インテル社がDRAM事業から撤退(1985年)した経緯 [1]

 

 インテルはDRAMを世界で初めて製品化したメーカーだったし、八○年代初めの16キロビットDRAMまでは新興のモステックに次ぐトップ企業の一社だった。しかし、マイクロプロセッサー(MPU、超小型演算処理装置)やEPROMなどに力を注いだことや、開発の失敗から、64キロビットと256キロビットの両世代で大きく出遅れてしまった。198384年前後の好況期に、DRAMが最大の半導体製品に成長したこともあり、社内では「もう一度DRAM市場で勝負しよう」という声が強まっていた。私もそう考え、次世代にあたる1メガビット製品の開発を急がせた。CMOS(相補性金属酸化膜半導体)構造の新製品の開発は思惑どおり進み、84年に市場が崩壊した頃に八個の社内サンプルもできあがった。日本企業に十分対抗できると踏んでいた。

 そんな時に予想もしなかった大不況がやって来たのだ。DRAM市場で日本企業に対抗して主導権を握るには、少なくとも20%のシェアが必要だった。そのためには最低でも二つの工場を新たに建設しなければならない。投資額は四億ドルだった。そこで私と社長のアンドリュー・グローブ氏は考え込んでしまった。

 パソコンはいよいよ普及期に入りつつあった。MPU事業の強化は待ったなしだった。こちらも巨額の投資は欠かせない。一方、DRAM市場で勝つための投資も巨大だ。DRAMは花形製品で、インテルは市場を開いたという自負もある。サンプルまでできている。難しい選択だった。

 85年の初めのことだ。グローブ社長といよいよDRAM工場を着工するかどうか、最終的な話し合いをすることになった。グローブ社長は私に、「もし、あなたがインテルを経営するために外部からスカウトされてきた経営者だったとしたらDRAMへの投資をするだろうか」と尋ねてきた。「いいやそうはしないだろう」。私はこう答えた。「私もそうだ」。グローブ氏もこう言い、インテルのDRAMからの撤退が決まった。決断は本当につらかった。繰り返しになるが、DRAMこそインテルの第一歩だった。それに誰だって劣勢に立たされた市場から撤退することを望むはずもない。市場でとても高い評価を得てもいた。しかしわれわれには明らかによりビジネス的に魅力のある他の製品があったし、DRAM生産にそれほど大きな投資をするだけの条件も揃っていなかった。一定のシェアを確保して大手の一角に人らなければ、事業に関わるメリットはないと判断せざるをえなかった。

 米国には八〇年代半ばまで、八社のDRAMメーカーがあった。日本企業の攻勢と半導体不況で一社、また一社と撤退に追い込まれていった。インテルもこの「撤退組」の仲間入りをすることになった。米企業で踏みとどまったのは、DRAM専業で選択肢のなかったマイクロン・テクノロジーDRAM生産の中核部隊を日本に移していたテキサス・インスツルメンツTI[2]の二社だけとなった。

 1メガビットDRAMの開発にあたっていた従業員にこの決定を伝えるのは、本当に心苦しかった。工場選定作業も進み、オレゴン州に最初の新鋭工場を作る方向で動いていたからだ。退社していった技術者もいた。一つだけ幸いだったのは撤退を決めた時、市場にはDRAMがあふれており、顧客からの苦情がなかったことくらいだ。

 



[1] 玉置直司『インテルとともに ゴードン・ムーア』日本経済新聞社、1995年、115116頁。ムーアは1956年ショックレー半導体研究所、57年フェアチャイルド・セミコンダクター社を経て68年にロバート・ノイスらとインテル社を創設。1979年からインテル会長。「ムーアの法則」の提唱者。

[2] TI社はDARM部門を1998年にマイクロン・テクノロジー社に売却した。