れて立てたりけるを、国司の郎等(らうどう)ども、「この翁(おきな)、など馬よりおりざるぞ。奇怪(きくわい)なり。咎(とが)めおろすべし」といふ。ここに国司の曰(いは)く、「一人当千の馬の立てやうなり。ただにはあらぬ人ぞ。咎むべからず」と制してうち過ぐる程に、三町ばかり行きて、大矢の左衛門尉致経(さゑもんのじょうむねつね)、数多(あまた)の兵を具(ぐ)してあへり。国司会釈(ゑしゃく)する間、致経が曰く、「ここに老者(らうじゃ)一人あひ奉りて候(さぶら)ひつらん。致経が父平五大夫に候。堅固(けんご)の田舎(ゐなか)人にて、子細を知らず、無礼(むらい)を現し候ひつらん」といふ。致経過ぎて後(のち)、「さればこそ」とぞいひけるとか。 一三六 出家功徳(くどくの)事[巻一一ノ一二] 是も今は昔、筑紫(つくし)に、たうさかのさへと申齋(まうすさえ)の神もまします。そのほこらに、修行しける僧のやどりで、ねたりける夜、夜中斗(ばかり)になりぬらんと思ふ程に、馬の足音あまたして、人の過(すぐ)ると聞くほどに、「齋はましますか」と問ふこゑす。このやどりたる僧、あやしと聞くほどに、このほこらの内より、「侍り」と答ふなり。又あさましと聞けば、「明日武蔵寺にや参り給ふ」と問ふなれば、「さも侍らず。何事の侍(はべる)ぞ」とこたふ。「あす武蔵寺に、新佛出(いで)給ふべしとて、梵天(ぼんてん)、帝釋(たいしゃく)、諸天、龍神あつまり給ふとは知り給はぬか」といふなれば、「さる事も、えうけたまはらざりけり。うれしく告げ給へるかな。いかで参らでは侍らん。かならず参らんずる」といへば、「さらば、あすの巳の時ばかりのことなり。かならず参り給へ。まち申さん」とてすぎぬ。 この僧、これを聞きて、希有(けう)のことをも聞きつるかな。あすは物へゆかんと思(おもひ)つれども、此(この)こと見てこそ、いづちも行かめと思(おもひ)て、あくるや遅きと、武蔵寺に参りて見れども、さるけしきもなし。例よりは、なかなか靜(しづ)かに、人もみえず。あるやうあらんと思(おもひ)て、佛の御前に候(さぶらひ)て、巳時を待ちゐたる程に、今しばしあらば、午時(うまのとき)になりなんず、いかなることにかと思(おもひ)ゐたるほどに、年七十餘ばかりなる翁の、髪もはげて、白きとてもおろおろある頭に、ふくろの烏帽子をひき入(いれ)て、もとも小さきが、いとゞ腰かゞまりたるが、杖にすがりて歩む。尻に尼(あま)たてり。小さく黒き桶に、なににかあるらん、物いれて、ひきさげたり。御堂に参りて、男は佛の御前にて、ぬか二三度斗(ばかり)つきて、もくれんずの念朱(ねんず)の、大きにながき、押しもみて候へば、尼、その持たる小桶を、翁のかたはらに置きて、「御坊よび奉(たてまつ)らん」と云ぬ。 しばし斗(ばかり)あれば、六十ばかりなる僧参りて、佛おがみ奉(たてまつり)て、「なにせんによび給(たまふ)ぞ」と問えば、「けうあすとも知らぬ身にまかりなりにたれば、この白髪のすこしのこりたるを剃りて、御弟子にならんと思ふなり」といへば、僧、目押しすりて、「いと尊(たうと)きことかな。さらば、とくとく」とて、小桶なりつるは湯なりけり、その湯にて頭あらひて、そりて、戒さづけつれば、また、佛拝(おが)み奉りて、まかり出(いで)ぬ。その後、又異事なし。 さは、この翁の法師になるを隨喜(ずゐき)して、天衆(てんしゅう)もあつまり給(たまひ)て、新佛の出でさせ給ふとはあるにこそありけれ。出家隨分(ずゐぶん)の功徳(くどく)とは、今にはじめたることにはあらねども、まして、若く盛りならん人の、よく道心おこして、隨分にせんものの功徳、これにていよいよおしはかられたり。 一三七 達磨(だるま)天竺(の)僧の行見る事[巻一二・一] 昔、天竺に一寺あり。住僧もっつともおほし。達磨和尚、この寺に入(いり)て、僧どもの行(おこなひ)をうかゞひ見給ふに、或坊には念佛し、經をよみ、さまざまに行ふ。ある坊をみ給(たまふ)に、八九十ばかりなる老僧の、只二人ゐて囲碁を打(うつ)。佛もなく、經もみえず。たゞ囲碁を打(うつ)ほかは、他事なし。達磨、件(くだんの)坊を出(いで)て、他の僧に問(とふ)に、答云(こたへていはく)、「此老僧二人、若きより囲碁の外はすることなし。すべて佛法の名をだに聞かず。よつて寺僧、にくみいやしみて、交曾(けうくはい)する事なし。むなしく僧供(そうぐ)を受(うく)。外道(げだう)のごとく思へり」と云々。 和尚これを聞きて、定めて様あらんと思(おもひ)て、此老僧が傍にゐて、囲碁うつあり様を見れば、一人は立(たて)り、一人は居(を)りとみるに、忽然として失(うせ)ぬ。あやしく思(おもふ)程に、立(たて)る僧は歸(かへり)ゐたりとみる程に、又ゐたる僧うせぬ。見れば又出きぬ。さればこそと思(おもひ)て、「囲碁の外、他事なしと承るに、證果(しょうくわ)の上人にこそおはしけれ。其(その)故を問(とひ)奉らん」と宣(のたまふ)に、老僧答云(こたへていはく)、「年來(としごろ)、此事より外、他事なし。たゞし、黒勝(かつ)ときは、我煩悩勝(わがぼんなうかち)ぬとかなしみ、白勝(かつ)は、菩提勝(かち)ぬと怡(よろこぶ)。打(うつ)に隨(したがひ)て、煩悩の黒を失ひ、菩提の白の勝(かた)ん事を思ふ。此(この)功徳によりて證果の身となり侍(はべる)也」と云(いふ)。 和尚、坊を出(いで)て、他僧に語(かたり)給ひければ、年來、にくみいやしみつる人々、後悔して、みな貴(たふと)みけりとなん。 一三八 提婆菩薩龍樹(だいばぼさつりうじゆ)菩薩許に参る事[巻一二・二]  昔、西天笠(さいてんぢく)に龍樹菩薩と申(まうす)上人まします。智恵甚深(ぢんしむ)他。又、中天笠(ちうてんぢく)に提婆菩薩と申(まうす)上人、龍樹の智恵深きよしを聞(き)き給(たまひ)て、西天笠(さいてんぢく)に行迎(ゆきむかひ)て、門外にたちて、案内を申さんとしたまう(たまふ)所に、御弟子、ほかより来給(たまひ)て、「いかなる人にてましますぞ」と問(と)ふ。提婆菩薩(ぼさつ)答給(こたへたまふ)やう、大師の智恵(ちゑ)深くましますよしうけたまはりて、嶮難(けんなん)をしのぎて、中天笠(ちうてんぢく)より、はるばる参りたり、このよし申(まうす)べきよし、のたまふ。御弟子、龍樹に申(まうし)ければ、小箱に水を入(いれ)て出(いだ)さる。提婆、心得給(たまひ)て、衣の襟より針を一取(ひちつとり)いだして、この水にいれて返し奉る。これをみて、龍樹、大に驚(おどろき)て、「はやく入(い)れ奉れ」とて、坊中を掃(はき)きよめて、入奉給(いれたてまつりたまふ)。 御弟子、あやしみ思(おもふ)やう、水をあたへ給(たまふ)ことは、遠國よりはるばると來給へば、つかれ給(たまふ)らん、喉潤(のどうるほ)さん為と心得たれば、此(この)人、針を入(いれ)て返し給(たまふ)に、大師、驚給(おどろきたまひ)て、うやまひ給(たまふ)事、心得ざることかなと思(おもひ)て、後に、大師に問申(とひまうし)ければ、答給(こたへたまふ)やう、「水をあたへつるは、我智恵(わがちゑ)は、小箱の内の水のごちし、しかるに、汝萬里をしのぎて來る、智恵をうかべよとて、水をあたへつるなり。上人、空に、御心をしりて、針を水に入(いれ)て返すことは、我(わが)針斗(ばかり)の智恵(ちゑ)を以て、なんぢが大海の底(そこ)をきはめんと也。なんぢら、年來隋逐(としごろずゐちく)すれども、この心を知(し)らずして、これを問(と)ふ。上人は、始てきたれども、わが心をしる。これ智恵のあるとなき〔と〕なり」云々。 則(すなわち)、瓶(ひやう)水を寫(うつす)ごとく、法文をならひ傳給(つたへたまひ)て、中天竺に歸給(かへりたまひ)て、中天竺に歸給(かへりたまひ)けりとなん。 宇治拾遺物語 巻第一二 一三九 慈恵僧正(じゑそうじやう)受戒(じゆかい)の日延引(えんいん)の事[巻第十二・三]  慈恵僧正良源、座主(ざす)の時、受戒行ふべき定日(ぢやうにち)、例のごとく催(もよほし)設けて、座主の出仕を相待つの所に、途中よりにはかに帰り給へば、供の者ども、こはいかにと、心得難く思ひけり。衆徒(しゆと)、諸職人(しよしきじん)も、「これ程の大事、日の定(さだま)りたる事を、今となりて、さしたる障(さはり)もなきに、延引せしめ給ふ事、然(しか)るべからず」と謗(はう)ずる事限(かぎり)なし。諸国の沙弥(しやみ)らまでことごとく参り集(あつま)りて、受戒(じゆかい)すべき由(よし)思ひ居たる所に、横川(よかは)の小綱(せうかう)を使(つかひ)にて、「今日(けふ)の受戒は延引なり。重ねたる催(もよほし)に随(したが)ひて行はるべきなり」と仰せ下(くだ)しければ、「何事によりてとどめ給ふぞ」と問ふ。使、「全(また)くその故(ゆゑ)を知らず。ただ早く走り向かひて、この由を申せとばかりのたまひつるぞ」といふ。集(あつま)れる人々、おのおの心得ず思ひて、みな退散しぬ。  かかる程に、未(ひつじ)の時ばかりに、大風吹きて、南門にはかに倒れぬ。その時人々この事あるべしとかねて悟りて、延引せされけると思ひ合(あは)せけり。受戒行はれましかば、そこばくの人々みな打ち殺されなましと、感じののしりけり。 一四〇 内記上人法師陰陽師の紙冠を破る事[巻一二・四] 内記上人(ないきしやうにん)寂心(じゃくしん)といふ人ありけり。道心堅固(けんご)の人なり。「堂を造り、塔を立つる、最上の善根(ぜんごん)なり」とて、勘進(くわんじん)せられけり。材木をば、播磨国(はりまのくに)に行きて取られけり。ここに法師陰陽師(おんやうじ)師冠(しくわん)を着て、祓(はらひ)するを見つけて、あわてて馬よりおりて、馳(は)せ寄りて、「何(なに)わざし給ふ御坊ぞ」と問へば、「祓(はらひ)し候(さぶらふ)なり」といふ。「何しに紙冠をばしたるぞ」と問へば、「祓戸(はらひど)の神達は、法師をば忌み給へば、祓する程、暫(しばら)くして侍るなり」といふに、上人声をあげて大に泣きて、陰陽師に取りかかれば、陰陽師心得ず仰天して、祓をしさして、「これはいかに」といふ。祓せさせる人も。あきれて居たり。上人冠を取りて引き破りて、泣き事限りなし。「いかに知りて、御坊は仏弟子となりて、祓戸の神達憎み給ふといひて、如来の忌み給ふ事を破りて、暫(しばし)しも無間地獄(むげんじごく)の業(ごふ)をば作り給ふぞ。まことに悲しき事なり。ただ寂心を殺せ」といひて、取りつきて泣く事おびただし。陰陽師の曰く、「仰せらるる事、もとも道理なり。世の過ぎ難ければ、さりとてはとて、かくのごとく仕(つかまつ)るなり。然(しか)らずは、何(なに)わざをしてかは、妻子をば養ひ、我が命をも続(つ)き侍らん。道心なければ、上人にもならず、法師の形に侍れど、俗人のごとくなれば、後世(ごせ)の事いかがと悲しく侍れど、世の習(ならひ)にて侍れば、かやうに侍るなり」といふ。上人のいふやう、「それはさもあれ、いかが三世(さんぜ)如来の御首に冠をば著(き)給ふ。不幸の堪(た)へずして、かやうの事し給はば、堂造らん料(れう)に勘進(くわんじん)し集めたる物どもを、汝(なんじ)になん賜(た)ぶ。一人菩提(ぼたい)に勘むれば、堂寺造るに勝れたる功徳なり」といひて、弟子どもを遣はして、材木取らんとて、勘進し集めたる物を、みな運び寄せて、この陰陽師に取らせつ。さて我が身は京に上(のぼ)り給ひにけり。 一四一 持經者叡實(ちぎやうしやえいじつ)効験事 むかし、閑院大臣殿、三位中將におはしける時、わらはやみを、おもくわづらひ給(たまひ)けるが、「神名といふ所に、叡實といふ持經者なん、童やみはよく祈(いのり)おとし給(たまふ)」と申(まうす)人ありければ、「此(この)持經者のいのらせん」とて行給(たまふ)に、荒見川ノ程にて、はやうおこり給(たまひ)ぬ。寺はちかくなりければ、これより帰(かへる)べきやうなしとて、念じて神名におはして、坊の簷に車をよせて、案内をいひ入給(いれたまふ)に、近比、蒜(ひる)を食(くひ)侍り」と申(まうす)。しかれども、「たゞ上人をみ奉らん。只今まかり帰(かへる)ことかなひ侍らじ」とて、坊の蔀、下立(おろしたて)たるをとりて、あたらしき筵(むしろ)敷て、「いり給へ」と申(まうし)ければ、いり給(たまひ)ぬ。  持経者、沐浴(もくよく)して、とばかりありて、出合(いであひ)ぬ。長(たけ)高き僧のやせさらぼひて、みるに貴げなり。僧申(まうす)やう、「風重(おも)く侍るに、医師(くすし)の申(まうす)にしたがひて、蒜を食(くひ)て候なり。それに、かように御座(おはしまし)候へば、いかでかはとて参(まゐり)て候也。法華経は、浄不浄をきらはぬ経にてましませば、読(よみ)奉らん。何條事か候はん」とて、念珠(ねんず)を押(を)し擦(すり)て、そばへよりきたる程、もとも馮(たの)もし。御額に手をいれて、わが膝を枕にせさせ申(まうし)て、寿量品(じゆりやうぼん)を打(うち)でしてよむこゑは、いと貴(たうと)し。さばかり貴きこともありけりとおぼゆ。すこし、はがれて、高声に読(よむ)こゑ、誠にあはれなり。持経者、目より大なる涙をはらはらとおとして、なくこと限なし。其時さめて、御心地(ち)いとさはやかに、残りなくよくなり給(たまひ)ぬ。返々(かへすがへす)後世まで契(ちぎり)て、かへり給(たまひ)ぬ。それより有験(うげん)の名はたかく、広まりけるとか。 一四二 空也上人(こうやしやうにん)の臂(ひぢ)観音院僧正祈り直す事[巻第一二・六]  昔、空也上人、申すべき事ありて、一条大臣殿に参りて、蔵人所(くろうどどころ)に上(のぼ)りて居たり。余慶(よけい)僧正また参会し給ふ。物語などし給ふ程に、僧正ののたまふ。「その臂(ひぢ)は、いかにして折り給へるぞ」と。上人の日(いは)く、「我母物妬(ものねた)みして、幼少の時、片手を取りて投げ侍りし程に、折りて侍るとぞ聞き侍りし。幼稚(ようち)の時の事なれば、覚え侍らず。かしこく左にて侍る。右手折り侍らましかば」といふ。僧正のたまふ。「そこは貴(たふと)き上人にておはす。天皇の御子とこそ人は申せ。いとかたじけなし。御臂まことに祈り直し申さんはいかに」。上人いふ、「もとも悦(よろこ)び侍るべし。まことに貴く侍りなん。この加持(かぢ)し給へ」とて、近く寄れば、殿中の人々、集(あつま)りてこれを見る。その時、僧正、頂(いただき)より黒煙(くろけぶり)を出(いだ)して、加持し給ふに、暫(しばら)くありて、曲れる臂はたとなりて延(の)びぬ。即(すなは)ち右の臂のごとくに延(の)びたり。上人涙を落(おと)して、三度礼拝(らいはい)す。見る人皆ののめき感じ、あるいは泣きけり。 その日、上人、供に若き聖三人具(ぐ)したり。一人は縄を取り集むる聖なり。道に落ちたる古き縄を拾いて、壁土(かべつち)に加へて、古堂の破れたる壁を塗る事をす。一人は瓜の皮を取り集めて、水に洗いて、獄衆(ごくしゆう)に与へけり。一人は反古(ほうご)の落ち散りたるを拾いたる御布施(ふせ)に、僧正に奉りければ、悦(よろこ)びて弟子になして、義観と名づけ給ふ。有り難かりける事なり。 一四三 増賀上人(ぞうがしやうにん)三条の宮に参り振舞(ふるまひ)の事[巻第一二・七] 昔、多武嶺(たむのみね)に、増賀上人とて貴き聖(ひじり)おはしけり。きはめて心 たけうきびしくおはしけり。ひとへに名利(みやうり)を厭(いと)ひて、頗(すこぶる)る物狂はしくなん、わざと振舞ひ給ひけり。 三条大后(おほきさい)の宮、尼にならせ給はんとて、戒師(かいし)のために、召しに遣(つか)はされければ、「もとも貴き事なり。増賀こそは実になし奉らめ」とて参りけり。弟子ども、この御使(つかひ)をいかつて、打ち給ひなどやせんずらんと思ふに、思(おもひ)の外(ほか)に心やすく参り給へば、有り難き事に思ひ合へり。かくて宮に参りたる由(よし)申しければ、悦びて召し入れ給ひて、尼になり給ふに、上達部(かんだちめ)、僧ども多く参り集(あつま)り、内裏(だいり)より御使(つかひ)など参りたるに、この上人(しやうにん)は、目は恐ろしげなるが、体(てい)も貴(たふと)げながら、煩(わづら)はしげになんおはしける。 さて御前に召し入れて、御几帳(みきちやう)のもとに参りて、出家の作法して、めでたく長き御髪(みぐし)をかき出(いだ)して、この上人にはさませらる。御簾(みす)の中に女房たち見て、泣く事限(かぎり)なし。はさみ果てて出でなんとする時、上人高声(かうしやう)にいふやう、「増賀をしもあながちに召すは、何事ぞ。心得られ候(さぶら)はず。もしきたなき物を大(おほき)なりと聞(きこ)し召したるか。人のよりは大(おほき)に候へども、今は練絹(ねりぎぬ)のやうに、くたくたとなりたるものを」といふに、御簾の内近く、候(さぶらふ)女房たち、ほかには公卿(くぎやう)、殿上人(てんじやうびと)、僧たち、これを聞くにあさましく、目口はだかりて覚ゆ。宮の御心地も更なり。貴さもみな失(う)せて、おのおの身より汗あえて、我にもあらぬ心地す。 さて、上人まかり出でなんとて、袖(そで)かき合(あは)せて、「年まかりよりて、風重くなりて、今はただ痢病(りびやう)のみ仕(つかまつ)れば、参るまじく候ひつりを、わざと召し候ひつれば、あひ構へて候ひつる。堪(た)へ難なくなりて候へば、急ぎまかり出で候(さぶらふ)なり」とて、出でざまに西の対の簀子(すのこ)についゐて、尻をかかげて、はんざふの口より水を出(いだ)すやうにひり散(ちら)す。音高くひる事限(かぎり)なし。御前まで聞ゆ。若き殿上人、笑ひののしる事おびただし。僧たちは、「かかる物狂(ものぐるひ)を召したる事」とそしり申しけり。 かやうに事にふれて、物狂(ものぐるひ)にわざと振舞ひけれど、それにつけても、貴き覚(おぼえ)はいよいよまさりけり。 一四四 聖宝僧正一条大路(しやうほうそうじやういちでうおほぢ)渡る事[巻第一二・八] 昔、東大寺に上座法師(じやうざほふし)のいみじくたのしきありけり。露(つゆ)ばかりも、人に物与ふる事をせず、慳貪(けんどん)に罪深く見えければ、その時聖宝僧正の、若き僧にておはしけるが、この上座の、物惜(をし)む罪のあさましきにとて、わざとあらがひをせられけり。「御坊、何事したらんに、大衆(だいしゆ)に僧供(そうぐ)引かん」といひければ、上座(じやうざ)思ふやう、物あらがひして、もし負けたらんに、僧供引かんもよしなし。さりながら衆中にてかくいふ事を、何(なに)とも答へざらんも口惜(くちを)しと思ひて、かれがえすまじき事を、思ひめぐらしていふやう、「賀茂祭の日、真裸(まはだか)にて、褌(たふさぎ)ばかりをして、干鮭太刀(からざけたち)にはきて、やせたる牝牛(めうし)に乗りて、一条大路を大宮より河原まで、『我は東大寺の聖宝なり』と、高く名のりて渡り給へ。然(しか)らば、この御寺の大衆より下部(しもべ)にいたるまで、大僧供(だいそうぐ)引かん」といふ。心中に、さりともよもせじと思ひければ、固くあらがふ。聖宝(しやうほう)、大衆みな催(もよほ)し集めて、大仏の御前にて、金(かね)打ちて、仏に申して去りぬ。 その期(ご)近くなりて、一条富小路に桟敷(さじき)うちて、聖宝が渡らん見んとて、大衆みな集(あつま)りぬ。上座もありけり。暫(しばら)くありて、大路の見物の者ども、おびただしくののしる。何事かあらんと思ひて、頭さし出(いだ)して、西の方(かた)を見やれば、牝牛(めうし)に乗りたる法師の裸なるが、干鮭を太刀にはきて、牛の尻をはたはたと打ちて、尻に百千の童部(わらはべ)つきて、「東大寺の聖宝こそ、上座とあらがひして渡れ」と、高くいひけり。その年の祭には、これを(せん)詮にてぞありける。 さて大衆、おのおの寺に帰りて、上座に大僧供引かせたりけり。この事帝聞(みかどきこ)し召して、「聖宝は我が身を捨てて、人を導く者にこそありけれ。今の世に、いかでかかる貴(たふと)き人ありけん」とて召し出(いだ)して、僧正までなしあげさせ給けり。上(うへ)の醍醐(だいご)はこの僧正の建立(こんりふ)なり。 一四五 穀断聖(こくだちのひじり)、不実露顕事(ふじつのろけんのこと)[巻一二・九] 昔、久く行(おこな)ふ上人ありけり。五穀を断て年来になりぬ。御門聞こしめして、神泉にあがめすへて、ことに貴み給。木の葉をのみ食ける。物笑する若公達集(あつま)りて、此聖の心みんとて、行向ひて見るに、いとたうとげに見ゆれば、「穀断、幾年斗に成給」と問れければ、「若より断侍れば、五十余年に罷成ぬ」といふを聞て、一人の殿上のいはく、「穀断の屎はいか様にか有らん。例の人にはかはりたるらん。いで行て見ん」といへば、二三人つれて行て見れば、穀屎を多く痢をきたり。あやしく思て、上人の出たる隙に、居たる下を見ん」といひて、畳の下を引開けて見れば、土を少し掘て、布袋に米を入て置たり。公達見て手をたたきて、「穀糞の聖、穀糞の聖」と呼はりて、ののしり笑ければ、過去にけり。 其後は行方も知らず、ながく失にけりとなん。 一四六 季直少将歌事(すゑなほせうしゃううたのこと)[巻一二・一〇] 今は昔(むかし)、季直少将といふ人有けり。病つきて後、すこしをこたりて、内に参りたりけり。公忠弁の、掃部助にて蔵人なりける此の事也。「乱(みだ)り心地(ち)、まだよくもをこたり侍らねども、心元なくて参り侍つる。後は知らねども、かくまで侍れば、あさて斗に、又参侍らん。よきに申させ給へ」とてまかり出ぬ。三日ばかりありて、少将のもとより、 くやしくぞ後にあはんと契ける今日(けふ)を限(かぎ)りといはまし物を さて、その日失せにけり。あはれなる事のさまなり。 一四七 木こり小童隠題(こわらはかくしだい)歌の事[巻一二・一一]  今は昔、かくし題をいみじく興ぜさせ給(たまひ)ける御門(みかど)の、ひちりきをよませられけるに、人々わろくよみたりたりけるに、木こる童の、暁、山へ行くとていひける。「此比ひちりきをよま[せ]させ給(たまふ)なるを、人のえよみ給はざなる、童こそよみたれ」といひければ、具して行童部「あな、おほけな。かゝる事な云(いひ)そ。さまにも似ず、いまいまし」といひければ、「などか、必(かならず)さまに似る事か」とて   めぐりくる春々ごとに桜花いくたびちりき人にとはばや と云(いひ)たりける。様にもにず、思(おもひ)かけずぞ。 一四八 高忠(たかただの)侍歌よむ事[巻一二・一二] 今は昔、高忠(たかただ)といひける越前守の時に、いみじく不幸なりける侍の、夜書まめなるが、冬なれど、帷(かたびら)をなん着たりける。雪のいみじくふる日、[この]侍、[きよめすとて、物のつきたるやうにふるふを見て、守]「歌よめ、をかしうふる雪哉(かな)」と申せば、「はだかなるよしをよめ」といふに、程もなくふるふ聲をさゝげてよみあぐ。 はだかなる我身にかゝる白雪は打(うち)ふるへどもきえせざりけり と誦(よみ)ければ、守、いみじくほめて、きたりける衣をぬぎてとらす。北方も哀(あはれ)がりて、薄色(うすいろ)の衣のいみじう香(かう)ばしきをとらせたりければ、二(ふたつ)ながら執(とり)て、かいわぐみて、脇にはさみて立ちさりぬ。侍に行(ゆき)たれば、ゐなみたる侍共(ども)みて、驚(おどろき)あやしがりて問(とひ)けるに、かくと聞(きき)て、浅猿(あさまし)がりけり。 さて、此(この)侍、其(その)後みえざりければ、あやしがりて、守尋(たづね)させければ、北山に貴き聖有(あり)けり、そこへ行(ゆき)て、此得たる衣を二(ふたつ)ながらとらせて、云(いひ)けるやう、「年まかり老(おい)ぬ。身の不幸、年を追ひて増る。此生の事は益もなき身に候(さぶらう)めり。後生をだにいかでと覚(おぼえ)て、法師にまかりならむと思(おもひ)侍れど、戒師に奉(たてまつる)べき物の候はねば、今に過ぐし候(さぶらひ)つるに、かく思懸(おもひがけ)ぬ物を給(たまはり)たれば、限なくうれしく思給(おもひたまへ)て、是を布施に参(まゐら)する也」とて、「法師に成(なさ)せ給へ」と、涙にむせ返(かへり)て、泣々(なくなく)云(いひ)ければ、聖、いみじう貴(たふとみ)て、法師になしてけり。 さて、そこより行方(ゆくかた)もなくて失(うせ)にけり。在所(ありどころ)しらずなりにけり。 一四九 貫之歌の事[巻一二・一三] 今は昔、貫之が土佐守になりて、下(くだり)て有(あり)ける程に、任果(にんはて)の年、七八斗の子の、えもいはずをかしげなるを、限なくかなしうしけるが、とかく煩(わづらひ)て、うせにければ、泣(なき)まどひて、病づく斗思(おもひ)こがるゝ程に、月此(つきごろ)になりぬれば、かくてのみ有(ある)べき事かは、上(のぼり)なんと思(おもふ)に、皃(ちご)の爰(ここ)にて、何と有(あり)しはやなど、思出(おもひいで)られて、いみじうかなしかりければ、柱に書(かき)つけける 都へと思(おもふ)につけて悲(かなし)きは帰らぬ人のあればなりけり [とかきつけたりける歌なん、いままでありける]。 一五〇 東人歌(あづまうど)よむ事[巻一二・一四]  今は昔、東人の、歌いみじう好みよみけるが、蛍をみて   あなてりや蟲のしや尻に火のつきてこ人玉ともみえわたる哉 東人のやうによまんとて、まことは貫之がよみたりけるとぞ。 一五一 河原の院に融公の霊住む事[巻一二・一五] 今は昔、河原の院は融の左大臣の家なり。陸奥(みちのく)の塩竃(しおがま)の形(かた)を作りて、潮(うしほ)を汲み寄せて、監を焼かせなど、さまざまのをかしき事を盡して、住み給ひける。大臣(おとど)うせて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の御門度々行幸ありけり。まだ院、住ませ給ひける折りに、夜中ばかりに、西の対の塗籠(ぬりごめ)をあけて、そよめきて、人の参るやうに思されければ、見させ給へば、晝(ひ)の装束麗しくしたる人の、太刀はりて、笏(しやく)取りて、二間ばかりのきて、畏りて居たり。「あれは誰(た)そ。」と問はせ給へは、「こゝの主に候翁なり。」と申す。「融のおとゞか。」問はせ給へば、「しかに候。」と申す。「さはなんぞ。」と仰せらるれば、「家なれば住み候に、おはしますがかたじけなく所狭(せ)く候なり。いかゞ仕ふべからん。」と申せば、「それはいといと異様の事なり。故大臣の子孫の、我にとらせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りて居たらばこそあらめ。禮も知らず、いかに此くは怨むるぞ。」と、高やかに仰せられければ、掻い悄つやうに失せぬ。その折の人々「猶御門は将殊(はたこと)におはします者なり。たゞの人はそのおとゞに逢ひて、さやうにすくよかには言ひてや。」とぞいひける。 一五二 八歳の童(わらは)孔子問答の事[巻第一二・一六]  今は昔、唐(もろこし)に、孔子、道を行き給ふに、八つばかりなる童あひぬ。孔子に問ひ申すやう、「日の入る所と洛陽(らくよう)と、いづれか遠き」と。孔子いらへ給ふやう、「日の入る所は遠し。洛陽は近し」。童の申すやう、「日の出(い)で入る所は見ゆ。洛陽はまだ見ず。されば日の出づる所は近し。洛陽は遠しと思ふ」と申しければ、孔子、かしこき童なりと感じ給ひける。「孔子には、かく物問ひかくる人もなきに、かく問ひけるは、ただ者にはあらぬなりけり」とぞ人いいける。 一五三 鄭太尉(ていたいい)の事[巻第一二・一七] 今は昔、親に孝(けう)する者ありけり。朝夕に木をこりて親を養ふ。孝養(けうやう)の心空に知られぬ。梶(かぢ)もなき舟に乗りて、向ひの嶋に行くに、朝には南の風吹きて、北の嶋に吹きつけつ。夕にはまた、舟に木をこりて入れて居たれば、北の風吹きて家に吹きつけつ。かくのごとくする程に、年比(としごろ)になりて、おほやけに聞(きこ)し召して、大臣になして召し使はる。その名を鄭太尉とぞいひける。 一五四 貧(まづしき)俗〔ぞく〕観じて‖佛性を|富める事[巻一二・一八]  今は昔、もろこしの辺州(へんしう)に一人の男あり。家貧しくして、たからなし。妻子を養ふに力なし。もとむれども、得(う)ることなし。かくて歳月を經(ふ)。思わびて、僧にあひて、寶を得(う)べき事を問(と)ふ。智恵ある僧にて、こたふるやう、「汝寶(たから)をえんと思はば、ただ、まことの心をおこすべし、さらば、寶もゆたかに、後世はよき所に生れなん」といふ。この人「寔の心とはいかが」と問えば、僧の云、「誠の心をおこすといふは、他のことにあらず。佛法を信ずる也」といふに、又問ひて云、「それはいかに。たしかにうけたま(給)はりて、心をえて、たのみ思て、二なく信をなし、たのみ申さん。うけたまはるべし」といへば、僧のいはく、「我心はこれ佛也。我心をはなれては佛なしと。然ば我心の故に、佛はいますなり」といへば、手をすりて、なくなくおがみて、それより此ことを心にかけて、よるひる思ければ、梵繹諸天、きたりてまもり給ければ、はからざるに寶出きて、家の内ゆたかになりぬ。命終(をほ)るに、いよいよ心、佛を念じ入りて、浄土にすみやかに参りてけり。このことを聞見る人、貴(たうと)みはれみけるとなん。 一五五 宗行〔むねゆき〕の郎等射る虎事[巻一二・一九]  今は昔、壹岐守〔いきのかみ〕宗行が郎等を、はかなきことによりて、主の殺さんとしければ、小舟に乗〔のり〕て逃〔にげ〕て、新羅國〔しらぎのくに〕へ渡りて、かくれゐたりける程に、新羅のきんかいといふ所の、いみじうののしりさわぐ。「何事ぞ」と問へば、「虎の國府に入りて、人をくらふなり」といふ。此〔この〕男問ふ、「虎はいくつばかりあるぞ」と。「ただ一〔ひとつ〕あるが、俄にいできて、人をくらひて、にげて行き行きする也」といふを聞きて、この男の云〔いふ〕やう、「あの虎にあひて、一矢を射て死なばや。虎かしこくば、共にこそ死なめ。ただむなしうは、いかでか、くらはれん。此〔この〕國の人は、兵〔つはもの〕の道わろきにこそはあめれ」といひけるを、人聞きて、國守に、「かうかうのことをこそ、此〔この〕日本人申せ」といひければ、「かしこきこと哉〔かな〕。呼べ」といへば、人きて、「召しあり」といへば、参りぬ。 「まことにや、この虎の人をくふを、やすく射むとは申〔まうす〕なる」と問はれければ、「しか申〔まうし〕候〔さぶらひ〕ぬ」とこたふ。守「いかでかかる事をば申すぞ」と問へば、此〔この〕男の申すやう、「此〔この〕國の人は、我〔わが〕身をば全くして、敵をば害〔がい〕せんと思ひたれば、おぼろけにて、か様のたけき獣などには、我〔わが〕身の損ぜられぬべければ、まかりあはぬにこそ候〔さぶらふ〕めれ。日本の人は、いかにもわが身をばなきになして、まかりあへば、よき事も候〔さぶらふ〕めり。弓矢にたづさはらん者、なにしかは、わが身を思はん事は候はん」と申しければ、守「さて、虎をば、かならず射ころしてんや」といひければ、「わが身の生き生かずはしらず。かならずかれをば射とり侍〔はべり〕なん」と申せば、「いといみじう、かしこきことかな。さらば、かならずかまへて射よ、いみじき悦びせん」といへば、男申〔まうす〕やう、「さてもいづくに候〔さぶらふ〕ぞ。人をばいかやうにて、くひ侍るぞ」と申せば、守のいはく、「いかなる折にかあるらん、國府の中に入〔いり〕きて、人ひとりを、頭を食〔くひ〕て、肩に打〔うち〕かけてさるなり」と。この男申〔まうす〕やう、「さてもいかにしてか食ひ候」と問へば、人のいふやう、「虎はまづ人をくはんとては、猫の鼠をうかがふやうにひれふして、しばしばかりありて、大口をあきてとびかかり、頭をくひて、肩にうちかけて、はしりさる」といふ。「とてもかくても、さばれ、一矢射るてこそは、くらはれ侍〔はべら〕め。その虎のあり所教へよ」といへば、「これより西に卅四町のきて、をの畠あり。それになんふすなり。人怖ぢて、あへてそのわたりに行かず」といふ。「おのれただ知り侍らずとも、そなたをさしてまからん」といひて、調度負いて去ぬ。新羅の人々「日本の人は、はかなし。虎にくはれなん」と、あつまりて、そしりけり。 かくて、此〔この〕男は、虎の有所〔ありどころ〕問ひききて、ゆきて見れば、まことに、はたけはるばると生ひわたりたり。をのたけ四尺ばかりなり。其〔その〕中をわけ行〔ゆき〕て見れば、まことに虎ふしたり。とがり矢をはげて、片膝をたてて居たり。虎、ひとの香をかぎて、ついひらがりて、猫のねずみうかがふやうにてあるを、男、矢をはげて、音もせで居たれば、虎、大口をあきて、躍りて、男のうへにかかるを、男、弓をつよくひきて、うへにかかる折に、やがて矢を放ちたれば、おとがひのしたより、うなじに七八寸ばかり、とがりやを射いだしつ。虎、さかさまにふして、たふれてあがくを、かりまたをつがひ、二たび、はらを射る。二たびながら、土に射つけて、遂に殺して、矢をもぬかで、國府にかへりて、守に、かうかう射ころしつるよしいふに、守、感じののしりて、おほくの人を具して、虎のもとへゆきて見れば、誠に、箭三〔みつ〕ながら射通されたり。みるにいといみじ。寔〔まこと〕に百千の虎おこりてかかるとも、日本の人、十人ばかり、馬にて押しむかひて射ば、虎なにわざをかせん。此〔この〕國の人は、一尺ばかりの矢に、きりのやうなるやじりをすげて、それに毒をぬりて射れば、遂にはその毒の故に死ぬれどもたちまちにその庭に、射ふす〔る〕事はえせず。日本の人は、我〔わが〕命死なんをも露〔つゆ〕惜しまず、大なる矢にて射れば、その庭に射ころしつ。なほ兵の道は、日の本の人にはあたるべくもあらず。されば、いよいよいみじう、おそろしくおぼゆる國也〔なり〕とて、怖ぢにけり。 さて、この男をば、なほ惜みとどめて、いたはりけれど、妻子を戀〔こひ〕て、筑紫にかへりて、宗行がもとに行〔ゆき〕て、そのよしをかたりければ、「日本のおもておこしたる者なり」とて、勘當もゆるしてけり。おほくの物ども、祿にえたりける、宗行にもとらす。おほくの商人ども、新羅の人のいふを聞きてかたりければ、筑紫にも、此〔この〕國の人の兵は、いみじきものにぞしけるとか。 一五六 遣唐使子(けんたうしの)虎に食わるゝ事[巻一二・二〇]  今は昔、遣唐使にて、もろこしにわたりける人の十ばかりなる子を、え見(み)であるまじかりければ、具(ぐ)してわたりぬ。さて過(すぐ)しける程に、雪の高くふりたりける日、ありきもせでゐたりけるに、この兒のあそびに出(いで)ていぬるが、遅(をそ)くかへりければ、あやしと思(おもひ)て、出(いで)て見れば、あしがた、うしろのかたから、ふみて行(ゆき)たるにそひて、大なるいぬのあしがたありて、それより此(この)児のあしがた見(み)えず。山ざまにゆきたるを見(み)て、こらは虎のくひていきけるなめりと思ふに、せん方なく悲(かな)しくて、太刀をぬきて、あしがたを尋(たづね)て、山の方に行(ゆき)てみれば、岩やのくちに、此(この)兒をくひころして、腹をねぶりてふせり。太刀(たち)を持(もち)て走(はし)りよれば、え逃(に)げていかで、かい(ひ)かがまりてゐたるを、太刀(たち)にて頭をうてば、鯉のかしらをわるやうにわれぬ。つぎに、又、そばざまにくはんとて、走(はし)りよる背中(せなか)をうてば、せぼねを打(うち)きりて、くたくたとなしつ。さて、子をば死(し)なせたれども、脇にかいはさみて、家にかへりたれば、その国の人々、見(み)ておぢあさむこと、かぎりなし。 もろこしの人は、虎にあひて逃(にぐ)ることだにかたきに、かく、虎をばうちころして、子をとり返してきたれば、もろこしの人は、いみじきことにいひて、猶(なほ)日本の国には、兵のかたはならびなき国也(なり)と、めでけれど、子死(し)にければ、何に(なにゝ)かはせん。 一五七 或上達部(かんだちめ)中将の時召人(めしうど)にあふ事[巻一二・二一]  今は昔、上達部(かんだちめ)のまだ中将と申(まうし)ける、内へ參り給ふ道に、法師をとらへて率(ゐ)ていきけるを、「こはなに法師ぞ」と問(ゝ)はせければ、「年比使(としごろ(仕)はれて候(さぶらふ)主を殺(ころ)して候(さぶらふ)者(物)かな)」といひたれば、「まことに罪重(をも)きわざしたるものにこそ。心うきわざしける者(物)かな」と、なにとなくうちいひて過給(すぎたまひ)けるに、此(この)法師、あかき眼(まなこ)なる目のゆゝしくあしげなるして、にらみあげたりければ、よしなき事をもいひてけるかなと、けうとくおぼしめしてすぎ給ひけるに、又男をからめて行(ゆき)けるに、「こはなに事したるう者(物)ぞ」と、こりずまに問(と)ひければ、「人の家に追(を)ひ入(いれ)られて候(さぶらひ)つる。男(おとこ)は逃(に)げてまかりぬれば、これをとらへてまかるなり」といひければ、別のこともなきものにこそ〔とて〕、そのとらへたる人を見知(みし)りたれば、乞(こ)ひゆるしてやり給(たまふ)。 大方、此(この)心ざまして、人のかなしきめを見(み)るにしたがひて、たすけ給ひける人にて、はじめの法師も、ことよろしくば、乞(こ)ひゆるさんとて、とひ給(たまひ)けるに、罪(つみ)のことの外に重(おも)ければ、さのたまひ(給)けるを、法師は、やすからず思ひける。さて、程なく大赦(しや)のありければ、法師もゆりにけり。 さて月あかかりける夜、みな人はまかで、、あるは寝入(ねい)りなどしけるを、この中将、月にめでて(ゝ)、たゝずみ給(たまひ)ける程に、物の築(筑)地(ぢ)をこえておりけると見給(みたまふ)程に、うしろよりかきすくひて、とぶやうにして出(い)でぬ。あきれまどひて、いかにもあぼしわかぬほどに、おそろしげなる物來集(きつど)ひて、はるかなる山の、けはしく恐(をそ)ろしき所へ率(ゐ)て行(ゆき)て、柴のあみたるやうなる物を、たかくつくりたるにさし置(を)きて、「さかしらする人をば、かくぞする。やすきことは、ひとへに罪重(おも)くひなして、悲(かな)しきめを見せしかば、其答(そのたふ)に、あぶりころさんずるぞ」とて、火を山のごとくたきければ、夢などを見(み)るここちして、わかくきびはなるほどにてはあり、物おぼえ給はず。あつさは唯あつになりて、たゞ片(かた)時に、死ぬべくおぼえ給(たまひ)けるに、山のうへより、ゆゝしきかぶら矢を射お(を)こせければ、ある者ども、「こはいかに」と、さわ(は)ぎける程に、雨のふるやうに射(い)ければ、これら、しばしこなたよりも射けれど、あなたには人の數おほく、え射あふべくもなかりけるにや、火の行衞(ゆくへ)もしらず、射散(いち)らされて逃(にげ)て去(い)にけり。 其(その)折、男ひとりいできて、「いかに恐(おそ)ろしくおぼしめしつらん。お(を)のれは、その月の其(その)日、からめられてまかりしを、御徳(とく)にゆるされて、世にうれしく、御恩(をん)むくひ參(まい)らせばやと思候(おもひさぶらひ)つるに、法師のことは、あしく仰せられたりとて、日比(ひごろ)うかゞひ參らせつるを見(み)て候(さぶらふ)ほどに、つげ參(まい)らせばやと思ひながら、わが身かくて候へばと思ひつるほどに、あからさまに、きとたち離(はな)れ參(まい)らせて候(さぶらひ)つる程に、かく候(さぶらひ)つれば、築(筑)地をけていで候(さぶらひ)つるに、あひ參(まい)らせて候つれども、そこにてとり參(まい)らせ候はば(ゞ)、殿も御きずなどもや候はんずらんと思ひて、こゝにてかく射はらひてとり參らせ候(さぶらひ)つるなり」とて、それより馬にかきのせ申(まいし)て、たしかに、もとのところへ送(をく)り申(まうし)てんげり。ほのぼのと明(あか)るほどにぞ歸(かへり)給ひける。 年おとなになり給(たまひ)て、「かゝることにこそあひたりしか」と、人にかたり給(たまひ)けるなり。四條の大納言のことと(ゝ)申(もうす)は、まことやらん。 一五八 陽成院(やうぜいゐん)ばけ物の事[巻一二・二二] 今は昔、陽成院おりゐさせ給(たまひ)ての御所は、宮(大宮)よりは北、西洞院よりは西、油(あぶら)の小路よりは東にてなむありける。 {そこは物すむ所にてなんありける。}大(おほき)なる池の有(あり)ける釣(つり)殿に、番の物ねたりければ、夜中ばかりに、ほそぼそとある手にて、この男が顔をそとそとなでけり。けむつかしと思(おもひ)て、太刀をぬきて、かた手にてつかみたりければ、浅黄(あさぎ)の上下(かみしも)着(きたる)翁の、ことの外に物わびしげなるがいふやう、「我(われ)はこれ、昔住(すみ)しぬしなり。浦嶋が子の弟なり。いにしへより此(この)所(ところ)にすむて、千二百餘年になるなり。ねがはくはゆるし給へ。こゝにやしろを作りていはひ給へ。さらばいかにもまぼり奉らん(覧)」と云(いひ)けるを、「わが心ひとつにてはかなはじ。此よしを院へ申(まうし)てこそは」といひければ「にくき男の云事哉(いひごとかな)とて、三度、上様へ蹴上(けあ)げ蹴上(けあ)げして、なへなへくたくたとなして、落(お)つるところを、口をあきて食(く)ひたりけり。なべての人ほどなる男とみる程に、おびたゝしく大になりて、この男を唯一口に食(く)へてけり。 一五九 水無瀬殿〓[鼠+吾]事(みなせどののむささびのこと)[巻一二・二三]  後鳥羽院の御時、水無瀬殿に、夜る夜る山より、から笠程なる物の光て、御堂へ飛入事侍けり。西面(おもて)の物共、面(めん)ゝに、「これを見あらはして高名せん」と、心にかけて用心し侍けれども、むなしくてのみ過けるに、ある夜、景賢(かた)たゞひとり、中嶋に寝(ね)て侍けるに、例の光(ひか)り物、山より池(の)上(うへ)を飛行けるに、起(お)きんも心もとなくて、あふのきに寝(ね)ながら、よく引て射たりければ、手ごたへして池へ落入物ありけり。其後、人ゝに告(つ)げて、火ともして、面(めん)ゝ見(み)ければ、ゆゝしく大なるむさゝびの、年古(としふ)り、毛なども禿げ、しぶとなるにてぞ侍ける。 一六〇 一條棧(さ)敷(布)屋鬼の事[巻一二・二四] 今は昔、一條棧気敷(布)屋に、ある男とまりて、傾城(けいせい)とふしたりけるに、夜中ばかりに、風ふき、雨ふりて、すさまじかりけるに、大路に、「諸行無常(しよぎやうむじやう)」と詠(ゑい)じて過(す)ぐる者あり。なに者ならんと思いて、蔀(しとみ)をすこし押(お)し明(あけ)てみければ、長(たけ)は軒き男にて有(あり)ける時、夢をみたりければ、あはせさせんとて、夢ときの女のもとに行(ゆき)て、夢あはせて後、物語してゐたる程に、人々あまた声(こゑ)して来なり。国守の御子の太(大)朗君のおはするなりけり。年は一七八ばかりの男にておはしけり。心ばへはしらず、かたちはきよげなり。人四五人斗(ばかり)具(ぐ)したり。「これや夢ときの女のもと」と問(ゝと)へば、御供の侍(さぶらひ)「これにて候」といひて来(く)れば、まき人は上の方のうちに入(い)りて、部(へ)屋(や)のあるに入(い)りて、あなよりのぞきて見(み)れば、此(この)君、いり給(たまひ)て、「夢をしかじか見(み)つるなり。いかなるぞ」とて、かたりきかす。女、聞き(きゝ)て、「よにいみじき夢なり。必ず大臣までなりあがり給(たまふ)べき也。返々(かへるがへる)、めでたく御覧じて候。あなかしこあなかしこ、人にかたり給(たまふ)な」と申(まうし)ければ、この君、うれしげにて、衣(きぬ)をぬぎて、女にとらせて、かへりぬ。 その折(おり)、まき人、部屋より出(いで)て、女にいやふう。「夢(ゆめ)はとるといふ事のあるなり。この君の御夢、われらにとらせ給へ。国守は四年過(すぎ)ぬれば返りのぼりぬ。我は国守なれば、いつもながらへてあらんずるうへに、郡司の子にてあらば、我をこそ大事に思はめ。」といへば、女のたまはんまゝに侍(はぶる)べし。さらば、おはしつる君のごとくにして、いり給(たまひ)て、その語(かた)られつる夢を、露もたがはず語(かた)り給へ」といへば、まき人悦(よろこび)て、彼(かの)君のありつるやうに、いりきて、夢(ゆめ)がたりをしたれば、女おなじやうにいふ。まき人、いとうれしく思(おもひ)て、衣をぬぎてとらせてさりぬ。 その後(ゝち)文をならひよみたれば、たゞ通(とを)りに通(とを)りて、才(さ)ある人になりぬ。おほやけ、きこしめして、試(心)みらるゝに、誠に才(さえ)深くありければ、もろこしへ、「物よくよくならへ」とて、つかはして、久しくもろこしにありて、さまざまの事どもならひつたへて帰りたりければ、御門(みかど)、かしこき者におぼしめして、次第(しだい)になしあげ給(たまひて)、大臣までになさ(き)れにけり。 されば夢とることは、げにかしこきことなり。かの夢とられたりし備中守[の]子は、司(つかさ)もなきものにて止(や)みにけり。夢(ゆめ)をとられざらましかば、大臣までも成(なり)なまし。されば夢(ゆめ)を人に聞(き)かすまじきなりと、いひつたへけり。 宇治拾遺物語 巻第一三 一六一 上緒(を)の主得(ぬしる)金を事[巻一三・一]  今は昔、兵衛左(ひやうゑのすけ)なる人ありけり。冠の上緒(あげを)の長かりければ、世の人、「上緒(あげを)の主(ぬし)」となん、つけたりける。西の八條と京極との畠の中に、あやしの小家一つあり。その前を行程に、夕立のしければ、此(この)家に、馬よりおりて入(い)りぬ。みれば、女ひとりあり。馬を引(ひき)いれて、夕立(だち)をすごすとて、平(ひら)なる小辛櫃(からひつ)のやうなる石のあるに、尻をうちかけてゐいたり。小石をもちて、此石(いし)を、手まさぐりに、たゝき居(ゐ)たれば、うたれてくぼみたるところを見(み)れば、金色になりぬ。 希有(けう)のことかなとおもひて、はげたるところに、土をぬりかくして、女に問(と)ふやう、「此(この)石はなぞの石ぞ」。女の云(いふ)やう、「何の石にか待らん。むかしよりかくて待るなり。昔、長者の家なん待りける。此(この)家は倉共(ども)の跡にて候(さぶらふ)なり」と。誠に、みれば、大なる石ずゑ(へ)の石(いし)どもあり。 さて「その尻(しり)かけさせ給へる石(いし)は、其(その)倉のあとを畠につくるとて、うねほる間に、土の下より掘(ほり)出されて待(はべる)也。それが、かく屋のうちに待れば、かきのけんと思(おもひ)侍れど、女は力弱(ちからよは)し。かきのくべきやうもなければ、憎む憎むかくて置(を)きて侍るなり」と云(いひ)ければ、われ此(この)石とえりて、後に目くせある者(もの)もぞ見(み)つくる、と思ひて、女いふやう、「此(この)石われとりてんよ」といひければ、「よき事に侍り」といひければ、其邊(そのへん)に知(し)りたる下人を、むな車をかりにやりて、つみて出(い)でんとする程に、綿衣(わたぎぬ)をぬぎて、たゞにとらむが、罪得(つみえ)がましければ、この女にとらせつ。心も得えでさわぎまどふ。「この石(いし)は、女どもこそよしなし物と思ひたれども、我が家(わが)にもていきて、つかうべきやうのあるなり。されば、たゞにとらんが罪得がましければ、かく衣をとらするなり」といえば、「思ひかけることなり。不用(ふよう)の石のかはりに、いみじき寶(たから)の御衣(をんぞ)の綿(わた)のいみじき、給(たまは)らんものとは、あなおそろし」といひて、棹(さを)の有(ある)にかけておがむ。 さて車にかきのせて、家に歸りて、うち缺き缺き賣(う)りて、もの共(ども)を買(か)ふに、米、銭、絹、綾、(あや)など、あまたに賣(う)りえて、おびたゝしき徳人になりぬれば、西の四條よりは北、皇嘉門より西、人も住(す)まぬうきのゆふゝとしたる、一町(まち)ばかりなるうきあり。そこは買(かふ)とも、あたひもせじとおもひて、たヾ少(すこし)に買(かひ)つ。主(ぬし)は不用[の]うきなれば、畠にもつくらるまじ、家もえたつまじ、益(やく)なき所と思ふに、價(あたい)すこしにても買(か)はんといふ人を、いみじきすきものと思ひて賣(う)りつ。 上緒(あげを)の主(ぬし)、このうきを買(か)ひとりて、津(つ)の国に行(ゆき)ぬ。舟四五艘ばかり具(ぐ)して、難波わたりにいぬ。酒、かゆなどおほくまうけて、鎌(かま)又多(おほ)うまうけたり。行(ゆき)かふ人をまねきあつめて、「この酒、かゆ、参(まい)れ」といひて、「そのかはりに、此(この)あし苅(か)りて、すこしづゝえさせよ」といひければ、悦(よろこび)てあつまりて、四五束(そく)、十束、二三十束など苅(かり)てとらす。かくのごとく三四日苅(か)らすれば、山のごとく苅(か)りつ。舟十艘斗(ばかり)につみ京へのぼる。酒多(おほ)くまうけたれば、のぼるまゝに、この下人共に、「たヾに行(い)かむよりは、この綱手(つなで)ひけ」といひければ、この酒をのみつゝ、綱手をひきて、いと疾ゝく加茂川尻に引(ひき)つけつ。 それより車借(くるまかし)に物をとらせつゝ、そのあしにて、このうきに敷(し)きて、下人どもをやとひて、そのうへに土(つち)はねかけて、家を思ふまゝにつくりてけり。南の町(まち)は、大納言源貞といひける人の家、北の町は、この上緒(あげを)の主(ぬし)の、うめてつくりける家なり。それを、この貞(さだ)の大納言のかひとりて、二町(まち)にはなしたるなりけり。それいはゆる此比(このごろ)の西の宮なり。かくいふ女の家なりける金の石をとりて、それを本たいとして、造りたりけるなり。 一六二 元輔(もとすけ)落馬の事[巻一三・二]  今は昔、歌よみの元輔、内蔵助(くらのすけ)になりて、賀茂(かも)祭の使しけるに、一條大路わたりける程に、殿上人の、車おほく並(なら)べたてて(ゝ)、物見ける前わたる程に、おいらかにてはたわたらで、人み給(たまふ)にと思ひて、馬をいたくあふ(を)りければ、馬くるひて落(お)ちぬ。 年老い(おひ)たるものの(ゝ)、頭をさかさまにて落(お)ちぬ。君達(きんだち)、あないみじと見(み)るほどに、いと疾(ゝ)くおきぬれば、冠(かぶり)ぬげにけり。もとゞり露(つゆ)なし。たゞほとぎおかづきたるやうにてなんありける。  馬ぞひ、手まどひをして、冠(かぶり)をとりてきせさすれど、後(うしろ)ざまにかきて、「あなさわ(は)がし。しばしまて。君達に聞ゆべき事あり」とて、殿上人どもの車のまへに歩(あゆ)みよる。日のさしたるに、頭きらきらとして、いみじう見苦(みぐる)し。大路のもの、市(し)をなして、笑(わらひ)のゝしる事限なし。車、桟敷(さじき)のものども、笑(わら)ひのゝしるに、一の車のかたざまに歩(あゆ)みよりていふやう、「君達、この馬(むま)よりおちて冠おとしたるをば、をこなりとや思ひ給ふ。しか思ひ給(たまふ)まじ。その故(ゆへ)は、心ばせある人だにも、物につまづき倒(たを)るゝことは、つねの事なり。まして馬(むま)は心あるものにあらず。この大路は、いみじう石たかし。馬はくち(くち)を張(は)りたれば、歩(あゆ)まんと思ふだに歩(あゆ)まれず。と引(ひ)きかう引(ひき)、くるめかせば、倒(たを)れんとす。馬をあしと思ふべきにあらず。唐鞍(からくら)はさらなる、あぶみの、かくうべくもあらず。それに、馬(むま)はいたくつまづけば落(お)ちぬ。それ悪(あし)からず。又冠のおつる事は、物してゆふものにあらず。かみをよくかき入(いれ)たるに、とらへるゝ物なり、それに、鬢(びん)は失(う)せにたれば、ひたぶるになし。されば、おちん事、冠恨むべき様なし。例なきにあらず。何の大臣(おとゞ)は、大嘗會(だいいじょうゑ)の御禊(ごけい)におつ。なにの中納言は、その時の行幸におつ。かくのごとく、例もかんがへやるべからず。しかれば、案内(あんない)も知(し)り給はぬ此(この)ごろのわかき君達、笑給(わらひたまふ)べきにあらず。笑(わら)ひ給はばを(ゞお)こなるべし」とて、車ごとに、手を折(お)りつゝかぞへて、いひきかす。 かくのごとく言(い)ひはてて(ゝ)、「冠もて來(こ)」という(ふ)てなん、とりてさし入(いれ)ける。其(その)時に、とよみて笑(わら)ひのゝしることかぎりなし。冠せさすととて、馬ぞひのいはく、「落(お)ち給ふすなはち、冠を奉らで、などかくよしなしごとは、おほせらるゝぞ」と問(とひ)ければ「しれ事ないひそ。かく道理をいひきかせたらばこそ、この君達は、のちのちにも笑(わら)ひなんものをや」とぞ云(いひ)ける。 人笑(わら)はする事、やくにするなりけり。 一六三 俊宣(としのぶ)まどはし神にあふ事[巻第十三・三] 今は昔、三条院の八幡(やはた)の行幸に、左京属(さきゃうのさくわん)にて、邦の俊宣といふ者の供奉(ぐぶ)したりけるに、長岡に寺戸といふ所の程行きけるに、人どもの、「この辺(へん)には、迷神(まよひがみ)あんなる辺(へん)ぞかし」といひつつ渡る程に、「俊宣も、さ聞くは」といひて行く程に、過ぎもやらで、日もやうやうさがれば、今は山崎のわたりには行き着ぬべきに、怪(あや)しう同じ長岡の辺を過ぎて、乙訓川(おとくにがは)の面(つら)を過ぐと思へば、また寺戸の岸を上る。寺戸過ぎて、また行きもて行きて、乙訓川の面に来て渡るぞと思へば、また少し桂川(かつらがは)を渡る。 やうやう日も暮方(くれがた)になりぬ。後先(しりさき)見れば、人一人(ひとり)も見えずなりぬ。後先に遙(はるか)にうち続きたる人も見えず。夜の更(ふ)けぬれば、寺戸の西の方(かた)なる板屋の軒におりて、夜を明(あか)して、つとめて思へば、我は左京の官人なり。九条にてとまるべきに、かうまで来つらん、きはまりてよしなし。それに同じ所を、夜一夜めぐり歩(あり)きけるは、九条の程より迷はかし神の憑(つ)きて、率(ゐ)て来るを知らで、かうしてけるなめりと思ひて、明けてなん、西京(にしのきゃう)の家には帰り来たりける。俊宣が正しう語りし事なり。 一六四 亀を買(かひ)て放(はな)つ事[巻一三・四] 昔、天竺(てんぢく)の人、たからを買(か)はんために、銭五十貫を子にもたせてやる。大なる川のはたをゆくに、舟に乗(のり)たる人あり。舟のかたを見(み)やれば、舟より、亀(かめ)、くびをさしいだしたり。銭もちたる人、たちどまりて、此(この)亀をば、「何の料(れう)ぞ」と問へば、「ころして物にせんずる」といふ。「その亀買(か)はん」といへば、此(この)舟の人いはく、いみじきたいせつのことありて、まうけたる亀なれば、いみじき價(あたい)なりとも、うるまじきよしをいへば、なほ(を)あながちに手をすりて、この五十貫の銭にて、亀(かめ)を買(か)ひとりて放(はな)ちつ。 心に思うやう、親の、たから買(かひ)に隣の国へやりつる銭を、亀にかへてやみぬれば、親、いかに腹立(はらだち)給はんずらん。さりとて、また、親(おや)のもとへ行(い)かであるべきにあらねば、親のもとへ帰(かへ)り行(ゆく)に、道に人のゐて云(いふ)やう、「爰(ここ)に亀うりつる人は、このしもの渡(わた)りにて、舟うち返して[死(しに)ぬ]」と語るを聞(きき)て、親の家に帰(かへ)りゆきて、銭(ぜに)は亀にかへつるよしかたらんと思(おもふ)程に、親のいふやう、「何とてこの銭(ぜに)をば、返しおこせたるぞ」と問へば、子(こ)のいふ、「さることなし。その銭にては、しかじか亀(かめ)にかへてゆるしつれば、そのよしを申さんとて参りつるなり」といへば、親(おや)の云(いふ)やう、「黒衣(くろきころも)きたる人、おなじやうなるが五人、お(を)のお(を)の十貫づゝもちてきたりつる。これ、そなる」とて見せければ、この銭(ぜに)いまだぬれながらあり。 はや、買(か)ひて放(はな)しつる亀(かめ)の、その銭(ぜに)川におち入(いる)をみて、とりもちて、親(おや)のもとに、子の帰らぬさきにやりけるなり。 一六五 夢買(かふ)人(の)事[巻一三・五] 昔、備中国(びつちゆうのくに)に郡司(ぐんじ)ありけり。それが子に、ひのきまき人といふ有(あり)けり。わかき男にて有(あり)ける時、夢をみたりければ、あはせさせんとて、夢ときの女のもとに行(ゆき)て、夢あはせて後、物語してゐたる程に、人々あまた声(こゑ)して来(く)なり。国守の御子の太(大)朗君のおはするなりけり。年は一七八ばかりの男にておはしけり。心ばへはしらず、かたちはきよげなり。人四五人斗(ばかり)具(ぐ)したり。「これや夢ときの女ももと」と問(ゝと)へば、御供の侍(さぶらひ)「これにて候」といひて来(く)れば、まき人は上の方のうちに入(いり)て、部屋(へや)のあるに入(い)りて、あなよりのぞきて見(み)れば、此(この)君、いり給(たまひて)、「夢をしかじか見(み)つるなり。いかなるぞ」とて、かたりきかす。女、聞き(きゝ)て、「よにいみじき夢なり。必(かならず)大臣までなりあがり給(たまふ)也。返々(かへすがへす)、めでたく御覧じて候。あなかしこあなかしこ、人にかたり給(たまふ)な」と申(まうし)ければ、この君、うれしげにて、衣(きぬ)をぬぎて、女にとらせて、かへりぬ。  その折(おり)、まき人、部屋より出(いで)て、女にいやふう、「夢(ゆめ)はとるといふ事のあるなり。この君の御夢、われらにとらせ給へ。国守は四年過(すぎ)ぬれば返りのぼりぬ。我は国人なれば、いつもながらへてあらんずるうへに、郡司の子にてあれば、我をこそ大事に思はめ」といへば、女「のたまはんなゝに侍(はべる)べし。さらば、おはしつる君のごとくにして、いり給(たまひ)て、その語(かた)られつる夢を、露もたがはず語(かた)り給へ」といへば、まき人悦(よろこび)て、彼(かの)君のありつるやうに、いきりて、夢(ゆめ)がたりをしたれば、女おなじやうにいふ。まき人、いとうれしく思(おもひ)て、衣をぬぎてとらせてさりぬ。  その後(ゝち)文をならひよみたれば、たゞ通(とを)りに通(とを)りて、才(さ)ある人になりぬ。おほやけ、きこしめして、試(心)みらるゝに誠に才(ざえ)深くありければ、もろこしへ、「物よくよくならへ」とて、つかはして、久しくもろこしにありて、さまざまの事どもならひつたへて歸りてりければ、御門(みかど)、かしこき者におぼしめして、次第(しだい)になしあげ給(たまひ)て、大臣までになさ(き)れにけり。  されば夢とることは、げにかしこしことなり。かの夢とられたりし備中守[の]子は、司(つかさ)もなきものにて止(や)みにけり。夢(ゆめ)をとられざらましかば、大臣までも成(なり)なまし。されば、夢(ゆめ)を人に聞(き)かすまじきなりと、いひつたへける。 一六六 大井光遠(おほゐのみつとほ)の妹強力(がうりき)の事 [巻第十三・六] 今は昔、甲斐国(かひのくに)の相撲(すまひ)大井光遠は、ひきふとにいかめしく、力強く、足速く、みめ、ことがらより始めて、いみじかりし相撲なり。それが妹に、年廿六七ばかりなる女の、みめ、ことがら、けはひもよく、姿も細(ほそ)やかなるありけり。それは退(の)きたる家に住みけるに、それが門に、人に追はれたる男の、刀を抜きて走り入りて、この女を質(しち)に取りて、腹に刀をさし当てて居ぬ。 人走り行(ゆ)きて、兄人(せうと)の光遠に、「姫君は質に取られ給ひぬ」と告げければ、光遠がいふやう、「その御許(おもと)は、薩摩(さつま)の氏長(うぢなが)ばかりこそは、質に取らめ」といひて、何(なに)となくて居たれば、告げつる男(をのこ)、怪(あや)しと思ひて、立ち帰りて、物より覗(のぞ)けば、九月ばかりの事なれば、薄色の衣一重(きぬひとかさね)に、紅葉の袴(はかま)を着て、口おほひして居たり。男は大(おほき)なる男(をのこ)の恐ろしげなるが、大の刀を逆手(さかて)に取りて、腹にさし当てて、足をもて後(うしろ)より抱(いだ)きて居たり。 この姫君、左の手しては、顔を塞(ふた)ぎて泣く。右の手しては、前に矢箆(やの)の荒作りたるが、二三十ばかりあるを取りて、手ずさみに、節の本(もと)を指にて、板敷に押し当ててにじれば、朽木(くちき)の柔(やはら)かなるを押し砕くやうに砕くるを、この盗人目をつけて見るにあさましくなりぬ。いみじからん兄人(せうと)の主(ぬし)、金槌(かなづち)をもちて打ち砕くとも、かくはあらじ。ゆゆしかりける力かな。このやうにては、只今のまに我は取り砕かれぬべし。無益(むやく)なり、逃げなんと思ひて、人目をはかりて、飛び出でて逃げ走る時に、末に人ども走りあひて捕へつ。縛りて、光遠(みつとほ)がもとへ具(ぐ)して行きぬ。 光遠、「いかに思ひて逃げつるぞ」と問へば、申すやう、「大なる矢箆(やの)の節を、朽木なんどのやうに、押し砕き給ひつるを、あさましと思ひて、恐ろしさに逃げ候(さぶら)ひつるなり」と申せば、光遠うち笑ひて、「いかなりとも、その御許(もと)はよも突かれじ。突かんとせん手を取りて、かいねぢて、上(かみ)ざまへ突かば、肩の骨は上(かみ)ざまへ出でて、ねぢられなまし。かしこくおのれが腕(かひな)抜かれまし。宿世(すくせ)ありて、御許(もと)はねぢざりけるなり。光遠だにも、おれをば手殺しに殺してん。腕(かひな)をばねぢて、腹、胸を踏まんに、おのれは生きてんや。それにかの御許(もと)の力は、光遠二人ばかり合(あは)せたる力にておはするものを。さこそ細(ほそ)やかに、女めかしくおはすれども、光遠が手戯(たはぶ)れするに、捕へたる腕(うで)を捕へられぬれば、手ひろごりてゆるしつべきものを。あはれ男子(をのこご)にてあらましかば、あふ敵(かたき)なくてぞあらまし。口惜(くちを)しく女にてある」といふを聞くに、この盗人死ぬべき心地す。女と思ひて、いみじき質(しち)を取りたると思ひてあれども、その儀はなし。「おれをば殺すべけれども、御許(もと)の死ぬべくはこそ殺さめ。おれ死ぬべかりけるに、かしこう疾(と)く逃げて退(の)きたるよ。大(おほき)なる鹿の角を膝に当てて、小さき枯木(からき)の、細きなんどを折るやうにあるものを」とて、追ひ放ちてやりけり。 一六七 ある唐人(もろこしびと)、女(むすめ)の羊に生(うまれ)たる知(し)らずして殺(ころ)す事[巻一三・七] 今は昔、唐(もろこし)に、なにとかやいふ司(つかさ)になりて、下らんとする者侍(はべり)き。名をば、けいそくといふ。それがむすめ一人ありけり。ならびなくを(お)かしげなりし。十餘歳にして失(う)せにけり。父母、泣(なき)かなしむことかぎりなし。 さて二年ばかりありて、田舎(ゐ中)にくだりて、したしき一家(いっけ)の一類はらから集(あつ)めて、国へくだるべきよしをいひ侍らんとするに、市(いち)より羊(ひつじ)を買取(かひとり)て、此(この)人々に食(く)はせんとするに、その母が夢にみる様、うせしむすめ、青き衣をきて、白きさいでして、頭(かしら)をつゝみて、髪(かみ)に、玉のかんざし一よそひをさしてきたり。生(い)きたりし折(おり)にかはらず。母(はゝ)にいふやう、「我(わが)生(い)きて侍(はべり)し時に、父母(ちゝはゝ)、われをかなしうし給(たまひ)(たまひ)て、よろづをまかせ給へりしかば、親に申さで、物をとりつかひ、又人にもとらせ侍(はべり)き。ぬすみにあらねど、申さでせし罪によりて、いま羊(ひつじ)の身をうけたり。きたりて、その報(ほう)をつくし侍らんとす。あす、まさにくび白(しろ)き羊(ひつじ)に成(なり)て、殺(ころ)されんとす。ねがはくは、我(わが)命をゆるし給へ」といふとみつ。 おどろきて、つとめて、食物(くひもの)する所を見れば、まことに青(あお)き羊(ひつじ)の、くび白(しろ)きあり。はぎ、背中白(せなかしろ)くて、頭に、ふたつのまだら有(あり)。つねの人の、かんざしさす所なり。母(はゝ)、これをみて、「しばし、この羊(ひつじ)、なころしそ。殿帰(かへり)おはしての後に、案内申(まうし)て、ゆるさんずるぞ」といふに、守殿(かうどの)、物より帰(かへり)て、「など、人々參(まゐり物は遅(をそ)き)とて、むつかる。「されば、此羊(ひつじ)を調(てう)じ侍(はべり)て、よそはんとするに、うへの御前、「しばし、なころしそ。殿の申(もうし)てゆるさん」とて、とどめ給へば」などいへば、腹立(はらだち)て、「ひがごとなせそ」とて、殺(ころ)さんとてつりつけたるに、このまらう人(ど)ども、きて見(み)れば、いとをかしげにて、顏(かほ)よき女子のいふやう、「童は、此守(このかみ)の女(むすめ)にて侍はべり」しが、羊(ひつじ)になりて侍(はべる)也。けふの命を、御前(まへ)たち、たすけ給へ」といふに、この人する人は、例の羊(ひつじ)とみゆ。「さだめてを(ほ)そしと腹だちなん」とて、うちころしつ。その羊(ひつじ)のなく聲、この殺(ころ)すものの耳(ゝみゝ)には、たゞつねの羊(ひつじ)のなく聲(こゑ)也。さて物もくは帰(かへり)にけり。あやしがりて、人々に問(と)へば、しかじかなりと、はじめより語(かた)りければ、悲(かな)しみて、まどひける程に、病になりて死(し)にければ、田舎(ゐ中)にもくだり侍らずなりにけり。 一六八 出雲寺別当(いづもじのべつたう)、父(の)鯰になりたるを知(し)りながら殺(して)食(ふ)事[巻一三・八] 今は昔、王城の北、上(かみ)つ出雲(いづも)寺といふ寺、たててより後、年久しくなりて、御堂も傾(かたぶ)きて、はかばかしう修理する人もなし。この近(ちか)う、別当侍(はべり)き。その名をば、上覚(かく)となんいひける。これぞ前(さき)の別当の子に侍(はべり)ける。あひつぎつゝ、妻子もたる法師ぞしり侍(はべり)ける。いよいよ寺はこぼれて、荒(あ)れ侍(はべり)ける。さるは、傳教大師のもろこしにて、天〔台〕宗たてん所をえらび給(たまひ)けるに、此(この)寺の所をば、絵にかきてつかはしける。「高雄(たかお)、比叡(ひえい)山、かむつ寺と、三の中にいづれかよかるべき」とあれば、「此(この)寺の地(ち)は、人にすぐれてめでたけれど、僧なんらうがはしかるべき」とありければ、それによりて、とゞめたる所なり。いとやんごとなき所なれど、いかなるにか、さなり果て(はてゝ)、わろく侍(はべる)なり。 それに、上覚(かく)が夢にみるやう、我父(ちゝ)の別当(べったう)、いみじう老(おい)て、杖ちきて、いできて云(いふ)うやう、「あさて未時(ひつじのとき)に、大風(ふき)吹きて、この寺倒(てらたを)れなんとす。しかるに、我(われ)、この寺(てら)のかはらの下に、三尺斗(ばかり)の鯰(なまづ)にてなん、行方(ゆくかた)なく、水もすくなく、せばく暗(くら)き所に有(あり)て、浅ましう苦(くる)しき目をなんみる。寺倒(てらたう)れば、こぼれて庭にはひありかば、童部打殺(うちころ)してんとす。其(その)時、汝が前にゆかんとす。童部に打(うた)せずして、加茂川に放(はな)ちてよ。さらばひろきめもみん。大水に行(ゆき)て頼もしくなんあるべき」といふ。夢さめて、「かゝる夢をこそみつれ」と語れば、「いかなることにか」といひて、日暮(くれ)ぬ。 その日になりて、午(うま)のときの未より、俄に空かきくもりて、木を折(お)り、家を破(やぶる)風いできぬ。人々あわ(は)てて(ゝ)、家共(ども)つくろひさわ(は)げども、風いよいよ吹増(ふきまさ)りて、村里の家どもみな吹倒(ふきたを)し、野山の竹木倒(たを)れ折(お)れぬ。此寺、誠に未(ひつじ)の時斗(ばかり)に、吹倒(ふきたう)されぬ。柱折(はしらお)れ、棟(むね)くづれて、ずちなし。さる程に、うら板の中に、とし此(ごろ)の雨(あま)水たまりけるに、大なる魚共(ども)おほかり。其(その)わたりの者(物)ども、桶をさげて、みなかき入(い)れさわ(は)ぐほどに、三尺ばかりなる鯰の、ふたふたとして庭にはひ出(いで)たり。夢のごとく、上覚がまへに来(き)ぬるを、上覚(かく)思ひもあへず、魚の大にたのしげなるにふけりて、かな杖の大なるをもちて、頭につきたてて、我(わが)太郎童部をよびて、「これ」といひければ、魚大にてうちとらねば、草刈鎌(鎗)といふものをもちて、あぎとをかききりて、物につゝませて、家にもて入(いり)ぬ。さて、こと魚などしたゝめて、桶に入(いれ)て、女どもにいたゞかせて、我(わが)坊にかへりたれば、妻の女「この鯰は夢にみえける魚にこそあめれ。なにしに殺(ころ)し給うへるぞ」と、心うがれど、「こと童部の殺(ころ)さましもおなじこと。あへなん、我は」などと(ゝ)いひて、「こと人まぜず、太郎、次郎童など食(くひ)たらんをぞ、故御房はうれしとおぼさん」とて、つぶつぶときり入(いれ)て、煮(うを)て食(くひ)て、「あやしう、いかなるにか。こと鯰(なまづ)よりもあぢはひのよきは、故御房の肉(しゝむら)なれば、よきなめり。これが汁(しる)すゝれ」など、あひして食(くひ)ける程に、大なる骨喉(のど)にたてて(ゝ)、えう(ら)えうといひける程に、とみに出(いで)ざりければ、苦痛(くつう)して、遂(つゐ)に死(しに)侍り。妻はゆゝしがりて、鯰(なまづ)をば食(く)はずなりにけりとなん。 一六九 念仏の僧魔往生の事[巻第十三・九] 昔、美濃国伊吹(みののくにいぶき)山に、久しく行ひける聖(ひじり)ありけり。阿弥陀仏(あみだぶつ)より外(ほか)の事知らず、他事(たじ)なく念仏申してぞ年経にける。夜深く、仏の御前に念仏申して居たるに、空に声ありて告げて日(いは)く、汝(なんぢ)、ねんごろに我を頼めり。今は念仏の数多く積りたれば、明日(あす)の未(ひつじ)の時に、必ず必ず来たりて迎ふべし。ゆめゆめ念仏怠るべからず」といふ。その声を聞きて、限(かぎり)なくねんごろに念仏申して、水を浴(あ)み、香をたき、花を散(ちら)して、弟子どもに念仏もろともに申させて、西に向ひて居たり。やうやうひらめくやうにする物あり。手を摺(す)りて、念仏申して見れば、仏の御身より金色(こんじき)の光を放ちて、さし入りたり。秋の月の、雲間より現れ出でたるがごとし。さまざまの花を降らし、白毫(びやくがう)の光、聖(ひじり)の身を照(てら)す。この時、聖尻をさかさまになして拝みに入る。数珠(ずず)の緒も切れぬべし。観音、蓮台(れんだい)を差し上げて、聖の前に寄り給ふに、紫雲あつくたなびき、聖這(は)ひ寄りて、蓮台に乗りぬ。さて西の方(かた)へ去り給ひぬ。坊に残れる弟子ども、泣く泣く貴(たふと)がりて、聖の後世をとぶらひけり。 かくて七八日過ぎて後(のち)、坊の下種(げす)法師ばら、念仏の僧に、湯沸(わか)して浴(あむ)せ奉らんとて、木こりに奥山に入りたりけるに、遥(かるか)なる滝にさし掩(おほ)ひたる杉の木あり。その木の梢(こずゑ)に叫ぶ声しけり。怪(あや)しくて見上げたれば、法師を裸になして、梢に縛りつけたり。木登(きのぼり)よくする法師、登りて見れば、極楽(ごくらく)へ迎へられ給ひし我が師の聖を、葛(かづら)にて縛りつけて置きたり。この法師、「いかに我が師は、かかる目をば御覧ずるぞ」とて、寄りて縄を解きければ、「『今迎へんずるぞ、その程暫(しば)しかくて居たれ』とて、仏のおはしまししをば、何(なに)しにかく解きゆるすぞ」といひけれども、寄りて解きければ、「阿弥陀仏(あみだぶつ)、我を殺す人あり。をうをう」とぞ叫びける。されども法師ばらあまた登りて、解きおろして、坊へ具(ぐ)して行(ゆ)きたれば、弟子ども、「心憂(こころう)き事なり」と歎(なげ)き惑ひけり。聖は人心もなくて、二日三日ばかりありて死にけり。智恵なき聖は、かく天狗(てんぐ)に欺(あざむ)かれけるなり。 一七〇 慈覚大師入(り)纐纈(かうけち)城(じゃう)行(く)事[巻一三・一〇] 昔、慈覚(じかく)大師、佛法をならひ傳へんとて、もろこしへ渡(わたり)給(たまひ)ておはしける程に、曾昌(くわいしやう)年中に、唐武宗(たうのぶそう)、佛法をほろぼして、堂塔をこぼち、僧尼をとらへて失ひ、或は還俗(ぜんぞく)せしめ給(たまふ)乱(らん)に合(あひ)給へり。大師をもとらへむとしけるほどに、逃(にげ)て、ある堂のうちへ入(いり)給(たまひ)ぬ。その使、堂へ入(い)りてさがしける間、大師、すべきかたなくて、佛の中に逃(にげ)いりて、不動を念(ねんじ)給(たまひ)ける程に、使求(もとめ)けるに、あたらしき不動尊、佛の御中におはしける。それ〔を〕あやしがりて、いだきおろしてみるに、大師もとの姿(すがた)になり給(たまひ)ぬ。使、おどろきて、御門(みかど)に此(この)よし奏(そう)す。御門仰(おほせ)られけるは、「他国の聖(ひじり)なり。すみやかに追(を)ひ放(はな)つべし」と仰(おほせ)ければ放(はな)ちつ。 大師、喜(よろこび)て、他国(たこく)へ逃(にげ)給(たまふ)に、はるかなる山をへだてて、人の家あり。築(筑)地(ぢ)高くつきめぐらして、一つの門あり。そこに、人たてり。悦(よろこび)をなして、問(と)ひ給(たまふ)に、「これは、ひとりの長者の家なり。わ僧は何人ぞ」と問ふ。答(こたへ)ていはく、「日本国より、佛法ならひつたへむとてわれたる僧なり。しかるに、かく浅ましき乱(みだ)れにあひて、しばらくかくれてあらんと思ふ(おもふ)なり」といふに、「これは、おぼろけに人のきたらぬ所也。しばらくここにおはして、世しづまりてのち出(いで)て、佛法も習(ならひ)給へ」といへば、大師喜(よろこび)をなして、内へいりぬれば、門をさしかためて、おくのかたに入(いる)に、しりにたちて行(ゆき)て見れば、さまざまの屋(や)どもつくりちづけて、人多(おほ)くさわがし。かたはらなる所に据ゑ(すへ)つ。 さて佛法ならひつべき所やあると、見(み)ありき給(たまふ)に、佛經、僧侶等(に)すべて見(み)えず。うしろの方、山によりて一宅(たく)あり。よりて聞(き)けば、人のうめく聲あまたす。あやしくて、垣のひまより見(み)給へば、人をしばりて、上よりつりさげて、下につぼどもを据ゑ(すへ)て、血をたらし入(い)る。浅ましくて、故(ゆへ)を問(と)へども、いらへもせず。大にあやしくて、又異(こと)所(どころ)を聞(き)けば、おなじくによふ音す。おぞきて見れば、色あさましう青びれたる者(もの)どもの、やせ損(そむ)じたる、あまた臥(ふ)せり。一人を招(まね)きよせて、「これはいかなることぞ。かやうにたへがたげには、いかであるぞ」と問へば、木のきれをもちて、細(ほそ)きかひなを差(さ)しいでて、土に書(かく)をみれば、「これは纐纈城(かうけちじやう)なり。これへきたる人には、まづ物いはぬ薬を食(く)はせて、次に肥(こ)ゆる薬(くすり)を食(く)はす、さてその後(のち)高き所につりさげて、ところどころをさし切(き)りて、血をあやして、その血(ち)にて纐纈をそめて、うり侍(はべる)なり。これしらずして、それは物いはぬ薬(くすり)なり、さる物参(まい)らせたらば、食(くふ)まねをして捨(して)給へ。さて人の物申さば、うめきのみうめき給へ。さて後に、いかにもして、逃(にぐ)べきしたくをして、逃(にげ)給へ。門はかたくさして、おぼろげにて逃(にぐ)べきやうなし」と、いはしく教(をし)へければ、有(あり)つる居所に帰(かへり)ゐ給(たまひ)ぬ。 さる程に、人、食(くひ)物もちてきたり。教(をし)へつるやうに、気(け)色のあるもの、中にあり。食(く)ふやうにして、ふところに入(いれ)て、にちにすてつ。人来りて物を問(と)へば、うめきて物ものたま(給)はず。今(いま)はしほせたりと思(おもひ)て、肥(こゆ)べき薬を、さまざまにして食(く)はすれば、おなじく、食(く)ふまねして食(く)はず。人の立(た)ちさりたるひまに、丑寅(うしとら)の方にぬかひて、「我山の三寶、たすけ給へ」と、手をすりて祈請し給(たまふ)に、大なる犬(いぬ)一ぴき出(い)できて、大師御袖をくひて引(ひく)。様(やう)ありとおぼえて、引(ひく)かたに出給(いでたまふ)に、思(おもひ)かけぬ水門のあるよりひき出(いだ9しつ。外に出(いで)ぬれば、犬(いぬ)は失(うせ)にけり。今(いま)はかうとおぼして、足(あし)のむきたるかたへ走(はし)り給ふ。はるかに山をこえて人里あり。人あひて、「これは、いづかたくょりはおはする人の、かくは走給(はしりたまふ)ぞ」と問ひければ、「かかる所へ行(ゆき)たりつるが、逃(にげ)てまかるなり」とのたまふ(給)に、「哀(あはれ)、浅ましかりける事かな。それは纐纈城なり。かしこへ行(ゆき)ぬる人の帰(かへる)ことなし。おぼろけの佛の御助ならでは、出(いづ)べきやうなし。あはれ、貴くおはしける人かな」とて、おがみてさりぬ。 それよりいよいよ逃(にげ)のきて、又都へ入(いり)て、しのびておはするに、曾昌六年に武宗崩じ給(たまひ)ぬ。翌年大中元年、宣宗位につき給(たまひ)て、佛法ほろぼすことやみぬれば、思ひのごとく佛法ならひ給(たまひ)て、十年といふに、日本へ帰(かへり)給(たまひ)て、真言(しんごん)をひろめ給ひけりとなん。 一七一 渡天の僧穴に入る事[巻一三・十一] 今は昔、唐(もろこし)にあろける僧の、天竺(てんぢく)に渡りて、他事にあらず、ただ物のゆかしければ、物見にしありきければ、所々見行きけり。ある片山に、大(おほき)なる穴あり。牛のありけるがこの穴に入りけるを見て、ゆかしく覚えければ、牛の行くにつきて、僧も入りけり。遙に行きて、明き所へ出でぬ。見まはせば、あらぬ世界と覚えて、見も知らぬ花の色のいみじきが、咲き乱れたり。牛この花を食ひけり。試みにこの花を一房取りて食ひたりければ、うまき事、天の甘露(かんろ)もかくあらんと覚えて、めでたかりけるままに、多く食ひたりければ、ただ肥えに肥え太りけり。 心得ず恐ろしく思ひて、ありつる穴の方へ帰り行くに、初めはやすく通りつる穴、身の太くなりて、狭(せば)く覚えて、やうやうとして、穴の口までは出でたれども、え出でずして、堪へ難き事限なし。前を通る人に「これ助けよ」と呼ばはりけれども、耳に聞き入るる人もなし。助くる人もなかりけり。人の目にも何と見えけるやらん、不思議なり。日比(ひごろ)重りて死にぬ。後は石になりて、穴の口に頭をさし出したるやうにてなんありける。玄奘三蔵天竺(げんじやうさんぞうてんぢく)に渡り給ひたりける日記に、この由記されたり。 一七二 寂昭上人(じやくせうしやうにん)鉢(はち)を飛(とば)す事[巻第一三・一二] 今は昔、三河入道寂昭といふ人、唐(もろこし)に渡りて後(のち)、唐の王、やんごとなき聖(ひじり)どもを召し集めて、堂を飾りて、僧膳を設けて、経を講じ給ひけるに、王のたまはく、「今日(けふ)の斎莚(さいえん)は、手長(てなが)の役あるべからず。おのおの我が鉢を飛(とば)せやりて、物は受くべし」とのたまふ。その心は、日本僧を試みんがためなり。 さて諸僧、一座より次第に鉢を飛(とば)せて、物を受く。三河入道末座に着きたり。その番に当(あた)りて、鉢を持ちて立たんとす。「いかで。鉢をやりてこそ受けめ」とて、人々制しとどめけり。寂昭申しけるは、「鉢を飛(とば)する事は、別(べつ)の法を行ひてするわざなり。然(しか)るに寂昭、いまだこの法を伝へ行はず。日本国に於ても、この法行ふ人ありけれど、末世には行ふ人なし。いかでか飛(とば)さん」といひて居たるに、「日本の聖、鉢遅し鉢遅し」と責めければ、日本(にっぽん)の方に向ひて、祈念して曰(いは)く、「我が国の三宝、神祇(じんぎ)助け給へ。恥見せ給ふな」と念じ入りて居たる程に、鉢独楽(こまつぶり)のやうにくるめきて、唐の僧の鉢よりも速く飛びて、物を受けて帰りぬ。その時、王より始めて、「やんごとなき人なり」とて、拝みけるとぞ申し伝へる。 一七三 清瀧川(きよたきがは)の聖の事[巻第一三・一三]  今は昔、清瀧河のおくに、柴の庵(いほり)をつくりておこなふ僧有(あり)ける。水ほしき時は、水瓶(すゐびゃう)を飛(とば)して、くみにやりて呑(のみ)けり。年經にければ、かばかりの行者はあらじと、時々慢心(まんしん)おこりけり。 かゝりける程に、我(わが)ゐたる上ざまより、水瓶來て、水をくむ。いかなる者の、又かくはするやらんと、そねましくおぼえければ、みあらはさんと思ふ程に、例の水瓶飛(とび)來て、水をくみて行(ゆく)。其(その)時、水瓶につきて行(ゆき)てみるに、水上に五六十町上りて、庵見ゆ。行(行き)て見れば、三間斗(ばかり)なる庵あり。持佛堂、別にいみじく造(つくり)たり。まことに、いみじう貴とし。物きよくすまひたり。庭に橘(たちばな)の木あり。木下(きのした)に行道(ぎゃうだう)したる跡あり。閼伽棚(あかだな)のしたに、花がら多くつもれり。みぎりに苔むしたり。かみさびたること限なし。窓のひまよりのぞけば、机に經多く巻(まき)さしたるなどあり。不断香(ふだんかう)の煙みちたり。能(よく)見れば、歳七八十ばかりなる僧の貴げなり。五鈷をにぎり、脇息(けふそく)におしかゝりて、眠(ねむり)ゐたり。 此(この)聖を試みんと思ひて、やはらよりて、火界咒をもちて加持す。火焔俄におこりて庵につく。聖、眠(ねむり)ながら散杖(さんじゃう)をとりて、香水(かうすい)にさしひたして、四方にそゝく。そのとき庵の火はきえて、我(わが)衣に火つきて、たゞやきにやく。下の聖、大声をはなちてまどふ時に、上の聖、めをみあげて、散杖を持(もち)て、下の聖の頭にそゝく。其(その)時火きえぬ。上の聖いはく、「何料にかゝるめをばみるぞ」と問(とふ)。こたへて云(いはく)、「これは、とし比(ごろ)、川のつらに庵をむすびて、おこなひ候(さぶらふ)修行者にて候。此程、水瓶の來て、水をくみ候(さぶらひ)つるときに、いかなる人のおはしますぞと思候(おもひさぶらひ)て、みあらはし奉らんとて参(まゐり)たり。ちと試みたてまつらんとて、加持しつるなり。御ゆるし候へ。けふよりは御弟子になりて仕(つかへ)侍らん」といふに、聖、人は何事いふぞとも思はぬげにてありけりとぞ。 下の聖、我ばかり貴き者はあらじと、驕慢の心のありければ、佛の、にくみて、まさる聖をまうけて、あはせられけるなりとぞ、かたり傳(つたへ)たる。 一七四 優婆崛多(うばくった)の弟子の事[巻第一三・一四]  今は昔、天竺に、佛の御弟子優婆崛多といふ聖おはしき。如来滅後百年ばかりありて、其聖に弟子ありき。いかなる心ばへをか見給(たまひ)たりけん、「女人に近づくことなかれ。女人に近(ちか)づけば、生死にめぐること車輪のごとし」と、つねにいさめ給(たまひ)ければ、弟子の申さく、「いかなる事を御覧じて、たびたび、かやうにうけたまはるぞ。我も證果(しゃうくわ)の身にて侍れば、ゆめ女に近づくことあるべからず」と申(まうす)。 餘の弟子共(ども)も、此(この)中にはことに貴き人を、いかなればかくのたまふらんと、あやしく思(おもひ)けるほどに、この弟子の僧、物へ行(ゆく)とて河をわたりける時、女人出來(いでき)て、おなじく渡りけるが、たゞ流(ながれ)に流れて、「あらかなし。われをたすけ給へ。あの御坊」といひければ、師ののたまひし事あり。耳に聞入(ききいれ)じと思(おもひ)けるが、たゞ流れにうきしづみ流れければ、いとほしくて、よりて手をとりて引(ひき)わたしつ。手のいと白くふくやかにて、いとよかりければ、この手をはなしえず。女、「今[は]手をはづし給へかし」、物おそろしきものかなと、思(おもひ)たるけしきにていひければ、僧のいはく、「先世(せんぜ)の契ふかきことやらん。きはめて心ざしふかく思ひ聞ゆ。わが申さんこと、きゝ給ひてんや」といひければ、女こたふ、「たゞいま死ぬべかりつる命を助け給(たまひ)たれば、いかなることなりとも、なにしにかは、いなみ申さん」といひければ、うれしく思(おもひ)て、萩(はぎ)、すゝきのおひ茂りたるところへ、手をとりて、「いざ給へ」とて、引(ひき)いれつ。  おしふせて、たゞ犯(おかし)に犯さんとて、股にはさまれてある折、この女を見れば、我師(わがし)の尊者なり。淺ましく思ひて、ひきのかんとすれば、優婆崛多、股につよくはさみて、「なんの料に、此(この)老法師をば、かくはせたむるぞや。これや汝、女犯(にょほん)の心なき證果の聖者なる」とのたまひければ、物覺(おぼえ)ず、はづかしくなりて、はさまれたるを逃れんと[すれど]も、すべて強くはさみてはづさず。さてかくのゝしり給(たまひ)ければ、道行(みちゆく)人集りてみる。あさましく、はづかしきこと限なし。  かやうに諸人に見せて後、おき給(たまひ)て、弟子をとらへて寺へおはして、鐘をつき、衆會をなして、大衆にこのよし語り給(たまふ)。人々笑ふ事かぎりなし。弟子の僧、生きたるにもあらず、死(しに)たるにもあらずおぼえけり。かくのごとく、罪を懺悔してければ、阿那含果(ごんくわ)をえつ。尊者、方便をめぐらして、弟子をたばかりて、佛道に入(いら)しめ給(たまひ)けり。 宇治拾遺物語 巻第一四 一七五 海雲比丘(かいうんびく)の弟子童(わらは)の事[巻第一四・一]  今は昔、海雲比丘、道を行給(ゆきたまふ)に、十餘歳斗(ばかり)なる童子、みちにあひぬ。比丘、童に問(とひ)て云(いふ)、「何の料の童ぞ」とのたまふ。童答云(こたへていふ)、「たゞ道まかる者にて候」といふ。比丘云(いふ)、「なんぢは法華經はよみたりや」ととへば、童云(いふ)、「法華經と申(まうす)らん物こそ、いまだ名をだにも聞き候はね」と申(まうす)。比丘又いふ、「さらば我(わが)房に具して行(ゆき)て、法華經教へん」とのたまへば、童「仰にしたがふべし」と申(まうし)て、比丘の御供に行(ゆく)。五臺山の坊に行きつきて、法華經を教へ給(たまふ)。 經を習(ならふ)ほどに、小僧常に來て物語を申(まうす)。たれ人としらず。比丘ののたまふ、「つねに來る小大徳をば、童はしりたりや」と。童「しらず」と申(まうす)。比丘の云(いふ)、是(これ)こそ此(この)山に住給(すみたまふ)文殊よ。我に物語しに來給(きたりたまふ)也」と。かうやうに教へ給へども、童は文殊と云(いふ)事もしらず候(さぶらふ)なり。されば、何とも思(おもひ)奉らず。比丘、童にのたまふ、「汝、ゆめゆめ女人に近づくことなかれ。あたりを拂(はらひ)て、なるなることなかれ」と。童、物へ行(ゆく)ほどに、葦毛なる馬に乗(のり)たる女人の、いみじく假粧してうつくしきが、道にあひぬ。この女の云(いふ)、「われ、この馬のくち引きてたべ。道のゆゝしくあしくて、落ちぬべくおぼゆるに」といひけれども、童、みゝにも聞きいれずして行(ゆく)に、この馬あらだちて、女さかさまに落ちぬ。恨(うらみ)て云(いふ)、「われを助(たすけ)よ。すでに死(しぬ)べくおぼゆるなり」といひけれども、猶(なほ)みゝに聞入(ききいれ)ず。我(わが)師の、女人のかたはらへよることなかれとのたまひしにと思(おもひ)て、五臺山へかへりて、女のありつるやうを比丘にかたり申(まうし)て、「されども、みゝにも聞きいれずして歸(かへり)ぬ」と申(まうし)ければ、「いみじくしたり。その女は、文殊の化して、なんぢが心を見給(たまふ)にこそあるなれ」とて、ほめ給(たまひ)ける。 さる程に、童は法華經を一部よみ終(おはり)にけり。其時、比丘のたまはく、「なんぢ法華經をよみはてぬ。今は法師となりて受戒すべし」とて、法師になされぬ。「受戒をば〔我は〕さづくべからず。東京(とうけい)に禅定寺にいまする、りん法師と申(まうす)人、この比(ごろ)おほやけの宣旨を蒙(かふぶり)て、受戒を行給(おこなひたまふ)人なり。其(その)人のもとへ行(ゆき)て受くべきなり。たゞいまは汝を見るまじきことのあるなり」とて、泣給(なきたまふ)こと限りなし。童の〔申(まうす)〕、「受戒仕(つかまつり)ては、則歸(すなはちかへり)参り候(さぶらふ)べし。いかにおぼしめして、かくは仰候(おほせさぶらふ)ぞ」と。又「いかなれば、かく泣かせ給(たまふ)ぞ」と申せば、「たゞかなしきことの有(ある)なり」とて泣き給(たまふ)。さて童に、「戒師の許に行(ゆき)たらんに、「いづかたよりきたる人ぞ」と問はば、「清涼山の海雲比丘のもとより」と申(まうす)べきなり」と教へ給(たまひ)て、なくなく見送り給(たまひ)ぬ。  童、おほせにしたがひて、りん法師のもとにゆきて、受戒すべきよし申(まうし)ければ、案のごとく、「いづかたより來(きた)る人ぞ」と問給(とひたまひ)ければ、教へ給(たまひ)つるやう申(まうし)ければ、りん法師驚(おどろき)て、「貴き事なり」とて、禮拜して云(いふ)、「五臺山には文殊のかぎり住給(すみたまふ)所なり。なんぢ沙彌(しゃみ)は、海雲比丘の善知識にあひて、文殊をよくおがみ奉りけるにこそありけれ」とて、貴ぶ事限なし。さて受戒して、五臺山へ歸(かへり)て、日ごろゐたりつる坊の在所を見れば、すべて人の住(すみ)たるけしきなし。泣々(なくなく)ひと山を尋(たづね)ありけども、つひに在所なし。  これは優婆崛多の弟子の僧、かしこけれども、心よはく、女に近づきけり。これはいとけなけれども、心つよくて、女人に近づかず。かるが故に、文殊、これを、かしこき者なれば、教化(けうけ)して佛道に入(いら)しめ給(たまふ)なり。されば世の人、戒をばやぶるべからず。 一七六 寛朝僧正勇力の事 [巻一四・二]  今は昔、遍照寺(へんぜうじ)僧正寛朝といふ人、仁和寺をもしりければ、仁和寺のやぶれたるところ修理せさすとて、番匠(ばんじゃう)どもあまたつどひて作(つくり)けり。日暮(くれ)て、番匠ども、おのおの出でてのちに、けふの造作はいかほどしたるぞとみむと思(おもひ)て、僧正、中結ひうちして、たかあしだはきて、たゞひとり歩みきて、あかるくいども結ひたるもとにたちまはりて、なま夕暮にみられける程に、くろき装束したる男の、烏帽子引(ひき)たれて、かほたしかにも見えずして、僧正の前に出來(いでき)て、ついゐて、刀をさかさまにぬきて、ひきかくしたるやうにもてなして居たりければ、僧正「かれは何者ぞ」と問(とひ)けり。男、かた膝をつきて、「わび人に侍り。寒さのたへがたく侍(はべる)に、そのたてまつりたる御衣、一二(ひとつふたつ)、おろし申さんと思給(おもひたまふる)なり」といふまゝに、飛(とび)かゝらんと思(おもひ)たるけしきなりければ、「ことにもあらぬことにこそあんなれ。かくおそろしげにおどさずとも、たゞ乞はで、けしからぬぬしの心ぎはかな」といふまゝに、〔ちうと立ちめぐりて、尻をふたと蹴たりければ、蹴らるるまゝに〕、男かきけちて見えずなりにければ、やはら歩み歸(かへり)て、坊のもと近く行(ゆき)て、「人やある」と、たかやかによびければ、坊より、小法師走來(はしりき)にけり。僧正「行(ゆき)て火ともして來よ。こゝに我衣はがんとしつる男の、俄に失(うせ)ぬるがあやしければ、見んと思ふぞ。法師ばら、よび具して來」と、のたまひければ、小法師、走(はしり)かへりて、「御坊ひはぎにあはせ給(たまひ)たり。御房たち、参り給へ」と、よばゝりければ、坊々にありとある僧ども、火ともし、太刀さげて、七八人、十人と出できにけり。 「いづくにぬす人はさぶらふぞ」と問(とひ)ければ、「爰(ここ)にゐたりつる盗人の、我衣をはがむとしつれば、はがれては寒かりぬべくおぼえて、しりをほうと蹴たれば、うせぬるなり。火を高くともして、かくれ居るかと見よ」とのたまひければ、法師ばら「をかしくも仰(おほせ)らるゝかな」とて、火をうちふりつゝ、かみざまを見るほどに、あかるくいの中におちつまりて、えはたらかぬ男あり。「かしこにこそ人は見え侍(はべり)けれ。番匠にやあらんと思へども、くろき装束したり」といひて、のぼりて見れば、あかるくいの中におちはさまりて、みじろぐべきやうもなくて、うんじ顔つくりてあり。さかてにぬきたりける刀は、いまだ持(もち)たり。それを見つけて、法師ばらよりて、刀も、もとどりも、かいなとを、とりてひきあげて、おろして率て参りたり。具して坊に歸りて、「今より後、老法師とて、なあなづりそ。いとびんなきことなり」といひて、着たりける衣の中に、綿あつかりけるをぬぎて、とらせて、追ひいだしてやりてけり。 一七七 經頼蛇(つねよりくちなは)にあふ事[巻一四・三] 昔、經頼(つねより)といひける相撲(すまひ)の家のかたはらに、ふる河の有(あり)けるが、ふかき淵なる所ありけるに、夏、その川ちかく、木陰のありければ、かたびらばかり着て、中ゆひて、あしだはきて、またぶり杖(づえ)といふものにつき、小童ひとり供に具して、とかく歩(あり)きけるが、涼まんとて、そのふちのかたはらの木陰に居りけり。ふち青(あを)くおそろしげにて、底もみえず。あし、こもなどいふ物、おひしげりたりけるを見て、汀(みぎは)ちかくたてりけるに、あなたの岸は、六七たんばかりはのきたるらんと見ゆるに、水のみなぎりて、こなたざまに來ければ、なにのするにかあらんと思(おもふ)程に、このかたの汀ちかくなりて、蛇(くちはな)の頭をさし出でたりければ、「この蛇大ならんかし。とざまにのぼらんとするにや」と見立(みた)てりけるほどに、蛇、かしらをもたげて、つくづくとまもりけり。 いかに思ふにかあらんと思ひて、汀一尺ばかりのきて、はた近く立(たち)てみければ、しばしばかり、まもりまもりて、頭を引入(ひきいれ)てけり。さてあなたの岸ざまに、水みなぎると見ける程に、又こなたざまに水波たちてのち、蛇の尾を汀よりさしあげて、わが立てる方ざまにさしよせければ、「この蛇、思ふやうのあるにこそ」とて、まかせて見立てりければ、猶さしよせて、經頼が足を三四返ばかりまとひけり。いかにせんずるにかあらんと思(おもひ)て、立てるほどに、まとひ得て、きしきしとひきければ、川に引きいれんとするにこそありけれと、その折に知りて、ふみつよりて立てりければ、いみじうつよく引(ひく)と思ふほどに、はきたるあしだのはをふみ折りつ。引倒(ひきたを)されぬべきをかまへてふみ直りて立てれば、つよくひくともおろかなり。ひきとられぬべくおぼゆるを、足をつよくふみ立てければ、かたつらに五六寸斗(ばかり)足をふみいれて立てりけり。よくひくなりと思ふほどに、縄などの切るゝやうに切るゝまゝに、水中に血のさつとわき出(い)づる様にみえければ、きれぬる也とて、足をひきければ、蛇引(くちなはひき)さしてのぼりけり。 そのとき、足にまとひたる尾をひきほどきて、足を水にあらひけれども、蛇の跡うせざりければ、「酒にてぞあらふ」と、人のいひければ、酒とりにやりてあらひなどしてのちに、從者共(ずさども)よびて、尾のかたを引(ひき)あげさせたりければ、大きなりどもおろかなり。きり口の大さ、わたり一尺ばかりあるらんとぞ見えける。かしらの方のきれを見せにやりたりければ、あなたの岸に木の根のありけるに、かしらにかたを、あまたかへりまとひて、尾をさしおこして、あしをまとひて引(ひく)なりけり。力おおとりて、中より切れにけるなめり。我(わが)身の切るゝをもしらず引きけん、あさましきことなりかし。 其後蛇(くちなは)の力のほど、いくたりばかりの力にかありしとこゝろみんとて、大なる縄を、蛇の巻きたる所につけて、人十人ばかりして引かせけれども、「猶(なほ)たらずたらず」といひて、六十人ばかりかゝりて引きける時にぞ、「かばかりぞおぼえし」といぎける。それを思ふに、經頼が力は、さは百人ばかりが力をもたるにやとおぼゆるなり。 一七八 魚養(うをかひ)の事[巻第十四・四] 今は昔、遣唐使(けんたうし)の唐(もろこし)みある間(あひだ)に、妻を設けて、子を生(う)ませつ。その子いまだいとけなき程に、日本に帰る。妻に契(ちぎ)りて日(いか)く、「異(こと)遣唐使行(い)かんにつけて、消息(そうこう)やるべし。またこの子、乳母(めのと)離れん程には迎へ取るべし」と契りて帰朝しぬ。母、遣唐使の来(く)るごとに、「消息やある」と尋ぬれど、敢へて音もなし。母大(おほき)に恨みて、この児(ちご)を抱(だき)きて、日本へ向きて、児の首に、遣唐使それがしが子といふ札を書きて、結(ゆ)ひつけて、「宿世(すくせ)あらば、親子の中は行きあひなん」といひて、海に投げ入れて帰りぬ。 父ある時難波(なには)の浦の辺(へん)を行くに、沖の方(かた)に鳥の浮(うか)びたるやうにて、白き物見ゆ。近くなるままに見れば、童(わらは)に見なしつ。怪(あや)しければ、馬を控へて見れば、いと近く寄りくるに、四つばかりなる児の、白くをかしげなる、波につきて寄り来たり。馬をうち寄せて見れば、大(おほき)なる魚の背中に乗れり。従者(ずさ)をもちて、抱(いだ)き取らせて見ければ、首に札あり。遣唐使それがしが子と書けり。さは、我が子にこそありけれ、唐(もろこし)にて言ひ契りし児を、問はずとて、母が腹立ちて、海に投げ入れてけるが、然(しか)るべき縁ありて、かく魚に乗りて来たるなめりと、あはれに覚えて、いみじうかなしくて養ふ。遣唐使の行きけるにつけて、この由(よし)を書きやりたりければ、母も、今ははかなきものに思ひけるに、かくと聞きてなん、希有(けう)の事なりと悦(よろこ)びける。 さてこの子、大人(おとな)になるままに、手をめでたく書きけり。魚に助けられたりければ、名をば魚養(うをかひ)とぞつけたりける。七大寺の額(がく)どもは、これが書きたるなりけりと。 一七九 新羅国(しらぎのくに)の后(きさき)金の榻(しぢ)のこと[巻一四・五] これも今は昔、新羅国に后おはしけり。その后、忍びて密男(みそかをとこ)を設(まう)けてけり。御門(みかど)この由(よし)を聞き給ひて、后を捕へて、髪に繩をつけて、上(うへ)へつりつけて、足を二三尺引き上げて置きたりければ、すべきやうもなくて、心のうちに思ひ給ひけるやう、かかる悲しき目を見れども、助くる人もなし。伝へて聞けば、この国より東に日本といふ国あなり。その国に長谷観音(はせくわんおん)と申す仏現(げん)じ給ふなり。菩薩(ぼさつ)の御慈悲、この国まで聞(きこ)えてはかりなし。たのみをかけ奉らば、などかは助け給はざらんとて、目をふさぎて、念じ入り給ふほどに、金の榻(しぢ)足の下に出で来ぬ。それを踏(ふま)へて立てるに、すべて苦しみなし。人の見るには、この榻見えず。日此(ひごろ)ありて、ゆるされ給ひぬ。 後(のち)に、后、持ち給へる宝どもを多く、使(つかひ)をさして長谷寺に奉り給ふ。その中に大(おほき)なる鈴、鏡、金(かね)の簾(すだれ)今にありとぞ。かの観音念じ奉れば、他国の人も験(しるし)を蒙(かうぶ)らずといふ事なしとなん。 一八〇 玉の価(あたひ)はかりなき事[巻第一四・六] これも今は昔、筑紫(つくし)に丈夫さだしげと申す者ありけり。この比(ごろ)ある箱崎の丈夫のりしげが祖父(おほぢ)なり。そのさだしげ京上(きゃうのぼり)しけるに、故(こ)宇治殿に参らせ、またわたくしの知りたる人々にも心ざさんとて、唐人に物を六七千疋(びき)が程借(か)るとて、太刀(たち)を十腰(こし)ぞ質(しち)に置きける。 さて京に上(のぼ)りて、宇治殿に参らせ、思(おもひ)のままにわたくしの人人にやりなどして、帰り下(くだ)りけるに、淀(よど)にて舟に乗りける程に、人設(まう)けしたりければ、これぞ食ひなどして居たりける程に、端舟(はしぶね)にて商(あきなひ)をする者ども寄り来て、「その物や買ふ。かの物や買ふ」など尋ね問ひける中に、「玉をや買ふ」といひけるを、聞き入るる人もなかりけるに、さだしげが舎人(とねり)に仕へけるをのこ、舳(へ)に立てりけるが、「ここへ持(も)ておはせ。見ん」といひければ、袴(はかま)の腰よりあこやの玉の、大(おほき)なる豆ばかりありけるを取り出(いだ)して、取らせたりければ、着たりける水干(すいかん)を脱ぎて、「これにかへてんや」といひければ、玉の主(ぬし)の男、所得(せうとく)したりと思ひけるに、惑(まど)ひ取りて、舟さし放ちて去(い)にければ、舎人も高く買ひたるにやと思ひけれども、惑ひ去(い)にければ、悔(くや)しと思ふ思ふ、袴の腰に包みて、異(こと)水干着かへてぞありける。 かかる程に、日数積(つも)りて、博多(はかた)といふ所に行き着きにけり。さだしげ舟よりおるるままに、物貨したりし唐人のもとに、「質(しち)は少なかりしに、物は多くありし」などいはんとて、行きたりければ、唐人も待ち悦(よろこ)びて、酒飲ませなどして物語しける程に、この玉持(たまもち)のをのこ、下種(げす)唐人にあひて、「玉や買ふ」といひて、袴(はかま9の腰より玉を取り出でて取らせければ、唐人玉を受け取りて、手の上に置きて、うち振りて見るままに、あさましと思ひたる顔気色にて、「これはいくら程」と問ひければ、ほしと思ひたる顔気色(かほけしき)見て、「十貫」といひければ、惑(まど)ひて、「十貫に買はん」といひけり。「まことは廿貫といひければ、それをも惑ひ、「買はん」といひけり。さては価(あたひ)高き物にやあらんと思ひて、「賜(た)べ、まづ」と乞(こ)ひけるを、惜(おし)みけれども、いたく乞ひければ、我にもあらで取らせたりければ、「今よく定めて売らん」とて、袴の腰に包みて、退(の)きにければ、唐人すべきやうもなくて、さだしげと向ひたる船頭がもとに来て、その事ともなくさへづりければ、この船頭うち頷(うなづ)きて、さだしげにいふやう、「御従者(ずんざ)の中に、玉持ちたる者あり。その玉取りて給(たまは)らん」といひければ、さだしげ、人を呼びて、「この共なる者の中に、玉持ちたる者やある。それ尋ねて呼べ」といひてれば、このさへづる唐人走り出でて、やがてそのをのこの袖を控へて、「くは、、これぞこれぞ」とて、引き出でたりければ、さだしげ、「まことに玉や持ちたる」と問ひければ、しぶしぶに、候由(さぶらふよし)をいひければ、「いで、くれよ」と乞はれて、袴の腰より取り出でたりけるを、さだしげ、郎等(らうどう)して取らせけり。それを取りて、向ひ居たる唐人、手に入れ受け取りて、うち振りみて、立ち走り、内に入りぬ。何事にもかあらんと見る程に、さだしげが七十貫が質に置きし太刀(たち)どもを、十ながら取らせたりければ、さだしげはあきれたるやうにてぞありける。古水干(ふるすいかん)一つにかへたるものを、そこばくの物にかへてやみにけん、げにあきれぬべき事ぞかし。 玉の価(あたひ)は限(かぎり)なきものといふ事は、今始めたる事にはあらず。筑紫(つくし)にたうしせうずをいふ者あり。それがかたりけるは、物へ行きける道に、をのこの、「玉や買ふ」といひて、反古(ほうご)の端(はし)に包みたる玉を、懐(ふところ)より引き出でて、取らせたりけるを見れば、木欒子(もくれんじ)よりも小さき玉にてぞありける。「これはいくら」と問ひければ、「絹廿疋(ひき)」といひければ、あさましと思ひて、物へ行きけるをとどめて、玉持(たまもち)のをのこ具(ぐ)して家に帰りて、絹のありけるままに、六十疋ぞ取らせたりける。「これは廿疋のみはすまじきものを、少なくいふがいとほしさに、六十疋を取らするなり」といひければ、をのこ悦(よろこび)びて去(い)にけり。 その玉を持ちて、唐(たう)に渡りけるに、道の程恐ろしかりけれども、身をも放たず、守(まもり)などのやうに、首にかけてぞありける。悪(あ)しき風の吹きければ、唐人(たうじん)は悪しき波風にあひぬれば、舟の内に一(いち)の宝と思ふ物を海に入るるなるに、「このせうずが玉を海に入れん」をいひければ、せうずがいひけるやうは、「この玉を海に入れては、生きてもかじあるまじ。ただ我が身ながら入れば入れよ」とて、抱(かか)へて居たり。さすがに人を入るべきやうもなかりければ、とかくいひける程に、玉失ふまじき報(ほう)やありけん、風直りにければ、悦びて、入れずなりにけり。その舟の一の船頭といふ者も、大(おほき)きなる玉持ちたりけれども、それは少し平(ひら)にて、この玉には劣りてぞありける。 かくて唐(たう)に行き着きて、「玉買はん」といひける人のもとに、船頭が玉を、このせうずにもたせてやりける程に、道に落(おと)してけり。あきれ騒ぎて、帰り求めけれども、いづくにあらんずると思ひ侘(わ)びて、我が玉を具して、「そこの玉落しつれば、すべき方(かた)なし。それがかはりにこれを見よ」とて取らせたれば、「我が玉はこれには劣りたりつるなり。その玉のかはりに、この玉を得たらば、罪深かりなん」とて返しけるぞ、さすがにここの人には違(たが)ひたりける。この国の人ならば取らざらんやは。 かくてこの失ひつる玉の事を歎(なげ)く程に、遊(あそび)のもとに去(い)にけり。二人(ふたり)物語しけるついでに、胸を探りて、「など胸は騒ぐぞ」と問ひければ、「しかじの人の玉を落(おと)して、それが大事なる事を思えば、胸騒ぐぞ」といひければ、「ことわりなり」とぞいひける。 さて帰りて後(のち)、二日ばかりありて、この遊(あそび)のもとより、「さしたる事なんいはんと思ふ。今の程時かはさず来(こ)」といひければ、何事かあらんとて、急ぎ行きたりけるを、例の入る方(かた)よりは入れずして、隠れの方(かた)より呼び入れければ、いかなる事にあらんと、思ふ思ふ入りたりければ、「これは、もしそれに落(おと)したりけん玉か」とて、取り出でたるを見れば、違(たが)はずその玉なり。「こはいかに」とあさましくて問へば、「ここに玉売らんとてすぎつるを、さる事いひしぞかしと思ひて、呼び入れて見るに、玉の大(おほき)なりつれば、もしさもやと思ひて、いひとどめて、呼びにやりつるなり」といふに、「事もおろかなり。いづくぞ、その玉持ちたりつらん者は」といへば、「かしこに居たり」といふを、呼び取りてやりて、玉の主(ぬし)のもとに率て行きて、「これはしかじかして、その程に落(おと)したりし玉なり」といへば、えあらがはで、「その程に見つけたる玉なりけり」とぞいひける。いささかなる物取らせてぞやりける。 さてその玉を返して後(のち)、唐綾(からあや)一つをば、唐には美濃(みの)五疋(ひき)が程にぞ用ひるなる。せうずが玉をば、唐綾五千段にぞかへたりける。その価(あたひ)の程を思ふに、ここにては絹六十疋にかへたる玉を、五万貫に売りたるにこそあんなれ。それを思へば、さだしげが七十貫が質返したりけんも、驚くべくなき事にてありけりと、人の語りしなり。 一八一 北面の女雜仕(使)六の事[巻一四・七] 是も今は昔、白(しら)川院の御時、北おもてのざうしにうるせき女ありけり。名をば六とぞいひける。殿上人ども、もてなし興(けう)じけるに、雨うちそぼふりて、つれづれなりける日、ある人、「六および、つれづれなぐさめん」とて、使をやりて、「六よびて來(こ)」といひければ、ほどなく、「六召(め)して參りて候」といひければ、「あなたより内の出居(でい)のかたへ具(ぐ)して來(こ)」といひければ、さぶらひ、いできて、「こなたへ參り給へ」といへば、「びんなく候」などいへば、侍、歸(かへり)きて、「召(め)し候(か)へば、「びんなくさぶらふ」と申(まうし)て、恐申(おそれまうし)候なり」といへば、つきみて云(いふ)にこそと思ひて、「などかくはいふ。たゞ來(こ)」といへども、「ひが事にてこそ候(さぶらふ)らめ。さきざきも内(うちの)御出居(でい)などへ參(まゐる)事も候はぬに」といひければ、このおほくゐたる人々「たゞ參(まい)り給へ。やうぞあらん」とせめければ、「ずちなき恐に候へども、めしにて候へば」とて參る。 このあるじ見(み)やりたれば、刑部(ぎやうぶの)録(祿)といふ廳官(ちやくはん)、びんひげに白髪まじりたるが、とくさの狩衣(かりぎぬ)に袴きたるが、いとことうるはしく、さやさやとなりて、しともおぼえず、物もいはれねば、此廳官(ちやうはん)、いよいよおそれかしこまりてうつぶしたり。あるじ、さてあるべきならねば、「やゝ廳(ちやう)には又何者(なに物)か候」といへば、「それがし、かれがし」といふ。いとげにげにしくもおぼえずして、廳官(ちやうはん)、うしろざまへすべりゆく。此(この)あるじ、「かう宮仕(づか)へするこそ、神妙(しんべう)なれ。  見參(げんざむ)には必(かならず)いれんずるぞ。とう罷(まか)りね」とこそやりけれ。  此(この)六、のちに聞(きき)て笑(わら)ひけるとか。 一八二 仲胤僧都連歌(ちゅういんそうづれんが)の事[巻第一四・八]  これも今は昔、青蓮院(しゃううれんゐん)の座主(ざす)のもとへ、七宮渡らせ給ひたりければ、御つれづれ慰め参らせんとて、若き僧網(そうがう)、有職(いうそく)など、庚申(かうしん)して遊びけるに、上童(うへわらは)のいと憎さげなるが、瓶子取(へいじとり)などしありきけるを、ある僧忍びやかに、 うへわらは大童子にも劣りたり と連歌にしたりけるを、人々暫(しば)し案ずる程に、仲胤僧都、その座にありけるが、「やや、胤(いん)、早うつきたり」といひければ、若き僧たち、いかにと、顔をまもり合ひ侍りけるに、仲胤は、 祇園(ぎをん)の御会(ごゑ)を待つばかりなり とつけたりけり。 これをおのおの、「この連歌はいかにつきたるぞ」と、忍びやかに言ひ合ひけるを、仲胤聞きて、「やや、わたう、連歌だにつかぬとつきたるぞかし」といひたりければ、これを聞き伝えたる者ども、一度にはつと、とよみ笑ひけりとか。 一八三 大将つつしみの事 [巻第一四・九] これも今は昔、「月の大将星をおかす」といふ勘文(かんもん)を奉れり。よりて、「近衛大将(このゑのだいしやう)重く慎み給ふべし」とて、小野宮右大将(をののみやのうだいしやう)はさまざまの御祈(いのり)どもありて、春日社(かすがのやしろ)、山階寺(やましなでら)などにも御祈(いのり)あまたせらる。 その時の左大将は、枇杷左大将(びはのさだいしやう)仲平と申す人にてぞおはしける。東大寺の法蔵僧都は、この左大将の御祈(いのり)の師なり。定めて御祈(いのり)の事ありなんと待つに、音もし給はねば、おぼつかなきに京に上(のぼ)りて、枇杷殿に参りぬ。殿あひ給ひて、「何事にて上(のぼ)られたるぞ」とのたまへば、僧都申しけるやう、「奈良にて承れば、左右大将慎み給ふべしと、天文博士勘(かんが)へ申したりとて、右大将殿は、春日社(かすがのやしろ)、山階寺(やましなでら)などに御祈(いのり)さまざまに候(さぶら)へば、殿よりも、定めて候ひなんと思ひ給へて、案内つかうまつるに、『さる事も承らず』と、皆申し候へば、おぼつかなく思ひ給へて、参り候ひつるなり。なほ御祈(いのり)候はんこそよく候はめ」と申しければ、左大将のたまふやう、「もとも然(しか)るべき事なり。されどおのが思ふやうは、大将の慎むべしと申すなるに、おのれも慎まば、右大将のために悪(あ)しうもこそあれ。かの大将は、才(ざえ)もかしこくいますかり。年も若し。長くおほやけにつかうまつるべき人なり。おのれにおきては、させる事もなし。年も老いたり。いかにもなれ、何条事かあらんと思へば、祈らぬなり」とのたまひければ、僧都ほろほろとうち泣きて、「百万の御祈(いのり)にまさるらん。この御心の定(ぢやう)にては、ことの恐り更に候はじ」といひてまかでぬ。されば実に事なくて、大臣になりて、七十余までなんおはしける。 一八四 御堂關白(みどうくわんばくの)御犬晴明(せいめい)奇特(きどく)の事[巻一四・一〇] 今は昔、御堂關白殿、法成寺を建立(こんりふ)し給(たまひ)て後は、日ごとに、御堂へ参(まい)らせ給(たまひ)けるに、白(しろ)き犬を愛してなん飼(かは)せ給(たまひ)ければ、いつも御身をはなれず御供(とも)しけり。ある日例のごとく御供(とも)しけるが、門を入(い)らむとし給へば、この犬、御さきにふたがるやうにまはりて、うちへ入(い)れたてまつらじとしければ、「何條(なでふ)」とて、車よりおりて、入(い)らんとし給へば、御衣(おんぞ)のすそをくひて、ひきとゞめ申さんとしければ、「いかさま、様(やう)ある事ならん」とて、榻(しぢ)を召(め)しよせて、御尻をかけて、晴明に、「きと参る」と、召(めし)につかはしたりければ、晴明則(すなはち)参りたり。 「かゝることのあるはいかゞ」と尋給(たづねたまひ)ければ、晴明、しばしうらなひて、申(まうし)けるは、「これは君を呪咀(じゅそ)し奉りて候(さぶらふ)物を、みちにうづみて候。御越(こえ)あらましかば、あしく候(さぶらふ)べき。犬(いぬ)は通力のものにて、つげ申(まうし)候(さぶらふ)なり」と申せば、「さて、それはいづくにかうづみたる。あらはせ」とのたまへば、「やすく候」と申(まうし)て、しばしうらなひて、「こゝにて候」と申(まうす)所を、掘(ほ)らせてみ給(たまふ)に、土五尺ばかり掘(ほり)たりければ、案のごとく物ありけり。土器(かはらけ)を二(ふたつ)うちあはせて、黄なる紙捻(かみより)にて十文字にからげたり。ひらいて見れば、中には物もなし。朱砂(しゅしゃ)にて、一文字を土器のそこに書きたる斗(ばかり)なり。「晴明(せいめい)が外には、しりたる者候はず。もし道摩(だうま)法師や仕り(つかまつり)たるらん。糺して見候はん」とて、ふところより紙をとり出(いだ)し、鳥のすがたに引(ひき)むすびて、呪(じゅ)を誦(ずん)じかけて、空へなげあげたれば、たちまちに、しらさぎになりて、南をさして飛行(とびゆき)けり。「此(もの)鳥おちつかん所をみて参れ」とて、下部(しもべ)をはしらするに、六篠坊門萬里小路邊(ろくでうまうぼんこうぢへん)に、古(ふり)たる家の諸折(もろおり)戸の中へおち入(いり)にけり。すなはち、家主、老法師にてありける、からめ取(とり)て参りたり。呪咀(じゅそ)の故(ゆへ)を問(とは)るゝに、「堀川左大臣顕光公のかたりをえて仕(つかまつり)たり」とぞ申(まうし)ける。「このうへは、流罪すべけれども、道魔がとがにはあらず」とて、「向後、かゝるわざすべからず」とて、本國播磨(はりま)へ、追(を)ひくだされにけり。 此(この)顕光公は、死後に怨靈となりて、御堂殿邊へはたゝりをなされけり。開く悪 靈左府となづく云々。犬はいよいよ不便(ふびん)にせさせ給(たまひ)けるとなん。 一八五 高階俊平(たかしなしゅんぺい)が弟(の)入道算術(さんじゅつの)事[巻一四・一一] これも今は昔、丹後前司(たんごのぜんじ)高階俊平といふ者有(あり)ける。のちには、法師になりて、丹後(たんご)入道とてぞ有(あり)ける。それが弟にて、司もなくてあるものありけり。それが、主のともにくだりて、筑紫(つくし)に在(あり)けるほどに、あたらしく渡(わた)たりける唐人の、算いみじく置く有(あり)けり。それにぞあひて、「算置くことならはん」といひければ、はじめは心にも入(いれ)で、教(をし)へざりけるを、すこし置かせてみて、「いみじく算置きつべかりけり。日本にありては、何にかはせん。日本にさん置く道、いとしもかしこからぬ所なり。我に具(ぐ)して唐にわたらんと言はば、教(をし)へん」といひければ、「よくだに教(をし)へて、その道(みち)にかしこくだにありぬべくは、いはんにこそしたがひて、唐(たう)にわたりても、用(もちひ)られてだにありぬべくは、いはんにしたがひて、唐(たう)にも具(ぐ)せられていかん」なんど、ことよく言(い)ひければ、それになんひかれて、心に入(いれ)て教(をしへ)ける。 教(をし)ふるにしたがひて、一事をきゝては、十事もしるやうになりければ、唐人(たうじん)もいみじくめでて、「我國にさん置(お)くものはおほかれど、汝ばかりこの道(みち)に心得(こゝろえ)たるものはなきなり。かはらずして我に具(ぐ)して、唐(から)へわたれ」といひければ、「さらなり。いはんにしたがはむ」と云(いひ)ゐけり。「この算の道には、病する人を置(おき)やむる術もあり。又病(やまひ)えねども、にくし、ねたしと思ふものを、たち所に置(お)き殺(ころ)す術などあるも、さらに惜(お)しみかくさじ。ねんごろにつたへむとす。たしかにわれに具(ぐ)せんといふちか事たてよ」といひければ、まほにはたてず、すこしはたてなどしければ、「なほ人殺(ころ)す術をば、唐(たう)へわたらん船のなかにて傅(つたへ)む」とて、異事(ことごと)どもをば、よく教(をし)へたりけれども、その一事をばひかへて、教(をし)へざりけり。 かゝるほどに、よく習(なら)ひつたへてけり。それに、俄に、主の、ことありてのぼりければ、そのともにのぼりけるを、唐人、聞きてとゞめけれども、「いかで、とし比(ごろ)の君の、かゝることありて、にはかにのぼり給はん、送(をく)りせではあらん。思(おも)ひしり給へ。約束(やくそく)をばたがふまじきぞ」などすかしければ、げにと唐人(たうじん)思ひて、「さは、かならず歸りてこよ。けふあすにても、唐(から)へかへらんと思ふに、君のきたらんを待(まち)つけて、わたらん」といひければ、その契りをふかくして、京にのぼりけり。世中のすさまじきまゝには、やをら唐にや渡(わた)りなましと思ひけれども、京にのぼりにければ、したしき人々にいひとゞめられて、俊平入道なぼ聞きて、制しとゞめければ、筑紫(つくし)へだに、え行かずなりにけり。 この唐人は、しばしは待ちけるに、音をもせざりければ、わざと使おこせて、文を書(かき)て、恨(うらみ)おこせけれども、「年老(おい)たる親のあるが、けふあすともしらねば、それがならんやう見(み)はてて、いかむと思(おもふ)也」といひやりて、行かずなりにければ、しばしこそ待(まち)けれども、はかりけるなりけりと思えば、唐人(たうじん)は唐に歸渡(かへりわたり)て、よくのろひて行(ゆき)にけり。はじめは、いみじく、かしこかりけるものの、唐人(たうじん)にのろはれてのちには、いみじくほうけて、ものおぼえぬやうにてありければ、しわびて、法師になりてけり。入道の君とて、ほうけほうけとして、させる事なき者にて、俊平入道がもとと、山寺などに通(かよひ)てぞありける。 ある時、わかき女房どものあつまりて、庚申しける夜、此(この)道君、かたすみに、ほうけたるていにて居(ゐ)たりけるを、夜ふけけるまゝに、ねぶたがりて、中にわかくほこりたる女房のいひけるやう、「入道の君こそ。かゝる人はをかしき物語し給へ。わらひてめをさまさん」といひければ、入道、「おのれは口てづゝにて、人の笑給(わらたまふ)ばかりの物語(ものがたり)は、えしり侍らじ。さは有(あれ)ども、わらはんとだにあらば、わらはかし奉(たてまつり)てんかし」と云(いひ)ければ、「物語(ものがたり)はせじ、たゞわらはかさんとあるは、猿楽をし給ふか。それは物語(がたり)よりは、まさることにてこそあらめ」と、まだしきに笑(わら)ひければ、「さも侍らず。たゞ、わらはかし奉らんと思(おもふ)なり」といひければ、「こは何事ぞ。とく笑(わら)はかし給へ。いづらいづら」とせめられて、なににかあらん、物もちて、火のあかき所へ出來(いできた)りて、何事せんずるぞと見れば、算をさらさらと出しければ、これをみて、女房ども、「これ、をかしきことにてあるかあるか、いざいざわらはん」など、あざけるを、いらはもせで、さんをさらさらと置きゐたりけり。 置(お)きはてて、ひろさ七八分斗(ばかり)の算の有(あり)けるを一取(ひとつとり)いでて、手にさゝげて、「御ぜんたち、さは、いたく笑(わら)ひ給(たまひ)て、わび給(たまふ)なよ。いざ、わらはかし奉らん」といひければ、「そのさむさゝげ給へるこそ、をこがましくてをかしけれ。なにごとにて、わぶ斗(ばかり)は笑(わら)はんぞ」など、いひあひたりけるに、その八分(ふん)ばかりのさんを、置き加(くは)ふると見れば、ある人みなながら、すゞろにゑつぼに入(いり)にけり。いたく笑(わらひ)て、とゞまらんとすれどもかなはず。腹のわた、きるゝ心ちして、死(し)ぬばくおぼえければ、涙をこぼし、すべきかたなくて、ゑつぼにいりたるものども、物をだにえ言(い)はで、入道にむかひて、手をすりければ、「さればこそ申(まうし)つれ。笑(わら)ひあき給(たまひ)ぬや」といひければ、うなづきさわぎて、ふしかへり、笑(わら)ふ笑(わら)ふ手をすりければ、よくわびしめてのちに、置(おき)たるさむを、さらさらとおしこぼちたりければ、笑(わら)ひさめにけり。「いましばしあらましかば、死(しに)まなし。又かばかりたへがたきことこそなかりつれ」といぞひあひける。笑(わら)ひこうじて、あつまりふして、病(や)むやうにぞしける。かゝれば、「人を置きいくる術ありといひけるをも傳(つた)へたらましかば、いみじからまし」とぞ、人もいひける。 算の道(みち)は恐しきことにぞありけるとなん。 宇治拾遺物語 巻第一五 一八六 清見原天皇(きよみはらのてんわう)、与‖大友皇子(おほとものわうじかつせんのこと)|合戦事[巻一五・一] 今(いま)は昔、天智天皇の御子に、大友皇子といふ人ありけり。太政大臣に成て、世の政(まつりごと)を行てなんありける。心の中に、「御門(みかど)失(うせ)給なば、次の御門には、我ならん」と思給けり。清見原(きよみはら)天皇、その時は春宮(とうぐう)にておはしましけるが、此気色(けしき)を知(し)らせ給ければ、「大友皇子は、時の政をし、世のおぼえも威勢も猛(まう)也。我は春宮にてあれば、勢も及べからず。あやまたれなん」と、おそりおぼして、御門、病つき給則(すなはち)、「吉野山の奥に入りて、法師になりぬ」といひて、籠(こも)り給(たまひ)ぬ。 其時、大友皇子に人申けるは、「春宮を吉野山にこめつるは、虎に羽をつけて、野に放(はなつ)ものなり。同(おなじ)宮に据(す)へてこそ、心のまゝにせめ」と申ければ、げにもとおぼして、軍(いくさ)をとゝのへて、迎奉(たてまつ)るやうにして、殺し奉んとはかり給ふ。 此大友皇子の妻にては、春宮の御女ましましければ、父の殺され給はん事をかなしみ給て、「いかで、此事告(つげ)申さん」とおぼしけれど、すべきやうなかりけるに、思わび給て、鮒(ふな)のつゝみ焼(やき)の有ける腹に、小(ちい)さく文(ふみ)を書(か)きて、を(お)し入て奉り給へり。 春宮、これを御覧じて、さらでだにおそれおぼしける事なれば、「さればこそ」とて、いそぎ下種(げす)の狩衣(かりぎぬ)、袴を着給て、藁沓(わらぐつ)をはきて、宮の人にも知られず、只一人、山を越て、北ざまにおはしける程に、山城国田原(たはら)といふ所へ、道も知(し)り給はねば、五六日にぞ、たどるたどるおはしつきにける。その里人、あやしくけはひのけだかくおぼえければ、高杯(つき)に栗を焼、又ゆでなどして参(まい)らせたり。その二色の栗を、「思ふ事かなふべくは、生(お)ひ出でて、木になれ」とて、片山のそへにうづみ給ぬ。里人、これを見て、あたしがりて、しるしをさして置(を)きつ。 そこを出(い)で給て、志摩国ざまへ、山に添て出(い)で給ぬ。その国の人、あやしがりて問奉(たてまつ)れば、「道に迷たる人なり。喉かは(わ)きたり。水飲(の)ませよと仰られければ、大なるつるべに、水を汲て参らせたりければ、喜て仰られけるは、「汝は族(ぞう)に此国の守(かみ)とはなさん」とて、美濃国へおはしぬ。 この国の洲股(すのまた)の渡(わた)りに、舟のなくて布入て洗けるに、「此渡り、なにともして渡してんや」との給(たまひ)ければ、女申けるは、「一昨日(をとつひ)、大友の大臣の御使といふもの来(きた)りて、渡(わたり)の舟ども、みなとり隠(かく)させていにしかば、これを渡り奉(たてまつ)りたりども、多(おほ)くの渡り、え過(すぎ)させ給まじ。かくはかりぬる事なれば、いま軍(いくさ)、責(せめ)来(きた)らんずらん。といふ。「さては、いかゞしてのがれ給べき」といふ。「さては、いかゞすべき」との給(たま)ひければ、女申けるは、「見(み)奉(たてまつ)るやうあり。たゞにはいません人にこそ。さらば隠(かく)し奉らん」といひて、湯舟をうつぶしになして、その下にふせ奉(たてまつ)りて、上に布を多(おほ)く置(を)きて、水汲かけて洗ゐたり。 しばし斗(ばかり)ありて、兵(つはもの)四五百人斗来(き)たり。女に問て云、「これより人や渡(わた)りつる。といへば、女のいふやう、「やごとなき人の、軍千人ばかり具(ぐ)しておはしつる。今は信濃国に入給ぬらん。いみじき竜のやうなる馬に乗て、飛がごとくしておはしき。此少勢にては、追付給たりとも、みな殺され給なん。これより帰て、軍を多(おほ)くとゝのへてこそ追給はめ」といひければ、まことにと思て、大友皇子の兵、みな引返しにけり。 其後、女に仰られけるは、「此辺に、軍催さんに、出(いで)来(き)なんや」と問給ければ、女、はしりまひて、その国のむねとある者どもを催しかたらふに、則、二三千人の兵(つはもの)出(い)で来(き)にけり。それを引具(ぐ)して、大友皇子を追給に、近江国(あふみのくに)大津といふ所に追付て、たゝかふに、皇子の軍やぶれて、散(ち)りじりに逃(にげ)ける程に、大友皇子、つゐ(ひ)に山崎にて討れ給て、頭とられぬ。それより春宮、大和国に帰(かへり)おはしてなん、位につき給けり。 田原にうづみ給し焼栗、ゆで栗(ぐり)は、形もかはらず生出けり。今に、田原の御栗として奉るなり。志摩(しま)の国にて水めさせたる者は、高階氏のものなり。されば、それが子孫、国守にてはある也。その水めしたりしつるべは、今に薬師寺にあり。洲股(すのまた)の女は、不破の明神にてましましけりとなん。 一八七 頼時(よりとき)が胡人見たる事[巻第一五・二] 今は昔、胡国(ここく)といふは、唐よりも遙(はるか)に北と聞くを、「陸奥(みちのくに)の地に続きたるにやあらん」とて、宗任(むねたふ)法師とて筑紫(つくし)にありしが、語り侍りけるなり。 この宗任が父は頼時とて、陸奥(みちのくに)の夷(えびす)にて、おほやけに随(したが)ひ奉らずとて、攻(せ)めんとせられける程に、「いにしへより今にいたるまで、おほやけに勝ち奉る者なし。我は過(あやま)たずと思へども、責(せめ)をのみ蒙(かうぶ)れば、晴(はる)くべき方(かた)なきを、奥地より北に見渡さるる地あんなり。そこに渡りて、有様を見て、さてもありぬべき所ならば、我に随ふ人の限(かぎり)を、みな率(ゐ)て渡して住まん」といひて、まづ舟一つを整(ととの)へて、それに乗りて行きたりける人々、頼時(よりとき)、廚川(くりやがは)の二郎、鳥海の三郎、さてはまた、睦(むつ)ましき郎等(らうどう)ども廿人ばかり、食物、酒など多く入れて、舟を出(いだ)してければ、いくばくも走らぬ程に、見渡しなりければ、渡りけり。 左右は遙(はるか)なる葦原(あしはら)ぞありける。大(おほき)なる川の湊(みなと)を見つけて、その湊にさし入れにけり。「人や見ゆる」と見けれども、人気もなし。「陸(くが)に上(のぼ)りぬべき所やある」と見けれども、葦原にて、道踏みたる方(かた)もなかりければ、「もし人気する所やある」と、川を上(のぼ)りざまに、七日まで上(のぼ)りにけり。それがただ同じやうなりければ、「あさましきわざかな」とて、なほ廿日ばかり上(のぼ)りけれども、人のけはひもせざりけり。 三十日ばかり上(のぼ)りけるに、地の響(ひび)くやうにしければ、いかなる事のあるにかと恐ろしくて、葦原にさし隠れて、響くやうにする方(かた)を覗(のぞ)きて見ければ、胡人とて、絵に書きたる姿したる者の、赤き物にて頭結(ゆ)ひたるが、馬に乗り連れて、うち出でたり。「これはいかなる者ぞ」と見る程、うち続き、数知らず出で来にけり。 川原のはたに集(あつま)り立ちて、聞きも知らぬ事をさへづり合ひて、川にはらはらとうち入りて渡りける程に、千騎ばかりやあらんとぞ見えわたる。これが足音の響(ひびき)にて、遙(はるか)に聞(きこ)えけるなりけり。徒(かち)の者をば、馬に乗りたる者のそばに、引きつけ引きつけして渡りけるをば、ただ徒渡(かちわたり)する所なめりと見けり。三十日ばかり上(のぼ)りつるに、一所も瀬なかりしに川なれば、かれこそ渡る瀬なりけれと見て、人過ぎて後(のち)にさし寄せて見れば、同じやうに、底ひも知らぬ淵にてなんありける。馬筏(うまいかだ)を作りて泳がせけるに、徒人(かちびと)はそれに取りつきて渡りけるなるべし。 なほ上(のぼ)るとも、はかりもなく覚えければ、恐ろしくて、それより帰りにけり。さていくばくもなくてぞ、頼時は失(う)せにける。されば胡国(ここく)と日本の東の奥の地とは、さしあひてぞあんなると申しける。 一八八 賀茂祭の帰り武正(たけまさ)兼行(かねゆき)御覧の事[巻第一五・三] これも今は昔、賀茂祭の供に下野武正(しもつけのたけまさ)、秦兼行(はたのかねゆき)遣(つか)はしたりけり。その帰(かへ)さ、法性寺殿(ほふしやうじどの)、紫野にて御覧じけるに、武正、兼行、殿下(てんが)御覧ずと知りて、殊(こと)に引き繕ひて渡りけり。武正殊(こと)に気色(きしよく)して渡る。次に兼行また渡る。おのおのとりどりに言ひ知らず。 殿御覧じて、「今一度北へ渡れ」と仰(おほせ)ありければ、また北へ渡りぬ。さてあるべきならねば、また南へ帰り渡るに、この度(たび)は兼行さきに南へ渡りぬ。次に武正渡らんずらんと人々待つ程に、武正やや久しく見えず。こはいかにと思う程に、向ひに引きたる幔(まん)より、東を渡るなりけり。いかにいかにと待ちけるに、幔の上より冠の巾子(こじ)ばかり見えて、南へ渡りけるを、人々、「なほすぢなき者の心際(こころぎは)なり」とほめけりとか。 一八九 門部府生(かどべのふしやう)海賊射かへす事[巻一五・四] これもいまは昔、門部の府生といふ舎人(とねり)ありけり。わかく、身はまづしくてぞありけるに、まゝきを好みて射けり。よるも射ければ、わづかなる家のふき板をぬきて、ともして射けり。妻もこの事をうけず、近邊の人も、「あはれ、よしなき事し給(たまふ)ものかな」といへども、「我家もなくて的射むは、たれもなにか苦しかるべき」とて、なをふき板をともして射る。これをそしらぬもの、ひとりもなし。 かくするほどに、ふき板みなうせぬ。はてには、たる木、こまいを、わりたきつ。又後には、むね、うつばり、焼つ。のちには、けた、柱、みなわりたき、「これ、あさましきもののさまかな」と、いひあひたるほどに、板敷、したげたまでも、みなわりたきて、隣の人の家にやどりけるを、家主、此(この)人のやうたいを見るに、此(この)家もこぼちたきなんぞと思(おもひ)て、いとへども、「さのみこそあれ、待(まち)給へ」などいひてすぐるほどに、よく射(いる)よし聞えありて、めし出(いだ)されて、のりゆみつかうまつるに、めでたく射ければ、叡感(えいかん)ありて、はてには相撲(すまひ)の使にくだりぬ。 よき相撲どもおほく催し出(いで)ぬ。又かずしらず物まうけて、のぼりけるに、かばね嶋といふ所は、海賊のあつまる所なり。すぎ行(ゆく)程に、具したるもののいふやう、「あれ御覧候へ。あの舟共(ども)は、海賊の舟どもにこそ候(さぶらふ)めれ。こはいかゞせさせ給(たまふ)べき」といへば、この門部の府生いふやう、「をのこ、なさわぎそ。千萬人の海賊ありとも、いまみよ」といひて、皮子(かわご)より、のりゆみの時着たりける装束とりいでて、うるはしく装束きて、冠、老懸(おいかけ)など、あるべき定(ぢゃう)にしければ、従者ども「こは物にくるはせ給(たまふ)か。かなはぬ迄も、たてづきなどし給へかし」と、いりめきあひたり。うるはしくとりつけて、かたぬぎて、めて、うしろ見まはして、屋形のうへに立(たち)て、「今は四十六歩により来にたるか」といへば、従者ども「大かたとかく申(まうす)に及ばず」とて、黄水(わうずゐ)をつきあひたり。「いかに、かくより来にたるか」といへば、四十六歩に、ちかづきさぶらひぬらん」といふ時に、上屋形へ出る(いで)て、あるべきやうに弓立して、弓をさしかざして、しばしありて、うちあげたれば、海賊が宗徒のもの、くろばみたる物着て、あかき扇をひらきつかひて、「とくとくこぎよせて、のりうつりて、うつしとれ」といへども、この府生、さわがずして、ひきかためて、とろとろとはなちて、弓倒して見やれば、この矢、目にもみえずして、宗徒の海賊がゐたる所へ入(いり)ぬ。はやく左の目に、いたつきたちにけり。海賊、「や」といひて、扇をなげすてて、のけざまに倒れぬ。矢をぬきて見るに、うるはしく、たゝかひなどする時のやうにもあらず、ちりばかりの物なり。これをこの海賊ども見て、「やゝ、これは、うちある矢にもあらざりけり。神前なりけり」といひて、「とくとく、おのおのこぎもどりね」とて、逃(にげ)にけり。 其(その)時、門部府生、うす笑ひて、「なにがしらがまへには、あぶなくたつ奴ばら哉」といひて、袖うちおろして、こつばきはきてゐたりけり。海賊、さわぎ逃げける程に、ふくろひとつなど、少々物ども落したりける、海にうかびたりければ、此(この)府生とりて、笑(わらひ)てゐたりけるとか。 一九〇 土佐判官代通清、(とさのはうぐわんだいみちきよ)、人違(ひとたがえ)シテ関白殿(かんぱくどの)ニ奉合事(あひたてまつること)[巻一五・五] これも今は昔(むかし)、土佐判官代通清といふもの有けり。歌をよみ、源氏、狭衣などをうかべ、花の下、月の前とすきありきけり。かゝるすき物なれば、後徳大寺左大臣、「大内の花見(み)んずるに、かならず」いざなはれければ、通清、目出き事にあひたりと思て、やがて破車に乗(の)りて行程に、あとより車二三ばかりして人の来(く)れば、疑(うたが)ひなき此左大臣のおはすると思て、尻の簾をかきあげて、「あなうたて、あなうたて。とくとくおはせ」と扉を開て招(まね)きけり。はやう、関白殿の物へおはしますなりけり。招(まね)くを見(み)て、御供(とも)の随身、馬を走(はし)らせて、かけ寄(よ)せて、車の尻の簾をかりおとしてけり。其時、通清、あはて騒(さは)ぎで、前よりまろび落(お)ちける程に、烏帽子落にけり。いといと不便なりけりとか。   すきぬる物は、すこしおこにもありけるにや。 一九一 極楽寺僧仁王経(ごくらくじのそうにんわうぎやう)の験を施す事[巻一五・六] これも今は昔、堀川兼道公太政大臣と申す人、世心地(よごこち)大事に煩(わづら)ひ給ふ。御祈(いのり)どもさまざまにせらる。世にある僧どもの参らぬはなし。参り集(つど)ひて御祈(いのり)どもをす。殿中騒ぐ事限(かぎり)なし。 ここに極楽寺は、殿の造り給へる寺なり。その寺に住みける僧ども、「御祈(いのり)せよ」といふ仰(おほせ)もかなりければ、人も召さず。この時にある僧の思ひけるは、御寺にやすく住む事は、殿の御徳(とく)にてこそあれ。御失(う)せ給ひなば、世にあるべきやうなし。召さずとも参らんとて、仁王経を持ち奉りて、物騒がしかりければ、中門(ちゅうもん)の北の廊(らう)の隅(すみ)にかがまり居て、つゆ目も見かくる人もなきに、仁王経他念なく読み奉る。 二時ばかりありて、殿仰せらるるやう、「極楽寺の僧、なにがしの大徳(だいとこ)やこれにある」と尋ね給ふに、ある人、「中門の脇の廊に候」と申しければ、「それ、こなたへ呼べ」と仰せらるるに、人々怪(あや)しと思ひ、そこばくのやんごとなき僧をば召さずして、かく参りたるをだに、よしなしと見居たるをしも、召(め)しあれば、心も得ず思へども、行きて、召す由(よし)をいへば参る。高層どもの着き並びたる後(うしろ)の縁に、かがまり居たり。「さて参りたるか」と問はせ給へば、南の簀子(すのこ)に候(さぶらふ)よし申せば、「内へ呼び入れよ」とて、臥(ふ)し給へる所へ召し入れらる。無下(むげ)に物も仰せられず、重くおはしつるに、この僧召す程の御気色(きしよく)、こよなくよろしく見えければ、人々怪しく思ひけるに、のたまふやふ、「寝たりつる夢に、恐ろしげなる鬼どもの、我が身をとりどりに打ちれうじつるに、びんづら結(ゆ)ひたる童子(どうじ)の、〓(木若ずはえ)持ちたるが、中門(ちゆうもん)の方より入り来て、木若してこの鬼どもを打ち払へば、鬼どもみな逃げ散りぬ。『何(なに)ぞの童(わらは)のかくはするぞ』と問ひしかば、『極楽寺(ごくらくじ)のそれがしが、かく煩(わづら)はせ給ふ事、いみじう歎(なげ)き申して、年来(としごろ)読み奉る仁王経(にんわんぎやう)を、今朝(けさ)より中門の脇に候(さぶら)ひて、他念なく読み奉りて祈り申し侍る。その聖(ひじり)の護法の、かく病(や)ませ奉る悪鬼(あくき)どもを、追ひ払ひ侍るなり』と申すと見て、夢覚(さ)めてより、心地のかいのごふやうによければ、その悦(よろこび)いはんとて、呼びつるなり」とて、手を摺(す)りて拝ませ給ひて、棹(さを)にかかりたる御衣を召して、被(かづ)け給ふ。「寺に帰りてなほなほ御祈(いのり)よく申せ」と仰せらるれば、悦びてまかり出づる程に、僧俗の見思へる気色(けしき)やんごとなし。中門の脇に、ひめもすにかがみ居たりつる、おぼえなかりしに、殊(こと)の外美々(ほかびび)しくてぞまかり出でにける。 されば人の祈(いのり)は、僧の浄不浄にはよらぬ事なり。ただ心に入りたるが験(げん)あるものなり。「母の尼して祈(いのり)をばすべし」と、昔より言ひ伝へたるも、この心なり。 一九二 伊良縁野世恒毘沙門御下文(いらえのよつねびしやもんおんくだしぶみ)の事[巻一五・七]  今は昔、越前国(ゑちぜんのくに)に、伊良縁の世恒といふ者ありけり。とりわきてつかうまつる毘沙門に、物も食はで、物のほしかりければ、「助け給へ」と申しける程に、「門(かど)にいとをかしげなる女の、家(いへ)主(あるじ)に物いはんとのたまふ」といひければ、誰(たれ)にかあらんとて、出であひたれば、土器(かはらけ)に物を一盛(ひともり)、「これ食ひ給へ。物ほしとありつるに」とて、取らせたれば、悦(よろこ)びて取りて入りて、ただ少し食ひたれば、やがて飽き満ちたる心地して、二三日は物もほしからねば、これを置きて、物のほしき折ごとに、少しづつ食ひてありける程に、月比(つきごろ)過ぎて、この物も失(う)せにけり。 いかがせんずるとて、また念じ奉りければ、またありしやうに、人の告げければ、始(はじめ)にならひて、惑ひ出でて見れば、ありし女房のたまふやう、「これ下文(くだしぶみ)奉らん。これより北の谷、峯百町を越えて、中に高き峯あり。それに立ちて、『なりた』と呼ばば、もの出で来(き)なん。それにこの文を見せて、奉らん物を受けよ」といひて去(い)ぬ。この下文を見れば、「米二斗渡すべし」とあり。やがてそのまま行きて見ければ、まことに高き峯あり。それにて、「なりた」と呼べば、恐ろしげなる声にていらへて、出で来たるものあり。見れば額(ひたひ)に角(つの)生ひて、目一つあるもの、赤き褌(たふさぎ)したるもの出で来て、ひざまづきて居たり。「これ御下文なりこの米得させよ」といへば、「さる事候」とて、下文を見て、「これは二斗と候へども、一斗を奉れとなん候ひつるなり」とて、一斗をぞ取らせたりける。そのままに受け取りて帰りて、その入れたる袋の米を使ふに、一斗尽きせざりけり。千万石取れども、ただ同じやうにて、一斗は失せざりけり。 これを国守聞きて、この世恒(よつね)を召して、「その袋、我に得させよ」といひければ、国の内にある身なれば、えいなびずして、「米百石の分(ぶん)奉る」といひて取らせたり。一斗取れば、また出でき出できしてければ、いみじき物まうけたりと思ひて、持(も)たりける程に、百石取り果てたれば、米失せにけり。袋ばかりになりぬれば、本意(ほい)なくて返し取らせたり。世恒がもとにて、また米一斗出で来にけり。かくてえもいはぬ長者にてぞありける。 一九三 相応和尚都卒天(さうおうくわしやうとそつてん)にのぼる事・染殿(そめどの)の后祈(いのり)たてまつる事[巻一五・八] 今は昔、叡(えい)山無動寺に、相応和尚と云(いふ)人おはしけり。比良山(ひらさん)の西に、葛川の三瀧といふ所にも、通(かよひ)て行給(おこなひたまひ)けり。其(その)瀧にて、不動尊の申(まうし)給はく、「我(われ)を負(お)ひて、都卒(とそつ)の内院、弥勒(みろく)菩薩の御許に率(ゐ)て行(ゆき)給へ」と、あながちに申(まうし)ければ、「極(きはめ)てかたき事なれど、強ひ(しゐ)て申(まうす)事なれば、率(い)てゆくべし。其尻(しり)をあらへ」と仰(おほせ)ければ、瀧(たき)の尻にて、水あみ、尻(しり)よくあらひて、明王の頭に乗(のり)て、都卒天にのぼり給ふ。 こゝに、内院に門の額に、妙(めう)法蓮華とかゝれたり。明王のたま(給)はく、「これへ参入(参り入)の者は、此(この)経を誦(ず)して入(いれ)。誦せざればいらず」とのたま(給)へば、はるかに見上(あげ)て、相応のたま(給)はく、「我(われ)、此(この)経、読(よみ)は読(よ)み奉る。誦(じゆ)すること、いまだかなはず」と。明王、「さては口惜(くちおしき)事なり。其儀ならば、参入かなふべからず。帰(かへり)て法華経を誦(じゆ)してのち、参(まゐり)給へ」とて、かき負(お)ひ給(たまひ)て、葛川へ帰給(かへりたまひ)ければ、泣(なき)かなしみ給(たまふ)事かぎりなし。さて本尊の御前にて、経を誦(じゆ)し給(たまひ)てのち、本意(い)をとげ給(たまひ)けりとなん。その不動尊は、いまに無動寺におはします等身(とうじん)の像にぞましましける。 其和尚、かやうに奇特(きどく)の効験おはしければ、染(そめ)殿(どのの)后、物のけに悩み給(たまひ)けるを、或人申(まうし)けるは、「滋覚大師(じかくだいしの)御弟子に、無動寺の相応和尚と申(まうす)こそ、いみじき行者にて侍れ」と申(まうし)ければ、めしにつかはす。則(すなはち)御使につれて、参(まい)りて、中門にたてり。人々見れば、長(たけ)高き僧の、鬼のごとくなるが、信濃布(しなのぬの)を衣にき、椙(すぎ)のひらあしだをはきて、大木げん子(だいもくげんじ)の念珠(ねんず)を持(もて)り。「その躰(てい)、御前に召上(めしあぐ)べき者(物)にあらず。無下の下種法師(げすほふし)にこそ」とて、「たゞ簀子(すのこ)の邊に立(たち)ながら、加持(かぢ)申(まうす)べし」と、お(を)のおの申(まうし)て、「御階(みはし)の高欄(かうらん)のもとにて、たちながら候へ」と仰(おほせ)下しければ、御階の東の高欄に立(た)ちながら、押(を)しかゝり祈(いのり)奉る。 宮は寝殿の母屋(もや)にふし給(たまふ)。いとくるしげなる御声、時々、御簾にほかに聞ゆ。和尚、纔(わづか)に其(その)声をきゝて、高声(かうじやう)に加持したてまつる。その声(こゑ)、明王も現じ給(たまひ)ぬと、御前に候(さぶらふ)人々、身の毛よだちておぼゆ。しばしあれば、宮、紅の御衣二斗(ふたつばかり)に押(を)しつゝまれて、鞠(まり)のごとく簾中よりころび出(いで)させ給う(ふ)て、和尚の前の簀子になげ置(を)き奉る。人々さわ(は)ぎて「いと見ぐるし。内へいれたてまつりて、和尚も御前(まへ)に候へ」といへども、和尚(くはしやう)、「かゝるかたゐ(い)の身にて候へば、いかでか、まかりのぼるべき」とて、更にのぼらず。はじめ、めし上(め)げられざりしを、やすからず、いきどほ(を)り思(おもひ)て、たゞ簀子(すのこ)にて、宮を四五尺あげて打(うち)奉る。人々、しわびて、御几帳どもをさしいだして、たてかくし、中門をさして、人をはらへども、きはめて顯露(けんろ)なり。四五度ばかり、打(うち)たてまつ〔り〕て、なげ入(いれ)なげ入、祈(いのり)ければ、もとのごとく、内(うち)へなげいれつ。其後(のち)、和尚(くはしやう)まかりいづ。「しばし候へ」と、とゞむれども、「ひさしく立(た)ちて、腰いたく候」とて、耳(みゝ)にも聞き(きゝ)いれずしていでぬ。 宮はなげいれられて後(のち)、御物のけさめて、御心地(こゝち)さはやかになり給(たまひ)ぬ。験徳(けんとく)あらたなりとて、僧都に任ずべきよし、宣下(せんげ)せらるれども、「かやうのかたゐ(い)は、何條僧坑になるべき」とて、返し奉る。その後も、めされけれど、「京は、人をいやしうする所なり」とて、さらに参らざらけるとぞ。 一九四 仁戒上住正事(にんかいしやうにんわらじやうのこと)[巻一五・九]  これも今は昔(むかし)、南京に仁戒上人といふ人ありけり。山階寺の僧なり。才学、寺中にならぶ輩なし。然に、俄に道心をおこして、寺を出(いで)んとしけるに、その時の別当興正僧都、いみじう惜みて、制しとゞめて、出し給はず。しわびて、西の里ばる人の女(むすめ)を、妻にして通(かよひ)ければ、人々やうやうさゝやきたちけり。人にあまねく知(し)らせんとて、家の門に、此女の頸にいただきつきて、うしろに立そひたり。行とを(ほ)る人見(み)て、あさましがり、心憂(う)がる事限りなし。いたづら物に成(なり)ぬと人に知(し)らせんためなり。 さりながら、此妻と相具(あひぐ)しながら、更に近づく事なし。堂に入て、夜もすがら眠(ねむら)ずして、涙を落(おと)して行きたり。此事を別当僧都聞て、弥(いよいよ)たうとみて喚(よび)寄(よ)せければ、しわびて逃て、葛下卿(かづらきしものさと)の郡司が聟に成にけり。念珠(ねんじゅ)などをもわざと持(もた)ずして、只、心中の道心は、弥(いよいよ)堅固に行(おこなひ)けり。 爰(ここ)に添下郡(そふのしものこほり)の郡司、此上人に目をとゞめて、深(ふか)くたう(ふ)とみ思ければ、跡も定めずありきける尻に立て、衣食、沐浴(もくよく)等をいとなみけり。上人思やう、「いかに思て、この郡司夫妻は念比(ねんごろ)に我を訪(とぶらふ)らん」とて、その心を尋ければ、郡司答(こたふ)るやう、「何事か侍らん。たゞ貴く思侍れば、かやうに、仕(つかまつる)也。但、一申さんと思事あり」といふ。「何事ぞ」と問(とへ)ば、「御臨終の時、いかにしてか値(あひ)申べき」といひければ、上人、心にまかせたる事のやうに、「いとやすき事に有なん」と答れば、郡司、手をすりて悦けり。 さて、年比過て、或冬、雪降りける日、暮がたに、上人、郡司が家に来(き)ぬ。郡司、喜て、例の事なれば、食物、下人どもにもいとなませず、夫婦手づからみづからして召(め)させけり。湯など浴(あ)みて、伏(ふし)ぬ。暁は又、郡司夫妻とく起(お)きて、食物、種〃にいとなむに、上人の臥給へる方、かうばしき事限なし。匂(にほひ)一家に宛まり、「是は名香(みやうが)など焼(たき)給なめり」と思(おも)ふ。「暁はとく出(いで)ん」との給(たまひ)つれども、夜明(あく)るまで起(お)き給はず。郡司、「御粥いできたり。此由申せ」と御弟子にいへば、「腹悪(あ)しくおはす上人なり。悪(あ)しく申て打(うた)れ申さん。今起(お)き給(たまひ)なん」といひてゐたり。  さる程に、日も出ぬれば、「例はかやうに久しくは寝(ね)給はぬに、あやし」と思て、寄(よ)りてをとなひけれど、音(をと)なし。引(ひ)きあけて見(み)ければ、西に向、端座合掌して、はや死給へり。浅増き事限なし。郡司夫婦、御弟子共など、悲泣み、かつはたうとみ拝(おが)みけり。「暁かうばしかりつるは、極楽の迎なりけり」と思合(あ)はす。「おはりにあひ申さんと申しかば、こゝに来給てけるにこそ」と、郡司泣々葬送の事もとりさたしけるとなん。 一九五 秦始皇(しんのしくわう)天竺(てんぢく)より来たる僧禁獄(きんごく)の事[巻第一五・一〇] 今は昔、唐(もろこし)の秦始皇の代に、天竺より僧渡れり。御門(みかど)あやしみ給ひて、「これはいかなる者ぞ。何事によりて来たれるぞ」。僧申して曰(いは)く、「釈迦牟尼仏(さかむにぶつ)の御弟子なり。仏法を伝へんために、遙(はるか)に西天(さいてん)より来たり渡れるなり」と申しければ、御門腹立ち給ひて、「その姿きはめて怪(あや)し。頭(かしら)の髪禿(かぶろ)なり。衣の体(てい)人に違(たが)へり。仏(ほとけ)の御弟子と名のる。仏とは何者ぞ。これは怪しき者なり。ただに返すべからず。人屋(ひとや)に籠(こ)めよ。今より後(のち)、かくのごとく怪(あや)しき事いはん者をば、殺さしむべきものなり」といひて、人屋(ひとや)に据(す)ゑられぬ。「深く閉ぢ籠(こ)めて、重くいましめて置け」と宣旨(せんじ)を下(くだ)されぬ。 人屋の司(つかさ)の者、宣旨のままに、重く罪ある者置く所に籠めて置きて、戸にあまた錠さしつ。この僧、「悪王にあひて、かく悲しき目を見る。我が本師釈迦牟尼如来(さかむにによらい)、滅後(めつご)なりとも、あらたに見給ふらん。我を助け給へ」と念じ入りたるに、釈迦仏、丈六の御姿にて、紫磨黄金(しまわうごん)の光を放ちて、空より飛び来たり給ひて、この獄門を踏み破りて、この僧を取りて去り給ひぬ。その次(ついで)に、多くの盗人どもみな逃げ去りぬ。獄の司、空に物の鳴りければ、出でて見るに、金の色したる僧の、光を放ちたるが、大(おほき)さ丈六なる、空より飛び来たりて、獄の門を踏み破りて、籠められたる天竺(てんぢく)の僧を、取りて行く音なりければ、この由(よし)を申すに、帝(みかど)、いみじくおぢ恐(おそ)り給ひけりとなん。その時に渡らんとしける仏法、世下(くだ)りての漢には渡りけるなり。 一九六 後の千金の事[巻第一五・一一] 今は昔、唐(もろこし)に荘子(さうじ)といふ人ありけり。家いみじう貧しくて、今日(けふ)の食物絶えぬ。隣に監河侯(かんかこう)といふ人ありけり。それがもとへ、今日(けふ)食ふべき料(れう)の粟(あは)を乞(こ)ふ。 河侯(かこう)が曰(いは)く、「今五日ありておはせよ。千両の金を得んとす。それを奉らん。いかでかやんごとなき人に、今日(けふ)参るばかりの粟(あは)をば奉らん。返す返すおのが恥なるべし」といへば、荘子(さうじ)の曰く、「昨日道をまかりしに、跡に呼ばふ声あり。顧(かへり)みれば人なし。ただ車の輪跡(わあと)のくぼみたる所にたまりたる少水に、鮒(ふな)一つふためく。何(なに)ぞの鮒にかあらんと思ひて、寄りて見れば、少しばかりの水に、いみじう大(おほき)なる鮒あり。『何ぞの鮒ぞ』と問へば、鮒の曰く、『我は河伯神(かはくしん)の使(つかひ)に、江湖(がうこ)へ行くなり。それが飛びそこなひて、この溝に落ち入りたるなり。喉(のど)乾き死なんとす。我を助けよと思ひて、呼びつるなり』といふ。答へて曰く、『吾(われ)今二三日ありて、江湖(がうこ)もとといふ所に遊(あそび)しに行(い)かんとす。そこにもて行きて放さん』といふに、魚の曰(いは)く、『更にそれ迄え待つまじ。ただ今日(けふ)一提(ひとさげ)ばかりの水をもて、喉(のど)をうるへよ』といひしかば、さてなん助けし。鮒(ふな)のいひし事、我が身に知りぬ。更に今日(けふ)の命、物食はずは生くべからず。後(のち)の千の金(こがね)更に益(やく)なし」とぞいひける。それより、後(のち)の千金といふ事名誉せり。 一九七 盗跖(とうせき)と孔子と問答の事[巻一五・一二] これも今は昔、もろこしに、柳下恵(りうかくゑい)とうふ人ありき。世のかしこき者(物)にして、人に重(おも)くせらる。其(その)おとうとに、盗跖と云(いふ)ものあり。一の山のふところに住(すみ)て、もろもろのあしき者(物)をまねき集(あつめ)て、お(を)のが伴侶(はんりょ)として、人の物をば我(わが)物とす。ありくときは、此(この)あしき者どもを具(ぐ)する事、二三千人(ぜんにん)なり。道にあふ人をほろぼし、恥を見せ、よからぬことの限を好(この)みて過すに、柳下恵(りうかくゑい)、道を行(ゆく)時に、孔子にあひぬ。 「いづくへおはするぞ。自(みづから)對面して聞えんと思ふことのあるに、かしこくあひ給へり」と云(いふ)。柳下恵(りうかくゑい)「いかなる事ぞ」と問ふ。「教訓(けうくむ)し聞こえむと思ふ事は、そこの舎弟、もろもろのあしきことの限(かぎ)りをこのみて、多くの人を嘆(なげ)かする、など制し給はぬぞ」。柳下恵(りうかくゑい)、答(こたへ)て云(いはく)、「お(を)のれが申さむことを、あへて用(もちふ)べきにあらず。されば嘆(なげき)ながら年月を経(ふ)る也」といふ。孔子のいはく、 「そこ教(をし)へ給はずは、われ行(ゆき)て教(をし)へん。いかがあるべき」。柳下恵(りうかくゑい)云(いはく)、「さらにおはすべからず。いみじき言葉をつくして教(をし)へ給ふとも、なびくべき者にあらず。返(かえつ)てあしき事いできなん。有(ある)べき事にあらず」。孔子云(いはく)、「あしけれど、人の身をえたる者(物)は、お(を)のづからよきことをいふにつく事もある也。それに、「あしかりなん、よも聞(き)かじ」といふ事は、ひがごと也。よし、見(み)給へ。教(をし)へて見せ申さん」と、言葉(ことば)をはなちて、盗跖がもとへおはしぬ。 馬よりおり、門にたちて見れば、ありとあるもの、しし、鳥をころし、もろもろのあしき事をつどへたり。人をまねきて、「魯の孔子(こうし)と云(いふ)ものなん参りたる」と、いひ入(い)るるに、即(すなはち)使かへりていはく、「音(をと)にきく人なり。何事によりて来れるぞ。人を教(おほし)ふる人と聞(きく)。我を教(をし)へに来(きた)れるか。わが心にかなはば、用ひん。かなはずは、きもなますにつくらん」と云ふ。其時に、孔子(こうし)すすみ出(いで)て、庭にたちて、先(まづ)盗(たう)跖をおがみて、おぼりて座につく。盗(たう)跖をみれば、頭の髪は上ざまにして、みだれるたること蓬(よもぎ)のごとし。目(め)大(おほき)にして、見(み)くるべかす。鼻をふきいからかし、きばをかみ、髭をそらしてゐたり。 盗跖が云(いはく)、「汝(なんぢ)来れる故(ゆへ)はいかにぞ。慥に申せ」と、いかれる聲の、たかく、恐ろしげなるをもていふ。孔子思(おもひ)給(たまふ)、かねても聞(き)きしことなれど、かくばかりおそろしき者とは思はざりき。かたち、有様(さま)聲迄、人とはおぼえず。きも心(ごころ)もくだけて、ふるはるれど、思ひ念(ねん)じていはく、「人の世にある様は、道理をもて、身のかざりとし、心のお(を)きてとするもの(物)也。天をいただき、地をふみて、四方をかためとし、おほやけをうやまひ奉る。下(しも)を哀みて、人になさけをいたす[を]事とするもの(物)也。しかるに、承れば、心のほしきままに、あしき事(こと)をのみ事とするは、當時は心にかなふやうなれども、終(おは)りあしきもの(物)なり。されば猶、人はよきにしたがふをよしとす。然れば申(まうす)にしたがひていますかるべきなり、其(その)事申さむと思ひて、参(まい)りつるなり」といふときに、盗(たう)跖、いかづちのやうなる聲をして、笑(わらひ)ていはく、「なんぢがいふ事ども、一もあたらず。其(その)故は、昔、堯(げう)舜(しゅむ)と申(まうす)二人のみかど、世にたうとまれ給ひき。しかれども、その子孫、世に針さすばかりの所をしらず。又、世にかしこき人は、伯夷(はくい)、叔齊(しゅくせい)なり。首陽山(しゅやうさん)にふせり、飢(う)ゑ死(しに)き。又、そこの弟子に、顔囘(がんくわい)といふものありき。かしこく教(をし)へ給(たまひ)しかども、不幸にして、いのちみじかし。又、おなじき弟子にて、子路(しみ)といふものありき。衛(れい)の門にしてころされき。しかあれば、かしこき輩は、つひ(ゐ)に賢き事もなし。我又、あしきことを好(この)めども、災(わざはひ)、身に来らず。ほめらるるもの、四五日に過(すぎ)ず。あしき事もよきことも、ながくほめられ、ながくそしられず。しかれば、わが好(この)みに髄(したがひ)、ふるまふべき也。汝(なんぢ)また木を折(お)りて冠にし、皮をもちて衣とし、世をおそり、おほやけにおぢたてまつるも、二たび魯にうつされ、あとを衛(ゑい)にけづらる。などかしこからぬ。汝(なんぢ)がいふ所、まことにお(を)ろかなり。すみやかに、はしりかへりぬ。一も用ゆべからず」と云(いふ)時に、孔子、また云(いふ)べきことおぼえずして、座をたちて、いそぎ出(いで)て、馬に乗(のり)給ふに、よく憶しけるにや、轡(くつわ)を二たびはづし、あぶみをしきりにふみはづす。 これを、世の人「孔子(こうし)倒(だう)れす」と云(いふ)なり。