「むまのきつりやうきつにのをか中くぼれいりくれんどう」のなぞ話

 

『徒然草』百三十五段に見えるものである。

資季の大納言入道と聞えける人、具氏の宰相中将にあひて、「わぬしの問はれんほどのこと、なにごとなりとも答へ申さざらんや。」と言はれければ、具氏「いかがはべらん。」と申されけるを、「さらばあらがひたまへ。」と言はれて、「はかばかしきことは、かたはしも学び知りはべらねば、尋ね申すまでもなし。何となきそぞろごとの中に、おぼつかなきことをこそ、問ひたてまつらめ。」と申されけり。「ましてここもとの浅きことは、なにごとなりともあきらめ申さん。」と言はれければ、近習の人々、女房なども、「興あるあらがひなり。同じくは御前にて争はるべし。負けたらん人は供御をまうけらるべし。」と定めて、御前にて召し合せられたりけるに、具氏、「幼くより聞きならひはべれど、その心知らぬことはべり。『むまのきつりやうきつにのをか中くぼれいりくれんどう。』と申すことは、いかなる心にかはべらん。うけたまはらん。」と申されけるに、大納言入道はたとつまりて、「これはそぞろごとなれば言ふにもたらず。」と言はれけるを、「もとより深き道は知りはべらず。そぞろごとを尋ね奉らんと定め申しつ。」と申されければ、大納言入道負けになりて、所課いかめ しくせられたりけるとぞ。

 

謎の文句解

この謎めいた文句について作者吉田兼好は、ただその謎の文句が提示された場面状況を示しただけでこの謎の文句の解釈を明らかにしていないのである。

そのためか、この文句の謎解きをしばらくの間、わからずじまいになっていた。これを解き明かした人物がいる。

「謎の構造」について、まず知ってほしい。鈴木棠三が提示した「謎の構造」には、次の三種類の型式があるので紹介しておこう。
第一 しゃれの活用型(取意型・言換型)。
第二 構成型・賦物型

   設問中の文字を消去、挿入、転倒などして解く。連歌の賦物の技法を取入れ発達したもの。

   パズル的要素が強い。

第三 観察型
   種々の現象を観察した知識を土台にして、いろは歌の文字、十二支の順序、数字の加除、

   九九の活 用したもの。

これらの三種類の構造を巧みに組み合わせることで一つの謎文句が誕生するのであるから我流を持ってしては解けないのが謎の文句なのである。
この謎の文句もまずは、第二の構造を理解して考えてみればよいのである。このことに気がつきこれを解いたわけだが、後世の『徒然草』の研究をすすめる国学者ではなかった。それは、江戸時代の京都の俳人である柏原瓦全(一七四四〜一八二五)であった。

彼は、若い時隣家筋に元宮仕えした老婦人が住んでいて、雨夜のつれづれに謎掛けをして遊んでいた。その時の謎掛けに「椿葉落ちて露となる」があり、これを「雪」と解いた。「つばき」の「は」が落ちて「つき」、その「つ」が「ゆ」になって「ゆき」となる賦物型の謎の文句であった。これを学んだ柏原瓦全は、この『徒然草』のこの謎の文句に応用したのである。

 「むまのきつ」は、「馬退きつ」でこの句は削除。「りやうきつにのをか」の「中くぼみ入り」は、最初の「り」と最後の「か」を残す「中くぼれ」は「中窪れ入り」という中抜きにせよということで、「りか」となる。これを「ぐれんどう」(転倒の意)するから「かり」すなわち、「雁」と解いたのである。
 この考説を国学の師であった伴蒿蹊は、『閑田耕筆』のなかで紹介コメントしている。この説は面白いのだが、「中くぼれ入り」の解釈が少し疑問だというのだ。『群書類従』の編纂に力を注いだ塙保己一も激賞したという。蜀山人はこの考説者を検校と誤認してしまう。師伴蒿蹊と誤認する『徒然草』注解者もいる。
 実際、謎解きの操作用語は、「のきつ」「中くぼれ入り」「ぐれんどう」の三つからなる謎文句であるが、その操作を受けることばと作用範囲が曖昧な謎なのかも知れない。 近年、安良岡康作が、『徒然草全注釈』(角川書店刊)で、柏原瓦全の説を応用して新説を発表している。ここに紹介しておこう。
 安良岡説は、「中窪」と「れ入り」とを二分し、「きつにのをか」の中窪は「つにのを」の四文字で削除、その替りとして「れ」の文字を組み入れ「きれか」、これを転倒して「かれき」すなわち、「枯れ木」と解くのである。これを具現して安良岡みちは、「『狐〔きつに〕の岡』変じて『枯木』となる所に、この謎の面白さがある」と表現している。安良岡の謎解きの発想は、『三養雑記』(山崎美成著)巻之一に、「あさつてはあたご参り」という謎があって、「あたご」の三字のうち、「あ去っては」で「あ」文字を去って「たご」が残り、「ま入り」で「たご」の中に「ま」文字を入れると、答えは「たまご」となるのが参考となっているのである。
 鈴木棠三は、その著『ことば遊び』(中公新書刊)でこのように分析し、「こんなふうに、幾つもの解が出るのは、設問がきっちりしていないからで、不完全ななぞというほかはない。具氏の自作とすれば、勝っても自慢にならぬところである。」(一三七頁)と述べている。ところで、兼好法師は、この話題情報提供者としてこの場面状況を忠実に記述紹介しているのであるとすれば、
具氏、「幼くより聞きならひはべれど、その心知らぬことはべり。

といった表現が大事なのではないだろうか。「幼い時に耳に聞き、記憶している」この文句を思い出してその心を知りたいと大納言入道に問うたというのである。今、これを裏付けるかのように鎌倉時代の古辞書(語源)である経尊著『名語記』(初稿本一二六八年・増補十巻本一二七五年に北条実時に献上)の巻六(七一四頁)に、

ワラハヘノアソヒニ、馬ノキツリヤウキツニノヲカナカクホトイヘルモ、馬ノキツトイヘル歟

と見えて、この謎の文句が「童の遊び」の歌文句で「馬退きつ了」「きつにの岡」「中窪」と世上で表現していたことを明らかにしている。であるからにして、鈴木棠三のいう具氏の自作という仮定は薄れるのである。

 このように、制作者は大人か子供かは知れぬのだが、この謎の文句が童子のあそび歌として世に流布していたこと、そして具氏がこれを大人になっても記憶していて、供御の座興に思い出してたずねたことが注目視されたのである。子供たちが遊びに興じながら、この文句を暗唱していたのだが、その心は知れない。これと同じことは、今でも童遊び歌と知られる「かごめかごめ、かごの中の鳥は、いついつであう、夜明けの晩に鶴と亀がすべった、後ろの正面だーれ。」にもあって、この種の謎めきものが多いことは言うまでもない。
『徒然草』研究史のなかで、この一三五段は、ことばの解釈を進めていくことで、多くの波紋を生み出してきたことは言うまでもない。そのなかで、柏原瓦全の説は後世に一点の光明を射し入れたこととして最大評価すべきことなのである。

 

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